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◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。
KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY
HANDBOOK.
カナヤマ 日本歴史辞典
日本語版
見出し語 『 し 』。
メ ニュー (目次)。
■ 次の項目を選び、クリックして下さい。
□ 日本史 辞典 (総合)。
□ し ● 五十音順 ( あいうえお順)。
□ 見出し語 しさ。
□ 見出し語 しな。
□ 見出し語 しま。
□ 見出し語 しゅと。
□ 見出し語 しら。
〇 じあ 治安。
(じあん)。 《和暦》。
THE JIAN ERA.
○ 1021年ー1024年。
● 1021年・治安元年・2月 2日〜
1024年・治安 4年・7月13日。
● 平安時代中期の和暦年号。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
■ 治安 (じあん、英:THE JIAN
ERA) とは、 和暦であり、
平安時代中期の和暦年号であり、
1021年・治安 元年・2月2日から
1024年・治安 4年・7月13日まで
の期間である。
〇 しい 四位。
(しい)。 《位階》。
■ 近・現代日本の、職員令(20
位階)、叙位条例(16位階)、位
階令(16位階)の位階。
<1869年頃〜現在、使用>。
● 正四位 (しょうしい)
● 従四位 (じゅしい)。
(⇒ 位階令の位階)。
(⇒ 叙位条例の位階)。
(⇒ 職員令の位階)。
(⇒ 近・現代日本政府の位階)。
(1) 四位 (しい)は、 近・現代日本の、
職員令(20位階)、叙位条例(16位階)、
位階令(16位階)で、 正四位 (しょうし
い) と 従四位 (じゅしい) の2つの
位階として、 1869年(明治2年)頃から
現在まで使用されている。
■ 前近代日本の、朝廷の律令
官制 の位階(30位階)。
<701年頃〜1869年頃、使用>。
● 正四位上 (しょうしいのじょう)。
● 正四位下 (しょうしいのげ)。
● 従四位上 (じゅしいのじょう)。
● 従四位下 (じゅしいのげ)。
(⇒ 朝廷の律令官制の位階)。
(2) 四位 (しい)は、 前近代日本の、
朝廷の律令官制の位階(30位階)で 、
正四位上 (しょうしいのじょう)、
正四位下 (しょうしいのげ)、 従四位上
(じゅしいのじょう)、 従四位下 (じゅし
いのげ)の4つの位階として、701年頃
から1869年頃まで使用された。
〇 じい GHQ。
(じいえいちきゅー)。
《在日占領軍》。
(= 連合国軍最高司令官
総司令部)。
(1945年〜1952年)。
(⇒ 連合国軍日本占領)。
○ 在日(占領)連合国軍の
総司令 部。
■ GHQ (じいえいちきゅー)とは、
連合国軍最高司令官総司令部であり、
連合国軍が日本を占領した1945年
(昭和20年)からサンフランシスコ条
約が発効した1952年 (昭和27年)
まで日本にあった、在日(占領)連合
国軍の総司令部である。
〇 じー GHQ占領統治。
(じーえいちきゅーせんりょうとうち)。
《在日占領軍》。
(1945年〜1952年)。
(⇒ 連合国軍日本占領)。
■ 1945年の無条件降伏から、1952
年のサンフランシスコ平和条約の発効
(1951年締結、1952年発効)までの期
間、GHQが日本を占領統治した (日本
政府を通し間接統治した)。
〇 しえ 紫衣事件。
(しえじけん)。 《事件》。
(1627年)。
(⇒ 後水尾天皇)。
〇 しか 詩歌。
(しか)。 《詩歌》。
○ 和歌、連歌、俳諧(= 俳諧連
歌)、俳句など。
○ 和歌⇒連歌⇒俳諧⇒俳句。
(⇒ 和歌)。
■ 詩歌 (しか)とは、 和歌(わか)、連歌
(れんが)、俳諧(はいかい、= 俳諧連歌)、
俳句(はいく) などである。
● 詩歌 (しか)は、 和歌(わか)から連
歌(れんが)へ、 連歌から俳諧(はいかい、
= 俳諧連歌)へ、 俳諧から俳句(はいく)
へ と派生していった。
〇 しが 自害
(じがい)。 《 生命》。
■ 自害 (じがい、= 自殺)には、 日本
の歴史において、自刃(じじん)、自爆
(じばく)などがある。 多くの尊い命(い
のち)が失われた。
(⇒ 自刃(じじん))。
(⇒ 自爆(じばく)、
爆死自害)。
■ 自刃 (じじん)とは、 日本の歴史
において、 刀剣を用いて自害(じがい、
自殺)することである。
■ 自爆 (じばく)とは、 日本の歴史
において、 火薬類を用いて自害(じが
い、自殺)することである。
〇 しが 滋賀県。
(しがけん)。 《現地域名》。
(≒ 概ね、近江国の相当地域)。
(現都道府県)。
SHIGA PREFECTURE.
■ 滋賀県。
(≒ 前近代の、旧国名(令制国)
の、近江 国 (おうみ のくに、江州
(ごうしゅう)、滋賀県) に概ね、相
当する地域)。
(⇒ 近江国)。
(⇒ 近畿地方)。
(⇒ 東山道・ 旧広域地方)。
(⇒ 五畿七道)。
(⇒ 都道府県)。
(⇒ 前近代日本の地域名)。
(⇒ 日本の地名)。
■ 滋賀県は、 前近代日本の、旧国
(令制国)の、近江 国 (おうみのくに、
= 江州(ごうしゅう)) に概ね相当する
地域である。
■ (RWM) 日本の、中地域名の変遷。
● 国造・県主分国⇒ 旧国(令制国)
⇒ 旧都道府県⇒ 現47都道府県。
■ 滋賀県。
<近畿地方。
<日本国。
〇 しき 直書。
(じきしょ)。 《公文書》。
(= 直状(じきじょう)、直札(じきさつ)) 。
○ 「高貴な身分の者」(高位者)が
直(じか)に高位者の名義で高位者の
趣旨を記して発給する公文書 。
(⇒ 御教書(みぎょうしょ、みきょうじょ)
(広義))。
〇 しげ 地下、地下人。
(じげ、じげにん)。 《朝廷》。
(= 六位以下の朝廷の官人(役人))。
(⇒ 朝廷)。
■ 地下、地下人とは、 前近代日本では(江
戸時代までは)、位階・六位以下の朝廷の官
人(役人)である。
■ 地下、地下人とは、地下の人の意である。
■ 狭義では、地下、地下人とは、 天皇御所
の清涼殿に昇殿することを許されない官人
(宮人(きゅうじん)、国家公務員に相当) で
ある。
狭義では、地下、地下人とは、殿上人
(てんじょうびと)以外の官人 である。
● 狭義では、地下、地下人とは、 堂上家
(どうじょうけ)以外の官人である。
■ 広義では、地下、地下人とは、 宮中に
奉仕する人以外の者である。
〇 じげ 地下請。
(じげうけ)。
(請所) 《年貢請負制度》。
《日本の土地支配制度》。
(= 百姓請)。
(⇒ 百姓請)。
(⇒ 荘園)。
百姓請(= 地下請))。
■ 地下請(じげうけ)とは、百姓請で
ある。
〇 じげ 地下家。
(じげけ)。 《朝廷》。
(= 地下公家)。
(= 昇殿を許されていない
公家)。
■ 地下家(じげけ)とは、
主に儀式と文治をもって天皇家
に仕(つか)える朝廷の官人(役
人)である「広義の公家」の中で、
昇殿を許されていない(内裏(天
皇御所)の清涼殿に昇殿するこ
とを許されていない)公家である。
■ 地下家とは、
だいたい、主に儀式と文治をもっ
て天皇家に仕(つか)える、前近
代日本の朝廷の、 地下の官人
(役人)(地下人、位階・六位以下
の者)、無位の官人(役人)など
である。
■ 「広義の公家」は、
堂上家と地下家に分かれる。
● 広義の公家には、
主に儀式と文治 をもって天皇家
に仕(つか)える、昇殿が許され
た堂上家(どうじょうけ)の公家
と、
昇殿が許されていない地下家
(じげけ)の公家、
がいた。
〇 しげ 滋子。
(しげこ)。 《人名》。
(= 平 滋子(たいらの しげこ)、
建春門院(けんしゅんもんいん)、
建春 門院滋子)。
(伊勢平氏の女性)。
(1142年〜1176年)。
Shigeko,
TAIRA no Shigeko.
(⇒ 平 滋子)。
○ 平 滋子は、
日本の歴史を変えた美
女・才女である。
○ 平 滋子は、
平清盛・正室夫人の平
時子の異母妹である。
○ 平 滋子は、
後白河上皇の正室夫人・
寵妃である。
○ 平 滋子は、
高倉天皇の生母である。
○ 平 滋子は、
安徳(あんとく)天皇や
後鳥羽(ごとば)上皇
の祖母である。
○ 平 滋子は、
平家政権を樹立する時
の礎(いしずえ)となった
女性である。
■ 平 滋子 (たいらの しげこ)
は、 日本の歴史を変えた美女・
才女である。
■ 滋子 (しげこ) (= 平 滋子
(たいらのしげこ)、 建春門院
(けんしゅんもんいん)、 建春門
院滋子、1142年〜 1176年)
とは、
平清盛・正室夫人・平時子の
異母妹であり、
後白河上皇の正室夫人・寵妃
であり、 高倉天皇の生母であ
る。
■ 平 滋子は、
平家政権を樹立する時の礎(いし
ずえ)となった女性であり、 安徳
(あんとく)天皇や後鳥羽(ごとば)
上皇の祖母である。
〇 しげ 重仁親王。
(しげひとしんのう)。《人名》。
○ 崇徳上皇(すとくじょう
こう)の皇子(みこ)) 。
(⇒ 崇徳上皇)。
■ 重仁親王 (しげひとしんの
う)は、 崇徳上皇(すとくじょう
こう)の皇子(みこ)である。
〇 しげ 重光。
(しげみつ)。 《人名》。
(= 直江重光、直江兼続なおえ
かねつぐ)。
(⇒直江 兼続)。
〇 しげ 地下浪人。
(じげろうにん)。
《武士の身分》。
(= 在村浪人、在郷浪人)。
○ 地下浪人は、
江戸時代に、貧しく生活
のために、郷士資格(株)
を売ってしまった、元郷
士の下級武士である。
〇 例えば、土佐藩の幕
末の、岩崎弥太郎、沢村
惣之丞などである。
■ 地下浪人(じげろうにん)とは、
江戸時代の武士の身分であり、
在村浪人、在郷浪人である。
■ 地下浪人(じげろうにん)とは、
江戸時代に、貧しく生活のために
郷士資格(株)を売ってしまった、
元郷士身分の下級武士である。
■ 江戸時代に、武士身分には、
農村居住武士の「郷士」(ごうし)
と、
城下町に住む「家中武士」(かち
ゅうぶし)
がいた。
■ 幕末の地下浪人の例として
は、土佐藩の、岩崎弥太郎(い
わさきやたろう、三菱財閥創始
者)、沢村惣之丞(さわむらそう
のじょう)などがいる。
〇 じこ 時刻。
(じこく)。 《日時》。
(⇒ 時刻法)。
(⇒ 日時)。
■ 時刻には、 西洋式時刻、
十二支表示時刻がある。
● 西洋式時刻は、
1昼夜24等分時間制であり、
1昼夜を24等分して、1時間毎
に区切って時刻を表示する。
日本では、1873年(明治6年)
から現在まで使用されている。
● 十二支表示時刻は、
1昼夜12等分時間制であり、
1昼夜を12等分して、2時間毎
に区切って時刻を表示する。
2時間に区切った時刻を十二支
に当てはめて呼んでいた。
日本では、古代から1872年
(明治5年)まで使用されていた。
時刻伝達方法の1つとして、時鐘
(じしょう)表示時刻があった。
■ 時刻には、 定時法 と
不定時法がある。
日本には、定時法の西洋式時刻、
定時法の十二支表示時刻、不定
時法の十二支表示時刻がある。
● 定時法は、時間の長さが常に
一定の表示時刻である。
日本では、古代から現代まで使用
されている。
● 不定時法は、時間の長さが
一定していない表示時刻である。
日本では、古代から1872年
(明治5年)まで使用されていた。
不定時法は、
夜明けと日暮れを境にして昼と夜を
区別し、季節により長さの違う昼と
夜をそれぞれ6等分して時刻を決
める方法である。
十二支の一刻の長さが2時間より
長かったり、2時間より短かったり
する。
■ 日時には、年月日と時刻が
ある。
● 年月日の年表示には、
西洋年、和暦年、干支(かんし)年
などがある。
〇 じこ 時刻新旧換算表。
(じこくしんきゅうかんさんひょう)。 《時刻》。
(⇒ 前近代日本の時刻・
時法)。
〇 しこ 四国地方。
(しこくちほう)。 《現地域名》。
(= 香川県、徳島県、高知県、
愛媛県)。
(現地方)。
SHIKOKU REGION.
(⇒ 現8地方)。
(⇒ 現地方名)。
(⇒ 現地域名)。
(⇒ 前近代日本の地域名)。
(⇒ 日本の地名)。
■ 四国地方。
≒ @ 南海道( なんかいどう)・旧広
域地方の一部の、 香川県(讃岐
国)、徳島県(阿波 国)、高知県
(土佐 国)、愛媛県(伊予 国) の
地域。
(⇒ 南海道・旧広域地方)。
■ 四国地方。
<日本本土(本州、四国、九州)。
<日本国。
■ 四国地方。
(≒ 旧広域地方の、南海道の一部)。
<五畿七道 (ごきしちどう、日本本土)。
〇 じこ 時刻法。
(じこくほう)。 《時刻》。
(= 時法) 。
■ 時刻法(時法)は、時間区分形式、時間間
隔法(定時法・不定時法)、時刻表示方式によ
り、分類される。
■ 日本で使われた時刻。 日本では、2つの
時間区分形式、2つの時間間隔法(定時法・
不定時法)、3つの時刻表示方式が使用され
た。
● 近現代日本使用の1日24時間制・定時法
・西洋式表示時刻。
● 前近代日本使用の1日12等分制・定時法
/不定時法・十二支表示時刻(= 十二支呼
称時刻)。
● 前近代日本使用の1日12等分制・不定時
法・時鐘数表示時刻(= 数呼称時刻)。
〇 じざ 地侍。
(じざむらい)。 《武士の身分》。
(14〜16世紀)。
(= 地元の土着の武士)。
〇 しし 志士。
(しし)。 《幕末》。
〇 しし 四職家。
(ししきけ)。 《役職》。
(= 四職)。
■ 四職家 (ししきけ、= 四職)とは、
室町幕府の侍所(さむらいどころ)の所司
(しょし、長官)に任じられる、4氏 である。
○ 四職家 (ししきけ)は、 室町幕府の
軍事・警察 や 京(都)の警備・裁判を担
う機関である「侍所(さむらいどころ)の所
司(しょし、 長官)」に交代で任じられた、
山名(やまな)、赤松(あかまつ)、一色(い
っしき)、京極(きょうごく)の4氏である。
○ 室町幕府では、 侍所の所司 (長官)
は、 管領(かんれい)に次ぐ重職であった。
〇 しじ 史実
(しじつ)。 《歴史学》。
■ 史実 (しじつ)とは、 歴史の
事実である。
〇 じし 寺社。
(じしゃ)。 《寺社》。
(= 寺院と神社)。
■ 寺社の僧侶や神官は、寺社、寺院や神
社に従事する者である。
〇 しし 子爵。
(ししゃく)。 《旧社会身分》。
(⇒ 華族)。
■ 子爵は、 近代日本(明治、大正、昭
和戦前時代)の社会的身分の貴族である
華族(かぞく)であり、 華族の公・侯・伯・
子・男爵(こう・こう・はく・し・だん・しゃく)
の4番目の地位・身分である。
〇 じし 志州。
(ししゅう)。 《旧地域名》。
(= 志麻国(しまのくに)) 。
(≒ 現・三重県中央東部)。
(前近代旧地域名の旧国(令制
国)の別称)。
(⇒ 志麻国)。
(⇒ 三重県)。
(⇒ 前近代日本の地域名)。
(⇒ 日本の地名)。
■ 志州 (ししゅう= 志麻国(しま
のくに)) は、 前近代旧地域名の
旧国(令制国)の別称であり、 東海
道(とうかいどういどう)・旧広域地方
に属し、 現・近畿地方の、現・三重
県中央東部に相当する地域である。
〇 じし 支城。
(しじょう)。 《 城》。
■ 支城 (しじょう)とは、
本城を防衛するための城である。
■ 城には、
(a) 本城 (ほんじょう、本拠地
の城)、
(b) 支城 (しじょう、本城を防
衛するための城)、
(c) 政務居城 (せいむきょじょ
う、政務を行うための城)、
などがある。
〇 じし 治承。
(じしょう 、じじょう)。 《和暦》。
(⇒ 和暦の二重年号存立)。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
■ 源平競合二重年号。
■ 1181年から1185年まで、日本で、
源平 (げんぺい)競合二重年号が使用
される。
■ 伊勢平氏政権(安徳天皇擁
立)方の暦年号。
○ 1177年〜1181年。
● 1177年・治承元年・8月 4日〜
1181年・治承 5年・7月14日。
● 平安時代後期の和暦年号。
■ 伊勢平氏(いせへいし)政権(安徳
(あんとく)天皇擁立)方の暦 年号。
● 安元(あんげん)元年〜3年 (1175
年〜1177年) ⇒ 治承(じし ょう)元年〜
5年 (1177年〜1181年) ⇒ 養和(よ
うわ)元年〜2年 (1181年〜1182 年)
⇒ 寿永(じゅえい)元年〜4年 (1182 年
〜1185年) ⇒ 暦年号編成中止。
■ 河内源氏・源頼朝政権(後鳥
羽天皇擁立)方の暦年号。
○ 1177年〜1184年。
● 1177年・治承元年・8月 4日〜
1184年・治承 8年・4月16日。
● 平安時代後期の和暦年号。
■ 河内源氏(かわちげんじ)・源頼朝政権
(後鳥羽天皇擁立)方の暦年号。
● 安元(あんげん)元年〜3年 (1175
年〜1177年) ⇒ 治承(じしょ う)元年
〜8年 (1177年〜 1184年) ⇒
元暦(げんりゃく)元年〜2年 (1184年
〜1185年) ⇒ 文治(ぶんじ )元年〜
6年 (1185年〜1190年)。
〇 じし 慈照寺。
(じしょうじ)。 《仏教寺院》。
(= 銀閣寺(ぎんかくじ、通称)、
東山殿( ひがしやまでん)、東山
山荘(ひがしやまさんそう))。
○ 慈照寺の通称は、
銀閣寺である。
(⇒ 銀閣寺、東山殿)。
足利 義政)。
■ 慈照寺(じ しょうじ)とは、
通称は銀閣 寺(ぎんかくじ)であり、
銀閣(ぎんかく、 = 観音殿(かんのん
でん))のある、慈照寺(= 銀閣寺)で
あり、 銀閣(= 観音殿)を含む寺院
全体である。
■ 慈照寺(じしょうじ、= 銀閣寺)は、
東山殿 (ひがしやまでん、東山山荘
(ひがしやまさんそう)) という足利
義政 (あしかがよしまさ、室町幕府・
第8代将軍、法名(戒名):慈照院)
の別荘(山荘)であったが、 足利
義政死後、現在の慈照寺(= 銀閣寺)
という禅宗仏教寺院となった。
■ 慈照寺(= 銀閣寺)の 銀閣は、
観音殿である。
● 観音殿 (かんのんでん)とは、
観音像を安置する建物である。
〇 じし 慈照寺銀閣。
(じしょうじぎんかく)。 《観音殿》。
(= 銀閣、銀閣寺銀閣(観音
殿)、東山殿(= 東山山荘)
の銀閣(観音殿))。
(⇒ 東山文化、
足利義政)。
■ 慈照寺(じしょうじ、= 銀閣寺)は、
東山殿 (ひがしやまでん、東山山荘
(ひがしやまさんそう)) という足利
義政 (あしかがよしまさ、室町幕府・
第8代将軍、法名(戒名):慈照院)
の別荘(山荘)であったが、 足利義
政死後、現在の慈照寺(= 銀閣寺)
とい う禅宗仏教寺院となった。
■ 慈照寺(= 銀閣寺)の 銀閣は、
観音殿である。
観音殿(かんのんでん) とは、
観音像を安置する建物 である。
銀閣 (= 慈照寺(= 銀閣寺)
観音殿)は、 東山文化の代表作の
1つである。
〇 じし 治承・寿永の乱
(じしょう・じゅえいのらん)。
《戦い》。
(1180年ー1185年または
1189年)。
(⇒ 平安時代末期・
詳細年表)。
■ 治承・寿永の乱 (じしょう・じゅ
えいのらん、= 源平の争乱、1180
年ー1185年または1189年)は、
狭義では、河内源氏と伊勢平氏と
の戦い (= 源平の争乱、源平合戦)
や 源氏同士(源(木曽)義仲方と
源頼朝方)の争いであり、 広義で
は奥州藤原氏方と河内源氏方の
争いをも含む争いである。
● 治承・寿永の乱は、
1180年の源頼朝平家打倒挙兵か
ら、 狭義では、1185年の壇ノ浦
の戦いまでであるが、 広義では、
1189年の奥州合戦までである。
● 治承・寿永の乱では、
北条氏をはじめ多くの坂東(ばんど
う、関東)武士は、河内 源氏の源頼
朝に味方する。
● 治承・寿永の乱では、
伊勢平氏(幼帝の安徳天皇擁立)も、
河内源氏(幼年の後鳥羽天皇擁立)
も、 幼帝を擁立して、日本の覇権を
争う。
〇 しし 時鐘数表示時刻
(じしょうすうひょうじじこく)。 《時刻》。
(= 数呼称時刻)。
■ 時鐘数表示時刻 (じしょうすうひょうじ
じこく、= 数呼称時刻)は、 日本で使われ
た時法(時刻法)の、時刻表示方式(西洋
式表示時刻、十二支表示時刻、時鐘数表示
時刻)の3つのうちの1つである。
● 時鐘数表示時刻 (= 数呼称時刻)は、
前近代日本で使われた、不定時法の、 時
鐘(じしょう)の数で表示する時刻 である。
● 時鐘数表示時刻 (= 数呼称時刻)は、
前近代日本使用の1日12等分制の、不定
時法・時鐘数表示時刻である。
〇 じし 地震。
(じしん)。 《災害》。
(⇒ 東日本大地震)。
〇 じし 自刃
(じじん)。 《 自害》。
(⇒ 切腹(せっぷく))。
(⇒ 清水宗治)。
(⇒ 自害(じがい))。
(⇒ 自爆(じばく))。
■ 自刃 (じじん)とは、 日本の歴史にお
いて、 刀剣を用いて自害(じがい、自殺)
することである。 多くの尊い命(いのち)が
失われた。
■ 自刃には、 日本の歴史において、切
腹(せっぷく)、その他の多くの自害の方法
がある。
■ 自害 (じがい、= 自殺)には、 日本の
歴史において、自刃(じじん)、自爆(じばく)
などがある。
〇 しし 紫宸殿。
(ししんでん)。 《内裏》。
(= 平安京の内裏(だいり)内
の正殿)。
(⇒ 内裏(だいり))。
○ 紫宸殿は、
平安京の、内裏(だいり)の殿
舎(建物)の1つで、正殿で
ある。
○ 内裏(だいり)とは、
前近代日本の、天皇の住居、
天皇御所である。
○ 平安京>平安宮(大内裏)>
内裏>清涼殿、紫宸殿。
(⇒ 平安京(京都)の内裏(だい
(⇒ 平安京(京都)の内裏
大内裏(だいだいり))。
(ちょうどういん)、曹司(ぞうし))。
■ 紫宸殿 (ししんでん)は、平安
京の内裏(だいり)の正殿である。
■ 紫宸殿(ししんでん)は、 平安
京(= 京都、京の都)の、内裏(だい
り、天皇の住居)の殿舎(建物)の
1つであり、 平安京の内裏の正殿
であり、 天皇の国家的儀式(公的
行事)を行う建物である。
■ 紫宸殿 (ししんでん)は、平安
京(へいあんきょう、= 京都、京の都)
内の、平安宮(へいあんきゅう、= 大
内裏(だいだいり))内にある、内裏
の建物であり、 内裏の殿舎の1つ
で、 平安京の内裏の正殿であり、
天皇の国家的儀式(公的行事)を行
う建物である。
平安時代末期の大極殿(だいごく
でん)の消失(焼失)後、天皇の国家
的儀式(公的行事)は、大極殿に代わ
り、紫宸殿 で行われるようになった。
■ 内裏 (だいり)とは、 天皇の住
居、宮居であり、天皇の住む御殿、
天皇御所であり、 前近代日本の天
皇御所である。
■ 清涼殿(せいりょうでん)は、 平安
京(= 京都、京の都)の、内裏(だいり、
天皇の住居)の殿舎の1つであり、天
皇の日常の居所であり、天皇の政務、
儀式等も行う建物である。
■ 大極殿 (だいごくでん)は、 宮城
(きゅうじょう、= 天皇の宮殿、別名:都
宮(とき ゅう)、大内裏(だいだいり))
の中にある、天皇の国家的儀式(公的
行事)を行う正殿である。
大極殿は、 平安時代末期の1177
年(治承元年)の火災以降、再建されず、
その後、天皇の国家的儀式(公的行事)
は、内裏(だいり)の紫宸殿(ししんでん)
に移った。
■ 大極殿(だいごくでん)は、 藤原宮
以後宮城に設置されている施設で、天
皇の公的行事(国家的儀式)を行う場と
して利用された。
当初、朝堂院は、大極殿とは別に、
形成されていたが、平安宮から、南面の
回廊が撤去され、大極殿は、朝堂院の
正殿となる。
◆ 平安京(= 京都、京の都)の内裏。
■ 平安京(= 京都、京の都)>
平安宮(= 大内裏)> 内裏。
■ 京都の平安京(へいあんきょう)では、
平安京の中に、平安宮(へいあんきゅう、
= 大内裏(だいだいり、= 平安京の宮城
( きゅうじょう、天皇の宮殿)の平安宮(=
大内裏)があり、 平安 宮(= 大内裏)の中
に、内裏 (だいり、天皇御所、天皇私邸)
がある。
■ 平安京 (へいあんきょう、= 京都、京
の都(きょうのみやこ)) の内裏 (だいり)
は、 平安宮 (へいあんきゅう、= 大内裏
(だいだいり))内にあった、天皇の住居で
あり、現在の京都市上京区(かみぎょうく)
下立売通土屋町付近にあった。
■ 平安宮 (へいあんきゅう)とは、大内
裏(だいだいり)であり、 平安京の宮城
(きゅうじょう、天皇の宮殿)である。
■ (5) 京都の平安京内の、平安宮(へ
いあんきゅう、=大内裏(だいだいり))内の、
内裏 (だいり、天皇御所)は、本来の内裏
の地で断続的に存在したが、 鎌倉時代
中期以後、平安京の本来の内裏の地に
内裏が再建されることはなくなり、 平安
京の内裏は、京都(= 平安京)の各所に、
里内裏 (さとだいり、天皇の仮御所、平
安京の本来の内裏の地以外の場所にあ
る臨時の内裏) として、置かれた。
● 里内裏 (さとだいり)とは、天皇の仮
御所であり、 平安京の本来の内裏の地
以外の場所にある臨時の内裏(= 天皇の
住居)である。
■ 平安京(= 京都、京の都)では、 里内
裏は、初め、平安京の本来の内裏の地に
建つ内裏が火災などで使用不能となった
時に、その他の地で、臨時に使用される内
裏であったが、次第に、内裏は平安京(= 京
都、京の都)の本来の内裏の地に再建され
ることが少なくなり、 鎌倉時代中期以後、
明治2年まで、平安京の本来の内裏の地
に、内裏が再建されることはなくなくなった。
■ 平安京 (へいあんきょう)は、 別名
は、京都、京の都(きょうのみやこ)と言い、
平安時代から明治時代初期まで、794年
から1869年までの間、 京都府・京都市
付近の、天皇の 住居(= 内裏)、天皇の宮
殿(= 宮城)があった都市である。
■ 平安宮 (へいあんきゅう)とは、別名
は、大内裏(だいだいり)と言い、 日本の
平安時代(794年〜1192年)の、794年
から1177年頃まで、日本の京都市上京
区(かみぎょうく)付近にあった、宮城(= 天
皇の宮殿 )である。
〇 しず 静岡県。
(しずおかけん)。 《現地域名》。
(≒ 伊豆国 と 駿河 国 と 遠江
国の相当領域)。
(現都道府県)。
SHIZUOKA PREFECTURE.
(⇒ 都道府県)。
(⇒ 伊豆国 と 駿河 国
と 遠江 国)。
(⇒ 前近代日本の地域名)。
(⇒ 日本の地名)。
■ 静岡県。
(≒ 前近代の、@ 伊豆国(いず
のくに、豆州(ずしゅう))・伊豆半島
(静岡県東部・伊豆半島)、 と
A 駿河 国 (するが のくに、駿州
(すんしゅう)、静岡県中部) 、 と
B 遠江 国 (とおとうみ のくに 、遠
州(えんしゅう)、静岡県西部) の
相当領域)。
〇 しず 静御前。
(しずかごぜん)。 《人名》。
○ 源義経の寵愛する側室夫人。
○ 舞(まい)の名手、美人。
(⇒ 源 義経)。
■ 静御前 (しずかごぜん)は、 源義経の
寵愛する側室夫人であり、 舞(まい) の名
手で、 美人であった。
〇 しず 賤ヶ岳の七本槍
(しずがたけのしちほんやり)。
《武将》。
■ 「賤ヶ岳の七本槍」(しずがたけ の
しちほんやり)とは、 1583年(天正
11年)4月の賤ヶ岳 の戦い(しずがた
けのたたかい)で戦い、秀吉方で功名
をあげた兵の内の、秀吉子飼いの武
将の7人である。
● 譜代の家臣を持たなかった羽柴
秀吉(豊臣秀吉)が自分の子飼いの
武将を過大に宣伝した結果、秀吉子
飼いの7人の武将が賤ヶ岳の戦いで
功名をたてた(勇名をはせた)武将と
して、有名となる。
■ 「賤ヶ岳の七本槍」の武将は、
福島 正則、加藤 清正、 加藤 嘉明、
脇坂 安治、平野 長泰、糟屋 武則、
片桐 且元の7人である。
〇 しず 賤ヶ岳の戦い。
(しずがたけのたたかい) 《合戦》。
(1583年)。
■ 賤ヶ岳の戦い (しずがたけのた
たかい) は、
信長亡き後の織田氏の主導権をめ
ぐって、1583年(天正11年)4月
に、近江国(おうみのくに)の賤ヶ岳
(しずがたけ、現在の滋賀県長浜市 )
付近で、 柴田勝家方の軍と羽柴秀
吉方の軍が激戦を交えた戦いである。
■ 賤ヶ岳の戦い (しずがたけのた
たかい)は、 1583年(天正11年)
に、北近江(きたおうみ、現・滋賀県
北部の相当地域)の賤ヶ岳付近で、
織田信長の重臣だった羽柴秀吉
(はしばひでよし、豊臣秀吉)の軍
と、 織田信長の重臣だった柴田勝
家(しばたかついえ)の軍が戦った
合戦である。 柴田勝家主力軍は
敗退する
羽柴秀吉(豊臣秀吉)軍が戦い
に勝ち、柴田勝家軍が戦いに敗れ
た。
■ 羽柴秀吉が勝利をおさめ、敗れ
た柴田勝家は、追走され、4月に居
城の越前国(えちぜんのくに)の北
庄城(きたのしょうじょう)で自刃(じ
じん)した。
■ 秀吉による、柴田勝家主力軍の
敗退と柴田勝家の本拠地の北庄城
(きたのしょうじょう)の落城により、
羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、日本中央
部を支配する。
■ 合戦の勝利の結果、秀吉が織田
信長の継承者としての地位を固めた。
〇 しせ 氏姓。
(しせい)。 《人名》。
○ 前近代の一族名の1つ。
○ 前近代日本の、氏族名や姓
(かばね)という一族名。
(⇒ 前近代日本の人名) 。
〇 しせ 氏姓制度。
(しせいせいど) 。 《政治制度》。
(5〜7世紀) 。
〇 しぞ 氏族名。
(しぞくめい)。 《氏名》。
(前近代日本の氏族名)。
(⇒ 一族名)。
■ 前近代日本の人物氏名には、
一族名(氏族名、家名) と 個人名
がある。
〇 じだ 時代区分。
(じだいくぶん)。 《歴史時代区分》。
(= 日本歴史の時代区分)。
(⇒ 日本歴史の時代区分)。
(⇒ 日本の歴史) 。
〇 した 下地中分。
(したじちゅうぶん)。 《荘園》。
(⇒ 地頭、国人)。
■ 下地中分(したじちゅうぶん)とは、
中世日本(鎌倉・建武・室町時代)で、
荘園を二分して、地頭と本所・領家の
荘園領主で、荘園を分割支配する制
度である。
〇 しち 七位。
(しちい)。 《位階》。
■ 近・現代日本の、職員令(20
位階)、叙位条例(16位階)、位
階令(16位階)の位階。
<1869年頃〜現在、使用>。
● 正七位 (しょうしちい)
● 従七位 (じゅしちい)。
(⇒ 位階令の位階)。
(⇒ 叙位条例の位階)。
(⇒ 職員令の位階)。
(⇒ 近・現代日本政府の位階)。
(1) 七位 (しちい)は、 近・現代日本の、
職員令(20位階)、叙位条例(16位階)、
位階令(16位階)で、 正七位 (しょうし
ちい) と 従七位 (じゅしちい) の2つ
の位階として、 1869年頃から現在まで
使用されている。
■ 前近代日本の、朝廷の律令
官制の位階(30位階)。
<701年頃〜1869年頃、使用>。
● 正七位上 (しょうしちいのじょう)。
● 正七位下 (しょうしちいのげ)。
● 従七位上 (じゅしちいのじょう)。
● 従七位下 (じゅしちいのげ)。
(⇒ 朝廷の律令官制の位階)。
(2) 七位 (しちい)は、 前近代日本の、
朝廷の律令官制の位階(30位階)で 、
正七位上 (しょうしちいのじょう)、 正七
位下 (しょうしちいのげ)、 従七位上
(じゅしちいのじょう)、 従七位下 (じゅ
しちいのげ) の4つの位階と して、 701
年頃から1869年頃まで使用された。
〇 しづ 志津。
(しづ)。 《人名》。
(= お静、お志津)。
○ 徳川秀忠の側室夫人 。
○ 会津藩祖・ 保科正之(ほしな
まさゆき)の生母。
(⇒ お 静)。
〇 じっ 十干。
(じっかん)。 《十干十二支》。
(⇒ 干支(かんし))。
○ 甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、
壬、癸の10種類からなる数詞。
○ 干支(かんし、えと、十干十二支)
の一部。
〇 しっ 執権。
(しっけん)。 《鎌倉幕府の職名》。
(= 鎌倉幕府の将軍補佐職)。
○ 執権とは、
鎌倉幕府の将軍を補佐 し、
幕政を統轄(総括)する役職
である。
(⇒ 北条氏得宗、
御内人)。
鎌倉幕府)。
(⇒ 日本の政権・政府)。
■ 鎌倉幕府の執権。
■ 執権。
● 鎌倉幕府の執権 (しっけん、=
鎌倉幕府の将軍補佐職)とは、
鎌倉幕府の将軍を補佐して幕政を
統轄(総括)する役職であり、鎌倉
北条氏が執権を代々世襲する。
● 執権 (しっけん、= 鎌倉幕府の
将軍補佐職)とは、 鎌倉幕府の将
軍を補佐して幕政を統轄(総括)す
る役職であり、 鎌倉北条氏が代々
世襲する。
● 執権職は、 鎌倉時代初期の
源氏将軍の時期には、鎌倉幕府の
将軍を補佐して 単に鎌倉幕府の政
務を行う(総覧する)役職であった
が、 鎌倉時代中期・後期の摂家・
宮将軍の時期には、 鎌倉幕府の
将軍の後見人として、将軍に代わ
って、その権力を代行する役職と
なる。
■ 得宗以外の執権。
● 執権職は、 得宗(とくそう、鎌
倉北条氏本家の当主)が代々世襲
し就任するが、 得宗家(とくそうけ、
鎌倉北条氏本家)に執権職適任者
がいない間、鎌倉北条氏分家の者
が就任する。
● 得宗以外の執権(第6・7代、
第10〜13代、第15・16代)は、
在職中、得宗の方が政治権力があ
り、 鎌倉幕府での権力が弱く、最
高権力をもたない執権である。
● 執権職は、 得宗(とくそう、鎌
倉北条氏本家の当主)が代々世襲
し就任するが、 得宗家(鎌倉北条
氏本家)に執権職適任者がいない
間、鎌倉北条氏分家の者が就任す
る。
■ 鎌倉幕府の執権16代一覧表。
鎌倉幕府の鎌倉北条氏の執権
16代は、順に、
● 初代 執権・北条 時政 (ときまさ)、
● 第2代 執権・北条 義時 (よしとき)、
● 第3代 執権・北条 泰時 (やすとき)、
● 第4代 執権・北条 経時 (つねとき)、
● 第5代 執権・北条 時頼 (ときより) 、
● 第6代 執権・北条 長時 (ながとき)、
● 第7代 執権・北条 政村 (まさむら)、
● 第8代 執権・北条 時宗 (ときむね)、
● 第9代 執権・北条 貞時 (さだとき)、
● 第10代執権・北条 師時 (もろとき)、
● 第11代執権・北条 宗宣 (むねのぶ)、
● 第12代執権・北条 熙時 (ひろとき)、
● 第13代執権・北条 基時 (もととき)、
● 第14代執権・北条 高時 (たかとき)、
● 第15代執権・北条 貞顕 (さだあき)、
● 第16代執権・北条 守時 (もりとき)、
である。
〇 しっ 執権北条氏。
(しっけんほうじょうし)。
《 鎌倉北条氏》。
(= 鎌倉時代の鎌倉北条氏)。
○ 執権北条氏とは、
鎌倉時代の鎌倉北条氏で
あり、 鎌倉時代の、鎌倉
幕府の執権職(将軍補佐
職)を代々世襲する鎌倉
北条氏である。
(⇒ 北条氏得宗、
御内人)。
鎌倉幕府)。
(⇒ 日本の政権・政府)。
■ 執権北条氏。
■ 執権北条氏(しっけんほうじょ
うし、1203年ー1333年) とは、
鎌倉時代の鎌倉北条氏であり、
鎌倉時代の、鎌倉幕府の執権職
(将軍補佐職)を代々世襲する鎌
倉北条氏である。
■ 執権北条氏は、鎌倉幕府で大
きな政治権力をもつ。
● 執権北条氏は、 鎌倉時代に、
鎌倉幕府の執権職(将軍補佐職)
を代々世襲し、 鎌倉幕府の政所
または侍所の別当(べっとう、長
官)を も兼ね、 鎌倉時代中期・
後期に、鎌倉幕府の実質的な
最高指導者となる。
● 鎌倉幕府の第3代将軍の源
実朝 (みなもとのさねとも)死去後、
執権北条氏の、尼御台(あまみだ
い、尼将軍)の北条政子、執権・得
宗の北条義時以後の、執権北条
氏は、 鎌倉幕府の実質的な最高
指導者となる。
〇 じっ 実成院。
(じっせいいん 、じつじょういん)。《人名》。
(1821〜1904年)。
○ 江戸幕府・第14代将軍・徳川
家茂(いえもち )の生母 。
〇 しっ シッダールタ。
《仏教》。 《人名》。
(= ガウタマ・シッダールタ 、
ブッダ(仏陀)、シャカ(釈迦))。
(仏教の教祖)。
(生没年: 紀元前563年頃〜
前483年頃) (諸説あり)。
GAUTAMA SIDDHARTHA。
(⇒ 仏教)。
○ 別名: ゴータマ・シッダールタ、 シ
ャカムニ(釈迦牟尼)、 釈迦牟尼(しゃか
むに)、 シャカ(釈迦)、 釈迦(しゃか)、
釈尊(しゃくそん)、 お釈迦様(おしゃか
さま)、 ブッダ(仏陀)、 仏陀(ぶっだ) 、
仏(ほとけ)、 仏様(ほとけさま)、 御仏
(みほとけ)。
■ ガウタマ・シッダールタは、仏教の教
祖(きょうそ、開祖、創始者) である。
● 教祖とは、 その宗教、宗派をひらい
た人である。
● 宗教には、 教祖(きょうそ)、 教義
(教え)、 教典(きょうてん)、 宗教内グ
ループ(宗教内分派) などがある。
〇 しっ 執権。
(しっけん)。 《鎌倉幕府の職名》。
(= 将軍補佐)。
○ 鎌倉幕府の将軍を補佐する
役職。
鎌倉幕府)。
■ 執権 (しっけん)とは、 鎌倉幕府の将
軍を補佐する役職である。
● 鎌倉幕府では、 「将軍」、 「執権」、
「有力御家人」、 「内管領」 との間で、
また、 北条氏得宗家と北条氏分家との
間で、 よく権力争いが起こった。
鎌倉幕府では、 「将軍」(鎌倉幕府
将軍)、 「執権」(しっけん、将軍補佐、北
条氏世襲)、 御家人(ごけにん、将軍家
臣)の中の「有力御家人」、 御内人(みう
ちびと、= 北条氏得宗家(とくそうけ、本
家)家臣)の長(筆頭)、得宗家執事)の
「内管領」 (うちかんれい、ないかんれい)
との間で、また、 北条氏得宗家(北条氏
本家)と北条氏分家との間で、 よく権力
争いが起こった。
● 権力争いの例をあげると、 鎌倉時代
中期の、内管領・ 平頼鋼(たいらのよりつ
な)と有力御家人・安達泰盛(あだちやすも
り)の権力争い (霜月騒動(しもつきそうど
う))、 鎌倉時代末期の、内管領・長崎氏
と有力御家人・足利氏との権力争い など
がある。
〇 しっ 執権政治。
(しっけんせいじ)。 《政治制度》。
(= 北条氏執権政治)。
(1219〜1333年)。
○ 鎌倉幕府の北条氏執権による
政治。
〇 じと 地頭、国人。
(じとう、こくじん)。 《武士の領主》。
(12−17世紀)。
■ 地頭(じとう)とは、 地方土豪(ど
ごう)、在地領主である。
■ 鎌倉時代の地頭は、室町時代以後、
国人(こく じん、= 国衆(くにしゅう))と
も呼ばれる。
■ 地頭(じとう)には、 幕府により、
公領(こうりょう、国衙領(こくがりょう))
の郡司(ぐんじ) や 荘園の下司(げし)
などが任じられる。
〇 じと 地頭請。
(じとううけ)。
(請所) 《 年貢請負制度》。
《日本の土地支配制度》。
(⇒ 地頭、国人)。
百姓請(= 地下請))。
■ 地頭請。
■ 地頭請(じとううけ)とは、 中世
日本で、地頭が荘園や公領(国衙
領)の年貢の納入を請け負う制度で
ある。
● 地頭請(じとううけ)とは、 中世
日本(鎌倉・建武・室町時代)で、 地
頭が一定の年貢(ねんぐ)を納入する
という条件で、 本所・領家の荘園領
主や国司・知行国主が、地頭に荘園
や公領(国衙領)の経営を委任する
制度である。
〇 じと 持統天皇。
(じとうてんのう)。 《女性天皇》。
EMPEROR JITO.
○ 持統天皇在位:
690年ー697年。
(⇒ 女性天皇)。
■ 持統(じとう)天皇 (在位:690 年ー697
年、英:THE EMPRESS JITO)は、 飛
鳥白鳳時代の女性天皇(= 女帝)で ある。
■ 持統天皇は、 天武天皇(在位673ー
686年)の皇后であり、 天武天皇の死後
執政(しっせい、就任:686ー690年)となり、
その後、女性天皇(= 女帝)となる。 浄御原
令の施行、藤原京(ふじわらきょう、694ー
710年)遷都、その他多くの政策 を行い、
律令国家の基盤作りに努力し、また、白鳳
(はくほう)文化を現出させる。
◆ 女性天皇 (8人10代)。
(⇒ 女性天皇)。
(⇒ 推古(すいこ)天皇)。
(さいめい))天皇)。
(⇒ 持統(じとう)天皇)。
(⇒ 元明(げんめい)天皇)。
(⇒ 元正(げんしょう)天皇)。
(しょうとく))天皇)。
(⇒ 明正(めいしょう)天皇)。
(⇒ 後桜町(ごさくらまち)天皇)。
■ 日本の古代から現代までの間に、女性
天皇は、 飛鳥白鳳(あすかはくほう)時代、
奈良(なら)時代に天皇に即位(就 任)した、
推古(すいこ)、皇極(斉明)(こうぎょく(さい
めい))、持統(じとう)、元明(げんめい)、
元正(げんしょう)、孝謙(称徳)(こうけん
(しょうとく))の6人8代の天皇 や 江戸
(えど)時代に天皇に即位(就 任)した、明
正(めいしょう)、後桜町(ごさくらまち)の2
人2代の天皇がいて、合計して8人10代の
女性天皇(= 女帝)がいる。
〇 しと 至徳。
(しとく) 。 《和暦》。
THE SHITOKU ERA.
○ 1384年ー1387年。
(⇒ 南北朝競合二重年号)。
(⇒ 和暦の二重年号存立)。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表 ・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
■ 南北朝競合二重年号。
● 北朝 (持明院統)方の暦年号。
1384年・至徳元年・2月27日〜
1387年・至徳 4年・8月23日。
● 室町時代前期の和暦年号。
● (注意) 同時期に、南朝 (大覚寺統、
後醍醐天皇系統)方の暦年号の、 弘和
(こうわ)元年〜4年(1381〜1384年)
と、 元中(げんちゅう)元年〜9年(138
4〜1392年) も存立する。
○ しな 信濃 国。
(しなの のくに)。 《旧地域名》。
(= 信州(しんしゅう))。
(≒ 現・長野県の相当領域)。
(律令制定後・古代・中世・近世
日本・旧地域名の旧国名(令制
国)の正式名)。
SHINANO PROVINCE.
(⇒ 信州(しんしゅう))。
(⇒ 長野県)。
(⇒ 前近代日本の地域名)。
(⇒ 日本の地名)。
■ 信濃 国。
<東山道 (広域地方)。
<五畿七道。
■ 信濃 国 (しなの のくに)は、律令
制定後・古代・中世・近世日本・旧地域
名の、旧国名(令制国)の正式名である。
■ 信州 (しんしゅう)は、 律令制定
後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、
旧国名(令制国)正式名の、信濃 国
(しなののくに) の別称である。
■ 信濃 国(= 信州)は、 現・中部地
方の、現在の長野県 に相当する 地域
である。
■ 信濃 国(= 信州)は、 五畿七道
(ごきしちどう)の東山道(とうさんどう) ・
広域地方に属する。
〇 じぬ 地主。
(じぬし)。 《近代日本》。
(= 地主階級)。
○ 近代日本(明治、大正、戦前・
昭和時代)の特権階級。
○ 小作人を搾取(さくしゅ)して、
農地経営を行う。
〇 しの 忍びの者。
(しのびのもの)。 《忍者》。
(= 忍者、らっぱ、すっぱ、
草(くさ)、軒猿(のきざる))。
(⇒ 忍者)。
■ 忍びの者 (しのびのもの)とは、
忍者であり、他に、忍者の別称には、
すっぱ、らっぱ、草(くさ) 、軒猿(のき
ざる)などがある。
■ 忍者は、 情報の収集を主な任務
とし、時には、雇い主の指示で、敵地
での撹乱(かくらん)や暗殺なども行っ
た。
〇 しば 自爆
(じばく)。 《 自害》。
(= 爆死自害)。
(⇒ 爆死自害)。
(⇒ 自害(じがい))。
(⇒ 自刃(じじん))。
■ 自爆 (じばく)とは、 日本の歴史にお
いて、 火薬類を用いて自害(じがい、自殺)
することである。 多くの尊い命(いのち)が
失われた。
■ 自害 (じがい、= 自殺)には、 日本の
歴史において、自刃(じじん)、自爆(じばく)
などがある。
〇 しば 斯波氏。
( しば し)。 《武家》。
(14世紀〜16世紀)。
THE SHIBA CLAN.
○ 武家の斯波氏。
○ 斯波氏は、
足利氏の支族である。
○ 斯波管領家とは、
室町幕府の管領 職に就任
した、室町時代の斯波氏本
家(宗家)である。
■ 武家の斯波氏 (しばし、14世
紀〜16世紀)は、足利氏の支族で
ある。
■ 斯波管領家 (しばかんれいけ)
とは、 室町幕府(= 足利幕府)の管
領職に就任 した、室町時代の斯波
氏本家(宗家)である。
〇 しば 柴田 勝家。
(しばた かついえ)。 《人名》。
○ 織田信長の重臣。
○ 織田家筆頭家老。
〇 しび シビリアン・コントロー
ル。(= 文民統制)。
(政府の軍統制)。
《近現代日本》。
(⇒ 文民統制)。
■ シビリアン・コントロール (= 文
民統制)とは、 政府の文民官僚
が、武官を統制することである。
文民とは、職業軍人の経歴を
持たない人である。
■ 戦前では、 内閣で「軍務大臣現
役武官就任制」が制定された後に、
シビリアン・コントロール(= 文民統
制)が無力となり、旧日本軍が暴走
し、 日本は、軍国主義国家(−19
45年)となる。
〇 じぶ 治部少輔。
(じぶしょうゆ)。 《人名》。
(= 石田三成)。
○ 三成が、1585〜1600年、
治部少輔の官位に叙任されて
いたため。
〇 じほ 時法。
(じほう)。 《時刻》。
(= 時刻法)。
■ 時法(時刻法)は、時間区分形式、時間間
隔法(定時法・不定時法)、時刻表示方式によ
り、分類される。
■ 日本で使われた時刻。 日本では、2つの
時間区分形式、2つの時間間隔法(定時法・不
定時法)、3つの時刻表示方式が使用された。
● 近現代日本使用の1日24時間制・定時法
・西洋式表示時刻。
● 前近代日本使用の1日12等分制・定時法
/不定時法・十二支表示時刻(= 十二支呼
称時刻)。
● 前近代日本使用の1日12等分制・不定時
法・時鐘数表示時刻(= 数呼称時刻)。
〇 しま 島津 篤子。
(しまづ あつこ)。 《人名》。
(= 篤姫(あつひめ)、近衛 敬子(こ
のえすみこ)、天璋院(てんしょういん))。
○ 江戸幕府・第13代将軍・徳
川家定の正室夫人。
○ 幕末の薩摩藩出身の姫。
島津家分家出身。
○ 薩摩藩主・島津 斉彬の養女。
(⇒ 篤姫)。
〇 しま 島津 家久。
(しまづ いえひさ)。 《人名》。
○ 1609年に、琉球王国を征
服する。
○ 江戸時代初期の薩摩藩・藩
主、島津氏当主。
○ 1609年から1871年まで、
琉球王国は、薩摩藩の支配下に
入り、半独立国となる。
〇 しま 島津 斉彬。
(しまづ なりあきら)。 《人名》。
(1809〜1858年)。
○ 薩摩藩・第11代薩摩藩主。
○ 幕末の薩摩藩藩主、島津氏
当主。
○ 西郷隆盛を引き立て、側近
にした薩摩藩主。
〇 しま 島津 斉興。
(しまづ なりおき)。 《人名》。
(1791〜1859年)。
○ 薩摩藩・第10代薩摩藩主。
○ 幕末の薩摩藩藩主、島津氏
当主。
○ 島津斉彬・島津久光の実父。
〇 しま 島津 久光。
(しまづ ひさみつ)。 《人名》。
(= 島津 忠教(ただゆき))。
(1817〜1887年)。
○ 薩摩藩・第12代薩摩藩主・
島津 茂久(もちひさ、忠義(ただよ
し))の父。
○ 幕末・明治初期の薩摩藩の
実権者。
○ 薩摩藩・藩主の父。
○ 薩摩藩主・島津茂久(忠義)
に代わって、幕末に、薩摩藩の
実権を握る。
〇 しま 島津 茂久。
(しまづ もちひさ)。 《人名》。
(= 島津 忠義(ただよし))。
○ 薩摩藩・第12代薩摩藩主。
○ 幕末・明治初期の薩摩藩
藩主、島津氏当主。
○ 島津 久光(ひさみつ、忠教
(ただゆき))の子。
○ 父・島津 久光に薩摩藩の
実権を握られる。
〇 しま 島津 義久・義弘兄弟
(しまづ よしひさ・よしひろ きょうだい)。
《人名》。
○ 島津 義久・義弘兄弟は、島津氏の
大名と武将となり、 戦国・安土桃山時
代に活躍した。
義弘)。
〇 しま 島津 義久。
(しまづ よしひさ)。 《人名》。
(1533〜1611年)。
○ 九州のほぼ全土を制圧後、
秀吉の九州征伐で1587年に
降伏。
○ 戦国・安土桃山時代の九州
の島津 氏当主で、武将、大名。
〇 しま 島津 義弘。
(しまづ よしひろ)。 《人名》。
(1535〜1619年)。
○ 石田方の西軍に味方し、関
ヶ原の戦いでは東軍の敵陣を突
破して帰国。
○ 戦国・安土桃山時代の九州
の島津 氏の武将、大名。
〇 しま 島根県。
(しまねけん)。 《現地域名》。
(≒ 隠岐 国、出雲 国、石見 国)。
(現都道府県)。
SHIMANE PREFECTURE.
(⇒ 隠岐 国、出雲 国、
石見 国)。
(⇒ 都道府県)。
(⇒ 前近代日本の地域名)。
(⇒ 日本の地名)。
■ 島根県。
(≒ 前近代の、隠岐 国 (おき
のくに、隠州(おんしゅう、いんしゅう)、
島根県隠岐島) と、 出雲 国
(いずも のくに、雲州( うんしゅう)、
島根県 本土東部) と、 石見
国 (いわみ のくに、石州( せきしゅ
う)、島根県 本土西部) の相当
地域)。
〇 しま 志摩 国。
(しま のくに)。 《旧地域名》。
(= 志州 (ししゅう))。
(≒ 現・三重県中央東部
の相当領域)。
(前近代旧地域名の旧国名
(令制国)の 正式名)。
SHIMA PROVINCE.
(⇒ 志州 (ししゅう))。
(⇒ 三重県)。
(⇒ 前近代日本の地域名)。
(⇒ 日本の地名)。
■ 志摩 国。
<東海道 (広域地方)。
<日本本土。
■ 志摩 国 (しま のくに)は、 旧国名
(令制国)の正式名である。
■ 志州 (ししゅう)は、 旧国名(令制
国)正式名の、志摩 国 (しま のくに)
の別称である。
■ 志摩 国(= 志州)は、 現・近畿地
方の三重県中央東部 に相当する領域
である。
■ 志摩 国(= 志州)は、 五畿七道 (ご
きしちどう)の東海道(とうかいどう)の広
域地方に属する。
〇 しみ 清水 宗治。
(しみず むねはる)。 《人名》。
(戦国武将)。
(1537〜1582年)。
(⇒ 中国大返し)。
(⇒ 切腹(せっぷく))。
(⇒ 自刃(じじん))。
(⇒ 自害(じがい))。
○ 備中・高松城・城主。
○ 高松城水攻め時、切腹する。
○ 室町時代後期(戦国時代)、
安土桃山時代の、備中の武将。
〇 じみ 持明院統。
(じみょういんとう)。 《皇統》。
(= 後深草天皇の皇統)。
(1259年−1392年)。
THE JIMYOINTO LINEAGE.
大覚寺統)。
○ 後嵯峨天皇の皇子・「後深草
天皇」から後小松天皇までの皇統。
○ 1259年−1392年、大覚
寺統と持明院統の皇統の分立。
■ 持明院統 (じみょういんとう) とは、久
仁(ひさひと)親王 である、後深草(ごふかく
さ)天皇 (天皇在位:1246− 1259年)の
皇統である。
● 持明院統は、 後嵯峨(ごさが) 天皇(天
皇在位:1242−46年)の皇子・「後深草
(ごふかくさ)天皇」から後小松(ごこまつ)
天皇までの皇統 である。
● 朝廷では、 1259年( 強引天皇譲位)
から1392年(南北朝の合体)まで、持明
院統 (じみょういんとう) と、 大覚寺統
(だいかくじとう) の皇統の分立が続いた。
● 皇統分立の起こり。
1246年に、 後嵯峨天皇 (天皇在
位:1242−46年、生没年:1220−72
年)が、 皇子(次男)の久仁(ひさひと)親
王に天皇の位を譲り、 久仁(ひさひと)親
王は、後深草(ごふかくさ)天皇) (天皇
在位:1246−59年) となり、 後嵯峨天
皇は、後嵯峨上皇となった。
しかし、1259年に、 後嵯峨上皇は、
皇子(次男)の、後深草天皇を強引に退位
させ、 他の皇子(三男)の恒仁(つねひと)
親王を天皇にし、亀山(かめやま) 天皇(天
皇在位:1259−74年) が誕生した。
その後、亀山(かめやま) 天皇は、次の天
皇を自分の子 (後宇多(ごうだ)天皇(天
皇在位:1274−88年) としたため (立
太子としたため)、 退位した後深草天皇
は、自分の子の皇位継承ができず、非常
に不満をもち、鎌倉幕府に仲裁を依頼し、
1288年に、後深草天皇の子(伏見 (ふし
み)天皇)が天皇に即位することが実現し
た。 こうして、その後は、鎌倉時代の間、
鎌倉幕府の介入・仲裁による、両統迭立
(りょうとうてつりつ、両統の皇子が交互に
天皇になる方式) となった。
〇 しめ 氏名。
(しめい)。 《氏名》。
(⇒ 前近代日本の人名)。
(前近代日本の氏名)。
(⇒ 氏族名)。
(⇒ 氏名(氏族名+個人名))。
(⇒ 前近代日本の人名) 。
■ 前近代日本の人物氏名には、
氏族名(家名)と個人名がある。
〇 しも 下総 国。
(しもうさ のくに)。 《旧地域名》。
(= 総州(そうしゅう)の1国)。
(≒ 現・千葉県北部の相当地域)。
(律令制定後・古代・中世・近世
日本・旧地域名の旧国(令制
国)の正式名)。
(⇒ 総州(そうしゅう))。
(⇒ 千葉県)。
(⇒ 前近代日本の地域名)。
(⇒ 日本の地名)。
■ 下総 国。
<東海道 (広域地方)。
■ 下総 国 (しもうさ のくに)は、律令制
定後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、
旧国(令制国)の正式名である。
■ 総州 (そうしゅう)は、 律令制定後・
古代・中世・近世日本・旧地域名の、旧国
名(令制国)正式名の、下総国 (しもうさ
のくに、千葉県北部)と上総 国 (かずさ
のくに、千葉県中部) のいずれか、または
両国を合わせて呼ぶ別称である。
■ 下総 国は、 現・ 関東地方の、現在の
千葉県北部に相当する地域である。
■ 下総 国は、 五畿七道 (ごきしちどう)
の東海道(とうかいどう)・旧広域地方に属
する。
〇 しも 下野 国。
(しもつけ のくに)。 《旧地域名》。
(= 野州(やしゅう))。
(≒ 現・栃木県の相当地域)。
(律令制定後・古代・中世・近世
日本・旧地域名の旧国(令制
国)の正式名)。
(⇒ 野州(やしゅう))。
(⇒ 栃木県)。
(⇒ 前近代日本の地域名)。
(⇒ 日本の地名)。
■ 下野 国。
<東山道 (広域地方)。
■ 下野 国 (しもつけ のくに)は、律令
制定後・古代・中世・近世日本・旧地域名
の、旧国(令制国)の正式名である。
■ 野州 (やしゅう)は、 律令制定後・
古代・中世・近世日本・旧地域名の、旧
国(令制国)正式名の、下野 国 (しもつ
け のくに)の 別称である。
■ 下野 国(= 野州)は、 現・関東地方
の、現在の栃木県に相当する 地域であ
る。
■ 下野 国(= 野州)は、 五畿七道の
東山道(とうさんどう)の広域地方に属
する。
〇 しも 下道 真備。
(しもつみちの まきび)。 《人名》。
(= 吉備 真備 (きびの まきび))。
(⇒ 吉備 真備)。
〇 しも 下屋敷。
(しもやしき)。 《建物》。
(= 藩(大名)の江戸での私邸)。
○ 江戸時代の、各藩(藩主)(大
名)の、江戸での私邸、別邸、別
宅。
(⇒ 藩邸)。
■ 下屋敷 (しもやしき) とは、 藩邸の1つ
で、 江戸時代の、各藩(藩主)(大名)の、江
戸での私邸、別邸、別宅 である。
■ 江戸時代の、大名(藩)の江戸での邸宅
である藩邸には、 公邸の上屋敷、 私邸の
中屋敷、下屋敷 があった。
〇 しゃ シャーマン・リー。
《人名》。
(⇒ ラングドン・
ウォーナー)。
(⇒ ウォーナーリスト)。
■ シャーマン・リーは、 戦後、連合国軍日
本占領期に、 日本の文化財の国外流失を防
いだ。
■ シャーマン・リーは、 日本美術の専門家
である。
■ 戦後、連合国軍日本占領期に、シャーマ
ン・リーは、 GHQ(連合国軍総司令部)の美
術記念物課の担当官となり、 GHQ美術記念
物課の顧問のラングドン・ウォーナーと共に、
日本の文化財が賠償品として流失するのに反
対し、日本の重要文化財の国外流失を防いだ。
〇 しゃ シャカ。
《仏教》。 《人名》。
(= シッダールタ、シャカ(釈迦)、
ブッダ(仏陀))。
(仏教の教祖)。
(生没年: 紀元前563年頃〜
前483年頃) (諸説あり)。
GAUTAMA SIDDHARTHA。
(⇒ シッダールタ)。
(⇒ 仏教)。
○ 別名: シッダールタ、 ガウタマ・シッ
ダールタ、 ゴータマ・シッダールタ、 シ
ャカムニ(釈迦牟尼)、 釈迦牟尼(しゃか
むに)、 シャカ(釈迦)、 釈迦(しゃか)、
釈尊 (しゃくそん)、 お釈迦様(おしゃか
さま)、 ブッダ(仏陀)、 仏陀(ぶっだ)、
仏(ほとけ)、 仏様(ほとけさま)、 御仏
(みほとけ))。
■ ガウタマ・シッダールタは、仏教の教祖
(きょうそ、開祖、創始者) である。
● 教祖とは、 その宗教、宗派をひらいた
人である。
● 宗教には、 教祖(きょうそ)、 教義(教
え)、 教典(きょうてん)、 宗教内グルー
プ(宗教内分派) などがある。
〇 じゃ 若州。
(じゃくしゅう)。 《旧地域名》。
(= 若狭国(わかさのくに))。
(≒ 現・福井県西部)。
(前近代旧地域名の旧国名(令制
国)の別称)。
(⇒ 若狭国)。
(⇒ 福井県)。
(⇒ 前近代日本の地域名)。
(⇒ 日本の地名)。
■ 若州(= 若狭 国)は、 北陸道(ほくりく
どう)・広域地方に属し、 現・中部地方の、
現・福井県 西部に相当する領域である。
〇 しゅ 朱。
(しゅ)。 《日本流通貨幣》。
○ 江戸時代の、定位(定額)貨
幣単位 (両、分、朱、文)の1つ。
● 1両小判 (金)≒4分≒16朱≒
4000文≒ 現在の約10万円。
(⇒ 朱単位・定額(定位)・
通常貨幣)。
(⇒ 江戸時代の日本流通貨幣)。
(⇒ 日本流通貨幣)。
〇 じゅ 従一位。
(じゅいちい)。 《位階》。
〇 しゅ 修好通商条約。
(しゅうこうつうしょ うじょうやく)。 《条約》。
(= 1858年の安政の5カ国条約)。
○ この条約で、日本は、完全開国
する。
(⇒ 日米 修好通商条約)。
条約改正) 。
■ 1858年に日本の江戸幕府が米・蘭・露・
英・仏の欧米諸国と結んだ、修好通商条約
は、 安政の5カ国条約であり、 領事裁判権
(治外法権)、関税自主権の欠如の規定など
がある、不平等条約であった。
〇 しゅ 周州。
(しゅうしゅう)。 《旧地域名》。
(= 周防 国(すおう のくに)、防州(ぼ
うしゅう))。
(≒ 現・山口県東部)。
(律令制定後・古代・中世・近世
日本・旧地域名の旧国名(令制
国)の別称)。
(⇒ 周防 国)。
(⇒ 山口県)。
(⇒ 前近代日本の地域名)。
(⇒ 日本の地名)。
■ 防州( ぼうしゅう)や周州(しゅうしゅう)
は、 律令制定後・古代・中世・近世日本・
旧地域名の、旧国 名(令制国)正式名の、
周防 国 ( すおう のくに)の別称である。
● 周州(= 周防 国、防州)は、 山陽道
(さんようどう)・広域地方に属し、現・中国
地方の、現在の 山口県東部に相当する地
域である。
〇 しゅ 終戦。
(しゅうせん)。 《戦い》。
(1945年)。
○ 太平洋戦争・日中戦争の終戦。
〇 じゅ 十二支。
(じゅうにし)。 《十干十二支》。
○ 子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、
申、酉、戌、亥の12種類からなる
数詞。
○ 干支(かんし 、えと、十干十二支)
の一部。
(⇒ 干支(かんし))。
〇 じゅ 十二支表示時刻。
(じゅうにしひょうじじこく)。 《時刻》。
(= 十二支呼称時刻)。
● 日本で使われた時法(時刻法)の、時刻表
示方式(西洋式表示時刻、十二支表示時刻、
時鐘数表示時刻)3つの1つ。
● 前近代日本で使われた、定時法と不定時
法の、十二支で表示する時刻。
● 前近代日本使用の1日12等分制の、 定
時法・十二支表示時刻 と 不定時法・十二
支表示時刻 の2つがある。
〇 じゅ 什の掟。
(じゅうのおきて)。 《会津藩》。
○ 会津藩の生活規範。
(⇒ 会津藩)。
〇 じゆ 自由民権運動。
(じゆうみんけん うんどう)。
《政治運動》。
(1874〜1889年)。
〇 じゆ 十文銭。
(じゅうもんせん)。 《日本流貨幣》。
(江戸時代流通貨幣)。
○ 江戸時代の、10文(もん)単位
の銅貨。
○ 江戸時代の、江戸幕府の定位
(定額)・通常貨幣。
○ 江戸時代の文銭銅・鉄貨の1つ。
○ 宝永通宝十文銭銅貨のみ。
● 十文銭≒現在の約250円 。
(10文銭400 枚≒1両小判(金)≒
4分≒16朱≒4000文 (4貫文)≒
現在の約10万円)。
常貨幣)。
(⇒ 江戸時代の日本流通貨幣)。
(⇒ 日本流通貨幣)。
〇 じゆ 自由恋愛。
(じゆうれんあい)。 《恋愛》。
○ 前近代日本の上層階層では、
自由恋愛は少なかった。
○ 自由恋愛カップルの例。
源義経と静(しずか)、 源頼朝と北
条政子、 豊臣秀吉とおね(ねね)。
〇 じゅ 寿永
(じゅえい) 。 《和暦》。
THE JUEI ERA.
○ 1182年ー1185年。
(⇒ 和暦の二重年号存立)。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
■ 源平競合二重年号。
■ 1181年から1185年まで、日本で
は、 源平競合二重年号が使用される。
■ 伊勢平氏政権(安徳天皇
擁立)方の暦年号。
○ 1182年ー1185年。
● 1182年・寿永元年・5月27日〜
1185年・寿永 4年・3月24日。
伊勢平氏滅亡により暦年号編成中止。
● 平安時代後期の和暦年号。
● (注意) 同時期に、河内源氏・源頼朝
政権(後鳥羽天皇 擁立)方の暦年号の治
承(じしょう)元年〜8年(1177〜1184
年) と 元暦(げんりゃく)元年〜2年
(1184〜1185年) も存立する。
● 「寿永」年号(寿永元年〜4年、1182
〜1185年)より後は、伊勢平氏政権(安
徳天皇系統)方は、 暦年号編成を中止
する。 1185年の壇ノ浦の戦いで、伊勢
平氏が滅亡し、安徳天皇が崩御したため。
■ 伊勢平氏政権(安徳天皇擁立)方の暦
年号。
● 安元(あんげん)元年〜3年 (1175
年〜1177年) ⇒ 治承(じし ょう)元年〜
5年 (1177年〜1181年) ⇒ 養和(よ
うわ)元年〜2年 (1181年〜1182 年)
⇒ 寿永(じゅえい)元年〜4年 (1182 年
〜1185年) ⇒ 暦年号編成中止。
〇 じゅ 寿永の乱。
(じゅえいのらん) 。 《戦い》。
(= 源平合戦等)。
THE JUEINO ERA.
○ 118 0年ー1189年。
〇 しゅ 儒教。
(じゅきょう)。 《思想》。
(⇒ 徳川綱吉)。
■ 日本の江戸時代前期に、江戸幕府が、
日本を秩序だった社会に作り変えていくと
きに、儒教が大きな役割を果たし、その後、
儒教は、江戸時代の人々の基本理念の1
つとなった思想である。
■ 儒学(じゅがく)とは、儒教を修得する
学問である。
徳川 綱吉は、 儒学の朱子学(しゅし
がく)を官学化した。
■ 儒教とは、 五倫五常(ごりんごじょう)
の教えであり、 五常(ごじょう)という道徳
を修(おさ)めることで五倫(ごりん)という
関係を維持することであり、 5つの徳をみ
がくことにより5つの人間関係を守ることで
ある。
● 五常(ごじょう)とは、 5つの徳であり、
仁(じん、博愛)、義(ぎ、道理)、礼(れい、
礼儀)、智(ち、知性)、信(しん、信用)であ
る。
● 五倫(ごりん)とは、 5つの人間関係で
あり、 父子の親(ふしのしん)、君臣の義
(くんしのぎ)、夫婦の別(ふうふのべつ)、
長幼の序(ちょうようのじょ)、朋友の信(ほ
うゆうのしん) である。
〇 しゅ 朱金。
(しゅきん)。 《日本流通貨幣》。
(江戸時代流通貨幣)。
THE SHU-UNIT GOLD GOIN.
● 江戸時代の朱(しゅ)単位
の金貨。
● 江戸時代の定位(定額)通常貨幣。
● 1朱≒ 現在の 約6,250円、16朱≒
1両小判。 1両小判≒4分≒16 朱≒
4000文≒現在の約10万円。
貨幣)。
(⇒ 江戸時代の日本流通貨幣)。
(⇒ 日本流通貨幣)。
〇 しゅ 朱銀。
(しゅぎん)。 《日本流通貨幣》。
(江戸時代流通貨幣)。
THE SHU-UNIT SILVER GOIN.
● 江戸時代の朱(しゅ)単位
の銀貨。
● 江戸時代の定位(定額)通常貨幣。
● 1朱≒ 現在の 約6250円、16朱
≒1両小判。 1両小判≒4分≒16朱
≒4000文≒現在の約10万円)。
(⇒ 朱単位定額(定位)・通常
貨幣)。
(⇒ 江戸時代の日本流通貨幣)。
(⇒ 日本流通貨幣)。
〇 じゅ 従九位。
(じゅくい)。 《位階》。
〇 じゅ 寿桂尼。
(じゅけいに)。 《人名》。
(生年不詳−1568年)。
Jukeini.
○ 駿河の戦国大名・今川氏親
(うじちか)の正室夫人。
○ 今川氏輝(うじてる)や今川義
元(よしもと)の生母 、今川氏真
(うじざね)の祖母。
○ 寿桂尼の夫・今川氏親死後、
今川氏輝、今川義元、今川氏
真の今川氏3代に渡り、今川氏
当主の政務を補佐したり、代理
したりした。
○ 女戦国大名の1人。
■ 寿桂尼 (じゅけいに、生年不詳〜15
68年)は、 駿河の戦国大名・今川氏親
(うじちか)の正室夫人であり、 今川氏輝
(うじてる)や今川義元(よしもと)の生母で
あり、今川氏真(うじざね)の祖母である。
● 寿桂尼は、 今川氏親死後、今川氏輝、
今川義元、今川氏真 の今川氏3代に渡り、
今川氏当主の政務を補佐したり、代理した
りした。
● 寿桂尼は、 女戦国大名の1人である。
〇 しゅ 守護、守護大名。
(しゅご、しゅごだいみょう)。
《政治制度》。
(12〜16世紀)。
近世大名) 。
■ 守護。
● 守護(しゅご)とは、 中世日本で、
国(令制国)単位で設置された軍政
役職であり、鎌倉幕府、室町幕府が
任命した武家・武士が就任する。
■ 守護大名。
● 守護大名 (しゅごだいみょう)と
は、概ね、室町時代前期・中期 (13
38年頃〜1467年頃)の時期に、室
町幕府(= 足利幕府)の将軍により守
護に任命された地方領国領主である。
■ 守護大名と守護領国制。
● 室町時代前期・中期に、室町幕
府(= 足利幕府)の将軍に任命され
た守護大名は、 半済(はんぜい)や
守護段銭(しゅごたんせん)、守護請
(しゅごうけ)などを利用して、経済的
基礎を築き、支配権を拡大し、守護
領国制を成立させる。
■ 守護領国制から大名領国制へ。
● 応仁の乱で守護領国制は崩壊
し、室町時代後期(= 戦国時代)に、
多くの守護大名が、守護代や国人出
身などの戦国大名に領国を奪われ
没落し、大名領国制 (1467頃〜
1868年頃)の領国支配体制(政治
体制)へ移る。
■ 大名の変遷の概略。
● 大名の変遷では、 室町時代前
期・中期に、室町幕府(= 足利幕府)
の将軍に臣従した、各地の領国支
配者の武家、武士が、守護大名とな
り、 室町時代後期(= 戦国時代)に、
室町幕府の将軍や守護大名の権力
が低下し(弱まり)、多くの守護大名
は没落し、代わって、実力で領国を
支配する戦国大名が多くの出現し、
安土桃山時代に、多くの戦国大名
が全国を統一した豊臣氏に臣従し
て近世大名となり、 江戸時代前期
に、江戸幕府樹立後、多くの近世大
名は、江戸幕府(= 徳川幕府)の将
軍に臣従して、藩主(はんしゅ)とな
る。
〇 じゅ 従五位。
(じゅごい )。 《位階》。
〇 じゅ 従五位下。
(じゅごいのげ)。 《位階》。
the Junior Fifth Court
Rank, Lower Grade of
the Imperial Court.
■ 従五位下 (じゅごいのげ ,the
Junior Fifth Court Rank,
Lower Grade) は、 前近代 日本の、
朝廷(律令官制)の位階 (701年 頃〜
1869年頃・使用)の30位階の、上位
14番目の位階(いかい)である。
● 従五位下 の位階は、 前近代日本
の、朝廷(律令官制)の位階として、
701年頃から1869年頃まで、使用さ
れた。
■ 貴族。
前近代の朝廷(律令官制)の、従
五位下は、通常、朝廷(ちょうてい)の
位階・5位(いかい・ごい)以上の者を貴
族 (きぞく)と呼ぶので、従五位下は、
朝廷の貴族にな るための最下位の位
階である。
■ 前近代の朝廷(律令官制)の、従五
位下は、 蔵人(くろうど)を除き、 朝廷
の、内裏(だいり、天皇御所)の、殿上
人(てんじょうびと)になるための最低条
件の朝廷の位階である。
■ 殿上人。
前近代の朝廷(律令官制)の、内
裏 (だいり)の、殿上人(てんじょうびと)
とは、 位階・五位(いかい・ごい)以上
の者で昇殿(しょうでん)を許可された者
や、 位階・六位(いかい・ろくい)以上
の者で蔵人 (くろうど、天皇秘書官)に
叙任 (じょにん)された者である。
〇 じゅ 従五位上。
(じゅごいのじょう)。 《位階》。
(⇒ 五位)。
〇 しゅ 守護請。
(しゅごうけ)。
(請所) 《年貢請負制度》。
《日本の土地支配制度》。
百姓請(= 地下請))。
■ 守護請。
■ 守護請(しゅごうけ)とは、 室町
時代に、守護が、荘園や公領(国衙
領)の年貢の納入を請け負う制度で
ある。
● 守護請(しゅごうけ)とは、 室町
時代に、守護が一定の年貢(ねんぐ)
を納入するという条件で、 本所・領家
の荘園領主や国司・知行国主が、守
護に、荘園や公領(国衙領)の経営を
委任する制度である。
〇 しゅ 守護在京制。
(しゅございきょうせい)。
《 室町幕府》。
応仁の乱)。
■ 室町幕府から任命された、守護大名
は、室町時代前期・中期では、在京が原
則であったが、 応仁・文明の乱(1467
年ー1477年)後、自ら領国 を守るため
京(都)より領国に下り (領国の政情不
安のため帰国したまま、京(都)に戻らず)、
室町幕府の守護在京制は崩壊し、守護
大名は、 幕府の統制を離れる。 よって、
応仁・文明の乱以後の戦国時代(室町時
代後期)に、守護在京制は崩壊し、室町
幕府の権威は低下する。
〇 しゅ 守護・地頭の設置。
(しゅご・じとうのせっち)。
(1185年)。 《 政治制度》。
○ 源頼朝・側近の大江広元の
献策により、源頼朝が、全国に
設置する。
〇 しゅ 守護代。
(しゅごだい)。 《領国制度》。
(⇒ 守護)。
戦国時代)。
■ 守護代(しゅごだい)とは、
中世日本の室町時代で、室町幕府
の守護の補佐職であり、室町幕府
の守護在京制のため、守護に代わ
って、守護の領国を統治した武家
であり、守護の腹心の部下であっ
た。
■ 守護代は、 室町時代前期・中
期には、守護在京制のため、守護
大名の代理として、守護大名の領
国を統治していたが、 応仁の乱
で守護領国制が崩壊し、下剋上と
なり、室町時代後期(= 戦国時代)
には、 国人領主などの戦国大名
が、ほとんどの守護大名の領国を
奪い、 守護代が管轄するほとんど
の領土も、戦国大名が領土を奪う。
〇 しゅ 守護領国制。
(しゅごりょうごくせい)。
(政治体制)。《 室町幕府》。
(⇒ 守護大名)。
■ 守護領国制 (しゅごりょうごくせ
い)とは、 室町時代前期・中期の、
室町幕府(= 足利幕府)の将軍が
任命した守護大名が、日本本土の
ほぼ全国を統治する政治体制、領
国支配体制である。
■ 守護領国制 (しゅごりょうごくせ
い)とは、 室町時代前期・中期 (13
38年頃〜1467年頃)の、守護によ
る領国支配体制である。
■ 室町時代前期・中期に、 守護大名
は、 半済(はんぜい)や守護段銭(し
ゅごたんせん)、守護請(しゅごうけ)
などを利用して、経済的基礎を築き、
支配権を拡大し、守護領国制を成立
させる。
■ 守護領国制は、応仁の乱で崩壊
し、室町時代後期(= 戦国時代)以後、
戦国大名や近世大名が統治する大名
領国制 (1338年頃〜1868年頃)
の政治体制(領国支配体制)に移る。
〇 しゅ 朱雀隊。
(しゅざくたい)。 《会津戦争》。
(= 会津藩・朱雀隊)。
○ 会津戦争で会津藩・藩士の
中核部隊の1つ。
(⇒会津戦争)。
〇 じゅ 従三位。
(じゅさんみ)。 《位階》。
(⇒ 公卿)。
● 従三位 (じゅさんみ)は、 近・現代日本
の、職員令(20位階)、叙 位条例や位階令
(16位階)の位階 (186 9年頃〜現在・使
用)、及び 前近代日本の、朝廷(律令官制)
の位階(30位階、701年頃〜1869年頃・
使用) の位階中で、 上位6番目の位階
である。
○ 従三位は、 701年頃から現在まで、
使用される。
● 前近代の朝廷(律令官制)の、従三位
は、 参議(さんぎ)を除き、 朝廷の、内
裏(だいり、天皇御所)の、公卿(くぎょう)
になるための条件の朝廷の位階である。
● 前近代の朝廷(律令官制)の、公卿(く
ぎょう)とは、三位以上の者や参議の官職
にある者である。
朝廷の、内裏(だいり、天皇御所)の、
公卿は、 朝廷の位階・三位(さんみ)以上
の者や、 朝廷の位階・四位(しい)の者で
参議(さんぎ)の官職に叙任された者(叙
せられた者) である。
〇 じゅ 従三位入道
(じゅさんみにゅうどう)。 《人名》。
(= 源 頼政 (みなもとのよりまさ)) 。
(⇒ 源 頼政)。
〇 じゅ 従四位。
(じゅしい)。 《位階》。
〇 じゅ 従四位下。
(じゅしいのげ)。 《位階》。
○ 前近代日本の、朝廷(律令官制)の位
階(701年頃〜1869年頃・使用)の30
位階の、 上位10番目の位階 である。
○ 701年頃から1869年頃まで、使用
された。
● 前近代の朝廷(律令官制)の、従四位
下は、朝廷の公卿(くぎょう) になるための
最低条件の位階である。
従四位下は、朝廷の公卿(くぎょう)
の参議(さんぎ)になるための最低条件の
位階 である。
● 前近代の朝廷(律令官制)の、公卿(く
ぎょう)とは、三位以上の者や参議の官職
にある者である。
朝廷の、内裏(だいり、天皇御所)の、
公卿は、 朝廷の位階・三位(さんみ)以上
の者や、 朝廷の位階・四位(しい)の者で
参議(さんぎ)の官職に叙任された者 である。
〇 じゅ 従四位上。
(じゅしいのじょう)。 《位階》。
〇 じゅ 従七位。
(じゅしちい)。 《位階》。
○ じゅ 従七位下。
(じゅしちいのげ)。 《位階》。
〇 じゅ 従七位上。
(じゅしちいのじょう)。 《位階》。
〇 しゅ 主上。
(しゅじょう)。 《天皇家》。
(= 天皇)。
(⇒ 天皇)。
〇 じゅ 入内。
(じゅだい)。 《天皇家》。
(⇒ 正室夫人)。
(⇒ 天皇家)。
■ 入内(じゅだい)とは、
天皇の正室夫人(皇后、中宮、
女御)3人の一人となることで
ある。
■ 入内(じゅだい)とは、
天皇の正室夫人となるべき人が、
正式に内裏(だいり、天皇の御殿
(天皇が住む住居)に入ることで
ある。
(しゅたんい・ていい(ていがく)
つうじょうかへい)。
《日本流通貨幣》。
(江戸時代流通貨幣)。
(⇒ 江戸時代の日本
流通貨幣)。
(⇒ 日本流通貨幣)。
● 江戸時代の、江戸
幕府鋳造の、朱単位
定位(定額)通常貨幣。
■ 1朱≒ 現在の 約6250円、
16朱≒一両小判(金)。
■ 1両小判 (金)≒4分≒16朱
≒4000文≒現在の約10万円。
■ 朱単位の貨幣には、2朱金、
があった。
〇 しゅ 朱鳥。
(しゅちょう、すちょう)。 《和暦》。
THE SHUCHO ERA.
