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◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY 

   HANDBOOK

 

 

 カナヤマ 日本歴史 辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 な 』。

 

 

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メ ニュー (目次)。       

 ■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

 

□ 日本史 辞典 (総合)

 

□      ● 五十音順 ( あいうえお順)。

 

 

 □ 見出し語 なか

 □ 見出し語 なた

 □ 見出し語 なな

 □ 見出し語 なん

 

 

〇 な    名。

             (な)。 《 氏名》。

          (= 個人名)。

          (⇒ 前近代の日本

         の人名)

 

〇 ない  内閣制 

             (ないかくせい)。 《政治制度》。

          (= 近・現代日本政府の内閣制)。

          (⇒ 近代制限議会内閣制)。

          (⇒ 近代日本政府)。

          (⇒ 現代国民主権民主制)。

          (⇒ 現代日本民主政府)。

           ○ 内閣制は、

          1885年(明治18年)から現 

          在までの近・現代日本政府の

          政体である。

          ● 日本(近・現代日本政府)

          の内閣一覧表。

          近・現代日本の全内閣 (18

          85年(明治18年)から現在

          まで、 初代・伊藤博文首相

          から現在の首相まで)。

 

 ない  内管領。

              (ないかんれい、うちかんれい、

             うちのかんれい)。

                   《鎌倉時代の武士身分》。

                     (= 北条得宗家執事、

          御内人(北条得宗家・家

          臣)の筆頭)。

           (⇒ 鎌倉将軍御家人)。

           (⇒ 北条氏得宗

           北条得宗家得宗専制

                  寄合内管領長崎氏

           御内人)。

          (⇒ 執権執権北条氏)。

              (⇒ 河内源氏鎌倉北条氏)。

              (⇒ 源氏政権北条政権

                   鎌倉幕府)。

          (⇒ 幕府将軍武家政権)。

          (⇒ 日本の政権・政府)。

                     ○ 内管領とは、

           北条得宗家(鎌倉北条氏・

           本家)の執事、家令、家臣

           代表、御内人筆頭である。

           ○ 鎌倉時代後期の得宗

          専制期に、内管領は、権

          勢を振う

             ■ 内管領。

             ■ 内管領  (ないかんれい、うち

              かんれい、うちのかんれい)とは、   

              北条得宗家 (ほうじょうとくそうけ、

              鎌倉北条氏・鎌倉幕府の執権北

              条氏の本家)の、執事(しつじ、家

                      政掌握者、家司(けいし))であり、 

             家令(かれい、家政機関の長官))

             であり、 家臣代表、御内人(みう

             ちびち、北条得宗家の家臣)の筆

             頭である。

             ■ 内管領の権力。

             ● 鎌倉時代後期の得宗専制期

             に、内管領は、権勢を振う。

             ● 内管領は、 北条得宗家(ほう

             じょうとくそうけ、鎌倉北条氏本家)

             の執事として北条得宗家の財政・

             行政・司法権を掌握し、 鎌倉幕

             府の軍事・警察権を握る侍所所司 

             (さむらいどころしょし、侍所・次官)

             を兼ね、 寄合衆 (よりあいしゅう、

             寄合 (得宗、得宗家の私的会議)

             の構成員)として、鎌倉幕府の政

             策決定に参加(関与)し、権勢を振

             う。

             ● 鎌倉時代末期には、内管領

             の長崎氏が、北条氏得宗・北条 

             高時(たかとき)の後見人として、

             幕政の実権を握り、 鎌倉幕府の

             幕政を主導する。

〇 ない  内侍司

             (ないしのつかさ)。 《組織》。

                    (= 天皇の後宮・事務局)。 

          (= 天皇の秘書役女官の組織)。

          (8世紀〜大正時代)。

          ○ 尚侍(しょうじ)、典侍(てんじ)、勾

             当内侍(こうとうのないし)、掌侍(しょう

             じ) 、内侍、女孺(にょじゅ)等で構成 。

             ■ 内侍司 (ないしのつかさ、8世紀〜

             大正時代)は、天皇の後宮・事務局であり、

             天皇の秘書役女官の組織である。

             ■ 内侍司は、 尚侍(しょうじ)、典侍(てん

             じ)、勾当内侍(こうとうのないし)、掌侍 (し

             ょうじ) 、内侍、女孺(にょじゅ) 等で構成さ

             れる。

 

〇 ない  内親王。

             (ないしんのう)。 《天皇家》。

          ○ 内親王は、

          前近代日本(奈良〜江戸時代)

          では、「内親王宣下」を受けた

          女性皇族(主に天皇の女子や

          姉妹)である。

           ○ (例) 阿倍内親王(あべ

           (の)ないしんのう)、 聖武天皇

           の娘、後の孝謙・称徳天皇)。

          (⇒ 天皇家)。 

          (⇒ 皇族王、女王、

        皇子、親王、内親王)

             ■ 内親王と女王。

             ● 前近代日本(奈良〜江戸時代)の、

             内親王(ないしんのう)は、「内親王宣

             下」を受けた皇族であり、 主に、天皇の

             女性皇子 や姉妹である。 

               一方、前近代日本の、女王(じょおう)

             とは、 女性皇族である。 

             ● 内親王と女王。

               前近代日本の奈良時代から江戸時代

             までは、大宝令の律令制以後は、内親王

             宣下(ないしんのうせんげ)を受けた皇族

             女子 (主に天皇の女性皇子(みこ、皇女)

             や姉妹)を、内親王(ない しんのう)と呼び、 

             それ以外の皇族の女子(内親王宣下がな

             い皇族女子)を女王 (じょおう)と呼ぶ場合

             がある。 

               〈女王(じょおう)の例〉 天皇の孫(ま

             ご)、曾孫(ひまご)の女子。

               ■ 近現代日本(明治時代〜現在)の、

              内親王。

              ● 近現代日本では、前近代日本の内親

             王宣下の制を廃止し、皇室典範により、

             近代日本(明治・大正・昭和戦前時代)で

             は、天皇の子より皇玄孫に至る4世まで

             の女性皇族が内親王(ないしんのう)であ

             り、 現代日本(昭和戦後・平成・令和時代)

             では、天皇の子・孫までの女性皇族が内親

             王である。

 

 ない  内大臣

             (ないだいじん)。  《朝廷の官職》。

             ○ 朝廷の上級官職。

             ○ 前近代日本の、高位の朝廷の官職

             は、 高位順に、 @ 太政大臣 (だいじょ

             うだいじん)、 A 左大臣 (さだいじん)、 

             B 右大臣 (うだいじん)、  C 内大臣 

             (ないだいじん)、 D 大納言 (だいな

             ん)、 E 中納言 (ちゅうなごん)、 F 

             参議 (さんぎ) などがある。

           (⇒ 朝廷の官職朝廷公卿)。

 

 ない  内府。 

          (ないふ、だいふ)。  《官位》。

          (= 内大臣、徳川家康)。

          (⇒ 徳川家康内大臣)。 

           ○ 徳川家康は、1596年から

           1603年まで、朝廷より内大臣

          (ないだいじん)の官位に叙任され、

          内大臣の中国名は内府(ないふ、

                     だいふ)であり、家康は、内府(

          いふ、内府殿)とも呼ばれた。  

                            ■ 内府 (ないふ、だいふ)とは、 朝廷  

             の官職の内大臣(ないだいじん) の別称

             であり、 隋・唐時代の官職名より、内大

             臣の中国名は、 内府(ないふ)、 内丞相

             (ないじょうしょう)等である。

              ■ 徳川家康は、 1596年(文禄5年)5

             月8日から、1603年(慶長8年)2月12

             日まで、 内大臣(= 内府(ないふ))(15

             96年ー1603年)に叙任されていたた 

             め、家康は、内府(ないふ、内府殿)とも

             呼ばれた。  

                 更に、徳川家康は、 1603年に、

             右大臣 (うだいじん、中国名:右府、右

              僕射、右丞相、1603年(慶長8年)2月

             12日ー10月16日) と征夷大将軍に

             昇進、叙任され、 1616年に、太政大

             臣 (だいじょうだいじん、1616年(元

             和2年)3月17日ー4月17日)に昇進、 

             叙任される。

              ■ 前近代日本では、 上層階層の男

             性は、官職名や武官名で呼ばれること

                      が多かった。

              ■ 前近代日本では、 官職を中国風の

             別の呼び名にすることが多く、例えば、

             「水戸黄門」は、徳川光圀(みつくに)で、

             黄門は中納言の中国風の呼び名であ

             り、「水戸徳川家の権中納言」という意

                            味である。

 

 ない  内府 

             (ないふ)。 《官職名》。

             (= 江戸の内府)。

             ■ 徳川家康は、 朝廷より、1596

             年(文禄5年)5月から1603年(慶

             長8年)2月まで、内大臣 (ないだ

             いじん、別名(唐名):内府(ないふ、

             だいふ))の官職に叙任されて、内府

             江戸の内府と呼ばれる。

 

 ない  内府ちがひの条々 

             (ないふちがいのじょうじょう)。

          《弾劾書状》。

                    (= 内府(徳川家康)に対す

           る弾劾書状)。

               (⇒ 内府ないふ、= 内大

                徳川家康)。

               (⇒ 長束(なつか)正家

                 (ました)長盛前田玄

        )。

                (⇒ 慶長5年の

         天下分け目の戦い)。

          (⇒ 関ヶ原の戦い)。

          (⇒ 新説(史実)関ヶ原

         の戦い

           大垣・山中の戦い

           大垣の戦い山中の戦い)。 

          □ 「従来説 (伝説)関ヶ原の

            戦い」画像アルバム No.3 

          □ 「新説関ヶ原の戦い(= 大

            垣・山中の戦い)」 画像アル

            バム No.2

             (⇒ 豊臣氏五大老・五奉行

             五大老五奉行)。

            (⇒ 豊臣氏豊臣政権)。

                   (⇒ 小山評定細川ガラシャ)。

           (⇒ 徳川家康美濃赤坂

           山中桃配山陣場 野)。

           (⇒ 石田三成大垣城藤下

           の自害峯山中笹尾山)。

           (⇒ 小早川秀秋松尾山)。

           (⇒ 毛利秀元南宮山)。

             ■ 「内府ちがひの条々」(ないふちが

             いのじょうじょう)とは、 豊臣氏・奉行 

             衆3人の長束正家(なつかまさいえ)、

             増田長盛(ましたながもり)、前田玄以

             (まえだげんい)の豊臣氏の3奉行が、 

             連名で出した、徳川家康(内府(ない

             ふ))を弾劾(だんがい)する、13か条

             の書状である。 

             ● 徳川家康は、 朝廷より、1596

             年(文禄5年)5月から1603年(慶

             長8年)2月まで、内大臣 (ないだ

             いじん、別名(唐名):内府(ないふ、

             だいふ))の官職に叙任されて、内府

             江戸の内府と呼ばれる。

             ● 「内府ちがひの条々」は、 

             「慶長5年(1600年)の天下分け

             目の戦い」(関ヶ原の戦い、その他

             の各地の戦い)の切っ掛けとなった。

             ● 「内府ちがひの条々」は、 

             1600年(慶長5年)7月17日に、

             長束正家・増田長盛・前田玄以の

             三奉行名で、公布され る。 その後、

             それが、全国の大名に送付される

             (出回る)。

 

 ない  内覧

            (ないらん)。 《朝廷の官職》。

                   (⇒ 公卿朝廷の官職朝廷)。

          ○ 内覧は、天皇を補佐する地

          位・役職で、事実上、朝廷の政

          務を指導する要職である。

          ○ 例、内覧の藤原道長、藤原

          頼長。

                           ■ 内覧 (ないらん)とは、 天皇を補佐

                 する地位・役職であり、 事実上、朝廷の

             政務を指導する要職である。

                           ● 内覧には、例えば、内覧に任じら

             れた、藤原道長、藤原頼長などがいた。

                           ● 内覧 (ないらん)とは、 天皇へ上奏

                      する文書や天皇から下す文書を、事前

             に内見すること、または、それを行う者 

             である。

                           ● 内覧は、 平安時代中期の9世紀

             後半の太政大臣・藤原基経(ふじわら

             のもとつね)から、江戸時代まで、存

             続した。

 

〇 なお  直江 兼続

          (なおえ かねつぐ)。 《人名》。

          (= 直江 重光、 樋口 兼続、

                    樋口与六)。

          (1560〜1619年)。

          □ 直江兼続ガイドブック

          □ 直江兼続 関連年代順

             出来事ブック

          ○ 上杉景勝の近臣、重臣。 

          ○ 越後・上田衆の一人。

          ○ 直江実綱(景綱)の娘の、

          お船(おせん)の2番目の夫 。

 

〇 なお   直江兼続ガイドブック

             (なおえかねつぐがいどぶっく)。

           《人物のガイドブック》。

 

〇 なお   直江兼続 関連年代順

         出来事ブック

              (なおえかねつぐ かんれんねん

             だいじゅんできごとぶっく)。

          《人物の年代順出来事》。

 

〇 なお   直江 兼続 簡略年表

              (なおえかねつぐ かんりゃくねん

                              ぴょう)。

           《人物の年表》。

             (⇒ 日本史年表) 。

 

〇 なお  直江 兼続 詳細年表

             (なおえかねつぐ しょうさいねん

                           ぴょう)。

           《人物の年表》。

             (⇒ 日本史年表) 。

 

〇 なお  直江 実綱

             (なおえ さねつな)。 《人名》。

          (=直江 景綱 かげつな、直江 政綱) 。 

          ○ 上杉謙信の重臣。

                    ○ 直江兼続の正室夫人・お船

          (おせん )の父 。

          □ 直江兼続ガイドブック

          □ 直江兼続 関連年代順

             出来事ブック

 

〇 なお  直江実綱の夫人

             (なおえ さねつなのふじん)。

          (実名不詳)。 《人名》。

          □ 直江兼続ガイドブック

          □ 直江兼続 関連年代順

             出来事ブック

           ○ 直江兼継夫人・お船の方の

          生母。

             上杉謙信臨終の際に、上杉

          景勝を継嗣とする遺言を聞き

          届けたと言われている女性。

             ● 直江実綱(景綱)の夫人(なおえ さね

             つな(かげつな)のふじん)は、 直江兼継

             夫人・お船の方の生母でもあり、 上杉謙

             信臨終の際に、上杉景勝を継嗣とする遺

             言を聞き届けたと言われている女性であ

             る。

             ● 『 天地人 (てんちじん) 』 (NHKテ

             レビ・大河ドラマ) では、  お万(おまん)

             という名(仮称)で、落飾後は、 妙椿尼 

             (みょうちんに)という名(仮称)で、登場

             する。

             ■ 前近代日本の史料では、女性の実

             名が記載されることは少なく、女性の実

             名が不明なことが多い。 

             (例) 書物(史料)では、「直江実綱(景

             綱)室」 (直江実綱(景綱)の夫人)など

             と記されている。

               また、ドラマ、映画、小説などでは、

             名がないと不便なので、女性の仮称が

             使われることが多し。

 

〇 なお  直江 信綱

             (なおえ のぶつな)。 《人名》。

          ○ 直江実綱(景綱)の娘婿。

          ○ 直江実綱(景綱)の娘の、

            お船( おせん)の最初の夫。

          □ 直江兼続ガイドブック

          □ 直江兼続 関連年代順

             出来事ブック

 

 なお  尚五郎  

             (なおごろう)。 《人名》。

                    (= 肝付尚五郎、 小松帯刀)。

       (⇒ 小松帯刀 こまつ たてわき)。 

 

 なお  直虎。  

             (なおとら)。 《人名》。

                    (= 井伊直虎、次郎法師)。

       (⇒ 井伊直虎 いいなおとら)。 

#naka

 

〇 なか  なか。

          《人名》。

                     (= 仲、大政所 おおまんどころ) 。

          ○ 豊臣秀吉の生母。

        (⇒ 大政所

 

〇 なが  長尾 顕景。 

             (ながお あきがげ)。 《人名》。

                    (= 上杉景勝)。

             (⇒上杉 景勝)

 

〇 なが  長岡京と長岡宮 

                          (ながおかきょうとながおかきゅう)。 

           《京と宮城》。

          (= 宮城の長岡宮と、

          長岡宮の都市・長岡京)

       (⇒ 長岡京

          □ 長岡京 画像アルバム 

            No.1

           □ 日本古都ガイドブック

           □ 日本古都 関連年代順

                        出来事ブック。  

            (⇒ 天皇天皇家朝廷 

              (⇒ 古都(こと)首都

                           (みやこ))。

              (⇒ 都城(とじょう)(きょう))。

              (⇒ 都城宮城(きゅう

             じょう)内裏(だいり))。

              (⇒ 都城飛鳥京

             藤原京平城京

                  長岡京平安京)。

              (⇒ 都城内の

                      宮城(= 皇城、皇居)

             飛鳥京と 飛鳥諸宮

           藤原京と藤原宮

                平城京平城宮

           長岡京長岡宮

            平安京平安宮大内裏

           (だいだいり))。

 

          ○ 京>宮城>内裏。

          ○ 長岡京= 長岡宮の都市

                    ○ 長岡京= 京都府向日(むこう)

                        市付近の、天皇の住居、宮殿

          があった都市。

             ○ 長岡宮= 長岡京の宮城

          (きゅうじょう、= 天皇の宮殿)。

             ○ 長岡宮= 京都府向日(むこう)

                        市付近にあった宮城(= 天皇

          の宮殿)。

 

          ■ 長岡宮。

             ■ 長岡宮 (ながおかきゅう)とは、 

             784年から794年まで、京都府向日市

             (むこうし)付近にあった宮城(きゅうじょ

             う、= 天皇の宮殿)である。

               長岡京 (ながおかきょう)は、宮城

             の長岡宮 (ながおかきゅう)を中心とす

             る都市である。

 

             ■ 日本の主要な宮城

             (= 皇城、皇居)。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

             ■ 日本の主要宮城。

             ● 日本の主要な宮城(きゅうじょ

              う、= 皇城、皇居)には、

             (1) 飛鳥諸宮 (あすかしょきゅ

              う、= 飛鳥京の諸宮、飛鳥地域

              の諸宮城、

              奈良県明日香(あすか)村付近、

              6世紀頃ー694年)、 

             (2) 藤原宮(ふじわらきゅう、

              = 藤原京の宮城、

              奈良県橿原市(かしはらし)付近、

              694年ー710年)、 

             (3) 平城宮 (へいじょうきゅう、

              = 平城京の宮城、

              奈良県奈良市(ならし)付近、

              710年ー740年・745年ー

              784年)、 

             (4) 長岡宮 (ながおかきゅう、

              = 長岡京の宮城、

              京都府向日市(むこうし)付近、

              784年ー794年)、 

             (5) 平安宮 (へいあんきゅう、

              = 平安京の宮城)、

              京都府京都市付近、

              本来の平安宮は平安時代末期

              まで、京都府京都市上京区(か  

              みぎょうく)付近、

              794年ー1177年頃)、 

             などがある。

 

