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◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY HANDBOOK

 

 

 カナヤマ 日本歴史辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 も 』。

 

 

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メ ニュー (目次)。  

 ■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

 

 □ 日本史 辞典 (総合)        

 

□      ● 五十音順 (アイウエオ順)。

 

□ 見出し語 もさ

□ 見出し語 もな

□ 見出し語 もま

□ 見出し語 もら

 

 

 

 もう   蒙古襲来

             (もうこしゅうらい)。 

          《外国の侵略》。

          (= 元寇(げんこう)

                 文永・弘安の役(ぶんえい・

              こうあんのえき))。

          (13世紀後半の

          1274年、1281年)。

                    ○ 蒙古襲来とは、

          鎌倉時代の、2度にわた

          るモンゴル軍の来襲で

          ある。

             ■ 蒙古襲来(もうこしゅうらい)とは、

              元寇 (げんこう)であり、  文永・弘

                  安の役(ぶんえい・こうあんのえき) 

             である。

             ● 蒙古襲来(= 元寇、文永・弘安

              の役)は、

             13世紀後半の1274年( 文永の役)、

             1281年(弘安の役)に起こった。

             ● 蒙古襲来(= 元寇、文永・弘安の 

             役)とは、

             鎌倉時代の、2度にわたるモンゴル

             軍の来襲 である。

 

 もう   毛利 敬親

             (もうり たかちか)。《人名》。

                          (大名、藩主)。 

          (藩主在任:

          1836年〜1869年)。

          (生没年:

          1819年〜1871年)。

          (⇒ 長州藩)。

              ■ 毛利敬親 (もうりたかちか、

             藩主在任:1836年〜18 69年

             生没年:1819年〜1871年

             は、 長州藩の藩主である。

 

 もう   毛利 輝元

             (もうり てるもと)。 《人名》。

                          (大名、藩主)。 

          (1553年〜1625年)。

          ○ 毛利輝元は、

          安土桃山時代に、中国

          地方に勢力をもった大名

          である。

          ○ 毛利輝元は、

          毛利元就の孫である。

          ○ 毛利輝元は、

          安芸・吉田郡山城・城主

          である。

 

 もう   毛利 秀元

             (もうり ひでもと)。 《人名》。

                          (武将)。

          (⇒ 新説関ヶ原の

         戦い

           大垣・山中の戦い

           大垣の戦い山中の戦い)。 

           (⇒ 関ヶ原の戦い)。

                (⇒ 慶長5年の

                 下分け目の戦い)。

           ○ 「史実(新説)の関ヶ

           原の戦い(= 大垣・山中

           の戦い)」や「伝説(従来

           説)の関ヶ原の戦い」

           毛利秀元は、南宮山に

                      本陣(陣地)を置く。

           □ 「 史実(新説)関ヶ原

            の戦い(= 大垣・山中の

            戦い)」 画像アルバム 

            No.2

           □ 「 伝説(従来説)関ヶ

            原の戦い」画像アルバム 

            No.3 

           (⇒ 徳川家康美濃赤坂

           山中桃配山陣場 野)。

           (⇒ 石田三成大垣城

            藤下の自害峯山中

           笹尾山)。

           (⇒ 小早川秀秋松尾山)。

           (⇒ 毛利秀元南宮山)。

 

             ■ 「史実(新説)の関ヶ原の戦い

             (= 大垣・山中の戦い)」や「伝説

             (従来説)の関 ヶ原の戦い」で、

             西軍(奉行衆・毛利方)の毛利秀元

              は、関ヶ原盆地の東方にある南宮

             山 (なんぐうさん)に、 1600年(慶

             長5年)9月上旬より9月15日まで、

             東軍と戦うため、西軍の毛利勢の

             軍を率いて、本陣(陣地)を置く。

 

             ◆ 「史実(新説)の関ヶ原の戦い

             (= 大垣・山中の戦い)」で、 

             大垣の戦い(1600 年(慶長5年)

             8月26日ー9月15日)で は、

 

             ■ 第1段階として、

             大垣城の攻防戦で、

             1600年(慶 長5年)8月26日から

             9月13日まで

              東軍(徳川方)の先手勢の福島勢・

             池田勢の豊臣恩顧大名の軍・約

             4万人の兵は、 大垣エリアの美濃

             赤坂(みのあかさか)付近に布陣し、

             西軍(奉行衆・毛利方)の拠点の

             大垣城(おおがきじょう)の大垣城

             籠城衆(駐留軍) ・約2万3200人

             の兵(西軍主力本隊)を攻め、大垣

             城の攻防 戦を行うが、大垣城は

             落城せず。 

             ● 一方、1600年(慶長5年)9月

             7日に、南宮山 (なんぐうさん)に、

             西軍 (奉行衆・毛利方)の大垣城後

             詰軍(ごづめぐん)の毛利秀元が率

             いる約1万5000人の兵の毛利勢

             が布陣する。

                しかし、9月 7日から9月14日

             まで、東軍(徳川方)の先手勢の福

             島勢・池田勢の豊臣恩顧大名の軍・

             約4万人の兵 を前にして、西軍 (

             行衆・毛利方)の大垣城後 詰軍(ご

             づめぐん)の毛利秀元の毛利勢・約

             1万5000人の兵は、援軍を待ち、

             戦わず。 

 

             ■ 第2段階として、

             西軍(奉行衆・毛利方)の大垣城

             後詰軍の毛利勢・約1万5000人

             の兵を降参させ、西軍主力軍が

             駐留する大垣城を孤立させる

             ため、

             1600年(慶 長5年)9月14日に、

             東方から来た東軍 (徳川方) の

             徳川家康は、

             徳川本隊・約3万2000人の兵

             井伊直 政・本多忠勝・家康馬

             廻り衆等の軍)と共に、

             大垣エリアの美濃赤坂(みの

             あかさか)付近に布陣し、  

             東軍 (徳川方)の徳川家康の徳川

             本隊や徳川方の先手勢の福島勢・

             池田勢・約4万人の兵は、 西軍主

             力軍が駐留する大垣城 や 南宮

             山の西軍 (奉行衆・毛利方の大

             垣城後詰軍の毛利勢と対峙する。

                9月14日に、関ヶ原盆地の     

             東方の南宮山布陣の西軍 (

             行衆・毛利方の毛利秀元が率

             いる約1万5000人の兵の毛利

             は、 強力な東軍(徳川方)の合

             計・約7万2000人の兵の大軍に

             恐れをなし戦わず。 

 

             ■ 第3段階として、9月15日

             には、 関ヶ原盆地の西方・約2

             kmの山中(やまなか)で、約 2万

             人の兵の西軍(奉行衆・毛利方

             の主力軍 と 約5万1000人の

             兵の東軍(徳川方)の主力軍  が

             決戦(午前10時頃〜正午頃)

             行い、西軍が敗北する。

                その時、南宮山布陣の西軍

             奉行衆・毛利方の毛利秀元の

             約1万5000人の兵の毛利勢は、

             南宮山の前面に残留する東軍(徳

             川方)の先手勢の池田勢の約2万

             1000人の兵に行く手を阻まれ、

             西軍主力軍の援軍に駆けつけら

             れなかった。

                 そして、9月15日に、

             山中(やまなか)での決戦で西 軍

             (奉行衆・毛利方) の敗北を知り、

             南宮山の西軍(奉行衆・毛利方

             の毛利秀元の毛利勢は、戦場を

             離脱し、東軍(徳川方)は 大垣エ

             リアで、小勢力の約2000人の兵

             大垣城残留軍を除いて、 西軍

             (奉行衆・毛利方) を大方排除する。

             ■ 一方、 「伝説(従来説)の関ヶ

             原の戦い」では、

             関ヶ原の戦いの1600年(慶長5

             年)9月15日の関ヶ原盆地の決戦

             (午前8時頃〜午後2時頃)では、

             南宮山の西軍(石田方)の毛利秀

             元の毛利勢は、 南宮山山麓の

             内通者の吉川広家に阻止されて、

             毛利勢の軍を動かせず、決戦に参

             加できなかった。

                16 00年(慶長5年)9月15日

             に、西軍(石田方)の毛利秀元は、 

             南宮山(なんぐうさん)に布陣し、 

             徳川家康は、16 00年(慶長5年)