○ 686年。
● 686年・朱鳥元年・7月20日〜
686年・朱鳥元年・9月 9日。
● 飛鳥白鳳時代後期の和暦年号。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
〇 しゅ 出家。
(しゅっけ)。 《仏教》。
(= 仏道の生活に入ること)。
〇 じゅ 10世紀〜19世紀
(じゅっせいき〜 じゅう きゅうせいき)。《世紀》。
(= 901年〜1900年)。
照一覧表)。
○ 10 世紀 ( 901年〜1000年)。
○ 11 世紀 (1001年〜1100年)。
○ 12 世紀 (1101年〜1200年)。
○ 13 世紀 (1201年〜1300年)。
○ 14 世紀 (1301年〜1400年)。
○ 15 世紀 (1401年〜1500年)。
○ 16 世紀 (1501年〜1600年)。
○ 17 世紀 (1601年〜1700年)。
○ 18 世紀 (1701年〜1800年)。
○ 19 世紀 (1801年〜1900年)。
〇 じゅ 十手持ち。
(じゅってもち)。 《江戸時代の治安》。
(= 岡っ引き)。
〇 しゅ 首都。
(しゅと)。 《 都市》。
(⇒ 古都(こと)、)。
都(みやこ))。
(⇒ 都城(とじょう)、
京(きょう))。
鎌倉、
安土、
大阪、
江戸、
東京 )。
□ 日本古都ガイドブック。
No.1。
No.1。
No.1。
No.1。
No.1。
■ 首都。
■ 首都とは、
国家政治・行政の中心地であり、
国家レベルの政治・行政の中核
都市である。
■ 首都とは、
ある国の、国家政権・政府の本拠
地であり、
ある国全土を統治する全国政権・
政府の中央政府の中核都市であ
る。
■ 日本の首都。
■ 日本の首都とは、
日本の国家政権・政府の本拠地
であり、
日本本土を統治する全国政権・政
府の中核都市である。
■ 日本の、首都と都城
や京。
■ 日本の首都とは、
日本本土を統治する全国政権・
政府の中核都市である。
■ 前近代日本の都城・京 (と
じょう・きょう)とは、 天皇の住
居がある都市である皇居都市で
ある。
■ 日本の、鎌倉時代、安土桃
山時代、江戸時代では、日本の
首都(政治・行政の中心地)と皇
居都市(都城・京)とは別になる。
〇 じゅ 従二位。
(じゅにい)。 《 位階》。
〇 じゅ ジュリ。
《遊女》。
(:沖縄の遊郭の遊女)。
王国)。
〇 じゅ 従八位。
(じゅはちい)。 《位階》。
○ じゅ 従八位下。
(じゅはちいのげ)。 《位階》。
the Junior 8th Court
Rank, Lower Grade of
the Imperial Court.
〇 じゅ 従八位上。
(じゅはちいのじょう)。 《位階》。
〇 じゅ 聚楽第。
(じゅらくだい、じゅらくてい)。
《城、邸宅》。
(1587年ー1595年)。
(⇒ 豊臣 秀吉)。
(⇒ 豊臣 秀次)。
No.1。
No.2。
■ 聚楽第 (じゅらくだい、じゅらく
てい、 1587年ー1595年)とは、
豊臣秀吉が京(きょう、京都)に造
営した平城(ひらじろ、平地の城)
である。
■ 豊臣秀吉は、1587年(豊臣大阪
城から移る時)より1591年(隠居して
太閣となる時)まで、 日本の政務をこ
こで行った。
関白職にある者は、朝廷のある
京(きょう、京都)に在住する必要があ
るめ、豊臣秀吉が関白である間、京
(京都)の聚楽第で、日本の政務を行
った。
■ 聚楽第 (じゅらくだい、じゅらくてい、
1587年ー1595年)は、 豊臣秀吉が
京(都)に造営した城郭形式の邸宅であ
る。
■ 豊臣政権の武家の政庁は、豊臣大
阪城であり、 豊臣政権の公家の政庁
は、京(きょう、京都)の聚楽第であった。
■ 聚楽第は、1587年(天正15年)に
完成した豪邸であり、 聚楽第周辺に諸
大名の邸宅も建設された。
聚楽第は、秀吉が1588年に後陽
成(ごようぜい)天皇を招き(天皇の行
幸)、1591年より秀吉・甥(おい)の関
白・豊臣秀次(ひでつぐ)が居所とし、
1595年(文禄4年)の秀次失脚(自刃
(じじん、自害)後、秀吉は聚楽第を破
壊する。
■ 豊臣秀吉は、1595年(文禄4年)
に、 京(きょう、京都)にある豊臣政権
の公家の政庁で関白の豊臣秀次の居
所で あった、聚楽第(じゅらくだい 、じ
ゅらくてい、 1587年ー1595年)を破
壊する。
その後、秀吉築城の指月伏見城
(しげつふしみじょう、1592年−15
96年) や 前期・木幡山伏見城(ぜ
んき・こはたやまふしみじょう、1597
年ー1600年) が、 豊臣政権の公
家の政庁を兼ねる。 しかし、秀吉は、
豊臣政権の公家専用の政庁を再び、
建てなかった。
■ 聚楽第は、 外見は京都に現存す
る徳川家康築城の二条城(「元離宮二
条城」のように、濠(ごう)と石垣(いし
がき)で囲まれた城のような建築物で
あり、 中に、行幸御殿、天守御殿、茶
屋、その他の屋敷群が建てられ、
池と庭園があり、豪華絢爛な建築物で
あった。 東西約250mの大きさであっ
た。
■ 聚楽第の場所。
聚楽第は、 現在の京都御所の西
方の中立売通りの方向の地域にあった。
聚楽第は、 内野(うちの、平安京
の平安宮(=大内裏)地域)の北西部付
近にあり、 聚楽第の、東側の濠は現在
の大宮通り付近にあり、ハローワーク向
えに東濠跡の石碑があり、 西側の濠
は裏門通り付近にあり、学校の前に西
濠跡の石碑がある。
東側の濠があった場所にある現
在のハローワークで、建築中に地面を
掘った時、聚楽第屋敷の金箔瓦(きん
ばくがわら)が出土している。
〇 しゅ 首里城。
(しゅりじょう)。 《城》。
○ 琉球王国の王府がある城。
○ 沖縄本島南部にある。
● 首里城 (しゅりじょう) は、沖縄本島
南部にある、琉球王国の王府がある城
であった。
(⇒ 沖縄の歴史)。
〇 しゅ シュリテンガナシ。
《琉球王国》。
(= 琉球王国の国王)。
歴史)。
〇 しゅ 守礼門。
(しゅれいもん)。 《琉球王国》。
(⇒ 沖縄の歴史)。
○ 琉球(沖縄)で、中国の冊封
使(さくほうし 、さっぽうし)を出迎える
ために設けられた門。
● 守礼門 (しゅれいもん)は、琉球(沖縄)
で、 中国の冊封使(さくほうし 、さっぽうし)
を出迎えるために設けられた門 である。
〇 じゅ 従六位。
(じゅろくい)。 《位階》。
〇 じゅ 従六位下。
(じゅろくいのげ)。 《位階》。
● 従六位下 (じゅろくいのげ)は、前近
代日本の、朝廷(律令官制)の位階(701
年頃〜1869年頃・使用)の30 位階の、
18番目の位階である。
● 従六位下 (じゅろくいのげ)は、701
年頃から1869年頃まで、使用された。
● 前近代の朝廷(律令官制)の、従六位
下(じゅろくいのげ)は、内裏(だいり、天皇
御所)の、殿上人(てんじょうびと)の、 蔵人
(くろうど)になるための、朝廷の最低条件
の位階である。
● 前近代の朝廷(律令官制)の、内裏の、
殿上人とは、 位階・五位以上の者で昇殿
を許可された者 や 位階・六位以上の者
で蔵人に叙任された者である。
〇 じゅ 従六位上。
(じゅろくいのじょう)。 《位階》。
〇 じゅ 純粋太陰暦。
(じゅんすいたいいんれき)。 《暦》。
(太陰暦)。
(⇒ 純粋太陰暦 天文学辞典)。
● 太陰暦の1つ。
● 月の満ち欠けを基にした暦。
● 純粋太陰暦は、 朔望月(さ く
ぼうげつ、月の満ち欠けの1周期)
に基づいた暦であり、暦と実際
の季節とがずれる。
● 太陰暦(= 陰暦)には、純粋太
陰暦 と 太陰太陽暦 がある。
● 現行のイスラム暦のヒジュラ暦
は、太陰暦(= 陰暦)の、純粋太
陰暦である。
● 前近代日本では、太陰暦(=陰
暦)の、太陰太陽暦が、使われた。
● 太陰暦 (英:THE LUNAR CALEN-
DAR) は、 月の満ち欠けを基にした暦 で
ある。
● 純粋太陰暦は、 朔望月(さくぼうげつ、
月の満ち欠けの1周期)に基づいた暦であ
る。
「純粋太陰暦の暦」 (1年約354日、
1ヶ月約29.5日X12ヶ月) と、 「実際の
季節」 (1年=365.2422日(実際の1太
陽年)) とは、 1年で約11日ずれる。
● 太陰太陽暦は、 太陰暦の1つで、純
粋太陰暦を補正した暦である。
● 太陰太陽暦は、 純粋太陰暦に、19年
に7回、約2、3年に1回(度)、閏月(うるう
づき)1ヶ月(29日または30日)を加えて
(挿入して)、年13か月にして、 「純粋太
陰暦の暦」 と 「実際の季節」 とのずれ
を調整した、太陰暦 である。
● 日本では、 太陰暦(=陰暦)の、太陰太
陽暦を、(紀元後)690年頃から1872年
(明治5年)まで、使用した。
〇 じゅ 准母。
(じゅんぼ)。 《天皇家》。
(= 天皇の形式上の義母)。
■ 准母 (じゅんぼ)は、 天皇の形式上
の義母である。
(⇒ 天皇家)。
〇 しょ 初位。
(しょい、そい)。 《位階》。
the Lowest Court Rank
of the Imperial Court.
〇 じょ 叙位。
(じょい)。 《位階》。
(= 位階を授与すること、位階に
叙すること)。
(⇒ 位階)。
■ 叙位 (じょい)とは、 位階を授与するこ
と、位階に叙することである。
■ 位階(いかい)は、 近現代日本では栄典
の位を示し、 前近代日本では朝廷(官位の
位階、官職)での序列を示す。
■ 近・現代日本政府の、位階令(1926年
制定、1947年改正)の位階。
<1926年頃〜現在>。
一位から八位までの、16位階。
(⇒ 位階令 の位階)。
■ 近代日本政府の、叙位条例(1887年制
定)の位階。
<1887年頃〜1926年頃>。
一位から八位までの、16位階。
(⇒ 叙位条例の位階)。
■ 近代日本政府の、太政官制の職員令
(1869年制定)の位階。
<1869年頃〜1887年頃> 。
一位から八位、九位、初位までの、20位階。
(⇒ 職員令の位階)。
■ 前近代日本の 、朝廷(律令官制)の位階。
<701年頃〜1869年頃> 。
一位〜八位、初位までの、30位階。
(⇒ 朝廷(律令官制) の位階)。
〇 じょ 叙位条例の位階。
(じょいじょうれいの位階)。 《位階》。
● 叙位条例 (じょいじょうれい)は、 近代
日本政府の、位階などを定めた法令である。
■ 近代日本の、叙位条例(1887
年制定)の16位階 。
● <1887年頃〜1926年頃>。
● 1887年制定の叙位条例から
1926年制定の位階令への変更まで。
■ 近代日本の、叙位条例(1887年制定)
の16位階は、
■ 叙位条例の位階 (じょいじょうれいのい
かい) は、 近代日本の位階であり、16 位階
であり、 1887年頃 から1926年頃まで使
用された。
■ 近代日本の叙位条例の 16位階は、 近
代日本の、職員令(1869年制 定、20位階)
を改めて、1887年に制定され、 1887年制
定の叙位条例から1926年制定の位階令へ
の変更まで、使用された。
〇 しょ 正安。
(しょうあん)。 《和暦》。
THE SHOAN ERA.
○ 1299年ー1302年。
● 1299年・正安元年・ 4月25日〜
1302年・正安 4年・11月21日。
● 鎌倉時代後期の和暦年号。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
〇 じょ 承安。
(しょうあん、じょうあん)。 《和暦》。
THE SHOAN ERA.
○ (1171〜 1175年)。
● 1171年・承安元年・4月21日〜
1175年・承安 5年・7月28日。
● 平安時代後期の和暦年号。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
〇 じょ 上意。
(じょうい)。 《封建制度》。
(= 主君のおぼしめし・命令、上位
の者の意向・命令)。
(⇒ 封建制度)。
〇 じょ 攘夷。
(じょうい)。 《政治思想》。
(= 外敵を追い払うこと)。
(⇒ 尊皇(王)攘夷派)。
〇 しょ 尚育。
(しょういく)。 《人名》。
(⇒ 沖縄の歴史)。
○ 尚泰(しょうたい)の父。
○ 琉球王国(1429〜1872年)の
国王・尚育王(在位1835〜47年)、
第二尚氏王統18代国王。
● 尚育 (しょういく)は、 尚泰(しょうたい)の父
であり、 琉球王国(1429〜1872年)の国王・
尚育王(在位1835〜47年)であり、 第二尚氏
王統18代国王である。
〇 しょ 正一位。
(しょういちい)。 《位階》。
the Senior 1st Court
Rank, Upper Grade of
the Imperial Court.
● 位階令の位階。
<1926年頃〜現在 >。
● 叙位条例の位階。
<1887年頃〜1926年頃>。
● 太政官制の職員令の位階 。
<1869年頃〜1887年頃>。
● 前近代日本の朝廷(律令官制)の位階。
<701年頃〜1869年頃 >。
■ 前近代日本の 、朝廷の位階の30位階。
○ 上位順に、
〇 じょ 攘夷派。
(じょういは)。 《政治思想》。
○ 幕末、攘夷運動(じょういうんどう、
外国勢力を武力で排除する運動)
を行う人(者)。
○ (例) 土佐藩士の、武市
半平太。
〇 じょ 攘夷派と開国派の対立。
(じょういはとかいこくはのたいりつ)。
《幕末の政争派閥》。
(1853〜1867年頃)。
(⇒ 幕末日本政治・政争
変遷一覧表)。
〇 じょ 貞永。
(じょうえい)。 《和暦》。
THE JOEI ERA.
○ 1232年ー1233年。
● 1232年・貞永元年・4月 2日〜
1233年・貞永 2年・4月15日。
● 鎌倉時代前期の和暦年号。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
〇 しょ 荘園。
(しょうえん) 。
《土地人民統治制度》。
(8〜16世紀)。
○ 貴族・寺社等が支配する
領域。
〇 しょ 尚円。
(しょうえん)。 《人名》。
(= 金丸(かなまる))。
○ クーデターにより、王位につき、
琉球王国の尚氏第二王朝をたて
る。
(⇒ 琉球王国、
沖縄の歴史)。
〇 しょ 荘園・公領制。
(しょうえん・こうりょうせい)。
《土地人民統治制度》。
(10〜16世紀)。
(⇒ 日本の土地人民統治制度)。
〇 しょ 荘園制度。
(しょうえんせいど) 。
《土地人民統治制度》。
(10〜16世紀)。
〇 しょ 正応。
(しょうおう)。 《和暦》。
THE SHOO ERA.
○ 1288年ー1293年。
● 1288年・正応元年・4月28日〜
1293年・正応 6年・8月 5日。
● 鎌倉時代後期の和暦年号。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
〇 じょ 貞応。
(じょうおう)。 《和暦》。
THE JOO ERA.
○ 1222年ー1224年)。
● 1222年・貞応元年・ 4月13日〜
1224年・貞応 3年・11月20日。
● 鎌倉時代前期の和暦年号。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
〇 じょ 承応。
(じょうおう) 。 《和暦》。
THE JOO ERA.
○ 1652年ー1655年。
● 1652年・承応元年・9月18日〜
1655年・承応 4年・4月13日。
● 江戸時代前期の和暦年号。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
〇 しょ 正嘉。
(しょうか)。 《和暦》。
THE SHOKA ERA.
○ 1257年ー1259年。
● 1257年・正嘉元年・3月14日〜
1259年・正嘉 3年・3月26日。
● 鎌倉時代中期の和暦年号。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
〇 じょ 浄海。
(じょうかい)。 《人名》。
(= 平清盛)。
○ 平清盛の、出家後の個人名。
(⇒ 平清盛)。
〇 しょ 松下村塾。
(しょうかそんじゅく)。 《私塾》。
■ 松下村塾は、萩(はぎ、山口県・萩)
にあり、1857年から1858年 までの
期間に、吉田 松陰が講義を行った、私
塾である。
● 吉田 松陰の叔父・玉木 文之進が、
1842年に、私塾の松下村塾 (1842
年〜1858年、1869年〜1876年)を
開設し、 1876年(明治9年)まで運営
する。
〇 じょ 貞観。
(じょうがん)。 《和暦》。
THE JOGAN ERA.
○ 859年ー877年。
● 859年・貞観 元年・4月15日〜
877年・貞観19年・4月16日。
● 平安時代前期の和暦年号。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
〇 じょ 承久。
(じょうきゅう)。 《和暦》。
THE JOKYU ERA.
○ 1219年ー1222年。
● 1219年・承久元年・4月12日〜
1222年・承久 4年・4月13日。
● 鎌倉時代前期の和暦年号。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
〇 じょ 承久の乱。
(じょうきゅうのらん)。 《戦い》。
○ 1221年に、 承久の乱は、朝
廷方が、 鎌倉幕府方に対して起
こした戦い。
〇 しょ 正慶。
(しょうきょう、しょうけい)。 《和暦》。
THE SHOKYO ERA.
(⇒ 和暦の二重年号存立)。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
■ 後醍醐・鎌倉幕府競合二重
年号。
○ 1332年ー1333年。
● 光厳(こうごん)天皇 (鎌倉幕 府
擁立、持明院統(じみょういんとう))方
の暦年号。
1332年・正慶元年・4月28日〜
1333年・正慶 2年・5月25日。
● 鎌倉時代後期の和暦年号。
● (注意) 同時期に、後醍醐(ごだいご)
天皇 (大覚寺統(だいかくじとう)) 方の
暦年号の、元弘(げんこう)元年〜4年
(1331〜1334年) も存立する。
● 正慶年号(正慶元年〜2年、1332〜
1333年)より後は、 光厳(こうごん)天皇
(鎌倉幕府擁立、持明院統 )方は、暦年号
編成を中止する。 1333年に、北条執権
の鎌倉幕府(1192〜1333年)が滅亡し
たため。
● 光厳(こうごん)天皇 (鎌倉幕府擁立、
持明院統(じみょういんとう))方の暦年号。
嘉暦(かりゃく) ⇒ 元徳(げんとく)元
年〜4年 (1329〜1332年) ⇒ 正慶
(しょうきょう)元年〜2年 (1332〜133
3年)⇒ 暦年号編成中止。
〇 じょ 貞享。
(じょうきょう) 。 《和暦》。
THE JOKYO ERA.
○ 1684年ー1688年。
● 1684年・貞享元年・2月21日〜
1688年・貞享 5年・9月30日。
● 江戸時代前期の和暦年号。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
〇 しょ 貞暁。
(じょうぎょう/ていぎょう)。
《人名》。
■ 貞暁 (じょうぎょう/ていぎょう、
鎌倉法印、生没年:1186年〜12
31年) は、 源頼朝の男子である。
■ 貞暁は、 源頼朝と、大進局(だ
いしんのつぼね)との間の男子であ
る。
■ 貞暁は、 数え年7歳で出家して、
仏僧となる。 高野山にて、数え年
46歳で死去する。
〇 しょ 正九位。
(しょうくい)。 《位階》。
〇 しょ 将軍。
(しょうぐん)。
《武官(武人)、武士の身分》。
(= 軍の統率者、武官(武人)の
首長、征夷大将軍)。
■ 将軍は、
軍の統率者である。
■ 将軍は、
武官の首長の官職(職名)
である。
■ 古代日本では、将軍とは、朝廷
の征討、儀衛、行幸時の臨時の武官
の首長の軍務官職であった。 古代
日本で、将軍の1つに、征夷大将軍
があった。
■ 将軍(征夷大将軍)は、
朝廷が設けた将軍の1つで、
征夷大将軍の別称、略称
である。
○ 将軍(征夷大将軍)は、
武家の棟梁(とうりょう、統率者、
統領、頭領)である。
○ 将軍(征夷大将軍)は、
鎌倉幕府の各将軍、建武期
の護良親王(もりよししんのう、
大塔宮(おおとうのみや))、室町
幕府や江戸幕府の各将軍で
ある。
○ 将軍(征夷大将軍)は、
幕府の首長であり、
鎌倉幕府、室町幕府、江戸
幕府、の将軍などである。
■ 征夷大将軍 (せいいたいしょう
ぐん、別名:征夷将軍))は、 奈良時
代から江戸時代まで、朝廷から任命
された、武官(武 人)の首長の官職
(職名)である。
■ 将軍の1つの、征夷大将軍は、
当初は、奈良時代・平安時代初期で
は、陸奥(むつ、東北地方)の蝦夷
(えぞ)討伐のための朝廷の臨時の
軍統率者の官職であった。
その後、征夷大将軍は、鎌倉
時代より、武家の棟梁(とうりょう、
統率者、統領、頭領)の地位、また
は、幕府の首長の地位を意味する
ようになる。
〇 しょ 将軍家。
(しょうぐんけ)。 《幕府》。
(= 足利将軍家、徳川将軍家)。
○ 将軍家とは、 足利将軍家、
徳川将軍家である。
○ 足利将軍家とは、室町幕府
の将軍職に就任 した、室町時代
の足利氏本家(宗家)である。
○ 徳川将軍家とは、江戸幕府
の将軍職に就任 した 、江戸時代
の徳川氏本家(宗家)である。
(⇒ 将軍)。
■ 将軍家 (しょうぐんけ)とは、一般
的に、長く幕府の将軍職に就任した武
家であり、 足利将軍家 や 徳川将軍
家である。
■ 将軍家 (しょうぐんけ)とは、幕府
の将軍職に就任 した時代の足利氏や
徳川氏の本家(宗家)である。
■ 足利将軍家 (あしかがしょうぐ
んけ)とは、 室町幕府(= 足利幕府)
の将軍職に就任 した、室町時代の足
利氏本家(宗家)である。
■ 徳川将軍家 (とくがわしょうぐん
け)とは、 江戸幕府(= 徳川幕府)の
将軍職に就任した、江戸時代の徳川
氏本家(宗家)である。
〇 しょ 正元。
(しょうげん)。 《和暦》。
THE SHOGEN ERA.
○ 1259年ー1260年。
● 1259年・正元元年・3月26日〜
1260年・正元 2年・4月13日。
● 鎌倉時代中期の和暦年号。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
〇 じょ 承元。
(じょうげん)。 《和暦》。
THE JOGEN ERA.
○ 1207年ー1211年。
● 1207年・承元元年・10月25日〜
1211年・承元 5年・ 3月 9日。
● 鎌倉時代前期の和暦年号。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
〇 じょ 貞元。
(じょうげん)。 《和暦》。
THE JOGEN ERA.
○ 976年ー978年。
● 976年・貞元元年・7月13日〜
978年・貞元 3年・11月29日。
● 平安時代中期の和暦年号。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
〇 しょ 正五位。
(しょうごい)。 《位階》。
〇 しょ 正五位下。
( しょうごいのげ)。 《位階》。
〇 しょ 正五位上。
( しょうごいのじょう)。 《位階》。
〇 じょ 上皇。
(じょうこう)。 《天皇家》。
(= 院(いん)、元天皇)。
■ 上皇(じょうこう)とは、 前天皇であり、
法王とは、出家した前天皇である。
(⇒ 法王)。
〇 じょ 常高院。
(じょうこういん)。 《人名》。
(= お初、初)。
○ 浅井三姉妹 (= 茶々、初、
江(ちちゃ、はつ、ごう)) の一人。
〇 じょ 上皇政権。
(じょうこうせいけん)。 《 政権・政府》。
(= 院政政権)。
○ 1086年頃〜1156年頃。
○ 白河上皇と鳥羽上皇。
(⇒ 日本の政権・政府)。
〇 じょ 上皇政治。
(じょうこうせいじ)。 《政治形態》。
(= 院政政治)。
〇 しょ 小国首長政治
(しょうこくしゅちょうせいじ)。
《 政治形態》。
(紀元前1世紀〜紀元(後)5世紀)。
(⇒ 日本の政治形態)。
〇 しょ 小国分立自治制
(しょうこくぶんりつじちせ い)。
《土地人民統治制度》。
(紀元前1世紀〜紀元(後)5世紀)。
(⇒ 日本の土地人民統治制度)。
〇 しょ 小国分立政権
(しょうこくぶんりつせいけん)。
《土地人民統治制度》。
(= 小国分立自治政権) 。
(前1世 紀〜紀元(後)5世紀) 。
(⇒ 日本の政権・政府)。
〇 しょ 小国分立自治政権
(しょうこくぶん りつじ ちせいけん)。
《政治形態》。
(= 小国分立政権)。
(紀元前1世紀〜紀元(後)5世紀)。
(⇒ 日本の政権・政府)。
〇 じょ 上西門院。
(じょうさいもんいん)。《人名》。
(= 統子内親王(むねこない
しんのう))。
(⇒ 鳥羽上皇)。
(1126−1189年)。
○ 上西門院は、
鳥羽上皇の次女である。
〇 しょ 正三位。
(しょうさんみ)。 《位階》。
〇 しょ 尚氏。
(しょうし)。 《琉球王国》。
○ 琉球王国(1429〜1872年)
の王族。
(⇒ 沖縄の歴史)。
〇 しょ 璋子。
(しょうし、たまこ)。 《人名》。
(= 藤原 璋子(ふじわらのしょうし・たま
こ)、 待賢門院 (たいけんもんいん)、
待賢門院璋子)。
○ 鳥羽上皇の正室夫人(中宮)。
○ 崇徳上皇、後白河上皇の生母。
(⇒ 藤原 璋子)。
〇 じょ 上士。
(じょうし)。 《武士の身分》。
(= 江戸時代の土佐藩の上級武士)。
(17〜19世紀)。
■ 上士(じょうし)とは、 江戸時代の、土佐藩
の上級武士であり、上級藩士である。
■ 土佐藩の武士には、上士(じょうし)と下士
(かし)の身分があり、 幕末に、坂本龍馬、岩
崎弥太郎などは、下級武士の下士であり、後藤
象二郎などは、上級藩士の上士であった。
〇 しょ 正治。
(しょうじ)。 《和暦》。
THE SHOJI ERA.
○ 1199年ー1201年。
● 1199年・正治元年・4月27日〜
1201年・正治 3年・2月13日。
● 鎌倉時代前期の和暦年号。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
〇 じょ 貞治。
(じょうじ、ていじ)。 《和暦》。
THE JOJI ERA.
○ 1362年ー1368年。
(⇒ 南北朝競合二重年号)。
(⇒ 和暦の二重年号存立)。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
■ 南北朝競合二重年号。
● 北朝 (持明院統)方の暦年号。
1362年・貞治元年・9月23日〜
1368年・貞治 7年・2月18日。
● 室町時代前期の和暦年号。
● (注意) 同時期に、南朝 (大覚寺統、
後醍醐天皇系統)方の暦年号の、正平
(しょうへい)元年〜25年(1346〜13
70年) も存立する。
〇 しょ 正四位。
(しょうしい)。 《位階》。
〇 しょ 正四位下。
(しょうしいのげ)。 《位階》。
〇 しょ 正四位上。
(しょうしいのじょう)。 《位階》。
〇 じょ 娘子隊。
(じょうしたい) 。 《戦闘部隊》。
(= 会津藩・娘子隊)。
○ 会津戦争で奮戦した女性兵
部隊。
(⇒ 会津戦争)。
〇 しょ 尚氏第一王朝。
(しょうしだい いちおうちょう)。 《王朝》。
(1429〜 1470年)。
○ 沖縄の琉球王国の王朝。
歴史)。
〇 しょ 尚氏第二王朝。
(しょうしだいにおうちょう)。 《王朝》。
(1470〜1872年)。
○ 沖縄の琉球王国の王朝。
歴史)。
〇 しょ 正七位。
(しょうしちい)。 《位階》。
○ しょ 正七位下。
(しょうしちいのげ)。 《位階》。
〇 しょ 正七位上。
(しょうしちいのじょう)。《位階》。
〇 じょ 上州。
(じょうしゅう)。 《旧地域名》。
(= 上野国( こうずけのくに))。
(≒ 現・群馬県の相当地域)。
(前近代旧地域名の旧国名(令
制国)の別称)。
(⇒ 上野国)。
(⇒ 群馬県)。
(⇒ 前近代日本の地域名)。
(⇒ 日本の地名)。
■ 上州 (じょうしゅう、= 上野国( こうずけ
のくに))は、 東山 道(とうさんどう)・旧広
域地方に属し、 現・関東地方の、現・群馬
県に相当する地域である。
〇 じょ 城州。
(じょうしゅう)。 《旧地域名》。
(= 山城国( やましろのくに)) 。
(≒ 現・京都府南部の相当地域)。
(律令制定後・古代・中世・近世
日本・旧地域名の旧国名(令制
国)の別称)。
(⇒ 山城国)。
(⇒ 京都府)。
(⇒ 前近代日本の地域名)。
(⇒ 日本の地名)。
■ 城州( じょうしゅう)、山州(さんしゅう)、
雍州(ようしゅう)は、 律令制定後・古代・
中世・近世日本・旧地域名の、旧国名(令
制国)正式名の、山城 国 (やましろ のく
に) の 別称である。
● 城州(= 山城国)は 、 畿内(きない、
五畿)・旧広域地方に属し、 現・近畿地方
の、現・京都府南部に相当する 地域である。
〇 じょ 濃州。
(じょうしゅう、のうしゅう)。《旧地域名》。
(= 美濃 国( みの のくに))。
(≒ 現・岐阜県南部の相当地域)。
(律令制定後・古代・中世・近世
日本・旧地域名の旧国名(令制
国)の別称)。
(⇒ 美濃 国)。
(⇒ 岐阜県)。
(⇒ 前近代日本の地域名)。
(⇒ 日本の地名)。
■ 濃州 ( じょうしゅう、のうしゅう)は、
律令制定後・古代・中世・近世日本・旧
地域名の、旧国 名(令制国)正式名の、
美濃 国 (みの のくに)の 別称である。
● 濃州(= 美濃 国)は、 東山道(とうさ
んどう)・旧広域地方に属し、 現・中部地
方の、現在の岐阜県南部に相当する 地域
である。
〇 じょ 常州。
(じょうしゅう)。 《旧地域名》。
(= 常陸 国( ひたち のくに))。
(≒ 現・茨城県の相当地域)。
(律令制定後・古代・中世・近世
日本・旧地域名の、
旧国名(令制国)の別称)。
(⇒ 常陸 国)。
(⇒ 茨城県)。
(⇒ 前近代日本の地域名)。
(⇒ 日本の地名)。
■ 常州 (じょうしゅう)は、 律令制定
後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、
旧国名(令制国)正式名の、常陸 国( ひ
たち のくに) の別称である。
● 常州(= 常陸 国)は、 東海道(とう
かいどう)・旧広域地方に属し、現・関東
地方の、現在の 茨城県に相当する地域
である。
〇 しょ 松寿丸。
(しょうじゅまる)。 《人名》。
(= 黒田長政、幼名)。
(⇒ 黒田 長政)。
〇 じょ 上信越地方。
(じょうしんえつちほう)。 《現地域名》。
(= 群馬県と長野県と新潟県)。
(= 群馬県(上野国)、長野県(信
濃国)、新潟県(越後国、佐渡国)
の地域)。
■ 上信越地方 ( じょうしんえつちほう)と
は、 群馬県(上野国) 、長野県(信濃国)、
新潟県(越後国、佐渡国)の地域 である。
■ 信越地方 (しんえつちほう )とは、 長野
県(信濃国) 、新潟県(越後国、佐渡国)の地
域である。
● 上信越地方 ( じょうしんえつちほう)と
は、 群馬県(上野国) 、長野県(信濃国)、
新潟県(越後国、佐渡国)の地域 である。
● 甲信越地方 (こうしんえつちほう )とは、
山梨県(甲斐国) 、長野県(信濃国)、新潟
県(越後国、佐渡国)の地域 である。
● 北陸地方 (ほくりくちほう )とは、 新潟
県・富山県・石川県・福井県の北陸4県、ま
たは、富山県・石川県・福井県の北陸3県
(北陸道・ 旧広域地方) である。
● 北信越地方(ほくしんえつちほ う)とは、
北陸信越地方 (ほくりくしんえつちほう)で
あり、 富山県・石川県・福井県の北陸3県
(北陸道・ 旧広域地方の一部)、長野県(信
濃国)、新潟県(越後国 、佐渡国)を合わせた
地域である。
〇 しょ 正助。
(しょうすけ)。 《人名》。
(= 大久保 利通 おおくぼ としみち)。
(⇒ 大久保利通) 。
〇 しょ 称制。
(しょうせい)。 《政治制度》。
(= 執政 、大王(天皇)代理)。
(⇒ 飛鳥白鳳時代)。
○ (例) 中大兄皇子(なかのお
おえのみこ・おうじ)称制(執政)。
○ (例) 鸕野讃良(うののささら)
皇女・称制(執政) (= 持統称制)。
■ 称制(しょうせい)とは、執政であり、
大王(おおきみ、天皇)代理である。
〇 じょ 上西門院統子。
(じょうせいもんいんむねこ)。 《人名》。
(1126〜1189年) 。
○ 鳥羽上皇の娘(内親王ない
しんのう) 。
○ 後白河上皇の同母姉。
○ 待賢門院璋子(たいけんもん
いんしょうし・たまこ)の娘) 。
〇 しょ 少初位。
(しょうそい、しょうしょい)。 《位階》。
(⇒ 朝廷の位階)。
〇 しょ 少初位下。
(しょうそいのげ)。 《位階》。
(⇒ 朝廷の位階)。
The Junior Lowest Court
Rank, Lower Grade of
the Imperial Court.
〇 しょ 少初位上。
(しょうそいのじょう)。 《位階》。
(⇒ 朝廷の位階)。
〇 しょ 尚泰。
(しょうたい)。 《人名》。
○ 琉球王国(1429〜1872年)
の最後の国王・尚泰王 (国王在
位1848〜72年、琉球・中山王国
第二尚氏王統19代国王)。
○ 琉球藩(1872〜79年)の藩
王・尚泰藩王(藩王在位1872〜
79年))。
〇 しょ 昌泰。
(しょうたい)。 《和暦》。
THE SHOTAI ERA.
○ 898年ー901年。
● 898年・昌泰元年・4月26日〜
901年・昌泰 4年・7月15日。
● 平安時代前期の和暦年号。
(⇒ 西暦和暦対照表・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
〇 しょ 正中。
(しょうちゅう)。 《和暦》。
THE SHOCHU ERA.
○ 1324年ー1326年。
● 1324年・正中元年・12月 9日〜
1326年・正中 3年・ 4月26日。
● 鎌倉時代後期の和暦年号。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
〇 しょ 正長。
(しょうちょう)。 《和暦》。
THE SHOCHO ERA.
○ 1428年ー1429年。
● 1428年・正長元年・4月27日〜
1429年・正長 2年・9月 5日。
● 室町時代中期の和暦年号。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
〇 しょ 正徳。
(しょうとく)。 《和暦》。
THE SHOTOKU ERA.
○ 1711年ー1716年。
● 1711年・正徳元年・4月25日〜
1716年・正徳 6年・6月22日。
● 江戸時代中期の和暦年号。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
〇 じょ 承徳。
(じょうとく)。 《和暦》。
THE SHOTOKU ERA.
○ 1097年ー1099年。
● 1097年・承徳元年・11月21日〜
1099年・承徳 3年・ 8月28日。
● 平安時代後期の和暦年号。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
〇 しょ 正徳寺会見。
(しょうとくじかいけん) 。 《会談》。
■ 正徳寺会見とは、 斎藤道三(利政) と織
田信長との会談である。
■ 1553年(天文22年)に (異説では、
1549年(天文18年)に)、 当時、美濃国と
尾張国の堺付近にあった、正徳寺 (しょうと
くじ、現・名古屋市天白区の聖徳寺)という寺
で、 美濃国国主・斎藤道三(利政)(さいとう
どうさん(としまさ)) と 尾張国の織田信長
が会見した。
会見以後の、斎藤道三(利政) は、 帰
蝶(きちょう、濃姫)の娘婿であり、戦略家で
改革者の織田信長に、同盟者として、好意を
もつようになる。
〇 しょ 聖徳太子。
(しょうとくたいし) 。 《人名》。
(= 厩戸王 (うまやとおう)) 。
(⇒ 厩戸王 (うまやとおう))。
〇 しょ 称徳天皇。
(しょうとくてんのう) 《女性天皇》。
(= 阿倍内親王、前の孝謙(こ
うけん)天皇)。
(生没年:718年ー770年)。
THE EMPRESS SHOTOKU.
(⇒ 女性天皇)。
○ 2回、天皇に即位。
(1) 第1回天皇即位、初即位
孝謙天皇在位:
749年ー758年
(2) 第2回天皇即位、再即位
称徳天皇在位:
764年ー770年。
○ 大仏開眼時の天皇。
○ 聖武(しょうむ)天皇の皇女(娘) 。
■ 称徳天皇 (しょうとくてんのう、在位:
764年ー770年、英:THE EMPRESS
SHOTOKU)は、 奈良時代の女性天皇
(= 女帝)であり、 前の孝謙天皇 (こう
けんてんのう、在位:749年ー758年)で
もある。
■ 孝謙(称徳)天皇。
■ 孝謙(称徳)天皇 (こうけん(しょうとく)
てんのう、在位:749年ー758年、764年
ー770年)は、 阿倍内親王(あべ(の)ない
しんのう)であり、 聖武(しょうむ)天皇の
皇女(娘)である。
■ 孝謙(称徳)天皇は、 752年(天平勝宝
4年)の大仏開眼時の天皇であり、 父の聖
武天皇(聖武太上(だじょう)天皇)、 橘諸兄
(たちばなのもろえ)、 吉備真備(きびのまき
び)、 藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)、
道鏡(どうきょう) と協力して、 多くの政策
を行い、 東大寺大仏造営を推進し完成させ、
仏教鎮護(ちんご)国家による国家の安定を
はかり、 また、天平(てんぴょう)文化を現出
させる。
◆ 女性天皇 (8人10代)。
(⇒ 女性天皇)。
(⇒ 推古(すいこ)天皇)。
(さいめい))天皇)。
(⇒ 持統(じとう)天皇)。
(⇒ 元明(げんめい)天皇)。
(⇒ 元正(げんしょう)天皇)。
(しょうとく))天皇)。
(⇒ 明正(めいしょう)天皇)。
(⇒ 後桜町(ごさくらまち)天皇)。
■ 日本の女性天皇・8人10代。
● 日本の古代から現代までの間に、女性
天皇は、 飛鳥白鳳(あすかはくほう)時代、
奈良(なら)時代に天皇に即位(就 任)した、
推古(すいこ)、皇極(斉明)(こうぎょく(さい
めい))、持統(じとう)、元明(げんめい)、
元正(げんしょう)、孝謙(称徳)(こうけん
(しょうとく))の6人8代の天皇 や 江戸
(えど)時代に天皇に即位(就 任)した、明
正(めいしょう)、後桜町(ごさくらまち)の2
人2代の天皇がいて、合計して8人10代の
女性天皇(= 女帝)がいる。
(⇒ 推古(すいこ)天皇)。
(⇒ 皇極(斉明)(こうぎょく(さい
めい))天皇)。
(⇒ 持統(じとう)天皇)。
(⇒ 元明(げんめい)天皇)。
(⇒ 元正(げんしょう)天皇)。
(⇒ 孝謙(称徳)(こうけん(しょ
うとく))天皇)。
(⇒ 明正(めいしょう)天皇)。
(⇒ 後桜町(ごさくらまち)天皇)。
〇 しょ 正二位。
(しょうにい)。 《位階》。
〇 しょ 尚寧。
(しょうねい)。 《人名》。
○ 琉球王国(1429年〜1872年)
の中期の国王・尚寧王で、1609
年に薩摩藩と戦い、敗れる。
歴史)。
〇 しょ 小の月。
(しょうのつき)。 《暦》。
○ 小の月の月末は29日
以下である。
(⇒ 太陰太陽暦)。
■ 日本の旧暦(太陰太陽暦)では、
一か月の日数が30日ある月を「大
の月」(だいのつき)、一か月の日数
が29日以下の月を小の月(しょうの
つき)という。
■ 日本の旧暦(太陰太陽暦)では、
「大の月」(だいのつき)とされた月は
月末が30日であり、 「小の月」(しょ
うのつき)とされた月は、月末が29日
以下である。
■ 為政者が、どの月間を、「大の月」、
「小の月」にするか決めていた。
■ 太陰太陽暦(たいいんたいようれ
き)では、月間は、平均約29.5日で
ある。
■ 前近代日本では、太陰太陽暦が
使用され、それが、日本の旧暦である。
● 前近代日本の、紀元(後)7世紀頃
から1872年(明治5年)まで、太陰太
陽暦が使用され、それが日本の旧暦で
ある。
〇 しょ 尚巴志。
(しょうはし)。 《人名》。
○ 琉球王国(1429〜1872年)
の建国者。
○ 琉球王国の尚氏(しょうし)第一
王朝(1429〜70年)をたてる。
歴史)。
〇 しょ 正八位。
(しょうはちい)。 《位階》。
○ しょ 正八位下。
(しょうはちいのげ)。 《位階》。
〇 しょ 正八位上。
(しょうはちいのじょう)。 《位階》。
〇 しょ 照福院。
(しょうふくいん)。 《人名》。
(= 櫛橋 光)。
○ 櫛橋 光(くしはし てる・みつ)
の法 名(ほうみょう)。
(⇒ 櫛橋光、
黒田官兵衛)。
〇 しょ 正平。
(しょうへい)。 《和暦》。
THE SHOHEI ERA.
○ 1346年ー1370年。
(⇒ 南北朝競合二重年号)。
(⇒ 和暦の二重年号存立)。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
■ 南北朝競合二重年号。
● 南朝(大覚寺統)方の暦年号。
1346年・正平 元年・12月 8日〜
1370年・正平25年・ 7月24日。
● 室町時代前期の和暦年号。
● (注意) 同時期に、北朝 (持明院統、
光厳(こうごん)・光明(こうみょう)天皇系
統) 方の暦年号の、 貞和(じょうわ)元
年〜6年(1345〜1350年)、 観応(か
んのう)元年〜3年(1350〜1352年)、
文和(ぶんな)元年〜5年(1352〜135
6年)⇒ 延文(えんぶん)元年〜6年(13
56〜1361年)⇒ 康安(こうあん)元年
〜2年(1361〜1362年)⇒ 貞治(じょ
うじ)元年〜7年(1362〜1368年)⇒
応安(おうあん)元年〜8年(1368年〜
1375年) も存立 する。
〇 じょ 承平。
(じょうへい、しょうへい)。 《和暦》。
THE SHOHEI ERA.
○ 931年ー938年。
● 931年・承平元年・4月26日〜
938年・承平 8年・5月22日。
● 平安時代中期の和暦年号。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
〇 しょ 正保。
(しょうほう)。 《和暦》。
THE SHOHO ERA.
○ 1644年ー1648年。
● 1644年・正保元年・12月16日〜
1648年・正保 5年・ 2月15日。
● 江戸時代前期の和暦年号。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
〇 じょ 承保。
(じょうほう)。 《和暦》。
THE JOHO ERA.
○ 1074 年ー1077年。
● 1074年・承保元年・ 8月23日〜
1077年・承保 4年・11月17日。
● 平安時代中期の和暦年号。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
〇 じょ 条坊制。
(じょうぼうせい)。 《京》。
(⇒ 京、朱雀大路)。
■ 条坊制(じょうぼうせい)とは、 中国、
朝鮮半島、日本等で見られるの宮城都市
(宮城を中心とする都城(= 京)) の都市
計画である。 日本では、藤原京、平城
京、長岡京、平安京等で採用された。
● 条坊制は、 南北中央に朱雀大路(す
ざくおおじ)を配し、 南北の大路(おおじ)
(= 坊) と 東西の大路(= 条)を基盤の
目状に組み合わせた左右対称で方形の
都市形態である。
〇 しょ 聖武天皇。
(しょうむてんのう)。 《天皇》。
(生没年:701〜756年)。
THE EMPEROR SHOMU.
○ 天皇在位:724〜749年。
■ 聖武天皇 (しょうむてんのう、生没年:
701〜756年、天皇在位:724〜749年)
は、 国家の安定をはかるため、 奈良・
東大寺大仏を造立(ぞうりゅう)し、 国分
寺・国分尼寺を諸 国につくる。
〇 じょ 縄文・北アジア諸民族・
混血系。
(じょうもん・きたあじあしょみんぞ く・こ
んけつけい)。
(= 古・新モンゴロイド混血の「縄文・北
アジア諸民族・混血系の「アイヌ人」の
人類)。
(人類学上の分類・特徴)。
(日本人のルーツ)。
《日本常住民の日本人》。
THE JOMON-NORTH ASIAN
PEOPLES MIXED RACIAL
PEOPLE.
(⇒ アイヌ人)。
〇 じょ 縄文系。
(じょうもんけい)。
(人類学上の分類・特徴)。
(日本人のルーツ)。
《日本常住民の日本人》。
THE JOMONKEI PEOPLE.
(= 縄文人とその子孫)。
(= 古モンゴロイド(= 南方モンゴ
ロイド)の日本地域土着・常住民)。
(= 古モンゴロイドの、 「縄文人」、 「縄文
系(在来系)弥生人」、 「縄文系(在来系)
古代日本人」、 の人類)。
■ 日本の縄文時代の縄文人とその子孫。
● 「縄文系」 (じょうもんけい、英:THE
JOMONKEI PEOPLE) の人々は、
日本の縄文時代の縄文人とその子孫であ
り、 古モンゴロイド(= 南方モンゴロイド)
の日本地域土着・常住民 である。
● 縄文系の人々は、 日本の縄文時代で
の「縄文人」である。
● 縄文系の人々は、 日本の弥生時代で
の「縄文系(在来系)弥生人」、 「縄文・弥
生渡来・混血系弥生人」 である。
● 縄文系の人々は、 古代日本(古墳時
代〜平安時代)での、「縄文系(在来系)古
代日本人」、 「縄文・弥生渡来・混血系古
代日本人」 である。
● 縄文系の人々は、 中世日本から現代
日本まで(鎌倉時代から平成時代まで)の、
縄文・弥生渡来・混血系の、「本土日本人」
や「琉球人」 と、 縄文・北アジア諸民族・
混血系の、「アイヌ人」 である。
● 約6000年前(紀元前4000年頃)か
ら約700年前(紀元(後)13世紀頃)まで
の間に、 モンゴル地域、満州地域(中国
東北部)、中国本土地域、朝鮮半島、北ア
ジア、日本地域では、 古モンゴロイドの人
々 (日本では縄文系の人々) と、 新モ
ンゴロイドの人々 (日本では弥生渡来系
の人々) は、 初めは、対立し、別々に居
住していたが、 両者は徐々に混血してい
き、 モンゴル民族、満州民族、漢民族、朝
鮮民族、北アジア諸民族、本土日本人、琉
球人、アイヌ人 などとなっていった。
● 縄文系(日本常住民)への進化表。
ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類)
● 現代日本人(日本常住民)への進化表。
ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類)
● モンゴロイドへの進化表。
ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類)
(= 南方モンゴロイド)⇒ モンゴロイドの
(⇒ 縄文人)。
(⇒ 原日本人)。
(⇒ 日本人)。
(⇒ 日本人ルーツ・ガイドブック)。
(⇒ 古モンゴロイド)。
〇 じょ 縄文系弥生人。
(じょうもんけいやよいじん)。
(= 在来系弥生人)。
(人類学上の分類・特徴)。
(日本人のルーツ)。
《日本常住民 の日本人》。
(= 弥生時代に、日本地域に居住して
いた、 古モンゴロイドの「縄文系(在来
系)弥生人」 の人類)。
(⇒ 縄文系)。
(⇒ 弥生人)。
(⇒ 縄文人)。
(⇒ 日本人)。
(⇒ 日本人ルーツ・ガイドブック)。
(⇒ 古モンゴロイド)。
〇 じょ 縄文系古代日本人
(じょうもんけいこだいにほんじん)。
(= 在来系古代日本人)。
(人類学上の分類・特徴)。
(日本人のルーツ)。
《日本常住民の日本人》。
(= 古代日本の時期に、日本地域に居住
していた、 古モンゴロイドの縄文系の日
本人 の人類)。
(⇒ 縄文系)。
(⇒ 古代日本人)。
(⇒ 縄文人)。
(⇒ 日本人)。
(⇒ 日本人ルーツ・ガイドブック)。
(⇒ 古モンゴロイド)。
〇 じょ 縄文時代。
(じょうもんじだい)。
(= 約1万2000年前ー紀元
前4世紀頃(約2400年前)。
《日本歴史の時代区分》。
THE JOMON PERIOD.
<原始時代・日本。
(⇒ 原始時代・日本) 。
(⇒ 日本歴史の時代区分)。
(⇒ 縄文人)。
■ 縄文時代 (じょうもんじだい)とは、
約1万2000年前から紀元前4世紀
頃(約2400年前)までの期間である。
■ 縄文時代は、 原始時代・日本
(= 旧石器時代、縄文時代、弥生時代 ;
約3万5000年前ー紀元(後)3世紀頃
(約1700年前) の一時期である。
〇 じょ 縄文人。
(じょうもんじん)。
(人類学上の分類・特徴)。
(日本人のルーツ)。
《日本常住民の日本人》。
THE JOMONJIN PEOPLE.
● 縄文人= 縄文時代日本地域土着・常
住民。
○ 「古モンゴロイド(= 南方モン
ゴロイド)の縄文人」。
● 縄文人とは、 縄文時代日本地域土着・
常住民であり、 日本の縄文時代に、日本
地域に居住していた、古モンゴロイドの人
類である。
● 縄文人(= 縄文時代日本地域土着・常
住民)。
<モンゴロイド。
<現生人類(= 新人、ホモ・サピエンス種))。
<ヒト属。
<人類(= ヒト亜族))。
● 縄文人の地域的・文化的特徴
(人類学上の分類・特徴)。
● 縄文人は、 日本の縄文時代の時期に
(約1万2000年前から約2400年前(紀
元前4世紀頃)までの間に)、 日本地域
(日本本土、南西諸島、北海道)に居住して
いた、古モンゴロイド(= 南方モンゴロイド)
の人類である。
縄文人は、 日本本土(本州、四国、
九州)に居住していた「縄文系(在来系)」
の人類であり、 南西諸島に居住していた
「縄文系(在来系)」の人類であり、 北海
道に居住していた「縄文系(在来系)」の人
類である。
● 約1万2000年前に、 日本地域に居
住する古モンゴロイド(= 南方モンゴロイド)
の人類は、 縄文文化を成立させ、縄文人
となる。
● 縄文人(日本常住民)への進化表。
ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類)
● 現代日本人(日本常住民)への進化表。
ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類)
● モンゴロイドへの進化表。
ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類)
(= 南方モンゴロイド)⇒ モンゴロイドの
(⇒ 縄文系)。
(⇒ 古モンゴロイド
(= 南方モン ゴロイド))。
(⇒ 原日本人)。
(⇒ 日本人)。
(⇒ 日本人ルーツ・ガイドブック)。
〇 じょ 縄文文化。
(じょうもんぶんか)。
《日本の文化》。
THE JOMON CULTURE.
○ 縄文文化は、
約1万2000年前〜紀元前
4世紀頃(約2400年前)の
時期の文化である。
(⇒ 日本の文化)。
■ 縄文文化とは、 日本の縄文時代
の時期に (約1万2000年前から紀
元前4世紀頃(約2400年前)までの
間に)、 日本地域 (日本本土、南西
諸島、北海道) に居住していた、古
モンゴロイド(= 南方モンゴロイド)の
人々(人類)、即ち、縄文人が築き上
げた文化である。
〇 じょ 縄文・弥生渡来・混血系。
(じょうもん・やよいとらい・こんけつけい)。
(= 古・新モンゴロイド混血の「縄文・弥生
渡来・混血系の弥生人」、 古・新モンゴロ
イド混血の「縄文・弥生渡来・混血系の古
代日本人」、 古・新モンゴロイド混血の
「縄文・弥生渡来・混血系の「本土日本人」
や「琉球人」 の人類)。
(人類学上の分類・特徴)。
(日本人のルーツ)。
《日本常住民の日本人》。
THE JOMONKEI-YAYOITORAIKEI
MIXED RACIAL PEOPLE.
● 日本の、縄文・弥生渡来・混血系の人々
は、 古モンゴロイド(= 南方モンゴロイド)の、
縄文人とその子孫の、縄文系の人々 と、
新モンゴロイド(= 北方モンゴロイド)の、渡
来系弥生人とその子孫の、弥生渡来系の人
々が混血して形成された人類 である。
● 日本の、縄文・弥生渡来・混血系の人々
は、 弥生時代では「縄文・弥生渡来・混血
系弥生人」であり、 古代日本では「縄文・
弥生渡来・混血系古代日本人」であり、 中
世日本から現代日本までの時期では「本土
日本人、琉球人」である。
● 縄文・弥生渡来・混血系の人々(日本
常住民)への進化表。
ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類)
● 現代日本人(日本常住民)への進化表。
ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類)
● モンゴロイドへの進化表。
ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類)
(= 南方モンゴロイド)⇒ モンゴロイドの
(⇒ 古モンゴロイド)。
(⇒ 原日本人)。
(⇒ 日本人)。
(⇒ 日本人ルーツ・ガイドブック)。
〇 じょ 縄文・弥生渡来・混血系
弥生人。
(じょうもん・やよいとらい・こんけつけい
やよいじん)。
(= 弥生時代に、日本地域に居住してい
た、 古・新モンゴロイド混血の縄文・弥生
渡来・混血系の弥生人の人類)。
(人類学上の分類・特徴)。
(日本人のルーツ)。
《日本常住民の日本人》。
THE JOMONKEI-YAYOITORAIKEI
MIXED RACIAL YAYOI PEOPLE.
● 縄文・弥生渡来・混血系弥生人は、
日本の弥生時代の時期に、 日本地域に
居住していた、 古・新モンゴロイド混血の
縄文・弥生渡来・混血系の人々 である。
(⇒ 縄文・弥生渡来・混
血系)。
(⇒ 弥生人)。
(⇒ 古モンゴロイド)。
(⇒ 原日本人)。
(⇒ 日本人)。
(⇒ 日本人ルーツ・ガイドブック)。
〇 じょ 縄文・弥生渡来・混血系
古代日本人。
(じょうもん・やよいとらい・こんけつけい
こだいにほんじん)。
(= 古代日本の時期に、日本地域に居住
していた、 古・新モンゴロイド混血の縄
文・弥生渡来・混血系の日本人の人類)。
(人類学上の分類・特徴)。
(日本人のルーツ)。
《日本常住民の日本人》。
THE JOMONKEI-YAYOITORAIKEI
MIXED RACIAL ANCIENT
JAPANESE PEOPLE.
(= 古代日本の時期に、日本地域に居住
していた、 古・新モンゴロイド混血の縄
文・弥生渡来・混血系の日本人の人類)。
● 縄文・弥生渡来・混血系古代日本人
は、 古代日本の時期に、日本地域に居
住していた、 古・新モンゴロイド混血の
縄文・弥生渡来・混血系のの人々である。
(⇒ 縄文・弥生渡来・混
血系)。
(⇒ 古代日本人)。
(⇒ 古モンゴロイド)。
(⇒ 原日本人)。
(⇒ 日本人)。
(⇒ 日本人ルーツ・ガイドブック)。
〇 じょ 縄文文化。
(じょうもんぶんか)。 《日本の文化》。
THE JOMON CULTURE.
○ 約1万2000年前〜約2400
年前(紀元前4世紀頃)。
(⇒ 日本の文化)。
〇 じょ 条約改正。
(じょうやくかいせい)。 《条約》。
○ 条約改正とは、明治時代
の条約改正問題である。
○ 条約改正とは、幕末、日
本が欧米と締結した不平等
条約の改正(治外法権の撤廃、
関税自主権の回復など)である。
■ 「条約改正」 (じょうやくかいせ
い)とは、 幕末、日本が欧米と締結
した不平等条約の改正 (治外法権
の撤廃、関税自主権の回復など)で
あり、明治時代の条約改正問題であ
る。
● 不平等条約の改正とは、 幕末
に日本の江戸幕府が欧米諸国と調
印した「和親条約」、「修好通商条約
(安政の五カ国条約)」、「改税約書」
の不平等条約に対し行われた、日本
近代政府の明治時代の改正行為で
ある。
和親条約の「一方的最恵国待
遇」(いぽうてきさいけいこくたいぐう)
の条款が、不平等条約改正を困難
にした。
■ 明治時代末までに、日本が幕末
に欧米諸国と調印した不平等条約は、
ほぼ改正された。
○ しょ 正暦。
(しょうりゃく)。 《和暦》。
THE SHORYAKU ERA.
○ 990年ー995年。
● 990年・正暦元年・11月 7日〜
995年・正暦 6年・ 2月22日。
● 平安時代中期の和暦年号。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
〇 じょ 承暦。
(じょうりゃく)。 《和暦》。
THE JORYAKU ERA.
○ 1077年ー1081年。
● 1077年・承暦元年・11月17日〜
1081年・承暦 5年・ 2月10日。
● 平安時代中期の和暦年号。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
○ しょ 秤量貨幣。
(しょうりょうかへい)。
《日本流通貨幣》。
(⇒ 江戸時代の日本流通
貨幣)。
(⇒ 日本流通貨幣)。
■ 「秤量貨幣」(しょうりょうかへい)とは、
貴金属の品位を一定に定め取引きの都度
重量をはかって使用した貨幣であり、 貴
金属貨幣の重量を量(はか)って使用され
たお金 である。
● 「江戸時代の秤量通常貨幣 」とは、江
戸時代に、日本で、 銀貨などの貴金属貨
幣の重量を量(はか)って使用された通常
貨幣(お金) である。
● 「江戸時代の秤量通常貨幣」は、 江
戸幕府鋳造・発行・全国通用・流通貨幣の、
丁銀(ちょうぎん)、 豆板銀(まめいたぎ
ん)、 五匁銀(ごもんめぎん) などである。
○ しょ 少林寺。
(しょうりんじ)。 《寺院》。
(⇒ 金剛禅少林寺)。
(⇒ 崇山少林寺)。
■ 少林寺とは、金剛禅
(こんごうぜん)少林寺(日本)、
崇山(すうざん)少林寺(中
国)などの仏教寺院であ
る。
■ 金剛禅少林寺(日本)
は、 日本・四国の香川
県多度津町の少林寺で
ある。
■ 金剛禅少林寺(日本)
は、 日本人・宗道臣(そう
どうしん)が、 戦後、北禅の
禅宗を開いた寺院 である。
■ 金剛禅少林寺(日本)
は、 宗門の行(しゅうもんの
ぎょう)の 「少林寺拳法」の
中心地である。
○ しょ 少林寺拳法。
(しょうりんじけんぽう) 。
《易筋行、宗門の行》。
○ 少林寺拳法とは、
北禅の禅宗寺院の
「金剛禅少林寺(日本)」
で、座禅行と並び、
「宗門の行」(しゅうもんのぎょ
う)として行われている
拳法(易筋行(えききん
ぎょう )、拳術と柔術)。
○ 少林寺拳法は、
崇山少林寺(中国)の「宗
門の行」の「少林拳」とは
全く別の技法体系をもつ。
○ しょ 生類憐みの令。
(しょうるいあわれみのれい)。 《法令》。
(⇒ 徳川綱吉)。
○ 江戸幕府・第5代将軍・徳川
綱吉が出した、人間・動物の生命
尊重関係の多数の法令(お触れ)
の総称。
■ 「生類憐れの令」 (しょうるいあわれみ
のれい)とは、 江戸幕府・第5代将軍・徳川
綱吉が出した、人間・動物の生命尊重関係
の多数の法令(お触れ)の総称である。
● 「生類憐れの令」(しょうるいあわれみの
れい)とは、 江戸幕府・第5代将軍徳川綱吉
が1685年から20年以上にかけて、約135
回に分けて発令した御触書(おふれがき)の
総称である。
○ しょ 正六位。
(しょうろくい)。 《位階》。
○ しょ 正六位下。
(しょうろくいのげ)。 《位階》。
〇 しょ 正六位上。
(しょうろくいのじょう)。 《位階》。
○ しょ 正和。
(しょうわ)。 《和暦》。
○ 1312年ー1317年。
● 1312年・正和元年・3月20日〜
1317年・正和 6年・2月 3日。
● 鎌倉時代後期の和暦年号。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
〇 じょ 貞和。
(じょうわ、ていわ)。 《和暦》。
○ 1345 年ー1350年 。
(⇒ 南北朝競合二重年号)。
(⇒ 和暦の二重年号存立)。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
■ 南北朝競合二重年号。
● 北朝 (持明院統)方の暦年号。
1345年・貞和元年・10月21日〜
1350年・貞和 6年・ 2月27日。
● 室町時代前期の和暦年号。
● (注意) 同時期に、南朝 (大覚寺統、
後醍醐天皇系統)方の暦年号の、興国
(こうこく)元年〜7年(1340〜1346年)
⇒ 正平(しょうへい)元年〜25年(134
6〜1370年) も存立する。
〇 じょ 承和。
(じょうわ)。 《和暦》。
THE JOWA ERA.
○ 834年ー848年。
● 834年・承和 元年・1月 3日〜
848年・承和15年・6月13日。
● 平安時代前期の和暦年号。
(⇒ 西暦和暦対照表・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
○ しょ 昭和。
(しょうわ)。 《和暦》。
THE SHOWA ERA.
○ 1926年ー1989年。
● 1926年・昭和 元年・12月25日〜
1989年・昭和64年・ 1月 7日。
● 昭和時代の和暦年号。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
■ 昭和 (しょうわ、英: THE
SHOWA ERA) とは、和暦であり、
昭和時代の和暦年号であり、
1926年・昭和元年・12月25日から
1989年・昭和64年・1月 7日まで
である。
■ 〈昭和年号の、和暦→西暦/
西暦→和暦の速算法〉。
○ 昭和 A年+1925年=西暦 B年。
○ 西暦 B年ー1925年=昭和 A年。
■ 「昭和」の前後の和暦年号(元号):
● 大正 (たいしょう):
1912年−1926年。
1912年・大正 元年・ 7月30日〜
1926年・大正15年・12月25日。
● 平成 (へいせい):
1989年−1912年。
1989年・平成 元年・ 1月 8日〜
2019年・平成31年・ 4月30日。
■ 近現代日本の和暦年号(元号):
慶応元年〜 4年
(1865年〜1868年)⇒
明治元年〜45年
(1868年〜1912年)⇒
大正元年〜15年
(1912年〜1926年)⇒
昭和元年〜64年
(1926年〜1989年)⇒
平成元年〜31年
(1989年〜 2019年)⇒
令和元年〜 現在
(2019年〜現在)。
〇 しょ 昭和時代。
(しょうわじだい)。
(= 1926年ー1989年)。
(昭和・戦前時代 と、
昭和・戦後時代)。
《日本歴史の時代区分》。
THE SHOWA PERIOD.
<近代日本、現代日本。
(⇒ 昭和・戦前時代)。
(⇒ 昭和・戦後時代)。
(⇒ 現代日本)。
(⇒ 日本歴史の時代区分)。
■ 昭和時代 (しょうわじだい) とは、
1926年(昭和元年)から1989年
(昭和64年)までの期間である。
■ 昭和時代は、 近代日本(= 明
治時代、大正時代、昭和・戦前時代;
1868年ー1945年) や、 現代
日本(= 昭和・戦後時代、平成時代、
令和時代;1945年ー現在) の
一時期である。
■ 昭和時代 (しょうわじだい)は、
1926年(昭和元年)から1989年
(昭和64年)までの期間であり、
昭和・ 戦前時代(1926年−1945
年) と、 昭和・戦後時代(1945年
−1989年) に分かれる。
〇 しょ 昭和・戦後時代。
(しょうわ・せんごじだい)。
(= 1945年ー1989年)。
《日本歴史の時代区分》。
THE POSTWAR
<昭和時代、現代日本。
(⇒ 昭和時代)。
(⇒ 現代日本)。
(⇒ 昭和・戦前時代)。
(⇒ 日本歴史の時代区分)。
■ 昭和・戦後時代 (しょうわ・せん
ごじだい)とは、 1945年(昭和20
年)から1989年(昭和64年)までの
期間である。
■ 昭和・戦後時代は、 現代日本
(= 昭和・戦後時代、平成時代、令和
時代;1945年ー現在) の一時期で
ある。
■ 昭和時代 (しょうわじだい)は、
19 26年(昭和元年)から1989年
(昭和64年)までの期間であり、
昭和・戦前時代(1926年−1945
年) と、 昭和・戦後時代(1945年
−1989年) に分かれる。
〇 しょ 昭和戦前期の旧日本軍
(しょうわせんぜんきのきゅうにほんぐん
じったいがいどぶっく)。
《近代日本ガイドブック》。
〇 しょ 昭和・戦前時代。
(しょうわ・せんぜんじだい)。
(= 1926年ー1945年)。
《日本歴史の時代区分》。
THE PREWAR
<昭和時代、近代日本。
(⇒ 昭和時代)。
(⇒ 近代日本) 。
(⇒ 昭和・戦後時代)。
(⇒ 日本歴史の時代区分)。
■ 昭和・戦前時代 (しょうわ・せん
ぜんじだい)とは、 1926年(昭和元
年)から1945年(昭和20年)までの
期間である。
■ 昭和・戦前時代は、 近代日本
(= 明治時代、大正時代、昭和・戦前
時代;1868年ー1945年) の一時
期である。
■ 昭和時代 (しょうわじだい)は、
19 26年(昭和元年)から1989年
(昭和64年)までの期間であり、
昭和・ 戦前時代(1926年−1945
年) と、 昭和・戦後時代(1945年
−1989年) に分かれる。
〇 しょ 昭和天皇。
(しょうわてんのう)。 《天皇》。
(= 裕仁天皇 ひろひとてんのう)。
(⇒ 裕仁天皇)。
○ 昭和天皇(= 裕仁天皇)
の天皇在位:
1926 年〜1989年。
■ 昭和天皇(しょうわてんのう、
天皇在位:1926 年〜1989年)とは、
裕仁天皇(ひろひとてんのう) である。
〇 じょ 女王。
(じょおう)。 《天皇家》。
○ 皇族の女子。
○ (例) 班子女王 (はんしじょお
う、 桓武天皇の孫娘)。
(⇒ 天皇家)。
(⇒ 皇族、王、女王、皇子、
親王、内親王)。
■ 女王(じょおう)とは、皇族の女子である。
■ 前近代日本の、内親王と女王。
前近代日本(奈良〜江戸時代)の、内
親王(ないしんのう)は、内親王宣下を受け
た皇族であり、主に、天皇の女性皇子や姉
妹である。
一方、前近代日本 (飛鳥〜江戸時代)の、
女王(じょおう)とは、 女性皇族である。
● 前近代日本の(奈良〜江戸時代)の、
内親王と女王。
前近代日本の奈良時代から江戸時代
までは、大宝令の律令制以後は、内親王
宣下(ないしんのうせんげ)を受けた皇族
女子 (主に天皇の女性皇子(みこ、皇女)
や姉妹)を、内親王(ない しんのう)と呼び、
それ以外の皇族の女子(内親王宣下がな
い皇族女子)を女王 (じょおう)と呼ぶ場合
がある。
〈女王(じょおう)の例〉 天皇の孫
(まご)、曾孫(ひまご)の女子。
〇 しょ 職員令の位階。
(しょくいんれいのいかい)。 《位階》。
■ 職員令 (しょくいんれい)とは、 近代
日本政府の、位階などを定めた法令である。
■ 近代日本の、職員令(1869年
制定)の20位階。
● <1869年頃〜1887年頃、使用>。
● 1869年制定の職員令から1887年
制定の叙位条例への変更まで。
■ 近代日本の、職員令(1869年制定)の
20位階は、
■ 職員令の位階(しょくいんれいの いか
い)は、 近代日本の位階であり、 20位階
であり、 1869年頃から1887年頃まで使
用された。
■ 近代日本の職員令の 20位階は、 前近
代日本の、朝廷(律令官制)の位階(701年
頃〜1869年頃使用、30位階)を改めて、
1869年に制定され、 1869年制定の職員
令から1887年制定の叙位条例 への変更ま
で使用された。
〇 しょ 織豊時代。
(しょくほうじだい)。
(= 安土桃山時代)。
《日本歴史の時代区分》。
(⇒ 安土桃山時代)。
〇 しょ 織豊政権。
(しょくほうせいけん)。
《日本歴史の政権・政府》。
(= 織田(氏)政権と豊臣(氏)政権)。
〇 しょ 所司。
(しょし)。 《武士政権の職名》。
□ 室町幕府の侍所の長官。
○ 室町幕府の軍事・警察 や 京(都)の警
備・裁判 を担う 政治機関である、侍所(さ
むらいどころ)の長官。
□ 鎌倉幕府の侍所の次官。
○ 鎌倉幕府の、御家人(将軍家臣)の統制
や 軍事・警察 を担う政治機関である、侍
所(さむらいどころ)の次官。
〇 じょ 女性の氏名。
(じょせいのしめい)。
《前近代日本の氏名》。
(⇒ 前近代日本の
人名)。
(⇒ 前近代日本の女性
氏名)。
(⇒ 家父長制の夫婦別姓)。
■ 前近代日本の女性は、慣習
で、通常、個人名でのみ自他呼
称する。
● 前近代日本では(江戸時代
以前では)、
女性は、通常(日常生活では)、
名字を使わず、名のみで自他
呼称する。
(例) 斎藤美菜という女性は、
「私は、美菜です。」
他人からは、「お美菜」と呼ば
れる。
■ 前近代日本(江戸時代以前)
の家父長制の夫婦別姓。
● 前近代日本の家父長制の時
期の女性は、 夫婦別姓であり
(結婚しても名字を変えず)、
女性の父の一族名(氏・名字)を
生涯所持した。
● 1872年(明治5年)1月の
戸籍法(壬申戸籍)施行時、
厳格な封建社会の家父長制が残
る当時、結婚により、他家の女性
に、名誉ある、家名(一族名)を与
えることには、明治時代初期の
日本社会では、非常に反対が強
かったが、 日本近代化政策 (文
明開化)のため、近代夫婦同姓が、
次第に認められるようになってい
った。
〇 じょ 女性天皇。
(じょせいてんのう)。 《天皇》。
(= 女帝)。
○ 女性天皇(= 女帝)は、
8人10代である。
□ 日本の女性天皇
◆ 女性天皇 (8人10代)。
(⇒ 推古(すいこ)天皇)。
(さいめい))天皇)。
(⇒ 持統(じとう)天皇)。
(⇒ 元明(げんめい)天皇)。
(⇒ 元正(げんしょう)天皇)。
(しょうとく))天皇)。
(⇒ 明正(めいしょう)天皇)。
(⇒ 後桜町(ごさくらまち)天皇)。
■ 日本では、優秀な女性天皇
(= 女帝)が多い。
■ 日本では、飛鳥白鳳時代、
奈良時代、江戸時代に天皇に
即位した、8人10代の女性天皇
(= 女帝)がいる。
● 重祚(ちょうそ、再即位)した
女性天皇(= 女帝)が2人いる
ので、10代である。
● 父系女性天皇は、7人であり、
飛鳥白鳳時代の推古天皇、
皇極(斉明)天皇、持統天皇、
奈良時代の元明天皇、孝謙
(称徳)天皇、
江戸時代の明正天皇、
後桜町天皇である。
● 母系女性天皇は、1人であり、
奈良時代の元正天皇である。
■ 日本の女性天皇は、
次の8人10代 である。
● 古代日本の飛鳥白鳳時代、
奈良時代の女性天皇(= 女帝)。
(1) 推古(すいこ)天皇
(在位:592年〜628年)、
(2) 皇極(斉明)(こうぎょく(さい
めい))天皇
(在位:642年〜645年、
655年〜666年)、
(3) 持統(じとう)天皇
(在位:690〜697年)、
(4) 元明(げんめい)天皇
(在位:707〜715年)、
(5) 元正(げんしょう)天皇
(在位:715〜724年)、
(6) 孝謙(称徳)(こうけん
(しょうとく))天皇
(在位:749年〜758年、
764年〜770年)、
● 近世日本の江戸時代
の女性天皇(= 女帝)。
(7) 明正(めいしょう)天皇
(在位:1629年〜1643年)、
(8) 後桜町(ごさくらまち)天皇
(在位:1762年〜1770年)。
〇 しょ 諸隊。
(しょたい)。 《長州藩》。
○ 諸隊とは、 幕末の、長州藩の民兵
諸部隊である。
諸隊は、 長州藩の正規軍ではない、
農工商と武士との混成民兵諸部隊であっ
た。 高杉晋作創設の奇兵隊も、諸隊の
1つであった。
〇 じょ 女帝。
(じょてい)。 《天皇》。
(= 女性天皇)。
(⇒ 女性天皇)。
○ 女帝(= 女性天皇)は、
8人10代である。
◆ 女性天皇 (8人10代)。
(⇒ 女性天皇)。
(⇒ 推古(すいこ)天皇)。
(さいめい))天皇)。
(⇒ 持統(じとう)天皇)。
(⇒ 元明(げんめい)天皇)。
(⇒ 元正(げんしょう)天皇)。
(しょうとく))天皇)。
(⇒ 明正(めいしょう)天皇)。
(⇒ 後桜町(ごさくらまち)
天皇)。
■ 日本では、優秀な女性天皇
(= 女帝)が多い。
■ 日本では、飛鳥白鳳時代、
奈良時代、江戸時代に天皇に
即位した、8人10代の女性天皇
(= 女帝)がいる。
● 重祚(ちょうそ、再即位)した
女性天皇(= 女帝)が2人いる
ので、10代である。
● 父系女性天皇は、7人であり、
飛鳥白鳳時代の推古天皇、
皇極(斉明)天皇、持統天皇、
奈良時代の元明天皇、孝謙
(称徳)天皇、
江戸時代の明正天皇、
後桜町天皇である。
● 母系女性天皇は、1人であり、
奈良時代の元正天皇である。
〇 しょ 勝幡城。
(しょばたじょう)。 《城》。
■ 勝幡城(しょばたじょう)は、織田信
長が生まれた城である。
■ 勝幡城(しょばたじょう)は、尾張国
(おわりのくに、愛知県西部の相当地域)
の海東郡と中島郡 (現・愛知県愛西市
勝幡町と稲沢市平和町)に位置する。
〇 じょ 女郎。
(じょろう、じょろ)。 《遊女》。
(= 遊女)。
〇 じょ ジョン万次郎。
(じょんまんじろう)。 《人名》。
(= 中浜万次郎)。
(1827〜1898年)。
〇 しら 白河法王。
(しらかわほうおう)。 《人名》。
(= 白河院、
白河上皇、
白河天皇(白河帝)、
貞仁(さだひと)親王) 。
(平安時代後期の法王、
上皇、天皇)。
(生没年:
1053年〜1129年)。
● 院政政治期:
1086年〜1129年。
○ 法皇 :
1096年〜1129年。
○ 上皇 :
1086年〜1129年。
○ 天皇在位:
1072年〜1086年。
○ 白河法王(上皇、天皇)
(貞仁(さだひと)親王 )は、
後三条(ごさんじょう)天皇の
皇子(みこ)である。
○ 白河法王(上皇、天皇)
は、堀河天皇の父である。
○ 白河法王(上皇、天皇)
は、鳥羽天皇の祖父である。
○ 白河法王(上皇、天皇)
は、崇徳・近衛・後白河天
皇の曽祖父である。
〇 しら 白洲 次郎。
(しらす じろう)。 《人名》。
(近現代の政治家)。
(1902〜1985年)。
○ 近衛 文麿のブレーン。
○ 吉田 茂の側近。
○ 日本政府の対GHQ交渉役。
〇 しら 白拍子。
(しらびょうし)。 《遊女》。
○ 平安時代〜室町時代の、
舞い歌う遊女。
〇 しり 治暦。
(じりゃく)。 《和暦》。
THE JIRYAKU ERA.
○ 1065年ー1069年。
● 1065年・治暦元年・8月 2日〜
1069年・治暦 5年・4月13日。
● 平安時代後期の和暦年号。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
〇 しり 史料
(しりょう)。 《歴史学》。
■ 史料 (しりょう)とは、 歴史の
資料、データである。
〇 しろ 城。
(しろ)。 《日本の城》。
(領主の軍事・統治(支
配)・居住拠点)。
○ 城は、
戦いの砦(とりで)であり、
封建領主の軍事拠点、
統治(支配)拠点、居住
拠点である。
○ 城には、
山城(やまじろ)と平城(ひら
じろ)がある。
○ 城には、
本城(ほんじょう)と支城(しじ
ょう、出城)がある。
○ 戦場では、陣城(じんじ
ろ)が造られることがある。
(⇒ 小谷城、北庄城)。
(⇒ 姫路城)。
■ 前近代日本の城 (しろ)は、
敵と戦うため、敵から守るための
建築物である。
■ 城 (しろ)とは、
戦いの砦(とりで)であり、封建領
主の軍事拠点、統治(支配)拠点、
居住拠点 である。
● 江戸幕府の一国一城令が出さ
れる前の、室町時代後期(=戦国
時代)、安土桃山時代、江戸時代
初期に堅固(けんご)な城が多くつ
くられ、その建物が現在多く残って
いる。
■ 城には、
山城(やまじろ、山に建てた城)
と 平城(ひらじろ、平地に建て
た城)がある。
■ 城には、
本城 (ほんじょう、本拠地の城)
と、 支城(しじょう、= 出城(でじ
ろ)) がある。
● 本城 (ほんじょう)とは、
領主が本拠地としている城であ
り、 支城 (しじょう、= 出城(で
じろ))とは、 本城を守るように
配置された補助的役割をもつ城
である。
■ 政務居城 (せいむきょじょ
う)とは、
本城の他に、政務を行うため
に領主が居住した城である。
■ 城には、
(a) 本城 (ほんじょう、本拠地
の城)、
(b) 支城 (しじょう、本城を防
衛するための城)、
(c) 政務居城 (せいむきょじょ
う、政務を行うための城)、
などがある。
〇 じろ 次郎法師。
(じろうほうし)。 《人名》。
(= 井伊直虎、祐円)。
Jirohoshi.
(⇒ 井伊直虎)。
○ 井伊直虎の出家名。
■ 次郎法師 (じろうほうし)は、
(井伊直虎 いい なおとら、祐円、
井伊氏暫定当主:1565年ー
1582年、生没年:生年不詳ー
1582年、遠江国・井伊谷 (い
いのや)の女領主) の出家名で
ある。
〇 しろ 城山。
(しろやま)。 《山地名》。
Mt.Shiroyama.
