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◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY 

   HANDBOOK

 

 

 カナヤマ 日本歴史辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 か 』。

 

 

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メ ニュー (目次)。  

 ■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

 

□ 日本史 辞典 (総合)

 

□      ● 五十音順 (アイウエオ順)。

 

 □ 見出し語 かか

 □ 見出し語 かさ

 □ 見出し語 かな

 □ 見出し語 かま

 □ 見出し語 かまくらさ

 □ 見出し語 かまくらは

 □ 見出し語 から

 

 

 かい   改易

             (かいえき)。 《領地》。

                           (= 領地没収)。

          (⇒ 領地江戸幕府)。

          ○ 改易とは、

          領地(所領)を没収(ぼっしゅう)

              することである。 

          ○ 改易とは、

           封建制の武士支配者の

           領地(封土)政策の1つ

           である。

          ○ 改易とは、

           江戸時代では、

           江戸幕府の命令で、大名

           (藩主)の領地(所領)を没

           収することである。 

                         ■ 改易(かいえき)とは、 

              領地(所領)を没収(ぼっしゅう)

              することである。

                        ● 改易は、

               封建・武士支配者の領地(封土)

              政策の1つである。

                        ■ 江戸時代では、 改易は、 

              江戸幕府の命令で、大名(藩主)

              の領地(所 領)を没収することで

                     ある。 

 

 かい  開国

             (かいこく)。  《海外政策》。

                           (1858年ー現在)。

          ○ 日本の江戸幕府の海外

           政策には、鎖国と開国があ

                  る。

          ○ 幕末に、日本は、欧米5

          カ国と修好通商条約を結び、

          貿易を始め、完全開国する。

          ○ 日本の完全開国者は、

          井伊直弼(いいなおすけ)であ

          る。

                        ■ 日本の開国には、 1854年の

             老中・阿部正弘主導の欧米諸国との

             和親条約締結による部分開国 と、 

             1858年の大老・井伊直弼主導の

                          欧米諸国との修好通商条約締結に

             よる完全開国 がある。

 

 かい  開国派

                     (かいこくは)。 《政争》。 

                     (= 開明派)。

           ○ 幕末に、日本を開国して欧米

             の進んだ科学技術・文化を積極

            的に採り入れ、日本を発展させよ

          うとした者(人)。  

          ○ 例、 幕臣の勝海舟、土佐藩

          士の吉田東洋。

              ■ 開国派  (かいこくは、= 開明派)とは、

             幕末に、日本を開国して欧米 の進んだ

                学技術・文化を積極的に採り入れ、日本を

               発展させようとした者(人)である。

                開国派には、幕臣の勝海舟、土佐藩士

             の吉田東洋などがいる。

 

 かい  開国派と攘夷派との対立。

             (かいこくはとじょういはとのたいりつ)。

          (幕末の政争)。 《政争》。

             (1853年ー1867年頃)。

        (⇒ 幕末日本政治・

        政争変遷一覧表)。

              ■ 幕末、開国派と攘夷派 (かいこくは

             とじょういは) が、 1853年から1867

             年頃まで、対立する。

 

 かい  開国派と尊皇(王)攘夷派

        との対立。 

             (かいこくはとそんのうじょういはとのたいりつ)。

          (幕末の政争)。 《政争》。

           (1853年ー1860年頃)。

        (⇒ 幕末日本政治・

        政争変遷一覧表)。

              ■ 幕末、開国派と尊皇(王)攘夷派 (かいこ

             くはとそんのうじょういは) が、 1853年か

             ら1860年頃まで、対立した。

 

 かい  海援隊

             (かいえんたい)。 

          《貿易・海軍組織》。

             (1867年ー1868年)。

          ○ 亀山社中(1865〜67年)

          後身。

 

 かい  海軍塾

             (かいぐんじゅく)。 《訓練学校》。

             ○ 勝海舟が海軍養成のため

          設立した私塾。

 

 かい  海軍操練所。

             (かいぐんそうれんじょ)。 《訓練学校》。

             (⇒ 神戸海軍操練所)

 

 かい  海舟。

             (かいしゅう)。 《人名》。

          (= 勝 海舟、勝 麟太郎)。

          (⇒ 勝 海舟)。

 

 かい  会衆派。 

             (かいしゅうは)。 《キリスト教》。

          (キリスト教・プロテスタントの一派)。

          (⇒ 新島襄キリスト教)。

             ■ 会衆派 (かいしゅうは)は、 新島襄

             (アーモスト大学出身)、新島八重が属した、

              キリスト教の一派である。

             ● 会衆派は、 キリスト教・プロテスタントの

             カルビン派のピューリタン系会衆派 である。

             ● 会衆派は、 教育熱心で、米でハーバード

             大、イェール大、アーモスト大学、オベリン大学

             などの教育機関をつくる。

 

 かい  改税約書 。

             (かいぜいやくしょ)。 貿易協約》。

           (⇒ 条約改正)。 

             ■ 改税約書 (かいぜいやくしょ)は、 

             1866年に、日本の江戸幕府が英・

             仏・米・蘭の欧米諸国と結ん貿易協約 

             である。

             ● 改税約書は、 

             低率関税の規定がある、不平等条約

             であった。

 

 かい  快川紹喜

             (かいせんじょうき)。 《人名》。

          (= 快川和尚 (かいせんおしょう))。

          (生年不明ー1582年)。

             ■ 快川紹喜  (かいせんじょうき、= 快川

             和尚(かいせんおしょう)) は、 禅僧であ

             り、朝廷が信頼する国師(こくし)であった。

             ● 快川紹喜(= 快川和尚)は、 武田信

             玄に請(こ)われて、 武田氏菩提寺(ぼだ

             いじ)の、甲斐・恵林寺(かい・えりんじ)に

             入る。

             ● 快川紹喜(= 快川和尚)は、 1582年

             (天正10年)に、武田氏滅亡時、 甲斐国

             (かいのくに、現・山梨県相当地域)の、恵

             林寺で、武田氏討伐の織田軍に寺を囲ま

             れ、焼かれて、 「心頭滅却(しんとうめっ

             きゃく)すれば火も自(おの)ずから涼(す

             ず)し」 ととなえて、死去した(焼死する)。   

 

 かい  開拓使。

             (かいたくし)。 《地方行政機関》。

             (1869年ー1882年)。

           (⇒ 北海道の歴史)。 

             ■ 開拓使 (かいたくし、1869年ー1882

             年とは、 明治新政府(近代日本政府)が

             北海道や樺太(からふと、サハリン)の開拓と

             経営のために設置した、地方行政機関であ

             る。

 

○ かい  甲斐 国。

             (かい のくに)。 《旧地域名》。

          (= 甲州( こうしゅう))。

          ( 現・山梨県の相当地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国(令制

           国)の正式名)。

          KAI PROVINCE.

                    (⇒ 前近代日本の

          地域名)。

          ■ 甲斐 国。

             <東海道 (広域地方)。

             ■ 甲斐 国 (かい のくに)は、  律令制

             定後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             旧国(令制国)の正式名である

              ■ 甲州 (こうしゅう)は、  律令制定

             後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             旧国(令制国)正式名の、甲斐 国 

             (かい のくに) の別称である。

             ■ 甲斐 国(= 甲州)は、 現・中部地方

             の、現・ 山梨県 に相当する地域である。

             ■ 甲斐 国(= 甲州)は、 五畿七道の

             東海道(とうかいどう)・旧広域地方に属す

                          る。

 

 かい  戒名。

             (かいみょう)。 《 氏名》。

          (= 法名(ほうみょう)、法号(ほうごう))。

          (⇒ 前近代日本の人名) 。

          (⇒ 法名

          ○ 仏門に入った人に授ける名。

          ○ 前近代日本で個人名として生

            前に使用された法名。

          ○ 出家時などに称した前近代の

           個人名。

          ○ 前近代日本の個人名の1つ。

 

 がう  ガウタマ・シッダールタ。 

                    《仏教》。 《人名》。

          (= シッダールタ

           ブッダ(仏陀)、シャカ(釈迦))。

          (仏教の教祖)。

          (生没年: 紀元前563年頃〜

          前483年頃) (諸説あり)。

             GAUTAMA SIDDHARTHA。

                   (⇒ シッダールタ)。

                   (⇒ 仏教)。

                   (⇒ 教祖宗教)。

            (別名: シッダールタ、 ガウタマ・シッダ

             ールタ、 ゴータマ・シッダールタ、 シャ

            カムニ(釈 迦牟尼)、 釈迦牟尼(しゃか

            むに)、 シャカ(釈迦)、 釈迦(しゃか)、 

            釈尊 (しゃくそん)、 お釈迦様(おしゃか

            さま)、 ブッダ(仏陀)、 仏陀(ぶっだ)、 

            仏(ほとけ)、 仏様(ほとけさま)、 御仏

            (みほとけ))。

            ■ ガウタマ・シッダールタは、仏教教  

              祖(きょうそ、開祖、創始者) である。

            ● 教祖とは、 その宗教、宗派をひらい

              た人である。

            ● 宗教には、 教祖(きょうそ)、 教義

              (教え)、 教典(きょうてん)、 宗教内

              グループ(宗教内分派) などがある。

 

 かい  改元日。

             (かいげんび)。  《和暦》。

             THE ERA CHANGING DAY.

             ■ 改元日(かいげんび)とは、 日本

             年号(元号)を変更する日である。

                ◆ 改元日当日の新旧年号の所属。

             ■ 日本の歴史では、日本年号(元

             号)は、

             (a) 大化から昭和までの日本年号

             (元号)では、

             改元日の当日が、新年号の初日で

             あり、 改元日の当日が、旧年号の

             最終日である。

             (b) 平成と令和の日本年号(元号)

             では,

             改元日の当日が新年号の初日であ

             り、 改元日の前日が旧年号の最終

             日である。

             ■ 日本の歴史では、日本年号(元

             号)は、 平成と令和の年号を除き、

             改元日の当日は、新旧年号の双方

             の年号に属する。

             ● 日本の歴史では、日本年号(元

             号)は、

             当時の文書でそのときの日付に言及

             する場合、 

             (a)大化から昭和までの日本年号(元

             号)では、

             改元日の当日は新旧年号の双方の

             年号に属し、 

             (b) 平成と令和の日本年号(元号)

             では、

             改元日の当日は新年号に属し改元日

             の前日は旧年号に属する。

 

 かえ  嘉永。

             (かえい)。  《和暦》。

             THE KAEI ERA.

                     ○ 1848年ー1854年。

             ● 1848年・嘉永元年・ 2月28日〜

                1854年・嘉永 7年・11月27日。 

             ● 江戸時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

              ■ 嘉永 (かえい、英:THE 

                           KAEI ERA)とは、 和暦であり、 

             江戸時代後期の和暦年号であり、 

             1848年・嘉永元年・ 2月28日から

             1854年・嘉永 7年・11月27日まで

             である。   

             ■ 〈嘉永年号の、和暦→西暦/

                西暦→和暦の速算法〉。

             ○ 嘉永 A年+1847年=西暦 B年。

             ○ 西暦 B年1847年=嘉永 A年

                 ■ 「嘉永」の前後の和暦年号(元号):

              ● 安政 (あんせい):

               1854年ー1860年 。

               1854年・安政元年・11月27日〜

               1860年・安政 7年・ 3月18日。 

             ■ 幕末、明治時代の和暦年号(元号):

             ● 嘉永(かえい)⇒安政(あんせい)⇒

               万延(まんえん)⇒文久(ぶんきゅう)

               ⇒元治(げんじ)⇒慶応(けいおう)

               明治(めいじ)。

             嘉永元年〜7年 (1848〜1854年)⇒

             安政元年〜7年 (1854〜1860年)⇒

             万延元年〜2年  (1860〜1861年)⇒ 

             文久元年〜4年  (1861〜1864年)⇒ 

             元治元年〜2年  (1864〜1865年)⇒

             慶応元年〜4年  (1865〜1868年)⇒ 

             明治元年〜45年(1868〜1912年)。

 

 かお  加尾。

             (かお)。 《人名》。

                     (= 平井 加尾)。

          ○ 坂本龍馬の恋人。

        (⇒ 平井 加尾)

 

 かお  花押。

             (かおう)。 《署名》。 

             (= サイン)。

 

 かお  嘉応。

             (かおう)。 《和暦》。

             THE KAO ERA.

             ○ 1169 年ー 1171年。

             ● 1169年・嘉応元年・4月 8日〜

                1171年・嘉応 3年・4月21日。 

             ● 平安時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

#kaka

 

 かが  加賀 国。 

              (かが のくに)。 《旧地域名》。

          (= 加州(かしゅう))。 

           (≒ 現・石川県南部の相当 地域)。

           (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の

           旧国(令制国)の正式名)。

             KAGA PROVINCE.

                   (⇒ 前近代日本の

          地域名)。

          ■ 加賀 国。

             <北陸道 (旧広域地方)。

             ■ 加賀 国(かが のくに= 加州

             (かしゅう))は、 現・中部地方

             の、現在の石川県南部 に相当

             する 地域である。

             ■ 加賀 国(= 加州)は、 五畿七道(ご

             きしちどう)の北陸道(ほくりくどう)・旧広

             域地方に属する。

             ■ 加賀 国 (かが のくに)は、 律令制

             定後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             旧国(令制国)の正式名である

             ■ 加州 (かしゅう)は、  律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             国(令制国)の正式名の、加賀 国 ( か

             が のくに)の 別称である。

                     ● 越州 (えっしゅう) や 三越 (さ

             んえつ) は、 越国 (こしのくに、

             @ 越後 国、 A 越中 国、 C 能登

              国、 D 加賀 国、 B 越前 国) 

             (現在の @ 新潟県本土、 A 富山

             県、 C 石川県北部、 D 石川県南

             部、 B 福井県北部 の相当地域)を

             指す名称でもある。        

                    C 能登 国 (のと のくに) や 

             D 加賀 国(かが のくに)は、 B 越

             前 国より分立された。

 

 かが  香川県。

              (かがわけん)。 《現地域名》。

           (現・47都道府県の1つ)。

           (≒ 概ね、 前近代日本の、

          讃岐 国 (さぬきのくに、別名:

          讃州(さんしゅう))の相当地域)。

                           KAGAWA PREFECTURE.

                   (⇒ 讃岐 国)。

                     (⇒ 都道府県)。

                      (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

 

 かき  嘉吉。

             (かきつ)。 《和暦》。

             THE KAKITSU ERA.

          ○ 1441年ー1444年。

             ● 1441年・嘉吉元年・2月17日〜

                1444年・嘉吉 4年・2月 5日。 

             ● 室町時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

 かき  嘉慶。 

             (かきょう、かけい)。 《和暦》。

             THE KAKYO ERA.

          ○ 1387年ー1389年。

          (⇒ 南北朝競合二重年号

           (⇒ 和暦の二重年号存立

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

          ■ 南北朝競合二重年号。

          ● 北朝 (持明院統)方の暦年号。

                1387年・嘉慶元年・8月23日〜

                1389年・嘉慶 3年・2月 9日。

             ● 室町時代前期の和暦年号。

             ● (注意) 同時期に、南朝 (大覚寺統、

              後醍醐天皇系統)方の暦年号の、 元中

              (げんちゅう)元年〜9年(1384〜1392

              年) も存立する。 

 

 かく   覚慶。

             (かくけい)。 《人名》。

              (= 足利義昭の還俗(げんぞく)

              前の名)。

              ■ 覚慶 (かくけい)とは、室町幕

              府・第15代将軍の足利義昭であり、 

              出家名で、還俗(げんぞく、僧をや

              め世俗に戻ること)前の名である。

              ■ 足利将軍家では、家督相続者

              以外の男子は、慣例として仏門に

                     入る。

              ● 家督相続者の兄・足利義輝(幼

              名:菊幢丸(きくどうまる))がいた

              ため、 足利義昭(幼名:千歳丸)

               は足利将軍家の家督相続者では

              なかったので、幼い頃、仏門に入

              る。

              ■ 足利義昭 (あひかがよしあき、

              生没年:1537年ー1597年、将

              軍在位:1568年ー1588年) は、 

              幼い頃、1542年(天文11年)に

              出家して、覚慶(かくけい)と名乗り、

              興福寺に入り、興福寺一乗院門跡

              となり、その後、修業して、権少僧

              都の高僧の位を得る。 

                 しかし、1565年(永禄8年)5

              月の永禄の変で、足利将軍家の家

              督相続者の、室町幕府・第13代将

              軍の足利義輝(よしてる)が殺害さ

              れ、 足利将軍家の家督相続者や

              室町幕府の将軍がいなくなり、 

              覚慶は義輝の実弟であったため、

              1565年(永禄8年)7月に、甲賀

                             の和田城(和田惟政の居城)で、

              足利将軍家の当主になることを宣

              言し、 1566年(永禄9年)2月に、

              矢島御所で、還俗(げんぞく、僧を

              やめ世俗に戻ること)して、足利義

              秋と名乗り、 室町幕府(= 足利幕

              府)の次期将軍候補となる。

               ■ 足利義昭の将軍就任までの

                足跡。

                            ● 奈良・興福寺⇒ 甲賀・和田城

              ⇒ 南近江矢島御所⇒ 若狭⇒

              越前・敦賀⇒ 越前・一乗谷⇒ 

              尾張・立政寺⇒ 南近江・桑実寺⇒

              京都・本圀寺⇒ 京都・二条御所。

               ● 足利義昭は、

               ○ (1) 1565年(永禄8年)5月

                 奈良の興福寺の一乗院で

                 幽閉される、  ⇒ 

               ○ (2) 1565年(永禄8年)7月

                 奈良の興福寺を脱出する、 ⇒ 

               ○ (3) 1565年(永禄8年)7月 

                 甲賀の和田城(和田惟政の

                                 居城)に移る、 ⇒

              ○ (4) 1565年(永禄8年)11月

                 南近江の六角義賢の所

                 (矢島御所)に移る、 ⇒ 

              ○ (5) 1566年(永禄9年)8月

                 若狭国の武田義統

                 の所に移る、 ⇒ 

              ○ (6) 1566年(永禄9年)9月

                                 越前国の朝倉義景の所(敦賀

                 (つるが)、次に、一乗谷 (いち

                 じょうだに)・安養寺)に移る、 

                 ⇒

              ○ (7) 1568年(永禄11年)7月

                 尾張国の織田信長の所

                                 (立政寺)に移る、 

              ○ (8) 1568年(永禄11年)9月

                 南近江の桑実寺に移る、 ⇒

              ○ (9) 1568年(永禄11年)

                 9月

                 京都に上洛する、京都・本

                 圀寺(ほんこくじ)・仮御所

                 に移る、 ⇒

              ○ (10) 1568年(永禄11年)

                 10月18日

                 京都で将軍宣下を受ける、 ⇒

              ○ (11) 1569年(永禄12年 )

                 1月

                 京都・本圀寺・仮御所が

                 三好勢の攻撃を受け、

                 防御する、 ⇒

              ○ (12) 1569年(永禄12年 )

                 信長が再建した京都・二条

                 御所(烏丸中御門第)に移る。

              ■ 一方、次期将軍候補の対抗

              馬である、足利義輝の従兄弟(い

              とこ)の足利義栄(よしひで)は、

              京(きょう、京都)の実質的支配

              者である三好三人衆に擁立さ

              れて、1568年(永禄11年)2月

              に、摂津国 (せっつのくに、現・

              大阪府北西部)で、将軍宣下を

              受け、室町幕府の第14代将軍に

              就任する。 しかし、足利義栄は、

              病気を患い、 1568年(永禄11

             年)9月30日に死去する。

 

 かく   格さん。

             (かくさん)。 《人名》。

          (= 安積覚兵衛 あさかかくべえ)。

        (⇒ 安積 覚兵衛

 

 かく   覚山尼。

             (かくさんに)。 《人名》。

              (= 堀内殿(ほりうちどの)、松岡

           殿)。

          (生没年:1252年ー1306年)。

                  KAKUSANNI.

          (⇒ 北条時宗)。

            ○ 覚山尼は、

                      鎌倉幕府・第8代執権・北条

           時宗の正室夫人である。 

            ○ 覚山尼は、

           鎌倉幕府・第9代執権・ 北条

           貞時の生母である。

            ○ 覚山尼は、

           鎌倉・東慶寺(とうけいじ)を創

           建する。

              ■ 覚山尼 (かくさんに(出家後)、=

              堀内殿(ほりうちどの)、松岡殿、生没

              年:1252年ー1306年) は、 鎌倉

                             幕府・第8代執権・北条時宗の正室夫

              人であり、 鎌倉幕府・第9代執権・北

               条貞時の生母である。

              ● 覚山尼(堀内殿)は、鎌倉に、東慶

              寺(とうけいじ、尼寺)を創建する。

 

 かく   隠れキリシタン。

                           (かくれきりしたん) 。  《キリスト教》。

          (⇒ キリスト教)。

             ■ 隠れキリシタンとは、

             1613年の江戸幕府のキリスト

             教の禁教令以後もキリスト教・

             カトリックの信仰を保った日本人

             カトリック信者である。

 

 かく   隠れ柳生。

             (かくれやぎゅう)。 《柳生氏》。

                  (= 柳生氏の隠密)。

          (⇒ 柳生宗矩)。

              ■ 隠れ柳生 (かくれやぎゅう)

              とは、 柳生氏の隠密であり、 

                             江戸時代初 期に、情報収集、

              諜報工作などのために、各藩に

              送り込まれた柳生氏の命(めい、

              命令)をけた武士や忍 者であ

                             る。

              ● 隠れ柳生には、

              各藩に送り込 まれた弟子の柳生

              新陰流剣術師範や柳生家提携

              伊賀忍者などが多くいた。

 

〇 かけ  駆け込み寺 

             (かけこみでら)。 《寺院》。

          (= 縁切寺)。

              ■ 駆け込み寺 (かけこみでら)

              とは、 別名は

              縁切寺(えんきりでら)であり、

              前近代日本の離縁(離婚)希望

              女性救済施設である。

             ■ 駆け込み寺(= 縁切寺)とは、  

             前近代日本で、夫との離縁を達

             成するために夫人が駆け込んだ

             寺である。

             ■ 江戸時代より前の前近代日本

             は、 

             一般の寺院は治外法権的な特権

             を持ち、駆け込み寺(= 縁切寺)と

             なる。

             ■ 江戸時代の前近代日本では、

             一般の寺院の治外法権的な特権

             は廃止され、 東慶寺と満徳寺の

             2寺院のみが、江戸幕府公認

             の駆け込み寺(= 縁切寺)となる。

 

〇 かげ  嘉元。 

             (かげん)。 《和暦》。

             THE KAGEN ERA.

             ○  1303年−1306年。

             ● 1303年・嘉元元年・ 8月 5日〜

                1306年・嘉元 4年・12月14日。 

             ● 鎌倉時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇 かご  鹿児島県。

             (かごしまけん)。

          (現都道府県)。 《現地域名》。

             (≒ 薩摩 国と大隅 国の相当

           地域)。

                         KAGOSHIMA PREFECTURE.

                    (⇒ 薩摩 国大隅 国)。

                      (⇒ 都道府県)。

                      (⇒ 前近代日本の地域名)。

                      (⇒ 旧国(= 令制国))。

                      (⇒ 旧地域名地域名)。

                      (⇒ 日本の地名)。

          ■ 鹿児島県。

              (≒ 前近代の、@ 薩摩 国 

           (さつま のくに、(さっしゅう)、

          鹿児島県の本土西部)、 と 

             A 大隅 国 (おおすみ のくに、

             隅州(ぐうしゅう)、鹿児島県の本

          土東部と大隅諸島・奄美群島)、

          の相当地域)。

          (⇒ 西海道・旧広域地方)。

                   (⇒ 五畿七道)。

          ■ 鹿児島県。

             <九州地方。

             <日本本土 (本州、四国、九州)

             <日本国

             ■ 鹿児島県は、 鹿児島県の本土西部 

             (前近代の薩摩 国(さつま のくに)の相

             当地域) と、 鹿児島県の本土東部と大

                           隅諸島・奄美群島 (前近代の大隅 国

             (おおすみ のくに)の本土と大隅諸島・奄

             美群島の相当地域) である。

                           ■ 鹿児島県は、 九州地方に属する。

              (⇒ 九州地方)。

           ■ 鹿児島県地域。

             <南海道 (なんかいどう、旧広域地方)

             <五畿七道 (ごきしちどう、日本本土)。

             ■ 鹿児島県地域は、 前近代日本の、

             薩摩 国 (さつま のくに、現・鹿児島県

             の本土西部の相当地域) と、 大隅 国

             (おおすみ のくに)の本土と大隅諸島・

             奄美群島 (現・鹿児島県の本土東部と

             大隅諸島・奄美群島の相当地域) に相

             当する地域である。

                           ■ 鹿児島県地域の薩摩 国と大隅 国

             本土と大隅諸島・奄美群島は、 五畿七

             道 (ごきしちどう、日本本土)の、南海

              (なんかいどう、旧広域地方) に属す

             る。

             ● 薩摩 国 (さつま のくに 、旧国(令

             制国) )は、 現在の鹿児島県の本土西

              部の相当地域であり、 別称は、薩州

             (さっしゅう) である。

             ● 大隅 国 (おおすみ のくに、旧国

             (令制国))は、 現在の鹿児島県の本土

             東部と大隅諸島・奄美群島の相当地域

             であり、 別称は、隅州(ぐうしゅう) で

             ある。

 

#kasa

 

〇 かざ  風車の弥七。

             (かざぐるまのやしち)。 《人名》。

           (= 小 八兵衛 こはちべい)。

               (⇒  小八兵衛)。

          ○ 水戸(徳川)光圀配下の町人。

 

〇 かし  下士

             (かし)。 《武士の身分》。

            (= 江戸時代の土佐藩の下級武士)。

          (17世紀〜19世紀)。

              ■ 下士(かし)とは、 江戸時代の、土佐藩

              の下級武士であり、下級藩士である。

              ■ 土佐藩の武士には、上士(じょうし)と下士

            (かし)の身分があり、 幕末に、坂本龍馬、岩

            崎弥太郎などは、下士の武士であり、後藤象二

            郎などは、上士の武士であった。

 

〇 かし   橿原。

              (かしはら)。 《首都》。

             (⇒ 首都藤原京)。

             (⇒ 古都都城)。

             ■ 橿原 (かしはら)は、

             日本の首都が置かれた場所の1つ

             である。

             ■ 橿原には、日本の首都として、

             朝廷が、 藤原京 (ふじわらきょう、

             奈良県橿原(かしはら)市付近、

             694年ー710年) を置く。 

 

〇 かし  鹿島新当流。

             (かしましんとうりゅう)。

              《剣術の流派》。

          (⇒ 塚原卜伝)。

          ■ 鹿島新当流 (かしましんとうりゅ

             う)とは、 塚原卜伝(つかはらぼく

             でん)が開いた剣術の流派である。

 

〇 かし  河

             (かしゅう)。 《旧地域名》。

          (= 河内 ( かわち のくに))。

          (≒ 現・大阪府東部の相当 地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

          日本・旧地域名の、

          旧国(令制 国)の別称)。

             KASHU AREA.

                   (⇒ 河内 )。    

                    (⇒ 前近代日本の地域名)。

             ■ 河州 (かしゅう)は、  律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             国(令制国)の正式名の、河内 国 (かわ 

             ちの のくに) の別称である。

                          ● (= 河内 国)は、 畿内(きない)・

             旧広域地方に属し、現・近畿地方の、現在

             大阪府東部に相当する 地域である。

 

〇 かし  加州。

             (かしゅう)。 《旧地域名》。

          (= 加賀( かが のくに))。

          (≒ 現・石川県南部の相当地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の

           旧国(令制国)の別称)。

             KASHU AREA.

                    (⇒ 加賀)。    

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

             ■ 加州 (かしゅう)は、  律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、旧国

             (令制国)正式名の、加賀 国 ( かが の

             くに)の 別称である。

                          ■ 加州(= 加賀 国)は、 北陸道(ほくり

             くどう)・旧広域地方に属し、 現・中部地方

             の、現在の石川県 南部に相当する地域 で

             ある。

 

〇 かじ   勧修寺 晴子

             (かじゅうじ はるこ)。 《人名》。

          (1553年ー1620年)。

          (⇒ 誠仁親王(さねひとしん

          のう)織田信長正親町

          (おおぎまち)天皇後陽成

          天皇(和仁親王))。

             ■ 誠仁親王の夫人・勧修寺 晴子。

             ● 勧修寺 晴子 (かじゅうじ はる

             こ、新上東門院、生没年:1553

             年ー1620年) は、 正親町天

             皇 (おおぎまちてんのう)の嫡子

             の誠仁親王 (さねひとしんのう)

             の夫人(「女房」)であり、 誠仁

             親王と勧修寺晴子との間の子で

             第一王子(皇子)が、後陽成天皇

             (ごようぜいてんのう、和仁親王)

             であり、日本の現皇室の祖先で

                     ある。

             ● 勧修寺晴子は、 1567年(永

             禄10年)より、 誠仁親王 (さね

             ひとしんのう)の夫人(「女房」)と

             なり、 誠仁親王との間に6男3女

             がいて、「阿茶局」と称し、 後に

             新上東門院の院号宣下を受ける。 

             ● 勧修寺晴子は、 泉湧寺(せん

             にゅうじ、京都市東山区)の月輪陵

             (つきのわのみさぎ)に墓がある。

             ■ 織田信長と勧修寺晴子の夫・

             誠仁親王との関係。

              ● 誠仁親王 (さねひとしんのう)

             は、 織田信長の庇護を受け、朝

             廷で大勢力をもち、信長が大改造

             した「二条御所」に居住する。 

             ● 「二条御所」は、正親町天皇の

             居住する上御所(かみごしょ)に対

             し、 下御所(しもごしょ)と呼ばれ、

             正親町天皇も朝廷の意思決定では、

             誠仁親王の意見を求め、副朝廷の

             様相を呈した。

             ● 本能寺の変では、誠仁親王は、

             織田信忠と共に、「二条御所」にい

             たが、信忠同行の村井貞勝と明智

             光秀との交渉により、誠仁親王とそ

             の妻子、宿直の公家は、御所を脱

             出し、禁裏(上御所)へ逃げ込む。

 

〇 かし  嘉祥。 

             (かしょう) 。 《和暦》。

             THE KASHO ERA (848−851)

             ○  848年−851年。

             ● 848年・嘉祥元年・6月13日〜

                851年・嘉祥 4年・4月28日。 

             ● 平安時代前期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇 かし  嘉承。 

             (かしょう) 。 《和暦》。

             THE KASHO ERA (1106−1108)

             ○  1106年−1108年。

             ● 1106年・嘉承元年・4月9日〜

                1108年・嘉承 3年・8月3日。 

             ● 平安時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇 かす  春日局

             (かすがのつぼね)。 《人名》。

          (= お福(おふく)、福(ふく))。

          (1579年ー1643年)。

          ○ 春日局は、 江戸幕府 の

           第3代将軍・徳川家光の乳母

                      である。

          ○ 春日局は、 女性政治家と

          して、初期の江戸幕府の政治

          に参与する。

          ○ 春日局は、 江戸城の大奥

           の総支配役(統率者)である。

             ■ 春日局(お福)は、 初期の江戸幕府

             で威勢(権力)をもち、幕政を助け、江戸

             城大奥を統率した。

             ■ 春日局とは、 1629年に朝廷から

             賜(たまわ)った称号である。

             ■ 春日局 (かすがのつぼね、斎藤福

             (さいとうふく)、お福(おふく)、福(ふく) 、

             1579年ー1643年) は、 江戸幕府の

             第3代将軍・徳川家光(いえみつ) の乳

             母(うば 、めのと)である。

             ■ 春日局(お福)は、江戸城の将軍 の

             後宮である大奥(おおおく)の総支配役

             (統率者)である。

             ■ 春日局(お福)は、 女性政治家とし

             て、 年寄(としより、老中)の土井利勝

             (どいとしかつ)、松平信綱(まつだいら

             のぶつな)、幕府惣目付(大目付)の柳

              生宗矩(やぎゅうむねのり)と共に、

             江戸幕府の初期の政治に参与し、徳川

             家光を支えた。

             ■ 春日局(かすがのつぼね) (お福(お

             ふく)、福(ふく) 、1579年ー1643年)) 

             は、 明智光秀の重臣(腹心)・斎藤利三

             (さいとうとしみつ)の娘であり、 小早川

             秀秋の重臣・稲葉正成(いなばまさなり)

             の正室夫人であり、 徳川家康に見込

             まれて、徳川家光の乳母 (うば、めの

             と)となる。

             ■ 春日局(お福)は、徳川家光の江戸

             幕府・将軍就任を家康に訴え、世嗣決定

             に尽力(じんりょく)し、家光を、江戸幕府・

             第3代将軍に就(つ)ける。

 

〇 かず  和子。

          (かずこ、まさこ)。 《人名》。

                     (= 徳川和子)。

          ○ 入内(じゅだい)前、和子(かず

              こ)、入内後、和子(まさこ)。

           (⇒ 徳川和子(まさこ))。

 

○ かず  上総 国。

             (かずさ のくに)。《旧地域名》。

                           (= 総州(そうしゅう)の1国)。

          (≒ 現・千葉県中部の相当地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国(令制

           国)の正式名)。

          KAZUSA PROVINCE.

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

          ■ 上総 国。

             <東海道 (旧広域地方)。

             ■ 上総 国 (かずさ のくに)は、 律令制

             定後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             旧国(令制国)の正式名である

             ■ 総州 (そうしゅう)は、  律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、旧国

             (令制国)正式名の、下総国 (しもうさ の

             くに、千葉県北部) と 上総 国 (かずさ

             のくに、千葉県中部) のいずれか、または

             両国を合わせて呼ぶ別称である。

             ■ 上総 国は、 現・ 関東地方の、現在の

             千葉県中部 に相当する 地域である。

             ■ 上総 国は、 五畿七道 (ごきしちどう)

             の東海道(とうかいどう)・旧広域地方に属

             する。

 

○ かず  上総広常。

              (かずさひろつね)。 《武将》。

          ○ 源頼朝は、上総広常

          の勢力(大軍の軍事力)

          によって、平家打倒挙兵

          を成功させる。

          ○ 源頼朝は、上総広常

          の大軍加勢(参陣)によっ

          て、戦死せず、1180年

          (治承4年)の平家打倒挙

          兵を成功させる。

             ■ 上総広常 (かずさひろつね)

             は、 1180年(治承4年)の源頼

             朝(になもとのよりとも)の平家打

             倒挙兵時に、 源頼朝に平氏方に

             対抗する勢力(大軍の軍事力)・

             約2万騎を提供し、 源頼朝の平

             家打倒挙兵を成功させた武将で

             ある。

             ■ 1180年(治承4年)の源頼

             朝平家打倒挙兵では、

             ● 最初に、1180年(治承4年)

             8月17日に、源頼朝は、 伊豆国

             本土(いずのくに・ほんど、現・静

             岡県東部・伊豆半島)の平氏の伊

             豆国目代(もくだい)の山木兼隆

             (やまきかねたか)の屋敷を、北条

             氏等の少数の軍で襲撃し、兼隆を

             討ち取る。

             ● その後、源頼朝方の軍・約

             300騎は、 1180年(治承4年)

             8月23日に相模国(現・神奈川県)

             南西部の石橋山(いしばしやま)

             の戦いで、平氏方の軍・約3000

             騎に敗(やぶ)れる。

             ● 源頼朝は、1180年(治承4年)

             8月28日に、 命からがら模国(さ

             がみのくに、現・神奈川県)南西部

             の真鶴岬(まなづるみさき)から、

             安房国(あわのくに、現・千葉県南

             部・房総半島南部)に逃れ、8月

             29日に上陸する。 

             ● 頼朝は、1180年(治承4

             年)9月に、安房国(現・千葉県南

             部)から房総半島を北上し、平家

             方の軍勢の攻撃を警戒しながら、 

             上総国(現・千葉県中部)を通り、

             下総国(現・千葉県北部)に入り

             そこで再軍備を図る。

             ● 1180年(治承4年)9月に、

             上総広常は、上総国(かずさのく

             に、現・千葉県中部、房総半 島北

             )の平家方の軍を掃討後、約

             2万騎の大軍を率いて、下総国

             (しもさうのくに、現・千葉県北部)

             で、頼朝のもとへ参陣する。 

             ● 源頼朝は、その大軍を率いて、

             10月2日に、墨田川(現・隅田川)

             を渡り、西方へ向かい、南坂東(み

             なみばんどう、現・関東地方南部)

             各地の多くの豪族(武士団) も参

             集し、10月7日頃に、鎌倉に入る。 

             ● 上総広常のおかげで源頼朝

             は、戦死せず、1180年(治承4年)

             平家打倒挙兵に成功する。

             ■ 1180年(治承4年)の頼朝の

             平家打倒挙兵成功後、 頼朝と広

             の間に、政治路線対立が起こる。

             広常は、坂東単独自立政権を望

             み、頼朝は、平氏政権打倒を望み

             (『愚管抄』より)、全国武家政権を

             望み、対立し、1183年( 寿永2年)

             12月に、源頼朝によって、広常は

             謀反を企てたとして、謀殺される。

             

〇 かず  和宮 

              (かずのみや)。 《人名》。

            (= 皇女和宮、静寛院宮 せいか

              んいんのみや) 。

                     (皇族)。 

             PRINCESS KAZUNOMIYA.

          (1846年ー1877年)。

          ○ 江戸幕府14代将軍・徳川

          家茂(いえもち)正室夫人 。 

          ○ 孝明(こうめい)天皇の腹違い

          の妹。

 

 かず  葛城王。

             (かずらぎおう)。 《人名》。

             (= 橘 諸兄 たちばなのもろえ)。

                    (⇒ 橘 諸兄)。  

 

〇 かぞ  数え年

             (かぞえどし)。 《年齢》。

          (= 前近代日本で使用された年

                     齢の数え方)。

             THE KAZOEDOSHI AGE 

             COUNTING WAY.

          ○ 前近代日本では、宗教的理

                     由で満年齢を使わず。

          ○ また、旧暦(太陰太陽暦)で

          は、満年齢を使えなかった。 

            例えば、例として、約3年に

              回ある閏月(うるうづき)生まれの

          人は、 満年齢が計算できない。

 

〇 かぞ  華族

             (かぞく)。 《旧社会身分》。

                     (1869年ー1947年)。

             Kazoku Peer(s)、 Kazoku 

             Noble(s)。

             ○ 近代日本の貴族。

          ○ 近代日本の特権階級。

             ○ 近代日本(明治、大正、昭和・

          戦前時代)の貴族階級。

          ○ 公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵

          家の人々。

              ■  華族 (かぞく、1869年ー1947年)は、

                            近代日本(明治、大正、昭和・戦前時代)の

                            貴族階級である。 華族は、1869年(明治

             2年)から1947年(昭和22年)まで存在

             した。

                                 華族(かぞく、1869年ー1947年)は、 

             旧社会身分であり、 近代日本(明治、大

             正、昭和・戦前時代)の社会的身分の、 貴

             族や貴族階級であり、 近代日本の特 権階

             級であった。

              ■ 華族は、 上位から、公爵・侯爵・伯爵・

             子爵・男爵家(こうしゃく・こうしゃく・はくしゃ

             く・ししゃく・だんしゃく・け) の人々である。

              ■   華族には、 公家、大名 と、 国家に

                勲功のあったとされる、政治家、官吏、軍

             人、実業家などの人物 がいる。

             ●  爵位(しゃくい)は、 男子の家督相続

             人の世襲とされた。

             ■  華族の歩み。

             ● 1869年 (明治2年)に、明治政府(近

             代日本政府)は、公家と大名を華族とした。 

             ●  近代日本政府は、 1884年(明治

             17年)の華族令により、 特権を有する

             社会的身分として、公・侯・伯・子・男爵

             (こう・こう・はく・し・だん・しゃく)(上位別

             に)の5爵の爵位(しゃくい)をもうけ、18

             84年以降、公 家、大名(旧華族)や 国

             家に勲功のあったとされる政治家、官 吏、

             軍人、実業家などの人物(新華族) に爵

             位(しゃくい)を与えた。

             ●  1889年(明治22年)の旧憲法(大

             日本国憲法)と貴族院令により、華族は、

             二院制の旧国会(衆議院と貴族院の、

             帝国議会)の貴族院を構成する貴族院

             議員の構成員となり、政治的発言権をも

             つ、政治的特権を得た。

             ● 華族は、 1947年(昭和22年)に、

             平等と自由を旨とする新憲法(日本国憲

             法)の施行により、廃止された。

 

〇 かた  片桐且元

              (かたぎり かつもと)。 《人名》。

          ○ 豊臣家重臣、後、徳川家家臣。

 

〇 かた  片倉景綱。

              (かたくら かげつな)。 《人名》。

          ○ 伊達正宗の重臣。

             ● 片倉景綱  (かたくら かげつな)は、伊達

             正宗の重臣であった。

 

〇 かち  家中武士。

              (かちゅうぶし)。

              《江戸時代の武士身分》。

              ● 江戸時代に、 武士身分には、農村 

              居住武士の郷士(ごうし) と、 城下町

             に住む家中武士(かちゅうぶし) がいた。

 

 かつ  勝 海舟 

             (かつ かいしゅう)。 《人名》。

          (= 勝 麟太郎)。

          (1823年−1899年)。

          ○ 幕末、明治前期の政治家。

          ○ 平和主義者、率直でユーモ

           アのある人情味あふれる人物。

 

 かつ  勝塾 (仮称)

             (かつじゅく)。  《海軍訓練所》。

             (NHK大河ドラマ「龍馬伝」に登場する名称)。

           (= 海軍塾)。

          (⇒ 海軍塾)。

 

 かつ  活動写真。

             (かつ どうしゃしん)。 《映画》。

          (= 近代日本の、映画)。

          (⇒ 近代日本文化)。

 

 かつ  勝姫。 

             (かつひめ) 。 《人名》。

               江戸幕府・第2代将軍・徳川

           秀忠の三女。 

          ○ 秀忠とお江(おごう)との間の娘。

          (⇒ お江(おごう)徳川秀忠)。

 

 かつ  桂 小五郎。

             (かつら こごろう)。 《人名》。

          (= 木戸孝允 きどたかよし)。

          (⇒ 木戸孝允)

 

 かて  嘉禎。 

             (かてい)。 《和暦》。

             THE KATEI ERA.

              1235年ー1238年。

             ● 1235年・嘉禎元年・ 9月19日〜

                1238年・嘉禎 4年・11月23日。 

             ● 鎌倉時代前期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック

 

 かと  加藤清正 

             (かとうきよまさ)。 《人名》。

             ○ 勇猛な武将、大名。

             ○ 築城の名手。 (例) 熊本城。

 

 かと  カトリック。

           《キリスト教》。

           (= ローマ・カトリック教会)。 

       (⇒ キリスト教)。

          ○ カトリックは、

          ローマ法王(カトリックの教皇)

          を頂点(最高指導者)とする

                     キリスト教の一派である。

          ○ 戦国時代、安土桃山時代、

          江戸時代初期に日本に多くの

          カトリック信者がいた。

       

 かと  楫取 美和子

             (かとり みわこ)。 《人名》。

             (= 文(ふみ)、美和(みわ)、杉 文

             (すぎ ふみ)、杉 美和( すぎ みわ))。

          (1843年−1921年)。

          (⇒ 吉田 松陰)。

          (⇒ 久坂 玄瑞楫取 素彦)。

                    (⇒ 杉 百合之助(常道))。

            (⇒ 楫取 久子杉 梅太郎)。

          ○ 吉田松陰の妹。

                      杉家当主の杉 百合之助(常

          道)(すぎ ゆりのすけ(つねみち))

          四女。

                       幕末の思想家・吉田松陰 (

             しだしょういん、杉 寅之助(すぎ とらのすけ、

             幼名)、吉田家に養子後・吉田寅次郎(よし

             だとらじろう)) の 実妹。

             ■ 楫取 美和子 (文、杉 文、杉 美和)は、

             1843年より 杉 文(すぎ ふみ)と称し、

             1865年頃より 杉 美和(すぎ みわ)と称し、

             1883年から 楫取 美和子(かとりみわこ)

             と称す。 

               (注) 前近代日本では、1872年(明

             治5年)1月の戸籍法(壬申戸籍)施行ま

             で、家父長制の夫婦別姓である。

             ■ 楫取 美和子 (かとり みわこ、1843

             年−1921年) は、吉田松陰の妹である。

                   ● 楫取 美和子は、 明治維新を描く20

             15年NHK大河ドラマ「花燃ゆ(はなもゆ)」

             の主人公(ヒロイン)である。

             ● 楫取 美和子は、 幕末期の1番目の夫・

             久坂玄瑞(くさかげんずい)の夫人である。

               久坂玄瑞は、禁門の変(きんもんのへ

             ん)で戦死する。

             ● 楫取 美和子は、 明治期の、2番目の

             夫・楫取素彦(かとりもとひこ、小田村伊之

             助)の夫人である。

             ■ 楫取 素彦 (かとり もとひこ、旧名・小

             田村伊之助 (おだむら いのすけ))は、

             取 美和子の亡き姉の夫であり、 群馬県

             令(ぐんまけんれい、任期1876−84年、

             現・群馬県知事に相当)であり、 1884年

                           から、元老院議官、裁判官、貴族院議員、

             宮中顧問官、内親王養育主任などを歴任

             する。 

                楫取 素彦(小田村伊之助)は、1887

             年には、  華族(かぞく)の男爵(だんしゃく)

             となる。

 

 かと  楫取美和子 関連出来事

       (年代順・詳細)

             (かとり みわこ かんれんできごと)。 

          《人物関連出来事》。

 

 かと  楫取 久子

            (かとり ひさこ)。 《人名》。

          (= 寿 (ひさ)、杉 寿 (すぎ ひさ))。

          (1839 年−1881年)。

                     ○ 杉 百合之助(常道)(杉家)の

          三女。

                     ○ 吉田松陰(杉 寅之助の妹、楫

                     取美和子(杉 文)の姉。

                      ■ 楫取 久子(杉 寿)は、 楫取素彦(かと

             りもとひこ、小田村伊之助(おだむらいのす

             け)) の第1番目の夫人であった。

               (注) 前近代日本では、1872年(明

             治5年)1月の戸籍法(壬申戸籍)施行ま

             で、夫婦別姓。

                      ● 楫取 久子(杉 寿)は、 幕末の思想家・

             吉田松陰 (よしだしょういん、杉 寅之助(す

             ぎ とらのすけ、幼名)、吉田寅次郎(よしだ

             とらじろう、吉田家に養子後)) の妹である。

                      ● 楫取 久子(杉 寿)は、 楫取美和子(か

             とり みわこ、文(ふみ)、杉 文(すぎふみ)、

             美和(みわ)) の 姉である。

          (⇒ 楫取 素彦楫取 美和子)。

            (⇒ 吉田 松陰)。

                    (⇒ 杉 百合之助(常道))。

            (⇒ 杉 梅太郎久坂 玄瑞)。

 

 かと  楫取 素彦 

             (かとり もとひこ)。 《人名》。

                          (= 小田村 伊之助 (おだむら いの

             すけ))。

          (1829年−1912年)。

                           ■ 楫取 素彦 (小田村伊之助)は、

             田松陰の妹・楫取美和子 (かとり みわ

             、文(ふみ)、杉 文(すぎふみ) 、美和

             (みわ)) の第2番目の夫 (1883年よ

             り1912年まで)である。

             ● 楫取 素彦 (かとり もとひこ、旧名・

             小田村伊之助 (おだむら いのすけ))は、

             幕末は、長州藩士として、教育や軍事で

             活躍し、 明治期に、群馬県令(ぐんまけ

             んれい、任期1876−84年、現・群馬県

             知事)となり、 1884年から、元老院議

                           官、裁判官、貴族院議員、宮中顧問官、

             内親王養育主任 などを歴任する。 

                                楫取 素彦(小田村伊之助)は、1887

             年に、華族(かぞく)の男爵 (だんしゃく)

             となる。

          (⇒ 楫取 久子楫取 美和子)。

            (⇒ 吉田 松陰久坂 玄瑞)。

                    (⇒ 杉 百合之助(常道))。

            (⇒ 杉 梅太郎)。

 

#kana

 

〇 かな  神奈川県。

             (かながわけん)。

          (現都道府県)。 《現地域名》。

             (≒ 前近代日本(古代〜江戸時代)

           の、相模 国 (さがみ のくに、相州(そう

          しゅう)、神奈川県) の相当地域)。

                    KANAGAWA PREFECTURE.

