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◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY 

   HANDBOOK

 

 

 カナヤマ 日本歴史辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 ふ 』。

 

#jpmenu     

メ ニュー (目次)。  

■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

□ 日本史 辞典 (総合)

□      ● 五十音順 ( あいうえお順)。

 □ 見出し語 ふか

 □ 見出し語 ふさ

 □ 見出し語 ふた

 □ 見出し語 ふな

 □ 見出し語 ふら

 

 

〇 ぶ    分。

                          (ぶ) 。 《貨幣単位》。

          ○ 分とは、

          江戸時代の、定位(定額)

           貨幣単位 (両、分、朱、文)

          の1つである。

        (⇒ 単位定位

                 (定額)通常貨幣)。

              ■ 1両小判 (金)≒4分≒16朱

              4000文≒ 現在の約10万円

 

〇 ふう    夫婦別姓。

              (ふうふべっせい)。 

           《家族制度》。 《氏名》。

              (= 前近代日本の、

           家父長制の夫婦別姓)。

           (古代〜江戸時代)。 

         (⇒ 前近代日本の

          人名)。

               (⇒ 前近代日本の女性

             氏名)。

               (⇒ 家父長制の夫婦別姓)。

               ■ 前近代日本の「家父長制の

              夫婦別姓」は、 現代日本で議論

              されている「選択的夫婦別姓」

              とは全く異なる。 

               ■ 1872年(明治5年)に、前近

              代「家父長制の夫婦別姓」から、

              近代夫婦同姓へと移る。

               ● 近代日本政府(明治政府)は、 

              日本近代化政策のため、欧米の

              家族制度に倣(なら)い、明治4年

              (1871年)4月に戸籍法を公布し、

              明治5年(1872年)1月の戸籍法

              (壬申戸籍)施行により、 前近代

              日本の「家父長制の夫婦別姓」を

              改め、夫婦を同姓とする。

               ● 1872年(明治5年)1月の

              戸籍法(壬申戸籍)施行時、

              厳格な封建社会の家父長制が残

              る当時、結婚により、他家の女性

              に、名誉ある、家名(一族名)を与

              えることには、明治時代初期の

              日本社会では、非常に反対が強

              かったが、 日本近代化政策 (文

              明開化)のため、近代夫婦同姓が、

              次第に認められるようになってい

              った。

 

#fuka

 

○ ぶき  奉行。

             (ぶぎょう)。 《役職名》。

                ■ 奉行(ぶぎょう)とは、 上位者の命

             令を受けて、公務(政務、儀式・行事等)

             を執行する者である。

                  ■ 武家では、奉行(ぶぎょう)とは、上位

             者の命令を受けて、実務を担当する者を

             いい、行政実務の事務官を意味すること

             が多い。

 

○ ぶき  奉行衆。

             (ぶぎょうしゅう)。 《役職名》。

          (= 五奉行)。

       (⇒ 五奉行)。

                ■ 奉行衆(ぶぎょうしゅう)とは、 豊臣

             政権の五奉行(ごぶぎょう)の別名である。

             ● 五奉行は、 増田長盛 (ましたな

             がもり)、 長束正家 (なつかまさいえ)、 

             前田玄以 (まえだげんい)、 石田三成 

             (いしだみつなり)、 浅野長政 (あさの

             ながまさ)の5名である。

             ■ 「新説関ヶ原の戦い」(= 大垣・山中

             の戦い)では、 奉行衆・ 毛利の西軍 

             の中心人物は、 「内府ちがひの条々」を

             公布した、奉行衆3人(増田長盛、長束

             正家、前田玄以) と、 毛利輝元 、大谷

             吉継、石田三成 である。 

                一方、徳川方の東軍 の中心人物は、

             徳川家康である。

 

○ ぶき  奉公人。

            (ぶぎょうにん)。

          《武士の身分・地位》。

                (室町幕府の身分・地位)。

             (⇒ 室町幕府奉公衆)。

            ■ 奉行人 (ぶぎょうにん、奉行衆(ぶ

            ぎょうしゅう)は、 室町幕府の公務(政

            務、儀式・行事等)を執行する実務官僚

            の武士である。

            ■ 室町幕府の奉行人は、 室町幕府

            の第3代将軍・足利義満(よしみつ)に

            よって、 幕府直属軍の奉公衆(ほうこ

            うしゅう)と共に、設けられた組織である。

             ■ 奉公衆 (ほうこうしゅう)とは、室町

            幕府(= 足利幕府)の将軍直属の常備

            軍の武士である。

 

○ ぶき  分金

             (ぶきん)。 《貨幣》。

                ○ (ぶ)単位の金貨 。

                ○ 江戸時代の定位(定額)通

                     常貨幣。  

          (⇒ 江戸時代の日本流通貨幣)。

          (⇒ 日本流通貨幣)。

 

○ ぶき  分銀

             (ぶぎん)。 《貨幣》。

          ○ 分(ぶ)単位の銀貨 。

          ○ 江戸時代の定位(定額)通常

          貨幣。

          (⇒ 江戸時代の日本流通貨幣)。

          (⇒ 日本流通貨幣)。

 

〇 ふく   福。

             (ふく)。 《人名》。

          (= お福、春日局 かすがのつぼね)。

        (⇒ 春日局)。

 

〇 ふく   福井県。

             (ふくいけん)。 《現地域名》。

          (現都道府県)。

                     FUKUI PREFECTURE.

             (≒ 前近代日本の、越前 国 と

          若狭 国 の相当地域)。

                   (⇒ 中部地方)。  

                    (⇒ 都道府県)。

                   (⇒ 前近代日本の

         地域名)。

                    (⇒ 旧地域名)。

             ■ 福井県 (ふくいけん)は、

          前近代日本の、越前 国 と

          若狭 国 の相当地域である。

             ■ 福井県は、 前近代日本

          (古代〜江戸時代)の、

          @ 越前 国 (え ちぜん のくに 、

           越州(えっしゅう、越後国、越中国、

             越前国)の一部福井県 東北部

          の相当地域)、

                      と、 

           A 若狭 国 わかさ のくに、

             若州(じゃくしゅう)、福井県西 南部  

           の相当地域) である。

 

 ふく   福岡県。

             (ふくおかけん)。

          (現都道府県)。 《現地域名》。

                        FUKUOKA PREFECTURE.

             (≒ 前近代日本の、筑前 国と

          筑後 国と豊前 国の相当地域)。

                   (⇒ 九州地方)。  

                   (⇒ 筑前 国と筑後 国

          と豊前 国)。

                      (⇒ 都道府県)。

                      (⇒ 前近代日本の地域名)。

                      (⇒ 旧国(= 令制国))。

                      (⇒ 旧地域名地域名)。

                      (⇒ 日本の地名)。

             ■ 福岡県 (ふくおかけん)は、

          前近代日本の、筑前 国 と 筑

          後国 と 豊前 国の相当地域

          である。

             ■ 福岡県は、 前近代日本

          (古代〜江戸時代)の、

           @ 筑前 国 (ちくぜん のくに、筑州

           (ちくしゅう、筑前国や筑後国)、福岡県

          北西部の相当地域)、 と 

             A 筑後 国 (ちくご のくに、筑州

             (ちくしゅう、筑前国や筑後国)、福岡県

          南部の相当地域)、  と 

          B 豊前 国 (ぶぜ ん のくに、豊州

             ( ほうしゅう、豊前国や豊後国)、福岡県

             北東部の相当地域)  である。

 

 ふく   福島県。

             (ふくしまけん)。

           (現・都道府県)。《現地域名》。 

           ○ 福島県は、現・47

           都道府県の1つである。

           FUKUSHIMA 

                             PREFECTURE.

             ○ 福島県の地域は、

           前近代の陸奥国(奥州、

           陸州)の南端部の相当

           地域である。

             ○ 福島県の地域は、

            概ね前近代日本の、

              陸奥国(むつのくに、奥州(おう

               しゅう)、陸州(りくしゅう、ろくしゅ

           う)、現・青森県・岩手県・宮城県・

                      福島県の相当地域) の南端部

           の相当地域である。

                     (⇒ 陸奥国)。

                      (⇒ 都道府県)。

                      (⇒ 前近代日本の地域名)。

                      (⇒ 旧国(= 令制国))。

                      (⇒ 旧地域名地域名)。

                      (⇒ 日本の地名)。

          ■ 福島県の地域。

             <東北地方。

             <日本本土(本州、四国、九州)

             <日本国

             ● 福島県 (ふくおかけん、英:

             FUKUOKA PREFECTURE)は、

             東北地方に属する。

                      (⇒ 東北地方)。

          ■ 福島県の地域

            (陸奥国の南端部)。

             <陸奥国 (むつのくに、旧国(令制

               国)、現・青森県、岩手県、宮城県、

              福島県の相当地域)。

             <東山道(とうさんどう)・旧広域地方

             <五畿七道(ごきしちどう、日本本土)。

          (⇒ 東山道・旧広域地方)。

                   (⇒ 五畿七道)。

             ■ 福島県(ふくいけん)の地域は、 

             概ね前近代日本(古代〜江戸時代)

              の、陸奥国 (むつのくに、奥州(お

             うしゅう)、陸州(りくしゅう、ろくしゅう)、

             現・青森県・岩手県・宮城県・福島県

             の相当地域) の南端部に相当する

             地域である。

             ■ 福島県の地域は、概ね、前近代

             日本(古代〜江戸時代)の、旧国(令

             制国)の、陸奥国(むつのくに)の南

             端部に相当する地域である。

 

〇 ふく   福島第一原発事故

               (ふくしまだいいちげんばつじこ) 。

           《原発事故》。

 

〇 ふく   福島 正則

             (ふくしま まさのり)。 《人名》。

          (1561年〜1624年)。

          ○ 福島正則は、武将で、

           大名である。

          ○ 福島正則は、豊臣秀吉

           の家臣で、秀吉子飼いの 

           武将である。

 

〇 ぶけ  武家

             (ぶけ)。 《武家》。

          (⇒ 武士)。

          (⇒ 武家政治武家政権)。

          (⇒ 武士道戦国武士道)。

          (⇒ 封建制度)。

          ○ 武家とは、武士階級の

          氏族または武士階級の者

          である。  

             ■ 武家(ぶけ)とは、武士階級の氏

             族または武士階級の者である。

             ■ 武家(ぶけ)とは、 武門(ぶもん、

             武士の家系)であり、 武士の家筋(い

             えすじ、家の血筋、家系)または武士

             の家筋の者である。

             ■ 武家は、前近代日本で、朝廷(天

                         皇家、公家)、寺社(寺家)と共に、日

             本を支配した支配階級である。

             ■ 武家とは、上層武士階級または上

             層武士を意味することが多い。

 

〇 ぶけ  武家政権

             (ぶけせいけん)。 《武家》。

             (12世紀〜19世紀)。

          (⇒ 日本の政権・政府)。

          (⇒ 武家政治)。

          (⇒ 武士武家)。

          (⇒ 武士道戦国武士道)。

          (⇒ 封建制度)。

             ■ 日本の武家政権には、

             平氏政権、 源氏政権

             北条(氏)政権、 足利(氏)政権、 

             織田(氏)政権、 豊臣(氏)政権

             徳川(氏)政権 などがある 。

                           ■ 日本の武家政権の幕府には、

             鎌倉幕府、 室町幕府、  江戸幕府

             がある。

 

 ぶけ  武家政治 

             (ぶけせいじ)。

          《日本の政治形態》。

          (12〜19世紀)。

          (⇒ 日本の政治形態)。

          (⇒ 武家政権)。

          (⇒ 武士武家)。

          (⇒ 武士道戦国武士道)。

          (⇒ 封建制度)。

 

 ふけ  府県制。 

             (ふけんせい)。 《日本の政治》。

          (1871年制定)。

             ■ 府県制は、1871年に制定され、 

             現在の都道府県制の基盤である。

             ■ 1871年(明治4年)7月14日の

             廃藩置県により、府県制が出現した。

             ■ 1871年(明治4年)7月の廃藩

               置県の結果、藩制は、府県制に変わ

             り、当時の日本の261藩は、 3府

             302県となり、その後、1871年(明

             治4年)11月に、3府72県に 再編さ

             れた。

 

#fusa

 

 ぶし  武士

             (ぶし)。 《身分》。

          (= 侍(さむらい)、武者(む しゃ))。

          (10世紀頃〜19世紀)。

          ○ 武士とは、前近代日本で、

          武芸を専業とする職能人また

          は職能集団である。

          ○ 武士とは、前近代日本で、

          武芸を修(おさ)め軍事に携(た

          ずさ)わった階級、即ち、武士

          階級または武士階級の者で

          ある。

          (⇒ 武家)。

          (⇒ 武家政治武家政権)。

          (⇒ 武士道戦国武士道)。

          (⇒ 封建制度)。

             ■ 武士 (ぶし、10世紀 頃〜19世

             )とは、前近代日本で、武芸を専

             業とする職能人または職能集団で

             ある。

             ■ 武士 (ぶし)とは、前近代日本で、

             侍(さむらい)、武者(むしゃ)ともいい、 

             武芸を修(おさ)め軍事に携(たずさ)

             わった階級、即ち、武士階級または

             武士階級の者である。

              ■ 武士の誕生。

             ● 日本の平安時代に、武芸に秀

              でた者が武士となり、 諸国の国衙

              (こくが)、荘園の衛兵となり、中央

              では、官人貴族の衛兵となる。

              ● 日本の平安時代に、軍事貴族、

              在庁 官人(ざいちょうかんじん)、荘

              官(しょうかん、荘園 の管理者)など

              から、武芸に秀でた者が武士となり、

              武士が起こる。

              ● 軍事貴族出身の武士の例として 

              は、 源経基 (みなもとのつねもと、

              清和源氏の祖)、 平高望 (たいら

              のたかもち、桓武平氏の祖)などが

              いる。

             ■ 武士道とは、 武士階級の間で発

             達した道徳律である。 

             ■ 武士道は、 尚武 (しょうぶ、武

             事・軍事を尊(とうと)ぶこと)、名誉、

             忠誠などを重んじる。

             ■ 武士道では、 封建制度に組み込

             まれた、主君の武士は、家臣を慈(い

             つく)しみ、家臣の武士は、主君に忠

             実に仕(つか)える姿勢が求められた。

             ■ 封建制度 (ほうけんせいど)とは、

             主君が、従者(家来、家臣)へ富(禄

             (ろく);報酬、領地等)、名誉、権力を

             供与し、従者(家来、家臣)に献身を求

             (もと)める社会制度である。

 

 ぶし  武士政権の始まり。

               (ぶしせいけんのはじまり)。 《武家》。

                         (⇒ 日本歴史の驚異の

               出来事ー頼朝と政子)。

            ■ 武士政権の始まりは、 伊勢平氏

            政権、河内源氏政権である。

            ■ 武士政権の本格的な始まりは、

            武士単独独立政権の河内源氏政権

            の鎌倉幕府の始まりである。

 

 ふじ  藤田 五郎。

             (ふじた ごろう)。 《人名》。

             (= 斎藤 一(さいとうはじめ)

          山口二郎)。

        (⇒ 新選組)。

             ■  藤田 五郎 (斎藤 一、山口二郎)の、

             幕末の氏名は、斎藤 一、明治期の氏 名

             は、山口二郎、藤田五郎 である。

                     ■  藤田 五郎 (斎藤 一、山口二郎)は、 

             幕末、新選組隊員・幹部として、京(都)

              の治安を保ち、会津戦争で活躍した。

                       ■  藤田 五郎 (斎藤 一、山口二郎)は、 

             明治期に、明治政府(近代日本政府)の

             警官であった。

             ● 藤田 五郎 (斎藤 一、山口二郎)は、 

             1877年(明治10年)の西南戦争では、

                明治政府(近代日本政府)軍警察部隊・

             警官として、活躍した。

 

 ぶし  武士道。

             (ぶしどう)。 《思想》。

              BUSHIDO         

          (⇒ 戦国武士道)。

          (⇒ 武士武家)。

          (⇒ 武家政治武家政権)。

          (⇒ 封建制度)。

            (⇒ 日本歴史の驚異の

                出来事ー武士道)。

             ■ 武士道とは、 武士階級の間で発

             達した道徳律である。 

             ■ 武士道は、 尚武 (しょうぶ、武

             事・軍事を尊(とうと)ぶこと)、名誉、

             忠誠などを重んじる。

             ■ 武士道 (ぶし どう)とは、武士の

             生き方、心がまえである。

             ■ 前近代日本の、武士道では、 「命 

             を惜しむな、名を惜しめ」 (いのちを

             おしむな、なをおしめ)と、 名誉のた 

             めに死ぬこと、勇ましく戦って死に名

             を残すことが、武士の誉(ほま)れとさ

             れる。 

             ■ 武士道では、 封建制度に組み込

             まれた、主君の武士は、家臣を慈(い

             つく)しみ、家臣の武士は、主君に忠

             実に仕(つか)える姿勢が求められた。

             ■ 封建制度 (ほうけんせいど)とは、

             主君が、従者(家来、家臣)へ富(禄

             (ろく);報酬、領地等)、名誉、権力を

             供与し、従者(家来、家臣)に献身を求

             (もと)める社会制度である。

 

 ふし   伏見城

              (ふしみじょう)。 《城》。

          ○ 伏見城には、

           (F1) 豊臣秀吉築城・

                 指月(しげつ)伏見城、 

                 (F2) 豊臣秀吉築城・

               前期・木幡 山(こはたや

                          ま)伏見城、 

           (F3) 徳川家康築城・

            後期・木幡山伏見城

          の3つの城がある。

            □ 豊臣氏 画像アルバム 

             No.1

              ■ 伏見城 (ふしみじょう)は、

             1592年(文禄元年)から1625年

             (寛永2年)まで、 京(きょう、京都)

              南部の伏見(現・京都市伏見区)

             の2カ所(指月、木幡山)にあった

             城である。

             ■ (F1) 指月伏見城跡地は、

             JR桃山駅南側の市街地の中に

             あり、団地などが建っている。

             ■ (F2,3) 木幡山伏見城跡

             地には、 伏見桃山陵(明治天皇

             陵) と 伏見桃山城運動公園

             などがある。

             ● 木幡山伏見城の本丸等の

             城主郭跡地には、 伏見桃山陵

             (明治天皇陵)がある。

             ● 木幡山伏見城の花畑曲輪跡

             地には、伏見桃山城運動公園

             内に現在ある模擬天守等が、

             建てられている。

             ■ (F1) 豊臣秀吉築指月伏見

               (しげつふしみじょう)は、

             1592年に着工 し、1594年−

             1596年使用・存続し、

             1596年に地震で倒壊する。

             (F2) 豊臣秀吉築木幡山伏見城 

             (こはたやまふしみじょう)は、

             1596年着工 し、1597年−16

             00年使用・存続し、1600年

             兵火で焼失する。

             (F3) 徳川家康築木幡山伏見城 

             (こはたやまふしみじょう)は、

             1600年着工し、1601年ー1625

             年使用・存続し、1625年に廃城、

             破却される。

             ■ (F1,2) 豊臣秀吉築・指月伏

             見城と豊臣秀吉築・木幡山伏見城

             は、 豊臣秀吉によって築城され、 

             秀吉の政務居城となり、秀吉の政

             治の中枢となった城である。

             ■ 豊臣秀吉は、 (F2) 豊臣秀

             吉築・前 期・木幡山伏見城 (15

             96年着工、1597年ー1600年

             使用・存続) で、1598年(慶長

             3年)8月18日に死去する。

             ■ 安土桃山時代の桃山時代(約

             20年間)の桃山は、 (F2) 豊臣

             秀吉が築いた木幡山(こはたやま)

             伏見城の跡 地(現・桃山丘陵)を、

             後世に、桃山 (ももやま)と呼んだ

             ことに由来する。

             ● (F2,3) 木幡山伏見城の廃

             城後(1625年以後)、木幡山伏

             見城の跡地一帯(現・桃山丘陵)

             が開墾され、 桃の木が植えられ、

             桃山(ももやま)と呼ばれた。 

                そのため、過去に存在した

             (F2,3) 木幡山伏見城は、後世

             に、伏見城の俗名、通称名として、

             桃山城(ももやまじょう)、伏見桃

             山城とも呼ばれるようになった。

              ■ (F1) 指月伏見城 と、

                (F2,3) 木幡山伏見城。

              ● 伏見城には、次の3つがある。 

             (F1) 豊臣秀吉築指月 伏見城 

             (しげつふしみじょう、1592年

              着工、1594年−1596年使用・

             存続) と、 

             (F2,3) 木幡山伏見城 (こはた

             やまふしみじょう)の、

             (F2) 豊臣秀吉築城 ・前期・木幡

             山伏見城 1596年着工、1597

             年−1600年使用・存続) や、

             (F3) 徳川家康築・後期・木幡山

             伏見城 (1600年着工、1601年

             ー1625年使用・存続)。

              ■ (F1、2) 豊臣伏見城 と 

               (F3) 徳川伏見城。

             ● 伏見城には、 伏見城には、

             次の3つがある。

             (F1、2) 豊臣伏見城の、

             (F1) 豊臣秀吉築指月伏見城 

             (しげつふしみじょう、1592年

             着工、1594年− 1596年使用・

             存続) や、

             (F2) 豊臣秀吉築城 ・前期・木

             幡山伏見城 1596年着工、

             1597年−1600年使用・存続) 

             と、

             (F3) 徳川伏見城の、

             (F3) 徳川家康築・後期・木幡山

             伏見城 (1600年着工、1601年

             ー1625年使用・存続)。

             ■ 伏見城の歩み。

             ● (F1) 第1番目の伏見城であ

             る指月伏見城 (1592年築城開

             始、1594年−1596年使用・存

             続)は、 豊臣秀吉が関白職を甥

             の豊臣秀次(ひでつぐ)に譲り(政

             治の実権は秀吉が握り)、 秀吉

             の隠居後の住まいとするため、

             秀吉によって、1592年(天正20

             年)8月に、伏見の指月(しげつ)

             で、建築を開始し、1594年(文禄

             3年)から使用し、その後、1596

             年(文禄5年)閏7月の慶長伏見地

             震により倒壊する。 

             ● 次に、(F2) 第2番目の伏見

             城である、豊臣秀吉築木幡山伏見

             城 (1596年築城開始、1597年

             ー1600年使用・存続)は、 

             秀吉によって、伏見・木幡山(こは

             たやま、現・桃山丘陵)に、1596

             年(文禄5年)閏7月に、建築を開

             始し1597年(慶長2年)5月から

             使用し、その後、1600年(慶長5

             年)の伏見城の戦い(1600年7月

             18日〜8月1日)で、攻防戦で落城、

             焼失する。

             ● 次に、(F3) 第3番目の伏見

             城である、徳川家康築・木幡山伏

             見城 (1600年築城開始、1601

             年ー1625年使用・存続)は、

             家康によって、再び同じ地(木幡

             山)の、伏見・木幡山(現・桃山丘

             陵)に1600年(慶長5年)に築城

             を開始し、1601年(慶長6年)3月

             から使用され、その後、幕命によっ

             て、1625年(寛永2年)に、破却が

             完了する。

             ■ 豊臣秀吉は、(F1、2) 秀吉築

             伏見城で、(F1) 秀吉築指月伏見

             城で、1593年から1596年まで、   

             (F2) 秀吉築木幡山 伏見城で、

             1597年から1598年まで、豊臣政

             権の政務を行う。

             ■ 徳川家康は、

             (F2、3) 木幡山伏見城で、

             (F2) 秀吉築木幡山伏見城で

             1598年から1599年まで、 

             (F3) 家康築木幡山伏見城で

             1601年から1603年まで、

             豊臣政権の政務をとり 

             (豊臣氏大老として)、

             (F3) 家康築木幡山伏見城で

             1603年から1607年まで、

             徳川政権(江戸幕府)の政務を

             とる。

             ■ 徳川家康は、秀吉の遺命に

             より、豊臣氏大老として、

             (F2) 秀吉築・木幡山伏見城

             (1596年着工、1597年−

             1600年使用・存続) で、

             1598年(慶長3年)8月から、

             1599年(慶長4年)から9月まで、

             豊臣政権の政務をとる。 

             ● その後、1599年(慶長4年)

             9月に、家康は、豊臣大坂城・西

             の丸に移り、豊臣氏大老として、

             豊臣政権の政務をとる。 

             これ以後、伏見の諸大名のほと

             んどの大名屋敷が大坂に移って

             しまい、伏見城の城下町は荒廃

             する。

             ● 家康は、(F2、3) 木幡山

             伏見城を足がかりに、天下取り

             に突き進んだ。 

             ● 1598年(慶長3年)から徳川

             氏が占領する (F2) 秀吉築・

             木幡山伏見城は、 1600年

             (慶長5年)の関ヶ原の戦いの前

             哨戦の「伏見城の戦い」で、徳川

             氏の伏見城・城代の鳥居元忠(と

             りいもとただ)が討死し、1600年

             (慶長5年)8月1日に落城する。 

             ● 家康は、1601年(慶長6年)

             から1607年(慶長12年)まで、

             (F3)  家康築・木幡山伏見城を

             居城し、その後、家康は、新築し

             た駿府城に移る。

             ● 1603年(慶長8年)に、 

             (F3)  家康築・木幡山伏見城

             (1600年着工、1601年ー

             1625年使用・存続)で、

             家康は、征夷大将軍の宣下(せ

             んげ)を受ける。

             ● (F3) 家康築・木幡山伏見  

             城 (1600年着工、1601年ー

             1625年使用・存続)は、 

             徳川氏の京都の二条城と共に、

             徳川氏の西国における拠点と

             なった。 

             ● 大坂の陣後(1615年以後)は、

             京(京都)の二条城が将軍参内(さ

             んだい)時の宿舎として、伏見城が

             居館用として、利用された。

             ● しかし、幕命によって、(F3) 

             家康築・木幡山伏見城は、1625年 

             (寛永2年)に、破却が完了する。

             ■ 現在の木幡山伏見城の跡地。

             ● (F2、3) 木幡山伏見城の跡

             地には、現在、明治天皇陵の「伏

             見桃山陵」 と、 旧近鉄遊園地の

             「伏見桃山城運動公園」などがある。

             ● 旧近鉄遊園地の「伏見桃山城

             運動公園」には、現在、(F2、3) 

             木幡山伏見城の、模擬大天守、

             模擬小天守、模擬大手門がある。

             ■ 現在の木幡山伏見城の跡地。

             ● (F2、3) 木幡山伏見城の本

             丸跡などの主郭部分は、明治天

             皇の陵墓の明治天皇陵の「伏見

             桃山陵」になっている。 

             ● また、(F2、3) 木幡山伏見

             城の花畑曲輪跡には、1964年

             (昭和39年)に、民間企業の近鉄

             により遊園地「伏見桃山城キャッ

             スルランド」が建設され、林原美

             術館所蔵の木幡山伏見城の

             「洛中洛外図」に描かれた伏見城

             を参考にして、園内に、

             5重6階の模擬大天守、3重4階の

             模擬小天守、模擬大手門が造ら

             れた。  しかし、2003年(平成

             15年)に、近鉄のリストラの一環

             で、閉園した。 その後、建物は、

             京都市に譲られ、「伏見桃山城運

             動公園」として整備される。

 

 ふし   富士見櫓。

              (ふじみやぐら)。 《城の櫓》。

              ■ 富士見櫓  ( ふじみやぐら)は、 

             江戸城・本丸(ほんまる)近くにあ

             る櫓(やぐら)であり、 1657年

             (明暦(めいれき)3年)の明暦の

             大火で焼失した江戸城天守の再

             建中止後、天守に代わって、江戸

             時代(1603年ー1868年)を通じ

             て、江戸城の象徴となる。

               

 ぶし  武州

            (ぶしゅう)。 《旧地域名》。

            = 武蔵国(むさしのくに))。

         (≒ 現在の、東京都本土と埼玉県

          の相当地域)。

         (律令制定後・古代・中世・近世

          日本・旧地域名の旧国(令制国)

          の別称)。

             BUSHU AREA.

                   (⇒ 武蔵国)。 

                      (⇒ 都道府県)。

                      (⇒ 前近代日本の地域名)。

                      (⇒ 旧国(= 令制国))。

                      (⇒ 旧地域名地域名)。

                      (⇒ 日本の地名)。

             ■ 武州 (ぶしゅう)は、 律令制定後・古

             代・中世・近世日本・旧地域名の、旧国名

             (令制国)正式名の、武蔵 国 (むさし の

             くに) の別称である。

                          ● 武州(= 武蔵国)は、 東海道(とうかい

             どう)・広域地方に属し、 現・関東地方の、

             現・東京都本土と埼玉県に相当する領域 で

             ある。

 

 ぶし  分朱金銀貨

             (ぶしゅきんぎんか)。 (= 分朱金銀)。

          《日本流通貨幣》。

                    (江戸時代の日本流通貨幣)。

             THE GOLD AND SILVER COINS 

             OF THE BU AND SHU UNITS.

          (⇒ 単位定位(定額)通常貨幣) 。

          (⇒ 単位定位(定額)通常貨幣) 。

           (江戸時代の日本流通貨幣)。

           (日本流通貨幣)。 

             ● 江戸時代の、定位(定額)通常貨幣

             長方形「分朱金銀貨」

             ● 二分金、一分金、二朱金、一朱金、 

              一分銀、二朱銀、一朱銀、の7種類。

             ● 江戸時代の、江戸幕府鋳造(発行)の

             定位(定額)貨幣・3グループ (両金貨

             (りょうきんか)、 分朱金銀貨(ぶしゅき

             んぎんか)、 文銭銅・鉄貨(もんせん・ど

             うてっか) の1グループ。

              ● 一分金(いちぶきん)(11種)は、一両

             小判金)(11種) 、一文銭銅・鉄貨(1種)

             と共に、江戸時代の定位(定額)通常貨幣

             の中心通貨として、使用された。 

              ● 江戸時代の、江戸幕府鋳造(発行)の

             定位(定額) 通常貨幣・13種類 (五両判

             (金)、一両小判(金)、二分金、一分金、

             二朱金、一朱金、一分銀、二朱銀、一朱銀、

             百文銭銅貨(= 天保銭)、十文銭銅貨、

             四文銭銅・鉄貨、一文銭銅・鉄貨) のうち

             の7種類。

          ■ 江戸時代の分・朱(ぶ・しゅ)

           単位の金銀貨。

             ■ 分朱金銀貨 (= 分朱金銀)。

             <江戸時代・定位(定額)通常貨幣。

             <江戸時代・日本流通貨幣。

             <近世・日本流通貨幣。

             <日本流通貨幣。

 

 ふじ  武将。

             (ぶしょう)。  《武士》。

             MILITARY COMMANDER(S).

             ● 武将 (ぶしょう)とは、 軍隊を率い、

             指揮する武士である。

 

 ふじ   藤原京と藤原宮 

                          (ふじわらきょうとふじわらきゅう)。 

          《都城・京と宮城》。

          (= 宮城の藤原宮と、藤原宮

           の都市・藤原京)

             FUJIWARA-KYO CAPITAL 

             AND FUJIWARA-KYU 

             PALACE.

       (⇒ 藤原京

          □ 藤原京 画像アルバム

             No.1 

           □ 日本古都ガイドブック

           □ 日本古都 関連年代順

                        出来事ブック。  

            (⇒ 天皇天皇家朝廷 

              (⇒ 古都(こと)首都

                           (みやこ))。

              (⇒ 都城(とじょう)(きょう))。

              (⇒ 都城宮城(きゅう

             じょう)内裏(だいり))。

              (⇒ 都城飛鳥京

             藤原京平城京

                  長岡京平安京)。

              (⇒ 都城内の

                      宮城(= 皇城、皇居)

             飛鳥京と 飛鳥諸宮

           藤原京と藤原宮

                平城京平城宮

           長岡京長岡宮

            平安京平安宮大内裏

           (だいだいり))。

 

          ○ 京>宮城>内裏。

          ○ 藤原京= 藤原宮の都市

                    ○ 藤原京= 奈良県橿原(かしは

             ら)市付近の、天皇 の住居、宮

          殿があった都市。

             ○ 藤原宮= 藤原京の宮城

          (きゅうじょう、= 天皇の宮殿 )。

             ○ 藤原宮= 奈良県橿原(かしは

             ら)市付近にあった宮城(= 天皇

          の宮殿)。

 

          ■ 藤原宮。 

             ■ 藤原宮 (ふじわらきゅう)とは、 

             694年から710年まで、 奈良県橿原

             市(かしはらし)付近にあった宮城(きゅ

             うじょう、= 天皇の宮殿)である。

             ● 藤原京 (ふじわらきょう)は、 宮城 

             の藤原宮 (ふじわらきゅう)を中心とす

             る都市である。

 

             ■ 日本の主要な宮城

             (= 皇城、皇居)。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

             ■ 日本の主要宮城。

             ● 日本の主要な宮城(きゅうじょ

              う、= 皇城、皇居)には、

             (1) 飛鳥諸宮 (あすかしょきゅ

              う、= 飛鳥京の諸宮、飛鳥地域

              の諸宮城、

              奈良県明日香(あすか)村付近、

              6世紀頃ー694年)、 

             (2) 藤原宮(ふじわらきゅう、

              = 藤原京の宮城、

              奈良県橿原市(かしはらし)付近、

              694年ー710年)、 

             (3) 平城宮 (へいじょうきゅう、

              = 平城京の宮城、

              奈良県奈良市(ならし)付近、

              710年ー740年・745年ー

              784年)、 

             (4) 長岡宮 (ながおかきゅう、

              = 長岡京の宮城、

              京都府向日市(むこうし)付近、

              784年ー794年)、 

             (5) 平安宮 (へいあんきゅう、

              = 平安京の宮城)、

              京都府京都市付近、

              本来の平安宮は平安時代末期

              まで、京都府京都市上京区(か  

              みぎょうく)付近、

              794年ー1177年頃)、 

             などがある。

 

 ふじ   藤原京

              (ふじわらきょう)。《都城・京》。

              (694年ー710年)。

             FUJIWARA-KYO CAPITAL. 

             THE ANCIENT CAPITAL 

             OF FUJIWARA.

          □ 藤原京 画像アルバム

             No.1 

           □ 日本古都ガイドブック

           □ 日本古都 関連年代順

                        出来事ブック。  

            (⇒ 天皇天皇家朝廷 

              (⇒ 古都(こと)首都

                           (みやこ))。

              (⇒ 都城(とじょう)(きょう))。

              (⇒ 都城宮城(きゅう

             じょう)内裏(だいり))。

              (⇒ 都城飛鳥京

             藤原京平城京

                  長岡京平安京)。

              (⇒ 都城内の

                      宮城(= 皇城、皇居)

             飛鳥京と 飛鳥諸宮

            藤原京と藤原宮

                 平城京平城宮

           長岡京長岡宮

            平安京平安宮大内裏

           (だいだいり))。

            (⇒ 都城内の、

                       宮城(= 皇城、皇居)内の、

            内裏(だいり)

               大極殿(だいごくでん)

            朝堂院(ちょうどういん)、

            曹司(ぞうし))。

 

          ○ 都城・京>宮城>内裏。

          ○ 藤原京= 藤原宮の都市

                    ○ 藤原京= 奈良県橿原(かしは

             ら)市付近の、天皇 の住居、宮

          殿があった都市。

             ○ 藤原宮= 藤原京の宮城

          (きゅうじょう、= 天皇の宮殿 )。

             ○ 藤原宮= 奈良県橿原(かしは

             ら)市付近にあった宮城(= 天皇

          の宮殿)。

 

          ■ 藤原京。 

             ■ 藤原京 (ふじわらきょう)は、 藤原

             宮の都市である。

             ■ 藤原京 (ふじわらきょう)は、694 年

             から710年までの間、飛鳥・白鳳時代に、

             奈良県橿原(かしはら)市付近の、天皇

             の住居、天皇の宮殿(= 宮城)があった

             都市である。 

 

          ■ 藤原宮。 

             ■ 藤原宮 (ふじわらきゅう)は、 藤原

             京の宮城 (きゅうじょう、= 天皇の宮殿)

             である。

             ■ 藤原宮 (ふじわらきゅう)は、694 年

             から710年までの間、飛鳥・白鳳時代に、

             奈良県橿原(かしはら)市付近にあった、

             宮城(= 天皇の宮殿)である。

 

           ■ 首都が、飛鳥京の飛

           鳥浄御原宮から藤原京

           に移動し、次に、藤原京

           から平城京に移動する。

              ■ 694年に、持統(じとう)天皇

              (女性の天皇)は、 飛鳥京の飛 

              鳥浄御原宮 (あすかきよみはら

              きゅう、都:672年ー694年、奈

              良県明日香(あすか)村付近)か

              ら、 藤原京(都: 694年ー710

              年、奈良県橿原(かしはら)市付

             近)に遷都し、 710年(和銅3年)

              に、 元明(げんめい)天皇(女性

              の天皇)は、 藤原京から、平城

             京 (へいじょうきょう、都: 710年

             ー740年・745年ー784年、奈 良

             県奈良市付近)に遷都する。

 

          ■ 都城や京。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

              ■ 日本では、 都城や京とは、

             宮城(きゅうじょう、皇城、皇居)

             を中心とする都市である。

              ■ 日本では、 都城や京とは、

             天皇の住居(御殿)の内廷 と朝

             廷(官庁)施設の外朝を合わせ

             た、宮城(皇城、皇居)を中心と

             する都市である。

             ● 日本では、都城(とじょう)

             や京(きょう)とは、 

             天皇の住居 (御殿(ごてん))で

             ある内廷(ないてい) と 

             朝廷(官庁)施設である外朝(が

             いちょう)を合わせた

             宮城 (きゅうじょう、皇城(こうじ

             ょう、おうじょう)、皇居)を中心と

             する都市である。

              ■ 日本の都城や京には、

             飛鳥京、

             藤原京、

             平城京、

             長岡京、

             平安京

             などがある。

 

          ■ 宮城(= 皇城、皇居)。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

              ■ 日本では、宮城(きゅうじょう) 

              とは、 天皇の住居(御殿)の内

             廷 と その周囲の朝廷(官庁)

             施設の外朝を合わせた皇城(皇

             居)である。

             ● 日本では、 宮城(きゅうじ

             ょう)は、 天皇の住居(御殿

             (ごてん))である内廷(ないてい) 

             と その周囲の朝廷(官庁)施設

             である外朝(がいちょう)を合わせ

             た皇城(こうじょう、おうじょう)、

             皇居)である。

              ■ 日本の宮城(= 皇城、皇居)

             には、 

             飛鳥京内の飛鳥諸宮、

             藤原京内の藤原宮、

             平城京内の平城宮、

             長岡京内の長岡宮、

             平安京内の平安宮(大内裏)、

             などがある。

 

          ■ 宮城(= 皇城、皇居)。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

             ■ 宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居)は、古代日本の時代に、

             藤原宮、平城宮、長岡宮、平安宮

             では、 

             内裏(だいり)、

             大極殿(だいごくでん)、

             朝堂院(ちょうどういん)、

             曹司(ぞうし)、

             などで占められていた。

             ● 宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居)は、古代日本の時代では、

             藤原宮、平城宮、長岡宮、平安宮

             では、 

             内裏(だいり、=天皇の住居、天

             皇御所)、 

             大極殿 (だいごくでん、国家儀式

             等を行う建物)、 

             朝堂院 (ちょうどういん、国家政 

             務等を行う建物)、 

             曹司(ぞうし、官人が実務をとる

             中央官庁、官衛(かんが、諸官庁)) 

             などから構成されていた。

             ■ 内裏。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

             ■ 内裏 (だいり)とは、 

             前近代日本の、天皇の住居、居所、

             御殿(ごてん)をいう。

 

             ■ 日本の主要な都城・京

             (= 皇居都市)。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

              ■ 主要な都城・京(= 皇居都市)

             の移動。

               飛鳥京⇒ 藤原京⇒ 

              平城京(奈良の都)⇒ 長岡京⇒ 

              平安京(京都、京の都)⇒ 東京。

             ■ 日本の主要な都城・

              (= 皇居都市)の変遷。

             ● 古代日本中期から近世日本

              までの、日本の主要な、宮城

              (きゅうじょう、= 皇城、皇居)