              9月15日の朝から午前10時頃まで、 

             南宮山(なんぐうさん)の西方の

             桃配山(ももくばりやま、家康最初陣

             地)に布陣し、 9月15日に、近い

             距離にいたが、西軍(石田方)の毛利

             秀元と東軍(徳川方)の徳川家康は、

             戦わなかった。 

 

 もう   毛利 元就

             (もうり もとなり)。 《人名》。

                          (戦国大名)。 

          (1497年〜1571年)。 

          ○ 戦国時代の、中国地方の、

          武将、戦国大名。

 

#mosa

 

 もち   以仁王 

             (もちひとおう)。 《人名》。

          (= 後白河上皇の第3皇子

           (みこ))。

 

 もち   以仁王の令旨 

                          (もちひとおうのりょうじ) 。 《令旨》。

          ○ 諸国に伊勢平氏討伐の挙

          兵を求める以仁王の命令。

 

〇 もと   元。

             (もと)。 《人名》。

           (= お元(おもと)) 。

          ○ 坂本龍馬の恋人。

                (⇒ お元)。

 

〇 もと   元就。

             (もとなり)。 《人名》。

             (= 毛利元就 もうりもとなり)。

        (⇒ 毛利 元就)。

 

#mona

 

 もの   もののけ。 

           (= 生霊(いきりょう)、お化け)。 

           《お化け》。

           ○ 前近代日本で信じられてい

           たお化けの1つ。

        (⇒ 前近代日本社会

 

#moma

 

 もも   

          (もも)。 《人名》。

          (= 仙桃院)。

          ○ 上杉謙信の姉。

          ○ 上杉景勝の生母。

        (⇒ 仙桃院 せんとういん)。

 

 もも   桃配山。

              (ももくばりやま)。 《地名》。

           ○ 「伝説(従来説)の

           関ヶ原の戦い」

              桃配山(ももくばりやま)は、

           徳川家康が

           最初の本陣(陣地)

           置いた場所である。

          (⇒ 関ヶ原の戦い

           決戦)。

          (⇒ 関ヶ原の戦い)。

          (⇒ 新説(史実)

             関ヶ原の戦い

           大垣・山中の戦い

         大垣の戦い山中の戦い)。

                (⇒ 慶長5年の

                 下分け目の戦い)。

           □ 「史実(新説)

            関ヶ原の戦い

            (= 大垣・山中の戦い)」  

            画像アルバム No.2

           □ 「伝説(従来説)

            関ヶ原の戦い」

            画像アルバム  No.3 

          (⇒ 徳川家康福島正則

             池田輝政)。

          (⇒ 毛利秀元)。

          (⇒ 石田三成宇喜多秀家)。

          (⇒ 大谷吉継小早川秀秋)。

          (⇒ 美濃赤坂大垣城

                           南宮山)。

          (⇒ 山中松尾山

              藤下の自害峯)。

          (⇒ 関ヶ原盆地桃配山

                           陣場野笹尾山)。

 

             ■ 桃配山 (ももくばりやま)は、 

             関ヶ原盆地の東方に位置する。 

             現在の岐阜県関ヶ原町の関ヶ原

             盆地の東側にある。

             ■ 「伝説(従来説)の関ヶ原の

             戦い」の決戦では、

             桃配山 (ももくばりやま)は、 

             1600年(慶長5年)9月15日の

             関ヶ原盆地の決戦で、 徳川家康

             が、 最初の本陣(陣地、家康最

             初陣地)を置いた場所である。

 

              ■ 伝説(従来説の関ヶ原

              の戦い」の決戦での、東軍

              (徳川方)の主力軍の動き。

              ● 東軍(徳川方)の主力軍

               (先手勢の福島組勢と家康

               の徳川本隊) は、

              @ 東軍(徳川方)の主力軍は、

               1600年(慶長5年)9月15日

               早朝に、 大垣エリアの美濃

               赤坂(みのあかさか)付近

               (関ヶ原盆地の東方)を出発

               (1600年(慶長5年)

                9月15日早朝)⇒

              〇 徳川家康は、 

               1600年(慶長5年)9月15日

               早朝に、大垣エリアの美濃赤

               坂付近で、

               東軍(徳川方)を2つに分け、

               関ヶ原盆地に向かう先手勢の

               福島組勢、家康の徳川本隊の

               東軍(徳川方)の主力軍 と、 

               南宮山山麓に向かう池田組勢

               の2つに分ける。

              A  東軍(徳川方)の主力軍は、

              9月15日の朝に、関ヶ原盆地

              の東側に布陣する

              (9月15日の朝)⇒ 

              B 東軍(徳川方)の主力軍は、

              9月15日午前8時頃から午後

              2時頃まで、関ヶ原盆地で 、

               西軍(石田方)の主力軍と交戦

              (決戦を行う)

              (9月15日午前8時頃〜

               午後2時頃)⇒ 

              ○ 9月15日の朝から午前

              10時頃まで、家康は、

              桃配山 (ももくばりやま、関ヶ

              原盆地の東側)で決戦を指揮

              ○ 9月15日午前10時頃から

              午後2時頃まで、家康は、

              陣場野 (じんばの、関ヶ原盆

              地中央部)で決戦を指揮

              C 9月15日午後2時頃に、

              関ヶ原盆地で、西軍(石田方)

              の主力軍は、総崩れとなり、

              敗走、敗北し、東軍(徳川方)

              の主力軍は、西軍(石田方)

              の主力軍に対し決戦で勝利

              を得る

              (9月15日午後2時頃)。

              ○ 9月15日午後2時頃、

               陣場野で、家康は決戦勝利 。

 

                 ■ 「史実(新説)関ヶ原の戦い

              (= 大垣・山中の戦い)」の決戦

              での、東軍(徳川方)の 主力軍

              の動き

              ● 東軍(徳川方)の主力軍

               (先手勢の福島組勢と家康

               の徳川本隊) は、

              @ 東軍(徳川方)の主力軍は、

               1600年(慶長5年)9月15

               日早朝に、大垣エリアの美濃

               赤坂(みのあかさか)付近 

               (関ヶ原盆地の東方)を出発

               (1600年(慶長5年)

                9月15日早朝)⇒

              ○ 徳川家康は、

               9月15日早朝に、

               大垣エリアの美濃赤坂

               付近で、東軍(徳川方)

               を3つに分ける。

              ○ 東軍(徳川方)

               家康と徳川本隊は、

               関ヶ原盆地南西部 と

               山中村 (やまなかむら、

               関ヶ原盆地の西方・約2km)

               に向かう。

              ○ 東軍(徳川方)

               先手勢の池田組勢は、

               大垣エリアの南宮山(なんぐ

               うさん、関ヶ原盆地の東方)

               の前面に向かい、布陣する。

              ○ 東軍(徳川方)

               先手勢の福島組勢は、

               山中村 (やまなかむら、

               関ヶ原盆地の西方・約2km)

               に向かう。

              A 東軍(徳川方)の主力軍は、

               9月15日の午前10時頃から

               正午頃まで、山中村 (やま

               なかむら、関ヶ原盆地の西方・

               約2km)で、西軍(奉行衆・毛

               利方)の主力軍と交戦(決戦を

               行う)

               (9月15日の午前10時頃

               〜正午頃)⇒

              B 9月15日正午頃に、

               西軍(奉行衆・毛利方)の主力

               軍が、総崩れとなり、敗走、

               敗戦し、東軍(徳川方)の主力

               軍は、山中村で、西軍(奉行

               衆・毛利方)の主力軍に対し

               決戦で勝利を得る

               (9月15日正午頃)。

 

#mora

 

 もり  盛子。

            (もりこ・せいし)。  《人名》。

         (= 平盛子)。

         ○ 平清盛の四女。

         ○ 摂政・関白近衛基実の 正室

          夫人。

         (⇒ 平清盛)。

 

 もり  森 長可。

            (もり ながよし)。 《人名》。

         (1558年−1584年)。

          MORI Nagayoshi.