(⇒ 玉城(たまじょう))。
(⇒ 陣城(じ んじろ))。
■ 城山 (しろやま)は、
岐阜県関ケ原町の山中地区・
玉地区にある山である。
城山は、 美濃国(みののく
に)の山中村 (やまなかむら、
岐阜県関ヶ原町山中地区)の
付近にある低山である。
■ 城山 (しろやま)は、
「史実(新説)の関ヶ原の戦い」
で、西軍 (奉行衆・毛利方)が、
築いた既成準備陣地である
玉城(たまじょう)が置かれた
場所である。
■ 玉城 (たまじょう)は、
史実(新説)関ケ原の戦い(大垣・
山中の戦い)の決戦の山中の戦
いでは、
西軍(奉行衆・毛利方)は、
玉城を使用したが、玉城から
西軍が出撃して戦ったか、
または、玉城を使用しなかった
か、どちらかの可能性が高い。
■ 西軍は玉城で籠城せず。
● 山中村付近には、 関ヶ原
の戦い時、城山(しろやま)に
西軍(奉行衆・毛利方)が築い
た既成準備陣地の、陣城(じん
じろ、陣地の城)の玉城(たまじ
ょう)があった。
しかし、玉城には、十分な
兵糧(ひょうりょう)と水(井戸、
湧き水)がなく、 西軍(奉行
衆・毛利方)の約2万人の兵が
籠城するには、不十分であり、
1600年(慶長5年)9月15日
午前10時頃〜正午頃の山中
村での関ヶ原の戦いの決戦時
には、西軍(奉行衆・毛利方)は、
玉城を使用しなかったか、
または、玉城を使用したが、
織田秀信の岐阜城出撃のように、
玉城から西軍が出撃して戦った
可能性が高い。
■ 「史実(新説)関ヶ原の戦
い(= 大垣・山中の戦い)」の
決戦での 、西軍(奉行衆・毛
利方)の主力軍の動き。
● 西軍(奉行衆・毛利方)
の主力軍 (小西、石田、
宇喜多、島津等の軍) は、
@ 西軍(奉行衆・毛利方)
の主力軍は、
1600年(慶長5年)9月
14日夜に、
大垣エリアの大垣城
(おおがきじょう、関ヶ原
盆地の東方)を出発
(1600年(慶長5年)
9月14日夜)⇒
○ 西軍(奉行衆・毛利方)は、
9月14日夜に、大垣城で、
協議して、西軍(奉行衆・毛利
方)を、主力軍と大垣城守備
残留軍の2つに分ける。
○ 西軍(奉行衆・毛利方)の
主力軍は、山中村 (やまなか
むら、関ヶ原盆地の西方・約2
km) に向かう。
○ 西軍(奉行衆・毛利方)の
大垣城守備残留軍は、大垣城
に残留し、大垣城を守備する。
A 西軍(奉行衆・毛利方)の
主力軍は、9月15日未明に、
山中村 (やまなかむら、
関ヶ原盆地の西方・約2km)
に布陣する。
〇 西軍(奉行衆・毛利方)の
主力軍は、
山中村付近の城山にある
既存準備陣地の玉城(たまじ
ょう)を、出撃陣地として使用
した可能性がある。
(9月15日未明)⇒
B 西軍(奉行衆・毛利方)の
主力軍は、9月15日午前10
時頃から正午頃まで、山中村
で、東軍(徳川方)の主力軍と
交戦(決戦を行う)
(9月15日午前10時頃〜
正午頃)⇒
C 9月15日正午頃、山中村
で、西軍(奉行衆・ 毛利方)の
主力軍は、総崩れ、敗走、敗
戦となり、東軍(徳川方)の
主力軍がに西軍(奉行衆・ 毛
利方)の主力軍に対し決戦で
勝利を得る
(9月15日正午頃)。
〇 しん 信越地方。
(しんえつちほう)。 《現地域名》。
(= 長野県と新潟県)。
(= 長野県(信濃国) 、新潟県
(越後国 、佐渡国)の地域)。
■ 信越地方 (しんえつちほう )とは、 長野
県(信濃国) 、新潟県(越後国、佐渡国)の地
域である。
● 上信越地方 ( じょうしんえつちほう)と
は、 群馬県(上野国) 、長野県(信濃国)、
新潟県(越後国、佐渡国)の地域 である。
● 甲信越地方 (こうしんえつちほう )とは、
山梨県(甲斐国) 、長野県(信濃国)、新潟
県(越後国、佐渡国)の地域 である。
● 北陸地方 (ほくりくちほう )とは、 新潟
県・富山県・石川県・福井県の北陸4県、ま
たは、富山県・石川県・福井県の北陸3県
(北陸道・ 旧広域地方) である。
● 北信越地方(ほくしんえつちほ う)とは、
北陸信越地方 (ほくりくしんえつちほう)で
あり、 富山県・石川県・福井県の北陸3県
(北陸道・ 旧広域地方の一部)、長野県(信
濃国)、新潟県(越後国 、佐渡国)を合わせた
地域である。
〇 しん 新右衛門。
(しんえもん)。 《人名》。
(⇒ 塚原卜伝)。
○ 新右衛門は、剣豪の塚原卜
伝(つかはらぼくでん)の通称(字(あ
ざな)、あだ名)の1つ である。
〇 しん 殿。
(しんがり)。 《軍隊》。
(= 一番後ろ、最後)。
(⇒ 金ヶ崎の退き口)。
明智光秀)。
■ 殿(しんがり) とは、軍隊を引き上げる
際(軍隊が退くとき)、軍隊の最後尾にあ
って、追ってくる敵を防ぐことである。
● 殿(しんがり)軍は、退却する本隊を、
背後から来る敵から守る役目(役割)の
部隊である。
■ 金ヶアの退口。
殿(しんがり)の例として、金ヶ崎の
退き口(かねがさきのきぐち)の際、池田
勝正(いけだかつまさ)、木下藤吉郎秀
吉(豊臣秀吉)、明智光秀などの部隊が、
殿(しんがり)を務(つと)める。
戦国時代(室町時代後期)の15
70年(元亀元年)4月に、越前国・敦賀
(えちぜんのくに・つるが、福井県東部
の敦賀市)の金ヶ崎(かねがさき)で、
織田信長軍が、朝倉軍と浅井軍に挟
(はさ)まれて攻撃され、窮地に立った
時、織田信長軍の、池田勝正(いけだ
かつまさ)指揮下、木下藤吉郎秀吉
吉(豊臣秀)、明智光秀などの部隊が、
殿(しんがり)を務(つと)め、織田信長
や織田本隊を守り、無事に逃が す功を
あげた。
〇 じん 神亀。
(じんき)。 《和暦》。
THE JINKI ERA.
○ 724年ー729年。
● 724年・神亀元年・2月4日〜
729年・神亀 6年・8月5日。
● 奈良時代前期の和暦年号。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
〇 しん 新京。
(しんきょう)。 《都市》。
(= 長春(ちょうしゅん、チャンチュン))。
(満州(中国東北部)の都市)。
○ 長春(ちょうしゅん、チャンチュン)
の別名(旧名、1932〜45年)。
● 新京( しんきょう)は、 長春(ちょうし
ゅん、チャンチュン)の別名(旧名、1932
〜45年) である。
● 新京( しんきょう、長春)は、満州(= 中
国東北部)の吉林(きつりん、チーリン)省
の都市 である。
● 新京( しんきょう、長春)は、 日本の傀
儡(かいらい)国家・満州国(まんしゅうこく、
1932〜45年)の首府(首都)であった。
〇 しん 新宮十郎。
(しんぐうじゅうろう)。 《人名》。
(= 源 行家(みなもとの ゆきいえ))。
(河内源氏)。
(⇒ 源 行家)。
〇 しん 神君。
(しんくん)。 《人名》。
(= 徳川家康)。
(⇒ 徳川家康)。
〇 しん 神君伊賀越え。
(しんくんいが ごえ)。 《徳川家康》。
(= 伊賀越え、徳川家康
の伊賀越え)。
(⇒ 伊賀越え)。
〇 しん 信玄。
(しんげん)。 《人名》。
(= 武田信玄)。
(⇒ 武田信玄)。
〇 じん 塵劫記。
(じんこうき)。 《史料》。
(⇒ 和算)。
■ 塵劫記 (じんこうき)は、 江戸
時代に数学ブームの火付け役とな
った、算術書・実用数学書である。
〇 じん 神護景雲。
(じんごけいうん)。 《和暦》。
THE JINGOKEIUN ERA.
○ 767〜770年。
● 767年・神護景雲元年・
8月16日〜
770年・神護景雲 4年・
10月 1日。
● 奈良時代後期の和暦年号。
(⇒ 西暦和暦対照表 ・
日本語版)。
(⇒ 和暦年号表・日本語版)。
(⇒ 和暦ガイドブック)。
〇 しん 新古今和歌集。
(しんこきんわかしゅう)。 《和歌集》。
(⇒ 勅撰和歌集)。
〇 しん 信州。
(しんしゅう)。 《旧地域名》。
(= 信濃 国(しなの のくに))。
(≒ 現・長野県の相当地域)。
(律令制定後・古代・中世・近世
日本・旧地域名の、
旧国名(令制国)の別称)。
SHINSHU AREA.
(⇒ 信濃 国)。
(⇒ 長野県)。
(⇒ 前近代日本の地域名)。
(⇒ 日本の地名)。
■ 信州 (しんしゅう)は、 律令制定
後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、
旧国(令制国)正式名の、信濃 国 (し
なののくに) の別称である。
■ 信州(= 信濃 国)は、 東山道(とう
さんどう)・広域地方に属し、現・中部地
方の、現在の長野県に相当する 地域で
ある。
〇 じん 陣城。
(じんじろ)。 《合戦》。
(⇒ 玉城(たまじょう))。
(⇒ 山中の戦い)。
(⇒ 新説(史実)関ケ原の
戦 い(= 大垣・山中の戦
い))。
■ 陣城 (じんじろ)は、
室町時代後期(戦国時代)や安土
桃山時代に、戦地に臨時に構築
された城である。
■ 陣城では、
切岸(きりぎし)、竪掘(たてぼり)、
土塁(どるい)などの地面の改造
が行われ、 軍指揮者棟、会合
棟、兵士居住の陣小屋(じんごや)
などのプレハブの建物が建造され
る。
■ 陣城の例として は、
史実(新説)関ヶ原の戦い(= 大垣・
山中の戦い)時に築かれた、西軍
(奉行衆・毛利方)の玉城(たまじ
ょう)などがある。
〇 じん 壬申戸籍。
(じんしんこせき)。 《戸籍》。
(1871年−1898年実施)。
○ 壬申戸籍は、
近代日本の最初の全国的
な戸籍法である。
■ 壬申戸籍 (じんしんこせき、18
71年−1898年実施) は、 近代
日本の最初の全国的な戸籍法であ
る。
■ 壬申戸籍とは、 近代日本政府
(明治新政府)により、 1871年(明
治4年)に公布され、1872年(明治
5年)に実施された戸籍法である。
壬申戸籍は、 全国的に、国民
一人一人を画一的に把握する画期
的な戸籍法であった。
■ 壬申戸籍は、 1886年に全面
的に改正され、 1898年に民法施
行に伴う新戸籍法により廃止される。
〇 じん 壬申の乱。
(じんしんのらん)。 《戦い》。
(皇位継承の戦い)。
○ 壬申の乱は、
672年の皇位継承をめぐる
戦いである。
■ 壬申の乱 (じんしんのらん)とは、
西暦672年の、天智天皇の弟と天智
天皇の男子との、皇位継承をめぐる戦
いである。
〇 しん 信西。
(しんぜい)。 《人名》。
(= 藤原 通憲 (ふじわらの みちのり)、
高階 道憲 (たかしなの みちのり))。
□ 後白河上皇の院近臣(いんのき
んしん、上皇の重臣)。
□ 平治の乱(へい じのらん)で戦死。
○ 平清盛を従えて、平治の乱(へ
いじのらん)を戦う。乱の中で、死去。
○ 三条公教(さんじょうきんのり)と共
に、平治の乱(へいじのらん)で戦う
が、 戦争中追い詰められ自害。
■ 信西 (しんぜい、藤原 通憲 (ふじわら
のみちのり)、高階 道憲 (たかしなの みち
のり)) は、 後白河上皇の院近臣(いんの
きんしん、上皇の重臣)であった。
● 信西は、 平治の乱(へい じのらん)で
戦死する。
信西は、 平清盛を従えて、平治の乱(へ
いじのらん)を戦うが、乱の中で、死去する。
信西は、三条公教(さんじょうきんのり)
と共に、平治の乱(へいじのらん)で戦う が、
戦争中追い詰められて自害する。
〇 しん 臣籍降下。
(しんせきこうか)。 《天皇家》。
〇 しん 新説関ヶ原の戦い。
(しんせつせきがはらのたたかい)。
《戦い》。
(= 大垣・山中の戦い
(おおがき・やまなかのたたかい))。
THE NEW THEORY OF
SEKIGAHARA WAR.
○ 「新説(史実)関ヶ原の
戦い(= 大垣・山中の戦い)」
では、 関ヶ原の戦いは、
広義では、1600年(慶長5
年)8月26日頃から9月23
日までで、美濃国(みののくに)
の大垣(おおがき)付近や山中
(やまなか)付 近での戦いであ
る。
(⇒ 関ヶ原の戦い
の決戦)。
(⇒ 関ヶ原の戦い)。
(⇒ 新説(史実)
(⇒ 慶長5年の
□ 「史実(新説)
□ 「伝説(従来説)
(⇒ 豊臣氏五大老・五奉
(⇒ 内府ちがひの条々)。
(⇒ 小山評定、
細川ガラシャ)。
池田輝政)。
(⇒ 毛利秀元)。
南宮山)。
○ 関ヶ原の戦いは、
「慶長5年(1600年)の
天下分け目の戦い」の1つ
であり、「慶長5年(1600
年)の天下分け目の戦い」
の中心的な戦いである。
○ 関ヶ原の戦いには、
「史実(新説)関ヶ原の戦
い(= 大垣・山中の戦い)」
と、 「伝説(従来説)の関
ヶ原の戦い」という2つの
有力な説がある。
■ 東西両軍の1600年
(慶長5年)9月15日の
山中決戦地は、
関ケ原盆地から西方・約
2kmにあった山中村
付近(現在の岐阜県関ケ原町
の山中(やまなか)地区・玉(た
ま)地区、松尾(まつお)・藤下
(とうげ)地区)である。
○ 西軍の石田・宇喜多・
小西・島津軍等布陣地は、
城山( しろやま、現在の岐阜県
関ケ原町山中地区・玉地区)
付近である。
城山 には、既成準備陣地の
陣城(じんじろ)の玉城(たまじ
ょう))がある。
○ 西軍の大谷軍布陣地
は、関ケ原盆地南西部(現
在の関ケ原町松尾地区・藤下地
区)で ある。
○ 西軍から東軍に寝返
った小早川軍布陣地は、
松尾山の山頂 、北部の中
腹・山麓(現在の関ケ原町松尾
地区・藤下地区)である。
○ 東軍の福島勢の 布
陣地は、
城山( しろやま、現在の岐阜県
関ケ原町山中地区・玉地区)
の東方(現在の関ケ原町山中
地区)で ある。
○ 東軍の家康の率いる
徳川軍本隊の布陣地は、
関ケ原盆地南西部(関ケ原
町松尾地区・藤下地区)、当日
その後、城山( しろやま、現在
の岐阜県関ケ原町山中地区・玉
地区)の東方(現 在の関ケ原町
山中地区)で ある。
■ 1600年(慶長5年)
9月15日の東西両軍の
大垣対戦地(にらみ合い、合
戦せず)は、大垣付近(現在
の岐阜県・垂井(たるい)町)で
ある。
○ 西軍の毛利秀元 の
毛利勢は、 関ケ原盆地
の東方にある南宮山(な
んぐうさん)の山麓(現在の岐
阜県垂井町)に布陣する。
○ 東軍の池田勢の 布
陣地は、 南宮山(なんぐう
さん)の北部(現在の岐阜県垂
井町)である。
■ 新説(史実)関ヶ原の戦い
(しんせつせきがはらのたたかい)
とは、 大垣・山中の戦い(おおが
き・やまなかのたたかい)である。
■ 関ヶ原の戦いには、「新説(史
実)関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の
戦い)」 と、 「伝説(従来説)の
関ヶ原の戦い」 という2つの有力
な説がある。
■ 新説(史実)関ヶ原の戦い(= 大
垣・山中の戦い)は、 1600年(慶長
5年)に日本各地で行われた「慶長5
年(1600年)の天下分け目の戦い」
の1つであり、 「慶長5年 (1600年)
の天下分 け目の戦い」の中心的な戦
いであった。
そして、新説(史実)関ヶ原の戦
い(= 大垣・山中の戦い)の結果、徳川
方の東軍が勝利を得、徳川家康が政
権基盤を固め、その後、1603年(慶
長7年)に、家康が将軍宣下(せんげ)
を受け、 江戸幕府が出現した。
■ 「新説 (史実)関ヶ原の戦い(=
大垣・山中の戦い)」では、 奉行衆・
毛利方の西軍の中心人物は、 大谷
吉継、奉行衆・4人(増田長 盛、長
束正家、前田玄以、石田三成)、宇
喜多秀家、毛利輝元であり、 西軍
は、反徳川で団結し、集団指導体制
である。
一方、徳川方の東軍の中心人
物は、徳川家康である。
■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」
では、 石田方の西軍の中心人物
は石田三成であり、一方、徳川方の
東軍の中心人物は、徳川家康である。
■ 「史実(新説)の
関ヶ原の戦い」の決戦日
の東西両軍の要点表。
◆ 一次史料に基づく「史実(新
説)関ヶ 原の戦い(= 大垣・山中
の戦い)」の決戦。
● 決戦場所:
関ヶ原盆地の西方・約2kmの
山中(やまなか)村。
● 決戦日時:
1600年(慶長5年)9月15日
午前10時頃〜正午頃。
■ 「史実(新説)関ヶ原の戦い
(= 大垣・山中の戦い)」の決戦
では、
大垣エリアの美濃赤坂付近から
移動し山中村の東側に布陣する
東軍(徳川方 )の主力軍
と、
大垣エリアの大垣城から移動し
山中村の西側に布陣する西軍
(奉行衆・毛利方)の主力軍 が、
1600年 (慶長5年)9月15日
の午前10時頃から正午頃まで、
美濃国の山中(やまなか)村で
戦う(決戦を行う)。
その戦いの結果、西軍(奉
行衆・毛利方)の主力軍が総崩
れとなり、敗走、敗戦し、東軍
(徳川方) の主力軍が勝利を得
る。
◆ 「史実(新説)の関ヶ原の
戦い」の決戦での、
東西両軍の主力軍の動き。
■ 「史実(新説)関ヶ原の戦い
(= 大垣・山中の戦い)」の決戦
での、東軍(徳川方)の 主力軍
の動き。
● 東軍(徳川方)の主力軍
(先手勢の福島組勢と家康
の徳川本隊) は、
@ 東軍(徳川方)の主力軍は、
1600年(慶長5年)9月15
日早朝に、大垣エリアの美濃
赤坂(みのあかさか)付近
(関ヶ原盆地の東方)を出発
(1600年(慶長5年)
9月15日早朝)⇒
○ 徳川家康は、
9月15日早朝に、
大垣エリアの美濃赤坂
付近で、東軍(徳川方)
を3つに分ける。
○ 東軍(徳川方)の
家康と徳川本隊は、
関ヶ原盆地南西部 と
山中村 (やまなかむら、
関ヶ原盆地の西方・約2km)
に向かう。
○ 東軍(徳川方)の
先手勢の池田組勢は、
大垣エリアの南宮山(なんぐ
うさん、関ヶ原盆地の東方)
の前面に向かい、布陣する。
○ 東軍(徳川方)の
先手勢の福島組勢は、
山中村 (やまなかむら、
関ヶ原盆地の西方・約2km)
に向かう。
A 東軍(徳川方)の主力軍は、
9月15日の午前10時頃から
正午頃まで、山中村 (やま
なかむら、関ヶ原盆地の西方・
約2km)で、西軍(奉行衆・毛
利方)の主力軍と交戦(決戦を
行う)
(9月15日の午前10時頃
〜正午頃)⇒
B 9月15日正午頃に、
西軍(奉行衆・毛利方)の主力
軍が、総崩れとなり、敗走、
敗戦し、東軍(徳川方)の主力
軍は、山中村で、西軍(奉行
衆・毛利方)の主力軍に対し
決戦で勝利を得る
(9月15日正午頃)。
■ 「史実(新説)関ヶ原の戦
い(= 大垣・山中の戦い)」の
決戦での 、西軍(奉行衆・毛
利方)の主力軍の動き。
● 西軍(奉行衆・毛利方)
の主力軍 (小西、石田、
宇喜多、島津等の軍) は、
@ 西軍(奉行衆・毛利方)
の主力軍は、
1600年(慶長5年)9月
14日夜に、
大垣エリアの大垣城
(おおがきじょう、関ヶ原
盆地の東方)を出発
(1600年(慶長5年)
9月14日夜)⇒
○ 西軍(奉行衆・毛利方)は、
9月14日夜に、大垣城で、
西軍(奉行衆・毛利方)を、
主力軍と大垣城守備残留軍
の2つに分ける。
○ 西軍(奉行衆・毛利方)の
主力軍は、山中村 (やまなか
むら、関ヶ原盆地の西方・約2
km) に向かう。
○ 西軍(奉行衆・毛利方)の
大垣城守備残留軍は、大垣城
に残留し、大垣城を守備する。
A 西軍(奉行衆・毛利方)の
主力軍は、9月15日未明に、
山中村 (やまなかむら、
関ヶ原盆地の西方・約2km)
に布陣する。
〇 西軍(奉行衆・毛利方)の
主力軍は、
山中村付近の城山にある
既存準備陣地の玉城(たまじ
ょう)を、出撃陣地として使用
した可能性がある。
(9月15日未明)⇒
B 西軍(奉行衆・毛利方)の
主力軍は、9月15日午前10
時頃から正午頃まで、山中村
で、東軍(徳川方)の主力軍と
交戦(決戦を行う)
(9月15日午前10時頃〜
正午頃)⇒
C 山中村で、西軍(奉行衆・
毛利方)の主力軍は、
総崩れ、敗走、敗戦となり、
東軍(徳川方)の主力軍
に対し決戦で敗戦する
(9月15日正午頃)。
■ 「史実(新説)の関ヶ原
の戦い」の東西両軍の概
要表。
■ 「新説(史実)関ヶ原 の戦い」
(= 大垣・山中の戦い)は、広義では、
1600年(慶長5年) の8月26日頃
(東軍の美濃赤坂布陣)から9月23
日(西軍の大垣城落城)までの間、
美濃国での戦いである。
(1) 1600年(慶長5年)8、9月の
時点で、徳川方の東軍は、尾張国
(おわりのくに、現・愛知県西部の相
当地域)の清須城(きよすじょう、清
州城)を本拠地にし、 奉行衆・毛利
方の西軍は 、美濃国(みの のくに、
現・岐阜県南部の相当地域)の大垣
城(おおがきじょう)を本拠地にし、
幾本もの川を挟んで対峙していた。
(2) 徳川方の東軍は、 清須城を
出て、1600年(慶長5年)8月23日
に奉行衆・毛利方の西軍の岐阜城
を落城させ、 徳川方の東軍は、8月
26日頃より、大垣付近の美濃赤坂
(みのあかさか)に移動し布陣して、
9月14日まで奉行衆・毛利方の西
軍の大垣城を攻撃する。
(3) 1600年(慶長5年)9月14日
夜に、奉行衆・毛利方の西軍の大垣
城にいた大部分の軍は大垣城を抜け
出し関 ヶ原盆地・山中(やまなか)方
面へ移動し、また、9月14日夜に、
大垣付近の美濃赤坂にいた徳川方
の東軍の多くの軍は、西軍主力軍を
追って、関ヶ原盆地・山中(やまなか)
方面へ移動し、9月15日に、東西
両主力軍は、美濃の平野の山中(や
まなか)で決戦を行った。
山中(やまなか)の戦いの東西
両主力軍の決戦では、徳川方の東軍
主力軍が勝利を得る。
(4) 大垣付近の美濃赤 坂にいる徳
川方の東軍は、1600年(慶長5年)
9月15日から9月23日まで奉行衆・
毛利方の西軍の大垣城を攻撃し、
9月23日に西軍の大垣城を落城さ
せる。
■ 「新説(史実)関ヶ原 の戦い」
(= 大垣・山中の戦い)は、広義で
は、時期は1600年(慶長5年)の
8月26日頃(東軍の美濃赤坂布
陣)から9月23日(西軍の大垣
城落城)までであり、 戦いの場所
は美濃国 (みののくに、現・岐阜
県南部の相当地域)の大垣(おお
がき)付近や山中(やまなか)付 近
であり、 美 濃国に集結した、徳川
方の東軍・約7万3000人の兵と
奉行衆・毛利方の西軍・約5万
4000人の兵の東西両軍・約12万
7000人の兵が戦う。
その決戦は、主戦場(決戦場)
の山中(やまなか、美濃国山中村)
であり、 1600年(慶長5年)9月
15日の午前10時頃から正午頃
まで、徳川方の東軍主力軍と奉行
衆・毛利方の西軍主力軍との間で
行われ た。 戦いの結果、徳川方
の東軍主力軍が勝利を得る。
■ 「伝説(従来説)の
関ヶ原の戦い」の
の東西両軍の概要表。
■ 「従来説(伝説)関ヶ原の戦い」
は、広義では、時期は1600年(慶
長5年)の8月26日頃(東軍の美
濃赤坂布陣)から9月23日(西軍
の大垣城落城)までであり、戦いの
場所は美濃国(みののくに、現・岐阜
県南部の相当地域)の関ヶ原盆地
と関ヶ原盆地の周辺地域であり、
美濃国に集結した、 徳川方の東軍・
約7万人の兵と石田方の西軍・約
8万人の兵の東西両軍・約15万人
の兵が戦う。
その決戦は、主戦場(決戦地)
の関ヶ原盆地であり、 1600年(慶
長5年)9月15日の午前8時頃 から
午後2時頃まで、徳川方 の東軍主
力軍と石田方の西軍主力軍との間
で行われ た。 戦いの結果、徳川
方の東軍主力軍が勝利を得る。
〇 しん 新説関ヶ原の戦い
(しんせつせきがはらのたたかいかんれん
できごと(ねんだいじゅん・しょうさい))。
《戦い関連出来事》。
(⇒ 大垣・山中の戦い
〇 しん 新選組。
(しんせんぐみ)。
《治安警備隊・軍隊》。
(= 新撰組、壬生浪士組)。
(1863年〜1869年)。
○ 新選組は、
江戸幕府(徳川氏)勢力の
浪士隊であり、 江戸幕府
(徳川氏)勢力の治安警備
隊・軍隊である。
○ 新選組は、
初め、会津藩預り浪士隊で、
後に、江戸幕府(徳川氏)直
属の浪士隊となる。
○ 新選組は、
関西では、京(都)の治安維
持警備隊であり、 幕末の京
(都)の治安維持に貢献する。
東日本では、軍隊として、活
躍する。
■ 新選組 (しんせんぐみ、= 新撰
組、壬生浪士組、1863年〜18 69
年)は、
江戸幕府(徳川氏)勢力の浪士隊で
あり、 江戸幕府(徳川氏)勢力の治
安警備隊・軍隊である。
新選組は、初め、会津藩預り浪
士隊であり、後に、江戸幕府(徳川氏)
直属の浪士隊となる。
■ 新選組は、 1867年(慶応3年)
まで、近畿地方で、江戸幕府(徳川氏)
勢力の治安警備隊として、幕末の京
(都)の治安警備に貢献する。
新選組は、1868年(慶応4年)
以後は、近畿、関東、東北、北海道地
方で、旧江戸幕府(徳川氏)勢力の軍
隊として、活躍する。 勇気ある戦士
たちであった。
■ 一方、新徴組 (しんちょうぐみ)は、
江戸幕府(徳川氏)勢力の浪士隊であ
り、 幕末の江戸の治安警備にあたる。
〇 しん 新徴組。
(しんちょうぐみ)。
《治安警備隊・軍隊》。
(1864年〜1868年)。
○ 新徴組は、
江戸幕府(徳川氏)勢力の
浪士隊であり、 江戸幕府
(徳川氏)勢力の治安警備
隊・軍隊である。
■ 新徴組 (しんちょうぐみ)は、
江戸幕府(徳川氏)勢力の浪士隊で
あり、 江戸幕府勢力の治安警備隊・
軍隊である。
新徴組は、 幕末の江戸の治
安警備にあたる。 戊辰戦争では、
庄内藩兵と共に、東北各地で戦う。
■ 新徴組は、
庄内藩(しょうないはん)預り浪士隊
である。
■ 一方、新選組は、
江戸幕府(徳川氏)勢力の浪士隊で
あり、 幕末の京(都)の治安警備に
あたる。
〇 しん 信長公記。
(しんちょうこうき)。 《史料》。
○ 室町時代後期(戦国時代)、
安土桃山時代を知る史料。
○ 太田牛一が著作し、江戸 時
代初期に成立する。
■ 信長公記 (しんちょうこうき)は、室町
時代後期(戦国時代)、安土桃山時代を知
る史料であり、 太田牛一が著作し、江戸
時代初期に成立する。
■ 太田牛一(おおたぎゅういち)の信長
公記には、 「安土日記」(古期・信長公記、
慶長頃の写)、 「信長記」(中期・信長公
記、慶長18年(1613年)頃)、 「信長公
記」(新期・信長公記、元禄12年(1699
年)写)がある。
「安土日記」(古期・信長公記、慶長頃
の写)が一次史料として、信頼が高い。
〇 しん 神道無念流。
(しんとうむねんりゅう) 。
《剣術の流派》。
○ 幕末に盛んであった剣術の流
派の1つ。
○ 桂小五郎(かつらこごろう、木戸
孝允)、 品川弥二郎(しながわやじ ろ
う)、 芹沢鴨(せりざわかも 、新選組)、
永倉新八(新選組)、 伊東甲子太郎
(新選組) などが幕末に修行してい
た剣術。
■ 神道無念流 (しんとうむねんりゅ
う) は、 日本の剣術の流派であり、
宝永年間(1751年〜1764年)に
福井嘉平によって創始され、 幕末に盛ん
であった剣術の流派の1つである。
● 神道無念流は、 桂小五郎 (かつらこ
ごろう、木戸孝允)、 品川弥二郎 (しなが
わやじろ う)、 芹沢鴨 (せりざわかも 、新
選組)、 永倉新八(新選組)、 伊東甲子太
郎(新選組) などが幕末に修行してい た剣
術である。
〇 しん 神女。
(しんにょ)。
《沖縄(琉球)の女性司祭》。
(= 祝女(のろ)、司(つかさ))。
(= 琉球神道で祈祷する女性司祭)。
○ 琉球王国が制定した公的神事、
祭事を司る、多く の琉球神道の神
女(公的シャーマン) 。
○ 最高神女は、聞得大君(きこえお
おきみ)) 。
〇 しん 親王。
(しんのう)。 《天皇家》。
○ 親王は、
前近代日本(奈良ー江戸時代)
では、「親王宣下」を受けた
男性皇族(主に天皇の男子や
兄弟)である。
(⇒ 天皇家)。
(⇒ 皇族、王、女王、皇子、
親王、内親王)。
■ 前近代日本の、親王と王。
前近代日本(奈良〜江戸時代)の、親
王(しんのう)とは、 親王宣下を受けた男
性皇族であり、主に、天皇の男性皇子や兄
弟である。
一方、前近代日本(飛鳥〜江戸時代)
の、王(おう)とは、男性皇族である。
● 前近代日本(奈良〜江戸時代)の、
親王と王。
前近代日本の奈良時代から江戸時代
までは、大宝令の律令制以後は、親王宣
下(しんのうせんげ)を受けた男性皇族
(主に天皇の男性皇子(みこ)や兄弟)を、
親王( しんのう)と呼び、 それ以外の男性
皇族(親王宣下がない男性皇族)で、天皇
より5世以下の皇族男子を王(おう)と呼ぶ
場合がある。
〈王(おう)の例〉 天皇の孫(まご)、
曾孫(ひまご)の男子。
■ 近現代日本(明治時代〜現在)の、親王。
近現代日本では、前近代日本の親王
宣下の制を廃止し、皇室典範により、近代
日本(明治・大正・昭和戦前時代)では、天
皇の子より皇玄孫に至る4世までの男性が
親王(しんのう)であり、 現代日本(昭和戦
後・平成・令和時代)では、天皇の子・孫まで
の男性が親王である。
〇 じん 陣場野
(じんばの)。 《地名》。
○ 「伝説(従来説)の関
ヶ原の戦い」で、
陣場野(じんばの)は、
徳川家康が
2番目の本陣(陣地)
(最終本陣) を置いた場所
である。
(⇒ 関ヶ原の戦い
の決戦)。
(⇒ 関ヶ原の戦い)。
(⇒ 新説(史実)
(⇒ 慶長5年の
□ 「史実(新説)
□ 「伝説(従来説)
池田輝政)。
(⇒ 毛利秀元)。
南宮山)。
■ 陣場野 (じんばの)は、
関ヶ原盆地の中央部に位置する。
現在の岐阜県関ヶ原町の関ヶ原
盆地の中央部にある。
■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦
い」の決戦では、
陣場野 (じんばの)は、
1600年(慶長5年)9月15日に、
東軍の徳川家 康が、2番目の本
陣(陣地)(家康最終陣地、最終
本陣)を置いた場所で ある。
● 陣場野に布陣する東軍の徳
川家康は、正午頃、松尾山(まつ
おやま)に布陣する石田方の西
軍の小早川秀秋(こばやかわひ
であき)」に問鉄砲(といてっぽう)
を行い、 徳川方の東軍に寝返
らせ、戦局を 好転させる。
■ 「伝説(従来説)の関ヶ原
の戦い」の決戦での、東軍
(徳川方)の主力軍の動き。
● 東軍(徳川方)の主力軍
(先手勢の福島組勢と家康
の徳川本隊) は、
@ 東軍(徳川方)の主力軍は、
1600年(慶長5年)9月15日
早朝に、 大垣エリアの美濃
赤坂(みのあかさか)付近
(関ヶ原盆地の東方)を出発
(1600年(慶長5年)
9月15日早朝)⇒
〇 徳川家康は、
1600年(慶長5年)9月15日
早朝に、大垣エリアの美濃赤
坂付近で、
東軍(徳川方)を2つに分け、
関ヶ原盆地に向かう先手勢の
福島組勢、家康の徳川本隊の
東軍(徳川方)の主力軍 と、
南宮山山麓に向かう池田組勢
の2つに分ける。
A 東軍(徳川方)の主力軍は、
9月15日の朝に、関ヶ原盆地
の東側に布陣する
(9月15日の朝)⇒
B 東軍(徳川方)の主力軍は、
9月15日午前8時頃から午後
2時頃まで、関ヶ原盆地で 、
西軍(石田方)の主力軍と交戦
(決戦を行う)
(9月15日午前8時頃〜
午後2時頃)⇒
○ 9月15日の朝から午前
10時頃まで、家康は、
桃配山 (ももくばりやま、関ヶ
原盆地の東側)で決戦を指揮
○ 9月15日午前10時頃から
午後2時頃まで、家康は、
陣場野 (じんばの、関ヶ原盆
地中央部)で決戦を指揮
C 9月15日午後2時頃に、
関ヶ原盆地で、西軍(石田方)
の主力軍は、総崩れとなり、
敗走、敗北し、東軍(徳川方)
の主力軍は、西軍(石田方)
の主力軍に対し決戦で勝利
を得る
(9月15日午後2時頃)。
○ 9月15日午後2時頃、
陣場野で、家康は決戦勝利 。
■ 「史実(新説)関ヶ原の戦い
(= 大垣・山中の戦い)」の決戦
での、東軍(徳川方)の 主力軍
の動き。
● 東軍(徳川方)の主力軍
(先手勢の福島組勢と家康
の徳川本隊) は、
@ 東軍(徳川方)の主力軍は、
1600年(慶長5年)9月15
日早朝に、大垣エリアの美濃
赤坂(みのあかさか)付近
(関ヶ原盆地の東方)を出発
(1600年(慶長5年)
9月15日早朝)⇒
○ 徳川家康は、
9月15日早朝に、
大垣エリアの美濃赤坂
付近で、東軍(徳川方)
を3つに分ける。
○ 東軍(徳川方)の
家康と徳川本隊は、
関ヶ原盆地南西部 と
山中村 (やまなかむら、
関ヶ原盆地の西方・約2km)
に向かう。
○ 東軍(徳川方)の
先手勢の池田組勢は、
大垣エリアの南宮山(なんぐ
うさん、関ヶ原盆地の東方)
の前面に向かい、布陣する。
○ 東軍(徳川方)の
先手勢の福島組勢は、
山中村 (やまなかむら、
関ヶ原盆地の西方・約2km)
に向かう。
A 東軍(徳川方)の主力軍は、
9月15日の午前10時頃から
正午頃まで、山中村 (やま
なかむら、関ヶ原盆地の西方・
約2km)で、西軍(奉行衆・毛
利方)の主力軍と交戦(決戦を
行う)
(9月15日の午前10時頃
〜正午頃)⇒
B 9月15日正午頃に、
西軍(奉行衆・毛利方)の主力
軍が、総崩れとなり、敗走、
敗戦し、東軍(徳川方)の主力
軍は、山中村で、西軍(奉行
衆・毛利方)の主力軍に対し
決戦で勝利を得る
(9月15日正午頃)。
〇 しん 親藩大名。
(しんぱんだいみょう)。 《江戸幕府》。
■ 親藩大名 ( しんぱんだいみょう) とは、
徳川氏一門(一族)の大名 である。
■ 江戸幕府の幕藩体制での大名は、親藩
大名 (しんぱんだいみょう)、 譜代大名
( ふだいだいみょう)、 外様大名 (とざま
だいみょう) の3つに分けられる。
親藩大名は徳川氏一門(一族)の大
名であり、 譜代大名は初めから徳川氏の
家臣(臣下)であった大名であり、 外様大
名は1600年(慶応5年)の天下分け目の
戦い(関ヶ原の戦い、他)前後より徳川氏
に従った(徳川氏の臣下になった)大名で
ある。
■ 江戸幕府の幕藩体制での、大名(だい
みょう)とは、 江戸幕府の将軍と主従関
係を結んだ、1万石以上の武士である。
〇 じん 甚兵衛。
(じんべい)。 《人名》。
(= 副田(そえだ)甚兵衛)。
○ 豊臣秀吉の妹・あさひ(朝日姫)
の第1番目の夫。
〇 しん 人名。
(じんめい)。 《人名》。
〇 しん 新モンゴロイド
(しんもんごろいど) 。 《人類》。
(= 北方モンゴロイド、弥生渡来系)。
(人類学上の分類・特徴)。
THE NORTHERN MONGOLOID.
(⇒ 新モンゴロイド(古人類学辞典))。
○ 新モンゴロイド(= 北方モンゴ
ロイド) と、 古モンゴロイド(= 南
方モンゴロイド) の2グループの
モンゴロイドの1つ。
○ 日本の、「渡来系弥生人」、
「弥生渡来系古代日本人」など
の、「弥生渡来系」の人々。
■ 新モンゴロイド(= 北方モンゴロイド)の
人々は、 約2万年前に、シベリア東部で、
古モンゴロイド(= 南方モンゴロイド)から
進化した人類である。
● 新モンゴロイド(= 北方モンゴロイド)は、
約2万年前に、シベリア東部(北アジア東
部)で、 現生人類(= 新人、ホモ・サピエン
ス)の、古モンゴロイド(= 南方モンゴロイド)
の、容姿・外見(体 色・体型)が寒冷地適応
に変化し、 古モンゴロイド(= 南方モンゴロ
イド)から進化して出現した人類 である。
● 約4万年前にアジア南東部で出現し た
古モンゴロイド(= 南方モンゴロイド)は、北
上し、寒冷地のシベリア東部に長く居住し、
約2万年前にシベリア東部で、容姿が寒冷
地適応となり、新モンゴロイド(= 北方モンゴ
ロイド)が、出現した。
● 新モンゴロイド(= 北方モンゴロイド)は、
現生人類(= 新人、ホモ・サピエンス)の人
種分類グループの、モンゴロイド (古モンゴ
ロイドと新モンゴロイドの2種)の1つである。
● モンゴロイドは、 約4万年前にアジア南
東部で出現した、古モンゴロイド(= 南方 モ
ンゴロイド) と、 約2万年前にシベリア東
部で出現した、新モンゴロイド(= 北方モン
ゴロイド)の2種類の人類に分類される。
● 新モンゴロイド(= 北方モンゴロイド)は、
日本 地域の、「渡来系弥生人」、「弥生渡来
系古代日本人」などの、「弥生渡来系」の人
々である。
● アジア大陸から先に、約12000年前か
ら縄文時代に、日本地域へ移動し てきた、古
モンゴロイド(= 南方 モンゴロイド)の人々は、
日本地域(日本本土、南西諸島、北海道)で
「縄文人」、「縄文系」の人々となり、 アジア
大陸から後から、約2400年前から弥生時
代前期に、日本本土へ移動してきた、新モン
ゴロイド(= 北方モンゴロイド)の人々は、日
本本土で、「渡来系弥生人」、「弥生渡来系」
の人々となり、 古代日本後期(奈良・平安
時代)に、古・新モンゴロイドの「縄文系」と
「弥生渡来系」が、日本本土で混血して、「本
土日本人」(= 本土人)(現在のほとんどの日
本人)となる。
■ 新モンゴロイドへの進化表。
ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類)
(= 南方モンゴロイド)⇒ モンゴロイドの
■ 日本人(日本在住民)への進化表。
ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類)
■ 現代日本人(日本在住民)への進化表。
ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類)
(⇒ モンゴロイド)。
(⇒ 日本人)。
(⇒ 原日本人)。
(⇒ 渡来系弥生人)。
(⇒ 弥生渡来系)。
(⇒ 本土日本人(= 本土人))。
(⇒ 日本人ルーツ・ガイドブック)。
(⇒ 古モンゴロイド)。
〇 しん 新門 辰五郎。
(しんもんたつごろう)。 《人名》。
○ 町火消し。
○ 江戸幕府・第15代将軍・
徳川慶喜(よしのぶ)の協力者。
○ 江戸の町火消しの頭領の
1人。
(⇒ 江戸の町火消)。
〇 しん 陣屋。
(じんや)。 《砦》。
● 陣屋 (じんや)とは、武家の居所であ
る。
江戸時代では、 江戸幕府の一国一城
令により、封建領主は、城を1つのみ持ち、
それ以外の砦(とりで)、館は、陣屋と呼ば
れる。 また、陣屋は、城持ちでない武 家
の居所でもある。
〇 しん 新暦。
(しんれき)。 《暦》。
(= 日本では、新暦は、太陽暦
のグレゴリオ暦)。
THE NEW CALENDAR.
(⇒ 太陽暦 日本史辞典)。
(⇒ 暦(こよみ) 天文学辞典)。
○ 日本では、 新暦は、太陽暦
のグレゴリオ暦。 旧暦は、太陰
暦(=陰暦)の太陰太陽暦。
○ 日本では、 新暦(現行西暦)
は、太陽暦のグレゴリオ暦で、
1873年(明治6年)から現在ま
で、使用されている。
日本では、 旧暦は、太陰暦
(=陰暦)の太陰太陽暦で、紀元
(後)690年頃から1872(明治
5年)年まで、使用された。
○ 日本や中国では、 新暦は、
太陽暦のグレゴリオ暦である。
日本や中国では、 旧暦は、
太陰暦の太陰太陽暦である。
○ 欧米では、 新暦は、太陽暦
のグレゴリオ暦である。
欧米では、 旧暦は、太陽暦
のユリウス暦 や 太陰暦の太陰
太陽暦である。
○ 欧米、日本、中国以外の世界
の例では、 現在、イスラム圏で
は、太陰暦の純粋太陰暦のイス
ラム暦のヒジュラ暦 と 太陽暦
のグレゴリオ暦の現行西暦 が、
併用されている。
(⇒ 太陽暦 天文学辞典)。
(⇒ 太陰暦)。
● 五十音順 (あいうえお順)。
■ 『 現在は、過去の成果であり、
未来は、現在の成果である。 』
(良き現在は、過去の人々の良き努力
や活動の積み重ねの成果であり、
明るい良き未来は、現在の人々の、
良き努力や活動の積み重ねによって
形成される。)
■ 上位のWEBサイト。
□ (KOH) カナヤマ オフィシャル >
□ (Cse) 国際理解総合サイト >
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の、派生見出し語サイト。
■ No.ja−shi−3150。
● 見出し語項目 し ま づ ( 31 ま / づ 50
付近 第1部・ま・総合グループ、 「しまづ」集合
グループ )。
〇 しま 島津斉彬 (しまづなりあきら)。
〇 しま 島津斉興 (しまづなりおき)。
〇 しま 島津久光 (しまづひさみつ)。
■ No.ja−shi−3812。
● 見出し語項目 じ ゅ い ( ゅ 38 / い 12
付近 第1部・ゆ・ア行グループ )。
〇 じゆ 従一位 (じゅいちい)。
■ No.ja−shi−3825。
● 見出し語項目 じ ゅ ご ( ゅ 38 / ご 25
付近 第1部・ゆ・カ行グループ)。
〇 じゅ 従九位 (じゅくい)。
■ No.ja−shi−3829。
● 見出し語項目 し ゅ ご ( ゅ 38 / ご 29
付近 第1部・ゆ・カ行グループ)。
〇 じゅ 従五位 (じゅごい )。
〇 じゅ 従五位上 (じゅごいのじょう)。
〇 じゅ 従五位下 (じゅごいのげ) 。
■ No.ja−shi−3831。
● 見出し語項目 じ ゅ さ ( ゅ 38 / さ 31
付近 第1部・ゆ・サ行グループ)。
〇 じゅ 従三位 (じゅさんみ)。
■ No.ja−shi−3833。
● 見出し語項目 じ ゅ し ( ゅ 38 / し 33
付近 第1部・ゆ・サ行グループ)。
〇 じゅ 従四位 (じゅしい)。
〇 じゅ 従四位上 (じゅしいのじょう)。
〇 じゅ 従四位下 (じゅしいのげ)。
〇 じゅ 従七位 (じゅしちい)。
〇 じゅ 従七位上 (じゅしちいのじょう)。
○ じゅ 従七位下 (じゅしちいのげ)。
■ No.ja−shi−3850。
● 見出し語項目 し ゅ う〜ご ( ゅ 38 / う〜ご 50
付近 第1部・ゆ・総合グループ)。
〇 しゅ 終戦 (しゅうせん) (太平洋戦
争・日中戦争の終戦、 1945)。
〇 しゅ 守護、守護大名 (しゅご、しゅ
ごだいみょう)( 12〜16世紀)。
〇 しゅ 守護・地頭の設置 (しゅご・
じとうのせっち)( 1185)。
■ No.ja−shi−3853。
● 見出し語項目 じ ゅ に ( ゅ 38 / に 53
付近 第1部・ゆ・ナ行グループ)。
〇 じゅ 従二位 (じゅにい) 。
■ No.ja−shi−3861。
● 見出し語項目 じ ゅ は ( ゅ 38 / は 61
付近 第1部・ゆ・ハ行グループ)。
〇 じゅ 従八位 (じゅはちい)。
〇 じゅ 従八位上 (じゅはちいのじょう)。
○ じゅ 従八位下 (じゅはちいのげ)。
■ No.ja−shi−3898。
● 見出し語項目 じ ゅ ろ ( ゅ 38 / ろ 98
付近 第1部・ゆ・ラ行・ワ・ン・グループ)。
〇 じゅ 従六位 (じゅろくい)。
〇 じゅ 従六位上 (じゅろくいのじょう)。
〇 じゅ 従六位下 (じゅろくいのげ)。
■ No.ja−shi−4012。
● 見出し語項目 じ ょ い ( ょ 40 / い 12
付近 第1部・よ・ア行グループ)。
〇 じょ 叙位 (じょい)。
■ No.ja−shi−4015。
● 見出し語項目 じ ょ う ( ょ 40 / う 15
付近 第1部・よ・ア行グループ)。
〇 じょ 縄文時代 (じょうもんじだい)
(1万2000年前頃〜紀元前4世
紀頃)。
〇 じょ 縄文人 (じょうもんじん)。
〇 じょ 縄文文化 (じょうもんぶんか)
(1万2000年前頃〜紀元前4世
紀頃)。
■ No.ja−shi−4017。
● 見出し語項目 し ょ う ( ょ 40 / う 17
付近 第1部・よ・ア行グループ)。
〇 しょ 正一位 (しょういちい)。
〇 しょ 正二位 (しょうにい)。
〇 しょ 正三位 (しょうさんみ)。
〇 しょ 正四位 (しょうしい)。
〇 しょ 正四位上 (しょうしいのじょう)。
〇 しょ 正四位下 (しょうしいのげ)。
〇 しょ 正五位 ( しょうごい)。
〇 しょ 正五位上 ( しょうごいのじょう)。
〇 しょ 正五位下 ( しょうごいのげ)。
○ しょ 正六位 (しょうろくい)。
〇 しょ 正六位上 (しょうろくいのじょう)。
○ しょ 正六位下 (しょうろくいのげ)。
〇 しょ 正七位 (しょうしちい)。
〇 しょ 正七位上 (しょうしちいのじょう)。
○ しょ 正七位下 (しょうしちいのげ)。
〇 しょ 正八位 (しょうはちい)。
〇 しょ 正八位上 (しょうはちいのじょう)。
○ しょ 正八位下 (しょうはちいのげ)。
〇 しょ 正九位 (しょうくい)。
〇 しょ 少初位 (しょうそい、しょうしょい)。
〇 しょ 少初位上 (しょうそいのじょう)。
〇 しょ 少初位下 (しょうそいのげ)。
■ No.ja−shi−4027。
● 見出し語項目 し ょ う ( ょ 40 / う 27
付近 第1部・よ・総合グループ、 「しょうえん」
集合グループ )。
〇 しょ 荘園 (しょうえん) (8〜16世紀)
(貴族・寺社等が支配する領域)。
〇 しょ 荘園・公領制 (しょうえん・こうり
ょうせい) (10〜16世紀)。
〇 しょ 荘園制度 (しょうえんせいど)
(10〜16世紀)。
■ No.ja−shi−4030。
● 見出し語項目 し ょ うし〜うむ ( ょ 40 / うし〜うむ
30 付近 第1部・よ・総合グループ)。
〇 じょ 上士 (じょうし)。
(= 江戸時代の上級武士)。
〇 しょ 聖武天皇 (しょうむてんのう) 。
(8世紀)。
■ No.ja−shi−4033。
● 見出し語項目 し ょ うわ ( ょ 40 / うわ 33
付近 第1部・よ・総合グループ、 「しょうわ」集合
グループ )。
〇 しょ 昭和・戦後時代
(しょうわ・せんごじだい)。
(1945〜1989)。
〇 しょ 昭和・戦前時代
(しょうわ・せんぜんじ だい)。
(1926〜1945)。
〇 しょ 昭和天皇 (しょうわてんのう) 。
(=裕仁(ひろ ひと)天皇)。
(⇒ 裕仁天皇)。
■ 首都。
(しゅと)。
■ 首都。
■ 名称 : 首都 (しゅと)。
■ 《都市》。
■ 首都とは、
国家政治・行政の中心地であり、 国家
レベルの政治・行政の中核都市である。
■ 首都とは、
ある国の、国家政権・政府の本拠地であり、
ある国全土を統治する全国政権・政府の
中央政府の中核都市である。
■ 日本の首都とは、
日本の国家政権・政府の本拠地であり、
日本本土を統治する全国政権・政府の
中核都市である。
■ 紀元後7世紀頃から現在まで、
日本の首都は、主に、
飛鳥 (あすか、飛鳥京、現・奈良県明日香村、
7世紀頃ー694年)、
橿原 (かしはら、藤原京、現・奈良県橿原市、
694年ー710年)、
奈良 (平城京、現・奈良県奈良市、
710年ー740年、745年ー784年)、
向日 (むこう、長岡京、現・京都府向日市
784年ー794年)、
京都 (平安京、現・京都府京都市、
794年ー1185年、1333年ー
1576年、1582年ー1583年、
1867年ー1869年)、
鎌倉 (鎌倉幕府本拠地、現・神奈川県鎌倉市
1185年ー1333年)、
安土 (あづち、織田政権本拠地、現・滋賀県
安土町、
1576年ー1582年)、
大阪 (豊臣政権本拠地、現・大阪府大阪市、
1583年ー1603年)、
江戸 (江戸幕府本拠地、現・東京都千代田区、
1603年ー1867年)、
東京 (近現代政府本拠地、現・東京都
千代田区、
1869年ー現在)、
などである。
■ より理解を深めるために、日本史辞典の、
鎌倉、
安土、
大阪、
江戸、
東京、
の項目も参照してください。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 41527。
□ 日本古都ガイドブック。
No.1。
No.1。
No.1。
No.1。
No.1。
■ 首都。
■ 首都とは、
国家政治・行政の中心地であり、 国家
レベルの政治・行政の中核都市である。
■ 首都とは、
ある国の、国家政権・政府の本拠地であり、
ある国全土を統治する全国政権・政府の
中央政府の中核都市である。
■ 日本の首都。
■ 日本の首都とは、
日本の国家政権・政府の本拠地であり、
日本本土を統治する全国政権・政府の
中核都市である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 日本の、首都と都城や京。
■ 日本の首都とは、
日本本土を統治する全国政権・政府の
中核都市である。
■ 前近代日本の都城・京 (とじょう・きょう)
とは、 天皇の住居がある都市である皇居
都市である。
■ 日本の、鎌倉時代、安土桃山時代、江戸
時代では、日本の首都(政治・行政の中心
地)と皇居都市(都城・京)とは別になる。
■ 日本の首都。
■ 紀元後7世紀頃から現在まで、
日本の首都は、主に、
飛鳥 (あすか、飛鳥京、現・奈良県明日香村、
7世紀頃ー694年)、
橿原 (かしはら、藤原京、現・奈良県橿原市、
694年ー710年)、
奈良 (平城京、現・奈良県奈良市、
710年ー740年、745年ー784年)、
向日 (むこう、長岡京、現・京都府向日市
784年ー794年)、
京都 (平安京、現・京都府京都市、
794年ー1185年、1333年ー
1576年、1582年ー1583年、
1867年ー1869年)、
鎌倉 (鎌倉幕府本拠地、現・神奈川県鎌倉市
1185年ー1333年)、
安土 (あづち、織田政権本拠地、現・滋賀県
安土町、
1576年ー1582年)、
大阪 (豊臣政権本拠地、現・大阪府大阪市、
1583年ー1603年)、
江戸 (江戸幕府本拠地、現・東京都千代田区、
1603年ー1867年)、
東京 (近現代政府本拠地、現・東京都
千代田区、
1869年ー現在)、
などである。
● TKKI カナヤマ著 古都ガイドブック。
■ 白河法王
(しらかわほうおう)。
■ 白河法王。
■ 名称 : 白河法王 (しらかわほうおう)。
(英:the Tonsured ex-Emperor
Shirakawa).
白河院、
白河上皇、
白河天皇(白河帝)、
貞仁(さだひと)親王。
■ 生没年 :
1053年〜1129年。
■ 白河法王(上皇、天皇)の院政政治期 :
1086年〜1129年。
■ 白河法皇 :
1096年〜1129年。
■ 白河上皇 :
1086年〜1129年。
■ 白河天皇(白河帝)の天皇在位 :
1072年〜1086年。
■ 別名 :
● 白河院 (しらかわいん)とは、
白河法王、白河上皇である。
(英:the Tonsured ex-Emperor
Shirakawa OR
the ex-Emperor Shirakawa).
● 白河上皇 (しらかわじょうこう)。
(英:the ex-Emperor Shirakawa).
● 白河天皇 (しらかわてんのう)。
(英:the Emperor Shirakawa).
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 31339。
(天皇名、親王名、天皇在位期間、生没年)。
□ 平安時代後期の日本政治。
■ 白河法王(上皇、天皇)。
■ 白河法王(上皇、天皇)
(生没年:1053年〜1129年)は、
■ 白河法王(上皇、天皇)(しらかわほうほう
(じょうこう、てんのう)、生没年:1053年
〜1129年)は、 別名は、白河院 (しら
かわいん)とも言う。
■ 白河法王(上皇、天皇)の院政政治期 は、
1086年から1129年までである。
■ 白河法王の英名は、
the Tonsured ex-Emperor
Shirakawa であり、
白河上皇の英名は、
the ex-Emperor Shirakawaであり、
白河天皇の英名は、
the Emperor Shirakawa である。
■ 白河法王(上皇、天皇)は、
日本の院政政権(=上皇政権)時代 の
(白河 法王(上皇)、鳥羽 法王(上皇))
の法王、上皇である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 上皇とは、 元天皇(天皇位を退位した
天皇)であり、
法王とは、 出家した上皇である。
■ 白河院とは、
白河法王、白河上皇のことである。
■ 白河法王(上皇、天皇)の一族。
■ 白河法王(上皇、天皇)
(貞仁(さだひと)親王 )は、
後三条(ごさんじょう)天皇の皇子(みこ)
である。
■ 白河法王(上皇、天皇)は、
堀河天皇の父である。
■ 白河法王(上皇、天皇)は、
鳥羽天皇の祖父である。
■ 白河法王(上皇、天皇)は、
崇徳天皇、近衛天皇、後白河天皇の曽祖父
である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 白河法王(上皇、天皇)の側室夫人には、
などがいる。
説がある。
■ 白河法王(上皇、天皇)の子は、
堀河(ほりかわ)天皇などである。
■ 白河法王(上皇、天皇)の孫は、
(= 堀河天皇の皇子)などである。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 白河法王(上皇、天皇)の曾孫(ひまご)は、
崇徳天皇、近衛天皇、後白河天皇などで
ある。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 白河法王(上皇、天皇)。
■ 院政とは、法王、上皇 が、 天皇を後見(こう
けん)しながら朝廷の政治の実権をにぎる
政治形態である。
■ 上皇 (じょうこう)とは、 元天皇(天皇位を
譲位した(退位した)天皇)である。
■ 法皇 (ほうおう)とは、 仏門に入った上皇
である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 白河法王(上皇、天皇)。
■ 天皇に嫁(とつ)いだ、摂関家の藤原頼道
(ふじわらのよりみち)の娘には、 皇子(み
こ)が生まれなかったので、摂政・関白(せ
っしょう・かんぱく)を外戚(がいせき)としな
い、後三条(ごさんじょう)天皇が、1068年
に、即位し、天皇親政(1068年〜1072
年)を行った。
■ 白河天皇も、摂関勢力の衰退に乗じて、
父の後三条天皇を引継ぎ、同様に天皇
親政(1072 年〜1086年)を行い、
1086年の譲位後は、白河上 皇となり、
白河上皇(法王)は、院政を行い、さらに、
日本の政治の実権を握り、院政政治 (院
政政治期:1086年〜1129年)を行 う。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 白河上皇(法王)は、1086年より、
堀河(ほりかわ)天皇、鳥羽(とば)天皇、
崇徳(すとく)天皇の3代にわたり、約43
年間、院政を行い、さらに、日本の政治
の実権を握り、院政政治(院政政治時期:
1086年〜1129年)を行う。
■ 白河法王(上皇、天皇)。
■ 白河法王(上皇、天皇)は、 天皇を後見(こ
うけん)しながら朝廷の政治の実権をにぎる
院政の道を開いた。
また、白河法王(上皇、天皇)は、
院庁(いんのちょう)を開き、日本の政治の実
権を握り、院政政治(院政政治時期 :1086年
〜1129年)を初めて行う。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 白河法王(上皇、天皇)は、
国司(受領(ずりょう))たちを支持勢力にと
りこみ、 上皇(=院(いん))の御所(ごしょ)
に北面の武士(ほくめんのぶし)を組織したり、
源平の武士を側近にするなど、上皇(=院)の
権力を強化する。
■ 白河法王(上皇、天皇)は、 崇仏の念(ねん)
が厚く(仏教を厚く信仰し)、造寺造仏を行う。
■ 白河法王(上皇、天皇)。
■ 白河上皇は、 後三条(ごさんじょう)天皇
の皇子(みこ)である。
■ 白河天皇は、1072年に即位し、1086年
に譲位して(退位して)、白河上皇(1086年
〜1129年)となる。
■ 白河上皇は、 1096年に出家して法皇
(ほうおう)となる (白河法皇:1096年〜
1129年)。
■ 白河法王(上皇、天皇)。
■ 白河法王、白河上皇、白河天皇の英語名には、
次のようなものがある。
● 英:白河法王
the Tonsured ex-Emperor Shirakawa.
● 英:白河法王
the Cloistered Emperor Shirakawa.
● 英:白河上皇
the ex-Emperor Shirakawa.
● 英:白河上皇
the Former Emperor Shirakawa.
● 英:白河上皇
the Retired Emperor Shirakawa.
● 英:白河天皇
the Emperor Shirakawa.