〇 なが   長岡京

               (ながおかきょう)。

              《 都城・京》。

              (784年ー794年)。

           □ 長岡京 画像アルバム 

            No.1

           □ 日本古都ガイドブック

           □ 日本古都 関連年代順

                        出来事ブック。  

            (⇒ 天皇天皇家朝廷 

              (⇒ 古都(こと)首都

                           (みやこ))。

              (⇒ 都城(とじょう)(きょう))。

              (⇒ 都城宮城(きゅう

             じょう)内裏(だいり))。

              (⇒ 都城飛鳥京

             藤原京平城京

                  長岡京平安京)。

              (⇒ 都城内の

                      宮城(= 皇城、皇居)

             飛鳥京と 飛鳥諸宮

            藤原京と藤原宮

                 平城京平城宮

           長岡京長岡宮

            平安京平安宮大内裏

           (だいだいり))。

            (⇒ 都城内の、

                       宮城(= 皇城、皇居)内の、

            内裏(だいり)

               大極殿(だいごくでん)

            朝堂院(ちょうどういん)、

            曹司(ぞうし))。

 

          ○ 都城・京>宮城>内裏。

          ○ 長岡京= 長岡宮の都市

                    ○ 長岡京= 京都府向日(むこう)

                        市付近の、天皇の住居、宮殿

          があった都市。

             ○ 長岡宮= 長岡京の宮城

          (きゅうじょう、= 天皇の宮殿 )。

             ○ 長岡宮= 京都府向日(むこう)

                        市付近にあった宮城(= 天皇

          の宮殿)。

 

          ■ 長岡京。

             ■ 長岡京 (ながおかきょう)は、 長岡

             宮の都市である。

             ■ 長岡京 (ながおかきょう)は、  784

             年から794年までの間、 奈良時代後期

             に、京都府向日(むこう)市・長岡京(なが

             おかきょう)市・京都市南部付近、天皇

                       の住居(= 内裏)、天皇の宮殿(= 宮城)

             があった都市である。

 

          ■ 長岡宮。

             ■ 長岡宮 (へいあんきゅう)は、 長岡

             京の宮城 (きゅうじょう、= 天皇の宮殿)

             である。

             ■ 長岡宮 (へいあんきゅう)は、784

             年から794年までの間、 奈良時代後期

             に、京都府向日(むこう)市・長岡京(な

             がおかきょう)市・京都市南部付近に

             あった、宮城(= 天皇の宮殿 )である。

 

          ■ 長岡京。

             ■ 784年に、 桓武(かんむ)天皇は、

             平城京 (へいじょうきょう、都:710年

             ー784年、奈良県奈良市付近) から、 

             長岡京(ながおかきょう、都:784年ー

             794年、京都府向日(むこう)市・長岡

                          京市・京都市南部付近) に遷都し、 

             794年に、桓武天皇は、 長岡京から、

             平安京都: 794年ー1869年、京都府

             京都市付近) に遷都する。

 

          ■ 都城や京。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

              ■ 日本では、 都城や京とは、

             宮城(きゅうじょう、皇城、皇居)

             を中心とする都市である。

              ■ 日本では、 都城や京とは、

             天皇の住居(御殿)の内廷 と朝

             廷(官庁)施設の外朝を合わせ

             た、宮城(皇城、皇居)を中心と

             する都市である。

             ● 日本では、都城(とじょう)

             や京(きょう)とは、 

             天皇の住居 (御殿(ごてん))で

             ある内廷(ないてい) と 

             朝廷(官庁)施設である外朝(が

             いちょう)を合わせた

             宮城 (きゅうじょう、皇城(こうじ

             ょう、おうじょう)、皇居)を中心と

             する都市である。

              ■ 日本の都城や京には、

             飛鳥京、

             藤原京、

             平城京、

             長岡京、

             平安京

             などがある。

 

          ■ 宮城(= 皇城、皇居)。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

              ■ 日本では、宮城(きゅうじょう) 

              とは、 天皇の住居(御殿)の内

             廷 と その周囲の朝廷(官庁)

             施設の外朝を合わせた皇城(皇

             居)である。

             ● 日本では、 宮城(きゅうじ

             ょう)は、 天皇の住居(御殿

             (ごてん))である内廷(ないてい) 

             と その周囲の朝廷(官庁)施設

             である外朝(がいちょう)を合わせ

             た皇城(こうじょう、おうじょう)、

             皇居)である。

              ■ 日本の宮城(= 皇城、皇居)

             には、 

             飛鳥京内の飛鳥諸宮、

             藤原京内の藤原宮、

             平城京内の平城宮、

             長岡京内の長岡宮、

             平安京内の平安宮(大内裏)、

             などがある。

 

          ■ 宮城(= 皇城、皇居)。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

             ■ 宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居)は、古代日本の時代に、

             藤原宮、平城宮、長岡宮、平安宮

             では、 

             内裏(だいり)、

             大極殿(だいごくでん)、

             朝堂院(ちょうどういん)、

             曹司(ぞうし)、

             などで占められていた。

             ● 宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居)は、古代日本の時代では、

             藤原宮、平城宮、長岡宮、平安宮

             では、 

             内裏(だいり、=天皇の住居、天

             皇御所)、 

             大極殿 (だいごくでん、国家儀式

             等を行う建物)、 

             朝堂院 (ちょうどういん、国家政 

             務等を行う建物)、 

             曹司(ぞうし、官人が実務をとる

             中央官庁、官衛(かんが、諸官庁)) 

             などから構成されていた。

             ■ 内裏。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

             ■ 内裏 (だいり)とは、 

             前近代日本の、天皇の住居、居所、

             御殿(ごてん)をいう。

 

             ■ 日本の主要な都城・京

             (= 皇居都市)。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

              ■ 主要な都城・京(= 皇居都市)

             の移動。

               飛鳥京⇒ 藤原京⇒ 

              平城京(奈良の都)⇒ 長岡京⇒ 

              平安京(京都、京の都)⇒ 東京。

             ■ 日本の主要な都城・

              (= 皇居都市)の変遷。

             ● 古代日本中期から近世日本

              までの、日本の主要な、宮城

              (きゅうじょう、= 皇城、皇居)

              があった都市 の京とその変遷は、

             (1) 飛鳥京 (あすかきょう、

              奈良県明日香(あすか)村付近、

              7世紀頃から694年まで)、 

             (2) 藤原京 (ふじわらきょう、

              奈良県橿原(かしはら)市付近、

              694年ー710年)、 

             (3) 平城京 (へいじょうきょう、

              奈良県奈良市付近、

              710年ー740年、

              745年ー784年)、 

             (4) 長岡京 (ながおかきょう、

              京都府向日(むこう)市・長岡京

              (ながおかきょう)市・京都市南

              部付近、

              784年ー794年)、

             (5) 平安京 (へいあんきょう、

              別名:京の都(きょうのみやこ)、

              京都、

              京都府京都市付近、

              794年ー1869年)、

             の順序で、概(おおむ)ね、移動

             する。

 

〇 なが  長尾 景虎。 

             (ながお かげとら)。 《人名》。

                    (= 上杉謙信)。

             (⇒ 上杉 謙信)

 

〇 なか  中岡 慎太郎

             (なかおか しんたろう)。 《人名》。

                    (1838〜1867年)。

          ○ 坂本竜馬の協力者。 

          ○ 陸援隊隊長(りくえんたい た

              いちょう)

          ○ 坂本龍馬と共に、近江屋

          (おうみや)で 、 暗殺される。

 

〇 なが  長尾 政景 

             (ながお まさかげ)。 《人名》。

          (1526〜1564)。

          ○ 上杉 景勝(かげかつ ) の父、

          ○ 上杉謙信の姉・仙桃院の夫。

           上杉謙信の姉婿。

 

〇 なが  長崎県。

             (ながさきけん)。 《現地域名》。

          (現都道府県)。 

                        NAGASAKI PREFECTURE.

                    (⇒ 対馬 国、壱岐 国、

         肥前 国)。

                      (⇒ 都道府県)。

                      (⇒ 前近代日本の地域名)。

                      (⇒ 旧国(= 令制国))。

                      (⇒ 旧地域名地域名)。

                      (⇒ 日本の地名)。

             ■ 長崎県 (ながさきけん)は、

          対馬 国 と 壱岐 国 と 肥前 国

          の相当地域である。

             ● 長崎県は、前近代日本の、

           @ 対馬 国 (つ しまのくに、対州

          (たいしゅう)、長崎県対馬島)、 と 

             A 壱岐 国 (いき のくに、壱州

             (いっしゅう)、長崎県壱岐島)、  と 

          B 肥前 国 (ひぜん のくに、肥州

          (ひしゅう、肥前国や肥後国))・西部、 

          長崎県本土)、

          の相当地域である。

 

〇 なが  長崎原爆投下。

             (ながさきげんばくとうか)。 《 事件》。

        (⇒ 原爆被害)。

             ■ 長崎原爆投下とは、 

                          第2次世界大戦(太平洋戦争)中の、

             1945年8月9日の、米軍機による

             長崎への原爆(原子爆弾)投下である。

 

〇 なが  長崎氏。

             (ながさきし)。 《氏族》。

             ○ 長崎氏は、鎌倉時代後

          期の内管領である。  

             ○ 管領の長崎氏は、

          鎌倉時代後期に、鎌倉幕府

          で、将軍、執権、得宗を動か

          す勢力をもつ。

             ○ 長崎氏は、

          鎌倉時代後期に、鎌倉幕府

             侍所の所司(次官)を歴任

          する

                     ○ 内管領とは、

           北条得宗家(鎌倉北条氏・

           本家)の執事、家令、家臣

           代表、御内人筆頭である。

             (⇒ 所司)。

           (⇒ 鎌倉将軍御家人)。

           (⇒ 北条氏得宗

           北条得宗家得宗専制

                  寄合内管領長崎氏

           御内人)。

          (⇒ 執権執権北条氏)。

              (⇒ 河内源氏鎌倉北条氏)。

              (⇒ 源氏政権北条政権

                   鎌倉幕府)。

          (⇒ 幕府将軍武家政権)。

          (⇒ 日本の政権・政府)。

             ■ 内管領。

             ■ 内管領  (ないかんれい、うち

              かんれい、うちのかんれい)とは、   

              北条得宗家 (ほうじょうとくそうけ、

              鎌倉北条氏・鎌倉幕府の執権北

              条氏の本家)の、執事(しつじ、家

                      政掌握者、家司(けいし))であり、 

             家令(かれい、家政機関の長官))

             であり、 家臣代表、御内人(みう

             ちびち、北条得宗家の家臣)の筆

             頭である。

             ■ 内管領の長崎氏。 

             ■ 長崎氏 (ながさきし)は、 

             鎌倉時代後期の内管領 (ないか

             んれい、うち(の)かんれい)であ

             る。

             ■ 管領の長崎氏は、 

             鎌倉時代後期に、鎌倉幕府で、

             将軍、執権 (しっけん、将軍補佐

             職)、北条氏得宗 (ほうじょしとく

             そう、鎌倉北条氏本家の当主)を

             も動かす勢力をもつ。

             ■ 長崎氏は、 

             平頼綱(たいらのよりつな)の一

             族であり、 1311年(応長元年)

             10月に、北条高時が数え年9歳

             の時に、父・北条氏得宗・北条

             貞氏(さだうじ)が死去して、貞氏

             の遺言で、高時が得宗(とくそう、

             鎌倉北条氏本家・当主)となり、

             長崎高綱(円喜(えんき))と安達

             時顕が高時の補佐役となる。

                その後、長崎高綱(円喜)は

             内管領となり(北条氏得宗・北条

             高時の執事となり)、 長崎高綱

             (円喜)、長崎高資父子は、2代

             で北条高時の内管領として、

             鎌倉幕府で権勢を振う。  

          ■ 最後の得宗・北条

          高時指導の鎌倉幕府。

              「太平記」では、

             得宗の北条高時は、政治を顧み 

             ず、闘犬(とうけん)や田楽(でん

             がく)などの遊びにふける暴君で

             あり、 その側近も無能で腐敗し、

             相次ぐ暴動を強権的な支配で

             抑え込んだため、 鎌倉幕府は、

             急速に権威・権力を失墜し、

             滅んだと大幅な脚色がされて

             いる。

             ■ しかし、史実では (「増鏡」、

             「保暦間記」、金沢文庫等の史料

             では)、 北条氏得宗(ほうじょう

             しとくそう、鎌倉北条氏本家当主)

             の北条高時は、病弱であり、 

             中々政治の場に出られず、

             高時を補佐する官僚集団は、

             北条高時の補佐に力点を置き、

             改革より安定・協調性を重視す

             る政策を打ち出し、社会の多くの

             人々を失望させ、 鎌倉幕府は、

             緩(ゆる)やかに権威、権力を衰

             退させていき、最後に滅んだと

             言える。

             ■ 内管領。

             ■ 内管領の権力。

             ● 鎌倉時代後期の得宗専制期

             に、内管領は、権勢を振う。

             ● 内管領は、 北条得宗家(ほう

             じょうとくそうけ、鎌倉北条氏本家)

             の執事として北条得宗家の財政・

             行政・司法権を掌握し、 鎌倉幕

             府の軍事・警察権を握る侍所所司 

             (さむらいどころしょし、侍所次官)

             を兼ね、 寄合衆 (よりあいしゅう、

             寄合 (得宗、得宗家の私的会議)

             の構成員)として、鎌倉幕府の政

             策決定に参加(関与)し、権勢を振

             う。

             ● 鎌倉時代末期には、内管領

             の長崎氏が、北条氏得宗・北条 

             高時(たかとき)の後見人として、

             幕政の実権を握り、 鎌倉幕府の

             幕政を主導する。

 

〇 なが  中沢 琴。

             (なかざわこと)。 《女剣士》。

              ■ 中沢琴 (なかざわこと、中澤

             琴、生年不詳ー1927年)は、 

             上野国・利根郡利根村(こうづけ

             のくに・とねぐん・とねむら、現・群

             馬県沼田市利根町)出身で、女剣

             士で、幕末、1863年(文久3年)

             に新徴組隊士となり、活躍する。

               中沢琴は、 幕末、江戸の治

             安を守る新徴組(しんちょうぐみ)

             で活躍した男装をした女剣士であ

             る。

                中沢琴は、旧幕府方で、明治

             時代初期の戊辰戦争でも各地で

             戦い、活躍し、生き残り、故郷に帰

             る。

             

〇 なが  長篠の戦い。

             (ながしののたたかい)。 《戦い》。

                (= 長篠・設楽が原の戦い)。

              ■ 長篠の戦い (ながしののたたか

             い、= 長篠・設楽が原の戦いは、

             1575年(天正3年)に、 長篠及び

             設楽が原(したらがはら)で、 織田

             信長や徳川家康の織田・徳川連合

             軍 と、 武田勝頼の武田軍 が戦っ

             た合戦である。 織田・徳川連合軍が

             勝利を得る。

             ● 長篠の戦い (= 長篠・設楽が原の

             戦い)は、 約3000丁の鉄砲が勝利を

             決定した戦いであり、 これ以後、軍事

             武器革命が起き、刀、槍、弓矢より鉄

             砲が戦いの中心となっていき、鉄砲の

             数が合戦の勝利を左右するようになる。

              ■ 近年の研究で、 設楽が原での織

             田・徳川鉄砲隊は、 三段撃ち交代連

             射ではなく、 位置固定自由撃ち連射

             で、馬防柵より、武田軍に向けて鉄砲

             を発射したと判明する。

              ■ 長篠の戦いは、 1575年(天正3

             年)の、武田勝頼の武田軍対織田信長

             や徳川家康の織田・徳川連合軍の戦い

             であり、 前半の武田勝頼の武田軍の、

             長篠城攻めと後半の設楽ヶ原(したら

             がはら)の戦いから成る。 約3万800

             0人の織田・徳川軍と約1万5000人

             の武田軍が戦った合戦である。

              ■ 武田勝頼は、  織田信長が大坂の

             本願寺攻めで東進できないと判断し、 

             徳川氏の三河の東部の守りの要(かな

             め)の長篠城を攻めたが、なかなか落

             ちなかった。 

                三河国主の徳川家康より連絡を受

             けた織田信長は、 大軍を長篠城に向

             けて出発させる。 そして、 勝頼の長

             篠城攻めの途中で、織田・徳川連合軍

             は、到着し、長篠城に近い設楽ヶ原(し

             たらがはら)に布陣する。 武田勝頼は、

             約3000人を長篠城攻めに残し、約1

             万2000人で設楽ヶ原で約3万8000

             人の織田・徳川軍と決戦を挑む。

                 しかし、武田軍は、織田・徳川軍

             の鉄砲や弓矢の応戦で、織田・徳川軍

             のつくった馬防柵を乗り越えられず、

             1日の戦いで数千人の武田軍の死者を

             出し、やむを得ず武田勝頼は、武田軍を

             撤退させる。

 

〇 なが  長束 正家。 

             (ながつか まさいえ)。 《人名》。

          ○ 豊臣政権の五奉行の一人。

              ■ 長束正家 (ながつか まさいえ) は、

             豊臣政権の五奉行の一人であった。

 

〇 なが  長門 国。 

             (ながと のくに)。 《旧地域名》。

             = 長州(ちょうしゅう))。 

          (≒ 現・山口県西部の相当地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国名(令制

           国)の正式名)。

                    (⇒ 長州)。

                    (⇒ 山口県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

          ■ 長門 国。

             <山陽道 (広域地方)。

             ■ 長門 国 (ながと のくに)は、 律令制

             定後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             旧国(令制国)の正式名である

             ■ 長州 (ちょうしゅう)は、 律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、旧国

             名(令制国)正式名の、長門 国 ( ながと

             のくに)の 別称である。

             ■ 長門 国(= 長州)は、 現・ 中国地方

             の、現在の山口県西部に相当する地域

             である。

             ■ 長門 国(= 長州)は、 五畿七道 (ご

             きしちどう)の山陽道(さんようどう)・旧広

                           域地方に属する。

 

〇 なか  中臣鎌足。

             (なかとみのかまたり)。 《人名》。 

          (= 藤原 鎌足)。

          (614年ー669年)。 

          ○ 藤原氏の祖。

          (⇒ 藤原 鎌足

 

〇 なか  中大兄皇子。

             (なかのおおえのみこ)。 《人名》。

          (後の天智(てんじ)天皇)。

          (生没年:626〜671年)。

          ○ 皇極(こうぎょく)天皇(女帝)の

           子。

          (⇒ 大化の改新

        天智天 皇)。

 

〇 なが  長野県。

             (ながのけん)。 《現地域名》。

          (現都道府県)。 

             (≒ 前近代の、信濃 国 

           (しなの の くに、信州(しんしゅう)

             の相当地域)。

                   NAGANO PREFECTURE.