                   ○ 織田氏重臣。

             ■ 森 長可 (もり ながよし、1558年−

             1584年)は、  織田氏重臣であり、織田

             信長の重臣である。

             ● 森 長可は、 安土桃山時代の武将で

             あり、 織田信長に仕(つか)え、 美濃金

             山城主であった。

             ● 森 長可は、 武田氏滅亡後、1582年

             に北信濃を領し、信長の上杉景勝攻めを

             担当したが、本能寺の変で信長が自害し、

             窮地に追い込まれ、1582年に美濃に戻

             る。 

               その後、森 長可は、羽柴(豊臣)秀吉

             に仕え、1584年の小牧・長久手(こまき・

             ながくて)の戦いで戦死する。

 

 もり  森の石松

            (もりのいしまつ)。 《人名》。

         ○ 清水次郎長(しみずのじろちょう)

              の子分。

 

 もり  守仁親王 。

             (もりひとしんのう)。 《人名》。

                         (= 二条(にじょう)天皇) 。

         ○ 後白河天皇の皇子(みこ)、六

          条天皇の父。

         ○ 天皇時、父の後白河天皇と

          朝廷の実権をめぐり対立する

          (平治の乱の一因となる)。 

         (⇒ 平治の乱)。

 

 もり  傅役

            (もりやく)。 《役職》。

         (= 「上層階層者の子」 の教育係)。 

                ○ 例えば、平手政秀 (ひらてまさひ

          で)は、 織田信長の傅役(もりやく)。

            ■ 傅役 (もりやく)は、 前近代日本の、

            上層階層者の子の教育係である。

              例えば、平手政秀(ひらてまさひで)は、 

            織田信長の傅役(もりやく)である。

 

 もり  護良親王。 

            (もりよししんのう、もりながしんのう)。

         (= 大塔宮(おうとうのみや、だいと

                         うのみや) 《人名》。

                後醍醐天皇の皇子。

                建武政権で、征夷大将軍。

           (⇒ 後醍醐天皇

           (⇒ 建武政 権建武の

        新政足利尊氏

 

 もり  森 蘭丸

            (もり らんまる)。 《人名》。

         (= 森 成利 もり なりとし)。

         (1565〜1582年)。 

         ○ 織田信長の側近、信長の奏

          者(そうじゃ)や奉行として活躍 。

                   ○ 京(都)の本能寺の変で、信

          長に殉(じゅん)じた 。

 

〇 もれ  母礼。

             (もれ)。

              (⇒ 阿弖流為

          坂上田村 麻呂)。

                   ○ 奈良時代末期平安時代初期

          の蝦夷(えぞ、東北地方)の英雄の

          武人。

                   ○ 阿弖流為(あてるい)と共に、蝦

          夷討伐の朝廷軍の坂上田村麻呂

         らと戦う。

 

〇 もん  文。

            (もん)。 《貨幣単位》。

                    (⇒ 文単位定位(定額)通

                    貨幣日本流通貨幣)。

          ○ 江戸時代の、定位(定額)貨幣

           単位 (両、分、朱、文)の1つ。

             ●  1両小判 (金)≒4分≒16朱

              4000文≒ 現在の約10万円

 

〇 もん  門院。 

            (もんいん) 。  《身分・地位》。

          (= 女院称号の2形式(○○院、ま

          たは○○門院)の1つ)。

            (⇒ 女院)。

            ○ 朝廷より、院(上皇、元天皇)に

          準ずる待遇を受けた女性。

          ○ 女院は、天皇家の后妃、天皇生

          母、内親王(ないしんのう)、准母(じゅん

             ぼ、名目的義母)等の中で女院の尊

          称を贈られた女性。

 

〇 もん  モンゴロイド。

            (= アジア人種)。 《 人種》。

         (人類学上の分類・特徴)。

             THE MONGOLOID.

         ○ 古モンゴロイド(= 南方モンゴ

         ロイド) と、 新モンゴロイド(= 北

         方モンゴロイド) の2つのグルー

         プのモンゴロイド。

             ■ モンゴロイドは、 現生人類(= 新人、ホ

             モ・サピエンス)の、容姿・外見(体色・体型)

             による、人種分類グループの1つである。

             ● モンゴロイドは、 約4万年前にアジア南

            東部で出現した、古モンゴロイド(= 南方 モ

            ンゴロイド) と、 約2万年前にシベリア東

            部で出現した、新モンゴロイド(= 北方モン

            ゴロイド)の2種類の人類に分類される。

             ●  アフリカ大陸を約7万年前に出発した、

            現生人類(= 新人、ホモ・サピエンス)は、約

            5〜4万年前に、アジア南東部(東アジア南

            部、東南アジア北部)に到達し、そこで容姿・

            外見(体色・体型)に変化を起こし、約4万年

            前に、モンゴロイドの古モンゴロイドの人々

            が出現した。

              日本人も、人種的に、モンゴロイドに属

            する。

             ●  アジア大陸から先に、約12000年前か

            ら縄文時代に、日本地域へ移動し てきた、古

            モンゴロイド(= 南方 モンゴロイド)の人々は、

             日本地域(日本本土、南西諸島、北海道)で

            「縄文人」、「縄文系」の人々となり、 アジア

            大陸から後から、約2400年前から弥生時

            代前期に、日本本土へ移動してきた、新モン

            ゴロイド(= 北方モンゴロイド)の人々は、日

            本本土で、「渡来系弥生人」、「弥生渡来系」

            の人々となり、 古代日本後期(奈良・平安

            時代)に、古・新モンゴロイドの「縄文系」

            「弥生渡来系」が、日本本土で混血して、「本

            土日本人」(現在のほとんどの日本人)とな

            る。

            ■ モンゴロイドへの進化表。

                化石類人猿(= 中新世ホミノイド)⇒ 

              人類の、猿人⇒ 原人(= ホモ・エレクト

              ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類

              ⇒ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス

              (種))⇒ モンゴロイド古モンゴロイ ド

              = 南方モンゴロイド)⇒ モンゴロイド

              モンゴロイド= 北方モンゴロイド)。

             ■ 日本人(人種)への進化表。

               化石類人猿(= 中新世ホミノイド)⇒ 

             人類の、猿人⇒ 原人(= ホモ・エレクト 

             ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類

             ⇒ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス

             (種))⇒ モンゴロイド⇒ 縄文人⇒ 

             弥生人⇒ 古代日本人⇒ 本土日本人

             (= 本土人)、 「琉球人」、「アイヌ人」。

             ■ 現代日本人(人種)への進化表。

               化石類人猿(= 中新世ホミノイド)⇒ 

             人類の、猿人⇒ 原人(= ホモ・エレクト

             ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類

             ⇒ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス

             (種))⇒ モンゴロイド⇒ 縄文人⇒ 

             弥生人⇒ 古代日本人⇒ 中世日本人 

             ⇒ 近世日本人⇒ 近代日本人 

             現代日本人

         (⇒ モンゴロイド

          (古人類学辞典))。

         (⇒ 人種)。

         (⇒ 古モンゴロイド

          (= 南方モンゴロイド))。

           (⇒ 縄文系縄文 人)。 

         (⇒ モンゴロイド

          (= 北方モンゴロイド))。

           (⇒ 弥生渡来系

            渡来系弥生人)。

           (⇒ 日本人)。 

           (⇒ 原日本人)。

           (⇒ 本土日本人(= 本土人))。 

         (⇒ 日本人ルーツ・

            ガイドブック)。

 

〇 もん  文銭銅・鉄貨

             (もんせんどうてっか)。

          (= 文銭貨、文銭)。

          《日本流通貨幣》。

                    (江戸時代の日本流通貨幣)。

             THE COPPER AND STEEL 

             COINS OF THE MON UNIT.