● 英語の上皇では、
「the Retired Emperor」は、
Retiredには仕事(政務)を引退したという
意味があり、 院政を行う上皇の略語として
は適当ではない。
当書では、上皇は、ex-Emperor
(元天皇)を使用している。
● 英語の法王では、
「the Cloistered Emperor」は、
Cloisteredは世を捨てたという意味をもち、
世俗の院政を行う法王の略語としては適当
ではない。
当書では、法王は、the Tonsured
ex-Emperor (僧の剃髪をした元天皇)
を使用している。
#theton.exemp.shira.-table2715
■ 日本の平安時代後期の政権・
政治実権者の変遷詳細一覧表
(1)(2)のみ抜粋。
● 日本の平安時代後期の政権や政治実権
保有者の変遷の一覧表。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 31335。
■ (1) 《1086年ー1129年》
白河上皇(法王)の院政政治・
政権期。
■ 1086年(応徳3年)に、朝廷の白河上皇
が、日本の政治の実権を握り、
院政政治を始める。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 白河天皇は、 1086年(応徳3年)11月
に、皇位を堀河天皇に譲り、上皇となる。
白河上皇(天皇)は、 自らの天皇親政
政治 (天皇が日本の政治の実権を握
(にぎ)り直接日本を支配する政治)を、
より強固にするため、 院政政治 (院
政により、日本の政治の実権を握(にぎ)
り、日本を支配する政治) を行う。
■ (2) 《1129年ー1156年》。
鳥羽上皇(法王)の院政政治・
政権期。
■ 1129年(太治4年)に、朝廷の鳥羽上皇
が、日本の政治の実権を握り、
院政政治を始める。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 白河法皇が崩御(ほうぎょ、死去)し、
1129年(太治4年)に、鳥羽上皇は、
引き続き、院政政治を行う。
#theton.exemp.shira.-table2725
■ 平安時代後期の日本の歴代天皇
詳細一覧表。
(天皇名、親王名、天皇在位期間)。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 31417。
■ 日本の平安時代後期に在位した天皇
は、皇位継承順に、次の通りである。
(貞仁(さだひと)親王)
後三条(ごさんじょう)天皇の皇子(みこ)。
(天皇在位:1072年〜1086年)。
(天皇在位:延久4年(1072年)
12月8日〜応徳3年(1086年)
11月26日)
(生没年 :1053年〜1129年)。
A 堀河(ほりかわ)天皇
(善仁(たるひと)親王)
白河法王(上皇、天皇)の皇子。
(天皇在位:1086年〜1107年)。
(天皇在位:応徳3年(1086年)11月
26日〜嘉承2年(1107年)7月19日)
(生没年 :1079年〜1107年)。
B 鳥羽(とば)天皇
(宗仁(むねひと)親王)
堀河天皇の皇子。
(天皇在位:1107年〜1123年)。
(生没年 :1103年〜1156年)。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
(顕仁(あきひと)親王)
鳥羽法王(上皇、天皇)の皇子。
(天皇在位:1123年〜1141年)。
(生没年 :1119年〜1164年)。
D 近衛(このえ)天皇
(体仁(なりひと)親王)
鳥羽法王(上皇、天皇)の皇子。
(天皇在位:1141年〜1155年)。
(生没年 :1139年〜1155年)。
(雅仁(まさひと)親王)
鳥羽法王(上皇、天皇)の皇子。
(天皇在位:1155年〜1158年)。
(生没年 :1127年〜1192年)。
(守仁(もりひと)親王)
後白河法王(上皇、天皇)の皇子。
(天皇在位:1158年〜1165年)。
(生没年 :1143年〜1165年)。
G 六条(ろくじょう)天皇
(順仁(のぶひと)親王)
二条天皇の皇子。
(天皇在位:1165年〜1168年)。
(生没年 :1164年〜1176年)。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
(憲仁(のりひと)親王)
後白河法王(上皇、天皇)の皇子。
(天皇在位:1168年〜1180年)。
(生没年 :1161年〜1181年)。
(言仁(ときひと)親王)
高倉上皇(天皇)の皇子。
(天皇在位:1180年〜1185年)。
(生没年 :1178年〜1185年)。
(尊成(たかひら)親王)。
高倉上皇(天皇)の皇子。
(天皇在位:1183年〜1198年)。
(生没年 :1180年〜1239年)。
#theton.exemp.shira.-appearingscenes
♪♪ 白河法王(上皇、天皇)が登場す
る、興味深い関連ドラマ、映画、
ドキュメンタリー。
★ 白河上皇が登場する、興味深い
関連ドキュメンタリー。
■ 歴史秘話ヒストリア 『 私たち、
草食系武士です。〜新・平家家
族物語〜 』。
(NHKテレビ・2009年(平成21年)
12月16日・本放送、第27回)。
■ 白河上皇が登場する。
★ 白河上皇が登場する、興味深い、
関連ドラマ、映画。
● (注意) ドラマ、映画は、フィクションです。
歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実)
と架空の出来事が 混じって描かれています。
また、現代風にアレンジしてあります。
■ 『 平清盛 (たいらのきよもり) 』 。
(NHKテレビの2012年大河ドラマ)。
■ 白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇が
登場する。
■ 平安時代後期の当時活躍した人物や
当時の時代状況を描いたドラマ描く。
■ 平清盛の生涯を描いたドラマ。
● 白河上皇(法王)は、
大河ドラマの初頭部に登場する。
● 白河上皇を演じ た俳優名: 伊東 四郎。
● 平 清盛を演じる俳優名 : 松山 ケンイチ。
■ 新説関ヶ原の戦い
(しんせつせきがはらのたたかい)。
■ 新説関ヶ原の戦い。
■ 名称 : 新説関ヶ原の戦い
(しんせつせきがはらのたたかい)。
■ 別名 : 大垣・山中の戦い
(おおがき・やまなかのたたかい)。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 41635。
■ 「新説(史実)関ヶ原の戦い」
(= 大垣・山中の戦い)の布陣図。
■ 「新説(史実)関ヶ原の戦い」
(= 大垣・山中の戦い)の決戦。
■ 一次史料に基づく「新説(史実)関ヶ原の
戦い(= 大垣・山中の戦い)(1600年(慶長
5年)8月26日頃ー9月23日)では、 もし
奉行衆・毛利方の西軍の南宮山布陣の大垣
城後詰軍の毛利勢が 9月15日以後に予
想される徳川方の東軍から攻撃を受け敗
北すると、 奉行衆・毛利方の西軍が駐留
する大垣城が孤立し非常に不利となるので、
大垣城に駐留していた奉行衆・毛利方の
西軍の小西・宇喜多・石田・島津勢等の軍
は、 1600年(慶長5年)9月15日以後に
予想される東軍の徳川方による南宮山の
奉行衆・毛利方の西軍の毛利勢への攻撃
に備えて(の後詰として)、奉行衆・毛利方
の西軍の小 西・宇喜多・石 田・島津勢等
の西軍主力軍・約3万人の兵は、1600年
(慶長5年)9月14日の日没後、大垣城を
出て、関ヶ原盆地・山中(やまなか)方面へ
向う。
一方、9月14日の日没後、その西 軍
主力軍を追って徳川方の福島勢と家康の
徳川本隊の東軍主力軍・約5万1000人
の兵は大垣付近から関ヶ原盆地・山中(や
まなか)方面へ向う。
奉行衆・毛利方の西軍主力軍は9月
15日の午前4時頃、山中(やまなか)付近
に布陣する。
その後、西軍主力軍を追って移動し
てきた徳川方の東軍主力軍・約5万1000
人の兵 と 奉行衆・毛利方の西軍主力軍・
約3万人の兵とが、1600年(慶長5年)
9月15日の午前10時頃から正午頃まで、
関ヶ原盆地の南西方向・約2kmにある、
山中(やまなか)村で決戦を行い、徳川方
の東軍主力軍が勝利を得、奉行衆・毛利
方の西軍主力軍が敗北する。
◆ 「関ヶ原の戦い」の新説(史実)
と従来説(伝説)。
■ 関ヶ原の戦いには、史実の「新説関ヶ原の
戦い)」 と、 「従来説(伝説)関ヶ原の戦
い」 という2つの有力な説がある。
■ 「新説(史実)関ヶ原の戦い(= 大垣・山中
(いちじしりょう、同時代日記・手紙など)に
基づく、史実の関ヶ原の戦いである。
「新説(史実)関ヶ原の戦い(= 大垣・
山中の戦い)」では、 『 歴史群像・2017
年10月号掲載の「通説打破!関ヶ原合戦
の真実」(白峰旬教授著) 』、その他の多く
の一次史料も、参考資料・データとして、利
用している。
■ 「従来説(伝説)関ヶ原の戦い」は、後世の
創作である。
「従来説(伝説)関ヶ原の戦い」は、江戸
時代に自慢話が重なってつくられた後世の創
作の関ヶ 原の戦いである。
◆ 新説(史実)・従来説(伝説)共通
の「関ヶ原の戦い」。
■ 関ヶ原の戦い(大垣・山中の戦い)は、1600
年(慶長5年)に日本各地で行われた、「慶長
であり、 「慶長5年(1600年)の天下分 け目
の戦い」の中心的な合戦であった。 そして、
関ヶ原の戦いの結果、徳川方の東軍が勝利
を得、徳川家康が政権基盤を固め、その
後、1603年(慶長7年)に、家康が将軍宣下
(せんげ)を受け、 江戸幕府が出現した。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 関ヶ原の戦いは、 広義では、1600年
(慶長5年)の8月26日頃(東軍の美濃赤坂布
陣)から9月23日(西軍の大垣城落城)まで
の間、美濃国での戦いである。
(1) 1600年(慶長5年)8、9月の時点で、
徳川方の東軍は、尾張国(おわりのくに、現・
愛知県 西部の相当地域)の清須城(きよす
じょう、清州城)を本拠地にし、 西軍は、美
濃国(み ののくに、現・岐阜県南部の相当
地域)の大垣城(おおがきじょう)を本拠地に
し、幾本もの川を挟んで対峙していた。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
(2) 徳川方の東軍は、清須城を出て、16
00年(慶長5年)8月23日に西軍の岐阜
城を落城させ、 徳川方の東軍は、8月26
日頃より、大垣付近の美濃赤坂(みのあか
さか)に移動し布陣して、9月14日まで西軍
の大垣城を攻撃する。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
(3) 1600年(慶長5年)9月14日夜に、
西軍の大垣城にいた大部分の軍は大垣
城を抜け出し関ヶ原盆地方面へ移動し、
また、9月14日夜に、大垣付近の美濃赤
坂にいた東軍の多くの軍は関ヶ原盆地方
面へ移動し、9月15日に、東西両主力軍
は、美濃国の平野で決戦を行った。
東西両主力軍の決戦では、徳川方の
東軍主力軍が勝利を得る。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
(4) 大垣付近の美濃赤坂にいる徳川方の
東軍は、1600年(慶長5年)9月15日か
ら9月23日まで西軍の大垣城を攻撃し、
9月23日に西軍の大垣城を落城させる。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
◆ 新説(史実)・従来説(伝説)共通
の「関ヶ原の戦い」。
■ 京極高次 (き ょうごくたかつぐ)は、東軍
の徳川方に味 方し、大津城(おおつじょう)
に籠城(ろうじょう)して (大津城攻防戦)、
美濃国方面(大垣・関ヶ原盆地・山中方面)
に向かう西軍の軍隊の一部を、 大津(おお
つ)でくい止めた。 結果的に、美濃国で戦
う西軍の勢力の一部が削(そ)がれた。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 関ヶ原の戦いでは、 戦い後、西軍の石田
い)は処刑され(斬首され)、 その他の 多く
の西 軍の諸将は、 改易(かいえき、領地没
収)、減封(げんぽう、領地削減・縮小)等の
処分を受け、 関ヶ原の戦いは、本来は、
豊臣家の家臣団の戦いではあったが、徳川
方の東軍の勝利により、事実上、徳川政権
目の戦い」とな り、その後、多くの西軍の諸
将の改易・減封処分、多くの東軍の諸将の
加増、家康の将軍職就任などの徳川家康
の政権基盤強化により、1603年(慶長8年)
に江戸幕府が成立した。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
◆ 「新説(史実)関ヶ原の戦い」
(= 大垣・山中の戦い) (総合)。
■ 「新説(史実)関ヶ原 の戦い」(= 大垣・
山中の戦い)は、広義では、時期は1600
年(慶長5年)の 8月26日頃(東軍の美
濃赤坂布陣)から9月23日(西軍の大垣
城落城)までであり、 戦いの場所は美
濃国(みののくに、現・岐阜県南部の相当
地域)の大垣(おおがき)付近や山中(や
まなか)付 近であり、 美濃国に集 結し
た、徳川方の東軍・約7万3000人の兵
と奉行衆・毛利方の西軍・約5万4000人
の兵の東西両軍・約12万7000人の兵
が戦う。
その決戦は、主戦場(決戦場)の
山中(やまなか、美濃国山中村)であり、
(1600年慶長5年)9月15日の午前10
時頃から正午頃まで、徳川方の東軍主力
軍と奉行衆・毛利方の西軍主力軍との間
で行われ た。
戦いの結果、徳川方の東軍主力軍
が勝利を得る。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
◆ 「新説(史実)関ヶ原の戦い」
(= 大垣・山中の戦い) (総合)。
■ 「新説(史実)関ヶ原 の戦い」(= 大垣・山
中の戦い)は、関ヶ原の戦い直後の一次史料
(同時代日記・手紙など)に基づく、大垣・山
中(おおがき・やまなか)の戦いであり、
史実の関ヶ原の戦いである。
(⇒ 新説(史実)関ヶ原
の戦い)。
(⇒ 大垣・山中の戦い)。
■ 「新説(史実)関ヶ原 の戦い」(= 大垣・山
中の戦い)は、徳川方の東軍 と、奉行衆・毛
利方の西軍 との豊臣氏家臣間の内部抗争
であり、 徳川方の東軍が勝利を得る。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11238。
■ 全体の戦いの中心人物 :
全体の戦いの奉行衆・毛利方の西軍の
反徳川で団結し、集団指導体制である。
一方、全体の戦いの徳川方の東軍の
中心人物は、徳川家康である。
■ 全体の戦いの人数 :
徳川方の東軍・約7万3000人 と、
奉行衆・毛利方の西軍・約5万4000人の戦い。
■ 全体の戦いの時期 : (広義)
1600年(慶長5年)8月26日頃〜9月23日。
■ 全体の戦いの場所 :
美濃国 (みののくに、現・岐阜県南部
の相当地域)の、
大垣(おおがき)付近と山中(やまなか)付近。
■ 決戦の時期 :
1600年(慶長5年)9月15日
午前10時頃〜正午頃。
■ 決戦の場所 :
山中 (やまなか、美濃国山中村)。
■ 決戦での参加人数 :
徳川方の東軍主力軍・約5万1000人 と、
奉行衆・毛利方の西軍主力軍・約3万人の戦い。
■ 「新説(史実)関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の
戦い)」の、大垣の戦い と 山中の戦い。
● 大垣の戦い。 徳川方の勝利。
時期 : 1600年(慶長5年) 8月26日頃
から9月23日まで。
場所 : 美濃国の大垣付近
(美濃赤坂(みのあかさか)、大垣城
(おおがきじょう)、南宮山(なんぐう
さん)などの地域)。
● 山中の戦い。 徳川方の勝利。
時期 : 1600年(慶長5年)9月15日
の夜明けから正午頃まで。
場所 : 美濃国の山中(やまなか)付近
(関ヶ原盆地南西部、山中(やまなか)、
藤下(とうげ)、松尾山(まつおやま)
山麓などの地域) 。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
◆ 「従来説(伝説)関ヶ原の戦い」
(総合)。
■ 「従来説(伝説)関ヶ原の戦い」は、広義
では、 時期は1600年(慶長5年)の8月
26日頃(東軍の美濃赤坂布陣)から9月
23日(西軍の大垣城落城)までであり、戦
いの場所は美濃国(みののくに、現・岐阜
県南部の相当地域)の関ヶ原盆地と 関ヶ
原盆地の周辺地域であり、 美濃国に集
結した、 徳川方の東軍・約7万人の兵と
石田方の西軍・約8万人の兵の東西両軍・
約15万人の兵が戦う。
その決戦は、主戦場(決戦地)の関ヶ
原盆地であり、 1600年(慶長5年)9月
15日の午前8時頃 から午後2時頃まで、
徳川方 の東軍主力軍と石田方の西軍主
力軍との間で行われ た。
戦いの結果、徳川方の東軍主力軍が
勝利を得る。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
◆ 「従来説(伝説)関ヶ原の戦い」
(総合)。
■ 「従来説(伝説)関ヶ原の戦い」は、
「日本戦史」(明治26年の旧日本陸軍参謀
本部著作)の資料に基づく、関ヶ原の戦い
であり、創作が多く、信憑性(しんぴょうせい)
がない。
(⇒ 関ヶ原の戦い)。
■ 「従来説(伝説)関ヶ原の戦い」は、徳川方の
東軍と石田方の西軍との豊臣氏家臣間の内
部抗争であり、 徳川方の西軍が勝利を得る。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11239。
■ 全体の戦いの中心人物 :
全体の戦いの石田方の西軍の中心人物は、
石田三成である。
一方、全体の戦いの徳川方の東軍の中心
人物は、徳川家康である。
■ 全体の戦いの人数 :
徳川方の東軍・約7万人 と、
石田方の西軍・約8万人の戦い。
■ 全体の戦いの時期 : (広義)
1600年(慶長5年)8月26日頃〜9月23日。
■ 全体の戦いの場所 :
美濃国 (みののくに、現・岐阜県南部
の相当地域)の、
関ヶ原盆地と関ヶ原盆地の周辺。
■ 決戦の時期 :
1600年(慶長5年)9月15日
午前8時頃〜午後2時頃。
■ 決戦の場所 :
美濃国の関ヶ原盆地。
■ 「新説関ヶ原の戦い」と「大垣の戦い」。
■ 新説関ヶ原の戦いでは、 1600年(慶長5年)
9月に、美濃赤坂(みのあかさか)エリアには、
既に、東軍の徳川方の先手勢(豊臣恩顧の大名)
約4万人の兵がいた。
1600年(慶長5年)9月14日に、徳川家康の
率いる東軍の徳川方の徳川本隊・約3万2000人
の兵が美濃赤坂エリアに到着した。
1600年(慶長5年)9月14日に、南宮山(なん
ぐうさん)に布陣し、約1万3000人の兵を率いる
西軍の奉行衆・毛利方の毛利秀元(もうりひでもと)
は、美濃赤坂エリアにいる、東軍の徳川方の先手
勢・約4万人の兵(福島勢・約1万9000人の兵と
池田勢・約2万1000人の兵) と 東軍の徳川方
の徳川本隊・約3万2000人の兵の東軍の徳川方・
計約7万2000人の兵を、南宮山から見た。
そして、西軍の奉行衆・毛利方 の毛利秀元は、南
宮山の陣より、野戦に強い東軍の徳川方の大軍
を見て、西方からの西軍の援軍を待つことにし、
東軍の徳川方と戦いを避け、動かなかった。
更に、1600年(慶長5年)9月15日も、約
1万3000人の兵を率いる南宮山布陣の西軍の
奉行衆・毛利方の毛利秀元は、 徳川方の先手
勢の池田勢・約2万1000人の兵が南宮山の前
面に残留し、行く手を阻み、西軍の主力軍・約3
万人の兵の援軍に駆けつけられず、 関ヶ原盆
地・山中(やまなか)方面に出陣した東軍の徳川
方の主力軍・約5万1000人の兵を挟み撃ちに
できなかった。
大垣城(おおがきじょう)を出た西軍の奉行
衆・ 毛利方の主力軍・約3万人の兵は、 南宮
山布陣の 毛利軍の後詰(ごずめ)として、西方の
山中(やまなか)に布陣し、東方の南宮山布陣の
西軍の毛利秀元の約1万3000人の兵と協力し、
関ヶ原盆地や山中に出てきた東軍の徳川方の
主力軍・約5万1000人の兵 (徳川本隊・約3
万2000人の兵と福島勢・約1万9000人の兵)
を挟み撃ちにしようと考えていた。
しかし、1600年(慶長5年)9月15日に、
東方の南宮山布陣の西軍の毛利秀元は、 東軍
の徳川方の先手勢の池田勢に行く手を阻(はば)
まれて、動けなかった。 このため、西軍の奉行
衆・ 毛利方の南宮山の毛利秀元の援軍もなく、
西軍の奉行人衆・毛利方の主力軍・約3万 の兵
は、山中(やまなか)での決戦で、一方的に攻め
られ、総崩れとなり、その結果、西軍の奉行衆・
毛利方の 主力軍は、 東軍の徳川方の主力軍に
敗北した。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
#thenewtheoryofsekigaharawar-general
◆ 「新説関ヶ原の戦い
(= 大垣・山中の戦い)」。
■ 「新説関ヶ原の戦い
(= 大垣・山中の戦い)」 (総合)。
■ 「新説関ヶ原の戦い」 (= 大垣・山中の戦い(お
おがき・やまなかのたたかい)、慶長庚子の大
乱(けいちょうこうしのたいらん)) は、 関ヶ原
の戦い直後の一次史料(同時代手紙・日記など)
に基づく、「史実の関ヶ原の戦い」である。
■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」には、
「大垣(おおがき) の戦い」 と 「山中(やまなか)
の戦い」 の2つの合戦がある。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 「新説関ヶ原の戦い」(= 大垣・山中 の戦い)で
は、 奉行衆・ 毛利方の西軍の中心人物は、
奉行衆3人(増田長盛、長束正家、前田玄以)
と毛利輝元である。 一方、徳川方の東軍の中
心人物は、徳川家康である。
奉行衆3人とは、 五奉行の中の3人で
あり、増田長盛 (ましたながもり)、 長束正
家(なつかまさいえ)、 前田玄以 (まえだげ
んい) である。
■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」の
決戦は、1600年(慶長5年)9月15日の午前
10時頃から正午頃までの約2時間の間、
美濃国の主戦場の山中(やまなか)で、徳川
方の東軍と奉行衆・毛利方の西軍との間で行
われた戦いである。
徳川方の東軍は、戦いを有利にすすめ、
勝利を得る。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 徳川家康は、 自身の書状で、関ヶ原の戦い
の主戦場は、 「濃州山中」 (のうしゅうやまなか、
美濃国の山中村)) と述べている (「慶長五年
九月十五日付伊達政宗宛徳川家康書状」より)。
■ 「新説関ヶ原の戦い」は、 「大垣・山中の戦い」
の別名であり、 関ヶ原の戦い直後の一次史料
(同時代日記・手紙など)に基づき、 美濃国
の大垣 付近や山中付近で、 1600年(慶長
5年)8月26日頃から9月15日まで、徳川方
の東軍と奉行衆・毛利方の西軍との間で行わ
れた合戦である。
結果は、徳川方の東軍が勝利を得た。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 「新説関ヶ原の戦い」(= 大垣・山中 の戦い)は、
時期は1600年(慶長5年)の(東軍の美濃赤
坂(みのあかさか)布陣の)8月26日頃から
(東西両軍の決戦の)9月15日まであり、
場所は美濃国(みののくに、現・岐阜県南部の
相当地域)の大垣(おおがき)付近や山中(やま
なか)付近であり、 美濃国に結集した、東軍・
約7万3000人、西軍・約5万4000人の東西
両軍・約12万7000人が戦い、 その決戦は、
美濃国の主戦場の山中であり、1600年(慶長
5年)9月15日の午前10時頃から正午頃まで、
徳川方の東軍と奉行 衆(ぶぎょうしゅう)・毛利
(もうり)方の西軍との間で行われた。
戦いの結果、徳川方の東軍が勝利を得る。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 「新説の関ヶ原 の戦い(= 大垣・山中の戦い)」
は、 徳川方の東軍と奉行衆・毛利方の西軍
との間の、豊臣氏家臣間の内部抗争である。
「新説の関ヶ原 の戦い(= 大垣・山中の
戦い)」では、 当初は、大垣城(おおがきじょう)
を攻め落とすことが 「天下之勝負」(天下分け
目の戦いの勝敗を決めること)であった。 しか
し、その決戦は、美濃国の主戦場の山中(やま
なか)で行われた。
徳川方の東軍が有利に戦いをすすめ、勝
利を得た。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
◆ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中
の戦い)」。
■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」
は、1600年(慶長5年)8月26日頃から9月15日
まで、 美濃国 (みののくに、概ね、現・岐阜
県南部の相当地域) の大垣(おおがき)付近
や山中(やまなか)付近で、 徳川方の東軍と
奉行衆・毛利方の西軍が った合戦である。
「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」
には、 「大垣の戦い」 と、 「山中の戦い」 の
2つの合戦がある。
■ 大垣の戦いは、 1600年(慶長5年) 8月
26日頃から9月15日までの戦いである。
最初は、東軍(徳 川方)の徳川方先手勢の
池田勢・福島勢の豊臣恩顧の大名の軍 と、
西軍(奉行衆・毛利方)の本隊の大垣城籠城衆
(駐留軍)との大垣城の攻防戦である。
次に、東軍(徳川方)の徳川方先手勢の池
田勢・福島勢の豊臣恩顧の大名の軍 や (後か
ら来た)徳川本隊の軍 と、 西軍(奉行衆・毛利
方)の、本隊の大垣城籠城衆(駐留軍) や (大
垣城後詰軍として後から来た)南宮山 (なんぐう
さん)東側に布陣する毛利勢の軍 との対峙であ
る。
次に、東軍(徳川方)の徳川方先手勢の
福島勢の豊臣恩顧の大名の軍 や 徳川本隊
の軍 と 西軍(奉行衆・毛利方)の本隊の大垣
城籠城衆(駐留軍)は、関ヶ原分地・山中方面に
移動し、 大垣付近に残留した、東軍(徳川方)
の徳川方先手勢の池田勢の豊臣恩顧の大名の
軍 と、 大垣付近に残留した、西軍(奉行衆・
毛利方)の、大垣城少数残留軍 や 南宮山東
側に布陣する毛利勢の軍 との対峙である。
戦いの結果、徳川方の東軍が勝利を得、
奉行衆・毛利方の西軍が敗北する。
■ 山中の戦いは、 1600年(慶長5年)9月
15日の夜明けから 正午頃までの間の戦いであ
る。
最初に、関ヶ原盆地南西部で、 (大垣付近
から来た)東軍(徳川方)の徳川本隊 や (西軍
から東軍(徳川方)に寝返り関ヶ原盆地南方の
松尾山山麓布陣の)小早川 隊 と、 西軍(奉行
衆・毛利方)の(関ヶ原盆地南西部布陣の)大谷
軍との合戦であり、大谷軍が全滅する。
次に、関が原盆地の南西方向・約2km
にあ る山中(やまなか)で、 東軍 (徳川方)の
(大垣付近の美濃赤坂から来た)徳川方先手勢
の福島勢 や 徳川本隊等の軍 と、 西軍(奉
行衆・毛利方)の(大垣付近の大垣城から来た)
小西・宇喜多・石田・ 島津勢等の軍 との間で行
われた合戦であり、西軍が総崩れとなる。
戦いの結果、徳川方の東軍が勝利を得、
奉行衆・毛利方の西軍が敗北する。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
◆ 「大垣・山中の戦い(= 新説関ヶ原
の戦い)」。
■ 「大垣の戦い」 と 「山中の戦い」。
■ 「大垣・山中の戦い(= 新説の関ヶ原の戦い)」は、
1600年(慶長5年)8月26日頃から9月15日 まで、
美濃国(みののくに、現・岐阜県南部の相当地域)
の大垣(おおがき)付近や山中(やまなか)付近で
徳川方の東軍と奉行衆・毛利方の西軍が戦 った合
戦である。 戦いの結果、徳川方の東軍が勝利をる。
「大垣・山中の戦い(= 新説の関ヶ原の戦い)」
には、 「大垣の戦い」 と、 「山中の戦い」 の
2つの合戦がある。
大垣の戦いは、 1600年 (慶長5年))8月
26日から9月15日までの大垣(おおがき)付近で
の戦いであり、 最初に、東軍(徳川方) の徳川方
先手衆の福島勢や池田勢の軍 と 西軍(奉行衆・
毛利方)の大垣城在留軍との大垣城の攻防戦で
あり、 次に、東軍(徳川方)の徳川本隊や徳川方
先手衆の福島勢・池田勢の軍 と、 西軍(奉行衆・
毛利方)の、大垣城後詰軍として南宮山 (なんぐう
さん)東側に布陣する毛利勢 や 大垣城在留軍
との対峙である。 戦いの結果、徳川方の東軍が
勝利をる。
山中の戦いは、1600年(慶長5年)9月15
日の夜明けから 正午頃までの間の戦いであり、
最初に、関ヶ原盆地西南部で、次に、関が原盆
地の南西方向・約2kmにある主戦場の山中(や
まなか)で行われた戦いである。 戦いの結果、
徳川方の東軍が勝利を得る。
■ 「大垣・山中の戦い(= 新説の関ヶ原の戦い)」
は、 大垣(おおがき )付近や山中(やま なか)
付近で戦われた合戦であ る。
大垣の戦いは、最初に、東軍(徳川方)
の徳川方先手勢 と、 西軍(奉行衆・毛利方)の
大垣城籠城衆(駐留軍)が戦った大垣城攻防戦
の合戦であり、 次に、東軍(徳川方)の徳川本
隊・徳川方先手勢 と、 西軍(奉行衆・毛利方)
の南宮山(なんぐうさん)東側布陣の大垣城後
詰軍の毛利勢や大垣城籠城衆(駐留軍) との
対峙である。 戦いの結果、徳川方の東軍が勝
利を得る。
山中(やまなか)の戦いは、 最初に、東
軍(徳川方)の徳川本隊や西軍から東軍に寝
返り小早川の軍 と、 西軍(奉行衆・毛利方)
の大谷軍とが戦った関ヶ原盆地南西部の合戦
であり、 次に、東軍(徳川方)の徳川方先手勢
の福島勢や徳川本隊等の軍 と、 西軍(奉行衆
・毛利方)の小西・宇喜多・石田・ 島津勢等の軍
とが戦った、主戦場の山中(やまなか)での合戦
である。 戦いの結果、徳川方の東軍が勝利を
得る。
◆ 「大垣・山中の戦い
(= 新説の関ヶ原の戦い)」。
■ 「大垣・山中の戦い(= 新説の関ヶ原の戦い)」では、
「内府ちがひの条々」(ないふちがいのじょうじょう)
を出した豊臣氏・奉行衆3人 (長束正家(なつかま
さいえ)、増田長盛(ましたながもり)、前田玄以(ま
えだげんい)の豊臣氏の3奉行) が、 徳川家康を
弾劾(だんがい)し、それに賛同した大名・武将が
西軍(奉行衆・毛利方)となり、 西軍(奉行衆・毛
利方)の毛利輝元(もうりてるもと)は豊臣大坂城に
入り、 西軍(奉行 衆・毛利方)の宇喜田秀家(うきた
ひでいえい)や 石田三成は、奉行衆・毛利方の西軍
を率いて、東方に出陣し、美濃国で布陣する。
一方、弾劾された徳川家康に味方した大名・
武将は、東軍(徳川方)となる。
■ 「大垣・山中の戦い(= 新説関ヶ原の戦い)」は、
西軍(奉行衆・毛利方)と東軍(徳川方)との豊臣
氏家臣間の内部抗争である。 徳川方が有利に
戦いをすすめ、勝利を得た。
「大垣・山中の戦い(= 新説関ヶ原の戦い)」
では、大垣城 を攻め落とすことが「天下之勝負」
(天下分け目の戦いの勝敗を決めること)であり、
徳川方が有利に戦いをすすめ、勝利を得た。
「大垣・山中の戦い(= 新説関ヶ原の戦
い)」では、 東軍(徳川方)の現場指揮者は、徳
川家康、福島正則、池田輝政であり、 西軍(奉
行衆方)の現場指揮者は、宇喜多秀家、石田三
成、大谷吉継、毛利秀元であり、 また、西軍(奉
行衆・毛利方)の小早川秀秋は、 東軍(徳川方)
に寝返る。
#thenewtheoryofsekigaharawar-thetraditionaltheory
◆ 「伝説(従来説)の関ヶ原
の戦い」。
■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」は、「日本戦
史」 (明治26年の旧日本陸軍参謀本部著作)
の資料に基づく、後世に編集された、関ヶ原の
戦いである。
(注意) 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」は、後
世につくられ、創作が多く、信憑性(しんぴょうせ
い)があまりない。 「物語(伝説)の関ヶ原の戦い」
である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、
石田方の西軍の中心人物は、
石田三成である。
一方、徳川方の東軍の中心人物は、
徳川家康である。
■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」の決戦は、
1600年(慶長5年)9月15日 の午前8時頃か
ら午後2時頃までの約6時間の間、美濃国の
主戦場の関ヶ原盆地で、徳川方の東軍と石田
方の西軍との間で行われた戦いである。 徳川
方の東軍は、苦戦をして、勝利を得る。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」は、広義では、
時期は1600年(慶長5年)の(東軍の美濃 赤坂
布陣の)8月26日頃から9月15日まであり、
場所は美濃国の関ヶ原盆地と関ヶ原盆地の
周辺地域であり、 美濃国に集結した、東軍・約
7万人、西軍・約8万人の東西両軍・約15万人
が戦い、 その決戦は、主戦場の関ヶ原盆地で
あり、 1600年(慶長5年)9月15日の午前8
時頃から午後2時頃まで、 徳川方の東軍と石
田方の西軍との間で行われた。 戦いの結 果、
徳川方の東軍が勝利を得る。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」は、1600年
(慶長5年)8月26日頃から9月15日まで、美
濃国(みののくに、現・岐阜県南部の相当地域)
の関ヶ原盆地と関ヶ原盆地の周辺地域で 、
徳川方の東軍と石田方の西軍との間で行われ
た戦いである。 結果は、徳川方の東軍が勝利
を得る。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」は、 徳川方の
東軍と石田方の西軍との豊臣氏家臣間の内部抗
争である。 結果は、徳川方の東軍が、勝利を
得る。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
#thenewtheoryofsekigaharawar-byperson
◆ 「大垣・山中の戦い(= 新説関ヶ原
の戦い)」。
■ 徳川家康。
■ 「大垣・山中の戦い(= 新説関ヶ原の戦い)」
では、 東方からやって来た、東軍(徳川方)の徳
川家康は、徳川本隊と共に、1600年(慶長5年)
9月14日に、(関ヶ原盆地の桃配山の北東方向
にある)美濃赤坂(みのあかさか)という場所で
布陣し、 西軍(奉行衆・毛利方)の南宮山(なん
ぐうさん)東側に布陣する毛利勢の軍や大垣城
籠城衆(駐留軍) と対峙し、 その後、9月14日
夜に、西軍(奉行衆・毛利方)を追って移動し、
9月15日夜明けに東軍(徳川方)の 徳川家康と
徳川本隊は、関ヶ原地西南部に 移動しそこで西
軍(奉行衆・毛利方)の大谷軍と対峙し戦い勝利
を得、次に、山中(やまなか)に移動し、西軍(奉
行衆・毛利方)の小西・宇喜多・石田・ 島津勢等
の軍と対峙しそこで戦い、勝利を得る。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 徳川家康。
■ 「大垣・山中の戦い(= 新説の関ヶ原の戦
い)」では、 1600年(慶長5年)9月14日に、
東方からやって来た徳川家康は、徳川本隊と共
に、(関ヶ原の桃配山の北東方向にある)美濃赤
坂(みのあかさか) という場所で布陣し、 南宮
山(なんぐ うさん)東側に布陣する毛利勢の軍
や大垣城籠城衆(駐留軍)と対峙 する。
1600年(慶長5年)9月14日夜に、家康と
徳川本隊(約3万2000人)は、 西軍(奉行衆・毛
利方)の主力軍の関ヶ原盆地・山名方面への移動
の情報を聞きつけ、 西軍(奉行衆方)を追って、
徳川方先手勢の福島勢(約1万9000人)と共に、
関ヶ原盆地・山中(やまなか)方面へ移動し、9月
15日夜明けに関ヶ原盆地南西部に移動し、関ヶ
原西南部に布陣する西軍(奉行衆・毛利方)の大
谷 軍(約1200人)と遭遇し戦い勝利を得、 その
後、山中(やまなか)に移動し、山中(やまなか)に
いた西軍(奉行衆・毛利方)の小西・宇喜多・石田・
島津勢等の軍(約3万人)と戦い、勝利を得る。
■ 大谷吉継。
■ 「大垣・山中の戦い(= 新説の関ヶ原の戦い)」
では、 西軍(奉行衆 ・毛利方)の大谷吉継(おおた
によしつぐ) と大谷軍(約1200人)は、北陸方面
から移動してきて、1600年(慶長5年)9月14日
の夜に、関ヶ原盆地西南部に布陣した。
「山中の戦い」の合戦の第1段階として、 16
00年(慶長5年)9月15日夜明けに、 関ヶ原盆地
南西部で、 西軍(奉行衆・毛利方)の先方隊の大
谷軍は、 東軍(徳川方)の徳川本隊の軍と戦い、
更に松尾山山麓から移動して来た、東軍(徳川方)
に寝返った小早川軍と戦い、 挟み撃ちにされて、
大谷吉継は自害(自刃) し、大谷軍は、全滅した。
■ 石田三成。
■ 「大垣・山中の戦い(= 新説の関ヶ原の戦い)」
では、石田三成は、 西軍結成(挙兵)の首謀者
ではなく、 家康と良好な関係にあったが、 西
軍(奉行衆 ・毛利方)の大谷吉継の説得で西軍
に加わる。
■ 「新説の関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」
では、 石田三成は、 豊臣秀吉 の死後、徳川家
康とは友好な関係であったが、 1600年(慶長
の5年)天下分け目の戦い (関ヶ原の戦い(大垣・
山中の戦い)、他の戦い)では、 大谷吉継の説
得で、 西軍(奉行衆 ・毛利方)に加わり、敗れて、
捕まり、処刑される(斬首される)。
■ 「新説関ヶ原の戦い」の決戦時の
石田三成の動き。
■ 西軍の奉行衆・毛利方の石田三成は、 16
00年(慶長5年)9月14日の日没後に、大垣
城から出て、以前から築いておいた、山中(や
まなか)付近の藤下(と うげ、関ヶ原盆地の笹
尾山から南3km)の自害峯(じがいみね)と
いう場所に午前4時頃、布陣し、石田三成は、
その後、他の西軍の諸将と合流するため、
自害峯のすぐ近くの山中(やまなか)に移動し、
大垣付近から移動してくるかもしれない東軍
の徳川方の東軍主力軍 や 裏切るかもしれ
ない松尾山山麓に布陣する西軍(奉行衆方)
の小早川秀秋の軍に備え,、そして、石田三
成は、午前10時頃から正午頃まで、山中(や
まなか)で、西軍主力軍の一翼を担い、大垣
付近から移動してきた東軍の徳川方の東軍
主力軍と決戦を行い、敗北する。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 石田三成。
■ 「大垣・山中の戦い(= 新説の関ヶ原の戦
い)」では、 西軍(奉行衆・毛利方)の石田三成
は、1600年(慶長5年)8月26日から9月14日
まで、 大垣城で籠城し、東軍(徳川方)と大垣
城攻防戦を行う。
西軍(奉行衆・毛利方)の南宮山の大垣
城後詰軍の毛利勢が9月15日 以後に予想され
る東軍(徳川 方)から攻撃を受け敗北すると西
軍(奉行衆・毛利方)が駐留する大垣城が孤立し
不利になるので、 石田三成は、9月15日の東
軍(徳川方)による西軍(奉行衆・毛利方)の南
宮山布陣の毛利勢への攻撃に備えて(の後詰
として)、 1600年(慶長5年)9月14日の日没
後、大垣城を出て、関ヶ原盆地・山中(やまなか)
方面へ向う。
石田三成は、9月15 日の午前四時頃、
山中(やまなか)近くの、(関ヶ原の笹尾山から
南3kmの)藤下(とうげ)の (以前より整備して
いた)自害峯(じがいみね)という場所に布陣し、
石田三成は、大垣付近から来るかもしれない
東軍(徳川方)の軍 や 東軍(徳川方)に寝返
るかもしれない松尾山山麓に布陣する西軍(奉
行衆・毛利方)の小早川秀秋の軍と対峙する。
石田三成は、すぐ近くの山中(やまなか)に
移動し、 9月15日の午前10時頃から正午頃ま
で、 大垣付近から追って来て山中に現れた東
軍(徳川方)の徳川方先手勢の福島勢や徳川本
隊等の軍と戦い、敗北する。
■ 石田三成。
■ 一次史料に基づく「新説の関ヶ原の戦い(= 大
垣・山中の戦い)」(1600年(慶長5年)8月26
日ー9月15日)では、 9月15日以後に西軍(奉
行衆・毛利方)の南宮山(なんぐうさん)の 大垣城
後詰軍の毛利勢が東軍(徳川方)から攻撃を受
けて敗北すると西軍(奉行衆・毛利方) の拠点の
大垣城が孤立し不利となるので、 大垣城に駐
留していた西軍(奉行衆・毛利方)の小西・宇喜
多・石 田・島津勢等の軍は、1600年(慶長5年)
9月15日以後に予想される東軍(徳川方)による
西軍(奉行衆・毛利方) の南宮山の毛利勢への
攻撃に備えて(の後詰として)、 1600年(慶長
5年)9月14日の日没後、大垣城を出て、関ヶ原
盆地・山中(やまなか)方面へ向い、 西軍(奉行
衆方)の小西・宇喜多・石 田・島津勢等の軍は、
9月15日の未明に、 山中(やまなか)付近に布
陣し、 大垣付近から来るかも しれない東軍
(徳川方)の軍 や 松尾山山麓に布陣し裏切
るかもしれない西軍(奉行衆・毛利方)の小早川
秀秋の軍に備える。
西軍(奉行衆 ・毛利方)の小早川秀秋は、
1600年(慶長5年)9月14日に、松尾山山麓
に布陣する。
石田三成は、 1600年(慶長5年)9月14
日の日没後に、大垣城から出て、山中(やまな
か)付近の(関ヶ原盆地の笹尾山から南3kmに
ある)藤 下(とうげ)の 自害峯(じがいみね)とい
う場所に、午前4時頃、布陣し、石田三成は、
大垣付近から来るかもしれない東軍(徳川方)の
軍 や 東軍(徳川方)に寝返るかもしれない松尾
山山麓に布陣する西軍(奉行衆・毛利方)の小早
川秀秋の軍と対峙する。 その後、石田三成は、
すぐ近くの山中(やまなか)に移動し、9月15日の
午前10時頃から正午頃まで、 大垣付近から追っ
て来て山中(やまなか)に現れた東軍(徳川方)の
徳川方先手勢の福島勢や徳川本隊等の軍と戦い、
敗北する。
■ 小早川秀秋。
■ 「大垣・山中の戦い(= 新説の関ヶ原の戦い)」
では、 西軍(奉行衆・毛利方) の小早川秀秋は、
東軍(徳川方)に寝返る。
■ 西軍(奉行衆・毛利方)の小早川秀秋は、 16
00年(慶長5年)9月14日に、関ヶ原盆地の南
西方向の、松尾山(まつおやま)に布陣する西
軍(奉 行衆・毛利方)の伊藤盛正(いとうもりま
さ)を追いだし、松尾山山麓に布陣する。
1600年(慶長5年)9月15日の夜明けに、
関ヶ原盆地南西部で、東軍(徳川方)の徳川本隊
が、西軍(奉行衆・毛利方) の大谷軍を攻撃してい
る時、 西軍(奉行衆・毛利方)の小早川秀秋は、
東軍(徳川方)に寝返り、大谷軍を攻撃し、挟み撃
ちにして、大谷軍を全滅させる。
#thenewtheoryofsekigaharawar-oogakibattle
◆ 大垣の戦い。
■ 大垣の戦いの場所 : 美濃国の大垣(おおがき )
の付近 (美濃赤坂、大垣城、南宮山(なんぐうさ
ん)東側の付近)。
大垣の戦いの時期 : 1600年(慶長5年) 8月
26日〜9月15日。
● (S) 「大垣の戦いの西軍(奉行衆・毛利方)
参加軍」は、
@ 大垣城籠城衆(駐留軍)
( 8月26日〜9月14日:約3万3500人、
小西・宇喜多・石田・島津勢等の軍・約3万人
や 福原・熊谷・垣見・秋月・相良等の軍・約
3500人、 9月15日:約3500人のみ、
福原・熊谷・垣見・秋月・相良等の残留軍)
A 南宮山の毛利勢の軍
(9月7日〜9月15日、約1万 3000人、毛利
秀元・吉川・安国寺・長束・長宗我部等の軍)
の計約4万6500人である。
● (T) 「大垣の戦いの東軍(徳川方)参加軍」は、
@ 東軍(徳川方)の徳川方先手勢の福島勢の 軍
(8月26日〜9月14日、約1万9000人、
福島・黒田・細川・藤堂・筒井・田中・加藤
嘉明・京極高知等の軍)
A 徳川方先手勢の池田勢の軍
( 8月26日〜9月15日、約2万1000人、
池田・山内・堀尾・有馬・松下・浅野幸長等
の軍) 、
B 東軍(徳川方)の徳川本隊
(9月14日、約3万2000人、徳川家康、井伊
直政、本多忠勝、家康馬廻り衆等の軍)
の計約72000人である。
■ 1600年(慶長5年)9月に、美濃赤坂(みのあか
さか)エリアには、既に、東軍の徳川方の先手勢(豊
臣恩顧の大名)約4万人の兵がいた。
1600年(慶長5年)9月14日に、徳川家康の
率いる東軍の徳川本隊・約3万2000人の兵が美濃
赤坂エリアに到着した。
1600年(慶長5年)9月14日に、南宮山(なん
ぐうさん)に布陣し、約1万3000人の兵を率いる毛
利秀元(もうりひでもと)は、美濃赤坂エリアにいる、
徳川方の先手勢・約4万人(福島勢・約1万9000
人と池田勢・約2万1000人)と徳川本隊・約3万
2000人の東軍の計約7万2000人の兵を、南宮
山から見た。 そして、西軍の毛利秀元は、南宮山
の陣より、野戦に強い、東軍の徳川方の大軍を見
て、東軍の徳川方と戦うのを躊躇(ちゅうちょ)した、
即ち、強力な東軍の徳川方の大軍を見て、勝ち目
がないとみて、西方からの西軍の援軍の到着を待
ち、戦いを避ける。
更に、1600年(慶長5年)9月15日も、西軍
の毛利秀元は、 東軍の徳川方と戦うのを躊躇(ち
ゅうちょ)した。
大垣城(おおがきじょう)を出た奉行衆・ 毛利方
の西軍の主力軍・約3万人の兵は、 南宮山布陣の
毛利軍の後詰(ごずめ)として、西方の山中(やまな
か)に布陣し、東方の南宮山布陣の西軍の毛利秀元
の約1万3000人の兵と協力し、関ヶ原盆地や山中
に出てきた東軍の徳川方の主力軍・約51,000人
の兵 (徳川本隊・約3万2000人と福島勢・約1万
9000人)を挟み撃ちにしようと考えていた。
しかし、1600年(慶長5年)9月15日に、東方
の南宮山布陣の西軍の毛利秀元は、動かず、戦い
を静観した。 このため、奉行衆・ 毛利方の西軍の
主力軍・約3万人の兵は、山中で、一方的に攻めら
れ、総崩れとなり、その結果、奉行衆・ 毛利方の西
軍は、新説関ヶ原の戦いの決戦の「山中の戦い」で、
敗北した。
● 〈第1段階〉
1600年(慶長5年)8月26日から9月13日まで、
美濃国の大垣城周辺で、
(S) 西軍(奉行衆・毛利方)の、大垣城籠城衆
(駐留軍)(約3万3500人) や 南宮山
の毛利勢の軍(約1万3000人、9月7日
〜13日)
と、
(T) 東軍(徳川方)の、徳川方先手勢の福島勢
の軍(約1万9000人) や 徳川方先手
勢の池田勢の軍 (約2万1000人)
とが対峙し戦う。
結果、大垣城攻防戦で大垣城は落城せず。
● 〈第2段階〉
1600年(慶長5年)9月14日の昼間に、
美濃国の南宮山東側や大垣城周辺で、
(S) 西軍(奉行衆・毛利方)の、 大垣城籠城衆
(駐留軍)(約3万3500人) や 南宮山
の毛利勢の軍(約1万3000人)
と、
(T) 東軍(徳川方)の、徳川本隊(約3万2000
人) や 徳川方先手勢の福島勢の軍(約
1万9000人)、徳川方先手勢の池田勢 の
軍 (約2万1000人)
とが対峙する。
結果、 西軍(奉行衆・毛利方)の南宮山布
陣の毛利勢(約1万3000人)は、 9月14日の
昼間、東軍(徳川方)合計・約7万2000人の大
軍に恐れをなして戦わず。
一方、 西軍(奉行衆・毛利方)は、9月15
日以後の南宮山の毛利勢攻撃に備えて (南宮
山布陣の毛利勢が敗退すれば西軍の大垣城が
孤立し不利となるので、南宮山の毛利勢の後詰
軍(後援軍)として)、 西軍(奉行衆・毛利方)の
大垣城籠城衆(駐留軍)(約3万3500人)は、
9月14日の日没後、大垣城に残留在番衆部隊
(約3500人)を残して、 大垣城を出て、関ヶ原
盆地・山中方面へ向う。 それを知った東軍(徳
川方)は、9月14日夜、 西軍(奉行衆・毛利方)
の小西・宇喜多・石 田・島津勢等の軍(約3万人)
の主力軍を追撃するため、 徳川方先手勢の池
田勢の 軍(約2万1000人)を大垣付近に残して、
徳川本隊(約3万2000人)と徳川方先手勢の
福島勢の軍(約 1万9000人)の主力軍が、関ヶ
原盆地・山中方面へ向う。
● 〈第3段階〉
1600年(慶長5年)9月15日に、
美濃国の南宮山東側や大垣城周辺で、
(S) 西軍(奉行衆・毛利方)の、南宮山 の毛利勢
の軍(約1万3000人) や 大垣城残留勢
(約3500人)
と、
(T) 東軍(徳川方)の徳川方先手勢の池田勢の
軍 (約2万1000人)
とが対峙する。
結果、 山中(やまなか)の戦いでの西軍(奉
行衆方)の敗北を知り、 西軍(奉行衆・毛利方)の
南宮山の毛利勢は戦場を離脱し(追撃され)、
東軍(徳川方)が勝利を得る。
一方、大垣城残留勢 (約3500人、福原・熊
谷・垣見・秋月・相良等の軍)は、戦いを続ける。
■ 「新説関ヶ原の戦い」と「大垣の戦い」。
■ 新説関ヶ原の戦いでは、 1600年(慶長5年)
9月に、美濃赤坂(みのあかさか)エリアには、
既に、東軍の徳川方の先手勢(豊臣恩顧の大名)
約4万人の兵がいた。
1600年(慶長5年)9月14日に、徳川家康の
率いる東軍の徳川方の徳川本隊・約3万2000人
の兵が美濃赤坂エリアに到着した。
1600年(慶長5年)9月14日に、南宮山(なん
ぐうさん)に布陣し、約1万3000人の兵を率いる
西軍の奉行衆・毛利方の毛利秀元(もうりひでもと)
は、美濃赤坂エリアにいる、東軍の徳川方の先手
勢・約4万人の兵(福島勢・約1万9000人の兵と
池田勢・約2万1000人の兵) と 東軍の徳川方
の徳川本隊・約3万2000人の兵の東軍の徳川方・
計約7万2000人の兵を、南宮山から見た。
そして、西軍の奉行衆・毛利方 の毛利秀元は、南
宮山の陣より、野戦に強い東軍の徳川方の大軍
を見て、西方からの西軍の援軍を待つことにし、
東軍の徳川方と戦いを避け、動かなかった。
更に、1600年(慶長5年)9月15日も、約
1万3000人の兵を率いる南宮山布陣の西軍の
奉行衆・毛利方の毛利秀元は、 徳川方の先手
勢の池田勢・約2万1000人の兵が南宮山の前
面に残留し、行く手を阻み、西軍の主力軍・約3
万人の兵の援軍に駆けつけられず、 関ヶ原盆
地・山中(やまなか)方面に出陣した東軍の徳川
方の主力軍・約5万1000人の兵を挟み撃ちに
できなかった。
大垣城(おおがきじょう)を出た西軍の奉行
衆・ 毛利方の主力軍・約3万人の兵は、 南宮
山布陣の 毛利軍の後詰(ごずめ)として、西方の
山中(やまなか)に布陣し、東方の南宮山布陣の
西軍の毛利秀元の約1万3000人の兵と協力し、
関ヶ原盆地や山中に出てきた東軍の徳川方の
主力軍・約5万1000人の兵 (徳川本隊・約3
万2000人の兵と福島勢・約1万9000人の兵)
を挟み撃ちにしようと考えていた。
しかし、1600年(慶長5年)9月15日に、
東方の南宮山布陣の西軍の毛利秀元は、 東軍
の徳川方の先手勢の池田勢に行く手を阻(はば)
まれて、動けなかった。 このため、西軍の奉行
衆・ 毛利方の南宮山の毛利秀元の援軍もなく、
西軍の奉行人衆・毛利方の主力軍・約3万 の兵
は、山中(やまなか)での決戦で、一方的に攻め
られ、総崩れとなり、その結果、西軍の奉行衆・
毛利方の 主力軍は、 東軍の徳川方の主力軍に
敗北した。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 「大垣の戦い」。
■ 「大垣の戦い (おおがきのたたかい)」とは、
美濃国 (みののくに、現・岐阜県南部の相当地
域)の大垣(おおがき)付近 (美濃赤坂、大垣城、
南宮山東側の付近)で、 1600年(慶長5年)
8月26日から9月15日まで、 徳川方の東軍 と
奉行衆・毛利方の西軍 との間で行われた合戦で
ある。 戦いの結果、徳川方の東軍が勝利を得る 。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 大垣の戦い。
■ 「大垣の戦い」では、 第一段階として、大垣
城の攻防戦で、1600年(慶長5年)8月26日か
ら9月13日まで、東軍(徳川方)の徳川方先手
勢の福島勢、池田勢の豊臣恩顧大名の軍 (約
4万人)と西軍(奉行衆・毛利方)の大垣 城在留
軍との間で大垣城攻防戦が戦われ、 1600年
(慶長5年)9月 7日に南宮 山(なんぐうさん)に
大垣城後詰軍の西軍(奉行衆方)の毛利勢が布
陣する。
第2段階として、西軍(奉行衆・毛利方)の
大垣城後詰軍の毛 利勢を降参させ西軍(奉行
衆・毛利方)拠点の大垣城を孤立させるため、
1600年(慶長5年)9月14日に、東軍(徳川方)
の徳川家康は、東方 から来て美濃赤坂(みのあか
さか)付近に布陣し、西軍(奉行衆・毛利方)の毛
利勢や大垣城籠城衆(駐留軍)と対峙し、 西軍
(奉行衆・毛利方)の南宮山の大垣城後詰軍の
毛利勢は、9月14日に、東軍(徳川方)の大軍を
恐れて戦わず、即ち、強力な東軍の徳川方の大
軍を見て、勝ち目がないとみて、西方からの西軍
の援軍の到着を待ち、戦いを避ける。
第3段階として、その後、西軍(奉行衆・毛利
方)の南宮山の毛利勢は、9月15日に、戦場を離
脱し(追撃され)、東軍(徳川方)は勝利を得る。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 大垣の戦い。
■ 大垣(おおがき )の戦いでは、 1600年(慶
長5年)8月26日頃から、東軍(徳川方)の徳川方
先手勢の福島勢、池田勢の豊臣恩顧大名の軍
は、美濃赤坂(みのあかさか)付近に布陣し、
西軍(奉行衆・毛利方)の拠点の大垣城(おおが
きじょう)へ向い、西軍(奉行衆・毛利方)の大垣
城籠城衆(駐留軍)への攻防戦が開始される。
その後、大垣城の西方にある南宮山(なんぐう
さん)東側に9月7日より布陣する大垣城後詰軍
の約1万3000人の西軍(奉行衆・毛利方)の
毛利 勢を攻め降伏させ大垣城を孤立させるた
め、1600年(慶長5年)9月14日 の昼間に、
東方から来て美濃赤坂に入った東軍(徳川方)
の徳川家康率いる約3万2000人の徳川本隊
(井伊直政、本多忠勝、家康馬廻り 衆等の軍)
は、 東軍(徳川方)の徳川方先手勢の福島勢・
池田勢(計・約4万人)と共に、 西軍(奉行衆・
毛利方)の毛利勢の軍 (約1万3000人)や大
垣城籠城衆(駐留軍)(約3万3500人) と対
峙する。
しかし、9月14日の昼間、西軍(奉行衆・
毛利方)の南宮山東側布陣の毛利勢の軍(約1
万3000人)は、 大垣付近にいる東軍(徳川方)
の大軍・計約7万2000人に恐れをなし戦わず 、
即ち、毛利秀元は、強力な東軍の徳川方の大軍
・計約7万2000人を南宮山より見て、勝ち目が
ないとみて、西方からの西軍の援軍の到着を待
ち、静観し、戦いを避ける。
一方、 西軍の小西・宇喜多・石田・ 島津
勢 などの軍(約3万人)が9月14日の日没後
に、大垣城を出て関ヶ原盆地・山中(やまなか)
方面に転進(移動)したことを東軍(徳川方 ) は
知り、 東軍(徳川方)は、 西軍(奉行衆・毛利
方)の南宮山の毛利勢や大垣城残留勢に対峙
させるため、徳川方先手勢の池田勢(約2万
1000人)を南宮山東側に残し、 9月14日夜、
大垣付近の東軍(徳川方)の徳川本隊や徳川方
先手勢の福島 勢等の軍は、 西軍(奉行衆・毛
利方)を追って(追撃するため)、関ヶ原盆地・山
中(やまなか)方面へ移動する。
9月15日に、山中(やまなか)の戦いでの
東軍(徳川方)の勝利・西軍(奉行衆・毛利方)の
敗戦を知り、 西軍(奉行衆・毛利方)の 南宮山の
毛利勢の軍は、戦場を離脱する (そして、追撃さ
れる)。
■ 大垣の戦い。
■ 「大垣・山中の戦い(= 新説の関ヶ原の戦い)」
の1つの、「大垣の戦い」では、 合戦の第1段階と
して、大垣城の攻防戦で、1600年(慶 長5年)
8月26日から 9月13日まで、 東軍(徳川方)の
徳川方先手勢の福島勢・池田勢の豊臣恩顧大
名の軍(約4万人)は、 美濃赤坂(みのあかさ
か)付近に布陣し、西軍(奉行衆・毛利方)の拠
点の大垣城(おおがきじょう)の大垣城籠城衆
(駐留軍)(約3万3500人)を攻め、大垣城の攻
防戦を行うが、 大垣城は落城せず。 一方、
1600年(慶長5年)9月7日に、南宮山(なんぐ
うさん)に、西軍(奉行衆・毛利方)の大垣城 後
詰軍の毛利勢(約1万3000人)が布陣する。
「大垣の戦い」では、美濃国(みののくに、
現・岐阜県南部の相当地域)で、 豊臣恩顧の
徳川方の東軍の諸将は、 岐阜城攻略・落城
後、 西軍(奉行衆・毛利方)の美濃の本拠地の
大垣城(おおがきじょう)に近い美濃赤坂(みの
あかさか)付近に布陣し、大垣城攻防戦を行っ
ていたが、9月7日に大垣城の西方の南宮山
(なんぐうさん)に大垣城後詰部隊の毛利勢(約
1万3000人)が布陣し、それ以後圧力を受け、
総大将の徳川家康と徳川本隊(約3万2000人)
の到着を待っていた。
合戦の第2段階として、西軍(奉行衆・毛利
方)の大垣城後詰軍の毛利勢(約1万3000人)を
降参させ大垣城を孤立させるため、 1600年
(慶長5年)9月14日に、東方から来た東軍(徳
川方)の徳川家康は、徳川本隊(約3万2000人、
井伊直政・本多忠勝・家康馬廻り衆等の軍)と共
に、美濃赤坂(みのあかさか)付近に布陣し、
1600年(慶長5年)9月14日 の昼間に、東軍
(徳川方)の徳 川家康と徳川本隊(約3万2000
人) や 徳川方先手勢の福島勢・池田勢 (約4
万人)は、 西軍(奉行衆・毛利方)の南宮山の
大垣城後詰軍の毛利勢(約1万3000人) や
大垣城籠城衆(駐留軍)(約3万3500人) と対
峙し、 9月15 日以降に、 東軍(徳川方)は、
南宮山の毛利 勢や大垣城籠城衆の駐留軍を
総攻撃する予定であった。
しかし、9月14日の昼間、南宮山 の西軍
(奉行衆・毛利方)の南宮山東側布陣の毛利勢
の軍(約1万3000人)は、 大垣付近にいる東
軍(徳川方)の大軍・計約7万2000人に恐れを
なし戦わず、即ち、強力な東軍の徳川方の大軍
を見て、勝ち目がないとみて、西方からの西軍
の援軍の到着を待ち、戦いを避ける。
一方、9月15日以降に予想される東軍
(徳川方)による西軍(奉行衆方)の南宮山の毛
利勢攻撃に備えて、9月14日に、日没後、毛利
勢後詰軍(後援軍)として、西軍(奉行衆・毛利
方)の大垣城籠城衆(駐留軍)の小西・宇喜多・
石田・島津勢等の軍(約3万人)は、 大垣城に
残留勢(約3500人)を残して、 大垣城を出て 、
関ヶ原盆地・山中(やまなか)方面へ転進 する
(移動する)。
その後、合戦の第3段階として、1600年
(慶長5年)9月15日に、山中 (やまなか)の戦
いでの西軍(奉行衆・毛利方)の敗北を知り、
西軍(奉行衆・毛利方)の南宮山の毛利勢は戦
場を離脱し (追撃され)、東軍(徳川方)は勝利を
得た。
また、1600年(慶長5年)9月15日の山中
(やまなか)の戦いで東西両軍の戦いの西軍(奉
行衆・毛利方)の敗北の趨勢が決した後も、 西
軍(奉行衆・毛利方)の福原・ 垣見・熊谷・秋月・
相良の大垣城残留 勢(約3500人)は、戦いを
続け、 寝返りも出て、最後に、9月23日に、東軍
(徳川方)に降伏し、大垣城は開城する。
戦いの結果、徳川方の東軍が勝利を得、
奉行衆・毛利方の西軍が敗北する。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
#thenewtheoryofsekigaharawar-yamanakabattle
◆ 山中の戦い。
■ 山中の戦いの時期 : 1600年(慶長5年)
9月15日の夜明け〜正午頃。
山中の戦いの場所 : 美濃国の山中(やまなか)
付近 (関ヶ原盆地西南部、山中の付近) 。
● (S) 「山中の戦いの西軍(奉行衆方)参加軍」は、
@ 関ヶ原盆地南西部布陣の先方隊の大谷軍
(約1200人)、
B 山中(やまなか)付近に布陣し、山中に移動
して戦った小西・宇喜多・石 田・島津勢等の軍
(約3万人)
の計約3万1200人である。
● (T) 「山中の戦いの東軍(徳川方)参加軍」は、
@ 関ヶ原盆地西南部、次に山中(やまなか) に
移動して戦った東軍(徳川方)の徳川本隊
(約3万2000人、徳川家康、井伊直政、
本多忠勝、家康馬廻り衆等の軍)、
A 松尾山山麓に布陣し、西軍から東軍に寝返り、
関ヶ原盆地南西部に移動し戦った小早川軍
(約8000人)、
B 山中(やまなか)に移動して戦った東軍(徳川
方)の徳川方先手勢の福島勢の軍(約1万
9000人、福島・黒田・細川・藤堂・筒井・田中・
加藤嘉明・京極高知等の軍)
の計約5万9000人である。
● 〈第1段階〉
1600年(慶長5年)9月15日の夜明け、
美濃国の関ヶ原盆地 西南部で、
(S) 西軍(奉行衆・毛利方)の先方隊の大谷軍
(約1200人)
と、
(T) 東軍(徳川方)の徳川本隊(約3万2000
人) や この時東軍に寝返った西軍(奉行
衆・毛利方)の小早川軍(約8000人)
とが対峙し、戦う。
結果、 西軍(奉行衆・毛利方)の大谷軍は
全滅し、 東軍(徳川方)は勝利を得る。
● 〈第2段階〉
1600年(慶長5年)9月15日の午前10時頃 から
正午頃まで、
美濃国の山中(やまなか)で、
(S) 西軍(奉行衆・毛利方)の小西・宇喜多・石田・
島津勢等の軍(約3万人)
と、
(T) 東軍(徳川方)の徳川方先手勢の福島勢の
軍(約1万9000人)や徳川本隊(約3万2000
人)
とが対峙し、戦う。
結果、 西軍(奉行衆・毛利方)は、総崩れとな
り敗走し、敗北し、東軍(徳川方)が勝利を得る。
■ 「新説関ヶ原の戦い」と「大垣の戦い」。
■ 新説関ヶ原の戦いでは、 1600年(慶長5年)
9月に、美濃赤坂(みのあかさか)エリアには、
既に、東軍の徳川方の先手勢(豊臣恩顧の大名)
約4万人の兵がいた。
1600年(慶長5年)9月14日に、徳川家康の
率いる東軍の徳川方の徳川本隊・約3万2000人
の兵が美濃赤坂エリアに到着した。
1600年(慶長5年)9月14日に、南宮山(なん
ぐうさん)に布陣し、約1万3000人の兵を率いる
西軍の奉行衆・毛利方の毛利秀元(もうりひでもと)
は、美濃赤坂エリアにいる、東軍の徳川方の先手
勢・約4万人の兵(福島勢・約1万9000人の兵と
池田勢・約2万1000人の兵) と 東軍の徳川方
の徳川本隊・約3万2000人の兵の東軍の徳川方・
計約7万2000人の兵を、南宮山から見た。
そして、西軍の奉行衆・毛利方 の毛利秀元は、南
宮山の陣より、野戦に強い東軍の徳川方の大軍
を見て、西方からの西軍の援軍を待つことにし、
東軍の徳川方と戦いを避け、動かなかった。
更に、1600年(慶長5年)9月15日も、約
1万3000人の兵を率いる南宮山布陣の西軍の
奉行衆・毛利方の毛利秀元は、 徳川方の先手
勢の池田勢・約2万1000人の兵が南宮山の前
面に残留し、行く手を阻み、西軍の主力軍・約3
万人の兵の援軍に駆けつけられず、 関ヶ原盆
地・山中(やまなか)方面に出陣した東軍の徳川
方の主力軍・約5万1000人の兵を挟み撃ちに
できなかった。
大垣城(おおがきじょう)を出た西軍の奉行
衆・ 毛利方の主力軍・約3万人の兵は、 南宮
山布陣の 毛利軍の後詰(ごずめ)として、西方の
山中(やまなか)に布陣し、東方の南宮山布陣の
西軍の毛利秀元の約1万3000人の兵と協力し、
関ヶ原盆地や山中に出てきた東軍の徳川方の
主力軍・約5万1000人の兵 (徳川本隊・約3
万2000人の兵と福島勢・約1万9000人の兵)
を挟み撃ちにしようと考えていた。
しかし、1600年(慶長5年)9月15日に、
東方の南宮山布陣の西軍の毛利秀元は、 東軍
の徳川方の先手勢の池田勢に行く手を阻(はば)
まれて、動けなかった。 このため、西軍の奉行
衆・ 毛利方の南宮山の毛利秀元の援軍もなく、
西軍の奉行人衆・毛利方の主力軍・約3万 の兵
は、山中(やまなか)での決戦で、一方的に攻め
られ、総崩れとなり、その結果、西軍の奉行衆・
毛利方の 主力軍は、 東軍の徳川方の主力軍に
敗北した。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 「新説関ヶ原の戦い」と「山中の戦い」。
■ 新説関ヶ原の戦いの「山中(やまなか)戦い」では、
第1段階では、1600年(慶長5年)9月 15日の夜
明けに、関ヶ原盆地南西部に布陣する西軍の奉
行衆・毛利方の先方隊・大谷吉継軍を、大垣付近
から移動して来た東軍の徳川方の徳川本隊と松
尾山麓布陣の西軍の奉行衆・毛利方で東軍寝返
りの小早川秀秋(こばやかわひであき)の軍が挟
み撃ちにして全滅させ、 その後、第2段階では、
9月15日の午前10時頃より、大垣付近から来た
東軍の徳川方の、先手衆・福島勢と徳川本隊の
東軍主力軍が、山中村に布陣する宇喜多秀家、
石田 三成等の率いる西軍主力軍と決戦を行い、
正午頃に西軍主力軍が総崩れとなり、 西軍の
奉行衆・毛利方の主力軍は、最終的に、徳川家
康の率いる東軍の徳川方の主力軍に敗北した。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 「山中の戦い」。
■ 「山中の戦い( やまなかのたたかい)」 とは、
美濃国 (みののくに、現・岐阜県南部の相当地
域)の山中(やまなか)付近 (関ヶ原盆地西南部、
山中の付近)で、1600年(慶長5年) 9月15日
の夜明けから正午頃まで、 徳川方の東軍 と
奉行衆・毛利方の西軍 との間で行われた合戦
である。 戦いの結果、徳川方の東軍が勝利を
得る。
■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」の、
「山中の戦い」の、主戦場は、 美濃国(みののく
に、現・岐阜県南部相当地域)の、関ヶ原盆地で
はなく、 関ヶ原盆地の南西 方向・約2kmにあ
る美濃国の山中(やま なか)であった。
■ 「山中の戦い」。
■ 「大垣・山中の戦い(= 新説関ヶ原の戦い)」
の1つの「山中の戦い」は、 1600年(慶長5年)
9月15日に、 美濃国の、関ヶ原盆地西南部
や 関ヶ原盆地の南西方向・約2kmにある
美濃国・山中(やまなか)で、 西軍(奉行衆・
毛利方)の小西・宇喜多・石田・島津勢等の軍
や大谷軍 と、 東軍(徳川方)の徳川方先手
勢の福島勢、 徳川本隊、(西軍から東軍に寝
返った)小早川軍などの軍 が戦った合戦であ
り、 戦いの結果、徳川方の東軍が勝利を得、
奉行衆・毛利方の西軍が敗北する。
■ 「山中の戦い」。
■ 「山中の戦い」では、 第一段階として、関ヶ
原盆地南西部で、1600年(慶長5年)9月15日
の夜明けに、 関ヶ原盆地西南部で、東軍(徳
川方)の 徳川本隊や(西軍から東軍へ寝返っ
た)小早川軍 と、 西軍(奉行衆・毛利方)の
大谷軍との間で戦われ、 西軍(奉行衆・毛利
方)の大谷軍が全滅した。
■ 「山中の戦い」では、 第2段階として、
関が原盆地の南西方向・約2kmにある主戦場
の山中(やまなか)で、1600年(慶長5年) 9月
15日の午前10時頃から正午頃までの間、
東軍(徳川方)の徳川方先手勢の福島勢、徳川
本隊 などの軍 と、 西軍(奉行衆・毛利方)の
小西・宇喜多・石田・島津勢 などの軍との間で
戦われ、 西軍(奉行衆 ・毛利方)が総崩れとな
り敗走し、敗北し、徳川方の東軍が勝利を得る。
■ 山中の戦い。
■ 山中(やまなか)の戦いでは、西軍(奉行衆・毛
利方) の小早川 秀秋は、 松尾山(まつおやま)に
いた西軍(奉行衆・毛利方)の伊藤盛正(いとうも
りまさ)を追いだし松尾山を占拠し、1600年(慶
長5年)9月14日に、松尾山山麓に布陣する。
山中(やまなか)の戦いでは、 西軍 (奉行衆・
毛利方)は、 9月14日夜に大谷吉継の軍は関ヶ
原盆地南西部に布陣し、 9月15日未明に小西
行長、宇喜多秀家、石田三成、島津勢(島津義弘・
島津豊久)の軍は、 山中(やまなか)付近に布陣
する。
石田三成の軍は、 山中付近の藤下(とうげ)
の(以前より整備していた)自害峰(じがいみね)
という場所に布陣し、その後、すぐ近くの山中(や
まなか)に移動し、山中へ攻めてきた東軍(徳川
方)と戦う。
第1段階として、関ヶ原盆地南西部で、東軍
(徳川方)の 徳川本隊が、1600年(慶長5年)9
月15日の夜明けに西軍(奉行衆 ・毛利方)の先
方隊の大谷軍と戦い、 更に西軍(奉行衆・毛利
方)の小早川秀秋の小早川軍が東軍(徳川方)に
寝返り、後 方から西軍(奉行衆・毛利方)の大谷軍
を攻め、 挟み撃ちにして、大谷軍を全滅させる。
第2段階として、その後、9月15日午前10
時頃から正午頃までの約2時間、 東軍(徳川方)
の徳川方先手勢の福島勢や徳川本隊等の軍は、
西軍(奉行衆方)の小西・宇喜多・石田・島津勢等
の軍と山中(やまなか)で戦い、 山中で防戦する
西 軍(奉行衆・毛利方)の小西・宇喜多・石 田・
島津勢等の軍は、総崩れとなり敗走し、敗北し、
徳川方の東軍が勝利を得る。
■ 山中の戦い。
■ 「大垣・山中の戦い(= 新説の関ヶ原の戦い)」
の1つの、「山中の戦い」では、 第1段階として、
1600年(慶長5年) 9月15日の夜明けに、関 ヶ
原盆地西南部で、東軍(徳川方)の徳川本隊(約
3万2000人) や 西軍(奉行衆・毛利方)で東軍
に寝返った小早川(約8000人)等の軍 と、 西
軍(奉行衆・毛利方)の先方隊の大谷軍(約1200
人) との間で戦われ、 西軍(奉行衆・毛利方)の
大谷軍が全滅した。
■ 第2段階として、関が原盆地の南西方向・
約2kmに ある主戦場の山中(やまなか)で、
1600年(慶長5年) 9月15日の午前10時頃か
ら正午頃までの間、 東軍(徳川方)の徳川方先
手勢の福島勢(約1万9000人)や徳川本隊(約
3万2000人)等の軍 と、 西軍(奉行衆・毛利方)
の小西・宇喜多・石田・ 島津勢等の軍(約3万人)
との間で戦いが行われ、 西軍(奉行衆・毛利方)
が総崩れとなり敗走し敗北し、徳川方の東軍が勝
利を得た。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 山中の戦い。
■ 「新説の関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」
の1つの、「山中の戦い」は、 1600年(慶長
5年)9月15日の夜明けから正午頃までの戦い
である。
9月15日以後に予想される東軍(徳川方)
の南宮山(なんぐうさん)攻撃に備えて(の後詰
として)、西軍(奉行衆・毛利方)の 小西行長、宇
喜多秀家、石田三成、 島津勢(島津義弘・島津
豊久)等の軍(約3万人)は、 9月14日の日没
後、 西軍(奉行衆・毛利方)の大垣城から出て、
夜を徹して1600年(慶長5年)9月15日午前4
時頃に、山中(やまなか)付近に移動し、布陣す
る。
一方、大谷吉継の軍は、既に、9月14日
夜に、西軍(奉行衆・毛利方)の先方隊として、
関ヶ原盆地西南部に移動し、布陣する。
山中(やまなか)の戦いでは、西軍(奉行衆・
毛利方)は、 大谷吉継の軍は関が原盆地西南
部に布陣し、 小西行長、石田三成、宇喜多秀
家 、島津勢(島津義弘・島津豊久)等の軍は山
中(やまなか)付近に布陣する。
西軍 (奉行衆・毛利方)の石田三成の軍は、
山中(やまなか)付近の藤下(とうげ)の自害峰(じ
がいみね)に布陣する。 その後、すぐ近くの山中
に移動し、山中で東軍(徳川方)と戦う。
一方、 西軍の小西・宇喜多・石田・ 島津勢
などの軍(約3万人)が9月14日の日没後に大垣
城を出て関ヶ原盆地・山中(やまなか)方面に転進
(移動)したことを東軍(徳川方)は知り、 東軍(徳
川方)は、 南宮山の毛利勢に対峙させるため徳
川方先手勢の池田勢(約 2万1000人)を南宮山
東側に残し、 東軍(徳川方)の徳川方先手勢の
福島勢(約1万9000人)や徳川本隊(約3万20
00人)等の軍は、 西軍(奉行衆・毛利方)を追撃
するため、 関ヶ原盆地・山中(やまなか)方面へ
移動する。
山中(やまなか)の戦いでは、 東軍(徳川
方)の徳川本隊の軍は、 関ヶ原盆地西南部で、
西軍(奉行衆・毛利方)の先方隊の大谷軍と対
峙し、 東軍(徳川方)の徳川方先手勢の福島 勢
の軍は、山中(やまなか)で、西軍の小西・ 宇喜
多・石田・ 島津勢等の軍と対峙した。
合戦の第1段階として、1600年(慶長5年)
9月15日夜明けに、関ヶ原 盆地西南部で、 東軍
(徳川方)の徳川本隊の軍が西軍(奉行衆・毛利
方)の先方隊の大谷軍と戦い、 更に 松尾山山
麓に布陣していた西軍(奉行衆・毛利方)の小早
川軍は東軍(徳川方)に寝返り、関ヶ原盆地西南
部に出撃して、南側から西軍 (奉行衆・毛利方)
の大谷軍を攻め、挟み撃ちにして、大谷軍を全
滅させる。
その後、合戦の第2段階として、東軍の徳
川方先手勢の福島勢の軍(約1万9000人)や
徳川本隊(約3万人)は、 山中(や まなか)で、
9月15日午前10時頃から正午頃までの約2
時間、 小西・宇喜多・石田・ 島津勢 などの軍
(約3万人)を攻め、 最終的に、山中で防戦す
る西軍(奉行衆方)の小西・宇喜多・石田・ 島津
勢等の軍を敗走 させ、敗北させ、徳川方の東軍
が勝利を得る。
■ 「山中の戦い」。
■ 「大垣・山中の戦い(= 新説関ヶ原の戦い)」
の1つの「山中の戦いでは、第一段階として、
1600年(慶長5年)9月15日に、夜明けに、
前哨戦として、 山中(やまなか)の東の関ヶ原
盆地西南部で、大谷吉継が予期していなかっ
た、東軍(徳川方)の徳川本隊が急に現れ、
西軍(奉行衆・毛利方)の先方隊の大谷吉継
軍と激突し、そこに南側の側面から松尾山山
麓から出撃した西軍(奉行衆・毛利方)の小早
川秀秋軍が、東軍(徳川方)に寝返り、大谷吉
継軍に襲いかかり、大谷吉継軍は、挟(はさ)
み打ちとなり、全滅した。
その後、第2段階として、1600年(慶長5
年)9月15日の午前10時頃から正午頃まで、
主戦場の山地の山中(やまなか)で、 山中や
隣の藤下(とうげ)に布陣していた西軍(奉行
衆・毛利方)の小西・宇喜田・石田・島津勢な
どの軍 と、 山中(やまなか)の東側に現れ
た東軍(徳川方)の 徳川方先手勢の福島勢
や徳川本隊などの軍が、戦い、東 軍(徳川方)
が優勢の中で、奉行衆・毛利方の西軍(奉行
衆・毛利方)が敗退し、徳川方の東軍が勝利
を得る。
山中にいた西軍(奉行衆・毛利方)の亀
井軍は、東軍(徳川方)に寝返る。
■ 島津勢の敵中突破。
山中にいた西軍(奉行衆・毛利方)の島
津勢(島津義弘・島津豊久の軍)は、 「大垣
城への退却」を決意し、 山中(やまなか)の
東側にいた徳川方の東軍(徳川方)の中を
「敵中突破 」し、逃走し、大垣城に向って脱
出し、追撃され、途中で大垣城も危ない と知
るや伊勢街道を通り、南下し、大阪に向い、
大阪湾で船に乗り、薩摩に帰国する。
敗走途中、東軍(徳川方)の追撃で島
津勢の多くの兵が勇敢に戦い戦死し、島津
義弘(しまづよしひろ)の甥・島津豊久(しま
づとよひさ)も戦死し、結局、敗走途中、東軍
(徳川方)の追撃や落ち武者狩り などで、約
1500人いた島津勢の兵のうち無事帰国でき
たのは、島津義弘と約70人の島津氏家臣 だ
けであった。
■ 「新説の関ヶ原の戦い
(= 大垣・山中の戦い)」。
■ 一次史料に基づく「新説の関ヶ原の戦
い(= 大垣・山中の戦い)」(1600年(慶長
5年)8月26日ー9月15日) では、 西軍
(奉行衆方)の南宮山の大垣城後詰軍の
毛利勢が東軍(徳川方) から攻撃を受け敗
北すると西軍(奉行衆方)が駐留する大垣
城が孤立し不利となるので、 大垣城に 駐
留していた西軍(奉行衆方)の小西・ 宇喜
多・石 田・島津勢等の軍は、1600年(慶長
5年)9月15日に予想される東軍(徳川方)
による南宮山の西軍の毛利勢への攻撃に
備えて(の後詰として)、 1600年(慶長5
年)9月14日の日没後、大垣城を出て、 関
ヶ原盆地・山中(やまなか)方面へ向い、西
軍(奉行衆方)の小西・宇喜多・石 田・島津
勢等の軍は、9月15日の午前4時頃、 山
中(やまなか)付近に布陣し、その後、大垣
付近から来た東軍(徳川方)の軍と対峙す
る。
西軍(奉行衆方)の小早川秀秋は、
1600年(慶長5年)9月14日に、松尾山
を占拠し、松尾山山麓に布陣する。
● 「新説の関ヶ原の戦い(= 大垣・山中
の戦い)」では、 東軍の小早川秀秋は、
1600(慶長5年)年9月14日に、関ヶ原 盆
地の西南方向 にある、松尾山(まつおやま)
に布陣する西軍の伊藤盛正(いとうもりま
さ)を追いだし、松尾山を占拠し、松尾山山
麓に本陣(陣地)を置き、 小西・宇喜多・
石田・薩摩勢 等の西軍主力軍は、大垣城
から夜を徹して山中(やまなか)付近 に移
動し、 1600年(慶長5年)9月15日の山
中の戦い(夜明けから正午頃まで)では、
西軍の小西・宇喜多・石田・薩摩勢等の軍
が、9月15日に山中 付近に布陣し、 大垣
付近から来る東軍 や 裏切るかもしれな
い松尾山山麓に布陣する小早川秀秋の軍
と対峙した。
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♪♪ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中
の戦い)」を描いた、興味深い関
連ドキュメンタリー、ドラマ、映画。
★ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中
の戦い)」が登場する、興味深い、
ドキュメンタリー。
■ 諸説あり!関ヶ原の戦い
スペシャル
『 関ヶ原の戦いの真実 』 (2)。
(TBSテレビ・2018年1月6日・本放送・
歴史ドキュメンタリー番組)。
■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」
と、 「従来説(通説)の関ヶ原の戦い」の
2つの有力な説を詳細に述べる。
■ 諸説あり!
『 関ヶ原の戦いの真実 』 (1)。
(TBSテレビ・2017年9月2日・本放送・
歴史ドキュメンタリー番組)。
■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」
と、 「従来説(通説)の関ヶ原の戦い」の
2つの有力な説を詳細に述べる。
#thenewtheoryofsekigaharawar-thehappenings
◆ 新説関ヶ原の戦い(= 大垣・
山中の戦い)関連出来事
(年代順・詳細)。
(しんせつせきがはらのたたかい
(ねんだいじゅん・しょうさい))。
■ ここでは、 一次史料に基づく史実の
「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦
い)」を述べ、 「従来説(伝説)の関ヶ原
の戦い」と異なる箇所は、その従来説
(伝説)も追加併記した。
■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」は、
後世の創作であり、信憑性(しんぴょう
せい)がない。
■ 1600年(慶長5年)の、「新説関ヶ
原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」
前の状況、動向。
◆ 新説関ヶ原の戦い(= 大垣・
山中の戦い)関連出来事
(年代順・詳細)。
■ 1600年(慶長5年)の、「新説関ヶ
原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」
の決戦前の状況、動向。
■ 1598年(慶長3年)。
■ 1598年(慶長3年)8月18日に、豊臣秀吉 が
死去する。
■ 1599年(慶長4年)。
■ 1599年(慶長4年)閏3月1 0日に石田三成が、
近江国の佐和山城で蟄居(ちっきょ)する。
■ 1600年(慶長5年)。
■ 1600年(慶長5年)に、徳川家康は、 会津・
上杉討伐 以前に、反徳川勢力の奉行衆・毛利
方との戦いに備えて、 多くの大名に、徳川氏
の味方になるように、多くの手紙を書く。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 1600年(慶長5年)6月。
■ 1600年(慶長5年)6月18日に、徳川家康
が、伏見城を発ち、会津遠征に向かう(を開始
する)。
1人・徳川家康は、 会津・上杉討伐を実施する。
奉行衆・毛利方と反目する多くの豊臣恩
顧(おんこ)の大名が家康に付き従って、会津・
上杉討伐の軍に加わって、大阪城から出陣し
た。
■ 1600年(慶長5年)7月。
■ 1600年(慶長5年)7月11日頃に、奉行
衆・ 毛利方の大谷吉継(おおたによしつぐ))
が、近江国の佐和山城(さわやまじょう)を
来訪し、 徳川家康討伐を打ち明け、石田
三成を説得し て、石田三成は、奉行衆・毛
利方に加わる。
● 1600年(慶長5年)7月12日頃以降、奉行
衆・毛利方の大谷吉継が、 近江国の佐和山城
で、石田三成と計略をめぐらす。
◆ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」。
■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、1600
年(慶長5年)7月11日 頃に、石田三成(いし だ
みつなり)が、 近江国の佐和山城(さわやまじ
ょう)で、来訪した大谷吉継(おおたによしつぐ)
に、徳川家康討伐を打ち明け、説得して、大谷
吉継は、石田方に加わる。
● 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、1600
年(慶長5年)7月12日頃以降、石田方の石田
三成が、近江国の佐和山城で、大谷吉継と計
略をめぐらす。
■ 1600年(慶長5年)7月17日。
■ 1600年(慶長5年)7月17日に、奉行衆・毛
利方の 毛利輝元( もうりてるもと)が、豊臣
大阪城に入る。
■ 1600年(慶長5年)7月17日に、「内府ち が
ひの条々」(ないふちがいのじょうじょう、13
か条)が、 奉行衆・毛利方の長束正家・増田
長盛・前田玄以三奉行名で、公布される。
その後、それが、全国の大名に送付され
る(出回る)。
徳川家康は、この時点から、公儀上、豊
臣氏の敵となる。
■ 1600年(慶長5年)7月17日に、奉行衆・ 毛
利方の西軍が、徳川方の東軍に対して、挙兵
する。
■ 奉行衆・ 毛利方の西軍の中心人物は、 奉行
衆3人(増田長盛、長束正家、前田玄以)と
毛利輝元である。 一方、徳川方の東軍の中
心人物は、徳川家康である。
奉行衆3人とは、 五奉行の中の3人で
あり、増田長盛 (ましたながもり)、 長束正
家(なつかまさいえ)、 前田玄以 (まえだげ
んい) である。
◆ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」。
■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、1600
年(慶長5年)7月17日に、 石田三成や石田
方西軍が、徳川方の東軍に対して、挙兵する。
■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、 石田
方の西軍の中心人物は、 石田三成である。
一方、徳川方の東軍の中心人物は、徳川家康
である。
■ 1600年(慶長5年)7月19日。
■ 1600年(慶長5年)7月19日に、奉行衆・毛利
方の西軍が、徳川方の東軍の伏見城を攻撃す
る。
■ 1600年(慶長5年)7月25日。
■ 1600年(慶長5年)7月25日 に、徳川方東軍
にて、小山評定(おやまひょうじょう)が開かれ
る。
● 1600年(慶長5年)7月25日に、下野国 (し
もつけのくに、現・栃木県の相当地域) の
小山(おやま)で、 徳川家康が、会津遠征の
諸将を集め軍議を開き、 西軍(奉行衆・毛利
方)を討つための西上を決定する。
■ 小山評定後、 徳川家康は、徳川氏の軍を、
旗本防衛部隊と主力攻撃部隊の二手に分け、
先に、徳川秀忠の率いる徳川氏主力攻撃部
隊(精鋭部隊)・約3万8000人を、奉行衆・
毛利方西軍の北方の上杉氏に備えながら、
東山道(とうさんどう、中山道(なかせんどう))
経由で、徳川氏領地の関東地方の脅威とな
る奉行衆・毛利方西軍の真田氏討伐に向わ
せた。
■ 1600年(慶長5年)8月5日。
■ 1600年(慶長5年)8月5日に、徳川家康が、
江戸城に戻る。
● 1600年(慶長5年)8月5日に、徳川家康は、
徳川氏旗本防衛部隊と共に、一旦、江戸城に
戻った。
● 1600年(慶長5年)8月5日に、江戸に戻った
徳川家康は、 先に西上している家康に付き
従った徳川方東軍の豊臣恩顧(おんこ)の諸
将・大名の動向を注視していた。
というのも、小山評定(おやまひょうじょう)
の時点で、奉行衆・毛利方西軍の「内府ちがひ
の条々」や奉行衆・毛利方西軍が集めた約10
万人の大軍勢の規模を、徳川家 康や家康に付
き従った徳川方東軍の豊臣恩顧の諸将・大名
は、詳しく知らなかった。
徳川家康に付き従った徳川方東軍の豊
臣恩顧の諸将・大名が家康に味方すると約束
した、小山評定後、徳川方東軍の豊臣恩顧
の諸将・大名が、家康を批判する「内府ちが
ひの条々」 や 奉行衆・毛利方西軍が約10
万人もの兵を集めたことを知り、徳川方東軍の
豊臣恩顧の諸将・大名が家康を裏切るのでは
ないかと徳川家康は、恐れていたためである。
小山評定後、 奉行衆・毛利方西軍の豊
臣氏三奉行の名で公布され た「内府 ちがひ
の条々」(ないふちがいのじょうじょう)が、
徳川方東軍の豊臣恩顧の諸将・大名に詳し
く伝わり、 徳川家康に正当性がないと主張
するのではないかと家康は案じていた。 徳
川家康は、小山評定で味方となった徳川方
東軍の豊臣恩顧の諸将・大名の裏切りを恐れ
るようになった。
● 徳川家康は、 家康に付き従った徳川方東軍
の豊臣恩顧の諸将・大名が西上して奉行衆・毛
利方西軍と実際に本当に戦うのか疑い、これ
を見極めるため、 先に、家康に付き従った徳
川方東軍の豊臣恩顧の諸将・大名の軍を西方
に向かわせ、 徳川家康は、江戸城に約1ヶ月
ほど留まり、情勢をみながら、100通以上の書
状を全国の諸大名に送った。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 1600年(慶長5年)8月10日。
■ 1600年(慶長5年)8月10日に 、奉行衆・毛
利方西軍が、 美濃国(みののくに、現・ 岐阜
県南部の相当地域)の大垣城(おおがきじ
ょう)に入る。
● 奉行衆・毛利方西軍は、 徳川方東軍との長
期戦に備え、 徳川方東軍を美濃国 (みののく
に、現・岐阜県南部の相当地域) で待ち構え、
大垣城(おおがきじょう)を奉行衆・毛利方西軍
の美濃国の本拠地とし、 佐和山城・豊臣大阪
城方面へ行く東山道(中山道)を守る拠点とし
て、 南宮山(なんぐうさん)に、奉行衆・毛利
方西軍の毛利秀元の軍を布陣させ、 更に、
松尾山(まつおやま)に、奉行衆・毛利方西軍
の毛利輝元の軍を布陣させる予定であった。
しかし、奉行衆・毛利方西軍の毛利輝元は、
豊臣大坂城を動かなかった。
■ 1600年(慶長5年)8月。
■ 1600年(慶長5年)8月に、徳川家康と小山
(おやま)で分かれ西上した福島正則(ふくしまま
さのり)はじめ徳川方東軍の豊臣恩顧の諸将・大
名は、 尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部
の相当地域)の福島正則の居城・清須城(きよ
すじょう)に集結し、徳川家康の出陣を待ちわ
びていた。
江戸城にいる徳川家康は、 尾張にいる
徳川方東軍の豊臣恩顧の諸将・大名に、美濃
(みの、現・岐阜県南部)の奉行衆・毛利方西
軍を攻撃するように促す。
■ 1600年(慶長5年)8月23日。
■ 1600年(慶長5年)8月23日に 、福島正則
はじめ徳川方東軍の豊臣恩顧の諸将・大名が、
奉行衆・毛利方西軍の美濃の拠点の1つの岐
阜城(ぎふじょう)を攻撃し、1日で落城させる。
■ 1600年(慶長5年)8月26日。
■ 1600年(慶長5年)8月26日に、 福島正則
はじめ徳川方東軍の豊臣恩顧の諸将・大名が、
奉行衆・毛利方西軍の美濃の本拠地・大垣城
に近い、美濃赤坂(みのあかさか)付近に集結
する。
その後、徳川方東軍の豊臣恩顧の諸将・
大名は、 奉行衆・毛利方西軍の美濃の本拠
地の大垣城の駐留軍を攻撃し、大垣城攻防
戦を行っていたが、 9月7日に大垣城の西方
の南宮山(なんぐうさん)に、奉行衆・毛利方西
軍の毛利秀元(もうりひでもと)が率いる毛利
勢が布陣する。
■ 1600年(慶長5年)9月1日。
■ 1600年(慶長5年)9月1日に、徳川家康が、
江戸城を出発し、上方(かみがた)に向う。
● 石田方西軍の拠点の1つの岐阜城攻略など
で、西上した豊臣恩顧の徳川方東軍の諸将が石
田方の西軍と実際に戦う気があり自分を裏切らな
いと知ると、 徳川家康は、慌てて、徳川氏旗本
防衛部隊・約3万人と共に、江戸城を出発し、
一方、真田氏討伐に向った徳川氏主力攻撃部
隊に、東山 道(中山道)経由で上方(かみがた)
へ向うように伝令を送った。
● 美濃国 (みののくに、現・岐阜県南部の相当地
域)で、豊臣恩顧の徳川方東軍の諸将 は、 岐阜
城攻略・落城後、 石田方の西軍の美濃の本拠
地の大垣城(おおがきじょう)に近い美濃赤坂(み
のあかさか)付近に布陣し総大将の家康の到着
を待たず、石田方西軍と決戦を始める勢いを 知
り、家康は、慌てて、1600年(慶長5年)9月1日
に、徳川家康 の率いる徳川氏旗本防衛部隊・約
3万人と共に、江戸城を 出発し、東海道を通り、
尾張・美濃へ向かった。
家康の江戸城出陣時、 家康は、真田氏討
伐に向かった秀忠の徳川氏主力攻撃部隊・約3
万8000人に、「真田氏 討伐をやめ、一刻も早く
東山道(中山道)経由で尾張・美濃に向かい二手
に分かれた徳川氏の軍は尾張・美濃あたりで
合流する」という家康の伝達の使者を送った。
しかし、使者は、利根川の洪水に阻まれて、伝達
が遅れた。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 1600年(慶長5年)9月11日。
■ 1600年(慶長5年)9月11日に、徳川方東軍
の、徳川家康が、尾張の清州城に到着する。
■ 1600年(慶長5年)9月13日。
■ 1600年(慶長5年)9月13日に、徳川方東
軍の徳川家康が、 尾張の清州城を出発する。
■ 徳川方東軍の徳川家康は、 徳川本隊(約3
万2000人、徳川家康、井伊直政、本多忠勝、
家康馬廻り衆等の軍) と 東軍(徳川方)の
徳川方先手勢の豊臣恩顧大名の福島勢・池
田勢の軍(計約4万人)の総計・約7万2000人
の東軍(徳川方)で、 美濃国(みののくに、現・
岐阜県南部の相当地域)で、 約5万4000人
の西軍(奉行衆・毛利方)と決戦をする決意を
固めた。
1600年9月13日に、徳川家康は、徳川
秀忠の率いる徳川氏別動隊(主力攻撃部隊)・
約3万8000人を待たず、尾張の清州城を出て、
9月14日の正午頃に、徳川方の東軍の集結す
る、美濃赤坂付近に到着する。
◆ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」。
■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、1600
年(慶長5年)9月13日に、徳川方東軍の徳川
家康が、尾張の清州城を出発する。
● 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、徳川方
東軍の徳川家康は、 徳川氏旗本防衛部隊・約3万
人 と 徳川方東軍の 家康に付き従った豊臣恩顧
の諸将大名・約4万人の 計・約7万人の徳川方東
軍で、 美濃国(みののくに、現・岐阜県南部の相
当地域)で、 約8万人の石田方西軍と決戦をす
る決意を固めた。
1600年9月13日に、徳川家康は、徳川
秀忠の率いる徳川氏主力攻撃部隊・約3万8000
人を待たず、尾張の清州城を出て、 9月14日の
正午頃に、徳川方の東軍の集結する、美濃赤坂
付近に到着する。
■ 1600年(慶長5年)9月14日。
■ 1600年(慶長5年)9月14日に、 西軍(奉
行衆・毛利方)の小早川秀秋が、松尾山の陣
地の西軍(奉行衆・毛利方)を押しのけて、松
尾山に到着し、勝手に松尾山を占領し、松尾
山山麓に布陣する。
◆ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」。
■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、
1600年(慶長5年)9月14日に、石田方西軍
の小早川秀秋が、松尾山の陣地の石田方西
軍の軍勢を押しのけて、松尾山に到着し、勝手
に松尾山を占領し、松尾山山頂に布陣する。
松尾山の陣地は、石田方西軍が、石田
方西軍の毛利輝元のために用意した陣地で
あった。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 1600年(慶長5年)9月14日昼間。
■ 1600年(慶長5年)9月14日に、徳川方東軍
の徳川家康が、9月13日に清州城を出た後、9月
14日の正午頃、美濃赤坂付近に到着する。
■ 9月14日の昼間、西軍(奉行衆・毛利方)の
南宮山 東側布陣の毛利勢 (約1万3000人)
は、大垣付近にいる東軍(家康方)合計・約7
万2000人の大軍に恐れをなして戦わず。
◆ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」。
■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、
1600年(慶長5年)9月14日に、徳川家康は、
徳川方東軍に内通し毛利秀元軍の先鋒隊で
南宮山の下山道を押さえる、石田方の西軍の
吉川広家に、 石田方の西軍の毛利秀元の
南宮山下山・徳川方東軍攻撃を阻(はば)み、
毛利秀元を戦いで静観させるように要請した。
徳川家康は、事前に、黒田長政の仲介
で、南宮山(なんぐうさん)に布陣する石田方
の西軍の吉川広家(きっかわひろいえ、1561
−1625年)を調略し、吉川広家に毛利氏本家
領国安堵の徳川氏の起請文(きしょうもん)を
渡し、内通させていた。
■ 1600年(慶長5年)9月14日昼間。
■ 1600年(慶長5年)9月14日に、美濃赤坂
付近に集結した西軍(奉行衆・毛利方)の徳川
本隊(約3万2000人)や徳川方先手勢(約4
万人) と、 大垣城籠城勢(約3万3500人)
や南宮山の毛利勢(約1万3000人)との間で、
小競り合いがあった。
しかし、その一部が、抗瀬川の戦いであ
ったかどうかは不明である。
◆ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」。
■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、
1600年(慶長5年)9月14日に、島左近の率
いる 石田方西軍が、抗瀬川の戦いで徳川方
東軍に勝利する。
徳川方東軍の中の徳川本隊と石田方
西軍の大垣垣城籠城勢(駐留軍)の中の石田
隊が 抗瀬川付近で戦い、石田方西軍の島左
近の率いる石田隊が勝つ。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 1600年(慶長5年)9月14日夜。
■ 1600年(慶長5年)9月14日夜に、 東軍
(徳川方)の徳川家康と徳川本隊 (約3万
2000人) や 徳川方先手勢の福島勢の軍
(約1万9000人) は、 美濃赤坂付近から
出陣し、 関ヶ原盆地・山中方面に移動(転
進)する。
■ 1600年(慶長5年)9月14日夜に、西軍(奉
行衆・毛利方) の小西・宇喜多・石田・島津勢
等の軍(約3万人)は、大垣城を出て、関ヶ原
盆地・山中方面に移動(転進)する。
■ 1600年(慶長5年)9月14日夜に奉行衆・
毛利方西軍の主力軍が西方の関ヶ原・山中方
面に移動したのを徳川方東軍は知り、徳川
方東軍の主力軍は、9月14日 夜に、奉行衆・
毛利方西軍の主力軍を追って、西方の関ヶ
原・山中方面に移動する。
■ 9月15日以降に予想される南宮山の毛利
勢への東軍(徳川方)の攻撃に備えて、南宮
山の毛利勢後詰軍(後援軍)として西軍(奉行
衆・毛利方)の大垣城の大部分の軍は9月
14日の夜に関ヶ原盆地・山中方面に移動
したのを東軍(徳川方)は知り、 9月14日夜
に、 東軍(徳川方)の主力軍は、 西軍(奉行
衆・毛利方)の主力軍を追って、関ヶ原盆地・
山中方面に移動する。
◆ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」。
■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、1600年
(慶長5年)9月14日夜に、 徳川家康と徳川
方東軍は、美濃赤坂付近から出陣し、関ヶ原盆
地方面に移動する。
■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、1600年
(慶長5年)9月14日 夜に、石田三成や石田方
西軍の大垣城の駐留軍が、大垣城から出陣する。
■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、1600年
(慶長5年)9月14日 夜に徳川方東軍の主力軍
が西方の関ヶ原方面に移動したのを石田方西
軍は知り、 9月14日 夜に、石田方西軍の主力
軍は、 大垣城を出て、徳川方東軍を追って、西
方の関ヶ原方面に移動する。
■ 1600年(慶長5年)9月14日夜。
● 1600年(慶長5年)9月14日夜に、西軍(奉
行衆・毛利方)の大谷吉継が、関ヶ原盆地南西部
に布陣する。
◆ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」。
■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、1600
年(慶長5年)9月3日に、石田方西軍の大谷吉
継が、山中村宮上に布陣する。
■ 1600年(慶長5年)の、「新説関ヶ
原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」
の決戦時の状況、動向。
■ 1600年(慶長5年)9月1 5日朝。
■ 東軍(徳川方)の主力軍や西軍(奉行衆・毛利
方)の主力軍は、 1600年(慶長5年)9月1 5
日の朝に、関ヶ原盆地南西部や山中(やまなか)
に到着する。
■ 山中の戦いでは、決戦前に、最初に、関ヶ原盆
地南西部で、16 00年(慶長5年)9月15日の
夜明けに、 大垣付近から移動してきた 東軍
(徳川方)の徳川本隊 や 既に松尾山山麓に
布陣する西軍から東軍に寝返った小早川軍 と、
既に関ヶ原盆地南西部に布陣 する西軍(奉行
衆・毛利方)の大谷軍 との間で合戦が行われ
る。 結果は、大谷軍が全滅する。
◆ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」。
■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、石田
方西軍の主力軍や徳川方東軍の主力軍は、
1600年(慶長5年)9月1 5日の朝に、関ヶ原
盆地に到着する。
■ 1600年(慶長5年)9月15日昼間
の「関ヶ原の戦い」の決戦。
■ 関ヶ原の戦いの決戦は、主戦場は山中であり、
1600年(慶長5年)9月15日の午前10時頃
から正午頃まで、 徳川方の東軍と奉行衆・毛
利方の西軍との間で行われ た。 戦いの結果、
徳川方の東軍が勝利を得る。
■ 関ヶ原の戦いの決戦では、 関が原盆地の南
西方向・約2kmにある山中(やまなか)で、
午前10時頃から正午頃まで、 大垣 付近か
ら移動してきた東軍(徳川方)の徳川方先手勢
の福島勢 や 徳川本隊 と、 大垣付近の大
垣城から移動して来た西軍(奉行衆・毛利方)
の小西・宇喜多・石田・島津勢等の軍 とが戦
った。 結果は、西軍(奉行衆・毛利方)の小西・
宇喜多・石田・島津勢等の軍は、総崩れとなり
敗走し、敗北し、徳川方の東軍が勝利を得る。
● 関ヶ原の戦いの決戦では、 関が原盆地の南
西方向・約2kmにある山中(やまなか)で、
午前10時頃から正午頃まで、 大垣付近 から
移動してきた東軍(徳川方)の徳川方先手勢
の福島勢 (約1万9000人、福島・黒田・細川・
藤堂・筒井・田中・加藤嘉明・京極高知等) や
徳川本隊 (約3万2000人、徳川家康、井伊
直政、本多忠勝、家康馬廻り衆等の軍) の
計5万1000人の軍 と、 大垣付近の大垣城
から移動して来た西軍(奉行衆・毛利方)の小
西・宇喜多・石田・島津勢等の約3万人の軍
とが争った戦いである。
結果は、西軍(奉行衆・毛利方)の小西・
宇喜多・石田・島津勢等の軍は、総崩れとなり
敗走し、敗北し、徳川方の東軍が勝利を得る。
◆ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」。
■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、関ヶ
原の戦いの決戦は、主戦場の関ヶ原盆地であり、
1600年(慶長5年)9月15日の午前8時頃から
午後2時頃まで、徳川方東軍と石田方西軍との
間で行われ た。 戦いの結 果、徳川方東軍が
勝利を得る。
■ 1600年(慶長5年)の、「新説関ヶ原
の戦い(= 大垣・山中の戦い)」の
決戦後の状況、動向。
■ 1600年(慶長5年)9月1 7日。
■ 1600年(慶長5年)9月17日に、徳川方東軍
が、 奉行衆・毛利方の西軍の近江国の石田
三成の佐和山城を攻めて、落城させる。
■ 1600年(慶長5年)9月1 9日。
■ 1600年(慶長5年)9月19日に、 徳川方東軍の、
徳川家康が、草津に入る。
■ 1600年(慶長5年)9月19日に、奉行衆・毛利
方西軍の小西行長が、息吹山山中で捕えられる。
■ 1600年(慶長5年)9月 21日。
■ 1600年(慶長5年)9月21日に、奉行衆・毛利
方西軍の石田三成が、 古橋村 (現・滋賀県
木之本町の相当地域)で徳川方東軍に捕えら
れる。
■ 1600年(慶長5年)9月 23日。
■ 1600年(慶長5年)9月23日に、奉行衆・毛
利方西軍 の大垣城の残留軍が降伏し、大垣城
が開城される。
● 1600年(慶長5年)9月15日に関ヶ原の戦い
の山中(やまなか)の戦いでの東西両軍の決
戦で奉行衆・毛利方西軍の敗北の趨勢が決
した後も、 奉行衆・毛利方西軍 の福原・垣見・
熊谷・秋月・相良の大垣城残留勢(約3500
人)は、 戦いを続け、 寝返りも出て、最後に、
9月23日に、徳川方東軍に降伏し、大垣城は
開城する。
■ 1600年(慶長5年)9月 23日。
■ 1600年(慶長5年)9月23日に、 奉行衆・毛
利方西軍の安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)が、
京(都)で捕えられる。
■ 1600年(慶長5年)10月1日。
■ 1600年(慶長5年)10月1日に、徳川方東
軍の徳川家康は、 奉行衆・毛利方西軍の、
石田三成、小西行長、安国寺 恵瓊(あんこくじ
えけい)を、京(都)六条河原で 処刑する。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 1600年(慶長5年)。
● 戦後処理で、 徳川方東軍の徳川家康は、
奉行衆・毛利方西軍の 大名・武将から没収した
約80%の領地を、戦いの勝利の恩賞として、
徳川方東軍の、家康に付き従った豊臣恩顧
の大名(外様大名)・武将に与えねばならな
かった。
■ 1603年(慶長8年)。
■ 1603年(慶長8年)2月12日に、 徳川家康
は、 征夷大将軍となり、 江戸幕府を開く。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 城
(しろ)。
■ 城。
■ 名称 : 城 (しろ)。
■ 《日本の城》。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11835。
□ 安土城 画像アルバム No.1。
□ 小谷城 画像アルバム No.1。
(清州城、他)。
(伏見城、石垣山一夜城、
小田原城、佐和山城、
菩提山城、聚楽第、他)。
(江戸城、他)。
(高天神城、他)。
■ 城。
■ 城 (しろ)とは、 封建領主の軍事拠点、統
治拠点、居住拠点 、砦(とりで)である。
● 江戸幕府の一国一城令が出される前の、
戦国時代(= 室町時代後期)、安土桃山時代、
江戸時 代初期に堅固(けんご)な城が多くつ
くられ、その建物が現在多く残っている。
■ 城には、 山城(やまじろ、山に建てた城) と、
平城(ひらじろ、平地に建てた城) がある。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 城。
■ 城 (しろ)は、 戦うため、城主の権威を示す
ためにあった。
城には、戦うため、権威を示すため、たく
さんの舞台装置があった。
■ 城は、 封建領主の軍事拠点、統治拠点、居
住拠点であった。
日本では、 前近代日本で、 日本各地の
封建領主が、城を建てたり、増改築した。 姫路
城をはじめ、江戸時代 初期に、城の建築ブーム
が起きた。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 穴太衆。
○ 日本の優秀な石工集団。
■ 穴太衆(あのうしゅう)は、 日本の優秀な
石工(いしく)集団であり、 前近代日本で
は、城の石垣など、城の築城に貢献した。
現代日本では、高速道路の耐久性の
ある基礎土台の造作などに高い評価を得
ている。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 築城の名手の、藤堂 高虎。
■ 藤堂高虎(とうどうたかとら)は、 城の、築城
の名手であった。
● 藤堂 高虎は、日本で一番、城をつくった男
と言われている。
● 藤堂 高虎は、 敵が攻める気を起こさせない
城をつくった。
今治城(いまばりじょう)のように、 50m
幅以上の幅広い堀(堀が広いと敵の矢の命中
率がわるくなる)、 とても高い石垣(敵がよじ
登るのをあきらめる)、 最強防御の通路の枡
(ます)区画(敵が前に進めない) などの工夫
を城に施(ほどこ)した。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 城の、天守。
○ 城の中心となる高層建築の建物。
■ 天守(てんしゅ)は、 城の中心となる高層建
築の建物である。
天守は、城のシンボルであり、 城主の権
力の象徴であった。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 江戸城の天守は、 3つあり、二度建て替え
られた。 即ち、徳川家康の建てた天守を秀忠
が建て替え、徳川秀忠の建てた天守を徳川家
光が建て替えた。
家光の建てた江戸城の天守は、 江戸時
代前期の明暦(めいれき)の大火で焼失し、そ
の後、再建されず、現在に到る。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
◆ 様々な城。
■ 姫路城。
■ 姫路城 (ひめじじょう)は、 元々、播磨国(はりまのくに、
兵庫県南部)の守護・赤松氏の属城であったが、 赤松氏
分家の小寺氏の城となり、 小寺氏滅亡の1580年に羽柴
秀吉(豊臣秀吉)が城主となり中国地方遠征の根拠地とし
て増築し、 その後、1601年に池田輝政(いけだてるまさ)
池田輝政に命(めい)じ、 徳川氏(江戸幕府)の西日本の
軍事拠点とするため、大増改築して、1609年に完成させ
た城 である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 江戸城。
江戸城 (えどじょう)は、 1590年に、豊臣秀吉の
命令で関東に移封された徳川家康が、築城を始め、その
後、徳川氏が、約50年をかけて完成させた。
他)で勝利を得、 日本の政治の実権を掌握したのち、 全国
の大名(藩主)に、手伝いの城普請(しろぶしん)をさせ、 日本
一の規模の城となった。
江戸城の日本一の天守は、江戸時代前期 に、焼失し、
それ以後再建されず、 また、幕末の大火で、江戸城の建物
の一部が焼失した。
江戸城は、 明治時代以後、皇居(こうきょ)として使われ、
現在に至る。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 安土城。
■ 安土城 (あづちじょう)は、 近江国(おう
みのくに、現・滋賀県の相当地域)にあった、
織田信長(おだのぶなが) の本拠地の城
(本城(ほんじょう))、居城である。
□ 安土城 画像アルバム No.1。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 小谷城。
■ 小谷城 (おだにじょう)は、 北近江 (きた
おうみ、現・滋賀県北部の相当地域) にあ
った、浅井長政(あざいながま さ)の本拠地
の城(本城(ほんじょう))である。
□ 小谷城 画像アルバム No.1。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 北庄城 。
■ 北庄城 (きたのしょうじょう)は、 越前 (え
ちぜん、現・福井県北部の相当地域) にあ
った、柴田勝家の本拠地の城(本城)である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 伏見城。
■ 伏見城(ふしみじょう)は、 1592年(文禄
元年)から1623年(元和9年)まで、京(き
ょう、京都)南部(現・京都市伏見区)にあっ
た城である。
伏見城には、 豊臣指月伏見城 (とよ
とみしげつふしみじょう、1592年−1596
年)、 豊臣木幡山伏見城 (とよとみこはた
やまふしみじょう、前期木幡山伏見城、15
97年−1600年)、 徳川木幡山伏見城
(とくがわこはたやまふしみじょう、後期木
幡山伏見城、1602年ー1623年)がある。
木幡山伏見城跡地の主要部は、現在、
天皇陵となっている。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 聚楽第。
■ 聚楽第 (じゅらくてい、じゅらくだい、1587
年ー1595年)は、 豊臣秀吉が 京(きょう、
京都)に造営した城郭形式の邸宅である。
聚楽第は、京都御所の西側の地域にあ
った。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 石垣山一夜城。
■ 石垣山一夜城 (いしがきやまいちやじょう、
= 石垣山城) は、 1590年(天正18年)に、
小田原合戦中に、小田原城を見下ろす石垣
山に、豊臣秀吉が築城した城である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 大阪城。
■ 大阪城には、 豊臣秀吉築城の豊臣大阪
城 と、 徳川氏築城の徳川大阪城がある。
■ 現在の徳川大阪城(おおさかじょう)は、
大阪の夏の陣で焼失した、豊臣秀吉が築城
した豊臣大阪城の跡地 (徹底的に破壊され
た) に、 江戸幕府が、西日本の軍事拠 点
とするため、 新たに建築した城である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 大阪城 (おおさかじょう)は、 現在の大阪
府中央区にあり、 徳川大阪城の遺構である。
● 但し、現在の大阪城天守(てんしゅ)は、
豊臣大阪城の天守を復元したものである。
1931年(昭和6年)に、大阪夏の陣図
屏風(おおさかなつのじんずびょうぶ、大阪
城天守閣蔵)などを参考に、豊臣大阪城の
天守が再建される。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 豊臣大阪城。
■ 豊臣大阪城 (とよとみおおさかじょう)は、
摂津 (せっつ、現・大阪府北西部の相当
地域) にあった、豊臣氏の本拠地の城
(本城) である。
豊臣大阪城は、1589年頃に完成し、
豊臣秀吉の本城(本拠地の城)となり、
秀吉死後、豊臣秀頼の本城となる。
● 1615年の大阪夏の陣で豊臣氏滅亡後、
豊臣大阪城は、徳川氏により破壊される。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 徳川大阪城。
■ 徳川大阪城 (とくがわおおさかじょう) は、
摂津 (せっつ、現・大阪府北西部の相当
地域) にある、豊臣大 阪城の跡地 (徹
底的に破壊された豊臣大坂城の跡地)に
築城された、徳川氏の西国の拠点の城で
ある。
● 幕末に、戊辰戦争時、 徳川大阪城の建
築物は、焼失する。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
♪♪ 城が登場する、興味深い関連ドキ
ュメンタリー、ドラマ、映 画。
★ 城が登場する、興味深い関連ドキュ
メンタリー。
■ 新日本風土記スペシャル
『 美の城 戦の城 』。
(NHKテレビ・2011年4月1日・本放送・
ドキュメンタリー番組)。
■ 日本の城の詳細や日本各地の城のにつ
いて述べる。
■ ザ・プレミアム
『 よみがえる江戸城 』。
(NHKテレビ・2014年1月4日・本放送・
ドキュメンタリー番組)。
■ 江戸城の詳細について述べる。
■ 江戸城の本丸御殿を、 江戸時代に製作
された建築図面、下絵等に基づいて、CG
(コンピュータ・グラフィックス)で、再現した。
■ 赤穂事件(1701〜1703年)の、江戸城
の松之廊下の浅野内匠頭(長矩 )の刃傷
(にんじょう)について述べる。
■ 江戸幕府の将軍の一日の生活を述べる。
■ 歴史秘話ヒストリア
『 戦国 お城誕生ものがたり〜
城づくりプロフェッショナル
武将・藤堂高虎〜 』。
(NHKテレビ・2012年 (H24年)4月
11日・本放送・ドキュメンタリー番組)。
■ 築城の名人の藤堂高虎(とうどうたかとら)
が、安土桃山時代や江戸時代初期に携(た
ずさ)わった、江戸城、徳川・大阪城をはじ
め、20以上の城の築城の話が登場する。
■ 先人たちの底力 知恵泉
『 キャリアアップの極意とは?