                    (⇒ 信濃 国、信州)。

                      (⇒ 都道府県)。

                      (⇒ 前近代日本の地域名)。

                      (⇒ 旧国(= 令制国))。

                      (⇒ 旧地域名地域名)。

                      (⇒ 日本の地名)。

 

〇 なか  中野 竹子。

             (なかの たけこ)。 《女剣士》。

          (⇒ 会津戦争)。

              中野 竹子は、会津藩

          の美貌の女剣士、薙刀

          (なぎなた)の 名手である。

                            ■ 中野竹子 (なかの たけこ)は、

             江戸在勤会津藩士の娘で、江戸で

             生まれ育ち、教養のある容姿端麗

             な女剣士で薙刀(なぎなた)の 名手

             であった。

             ● 中野竹子は、 戊辰戦争が始

             まると、会津戦争前に、江戸から

             会津(あいづ)に駆けつけ、婦女子

             に、学問や薙刀を教える。

             ● 1868年(慶応4年)8月の会

             津戦争時、自主的に戦い、約20

             人の婦女隊の指導者となり、刀剣

             で勇猛果敢に戦い、1868年(慶

             応4年)8月25日に、薩長軍の銃

             弾を受け戦死する。

                その時、薩長軍は会津軍の

             婦女隊員を見て、初め生け捕りに

             する予定であったが、抵抗が激し

             く、やむなく発砲する。

                

〇 なが  長浜城。  

             (ながはまじょう)。 《城》。

                    (1574年頃ー1615年)。

                            ■ 長浜城は、豊臣秀吉の一番最

             初の居城である。

                長浜城は、豊臣秀吉が一番

             最初に築いて、居住した城である。

                            ■ 長浜城 (ながはまじょう、1574

             年頃ー1615年)は、近江国(おうみ

             のくに、滋賀県の相当地域)の長浜

             (今浜)の今浜城跡地に、羽柴秀吉

             ((はしばひでよし、= 豊臣秀吉)が

             築いた城である。

                            ■ 1573年(天正元年)に、羽柴秀

             吉(= 木下藤吉郎秀吉、豊臣秀吉)

             の浅井氏・朝倉氏攻めの功績により、

             秀吉は、織田信長より北近江(きた

             おうみ、湖北、現・滋賀県北部の相

             当地域)の10万石の領地と山城の

             小谷城(おだにじょう)の経営を織田

             信長より任される。

             ■ 1574年(天正2年)に、 秀吉

             は、北近江(湖北)の湖畔の平地の

             今浜に、今浜を長浜と改称し、新た

             に、平城(ひらじろ)の長浜城と城下

             町の建設を始める。

             ■ 1615年に、長浜城は、廃城と

             なる。

             ■ 長浜城の前身の今浜城(いまは

             まじょう)は、 室町時代前期に、足

             利尊氏の重臣で「バサラ大名」の

             佐々木(京極)道誉(ささき(きょうご

             く)どうよ)の出城 (でじろ、支城)と

             して、築城された。

 

〇 なか  中浜 万次郎。

             (なかはま まんじろう)。 《人名》。

          (= ジョン万次郎)。

          (⇒ ジョン万次郎)

                            ■ 中浜 万次郎(なかはま まんじろ

              う)とは、ジョン万 次郎である。

 

 なが  長秀。 

             (ながひで)。 《人名》。

           (= 羽柴長秀、豊臣秀長、

          木下小一郎)。

          (⇒ 豊臣秀長)。

          ○ 長秀とは、豊臣秀吉の

           弟である。

                            ■ 長秀 (ながひで、= 羽柴長秀、

              豊臣秀長、木下小一郎))とは、 

              豊臣秀吉の弟である。

 

〇 なが  長屋。

             (ながや)。 《建物》。

                            ■ 長屋(ながや)とは、 前近代日本の、

             木造集合住宅の、賃貸住宅である。

                前近代の長屋は、 現在のコンクリ

             ート長屋の賃貸マンションとは、異なる。

 

〇 なか  中屋敷。

             (なかやしき)。 《建物》。

             (= 藩(大名)の江戸での私邸)。 

             ○ 江戸時代の、藩(藩主)(大名)

          の、江戸での私邸、別邸、別宅。

          (⇒ 藩邸)。

                            ■ 中屋敷 (なかやしき)とは、 藩邸の

             1つで、 江戸時代の、各藩(藩主)(大

             名)の、江戸での私邸、別邸、別宅である。

                            ■ 江戸時代の、大名(藩)の江戸での邸

             宅である藩邸には、 公邸の上屋敷(かみ

             やしき)、私邸の中屋敷(なかやしき)、下

             屋敷(しもやしき)があった。

 

〇 なが  長良川の戦い。

             (なからがわのたたかい)。 《合戦》。

             ○ 長良川の戦いは、明智光秀の

          運命を変えてしまった戦いである。

          (⇒ 明智光秀斎藤道三)。

                            ■ 長良川の戦い (なからがわのたた

             かい)は、1556年に、美濃国の長良川

             付近で、斎藤義龍斎藤義龍(さいとうよし

             たつ)方と斎藤道三(どうさん)方とが戦

             った合戦である。 斎藤道三方が敗北し、

             斎藤道三は敗死する。

                明智光秀は、長良川の戦いで、斎

             藤道三方で戦い、敗れ、その後、放浪の

             生活をする。

 

 なぐ   名胡桃城事件。 

             (なぐるみじょうじけん)。 《事件》。

           ( 小田原合戦)。 

             ■ 名胡桃城事件 (なぐるみじょうじ

             けん)とは、1589年(天正17年)11

             月に起こった、小田原合戦(1590年

             (天正18年))の口実 となった事件で

             ある。

 

 なげ  投げ捨て寺。 

             (なげすてでら)。 《寺院》。

          ○ 投げ捨て寺は、前近代日

                     本の江戸時代に、江戸・吉原

          の近くにあったお寺である。

          ○ 投げ捨て寺は、前借金年

                季奉公中死去した、吉原遊郭

          の、遊女の死体の投げ捨て

          と場なったお寺である。

          (⇒ 吉原遊郭

             ■ 投げ捨て寺 (なげすてでら)は、 

             代前近日本の江戸時代に、 江戸・

             吉原(よしわら)の近くにあったお

             寺である。

             ● 投げ捨て寺は、 前借金年季奉

                公(まえしゃっきんねんきぼうこう)中

             死去した、江戸の吉原遊郭 (よしわ

             らゆうかく)の、遊女(ゆうじょ、売春

             婦)の死体の投げ捨て場 となったお

             寺である。

 

 なご   名護屋城。

             (なごやじょう)。 《城》。

          (= 肥前名護屋城 ひぜんなご

               やじょう)。

          (⇒ 肥前名護屋城)。

             ■ 名護屋城なごやじょう)は、豊臣

             秀吉が東アジア遠征(朝鮮の役)の

             ために、九州に築いた城で、肥前

             名護屋城 (ひぜんなごやじょう)で

             ある。

#nata

 

 なつ  なつ 。 

          (仮称・実名不詳)。 《人名》。

          (NHK大河ドラマ「江(ごう)

          姫たちの戦国」に登場する、

          秀忠の側室夫人「なつ」)。

          ○ 徳川秀忠の長男・長丸

          の生母。

              (⇒ 徳川秀忠お江)。

             ■ なつ (仮称・実名不詳)は、徳川秀

             忠の長男・長丸の生母である。

 

 なつ  長束正家

             (なつか まさいえ)。 《人名》。

          (生年不詳ー1600年)。

          ○ 長束正家は、安土桃山時

          代の武将、大名である。 

          ○ 長束正家は、豊臣政権の

          五奉行の一人である。

             ○ 長束正家は、 豊臣氏の家

          臣、豊臣秀吉の側近である。 

          ○ 長束正家は、慶長5年(16

           00年)の天下分け目の戦い

          (関ヶ原の戦い、その他の戦

          い)で西軍の奉行衆・毛利方

          (石田方)に属し、敗れて自害

          する。

               (⇒ 天下分け目の戦い)。

               (⇒ 五奉行五大 老

        豊臣氏五大老・五奉行

        内府ちがひの条々、

        豊臣政権豊臣氏)。

             ■ 長束正家 (なつか まさいえ、生年

             不詳ー1600年)は、安土桃山時代に

             活躍した武将・大名であり、 豊臣氏

             の家臣、豊臣秀吉の側近であり、「豊

             臣氏五奉行」の一人であった。

              ● 長束正家は、 1595年(文禄4年)

             に近江水口( おうみみなくち)城主とな

             る。

              ● 長束正家は、官位 は大蔵大輔(た

             いふ)であった。

             ● 長束正家は、 理財の才に長じ、

             兵糧(ひょうろう)の確保、輸送などに

             活躍した。  

             ● 長束正家は、  慶長5年(1600年)

             の天下分け目の戦い(関ヶ原の戦い、そ

             の他)では、西軍の奉行衆・毛利方(石

             田方)に属し(味方し)、敗れて自害する。

 

#nana

 

〇 なな  731部隊

             (ななさんいちぶたい)。   

          (= 関東軍防疫給水部)。

          (部隊名)。 《日中戦争》。

          ○ 731部隊は、日中戦争中、

          中国本土で活躍した、軍医主

          体の旧日本軍の生物・細菌兵

          器の開発部隊である。

          (⇒ 日中戦争)。

          (⇒ 昭和戦前期の旧日

                本軍実態ガイドブ ック)。

             ■ 731部隊 (ななさんいちぶたい)とは、

             正式名は関東軍防疫給水部(かんとうぐ

             んぼうえききゅうすいぶ)といい、在中国・

             旧日本軍の生物・細菌兵器開発の特殊

             部隊であり、 1936年から1945年まで

             満州(= 中国東北部)にあり、 日中戦争

             中、中国本土で活躍した、軍医主体の旧

             日本軍の生物・細菌兵器開発の特殊部隊

                          である。

             ■ 在中国・旧日本軍は、 日中戦争中、 

             中国本土で、 細菌兵器の実戦使用の細

             菌戦では、 空中戦で飛行機より(731部

             隊開発の)細菌爆弾を中国中部で落とし

             たり、 地上戦で(731部隊開発の)容器

             (水筒等)詰め細菌を取り出し中国の集落

             に散布する。

             ■ 生物・細菌兵器開発の人体実験(実

             験材料)用人間(主に中国人 、満州人)を、

             旧日本軍の関東軍・憲兵隊は、 特移扱 

             (とくいあつかい)と呼び、 匪賊(ひぞく、

             日本の中国占領に抵抗する人々)として

             裁判なしで逮捕した人々の中から選別し、

             731部隊に連行し 、人体実験で使用する。

 

〇 なな  7世紀。

             (ななせいき)。 《世紀》。

          (= 601年〜700年)。

                 (⇒ 世紀世紀・ 西暦

        年号対照一覧表)。

             ■ 7世紀 (ななせいき)とは、西暦

             601年から700年までである。

 

〇 なな  七。

             (ななつ)。  《時刻》。

            (⇒ 前近代日本の時刻・

        時法

             ■ 七つ(ななつ)とは、 前近代日本

             (室町時代後期〜江戸時代)の「日の

             出や日没を基準とする不定時法」の、

             時鐘数表示時刻の主要時間区分で

             ある。

             ■ 別名 : 七つ、 七ツ。

             ■ 午前4時00分 夜間・午前4時頃 

              ≒ (暁) 七つ、七ツ。 

              ≒ 寅の刻(とらのこく)の正刻 (正寅(しょういん))。

             ■ 午後4時00分 昼間・午後4時頃

              ≒ (昼) 七つ、七ツ。

              ≒ 申の刻(さるのこく)の正刻 (正申(しょうしん))。

             ○ 七つ(七ツ) ≒

             (暁)七つ ≒ 夜間・午前4時00分〜午前5時00分。

             (昼)七つ ≒ 昼間・午後4時00分〜午後5時00分。

             ○ 七つ半(七ツ半) ≒  

             (暁)七つ半 ≒ 夜間・午前5時00分〜午前6時00分。

             (昼)七つ半 ≒ 昼間・午後5時00分〜午後6時00分。

 

〇  なべ  鍋島 栄子

             (なべしま ながこ)。 《人名》。

                           ○ 鍋島 栄子は、鍋島直

          の夫人である。

             ○ 鍋島 栄子は、明治期

          のトップレディーの1人で

          ある。

                           ○ 鍋島 栄子は、「鹿鳴

          館の華(はな)」の一人 で

          ある。

             (⇒ 鹿鳴館華族)。

             ■ 鍋島栄子 (なべしまながこ、

             1855年−1941年)は、 鍋島

             直大(なべしまなおひろ)の夫人

             (1881年結婚)である。 

                鍋島直大は、イタリア公使

             (1880年〜1882年)を務め、 

             鍋島栄子は、イタリア公使夫人

             (1881年結婚〜1882年)とし

             てイタリアで約2年を過ごし、

             「ヨーロッパの社交界」で活躍し、

             1882年(明治15年)に帰国す

             る。 

                その後、鍋島栄子は、鹿鳴

             館(1883年(明治16年)〜18

             87年(明治20年))でも活躍す

             る。

                鹿鳴館で鍋島栄子は、特別

              にあつらえたバッスルドレスを

              まとい、素晴らしいダンスを踊

              った。

             ■ 鹿鳴館。

             ● 鹿鳴館  (ろくめいかん、18

             83年(明治16年)ー1887年(明

             治20年))は、 日本初の迎賓館

             (げいひんかん)であり、 外務卿・

             井上馨(いのうえかおる)の進(す

             す)める欧米との不平等条約改正

             のなどの目的で、条約改正の第一

             歩として社交を通じて欧米各国の

             政府高官との信頼関係を築こう

             と設立され、 国賓(こくひん)や

             外交官などの外国客を招待、接

             待するための社交場であり、 

              遊会や舞踏会などが頻繁に開か

             れ、 バッスルスタイルの煌(きら)

             びやかなドレスをまとう、華族(か

             ぞく、1869 年ー1947年)や政

             府高官などの上流夫人が、活躍

             した。

             ■ 「鹿鳴館の華」。

                優雅なダンスと美貌で、洗練

             されたマナーと振る舞いで、「鹿鳴

             館の華」 (ろくめいかんのはな)

             と称(たた)えられた女性には、

             (a) 井上 武子 (いのうえ たけ

             こ、井上 馨(かおる)夫人、

             1850年−1920年)、

             (b)  大山 捨松 (おおやま すて

             まつ、大山 巌(いわお)夫人

             1860年ー1919年)、  

             (c) 戸田 極子 (とだ きわこ、

             戸田 氏共(うじたか)夫人、

             1858年−1936年)、 

             (d) 陸奥 亮子 (むつ りょうこ、

             陸奥 宗光(むねみつ)夫人、

             1856年ー1900年)、 

             (e) 鍋島 栄子 (なべしま なが

             こ、鍋島 直大(なおひろ)夫人、

             1855年−1941年) 

             などがいる。

 

〇  なら   奈良。

              (なら)。 《首都》。

             (⇒ 首都平城京)。

             (⇒ 古都都城)。

             ■ 奈良 (なら)は、

             日本の首都が置かれた場所の1つ

             である。

             ■ 奈良には、日本の首都として、

             朝廷が、 平城京 (へいじょうきょう、

             現・奈良県奈良市付近、710年ー

             740年、745年ー784年) を置く。

             ■ 遷都後、都城・京が、平城京

             から長岡京へ移動後、奈良は、

             南都(なんと)と呼ばれる。

 

〇  なら   楢崎 龍

             (ならさき りょう)。 《人名》。

          (= お龍(おりょう))。

          (1841年?ー1906年)。

                     ○ 坂本龍馬の夫人。

             ■ 楢崎 龍 (ならさき りょう、= お龍

                              (おりょう)、1841年?ー1906年

              は、坂本龍馬の夫人である。

 

〇  なら   楢崎龍 関連出来事

        (年代順・詳細) 

             (ならさきりょう かんれんできごと

                           (ねんだいじゅん・しょうさい))。

             《人物関連出来事》。

 

〇 なら   奈良県。

             (ならけん)。 《現地域名》。

          (現都道府県)。

          (現・47都道府県の1つ)。

                    NARA PREFECTURE.

                    (⇒ 大和 国、和州)。

                    (⇒ 前近代日本の

         地域名)。

                    (⇒ 旧地域名)。

             ■ 奈良県(ならけん)は、前近

          代日本の、大和 国 (やまとの

          くに、和州( わうしゅう)の相当

          地域である。

 

〇 なら   奈良時代 

             (ならじだい)。

                     (= 710年ー794年)。

           《日本歴史の時代区分》。 

              THE NARA PERIOD

           <古代日本。

           古代日本) 。

             (⇒ 日本歴史の時代区分)。

           平城京長岡京)。

             ■ 奈良時代 (ならじだい)とは、

             710年(和銅3年 )から794年(延

             13年)までの期間 である。

             ■ 奈良時代は、 古代日本 (= 古

             墳時代、飛鳥・白鳳時代、奈良時代、

             平安時代 ;紀元(後)3世紀頃ー11

             92年頃) の一時期である。

 

〇 なら   奈良時代・日本政治

        実権者変遷一覧表 

             (ならじだい・にほんせいじじっけ

             んしゃへんせんいちらんひょう)。

             《政治実権者推移一覧表》。

 

〇 なら   奈良の大仏

             (ならのだいぶつ)。 《 大仏》。

             (= 東大寺大仏) 。

                     (⇒ 東大寺大仏)。

 

〇 なり  得子。

             (なりこ)。 《人名》。

                    (= 藤原得子(ふじわらのとくし・

          なりこ)、美福門院 びふくもんい

          美福門院 得子)。

          ○ 鳥羽上皇の正室夫人(女御)。

          ○ 近(このえ)天皇(体仁親王

                     りひとしんのう)の生母。

          (⇒ 藤原得子)。

             ■ 得子 (なりこ)とは、 藤原得子(ふじわ

             らのとくし・なりこ)、美福門院 びふくもんい

             ん、美福門院 得子である。

             ■ 得子は、 鳥羽上皇の正室夫人(女御)

             であり、 衛(このえ)天皇(体仁親王 (な

                     りひとしんのう))の生母である。

 

〇 なり  体仁親王。 

            (なりひとしんのう)。 《天皇》。

                         (= 近衛(このえ)天皇)。 

               (生没年:1139年〜1155年)。

               ○ 天皇在位:1141年〜1155年。

               ○ 鳥羽上皇(天皇) と 藤原

            得子(ふじわらの とくし・なりこ、

            福門院ふびくもんいん) との間

                       の皇子(みこ)

             ■ 体仁親王 (なりひとしんのう、生

             没年:1139年〜1155年)は、 近衛

             (このえ)天皇(天皇在位:1141年〜

                            1155年)となる。

             ● 体仁親王は、 鳥羽上皇(天皇) と 

             藤原得子(ふじわらの とくし・なりこ、美

             福門院(ふびくもんいん))との間の皇子

                            (みこ) である。

 

〇 なる  徳仁天皇 

             (なるひとてんのう)。 《人名》。

          (= 今上天皇 (きんじょうてんのう、

           現在の天皇の意))。 

          (天皇在位:2019年−現在)。

          (生年・1960年−現在)。

           NARUHITO  EMPEROR

                           (:THE EMPEROR 

           NARUHITO).

          (⇒ 明仁天皇(あきひとてんのう))。

             ■ 徳仁 天皇 (なるひと てんのう、

             天皇在位:2019年−現在、生年・

             1960年−現在) は、 今上天皇 

                            (きんじょうてんのう、現在の天皇の意) 

             である。

#nan

 

〇 なん  南海道 

             (なんかいどう)。 《旧地域名》。

          (= 南海道・広域地方)。

          (= 五畿七道の1つ)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の、

           旧地方名の正式名)。

             NANKAIDO REGION.