          ○ 江戸時代の文(もん)単位の

            銅貨・鉄貨。

          (⇒ 文単位定位(定額)通常貨幣) 。

           (江戸時代の日本流通貨幣)。

           (日本流通貨幣)。 

             ■ 文銭銅・鉄貨 (= 文銭貨、文銭)

             <江戸時代・定位(定額)通常貨幣。

             <江戸時代・日本流通貨幣。

             <近世・日本流通貨幣。

             <日本流通貨幣。

             ● 江戸時代の、定位(定額)通常貨幣

             穴あき円形「文銭銅・鉄貨」。

              ● 百文銭銅貨(= 天保銭)、十文銭銅貨、

              四文銭銅・鉄貨、一文銭銅・鉄貨、の4種

             類。

             ● 江戸時代の、江戸幕府鋳造(発行)の

             定位(定額)貨幣・3グループ (両金貨

             (りょうきんか)、 分朱金銀貨(ぶしゅき

             んぎんか)、 文銭銅・鉄貨(もんせん・ど

             うてっか) の1グループ。

              ● 一文銭銅・鉄貨(1種)は、 一両小判

             金)(11種) 、1分金(いちぶきん)(11

             種)と共に、江戸 時代の定位(定額)通常

             貨幣の中心通貨として、使用された。 

                ● 江戸時代の、江戸幕府鋳造(発行)の

             定位(定額) 通常貨幣・13種類 (五両判

             (金)、一両小判(金)、二分金、一分金、

             二朱金、一朱金、一分銀、二朱銀、一朱銀、

             百文銭銅貨(= 天保銭)、十文銭銅貨、

             四文銭銅・鉄貨、一文銭銅・鉄貨) のうち

             の4種類。

 

〇 もん  文単位定位(定額)通常貨幣

             (もんたんいていい(ていがく)つうじょうかへい)。

          《日本流通貨幣》。

                    (江戸時代の日本流通貨幣)。

          ○ 江戸時代の、江戸幕府鋳造の、

          文単位定位定額)通常貨幣

          (⇒ 江戸時代の日本流通貨幣)。

          (⇒ 日本流通貨幣)。

           ● 1文≒現在の 約25円。 

          (4000文≒1両小判≒4分≒16朱

          ≒4000文≒現在の約10万円) 。

             ■ 江戸時代の文単位定額(定位)通常貨

             幣には、

             寛永通宝一文銭銅貨・鉄貨、

             寛永通宝四文銭銅貨・鉄貨、

             文久永宝四文銭銅貨、 

             宝永通宝十文銭銅貨、

             天保通宝百文銭銅貨 

             などの穴あき文銭銅・鉄貨があった。

          

 

 

 

   ● 五十音順 (アイウエオ順)。

 

   ■  『 現在は、過去の成果であり、

       未来は、現在の成果である。 

 

 

 

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#mo

 

#morihidemoto

 

■ 毛利 秀元。 

     (もうり ひでもと)

 

■ 毛利秀元。

■ 名称 : 毛利 秀元 (もうり ひでもと)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 02216。

 

□ 「 新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山

   中の戦い)」 画像アルバム No.2

□ 「従来説(伝説)関ヶ原の戦い」画像

   アル バム No.3 

 

 

■ 関 ヶ原の戦い(従来説、新説共通)。

 ■ 「従来説(伝説)の関 ヶ原の戦い」や

   「新説の関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦

   い)」で、 西軍の毛利秀元は、関ヶ原盆地

   の東方向にある南宮山 (なんぐうさん)に

   1600年(慶長5年)9月上旬より9月15

   日まで、東軍と戦うため、西軍の毛利勢の

   軍を率いて、本陣(陣地)を置いた。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 従来説(伝説)の関 ヶ原の戦い。

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、

   1600年(慶長5年)9月15日の関ヶ原の

   戦い(午前8時頃〜午後2時頃)で、西軍

   の毛利秀元は、 毛利勢の軍を動かさず、

   合戦を静観していたとされる。

      西軍の毛利秀元は、 南宮山(なんぐ

   うさん)東側に布陣し、 徳川家康は、南宮

   山(なんぐうさん)西側に布陣し、即ち、16

   00年(慶長5年)9月15日の朝から午前 

   10時頃まで、南宮山(なんぐうさん)西側

   にある桃配山(ももくばりやま、家康最初陣

   地)に布陣し、 9月15日に、西軍の毛利

   秀元と東軍の徳川家康は、戦わなかった。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 新説の関ヶ原の戦い。

   ■ 一方、 新説関ヶ原の戦い(= 大垣・

   山中の戦い)」では、 大垣の戦い(1600

   年(慶長5年)8月26日ー9月15日)で、

   第1段階として、大垣城の攻防戦で、16

   00年(慶 長5年)8月26日から 9月13日

   まで、東軍の徳川方 の先手勢の福島勢・

   池田勢の豊臣恩顧大名の軍・約4万人の

   兵は、美濃 赤坂(みのあかさか)付近に

   布陣し、 西軍の奉行衆・毛利方の拠点

   の大垣城(おおがきじょう)の大垣城籠城

   衆(駐留軍) ・約3万3500人の兵を攻め、

   大垣城の攻防 戦を行うが、大垣城は落

   城せず。 一方、1600年(慶長5年)9月

   7日に、南宮山 (なんぐうさん)に、西軍

   奉行衆・毛利方の大垣城後詰軍の毛利勢・

   約1万3000 人の兵が布陣する。

      第2段階として、西軍の奉行衆 ・毛利

   方大垣城後詰軍の毛利勢・約1万3000

   人の兵を降参させ大垣城を孤立させるた

   め、1600年(慶 長5年)9月14日に、 東

   方から来た東軍 の徳川方の徳川家康は、

   徳川本隊・約3万2000人 の兵(井伊直政・

   本多忠勝・家康馬廻り衆等の軍)と共に、

   美濃赤坂(みのあかさか)に布陣し、  

   軍 の徳川方の徳川家康と徳川本隊や

   川方の先手勢の福島勢・池田勢は、南宮

   山の西軍 の奉行衆・毛利方の大垣城

   後詰軍の毛利勢と対峙し、南宮山布陣の

   西軍の奉行衆・毛利方 の毛利勢は、 強力

   な東軍の徳川方・合計約7万2000人の

   兵の大軍に恐れをなし戦わず。 

       その後、第3段階として、9月15日

   に南宮山の前面に残留する東軍の池田

   勢に行く手を阻まれ、西軍主力軍の援軍

   に駆けつけられなかった。 そして、9月

   15日に、山中(やまなか)での決戦で西

   軍 (奉行衆方)の敗北を知り、南宮山の

   西軍(奉行衆方)の毛利勢は戦場を離脱し、

   東軍(徳川方)は勝利を得た。  

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 新説の関ヶ原の戦い。

   ■ 新説関ヶ原の戦いでは、 1600年(慶長5年)

   9月に、美濃赤坂(みのあかさか)エリアには、

   既に、東軍の徳川方の先手勢(豊臣恩顧の大名)

   約4万人の兵がいた。

      1600年(慶長5年)9月14日に、徳川家康の

   率いる東軍の徳川方の徳川本隊・約3万2000人

   の兵が美濃赤坂エリアに到着した。

      1600年(慶長5年)9月14日に、南宮山(なん

   ぐうさん)に布陣し、約1万3000人の兵を率いる

   西軍の奉行衆・毛利方の毛利秀元(もうりひでもと)

   は、美濃赤坂エリアにいる、東軍の徳川方の先手

   勢・約4万人の兵(福島勢・約1万9000人の兵と

   池田勢・約2万1000人の兵) と 東軍の徳川方

   の徳川本隊・約3万2000人の兵の東軍の徳川方・

   計約7万2000人の兵を、南宮山から見た。 

   そして、西軍の奉行衆・毛利方 の毛利秀元は、

   宮山の陣より、野戦に強い東軍の徳川方の大軍

   を見て、西方からの西軍の援軍を待つことにし、

   東軍の徳川方と戦いを避け、動かなかった。

      更に、1600年(慶長5年)9月15日も、約

   1万3000人の兵を率いる南宮山布陣の西軍の

   奉行衆・毛利方の毛利秀元は、 徳川方の先手

   勢の池田勢・約2万1000人の兵が南宮山の前

   面に残留し、行く手を阻み、西軍の主力軍・約3

   万人の兵の援軍に駆けつけられず、 関ヶ原盆

   地・山中(やまなか)方面に出陣した東軍の徳川

   方の主力軍・約5万1000人の兵を挟み撃ちに

   できなかった。

             大垣城(おおがきじょう)を出た西軍の奉行

   ・ 毛利の主力軍・約3万人の兵は、 南宮

   布陣の 毛利軍の後詰(ごずめ)として、西方の

   山中(やまなか)に布陣し、東方の南宮山布陣の

   西軍の毛利秀元の約1万3000人の兵と協力し、

   関ヶ原盆地や山中に出てきた東軍の徳川方の

   主力軍・約5万1000人の兵 (徳川本隊・約3

   万2000人の兵と福島勢・約1万9000人の兵

   を挟み撃ちにしようと考えていた。

      しかし、1600年(慶長5年)9月15日に、

   東方の南宮山布陣の西軍の毛利秀元は、 東軍

   の徳川方の先手勢の池田勢に行く手を阻(はば)