              があった都市 の京とその変遷は、

             (1) 飛鳥京 (あすかきょう、

              奈良県明日香(あすか)村付近、

              7世紀頃から694年まで)、 

             (2) 藤原京 (ふじわらきょう、

              奈良県橿原(かしはら)市付近、

              694年ー710年)、 

             (3) 平城京 (へいじょうきょう、

              奈良県奈良市付近、

              710年ー740年、

              745年ー784年)、 

             (4) 長岡京 (ながおかきょう、

              京都府向日(むこう)市・長岡京

              (ながおかきょう)市・京都市南

              部付近、

              784年ー794年)、

             (5) 平安京 (へいあんきょう、

              別名:京の都(きょうのみやこ)、

              京都、

              京都府京都市付近、

              794年ー1869年)、

             の順序で、概(おおむ)ね、移動

             する。

 

 ふじ  藤原氏

             (ふじわらし、ふじわらうじ)。 

             (= 藤原家、旧中臣氏)。 

           《公家 の氏族》。

          (7世紀頃ー19世紀)。

             □ 藤原氏 画像アルバム 

             No.1

           ○ 公家としての藤原氏。 

           ○ 公家の藤原氏は、公家の

           氏族で、貴族、摂関家である。

           ○ 飛鳥白鳳時代〜江戸時代

          の、公家の藤原氏。

                    □ 日本歴史で活躍した氏族:

          天皇家藤原氏伊勢平氏

          河内源氏鎌倉北条氏

          足利氏上杉氏武田氏

          井伊氏小田原北条氏

          真田氏織田氏豊臣氏

          徳川氏

              ■ 公家の藤原氏 (ふじわらし、ふじ

             わらうじ、 = 藤原家)は、公家の氏族

              であり、7世紀頃から 19世紀まで存

             在した公家、貴族、摂関家である。

 

 ふじ  藤原氏・摂関家 

             (ふじわらし・せっかんけ)。《摂関家》。

          (= 摂関家、五摂家)。

       (⇒ 摂関家)。

          ○ 平安時代中頃〜江戸時代

          後期。 

          ○ 鎌倉時代に五摂家(ごせっけ)

          に分かれる。

 

 ふじ  藤原政権

             (ふじわらせいけん)。

          《日本の政権・政府》。

          (= 藤原氏政権、摂関政治政権)。

          (977年頃ー1086年頃)。

          (⇒ 公家政権)。

          (⇒ 日本の政権・政府)。

          (⇒ 摂関政治)。

 

 ふじ  藤原 家成

             (ふじわらの いえなり)。 《人名》。

          ○ 平安末期の公家。

          ○ 鳥羽上皇の第一寵臣。

             ○ 平清盛の継母(ままはは)・藤

          原宗子(むねこ、池禅尼)の従兄

          弟(いとこ))。

 

 ふじ  藤原 鎌足

             (ふじわらの かまたり)。 《人名》。

          (= 中臣鎌足 なかとみのかまたり)。

          (614〜669年)。 

          ○ 藤原氏の祖。

 

 ふじ  藤原 清衡。

             (ふじわらの きよひら)。 《人名》。

          (1056年〜1128年)。

          ○ 奥州藤原氏 (おうしょうふじわ

             らし)初代当主。 

             (⇒ 奥州藤原氏)。

 

 ふじ  藤原俊成。

             (ふじわらのしゅんぜい)。 《人名》。

             ○ 藤原定家(ふじわらのていか)

                     の父。 

          (⇒ 藤原定家)。

 

 ふじ  藤原 彰子

             (ふじわらのしょうし)。 《人名》。

          ○ 藤原道長の娘。         

          ○ 一条天皇の正室夫人。

          ○ 朝廷の、宮中の後宮で、紫式

          部が仕えた后(きさき)

          ○ 後一条(ごいちじょう)天皇、後朱

             (ごすざく)天皇の生母。

            (⇒ 一条天皇藤原道長紫式部

          源氏物語)。

 

 ふじ  藤原 璋子

             (ふじわらのしょうし、ふじわらのたまこ)。

             《人名》。

                    (= 待賢門院 たいけんもんいん

          待賢門院璋子)。

          ○ 鳥羽上皇の正室夫人(中宮)。 

          ○ 崇徳上皇(顕仁(あきひと)親王)、

          後白河上皇(雅仁(まさひと)親王)

          の生母。

             ■ 藤原璋子 (ふじわらの しょうし 、ふじわ

             らのたまこ )は、 待賢門院 (たいけんもん

             いん)、待賢門院璋子 とも称する。

             ■ 藤原璋子(待賢門院)は、 鳥羽上皇の正

             室夫人(中宮)であり、 崇徳上皇 (顕仁(あき

             ひと)親王)、後白河上皇(雅仁(まさひと) 親

             王)の生母である。

 

 ふじ  藤原 忠清。

             (ふじわらの ただきよ)。 《人名》。

          (= 伊藤忠清)。 

          (平清盛の有力家臣)。

          (⇒ 平 清盛)。

 

 ふじ  藤原 忠実 

             (ふじわらの ただざね)。 《人名》。

          ○ 藤原摂関家の長。

          ○ 保元の乱(ほうげんのらん)を引き

           起こす長男・藤原忠通と次男・藤

          原頼長の2人、の父。

          (⇒ 保元の乱

 

 ふじ  藤原 忠通 

             (ふじわらの ただみち)。 《人名》。

                    (⇒ 保元の乱

          ○ 藤原 頼長の兄。

          ○ 後白河天皇と協力して、保元

           の乱(ほうげんのらん)を起こし、勝

          利を得る。 

 

 ふじ  藤原 経清。

             (ふじわらの つねきよ)。 《人名》。

            (⇒ 奥州藤原氏)。

          ○ 奥州藤原氏(おうしょうふじわらし )

          初代当主・藤原清衡の父。 

 

〇 ふじ  藤原 経子。

             (ふじわらの つねこ・けいし)。 《人名》。

          (⇒ 平 重盛 たいらのしげもり)。

          ○ 平清盛嫡男・平重盛の正室

          夫人。

 

 ふじ  藤原 定家

             (ふじわらの ていか、ふじわらのさだいえ)。

          《人名》。

             (1162〜1241年)。 

          ○ 歌人(かじん)

          ○ 藤原家定の孫の代に、 「藤

          原為氏の二条家」、 「藤原為教

          の京極家」、 「藤原為相(ためす

          け)の冷泉家(れいぜいけ)」、の歌

          学の3宗家が樹立される。

 

 ふじ  藤原 定子

             (ふじわらの ていし)。 《人名》。

          ○ 藤原道隆の娘。

          ○ 一条天皇の正室夫人。

          ○ 朝廷の宮中で、清少納言が

          仕えた后(きさき)

             (⇒ 一条天皇清少納言

          枕草子)。

 

 ふじ  藤原 得子

             (ふじわらの とくし・なりこ)。 《人名》。

                    (= 美福門院 びふくもんいん

          美福門院得子)。

          ○ 鳥羽上皇の正室夫人(女御)。

          ○ 近衛(このえ)天皇 (体仁(なりひ

             と)親王) の生母。

          ○ 二条天皇の養母。

 

 ふじ  藤原 仲麻呂

             (ふじわらの なかまろ)。 《人名》。

          (706〜764年)。

          ○ 藤原不比等の孫。

 

 ふじ  藤原 信頼 

             (ふじわらの のぶより)。 《人名》。

          ○ 後白河上皇の院近臣 (いんの

          きんしん、上皇の重臣)。

          ○ 源義朝(みなもとのよしとも)を従え

           て、平治の乱(へいじのらん)を起こし、

          敗北する。

          (⇒ 平治の乱)。

 

 ふじ  藤原 秀衡。

             (ふじわらの ひでひら) 。 《人名》。

          (生年不詳〜1187年)。

          ○ 奥州藤原氏(おうしょうふじわらし)・

             第3代目当主。 

          (⇒ 奥州藤原氏 )。

 

 ふじ  藤原 不比等

             (ふじわらの ふひと)。 《人名》。

          (659年〜720年)。

          ○ 藤原(中臣)鎌足の子。

          ○ 律令制度を確立させた

          功績者。

 

 ふじ  藤原 道隆。

             (ふじわらの みちたか)。 《人名》。

          ○ 藤原道長の兄、政敵。

          ○ 一条天皇正室夫人・藤原

          定子の父。

             (⇒ 藤原定子)。

 

 ふじ  藤原 道長 

            (ふじわらの みちなが)。   《人名》。

            (966 年ー1027年)。

          FUJIWARA No Michinaga.

          ○ 摂関政治で日本を実質的に

          支配し、栄華を極めた貴族。

             ■ 藤原 道長 (ふじわらの みちなが、生

             没年:966年ー1027年) は、 摂関政治

              で日本を実質的に支配し、栄華を極めた貴

             族である。

 

 ふじ  藤原 通憲 

             (ふじわらの みちのり)。 《人名》。

          (= 信西(しんぜい)

             高階 道憲 (たかしなのみちのり))。

                   (⇒ 藤原 通憲平治の乱)。

          ○ 後白河上皇の院近臣(いんのき

             んしん、上皇の重臣)。

          ○ 後白河上皇の乳母(うば)の夫。

          ○ 平治の乱(へいじのらん)で戦死。

          平清盛を従えて、平治の乱(へいじ

            のらん)を戦う。 乱の中で、死去。

          ○ 三条公教(さんじょうきんのり)と共

           に、平治の乱(へいじのらん)で戦う

          が、戦争中追い詰められ自害。

 

 ふじ  藤原 宗子 

             (ふじわらの むねこ)。 《人名》。

          (= 池禅尼(いけのぜんに))。

             ○ 平清盛の継母(ままはは)

             ○ 平清盛の父・平忠盛(ただもり)

          の、正室夫人。

             ○ 貴族の藤原宗兼の娘。

 

 ふじ  藤原 領子。

             (ふじわらの むねこ)。 《人名》。

       (⇒ 平 時忠)。

             ○ 平清盛正室夫人・平時子

          の弟・平時忠の正室夫人。

             ○ 平時子の義妹。

 

 ふじ  藤原 基衡。

             (ふじわらの もとひら)。 《人名》。

          (1090年?〜1158年?)。

             (⇒ 奥州藤原氏 )。

          ○ 奥州藤原氏(おうしょうふじわ

             らし)2代目当主。 

 

 ふじ  藤原 泰衡。

             (ふじわらの やすひら)。 《人名》。

             (1155 ー1189年)。

             (⇒ 奥州藤原氏)。

             ○ 奥州藤原氏(おうしょうふじわ

             らし)4代目当主。 

             ○ 源義経を殺害する。

 

 ふじ  藤原 頼経。 

             (ふじわらの よりつね)。 《人名》。

          (⇒ 三寅(みとら))。

          (⇒ 鎌倉幕府、三寅(みとら))。

             ■ 藤原頼経(ふじわらの よりつね、

             九条頼経、生没年:1218年〜12

             56年)は、

             幼名を三寅(みとら)といい、

             鎌倉幕府の第4代将軍(将軍在位:

             1226年〜1244年)である。 

             ■ 藤原頼経(幼名は三寅(みとら))

             は、 源頼朝の遠戚の男子であり、

             1219年(建保7年)に源実朝が暗

             殺された後、 将軍代行 (尼御台

             (あまみだい)、尼将軍(あましょうぐ

             ん))の北条政子が擁立して、12

             19年(建保7年)に数え年2歳で鎌

             倉に迎えられ(将軍に内定し)、後に、

             鎌倉北条氏によって、傀儡将軍(政

             治実権のない将軍)となる。

                 藤原頼経(三寅)は、源頼朝

             の生母の由良御前(ゆらごぜん)

             同母姉妹・坊門姫(ぼうもんひめ)

             の曾孫(ひまご)である。

             ● 藤原頼経(三寅)は、1225年

             (嘉禄元年)12月に元服後、12

             26年(嘉禄2年)1月に征夷大将

             軍の宣下を受け、鎌倉幕府の第4

             代将軍将軍となる。 

             ● 数え年13歳の藤原頼経は、

             1230年(寛喜2年)に源頼家の

             娘で源頼朝の孫娘の数え年29

             歳の竹御所(たけのごしょ)を正

             室夫人とする。 しかし、竹御所は、

             1234年(天福2年)に夫婦間に

             子がないまま死去する (難産の

             末男児を死産し本人も死去する)。 

                 ここに、源頼朝の直系子孫

             はいなくなり、断絶する。

 

 ふじ  藤原 頼長 

             (ふじわらの よりなが)。 《人名》。

          (⇒ 保元の乱

             ○ 崇徳上皇と協力して、保元

          の乱(ほうげんのらん)を起こし、敗

          北する。

 

 ふじ  藤原北家

             (ふじわらほっけ)。 《藤原氏》。

             (= 藤原四家の1つ)。

          ○ 藤原不比等(ふひと)の男子

          の、藤原 房前(ふささき)を祖と

          する藤原氏。

             ○ 奈良時代に興り、平安時代

          中期に摂関家となり、鎌倉時代

          に五摂家に分かれ、 江戸時代

          後期まで公家として存続する。

 

 ふじ  藤原四家 と 藤原4兄弟

              (ふじわらよんけ と ふじわらよんきょう

             だい)。 《藤原氏》。

 

○ ぶぜ  豊前 国。 

             (ぶぜん のくに)。 《旧地域名》。

          (≒ 現・福岡県北東部の相当地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国名(令制

           国)の正式名)。

          BUZEN PROVINCE.

                   (⇒ 福岡県)

                   (⇒ 豊州)。

                      (⇒ 都道府県)。

                      (⇒ 前近代日本の地域名)。

                      (⇒ 旧国(= 令制国))。

                      (⇒ 旧地域名地域名)。

                      (⇒ 日本の地名)。

          ■ 豊前 国。

             <西海道 (広域地方)。

             ■ 豊前 国 (ぶぜん のくに)は、 律令

             制定後・古代・中世・近世日本・旧地域名

             の、旧国名(令制国)の正式名である

             ■ 豊州 (ほうしゅう)は、 律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             国名(令制国)正式名の、豊前国 (ぶ

             ぜんのくに、現・福岡県北東部) と 豊

             後国 ( ぶんご のくに、現・大分県 の

             いずれか、または、両国を合わせて呼ぶ

                           別称である。

             ● 二豊(にほう)、豊国(とよのくに)は、

             豊前国、豊後国の両国を合わせて呼ぶ

             別称である。

             ■ 豊前 国は、 現・ 九州地方の、現在

              の福岡県北東部 に相当する地域である。

             ■ 豊前 国は、 五畿七道 (ごきしちどう)

             の西海道(さいかいどう)・広域地方に属す

             る。

 

#futa

 

○ ふだ  譜代大名。 

             (ふだいだいみょう)。 《江戸幕府》。

             ■ 譜代大名 ( ふだいだいみょう) とは、 

             初めから徳川氏の家臣(臣下)であった大名 

            である。

             ■ 江戸幕府の幕藩体制での大名は、親藩

             大名 (しんぱんだいみょう)、 譜代大名 

             ( ふだいだいみょう)、 外様大名 (とざま

             だいみょう) の3つに分けられる。  

                 親藩大名は徳川氏一門(一族)の大

             名であり、 譜代大名は初めから徳川氏の

             家臣(臣下)であった大名であり、 外様大

             名は1600年(慶応5年)の天下分け目の

             戦い(関ヶ原の戦い、他)前後より徳川氏

             に従った(徳川氏の臣下になった)大名で

             ある。

             ■ 江戸幕府の幕藩体制での、大名(だい

             みょう)とは、 江戸幕府の将軍と主従関

             係を結んだ、1万石以上の武士である。

 

〇 ぶた   単位・定位(定額) 通常

        貨幣

             (ぶたんい・ていい(ていがく)つうじょうかへい)。

          《日本流通貨幣》。

          (江戸時代の日本流通貨幣)。

          ○ 江戸時代の、江戸幕府鋳造の、

          分単位定位定額)通常貨幣

          (⇒ 江戸時代の日本流通貨幣)。

          (⇒ 日本流通貨幣)。

           4分≒1両小判

              1分≒現在の約25,000円。

              1両小判≒4分≒16≒4000文≒

              現在の約10万円。

             ■ 分単位の貨幣には、2分金1分金という

              分金(ぶきん、分単位の金貨) と 1分銀

               いう 分銀(ぶぎん、分単位の銀貨) があっ

                            た。

 

 ぶだ  武断派

             (ぶだんは)。 《豊臣政権》。

          (= 豊臣政権で、軍務を多く担った

                      武将)。

          ○ (例) 加藤清正、福島正則 。

              ○ 豊臣家臣団の武断派と文治派

           との間の対立。

 

 ぶっ  仏教              

            (ぶっきょう)。 《宗教》。

         (世界有力宗教)。

             BUDDHISM。

          ○ 紀元前5世紀〜現在。

                    (⇒ 宗教)。

                          ■ 仏教は、 現在、東アジア、東南アジ

              ア、スリランカの人々を中心に、信仰され

             ている。

                          ■ 仏教は、 紀元前5世紀から現在まで、

              存在する。

              仏教の教祖。

              仏教の教祖は、 シッダールタ(= ブッダ、

             シャカ、ガウタマ・シッダールタ ) であり、 

             仏教は、  シッ ダールタが開いた宗教で

             ある。

                  (⇒ シッダールタ)。

              仏教の教義(教え)。

             仏教の教義は、 シッダールタ(= ブッダ、

             シャカ)の教えであり、 多神教である。 

              仏教の教典。

             仏教の教典は、 多数の仏典である。

              仏教の内部グループ(分派)。

             仏教には、 主に、 大乗仏教、 上座 部

             仏教(= 小乗仏教)、 チベット仏教(= ラ

             マ教)、 の3つのグループがある。

              仏教建物には、 仏教寺院  など

             があ る。

              宗教には、 教祖(きょうそ)、 教義

             (きょうぎ、教え)、 教典(きょうてん)、 

             宗教内グループ(宗教内分派) などが

             ある。

 

 ぶっ  仏像、仏像出現。

             (ぶつぞう、ぶつぞうしゅつげん)。

          (仏像)。 《仏教》。    

             THE APPEARANCE OF 

             BUDDHIST IMAGES.

           (⇒ 仏教)。

             ■ 仏像は、 シッダールタ(ブッダ、シ ャ

             カ)の肖像(しょうぞう)ではなく、 仏教

                      徒が、シッダールタ(ブッダ、シャカ)をモ

             デルにイメージを膨らませて表現した像

             である。

             ● 約2500年前の、シッダールタ(ブッ

              ダ、シャカ)の死後、 約500年間は、

              仏像はつくられなかった。

             ● 今から約2000年前の、紀元(後)

              1世紀に、仏像がつくられ始め、現在に

              至る。

             ● 紀元(後)1世紀に、 ガンダーラ地方

             (パキスタン地域北西部) や マト ゥーラ

             地方(インド地域北部)で、 仏像が誕生

             する(登場する)。

             ■ ガンダーラ仏像。

             ● アジア南部のガンダーラ地方 (現在

             のパキスタン北西部・ペシャワール地方)

             で、ギリシア文化と仏教が融合して、写実

             的なガンダーラの仏像が、誕生し、長年に

             わたり、たくさんつくられ、ガンダーラ地方

             が、初期仏像製作の中心地となり、 その

             後、南アジア(インド)各地で仏教の仏像が

             つくられた。 それから、東西交通路を通じ

             て、 仏教と共にアジア各地に仏像が普及

             した。

 

 ぶっ  ブッダ 。

                    《仏教》。 《人名》。

          (= シッダールタ、ブッダ(仏陀)、

           シャカ(釈迦))。

          (仏教の教祖)。

          (生没年: 紀元前563年頃ー

           前483年頃) (諸説あり)。

              GAUTAMA SIDDHARTHA。

                   (⇒ シッダールタ)。

                    (⇒ 仏教)。

                   (⇒ 教祖宗教)。

             ○ 別名: シッダールタ、 ガウタマ・シッ

             ダールタ、 ゴータマ・シッダールタ、 シ

            ャカムニ(釈迦牟尼)、 釈迦牟尼(しゃか

            むに)、 シャカ(釈迦)、 釈迦(しゃか)、 

            釈尊 (しゃくそん)、 お釈迦様(おしゃか

            さま)、  ブッダ(仏陀)、 仏陀(ぶっだ)、 

            仏(ほとけ)、 仏様(ほとけさま)、 御仏

            (みほとけ))。

          ○ ブッダは、 シッダールタへの

          尊称。

          ○ ブッダは、「悟(さと)りを開いた

          者」、「真理(しんり)にめざめた者」

          の意。

              ■ ブッダ は、 シッダールタ(ブッダ、シャカ)

                          への尊称であり、 「悟(さと)りを開いた者」、

             「真理(しんり)にめざめた者」 の意である。

              ● シッダールタ(ブッダ、シャカ)は、仏教 

              教祖(きょうそ、開祖、創始者) である。

              ● 教祖とは、 その宗教、宗派をひらいた

              人である。

              ■ 宗教には、 教祖(きょうそ)、 教義(教

              え)、 教典(きょうてん)、 宗教内グループ

              (宗教内分派) などがある。

 

 ふて  不定時法。

             (ふていじほう)。 《時刻》。

          (⇒ 時刻法前近代日本

         の時刻・時法)。  

             ■ 日本で使われた時刻法(時法)の、時間

              間隔法(定時法と不定時法)2つの1つ。

             ● 季節、昼夜により、時間を刻む間隔が

              一定でない、時刻法(時法)。

                           ● 日本で使われた不定時法の時刻 には、 

              前近代日本使用の1日12等分制の、 不

              定時法の、 十二支表示時刻(=十二支呼

              称時刻) と、 時鐘数表示時刻(=数呼称

              時刻) の2つがあった。

 

#funa

 

 ふの  負の連鎖 

             (ふのれんさ)。 《連鎖》。

          (⇒ 正の連鎖)。

              ■ 負の連鎖 (ふのれんさ)は、 マイナス

             がマイナスを呼ぶつながりの現象である。

              ■ 一方、正の連鎖 ( せいのれんさ)は、 

             プラスがプラスを呼ぶつながりの現象である。

               例えば、ある人の行う親切や助け合いが、

             他の人の親切や助け合いを呼び起こしていく

             現象である。

 

〇 ふび  不平等条約改正。 

             (ふびょうとうじょうやくかいせい)。

             《条約》。

          (⇒ 条約改正)。

 

〇 ふみ  文 

             (ふみ)。 《人名》。

             (= 美和(みわ)、杉 文(すぎ ふみ)、

             美和(すぎ みわ)、楫取 美和子 (かと

             り みわこ))。

          (1843−1921年)。

          (⇒ 楫取 美和子)。

          (⇒ 吉田 松陰)。

          (⇒ 久坂 玄瑞)。

          (⇒ 楫取 素彦)。

             ■ 文 (杉 文、杉 美和、楫取 美和子) は、

             1843年より 杉 文(すぎ ふみ)と称し、

             1865年頃より 杉 美和(すぎ みわ)と称し、

             1883年から 楫取 美和子(かとりみわこ)

             と称す。 

                     ○ 長州藩士・杉家当主の、杉 百

           合之助(常道)(すぎ ゆりのすけ(つね

           みち)) の四女。

                      ○ 幕末の思想家・吉田松陰 (

             しだしょういん、杉 寅之助(すぎ とらのすけ、

             幼名)、吉田家に養子後・吉田寅次郎(よし

             だとらじろう)) の 実妹。

              明治維新を描く2015年NHK大河ドラマ

             「花燃ゆ(はなもゆ)」の主人公(ヒロイン)。

             ■ 幕末期、1番目の夫・久坂玄瑞(くさかげ

             んずい)の夫人。

               久坂玄瑞は、禁門の変(きんもんのへん)

             で戦死する。

             ■ 明治期、2番目の夫・楫取素彦(かとりも

             とひこ)の夫人。

                楫取 素彦 (かとり もとひこ、旧名・小

             田村伊之助 (おだむら いのすけ)) は、亡

             き姉の夫であり、 群馬県令(ぐんまけんれ

             い、任期1876−84年、現・群馬県知事に

             相当)であり、 1884年から、元老院議官、

                           裁判官、貴族院議員、宮中顧問官、内親王

             養育主任などを歴任する。 1887年には、

             華族(かぞく)の男爵(だんしゃく)となる。

 

#fura

 

〇 ふら  フランス公使ロッシュ

             (ふらんすこうしろっしゅ)。 《人名》。

          (= ミシェル・ジュール・マリー・

          レオン・ロッシュ)。

       (⇒ ロッシュ)。  

 

〇 ぶり  武力倒幕派。

            (ぶりょくとうばくは)。 (= 倒幕派)。

         《幕末政治派閥勢力》。

       (⇒ 倒幕派)。

 

○ ふろ  フロイス。

          (= ルイス・フロイス)。 《人名》。

          ○ 16世紀後半在日のポルトガ

          ル人宣教師。

        (⇒ ルイス・フロイス)。

 

○ ぶん  文安。 

             (ぶんあん)。  《和暦》。

             THE BUNAN ERA.

             ○  1444年ー1449年。

             ● 1444年・文安元年・2月 5日〜

                1449年・文安 6年・7月28日。

             ● 室町時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

○ ぶん  文永。

             (ぶんえい)。 《和暦》。

             THE BUNEI ERA.

             ○ 1264年ー 1275年。

             ● 1264年・文永 元年・2月28日〜

                1275年・文永12年・4月25日。

             ● 鎌倉時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

○ ぶん  文永・弘安の役。

               (ぶんえい・ こうあんのえき)。  

             《外国の侵略》。

             (= 蒙古襲来(もうこしゅうらい)

             元寇(げんこう)) 。

           (13世紀後半の1274年、

           1281年)。

        (⇒ 蒙古襲来)。

                     ○ 鎌倉時代の、2度にわたる

          モンゴル軍来襲。

              ■ 文永・弘安の役 (ぶんえい・こうあん

             のえき) とは、 蒙古襲来(もうこしゅうら

             い)であり、  元寇(げんこう) である。

              ● 文永・弘安の役(= 蒙古襲来、元寇)

              は、13世紀後半の1274年( 文永の役)、

             1281年(弘安の役)に起こった。

              ● 文永・弘安の役(= 蒙古襲来、元寇)

             は、 鎌倉時代の、2度にわたるモンゴル

             軍来襲 である。

 

○ ぶん  文永の役。

               (ぶんえい のえき)。 《外国の侵略》。

             (= 1回目の蒙古襲来(もうこしゅうら

             い(= 元寇(げんこう))) 。

           (13世紀後半の1274年)。

        (⇒ 蒙古襲来)。

                     ○ 鎌倉時代の、1回目のモン

          ゴル軍来襲。

              ■ 文永の役 (ぶんえい のえき) とは、

             鎌倉時代の、1回目のモンゴル軍来襲

             (1274年) である。

              ■ 文永・弘安の役 (ぶんえい・こうあん

             のえき) とは、 蒙古襲来(もうこしゅうら

             い)であり、  元寇(げんこう) である。

              ● 文永・弘安の役(= 蒙古襲来、元寇)

              は、13世紀後半の1274年( 文永の役)、

             1281年(弘安の役)に起こった。

              ● 文永・弘安の役(= 蒙古襲来、元寇)

             は、 鎌倉時代の、2度にわたるモンゴル

             軍来襲 である。

 

○ ぶん  文応。

             (ぶんおう)。 《和暦》。

             THE BUNO ERA.

             ○  1260年ー1261年。

             ● 1260年・文応元年・4月13日〜

                1261年・文応 2年・2月20日。

             ● 鎌倉時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

○ ぶん  文化。 

             (ぶんか)。 《和暦》。

             THE BUNKA ERA.

             ○ 1804年ー 1818年。

             ● 1804年・文化 元年・2月11日〜

                1818年・文化15年・4月22日。

             ● 江戸時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

○ ぶん  文亀。 

             (ぶんき)。 《和暦》。

             THE BUNKI ERA.

             ○  1501年ー1504年。

             ● 1501年・文亀元年・2月29日〜

                 1504年・文亀 4年・2月30日。 

             ● 室町時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

              ■ 前近代日本の旧暦(太陰太陽暦)では、

              基本的には、 1ヶ月を、29日(小の月) 

              または、30日(大の月)とする。 2月が、

              30日の年もある。

 

○ ぶん  文久。

             (ぶんきゅう)。 《和暦》。

             THE BUNKYU ERA.

             ○ 1861年ー 1864年 。

             ● 1861年・文久元年・2月19日〜

                1864年・文久 4年・2月20日。 

             ● 江戸時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

              ■ 文久 (ぶんきゅう、英:THE 

                           BUNKYU ERA)とは、和暦であり、 

             江戸時代後期の和暦年号であり、 

             1861年・文久元年・2月19日から

             1864年・文久 4年・2月20日まで

             である。   

             ■ 〈文久年号の、和暦→西暦/

                西暦→和暦の速算法〉。

             ○ 文久 A年+ 1860年=西暦 B年。

             ○ 西暦 B年1860年=文久 A年

                 ■ 「文久」の前後の和暦年号(元号):

             ● 万延 (まんえん):

               1860年ー1861年。

               1860年・万延元年・3月18日〜

               1861年・万延 2年・2月19日。 

             ■ 幕末、明治時代の和暦年号(元号):

             ● 嘉永(かえい)⇒安政(あんせい)⇒

               万延(まんえん)⇒文久(ぶんきゅう)

               ⇒元治(げんじ)⇒慶応(けいおう)

               明治(めいじ)。

             嘉永元年〜7年 (1848〜1854年)⇒

             安政元年〜7年 (1854〜1860年)⇒

             万延元年〜2年  (1860〜1861年)⇒ 

             文久元年〜4年  (1861〜1864年)⇒ 

             元治元年〜2年  (1864〜1865年)⇒

             慶応元年〜4年  (1865〜1868年)⇒ 

             明治元年〜45年(1868〜1912年)。

 

○ ぶん  文久永宝四文銭銅貨。

             (ぶんきゅうえいほうよんもんせんどうか)。

             (= 文久銭)。

          《日本流通貨幣》。

          (江戸時代の日本流通貨幣)。

        (⇒ 四文銭)。

        (⇒ (もん)単位定位(

         額 )通常貨幣)。

          (⇒ 江戸時代の日本流通貨幣)。

          (⇒ 日本流通貨幣)。

           ○ 江戸時代の、江戸幕府鋳造

           4文(もん)単位の 定位(定額)

          通常貨幣。 

           ○ 江戸時代の文銭銅・鉄貨の

          1つ。

          ● 現在貨幣価値約100円。

           (文久永宝 4文銭1000枚≒1両

           小 判(金)≒現在の約10万円

 

○ ぶん  豊後 国。 

             (ぶんご のくに)。 《旧地域名》。

          (≒ 現・大分県の相当地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国名(令制

           国)の正式名)。

                    (⇒ 大分県)。

                    (⇒ 豊州)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

          ■ 豊後 国。

             <西海道 (旧広域地方)。

             ■ 豊後 国は、 現・九州地方の、 概ね、

             現在の大分県に相当する領域である。

             ■ 豊後 国 (ぶんご のくに)は、 律令

             制定後・古代・中世・近世日本・旧地域名

             の、旧国名(令制国)の正式名である

             ■ 豊州 (ほうしゅう)は、 律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             国名(令制国)正式名の、豊前国 (ぶ

             ぜんのくに、現・福岡県北東部) と 豊

             後国 ( ぶんご のくに、現・大分県 の

             いずれか、または 、両国を合わせて呼

                          ぶ別称である。

             ● 二豊(にほう)、豊国(とよのくに)は、

             豊前国、豊後国の両国を合わせて呼ぶ

             別称である。

             ■ 豊後 国は、 五畿七道 (ごきしちど

             う)の西海道(さいかいどう)・旧広域地方

             に属する。

 

○ ぶん  文治。

             (ぶんじ)。 《和暦》。

             THE BUNJI ERA.

             ○ 1185年ー1190年。

          (⇒ 和暦の二重年号存立

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

          ■ 源平競合二重年号。

             ■ 1181年から1185年まで、日本で

              は、 源平競合二重年号が使用される。

             ■ 河内源氏・源頼朝政権(後

             鳥羽天皇擁立)方の暦年号。 

              ○ 1185年ー1190年。   

              ■ 1185年・文治元年・8月14日〜

                1190年・文治 6年・4月11日。 

              ● 平安時代後期の和暦年号。

              ● 源平競合二重年号

                (1181年〜1185年)。

              (注意) 同時期に、伊勢平氏政権

               (安徳天皇擁立)方の暦年号の

               寿永(じゅえい)元年〜4年(1182

              年〜1185年)も存立 する。

              ■ 河内源氏・源頼朝政権 (後鳥

              羽天皇擁立)方の暦年号。 

               ● 安元(あんげん)元年〜3年  

              (1175年〜1177年) ⇒

              治承(じしょう)     元年〜8年 

                            1177年〜 1184年) ⇒ 

              元暦(げんりゃく)   元年〜2年  

              (1184〜1185年) ⇒

              文治(ぶんじ)     元年〜6年

              (1185年〜1190年)。

 

○ ぶん  文正。 

             (ぶんしょう)。 《和暦》。

             THE BUNSHO ERA.

             ○  1466年ー1467年。

             ● 1466年・文正元年・2月28日〜

                1467年・文正 2年・3月 5日。 

             ● 室町時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

○ ぶん  文政。

              (ぶんせい)。  《和暦》。

             THE BUNSEI ERA.

             ○  1818年ー1830年。

             ● 1818年・文政 元年・ 4月22日〜

                1830年・文政13年・12月10日。 

             ● 江戸時代後期の和暦年号。   

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

 ぶん  文治派

             (ぶんちは)。 《豊臣政権》。

          (= 豊臣政権で、軍事より政務を

          多く担った武将)。

          ○ (例) 石田三成。

           ○ 豊臣家臣団の武断派と文治

          派との間の対立。

 

○ ぶん  文中。 

             (ぶんちゅう)。 《和暦》。

             THE BUNCHU ERA.

             ○  1372年ー1375年。

             (⇒ 南北朝競合二重年号

             (⇒ 和暦の二重年号存立

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

          ■ 南北朝競合二重年号。

          ● 南朝 (大覚寺統)方の暦年号。

               1372年・文中元年・4月〜

               1375年・文中 4年・5月27日。

             ● 室町時代前期の和暦年号。

               ■ (注意) 南朝 (大覚寺統)方の文中

                            の和暦年号の同時期に、 北朝 (持明院

              統、光厳(こうごん)・光明(こうみょう)天皇

                        系統) 方の暦年号の、応安(おうあん)元

              年〜8年(1368年〜1375年) と 永和

              (えいわ)元年〜5年(1375〜1379年)

              存立する。

 

○ ぶん  文和。 

             (ぶんな、ぶんわ)。 《和暦》。

             THE BUNNA ERA.

          ○ 1352年ー1356年。

             (⇒ 南北朝競合二重年号

             (⇒ 和暦の二重年号存立

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

          ■ 南北朝競合二重年号。

          ● 北朝 (持明院統)方の暦年号。

               1352年・文和元年・9月27日〜

               1356年・文和 5年・3月28日。

             ● 室町時代前期の和暦年号。

              ■ (注意) 北朝 (持明院統)方の文和

              の和暦年号の同時期に、南朝 (大覚寺

              統、後醍醐天皇系統)方の暦年号の、

              平(しょうへい)元年〜25年(1346〜

              1370年) も存立する。 

 

○ ぶん  文保。 

             (ぶんぽう)。 《和暦》。

             THE BUNPO ERA.

             ○  1317年ー1319年。

             ● 1317年・文保元年・2月3日〜

                1319年・文保 3年・4月28日。 

             ● 鎌倉時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

○ ぶん  文保の和談

             (ぶんぽうのわだん)。 《合意》。

              (1317年)。

             ■ 文保の和談(ぶんぽうのわだん)

             とは、 皇統の分立による大覚寺統

             (だいかくじとう)と持明院統(じみょ

             ういんとう)との両統迭立(りょうとう

             てつりつ)に基づき、 北条氏執権

             が実権をもつ鎌倉幕府の仲介斡旋

             による、1317年の合意である。

            後醍醐天皇は、  文保の和談

             により、後醍醐天皇の子が天 皇に

             なれなくなり、北条氏執権の鎌倉

             幕府に不満をもつ。

            文保の和談 は、鎌倉幕府に対

             する後醍醐天皇の反乱 の原因をつ

             くる。

 

○ ぶん  文民統制。

             (ぶんみんとうせい)。 

          (= シビリアン・コントロール)。

          (政府の軍統制)。

          《近現代日本》。

             ■ 文民統制(ぶんみんとうせい)

             とは、シビリアン・コントロールとも

             いい、政府の文民官僚が、武官を

             統制することである。 

                文民とは、職業軍人の経歴を

             持たない人である。

                 戦前では、 内閣で「軍務大臣現

             役武官就任制」が制定された後に、

             文民統制(= シビリアン・コントロー

             ル)が無力となり、 旧日本軍が暴

                 走し、 日本は、軍国主義国家

             (−1945年)となる。

 

○ ぶん  文明。

             (ぶんめい)。 《和暦》。

             THE BUNMEI ERA.

             ○  1469年ー1487年。

             ● 1469年・文明 元年・4月28日〜

                1487年・文明19年・7月20日。

             ● 室町時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

○ ぶん  文暦。 

             (ぶんりゃく)。 《和暦》。

             THE BUNRYAKU ERA.

             ○  1234年ー1235年。

             ● 1234年・文暦元年・11月 5日〜

                1235年・文暦 2年・ 9月19日。 

             ● 鎌倉時代前期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

○ ぶん  文禄。

              (ぶんろく)。 《和暦》。

             THE BUNROKU ERA.

             ○  1592年ー1596年。

             ● 1592年・文禄元年・12月 8日〜

                1596年・文禄 5年・10月27日。 

             ● 安土桃山時代の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック

             ■  〈和暦→西暦・西暦→和暦・速算式〉。

             ○ 文禄 A年=文禄 A年+1591年=西暦 B年。

             ○ 西暦 B年西暦 B年1591年=文禄 A年

              永禄(えいろく)⇒(元 亀(げんき)⇒天正(て

              んしょう)⇒文禄(ぶんろく)⇒慶長 (けいちょう)

              ⇒元和(げんな)。

              永禄元年〜13年(1558年〜1570年)⇒

                元亀元年〜 4年(1570年〜1573年)⇒

                天正元年〜20年(1573年〜1592年)⇒

                文禄元年〜 5年(1592年〜1596年)⇒

                慶長元年〜20年(1596年〜1615年)⇒

                元和元年〜10年(1615年〜1624年)。

 

○ ぶん  文禄・慶長の役

             (ぶんろく・けいちょのえき)。 《戦い》。

                          (= 朝鮮出兵、朝鮮の役、秀吉の

          朝鮮出兵)。  

                    (1592−1598年、文禄の役:

          1592ー93年 と  慶長の役:

          1597ー98年)。

             ○ 安土桃山時代後期の秀吉の

          朝鮮侵略戦争。 朝鮮半島が戦

          場となる。 

               ■ 文禄・慶長の役 (ぶんろく・けいちょう

             のえき、朝鮮出兵) は、 安土桃山時代

             後期の秀吉の朝鮮侵略戦争 (1592−

             1598年、文禄の役:1592 ー93年 と、 

             慶長の役:1597ー98年)であり、 朝鮮

             半島が戦場となる。 

              ● 文禄・慶長の役は、 兵農分離により

             戦国・安土桃山時代にできたプロの戦 闘

             集団(職業軍人)を豊臣 政権に従わせる

             ために、豊臣秀吉が 、海外の占領地の恩

             賞用の農産物、土地などを求めて、行った

             対外戦争という面もあった。

 

 

 

   ● 五十音順 (あいうえお順)。

 

 

   ■  『 現在は、過去の成果であり、

       未来は、現在の成果である。 

         (良き現在は、過去の人々の良き努力

          や活動の積み重ねの成果であり、 

          明るい良き未来は、現在の人々の、

          良き努力や活動の積み重ねによって

          形成される。)

 

 

■ 上位のWEBサイト。 

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#jpdictionary(general)

 

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#fu

 

◆ 派生見出し語サイト。

■ 「ふ」 基本・見出し語WEBサイト No. ja−fu  

  の、派生見出し語サイト。

 

 No.ja−fu−1291。

● 見出し語項目 ふ   ( じ 12 / わ 91

  付近   第1部・ し・ラ行・ワ・ン・グループ )。

 ふじ  藤原氏 (ふじわらし)

 ふじ  藤原(氏)政権

                         (ふじわら(し)せいけん)。

 

■ No.ja−fu−1292。

● 見出し語項目 ふ   ( じ 12 / わ 92

  付近   第1部・ し・ラ行・ワ・ン・グループ )。

 ふじ  藤原 鎌足 (ふじわらのかまたり)

 

■ No.ja−fu−1294。

● 見出し語項目 ふ   ( じ 12 / わ 94

  付近   第1部・ し・ラ行・ワ・ン・グループ )。

 ふじ  藤原 不比等 (ふじわらのふひと)

 ふじ  藤原 仲麻呂 (ふじわらのなかまろ)

 

■ No.ja−fu−1296。

● 見出し語項目 ふ   ( じ 12 / わ 96

  付近   第1部・ し・ラ行・ワ・ン・グループ )。

 ふじ  藤原 道長 (ふじわらの みちなが)

 

■ No.ja−fu−1297。

● 見出し語項目 ふ   ( じ 12 / わ 97

  付近   第1部・ し・ラ行・ワ・ン・グループ )。

 ふじ  藤原四家 と 藤原4兄弟  

             (ふじわらよんけ と ふじわらよんきょうだい)。

 ふじ  藤原北家 (ふじわらほっけ)

 

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#fujiwarakyocapital

 

■ 藤原京  

     (ふじわらきょう)

 

■ 藤原京。

■ 名称 : 藤原京 (ふじわらきょう)。

■ 英語名 : 

   Fujiwarakyo Capital.