                   (⇒ 五畿七道)。

         (⇒ 前近代日本の地域名)。

         (⇒ 旧地域名)。

         (⇒ 日本の地名)。

          ■ 南海道・旧広域地方。

            <五畿七道 (ごきしちどう)。

             (≒ 日本本土 (本州、四国、九州))。

            <旧・大地域名。

            <旧地域名。

            <地域名。

            <日本の地名

          ■ 南海道・旧広域地方。

           = 前近代日本の、@ 紀伊 国 

          ( 三重県南部、和歌山県)、 A 

                     淡路 国 (兵庫県淡路島)、 

          B 讃岐 国 (香川県)、 C 阿

          波 国 (徳島県)、 D 土佐 国

          (高知県)、 E 伊予 国 (愛媛

          県) の地域 。

          ■ 南海道・旧広域地方。

           = 前近代日本の、@ 紀伊 国 

          (きい のくに、現在の、三重県南部、

                     和歌山県の相当領域)、 A 淡 

                     路 国(あわじ のくに、現・兵庫県淡

                     路島の相当領域)、 B 讃岐

          国 (さぬき のくに、現・香川県の相

                     当領域)、 C 阿波 国 (あわ の

          くに、現・徳島県の相当領域)、 

                     D 土佐 国 (とさ のくに、現・高知

                     県の相当領域)、 E 伊予 国

          いよ のくに、現・愛媛県の相当

          領域) の地域。

 

〇 なん  南紀派。

             (なんきは)。  《幕末の政治派閥》。

          (= 紀州派)。

         (⇒ 紀州派)。

 

〇 なん  南紀派(紀州派)と一橋派

            との対立 。 

            (なんきは(きしゅうは)とひとつばしはとのた

             いりつ)。  《幕末の政治派閥》。

          (1853〜1860年頃)。

       (⇒ 幕末日本政治・政争

        変遷一覧表)。

 

〇 なん  南京事件。

             (なんきんじけん)。 《日中戦争》。

          (= 南京大虐殺)。

          (⇒ 日中戦争)。

 

〇 なん   南宮山

             (なんぐうさん)。 《地名》。

           ○ 南宮山は、

          「史実(新説)・伝説(従来

          説)の関ヶ原の戦い」で、 

                     西軍の毛利秀元が毛利

          勢の軍を率いて、本陣(陣

                     地)を置いた場所である。

          (⇒ 関ヶ原の戦い

           決戦)。

          (⇒ 関ヶ原の戦い)。

          (⇒ 新説(史実)

             関ヶ原の戦い

           大垣・山中の戦い

         大垣の戦い山中の戦い)。

                (⇒ 慶長5年の

                 下分け目の戦い)。

           □ 「史実(新説)

            関ヶ原の戦い

            (= 大垣・山中の戦い)」  

            画像アルバム No.2

           □ 「伝説(従来説)

            関ヶ原の戦い」

            画像アルバム  No.3 

          (⇒ 徳川家康福島正則

             池田輝政)。

          (⇒ 毛利秀元)。

          (⇒ 石田三成宇喜多秀家)。

          (⇒ 大谷吉継小早川秀秋)。

          (⇒ 美濃赤坂大垣城

                           南宮山)。

          (⇒ 山中城山玉城

              松尾山藤下の自害峯)。

          (⇒ 関ヶ原盆地桃配山

                           陣場野笹尾山)。

 

              ■ 南宮山 (なんぐうさん)は、 

              関ヶ原盆地の東方向にあり、 

              「史実(新説)・伝説(従来説)

               の関ヶ原の戦い」で、

              西軍の毛利秀元が

              1600年(慶長5年)9月上旬

              より9月15日まで、

              東軍(徳川方)と戦うため、

              西軍の毛利勢の軍を率いて、

              本陣(陣地)を置いた場所である。

 

              ◆ 「史実(新説)・伝説(従来説)

               の関ヶ原の戦い」の決戦での、

               関ヶ原の戦いの決戦の当日の

                大垣エリアの東軍(徳川方)

               先手勢の池田組勢の動き

 

                 ■ 「史実(新説)関ヶ原の戦い

               (= 大垣・山中の戦い)」の

               山中村の関ヶ原の戦いの

               決戦の当日の

                大垣エリアの東軍(徳川方)

               先手勢の池田組勢の動き

              ● 東軍(徳川方)の先手勢の

               池田組勢は、

              @ 東軍(徳川方)の先手勢の

               池田組勢は、

              1600年(慶長5年)9月

              15日早朝に、

              大垣エリアの美濃赤坂(み

              のあかさか)付近 (関ヶ原

              盆地の東方)を出発

              (1600年(慶長5年)

               9月15日早朝)⇒

              ○ 徳川家康は、

              1600年(慶長5年)9月

              15日早朝に、大垣エリアの

              美濃赤坂付近で、東軍

              (徳川方)を3つに分ける。

              ○ 東軍(徳川方)

               家康と徳川本隊は、

               関ヶ原盆地南西部 と

               山中村 (やまなかむら、

               関ヶ原盆地の西方・約2km)

               に向かう。

              ○ 東軍(徳川方)

               先手勢の池田組勢は、

               大垣エリアの南宮山(なんぐ

               うさん、関ヶ原盆地の東方)

               の前面に向かう。

              ○ 東軍(徳川方)

               先手勢の福島組勢は、

               山中村 (やまなかむら、

               関ヶ原盆地の西方・約2km)

               に向かう。

              A 9月15日の早朝から午後

               まで、 

               大垣エリアの南宮山 (なん

               ぐうさん、関ヶ原盆地の東方)

               の山麓で、

               西軍(奉行衆・毛利方)の南宮

               山布陣の毛利秀元の毛利勢

               の前面に、

               東軍(徳 川方)先手勢の

               池田組勢が、布陣し、

               毛利勢は、動けず、山中村の

               関ヶ原の戦いの決戦(午前10

               時〜正午頃)の援軍に行けな

               かった。

               (9月15日の早朝〜午後)⇒

              B 9月15日の午前10時頃

               から正午頃まで、

               山中村 (やまなかむら、

               関ヶ原盆地の西方・約2km)

               で、 東軍(徳川方)の主力軍

                西軍 (奉行衆・毛利方)の

               主力軍が、交戦(決戦を行う)

               (9月15日の午前10時頃

               〜正午頃)⇒

              C 9月15日正午頃に、

               山中村で、西軍(奉行衆・毛利

               方)の主力軍が総崩れ、敗走、

               敗戦し、東軍(徳川方)の 主力

               軍西軍(奉行衆・毛利 方)の

               主力軍に対し決戦で勝利を得

               る

               (9月15日正午頃)。

              D 9月15日午後に、

               西軍(奉行衆・毛利方)の南

               宮山布陣の毛利秀元の毛利

               勢は、

               山中村での西軍(奉行衆・毛

               利方)の主力軍の決戦での

               敗戦を知り、

               東軍(徳川方)と戦わず、

               戦場を離脱し、畿内に向かう。

               (9月15日午後)。

 

              ■ 伝説(従来説の関ヶ原

               の戦い」の

               関ヶ原盆地の関ヶ原の戦いの

               決戦の当日の

               大垣エリアの東軍(徳川方)

               先手勢の池田組勢の動き

              ● 東軍(徳川方)の先手勢の

               池田組勢は、

              @ 東軍(徳川方)の先手勢の

               池田組勢は、

              1600年(慶長5年)9月15日

              早朝に、

              大垣エリアの美濃赤坂(みの

              あかさか)付近 (関ヶ原盆地

              の東方)を出発

              (1600年(慶長5年)

               9月15日早朝)⇒

               ○ 徳川家康は、 

               1600年(慶長5年)9月15日

               早朝に、大垣エリアの美濃赤

               坂付近で、東軍(徳川方)を

               2つに分ける。

               ○ 東軍(徳川方)

               家康と徳川本隊と先手勢の

               福島組勢は、

               関ヶ原盆地の東側に

               に向かう。

               ○ 東軍(徳川方)

               先手勢の池田組勢は、

               大垣エリアの南宮山(なんぐ

               うさん、関ヶ原盆地の東方)

               の山麓に向かう。

              A 9月15日の早朝から午後

               2時頃まで、

               大垣エリアの南宮山 (なん

               ぐうさん、関ヶ原盆地の東方)

               の山麓で、西軍(石田方)の

               南宮山布陣の毛利秀元の毛

               利勢の前面の南宮山山麓に、

               東軍(徳川方)先手勢の

               池田組勢が、広く展開し布陣し、

               更に、南宮山山麓に徳川方

               内通者の吉川広家が布陣し、

               毛利勢本隊を通さず(下山さ

               せず)、毛利勢本隊は、動けず、

               関ヶ原盆地の関ヶ原の戦いの

               決戦(9月15日午前8時〜午

               後2時頃)の援軍に行けなかっ

               た。

               (9月15日の早朝〜午後

                2時頃)⇒

              B 9月15日午前8時頃から

               午後2時頃まで、

               関ヶ原盆地で、東軍(徳川方)

               の主力軍と 西軍(石田方)

               主力軍が交戦(決戦を行う)

               (9月15日午前8時頃〜

                午後2時頃)⇒ 

              C 9月15日午後2時頃に、

               関ヶ原盆地で、西軍(石田方)

               の主力軍が総崩れ、敗走、

               敗戦し、東軍(徳川方)の 主力

               軍西軍(石田方)の主力軍

               に対し決戦で勝利を得る

               (9月15日午後2時頃)。

              D 9月15日午後に、

               西軍(石田方)の南宮山 布

               陣の毛利秀元の毛利勢は、

               関ヶ原盆地での西軍(石田方)

               の主力軍の決戦の敗戦を知り、

               東軍(徳川方)と戦わず、戦場

               を離脱し、畿内に向かう。

               (9月15日午後)。

 

〇 なん  南渓瑞聞。

             (なんけいずいもん)。 《人名》。

             (生年不詳ー1589年)。

              NANKEIZUIMON.

          ○ 井伊直虎の大叔父。

            (⇒ 井伊氏井伊直虎)。

             ■ 南渓瑞聞 (なんけいずいもん、生年不

             詳ー1589年) は、 井伊直平(なおひら)

             の子(養子説あり)であり井伊直虎(次郎法

             師)の大叔父であり、 龍潭寺の住職(じゅ

             うしょく)であった。 

             ■ 龍潭寺(りょうたんじ)は、 遠江国 (とお

             とうみのくに)の井 伊谷(いいのや)(現・静

             岡県浜松市井伊谷)にあり、 室町時代後

             期(戦国時代)、安土桃山時代に井伊谷に

             本拠を置く井伊氏の菩提寺(ぼだいじ)であ

             った。

              ■ 南渓瑞聞は、 『 おんな城主 直虎 (お

             んなじょうしゅ なおとら) 』  (NHKテレビ・

             2017年大河ドラマ) では、「南渓和尚(なん

             けいおしょう)」という名(仮称)で登場する。

 

〇 なん  南洲(公、翁) 。

             (なんしゅう)。 《人名》。

          (= 西郷隆盛)。

            (⇒ 西郷 隆盛)。 

 

〇 なん   南総里見八犬伝。

              (なんそうさとみはっけんでん)。

           《物語》。

             (⇒ 里見氏)。 

                           ■ 南総里見八犬伝  (なんそう

              さとみはっけんでん)は、

              江戸時代に 著作されたフクション

                             の物語である。

 

 

〇 なん  南朝。

              (なんちょう)。 《朝廷》。 

             (= 吉野を本拠地とした、大覚寺

          統の後醍醐天皇系統の天皇家

          の朝廷)。

              ■ 南朝 (なんちょう)とは、 吉野を本拠

             地とした、大覚寺統の後醍醐天皇系統の

             天皇家の朝廷である。

              ■ 1336年〜1392年の間、朝廷は、大

             覚寺統の天皇家の南朝 と 持明院統の

             天皇家の北朝 に分裂し、対立した。

          (⇒ 皇統の分立南北朝

        時代

 

〇 なん  南方モンゴロイド 

             (なんぽうもんごろいど)。 《人類》。

                         (= 古モンゴロイド、

            縄文系の人類)。

          (人類学上の分類・特徴)。

          (⇒ 古モンゴロイド

          (古人類学辞典))。

          (⇒ モンゴロイド

             (古人類学辞典))。

           (⇒ 日本人)。 

          (⇒ 日本人ルーツ・

            ガイドブック)。

             ■ 南方モンゴロイド (なんぽうもんごろい

             ど)は、 人類学上の分類・特徴では、 古モ

             ンゴロイド、縄文系の人類である。

              ● 南方モンゴロイドは、 約4万年前、アジ

             ア東部地域の 南方部(東南アジア・東アジ

             ア)で、 現生人類の、容姿・外見(体色・体

             型)が変化し、出現した人 類である。

              ● 南方モンゴロイドは、 現生人類(= 新人、

                        ホモ・サピエンス種)の人種分類グループの

             モンゴロイド (古モンゴロイドと新モンゴ ロ

             イドの2種)の1つである。

              ● 南方モンゴロイドは、 日本の、「旧石器

             時代人」、「縄 文人」、「縄文系(在来系)弥生

             人」、 「縄文系(在来系)古代日本人」などの、

             「縄文系」の人々である。

 

〇 なん  南北朝時代 

             (なんぼくちょうじだい) 。

             《日本歴史の時代区分》。

                    (= 1336年ー1392年)。

                    (≒ ほぼ室町時代前期)。

             THE NORTH AND SOUTH 

          DYNASTIES PERIOD 

             THE PERIOD OF NORTH AND 

             SOUTH DYNASTIES.

             THE NANBOKUCHO PERIOD.

           <中世日本。

          ( 室町時代) ( 中世日本) 。

          (⇒ 日本歴史の時代区分)。

             ■ 南北朝時代 (なんぼくちょうじだい) 

             は、1336年から1392年までの期間である。

             ● 南北朝時代は、 中世日本 (= 鎌倉時

             代・建武時代・室町時代、1192年ー1573

             年) の一時期 である。 

             ● 南北朝時代は、 ほぼ、室町時代前期

             (1338年ー1392年) である。

             ● 南北朝時代とは、 朝廷の天皇家が、

             南朝と北朝に分かれ、対立した時代である。

              ● 1336年から1392年まで、朝廷は、大

             覚寺統(だいかくじとう)の天皇家の南朝 

             と、 持明院統(じみょういんとう)の天皇家

             の北朝 に分裂して、対立した。

 

〇 なん  南北朝競合二重年号

                          (なんぼくちょうきょうごうにじゅうねんごう)。

          (⇒ 和暦の二重年号存立

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

             ○ 建武時代・室町時代前期。

              ○ 1336年 ー1392年

             ■ 南北朝競合二重年号 (なんぼくちょ

                           うきょうごうにじゅうねんごう)とは、 建武

             時代や室町時代前期の、1336年〜13

             92年の間の、南朝 (大覚寺統、後醍醐

             天皇系統)方の暦年号  と、 北朝 (持明

             院統、光厳(こうごん)・光明 (こうみょう)天

             皇系統)方の暦年号 の競合する二重の

             暦年号である

              ● 南朝 (大覚寺統、後醍醐天皇系統) 方

             の暦年号。

                建武(けんむ)⇒ 延元(えんげん)⇒ 

              興国(こうこく)⇒ 正平(しょうへい)⇒ 

              建徳(けんとく)⇒ 文中(ぶんちゅう)⇒ 

              天授(てんじゅ)⇒ 弘和(こうわ)⇒ 

              中(げんちゅう)⇒ 暦年号編成中止

              ● 北朝 (持明院統、光厳(こうごん)・光明

              (こうみょう)天皇系統)方の暦年号。

                建武(けんむ)⇒ 暦応(りゃくおう)⇒ 

              康永(こうえい)⇒ 貞和(じょうわ)⇒ 観応

              (かんのう)⇒ 文和(ぶんな)⇒ 延文(え

              んぶん)⇒ 康安(こうあん)⇒ 貞治(じょう

              じ)⇒ 応安(おうあん)⇒ 永和(えいわ)⇒ 

              康暦(こうりゃく)⇒ 永徳(えいとく)⇒ 至

              徳(しとく)⇒ 嘉慶(かきょう)⇒ 康応(こう

              おう)⇒ 明徳(めいとく)。

 

 

 

   ● 五十音順 (あいうえお順)。

 

 

   ■  『 現在は、過去の成果であり、

       未来は、現在の成果である。 

         (良き現在は、過去の人々の良き努力

          や活動の積み重ねの成果であり、 

          明るい良き未来は、現在の人々の、

          良き努力や活動の積み重ねによって

          形成される。)

 

 

■ 上位のWEBサイト。 

 □ (KOH) カナヤマ オフィシャル   >

          ホームページ

 □ (Cse)  国際理解総合サイト     >

          われら地球市民。 

 □ (Ke)   百科事典。           >

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#jpdictionary(general)

 

◆ 日本史辞典

 

● 見出し語はグリーンでマークされています

 

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#na

 

◆ 派生見出し語サイト。

■ 「お」 基本・見出し語WEBサイト No. ja−na の、 

   派生見出し語サイト 。

 

 

■ No. ja−na−0530。

● 見出し語項目 な   ( お 05 / え 30 

  付近  第1部・お・総合グループ  )。

〇 なお  直江 兼続  

                    (なおえ かねつぐ)(総合)

                    (上杉景勝の近臣、重臣)

       (1560〜1619年)

              (= 直江 重光、 樋口 兼続、

                    樋口 与六) (越後・上田衆

            の一人)(直江実綱(景綱)

                          の娘の、お船 おせんの2番目

                    の夫)。 

〇 なお  直江 兼続 詳細年表 

                          (なおえかねつぐ しょうさいねんぴょう)

〇 なお  直江 兼続 (直江 兼続

               ガイドブック (要覧)

 

 

■ No. ja−na−0533。

● 見出し語項目 な   ( お 05え 33 

   付近  第1部・お・総合グループ  )。

〇 なお  直江 実綱 (なおえ さねつな)

                    (=直江景 綱 かげつな、直江

            政綱)(直江兼続の正室・お

                    おせん の父、 上杉謙信

                    の重臣)。 

〇 なお  直江 信綱 (なおえ のぶつな)

                    (直江実綱(景綱)の娘婿)

             (直江実綱(景綱)の娘の

                     お船 おせんの最初の夫)。 

 

 

■ No. ja−na−4105。

● 見出し語項目 な  共通 ( ら 41 / 共通 05

  付近  第1部・ら・共通グループ  )。

〇 なら   奈良時代 (ならじだい)

          (710〜794年) 

〇 なら   奈良時代 ・ 日本政治

        実権者変遷一覧表 

             (ならじだいにほんせいじじっけんしゃ

                             へんせんいちらんひ ょう)。

             

 

■ No. ja−na−4130。

● 見出し語項目 な   ( ら 41 / さ 30

  付近  第1部・ら・サ行総合グループ  )。 

〇  なら   楢崎 龍 (ならさき りょう)