   まれて、動けなかった。 このため、西軍の奉行

   ・ 毛利南宮山の毛利秀元の援軍もなく、

   西軍の奉行・毛利の主力軍・約3万 の兵

   は、山中(やまなか)での決戦で、一方的に攻め

   られ、総崩れとなり、その結果、西軍の奉行衆

   毛利の 主力軍は、 東軍の徳川方の主力軍に

   敗北した。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#themongolianinvasiontojapan

 

◆ 蒙古襲来。 

     (もうこしゅうらい)。 

     (= 元寇)。

     (= 文永・弘安の役)。

 

■ 蒙古襲来。 

 

■ 名称 : 蒙古襲来 (もうこしゅうらい)。

● 別名 : 元寇 (げんこう)、

  文永・弘安の役 (ぶんえい・こうあんのえき)。

 

■ 《外国の侵略》。

 

■ 時期 : 13世紀後半の、1274年(文永11年) 

  と 1281年(弘安4年)。 

 

■ 蒙古襲来は、

  鎌倉時代の、2度にわたるモンゴル軍の来襲で

  ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 82239。

         

 

 □ 蒙古襲来(= 元寇、文永・弘安の役)

     場する、興味深い、 ドキュメン

      タリー、ド ラマ、映画

 

 

■  蒙古襲来 (もうこしゅうらい)とは、 元寇 (げん

  こう)であり、  文永・弘安の役(ぶんえい・こうあん

    のえき) である。

 

● 蒙古襲来(= 元寇、文永・弘安の役)は、13世紀

  後半の1274年( 文永の役)、1281年(弘安の

  役)に起こった。

             

● 蒙古襲来(= 元寇、文永・弘安の役)は、鎌倉時代

  の、2度にわたるモンゴル軍来襲である。

             

 

■ 蒙古襲来(= 元寇、文永・弘安の役)とは、 モン

  ゴル軍の日本侵略のことである。

    蒙古襲来(= 元寇、文永・弘安の役)は、 鎌倉

  時代の、 2度にわたる、モンゴル軍の来襲事件

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 蒙古襲来(= 元寇、文永・弘安の役)の第1回目

  の来襲は、 1274年(文永11年)で、文永(ぶん

  えい)の役である。

■ 蒙古襲来(= 元寇、文永・弘安の役)の第2回目

  の来襲は、 1281年(弘安4年) で、弘安(こう

  あん)の役である。

 

■ モンゴル帝国 (後、中国の元朝)の、フビライ 

  は、 1268年以来、日本の入貢(にゅうこう) 

  (日本が属国になること) を求めたが、 鎌倉

  幕府の執権・北条時宗は、これを拒否した。 

        元軍が 日本の北九州に攻めてきたが、2

  度とも、失敗した。 更に、元は、3度目の遠征を

  企てたが実現しなかった。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 戦費、警備費による幕府財政の破綻(はたん)や

   御家人の窮乏(きゅうぼう)は、 鎌倉幕府の衰亡

    の原因の1つとなった。

 

■ 文永の役。

    文永の役(第1次来襲)では、1274年(文永

  11年)に、モンゴル軍(朝鮮の高麗人兵主体)は、

  日本の武士団と戦い、日本の鎌倉幕府軍を破り、 

  日本の北九州・博多に上陸し、勝利をおさめたが、 

  そのままに日本に留まらず、すぐ、日本を引き揚

  げてしまった。 

     戦いに勝ち日本を長期占領せずモンゴル軍

  がすぐ引き揚げてしまった原因は、 攻撃時期が

  晩秋であり、冬になると風向きが北から南に吹き

  帆船が北方の朝鮮半島に引き返せなくなるため、

  モンゴル軍(朝鮮の高麗人兵主体)は、すぐ朝鮮

  半島に引き揚げる必要があったとする説が有力

  である。

 

■ 弘安の役。

     弘安の役(第2次来襲)では、1281年(弘安

  4年)に、モンゴル軍は、2つの軍(約4万人の東路

  軍と約10万人の江南軍)をつくり、 先に、約4万

  人のモンゴル軍の東路軍(朝鮮の高麗人兵主体)

  は、6月に北九州の博多湾に入ったが、日本の鎌

  倉幕府軍の防塁に阻まれ上陸できず、隠岐沖に

  退き、江南を待つ。 

     東路軍(朝鮮の高麗人兵主体)の船団は、7

  月に遅れたやって来たモンゴル軍の約10万人の

  江南(中国 の漢人・南宋人兵主体)の船団と 

  日本の北九州の平戸沖で合流し、両軍が、本格

  的に日本の北九州を攻め、日本軍の武士団と戦

  う予定であったが、 (うるう)7月1日に当時の

  強力台風の暴風雨におそわれ、大船団は、壊滅

  的打撃を受け多くの船・兵士を失い、更に残存勢

  力の船・兵士も日本の鎌倉幕府軍に攻撃され、

  日本から引き揚げた。

  

 

#themongolianinvasiontojapan-appearingscenes

 

♪♪ 蒙古襲来(= 元寇、文永・弘安の役)

    登場する、興味深い、 ドキュメン

    タリー、ドラマ、映画。

 

 ★ 蒙古襲来(= 元寇、文永・弘安の役)

    連の、興味深いドキュメンタリー。 

 

 ■ にっぽん!歴史鑑定 

   『 日本存亡の危機!元寇の真実 』。  

      (TBSテレビの2017年(平成29年)11月

     20日・本放送・歴史ドキュメンタリー番組)。

 

  ■ 蒙古来襲(= 元寇、文永・弘安の役)を詳しく

    描く。

 

 

 ★ 蒙古襲来(= 元寇、文永・弘安の役)

    関連の、興味深いドラマ、映画。 

 

  ● (注意) ドラマ、映画は、フィクションです。 

    歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

    と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

    また、 現代 風にアレンジしてあります。

 

 ■ 『 北条時宗 (ほうじょうときむね) 』 。 

      (NHKテレビの2001年大河ドラマ)。

 

  ■ 鎌倉時代中期の活躍人物、風習、建築物、

    社会状況を描く。

 

  ■ 北条 時宗の生涯 や 蒙古襲来(= 元寇、

    文永・弘安の役)時の時宗の活躍を描いた、

    テレビドラマ。

 

   

    ○ ドラマに登場する北条時宗。

    ○ ドラマ関連の書籍販促のPRフォト。

 

  ■ NHK大河ドラマ 『北条時宗』の主な登場人物

    と 出演者名。

 

  ● 北条 時宗 (ほうじょう ときむね、鎌倉幕府

    執権、北条得宗家当主) :

    和泉 元彌 (いずみ もとや)。

 

  ● 祝子 (のりこ、堀内殿、時宗の正室夫人):

    西田 ひかる (にしだ ひかる)。

 

  ● 平 頼綱 (たいらの よりつな、時宗側近、

    北条得宗家内管領): 

    北村 一輝 (きたむら かずき)。

 

  ● 北条 時頼 (ほうじょう ときより、時宗の父):

    渡辺 謙 (わたなべ けん)。 

 

  ● 涼子 (あきらこ、葛西殿、時宗の生母、

    時頼の正室夫人) :

    浅野 温子 (あさの あつこ)。

 

  ● 北条 宗政 (ほうじょう むねまさ、時宗

    の同母弟):

    比留間 由哲 (ひるま よしのり)。

 

  ● 讃岐局 (さぬきのつぼね、時輔の生母、

    北条時頼(時宗の父)の側室夫人):

    篠原 涼子 (しのはら りょうこ)。

 

  ● 北条 時輔 (ほうじょう ときすけ、時宗

    の異母兄):

    渡部 篤郎 (わたべ あつろう)。 

 

  ● 祥子 (しょうこ、北条 時輔の夫人):

    ともさか りえ。 

 

  ● 安達 泰盛 (あだち やすもり、祝子の兄): 

    柳葉 敏郎 (やなぎば としろう)。

 

  ● 梨子 (りんこ、安達泰盛の夫人) :