■ 《京》。

■ 存在期間 : 694年から710年までの間、

           飛鳥・白鳳時代。

■ 存在場所 : 奈良県橿原(かしはら)市付近

■ 藤原京とは、奈良県橿原(かしはら)市付近の、

  天皇の住居(= 内裏)、天皇の宮殿(= 宮城)が

  あった都市である。

■ 京の移動。

  飛鳥京⇒ 藤原京⇒ 平城京(奈良の都)⇒

  長岡京⇒ 平安京(京都、京の都)⇒ 東京。

▲ 京(きょう)に関しては、「」、「宮城、「内裏

     を 参照してください。

▲ 時代状況に関しては、『飛鳥・白鳳時代』を

   照してください。

▲ 京(きょう)の移動に関しては、 「飛鳥京」、

  藤原京」、平城京」 (奈良の都)、「長岡京」、 

     平安京」 (京の都、京都)を参照して ください。

▲ 宮城 (きゅうじょう、= 天皇の宮殿)に関して

  は、 「宮城、 内 裏」(だいり、天皇の住居)、 

  「大極殿」(だいごくでん、国家儀式等を行う建

  物)、 「朝堂 院」(ちょうどういん、国家政務等

  を行う建物)、 「曹司 」(ぞうし、中央官庁) 

  などを参照してください。

▲ 内裏 (だいり、= 天皇の住居)に関しては、

   「内 裏を参照してください。

▲ 天皇に関しては、天皇」、「天皇家」、「朝廷 

  を参照してください。

▲ 日本の主要なの京(きょう、= 都城)の画像

  アルバムに関しては、

 □ 平安京 画像アルバム No.1

 □ 長岡京 画像アルバム No.1

 □ 平城京 画像アルバム No.1

 □ 藤原京 画像アルバム No.1

 □ 飛鳥京 画像アルバム No.1

 を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 21512。 

 

□ 藤原京 画像アルバム No.1 

            

 

 

◆ 藤原京。

■ 藤原京 (ふじわらきょう)は、 藤原宮 (ふじわら

  きゅう)の都市である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

             

■ 藤原京 (ふじわらきょう)は、 694年から710年

  までの間、飛鳥・白鳳時代に、奈良県橿原(かしは

  ら)市付近の、天皇の住居(= 内裏)、天皇の宮殿

  (= 宮城)があった都市である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 京の移動。

  飛鳥京⇒ 藤原京⇒ 平城京(奈良の都)⇒

  長岡京⇒ 平安京(京都、京の都)⇒ 東京。

 

■ 飛鳥京⇒ 藤原京⇒ 平城京。

■ 694年に、持統(じとう)天皇(女帝)は、 飛鳥京 

  の飛鳥浄御原(あすかきよみはら、都:672年ー

  694年、奈良県明日香(あすか)村付近) から、 

  藤原京 (ふじわらきょう、694年ー710年、奈良

  県橿原(かしはら)市付近)に遷都し、  710年に、

  元明(げんめい)天皇(女性天皇)は、 藤原京 (ふ

  じわらきょう、694年ー710年、奈良県 橿原(かし

  はら)市付近) から、 平城京 (へいじ ょうきょう、

  710年〜740年・745年〜784年、奈良 県奈良

  市付近) に遷都する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 藤原宮。

■ 藤原宮 (ふじわらきゅう)は、 藤原京の宮城(きゅ

  うじょう、= 天皇の宮殿)である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。             

 

■ 藤原宮 (ふじわらきゅう)は、 694年から710年

  までの間、飛鳥・白鳳時代に、奈良県橿原(かしは

  ら)市付近にあった、宮城(= 天皇の宮殿)である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 京、宮城、内裏。

■ 京 (きょう)とは、 皇居のある土地であり、 天

  皇が住む都市であり、 朝廷の所在地であり、 

  天皇の住居(= 内裏(だいり))、天皇の宮殿(= 宮

  城(きゅうじょう))がある都市をいう。

 

■ 京 (きょう)とは、 天皇の宮殿(= 宮(きゅう))

  を中心とする都市である。

 

■ 宮城 (きゅうじょう、= 宮(きゅう))とは、 天皇

  の宮殿をいう。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 内裏 (だいり)とは、 前近代日本の、天皇の

  住居、居所、天皇御所をいう。

 

 

■ 天皇の宮殿は、日本の歴史では、 宮城(きゅうじ

  ょう)都宮 (ときゅう)、大内裏(だいだいり)) 

  などと 呼ばれた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。            

 

■ 宮城 (きゅうじょう、= 天皇の宮殿)は、 古代日

  本の時代において、藤原宮、平城宮、長岡宮、平

  安宮では、 内裏 (だいり、=天皇の住居、天皇御

  所)、 大極殿 (だいごくでん、国家儀式等を行う 

  建物)、 朝堂院 (ちょうどういん、国家政務等を

  行う建物)、 曹司(ぞうし、官人が実務をとる中央

  官庁) などから構成されていた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

         

 

■ 古代日本中期から近世日本までの、日本の主要

  な、宮城 ( きゅうじょう、= 天皇の宮殿)を中心と

  する都市 と その変遷は、  

   (1) 飛鳥京 (あすかきょう、奈良県明日香

      村付近、6世紀頃 から694年まで)、 

   (2) 藤原京 (ふじわらきょう、奈良県橿原

      市付近、694年ー710年)、 

   (3) 平城京 (へいじょうきょう、奈良県奈

      良市付近、710年ー740年・745年

      ー784年)、 

   (4) 長岡京 (ながおかきょう、京都府向日

      市・長岡京市・京都市南部付近、784年

      ー794年)、

   (5) 平安京 (へいあんきょう、京都府京都

      市付近、794年ー1869年、別名:京都、

      京の都(きょうのみやこ)) 

   の順序で、概(おおむ)ね、移動した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 日本の主要な宮城 ( きゅうじょう、= 天皇の宮

  殿) と その変遷は、

   (1) 飛鳥宮 (あすかきゅう、飛鳥京の諸宮、

     飛鳥地域の諸宮城の総称、奈良県明日香

     (あすか)村付近)、

   (2) 藤原宮 (ふじわらきゅう、奈良県橿原

     市付近)、

   (3) 平城宮 (へいじょうきゅう、奈良県奈

     良市付近)、 

   (4) 長岡宮 (ながおかきゅう、京都府向日

     市付近)、 

   (5) 平安宮 (へいあんきゅう、京都府京都

     市付近) 

   の順序で、概(おおむ)ね、移動した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 日本の主要な宮城( きゅうじょう、= 天皇の宮殿)には、

  (1) 飛鳥宮 (あすかきゅう、飛鳥京の諸宮、飛鳥地

  域の諸宮城の総称、奈良県明日香(あすか)村付近、

  6世紀頃ー694年)、 

 

  (2) 藤原宮(ふじわらきゅう、藤原京の宮城、奈良県

   橿原市(かしはらし)付近、

   694年ー710年)、   

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  (3) 平城宮 (へいじょうきゅう、平城京の宮城、奈良

   県奈良市(ならし)付近、

   710年ー740年・745年ー784年)、 

 

  (4) 長岡宮 (ながおかきゅう、長岡京の宮城、京都

   府向日市(むこうし)付近、

   784年ー794年)、 

 

  (5) 平安宮 (へいあんきゅう、= 平安京の宮城)、

   京都府京都市付近、本来の平安宮は平安時代末

   期まで、京都府京都市上京区(かみぎょうく)付近、

   794年ー1177年頃)、

   などがある。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 藤原京が登場する興味深い、ド

    キュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 藤原京が登場する興味深い、ドキ

   ュメタンリー。

 

 

★ 藤原京 が登場する興味深い、ドラ

     マ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

   実) と 架空の出来事が 混じって描かれ

   ています。 また、 現代風にアレンジしてあ

     ります。

 

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#fushimicastle

 

■ 伏見城 

      (ふしみじょう)。

 

■ 伏見城。

■ 名称 : 伏見城 (ふしみじょう)。

■ 英語名 : 

   Fushimi Castle.

■ 《城》。

■ 存在期間:1592年〜1625年。

■ 伏見城には、 

  (A)  秀吉築城・指月(しげつ) 伏見城、

  (B1) 秀吉築城・前期・木幡山(こ はた

       やま)伏見城、

  (B2) 家康築城・後期・ 木幡山伏見城 

  がある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 210735。

 

 □ 豊臣氏 画像アルバム No.1

 □ 豊臣氏 画像アルバム No.2

 

 

 ■ 伏見城。

  ■ 伏見城 (ふしみじょう)は、 

    1592年(文禄元年)から1625年(寛永

    2年)まで、京(きょう、京都)南部の伏見

    (現・京都市伏見区)にあった城である。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

  ■ 伏見城(ふしみじょう)は、 

    1592年(文禄元年)から1625年(寛永

    2年)まで、京(きょう、京都)南部の伏見

    (現・京都市伏見区)の2カ所にあった城

    である。 

    伏見城には、 

    (A)  指月伏見城 (しげつふしみじょう、

       指月山伏見城、豊臣指月山伏見城、

       1592年−1596年)、 

    (B1) 前期・木幡山伏見城 (ぜんき・こは

       たやまふしみじょう、豊臣木幡山伏見城、

       1597年−1600年)、 

    (B2) 後期・木幡山伏見城 (こうき・こはた

       やまふしみじょう、徳川木幡山伏見城、

       1602年ー1625年)、

     がある。

       木幡山伏見城跡地の主要部は、現在、

     明治天皇陵となっている。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

  ■ 伏見城 (指月伏見城と前期・木幡山伏

    見城) は、 豊臣秀吉により築城され、 

    秀吉の政務居城となり、秀吉の政治の

    中枢となった城である。

 

  ■ 豊臣秀吉は、伏見城 (前期 ・木幡山伏

    見城、1597年ー1600年)で、1598年

    (慶長3年)8月18日に死去する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 伏見城の歩み。

   ■ (A) 指月伏見城。

   ● 豊臣秀吉は関白職を甥(おい)の豊臣

    秀次(ひでつぐ)に譲り (政治の実権は

    秀吉が握り)、 秀吉の隠居後の住まい

    とするため、豊臣秀吉によって、1592

    年(文禄元年)に、伏見の指月山(しげ

    つやま)に、指月伏見城 (しげつふしみ

    じょう、1592年−1596年)が建てられ

    る。 

      その後、1596年(文禄5年)の慶長

    伏見地震によって倒壊する。 

 

   ■ (B1) 前期・木幡山伏見城

   ● 次に、豊臣秀吉によって、 別の地の

    伏見の木幡山(こはたやま、桃山丘陵)

    に、1597年(慶長2年)に、 前期・

    木幡山伏見城 (1597年ー1600年)

    が建てられる。

       その後、1600年(慶長5年)の伏

    見城攻防戦で落城する。

 

   ■ (B2) 後期・木幡山伏見城

   ● 次に、徳川家康によって、 同じ地

     の伏見の木幡山(桃山丘陵)に、16

     02年(慶長7年)に、後期・木幡山

     伏見城 (1602年ー1625年)が、

     再建される。 

        その後、幕命によって、1623年

     (元和9年)から取り壊され、 伏見城

     の建造物は各所に譲られ (例、江戸

     城伏見櫓)、1625年(寛永2年)に

     破却が完了する。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 木幡山伏見城の廃城後。 

   ● (B2) 木幡山伏見城の廃城後(16

    25年以後)、木幡山伏見城の跡地一帯

    (桃山丘陵)が開墾され、 後世に、桃の

    木が植えられ、桃山(ももやま)と呼ば

    れる。 

       そのため、過去に存在した伏見城

    は、後世に、伏見城の俗名として、桃山

    城(ももやまじょう)とも呼ばれるように

    なる。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 木幡山、木幡山伏見城と

    桃山、桃山城。

   ■ (B1) 豊臣秀吉が築いた前期・木

     幡山(こはたやま)伏見城の跡地が

     あるの木幡山(桃山丘陵)は、後世

     に、桃山(ももやま)と呼ばれる。

   ■ 木幡山(こはたやま)は、後世に、桃山

    (ももやま)と呼ばれ、 木幡山伏見城

    (こはたやまふしみじょう)は、後世に

    桃山城(ももやまじょう)、伏見桃山城

    と呼ばれる。  

 

 

 ■ 桃山時代。

   ■ 桃山城(= 木幡山伏見城)は、 豊臣

    秀吉が政務居城とし、そこで政務をとり、

    秀吉の政治の中枢となった城であるこ

    とから由来して、 豊臣政権時代を桃山

    時代という。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 伏見城。

  ■ 伏見城から、畿内(きない、山城・大和・

    摂津・河内・和泉、現・京都府南部、奈良

    県、大坂府)を一望できる。

  

 

 

 

 ■ 秀吉、家康が政務をとった

    伏見城。

   ■ 豊臣秀吉は、 (A,B1) 伏見城で、

    (A) 1592年から1596年まで、 (B1) 

    1597年から1598年まで、 豊臣政権

    の政務を行う。

   ■ 豊臣秀吉は、 (A) 指月伏見城 (15

    92年−1596年)で政務を行い、 (B1)

    前期・木幡山伏見城 (1597年ー1600

    年)で、1597年から1598年まで、豊臣

    政権の政務を行う。 1598年8月に、

    前期・木幡山伏見城で没する。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 徳川家康は、 (B) 伏見城で、 (B1) 

    1599年、 (B2) 1602年から1603

    年まで豊臣政権の政務をとり、 (B2) 

    1603年から1606年まで、徳川政権の

    政務を行う。

   ■ 家康は、 (B1) 前期・木幡山伏見城

    (1597年ー1600年)で、1599年に政

    務を行い、 (B2) 後期・木幡山伏見城 

    (1602年ー1625年)で、1602年から

    1603年まで豊臣政権の政務をとり、

    1603年から1606年まで、徳川政権の

    政務を行う。    

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 徳川家康は、前期・木幡山伏見城を

     1599年(慶長4年)から豊臣氏より

     預かり、 1599年(慶長4年)3月か

     ら9月まで、豊臣氏大老として、(B1) 

     前期・木幡山伏見城(1597年ー16

     00年)で豊臣政権の政務をとる。 

     その後、1599年(慶長4年)9月に、

     家康は、豊臣大坂城・西の丸に移り、

     豊臣氏大老として、豊臣政権の政務

     をとる。 これ以後、伏見の諸大名の

     ほとんどの大名屋敷が大坂に移って

     しまい、伏見城の城下町は荒廃する。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

     ■ 家康は、 伏見城を足がかりに、天下

    取りに突き進んだ。 1599年(慶長4年)

    から徳川氏が占領する(B1) 前期の

    木幡山伏見城 (1597年ー1600年)は、

    1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの

    前哨戦の「伏見城の戦い」で、徳川氏城代

    の鳥居元忠(とりいもとただ)が討死し、

    1600年(慶長5年)8月1日に落城する。 

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

    ■ 家康は、 落城した伏見城を再建する

    ため、1601年(慶長6年)3月に伏見城

    に入城し再建に着手し、1602年 (慶長

    7年)に、(B2)後期・木幡山伏見城を再

    建する(築く)。 そして、1607年(慶長

    12年)まで、政務居城とする。 

       1607年(慶長12年)に、家康は、

    改築した駿府城(すんぷじょう)に移る。

 

    ■ 1603年(慶長8年)に、(B2) 後期・

    木幡山伏見城で、家康は、征夷大将軍の

    宣下(せんげ)を受け、江戸幕府を開く。

 

    ■ 江戸時代初期、江戸幕府は、京(都)

    の、洛内の二条城(京都市中京区)を儀

    典用、洛外の伏見城(京都市伏見区)を

    居館用として利用していた。

       (B2) 後期・木幡山伏見城 (16

    02年ー1625年)は、 京都の二条城と

    共に、徳川氏の西国における拠点となっ

    た。 

       江戸時代初期、江戸幕府は、京(都)

    の、洛内の二条城(京都市中京区)を儀

    典用、洛外の伏見城(京都市伏見区)を

    居館用として利用していた。 京都の二

    条城が将軍参内(さんだい)時の宿舎と

    して、伏見城が居館用として、利用され

    た。

 

    ■ しかし、幕命(幕府の命令)の一国

    一城令の趣旨から、幕府は二条城と伏

    見城の二城の維持は困難とし、(B2) 

    後期・木幡山伏見城は、幕命により、

    1619年(元和5年)に廃城が決定し、

    1623年(元和9年)から取り壊され、 

    伏見城の建造物は各所に譲られ 

    (例、江戸城伏見櫓)、1625年(寛永

    2年)に破却が完了する。

 

    ■ 伏見城破却後、伏見城跡地のあ

    る伏見の木幡山(こはたやま)の丘陵

    地帯には、桃の木が植えられ、木幡

    山は、桃山、伏見桃山と呼ばれるよう

    になる。 そして、後世、伏見城は桃

    山城、伏見桃山城という俗称でも呼

    ばれるようになる。 

       現在、木幡山(こはたやま)は、

    桃山丘陵とも呼ばれる。

       伏見城(桃山城)が豊臣秀吉の

    政務居城となったことから、豊臣政権

    の時代を桃山時代という。 

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 現在の木幡山伏見城(桃山

   城)の跡地。

  ■ (B) 木幡山伏見城の跡地は、 

    現在、明治天皇陵の「伏見桃山陵」 と、

    旧近鉄遊園地の「伏見桃山城運動公

    園」の2カ所にある。

       旧近鉄遊園地の「伏見桃山城運

    動公園」には、現在、(B) 木幡山伏

    見城の、模擬大天守、模擬小天守、模

    擬大手門がある。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。  

 

   ■ (B) 木幡山伏見城の本丸跡などの

     主郭部分は、 明治天皇の陵墓の明治

     天皇陵の「伏見桃山陵」になっている。 

        また、(B) 木幡山伏見城の花畑

     曲輪跡には、1964年(昭和39年)に、

     民間企業の近鉄により遊園地「伏見桃

     山城キャッスルランド」が建設され、家

     康築城・後期・木幡山伏見城の「洛中

     洛外図」に描かれた伏見城を参考にし

     て、園内に、5重6階の模擬大天守、

     3重4階の模擬小天守、模擬大手門

     が造られた。 しかし、2003年(平成

     15年)に、近鉄のリストラの一環で、閉

     園した。 その後、敷地や建物は、京都

     市に譲られ、「伏見桃山城運動公園」と

     して整備された。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 2カ所の伏見城。

 

  ■ (A) 指月伏見城 と 

     (B) 木幡山伏見城。

   ■ (A) 指月伏見城 と (B) 木幡山

   伏見城。 

      伏見城には、 (A) 指月伏見城 

   (しげつふしみじょう) と、 (B) 木

   幡山伏見城 (こはたやまふしみじょ

   う) がある。

      (A) 指月伏見城は、 豊臣秀

   吉が築城した。

      (B) 木幡山伏見城は、 (B1)

   豊臣秀吉が築城した、前期・木幡山 

   伏見城 と (B2) 徳川家康が築城し

   た、後期・木幡山伏見城 の2つがあ

   る。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 伏見城には、 (A) 指月伏見城 (しげ

    つふしみじょう、指月伏見で秀吉築城、

    1592年−1596年) と、 (B) 木幡山

    伏見城 (こはたやまふしみじょう、木幡山

    (桃山丘陵)で秀吉築城の前期:1597年

    ー1600年、木幡山(桃山丘陵)で家康築

    城の後期:1602年ー1625年)がある。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ (A) 指月伏見城 と (B) 木幡山

     伏見城。

        伏見城には、 (A) 指月伏見城 

    (しげつふしみじょう、指月伏見で豊臣

    秀吉築城、1592年−1596年存続) 

    と、 (B) 木幡山伏見城 (こはたや

    まふしみじょう、(B1) 豊臣秀吉築城

    の、前期・木幡山伏見城 (1597年

    ー1600年存続) と (B2) 徳川家康

    築城の、後期・木幡山伏見城 (160

    2年ー1625年存続)の2つ) がある。    

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ (A) 指月伏見城。

      (A) 指月伏見城 (しげつふしみ

    じょう) は、 指月伏見で豊臣秀吉が

    築城し、1592年から1596年まで存

    続した。 

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ (B) 木幡山伏見城。

      (B) 木幡山伏見城 (こはたやま

    ふしみじょう) は、 (B1) 豊臣秀吉が 

    築城した、前期・木幡山伏見城 と、 

    (B2) 徳川家康が築城した、後期・木

    幡山伏見城 の2つがある。

   ● (B1) 前期・木幡山伏見城 と

      (B2) 後期・木幡山伏見城。

       (B1) 前期・木幡山伏見城は、

    木幡山(桃山丘陵)で豊臣秀吉が築城

    し、1597年から1600年まで存続した。

       (B2) 後期・木幡山伏見城は、

    木幡山(現・桃山丘陵)で徳川家康が築

    城し、1602年から1625年まで存続し

    た。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 豊臣伏見城 と 徳川伏見城。

 

  ■ (A,B1) 豊臣伏見城 と 

     (B2) 徳川伏見城。    

   ■ (A,B1) 豊臣伏見城 と 

     (B2) 徳川伏見城。    

       伏見城には、 (A,B1) 豊臣秀吉

    築城の、豊臣伏見城の、(A) 指月伏見 

    城(しげつふしみじょう) や (B1) 前

    期・木幡山伏見城  と、 (B2) 徳川

    家康築城の、徳川伏見城の、後期・木幡

    山伏見城 がある。    

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ (A,B1) 豊臣伏見城 と 

      (B2) 徳川伏見城。

      伏見城には、 (A,B1) 豊臣秀吉が

    築城した、豊臣伏見城である、(A) 指月

    伏見城 (しげつふしみじょう、指月伏見

    で豊臣秀吉築城、1592年−1596年

      存続) や (B1) 前期・木幡山伏見城 

    (木幡山(桃山丘陵)で豊臣秀吉築城、

    1597年ー1600年存続) と、 (B2) 

    徳川家康が築城した、徳川伏見城の、

    後期・木幡山伏見城 (木幡山(桃山丘

    陵)で徳川家康築城、1602年ー1625

    年存続) がある。    

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#fushimicastle-appearingscenes

 

♪ 伏見城が登場する、興味深い関

      連ドキュメンタリー、ドラマ、映画。 

 

 伏見城が登場する、興味深い関連

   ドラマ、映画。 

 

■ 『 功名が辻 (こうみょうがつじ) 』 。  

      (原作:司馬遼太郎の「功名が辻」、

       脚本:大石静)。

   (NHKテレビの2006年大河ドラマ)。

 ■ 伏見城を延べる。

 ■ 2006年9月17日・本放送の「功名が辻」

   第37回の『太閤対関白』の末部解説で、

   史実の伏見城の概要を描き、延べる。

 

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#bushi

 

 武士

     (ぶし)。

 

■ 武士。

■ 名称 : 武士 (ぶし)。 

 別名 : 侍(さむらい)、武者(むしゃ)。

■ 存在時期 : 10世紀頃〜19世紀。

■ 武士とは、前近代日本で、武芸を専業とす

  る職能人または職能集団である。

■ 武士とは、前近代日本で、武芸を修(おさ)

  め軍事に携(たずさ)わった階級、即ち、武

  士階級または武士階級の者である。

■ 関連事項

  (⇒ 武家武家政治武家政権武士道

  戦国武士道封建制度)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11428。

 

□ 映画 「ラスト・サムライ」 画像 

   NO.1。  

□ 映画 「ラスト・サムライ 」 画像

   アルバム No.1。  

 

 

■ 武士。

■ 武士 (ぶし、10世紀頃〜19世紀)とは、

   前近代日本で、武芸を専業とする職能人

   または職能集団である。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 武士 (ぶし)とは、前近代日本で、侍(さむ

  らい)、武者(むしゃ)ともいい、 武芸を修

  (おさ)め軍事に携(たずさ)わった階級、即ち、

  武士階級または武士階級の者である。

             

■ 武士(ぶし) は、10世紀頃から19世紀まで

  存在し、 侍(さむらい)、武者(むしゃ) とも

  呼ばれた。

 

 

■ 武士道。

   ■ 武士道とは、 武士階級の間で発達し

     た道徳律である。

 

   ■ 武士道は、 尚武 (しょうぶ、武事・軍

     事を尊(とうと)ぶこと)、名誉、忠誠など

     を重んじる。

 

   ■ 武士道では、 封建制度に組み込まれた、

     主君の武士は、家臣を慈(いつく)しみ、

     家臣の武士は、主君に忠実に仕(つか)え

     る姿勢が求められた。

 

   ■ 武士は、名誉を重んじた。 武士にとって、

   名誉は、自分の命(いのち)よりも大切であり、 

   武士は、誉(ほま)れ、誇りを尊び、恥(はじ)を

   嫌った。

 

   ■ 武士の頭領は、戦場で、戦う直前に、臣

   下に、『 命(いのち)を惜(お)しむな。 名こ

   そ惜しめ 』と言い、 部下を励(はげ)まし、

   戦った。

 

■ 封建制度。

   ■ 封建制度 (ほうけんせいど)とは、主君が、

     従者(家来、家臣)へ富(禄(ろく);報酬、領

     地等)、名誉、権力を供与し、 従者(家来、

     家臣)に献身を求(もと)める社会制度である。

            

 

■ 武士の独立。

■ 武士は、 初め、朝廷の皇族、貴族、公家の家

  臣(家来)であったが、 やがて、独立して、政

  権(武家政権、軍事政権)を立てる。

 

■ 前近代日本の、日本を統一し支配した、武士の

  武家政権には、 平氏政権、 鎌倉幕府、 

  室町幕府、 豊臣政権、 江戸幕府 がある。

 

 

■ 武士の誕生。

  ● 日本の平安時代前期以前までは、文人(ぶ

     んじん)に対し、軍事を職とする人、即ち、

     武人(ぶじん)が存在した。

 

  ● 日本の平安時代中期に、武士は、 9世紀

     末から東国で相次いだ群党蜂起に対処す

     るため国家の軍制改革によって新たに編

     成された弓射騎兵の軍事集団を起源とし、

     10世紀に、「弓射騎馬」で武装し合戦を業

     とする兵(つわもの)が出現する。

 

  ● 日本の平安時代に、武芸に秀でた者が武士

     となり、諸国の国衙(こくが)、荘園の衛兵

     となり、中央では、官人貴族の衛兵となる。

 

  ● 日本の平安時代に、 軍事貴族、在庁 官人

    (ざいちょうかんじん)、荘官(しょうかん、荘

    園の管理者)などから、武芸に秀でた者が武

    士となり、武士が起こる。

 

  ● 軍事貴族出身の武士の例としては、 源経基 

    (みなもとのつねもと、清和源氏の祖)、 平高

    望 (たいらのたかもち、桓武平氏の祖)などが

    いる。

 

■ 武士の誕生。

■ 武家の、武士(ぶし) は、 10世紀の日本で、軍

  事貴族 及び、 武芸を身につけた、在庁官人

  (ざいちょうかんじん)、荘官(荘園の管理者)、荘

  園などの私兵などから武士が起こる。

     武家の、武士 (ぶし)では、 例えば、軍事貴

  族出身の源経基(みなもとのつねもと、清和源氏

  の祖、917?〜961年?、清和天皇の孫)、平

  高望(たいらのたかもち、桓武平氏の祖、9世紀

  後半〜10世紀、桓武天皇の曾孫) などがいる。 

 

■ 武士は、 軍事貴族、及び、武芸を身につけた、

  在庁官人、荘官、荘園などからの私兵などから

  出現した、武人(軍人)である。 

 

■ 武士は、 平安時代に、 武芸に秀でた貴族 及

  び、 武芸を身に付けた、朝廷の地方役所の官人

  (役人)の在庁官人(ざいちょうかんじん)、 荘園

  などの私有地を守るために武芸を身につけた、荘

  官(荘園の管理者)や荘園などの農民の私兵 な

  どから発生した。

 

 

■ 武士の変遷。

■ 平安中期より室町時代までは、 半農半武士で

   ある武士は多かった。

● 平安中期より室町時代までは、 武士の身分は、

  固定しておらず、特に、中・下級武士は、他の職

  業から武士への転進も多かった。 また、武士よ

  り、他の職業へ転進する場合も多かった。

     例えば、美濃の斎藤道三(利政)(または斎

  藤道三(利政)の父)は、油売りの商人から武士

  へ転進し、 豊臣秀吉は、農民から武士へ転進

  する。 

 

■ プロの職業軍人である武士は、 織田信長や

  他の戦国大名が、 軍事以外の仕事をしない、

  プロの職業軍人である武士を大量に生み出し、 

  その後、豊臣秀吉が、1591年(天正19年)

  8月に、身分統制令(士農工商の身分法)を定

  め、武士の身分を固定した。

 

■ 安土桃山時代から、江戸時代、明治時代初期

  までは、 武士は、身分が固定され、 プロの職

  業軍人である武士となった。 

 

■ 江戸時代中期や後期には、武士は、戦争が無く

  なり、行政官僚となり、 日本の支配階級を形成

  した。

 

■ その後、 武士は、明治初期の1876年(明治

  9年)の廃刀令や秩禄処分による武士階級の消

  滅まで、存在した。

 

 

■ 武士。

■ 上層階層の武士 (ぶし、別名は侍(さむらい)) 

  は、 軍事貴族で、 朝廷の武官(軍事貴族)から

  出現した武人(軍人)で、 10〜19世紀に存続し

  た。

■ 下層階層の武士は、 荘園等の私兵で、平安時

  代中期の10世紀頃から、 荘園制の私有地の発

  生に伴い、貴族、皇族等の私有地を守るために

  武装した武人である武士が出現する。 

 

 

■ 武士団。

 武士団とは、 武士が軍事的・族的に結合した

  集団 である。

 

■ 平安時代中期の10世紀以降、 日本各地で、

   武士が同族的結合により、武士団が形成され、 

   武士団の内部は、 惣領(そうりょう)を中心に、

   家子(いえのこ)、郎党(ろうとう)が結集して、 

   主従関係を形成した。  

       中世日本前期の鎌倉幕府の御家人、

   地頭は、多くは、 それらの武士団の惣領であ

   る。 

       中世日本後期になると、武士団の結合

   には、血縁的要素よりも地縁的要素が重くなっ

   てくる。

 

 

■ 浪人。

■ 浪人 (ろうにん)とは、 安土桃山時代、江戸

  時代、明治時代初期に、主君をもたない武士

  である。

 

■ 浪人とは、 武士の身分が固定した安土桃山

   時代より、 武士階級が消滅する明治初期

   までの時期で、 主君を持たない、プロの職

   業軍人である武士である。

 

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#thesamuraiclass

 

■ 武家 

     (ぶけ)。

 

■ 武家。

■ 名称 : 武家 (ぶけ)。

 英語名 : 

  a person or the people of the 

  Samurai (Warrior) Class or  the 

  Samurai Family。

■ 武家とは、武士階級の氏族または武士階級

  の者である。

■ 武家とは、 武門(ぶもん、武士の家系)であ

  り、 武士の家筋(いえすじ、家の血筋、家系)

  または武士の家筋の者である。

■ 関連事項

  (⇒ 武士武家政治武家政権武士道

  戦国武士道封建制度)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11432。

 

 

■ 武家。

■ 武家(ぶけ)とは、武士階級の氏族または武士

   階級の者である。

             

■ 武家(ぶけ)とは、 武門(ぶもん、武士の家系)

  であり、 武士の家筋(いえすじ、家の血筋、家

  系)または武士の家筋の者である。

 

■ 武家は、前近代日本で、朝廷(天皇家、公家)、

     寺社(寺家)と共に、日本を支配した支配階級

  である。

             

■ 武家とは、上層武士階級または上層武士を意

   味することが多い。

 

 

■ 武家。

■ 武家は、 前近代日本の政治を支配した勢力

  である、天皇家、 公家、 武家、 寺社(の僧

  侶・神官)の勢力の1つである。

 

■ 武家。

■ 名門の武家には、 武士政権を樹立した、平氏

  政権伊勢平氏、 源氏政権河内源氏、 北条

  執権政権の鎌倉北条氏、 足利政権の足利氏、 

  織田政権の織田氏、 豊臣政権の豊臣氏、 徳川

  政権の徳川氏 などがある。

 

■ 武家。

■ 武家の、武士(ぶし) は、10世紀から19世紀ま

  で存在し、 侍(さむらい)、武者(むしゃ) とも呼

  ばれた。

 

■ 武家。

■ 武家の、武士(ぶし) は、 10世紀の日本で、軍

  事貴族 及び、 武芸を身につけた、在庁官人

  (ざいちょうかんじん)、荘官(荘園の管理者)、荘

  園などの私兵 などから武士が起こる。

     武家の、武士 (ぶし)では、 例えば、軍事貴

  族出身の源経基(みなもとのつねもと、清和源氏

  の祖、917?〜961年?、清和天皇の孫)、平

  高望(たいらのたかもち、桓武平氏の祖、9世紀

  後半〜10世紀、桓武天皇の曾孫) などがいる。 

 

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#bukeseiken

 

■ 武家政権 

     (ぶけせいけん)。

 

■ 武家政権。 

■ 名称 : 武家政権 (ぶけせいけん)。

■ 存続期間 平安時代末期 〜江戸時代末期 

  (1160年頃〜1867年頃)。 

■ 武家政治とは、 武家の棟梁(とうりょう)と

  日本各地の封建領主が、主従関係を結び、 

  成立する、政治形態である。

■ 武家政権 成立年代順。

● 平氏政権 (1160年頃〜1185年頃)

● 源氏政権 (1185年頃〜1219年頃)   

            鎌倉幕府 (1192年〜1333年)

 北条(氏)政権 (1219年年頃〜1333年頃)

● 足利(氏)政権 (1336年 頃〜1573年頃) 

            室町幕府 (1338年〜1573年)

● 織田(氏)政権 (1573年頃〜1582年頃)

● 豊臣(氏)政権 (1582年頃〜1600年 頃)

 徳川(氏)政権 (1600 年頃〜1868年頃) 

            江戸幕府 (1603〜1867年)。

■ 武家政権とは、 武家政治の政権 で、 武

  家が政治の主体となる政治権力、政体である。

 

■ 武家政権とは、 武家が政治の実権を握り

  日本を支配する政治形態の政権 である。 

 

■ 武家政権は、 平安時代末期〜江戸時代末

  期に、 12世紀中頃から19世紀中頃(186

  7年)まで行われ、 19世紀後期に、「近代国

  家政府にとって代わられた。

■ 鎌倉幕府の武家政権の始まりに関しては、

  「 日本歴史の驚異の出来事ー頼朝と政子」 を

  参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11439。

 

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■ 日本では、 院政 (11世紀後半〜12世紀

   後半)が、 衰えて、武家政治 (12世紀後

   半〜19世紀後半)が、 始まる。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 武家政治の武家政権では、 まず最初に、 

   平氏政権、 次に、鎌倉幕府、 次に、室

   町幕府、 次に、織田・豊臣政権、 次に、

   江戸幕府 という武家政権が日本を支配し

   た。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 武家政権。

■ 武家政治の武家政権には、 成立年代順に、 

   平氏政権     (1160年頃〜1185年頃)、 

   源氏政権     (1185年頃〜1219年頃)、 

   北条(氏)政権  (1219年年頃〜1333年頃)、 

   足利(氏)政権 (1336年頃〜1573年頃)、  

   織田(氏)政権 (1573 年頃〜1582年頃)、 

   豊臣(氏)政権 (1582年頃〜1600年 頃)、 

   徳川(氏)政権 (1600年頃〜186 8年頃)、 

   などがある。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 武家政権の幕府。

■ 武家政治の武家政権の幕府は、 成立年代順に、 

   鎌倉幕府 (1192年〜1333年)、

   室町幕府 (1338年〜1573年)、 

   江戸幕府(1603〜186 7年)

   などがある。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ (S) 日本の政治形態。

  ● 次の各項目の詳細に関しては、 

    当日本語辞典の各項目を参照して下さい。

■ (S) 日本の政治形態は、順に、

   (S1d) 小国首長政治 

        (前1世紀〜紀元後5世紀)

   (S1g) 豪族連合政治 

        (5〜7世紀) ⇒ 

   (S2)  律令政治 

        (7〜10世紀) ⇒ 

   (S3)  摂関政治 

        (10〜11世紀) ⇒ 

   (S4)  院政政治 

        (11〜12世紀) ⇒

    (S5)  武家政治 (12〜19世紀) ⇒ 

    (S6)  近代制限民主政治 

           (19〜20世紀) ⇒

    (S7) 現代国民主権政治 

         (現代主権在民政治)

              (20〜21世紀の現在)。

    である。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

● 日本の政治形態の、小国首長政治、 豪族連

   合政治、 律令政治、 摂関政治、 院政政治、

   武家政治、 近代制限民主政治、 現代国民

   主権政治に関しては、 

      日本史辞典の『 日本の政治形態 (にほ

   んのせいじけいたい)、 小国首長政治 、 豪

   族連合政治 (ごうぞくれんごうせいけん)、 

   律令政治 (りつりょうせいじ)、 摂関政治 

   (せっかんせいじ)、 院政 (いんせい)、

   近代制限民主政治 (きんだいせいげんみん

   しゅせいじ)、 現代国民主権政治 (げんだい

   こくみんしゅけんせいじ) 』 の項目を参照し

   て下さい。

   □ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。                            

 

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#bukeseiji

 

■ 武家政治 

     (ぶけせいじ)。

 

■ 武家政治。 

■ 存続期間 平安時代末期 〜江戸時代末期 (1160年頃〜1868

 年頃)。 

■ 名称 : 武家政治 (ぶけせいじ)。

■ 武士政権による政治。

■ 武家政治 とは、、武家の棟梁(とうりょう)と日本各地の封建

 領主が、 主従関係を結び、 成立する、政治形態。

■ 武家政治 とは、 武家が政治の実権を握り、日本を支配する

 政治形態。

■ 平氏政権の政治 (1160〜1185年)、 源氏政権の政治 (1

 185年〜1219年)、 北条(氏)政権の政治 (1219年〜1333

 年)、 鎌倉幕府の政治 (1192〜1333年)、 足利(氏)政権の

 政治 (1336年〜1573年)、 室町幕府の政治 (1338年〜

 1573年)、 織田(氏)政権の政治 (1573〜1582年)、 

  豊臣(氏)政権の政治 (1582〜1600年)、 徳川(氏)政権の政治 

 (1600〜1868年)、 江戸幕府の政治 (1603〜1867年)。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