〜藤堂高虎 厳しい世を行き
抜け! 』。
(NHKテレビ・2015年4月14日・
本放送・ドキュメンタリー番組)。
■ 藤堂 高虎の城づくりなどを述べる。
■ 藤堂 高虎の生涯を描く。
■ 藤堂氏の伊賀忍者使用諜報活動。
藤堂 高虎は、江戸時代初期に、
江戸幕府のために、伊賀の忍者を
使い、諸国の諜報活動を行い、自分
に報告させ、幕府に通告していた。
その後、伊勢・伊賀を支配する、
藤堂氏の津藩は、 江戸時代を通し
幕末まで、伊賀の忍者を使い、諸国
の諜報活動を行い、藩主に報告させ、
幕府に通告し、江戸幕府の諜報機関
の役割を果たす。
★ 城が登場する、興味深い関連ドラ
マ、映画。
■ 『 功名が辻 (こうみょうがつじ) 』 。
(原作:司馬遼太郎の「功名が辻」、
脚本:大石静)。
(NHKテレビの2006年大河ドラマ)。
■ 大阪城を述べる。
■ 2006年10月1日・本放送の「功名が辻」
第39回の『秀吉死す』の末部解説で、
史実の大阪城の概要を描き、述べる。
昭和6年の豊臣大阪城の天守再建など
を述べる。
■ 『 功名が辻 (こうみょうがつじ) 』 。
(原作:司馬遼太郎の「功名が辻」、
脚本:大石静)。
(NHKテレビの2006年大河ドラマ)。
■ 伏見城を述べる。
■ 2006年9月17日・本放送の「功名が辻」
第37回の『太閤対関白』の末部解説で、
史実の伏見城の概要を描き、述べる。
■ 『 火天の城 』。
(日本の映画)。
■ 安土城の築城の物語である。
■ 自害
(じがい)。
■ 自害。
■ 名称 : 自害 (じがい)。
■ 別名 : 自殺。
■ 《生命》。 多くの尊い命(いのち)が失われた。
■ 自刃(じじん)、自爆(じばく) など。
■ 自害 (じがい、= 自殺)には、 日本の歴史にお
いて、 自刃(じじん)、自爆(じばく)などがある。
多くの尊い命(いのち)が失われた。
◆ 自爆。
■ 自爆 (じばく)とは、 日本の歴史にお いて、
火薬類を用いて自害(じがい、自殺)すること
である。 多くの尊い命(いのち)が失われた。
■ 爆死自害爆死自害 (ばくしじがい= 自爆)とは、
火薬類などの爆薬で自害し死亡することである。
■ 爆死自害(= 自爆)が多かった時期。
(1) 室町時代後期(戦国時代)〜江戸時代
の爆死自害。
前近代日本では、爆死自害(= 自爆)は、
火薬類などの爆薬が輸入または製造できる、
室町時代後期(戦国時代)から江戸時代まで
行われ、死体消滅のため、死体がさらしもの
にされることを避けるため(恐れて)、その他
の理由で、人が、大量の火薬類の爆薬を使
って爆死自害する(= 自爆する)。
● 火薬が日本で本格的に使用されるように
なった戦国時代(室町時代後期)以後から
江戸時代まで、大量の黒色火薬を使った爆
死自害(= 自爆)が発生した。
戦国時代(室町時代後期)から江戸時代
まで行われ、死体消 滅のため、大量の爆薬
を使って、爆死自害する(= 自爆する)。
当時、敵や反抗者の死体を見せしめのた
め公衆の面前にさら す(見せる)慣習があっ
たため 、死体をさらしものになるのをふせぐ
ため、爆薬で肉片を散乱させて、死体を消滅
させる必要があった。、
実例として、松永久秀、細川ガラ シャ、
お市、大塩平八郎などの爆死自害がある。
(2) 太平洋・日中戦争中の爆死自害。
太平洋・日中戦争中に行われ、 捕虜にな
ることを恥として拒み、手榴弾(てり ゅうだん)
等を使って戦場で、日本人の兵士 や民間人
が爆死自害する(= 自爆する)。
◆ 自刃。
■ 自刃 (じじん)とは、 日本の歴史にお いて、
刀剣を用いて自害(じがい、自殺)することである。
多くの尊い命(いのち)が失われた。
■ 自刃には、 日本の歴史において、切腹(せっ
ぷく)、その他の多くの自害の方法がある。
■ 切腹 (せっぷく)は、前近代日本の武士の自
害の方法の1つである。
■ 安土桃山時代後期から、切腹の習慣が広まり、
切腹の作法が定まる。
■ 武士の自害。
■ 清水宗治(しみずむねはる)の切腹の自害は、
武士にとって、「切腹が名誉ある死である」という
考え方を定着させる切っ掛けとなる。
見事な清水宗治の切腹が、切腹の作法の
お手本の1つとなった。
安土桃山時代後期以後から江戸時代まで、
武士を殺害する場合、 罪人としての死の「打ち
首」 と、 名誉ある死の「切腹」が区別されるよ
うになる。
■ 日本の安土桃山時代前期まで、切腹の作法も
定まっていなかった。
見事な清水宗治(しみずむねはる)の切腹が、
切腹の作法のお手本の1つとなった。
■ 「切腹が名誉ある死である」という考え方を定着
させる切っ掛けとなった、清水 宗治の切腹の自
害。
■ 清水 宗治の切腹の自害は、 武士にとって、
「切腹が名誉ある死である」という考え方を定着
させる切っ掛けとなる。
安土桃山時代後期以後から江戸時代まで、
武士を殺害する場合、 罪人としての死の「打ち
首」 と、 名誉ある死の「切腹」が区別されるよ
うになる。
■ 武士の自害は、 日本の安土桃山時代前期ま
で、形式は定まっていなかった。 切腹も自害
の単なる手段の1つに過ぎなかった。
■ 見事な清水宗治の切腹以後、 日本の安土桃
山時代後期以後、 切腹は、武士にとって「名
誉ある死」であるという認識が武士に広まって
いった。
■ 見事な清水宗治の切腹以後、 刑罰としても
切腹を命じる習慣が広まっていった。
安土桃山時代前期まで、 戦いで捕らえら
れた武士は、 刑罰として、首を刎(は)ねられ
るか、磔(はりつけ)にされるか などが普通で
あった。 切腹させる習慣は無かった。
見事な清水 宗治の切腹以後、 刑罰とし
て武士を自害させる手段の1つとして、「切腹」
が広まっていった。 例として、豊臣秀吉が甥
の豊臣秀次に切腹を命じている。
■ 清水 宗治
(しみず むねはる)。
■ 清水 宗治。
■ 名称 : 清水 宗治 ( しみず むねはる)。
■ 生没年 : 1537年ー1582年。
■ 備中・高松城・城主。
■ 秀吉の高松城水攻め時、切腹し自害する。
それを見届けた後、明智光秀討伐のため、秀
吉は、 中国大返し(1582年6月4〜13日)を
始める。
■ 「切腹が名誉ある死である」という考え方を定着
させる切っ掛けとなった、清水 宗治の切腹の自
害。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 清水 宗治 (しみず むねはる、生没年: 1537
〜1582年) は、 室町時代後期(戦国時代)、
安土桃山時代の、備中の武将で、 備中(びっち
ゅう、岡山県西部)の高松城・城主 であった。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 清水 宗治の切腹の自害は、 武士にとって、
「切腹が名誉ある死である」という考え方を定着
させる切っ掛けとなる。
見事な清水宗治の切腹が、切腹の作法の
お手本の1つとなった。
安土桃山時代後期以後から江戸時代まで、
武士を殺害する場合、 罪人としての死の「打ち
首」 と、 名誉ある死の「切腹」が区別されるよ
うになる。
■ 清水 宗治は、三村氏対毛利氏の一大戦の、天
正の備中兵乱の際、三村氏家臣ではあったが、
毛利氏に味方し(加担し)、高松城主の地位を得
た。
清水 宗治は、 毛利氏の家臣となって以後、
小早川隆景(こばやかわたかかげ)の配下として、
毛利氏の中国地方の平定に従軍し、忠誠心厚く、
小早川隆景をはじめ毛利氏の首脳陣から深く信
頼された。
日本統一政策を進める織田信長の家臣・羽
柴秀吉(豊臣秀吉)が中国攻めを行う。 1582年
(天正10年)に、清水 宗治は、 備中・高松城に
籠城(ろうじょう)して秀吉軍に抗戦する。 秀吉
は、清水 宗治に、降伏すれば、備中国(びっちゅ
うのくに、岡山県西部)を与えるという条件を出し
たが応じなかった。
秀吉軍の、黒田官兵衛(孝高(よしたか))が
策した水攻めにあい、備中・高松城は、落城寸前
に追い込まれる。
秀吉の高松城水攻め時(最中)、 1582年
(天正10年)6月2日未明に本能寺の変が起こり、
織田信長が死去し、その報を知った秀吉は、清水
宗治の自害を条件に城兵を助命する講和を示し、
これに応じた清水 宗治は、織田信長の死を知らぬ
まま、同年6月4日午前に、兄の清水宗知(月清入
道)と共に、高松城を囲む水上の、舟上で切腹・自
害した。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 1582年(天正10年)6月4日に、清水 宗治は、
秀吉の高松城水攻め時、 高松城を囲む水上で、
舟上で、切腹し自害する。
清水 宗治の時世の句は、 『 浮世(うきよ)
をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高
松(たかまつ)の 苔(こけ)に残して 』 であっ
た。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 水上に舟を漕ぎ出し、 舟上で切腹の前にひと
さし舞ったのち、 潔(いさぎよ)く腹を切り、介錯
人(かいしゃくにん)に首を刎(は)ねられる、清
水 宗治の作法は、見事であるとして、それを実
際に見た武士達の賞賛を受けた。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 清水 宗治の墓所は、 山口県光市の清鏡寺に
ある。
■ 1582年(天正10年)に、 織田信長の部将・
羽柴秀吉(豊臣秀吉)の中国攻めで、 毛利氏
と戦う羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、 毛利氏に味
方する、清水宗治(しみずむねはる)の高松城
を水攻めにする。
一方、羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、清水 宗治
への援軍の毛利軍を足止めさせる。
1582年6月2日の本能寺の変で主君の織
田信長を失ったことを6月3日に知った羽柴秀吉
(豊臣秀吉)は、事実を隠し、早急に、毛利氏との
講和(和解)を求め、 羽柴秀吉(豊臣秀吉)方の
こくじ えけい)が交渉し、1582年6月4日早朝に、
清水宗治の切腹と高松城兵の助命、及び毛利氏
の領土の一部(備中、美作、伯耆)割譲を条件に、
毛利方と秀吉方は、講和が成立し、誓紙を交わし
た。
1582年(天正10年)6月4日午前中に(午
前10時頃と推定される)、 清水宗治は、水攻め
の高松城を囲む水上で、 小舟の舟上で、ひとさ
し舞った後(曲舞を舞い納めた後に)、 切腹して
自害した(自刃(じじん)した)。
1582年6月4日に、羽柴秀吉(豊臣秀吉)
は、 それを見とどけた後、明智光秀討伐のた
め、秀吉軍を山城(やましろ、京都府南部)に向
け出発させ、中国大返し(1582年6月4〜13
日)を始める。 但し、秀吉は、高松城付近に、
秀吉軍の一部を杉原家次(すぎはらいえつぎ)
に任(まか)せ、留め置いた。
1582年6月4日夕方に、毛利方は、本能
寺の変と織田信長の死を知る。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 中国大返し。
■ 中国大返し(1582年6月4〜13日)の出発
点の備中・高松での状況(1582年6月2日〜
4日)。
■ 毛利軍との停戦に一応成功した、秀吉軍。
■ 1582年(天正10年)に、 織田信長の部将・
羽柴秀吉(豊臣秀吉)の中国攻めで、 毛利氏
と戦う羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、 毛利氏に味
方する、清水宗治(しみずむねはる)の高松城
を水攻めにする。
一方、羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、清水 宗治
への援軍の毛利軍を足止めさせる。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 1582年の備中・高松城の戦いでは、羽柴秀吉
いた。
備中高松城の戦いは膠着(こうちゃく)状態
になり、毛利方は、和睦を考えていた。 毛利方
は、織田信長の死を知らずに、秀吉方より和睦
の条件が示され1582年6月4日早朝に和睦し
た。 その後、秀吉軍撤退の中国大返し時に追
撃しなかった。
「川角太閤記」では、織田軍撤退の中国大
返し時、吉川元春は追撃を主張したが、小早
川 隆景に静止されたと記述されている。また、
「吉川家文書」では、両名が、追撃は無謀であ
り、失敗すれば、毛利は滅びると懸念し追撃し
なかったと記述されている。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
(天正10年)6月2日に、織田氏配下の羽柴秀
吉の軍は、 山陰・山陽の中国地方の攻略のた
め、 備中(びっちゅう、岡山県)の敵の毛利方
の高松城(たかまつじょう)を水攻めにしていた。
羽柴秀吉(豊臣秀吉)が、本能寺の変での
織田信長の死を知ったのは、 1582年の6月
3日であり、 秀吉は、信長の死の情報が漏洩
(ろうえい)しないように、 備中・備前への道を
完全に遮断(しゃだん)し、 自陣(じじん)に対し
ても緘口令(かんこうれい)をしいた。
羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、 毛利方に信長
の死を秘して講和を結び、 一刻もはやく上洛し
て、主君の弔い合戦(ともらいがっせん)を行お
うとした。
羽柴秀吉(豊臣秀吉)にとって幸運だったこ
とは、 毛利方も、水攻めにされた、清水宗治
(しみずむねはる)の高松城(たかまつじょう)の
救援が困難だとの結論に達し、また、その他の
様々な戦況から、和睦(わぼく)に傾いていたこ
とである。
羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、1582年の6月3
日の夜のうちに、毛利方の外交僧・安国寺恵瓊
(あんこくじえけい)を、 自陣に招き、秀吉方の
黒田官兵衛(孝高(よしたか))と交渉させた。
和睦の会談で、 秀吉方の黒田官兵衛(孝高)
は、備中・美作・伯耆(びっちゅう・みまさか・ほ
うき、岡山県西部・岡山県東北部・鳥取県西部)
の3カ国の織田氏への割譲や高松城主・清水
宗治(しみずむねはる)の切腹と高松城の城兵
の助命という和睦の条件を毛利方 の安国寺恵
瓊(あんこくじえけい)に提示した。
交渉は、1582年の6月3日の夜から6月4
日の早朝まで続き、 秀吉方は、毛利方に内藤
広俊を講和の使者に立て、 提示条件を知った
毛利方は、 忠義を尽(つく)した清水宗治の切
腹の条件には難色を示したが、安国寺恵瓊が、
高松城の城兵の助命を条件に開城を説(と)き、
清水宗治を説得して、清水宗治も切腹を決断し,
遂に、秀吉方と毛利方の講和が結ばれた。
1582年(天正10年)6月4日午前中に
(午前10時頃と推定される)、 清水宗治は、
水攻めの高松城を囲む水上で、 小舟の舟上
で、ひとさし舞った後(曲舞を舞い納めた後に)、
切腹して自害した(自刃(じじん)した)。
1582年6月4日に、羽柴秀吉(豊臣秀吉)
は、 明智光秀討伐のため、中国大返し(1582
年6月4〜13日)を始める。 但し、秀吉は、高
松城付近に、秀吉の一部の軍を杉原家次(すぎ
はらいえつぎ)に任(まか)せ、留め置いた。
また、羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、 万一毛利
勢から追撃される場合を想定して、備前(びぜん、
岡山県東南部)に、 秀吉方の、宇喜多秀家(う
きたひでいえ)の軍を留め置いた。
1582年6月4日の夕方に、毛利方は、本能
寺の変と織田信長の死を知ることになる。
この時、 毛利方の吉川元春(きっかわもと
はる)から秀吉軍を追撃しようという声があがっ
たが、元春の弟の小早川 隆景(こばやかわたか
かげ)は、これを制し、誓紙(せいし)を交換して
いる上は和睦を遵守(じゅんしゅ)すべきだと主
張したため、毛利方は、秀吉方との交戦には至
らなかったという説がある。
毛利方の軍は、 秀吉の織田軍撤退の中国
了承した。 そして、毛利方と秀吉方で人質が交
換された。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 武士の自害。
■ 日本の安土桃山時代前期まで、切腹の作法も
定まっていなかった。
見事な清水宗治(しみずむねはる)の切腹が、
切腹の作法のお手本の1つとなった。
■ 「切腹が名誉ある死である」という考え方を定着
させる切っ掛けとなった、清水 宗治の切腹の自
害。
■ 清水 宗治の切腹の自害は、 武士にとって、
「切腹が名誉ある死である」という考え方を定着
させる切っ掛けとなる。
安土桃山時代後期以後から江戸時代まで、
武士を殺害する場合、 罪人としての死の「打ち
首」 と、 名誉ある死の「切腹」が区別されるよ
うになる。
■ 武士の自害は、 日本の安土桃山時代前期ま
で、形式は定まっていなかった。 切腹も自害
の単なる手段の1つに過ぎなかった。
■ 見事な清水宗治の切腹以後、 日本の安土桃
山時代後期以後、 切腹は、武士にとって「名
誉ある死」であるという認識が武士に広まって
いった。
■ 見事な清水宗治の切腹以後、 刑罰としても
切腹を命じる習慣が広まっていった。
安土桃山時代前期まで、 戦いで捕らえら
れた武士は、 刑罰として、首を刎(は)ねられ
るか、磔(はりつけ)にされるか などが普通で
あった。 切腹させる習慣は無かった。
見事な清水 宗治の切腹以後、 刑罰とし
て武士を自害させる手段の1つとして、「切腹」
が広まっていった。 例として、豊臣秀吉が甥
の豊臣秀次に切腹を命じている。
♪♪ 清水宗治 が登場する、興味深い、
ドキュメンタリー、ドラマ、映画。
★ 清水宗治が登場する、興味深い関
連ドキュメンタリー。
■ ザ・プロファイラー
『 黒田 官兵衛 』。
(NHKテレビ・2014年1月1日・本放送・
歴史ドキュメンタリー番組)。
★ 清水宗治 が登場する、興味深い、
ドラマ、映 画。
● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。
歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実)
と 架空の出来事が 混じって描かれていま
す。 また、 現代風にアレンジしてあります。
■ 『 軍師 官兵衛 』。
(NHKテレビ・2014年大河ドラマ)。
■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、
江戸時代初期を描いたドラマ。
● 清水 宗治 (しみず むねはる、毛利家家臣、
備中・高松城城主) を演じた俳優名 :
宇梶 剛士 (うかじ たかし)。
● 安国寺 恵瓊を演じた俳優名: 山路 和弘。
● 小早川隆景を演じた俳優名: 鶴見 辰吾。
● 吉川元春を演じた俳優名: 吉見一豊。
● 毛利輝元を演じた俳優名: 三浦孝太。
● 黒田 官兵衛を演じた俳優名: 岡田 准一。
● 羽柴秀吉(豊臣秀吉)を演じた俳優名:
竹中 直人。
■ 『 戦国疾風伝 (せんごくしっぷうでん)
二人の軍師〜秀吉に天下を獲ら
せた男たち 』
(日本の2011年テレビ東京・放映テレビ
ドラマ)。
■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、
江戸時代初期を描いたドラマ。
■ 戦国・安土桃山時代を描いたドラマ。
黒田 官兵衛(孝高(よしたか))、竹中 半兵
衛(重治(しげはる))の2人の軍師を中心に、
描く。
● 清水宗治を演じた俳優名 : 中村雅俊
(なかむらまさとし)。
● 豊臣 秀吉(羽柴秀吉)を演じた俳優名 :
西田敏行。
● 黒田 官兵衛を演じた俳優名: 高橋 克典
(たかはし かつのり)。
■ 女性天皇
(じょせいてんのう)。
■ 女性天皇。
■ 名称 : 女性天皇 (じょせいてんのう)。
■ 別名: 女帝 (じょてい)。
■ 《天皇》。
■ 日本の女性天皇は、次の8人10代 である。
● 古代日本の飛鳥白鳳時代、奈良時代の女性
天皇(= 女帝)。
(1) 推古(すいこ)天皇
(在位:592〜628年)、
(2) 皇極(斉明)(こうぎょく(さいめい))天皇
(在位:642〜645年、655〜666年)、
(3) 持統(じとう)天皇
(在位:690〜697年)、
(4) 元明(げんめい)天皇
(在位:707〜715年)、
(5) 元正(げんしょう)天皇
(在位:715〜724年)、
(6) 孝謙(称徳)(こうけん(しょうとく))天皇
(在位:749〜758、764〜770年)、
● 近世日本の江戸時代の女性天皇(= 女帝)。
(7) 明正(めいしょう)天皇
(在位:1629〜1643年)、
(8) 後桜町(ごさくらまち)天皇
(在位:1762〜1770年)。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 81923。
No.1。
■ 優秀な女性天皇(= 女帝)が多い。
■ 日本の古代から現代までの間に、女性天皇は、
飛鳥白鳳(あすかはくほう)時代、奈良(なら)
時代に天皇に即位(就 任)した、推古(すいこ)、
皇極(斉明)(こうぎょく(さいめい))、持統(じとう)、
元明(げんめい)、元正(げんしょう)、孝謙(称徳)
(こうけん(しょうとく))の6人8代の天皇 や 江
戸(えど)時代に天皇に即位(就 任)した、明正(め
いしょう)、後桜町(ごさくらまち)の2人2代の天
皇がいて、合計して8人10代の女性天皇(= 女帝)
がいる。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 女性天皇(じょせいてんのう)とは、 女帝 (じょ
てい)であり、 日本では、日本の古代から現代
までの間で、飛鳥白鳳(あすかはくほう)時代、
奈良(なら)時代、江戸(えど)時代に天皇に即位
(就任)した8人 10代の女性天皇(= 女帝)が
いる。
重祚(ちょうそ、再即位)した女性天皇
(= 女帝)が2人いるので、 10代である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 日本の8人10代の女性天皇(= 女帝)は、 飛
鳥白鳳時代、奈良時代の、推古(すいこ)、皇極
(斉明)(こうぎょく(さいめい))、持統(じとう) 天
皇)、元明(げんめい)、元正(げんしょう)、孝謙
(称徳)(こうけん(しょうとく)) 天皇)の6人8代の
女性天皇(= 女帝)であり、 江戸時代の、明正
(めいしょう)、後桜町(ごさくらまち)天皇)の2人2
代の女性天皇(= 女帝)である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 日本の女性天皇(= 女帝)は、 2人は重祚(ちょう
そ、再即位)しているので、 8人10代である。
重祚(ちょうそ、再即位)した女性天皇(= 女帝)
は、 皇極(斉明)天皇 と 孝謙(称徳)天皇 である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
◆ 日本の8人10代の女性天皇(= 女帝)。
■ 日本の女性天皇は、次の8人10代 である。
■ 推古(すいこ)天皇 (在位592〜628年)
最初の女性天皇(= 女帝)。
■ 皇極(こうぎょく)天皇 (在位642〜645年)
天智(てんじ)・天武(て
んむ)天皇の生母。
■ 斉明(さいめい)天皇 (在位655〜666年)
皇極天皇が再即位。
天智・天武天皇の生母。
■ 持統(じとう)天皇 (在位690〜697年)
天智天皇の皇女(娘)。
■ 元明(げんめい)天皇 (在位707〜715年)
天智天皇の皇女(娘)、
文武(もんむ)・元正天
皇の生母、
聖武天皇の祖母。
■ 元正(げんしょう)天皇 (在位715〜724年)
元明天皇の皇女(娘)。
■ 孝謙(こうけん)天皇 (在位749〜758年)
聖武(しょううむ)天皇の
皇女(娘))。
■ 称徳(しょうとく)天皇 (在位764〜770年)
孝謙天皇が再即位。
聖武天皇の皇女(娘)。
■ 明正(めいしょう)天皇 (在位1629〜1643年)
後水尾天皇の皇女(娘)。
■ 後桜町(ごさくらまち)天皇 (在位1762〜1770年)
桜町天皇の皇女(娘)。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
◆ 日本の女性天皇(= 女帝)。
■ 日本で重要な役割を果たした女性天皇(= 女帝)
は、 推古(すいこ)天皇 (在位:592年〜628年、
最初の女帝(= 女性の天皇))、 皇極(斉明)(こうぎ
ょく(さいめい))天皇 (皇極天皇在位:642〜645年、
斉明天皇在位:655〜666年))、 持統(じとう)
天皇 (在位:690〜697年)、 元明(げんめい)
天皇 (在位:707〜715年)、 孝謙(称徳)(こうけ
ん(しょうとく))天皇 (孝謙天皇在位:749〜758年、
称徳天皇:在位764〜770年) である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 推古(すいこ)天皇 (在位:592年〜628年) は、
飛鳥白鳳時代の女性天皇(= 女帝)であり、 日本
の最初の女性天皇(= 女帝)である。
推古天皇は、甥(おい)の厩戸皇子(うまやど
のみこ・おうじ、聖徳太子)や蘇我馬子と協力して、
小墾田宮(おわりだのみや)遷都、その他多くの政
策を行い、また、飛鳥(あすか)文化を現出させた。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 皇極(斉明)天皇 (皇極(こうぎょく)天皇在位:
642〜645年、斉明(さいめい)天皇 (天皇在位:
655〜666年)) は、 飛鳥白鳳時代の女性天
皇(= 女帝)で ある。
皇極(斉明)天皇は、 舒明(じょめい)天皇の
皇后であり、 天智(てんじ)天皇や天武(てんむ)
天皇の生母である。
皇極(斉明)天皇は、 645年の乙巳の変(い
っしのへん)の時の天皇であり、 子の中大兄皇
子(なかのおおえのみこ(おうじ)、後の天智天皇)
と協力して、 多くの政策を実施し、大化の改新を
推進し、また、飛鳥(あすか)文化を発展させる。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 持統(じとう)天皇 (在位:690ー697年)は、 飛
鳥白鳳時代の女性天皇(= 女帝)である。
持統天皇は、 天武天皇(在位673ー686年)
の皇后で、天武天皇の死後執政(しっせい、就任:
686〜690年)となり、 その後、女性天皇(= 女帝)
となる。 浄御原令の施行、藤原京(ふじわらきょ
う、694〜710年)遷都、その他多くの政策 を行い、
律令国家の基盤作りに努力し、また、白鳳(はくほ
う)文化を現出させる。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 元明(げんめい)天皇 (在位:707ー715年)は、
飛鳥白鳳時代、奈良時代初期の女性天皇(= 女帝)
である。
元明天皇は、 天智天皇の皇女(娘)であり、
文武(もんむ)天皇や元正(げんしょう)天皇(女帝)
の生母であり、聖武天皇の祖母である。
元明天皇は、 平城京 (へいじょうきょう、
710年ー784年)遷都、その他多くの政策 を行い、
律令国家の基礎を築く。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 元正天皇 (げんしょうてんのう、天皇在位:715年
ー724年、英:THE EMPRESS GENSHO)は、
奈良時代前期の、女性天皇(= 女帝)で ある。
元正天皇は、 元明(げんめい)天皇(在位:
707ー715年)の皇女(娘)である。
元正天皇は、 母の元明(げんめい)天皇の政
策を引き継ぎ、 多くの政策を行い、律令国家の基
礎を確立する。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 孝謙(称徳)天皇 (こうけん(しょうとく)てんのう、
在位:749年ー758年、764年ー770年)は、
奈良時代の女性天皇(= 女帝) である。
孝謙(称徳)天皇は、 阿倍内親王(あべ(の)
ないしんのう)であり、 聖武(しょうむ)天皇の皇女
(娘)である。
孝謙(称徳)天皇は、 752年(天平勝宝4年)
の大仏開眼時の天皇であり、 父の聖武天皇(聖
武太上(だじょう)天皇)、 橘諸兄(たちばなのもろ
え)、 吉備真備(きびのまきび)、 藤原仲麻呂(ふ
じわらのなかまろ)、 道鏡(どうきょう) と協力して、
多くの政策を行い、 東大寺大仏造営を推進し完成
させ、 仏教鎮護(ちんご)国家による国家の安定を
はかり、 また、天平(てんぴょう)文化を現出させる。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 明正(めいしょう)天皇 (在位:1629年ー1643年、
英:THE EMPRESS MEISHO)は、 江戸時
代の女性天皇(= 女帝)である。
明正(めいしょう)天皇は、 お江(おごう)と江
戸幕府第2代将軍・徳川秀忠との間の娘・徳川和子
(まさこ)の子である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 後桜町(ごさくらまち)天皇 (在位:1762年ー1770
年、英:THE EMPRESS GOSAKURAMACHI)
は、 江戸時代の女性天皇(= 女帝)である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ <コメント> 現在の象徴天皇制では、 皇室
典範(こうしつてんぱん)により女性天皇が即位
(就任)できないが、 世界では、エリザベス女
王をはじめ多くの立憲王国で女王が現出してい
る。 男女平等や現皇族直系の断絶防止の観
点から、日本も制度を改め、女性天皇が即位
(就任)できるようにすべきである。
前近代日本では、 天皇の正室夫人はひ
弱な女性が多く、体の丈夫な側室夫人が生母
である天皇が多く、前近代日本の天皇家の一
夫多妻制と異なり、現在の天皇家は一夫一婦
制で側室夫人がいなく、 現皇族直系の男性が
途絶え断絶する可能性があり、 現皇族直系の
断絶を防ぐためにも、女性天皇を擁立する必要
がある。
♪♪ 女性天皇(= 女帝)が登場する、興
味深い、ドラマ、映画、ドキュメンタリー。
★ 女性天皇(= 女帝)が登場する、興味
深い、ドラマ、映画。
● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。
歴史のドラマ、映画 は、史実(歴史上の事実)
と 架空の出来事 が混じって描かれています。
また、 現代風にアレンジしてあります。
■ 『 大仏開眼 (だいぶつかいげん) 』 。
(NHKテレビ・2010年古代史ドラマ
スペシャル)。
● 孝謙天皇 (= 称徳天皇、阿部内親王)を演じ
た女優: 石原 (いしはら) さとみ。
● 孝謙(称徳)(こうけん(しょうとく))天皇 (在
位749〜758、764〜770年) が、登場
する。 孝謙(称徳)天皇の即位前の名称は、
阿部内親王(あべのないしんおう)。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
■ 寿桂尼
(じゅけいに)。
■ 寿桂尼。
■ 名称 : 寿桂尼 (じゅけいに)。
■ 英語名 : Jukeini.
■ 《人名》 女戦国大名。
■ 生没年: 生年不詳−1568年。
■ 駿河の戦国大名・今川氏親(うじちか)の正室夫人。
■ 今川氏輝(うじてる)や今川義 元(よしもと)の生母 、
今川氏真(うじざね)の祖母。
■ 寿桂尼の夫・今川氏親死後、 今川氏輝、今川義元、
今川氏真の今川氏3代に渡り、今川氏当主の政務を
補佐したり、代理したりした。
■ 今川義元、太原雪斎、今川氏真、徳川家康に関して
家康」を参照してください.
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 81315。
■ 寿桂尼 (じゅけいに、生年不詳〜15 68年)は、
駿河の戦国大名・今川氏親(うじちか)の正室夫人で
あり、 今川氏輝(うじてる)や今川義元(よしもと)の
生母であり、今川氏真(うじざね)の祖母である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 寿桂尼は、 今川氏親死後、今川氏輝、 今川義元、
今川氏真 の今川氏3代に渡り、今川氏当主の政務
を補佐したり、代理したりした。
寿桂尼は、 室町時代後期(戦国時代)の女戦
国大名の1人である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 寿桂尼 (じゅけいに、生年不詳 ー1568年)
は、今川氏親(うじちか)の正室夫人で、 今川
氏輝(うじてる)や今川義元(よしもと)の生母で、
今川氏真(うじざね)の祖母であり、 寿桂尼の
夫・今川氏親死後、 今川氏輝、今川義元、今川
氏真の今川氏3代に渡り、政務を補佐した。
寿桂尼は、 戦国時代(室町時代後期)に、
男性当主を立てて、 後見人として実質的に領
国政治実権を握った女性であり、女戦国大名
の1人 である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
♪♪ 寿桂尼が登場する、興味深 い、ドキ
ュメタンリー、ドラマ、映画。
★ 寿桂尼が登場する、興味深 い、ドラマ、
映画。
● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。
歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実)
と 架空の出来事 が 混じって描かれています。
また、 現代風にアレンジしてあります。
■ 『 おんな城主 直虎 (おんな
じょうしゅ なおとら) 』 。
(NHKテレビ・2017年大河ドラマ)。
■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土桃山
時代の時代状況やその時代に活躍した人々
を描く。
● 寿桂尼(じゅけいに)を演じる女優 :
浅丘ルリ子。
● 今川 義元を演じる俳優 : 春風亭 昇太。
● 今川氏真(うじざね)を演じる俳優 :
尾上 松也。
■ 『 風林火山 (ふうりんかざん) 』 。
(NHKテレビ・2007年大河ドラマ)。
■ 日本の室町時代後期(戦国時代)の時代
状況やその時代に活躍した人々を描く。
■ 今川 義元の、駿河(静岡県)の守護(国主)
就任から、 武田氏や北 条氏との戦い、
武田氏の信濃の征服などを描 いている。
● 寿桂尼を演じた女優 : 藤村 志保。
● 今川氏輝を演じた俳優 : 五宝 孝一。
● 今川 義元を演じた俳優 : 谷原 章介。
● 太原雪斎を演じた俳優 : 伊武 雅刀
(いぶ まさとう)。
● 今川氏真を演じた俳優 : 風間 由次郎。
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■ 生類憐みの令
(しょうるいあわれみのれい)。
■ 生類憐れの令。
■ 名称 : 生類憐れの令 (しょうるいあわれみの
れい)。
● 英名: The Edicts on Compassion for
Living Things。
■ 江戸幕府5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし、将
軍在任1680年〜1709年)が、1685年から1709
年までの間に出した、人間・動物の生命尊重関係の
多数の法令(お触れ)の総称。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ この生類憐みの令により、これ以後、 日本は、武
力を重んじ武力で相手を殺傷し物事を解決しようする
「戦国の世」は終わりをつげ、 殺生(せっしょう)を嫌
い、人命尊重、弱者保護、人に親切にし、やさしい心
を持つことが美徳とされる時代 となる。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 「生類憐れの令」(しょうるいあわれみのれい)とは、
江戸幕府・第5代将軍徳川綱吉が1685年から20
年以上にかけて、約135回に分けて発令した御触
書(おふれがき) の総称である。
「生類憐れの令」は、 江戸幕府・第5代将軍徳
川綱吉統治中の、1685年(貞享(じょうきょう)2年)
7月に最初に出され、 それ以後、綱吉の死去した
1709年(宝永(ほうえい)6年)までの間に出された、
人間・動物の生命尊重関係の多数の法令(お触れ)
の総称 である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 生類憐れの令 (しょうるいあわれみのれい) は、
江戸幕府5代将軍・徳川綱吉 (とくがわつなよし、
将軍在任1680年〜1709年)が、 1685年から
1709年までの間に出した、人間・動物の生命尊重
関係の多数の法令(お触れ)の総称 である。
● 生類憐れの令の、英名は、 The Edicts on
Compassion for Living Things である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 徳川綱吉の、「生類憐みの令」。
■ 徳川 綱吉は、 日本人の意識改革を実行した
将軍であり、 弱者保護、人権尊重、動物愛護の
精神を日本人に植え付け、 「やしく親切な心」を
日本人に植えつけた政治家 であった。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 「生類憐みの令」で、処罰された者は、24年間
で、たった約70件であった。
■ 絶対的権力を持つ将軍の、徳川 綱吉は、 弱っ
ている人間・動物を見つけたら、救済する法令を
つくり、日本全国で、実行させた。 これにより、そ
れまで放置された、病人、身障者、老人、孤児、
行き倒れの旅人等の保護が、日本全国で行われ、
日本人の意識も、切り替わっていった。
■ 徳川綱吉は、 「生類憐みの令」 (しょうるいあ
われみのれい、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉が
出した、人間・動物の生命尊重関係の多数の法
令(お触れ)の総称) を出し、ヒトを含め生き物
への憐(あわ)れみを説いた、江戸幕府の将軍
である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 徳川 綱吉は、 人々に犬食いの風習をやめさ
せ(一般の人は当時犬を食べていたので)、 江
戸で野犬に人々が襲われるのを防ぐため、 中
野に野犬の収容施設をつくり、多数の犬を収容
した。
■ 徳川 綱吉は、生命、人権尊重を打ち出し、一
般庶民の死体放置、捨て子、弱者切捨て、人間
同士での殺し合い、武器をとり喧嘩・殺傷をする、
殺伐(さつばつ)とした弱肉強食の戦国時 代の考
え方を全面否定し、 弱者保護、平和共存を打ち
出し、政策に反映させる。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 徳川 綱吉は、 生命・人命尊重を唱え、 「生類
憐みの令」 (しょうるいあわれみのれい、人間・
動物の生命尊重関係の多数の法令(お触れ)の
総称) を出した将軍 である。
● 徳川 綱吉のこの政策により、 日本の民衆(人
々)の思考が、 人間や動物の殺傷を好み、保護
しない、生命軽視の、戦国時代の風潮・傾向から、
人間や動物の殺傷を嫌い、保護する、 生命重視
の風潮・傾向へと変わる。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 徳川 綱吉は、 人々に犬食いの風習をやめさせ(一般
の人は当時犬を食べていたので)、 江戸で野犬に人々
が襲われるのを防ぐため、 中野に野犬の収容施設をつ
くり、多数の犬を収容した。
■ 中野の犬屋敷。
■ 徳川 綱吉は、 江戸の町で、ヒトに危害を加える、野犬
をすべて、江戸の中野に収容し、「お犬屋敷」をつくる。
また、一般庶民の、犬食いの習慣をやめさせる。
■ 徳川 綱吉は、 犬を大切にし、犬のために、大きな施
設と仕組みをつくった。
■ 中野の犬屋敷は、 犬を保護することが目的であり、
徳川 綱吉は、 専用の犬駕籠(いんかご)をつくり、野
犬などを運ばせ、中野の犬屋敷に収容した。
■ 中野の犬屋敷は、 「中野御用御屋敷」とも呼ばれ、徳
川 綱吉の指示で、 江戸の中野地域 (現・東京都・中
野区の相当地域)に建てられた、巨大な犬屋敷である。
中野の犬屋敷は、東京ドーム20個分の広さがあり、
約10万頭の犬がいた。 建設費と維持費・犬の食費
は、莫大の費用がかかった。
中野の犬屋敷の建設には、延べ約100万人が参
加・従事し、約44億円の費用がかかった。
■ 徳川綱吉の、「生類憐みの令」。
■ 徳川綱吉は、 江戸幕府5代将軍になった後、徳 川
綱吉の側室夫人のお伝の方(おでんのかた)の男子
が、早世し、 徳川綱吉は 、世継ぎがいなくなり、世継ぎ
の誕生を望み、 仏教を厚く信仰する、徳川綱吉の生母
の、お玉 (桂昌院)は、世継ぎの誕生を切望し、「功徳」
(くどく)が足りないと考え、功徳を積むことが重要と思
い、日本全国の多くの仏教の寺院の再建・修復を行い、
また、 母親想いの5代将軍の徳川綱吉に生類憐みの
令(しょうるいあわれみのれい)を出させ、 人間をはじ
め、生き物の殺生(せっしょう)を禁じ、 慈悲の心を持ち、
人命尊重、生き物の生命尊重、生活困窮者、病人、孤児、
行き倒れの旅人の世話など弱者保護の政策を強力に推
進し、日本全国に行わせた。
この生類憐みの令により、これ以後、 日本は、 武力
を重んじ武力で相手を殺傷し物事を解決しようする「戦国
の世」は終わりをつげ、 殺生(せっしょう)を嫌い、人命尊
重、弱者保護、人に親切にし、やさしい心を持つことが美
徳とされる時代 となる。
また、江戸幕府は、仏教の寺院の再建・修復や、人命
・生き物の生命尊重・弱者保護などの公共事業のために
多額の出費を行い、 経済が活性化され、華やかな元禄
文化を出現させる。
しかし、お玉(桂昌院)の「功徳」(くどく)の甲斐もなく、
結局、 徳川綱吉の正室・側室夫人に は、徳川綱吉の世
継ぎは生まれず、 お玉(桂昌院)は、綱吉の 子の跡継ぎ
の顔を見ることもなく、失意のうちにこの世を去る。 その
後、徳川綱吉も、綱吉の子の世継ぎを得ることなく、この
世を去る。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
#edictsoncompassionforlivingthings-appearingscenes
♪♪ 生類憐みの令 が登場する、 興味深い、ド
ラマ、映画、ドキュメンタリー。
★ 生類憐みの令が登場する、興味深いドキュメ
ンタリー。
■ 尾上松也の古地図で謎解き
にっぽん探究 『 なぜ名君・徳川綱
吉に「犬公方」の汚名 』。
(BS11テレビ・2016年9月28日 ・本放
送の歴史ドキュメンタリー番組)。
● 江戸幕府5代将軍・徳川綱吉や綱吉の
生母・桂昌院(お玉)を述べる。
● 徳川綱吉の政治改革や善政を述べる。
● 徳川綱吉の生類憐みの令について述べる。
● 儒教や儒学について述べる。
■ 歴史秘話ヒスとリア 『 大奥 シンデレ
ラ・ストーリー〜将軍の母・桂昌院 元祖
「玉の輿」物語〜 』。
(NHKテレビ・2012年(H24)2月8日・本放送の
歴史ドキュメンタリー番組)。
★ 生類憐みの令 が登場する、 興味深い関連ド
ラマ、映画。
● (注意) ドラマ、映画は、フィクションです。 歴史
ドのラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) と 架
空の出来事が、 混じって、描かれています。 また、
現代風にアレンジしてあります。
■ 『 大奥・華の乱 』。
(フジテレビ・2005年制作テレビドラマ)。
● 桂昌院(お玉)を演じた俳優名 : 江波杏子。
● 4代将軍家綱、5代将軍綱吉 時代 と その時代
の大奥 を描いたドラマ。
● 内山理名、藤原紀香、小池栄子、高岡早紀 など
美人女優が出演。
● 5代将軍の生母である、晩年のお玉(桂昌院)が
登場する。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
■ 持明院統
(じみょういんとう)。
■ 持明院統。
■ 名称 : 持明院統 (じみょういんとう)。
■ 英語名 : THE JIMYOINTO LINEAGE.
■ 《皇統》。
■ 持明院統 : 1259年−1392年。
■ 持明院統 : 後深草天皇の皇統。
■ 持明院統 : 後嵯峨(ごさが)天皇の皇子・
「後深草(ごふかくさ)天皇」から後小松(ごこ
まつ)天皇までの皇統。
■ 持明院統 : 大覚寺統と皇位を争った後深草天皇
の皇統。
■ 1259年ー1392年、
いかくじとう) の皇統の分立。
● 1336年ー1392年、
朝廷は、 持明院統の北朝 と、 大覚寺統の南朝
に分裂し、対立する。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 71312。
■ 持明院統。
■ 持明院統 (じみょういんとう) とは、 久仁(ひさひ
と)親王である、後深草(ごふかくさ)天皇 (天皇在
位:1246−1259年)の皇統である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 持明院統は、 後嵯峨(ごさが) 天皇 (天皇在位:
1242−46年)の皇子・「後深草 (ごふかくさ)天皇」
から後小松(ごこ まつ)天皇までの皇統 である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 皇統の分立。
■ 朝廷では、 1259年( 強引天皇譲位)から1392年
(南北朝の合体)まで、 持明院統 (じみょういんと
う) と、 大覚寺統 (だいかくじとう) の皇統の分立
が続いた。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 朝廷は、 1336年(足利尊氏の光明(こうみょう)天
皇擁立)から1392年(南北 朝の合体)まで、 持明
院統(じ みょういんとう)の北朝 と、 大覚寺統(だ
いかくじとう)の南朝 に分裂し、対立した。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 持明院統。
■ 持明院統 (じみょういんとう) とは、 後深
草天皇の皇統 である。
■ 持明院統は、鎌倉時代中期から室町時代
前期まであった天皇家の皇統 (2つの大
覚寺統・持明院統) の1つで、 大覚寺統
と皇位を争った後深草天皇の皇統 である。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 持明院統 は、後嵯峨(ごさが)天皇の皇子
・「後深草(ごふかくさ)天皇」から後小松(ご
こまつ)天皇までの皇統 である。
後深草天皇が譲位後京(都)の持明院
(じみょういん)を御所(ごしょ)としたので、
この名がある (後深草天皇の皇統を、持
明院統と言う)。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 皇統の分立。
■ 皇統の分立 (こうとうのぶんりつ) とは、 1259年
から1392年まで、 鎌倉時代中期から室町時代前
2つの皇統に分立したことである。
更に、 1336年から1392年まで、 建武時代
から室町時代前期まで、 朝廷 は、 持明院統(じみ
ょういんとう)の北朝(ほくちょう) と、 大覚寺統(だ
いかくじとう)の南朝(なんちょう) に分裂し、対立し
た。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 皇統分立の起こり。
■ 皇統分立の起こり。
1246年に、 後嵯峨天皇 (天皇在位:1242
−46年、生没年:1220−72年)が、 皇子(次男)
の久仁(ひさひと)親王に天皇の位を譲り、 久仁(ひ
さひと)親王は、後深草(ごふかくさ)天皇) (天皇在
位:1246−59年) となり、 後嵯峨天皇は、後嵯
峨上皇となった。
しかし、1259年に、 後嵯峨上皇は、皇子(次
男)の、後深草天皇を強引に退位させ、 他の皇子
(三男)の恒仁(つねひと)親王を天皇にし、亀山(か
めやま) 天皇(天皇在位:1259−74年) が誕生し
た。 その後、亀山(かめやま) 天皇は、次の天皇を
自分の子 (後宇多(ごうだ)天皇(天皇在位:1274
−88年) としたため (立太子としたため)、 退位
した後深草天皇は、自分の子の皇位継承ができず、
非常に不満をもち、鎌倉幕府に仲裁を依頼し、12
88年に、後深草天皇の子(伏見 (ふしみ)天皇)が
天皇に即位することが実現した。 こうして、その後
は、鎌倉時代の間、 鎌倉幕府 の介入・仲裁による、
両統迭立 (りょうとうてつりつ、両統の皇子が交互
に天皇になる方式) となった。
■ 皇統の分立の原因。
鎌倉幕府の主導で、1242年に、 後
嵯峨(ごさが)天皇 (天皇在位:1242〜
46年、生没年:1220〜1272年)が、
即位した。
後嵯峨天皇は、退位後、上皇となり、20
数年にわたり、 院政 (いんせい、上皇が
朝廷の実権をにぎり朝廷を動かすこと) を
行う (上皇・院政期:1246〜1272年)。
後嵯峨(ごさが)天皇には、 3人の皇子
(みこ)がいた。 一人の皇子は、宗尊(むね
たか)親王で、鎌倉幕府の宮家将軍にさせ
る。 他の2人の皇子は、 天皇に即位させ、
後深草天皇(在位1246〜59年) と 亀山
天皇(在位1259〜74年) になった。
後嵯峨天皇(上皇)は、 皇子の後深草
天皇(在位1246〜59年)に譲位後、 次
に、後深草天皇を、強制的に退位させ、同
じ皇子で後深草天皇の弟 (亀山天皇(在
位1259〜74年)に譲位させた。 こうして、
両者(両統)対立の原因をつくる。
1272年の後嵯峨上皇(天皇)の死後、
後嵯峨上皇(天皇)の2人の皇子の後深草
天皇 と 亀山天皇 は、 天皇の皇位継承、
院政の権利、皇室領荘園の相続などをめぐ
って対立し、 両者ともに鎌倉幕府に働きか
け有利な地位を得ようとした。 鎌倉幕府の
介入で、 結局、 両者の天皇の子孫は、今
後、交替(こうたい)で、 天皇の皇位を継承
することとなった (両統迭立(りょうとうてつ
りつ)となった)。
後嵯峨天皇の皇子の後深草(ごふかくさ)
天皇は、 持明院統(じみょういんとう)の最
初の天皇となり、 もう一人の後嵯峨天皇の
皇子の亀山(かめやま)天皇は、 大覚寺統
(だいかくじとう)の最初の天皇 となった。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 両統迭立。
■ 鎌倉幕府の主導で、 持明院統と大覚寺統
の両統の皇族が交替(こうたい)で天皇の皇
位継承を行うことを、 両統迭立 (りょうとう
てつりつ) という。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 後醍醐天皇と鎌倉幕府の対立。
● 後醍醐天皇は、 両統迭立による後醍醐
天皇の皇子皇位継承見込みなしを契機(け
いき)(きっかけ)に、鎌倉幕府と対立し、や
がて、倒幕を決意する。
● 北条執権の鎌倉幕府の介入による、13
17年の「文保の和談」(ぶんぽうのわだん)
で、 持明院統の花園天皇が皇位を大覚寺
統の尊治(たかはる)親王(後醍醐天皇)に
譲ることが決まる。 その他に、「文保の和
談」では、 大覚寺統内の皇位継承候補の皇
族は複数いて、後醍醐天皇の兄弟の子・邦
良(くによし)親王(大覚寺統の後二条天皇の
皇子)が、後醍醐天皇の次の皇位を継承し、
その後は 両統迭立(りょうとうてつりつ)で、
持明院統の量仁(かずひと)親王が皇位を継
ぐことが決まった。
「文保の和談」により、1318年に後醍醐
天皇 (在位1318〜32、1333〜39年)は、
天皇に即位するが、 後醍醐天皇の子孫に
は、皇位継承の見込みがなかった。
大覚寺統の後醍醐天皇は、自分の皇子
を天皇にすることを切望し、鎌倉幕府と対立
した。
後醍醐天皇は、 自分の皇子の皇位継承
や天皇親政政治をめざし、 鎌倉幕府の倒幕
を計画し、 1324年の正中の変(しょうちゅ
うのへん) と 1331年の元弘の変(げんこ
うのへん) の2つの倒幕計画を起こすが、い
ずれも失敗する。 鎌倉幕府により、1332
年に、隠岐(おき)に配流(はいる)される。
一方、邦良(くによし)親王は急死したの
で1332年に持明院統の量仁(かずひと)親
王が、光厳(こうごん)天皇(在位1332〜33
年)として即位する。
1333年に、後醍醐天皇は、隠岐(おき)
を脱出し、 足利尊氏(あしかがたかうじ)、
新田義貞(にったよしさだ)などの反幕府勢
力と手を組み、 北条執権の鎌倉幕府を倒
し、1333年に、建武(けんむ)政権(1333
〜36年)を成立させた。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 朝廷の南北朝分裂と合体。
■ 朝廷の南北朝分裂 (1336〜1392年)。
● 1336年に、朝廷は、 大覚寺統(だいか
くじとう)の「南朝」(なんちょう) と 持明院統
(じみょういんとう)の「北朝」(ほくちょう) の
2つに分裂する。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
● 1336年に、建武(けんむ)政権(1333〜
京(都)より吉野(よしの)に移ると、 1336
年に、京(都)では、足利尊氏に擁立された、
持明院統の光明(こうみょう)天皇(在位133
6〜48年)が、即位し、 ここに、朝廷は、吉
野の大覚寺統の「南朝」 と 京(都)の持明
院統の「北朝」に分裂し、南北朝時代 (13
36年〜1392年) となる。
■ 朝廷の合体 (南北朝の合一)。
義満(あしかがよしみつ)は、 南朝側と交渉
朝」を合一させるのに、成功し、 大覚寺統と
持明院統の対立は、 ここに解消した。
足利義満は南朝側と交渉し、大覚寺統の
南朝の後亀山(ごかめやま)天皇が1392年
に、皇位を放棄して入京し、 朝廷の天皇は、
持明院統の北朝の後小松(ごこまつ)天皇一
人となった。
1392年の南北朝合体後は、大覚寺統
の南朝は消滅し、南北朝という区別はなくなり、
後小松天皇の持明院統の北朝の天皇が、朝廷
の皇位を代々を継ぐ。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 四国地方
(しこくちほう)。
■ 四国地方。
■ 名称 : 四国地方 (しこくちほう)。
■ 英語名 : SHIKOKU REGION.
■ 現地方名。 《現地域名》。
■ 四国地方。
<日本本土(本州、四国、九州)。
<日本国。
■ 四国地方に関係する、南海道(なんかいどう)
の旧広域地方に関しては、「南海道」を参照
してください。
■ 前近代・旧地域名に関しては、 「前近代日本
の地域名」を参照してください。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61817。
■ 四国地方 (しこくちほう)は、 香川県、 徳島県、
高知県、愛媛県 の地域である。
■ 四国地方 (しこくちほう)は、
@ 南海道(なんかいどう)・旧広 域地方の 一部
の、香川県 (讃岐 国(おきのくに))、 徳島県
(阿波 国(あわのくに))、 高知県 (土佐 国
(とさのくに))、 愛媛県 (伊予 国(いよのくに))
の地域 である。
■ 地下浪人
(じげろうにん)。
■ 地下浪人。
■ 名称 : 「地下浪人」 (じげろうにん)。
■ 江戸時代に、武士身分を売った下級武士。
■ 江戸時代の下級武士の階級身分の1つ。
■ 江戸時代に、貧しく生活のために、郷士株を売
ってしまった元郷士の下級武士。
■ (「地下浪人」の例)
土佐藩の幕末の、岩崎 弥太郎(いわさきやたろ
う)、沢村惣之丞(さわむらそうのじょう) など。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61812。
■ 地下浪人(じげろうにん)とは、 江戸時代に、貧
しく生活のために、郷士株を売ってしまった元郷
士身分の下級武士である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 地下浪人は、 無禄無役ではあるが、士分の格
式を維持し、苗字帯刀は許されていた。
■ 地下浪人は、 田畑を耕したり、町人として生計
をたてるなどしていた。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 地下浪人の例として、 土佐藩の幕末の、岩崎
むらそうのじょう) などがいる。
● 岩崎弥太郎は、 幕末に、土佐藩設立の「土佐
商会」の主任となり、 坂本龍馬の「海援隊」の会
計係を行い、 明治期には、 三菱財閥の創始
者となった。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 江戸時代に、 武士身分には、 農村居住武士
の郷士(ごうし) と、 城下町に住む家中武士
(かちゅうぶし) がいた。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 郷士は、 城下町に住む家中武士より低い身
分とされたが、 生産に直結していたため、富
裕な者も多かった。
■ 地下浪人 (じげろうにん)とは、 江戸時代の武
士の階級身分の1つであり、 江戸時代に武士
身分を売った下級武士であり、 主に 、貧窮(ひ
んきゅう)から郷士株 (ごうしかぶ、郷士の武士
身分)を売った下級武士 である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 「地下浪人」 (じげろうにん)は、 江戸時代の
下級武士(= 下士(かし))の階級身分の1つで
あり、 土佐藩士(とさはんし)の「地下浪人」が
よく知られている。
■ 郷士は、江戸時代の、半農半武士階級の下級
武士である。
江戸時代に、一般的に農村等に居住して
いた下級武士を、 江戸時代に、郷士(ごうし)
と呼んだ。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 郷士(ごうし) とは、 江戸時代の武士の階級
身分の1つで、 一般的に、城下ではなく、 農
村等に居住していた 下級武士 つまり、在郷下
級武士である。
● 江戸時代、 江戸幕府の一国一城令により、
各藩は、 一藩に1つ の城だけを持ち、 藩士
(藩に属する武士)は、 城下町(じょうかまち)
に住む家中武士(かちゅうぶし) と、 農村居
住武士の郷士(ごうし) に分かれた。
下級武士の一部は、 農村等に住んだ。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
♪♪ 地下浪人が登場する、興味深い、
ドラマ、映画、ドキュメンタリー。
★ 地下浪人(じげろうにん)が登場する、
興味深 い、ドラマ、映画。
● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。
歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実)
と 架空の出来事 が 混じって描かれてい
ます。 また、現代風にアレンジしてあります。
■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 。
(NHKテレビ・2010年大河ドラマ)。
● 土佐藩の下級武士の地下浪人(じげ
ろうにん)の、岩崎弥太郎(いわさきや
たろう)や沢村惣之丞(さわむらそうの
じょう)が登場する。
■ 朱単位・定位(定額)・
通常貨幣
(しゅたんい・ていい(ていがく)・
つうじょうかへい)。
■ 朱単位 ・定位(定額)・通常
貨幣。
■ 名称 : 朱単位定位(定額)・通常貨幣
(しゅたんいていい(ていがく)・つうじょうかへい)。
■ 《日本流通貨幣》。
江戸時代の日本流通貨幣。
■ 江戸幕府が鋳造・発行した、朱(しゅ)単位の、
江戸時代の定位(定額)・通常貨幣 、長方形
「朱金銀貨」。
■ 朱金銀(しゅきんぎん、朱単位の金貨・銀貨)。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
(3種)、 一朱銀(1種) の4種類。
■ 江戸時代に流通した、朱単位の貨幣には、
朱単位の銀貨)がある。
■ 二朱金銀貨≒現在の約1万2500円。
一朱金銀貨 ≒現在の約6250円。
(4貫文) ≒ 現在の約10万円。
■ 朱単位 ・定位(定額)・通常貨幣。
<分朱金銀貨 (= 分朱金銀)。
<江戸時代・定位(定額)通常貨幣。
<江戸時代・日本流通貨幣。
<近世・日本流通貨幣。
<日本流通貨幣。
■ 江戸時代の分朱金銀貨については、「分朱金銀
貨」を参照してください。
■ 江戸時代の分単位貨幣については、「分単位定
位(定額)通常貨幣」を参照してください。
■ 江戸時代の貨幣の全体については、「江戸時代
の日本流通貨幣」を参照してください。
■ 日本の流通貨幣の全体については、「日本流通
貨幣」を参照してください。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61726。
銀(4種)が鋳造され、 朱金(朱単位の金貨)では、
が流通し、使用された。 朱銀(朱単位の銀貨)では、
流通し、使用された。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 江戸時代に流通した、朱単位の貨幣には、
朱単位の銀貨)がある。
■ 江戸時代の貨幣。
■ 江戸時代の両(りょう)・分(ぶ)・朱(しゅ)・文(もん)
の定額(定位)・通常貨幣。
■ 江戸時代(1603年〜1868年)に、 江戸幕府に
より鋳造(発行)され、 全国に流通し、 使用された
定額(定位)・通常貨幣 は、 5両判金(1種)、
(1種)、 十文銭(1種)、 四文銭(2種)、 一文銭
(1種) などである。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 朱金。
■ 朱金。
■ 二朱金。
■ 二朱金 (にしゅきん) は、 2朱の単位の金貨で、
江戸時代の定額(定位)・通常貨幣 である。
二朱金は、 現在の 貨幣価値で約12,500円に
相当する。 3種あり、 江戸時 代の前期より後期まで
鋳造された。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 一朱金。
■ 一朱金 (いっしゅきん) は、 1朱の単位の金貨
で、 江戸時代の定額(定位)・通常貨幣 である。
一朱金は、 現在の 貨幣価値で約6,250円に
相当する。
■ 朱金。
■ 江戸時代に、 朱金 (しゅきん、= 朱(しゅ)単位の
の2種類の貨幣が、鋳造され、流通し、使用された。
■ 二朱金。
■ 江戸時代に流通した、二朱金(にしゅきん) は、
次の3種類 である。
元禄二朱(判)金(げんろくにしゅ(ばん)きん)、
天保二朱(判)金(てんぽうにしゅ(ばん)きん)、
万延二朱(判)金(まんえんにしゅ(ばん)きん) で
ある。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 一朱金。
■ 江戸時代に流通した、一朱金(いっしゅきん)は、
1種類 である。
文政一朱(判)金(ぶんせいいっしゅ(ばん)きん)
である。
■ 朱銀。
■ 朱銀。
■ 二朱銀。
■ 二朱銀 (にしゅぎん) は、 2朱の単位の銀貨で、
江戸時代の定額(定位)・通常貨幣 である。
二朱銀は、 現在の 貨幣価値で約12,500円に
相当する。
■ 一朱銀。
■ 一朱銀 (いっしゅぎん) は、 1朱の単位の銀貨
で、 江戸時代の定額(定位)・通常貨幣 である。
一朱銀は、 現在の 貨幣価値で約6,250円に
相当する。
■ 朱銀。
■ 江戸時代に、 朱銀(しゅぎん、= 朱(しゅ)単位の銀
の2種類の貨幣が、鋳造され、流通し、使用された。
■ 二朱銀。
■ 江戸時代に全国に流通した、二朱銀(にしゅぎん)
は、 次の3種類 である。
古南鐐二朱銀 (こなんりょうにしゅぎん)、 新
南鐐二朱銀 (しん なんりょうにしゅぎん)、 安政
二朱銀 (あんせいにしゅぎん) である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 一朱銀。
■ 江戸時代に全国に流通した、一朱銀(いっしゅぎ
ん)は、 次の1種類 である。
文政南鐐一朱銀 (ぶんせいなんりょういっ
しゅぎん) である。
■ 小判。
江戸時代の各時期で価値は変動したが、 現在の
貨幣価値で約10万円 で ある。
江戸時代に、 1両小判(金)は、およそ4分、
1両小判(金)は、およそ16朱、 1両小判(金)は、
およそ4000文 (4貫文) と交換された。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 江戸時代の貨幣。
■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣。
■ 両金貨、分朱金銀貨、文銭銅・鉄貨区分の分類。
● 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣を、(1)両
金貨、(2)分朱金銀貨、(3)文銭銅・鉄貨によ
り、3つに分類する。
■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣は、 (1)
銅貨(= 天保銭)(1種)、 十文銭銅貨(1種)、
の3つに分類される。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 両・分・朱・文区分の分類。
● 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣を、(1)両、
(2)分、(3)朱、(4)文(りょう、ぶ、しゅ、もん)
により、4つに分類する。
■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣は、 (1)
両単位・定位(定額)・通常貨幣の、五両判(金)
位・定位(定額)・通常貨幣の、 二分金(3種)、
位・定位(定額)・通常貨幣の、 二朱金(3種)、
(4) 銭単位・定位(定額)・通常貨幣の、 百文
の4つに分類される。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 13種類区分の分類。
● 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣を、額面、材
質等により、13種類に分類する。
■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣は、 五両判
一文銭銅・鉄貨(1種) の13種類である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 江戸時代(1603年〜1868年)に、 江戸幕府
により鋳造(発行)され、 全国に流通し、使用さ
れた定位(定額)・通常貨幣は、 五両判(金)(ご
りょうばん(きん))(1種)、 一両 小判(金)(いち
りょうこばん(きん))(11種)、 二分金(にぶきん)
(にしゅぎん)(3種)、 一朱銀(いっしゅぎん)
(1種)、 百文銭銅貨(= 天保銭)(ひゃくもんせん
どうか(= てんぽうせん)(1種)、 十文銭銅貨
(じゅうもんせん)(1種)、 四文銭銅・鉄貨(よんも
んせんどう・てっか)(2種)、 一文銭銅・鉄貨(い
ちもんせんどう・てっか)(1種) の13種類である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
#shuunitregularmoney-appearingscenes
♪♪ 朱単位定額(定位)・通常貨幣 が登
場する、興味深い、ドラマ、映画、ド
キュメンタリー 。
★ 朱単位定額(定位)・通常貨幣 が登場
する、興味深い、ドラマ、映画。
● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 歴
史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) と
架空の出来事が 混じって描かれています。 また、
現代風にアレンジしてあります。
■ 『 陽炎の辻・居眠り磐音・江戸双紙
(かげろうのつじ・いねむりいわね・えどぞうし) 』 。
(NHKテレビ・BSスペシャルドラマ、全計11回)。
第2回 「 絆 (きずな) 」
● 日本の江戸時代を描いた、ドラマ。
● 朱銀の、南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)が登
場する。 小判と南鐐二朱銀の交換比率(小判1枚
と二朱銀8枚)をめぐり、騒動が起きる。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
■ 朱金
(しゅきん)。
■ 朱金。
■ 名称 : 朱金 (しゅきん)。
■ 《日本流通貨幣》。
江戸時代の日本流通貨幣。
■ 朱金 (しゅきん、朱(しゅ)朱単位の金貨)。
■ 江戸時代に流通した、朱単位の貨幣には、
朱単位の銀貨)がある。
(⇒ 「朱単位 定位(定額)通常貨幣」)。
■ 江戸幕府が鋳造・発行した、朱(しゅ)単位の、
江戸時代の定位(定額)・通常貨幣 、長方形
「朱金貨」。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 二朱金 ≒ 現在の約12,500円 。
一朱金 ≒ 現在の約 6,250円。
(4貫文) ≒ 現在の約10万円。
■ 朱金。
<朱単位 ・定位(定額)・通常貨幣。
<分朱金銀貨 (= 分朱金銀)。
<江戸時代・定位(定額)通常貨幣。
<江戸時代・日本流通貨幣。
<近世・日本流通貨幣。
<日本流通貨幣。
■ 江戸時代の朱単位貨幣については、「朱単位
定位(定額)通常貨幣」を参照してください。
■ 江戸時代の分朱金銀貨については、「分朱金
銀貨」を参照してください。
■ 江戸時代の貨幣の全体については、「江戸時
代の日本流通貨幣」を参照してください。
■ 日本の流通貨幣の全体については、「日本流
通貨幣」を参照してください。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61726。
■ 朱金。
■ 江戸時代に、朱単位の貨幣では、朱金(4種)と
朱銀(4種)が鋳造され、 朱金(朱単位の金貨)
類の貨幣が流通し、使用された。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 江戸時代に流通した、朱単位の貨幣には、
朱単位の銀貨)がある。
(⇒ 「朱単位 定位(定額)通常貨幣」)。
■ 朱金。
■ 二朱金 (にしゅきん) は、 2朱の単位の金貨で、
江戸時代の定額(定位)・通常貨幣 である。
二朱金は、 現在の 貨幣価値で約12,500円に
相当する。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 一朱金 (いっしゅきん) は、 1朱の単位の金貨
で、 江戸時代の定額(定位)・通常貨幣 である。
一朱金は、 現在の 貨幣価値で約6,250円に
相当する。
■ 朱金。
■ 江戸時代に、 朱金 (しゅきん、= 朱(しゅ)単位の
の2種類の貨幣が、鋳造され、流通し、使用された。
■ 二朱金。
■ 江戸時代に流通した、二朱金(にしゅきん) は、
次の3種類 である。
元禄二朱(判)金(げんろくにしゅ(ばん)きん)、
天保二朱(判)金(てんぽうにしゅ(ばん)きん)、
万延二朱(判)金(まんえんにしゅ(ばん)きん) で
ある。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 一朱金。
■ 江戸時代に流通した、一朱金(いっしゅきん)は、
1種類 である。
文政一朱(判)金(ぶんせいいっしゅ(ばん)きん)
である。
■ 江戸時代の貨幣。
■ 江戸時代の両(りょう)・分(ぶ)・朱(しゅ)・文(もん)
の定額(定位)・通常貨幣。
■ 江戸時代(1603年〜1868年)に、 江戸幕府に
より鋳造(発行)され、 全国に流通し、 使用された
定額(定位)・通常貨幣 は、 5両判金(1種)、
(1種)、 十文銭(1種)、 四文銭(2種)、 一文銭
(1種) などである。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 小判。
時代の各時期で価値は変動したが、 現在の 貨幣
価値で約 10万円 であった。
江戸時代に、 1両小判(金)は、およそ4分、1両
小判 (金)は、およそ16朱、 1両小判(金)は、およ
そ4000文 (4貫文) と交換された。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 江戸時代の貨幣。
■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣。
■ 両金貨、分朱金銀貨、文銭銅・鉄貨区分の分類。
● 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣を、(1)両
金貨、(2)分朱金銀貨、(3)文銭銅・鉄貨によ
り、3つに分類する。
■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣は、 (1)
銅貨(= 天保銭)(1種)、 十文銭銅貨(1種)、
の3つに分類される。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 両・分・朱・文区分の分類。
● 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣を、(1)両、
(2)分、(3)朱、(4)文(りょう、ぶ、しゅ、もん)
により、4つに分類する。
■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣は、 (1)
両単位・定位(定額)・通常貨幣の、五両判(金)
位・定位(定額)・通常貨幣の、 二分金(3種)、
位・定位(定額)・通常貨幣の、 二朱金(3種)、
(4) 銭単位・定位(定額)・通常貨幣の、 百文
の4つに分類される。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 13種類区分の分類。
● 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣を、額面、材
質等により、13種類に分類する。
■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣は、 五両判
一文銭銅・鉄貨(1種) の13種類である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 江戸時代(1603年〜1868年)に、 江戸幕府
により鋳造(発行)され、 全国に流通し、使用さ
れた定位(定額)・通常貨幣は、 五両判(金)(ご
りょうばん(きん))(1種)、 一両 小判(金)(いち
りょうこばん(きん))(11種)、 二分金(にぶきん)
(にしゅぎん)(3種)、 一朱銀(いっしゅぎん)
(1種)、 百文銭銅貨(= 天保銭)(ひゃくもんせん
どうか(= てんぽうせん)(1種)、 十文銭銅貨
(じゅうもんせん)(1種)、 四文銭銅・鉄貨(よんも
んせんどう・てっか)(2種)、 一文銭銅・鉄貨(い
ちもんせんどう・てっか)(1種) の13種類である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
■ 朱銀
(しゅぎん)。
■ 朱銀。
■ 名称 : 朱銀 (しゅぎん)。
■ 《日本流通貨幣》。
江戸時代の日本流通貨幣。
■ 朱銀 (しゅぎん、朱(しゅ)朱単位の 銀貨)。
■ 江戸時代に流通した、朱単位の貨幣には、
朱単位の銀貨)がある。
(⇒ 「朱単位 定位(定額)通常貨幣」)。
■ 江戸幕府が鋳造・発行した、朱(しゅ)単位の、
江戸時代の定位(定額)・通常貨幣 、長方形
「朱銀貨」。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 二朱銀 ≒ 現在の約12,500円 。
一朱銀 ≒ 現在の約 6,250円。
(4貫文) ≒ 現在の約10万円。
■ 朱銀。
<朱単位 ・定位(定額)・通常貨幣。
<分朱金銀貨 (= 分朱金銀)。
<江戸時代・定位(定額)通常貨幣。
<江戸時代・日本流通貨幣。
<近世・日本流通貨幣。
<日本流通貨幣。
■ 江戸時代の朱単位貨幣については、「朱単位
定位(定額)通常貨幣」を参照してください。
■ 江戸時代の分朱金銀貨については、「分朱金
銀貨」を参照してください。
■ 江戸時代の貨幣の全体については、「江戸時
代の日本流通貨幣」を参照してください。
■ 日本の流通貨幣の全体については、「日本流
通貨幣」を参照してください。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61726。
■ 朱銀。
銀(4種)が鋳造され、 朱銀(朱単位の銀貨)では、
流通し、使用された。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 江戸時代に流通した、朱単位の貨幣には、
朱単位の銀貨)がある。
(⇒ 「朱単位 定位(定額)通常貨幣」)。
■ 朱銀。
■ 二朱銀。
■ 二朱銀 (にしゅぎん) は、 2朱の単位の銀貨で、
江戸時代の定額(定位)・通常貨幣 である。
二朱銀は、 現在の 貨幣価値で約12,500円に
相当する。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 一朱銀。
■ 一朱銀 (いっしゅぎん) は、 1朱の単位の銀貨
で、 江戸時代の定額(定位)・通常貨幣 である。
一朱銀は、 現在の 貨幣価値で約6,250円に
相当する。
■ 朱銀。
■ 江戸時代に、 朱銀(しゅぎん、= 朱(しゅ)単位の銀
の2種類の貨幣が、鋳造され、流通し、使用された。
■ 二朱銀。
■ 江戸時代に全国に流通した、二朱銀(にしゅぎん)
は、 次の3種類 である。
古南鐐二朱銀 (こなんりょうにしゅぎん)、 新
南鐐二朱銀 (しん なんりょうにしゅぎん)、 安政
二朱銀 (あんせいにしゅぎん) である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 一朱銀。
■ 江戸時代に全国に流通した、一朱銀(いっしゅぎ
ん)は、 次の1種類 である。
文政南鐐一朱銀 (ぶんせいなんりょういっ
しゅぎん) である。
■ 江戸時代の貨幣。
■ 江戸時代の両(りょう)・分(ぶ)・朱(しゅ)・文(もん)
の定額(定位)・通常貨幣。
■ 江戸時代(1603年〜1868年)に、 江戸幕府に
より鋳造(発行)され、 全国に流通し、 使用された
定額(定位)・通常貨幣 は、 5両判金(1種)、
(1種)、 十文銭(1種)、 四文銭(2種)、 一文銭
(1種) などである。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 小判。
時代の各時期で価値は変動したが、 現在の 貨幣
価値で約 10万円 であった。
江戸時代に、 1両小判(金)は、およそ4分、1両
小判 (金)は、およそ16朱、 1両小判(金)は、およ
そ4000文 (4貫文) と交換された。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 江戸時代の貨幣。
■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣。
■ 両金貨、分朱金銀貨、文銭銅・鉄貨区分の分類。
● 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣を、(1)両
金貨、(2)分朱金銀貨、(3)文銭銅・鉄貨によ
り、3つに分類する。
■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣は、 (1)
銅貨(= 天保銭)(1種)、 十文銭銅貨(1種)、
の3つに分類される。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 両・分・朱・文区分の分類。
● 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣を、(1)両、
(2)分、(3)朱、(4)文(りょう、ぶ、しゅ、もん)
により、4つに分類する。
■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣は、 (1)
両単位・定位(定額)・通常貨幣の、五両判(金)
位・定位(定額)・通常貨幣の、 二分金(3種)、
位・定位(定額)・通常貨幣の、 二朱金(3種)、
(4) 銭単位・定位(定額)・通常貨幣の、 百文
の4つに分類される。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 13種類区分の分類。
● 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣を、額面、材
質等により、13種類に分類する。
■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣は、 五両判
一文銭銅・鉄貨(1種) の13種類である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 江戸時代(1603年〜1868年)に、 江戸幕府
により鋳造(発行)され、 全国に流通し、使用さ
れた定位(定額)・通常貨幣は、 五両判(金)(ご
りょうばん(きん))(1種)、 一両 小判(金)(いち
りょうこばん(きん))(11種)、 二分金(にぶきん)
(にしゅぎん)(3種)、 一朱銀(いっしゅぎん)
(1種)、 百文銭銅貨(= 天保銭)(ひゃくもんせん
どうか(= てんぽうせん)(1種)、 十文銭銅貨
(じゅうもんせん)(1種)、 四文銭銅・鉄貨(よんも
んせんどう・てっか)(2種)、 一文銭銅・鉄貨(い
ちもんせんどう・てっか)(1種) の13種類である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
♪♪ 朱銀 が登場する、面白く、興味深
い、ドラマ、映画、ドキュメンタリー 。
★ 朱銀 が登場する、面白く、興味深い、
ドラマ、映画。
● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 歴
史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) と 架
空の出来事 が 混じって描かれています。 また、
現代風にアレンジしてあります。
■ 『 陽炎の辻・居眠り磐音・江戸双紙
( かげろうのつじ・いねむりいわね・えどぞうし) 』
(NHK・BSスペシャルドラマ、全計11回)。
第2回 「 絆 (きずな) 」
● 日本の江戸時代を描いた、ドラマ。
● 朱銀の、南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)が登
場する。 小判と南鐐二朱銀の交換比率(小判1枚
と二朱銀8枚)をめぐり、騒動が起きる。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
■ 松下村塾
(しょうかそんじゅく)。
■ 松下村塾。
■ 名称 : 松下村塾 (しょうかそんじゅく)。
■ 松下村塾は、 萩(はぎ、山口県萩)にあり、
1857年から1858年 までの期間に、吉田
松陰が講義を行った、私塾である。
■ 吉田 松陰の叔父・玉木 文之進 (生没年:
1810〜1876年) が、 1842年に、私塾
の松下村塾 (1842年〜1858年、1869
年〜1876年) を開設し、 1876年(明治
9年)まで運営する。
■ 吉田 松陰 (よしだ しょういん、別名:吉田
寅次郎、生没年:1830〜1859年) は、
1857年から1858年までの期間に、松下
村塾(しょうかそんじゅく) で講義を行い、多
くの近代日本のリーダーの人材を育成した。
■ 松下村塾 (しょうかそんじゅく )は、 長州
藩の長門国(ながとのくに)の萩(はぎ、山口
県萩)にあり、 幕末に、1857年から1858
年までの期間に、吉田 松陰が講義をした 、
私塾 である。
吉田 松陰が、1857年から1858年 ま
での期間に、叔父・玉木 文之進が開いてい
た松下村塾で、講義を行った。 1858年11
月に一旦閉鎖された。
吉田 松陰は、塾生(門下生)に、時事問
題、尊攘(そんじょう、尊皇攘夷)思想などを教
え、 多くの明治維新の志士を出した。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 玉木 文之進 (たまき ぶんのしん)は、吉田
松陰の叔父(おじ)である。
● 玉木 文之進は、 松下村塾(しょうかそんじ
ゅく、1842年〜1858年、1869年〜18
76年)の開設者である。
● 玉木 文之進は、1842年に、私塾の松下
村塾を開設する。
玉木 文之進は、 松下村塾を1858年に
一旦閉鎖するが、1869年(明治2年)に再
開し、1876年(明治9年)まで続けた。
● 1857年から1858年まで、吉田松陰は、叔
父・玉木 文之進が開いていた松下村塾で講
義を行い、多くの人材を育てる。
■ 吉田 松陰は、 長州藩で、 藩校・明倫館(は
んこう・めいりんかん)にて兵学師範として講
義を行い、 後に、私塾・松下 村塾で講義を行
った。
● 桂小五郎 (かつらこごろう、木戸孝允(きど
たかよし))は、 藩校明倫館で、1849年に、
吉田 松陰の教え(兵学など)を受ける。
とうひろぶみ)、 山県有朋 (やまがたありと
も)、品川弥二郎 などは、1857年から185
8年までの期間に、 松下村塾の門下生(塾
生)として、 吉田 松陰の教えを受けた。
● 吉田 松陰は、 教授の期間は短かかったが、
多くの近代日本のリーダーの人材を育成した。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 吉田 松陰の教えを受けた人物には、 桂小
五郎 (木戸孝允、明治新政 府首脳の1人)、
藩のリーダーの1人)、 伊藤博文、山県有朋
(明治期の首脳、内閣総理大臣)、 品川弥
二郎 (しながわやじろう、明治期の内務大臣)
などがいた。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 吉田 松陰は、 長州藩藩士で、 幕末の兵学
者、思想家、教育者であり、 幕末志士であっ
た。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 吉田 松陰 (よしだ しょういん)は、長州藩
藩士で、 長州藩の兵学師範であり、行動派
の学者であった。
■ 吉田 松陰 (よしだ しょういん) は、 幕末
の思想家、教育者、志士 で、 萩の 私塾・松
下村塾(しょうかそんじゅく、1857年〜58年)
で、 時事問題、尊攘(そんじょう尊皇攘夷)思
想などを教えた。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 吉田 松陰 (よしだしょういん、杉 寅之助(す
ぎ とらのすけ、幼名)、吉田家に養子後・吉田
(いみな)は矩方(のりかた)、号(ごう)は松陰、
生没年:1830−59年) は、 長州藩士・杉
百合之助(すぎ ゆりのすけ、常道(つねみち)、
生没年:1804−65年)) の次男である。
1834年に、 吉田 松陰 (杉 寅次郎(矩
方))は、 叔父(おじ)の山鹿流兵学師範の吉
田大助の養子となり、以後、吉田寅次郎と称
す。 1835年に、吉田大助が死去したため、
別の叔父の玉木文之進の私塾・松下村塾で
指導を受けた。
■ 楫取 美和子(かとり みわこ、旧姓・杉 文(す
ぎ ふみ)、1843−1921年) は、 幕末の
思想家・ 吉田 松陰 の妹 である。
楫取 美和子の別名は、 文(ふみ)である。
楫取 美和子(杉 文)は、 長州藩士・杉 百
合之助の四女である。
■ 吉田 松陰は、 佐久間象山 (さくましょうざ
ん)に学び、 1854年にペリー来航に当たり、
下田から海外渡航を企てて失敗し逮捕され、
長州藩の野山獄に幽囚(投獄)され、1855年
に出獄した。
その後、吉田 松陰は、1857〜58年に、
郷里の萩 (はぎ、長門国(山口県)萩)の松下
村塾で講義を行い、塾生(門下生)から多くの
幕末志士を生む。 1858年に、老中暗殺を
企て、再び、長州藩の野山獄に幽囚(投獄)さ
れ、 1859年に、安政の大獄で、江戸に送ら
れ、刑 死した。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 安政の大獄で、 江戸幕府大老・井伊直弼
(いいなおすけ)の命(めい、命令)で、1859
年に、吉田 松陰は、処刑される。
♪♪ 松下村塾が登場する、興味深 い、
ドキュメタンリー、ドラマ、 映画。
★ 松下村塾 が登場する、興味深い、
ドラマ、映画。
● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。
歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事
実) と 架空の出来事 が 混じって描かれ
ています。 また、 現代風にアレンジしてあ
ります。
■ 『 花燃ゆ (はなもゆ) 』
(日本のNHK2015年大河ドラマ)。
■ 日本の明治維新、幕末、明治時代の時代
状況やその時代に活躍した人々を描く。
■ 吉田松陰の妹・文(ふみ)の生涯を描く。
● 玉木 文之進を演じる俳優 :
奥田 瑛二 (おくだ えいじ)。
玉木 文之進 (たまき ぶんのしん)は、
杉文(すぎふみ)や吉田 松陰 (よしだ し
ょういん)の叔父(おじ)である。
● 吉田 松陰(吉田 寅次郎)を演じる俳優 :
伊勢谷 友介 (いせや ゆうすけ)。
吉田 松陰 (よしだ しょういん、杉 寅之
助(すぎ とらのすけ)、吉田 寅次郎(よし
だとらじろう)) は、文(ふみ)の実兄である。
● 文を演じる女優 :
井上 真央 (いのうえ まお)。
文 (ふみ、杉 文(すぎ ふみ)、杉 美和
(すぎ みわ)、楫取 美和子(かとりみわこ))
は、 吉田松陰の妹である。
■ 縄文系
(じょうもんけい)。
■ 縄文系。
■ 名称 : 縄文系 (じょうもんけい)。
■ 英名 : THE JOMONKEI PEOPLE.