                   (⇒ 相模 国)。

                      (⇒ 都道府県)。

                      (⇒ 前近代日本の地域名)。

                      (⇒ 旧国(= 令制国))。

                      (⇒ 旧地域名地域名)。

                      (⇒ 日本の地名)。

             ■ 神奈川県 (かながわけん)は、 前近代

             日本(古代〜江戸時代)の、相模 国 (さが

          み のくに、相州(そうしゅう)、神奈川県)に

             相当する地域である。

 

〇 かな  金沢貞顕。

              (かなざわ さだあき)。 《人名》。

             (= 北条貞顕)。

                ○ 鎌倉幕府の北条氏・第15代

          執権

                 ○ 北条氏分家当主。   

                ○ 北条実泰の曾孫(ひまご)

          (⇒ 北条 貞顕)。

 

〇 がな  加那志。

             (がなし)。 《敬称》。

               ○ 琉球王国の王族につける敬称。

        (⇒ 琉球王 国沖縄の歴

        )。

 

〇 かな  仮名手本忠臣蔵。

             (かなでほんちゅうしんぐら)。 《浄瑠璃》。

        (⇒ 元禄赤穂事件)。

 

〇 かな  金丸。 

             (かなまる)。 《人名》。

          (= 尚円 (しょうえん))。

          (⇒ 沖縄の歴史

          琉球 王国)。

          ○ 金丸は、クーデターにより、

          王位につき、琉球王国の第二

          尚氏王朝をたてる。

 

〇 かね   金ヶ崎の退き口

             (かねがさきののきぐち)。 《事件》。

          (⇒ 殿(しんがり)織田信長)。

           (⇒ 池田勝正豊臣秀吉

            明智光秀)。

             ■ 金ヶ崎の退き口(かねがさきの

             のきぐち、= 金ヶアの撤退)とは、

             1570年(永禄13年、元亀元年)

             4〜5月の、金ヶアの戦いの後半

             の撤退戦である。 

             ■ 金ヶ崎の退き口は、

             金ヶアの戦いの後半の撤退戦で

             あり、 

             1570年(永禄13年、元亀元年)

             4月から5月までの、織田軍と浅倉・

             浅井軍との戦いで、 織田信長の

                    逃避 と 織田軍の越前(えちぜん、

             現・福井県東部)から京(きょう、京

             都)への撤退戦である。

 

  かね  兼続

             (かねつぐ)。 《人名》。

                     (= 直江兼続 なおえかねつぐ) 。

                (⇒ 直江兼続)。

 

〇 かの  狩野派。

             (かのうは)。 《絵師集団》。

             ■ 狩野派 (かのうは)は、 室町時代

             後期から江戸時代末期まで存在した、

             絵師の集団(画家の組織) である。

             ● 狩野派は、 巧みな生き残り戦略を

             たて、 室町幕府、織田政権、豊臣政権、

             江戸幕府の御用絵師として、約400年

             間、日本の絵画界に君臨した。

             ● 初代の狩野正信(かのうまさのぶ)

             が、室町幕府の御用絵師となり、その

             後、その子孫の狩野家が中心となる画

             家の組織をつくり、多くの弟子の職人を

             使って、大量の注文に応じ、絵画を大量

             生産した。

 

〇 かの  狩野 永徳。

             (かのうえいとく)。 《人名》。

        (⇒ 絵師 えし

 

〇 かば  姓。

             (かばね)。 《氏名》。

          ○ 前近代日本の氏名。

        (⇒ 氏姓名)

 

〇 かふ   家父長制の夫婦

         別姓。

              (かふちょうせいのふうふべっ

              せい)。 

           《家族制度》。 《氏名》。

              (= 前近代日本の、

            家父長制の夫婦別姓)。

           (古代〜江戸時代)。 

            (⇒ 前近代日本の

         家父長制の夫婦

         別姓)。

           (⇒ 前近代日本の人名)。

               (⇒ 前近代日本の女性

             氏名)。

               ■ 前近代日本の「家父長制の

              夫婦別姓」は、 現代日本で議論

              されている「選択的夫婦別姓」

              とは全く異なる。 

               ■ 1872年(明治5年)に、日本

              は、 前近代「家父長制の夫婦別

              姓」から、近代夫婦同姓へと移る。

               ● 近代日本政府(明治政府)は、 

              日本近代化政策のため、欧米の

              家族制度に倣(なら)い、1871年

              (明治4年)4月に戸籍法を公布し、

              1872年(明治5年)1月の戸籍法

              (壬申戸籍)施行により、 前近代

              日本の「家父長制の夫婦別姓」を

              改め、夫婦を同姓とする。

               ● 1872年(明治5年)1月の

              戸籍法(壬申戸籍)施行時、

              厳格な封建社会の家父長制が残

              る当時、結婚により、他家の女性

              に、名誉ある、家名(一族名)を与

              えることには、明治時代初期の

              日本社会では、非常に反対が強

              かったが、 明治新政府(近代日

              本政府)の日本近代化政策 (文

              明開化)のため、近代夫婦同姓が、

              次第に認められるようになってい

              った。

 

〇 かほ  嘉保。 

              (かほう)。 《和暦》。

             THE KAHO ERA.

             ○  1094年−1096年。

             ● 1094年・嘉保元年・12月15日〜

                1096年・嘉保 3年・12月17日。 

             ● 平安時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

#kama

 

 かま   鎌倉。

              (かまくら)。 《首都》。

             (⇒ 首都鎌倉幕府)。

             (⇒ 古都)。

             ■ 鎌倉 (かまくら)は、

             日本の首都が置かれた場所の1つ

             である。

             ■ 鎌倉には、日本の首都として、

             源頼朝が、 鎌倉幕府本拠地 

             1185年〜1333年、、現・神奈川

             県鎌倉市) を置く。

 

 かま   鎌倉公方

              (かまくらくぼう)。

          《室町幕府の役職》。

             (室町幕府の東国統治

           地方長官)。

              (= 鎌倉府長官)。

           (= 前期の関東公方)。

                  KAMAKURAKUBO GOVERNOR.

              ○ 鎌倉公方は、

          1349年から1455年まで、

                5代の公方が就任する。

           ■ 室町幕府の詳細な内容

           に関しては、

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック。 

          を参照してください。

          (⇒ 室町幕府足利将軍)。

          (⇒ 関東公方

           関東公方足利氏鎌倉府

           鎌倉公方古河公方)。

          (⇒ 堀越公方)。

          (⇒ 関東管領

           関東管領上杉氏

           山内上杉 氏扇谷上杉 氏)。

             ■ 鎌倉公方 (かまくらくぼう)とは、 

             室町幕府の役職であり、 室町幕府の

             東国統治地方長官であり、 東国 (と

             うごく)を統治する室町幕府の役職で

             あり、  室町幕府の鎌倉府の長官で

             あり、 前期の関東公方であり、

             1349年から1455年まで、5代

             続する。

              ● 鎌倉公方(= 前期関東公方)は、 

             足利基氏、足利氏満、足利満兼、足

             利持氏、足利成氏の5代の鎌倉公方

             が就任した。 

             ● 鎌倉公方(= 前期関東公方)は、 

             室町幕府の、東国(とうごく)の、関

             東8国、伊豆、甲斐(かい、現・山梨

             県)を統治し(支配し)、 一時的に、

             1392年から1400年までの間の

             み、東北2国の陸奥(むつ)や出羽

             (でわ)も統治する(支配する)。

             ■ 京(きょう、京都)に室町幕府(=

             足利幕府)を開いた足利尊氏(あし

             かがたかうじ)は、 鎌倉時代に武

             家政権の根拠地であった鎌倉の政

             治的、軍事的重要性から、 1349

             年(貞和(じょうわ・ていわ)5年)に、

             鎌倉府を置き、 鎌倉より尊氏嫡男

             の足利義詮(よしあきら)を召還し、

             京(きょう、京都)より尊氏の子の足

             利基氏(もとうじ)を鎌倉へ派遣し、

             鎌倉公方(= 前期関東公方)とし、

             鎌倉公方の補佐役として関東管領

             (初名・関東執事)を任命し、 東国

             (とうごく)の経営・統治(支配)にあ

             たらせた。 

             ■ 鎌倉府の長官(首長)を鎌倉公

             方という。 

                鎌倉公方(関東公方)は、足利

             基氏の子孫が、代々世襲した。 

                しかし、関東 管領職や東国の各

             国守護職の任免権は、室町幕府(=

             足利幕府)の足利将軍にあり、 鎌

             倉公方(関東公方)にはなかった。

             ■ 鎌倉公方とは、 室町幕府の、

             関東 8国・伊豆・甲斐統治の、地方

             行政機関である鎌倉府(かまくらふ)

             の長官である。

              ● 鎌倉公方は、 室町幕府の、東 

              国(とうごく)の、関東8国、伊豆、甲

             斐(かい、現・山梨県)の政務を統轄

             する 行政(政治)機関である鎌倉府

             の長官であり、 足利基氏、足利

             氏満、足利満兼、足利持氏、足利

             成氏の5人・5代が就任する。 

              ○ 初代鎌倉公方:

              足利基氏(もとうじ) (鎌倉公方

              在職:1349年ー1367年)。

              ○ 2代鎌倉公方: 

              足利氏満(うじみつ) (鎌倉公方

              在職:1367年ー1398年)。

              ○ 3代鎌倉公方: 

              足利満兼(みつかね) (鎌倉公方

              在職:1398年ー1409年)。

              (1392年〜1400年の間のみ

              東北2国の陸奥(むつ)や出羽

              (でわ)も統治する)。

              ○ 4代鎌倉公方: 

              足利持氏(もちうじ) (鎌倉公方

              在職:1409年ー1439年)。

              ○ 5代鎌倉公方: 

              足利成氏(しげうじ) (鎌倉公方

              在職:1449年ー1455年)。

              ■  1455年に鎌倉府が解体し、

              倉公方に代わって、2つの公方(古

             河公方、堀越公方)が成立する。 

             古河公方(こがくぼう、1455年ー15

             83年、5代) と、 堀越公方(ほりご

             えくぼう、1457年ー1491年、2代) 

             である。

             ■ 日本の室町時代に、 室町幕府

             東 国統治地方長官である関東公

             方(かんとうくぼう、鎌倉公方、古河

             公方) と 関東公方の補佐役の関

             東管領(かんとうかんれい)が、日本

             の東国(とうごく、関東・東北・中部

             地方)の中の関東(8国)、伊豆、甲

             斐(かい)を統治する(支配する)。 

                ■ 関東管領職や東国の各国守護

             職の任免権は、 室町幕府の足利

             将軍にあり、 関東公方(鎌倉公方、

             古河公方))にはなかった。

                関東公方(鎌倉公方、古河公

             方) 関東管領は、対立するよう

             になる。

                ■ 関東公方(かんとうくぼう)とは、

             室町幕府の東国統治地方長官であ

             り、 鎌倉公方 (かまくらくぼう、13

             49年ー1455年、5代) と その後

             身の古河公方 (こ がくぼう、1455

             年ー1583年、5代)である。

             ● 関東公方は、 室町幕府の 、

             国(とうごく)の関東8国、伊豆、甲斐

             (かい、現・山梨県))を統治する役

             職である。

              ■ 1455年に鎌倉府が解体し、

              鎌倉公方(1349〜1455年、5代

             代わり、東 国に、2つの公方(くぼ

             う、古河公方と堀越公方)が成立し

             たが、 堀越公方(ほりごえくぼう、

             1457年ー1493年頃、2代)は、

             東国の10国全体を統治できず、

             事実上、 伊豆1国のみの短期統治

             (1482年ー1493年頃)で終わっ

             たため、関東公方(かんとうくぼう)

             とは言わない。

 

#kamakurasa

 

 かま  鎌倉時代 

                          (かまくらじだい)。

                    (= 1185年または1192年

                          ー1333年)。

           《日本歴史の時代区分》。 

              THE KAMAKURA 

           PERIOD

           <中世日本。

           ■ 鎌倉時代の政治・経済・

          社会、文化などの詳細な内

          容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。

          中世日本) 。

          (⇒ 日本歴史の時代区分)。

          (⇒ 鎌倉幕府)。

          (⇒ 河内源氏鎌倉北条氏)。 

             ■ 鎌倉時代 (かまくらじだい)とは、

             1185年または1192年(建久3年)

             から、1333年(元弘3年、正慶2年)

                           まで、の期間である。

             ■ 鎌倉時代。

              ● 1185年は、鎌倉幕府が実質

              上(事実上)成立した年である。

              ● 1192年は、鎌倉幕府が名実

              共に成立した年である。

              ● 1333年は、鎌倉幕府が滅亡

              した年である。

             ■ 鎌倉時代。

              ● 1185年は、 伊勢平氏が壇ノ

              浦で滅亡し、 源頼朝が文治の勅

              許諸国に守護・地頭の設置

              められること)を得て、鎌倉幕府が

              事実上成立した年である。

              ● 1192年は、 源頼朝が征夷大

              将軍になり、鎌倉幕府が名目的に

              成立した年である。

              ● 1333年は、 幕府本拠地の鎌

              倉が攻め落とされ、鎌倉幕府が滅

              亡した年である。

             ■ 鎌倉時代は、 中世日本 (= 鎌倉

             時代、建武時代、室町時代;1192年

             頃ー1573年頃) の一時期である。

 

〇 かま  鎌倉時代前期の

        日本政治 

              (かまくらじだいぜんきのに

             ほんせいじ)。

                  鎌倉時代前期の

              日本の政権・政治実権者

                      の 変遷簡略一覧表

                  鎌倉時代前期の

              日本の政権・政治実権者

                      の 変遷詳細一覧表

           ■ 鎌倉幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。

 

 かま  鎌倉将軍。

             (かまくらしょうぐん)。  《将軍》。

          (= 鎌倉幕府の将軍)。

           ■ 鎌倉幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。

           (⇒ 鎌倉将軍御家人)。

           (⇒ 北条氏得宗

           北条得宗家得宗専制

                  寄合内管領長崎氏

           御内人)。

          (⇒ 執権執権北条氏)。

              (⇒ 河内源氏鎌倉北条氏)。

              (⇒ 源氏政権北条政権

                      鎌倉幕府)。

          (⇒ 幕府将軍武家政権)。

          (⇒ 日本の政権・政府)。

              ■ 鎌倉幕府の鎌倉将軍。 

             ■ 鎌倉将軍 (かまくらしょうぐん)

             とは、 鎌倉幕府の将軍であり、 

             9代の鎌倉将軍が就任する。

             ■ 鎌倉幕府の、初代・第2代・第

             3代の鎌倉将軍は源氏将軍であり、 

             第4代、第5代の将軍は、摂家(せっ

             け)将軍(= 藤原将軍)であり、 第

             6代、第7代、第8代、第9代の

             将軍は、宮(みや)将軍(= 皇族

             将軍)である。

             ■ 鎌倉幕府の第4〜9代の鎌倉将

             軍は、鎌倉北条氏が擁立した、政治

             権力のない傀儡(かいらい)将軍で

             ある。

             ■ 鎌倉幕府の鎌倉将軍9代一覧表。

               鎌倉幕府の鎌倉将軍9代は、順に、 

             ● 初代 将軍源 頼朝

               (みなもとの よりとも、

                将軍在任:1192年〜1199年)、

             ● 第2代将軍・源 頼家 

               (みなもとの よりいえ、

               将軍在任:1202年〜1203年)、

             ● 第3代将軍・源 実朝 

               (みなもとの さねとも、

               将軍在任:1203年〜1219年)、

             ● 第4代将軍・藤原 頼経 

               (ふじわらの よりつね、=九条 頼経、

               将軍在任:1226年〜1244年)、 

             ● 第5代将軍・藤原 頼嗣 

               (ふじわらの よりつぐ、=九条 頼嗣、

               将軍在任:1244年〜1252年)、 

             ● 第6代将軍・宗尊親王 

               (むねたかしんのう、

                                  後嵯峨天皇の皇子、

                将軍在任:1252年〜1266年)、

             ● 第7代将軍・惟康親王 

               (これやすしんのう、宗尊親王の子、

               将軍在任:1266年〜1289年)、

             ● 第8代将軍・久明親王 

               (ひさあきしんのう、

               後深草天皇の皇子、

               将軍在任:1289年〜1308年)、

             ● 第9代将軍・守邦親王 

               (もりくにしんのう、久明親王の子、

               将軍在任:1308年〜1333年)、

             である。

 

 かま   鎌倉新仏教。 

                            (かまくら しんぶっきょう)。

              ■ 鎌倉新仏教 (かまくらしん

              ぶっきょう)とは、 鎌倉時代に

              成立した仏教の宗派であり、

              浄土宗 (じょうどしゅう)、

              浄土真宗 (じょうどしんしゅう)、

              日蓮宗 (にちれんしゅう)、

              臨済宗 (にんざいしゅう)、

              曹洞宗 (そうとうしゅう)、

              時宗 (じしゅう)、

              であり、 

              平安時代の密教(みっきょう)の

              天台宗、真言宗から、人々の苦

              しみを救う庶民信仰へシフトし

              た宗派が、鎌倉時代に、比叡山

              延暦寺などで修業した僧侶たち

              から成立する。

           ■ 鎌倉時代の政治・経済・

          社会、文化などの詳細な内

          容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。

 

 かま  鎌倉大仏

             (かまくらだいぶつ)。 《大仏》。

             (= 高徳院大仏)。

          (13世紀ー現在)。 

              ■ 鎌倉大仏 (かまくらだいぶつ、

              高徳院大仏、13世紀ー現在) とは、 

              鎌倉の高徳院にある、銅製の大仏

              (だいぶつ、大きな仏像)である。

           ■ 鎌倉時代の政治・経済・

          社会、文化などの詳細な内

          容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。

 

 かま   鎌倉殿。

              (かまくらどの)。 《身分・地位名》。

             (= 鎌倉武家政権の首長)

           (⇒ 鎌倉将軍鎌倉公方)。

           ■ 鎌倉幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。

              ■ 鎌倉殿 (かまくらどの)とは、 

             鎌倉武家政権の首長首領である。

             ● 鎌倉武家政権とは、

             鎌倉に本拠地をおく地方武家政権、

             または、全国武家政権の首長・首領

             である。

              ■ 鎌倉殿は、

             平安時代末期の武家関東支配者の

             源頼朝、

             鎌倉時代の鎌倉幕府の将軍の源氏

             将軍・摂家将軍・宮将軍、

             建武時代の武家関東支配者の足利

             尊氏、

             室町時代の鎌倉府長官の鎌倉公方、

             などである。

              ■ 1180年(治承4年)10月に、源頼

             朝は鎌倉に入り、以後、鎌倉武家政権

             の首長は、鎌倉殿と呼ばれる。

 

#kamakuraha

 

〇 かま  鎌倉幕府

             (かまくらばくふ)。

          《日本の政権・政府》。

           (武家の政治組織)。

                    (武家政権)。 

          (1185年または1192年

                      ー1333年)。

           ■ 鎌倉幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。

             THE KAMAKURA 

             SHOGUNATE GOVERNMENT.

           (⇒ 鎌倉将軍御家人)。

              (⇒ 源氏政権)。

              (⇒ 北条(氏)政権)。

           (⇒ 北条氏得宗

           北条得宗家得宗専制

                  寄合内管領長崎氏

           御内人)。

          (⇒ 執権執権北条氏)。

              (⇒ 河内源氏鎌倉北条氏)。

          (⇒ 幕府将軍武家政権)。

          (⇒ 日本の政権・政府)。

           ○ 鎌倉幕府は、

          鎌倉将軍や執権北条氏・

          北条氏得宗が主導する

                     武家の政治組織である。

             ■ 鎌倉幕府の樹立。

             ● 鎌倉幕府 (かまくらばくふ、

             1185年または1192年ー1333年)

             は、 河内源氏の源頼朝が、1185年

             (寿永4年、元暦2年)または1192年

             (建久3年)に、鎌倉に開いた(樹立し

             た)武家政権である。 

             ● 鎌倉幕府は、 実質的に1185

             年に成立し、 1192年に源頼朝が

             征夷代将軍となり、名実ともに成立

             する。

             ■ 鎌倉幕府。

              ● 1185年は、鎌倉幕府が事実上

              成立した年である。

              ● 1192年は、鎌倉幕府が名目的

              に成立した年である。

              ● 1333年は、鎌倉幕府が滅亡し

              た年である。

             ■ 鎌倉幕府。

              ● 1185年は、 伊勢平氏が壇ノ

              浦で滅亡し、 源頼朝が 「文治の勅

              許」(諸国に守護・地頭の設置

              められること)を得て、鎌倉幕府が

              事実上成立した年である。

             ● 1192年は、 源頼朝が征夷大

              将軍になり、鎌倉幕府が名目的

              に成立した年である。

             ● 1333年は、 幕府本拠地の鎌

              倉が攻め落とされ、鎌倉幕府が滅

              亡した年である。

             ■ 鎌倉幕府の将軍9代。

             ● 鎌倉幕府の将軍9代は、

             源頼朝、源頼家、源実朝、藤原頼経、

             藤原頼嗣、宗尊親王、惟康親王、久

             明親王、守邦親王である。

             ■ 鎌倉北条氏・得宗9代

             ● 北条氏得宗9代は、

             (1) 北条時政(ときまさ)、(2) 北

              条義時(よしとき)、(3) 北条泰時

             (やすとき)、 (4) 北条時氏(ときう

             じ)、 (5) 北条経時(つねとき)、

             (6) 北条時頼(ときより)、 (7) 北

             条時宗(ときむね)、 (8) 北条貞時

             (さだとき)、(9) 北条高時(たかと

             き)である。

             ■ 鎌倉幕府の執権16代。

             ● 鎌倉北条氏・執権16代は、

             北条 時政、北条義時、北条 泰時、

             北条経時、北条 時頼、 北条長時、

             北条政村、北条 時宗、 北条貞時、

             北条師時、北条 宗宣、北条 熙時、

             北条 基時、北条 高時、北条 貞顕、

             北条守時である。

 

〇 かま  鎌倉幕府 関連年代順

                     出来事ブック

             (かまくらばくふかんれんねん

                            だいじゅんできごとぶっく)。

           《武家政権関連出来事》。

 

 かま   鎌倉府

              (かまくらふ) 。

           《室町幕府の地方行政機関》。

           (= 関東府)

            (= 鎌倉公方と関東管領が

           指揮する、室町幕府の地

           方行政機関)。

                 (1349年ー1455年)。

            ■ 室町幕府の詳細な内容

            に関しては、

            □ 室町幕府ガイドブック

             □ 室町幕府 関連年代順 

              出来事ブック。 

           を参照してください。

           (⇒ 室町幕府足利将軍)。

           (⇒ 関東公方

           関東公方足利氏鎌倉府

           鎌倉公方古河公方)。

           (⇒ 堀越公方)。

           (⇒ 関東管領

           関東管領上杉氏

           山内上杉 氏扇谷上杉 氏)。

              ■ 鎌倉府 (かまくらふ、1349年ー1455

              年、関東府)は、 鎌倉公方と関東管領が指

              揮する、室町幕府の地方行政機関である。

              ■ 京(都)に室町幕府(= 足利幕府)を開

              いた足利尊氏(あしかがたかうじ)は、 武

              家政権の根拠地であった鎌倉の政治的、

              軍事的重要性から、 1349年(貞和(じょ

              うわ・ていわ)5年)に、鎌倉府を置き、 鎌

              倉より尊氏嫡男の足利義詮(よしあきら)を

              召還し、京(都)より尊氏の子の足利基氏

              (もとうじ)を鎌倉へ派遣し、鎌倉公方(関

              東公方)とし、鎌倉公方(関東公方)の補佐

              役として関東管領(初名・執事)を任命し、

              東国(とうごく)の経営にあたらせた。 鎌

              倉府の長官(首長)を鎌倉公方という。 

                鎌倉公方(関東公方)は、足利基氏

              の子孫が、代々世襲した。 しかし、関東

              管領職や東国の各国守護職の任免権は、

              室町幕府の将軍にあり、 鎌倉公方(関東

              公方)にはなかった。

             ■ 鎌倉府は、 室町幕府の関東・中部 ・

             東北地方の政務機関であった。

             ● 鎌倉府 (かまくらふ、1349年ー1455

             年、関東府)とは、 鎌倉を本拠地にした

             町幕府の政庁であり、  室町時代前期・中

             期に存在した、関東・伊豆・甲斐地域  と

             東北地域(1392年ー1400年の間のみ

             管轄)を管轄・統治した、室町幕府の地方

             行政機関である。 

              ● 鎌倉府の長官が、 鎌倉公方(かまくら

             くぼう) である。 

             ● 鎌倉府の長官である鎌倉公方(かまくら

             くぼう)には、将軍足利氏の一族が代々世襲

             し、就任し、 鎌倉公方を補佐する、関東管

             領(かんとうかんれい)には上杉氏が代々世

             襲し、就任した。

                しかし、鎌倉公方の足利氏と関東管領

             の上杉氏が、対立するようになった。

             ● 鎌倉府は、 関東8か国と伊豆・甲斐(か

             い) と、 東北2カ国の陸奥(むつ)、出羽

             (でわ)、の東国(とうごく)を管轄・統治した。

               鎌倉府は、 関東8か国と伊豆・甲斐(か

             い、現・山梨県相当地域) (1349年ー14

             55年の間管轄) と、 東北2カ国の陸奥

             (むつ、現・青森・岩手・宮城・福島県相当

             地域)、出羽(でわ、現・秋田・山形県相当地

             域) (1392年ー1400年の間のみ管轄) 

             の東国(とう ごく)を管轄・統治した。

                           ● 鎌倉府の長官は、 鎌倉公方(かまくら

             くぼう)といい、 5代の鎌倉公方(足利基

             氏(もとうじ)、氏満(うじみつ)、満兼(みつ

             かね)、持氏(もちうじ)、成氏 (しげうじ))が、

             就任した。

             ● 室町幕府は、 鎌倉府の管轄・統治国

             を、関東8か国と伊豆・甲斐と する。 

                1392年に、東北2か国の、陸奥、出

             羽を、鎌倉府の管轄・統治国に加えたが、

             1400年に東北2か国を鎌倉府の管轄

             統治国から外した。 

             ● 室町幕府は、 鎌倉府の管轄・統治国

             を、初め、関東8か国と伊豆・甲斐(かい、

             現・山梨県相当地域) とする。 

                1392年(明徳3年)に、 東北2か国

             の、陸奥(むつ、現・青森・岩手・宮城・福

             島県相当地域)、出羽(でわ、現・秋田・山

             形県相当地域)を、鎌倉府の管轄・統治国

             加えたが、 1400年に東北2か国(陸奥、

             出羽)を鎌倉府の管轄・統治国から外した。 

             ● 1349年(貞和5年)に、足利尊氏(あし

             かがたかうじ)の子の、足利基氏(もとうじ)

             が、足利尊氏の命(命令)で、初代・鎌倉公

             方(かまくらくぼう、鎌倉府の長官)となり、

             鎌倉府が組織・形成された。

                鎌倉府の長官である鎌倉公方(かま

             くらくぼう)は、 足利基氏 (もとうじ)、足

             利氏満(うじみつ)、足利満兼(みつかね)、

             足利持氏(もちうじ)、足利成氏(しげうじ)

             と5代続いた。

                しかし、第5代・鎌倉公方の足利成氏

             (しげうじ)が、1455年(康正元年、享徳

             4年)に、鎌倉を去り、他の地に本拠地を

             置いたため、鎌倉府は、解体した。

             ■ 日本の室町時代に、 室町幕府の

             国統治地方長官である関東公方(かんと

             うくぼう、鎌倉公方、古河公方) と 関東

             公方の補佐役の関東管領(かんとうかん

             れい)が、 日本の東国(とうごく、関東・

             東北・中部地方)を統治した。 

                  関東管領 職や東国の各国守護職の

             任免権は、 室町幕府の将軍にあり、関

             東公方(鎌倉公方、古河公方))にはなか

             った。

                 関東公方(鎌倉公方、古河公方)

             関東管領は、対立するようになった。

             ■ 関東公方(かんとうくぼう)とは、室町

             幕府の東国統治地方長官であり、 鎌倉

             公方 (かまくらくぼう、1349年ー1455

             年、5代) と その後身の古河公方 (こ

             がくぼう、1455年ー1583年、5代) で

             ある。

                 1455年に鎌倉府が解体し、鎌倉公

              方(1349〜1455年、5代)に代わり、東

             国に、2つの公方(く ぼう、古河公方、堀

             越公方)が成立したが、 堀越公方(ほり

             ごえくぼう、1457年ー149 3年頃、2代)

             は、東国全体を統治できず、事実上、 伊

             豆1国のみの短期統治(1482年ー1493

             年頃)で終わったため、 関東公方(かん

             とうくぼう)とは言わない。 

 

 かま  鎌倉文化

             (かまくらぶんか)。

          《日本の文化》。

          (12世紀末〜14世紀前半)。

           ■ 鎌倉時代の政治・経済・

          社会、文化などの詳細な内

          容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。

          (⇒ 日本の文化)。

                           ■ 鎌倉文化 (かまくらぶんか)は、

              12世紀末から14世紀前半までの

              時期の日本文化である。

 

 かま  鎌倉北条氏

             (かまくらほうじょうし)。

          《武家の氏族》。

          (⇒ 北条氏)。

          (= 北条氏(ほうじょうし))。

          (平安時代の伊豆平氏)。

          (鎌倉時代の執権北条氏)。

          (室町・安土桃山・江戸時

           代の横井氏)。

          (12世紀頃ー18世紀)。

             THE KAMAKURA 

          HOJO CLAN.  

           ■ 鎌倉時代の鎌倉北条氏

          の詳細な内容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。

           ○ 武家としての鎌倉北条氏。 

           ○ 鎌倉北条氏は、

           武家の氏族であり、

          平安時代は、伊豆平氏であ

          り、 鎌倉時代は、執権北条

          氏(1203年ー1333年)とな り、

             鎌倉幕府滅亡後、横井氏と

          なり、室町・安土桃山・江戸

          時代まで存続する。

           (⇒ 鎌倉将軍御家人)。

           (⇒ 北条氏得宗

           北条得宗家得宗専制

                  寄合内管領長崎氏

           御内人)。

          (⇒ 執権執権北条氏)。

              (⇒ 河内源氏鎌倉北条氏)。

              (⇒ 源氏政権北条政権

                      鎌倉幕府)。

          (⇒ 幕府将軍武家政権)。

          (⇒ 日本の政権・政府)。

               □ 鎌倉幕府の、執権北条氏

           (1203年〜1333年)。

          ○ 鎌倉幕府の鎌倉北条氏

          の執権・16代 

          (北条時政、義時、泰時、

          経時、時頼、長時、正村、

          時宗、貞時、師時、宗宣、

          熙時、基時、高時、貞顕、

          守時)。

          ○ 鎌倉北条氏は、

          桓武平氏系の伊豆平氏であ

           り、始祖は、平 維将(たいらの

          これまさ)であり、 平 維将は、

          北条時政、北条政子、北条

          義時の祖先である。

          ○ 鎌倉北条氏は、

          鎌倉時代に、執権北条氏

          (1203年ー1333年)となり、鎌

          倉幕府の執権職を世襲した

          一族である。

          ○ 鎌倉幕府の執権は、

          1203年の北条時政の初代

          執権就任から1333年の鎌

          倉幕府滅亡時の第16代執

          権・北条守時までである。

                   □ 日本歴史で活躍した氏族:

          天皇家藤原氏伊勢平氏

          河内源氏鎌倉北条氏

          足利氏上杉氏武田氏

          井伊氏小田原北条氏

          真田氏織田氏豊臣氏

          徳川氏

              ■ 鎌倉北条氏。

             ■ 鎌倉北条氏(かまくらほうじょう

             し、= 鎌倉北条家、12世紀頃ー18

             世紀)は、 武家の氏族であり、桓武

             平氏系の伊豆平氏であり、12世紀

             頃から18世紀まで、平安時代後期

             から江戸時代まで存在した武家であ

             り、 鎌倉時代には、鎌倉幕府の執

             権(執権北条氏、1203年ー1333

             年)となり、鎌倉幕府の執権職(将

             軍補佐職)を世襲した一族である。

                鎌倉幕府滅亡後、鎌倉北条氏

             の子孫は、氏族名を横井氏に変え、

             子孫は、長く江戸時代まで存続する。

              ■ 鎌倉北条氏。

             ● 鎌倉北条氏は、 1180年(治

             承4年)に、源頼朝が鎌倉を本拠

             地にしたのに伴い、源頼朝の重臣

             で伊豆平氏の北条時政も、鎌倉を

             本拠地にする。

             ■ 武家・本家の当主。

             ■ 武家・本家の当主とは、 武家

             の氏族の嫡流の当主であり、 惣

             領(そうりょう、一族・一門武士団

             の長)であり、 通常、嫡子(ちゃく

             し、家督・家産継承者)が継承する。 

             ■ 北条時政。

             ■ 北条時政 (ほうじょうときま

             さ)は、広義では、北条氏得宗、

             北条氏得宗家の始祖である。

                北条時政(ときまさ)の子は、

             北条政子(まさこ)、北条義時(よ

             しとき)などである。

             ■ 執権北条氏。

             ■ 執権北条氏(しっけんほうじょ

             うし、1203年ー1333年) とは、 

             鎌倉時代の鎌倉北条氏であり、

             鎌倉時代の、鎌倉幕府の執権職

             (将軍補佐職)を代々世襲する鎌

             倉北条氏である。

             ■ 執権北条氏は、鎌倉幕府で大

              きな政治権力をもつ。

             ● 執権北条氏は、 鎌倉時代に、

             鎌倉幕府の執権職(将軍補佐職)

             を世襲し、 鎌倉幕府の政所また

             は侍所の別当(べっとう、長官)を 

             も兼ね、鎌倉時代中期・後期に、

             鎌倉幕府の実質的な最高指導者

             となる。

             ■ 得宗専制。

             ■ 得宗専制 (とくそうせんせい)  

             とは、 鎌倉幕府の政策決定のす

             べてが北条氏得宗(とくそう)に集

             中する政治体制である。

             ■ 鎌倉時代後期に、鎌倉幕府 

              では、 北条氏得宗 (ほうじょしと

             くそう、鎌倉北条氏本家当主)が、 

             得宗専制という独裁政治を行う。

             ■ 寄合

             ■ 寄合(よりあい)とは、 鎌倉

             時代中期・後期の、鎌倉幕府の、

             北条氏得宗邸内の私談である。 

             ● 寄合(よりあい)とは、 北条

             氏得宗(とくそう、鎌倉北条氏本

             家当主)の近臣グループ (近親、

             得宗外戚、親密な北条一族、

             管領、御内人、親密な各分野専

             門家等で構成)が、 寄合衆(よ

             りあいしゅう、寄合の構成員)と

             なり、 北条氏得宗邸内で行う私

             (北条氏得宗の私的会議)で

             ある。

             ■ 得宗専制と寄合。

             ■ 鎌倉時代後期の得宗専制で

             は、 寄合衆(よりあいしゅう、寄

             合の構成員)による、得宗邸内の

             私談である寄合(よりあい、北条

             氏得宗の私的会議)で、鎌倉幕

             府の事実上の政策を 決定するよ

             うになり、 鎌倉幕府の執権、連

             署、評定衆、引付衆等の地位・

             権限は、空洞化する。

             ■ 北条得宗家。 

             ● 北条得宗家(ほうじょうとくそ

             うけ)とは、 鎌倉時代の鎌倉北

             条氏(= 鎌倉幕府の執権北条氏)

             の本家(宗家、嫡流、惣領家)で

             ある。 

             ■ 広義の得宗家と狭義の得宗家。 

                得宗家 (とくそう け、鎌倉北

             条氏本家とは、 広義では、北 条

             時政(ときまさ)の北条氏本家を含

             めた鎌倉北条氏本家(9代)であり、 

             狭義では、北条時政の北条氏本家

             を除く北条義時(よしとき)以後の

                    鎌倉北条氏本家(8代)である。 

             ■ 北条氏得宗。

             ● 得宗(とくそう)とは、 鎌倉時代

             の鎌倉北条氏(= 鎌倉幕府の執権

             北条氏)の本家(宗家、嫡流)の当

             主であり、 得宗家 (とくそうけ、=

             鎌倉時代の鎌倉北条氏(= 鎌倉幕

             府の執権北条氏)の本家) の当主

             である。 

             ● 得宗の権力の基盤となった広

             大な所領を得宗領(とくそうりょう)

             といい、 得宗の直臣家臣を御内

             人(みうちびと)といい、 御内人

             (= 得宗家臣)の筆頭を内管領 (う

             ちかんれい、ないかんれい)という。

             ● 得宗の権力。

                得宗は、鎌倉幕府で大きな政

             治権力をもち、 鎌倉時代後期の

             得宗専制時、執権(しっけん)を凌

             (しの)ぎ、鎌倉幕府の最高権力者

             となる。

             ● 得宗は時氏以外執権に就任。

                得宗は、若年で死去した北条

             時氏(ときうじ)を除き、鎌倉幕府

             執権(しっけん)に就任している。

             ● 広義の得宗と狭義の得宗。

                 得宗(とくそう)とは、 広義で

             は、北条時政(ときまさ)を含め鎌

             倉時代の鎌倉北条氏本家の当

             主・9代であり、 狭義では、北条

             時政を除く鎌倉時代の北条義時

                    (よしとき)以後の鎌倉北条氏本

             家の当主・8代である。 

             ● 北条氏得宗9代一覧表

               鎌倉幕府で強権をもつ鎌倉北

              条氏の得宗(とくそう 、広義)は、

                          順に、 

             (1) 北条時政(ときまさ)、

             (2) 北条義時(よしとき)、 

             (3) 北条泰時(やすとき)、

             (4) 北条時氏(ときうじ)、

             (5) 北条経時(つねとき)、

             (6) 北条時頼(ときより)、

             (7) 北条時宗(ときむね)、

             (8) 北条貞時 (さだとき)、

             (9) 北条高時(たかとき) 、

             である。

             ■ 内管領。

              ● 内管領  (うちかんれい、うち

             のかんれい、ないかんれい)とは、

             北条氏得宗の執事(しつじ、家政

             掌握者)であり、 北条氏得宗家

             執事であり、 北条氏得宗の家臣

             (= 御内人)の筆頭である。

             ● 内管領は、 得宗 (とくそう、

             鎌倉時代の鎌倉北条氏(= 鎌倉

             幕府の執権北条氏)の本家の当

             主) の執事(しつじ、家司(けい

             し))であり、 得宗家 (とくそうけ、

             鎌倉時代の鎌倉北条氏(= 鎌倉

             幕府の執権北条氏)の本家) の

             執事、家政機関の長(家令(かれ

             い))であり、 御内人 (みうちび

             と、得宗の家臣、得宗家の家臣)

             の筆頭、家臣代表である。

             ■ 内管領の権力。

             ● 鎌倉時代後期の得宗専制期

             に、内管領は、権勢を振う。

             ● 内管領は、 得宗家(とくそう

             け、鎌倉北条氏本家)の執事と

             して得宗家の財政・行政・司法権

             を掌握し、 鎌倉幕府の軍事・警

             察権を握る侍所所司 (さむらい

             どころしょし、所司は次官)を兼ね、

             寄合衆 (よりあいしゅう、寄合

             (得宗、得宗家の私的会議)の構

             成員)として、鎌倉幕府の政策決

             定に参加(関与)し、権勢を振う。

             ● 鎌倉時代末期には、内管領

             の長崎氏が、得宗・北条高時の 

             後見人として、幕政の実権を握り

             鎌倉幕府の幕政を主導する。

             ■ 御内人。

             ● 御内人(みうちびと)とは、 

             得宗被官(とくそうひかん)、御内方

             (みうちかた)、得宗御内(とくそう

             みうち)ともいい、 北条氏得宗の

             家臣であり、北条得宗家の家臣で

             あり、 鎌倉幕府の北条氏得宗と

             主従関係を結んだ武士である。

             ● 御内人は、 

             北条氏得宗 (ほうじょうしとくそう、

             鎌倉時代の鎌倉北条氏(= 鎌倉幕

             府の執権北条氏)の本家の当主) 

             の家臣であり、 北条得宗家 (鎌

             倉時代の鎌倉北条氏(= 鎌倉幕府

             の執権北条氏)の本家)) の家臣、

             従者 (家人(けにん)、被官(ひか

             ん))である。

 

 かみ  上屋敷。

             (かみやしき)。 《建物》。

             (= 藩(大名)の江戸での公邸)。 

          ○ 江戸時代の、藩(藩主)(大名)

          の、江戸での公邸、本邸、本宅、政

          務場所。

        (⇒ 藩邸)。

                            ■ 上屋敷 (かみやしき)とは、 藩邸の1

             つで、 江戸時代の、各藩(藩主)(大名)の

             江戸での公邸、本邸、 本宅、政務場所 で

             ある。

                            ■ 江戸時代の、大名(藩)の江戸での邸宅

             である藩邸には、 公邸の上屋敷、私邸の

             中屋敷、下屋敷があった。

 

 かみ  髪をおろす。

             (かみをおろす)。 《出家》。

                     (= 落飾(らくしょく)する)。

        (⇒ 落飾出家)。

             ■ 髪をおろす (かみをおろす)  とは、

             飾(らくしょく) することであり、 前近代日本

             で、女性が、出家することで、髪をおろして

             (短くするか、そりおと して)、 個人名を変え

             仏門に入ることである。 

 

 

〇 かめ  亀之丞。 

             (かめのじょう)。 《人名》。

             ○ 井伊直親( いいなおちか)

                      の幼名。

       (⇒ 井伊直親)。

             ■ 亀之丞 ( かめのじょう)は、 井伊

              直親(いいなおちか)の幼名である。

 

〇 かめ  亀の前。 

             (かめのまえ)。 《人名》。

             ■ 亀の前 (かめのまえ、生没年不詳)

             は、 源 頼朝の夫人である。

             ■ 亀の前は、 

             源 頼朝の伊豆国での流人暮らしの頃

             から仕えていて、気に入られていた女

             性である。

             ■ 1182年(寿永元年)11月の

                亀の前事件。

             ● 源 頼朝は、 親密な夫人の亀の前を、

             飯島(現・逗子市)の伏見広綱(ふしみひろ

             つな)邸に移し、寵愛を続けていた。 

                それを知った北条政子は、「牧の方」

             の兄弟たは父の牧宗親(まきむねちか)

             に、1182年(寿永元年)11月10日に、

             亀の前が住む伏見広綱邸を壊させる。 

             亀の前は伏見広綱に連れてられ、大多和

             義久(おおたわよしひさ)邸へ逃れる。

                源 頼朝は、そのことを知り、怒り、牧

             宗親を叱(しか)り・侮辱する。 それを知

             った、牧宗親の舅(しゅうと)の北条氏政は、

             怒り、鎌倉から伊豆国に一時退去する。

                「牧の方」は、北条氏政の後妻である。

 

 かめ  亀山社中

             (かめやましゃちゅう)。 

                     《海運・貿易会社》。

          (= 坂本龍馬が主導する海運・貿

                     易会社)。

                (1865年ー1867年)。

                 ○ 坂本龍馬が主導する海運・貿

              易会社であり、海援隊(1867〜68

           年)の前身。

             ■ 亀山社中  (かめやましゃちゅう、1865

             ー1867年)は、 坂本龍馬が主導する海運・

             貿 易会社であり、海援隊(1867〜68年)の

             前身である。

 

 かめ  亀山天皇。 

             (かめやまてんのう)。 《天皇》。

          ○ 大覚寺統(だいかくじとう)の最初

           の天皇。

                      ○ 亀山天皇の皇統を、大覚寺統

              (だいかくじとう)と言う 。

             (⇒ 大覚寺統)。

             (⇒ 皇統の 分立)。

             ■ 亀山天皇 (かめやまてんのう)は、 大

             覚寺統(だいかくじとう)の最初 の天皇であり、

             亀山天皇の皇統を、大覚寺統(だいかくじと

               う)と言う 。

 

#kara

 

 から  唐入り。 

             (からいり)。 海外侵略・征服》。

             ■ 唐入り (からいり) とは、豊臣秀吉の

             東アジアへの海外侵略・征服計画である。

                                 唐入りとは、 1592年から1598年ま

             で、豊臣秀吉が行った、朝鮮半島経由で

             中国の明の侵略・制服をめざす、海外侵

             略・征服計画 である。 

               唐入りは、 豊臣秀吉の死去により中

             止となる。

 

 がら  ガラシア夫人。 

             (がらしあふじん)。 《人名》。

          (= ガラシャ夫人、細川ガラシア、

                     明智 玉(あけちたま))。

             (⇒ 細川ガラシャ)。

 

 から   烏丸中御門第。  

              (からすまなかみかどてい)。

             (= 足利二条城(あしかがにじ

              ょうじょう))。   

                     《足利将軍家の邸宅、政庁》。

          《室町幕府(= 足利幕府)》。

          (⇒ 足利将軍家邸)。

          (⇒ 二条城)。

          ( 足利義輝足利義昭)。

          ( 徳川二条城)。

          (⇒ 室町御所花の御所) 。

          (⇒ 三条坊門邸)。

          (⇒ 小川御所)。

          ( 足利将軍家室町幕府)。

           (⇒ 足利氏)。 

           (⇒ 室町幕府)。

          □ 室町幕府関連

        出来事

             ■ 烏丸中御門第 (からすまなか

             みかどてい)とは、 二条御所 (に

             じょうごしょ、= 足利二条城、旧二条

             城、1559年ー1565年、1569年

             ー1573年)であり、 京(きょう、京

             都)の二条地域付近に建設された

             足利将軍家の平城、邸宅である。

             ■ (5) 烏丸中御門第 (= 足利

             二条城)には、 前期・烏丸中御門

             第 (= 前期・足利二条城) と、 

             後期・烏丸中御門第 (= 後期・足

             利二条城) がある。

             (5−1) 前期・烏丸中御門第 

             (= 前期・足利二条城)は、 室町

             幕府の第13代将軍の足利義輝

             (よしてる)が居城した二条御所 

             (= 烏丸中御門第、足利二条城、

             旧二条城、1559年ー1565年)

             である。 

             (5−2) 後期・烏丸中御門第 

             (= 後期・足利二条城)は、 織田

             信長が築城し、室町幕府の第15

             代将軍の足利義昭(よしあき)が

             居城した二条御所 (= 烏丸中御

             門第、足利二条城、旧二条城、

             1569年ー1573年)である。

                         ■ 室町幕府(= 足利幕府)の、足

             利将軍家の邸宅、政庁である足利

             将軍家邸には、

             (1) 二条万里小路第 (にじょう

             までのこうじてい、

             1336年頃ー1358年頃)、 

             (2) 三条坊門邸 (= 別称:三条

             坊門殿(さんじょうぼうもんどの)、

             1336年頃ー1443年頃)、 

             (3) 室町御所 (むろまちごしょ、

             = 別称:室町殿(むろまちどの)、

             室町第(むろまちてい)、通称:

             花の御所(はなのごしょ)、

             1381年ー1559年)、 

             (4) 小川御所 (おがわのごしょ、

             = 別称:小川殿(おがわどの)、

             1471年頃ー1493年)、 

             (5) 烏丸中御門第 (からすまな

             かみかどてい、= 別名:足利二条

             城、二条御所、旧二条城、前期:

             1559年ー1565年、後期:15

             69年ー1573年)、

             などがある。  

             ■ 二条城には、 @ 前期・足利二

             条城、 A 後期・足利二条城、 

             B 織田二条城、 C 豊臣二条城、 

             D 徳川二条城 などの城館がある。

             @ 前期・足利二条城は、

             室町幕府の第13代将軍の足利義

             輝(よしてる)が居城した二条御所

             (= 烏丸中御門第、旧二条城、15

             59年ー1565年) である。 

                跡地の場所は、現在の京都市

             中京区の武衛陣町付近である。

             A 後期・足利二条城は、

             足利義昭のために織田信長が築城

             し、室町幕府の第15代将軍の足利

             義昭(よしあき)が居城した二条御

             所(= 烏丸中御門第、旧二条城、15

             69年ー1573年)である。 

                跡地の場所は、現在の京都市

             中京区の平安女学院付近である。

             B 織田二条城は、

             織田信長が、1577年(天正5年)に

             築城、居城した二条城で、1579年

             (天正7年)に皇太子・誠仁親王に譲

             り、 本能寺の変時、織田信忠が籠

             城(ろうじょう)した二条御所(1577

             年ー1582年)である。 

                跡地の場所は、現在の京都市

             中京区両替町通り御池上る付近で

             ある。

             C 豊臣二条城は、

             豊臣秀吉が1583年(天正11年)

             に、築城し、居城し、聚楽第完成

             まで政庁として使われ秀吉が政務

             をとった二条第(別名:妙顕寺城、

             顕寺城、1583年ー1587年頃)

             である。 

                跡地の場所は、現在の京都

             市中京区小川押小路付近(古城

             (ふるしろ)町付近)である。

             D 徳川二条城は、

             1603年(慶長8年)に、徳川家康

             が築城し、徳川氏の京(きょう、京

             都)の警備のため、並びに、上洛

             の際、京(きょう、京都)滞在時徳

             川氏の宿所とした城(1603年ー

             1868年)であり、 江戸時代に

             徳川氏の京都拠点となる。

                徳川二条城は、 近代日本

             (明治、大正、昭和戦前期)では、

             皇室離宮 (「二条離宮」、1885

             年ー1939年)となる。 

                現存の城館の場所は、現在

             の京都市中京区二条通堀川西入

             二条城町である。

 

 から  空手 

                           (からて)。  《格闘技》。

          (= 空手道、唐手)。

 

 から  唐橋 

             (からはし)。 《人名》。

          (18世紀ー19世紀)。

          ○ 美人。

          ○ 江戸幕府・第12代将軍・徳川

                 家慶(いえよし)治世の大奥・御年寄

          (おとし より、上級幹部)。

 

 かり  仮御所。

             (かりごしょ)。 《天皇御所》。

          (= 里内裏 さとだいり)。

              ○ 平安宮の本来の内裏(だい

          り)以外の、天皇御所、皇居。

       (⇒ 里内裏内裏 だいり)。

             ■ 仮御所 (かりごしょ)とは、 天皇

             の、里内裏(さとだいり)であり、 

             平安宮(へいあんきゅう)の本来の内

             裏(だいり)以 外の、天皇御所、皇居

             である。

 

 かり  嘉暦。 

             (かりゃく) 。 《和暦》。

             THE KARYAKU ERA.