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■ (S5) 武家政治 とは、 武家が、政治の実権を握り、日本を支配

 する政治形態 で、 武家の棟梁(とうりょう)と日本各地の封建領主が、

 主従関係 (主君と従者・臣下の関係) を結び、成立する、政治形態。

 

■ (S4) ⇒ (S5) 1159年(平治元年)の平治の乱で武士の武力

 の力で政治の争いが決着後、 (S4) 院政 (11〜12世紀) は、

 (S5) 武家政治 (12〜19世紀) に移行する(へ変わる)。  

 

■ 武家政治 は、 政治の実権を握る、武家が、 日本を支配する政

 治形態 で、 平安時代末期〜江戸時代末期 に、 12世紀中頃から

 19世紀中頃まで(1867年)、行われ、 19世紀後期に、「天皇親政

 政治」 に 変わった。

 

■ 日本では、 院政 (11世紀後半〜12世紀後半) が、 衰えて、 

 武家政治 (12世紀後半〜19世紀後半) が、 始まる。

 

■ 武家政治の政権では、 まず最初に、 平氏政権、次に、鎌倉幕府、

 次に、室町幕府、 次に、 織田・豊臣政権、 次に、江戸幕府 という 

 武家政権 が 日本を支配した。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ (S5) ⇒ (S6) 1867年(慶応3年)の王政復古により、 (S5) 

 武家政治 (12〜19世紀) は、 (S6) 近代天皇親政政治 (19〜

 20世紀) に移行する(へ変わる)。 

 

■ (S) 日本の政治形態。

 (S1d) 小国首長政治 (前1世紀〜紀元後5世紀)

 (S1g) 豪族連合政治 (5〜7世紀) ⇒ (S2) 律令

 政治 (7〜10世紀) ⇒ (S3) 摂関政治 (10〜11

 世紀) ⇒ (S4) 院政政治 (11〜12世紀) ⇒(S5)

 武家政治 (12〜19世紀) ⇒ (S6) 近代天皇親政

 政治 (近代天皇絶対主義政治) (19〜20世紀) ⇒

 (S7) 現代国民主権政治 (現代主権在民政治) (20

 〜21世紀の現在)。

● 上記項目の詳細に関しては、 当日本語辞典の各項

 目を参照して下さい。

 

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#bunrukukeichonoeki

 

■ 文禄・慶長の役 

      (ぶんろく・けいちょうのえき)。

 

■ 文禄・慶長の役。

■ 時期 : 安土桃山時代後期。

■ 名称 : 文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょのえき)。

● 別名 : 朝鮮の役 (ちょうせのえき)。

■ 1592年の文禄の役(ぶんろくのえき) と、

  1597〜98年の慶長の役(けいちょうのえき)。

■ 秀吉は、中国の明(みん)の征服を目指し、その

  途中の朝鮮半島を、まず、従わせるため、侵略する。

■ 桃山時代の、豊臣秀吉の命(めい)による、2度の

  朝鮮侵略戦争。朝鮮半島が戦場となった戦争。

■ 兵農分離により戦国・安土桃山時代にできたプロ

  の戦闘集団(職業軍人)を、豊臣秀吉が豊臣政権に

  従わせるために行った対外戦争。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 72139。

 

 

■ 文禄・慶長の役は、 豊臣秀吉が陸路の朝鮮半島

  方面から、中国の明の征服を目指し、その途中の

  朝鮮半島を侵略した戦争である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 文禄・慶長の役 (ぶんろく・けいちょうのえき、朝鮮

  出兵)は、 安土桃山時代後期の秀吉の朝鮮侵略戦

  争 (1592−1598年、文禄の役:1592 ー93年 と、 

  慶長の役:1597ー98年)であり、 朝鮮半島が戦場

  となる。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 文禄・慶長の役。

    1591年(天正19年)9月に、豊臣秀吉は、朝

  鮮出兵を発令する。

    1592年(天正20年)3〜4月に、豊臣の日本軍

  は、朝鮮に上陸し(文禄の役始まる)、 同年5月に

  朝鮮王国(李氏朝鮮)の首都の京城を陥落させたが、

  国王は逃亡した。 このあと、豊臣の日本軍は、朝

  鮮半島全域の支配をめざすが、うまくいかず、15

  93年(文禄2年)3月に京城を撤収する。 その後、

  同年に日本と中国の明は、講和交渉に入った(文

  禄の役終わる)。

    1593年(文禄2年)6月に、秀吉は、 (1) 明

  皇帝の皇女の日本天皇への降嫁、 (2) 朝鮮領

  土の割譲、 (3) 日明通交の復活などの7か条の

  講和の条件を、中国の明に示した。 

     1596年(文禄5年)9月に、大坂城で、明の使

  節は、明は秀吉を日本国王に封(ほう)ずるとのみ

  回答し、交渉は決裂し、秀吉は、怒り、朝鮮再出兵

  命令を下す。

    1597年(慶長2年)1月に、豊臣の日本軍が

  朝鮮に上陸する(慶長の役始まる)。

    1598年(慶長3年)8月に、豊臣秀吉が死す。

    1598年(慶長3年)12月に、豊臣の日本軍が

  朝鮮からほぼ撤収を完了する(慶長の役終わる)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 文禄・慶長の役は、 兵農分離により戦国・安土桃山

  時代にできたプロの戦闘集団(職業軍人)を豊臣政権

  に従わせるために、豊臣秀吉が、海外の占領地の恩

  賞用の農産物、土地などを求めて、行った対外戦争と

  いう面もあった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

             

■ 文禄・慶長の役とは、 1592−93年の文禄の役

  (ぶんろくのえき) と、 1597〜98年の慶長の役(け

  いちょうのえき) である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 文禄・慶長の役 (ぶんろく・けいちょのえき)は、 別

  名は、朝鮮の役 (ちょうせのえき) とも言い、安土桃

  山時代後期の、桃山時代に、豊臣秀吉の命 (令)によ

  り行われた、2度の朝鮮侵略戦争 である

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 文禄・慶長の役 では、 秀吉は、中国の明(みん)の

  征服を目指し、 その途中の朝鮮半島を、まず、従わ

  せるため、侵略する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 朝鮮の役の、戦争中に、 参戦した各大名は、 朝鮮

  各地で略奪(食糧・物品の現地調達)を行い、 また、 

  労役利用、人身売買、その他の理由で、 朝鮮半島で、

  たくさんの朝鮮人の農民、職人を捕縛し、日本に連れ

  てきた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 朝鮮の役後、 朝鮮半島の「李氏朝鮮」の政府は、

  縛し連行された、多くの自国民の朝鮮人を取り戻すた

  め (帰国させるため)、 江戸初期に、 日本(江戸幕

  府)と国交を回復する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 豊臣秀吉による、1590年の天下統一後(日本統一

  後)、 平和になると、 戦国時代(室町時代後期)や

  安土桃山時代の時期に生まれた、プロの戦闘集団

  (職業軍人)は、下層の雑兵達は戦争がないと食べ

  ていけず、 上層家臣の国人衆(こくじんしゅう)、中

  間層家臣の地侍(じざむらい)は、 戦争がないと

  地、現物金銭収入も 増えないので大きな不満を持っ

  た。 戦国大名は、 領地から の 収入だけ(石高)で

  は、 今まで戦争で貢献した、増えすぎた軍団の下

  層の家臣の雑兵達を 養っていけず、 また、領地・

  現物金銭収入が増えないで大きな不満を持つ軍団

  の上層家臣の国人衆や中間層家臣の地侍を統制

  できず、 困惑した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 戦国時代(室町時代後期)〜安土桃山

   時代の、兵農分離。

■ 戦国時代(室町時代後期)や安土桃山時代に、国人

    衆、半農半武士だった地侍、兵士となった農民 は、 

    戦国大名の常備軍の整備のため、 戦国時代や安

  土桃山時代に、次第に、領地や農地から切り離され、 

  戦国大名の家臣と して、 安土桃山時代には、戦国

  大名の城下に住み、 戦争で得た収入に依存して暮

  らすようになった。 織田軍団が典型的な例である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 戦国時代から安土桃山時代までの時期に、 織田

  信長をはじめ多くの戦国大名は、徐々に、 戦国大

  名の軍団の上層の国人衆、 中間層の半農半武士

  だった地侍を 領地から切り離し、城下に住まわ

  せた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 戦国時代(室町時代後期)や安土桃山時代に、 農民

  は、戦国大名の軍団の下層の雑兵 として、 農村から

  召集され、戦争で大活躍した。 

     しかし、 戦国大名は、農繁期には、戦争ができず、 

  農閑期に戦争を行うこととなり、 戦争で大きな問題 と

  なった。 例えば、武田軍団では、 農繁期になると、

  農民の雑兵が軍団より離脱し、故郷の村に農作業をす

  るために帰ってしまうことがよくあった。 春から夏にか

  け、作物を作らないと、食べ物がなくなり、その冬に、一

  家が餓死してしまうためである。 

     そこで、 戦国時代 (室町時代後期)から安土桃

  山時代までの時期に、 農産収穫物、金銀鉱山、上納金

  などをもつ、織田信長をはじめ多くの戦国大名は、 現物・

  金銭支給、略奪、人身売買(戦地で捕縛した町村民を国

  内外に売る)などの収入で、 農民の雑兵を、農業をせず

  に、戦争の働きだけで収入を得られるようにし、 農地か

  ら切り離し、農繁期でも、1年中いつでも、戦争ができるよ

  うにした。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#thegoldandsilvercoinsofbuandshuunits

 

■ 分朱金銀貨 

    (ぶしゅきんぎんか)

 

■ 分朱金銀貨。

■ 名称 : 分朱金銀貨 (ぶしゅきんぎんか)。

● 別名 : 分朱金銀 (ぶしゅきんぎん)。

● 英語名 : THE GOLD AND SILVER 

  COINS OF THE BU AND SHU UNITS.

 《日本流通貨幣》。

   江戸時代の日本流通貨幣。

 江戸時代の、分・朱(ぶ・しゅ)単位の金銀貨。

■ 江戸幕府が鋳造・発行した、江戸時代の、分・

  朱単位の定位(定額)・通常貨幣、長方形「分

  朱金銀貨」

■ 二分金(3種)、  分金(11種)、 二朱金

  (3種)、  一朱金(1種)、  分銀(2種)、 

  二朱銀(3種)、 一朱銀(1種) の7種類。

■ 二分金貨  ≒現在の約5万円。

   一分金銀貨≒現在の約2万5000円。

     二朱金銀貨≒現在の約1万2500円。

   一朱金銀貨≒現在の約6250円。

   一両小判(金) ≒4分 ≒16朱 ≒4000文 

  (4貫文) ≒ 現在の約10万円。

■ 分朱金銀貨 (= 分朱金銀)

  <江戸時代・定位(定額)通常貨幣。

  <江戸時代・日本流通貨幣。

  <近世・日本流通貨幣。

  <日本流通貨幣。

■ 江戸時代の分単位貨幣については、「単位

  定位(定額)通常貨幣」を参照してください。

■ 江戸時代の朱単位貨幣については、「単位

  定位(定額)通常貨幣」を参照してください。

■ 江戸時代の貨幣の全体については、「江戸時代

  の日本流通貨幣」を参照してください。

■ 日本の流通貨幣の全体については、「日本流通

  貨幣を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61726。

 

 

■ 分朱金銀貨。

■ 分朱金銀貨 (ぶしゅきんぎんか)とは、 江戸時

  代の日本流通貨幣であり、 江戸時代の、分・朱

  (ぶ・しゅ)単位の金銀貨である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 分朱金銀貨は、 江戸幕府が鋳造・発行した、江戸

  時代の、分・朱単位の定位(定額)・通常貨幣であり

  長方形「分朱金銀貨」 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 分朱金銀貨 (ぶしゅきんぎんか)の別名は、

  分朱金銀 (ぶしゅきんぎん) である。

 

■ 分朱金銀貨の英語名は、THE GOLD AND 

  SILVER COINS OF THE BU AND 

  SHU UNITS である。

 

■ 分朱金銀貨は、 江戸時代の、江戸幕府鋳造(発

  行)の定位(定額)貨幣・3グループ (両金貨(りょ

  うきんか)、 分朱金銀貨(ぶしゅきんぎんか)、 

  文銭銅・鉄貨(もんせん・どうてっか) の1グルー

  プである。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 一分金(いちぶきん)(11種)は、一両小判金)

  (11種) 、一文銭銅・鉄貨(1種)と共に、江戸 時

  代の定位(定額)通常貨幣の中心通貨として、使

  用された。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 分朱金銀貨。

■ 江戸時代に 、 分朱金銀貨(分朱金銀、分・朱(ぶ・

  しゅ)単位の金貨)の、単位 定位(定額)通常貨

  」 や単位定位(定額)通常貨幣」の、 二分

  (3種)、  分金(11種)、 二朱金(3種)、 

  一朱金(1種)、  分銀(2種)、 二朱(3種)、 

  一朱銀(1種) の7種類の貨幣が、 江戸幕府によ

  鋳造され、流通し、日本全国で使用された。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 分朱金銀貨の、分金、朱金、分銀、朱銀は、 江

  戸幕府鋳造(発行)の、江戸時代の定位(定額)貨

    幣・13種類の、五両判(金)(1種)、 一両小判

    (金)(11種)、 二分金(3種)、  分金(11種)、 

  二朱金(3種)、  一朱金(1種)、  分銀(2種)、 

  二朱銀(3種)、 一朱銀(1種)、  百文銭銅貨

  (= 天保銭)(1種)、 十文銭銅貨(1種)、 四文

  銅・鉄貨(2種)、 一文銭銅・鉄貨 (1種)  のう

  ちの7種類 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 分朱金銀貨。

■ 分金、朱金、分銀、朱銀。

■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣の分朱金銀貨

  は、 (1) 分金(14種) (ぶきん、二分金(3種)

  と一分金(11種))、 (2) 朱金(4種) (しゅきん、

  二朱金(3種) と一朱金(1種))、 (3) 分銀(2種) 

  (ぶぎん、分銀(2種))、 (4) 朱銀(4種) (し

  ゅぎん、二朱銀(3種) と一朱銀(1種)) の4つに

  分類される。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 分単位定位(定額)通常貨幣(金銀貨) と、 

  朱単位定位(定額)通常貨幣(金銀貨)。

■ 江戸時代 の、分朱金銀貨(分朱金銀、分・朱(ぶ・

  しゅ)単位の金貨)は、 単位 定位(定額)通常貨

  」 の、二分金(3種)、 分金(11種)、分銀

  (2種)、 と、 単位定位(定額)通常貨幣」の、

  二朱金(3種)、一朱金(1種)、二朱(3種)、一朱

  (1種) の2つに分類される。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 分金。

 江戸時代に、 分金(ぶきん、= 分(ぶ)単位の金

  貨)(14種)の、 二分金(3種) と 一分金(11

  種) の2種類の貨幣が、鋳造され、流通し、使用

  された。

 

■ 二分金。

■ 江戸時代に全国に流通した、二分金(にぶきん) 

  は、 次の3種類 である。 

    文政二分(判)金(ぶんせいにぶ(ばん)きん)、 

  安政二分(判)金(あんせいにぶ(ばん)きん)、 万

  延二分(判)金(まんえんにぶ(ばん)きん) である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 一分金。

■ 江戸幕府により鋳造され、江戸時代に全国

  に流通した、一分金(いちぶきん)は、 次の

  11種類 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

  慶長一分(判)金 (けいちょういちぶ(ばん)きん)。

  元禄一分(判)金 (げんろくいちぶ(ばん)きん)。 

  宝永一分(判)金 (ほうえいいちぶ(ばん)きん)。

  正徳一分(判)金 (しょうとくいちぶ(ばん)きん)。 

  佐渡一分(判)金 (さどいちぶ(ばん)きん)。 

  享保一分(判)金 (きょうほういちぶ(ばん)きん)。

  元文一分(判)金 (げんぶんいちぶ(ばん)きん)。

  文政一分(判)金 (ぶんせいいちぶ(ばん)きん)。 

  天保一分(判)金 (てんぽういちぶ(ばん)きん)。

  安政一分(判)金 (あんせいいちぶ(ばん)きん)。 

  万延一分(判)金 (まんえんいちぶ(ばん)きん)。 

 

 

■ 朱金。

 江戸時代に、 朱金 (しゅきん、= 朱(しゅ)単位の

  金貨)(4種)の、二朱金(3種)  と、  一朱金(1種)

  の2種類の貨幣が、鋳造され、流通し、使用された。

 

 二朱金。

■ 江戸時代に流通した、二朱金(にしゅきん) は、 

  次の3種類 である。 

    元禄二朱(判)金(げんろくにしゅ(ばん)きん)、

  天保二朱(判)金(てんぽうにしゅ(ばん)きん)、

  万延二朱(判)金(まんえんにしゅ(ばん)きん) で

  ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 一朱金。

■ 江戸時代に流通した、一朱金(いっしゅきん)は、 

 1種類 である。

   文政一朱(判)金(ぶんせいいっしゅ(ばん)きん)

 である。

 

 

■ 分銀。

 江戸時代に、 分銀(ぶぎん、= 分(ぶ)単位の銀

  貨)(2種)の、 分銀(2種) の1種類の貨幣が、

  鋳造され、流通し、使用された。

 

■ 一分銀。

■ 江戸時代に全国に流通した、一分銀 (いちぶぎ

  ん)は、 種類 である。

     天保一分銀(てんぽういちぶぎん) と、 安政

  一分銀(あんせいいちぶぎん) である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 朱銀。

 江戸時代に、 朱銀(しゅぎん、= 朱(しゅ)単位の銀

  貨)(4種)の、 二朱銀(3種)  と、  一朱銀(1種)

  の2種類の貨幣が、鋳造され、流通し、使用された。

 

■ 二朱銀。

■ 江戸時代に全国に流通した、二朱銀(にしゅぎん) 

  は、 次の3種類 である。 

    古南二朱銀 (こなんりょうにしゅぎん)、 新

  二朱銀 (しん なんりょうにしゅぎん)、 安政

  二朱銀 (あんせいにしゅぎん) である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 一朱銀。

■ 江戸時代に全国に流通した、一朱銀(いっしゅぎ

 ん)は、 次の1種類 である。

     文政南一朱銀 (ぶんせいなんりょういっ

  しゅぎん) である。

 

 

■ 小判。

■ 1両小判(金)は、  江戸時代の基軸貨幣であり、 

  江戸時代の各時期で価値は変動したが、 現在の

  貨幣価値で約10万円 で ある。

      江戸時代に、 1両小判(金)は、およそ4分、

  1両小判(金)は、およそ16朱 1両小判(金)は、

  およそ4000文 (4貫文) と交換された。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 江戸時代の貨幣。

■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣。

 

■ 両金貨、分朱金銀貨、文銭銅・鉄貨区分の分類。

● 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣を、(1)

  金貨、(2)分朱金銀貨、(3)文銭銅・鉄貨によ

  り、3つに分類する。

■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣は、  (1) 

  両金貨の、 五両判(金)(1種)、  一両 小判

  (金)(11種)、 (2) 分朱金銀貨の、 二分金

   (3種)、分金(11種)、 二朱金(3種)、 

  一朱金(1種)、 分銀(2種) 二朱銀(3種)、

  一朱銀(1種)、  (3) 文銭銅・鉄貨の、百文銭

  銅貨(= 天保銭)(1種)、 十文銭銅貨(1種)、 

  四文銭銅・鉄貨(2種)、 一文銭銅・鉄貨(1種)  

   の3つに分類される。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 両・分・朱・文区分の分類。

● 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣を、(1)両、

  (2)分、(3)朱、(4)文(りょう、ぶ、しゅ、もん)

  により、4つに分類する。

■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣は、  (1) 

  両単位・定位(定額)・通常貨幣の、五両判(金)

  (1種)、  一両 小判(金)(11種)、 (2) 分単

  ・定位(定額)・通常貨幣の、 二分金(3種)、 

   分金(11種)、 分銀(2種)、  (3) 朱単

  ・定位(定額)・通常貨幣の、 二朱金(3種)、 

   一朱金(1種)、 二朱銀(3種)、 一朱銀(1種)、 

    (4) 銭単位・定位(定額)・通常貨幣の、 百文

     銅貨(= 天保銭)(1種)、 十文銭銅貨(1種)、 

     四文銭銅・鉄貨(2種)、 一文銭銅・鉄貨(1種) 

   の4つに分類される。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 13種類区分の分類。

● 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣を、額面、材

  質等により、13種類に分類する。

■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣は、 五両判

  (金)(1種)、  一両 小判(金)(11種)、 二分金

  (3種)、  分金(11種)、 二朱金(3種)、 

  一朱金(1種)、  分銀(2種) 二朱銀(3種)、

  一朱銀(1種)、 百文銭銅貨(= 天保銭)(1種)、

  十文銭銅貨(1種)、 四文銭銅・鉄貨(2種)、 

  一文銭銅・鉄貨(1種)  の13種類である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 江戸時代(1603年〜1868年)に、 江戸幕府

  により鋳造(発行)され、 全国に流通し、使用さ

  れた定位(定額)・通常貨幣は、 五両判(金)(ご

  りょうばん(きん))(1種)、  一両 小判(金)(いち

  りょうこばん(きん))(11種)、 二分金(にぶきん)

  (3種)、  分金(いちぶきん)(11種)、  二朱

  (にしゅきん)(3種)、  一朱金(いっしゅきん)

  (1種)、  分銀(いちぶぎん)(2種) 二朱銀

  (にしゅぎん)(3種)、  一朱銀(いっしゅぎん)

  (1種)、 百文銭銅貨(= 天保銭)(ひゃくもんせん

  どうか(= てんぽうせん)(1種)、  十文銭銅貨

  (じゅうもんせん)(1種)、 四文銭銅・鉄貨(よんも

  んせんどう・てっか)(2種)、 一文銭銅・鉄貨(い

  ちもんせんどう・てっか)(1種) の13種類である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#buunitregularmoney

 

■ 分単位・定位(定額)・ 

   通常貨幣 

    (ぶたんい・ていい(ていがく)・つう

     じょうかへい)

 

 分単位 ・定位(定額)・通常

  貨幣。

■ 名称 : 分文単位・定位(定額)・通常貨幣 

  (ぶたんい・ていい(ていがく)・つうじょうかへい)。

 《日本流通貨幣》。

   江戸時代の日本流通貨幣。

 分(ぶ)単位の江戸時代の定額(定位)・通常

  貨幣、金銀貨。。

■ 分金銀 (ぶきんぎん、分(ぶ)単位の金貨・銀貨)。

■ 江戸幕府が鋳造・発行した、分単位の、江戸時代

  の定額(定位)・通常貨幣、長方形「分金銀貨」

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ 二分金(3種)、  分金(11種)、  分銀

  (2種)、 の3種類。

■ 江戸時代に流通した、分単位の貨幣には、

  二分金(3種)、 分金(11種)の、分金(14

  種)(ぶきん、分単位の金貨) と、 分銀(2

  種)分銀(2種)(ぶぎん、分単位の銀貨)

  がある。

■ 二分金貨  ≒ 現在の約5万円。

   一分金銀貨≒ 現在の約2万5000円。

   一両小判(金) ≒4分 ≒16朱 ≒4000文 

  (4貫文) ≒ 現在の約10万円。

■ 分文単位 ・定位(定額)・通常貨幣

  <分朱金銀貨 (= 分朱金銀)。

  <江戸時代・定位(定額)通常貨幣。

  <江戸時代・日本流通貨幣。

  <近世・日本流通貨幣。

  <日本流通貨幣。

■ 江戸時代の分朱金銀貨については、「朱金銀

  」を参照してください。

■ 江戸時代の朱単位貨幣については、「単位 定

  位(定額)通常貨幣」を参照してください。

■ 江戸時代の貨幣の全体については、「江戸時代

  の日本流通貨幣」を参照してください。

■ 日本の流通貨幣の全体については、「日本流通

  貨幣を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61726。

 

 

 江戸時代に、分単位の貨幣では、分金(14種)

 分銀(2種)が 鋳造され、 分金(分単位の金貨)で

 は、二分金(3種) と一分金11種) の2種類の貨

 幣が流通し、使用された。 分銀(分単位の銀貨)で

 は、 一分銀(2種) と いう1種類の貨幣が流通し、

 使用された。

● 江戸時代に流通した、分単位の貨幣には、 2分

 金、1分金という 分金(ぶきん、分(ぶ)単位の金貨)

 と 1分銀という 分銀(ぶぎん、分(ぶ)単位の銀貨)

 があった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 分金。

■ 二分金 (にぶきん) は、 2分の単位の金貨で、

 江戸時代の定額(定位)・通常貨幣 である。

    二分金は、 現在の 貨幣価値で約50,000円に

 相当する。

 

■ 一分金 (いちぶきん) は、 1分の単位の金貨

 で、 江戸時代の定額(定位)・通常貨幣 である。

    一分金は、 現在の 貨幣価値で約25,000円に

 相当する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 分金。

 江戸時代に、 分金(ぶきん、= 分(ぶ)単位の金

  貨)(14種)の、 二分金(3種) と 一分金(11

  種) の2種類の貨幣が、鋳造され、流通し、使用

  された。

 

■ 二分金。

■ 江戸時代に全国に流通した、二分金(にぶきん) 

  は、 次の3種類 である。 

    文政二分(判)金(ぶんせいにぶ(ばん)きん)、 

  安政二分(判)金(あんせいにぶ(ばん)きん)、 万

  延二分(判)金(まんえんにぶ(ばん)きん) である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 一分金。

■ 江戸幕府により鋳造され、江戸時代に全国

  に流通した、一分金(いちぶきん)は、 次の

  11種類 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

  慶長一分(判)金 (けいちょういちぶ(ばん)きん)。

  元禄一分(判)金 (げんろくいちぶ(ばん)きん)。 

  宝永一分(判)金 (ほうえいいちぶ(ばん)きん)。

  正徳一分(判)金 (しょうとくいちぶ(ばん)きん)。 

  佐渡一分(判)金 (さどいちぶ(ばん)きん)。 

  享保一分(判)金 (きょうほういちぶ(ばん)きん)。

  元文一分(判)金 (げんぶんいちぶ(ばん)きん)。

  文政一分(判)金 (ぶんせいいちぶ(ばん)きん)。 

  天保一分(判)金 (てんぽういちぶ(ばん)きん)。

  安政一分(判)金 (あんせいいちぶ(ばん)きん)。 

  万延一分(判)金 (まんえんいちぶ(ばん)きん)。 

 

 

■ 分銀。

■ 一分銀 (いちぶぎん) は、 1分の単位の銀貨

 で、 江戸時代の定額(定位)・通常貨幣 である。

    一分銀は、 現在の 貨幣価値で約25,000円に

 相当する。

 

■ 分銀。

 江戸時代に、 分銀(ぶぎん、= 分(ぶ)単位の銀

  貨)(2種)の、 分銀(2種) の1種類の貨幣が、

  鋳造され、流通し、使用された。

 

■ 一分銀。

■ 江戸時代に全国に流通した、一分銀 (いちぶぎ

  ん)は、 種類 である。

     天保一分銀(てんぽういちぶぎん) と、 安政

  一分銀(あんせいいちぶぎん) である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 

■ 江戸時代の貨幣。

■ 江戸時代(1603年〜1868年)に、 江戸幕府に

 より鋳造(発行)され、 全国に流通し、 使用された

 定額(定位)・通常貨幣 は、 5両判金(1種)、 

 一両小判(金)(11種)、  二分金(3種)、  分金

 11種)、 分銀(2種)、 二朱金(3種)、 一朱金

 (1種)、  二朱銀(3種)、  一朱銀(1種)、 百文銭

 (1種)、  十文銭(1種)、 四文銭(2種)、 一文銭

 (1種) などである。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 小判。

■ 1両小判(金)は、  江戸時代の基軸貨幣であり、 

  江戸時代の各時期で価値は変動したが、 現在の

  貨幣価値で約10万円 で ある。

      江戸時代に、 1両小判(金)は、およそ4分、

  1両小判(金)は、およそ16朱 1両小判(金)は、

  およそ4000文 (4貫文) と交換された。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 江戸時代の貨幣。

■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣。

 

■ 両金貨、分朱金銀貨、文銭銅・鉄貨区分の分類。

● 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣を、(1)

  金貨、(2)分朱金銀貨、(3)文銭銅・鉄貨によ

  り、3つに分類する。

■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣は、  (1) 

  両金貨の、 五両判(金)(1種)、  一両 小判

  (金)(11種)、 (2) 分朱金銀貨の、 二分金

   (3種)、分金(11種)、 二朱金(3種)、 

  一朱金(1種)、 分銀(2種) 二朱銀(3種)、

  一朱銀(1種)、  (3) 文銭銅・鉄貨の、百文銭

  銅貨(= 天保銭)(1種)、 十文銭銅貨(1種)、 

  四文銭銅・鉄貨(2種)、 一文銭銅・鉄貨(1種)  

   の3つに分類される。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 両・分・朱・文区分の分類。

● 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣を、(1)両、

  (2)分、(3)朱、(4)文(りょう、ぶ、しゅ、もん)

  により、4つに分類する。

■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣は、  (1) 

  両単位・定位(定額)・通常貨幣の、五両判(金)

  (1種)、  一両 小判(金)(11種)、 (2) 分単

  位・定位(定額)・通常貨幣の、 二分金(3種)、 

   分金(11種)、 分銀(2種)、  (3) 朱単

  位・定位(定額)・通常貨幣の、 二朱金(3種)、 

   一朱金(1種)、 二朱銀(3種)、 一朱銀(1種)、 

    (4) 銭単位・定位(定額)・通常貨幣の、 百文

     銅貨(= 天保銭)(1種)、 十文銭銅貨(1種)、 

     四文銭銅・鉄貨(2種)、 一文銭銅・鉄貨(1種) 

   の4つに分類される。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 13種類区分の分類。

● 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣を、額面、材

  質等により、13種類に分類する。

■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣は、 五両判

  (金)(1種)、  一両 小判(金)(11種)、 二分金

  (3種)、  分金(11種)、 二朱金(3種)、 

  一朱金(1種)、  分銀(2種) 二朱銀(3種)、

  一朱銀(1種)、 百文銭銅貨(= 天保銭)(1種)、

  十文銭銅貨(1種)、 四文銭銅・鉄貨(2種)、 

  一文銭銅・鉄貨(1種)  の13種類である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 江戸時代(1603年〜1868年)に、 江戸幕府

  により鋳造(発行)され、 全国に流通し、使用さ

  れた定位(定額)・通常貨幣は、 五両判(金)(ご

  りょうばん(きん))(1種)、  一両 小判(金)(いち

  りょうこばん(きん))(11種)、 二分金(にぶきん)

  (3種)、  分金(いちぶきん)(11種)、  二朱

  (にしゅきん)(3種)、  一朱金(いっしゅきん)

  (1種)、  分銀(いちぶぎん)(2種) 二朱銀

  (にしゅぎん)(3種)、  一朱銀(いっしゅぎん)

  (1種)、 百文銭銅貨(= 天保銭)(ひゃくもんせん

  どうか(= てんぽうせん)(1種)、  十文銭銅貨

  (じゅうもんせん)(1種)、 四文銭銅・鉄貨(よんも

  んせんどう・てっか)(2種)、 一文銭銅・鉄貨(い

  ちもんせんどう・てっか)(1種) の13種類である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#bukin

 

■ 分金 

    (ぶきん)

 

■ 分金。

■ 名称 : 分金 (ぶきん)。

 《日本流通貨幣》。

   江戸時代の日本流通貨幣。

■ 分金 (ぶきん、分(ぶ)単位の金貨)。

■ 江戸幕府が鋳造・発行した、分(ぶ)単位の、江

  戸時代の定額(定位)・通常貨幣、長方形「分金

  貨」

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ 二分金(3種)、  分金(11種)、 の2種類。

■ 江戸時代に流通した、分単位の貨幣には、

  二分金(3種)、 分金(11種)の、分金(14

  種)(ぶきん、分(ぶ)単位の金貨) と、 

  (2種)分銀(2種)(ぶぎん、分単位の銀

  貨)がある。

  (⇒ 「単位定位(定額)通常貨幣)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 二分金 ≒ 現在の約 50,000円。

   一分金 ≒ 現在の約 25,000円。

   一両小判(金) ≒4分 ≒16朱 ≒4000文 

  (4貫文) ≒ 現在の約10万円。

■ 分金

  <分文単位 ・定位(定額)・通常貨幣

  <分朱金銀貨 (= 分朱金銀)。

  <江戸時代・定位(定額)通常貨幣。

  <江戸時代・日本流通貨幣。

  <近世・日本流通貨幣。

  <日本流通貨幣。

■ 江戸時代の分単位貨幣については、「単位

  定位(定額)通常貨幣」を参照してください。

■ 江戸時代の分朱金銀貨については、「朱金

  銀貨」を参照してください。

■ 江戸時代の貨幣の全体については、「江戸時

  代の日本流通貨幣」を参照してください。

■ 日本の流通貨幣の全体については、「日本流

  通貨幣を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61726。

 

 

 江戸時代に、分単位の貨幣では、分金(14種)

  分銀(2種)が 鋳造され、 分金(分単位の金貨)

  では、二分金(3種) と 一分金11種) の2種

  類の貨幣が流通し、使用された。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 江戸時代に流通した、分単位の貨幣には、

  二分金(3種)、 分金(11種)の、分金(14種)

  (ぶきん、分(ぶ)単位の金貨) と、 分銀(2

  種)分銀(2種)(ぶぎん、分単位の銀貨)が

  ある。

  (⇒ 「単位定位(定額)通常貨幣)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 分金。

■ 二分金 (にぶきん) は、 2分の単位の金貨で、

 江戸時代の定額(定位)・通常貨幣 である。

    二分金は、 現在の 貨幣価値で約50,000円に

 相当する。

 

■ 一分金 (いちぶきん) は、 1分の単位の金貨

 で、 江戸時代の定額(定位)・通常貨幣 である。

    一分金は、 現在の 貨幣価値で約25,000円に

 相当する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 分金。

 江戸時代に、 分金(ぶきん、= 分(ぶ)単位の金

  貨)(14種)の、 二分金(3種) と 一分金(11

  種) の2種類の貨幣が、鋳造され、流通し、使用

  された。

 

■ 二分金。

■ 江戸時代に全国に流通した、二分金(にぶきん) 

  は、 次の3種類 である。 

    文政二分(判)金(ぶんせいにぶ(ばん)きん)、 

  安政二分(判)金(あんせいにぶ(ばん)きん)、 万

  延二分(判)金(まんえんにぶ(ばん)きん) である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 一分金。

■ 江戸幕府により鋳造され、江戸時代に全国

  に流通した、一分金(いちぶきん)は、 次の

  11種類 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

  慶長一分(判)金 (けいちょういちぶ(ばん)きん)。

  元禄一分(判)金 (げんろくいちぶ(ばん)きん)。 

  宝永一分(判)金 (ほうえいいちぶ(ばん)きん)。

  正徳一分(判)金 (しょうとくいちぶ(ばん)きん)。 

  佐渡一分(判)金 (さどいちぶ(ばん)きん)。 

  享保一分(判)金 (きょうほういちぶ(ばん)きん)。

  元文一分(判)金 (げんぶんいちぶ(ばん)きん)。

  文政一分(判)金 (ぶんせいいちぶ(ばん)きん)。 

  天保一分(判)金 (てんぽういちぶ(ばん)きん)。

  安政一分(判)金 (あんせいいちぶ(ばん)きん)。 

  万延一分(判)金 (まんえんいちぶ(ばん)きん)。 

 

 

 

 分金。

■ 江戸時代の貨幣。

■ 江戸時代(1603年〜1868年)に、 江戸幕府に

 より鋳造(発行)され、 全国に流通し、 使用された

 定額(定位)・通常貨幣 は、 5両判金(1種)、 

 一両小判(金)(11種)、  二分金(3種)、  分金

 11種)、 分銀(2種)、 二朱金(3種)、 一朱金

 (1種)、  二朱銀(3種)、  一朱銀(1種)、 百文銭

 (1種)、  十文銭(1種)、 四文銭(2種)、 一文銭

 (1種) などである。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 小判。

■ 1両小判(金)は、江戸時代の基軸貨幣で、 江戸

 時代の各時期で価値は変動したが、 現在の 貨幣

 価値で約 10万円 であった。

   江戸時代に、 1両小判(金)は、およそ4分、1両

 小判 (金)は、およそ16朱 1両小判(金)は、およ

 そ4000文 (4貫文) と交換された。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 江戸時代の貨幣。

■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣。

 

■ 両金貨、分朱金銀貨、文銭銅・鉄貨区分の分類。

● 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣を、(1)

  金貨、(2)分朱金銀貨、(3)文銭銅・鉄貨によ

  り、3つに分類する。

■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣は、  (1) 

  両金貨の、 五両判(金)(1種)、  一両 小判

  (金)(11種)、 (2) 分朱金銀貨の、 二分金

   (3種)、分金(11種)、 二朱金(3種)、 

  一朱金(1種)、 分銀(2種) 二朱銀(3種)、

  一朱銀(1種)、  (3) 文銭銅・鉄貨の、百文銭

  銅貨(= 天保銭)(1種)、 十文銭銅貨(1種)、 

  四文銭銅・鉄貨(2種)、 一文銭銅・鉄貨(1種)  

   の3つに分類される。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 両・分・朱・文区分の分類。

● 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣を、(1)両、

  (2)分、(3)朱、(4)文(りょう、ぶ、しゅ、もん)

  により、4つに分類する。

■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣は、  (1) 

  両単位・定位(定額)・通常貨幣の、五両判(金)

  (1種)、  一両 小判(金)(11種)、 (2) 分単

  位・定位(定額)・通常貨幣の、 二分金(3種)、 

   分金(11種)、 分銀(2種)、  (3) 朱単

  位・定位(定額)・通常貨幣の、 二朱金(3種)、 

   一朱金(1種)、 二朱銀(3種)、 一朱銀(1種)、 

    (4) 銭単位・定位(定額)・通常貨幣の、 百文

     銅貨(= 天保銭)(1種)、 十文銭銅貨(1種)、 

     四文銭銅・鉄貨(2種)、 一文銭銅・鉄貨(1種) 

   の4つに分類される。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 13種類区分の分類。

● 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣を、額面、材

  質等により、13種類に分類する。

■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣は、 五両判

  (金)(1種)、  一両 小判(金)(11種)、 二分金

  (3種)、  分金(11種)、 二朱金(3種)、 

  一朱金(1種)、  分銀(2種) 二朱銀(3種)、

  一朱銀(1種)、 百文銭銅貨(= 天保銭)(1種)、

  十文銭銅貨(1種)、 四文銭銅・鉄貨(2種)、 

  一文銭銅・鉄貨(1種)  の13種類である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 江戸時代(1603年〜1868年)に、 江戸幕府

  により鋳造(発行)され、 全国に流通し、使用さ

  れた定位(定額)・通常貨幣は、 五両判(金)(ご

  りょうばん(きん))(1種)、  一両 小判(金)(いち

  りょうこばん(きん))(11種)、 二分金(にぶきん)

  (3種)、  分金(いちぶきん)(11種)、  二朱

  (にしゅきん)(3種)、  一朱金(いっしゅきん)

  (1種)、  分銀(いちぶぎん)(2種) 二朱銀

  (にしゅぎん)(3種)、  一朱銀(いっしゅぎん)

  (1種)、 百文銭銅貨(= 天保銭)(ひゃくもんせん

  どうか(= てんぽうせん)(1種)、  十文銭銅貨

  (じゅうもんせん)(1種)、 四文銭銅・鉄貨(よんも

  んせんどう・てっか)(2種)、 一文銭銅・鉄貨(い

  ちもんせんどう・てっか)(1種) の13種類である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#bugin

 

■ 分銀 

    (ぶぎん)

 