■ 日本人のルーツに関しては、「日本人」(日本人の
ルーツ)、「原日本人」、「日本人ルーツ・ガイドブッ
ク」も参照し てください。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51013。
■ 縄文系 (じょうもんけい) の人々は、 「縄文
人」とその子孫であり、 古モンゴロイド、南方モ
ンゴロイドの人々である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 縄文系の人々は、 日本の縄文時代の縄文人
とその子孫 である。
日本の縄文時代では、 縄文系の人々は、
「縄文人」である。
日本の弥生時代では、 縄文系の人々は、
「縄文系(在来系)弥生人」 である。
古代日本(古墳〜平安時代)では、 縄文
系の人々は、 「縄文系(在来系)古代日本人」
であり、 「縄文・弥生渡来・混血系古代日本人」
である。
中世日本から現代日本(鎌倉〜平成時代)
までの時期では、 縄文系の人々は、 縄文・弥
生渡来・混血系の、「本土日本人」や「琉球人」
と、 縄文系の、「アイヌ人」 である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 日本人(日本常住民)への進化表。
猿人⇒
旧人(= 前ホモ・サピエンス類)⇒
縄文人⇒
弥生人⇒
「アイヌ人」。
● TKKI カナヤマ著 電子書籍。
■ 現代日本人(日本常住民)への進化表。
猿人⇒
旧人(= 前ホモ・サピエンス類)⇒
縄文人⇒
弥生人⇒
● TKKI カナヤマ著 電子書籍。
■ モンゴロイドへの進化表。
猿人⇒
旧人(= 前ホモ・サピエンス類)⇒
● TKKI カナヤマ著 古人類学辞典。
#thejomonkeipeople-theclassificationtable
■ 縄文系の学術分類表 。
(詳細上位分類、上位所属の分類、日本
語名・学名・英語名対照)。
○ THE SCIENTIFIC CLASSIFICATION
TABLE OF THE JOMONKEI
PEOPLE.
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 71525。
■ 縄文系の人々(人類)。
(英語名: THE JOMONKEI PEOPLE)。
■ 地球生物 LIFE ON EARTH。
⇒ 真核生物。 (ドメイン: 真核生物域
Domain Eukaryota)
(英名: EUKARYOTE(S))。
⇒ 動物。 ( 界 : 動物界
Kingdom Animalia)
(英名:ANIMAL (S))。
⇒ 脊索(せきさく)動物。 ( 門 : 脊索動物門
Phylum Chordata)
(英名:CHORDATE (S))。
⇒ 脊椎(せきつい)動物。 (亜門 : 脊椎動物亜門
Subphylum Vertebrata)
(英名:VERTEBRATE(S))。
● TKKI カナヤマ著 日本史
辞典。
⇒ 有顎(ゆうがく)動物 (下門 : 有顎動物下門
(顎口類、有顎類)。 Infraphylum
Gnathostomata)
(英名: VERTEBRATE (S)
WITH JAW)。
⇒ 四肢(しし)動物。 (上綱 : 四肢動物上綱
Superclass Tetrapoda )
(英名:TETRAPOD (S))。
⇒ 有羊膜類。 (ランク(階級)なし
(ゆうようまくるい) Amniota)
(英名:AMNIOTE (S))。
⇒ 哺乳類。 ( 綱 : 哺乳綱
Class Mammalia)
(英名:MAMMAL(S))。
⇒ 獣類。 (亜綱 : 獣亜綱
Subclass Theria)
(英名:THERIAN(S))。
⇒ 真獣類 (正獣類) (下綱 : 真獣下綱(正獣下綱)
(有胎盤類、有胎盤 Infraclass Eutheria)
哺(ほ)乳類)。 (英名:EUTHERIAN(S))
(英名:PLACENTAL
MAMMAL(S)) 。
● TKKI カナヤマ著 日本史
辞典。
⇒ 霊長類。 ( 目 : 霊長目(サル目)
Order Primates)
(英名:PRIMATE(S))。
⇒ 直鼻猿類 (新分類法)。(亜目 : 直鼻猿亜目
Suborder Haplorrhini)
(英名:HAPLORRHINE(S))。
真猿類 (新分類法)。(下目 : 真猿下目
Infraorder Simiiformes)
(英名: SIMIAN(S))。
狭鼻猿類 (新分類法)。(小目 : 狭鼻小目
Parvorder Catarrhini )
(英名: CATARRHINE(S))。
または、
真猿類 (旧分類法)。(亜目 : 真猿亜目
Suborder Simiiformes)
(英名: SIMIAN(S))。
狭鼻猿類 (旧分類法) 。(下目 : 狭鼻下目
Infraorder Catarrhini)
(英名: CATARRHINE(S))。
⇒ ホミノイド (上科 : ヒト上科
(類人猿と人類)。 Superfamily Hominoidea)
(英名: HOMINOID(S))。
⇒ 大型類人猿と人類 ( 科 : ヒト科
(オランウータン、ゴリラ、 Family Hominidae)
チンパンジーと人類)。 (英名: NONHUMAN GREAT
APE(S) AND HUMAN(S))。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
⇒ ゴリラとチンパンジ (亜科 : ヒト亜科
ーと人類。 Subfamily Homininae)
(英名: HOMININE(S))。
⇒ チンパンジーと人類。 ( 族 : ヒト族
Tribe Hominini)
(英名 :HOMININ(S))。
⇒ 人類。 (亜族 : ヒト亜族
Subtribe Hominina)
(英名: HUMAN(S))。
⇒ ヒト属(= ホモ属) ( 属 : ヒト属(= ホモ属)
の人類。 Genus Homo)
(英名: HUMAN(S) OF
THE GENUS HOMO)。
⇒ ホモ・サピエンス ( 種 : ホモ・サピエンス種
(= 現生人類、新人)。 Species Homo sapiens)
(英名: HOMO SAPIENS,
EXTANT HUMAN SPECIES)。
⇒ ホモ・サピエンス ( 亜種 : ホモ・サピエンス・サピ
サピエンス。 エンス亜種
Subspecies Homo
sapiens sapiens
(英名: HOMO SAPIENS
SAPIENS)。
⇒ モンゴロイド (グループ: モンゴロイド・グループ
(= アジア人種)。 Group Mongoloid)。
○ 「古モンゴロイド」 (英名: MONGOLOID(S))。
と 「新モンゴロイド」。 ○ モンゴロイドは、容姿・外見
(体色・体型) による、人種分類
グループの1つである。
○ モンゴロイドは、 古モンゴロ
イド(= 南方モンゴロイド、英:
SOUTHERN MONGOLOID
(S)) と、 新モンゴロイド(= 北
方モンゴロイド、英:NORTHERN
MONGOLOID(S)) の2種類
に分かれる。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
⇒ 縄文人。 (グループ : 縄文人グループ
Group Jomonjin People)。
(英語名: THE JOMONJIN
PEOPLE)。
○ 「縄文人」は、 古モンゴロイ
ド(= 南方モンゴロイド)の日本先
住民であ り、 原日本人 (英:
THE PROTO-JAPANESE
PEOPLE、縄文人と渡来系弥生人)
の1グループであり、「縄文系」 (英:
THE JOMONKEI PEOPLE)
の人々(人類)である。
⇒ 弥生人。 (グループ : 弥生人グループ
○ 「縄文系(在来系) Group Yayoijin People)。
弥生人」 と (英語名: THE YAYOIJIN
「渡来系弥生人」。 PEOPLE)。
○ 弥生人とは、 「縄文系(在来
系)弥生人」 と 「渡来系弥生人」
である。
○ 弥生人は、縄文時代(約1万
2000年前〜約2400年前)から
日本の先住民の古モンゴロイ ド
(= 南方モンゴロイド)の「縄文 系
(在来系)弥生人」 と、 弥生時
代(約2400年前〜約1700年
前)にアジア大陸からの移住民の
新モンゴロイド(= 北方モンゴロイ
ド)の「渡来系弥生人」 である。
○ 「渡来系弥生人」は、原日本人
の1グループであり、 「弥生渡来
系」(英:THE YAYOI TORAIKEI
PEOPLE) の人 々(人類)である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
⇒ 日本人。 (グループ : 日本人 (= 日本常住民、
○ 「古代日本人」 日本地域土着・常住民) グループ
→ 「本土日本人」、 Group Japanese Native
「琉球人」、「アイヌ人」。 (Indigenous) People)。
○ 「古代日本人」 (英語名:THE JAPANESE
→ 「中世日本人」 NATIVE (INDIGENOUS)
→ 「近世日本人」 PEOPLE)。
→ 「近代日本人」 ○ 日本人(= 日本常住民)は、古代
→ 「現代日本人」。 日本で形成された。
○ 日本人(= 日本常住民)は、
古・新モンゴロイ ド混血の、「縄文・
弥生渡来・混血系」の、「本土日本
人」や「琉球人」 と、 古・新モンゴ
ロイド混血の、「縄文・ 北アジア諸民
族・混血系」の、「アイ ヌ人」の3種類
の人類に分かれる。
○ 現在のほとんどの日本人は、
「本土 日本人」である。
○ 「本土日本人」は、 古代日本
後期に形成された。
○ 「本土日本人」は、 「縄文人」
とその子孫の「縄文系」 と、 「渡
来系弥生人」とその子孫の「弥生
渡来系」 との混血の人類である。
○ 「本土日本人」は、 古・新 (南
方・北方)モンゴロイド混血の、「縄
文・弥生渡来・混血系」 (英:THE
JOMONKEI-YAYOITORAIKEI
MIXED RACIAL PEOPLE) の
人々(人類)である。
○ 日本人(= 日本常住民)は、
古・新モンゴロイ ド混血の、「縄文・
弥生渡来・混血系」の、「本土日本
人」や「琉球人」 (英:THE MAIN-
LAND JAPANESEPEOPLE,
THE RYUKYU JAPANESE
PEOPLE) と、 古 ・新モンゴロイ
ド混血の、「縄文・ 北アジア諸民族・
混血系」の、 「アイヌ人」 (英:THE
AINU JAPANESE PEOPLE)
の3種類の人類に分かれる。
○ 古代日本で形成された日本 人
(= 日本常住民)は、 時代と共に、
「古代日本人」から、 「中世日本人」、
「近世日本人」、「近代日本人」、
「現代日本人」へと 少しずつ、平
均身長が伸びるなど、容姿・外見
(体型・体色)を変化させていった。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
○ 古代日本で形成された日本 人
(= 日本常住民)は、 時代と共に、
「古代日本人」(英:THE ANCIENT
JAPANESEPEOPLE) から、
「中世日本人」、「近世日本人」、「近代
日本人」、「現代日本人」 (英:THE
MEDIEVAL JAPANESE
PEOPLE, THE EARLY MO-
DERN JAPANESE PEOPLE,
THE MODERN JAPANESE
PEOPLE, THE PRESENT-DAY
JAPANESE PEOPLE) へと少しず
つ、平 均身長が伸びるなど、 容姿・外
見(体型・体色)を変化させていった。
♪♪ 縄文系 が登場する、興味深い、ドキ
ュメンタリー、ドラマ、映画。
★ 縄文系 が登場する、興味深 い、ドキュ
メンタリー。
■ サイエンスZERO
『 日本人のルーツ発見!〜
‘‘核DNA’’が解き明かす
縄文人〜 』。
(NHKテレビ・2016年4月 3日・本放送・
科学ドキュメンタリー番組)。
● 日本人のルーツ(起源)を詳しく述べる。
● 縄文人(= 古モンゴロイド)や渡来系弥生人
(= 新モンゴロイド)の人々を述べる。
● 発掘した、縄文人の核DNA分析により、現生
人類(= 新人、ホモ・サピエンス)の起源・移動
ルートや日本人の起源を知る。
■ 『 教科書が変わる!? 日本人
のルーツをさぐる旅 』。
(NHKテレビ・2015年12月27日・本放送・
科学ドキュメンタリー番組)。
● 日本の原始時代を生きた、旧石器人や縄文人
を述べる。
● 縄文人を詳しく述べる。 縄文人の遺跡発掘や
ミトコンドリアDNAにより、現代日本人のルーツ
(起源)の1グループである、縄文人の起源、生
活、移動ルートなどを知る。
■ サイエンスZERO
『 日本人の起源に迫る 』。
(NHKテレビ・2007年12月2日・本放送・
科学ドキュメンタリー番組)。
● ミトコンドリアDNAにより、現生人類(= 新人、
ホモ・サピエンス)の起源・移動ルートや日本
人の起源を知る。
■ サイエンスZERO
『 シリーズ ヒトの謎に迫る 』。
● 第1集 「1.DNAが解き明かす!
人類の旅」
(NHKテレビ・2008年10月10日・本放
送・科学ドキュメンタリー番組)。
● ミトコンドリアDNA、Y染色体、言語等により、
現生人類(= 新人、ホモ・サピエンス)の起源・
移動ルートや日本人の起源を知る。
● 現生人類(= 新人、ホモ・サピエンス)の、出
アフリカと世界への拡散と移住を知る。
■ サイエンスZERO 『 特報!
旧石器時代の人骨 大量発掘 』。
(NHKテレビ・2013年11月17日・本放送
テレビ・科学ドキュメンタリー番組)。
● 日本の旧石器人 (約35000年前〜約12
000年前に日本地域にいた人類) について
述べる。
● 港川人や旧石器人全体について述べる。
● 沖縄県・石垣島(いしがきじま)の白保竿根
田原洞穴遺跡(しらほさおねたばるどうけつ
いせき)で、2009年より発掘が開始され、旧
石器人の人骨が大量に発見され、ほぼ原形
をとどめる旧石器人の頭骨の骨を得られる可
能性もあることについて述べる。
■ 『 日本人 はるかな旅 』。
(NHKテレビ・2001年制作ドキュメンタ
リー番組)。
「第五集 そして‘‘日本人’’が
生まれた」。
■ 弥生時代前期に、水田稲作を行う、農耕主
体の新モンゴロ イド(= 北方モンゴロイド)の
人々が、アジア大陸より日本地域(初め九州
本土)に渡来し、日本の「渡来系弥生人」(弥
生渡来系の人々)となり、 狩猟・採集主体
の日本の先住民の古モンゴロ イド(= 南方モ
ンゴロイド)の「縄文系弥生人」と対立しなが
ら、日本本土を北上・東進した。
その後、弥生時代後期には、「渡来系弥
生人」と「縄文系弥生人」は、協力し、水田稲
作を行うようになった。
■ 縄文・弥生渡来・
混血系
(じょうもん・やよいとらい・こんけ
つけい)。
■ 縄文・弥生渡来・混血系。
■ 名称 : 縄文・弥生渡来・混血系
(じょうもん・やよいとらい・こんけつけい)。
■ 英語名 :
THE JOMONKEI-YAYOITORAIKEI
MIXED RACIAL PEOPLE.
■ 日本人のルーツに関しては、「日本人」(日本人のル
ーツ)、「原日本人」、「日本人ルーツ・ガイドブック」も
参照してください。
■ 日本の、縄文・弥生渡来・混血系は、 古モン
(= 北方モンゴロイド)の、渡来系弥生人とその
子孫の、弥生渡来系の人々 が混血して形成
された人類 である。
■ 日本の、縄文・弥生渡来・混血系は、 弥生時
代では「縄文・弥生渡来・混血系弥生人」、 古
代日本では「縄文・弥生渡来・混血系古代日本
人」、 中世日本から現代日本までの時期では
◆ 進化表。
■ 日本人(日本常住民)への進化表。
猿人⇒
旧人(= 前ホモ・サピエンス類)⇒
縄文人⇒
弥生人⇒
「アイヌ人」。
● TKKI カナヤマ著 電子書籍。
■ 現代日本人(日本常住民)への進化表。
猿人⇒
旧人(= 前ホモ・サピエンス類)⇒
縄文人⇒
弥生人⇒
● TKKI カナヤマ著 電子書籍。
■ モンゴロイドへの進化表。
猿人⇒
旧人(= 前ホモ・サピエンス類)⇒
● TKKI カナヤマ著 古人類学辞典。
#thejomon.yayoi.mi.ra,people-theclassificationtable
■ 縄文・弥生渡来・混血系
の学術分類表 。
(詳細上位分類、上位所属の分類、日本
語名・学名・英語名対照)。
○ THE SCIENTIFIC CLASSIFICATION
TABLE OF THE JOMONKEI-
YAYOITORAIKEI MIXED RACIAL
PEOPLE.
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 71522。
■ 縄文・弥生渡来・混血系の人類(人々)。
(英語名: THE JOMONKEI-
YAYOITORAIKEI MIXED RACIAL
PEOPLE)。
■ 地球生物 LIFE ON EARTH。
⇒ 真核生物。 (ドメイン: 真核生物域
Domain Eukaryota)
(英名: EUKARYOTE(S))。
⇒ 動物。 ( 界 : 動物界
Kingdom Animalia)
(英名:ANIMAL (S))。
⇒ 脊索(せきさく)動物。 ( 門 : 脊索動物門
Phylum Chordata)
(英名:CHORDATE (S))。
⇒ 脊椎(せきつい)動物。 (亜門 : 脊椎動物亜門
Subphylum Vertebrata)
(英名:VERTEBRATE(S))。
● TKKI カナヤマ著 日本史
辞典。
⇒ 有顎(ゆうがく)動物 (下門 : 有顎動物下門
(顎口類、有顎類)。 Infraphylum
Gnathostomata)
(英名: VERTEBRATE (S)
WITH JAW)。
⇒ 四肢(しし)動物。 (上綱 : 四肢動物上綱
Superclass Tetrapoda )
(英名:TETRAPOD (S))。
⇒ 有羊膜類。 (ランク(階級)なし
(ゆうようまくるい) Amniota)
(英名:AMNIOTE (S))。
⇒ 哺乳類。 ( 綱 : 哺乳綱
Class Mammalia)
(英名:MAMMAL(S))。
⇒ 獣類。 (亜綱 : 獣亜綱
Subclass Theria)
(英名:THERIAN(S))。
⇒ 真獣類 (正獣類) (下綱 : 真獣下綱(正獣下綱)
(有胎盤類、有胎盤 Infraclass Eutheria)
哺(ほ)乳類)。 (英名:EUTHERIAN(S))
(英名:PLACENTAL
MAMMAL(S)) 。
● TKKI カナヤマ著 日本史
辞典。
⇒ 霊長類。 ( 目 : 霊長目(サル目)
Order Primates)
(英名:PRIMATE(S))。
⇒ 直鼻猿類 (新分類法)。(亜目 : 直鼻猿亜目
Suborder Haplorrhini)
(英名:HAPLORRHINE(S))。
真猿類 (新分類法)。(下目 : 真猿下目
Infraorder Simiiformes)
(英名: SIMIAN(S))。
狭鼻猿類 (新分類法)。(小目 : 狭鼻小目
Parvorder Catarrhini )
(英名: CATARRHINE(S))。
または、
真猿類 (旧分類法)。(亜目 : 真猿亜目
Suborder Simiiformes)
(英名: SIMIAN(S))。
狭鼻猿類 (旧分類法) 。(下目 : 狭鼻下目
Infraorder Catarrhini)
(英名: CATARRHINE(S))。
⇒ ホミノイド (上科 : ヒト上科
(類人猿と人類)。 Superfamily Hominoidea)
(英名: HOMINOID(S))。
⇒ 大型類人猿と人類 ( 科 : ヒト科
(オランウータン、ゴリラ、 Family Hominidae)
チンパンジーと人類)。 (英名: NONHUMAN GREAT
APE(S) AND HUMAN(S))。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
⇒ ゴリラとチンパンジ (亜科 : ヒト亜科
ーと人類。 Subfamily Homininae)
(英名: HOMININE(S))。
⇒ チンパンジーと人類。 ( 族 : ヒト族
Tribe Hominini)
(英名 :HOMININ(S))。
⇒ 人類。 (亜族 : ヒト亜族
Subtribe Hominina)
(英名: HUMAN(S))。
⇒ ヒト属(= ホモ属) ( 属 : ヒト属(= ホモ属)
の人類。 Genus Homo)
(英名: HUMAN(S) OF
THE GENUS HOMO)。
⇒ ホモ・サピエンス ( 種 : ホモ・サピエンス種
(= 現生人類、新人)。 Species Homo sapiens)
(英名: HOMO SAPIENS,
EXTANT HUMAN SPECIES)。
⇒ ホモ・サピエンス ( 亜種 : ホモ・サピエンス・サピ
サピエンス。 エンス亜種
Subspecies Homo
sapiens sapiens
(英名: HOMO SAPIENS
SAPIENS)。
⇒ モンゴロイド (グループ: モンゴロイド・グループ
(= アジア人種)。 Group Mongoloid)。
○ 「古モンゴロイド」 (英名: MONGOLOID(S))。
と 「新モンゴロイド」。 ○ モンゴロイドは、容姿・外見
(体色・体型) による、人種分類
グループの1つである。
○ モンゴロイドは、 古モンゴロ
イド(= 南方モンゴロイド、英:
SOUTHERN MONGOLOID
(S)) と、 新モンゴロイド(= 北
方モンゴロイド、英:NORTHERN
MONGOLOID(S)) の2種類
に分かれる。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
⇒ 縄文人。 (グループ : 縄文人グループ
Group Jomonjin People)。
(英語名: THE JOMONJIN
PEOPLE)。
○ 「縄文人」は、 古モンゴロイ
ド(= 南方モンゴロイド)の日本先
住民であ り、 原日本人 (英:
THE PROTO-JAPANESE
PEOPLE、縄文人と渡来系弥生人)
の1グループであり、「縄文系」 (英:
THE JOMONKEI PEOPLE)
の人々(人類)である。
⇒ 弥生人。 (グループ : 弥生人グループ
○ 「縄文系(在来系) Group Yayoijin People)。
弥生人」 と (英語名: THE YAYOIJIN
「渡来系弥生人」。 PEOPLE)。
○ 弥生人とは、 「縄文系(在来
系)弥生人」 と 「渡来系弥生人」
である。
○ 弥生人は、縄文時代(約1万
2000年前〜約2400年前)から
日本の先住民の古モンゴロイ ド
(= 南方モンゴロイド)の「縄文 系
(在来系)弥生人」 と、 弥生時
代(約2400年前〜約1700年
前)にアジア大陸からの移住民の
新モンゴロイド(= 北方モンゴロイ
ド)の「渡来系弥生人」 である。
○ 「渡来系弥生人」は、原日本人
の1グループであり、 「弥生渡来
系」(英:THE YAYOI TORAIKEI
PEOPLE) の人 々(人類)である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
⇒ 日本人。 (グループ : 日本人 (= 日本常住民、
○ 「古代日本人」 日本地域土着・常住民) グループ
→ 「本土日本人」、 Group Japanese Native
「琉球人」、「アイヌ人」。 (Indigenous) People)。
○ 「古代日本人」 (英語名:THE JAPANESE
→ 「中世日本人」 NATIVE (INDIGENOUS)
→ 「近世日本人」 PEOPLE)。
→ 「近代日本人」 ○ 日本人(= 日本常住民)は、古代
→ 「現代日本人」。 日本で形成された。
○ 日本人(= 日本常住民)は、
古・新モンゴロイ ド混血の、「縄文・
弥生渡来・混血系」の、「本土日本
人」や「琉球人」 と、 古・新モンゴ
ロイド混血の、「縄文・ 北アジア諸民
族・混血系」の、「アイ ヌ人」の3種類
の人類に分かれる。
○ 現在のほとんどの日本人は、
「本土 日本人」である。
○ 「本土日本人」は、 古代日本
後期に形成された。
○ 「本土日本人」は、 「縄文人」
とその子孫の「縄文系」 と、 「渡
来系弥生人」とその子孫の「弥生
渡来系」 との混血の人類である。
○ 「本土日本人」は、 古・新 (南
方・北方)モンゴロイド混血の、「縄
文・弥生渡来・混血系」 (英:THE
JOMONKEI-YAYOITORAIKEI
MIXED RACIAL PEOPLE) の
人々(人類)である。
○ 日本人(= 日本常住民)は、
古・新モンゴロイ ド混血の、「縄文・
弥生渡来・混血系」の、「本土日本
人」や「琉球人」 (英:THE MAIN-
LAND JAPANESEPEOPLE,
THE RYUKYU JAPANESE
PEOPLE) と、 古 ・新モンゴロイ
ド混血の、「縄文・ 北アジア諸民族・
混血系」の、 「アイヌ人」 (英:THE
AINU JAPANESE PEOPLE)
の3種類の人類に分かれる。
○ 古代日本で形成された日本 人
(= 日本常住民)は、 時代と共に、
「古代日本人」から、 「中世日本人」、
「近世日本人」、「近代日本人」、
「現代日本人」へと 少しずつ、平
均身長が伸びるなど、容姿・外見
(体型・体色)を変化させていった。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
○ 古代日本で形成された日本 人
(= 日本常住民)は、 時代と共に、
「古代日本人」(英:THE ANCIENT
JAPANESEPEOPLE) から、
「中世日本人」、「近世日本人」、「近代
日本人」、「現代日本人」 (英:THE
MEDIEVAL JAPANESE
PEOPLE, THE EARLY MO-
DERN JAPANESE PEOPLE,
THE MODERN JAPANESE
PEOPLE, THE PRESENT-DAY
JAPANESE PEOPLE) へと少しず
つ、平 均身長が伸びるなど、 容姿・外
見(体型・体色)を変化させていった。
#thejomonkeipeople-appearingscenes
♪♪ 縄文・弥生渡来・混血系が登場する、
興味深い、ドキュメンタリー、ドラマ、
映画。
★ 縄文・弥生渡来・混血系 が登場する、
興味深い、ドキュメンタリー。
■ サイエンスZERO
『 日本人のルーツ発見!〜
‘‘核DNA’’が解き明かす
縄文人〜 』。
(NHKテレビ・2016年4月 3日・本放送・
科学ドキュメンタリー番組)。
● 日本人のルーツ(起源)を詳しく述べる。
● 縄文人(= 古モンゴロイド)や渡来系弥生人
(= 新モンゴロイド)の人々を述べる。
● 発掘した、縄文人の核DNA分析により、現生
人類(= 新人、ホモ・サピエンス)の起源・移動
ルートや日本人の起源を知る。
■ 『 教科書が変わる!? 日本人
のルーツをさぐる旅 』。
(NHKテレビ・2015年12月27日・本放送・
科学ドキュメンタリー番組)。
● 日本の原始時代を生きた、旧石器人や縄文人
を述べる。
● 縄文人を詳しく述べる。 縄文人の遺跡発掘や
ミトコンドリアDNAにより、現代日本人のルーツ
(起源)の1グループである、縄文人の起源、生
活、移動ルートなどを知る。
■ サイエンスZERO
『 日本人の起源に迫る 』。
(NHKテレビ・2007年12月2日・本放送・
科学ドキュメンタリー番組)。
● ミトコンドリアDNAにより、現生人類(= 新人、
ホモ・サピエンス)の起源・移動ルートや日本
人の起源を知る。
■ サイエンスZERO
『 シリーズ ヒトの謎に迫る 』。
● 第1集 「1.DNAが解き明かす!
人類の旅」
(NHKテレビ・2008年10月10日・本放
送・科学ドキュメンタリー番組)。
● ミトコンドリアDNA、Y染色体、言語等により、
現生人類(= 新人、ホモ・サピエンス)の起源・
移動ルートや日本人の起源を知る。
● 現生人類(= 新人、ホモ・サピエンス)の、出
アフリカと世界への拡散と移住を知る。
■ サイエンスZERO 『 特報!
旧石器時代の人骨 大量発掘 』。
(NHKテレビ・2013年11月17日・本放送
テレビ・科学ドキュメンタリー番組)。
● 日本の旧石器人 (約35000年前〜約12
000年前に日本地域にいた人類) について
述べる。
● 港川人や旧石器人全体について述べる。
● 沖縄県・石垣島(いしがきじま)の白保竿根
田原洞穴遺跡(しらほさおねたばるどうけつ
いせき)で、2009年より発掘が開始され、旧
石器人の人骨が大量に発見され、ほぼ原形
をとどめる旧石器人の頭骨の骨を得られる可
能性もあることについて述べる。
■ 『 日本人 はるかな旅 』。
(NHKテレビ・2001年制作ドキュメンタ
リー番組)。
「第五集 そして‘‘日本人’’が
生まれた」。
■ 弥生時代前期に、水田稲作を行う、農耕主
体の新モンゴロ イド(= 北方モンゴロイド)の
人々が、アジア大陸より日本地域(初め九州
本土)に渡来し、日本の「渡来系弥生人」(弥
生渡来系の人々)となり、 狩猟・採集主体
の日本の先住民の古モンゴロ イド(= 南方モ
ンゴロイド)の「縄文系弥生人」と対立しなが
ら、日本本土を北上・東進した。
その後、弥生時代後期には、「渡来系弥
生人」と「縄文系弥生人」は、協力し、水田稲
作を行うようになった。
■ 島津 義久
(しまづ よしひさ)。
■ 島津 義久。
■ 名称 : 島津 義久 (しまづ よしひさ)。
■ 生没年 : 1533〜1611年。
■ 九州のほぼ全土を制圧後、 秀吉の九州征
伐で1587年に降伏。
■ 戦国・安土桃山時代の島津氏当主で、九州
の武将、大名。
■ 島津 義弘の兄。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51934。
■ 島津 義久 (しまづ よしひさ、生没年:153
3〜1611年) は、 戦国・安土桃山時代に活
躍した、九州の武将、大名である。
■ 島津 義久は、 島津 義弘の兄で、 島津氏当
主であった。
■ 島津 義久は、 弟・島津 義弘とともに、九州の
ほぼ全土を制圧後、 豊臣秀吉の九州征伐(島
津征伐)で1587年に降伏する。
島津 義久は、 秀吉に降服後、島津氏当主
を引退し、弟・島津 義弘に譲る。
♪♪ 島津 義久 が登場する、興味深い、
ドキュメンタリー、ドラマ、映画。
★ 島津 義久 が登場する、興味深い
関連ドラマ、映画。
● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。
歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事
実) と 架空の出来事 が混じって描かれ
ています。 また、 現代風にアレンジしてあ
ります。
■ 『 軍師 官兵衛 (ぐんし かんべえ) 』
(NHK2014年大河ドラマ)。
■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、
江戸時代初期を描いたドラマ。
● 島津 義久(しまづ よしひさ)を演じた
俳優名: 永澤 俊矢 (ながさわ としや)。
● 島津 義弘 (しまづ よしひろ)を演じた
俳優名: 。
● 大友 宗麟 (おおとも そうりん)を演じた
俳優名: 上條 恒彦 (かみじょう つねひこ)。
● 黒田 官兵衛を演じた俳優名: 岡田 准一。
● 豊臣秀吉(木下藤吉郎、羽柴秀吉)を演じ
た俳優名: 竹中直人 (たけなか・なおと)。
● 黒田 官兵衛の嫡男の黒田長政(ながまさ、
成人時)を演じる俳優: 松坂 桃季 (まつ
ざか とおり)。
● 徳川 家康を演じた俳優名: 寺尾 聰
(てらお あきら)。
■ 島津 義弘
(しまづ よしひろ)。
■ 島津 義弘。
■ 名称 : 島津 義弘 (しまづ よしひろ)。
■ 生没年 : 1535〜1619年。
■ 石田方の西軍に味方し、関ヶ原の戦いでは、
東軍の敵陣を突破して帰国。
■ 戦国・安土桃山時代の島津氏当主で、九州
の武将、大名。
■ 島津 義久の弟。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51935。
■ 島津 義弘 (しまづ よしひろ、生没年:1535
〜1619年) は、 戦国・安土桃山時代に活
躍した、九州の武将、大名である。
■ 島津 義弘は、 兄・島津 義久とともに、 九州
のほぼ全土を制圧した後、 豊臣秀吉の九州
征伐(島津征伐)で1587年に降伏する。
■ 島津 義弘は、 島津 義久の弟で、 島津 義
弘の当主引退後、 島津氏当主になった。
■ 島津 義弘は、 文禄・慶長の役(ぶんろく・け
いちょうのえき、朝鮮の役、秀吉の朝鮮出兵)
では、 泗川(しせん)の戦いで勇名 (ゆうめ
い、勇者としての名声) をはせる。
■ 島津 義弘は、 石田方の西軍に味方し、160
0年の関ヶ原の戦いでは東軍の敵陣を突破し
て帰国する。
♪♪ 島津 義弘 が登場する、興味深い、
ドキュメンタリー、ドラマ、映画。
★ 島津 義弘 が登場する、興味深い
関連ドラマ、映画。
● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。
歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事
実) と 架空の出来事 が混じって描かれ
ています。 また、 現代風にアレンジしてあ
ります。
■ 『 軍師 官兵衛 (ぐんし かんべえ) 』
(NHK2014年大河ドラマ)。
■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、
江戸時代初期を描いたドラマ。
● 島津 義弘 (しまづ よしひろ)を演じた
俳優名: 。
● 島津 義久 (しまづ よしひさ)を演じた
俳優名: 永澤 俊矢 (ながさわ としや)。
● 大友 宗麟 (おおとも そうりん)を演じた
俳優名: 上條 恒彦 (かみじょう つねひこ)。
● 黒田 官兵衛を演じた俳優名: 岡田 准一。
● 豊臣秀吉(木下藤吉郎、羽柴秀吉)を演じ
た俳優名: 竹中直人 (たけなか・なおと)。
● 黒田 官兵衛の嫡男の黒田長政(ながまさ、
成人時)を演じる俳優: 松坂 桃季 (まつ
ざか とおり)。
● 徳川 家康を演じた俳優名: 寺尾 聰。
■ 島津 家久
(しまづ いえひさ)。
■ 島津 家久。
■ 名称 : 島津 家久 (しまづ いえひさ)。
■ 1609年に、琉球王国を征服する。
■ 薩摩藩の琉球(沖縄)支配に詳細に関しては、
「沖縄の歴史」を参照してください。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51936。
■ 薩摩藩の藩主・島津家久(しまづいえひさ)が、
1609年に、 琉球王国を征服する。
■ 1609年から1871年まで、琉球王国は、実質
的に、薩摩藩の支配下に入り、半独立国となる。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 島津 家久は、 江戸時代初期の薩摩藩・藩主、
で、島津氏当主であった。
■ 1606年 (慶長11年)に、 薩摩藩の藩主・島
幕府の創設者)より、 琉球王国の征服を許可
される。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 1609年 (慶長14年)に、島津家久の命令で
島津氏が琉球王国に進攻し、 琉球王国の国
王・尚寧(しょうねい)は降伏する。
これ以後、1871年(明治4年)まで、琉球
(沖縄)は、実質上、薩摩藩が統治する。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 1611年 (慶長16年)に、 薩摩藩は、琉球
(沖縄)で検地(琉球検地)を実施する。
■ 1611年 (慶長16年)に、 薩摩藩は、琉球
王国が守る「掟(おきて)」15条を制定する。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 1611年 (慶長16年)に、 薩摩藩は、奄美
(あまみ)諸島を直轄領とする。
#historyofokinawa-appearingscenes
♪♪ 島津 家久 が登場する、興味 深
い、ドキュメンタリー、ドラマ、映画。
★ 島津 家久 が登場する、興味深い、
ドラマ、映画。
● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。
歴史のドラマ、 映画は、 史実(歴史上の事
実) と 架空の出来事 が 混じって描かれ
ています。 また、 現代風にアレンジしてあり
ます。
■ 『 琉球の風 DRAGON SPIRIT
(りゅうきゅうのかぜ ドラゴン スピリット) 』
(NHK 1993年大河ドラマ)。
● 16世紀末から17世紀初頭までの完全独立
の琉球(沖縄) と、 その後の薩摩藩支配下
の半独立の琉球(沖縄)を描いた、ドラマ。
■ 職員令の位階
(しょくいんれいのいかい)。
■ 職員令の位階。
■ 名称 : 職員令の位階 (しょくいんれいのいかい)。
■ 職員令は、1869年制定。
■ 職員令は、近代日本政府の、位階などを
定めた法令。
■ 1869年制定の職員令から1887年
制定の叙位条例への変更まで。
■ 職員令の位階は、1869年(明治2年)頃か
ら1887年(明治20年)頃まで、使用された。
■ 近代日本の職員令の20位階
<1869年頃〜1887年頃、使用>。
○ 上位順に、正一位、従一位、正二位、
従二位、正三位、従三位、正四位、従四位、
正五位、従五位、正六位、従六位、正七位、
従七位、正八位、従八位、正九位、従九位、
大初位、少初位。
■ 位階(いかい)、叙位(じょい)に関しては、
■ 近・現代日本の、近・現代日本政府の位
階に関しては、「近・現代日本政府の位階」
を参照してください。
■ 前近代日本の、朝廷の位階に関しては、
「朝廷の位階」を参照してください。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51723。
□ 近代の職員令の位階。
(1869年頃〜1887年頃)。
■ 職員令 (しょくいんれい)は、 近代日本政
府の、位階などを定めた法令 である。
職員令は、1869年に制定され、1887
年制定の叙位条例への変更まで、効力をも
った。
■ 職員令の位階は、1869年(明治2年)頃か
ら1887年(明治20年)頃まで、使用された。
■ 位階は、 明治時代中期以後の近・現代日
本では、栄典の位を示し、 前近代や明治時
代初期の日本では、官職の序列を示す。
■ 近・現日本の叙位条例(1887年制定)や位
正一位(しょういちい)から従八位(じゅはちい)
までの16位階 がある。
戦後は、位階令は改正され(1947年の
改正位階令で)、 生存者への叙位を停止し、
天皇に叙位の決定権はなく、日本国憲法下、
内閣の助言と承認により、天皇が国事行為
として、功績のあった、故人(死亡者)へのみ、
叙位を行っている。
■ 1871年(明治4年)に、官位相当制 (朝廷
で、位階に対応した官職に就くことを原則とす
る制度) は、廃止され、 位階と官職の関係
は断たれ、位階は、1887年の叙位条例の公
布により、以後、栄典の役割に特化した。
また、戦後、生存者への叙位は、行われ
なくなり、故人(死亡者)のみへの叙位が行わ
れている。
位階に叙(じょ)すること である。 天皇が
位階を授与することである。
位階には、 時代別に、3グループの位階
がある。 (1) 701年頃から1869年頃まで
(2) 1869年頃から1887年頃までの、太政
1887年頃から現在までの、叙位条例(1887
■ 職員令の位階制度と他の時期の
位階制度との比較表。
● 時代別、3グループの位階。
(1) 近・現代の叙位条例や位階令
の位階。
近・現代日本政府の、叙位条例(1887
年制定)や位階令(1926年制定、1947
年改正)の位階。
<1887年頃〜現在、使用>。
一位から八位までの、16位階。
(⇒ 位階令 の位階)。
(⇒ 叙位条例の位階)。
(2) 近代の職員令の位階。
近代日本政府の、太政官制の職員令
の(1869年制定)の位階。
<1869年頃〜1887年頃、使用>。
一位から八位、九位、初位までの、20位階。
(⇒ 職員令の位階)。
(3) 前近代の朝廷(律令 官制)の
位階。
前近代日本の、朝廷(律令官制)の位階。
<701年頃〜1869年頃、使用>。
一位から八位、初位までの、30位階。
(⇒ 朝廷(律令官制) の位階)。
■ (1) 近・現代の叙位条例や位階令の位階。
近・現代日本の叙位条例(1887年制定)、
位階令(1926年制定、1947年改正)では、
位階は、正一位(しょういちい)から従八
位(じゅはちい)までの16位階 がある。
戦後は、功績のあった故人(死亡者)へ
のみ、叙位が行われている。
(⇒ 位階令 の位階)。
(⇒ 叙位条例の位階)。
■ (2) 近代の職員令の位階。
近代日本の太政官制の職員令 (1869
年制定)の叙位では、
位階は、正一位(しょういちい)から少初位
(しょうそい)までの20位階 がある。
(⇒ 職員令の位階)。
■ (3) 前近代の朝廷(律令 官制)の位階。
では、 朝廷(律令官制)の位階は、正一位
(しょういちい)から少初位下(しょうそいの
げ)までの30位階 がある。
(⇒ 朝廷(律令官制) の位階)。
◆ 近代日本政府の、太政官制の
職員令(1869年制定)の位階。
(⇒ 職員令の位階)。
■ <1869年頃〜1887年頃> 20位階。
■ 近代日本政府の位階の、「一位〜 八位、
九位(くい)、初位(そい)」 の10グループの、
20位階。
● 近代の職員令の位階には、 一位から八位ま
で、九位、初位(そい)までの10段階があり、
正(しょう)・従(じゅ)をつけて、20位階がある。
■ 近代の職員令の20位階
(上位順に、 正一位、 従一位、 正二位、
従二位、正三位、従三位、正四位、従四位、
正五位、従五位、正六位、従六位、正七位、
従七位、正八位、従八位、正九位、従九位、
大初位、少初位)。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 一位 (いちい)。
(英: The 1st Ikai Rank)。
● 正一位 (しょういちい)。
(英: The Ordinary 1st Ikai Rank)。
● 従一位 (じゅいちい)。
(英: The Subordinate 1st Ikai
Rank)。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 二位 (にい)。
● 正二位 (しょうにい)。
● 従二位 (じゅにい)。
■ 三位 (さんみ)。
● 正三位 (しょうさんみ)。
● 従三位 (じゅさんみ)。
■ 四位 (しい)。
● 正四位 (しょうしい)。
(英: The Ordinary 4th Ikai Rank)。
● 従四位 (じゅしい)。
(英: The Subordinate 4th Ikai
Rank)。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 五位 (ごい)。
● 正五位 (しょうごい)。
● 従五位 (じゅごい)。
■ 六位 (ろくい)。
● 正六位 (しょうろくい)。
● 従六位 (じゅろくい)。
■ 七位 (しちい)。
● 正七位 (しょうしちい)。
● 従七位 (じゅしちい)。
■ 八位 (はちい)。
● 正八位 (しょうはちい)。
● 従八位 (じゅはちい)。
■ 九位 (くい)。
● 正九位 (しょうくい)。
● 従九位 (じゅくい)。
■ 初位 (そい、しょい)。
(英: The Lowest Ikai Rank)。
● 大初位 (だいそい、だいしょい)。
(英: The Ordinary Lowest Ikai
Rank)。
● 少初位 (しょうそい、しょうしょい)。
(英: The Subordinate Lowest
Ikai Rank )。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 近代日本政府の、太政官制の、
職員令の位階。
<1869年頃〜1887年頃>
一位から九位、初位までの20位階。
■ 近代日本政府の、太政官制の、職員令 (18
69年制定)の位階は、 一位から 八位、九位、
初位までの、20位階であり、 1869年(明治
2年)頃から1887年(明治20年)頃まで、使
用された。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 近代日本の太政官制(だじょうかんせい)の
職員令(1869年制定)の叙位では、 位階
は、 正一位(しょういちい)から少初位(しょ
うそい)までの20位階 があった。
(しょうしい)から従八位(じゅはちい)までの上
下がなくなり、 大初位 (だいそい)や少初位
(しょうそい)の上下がなくなり、 正九位 (しょ
うくい)と従九位(じゅくい)が追加され、 20
位階となった。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 職員令の位階。
<1869年頃〜1887年頃>。
● 職員令(1869年制定)の位階は、近代
日本政府の位階の「一位〜九位、初位」の
10グループの位階である。
● 職員令(1869年制定)の位階は、 正一
位(しょういちい)から少初位(しょうそい、し
ょうしょい)までの、近代日本政府(明治政
府)の20位階 である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 叙位条例の位階
(じょいじょうれいのいかい)。
■ 叙位条例の位階。
■ 名称 : 叙位条例の位階 (じょいじょうれい)。
■ 叙位条例は、1887年制定。
■ 叙位条例は、近代日本政府の、位階などを
定めた法令。
■ 1887年制定の叙位条例から
1926年制定の位階令への変更まで。
■ 叙位条例の位階は、1887年(明治20年)
頃から1926年(昭和元年)頃まで、使用さ
れている。
■ 近代日本の叙位条例の16位階
<1887年頃〜1926年頃>。
○ 上位順に、正一位、従一位、正二位、
従二位、正三位、従三位、正四位、従四位、
正五位、従五位、正六位、従六位、正七位、
従七位、正八位、従八位。
■ 位階(いかい)、叙位(じょい)に関しては、
■ 近・現代日本の、近・現代日本政府の位
階に関しては、「近・現代日本政府の位階」
を参照してください。
■ 前近代日本の、朝廷の位階に関しては、
「朝廷の位階」を参照してください。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 91338。
位階。
(1887年頃〜現在)。
■ 叙位条例 (じょいじょうれい)は、 近代日
本政府の、位階などを定めた法令 である。
叙位条例は、1887年に制定され、19
26年制定の位階令への変更まで、効力を
もった。
■ 叙位条例の位階は、1887年(明治20年)
頃から1926年(昭和元年)頃まで、使用さ
れている。
■ 位階は、 明治時代中期以後の近・現代日
本では、栄典の位を示し、 前近代や明治時
代初期の日本では、官職の序列を示す。
■ 近・現日本の叙位条例(1887年制定)や位
正一位(しょういちい)から従八位(じゅはちい)
までの16位階 がある。
戦後は、位階令は改正され(1947年の
改正位階令で)、 生存者への叙位を停止し、
天皇に叙位の決定権はなく、日本国憲法下、
内閣の助言と承認により、天皇が国事行為
として、功績のあった、故人(死亡者)へのみ、
叙位を行っている。
■ 1871年(明治4年)に、官位相当制 (朝廷
で、位階に対応した官職に就くことを原則とす
る制度) は、廃止され、 位階と官職の関係
は断たれ、位階は、1887年の叙位条例の公
布により、以後、栄典の役割に特化した。
また、戦後、生存者への叙位は、行われ
なくなり、故人(死亡者)のみへの叙位が行わ
れている。
位階に叙(じょ)すること である。 天皇が
位階を授与することである。
位階には、 時代別に、3グループの位階
がある。 (1) 701年頃から1869年頃まで
(2) 1869年頃から1887年頃までの、太政
1887年頃から現在までの、叙位条例(1887
■ 叙位条例の位階制度と他の時期
の位階制度との比較表。
● 時代別、3グループの位階。
(1) 近・現代の叙位条例や位階令
の位階。
近・現代日本政府の、叙位条例(1887
年制定)や位階令(1926年制定、1947
年改正)の位階。
<1887年頃〜現在、使用>。
一位から八位までの、16位階。
(⇒ 位階令 の位階)。
(⇒ 叙位条例の位階)。
(2) 近代の職員令の位階。
近代日本政府の、太政官制の職員令
の(1869年制定)の位階。
<1869年頃〜1887年頃、使用>。
一位から八位、九位、初位までの、20位階。
(⇒ 職員令の位階)。
(3) 前近代の朝廷(律令 官制)の
位階。
前近代日本の、朝廷(律令官制)の位階。
<701年頃〜1869年頃、使用>。
一位から八位、初位までの、30位階。
(⇒ 朝廷(律令官制) の位階)。
■ (1) 近・現代の叙位条例や位階令の位階。
近・現代日本の叙位条例(1887年制定)、
位階令(1926年制定、1947年改正)では、
位階は、正一位(しょういちい)から従八
位(じゅはちい)までの16位階 がある。
戦後は、功績のあった故人(死亡者)へ
のみ、叙位が行われている。
(⇒ 位階令 の位階)。
(⇒ 叙位条例の位階)。
■ (2) 近代の職員令の位階。
近代日本の太政官制の職員令 (1869
年制定)の叙位では、
位階は、正一位(しょういちい)から少初位
(しょうそい)までの20位階 がある。
(⇒ 職員令の位階)。
■ (3) 前近代の朝廷(律令 官制)の位階。
では、 朝廷(律令官制)の位階は、正一位
(しょういちい)から少初位下(しょうそいの
げ)までの30位階 がある。
(⇒ 朝廷(律令官制) の位階)。
◆ 近・現代日本政府の、叙位条例
(1887年制定)や位階令(1926年制
定、1947年改正) の位階。
(⇒ 位階令 の位階)。
(⇒ 叙位条例の位階)。
■ <1887年頃〜現在> 16位階。
■ 近・現代日本政府の位階の、「一位〜八位」
の8グループの、16位階。
● 近・現代の叙位条例や位階令の位階には、
一位から八位までの8段階があり、正(しょう)・
従(じゅ)をつけ加えて、16位階がある。
■ 近・現代の叙位条例や位階令の16位階
(上位順に、 正一位、 従一位、 正二位、
従二位、正三位、従三位、正四位、従四位、
正五位、従五位、正六位、従六位、正七位、
従七位、正八位、従八位)。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 一位 (いちい)。
(英: The 1st Ikai Rank)。
● 正一位 (しょういちい)。
(英: The Ordinary 1st Ikai Rank)。
● 従一位 (じゅいちい)。
(英: The Subordinate 1st Ikai
Rank)。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 二位 (にい)。
● 正二位 (しょうにい)。
● 従二位 (じゅにい)。
■ 三位 (さんみ)。
● 正三位 (しょうさんみ)。
● 従三位 (じゅさんみ)。
■ 四位 (しい)。
● 正四位 (しょうしい)。
● 従四位 (じゅしい)。
■ 五位 (ごい)。
● 正五位 (しょうごい)。
● 従五位 (じゅごい)。
■ 六位 (ろくい)。
● 正六位 (しょうろくい)。
● 従六位 (じゅろくい)。
■ 七位 (しちい)。
● 正七位 (しょうしちい)。
● 従七位 (じゅしちい)。
■ 八位 (はちい)。
● 正八位 (しょうはちい)。
● 従八位 (じゅはちい)。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 近・現代日本政府の、叙位条例
や位階令の位階。
<1887年頃〜現在>
一位から八位までの16位階。
■ 近・現代日本政府の、叙位条例(1887年
制定)や位階令(1926年制定、1947年改
正)の位階は、 一位から八位までの、16
位階 であり、 1887年頃 から現在まで、
使用されている。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 叙位条例や位階令の位階。
<1887年頃〜現在>。
● 叙位条例や位階令の位階は、 近・現代日
本政府の位階の「一位〜八位」の8グループ
の位階である。
● 叙位条例 や位階令の位階は、 正一位(し
ょういちい)から従八位(じゅはちい)までの
近・現代日本政府の16位階 である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 地主
(じぬし) (= 地主階級)。
■ 地主。
■ 名称 : 地主 (じぬし)。
■ 英語名 : Landlord(s)。
■ 別名 : 地主階級。
(英: The Landowning Class)。
■ 近代日本(明治、大正、戦前・昭和時代)の特
権階級。
■ 小作人を搾取(さくしゅ)して、農地経営を行う。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51713。
■ 地主 (じぬし) は、 近代日本(明治、大正、
戦前・昭和時代)の特権階級であり、 小作人を
搾取(さくしゅ)して、農地経営を行う。
地主の別名は、 地主階級である。
地主の英語名は、Landlord(s)で、地主
階級の英語名は、The Landowning Class
である。
■ 承久の乱
(じょうきゅうのらん)。
■ 承久の乱。
■ 名称 : 承久の乱 (じょうきゅうのらん)。
■ 戦争の期間 : 1221年(承久3年)。
■ 鎌倉時代前期の内乱。
る。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典 42336。
■ 承久の乱 (じょうきゅうのらん) は、 鎌倉時
代前期の内乱で、 1221年(承久3年)に、
承久の乱は、 朝廷方(上皇方)が、 鎌倉
幕府方に対して起こした戦い である。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 1192年に創立した鎌倉幕府によって、 朝廷
勢力は、 打撃を受ける。
朝廷勢力は、 勢力回復を企(くわだ)て、
1221年(承久3年)に、 後鳥羽上皇(ごとば
じょうこう)を中心に、 北条義時追討の兵を起
こした。 北条義時(ほうじょうよしとき)は、 鎌
倉幕府の執権(しっけん、執権就任:1205〜
24年、幕府・将軍補佐) であった。
府方の北条泰時・時房の軍に大敗する。
房(ほうじょう・ときふさ)は、 北条義時の弟で
ある。
上皇は、 畿内(きない)・西国(さいごく)の武
士、 大寺院の僧兵、 更に北条氏の勢力強化
に反発する東国武士の一部をも味方に引き入
朝廷方(後鳥羽上皇方)の期待に反して、 東
国武士の大多数は、 北条氏のもとに結集して、
戦いに臨(のぞ)んだ。 鎌倉幕府は、 北条義
時の子・泰時や義時の弟・時房らの率いる軍を
おくり、 京(都)を攻めた。 1ヶ月の後、戦いは、
鎌倉幕府の圧倒的な勝利に終わる。
後、 鎌倉幕府・執権の北条義時(ほうじょうよ
しとき)を中心とする、鎌倉幕府は、 朝廷勢力
を削減する対策をとる。
鎌倉幕府は、 仲恭天皇(ちゅうきょうてん
のう)を廃して、 後堀河天皇(ごほりかわてん
のう)を立てる。
鎌倉幕府は、 後鳥羽・土御門・順徳(ごと
ば・つちみかど・じんとく)の3上皇を流罪(るざ
い)とした。
鎌倉幕府は、 朝廷方(上皇方)の貴族、
武士の所領(しょりょう)を没収し、 没収地に新
補地頭(しんぽじとう)を置いた。 鎌倉幕府は、
朝廷方(上皇方)についた貴族や武士の所領約
3000箇所を没収し、戦功のあった御家人らを
その地の地頭に任命した。
鎌倉幕府は、 京(都)の朝廷を監視するた
め、六波羅探題(ろくはらたんだい)を置いた。
これらにより、 京(都)の朝廷の公家政権
は衰え、 畿内・西国の荘園・公領にも幕府の
力が広く及ぶようになり、 鎌倉幕府の幕府権
力が確立した。
また、これ以後、鎌倉幕府は、 朝廷より優
位に立って、 皇位の継承や朝廷の政治にも干
渉するようになった。
■ 所司
(しょし)。
■ 所司。
■ 名称 : 所司 (しょし)。
■ 室町幕府の侍所の長官。
山名、赤松、一色、京極の4氏の四職家(しし
きけ)が、交代し独占した。
■ 鎌倉幕府の侍所の次官。
北条氏の家宰(かさい)・長崎氏が、 世襲した。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 42334。
■ 所司 (しょし)は、 室町幕府の侍所の長官で
あり、 鎌倉幕府の侍所の次官 である。
■ 所司は、 室町幕府の侍所の長官 であり、
室町幕府の軍事・警察 や 京(都)の警備・裁判
を担う政治機関である、侍所(さむらいどころ)の
長官 である。
室町幕府の侍所の所司(長官)を、山名、赤
松、一色、京極の4氏の四職家(ししきけ)が、交
代し独占した。
■ 所司は、 鎌倉幕府の侍所の次官 であり、
鎌倉幕府の、御家人(将軍家臣)の統制 や 軍
事・警察 を担う政治機関である、侍所(さむらい
どころ)の次官 である。
鎌倉幕府の侍所の所司(次官)を、北条氏の
家宰(かさい)・長崎氏が、世襲した。
幕府の政治機関 である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
幕府の軍事・警察 や 京(都)の警備・裁判 を
担う機関であった。
室町幕府の侍所の所司(しょし、長官)に
は、 山名(やまな)、赤松(あかまつ)、一色(い
っしき)、京極(きょうごく)の4氏の四職家(しし
きけ)が、交代で、任じられて、権勢をふるった。
室町幕府では、 侍所の所司(長官)は、管領
(かんれい)に次ぐ重職であった。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
幕府の、御家人(将軍家臣)の統制 や 軍事・
警察 を担う機関 である。
が、 鎌倉に設(もう)け、 源 頼朝は、 和田義
盛(わだよしもり)を、初代別当(べっとう、長官)
とし、 梶原景時(かじわらかげとき)を、初代の、
別当を補佐する所司(しょし、次官)として、 御
家人(ごけにん、将軍家臣)の統制 や 軍事・
警察 に当たらせた。
後に、北条氏が、 侍所 の別当を世襲した。
後に、北条氏の家宰(かさい)・長崎氏 が、
鎌倉幕府 の、侍所の所司(しょし、次官)を世襲し
た。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
♪♪ 所司 が登場する、興味深い、ドキ
ュメンタリー、ドラマ、映画。
★ 所司 が登場する、興味深い、ドキュ
メンタリー。
■ BS歴史館 『 シリーズ日本の転
換点@ 京都炎上! 応仁の乱〜
そのとき‘‘日本人’’が生まれた〜』。
(NHKテレビ・2013年10月10日・
本放送・ドキュメンタリー番組)。
● 応仁の乱の原因、切っ掛け、内容、結果や応仁
の乱の影響を述べる。
■ その時歴史が動いた 『 応仁の乱、
天下を滅ぼす〜終わりなき‘‘ 戦い
の連鎖 ’’〜 』。
(NHKテレビ・2008年(H20)7月・本放
送・ドキュメンタリー番組、 第332回)。
★ 所司 が登場する、興味深い、ドラマ、
映画。
● (注意) ドラマ、映画 は、フィクションです。
歴史のドラマや映画は、史実(歴史上の事実)
と 架空の出来事が、 混じって、描かれてい
ます。 また、現代風にアレンジしてあります。
■ 『 太平記 (たいへいき) 』 。
(NHKテレビ・1991年大河ドラマ)。
■ 鎌倉幕府の、侍所 の所司(しょし、次官)を世
襲する、北条氏の家宰(かさい)・長崎氏 が、
登場する。
■ 室町幕府の侍所の所司(長官)を独占する、
四職家(ししきけ)の山名、赤松、一色、京極
の4氏が、登場する。
■ 鎌倉時代末期と室町時代初期の社会状況や
人物の活躍を描いたドラマ。
■ 足利尊氏の生涯 と 尊氏の鎌倉幕府倒幕、
建武政府との対立、 室町幕府の創立と基礎
確立 を描いた テレビドラマ です。
■ 足利 尊氏の生涯、及び 尊氏が、鎌倉幕府
打倒に尽力し、 後醍醐天皇と袂(たもと)を
わかち、 北朝をたて、室町幕府(足利幕府)
を樹立し、 幕府の基礎を確立する活躍を描
いたテレビドラマ。
● 足利 尊氏 を演じた俳優名 : 真田 広之
(さなだ ひろゆき)。
○ 大河ドラマ「太平記」の足利尊氏。
○ 大河ドラマ「太平記」のPRフォト。
■ 『 花の乱 (はなのらん) 』。
(NHKテレビ・1994年大河ドラマ)。
■ 室町幕府の侍所の所司(長官)を独占する、
四職家(ししきけ)の山名、赤松、一色、京極
の4氏が、登場する。
■ 室町時代の中期を描いたドラマで、 室町時代
の中期に活躍した人々や 将軍の妻、日野富子
(ひのとみこ)、 富子の夫の室町幕府将軍の足
利義政(よしまさ)、応仁の乱 などを描いたドラ
マ。
○ ドラマ「花の乱」での、日野富子(左)と足利義政(右)。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
■ 執権
(しっけん)。
■ 執権。
■ 名称 : 執権 (しっけん)。
■ 英名 : Shogunal Regent(s)。
■ 存立期間 : 鎌倉時代初期〜1333年。
■ 鎌倉幕府の職名。
■ 将軍を補佐する役職。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 42334。
■ 執権 (しっけん) は、 鎌倉幕府の職名で、
将軍を補佐する役職 である。
執権の存立期間は、 鎌倉時代初期から
1333年まで である。
執権の英名は、 Shogunal Regent(s)
である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
(まんどころ、鎌倉幕府の、政治、財政機関) の
ころ、鎌倉幕府の、御家人(将軍家臣)の統制や
軍事・警察を担う機関) の別当 を兼ねた職名
となった。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
務・財務機関) の 別当(べっとう、長官) の
大江広元 (おおえひろもと) が、 将軍の補
佐役という意味で、執権と称し、 次に、1203
し、 1213年に 政所の別当 と 侍所 (さ
むらいどころ、鎌倉幕府の、御家人(将軍家
臣)の統制、軍事・警察、の機関) の別当を
兼ねた北条義時 が、執権と称した。 以後、
執権は、 政所別当と侍所別当を兼ねた職名
となった。
以後、北条氏が、 鎌倉幕府の、執権の
名称・役職を世襲し、 執権政治を展開してい
く。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
◆ 鎌倉幕府の北条氏・執権名
(初代〜 16代)一覧表。
■ 鎌倉幕府の執権(しっけん)。
■ 2代執権 北条 義時 (ほうじょう よしとき)。
北条得宗(とくそう、本家)。
法名 徳宗。
■ 3代執権 北条 泰時 (ほうじょう やすとき)。
北条得宗(本家)。
■ 4代執権 北条 経時 (ほうじょう つねとき)。
北条得宗(本家)。
■ 5代執権 北条 時頼 (ほうじょう ときより)。
北条得宗(本家)。
● TKKI カナヤマ著
日本史辞典。
■ 6代執権 北条 長時 (ほうじょう ながとき)。
■ 7代執権 北条 政村 (ほうじょう まさむら)。
■ 8代執権 北条 時宗 (ほうじょう ときむね)。
北条得宗(本家)。
■ 9代執権 北条 貞時 (ほうじょう さだとき)。
北条得宗(本家)。
■ 10代執権 北条 師時 (ほうじょう もろとき)。
■ 11代執権 北条 宗宣 (ほうじょう むねのり)
(= 大仏(おさらぎ)宗宣)。
● TKKI カナヤマ著
日本史辞典。
■ 12代執権 北条 熙時 (ほうじょう ひろとき)。
■ 13代執権 北条 基時 (ほうじょう もととき)。
■ 14代執権 北条 高時 (ほうじょう たかとき)。
北条得宗(本家)。
■ 15代執権 北条 貞顕 (ほうじょう さだあき)
(= 金沢貞顕)。
■ 16代執権 北条 守時 (ほうじょう もりとき)。
足利尊氏(たかうじ)の
正室夫人の兄。
♪♪ 執権 が登場する、興味深い、
ドキュメンタリー、ドラマ、映画。
★ 執権 が登場する、興味深いドラ
マ,映画。
● (注意) ドラマ、映画は、フィクションです。
歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事
実) と 架空の出来事が、 混じって、描か
れています。 また、現代風にアレンジしてあ
ります。
■ 『 北条時宗 (ほうじょうときむね) 』 。
(NHK2001年大河ドラマ)。
■ 鎌倉幕府の執権の、5代執権・北条 時頼、
6代執権・北条 長時、7代執権・北条 政村、
8代執権・北条 時宗 が、 登場する。
■ 北条 時宗の、生涯 や 時宗の蒙古襲来(元
寇(げんこう))時の活躍を描いたテレビドラマ。
〇 ドラマ「北条時宗」の北条時宗。
○ ドラマ「北条時宗」の書籍販促PRフォト。
■ 『 太平記 (たいへいき) 』 。
(NHK1991年大河ドラマ)。
■ 鎌倉幕府の執権の、14代執権・北条高時、
15代執権・北条(金沢)貞顕、16代執権・北
条(赤橋)守時が、登場する。
■ 鎌倉時代末期と室町時代初期の社会状況や
人物の活躍を描いたドラマ。
■ 足利尊氏の生涯 と 尊氏の鎌倉幕府倒幕、
建武政府との対立、 室町幕府の創立と基礎
確立 を描いた テレビドラマ です。
■ 足利 尊氏の生涯、及び 尊氏が、鎌倉幕府
打倒に尽力し、 後醍醐天皇と袂(たもと)を
わかち、 北朝をたて、室町幕府(足利幕府)
を樹立し、 幕府の基礎を確立する活躍を描
いたテレビドラマ。
● 足利 尊氏 を演じた俳優名 : 真田 広之
(さなだ ひろゆき)。
○ 大河ドラマ「太平記」の足利尊氏。
○ 大河ドラマ「太平記」のPRフォト。
■ 時刻法
(じこくほう)。 (= 時法)。
■ 時刻法。
■ 名称 : 時刻法 (じこくほう)。
● 別名 : 時法 (じほう)。
■ 時刻法(時法)は、時間区分形式、時間間隔
法(定時法・不定時法)、時刻表示方式により、
分類される。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 日本で使われた時刻。 日本では、2つの
時間区分形式、2つの時間間隔法(定時法・不
定時法)、3つの時刻表示方式が使用された。
● 近現代日本使用の1日24時間制・定時法
・西洋式表示時刻。
● 前近代日本使用の1日12等分制・定時法
/不定時法・十二支表示時刻(= 十二支呼
称時刻)。
● 前近代日本使用の1日12等分制・不定時
法・時鐘数表示時刻(= 数呼称時刻)。
◆ 時刻法 (= 時法)。
■ 時刻法は、 一日を分けて時(時刻)を決める
方法で、 時(時刻)の数え方、 そして、時法
という意味である。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 時法(じほう) とは、 時刻法 、時間区分法
である。
● 時刻法(時法)は、英語名で、 the method
of counting hours である。
◆ 時間間隔法 (定時法と不定時法)。
■ 日本で利用された、2つの時間間隔法。
■ 時刻法(時法)の時間間隔法には、 2つの
時間間隔法(定時法・不定時法)がある。
● 時刻法(時法)の時間間隔法には、 定時法
(ていじほう) と 不定時法 (ふていじほう)
の2種類がある。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
● 時刻法(時法)の時間間隔法には、世界的に、
定時法と不定時法がある。
日本では、定時法も不定時法も、使われた。
● 定時法は、英語名で、 the method of
counting equal length hours である。
不定時法は、英語名で、 the method
of counting unequal length hours
である。
■ 時間間隔固定方法の、定時法。
■ 定時法とは、季節、昼夜に関係なく、時間を
刻む間隔が常に一定である時法(時刻法)
である。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
● 定時法は、 時間を刻む間隔が常に一定で
ある時刻法であり、 季節、昼夜に関係なく、
一日(一日の長さ)を等分して時(時刻)を決
める時法(時刻法) である。
● 近・現代日本(明治時代〜現在)の時期に、
1日24時間制・定時法・西洋式表示時刻が
使われている。
● 前近代日本(7世紀〜江戸時代)の時期に、
1日12等分制・定時法・十二支表示時刻が
使われた。
■ 時間間隔変動方法の、不定時法。
■ 不定時法は、季節、昼夜により、時間を刻む
間隔が一定でない、時刻法(時法) である。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
● 不定時法は、 季節、昼夜により、区分され
た時間の長さが違ってくる時法(時刻法) で
ある。
● 前近代日本(室町時代〜江戸時代)にて、
1日12等分制の「日の出や日没を基準とす
る不定時法 」 の時刻 (十二支表示時刻 と
時鐘数・表示時刻) が一般庶民に利用され
た。
◆ 時間区分形式。
■ 日本で利用された、2つの時間区分形式。
■ 時刻法(時法)の時間区分形式には、2つの
時間区分形式 がある。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 時刻法(時法)の時間区分形式には、1日
24時間制、1日12等分制 などがある。
● 日本で利用された時間区分形式には、近・現
代日本使用 の、1日24時間制の時法 と、前
近代日本使用の、1日12等分制の時法 の2
つがある。
◆ 時刻表示方式。
■ 日本で利用された、3つの時刻表示方式。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 時刻法(時法)の時刻表示方式には、 3つ
の時刻表示方式がある。
■ 時刻法(時法)の時刻表示方式には、 西洋
式表示時刻、 十二支(じゅうにし)表示時刻、
時鐘数(じしょうすう)表示時刻 などがある。
● 日本で利用された時刻表示方式には、近現
代日本使用 の西洋式表示時刻 と、 前近代
日本使用の十二支表示時刻 と、 前近代日
本使用の時鐘数表示時刻 の3つがある。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
● 近現代日本使用の1日24時間制・定時法
・西洋式表示時刻。
● 前近代日本使用の1日12等分制・定時法
/不定時法・十二支表示時刻(= 十二支呼
称時刻)。
● 前近代日本使用の1日12等分制・不定時
法・時鐘数表示時刻(= 数呼称時刻)。
■ 十二支表示時刻(= 十二支呼称時刻) は、
前近代日本で使われた、定時法と不定時法の、
十二支(じゅうにし)で表示する時刻 である。
● 十二支表示時刻(= 十二支呼称時刻)には、
前近代日本使用の1日12等分制・定時法・十
二支表示時刻 と、 前近代日本使用の1日
12等分制・「日の出や日没を基準とする不定
時法」・十二支表示時刻 の2つがある。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 時鐘数表示時刻(= 数呼称時刻)は、 前近代
日本で使われた、 「日の出や日没を基準とする
不定時法」の、時鐘(じしょう)の数で表示する
時刻である。
● 時鐘数表示時刻(= 数呼称時刻)は、 前近代
日本使用の1日12等分制・不定時法・時鐘数
表示時刻 である。
◆ 日本で使われた、定時法と不定時
法の時刻。
■ 日本で使用された時刻法(時法)の時間間隔法
(定時法と不定時法)の時刻には、 近・現代日
本で使用している、1日24時間制の定時法の
西洋式表示時刻、 前近代日本(室町時代〜江
戸時代)の一般庶民に使用された、1日12等
分制の「日の出や日没を基準とする不定時法」
の十二支表示時刻や時鐘数表示時刻、 前近
代日本(7世紀〜江戸時代)に利用された様々
な定時法の十二支表示時刻 があった。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 日本で使われた、定時法の時刻。
● 定時法は、季節、昼夜に関係なく、時間を刻
む間隔が常に一定である時刻法(時法) で
ある。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 日本で使われた定時法の時刻には、 近現
代日本使用の1日24時間制・定時法・西洋式
時刻 と、 前近代日本使用の1日12等分制・
定時法・十二支表示時刻 の2つの定時法の
時刻 があった。
■ 近・現代日本では、
1日24時間制の定時法の西洋式表示時刻が
使われている。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 前近代日本では、
● 前近代日本(7世紀〜1843年・天保14年)
では、公式の定時法が利用された。
● 前近代日本(7世紀〜江戸時代)では、様々
な定時法の時刻が使われた。 室町時代から
江戸時代まで、上層階層のみが定時法を利
用した。
■ 日本で使われた、不定時法の時
刻。
● 不定時法は、季節、昼夜により、時間を刻む
間隔が一定でない、時刻法(時法)である。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 日本で使われた不定時法の時刻には、 前
近代日本使用の1日12等分制・不定時法・
十二支表示時刻 と、 前近代日本使用の1
日12等分制・不定時法・時鐘数表示時刻の
2つの不定時法の時刻があった。
● 前近代日本(室町時代〜江戸時代)にて、
1日12等分制の「日の出や日没を基準とす
る不定時法 」 の時刻 (十二支表示時刻 と
時鐘数・表示時刻) が一般庶民に利用され
た。
◆ 各時期の日本で使われた時刻。
■ 日本では、定時法の時刻も不定時法の時刻
も、利用された。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 近現代日本では、
● 近・現代日本(明治時代〜現在)の時期に、
1日24時間制・定時法・西洋式表示時刻が
使われている。
■ 前近代日本では、
■ 前近代日本(7世紀〜江戸時代)の時期に、
1日12等分制・定時法・十二支表示時刻が
使われた。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 前近代日本(室町時代〜江戸時代)の時期
に、 1日12等分制・不定時法・十二支表示
時刻 と、 1日12等分制・不定時法・時鐘
数表示時刻 の2つが使われた。
● 前近代日本(室町時代〜江戸時代)にて、1
日12等分制の「日の出や日没を基準とする
不定時法」の時刻 (十二支表示時刻 と 時
鐘数表示時刻)が、一般庶民に、本格的に利
用された。
1702年(元禄15年)12月15日未明・午
前4時頃に、赤穂浪士は、表門隊と裏門隊の二
手に別れて、吉良邸を襲撃した。
江戸時代当時は、武家では現代と同様に
午前0時が1日の始まりであるが、庶民では、日
の出が1日の始まりとされた。 そのため、武家
の時法では、赤穂浪士の吉良邸討ち入りの襲
撃は、1702年(元禄15年)の、12月15日未
明となり、 庶民の時法では、吉良邸討ち入りの
襲撃は、12月14日深夜となる。
■ 条約改正
(じょうやくかいせい)。
■ 条約改正。
■ 名称 : 条約改正 (じょうやくかいせい)。
■ 明治時代の条約改正問題。
■ 不平等条約の改正。
■ 幕末に日本の江戸幕府が欧米諸国と調印
「改税約書」の不平等条約の改正。
■ 領事裁判権(治外法権)や関税自主権の欠
如の規定、 低率関税の規定、一方的最恵
国待遇の条款 などの改正。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61735。
■ 欧米諸国と締結した和親条約の「一方的最恵
国待遇」(いぽうてきさいけいこくたいぐう)の条
款が、 不平等条約全体の改正を困難にした。
■ 条約改正 (じょうやくかいせい) とは、明治
時代の条約改正問題で、 幕末に日本の江戸
政の5カ国条約」、「改税約書」の不平等条約
の改正 である。
裁判権(治外法権)、関税自主権の欠如の規
定など や、 「改税約書」の低率関税の規定、
和親条約の「一方的最恵国待遇」の条款 など
の不平等条約の規定の改正を求めるものであ
った。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 幕末、日本の江戸幕府が欧米諸国と結んだ、
は、不平等条約であり、 江戸幕府消滅後、 明
治時代に、 条約改正問題を、日本の明治政府
(近代日本政府)に残した。
■ 条約改正 (じょうやくかいせい) とは、 幕末
に日本の江戸幕府が欧米諸国と調印した「和親
平等条約を改正することである。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 和親条約。
● 「和親条約」は、 1854年から1855年までの
間、日本の江戸幕府が米・英・露・蘭の欧米4カ
国と結んだ和親条約の総称である。
和親条約は、 「一方的最恵国待遇」の規定
などがある、不平等条約であった。
■ 修好通商条約 (安政の五カ国条約)。
● 「安政の5カ国条約」 (あんせいのごかこくじ
ょうやく) は、 1858年(安政5年)に、 日本
の江戸幕府が米・蘭・露・英・仏の欧米5カ国と
結んだ、修好通商条約の総称 である。
安政の五カ国条約は、 領事裁判権(治外
法権)、 関税自主権の欠如の規定 などがあ
る、不平等条約であった。
■ 「改税約書」。
● 「改税約書」 (かいぜいやくしょ) は、 186
6年に、 日本の江戸幕府が英・仏・米・蘭の欧
米諸国と結んだ、貿易協約 である。
改税約書は、 低率関税の規定がある、不
平等条約 であった。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 日本の明治政府(近代日本政府)の、長年の
政の5カ国条約」や「改税約書」の不平等条
項の完全な撤廃が最終的に実現されたのは、
日露戦争(1904〜05年)後の、明治時代末
の1911年(明治44年)のことであった。
その一例として、幕末の不平等条約である
日米修好通商条約の不平等な規定が撤廃さ
れたのは、 1911年(明治44年)であった。
郎 (こむらじゅたろう) が、アメリカと条約改
正の交渉を行い、 1911年に、日米通商航
海条約を調印し、 関税自主権の回復を果た
した。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 修好通商条約
(しゅうこうつうしょうじょうやく)。
■ 修好通商条約。
■ 名称 : 修好通商条約 (しゅうこうつうしょう
じょうやく)。
■ 英語名 : the Treaty of Amity and
Commerce between Japan and
Foreign Countries である。
■ 別名 : 安政の5カ国条約。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 1858年の安政の5カ国条約。
■ 1858年に、日本の江戸幕府が米・蘭・露
・英・仏の欧米諸国と結んだ、修好通商条約。
■ 領事裁判権(治外法権)、関税自主権の欠如
の規定などがある、不平等条約。
■ 修好通商条約は、1858年に調印された「安
政の5カ国条約」 である。
修好通商条約は、1858年に、日本の江戸
幕府が米・蘭・露・英・仏の欧米諸国と結んだ、
修好通商条約 である。
修好通商条約は、 領事裁判権(治外法権)、
関税自主権の欠如の規定などがある、不平等
条約 であった。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 修好通商条約 (しゅうこうつうしょうじょうやく)
とは、 1858年(安政5年)に、日本と欧米5カ
国との間で調印された、修好通商条約 である。
修好通商条約の英語名は、the Treaty of
Amity and Commerce Between Japan
and Foreign Countries である。
■ 1858年の日米修好通商条約の取り決めの主
な内容 は、 (1) 神奈川、長崎、新潟(にいが
た)、兵庫(ひょうご) の開港 と、 江戸、大阪
の開市(かいし)、 (2) 通商は、自由貿易とす
ること、 (3) 開港場に居留地(きょうりゅうち)
を設け、 一般外国人の、国内旅行を禁じること、
(4) 居留地内での、領事裁判権(りょうじさい
ばんけん)を認めること (治外法権(ちがいほう
けん))、 (5) 関税については、日本に税率の
決定権はなく、 相互で協定して決める協定関
税とすること (関税自主権の欠如(かんぜいじ
しゅけんのけつじょ) などであった。
後に日本にとって問題となるのが、 (4)の
治外法権 と (5)の関税自主権の欠如 であ
った。
その後、 江戸幕府は、 1858年に、オラ
ンダ、ロシア、イギリス、フランスとも、 同様の
内容の修好通商条約を結んだ。
アメリカとの修好通商条約を含め、これら5
カ国の修好通商条約を、「安政の5カ国条約」と
いう。
江戸幕府は、老中首座・堀田正睦の条約締
結失敗後、大老・井伊直弼の条約締結実施によ
り、約200年以上にわたる鎖国政策をやめ、完
全に開国した。
日本は、 江戸幕府・大老の井伊直弼の決断
により欧米5カ国と修好通商条約に調印し、 完
全開国した。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 日米修好通商条約を含め、1858年の修好通
商条約(安政五か国条約)は、 領事裁判権を
認める、関税自主権がない、などといった不平
等条約 であった。
日本の明治政府(近代日本政府)の、長年
の度重なる、条約改正交渉の結果、やっと、