             ○ (1326〜1329年)。

             ● 1326年・嘉暦元年・4月26日〜

                1329年・嘉暦 4年・8月29日。 

             ● 鎌倉時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

             ■ 嘉暦 (かりゃく、英:THE KARYAKU 

             ERA) とは、 和暦であり、 鎌倉時代後

             期の和暦年号であり、 1326年・嘉暦元

             年・4月26日から1329年・嘉暦 4年・8月

             29日まで である。 

 

〇 かれ  カレンダー。

          (= 暦(れき、こよみ))。 《 暦》。

        (⇒ (こよみ))。

              (⇒ 太陽暦(日本の新暦)、

          太陰太陽暦(日本の旧暦))。

          (⇒ 太陽暦グレゴリオ暦

            ユリウス暦)。

                   (⇒ 太陰暦純粋太陰暦

            太陰太陽暦)。

          ● 暦には、太陰暦と太陽暦がある。

          ● 太陽暦には、グレゴリオ暦とユリ

          ウス暦がある。

          ● 太陰暦(=陰暦)には、純粋太陰

                       暦と太陰太陽暦がある。

          ● 日本の現行暦や世界の現行中

          心暦は、太陽暦の、グレゴリオ暦で

          ある。

 

〇 かろ   嘉禄。 

             (かろく)。 《和暦》。

             THE KAROKU ERA.

             ○  1225年−1227年。

             ● 1225年・嘉禄元年・ 4月20日〜

                1227年・嘉禄 3年・12月10日。 

             ● 鎌倉時代前期の和暦年号。

          (⇒ 和暦年号一覧表 

          (⇒ 西暦和暦総括対照表

             ■ 嘉禄 (かろく、英:THE 

             KAROKU ERA) とは、和暦であり、 

             鎌倉時代前期の和暦年号であり、 

             1225年・嘉禄元年・4月20日から

             1227年・嘉禄 3年・12月10日まで 

             である。 

 

〇 かわ  川崎 尚之助。

                           (かわさき しょうのす け)。 《人名》。

             ○ 新島(山本)八重の1番目

           の夫。

                (⇒ 新島八重)。

 

 かわ  河内源氏

             (かわちげんじ)。

             《武家の氏族》。

             (10世紀頃ー19世紀)。

           □ 鎌倉時代前期の河内

           源氏の詳細に関しては、

           「鎌倉幕府 関連年代順

           出来事を参照してくだ

           さい。

           ○ 河内源氏は、

           源 頼信(みのもとの よりの

           ぶ)始祖(しそ)とする

           清和源氏の一族である。

           ○ 河内源氏は、

           河内国(かわちのくに、現・

           大阪府東部)に根拠地を

           置いた清和源氏の一流

           であり、 主に、武家であ

           り、 清和源氏の武家源

           氏の主流である。

           ○ 河内源氏は、

           主に武家の氏族であり、

           武将、武士であり、将軍

           家にもなる。

          (⇒ 清和源氏)。

                    □ 日本歴史で活躍した

          主な氏族:

          天皇家藤原氏伊勢平氏

          河内源氏鎌倉北条氏

          足利氏上杉氏武田氏

          井伊氏小田原北条氏

          真田氏織田氏豊臣氏

          徳川氏

              ■ 河内源氏 (かわちげんじ)は、

                           主に、武家の氏族であり、 

              10世紀頃から19世紀頃まで存

             し在、 武家、武士であり、将軍家

             にもなる。

              ■ 棟梁(とうりょう)とは、

             各武家の第一人者である。

              ■ 河内源氏嫡流9代は、

             次の武将である

             (1) 源 頼信 

              (みなものとの よりのぶ、

              河内源氏の祖、初代棟梁

              生没年:968年ー1048年)。

             (2) 源 頼義 

              (みなものとの よりよし、

              河内源氏の2代目棟梁

              生没年:988年ー1075年)。

             (3) 源 頼家 

              (みなものとの よりいえ、

              河内源氏の3代目棟梁、

              通称は、八幡太郎(はちまん

              たろう)、

              生没年:1039年ー1106年)。

             (4) 源 義忠 

              (みなものとの よしただ、

              河内源氏の4代目棟梁、

              生没年:1083年ー1109年)。

             (5) 源 為義 

              (みなものとの ためよし、

              河内源氏の5代目棟梁、

              生没年:1096年ー1156年)。

             (6) 源 義朝 

              (みなものとの よしとも、

              河内源氏の6代目棟梁、

              源頼朝の父、

              生没年:1123年ー1160年)。

             (7) 源 頼朝 

              (みなものとの よりとも、

              河内源氏の7代目棟梁、

              生没年:1147年ー1199年)。

             (8) 源 頼家 

              (みなものとの よりいえ、

              河内源氏の8代目棟梁、

              生没年:1182年ー1204年)。

             (9) 源 実朝 

              (みなものとの さねとも、

              河内源氏の9代目棟梁、

              生没年:1192年ー1219年)。

             ■ 河内源氏嫡流は、 9代の

              源 実朝で断絶する。 

              しかし、その後、河内源氏の支

              流の足利氏、武田氏、新田氏系

              の徳川氏などが繁栄する。

             ■ 河内源氏の武家は、 

              将軍家にもなり、 河内源氏の

              嫡流の鎌倉幕府将軍家3代で

              あり、 

                 河内源氏の支流の足利氏の

              室町幕府将軍家15代であり、 

                 河内源氏の支流の新田氏系の

              世良田(せらた)氏(得川氏)の

              徳川幕府将軍家15代である。

 

 かわ  河内 国。

             (かわち のくに)。 《旧地域名》。

          (= 河州(かしゅう))。 

          (≒ 現・大阪府東部の相当地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の、

           旧国(令制 国)の正式名)。

              KAWACHI PROVINCE.

          (前近代日本の、 旧国(= 令

           制国)の正式名)。

                    (⇒ 河州(かしゅう))。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

          ■ 河内 国。

             <畿内 (旧広域地方)。

             <五畿七道。

             ■ 河内 国 (かわち のくに)は、 律令制

             定後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             旧国(令制国)の正式名である

             ■ 河州 (かしゅう)は、  律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、旧国

             (令制国)正式名の、河内 国 ( かわち

             のくに)の 別称である。

             ■ 河内 国(= 河州)は、 現・近畿地方

             の、現在の大阪府東部に相当する地域

             である。

             ■ 河内 国(= 河州)は、 五畿七道 (ご

             きしちどう)の畿内(きない)・旧広域地方

             に属する。     

                

 かん  官位

             (かんい)。  《地位・身分》。

             (= (広義) 「職」と「階」)。

             (= (狭義) 官職の等級)。

                     ○ 官位とは、位階と官職である。

              (⇒ 位階官職)。

           (⇒ 朝廷の官位朝廷の官職

          朝廷の位階朝廷律令官制)。

             ■ 前近代日本では、官位は、「朝廷の官

             位」であり、 「朝廷の位階」 と  「朝廷の

             官職」 である。

 

 かん  官位相当制

             (かんいそうとうせい)。

          《地位・身分》。

             ○ 位階を主として官職を従と

          する、前近代の朝廷の官位制。

          (⇒ 朝廷の官職朝廷の位階

          朝廷)。

             ■ 官位相当制(かんいそうとうせい)

             とは、 前近代日本の朝廷の官人(役

             人)序列システムであり、 位階を主と

             して官職を従とする前近代 日本の朝廷

             の官位制である。

             ■ 官位相当制とは、 前近代日本の

             朝廷が位階と官職との間に一定の相

             当関係を設定した前近代日本の朝廷

             の官人(役人、官僚)序列システムであ

             る。

             ■ 朝廷の官人(役人)は、位階に対応

             した官職に就くことが原則とされた。

 

 かん  寛永。

             (かんえい)。 《和暦》。

             THE KANEI ERA.

             ○  1624年−1644年。

             ● 1624年・寛永 元年・ 2月30日〜

                1644年・寛永21年・12月15日。 

             ● 江戸時代前期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

             ■ 寛永 (かんえい、英:THE KANEI 

             ERA) とは、和暦であり、 江戸時代前

             期の和暦年号であり、 1624年・寛永  

             元年・2月30日から 1644年・寛永21 

             年・12月15日までである。 

             ■ 日本の旧暦(太陰太陽暦)では、

             大の月(だいのつき)の月末は、30日

             であり、小の月(しょうのつき)の月末

             は、29日以下である。 寛永元年の

             2月は、大の月なので、月末は、2月

             30日である。

             ■ 日本の旧暦(太陰太陽暦)では、

             一か月の日数が30日ある月を「大

             の月」(だいのつき)、一か月の日数

             が29日以下の月を小の月(しょうの

             つき)という。 

 

 かん  寛永通宝一文銭銅貨・

        鉄貨 

                     (かんえいつうほういちもんせんどうか・

                            てっか)。 《日本流通貨幣》。

          (⇒ 一文銭)。

          (⇒ 文単位・定位(定 額)通常

           貨幣)。

          (⇒ 日本流貨幣)。

             ■ 寛永通宝一文銭銅貨・鉄貨 (かんえ

             いつうほういちもんせんどうか・てっか)は、

                            江戸時代の、江戸幕府鋳造の1文(いち

             もん)単位の定位(定額)通常貨幣である。 

             ● 寛永通宝一文銭銅貨・鉄貨は、 

             江戸 時代の文銭銅・鉄貨の1つである。

                     ● 寛永通宝一文銭銅貨・鉄貨は、フィク

             ションのドラマ「銭形平次」 が投げる銭貨

             である。

             ■ 現在貨幣価値1枚 ・約25円。

               寛永通宝1文銭4000枚≒1両小判

              (金)≒4分≒16朱≒現在の約10万円

 

 かん  寛永通宝四文銭銅貨・

        鉄貨 

                           (かんえいつうほうよんもんせんどうか・

             てっか)。 《日本流通貨幣》。

          (⇒ 四文銭)。

          (⇒(もん)単位・定位 (定額)

          通常貨)。

          (⇒ 日本流通貨幣)。

                            ■ 寛永通宝四文銭銅貨・鉄貨 (か

                            んえいつうほうよんもんせんどうか・

             てっか)は、

              江戸時代の、江戸幕府鋳造の4文 (も

             ん)単位の定位(定額)通常貨幣である。

             ■ 寛永通宝四文銭銅貨・鉄貨 は、

             江戸時代の文銭銅・鉄貨の1つである。

             ■ 現在貨幣価値1枚約100円。

                            寛永通宝4文銭 1000枚≒1両小判

                           (金)≒4分≒16朱≒現在の約10万円 。

 

 かん  寛延。

             (かんえん)。 《和暦》。

             THE KANEN ERA.

             ○ 1748 年− 1751年。

             ● 1748年・寛延元年・ 7月12日〜

                1751年・寛延 4年・10月27日。 

             ● 江戸時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

 かん  宦官。

             (かんがん)。 《官僚》。

          ○ 日本以外の前近代の世界で、

          去勢された男性官僚。

          (⇒ 宦官(世界史辞典))。  

 

〇  かん  寛喜。 

             (かんぎ)。 《和暦》。

             THE KANGI ERA.

             ○  1229年−1232年。

             ● 1229年・寛喜元年・3月5日〜

                1232年・寛喜 4年・4月2日。 

             ● 鎌倉時代前期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

             ■ 寛喜 (かんぎ、英:THE 

             KANGI ERA)とは、 和暦であり、 

             鎌倉時代前期の和暦年号であり、 

             1229年・寛喜元年・3月5日から

             1232年・寛喜 4年・4月2日まで

             である。 

                 ■ 「寛喜」の前後の和暦年号(元号):

             ● 安貞 (あんてい):

               1227年ー1229年。

               1227年・安貞元年・12月10日〜

               1229年・安貞 3年・ 3月 5日。 

 

〇  がん  元慶。 

             (がんぎょう)。 《和暦》。

             THE GANGYO ERA.

             ○  877年−885年)。

             ● 877年・元慶元年・4月16日〜

                885年・元慶 9年・2月21日。 

             ● 平安時代前期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇  かん  観行院 

             (かんぎょういん)。 《人名》。

          (= 橋本経子)。

          (1826年−1865年)。

          ○ 和宮の生母。

 

〇  かん  寛元。 

             (かんげん)。 《和暦》。

             THE KANGEN ERA.

             ○  1243年−1247年。

             ● 1243年・寛元元年・2月26日〜

                1247年・寛元 5年・2月28日。

             ● 鎌倉時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇  かん  寛弘。 

             (かんこう)。 《和暦》。 

             THE KANKO ERA.

             ○ 1004年−1012年。

             ● 1004年・寛弘元年・ 7月20日〜

                1012年・寛弘 9年・12月25日。 

             ● 平安時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇  かん   寛治 。 

             (かんじ)。 《和暦》。

             THE KANJI ERA.

             ○  1087年−1094年。

             ● 1087年・寛治元年・ 4月 7日〜

                1094年・寛治 8年・12月15日。 

             ● 平安時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック

 

〇  かん  干支

             (かんし、えと)。  《干支》。

          (= 十干十二支)。 

          (⇒ 甲子(こうし) 、癸亥(きがい))。

          (⇒ 干支表示年(= 干支年)

          (⇒ 干支年・西暦年変換法

          (⇒ 干支暦

          ○ 干支(かんし)とは、

          十干(じっかん)と十二支(じゅう

          にし)、または、2つを組み合

             わせた ものである。

          ○ 干支(かんし)とは、

          日本や中国などのアジアで、

          暦、時刻、方位などに用いら

          れる、数詞である。

             ■ 干支 (かんし、えと)とは、 

             十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)

             であり、 また、2つを組み合わせたも

             のである。

             ● 干支は、

             日本や中国などのアジアで、暦、時刻、

             方位などに用いられ る、数詞である

             ■ 干支年(かんしねん)は、 

             干支(かんし)を暦として用いた年で

             ある。

             ■ 干支暦(かんしれき)は、

             60年ごとに同じ年がめぐってくる暦

             である。

             ● 干支暦は、

             1番目の甲子(こうし)の年から60番

             目の癸亥(きがい)の年までである。

          ■ 干支表。

             (1) 甲子  (2) 乙丑   (3) 丙寅 

             (こうし、かっし)(いっちゅう) (へいいん)

             (4) 丁卯  (5) 戊辰   (6) 己巳 

             (ていぼう)  (ぼしん)     (きし)

             (7) 庚午  (8) 辛未   (9) 壬申 

             (こうご)   (しんび)     (じんしん)  

             (10)癸酉  (11)甲戌   (12)乙亥 

             (きゆう)   (こうじゅつ)  (いつがい)

             (13)丙子  (14)丁丑   (15)戊寅   

             (へいし)   (ていちゅう)  (ぼいん)

             (16)己卯  (17)庚辰   (18)辛巳 

              (きぼう)   (こうしん)   (しんし)   

             (19)壬午  (20)癸未   (21)甲申

             (じんご)   (きび)      (こうしん)

             (22)乙酉  (23)丙戌   (24)丁亥 

             (いつゆう)  (へいじゅつ) (ていがい)  

             (25)戊子  (26)己丑   (27)庚寅 

             (ぼし)     (きちゅう)   (こういん)

             (28)辛卯  (29)壬辰   (30)癸巳

             (しんぼう)  (じんしん)   (きし)

             (31)甲午  (32)乙未   (33)丙申 

             (こうご)    (いつび)   (へいしん) 

             (34)丁酉  (35)戊戌   (36)己亥

             (ていゆう)  (ぼじゅつ)   (きがい)

             (37)庚子  (38)辛丑   (39)壬寅 

             (こうし)    (しんちゅう)  (じんいん) 

             (40)癸卯  (41)甲辰   (42)乙巳 

             (きぼう)    (こうしん)   (いつし)

             (43)丙午  (44)丁未   (45)戊申

             (へいご)   (ていび)    (ぼしん)

             (46)己酉  (47)庚戌   (48)辛亥 

             (きゆう)   (こうじゅつ)  (しんがい) 

             (49)壬子  (50)癸丑   (51)甲寅 

             (じんし)    (きちゅう)   (こういん)

             (52)乙卯  (53)丙辰   (54)丁巳 

             (いつぼう)  (へいしん)  (ていし)  

             (55)戊午  (56)己未   (57)庚申

             (ぼご)     (きび)     (こうしん)

             (58)辛酉  (59)壬戌   (60)癸亥

             (しんゆう)  (じんじゅつ)  (きがい)。

 

〇  かん  干支年・西暦年変換法。

             (かんしねん・せいれきねんへんかんほう)。

          (干支年)。 《暦》。

          ○ 干支年⇒西暦年、西暦年⇒

          干支年 へ変換する方法。

             THE METHOD THAT CONVERTS 

             THE ZODIAC SIGN YEAR INTO 

             THE WESTERN SOLAR YEAR. 

          (⇒ 干支(かんし)

          (⇒ 甲子(こうし) 、癸亥(きがい))。

          (⇒ 干支表示年(= 干支年)

          (⇒ 干支暦

             ■ 干支年は、

          60年ごとに同じ年がめぐっ

          てくる。

             ■ 干支年(かんしねん)は、 

             干支(かんし)を暦として用いた年で

             ある。

             ■ 干支暦(かんしれき)は、

             60年ごとに同じ年がめぐってくる暦

             である。

             ● 干支暦は、

             1番目の甲子(こうし)の年から60番

             目の癸亥(きがい)の年までである。

          ■ 干支年・西暦年

          カナヤマ式速算法。

             ■ 干支年⇒西暦年。

             西暦年= 「過去近似の一番近い甲子・

             干支年の基準年」 + 「既知干支年

             の干支表番号」 −1年。

             ■ 西暦年⇒干支年。

             西暦年 − 「過去近似の一番近い甲

             子・干支年の基準年」 + 1年 =

             干支表の番号(番号から干支年を知る)。

             ● (例) その歴史上の出来事の年に対

             し、 過去近似の一番近いと推測される甲

             子の干支年を選び、 既知干支年に対し

             知りたい西暦年を得たり、 既知西暦年に

             対し知りたい干支年を得る。

             ○ 壬申の乱(じんしんのらん)の壬申の

             干支年は、西暦で何年か。

             「過去近似の一番近い甲子・664年」 + 

             「(29)壬辰」ー1年 =692年。

             壬申の干支年は、西暦692年である。

             ○ 西暦692年の干支年を知りたい。

             西暦692年 − 「過去近似の一番近い、

             甲子・664年」 +1年 =29 (干支表

             の29番、29番は、壬申)。

             西暦692年は、壬申の干支年である。

          ■ 干支暦の甲子の干支年

          の表。

             ● 古墳時代(狭義)の甲子の干支年。  

               244年、 304年、  364年、

                424年、 484年、 544年。

             ● 飛鳥白鳳時代の甲子の干支年。  

               604年、 664年。

             ● 奈良時代の甲子の干支年。  

               724年、 784年。

             ● 平安時代の甲子の干支年

                844年、 904年、 964年、 

                1024年、 1084年、 1144年。

             ● 鎌倉時代の甲子の干支年 

               1204年、 1264年。

             ● 室町時代の甲子の干支年 

               1324年、 1384年、 1444年、

               1504年、 1564年。

             ● 江戸時代の甲子の干支年 

               1624年、 1684年、 1744年、

               1804年、 1864年。

             ● 大正時代の甲子の干支年 

               1924年。

             ● 昭和時代の甲子の干支年 

               1984年。

          ■ 干支表。

             (1) 甲子  (2) 乙丑   (3) 丙寅 

             (こうし、かっし)(いっちゅう) (へいいん)

             (4) 丁卯  (5) 戊辰   (6) 己巳 

             (ていぼう)  (ぼしん)     (きし)

             (7) 庚午  (8) 辛未   (9) 壬申 

             (こうご)   (しんび)     (じんしん)  

             (10)癸酉  (11)甲戌   (12)乙亥 

             (きゆう)   (こうじゅつ)  (いつがい)

             (13)丙子  (14)丁丑   (15)戊寅   

             (へいし)   (ていちゅう)  (ぼいん)

             (16)己卯  (17)庚辰   (18)辛巳 

              (きぼう)   (こうしん)   (しんし)   

             (19)壬午  (20)癸未   (21)甲申

             (じんご)   (きび)      (こうしん)

             (22)乙酉  (23)丙戌   (24)丁亥 

             (いつゆう)  (へいじゅつ) (ていがい)  

             (25)戊子  (26)己丑   (27)庚寅 

             (ぼし)     (きちゅう)   (こういん)

             (28)辛卯  (29)壬辰   (30)癸巳

             (しんぼう)  (じんしん)   (きし)

             (31)甲午  (32)乙未   (33)丙申 

             (こうご)    (いつび)   (へいしん) 

             (34)丁酉  (35)戊戌   (36)己亥

             (ていゆう)  (ぼじゅつ)   (きがい)

             (37)庚子  (38)辛丑   (39)壬寅 

             (こうし)    (しんちゅう)  (じんいん) 

             (40)癸卯  (41)甲辰   (42)乙巳 

             (きぼう)    (こうしん)   (いつし)

             (43)丙午  (44)丁未   (45)戊申

             (へいご)   (ていび)    (ぼしん)

             (46)己酉  (47)庚戌   (48)辛亥 

             (きゆう)   (こうじゅつ)  (しんがい) 

             (49)壬子  (50)癸丑   (51)甲寅 

             (じんし)    (きちゅう)   (こういん)

             (52)乙卯  (53)丙辰   (54)丁巳 

             (いつぼう)  (へいしん)  (ていし)  

             (55)戊午  (56)己未   (57)庚申

             (ぼご)     (きび)     (こうしん)

             (58)辛酉  (59)壬戌   (60)癸亥

             (しんゆう)  (じんじゅつ)  (きがい)。

 

〇  かん  干支表示年

             (かんしひょうじねん)。 

          (干支年)。 《暦》。

          (= 干支年)。

          (⇒ 干支(かんし)

          (⇒ 甲子(こうし) 、癸亥(きがい))。

          (⇒ 干支年・西暦年変換法

          (⇒ 干支暦

          ○ 60年ごとに同じ年が来る干

          支表示年(干支年)

          ○ 干支で表示した年。

          ○ 前近代日本や前近代中国

          などでよく利用された、干支で

          表示した年。

             ■ 干支表示年(=干支年)(かんしひょう

             じねん)は、 60年ごとに同じ年が来る干

             支表示年(=干支年)である。

               干支表示年(=干支年)は、 干支で

             示した年である。

               干支表示年(=干支年)は、 前近代日

             本や前近代中国などでよく利用された。

             ■ 干支年(かんしねん)は、 

             干支(かんし)を暦として用いた年で

             ある。

             ■ 干支暦(かんしれき)は、

             60年ごとに同じ年がめぐってくる暦

             である。

             ● 干支暦は、

             1番目の甲子(こうし)の年から60番

             目の癸亥(きがい)の年までである。

 

〇  かん  干支暦。 

             (かんしれき)。 《暦》。

          (⇒ 干支(かんし)

          (⇒ 甲子(こうし) 、癸亥(きがい))。

          (⇒ 干支表示年(= 干支年)

          (⇒ 干支年・西暦年変換法

             ■ 干支暦 (かんしれき)は、 

             西暦、和暦と並んで、日本で使われ

             ている暦である。

               干支暦は、前近代日本で、よく利

             用された。

             ■ 干支年(かんしねん)は、 

             干支(かんし)を暦として用いた年で

             ある。

              ■ 干支暦(かんしれき)は、

             60年ごとに同じ年がめぐってくる暦

             である。

             ● 干支暦は、

             1番目の甲子(こうし)の年から60番

             目の癸亥(きがい)の年までである。

 

〇  かん  寛正。 

             (かんしょう)。 《和暦》。

             THE KANSHO ERA.

             ○ 1460年 −1466年。

             ● 1460年・寛正元年・12月21日〜

                1466年・寛正 7年・ 2月28日。 

             ● 室町時代中期の和暦年号。

             ● 〈寛正の、和暦→西暦・西暦→和暦・

             速算式〉。

             ○ 寛正 A年+1459年=西暦 B年。

             ○ 西暦 B年1459年=寛正 A年

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇  かん  官職

             (かんしょく)。  《朝廷》。

                     ■ 官吏が国家から委任された、

          一定範囲の国家事務。

                     ■ 前近代日本の、朝廷の官職。

          前近代日本の、朝廷の官位

          (= 「朝廷の位階」と「朝廷の官職」)

          の1つ。

          (⇒ 朝廷の官職朝廷)。

 

〇  かん  官人。

             (かんじん)。

          《朝廷の役人・職員》。

          ○ 官人は、

          前近代日本の、朝廷に仕え

          る役人、官吏である。

          (⇒ 官人在庁官人)。

          (⇒ 公領国衙領)。

          (⇒ 国司受領)。

          (⇒ 国衙国府)。

          (⇒ 朝廷の官職朝廷の位階)。

          (⇒ 朝廷)。

             ■ 官人(かんじん)とは、 前近代日

             本の、朝廷に仕(つか)える役人、官

             吏である。

                律令制成立後、 前近代日本の

              朝廷に仕える役人、官吏、職員であり、 

             現在の国家公務員に相当する。

             ■ 官人には、 朝廷の、中央政庁・

             役所(都の中央省庁)の役人・職員 と 

             諸国の地方政庁・役所(国衙)の役人・

             職員がいる。

             ■ 在庁官人(ざいちょうかんじん)は、

             諸国の国衙(こくが)に仕える役人・官

             吏である。 

                国衙(こくが)とは、 律令制成立

             後、 国司が政務を執(と)る所(建物)、

             政庁、役所である。

             ■ 官人には、官位の位階の有位者と

              無位者がいた。

                朝廷(律令官制)の位階の有位者

             は、1位〜8位、初位(そい) までの30

             位階を持つ。 

             ■ 国衙(こくが)とは、 律令制成立

             後、 国司が政務を執(と)る所(建物)、

             政庁、役所である。

 

〇  かん  寛政。

             (かんせい)。 《和暦》。

             THE KANSEI ERA.

             ○ 1789 年−1801年 。

             ● 1789年・寛政 元年・1月25日〜

                1801年・寛政13年・2月 5日。 

             ● 江戸時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック

 

〇  かん  関東管領 

             (かんとうかんれい)。

             《室町幕府の役職》。

             (= 関東公方(鎌倉公方、古河

          公方)の補佐役)。

             (= 東国(とうごくを管轄・統治す

          る、室町幕府の役職、上杉氏

                     世襲)。

          (1349年ー1578年)。

          (⇒ 室町幕府足利将軍)。

          (⇒ 関東公方

           関東公方足利氏鎌倉府

           鎌倉公方古河公方)。

          (⇒ 堀越公方)。

          (⇒ 関東管領

           関東管領上杉氏

           山内上杉 氏扇谷上杉 氏)。

             ■ 関東管領 (かんとうかんれい )と

                    は、関東公方 (鎌倉公方、古河公方)

             の補佐役である。

                ■ 関東管領は、 室町幕府(= 足利

             幕府)の、東国(とうごく )の関東8国、

             伊豆、甲斐(かい、現・山梨県)を統治

             する役職である。

             ■ 日本の室町時代に、 室町幕府

             東 国統治地方長官である関東公

             方(かんとうくぼう、鎌倉公方、古河

             公方) と 関東公方の補佐役の関

             東管領(かんとうかんれい)が、日本

             の東国(とうごく、関東・東北・中部

             地方)の中の関東8国、伊豆、甲斐

             (かい、現・山梨県))を統治する。 

             ■ 京( きょう、京都)に室町幕府(=

             足利幕府)を開いた足利尊氏(あし

             かがたかうじ)は、 鎌倉時代に武

             家政権の根拠地であった鎌倉の

             政治的、軍事的重要性から、 13

             49年(貞和(じょうわ・ていわ)5年)

             に、鎌倉府を置き、 鎌倉より尊氏

             嫡男の足利義詮(よしあきら)を召

             還し、 京( きょう、京都)より尊氏

             次男の足利基氏(もとうじ)を鎌倉

             へ派遣し、鎌倉公方(= 前期関東

             公方)とし、 幼い基氏を補佐する

              ため、鎌倉公方(関東公方)の補

             佐役として関東管領(初名・関東執

             事)を任命し、東国(とうごく)の

             東8国、伊豆、甲斐(かい、現・山梨

             県))の経営・統治(支配)にあたら

             せた。 

             ■ 鎌倉府の長官(首長)を鎌倉公

             方という。 

                鎌倉公方(関東公方)は、足利

             基氏の子孫が、代々世襲した。 

                しかし、関東 管領職や東国の

             各国守護職の任免権は、室町幕府

             (= 足利幕府)の将軍にあり、 鎌倉

             公方(関東公方)にはなかった。

             ■ 関東管領 (かんとうかんれい

             初名・関東執事、1349 年ー15

             78年) とは、 関東公方 (鎌倉公

             方、古河公方)の補佐役として、 

             東国(とうごく)を統治する室町幕府

             の役職である。  1363年(貞治2

             年)以後、上杉氏が関東管領を世襲

             する。

             ■ 関東管領は、 初め、関東執事(かん

             とうしつじ、1349年ー1363年)と呼ばれ、

             上杉憲顕(うえすぎのりあき)、高師冬(こ

             うのもろふゆ)、畠山国清(はたけやまくに

             きよ)などが任命されたが、 1363年(貞

             治2年)から、上杉憲顕が復職後、 関東

             管領と呼ばれ、それ以後、上杉氏諸家

             独占した。 

                  最後の関東管領(上杉謙信在任:

             1561年ー1578年)は、上杉謙信(生没

             年:1530−1578年)であり、 既に関東

             管領は、実質的に機能しておらず、上杉謙

             信の死を以って関東管領は、終焉を迎える。

             ■ 関東管領は、1349年から1455年ま

             で、鎌倉府のある、鎌倉を本拠地としてい

             たが、 1455年の鎌倉府解体以後は、

             東各地を本拠地とする。

             ■ 1349年から1455年までの鎌倉府存

             在時期では、 関東管領 (かんとうかんれ

             い)は、 室町幕府の、鎌倉府(かまくらふ、

             1349年ー1455年)の長官である鎌倉公

             方(かまくらくぼう)を補佐して政務をつかさ

             どり、 日本の東国(とうごく、関東・ 東北・

             中部地方)の中の関東8国、伊豆、甲斐

             (かい、現・山梨県)を管轄・統治する、室町

             幕府の役職であった。

                1455年の鎌倉府解体以後室町幕府

             事実上の滅亡の1573年までの時期では、 

             関東管領は、独立して、 古河公方(こがく

             ぼう)、堀越公方(ほりごえくぼう)と共に、 

             東国(とうごく)の関東8国、伊豆、甲斐

             (かい、現・山梨県)を管轄・統治する、室町

             幕府の役職であった。

             ■ 関東公方(鎌倉公方(かまくらくぼう)、

             古河公方(こがくぼう))には、足利基氏の

             子孫が代々世襲し、就任し、 関東公方を

             補佐する、関東管領(かんとうかんれい)に

             は上杉氏が代々世襲し、就任する。

                しかし、関東公方足利氏と関東管領

             上杉氏が、対立するようになった。

             ■ 関東管領は、 関東管領上杉氏諸家が

             世襲し、 室町時代に関東地方に割拠した

             関東管領上杉氏諸家の中では、 山内上 

             杉家 と 扇谷上杉家 が有力で、対立し、

             争った。

                山内上杉家 (やまのうちうえすぎけ)

             の始祖は、足利尊氏の生母・上杉清子(う

             えすぎきよこ)の兄弟・上杉憲房(のりふさ)

             の子・上杉憲顕(のりあき)である。

                扇谷上杉家 (おうぎがやつうえすぎ

             け)、の始祖は、足利尊氏の生母・上杉清

             子の兄弟・上杉重顕である。

             ■ 日本の室町時代に、 室町幕府の

             国統治地方長官である関東公方(かんと

             うくぼう、鎌倉公方、古河公方) と 関東

             公方の補佐役の関東管領(かんとうかん

             れい)が、 日本の東国(とうごく )の関東8

             国、伊豆、甲斐(かい、現・山梨県)を統治

             する。 

                  関東管領職や東国の各国守護職の

             任免権は、 室町幕府の将軍にあり、関

             東公方(鎌倉公方、古河公方))にはなか

             った。

                 関東公方(鎌倉公方、古河公方)

             関東管領は、対立するようになった。

               ■ 関東公方(かんとうくぼう)とは、 室町

             幕府の東国統治地方長官であり、 鎌倉

             公方 (かまくらくぼう、1349年ー1455

             年、5代) と その後身の古河公方 (こ

             がくぼう、1455年ー1583年、5代) で

             ある。

              ● 1455年に鎌倉府が解体し、鎌倉公

              方(1349〜1455年、5代)に代わり、東

             国に、2つの公方(く ぼう、古河公方、堀

             越公方)が成立したが、 堀越公方(ほり

             ごえくぼう、1457年ー149 3年頃、2代)

             は、東国 の10国全体を統治できず、事実

             上、 伊豆1国のみの短期統治(1482年

             ー1493年頃)で終わったため、 関東公

             方(かんとうくぼう)とは言わない。

 

〇 かん  関東管領上杉氏。 

             (かんとうかんれいうえすぎし)。

              《武家の氏族》。

          (1363年ー1578年)。

          (⇒ 室町幕府足利将軍)。

          (⇒ 関東公方

           関東公方足利氏鎌倉府

           鎌倉公方古河公方)。

          (⇒ 堀越公方)。

          (⇒ 関東管領

           関東管領上杉氏

           山内上杉 氏扇谷上杉 氏)。

             ■ 関東管領 (かんとうかんれい

             初名・関東執事、1349年ー15

             78年) とは、 関東公方 (鎌倉

             公方、古河公方)の補佐役として、 

             東国(とうごく)の関東8国、伊豆、

             甲斐(かい、現・山梨県))を統治す

             る室町幕府(= 足利幕府)の役職

             である。  1363年(貞治2年)以

             後、年)以後、上杉氏が関東管領を

             世襲する。

                ■ 関東管領は、 室町幕府(= 足利幕

             府)の、東国(とうごく )の関東8国、伊豆、

             甲斐(かい、現・山梨県)の政務を統轄

             る役職である。

             ■ 日本の室町時代に、 室町幕府の

             国統治地方長官である関東公方(かんと

             うくぼう、鎌倉公方、古河公方) と 関東

             公方の補佐役の関東管領(かんとうかん

             れい)が、 日本の東国(とうごく、関東・

             東北・中部地方)の中の関東8国、伊豆、

             甲斐(かい、現・山梨県))を統治する。 

               ■ 関東管領上杉氏 (かんとうかんれいう

             えすぎし)は、 関東管領職を代々世襲し

             た、武家の上杉氏の一族である。

             ■ 関東管領は、 関東管領上杉氏諸家

             が世襲し、 室町時代に関東地方に割拠

             した関東管領上杉氏諸家の中では、山内  

             上杉氏 と 扇谷上杉 氏が有力で、対立

             し、争った。

             ● 山内上杉氏 (やまのうちうえすぎ し)

             の始祖は、足利尊氏の生母・上杉清子(う

             えすぎきよこ)の兄弟・上杉憲房(のりふさ)

             の子・上杉憲顕(のりあき)である。

             ● 扇谷上杉氏 (おうぎがやつうえすぎ

             し)、の始祖は、足利尊氏の生母・上杉清

             子の兄弟・上杉重顕である。

             ■ 関東管領は、 初め、関東執事(かん

             とうしつじ、1349年ー1363年)と呼ば

             れ、上杉憲顕(うえすぎのりあき)、高師

             冬(こうのもろふゆ)、畠山国清(はたけ

             やまくにきよ)などが任命されたが、 

             1363年(貞治2年)から、上杉憲顕が復

             職後、 関東 管領と呼ばれ、それ以後、

             上杉氏諸家が 独占した。

             ■ 関東管領は、1349年から1455年ま

             で、鎌倉府のある、鎌倉を本拠地としてい

             たが、 1455年の鎌倉府解体以後は、

             東各地を本拠地とする。

             ■ 日本の室町時代に、 室町幕府の

             国統治地方長官である関東公方(かんと

             うくぼう、鎌倉公方、古河公方) と 関東

             公方の補佐役の関東管領(かんとうかん

             れい)が、 日本の東国(とうごく、関東・

             東北・中部地方)の中の関東8国、伊豆、

             甲斐(かい、現・山梨県))を統治する。 

                  関東管領 職や東国の各国守護職の

             任免権は、 室町幕府の足利将軍にあ

             り、 関東公方(鎌倉公方、古河公方)

             にはなかった。

                 関東公方(鎌倉公方、古河公方)

             関東管領は、対立するようにな る。

             ■ 関東公方(鎌倉公方、古河公方)は、

             足利基氏の子孫が代々世襲し、関東公

             方足利氏となり、 関東管領は、上杉氏

             が代々世襲し、関東管領上杉氏となる。

               ■ 関東公方(かんとうくぼう)とは、 室町

             幕府の東国統治地方長官であり、 鎌倉

             公方 (かまくらくぼう、1349年ー1455

             年、5代) と その後身の古河公方 (こ

             がくぼう、1455年ー1583年、5代) で

             ある。

                 1455年に鎌倉府が解体し、鎌倉公

              方(1349〜1455年、5代)に代わり、東

             国に、2つの公方(く ぼう、古河公方、堀

             越公方)が成立したが、 堀越公方(ほり

             ごえくぼう、1457年ー149 3年頃、2代)

             は、東国全体を統治できず、事実上、 伊

             豆1国のみの短期統治(1482年ー1493

             年頃)で終わったため、 関東公方(かん

             とうくぼう)とは言わない。

 

〇 かん  関東公方。 

             (かんとうくぼう)。 《室町幕府の役職》。

             (= 室町幕府の東国統治地方長官)。

                 KANTOKUBO GOVERNOR.

             ○ 前期関東公方の鎌倉公方。

               (1349年ー1455年、5代)。

          (⇒ 鎌倉公方)。 

             ○ 後期関東公方の古河公方。

               (1455年ー1583年、5代)。

          (⇒ 古河公方)。 

          (⇒ 室町幕府足利将軍)。

          (⇒ 関東公方

           関東公方足利氏鎌倉府

           鎌倉公方古河公方)。

          (⇒ 堀越公方)。

          (⇒ 関東管領

           関東管領上杉氏

           山内上杉 氏扇谷上杉 氏)。

             ■ 関東公方(かんとうぐぼう)とは、

             室町幕府の役職であり、 室町幕府の

             東国統治地方長官であり、 室町幕府

             、東国 (とうごく)の関東8国、伊豆、

             甲斐(かい、現・山梨県))を統治する

             (支配する)役職である。

             ■ 関東公方は、 前期関東公方の鎌

             倉公方 (1349年ー1455年、5代

             と、 後期 関東公方の古河公方 (14

             55年ー1583年、5代)である。

             ● 前期関東公方の、鎌倉公方は、 

             室町幕府の、東国(とうごく)の、関東

             8国、伊豆、甲斐(かい、現・山梨県)を

             統治し(支配し)、 一時的に、1392

             年から1400年までの間のみ、東北2

             国の陸奥(むつ)や出羽(でわ)も統治

             する(支配する)。

              ● 前期関東公方の、鎌倉公方は、 

             足利基氏、足利氏満、足利満兼、足利

             持氏、足利成氏の5代の鎌倉公方

             就任する。 

              ● 後期関東公方の、古河公方は、 

             足利成氏、足利政氏、足利高基、足利

             晴氏、足利義氏の5代の古河公方が

             就任する。 

             ■ 関東公方(鎌倉公方、古河公方)は、

             足利基氏の子孫が代々世襲し、関東公

             方足利氏となり、 関東管領は、上杉氏

             が代々世襲し、関東管領上杉氏となる。

             ■ 日本の室町時代に、 室町幕府の

             国統治地方長官である関東公方(かんと

             うくぼう、鎌倉公方、古河公方) と 関東

             公方の補佐役の関東管領(かんとうかん

             れい)が、 日本の東国(とうごく、関東・

             東北・中部地方)の中の関東8国、伊豆、

             甲斐(かい、現・山梨県))を統治する。 

                ● 関東管領 職や東国の各国守護職

             の任免権は、 室町幕府の足利将軍

             にあり、関東公方(鎌倉公方、古河公

             方))にはなか った。

                関東公方(鎌倉公方、古河公方)

             関東管領は、対立するようにな る。

               ■ 関東公方(かんとうくぼう)とは、 室町

             幕府の東国統治地方長官であり、 鎌倉

             公方 (かまくらくぼう、1349年ー1455

             年、5代) と その後身の古河公方 (こ

             がくぼう、1455年ー1583年、5代) で

             ある。

                 1455年に鎌倉府が解体し、鎌倉公

              方(1349〜1455年、5代)に代わり、東

             国に、2つの公方(く ぼう、古河公方、堀

             越公方)が成立したが、 堀越公方(ほり

             ごえくぼう、1457年ー149 3年頃、2代)

             は、東国全体を統治できず、事実上、 伊

             豆1国のみの短期統治(1482年ー1493

             年頃)で終わったため、 関東公方(かん

             とうくぼう)とは言わない。

 

〇 かん  関東公方足利氏。 

             (かんとうくぼうあしかがし)。

             《武家の氏族》。

          (⇒ 室町幕府足利将軍)。

          (⇒ 関東公方

           関東公方足利氏鎌倉府

           鎌倉公方古河公方)。

          (⇒ 堀越公方)。

          (⇒ 関東管領

           関東管領上杉氏

           山内上杉 氏扇谷上杉 氏)。

               ■ 関東公方足利氏 (かんとうくぼうあし

             かがし)は、 鎌倉公方や古河公方の関

             東公方職を代々世襲した、武家の足利氏

             の一族である。

             ■ 関東公方(鎌倉公方、古河公方)は、

             足利基氏の子孫が代々世襲し、関東公

             方足利氏となり、 関東管領は、上杉氏

             が代々世襲し、関東管領上杉氏となる。

             ■ 関東公方(かんとうぐぼう)とは、室町

             幕府の役職であり、 室町幕府の東国統

             治地方長官であり、 東国(とうごく)の関

             東8国、伊豆、甲斐(かい、現・山梨県)を

             統治する室町幕府の役職であり、前期関

             東公方の鎌倉公方 (1349年ー1455

             年、5代)  と、 後期関東公方の古河公 

             方 (1455年ー1583年、5代)である。

              ● 鎌倉公方は、 足利基氏、足利氏満、

             足利満兼、足利持氏、足利成氏の5代の

             鎌倉公方が就任した。 

              ● 古河公方は、 足利成氏、足利政氏、

             足利高基、足利晴氏、足利義氏)の5代

             の古河公方が就任 した。 

             ■ 日本の室町時代に、 室町幕府の

             国統治地方長官である関東公方(かんと

             うくぼう、鎌倉公方、古河公方) と 関東

             公方の補佐役の関東管領(かんとうかん

             れい)が、 日本の東国(とうごく、関東・

             東北・中部地方)の中の関東8国、伊豆、

             甲斐(かい、現・山梨県))を統治する。 

                  関東管領 職や東国の各国守護職の

             任免権は、 室町幕府の将軍にあり、関

             東公方(鎌倉公方、古河公方))にはなか

             った。

                 関東公方(鎌倉公方、古河公方)

             関東管領は、対立するように なる。

               ■ 関東公方(かんとうくぼう)とは、室町

             幕府の東国統治地方長官であり、 鎌倉

             公方 (かまくらくぼう、1349年ー1455

             年、5代) と その後身の古河公方 (こ

             がくぼう、1455年ー1583年、5代) で

             ある。

                 1455年に鎌倉府が解体し、鎌倉公

              方(1349〜1455年、5代)に代わり、東

             国に、2つの公方(く ぼう、古河公方、堀

             越公方)が成立したが、 堀越公方(ほり

             ごえくぼう、1457年ー1493年頃、2代)

             は、東国全体を統治できず、事実上、 伊

             豆1国のみの短期統治(1482年ー14

             93年頃)で終わったため、 関東公方

             (かんとうくぼう)とは言わない。

 

〇 かん  関東軍。 

             (かんとうぐん)。

             《在中国・旧日本軍》。

                ■ 関東軍 (かんとうぐん)とは、在中

             国(中国駐留)旧日本軍の1つの軍団

             (軍隊)であり、 遼東半島租借地(りょ

             うとうはんとうそしゃくち) と 満鉄 

             (まんてつ、中国東北部にあった日本

                     経営の南満州鉄道会社)沿線の守備 

             を任務とする軍団(軍隊)である。

 

〇 かん  関東大震災。 

             (かんとうだいしんさい)。 《災害》。

               ■ 関東大震災 (かんとうだいしんさい) は、

             1923年(大正12年)9月1日午前11時58

             分に起こる。 

              ● 関東大震災は、 関東地方南部に 発生

             した大地震(おおじしん)であり、 関東大震

             災で、死者・行方不明者は10万人以上を数

             える。

                関東大震災で、日本の中心部が大損害

             をうけ、日本経済は、大打撃を受け た。

 

〇 かん  関東地方 

             (かんとうちほう)。

          (現地方)。 《現地域名》。

          (= 栃木県、群馬県、茨城県、千

          葉県、埼玉県、東京都)。

             KANTO REGION.

 

             ■ 関東地方。

           ≒ @ 東山道(とうさんどう)

          域地方の一部の、栃木県 (下野

                    国)、群馬県 (上野国) と、 A 

             東海(とうかいどう)広域地方

          の一部の、茨城県 (常陸国)、 千

          葉県 (下総国、上総国、安房国)、

          神奈川県 (相模国)、 埼玉県、東

          京都本土 (武蔵国)、東京都伊豆

          諸島 (伊豆国・伊豆諸島) の地

          域

          ■ 関東地方。

             <日本本土(本州、四国、九州)

             <日本国

          ■ 関東地方。

             (≒ 旧広域地方の、東山道(とうさんどう)

             と東海道の一部)。

             <五畿七道 (ごきしちどう、日本本土)。

          (⇒ 現8地方)。 

          (⇒ 現地方名)。

          (⇒ 現地域名)。

                   (⇒ 東山道東海道)。

                      (⇒ 都道府県)。

                      (⇒ 前近代日本の地域名)。

                      (⇒ 旧国(= 令制国))。

                      (⇒ 旧地域名地域名)。

                      (⇒ 日本の地名)。

 

〇  かん  関東取締出役

             (かんとうとりしまりしゅつやく)。 

          (= 八州廻り はっしゅうまわり)。  

           《江戸幕府の役職》。

          ○ 江戸時代の、江戸幕府の、

                     関東の治安取締官。

 

〇  かん  寛徳。 

             (かんとく)。 《和暦》。

             THE KANTOKU ERA.

             ○  1044年−1046年。

             ● 1044年・寛徳元年・11月24日〜

                1046年・寛徳 3年・ 4月14日。 

             ● 平安時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇  かん  寛和。 

             (かんな)。 《和暦》。

             THE KANNA ERA.

             ○ 985年−987年。

             ● 985年・寛和元年・4月27日〜

                987年・寛和 3年・4月 5日。 

             ● 平安時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

              ■ 寛和 (かんな、英:THE 

                           KANNA ERA) とは、和暦であり、 

             平安時代中期の和暦年号であり、 

             985年・寛和元年・4月27日から

             987年・寛和 3年・4月 5日まで

             である。   

                 ■ 「寛和」の前後の和暦年号(元号):

             ● 永延 (えいえん):

                987年ー989年。

                987年・永延元年・4月5日〜

                989年・永延 3年・8月8日。 

 

〇  かん  元年。

             (がんねん)。 《和暦》。

             (= 1年)。

                THE 1ST YEAR.

          (⇒ 和暦

          (⇒ 和暦年号一覧表 

             ■ 元年(がんねん)とは、和暦

             年号の初年の1年である。 

 

〇  かん  寛仁。 

             (かんにん)。 《和暦》。 

             THE KANNIN ERA.

             ○  1017年−1021年。

             ● 1017年・寛仁元年・4月23日〜

                1021年・寛仁 5年・2月 2日。 

             ● 平安時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇  かん  観応。 

             (かんのう、かんおう)。 《和暦》。

             THE KANNO ERA.

          ○ 1350年−1352年。

          (⇒ 南北朝競合二重年号

           (⇒ 和暦の二重年号存立

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

          ■ 南北朝競合二重年号。

          ● 北朝 (持明院統)方の暦年号。

                1350年・観応元年・2月27日〜

                1352年・観応 3年・9月27日。

             ● 室町時代前期の和暦年号。

             ● (注意) 同時期に、南朝 (大覚寺統、

              後醍醐天皇系統)方の暦年号の、 正平

              (しょうへい)元年〜25年(1346〜13

              70年) も存立する。 

 

〇  かん  関白

             (かんぱく)。 《朝廷の役職》。

          (9世紀−19世紀)。 

          ○ 成人の天皇を助けて、朝廷 の

          政務を行う役職。 

          (⇒ 朝廷の官職朝廷)。

 

〇  かん  関八州。 

             (かんはっしゅう)。  《旧地域名》。

              関東地方)。

                      (⇒ 前近代日本の地域名)。

                      (⇒ 旧国(= 令制国))。

                      (⇒ 旧地域名地域名)。

                      (⇒ 日本の地名)。

 

〇  かん  寛平。 

             (かんびょう、かんべい、かんへい)。 

             《和暦》。 

             THE KANPYO ERA.