■ 分銀。

■ 名称 : 分銀 (ぶぎん)。

 《日本流通貨幣》。

   江戸時代の日本流通貨幣。

■ 分金 (ぶきん、分(ぶ)単位の銀貨)。

■ 江戸幕府が鋳造・発行した、分(ぶ)単位の、江

  戸時代の定額(定位)・通常貨幣、長方形「分 銀

  貨」

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ 分銀(2種)の、1種類。

■ 江戸時代に流通した、分単位の貨幣には、

  二分金(3種)、 分金(11種)の、分金(14

  種)(ぶきん、分(ぶ)単位の金貨) と、 

  (2種)分銀(2種)(ぶぎん、分単位の銀

  貨)がある。

  (⇒ 「単位定位(定額)通常貨幣)。

 一分銀 ≒ 現在の約 25,000円。

   一両小判(金) ≒4分 ≒16朱 ≒4000文 

  (4貫文) ≒ 現在の約10万円。

■ 分銀

  <分文単位 ・定位(定額)・通常貨幣

  <分朱金銀貨 (= 分朱金銀)。

  <江戸時代・定位(定額)通常貨幣。

  <江戸時代・日本流通貨幣。

  <近世・日本流通貨幣。

  <日本流通貨幣。

■ 江戸時代の分単位貨幣については、「単位

  定位(定額)通常貨幣」を参照してください。

■ 江戸時代の分朱金銀貨については、「朱金

  銀貨」を参照してください。

■ 江戸時代の貨幣の全体については、「江戸時

  代の日本流通貨幣」を参照してください。

■ 日本の流通貨幣の全体については、「日本流

  通貨幣を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61726。

 

 

 江戸時代に、分単位の貨幣では、分金(14種)

 分銀(2種)が鋳造され、 分銀(分単位の銀貨)で

 は、 1分銀(2種) と いう1種類の貨幣が流通し、

 使用された。

 

■ 江戸時代に流通した、分単位の貨幣には、

  二分金(3種)、 分金(11種)の、分金(14

  種)(ぶきん、分(ぶ)単位の金貨) と、 

  (2種)分銀(2種)(ぶぎん、分単位の銀

  貨)がある。

  (⇒ 「単位定位(定額)通常貨幣)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 分銀。

■ 一分銀 (いちぶぎん)は、 1分の単位の銀貨

  であり、 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣 で

  ある。

     一分銀は、 現在の貨幣価値で約25,000円

  に相当する。

 

■ 江戸時代に全国に流通した、分銀は、分銀(2

  種) のみである。

 

 

■ 分銀。

 江戸時代に、 分銀(ぶぎん、= 分(ぶ)単位の銀

  貨)(2種)の、 分銀(2種) の1種類の貨幣が、

  鋳造され、流通し、使用された。

 

■ 一分銀。

■ 江戸時代に全国に流通した、一分銀 (いちぶぎ

  ん)は、 種類 である。

     天保一分銀(てんぽういちぶぎん) と、 安政

  一分銀(あんせいいちぶぎん) である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 江戸時代の貨幣。

■ 江戸時代(1603年〜1868年)に、 江戸幕府に

 より鋳造(発行)され、 全国に流通し、 使用された

 定額(定位)・通常貨幣 は、 5両判金(1種)、 

 一両小判(金)(11種)、  二分金(3種)、  分金

 11種)、 分銀(2種)、 二朱金(3種)、 一朱金

 (1種)、  二朱銀(3種)、  一朱銀(1種)、 百文銭

 (1種)、  十文銭(1種)、 四文銭(2種)、 一文銭

 (1種) などである。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 小判。

■ 1両小判(金)は、江戸時代の基軸貨幣で、 江戸

 時代の各時期で価値は変動したが、 現在の 貨幣

 価値で約 10万円 であった。

   江戸時代に、 1両小判(金)は、およそ4分、1両

 小判 (金)は、およそ16朱 1両小判(金)は、およ

 そ4000文 (4貫文) と交換された。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 江戸時代の貨幣。

■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣。

 

■ 両金貨、分朱金銀貨、文銭銅・鉄貨区分の分類。

● 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣を、(1)

  金貨、(2)分朱金銀貨、(3)文銭銅・鉄貨によ

  り、3つに分類する。

■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣は、  (1) 

  両金貨の、 五両判(金)(1種)、  一両 小判

  (金)(11種)、 (2) 分朱金銀貨の、 二分金

   (3種)、分金(11種)、 二朱金(3種)、 

  一朱金(1種)、 分銀(2種) 二朱銀(3種)、

  一朱銀(1種)、  (3) 文銭銅・鉄貨の、百文銭

  銅貨(= 天保銭)(1種)、 十文銭銅貨(1種)、 

  四文銭銅・鉄貨(2種)、 一文銭銅・鉄貨(1種)  

   の3つに分類される。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 両・分・朱・文区分の分類。

● 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣を、(1)両、

  (2)分、(3)朱、(4)文(りょう、ぶ、しゅ、もん)

  により、4つに分類する。

■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣は、  (1) 

  両単位・定位(定額)・通常貨幣の、五両判(金)

  (1種)、  一両 小判(金)(11種)、 (2) 分単

  位・定位(定額)・通常貨幣の、 二分金(3種)、 

   分金(11種)、 分銀(2種)、  (3) 朱単

  位・定位(定額)・通常貨幣の、 二朱金(3種)、 

   一朱金(1種)、 二朱銀(3種)、 一朱銀(1種)、 

    (4) 銭単位・定位(定額)・通常貨幣の、 百文

     銅貨(= 天保銭)(1種)、 十文銭銅貨(1種)、 

     四文銭銅・鉄貨(2種)、 一文銭銅・鉄貨(1種) 

   の4つに分類される。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 13種類区分の分類。

● 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣を、額面、材

  質等により、13種類に分類する。

■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣は、 五両判

  (金)(1種)、  一両 小判(金)(11種)、 二分金

  (3種)、  分金(11種)、 二朱金(3種)、 

  一朱金(1種)、  分銀(2種) 二朱銀(3種)、

  一朱銀(1種)、 百文銭銅貨(= 天保銭)(1種)、

  十文銭銅貨(1種)、 四文銭銅・鉄貨(2種)、 

  一文銭銅・鉄貨(1種)  の13種類である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 江戸時代(1603年〜1868年)に、 江戸幕府

  により鋳造(発行)され、 全国に流通し、使用さ

  れた定位(定額)・通常貨幣は、 五両判(金)(ご

  りょうばん(きん))(1種)、  一両 小判(金)(いち

  りょうこばん(きん))(11種)、 二分金(にぶきん)

  (3種)、  分金(いちぶきん)(11種)、  二朱

  (にしゅきん)(3種)、  一朱金(いっしゅきん)

  (1種)、  分銀(いちぶぎん)(2種) 二朱銀

  (にしゅぎん)(3種)、  一朱銀(いっしゅぎん)

  (1種)、 百文銭銅貨(= 天保銭)(ひゃくもんせん

  どうか(= てんぽうせん)(1種)、  十文銭銅貨

  (じゅうもんせん)(1種)、 四文銭銅・鉄貨(よんも

  んせんどう・てっか)(2種)、 一文銭銅・鉄貨(い

  ちもんせんどう・てっか)(1種) の13種類である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#thebunponowadancompromise

 

■ 文保の和談  

     (ぶんぽうのわだん)。

 

■ 文保の和談。 

■ 名称 : 文保の和談 (ぶんぽうのわだん)。

■ 皇統の分立による大覚寺統持明院統との

  両統迭立(りょうとうてつりつ)に基づき、北条

  執権が実権をもつ鎌倉幕府が仲介斡旋し

  た、1317年の合意。

 

 

■ 文保の和談 (ぶんぽうのわだん) とは、

  統の分立による大覚寺統持明院統との両

  統迭立(りょうとうてつりつ)に基づき、北条氏

  執権が実権をもつ鎌倉幕府が仲介斡旋した、

  1317年の合意 である。

 

■ 文保の和談により、 後醍醐天皇は、後醍醐

  天皇の子が天皇になれなくなり、鎌倉幕府に

  不満をもつ。

■ 文保の和談は、 鎌倉幕府に対する後醍醐

  天皇の反乱の原因をつくる。

 

 

■ 文保の和談。

    北条氏執権の鎌倉幕府の介入による、13

  17年の 「文保の和談」 (ぶんぽうのわだん)

  で、 持明院統(じみょういんとう)の花園天

  皇が皇位を大覚寺統の尊治親王(たかはる

  しんのう)、後醍醐天皇)に譲ることが決まる。 

  その他に、 「文保の和談」では、 大覚寺統

  (だいかくじとう)内の皇位継承候補の皇族は

  複数いて、 後醍醐天の兄弟の子・邦 良

  親王(くによししんのう、大覚寺統の後二条

  天皇の皇子)が、 後醍醐天の次の皇位を

  継承し、 その後、 両統迭立(りょうとうてつ

  りつ)で、 持明院統の量仁(かずひと)親王

  が皇位を継ぐことが決まった。 

 

■ 文保の和談後の、醍醐天皇と鎌

  倉幕府の対立。

    「文保の和談」により、1318年に後醍醐

  天皇 (在位1318〜32、1333〜39年)は、

  天皇に即位するが、 後醍醐天の子孫に

  は、皇位継承の見込みがなかった。 

     大覚寺統の後醍醐天皇は、自分の皇子

  を天皇にすることを切望し、鎌倉幕府と対立

  した。 

    後醍醐天皇は、 自分の皇子の皇位継承

  や天皇親政政治をめざし、 鎌倉幕府の倒幕

  を計画し、 1324年の正中の変(しょうちゅう

  のへん) と 1331年の元弘の変(げんこう

  のへん) の2つの倒幕計画を起こすが、いず

  れも失敗する。  鎌倉幕府により、1332年

  に、隠岐(おき)に配流(はいる)される。

     一方、邦良(くによし)親王は急死したの

  で1332年に持明院統の量仁(かずひと)親

  王が、光厳(こうごん)天皇(在位1332〜33

  年)として即位する。

     1333年に、後醍醐天皇は、隠岐(おき)

   を脱出し、 足利尊氏(あしかがたかうじ)、

   新田義貞(にったよしさだ)などの反幕府勢

   力と手を組み、 北条執権の鎌倉幕府を倒

   した。 

 

■ 鎌倉時代末期に、後醍醐天皇が鎌倉幕府

  の皇位継承介入で反感を抱き、 幕府が統

  制を強める非御家人層が反発し、 流通を

  掌握する新興武士が抑圧され反発し、 幕 府

  の取り締まりに悪党(あくとう、鎌倉幕府・荘

  園領主への反抗勢力)が反感を抱き、 御家

  人層(ごけにんそう、幕府の家臣)が御内人

  (みうちびと、北条得宗家の家臣)と対立し、 

  それらの勢力が、 結集して、倒幕を行った。

    1333年に、 新田義貞(にったよしさだ) 

  が、 鎌倉を攻め、幕府の執権(しっけん)の

  北条氏を滅ぼして、 鎌倉幕府は、消滅した。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

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#fujiwaranoteishi

 

■ 藤原 定子 

     (ふじわらのていし)。

 

■ 藤原 定子。 

■ 名称 : 藤原 定子 (ふじわらのていし)。

■ 生没年 : 976〜1000年。

■ 藤原道隆の娘。

■ 一条天皇 (天皇在位:986〜1011年、生没

  年:980〜1011年) 正室夫人

■ 夫人期間 : 990年〜1000年。

■ 朝廷の、宮中の後宮で、清少納言作者・枕草子

  が仕(つか)えた后(きさき)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51515。

 

 

■ 藤原 定子 (ふじわらのていし、生没年:976

  〜1000年) は、 藤原道隆の娘で、一条天皇

  の正室夫人 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 一条天皇 (いちじょうてんのう、生没年:980

  〜1011年) は、円融天皇の皇子で、 天皇在

  位 は、 紀元(後) 986年から1011年まで 

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 一条天皇の正室夫人であった期間は、 990

  年から1000年まで であった。

 

■ 藤原彰子は、 朝廷の、宮中の後宮で、清少納

    作者・枕草子が仕 (つか)えた后(きさき) で

    ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

◆ 藤原 定子 と 藤原氏の摂

  関政治。

■ 藤原 定子は、 日本政治の実権獲得を望む摂関

  (せっかんけ)の藤原道隆一族の計略に関(か

  か)わっていた。

    平安時代中期の当時、 日本政治の実権獲得

  をめぐり、 藤原氏の近親同士の、 兄・藤原道隆

  (ふじわらのみちたか) と 弟・藤原道長(ふじ わ

  らのみちなが、生没年:966〜1027年) の権

  力闘争があった。 

     文学青年の、一条天皇(いちじょうてんのう)

  の正室夫人には、 藤原道隆の娘・定子(ていし、

  藤原定子(ふじわらのていし、夫人期間:990年

  〜1000年)) と、 藤原道 長の娘・彰子(しょう

  し、藤原彰子(ふじわらのしょうし、夫人期間:99

  9年〜1011年) がいた。

     清少納言 (せいしょうなごん) は、 紀元

  (後) 993年頃から1000年頃まで、 朝廷の、

  宮中で、 藤原道隆の娘・定子(ていし) の女房 

  (にょうぼう、側仕えの上級女官)) として仕えた。 

     一方、 紫式部(むらさきしきぶ)は、 紀元

  (後)1005年頃から1012年頃まで、 朝廷の、

  宮中で、 藤原道長の娘・彰子(しょうし)の女房 

  (にょうぼう、側仕えの上級女官)) として仕えた。 

      藤原道隆の娘で天皇・正室夫人の定子(て

  いし)には、 993年頃より、清少納言(せいしょ

  うなごん)が仕(つか)えた。 清少納言や他の女

  房(にょうぼう、側近の上級女官)は、 宮中で、 

  文化サロンを形成し、 随筆(後の枕草子)、

  、その他様々な手段を使い、 後宮で文化宣

  伝活動を行い、 文学青年の、一条天皇は、

  子のもとに頻繁に通い、 一条天皇と定子は、親

  密な関係となり、 999年に定子は、敦康親王

  (あつやすしんのう)という皇子(みこ)をもうけた。 

     しかし、995年に、関白であった定子の父・

  藤原道隆が死去し、996年に、定子の兄弟も藤

  原道長に失脚させられた(長徳の変)。 1000

  年に定子も死去し、 清少納言は、 1000年頃

  に、宮中を去った(宮中から身を引いた)。

    定子死後、定子を愛し忘れられない一条天

  皇は、 藤原道隆の娘・定子(ていし)の生んだ

  皇子(みこ)の敦康親王(あつやすしんのう)を、 

  皇太子(東宮(とうぐう)、次期天皇)にしたいと

  考えていた。 しかし、藤原道長の計略により、 

  藤原道長の娘・彰子(しょうし)の生んだ皇子が、 

  皇太子(東宮、次期天皇) となった。

     藤原道長は、 自分の娘・彰子が生んだ子

  を、皇太子(東宮、次期天皇)にするため、 

  学青年の、一条天皇の気持ちを彰子(しょうし、

  藤原彰子)に向けさせ、 自分の娘・彰子にも

  皇子をもうけてもらうため、 藤原道長の娘で

  一条天皇・正室夫人の彰子には、1005年頃

  から、紫式部 (むらさきしきぶ)を仕(つか)え

  させた。 

     紫式部和泉式部、他の女房(にょうぼう、

  側近の上級女官)は、 宮中で文化サロンを形

  成し、 物語(後の源氏物語)、和歌、その他様

  々な手段を使い、 宮中で文化宣伝活動を行

  い、 文学青年の、一条天皇は、 彰子の元に

  頻繁に通い、 一条天皇と彰子は、 親密な関係 

  となり、 彰子は、1008年に、敦 成親王(あつ

  ひらしんのう)という皇子(みこ)をもうけた。 

    敦成親王(あつひらしんのう)は、1011年

  に、皇太子となった。 敦成親王は、 三条天

  皇 (天皇在位、1011〜16年、冷泉天皇と

  道長の妹・超子(ちょうし)との皇子) の皇太

  子 (東宮、次期天皇予定者) となった。 

     その後、敦成親王は、1016年に天皇に

  即位して、後一条(ごいちじょう)天皇 となっ

  た。 藤原道長は、 天皇の外戚(生母の父)

  となり、内覧(ないらん)となって、 日本の政

  治の実権を握(にぎ)った。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 藤原定子、清少納言、「枕草子」

  藤原氏の摂関政治。

■ 平安時代中期の、一条天皇 (いちじょうてん

  のう、天皇在位:986〜1011年、生没年:98

  0〜1011年) の時期に、一条天皇の正室夫

  として、 藤原定子 (ふじわらのていし、97

  7〜1000年) と 藤原彰子 (ふじわらのしょ

  うし、988〜1074年) がいた。 

     藤原道隆の娘の定子(ていし)は、 990

  年に入内(じゅだい)し、 清少納言 (せいしょ

  うなごん) が仕えた。 清少納言は、 993年

  頃から1000年頃まで宮中で宮仕えをした。 

     995年に関白であった定子の父・藤原道

  隆が死去し、 996年に、定子の兄・伊周(これ

  ちか)や弟・隆家(たかいえ)も藤原道長に失脚

  させられ(長徳の変)、 定子は、有力な後ろ盾

  を失った。 しかし、一条天皇は、 定子を寵愛

  し、 999年に、定子は、一条天皇の第一皇子・

  敦康(あつやす)親王を出産し、一条天皇は喜

  んだが、 定子は、 1000年に死去した  (

  条天皇の第二皇女出産時)。 清少納言は、

  ほどなく、1000年頃に、宮中を去った。

    藤原道長の娘の彰子(しょうし)は、999年

  に入内(じゅだい)した。 その後、彰子は、しば

  らく、一条天皇の子をなかなか懐妊(かいにん)

  しなかった。 1002年より、一条天皇の政治的 

  配慮により、 彰子は、亡くなった定子の敦康

  (あつやすしんのう)を養育していた。  

     藤原道長は、焦(あせ)り、 紫式部の 宮中

  への出仕を望み、 1005年頃より、紫式部は 、

  宮中にいる、彰子(しょうし)に仕えた。 

     藤原道長の娘の藤原彰子(ふじわらのしょ

  うし) は、 999年に入内 (じゅだい、天皇の

  室夫人として宮中の天皇の後宮に入ること) し

  たが、 一条天皇 (いちじょうてんのう、在位9

  86〜1011年) の御渡りが少なく (彰子のも

  とに来ることが少なく)、 藤原道長は、 一条

  天皇に、藤原道長の娘の彰子にもっと関心をも

  ってもらい、 彰子のもとに頻繁に来てもらうこ

  とを望む。 そこで、藤原道長が目をつけたのが、

  教養があり文才にとんだ紫式部であった。 

     藤原道長の要請で、 紫式部は、1005年

  頃、藤原道長の娘の彰子(しょうし)の女房(にょ

  うぼう、側仕えの上級女官) 兼家庭教師として

  仕え、 その後、1012年頃まで彰子に仕えた。 

     平安時代の当時は、現在と違い、娯楽が少

  なく、物語などは、現在の人気のテレビ、映画、

  ゲームほどの人気があった。

     彰子・女房の紫式部の、教養や 物語(後の

  「源氏物語」 )は、 一条天皇の興味をそそり、一 

  条天皇は、 紫式部の物語、詩歌などを聞きに、

  彰子のもと(居室)に前より多く通うようになった

  と推測される。 

     そして、一条天皇は、藤原道長の娘の藤原

  彰子と親密になり、 彰子は、 1008年に敦成

  親王 (あつひらしんのう、後の後一条(ごいちじ

  ょう)天皇) を生み、 1009年に敦良親王 (あ

  つながしんのう、後の後朱雀(ごすざく)天皇)を

  生み、 一条天皇の、二人の皇子を生んだ。 

     その後、 1011年に敦成親王  (あつひら

  しんのう)は、 立太子となり  (東宮(皇太子)に

  なり)、 1016年に天皇 (後一条(ごいちじょう)

  天皇) になった。 

     これにより、 藤原道長は、 天皇と外戚関

  係ができ、 内覧となって朝廷の実権を掌握し、

  日本の政治の実権を握り、摂関政治を行い、栄

  華を極めた。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

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#fujiwaranoshoshi

 

■ 藤原彰子 

     (ふじわらのしょうし)。

 

■ 藤原彰子。 

■ 名称 : 藤原彰子 (ふじわらのしょうし)。

■ 生没年 : 988年〜1074年。

■ 藤原彰子は、藤原道長の娘である。

■ 藤原彰子は、一条天皇 (天皇在位:986 年

  〜1011年、生没年:980〜1011年)正室

  夫人(夫人期間:999年〜1011年)である。

■ 藤原彰子は、 朝廷の、宮中の後宮で、源氏

  物語作者・紫式部が仕(つか)えた后(きさき)

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51515。

 

 

■ 藤原彰子。

■ 藤原彰子 (ふじわらのしょうし、生没年:988

  〜1074年) は、 藤原道長の娘で、一条天皇

  の正室夫人 である。

 

■ 一条天皇の正室夫人であった期間は、 999

  年から1011年まで であった。

■ 藤原彰子は、 後一条(ごいちじょう)天皇 や

  後朱雀(ごすざく)天皇 の生母 である。

 

■ 一条天皇 (いちじょうてんのう、生没年:980

  〜1011年) は、円融天皇の皇子で、 天皇

  在位は、 紀元(後) 986年から1011年まで 

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 藤原彰子。

■ 藤原彰子は、 朝廷の、宮中の後宮で、 源氏

  物語作者・紫式部(むらさきしきぶ) が仕 (つか)

  えた后(きさき) である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 藤原彰子 と 藤原氏の摂

   関政治。

■ 藤原彰子は、 日本政治の実権獲得を望む摂関

  (せっかんけ)藤原道長一族の計略に関(か

  か)わっていた。

 

  ● 平安時代中期の当時、 日本政治の実権獲得

  をめぐり、 藤原氏の近親同士の、 兄・藤原道隆

  (ふじわらのみちたか) と 弟・藤原道長(ふじ わ

  らのみちなが、生没年:966〜1027年) の権

  力闘争があった。 

 

  ● 文学青年の、一条天皇(いちじょうてんのう)

  の正室夫人には、 藤原道隆の娘・定子(ていし、

  藤原定子(ふじわらのていし、夫人期間:990年

  〜1000年))  と、 藤原道 長の娘・彰子(しょう

  し、藤原彰子(ふじわらのしょうし、夫人期間:

  999年〜1011年)) がいた。

 

  ● 清少納言 (せいしょうなごん)は、 紀元

  (後) 993年頃から1000年頃まで、 朝廷の、

  宮中で、 藤原道隆の娘・定子(ていし) の女房 

  (にょうぼう、側仕えの上級女官)) として仕えた。 

 

  ●  一方、 紫式部(むらさきしきぶ)は、 紀元

  (後)1005年頃から1012年頃まで、 朝廷の、

  宮中で、 藤原道長の娘・彰子(しょうし)の女房 

  (にょうぼう、側仕えの上級女官)) として仕えた。 

 

  ●  藤原道隆の娘で天皇・正室夫人の定子(て

  いし)には、 993年頃より、清少納言(せいしょ

  うなごん)が仕(つか)えた。 清少納言や他の女

  房(にょうぼう、側近の上級女官)は、 宮中で、 

  文化サロンを形成し、 随筆(後の枕草子)、

  、その他様々な手段を使い、 後宮で文化宣

  伝活動を行い、 文学青年の、一条天皇は、

  子のもとに頻繁に通い、 一条天皇と定子は、親

  密な関係となり、 999年に定子は、敦康親王

  (あつやすしんのう)という皇子(みこ)をもうけた。 

 

  ●  しかし、995年に、関白であった定子の父・

  藤原道隆が死去し、996年に、定子の兄弟も藤

  原道長に失脚させられた(長徳の変)。 1000

  年に定子も死去し、 清少納言は、 1000年頃

  に、宮中を去った(宮中から身を引いた)。

 

  ● 定子死後、定子を愛し忘れられない一条天

  皇は、 藤原道隆の娘・定子(ていし)の生んだ

  皇子(みこ)の敦康親王(あつやすしんのう)を、 

  皇太子(東宮(とうぐう)、次期天皇)にしたいと

  考えていた。 しかし、藤原道長の計略により、 

  藤原道長の娘・彰子(しょうし)の生んだ皇子が、 

  皇太子(東宮、次期天皇) となった。

 

  ● 藤原道長は、 自分の娘・彰子が生んだ子

  を、皇太子(東宮、次期天皇)にするため、 

  学青年の、一条天皇の気持ちを彰子(しょうし、

  藤原彰子)に向けさせ、 自分の娘・彰子にも

  皇子をもうけてもらうため、 藤原道長の娘で

  一条天皇・正室夫人の彰子には、1005年頃

  から、紫式部 (むらさきしきぶ)を仕(つか)え

  させた。 

 

  ● 紫式部和泉式部、他の女房(にょうぼう、

  側近の上級女官)は、 宮中で文化サロンを形

  成し、 物語(後の源氏物語)、和歌、その他様

  々な手段を使い、 宮中で文化宣伝活動を行

  い、 文学青年の、一条天皇は、 彰子の元に

  頻繁に通い、 一条天皇と彰子は、 親密な関係 

  となり、 彰子は、1008年に、敦 成親王(あつ

  ひらしんのう)という皇子(みこ)をもうけた。 

 

  ● 敦成親王(あつひらしんのう)は、1011年

  に、皇太子となった。 敦成親王は、 三条天

  皇 (天皇在位、1011〜16年、冷泉天皇と

  道長の妹・超子(ちょうし)との皇子) の皇太

  子 (東宮、次期天皇予定者) となった。 

     その後、敦成親王は、1016年に天皇に

  即位して、後一条(ごいちじょう)天皇 となっ

  た。 藤原道長は、 天皇の外戚(生母の父)

  となり、内覧(ないらん)となって、 日本の政

  治の実権を握(にぎ)った。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 藤原彰子、紫式部、「源氏物語」と 

  藤原氏の摂関政治。

■ 平安時代中期の、一条天皇 (いちじょうてん

  のう、天皇在位:986〜1011年、生没年:98

  0〜1011年) の時期に、一条天皇の正室夫

  として、 藤原定子 (ふじわらのていし、97

  7〜1000年) と 藤原彰子 (ふじわらのしょ

  うし、988〜1074年) がいた。 

     藤原道隆の娘の定子(ていし)は、 990

  年に入内(じゅだい)し、 清少納言 (せいしょ

  うなごん) が仕えた。 清少納言は、 993年

  頃から1000年頃まで宮中で宮仕えをした。 

     995年に関白であった定子の父・藤原道

  隆が死去し、 996年に、定子の兄・伊周(これ

  ちか)や弟・隆家(たかいえ)も藤原道長に失脚

  させられ(長徳の変)、 定子は、有力な後ろ盾

  を失った。 しかし、一条天皇は、 定子を寵愛

  し、 999年に、定子は、一条天皇の第一皇子・

  敦康(あつやす)親王を出産し、一条天皇は喜

  んだが、 定子は、 1000年に死去した  (

  条天皇の第二皇女出産時)。 清少納言は、

  ほどなく、1000年頃に、宮中を去った。

     藤原道長の娘の彰子(しょうし)は、999年

  に入内(じゅだい)した。 その後、彰子は、しば

  らく、一条天皇の子をなかなか懐妊(かいにん)

  しなかった。 1002年より、一条天皇の政治的 

  配慮により、 彰子は、亡くなった定子の敦康

  (あつやすしんのう)を養育していた。  

     藤原道長は、焦(あせ)り、 紫式部の 宮中

  への出仕を望み、 1005年頃より、紫式部は 、

  宮中にいる、彰子(しょうし)に仕えた。 

     藤原道長の娘の藤原彰子(ふじわらのしょ

  うし) は、 999年に入内 (じゅだい、天皇の

  室夫人として宮中の天皇の後宮に入ること) し

  たが、 一条天皇 (いちじょうてんのう、在位9

  86〜1011年) の御渡りが少なく (彰子のも

  とに来ることが少なく)、 藤原道長は、 一条

  天皇に、藤原道長の娘の彰子にもっと関心をも

  ってもらい、 彰子のもとに頻繁に来てもらうこ

  とを望む。 そこで、藤原道長が目をつけたのが、

  教養があり文才にとんだ紫式部であった。 

     藤原道長の要請で、 紫式部は、1005年

  頃、藤原道長の娘の彰子(しょうし)の女房(にょ

  うぼう、側仕えの上級女官) 兼家庭教師として

  仕え、 その後、1012年頃まで彰子に仕えた。 

     平安時代の当時は、現在と違い、娯楽が少

  なく、物語などは、現在の人気のテレビ、映画、

  ゲームほどの人気があった。

     彰子・女房の紫式部の、教養や 物語(後の

  「源氏物語」 )は、 一条天皇の興味をそそり、一 

  条天皇は、 紫式部の物語、詩歌などを聞きに、

  彰子のもと(居室)に前より多く通うようになった

  と推測される。 

     そして、一条天皇は、藤原道長の娘の藤原

  彰子と親密になり、 彰子は、 1008年に敦成

  親王 (あつひらしんのう、後の後一条(ごいちじ

  ょう)天皇) を生み、 1009年に敦良親王 (あ

  つながしんのう、後の後朱雀(ごすざく)天皇)を

  生み、 一条天皇の、二人の皇子を生んだ。 

     その後、 1011年に敦成親王  (あつひら

  しんのう)は、 立太子となり  (東宮(皇太子)に

  なり)、 1016年に天皇 (後一条(ごいちじょう)

  天皇) になった。 

     これにより、 藤原道長は、 天皇と外戚関

  係ができ、 内覧となって朝廷の実権を掌握し、

  日本の政治の実権を握り、摂関政治を行い、栄

  華を極めた。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#-appearingscenes

 

♪♪ 藤原彰子 が登場する、興味深い

      関連ドラマ、映画、ドキュメンタリー。   

 

★ 藤原彰子が登場する、興味深い関連

   ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

   ドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実)と 

   架空の出来事が 混じって描かれています。  

   また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 源氏物語 千年の謎 』 

     (2011年日本映画)。

□ 「 源氏物語 」 (映画 源氏物語 千年の謎)

  画像 NO.1

■ 光源氏の前半生を描く (源氏物語・三部作の

  第一部を描く)。

■ 平安時代中期に活躍した人々 や 源氏物語

  などを描く。

■ 「源氏物語」の作者の紫式部、 摂関家の藤

   原道長、 道長の娘の彰子、 道長の顧問の

   安倍晴明 も登場する。

 

● 紫式部を演じた女優 : 中谷美紀。

● 藤原道長を演じた俳優 : 東山紀之。

 

■ 『 千年の恋 ひかる源氏物語 』 

   (英題:GENJI−A THOUSAND YEAR 

    LOVE) 

   (2001年日本映画)。

□  源氏物語 」 (映画 千年の恋 ひかる源

  氏物語)  画像 アルバム No.1

■ 光源氏の前半生と後半生を描く (源氏物語・

  三部作の第一部・第二部を描く)。

■ 平安時代中期に活躍した人々 や 源氏物語

  などを描く。

■ 「源氏物語」の作者の紫式部や摂関家の藤原

  道長も登場する。

 

● 紫式部を演じた女優 : 吉永小百合 (よしな

  がさゆり)。

● 藤原道長を演じた俳優 : 渡辺 謙。

 

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#thenegativechain

 

■ 負の連鎖 

     (ふのれんさ)。

 

■ 負の連鎖。

■ 名称 : 負の連鎖  (ふのれんさ)。

 

 

■ 負の連鎖  (ふのれんさ)とは、 マイナスがマ

  イナスを呼ぶつながりの現象 である。

 

◆ 紛争・戦争の、負の連鎖

■ 負の連鎖は、 A,Bの2つのグループが敵対し、

  Aグループの人が、Bグループの人を殺害し、B

  グループの人が、復讐のため、Aグル ープの人

  を殺害し、更に、仕返しをされたBグループの人

  が、 Aグループの人を殺害し、 Bグループの

  人が、その復讐のため、また、Aグループの人を

  殺害する。 これを、繰り返していくこと。

 

■ A,Bの2つのグループの負の連鎖を断ち切る

  ため、また、友好な関係を取り戻すため、 利益

  共有、経済同盟、軍事同盟、平和協定、政略結

  婚など様々な方法が、 歴史上とられた。

 

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#fujiwaranoteika

 

■ 藤原定家 

     (ふじわらのていか)。

 

■ 藤原 定家。 

■ 名称 : 藤原 定家 

        (ふじわらの ていか・さだいえ)。

■ 生没年 : 1162年〜1241年。

■ 藤原 定家は、歌人(かじん、和歌を作る人)

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11429。

 

 

■ 藤原定家。

■ 小倉百人一首(おぐらひゃくにんいっしゅ)

  は、 藤原定家(ふじわらていか)が京(都)

  の小倉山の山荘で選んだと言われる百人

  一首(和歌集)である。

    小倉百人一首は、「歌がるた」として広く

  利用されている。

 

■ 百人一首 (ひゃく にんいっしゅ)は、 和歌

  集の1種で、 100人の歌人の和歌を一人

  一首ずつ選んでつくった和歌集である。

    百人一首といえば、小倉百人一首を指す

  ことが多い。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 藤原定家 (ふじわらのていか・さだいえ)は、

  藤原俊成(しゅんぜい)の子で、 平安時代末

  期、鎌倉時代前期の歌人(かじん、和歌を作

  る人)) である。 生没年は、1162年〜12

  41年 である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 藤原定家は、 後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)

  の寵臣で、 「新古今和歌集」(しんこきんわか

  しゅう)の中心的撰者(せんじゃ)となる。

 

■ 藤原定家は、 優雅・幽玄な象徴的な家風の

  歌を詠(よ)む。 藤原定家には、歌集の「拾遺

  愚草」や日記の「名月記」などがある。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 明月記 (めいげつき)は、 平安時代末期

  と鎌倉時代前期を知る一次的史料である。

    明月記は、 藤原定家 (著者、ふじわら

  のていか・さだいえ)の日記で あり、3冊あり、

  1180年から1235年までの記述を含む。 

  明月記は、当時の貴族生活、公武関係、歌

  道などの実状を知ることができる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 藤原定家の子・藤原為家(ふじわらのためい

  え)を経て、鎌倉時代に、 藤原定家の孫の代

  に、藤原為氏(ためうじ)の二条家(にじょうけ)、 

  藤原為教(ためのり)の京極家(きょうごくけ)、 

  藤原為相(ためすけ)の冷泉家(れいぜいけ)

  の3宗家(歌学の3大宗家) が樹立された。

  ● 藤原定家の嫡孫の藤原為氏(ためうじ)を

  祖とする歌学の二条家は、鎌倉時代の「新勅

  撰和歌集」(新古今和歌集の次)以来、 多く

  の勅撰(ちょくせん)和歌集の撰(せん)を行う。 

  歌学の京極家は、2代で断絶した。

  ● 勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)は、

  平安時代から室町時代まで、勅命(ちょくめ

  い、天皇の命令)または院宣(いんぜん、上

  皇の命令)によって選ばれた和歌集である。 

    勅撰和歌集は、905年の「古今和歌集」

  (こきんわかしゅう)に始まり、1439年の「新

  続古今和歌集」(しんぞくこきんわかしゅう)に

  終わる、21歌集 で、「二十一代集」と呼ば

  れる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 藤原定家の孫の、藤原為相(ふじわらのため

  すけ)を祖とする、冷泉家 (れいぜいけ)は、

  鎌倉時代以来の歌学の3宗家の1つであり、 

  京(きょう、京都)の、和歌(わか、やまとうた)

  を伝える公家の名家である。 

     冷泉家は、現在も京都にあり、公家の様

  式を現代に伝えている。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 藤原 定家 が登場する、興味深

    い関連ドラマ、映画、ドキュメンタ

    リー。 

 

★  藤原 定家が登場する、興味深い、

   関連ドキュメンタリー。

 

■ 『 京都 冷泉家の八百年 

   〜和歌の心、日本の美を

   守り伝えて〜 』。 

      (NHKテレビの2003年放送・

    ドキュメンタリー番組)。

■ 藤原定家の孫・藤原為相(ふじわら

  のためすけ)を祖とする、歌学の宗家・

  冷泉家(れいぜいけ)が登場し、公家

  や歌道の儀式を公開する。

 

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#fujiwaranoienari

 

■ 藤原 家成  

     (ふじわらのいえなり)。

 

■ 藤原 家成。

■ 名称 : 藤原 家成 (ぶじわらのいえなり)。

■ 生没年 : 1107〜1154年。 

■ 藤原家成は、平安時代末期の公家 である。 

■ 藤原家成は、鳥羽上皇の第一寵臣 である。

■ 藤原家成は、四条家、山科家の祖である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11426。

 

 

■ 藤原家成。

■ 藤原家成  (ふじわらのいえなり)は、 生没年

  は1107〜1154年で、 平安時代末期の

  家である。

    藤原家成は、 鳥羽上皇の第一寵臣であり、 

  官位は、正二位・中納言 であった。

    藤原家成は、 四条家、山科家の祖である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 藤原家成。

■ 藤原家成は、 平清盛の 継母(ままはは)・藤原

  宗子(むねこ池禅尼)の従兄弟(いとこ)である。

     藤原家成は、 藤原得子(ふじわらのとくし・

  なりこ、美福門院)の従妹(いとこ)である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 藤原家成。

■ 藤原家成は、 平忠盛平清盛と親交が深く、 

   藤原家成の邸宅に、若年期の平清盛がよく出

   入りしていたと 言われている。

 

■ 藤原経子は、 藤原家成の娘であり、 平重盛

   (たいらの しげもり)の正室夫人である。

 

 

♪♪ 藤原 家成 が登場する、興味深い

    関連ドラマ、映画、ドキュメンタリー。 

 

★  藤原 家成が登場する、興味深い、

   関連ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクションです。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

   また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 平清盛 (たいらのきよもり) 』 。 

   (NHKテレビの2012年大河ドラマ)。

■ 藤原 家成は、大河ドラマの中間部に

  登場する。

■ 平安時代末期を描いたドラマで、 平安

  時代末期に活躍した人物、当時の時代

  状況、平清盛の生涯などを描く

 

● 藤原 家成を演じた俳優名 : 佐藤 二朗。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ。 

□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

#fujiwaranonobuyori

 

■ 藤原 信頼  

     (ふじわらののぶより)。

 

■ 藤原 信頼。

■ 名称 : 藤原 信頼 (ぶじわらののぶより)。

■ 生没年 : 1133年〜1159年。

■ 藤原 信頼は、 平安時代後期の政治家で

  あり、 後白河上皇の院近臣 である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11438。

 

 

■ 藤原 信頼。

■ 藤原 信頼 (ぶじわらののぶより)は、 生没

  年は、1133年〜1159年で、 平安時代後

  期の政治家である。 

  藤原 信頼は、 後白河上皇の院近臣であった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 藤原 信頼。

■ 藤原 信頼は、後白河上皇の院近臣 (いんのき

   んしん、上皇の重臣)である。

■ 藤原 信頼は、源義朝(みなもとのよしとも)を従

  えて、平治の乱(へいじのらん)を起こし、敗北す

  る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 藤原 信頼。

■ 藤原 信頼は、 朝廷で、藤原通憲(信西)(ふじわ

  らのみちのり(しんぜい))と権勢を争い、平治の乱

  (1159年12月)で、 藤原通憲(信西)や三条公教

  と争った。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 藤原 信頼。

■ 平治の乱

  ● 藤原 信頼は、源義朝(みなもとのよしとも)を

  従えて、平治の乱(へいじのらん)を 起こし、敗北

  する。

     藤原 信頼は、源義朝を従えて、 平治の

   起こし、 藤原 通憲(信西)(ふじわらのみちのり

   (しんぜい))や三条公教(さんじょうきみのり)と

   敵対して、 敗北する。

  ● 藤原 信頼は、 投降して、斬首(ざんしゅ)さ

    れる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 藤原 信頼 が登場する、興味深い

    関連ドラマ、映画、ドキュメンタリー。 

 