          (= お龍(おりょう))。

          (坂本 龍馬の妻)。

 

 

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#mt.nangu-san

 

◆ 南宮山。 

     (なんぐうさん)。  

 

■ 南宮山。

■ 名称 : 南宮山 (なんぐうさん)。

■ 南宮山は、

  関ヶ原盆地の東方向にあり、 

  美濃国(みののくに、現・岐阜県南部)の

  大垣エリアにある低山である。

■ 南宮山は、

  「史実(新説)・伝説(従来説)の関ヶ原の

  戦い」で、西軍の毛利秀元が、 毛利勢の

  軍を率いて、本陣(陣地)を置いた場所

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 41635。

 

 

 ■ 南宮山。 

 

  ■ 南宮山 (なんぐうさん)は、 

    関ヶ原盆地の東方向にあり、 

    「史実(新説)・伝説(従来説)

     の関ヶ原の戦い」で、

    西軍の毛利秀元が

    1600年(慶長5年)9月上旬

    より9月15日まで、

    東軍(徳川方)と戦うため、

    西軍の毛利勢の軍を率いて、

    本陣(陣地)を置いた場所である。

 

 

 ■ 南宮山と大垣の戦い。 

 

             ■ 「新説の関ヶ原の戦い(= 大垣・

             山中の戦い)」では、 大垣の戦い(1600

             年(慶長5年)8月26日ー9月15日)で、

             第1段階として、大垣城の攻防戦で、16

             00年(慶 長5年)8月26日から 9月13日

              まで、東軍の徳川方先手勢の 福島勢・

             約1万9000人の兵と池田勢・約2万

             1000人の兵の豊臣恩顧大名の軍・計約 

             4万人 の兵は、美濃 赤坂(みのあかさか)

             付近に布陣し、 西軍の奉行衆・毛利方

             の拠点の大垣城(おおがきじょう)の大垣

             城籠城衆(駐留軍) ・約3万3500人の兵

             を攻め、大垣城の攻防 戦を行うが、大垣

             城は落城せず。 

                一方、1600年(慶長5年)9月7日

             に、南宮山 (なんぐうさん)に、西軍の

             奉行衆・毛利方大垣城後 詰軍の毛利

             勢・約1万5000 人の兵が布陣する。

                第2段階として、西軍の奉行衆・

             毛利方大垣城後詰軍の毛利勢 ・約1

             万500 0人の兵を降参させ大垣城を孤

             立させるため、1600年(慶 長5年)9月

             14日に、東方から来た東軍 の徳川方の

             徳川家康は、徳川本隊・約3万2000

             人の兵(井伊直政・本多忠勝・家康馬廻

             り衆等の軍)と共に、美濃赤 坂(みのあ

             かさか)に布陣し、 14日の昼間に、

             軍の徳川方の、徳川家康の徳川本隊

             3万2000人の兵、徳川方先手勢の 福

             島勢・約1万9000人の兵、池田勢・約

             2万1000人の兵の計約7万2000人

             の兵は、 南宮山の西軍の奉行衆・毛利

             方大垣城後詰軍・約1万 5000人の兵

             の毛利勢と対峙し、南宮山布陣の西軍

             の奉行衆・毛利方の毛利勢は、 野戦に

             強い東軍の徳川方の計約7万2000人

             の兵の大軍に恐れをなし戦わず。 

                大垣城の西軍は、9月15日以後

             に予想される東軍の大軍の総攻撃で

             南宮山の西軍の毛利勢が敗れ大垣城

             が孤立するのを恐れて、9月14日の夜

             に、西軍主力軍・約 2万人の兵は、大

             垣城に約3500人の兵を残し、大垣城

             を出て、関ヶ原盆地・山中方面に向う。 

             一方、9月14日の夜に、徳川本隊や

             徳川方先手勢の福島勢の東軍主力軍・

             約4万人の兵は、東軍の池田勢

             約2万1000人の兵を大垣付近に残し、

             西軍主力軍を追って、大垣付近より去

             り関ヶ原盆地・山中方面に向う。

                その後、第3段階として、9月15日

             午前中、南宮山布陣の西軍の毛利勢・

             約1万5000人の兵は、南宮山の前面に

             いる東軍の徳川方 残留の先手勢の池田

             勢・約2万1000人の兵と対峙し、動け

             ず、山中(やまなか)にいる西軍主力軍

             の援軍に駆けつけられず、15日正午頃

             の山中(やまなか)の戦いでの西軍の奉

             行衆・毛利方の敗北を知り、 その後、

             南宮山の西軍 の毛利勢は戦場を離脱

             し、西方に向い、大垣付近でも、東軍 の

             徳川方は勝利を得た。

 

             ■ 一方、 「従来説(通説)の関ヶ原の

             戦い」では、 1600年(慶長5年)9月15

             日の関ヶ原の戦い(午前8時頃〜午後2

             時頃)で、西軍 の毛利秀元は、 毛利勢

             の軍を動かさず、合戦を静観していたと

             される。

               西軍の毛利秀元は、 南宮山(なんぐ

             うさん)東側に布陣し、 徳川家康は、

             宮山(なんぐうさん)の西方に布陣し、即

             ち、16 00年(慶長5年)9月15日の朝 

             から午前10時頃まで、南宮山(なんぐう

             さん)の西方にある桃配山(ももくばりや

             ま、家康最初陣地)に布陣し、 9月15日

             に、西軍の毛利秀元と東軍の徳川家康は、

             戦わなかった。 

 

 

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#thecabinetsofthejapanesegovernment

 

■ 内閣 

     (ないかく)。  

 

■ 内閣。

■ 名称 : 内閣 (ないかく)。

■ 日本の政府は、 1885年(明治18年)

  12月に、内閣制度を実施し、それ以後、

  現在に到っている。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 22126。

 

 

◆ 日本(近現代日本政府)の

   内閣一覧表。

 

 ● 近現代日本の全内閣記載、

   1885年(明治18年)から現在まで、 

   初代・伊藤博文首相から第101代・

   岸田文雄首相まで 。

  

  ■ 1885年12月〜1888年 4月

       第1次伊藤博文(いとうひろぶみ)内閣。

 

  ■ 1888年 4月〜1889年10月   

       黒田清隆(くろだきよたか)内閣。

 

  ■ 1889年12月〜1891年 5月   

       第1次山県有朋(やまがたありとも)内閣。

 

  ■ 1891年 5月〜1892年 8月   

       第1次松方正義(まつかたまさよし)内閣。

 

  ■ 1892年 8月〜1896年 

       第2次伊藤博文(いとうひろぶみ)内閣。

 

  ■ 1896年 月〜1898年 1月   

       第2次松方正義(まつかたまさよし)内閣。

 

  ■ 1898年 1月〜1898年 6月

       第3次伊藤博文(いとうひろぶみ)内閣。

 

  ■ 1898年 6月〜1898年11月

       第1次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣。

 

  ■ 1898年11月〜1900年10月   

       第2次山県有朋(やまがたありとも)内閣。

 

  ■ 1900年10月〜1901年 

       第4次伊藤博文(いとうひろぶみ)内閣。

 

  ■ 1901年 月〜1906年 1月

       第1次桂太郎(かつらたろう)内閣。

 

  ■ 1906年 1月〜1908年 7月   

       前期・第1次西園寺公望(さいおんじ

       きんもち)内閣。

 

  ■ 1908年 7月〜1911年 8月

       第2次桂太郎(かつらたろう)内閣。

 

  ■ 1911年 8月〜1912年12月   

       後期・第2次西園寺公望(さいおんじ

       きんもち)内閣。

 

  ■ 1912年12月〜1913年 2月

       第3次桂太郎(かつらたろう)内閣。

 

  ■ 1913年 2月〜1914年 4月

       第1次山本権兵衛(やまもとごんべえ)

       内閣。

 

  ■ 1914年 4月〜1916年10月

       第2次大隈重信(おおくましげのぶ)

       内閣。

 

  ■ 1916年10月〜1918年 9月

       寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣。

 

  ■ 1918年 9月〜1921年11月

       原敬(はらたかし)内閣。

 

  ■ 1921年11月〜1922年 6月

       高橋是清(たかはしこれきよ)内閣。

 

  ■ 1922年 6月〜1923年 

       加藤友三郎(かとうともざぶろう)内閣。

 

  ■ 1923年 月〜1924年 1月

       第2次山本権兵衛(やまもとごんべえ)

       内閣。

 

  ■ 1924年 1月〜1924年 6月

       清浦奎吾(きようらけいご)内閣。

 

  ■ 1924年 6月〜1926年 1月

       第1・2次加藤高明(かとうたかあき)

       内閣。

 

  ■ 1926年 1月〜1927年 4月

       第1次若槻礼次郎(わかつきれいじろう)

       内閣。

 

  ■ 1927年 4月〜1929年 7月

       田中義一(たなかぎいち)内閣。

 

  ■ 1929年 7月〜1931年 4月

       浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣。

 

  ■ 1931年 4月〜1931年12月

       第2次若槻礼次郎(わかつきれいじろう)

       内閣。

 

  ■ 1931年12月〜1932年 5月

       犬養毅(いぬかいつよし)内閣。

 

  ■ 1932年 5月〜1934年 7月

       斎藤実(さいとうまこと)内閣。

 

  ■ 1934年 7月〜1936年 3月

       岡田啓介(おかだけいすけ)内閣。

 

  ■ 1936年 3月〜1937年 

       広田弘毅(ひろたこうき)内閣。

 

  ■ 1937年 月〜1937年 

       林銑十郎(はやしせんじゅうろう)内閣。

 

  ■ 1937年 月〜1939年 1月

       第1次近衛文麿(このえふみまろ)内閣。

 

  ■ 1939年 1月〜1939年 

       平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)内閣。

 

  ■ 1939年 月〜1940年 1月

       阿部信行(あべのぶゆき)内閣。

 

  ■ 1940年 1月〜1940年 7月

       米内光正(よないみつまさ)内閣。

 

  ■ 1940年 7月〜1941年10月

       第2・3次近衛文麿(このえふみまろ)

       内閣。

 

  ■ 1941年10月〜1944年 7月

       東条英機(とうじょうひでき)内閣。

 

  ■ 1944年 7月〜1945年 4月

       小磯国昭(こいそくにあき)内閣。

 

  ■ 1945年 4月〜1945年 8月

       鈴木貫太郎(すずきかんたろう)内閣。

 

  ■ 1945年 8月〜1945年10月   

       東久邇宮 稔彦王(ひがしくにのみや

       なるひこおう)内閣。

 

  ■ 1945年10月〜1946年 5月   

       幣原 喜重郎(しではら きじゅうろう)

       内閣。

 

  ■ 1946年 5月〜1947年 5月   

       第1次吉田 茂(よしだ しげる)

       内閣。

 

  ■ 1947年 5月〜1948年 3月   

       片山 哲(かたやま てつ)内閣。

 

  ■ 1948年 3月〜1948年10月   

       芦田 均(あしだ ひとし)内閣。

 

  ■ 1948年10月〜1954年12月   

       第2〜5次吉田 茂(よしだ しげる)

       内閣。

 

  ■ 1954年12月〜1956年12月   

       第1〜3次鳩山 一郎(はとやま いち

       ろう)内閣。

 

  ■ 1956年12月〜1957年 2月   

       石橋 湛山(いしばし たんざん)内閣。

 

  ■ 1957年 2月〜1960年 7月   

       岸 信介(きし のぶすけ)内閣。

 

  ■ 1960年 7月〜1964年11月   

       第1〜3次池田 勇人(いけだ はやと)

       内閣。

 

  ■ 1964年11月〜1972年 7月   

       第1〜3次佐藤栄作(さとうえいさく)

       内閣。

 

  ■ 1972年 7月〜1974年12月   

       第1・2次田中角栄(たなか かくえい)

       内閣。

 

  ■ 1974年12月〜1976年12月   

       三木 武夫(みき たけお)内閣。

 

  ■ 1976年12月〜1978年12月   

       福田 赳夫(ふくだ たけお)内閣。

 

  ■ 1978年12月〜1980年 6月   

       第1・2次大平 正芳(おおひら まさよ

       し)内閣。

 

  ■ 1980年 7月〜1982年11月   

       鈴木 善幸(すずき ぜんこう)内閣。

 

  ■ 1982年11月〜1987年11月   

       第1〜3次中曽根 康弘(なかそね や

       すひろ)内閣。

 

  ■ 1987年11月〜1989年 6月   

       竹下 登(たけした のぼる)内閣。

 

  ■ 1989年 6月〜1989年 8月   

       宇野 宗佑(うの そうすけ)内閣。

 

  ■ 1989年 8月〜1991年11月   

       海部 俊樹(かいふ としき)内閣。

 

  ■ 1991年11月〜1993年 8月   

       宮沢 喜一(みやざわ きいち)内閣。

 

  ■ 1993年 8月〜1994年 4月   

       細川 護熙(ほそかわ もりひろ)内閣。

 

  ■ 1994年 4月〜1994年 6月   

       羽田 孜(はた つとむ)内閣。

 

  ■ 1994年 6月〜1996年 1月   

       村山 富市(むらやま とみいち)内閣。

 

  ■ 1996年 1月〜1998年 7月   

       第1・2次橋本 龍太郎(はしもと りゅ

       たろう)内閣。

 

  ■ 1998年 7月〜2000年 4月   

       小渕 恵三(おぶち けいぞう)内閣。

 

  ■ 2000年 4月〜2001年 4月   

       第1・2次森 喜朗(もり よしろう)内閣。

 

  ■ 2001年 4月〜2006年 9月   

       第1〜3次小泉 純一郎(こいずみ

       じゅんいちろう)内閣。

 

  ■ 2006年 9月〜2007年 9月   

       第1次・安倍 晋三(あべ しんぞう)内閣。

 

  ■ 2007年 9月〜2008年 9月   

       福田 康夫(ふくだ やすお)内閣。

 

  ■ 2008年 9月〜2009年 9月   

       麻生太郎(あそう たろう)内閣。

 

  ■ 2009年 9月〜2010年 6月   

       鳩山 由紀夫(はとやま ゆきお)内閣。

 

  ■ 2010年 6月〜2011年 9月   

       菅 直人(かん なおと) 内閣。

 

  ■ 2011年 9月〜2012年12月

       野田 佳彦(のだ よしひこ) 内閣 

       (2011.9.2首相(内閣総理大臣)

       就任)。

 

  ■ 2012年12月〜2020年9月             

       第2〜4次・安倍 晋三(あべ しんぞう)

       内閣 

       (2012.12.26首相(内閣総理

       大臣)就任)。

 

  ■ 2020年9月〜2021年10月

       菅 義偉(すが よしひで)内閣。 

       (2020.9.16首相(内閣総理

       大臣)就任)。

 

  ■ 2021年10月〜

       岸田 文雄(きしだ ふみお)内閣。 

       (2021.10.4首相(内閣総理

       大臣)就任)。

       第1次岸田内閣 

       (2021.10.4発足)。

       第2次岸田内閣 

       (2021.11.10発足)。

 

 

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#emperornaruhito

 

■ 徳仁天皇 

     (なるひとてんのう)。

    (= 今上天皇、現在の天皇)。

 

■ 徳仁天皇。

■ 名称 : 徳仁天皇 (なるひとてんのう)。 

● 徳仁天皇の天皇在位前の名は、

    徳仁親王 (なるひとしんのう)である。

● 徳仁天皇の諱 (いみな、個人名の実名)は、

   徳仁(なるひと)である。 

● 徳仁天皇の御称号 (ごしょうごう、幼少時

   の皇族の名称) は、

   浩宮(ひろのみや)である。

■ 英語名 : EMPEROR NARUHITO.

       THE NARUHITO EMPEROR.

■ 徳仁天皇の在位:

   2019年(令和元年)〜現在。

■ 徳仁天皇の生年:

   1960年(昭和35年)〜現在。 

■ 徳仁天皇は、

     今上天皇 (きんじょうてんのう、現在の天

     皇の意)である。 

■ 徳仁天皇の父は、 

   明仁上皇 (明仁(あきひと) 天皇 (天皇

   在位:1989年〜2019年)) である。

■ 徳仁天皇の母は、 

   美智子上皇后 (みちこじょうこうごう)であ

   り、 旧名は、 正田 美智子(しょうだ みち

     こ)である。

■ 徳仁天皇の皇后(妻)は、 

   皇后 雅子(こうごう まさこ)であり、旧名は、

     小和田 雅子 (おわだ まさこ)である。

■ 当項目は、日本の宮内庁のホームページ

   を参考にして、作成しています。 

   敬称は、省略させていただきます。

■ 皇族の名称は、宮内庁の皇族の名称に準

   拠している。

 

 

 □ 日本の現皇室 画像アルバム 

    No.1

 

 

 ■ 徳仁天皇。

 

   ■ 「天皇陛下」 (てんのうへいか)、徳仁天皇

     (なるひとてんのう))は、 

      天皇在位前の名は、徳仁親王 (なるひとし

     んのう)である。

 

   ● 徳仁天皇の、諱(いみな、個人名の実名)は、

     徳仁(なるひと)である。 

 

   ● 徳仁天皇の、御称号(ごしょうごう、幼少時

     の皇族の名称)は、 浩宮(ひろのみや)で

     ある。

 

   ■ 徳仁天皇は、 今上天皇 (きんじょうてん

     のう、現在の天皇の意、英:THE 

     PRESENT EMPEROR, THE 

     REIGNING EMPEROR) である。 

 

   ● 徳仁天皇の在位は、

     2019年(令和元年)5月1日から現在までで

     ある。

 

   ● 徳仁天皇の生年は、

     1960年(昭和35年2月23日)〜現在である。 

 

 

 ■ 徳仁天皇。

 

   ■ 徳仁天皇の父は、 

    「上皇陛下」 (じょうこうへいか)、

    明仁上皇(明仁(あきひと)天皇)であり、

    明仁天皇の在位は、1989年(平成元年)

    〜2019年(平成31年)であり、

    生年は、1933年(昭和8年)〜現在である。

 

   ■ 徳仁天皇の母は、 

    「上皇后陛下」(じょうこうごうへいか)、

    美智子上皇后(みちこじょうこうごう)であり、

    旧名は、正田美智子(しょうだ みちこ)であ

    る。

  

   ■ 徳仁天皇の皇后(妻)は、 

    「皇后陛下 雅子」 (こうごうへいか まさこ)、

    雅子皇后であり、 

    旧名は小和田 雅子(おわだ まさこ))である。

 

   ■ 徳仁天皇の、第一皇女(長女)は、 

     「愛子内親王殿下」 (あいこないしんのうで

     んか)、愛子内親王 (あいこないしんのう)

     である。

 

   ■ 皇族には、一族名の「氏(うじ)」がない。  

   ● 皇室では、「氏(うじ)」 は、

    天皇が臣下に与える名称であるという伝統が

    あるため。

 

 

◆ 徳仁天皇の御家族。

 

 ■ 徳仁天皇の父母、祖父母。

 