             ○  889年−898年。

             ● 889年・寛平 元年・4月27日〜

                898年・寛平10年・4月26日。 

             ● 平安時代前期の和暦時代。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇  かん  官兵衛。 

             (かんべい)。 《人名》。

             (= 黒田官兵衛 、黒田孝高

          (よしたか))。

          (⇒ 黒田 官兵衛)。

 

〇  かん  寛文。

             (かんぶん)。 《和暦》。

             THE KANBUN ERA.

             ○ 1661年−1673年。

             ● 1661年・寛文 元年・4月25日〜

                1673年・寛文13年・9月21日。 

             ● 江戸時代前期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇  かん  寛保。

             (かんぽう)。 《和暦》。

             THE KANPO ERA.

             ○ 1741年−1744年。

             ● 1741年・寛保元年・2月27日〜

                1744年・寛保 4年・2月21日。 

             ● 江戸時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇 かん  桓武天皇 

             (かんむてんのう)。 《天皇》。

          (生没年:737〜806年)。

          ○ 天皇在位:781〜806年。 

 

〇 かん  桓武平氏

              (かんむへいし)。 《氏族》。

           (平安時代初期ー江戸時代)。

             ○ 多くが武家平氏。

                   (⇒ 平氏)。 

          (⇒ 武家)。

                     (⇒ 伊勢平氏、伊豆の北条氏) 。

 

〇 かん  神流川の戦い。 

             (かんりゅうがわのたたかい)。 《戦い》。

             (⇒ 滝川一益)。

             ■ 1582年6月2日の本能寺の変を知っ

             た、北条氏直ら北条氏は、直ちに、関東の

             織田軍の本拠地の上野(こうずけ、群馬県)

             に向かい北条軍を行軍させ北上したため、

             滝川一益は、 明智光秀討伐をあきらめ、北

             条軍に対抗するため、 織田氏の関東方面

             軍を率いて南下し、 武蔵野国(むさしのく

             に、埼玉県・東京都)の神流川付近で、北条

             軍と戦い、1582年6月19日に、敗戦する。

              ● 一方、羽柴秀吉(豊臣秀吉)豊臣秀吉

             は、 1582年6月4日に毛利氏と和睦し、

             1582年6月13日の山崎の戦いで、明智光

             秀を敗(やぶ)り、6月14日に光秀を敗死さ

             せる。

 

〇 がん  巌流島の決闘 

             (がんりゅうじまのけっとう)。 《決闘》。

             (= 舟島の決闘)。

          (⇒ 宮本武蔵)。

              宮本武蔵 と 岩流(がんりゅう、

          々木小次郎)が、 関門海峡に浮

          かぶ舟島(ふなじま)で戦った、決闘。

 

〇 かん  管領

             (かんれい)。  《室町幕府》。

          (= 室町幕府の将軍補佐職)。

             ○ 管領とは、

          室町幕府の、将軍を補佐する

          役職である。

             ■ 管領 (かんれい、室町幕府の将

             軍補佐職)とは、 室町幕府(= 足利幕

             府)の、将軍を補佐する役職である。

             ● 管領とは、 室町幕府(= 足利幕府)

             の将軍を補佐して、室町幕府の政務を

             行う(総覧する)役職である。

 

 かん  管領家。

             (かんれいけ)。 《室町幕府》。

          (= 三管領家)。

          (⇒ 管領

          (⇒ 細川氏斯波氏畠山

           ○ 管領家とは、

          細川管領家、斯波管領家、

          畠山管領家である。

          ○ 細川管領家とは、

          室町幕府の管領職に就任し

          た、室町時代の細川氏本家

          (宗家)である。

          ○ 斯波管領家とは、

          室町幕府の管領 職に就任し

          た、室町時代の斯波氏本家

          (宗家)である。

          ○ 畠山管領家とは、

          室町幕府の管領 職に就任し

          た、室町時代の畠山氏本家

          (宗家)である。

              ■ 管領家 (かんれいけ)とは、一般

             的に、長く幕府の管領職に就任した武

             家であり、 細川管領家、斯波管領家、

             畠山管領家であ る。 

              ■ 管領家 (かんれいけ)とは、幕府

              の管領職に就任 した時代の細川氏(ほ

              そかわ し)、斯波氏(しばし)、畠山氏

              (はたけやまし)の、本家(宗家)である。

              ■ 管領家 (かんれいけ)とは、室町

             幕府(= 足利幕府)の、将軍を補佐す

              る管領(かんれい)に交代で任じられた、

             細川氏(ほそかわ し)、斯波氏(しばし)、

             畠山氏(はたけやまし)の3氏の三管領

                     家(さんかんれいけ)である。

             ■ 細川管領家 (ほそかわかんれい

             け)とは、 室町幕府(= 足利幕府)の

             管領職に就任 した、室町時代の細川

             氏本家(宗家)である。

             ■ 斯波管領家 (しばかんれいけ)

             とは、 室町幕府(= 足利幕府)の管

             領職に就任 した、室町時代の斯波

             本家(宗家)である。

             ■ 畠山管領家 (はたけやまかんれ

             いけ)とは、 室町幕府(= 足利幕府)

             の管領職に就任 した、室町時代の

             氏本家(宗家) である。

 

 

   ● 五十音順 (アイウエオ順)。

 

 

   ■  『 現在は、過去の成果であり、

       未来は、現在の成果である。 

         (良き現在は、過去の人々の良き努力

          や活動の積み重ねの成果であり、 

          良き未来は、現在の人々の、良き努力

          や活動の積み重ねにより形成される。)

 

 

■ 上位のWEBサイト。 

 □ (KOH) カナヤマ オフィシャル   >

          ホームページ

 □ (Cse)  国際理解総合サイト     >

          われら地球市民。 

 □ (Ke)   百科事典。           >

 □ (Khh)  歴史学ハンドブック     >

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#jpdictionary(general)

 

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#ka

 

◆ 派生見出し語サイト。

■ 「か」 基本・見出し語WEBサイト No. ja−ka 

   の、 派生見出し語サイト 。

 

■ 《現行HP》。

■ No.ja−ka−2093。

● 見出し語項目 か   ( と 20  / り 93

  付近  第1部・と・ラ行・ワ・ン・グループ)。

 かと  楫取美和子 (かとり みわこ)。 

 

 

■ 《現行HP》。

■ No.ja−ka−3122。

● 見出し語項目 か   ( ま 31  / く 22 

   付近  第1部・ま・カ行グループ)。

 かま  鎌倉時代 (かまくらじだい)

                    (1192〜1333年)。

 

■ 《現行HP》。

■ No.ja−ka−3124。

● 見出し語項目 か   ( ま 31  / く 24 

   付近  第1部・カ行グループ)。

〇 かま  鎌倉幕府  (かまくらばくふ)

          (1185年または

           1192年〜1333年)

 

■ 《現行HP》。

■ No.ja−ka−3125。

● 見出し語項目 か   ( ま 31  / く 25 

   付近  第1部・カ行グループ)。

〇 かま  鎌倉幕府 関連

        年代順出来事

             (かまくらばくふかんれん

                           ねんだいじゅんできごと)。

 

■ 《現行HP》。

■ No.ja−ka−3126。

● 見出し語項目 か   ( ま 31  / く 26 

   付近  第1部・ま・カ行グループ)。

 かま  鎌倉北条氏 

             (かまくらほうじょうし)。

 

■ 《現行HP》。

■ No.ja−ka−3127。

● 見出し語項目 か   ( ま 31  / く 27 

   付近  第1部・ま・カ行グループ)。

 かま  鎌倉文化 (かまくらぶんか)

           (12世紀末〜14世紀前半)。

 かま  鎌倉大仏 (かまくらだいぶつ) 

          (13世紀〜現在)。

 

■ 派生見出し語移動案内

     ページ。

■ 《旧HP》。

■ No.ja−ka−3120。

● 見出し語項目 か   ( ま 31  / く 20 

   付近  第1部・カ行グループ)。

〇 かま  鎌倉幕府  (かまくらばくふ)

          (1192年〜1333年)

■ 《旧HP》。

■ No.ja−ka−3125。

● 見出し語項目 か   ( ま 31  / く 25 

   付近  第1部・ま・カ行グループ)。

 かま  鎌倉時代 (かまくらじだい)

                    (1192〜1333年) 

 かま  鎌倉文化 (かまくらぶんか)

           (12世紀末〜14世紀前半)。

 かま  鎌倉大仏 (かまくらだいぶつ) 

          (13世紀〜現在)。

 

 

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#thekakekomideratemple

 

■ 駆け込み寺。 

       (かけこみでら)  

 

■ 駆け込み寺

■ 名称 : 駆け込み寺 (かけこみでら)。

■ 別称 : 縁切寺 (えんきりでら)。

■ The Kakekomidara Temple.

■ 《寺院》。 

■ 駆け込み寺とは、 

  縁切寺(えんきりでら)であり、

  前近代日本の、離縁(離婚)希望女性救済施設

  である。

■ 駆け込み寺とは、 

  前近代日本で、夫との離縁(離婚)を達成するた

  めに夫人が駆け込んだ寺である。

■ 江戸時代より前の前近代日本では、

  一般の寺院は治外法権的な特権を持ち、駆け込

  み寺(= 縁切寺)となる。

■ 江戸時代の前近代日本では、

  一般の寺院の治外法権的な特権は廃止され、

  東慶寺と満徳寺の2寺院のみが、江戸幕府公認

  の駆け込み寺(= 縁切寺)となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 31917。

 

 

 ■ 駆け込み寺

 

  ■ 駆け込み寺 (かけこみでら)とは、  

    別名は縁切寺(えんきりでら)であり、

    前近代日本の、離縁(離婚)希望女性救済施設

    である。

 

  ■ 駆け込み寺(= 縁切寺)とは、  

    前近代日本で、夫との離縁(離婚)を達成するた

    めに夫人が駆け込んだ寺である。

 

  ■ 江戸時代より前の前近代日本では、

    一般の寺院は治外法権的な特権を持ち、駆け込

    み寺(= 縁切寺)となる。

 

  ■ 江戸時代の前近代日本では、

    一般の寺院の治外法権的な特権は廃止され、

    東慶寺と満徳寺の2寺院のみが、江戸幕府公認

    の駆け込み寺(= 縁切寺)となる。

 

 

 ■ 駆け込み寺

 

  ■ 寺院は、 世俗から切り離された存在として、

    庇護を求める人々を保護してきた。

 

  ■ 江戸時代より前の前近代日本では、

    一般の寺院に駆け込んだ夫人を寺院が保護

    すれば、夫は、容易に夫人を取り戻せなかった。 

    夫の手の届かない所に数年入れば、当時の

    観念としては、夫婦ではないと認められた。

 

  ■ しかし、江戸時代の前近代日本になると、

    寺院の治外法権的な特権は廃止され、 

    夫人が離縁離婚)を望み、一般の寺院に駆け

    込んでも、夫に引き渡される事も起きるように

    なり、 江戸幕府公認の駆け込み寺(= 縁切

    寺)は、東慶寺と満徳寺の2寺院のみに限定

    される。

       但し、江戸時代でも、江戸幕府の権力を

    最終的なよりどころにしなくても、 社会的な権

    威のある人々の屋敷に縁切り駆け込みをすれ

    ば、ほとんど、速やかに離縁離婚)を成立さ

    せることができた。 江戸幕府公認の2つの

    駆け込み寺(= 縁切寺)は、あくまでも最終手

    段であった。

        江戸時代の庶民、特に、農民の家族では、

    夫人は労働力でありその地位は高く、離縁

    婚も再婚も容易であった。

         江戸時代の離縁離婚)の原因は、

    夫専横による離縁離婚)よりも夫人飛び出し

    による離縁離婚)の方が多かった。

 

 

 ◆ 江戸時代の駆け込み寺(縁切寺)

 

 ■ 駆け込み寺

 

  ■ 江戸時代に、江戸幕府公認の駆け込み寺

    (= 縁切寺)には、

    相模国鎌倉(さがみのくに・かまくら、現・神

    奈川県鎌倉市)の

    東慶寺(とうけいじ) と、 

    上野国新田郷(こうずけのくに・にったごう、

    現・群馬県太田市(おおたし)徳川町)の

    満徳寺(まんとくじ)

    の2つがあった。

 

 

 ■ 駆け込み寺

 

  ■ 江戸時代に、駆け込み寺(= 縁切寺)に訴えた

    女性は、 

    調停期間中門前の宿場に泊まり(東慶寺の

    場合)、

    最初に、駆け込み寺(= 縁切寺)の離縁離婚

    調停が行われ、 寺の離婚調停活動により

    離縁離婚となる。 

       しかし、調停不調 (離縁離婚調停が

    不成立)の場合のみ、 駆け込み寺(= 縁切

    寺)に入り (夫の元を離れ女性が寺に入り)、

    一定期間(満2年)、寺の仕事を務めれば、女

    性からの離縁(離婚が認め られた。

 

 

 ■ 駆け込み寺

 

  ■ 江戸時代は、男性中心社会であり、

    武家では、原則として、夫の許可(三行半)が

    なければ、夫人は離婚ができなかった。

        女性の方から離婚(離縁)する方法の

    1つが、駆け込み寺(= 縁切寺)に駆け込む

    ことであった。

 

 

 

#-appearingscenes

 

♪♪ 駆け込み寺が登場する、興味深

     い、ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

 ★ 駆け込み寺を描いた、興味深い、

       ドラマ、 映画。 

 

  ● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

    歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

    実) と 架空の出来事が 混じって描かれ

    ています。 また、現代風にアレンジしてあり

    ます。

 

 ■ 『 駆込み女と駆け出し男 

       (かけこみおんなとかけだしお

       とこ) 』 。 

     (2015年公開日本映画)。

     (原作:井上ひさしの時代小説

          「東慶寺花だより」)。

     (脚本:原田眞人(はらだまさと))。

 

  ■ 江戸時代の人物、風習、建物、社会状況

    などを描く。

 

  ■ 江戸時代の駆け込み寺が登場する。

 

  ● 「じょご」を演じた女優名 : 戸田 恵梨香 

    (とだ えりか)。

    〇 「じょご」は、

    駆込み女の鉄練(てつね)り職人である。

 

  ● 「重蔵」(じょうぞう)を演じた俳優名 : 

    武田 真治。

    〇 「重蔵」は、 

     駆込み女の鉄練(てつね)り職人のじょご

    の夫である。

     

  ● 「お吟」(おぎん) を演じた女優名 :

    満島ひかり (みつしま ひかり)。

    〇 「お吟」は、 

    駆込み女の堀切屋の妾である。

 

  ● 「堀切屋三郎衛門」を演じた俳優名 : 

    堤 真一。

    〇 「堀切屋三郎衛門」は、 

    駆込み女の堀切屋の妾のお吟(おぎん)

    の夫である。

   

  ● 「戸賀崎ゆう」を演じた女優名 : 内山

     理名 (うちやまりな)。

    〇 「戸賀崎ゆう」は、 

    駆込み女の武家・道場の娘である。

 

  ● 「田の中勘助」を演じた俳優名 : 

     松岡 哲永。

    〇 「田の中勘助」は、 

    駆込み女の武家・道場の娘の戸賀崎ゆう

    の夫で道場破りである。

    

  ● 「中村信次郎」を演じた男性 : 大泉 洋 

    (おおいずみ よう)

    〇 「中村信次郎」は、 

    東慶寺門前の御用宿店主の甥(おい)で

    見習い医師・小説家で離縁調停役になる。

 

  ● 「三代目柏屋源兵衛」(さんだいめかしわや

    げんべい)を演じた女優 : 樹木 希林 

    (きき きりん)。 

    〇 「三代目柏屋源兵衛」は、

    鎌倉の東慶寺門前の御用宿(離縁調停宿

    場)の店主である。

 

  ● 「法秀尼」を演じた女優名 : 陽月 華

     (ひづき はな)

    〇 「法秀尼」は、

    駆込み寺(縁切寺)の鎌倉の東慶寺(とう

    けいじ)住持(じゅうじ、住職)である。

 

 

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#thekawachigenjiclan

 

■ 河内源氏 

       (かわちげんじ)  

 

■ 河内源氏

■ 名称 : 河内源氏(かわちげんじ)。

■ The Kawachi Genji Clan.

■ 存在期間 : 10世紀頃ー19世紀頃。

■ 《武家の氏族》。

■ 河内源氏は、

   源 頼信(みなもとの よりのぶ)を始祖(しそ)

     とする清和源氏の一族である。

■ 鎌倉時代前期の河内源氏の詳細に関しては、

   「鎌倉幕府 関連年代順出来事を参照してく

   ださい。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 31338。

 

 

 □ 河内源氏嫡流9代一覧表

 

 

 ■ 河内源氏。 

 

   ■ 河内源氏 (かわちげんじ)は、

     源 頼信(みなもとの よりのぶ)を始祖(しそ)

       とする清和源氏の一族である。

 

   ■ 河内源氏 (かわちげんじ、英:The 

     Kawachi Genji Clan)は、

         主に、武家の氏族であり、 10世紀頃から

     19世紀頃まで存在し、武家、武士であり、

     家将軍にもなる。

 

   ■ 河内源氏 (かわちげんじ)は、

     河内国(かわちのくに、現・大阪府東部)に

     根拠地を置いた清和源氏の一流であり、

     主に、武家であり、 清和源氏の武家源氏

     の主流である。

 

   ● 河内源氏には、少数の水上氏(みず

     かみし)のように公家源氏の一族もいるが、

     主に武家源氏の氏族である。

 

   ● 源 頼信 (みなもとの よりのぶ)は、 

     河内国古市郡壷井(かわちのくに・ふるい

     ちぐん・つぼい、現・大阪府羽曳野市(は

     びきのし)壷井)を本拠地にし、館(やかた)

     を建てる。 

 

   ● 源 頼信の一族は、 本拠地が河内国であ

     ることから、「河内源氏」と呼ばれる。

        「河内源氏」は、 河内国で発生した

     武士団から発展し、派生した一族である。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

             

   ● 源頼信の孫で、源頼義の子の源義家が、

     東国の乱で、戦功をあげ、清和源氏の

     武士団の主流となる。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 河内源氏嫡流は、 源頼信(よりのぶ)、

     源頼義(よりよし)、源義家(よしいえ、

     八幡太郎義家)、源義忠(よし ただ)、

     源為義(ためよし) 、源義朝(よしとも) 、

     源頼朝(よりとも)と続き、 源頼朝が、

     鎌倉幕府を樹立する。

 

   ■ 河内源氏嫡流は、 9代の源 実朝で断絶

         する。               

       しかし、その後、河内源氏の支流の足利

     氏、武田氏、新田氏系の徳川氏などが繁栄

     する。

              

   ■ 河内源氏の武家は、 

     将軍家にもなり、 河内源氏の嫡流の鎌倉

     幕府将軍家3代であり、 

     河内源氏の支流の足利氏の室町幕府

     将軍家15代であり、 

     河内源氏の支流の新田氏系の世良田(せ

     らた)氏(得川氏)の徳川幕府将軍家15代

     である。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#thekawachigenjiclan-table5

 

 ■ 河内源氏嫡流9代一覧表

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 31329。

 

   ■ 棟梁(とうりょう)とは、 各武家の第一人者

     である。

 

   ■ 河内源氏嫡流9代は、次の武将である。

 

    (1) 源 頼信 (みなものとの よりのぶ、

              河内源氏の祖、初代棟梁

              生没年:968年ー1048年)。

 

    (2) 源 頼義 (みなものとの よりよし、

              河内源氏の2代目棟梁

              生没年:988年ー1075年)。

 

    (3) 源 頼家 (みなものとの よりいえ、

              河内源氏の3代目棟梁、

              通称は、八幡太郎(はちまん

              たろう)、

              生没年:1039年ー1106年)。

              ● TKKI カナヤマ著 

                                 日本史辞典。

 

    (4) 源 義忠 (みなものとの よしただ、

              河内源氏の4代目棟梁、

              生没年:1083年ー1109年)。

 

    (5) 源 為義 (みなものとの ためよし、

              河内源氏の5代目棟梁、

              生没年:1096年ー1156年)。

 

    (6) 源 義朝 (みなものとの よしとも、

              河内源氏の6代目棟梁、

              源頼朝の父、

              生没年:1123年ー1160年)。

 

    (7) 源 頼朝 (みなものとの よりとも、

              河内源氏の7代目棟梁、

              生没年:1147年ー1199年)。

              ● TKKI カナヤマ著 

                                 日本史辞典。

 

    (8) 源 頼家 (みなものとの よりいえ、

              河内源氏の8代目棟梁、

              生没年:1182年ー1204年)。

 

    (9) 源 実朝 (みなものとの さねとも、

              河内源氏の9代目棟梁、

              生没年:1192年ー1219年)。

 

 

 ■ 日本歴史で活躍した主な氏族は、

   次の氏族である。

   天皇家藤原氏伊勢平氏

   河内源氏鎌倉北条氏

   足利氏上杉氏武田氏

   井伊氏小田原北条氏

   真田氏織田氏豊臣氏

   徳川氏

 

 

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#thekanegasakinonokiguchiincident

 

■ 金ヶアの退き口。 

        (かねがさきののきぐち)。

 

■ 金ヶ崎の退き口

■ 名称 : 金ヶ崎の退き口

        (かねがさきののきぐち)。 

■ 金ヶ崎の退き口とは、

  1570年(永禄13年、元亀元年)4〜5月の、

  金ヶアの戦いの後半の撤退戦である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 41913。

 

 

 ■ 金ヶ崎の退き口。

 

   ■ 金ヶ崎の退き口 (かねがさきののきぐち、

     = 金ヶアの撤退)とは、

     1570年(永禄13年、元亀元年)4〜5月

     の、金ヶアの戦いの後半の撤退戦である。 

 

   ■ 金ヶ崎の退き口 (かねがさきののきぐち、

     = 金ヶアの撤退)は、 

     金ヶアの戦いの後半の撤退戦であり、 

     1570年(永禄13年、元亀元年)

     4月から5月までの、織田軍と浅倉・

     浅井軍との戦いで、 織田信長

           逃避行 と 織田軍の越前(えちぜん、

     現・福井県東部)から京(きょう、京

     都)への撤退戦である。

     ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 金ヶ崎の退き口。

 

   ■ 1570年(元亀元年)4月26〜28日に、

     織田信長と織田軍は、木芽峠(きのめとう

     げ)を越えて朝倉氏の本拠地の一乗谷に

     向けて進軍しようとした時、浅井長政(あ

     ざいながまさ)の浅井氏の裏切りを知る。 

        お市の方が信長に贈った、浅井氏

     の裏切りを伝える小豆袋(あずきぶくろ)

     の逸話(いつわ)は、後世の創作である。

 

    ■ 1570年(元亀元年)4月26日から

      28日までの間に、織田信長は、北近江 

      (きたおうみ、滋賀県北部の相当地域) 

      の浅井氏が織田信長に反旗を翻(ひる

      がえ)したことを知り、 織田信長は、越

      前の木芽峠の北方から朝倉軍が、北近

      江の南方から浅井軍が、越前に侵攻し

      た織田軍を攻撃し、南北から織田軍を

      挟み撃ちにするのを恐れ、織田信長は、

      撤退を決意し、4月28日に、越前国・

      敦賀(つるが)の金ヶ崎城(かねがさき

      じょう)より織田信長と織田軍は、急ぎ

      京(きょう、京都)に向け、引き揚げる

      (退却を開始する)。 

     ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

    ■ この時、池田勝正(いけだかつま

      さ)指揮下、木下藤吉郎秀吉(豊臣秀

      )、明智光秀などの部隊が、殿(しん

      がり)の軍 (軍隊の撤退時、敵から本

      隊を守るための最後尾の防戦(応戦)

      部隊) を務めて、越前・敦賀(えちぜ

      ん・つるが)の金ヶ崎城(かねがさきじ

      ょう)に留まり、敵の朝倉・浅井軍と

      応戦し、防戦しながら、撤退する。  

      池田勝正、秀吉、光秀は、かろうじて、

      生き残り、功績をあげる。

      ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

    ● 史実では、徳川家康は、殿(しんが

      り)の軍には参加していない。

       徳川家康が殿(しんがり)の軍に

     参加したという一次史料はない。

        江戸幕府編纂の「寛永諸家系図

     伝」(1641年−1643年編纂)、徳川

     実記」(19世紀前半編纂)などの二次

     史料 (にじしりょう、出来事の50年

     後記載のような同時期記載でない史

     料)に、徳川家康がこの殿(しんがり)

     軍に加わったという記載があるが、

     家康礼賛(らいさん、ほめたたえるこ

     と)のための後世の創作と考えられる。

     ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 (5) ■ 織田信長は、 困難を乗り越え、一

      気に京へ駆け戻る。 信長は、越前国・

      敦賀の金ヶア城から若狭(わかさ)東部 

      や 浅井氏領の北近江(きたおうみ)の

      琵琶湖西部の山岳地帯の朽木谷(くつ

      きだに)を通過して(朽木越え)、京(きょ

      う、京都)に向け、一気に馬で駆け抜け、

      無事に4月30日の夜に京(京都)に到

      着する。 

         朽木谷を支配する朽木元綱(くつき

      もとつな)は、浅井氏に従っていたが、関

      係は強くなく、信長を通過させてくれた。 

      信長の京(京都)到着時、信長に付添って

      いた家臣は、わづか十人程度であったと

      いう。

      ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 (6) ■ 織田軍本隊も、越前国(えちぜんの

      くに、現・福井県東部)・敦賀の金ヶア城

      から京(きょう、京都)に向け撤退し、若狭、

      琵琶湖西部を通過し撤退し、なんとか、

      5月に京(京都)へ戻る。

      ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

       

   ■ 1570年の織田信長の

   越前・朝倉攻め(= 金ヶ

   アの戦い)と金ヶ崎の退

   き口。

 

 (1) ■ 織田信長は、 1570年(永禄13年、

    元亀元年)4〜5月に、大軍で越前の朝倉

    氏を攻めたが、浅井氏の裏切りにより、失

    敗する。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 (2) ■ 織田信長は、 1570年(永禄13年)

     4月20日に、約3万人の織田軍を率いて、

     越前(えちぜん)の朝倉義景(あさくらよし

     かげ)の朝倉氏を攻めるため、京(きょう、

     京都)から出陣する。 織田軍には、近

     畿の武将の池田勝正や松永久秀ら、徳

     川家康、明智光秀、木下藤吉郎秀吉な

     ども従軍していた。

        織田信長と織田軍は、 近江国 

     (おうみのくに、現・滋賀県の相当地域) 

     の西近江路 (にしおうみじ、琵琶湖西

     部の沿岸)、 若狭国 (わかさのくに、

     現・福井県西部の相当地域) の東部を

     通り、4月25日に、越前国(えちぜんの

     くに、福井県東部)に侵攻する。 信長

     の進軍中の4月23日に、元号が永禄

     (えいろく)より元亀(げんき)に改元され

     る。

        金ヶ崎城(かねがさきじょう、かなが

     さきじょう)は、 福井県敦賀(つるが)市

     の北東部に突き出た岬の金ヶア(かねが

     さき)にあった城である。 金ヶ崎城は、戦

     国時代の当時は、南北西が海に囲まれ

     た要害の地に建つ城であり、東方に手筒

     山城(てづつやまじょう)があった。

        侵攻した越前で、織田信長と織田軍

     は、朝倉氏の本拠地の一乗谷(いちじょう

     だに)をめざして北上し、4月25日に、越

     前の敦賀(つるが)に入ると、要害の地の

     手筒山城(てづつやまじょう)を襲い、激戦

     となり、多くの犠牲者を出して、1日で落城

     させる。 更(さら)に、すぐ近くの敦賀の

     主城・金ヶ崎城(かねがさきじょう、かなが

     さきじょう)を囲む。 金ヶア城は、朝倉義

     景(よしかげ)の従兄弟(いとこ)の朝倉景

     恒(かげつね)が守っていたが、信長は、

     大軍を背景に城を明け渡すように説得し

     た結果、朝倉景恒は、4月26日に、開城

     に応じた。

        ここに、織田信長と織田軍は、1570

     年(元亀元年)4月26日に、朝倉氏の金ヶ

     崎城を下(くだ)し、開城させ、入城し、敦

     賀全域を支配下におく。 

        そして、越前の金ヶア城に入城した

     織田信長と織田軍は、 越前の一乗谷

     (いちじょうだに)から出陣し南下して越

     前の木芽峠(きのめとうげ)一帯に布陣

     する北方の朝倉軍と対峙する。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

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#kasuganotsubone

 

■ 春日局 

        (かすがのつぼね) (= お福)

 

■ 春日局。

■ 名称 : 春日局 (かすが の つぼね)。 

● 別名: 斎藤 福 (さいとうふく)、お福(おふ

  く)、福(ふく)。 

■ 生没年 : 1579年(天正7年)ー1643年

  (寛永20年)。 

■ 江戸幕府の第3代将軍・徳川家光乳母

  (うば、め のと))。

■ 江戸時代初期の女性政治家。

■ 幕府の年寄(としより、老中)の土井利勝(どい

  としかつ)、松平 信綱 (まつだいら のぶつな、

  松平伊豆守(いずのかみ)、1596−1662年)、

  幕府の惣目付(大目付)の柳生 宗矩 (やぎゅ

  う むねのり、柳生但馬守(たじまのかみ)、15

  71−1646年) と共に、 初期の江戸幕府の

  政治に参与し、江戸幕府・第3代将軍の徳川家

  を支えた。

■ 実父は、 斎藤 利三(さいとう としみつ、

  明智光秀の重臣)。

 稲葉 正成 (いなば まさなり)の正室夫人。

■ 大奥の掟(おきて)を定め、 「江戸幕府の

  官僚機構としての大奥」の基礎を築いた女性。

■ 子は、稲葉 正成との間に、稲葉 正勝、稲葉

   正定、 稲葉正利の3人をもうけた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 □ 春日局 (お福)が登場する、興味

    深い、ドキュメンタリー、ドラマ、映

    

 

 ■ 春日局(お福)。

   ■ 春日局(お福)は、初期の江戸幕府で威勢

   (権力)をもち、幕政を助け、江戸城大奥を統率

   した。

 

   ■ 春日局(お福)は、女性政治家として、年寄

   (としより、老中)の土井利勝(どいとしかつ)、

   松平 信綱(まつだいらのぶつな、知恵伊豆

   (ちえいず)、 松平伊豆守(いずのかみ)、

   生没年:1596−1662年)、 幕府惣目付

   (大目付)の柳生 宗矩(やぎゅうむねのり、

   生没年:1571−1646年、柳生但馬守(や

   ぎゅうたじまのかみ))と共に、江戸幕府の

   初期の政治に参与し、 江戸幕府・第3代将

   軍の徳川家光を支えた。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 春日局(かすがのつぼね) (斎藤福(さい

   とうふく)、お福(おふく)、福(ふく)、1579年ー

   1643年)) は、 江戸幕府の第3代将軍・

   徳川家光(いえみつ)の乳母(うば 、めのと)

   である。

 

  ■ 春日局 (かすが の つぼね)は、 生没年は

  1579年(天正7年)から、1643年(寛永20年)

  までで ある。

 

  ■ 春日局(お福)は、 安土桃山時代、江戸前期

  の女性で、 江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳

  母(うば))となる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 春日局(お福)は、 江戸城の将軍の後宮であ

  る大奥(おおおく)の総支配役(統率者)である。 

     春日局(お福)は、 大奥の掟(おきて)で

  ある、大奥法度(おおおくはっと)を定め、江戸

  城大奥の「江戸幕府の官僚組織としての大奥」

  の基礎を築いた人物である。

 

  ■ 春日局(かすがのつぼね) (斎藤福(さいとうふ

   く)、お福(おふく)、福(ふく)、1579年ー1643

   年)) は、 明智光秀の重臣(腹心)・斎藤利三 

   (さいとうとしみつ)の娘であり、 小早川秀秋

   の重臣・稲葉正成 (いなばまさなり)の正室

   夫人(継室、後妻)であり、 徳川家康に見込ま

   れて、徳川家光の乳母(うば、めのと) となる。

 

  ■ 徳川家光の将軍就任のキングメーカー。

      春日局(お福)は、徳川家光の江戸幕

   府・将軍就任を家康に訴え、世嗣決定に尽

   力(じんりょく)し、家光を、江戸幕府・第3代

   将軍に就(つ)ける。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 第2代将軍・徳川秀忠と正室・お江(おごう)

  の夫妻が、 竹千代( たけちよ、家光)の弟

  の 国松 (くにまつ、徳川忠長(ただなが)) を

  溺愛(できあい)していたため、 竹千代(た

  けちよ、徳川家光)の乳母(うば)の春日局 

  (お福)は、次期3代将軍が国松になること

  を恐れ、 1615年(元和(げんな) 元年)に、

  駿府城にいる大御所の徳川家康を訪れ、 

  家康に竹千代を 世継ぎとして確定させるよ

  うに、直訴(じきそ)した。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ その後、竹千代(家光)が、 世継ぎとして  

  確定し、 徳川家光は、江戸幕府の 第3代

  将軍となった。

 

 

 ■ 春日局(お福)の氏名。

 

  ■ 春日局 (かすが の つぼね)は、 別名は、 

  お福(おふく)と呼ばれ、1629年より、春日 

  局とも呼ばれる。  

 

  ■ 春日局 (かすが の つぼね)の別名は、斎

  藤 福 (さいとうふく)、お福(おふく)、福(ふ

  く)である。

 

  ■ 春日局(お福)の本名(正式名)は 斎藤 福 

  (齋藤 福) (さいとう ふく)である。 

 

  ■ 〈注意〉 前近代日本の人名では、

   福(ふく)、お福 (おふく)のように、前近代日本

  では、慣習で、女性は、通常、個人名でのみで

  自他呼称する。

 

  ■ 春日局の本名(正式名)は 斎藤 福であり、

   前近代日本の家父長制の夫婦別姓であり、

   稲葉正成と婚儀を結んでも、離別しても、一生、

   斎藤 福の氏名のままである。

 

  ■ 春日局 (かすがのつぼね)は、朝廷から賜(た

  まわ)った称号である。

 

  ■ 春日局は、1629年に朝廷から賜(たまわ)っ

  た称号であり、 春日局(お福)は、 1629年

  より、春日局とも呼ばれる。

 

  ■ 春日局(お福)は、 本名は 斎藤 福 (さいとう 

  ふく) で、春日局とは、 朝廷から賜(たまわ)っ

  た称号で、 春日局(お福)は、1629年に(寛永

  6年)に、 従三位の位と「春日局」の称号を、朝

  廷より賜(たまわ)る。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 徳川家の世継ぎ。

 

  ■ 春日局(お福)は、 徳川氏本家の断絶を防ぎ、 

  徳川氏本家の将軍が治める長期政権をつくるた

  め、 将軍・徳川家光の血筋(世継ぎ)を残すこと

  に尽力(じんりょく)する。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ● 春日局(お福)は、 将軍・徳川家光好みの女性

  を各所から召し寄せて、 将軍の世継ぎを確保した。 

     元々、将軍の徳川家光は、  あまり女性に興

  味がなく、気がすすまず乗る気でない徳川家光に、 

  春日局(お福)は町でスカウトした体(からだ)の

  丈夫(じょうぶ)な町娘を、勧(すす)め、めとらせて、

   将軍の世継ぎ(次期将軍)を確保した。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 体の丈夫な町娘の、お楽(おらく、宝樹院)、お玉

  (おたま、桂昌)、お夏(おなつ、順性院)の3人

  が、 江戸幕府の第3代将軍の徳川家光との間に、

  3人の男子を産み、 後に、病気などで早世するこ

  ともなく、無事に元服(成人)した。 

      お楽(おらく、宝樹院)が、 後に江戸幕府の

  第4代将軍・徳川家綱(いえつな)となる男子・竹

  千代(家光長男)を産み、 お夏(おなつ、順性院)

  が、後に江戸幕府の第6代将軍・徳川家宣(いえ

  のぶ)の父・徳川綱重(つなしげ)となる男子・長松

  (家光三男)を産み、 お玉(おたま、桂昌院)が、  

   後に江戸幕府の第5代将軍・徳川綱吉(つなよ

  し)となる男子・徳松(家光四男)を産む。 

 

  ● お楽(おらく、宝樹院)は、 家光・側室夫人であり、

  江戸幕府の第4代将軍・徳川家綱(いえつな)の生

  母となる。

 

  ● お夏(おなつ、順性院)は、 家光・側室夫人であり、

   徳川綱重 (つなしげ)の生母となり、 江戸幕府の

   第6代将軍・徳川家宣(いえのぶ)祖母 となる。

 

  ● お玉(おたま、桂昌院)は、 家光 ・側室夫人であり、 

  江戸幕府の第5代将軍・徳川綱吉(つなよし)の生母

  となる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 春日局(お福)。

 

  ■ 春日局(お福)は、 家光の乳母(うば、めのと)で、 

  斎藤利三(さいとう としみつ)の娘である。

 

 

 ■ 春日局(お福)の乳母就任。

 

  ■ 春日局(お福)の、家柄、公家の教養 と お福

  (春日局)の夫・稲葉正成の戦功などが評価され

  て、 1604年(慶長9年)に、徳川家康が、春日

  局(お福)を、 竹千代(徳川家光)の乳母(うば、

  めのと)に任命した。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 ■ 春日局(お福)の子。

   ■ 春日局(お福)は、 徳川家光の乳母になる前 

   に、稲葉 正成(いなばまさなり)との間に、稲葉

   正勝、 稲葉 正定、 稲葉 正利 の3人の子

   をもうけた。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 春日局(お福)の祖母。

 

  ■ 春日局(お福)の祖母は、 

    三条西実枝(さんじょうにしさねき)の娘で

    あり、 三条西家(さんじょうにしけ)は、 

    春日局(お福)の母方の祖母の実家である。

 

  ■ 春日局(お福)の生母は、稲葉良通(いなば

  よしみち、一鉄)の娘であり、 稲葉良通(一鉄)

  の正室夫人は、三条西実枝(さんじょうにしさ

  ねき)の娘である。

 

  ■ 父・斎藤利三死後、春日局(お福)は、母

  の実家の稲葉家に引き取られ、その後、母方

  の祖母の実家の三条西家で養育される。 こ

  れにより、公家の教養を身につけることがで

  きた。

 

  ■ 三条西実枝(さんじょうにしさねき)の子

  が三条西公国(さんじょうにしきんくに)であり、

  三条西公国の子が三条西実条(さんじょうにし

  さねえだ)であり、 春日局(お福)は、小女

  時、三条西家で養育され、幼少時より三条西

  実条とも親交が深かった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 春日局(お福)の父・斎藤 利三。

 

  ■ 春日局(お福)の実父・斎藤 利三(さいとう

  としみつ)は、1582年(天正10年)に本能

  寺の変後、 明智光秀の重臣であったため

  羽柴秀吉(豊臣秀吉)に捕えられ、処刑され

  た。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 春日局(お福)の父 は、 斎藤利三(さいとうと

  しみつ)で、 明智光秀の重臣 (明智家家老)

  であった。 

  ● 斎藤 利三は、 1582年(天正10年)に、

  本能寺の変では、本 能寺で織田信長を討っ

  た後、 山崎の戦いで敗北し、 逃走する。 

  羽柴(豊臣)秀吉に捕縛され、 京(都)の六

  条河原で、斬首された。 享年49歳であった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ★ 斎藤 利三が登場する興味深い、ド ラマ、

    映画。

  ■ 『 敵は本能寺にあり (てきはほんのう

      じにあり) 』 。 

    (日本の2007年制作・テレビ朝日・テレビ

     ドラマ)。 

  ● 斎藤 利三(さいとう としみつ)を演じた俳優

    名 : 田宮 五郎 (たみや ごろう)。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 父・斎藤 利三(としみつ)の死後、 お福(春日

  局)は、 母方の親戚にあたる公家の三条西

  公国(さんじょうにし きんくに、 1556〜88年)

  が引き取り、その後、三条西家(さんじょうにし

  け)で養育される。 三条西 公国の子・三条西

  実条(さねえだ)と共に育つ。 その後、伯父の

  稲葉 重通(いなば しげみち)の養女となり、そ

  の後、 稲葉 正成(いなば まさなり)の正室夫

  人(継室、後妻) となる。 

     お福(春日局)の夫の稲葉正成は、 小早

   川秀秋の家臣で、関が原の戦いで主君・小早

   川秀秋を 、説得して家康方の東軍に寝返(ね

   がえ)らせた。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#kasuganotsubone-appearingscenes

 

♪♪ 春日局(お福)が登場する、興味深

     い、ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

 ★ 春日局(お福)を描いた、興味深い、

        ドラマ、 映画。 

 

  ● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

    歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

    実) と 架空の出来事が 混じって描かれ

    ています。 また、現代風にアレンジしてあり

    ます。

 

 ■ 『 天下騒乱〜徳川三代の 

     陰謀 (てんかそうらん とくが

      わさんだいのいんぼう) 』 。 

     (テレビ東京の2006年制作テレビ

      ドラマ)。 

 

  ■ 春日局(お福)が登場する。

 

  ● 春日局(お福)を演じた女優名 : 

     片平 なぎさ (かたひら なぎさ)。

  ● お江(おごう、小督、お江与、崇源院)

     を演じる女優名 : 

     かたせ 梨乃 (かたせ りの)。

 

 

 ■ 『 大奥・第一章 

       (おおおく だいいっしょう) 』 。

     (フジテレビの2004・2005年制作

      テレビドラマ)。

     (脚本:浅野妙子(あさのたえこ))。

 

  ■ 江戸幕府の初代将軍家康、2代将軍秀忠、

    3代将軍家光の時代 と その時代の大奥

    を描いたドラマ。  

  ■ 春日局(お福)を中心に描く。

 

  ● 春日局(お福)(家光乳母、斎藤利三娘、

    稲葉正成の元夫人)を演じた女優名 :

    松下 由樹 (まつした ゆき)。

 

  ● 徳川 家光を演じた俳優名 : 西島 秀俊。

  ● 徳川家康 (初代将軍)を演じた俳優名 : 

    藤田 まこと。

  ● 阿茶局 (あちゃのつぼね、家康側室):

    宇津宮雅代 (うつのみやまさよ)。

  ● 斎藤利三 (さいとうとしみつ、春日局

    (お福)の父、明智光秀重臣) :

    福本清三 (ふくもとせいぞう)。

  ● お安 (おやす、春日局(お福)の母、

    稲葉良通(一鉄)の娘、三条西実枝

    (さんじょうにしさねき)の孫娘) :

    三星登史子 (みつぼしとしこ)。

  ● 三条西実条 (さんじょうにしさねえだ、

    三条西実枝(さんじょうにしさねき)

       の孫、(春日局(お福)が三条西家

    で養育された少女時期のの幼馴染) :

    伊藤 正之 (いとう まさゆき)。

  ● 稲葉正成 (いなばまさなり、春日局

    (お福)の元夫) : 

    神保悟志 (じんぼさとし)。

  ● 徳川秀忠 (2代将軍)を演じた俳優名 : 

    渡辺 いっけい。

  ● お江与 (おえよ、秀忠正室、家光(竹千

    代)生母、忠長(国松)生母)、お江(おご

    う)、崇源院)を演じる女優名 :

    高島 礼子。

  ● 稲葉 正勝(お福の長男)を演じた俳優名 : 

    榊 英雄 (さかき ひでお)。

  ● 孝子 (たかこ、鷹司(たかつかさ)孝子、

    家光正室)を演じた女優名: 

    木村多江 (きむら たえ)。

  ● お万 (おまん、家光側室)を演じた

    女優名: 瀬戸朝香 (せと あさか)。

  ● お楽 (おらく、家光側室、家綱生母)

    を演じた女優名: 京野 このみ。

  ● お夏(おなつ、家光側室、家宣祖母)

    を演じた女優名: 野浪 麻帆。

  ● お玉(おたま、家光側室、綱吉生母)

    を演じた女優名: 星野 真理。

 

 

 ■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』 。 

      (NHKテレビの2011年大河ドラマ)。

 

  ■ 春日局(お福)が登場する。

 

  ● お江(おごう、小督、お江与、崇源院)を演

    じる俳優名 : 上野 樹里 (うえの じゅり)。

 

 

 ■ 『 軍師 官兵衛 』。 

     (NHKテレビ・2014年大河ドラマ)。 

 

  ■ 春日局(お福)が登場する。

 

  ● 春日局の父・斎藤利三を演じた俳優:

    小木。

 

 

 ■ 『 柳生武芸帳 

      (やぎゅうぶげいち ょう) 』。

     (テレビ東京・2010年制作テレビドラマ)。 

 

  ■ 春日局(お福)が登場する。

 

  ● 春日局(お福)を演じた俳優名 : 

    高島 礼子 。

 

 

 『 女帝 春日局 

     (じょてい かすがのつぼね) 』 。 

    (日本の1990年東映制作映画)。 

 

  ■ 春日局(お福)を中心に描く。

  ■ 江戸時代・初期の大奥を描いている。

 

 

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#thekazokunobles

 

■ 華族  

      (かぞく)。

 

■ 華族。 

■ 名称 : 華族 (かぞく)。

■ 英語名 : Kazoku Peer(s)、 Kazoku 

  Noble(s)。

■ 別名 : 華族階級。

   (英: The Peer (Noble) Class)。

■ 《旧社会身分》。

■ 1869年ー1947年。

■ 華族は、

   近代日本(明治、大正、昭和戦前時代)の

     貴族階級である。

■ 華族は、

   近代日本の特権階級である。

 華族は、

   公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵家(こうしゃく・

   こうしゃく・はくしゃく・ししゃく・だんしゃく・け) 

     の人々である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 31337。

 

 

 ■  華族。

  ■  華族 (かぞく、1869年ー1947年)は、近代日本(明治、

    大正、昭和・戦前時代)の貴族階級である。 華族は、

     1869年(明治2年)から1947年(昭和22年)まで存在

  した。

  ■  華族(かぞく、1869年ー1947年)は、 旧社会身分であり、

  近代日本(明治、大正、昭和・戦前時代)の社会的身分の、

  貴族や貴族階級であり、 近代日本の特権階級であった。

 

  ■ 華族は、 上位から、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵家(こう

  しゃく・こうしゃく・はくしゃく・ししゃく・だんしゃく・け) の人々

  である。

             

  ■  華族には、 公家、大名 と、 国家に勲功のあったとされ

     る、政治家、官吏、軍人、実業家などの人物 がいる。

             

  ■ 爵位(しゃくい)は、 男子の家督相続人の世襲とされた。

             

  ■ 「鹿鳴館の華」。

  ● 鹿鳴館 (ろくめいかん、1883年〜1887年)は、 外国

  からの客を接待するための社交場であり、 華族 (かぞく、

  1869年ー1947年) の夫人が、大活躍した。

     優雅なダンスと美貌で、洗練されたマナーと振る舞い

  で、「鹿鳴館の華」(ろくめいかんのはな)と称(たた)えられ

  た、大山捨松(おおやますてまつ)、戸田極子(とだいわこ)、

  陸奥亮子(むつりょうこ)、鍋島栄子(なべしまながこ) など

  の女性がいた。

 

  ● 鹿鳴館は、 日本人と欧米人との国際社交場となり、 

  華族(かぞく、1869年ー1947年)の夫人が、大活躍した。

     明治時代前期の、1883年(明治16年)から1887年

   (明治20年)まで、鹿鳴館では、上流階級の男女が集(つ

   ど)い、夜な夜な、饗宴(きょうえん)が繰り広げられた。

     鹿鳴館は、 外国からの客を接待するための社交場で

  あった。 当時の明治政府(近代日本政府)は、欧米諸国と

  対等にわたりあえる近代国家になろうと必死であった。 一

  刻も早く日本の風俗や習慣を西洋風に改めさせようとした。

  その使命を背負い、鹿鳴館で踊っていたのが、華族の紳士・

  淑女であった。

     優雅なダンスと美貌で「鹿鳴館の華」と称(たた)えられ

  た、貴婦人の女性たちがいた。 大山捨松(おおやますてま

  つ)、戸田極子(とだいわこ)、陸奥亮子(むつりょうこ)、鍋島

  栄子(なべしまながこ) などである。

     大山 捨松(おおやま すてまつ)は、 大山巌(おおやま

  いわお)の夫人であり、 鹿鳴館で結婚式を挙(あ)げた。

     戸田 極子(とだ いわこ)は、 戸田氏の夫人で、公家・

  岩倉具視(いわくらともみ)の三女である。

     陸奥 亮子(むつ りょうこ)は、 駐米公使と務めた、陸

  奥宗光(むつむねみつ)の夫人であり、 米・ワシントン社交

  界の華(はな)と言われた女性 である。

     鍋島 栄子(なべしま ながこ)は、 イタリア公使を務め

  た、鍋島直大(なべしまなおひろ)の夫人である。 鍋島栄子

  は、イタリア公使夫人としてイタリアで約2年を過ごし、ヨーロ

  ッパの社交界で活躍した。 鹿鳴館で鍋島栄子は、特別に

  あつらえたバッスルドレスをまとい、素晴らしいダンスを踊っ

    た。

     洗練されたマナーと振る舞いで鹿鳴館を彩(いろど)っ

  た貴婦人たちであった。

 

 