★  藤原 信頼が登場する、興味深い、関

   連ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

   また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 平清盛 (たいらのきよもり) 』 。 

    (NHKテレビの2012年大河ドラマ)。

■ 藤原 信頼は、大河ドラマの中間部に

   登場する。

■ 平安時代末期を描いたドラマで、平安

   時代末期に活躍した人物、当時の時

   代状況などを描く

 平清盛の生涯を描く

 

● 藤原 信頼を演じた俳優名 : 塚地 武雅。

 

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□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

#fujiwaranomichinori

 

■ 藤原 通憲 

     (ふじわらの みちのり)。

 

■ 藤原 通憲。

■ 生没年 : 1106?〜1159年。

■ 名称 : 藤原 通憲 (ぶじわらのみちのり)。

● 別名 : 信西 (しんぜい、出家後の個人名)。

■ 平安時代後期の政治家。 

■ 後白河上皇の院近臣(いんのきんしん、上皇の重

  臣)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ 後白河上皇の乳母(うば)の夫。

■ 藤原 信頼(ふじわらののぶより)と敵対して、 

 条公教(きみのり)と共に、平治の乱(へ いじのらん)

 に臨むが、 戦争中追い詰められ自害する。

 

 

■ 平治の乱

   藤原 通憲 (信西) 藤原 信頼(ふじわらのの

 ぶより)と敵対して、三条公教(きみのり)と共に、

 治の乱(へ いじのらん)に臨むが、 戦争中追い詰

 められ自害する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 藤原 通憲は、朝廷で、 藤原 信頼(ふじわらのの

 ぶより)と権勢を争い、  平治の乱(1159年12月)

 で、 藤原信頼と争った。  

 

■ 藤原 通憲 (ぶじわらのみちのり)は、 生没年は、

 1106?〜1159年 で、 平安時代後期の政治家

 である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ 藤原 通憲は、 後白河上皇の院近臣(いんのきん

 しん、上皇の重臣) で、 後白河上皇の乳母(うば)

 の夫であった。

 

 

♪♪ 藤原 通憲(信西) が登場する、面

 白く、興味深い関連ドラマ、映画、ドキュ

 メンタリー。 

 

★ 藤原 通憲(信西) が 登場する、面

 白く、興味深い関連ドキュメンタリー。 

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 私たち、草食

 系武士です。〜新・平家家族物語〜 』 

 (NHKの2009年(平成21年)12月16日本放送、

 第27回)。

 

★ 藤原 通憲(信西) が登場する、面白

 く、興味深い、関連ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

 歴史のドラマ、映画 は、 史実(歴史上の事実) 

 と 架空の出来事 が 混じって描かれています。 

 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 平清盛 (たいらのきよもり) 』 

 (NHK2012年大河ドラマ)。

● 平安時代末期を描いたドラマで、 平安時代末

 期に活躍した人物、当時の時代状況、平清盛の

 生涯などを描く

● 大河ドラマの前半部に登場する。

● 藤原 通憲(信西)を演じた俳優名 : 阿部サダヲ。

 

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#fujiwaranotadazane

 

■ 藤原 忠実 

     (ふじわらの ただざね)。

 

■ 藤原 忠実。

■ 生没年 : 1078年〜1162年。

■ 名称 : 藤原 忠実 (ぶじわらのただざね)。

■ 平安時代後期の政治家。 朝廷の関白、摂政。

■ 摂関家(せっかんけ)の長。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ 長子関白・藤原 忠通 (ふじらのただみち)

  次子の左大臣・藤原 頼長 (ふじわらのよりな

 が)の父。

 

 

■ 藤原 忠実 (ぶじわらのただざね) は、生没年は、

 1078年〜1162年で、 平安時代後期の政治家で

 ある。 朝廷の関白、摂政となった。 

 

■ 藤原 忠実 は、 長子の藤原 忠通(ふじわらのた

 だみち)を退け、 次子の藤原 頼長(ふじわらの より

 なが)を推そうとした。 このことが、 保元の乱の原

 因の1つとなる。 長子の忠通と次子の頼長の二人

 が朝廷で権力闘争を行い、 保元の乱が勃発し、

 原 頼長が敗(やぶ)れ、 乱後、知足院にこもる。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 藤原 忠実 (ふじわらのたたざね)は、 摂関家(せ

 っかんけ)の長で、 長子関白・藤原 忠通(ふじ

 らのただみち)  次子の左大臣・藤原 頼長 (ふじ

 わらのよりなが) の父 である。

 

■ 白河上皇鳥羽上皇院政政治期に、 摂関家

 (せっかんけ)の長の藤原 忠実 (ふじわらのたたざ

 ね)は、 朝廷の政務の実権を、 上皇より取り戻し、 

 かっての摂関家の栄華を取り戻そうと画策(かくさく)

 する。 

   藤原 忠実は、 長子の藤原 忠通(ふじわらのただ

 みち)より、 次子の藤原 頼長(ふじわらの よりなが)

 の政策手腕に期待を寄せる。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 藤原頼長(ふじわらのよりなが)は、  近衛天皇急

 死後、1155年7月24日の後白河天皇即位時、 後

 白河天皇方の兄・藤原忠通(ふじわらのだだみち)の

 策謀により、 「内覧」(ないらん、1151〜55年)を解

 (停止)され、事実上、失脚した。  その後、復権を

 試みる。

   1156年7月2日の鳥羽法皇の崩御(ほうぎょ、死

 去)後、 後白河天皇方は、すぐに兵を集め始め、藤

 原 忠実(ふじわらのだだざね)、藤原頼長の父子を謀

 反人(むほんにん)としたため、 慌(あわ)てて、藤原

 頼長は、 崇徳上皇を味方につけ、 自分の雇ってい

 た武士の摂関家の私兵集団を、京(都)の白河北殿

 (しらかわきたどの)に集結させ、崇徳天皇方として、

 保元の乱を起こす。  

   崇徳(すとく)上皇は、崇徳院政を望み、後白河天

 皇を退(しりぞ)けて、自分の皇子・重仁親王(しげひ

 としんのう)を皇位に就け、その父・上皇として、朝廷

 の実権を握ることを望む。

 

■ 藤原 頼長は、 白河北殿での軍議で、崇徳天皇

 方の武士・源為朝(みなもとのためとも)による後白

 河天皇方の本拠地・高松殿(たかまつどの)への

 「夜討ち」の進言を退(しりぞ)けてしまう。 しかし、

 逆に、崇徳天皇方の本拠地・白河北殿は、 1156

 年7月11日未明に、 後 白河天皇方の武士(源義

 平清盛ら)による夜討ちを受けて、結局、崇徳

 天皇方の本拠地・白河北殿は炎上し、 崇徳天皇

 方の武士(源為義源為朝 、平忠正ら)は、 総崩

 (そうくず)れとなる。 崇徳天皇や藤原 頼長、白

 河北殿より逃走する。 

   藤原 頼長 は、1156年7月11日に、合戦の

 中で、矢を受け負傷し、 その後、奈良に向かい、

 宇治より奈良に逃れていた、頼長を寵愛する父・

 藤原忠実のもとへ行くが、 父・藤原忠実が 敗北し

 た頼長との対面を拒み、藤原頼長は、その後、失

 意のうちに、1156年7月14日に、奈良で、死去

 する。

   摂関家の総帥で膨大な所領を有する、藤原忠

 は、保元の乱とは無関係であることを主張する

 ため、敗北した次男の藤原 頼長を見捨てた。 保

 元の乱後、摂関家領荘園は、 藤原忠実から後白

 河天皇方の長男の藤原忠通に譲渡する手続きを

 取ることで没収を辛(かろ)うじて免れることができ

 た。

 

 

♪♪ 藤原 忠実 が登場する、面白く、興

 味深い関連ドラマ、映画、ドキュメンタリー。 

 

★ 藤原 忠実 が 登場する、面白く、興

 味深い関連ドキュメンタリー。 

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 ‘‘ 悪の華 ’’

 は平安京の夜に開く 藤原頼長 』 

 (NHKの歴史ドキュメンタリー)。

 

★ 藤原 忠実 が登場する、面白く、興味

 深い、関連ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

 歴史のドラマ、映画 は、 史実(歴史上の事実) 

 と 架空の出来事 が 混じって描かれています。 

 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 平清盛 (たいらのきよもり) 』 

 (NHK2012年大河ドラマ)。

● 平安時代末期を描いたドラマで、 平安時代末

 期に活躍した人物、当時の時代状況、平清盛の

 生涯 などを描く

● 大河ドラマの前半部に登場する。

● 藤原 忠実 (ふじわらのただざね)を演じた俳優

 名 : 國村 隼 (くにむら じゅん)。

 

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#fujiwaranotadamichi

 

■ 藤原忠通 

     (ふじわらのただみち)。

 

■ 藤原 忠通。

■ 名称 : 藤原 忠通 (ぶじわらのただみち)。

■ 生没年 : 1097〜1164年。

■ 平安時代後期の政治家。 朝廷の関白。

■ 摂関家(せっかんけ)の長の藤原 忠実 (ふじ

 らのたたざね) の長子(長男)。 

■ 関白・藤原 頼長 (ふじわらのよりなが)の兄。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11432。

 

 

■ 保元の乱

   藤原 忠通は、 後白河天皇 (ごしらかわてんの

 う)と協力して、保元の乱(ほうげんのらん)を 起こし、

 勝利を得る。

● 藤原 忠通は、 後白河天皇と協力し、 左大臣・

 原 頼長(ふじわらのよりなが)や崇徳上皇(すとくじょ

 うこう)と敵対して、 保元の乱を起こし、勝利を得る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 藤原 忠通は、朝廷で、 藤原 頼長(ふじわらの よ

 りなが)と権勢を争い、 保元の乱(ほうげんのらん)

 (1156年7月)で、 藤原頼長と争った。 

 

■ 藤原 忠通 (ぶじわらのただみち)は、生没年は、

 1097〜1164年 で、 平安時代後期の政治家

 である。 朝廷の関白となった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 摂関家(せっかんけ)の長の藤原 忠実 (ふじ

 らのたたざね) の長子(長男)。 

■ 関白・藤原 頼長 (ふじわらのよりなが)の兄。

 

■ 藤原 忠通 (ふじわらの ただみち) は、 後白河

 天皇と共に、保元の乱(ほうげんのらん) を引き起

 こす。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 藤原 忠通の父は、 摂関家(せっかんけ)の長の

 藤原 忠実 (ふじわらのたたざね) で、 忠通の弟

 は、 左大臣・藤原 頼長 (ふじわらのよりなが) 

 ある。

 

■ 白河上皇鳥羽上皇院政政治期に、 摂関家

 (せっかんけ)の長の藤原 忠実 (ふじわらのたたざ

 ね)は、 朝廷の政務の実権を、 上皇より取り戻し、 

 かっての摂関家の栄華を取り戻そうと画策(かくさく)

 する。 

   藤原 忠実は、 長子の藤原 忠通(ふじわらのただ

 みち)より、 次子の藤原 頼長(ふじわらの よりなが)

 の政策手腕に期待を寄せる。 

 

■ 関白・藤原 忠通 は、 朝廷で、弟の左大臣の藤

 原頼長 と権力闘争を行う。 この政争が、 保元の

 (ほうげんのらん) の原因の1つとなる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 関白・藤原 忠通 は、父の藤原忠実より、関白職を、

 弟の藤原 頼長へ譲渡するように言われたが、拒否し、

 摂関家の藤原氏の氏長者をはずされた(追われた)。 

 その後、 氏長者となった弟の藤原頼長が保元の乱

 で敗れ、勝利を得た後は、権勢をふるった。

 

 

■ 藤原頼長(ふじわらのよりなが)は、  近衛天皇急

 死後、1155年7月24日の後白河天皇即位時、 後

 白河天皇方の兄・藤原忠通(ふじわらのだだみち)の

 策謀により、 「内覧」(ないらん、1151〜55年)を解

 (停止)され、事実上、失脚した。  その後、復権を

 試みる。

   1156年7月2日の鳥羽法皇の崩御(ほうぎょ、死

 去)後、 後白河天皇方は、すぐに兵を集め始め、藤

 原 忠実(ふじわらのだだざね)、藤原頼長の父子を謀

 反人(むほんにん)としたため、 慌(あわ)てて、藤原

 頼長は、 崇徳上皇を味方につけ、 自分の雇ってい

 た武士の摂関家の私兵集団を、京(都)の白河北殿

 (しらかわきたどの)に集結させ、崇徳天皇方として、

 保元の乱を起こす。  

   崇徳(すとく)上皇は、崇徳院政を望み、後白河天

 皇を退(しりぞ)けて、自分の皇子・重仁親王(しげひ

 としんのう)を皇位に就け、その父・上皇として、朝廷

 の実権を握ることを望む。

 

■ 藤原 頼長は、 白河北殿での軍議で、崇徳天皇

 方の武士・源為朝(みなもとのためとも)による後白

 河天皇方の本拠地・高松殿(たかまつどの)への

 「夜討ち」の進言を退(しりぞ)けてしまう。 しかし、

 逆に、崇徳天皇方の本拠地・白河北殿は、 1156

 年7月11日未明に、 後 白河天皇方の武士(源義

 平清盛ら)による夜討ちを受けて、結局、崇徳

 天皇方の本拠地・白河北殿は炎上し、 崇徳天皇

 方の武士(源為義源為朝 、平忠正ら)は、 総崩

 (そうくず)れとなる。 崇徳天皇や藤原 頼長、白

 河北殿より逃走する。 

   藤原 頼長 は、1156年7月11日に、合戦の

 中で、矢を受け負傷し、 その後、奈良に向かい、

 宇治より奈良に逃れていた、頼長を寵愛する父・

 藤原忠実のもとへ行くが、 父・藤原忠実が 敗北し

 た頼長との対面を拒み、藤原頼長は、その後、失

 意のうちに、1156年7月14日に、奈良で、死去

 する。

   摂関家の総帥で膨大な所領を有する、藤原忠

 は、保元の乱とは無関係であることを主張する

 ため、敗北した次男の藤原 頼長を見捨てた。 保

 元の乱後、摂関家領荘園は、 藤原忠実から後白

 河天皇方の長男の藤原忠通に譲渡する手続きを

 取ることで没収を辛(かろ)うじて免れることができ

 た。

 

 

♪♪ 藤原 忠通が登場する、興味深い

    関連ドラマ、映画、ドキュメンタリー。 

 

★ 藤原 忠通が登場する、興味深い

   関連ドキュメンタリー。 

 

■ 歴史秘話ヒストリア 

  『 ‘‘ 悪の華 ’’は平安京の

    夜に開く 藤原頼長 』。 

   (NHKテレビの歴史ドキュメンタリー番組)。

 

★ 藤原 忠通が登場する、興味深い、

   関連ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

   また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 平清盛 (たいらのきよもり) 』 。 

   (NHKテレビ・2012年大河ドラマ)。

● 平安時代末期を描いたドラマで、 平安時代末

 期に活躍した人物、当時の時代状況、平清盛の

 生涯などを描く

● 藤原 忠通 (ふじわらのただみち)を演じた俳優

 名 : 堀部 圭亮。

 

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#fujiwaranoyorinaga

 

■ 藤原頼長 

     (ふじわらのよりなが)。

 

■ 藤原 頼長。

■ 名称 : 藤原 頼長 (ぶ じわらのよりなが)。

■ 生没年 : 1120年〜1156年。

■ 悪左府 (あくさふ) とも呼ばれた。

■ 平安時代後期の政治家。 朝廷の左大臣。

■ 崇徳上皇(すとくじょうこう)と協力して、保元の乱

 (ほうげんのらん)を起こし、 敗北する。

■ 摂関家(せっかんけ)の長の藤原 忠実 (ふじ

 らのたたざね) の次子(次男)。 

■ 関白・藤原 忠通 (ふじわらのただみち) の弟。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11435。

 

 

■ 保元の乱

   藤原 頼長は、  崇徳上皇(すとくじょうこう)と協

 力して、 保元の乱(ほうげんのらん)を 起こし、 敗

 北する。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

● 藤原 頼長は、 崇徳上皇と協力し、関白・藤原

  忠通(ふじわらのただみち)や後白河天皇(ごし

  らかわてんのう)と敵対して、 保元の乱を起こし、

  敗北する。

 

■ 藤原 頼長は、朝廷で、 藤原 忠通 (ふじわらの

 ただみち)と権勢を争い、 保元の乱(ほうげんのら

 ん)(1156年7月)で、 藤原忠通と争った。 

 

■ 藤原 頼長 (ぶじわらのよりなが)は、生没年は、

  1120年〜1156年で、 平安時代後期の政治

  家であった。 朝廷の左大臣となる。 

      藤原 頼長は、悪左府 (あくさふ) とも呼

  ばれた。 悪左府は、恐怖の左大臣という意味で

  ある。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 藤原 頼長 (ふじわらの よりなが) は、 崇徳上

 皇と共に、保元の乱(ほうげんのらん)を引き起こす。

 そして、保元の乱で、敗死する。

   藤原 頼長は、好学で、博識多才な人物で、日記

 「台記」(たいき)がある。  また、男色を好んだ。

■ 藤原 頼長の父は、 摂関家(せっかんけ)の長の

 藤原 忠実 (ふじわらのたたざね) で、 頼長の兄

 は、 関白・藤原 忠通 (ふじわらのただみち) であ

 る。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 藤原頼長(ふじわらのよりなが)は、  近衛天皇急

 死後、1155年7月24日の後白河天皇即位時、 後

 白河天皇方の兄・藤原忠通(ふじわらのだだみち)の

 策謀により、 「内覧」(ないらん、1151〜55年)を解

 (停止)され、事実上、失脚した。  その後、復権を

 試みる。

   1156年7月2日の鳥羽法皇の崩御(ほうぎょ、死

 去)後、 後白河天皇方は、すぐに兵を集め始め、藤

 原 忠実(ふじわらのだだざね)、藤原頼長の父子を謀

 反人(むほんにん)としたため、 慌(あわ)てて、藤原

 頼長は、 崇徳上皇を味方につけ、 自分の雇ってい

 た武士の摂関家の私兵集団を、京(都)の白河北殿

 (しらかわきたどの)に集結させ、崇徳天皇方として、

 保元の乱を起こす。  

   崇徳(すとく)上皇は、崇徳院政を望み、後白河天

 皇を退(しりぞ)けて、自分の皇子・重仁親王(しげひ

 としんのう)を皇位に就け、その父・上皇として、朝廷

 の実権を握ることを望む。

 

■ 藤原 頼長は、 白河北殿での軍議で、崇徳天皇

 方の武士・源為朝(みなもとのためとも)による後白

 河天皇方の本拠地・高松殿(たかまつどの)への

 「夜討ち」の進言を退(しりぞ)けてしまう。 しかし、

 逆に、崇徳天皇方の本拠地・白河北殿は、 1156

 年7月11日未明に、 後 白河天皇方の武士(源義

 平清盛ら)による夜討ちを受けて、結局、崇徳

 天皇方の本拠地・白河北殿は炎上し、 崇徳天皇

 方の武士(源為義源為朝 、平忠正ら)は、 総崩

 (そうくず)れとなる。 崇徳天皇や藤原 頼長、白

 河北殿より逃走する。 

   藤原 頼長 は、1156年7月11日に、合戦の

 中で、矢を受け負傷し、 その後、奈良に向かい、

 宇治より奈良に逃れていた、頼長を寵愛する父・

 藤原忠実のもとへ行くが、 父・藤原忠実が 敗北し

 た頼長との対面を拒み、藤原頼長は、その後、失

 意のうちに、1156年7月14日に、奈良で、死去

 する。

   摂関家の総帥で膨大な所領を有する、藤原忠

 は、保元の乱とは無関係であることを主張する

 ため、敗北した次男の藤原 頼長を見捨てた。 保

 元の乱後、摂関家領荘園は、 藤原忠実から後白

 河天皇方の長男の藤原忠通に譲渡する手続きを

 取ることで没収を辛(かろ)うじて免れることができ

 た。

 

 

■ 白河上皇鳥羽上皇院政政治期に、 摂関家

 (せっかんけ)の長の藤原 忠実 (ふじわらのたたざ

 ね)は、 朝廷の政務の実権を、 上皇より取り戻し、 

 かっての摂関家の栄華を取り戻そうと画策(かくさく)

 する。 

   藤原 忠実は、 長子の藤原 忠通(ふじわらのた

 だみち)より、 次子の藤原 頼長(ふじわらの よりな

 が)の政策手腕に期待を寄せる。 

 

■ 左大臣の藤原 頼長 は、 一時、摂関家の藤原氏

 の氏長者となったが、 保元の乱で敗れ、敗死する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 左大臣の藤原  は、 朝廷で、兄の関白・藤原 忠

  と権力闘争を行う。 この政争が、 保元の乱(ほ

 うげんのらん) の原因の一因となる。

 

 

♪♪ 藤原 頼長 が登場する、興味深い関連

    ドラマ、映画、ドキュメンタリー。 

 

★ 藤原 頼長 が 登場する、興味深い関連

   ドキュメンタリー。 

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『‘‘ 悪の華 ’’

 は平安京の夜に開く〜キケンな貴公

 子 藤原頼長〜 』 

 (日本のNHK2012年(H24)5月23日・本

  放送の歴史テレビ・ドキュメンタリー番組)。

 

★ 藤原 頼長 が登場する、興味深い、関連

   ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

   また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 平清盛 (たいらのきよもり) 』 。 

   (NHKテレビ・2012年大河ドラマ)。

● 平安時代末期を描いたドラマで、 平安時代

 末期に活躍した人物、当時の時代状況、平清

 盛の生涯などを描く

● 大河ドラマの前半部に登場する。

● 藤原 頼長 (ふじわらのよりなが)を演じた

 俳優名 : 山本 耕史。

 

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#fujiwaranonariko

 

■ 藤原 得子 

     (ふじわらのとくし・なりこ)。

 

■ 藤原 得子。

■ 生没年 : 1117年(永久5年)〜1160年

  (永暦元年)。

■ 名称 : 藤原 得子 (ふじわらのとくし・なりこ)。

 別名 : 美福門院  (びふくもんいん)。

 鳥羽上皇(とばじょうこう)の正室夫人(女御))。

 近衛(このえ)天皇 (体仁(なりひと)親王)の

  生母。

■ 二条天皇 (守仁(もりひと) 親王) の養母。

■ 父は、 権中納言の藤原長実。

 

 

■ 藤原得子 (ふじわらのなりこ・とくし)は、鳥羽上皇

 正室夫人(女御)で、 美福門院 ( びふくもんいん)

 とも呼ばれる。

● 前近代日本では、夫婦別姓

● 前近代日本では、一夫多妻制

● 前近代日本では、女性は、個人名で自他呼称。

 

■ 藤原得子は、 近衛(このえ)天皇 (体仁(なり

  ひと)親王)  の生母 である。 

    また、藤原得子は、二条天皇 (守仁(もりひ

  と)親王) の養母であった。

 

■ 藤原得子の生没年は、 1117年(永久5年)〜

  1160年(永暦元年) である。

     藤原得子の父は、権中納言の藤原長実 で

  ある。

 

■ 藤原 得子のライバル(競争相手)は、 藤原 璋子

 (ふじわらのしょうし・たまこ) である。  藤原 璋子

 は、 鳥羽上皇(とばじょうこう)の正室・夫人(中宮)

 で、 崇徳上皇 (顕仁(あきひと)親王) 後白河上

  (雅仁(まさひと)親王) の生母 で、 待賢門院

 (たいけんもんいん) とも呼ばれる。

 

 

◆ 平安時代末期の歴代天皇一覧。

■ 天皇の皇位継承順 は、次の通りである。

@ 白河(しらかわ)天皇    (貞仁(さだひと)親王) ⇒

  (天皇在位、1072年〜1086年)

A 堀河(ほりかわ)天皇    (善仁(たるひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1086年〜1107年)

B 鳥羽(とば)天皇       (宗仁(むねひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1107年〜1123年)

  ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

C 崇徳(すとく)天皇      (顕仁(あきひと)親王)  ⇒

  (天皇在位、1123年〜1141年)

D 近衛(このえ)天皇     (体仁(なりひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1141年〜1155年)

E 後白河(ごしらかわ)天皇 (雅仁(まさひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1155年〜1158年)

F 二条(にじょう)天皇     (守仁(もりひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1158年〜1165年)

G 六条(ろくじょう)天皇    (順仁(のぶひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1165年〜1168年)

  ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

H 高倉(たかくら)天皇    (憲仁(のりひと)親王)  ⇒ 

  (天皇在位、1168年〜1180年)

I 安徳(あんとく)天皇      (言仁(ときひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1180年〜1185年)

J 後鳥羽(ごとば)天皇    (尊成(たかひら)親王)

  (天皇在位、1183年〜1198年)

 

 

♪♪ 藤原 得子 が登場する、興味深い関連

    ドラマ、映画、ドキュメンタリー。 

 

★ 藤原 得子 が 登場する、興味深い関連

   ドキュメンタリー。 

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 私たち、草食

   系武士です。〜新・平家家族物語〜 』。 

     (NHKテレビ・2009年(平成21年)12月

   16日・本放送、第27回)。

 

★ 藤原 得子 が登場する、興味深い、関連

   ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 平清盛 (たいらのきよもり) 』 。 

   (NHKテレビ・2012年大河ドラマ)。

● 平安時代末期を描いたドラマで、 平安時代末

 期に活躍した人物、当時の時代状況、平清盛の

 生涯 などを描く

● 大河ドラマの前半部に登場する。

● 藤原 得子 (ふじわらのなりこ、美福門院)を

 演じた女優名 : 松雪 泰子 (まつゆき やすこ)。

 

● 藤原 璋子 (ふじわらのたまこ、待賢門院)を

 演じた女優名 : 檀 れい。

● 堀河局(ほりかわのつぼね、藤原 璋子の侍女)

 を演じた女優名: りょう。

● 鳥羽上皇 を演じ た俳優名 : 三上 博史。

 

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□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

#fujiwararanoshoshi

 

■ 藤原 璋子  

   (ふじわらのしょうし・たまこ)。

 

■ 藤原 璋子。

■ 生没年 : 1101年〜1145年。

■ 名称 : 藤原 璋子 

        (ふじわらのしょうし・たまこ)。

 別名 : 待賢門院 (たいけんもんいん)。

 鳥羽上皇(とばじょうこう)の正室夫人(中宮))。

 崇徳上皇 (顕仁(あきひと)親王) 後白河上

  (雅仁(まさひと)親王) の生母。

■ 藤原 璋子の 女房(にょうぼう、上級侍女)には

  堀河局(ほりかわのつぼね、待賢門院堀河、堀

  川局)がいた。

 

 

■ 藤原 璋子 (ふじわらのしょうし・たまこ) は、

 名は、待賢門院 (たいけんもんいん) と呼ばれる。

● 前近代日本では、夫婦別姓

● 前近代日本では、一夫多妻制

● 前近代日本では、女性は、個人名で自他呼称。

 

■ 藤原 璋子は、 鳥羽上皇(とばじょうこう)の正 室・

 夫人(中宮)で、 崇徳上皇 (顕仁(あきひと)親王)

 後白河上皇 (雅仁(まさひと)親王) の生母である。

 

■ 藤原 璋子のライバル(競争相手)は、 藤原得子

 (ふじわらの なりこ)であった。 藤原得子は、鳥羽

 上皇の正室夫人(女御)で、 美福門院 (びふくもん

 いん)とも呼ばれ、 近衛(このえ) 天皇 (体仁(なり

 ひと)親王) の生母である。

 

■ 藤原 璋子の 女房(にょうぼう、侍女)には

  河局(ほりかわのつぼね、待賢門院堀河、堀川

  局) がいた。  堀河局は、 源顕仲の娘で、

  河局は、女房名で、実名不詳 である。 平安時代

  後期の女流歌人(かじん)でもあった。

 

 

◆ 平安時代末期の歴代天皇一覧。

■ 天皇の皇位継承順 は、次の通りである。

@ 白河(しらかわ)天皇    (貞仁(さだひと)親王) ⇒

  (天皇在位、1072年〜1086年)

A 堀河(ほりかわ)天皇    (善仁(たるひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1086年〜1107年)

B 鳥羽(とば)天皇       (宗仁(むねひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1107年〜1123年)

  ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

C 崇徳(すとく)天皇      (顕仁(あきひと)親王)  ⇒

  (天皇在位、1123年〜1141年)

D 近衛(このえ)天皇     (体仁(なりひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1141年〜1155年)

E 後白河(ごしらかわ)天皇 (雅仁(まさひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1155年〜1158年)

F 二条(にじょう)天皇     (守仁(もりひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1158年〜1165年)

G 六条(ろくじょう)天皇    (順仁(のぶひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1165年〜1168年)

  ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

H 高倉(たかくら)天皇    (憲仁(のりひと)親王)  ⇒ 

  (天皇在位、1168年〜1180年)

I 安徳(あんとく)天皇      (言仁(ときひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1180年〜1185年)

J 後鳥羽(ごとば)天皇    (尊成(たかひら)親王)

  (天皇在位、1183年〜1198年)

 

 

♪♪ 藤原 璋子 が登場する、面白く、興

 味深い関連ドラマ、映画、ドキュメンタリー。 

 

★ 藤原 璋子 が登場する、面白く、興味

 深い、関連ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

 歴史のドラマ、映画 は、 史実(歴史上の事実) 

 と 架空の出来事 が 混じって描かれています。 

 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 平清盛 (たいらのきよもり) 』 

 (NHK2012年大河ドラマ)。

● 平安時代末期を描いたドラマで、 平安時代末

 期に活躍した人物、当時の時代状況、平清盛の

 生涯などを描く

● 大河ドラマの前半部に登場する。

● 藤原 璋子 (ふじわらのたまこ、待賢門院)を

 演じた女優名 : 檀 れい (だん れい)。

 

● 堀河局(ほりかわのつぼね、藤原 璋子の侍女)

 を演じた女優名: りょう。

● 鳥羽上皇 を演じ た俳優名 : 三上 博史。

● 藤原 得子 (ふじわらのなりこ、美福門院)を

 演じた女優名 :  松雪 泰子。

 

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#fujiwaranomuneko  

 

■ 藤原 宗子 

     (ふじわらのむねこ)。

 

■ 藤原宗子。

■ 名称 : 藤原宗子 (ふじわらのむねこ)。

● 出家後、池禅尼 (いけのぜんに)と呼ばれる。

■ 生没年 : 1104年(?)〜1164年(?)。

■ 藤原宗子は、

   平 清盛の継母(ままはは) である。

■ 藤原宗子は、 平清盛の父・平 忠盛(たいら

  のただもり)の正室夫人 である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11435。

 

■ 藤原宗子。

■ 藤原宗子 (ふじわらのむねこ、生没年:1104

  年?〜1164年?は、 平 清盛の継母(まま

  はは)である。

 

■ 藤原宗子 (ふじわらのむねこ、生没年:1104

  年?〜1164年?は、 平安時代末期の女性

  であり、 出家後、池禅尼(いけのぜんに)と呼

  ばれる。

 

■ 藤原宗子の氏名

 藤原宗子 (ふじわらのむねこ)は、出家後、

  池禅尼 (いけのぜんに)と呼ばれる。

● 前近代日本では、 「家父長制の夫婦別姓」

  である。

● 上層階層は前近代日本では、一夫多妻制

  である。

● 前近代日本では、女性は、個人名で自他呼

  称し、「宗子」と称す。  

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

● 1153年に、夫の平 忠盛が亡くなると出家して、

 京(都)・六波羅(ろくはら)の池殿で暮らしたことか

 ら、池禅尼 (いけのぜんに) と呼ばれた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 藤原宗子。

■ 藤原宗子 (池禅尼)は、平清盛の継母(まま

  はは)である。

 

■ 藤原宗子 (池禅尼)は、平清盛の父・平忠盛

  (たいらのただもり)の正室夫人である。

 

■ 藤原宗子 (池禅尼)は、平家盛、平頼盛の

   生母である。

  ● 藤原宗子 (池禅尼)は、 平清盛の父・

  平忠盛との間に、平家盛、平頼盛の2人の

  男子をもうける

 

■ 藤原宗子の父は、貴族の藤原宗兼である。

  ● 藤原宗子(池禅尼)の父は、貴族(修理

  大夫)の藤原宗兼である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 藤原宗子。

■ フィクションの軍記物語の「平治物語」 では、

 平治の乱の敗軍の将・源義朝(みなもとのよしと

 も)の子・源頼朝(みなもとのよりとも)が、 藤原

 宗子(池禅尼)の病死した子・平家盛(たいらのい

 えもり)に生き写しだったことから助命を願い出た、

 また、助命のため藤原宗子(池禅尼)が断食を始

 め、平清盛がそれを考慮して伊豆への流罪(るざ

 い)へと減刑したとされている。 

   しかし、実際には、平治の乱は源平の戦いと

 いうよりは、 平治の乱では朝廷内の権力闘争に

 源平が巻き込まれたと言ってよく、藤原宗子(池

 禅尼)の言動とは関係なく、平清盛は、敗軍の源

 義朝の一族・郎党の処遇を、重くしなかった。

 

 

■ 藤原宗子。

■ 保元の乱での藤原宗子(池禅尼)とその子の

  頼盛の行動。

■ 崇徳(すとく)天皇は、自分の皇子の重仁(しげひ

 と)親王の後見人の一人を、伊勢平氏平忠盛

 いらのただもり)とし、重仁親王の母(うば)を、平

 忠盛の正室夫人藤原宗子(ふじわらのむねこ、池

 尼)と した。

   しかし、1856年7月の保元の乱(ほうげんのら

 ん)が勃発した時、 既に平忠盛は死去し、重仁親

 王の乳母(うば)の藤原宗子(池禅尼)は、崇徳(す

 とく)上皇方の敗北を予測して子の平頼盛たいら

 のよりもり)に、平清(きよもり)と協力することを

 命じたので、 保元の乱では、藤原宗子(池禅尼)と

 その子の平頼盛は、 崇徳(すとく)上皇方に味方し

 なかた。

 

 

■ 藤原宗子。

■ 平清盛が伊勢平氏の当主となり、 正室夫人・

 藤原宗子(池禅尼)の嫡流の子の平家盛(平忠盛

 次男、1149年病死)、平頼盛(平忠盛5男) が、

 伊勢平氏の当主となれず、本流から外(はず)され

 たことで、 藤原宗子(池禅尼)も平頼盛も、平清盛

 に不満をもっていたことは確かである。 

   後に、1183年の平氏の都落ち後、藤原宗子

 (池禅尼)の子の平頼盛は、伊勢平氏一門と別行

 動をとり、伊勢平氏一門と敵対する後白河上皇や

 源頼朝に味方する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 藤原宗子 (池禅尼)が登場する、

    興味深い関連ドラマ、映画、ドキ

    ュメンタリー。 

 

★ 藤原宗子 (池禅尼)が登場する、

   興味深い関連ドキュメンタリー。 

 

■ 歴史秘話ヒストリア 

  『 私たち、草食系武士です。

    〜新・平家家族物語〜 』。 

   (NHKテレビの2009年(平成21年)

    12月16日・本放送・ドキュメンタリー

    番組、第27回)。

  ■ 藤原宗子 (池禅尼)を述べる。

 

 

★ 藤原宗子 (池禅尼)が登場する、

   興味深い、関連ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクションです。 

      歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事

   実) と 架空の出来事が 混じって描か

   れています。 また、現代風にアレンジし

   てあります。

 

■ 『 平清盛 (たいらのきよもり) 』 。 

    (NHKテレビの2012年大河ドラマ)。

  ■ 藤原宗子 (池禅尼)が登場する。

  ■ 平安時代末期を描いたドラマで、 

  平安時代末期に活躍した人物、当時

  の時代状況などを描く

  ■ 平清盛の生涯を描く

 

  ● 藤原宗子 (池禅尼)を演じた女優名:

    和久井映見。

 

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□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

#buddhism  

 

■ 仏教 

    (ぶっきょう)。

 

■ 仏教。

■ 名称 : 仏教  (ぶっきょう)。

● 英名: Buddhism。

■ シッダールタ(ブッダ、シャカ)の教え。

■ 日本の外来宗教の1つ。

■ 北インド出身の、シッダールタ (ブッダ(仏陀)、

  シャカ(釈迦)、ガウタマ・シッダールタ、生没年:

  紀元前563年頃〜前483年頃(諸説あり)) 

  が、 紀元前5世紀に開いた宗教。

■ 大乗仏教(= 大衆部仏教)、 上座部仏教

  (= 上座仏教、小乗仏教)、  チベット仏教

    (= ラマ教) などの宗派がある。

    日本に伝播した仏教は、大乗仏教(= 大衆

  部仏教)である。

■ 仏像の誕生については、「仏像出現」を参照

  してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61533。

 

□ 仏教の概要

□ 仏教の宗派

□ ブッダの生涯

□ 仏教の歴史

□ 仏典漢訳。 

□ 仏像の出現と伝播

□ 仏教が登場する、興味深い、ド

   キュメンタリー、映画、ドラマ。 

 世界史 全体詳細年表 No.4

   (紀元前1万年(今から約1万2000年前)

   から紀元前1年(今から約2000年前)ま

   での世界の歴史)。

 世界史 全体詳細年表 No.3

   (紀元後1年頃から紀元後1500年頃ま

   での世界の歴史)。

 

 

■ 仏教 (ぶっきょう、英名:Buddhism) は、 

  日本の外来宗教の1つ である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 前近代の世界は、 民主主義、個人の基本的

  人権の尊重・擁護の発達していない、 自由や

  平等のない、厳 しい上下関係の身分制度のあ

  る社会であり、 前近代の世界では、 「神(仏)

  の前では人間(ヒト)はみな平等」や博愛、慈愛

  をとなえる、 キリスト教イスラム教、仏教は、

  当時は、進歩的・革新的思想であり、 下層の

  民衆には、すばらしい思想であった。

● TKKI カナヤマ 著 電子書籍。

 

 

■ 仏教の存続期間と広がり。

■ 仏教(ぶっきょう)は、 紀元 前5世紀から現

  在まで、存続し、現在、東アジア、東南アジア

  を中心に、世界各地で、信仰されている。

 

■ 現在、東アジア、東南アジアを中心に、 地球

  上に、多数の、仏教徒(英:Buddhist(s)、仏

  教の信者) がいる。

 

■ 仏教は、約1000年をかけて、インドから日本

  へやって来た (仏教伝来)。

 

■ 仏教は、インドでは、紀元前5世紀に始まり、紀

  元(後)13世紀に、終焉(しゅうえん)する。 

     しかし、インド以外のアジア各地では、仏教

  は、存続し続けた。

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

■ 仏教は、 ブッダ(仏陀)の教えという意味で

  あり、 北インド出身の、シッダールタ (ブッダ

  (仏陀)、シャカ(釈迦)、ガウタマ・シッダール

  、生没年:紀元前563年頃〜前483年頃(諸

  説あり)、英:GAUTAMA SIDDHARTHA) 

  が、 紀元前5世紀に開いた宗教 である。

 

■ シッダールタ(ブッダ、シャカ)の生没年は、

  紀元前563年頃〜前483年頃(諸説あり) で

  ある。

 

■ シッダールタ(ブッダ、シャカ)の別名は、 

  ガウタマ・シッダールタ、 ゴータマ・シッダール

  タ、 シャカムニ(釈迦牟尼)、 釈迦牟尼(しゃ

  かむに)、 シャカ(釈迦)、 釈迦(しゃか)、 

  釈尊(しゃくそん)、 お釈迦様(おしゃかさま)、 

  ブッダ(仏陀)、 仏陀(ぶっだ)、 仏(ほとけ)、 

  仏様(ほとけさま)、 御仏(みほとけ)) など

  である。

● TKKI カナヤマ 著 電子書籍。

 

 

#buddhism-theoutline

 

◆ 仏教の概要。

■ 宗教には、 教祖(きょうそ)、  教義(教え)、 

  教典(きょうてん)、 宗教内グループ(分派) 

  などがある。

● TKKI カナヤマ著 世界史辞典。

 