   ■ 徳仁天皇の父は、 

     「上皇陛下」 (じょうこうへいか)、

     明仁上皇 (あきひとじょうこう、明仁天皇

     (天皇在位:1989年ー2019年)) であり、

     生年は、1933年(昭和8年)〜現在である。

 

   ■ 徳仁天皇の母は、 

     「上皇后陛下」 (じょうこうごうへいか)、

     美智子上皇后 (みちこじょうこうごう)であり 、

     生年は、1934年(昭和9年)〜現在であり、 

     旧名は、 正田 美智子 (しょうだ みちこ)で

     ある。

 

   ■ 徳仁天皇の祖父は、

     裕仁 天皇 (ひろひと てんのう、昭和天皇)

     であり、

     生没年は、1901年〜1989年である。

 

   ■ 徳仁天皇の祖母は、 

     香淳 皇后 (こうじゅんこうごう)であり、

     生没年は、1903年〜2000年であり、 

     前名は、良子女王(ながこじょおう)である。

  

 

 ■ 徳仁 天皇の妻子。

 

   ■ 徳仁 天皇の皇后(妻)は、 

     「皇后陛下 雅子」 (こ うごうへいか まさこ)

     であり、

     旧名は、 小和田雅子 (おわだ まさこ)であり、

     生年は、1963年(昭和38年)〜現在である。

 

   ■ 徳仁天皇 と 雅子皇后  との間の皇子・皇

     女には、一女がいる。 

 

   ● 徳仁 天皇の、第一皇女(長女)は、 

     「愛子内親 王殿下」 (あいこないしんのうで

     んか)、愛子内親王 (あいこないしんのう)、

     敬宮 (としのみや)であり、

     生年は、2001年(平成13年)〜現在である。 

 

 

 ■ 徳仁 天皇の兄弟姉妹やその夫妻子。

 

   ■ 徳仁天皇の弟は、 

     「秋篠宮皇嗣殿下」 (あきしののみやこうし

     でんか)、 秋篠宮 文仁親王 (あきしののみ

      やふみひとしんのう)であり、

     生年は、1965年(昭和40年)〜現在であり、 

     別名は、文仁親王 (ふみひとしんのう)、礼宮

     (あやのみや)である。 

 

   ● 徳仁天皇の弟・秋篠宮 文仁親王の妃(きさ 

     き、妻)は、

     「秋篠宮皇嗣妃殿下」 (あきしののみやこうし

     ひでんか)、文仁親王妃 紀子 (ふみひとしん

     のうひ きこ)であり、

     生年は、1966年(昭和41年)〜現在)であり、

     旧名は、川嶋紀子(かわしま きこ)である。

  

   ● 徳仁 天皇の弟・秋篠宮 文仁親王の子の、

     第一男子(長男)は、 

     「悠仁親王殿下」 (ひさひとしんのうでんか)、

     悠仁親王(ひさひと しんのう)であり、

     生年は、2006年(平成18年)〜現在であり、 

     第一女子(長女)は、 

     小室 眞子 (こむろ まこ、夫・小室 圭(こむろ

     けい)、2021年10月26日入籍により、前名

     は 「眞子内親王殿下」 (まこないしんのうで

     んか)、眞子 内親王(まこないしんのう)) で

     あり、 生年は、1991年(平成3年)〜現在で

     あり、  

     第二女子(次女)は、

     「佳子内親王殿下」 (かこ ないしんのうでん

     か)、佳子 内親王(かこ ないしんのう)であり、

     生年は、1994年(平成6年)〜現在である。

 

   ■ 徳仁天皇の妹は、

     黒田 清子 (くろだ さやこ)であり、

     生年は、1969年(昭和44年)〜現在であり、 

     前名は、  「清子内親王殿下」 (さやこないし

     んのうでんか)、清子内親王  (さやこないしん

     のう)、 紀宮 (のりのみや) である。

 

   ● 徳仁天皇の妹の夫は、 

     黒田 慶樹 (くろだ よしき)であり、

     生年は、1965年(昭和40年)〜現在である。

 

 

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#nagaokakyocapital

 

■ 長岡京 

     (ながおかきょう)

 

■ 長岡京。

■ 名称 : 長岡京 (ながおかきょう)。

■ 英語名 : 

   Nagaokakyo Capital.

■ 《京》。

■ 存在期間 : 784年から794年までの間、

            奈良時代後期。

■ 存在場所 : 京都府向日(むこう)市、

  長岡京(ながおかきょう)市・京都市南部付近。

■ 長岡京とは、京都府向日(むこう)市付近の、

  天皇の住居(= 内裏)、天皇の宮殿(= 宮城)

  があった都市である。

■ 京 (きょう、皇居の場所)の移動。

  飛鳥京⇒ 藤原京⇒ 平城京(奈良の都)⇒

  長岡京⇒ 平安京(京都、京の都)⇒ 東京。

▲ 京(きょう)に関しては、「」、「宮城、「内裏

     を 参照してください。

▲ 時代状況に関しては、『奈良時代後期』を

   照してください。

▲ 京(きょう)の移動に関しては、 「飛鳥京」、

  藤原京」、平城京」 (奈良の都)、「長岡京」、 

     平安京」 (京の都、京都)を参照して ください。

▲ 宮城 (きゅうじょう、= 天皇の宮殿)に関して

  は、 「宮城、 内 裏(だいり)」、 「大極殿

  (だいごくでん)」、 「朝 堂 院(ちょうどういん)」

  曹司(ぞうし)」 などを参照してください。

▲ 内裏 (だいり、= 天皇の住居)に関しては、

   「内 裏を参照してください。

▲ 天皇に関しては、天皇」、「天皇家」、「朝廷 

  を参照してください。

▲ 日本の主要なの京(きょう、= 都城)の画像

  アルバムに関しては、

 □ 平安京 画像アルバム No.1

 □ 長岡京 画像アルバム No.1

 □ 平城京 画像アルバム No.1

 □ 藤原京 画像アルバム No.1

 □ 飛鳥京 画像アルバム No.1

 を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 21514。 

 

 □ 長岡京 画像アルバム No.1

 

 

◆ 長岡京。

■ 長岡京 (ながおかきょう)は、 長岡宮 (ながお

  かきゅう)の都市である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

             

■ 長岡京 (ながおかきょう)は、 784年から794

  年までの間、奈良時代後期に、京都府向日(むこ

  う)市、長岡京(ながおかきょう)市・京都市南部付

  近の、天皇の住居(= 内裏)、天皇の宮殿(= 宮城)

  があった都市である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 長岡京 (ながおかきょう、都:784年ー794年)、

   は、 京都府向日(むこう)市・長岡京市・京都市

   南部付近にあり、 長岡京の中心地の長岡宮(な

   がおかきゅう)は、 向日市(むこうし)にある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 京の移動。

  飛鳥京⇒ 藤原京⇒ 平城京(奈良の都)⇒

  長岡京⇒ 平安京(京都、京の都)⇒ 東京。

 

■ 平城京(= 奈良の都)⇒ 長岡京 ⇒平安京(京

  都、京の都)。

■ 784年に、桓武(かんむ)天皇は、平城京から、 

  長岡京 (ながおかきょう、都:784年ー794年、

  京都府向日(む こう)市・長岡京市・京都市南部

   付近) に遷都し、 西暦794年に、桓武(かん

  む)天皇は、長岡京から、平安京794年ー18

  69年、京都府京都市付近、別名:京都、京の都

  (きょうのみやこ)) に遷 都する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 長岡宮。

■ 長岡宮 (ながおかきゅう)は、 長岡京の宮城(き

  ゅうじょう、= 天皇の宮殿)である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。             

 

■ 長岡宮 (ながおかきゅう)は、 784年から794

  年までの間、奈良時代後期に、京都府向日(むこ

  う)市付近にあった、宮城(= 天皇の宮殿)である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 京、宮城、内裏。

■ 京 (きょう)とは、 皇居のある土地であり、 天

  皇が住む都市であり、 朝廷の所在地であり、 

  天皇の住居(= 内裏(だいり))、天皇の宮殿(= 宮

  城(きゅうじょう))がある都市をいう。

 

■ 京 (きょう)とは、 天皇の宮殿(= 宮(きゅう))

  を中心とする都市である。

 

■ 宮城 (きゅうじょう、= 宮(きゅう))とは、 天皇

  の宮殿をいう。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 内裏 (だいり)とは、 前近代日本の、天皇の

  住居、居所、天皇御所をいう。

 

 

■ 天皇の宮殿は、日本の歴史では、 宮城(きゅうじ

  ょう)都宮 (ときゅう)、大内裏(だいだいり)) 

  などと 呼ばれた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。            

 

■ 宮城 (きゅうじょう、= 天皇の宮殿)は、 古代日

  本の時代において、藤原宮、平城宮、長岡宮、平

  安宮では、 内裏 (だいり、=天皇の住居、天皇御

  所)、 大極殿 (だいごくでん、国家儀式等を行う 

  建物)、 朝堂院 (ちょうどういん、国家政務等を

  行う建物)、 曹司(ぞうし、官人が実務をとる中央

  官庁) などから構成されていた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

         

 

■ 古代日本中期から近世日本までの、日本の主要

  な、宮城 ( きゅうじょう、= 天皇の宮殿)を中心と

  する都市 と その変遷は、  

   (1) 飛鳥京 (あすかきょう、奈良県明日香

      村付近、6世紀頃 から694年まで)、 

   (2) 藤原京 (ふじわらきょう、奈良県橿原

      市付近、694年ー710年)、 

   (3) 平城京 (へいじょうきょう、奈良県奈

      良市付近、710年ー740年・745年

      ー784年)、 

   (4) 長岡京 (ながおかきょう、京都府向日

      市・長岡京市・京都市南部付近、784年

      ー794年)、

   (5) 平安京 (へいあんきょう、京都府京都

      市付近、794年ー1869年、別名:京都、

      京の都(きょうのみやこ)) 

   の順序で、概(おおむ)ね、移動した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 日本の主要な宮城 ( きゅうじょう、= 天皇の宮

  殿) と その変遷は、

   (1) 飛鳥宮 (あすかきゅう、飛鳥京の諸宮、

     飛鳥地域の諸宮城の総称、奈良県明日香

     (あすか)村付近)、

   (2) 藤原宮 (ふじわらきゅう、奈良県橿原

     市付近)、

   (3) 平城宮 (へいじょうきゅう、奈良県奈

     良市付近)、 

   (4) 長岡宮 (ながおかきゅう、京都府向日

     市付近)、 

   (5) 平安宮 (へいあんきゅう、京都府京都

     市付近) 

   の順序で、概(おおむ)ね、移動した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 日本の主要な宮城( きゅうじょう、= 天皇の宮殿)には、

  (1) 飛鳥宮 (あすかきゅう、飛鳥京の諸宮、飛鳥地

  域の諸宮城の総称、奈良県明日香(あすか)村付近、

  6世紀頃ー694年)、 

 

  (2) 藤原宮(ふじわらきゅう、藤原京の宮城、奈良県

   橿原市(かしはらし)付近、

   694年ー710年)、 

 

  (3) 平城宮 (へいじょうきゅう、平城京の宮城、奈良

   県奈良市(ならし)付近、

   710年ー740年・745年ー784年)、 

 

  (4) 長岡宮 (ながおかきゅう、長岡京の宮城、京都

   府向日市(むこうし)付近、

   784年ー794年)、 

 

  (5) 平安宮 (へいあんきゅう、= 平安京の宮城)、

   京都府京都市付近、本来の平安宮は平安時代末

   期まで、京都府京都市上京区(かみぎょうく)付近、

   794年ー1177年頃)、

   などがある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 長岡京が登場する興味深い、ド

    キュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 長岡京が登場する興味深い、ドキ

   ュメタンリー。

 

 

★ 長岡京が登場する興味深い、ドラ

     マ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

   実) と 架空の出来事が 混じって描かれ

   ています。 また、 現代風にアレンジしてあ

     ります。

 

 

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#the731unit

 

■ 731部隊 

     (ななさんいちぶたい)。

 

■ 731部隊。

■ 名称 : 731部隊 (ななさんいちぶたい)。

■ 正式名 : 関東軍防疫給水部

          (かんとうぐんぼうえききゅうすいぶ)。

■ (部隊名)。 《日中戦争》。  

■ 1936年から1945年まで満州(= 中国東北部)

   にあった。

■ 日中戦争中、中国本土で活躍した、軍医主体の

   旧日本軍の生物・細菌兵器の開発部隊。

 

□ 731部隊が登場する興味深い、

   ドキュメンタリー、ドラマ、映画

 

 

■ 731部隊 (ななさんいちぶたい)とは、正式名

  は関東軍防疫給水部(かんとうぐんぼうえききゅ

  うすいぶ)であり、 在中国・旧日本軍の生物・

  細菌兵器開発の特殊部隊であり、 1936年(昭

  和11年)から1945年(昭和20年)まで満州(=

  中国東北部)にあり、 日中戦争中、中国本土で

  活躍した、軍医主体の旧日本軍の生物・細菌兵

  器開発の特殊部隊である。

 

■ 在中国・旧日本軍の細菌戦。

    在中国・旧日本軍は、日中戦争中、中国本土

  で、 細菌兵器の実戦使用の細菌戦では、空中

  戦で飛行機より(731部隊開発の)細菌爆弾を

  中国中部に落としたり、 地上戦で(731部隊開

  発の)容器(水筒等)詰め細菌を取り出し中国の

  集落に散布する。

  

■ 731部隊の人体実験。

    731部隊により、生物・細菌兵器開発で実験

     材料(= マルタ)として殺害された人体実験の犠

  牲者は、中国人、満州人等約3000人と言われ

  ている。

      生物・細菌兵器開発の人体実験(実験材

  料)用人間(主に中国人、満州人)を、旧日本軍

  の関東軍・憲兵隊は、 特移扱 (とくいあつか

  い)と呼び、 匪賊(ひぞく、日本の中国占領に抵

  抗する人々)として裁判なしで逮捕した人々の中

  から選別し、731部隊に連行した。

 

● 特移扱 (とくいあつかい)とは、 日中戦争中、

  中国本土で活躍した旧日本軍・731部隊 (なな

  さんいちぶたい、生物・細菌兵器の開発部隊)で

  の、生物・細菌兵器開発の人体実験(実験材料)

  用人間(主に中国人、満州人)であり、 旧日本

  軍の関東軍・憲兵隊が、 匪賊(ひぞく、中国の

  日本占領に抵抗する人々)として裁判なしで逮捕

  した人々の中から選別し、731部隊に連行した。

            

 

#the731unit-appearingscenes

 

♪♪ 731部隊が登場する興味深い、

    ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

 731部隊が登場する興味深い、ド

   キュメンタリー。

 

■ 『 731部隊 

   前編 人体実験はこうして拡大した

   後編 隊員たちの素顔 』。 

    (NHKテレビ・2018年1月21日・

    本放送・ドキュメンタリー番組)。

● 731部隊 (ななさんいちぶたい、在中国・

   旧日本軍の生物・細菌兵器開発の特殊部

     隊)を詳細に述べる。

 

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#natsukamasaie

 

■ 長束 正家 

     (なつか まさいえ)。

 

■ 長束 正家。

■ 名称 : 長束 正家 (なつか まさいえ)。

■ 生没年 : 生年不詳ー1600年。

■ 安土桃山時代の武将、大名。 

■ 豊臣政権五奉行の一人。

■ 豊臣氏の家臣、豊臣秀吉の側近。 

■ 1600年(慶長5年)の天下分け目の戦い関ヶ原の

     戦い、その他の戦い)で石田方西軍に属し(味方し)、

   敗れて自害する。

■ 当日本史辞典の 『 五奉行奉行、豊臣氏五大老・

  五奉行五大老(ごたいろう)豊臣政権豊臣氏 』

  も参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11034。

          

 

■ 長束正家 (なつか まさいえ、生年不詳ー1600年)

  は、安土桃山時代に活躍した武将・大名であり、

  豊臣氏の家臣、豊臣秀吉の側近であり、「豊臣氏

  奉行」の一人であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 長束正家は、 1595年(文禄4年)に 近江水口(み

  なくち)城主となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 長束正家は、官位・大蔵大輔(たいふ) とも称した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 長束正家は、 理財の才に長じ、兵糧 (ひょうろう)の

  確保、輸送などに活躍した。  

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

             

■ 長束正家は、 1600年(慶長5年)の天下分け目の

     戦い関ヶ原の戦い、その他の戦い)では、石田方西

  軍に属し(味方し)、敗れて自害する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 豊臣氏五大老・五奉行 (とよとみしごた いろう・ごぶ

  ぎょう、1598年−1600年)は 、 豊臣秀吉によって、

  豊臣秀吉死去直前の、1598年(慶長3年)に成立し、 

  豊臣氏を支える政治機構として形成され、豊臣政権

  公儀制を維持しようとした。 五大老五奉行の10人

  で、豊臣氏を代表して、国政全般を担当すべきものと

  された。

     豊臣氏五大老・五奉行は、 徳川家康(とくがわい

  えやす)、 前田利家(まえだと しいえ)(後、前田利長)、  

  毛利輝元(もうりてるもと)宇喜多秀家(うきたひでい  

  え)、上杉景勝(うえすぎかげかつ) の 5人の五大老  

  と、 石田三成(いしだみつなり)、増田長盛(ましたな

  がもり)、浅野長 政(あさのながまさ)、長束正家(なつ

  かまさいえ)、前田玄以(まえだげんい)の5人の五奉行 

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 長束 正家が登場する興味 深い、

    ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 長束 正家が登場する、興味深い関

   連ドラマ、映画。 

 ● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

   実) と 架空の出来事が混じって描かれて

   います。 また、現代風にアレンジしてありま

   す。

   

■ 『 真田丸 (さなだまる) 』 。  

   (NHKテレビ・2016年大河ドラマ)。

 ■ 日本の安土桃山時代や江戸

  時代初期の時代を描く。

 ■ 五大老、五奉行を描く。

 

■ 『 軍師 官兵衛 』。 

   (NHKテレビ・2014年大河ドラマ)。 

 ■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山

  時代、江戸時代初期を描いたドラマ。

 ■ 五大老、五奉行を描く。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』。

      (NHKテレビ・2011年大河ドラマ) 

 ■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、

  安土桃山時代、江戸時代初期を描い

  たドラマ。

 ■ 五大老、五奉行を描く。

 

■ 『 天地人 (てんちじん) 』 。 

   (NHKテレビ・2009年大河ドラマ) 。

 室町時代後期(戦国時代)、安土

  桃山時代、江戸時代初期を描いた

  ドラマ。

 五大老、五奉行を描く。

 

   

  ○ ドラマ「天地人」の書籍販促PRフォト。

 

■ 『 茶々 天涯の貴妃 (ちゃちゃ

     てんがいのおんな) 』。 

    (日本の2007年制作・東映映画)。 

■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土

  桃山時代、江戸時代初期を描いたドラマ。

 五大老、五奉行を描く。

 豊臣大阪城の炎上のシーンが出てくる。

 大坂夏の陣で、真田幸村が戦うシーンが、

  登場します。

● 真田幸村(信繁)を演じた俳優名 : 

   黄川田将也。

 

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#naoesanetsunaswife

 