 ■  華族の歩み。

  ■ 1869年 (明治2年)に、 明治政府(近代日本政府)は、

  公家と大名を華族とした。 

     近代日本政府 (明治、大正、昭和戦前時代の日本政

  府)は、 1869年 (明治2年)の版籍奉還(はんせきほうか

  ん)後、 公家(公卿)、大名(諸侯 )を華族とし、平民(士

  族を含む)の上位においた。 

      明治政府(近代日本政府)の1869年(明治2年)に出

  された1つの通達によって、華族制度が始まった。 それは、 

  行政官達(ぎょうせいかんたっし)542号の「公卿諸侯之称 

  廃せられ 改めて 華族と称すべし」 (くぎょうしょこうのし

  ょう・はいせられ・あらためて・かぞくとしょうすべし) であっ

  た。 この時、427の家が、華族となった。

 

  ■  近代日本政府は、 1884年(明治17年)の華族令により、

  特権を有する社会的身分として、公・侯・伯・子・男爵(こう・

  こう・はく・し・だん・しゃく)(上位別に)の5爵(5段階)の爵

  位(しゃくい)をもうけ、1884年以降、公 家、大名(旧華族) 

  や国家に勲功のあったとされる政治家、官吏、軍人、実業

  家などの人物(新華族)に爵位(しゃくい)を与えた。 

      この華族令をつくり、華族制度を確立した中心人物

  は、 伊藤博文いとうひろぶみ)であった。 伊藤博文は、

  大名、公家の旧封建勢力の上層部を抑え、政府の味方に

  するため、 天皇を国家の中心にすえ、大名、公家の旧封

  建勢力が天皇を助ける形をとるため、 公・侯・伯・子・男

  爵の爵位、財産保護、貴族院議員などの華族制を整備し、

  華族に特権を与え、旧封建勢力の上層部の不満をなくし、

  国民をひとつにまとめ、 欧米列強に並ぶ近代国民国家

  をつくることを目指した。

      明治17年7月7日の華族令では、公家や大名に爵

  位を与え、朝廷の中枢に近い公家や石高が大きかった大

  名ほどより上位の爵位とし、大名や公家の他に、明治維

  新に功績のあった者を加えて、爵位を与えた。 爵位は、

  天皇の名で授けられた。 

     華族には、爵位や特権と引き換えに皇室の藩屏(は

  んぺい)(皇室をを守る者)となる義務を求められた。

      明治政府(近代日本政府)は、 天皇の格式をあげ

  るため、また、天皇と平民をつなぐ役割を持つ者を置くた

  め、天皇と平民との間に、華族を設けた。

      明治政府(近代日本政府)は、 天皇の下に、公家

  (公卿)と大名(諸侯)を平等とし、同一身分とし、合体させ

  て、公家(公卿)、大名(諸侯)を華族とした階級を置いた。

  

  ■  1889年(明治22年)の旧憲法(大日本国憲法)と貴族院

  令により、 華族は、二院制の旧国会(衆議院と貴族院の、

  帝国議会)の貴族院を構成する貴族院 議員の構成員とな

  り、政治的発言権をもつ、政治的特権を得た。

       貴族院議員には、 満30歳以上の公爵・侯爵全員

  と、伯爵・子爵・男爵のうち同爵間の互選で選ばれた者が

  なった。

 

  ■ 華族は、 1947年(昭和22年)に、平等と自由を旨とす

  る新憲法(日本国憲法)の施行により、廃止された。

      日本国憲法第14条により、華族令や華族制度は、廃

  止となった。

 

 

 ■  華族。

  ■ 華族 (かぞく)とは、 近代日本(明治、大正、昭和戦前時

  代) の特権的上流階級であり、 公・侯・伯・子・男爵家(こ

  う・こう・はく・し・だんしゃくけ)の人々 である。

    華族の別名は、 華族階級である。

    華族の英語名は、 Kazoku Peer(s)、 Kazoku 

  Noble(s)で、 華族階級の英語名は、 The Peer 

  (Noble) Class である。

 

  ■ 華族は、 1869年(明治2年)の版籍奉還後、平民(士族

  を含む) の上位の身分として設定される。

     華族は、1884年(明治17年)の華族令公布により、

  特権的貴族階級となり、 近代日本政府(近代天皇絶対主

  義政権)の支柱となった。

     明治維新の功労者は、華族となり、 旧公家、旧藩主を

  加えて、 明治政府(近代日本政府)は、 国会開設に備 え、

  衆議院に対抗して、華族で貴族院を構成し、 藩閥政府を防

  衛しようとした。

     華族は、 1947年(昭和22年)に廃止される。

 

 

♪♪ 華族が登場する興味深 い、ドキュ

    メタンリー、ドラマ、映画。

 

 ★ 華族が登場する興味深い、ドキュメ

    タンリー。

 

 ■ ザ・プレミアム 『 華族 150年

    の旅路。 激動を生き抜いた

   日本の名家 』 。 

    (NHKテレビの2016年9月10日・本放送

    の歴史ドキュメンタリー番組)。

  ■ 華族を詳しく述べる。

  ■ 外務卿・井上馨(がいむきょう・いのうえ

    かおる)が企画した、明治時代前期の

    鹿鳴館を述べる。

 

 

 ★ 華族が登場する興味深 い、ドラ

    マ、映画。

 

    ● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

      歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

      実) と 架空の出来事が 混じって描かれ

     ています。 また、 現代風にアレンジしてあ

     ります。

 

 ■ 『 花燃ゆ (はなもゆ) 』 。 

     (NHKテレビの2015年大河ドラマ)。

 

  ■ 日本の明治維新、幕末、明治時代前期

     の時代状況やその時代に活躍した人々

     を描く。

  ■ 明治時代前期の華族や鹿鳴館を描く。

 

 

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#kamakurafu

 

■ 鎌倉府  

     (かまくらふ)。

 

■ 鎌倉府。

■ 名称 : 鎌倉府 (かまくらふ)。

■ 別称 : 関東府。

■ 1349年ー1455年。

■ 《室町幕府の地方行政機関》。

■ 鎌倉府は、

   室町時代前期・中期にあった、室町幕府

   地方行政機関である。

■ 鎌倉府は、

   室町幕府の、東国 (とうごく)の、関東8国、

   伊豆、甲斐(かい、山梨県) と 東北2国 

   (陸奥(むつ)・出羽(でわ)、1392年ー14

   00年の間のみ管轄)) を管轄・統治する

   行政(政治)機関(の政庁) である。

 鎌倉府の長官は、

  鎌倉公方(かまくらくぼう)と言い、

  5代の鎌倉公方(足利基氏 (もとうじ)、氏満

  (うじみつ)、満兼(みつかね)、持氏 (もちう

  じ)、成氏(しげうじ))が就任する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 31332。

 

 

 ■ 鎌倉府。

  ■ 鎌倉府 (かまくらふ、1349年ー1455年、関東府)

  は、 鎌倉公方と関東管領が指揮する、室町幕府の

  地方行政機関である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 鎌倉府 (かまくらふ、1349年ー1455年、関東府)

  とは、 鎌倉を本拠地にした室町幕府の政庁であり、

  室町時代前期・中期に存在した、関東・伊豆・甲斐・

  北地域を管轄・統治した、室町幕府の地方行政機

  関 である。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 鎌倉府の長官が、 鎌倉公方(かまくらくぼう)である。 

             

  ■ 鎌倉府の長官である鎌倉公方(かまくらくぼう)には、

  将軍足利氏の一族が代々世襲し、就任し、 鎌倉公

  方を補佐する、関東管領(かんとうかんれい)には、

  上杉氏が代々世襲し、就任した。

     しかし、鎌倉公方の足利氏と関東管領の上杉氏

  が、対立するようになった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 鎌倉府は、 関東8か国と伊豆・甲斐(かい) と、 東

  北2カ国の陸奥(むつ)、出羽(でわ)、の東国(とうご

  く)を管轄・統治した。

     鎌倉府は、 関東8か国と伊豆・甲斐(かい、現・山

  梨県相当地域) (1349年ー1455年 の間管轄) と、 

  東北2か国の陸奥(むつ、現・青森・岩手・宮城・福島

  県相当地域)、出羽(でわ、現・秋田・山形県相当地域) 

  (1392年ー1400年の間のみ管轄) の東国(とう ご

  く)を管轄・統治した。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 鎌倉府の長官は、 鎌倉公方(かまくらくぼう)とい

  い、 5代の鎌倉公方(足利基氏 (もとうじ)、氏満

  (うじみつ)、満兼(みつかね)、持氏 (もちうじ)、成

  氏(しげうじ))が、就任した 。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 室町幕府は、 鎌倉府の管轄・統治国を、初め、関東

  8か国と伊豆・甲斐としたが、 1392年に、 東北2か

  国の、陸奥、出羽を追加した。 

     室町幕府は、 鎌倉府の管轄・統治国を、初め、

  関東8か国と伊豆・甲斐(かい、現・山梨県相当地域)

  としたが、 1392年(明徳3年)に、東北2か国の、陸

  奥(むつ、現・青森・岩手・宮城・福島県相当地域)、

  出羽(でわ、現・秋田・山形県相当地域) を追加した。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 1349年(貞和5年)に、足利尊氏(あしかがたかうじ)

  の子の、足利基氏(もとうじ)が、足利尊氏の命(命令)

  で、初代・鎌倉公方(かまくらくぼう、鎌倉府の長官)と

  なり、鎌倉府が組織・形成された。

     鎌倉府の長官である鎌倉公方(かまくらくぼう)は、

  足利基氏 (もとうじ)、足利氏満(うじみつ)、足利満兼

  (みつかね)、足利持氏 (もちうじ)、足 利成氏(しげうじ)

  と5代続いた。

     しかし、第5代・鎌倉公方の足利成氏しげうじ)が、

  1455年((康正元年、享徳4年)に、鎌倉を去り、他の

  地に本拠地を置いたため、鎌倉府は、解体した。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 鎌倉府。

 

  ■ 鎌倉府 (かまくらふ、関東府) は、室町幕府

  の地方行政機関 であり、 室町時代前期の、13

  49年から1455年まで存続する。

 

  ■ 鎌倉府 (かまくらふ、関東府) は、 室町幕

  の地方行政機関で、 東国 (とうごく、関東8

  国、伊豆、甲斐(かい、山梨県)、東北2国(陸奥

  (むつ)・出羽(でわ)) の政務を統轄す る行政

  政治)機関(の政庁 )であった。

 

  ■ 鎌倉府の長官を、鎌倉公方(かまくらくぼう)

  と言い、 5代(足利基氏 (もとうじ)、氏満(うじみ

  つ)、満兼(みつかね)、持氏 (もちうじ)、成氏(し

  げうじ))の鎌倉公方が就任した。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

  ■ 足利 尊氏は、 鎌倉幕府の基盤であった関東

  を特に重視し、 その子の足利基氏(あしかが

  もとうじ、1340〜67年)を、 鎌倉公方(かま

  くらくぼう、関東公方)とし、 鎌倉府(かまくらふ)

  を開かせ、 東国(とうごく)の支配をまかせた。

     鎌倉府の組織は、 室町幕府とほぼ同じで、

  権限も大きかったため、 やがて京(都)の室町

  幕府としばしば衝突するようになった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

  ■ 足利 尊氏は、 室町幕府の地方 行政機関で、

  東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、

  山梨県)、東北2国 (陸奥(むつ)・出羽(でわ))、

  (1392年ー1400年の間のみ管轄) の政務を

  統轄する行政(政治)機関 である鎌 倉の長官

  である、鎌倉公方に、 尊氏の第4子の足利基 

  (あしかがもとうじ、1340〜67年)を任じ、

  鎌倉府の長官の鎌倉公方を補佐する役職の

  執事(しつじ、後の関東管領)して、上杉氏を任

  じ、それぞれ、子孫に世襲させた。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

 ■ 鎌倉公方。

 

  ■ 鎌倉公方(かまくらくぼう、1349〜1455年、

  5代) は、 室町幕府の地方 行政機関で、東国 

  (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、山梨県)、

  東北2国 (陸奥(むつ)・出羽(でわ)、1392年ー

  1400年の間のみ管轄)) の政務を統轄する行

  政(政治)機関である鎌倉府 の長官である。 

 

  ■ 鎌倉公方は、 足利 尊氏の子、足利基氏(あ

  しかがもとうじ)により成立し、その子孫が、世襲

  した。 5代(足利基氏 (もとうじ)、氏満(うじみつ)、

  満兼(みつかね)、持氏 (もちうじ)、成氏(しげう

  じ))の鎌倉公方が就任した。 

 

  ■ 鎌倉公方は、 室町幕府の政庁の鎌倉府(か

    まくらふ)があった鎌倉を本拠地にした。

    鎌倉公方 (かまくらくぼう、1349〜1455

  年、5代) は、 1349年から1455年まで続い

  た。 その後、鎌倉公方は、 古河公方(こがくぼ

  う、1455〜1583年、5代) と、 堀越公方(ほ

  りごえくぼう、1457〜91年、2代) に代わった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

 ■ 室町時代中期・後期の東国の関東・

    伊豆・山梨) の出来事。

 

  ■ 東国 (とうごく)の、関東8国、伊豆、甲斐(かい、

  山梨県)では、 永享の乱や享徳の乱以後、 

  「戦国の世」となる。

    永享の乱 (えいきょうのらん、1438−1439

  年)で、 室町幕府・第6代将軍足利 義教(よし

  のり)は、 義教と対立する、第4代鎌倉公方の足

  利持氏(もちうじ)と戦い、勝利を得た。

     しかし、永享の乱後、義教は、 鎌倉公方が

  統治する東国 (とうごく )の、関東8国、伊豆、甲

  斐(かい、山梨県)を、完全に支配しようしたが、

  東国の武士 の諸勢力の反対にあい、できなかっ

  た。 また、義教の子を、鎌倉公方に就任させよ

  うとしたが、東国の武士の諸勢力の反対にあい、

  就任させられなかった。

      統治力のある強い鎌倉公方を失い、永享の

  乱以後の1439年から、 東国 (とうごく )の、関

  東8国、伊豆、甲斐(かい、山梨県)では、諸勢力

  が入り乱れ、豊臣秀吉が日本本土を統一する

  1590年まで、「戦国の世」となった。

 

  ■ 第4代鎌倉公方足利持氏  (あしかがもちうじ、

  1398〜1439年) は、 室町幕府・第6代将軍

  の足利義教 (よしのり、将軍 在任1429〜1441

   や 関東管領の上杉憲実(のりざね) と対

  立し、1438年に、永享の乱 (えいきょうのらん、

  1438〜39年)を起こし、 1439年に、幕府・上

  杉軍に敗(やぶ)れて、自殺する。 

    1440年(永享12年)に、結城合戦(ゆうきか

  っせん、1440年)が起こる。 下総国 (しもうさ

  のくに、千葉 県北部相当地域)の豪族・結城氏朝

  (ゆうきうじとも)が、鎌倉公方・足利持氏の2人

  の遺子を擁(よう)し、挙兵するが、派遣された室

  町幕府軍に敗れ、 結城氏朝は敗死し、2人の遺

  子は殺される。

     その後、1449年に、 足利持氏の子の、

  利成氏 (あしかがしげうじ、生没年:1434〜9

  7年) が、 迎えられて、第5代鎌倉公方(就任:

  1449年ー1455年) となる。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

  ■ 第5代鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利成氏(あ

  しかがしげうじ、生没年:1434〜97年) が、 14

  54年(享徳3年)に、関東管領(かんとうかんれい)

  の上杉憲忠(うえすぎのりただ)を謀殺(ぼうさつ)し、

  利成氏は、 関東管領の上杉氏と戦い、享徳の

  (きょうとくのらん、1454〜82年) が始まる。

  室町幕府は、上杉氏を支援した。

     足利成氏(しげうじ)は、 本拠地の鎌倉を放

  棄し、 本拠地を下総国古河 (しもうさ(しもふさ)

  のくに・こが、茨城県南西部の古河) に移し、 

  河公方 (こがくぼう、1455年ー1583年、5代、

  足利成氏、政氏、高基、 晴氏、義氏) となる。

    一方、足利成氏(しげうじ)を討つべく室町幕府

  から派遣された足利政知 (あしかがまさとも、14

  35年ー1491年、足利義政の兄弟) は、 鎌倉

  に入れず、 伊豆国堀越 (いずのくにほりごえ、

  静岡県東部・伊豆半島の堀越) に本拠地を置き、 

  対峙(たいじ)し、堀越公方 (ほりごえくぼう、 就

  任:1457年ー1491年、2代) となる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 享徳の乱(きょうとくのらん、1454〜1482

  年)が起こり、 古河 公方や堀越公方が成立する。

     足利成氏は、享徳の乱(きょうとくのらん)

  を起こす。 鎌倉公方の足利成氏 (あしかが

  しげうじ、1434〜97年) は、 鎌倉公方を補

  佐する役職の執事(しつじ、関東管領)の上杉

  氏と対立し、 鎌倉を保ちえず、 1455年に、 

  逃れて、 下総国古河城(しもうさのくにこがじ

  ょう) に移り、古河公方(こがくぼう) と称す。 

  1454年に、鎌倉公方の足利成氏は、 関東管

  領の上杉憲忠(うえすぎのりただ)を謀殺(ぼう

  さつ)し、 享徳の乱(きょうとくのらん)を起こし、 

  1455年に、関東管領・上杉房顕(ふさあき)が、 

  鎌倉公方の足利成氏を、 下総・古河(しもうさ・

  こが)に逐う。 成氏は、鎌倉を放棄し、古河公

  方(こがくぼう)となる(と呼ばれる)。  以後、

  古河公方 (1455〜1583年) は、 足利成

  氏(しげうじ)の子孫により、 2代・政氏、3代・

  高基、4代・晴氏、5代・義氏と続いたが、 15

  83年に古河公方の5代・足利義氏の死によっ

  て滅んだ。

     一方、享徳の乱(きょうとくのらん)が起こり、

   1457年に、 足利義政(よしまさ)の命令で、 

   足利成氏(しげうじ)を討つべく幕府から関東に

   派遣された、足利政知  (あしかがまさとも、14

   35〜91年、足利義政の兄弟) は、 鎌倉に

   入れず、 伊豆国(いずのくに)堀越に根拠地を

   置き、 堀越公方 (ほりごえくぼう、1457〜9

   1年、初代堀越公方) となる(と呼ばれる)。堀

   越公方は、1491年の足利政知(まさとも)死後、 

   政知の子の足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる、

   ?〜1491年) が、継いで2代堀越公方となる

   が、 1491年に、伊勢宗瑞(いせそうずい、北

   条早雲) に攻められ足利茶々丸は自殺し、

   越公方は、滅びる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

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 ★ 鎌倉府 が登場する、興味深い、ドキ

    ュメンタリー。 

 

 ■ 英雄たちの選択 『 リアル暴れ

     ん坊の将軍 破滅への選択。 

   〜足利義教・‘‘最凶’’伝説〜 』。

   (NHKテレビ・2016年1月22月・本放送

   歴史ドキュメンタリー番組)。

 

  ● 鎌倉府、鎌倉公方、関東管領、永享の乱 

    (えいきょうのらん、1438〜39年)につい

    て述べる。

  ● 室町時代中期の、室町幕府・第6代将軍

     の足利義教(あしかがよしのり)の詳細を

    述べる。

 

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#kamakurakubo

 

■ 鎌倉公方  

     (かまくらくぼう)

 

■ 鎌倉公方。

■ 名称 : 鎌倉公方 (かまくらくぼう)。

■ 《室町幕府の役職》。

■ 1349〜1455年、5代

■ 鎌倉公方は、

   室町幕府の、東国 (とうごく、関東8国、伊豆、

   甲斐(かい、山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・

   出羽(でわ)) の政務を統轄する行政(政治)

   機関である鎌倉府の長官 (5代足利基氏

   (もとうじ)、氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)、

   持氏(もちうじ)、成氏(しげうじ)) である。 

■ 鎌倉公方は、

   室町幕府の政庁の鎌倉府(かまくらふ)があ

     った鎌倉を本拠地にした。

 1455年頃に、鎌倉公方に代わって、 2つの

  公方(古河公方堀越公方)が成立した。

    古河公方(こがくぼう、1455〜1583年

  5代) と、 堀越公方(ほりごえくぼう、1457

  〜91年、2代) である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 31335。

 

 

 

 ■ 鎌倉公方。

  ■ 鎌倉公方 (かまくらくぼう、1349〜1455

  年、5代) は、 室町幕府の地方 行政機関で、

  東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、

  山梨県)、東北2国(陸奥と出羽、1392年から

  1400年までのみ鎌倉府の管轄の政務を

  する行政(政治)機関で  ある鎌倉府の長官

  である。 

 

  ■ 東北2国(陸奥、出羽)は、1349年(貞

  和5年)から1392年(元中9年)まで、室町幕

  府の管轄であった。 しかし、1392年から14

  00年まで、東北2国(陸奥(むつ、・出羽(でわ))

  が、鎌倉 府の管轄に加えられたが、室町幕府

  は、鎌倉府に対抗するため、1400年(応永7

  年)以降、東北2国(陸奥・出羽)を鎌倉公方の

  管轄から外し、室町幕府の管轄とした。

     東北2国とは、 奥羽(おう)であり、 陸

  奥(むつ、= 奥州(おうしゅう)) と 出羽(でわ、

  羽州(うしゅう))である.。 陸奥(むつ、= 奥州

  (おうしゅう))は、青森県・岩手県・宮城県・福

  島県の相当地域であり、 出羽(でわ、羽州(う

  しゅう))は、秋田県、山形県の相当地域である。

 

  ■  鎌倉公方は、足利 尊氏の子、足利基氏(あ

  しかがもとうじ)により成立し、その子孫が、世襲

  した。 5代(足利基氏 (もとうじ)、氏満(うじみつ)、

  満兼(みつかね)、持氏 (もちうじ)、成氏(しげう

  じ))の鎌倉公方が就任した。 

    鎌倉公方は、 室町幕府の政庁の鎌倉府(か

    まくらふ)があった鎌倉を本拠地にした。

    鎌倉公方 (かまくらくぼう、1349〜1455

  年、5代) は、 1349年から1455年まで続い

  た。 その後、鎌倉公方は、 古河公方(こがくぼ

  う、1455〜1583年、5代) と、 堀越公方(ほ

  りごえくぼう、1457〜91年、2代) に代わった。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

  ■ 足利 尊氏は、 鎌倉幕府の基盤であった関東

  を特に重視し、 その子の足利基氏(あしかが

  もとうじ、1340〜67年)を、 鎌倉公方(かま

  くらくぼう、関東公方)とし、 鎌倉府(かまくらふ)

  を開かせ、 東国(とうごく)の支配をまかせた。

     鎌倉府の組織は、 室町幕府とほぼ同じで、

  権限も大きかったため、 やがて京(都)の室町

  幕府としばしば衝突するようになった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

  ■ 足利基氏 (あしかがもとうじ、生没年:1340

  〜67年) は、 足利 尊氏の子 で、初代鎌倉

  公方 (かまくらくぼう) である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

  ■ 足利基氏は、 1349年に、 父の足利 尊氏

  命(命令)で、鎌倉に下(くだ)り、 鎌倉公方 とな

  る。

 

  ■ 足利 尊氏は、 鎌倉幕府の基盤であった関東

  を特に重視し、 その子の足利基氏(あしかが

  もとうじ、1340〜67年)を、 鎌倉公方(かま

  くらくぼう、関東公方)とし、 鎌倉府(かまくらふ)

  を開かせ、 東国(とうごく)の支配をまかせた。

     鎌倉府の組織は、 室町幕府とほぼ同じで、

  権限も大きかったため、 やがて京(都)の室町

  幕府としばしば衝突するようになった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

  ■ 足利 尊氏は、 室町幕府の地方行政機関で、東国

  (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、山梨県)、東

  北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) の政務を統轄

  する行政(政治)機関である鎌倉府の長官で ある、

  鎌倉公方に、第4子の足利基氏 (あしか がもとうじ

  1340〜67年)を任じ、 鎌倉府の 長官の鎌倉公方

  を補佐する役職の執事(しつじ、後の関東管領)して、

  上杉氏を任じ、それぞれ、子孫に世襲させた。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 ■ 鎌倉公方

  ● 鎌倉公方 (かまくらくぼう、1349〜1455年、

  5代、足利基氏、氏満、満兼、持氏、成氏(しげうじ))。 

     鎌倉公方 (かまくらくぼう、5代) は、1349

  年から1455年まで続いた。 その後、鎌倉公方は、 

  古河公方(こがくぼう、1455〜1583年、5代) と、 

  堀越公方(ほりごえくぼう、1457〜91年、2代) に

  代わった。

      鎌倉公方は、 室町幕府の地方 行政機関で、

  東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、山梨

  県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) の政務

  を統轄する行政(政治)機関である鎌倉府の長官で 

  ある。

     足利基氏 (あしかがもとうじ)の子孫が、代

  々、鎌倉公方 (かまくらくぼう、1349〜1455年、

  五代) を継いだ。 

     鎌倉公方の足利基氏の子孫は、 基氏の子

  の第2代・足利氏満、 第3代・足利満兼、 第4代・

  足利持氏(もちうじ)、 第5代・足利成氏(しげうじ )

  と続いた。

 

 

 ■ 鎌倉府。

  ■ 鎌倉府 (かまくらふ、関東府) は、室町幕府

  の地方行政機関 であり、 室町時代前期の、13

  49年から1455年まで存続した。

  ■ 鎌倉府 (かまくらふ、関東府) は、 室町幕

  の地方 行政機関で、 東国 (とうごく、関東8国、

  伊豆、甲斐(かい、山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・

  出羽(でわ)) の政務を統轄する行政(政治) 機関

  (の政庁)であった。

  ■ 鎌倉府の長官は、鎌倉公方(かまくらくぼう)

  と言い、 5代(足利基氏、氏満、満兼、持氏、成

  氏)の鎌倉公方が就任した。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

 ■ 室町時代中期・後期の東国 (関東・

    伊豆・山梨・東北) の出来事。

  ■ 東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、山

  梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) では、 

  永享の乱や享徳の乱以後、 「戦国の世」となる。

    永享の乱 (えいきょうのらん、1438−1439

  年)で、 室町幕府・第6代将軍足利 義教(よし

  のり)は、 義教と対立する、第4代鎌倉公方の足

  利持氏(もちうじ)と戦い、勝利を得た。

     しかし、永享の乱後、義教は、 鎌倉公方が

  統治する東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐

  (かい、山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(で

  わ)) を、完全に支配しようしたが、東国の武士

  の諸勢力の反対にあい、できなかった。 また、

  義教の子を、鎌倉公方に就任させようとしたが、

  東国の武士の諸勢力の反対にあい、就任させら

  れなかった。

      統治力のある強い鎌倉公方を失い、永享の

  乱以後の1439年から、 東国 (とうごく、関東8

  国、伊豆、甲斐(かい、山梨県)、東北2国(陸奥

  (むつ)・出羽(でわ)) では、 諸勢力が入り乱 

  れ、豊臣秀吉が日本本土を統一する1590年ま

  で、「戦国の世」となった。

 

  ■ 第4代鎌倉公方足利持氏  (あしかがもちうじ、

  1398〜1439年) は、 室町幕府・第6代将軍

  の足利義教 (よしのり、将軍 在任1429〜1441

   や 関東管領の上杉憲実(のりざね) と対

  立し、1438年に、永享の乱 (えいきょうのらん、

  1438〜39年)を起こし、 1439年に、幕府・上

  杉軍に敗(やぶ)れて、自殺する。 

    1440年(永享12年)に、結城合戦(ゆうきか

  っせん、1440年)が起こる。 下総国 (しもうさ

  のくに、千葉 県北部相当地域)の豪族・結城氏朝

  (ゆうきうじとも)が、鎌倉公方・足利持氏の2人

  の遺子を擁(よう)し、挙兵するが、派遣された室

  町幕府軍に敗れ、 結城氏朝は敗死し、2人の遺

  子は殺される。

     その後、1449年に、 足利持氏の子の、

  利成氏 (あしかがしげうじ、生没年:1434〜9

  7年) が、 迎えられて、第5代鎌倉公方(就任:

  1449年ー1455年) となる。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

  ■ 第5代鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利成氏(あ し

  かがしげうじ、生没年:1434〜97年) が、 14

  54年(享徳3年)に、関東管領(かんとうかんれい)

  の上杉憲忠(うえすぎのりただ)を謀殺(ぼうさつ)し、

  利成氏は、 関東管領の上杉氏と戦い、享徳の

  ( きょうとくのらん、1454〜82年) が始まる。

  室町幕府は、上杉氏を支援した。

     足利成氏(しげうじ)は、 本拠地の鎌倉を放

  棄し、 本拠地を下総国古河 (しもうさ(しもふさ)

  のくに・こが、茨城県南西部の古河) に移し、 

  河公方 (こがくぼう、1455年ー1583年、5代、

  足利成氏、政氏、高基、 晴氏、義氏) となる。

    一方、足利成氏(しげうじ)を討つべく室町幕府

  から派遣された足利政知 (あしかがまさとも、14

  35年ー1491年、足利義政の兄弟) は、 鎌倉

  に入れず、 伊豆国堀越 (いずのくにほりごえ、

  静岡県東部・伊豆半島の堀越) に本拠地を置き、 

  対峙(たいじ)し、堀越公方 (ほりごえくぼう、 就

  任:1457年ー1491年、2代) となる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 享徳の乱(きょうとくのらん、1454〜1482年)

  が起こり、 古河 公方や堀越公方が成立する。

     足利成氏は、享徳の乱(きょうとくのらん)

  を起こす。 鎌倉公方の足利成氏 (あしかが

  しげうじ、1434〜97年) は、 鎌倉公方を補

  佐する役職の執事(しつじ、関東管領)の上杉

  氏と対立し、 鎌倉を保ちえず、 1455年に、 

  逃れて、 下総国古河城(しもうさのくにこがじ

  ょう) に移り、古河公方(こがくぼう) と称す。 

  1454年に、鎌倉公方の足利成氏は、 関東管

  領の上杉憲忠(うえすぎのりただ)を謀殺(ぼう

  さつ)し、 享徳の乱(きょうとくのらん)を起こし、 

  1455年に、関東管領・上杉房顕(ふさあき)が、 

  鎌倉公方の足利成氏を、 下総・古河(しもうさ・

  こが)に逐う。 成氏は、鎌倉を放棄し、古河公

  方(こがくぼう)となる(と呼ばれる)。  以後、

  古河公方 (1455〜1583年) は、 足利成

  氏(しげうじ)の子孫により、 2代・政氏、3代・

  高基、4代・晴氏、5代・義氏と続いたが、 15

  83年に古河公方の5代・足利義氏の死によっ

  て滅んだ。

     一方、享徳の乱(きょうとくのらん)が起こり、

   1457年に、 足利義政(よしまさ)の命令で、 

   足利成氏(しげうじ)を討つべく幕府から関東に

   派遣された、足利政知  (あしかがまさとも、14

   35〜91年、足利義政の兄弟) は、 鎌倉に

   入れず、 伊豆国(いずのくに)堀越に根拠地を

   置き、 堀越公方 (ほりごえくぼう、1457〜9

   1年、初代堀越公方) となる(と呼ばれる)。堀

   越公方は、1491年の足利政知(まさとも)死後、 

   政知の子の足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる、

   ?〜1491年) が、継いで2代堀越公方となる

   が、 1491年に、伊勢宗瑞(いせそうずい、北

   条早雲) に攻められ足利茶々丸は自殺し、

   越公方は、滅びる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

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♪♪ 鎌倉公方が登場する、興味深い、

    ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

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 ■ 英雄たちの選択 『 リアル暴れ

     ん坊の将軍 破滅への選択。 

   〜足利義教・‘‘最凶’’伝説〜 』。

   (NHKテレビ・2016年1月22月・本放送

    歴史ドキュメンタリー番組)。

  ● 鎌倉府、鎌倉公方、関東管領、永享の乱 

  (えいきょうのらん、1438〜39年)につい

  て述べる。

  ● 室町時代中期の、室町幕府・第6代将軍

   足利義教(あしかがよしのり)の詳細を

   述べる。

 

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#kantokanrei

 

■ 関東管領  

     (かんとうかんれい)

 

■ 関東管領。

■ 名称 : 関東管領 (かんとうかんれい)。

■ 《室町幕府の役職》。

■ 役職存在期間: 1349年ー1573年。

■ 関東管領は、

   東国(とうごく、関東・伊豆・甲斐・東北地域)

   を管轄・統治する、室町幕府の役職であり、

     上杉氏世襲である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 31334。

 

 

  ■ 関東管領 (かんとうかんれい、1349年ー1573年) 

   とは、 東国(とうごく、関東・伊豆・甲斐・東北地域)

   を管轄・統治する、室町幕府の役職である。上杉氏

   が世襲した。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 関東管領は、 初め、執事(しつじ、1349年ー136

  3年)と呼ばれ、上杉憲顕(うえすぎのりあき)、高師冬

  (こうのもろふゆ)、畠山国清(はたけやまくにきよ)な

  どが任命されたが、 1363年(貞治2年)から、上杉

  憲顕が復職後、関東管領と呼ばれ、それ以後、上杉

  氏が独占した。

     関東管領は、1349年から1455年まで、鎌倉

  府のある、鎌倉を本拠地としていたが、 1455年の

  鎌倉府解体以後は、関東各地を本拠地とした。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 1349年から1455年までの鎌倉府存在時期では、 

  関東管領 (かんとうかんれい)は、 室町幕府の、

  鎌倉府(かまくらふ、1349年ー1455年)の長官で

  ある鎌倉公方(かまくらくぼう)を補佐して政務をつ

  かさどり、 東国(とうごく、関東・伊豆・甲斐・東北地

  域)を管轄・統治する、室町幕府の役職であった。

     1455年の鎌倉府解体以後室町幕府滅亡の15

  73年までの時期では、 関東管領は、独立して、 古

  河公方(こがくぼう)、堀越公方(ほりごえくぼう)と共

  に、 東国 (とうごく、関東・伊豆・甲斐・東北地域)を

  管轄・統治する、室町幕府の役職であった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 鎌倉府の長官である鎌倉公方(かまくらくぼう)には、

  将軍足利氏の一族が代々世襲し、就任し、 鎌倉公

  方を補佐する、関東管領(かんとうかんれい)には

  上杉氏が代々世襲し、就任した。

     しかし、鎌倉公方の足利氏と関東管領の上杉氏

   が、対立するようになった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 関東管領は、上杉氏が世襲し 、関東管領上杉氏は、 

  山内(やまのうち)上杉氏 と 扇 谷(おうぎがやつ)上

  杉氏に分かれて争った。

 

  ■ 関東管領は、 東国(とうごく、関東・伊豆・甲斐・東北

  地域)の政務を統轄する、室町幕府役職 である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 室町時代前期・中期では、関東管領は、鎌倉府の

  長官である鎌倉公方(かまくらくぼう)を補佐する役職

  の執事(しつじ)として、室町幕府の東国の政務を統轄

  する役職であったが、 室町時代後期には、関東管領

  は、 独立して、古河公方(こがくぼう)や堀越公方(ほ

  りごえくぼう)と並んで、 室町幕府の 東国の政務を

  す る役職となる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 関東管領。

  ■ 関東管領 (かんとうかんれい)は、室町幕

  の東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(か

  い、山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(で

  わ)) の政務を統轄する役職 である。

    ■ 鎌倉公方の足利基氏(もとうじ、1340〜67

  年)は、 上杉憲顕を、越後国から迎え、執事(し

  つじ)とした。 

  ■ 執事(関東管領)は、 上杉氏が世襲した。

  後に、鎌倉公方の執事は、管領(関東管領)と

  称した。

  ■ 関東管領・上杉氏は、 山内(やまのうち) 

  上杉氏と 扇谷(おうぎがやつ)上杉氏に分か

  れて争った。

  ■ 室町時代前期には、 関東管領は、 室町

  幕府鎌倉府の長官である鎌倉公方(かまくら

  くぼう)を補佐する役職の執事(しつじ)として、 

  室町幕府の東国 (とうごく、関東8国、伊豆、

  甲斐(かい、山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・

  出羽(でわ)) の政務を統轄する役職で あった。 

     室町時代後期には、 享徳の乱(きょうとく

  のらん、1454〜77年)以後、 関東管領は、

  独立して、古河公方(こがくぼ う、1455〜15

  83年、5代) や 堀越公方(ほ りごえくぼう、

  1457〜91年、2代) と並んで、 室町幕府

  東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、

  山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) 

  の政務を統轄する役職  となる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 室町時代中期・後期の東国 (関東・

    伊豆・山梨・東北) の出来事。

  ■ 東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、山

  梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) では、 

  永享の乱や享徳の乱以後、 「戦国の世」となる。

    永享の乱 (えいきょうのらん、1438−1439

  年)で、 室町幕府・第6代将軍足利 義教(よし

  のり)は、 義教と対立する、第4代鎌倉公方の足

  利持氏(もちうじ)と戦い、勝利を得た。

     しかし、永享の乱後、義教は、 鎌倉公方が

  統治する東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐

  (かい、山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(で

  わ)) を、完全に支配しようしたが、東国の武士

  の諸勢力の反対にあい、できなかった。 また、

  義教の子を、鎌倉公方に就任させようとしたが、

  東国の武士の諸勢力の反対にあい、就任させら

  れなかった。

      統治力のある強い鎌倉公方を失い、永享の

  乱以後の1439年から、 東国 (とうごく、関東8

  国、伊豆、甲斐(かい、山梨県)、東北2国(陸奥

  (むつ)・出羽(でわ)) では、 諸勢力が入り乱 

  れ、豊臣秀吉が日本本土を統一する1590年ま

  で、「戦国の世」となった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 第4代鎌倉公方足利持氏  (あしかがもちうじ、

  1398〜1439年) は、 室町幕府・第6代将軍

  の足利義教 (よしのり、将軍 在任1429〜1441

   や 関東管領の上杉憲実(のりざね) と対

  立し、1438年に、永享の乱 (えいきょうのらん、

  1438〜39年)を起こし、 1439年に、幕府・上

  杉軍に敗(やぶ)れて、自殺する。 

    1440年(永享12年)に、結城合戦(ゆうきか

  っせん、1440年)が起こる。 下総国 (しもうさ

  のくに、千葉 県北部相当地域)の豪族・結城氏朝

  (ゆうきうじとも)が、鎌倉公方・足利持氏の2人

  の遺子を擁(よう)し、挙兵するが、派遣された室

  町幕府軍に敗れ、 結城氏朝は敗死し、2人の遺

  子は殺される。

     その後、1449年に、 足利持氏の子の、

  利成氏 (あしかがしげうじ、生没年:1434〜9

  7年) が、 迎えられて、第5代鎌倉公方(就任:

  1449年ー1455年) となる。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

  ■ 第5代鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利成氏(あ し

  かがしげうじ、生没年:1434〜97年) が、 14

  54年(享徳3年)に、関東管領(かんとうかんれい)

  の上杉憲忠(うえすぎのりただ)を謀殺(ぼうさつ)し、

  利成氏は、 関東管領の上杉氏と戦い、享徳の

  ( きょうとくのらん、1454〜82年) が始まる。

  室町幕府は、上杉氏を支援した。

  ■ 足利成氏(しげうじ)は、 本拠地の鎌倉を放

  棄し、 本拠地を下総国古河 (しもうさ(しもふさ)

  のくに・こが、茨城県南西部の古河) に移し、 

  河公方 (こがくぼう、1455年ー1583年、5代、

  足利成氏、政氏、高基、 晴氏、義氏) となる。

  ■ 一方、足利成氏(しげうじ)を討つべく室町幕府

  から派遣された足利政知 (あしかがまさとも、14

  35年ー1491年、足利義政の兄弟) は、 鎌倉

  に入れず、 伊豆国堀越 (いずのくにほりごえ、

  静岡県東部・伊豆半島の堀越) に本拠地を置き、 

  対峙(たいじ)し、堀越公方 (ほりごえくぼう、 就

  任:1457年ー1491年、2代) となる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 享徳の乱(きょうとくのらん、1454〜1482年)

  が起こり、 古河 公方や堀越公方が成立する。

     足利成氏は、享徳の乱(きょうとくのらん)

  を起こす。 鎌倉公方の足利成氏 (あしかが

  しげうじ、1434〜97年) は、 鎌倉公方を補

  佐する役職の執事(しつじ、関東管領)の上杉

  氏と対立し、 鎌倉を保ちえず、 1455年に、 

  逃れて、 下総国古河城(しもうさのくにこがじ

  ょう) に移り、古河公方(こがくぼう) と称す。 

  1454年に、鎌倉公方の足利成氏は、 関東管

  領の上杉憲忠(うえすぎのりただ)を謀殺(ぼう

  さつ)し、 享徳の乱(きょうとくのらん)を起こし、 

  1455年に、関東管領・上杉房顕(ふさあき)が、 

  鎌倉公方の足利成氏を、 下総・古河(しもうさ・

  こが)に逐う。 成氏は、鎌倉を放棄し、古河公

  方(こがくぼう)となる(と呼ばれる)。  以後、

  古河公方 (1455〜1583年) は、 足利成

  氏(しげうじ)の子孫により、 2代・政氏、3代・

  高基、4代・晴氏、5代・義氏と続いたが、 15

  83年に古河公方の5代・足利義氏の死によっ

  て滅んだ。

     一方、享徳の乱(きょうとくのらん)が起こり、

   1457年に、 足利義政(よしまさ)の命令で、 

   足利成氏(しげうじ)を討つべく幕府から関東に

   派遣された、足利政知  (あしかがまさとも、14

   35〜91年、足利義政の兄弟) は、 鎌倉に

   入れず、 伊豆国(いずのくに)堀越に根拠地を

   置き、 堀越公方 (ほりごえくぼう、1457〜9

   1年、初代堀越公方) となる(と呼ばれる)。堀

   越公方は、1491年の足利政知(まさとも)死後、 

   政知の子の足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる、

   ?〜1491年) が、継いで2代堀越公方となる

   が、 1491年に、伊勢宗瑞(いせそうずい、北

   条早雲) に攻められ足利茶々丸は自殺し、

   越公方は、滅びる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

♪♪ 関東管領が登場する、興味深い、

    ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

 ★ 関東管領が登場する、興味深い、

    ドキュメンタリー。

 

 ■ 英雄たちの選択 『 リアル暴れ

     ん坊の将軍 破滅への選択。 

   〜足利義教・‘‘最凶’’伝説〜 』。

   (NHKテレビ・2016年1月22月・本放送・

   歴史ドキュメンタリー番組)。

  ● 鎌倉府、鎌倉公方、関東管領、永享の乱 

  (えいきょうのらん、1438〜39年)につい

  て述べる。

  ● 室町時代中期の、室町幕府・第6代将軍

   足利義教(あしかがよしのり)の詳細を

   述べる。

 

 

 ■ 歴史秘話ヒストリア 

   『 謙信、変身!悩める若者、

     ヒーローになる 』。 

   (NHKテレビ・2009年(H21)4月8日・

   本放送・テレビ・ドキュメンタリー番組)。

 

 

 ■ その時歴史が動いた 

   『 謙信恐るべし 』。 

   (NHKテレビの2007年(H19)4月・

    本放送・ドキュメンタリー番組、

   第283回)。

 

 

 ★ 関東管領を描いた、興味深い、

    ドラマ、映画。 

 

  ● (注意) ドラマ、映画は、フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事 が 混じって描かれていま

  す。 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

 ■ 『 風林火山 (ふうりんかざん) 』 。  

      (NHKテレビの2007年大河ドラマ)。

 

  ■ 関東管領として関東で活躍する、上杉

    謙信が 描かれている。

  ■ ドラマでは、上杉 謙信の前半生を描い

    ている。

  ■ 上杉 謙信 の越後(新潟県)の守護代

    就任から、 謙信の、越後 統一、関東

    管領就任、関東や信濃への出陣、武田

    謙信との戦いなどの活躍が描かれてい

    るテレビドラマ。

 

  ● 上杉 謙信を演じた俳優名 : 

    ガクト(GACKT)。

 

 

 ■ 『 里見八犬伝 (さとみはっけんでん) 』。 

   (TBSテレビの2006年テレビドラマ)。 

 

  ■ 室町時代後期(戦国時代)の関東の時代

    状況を描いたドラマ。

  ■ 古河公方(こがくぼう)と関東管領との対

    立も描く。

  ■ 室町時代後期(戦国時代)の関東地方の

   状況がとてもよく描かれていて、必見の価

   値あり。

 

  ● ドラマでは、当時の関東の2大軍事勢力の 

  古河公方(こがくぼう) と、 関東管領(かん

  とうかんれい)・扇谷上杉氏(おうぎがやつう

  えすぎし) とが対立する中で、 小国の安房

  (あわ、千葉県南部)の里見氏(さとみし)が、 

  生き残りをかけて戦う。

 

  ● 綾瀬はるか、仲間、菅野をはじめ多数の

   美人女優が出演し、滝沢など有名な男優

   多数出演している戦国時代ドラマ。

 

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#kantoregion

 

■ 関東地方 

      (かんとうちほう)

 

■ 関東地方。 

■ 名称 : 関東地方 (かんとうちほう)。

■ 英語名 : THE KANTO REGION.