■ 仏教の教祖。

    仏教の教祖は、 シッダールタ (ブッダ(仏

  陀)、シャカ(釈迦)、ガウタマ・シッダールタ

  生没年:紀元前563年頃〜前483年頃(諸

  説あり)) である。

■ 仏教は、 北インド出身の、シッダールタ(ブ

  ッダ、シャカ) が、 紀元前6世紀に開いた宗

  教である。

 

■ 仏教の教義(教え)。

     仏教の教義(教え)は、  シッダールタ 

  (ブッダ(仏陀)、シャカ(釈迦)、ガウタマ・シッ

  ダールタ) の教え である。

 仏教では、無常(むじょう)と無我(むが)を説

  き、中道(ちゅうどう)の実践により、苦悩のない

  安住の地に至れるとした。

     無常(むじょう)とは、絶対的なものの否定

  であり、 無我(むが)とは、固定的自我の否定

  であり、 中道(ちゅうどう)とは、禁欲主義と快

  楽(かいらく)主義の否定 である。

 シッダールタ(ブッダ、シャカ)の教えは、四諦

  (したい)と八正道(はっしょうどう)に要約され

  る。

     シッダールタ(ブッダ、シャカ)は、 心の内

  面から、人々の悩みを解(と)くことを重視し、解

  脱(げだつ)の道を説(と)いた。

    シッダールタ(ブッダ、シャカ)の教義は、 道

  徳的生活(八正道)の実践による涅槃 (ねはん、

  生老病死の四苦からの解脱(げだつ)=悟(さと)

  り) を目標とした。

 

■ 仏教の教典。

   仏教の教典は、 仏典である。 

            

■ 仏教の内部グループ。

     仏教には、主に、 大乗仏教 (= 大衆部仏

  教)、 上座仏教 (= 上座部仏教、小乗仏教)

  ラマ教 (= チベット仏教) などのグループがあ

  る。

● TKKI カナヤマ 著 電子書籍。

 

■ 仏教の聖地。

     シッダールタ(= ブッダ、シャカ)の関係する

  聖地は、 「ルンビニー」 (シッダールタの生誕

    地)、 「ピプラーワー」または「ティラウラーコー

    ト」 (シッダールタの育ったカピラ城の地)、 

    「ブッダガヤ」 (シッダールタが悟りを得た地)、 

    「サールナート」 (シッダールタの最初の説法地)、 

    「ラージギル」 (シッダールタがよく滞在した説法

  地)、 「クシナガラ」シッダールタの死去地)  な

  どである。

 

 

#buddhism-thelifeofgautamasiddhartha

 

◆ シッダールタ (=ブッダ、シ

  ャカ) の生涯。

 シッダールタ (ブッダ(仏陀)、シャカ(釈迦)、

  ガウタマ・シッダールタ) は、北インドのシャカ

  国の王子であったが、 城の外で苦しむ人々を

  知り、 29歳のとき、苦しむ人々を救うため、王

  子の地位を捨て出家し、 厳(きび)しい修行を

  重ね、 35歳で悟(さと)りをひらき、 その後、

  北インド諸地方で説法をして布教し、 80歳で

  生涯をとじる。 

     その教えは、 弟子たちにより伝えられた。 

  シッダールタ(ブッダ、シャカ)の教えや生涯など

  を、弟子たちは、教典(きょうてん)に記した。

● TKKI カナヤマ 著 電子書籍。

 

 シッダールタ(ブッダ、シャカ)は、 当時のインド

  のバラモン教の階級制を否定した。

 

 シッダールタ(ブッダ、シャカ)は、 インド・ヨー

  ロッパ系諸族のインド・アーリア人(=北方インド

  人)のシャカ族の武人であり、 北インドのシャカ

  国の王子で、カピラ城に居住し、  クシャトリア階

  級(王侯・武人階級) であった。

● TKKI カナヤマ 著 電子書籍。

 

 シッダールタ(ブッダ、シャカ)は、当時、インド

  では、北インドのシャカ王国の王子で、カースト

  ク シャトリア(王侯・武人階級)に属し、 バラ

  モン教やカースト制度に反対し、 バラモン教の

  権威を否定し、 彼の教えは、バラモン教に不

  満をもつ、インドのクシャトリア階級やヴァイシ

  ャ階級に信仰された。

● シッダールタ(ブッダ、シャカ)は、当時のバラモ

  ン教のヴェーダ祭式、ヴァルナ(カースト)制など

  を否定した。 バラモン中心の身分的儀礼に反

  対し、  クシャトリヤ(王侯・武人階級)やヴァイ

  シャ(農工商人階級)の支持を得た。

● TKKI カナヤマ 著 電子書籍。

 

 

■ シッダールタ死去後の仏教。

■ シッダールタ (ブッダ(仏陀)、シャカ(釈迦)、

  ガウタマ・シッダールタ、紀元前563年頃〜

  前483年頃(諸説あり)) の死後、仏教 は、

  インドで、約100年は統一を保ったが(原始

  仏教)、 紀元前4世紀初め頃から、諸派に分

  裂した (部派(ぶは)仏教)。

     その後、インドを含む南アジアでは、 仏

  教は、部派(ぶは)仏教の1つで保守的な、上

    座部仏教(= 上座仏教、小乗仏教) と、 新し

  く興(おこ)った進歩的な、大乗仏教(= 大衆部

  仏教)の2つの宗派が優勢となった。

● TKKI カナヤマ 著 電子書籍。

 

■ シッダールタ(ブッダ、シャカ)の死後、 仏教

  は、インドでは、 主に、上座部仏教  (= 上座

  仏教、小 乗仏教) や 大乗仏教 (= 大衆部仏

  教) という宗派に別れ、  インドからアジア各

  地に伝播していった。

     あらゆる人々の救済をめざす大乗仏

  (= 大衆部仏教)は、 中国、 朝鮮半島、日本

  などに伝播する。 出家者(しゅっけしゃ)が厳

  しい修行を行って自身の救済を求める、上座

  部仏教 (じょうざぶぶっきょう、= 上座仏教、

  小乗仏教)は、 スリランカ、東南アジアなどに

  伝播した。

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

 

#buddhism-thedenomination

 

◆ 仏教の各宗派。

◆ 仏教は、戒律、教義の相違で分裂。

■ 仏教には、 大乗仏教(= 大衆部仏教)、 

  座仏教(= 上座部仏教、小乗仏教)、 ラマ教

  (= チベット仏教) などの宗派がある。

 

■ 上座仏教 (= 小乗仏教)。

■ 上座仏教 (= 上座部仏教、小乗仏教、南伝仏

  教、英:Hinayana Buddhism) は、 仏教

  宗派の1つである。

■ 上座仏教の教義では、 戒律を重んじ、厳しい

  修行を通じて自己の悟りに至ることを目的とす

  る。

■ インドから、南方のスリランカ、ミャンマー、タ

  イなどに伝わる。

  

■ 上座仏教(= 小乗仏教)は、 解脱(げだつ)を

  めざした出家僧侶のための教えで、 戒律を守

  って修行し、教義は複雑で、当時の経典は、パ

  ーリ語で書かれた。

    仏教宗派の1つ、上座仏教 (じょうざぶっき

  ょう、= 上座部仏教(じょうざぶぶっきょう)、= 小

  乗仏教(しょうじょうぶっきゅう)) は、旧来の仏

  教(部派仏教)の宗派の1つで、 出家者(しゅっ

  けしゃ)が厳しい修行を行って自身の救済を求

  めるものである。 

● TKKI カナヤマ 著 電子書籍。

 

 仏教は、 紀元前3世紀に、 インドのアショカ王

  の時代に、 インドからセイロン(= スリランカ)に

  伝播した。 その後、 セイロン(= スリランカ)で

  は、 インドの部派仏教の1つの上座仏教(= 小

  乗仏教)が優勢となり、栄える。 

     それから、上座仏教(= 小乗仏教)は、 紀

  元(後)5世紀以後、 セイロン(= スリランカ)

  ら東南アジアに広まっていった。

● TKKI カナヤマ 著 電子書籍。

 

 仏教は、 紀元前3世紀に、 アショーカ王に

  より、インドからセイロン(= スリランカ)に伝わ

  る。

     紀元前3世紀のアショーカ王 (マウリヤ朝

  第3代国王、英:Ashoka、在位紀元前268年

  〜前232年頃) は、 仏教を保護し、紀元前3

  世紀に、 王子マヒンダをセイロン(= スリランカ)

  に派遣し、 王子マヒンダが布教した。 

    その後、 セイロン(= スリランカ)では、 イン

  ドの部派仏教の1つの上座仏教(= 小乗仏教)が

  優勢となり、 栄える。 そして、 セイロン(= ス

  リランカ)は、南伝仏教の拠点となった。 上座仏

  教(= 小乗仏教)は、 紀元(後)5世紀以後、 セ

  イロン(= スリランカ)から東南アジアに広まって

  いった。

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

 

■ 大乗仏教 (= 大衆部仏教)。

■ 大乗仏教 (= 大衆部仏教、 北伝仏教、英:

  Mahayana Buddhism) は、 仏教宗派の

  1つである。

■ 大乗仏教の教義では、 自己一人の完成のみ

  ならず、一切衆生の救済を念願する菩薩(ぼさ

  つ)の道を説く。

■ インドから、北方の中国、朝鮮半島、日本など

  に伝わる。

 

  大乗仏教(= 大衆部仏教)は、出家、在家に関

  係なく、救済を得るための教えで、 南インドの

  ナーガールジュナ(竜樹)により教学が確立し、

  当時の経典は、サンスクリット語で記載された。

    紀元前後に、インドで、仏教の中から新しい

  運動が生まれた。 それは、あらゆる人々の救

  済をめざす、大乗仏教 (= 大衆部仏教)である。 

  大乗仏教 (だいじょうぶっきょう、大衆部仏教、

  (たいしゅうぶぶっきょう)) は、 西北インド

  (パキスタン)のクシャーナ朝の保護を受けた。

 

 仏教宗派の1つ、大乗仏教 (= 大衆部仏教)

  では、 西北インド(パキスタン)のクシャーナ朝

  (紀元(後)45年〜4世紀)の、カニシカ王や歴

  代の王は、 大乗仏教(= 大衆部仏教)を容認、

  保護し、 大乗仏教(= 大衆部仏教)と仏教美

  術が、飛躍的に繁栄し、 中央アジアから中国

  へ流伝していった。 

 

 紀元(後)2世紀末〜3世紀に、大乗仏教(= 大

  衆部仏教)運動が盛んな、南インドのサータヴ

  ァーハナ朝(= アーンドラ朝)にいた、ナーガー

  ルジュナ (漢名、竜樹、龍樹(りゅうじゅ)) と

  いう仏教学者は、 大乗仏教(= 大衆部仏教)の

  理論的基礎を確立した。     

 

 大乗仏教(= 大衆部仏教)は、 インドからに中

  国本土に伝わり、その後、中国本土から朝鮮半

  島、日本などに伝わっていった。

 

 仏教は、 紀元前後に、インドから中国本土に

  伝播した。 その後、中国本土では、 インドの大

  乗仏教(= 大衆部仏教)が優勢となり、 栄える。 

     紀元前後にインドで新しく生まれた、大乗仏

  教(= 大衆部仏教)は、 紀元(後)1世紀以後、イ

  ンドから中国に伝わり、 中国で栄えた。 

     それから、大乗仏教(= 大衆部仏教)は、 

  元(後)4世紀に、朝鮮半島に伝播し、 紀元(後)

  6世紀に、日本に伝播し、その後、日本で栄えた。 

     しかし、大乗仏教(= 大衆部仏教)は、 紀元

  (後)14世紀以後、 明代以後の中国本土では、

  衰退していった。

 

 

■ ラマ教 (= チベット仏教)。

■ ラマ教 (= チベット仏教、英:Lamaism) は、 

  仏教宗派の1つである。

■ ラマ教は、仏教とチベットの民間宗教が結びつ

  いて成立した。 ラマ教の中心的聖地は、チベッ

  トのラサである。

■ ラマ教は、師から弟子への伝承(でんしょう)を

  重んじる密教(秘密仏教)であり、 ラマは、「師」

  のことで、ラマ教仏僧のことである。

■ インドからチベットに伝わり、チベットから中国

  西北部、中国東北部、ネパール、モンゴルなど

  に伝わる。

 

 紀元(後)7世紀に、チベットに仏教が伝来し(伝

  わり)、 その後、チベット土着の民間信仰のボン

  教と融合して、 ラマ教 (別名、チベット仏教、

  英:Lamaism) が、 チベットで形成された。 

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

 仏教宗派の1つ、ラマ教(= チベット仏教)は、チ

  ベットで形成され、 チベットからモンゴル、満州

  (まんしゅう、中国東北部)へ伝わっていった。

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

 仏教は、 紀元(後)7世紀に、 インドからチベッ

  トに伝播した。 その後、チベットで、新しくラマ教

  (= チベット仏教) が形成され、栄える。 

     チベットで、 仏教とチベット土着の民間信仰・

  ボン教とが融合して、 ラマ教(= チベット仏教)が、

  チベットで形成され、その後、チベットで栄えた。 

     それから、ラマ教(= チベット仏教)は、 紀元

  (後)13世紀以後、チベットからモンゴル、満州(ま

  んしゅう、中国東北部)に伝播していった。

     13世紀に、パスパが、フビライ・ハンの保護

  を受けて、 モンゴルや満州(中国東北部)にも普

  及に努(つと)める。

     14世紀には、ツオン・カパが出て、律の厳格

  な黄帽派(こうぼうは、黄教)を創立し改革し、これ

  までの(従来の)紅帽派(くぼうは、紅教)と区別し

  た。

     ラマ教(= チベット仏教)では、 ラサのダラ

  イ・ラマ と タシルンプのパンチェン・ラマが、代

  々転生するとして、教権をもっている。 現在、

  ダライ・ラマは、インドに亡命している。

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

 

#buddhism-thehistory

 

◆ 仏教の歴史。

 

 インドでの仏教の衰退

■ しかし、 インドでは、紀元(後)6世紀に入ると、

  仏教は、衰退の徴候を示し始め、 その後、仏教

  は、 ヒンズー教の発展 、 イスラム教の侵 入、 

  仏教内分派対立、 日常生活に密着したヒンズ

  ー教の神々の取り込み などで、インドでは、衰え

  ていった。 そして、紀元(後)13世紀には、仏教

  は、インド本土では、終焉をむかえた。

● TKKI カナヤマ 著 電子書籍。

 

 仏塔、仏教寺院の出現と 伝播。

    マウリヤ王国(朝) (紀元前317年頃〜

  前180年頃、英:The Mauryan Kingdom 

  (Dynasty))の、 アショーカ王 (在位・紀元

  前268年頃〜前232年頃、英:Ashoka)は、

  インドをほぼ統一後、仏教に帰依(きえ)し、紀

  元前3世紀に、インドの8つの仏塔に置かれて

  いた、シッダールタ (ブッダ(仏陀)、シャカ(釈

  迦)、ガウタマ・シッダールタ) の遺骨を、 細か

  く分けて、 その遺骨を納(おさ)める仏塔(ぶっ

  とう、ストゥーパ)を、 マウリヤ王国(朝)の南ア

  ジアの領地(支配地)の各地に沢山、建てた。 

     それ以来、インドを含む南アジアでは、仏

  教徒は、盛んに、仏塔への参拝を行った。 

     やがて、仏塔の周辺に、修行僧が暮らす

  僧院である仏教寺院がつくられ、 ここに、仏

  教寺院が生まれた。

    それから、仏塔や仏教寺院は、仏教と共に、

  アジア各地に広がっていった。 日本にある五

  重塔(ごじゅうのとう)などの建物は、 仏塔(

  トゥーパ)の一種である。

● TKKI カナヤマ 著 電子書籍。

 

 仏教の伝播。

 インド仏教の対外流伝では、 仏教は、紀元前

  3世紀に、インド 本土からセイロン(= スリランカ)

  に伝播し、その後、 セイロン(= スリランカ)では、

  南アジア(インド)の部派仏教の1つの上座部仏

  教(= 小乗仏教)が優勢となり、栄える。  

     仏教は、紀元前後に、 南アジア(インド)か

  ら中国本土に伝播し、 その後、中国本土では、

  南アジア(インド)の大乗仏教(= 大衆部仏教)が

  優勢となり、栄える。 

     仏教は、紀元(後)7世紀に、南アジア(イン

  ド)からチベットに伝播し、その後、チベットで、新

  しくチベット仏教(= ラマ教)が形成され、栄える。

 

 仏教は、 紀元前3世紀に、 インドのアショカ王

  の時代に、 インド 本土からセイロン(= スリラン

  カ)に伝播した。 その後、 セイロン(= スリラン

  カ)では、 インドの部派仏教の1つの上座部仏

  教(= 小乗仏教)が優勢となり、 栄える。 

     それから、上座部仏教(= 小乗仏教)は、 紀

  元(後)5世紀以後、 セイロン(= スリランカ)

  ら東南アジアに広まっていった。

 

 仏教は、 紀元前後に、 南アジア(インド)から中

  国本土に伝播した。 その後、中国本土では、 南

  アジア(インド)の大乗仏教(= 大衆部仏教)が優

  勢となり、 栄える。 

     紀元前後に南アジア(インド)で新しく生まれ

  た、大乗仏教(= 大衆部仏教)は、 紀元(後)1世

  紀以後、 南アジア(インド)から中国に伝わり、 

  中国で栄えた。 

     それから、大乗仏教(= 大衆部仏教)は、 

  元(後)4世紀に、朝鮮半島に伝播し、 紀元(後)

  6世紀に、日本に伝播し、 その後、日本で栄えた。 

     しかし、大乗仏教(= 大衆部仏教)は、 紀元

  (後)14世紀以後、 明代以後の中国本土では、

  衰退していった。

 

 仏教は、 紀元(後)7世紀に、 南アジア(インド )

  からチベットに伝播した。 その後、チベットで、新

  しくチベット仏教(= ラマ教)が形成され、栄える。 

     チベットで、 仏教とチベット土着の民間信仰

  とが融合して、 チベット仏教(= ラマ教)が、チベ

  ットで形成され、その後、チベットで栄えた。 

     それから、チベット仏教(= ラマ教)は、 紀元

  (後)13世紀以後、チベットからモンゴル、満州(ま

  んしゅう、中国東北地方)に伝播していった。

 

 

#buddhism-thetranslation

 

◆ 仏典漢訳。 

 鳩摩羅什玄奘2人の訳経僧(やっきょう そ

  う)が、 仏典漢訳に重要な役割をはたし、 

  国や日本などで使う漢訳仏典の基礎をつくる。 

  鳩摩羅什と玄奘は、 二大訳聖 と言われる。

 

 サンスクリット語などのインド言語の仏典を、 

  西域(さいいき)のクチャ(亀茲国(きじこく))出

  身の鳩摩羅什 (くまらじゅう、クマラジーヴァ

  (サ・英:Kumarajiva)、紀元(後)344〜41

  3年) や 中国・唐の玄奘 (げんじょう、玄奘

  三蔵) などの仏僧が、  漢訳した (漢語(中

  国語)に翻訳した)。 鳩摩羅什より前の訳経

  を、古訳といい、 鳩摩羅什から玄奘前までの

  訳経を、旧訳といい、 玄奘以後の訳経を新訳

   (しんやく)という。

 

 仏教の経蔵、律蔵、論蔵の三蔵に精通した僧

  侶(法師)を、 尊称して、 三蔵、または、三蔵

  法師という。 また、転じて、訳経僧を意味する

  場合もある。 南アジア(インド )や西域から仏

  典をもたらし、漢訳した人々を、 尊称して、 

  訳経三蔵という。

     三蔵法師の人々の中で最も有名な三蔵法

  師は、 玄奘である。

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

 

#buddhism-thebuddhistimage

 

 仏像の出現と伝播。

■ 仏教の初期には、 シッダールタ (ブッダ(仏

  陀)、シャカ(釈迦)、ガウタマ・シッダールタ)

  の偶像 を崇拝する慣習はなく、 仏像は、ブッ

  ダ(仏陀)の死後約500年間は、つくられなか

  った。 

     シッダールタ(ブッダ、シャカ)が死の間際

  に弟子達に、 「私の姿を崇(あが)めるのでは

  なく、 その教えだけを頼りに修行に励みなさい」 

  と言い残したと言われているからである。 初期

  の仏教徒は、 ブッダ(仏陀)の死後約500年の

  間、 ブッダの言葉を忠実に守り、 ブッダの姿を

  崇(あが)めなかった。 仏塔 (ぶっとう、ストゥ

  ーパ、仏舎利(ブッダの遺骨)を納めた建物) な

  どを礼拝して、十分満足していた。

■  しかし、 シッダールタ(ブッダ、シャカ)の死後

  約500年後、紀元(後)1世紀に、 西北インド

  (パキスタン、南アジア北西部)のガンダーラ地

  方にいたギリシア人系の仏教徒達は、 「ブッダ

  (仏陀)の姿が見たい」と切望し、初めて、仏像が

  つくられた。 また、 紀元(後)1世紀に、インド

  北部のマトウーラ (マトゥラー、英:Mathura)で

  も、仏像がつくられた

     紀元(後)1〜4世紀頃に、クシャーナ朝保

  護下のガンダーラ地方で、仏像(ガンダーラ仏

  像)が盛んに作られ(本格的につくられ)、 その

  後、南アジア(インド)各地でつくられた。 それ

  から、仏像は、仏教と共に、 南アジア(インド)

  からシルクロードなどの東西陸上交通路 や 

  東西海上交通路を通じて、 アジア各地に広が

  っていった。 

● TKKI カナヤマ 著 電子書籍。

 

 

◆ 仏像。

■ 仏教の初期には、  シッダールタ (ブッダ(仏

  陀)、シャカ(釈迦)、ガウタマ・シッダールタ)

  の偶像崇拝の慣習はなく、 仏教発生の約50

  0年後に、仏像が、初めてつくられた。

     仏像は、 シッダールタ(ブッダ、シャカ)の

  肖像(しょうぞう)ではなく、 仏教徒が、シッダー

  ルタ(ブッダ、シャカ)をモデルにイメージを膨(ふ

  く)らませて表現した像 である。 人々の求めに

  応じて様々な仏像がつくられた。

● TKKI カナヤマ 著 電子書籍。

 

■ 仏像には、主に、次の4種類の仏像がある。

    仏教が伝播する中、人々の求めに応じて

  様々な仏像がつくられた。

● 仏像には、はっきりとした上下関係あり、高位

   から下位に次の4種類の仏像がある。

  @ 最高位 如来 (にょらい)。  如来像。

  A 高位   菩薩 (ぼさつ)。   菩薩像。

  B 中位   明王 (みょうおう)。 明王像。

    C 下位   天   (てん)。     天像。

 

● @ 如来 (にょらいぞう)は、 シッダールタ 

    (ブッダ(仏陀)、シャカ(釈迦)、ガウタマ・

    シッダールタ) の悟りをひらいた姿を表す。 

      如来像は、シッダールタ(ブッダ、シャカ)の

    出家後の姿を、想像を膨らませて表した像で

    ある。

       如来像は、シッダールタ(ブッダ、シャカ)

    が出家したあとの姿、悟りをひらいたあとの姿

    を表した像である。 衣装も質素な姿が多い。 

       仏教が伝播する中、人々の求めに応じて

    様々な如来像がつくられた。

    ● TKKI カナヤマ 著 電子書籍。

   A 菩薩 (ぼさつぞう) は、如来を守り、人々を

    救済する、シッダールタ(ブッダ、シャカ)の姿

    を表す。 

       菩薩像は、シッダールタ(ブッダ、シャカ)

    の王子時代の姿を、想像を膨らませて表した

    像である。 

       菩薩は、如来の両脇にいて、如来を助け

    る(補佐する)役割をもつ。 菩薩は、衣装も豪

    華で派手な姿が多い。 

       仏教が伝播する中、人々の求めに応じて

    様々な菩薩像がつくられた。

   B 明王 (みょうおう) は、仏教の教えを邪魔す

    る者を諌(いさ)める、シッダールタ(ブッダ、シ

    ャカ)シッダールタの姿を表す。 

       明王像は、シッダールタ(ブッダ、シャカ)

    の王子時代の武勇のある姿を、想像を膨らま

    せて表した像である。 

       明王は、シッダールタ(ブッダ、シャカ)の

    武勇に優れた一面を表す。 例として、日本で

    は、 不動明王などがある。 怒りの表情の姿

    が多い。

       仏教が伝播する中、人々の求めに応じて

    様々な明王像がつくられた。

    ● TKKI カナヤマ 著 電子書籍。

   C 天(てん)は、 シッダールタ(ブッダ、シャカ)

    の姿ではなく、シッダールタ(ブッダ、シャカ)を

    守る、修行中の仏様(神様)の姿を表す。 

        天像は、シッダールタ(ブッダ、シャカ)の

    姿を表した像ではなく、 仏教に採り入れた仏

    様(神様)の像である。 インド、中国、日本な

    どの仏教、ヒンズー教、道教、神道の神やそれ

    らの混合で生まれた神である、仏様(神様)で

    ある。 

       仏教が伝播する中、人々の求めに応じて

    様々な天像がつくられた。

       例として、日本では、毘沙門天、弁財天 

    (弁才天、べんざいてん)、恵比寿(えびす)な

    ど七福神 などがある。 七福神は江戸時代

    に成立した。 七福神では恵比寿(えびす)の

    みが、日本生まれの仏様(神様)で、イザナミ

    ノミコト(伊邪那命)の三男「夷三郎」(いざ

    ぶろう)が起源と言われている。

    ● TKKI カナヤマ 著 電子書籍。

 

 

#buddhism-appearingscenes

 

♪♪ 仏教 が登場する、興味深い、ド

  キュメンタリー、ドラマ、映画。 

 

★ 仏教 が登場する、興味深い、ドキ

    ュメンタリー。 

 

■ 『 シルクロード物語〜文明が交

   差する道 第3話 ‘‘ ガンダー 

   ラ仏像の誕生 ’’ 』。

   (フジテレビ・2013年6月22日・本放送・

   テレビ・ドキュメンタリー番組)。

 シッダールタ(ブッダ、シャカ)の 生涯の概

  略、「初期の仏教」の概略を述べる。

 紀元(後)1世紀に、パキスタン北西部の

  ガンダーラ地方で出現した、現在の仏像

  の大元(おおもと)となった、「ガンダーラ

  仏像」の詳細を述べる。

 

■ 『 シルクロード物語〜文明が交

   差する道 最終話(第4話) 

   ‘‘ インド〜仏教のふるさと 

   天竺 ’’ 』。

    (フジテレビ・2013年11月16日・本放

    送・テレビ・ドキュメンタリー番組)。

 シッダールタ(ブッダ、シャカ)の生 涯につい

  て述べる。

 仏教の教えを求めてインドを訪問した、玄

  奘三蔵(げんじょうさんぞう)などについて

  述べる。 

     紀元(後)7世紀の、玄奘三蔵(げんじ

  ょうさんじょう)の旅行ルートとその訪問地を

  述べる。 

 東西文化交流について語り、 東西陸上交

  通路の、シルクロード(=「オアシスの道」の

  幹線交通路)の派生(支線)交通路 に位置

   する、北インドで発生した仏教 について述

  べる。 

 紀元(後)1世紀に、インド北部のマトウーラ

  で出現した、マトウーラ仏像について述べる。

 

■ 『 インドの仏 2500年の謎 

    〜仏教美術の源流に迫る〜 』。  

   (BSジャパン・テレビ・2015年4月24日・

   本放送・ドキュメンタリー番組)。

 シッダールタ(ブッダ、シャカ)の 生涯の概略、

  インドにおける仏教の始期〜終期(紀元前6

  世紀〜紀元後13世紀)の概略を述べる。

 仏像の誕生について述べる。

 

 

★ 仏教 が登場する、興味深い、映画、

  ドラマ。 

● (注意) ドラマ、映画 は、 フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が、混じって、描かれていま

  す。 また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 リトル・ブッダ 』  

  ‘‘ LITTLE BUDDHA ’’ 

  (1993年英仏共同制作映画)。

□ 映画 「リトル・ブッダ」 画像 NO.1

● シッダールタ(ブッダ、シャカ)の生 誕か

  ら35歳の悟(さと)りをひらくまでを描く。

● シッダールタ(ブッダ、シャカ)が生きて

  いた当時の社会状況を知ることが出来

  る。

● 物語は、 仏教の一派のチベット仏教

  (= ラマ教)の僧侶とアメリカ人の男子

  との間で展開している。

 

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□ 日本史 辞典 の先頭ページへ。 

□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

#statuesofbuddha 

 

■ 仏像 

    (ぶっぞう)。

 

■ 仏像。

■ 名称 : 仏像 (ぶっぞう)。

● 英名: Statue(s) of Buddha, Image(s) 

  of Buddha。

■ 仏教の彫像。

■ 仏像の誕生については、「仏像出現」を参照して

  ください。

 

 

■ 仏像 (ぶっぞう) とは、 仏教の彫像(ちょうぞう) 

 ある。  

    英名は、 Statue(s) of Buddha, Image 

  (s) of Buddha である。

 

■ 前近代日本では、神仏習合(しんぶつしゅうごう)

  であり、 仏像が、神社にも祀(まつ)られていた。 

     しかし、明治時代に入り、 明治時代前期に、

  明治新政府(近代日本政府の、廃仏毀釈(はい

  ぶつきしゃく)と神仏分離令(しんぶつぶんりれい)

  により、 仏像は、神社から取り去られ、お寺にの

  み置かれた。

     例として、嚴島(厳島、いつくしま)神社には、 

  江戸時代まで、観音像(観世音菩薩像)が祀(ま

  つ)られていたが、 明治新政府の神仏分離令で、

  撤去され、別のお寺に安置される。

 

◆ 仏像。

■ 仏教の初期には、  シッダールタ(ブッダ(仏

  陀)、シャカ(釈迦))の偶像崇拝の慣習はなく、 

  仏教発生の約500年後に、仏像が、初めてつ

  くられた。

     仏像は、 シッダールタ (ブッダ(仏陀)、

  シャカ(釈迦)、ガウタマ・シッダールタ ) の肖

  像(しょうぞう)ではなく、 仏教徒が、シッダー

  ルタ(シャカ、ブッダ)をモデルにイメージを膨

  (ふく)らませて表現した像 である。 人々の

  求めに応じて様々な仏像がつくられた。

● TKKI カナヤマ 著 電子書籍。

■ 仏像の誕生の詳細については、「仏像出現

  を参照してください。

 

 

■ 仏像には、主に、次の4種類の仏像がある。

    仏教が伝播する中、人々の求めに応じて

  様々な仏像がつくられた。

● 仏像には、はっきりとした上下関係あり、高位

   から下位に次の4種類の仏像がある。

 (1) 最高位 如来 (にょらい)。  如来像。

 (2) 高位   菩薩 (ぼさつ)。   菩薩像。

 (3) 中位   明王 (みょうおう)。 明王像。

  (4) 下位   天   (てん)。     天像。

 

■ (1) 如来像。

■ 如来 (にょらいぞう)は、 シッダールタ(ブ 

  ッダ(仏陀)、シャカ(釈迦)、ガウタマ・シッダ

  ールタ) の悟りをひらいた姿を表す。 

     如来像は、シッダールタ(ブッダ、シャカ)

  の出家後の姿を、想像を膨らませて表した像

  である。

     如来像は、シッダールタ(ブッダ、シャカ)

  が出家したあとの姿、悟りをひらいたあとの姿

  を表した像である。 衣装も質素な姿が多い。 

     仏教が伝播する中、人々の求めに応じて

  様々な如来像がつくられた。

● <実例> 

○ 如来像の実例として、鎌倉大仏 (かまくらだ

  いぶつ)の、阿弥陀如来坐像(あみだにょらい

  ざぞう)がある。

 

■ (2) 菩薩像。

■ 菩薩 (ぼさつぞう) は、如来を守り、人々を

  救済する、シッダールタ(ブッダ、シャカ)の姿

  を表す。 

     菩薩像は、シッダールタ(ブッダ、シャカ)

  の王子時代の姿を、想像を膨らませて表した

  像である。 

     菩薩は、如来の両脇にいて、如来を助け

  る(補佐する)役割をもつ。 菩薩は、衣装も豪

  華で派手な姿が多い。 

     仏教が伝播する中、人々の求めに応じて

  様々な菩薩像がつくられた。

● <実例>

○ 菩薩像の実例として、観世音菩薩(かんぜお

  んぼさつ)(= 観音様(かんのんさま))がある。

 

■ (3) 明王像。

■ 明王 (みょうおう) は、仏教の教えを邪魔す

  る者を諌(いさ)める、シッダールタ(ブッダ、シ

  ャカ)の姿を表す。 

      明王像は、シッダールタ(ブッダ、シャカ)

  の王子時代の武勇のある姿を、想像を膨らま

  せて表した像である。 

      明王は、シッダールタ( ブッダ、シャカ)の

   武勇に優れた一面を表す。 例として、日本で

   は、 不動明王などがある。 怒りの表情の姿

   が多い。

       仏教が伝播する中、人々の求めに応じ

    て様々な明王像がつくられた。

 

■ (4) 天像。

■ 天(てん) は、 シッダールタ(ブッダ、シャカ)

  の姿ではなく、シッダールタ(ブッダ、シャカ)を

  守る、修行中の仏様(神様)の姿を表す。 

      天像は、シッダールタ(ブッダ、シャカ)

  の姿を表した像ではなく、 仏教に採り入れた

  仏様(神様)の像である。 インド、中国、日本

  などの仏教、ヒンズー教、道教、神道の神や

  それらの混合で生まれた神である、仏様(神

  様)である。 

      仏教が伝播する中、人々の求めに応じ

  て様々な天像がつくられた。

      例として、日本では、毘沙門天、弁財天 

  (弁才天、べんざいてん)、恵比寿(えびす)な

  ど七福神 などがある。 七福神は江戸時代

  に成立した。 七福神では恵比寿(えびす)の

  みが、日本生まれの仏様(神様)で、イザナミ

  ノミコト(伊邪那命)の三男「夷三郎」(いざ

  ぶろう)が起源と言われている。

 

 

♪♪ 仏像 関連映画、ドラマ、ドキュメ

  ンタリー。 

 

★ 仏像 関連ドキュメンタリー。 

 

■ 『 シルクロード物語〜文明が交

   差する道 第3話 ‘‘ ガンダー 

   ラ仏像の誕生 ’’ 』  

   (フジテレビ・2013年6月22日・本放送・

    テレビ・ドキュメンタリー番組)。

 紀元(後)1世紀に、パキスタン北西部の

  ガンダーラ地方で出現した、現在の仏像

  の大元(おおもと)となった、「ガンダーラ

  仏像」誕生の詳細を述べる。

 シッダールタ(ブッダ、シャカ)の 生涯の

  概略、「初期の仏教」の概略を述べる。

 

■ 『 直伝 和の極意 彫刻家・薮

   内佐斗司流 仏像拝観手引 

    (じきでん わのごくい ちょうこくか・

    やぶうちさとしりゅう ぶつぞうはいか

    んてびき)  』 第1回。

    (NHK・2011年11月1日・本放送・

    テレビ・ドキュメンタリー番組)。

 シッダールタ(ブッダ、シャカ) の死後、約

  500年間は、仏像がつくられなかったこと

  を述べている。

    如来、菩薩、明王像は、シッダールタ

  (シャカ、ブッダ)の姿を、想像を膨らませ

  て表した像であり、 天像は、仏教に採り

  入れた仏様(神様)の像であることを述べ

  ている。

 

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#fukushimadaiichigenpatsujiko

 

■ 福島第一原発事故 

     (ふくしまだいいちげんばつじこ)。

 

■ 福島第一原発事故。

■ 名称 : 福島第一原発事故 

        (ふくしまだいいちげんぱつじこ)。

■ 時期 : 2011年(平成23年)3月に発生。

■ 福島第一原発事故とは、

  福島第一原子力発電所(= 福島第一原発

   の、放射能物質放出などの事故である。

■ 福島第一原発事故は、

   レベル7の事故である。 

 福島第一原発事故は、

   東日本大震災の破壊によ る、原子力発電

   所(= 原発)の冷却機能の喪失に伴う事故

   であり、 2011年12月に冷却機能を回復

   する。

 

 福島第一原発 事故(総合)

□ 福島第一原発 の各原子炉

 

 

■  福島第一原発は、現在、廃炉の作業が行

   われている。

 

■  人類は、非常時に、核を完全に制御でき

  るのかが問われている。

 

■  原発 (げんぱつ、= 原子力発電所)は、

   福島第一原発の事故の教訓を生かし、

   徹底した放射能汚染防止対策をとる必

   要がある。

 

 

■  福島第一原発事故。

■ 福島第一原発事故では、 ベント蒸気放出

   で低レベル放射性物資を、ある程度外部

   放出し、 水素爆発やつなぎ目蒸気流失

   で、高レベル放射性物資をある程度外部

   放出してしまった。

      しかし、幸いなことに、最悪の格納容

   器の大規模破壊はなく、 高レベル放射性

   物質が大量に排出され東日本全体の広範

   囲の地域が高放射能汚染地帯となり住め

   なくなる東日本壊滅の大惨事だけは、避け

   ることができた。

 

 

■ 原発

■ 原発(げんぱつ)とは、 原子力発電所で

  あり、 核燃料を使用して、電気をつくる発

  電所である。 

 

■ 福島第一原発の中核施設。

■ 福島第一原発の中核施設は、 免震棟

  と中操である。

     事故当時、免震棟 (= 免震重要棟、

  原発指令本部) と、1、2、3号機の中操

  (= ちゅうそう、中央制御室) との間で、

  頻繁な連絡をとられ、事故対策が実施さ

  れた。

 

■ 原発の原子炉施設の構造。

■ 福島第一原発では、 原発の建屋(たてや)

  があり、 建屋の中に格納容器(かくのうよ

  うき)があり、 格納容器の中に原子炉(げ

  んしろ)があり、 原子炉の中に核燃料(か

  くねんりょう)の燃料棒(ねんりょうぼう)があ

  る。

 

■ 原発のメルトダウン。

■ メルトダウンとは、核燃料が溶けることで

   ある。

  ● 福島第一原発の1号機、2号機、3号

   機の格納容器で、メルトダウンが、今回、

   起こった。

     原発の核燃料は、使用後、高温で、核

   燃料を何カ月もかけて、大量の冷却水で冷

     やす必要がある。

     もし、核燃料を、大量の冷却水で冷さ

   ず、高温のままにしておくと、核燃料が溶

   けて(メルトダウンして)、格納容器内で

   蒸気が充満し、圧力が増し、最悪、格納

   容器が大規模に破壊され、壊れた格納容

   器から高レベル放射性物質が大量に排出

   され、広範囲の地域が、高放射能汚染地

   帯となり、住めなくなる大惨事となる。

 

■ 原発のベント蒸気放出。

   ■ ベント蒸気放出は、 格納容器内の高レ

    ベル放射性物資を含む蒸気を、低レベル

    にして、外部放出し、格納容器の圧力を

    げることである。

   ■ ベント蒸気放出は、 最悪の格納容器の

    破壊を防ぐため、圧力を下げる必要があり、

    格納容器内の蒸気を出し圧力を下げるため、

    格納容器内の放射性能物資を含む蒸気を

    低レベルにして、配管を通して、外部放出す

    る作業である。

   ● 福島第一原発の1号機、3号機の格

    納容器で、ベント蒸気放出が、今回、行

    われた。

      ベント蒸気放出は、 格納容器内の高 

    レベル放射性物質を含む蒸気を、格納容

    下部に溜(た)めてある冷却水に通し、

    低レベル放射性物資の蒸気にしてから、

    格納容器の配管から煙突塔へ移動させ、

    低レベル放射性物資の蒸気を外部に放出

    する作業である。

 

■ 原発のつなぎ目蒸気流失。

■ つなぎ目蒸気流失とは、格納容器のつなぎ目

   から高レベル放射性物質を含む蒸気がある

   程度流失し、格納容器の圧力がぬけること

   である。

   ● 福島第一原発の2号機の格納容器で、

    つなぎ目蒸気流失が、今回、起こった。

       最悪の格納容器の大規模破壊で高レ

    ベル放射性物質の大量排出と思われたが、 

    2号機の格納容器の上部のつなぎ目から

    漏れた高レベル放射性物質を含む蒸気が

    ある程度流失し、格納容器の圧力はぬけて、

    東日本壊滅のの危機を避けることができた。

 