■ 直江実綱(景綱)の夫人 

     (なおえさねつな(かげつな)のふじん)。

 

■ 直江実綱(景綱)の夫人。

■ 名称 : 直江実綱(景綱)の夫人

  (なおえさねつな(かげつな)のふじん、実名不詳)。

● 前近代の日本の人名の「女性の氏名」を参照。

■ 生没年 : 不詳 (16世紀頃)。

■ 直江実綱(景綱)・正室夫人。

■ 越後国(えちごのくに、現・新潟県の相当地域)

  の長尾・上杉氏家老の直江実綱(景綱) (なお

  え・さねつな(かげつな)) の正室夫人。

■ お船 (おせん、直江兼続 (なおえかねつぐ)

  の正室夫人) の生母。

 上杉謙信の侍女 (伝説上の人物、お船の姉、 

   お悠 (おゆう、仮称)) の生母。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 直江実綱(景綱)の夫人の、夫は、 長尾・上杉氏

  家老の直江実綱(景綱)(なおえ・さねつな・かげつ

  な) であり、 上杉謙信の重臣 であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 直江実綱(景綱)の夫人 (なおえさねつな(かげ

  つな)のふじん、実名不詳、生没年不詳(16世紀

  頃)) は、 越後国(えちごのくに、現・新潟県の

  相当地域) の長尾・上杉氏家老の直江実綱(景

  綱) (なおえ・さねつな(かげつな)) の正室夫人

  である。

 

■ 前近代日本の史料では、女性の実名が記載される

  ことは少なく、女性の実名が不明なことが多い。

  (例) 書物(史料)では、「直江実綱(景  綱)室」

  (直江実綱(景綱)の夫人)と記されている。

      また、ドラマ、映画、小説などでは、名がない

   と不便なので、女性の仮称が 使われることが多し。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 直江実綱(景綱)の夫人は、 NHK大河ドラマ「天

  地人」での名称は、 お万(おまん、仮称)で、落飾

  後、妙椿尼(みょうちんに、仮称)である。

 

■ 直江実綱(景綱)の夫人は、 お船 (おせん、直

  江兼続(なおえかねつぐ)・正室夫人) の生母 で

  ある。

 

■ 直江実綱(景綱)の夫人は、 上杉謙信の侍女 

  (伝説上の人物、お船の姉、お悠 (おゆう、仮称)) 

  の生母 である。

 

■ 直江実綱(景綱)の夫人の子供は、 お船 (おせ

  ん、直江兼続 (なおえかねつぐ)の正室夫人) と、 

  上杉謙信の侍女 (伝説上の人物、お船の姉、お悠 

  (おゆう、仮称)) の2人の娘 である。

 

■ 直江実綱(景綱)の夫人は、 夫の直江実綱(景綱)

  の死後も、 上杉謙信に近侍(きんじ)して、 上杉

  謙信臨終の際には上杉景勝を継嗣(けいし)とする

  などの遺言を聞き届けたと言われている。

 

 

♪♪ 直江実綱(景綱)の夫人 が登場する、

   興味深い、ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 直江実綱(景綱)の夫人 が登場する、興

   味深い、ドラマ、映画。

 

■ 『 天地人 (てんちじん) 』 。 

   (NHKテレビ・2009年大河ドラマ)。 

● 直江実綱(景綱)の夫人 (仮称・お万(おまん) 

   を演じた女優名 : 萬田 久子。

 

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#naikaidoregion

 

■ 南海道  

      (なんかいどう)

     (= 南海道・広域地方)。

 

■ 南海道 (= 南海道・広域地方)。

■ 名称 : 南海道 

        (なんかいどう)。

■ 別名 : 南海道・広域地方。

■ 英語名 : 

   NANKAIDO REGION.

■ 旧・大地域名。 《日本の地域名》。

■ 律令制定後・古代・中世・近世日本・旧地域

  名の、 旧地方名の正式名。 《旧地域名》。

■ 前近代日本の、広域地方の、

  五畿七道(ごきしちどう)の1つ。

■ 南海道・旧広域地方。

  <五畿七道 (ごきしちどう)。

   (≒ 日本本土 (本州、四国、九州))。

  <旧広域地方。

  <旧・大地域名。

  <旧地域名。

  <地域名。

  <日本の地名

■ 五畿七道に関しては、「五畿七道」を参照してく

  ださい。

■ 前近代・旧地域名に関しては、  「前近代日本

  の地域名」を参照してください。 

■ 日本の地名の全体に関しては、 「日本の地名

  を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61918。

 

 

■ 南海道・広域地方 ( なんかいどう・こういきち

  ほう)は、 前近代日本の、日本の地方行政区

  分(区画)である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 

 

 

 

 

■ 南海道・旧広域地方。 

 

■ 南海道・旧広域地方は、 前近代日本の、

  @ 紀伊 国 (三重県南部、和歌山県)、 A 

    淡路 国 (兵庫県淡路島)、 B 讃岐 国 (香

  川県)、 C 阿波 国 (徳島県)、 D 土佐 国

  (高知県)、 E 伊予 国 (愛媛県) の地域で

  ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 南海道・旧広域地方は、 前近代日本の、

  @ 紀伊 国 (きい のくに、現在の、三重県南

  部、和歌山県の相当領域)、 A 淡路 国(あわ

  じ のくに、現・兵庫県淡路島の相当領域)、 

    B 讃岐 国 (さぬき のくに、現・香川県の相

    当領域)、  C 阿波 国 (あわ のくに、現・徳

  島県の相当領域)、 D 土佐 国 (とさ のくに、

  現・高知県の相当領域)、 E 伊予 国 (いよ

  のくに、現・愛媛県の相当領域) の地域である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 南海道・旧広域地方。

 

■ 南海道・旧広域地方は、 紀伊 国 (きい のくに、

  現・三重県南部、和歌山県の相当領域) から 

  伊予 国(いよのくに、現・愛媛県の相当領域) ま

    での地域である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 南海道 (なんかいどう)は、 律令 制定後・古代・

  中世・近世日本・旧地域名の、旧地方名の正式名

  である

             

■ 南海道・旧広域地方は、 飛鳥白鳳時代末期か

  ら江戸時代まで使用された、五畿七道(ごきしち

  どう)に属する、広域地方の1つである。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 南海道・旧広域地方は、 現在の、 三重県南部、

  和歌山県 (紀伊 国(きいのくに))、 兵庫県淡路

  島 (淡路 国(あわじ のくに))、 香川県 (讃岐

  国 (さぬき のくに))、 徳島県 (阿波 国(あわ

  のくに))、 高知県 (土佐 国(とさ のくに))、 愛

  媛県 (伊予 国(いよのくに)) の地域に相当する

  領域である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#naidaijin

 

■ 内大臣 

     (ないいじん)

 

■ 内大臣。

■ 名称 : 内大臣 (ないだいじん)。

■ 別名 : 内府  (ないふ)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51912。

 

 

■ 内大臣 (ないだいじん)は、 前近代日本の、

  朝廷の官職(ちょうていのかんしょく) である。 

     内大臣の別名は、 内府  (ないふ、だい

  ふ) である。

 

■ 征夷大将軍になる前の徳川家康は、 1596

  年から1603年までの間、 朝廷より内大臣

  (ないだいじん)に叙任されていたので、 皆か

  ら、「内府(殿)」と呼ばれていた。

 

■ 朝廷の官職は、 前近代日本(古代から江戸

  時代までの日本)の、朝廷での身分・地位 の

  1つ であり、 朝廷の官位(「位階」と「官職」)

  の1つ である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

                  

■ 朝廷の高位の官職 には、 高位順に、 @ 

  政大臣 (だいじょうだいじん)、 A 左大臣 

  (さだいじん)、  B 右大臣 (うだいじん)、  

  C 内大臣 (ないだいじん)、 D 大納言 

  (だいなごん)、 E 中納言 (ちゅうなごん)、  

  F 参議 (さんぎ) などがある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 公卿(くぎょう)とは、 朝廷の 、位階三位(さ

  んみ)以上の者や位階・四位(しい)以上で

  の官職に叙任(じょにん)された者 である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#thedoubleyearsofnorthandsouthdynasties

 

■ 南北朝競合二重年号 

     (なんぼくちょうきょうごうにじゅうねんごう)。  

 

■ 南北朝競合二重年号。

■ 名称 : 南北朝競合二重年号 (なんぼくち

  ょうきょうごうにじゅうねんごう)。

 

□ 南朝(大覚寺統)方の暦年号

□ 北朝(持明院統)方の暦年号

 

 

■ 1336年〜1392年の日本暦年

  号二重存立。

● 南北朝競合二重年号。

 

■ 南北朝競合二重年号。

    1336年から1392年までの間、 大覚寺

  統の後醍醐天皇系統の 南朝(なんちょう) と

  持明院統の光厳(こうごん)・光明(こうみょう) 

  天皇系統の北朝が対立し、 和暦の年号が二

  重存立した。

 

■ 1336年2月に、南朝 (大覚寺統の後醍醐

  天皇系統) 方 は、 「延元」(えんげん) (13

  36年・延元元年・2月29日〜1340年・延元

  5年・4月28日) の暦年号 を使用し始め、

  北朝 (持明院統の光厳(こうごん)・光明 (こ

  うみょう)天皇系統) 方 は、 建武」(けんむ) 

  (元年〜5年、1334〜1338年)  の暦年号

  を使用し続けて、 和暦年号 の二重存立が起

  こる。

 

■ 1392年に、南北朝が合体して、 和暦年号

  は、 1392年(うるう)10月に北朝 (持

  明院統の光厳(こうごん)・光明(こうみょう)

  皇系統)  暦年号の 「明徳」(めいとく) (元

  年〜5年、1390〜1394年) の年号に統一

  された。

 

 

■ 1333年から1336年まで、大覚寺統の

  後醍醐天皇の親政で、日本暦は、 「元弘」

  (げんこう、1331〜1334年) と 「建武」

  (けんむ、1334〜36年)に統一されてい

  た。 しかし、 1336年から、 「延元」(え

  んげん、1336〜40年、南朝・大覚寺統)   

  と 「建武」(北朝・持明院統、1334〜38

  年) が並立使用され、 和暦年号が二重存

  立する。

 

■ 1336年に、 大覚寺統(だいがくじとう)の

  天皇家 と 持明院統 (じみょういんとう)の

  天皇家 の対立は、 大覚寺統の天皇家の

  南朝 と 持明院統の天皇家の北朝 という

  形を取り朝廷の分裂に発展し、 南北朝時

  代(1336〜92年) となる。

● 1336年に、大覚寺統の後醍醐天皇は、京

  (都)を去り、吉野に移り、 足利尊氏は、京

  (都)で、 1336年に、持明院統の光明(こう

  みょう)天皇 (即位1336〜48年、光厳(こ

  うごん)天皇の弟) を擁立した。 これにより、

  朝廷は、 大覚寺統の後醍醐天皇の吉野の

  南朝 と 持明院統の光明(こうみょう)天皇

  の京(都)の北朝 に分裂した。

 

 1392年に、 南朝・大覚寺統の後亀山天皇

  が退位して、南北朝合体(合一)が成った(明

  徳の和約)。 1392年に、和暦年号は、 北朝・

  持明院統の 「明徳」(めいとく、1390〜94年)

  年号に統一された。

 

◆ 南北朝競合二重年号一覧表。

■ 1336年から1392年まで、 和暦年号は、二重

  存立する。

■ 南朝 (大覚寺統の後醍醐天皇系統) 方 の暦

  年号。

 ▼ 「建武」(けんむ)⇒ 「延元」(えんげん)

     ⇒ ○○○○ ⇒ 元中(げんちゅう)⇒ 

  暦年号編成中止。

 ● 「建武」 (けんむ) 

   (建武元年〜建武3年、1334〜1336年)。

 ● 「延元」 (えんげん) 

   (延元元年〜延元5年、1336〜1340年)。

 ● 「元中」 (げんちゅう) 

   (元中元年〜元中9年、1384〜1392年)。

■ 北朝 (持明院統の光厳(こうごん)・光明

  (こうみょう)天皇系統) 方の暦年号。

 ▼ 「建武」(けんむ) ⇒ 暦応(りゃくおう)

     ⇒ ○○○○ ⇒ 明徳(めいとく)。

 ● 「建武」 (けんむ) 

   (建武元年〜建武5年、1334〜1338年)。

 ● 「暦応」 (りゃくおう) 

   (暦応元年〜暦応5年、1338〜1342年)。

 ● 「明徳」 (めいとく) 

   (明徳元年〜明徳5年、1390〜1394年)。

 

■ 1336年から1392年まで、 「延元」・「建

  武」年号から「元中」・「明徳」年号まで、 和

  暦年号の二重存立 が起こる。

■ 1336年から1392年まで、 「延元」 (え

  んげん、1336〜40年、南朝・大覚寺統)  

  と 「建武」(けんむ、北朝・持明院統、1334

  〜38年) から、 元中(げんちゅう)年号 

  (南朝・大覚寺統、1384〜92年)  と 

  徳(めいとく)年号 (北朝・持明院統、1390

  〜94年) まで、 和暦年号の二重存立が起

  こる。

 

 

#thedoubleyearsofnorthandsouthdynasties/south

 

■ 南朝 (大覚寺統の後醍醐天皇系統) 

   方の 暦年号。

● 「建武」(けんむ)⇒ 「延元」(えんげん)⇒

     ○○○○ ⇒ 元中(げんちゅう)⇒ 暦年号

  編成中止。

 

■ 南朝 (大覚寺統の後醍醐天皇系統) 

  の暦年号。

 ▼ 「建武」(けんむ)⇒ 「延元」(えんげん)

     ⇒ ○○○○ ⇒ 元中(げんちゅう)⇒ 

  暦年号編成中止。

 ● 「建武」 (けんむ) 

   (建武元年〜建武3年、1334〜1336年)。

 ● 「延元」 (えんげん) 

   (延元元年〜延元5年、1336〜1340年)。

 ● 「元中」 (げんちゅう) 

   (元中元年〜元中9年、1384〜1392年)。

 

■ 南朝 (大覚寺統の後醍醐天皇系統) 方の

  暦年号。

   1336年から1392年まで、 大覚寺統の後

  醍醐( ごだいご)天皇系統)の南朝(なんちょう) 

  は、 「延元」(えんげん)年号(1336〜40年、

  南朝・大覚寺統)から 元中(げんちゅう)年号

  (南朝・大覚寺統、1384〜92年)まで の

  和暦の年号を使用する。

 

 南朝 (大覚寺統の後醍醐天皇系統) 方の

  暦年号。

    「建武」(けんむ)⇒ 「延元」(えんげん)⇒ 

  興国(こうこく)⇒ 正平(しょうへい)⇒ 建徳

  (けんとく)⇒ 文中(ぶんちゅう)⇒ 天授(て 

  んじゅ)⇒弘和(こうわ)⇒ 元中(げんちゅう)

    ⇒ 暦年号編成中止

 

 南朝 (大覚寺統の後醍醐天皇系統) 

  の暦年号。

    建武(けんむ)元年〜3年(1334〜133

  6年)⇒ 延元(えんげん)元年〜5年(1336

  〜1340年)⇒ 興国(こうこく)元年〜7年

  (1340〜1346年)⇒ 正平(しょうへい)元

  年〜25年(1346〜1370年)⇒ 建徳(け

  んとく)元年〜3年(1370〜1372年)⇒ 

  文中(ぶんちゅう)元年〜4年(1372〜13

  75年)⇒ 天授(てんじゅ)元年〜7年(13

  75〜1381年)⇒ 弘和(こうわ)元年〜4

  年(1381〜1384年)⇒ 元中(げんちゅ

  う)元年〜9年(1384〜1392年)⇒ 暦年

    号編成中止

 

 

#thedoubleyearsofnorthandsouthdynasties/north

 

■ 北朝 (持明院統の光厳・光明天皇系

   統) 方の暦年号。

● 「建武」(けんむ) ⇒ 暦応(りゃくおう)⇒

     ○○○○ ⇒ 明徳(めいとく)。

 

■ 北朝 (持明院統の光厳(こうごん)・光明

  (こうみょう)天皇系統) 方の暦年号。

 ▼ 「建武」(けんむ) ⇒ 暦応(りゃくおう)

     ⇒ ○○○○ ⇒ 明徳(めいとく)。

 ● 「建武」 (けんむ) 

   (建武元年〜建武5年、1334〜1338年)。

 ● 「暦応」 (りゃくおう) 

   (暦応元年〜暦応5年、1338〜1342年)。

 ● 「明徳」 (めいとく) 

   (明徳元年〜明徳5年、1390〜1394年)。

 

■ 北朝 (持明院統の光厳(こうごん)・光明(こう 

  みょう)天皇系統)方の暦年号。

   1336年から1392年まで、 持明院統の

  厳(こうごん)・光明(こうみょう)天皇系統の 

  朝( ほくちょう)は、「建武」(けんむ)年号(北朝

  ・持明院統、1334〜38年) から 明徳(めい

  とく)年号(北朝・持明院統、1390〜94年)

   の年号の和暦を使用する。

 

■ 北朝 (持明院統の光厳(こうごん)・光明(こう

  みょう)天皇系統)  方の暦年号。

    「建武」(けんむ)⇒ 暦応(りゃくおう)⇒ 康

  永(こうえい)⇒ 貞和(じょうわ)⇒ 観応(かん

  のう)⇒ 文和(ぶんわ)⇒ 延文(えんぶん)⇒

  康安(こうあん)⇒ 貞治(じょうじ)⇒ 応安(お

  うあん)⇒ 永和(えいわ)⇒ 康暦(こうりゃく)

  ⇒ 永徳(えいとく)⇒ 至徳(しとく)⇒ 嘉慶

  (かきょう)⇒ 康応(こうおう)⇒ 明徳(めいと

  く)。

 

■ 北朝 (持明院統の光厳(こうごん)・光明(こ

  うみょう)天皇系統)  方の暦年号。

    「建武」(けんむ)元年〜5年(1334年〜

  1338年)⇒ 暦応(りゃくおう)元年〜5年

  (1338〜1342年)⇒ 康永(こうえい)元年

  〜4年(1342〜1345年)⇒ 貞和(じょう

  わ)元年〜6年(1345〜1350年)⇒ 観応

  (かんのう)元年〜3年(1350〜1352年)

  ⇒ 文和(ぶんな)元年〜5年(1352〜13

  56年)⇒ 延文(えんぶん)元年〜6年(13

  56〜1361年)⇒ 康安(こうあん)元年〜

  2年(1361〜1362年)⇒ 貞治(じょうじ)

  元年〜7年(1362〜1368年)⇒ 応安(お

  うあん)元年〜8年(1368年〜1375年)⇒

  永和(えいわ)元年〜5年(1375〜1379

  年)⇒ 康暦(こうりゃく)元年〜3年(1379

  〜1381年)⇒ 永徳(えいとく)元年〜4年

  (1381〜1384年)⇒ 至徳(しとく)元年

  〜4年(1384〜1387年)⇒ 嘉慶(かきょ

  う)元年〜3年(1387〜1389年)⇒ 康応

  (こうおう)元年〜2年(1389〜1390年)⇒

  明徳(めいとく)元年〜5年(1390〜1394

  年)。

    