「安政の5カ国条約」や「改税約書」の不平等
条項の完全な撤廃が最終的に実現されたのは、
日露戦争(1904〜05年)後の、明治時代末
の1911年(明治44年)のことであった。
その一例として、幕末の不平等条約である
日米修好通商条約の不平等な 規定が撤廃され
たのは、 1911年(明治44年)であった。 明
(こむらじゅたろう) が、アメリカと条約改正の
交渉を行い、 1911年に、日米通商航海条約
を調印し、 関税自主権の回復を果たした。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 臣籍降下
(しんせきこうか)。
■ 臣籍降下。
■ 名称 : 臣籍降下 (しんせきこうか)。
■ 皇族賜姓 (こうぞくしせい) とは、 皇族が天
皇より賜(たまわ)る氏(氏族名)で、 皇族が臣
下に下る際に天皇より賜(たまわ)る氏(氏族名)
ある。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 臣籍降下。
臣籍降下は、 皇族が、天皇より皇族賜姓(こ
うぞくしせい)の氏(氏族名)を賜(たまわ)って、
天皇の臣下に下ることである。
朝廷は、 平安時代前期・中期に、財政事情そ
原(ありわら)氏などの皇族賜姓の氏(氏族名)を
与えて、臣籍降下させた。
平安後期以後、 皇位継承に関わりのない皇
族(皇子皇女達)は出家する慣例が生まれたため、
皇族に源氏、平氏、在原氏などの皇族賜姓の氏
(氏族名)を与えて臣籍降下させることは、少なく
なった。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 時法
(じほう) (= 時刻法)。
■ 時法。
■ 名称 : 時法 (じほう)。
● 別名 : 時刻法 (じこくほう)。
■ 時法(時刻法)は、時間区分形式、時間間隔
法(定時法・不定時法)、時刻表示方式により、
分類される。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 日本で使われた時刻。 日本では、2つの
時間区分形式、2つの時間間隔法(定時法・不
定時法)、3つの時刻表示方式が使用された。
● 近現代日本使用の1日24時間制・定時法
・西洋式表示時刻。
● 前近代日本使用の1日12等分制・定時法
/不定時法・十二支表示時刻(= 十二支呼
称時刻)。
● 前近代日本使用の1日12等分制・不定時
法・時鐘数表示時刻(= 数呼称時刻)。
◆ 時法 (= 時刻法)。
■ 時法(じほう)は、 一日を分けて時(時刻)を
決める方法で、 時(時刻)の数え方、 そして、
時刻法という意味である。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 時法(じほう) とは、 時刻法 、時間区分法
である。
● 時法(時刻法)は、英語名で、 the method of
counting hours である。
◆ 時間間隔法 (定時法と不定時法)。
■ 日本で利用された、2つの時間間隔法。
■ 時法(時刻法)の時間間隔法には、 2つの
時間間隔法(定時法・不定時法)がある。
● 時法(時刻法)の時間間隔法には、 定時法
(ていじほう) と 不定時法 (ふていじほう)
の2種類がある。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
● 時法(時刻法)の時間間隔法には、世界的に、
定時法と不定時法がある。
日本では、定時法も不定時法も、使われた。
● 定時法は、英語名で、 the method of
counting equal length hours である。
不定時法は、英語名で、 the method
of counting unequal length hours
である。
■ 時間間隔固定方法の、定時法。
■ 定時法とは、季節、昼夜に関係なく、時間を
刻む間隔が常に一定である時法(時刻法)
である。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
● 定時法は、 時間を刻む間隔が常に一定で
ある時刻法であり、 季節、昼夜に関係なく、
一日(一日の長さ)を等分して時(時刻)を決
める時法(時刻法) である。
● 近・現代日本(明治時代〜現在)の時期に、
1日24時間制・定時法・西洋式表示時刻が
使われている。
● 前近代日本(7世紀〜江戸時代)の時期に、
1日12等分制・定時法・十二支表示時刻が
使われた。
■ 時間間隔変動方法の、不定時法。
■ 不定時法は、季節、昼夜により、時間を刻む
間隔が一定でない、時法(時刻法) である。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
● 不定時法は、 季節、昼夜により、区分され
た時間の長さが違ってくる時法(時刻法) で
ある。
● 前近代日本(室町時代〜江戸時代)にて、
1日12等分制の「日の出や日没を基準とす
る不定時法 」 の時刻 (十二支表示時刻 と
時鐘数・表示時刻) が一般庶民に利用され
た。
◆ 時間区分形式。
■ 日本で利用された、2つの時間区分形式。
■ 時法(時刻法)の時間区分形式には、2つの
時間区分形式 がある。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 時法(時刻法)の時間区分形式には、1日
24時間制、1日12等分制 などがある。
● 日本で利用された時間区分形式には、近・現
代日本使用 の、1日24時間制の時法 と、前
近代日本使用の、1日12等分制の時法 の2
つがある。
◆ 時刻表示方式。
■ 日本で利用された、3つの時刻表示方式。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 時法(時刻法)の時刻表示方式には、 3つ
の時刻表示方式がある。
■ 時刻法(時法)の時刻表示方式には、 西洋
式表示時刻、 十二支(じゅうにし)表示時刻、
時鐘数(じしょうすう)表示時刻 などがある。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
● 日本で利用された時刻表示方式には、近現
代日本使用 の西洋式表示時刻 と、 前近代
日本使用の十二支表示時刻 と、 前近代日
本使用の時鐘数表示時刻 の3つがある。
● 近現代日本使用の1日24時間制・定時法
・西洋式表示時刻。
● 前近代日本使用の1日12等分制・定時法
/不定時法・十二支表示時刻(= 十二支呼
称時刻)。
● 前近代日本使用の1日12等分制・不定時
法・時鐘数表示時刻(= 数呼称時刻)。
■ 十二支表示時刻(= 十二支呼称時刻) は、
前近代日本で使われた、定時法と不定時法の、
十二支(じゅうにし)で表示する時刻 である。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
● 十二支表示時刻(= 十二支呼称時刻)には、
前近代日本使用の1日12等分制・定時法・十
二支表示時刻 と、 前近代日本使用の1日
12等分制・「日の出や日没を基準とする不定
時法」・十二支表示時刻 の2つがある。
■ 時鐘数表示時刻(= 数呼称時刻)は、 前近代
日本で使われた、 「日の出や日没を基準とする
不定時法」の、時鐘(じしょう)の数で表示する
時刻である。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
● 時鐘数表示時刻(= 数呼称時刻)は、 前近代
日本使用の1日12等分制・不定時法・時鐘数
表示時刻 である。
◆ 日本で使われた、定時法と不定時
法の時刻。
■ 日本で使用された時法(じほう)の時間間隔法
(定時法と不定時法)の時刻には、 近・現代日
本で使用している、1日24時間制の定時法の
西洋式表示時刻、 前近代日本(室町時代〜江
戸時代)の一般庶民に使用された、1日12等
分制の「日の出や日没を基準とする不定時法」
の十二支表示時刻や時鐘数表示時刻、 前近
代日本(7世紀〜江戸時代)に利用された様々
な定時法の十二支表示時刻 があった。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 日本で使われた、定時法の時刻。
● 定時法は、季節、昼夜に関係なく、時間を刻
む間隔が常に一定である時法(時刻法) で
ある。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 日本で使われた定時法の時刻には、 近現
代日本使用の1日24時間制・定時法・西洋式
時刻 と、 前近代日本使用の1日12等分制・
定時法・十二支表示時刻 の2つの定時法の
時刻 があった。
■ 近・現代日本では、
1日24時間制の定時法の西洋式表示時刻が
使われている。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 前近代日本では、
● 前近代日本(7世紀〜1843年・天保14年)
では、公式の定時法が利用された。
● 前近代日本(7世紀〜江戸時代)では、様々
な定時法の時刻が使われた。 室町時代から
江戸時代まで、上層階層のみが定時法を利
用した。
■ 日本で使われた、不定時法の時
刻。
● 不定時法は、季節、昼夜により、時間を刻む
間隔が一定でない、時法(時刻法)である。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 日本で使われた不定時法の時刻には、 前
近代日本使用の1日12等分制・不定時法・
十二支表示時刻 と、 前近代日本使用の1
日12等分制・不定時法・時鐘数表示時刻の
2つの不定時法の時刻があった。
● 前近代日本(室町時代〜江戸時代)にて、
1日12等分制の「日の出や日没を基準とす
る不定時法 」 の時刻 (十二支表示時刻 と
時鐘数・表示時刻) が一般庶民に利用され
た。
◆ 各時期の日本で使われた時刻。
■ 日本では、定時法の時刻も不定時法の時刻
も、利用された。
■ 近現代日本では、
● 近・現代日本(明治時代〜現在)の時期に、
1日24時間制・定時法・西洋式表示時刻が
使われている。
■ 前近代日本では、
■ 前近代日本(7世紀〜江戸時代)の時期に、
1日12等分制・定時法・十二支表示時刻が
使われた。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 前近代日本(室町時代〜江戸時代)の時期
に、 1日12等分制・不定時法・十二支表示
時刻 と、 1日12等分制・不定時法・時鐘
数表示時刻 の2つが使われた。
● 前近代日本(室町時代〜江戸時代)にて、1
日12等分制の「日の出や日没を基準とする
不定時法」の時刻 (十二支表示時刻 と 時
鐘数表示時刻)が、一般庶民に、本格的に利
用された。
1702年(元禄15年)12月15日未明・午
前4時頃に、赤穂浪士は、表門隊と裏門隊の二
手に別れて、吉良邸を襲撃した。
江戸時代当時は、武家では現代と同様に
午前0時が1日の始まりであるが、庶民では、日
の出が1日の始まりとされた。 そのため、武家
の時法では、赤穂浪士の吉良邸討ち入りの襲
撃は、1702年(元禄15年)の、12月15日未
明となり、 庶民の時法では、吉良邸討ち入りの
襲撃は、12月14日深夜となる。
■ 四位
(しい)。
■ 四位。
■ 名称 : 四位 (しい)。
■ 位階のグループ。
■ 使用期間(叙位期間) :
● 古代日本の飛鳥白鳳時代から現代日本の
現在まで。
● (西暦紀元後)701年頃から現在まで。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 朝廷(律令官制)、職員令、叙位条例、位階
令の位階 (701年頃〜現在、叙位に使用)。
● 正四位 (しょうしい) と 従四位 (じゅし
い) の2つの位階。
■ 前近代日本の朝廷(律令官制)の位階。
● 正四位
○ 正四位上 (しょうしいのじょう)。
○ 正四位下 (しょうしいのげ)。
● 従四位
○ 従四位上 (じゅしいのじょう)。
○ 従四位下 (じゅしいのげ)。
□ 位階。
□ 叙位。
■ 四位。
■ 四位 (しい) とは、 正四位 (しょうしい)
と 従一位 (じゅしい) の2つの位階 で
ある。
更に、前近代日本の朝廷(律令官制)の
位階では、四位には、 正・従(しょう・じゅ)
四位の2つの位階に上下を付けて、次のよ
うな4つの位階があった。
○ 正四位上 (しょうしいのじょう)。
○ 正四位下 (しょうしいのげ)。
○ 従四位上 (じゅしいのじょう)。
○ 従四位下 (じゅしいのげ)。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 四位 (しい) は、 古代日本の飛鳥白鳳
時代から現代日本の現在までの期間の叙
位に使用されている位階 で、 (西暦紀元
後)701年頃から現在までの期間の叙位に、
使用されている。
現在は、1947年の改正位階令により、
功績のあった、故人(死亡者)へのみ、叙位
が行われている。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 四位。
■ 律令官制の位階。
<701年頃〜1869年頃>
● 朝廷の位階の「一位〜八位、初位」の
9グループの4番目のグループの位階。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
● 朝廷の30位階(いかい)の、
7番目の正四位上 (しょうしいのじょう)、
8番目の正四位下 (しょうしいのげ)、
9番目の従四位上 (じゅしいのじょう)、
10番目の従四位下 (じゅしいのげ)、
の4つの位階である。
■ 職員令(1869年制定)の位階。
<1869年頃〜1887年頃>
● 近代日本政府の位階の「一位〜九位、
初位」の10グループの 4番目のグループ
の位階。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
● 近代日本政府の20位階の、
7番目の正四位 (しょうしい)、
8番目の従一位 (じゅしい)、
の2つの位階である。
■ 叙位条例(1887年制定)、位階令
(1926年制定、1947年改正)の
位階。
<1887年頃〜現在>
● 近・現代日本政府の位階の「一位〜八位」
の8グループの 4番目のグループの位階。
● 近・現代日本政府の16位階の 、
7番目の正四位 (しょうしい)、
8番目の従一位 (じゅしい)、
の2つの位階である。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 四位。
■ 律令官制の位階。
<701年頃〜1869年頃>
● 四位は、 朝廷の位階の「一位〜八位、初
位」の 9グループのうちの、上から4番目の
グループの位階である。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
● 四位は、 正一位(しょういちい)から少初位
下(しょうそいのげ)までの朝廷の30位階(い
かい)の、
7番目の正四位上 (しょうしいのじょう)、
8番目の正四位下 (しょうしいのげ)、
9番目の従四位上 (じゅしいのじょう)、
10番目の従四位下 (じゅしいのげ)、
の4つの位階である。
■ 職員令(1869年制定)の位階。
<1869年頃〜1887年頃>
● 四位は、 近代日本政府の位階の「一位〜
九位、初位」の10グループの うちの上から
4番目のグループの位階である。
● 四位は、 正一位(しょういちい)から少初位
(しょうそい、しょうしょい)までの近代日本政
府の20位階の、
7番目の正四位 (しょうしい)、
8番目の従一位 (じゅしい)、
の2つの位階である。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 叙位条例(1887年制定)、位階令
(1926年制定、1947年改正)の位階。
<1887年頃〜現在>
● 四位は、 近・現代日本政府の位階の「一位
〜八位」の8グループの うちの上から4番目
のグループの位階である。
● 四位は、 正一位(しょういちい)から従八位
(じゅはちい)までの近・現代日本政府の16
位階の、
7番目の正四位 (しょうしい)、
8番目の従一位 (じゅしい)、
の2つの位階である。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
◆ 律令官制の位階。
■ 従四位下。
● 前近代日本の朝廷で、公卿である、参議に
なるための最低条件の位階。
正一位から少初位下(しょうそいのげ)までの
朝 廷の30位階(いかい)の上位10番目の位
階である。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 公卿(くぎょう)は、位階・三位以上の者で公
卿の官職に叙任された者、または、位階・四
位以上の者で公卿の参議に叙任された者 で
ある。
■ 従四位下は、 公卿(くぎょう)の最下位の
参議になるための、 朝廷の最低条件の位
階 である。
公卿(くぎょう)は、 朝廷の位階・三位
以上の者で天皇より公卿の官職に叙任され
た者、または、朝廷の位階・四位以上の者で
天皇より公卿の参議に叙任された者である。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 七位
(しちい)。
■ 七位。
■ 名称 : 七位 (しちい)。
■ 位階のグループ。
■ 使用期間(叙位期間) :
● 古代日本の飛鳥白鳳時代から現代日本の
現在まで。
● (西暦紀元後)701年頃から現在まで。
■ 朝廷(律令官制)、職員令、叙位条例、位階
令の位階 (701年頃〜現在、叙位に使用)。
● 正七位上 (しょうしちい) と 従七位上
(じゅしちい) の2つの位階。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 前近代日本の朝廷(律令官制)の位階。
● 正七位
○ 正七位上 (しょうしちいのじょう)。
○ 正七位下 (しょうしちいのげ)。
● 従七位
○ 従七位上 (じゅしちいのじょう)。
○ 従七位下 (じゅしちいのげ)。
□ 位階。
□ 叙位。
■ 七位。
■ 七位 (しちい) とは、 正七位上 (しょうし
ちい) と 従七位上(じゅしちい) の2つの
位階 である。
更に、前近代日本の朝廷(律令官制)の
位階では、七位には、 正・従(しょう・じゅ)
七位の2つの位階に上下を付けて、次のよ
うな4つの位階があった。
● 正七位
○ 正七位上 (しょうしちいのじょう)。
○ 正七位下 (しょうしちいのげ)。
● 従七位
○ 従七位上 (じゅしちいのじょう)。
○ 従七位下 (じゅしちいのげ)。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 七位 (しちい) は、 古代日本の飛鳥白鳳
時代から現代日本の現在までの期間の叙
位に使用されている位階 で、 (西暦紀元
後)701年頃から現在までの期間の叙位に、
使用されている。
現在は、1947年の改正位階令により、
功績のあった、故人(死亡者)へのみ、叙位
が行われている。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 七位。
■ 律令官制の位階。
<701年頃〜1869年頃>
● 朝廷の位階の「一位〜八位、初位」の
9グループの7番目のグループの位階。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
● 朝廷の30位階(いかい)の、
19番目の正七位上 (しょうしちいのじょう)、
20番目の正七位下 (しょうしちいのげ)、
21番目の従七位上 (じゅしちいのじょう)、
22番目の従七位下 (じゅしちいのげ)、
の4つの位階である。
■ 職員令(1869年制定)の位階。
<1869年頃〜1887年頃>
● 近代日本政府の位階の「一位〜九位、
初位」の10グループの 7番目のグループ
の位階。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
● 近代日本政府の20位階の、
13番目の正七位 (しょうしちい)、
14番目の従七位 (じゅしちい)、
の2つの位階である。
■ 叙位条例(1887年制定)、位階令
(1926年制定、1947年改正)の
位階。
<1887年頃〜現在>
● 近・現代日本政府の位階の「一位〜八位」
の8グループの 7番目のグループの位階。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
● 近・現代日本政府の16位階の 、
13番目の正七位 (しょうしちい)、
14番目の従七位 (じゅしちい)、
の2つの位階である。
■ 七位。
■ 律令官制の位階。
<701年頃〜1869年頃>
● 七位は、 朝廷の位階の「一位〜八位、初
位」の9グループのうちの、上から7番目の
グループの位階である。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
● 七位は、 正一位(しょういちい)から少初
位下(しょうそいのげ)までの朝廷の30位
階(いかい)の、
19番目の正七位上 (しょうしちいのじょう)、
20番目の正七位下 (しょうしちいのげ)、
21番目の従七位上 (じゅしちいのじょう)、
22番目の従七位下 (じゅしちいのげ)、
の4つの位階である。
■ 職員令(1869年制定)の位階。
<1869年頃〜1887年頃>
● 七位は、 近代日本政府の位階の「一位〜
九位、初位」の10グループのうちの上から
7番目のグループの位階である。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
● 七位は、 正一位(しょういちい)から少初
位(しょうそい、しょうしょい)までの近代日
本政府の20位階の、
13番目の正七位 (しょうしちい)、
14番目の従七位 (じゅしちい)、
の2つの位階である。
■ 叙位条例(1887年制定)、位階令
(1926年制定、1947年改正)の位階。
<1887年頃〜現在>
● 七位は、 近・現代日本政府の位階の「一
位〜八位」の8グループの うちの上から7
番目のグループの位階である。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
● 七位は、 正一位(しょういちい)から従八
位(じゅはちい)までの近・現代日本政府の
16位階の、
13番目の正七位 (しょうしちい)、
14番目の従七位 (じゅしちい)
の2つの位階である。
■ 寿永
(じゅえい)。
■ 寿永。
■ 名称 : 治承 (じゅえい)。
■ 日本暦年号(和暦年号、元号)。
■ 伊勢平氏政権(安徳天皇擁立)方の暦年号。
● 「寿永」元年〜4年(1182〜1185年)。
1182年・寿永元年・5月27日〜
1185年・寿永 4年・3月24日。
伊勢平氏滅亡により暦年号編成中止。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 源平競合二重年号(1181年〜1185年)
の1つ。
● 「治承」年号は、河内源氏・源頼朝政権(後
鳥羽天皇 擁立)方の暦年号の「治承」や「元
暦」と同時存立。
■ 古代日本の平安時代後期の年号。
■ 「寿永」年号より後は、伊勢平氏政権(安徳
天皇擁立)方は、暦年号編成を中止 。
■ 治承 (じゅえい) は、 日本暦年号(和暦
年号、元号)で、 古代日本の平安時代後期
の年号であり、 伊勢平氏政権(安徳天皇擁
立)方の暦年号として使用され、 「寿永」元
年から4年まで(1182年から1185年まで)
である。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 治承 (じゅえい) は、 日本暦年号(和暦
年号、元号)で、 古代日本の平安時代後期
の年号 である。
■ 治承 (じゅえい) は、 源平競合二重年号
(1181年〜1185年)の1つで、 伊勢平氏
政権(安徳天皇擁立)方の暦年号として使用
された。
● 「治承」年号は、河内源氏・源頼朝政権
(後鳥羽天皇擁立)方の暦年号の「治承」や
「元暦」と同時存立する。
● (注意) 「治承」年号と同時期に、河内源
氏・源頼朝政権(後鳥羽天皇 擁立)方の暦
年号の治承(じしょう)元年〜8年(1177〜
1184年) と 元暦(げんりゃく)元年〜2
年(1184〜1185年) も存立する。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 伊勢平氏政権(安徳天皇擁立)方の暦年号
の、 治承 (じゅえい) は、 「寿永」元年か
ら4年まで (1182年から1185年まで)で
あり、 1182年・寿永元年・5月27日から
1185年・寿永 4年・3月まで である。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 「寿永」年号より後は、伊勢平氏政権(安徳
天皇擁立)方は、暦年号編成を中止 。
● 「寿永」年号(寿永元年〜4年、1182〜
1185年)より後は、伊勢平氏政権(安徳天
皇系統)方は、 暦年号編成を中止 する。
1185年の壇ノ浦の戦いで、伊勢平氏が滅
亡し、安徳天皇が崩御したため。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 伊勢平氏政権(安徳天皇擁立)方の暦年号。
安元(あんげん)元年〜3年 ⇒ 治承
(じしょう)元年〜5年 (1177〜1181年)
⇒ 養和(ようわ)元年〜2年 (1181〜
1182年) ⇒ 寿永(じゅえい) 元年〜4年
(1182〜1185年)⇒ 暦年号編成中止。
■ 源平競合二重年号。
1181年から1185年まで、 「治承」(じし
ょう)、「養和」(ようわ)、「寿永」(じゅえい) 、
「元暦」(げんりゃく)の年号で、 日本暦年号
(和暦年号、元号)の二重存立が起こる。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 東日本の河内源氏・源頼朝政権 と 西日
本の伊勢平氏政権 の2つの政権が、 11
80年から1185年までの間、 並立し、対
立した。 その期間の、1181年から1185
年まで、 同時期に、2つが年号が存立した。
◆ 源平競合二重年号一覧表。
■ 1181年から1185年まで、日本暦年号
(和暦年号、元号)は、二重存立する。
■ 伊勢平氏政権 (安徳天皇擁立) 方の暦年
号。
▼ 治承(じしょう)⇒ 養和(ようわ)⇒ 寿永
(じゅえい)⇒ 暦年号編成中止。
● 「治承」 (じしょう)
(治承元年〜治承5年、1177〜1181年)。
● 「養和」 (ようわ)
(養和元年〜養和2年、1181〜1182年)。
● 「寿永」 (じゅえい)
(寿永元年〜寿永4年、1182〜1185年)。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 河内源氏・源頼朝政権 (後鳥羽天皇擁立)
方の暦年号。
▼ 治承(じしょう)⇒ 元暦(げんりゃく)。
● 「治承」 (じしょう)
(治承元年〜治承8年、1177〜1184年) 。
● 「元暦」 (げんりゃく)
(元暦元年〜元暦2年、1184〜1185年)。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 治承
(じしょう)。
■ 治承。
■ 名称 : 治承 (じしょう、 じじょう)。
■ 日本暦年号(和暦年号、元号)。
■ 源平競合二重年号(1181年〜1185年)
の1つ。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 伊勢平氏政権(安徳天皇擁立)方の暦年号。
● 「治承」元年〜治承5年(1177〜1181年)。
1177年・治承元年・8月 4日〜
1181年・治承 5年・7月14日。
■ 河内源氏・源頼朝政権 (後鳥羽天皇擁立)
方の暦年号。
● 「治承」元年〜治承8年(1177〜1184年)。
1177年・治承元年・8月 4日〜
1184年・治承 8年・4月16日。
■ 古代日本の平安時代後期の年号。
■ 治承 (じしょう、じじょう) は、 日本暦年号
(和暦年号、元号)で、 古代日本の平安時代
後期の年号であり、 伊勢平氏政権(安徳天
皇擁立)方の暦年号では、 「治承」元年から
治承5年まで (西暦1177年から1181年ま
で) であり、 河内源氏・源頼朝政権 (後鳥
羽天皇擁立) 方の暦年号では、 「治承」元
年から治承8年まで (1177年から1184年
まで) である。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 治承 (じしょう、じじょう) は、 日本暦年号
(和暦年号、元号)で、 古代日本の平安時代
後期の年号 である。
■ 「治承」は、 源平競合二重年号(1181年〜
1185年)の1つで、 伊勢平氏政権(安徳天皇
擁立)方の暦年号としても使用され、 河内源氏
・源頼朝政権 (後鳥羽天皇擁立) 方の暦年号
としても使用された。
● 源平競合二重年号。
1181年から1185年まで、 「治承」(じし
ょう)、「養和」(ようわ)、「寿永」(じゅえい) 、
「元暦」(げんりゃく)の年号で、 日本暦年号
(和暦年号、元号)の二重存立が起こる。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 伊勢平氏政権(安徳天皇擁立)方の暦年号
の、「治承」は、 「治承」元年から治承5年ま
で (西暦1177年から1181年まで) であ
り、 1177 年・治承元年・8月4日から 11
81年・治承5年・7月14日まで である。
■ 伊勢平氏政権(安徳天皇擁立)方の暦年号。
安元(あんげん)元年〜3年 ⇒ 治承
(じしょう)元年〜5年 (1177〜1181年)
⇒ 養和(ようわ)元年〜2年 (1181〜
1182年) ⇒ 寿永(じゅえい) 元年〜4年
(1182〜1185年)⇒ 暦年号編成中止。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 河内源氏・源頼朝政権 (後鳥羽天皇擁立)
方の暦年号の、「治承」は、 「治承」元年から
治承8年まで (1177年から1184年まで)
であり、 1177年・治承元年・8月4日 から
1184年・治承8年・4月16日まで である。
■ 河内源氏・源頼朝政権 (後鳥羽天皇擁立)
方の暦年号。
安元(あんげん)元年〜3年 ⇒ 治承
(じしょう)元年〜8年 (1177〜 1184
年) ⇒ 元暦(げんりゃく)元年〜2年
(1184〜1185年) ⇒ 文治(ぶんじ)。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 1180年に、東日本の関東に、河内源氏・源
頼朝政権が成立し、 1180年から1185年ま
での間、 日本では、 西日本の伊勢平氏政権
と 東日本の河内源氏・源頼朝政権 の2つの
政権が並立した。 そのため、 その期間の、
1181年から1185年まで、 2つが年号が存
立した。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
◆ 源平競合二重年号一覧表。
■ 1181年から1185年まで、日本暦年号
(和暦年号、元号)は、二重存立する。
■ 伊勢平氏政権 (安徳天皇擁立) 方の暦年
号。
▼ 治承(じしょう)⇒ 養和(ようわ)⇒ 寿永
(じゅえい)⇒ 暦年号編成中止。
● 「治承」 (じしょう)
(治承元年〜治承5年、1177〜1181年)。
● 「養和」 (ようわ)
(養和元年〜養和2年、1181〜1182年)。
● 「寿永」 (じゅえい)
(寿永元年〜寿永4年、1182〜1185年)。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 河内源氏・源頼朝政権 (後鳥羽天皇擁立)
方の暦年号。
▼ 治承(じしょう)⇒ 元暦(げんりゃく)。
● 「治承」 (じしょう)
(治承元年〜治承8年、1177〜1184年) 。
● 「元暦」 (げんりゃく)
(元暦元年〜元暦2年、1184〜1185年)。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 信長公記
(しんちょうこうき)。
■ 信長公記。
■ 名称 : 信長公記 (しんちょうこうき)。
■ 著者 : 太田 牛一。
■ 江戸時代初期に成立。
■ 安土桃山時代を知る一次的史料。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 82317。
■ 太田牛一(おおたぎゅういち)の信長公記には、
「安土日記」(古期・信長公記、慶長頃の写)、
「信長記」(中期・信長公記、慶長18年(1613
年)頃)、 「信長公記」(新期・信長公記、元禄
12年(1699年)写) がある。
「安土日記」(古期・信長公記、慶長頃の
写)が一次史料として、信頼が高い。
■ 信長公記は、 安土桃山時代を知る一次的史料
である。
■ 信長公記 (しんちょうこうき)は、 著者は太田
牛一で、 江戸時代初期に成立した。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
の家臣の太田牛一が、 織田信長の一代記を記
した史料 である。
■ 太田牛一は、 メモ魔で、日記で、 織田信長
の記録を残す。
太田牛一は、尾張時代より、日記を書き、
織田信長の日常生活を記録していた。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 信長公記 (しんちょうこうき)は、 15巻、約
15年間で、 信長の上洛の時期から、 本能寺
の変の時期までを記録している。
信長死後も、太田牛一 は、取材活動を行
い、 信長の言行を詳しく調べあげて、 信長公
記を書き上げた。
太田牛一の取材記録の例では、 本能寺
の変で信長が自害前に述べた「是非に及ばす」
(ぜひにおよばず、 天が下した運命ならしかた
がない) は、 信長が本能寺で死ぬ直前まで身
近にいた侍女(じじょ)から取材して聞き出したも
のである。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
♪♪ 信長公記 が登場する、興味深い
関連ドキュメンタリー、ドラマ、映画。
★ 信長公記 が登場する、興味深い、
関連ドキュメンタリー。
■ 歴史秘話ヒストリア 『 英雄を
記録した男 太田牛一 』。
(NHKテレビ・2013年12月4日・
本放送・歴史 ドキュメンタリー番組)。
● 織田信長や安土桃山時代の出来事を記録
し、後世に残した、太田牛一の生涯を述べる。
■ 解明!片岡愛之助の歴史捜査
『 〈徳川家未解決事件ファイル〉
家康の嫡男信康の切腹
正室築山殿 殺害事件
の真相を追え! 』。
(日テレ・テレビ・2017年11月23日・
本放送・ドキュメンタリー番組)。
■ 太田牛一(おおたぎゅういち)の信長公
記には、 「安土日記」(古期・信長公記、
慶長頃の写)、 「信長記」(中期・信長公
記、慶長18年(1613年)頃)、 「信長
公記」(新期・信長公記、元禄12年(16
99年)写)がある。
■ 松平信康自害・築山殿殺害事件(= 武田
氏内通疑惑事件)を詳細に述べる。
■ 徳川家康の幼年期、青年期、前半生や
築山殿・松平信康を、詳しく述べる。
■ 徳川家康の改名(竹千代⇒松平元信⇒
松平元康⇒ 松平家康⇒ 徳川家康)を述
べる。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
■ 壬申の乱
(じんしんのらん)。
■ 壬申の乱。
■ 名称 : 壬申の乱 (じんしんのらん)。
● 英名 : the Jinshin Disturbance。
■ 672年の皇位継承をめぐる戦い。
■ 壬申の乱 (じんしんのらん) は、672年
に起こった皇位継承をめぐる戦い である。
壬申の乱の英名は、 the Jinshin
Disturbance である。
■ 671年に、天智(てんじ)天皇 (在位668
〜671年、中大兄皇子)が 崩御(ほうぎょ、
死去)し、 672年に、 天智天皇(中大兄皇
子)の弟の大海人皇子(おおあまのみこ、後
の天武天皇、631?〜686年) と 天智天
皇(中大兄皇子)の子の大友皇子(おおとも
のみこ、648〜672年)の間で、 壬申の乱
(じんしんのらん)が起こり、 大海人皇子が
勝利を得る。 672年の壬申の乱後、 翌年
673年に、大海人皇子は、 飛鳥浄御原宮
(あすかきよみはらのみや)で、天武天皇(て
んむてんのう)として即位した。
壬申の乱で大友皇子の近江朝廷(おうみ
ちょうてい)に味方した有力中央豪族が没落
し、 強力な権力を手にした、天武天皇は、朝
廷の実権を握り、 政治改革を本格的に実施
し、 天武天皇時代(在位673〜686年)か
ら、 中央集権化(中央集権的国家体制の形
成)、律令制度の基礎が進んだ (本格的に形
成され始める)。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 少林寺拳法
(しょうりんじけんぽう)。
■ 少林寺拳法。
■ 名称 : 少林寺拳法 (しょうりんじけんぽう)。
で、 座禅行と共に、宗門の行として行われている
拳法。
■ 少林寺拳法 (しょうりんじけんぽう) は、 北禅の禅
宗・仏教寺院の「金剛禅少林寺(日本)」で、 座禅行と
共に、宗門の行として行われている拳法 (易筋行(え
ききんぎょう)、拳術、柔術)) である。
の少林拳とは全く別の技法体系をもつ。
突く・うつなどの拳術 と 投げる・押さえ込むなどの
柔術の両方の「剛柔一体」の技法をもつ。
■ 戦前に中国で活動し崇山少林寺でも修行し少林拳も
体得した日本人拳法家・宗道臣(そうどうしん)が、 戦
後、日本に金剛禅少林寺を建て、少林拳や他の中国系
拳法を融合し採り入れ宗門の行(拳禅一如)とした拳法
である、「少林寺拳法」を日本に普及し、 その後、世界
各国に道場をもうけ、少林寺拳法が、 世界に広まる。
■ 易筋行 (えききんぎょう)は、 中国の崇山少林寺で、
仏教の布教のため中国を訪れた、禅宗の開祖のインド
人仏僧・達磨大師や他のインド人仏僧が、インド拳法を
基礎に、 修行の1つとして行っていた拳法 である。
■ 禅宗(ぜんしゅう)は、大乗仏教の一派で、達磨大師
以後、中国で発展し、修行を易筋行(えききんぎょう)に
重点を置く「北禅の禅宗」 と 修行を座禅行に重点をお
く「南禅の禅宗」 に分かれる。
● 「北禅の禅宗」 は、中国では、達磨大師以後、崇山
少林寺などを中心に、栄え、現在に至る。 一方、「北
禅の禅宗」は、 戦後、中国から日本に伝えられ、日本
で、金剛禅少林寺(こんごうぜんしょうりんじ)などの寺
院が形成され、栄え、現在に至る。
● 「南禅の禅宗」は、中国では、達磨大師以後、唐・宋
代に栄え、明代に衰え、現在に至る。 一方、「南禅の
禅宗」は、中国の宋の時代(960〜1279、北宋・南宋
時代)に、 中国から日本に伝えられ、その後、日本で、
曹洞宗(そうとうしゅう)、臨済宗(りんざいしゅう)、黄檗
宗(おうばくしゅう)などの寺院が形成され、栄え、現在
に至る。
■ 拳法 (けんぽう)とは、 拳術で、 世界には、中国
系の拳法(カンフー)の「中国拳法(チャイニーズ・カン
フー)」 や 「少林寺拳法」、 日本系の拳法の「日本
拳法」 などがある。
少林拳は、 「中国拳法(チャイニーズ・カンフー)」
の一流派 である。
少林寺拳法は、 中国系の拳法(カンフー)ではあ
るが、 「中国拳法(チャイニーズ・カンフー)」とは全
く別の技法体系をもつ。
■ 中国系の拳法(カンフー)には、 「中国拳法(チャイ
ニーズ・カンフー)」 や 「少林寺拳法」 などがある。
少林 拳は、 「中国拳法(チャイニーズ・カンフー)」
の一流派 である。
少林寺拳法は、 中国系の拳法(カンフー)ではあ
るが、 「中国拳法(チャイニーズ・カンフー)」 とは全
く別の技法体系をもつ。
◆ 金剛禅少林寺。
■ 金剛禅少林寺 (こんごうぜんしょうりんじ) は、
正式名は金剛禅総本山少林寺で、 北禅 (ほくぜん)
の禅宗・仏教の寺院 である。
■ 金剛禅の教えの中心思想は、 「自己確立」、「自他
共楽」、「拳禅一如」、「力愛不二」 などである。
■ 金剛禅少林寺(日本) では、 座禅行、 易筋行(え
ききんぎょう)の少林寺拳法、 その他の方法で、 修行
を行っている。
■ 金剛禅少林寺(日本) は、 日本・四国の香川県多
度津町にあり、 日本人・宗道臣(そうどうしん)が、 戦
後、北禅の禅宗を開いた寺院で、 宗門の行の「少林
寺拳法」の中心地である。
■ 禅宗には北禅と南禅がある。 金剛禅少林寺 (こん
ごうぜんしょうりんじ)は、 日本の北禅の禅宗の仏教
寺院であり、 中国の崇山少林寺と並ぶ、「北禅の禅
宗」の世界の2大仏教寺院」の1つ である。 日本の
金剛禅少林寺は、 中国の崇山少林寺とは、交流(友
好関係)はあるが、 直接、関係はない。
■ 日本の金剛禅少林寺や中国の崇山少林寺などに
共通する北禅の禅宗・仏教の目的の1つは、 厳(き
び)しい、肉体と精神の鍛錬(たんれん)を通じて、
人が人生の如何(いか)な状況・困難にもめげず立ち
向かい、打ち勝つための 「不屈の精神力」 を養うこ
とにある。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
#thefreedomandpeoplesrightsmovement
■ 自由民権運動
(じゆうみんけんうんどう)。
■ 自由民権運動。
■ 時期: 1874(明治7年)〜1889年(明治22年)。
■ 名称 : 自由民権運動 (じゆうみんけんうんどう)。
● 英名: the Freedom and People’s Rights
Movement。
■ 明治時代前期の、藩閥政府に対する民主主義的政
治運動。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 自由民権運動 (じゆうみんけんうんどう) は、 時
期は、1874(明治7年)〜1889年(明治22年) で、
明治時代前期の、藩閥政府に対する民主主義的政治
運動 である。
英名: the Freedom and People’s Rights
Movement である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 自由民権運動は、 一般の人々が、西洋啓蒙思想の
影響を受け、 藩閥打破、国会開設、地租(ちそ)軽減、
条約改正などを要求した運動 である。
(しょうじろう)、河野広中、大井憲太郎、植木枝盛など
であった。
■ 自由民権運動は、 1874年の民撰議員設立建白
に始まり、1887〜89年の三大事件建白・大同団結
運動で終わる。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 西南戦争(せいなんせんそう) とは、 明治新政府
(近代日本政府)に対する最大の反動的士族反乱 で、
1877年(明治10年)の、不平士族(英:disaffected
samurai warrior(s)) の反政府武力闘争の戦争で
ある。
西南戦争後、反政府運動の中心は、自由民権運動
(1874〜89年)に移った。
■ 西南戦争の敗北後、 不平士族は、武力による新政
府打倒を諦(あきら)め、 自由民権運動など言論によ
り、明治新政府に改革を要求していく(対抗していく)。
西南戦争後(1877年以後)、 不平士族は、武力で
はなく、言論により、 明治新政府(近代日本政府)の政
策を変えようとする。 そして、自由民権運動(1874〜
89年)が本格的に行われる。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
■ 出家
(しゅっけ)。
■ 出家。
■ 名称 : 出家 (しゅっけ)。
■ 仏道の生活に入ること。
■ 武田信玄、 上杉謙信、 天璋院・篤姫。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 出家 (しゅっけ) とは、 仏道の生活に入ること
である。
■ 出家とは、 仏門に入り、 個人名を変え(俗世の
名を捨て、戒名を名乗り)、 生活態度を改めること
である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 前近代日本では、上層階層の男女は、人生に異
変が起きたとき、 よく出家した (仏門に入り、個人
名を変え、生活態度を改めた)。
■ 男性が出家することを、入道(にゅうどう)する、
女性が出家することを、 落飾(らくしょく)すると言う。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 武田信玄は、出家して(入道して)、「徳栄軒信玄」
を名乗り、生活態度を改める。
上杉謙信は、出家して(入道して)、「不識庵(不識
院)謙信」を名乗り、生活態度を改める。
● (注意) 武田信玄、上杉謙信は、後世の人が付け
た氏名で、 当時、 本人達は、「徳栄軒信玄」、「不
識庵(不識院)謙信」 と名乗っていた。
■ 前近代日本の上層階層の女性は、夫が死去した
とき、または、人生に異変が起きたとき、 よく 落飾
した (髪をおろして(短くするかそりおとして)個人
名を変え仏門に入った、出家した)。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 前近代日本の上層階層の女性は、 夫が死去し
たとき、 落飾して (髪をおろして(短くするかそり
おとして)個人名を変え仏門に入り、出家して)、
夫の菩提(ぼだい)を弔(とむら)う 慣習があった。
■ (例) 幕末の天璋院・篤姫(てんしょういん・あつ
ひめ)。
● 篤姫 (あつひめ、近衛敬子(すみこ)、島津篤子)
は、 篤姫の夫の、江戸幕府13代将軍・徳川家定
(いえさだ)が死去後、落飾して、天璋院(戒名)と名
乗る。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 一部の出家者は、 現世を捨て、世捨て人となっ
た。
(例) 吉田兼好。
■ 寺社
(じしゃ)。
■ 寺社。
■ 名称 : 寺社 (じしゃ)。
● 英名 : the Temple and Shrine。
■ 寺院や神社。
■ 寺社の僧侶・神官は、寺社、寺院や神社に従
事する者。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 寺社は、 寺院や神社 である。
■ 寺社(の僧侶・神官) は、 前近代日本の政治を
社(の僧侶・神官) の1つである。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 寺社の僧侶や神官は、 寺社、寺院や神社に従事
する者 である (英:People of the Temple
and Shrine Class) である。
■ 大寺の寺務を統括する僧官を、別当(べっとう)と
呼んだ (例、東大寺別当)。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 御師 (おし)は、 神社の神官の指示で、神社の
札(お守り等)を信仰者に配布する者 である。
■ 十文銭
(じゅうもんせん)。
■ 十文銭。
■ 名称 : 十文銭 (じゅうもんせん)。
■ 十文(もん)単位の定額(定位)・通常貨幣。
■ 文銭(もんせん、文単位の非貴金属貨幣)。
■ 江戸幕府が鋳造・発行した、江戸時代の十文単
位の定額(定位)・通常貨幣。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 江戸時代に、十文単位貨幣では、 「宝永通宝
十文銭銅貨」 が流通し、使用された。
■ 江戸時代に、文単位貨幣では、 文銭(文単位の
非貴金属貨幣)が鋳造され、 文銭の額面別に、
一文銭(1種)、四文銭(2種)、十文銭(1種)、百文
銭(1種) の4種類の貨幣が 、流通し、使用された。
(4貫文) ≒ 現在の約10万円。
■ 江戸時代の貨幣の詳細については、「日本流通
貨幣」を参照してください。
■ 十文銭
十文銭 (じゅうもんせん)は、 10文単位の貨幣
で、 現在の貨幣価値は約250円 で、 宝永通宝(ほ
うえいつうほう)十文銭銅貨(宝永銭)のみ1種で、 お
よそ宝永通宝40 0枚と1両小判(金)とが交換された。
宝永通宝十文銭銅貨は、 10文通用の銅貨で、 江
戸中期の宝永期の短期間にのみ鋳造 された。
■ 宝永通宝十文銭銅貨 (宝永銭)。
宝永通宝十文銭銅貨(宝永銭)は、 十文銭(じゅう
もんせん)で、 10文単位の貨幣で、 現在の貨幣価
値は約250円 で、 およそ宝永通宝400枚と1両小
判(金)とが交換された。 宝永通宝十文銭銅貨 は、
10文通用の銅貨で、 江戸中期の宝永期の 短期間
にのみ鋳造された。
■ 江戸時代の貨幣。
■ 江戸時代の両(りょう)・分(ぶ)・朱(しゅ)・文(もん)
の定額(定位)・通常貨幣。
■ 江戸時代(1603年〜1868年)に、 江戸幕府に
より鋳造(発行)され、 全国に流通し、 使用された
定額(定位)・通常貨幣 は、 5両判金(1種)、
(1種) などである。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 文単位定額(定位)・通常貨幣 。
■ 文単位定額(定位)・通常貨幣 は、額面別に、次の
4種類がある。 一文銭、 四文銭 、 十文銭、 百文
銭 の4種類である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 江戸時代に、文単位貨幣では、 文銭(文単位の
非貴金属貨幣)が鋳造され、 文銭の額面別に、
一文銭(1種)、四文銭(2種)、十文銭(1種)、百文
銭(1種) の4種類の貨幣が 、流通し、使用された。
■ 文単位定額(定位)・通常貨幣 。
■ 文単位定額(定位)・通常貨幣 は、貨幣グループ別
に、次の5種類がある。 寛永通宝一文銭銅貨・鉄貨、
寛永通宝四文銭銅貨・鉄貨、 文久永宝四文銭銅貨、
宝永通宝十文銭銅貨、 天保通宝百文銭銅貨 の5
種類である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 江戸時代に、文単位貨幣では、 文銭(文単位の
非貴金属貨)が鋳造され、 文銭の貨幣グループ
別に、 寛永通宝一文銭銅貨・鉄貨、 寛永通宝四
文銭銅貨・鉄貨、 文久永宝四文銭銅貨、 宝永通
宝十文銭銅貨、 天保通宝百文銭銅貨 の5種類の
貨幣が流通し、使用された。
■ 小判。
時代の各時期で価値は変動したが、 現在の 貨幣
価値で約 10万円 であった。
江戸時代に、 1両小判(金)は、およそ4分、1両
小判 (金)は、およそ16朱、 1両小判(金)は、およ
そ4000文 (4貫文) と交換された。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
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■ 自由恋愛
(じゆうれんあい)。
■ 自由恋愛。
■ 名称 : 自由恋愛 (じゆうれんあい)。
■ 前近代日本の上層階層の自由恋愛。
■ 前近代日本の上層階層においては、自由恋愛は、
少なかった。
■ 前近代日本では、女性は、10代が結婚適齢期、
早婚多産、夫婦別姓、上層階層は厳格な家父長制。
● 現代日本と違い、前近代日本では、人々の平均寿
命 (上層階層40〜50歳、一般庶民30〜40歳)
は短く、 医療・栄養学が未発達で病死が多く、早く
結婚して、子供を沢山生み、子孫を残そうとした。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 前近代日本の上層階層においては、自由恋愛は、少
なかった。 家長または親が、男子の夫人、女子の夫を
決めることが多かったため。
■ 上層階層の自由恋愛のカップルの例として、 源義
経 (みなもとのよしつね) と 静 (しずか)、 源 頼
朝 (みなもとのよりとも) と 北条政子 (ほうじょうま
さこ)、 豊臣秀吉 (とよとみひでよし) と 「ねね(お
ね)」 などがある。
では、 「吾妻鏡」(あずまかがみ、北条氏編纂の鎌倉
幕府の正式歴史書)以外に、 一次的史料が少ないた
め (室町時代初期に書かれた「義経記」は創作)、い
つどこで知り合ったかは不明であるが、 源義経が、 白
拍子(しらびょうし)の静(しずか)の舞(まい)に魅惑(み
わく)され、 静(しずか)も源氏の貴公子に魅力を感じ、
二人は恋に落ちたと推測される。
静と源義経の2人は、1185年頃、 京 (京都中京
区(なかぎょうく))で、知り合い(恋に落ち)、静は、義
経の恋人(後に側室夫人)となった と言われている。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
北条政子(1157年〜1225年)は、 伊豆国(いず
のくに、現在の静岡県東部)の、坂東平氏(ばんどうへ
いし)の豪族(ごうぞく、有力者)の、北条時政(ほうじょ
うときまさ、1138〜1215年)の長女として、生まれ、
育った。
北条政子は、 坂東武士(ばんどうぶし、関東武士)
の娘で、 田舎育ちであり、 京の都(みやこ)出身の源
氏の貴公子に魅力を感じ、 当時流人(るにん)であっ
条政子が坂東武士(関東武士)の娘で、 勝気(かちき)
で頼り甲斐のある女性と感じ、 二人 は恋に落ちたと
推測される。
北条政子の父・北条時政は、 伊豆国(いず
のくに、 静岡県東部の伊豆半島)の在庁官人
(ざいちょうかんじん、地方役人)で、 1159年
の平治の乱(へいじのらん)後、 敗(やぶ)れ
伊豆に流された、源頼朝の監視役 であった。
北条時政が、大番役(おおばんやく)で、在
京中(京都滞在中)の留守の間に、 北条政子
は、源頼朝と恋仲となってしまった。
1177年(治承元年)に、源頼朝と北条政子
謀反(むほん)と疑われるのを恐れ、 北条政子
を伊豆・目代(もくだい、代官)の山木兼隆と婚
儀を結ばせよう(結婚させよう)とする。 北条政
子は、 山木兼隆の邸宅へ輿入(こしい)れさせ
られようとするが、 屋敷を抜け出し、山を一つ
越え、源頼朝の元へ走った。 つまり、北条政子
は、 源頼朝と駈(か)け落ちしてしまった。
頼朝と政子の二人は、伊豆山に逃げ込み、
伊豆山権現(いずさんごんげん、伊豆山神社)
に匿(かくま)われた。 伊豆山は、僧兵(そうへ
い)の力が強く、北条氏や目代の山木も手を出
せなかったためである。
その後、まもなく、北条時政は、2人の婚儀
(結婚)を認め、 北条氏は、 源頼朝の重要な
後援者となった。
1180年(治承4年)に、以仁王(もちひとお
う、後白河上皇の皇子(みこ))が 源 頼政(み
なもとの よりまさ)と平氏打倒の挙兵をし失敗
すると、 源頼朝の身にも危機が迫り挙兵せざ
るを得なくなり、 源頼朝は北条時政の力をかり
て、挙兵する。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
藤吉郎(とうきちろう、後の豊臣秀吉、日本一の出世
兵(ぞうひょう)で、 ねね(おね、1542年?〜1624年)
は、 織田信長の家臣の浅野又右衛門長勝の養女であ
り、 尾張(おわり、愛知県西部)で、知り合い、 藤吉郎
(豊臣秀吉)は、 働き者のおね(ねね)が気に入り、ねね
(おね)は、 えたいの知れない藤吉郎(豊臣秀吉)に魅
力を感じ、 二人は恋に落ちたと推測される。
ね(おね)の二人は、婚儀を結ぶ。 当時秀吉より身分の
高かった、「おね(ねね)」の実家・杉原家の「ねね(おね)」
の実母・朝日の反対を押し切り、二人は、婚儀を結んだ
(結婚した)。 藤吉郎(秀吉)とねね(おね)のカップルは、
野合 (やごう、家長や親の承諾なしに勝手に結婚するこ
と) であり、 婚儀の儀式(結婚式)を行ったかどうかは、
不明である。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 前近代日本(古代〜江戸時代)では、 上層階層おいて
は、自由恋愛は、少なかった。
前近代日本の、厳格な家父長制社会・身分制社会で
は、 上層階層においては、家長または親の許可・承諾な
しに、女性は、原則として、男性と交際できず、また、婚儀
(結婚)の相手も、原則として、家長または親が決めた。
前近代日本では、自由恋愛は、野合(やごう)と呼ば
れ、上層階層の者にとっては、望ましくないものとされた。
上層階層の男女は、原則として、家長または親の許可・
承諾を得て、交際したり、婚儀(結婚)を結んだりした。
♪ 前近代日本の上層階層の自由恋愛
が描かれている、興味深い 関連ドラマ、
映画、ドキュメンタリー。
★ 自由恋愛が描かれている、興味深い
ドキュメンタリー。
■ 歴史秘話ヒストリア
『 愛あるテンカ武士の世をひらく
北条政子・源頼朝 夫婦の革命〜 』 。
(NHKテレビ・2009年4月1日・本放送・
テレビ・ドキュメンタリー番組・第1回)。
● 北条政子と源 頼朝が知り合った当時の
様子が詳しく描かれています。
★ 自由恋愛 が描かれている、興味
深い関連ドラマ、映画。
● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。
歴史のドラマ、映画 は、史実(歴史上の事実)
と 架空の出来事 が混じって描かれています。
また、 現代風にアレンジしてあります。
■ 『 平清盛 (たいらのきよもり) 』 。
(NHKテレビ・2012年大河ドラマ)。
■ 平安時代末期を描いたドラマで、平安
時代末期に活躍した人物、当時の時
代状況などを描く。
■ 平清盛の生涯を描く。
● 北条政子を演じた女優名 : 杏 (あん)。
● 平 清盛を演じる俳優名 : 松山 ケンイチ。
■ 『 義経 (よしつね) 』 。
(NHKテレビ・2005年大河ドラマ)。
■ 古代日本の平安時代末期を描いたドラマ
であり、 平安時代末期の色々な武士の
活躍を描いたドラマ。
■ 源 義経(みなもとのよしつね)の生涯を
描いたドラマ。
■ 静御前と源 義経が知り合った当時の
様子が詳しく描かれています。
● 静御前 (しずかごぜん)を演じた女優名:
石原 さとみ。
● 源 義経 を演じた俳優名 :
滝沢 秀明 (たきざわ ひであき)。
■ 『 寧々〜おんな太閤記
(ねね おんなたいこうき) 』 。
(テレビ東京・2009年制作テレビ
ドラマ)。
■ 秀吉とねね(おね)との自由恋愛が描か
れている。
● ねね(おね)を演じた俳優名 : 仲間 由紀恵。
● 豊臣 秀吉を演じた俳優名 : 市川 亀治郎。
● ねね(おね)と藤吉郎が知り合った当時の様子
が詳しく描かれています。
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■ 静御前
(しずかごぜん)。
■ 静御前。
■ 名称 : 静御前 (しずかごぜん)。
● 別名: 静 (しずか)。
■ 生没年不詳。
■ 舞(まい)の名手。 美人。
■ 源 義経の寵愛する側室夫人。
源 義経と静は自由恋愛で婚儀を結ぶ。
■ 白拍子(しらびょうし)で、舞(まい)の名手。
■ 生母は、白拍子で舞(まい)の名手の、磯禅師 (いそ
のぜんじ、生没年不詳、別名:礒野禅尼)。
■ 鎌倉の鶴岡八幡宮で、源頼朝、北条政子、源頼朝の
家臣の前で、 次のような源 義経を慕(した)う歌を唄
(うた)いながら、静(しずか)は、舞(ま)った。
『 しづやしづ しづのをだまきくり返し 昔を今に なす
よしもがな 』
『 吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ
恋しき 』
■ 源義経の側室夫人には、舞の名手の静御前(しずか
ごぜん)がいた。 源頼朝と対立し京(都)から落ちのび
る義経と一緒に、静御前は、逃亡するが、吉野で義経と
一時別れ、京(都)へ戻る途中捕らえられ、 1185年
(文治元年)12月に、鎌倉方に引き渡される (「吾妻
鏡」(あづまかがみ、鎌倉幕府の公式の歴史書)では)。
静(しずか)は、1186年(文治2年)3月に、静の母・
磯禅師(いそのぜんじ)と共に、鎌倉に送られる。 11
86年(文治2年)4月に、鎌倉の鶴岡八幡宮で、白拍子
(しらびょうし)の舞(まい)をまうように源頼朝に命じら
慕(した)う歌をうたい、舞を披露(ひろう)する。 その時、
静(しずか)は、 源義経の子を懐妊していた (「吾妻鏡」
では)。
後に、1186年(文治2年)閏(うるう)7月に、静は、
義経の子を出産するが、男子であったため、子は鎌倉方
に殺される。 出産後間もなく鎌倉の由比ヶ浜(ゆいがは
ま)に遺棄された (吾妻鏡では)。
1186年(文治2年)9月に、静と磯禅師は 、京(都)
に帰された。 静と磯禅 師が、鎌倉を離れる時に、哀
との間の娘)は、重宝を持たせ、見送った (「吾妻鏡」で
は)。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
その後、静(しずか)は、 磯禅師の里 (奈良県大
和高田市礒野) に身を寄せたとも伝えられている。
静の舞(しずかのまい)の場面は、ドラマ・映画等の
フィクションでは、静(しずか)の悲しみを強調するため、
子供が殺されたあと、舞を披露するという設定になって
いることが多い。
■ 静と源義経の2人は、1185年頃、 京 (京都中京
区(なかぎょうく))で、知り合い(恋に落ち)、静は、義
経の恋人(後に側室夫人)となったと言われている。
■ 静御前 (しずかごぜん) は、 別名は、 静(しず
か)で、 生没年不詳 である。
静御前 は、 源 義経の寵愛する側室夫人 で、
白拍子(しらびょうし)で、舞(まい)の名手 であった。
静御前の、生母は、 白拍子で舞(まい)の名手の、
磯禅師 (いそのぜんじ、生没年不詳)と言う。 別名
は、 礒野禅尼 である。
♪♪ 静御前 が登場する、興味深い関連ドラ
マ、映画、ドキュメンタリー。
★ 静御前 が登場する、興味深い関連ドキュ
メンタリー。
■ 歴史秘話ヒストリア 『 海の王者 平氏
を打ち倒せ 〜決戦!壇ノ浦 義経の苦
悩〜 』。
(NHKテレビ・2012年(H24年)1月18日・
本放送・ドキュメンタリー番組)。
■ 歴史秘話ヒストリア 『 源義経 in the
Dark 〜伝説のヒーローは闇から生まれ
た〜 』。
(NHKテレビ・2010年9月1日・本放送・ドキ
ュメンタリー番組・第49回)。
★ 静御前 が登場する、興味深い関連ドラマ、
映画。
● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 歴史の
ドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) と 架空の出
来事が 混じって描かれています。 また、 現代風に
アレンジしてあります。
■ 『 義経 (よしつね) 』 。
(NHKテレビ・2005年大河ドラマ)。
● 古代日本の平安時代末期を描いたドラマで、 源 義経
(みなもとのよしつね)の生涯 や、 平安時代末期の色々
な武士の活躍を描いたドラマ です。
● 静御前 (しずかごぜん)を演じた女優名 : 石原 さとみ。
● 静の母・磯禅師を演じた女優名 : 床嶋 佳子。
● 源 義経 を演じた俳優名 : 滝沢 秀明 (たきざわ ひ
であき)。
(ドラマ「義経」関連の書籍の販促のPRフォト)
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■ 上皇
(じょうこう)。
■ 上皇。
■ 名称 : 上皇 (じょうこう)。
● 別名 : 院 (いん)。
■ 上皇 (じょうこう) とは、 譲位した(退位した)天皇
(元天皇)。
■ 法皇(ほうおう) とは、 仏門に入った上皇 である。
の実権を握る政治形態。
■ 上皇 は、 院宣(いんぜん)、 院庁下文(いんのち
ょうくだしぶみ) などによって、通達を出した。
■ 上皇 (じょうこう) とは、 譲位した(退位した)天皇
(元天皇)で、別名で、院(いん)とも言う。 法皇(ほう
おう)とは、 仏門に入った上皇 である。
■ 院政 とは、天皇を後見(こうけん)しながら朝廷の実
権をにぎる政治形態 である。
■ 日本では、 摂関政治 (10世紀後半〜11世紀後
半)が、衰えて、 院政政治 (11世紀後半〜12世紀後
半) が、 始まる。
■ 1086年より、院政(1086〜1156年)が開始され、
上皇が、朝廷の実権を握り、 白河上皇や鳥羽上皇 が
日本の政治の実権を持ち、日本を実質的に支配した。
しかし、平治の乱(1159年)以後、 権力(日本を支
配する実権)は衰えたが(日本の政治の実権は持たなか
ったが)、 その後、断続的に、上皇が朝廷の実権を握る、
院政は、 江戸末期の1840年まで、行われた。
■ 院政は、上皇(退位した天皇)が天皇に代わって
朝廷の政務を行うことである。
天皇が、上皇の子、または上皇の孫などの場合、
院政を行うことができる。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 伝統的な天皇という地位は、様々な約束事がつい
て回り、 新しい時代の流れに対応しにくい様々なこ
とが起こる。 そこで、天皇は、退位して、上皇という
自由な立場に立ち、世の中の動きに即応する政治を
行おうとした。
院庁とは、上皇 (じょうこう、引退した天皇)の事
務機関で、 院政時は、政務機関となる。
院庁の職員が、 院司(いんし)である。 院庁に
おいて、上皇の事務、政務を行った官人である。
別当(べっとう)、年預(ねんよ)、判官代、主典代、
北面の武士 などがある。
■ 院宣 と 院庁下文。
● 院宣 (いんぜん)は、 上皇(= 院)の命令を下達
する文書 である。 院司(いんし)が、上皇の仰せを
奉(ほう)じて出す奉書(ほうしょ)の形式をとる。
院庁下文 (いんのちょうくだしぶみ) は、院庁
(いんのちょう)から出される公文書 で、 院宣(い
んぜん)よりも公的で、 詔勅(しょうちょく)、官符と
同等の効力を有し、 重要な意味をもった。
◆ 上皇と院政の例。
■ 白河上皇(しらかわじょうこう)は、1086年より、 堀
河(ほりかわ)天皇、 鳥羽(とば)天皇、 崇徳(すとく)
天皇の3代にわたり、約43年間、院政(1086年〜11
29年)を行い、また、日本の政治の実権を握る。
ょうこう)の死後、 崇徳(すとく)天皇、 近衛(このえ)
天皇、 後白河(ごしらかわ)天皇の3代にわたり、約2
7年間、院政(1129〜56年)を行い、 また、日本の政
治の実権を握る。
■ 後白河上皇(ごとばじょうこう)は、 1158年より、 二
条(にじょう)天皇、 六条(ろくじょう)天皇、 高倉(たか
くら)天皇、 安徳(あんとく)天皇、 後鳥羽(ごろば)天
皇の5朝にわたり、 院政(1158〜1192年)を行う。
■ 天皇の皇位継承順 は、 白河(しらかわ)天皇 ⇒
堀河(ほりかわ)天皇 ⇒ 鳥羽(とば)天皇 ⇒ 崇徳
(すとく)天皇 ⇒ 近衛(このえ)天皇 ⇒ 後白河(ご
しらかわ)天皇 ⇒ 二条(にじょう)天皇 ⇒ 六条(ろ
くじょう)天皇 ⇒ 高倉(たかくら)天皇 ⇒ 安徳(あ
んとく)天皇 ⇒ 後鳥羽(ごとば)天皇 の順である。
■ 後水尾上皇(ごみずのおじょうこう)は、 1629年よ
り、明正(めいしょう)天皇から霊元天皇までの4代にわ
たり、 院政(1629年〜1680年)を行う。
◆ 上皇政治(院政政治)、上皇政権(院政
政権)。
の実権を握る政治形態 である。
■ 院政政治(上皇政治、1086年頃〜1156年頃) と
は、 上皇(じょうこう、元天皇)が、朝廷の実権を握り、
さらに、日本の政治の実権を持ち、 日本を支配した政
治形態である。
■ 院政政権(上皇政権、1086年頃〜1156年頃))と
は、 上皇(じょうこう、元天皇)が、朝廷の実権を握り、
さらに、日本の政治の実権を持ち、日本を支配した政
権 である。
● 院政政権(上皇政権、1086年頃〜1156年頃)は、
上皇(院政 政治期、1129年〜1156年) が、朝廷の
実権を握り、さらに、日本の政治の実権を持ち、日本を
実質的に支配した政権 である。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 白河上皇が、1086年に、院政を創始し、さらに、院
政政権(上皇政権、1086年頃〜1156年頃)を樹立
する。
◆ 平安時代末期の歴代天皇一覧。
■ 天皇の皇位継承順 は、次の通りである。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
@ 白河(しらかわ)天皇 (貞仁(さだひと)親王) ⇒
(天皇在位、1072年〜1086年)
A 堀河(ほりかわ)天皇 (善仁(たるひと)親王) ⇒
(天皇在位、1086年〜1107年)
B 鳥羽(とば)天皇 (宗仁(むねひと)親王) ⇒
(天皇在位、1107年〜1123年)
C 崇徳(すとく)天皇 (顕仁(あきひと)親王) ⇒
(天皇在位、1123年〜1141年)
D 近衛(このえ)天皇 (体仁(なりひと)親王) ⇒
(天皇在位、1141年〜1155年)
E 後白河(ごしらかわ)天皇 (雅仁(まさひと)親王) ⇒
(天皇在位、1155年〜1158年)
F 二条(にじょう)天皇 (守仁(もりひと)親王) ⇒
(天皇在位、1158年〜1165年)
G 六条(ろくじょう)天皇 (順仁(のぶひと)親王) ⇒
(天皇在位、1165年〜1168年)
H 高倉(たかくら)天皇 (憲仁(のりひと)親王) ⇒
(天皇在位、1168年〜1180年)
I 安徳(あんとく)天皇 (言仁(ときひと)親王) ⇒
(天皇在位、1180年〜1185年)
J 後鳥羽(ごとば)天皇 (尊成(たかひら)親王)。
(天皇在位、1183年〜1198年)
◆ 平安時代後期の上皇と院政政治(1086
年頃〜1156年頃)。
■ 上皇は、 国司(受領(ずりょう))たちを支持勢力にと
りこみ、上皇(=院(いん))の御所(ごしょ)に北面の武士
(ほくめんのぶし)を組織したり、 源平の武士を側近に
するなど、上皇(=院)の権力を強化した。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 院政は、法や慣例にこだわらずに、上皇が、政治の実
権を専制的に行使した。
院政では、上皇が、院庁(いんのちょう)を置き、上
皇の命令を伝える院宣(いんぜん)及び、 院庁から下
(くだ)される文書の院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)
が、国政一般に次第(しだい)に効力を持つようになった。
摂関家は、勢力の衰退を、上皇(院)と結びつくこと
で盛りかえそうと努めた。
■ 院政 では、 上皇 が、院庁(いんのちょう)で政務を
とり、 院宣(いんぜん)や院庁下文(いんのちょうくだし
ぶみ)で下達した。 院近臣には、受領(ずりょう、国司)
が、多く参加し、政務は院庁で行った。
院庁で政務をとる、上皇と院近臣は、 天皇や摂関家
と対立した。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 院政で上皇(=院(いん))の軍事力として設けられた、
北面(ほくめん)の武士は、 武士階級成長の一因とな
った。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
が台頭し、院政政権(上皇政権、1086年頃〜1156年
0年頃〜1185年頃) が, 日本を支配する。
● 院政政権 (いんせいせいけん) は、 1086年 頃
から1156年頃までで、 1086年に、白河天皇が堀
河天皇に譲位し、 白河上皇となり、 院政を開始し、
院庁を置き、院政政権(上皇政権)を樹立し、それを鳥
羽上皇が引き継いだが、1156年の鳥羽上皇の死去
とともに、院政政権(上皇政権)は、消滅し、1156年
の保元の乱が起こり、 更(さら)に、 1159年の平治
の乱が起こり、伊勢平氏の平清盛(たいらの もきより)
が、 河内源氏の源義朝 (みなもとのよしとも)に勝ち、
1160年に、 平清盛は、 正三位に叙(じょ)せられ公
卿(くぎょう)に列し、 日本の政治の実権を握り、 平氏
政権が出現する。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
◆ (S) 日本の政治形態。
■ (S) 日本の政治形態。
(S1d) 小国首長政治 (前1世紀〜紀元後5世紀)⇒
(S1g) 豪族連合政治 (5〜7世紀) ⇒ (S2) 律令
政治 (7〜10世紀) ⇒ (S3) 摂関政治 (10〜11
世紀) ⇒ (S4) 院政政治 (11〜12世紀) ⇒(S5)
政治 (近代天皇絶対主義政治) (19〜20世紀) ⇒
(S7) 現代国民主権政治 (現代主権在民政治) (20
〜21世紀の現在)。
● 上記項目の詳細に関しては、 当日本語辞典の各項
目を参照して下さい。
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■ (S3) ⇒ (S4) 摂政・関白に代わって、上皇が、政
治の実権を握ったため、 (S3) 摂関政治 (10〜11世
紀)は、 (S4) 院政 政治 (11〜12世紀) に移行する
(へ変わる)。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ (S4) 院政政治 とは、 上皇 (じょうこう、元天皇)
が、朝廷の実権を握り、さらに、日本の政治の実権を持
ち、日本を支配した政治形態 である。
上皇(院政政治期、1129年〜1156年) が、朝廷の
実権を握り、さらに、日本の政治の実権を持ち、日本を
実質的に支配した政治形態 である。
■ (S4) ⇒ (S5) 1159年(平治元年)の平治の乱
で武士の武力の力で政治の争いが決着後、 (S4) 院
政 (11〜12世紀) は、(S5) 武家政治 (12〜19
世紀) に移行する(へ変わる)。
● 保元の乱(1156年)・平治の乱(1159年)後、 武士
が台頭し、院政政権(上皇政権、1086年頃〜1156年
0年頃〜1185年頃) が,日本を支配する。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
♪♪ 上皇 が登場する、興味 深い関連
ドラマ、映画、ドキュメンタリー。
★ 上皇 が登場する、興味 深い関連
ドキュメンタリー。
■ にっぽん!歴史鑑定
『 源平を操った後白河法皇 』。
(TBSテレビ・ 2017年11月27日・
本放送・歴史ドキュメンタリー番組)。
■ 鳥羽上皇、崇徳上皇、後白河上皇などの
上皇を述べる。
■ 後白河上皇(天皇、法王)を詳細に述べる。
■ 平安時代後期の政治状況、時代状況や活
躍した人々を詳細に述べる。
■ 歴史秘話ヒストリア 『 私たち、
草食系武士です。〜新・平家家
族物語〜 』。
(NHKテレビ・2009年(平成21年)
12月16日・本放送、第27回)。
★ 上皇 が登場する、興味深い、関連
ドラマ、映画。
● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。
歴史のドラマ、映画 は、史実(歴史上の事実)
と架空の出来事が 混じって描かれています。
また、 現代風にアレンジしてあります。
■ 『 平清盛 (たいらのきよもり) 』 。
(NHK2012年大河ドラマ)。
■ 平安時代後期の当時活躍した人物や
当時の時代状況を描いたドラマ描く。
■ 平清盛の生涯を描いたドラマ。
■ 白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇が
登場する。
● 白河上皇を演じた俳優名 : 伊東 四郎。
● 鳥羽上皇を演じた俳優名 : 三上 博史。
● 後白河上皇 を演じた俳優名 : 松田 翔太。
● 平 清盛 を演じた俳優名 : 松山 ケンイチ。
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■ 尚育
(しょういく)。
■ 尚育。
■ 生没年 : 1813年〜1847年。
■ 名称 : 尚育 (しょういく)。
● 別名: 尚育王 (しょういくおう)。
■ 沖縄(琉球)を統治した琉球王国(1429〜 1872年)の末
期の国王 (在位1835〜47年)。
■ 第二尚氏王統18代国王・尚育王 (しょういくおう)。
■ 琉球王国の第二尚氏王統19代国王で最後の国王・尚泰王
(しょうたいおう)の父。
■ 沖縄の歴史も参照して下さい。
■ 尚育 (しょういく)は、 沖縄(琉球)を統治した琉球王国(1
429〜1872年)の国王・尚育王 (しょういくおう)で、在位は、
1835〜1847年で、 第二尚氏王統18代国王である。
■ 尚育王は、 琉球王国の末期の国王で、 琉球王国の最後
の国王・尚泰王(しょうたいおう)の父 である。
■ 尚育の父は、尚灝(しょうこう、国王)、母は、思亀樽金(尚
灝の王妃・正室夫人)
尚育の王妃・正室夫人(佐敷按司加那志)は、元貞(豊見
城王子朝春の娘)、 側室夫人は、真南風 である。
尚育の子は、3男5女で、 長男は、尚濬(しょうしゅん、13
歳で死去)、 次男は、尚泰(しょうたい、母は王妃・正室夫人、
長男の尚濬の死去で次代国王となる)、 三男は、尚弼(母は
側室夫人の真南風) である。
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■ 尚泰
(しょうたい)。
■ 尚泰。
■ 生没年 : 1843〜1901年。
■ 名称 : 尚泰 (しょうたい)。
● 別名: 尚泰王 (しょうたいおう)。 尚泰藩王 (しょうたい
はんおう)。
■ 沖縄(琉球)を統治した琉球王国(1429〜 1872年)の末
期の国王(在位1848〜72年、6歳頃即位)。
■ 第二尚氏王統19代国王。
■ 琉球王国(1429〜 1872年)の最後の国王。
■ 琉球藩(1872〜79年)の藩王(在位1872〜79年)
■ 第二尚氏王統18代国王・尚育王 (しょういくおう)の子。
■ 沖縄の歴史も参照して下さい。
■ 尚泰 は、 琉球王国(1429〜 1872年)の末期の国王
で、 琉球王国の国王・尚育王 (しょういくおう)の子 である。
■ 尚泰 (しょうたい) は、 沖縄(琉球)を統治した琉球王国
(1429〜1872年)の国王 ・尚泰王 (しょうたいおう)で、在
位は、1848〜1872年で、 第二尚氏王統19代国王であ
り、琉球王国の後身の琉球藩(1872〜79年)の藩王(在位
1872〜79年) であった。
■ 尚泰の父は、尚育(しょういく、国王)、母は、元貞(尚育の
王妃・正室夫人)。
尚泰の王妃・正室夫人(佐敷按司加那志)は、 章氏思真
鶴金、 側室夫人は、 真鶴金・松川、真鶴金・平良、その他
である。
尚泰の子は、七男11女である。
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■ 執権政治
(しっけんせいじ)。
■ 執権政治。
■ 時期 : 鎌倉時代の、1219年〜1333年。
■ 名称 : 執権政治 (しっけんせいじ)。
■ 北条氏による執権政治。
■ 将軍補佐である執権が、幕府の政治を行うこと。
■ 鎌倉幕府の北条氏執権による政治。
□ 鎌倉幕府の執権一覧表。
□ 鎌倉幕府の将軍一覧表。
■ 執権政治 (しっけんせいじ) とは、将軍補佐である執権が、幕府
の政治を行うことで、 北条氏が鎌倉幕府の執権(将軍補佐) とな
り、幕府の実権を握り、 政治をおこなうことである。
■ 北条氏のよる執権政治 (しっけんせいじ) は、鎌倉時代の、121
9年から1333年まで である。
■ 1219年(承久(じょうきゅう)元年)に 、 鎌倉幕府3代将軍で源氏
将軍の源実朝(みなもとのさねとも)が暗殺され源頼朝の源氏嫡流が
断絶し、名実ともに、北条氏が鎌倉幕府の執権(しっけん、将軍補佐)
となって政治を行い、2代執権の北条義時(よしとき) が、北条氏によ
る執権政治を行い、1333年に、16代執権の北条 守時(もりとき)の
時、鎌倉幕府が滅亡し、 北条氏の執権政権は、消滅した。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 源氏の将軍は、 源頼朝、源頼家、源実朝の三代で滅び、その後、
北条氏の執権が 鎌倉幕府の実権を握った。 源氏の将軍滅亡後、
北条氏が、 名目的な将軍の摂家(せっけ)将軍2代、宮(みや)将軍
4代の下で、 執権(将軍補佐)として、 鎌倉幕府の政治の実権を握
った。
■ 1333年に、新田義貞 (にったよしさだ) が、 鎌倉を攻め、鎌
倉幕府の 実権を握る執権(しっけん)の北条氏を滅ぼして、 幕府は、
消滅した。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
#kamakurabakufunoshikkenichiranhyo
◆ 鎌倉幕府の北条氏・執権名
(初代〜 16代)一覧表。
■ 鎌倉幕府の北条氏・執権
(しっけん、将軍補佐)。
■ 2代執権 北条 義時 (ほうじょう よしとき)。
北条得宗(とくそう、本家)。
法名 徳宗。
■ 3代執権 北条 泰時 (ほうじょう やすとき)。
北条得宗(本家)。
■ 4代執権 北条 経時 (ほうじょう つねとき)。
北条得宗(本家)。
■ 5代執権 北条 時頼 (ほうじょう ときより)。
北条得宗(本家)。
● TKKI カナヤマ著
日本史辞典。
■ 6代執権 北条 長時 (ほうじょう ながとき)。
■ 7代執権 北条 政村 (ほうじょう まさむら)。
■ 8代執権 北条 時宗 (ほうじょう ときむね)。
北条得宗(本家)。
■ 9代執権 北条 貞時 (ほうじょう さだとき)。
北条得宗(本家)。
■ 10代執権 北条 師時 (ほうじょう もろとき)。
■ 11代執権 北条 宗宣 (ほうじょう むねのり)
(= 大仏(おさらぎ)宗宣)。
● TKKI カナヤマ著
日本史辞典。
■ 12代執権 北条 熙時 (ほうじょう ひろとき)。
■ 13代執権 北条 基時 (ほうじょう もととき)。
■ 14代執権 北条 高時 (ほうじょう たかとき)。
北条得宗(本家)。
■ 15代執権 北条 貞顕 (ほうじょう さだあき)
(= 金沢貞顕)。
■ 16代執権 北条 守時 (ほうじょう もりとき)。
足利尊氏(たかうじ)の
正室夫人の兄。
#kamakurabakufunoshogunichiranhyo
◆ 鎌倉幕府の将軍名(初代〜9代)
一覧表。