■ 原発の水素爆発。

  ■ 核燃料が溶ける(メルトダウンする)段階で、

    水素が格納容器内で発生し、格納容器から

    漏れた水素が建屋(たてや)内に溜(た)ま

    る。 その後、建屋内に水素が多くたまると

    爆発を起こす。

 

■ 原発の冷却機能喪失。

  ■ 冷却機能喪失とは、原発の格納容器の、

    通常の冷却装置も、非常用冷却装置も

    使用できず、「高熱の核燃料」を冷やす

    手段を失うことである。

      格納容器内の原子炉の中は、核燃料

    が溶ける(メルトダウンする)のを防ぐため、

    冷却装置を使用し、常に、冷却水で満たし

    ておく必要がある。

 

    ● 3月11日に、地震が起こった時、福島

    第一原発の、2号機の格納容器は、電源不

    要の非常用冷却装置「RCIC」が自動的に

    作動(軌道)し、3日間使用し、 1、3号機の

    格納容器は、電源不要の非常冷却装置

    「イソコン」(Reactor Inlet)が自動的に

    作動(軌道)したが、切った後、停電し、使用

    できなくなった。

 

■ 原発の全交流電源喪失。

  ■ 全交流電源喪失とは、 原発が、外部交流

    電源も非常用交流電源も両方失い、全電源

    を喪失することである。

       原発が全交流電源を喪失すると、 

   停電し、計器類はすべて停止し作動せず、

   納容器内の原子炉の操作ができず、格納容

   器内の状況も把握できなくなる。

 

  ● 福島第一原発の1号機、2号機、3号機

    格納容器で、全交流電源喪失が、今回、

    起こった。

       2011年(平成23年)3月11日に、

   福島第一原発は、 最初に、東日本大震

   災の地震により、外部電源を喪失し、次に、

   東日本大震災の地震で起きた津波により

   電源室が浸水し非常用電源を喪失し、全

   電源を喪失し、停電し、計器類はすべて停

   止し作動せず、格納容器内の原子炉の

   操作ができず、格納容器内の状況も把握

   できなくなる。

 

 

■  福島第一原発事故。

■ 原発の1,2,3号機の事故

   時系列表。

   (a)  3.11 巨大地震発生。

   (b)  3.11 巨大津波発生

   (c)  3.11 1号機の全交流電源喪失。

   (d)  3.11 1号機のメルトダウン。

   (e)  3.12 1号機の水素爆発。

       その後、1号機のベント蒸気放出。

   (f )  3.13 3号機の冷却機能喪失。

   (g )  3.13 3号機のメルトダウン。

   (h)  3.14 3号機の水素爆発。

       その後、3号機のベント蒸気放出。

   (i )  3.14 2号機の冷却機能喪失。

   (j )  3.14 2号機のメルトダウン。

   (k) 3.15 2号機のつなぎ目蒸気放出。

 

 

■  福島第一原発事故関連出来事

   (日付順、詳細)。

 

■ (1) 福島第一原発では、(6つの建屋内の

   格納容器内の)6機の原子炉があり、 20

   11年(平成23年)3月11日に、(3つの

   建屋内の格納容器内の)3機の原子炉が

   運転中であった。

 

   (2) 2011年(平成23年)3月11日に、

   東日本大震災の地震が発生する。

 

   (3) 2011年(平成23年)3月11日に、

   福島第一原発は、 最初に、東日本大震

   災の地震により、外部電源を喪失し、次に、

   東日本大震災の地震で起きた津波により

   電源室が浸水し非常用電源を喪失し、全

   電源を喪失し、停電し、計器類はすべて停

   止し作動せず、格納容器内の原子炉の

   操作ができず、格納容器内の状況も把握

   できなくなる。

 

   (4) 2011年(平成23年)3月11日に、

    第一原発の3つの格納容器内の運転

    中の3機の原子炉は、運転停止し、

    「高温の核燃料」を冷やす通常の冷却

    装置も停止する。

       しかし、格納容器内の原子炉の「高

    温の核燃料」を冷やさないと、核燃料が

    溶けて(メルトダウンして)、格納容器内

    で蒸気が充満し、圧力が増し、最悪、

    納容器が破壊され、東日本に高レベル

    放射性物質を大量に排出し、東日本全

    体を高放射能汚染し住めなくなる大惨

    事となる。

    ● 事故は、1号機・格納容器、3号機

     格納容器、2号機・格納容器の順に起

     こる。

 

    (5) 3月11日に、地震が起こった時、福島

    第一原発の、2号機の格納容器は、電源不

    要の非常用冷却装置「RCIC」が自動的に

    作動(軌道)し、3日間使用し、 1、3号機の

    格納容器は、電源不要の非常用冷却装置

    「イソコン」(Reactor Inlet)が自動的に

    作動(軌道)したが、切った後、停電し、使用

    できなくなった。

    ● 原発本部は、格納容器内の原子炉

    の運転停止後、「高熱の核燃料」をすぐ、

    冷却する必要があった。 

       しかし、原発本部は、全電源を失い、

     「高熱の核燃料」の冷却手段を失う。

    ● 原発本部は、 非常用電源装置を

    原発へ届けるように電力本社へ依頼す

    る。 

       その後、東日本大震災の地震によ

    り、道路が大渋滞し、非常用電源装置

    は、早く届かない。

 

    (6) 3月11日から13日まで、1、3号機

    の格納容器では、「高温の核燃料」の熱で

    冷却水が蒸発し、冷却水が少なくなり、格

    納容器内の圧力が増す。 

       また、核燃料が溶ける(メルトダウン

    する)段階で、水素が格納容器内で発生し、

    格納容器から漏れた水素が建屋(たてや)

    内に溜(た)まる。

 

    (7) 3月11日から13日まで、1、3号機

    の格納容器で、最悪の格納容器の破壊を防

    ぐため、圧力を下げる必要があり、格納容

    器内の蒸気を出し圧力を下げるため、

    発本部は、色々な方法を考え、実行し、

    冷却水を格納容器へ注入し、なんとか格

    納容器から低レベル放射性能物資の蒸

    気を放出する「ベント」の作業を行う。

        「ベント」作業の最中に、1号機の原

    子炉を囲む建屋と3号機の原子炉を囲む

    建屋で、格納容器から漏れて充満した水

    素が爆発を起こし、高レベル放射性能物資

    をある程度外部放出し、 格納容器は無事

    であったが、建屋の上部は爆発で壊れる。

 

    (7) 2号機の格納容器で、3月14日に、

    3日間作動していた非常用冷却装置が停

    止し、核燃料が溶け(メルトダウンし)、

    納容器内の圧力が高まり、 格納容器内

    に注 水して、核燃料を冷却しようとしたが

    冷却水が入らず、 格納容器が圧力が限

    度を越し、最悪の格納容器の大規模破壊

    で高レベル放射性物質の大量排出と思わ

    れたが、 3月1 5日に、2号機の格納容器

    の上部のつなぎ目から漏 れた高レベル放

    射性物質を含む蒸気がある程度流失し、

    格納容器の圧力はぬけて、 東日本壊滅の

    危機を避けることができた。

 

    (8) その後、冷温停止状態まで9ヶ月間を

    要し、原発の主要な職員は、福島第一原発

    で、3つの原子炉で核燃料が完全に冷却す

    るまで、色々な作業を行う。

 

    

■  福島第一原発事故 (ふくしまだいいちげんば

   つじこ) とは、 2011年3月に発生した、福島

   第一原子力発電所(原発)の、放射能物質放出

   の事故である。  

      東日本大震災の破壊による、 福島第一

   原子力発電所(原発)の原子炉の冷却機能の

   喪失に伴う事故である。 レベル7の事故であ

   った。

 

   

 

 

#fukushimadaiichigenpatujito(sogo)

 

 福島第一原発事故 (総合)。

■ 東日本大震災 の 地震動と津波の破壊により、福島第一原発(原子

 発電所)の原子炉は、冷却機能を喪失した。

 

■ 原子炉は、主に、原子炉建屋(たてや)、原子炉格納容器、原子炉圧力

 容器の3つで構成され、 燃料棒(炉芯)がある原子炉圧力容器を、原子

 炉格納容器が囲み包み、 原子炉格納容器を原子炉建屋が囲む。 2重

 構造で、燃料棒(炉芯)がある原子炉圧力容器からの放射性物質の外部

 放出を防いでいる。

● 原子炉格納容器 は、 放射性物質を閉じ込める機能を持ち、また、原

 子炉圧力容器の水蒸気を水に戻す装置でもある。

 

  

 

 

■ 福島第一原発の原子炉は、 原子炉1〜3号機(炉)の圧力容器の中に

 は、 高温の燃料棒(炉芯) があり、 原子炉1〜6号機(炉)の原子炉建

 屋の中には、 使用済核燃料を沈めて置く使用済核燃料保管プール (深

 さ約15m、満水時水量約1200トン) があり、 その中には、 (使用済後

 3年間ほど)熱をもつ使用済核燃料 がある。

 

 

■ 福島第一原発の原子炉の1〜6号機(炉)は、 1911年3月11日の大

 地震時、 原子炉は稼働中であったが、 稼働自動停止した。 しかし、冷

 却水ポンプの外部電源・非常電源設備が地震の大震動や大津波で破壊さ

 れ、 原子炉の圧力容器の中にある高温の燃料棒(炉芯) や 原子炉建

 屋内の使用済核燃料プールの中にある熱い使用済核燃料 を冷やす冷却

 機能を喪失し、 大地震後、燃料棒(炉芯)や使用済核燃料の温度が上昇

 した。 

 

■ 原子炉 は、 熱い使用済核燃料を冷却したり、 稼働停止後の高温の

 燃料棒(炉芯)を冷却したりする必要がある。 冷却できないと、使用済核

 燃料や燃料棒(炉芯)が溶解して、 放射性物質が外部に出てしまう。

  大地震後、福島第一原発の原子炉1〜4号炉(機)は、冷却機能を喪失し

 て、 放射性物質を漏えいし、外部に放出した。

● 福島第一原発での1〜4号炉の事故は、ウクライナのチェルノブイリ原

 発事故に次ぐ、レベル7の大きな原発事故となった。

 

■ 世界や日本の原子力発電 は、 エネルギーの安定供給に貢献している。

   2008年1月現在、 原子力発電所(= 原発) は、世界31カ国に、435

 基が稼働し、約3億9,224万KWの発電量で、 国別では、アメリカが104

 基、 フランスが59基、 日本が55基で、日本が世界第3位となっている 

 (日本原子力産業協会の資料より)。  2011年3月現在、日本国内では、

 原発の商業用原子炉55基が稼働し、 日本の発電量の約3分の1を供給

 している。

 

 

■ 大地震後、福島第一原発の原子炉から放射性物質が外部(空中や海)

 に放出され、住民避難・屋内退避 や 飲料水、食べ物の放射性汚染が問

 題となっている。

 

■ 大地震後、2011年3月22日現在、日本政府は、住民に福島第一原発

 から20km圏内からの避難 と、30km範囲の住民の屋内退避を、指示す

 る。

 

 

■ 燃料棒や使用済核燃料が露出して放出される放射性物質の漏えいを

 防ぐため、 福島第一原発の原子炉の冷却機能の早急な回復が必要で

 ある。

 

@ 応急措置として、冷却システムが回復しない間、冷却作業を行い、至急、

  冷却水を注入し、減った水位を上げる必要がある。 

   高温の燃料棒のある原子炉圧力容器・格納容器に冷却水を注入し、熱 

 をもつ使用済核燃料のある使用済核燃料保管プールに冷却水を注入して、 

 高温の燃料棒 や 熱をもつ使用済核燃料 を冷やす必要がある。

   原子炉圧力容器・格納容器内の「高熱の燃料棒」や、使用済核燃料保

 管プール内の「熱をもつ使用済核燃料」は、 熱いため水を蒸発させ、容器

 内やプール内の水量を減少させる。  高温の燃料棒や熱をもつ使用済核

 燃料を、容器内やプール内で、露出させず、容器内やプール内の水中に沈

 めておくため、 冷却水の追加注入が必要である。

 

A 根本的対応として、冷却システムの回復が、至急、必要である。

● 福島第一原発の1〜4号機(炉)原子炉の冷却装置がダウンした。

● 外部電源(送電ケーブル)設備や非常用電源設備の復旧を急いで行い、

 冷却水ポンプを稼働する必要がある。 修理するか新しいものに交換する

 ことが必要である。

 

   

 

 

#fukushimadaiichigenpatu(kakugenshiro)

 

■ 福島第一原発の各原子炉。

■ 福島第一原発の1 、2、3、4、5、6号機(炉)。

 

■ 福島第一原発1 、2、3、4号炉(機)の事故の詳細内容。

 

  

 

 

■ 福島第一原発1号炉(機)。

   1911年3月11日の大地震時、 福島第一原発の原子炉1号機(炉)は、

 原子炉は稼働中であったが、 稼働自動停止した。 しかし、冷却水ポンプ

 の外部電源・非常電源設備が地震の大震動や大津波で破壊され、 原子

 炉の圧力容器の中にある高温の燃料棒(炉芯) や 原子炉建屋内の使

 用済核燃料プールの中にある熱い使用済核燃料 を冷やす冷却機能を喪

 失し、 大地震後、燃料棒(炉芯)や使用済核燃料の温度が上昇する。 

   大地震後、 福島第一原発の原子炉1号炉 (機)は、 水素爆発で、原

 子炉建屋の上部がなくなる。  

   大地震後、 福島第一原発の原子炉1号炉 (機)は、 冷却機能を喪失

 し、 1号炉(機)の原子炉圧力容器内の燃料棒(炉芯)の温度が急激に上

 昇し、 原子炉圧力容器内の、冷却水の水位が下がり、 燃料棒(炉芯)が

 露出し、 燃料棒(炉芯)が溶け出し、 燃料棒(炉芯)を包むジルコニア合

 金が空気中の酸素と反応して、水素が発生し、その水素が原子炉建屋の

 上部にたまり、 3月12日に水素爆発を起こし、 1号の建屋の上部がなく

 なる。 原子炉1号炉(機)は、原子炉格納容器が、むき出しとなった。

   応急処置として、 日本政府や東京電力は、 原子炉1号炉(機)の容器

 の弁を開け圧力を下げ、 原子炉の容器(圧力容器、格納容器)に冷却水

 (海水、後、真水)を注入し、なるべくカラダキを抑え、 燃料棒(炉芯)の冷

 却を行った。 同時に、放射性物質が漏れ出し(漏えいし、外部に放出され)、

 拡散する。

   一方、福島第一原発の稼働原子炉1号 炉(機) は、 大地震時、原子

 炉建屋の中には、(使用済後3年間ほど)熱をもつ使用済核燃料を沈めて

 置く使用済核燃料保管プールがあり、 大地震後、冷却機能を喪失したが、 

 使用済核燃料の温度は急激に上昇せず。 

 

● 東京電力は、2011年3月22日に、大地震後破壊させ断絶していた、

 外部電源(送電ケーブル)を、福島第一原発の原子炉1号炉(機)に接続し

 た。 

● 大地震後、2011年3月23日現在、 日本政府や東京電力は、中央制

 御室や水循環システムなどの機能の復旧を行い、 冷却水ポンプを復旧し、

 冷却機能の回復を目指し、 最終的に、原子炉1号機(炉)から放射性物質

 の放出を止めることを計画している。

 

■ 福島第一原発2号炉(機)。

  1911年3月11日の大地震時、 福島第一原発の稼働原子炉2号炉(機)

 は、 原子炉は稼働中であったが、 稼働自動停止した。  しかし、冷却水

 ポンプの外部電源・非常電源設備が地震の大震動や大津波で破壊され、 

 原子炉の圧力容器の中にある高温の燃料棒(炉芯) や 原子炉建屋内の

 使用済核燃料プールの中にある熱い使用済核燃料 を冷やす冷却機能を

 喪失し、 大地震後、燃料棒(炉芯)や使用済核燃料燃料棒の温度が上昇

 する。 

   大地震後、 福島第一原発の原子炉2号炉(機) は、 冷却機能を喪

 失し、 2号炉(機)の原子炉圧力容器内の燃料棒(炉芯)の温度が急激に

 上昇し、 原子炉圧力容器内の、冷却水の水位が下がり、 燃料棒(炉芯)

 が露出し、 燃料棒(炉芯)が溶けだした。 同時に、放射性物質が漏れ出

 し(漏えいし、外部に放出され)、拡散する。

   日本政府や東京電力は、 原子炉2号炉(機)の容器の弁を開け圧力を

 下げ、原子炉の容器(圧力容器、格納容器)に冷却水(海水、後、真水)を

 注入し、なるべくカラダキを抑え、 燃料棒(炉芯)の冷却を行った。 

   大地震後、  福島第一原発の原子炉2号炉(機)は、2011年3月15日

 (火曜日)午前6時すぎ、原子炉格納容器の下部(圧力抑制室・サプレッショ

 ン・プール)で、 爆発が起こり、破損する(穴があく)。 そこから、 放射性

 物質を含む水または水蒸気が放出され、拡散する。

   一方、福島第一原発の稼働原子炉2号 炉(機) は、 大地震時、原子

 炉建屋の中には、(使用済後3年間ほど)熱をもつ使用済核燃料を沈めて

 置く使用済核燃料保管プールがあり、 大地震後、冷却機能を喪失したが、 

 使用済核燃料の温度は急激に上昇せず。 

 

● 東京電力は、2011年3月22日に、大地震後破壊させ断絶していた、

 外部電源(送電ケーブル)を、福島第一原発の原子炉2号炉(機)に接続し

 た。 

● 大地震後、2011年3月23日現在、 日本政府や東京電力は、中央制

 御室や水循環システムなどの機能の復旧を行い、 冷却水ポンプを復旧し、

 冷却機能の回復を目指し、 最終的に、原子炉2号機(炉)から放射性物質

 の放出を止めることを計画している。

 

  

 

■ 福島第一原発3号炉(機)。

  1911年3月11日の大地震時、福島第一原発の稼働原子炉3号炉(機)

 は、 原子炉は稼働中であったが、 稼働自動停止した。 しかし、冷却水

 ポンプの外部電源・非常電源設備が地震の大震動や大津波で破壊され、 

 原子炉の圧力容器の中にある高温の燃料棒(炉芯) や 原子炉建屋内の

 使用済核燃料プールの中にある熱い使用済核燃料 を冷やす冷却機能を

 喪失し、 大地震後、燃料棒(炉芯)や使用済核燃料の温度が上昇する。 

   大地震後、 福島第一原発の原子炉3号炉(機)は、水素爆発で、 原

 子炉建屋の上部がなくなる。 

   大地震後、 福島第一原発の原子炉3号炉(機) は、 冷却機能を喪

 失し、 3号炉(機)の原子炉圧力容器内の燃料棒(炉芯)の温度が急激に

 上昇し、 原子炉圧力容器内の冷却水の水位が下がり、燃料棒(炉芯)が

 露出して、 燃料棒(炉芯)が溶け出し、 燃料棒(炉芯)を包むジルコニア

 合金が空気中の酸素と反応して、水素が発生し、 その水素が、原子炉建

 屋の上部にたまり、 3月14日に水素爆発を起こし、 3号の建屋の上部

 がなくなる。 原子炉3号炉(機)は、原子炉格納容器が、むき出しとなった。  

 応急処置として、 日本政府や東京電力は、 原子炉3号炉(機)の容器の

 弁を開け圧力を下げ、 原子炉の容器(圧力容器、格納容器)に冷却水(海

 水、後、真水)を注入し、なるべくカラダキを抑え、 燃料棒(炉芯)の冷却を

 行った。 

   また、大地震後、 福島第一原発の原子炉3号機(炉) は、 大地震時、

 原子炉建屋の中には、(使用済後3年間ほど)熱をもつ使用済核燃料を沈

 めて置く使用済核燃料保管プールがあり、 冷却機能を喪失し、使用済核

 燃料の温度が急激に上昇した。 冷却機能が喪失し、使用済核燃料の温度

 が急激に上昇し、 プール内の冷却水が水蒸気となって、水蒸気があがり、

 使用済核燃料保管プールの水位が下がり、 使用済核燃料が露出して、使

 用済核燃料を包むジルコニア合金が空気中の酸素と反応して、 水素が発

 生し、放射性物質が漏れ出し(放出され)、拡散する。  2011年3月17日

 〜22日に、自衛隊のヘリコプターや放水車や東京消防庁の放水車や特殊

 放水車で、 空中や地上から使用済核燃料保管プールに放水し、 冷却水

 (海水)を、プールの約3倍水量を注入し、その後も、冷却水(真水)を注入し、 

 使用済核燃料の温度を下げた。

   それらの過程で、原子炉付近で、人体に影響がある、ミリシーベルト単

 位の放射性物質が漏れ出し(漏えいし、外部に放出され)、拡散する。

 

● 東京電力は、2011年3月22日に、大地震後破壊させ断絶していた、

 外部電源(送電ケーブル)を、福島第一原発の原子炉3号炉(機)に接続し

 た。 

● 大地震後、2011年3月23日現在、 日本政府や東京電力は、中央制

 御室や水循環システムなどの機能の復旧を行い、 冷却水ポンプを復旧し、

 冷却機能の回復を目指し、 最終的に、原子炉3号機(炉)から放射性物質

 の放出を止めることを計画している。

 

■ 福島第一原発の4号炉(機)。

  1911年3月11日の大地震時、 福島第一原発の原子炉4号炉(機)は、

 原子炉は休止中で、原子炉の圧力容器の中に、燃料棒(炉芯)はなかった。

 しかし、 原子炉建屋の中には、(使用済後3年間ほど)熱をもつ使用済核

 燃料を沈めて置く使用済核燃料保管プール (深さ約15m、満水時水量約

 1200トン) があり、 大地震時、冷却水ポンプの外部電源・非常電源設

 備が地震の大震動や大津波で破壊され、 大地震後、使用済核燃料保管

 プールの中にある熱い使用済核燃料を冷やす冷却機能を喪失し、 大地

 震後、 使用済核燃料の温度が急激に上昇した。

   大地震後、 福島第一原発の原子炉4号炉(機) は、 大地震により使

 用済核燃料保管プールが破損し水が漏れたか、または、冷却機能を喪失

 して、 熱をもつ使用済核燃料の温度が急激に上昇し、プール内の冷却水

 が水蒸気となって、水蒸気があがり、 使用済核燃料保管プールの水が減

 少し(水位が下がり)、 使用済核燃料保管プールで、熱をもつ使用済核燃

 料が露出して、 使用済核燃料を包むジルコニア合金が空気中の酸素と反

 応して、水素が発生し、 2011年3月15日(火曜日)に水素爆発を起こし

 て、原子炉建屋に穴があき、 建屋内保管の付近積置き各種材料が燃え、

 2回火災が発生し、その後、火災は、自然鎮火した。 

   大地震後、応急措置として、 福島第一原発の原子炉4号炉(機)では、 

 2011年3月20日、22日に、自衛隊放水車や特殊放水車で、地上から使

 用済核燃料保管プールに、冷却水(海水)を注入し、その後も、冷却水(真

 水)を注入し、 使用済核燃料の温度を下げた。

   原子炉付近で、 人体に影響がある、ミリシーベルト単位の放射性物質

 が漏れ出し(漏えいし、外部に放出され)、拡散する。

 

● 東京電力は、2011年3月22日に、大地震後破壊させ断絶していた、

 外部電源(送電ケーブル)を、福島第一原発の原子炉4号炉(機)に接続し

 た。 

● 大地震後、2011年3月23日現在、 日本政府や東京電力は、中央制

 御室や水循環システムなどの機能の復旧を行い、 冷却水ポンプを復旧し、

 冷却機能の回復を目指し、 最終的に、原子炉4号機(炉)から放射性物質

 の放出を止めることを計画している。

 

  

 

 

 福島第一原発の5、6号炉(機)。

  1911年3月11日の大地震時、 福島第一原発の原子炉5、6号炉(機)

 は、 原子炉は休止中であり、 原子炉の圧力容器の中に、燃料棒(炉芯)

 はなかった。  しかし、原子炉建屋の中には、(使用済後3年間ほど)熱を

 もつ使用済核燃料を沈めて置く使用済核燃料保管プールがあり、 大地震

 時、冷却水ポンプの外部電源・非常電源設備が地震の大震動や大津波で

 破壊され、 大地震後、使用済核燃料保管プールの中にある熱い使用済

 核燃料を冷やす冷却機能を喪失し、 大地震後、使用済核燃料の温度は

 上昇したが、急激には上昇せず。 

 

● その後、 2011年3月22日に、 大地震後破壊され断絶していた、 外

 部電源(送電ケーブル)を福島第一原発の原子炉5,6号炉(機)に接続し、

 冷却水ポンプを復旧し、冷却機能を回復した。 原子炉5,6号炉(機)から

 放射性物質が放出される可能性はなくなった。

 

 

#-appearingscenes

 

♪♪ 福島第一原発事故が登場する、

    興味深い、ドキュメンタリー、

    ドラマ、映画。

 

★ 福島第一原発事故登場する、

   ドキュメンタリー 。

 

■ 『 原発メルトダウン。 

    危機の88時間 』。 

    (NHKテレビの2016年・3月13日・

    本放送ドキュメンタリー・ドラマ)。 

 福島第一原発事故の3月11日発生

   から15日までを詳しく述べる。

 

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#budanha

 

■ 武断派 

    ( ぶだんは)

 

■ 武断派。

■ 時期 : 安土桃山時代 (1573〜1603年)。

■ 名称 : 武断派 (ぶだんは)。

■ 豊臣政権で、軍務を多く担った武将。  

 豊臣政権の派閥の1つ。

■ 例、 武断派の、加藤清正、福島正則

■ 豊臣家臣団では、 武断派 (ぶだんは、豊臣政

  権で、軍務を多く担った武将 の武将、大名 と 、

  文治派 (ぶんちは、豊臣政権で、政務を多く担っ

  た武将 の武将、大名  が、対立した。

 

□ 武断派が登場する、興味深い、ド

   キュメンタリー、ドラマ、映画

 

■ 豊臣政権では、 秀吉子飼いの武将の、武断派 が、 武断派の

 中心勢力となり、 秀吉子飼いの武将の、文治派 が、 文治派の中

 心勢力となった。

 

■ 武断派 (ぶだんは) とは、 豊臣政権の派閥の1つで、 安土桃

 山時代 (1573〜1603年)に、 豊臣政権で、軍務を多く担った武

 将 である。  

● 例えば、 武断派として、加藤清正、福島正則 等がいる。

 

■ 安土桃山時代 (1573〜1603年)に、 豊臣家臣団では、 武断

 派 (ぶだんは、豊臣政権で、軍務を多く担った武将 の武将、大名 

 と 文治派 (ぶんちは、豊臣政権で、政務を多く担った武将 が、対

 立した。

■ 加藤清正、福島正則等が、武断派で、 石田三成等 が、文治派で、

 豊臣政権内で、 事あるごとに対立した。

 

■ 豊臣家臣団の、武断派の武将、大名 と 文治派の武将、大名との

 間の対立 が、 豊臣政権の崩壊の一因となった。

 

■ 豊臣秀吉死後、 豊臣家家臣団の中で、 文治派の武将、大名の

 多くは、 石田三成に接近した、秀吉側室夫人の淀殿(よどどの、 お

 茶々)につき、 武断派の武将、 大名の多くは、 徳川家康に接近し

 た、秀吉・正室・夫人のねね(おね)についた。

 

■ 1598年の豊臣秀吉死去後、 武断派と 文治派の両者の武将、大

 名は、対立を深め、 前田利家が抑(おさ)えてい たが、 1599年の

 前田利家が死去直後、 今までの両者の敵意がふきだし、 武断派

 の加藤清正、福島正則等が、  文治派の代表の石田三成を襲撃した 

 (石田三成襲撃事件)。 

   石田三成 は、難をのがれたが、 豊臣政権の筆頭大老の、徳川

 家康から、近江での蟄居(ちっきょ)を申し渡され、 1599年に、石田

 三成は、 豊臣政権の奉行の職をとかれ、失脚した。

 

■ 1600年に、石田三成が、 挙兵すると、 天下分け目の戦い(関ヶ

 原の戦い、その他)では、 文治派 (豊臣政権で、政務を多く担った

 武将) の武将、大名の多くが、  西軍の石田方に味方し、 武断派 

 (豊臣政権で、軍務を多く担った武将) の武将、大名の多くが、東軍

 の徳川方に味方した。

 

 

#budanha-appearingscenes

 

♪♪ 武断派 が登場する、興味深い、ド

  キュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 武断派 が登場する、 興味深いドラマ、

  映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 軍師 官兵衛 (ぐんし かんべえ) 』。 

   (NHKテレビの2014年大河ドラマ)。 

 ■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

 ● 加藤 清正 (かとう きよまさ)を演じた 

  俳優名: 阿部 進之介 (あべ しんのすけ)。

 ● 福島 正則 (ふくしま まさのり)を演じた 

  俳優名: 石黒 英雄 (いしぐろ ひでお)。

 ● 黒田 官兵衛の嫡男の黒田長政(ながまさ、

  成人時)を演じる俳優: 松坂 桃季 (まつ

  ざか とおり)。

 

 ● 豊臣秀吉(木下藤吉郎、羽柴秀吉)を演じ

  た俳優名: 竹中直人 (たけなか・なおと)。

 ● 徳川 家康を演じた俳優名: 寺尾 聰

    (てらお あきら)。

 ● 黒田 官兵衛を演じた俳優名: 岡田 准一。

 

■ 『 寧々〜おんな太閤記 

     (ねね おんなたいこうき) 』 。 

    (テレビ東京の2009年制作

     テレビドラマ)。 

● 加藤清正を演じた俳優名 :  山田純大。

● 福島正則を演じた俳優名 :  樋口浩二。

● ねね(おね)を演じた女優名 : 仲間 由紀

  恵。

● 秀吉子飼いの武将の、武断派や文治派の武

  将達が、少年時代から、沢山描かれている。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』 

   (日本の2011年 NHK大河ドラマ) 

 

■ 『 天地人 (てんちじん) 』 

   (日本のNHK2009年大河 ドラマ)。

● 寧々(ねね)を演じた俳優名 : 富司 純子。

 

■ 『 功名が辻 (こうみょうがつじ) 』 

   (日本のNHK2006年大河ドラマ)。

 

■ 『 利家とまつ〜加賀百万石物語〜 』 

   (NHK2002年大河ドラマ)。

 

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#bunchiha

 

■ 文治派 

    (ぶんちは)

 

■ 文治派。

■ 時期 : 安土桃山時代 (1573〜1603年)。

■ 名称 : 文治派 (ぶんちは)。

■ 豊臣政権で、政務を多く担った武将。  

 豊臣政権の派閥の1つ。

■ 例、 文治派の石田三成

■ 豊臣家臣団では、 文治派 (ぶんちは、豊臣政

  権で、政務を多く担った武将 の武将、大名 と 、

  武断派 (ぶだんは、豊臣政権で、軍務を多く担っ

  た武将 の武将、大名が、対立した。

 

□ 文治派が登場する、興味深い、ドキ

   メンタリー、ドラマ、映画

 

 

■ 豊臣政権では、 秀吉子飼いの武将の、文治派 が、 文治派の中

 心勢力なり、 秀吉子飼いの武将の、武断派 が、 武断派の中

 勢力となった。

 

■ 文治派 (ぶんじは) とは、 豊臣政権の派閥の1つで、 安土桃

 山時代 (1573〜1603年)に、 豊臣政権で、政務を多く担った武

 将 である。  

     例えば、 文治派として、石田三成 等がいる。

 

■ 安土桃山時代 (1573〜1603年)に、 豊臣家臣団では、 武断

 派 (ぶだんは、豊臣政権で、軍務を多く担った武将 の武将、大名 

 と 文治派 (ぶんちは、豊臣政権で、政務を多く担った武将 が、対

 立した。

 

■ 加藤清正、福島正則等の  尾張(おわり、愛知県西部)出身の武将、

 大名は、 武断派が多く、 石田三成等の近江 (おうみ、滋賀県)出

 身の武将、大名は、 文治派が多く、 豊臣政権内で、事あるごとに対

 立した。

■ 加藤清正、福島正則等が、武断派で、 石田三成等 が、文治派で、

 豊臣政権内で、 事あるごとに対立した。

 

■ 豊臣家臣団の、武断派の武将、大名 と 文治派の武将、大名との

 間の対立 が、 豊臣政権の崩壊の一因となった。

 

■ 豊臣秀吉死後、 豊臣家家臣団の中で、 文治派の武将、大名の

 多くは、 石田三成に接近した、秀吉側室夫人の淀殿(よどどの、 お

 茶々)につき、 武断派の武将、 大名の多くは、徳川家康に接近した、

 秀吉・正室・夫人のねね(おね)についた。

 

■ 1598年の豊臣秀吉死去後、 武断派と 文治派の両者の武将、大

 名は、対立を深め、 前田利家が抑(おさ)えてい たが、 1599年の

 前田利家が死去直後、 今までの両者の敵意がふきだし、 武断派

 の加藤清正、福島正則等が、  文治派の代表の石田三成を襲撃した 

 (石田三成襲撃事件)。 

   石田三成 は、難をのがれたが、 豊臣政権の筆頭大老の、徳川

 家康から、近江 (おうみ)での蟄居(ちっきょ)を申し渡され、 1599年

 に、石田三成は、 豊臣政権の奉行の職をとかれ、失脚した。

 

■ 1600年に、石田三成が、 挙兵すると、 天下分け目の戦い(関ヶ

 原の戦い、その他)では、 文治派 (豊臣政権で、政務を多く担った

 武将) の武将、大名の多くが、  西軍の石田方に味方し、 武断派 

 (豊臣政権で、軍務を多く担った武将) の武将、大名の多くが、東軍

 の徳川方に味方した。

 

 

#bunchiha-appearingscenes

 

♪♪ 文治派 が登場する、興味深い、ド

  キュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 文治派 が登場する、 興味深いドラマ、

  映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画 は、史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 軍師 官兵衛 (ぐんし かんべえ) 

   (NHK2014年大河ドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

● 石田 三成を演じた俳優名 : 田中 圭

   (たなか けい)。

 

● 豊臣秀吉(木下藤吉郎、羽柴秀吉)を演じ

  た俳優名: 竹中直人 (たけなか・なおと)。

● 黒田 官兵衛を演じた俳優名: 岡田 准一。

 

■ 『 寧々〜おんな太閤記 (ねね 

     おんなたいこうき) 』 

   (テレビ東京の2009年制作テレビドラマ)。 

● 石田三成を演じた俳優名 : 中村俊介。

● ねね(おね)を演じた女優名 : 仲間 由紀

  恵。

● 淀の方を演じた 女優名 : 吹石一恵。

● 秀吉子飼いの武将の、文治派や武断派の武

  将達が、少年時代から、沢山描かれている。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』 

   (日本の2011年 NHK大河ドラマ) 

 

■ 『 天地人 (てんちじん) 』 

   (日本のNHK2009年大河 ドラマ)。

● 寧々(ねね)を演じた俳優名 : 富司 純子。

 

■ 『 功名が辻 (こうみょうがつじ) 』 

   (日本のNHK2006年大河ドラマ)。

 

■ 『 利家とまつ〜加賀百万石物語〜 』 

   (NHK2002年大河ドラマ)。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ。 

□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

#fukushimamasanori

 

■ 福島 正則 

     (ふくしま まさのり)。

 

■ 福島 正則。  

■ 名称 : 福島 正則 (ふくしま まさのり)。    

■ 生没年 : 1561年〜1624年。 

■ 秀吉の遠戚で、 幼名は、市松 (いちまつ)。

■ 安土桃山時代江戸時代初期の武将、大名。 

■ 豊臣家(豊臣氏)恩顧(おんこ)の武将。

■ 秀吉子飼いの武将。 

 豊臣政権では、 尾張 閥 (尾張出身の豊臣家

   家臣)で、 武断派 (豊臣政権で、 軍務を多く担

   った武将) であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51937。

 

□ 関ヶ原 画像アルバム  No.1

□ 福島 正則 が登場する、興味深い、

   ドキュメンタリー、ドラマ、映画

 

 

■ 福島 正則 (ふくしま まさのり、生没年:1561年

  〜1624年)は、 安土桃山時代江戸時代初期

  の武将、大名 である。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 福島 正則は、秀吉の遠戚で、幼名は、市松 (い

  ちまつ) である。

■ 福島 正則は、豊臣家(豊臣氏)恩顧(おんこ)の

  武将であり、 秀吉子飼いの武将であった。 

 福島 正則は、豊臣政権では、 尾張 閥 (尾張

  出身の豊臣家家臣)で、 武断派 (豊臣政権で、

  軍務を多く担った武将) であった。

 

■ 福島 正則 は、 尾張出身で、 少年時代から

    豊臣秀吉に仕(つか)え(秀吉子飼いの武将で)、 

    1583年の賤が岳(しずがたけ)戦いの「賤が岳

    の七本槍」(しずがたけのななほんやり)の一人 

    で、 豊臣家恩顧(おんこ)の武将 である。

 

■ 福島 正則は、 豊臣秀吉よりうけた、尾張国清

  洲(おわりのくに・きよす)24万石を領した。  

      福島 正則は、 関が原の戦いでは東軍に

  属し、 戦後、徳川家康よりうけた、安芸・備後国

  (あき・びんごのくの)49万石を領し、 広島に居

  城した。

 

■ しかし、 福島 正則は、 豊臣家恩顧(おんこ)

  の武将のため江戸幕府に警戒され、 幕府の改

  易政策で、1619年、 江戸幕府より、 広島城

  修復をとがめられ、 信濃国(しなののくに)信州

  川中島4万石へ減封・転封された。 その後、

  1624年に、不遇の中で、没した。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。                            

 

 

#fukushimamasanori-appearingscenes

 

♪♪ 福島 正則 が登場する興味深い、

   ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 福島 正則 が登場する、興味深い

  関連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

  実) と 架空の出来事 が混じって描かれ

  ています。 また、 現代風にアレンジしてあ

    ります。

 

■ 『 真田丸 (さなだまる) 』 。  

   (NHKテレビ・2016年大河ドラマ)。

 日本の安土桃山時代や江戸時代初期を描く。

● ドラマで「福島 正則」  (ふくしま まさのり、

  豊臣秀吉の家臣) を演じた俳優名 : 

  深水 元基   (ふかみ もとき)

 

■ 『 軍師 官兵衛 (ぐんし かんべえ) 

   (NHK2014年大河ドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

● 福島 正則 (ふくしま まさのり)を演じた 

  俳優名: 石黒 英雄 (いしぐろ ひでお)。

 

● 加藤 清正 (かとう きよまさ)を演じた 

  俳優名: 阿部 進之介 (あべ しんのすけ)。

● 黒田 官兵衛の嫡男の黒田長政(ながまさ、

  成人時)を演じる俳優: 松坂 桃季 (まつ

  ざか とおり)。

● 黒田 官兵衛を演じた俳優名: 岡田 准一。

● 豊臣秀吉(木下藤吉郎、羽柴秀吉)を演じ

  た俳優名: 竹中直人 (たけなか・なおと)。

● 徳川 家康を演じた俳優名: 寺尾 聰

    (てらお あきら)。

 

 

 『 天地人 (てんちじん) 』  (日本のNHK2009年

 大河ドラマ)。

● 福島 正則 を演じた俳優名 : 石原 良純 。 

 

 『 寧々〜おんな太閤記 (ねね おんなたいこうき) 』 

 (日本の2009年製作テレビ東京・テレビドラマ)。 

● 福島 正則 を演じた俳優名 : 樋口浩二。 

 

■ 『 天下騒乱〜徳川三代の陰謀 (てんかそうらん〜

 とくがわさんだいのいんぼう)  (日本の2006年製作テレビ東

 京・テレビドラマ)。 

● 福島 正則を演じた俳優名 : 勝野 洋。

 

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『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』

 

 

以  上。