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#theperiodofnorthandsouthdynasties

 

■ 南北朝時代。 

     (なんぼくちょうじだい)。  

 

 

 

  ○ 足利尊氏 (ドラマ「太平記」の足利尊氏)。

 

 

 

■ 南北朝時代。

 

■ 名称 : 南北朝時代 (なんぼくちょうじだい)。

● 英名 : the Period of North and

        South Dynasties 。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 41517。

 

 

 □ 南北朝時代 (総合)

 

 □ 南北朝時代を描いた、興味 深い

      関連ドラマ、映画、ドキュメンタリー

      

 

 

 

 

#theperiodofnorthandsouthdynasties-general

 

◆ 南北朝時代 (総合)。

 

 ■ 南北朝時代。

  ■ 1336年 (建武3年/延元元年)に、足利尊氏が、

    持明院統(北朝) の天皇を擁立し、室町幕府

         (= 足利幕府)を開き、 南北朝時代が始まる。

                  

 

 ■ 朝廷の分裂。

 

  ■ 1336年に、 朝廷は、大覚寺統(だいか

    くじとう)の天皇家の「南朝」(なんちょう) と 

    持明院統(じみょういんとう)の天皇家の「北

    朝」(ほくちょう) の2つに分裂する。

 

  ■ 1336年から1392年まで、朝廷は、大覚寺

    統の天皇家の南朝と持明院統の天皇家の北

    朝に分裂し、対立した。

       吉野を本拠地とした、大覚寺統の後醍

    醐天皇系統の天皇家の朝廷を、南朝といい、

    京(都)を本拠地とした、持明院統の光厳(こ

    うごん)・光明(こうみょう)天皇系統の天皇家

    の朝廷を、北朝という。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 1336年に、建武(けんむ)政権(1333〜

    36年)が崩壊し、大覚寺統後醍醐天皇が、

    京(都)を去り、吉野(よしの)に移る。 一方、 

    1336年に、京(都)では、足利尊氏に擁立

    された、持明院統の光明(こうみょう)天皇

    (天皇在位1336〜48年、光厳(こうごん)

    天皇の弟)が、即位する。 ここに、朝廷は、

    吉野にある、大覚寺統の後醍醐天皇系統の

    天皇家の「南朝」 と 京(都)にある、持明院

    統の光厳(こうごん)・光明(こうみょう)天皇

    系統の天皇家の「北朝」に分裂し、 南北朝

    時代(1336年〜1392年) となる。

 

 

 ■ 朝廷の合体 (南北朝の合一)。

 

  ■ 1392年に、室町幕府第3代将軍・足利 義満

    (あしかがよしみつ)は、 南朝側と交渉して、

    大覚寺統の 天皇家の「南朝」 と 持明院統

    の天皇家の「北朝」を合一させるのに成功し、

    南朝と北朝の対立は、ここに解消した。

       足利義満は南朝側と交渉し、 大覚寺統の

    後醍醐天皇系統の天皇家の南朝の、後亀山

    (ごかめやま)天皇が1392年に、皇位を放棄

    して入京し、 朝廷の天皇は、 持明院統の光

    厳(こうごん)・光明(こうみょう)天皇系統の天

    皇家の北朝の、後小松(ごこまつ)天皇一人と

    なった。

 

  ■ 1392年の南北朝合体後 は、 南北朝とい

    う区別はなくなる。 南北朝合体後は、 持明

    院統の光厳(こうごん)・光明(こうみょう)天皇

    系統の旧北朝の天皇が、代々、朝廷の皇位を

    継ぐ。 一方、大覚寺統の後醍醐天皇系統の

    旧南朝の皇族が、皇位を継ぐことはなかった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 

 

#theperiodofnorthandsouthdynasties-appearingscenes

 

♪♪ 南北朝時代が登場する、

    興味深い関連ドキュメン

    タリー、ドラマ、映画。 

 

 ★ 南北朝時代が登場する、

    興味深い関連ドキュメン

       タリー。 

 

 

 ■ BS歴史館 

       『 疾走(しっそう)! 足利尊氏 

      南北朝の扉を開く!? 』。 

     (NHKテレビの2014年3月13日・本放送

      テレビ・ドキュメンタリー番組)。

 

 

 ★ 南北朝時代が登場する、

    興味深い関連ドラマ、映画。 

 

  ● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

    歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史の事実) 

    と 架空の出来事が 混じって描かれています。

    また、 現代風にアレンジしてあります。

 

 

 ■ 『 太平記 (たいへいき) 』 。 

     (NHKテレビの1991年大河ドラマ)。

 

  ■ 日本の鎌倉時代末期、 建武時代室町時代

    初期の、活躍する人物、風習、建築物、社会

    状況を描いたドラマ 。 

 

  ■ 足利尊氏の生涯 と 尊氏の、鎌倉幕府倒幕、 

    建武政府との対立、室町幕府の創立と基礎づ

    くりを描いたテレビドラマ。

 

 

 

  

  ○ 足利尊氏 (NHK大河ドラマ「太平記」のPRフォト)。

 

 

 

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#nairan

 

■ 内覧。 

     (ないらん)。  

 

■ 内覧。

■ 名称 : 内覧 (ないらん)。

■ 天皇を補佐する地位。

■ 内覧となった例、 公卿の、藤原道長藤原頼長

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 内覧 (ないらん) は、 天皇を補佐する地位で、

 朝廷の官職で、 朝廷政務を指導する要職 で

 ある。 内覧となった例は、公卿の、藤原道長、藤原

 頼長 などである。

 

 内覧(ないらん)は、 朝廷の役職で、 天皇に奏 上

 (そうじょう)する(提出する)、奏状(そうじょう、公文

 書)を、 天皇が見る前に(天皇に奏聞する前に)、臣

 下が事前に目を通す(内覧、内見する)役職 である。

 事実上、天皇の政務を代行する役職であった。 摂政

 か関白が、天皇に任命されて、内覧となることが多か

 った。

   例として、藤原道長は、内覧となり、朝廷の政務

 の実権を握(にぎ)り、更に日本の政治の実権を握り、

 日本の政治を支配した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#naishinotsukasa

 

■ 内侍司。 

     (ないしのつかさ)。  

 

■ 内侍司。

■ 存在時期 : 8世紀〜大正時代。

■ 名称 : 内侍司 (ないしのつかさ)。

■ 天皇の後宮(こうきゅう)の組織。  

■ 天皇の秘書役の女官の組織。

■ 天皇の後宮・事務局。

■ 尚侍(しょうじ)、 典侍(てんじ)、 勾当内侍 (こう

     とうのないし)、 掌侍(しょうじ、内侍)、 女孺(に

     ょじゅ) 等で構成。

■ 日本の律令官制の役所の一つ。 令により定めら

     れた後宮(こうきゅう)十二司の一つで、 女官のみ

     で構成された。 平安時代半ば以後、 後宮十二司

      の組織が再編され、事実上、内侍司 (ないしのつ

     かさ)が、 唯一の後宮官司となった。

 

 

■ 内侍司の女官 は、 天皇の秘書役。

■ 内侍司の女官 には、 律令制の官職として、 尚侍 (しょうじ、内

 侍司の長官)、 典侍(てんじ、内侍司の次官)、 勾当内侍(こうとうの

 ないし)、 掌侍(しょうじ、内侍、内侍司の判官)、 女孺(にょじゅ、に

 ょうじゅ、内侍司の下級女官) がいた。

 

■ 内侍司 (ないしのつかさ) とは、 天皇の後宮(こうきゅう)の組

 織 で、 8世紀から大正時代まで存続した。

■ 内侍司 (ないしのつかさ) は、 日本の律令官制の役所の一つで、

 令により定められた後宮(こうきゅう)十二司の一つで、 女官のみで

 構成された。 平安時代半ば以後、 後宮十二司の組織が再編され、

 事実上、内侍司 (ないしのつかさ) が、 唯一の後宮官司となった。

■ 内侍司の女官 は、 天皇に近侍し、 奏請と伝宣(内侍宣)、宮中

 の礼式等を司(つかさど)った。  天皇の秘書役とも言うべき重要な

 役職で、 学問、礼法(れいほう)に通じた有能な女性が、 多く任命さ

 れた。

 

■ 内侍司 (ないしのつかさ) の女官 には、 尚侍 (しょうじ、内侍司

 の長官)、 典侍(てんじ、内侍司の次官)、 掌侍(しょうじ、内侍、内侍

 司の判官)、 女孺(にょじゅ、にょうじゅ、内侍司の下級女官) がいた。

 

■ 尚侍 (しょうじ、ないしのかみ) は、 内侍司の長官(かみ、ちょうか

 ん)で、 定員は2名 であった。

● 10世紀末頃から、皇妃に準ずる扱いとなり、実際の女官としての業務

 は、典侍以下が担(にな)った。 平安後期から鎌倉時代頃には、 尚侍 

 は、任命されなくなった。

 

■ 典侍(てんじ、ないしのすけ) は、内侍司の次官(すけ、じかん))で、 

 定員は4名であった。

● 典侍は、大納言(だいなごん)や中納言(ちゅうなごん)を中心に、公卿

 (くぎょう)の娘が、多く選ばれた。

● 典侍(てんじ)には、 天皇の日常生活の秘書的役割を務める者 (お

 清の女官) と 天皇の寵愛を受け皇子女を生む役割を持つ側室 がい

 た。

  例として、和宮と共に江戸に下向(げこう)した、和宮付女官総取締役の、

 庭田 嗣子 (にわたつぐこ) は、 京(都)の宮中では、仁孝(にんこう)天

 皇の典侍 (お清の女官) であった。

● 江戸時代に即位した天皇の生母(せいぼ)のほとんどは、 典侍であっ

 た。 近代の天皇家では、 貞明皇后と香淳皇后の代で初めて皇后(正妃、

 正室)の実子が世継ぎとなった。

  そのため、典侍(てんじ)になるには、公家(くげ)の中でも一定の家格

 (かかく)以上の子女しかなることができなかった。

  例として、和宮と共に江戸に下向(げこう)した、和宮の母の観行院(かん

 ぎょういん)は、 典侍の橋本経子 (はしもと つねこ、落飾後、観行院(か

 んぎょういん)) で、 仁孝(にんこう)天皇の側室で、皇女の和宮を生む。

 

● 一方、天皇の正妃には、最上級の家格をもつ公家の子女がなり、女御

 (にょうご)以上に叙(じょ)せられるため、 典侍にはならない決まりにな

 っていた。

● 江戸時代末期では、典侍は、宮中における高級女官の最上位であった。

  最上位の典侍を、大典侍と称し、宮中の女官を統括した。 勾当内侍(こ

 うとうのないし、長橋局)と並んで、御所の御常御殿の事務諸事一切を掌

 握した。

 

■ 掌侍(しょうじ、ないしのじょう) は、 内侍(ないし)とも称され、 内侍

 司の判官(じょう、はんがん) で、 定員は、正官4名、権官(ごんかん)

 2名 であった。

●  第1位の上臈(じょうろう)の掌侍(しょうじ)は、「勾当内侍(こうとうの

 ないし)」または「長橋局(ながはしのつぼね)と称した。 尚侍、典侍が形

 式化した後は、 内侍司の実務 は、奏請と伝宣を含め勾当内侍を中心

 に取り仕切られた。 江戸時代では、勾当内侍は、 対外的権力では、大

 典侍よりも上であった。

 

■ 女孺(にょじゅ、にょうじゅ) は、 内侍司の下級女官で、 定員100

 名で、 雑務一般にあたった。

 

■ 裕仁天皇 (ひろひとてんのう、昭和天皇) は、 東宮職女官制 を採

 用し、 裕仁天皇(昭和天皇)の即位と同時に、 律令制度から続いたお

 局(つぼね)制度 (内侍司やその律令制の官職) も、 ここに廃止され

 ることとなった。

 

 

★ 内侍司 (ないしのつかさ) が登場する、

  興味深い関連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 歴

    史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) と 架

    空の出来事 が 混じって描かれています。 また、 

    現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 千年の恋 』 (日本の映画)。

 

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#naogoro

 

■ 尚五郎  

       (なおごろう) (肝付 尚五郎)(小松 帯刀)。

 

■ 尚五郎 (なおごろう) については、 『 小松 帯刀 (こまつ

  たてわき) 』  を参照して下さい。

□ 日本史 辞典 の見出し語 「こ」 の ページへ 。                 

● 尚五郎 (なおごろう) は、 小松 帯刀 (こまつ たてわき)、

 小松 尚五郎、 肝付 尚五郎 (きもつき なおごろう) と 同一の人

 物 です。

 

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□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。                

 

 

#nakaokashintaro

 

■ 中岡 慎太郎 

     (なかおか しんたろう)。

 

■ 中岡 慎太郎。

■ 生没年 : 1838年〜1867年。 

■ 名称 : 中岡 慎太郎 (なかおか しんたろう)。 

■ 坂本竜馬の 協力者。

■ 幕末に、土佐勤王党に加わる。

■ 尊皇(王)攘夷派 その後、 尊皇(王)倒幕派

■ 土佐(とさ、高知県)の庄屋(しょうや)の長男。

■ 坂本竜馬と共に、薩長同(さっちょう どうめい)

   を実現するために奔走(ほんそう)し、 薩長同

   を成立させる。

■ 幕末に、陸援隊(りくえんたい)を組織し、その

  首領となる。

 

□ 中岡慎太郎 が登場する、面白く、

   興味深い関連ドラマ、映画、ドキュ

   メンタリー。 

 

 

■ 中岡 慎太郎 (なかおか しんたろう、生没年 

  1838年〜1867年) は、 尊皇(王)攘夷派 

  で、 その後、 尊皇(王)倒幕派なる。

■ 中岡 慎太郎 は、 坂本竜馬の 協力者 で

  あった。

■ 中岡 慎太郎 (なかおか しんたろう) は、 

  陸援隊(りくえんたい)の首領 であった。 

 

■ 中岡 慎太郎 (なかおか しんたろう、1838年

  〜1867年) は、 土佐(とさ、高知県)の庄屋

  (しょうや)の長男 で、 幕末に、土佐勤王党 

  に加わる。

 

■ 中岡慎太郎 は、 1863年(文久3年)の八

  月十八日の政変 以後、京(都)や土佐では、 

  土佐勤王党への弾圧が激しくなり、  長州

  逃れる。

 

■ 坂本龍馬や中岡慎太郎らの仲介で、薩長同

  盟が成立する。

 中岡慎太郎(なかおかしんたろう) は、 坂本

  竜馬と共に、薩長同(さっちょう どうめい)

  実現するために奔走(ほんそう) し、 薩長同盟

  を成立させる。

 

■ 長同盟成立後、 武力倒幕を目指していた、

  尊皇(王)倒幕派中岡慎太郎 は、 坂本竜

  馬が公議政体派へ転向し、大政奉還(たいせ

  いほうかん)の実現を目指す坂本竜馬 と路線

  対立を起こす。

 

■ 中岡慎太郎 は、 幕末に、陸援隊を組織し、

  その首領となる。

 

■ 1867年(慶応3年)11月15日に、 中岡慎

  太郎 は、 京(都)の、近江屋(おうみや)で、 

  坂本龍馬と一緒にいたところを襲われ、重傷、

  を負い、 その数日後に死去する。 

 

■ 1867年(慶応3年)11月に、 坂本龍馬と

  共に、京都霊山護国神社に、葬(ほうむ)られ

  た。

 

 

#nakaokashintaro-appearingscenes

 

♪♪ 中岡慎太郎 が登場する、面白く、

  興味深い関連ドラマ、映画、ドキュメ

  ンタリー。 

 

 中岡慎太郎 が登場する、面白く、興

  味深い関連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事 が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』  

    (NHK2010年大河ドラマ)

● 中岡慎太郎を演じた俳優 : 上川 隆也 

  (かみかわ たかや)。

● 1865年〜1869年に活動する、中岡慎太

  郎が描かれている。

    中岡慎太郎が、坂本竜馬と共に、薩長同

  (さっちょう どうめい)を実現するために奔

  走(ほんそう)し、 薩長同盟を成立させ、 そ

  の後、 龍馬と路線対立を起こすが、 龍馬

  に協力し、 近江屋で龍馬と共に暗殺される

  までことが描かれている。

 

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#nagaomasakage

 

■ 長尾 政景  

       (ながお まさがげ)。

 

■ 長尾 政景。

■ 生没年 : 1526年〜1564年。

■ 名前 : 長尾 政景 (ながお まさかげ)。 

■ 戦国時代(室町時代後期)の武将。

■ 越後国(えちごのくに、現在の新潟県)の・

  坂戸(さかど)城主。

■ 上田・長尾氏の当主。

■ 上杉謙信の姉婿。

● 長尾 政景の正室・夫人 は、 上杉謙信の

  姉の桃 (もも、仙桃院(せんとういん))。

■ 上杉 景勝(かげかつ)の父。

● 長尾 政景の次男 は、 上杉景勝 (うえす

  ぎ かげかつ)。 長尾 政景の長男は、早世。

■ 上杉 謙信(けんしん)のいとこ。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 上杉 謙信、 上杉 景勝、 直江 兼続 に関

  しては、日本史辞典の 『 上杉 謙信(うえす

  ぎ けんしん)、 上杉 景勝(うえすぎ かげか

  つ)、直江 兼続(なおえ かねつぐ) 』 を参

  照して下さい。

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。                

 

 

■ 長尾 政景 (ながお まさかげ)  は、 戦国時代の武将で、越後・

 坂戸城主で、上田長尾氏・当主 で、上杉 謙信(けんしん)のいとこ

 で、 上杉 景勝(かげかつ)の父  です。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 長尾 政景 (ながお まさかげ) は、 始め、上杉謙信 (長尾景虎)

 に敵対しましたが、 その後、和解して、上杉 謙信の姉、 桃 (仙桃

 院、綾)を正室として向え、 上杉謙信 (長尾景虎)の重臣の一人とな

 りました。

 

■ 上杉 謙信(長尾景虎)の姉、 桃 (仙桃院、綾) と 越後・坂戸

 城主・長尾政景 (上田長尾家・当主) との間に生まれた男子 が、 

 上杉 景勝 (長尾 景勝) です。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 長尾 政景(まさかげ) は、 越後・坂戸城主で、上田長尾家当主

 で、 上杉 景勝(かげかつ)の父 です。 

● 長尾政景の家臣の一人が、 樋口 兼豊(樋口惣右衛門) です。

● 樋口 兼豊 (樋口惣右衛門)の嫡子(長男) が、 直江 兼続 (な

 おえ かねつぐ、樋口与六) です。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

★ 長尾 政景(まさかげ) が登場する、

  興味深い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 天地人 (てんちじん) 』  

   (日本のNHK2009年大河ドラマ)。

 

■ 『 風林火山 (ふうりんかざん) 』  

   (日本のNHK2007年大河ドラマ)。

● 長尾 政景を演じた俳優名 : 建蔵。 

 

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 『 あなたのハートには 

   何が残りましたか? 』

 

 

 

以  上。