    牧瀬 里穂 (まきせ りほ)。

 

  ● 謝国明 (しゃこくめい、博多の商人) 

    北大路 欣也 (きたおうじ きんや)。

 

  ● 佐志 房 (さし ふさし、水軍・松浦党の

    頭領):

    藤 竜也 (ふじ たつや)。

 

  ● 桐子 (とうこ、佐志 房の養女、足利泰氏の

    隠し子) :

    木村 佳乃 (きむら よしの)。

 

  ● フビライ (モンゴル帝国第5代皇帝、中国・

    元朝初代皇帝):

    バーサンジャブ。

 

  ● マルコ・ポーロ (ベネチア商人、フビライ家臣) 

    ダリオ・ボニッスイ。

 

  ● 宗尊 親王 (むねたか しんのう、鎌倉幕府・

    第6代将軍) :

    吹越 満 (ふきこし みつる)。

 

 

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#moritakachika

 

◆ 毛利 敬親。 

     (もうり たかちか)

 

■ 毛利敬親。

■ 名称 : 毛利 敬親 (もうり たかちか)。

 

■ 藩主在任: 1836年〜1869年。

■ 生没年: 1819年〜1871年。

 

■ 毛利 敬親は、

   幕末、明治時代初期の長州藩の藩主である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 41625。

 

 

 ■ 毛利 敬親。 

 

  ■ 毛利 敬親 (もうり たかちか、藩主在任:

    1836年〜1869年、生没年: 1819年

    〜1871年)は、 長州藩藩主である。

 

  ■ 幕末、明治初期では、 長州藩の藩主は、 

    毛利 敬親 (もうり たかちか、藩主在任:

    1836年〜1869年) と、 毛利 元徳 

    (もうり もとのり、主在任:1869年〜

    1871年)  である。

       毛利元徳は、 養父・毛利敬親の隠居

    (いんきょ)により、藩主となる。 

       1869年(明治2年)から1871年(明

    治4年)までの、長州藩の実権は、毛利元徳

    の養父の毛利敬親が握っていた。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 毛利 敬親。 

 

  ■ 長州藩 (ちょうしゅうはん)とは、

    ほぼ山口県の地 域に、 江戸時代初期から

    明治時代初期まで存在した、(はん) であ

    る。

 

  ■ 長州藩は、 

    江戸時代、長門国(ながとのくに)と周防国(す

    おうのくに)領有した(領国とした)、外様大名

    (とざまだいみょう)の毛利氏(もうりし)を藩主

    とする藩である。

        長州藩は、 毛利(もうり)氏当主が、代々、

    藩主(はんしゅ)を務(つと)めた藩である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 毛利 敬親が登場する興味深 い、

    ドキュメタンリー、ドラマ、 映画。

 

 ★ 毛利 敬親が登場する興味深い、

    ドラマ、映画。

 

  ● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

    歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

    実) と 架空の出来事が 混じって描かれ

    ています。 また、 現代風にアレンジしてあ

    ります。

 

 ■ 『 花燃ゆ (はなもゆ) 』 。 

     (NHKテレビの2015年大河ドラマ)。

 

  ■ 日本の明治維新、幕末、明治時代の時代

    状況やその時代に活躍した人々を描く。

 

  ● 毛利 敬親(長州藩藩主)を演じた俳優 : 

     北大路 欣也。

 

  ● 吉田 松陰 (吉田 寅次郎)を演じた俳優 :   

    伊勢谷 友介 (いせや ゆうすけ)。

 

  ● 木戸孝允 (桂小五郎) を演じた俳優 :   

     東山 紀之 (ひがしやま のりゆき)。

        木戸 孝允 (きど たかよし、桂 小五郎

    (かつら こごろう))は、  藩校明倫館の教授

    の吉田松陰から兵学などを学ぶ

 

  ● 高杉晋作を演じた俳優 :   

     高良 健吾 (こうら けんご)。

        高杉晋作(たくすぎしんさく)は、吉田

    松陰の松下村塾の塾生の1人である。

 

  ● 久坂玄瑞を演じた俳優 :  

    東出 昌大 (ひがしで まさひろ)

       久坂玄瑞 (くさかげんずい)は、文(ふ

    み、吉田 松陰の妹)の1番目の夫である。 

 

  ● 楫取 素彦 (小田村 伊之助)を演じる俳優 : 

    大沢 たかお (おおさわ たかお)。

        楫取 素彦 (かとり もとひこ、小田村

    伊之助(おだむら いのすけ))は、 文(ふ み

    吉田 松陰の妹)の2番目の夫である。 

 

 

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#thecopperandironcoinsofthemonunit

 

■ 文銭銅・鉄貨 

    (もんせんとうてっか)

 

■ 文銭銅・鉄貨。

■ 名称 : 文銭銅・鉄貨 (もんせんどうてっか)。

● 別名 : 文銭 (もんせん)。

● 英語名 : THE COPPER AND IRON 

   COINS OF THE MON UNIT.

 《日本流通貨幣》。

   江戸時代の日本流通貨幣。

 江戸時代の文(もん)単位の銅貨・鉄貨。

■ 江戸幕府が鋳造・発行した、江戸時代の、

  文単位の定位(定額)・通常貨幣、穴あき

  円形「文銭銅・鉄貨」

■ 百文銭銅貨(= 天保銭)(1種)、 十文銭銅貨

  (1種)、 四文銭銅・鉄貨(2種)、 一文銭銅・

  鉄貨(1種) の4種類。

■ 百文銭≒現在の約2,500円。

   十文銭≒現在の約250円。

     四文銭≒現在の約100円。

   一文銭≒現在の約25円。

   一両小判(金) ≒4分 ≒16朱 ≒4000文 

  (4貫文) ≒ 現在の約10万円。

■ 文銭銅・鉄貨 (= 文銭)

  <江戸時代・定位(定額)通常貨幣。

  <江戸時代・日本流通貨幣。

  <近世・日本流通貨幣。

  <日本流通貨幣。

■ 江戸時代の文単位貨幣については、「文単位

  定位(定額)通常貨幣」を参照してください。

■ 江戸時代の貨幣の全体については、「江戸時代

  の日本流通貨幣」を参照してください。

■ 日本の流通貨幣の全体については、「日本流通

  貨幣を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61725。

 

 

■ 文銭銅・鉄貨。

■ 文銭銅・鉄貨 ( もんせんどうてっか)とは、 江戸

  時代の日本流通貨幣であり、 江戸時代の、文

  (もん)単位の銅・鉄貨である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 文銭銅・鉄貨は、 江戸幕府が鋳造・発行した、江

  戸時代の、文(もん)単位の定位(定額)・通常貨幣

  であり、 穴あき円形「文銭銅・鉄貨」 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 文銭銅・鉄貨 (もんせんどうてっか)の別名は、

  文銭 (もんせん) である。

 

■ 文銭銅・鉄貨の英語名は、 THE COPPER 

   AND IRON COINS OF THE MON 

   UNIT である。

 

■ 文銭銅・鉄貨は、 江戸時代の、江戸幕府鋳造

  (発行)の定位(定額)貨幣・3グループ (両金

  貨(りょうきんか)、 分朱金銀貨(ぶしゅきんぎ

  んか)、 文銭銅・鉄貨(もんせん・どうてっか)の

  1グループ である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 一文銭銅・鉄貨(1種)は、一両小判金)(11種) 、

  一分金(いちぶきん)(11種)と共に、 江戸 時代

  の定位(定額)通常貨幣の中心通貨として、使用さ

  れた。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

              

■ 江戸時代に 、 文銭銅・鉄貨(文銭、文(もん)単位

  の銅・鉄貨)の、「単位 定位(定額)通常貨幣

  の、 百文銭銅貨(= 天保銭)(1種)、 十文銭銅貨

  (1種)、 四文銭銅・鉄貨(2種)、 一文銭銅・

  鉄貨(1種) の4種類の貨幣が、 江戸幕府により、

  鋳造され、流通し、日本全国で使用された。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 文銭銅・鉄貨は、 江戸幕府鋳造(発行)の、