■ 現地方名。 《現地域名》。

■ 関東地方。

  <日本本土(本州、四国、九州)。

  <日本国

■ 関東地方に関係する、東山道(とうさんどう)、

  東海道(とうかいどう)の広域地方に関して は、

  「東山道」、「東海道」を参照してください。

■ 前近代・旧地域名に関しては、 

  「前近代日本の地域名」を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 31426。

 

 

 ■ 関東地方。

   ■ 関東地方(かんとうちほう)は、 栃木県、群馬県、

      茨城県、千葉県、神奈川県、埼玉県、東京都 の

     地である。

 

    

 

 

 

 ■ 関東地方。

 

   ■ 関東地方(かんとうちほう)とは、 

 

    @ 東山道(とうさんどう)・広域地方の一部の、

     栃木県 (下野国(しもつけのくに))、 

     群馬県 (上野国(こうずけのくに)) と、 

 

    A 東海道(とうかいどう)・広域地方の一部の、

     茨城県 (常陸国)、 

     千葉県 (下総国(しもうさのくに)、上総国(かずさ

     のくに)、安房国(あわのくに))、

     神奈川県 (相模国(さがみのくに))、

     埼玉県、東京都本土 (武蔵国(むさしのくに))、 

     東京都伊豆諸島 (伊豆国(いずのくに)・伊豆諸島)、 

  

    に相当する地域 である。

            

 

 ■ 東山道と東海道。

 

   ■ 東山道と東海道の広域地方は、  

     飛鳥白鳳時代末期から江戸時代まで使用された、

     律令制定後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

     旧地方名の、五畿七道(ごきしちどう)の広域地方

     の2つである。

 

 ■ 東山道。

   ■ 東山道・旧広域地方は、 現在の

     青森県、岩手県、宮城県、福島県 (陸奥国)、 

     秋田県、山形県 (出羽国)、 

     栃木県 (下野国)、 

     群馬県 (上野国)、

     長野県 (信濃国)、 

     岐阜県 (飛騨国、美濃国)、

     滋賀県  (近江国) 

     に相当する地域である。

 

 ■ 東海道。

   ■ 東海道・旧広域地方は、 現在の

     茨城県 (常陸国)、 

     千葉県 (下総国、上総国、安房国)、 

     東京都本土、埼玉県 (武蔵国)、 

     神奈川県 (相模国)、

     山梨県(甲斐国)、 

     東京都伊豆諸島、静岡県東部・伊豆半島 (伊豆国)、 

     静岡県中部・西部 (駿河国、遠江国)、 

     愛知県(三河国、尾張国)、 

     三重県北部・中央部 (伊勢国、志摩国、伊賀国)、 

     に相当する地域である。

 

 

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#kani

 

■ 官位 

      (かんい)。

 

■ 官位。 

■ 名称 : 官位 (かんい)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 31429。

 

 

  ■ 官位 (かんい) とは、広義では、 

    「」(かんしょく) と 「」(いかい) 

    である。

    官位とは、狭義では、

    官職の等級(=官等)

      という意味で使われることもある。

 

 

 ■ 前近代日本の官位。

 

   ■ 前近代日本(古代から江戸時代までの日本)

     の、官位 (かんい)は、

     朝廷の官位 (ちょ ていのかんい)であり、 

     「朝廷の官職」 と、「朝廷の位階」 である。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 前近代日本(古代から江戸時代までの日本)

     の官位は、 

     朝廷の 官位であり、 朝廷での地 位・身分の

     1つである。          

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 朝廷の官職。

   ● 前近代日本の、高位の朝廷の官職には、 

     高位順に、

     @ 太政大臣 (だいじょうだ いじん)、

     A 左大臣 (さだいじん)、 

     B 右大臣 (うだいじん)、  

     C 内大臣  (ないだいじん)、

     D 大納言 (だいなごん)、

     E 中納言 (ちゅうなごん)、  

     F 参議 (さんぎ) 、

     などがある。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 朝廷の位階。

   ● 前近代日本の、朝廷の 位階の30位階。

     (上位順に、 正一位、 従一位、 正二位

     従二位、  正三位、 従三位、 正四位上

     正四位下従四位上従四位下正五位上

     正五位下従五位上従五位下正六位上

     正六位下従六位上従六位下正七位上

     正七位下従七位上従七位下正八位上

     正八位下従八位上従八位下大初位上

     大初位下少初位上少初位下)。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 官位相当制

 

   ■ 官位相当制 (かんいそうとうせい)とは、

     前近代日本の、朝廷での、位階に対応した

     官職に就くことを原則とする制度である。

 

   ■ ( )は、原則として朝廷の官職に相当する

     朝廷の位階の位階で ある。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 ■ 前近代日本の、高位の朝廷の官職。

 

   ■ 前近代日本の、高位の朝廷の官職には、 

     高位順に、次のような官職があった。

 

   ● 第1位 太政大臣   (従一位 (以上))。  

     (だいじょうだいじん)  (じゅいちい)

     臨時の官職 (常設でない官職)。

 

   ● 第2位 左大臣     (正二位 (以上))。  

     (さだいじん)       (しょうにい)

 

   ● 第3位 右大臣     (正二位 (以上))。

     (うだいじん)

 

   ● 第4位 内大臣     (従二位 (以上))。

     (ないだいじん)          (じゅにい)

 

   ● 第5位 大納言     (正三位 (以上))。

     (だいなごん)      (しょうさん

 

   ● 第6位 中納言     (従三位 (以上))。  

     (ちゅうなごん)     (じゅさん

 

   ● 第7位 参議       (四位   (以上))。 

     (さんぎ)         (しい)

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

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#kanshoku

 

■ 官職 

      (かんしょく)。

 

■ 官職。 

■ 名称 : 官職 (かんしょく)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51913。

 

 

■ 官職 (かんしょく) とは、 官吏が国家から

  委任された、一定範囲の国家事務 である。

 

◆ 前近代日本の官職。

■ 前近代日本での、 官職 (かんしょく)  とは、 

  朝廷の官職 である。

     前近代日本の、官職は、 朝廷の官位

  (= 「朝廷の職」と「朝廷の階」) の1つで

  ある。

     前近代日本の、官職は、 朝廷での身分・

  地位の1つ である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 朝廷の官職。

 前近代日本の 、高位の朝廷の官職には、 

  高位順に、 @ 太政大臣 (だいじょうだ

  いじん)、 A 左大臣 (さだいじん)、 

  B 右大臣 (うだいじん)、  C 内大臣 

  (ないだいじん)、 D 大納言 (だいな

  ごん)、 E 中納言 (ちゅうなごん)、  

  F 参議 (さんぎ) などがある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 官位相当制

■ 官位相当制 (かんいそうとうせい)とは、

  前近代日本の、朝廷での、位階に対応した

  官職に就くことを原則とする制度である。

■ ( )は、原則として朝廷の官職に相当する

  朝廷の位階の位階で ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 前近代日本の、高位の朝廷の官職には、 

  高位順に、次のような官職があった。

● 第1位 太政大臣   (従一位  (以上))。  

  (だいじょうだいじん)  (じゅいちい)

   臨時の官職 (常設でない官職)。

● 第2位 左大臣     (正二位 (以上 ))。  

  (さだいじん)       (しょうにい)

● 第3位 右大臣     (正二位 (以上))。

  (うだいじん)

● 第4位 内大臣     (従二位 (以上 ))。

  (ないだいじん)          (じゅにい)

● 第5位 大納言     (正三位 (以上 ))。

  (だいなごん)      (しょうさん

● 第6位 中納言     (従三位 (以上 ))。  

  (ちゅうなごん)     (じゅさん

● 第7位 参議       (四位   (以上))。 

  (さんぎ)         (しい)

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#katorimotohiko

 

■ 楫取 素彦 

      (かとり もとひこ)。

 

■ 楫取 素彦。 

■ 名称 : 楫取 素彦 (かとり もとひこ)。

■ 別名 : 小田村 伊之助 (おだむら いのす

  け)。

■ 生没年 : 1829−1912年。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51839。

 

 

■ 楫取 素彦 (かとり もとひこ、旧名・小田村伊

  之助 (おだむら いのすけ)、1829−1912年)

  は、 吉田松陰の妹・楫取美和子 (かとりみわ

  、文(ふみ)、杉 文(すぎふみ)、美和(みわ)) 

  の第2番目の夫 (1883年より1912年まで)

  である。

 

■ 楫取 素彦は、 幕末は、長州藩士として、教育

  や軍事で活躍し、 明治期に、群馬県令 (ぐん

  まけんれい、任期・1876−84年、現・群馬県

  知事) となり、 1884年から、元老院議官、裁

  判官、貴族院議員、宮中顧問官、内親王養育主

  任などを歴任する。 1887年には、華族(かぞ

  く)の男爵(だんしゃく)となる。

 

 

■ 楫取 素彦 (かとり もとひこ、18 29−1912

  ) は、 吉田 松陰(よしだしょういん)の実妹・

  楫取美和子 (かとりみわこ、文(ふみ)、杉 文

  (すぎふみ) 、美和(みわ)) の第2番目の夫で

  ある。

     楫取 素彦別名は、 小田村 伊之助(お

  だむら いのすけ) である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 楫取 素彦(小田村 伊之助)は、 幕末に、

  州藩士で、 長州藩の学問所・明倫館の教官

  となり、後に、長州藩主の側近となり、長州藩

  兵隊参謀として、鳥羽伏見の戦いなどの戦い

  で、活躍する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 楫取 素彦(小田村 伊之助)は、 江戸時代後

  期の、1829年(文政12年)に長州藩の藩医・

  松島瑞蟠の次男として生まれる。

     1840年(天保11年)に、楫取 素彦(小

  田村 伊之助)は、 長州藩の儒官・小田村

  の養子となる。

     1844年に、楫取 素彦(小田村 伊之助

  は、長州藩の明倫館に入り、教官となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 楫取 素彦(小田村 伊之助)は、 吉田 松陰

  と親しく、松陰の信頼も厚かった。

 

■ 1867年(慶応3年)に、 小田村伊之助 (お

  だむらいのすけ) は 楫取素彦 (かとりもと

  ひこ) と称す。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 楫取 素彦は、 明治期に、群馬県令(ぐんまけ

  んれい、現・群馬県知事)となり、 後に華族

  男爵(だんしゃく)となる。

 

■ 楫取 素彦は、 1872年(明治5年)より、明

  治政府(近代日本政府)の役人となり、 1876

  年(明治9年)に群馬県令 (任期1876−84

  年、現・群馬県知事) となる。

     楫取 素彦は、1887年(明治20年)に、

  華族の男爵 (だんしゃく)を授(さず)けられる。 

      楫取 素彦は、 1884年(明治17年)か

  ら、元老院議官、裁判官、貴族院議員、宮中顧

  問官、内親王(ないしんのう、天皇の娘)養育主

  任などを歴任する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 楫取 素彦は、 1912年(大正元年)8月に、

  山口県で、死去する。 享年84歳であった。

 

■ 楫取 素彦(小田村 伊之助)は、 第1番目の

  夫人の楫取 久子(杉 寿)との間に、 二人の子

  をもうけた。

    1人は、 楫取 素彦(小田村 伊之助)の長男

  で、 小田村希家 (楫取 久子(杉 寿)との間の

  子) であり、 小田村家を継ぐ。

    1人は、 楫取 素彦(小田村 伊之助)の次男

  で、 楫取 道明 (楫取 久子(杉 寿)との間の子)

  であり、 楫取家を継ぐ。

 

■ 楫取 素彦 (かとり もとひこ、旧名・小田村 伊

  之助 (おだむら いのすけ)) は、 文 (ふみ、

  杉 文、美和、楫取 美和子)の亡き姉・寿(ひさ)

  の夫であった。

 

■ 1881年(明治14年)に、 楫取素彦(小田村

  伊之助)の夫人で、文 (ふみ、杉 文、美和、楫

  取 美和子)の姉の寿ひさ)が、 病死する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1883年(明治16年)に、 文 (ふみ、杉 文、

  美和、楫取 美和子)の母・瀧(たき、滝)の勧め

  で、 文 (杉 文、美和、楫取 美和子)は、 亡 き

  姉・寿(ひさ)の夫・楫取素彦 (かとりもとひこ、

  旧名・小田村伊之助(おだむらいのすけ)) と

    再婚する。

 

 

◆ 楫取素彦(小田村伊之助)の一族。

 

■ 楫取素彦の親戚(親類)。

■ 楫取素彦夫人の楫取 美和子(文、杉 文、美和)

  の実家の杉家の家族。

■ 杉家の家族。

    杉家の当主の、杉 百合之助(常道) (すぎ

  ゆりのすけ(つねみち)、1804−65年) の家

  族は、 

  夫人・児玉 瀧 (こだま たき、滝、1807−90

      年)、 

  長男・梅太郎 (うめたろう、民治(みんじ)、

      梅太郎(修道)、1828−1910年、杉

       家を継ぐ)、 

  次男・寅之助 (とらのすけ、吉田松陰、1830

      −59年、吉田家・第8代当主)、 

  三男・敏三郎 (としさぶろう、1845−76年)、 

  長女・芳子 (よしこ、千代、1832−1924年)、 

  次女・寿 (ひさ楫取 久子(かとり ひさこ、杉

      寿(すぎ ひさ)、1839−81年)、 

  三女・艶 (つや、早世、1841−43年)、 

  四女 (ふみ、楫取美和子(かとりみわこ、

      杉 文(すぎ ふみ)、1843−1921年、

      久坂玄瑞夫人、楫取 素彦(かとりもとひ

      こ)夫人、二人の夫との間に子はなかっ

      た)、

  長男・梅太郎の夫人・豊子 (とよこ)、

  長男・梅太郎の娘・滝子 (たきこ、 梅太郎

      (民治、修道)と夫人・豊子との間の娘)、

  長男・梅太郎の孫・杉 道助 (すぎ みちすけ、

      1884−1964年、杉 梅太郎(民治、修

      道)の娘・滝子の子、杉家を継ぐ)、

  である。 

 

■ 楫取素彦の親戚(親類)。

■ 楫取素彦夫人の楫取 美和子(文、杉 文、美

  和)の実家の杉家の親戚(親類)。

■ 杉家の親戚(親類)。

    杉家の当主の、杉 百合之助(常道) (すぎ

  ゆりのすけ(つねみち)、1804−65年) の親

  戚には、 次のような人々がいた。

 杉家(すぎけ)の当主は、 杉 百合之助(常道) 

  (すぎ ゆりのすけ(つねみち)、1804−65年)

  である。

● 杉 文 (すぎ ふみ、(ふみ)、楫取美和子

  (かとりみわこ)、1843−1921年) は、 

  百合之助(常道)四女 であり、 久坂玄瑞

  人、楫取 素彦(かとりもとひこ)夫人であり、 

  二人の夫との間に子はなかった。

 

● 楫取 素彦 (かとり もとひこ、小田村伊之助

  (1829−1912年) は、 楫取 久子(かとり

  ひ さこ、杉 寿(すぎ ひさ))の夫であり、 楫取

  美和子(かとりみわこ、杉 文(すぎ ふみ)の第

  2番目の夫である。

● 杉 寿 (すぎ ひさ、寿(ひさ)、楫取 久子(かと

  り ひさこ、1839−81年 は、 杉 百合之助

  (常道)次女 である。

● 小田村希家は、 楫取 素彦(かとりもとひこ)

  の長男 (杉 寿(すぎ ひさ)との間の子) であ

  り、 小田村家を継ぐ 。

● 楫取 道明は、 楫取 素彦(かとりもとひこ)の

  次男 (杉 寿(すぎ ひさ)との間の子) であり、 

  楫取家を継ぐ。

● 楫取 三郎は、 楫取 道明の子であり、 楫取

  家を継ぐ。

● 玉木 文之進 (たまき ぶんのしん)は、 杉

  百合之助(常道)の弟であり、 玉木家・第7代

  当主である。

 

● 吉田 大助 (よしだ たいすけ)は、 杉 百合

  之助(常道)の弟であり、 吉田松陰の養子先

  の吉田家の第7代当主である。

● 吉田松陰 (杉 寅之助(幼名)、吉田家養子

  後・吉田寅次郎、1830−59年) は、 杉 百

  合之助(常道)次男 ・寅之助(とらのすけ)で

  あり、 吉田家に養子に入り、吉田家の第8代

  当主である。

 

●  梅太郎 (すぎ うめたろう、杉 民治(みん

  じ)、杉 修道、1828−1910年) は、 

  百合之助(常道)の長男 であり、 杉家を継ぐ。 

● 吉田 小太郎は、 杉 梅太郎(民治、杉 修道)

  の子(夫人・豊子との間の子) であり、 吉田家

  の第9代当主である。

● 吉田 道子は、 杉 梅太郎(民治、杉 修道)

  の子(夫人・豊子との間の子) であり、 吉田家

  の第10代当主である。

 

  久坂玄瑞 (くさか げんずい )は、 杉 文(す

  ぎ ふみ、楫取 美和子(かとりみわこ)の第1番

  目の夫である。

● 久坂秀次郎 (くさか ひでじろう)は、 久坂玄

  と京都妻との間の男子であり、 久坂家を継

    ぐ。

 

● 杉 芳子 (すぎ よしこ、千代、1832−1924

  年) は、  百合之助(常道)の長女である。

● 児玉 祐之は、 杉 芳子(千代)の夫 である。

● 吉田 庫三は、 児玉 祐之の子 (杉 芳子(千

     代)と の間の子) であり、 吉田家・第11代当

   主である。

 

 

#katorimiwako-appearingscenes

 

♪♪ 楫取 素彦(小田村 伊之助が登

  場する興味深 い、ドキュメタンリー、

  ドラマ、 映画。

 

★ 楫取 素彦(小田村 伊之助が登場

  する興味深 い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

   実) と 架空の出来事 が 混じって描かれ

   ています。 また、 現代風にアレンジしてあ

   ります。

 

■ 『 花燃ゆ (はなもゆ) 』 

   (日本のNHK2015年大河ドラマ)。

■ 日本の明治維新、幕末、明治時代の時代

  状況やその時代に活躍した人々を描く。

■ 吉田松陰(よしだしょういん)の実妹・文

  (ふみ)の生涯を描く。

 

● 楫取 素彦を演じる俳優 : 

  大沢 たかお (おおさわ たかお)。

     楫取 素彦 (かとり もとひこ、小田村

  伊之助(おだむら いのすけ)) は、 文(ふ

  み)の2番目の夫である。 

 

● 文を演じる女優 : 

     井上 真央 (いのうえ まお)。

         文 (ふみ、杉 文(すぎ ふみ)、杉 美和

  (すぎ みわ)、楫取 美和子(かとりみわこ)) 

  は、 吉田松陰の妹である。

● 吉田 松陰を演じる俳優 :   

   伊勢谷 友介 (いせや ゆうすけ)。

       吉田 松陰 (よしだ しょういん、杉 寅之

  助(すぎ とらのすけ)、吉田 寅次郎(よし

  だとらじろう)) は、文(ふみ)の実兄である。 

● 久坂玄瑞を演じる俳優 :  

  東出 昌大 (ひがしで まさひろ)

     久坂玄瑞 (くさかげんずい)は、文(ふ

  み)の1番目の夫である。 

● 寿を演 じる女優 : 

  優香 (ゆうか)。

     寿 (ひさ、杉 寿(すぎ ひさ)、楫取 久

  子(かとり ひさこ))は、文(ふみ)の実姉で

  ある。 

● 杉 梅太郎を演じる俳優 : 

  原田 泰造 (はらだ たいぞう)。

     杉 梅太郎  (すぎうめたろう、杉 民治

  (みんじ)、杉 修道)は、文(ふみ)の実兄で

  ある。 

● 杉 百合之助を演じる俳優 : 

  長塚 京三 (ながつか きょうぞう)。

     杉 百合之助 (すぎ ゆりのすけ)は、

  文(ふみ)、吉田松陰(よしだしょういん)、寿

  (ひさ)の実父である。 

● 滝を演じる女優 : 

  檀 ふみ (だん ふみ)。

     滝 (たき、児玉 滝(こだま たき)、杉

  滝(すぎ たき))は、 杉 百合之助(すぎ ゆ

  りのすけ)夫人で、文(ふみ)、吉田 松陰

  (よしだしょういん)、寿(ひさ )の実母である。 

 

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#katorihisako

 

 楫取 久子 

    (かとり ひさこ)。

 

■ 楫取 久子。

■ 名称 : 楫取 久子 (かとり ひさこ)。

  (名称は1872年より)。

■ 別名 : 寿 (ひさ)、 杉 寿 (すぎ ひさ)。

■ 生没年 : 1839−1881年。

■ 吉田 松陰(杉 寅之助)の妹 。 

■ 楫取 美和子(杉 文)の姉。

■ 楫取 素彦(かとりもとひこ、小田村 伊之助)

  の夫人 (夫婦時間 :1853−1881年)。

 

 

■ 楫取 久子 (かとり ひさこ、杉 寿(すぎ ひさ)、

  生没年:1839−1881年) は、 杉家の当主

  の、杉 百合之助(常道)(すぎ ゆりのすけ(つね

  みち)) の三女 である。

       楫取 久子の別名は、 杉 寿(すぎ ひさ) 

  である。

     前近代日本では(古代から1872年の壬申

  (じんしん)戸籍まで)、女性は、慣習で通常個人

  名で自他呼称した。

     前近代日本では(古代から1872年の壬申

  (じんしん)戸籍まで)、夫婦別姓であった。

 

■ 楫取 久子(杉 寿) (かとり ひさこ(すぎ ひさ))

  は、 楫取 素彦(かとり もとひこ、小田村 伊之助 

  (おだむらいのすけ) の第1番目の夫人であっ

  た。 夫婦時間は、1853年から1881年までで

  あった。

 

■ 楫取 久子(杉 寿)は、 幕末の思想家・吉田松

    陰 (よしだしょういん、杉 寅之助(すぎ とらのす

    け、幼名)、吉田 寅次郎(よしだ とらじろう、吉田

    家に養子後))  の妹である。

 

■ 楫取 久子(杉 寿)は、 楫取 美和子(かとり

  わこ、文(ふみ)、杉 文(すぎふみ)、美和(みわ))

  の姉 である。

 

■ 楫取 久子(杉 寿)は、 楫取 素彦(小田村 伊

  之助)との間に、 二人の子をもうけた。

    1人は、 楫取 素彦(小田村 伊之助)の長男

  で、 小田村希家 (楫取 久子(杉 寿)との間の

  子) であり、 小田村家を継ぐ。

    1人は、 楫取 素彦(小田村 伊之助)の次男

  で、 楫取 道明 (楫取 久子(杉 寿)との間の子)

  であり、 楫取家を継ぐ。

 

 

◆ 楫取 久子(杉 寿)の一族。

 

■ 楫取 久子(杉 寿)の実家の杉家の

  家族。

■ 杉家の家族。

    杉家の当主の、杉 百合之助(常道) (すぎ

  ゆりのすけ(つねみち)、1804−65年) の家

  族は、 

  夫人・児玉 瀧 (こだま たき、滝、1807−90

      年)、 

  長男・梅太郎 (うめたろう、民治(みんじ)、

      梅太郎(修道 )、1828−1910年、杉家

       を継ぐ)、 

  次男・寅之助 (とらのすけ、吉田松陰、1830

      −59年、吉田家・第8代当主)、 

  三男・敏三郎 (としさぶろう、1845−76年)、 

  長女・芳子 (よしこ、千代、1832−1924年)、 

  次女・寿 (ひさ楫取 久子(かとり ひさこ、杉

      寿(すぎ ひさ)、1839−81年)、 

  三女・艶 (つや、早世、1841−43年)、 

  四女 (ふみ、楫取美和子(かとりみわこ、杉

      文(すぎ ふみ)、1843−1921年、久坂

      玄瑞夫人、楫取 素彦(かとりもとひこ)夫

      人、二人の夫との間に子はなかった)、

  長男・梅太郎の夫人・豊子 (とよこ)、

  長男・梅太郎の娘・滝子 (たきこ、 梅太郎

      (民治、修道)と夫人・豊子との間の娘)、

  長男・梅太郎の孫・杉 道助 (すぎ みちすけ、

      1884−1964年、杉 梅太郎(民治、修

      道)の娘・滝子の子、杉家を継ぐ)、

  である。 

 

■ 楫取 久子(杉 寿)の親戚(親類)。

■ 杉家の親戚(親類)。

    杉家の当主の、杉 百合之助(常道) (すぎ

  ゆりのすけ(つねみち)、1804−65年) の親

  戚には、 次のような人々がいた。

 杉家(すぎけ)の当主は、 杉 百合之助(常道) 

  (すぎ ゆりのすけ(つねみち)、1804−65年)

  である。

● 杉 寿 (すぎ ひさ、寿(ひさ)、楫取 久子(かと

  り ひさこ、1839−81年 は、 杉 百合之助

  (常道)次女 である。

 

● 玉木 文之進 (たまき ぶんのしん)は、 杉百

  合之助(常道)の弟であり、 玉木家・第7代当

  主である。

 

● 吉田 大助 (よしだ たいすけ)は、 杉 百合

  之助(常道)の弟であり、 吉田松陰の養子先

  の吉田家の第7代当主である。

● 吉田松陰 (杉 寅之助(幼名)、吉田家養子

  後・吉田寅次郎、1830−59年) は、 杉 百

  合之助(常道)次男 ・寅之助(とらのすけ)で

  あり、 吉田家に養子に入り、吉田家の第8代

  当主である。

 

●  梅太郎 (すぎ うめたろう、杉 民治(みん

  じ)、杉 修道、1828−1910年) は、 

  百合之助(常道)の長男 であり、 杉家を継ぐ。 

● 吉田 小太郎は、 杉 梅太郎(民治、杉 修道)

  の子(夫人・豊子との間の子) であり、 吉田家

  の第9代当主である。

● 吉田 道子は、 杉 梅太郎(民治、杉 修道)

  の子(夫人・豊子との間の子) であり、 吉田家

  の第10代当主である。

 

● 杉 文 (すぎ ふみ、(ふみ)、楫取美和子

  (かとりみわこ)、1843−1921年) は、 

  百合之助(常道)四女 であり、 久坂玄瑞

  人、楫取 素彦(かとりもとひこ)夫人であり、 

  二人の夫との間に子はなかった。

  久坂玄瑞 (くさか げんずい )は、 杉 文(す

  ぎ ふみ、楫取 美和子(かとりみわこ)の第1番

  目の夫である。

● 久坂秀次郎 (くさか ひでじろう)は、 久坂玄

  と京都妻との間の男子であり、 久坂家を継

    ぐ。

 

● 楫取 素彦 (かとり もとひこ、小田村伊之助

  (1829−1912年) は、 楫取 久子(かとり

  ひ さこ、杉 寿(すぎ ひさ))の夫であり、 楫取

  美和子(かとりみわこ、杉 文(すぎ ふみ)の第

  2番目の夫である。

● 小田村希家は、 楫取 素彦(かとりもとひこ)

  の長男 (杉 寿(すぎ ひさ)との間の子) であ

  り、 小田村家を継ぐ 。

● 楫取 道明は、 楫取 素彦(かとりもとひこ)の

  次男 (杉 寿(すぎ ひさ)との間の子) であり、 

  楫取家を継ぐ。

● 楫取 三郎は、 楫取 道明の子であり、 楫取

  家を継ぐ。

 

● 杉 芳子 (すぎ よしこ、千代、1832−1924

  年) は、  百合之助(常道)の長女である。

● 児玉 祐之は、 杉 芳子(千代)の夫 である。

● 吉田 庫三は、 児玉 祐之の子 (杉 芳子(千

     代)と の間の子) であり、 吉田家・第11代当

   主である。

 

 

♪♪ 楫取 久子( 杉 寿が登場する

  味深 い、ドキュメタンリー、ドラマ、映

     画。

 

★ 楫取 久子( 杉 寿が登場する興味

     深 い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

   実) と 架空の出来事 が 混じって描かれ

   ています。 また、 現代風にアレンジしてあ

   ります。

 

■ 『 花燃ゆ (はなもゆ) 』 

   (日本のNHK2015年大河ドラマ)。

■ 日本の明治維新、幕末、明治時代の時代

  状況やその時代に活躍した人々を描く。

■ 吉田松陰(よしだしょういん)の実妹・文

  (ふみ)の生涯を描く。

 

● 寿を演 じる女優 : 

  優香 (ゆうか)。

     寿  (ひさ、杉 寿(すぎ ひさ)、楫取 久

  子(かとり ひさこ))は、文(ふみ)の実姉で

  ある。 

 

● 文を演じる女優 : 

     井上 真央 (いのうえ まお)。

         文 (ふみ、杉 文(すぎ ふみ)、杉 美和

  (すぎ みわ)、楫取 美和子(かとりみわこ)) 

  は、 吉田松陰の妹である。

● 吉田 松陰を演じる俳優 :   

   伊勢谷 友介 (いせや ゆうすけ)。

       吉田 松陰 (よしだ しょういん、杉 寅之

  助(すぎ とらのすけ)、吉田 寅次郎(よし

  だとらじろう)) は、文(ふみ)の実兄である。 

● 久坂玄瑞を演じる俳優 :  

  東出 昌大 (ひがしで まさひろ)

     久坂玄瑞 (くさかげんずい)は、文(ふ

  み)の1番目の夫である。 

● 楫取 素彦を演じる俳優 : 

  大沢 たかお (おおさわ たかお)。

     楫取 素彦 (かとり もとひこ、小田村

  伊之助(おだむら いのすけ)) は、 文(ふ

  み)の2番目の夫である。 

● 杉 梅太郎を演じる俳優 : 

  原田 泰造 (はらだ たいぞう)。

     杉 梅太郎  (すぎうめたろう、杉 民治

  (みんじ)、杉 修道)は、文(ふみ)の実兄で

  ある。 

● 杉 百合之助を演じる俳優 : 

  長塚 京三 (ながつか きょうぞう)。

     杉 百合之助 (すぎ ゆりのすけ)は、

  文(ふみ)、吉田松陰(よしだしょういん)、寿

  (ひさ)の実父である。 

● 滝を演じる女優 : 

  檀 ふみ (だん ふみ)。

     滝 (たき、児玉 滝(こだま たき)、杉

  滝(すぎ たき))は、 杉 百合之助(すぎ ゆ

  りのすけ)夫人で、文(ふみ)、吉田 松陰

  (よしだしょういん)、寿(ひさ )の実母である。 

 

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#kanrei

 

■ 管領  

     (かんれい)

 

■ 管領。 

■ 名称 : 管領 (かんれい)。

■ 室町幕府の、将軍を補佐する役職。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 42329。

 

 

■ 管領 (かんれい) は、 室町幕府の、将軍

  補佐する役職 である。

 

■ 管領 は、 室町幕府の将軍を補佐して、室町

  幕府の政務を行う(総覧する)役職 である。

 

■ 管領家  (かんれいけ) は、 室町幕府の管領

  に任じられた、3氏の三管領家 である。

    管領家は、 室町幕府の、将軍を補佐する役

  職の管領(かんれい)に 交代で任じられた、斯波

  (しば)、細川(ほそかわ)、 畠山(はたけやま)の

  3氏の三管領家(さんかんれいけ) である。

 

■ 室町幕府の、管領 や 侍所(さむらいどころ)

  の所司(しょし、長官) は、 室町幕府の重職で

  あった。

■ 三管四職 (さんかんれいししき)とは、 室町幕

  府の管領に任じられた、斯波・細川・畠山の3氏

  三管領家(さんけんれいけ) と、 室町幕府の

  侍所所司長官)に任じられた、山名・赤松・一

  色・京極の4氏の四職家(ししきけ) である。

 

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#confiscatingthefief

 

■ 改易  

     (かいえき)

 

■ 改易。 

■ 名称 : 改易 (かいえき)。

■ 領地没収。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 42329。

 

 

■ 改易 (かいえき)とは、 領地没収 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 改易は、 封土の領地(所領)を没収(ぼっし

  ゅう)することである。

■ 改易 (かいえき) とは、 封土 (ほうど、英:

  FIEF(S),FEUDAL ESTATE(S)) の領

  地 を 没収(ぼっしゅう)する (英:CONFI-

  SCATE) ことであ。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 改易は、 封建・武士支配者の領地(封土)政

  策の1つ である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

■ 改易は、 江戸時代では、江戸幕府の命令で、

  大名(藩主)の領地(所領)を没収すること で

  ある。

            

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#thesexagenarycycle

 

■ 干支  

     (かんし、えと)

 

■ 干支。

■ 名称 : 干支 (かんし、えと)。

■ 別名 : 十干十二支 (じっかんじゅうにし)、

    六十干支(ろくじっかんし)。

 

 

■ 干支 (かんし、えと) とは、十干十二支 (じ

  っかんじゅうにし) である。

■ 干支 (かんし、えと)の別名は、 十干十二支 

  (じっかんじゅうにし)、   六十干支(ろくじっか

  んし) などである。

 

■ 干支 (かんし、えと) とは、 十干(じっかん)

  と十二支(じゅうにし)、または、2つを組み合

  わせた干支 である。

 

■ 干支は、 日本や中国などのアジアで、、時

  刻、方位などに用いられる、数詞 である。

 

■ 、時刻、方位などに用いられる干支には、

  干支で年月日を特定する干支表示年、干支

  表示月、干支表示日、 及び、 十二支表示

  時刻、 十二支表示方位、などがある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 十干 (じっかん)。 

○ 十干は、甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸

  の10種類からなる数詞である。

 

        音読み       訓読み

  ● 甲  (こう)       (きのえ)    (木の兄の意)。

  ● 乙  (いつ、おつ)   (きのと)    (木の弟の意)。

  ● 丙  (へい)       (ひのえ)   (火の兄の意)。

  ● 丁  (てい)       (ひのと)    (火の弟の意)。

  ● 戊  (ぼ)        (つちのえ)  (土の兄の意)。

  ● 己  (き)         (つちのと)  (土の弟の意)。

  ● 庚  (こう)       (かのえ)   (金の兄の意)。

  ● 辛  (しん)      (かのと)    (金の弟の意)。

  ● 壬  (じん)       (みずのえ)  (水の兄の意)。

  ● 癸  (き)        (みずのと)  (水の弟の意)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 十二支 (じゅうにし)。 

○ 十二支は、子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、

  戌、亥の12種類からなる数詞である。

 

        音読み       訓読み

  ● 子  (し)         (ね) 。

  ● 丑  (ちゅう)       (うし)。

  ● 寅  (いん)        (とら)。

  ● 卯  (ぼう)        (う)。

  ● 辰  (しん)       (たつ)。

  ● 巳  (し)          (み)。

  ● 午  (ご)         (うま)。 

  ● 未  (び)         (ひつじ)。 

  ● 申  (しん)       (さる)。  

  ● 酉  (ゆう)        (とり)。 

  ● 戌  (じゅつ)      (いぬ)。

  ● 亥  (がい)       (い)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 干支 (かんし)。

 ● 干支 = 十干(じっかん) + 十二支(じゅうにし)。   

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  (1) 甲子 (2) 乙丑 (3) 丙寅 (4) 丁卯 (5) 戊辰   

  (こうし、かっし)(いっちゅう)(へいいん)(ていぼう)(ぼしん)

  (6) 己巳 (7) 庚午 (8) 辛未 (9) 壬申 (10)癸酉

   (きし)   (こうご)   (しんび)  (じんしん)  (きゆう)

  (11)甲戌 (12)乙亥 (13)丙子 (14)丁丑 (15)戊寅   

  (こうじゅつ)(いつがい) (へいし) (ていちゅう) (ぼいん)

  (16)己卯 (17)庚辰 (18)辛巳 (19)壬午 (20)癸未

   (きぼう)  (こうしん)  (しんし)   (じんご)   (きび)

  (21)甲申 (22)乙酉 (23)丙戌 (24)丁亥 (25)戊子

  (こうしん) (いつゆう)(へいじゅつ) (ていがい)  (ぼし)

  (26)己丑 (27)庚寅 (28)辛卯 (29)壬辰 (30)癸巳

  (きちゅう) (こういん) (しんぼう)  (じんしん)  (きし)

  (31)甲午 (32)乙未 (33)丙申 (34)丁酉 (35)戊戌 

   (こうご)  (いつび) (へいしん) (ていゆう) (ぼじゅつ)

  (36)己亥 (37)庚子 (38)辛丑 (39)壬寅 (40)癸卯

   (きがい)  (こうし) (しんちゅう) (じんいん) (きぼう)

  (41)甲辰 (42)乙巳 (43)丙午 (44)丁未 (45)戊申

   (こうしん) (いつし) (へいご)   (ていび)  (ぼしん)

  (46)己酉 (47)庚戌 (48)辛亥 (49)壬子 (50)癸丑

   (きゆう) (こうじゅつ) (しんがい) (じんし) (きちゅう)

  (51)甲寅 (52)乙卯 (53)丙辰 (54)丁巳 (55)戊午

  (こういん) (いつぼう) (へいしん)  (ていし)  (ぼご)

  (56)己未 (57)庚申 (58)辛酉 (59)壬戌 (60)癸亥

   (きび)  (こうしん)  (しんゆう)(じんじゅつ) (きがい)

 

■ 干支 (かんし)。

 ● 干支 = 十干(じっかん) + 十二支(じゅうにし)。    

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  (1) 甲子 (2) 乙丑 (3) 丙寅 (4) 丁卯 (5) 戊辰   

  (こうし、かっし)

  (6) 己巳 (7) 庚午 (8) 辛未 (9) 壬申 (10)癸酉

 

  (11)甲戌 (12)乙亥 (13)丙子 (14)丁丑 (15)戊寅   

 

  (16)己卯 (17)庚辰 (18)辛巳 (19)壬午 (20)癸未

 

  (21)甲申 (22)乙酉 (23)丙戌 (24)丁亥 (25)戊子

   

  (26)己丑 (27)庚寅 (28)辛卯 (29)壬辰 (30)癸巳

 

  (31)甲午 (32)乙未 (33)丙申 (34)丁酉 (35)戊戌   

 

  (36)己亥 (37)庚子 (38)辛丑 (39)壬寅 (40)癸卯

 

  (41)甲辰 (42)乙巳 (43)丙午 (44)丁未 (45)戊申   

 

  (46)己酉 (47)庚戌 (48)辛亥 (49)壬子 (50)癸丑

 

  (51)甲寅 (52)乙卯 (53)丙辰 (54)丁巳 (55)戊午   

 

  (56)己未 (57)庚申 (58)辛酉 (59)壬戌 (60)癸亥

                                  (きがい)

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

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#theyearsofthesexagenarycycle

 

■ 干支表示年  

     (かんしひょうじね)

 

■ 干支表示年。

■ 名称 : 干支表示年 (かんしひょうじねん)。

■ 別名 : 干支年(かんしねん)。

■ 前近代日本や前近代中国でよく利用された、

  干支で表示 する年。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 干支表示年 (かんしひょうじねん)とは、 干支 

  (かんし、えと、十干十二支)で表示される年であ

  る。 干支で年を特定する。

 

■ 干支表示年 (かんしひょうじねん)の別名は、

  干支年(かんしねん) である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 干支表示年とは、 十干(じっかん)と十二支(じ

  ゅうにし)を組み合わせ (十干に十二支を組み込

  んで)、 干支(かんし)で示した年である。 

     干支表示年は、 前近代日本や前近代中国

  などでよく利用された、干支で表示 する年 である。

 

■ 干支表 (かんしひょう)。

 ● 干支 = 十干(じっかん) + 十二支(じゅうにし)

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  (1) 甲子 (2) 乙丑 (3) 丙寅 (4) 丁卯 (5) 戊辰   

  (こうし、かっし)(いっちゅう)(へいいん)(ていぼう)(ぼしん)

  (6) 己巳 (7) 庚午 (8) 辛未 (9) 壬申 (10)癸酉

   (きし)   (こうご)   (しんび)  (じんしん)  (きゆう)

  (11)甲戌 (12)乙亥 (13)丙子 (14)丁丑 (15)戊寅   

  (こうじゅつ)(いつがい) (へいし) (ていちゅう) (ぼいん)

  (16)己卯 (17)庚辰 (18)辛巳 (19)壬午 (20)癸未

   (きぼう)  (こうしん)  (しんし)   (じんご)   (きび)

  (21)甲申 (22)乙酉 (23)丙戌 (24)丁亥 (25)戊子

  (こうしん) (いつゆう)(へいじゅつ) (ていがい)  (ぼし)

  (26)己丑 (27)庚寅 (28)辛卯 (29)壬辰 (30)癸巳

  (きちゅう) (こういん) (しんぼう)  (じんしん)  (きし)

  (31)甲午 (32)乙未 (33)丙申 (34)丁酉 (35)戊戌   

   (こうご)  (いつび) (へいしん) (ていゆう) (ぼじゅつ)

  (36)己亥 (37)庚子 (38)辛丑 (39)壬寅 (40)癸卯

   (きがい)  (こうし) (しんちゅう) (じんいん) (きぼう)

  (41)甲辰 (42)乙巳 (43)丙午 (44)丁未 (45)戊申   

   (こうしん) (いつし) (へいご)   (ていび)  (ぼしん)

  (46)己酉 (47)庚戌 (48)辛亥 (49)壬子 (50)癸丑

   (きゆう) (こうじゅつ) (しんがい) (じんし) (きちゅう)

  (51)甲寅 (52)乙卯 (53)丙辰 (54)丁巳 (55)戊午   

  (こういん) (いつぼう) (へいしん)  (ていし)  (ぼご)

  (56)己未 (57)庚申 (58)辛酉 (59)壬戌 (60)癸亥

   (きび)  (こうしん)  (しんゆう)(じんじゅつ) (きがい)

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 干支年と西暦年とを変換する方法。

 

■ 60年ごとに同じ年がめぐってくる

   干支年。

■ 干支年・西暦年カナヤマ式速算法。

  ■ 干支年⇒西暦年。

  西暦年= 「過去近似の一番近い甲子・

  干支年の基準年」 + 「既知干支年

  の干支表番号」 −1年。

 

  ■ 西暦年⇒干支年。

  西暦年 − 「過去近似の一番近い甲

  子・干支年の基準年」 + 1年 =

  干支表の番号(番号から干支年を知る)。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ● (例) その歴史上の出来事の年に対

  し、 過去近似の一番近いと推測される甲

  子の干支年を選び、 既知干支年に対し

  知りたい西暦年を得たり、 既知西暦年に

  対し知りたい干支年を得る。

 

  ○ 壬申の乱(じんしんのらん)の壬申の

  干支年は、西暦で何年か。

  「過去近似の一番近い甲子664年」 + 

  「(29)壬辰」ー1年 =692年。

  壬申の干支年は、西暦692年である。

 

  ○ 西暦692年の干支年を知りたい。

  西暦692年 − 「過去近似の一番近い、

  甲子664年」 +1年 =29 (干支表の

  29番、29番は、壬申)。

  西暦692年は、壬申の干支年である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 甲子の干支年 の表。

  ● 古墳時代(狭義)の甲子の干支年。  

    244年、 304年、  364年、

    424年、 484年、 544年。

  ● 飛鳥白鳳時代の甲子の干支年。  

    604年、 664年。

  ● 奈良時代の甲子の干支年。  

    724年、 784年。

  ● 平安時代の甲子の干支年

    844年、 904年、 964年、 

    1024年、 1084年、 1144年。

  ● 鎌倉時代の甲子の干支年 

    1204年、 1264年。

  ● 室町時代の甲子の干支年 

    1324年、 1384年、 1444年、

    1504年、 1564年。

  ● 江戸時代の甲子の干支年 

    1624年、 1684年、 1744年、

    1804年、 1864年。

  ● 大正時代の甲子の干支年 

    1924年。

  ● 昭和時代の甲子の干支年 

    1984年。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 干支表。

   (1) 甲子  (2) 乙丑   (3) 丙寅 

   (こうし、かっし)(いっちゅう) (へいいん)

   (4) 丁卯  (5) 戊辰   (6) 己巳 

   (ていぼう)  (ぼしん)     (きし)

   (7) 庚午  (8) 辛未   (9) 壬申 

   (こうご)   (しんび)     (じんしん)  

   (10)癸酉  (11)甲戌   (12)乙亥 

   (きゆう)   (こうじゅつ)  (いつがい)

   (13)丙子  (14)丁丑   (15)戊寅   

   (へいし)   (ていちゅう)  (ぼいん)

   (16)己卯  (17)庚辰   (18)辛巳 

    (きぼう)   (こうしん)   (しんし)   

   (19)壬午  (20)癸未   (21)甲申

   (じんご)   (きび)      (こうしん)

   (22)乙酉  (23)丙戌   (24)丁亥 

   (いつゆう)  (へいじゅつ) (ていがい)  

   (25)戊子  (26)己丑   (27)庚寅 

   (ぼし)     (きちゅう)   (こういん)

    (28)辛卯  (29)壬辰   (30)癸巳

    (しんぼう)  (じんしん)   (きし)

    (31)甲午  (32)乙未   (33)丙申 

    (こうご)    (いつび)   (へいしん) 

    (34)丁酉  (35)戊戌   (36)己亥

    (ていゆう)  (ぼじゅつ)   (きがい)

    (37)庚子  (38)辛丑   (39)壬寅 

    (こうし)    (しんちゅう)  (じんいん) 

    (40)癸卯  (41)甲辰   (42)乙巳 

    (きぼう)    (こうしん)   (いつし)

    (43)丙午  (44)丁未   (45)戊申

    (へいご)   (ていび)    (ぼしん)

    (46)己酉  (47)庚戌   (48)辛亥 

    (きゆう)   (こうじゅつ)  (しんがい) 

    (49)壬子  (50)癸丑   (51)甲寅 

    (じんし)    (きちゅう)   (こういん)

    (52)乙卯  (53)丙辰   (54)丁巳 

    (いつぼう)  (へいしん)  (ていし)  

    (55)戊午  (56)己未   (57)庚申

    (ぼご)     (きび)     (こうしん)

    (58)辛酉  (59)壬戌   (60)癸亥

    (しんゆう)  (じんじゅつ)  (きがい)。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ (A) 西暦年から干支年を算定する方法。

■ <実例> 西暦1868年は、戊辰(ぼしん)の年

   である。 戊辰戦争(ぼしんせんそう)の開始年は、 

   西暦1868年である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ● 西暦1868年の干支(かんし)の年は、いつか。

  @ 西暦1868年÷60=31.1333・・・

  A 西暦1868年=60 X 31 +8。

  B 8 (西暦の余り)−3 (干支表と西暦のずれ)

  = 5 (干支表の順位)。

   (注) 干支表の順位の、−2は、58番目、−1は、

   59番目、0は、60番目である。

  C 干支表で、5番目は 戊辰(ぼしん)である。

  D 従って、 西暦1868年は、戊辰(ぼしん)の年

   である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 干支各年と西暦年との関係。

■ 甲子(こうし、かっし)の年は、西暦年を60で割って

  4が余る年である。

  ● 1864年は、甲子(こうし、かっし)の年である。

  @ 西暦1864年÷60=31.06666・・・

  A 西暦1864年=60 X 31 +4。

  B 4 (西暦の余り)−3 (干支表と西暦のずれ)

  = 1 (干支表の順位)。

  C 干支表で、1番目は 甲子(こうし、かっし)

  ある。

  D 従って、 甲子(こうし、かっし)の年は、西暦年

  を60で割って4が余る年である。

 

 

■ (B) 干支年から西暦年を算定する方法。

■ <実例> 西暦1868年は、戊辰(ぼしん)の

  年である。 戊辰戦争(ぼしんせんそう)の開始 

  年は、西暦1868年である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ● 戊辰(ぼしん)の年は、西暦で何年か。

  (1) 何世紀の前半か後半かはわかるので、戊辰

    の年に近いと思われる(その約60年の範囲内

    と思われる)仮定予想西暦年を設定する。 

      仮定予想西暦年から、Aの方法で、「西暦年

    の予想積数」計算する。 

   @ 戊辰の年を西暦1890年頃と仮定する。

   A 西暦1890年÷60=31.5

   B 西暦1890年=60 X 31(西暦年の予想積数)

    +30。

   C この場合の「西暦年の予想積数」は、31である。

  (2) 戊辰は、 干支表で、5番目の順位である。

  (3) 5 (干支表の順位) + 3 (干支表と西暦の

     ずれ) = 8 (西暦の余り)。

  (4) 60 X 31 (西暦年の予想積数) + 

    8 (西暦の余り)= 1868年 (予想西暦年)。   

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

  (5) Aの方法で、予想西暦年1868年が、戊辰の

    年であるか、検算する。

    @ 西暦1868年÷60=31.1333・・・

    A 西暦1868年=60 X 31 +8。

    B 8 (西暦の余り)−3 (干支表と西暦のずれ)

     = 5 (干支表の順位)。

    C 干支表で、5番目は 戊辰である。

  (6) 検算して正しければ、戊辰の年は、西暦1868

    年である。

      検算して正しくなければ、(1)に戻り、 別の「西

    暦年の予想積数」を入れて、(1)〜(5)を再度繰り

    返す。

    

 

■ (A) 西暦年から干支年を算定する方法。

   <もう一つの方法>

 

■ 干支年 = A(十干の1つ) + B(十二支の1つ)。

 

 (A) <「十干の余りの一の位」の照合表>

  0  1  2  3    5 6  7  8  9

  庚 辛 壬 癸  乙 丙 丁 戊 己

 

   西暦年を10で割ったあとの余りと上表の十干を

  照合する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 (B) <「十二支の余りの一の位」の照合表>

  0  1  2  3    5  6  7 8  9 10 11

  申 酉 戌 亥  丑 寅 卯 辰 巳 午 未

 

   西暦年を12で割ったあとの余りと上表の十二支

  を照合する。

 

   下記の2つの組み合わせが、西暦年に対するそ

  の年の干支表示年である。

 

■ 実例。

● 壬申の乱(じんしんのらん)の年は、 西暦672

  年である。

   西暦672年は、 西暦672年を10で割った余

  りが2で壬(じん)となり、 西暦672年を12で割

  った余りが0で(しん)となるので、 干支表示

  年は、壬申(じんしん) となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  (A) @ 西暦672年÷10=67.2 ⇒

      A 西暦672年= 67X10 +2。

      B 「十干の余りの一の位」の照合表では、

       2 は、壬(じん)である。

  (B) @ 西暦672年÷12=56 ⇒

      A 西暦672年= 56X12 +0。

      B 「十二支の余りの一の位」の照合表では、

       0 は、申(しん)である。

  従って、干支表示年は、 (A) + (B) = 壬申。

 

■ 実例。

● 戊辰戦争の開始の年は、 西暦1868年である。   

● 干支表示年・戊辰は、西暦1868年である。   

    西暦1868年は、 西暦1868年を10で割った

  余りが8で戊(ぼ)となり、 西暦1868年を12で割

  った余りが8で(しん)となるので、干支表示年は、

  戊辰(ぼしん) となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  (A) @ 西暦1868年÷10=186.8 ⇒

      A 西暦1868年= 186X10 +8。

      B 「十干の余りの一の位」の照合表では、

       8 は、戊(ぼ)である。

  (B) @ 西暦1868年÷12=155.66・・・ ⇒

      A 西暦1868年 = 155X12 +8。

      B 「十二支の余りの一の位」の照合表では、

       8 は 辰(しん)である。

  従って、干支表示年は、 (A) + (B) = 戊辰。

 

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#openingthecountry

 

■ 開国 

       (かいこく))

 

■ 開国。

■ 名称 : 開国 (かいこく) 

■ 1858年〜現在。

 

 

■ 江戸時代の末期に(幕末に)、1858年(安政

  5年)に、日本は、 日米修好通商条約を含め、

  欧米5カ国と修好通商 条約 (安政の五カ国条

  約)を結び、 交易(貿易)を始め、 完全開国

  する。

    1854年〜1855年(安政元年〜2年)に、

  日米和親条約を含め、欧米4カ国(米、英、露、

  蘭)と結んだ、和親条約は、欧米4カ国の船の

  燃料・食料等の供給、難破船の救助などの取

  り決めで、 交易(貿易)を対象にしていないの

  で、 和親条約の調印をもって、日本が、完全

  に、開国したことにはならない。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 日米修好通商条約を含め、1858年の安政の

  五カ国条約により、日本は、開国し、国際社会

  へ船出し、ソフトランディングを果たした。 

 

■ 1858年(安政5年)に来日した、アメリカ総領

  事・ハリスは、日本に、 アメリカとの修好通商

  条約を強く求めた。 

    江戸幕府の、開明派(開国派)は、自由貿易

  により利益を得て、幕府の財政、軍事力を増強

  しようと考え、 更に、欧米列強と戦って敗れて

  非常に不利な条約を結ぶことを避けるため、修

  好通商条約の締結を望む。

    日米修好通商条約は、日本の江戸幕府の、

  幕府条約全権の岩瀬忠震(いわせただなり)

  と アメリカ合衆国の総領事・ハリス (英:US 

  Consul General Harris) が、実質的に、

  条約交渉し、1858年(安政5年)に、条約案を

  作成した。 

    江戸幕府の開明派(開国派)の、老中首座・

  堀田正睦(ほったまさよし)と 幕府条約全権の

  岩瀬は、 日本各地の攘夷派を抑えるため、攘

  夷派の天皇に勅許を求めたが、差し戻され、老

  中首座・堀田正睦は、失脚した。 代わって、幕

  府の首班となった、大老・井伊 直弼(いいなおす

  け)は、この条約案の調印を断行し、 日米修好

  通商条約が締結された。

    江戸幕府は、ついで、オランダ、ロシア、イギ

  リス、フランスとも同様の条約を、1858年(安

  政5年)に、結び、 日米修好通商条約を含め、 

  これら5つの修好通商 条約は、 「安政の五カ国

  条約」 と呼ばれる。

     日米修好通商条約を含め、安政の五カ国条

  約の締結により、 日本政府の江戸幕府は、 欧

  米列強と戦わないですんだが (日本政府が欧米

  列強と戦わず敗れず日本が植民地化されずにす

  んだが)、 安政の五カ国条約は、関税自主権が

  なく、領事裁判権を認めた、不平等条約 であり、

  幕末、明治時代に、日本は、安政の五カ国条約

  で苦しみ、 「条約改正」を切望することとなる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 完全開国前の出来事。