■ 源氏将軍 (げんじしょうぐん)。
■ 初代将軍 源頼朝 (みなもとのよりとも、
将軍在任1192〜1199年)。
■ 2代将軍 源頼家 (みなもとのよりいえ、
将軍在任1202〜1203年)。
● TKKI カナヤマ著
日本史辞典。
■ 3代将軍 源実朝 (みなもとのさねとも、
将軍在任1203〜1219年)。
■ 摂家将軍、皇族将軍
(執権(しっけん)政治における 実権のない
名目的な将軍)。
(せっかんけ)出身 の将軍、
1226年〜1252年)。
■ 4代将軍 藤原頼経 (ふじわらのよりつね、
将軍在任1226〜1244年)
(=九条頼経)。
● TKKI カナヤマ著
日本史辞典。
■ 5代将軍 藤原頼嗣 (ふじわらのよりつぐ、
将軍在任1244〜1252年)
(=九条頼嗣)。
◆ 皇族将軍 (こうぞくしょうぐん、親王将軍、宮(みや)
将軍、親王出身の将軍、
1252年〜1333年)。
■ 6代将軍 宗尊親王 (むねたか しんのう、
将軍在任1252〜1266年、
後嵯峨天皇の皇子)。
■ 7代将軍 惟康親王 (これやす しんのう、
将軍在任1266〜1289年、
宗尊親王の子)。
● TKKI カナヤマ著
日本史辞典。
■ 8代将軍 久明親王 (ひさあき しんのう、
将軍在任1289〜1308年、
後深草天皇の皇子)。
■ 9代将軍 守邦親王 (もりくに しんのう、
将軍在任1308〜1333年、
久明親王の子)。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
■ 称徳 天皇
(しょうとく てんのう)。
■ 称徳 天皇。
■ 生没年 : 718〜770年。
■ 名称 : 称徳天皇 (しょうとくてんのう) (在位764〜770年)。
孝謙天皇 (こうけんてんのう) (在位749〜758年)は、 重祚
(ちょうそ)して( 天皇再即位して)、 称徳天皇 (しょうとくてんのう)
となる。
● 英名: SHOTOKU EMPRESS。
● 称徳天皇(女帝 )の即位前の名称 は、 阿部内親王 (あべないし
んのう、あべのないしんのう)。
● 改名 は、 阿部内親王 ⇒ 孝謙 天皇 (749年〜) ⇒孝謙 上
皇(太上天皇) (758年〜) ⇒ 称徳 天皇 (764年〜)。
■ 聖武(しょうむ)天皇の皇女(こうじょ、娘)。
■ 父 は、 聖武天皇(しょうむてんのう)、 母 は、 光明皇后 (こ
うみょうこうごう)。
一覧表。
■ 孝謙(称徳)天皇 (こうけん(しょうとく)てんのう、 在位749〜7
58、(在位764〜770年)) は、 奈良時代の女帝 である。 聖
武(しょうむ)天皇の娘で、 聖武天皇 (聖武 上皇(太上天皇)、しょ
うむ じょうこう(だいじょうてんのう)、 橘諸兄 (たちばなのもろえ)、
吉 備真備 (きびのまきび)、 藤原仲麻呂 (ふじわらのなかまろ)、
道 鏡 (どうきょう) と共に、 多くの政策を行い、 東大寺大仏造営
を推進し完成させ、 仏教鎮護(ちんご)国家による国家の安定をは
かり、 また、 天平(てんぴょう)文化を現出させた。
■ 752年 (天平勝宝(てんぴょうしょうほう)4年)に、 称徳天皇が
孝謙天皇 (こうけんてんのう、在位749〜758年)と称した治世に、
東大寺大仏の建立(こんりゅう)がある程度、完成し、 東大寺大仏
の開眼(かいげん)が行われた。
● 称徳天皇(孝謙天皇)の父、聖武 上皇(太上天皇) (しょうむ じょ
うこう(だいじょうてんのう)) は、 体力が衰え、 生前に、大仏開眼
を望み、 ある程度完成した時点で、大仏開眼(だいぶつかいげん)
が行われた。
■ 称徳天皇(孝謙天皇) は、 孝謙天皇として、 初め、 藤原仲麻
呂(ふじわらのなかまろ)を重用(ちょうよう)し、 藤原仲麻呂に圧迫
されて、 淳仁(じゅんにん)天皇(在位758〜764年) へ譲位(じょ
うい)する。
その後 、 孝謙天皇(称徳天皇) は、 孝謙上皇(太上天皇)(こ
うけん じょうこう(だ いじょうてんのう) となり、道鏡(どうきょう)を寵
愛(ちょうあい)し、 再び政治の実権を取り戻そうとして藤原仲麻呂
と対立し、 藤原仲麻呂の乱を招いた (恵美押勝の乱)。
孝謙上皇(称徳天皇)は、 乱の鎮圧後、 淳仁天皇を廃して、称
徳天皇(しょうとくてんのう、在位764〜770年) として再び即位し、
称徳天皇の寵愛する、道鏡 が、 専制政治を行った。
■ 764年の恵美押勝(えみのおしかつ)の乱
● 孝謙上皇(称徳天皇)方 が、 事前に計画し、藤原仲麻呂(恵美押
勝)方へ戦いをしかける。
● 孝謙上皇(称徳天皇)方 は、 764年9月に、奈良の平城京で、藤
原仲麻呂(恵美押勝)方から、駅令(えきれい、駅制の鈴) と 天皇御
璽(てんのうぎょじ、天皇公印)を奪い、 その後、 藤原仲麻呂(恵美
押勝)方が、平城京を脱出すると、 孝謙上皇(称徳天皇) 方 は そ
れを追撃し、 藤原仲麻呂(恵美押勝) は、 琵琶湖の西岸で、敗死
する ( 続日本紀(しょくにほんぎ)より )。
■ 称徳天皇(孝謙天皇) は、 聖武(しょうむ)天皇の皇女(こうじょ、
娘)で、奈良時代の女帝 (じょてい、女性の天皇) である。
■ 称徳天皇(孝謙天皇)の父 は、 聖武天皇(しょうむてんのう)、母
は、 光明皇后(こうみょうこうごう) である。
■ 称徳天皇 (しょうとくてんのう、 在位764〜770年、 生没年
718〜770年) は、 孝謙天皇 (こうけんてんのう、在位749〜7
58年)として天皇に在位し、 その後、 孝謙 上皇(太上天皇)とな
り、 重祚(ちょうそ)して(天皇に再即位して)、 称徳天皇 (しょうと
くてんのう) (在位764〜770年) と称した。
■ 称徳天皇 は、 天皇在位前は、 阿部内親王 (あべ(の)ないし
んのう) と称し、 749年から 孝謙 天皇 (こうけんてんのう) と
称し、 758年から 孝謙 上皇(太上天皇) (こうけん じょうこう(だ
いじょうてんのう) と称し、 764年から 称徳 天皇 (しょうとくてん
のう) と称した。
◆ 奈良時代中期の政権の推移。
■ 藤原不比等(659〜720年)の死後、 皇族の長屋王(ながやおう、
676?〜729年)が政権の実権を握った (長屋王政権720〜729
年)。 藤原不比等の子の4兄弟が、外戚の地位が危うくなるのを恐
れて、 729年に、策謀によって、 長屋王を自殺させ (長屋王の変)、
政権の実権を握った (藤原武智麻呂政権729〜737年)。
■ 737年に、 藤原氏4兄弟とも、流行していた天然痘(てんねんとう)
で、病死して (その4人の子供達の一部は生き残ったが)、 政権内で
の藤原氏の勢力は、一時、後退した。
藤原4兄弟が病死後、かわって、皇族出身の橘諸兄(たちばなのも
ろえ、684〜757年)が政権の実権を握(にぎ)った。 (橘諸兄政権7
37年〜757年)。
■ 光明皇后 (こうみょうこうごう、生没年701〜760年) は、 藤原
不比等の娘で、 光明子 (こうみょうし) といい、 聖武(しょうむ)天皇
(在位724〜749年)の皇后で、 のち、光明皇太后 (こうみょうこう
たいごう) となる。 光明皇后 は、 孝謙(こうけん)天皇(在位749
〜758年)の生母であり、 藤原仲麻呂の叔母(おば) である。
藤原南家の藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)の子の藤原仲麻呂
は、 叔母(おば)の光明皇太后 と結び、 次第に政治の実権を得て
いき、 藤原仲麻呂 が、757年に、 橘奈良麻呂(たちばなのならまろ、
橘諸兄の子)の乱を抑えて (橘奈良麻呂の変)、 淳仁(じゅんにん)天
皇(在位758〜764年) を擁立して、 政権の専制を確立する (藤原
仲麻呂政権(757〜764年))。
■ 760年に、藤原仲麻呂は、後ろ盾であったの叔母(おば)の光明皇太
后が死去すると孤立を深め、 孝謙太上天皇(こうけんだいじょうてんの
う)が寵愛する、道鏡 が進出したので、 藤原仲麻呂が、 764年に乱
を起こしたが (恵美押勝の乱)、 敗死した。 道鏡(どうきょう)は、称
徳(しょうとく)天皇 (在位764〜770年)の支持を得て、 764年に政
権の実権を握った (道鏡政権764〜770年)。
■ 称徳(しょうとく)天皇が死去すると、 道鏡 は、後ろ盾を失って、失
脚し、 かわって、 藤原式家の藤原百川 (ふじわらのももかわ、732
〜779年) らがはかって、 光仁(こうにん)天皇(在位770〜781年)
を擁立し、 政権の実権を握った (藤原百川政権770年〜779年)。
#shotokuempressappearingscenes
♪♪ 女帝の称徳天皇(= 孝謙天皇)が
登場する、興味深い、ドラマ、映画、
ドキ ュメンタリー。
★ 女帝の称徳(しょうとく)天皇 (= 孝謙
(こうけん)天皇)が登場する、興味深
い、ドラマ、映画。
● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。
歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実)
と 架空の出来事が 混じって描かれています。
また、現代風にアレンジしてあります。
■ 『 大仏開眼 (だいぶつかいげん) 』 。
(NHKテレビ・2010年古代史ドラマ
スペシャル)。
■ 孝謙(称徳)(こうけん(しょうとく))天皇
(在位749〜758、764〜770年) が、
登場する。 孝謙(称徳)天皇の即位前
の名称は、 阿部内親王(あべ(の)ない
しんのう)。
● 称徳天皇 (= 阿部内親王(あべ(の)な
いしんのう)、孝謙天皇)を演じた女優 :
石原(いしはら) さとみ。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
■ 上皇政権
(じょうこうせいけん)。
■ 上皇政権。
■ 名称 : 上皇政権 (じょうこうせいけん)。
● 別名 : 院政政権 (いんせいせいけん)、 院政権
(いんせいけん)。
● 英名 : the Government of a retired
emperor。
■ 時期 : 平安時代後期の1086年頃〜1156年頃。
の実権を握る政治形態。
■ 上皇政治(院政政治) とは、 上皇(じょうこう、元天
皇)が、朝廷の実権を握り、さらに、日本の政治の実権
を持ち、日本を支配した政治形態。
■ 上皇政権(院政政権) とは、 上皇(じょうこう、元天
皇)が、朝廷の実権を握り、さらに、日本の政治の実権
を持ち、日本を支配した政権。
● 上皇政権(院政政権、1086年頃〜1156年頃)は、
1129年〜1156年) が、朝廷の実権を握り、さらに、
日本の政治の実権を持ち、日本を実質的に支配した政
権。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 白河上皇が、1086年に、院政を創始し、さらに、院
政政権(上皇政権、1086年頃〜1156年頃)を樹立す
る。
■ 上皇 は、 院宣(いんぜん)、 院庁下文(いんのち
ょうくだしぶみ) などによって、通達を出した。
■ 院政は、上皇(退位した天皇)が天皇に代わって
朝廷の政務を行うことである。
天皇が、上皇の子、または上皇の孫などの場合、
院政を行うことができる。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 伝統的な天皇という地位は、様々な約束事がつい
て回り、 新しい時代の流れに対応しにくい様々なこ
とが起こる。 そこで、天皇は、退位して、上皇という
自由な立場に立ち、世の中の動きに即応する政治を
行おうとした。
院庁とは、上皇 (じょうこう、引退した天皇)の事
務機関で、 院政時は、政務機関となる。
院庁の職員が、 院司(いんし)である。 院庁に
おいて、上皇の事務、政務を行った官人である。
別当(べっとう)、年預(ねんよ)、判官代、主典代、
北面の武士 などがある。
■ 院宣 と 院庁下文。
● 院宣 (いんぜん)は、 上皇(= 院)の命令を下達
する文書 である。 院司(いんし)が、上皇の仰せを
奉(ほう)じて出す奉書(ほうしょ)の形式をとる。
院庁下文 (いんのちょうくだしぶみ) は、院庁
(いんのちょう)から出される公文書 で、 院宣(い
んぜん)よりも公的で、 詔勅(しょうちょく)、官符と
同等の効力を有し、 重要な意味をもった。
■ 上皇は、 国司(受領(ずりょう))たちを支持勢力にと
りこみ、上皇(=院(いん))の御所(ごしょ)に北面の武士
(ほくめんのぶし)を組織したり、 源平の武士を側近に
するなど、上皇(=院)の権力を強化した。
■ 上皇政治(院政政治)は、法や慣例にこだわらずに、
上皇が、政治の実権を専制的に行使した。
上皇政治(院政政治)では、院庁(いんのちょう)を
置き、上皇の命令を伝える院宣(いんぜん)及び、 院庁
から下(くだ)される文書の院庁下文(いんのちょうくだし
ぶみ)が、国政一般に次第(しだい)に効力を持つように
なった。
摂関家は、勢力の衰退を、上皇(院)と結びつくこと
で盛りかえそうと努めた。
■ 上皇政治(院政政治) では、上皇 が、院庁(いんの
ちょう)で政務をとり、 院宣(いんぜん)や院庁下文(い
んのちょうくだしぶみ)で下達した。 院近臣には、受領
(ずりょう、国司)が、多く参加し、政務は院庁で行った。
院庁で政務をとる、上皇と院近臣は、 天皇や摂関
家と対立した。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 上皇政治(院政政治)で 上皇(=院(いん))の軍事
力として設けられた、北面(ほくめん)の武士は、 武
士階級の成長の一因となった。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 院政 とは、上皇が、 天皇を後見(こうけん)しながら
朝廷の実権をにぎる政治形態 である。
■ 上皇 (じょうこう) とは、 譲位した(退位した)天皇
(元天皇)で、 法皇(ほうおう)とは、 仏門に入った上
皇 である。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
◆ 平安時代後期の院政政権(1086年頃
〜1156年頃)。
■ 日本では、 摂関政治 (10世紀後半〜11世紀後
半)が、衰えて、 院政政治 (11世紀後半〜12世紀
後半) が、 始まる。
■ 1086年より、院政政治(1086〜1156年)が開
始され、 上皇(白河上皇や鳥羽上皇)が、朝廷の実
権を握り、さらに、日本の政治の実権を持ち、日本を
実質的に支配した。
しかし、平治の乱(1159年)以後、 上皇の権力
(日本を支配する実権)は衰えたが (上皇は日本の
政治の実権は持たなかったが)、 その後、断続的に、
上皇が朝廷の実権を握る、院政は、 江戸末期の18
40年まで、行われた。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 白河上皇は、1086年より、 堀河(ほりかわ)天皇、
鳥羽(とば)天皇、崇徳(すとく)天皇の3代にわたり、約
43年間、院政を行い、さらに、日本の政治の実権を握
り、院政政治(院政政治期、1086年〜1129年)を行
った。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
崇徳(すとく)天皇、近衛(このえ)天皇、後白河(ごしら
かわ)天皇の3代にわたり、約27年間、院政を行い、さ
らに、日本の政治の実権を握り、院政政治(院政政治
期、1129〜56年))を行った。
■ 天皇の皇位継承順 は、 白河(しらかわ)天皇 ⇒
堀河(ほりかわ)天皇 ⇒ 鳥羽(とば)天皇 ⇒ 崇徳
(すとく)天皇 ⇒ 近衛(このえ)天皇 ⇒ 後白河(ご
しらかわ)天皇 ⇒ 二条(にじょう)天皇 ⇒ 六条(ろ
くじょう)天皇 ⇒ 高倉(たかくら)天皇 ⇒ 安徳(あ
んとく)天皇 ⇒ 後鳥羽(ごとば)天皇 の順である。
■ 白河・鳥羽上皇とも、崇仏の念(ねん)が厚く(仏教を
厚く信仰し)、造寺造仏を行う。 また、京(都)の郊外に
離宮(りきゅう)を造営する。 これらの費用を調達する
ため、 成功(じょうごう、売位、売官など)がさかんにな
り、政治が乱れた。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
士が台頭し、院政政権(上皇政権、1086年頃〜11
権 (1160年頃〜1185年頃)が,日本を支配する。
● 上皇政権、即ち、院政政権 (いんせいせいけん)
は、 1086年 頃から1156年頃までで、 1086年
に、白河天皇が堀河天皇に譲位し、白河上皇となり、
院政政治を開始 する。
白河上皇は、院庁を置き、院政政権(上皇政権)
を樹立し、それを鳥羽上皇が引き継いだが、1156年
の鳥羽上皇の死去とともに、院政政権(上皇政権)は、
消滅し、1156年の保元の乱が起こり、 更(さら)に、
1159年の平治の乱が起こり、伊勢平氏の平清盛(た
いらのもきより)が、河内源氏の源義朝 (みなもとの
よしとも)に勝ち、 1160年に、平清盛は、 正三位に
叙(じょ)せられ公卿(くぎょう)に列し、日本の政治の
実権を握り、 平氏政権が出現する。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 上皇政権 (じょうこうせいけん) は、時期は、平安時
代後期の1086年頃〜1156年頃 で、院政政権 (い
んせいせいけん)、 院政権 (いんせいけん) とも言う。
英名は、 the Government of a retired
emperor である。
の実権を握る政治形態 である。
■ 院政政治(上皇政治) とは、 上皇(じょうこう、元天
皇)が、朝廷の実権を握り、さらに、日本の政治の実権
を持ち、 日本を支配した政治形態 である。
■ 院政政権(上皇政権) とは、 上皇(じょうこう、元天
皇)が、朝廷の実権を握り、さらに、日本の政治の実権
を持ち、日本を支配した政権 である。
● 院政政権(上皇政権、1086年頃〜1156年頃)は、
1129年〜1156年) が、朝廷の実権を握り、さらに、
日本の政治の実権を持ち、日本を実質的に支配した政
権 である。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 白河上皇が、1086年に、院政を創始し、さらに、院
政政権(上皇政権、1086年頃〜1156年頃)を樹立
する。
◆ (S) 日本の政治形態。
■ (S) 日本の政治形態。
(S1d) 小国首長政治 (前1世紀〜紀元後5世紀)⇒
(S1g) 豪族連合政治 (5〜7世紀) ⇒ (S2) 律令
政治 (7〜10世紀) ⇒ (S3) 摂関政治 (10〜11
世紀) ⇒ (S4) 院政政治 (11〜12世紀) ⇒(S5)
政治 (近代天皇絶対主義政治) (19〜20世紀) ⇒
(S7) 現代国民主権政治 (現代主権在民政治) (20
〜21世紀の現在)。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
● 上記項目の詳細に関しては、 当日本語辞典の各項目
を参照して下さい。
■ (S3) ⇒ (S4) 摂政・関白に代わって、上皇が、政
治の実権を握ったため、 (S3) 摂関政治 (10〜11世
紀)は、 (S4) 院政 政治 (11〜12世紀) に移行す
る(へ変わる)。
■ (S4) 院政政治 とは、 上皇 (じょうこう、元天皇)
が、朝廷の実権を握り、さらに、日本の政治の実権を持
ち、日本を支配した政治形態 である。
羽上皇(院政生時期、1129年〜1156年) が、朝廷
の実権を握り、さらに、日本の政治の実権を持ち、日本
を実質的に支配した期間の政治形態 である。
■ (S4) ⇒ (S5) 1159年(平治元年)の平治の乱
で武士の武力の力で政治の争いが決着後、 (S4) 院
政政治 (11〜12世紀) は、(S5) 武家政治 (12
〜19世紀) に移行する(へ変わる)。
● 保元の乱(1156年)・平治の乱(1159年)後、 武士
が台頭し、上皇政権(院政政権、1086年頃〜1156年
0年頃〜1185年頃) が,日本を支配する。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
■ 氏姓
(しせい)。
■ 氏姓。
■ 名称 : (前近代日本の) 氏姓 (しせい)。
■ 時期 : 古代日本 〜 近世日本の時期頃
(古墳・飛鳥白鳳時代(大和時代)〜 江戸時代
頃)。
■ 前近代の、氏族名や姓(かばね)という一族名。
■ 前近代日本の、一族名の1つ。
■ 氏姓 (しせい) は、 前近代日本では、 一族
名の1つで、 前近代の、氏族名や姓(かばね)
という一族名 である。
■ 一族名 (氏(うじ)、姓(せい)) には、 氏姓
があり、 「氏姓(しせい、姓氏)の氏族名(しぞ
くめい)と姓(かばね)」 であり、 「名字(みょう
じ)の家名(かめい)」、 「商号等の屋号(やご
う)」 である。
■ 氏姓(しせい、姓氏)の、氏族名(しぞくめい) は、
家すじを表す名称であり、 氏姓(しせい、姓氏)の、
姓(かばね) は、 家柄の尊卑の区別を表す名称
である。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 西郷隆盛の場合。
● 西郷隆盛の氏姓 は、 「平朝臣」 (たいらの あ
そん) であり、 朝廷の公文書では、 西郷隆盛
は、「平 朝臣 隆盛」 (たいらの あそん たかも
り) と 記されていた。
● 「平 朝臣 隆盛」 は、 一族名の「氏姓の氏族
名(しぞくめい)+一族名の「氏姓の姓(かばね)」
+個人名の「諱(いみな)の実名」 である。
■ 織田信長の場合。
● 織田信長の氏姓 は、 「平朝臣」 (たいらの
あそん) であり、 朝廷の公文書では、 織田
信長は、「平 朝臣 信長」 (たいらの あそん
のぶなが) と 記されていた。
● 「平 朝臣 信長」 は、 一族名の「氏姓の氏族
名(しぞくめい)+一族名の「氏姓の姓(かばね)」
+個人名の「諱(いみな)の実名」 である。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 日本では、前近代と現代の氏名を比較すると、
前近代の一族名(「氏(うじ)」)には、 氏姓 (し
があり、 また、 前近代の個人名(「名(な)」)
法名 (ほうみょう) 等があった。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 前近代日本の人名。
■ 前近代日本の上層階層の日本人成人男性
は、 現代日本人の名字と名のワンパターン
構成の氏名ではなく、 「複数パターン(組合
せ)構成の氏名」 を持っていた。
▼ 一族名 (氏(うじ)) + 個人名 (名(な))
の組み合わせ。
■ @ 「 名字(みょうじ) + 通称(つうしょう)」。
A 「 名字 + 律令官名(りつりょうかんめい) 」 。
B 「 氏姓(しせい)の氏族名・姓(かばね) +
諱(いみな)の実名 」。
C 「 名字 + 諱(いみな)の実名 」。
D 「 名字 + 号(ごう) 」。
E 「 名字 + 法名(ほうみょう) 」(後世の呼び名)。
F 「 屋号(やごう) + 通称 」。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ (例) 戦国大名の織田 信長 (おだ のぶなが)
の場合。
@ 「 織田 三郎 」(おだ さぶろう)、
A 「 織田 弾正忠 」(おだ だんじょうのちゅう)、
B 「 平 朝臣 信長 」(たいらの あそん のぶ
なが)、
C 「 織田 信長 」(おだ のぶなが)
等の氏名を持っていた。
〇 現在の正式名の C 「 名字+諱(いみな)の
実名 」パターンの 呼び方、 C 「 織田 信長 」
と呼ばれるケース は、 当時は、少なかった。
■ (例) 越前藩主の松平 慶永 (まつだいら よ
しなが) の場合。
D 「 松平 春嶽 」(まつだいら しゅんがく)
等の氏名を持っていた。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ (例) 戦国大名の上杉 謙信 (うえすぎ けん
しん) の場合。
○ 法名 「不識庵(不識院)謙信」 より 謙信をと
って、 E 「 上杉 謙信 」 (うえすぎ けん
しん) と後世の人に呼ばれた。
○ 当時は、俗世の名字と法名(ほうみょう)を一緒
に呼ぶことはなかった。
本人は、当時は、「 不識庵(不識院)謙信 」
と称していた。
■ (例) 豪商の茶屋 四郎次郎 (ちゃや しろうじ
ろう) の場合。
F 「 茶屋 四郎次郎 」(ちゃや しろうじろう)
等の氏名を持っていた。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
■ ジョン万次郎
(じょんまんじろう)
■ ジョン万次郎。
■ 生没年 : 1827〜98年。
■ 名称 : ジョン万次郎 (じょんまんじろう)。
別名 : 中浜万次郎 (なかはままんじろう)。
■ 幕末、明治初期の、の通訳、翻訳者。
■ 幕末、明治初期の、新知識の移入に貢献。
■ 土佐国(とさのくに、高知県)の中浜村(なかはまむ
ら)の漁民出身。
■ ジョン万次郎 (じょんまんじろう、 生没年1827〜
1898年) は、別名は、 中浜万次郎 (なかはまま
んじろう) と言う。
■ ジョン万次郎 は、幕末、明治初期に、通訳、翻訳者
で、 日本の新知識の移入に貢献する。
■ ジョン万次郎 は、 土佐国(とさのくに、高知県)の
中浜村(なかはまむら)の漁民 であった。
ジョン万次郎 は、 1841年に、出漁中に、難破し、
アメリカの捕鯨船(ほげいせん)に救われ、 アメリカで
教育を受け、1851年に日本に帰国する。
■ 幕末、ジョン万次郎 は、 帰国後、 土佐藩士に任用
され、 その後、ペリー・アメリカ艦隊の来航にあたり、幕
臣に登用され、 通訳、翻訳に従事する。
幕末、ジョン万次郎 は、 1960年に、幕府遣外(け
んがい)使節に随行する。
明治期に、開成学校(かいせいがっこう、東京大学の
前身) の教授となる。
★ ジョン万次郎 が登場する、興味深い、ド
ラマ、映画。
● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 歴史
のドラマ、映画 は、史実(歴史上の事実) と 架空の
出来事 が 混じって描かれています。 また、現代風に
アレンジしてあります。
■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』
(日本の2010年NHK大河ドラマ)。
■ 『 篤姫 (あつひめ) 』
(NHK2008年大河ドラマ)。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
■ 将軍
(しょうぐん)
■ 将軍。
■ 名称 : 将軍 (しょうぐん)。
■ 軍の統率者。
■ 朝廷の武官(武人)の首長。
■ 《 武官、武士の身分》。
■ 朝廷が設けた将軍の1つに、征夷大将軍 (せ
いいたいしょうぐん、別名:征夷将軍) がある。
■ 征夷大将軍(別名:征夷将軍)の存在時期 :
720年〜1867年。
■ 征夷大将軍は、 奈良時代・平安時代初期で
は、 蝦夷(えぞ、東北地方)征伐の統率者(将
軍) であり、 平安時代末期から江戸時代まで
では、 武家(武士)の統率者(将軍) である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11718。
■ 将軍(しょうぐん) とは、 軍の統率者であり、朝
廷の武官(武人)の首長である。
朝廷が設けた将軍の1つに、 征夷大将軍
(せいいたいしょうぐん、征夷将軍)がある。
◆ 将軍。
■ 武官(武人)の首長の官職(職名)。
■ 古代日本では、将軍とは、 朝廷の征討、儀衛、
行幸時の臨時の武官(武人)の首長である軍務
官職であった。
古代日本で、将軍の1つに、征夷大将軍
(別名、征夷将軍)があった。
◆ 将軍(征夷大将軍)。
■ 征夷大将軍の別称、略称の将軍。
○ 武家の棟梁(とうりょう、統率者、統領、
頭領)である将軍。
征夷大将軍は、 武家の棟梁 (とうりょう、
統率者、統領、頭領)であり、 鎌倉幕府の各将
軍、 建武期の護良親王(もりよししんのう、大塔
宮(おおとうのみや))、 室町幕府や江戸幕府の
各将軍である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 幕府の首長である将軍。
鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府、
の将軍など。
■ 征夷大将軍は、 幕府の首長であり、 鎌倉幕
府、室町幕府、江戸幕府、の各将軍などである。
◆ 将軍(征夷大将軍)。
■ 征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)は、 奈良
時代から江戸時代まで、朝廷から任命された、
武官(武人)の首長の官職(職名 )である。
将軍の1つ、征夷大将軍(別名、征夷将
軍)は、当初は、奈良時代・平安時代初期では、
陸奥(むつ、東北地方)の蝦夷(えぞ)討伐の
ための朝廷の臨時の官職であった。
その後、征夷大将軍は、鎌倉時代より、
武家の棟梁(とうりょう、統率者、統領、頭領)の
地位、または、幕府の首長の地位を意味するよ
うになる。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
◆ 将軍(征夷大将軍)。
征夷大将軍 (せいいたいしょうぐん、別名
:征夷将軍) は、 奈良時代・平安時代初期
では、 蝦夷(えぞ、東北地方)征伐の軍事統
率者という意味であり、 臨時の朝廷東北派
遣軍総大将の武官の官職名であった。
征夷大将軍は、 鎌倉時代から江戸
時代までは、 武士の統率者(統領、棟梁(と
うりょう))という意味であり、 武士の首長の
称号で、 武家政権の首長(幕府の長)の官
職名であり、 武士で天下の権力を握(にぎ)
る者であり、 朝廷から任ぜられ、武力を握り、
政治の実権をもっていた、軍の統率者である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 将軍(征夷大将軍)は、 初め、奈良時代・平
安時代初期では、 朝廷の蝦夷(えぞ、東北地
方)討伐の臨時の役職であり、 鎌倉時代以後、
武家政権の首長の職名となり、 江戸時 代末
に廃止となった。
■ 将軍への尊称には、 上様(うえさま) などが
あり、 高貴の人の尊称である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
◆ 将軍(征夷大将軍)。
■ 奈良時代、平安時代初期に、 征夷大将軍
(別名、征夷将軍)は、 720年、多治比県守
(たじひあがたもり)、 794年、大伴弟麻呂
(おおとものおとまろ)、 801年、坂上田村麻
呂(さかのうえのたむらまろ) などが、征夷大
将軍(別名、征夷将軍)に就任した。 鎮圧が
一応終わった811年以後、廃止された。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 平安時代末期の源(木曾)義仲は、征夷
大将軍ではなく、征東大将軍に叙任(任官)
される (「山槐記」、「玉葉」より)。
平安時代末期の1184年に京(都)に入
った源義仲(みなもとのよしなか、木曽義仲)
が、その後、征東大将軍の宣下(せんげ)を
受ける。
二次資料の「吾妻鏡」などの従来説では、
源(木曾)義仲は、征夷大将軍に叙任(任官)
されたとなっているが、「山槐記」(建久3年
(1192年)の一次資料では、義仲は、征東
大将軍に叙任(任官)されたとあり、「玉葉」
と記述が一致し、近年は、この説が有力とな
っている。
■ 鎌倉時代に、 将軍(征夷大将軍)は、 鎌倉
源氏将軍(3代)、その後、摂家将軍、宮将軍
が、就任した。
■ 建武時代に、 将軍(征夷大将軍)は、 後醍
醐天皇の皇子(みこ)の、護良親王(もりよしし
んのう、大塔宮(おうとうのみや))が、将軍(征
夷大将軍) に就任した。
■ 室町時代に、 将軍(征夷大将軍)は、 室町
就任した。
■ 江戸時代に、 将軍(征夷大将軍)は、 江戸
に就任した。
■ 江戸時代末期の1867年(慶応3年)12月
に、王政復古の大号令(おうせいふっこのだ
いごうれい)の発布で、 将軍(征夷大将軍)
は、廃止された。
◆ 将軍(征夷大将軍)。
■ 征夷大将軍は、 初め、奈良時代、平安時代初
期に、 蝦夷(えぞ、東北地方)征伐 (東北地方
攻略)のために置かれた、朝廷の臨時の役職(官
職)であった。
■ その後、征夷大将軍は、 「武士で天下の権力
を握る者」の意となり、 それ以後、武家政権の
首長の職名 となる。
■ 1192年(建久3年)に、 源頼朝(みなもとの
よりとも)が、天下の権力を握って、 将軍宣下
(しょうぐんせんげ、征夷大将軍の宣下)を受け、
将軍(征夷大将軍)に任命され、鎌倉幕府を開 く。
それ以後、 将軍(征夷大将軍)は、 鎌倉時
代に、鎌倉幕府の、源氏将軍、摂家将軍、宮将
軍が就任し、 建武時代に、護良親王(もりよし・
もりなが しんのう、大塔宮)が、将軍(征夷大将
軍)となり、 室町時代に、 室町幕府の、足利
氏が歴代将軍に就任し、 江戸時代に、江戸幕
● なお、江戸幕府の将軍は、 朝廷より、 「征夷
大将軍」の他に、「源氏長者」(げんじちょうじゃ)
の称号も得て、 武士の首長としての立場を強
化 した。
■ 1867年(慶応3年)12月に、朝廷の御前会議
の、王政復古の大号令(おうせいふっこのだい
ごうれい)の発布で、 幕府、征夷大将軍、摂政・
関白などは、廃止された。
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■ 重光
(しげみつ)。
(直江 重光) (直江 兼続)
■ 重光 (しげみつ) については、 『 直江 兼続 (なおえ かねつ
ぐ) 』 を参照して下さい。
● 重光 (しげみつ、 直江 重光(1608年より名使用〜)) は、 樋
口 与六 (ひぐち よろく、幼名)、 樋口 兼続 (元服後、初名)、 直江
兼続 (1581年〜、直江家を相続後)、 直江 重光 (1608年〜) と
同一 の人物 です。
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■ 地侍
(じざむらい)。
■ 地侍。
■ 地侍の存続時期:室町時代 と 安土桃山時代。
■ 名前 : 地侍 (じざむらい)。
■ 地元の土着の武士。
■ 室町時代や安土桃山時代の、在郷土着の武士
(半農半武士)。
■ 地侍 (じざむらい) とは、 室町時代や安土桃
山時代の、在郷土着の武士 (半農半武士)であ
る。
地侍 は、 室町時代や安土桃山時代の、兵
農未分離の時期の 在郷土着の武士で、 半農
半武士の人々 である。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 地侍 (じざむらい) とは、 農民として、荘園
領主や地頭などに年貢等を納(おさ)めながら、
守護大名、戦国大名等 の国主と主従関係を結
んで、 武士(侍(さむらい))身分を獲得した者
を言う。
■ 地侍 は、 有力名主(みょうしゅ)で農業経営
を行う一方、小領主化し、惣(そう)の指導者、
土一揆(どいっき)の主勢力で、 下克上(げこ
くじょう)の原動力であった。 地侍 は、やがて、
戦国大名の家臣として、 城下町に住むか、郷
士として農村に住んだ。
■ 戦国大名の家臣団 は、 上層の家臣 は、
国人 (こくじん、国人領主) 層 で、 中間層
の家臣 は、地侍 (じざむらい) 層で、下層
の家臣 は、 兵士となった一般農民 層 (雑
兵(ぞうひょう)、足軽等) である。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
● 戦国大名 に関しては、 日本史辞典の 『 戦
国大名 (せんご くだいみょう) 』 の項目を
参照して下さい。
● 国人(領主) に関しては、日本史辞典の 『 地
頭、国人 (じと う、こくじん) や 守護・地頭の設
置 (しゅごじとうのせっち) 』 の項目を参照し
て下さい。
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■ 氏姓制度
(しせいせいど)。
■ 氏姓制度。
■ 制定時期 5世紀〜6世紀。
■ 存続時期 5世紀〜7世紀後半。
■ 名前 : 氏姓制度 (しせいせいど)。
■ 古代日本の、ヤマト政権 (大和朝廷)の、政治制度。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ ヤマト政権 (大和朝廷) は、 3世紀後半に、 大和地方の小国
家政治連合として成立し、 遅くとも、 4世紀後半までに、 日本の
統一をほぼ終り、 5世紀ごろ、 氏姓制度に基づく国家組織が、一応、
完成した。
■ 氏姓制度 とは、 5世紀から7世紀後半までの、 ヤマト政権(大和
朝廷) の政治・社会組織 で、 豪族達を、氏(うじ)と姓(かばね) で
政治的に組織した。
■ 古代日本の、ヤマト政権(大和朝廷)では、 5世紀から7世紀まで、
「氏姓制度」に基づく政治 が行なわれました。
● ヤマト政権(大和朝廷) の大王 (おおきみ、だいおう、天皇) は、
豪族達を、 血縁やその他の関係をもとに構成された、氏(うじ)と呼
ばれる組織に編成し、 豪族達に、 姓(かばね) を与えて、 ヤマト
政権の職務を分担させた。
● 中央の政治は、 臣(おみ)、連(むらじ)の姓を有する大豪族 や
伴造(とものみやつこ)、造(みやつこ)などの姓を有する小豪族 が
当たり、 地方の政治は、 公・君(きみ)、直(あたい)などの姓を有
する国造(くにのみやつこ) や 県主(あがたぬし)、稲置(いなき)な
どの氏 が当たり、 国や県(あがた)を支配した。
● 皇室や豪族は、部民を所有し、 皇室は、 直轄領の屯倉 (みや
け)、や直轄民の名代(なしろ)・子代(こしろ)を有し、 豪族は、私有
地の田荘(たどころ)や私有民の部曲(かきべ)を有し、それぞれ、経
済的基礎とした。
● 氏姓制度は、 7世紀後半の大化の改新以後の改革で、 廃止さ
れた。
● ヤマト政権(大和朝廷)の日本統一 に関しては、 日本史辞典の
『 ヤマト政権の日本統一 (やまとせいけんのにほんとういつ) 』 の
項目を 参照して下さい。
■ 7世紀後半から8世紀初めに、 「氏姓制度」に代わり、 官僚制と
公地公民制の「律令制度」が形成される。
● 7世紀後半から8世紀初めに、 「律令制度」基づく律令政治 が、
行われ、 律令国家(「律令制度」を基本にした国家)が、 成立する。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
● 律令制度に関しては、 日本史辞典の 『 律令制度 (りつりょう
せいど) 』 の項目を 参照して下さい。
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■ 実成院
(じっせいいん)。
■ 実成院。
● 生没年 1821(文政4年)〜1904(明治37年)。
● 名前 : 実成院 (じっせいいん、じつじょういん)。
正式名 : 實成院 (じっせいいん、じつじょういん)。
別名: 美佐 (みさ)、 操子、 美喜、 於美喜 。
● 江戸幕府・14代将軍・徳川家茂(いえもち)の生母。
● 性格 : かなり派手好き。
■ 実成院 (じっせいいん、じつじょういん) は、 生没年は 1821
(文政4年)〜1904(明治37年)で、 正式名は、實成院で、
別名は、 美佐 (みさ)、 操子、 美喜、 於美喜 と称した。
■ 実成院は、 江戸幕府・14代将軍・徳川家茂(いえもち)の生母で
あり、 性格は、 かなり派手好き であった。
■ お美佐(実成院)の子 が、徳川慶福(よしとみ)と名を改め、4歳で
13代紀州藩主となり、家督を継ぐと、 美佐は、落飾して、 実成院と
名乗る。
■ 1858年(安政5年)、 実成院の子、 徳川慶福(よしとみ) が、
13歳で、14代将軍・徳川家茂(いえもち)として、江戸城に入ると、
実成院は、 将軍生母として、 大奥に入る。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1866年(慶応2年)に、実成院の子、徳川家茂が大阪城で、21歳
で没した後も、 実成院 は、 江戸城に居住し、1868年 (慶応4年、
後に明治元年)に、 官軍による江戸城開城後は、 静寛院宮(和宮)
と共に田安家の屋敷へ移る。
■ 1904年(明治37年)、 実成院 は、東京・千駄ヶ谷の紀州・徳川
邸にて、84歳で死去し、 寛永寺に、 本寿院(13代将軍家定・生母)
と並んで葬られた。
♪♪ 実成院 が登場する、興味深い、
ドラマ、映画、ドキュメンタリー。
★ 実成院が登場する、興味深い、
ドラマ、映画。
● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。
歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実)
と 架空の出来事が 混じって描かれています。
また、 現代風にアレンジしてあります。
■ 『 大奥・幕末の女たち 』。
(フジテレビの2003年・2004年製作
テレビドラマ)。
● 実成院を演じた女優名 : 野際陽子。
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■ 地頭、国人
(じとう 、こくじん)。
■ 地頭、国人。
■ 名称 : 地頭 (じとう)、 国人 (こくじん)。
■ 地頭、国人の存在期間 :
1185年(文治元年)より、中世日本 (鎌倉・
建武・室町時代)、安土桃山時代、江戸時代
初期まで。
■ 地頭、国人は、
地方土豪(どごう)、在地領主である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11729。
■ 地頭、国人。
■ 地頭(じとう)、国人(こくじん)とは、 地方
土豪(どごう)であり、 在地領主である。
■ 地頭(じとう)とは、 中世日本(鎌倉・建武・
室町時代)、安土桃山時代、江戸時代初期の、
国衙領(こくがりょう、公領)や荘園の、現地管
理者(鎌倉・建武時代)、または、現地支配者
(室町時代以後)である。
■ 地頭は、 中世の鎌倉時代に、 土地管理・
年貢徴収などの権限を利用し、荘園や公領
(国衙領)の年貢の不法抑留、土地横領を
企てることが多く、本所・領家の荘園領主や
国司・知行国主との紛争が絶えなかったの
で、 これを避けるため、本所・領家の荘園
領主や国司・知行国主は、 地頭請(じとう
うけ)や下地中分(したじちゅうぶん)の方法
をとる。
■ 中世の鎌倉時代に、地頭は、荘園や公領
(国衙領)で、地頭請(じとううけ)や下地中
分(したじちゅうぶん)などにより、荘園や公
領(国衙領)の侵略を進め、支配権を握り、
在地領主化する(地頭の領主化)。
■ 国人 (こくじん、国人領主)とは、 国衆(く
にしゅう)ともいい、 室町時代、安土桃山時
代、江戸時代初期の地頭であり、 地方の土
豪で、在地領主である。
■ 地頭は、室町時代以後は、 国人(こく じん、
= 国衆(くにしゅう))とも呼ばれる。
■ 地頭(じとう)には、 鎌倉時代に、 鎌倉幕府
により、 荘園(しょうえん)の下司(げし) や
公領(こうりょう、国衙領(こくがりょう))の郡司
(ぐんじ)などが任じられる。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 地頭、国人。
■ 地頭請や下地中分による地頭の支配権
強化。
● 中世日本(鎌倉・建武・室町時代)に、地
頭は、下地中分や地頭請などによって、荘
園や公領(国衙領)の支配権を強化する。
● 地頭は、中世日本で、土地管理・年貢徴
収などの権限を利用し、荘園や公領(国 衙
領)の年貢の不法抑留、土地横領を企て
ることが多く、本所・領家の荘園領主や国
司・知行国主との紛争が絶えなかったので、
これを避けるため、本所・領家の荘園領主
や国司・知行国主は、地頭請や下地中分
の方法をとる。
■ 下地中分。
■ 下地中分(したじちゅうぶん)とは、 中世
日本(鎌倉・建武・室町時代)で、荘園を二分
して、地頭と本所・領家の荘園領主で、荘園
を分割支配する制度である。
■ 地頭請。
■ 地頭請(じとううけ)とは、 中世日本で、地
頭が荘園や公領(国衙領)の年貢の納入を
請け負う制度である。
● 地頭請(じとううけ)とは、 中世日本(鎌倉・
建武・室町時代)で、 地頭が一定の年貢
(ねんぐ)を納入するという条件で、 本所・
領家の荘園領主や国司・知行国主が、地頭
に荘園や公領(国衙領)の経営を委任する
制度である。
■ 地頭、国人。
■ 守護・地頭や守護、守護大名に関しては、
当日本史辞典の『 守護・地頭の設置
(しゅごじとうのせっち) や 守護、守護大名
(しゅご、しゅごだいみょう) 』 の項目を参照
して下さい。
■ 地頭、国人。
■ 1185年(文治元年)に、 源頼朝 (みなもと
のよりとも)は、 朝廷より (朝廷の実権を握っ
ていた、法王(出家した上皇)の後白河法王よ
り)、 諸国に、守護(しゅご)を、 公領(国衙
領)や荘園には 地頭(じとう)を任命する権利
を獲得する。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 地頭、国人。
■ 地頭、国人は、 中世日本、近世前期で存在
し、幕府の支持勢力である。
■ 鎌倉時代の地頭。
『 泣く子と地頭にはかてない 』 。
平安時代末期より、鎌倉時代まで、
地頭は、初め、荘園や国衙領(公領)の現地
管理者であり、 年貢徴収、警察、裁判、 徴
税権、土地の管理(下地管理権)の権限を
持っていた。
地頭は、 地頭の直営地を下人らに耕
作させ、 権限をめぐって、本所・領家の荘
園領主や国司・知行国主とも争った。 地頭
は、 荘園の荘官や公領(国衙領)の有力名
主(みょうしゅ)とも対立した。
● 鎌倉時代の荘園や公領内での二重支配。
荘園では、鎌倉時代に、同一の土地の中
に、本所・領家側の管理者と幕府側の地頭が
いて、支配の対立をもたらした。
公領(国衙領)では、鎌倉時代に、同一の
土地の中に、 有力名主、国府(国衙)の役人
と 幕府側の地頭がいて、支配の対立をもたら
した。
■ 室町時代以後の地頭、国人。
地頭は、室町時代以後、国人(こくじん、
国人領主、国衆)とも呼ばれるようになる。
室町時代前期・中期では、守護領国制下で、
地頭は、 荘園や国衙領(公領)の現地支配者
となり、 地方の土豪、在地領主となる。 地頭
(国人領主)は、自立の気質が強く、 守護大名
の支配に反発する地頭(国人領主)も多く現わ
れる。
室町時代後期(戦国時代)に入ると、大名
領国制下、地頭(国人領主)は、戦国大名の家
臣団(上級家臣)に結集され、 室町時代後期
(戦国時代)、安土桃山時代、江戸時代初期に、
戦国大名、近世大名の家臣団(上級家臣)とな
る。
■ 国人 (こくじん、国人領主、国衆)とは、 室町
時代以後の地頭であり、 地方の土豪、在地領
主である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
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■ 攘夷派
(じょういは)。
■ 攘夷派。
■ 名称 : 攘夷派 (じょういは)。
■ 幕末に、 攘夷運動(じょういうんどう、外国勢力を武力で排除する運動)
を行う人(者)。 攘夷 とは、 外国勢力を排除する ということである。
■ 攘夷運動 (幕末の反幕府的・排外的政治運動) を行った人(者)。
■ 慎重派の攘夷派 と 急進派の攘夷派 に分かれていた。
■ 開国派 と対立した。
■ 更に、幕末に、尊王思想(そんのうしそう、皇室崇拝の思想)を重んじ、
攘夷運動(じょういうんどう、外国勢力を武力で排除する運動) を行った
人(者) を、 尊王攘夷派 と言う。
■ 急進派の攘夷派の人物の例 : 土佐藩士の、武市半平太 (た けち
はんぺいた)、 長州藩士の久坂玄瑞 (くさかげんずい)、 薩摩藩士の
有馬新七(ありましんしち)、 公家の三条実美 (さんじょうさねとみ) な
ど。
■ 慎重派の攘夷派の人物の例 : 土佐藩士の坂本龍馬 (さかもと りょ
うま)、 長州藩士の桂小五郎 (かつらこごろう、木戸孝允) など。
■ 幕末に在位していた、孝明(こうめい)天皇 (在位1846〜66年、攘夷
派、公武合体派) が、 「異人(いじん、外国人)嫌い」であったことも、 攘
夷派を活気づかせた。
■ 幕末の開国 直後に多かった攘夷派も、 その後、 欧米列強勢力に接
して、攘夷の不可能を知り 開国派へ転向する者が多く出た。
■ 攘夷派の一部は、 安政の大獄(1858〜59年)の始まる1858年頃
より、 幕府に反感を強め、 江戸幕府では日本の政治改革はできないと
考えるようになり、徐々に、倒幕派にもなり、 攘夷・倒幕派が増えていく。
■ 幕末の開国 (1854〜55年の4か国和親条約締結) 直後に多かった
攘夷派も、 その後、 欧米列強勢力に接して、 攘夷の不可能を知り 開
国派へ転向する者が多く出た。 1863年の薩英戦争での敗北により薩摩
藩の攘夷派の一部が開国派へ転向する。 1864年の四国艦隊下関砲撃
事件での敗北により、 長州藩の攘夷派の一部が開国派へ転向する。
■ 攘夷派の志士の一部には、後に、攘夷 (じょうい、外国勢力を武力で排
除すること) は無理だと考え、 開国派に転向する人々もいた。
● 坂本龍馬(さかもとりょうま)や桂小五郎(かつらこごろう) は、 初めは、
攘夷派の志士であったが、 その後、開国派の志士に転向する。 そのた
めに、 後に、攘夷派に命を狙(ねら)われることにもなる。
■ 攘夷派 (じょういは) は、 幕末に、 攘夷運動 (じょういうんどう、外
国勢力を武力で排除する運動) を行う人(者) である。
■ 攘夷派 は、 攘夷運動 (幕末の反幕府的・排外的政治運動、 外国人
を武力で日本から追い出す運動) を行った人(者) である。 急進派の攘
夷派の人物には、 土佐藩藩士の、武市半平太 (たけちはんぺいた)、
公家の三条実美 (さんじょうさねとみ) などがいる。
■ さらに、幕末に、尊王思想 (そんのうしそう、皇室崇拝の思想) を重ん
じ、 攘夷運動 (じょういうんどう、外国勢力を武力で排除する運動) を行
う人(者)を、 尊王攘夷派 (そんのうじょういは) と言う。 略して、 尊攘
派 (そんじょうは) とも言う。 土佐藩士の、武市半平太も、尊攘派の1人
である。
■ 幕末(江戸時代末期)に、 江戸幕府が1854〜55年に、和親条約を欧
米列強と結び、 鎖国をやめ開国に踏(ふ)み切ると、 開国派 (かいこく
は) と 攘夷派(じょういは) が、 日本国内で、 激しく対立した。 攘夷
派(じょういは)の多くの人(者)は、 江戸幕府批判の傾向を強くし、 尊王思
想を掲(かか)げて、攘夷運動 を行い、 尊王攘夷派(尊攘派) とも呼ばれ
た。
♪♪ 尊王攘夷派(尊攘派) が登場する、
興味深い、ドキュメンタリー、ドラマ、
映画。
● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。
歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) と
架空の出来事が 混じって描かれています。 また、
現代風にアレンジしてあります。
■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 。
(NHKテレビ・2010年大河ドラマ)。
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■ 柴田 勝家
(しばた かついえ)。
■ 柴田 勝家。
■ 生没年 : 1522年〜1583年。
■ 柴田 勝家 (しばた かついえ)。
■ 戦国、安土桃山時代の武将。
■ 織田信長の重臣。
■ 柴田 勝家 (しばた かついえ、生没年 1522〜83年) は、戦国
時代、安土桃山時代の武将 で、 織田信長の重臣 であった。
■ 柴田 勝家は、 1582年の本能寺の変での主君の織田信長の死後、
豊臣秀吉(羽柴秀吉) と対立する。 信長の妹のお市と婚儀を結び、
1583年に、秀吉軍との戦いである、賤ヶ岳の戦(しずがたけのたたか
い)に敗れ、 勝家は、 退却した本拠地の越前(えちぜん、福井県)の
北庄城(きたのしょうじょう、北ノ庄城、北の庄城、福井県福井市の勝家
の居城)で、 勝家は、 秀吉軍に囲まれて、 お市と共に、自害(自殺)
する。
■ 柴田 勝家と勝家の夫人のお市(おいち、信長の妹)は、 北庄城の
天守閣で、 爆死して(大量の火薬を爆破させて)自害する。
♪♪ 柴田勝家 が登場する、興味深
い関連ドキュメンタリー、ドラマ、
映画。
★ 柴田勝家が登場する、興味深い関
連ドラマ、映画。
● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。
歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実)
と 架空の出来事が 混じって描かれていま
す。 また、 現代風にアレンジしてあります。
■ 『 軍師 官兵衛 (ぐんし かんべえ) 』 。
(NHKテレビ・2014年大河ドラマ)。
■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、
江戸時代初期を描いたドラマ。
● 柴田 勝家を演じる俳優名 : 近藤 芳正
(こんどう よしまさ)。
● 織田信長を演じた俳優名 : 江口洋介
(えぐち・ようすけ)。
■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』 。
(NHKテレビ・2011年大河ドラマ)。
● 柴田 勝家を演じる俳優名 : 大地 康夫。
■ 『 天地人 (てんちじん) 』 。
(NHKテレビ・2009年大河ドラマ)。
■ 『 寧々〜おんな太閤記
(ねね おんなたいこうき) 』 。
(テレビ東京・2009年制作・
テレビドラマ)。
● 柴田 勝家を演じた俳優名 : 柴 俊夫。
■ 『 信長 KING OF ZIPANGU 』 。
(NHKテレビ・1992年大河ドラマ)。
■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代の
時代状況やその時代に活躍した人物を描く。
● 柴田 勝家を演じた俳優名 : 滝田 栄。
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■ 小国首長政治
(しょうこくしゅちょうせいじ)。
■ 小国首長政治。
■ 時期 : 紀元前1世紀〜紀元5世紀。
■ 名称 : 小国首長政治 (しょうこくしゅちょうせいじ)。
■ 小国首長政治 (しょうこくしゅちょうせいじ) は、 紀元前1世紀〜
紀元5世紀の時期の、日本の政治形態 である。
■ (S1d) 小国首長政治 とは、 日本(倭国)各地の小地域の実力者
である、小国の首長が、 その小地域を統括する政治形態 である。
■ (S1d)⇒(S1g) 大和地方に成立した小国連合のヤマト王権 (大
和朝廷) が、日本(倭国)の他の小国や小国連合を次々に征服し、 日
本をほぼ統一したため、 (S1d) 小国首長政治 (前1〜5世紀) は、
(S1g) 豪族連合政治 (5〜7世紀) に移行する(へ変わる)。
■ (S) 日本の政治形態。
■ (S) 日本の政治形態。
(S1d) 小国首長政治 (前1世紀〜紀元後5世紀)⇒
(S1g) 豪族連合政治 (5〜7世紀) ⇒ (S2) 律令
政治 (7〜10世紀) ⇒ (S3) 摂関政治 (10〜11
世紀) ⇒ (S4) 院政 政治 (11〜12世紀) ⇒(S5)
政治 (近代天皇絶対主義政治) (19〜20世紀) ⇒
(S7) 現代国民主権政治 (現代主権在民政治) (20
〜21世紀の現在)。
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■ 小国分立自治制
(しょうこくぶんりつじちせい)。
■ 小国分立自治制。
■ 時期 : 紀元前1世紀〜紀元5世紀。
■ 名称 : 小国分立自治制 (しょうこくぶんりつじちせい)。
■ 小国分立自治制 (しょうこくぶんりつじちせい) は、 紀元前1世
紀〜紀元5世紀の時期の、日本の土地人民統治制度 である。
■ (T1d) 小国分立自治制 (前1〜 5世紀) とは、 余剰生産物
をめぐる争いの中で、強力な集落は周辺のいくつかの集落を統合し
日本(倭国)各地に小国ができたが、 その小国の首長が、 民衆を
統治する制度 である。
■ (T1d) ⇒ (T1g) 大和地方に成立した小国連合のヤマト王権
(大和朝廷) が、 日本(倭国)の他の小国や小国連合を次々に征服
し、 日本をほぼ統一したため、 (T1d) 小国分立自治制 (前1
〜5世紀) は、 (T1g) 豪族土地人民支配制 (5〜7世紀) に移
行する(へ変わる)。
■ (T) 日本の土地人民統治制度。
(T1d) 小国分立自治制 (前1〜 5世紀) ⇒ (T1g) 豪族土地人
民支配制 (5〜7世紀) ⇒ (T2) 公地公民制 (7〜10世紀) ⇒
(T3) 荘園・公領制 (10〜16世紀) ⇒ (T4) 大名領国制 (16
〜19世紀) ⇒ (T5) 近代制限議会内閣制 (19〜20世紀) ⇒
(T6) 現代国民主権民主制(20〜21世紀の現在)。
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■ 小国分立自治政権
(しょうこくぶんりつじちせいけん)。
■ 小国分立自治政権。
■ 名称 : 小国分立自治政権 (しょうこくぶんりつじちせいけん)。
■ 時期 : 紀元前1世紀〜紀元5世紀。
■ 小国分立政権。
■ 紀元前1世紀に、日本各地に、小国が生まれ、小国分立自治政権が樹立さ
れ、 紀元5世紀に、それらの小国が、ヤマト王権(大和朝廷)により統一され、
日本各地の小国分立自治政権 は、消滅する。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 小国分立自治政権 (しょうこくぶんりつじちせいけん) は、紀元前1世紀
から紀元5世紀までで、 紀元前1世紀に、日本各地に、小国が生まれ、小国
分立自治政権が樹立され、 紀元5世紀に、それらの小国が、ヤマト王権(大
和朝廷)により統一され、 日本各地の小国分立自治政権 は、消滅する。
■ 小国首長政治 (しょうこくしゅちょうせいじ) は、 紀元前1世紀〜紀元5
世紀の時期の、日本の政治形態 である。
■ (S1d) 小国首長政治 とは、 日本(倭国)各地の小地域の実力者である、
小国の首長が、 その小地域を統括する政治形態 である。
■ 小国分立自治制 (しょうこくぶんりつじちせい) は、 紀元前1世紀〜紀元
5世紀の時期の、日本の土地人民統治制度 である。
■ (T1d) 小国分立自治制 (前1〜 5世紀) とは、 余剰生産物をめぐる
争いの中で、強力な集落は周辺のいくつかの集落を統合し日本(倭国)各地に
小国ができたが、 その小国の首長が、 民衆を統治する制度 である。
■ (T1d) ⇒ (T1g) 大和地方に成立した小国連合のヤマト王権(大
和朝廷) が、 日本(倭国)の他の小国や小国連合を次々に征服し、
日本をほぼ統一したため、 (T1d) 小国分立自治制 (前1〜 5
世紀) は、 (T1g) 豪族土地人民支配制 (5〜7世紀) に移行す
る(へ変わる)。
■ (T) 日本の土地人民統治制度。
(T1d) 小国分立自治制 (前1〜 5世紀) ⇒ (T1g) 豪族土地人民
支配制 (5〜7世紀) ⇒ (T2) 公地公民制 (7〜10世紀) ⇒
(T3) 荘園・公領制 (10〜16世紀) ⇒ (T4) 大名領国制 (16
〜19世紀) ⇒ (T5) 近代制限議会内閣制 (19〜20世紀) ⇒
(T6) 現代国民主権民主制(20〜21世紀の現在)。
■ (S1d)⇒(S1g) 大和地方に成立した小国連合のヤマト王権 (大和
朝廷) が、日本(倭国)の他の小国や小国連合を次々に征服し、 日
本をほぼ統一したため、 (S1d) 小国首長政治 (前1〜5世紀) は、
(S1g) 豪族連合政治 (5〜 7世紀) に移行する(へ変わる)。
■ (S) 日本の政治形態。
(S1d) 小国首長政治 (前1〜5世紀) ⇒ (S1g) 豪族連合政治
(5〜7世紀) ⇒ (S2) 律令政治 (7〜10 世紀) ⇒ (S3) 摂
関政治 (10〜11世紀) ⇒ (S4) 院政(11〜12世紀) ⇒ (S5)
武家政治 (12〜19世紀) ⇒ (S6) 近代天皇親政政治 (近代天
皇絶対主義政治)(19〜20世紀) ⇒(S7) 現代国民主権政治 (現
主代権在民政治) (20〜21世紀の現在)。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
■ 小国分立政権
(しょうこくぶんりつせいけん)。
■ 小国分立政権。
■ 名称 : 小国分立政権 (しょうこくぶんりつせいけん)。
■ 時期 : 紀元前1世紀〜紀元5世紀。
■ 小国分立自治政権。
■ 紀元前1世紀に、日本各地に、小国が生まれ、小国分立政権が樹立さ
れ、 紀元5世紀に、それらの小国が、ヤマト王権(大和朝廷)により統一
され、日本の小国分立政権 は、消滅する。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 小国分立政権 (しょうこくぶんりつせいけん) は、 紀元前1世紀から
紀元5世紀までで、 紀元前1世紀に、日本各地に、小国が生まれ、小国
分立政権が樹立され、 紀元5世紀に、それらの小国が、ヤマト王権 (大
和朝廷)により統一され、 日本各地の小国分立政権 は、消滅する。
■ 小国首長政治 (しょうこくしゅちょうせいじ) は、 紀元前1世紀〜紀元
5世紀の時期の、日本の政治形態 である。
■ (S1d) 小国首長政治 とは、 日本(倭国)各地の小地域の実力者で
ある、小国の首長が、 その小地域を統括する政治形態 である。
■ 小国分立自治制 (しょうこくぶんりつじちせい) は、 紀元前1世紀〜
5紀元世紀の時期の、日本の土地人民統治制度 である。
■ (T1d) 小国分立自治制 (前1〜 5世紀) とは、 余剰生産物をめ
ぐる争いの中で、強力な集落は周辺のいくつかの集落を統合し日本(倭
国)各地に小国ができたが、 その小国の首長が、 民衆を統治する制度
である。
■ (T1d) ⇒ (T1g) 大和地方に成立した小国連合のヤマト王権(大
和朝廷) が、 日本(倭国)の他の小国や小国連合を次々に征服し、
日本をほぼ統一したため、 (T1d) 小国分立自治制 (前1〜 5
世紀) は、 (T1g) 豪族土地人民支配制 (5〜7世紀) に移行す
る(へ変わる)。
■ (T) 日本の土地人民統治制度。
(T1d) 小国分立自治制 (前1〜 5世紀) ⇒ (T1g) 豪族土地人民
支配制 (5〜7世紀) ⇒ (T2) 公地公民制 (7〜10世紀) ⇒
(T3) 荘園・公領制 (10〜16世紀) ⇒ (T4) 大名領国制 (16
〜19世紀) ⇒ (T5) 近代制限議会内閣制 (19〜20世紀) ⇒
(T6) 現代国民主権民主制(20〜21世紀の現在)。
■ (S1d)⇒(S1g) 大和地方に成立した小国連合のヤマト王権 (大和
朝廷) が、日本(倭国)の他の小国や小国連合を次々に征服し、 日
本をほぼ統一したため、 (S1d) 小国首長政治 (前1〜5世紀) は、
(S1g) 豪族連合政治 (5〜 7世紀) に移行する(へ変わる)。
■ (S) 日本の政治形態。
(S1d) 小国首長政治 (前1〜5世紀) ⇒ (S1g) 豪族連合政治
(5〜7世紀) ⇒ (S2) 律令政治 (7〜10 世紀) ⇒ (S3) 摂
関政治 (10〜11世紀) ⇒ (S4) 院政(11〜12世紀) ⇒ (S5)
武家政治 (12〜19世紀) ⇒ (S6) 近代天皇親政政治 (近代天
皇絶対主義政治)(19〜20世紀) ⇒(S7) 現代国民主権政治 (現
主代権在民政治) (20〜21世紀の現在)。
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■ 白洲次郎
(しらすじろう)。
■ 白洲次郎。
■ 生没年:1902年〜1985年。
■ 名称 : 白洲 次郎 (しらす じろう)。
■ 近衛文麿のブレーン、 吉田茂の側近。
■ 終連(終戦連絡中央事務局)の参与、次長(19
45〜47年)として、 日本政府の対GHQ交渉
役 となる。
■ 貿易庁初代長官(1948年)。 通商産業省(経
済産業省)の設立に尽力。
■ 吉田茂と共に、 サンフランシスコ平和条約の締
結に尽力する (1950〜51年)。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 白洲 次郎 (しらす じろう、 生没年:1902年
〜1985年) は、 戦前は、近衛文麿のブレーン、
戦後は、吉田茂の側近 であった。
■ 白洲 次郎 は、戦後、 終連(終戦連絡中央事務
局)の参与、次長(1945〜47年)として、 日本
政府の対GHQ交渉役 となる。 その後、 戦後
の日本の輸出振興に尽力し、 貿易庁初代長官と
なり、 通商産業省(現在の経済産業省)の設立に
中心的役割をはたす。
■ 白洲 次郎 (しらすじろう) は、 吉田茂と共に、
サンフランシスコ平和条約の締結に尽力する
(1950〜51年)。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 白洲 次郎 は、車好きで、 ケンブリッジ大卒(19
25年)であり、 イギリスのストラッフォード伯爵ロ
バート・セシル・ビング (愛称:ロビン)と親友で、
一緒にヨーロッパ大陸をドライブ旅行した。
♪♪ 白洲 次郎 が登場する、興味深い、
ドキュメンタリー、ドラマ、映画。
♪♪ 白洲 次郎 が登場する、興味深い、
ドラマ、映画。
■ 『 白洲次郎 (しらすじろう) 』
(2009年NHKドラマスペシャル)。
■ 白洲次郎を演じた俳優 : 伊勢谷 友介。
■ 白洲正子を演じた俳優 : 中谷 美紀。
■ 吉田茂を演じた俳優 : 原田 芳雄。
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■ 白拍子
(しらびょうし)。
■ 白拍子。
■ 時期 : 平安時代〜室町時代。
■ 名称 : 白拍子 (しらびょうし)。
■ 舞い歌う遊女 (ダンサー、歌手を兼ねた、娼婦)。
■ 白拍子 (しらびょうし) は、平安時代から室町時代までの
時期に現れた、舞い歌う遊女 で、 ダンサー、歌手を兼ねた、
娼婦 である。
■ 白拍子 (しらびょうし) は、烏帽子(えぼし)、水干(すいか
ん)の男装をし、 今様などを歌いながら、 美しく舞った。
■ 白拍子として、 源義経(みなもとのよしつね)の恋人の静御
前(しずかごぜん) が、有名である。
♪♪ 白拍子 が登場する、興味深い、ドラマ、映画。
■ 『 義経 (よしつね) 』 (NHK2005年大河ドラマ)。
■ 『 太平記 (たいへいき) 』 (NHK1991年大河ドラマ)。
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■ 新選組
(しんせんぐみ)。
○ ドラマ「新選組血風録」で、京(都)の治安を守る新選組。
■ 新選組。
■ 名称 : 新選組(しんせんぐみ)。
● 別名 : 新撰組(しんせんぐみ)。
■ 新選組の前身は、壬生浪士組である。
■ 《治安警備隊・軍隊》。
■ 存在期間 :
1863年(文久3年)〜1869年(明治2年)。
■ 1863年3月に、壬生浪士組(みぶろうしぐみ)
として結成され、1863年9月に、新選組と改 称
する。
■ 新選組は、
江戸幕府(徳川氏)勢力の浪士隊であり、江戸
幕府(徳川氏)勢力の治安警備隊・軍隊である。
■ 新選組は、
初め、会津藩預り浪士隊で、
後に、江戸幕府(徳川氏)直属の浪士隊となる。
■ 新選組は、
幕末の関西では、京(都)の治安警備隊であり、
幕末の京(都)の治安維持に貢献する。
明治初期の東日本では、軍隊として、活躍する。
■ 新選組は、
勇気ある戦士たちであった。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 関連画像。
■ 新選組。
■ 新選組 (しんせんぐみ、= 新撰組、壬生浪
士組、1863年〜1869年)は、
江戸幕府(徳川氏)勢力の浪士隊であり、
江戸幕府(徳川氏)勢力の治安警備隊・軍隊
である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 新選組は、初め、会津藩預り浪士隊であり、
後に、江戸幕府(徳川氏)直属の浪士隊となる。
■ 新選組は、 1867年(慶応3年)まで、近畿
地方で、江戸幕府(徳川氏)勢力の治安警備
隊として、幕末の京(都)の治安警備に貢献
する。
新選組は、1868年(慶応4年)以後は、
近畿、東日本の関東、東北、北海道地方で、
旧江戸幕府(徳川氏)勢力の軍隊として、活
躍する。
勇気ある戦士たちであった。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 一方、新徴組 (しんちょうぐみ)は、
江戸幕府(徳川氏)勢力の浪士隊であり、
幕末の江戸の治安警備にあたる。
■ 新選組。
■ 新選組は、 1963年(文久(ぶんきゅう)3年)
に結成され、 会津藩預かりとなり、 江戸幕
府勢力の京都守護職の会津藩配下となり
(会津藩預りの浪士組、1863年〜1867年)、
後に、江戸幕府配下(幕府直属浪士隊、1867
年〜1869年) となる。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 新選組は、
幕末の1863年(文久3年)から1867年(慶応
3年)まで、江戸幕府(徳川氏)勢力による京(都)
の治安の一部を担う。
■ 新選組の局長は、 近藤 勇 (こんどういさみ)
であり、 新選組の副長は、 土方 歳三 (ひじ
かた としぞう) である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 新選組。
■ 新選組は、 1863年(文久3年)から1869年
(明治2年)まで存続した江戸幕府(徳川氏)勢
力の浪士隊である。
■ 新選組(しんせんぐみ)は、
新撰組(しんせんぐみ)とも記される。
1863年(文久(ぶんきゅう)3年)に、新選
組が、結成される。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 新選組は、 幕末、 江戸幕府(徳川氏)勢
力の治安部隊として、 京(都)及び京(都)
周辺の治安維持(警察活動)に活躍し、
八月十八日の政変、禁門の変、戊辰(ぼし
ん)戦争では、江戸幕府(徳川氏)勢力の軍
隊として、活躍する。
■ 新選組は、
その中核のメンバーに、近藤勇が道場主の、
「試衛館」(試衛場)の門弟や食客が多くいた。
「試衛館」 (しえいかん、別名:試衛場、
現・東京都新宿区市谷柳町25番地)は、
江戸時代末期に江戸市中にあった、天然理
心流剣術の道場である。 近藤周助が道場主
であり、後に、周助の養子となった近藤勇が
4代目を継ぐ。
試衛館(試衛場)の門弟には、土方歳三、
沖田総司、井上源三郎、山南敬助などがおり、
試衛館の食客には、永倉新八、原田佐之助、
藤堂平助、斎藤一などである。
■ 新選組の各人。
■ 新選組の、近藤勇。
■ 近藤勇 (こんどういさみ、1834年〜18
68年)は、
武蔵国(むさしのくに、現・東京都・埼玉県
相当地域)の多摩(たま、現・東京都多摩
地区)の農民出身で、江戸時代末期に江
戸市中にあった、天然理心流剣術の道
場「試衛館」(しえいかん)の道場主となり、
その後、新選組の局長となり、新選組を
指導する。
■ 下総流山(しもうさながれやま)の戦い
(1868年4月2〜3日)で、新選組の局長
の近藤勇(こうんどういさみ)は、4月3日に
投降し、 1868年4月25日に、板橋刑場
(東京都板橋区付近)で、斬首される。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 新選組の、土方歳三。
■ 土方歳三(ひじかたとしぞう)は、
武蔵国(むさしのくに、現・東京都・埼玉県
相当地域)の多摩(たま、現・東京都多摩
地区)の農民出身で、江戸の道場「試衛
館」(試衛場)の門弟で、多摩道場(佐藤
彦五郎の試衛館多摩支部道場)で剣術を
習い、そこに稽古の指導に来ていた近藤
勇と交流を深め、 その後、新選組の副
長となり、新選組の組織を支える。
■ 箱館(函館)戦争(1869年4〜5月)で、
1869年(明治2年)5月11日に、 箱館
(函館の旧名)の一本木関門付近の戦いで、
銃弾にあたり、戦場で、戦死する。
■ 新選組の、沖田総司と永倉新八。
■ 沖田総司は、江戸の道場「試衛館」の門弟
で、永倉新八は、「試衛館」の食客であった。
新選組の殺人剣の中で、 ことに沖田総司
(おきたそうじ)、永倉新八(ながくらしんぱち)
の腕前は、恐ろしく、 剣の名手というよりは
人斬り名人として有名である。
■ 新選組の、斎藤 一。
■ 斎藤 一(さいとう はじめ)は、 山口二郎、
藤田五郎とも称す。
■ 幕末、明治初期に、斎藤 一は、 新選組隊
員・幹部として、京(都)の治安、会津戦争で
活躍する。 旧会津藩士の娘と結婚する。
■ 斎藤 一は、 会津戦争時に捕虜(ほりょ)と
なり、 その後、藤田五郎と称し、明治期には、
明治政府の警官となり、 1877年(明治10
年)の西南戦争では、明治政府軍警察部隊で、
西郷軍と戦い、活躍する。
■ 新選組の結成。
■ 1863年(文久(ぶんきゅう)3年)3月に、
壬生浪士組(みぶろうしぐみ)が、結成され、
その後、会津藩預りとなり、 その後、同年
9月に新選組と改称する。
壬生浪士組(みぶろうしぐみ)は、
1863年(文久3年)に、会津藩主・松平容
保(まつだいらかたもり)の前で武力を披露
し、評価され、 会津藩預りの部隊(松平肥
後守御預)となる。
■ 京(都)で、 1863年(文久3年)3月12日
に結成された壬生浪士組(みぶろうしぐみ)は、
その後、会津藩預りとなり、 1863年(文久
3年)9月25日に、新選組と改称する。
新選組の名称は、江戸中期に会津藩に
あった精鋭部隊の名称であり、 会津藩より
与えられた名称である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 京(都)で、1863年(文久3年)3月12日に、
近藤 勇(こんどういさみ)、 土方 歳三(ひじ
かた としぞう)、 芹沢 鴨(せりざわ かも)、
殿内 義雄、 家里 次郎 らが、中心となって、
壬生浪士組 (みぶろうしぐみ)が、 結成され
る (創設時約24名)。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 壬生浪士組では、 内部抗争で、 殿内義雄
は、1863年(文久3年)3月25日に、粛清
(しゅくせい)され、 家里次郎は、1863年
(文久3年)4月24日に、粛清され、 芹沢鴨
(せりざわかも)は、1863年(文久3年)9月
18日に、粛清(しゅくせい)され 、 死去する。
■ 幕末の京の治安維持で活躍する
新選組。
■ 京(都)治安維持での新選組の活躍。
■ 新選組は、幕末、明治時代初めの幕府勢力
の治安警備隊、軍隊である。
■ 新選組は、幕末の京(都)及び京(都)周辺
の治安維持に貢献する。
■ 新選組は、 江戸幕府(徳川氏)勢力の京都
所司代、会津藩兵、見廻組(みまわりぐみ)と
共に、 幕末の京(都)及び京(都)周辺の治
安を回復させ、 幕末の京(都)及び京(都)周
辺の治安維持に貢献する。
■ 新選組は、
江戸幕府(徳川氏)支配下の京(都)や京(都)
周辺の治安維持にあたり、 また、尊皇(王)攘
夷派、尊皇(王)倒幕派の志士など反幕府勢
力を弾圧する。
■ かっては、尊王攘夷派志士は、 京(都)で、
「天誅(てんちゅう)」と称して、佐幕派、公武
合体派の人々を殺戮(さつりく)したり、威嚇
(いかく)したりしたが、 1863年(文久3年)
から今度は逆に、 新選組の隊員の刃(やい
ば)が、 尊王攘夷派志士に襲いかかる。
■ 1862年(文久2年)〜1863年(文久3年)
に、 尊皇(王)攘夷派の、武市半平太は、
京(都)での、政敵や佐幕派、公武合体派、開
国派などの数々の人々の暗殺に関与し、同志
の刺客を放ち、天誅(てんちゅう)、斬奸と称し
て、 彼らを暗殺させた。
武市半平太の下で動いていた人物では、
の田中新兵衛などが有名である。
■ 1863年(文久3年)8月からは(1867年
(慶応3年)まで)、 京(都)及び京(都)周辺
では、 京都所司代の他に、 佐幕派の、会津
新選組(しんせんぐみ)などが、 京(都)及び
京(都)周辺での治安を守るようになると、
尊皇(王)攘夷派、尊皇(王)倒幕派の尊皇
(王)志士達は、 京(都)での活動 や 佐幕
派、公武合体派の人々の暗殺や威嚇(いか
く)が難しくなり、 逆に、追われる立場に なっ
ていった。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 池田屋事件。
● 1864年(元治(げんじ)元年)の池田屋事件
で、日本中に 新選組の名が、知れ渡る。
● 1864年(元治(げんじ)元年)6月5日に、
京(都)の池田屋に集まった尊王攘夷派志
士に、 新選組の隊士・約20人が斬り込む。
新選組が、志士の9人を殺害し、23人を捕
縛する。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 明治初期の戊辰戦争(ぼしんせんそう、
1868年1月〜1869年5月)での
新選組の参戦と活躍。
■ 1868年(慶応4年、明治元年)に、
鳥羽伏見の戦い(1868年1月3日)、
淀千両松の戦い(1868年1月5日)、
橋本の戦い(1868年1月6日)、
甲斐勝沼の戦い(1868年3月6日)、
下総流山(しもうさながれやま)の戦い
(1868年4月2〜3日)、
宇都宮城の戦い(1868年4〜5月)、
白河口(しらかわぐち)の戦い(1868年
6〜7月)、
母成峠(おなりとうげ)の戦い(1868年
8月21日、会津戦争の1つ) 、
で、 新選組は、 明治新政府軍(近 代日
本政府の軍隊)と戦って、敗(やぶ)れる。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 近藤勇の死去。
■ 下総流山(しもうさながれやま)の戦い(18
68年4月2〜3日)で、 新選組の 局長の
近藤勇(こうんどういさみ)は、 4月3日に
投降し、 1868年4月25日に、 板橋刑場
(東京都板橋区付近)で、 斬首される。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 明治改元。
■ 1868年9月に、「明治」改元となる。
1868年9月8日に、慶応4年が明治元年
となる。
■ 新選組の消滅。
■ 1869年(明治2年)の、箱館(函館)戦争
(1869年4〜5月)では、 北海道の、二股
口(ふたまたぐち)の戦い(1869年4月)、
箱館(はこだて、函館の旧名)の、弁天台場
(べんてんだいば)の戦い(1869 年5月)で、
新選組は、明治新政府軍と戦う。
■ 相馬主計の率いる弁天台場を守備する
新選組は、 弁天台場で、1869年(明治
2年)5月14日に明治新政府軍に降伏し、
箱館(函館)を本拠とする旧幕府軍も1869
年(明治2年)5月18日に 降伏し、 ここに、
新選組は、四散し、消滅する。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 土方歳三の死去。
■ 土方歳三(ひじかたとしぞう)は、
箱館(函館)戦争(1869年4〜5月)で、
1869年(明治2年)5月11日に、 箱館
(函館の旧名)の一本木関門付近の戦いで、
銃弾にあたり、戦場で、戦死 する。
#-appearingscenes
♪♪ 新選組が登場する、興味
深い、ドキュメンタリー、
ドラマ、映画。
★ 新選組が登場する、興味深
い関連ドキュメンタリー。
■ 歴史秘話ヒストリア
『 新選組最強ヒーロー!斎藤一
〜会津藩・松平容保との絆〜 』。
(NHKテレビ の2013年(H25年)4月
24日・本放送・歴史ドキュメンタリー
番組)。
■ 新選組 や 斎藤一を述べる。
■ 片岡愛之助の解明!歴史捜査
『 最新歴史捜査ファイルA
新選組 近藤勇・土方歳三
の剣と死 』。
(日テレ・テレビの 2016年3月24日・
本放送・歴史ドキュメンタリー番組)。
■ 新選組 や 近藤勇、土方歳三を述べる。
■ 歴史秘話ヒストリア
『 ずっと気張っていたかった
〜新選組 土方歳三の
生きる道〜 』。
(NHKテレビ の2012年 (H24年)5月
9日・本放送・歴史ドキュメンタリー番組)。
■ 新選組 や 土方歳三を述べる。
■ 歴史秘話ヒストリア
『 新選組 京都青春録
〜素顔の沖田・土方・近藤〜 』。
(NHKテレビ・2009年 (H21年)5月
13日・本放送・ドキュメンタリー番組・
第6回)。
■ 新選組 や 近藤勇、土方歳三を述べる。
★ 新選組が登場する、興味深
い関連ドラマ、映画。
● (注意) ドラマ、映画は、フィクションです。
歴史のドラマや映画は、 史実(歴史上の事
実) と 架空の出来事が、 混じって、描か
れています。 また、現代風にアレンジして
あります。
■ 『 新選組血風録
(しんせんぐみけっぷうろく) 』 。
(NHKテレビの2011年スペシャルドラマ)。
■ 日本の、幕末(江戸時代末期)を描いた
ドラマ。
■ 幕末の、新撰組の活躍を描いたテレビ
ドラマ。
○ ドラマ「新選組血風録」のPRフォト。
■ 『 新選組! (しんせんぐみ) 』 。
(NHKテレビの2004年大河ドラマ)。
■ 日本の、幕末(江戸時代末期)を描いた
ドラマ。
■ 幕末、明治初期の新選組の活躍 や
近藤勇や土方歳三の生涯を描いた
テレビドラマ。
● 近藤勇(こんどういさみ)を演じた
俳優名 : 香取慎吾 (SMAP)。
● 土方歳三(ひじかたとしぞう)を演
じた俳優名 : 山本 耕史。
○ ドラマ「新選組」の書籍販促PRフォト。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
『 あなたのハートには
何が残りましたか? 』。
以 上。