  戸時代の定位(定額)貨幣・13種類の、五両判

  (金)(1種)、 一両小判(金)(11種)、 二分金

  (3種)、  分金(11種)、 二朱金(3種)、 

  一朱金(1種)、  分銀(2種)、 二朱銀(3種)、

  一朱銀(1種)、  百文銭銅貨(= 天保銭)(1種)、 

  十文銭銅貨(1種)、 四文銭銅・鉄貨(2種)、 

  一文銭銅・鉄貨 (1種)  のうちの4種類 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 文銭銅・鉄貨。

 文銭銅・鉄貨 は、額面別に、次の4種類がある。 

  一文銭、 四文銭 、 十文銭、 百文銭 の4種類

  ある。

 江戸時代に、文銭銅・鉄貨 (文銭、文単位の 非貴

  金属幣)の、文単位貨幣が鋳造され、 額面別に、

  一文銭(1種類)、 四文銭(2種類)、 十文銭(1種

  類)、 百文銭(1種類) の4種類の貨幣が流通し、

  使用された。

 

■ 一文銭。

     一文銭 (いちもんせん)は、 1文単位の貨幣

  で、 現在の貨幣価値は約25円で あり、 寛永通宝

  (かんえいつうほう)一文銭銅貨・鉄貨(寛永銭)の

  み1種で、 およそ寛永通宝一文銭4000枚と1両

  小判(金)とが交換された。 

     寛永通宝一文銭は、 江戸時代初期の寛永3

  年(1626年)から江戸時代幕末まで鋳造された。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 四文銭。

    四文銭(よんもんせん)は、 4文単位の貨幣で、

  現在の貨幣価値は約100円 であり、 寛永通宝

  (かんえいつうほう)四文銭銅貨・鉄貨 と、 文久

  永宝(ぶんきゅうえいほう)四文銭銅貨 の2種が

  あり、 およそ寛永通宝四文銭または文久永宝 四

  文銭1000枚と1両小判(金)とが交換された。 

     寛永通宝四文銭は、 江戸中期から幕末まで

  鋳造された。 

     文久永宝四文銭銅貨は、 4文通用の銅貨で、 

  江戸時代幕末の文久期の短期間にのみ 鋳造され

  た。

 

■ 十文銭。 

    十文銭 (じゅうもんせん)は、 10文単位の貨

  幣で、 現在の貨幣価値は約250円で あり、 宝永

  通宝(ほうえいつうほう)十文銭銅貨(宝永銭)のみ

  1種で、 およそ宝永通宝 十文銭400枚と1両小判

  (金)とが交換された。 

     宝永通宝十文銭銅貨は、 10文通用の銅貨

  で、 江戸時代中期の宝永期の短期間にのみ鋳造

  された。 

 

■ 百文銭。 

    百文銭 (ひゃくもんせん)は、 100文単位の貨

  幣で、 現在の貨幣価値は約2,500円で あり、 天

  保通宝(てんぽうつうほう)百文銭銅貨(天保銭)の

  み1種であり、 およそ天保通宝百文銭40枚 と1両

  小判(金)とが交換された。 

     天保通宝百文銭銅貨は、 100文通用の銅貨で、 

  江戸時代後期の天保期〜幕末に鋳造された。

 

 

■ 小判。

■ 1両小判(金)は、  江戸時代の基軸貨幣であり、 

  江戸時代の各時期で価値は変動したが、 現在の

  貨幣価値で約10万円 で ある。

      江戸時代に、 1両小判(金)は、およそ4分、

  1両小判(金)は、およそ16朱 1両小判(金)は、

  およそ4000文 (4貫文) と交換された。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 江戸時代の貨幣。

■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣。

 

■ 両金貨、分朱金銀貨、文銭銅・鉄貨区分の分類。

● 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣を、(1)

  金貨、(2)分朱金銀貨、(3)文銭銅・鉄貨によ

  り、3つに分類する。

■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣は、  (1) 

  両金貨の、 五両判(金)(1種)、  一両 小判

  (金)(11種)、 (2) 分朱金銀貨の、 二分金

   (3種)、分金(11種)、 二朱金(3種)、 

  一朱金(1種)、 分銀(2種) 二朱銀(3種)、

  一朱銀(1種)、  (3) 文銭銅・鉄貨の、百文銭

  銅貨(= 天保銭)(1種)、 十文銭銅貨(1種)、 

  四文銭銅・鉄貨(2種)、 一文銭銅・鉄貨(1種)  

   の3つに分類される。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 両・分・朱・文区分の分類。

● 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣を、(1)両、

  (2)分、(3)朱、(4)文(りょう、ぶ、しゅ、もん)

  により、4つに分類する。

■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣は、  (1) 

  両単位・定位(定額)・通常貨幣の、五両判(金)

  (1種)、  一両 小判(金)(11種)、 (2) 分単

  位・定位(定額)・通常貨幣の、 二分金(3種)、 

   分金(11種)、 分銀(2種)、  (3) 朱単

  位・定位(定額)・通常貨幣の、 二朱金(3種)、 

   一朱金(1種)、 二朱銀(3種)、 一朱銀(1種)、 

    (4) 銭単位・定位(定額)・通常貨幣の、 百文

     銅貨(= 天保銭)(1種)、 十文銭銅貨(1種)、 

     四文銭銅・鉄貨(2種)、 一文銭銅・鉄貨(1種) 

   の4つに分類される。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 13種類区分の分類。

● 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣を、額面、材

  質等により、13種類に分類する。

■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣は、 五両判

  (金)(1種)、  一両 小判(金)(11種)、 二分金

  (3種)、  分金(11種)、 二朱金(3種)、 

  一朱金(1種)、  分銀(2種) 二朱銀(3種)、

  一朱銀(1種)、 百文銭銅貨(= 天保銭)(1種)、

  十文銭銅貨(1種)、 四文銭銅・鉄貨(2種)、 

  一文銭銅・鉄貨(1種)  の13種類である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 江戸時代(1603年〜1868年)に、 江戸幕府

  により鋳造(発行)され、 全国に流通し、使用さ

  れた定位(定額)・通常貨幣は、 五両判(金)(ご

  りょうばん(きん))(1種)、  一両 小判(金)(いち

  りょうこばん(きん))(11種)、 二分金(にぶきん)

  (3種)、  分金(いちぶきん)(11種)、  二朱

  (にしゅきん)(3種)、  一朱金(いっしゅきん)

  (1種)、  分銀(いちぶぎん)(2種) 二朱銀

  (にしゅぎん)(3種)、  一朱銀(いっしゅぎん)

  (1種)、 百文銭銅貨(= 天保銭)(ひゃくもんせん

  どうか(= てんぽうせん)(1種)、  十文銭銅貨

  (じゅうもんせん)(1種)、 四文銭銅・鉄貨(よんも

  んせんどう・てっか)(2種)、 一文銭銅・鉄貨(い

  ちもんせんどう・てっか)(1種) の13種類である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#monunitregularmoney

 

■ 文単位・定位(定額)・ 

   通常貨幣 

    (もんたんい・ていい(ていがく)・

     つうじょうかへい)。

 

 文単位 ・定位(定額)・通常貨幣。

■ 名称 : 文単位・定位(定額)・通常貨幣 

  (もんたんい・ていい(ていがく)・つうじょうかへい)。

 文(もん)単位の定額(定位)・通常貨幣

■ 文銭(もんせん、文単位の非貴金属貨幣)。

■ 江戸幕府が鋳造・発行した、江戸時代の文単位

  定額(定位)・通常貨幣。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 江戸時代に、文単位貨幣では、 文銭(文単位の

 非貴金属貨幣)が鋳造され、 文銭額面別に、

 一文銭(1種)、四文銭(2種)、十文銭(1種)、百文

 (1種) の4種類の貨幣が 、流通し、使用された。

 江戸時代に、文(もん)単位貨幣では、 文銭(文単

 位の非貴金属貨)が鋳造され、 文銭貨幣グルー

 プ別に、 「寛永通宝一文銭銅貨・鉄貨」、 「寛永通

 宝四文銭銅貨・鉄貨」、 「文久永宝四文銭銅貨」、 

 「宝永通宝十文銭銅貨」、 「天保通宝百文銭銅貨」 

 の5種類の貨幣が流通し、使用された。

■ 百文銭≒現在の約2,500円。

   十文銭≒現在の約250円。

     四文銭≒現在の約100円。

   一文銭≒現在の約25円。

   一両小判(金) ≒4分 ≒16朱 ≒4000文 

  (4貫文) ≒ 現在の約10万円。

■ 単位 ・定位(定額)・通常貨幣

  <文銭銅・鉄貨 (= 文銭)