■ 鎖国(さこく)とは、 日本の江戸幕府による対

  外関係の統制・制限 である。 

     鎖国は、1630年代から行われ、 1858

  年の完全開国まで、行われた。 鎖国中は、交

  易(貿易)は、制限され、外国との交易は、長崎

  港1つのみで、 オランダ・中国船のみの長崎

  入港が許され、 江戸幕府は、オランダや中国と

  の長崎貿易で、貿易を独占し、利益を得ていた。

    しかし、19世紀に入ると、 欧米列強が、日

  本との交易(貿易)を強く求めるようになる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1853年(嘉永6年)6月に、軍艦(黒船)4隻

  をひきいて、 アメリカ合衆国の東インド艦隊

  のペリー提督が、 江戸湾の入口の浦賀沖(う

  らがおき)にあらわれ、 米大統領の国書を提

  出して、日本に開国をもとめた。

    日本の江戸幕府は、 ペリー提督の強い態

  度におされて、国書を受け取り、 回答を翌年

  に約して、 ペリー提督の米・東インド艦隊を日

  本から去らせた。

 

■ 1854年(安政元年)に、 軍艦(黒船)7隻を

  ひきいて、再来日(再来航)した、アメリカ合衆

  国の東インド艦隊のペリー提督は、 日本に

  開国を要求し、 アメリカ合衆国との条約の締

  結を強硬にせまった。 そして、1854年(安政

  元年)に、日本の江戸幕府は、アメリカ合衆国

  との間で日米和親条約 (にちべいわしんじょ

  うやく) を調印した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1854年〜1855年(安政元年〜2年)に、

  本の江戸幕府は、 日米和親条約を含め、

  親条約を、欧米4カ国(米、英、露、蘭)と結ん

  だ。 

     和親条約は、 欧米4カ国の船の燃料・食

  料等の供給、難破船の救助などの取り決めで、 

  交易(貿易)を対象にしていないので、 和親条

  約の調印をもって、日本が、完全に、開国した

  ことにはならない。 1854年〜1855年の和

  親条約の締結を、開国とする場合は、 部分開

  国と言える。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 開国 が登場する、面白く、興味

  深い、ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

★ 開国 が登場する、面白く、興味深

  い、ドキュメンタリー。

 

■ BS歴史館 『 シリーズあなたの常

  識大逆転!(2)「幕末・日本外交は

  弱腰にあらず」  』 

   (NHKテレビ・2013年5月14日・本放送)。

● 日本の幕末の開国の状況、日米和親条約や

  日米修好通商条約の交渉などを述べている。

 

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#kanisotosei

 

■ 官位相当制 

       ( かんいそうとうせい)

 

■ 官位相当制。

■ 名称 : 官位相当制 (かんいそうとうせい) 

■ 前近代日本の朝廷での律令官制での制度。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51641。

 

 

■ 官人(かんじん)とは、 前近代日本の朝廷

  の役人(職員)であり、 現在の国家公務員

  に相当する。

 

■ 官位相当制は、 前近代日本の朝廷の官人(役

  人)序列システムであり、 位階を主として官

  職を従とする前近代の朝廷の官位制である。

    官位相当制は、 前近代日本の朝廷が

  階と官職との間に一定の相当関係を設定し

  た、前近代の朝廷の官人(役人、官僚)序列

  システム である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 官位相当制

■ 官位相当制 (かんいそうとうせい)とは、

  前近代日本の、朝廷での、位階に対応した

  官職に就くことを原則とする制度である。

■ ( )は、原則として朝廷の官職に相当する

  朝廷の位階の位階で ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 前近代日本の、高位の朝廷の官職には、 

  高位順に、次のような官職があった。

● 第1位 太政大臣   (従一位  相当 (以上))。  

  (だいじょうだいじん)  (じゅいちい)

   臨時の官職 (常設でない官職)。

● 第2位 左大臣     (正二位 相当(以上 ))。  

  (さだいじん)       (しょうにい)

● 第3位 右大臣     (正二位 相当(以上))。

  (うだいじん)

● 第4位 内大臣     (従二位 相当(以上 ))。

  (ないだいじん)          (じゅにい)

● 第5位 大納言     (正三位 相当(以上 ))。

  (だいなごん)      (しょうさん

● 第6位 中納言     (従三位 相当(以上 ))。  

  (ちゅうなごん)     (じゅさん

● 第7位 参議       (四位   相当(以上))。 

  (さんぎ)         (しい)

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 官位相当制

■ 官位相当制 (かんいそうとうせい)とは、

  前近代日本の、朝廷での、位階に対応した

  官職に就くことを原則とする制度である。

■ ( )は、原則として朝廷の官職に相当する

  朝廷の位階の位階で ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 前近代日本の、高位の朝廷の官職には、 

  高位順に、次のような官職があった。

● 第1位 太政大臣   (従一位 (以上))。  

  (だいじょうだいじん)  (じゅいちい)

   臨時の官職 (常設でない官職)。

● 第2位 左大臣     (正二位 相当(以上))。  

  (さだいじん)       (しょうにい)

● 第3位 右大臣     (正二位 相当(以上))。

  (うだいじん)

● 第4位 内大臣     (従二位 相当(以上))。

  (ないだいじん)          (じゅにい)

● 第5位 大納言     (正三位 相当(以上))。

  (だいなごん)      (しょうさん

● 第6位 中納言     (従三位 相当(以上))。  

  (ちゅうなごん)     (じゅさん

● 第7位 参議       (四位   相当(以上))。 

  (さんぎ)         (しい)

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 前近代の朝廷の官位制では、朝廷の位階

  対応した朝廷の官 職に就くことが原則とされ

  た。 

    朝廷では、官人(役人)は、位階に対応し

  た官職に就くことが原則とされ、 朝廷では、

  位階を主として官職を従とする官位制が行わ

  れた。

    朝廷の官人(役人)は、 まず位階によっ

  て序列化され、そして位階に応じて官職が与

  えられることを原則とした。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1871年(明治4年)に、官位相当制は、廃止

  され、位階と官職の関係は断たれた。

 

 朝廷の官位制の導入。

 前近代の朝廷の律令制度の官位令の、官位

  (位階と官職)は、 中国の唐(とう)の律令制

  度の官品令を模範として、つくられた。 

     しかし、日本では、律令制以前より氏族

  制的序列が存在していたため、律令制導入時、

  官僚制をひく際(官位制を導入する際)、従来

  の序列を温存しながら各氏族を官人(役人、官

  僚)として再編成する必要に迫られた。 

  よって、官職を主として位階(唐では品階)を従とす

  る唐の官位制とは異なり、 前近代日本の朝廷

  では、位階を主として官職を従とする官位制が

  導入された。

 

■ 官位相当制。

● 官位相当制 (かんいそうとうせい)とは、

  朝廷の官人(役人)が位階に対応した官職に

  就くことを原則とする制度(官位制) である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

● 官位相当制とは、 日本の律令制度の官

  僚制律令官制で朝廷の官人(役人)に付

  与される位階と官職との間に、一定の相当

  関係を設定した官人(役人)序列制度 であ

  る。

● 日本の律令制度の官僚制(律令官制)では、 

  位階を主とし官職を従とする官位制が導入

  され、 朝廷の官人(役人)はまず位階によ

  って序列化され、そして、位階に応じて官職

  が与えられた。

    但し、様々な事情で、位階と官職の相当

  関係が成立しない事例も発生した。

● 朝廷の官職は、 官位相当制(かんいそうと

  うせい)により官職と位階を相当させた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 位階。

 前近代日本の、朝廷(律令官制)(701年の

  大宝令及び718年の養老令の制定)の位階

  は、 一位〜八位、初位までの、30位階 で

  あり、 紀元(後)701年頃から1869年頃ま

  で、使用された。 

     時代が下がるにつれて、正六位(六位)

  より下の位階の叙位は、少なくなっていった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 前近代の朝廷(律令官制)の30位階

  (上位順に、 正一位、 従一位、 正二位、

  従二位、  正三位、 従三位、 正四位上、

  正四位下、従四位上、従四位下、正五位上、

  正五位下、従五位上、従五位下、正六位上、

  正六位下、従六位上、従六位下、正七位上、

  正七位下、従七位上、従七位下、正八位上、

  正八位下、従八位上、従八位下、大初位上、

  大初位下、少初位上、少初位下)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 朝廷の高位の官職。

    朝廷の上位の官職の例では、朝廷の位階の 

  一位から四位までに相当する官職には、 

  太政大臣 (従一位 相当(以上))、 

  左大臣   (正二位 相当(以上))、 

  右大臣    (正二位 相当(以上))、 

  内大臣    (従二位 相当(以上))、 

  大納言    (正三位 相当(以上))、 

  中納言    (従三位 相当(以上))、 

  参議     (四位   相当(以上))、 

  などがあった。 

    ( )は、原則として官職に相当する位階

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 前近代の朝廷の、位階と官職の

  就任。

■ 朝廷の官人(役人)は、 就任した官職で実績・

  評価を重ねると、官職の昇進を受けるのではな

  く、まず、位階の昇進を受けて、位階昇進後に、

  位階に相当する官職の就任資格を得るのが原

  則であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 前近代の朝廷では、様々な事情で位階と官職

  との相当関係が成立しない事例が発生した。

 

■ 前近代の朝廷の、位階と官職の

  名称併記の官位名の記載例。

■ 位階と官職が相当である場合、つまり、

   朝廷の官人(役人)が位階相当の官職に就

  (つ)いている場合、

   官職を前に(先に)記し位階を後に記した。

  (例) 武蔵守従五位下 

      (むさしのかみじゅごいのげ)。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 位階が官職より上位である場合、つまり、

   朝廷の官人(役人)が位階相当より低い官職

   に就(つ)いている場合、

   位階を前に(先に)記し官職を後に記した。

  (例) 従四位下武蔵守 

      (じゅしいのげむさしのかみ)。

      または、

  (例) 従四位下武蔵守。 

      位階に「行」の文字を添えて記載する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 官職が位階より上位である場合、つまり、

   朝廷の官人(役人)が位階相当より高い官職に

   就(つ)いている場合、

   位階を前に(先に)記し官職を後に記した。

  (例) 従五位下右京太夫 

      (じゅごいのげうきょうたゆう)。

      または、

  (例) 従五位下右京太夫。 

      位階に「守」の文字を添えて記載する。

 

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#katokiyomasa

 

■ 加藤 清正 

       ( かとう きよまさ)

 

■ 加藤清正。

■ 名称 : 加藤 清正 (かとう きよまさ) 

■ 生没年 : 1562年〜1611年。

■ 秀吉の遠戚で、幼名は、虎之助(とらのすけ)。

■ 安土桃山時代江戸時代初期の武将、大名。 

■ 豊臣家(豊臣氏)恩顧(おんこ)の武将。

■ 秀吉子飼いの武将。 

 豊臣政権では、 尾張 閥 (尾張出身の豊臣家

   家臣)で、 武断派 (豊臣政権で、 軍務を多く担

   った武将) であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51937。

 

 

■ 加藤 清正 (かとう きよまさ、生没年:1562年

  〜1611年)は、 安土桃山時代江戸時代初期

  の武将、大名 である。 

■ 加藤 清正は、秀吉の遠戚で、幼名は、虎之助

  (とらのすけ)である。

■ 加藤 清正は、豊臣家(豊臣氏)恩顧(おんこ)の

  武将であり、 秀吉子飼いの武将であった。 

 加藤 清正は、 豊臣政権では、 尾張 閥 (尾張

  出身の豊臣家家臣)で、 武断派 (豊臣政権で、

  軍務を多く担った武将) であった。

 

■ 加藤 清正は、 勇猛果敢の武将である一方、 

  心配性の武将でもあった。

 

■ 加藤 清正 は、 尾張出身で、 少年時代から

    豊臣秀吉に仕(つか)え(秀吉子飼いの武将で)、 

    1583年の賤が岳(しずがたけ)戦いの「賤が岳

    の七本槍」(しずがたけのななほんやり)の一人 

    で、 豊臣家恩顧(おんこ)の武将 である。

 

■ 加藤 清正 (かとう きよまさ)は、豊臣秀吉

  家臣となり、 戦国大名となる。 

     加藤 清正は、 肥後(熊本県)の大名 とな

  る。 豊臣秀吉の死後、 徳川家康方の大名と

   なる。 

     加藤 清正の夫人は、 かな姫である。

  かな姫は、 1600年の天下分け目の戦いのと

    き、石田方の軟禁状態から逃れ、大阪から命か

  らがら脱出する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 加藤 清正は、築城の名手で、 秀吉の大阪城、

  名古屋城、江戸城の築城を助ける。

     加藤 清正は、 守りに堅い熊本城を築城し

  た。 加藤 清正は、天下分け目の戦い前より熊

  本城の築城を開始し、1607年頃に完成する。 

 

 

#-appearingscenes

 

♪♪ 加藤 清正 が登場する、興味深

  い、 ドキュメンタリー、ドラマ、 映画。

 

★ 加藤 清正 が登場する、 興味深い、

   関連ドキュメンタリー。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 熊本城を

  救った妻の大脱走 〜加藤清正の

  スーパー築城術〜 』  

   (2012年(平成24年)10月24日本放送

   NHKテレビ・ドキュメンタリー番組)。

 

★ 加藤 清正 が登場する、興味深い

   関連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

  実) と 架空の出来事 が混じって描かれ

  ています。 また、 現代風にアレンジしてあ

    ります。

 

■ 『 真田丸 (さなだまる) 』 。  

   (NHKテレビ・2016年大河ドラマ)。

 日本の安土桃山時代や江戸時代初期を描く。

● ドラマで「加藤 清正」  (かとう きよまさ、

  豊臣秀吉の家臣) を演じた俳優名 : 

  新井 浩文   (あらい ひろふみ)

 

■ 『 軍師 官兵衛 (ぐんし かんべえ) 』。 

   (NHK2014年大河ドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

● 加藤 清正 (かとう きよまさ)を演じた 

  俳優名: 阿部 進之介 (あべ しんのすけ)。

 

● 福島 正則 (ふくしま まさのり)を演じた 

  俳優名: 石黒 英雄 (いしぐろ ひでお)。

● 黒田 官兵衛の嫡男の黒田長政(ながまさ、

  成人時)を演じる俳優: 松坂 桃季 (まつ

  ざか とおり)。

● 黒田 官兵衛を演じた俳優名: 岡田 准一。

● 豊臣秀吉(木下藤吉郎、羽柴秀吉)を演じ

  た俳優名: 竹中直人 (たけなか・なおと)。

● 徳川 家康を演じた俳優名: 寺尾 聰

    (てらお あきら)。

 

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#4monsencopperandironcoinsofkaneitsuho

 

■ 寛永通宝四文銭 

   銅貨・鉄貨 

       (かんえいつうほうよんもんせん

      どうか・てっか)

 

■ 寛永通宝四文銭銅貨・鉄貨

■ 名称 : 寛永通宝四文銭銅貨・鉄貨 

    (かんえいつうほうよんもんせんどうか・てっか)。 

■ 日本流 通貨幣

■ 文単位定額 (定位)通常貨幣

■ 四文銭。 寛永四文銭。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ 江戸時代の4文(もん)単位の定額(定位)・通常貨

 幣。

 現在貨幣価値1枚約 約100円。

■ 寛永通宝4文銭1000枚≒1両小 判(金)≒現在の

  約10万円

 

 

■ 寛永通宝四文銭銅貨・鉄貨 (かんえいつうほうよん

 もんせんどうか・てっか) は、 四文銭で、 日本流 通

 で、 文単位定額 (定位)通常貨幣 である。

  寛永通宝四文銭銅貨・鉄貨  は、 寛永四文銭と呼ば

 れ、 江戸時代の4文(もん)単位の定額(定位)・通常貨

 幣 である。

  寛永通宝四文銭銅貨・鉄貨 は、 現在貨幣価値で1枚

 約100円 で、 寛永通宝4文銭1000枚≒1両小 判(金)

 ≒現在の約10万円 である

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#1monsencopperandironcoinsofkaneitsuho

 

■ 寛永通宝一文銭 

   銅貨・鉄貨 

       (かんえいつうほういちもんせんどうか・てっか)

 

■ 寛永通宝一文銭銅貨・鉄貨

■ 名称 : 寛永通宝一文銭銅貨・鉄貨 

    (かんえいつうほういちもんせんどうか・てっか)。 

■ 日本流 通貨幣

■ 文単位定額 (定位)通常貨幣

■ 一文 銭。 寛永一文銭。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ 江戸時代の1文(もん)単位の定額(定位)・通常貨

 幣。

■ フィクションのドラマ「銭形平次」が投げる銭貨 。

 現在貨幣価値1枚約25円 。 

■ 寛永通宝1文銭4000枚≒1両小 判(金)≒現在の

  約10万円

 

 

■ 寛永通宝一文銭銅貨・鉄貨 (かんえいつうほういち

 もんせんどうか・てっか) は、一文 銭で、 日本流 通

 で、 文単位定額 (定位)通常貨幣 である。

   寛永通宝一文銭銅貨・鉄貨  は、 寛永一文銭と呼

 ばれ、 江戸時代の1文(もん)単位の定額(定位)・通

 常貨幣である。

   寛永通宝一文銭銅貨・鉄貨 は、 フィクションのド

 ラマ「銭形平次」が投げる銭貨 である。

   寛永通宝一文銭銅貨・鉄貨 は、 現在貨幣価値

 1枚約25円で、 寛永通宝1文銭4000枚≒1両小 判

 (金)≒現在の約10万円 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#karate

 

■ 空手 

        (からて)。

 

■ 空手。

■ 名称 : 空手 (からて)。 

 別名: 空手道、唐手。

■ 世界の格闘技の1つで、 日本の沖縄(琉球)を起

  源とする。

 

 

■ 空手 (からて)は、 別名は、 空手道、唐手で、 

 世界の格闘技の1つ で、 日本の沖縄(琉球)を起

 源とする。

 

■ 空手(空手道)。

■ 空手(唐手)は、日本の沖縄(琉球)で、琉球王国

 時代に発生した武術であるが、 前近代日本での空

 手(唐手)について記述された文献はほとんどなく、

 空手(唐手)の歴史は、主に、明治時代の空手の古

 老が伝えた話に基づく。

 

■ 琉球士族の間で密かに伝えられてきた、空手(か

 らて、唐手)は、 中国と友好関係にある沖縄(琉球)

 で、 「中国拳法 (= 少林 拳や他の中国の拳法(拳

 術)」を、 沖縄人(琉球人)が中国を訪れ体得した

 か、 沖縄(琉球)を訪れた中国人(武官等)が 沖縄

 人(琉球人)に伝え、 沖縄人(琉球人)が、 中国の

 中国拳法(英:Chinese Kung Fu)と沖縄固有の

 徒手(素手)格闘技「手(ティー)」とを融合され成立し

 た格闘技と推測されるが、 一次的史料がなく、起源

 は不明である。 

 

■ 江戸時代末期、 中国で中国武術を習得し、帰国

 後、沖縄固有の武術「手(ティー)」と融合させた、空手

 家の、唐手佐久川(とうでさくがわ、佐久川寛賀、17

 86〜1867年)や、その弟子の松村宗棍(琉球王国

 侍従武官(御側守役))などが、沖縄(琉球)に、現れ

 ている。

   練習は、型(形)と組手で行うが、 空手(唐手)

 型(形)には、中国語名が今でも残っている。

   明治時代以後、琉球処分以後、空手(唐手) は、

 琉球士族から伝えられ公開され、糸洲安恒の尽力に

 より、沖縄の学校で体育の授業として教えられた。

   空手(唐手) は、明治時代に、日本本土でも紹介

 された。 大正時代に、空手(唐手)は、本格的に、

 沖縄(琉球)より日本本土に伝えられ、その後、日本

 本土に広まり、 多くの流派を形成する。 日本本土

 で、空手(唐手)に流派が登場するのは、大正時代

 末期以後である。 日本本土での本格的な普及は、

 沖縄から日本本土へ渡った船越義珍(富名腰義珍)

 や本部朝基らが本格的な指導を行った大正時代以

 後である。  

   昭和戦前期に、 本土空手は、取手、掛け手な

 どの柔術的技法や併伝の棒術や節棍術(ヌンチャ

 クなど)などの武器術も取り除かれ、打撃技法に特

 化した。

   戦後、多くの優秀な空手家が出て、現代世界に

 広め、 世界各国に普及し、現在、 「世界の空手」 

 となる。 

   現在の空手は、 本土空手の全空連系各派、

 極真会館系各派、 沖縄空手の古伝(古流)空手

 系各派、 全沖空連系各派、 その他に多くの流派

 がある。

 

■ 空手も、オリンピック種目化をめざしているが、

 スポーツ化した空手は、 見た目にあまり相違がな

 いオリンピック種目のテコンドー  (戦前日本の本土

 空手から派生した、韓国空手、朝鮮空手) と、 競

 争関係となっている。

 

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#katagirikatumoto

 

■ 片桐 且元 

       (かたぎり かつもと)  

 

■ 片桐 且元

■ 名称 : 片桐 且元(かたぎり かつもと)。

■ 生没年 : 1556年〜1615年。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ 豊臣家重臣、後、徳川家家臣。

 

 

 片桐且元 は、 豊臣秀吉死後、豊臣家重臣であり、後

 に、徳川家家臣 となる。

 片桐且元(かたぎり かつもと) は、 生没年は、1556

 年〜1615年 であった。

 

 片桐且元 は、 賤ヶ嶽の戦(しずがたけのたたかい)で

 七本槍の一人であり、 摂津国(せっつのくに、大阪府北西

 部)茨木1万石を領し、豊臣秀吉の死後は、豊臣秀頼(ひで

 より)の後見として、 大阪城の庶務を担当した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 豊臣家重臣の、片桐且元 は、 徳川家康との妥協に努

 (つと)め、 方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)

 の処理をめぐって、秀頼の母・淀殿(よどどの、淀の方、

 々)の反感を招き、引退する。  

    大阪の陣では、家康側に加わり、4万石が与えられた

 が、まもなく、病死した。

   

 

#-appearingscenes

 

♪♪ 片桐且元 が登場する、興味深い、ド

     キュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 片桐且元が 登場する、興味深い関連

  ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

     歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実)

  と 架空の出来事が 混じって描かれています。

  また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 真田丸 (さなだまる) 』 。  

   (NHKテレビ・2016年大河ドラマ)。

 日本の安土桃山時代や江戸時代初期の

  時代を描く。

● ドラマで「片桐且元」 (かたぎり かつもと、

  豊臣秀吉の重臣) を演じた俳優名 : 

  小林 隆 (こばやし たかし)。

 

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#kazoedoshi

 

■ 数え年 

       (かぞえどし)  

 

■ 数え年

■ 存在時期 : 古代〜明治時代。

■ 名称 : 数え年 (かぞえどし)。

■ 前近代日本で使用された年齢の数え方

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ 仏教などの宗教的な理由からも満年令を

 使わず。

■ 旧暦(太陰太陽暦)のため、満年齢を使え

  ず。 例えば、例として、前近代の旧暦(太

  陰太陽暦)では、約3年に1度ある閏月(う

  るうづき)生まれの人は、 満年齢が計算で

  きない。

 

 

■ 年齢の数え方 には、数え年 (かぞえどし) 

  と 満年齢 ある。

 

■ 前近代日本では、年齢の数え方として、数え

  年が使用された。 

● 数え年 (かぞえどし) は、 日本の古代か

  ら明治時代まで、 年齢の数え方として、用い

  られた。

■ 1902年12月の「年齢計算に関する法律」

  の施行から、日本では、 満年齢 が使用さ

  れるようになった。

 

■ 数え年 (かぞえどし) は、 前近代日本で

  使用された年齢の数え方 である。

■ 前近代日本では、 仏教などの宗教的な理

  由から満年齢を使わなかった。 また、前近

  代の旧暦(太陰太陽暦)では、満年齢が使え

  なかった。 例えば、例として、約3年に1度

  ある閏月(うるうづき)生まれの人は、 満年

  齢が計算できない。

 

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#kanpaku

 

■ 関白 

       (かんぱく)  

 

■ 関白

■ 時期 : 9世紀の平安時代前期〜19世紀の江戸

  時代後期。

■ 名称 : 関白 (かんぱく)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ 成人の天皇を助けて、朝廷の政務を行う役職。

 

 

■ 関白 (かんぱく) は、朝廷の役職で、 成人の

 を助けて、朝廷の政務を行う役職 である。

■ 関白 は、 役職は9世紀の平安時代前期から19

 世紀の江戸時代後期までの時期に存続した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

● 関白 (かんぱく) とは、 9世紀の平安時代前期

 から19世紀の江戸時代 後期まで続いた、朝廷の役

 職 である。

 

■ 最初の関白の就任は、 光孝天皇治世の、884年

 就任の、藤原 基経 (ふじわらのもとつね) であった。 

 

■ 関白(かんぱく)の職 は、 9世紀後半の884年よ

 り、19世紀 後半の1867年の王政復古の大号令の

 年まで、 存続した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 平安時代中期に、藤原氏の藤原北家  が 摂関家

 (せっかんけ、摂政・関白に任じられる家柄) となる。

● 10世紀中頃より、 摂政や関白は、 朝廷の常任

 の官となり (摂関常置されて本格化し)、 藤原北家

 が、摂政や関白の職をほとんど独占し、 摂関家とな

 る。

 

■ 藤原氏の、藤原北家(ふじわらほっけ)の摂関家

 (せっかんけ)が、 10世紀中頃より、19世紀後半の

 1867年の王政復古の大号令の年まで、 関白の職

 を、ほとんど、 独占した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

● 藤原氏以外の関白 は、 豊臣秀吉(ひでよし)、 

 豊臣秀次(ひ でつぐ) などがいる。

    秀吉は、武家関白政権の豊臣政権を樹立した。

 

■ 藤原北家の摂関家 は、 鎌倉時代に、 近衛 (こ

 のえ)、 九条 (くじょう)、  二条 (にじょう)、 一条

 (いちじょう)、 鷹司 (たかつかさ) の5摂家(せっけ、

 摂関家) に分かれた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 関白 は、令外官(りょうげのかん)の1つ で、 関

 (あずか)り白(もう)すの意である。

 

 

■ 10世紀中頃より、 摂政や関白は、 朝廷の常任の

 官となり (摂関常置されて本格化し)、 藤原北家が、

 摂関家となり、隆盛を極め、その後、摂政や関白は11

 世紀後半(1086年の院政開始) より権力 (日本の

 政治を支配する実権) は衰えたが、 藤原北家の摂関

 家は、 江戸末期まで、存続した。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 摂関政治の最盛期は、 11世紀の藤原道長・頼道

 (みちなが、よりみち)の時で、 摂関家の藤原道長・

 頼道は、 広大な荘園を経済的基盤とし、 天皇の外

 戚となって、 地位を確保した。

 

■ 摂政や関白。

● 摂政や関白 は、天皇を助けて(補佐して)、朝廷の

 政務を行う官職 である。 

   摂政 (せっしょう)は、 天皇が幼少時または女帝

 時、天皇を助けて(補佐して)、朝廷の政務全般を行う

 官職で、 関白 (かんぱく)は、 天皇の成人後、 天

 皇を助けて(補佐して)、 朝廷の政務全般を行う官職

 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

● 最初の摂政の就任は、 593年就任の、厩戸皇子

 (うまやどのみこ、聖徳太子)で、 最初の関白の就任

 は、 884年就任の、藤原 基経(もとつね)であった。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

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#kanmuheishi

 

 桓武平氏  

       (かんむへいし)。

 

 桓武平氏。

 名称 : 桓武平氏 (かんむへいし)。  

● 平朝臣(たいらのあそん)。

● 氏族名は、平(たいら)。 姓(かばね)は、朝

  臣(あそん)。

■ 皇族賜姓 (こうぞくしせい)。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 武家平氏が多い。 公家平氏は、少なし。

 

 

■ 桓武平氏の武家平氏には、 平 将門(たいら

  のまさかど)、 伊勢(いせ、三重県)では、 伊

  勢(いせ)平氏の平 維衡(これひら)とその子

  孫の平清盛(きよもり)、 坂東(ばんどう、関東

  地方)では、 坂東平氏の、平 維将(これまさ)

  とその子孫の北条氏の北条 時政(ときまさ)、

  北条 政子(まさこ)、 平良文(よしふみ)とその

  子孫の千葉氏、三浦氏、和田氏、土肥氏、秩父

  氏 どがいる。

 

 桓武平氏 (かんむへいし) は、 皇族賜姓 

  で、一族名の正式名は、 平朝臣(たいらのあ

  そん) で、 一族名の氏族名は、平(たいら)、 

  一族名の姓(かばね)は、朝臣(あそん) であ

  る。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 皇族賜姓 (こうぞくしせい) とは、 皇族が天

  皇から賜(たまわ)る氏(氏族名) で、 平氏の

  他に、 源氏、在原 (ありはら)氏などがある。

 

 桓武平氏 ( かんむへいし) は、 皇族賜姓 

  (こうぞくしせい) である。

 桓武平氏 (かんむへいし) は、 一族名の正

  式名は、平朝臣(たいらのあそん) で、 一族

  名の氏族名は、平(たいら)、 一族名の姓(か

  ばね)は、朝臣(あそん) である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 桓武平氏は、 平安時代前期に、 皇族賜姓に

  より誕生し、後に、清和源氏と並び、 武士の首

  長、棟梁(とうりょう)となった家 である。

● 桓武平氏の武家平氏には、 平 将門(たいら

  のまさかど)、 伊勢(いせ、三重県)では、 伊

  勢(いせ)平氏の平 維衡(これひら)とその子孫

  の平 清(きよもり)、 坂東(ばんどう、関東地

  方)では、 坂東平氏 では、平 維将(これまさ)

  とその子孫の北条氏の北条 時政(ときまさ)、

  北条 政子(ま さこ)、 また、 平 良文(よしふみ)

  とその子孫の千葉氏、三浦氏、和田氏、土肥氏、

  秩父氏 などがいる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 桓武(かんむ)天皇の皇子が、 葛原(かずらは

  ら)親王で、 葛原親王の子が、高見王で、 

  見王の子が高望(たかもち)王  (平高望)であ

  る。

● 高望王は、 臣籍降下し、 天皇より平氏 (へい

  し、たいらうじ)の氏 (氏族名)を賜(たまわ)り、 

  平高望 (たいらのたかもち) と称す。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 桓武(かんむ)天皇の皇子の葛原(かずらはら)

  親王の孫の高望(たかもち)王 (平高望)の子

  孫(系統)が、 桓武平氏と称した。

■ 桓武平氏は、 葛原(かずらはら)親王の孫の

  高望(たかもち)王 (平高望) に始まる。

 

■ 高望王の子の、平国香(たいらのくにか、平将

  門の伯父(おじ)) や 望王の孫の、平将門

  (たいらのまさかど)・平貞盛 (たいらのさだもり、

  平国香の子、平清盛の祖先)が、関東で、 勢

  力をふるった。 

 

■ 後に、平 貞盛の子・平 維衡(これひら)が、 関

  東(坂東(ばんどう))より伊勢に移り、 伊勢国

  (いせのくに)を根拠地にして、 伊勢平氏を称し、 

  その伊勢平氏の子孫が、 平 清盛(きよもり)で

  ある。

● 伊勢平氏は、 院政の武力として活躍し、 次第

  に中央政界に進出した。 

     そして、 伊勢平氏の平清盛が平氏政権 を

  樹立した。 しかし、 1185年に、 壇の浦(だん

  のうら)の戦いで、 滅亡した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 他の桓武平氏の子孫(系統) は、 関東などに

  土着し、北条氏、 千葉氏、畠山(はたけやま)氏、 

  三浦氏、 和田氏 等と称し、 鎌倉幕府の御家

  人 (ごけにん、将軍の家臣) となる。

 

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#kaientai

 

  海援隊 

     (かいえんたい)。

 

 海援隊。

■ 名称 : 海援隊 (かいえんたい)。

■ 存続期間 : 1967〜68年。

■ 亀山社中(1865〜67年)の後身。

■ 坂本 龍馬らが長崎で設立した 亀山社中を、発展させた組織で、海運・

 貿易会社。 海運・貿易業で利益を得ながら、政治活動も行った。  

■ 長崎に本部を置く。

■ 浪人等により私設艦隊を結成し、 平時は海運や貿易を行い、 有事に

 は海軍として活躍する結社。

■ 土佐藩に付属する外郭機関。  

 亀山社中と同じく浪士結社 (浪人が集まって創(つく)った団体)。

■ 坂本龍馬をリーダーとし、 岩崎弥太郎(いわさきやたろう)、 沢村惣之

 (さわむらそうのじょう)、 陸奥陽之助(むつようのすけ、陸奥宗光)、

 村太郎(たかむらたろう) などの 隊員がいた。

 

 海援隊が登場する、 興味深い関連

    ドラマ、映画、ドキュメンタリー。 

 

 

■ 海援隊 (かいえんたい) は、 存続期間は1967〜68年で、 亀山社

 中(1865〜67年)の後身 である。

■ 海援隊 は、 坂本 龍馬らが長崎で設立した 亀山社中を、発展させた

 組織で、 海運・貿易会社  であった。 海運・貿易業で利益を得ながら、

 政治活動も行った。 

■ 海援隊 は、 浪人等により私設艦隊を結成し、 平時は海運や貿易を

 行い、 有事には海軍として活躍する結社 であった。

■ 海援隊 は、長崎に本部を置き、 土佐藩に付属する外郭 (がいかく)

 機関 であった。

■ 海援隊 は、 坂本龍馬をリーダーとし、 岩崎弥太郎(いわさきやたろ  

 う)、 沢村惣之丞(さわむらそうのじょう)、 陸奥陽之助 (むつようのす

 け、陸奥宗光)、  高村太郎(たかむらたろう) などのメンバーがいる。

 

■ 岩崎弥太郎 (いわさきやたろう 、 後の明治期に三菱財閥の創始者) 

 が、 海援隊の会計係(経理担当)であった。 岩崎弥太郎 は、 1867

 年(慶応3年)に、土佐藩の命(めい)で、海援隊の隊員、会計係となった。

   海援隊の前身の亀山社中の時の会計係(経理担当) は、 陸奥陽之

 助 (陸奥宗光、後の明治期に近代日本政府の優秀な外務大臣) であっ

 た。

 

■ 坂本龍馬は、1867年(慶応3年)4月に、 脱藩の罪を許され、土佐藩

 との関係を修復する。  1867年に、 亀山社中は、 土佐藩に付属する

 外郭機関として、「海援隊」と改称される。 

● 1867年(慶応3年)に、経営難に陥っていた亀山社中 は、土佐藩から

 の支援を取り付け、 経営難を脱した。

 

■ 海援隊 は、 1867年11月の龍馬暗殺後も、存続するが、 1868年

 (慶応4年)4月に、 土佐藩の藩命により、解散させられる。

 

 

■ 亀山社中 は、 薩摩藩の出資で設立された。 日本初の株式会社と

 言われ、 海運・貿易業で利益を得ながら、 政治活動も行った。

■ 亀山社中 (かめやましゃちゅう) は、 坂本龍馬らが長崎で設立した

 貿易・海運会社 である。 

■ 坂本龍馬は、1865年(慶応 元年)5月に、薩摩藩の援助により、 主

 に 海軍塾・神戸海軍操練所のメンバー(訓練生)により、長崎で、亀山社

 中(後の海援隊)を組織し、 物産・武器の貿易を行う。

 

 

#kaientai-appearingscenes

 

♪♪ 海援隊 が登場する、面白く、興味深い関連ドラ

 マ、映画、ドキュメンタリー。 

 

★ 海援隊 が登場する、面白く、興味深い関連ドキュ

 メンタリー。 

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 フリーをなめたらいかん

 ぜよ!〜坂本龍馬と海援隊 夢と挑戦の日々〜』 

 (NHKの2009年(平成21年)11月11日本放送、第22回)。

 

★ 海援隊が登場する、面白く、興味深い関連ドラマ、

 映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画 は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事 が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 (日本の2010年NHK大河ド

 ラマ)。

● 坂本 龍馬を演じた俳優 : 福山 雅治 (ふくやま まさはる)。

● お龍(おりょう)を演じる女優 : 真木 よう子 (まき ようこ)。

 

   

   ○ ドラマ関連の書籍販促のPRフォト。 

 

■ 『 篤姫 (あつひめ) 』 (日本の2008年NHK大河ドラマ)。

● 坂本 龍馬を演じた俳優 : 玉木 宏 (たまき ひろし)。

● お龍(りょう)を演じた俳優名 : 市川 実日子 (いちかわ みかこ)。

 

■ 『 竜馬がゆく 』 (日本の2004年テレビ東京・ドラマ)。

● 坂本 龍馬を演じた俳優 : 市川 染五郎 (7代目)。

● お龍(りょう)を演じた俳優名 : 内山 理名 (うちやま りな)。

 

■ 『 新選組!(しんせんぐみ) 』 (日本の2004年NHK大河

 ドラマ)。

● 坂本 龍馬を演じた俳優 : 江口 洋介 (えぐち ようすけ)。

● お龍(りょう)を演じた俳優名 : 麻生 久美子 (あそう くみこ)。

 

■ 『 坂本竜馬 』 (日本の1989年TBS・ドラマ)。

● 坂本 龍馬を演じた俳優 : 真田 広之。

● お龍(りょう)を演じた俳優名 : 名取 裕子 (なとり ゆうこ)。

 

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#kaikokuha

 

開国派 

    (かいこくは)。

 

 開国派 。

■ 名称 : 開国派 (かいこくは)。

■ 1853年頃〜1867年頃。

■ 幕末に、日本を開国して欧米の進んだ科学技術・文化を積極的に採り

 入れ、日本を発展させようとした者(人)。 

■ 攘夷派尊王攘夷派 と対立した。

■ 開国派の人物の例、: 幕臣の勝海舟(かつかいしゅう)、 土佐藩士の

 吉田東洋 (よしだとうよう) 、 長州藩士の桂小五郎(かつらこごろう、

 戸孝允(きどたかよし))、  土佐藩士の坂本龍馬 (さかもとりょうま)。

● 坂本龍馬や桂小五郎 は、 初めは、攘夷派の志士であったが、その

 後、 開国派の志士に転じる。

 

 

■ 幕末(江戸時代末期)に、 江戸幕府が、1854年に和親条約を欧米列

 強と結び、鎖国をやめ開国に踏(ふ)み切ると、 開国派(かいこくは) と

 攘夷派 (じょういは) が、 日本国内で、 激しく対立した。

 

■ 開国派 (かいこくは) とは、 幕末に、日本を開国して欧米の進んだ

 科学技術・文化を積極的に採り入れ、日本を発展させようとした者(人)

 である。 

■ 開国派 は、 攘夷派尊王攘夷派 と対立した。

■ 開国派の人物の例として、 幕臣の勝海舟(かつかいしゅう)、 土佐藩

 士の吉田東洋 (よしだとうよう) 、 長州藩士の桂小五郎(かつらこごろ

 う、戸孝允(きどたかよし))、 土佐藩士の坂本龍馬 (さかもとりょう

 ま) がいた。

● 坂本龍馬や桂小五郎 は、 初めは、攘夷派の志士であったが、その

 後、 開国派の志士に転じる。

 

 

♪♪ 開国派 が登場する、面白く、興味深い、ドラマ、映

 画、ドキュメンタリー。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 歴史のドラマ、映画 

 は、 史実(歴史上の事実) と 架空の出来事 が 混じって描かれて

 います。 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 (日本の2010年NHK大河ドラマ)。

 

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#kaigunjuku

 

■ 海軍塾 

     (かいぐんじゅく)

 

■ 海軍塾。

■ 名称 : 海軍塾 (かいぐんじゅく)。  

 別名 : 勝塾 (仮称、かつじゅく)。

■ 幕末、 海軍養成のための、勝海舟が設立し

  た私塾 。

■ 1863年〜1864年頃。 初め、大阪で約半

  年間準備し, その後、神戸で約1年間本格的

  な訓練を行う。

 

 

■ 海軍塾 (かいぐんじゅく) とは、 幕末、 海

  軍養成のための、勝海舟が設立した私塾 であ

  る。

■ 海軍塾 (かいぐんじゅく) は、別名は、勝塾 

  (かつじゅく)で、 1863 年〜1864年頃 存続

  し、 初め、大阪で約半年間準備し, その後、

  神戸で 塾を開き、約1年間本格的な訓練を行う。

 

■ 勝海舟は、まず、 神戸海軍操練所の開設までの準備期間に、海軍学を

 学ばさせるために私塾の海軍塾をもうけ、 神戸海軍操練所設立後も、 海

 軍塾を存続させた。 

● 坂本龍馬など脱藩者や浪人は、 直接、幕府直轄の神戸海軍操練所に

 関わる(所属する)ことができなかったため、神戸では、海軍塾に所属した。

 

■ 日本各地から生が集められ、 坂本龍馬は、 神戸では、海軍塾の塾

 頭 であった。

 

■ 亀山社中は、 勝海舟の設立した海軍塾や神戸海軍操練所 (こうべかい

 ぐんそうれんじょ)の廃止に伴い行き場を失った、海軍塾や神戸海軍操練所

 のメンバー20数名で、1865年に、組織された。

● 1864年(元治(げんじ)元年)に相次いで起きた、 池田屋事件、 禁門

 の変(蛤御門の変) で、 海軍塾や神戸海軍操練所のメンバー(訓練生)

 関わっていた。

  江戸幕府の上層部は、 海軍塾や神戸海軍操練所を 、不穏分子のたまり

 場として危険視し、 1864年(元治元年)11月に、 浪人を保護したいう理

 由で勝海舟を海軍奉行から解任する。 その後、神戸海軍操練所の廃止も

 決める。 ここに、勝海舟は、失脚する。 坂本龍馬海軍塾・神戸海軍操練

 のメンバー(訓練生)は、 行き場を失ってしまう。 

   勝海舟の要請により薩摩藩の西郷隆盛 は、 薩摩藩邸で、 龍馬ら

 軍塾・神戸海軍操練所のメンバー(訓練生)を保護する。 

   坂本龍馬は、 浪人により私設艦隊を結成し、 平時は海運や貿易を行

 い、有事には海軍として活躍する社中(結社)を構想する。

   坂本龍馬は、 薩摩藩家老・小松帯刀(たてわき)に 社中(結社)結成の

 多額の資金援助を要請し、承諾を得る。  薩摩藩は、 先の薩英戦争で海

 軍が壊滅的な打撃をうけ、 海軍塾・神戸海軍操練所のメンバー(訓練生)

 力をかりて、 薩摩藩の海軍を再建したいという目論見(もくろみ)もあったと

 言われている。

 

 

♪♪ 海軍塾 が登場する興味深い、ドラマ、映

    画、ドキュメンタリー。

 

 海軍塾 が登場する興味深い、ドラマ、映画、

   ドキュメンタリー。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。

     歴史のドラマ、映画 は、 史実(歴史上の事実) と 

   架空の出来事 が 混じって描かれています。 

   また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 。 

   (NHKテレビ・2010年大河ドラマ)。

 

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#kashi

 

■ 下士 

      (かし)。

 

■ 下士。

■ 名称 : 「下士」 (かし)。

■ 《武士の身分》。

■ 17〜19世紀。

■ 江戸時代の土佐藩の下級武士。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 91039。

 

 

■ 下士(かし)とは、 江戸時代の、土佐藩の下級武

     士であり、 下 級藩士である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 「上士」 (じょうし)とは、 江戸時代の土佐藩の

  上級武士であり、 「下士」 (かし)とは、 江戸

  時代の土佐藩の下級武士である。

 

■ 江戸時代に、 土佐藩には、上級武士の「上士」 (じ

  ょうし)) と 下級武士の、下士」(かし) がいた。

 

■ 「下士」の例として、 土佐藩(とさはんし)の坂本

  龍馬(さかもとりょうま)、 岩崎弥太郎(いわさきや

  たろう)などの「下士」(下級武士)がいる。

 

■ 土佐藩の武士には、下級武士の下士(かし)と

  上級武士の上士(じょうし)の身分があり、 幕末に、

  坂本龍馬(さかもとりょうま)、岩崎弥太郎(いわさ

  きやたろう)などは、下級武士の下士であり、 

  吉田東洋(よしだとうよう)、藤象二郎(ごとうし

  ょうじろう)などは、上級武士の上士であった。            

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 下士(下級武士)の階級身分には、 郷士 (ごうし)、 

  地下浪人 (じげろうにん) などがある。 

● 「郷士」の例として、 土佐藩士で郷士の坂本龍馬 

  などがいる。

● 「地下浪人」の例として、 土佐藩士で地下浪人の

  岩崎弥太郎 などがいる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 江戸時代には、 各藩に、上級武士 (例、土佐藩

  の「上士」(じょうし)) と 下級武士 (例、土佐藩

  の「下士」(かし)) がいた。

■ 「下士」 (かし)とは、 江戸時代の土佐藩の下級

  武士 である。  

     一方、「上士」 (じょうし)とは、 江戸時代の

  土佐藩の上級武士 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 江戸時代、 武士間でも、 厳(きび)しい身分の

  上下があった。

● 江戸時代には、 各藩の、上級武士 と下級武士 

  との間では、 厳(きび)しい身分の上下があった。

 

 

■ 郷士 (ごうし)とは、 江戸時代の武士の階級身

  分の1つで、 一般的に、城下ではなく、 農村等

  に居住していた下級武士 つまり、 在郷下級武士

  ある。

● 江戸時代、 江戸幕府の一国一城令により、 

  各藩は、 一藩に1つの城だけを持ち、 多くの藩士

  (藩に属する武士)は、 城下(じょうか)に住んだが、

  下級武士の一部は、 農村等に住んだ。 一般的

  に農村等に居住していた下級武士を、 江戸時代

  に、 郷士(ごうし) と呼んだ。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 地下浪人 (じげろうにん)とは、 江戸時代の武士

  の階級身分の1つで、武士身分を売った武士であり、 

  主に、 貧窮(ひんきゅう) から郷士株 (ごうしかぶ、

  郷士の武士身分)を売った武士である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 下士 (下級武士)が登場する興味

    深い、ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

★ 下士 (下級武士)が登場する興味深

   い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

   また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』。

   (NHKテレビ・2010年大河ドラマ)。

■ 下士(かし、下級武士)の、土佐藩士(と

   さはんし)、坂本龍馬(さかもとりょうま)、

   岩崎弥太郎(いわさきやたろう)など 

   や 上士(じょうし、上級武士)の、土佐

   藩士の後藤象二郎などが登場 する。

 

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#kameyamashachu

 

 亀山社中 

     (かめやましゃちゅう)。

 

 亀山社中。

■ 名称 : 亀山社中 (かめやましゃちゅう)。

■ 存続期間 : 1865〜67年。

■ 海援隊(1967〜68年)の前身。

■ 坂本 龍馬ら が長崎で設立した 海運・貿易会社。 

 浪士結社 (浪人が集まって創(つく)った団体)。

■ 薩摩藩の出資で設立された。 日本初の株式会社。

 海運・貿易業で利益を得ながら、政治活動も行った。

■ 浪人等により私設艦隊を結成し、 平時は海運や貿易を行い、 有事に

 は海軍として活躍する社中(結社)。

■ 坂本龍馬をリーダーとし、 近藤長次郎(こんどうちょうじろう)、 沢村 惣

 之丞(さわむらそうのじょう)、 陸奥陽之助 (むつようのすけ、 陸奥宗光)、

 高村太郎(たかむらたろう) などのメンバーがい た。

 

 

■ 坂本龍馬 は、 1865年(慶応 元年)5月に、 薩摩藩の資金援助によ

 り、長崎で、 主に海軍塾・神戸海軍操練所のメンバー(訓練生)で亀山社

 中(後の海援隊)を組織し、 物産・武器の貿易を行う。

 

■ 亀山社中 は、 薩摩藩の出資で設立された。 日本初の株式会社と言

 われ、 海運業・貿易業で利益を得ながら、 政治活動も行った。

 

■ 陸奥陽之助(むつようのすけ、陸奥宗光)は、 亀山社中の会計係であ っ

 た。

 

 

■ 亀山社中 (かめやましゃちゅう) は、 存続期間は1865〜67年 で、

 海援隊(1967〜68年)の前身  である。

■ 亀山社中 は、 坂本 龍馬らが長崎で設立した 海運・貿易会社 である。 

■ 亀山社中 は、 薩摩藩の出資で設立された。 日本初の株式会社で、

 海運・貿易業で利益を得ながら、政治活動も行った。

■ 亀山社中 は、 浪人等により私設艦隊を結成し、 平時は海運や貿易

 を行い、 有事には海軍として活躍する社中(結社) である。

■ 亀山社中 は、 坂本龍馬をリーダーとし、 近藤長次郎(こんどうちょう

 じろう)、 沢村惣之丞(さわむらそうのじょう)、 陸奥陽之助 (むつようの

 すけ、陸奥宗光)、 高村太郎(たかむらたろう) などのメンバーがい た。

 

 

■ 亀山社中は、 勝海舟の設立した海軍塾・神戸海軍操練所 (こうべかい

 ぐんそうれんじょ)の廃止に伴い行き場を失った、海軍塾・神戸海軍操練所

 のメンバー20数名で、1865年に、組織された。

● 1864年(元治(げんじ)元年)に相次いで起きた、 池田屋事件、 禁門

 の変(蛤御門の変) で、 海軍塾や神戸海軍操練所のメンバーも関わって

 いた。

  江戸幕府の上層部は、 海軍塾や神戸海軍操練所を不穏分子のたまり場

 として危険視し、 1864年(元治元年)11月に、 浪人を保護したいう理由

 で勝海舟を海軍奉行から解任する。 その後、神戸海軍操練所の廃止も決

 める。 ここに、勝海舟は、失脚する。 坂本龍馬海軍塾・神戸海軍操練所

 のメンバー(訓練生)は、 行き場を失ってしまう。 

   勝海舟の要請により薩摩藩の西郷隆盛 は、 薩摩藩邸で、 龍馬ら神戸

 海軍操練所のメンバー(訓練生)を保護する。 

   坂本龍馬は、 浪人により私設艦隊を結成し、 平時は海運や貿易を行い、

 有事には海軍として活躍する社中(結社)を構想する。

   坂本龍馬は、 薩摩藩家老・小松帯刀(たてわき)に 社中(結社)結成の

 多額の資金援助を要請し、承諾をえる。  薩摩藩は、 先の薩英戦争で海

 軍が壊滅的な打撃をうけ、 海軍塾・神戸海軍操練所のメンバー(訓練生)

 力をかりて、薩摩藩の海軍を再建したいという目論見(もくろみ)もあったと言

 われている。

 

■ 坂本龍馬は、 1867年(慶応3年)4月に、 脱藩の罪を許され、 土佐

 藩との関係を修復する。 1867年に、 亀山社中は、 土佐藩に付属する

 外郭機関として、 「海援隊」と改称される。 

● 1867年(慶応3年)に、経営難に陥っていた亀山社中 は、土佐藩から

 の支援を取り付け、 経営難を脱した。

 

■ 海援隊 は、 1867年11月の龍馬暗殺後も、 存続するが、 1868年

 (慶応4年)4月に、 土佐藩の藩命により、解散させられた。

 

 

♪♪ 亀山社中 が登場する、興味深い

   関連ドキュメンタリー、ドマ、映画。 

 

★ 亀山社中 が登場する、興味深い関

   連ドキュメンタリー。 

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 僕たちは

  ‘‘負け組’’じゃない!〜奮闘!

   坂本龍馬と亀山社中〜 』。 

   (NHKテレビの2009年(平成21年)6月

   24日本放送、第12回)。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 フリーをな

   めたらいかんぜよ! 〜坂本龍馬

   と海援隊 夢と挑戦の日々〜 』  

   (NHKテレビの2009年(平成21年)11月

   11日本放送、第22回)。

 

★ 亀山社中・海援隊 が登場する、興味

    深い関連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事 が 混じって描かれていま

   す。 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 。  

      (NHKテレビの2010年NHK大河ドラマ)。

● 坂本 龍馬を演じた俳優 : 

   福山 雅治 (ふくやま まさはる)。

● お龍(おりょう)を演じる女優 : 真木 よう子 

   (まき ようこ)。

 

   

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■ 『 篤姫 (あつひめ) 』 。 

      (NHKテレビの2008年大河ドラマ)。

● 坂本 龍馬を演じた俳優 : 

   玉木 宏 (たまき ひろし)。

● お龍(りょう)を演じた俳優名 : 

   市川 実日子 (いちかわ みかこ)。

 

■ 『 竜馬がゆく 』。  

   (日本の2004年テレビ東京・ドラマ)。

● 坂本 龍馬を演じた俳優 : 

   市川 染五郎 (7代目)。

● お龍(りょう)を演じた俳優名 :

   内山 理名 (うちやま りな)。

 

■ 『 新選組!(しんせんぐみ) 』 。  

      (NHKテレビの2004年NHK大河ドラマ)。

● 坂本 龍馬を演じた俳優 : 

   江口 洋介 (えぐち ようすけ)。

● お龍(りょう)を演じた俳優名 : 

   麻生 久美子 (あそう くみこ)。

 

■ 『 坂本竜馬 』。  

      (日本の1989年TBS・ドラマ)。

● 坂本 龍馬を演じた俳優 : 真田 広之。

● お龍(りょう)を演じた俳優名 : 名取 裕子 

   (なとり ゆうこ)。

 

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#kazunomiya

 

■ 和宮 

     (かずのみや) (= 静寛院宮)  

 

■ 和宮。 

■ 生没年 1846年〜1877年(明治10年)。 

■ 名称 : 和宮 (かずのみや)。

■ 別名 : 皇女和宮(こうじょかずのみや)、 

  静寛院宮 (せいかんいんのみや、落飾後の名)。

● 正式名 : 和宮 親子 内親王(かずのみや ち

  かこ ないしんのう)。

■ 江戸幕府第14代将軍徳川 家茂 (いえもち)

   の正室夫人 (御台所、1862〜66年)。

■ 孝明(こうめい)天皇の腹違いの妹。 

 

□ 和宮 画像 NO.1

□ 和宮(静寛院宮)の宝塔 (増上寺・

   徳川家霊廟内)

□ 和宮 が登場する、興味深い、ドキ

     ュメ ンタリー、ドラマ、映画

 

 

■ 戊辰戦争(1868〜69年)では、 和宮は、

  旧江戸幕府(徳川宗家)に味方し、 徳川宗家

  の存続に尽力(じんりょく)した。

■ 和宮の嘆願により、 朝廷より徳川慶喜助命

  と徳川家存続の内旨を得る。

■ 和宮 は、仁孝(にんこう)天皇の第8皇女で

  ある。

● 和宮 は、 父の仁孝(にんこう)天皇 と 生

  母の典侍・橋本経子(はしもと つねこ、落飾後、

  観行院(かんぎょういん))との間に生まれた、 

  仁孝天皇の第8皇女 である。

■ 和宮 は、 幕末に、徳川宗家(本家)を存続さ

  せるため尽力(じんりょく)し、 その結果、 江

  戸幕府(徳川宗家)と明治新政府との全面戦争

  を回避し、 また、 結果的に、江戸幕府(徳川

  宗家)の政治実権をスムーズに明治新政府へ

  移行させ、 日本の近代国家成立に貢献した。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 和宮の名称。

■ 和宮 (かずのみや)は、 生没年は、1846年

  〜1877年(明治10年) で、 皇女和宮とも呼

  ばれ、 正式名は、 和宮 親子 内親王  (かず

  のみや ちかこ ないしんのう) である。

■ 和宮 (かずのみや)は、 名は、親子 (ちかこ)

  で、 1866年、落飾(出家)して、 静寛院宮(せ

  いかんいんのみや) と称した。

  (注意) ○  前近代日本では、女性は、通常、個

  人名のみで自他呼称。

○ 前近代日本では、夫婦別姓。 (前近代 日

   本の人名 ) 。

 

 

■ 和宮 は、 江戸幕府14代将軍・徳川 家茂(い

  えもち)の正室夫人 (夫人の期間、1862〜66

  年) である。

 

■ 和宮 は、 孝明(こうめい)天皇の腹違いの妹 

  である。 

 

■ 和宮 は、公武合体のため、 江戸幕府から降

  嫁(こうか)を要請され、1861年に江戸へ下向、 

  翌年将軍・徳川家茂と婚儀を結ぶ(結婚する)。

 

■ 和宮 は、1866年、夫・家茂(いえもち)の死後、 

  落飾して、 静寛院宮 (せいかんいんのみや)と

  称した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 仁孝(にんこう)天皇の第8皇女 である。

● 和宮 は、 父の仁孝(にんこう)天皇 と 生母

  の典侍(てんじ)・橋本経子(はしもと つねこ、落

  飾後、観行院(かんぎょういん)) との間に生ま

  れた、 仁孝天皇の第8皇女 である。

 

■ 和宮 は、戊辰戦争(1868〜69年)では、 江

  戸幕府(徳川宗家)に味方し、 徳川宗家の存続

  に尽力(じんりょく)した。

 

■ 和宮は、 降嫁の目的の、朝廷の孝明天皇から

  託された攘夷(じょうい)や安政五カ国条約破棄

  は果たせなかったが、 徳川家茂との幸せな結

  婚生活を通じて「徳川家の女性」となり、 幕末

  に、 和宮は、 明治新政府との戦いを望む幕臣

  の多くを抑え、 徳川宗家(本家)を存続させるた

  め尽力(じんりょく)する。 その結果、江戸幕府

  (徳川宗家)と明治新政府(近代日本政府)との

  全面戦争を回避させ、 また、 江戸幕府(徳川

  宗家)の実権をスムーズに明治新政府へ移行さ

  せて、日本の近代国家成立に貢献した。

 

 

■ 降嫁前の和宮。

■ 和宮 は、1846年(弘化(こうか)3年)5月に、 

  仁孝天皇 (にんこうてんのう、孝明天皇の父、 

  睦仁(明治)天皇の祖父) の第8皇女として誕

  生した。 和宮の生母 は、 典侍の橋本 経子 

  (はしもと つねこ、落飾後の観行院 (かんぎょう

  いん)) であった。 

    孝明天皇 は、異母兄 である。 父の仁孝

  天皇は、 和宮の誕生前、1846年(弘化3年)

  1月に、 崩御(死去)したため、 勅命により、和 

  宮は、 母の生家の橋本家で、養育された。

 

 

■ 和宮降嫁 (かずのみやこうか)。

■ 1851年(嘉永(かえい)4年)に、 和宮 は、有

  栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひと し

  んのう) と婚約したが、 岩倉具視らが推進する

  公武合体のため、 和宮は、 婚約を破棄させら

  れた。

    1860年3月に、桜田門外の変が起こり、江

  戸幕府の井伊大老が殺害される。 

    1860年4月に、 江戸幕府は、朝廷に、公武

  合体のため皇族の姫の降嫁を要請する。

    1860年10月に、 朝廷の孝明天皇は、江戸

  幕府に、和宮降嫁を勅許する。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 公武合体のため、和宮が、将軍家茂(いえもち)

  に嫁す。 和宮が家茂に降嫁するこで公武合体

  が完成した。

 

■ 和宮一行は、1861年10月に江戸に向けて出

  発し、1861年11月に江戸に着き、 1862年

  2月に 家茂と和宮の婚儀が 江戸城にて挙行

  され、 皇室より降嫁(こうか)し、ここに、公武合

  体が完成した。 

 

■ 和宮一行は、 1861年(文久元年)10月20

  日に京(都)を出発し、 中山道(なかせんどう)

  経由で進み、 1861年(文久元年)11月15日

  江戸城に到着した。

     

■ 和宮と将軍徳川家茂(いえもち)との婚約が調

  (ととの)うと、 和宮一行 は、徳川家茂との婚

  儀のために、1861年(文久元年)10月に江戸

  に向けて出発し、 攘夷派の妨害工作を避ける

  ため (中山道は東海道に比べ五分の一の交通

  量で警備しやすいため)、 東海道ではなく、中

  山道(なかせんどう)を経由し行き、 1862年

  (文久2年)11月に江戸城・大奥に到着した。 

     そして、 1862年(文久2年)2月に、朝廷

  の孝明天皇の腹違いの妹の、和宮は、 江戸幕

  府・第14代将軍の徳川家茂との婚儀を江戸城に

  て挙行し、 ここに、公武合体が完成した。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

■ 和宮の大奥での生活。

■ 和宮 と 観行院 は、1862年(文久2年)より、 

  江戸城の大奥にて、 天璋院・篤姫 (てんしょう

  いん・あつひめ)、 実成院(じつせいいん、じつ

  じょういん)、大奥・御年寄(おとしより)の滝山(た

  きやま) と共に過ごすこととなった。

 

● 和宮 と 和宮の生母、観行院(かんぎょういん) 

  は、 現将軍・家茂の義母・天璋院篤姫(てんしょ

  ういんあつひめ)、 家茂の生母・実成院(じつじ

  ょういん)、 13代将軍・家定(えいもち)の生母・

  本寿院(ほんじゅいん)と対面し、 3人より、 京

  風から江戸風の生活に慣れるようにと言われ、そ

  の後、 御年寄(おとしより)・滝山(たきやま)より、

  京風より江戸風の生活に改めるように と言われ

  る。 

     幕府に御所風(京風)の生活を保障すると言

  われていた 和宮 と観行院 と 京都方の奥女中

  (女官) は、当初は、大奥側の意向を無視し、 御

  所風(京風)の生活を重視し、 江戸風の生活に慣

  れようとはしなかった。 そのため、 大奥側といざ

  こざも少なくなかった。 

     大奥での生活で、 和宮、 観行院(かんぎょ

  ういん)及びお付の京都方の奥女中(女官) は、 

  大奥側の天璋院篤姫、 実成院、 滝山、江戸方

  の奥女中(女官) と、 当初は、 対立した。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 和宮、 観行院(かんぎょういん) 及びお付の女

  中(女官) は、 宮中風の生活習慣を守り、 大奥

  側 は 大奥になじまない和宮一同に不遇な待遇

  をしていじめるなどし、 当初は険悪な空気であっ

  た。 しかし、人格に秀(ひい)で他者への気遣いが

  巧みだった将軍・徳川家茂(いえもち)の機転で、後

  に 和宮側と大奥側 は 和解した。

 

 

■ 夫・家茂死後の和宮。

■ 和宮は、1866年、夫、家茂(いえもち)の死後、 

  落飾して、静寛院宮 (せいかんいんのみや) と

  称す。

● 和宮は、1866年(慶応2年)に、夫、家茂(いえも

  ち)が大阪城にて死去し、 落飾して、 以後、静寛

  院宮(せいかんいんのみや) と称した。

 

■ 和宮 は、戊辰戦争(1868〜69年)では、 江戸

  幕府(徳川宗家)に味方し、 徳川宗家の存続に尽

  力(じんりょく)する。

● 和宮 は、戊辰戦争(1868〜69年)の際、甥(お

  い)にあたる睦仁(むつひと)天皇(明治天皇)に手

  紙を書き、 将軍徳川慶喜の助命を嘆願した。

 

■ 和宮は、 側近の土御門 藤子(つちみかどふじこ)

  を 江戸から京 (都)へ上洛させ、 徳川慶喜助命と

  徳川家存続の内旨を、 朝廷より得させた。

● 土御門 藤子 は、 和宮の使者として、 和宮の

  直書と徳川慶喜の嘆願書を持ち、江戸より京に行

  き、 朝廷の公卿と交渉し奔走(ほんそう)して、 

  徳川慶喜の助命 と 徳川家存続の内旨 を、朝廷

  より得る。

 

■ 幕末に、 和宮 は、 江戸幕府・第14代将軍・徳

  川家茂(いえもち)の正室夫人として、 幕府で大き

  な発言権を持ち、 徳川宗家(そうけ、本家)を存続

  させるため、 江戸幕府(徳川宗家)と明治新政府

  (近代日本政府)との全面戦争を回避させ (一部

  不満勢力の部分戦争の戊辰戦争は起きたが)、 幕

  臣を説得して江戸幕府から明治新政府への政権

  移譲をスムーズに押し進め、 結果的に、日本の近

  代国家成立に貢献した。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 和宮は、1868年、江戸城無血開城後、 実成院

  と共に、田安屋敷へ移った。 のち、京都に戻るが、 

  睦仁(むつひと)天皇(明治天皇)の東京行幸(ぎょ

  うこう)のため、 再び居(きょ)を東京に移す。 18 

  77年(明治10年)に、静養先の箱根にて死去し、 

  享年32歳であった。 墓所は、東京都港区の増上

  寺にある。

● 江戸城無血開城後、 明治初期に、 東京の勝海

  舟の家で、 和宮は、 天璋院・篤姫 (てんしょうい

  ん・あつひめ) と、仲良く 食事をしている。 

 

 

■ 脚気衝心。

 和宮(かずのみや)の死因は、 脚気衝心(かっけ

  しょうしん)(脚気による心不全)とされている。

      和宮の夫の徳川 家茂( とくがわ いえもち)も、

  気衝心で、享年21歳で死去している。 

 

● 脚気衝心(かっけしょうしん) (脚気による心不

  全) は、 ビタミンB1(チアミン)不足が原因で、 

  江戸時代、幕末、明治時代の当時、 現代日本の

  ような栄養学の知識はなく、 富裕層や高貴な身

  分の人 は、 一般庶民と違い、白米を食べて、 

  ビタミンB1を含む玄米を食べず、 ビタミンB1(チ

  アミン)不足となり、 脚気衝心(かっけしょうしん)

  (脚気による心不全)を起こし、死亡することが多

  かった。

● TKKI カナヤマ著 生物学辞典。

 

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#kazunomiya-appearingscenes

 

◆ 和宮 (かずのみや) が登場する、興味

  深い、ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 和宮、天章院 篤姫 が登場する、興

  味深い、ドキュメンタリー。

 

■ BS歴史館 『 皇女和宮 史上最

  大のロイヤルウエディング 』 

   (NHK・2012年11月8日・本放送テレビ・ド

   キュメンタリー番組)。

 

■ その時歴史が動いた 『 大奥 華

  (はな)にも意地あり 〜江戸城無血

  開城・天章院 篤姫〜 』 

   (NHK2007年(H19)4月本放送テレビ・ド

   キュメンタリー番組、第286回)。

 

★ 和宮 が登場する、興味深い、ドラマ、

  映画。

● (注意) ドラマ、映画 は、フィクション です。 

   また、歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上

   の事実) と 架空の出来事 が、 混じって、

   描かれています。 また、 現代風にアレンジ

   してあります。

 

■ 『 篤姫 (あつひめ) 』  

   (日本のNHK2008年大河ドラマ)。

● 和宮を演じた女優名 : 堀北 真希。

 

■ 『 大奥・幕末の女たち 』 

   (日本の2003、2004年製作フジテレビ・

   テレビドラマ)。

● 和宮を演じた女優名 : 安達 祐実。

 

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#katsukaishu

 

■ 勝 海舟  

     (かつ かいしゅう)。

 

■ 勝 海舟 

■ 生没年 : 1823年〜1899年(明治32年)。 

■ 名称 : 勝 海舟 (かつ かいしゅう)。  

 別名は、 勝 麟太郎 (かつ りんたろう)。

● 正式名(本名) は、幕末、 勝 義邦(かつ よ

  しくに)、 明治後、改名して 勝 安芳(かつ や

    すよし)。 

● 幕末の武家官位(律令官名)は、 「安房守

  (あわのかみ)」。 幕末、勝安房守(かつあわ

  のかみ)とも呼ばれた。

■ 幕末や明治時代の政治家。 

■ 平和主義者で、率直でユーモアのある人情味

  あふれる人物。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 52321。

 

□ 勝 海舟(安芳) 画像 NO.1

□ 勝 海舟 が登場する、興味深い、

     ドキュメ ンタリー、ドラマ、映画

 

 

■ 勝 海舟 (かつ かいしゅう、生没年:1823〜

  1899年) は、 幕末や明治時代の政治家で

  ある。 平和主義者で、率直でユーモアのある

  人情味あふれる人物 であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 勝 海舟の別名は、 勝 麟太郎 (かつ りん

  たろう)であり、 正式名(本名) は、幕末、 

  勝 義邦(かつ よしくに)、 明治後、改名して、

  勝 安芳(かつ やすよし) である。 

    勝 海舟の、幕末の武家官位(律令官名)は、 

  「安房守 (あわのかみ)」 である。 幕末、勝

  海舟は、 勝安房守(かつあわのかみ) も呼

  ばれた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

◆ 幕末の、勝海舟。

■ 幕末では、勝 海舟 は、江戸幕府の、幕臣(幕

  府家臣)、旗本で、蘭学(らんがく)を修め、日本

  の海軍や幕府海軍やの創設と人材育成に尽力

  (じんりょく)する。 幕末は、幕府の軍艦奉行と

  なる。 後、幕府の軍事総裁となり、江戸城無血

  開城を行う。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 勝 海舟は、 戊辰戦争(ぼしんせんそう、1868

  〜69年)では、 旧幕府を恭順(きょうじゅん)論

  に導き、 討幕軍参謀の西郷隆盛と交渉し、 江

  戸総攻撃を回避し、 江戸城無血開城を実現す

  る。

     勝海舟は、 薩摩藩出身の璋院・篤姫

  天皇家出身の和宮の協力を得て、 江戸総攻撃

  避と徳川宗家(本家)の存続に動く。

     薩摩藩出身の璋院・篤姫も、義父・島津

  斉彬の部下で一橋派同志・輿入れ時世話役の、

  東征軍参謀の西郷隆盛に手紙を書き、 徳川宗

  家(本家)存続を強く願い出る。 天璋院・篤姫の

  意を受けた、皇室出身の和宮が、京(都)の朝廷

  に手紙を出し、 徳川宗家(本家)の存続を強く

  願い出る。 

     江戸総攻撃については、 明治新政府・東

  征軍の江戸到着時に、勝海舟の策により、勝海

  舟が、 東征軍の江戸総攻撃を躊躇(ちゅうちょ)

  させていた。  

    というのも、 明治新政府・東征軍が江戸(東

  京)へ向かう途中の時期に、 当時世界有数の

  約100万人都市の江戸(東京)をアジア貿易の

  よい市場・拠点にしようと考えていたイギリスに、 

  旧幕府代表の勝海舟が、 明治新政府・東征軍

  の江戸攻撃があれば「江戸を焼きつくす」と言っ

  たため、 驚いたイギリスが、戦争荒廃で貿易の

  大市場・拠点の江戸を喪失し貿易利益を失うこ

  とを嫌い、 江戸総攻撃に強く反対の立場をとっ 

  たため、 当時イギリスの全面援助を受けていた

  薩長中心の明治新政府・東征軍参謀の西郷隆盛

  は、 江戸到着時に、 江戸総攻撃を躊躇(ちゅう

  ちょ)していた。

     戊辰(ぼしん)戦争で、 1868年2月に、新

  政府軍は、 京(都)を出発し、 江戸に向かう。 

  勝海舟は、 東進する東征軍参謀の西郷隆盛と

  手紙を交わし、和解(江戸総攻撃中止)の条件を

  聞き出す。 手紙での西郷隆盛からの和解(江戸

  総攻撃中止)の条件は、 旧幕府が完全降伏す

  る厳しい条件であった。 

     勝海舟は、 イギリス公使・パークスに手紙

  を書き、 旧幕府が恭順(きょうじゅん)し降伏す

  る旨を伝え、賛同を得る。 薩長を援助するイギ

  リスは、 当時世界有数の約100万人都市の

  戸をアジア貿易のよい市場・拠点にしようと考え

  ていたが、 戦争荒廃で貿易の大市場・拠点

  江戸を喪失し貿易利益を失うことを嫌い、 イギ

  リス公使パークスが江戸総攻撃に強く反対し、 

  薩長中心の明治新政府・東征軍参謀の、西郷

  隆盛は、 この機会に、旧幕府勢力をすべて一

  掃しようと考えていたが、 当惑し、江戸総攻撃

  を躊躇(ちゅうちょ)する。 

    一方、勝海舟は、交渉決裂と江戸総攻撃に

  備え、江戸を敵に渡さないため、江戸焼払いと

  江戸住民の脱出の手はずを整えた。

    1868年3月11日に新政府軍の大軍が神

  奈川を通過し、江戸に迫る。 1868年3月15

  日予定の江戸総攻撃前の、3月13日と14日

  に、 芝の薩摩藩藩邸で、西郷・勝会談がもた

  れ、 西郷隆盛は、 江戸城開城を含む、勝の

  出す緩(ゆる)やかな条件を受け入れ、 江戸

  総攻撃を中止した。

    1868年(慶応4年)4月11日に、 江戸城

  無血開城が行われた。 ここに、新政府軍勢力

  と旧幕府軍勢力の全面戦争は、回避された。

  徳川 宗家(本家)は、明治新政府(近代日本政

  )から、減封存続が認められ、1868年に、

  徳川宗家(本家)の当主は、徳川慶喜(よしの

  ぶ)から徳川家達(いえさと)になり、 徳川宗

  家(本家)は、 駿河70万石の一大名(1868

  〜71年、駿府城城主)となった。

    新政府軍は、 その後、戊辰戦争で、抵抗す

  る残存の弱い旧幕府勢力との部分戦争を戦え

  ばよくなり、 一方的な勝利を得ることができた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 幕末、1853年に、江戸幕府老中首座の阿部

  正弘 (あべ まさひろ)が、 幕臣にも、対外政

  策の意見を求めたとき、 勝海舟の提出した「海

  防意見書」が、 阿部の目に留まり、 江戸幕府

  の海事関係の仕事に就くことになった。 そして、

  勝海舟は、長崎伝習所に派遣され、海事関係を

  学ぶ。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1860年、勝 海舟 は、 渡米使節のため、幕 

  府がオランダから購入した咸臨丸(かんりんまる)

  の艦長として、  太平洋横断に成功する。

 

■ 1863年〜1864年頃に、 勝 海舟は、幕府や

  藩にとらわれず、 日本に海軍をつくろうとし、

  軍塾を開き  (大阪で約半年間準備し、神戸で約

  1年間本格的な訓練を行う)、 神戸海軍操練所

  を、約1年間、開く。  

     勝の弟子の坂本龍馬が、 その海軍 塾の塾

  頭 となる(神戸で)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

◆ 明治期の勝海舟。

■ 勝 海舟は、明治期に、 明治新政府(近代日

  本政府) の参議、海軍卿などを歴任する。

 

■ 旧幕臣の、勝 海舟は、 天璋院(てんしょうい

  ん、篤姫(あつひめ))と協力して、 徳川宗家

  (とくがわそうけ、徳川本家)を支える。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 勝 海舟は、 明治期に、 江戸幕府の旧家臣団

  の世話に奔走(ほんそう)し、 旧幕臣の就業活

  動を行い、また、 旧幕臣の反新政府の動きを抑

  える。

■ 勝 海舟は、 西郷隆盛が反乱を起こした西南

  戦争後の、西郷隆盛の名誉回復に尽力(じんりょ

  く)する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 勝 海舟の名称。

■ 勝 海舟 (かつ かいしゅう、生没年1823〜

  1899年) は、 別名は、 勝 麟太郎 (かつ

  りんたろう) という。

● 勝 海舟の、通称は、 麟太郎(りんたろう) で、 

  号は、海舟(かいしゅう) である。

■ 勝 海舟の、幕末の武家官位(律令官名) は、

  「安房守(あわのかみ)」 である。

 勝 海舟の、諱(いみな、個人名の実名)は、初

  め、義邦(よしくに)、 その後、安芳 (やすよし) 

  と称す。

● 勝 海舟の、正式名(本名) は、 初め、(幕末)、

  勝義邦 (かつ よしくに)、 その後(明治期)、勝 

  安芳 (かつ やすよし) と称す。

     勝 海舟は、幕末、 勝 義邦(よしくに)と

   称し、明治後改名して 勝 安芳 (かつ やす

   よし) と称した。 

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 勝 海舟の墓。

■ 勝 海舟の墓 は、 かって別邸があった、東京

  の洗足池 (東京都大田区) の畔(ほとり)にあ

  る。

 

 

#katsukaishu-appearingscenes

 

◆ 勝 海舟 が登場する、面白く、興味

 深い、 ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

★ 勝 海舟 が登場する、面白く、興味

  深い関連ドキュメタンリー。 

 

■ 謎解き!江戸のススメ 『 勝海舟 』 

   (BS-TBSの2013年12月9日・本放送・

   歴史ドキュメンタリー番組)。

● 幕末、明治前期の勝海舟の活動を描く。

● 勝海舟による、江戸総攻撃回避と江戸城無血

  開城を中心に述べる。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 俺がやらな

  きゃ誰がやる 勝海舟 第2の人

  生の使い方〜 』 

   (NHKの2009年(平成21年)10月14日・

   本放送・歴史ドキュメンタリー番組)。

● 明治期の勝海舟の活動を描く。

 

★ 勝 海舟 が登場する、面白く、興

  深い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画 は、フィクション です。 

  また、歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の

  事実) と 架空の出来事 が、 混じって、描か

  れています。 また、 現代風にアレンジしてあ

  ります。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』  

   (NHK2010年大河ドラマ)。

● 勝 海舟を演じた俳優名 : 武田 鉄矢 

  (たけだ てつや)。

 

■ 『 篤姫 (あつひめ) 』 

   (NHK2008年大河ドラマ)

● 勝 海舟を演じた俳優名 : 北大路 欣也。

 

■ 『 JIN−仁 (じん) 』 

    (日本の2009年(前編)・2011年(後

   編)のTBS時代劇テレビドラマ)。

● 勝 海舟を演じた俳優名 : 小日向 文世

  (こひなた ふみよ)。

 

■ 江戸時代・幕末の1862〜68年の人々や

  社会事情を描いたドラマ。 

  前編(第1期)11話、後編(第2期)11話。

 現代の医者が、江戸時代の幕末へタイムス

  リップして、幕末の日本で活躍する時代劇ド

  ラマ。 現代の医者と幕末の武士の娘を中

  心に、ドラマが展開する。 フィクションでは

  あるが、ドラマの医療指導・監修もなされ、

  前近代日本の医療未発達の事情を知ること

  ができる。

● 江戸時代にタイムスリップした、現代の医者

  の南方 仁 (みなかた じん): 大沢たかお。

● タイムスリップした現代の医者の医療を助け

  る、幕末の武士の娘、橘 咲 (たちばなさき) 

  : 綾瀬 はるか。

● ドラマ「JIN−仁」は、 現代日本の脳外科

  医・南方 仁 (みなかたじん、写真の左、大

  沢たかお) が、 幕末の日本へタイムスリ

  ップしてしまい起こる、色々な出来事を描く、

  歴史SF作品 である。

● ドラマ「JIN−仁」 は、 タイムスリップした

  医師・南方 仁 と その医師を助け看護師

  の役をかってでる幕末に生きた武士の娘・  

  橘咲(たちばなさき、写真の右、綾瀬はるか)

  をはじめ、 坂本龍馬(さかもとりょうま)、勝

  海舟(かつかいしゅう)、 久坂 玄瑞(くさか

   げんずい) などが登場する、歴史スペクタ

  クル。

● ドラマ「JIN−仁」の2009年放映・前編ドラ

  マで、緒方洪庵(おがたこうあん)、 新門辰

  五郎(しんもんたつごろう)、 吉原 遊廓(よ

  しわらゆうかく) などが登場する。

● ドラマ「JIN−仁」の2011年放映・後編ドラ

  マで、 西郷隆盛(さいごうたかもり)、和宮

  (かずのみや) などが登場する。

 

 

 ○ ドラマ「JIN−仁」のPRフォト。 

 ○ 上記のPRフォトは、 ドラマ「JIN−仁」の

  第1話で、 江戸時代末期(幕末)の、江戸の

  旗本屋敷で、 負傷した武士(旗本)の橘恭太

  郎(たちばな きょうたろう)を診(み)ている、

  医師・南方仁 (みなかたじん、フォト左、大沢

  たかお) と、 心配そうに見つめる、その負傷

  した武士の母・橘 栄(たちばな えい)(麻生

  祐未(あそうゆみ)、フォト中央) と その武士

  の妹・橘 咲 (たちばな さき、フォト右、綾瀬は

  るか) を描いた、ドラマのワン・シーン。

 

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#kanetsugu

 

■ 兼続 

     (かねつぐ)。

 

■ 兼続。

■ 兼続 (かねつぐ) については、 『 直江 兼続 ( なおえ かね

 つぐ) 』を参照して下さい。

● 兼続 (かねつぐ) は、 樋口(ひぐち) 与六 (幼名)、 樋口 兼

 続 (元服後、初め)、 直江 兼続(1581年〜、直江家を相続後)、 

 直江 重光(1608年〜) と 同一の人物 である。

 

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#karahashi

 

■ 唐橋 

     (からはし) (橋本理子)

 

■ 唐橋 

 生没年不詳 (19世紀前半頃)。 

■ 名称 : 唐橋 (からはし)、 橋本理子 

● 名は理子、 別名は、花ノ井。 

■ 絶世の美女。 

● 水戸藩の好色の徳川 斉昭(なりあき)が、「唐橋事件」 を起こす。

■ 公家 (橋本家)の娘。 唐橋の父は、公家の橋本実誠。

■ 大奥の実務幹部。  大奥の実務幹部・姉小路の妹。

● 12代将軍徳川家慶(いえよし)の治世の大奥の実務の権力者の

 (大奥の実務の権力を握った)、美女で御年寄(おとしより、上級幹

 部)の、 姉小路(あねこうじ)の、 妹。

■ 和宮の大叔母。

 和宮は、父の仁孝(にんこう)天皇と生母の典侍・橋本経子(観行

 院)の間に誕生した、仁孝(にんこう)天皇の第8皇女。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

〇 (注意) 『 篤姫(あつひめ) 』 (2008年NHK大河ドラマ、宮

 崎あおい主演) に登場する 大奥の老女(ろうじょ、上級奥女中・ 

 女官)の唐橋とは、 同名ですが、 別人 です。

 

 

■ 唐橋 (からはし、橋本理子) は、 生没年は不詳で19世紀前

 半頃で、大奥では、唐橋(からはし) と称し、 名は理子、 別名は、

 花ノ井 と称した。 

■ 唐橋 (からはし) は、 絶世の美女であった。

■ 唐橋 は、 公家(橋本家) の娘で、 唐橋の父は、公家の橋本

 実誠である。

■ 唐橋 は、 12代将軍徳川家慶(いえよし)の治世の大奥の実務

 の権力者の(大奥の実務の権力を握った)、美女で御年寄(おとしよ

 り、上級幹部)の、 姉小路(あねこうじ)の、 妹 である。

■ 唐橋 は、和宮の大叔母 である。

 和宮 は、父の仁孝(にんこう)天皇と生母の典侍・橋本経子(観

 行院)の間に誕生した、 仁孝(にんこう)天皇の第8皇女 である。

 

 

■ 唐橋 は、 11代将軍徳川家斉時代の、江戸幕府の、 大奥の実務

 幹部の御年寄(おとしより) であった。

● 唐橋 は、 11代将軍徳川家斉(いえなり)の御台所(みだいどころ、

 将軍正室)、茂子付の上臈御年寄 (じょうろうおとしより、大奥・上席・上

 級幹部) であり、 家斉の7女の峰姫付 大上臈 (大奥・最上席・上級

 幹部) であった。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 徳川 斉昭(なりあき)による唐橋(からはし)懐妊事件 (唐橋に対する

 徳川斉昭の非道懐妊行為) により、 それ以来、 江戸幕府の大奥の

 奥女中(おくじょちゅう、女官) が、 水戸藩の徳川斉昭を嫌うようになり、 

 斉昭の息子の一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ) が次期(14代)将軍に就

 (つ)けない、きっかけとなった。

〇 徳川斉昭、 に関しては、 日本史辞典の 『 徳川斉昭 (とくがわな

 りあき) 』 の各項目を参照して下さい。

 

■ 江戸幕府の大奥で、 唐橋(からはし)は、 11代将軍徳川家斉(いえ

 なり)の御台所(みだいどころ、将軍正室)の茂子付の上臈御年寄 (じょ

 うろうおとしより、大奥・上席・上級幹部) となり、 茂子の側近を勤めた。 

 

■ 江戸幕府の大奥の掟(おきて、ルール)では、 たとえ将軍といえども、

 大奥の実務幹部の御年寄(おとしより、大奥上級幹部)には、手を出せ

 なかった。 

● 但し、 秘密裏に、将軍が、実務幹部の御年寄と閨(ねや)をともにした

 例はある。 一説には、秘密裏に、 徳川家慶(いえよし)が、実務幹部の

 唐橋の姉の、姉小路(あねこうじ)と閨(ねや)を共にしていたと言われて

 いる。

● 好色の11代将軍・徳川家斉(いえなり)も、後の12代将軍になる徳川

 家慶(いえのぶ)も、大奥の掟(ルール)により、 絶世の美女で大奥の

 実務幹部の御年寄(大奥上級幹部)の、唐橋(からはし) には、 手を出

 さなかった。

 

● その後、家斉の7女の峰姫(峯姫)が、 水戸藩8代藩主徳川斉脩(な

 りのぶ)に嫁ぐことになり、 唐橋は、 峰姫付の上臈御年寄 (大奥・上

 席・上級幹部)として、峰姫(峯姫)に従って、水戸徳川藩邸へ入った。

 

● 水戸藩邸に入った時、 大奥実務幹部の御年寄で絶世の美女の、唐

 橋 は、現水戸藩主斉脩(なりのぶ)の弟の、 徳川斉昭 (なりあき、当

 時部屋住み、後の9代水戸藩主) に言い寄られ懐妊(妊娠)してしまっ

 た。 その後、京都へ帰郷するが、 その後、「花ノ井」 と改名して、斉 

 昭の元(もと)へ行くこととなった。

   この出来事(スキャンダル)で、 (唐橋の姉で美女の) 大奥の実務

 幹部の姉小路(あねこうじ) を始め、 大奥の奥女中(女官)は、皆、

  斉昭(なりあき) に怒り、嫌うようになった。  それ以来、 大奥の奥

 女中(女官)は、皆、 水戸嫌い(徳川斉昭嫌い) となった。

   それが、 徳川斉昭の息子の一橋 慶喜 (ひとつばし よしのぶ) が、

 次期(14代)将軍に就けない、きっかけ となった (次期(14代)将軍

  継嗣問題で、大奥の女性が、徳川斉昭を支持しないため)。 

   そのおかげで、 江戸幕府の次期(14代)将軍には、 紀伊徳川家・

 紀伊藩主の、徳川 家茂 (いえもち、慶福(よしとみ))が、就(つ)いた。 

 

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#kangyoin

 

■ 観行院 

     (かんぎょういん)。

 

■ 観行院。

● 生没年 : 1826年〜1865年(慶応元年)。 

● 名称 : 橋本 経子 (はしもと つねこ)。 

  1846年、落飾して、 観行院 (かんぎょういん) と称す。

● 和宮 (かずのみや) の生母。

 和宮は、 父の仁孝天皇 と 生母の典侍・橋本経子(観行院)の間に

 生まれました。

● 幕末の朝廷の女官 (仁孝天皇の典侍) 。

● 仁孝天皇 (にんこうてんのう、在位1817〜46年、 生没年1800

 〜46年、孝明天皇の父、 明治天皇の祖父) の妻。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

□ 観行院 が登場する、面白く、興味深い、ドキュメン

  タリー、ドラマ、映画

 

 

■ 経子 (つねこ、後の観行院(かんぎょういん) は、 1826年(文政

 9年)に、 橋本実久の娘として生まれ、 1839年(天保10年)、禁裏

 (朝廷)の後宮に上がり、 典侍の位を受けます。 経子(観行院) は、

 仁考(にんこう)天皇の寵愛を受け、 皇女和宮(かずのみや)をもうけ

 る。

   1846年(弘化3年)に、仁考(にんこう)天皇が崩御(死去)し、 落

 飾して、経子(観行院) は、 観行院(かんぎょういん)と号した。 その

 後、後宮を離れた観行院(経子) は、 実家の橋本家の屋敷にて、和

 宮を育てた。

 

■ 1851年(嘉永(かえい)4年)に、 和宮 は、有栖川宮熾仁親王(あ

 りすがわのみや たるひと しんのう)と婚約したが、 その後、 岩倉具

 視らが推進する公武合体のため、 和宮は、 婚約を破棄させられた。

 

■ 公武合体のため、和宮(かずのみや)が、将軍家茂(いえもち)に嫁

 す。 和宮が家茂に降嫁するこで公武合体が完成。

 

■ 和宮一行は、 1861年10月に江戸に向けて出発し、1862年2月

 に江戸に着き、 1862年2月に 家茂と和宮の婚儀が江戸城にて挙

 行され、皇室より降嫁(こうか)し、ここに、公武合体が完成した。 

● 和宮と将軍徳川家茂(いえもち)との婚約が調(ととの)うと、 和宮

 一行 は、徳川家茂との婚儀のために、1861年(文久1年)10月に

 江戸に向けて出発し、 攘夷派の妨害工作を避けるため、東海道では

 なく、中山道を経由し東下(とうか)し、1862年(文久2年)2月に江戸

 城大奥 に到着した。 そして、1862年(文久2年) 2月に、和宮は、 

 14代将軍・徳川家茂(いえもち)との婚儀を江戸城にて挙行し、ここに、

 公武合体が完成した。 

 

● 観行院 は、 和宮、女官の庭田嗣子、典薬寮の医師、その他女官

 (女中)と共に、 江戸に向けて出発する。

 

■ 和宮 と 観行院 は、 1862年(文久2年)より、江戸城の大奥に

 て、 前将軍(13代将軍)正室夫人の天璋院・篤姫 (てんしょういん・

 あつひめ)、  現将軍(14代将軍)家茂の母・実成院(じつじょういん)、

 大奥・御年寄(おとしより、大奥上級幹部)の滝山(たきやま) と共に

 過ごすこととなった。

 

● 和宮、 観行院(かんぎょういん) 及びお付の女中(女官) は、宮

 中風の生活習慣を守り、 大奥側 は 大奥になじまない和宮一同に

 不遇な待遇をしていじめるなどし、 当初は険悪な空気であった。 し

 かし、 人格に秀で他者への気遣いが巧みだった将軍・家茂(いえも

 ち)の機転で、 後に 京都方の和宮側と江戸方の大奥側 は 和解

 した。

 

● 和宮 と 和宮の生母、観行院(かんぎょういん) は、 現将軍・家

 茂の義母・天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)、 家茂の生母・実

 成院(じつじょういん)、 13代将軍・家定(いえさだ)の生母・本寿院

 (ほんじゅいん)と対面し、 3人より、 京風から江戸風の生活に慣れ

 るように と言われ、 その後、 御年寄(おとしより)・滝山(たきやま)

 より、京風より江戸風の生活に改めるように と言われる。 

   幕府に御所風(京風)の生活を保障すると言われていた 和宮 と 

 観行院 と 京都方の女中(女官) は、当初は、大奥側の意向を無

 視し、御所風(京風)の生活を重視し、 江戸風の生活に慣れようとは

 しなかった。 そのため、 江戸方の大奥側とのいざこざも少なくなか

 った。 

   大奥での生活で、 和宮、 観行院(かんぎょういん)及びお付の

 京都方の奥女中(女官) は、 江戸方の大奥側の天璋院篤姫、 実

 成院、 滝山、 江戸方の奥女中(女官) と、当初は、 対立した。

 

■ 異郷の地で和宮をかばい続けた、 観行院 は、1864年の秋頃

 より体調を崩(くず)し、 一旦持ち直したが、 1865年8月に、 江

 戸城にて、 享年40歳にて、死去した。  遺体は、増上寺の徳川家

 墓所に埋葬された。

 

 

#kangyoin-appearingscenes

 

♪♪ 観行院 が登場する、面白く、興味深い、ドラマ、

 映画、ドキュメンタリー。

 

★ 観行院 (橋本 経子) が登場する、面白く、興

 味深い、ドラマ、映画。

 

■ 『 篤姫 (あつひめ) 』  (NHK2008年大河ドラマ)。 

● 観行院を演じた女優名 : 若村 麻由美。

 

■ 『 大奥・幕末の女たち 』 (日本の2003、2004

 年製作フジテレビテレビドラマ)。

● 観行院を演じた女優名 : 岡 まゆみ。

 

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#kantotorishimarishutsuyaku

 

 関東取締出役 

   (かんとうとりしまりしゅつやく) (八州廻り)。 

 

 関東取締出役。

■ 名称 : 関東取締出役 (かんとうとりしまりしゅつやく)。

● 俗名 : 八州廻り(はっしゅうまわり)、八州取締役(はっしゅう

 とりしまりやく)。

■ 江戸時代の、江戸幕府の関八州(関東)の治安取締官。

 

■ 関東取締出役 (かんとうとりしまりしゅつやく) は、 俗名は

 八州廻り(はっしゅうまわり)、または 八州取締役(はっしゅう

 とりしまりやく) とも呼ばれ、 江戸時代の、江戸幕府の関八州

 (関東)の治安取締官 であった。

 

■ 関東取締出役 (八州廻り) は、江戸幕府の、勘定奉行配下

 の役職で、1805年(文化2年)に設置された。

 

■ 関東取締出役 (八州廻り) は、小領主や飛び地などが多く

 広域的な警察活動が難しかった関八州(関東)を、私領 (大名

 領、旗本領、寺社領など)(御三家の水戸家領を除く) や 天領

 (幕府直轄領)の区別なく、 治安の維持や犯罪の取り締まりに

 当たった。 代官所の吏員(足軽格の下層身分)から任命される

 ことが多かった。 

   また、 関東取締出役 (八州廻り)を支援する現地スタッフ

 として目明し(道案内)が、 主要な町村毎に任命された。

 

■ 関東取締出役 (八州廻り) は、 下層身分の武士にもかか

 らず、権勢を誇り、本来上級武士にしか許されない駕籠(かご)

 を乗り廻し、大勢の従者を引き連れて廻村するなど弊害も大き

 かった。 「泣く子も黙る」と言われるほど、 恐れられた存在だ

 った。

 

 

♪♪ 関東取締出役 (八州廻り) が登場する、面

 白く、興味深い、ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

★ 関東取締出役 (八州廻り) が登場する、面白

 く、興味深い、ドラマ、映画。

 

■ 『 あばれ八州御用旅 』 

 

■ 『 あばれ八州御用旅2 』 

 

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#kanmutenno

 

■ 桓武 天皇 

    (かんむ てんのう)。

 

■ 桓武 天皇。 

■ 生没年 : 737年〜806年。 

■ 名称 : 桓武 天皇 (かんむ てんのう)。

■ 光仁(こうにん)天皇の皇子(みこ)。

■ 奈良時代末期、平安時代初期の天皇。

■ 遷都と蝦夷討伐を二大事業とした。

■ 平安京遷都を行う。

 律令政治の刷新を図り、 仏教勢力を避け

    て、都(みやこ、首都)を、平城京から長岡京

    へ、その後、794年、平安京へ遷都させる。

■ 蝦夷(東北地方)を討ち、蝦夷(東北地方)

  律令体制の中に組み入れる(朝廷の支配

  下に入れる)。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

□ 奈良時代日本政治実権者変遷

  一覧表

 

 

■ 桓武 天皇 (かんむ てんのう) は、 生没

   年は 737〜806年 で、 光仁(こうにん)

   天皇の皇子(みこ) である。

■ 桓武 天皇 は、 奈良時代末期、平安時代

    初期の天皇 である。

 

■ 桓武天皇は、遷都と蝦夷討伐を二大事業

  とした。

 

■ 桓武天皇は、 桓武天皇の二大事業 (遷

  都と蝦夷討伐)の1つとして、 蝦夷(東北地

  方)を討ち、蝦夷(東北地方)を律令体制の

  中に組み入れる(朝廷の支配下に入れる)こ

  とを強く望む。

     坂上田村麻呂 は、京(都)の中央の近

  衛府(このえふ)の武官であったが、 桓武

  天皇の命令で、 征東副使として791年よ

  り、朝廷軍を率いて、蝦夷(東北地方)討伐

  を行い、活躍し、 797年には征夷大将軍

  に任じられ、 801年に、蝦夷(東北地方)

  の阿弖流為(あてるい)、母礼(もれ)らの率

  いる蝦夷軍と戦い勝ち、 蝦夷(東北地方)

  を征服した。

 

 

■ 桓武 天皇 は、 桓武天皇の二大事業 (遷

  都と蝦夷討伐)の1つとして、 遷都を望む。

     桓武 天皇 は、律令政治の刷新を図り、 

    仏教勢力を避けて、 都 (みやこ、首都、

  日本の政治の中心地) を、 平城京(へい

  じょうきょう)から長岡京(ながおかきょう)へ、 

  その後、 794年、 平安京(へいあんきょ

  う)へ遷都させた。

 

 

♪♪ 桓武 天皇 が登場する、面白

  く、興味深い関連ドラマ、映画、ド

  キュメタンリー。 

 

★ 桓武 天皇 が登場する、面 白く、

  興味深い関連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画 は、史実(歴史上の事

  実) と 架空の出来事 が 混じって描かれ

  ています。 また、 現代風にアレンジしてあ

  ります。

 

■ 『 火怨・北の英雄 アテルイ伝 』 

   (日本の2013年 NHKスペシャルドラマ)

     (歴史ドラマ、全4回) 

■ 奈良時代末期、平安時代初期を描いた歴

  史ドラマ。

● 桓武天皇を演じる俳優 : 近藤 正臣。 

● 坂上田村麻呂を演じる俳優 : 高嶋 政宏。

● 蝦夷(東北地方)軍のリーダーの一人、アテ

  ルイ (阿弓流為)を演じる俳優 : 

   大沢 たかお。

● 蝦夷(東北地方)軍のリーダーの一人、モレ

  (母礼)を演じる俳優 : 北村 一輝。

 

■ 『 陰陽師 〜おんみょうじ〜 』 

  (2001年 制作日本映画)。

● 桓武 天皇を演じた俳優 : 木下 ほうか。

 

● 陰陽師・安倍晴明(あべのせいめい)の活

  躍を描いたSF時代劇。 

● 安部晴明を演じた俳優 : 二世野村萬斎

  (にせいのむらまんさい、1966−現在、

  狂言師)。

 

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  『 あなたのハートには 

    何が残りましたか? 』

 

 

 

以  上。