  <江戸時代・定位(定額)通常貨幣。

  <江戸時代・日本流通貨幣。

  <近世・日本流通貨幣。

  <日本流通貨幣。

■ 江戸時代の文銭銅・鉄貨については、「文銭銅・

  鉄貨」を参照してください。

■ 江戸時代の貨幣の全体については、「江戸時代

  の日本流通貨幣」を参照してください。

■ 日本の流通貨幣の全体については、「日本流通

  貨幣を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61725。

 

 

■ 文銭(もんせん) とは、文単位の貨幣である。

 

■ 江戸時代の貨幣。

■ 江戸時代の両・分・朱・文の定額(定位)・通常貨幣。

■ 江戸時代(1603年〜1868年)に、 江戸幕府に

 より鋳造(発行)され、 全国に流通し、 使用された

 定額(定位)・通常貨幣 は、 5両判金(1種)、 

 一両小判(金)(11種)、  二分金(3種)、  分金

 11種)、 分銀(2種)、 二朱金(3種)、 一朱金

 (1種)、  二朱銀(3種)、  一朱銀(1種)、 百文銭

 (1種)、  十文銭(1種)、 四文銭(2種)、 一文銭

 (1種) などである。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 文単位定額(定位)・通常貨幣 。

 文単位定額(定位)・通常貨幣 は、額面別に、次の

 4種類がある。 一文銭、 四文銭 、 十文銭、 百文

 銭 の4種類である。

 江戸時代に、文銭銅・鉄貨 (文銭、文単位の 非貴

  金属幣)の、文単位貨幣が鋳造され、 額面別に、

  一文銭(1種類)、 四文銭(2種類)、 十文銭(1種

  類)、 百文銭(1種類) の4種類の貨幣が流通し、

  使用された。

 

■ 一文銭。

     一文銭 (いちもんせん)は、 1文単位の貨幣

  で、 現在の貨幣価値は約25円で あり、 寛永通宝

  (かんえいつうほう)一文銭銅貨・鉄貨(寛永銭)の

  み1種で、 およそ寛永通宝一文銭4000枚と1両

  小判(金)とが交換された。 

     寛永通宝一文銭は、 江戸時代初期の寛永3

  年(1626年)から江戸時代幕末まで鋳造された。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 四文銭。

    四文銭(よんもんせん)は、 4文単位の貨幣で、

  現在の貨幣価値は約100円 であり、 寛永通宝

  (かんえいつうほう)四文銭銅貨・鉄貨 と、 文久

  永宝(ぶんきゅうえいほう)四文銭銅貨 の2種が

  あり、 およそ寛永通宝四文銭または文久永宝 四

  文銭1000枚と1両小判(金)とが交換された。 

     寛永通宝四文銭は、 江戸中期から幕末まで

  鋳造された。 

     文久永宝四文銭銅貨は、 4文通用の銅貨で、 

  江戸時代幕末の文久期の短期間にのみ 鋳造され

  た。

 

■ 十文銭。 

    十文銭 (じゅうもんせん)は、 10文単位の貨

  幣で、 現在の貨幣価値は約250円で あり、 宝永

  通宝(ほうえいつうほう)十文銭銅貨(宝永銭)のみ

  1種で、 およそ宝永通宝 十文銭400枚と1両小判

  (金)とが交換された。 

     宝永通宝十文銭銅貨は、 10文通用の銅貨

  で、 江戸時代中期の宝永期の短期間にのみ鋳造

  された。 

 

■ 百文銭。 

    百文銭 (ひゃくもんせん)は、 100文単位の貨

  幣で、 現在の貨幣価値は約2,500円で あり、 天

  保通宝(てんぽうつうほう)百文銭銅貨(天保銭)の

  み1種であり、 およそ天保通宝百文銭40枚 と1両

  小判(金)とが交換された。 

     天保通宝百文銭銅貨は、 100文通用の銅貨で、 

  江戸時代後期の天保期〜幕末に鋳造された。

 

 

 文単位定額(定位)・通常貨幣 。

 文単位定額(定位)・通常貨幣 は、貨幣グループ別

 に、次の5種類がある。 寛永通宝一文銭銅貨・鉄貨、 

 寛永通宝四文銭銅貨・鉄貨、 文久永宝四文銭銅貨、

 宝永通宝十文銭銅貨、 天保通宝百文銭銅貨 の

 種類である。

 江戸時代に、文単位貨幣では、 文銭(文単位の

 非貴金属貨)が鋳造され、 文銭貨幣グループ

 別に、 寛永通宝一文銭銅貨・鉄貨、 寛永通宝四

 文銭銅貨・鉄貨、 文久永宝四文銭銅貨、 宝永通

 宝十文銭銅貨、 天保通宝百文銭銅貨 の5種類の

 貨幣が流通し、使用された。

 

■ 寛永通宝一文銭銅貨・鉄貨 (寛永一文銭)。

 寛永通宝一文銭銅貨・鉄貨(寛永一文銭)は、一文

 銭 (いちもんせん)で、 1文単位の貨幣で、 現在

 の貨幣価値は約25円で、 およそ寛永通宝一文銭

 40 00枚と1両小判(金)とが交換された。 寛永通

 宝(寛永銭)一文銭銅貨・鉄貨は、 細分すると数

 100種があり、 江戸初期の寛永3年(1626年)か

 ら幕末まで鋳造された。

 

■ 寛永通宝四文銭銅貨・鉄貨 (寛永四文銭)。

  寛永通宝四文銭銅貨・鉄貨(寛永四文銭)は、四文

 銭(よんもんせん)で、 4文単位の貨幣で、 現在 の

 貨幣価値は約100円 であり、 およそ寛永通宝四文

 銭1000枚と1両小判(金)とが交換された。 寛永

 通宝(寛永銭)四文銭銅貨・鉄貨は、 背に波型を入

 れて、4文通用の銅貨・鉄貨とし、 細分すると10数

 種あり、江戸中期から幕末まで鋳造された。 

 

■ 文久永宝四文銭銅貨 (文久銭)。

  文久永宝四文銭銅貨(文久銭)は、 四文銭(よん

 もんせん)で、 4文単位の貨幣で、現在 の貨幣価

 は約100円であり、  およそ文久永宝1000枚と

 1両小判(金)とが交換された。  文久永宝四文 銭

 銅貨は、4文通用の銅貨で、 幕末の文久期の短期

 にのみ鋳造された。

 

■ 宝永通宝十文銭銅貨 (宝永銭)。

  宝永通宝十文銭銅貨(宝永銭)は、 十文銭(じゅう

 もんせん)で、  10文単位の貨幣で、 現在の貨幣価

 は約250円 で、 およそ宝永通宝400枚と1両

 (金)とが交換された。 宝永通宝十文銭銅貨 は、 

 10文通用の銅貨で、 江戸中期の宝永期の 短期間

 にのみ鋳造された。 

 

■ 天保通宝百文銭銅貨 (天保銭)。

  天保通宝百文銭銅貨(天保銭)は、 百文銭(ひゃく

 もんせん)で、 100文単位の貨幣で、 現在 の貨幣

 価値は約2,500円で、 およそ天保通宝40枚 と1両

 小判(金)とが交換された。 天保通宝(てんぽうつう

 ほう、天保銭)百文銭銅貨は、 100文通用の銅貨で、 

 細分すると約24種あり、 江戸後期の天保期〜幕末

 に鋳造された。

 

 

■ 小判。

■ 1両小判(金)は、  江戸時代の基軸貨幣であり、 

  江戸時代の各時期で価値は変動したが、 現在の

  貨幣価値で約10万円 で ある。

      江戸時代に、 1両小判(金)は、およそ4分、

  1両小判(金)は、およそ16朱 1両小判(金)は、

  およそ4000文 (4貫文) と交換された。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 江戸時代の貨幣。

■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣。

 

■ 両金貨、分朱金銀貨、文銭銅・鉄貨区分の分類。

● 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣を、(1)

  金貨、(2)分朱金銀貨、(3)文銭銅・鉄貨によ

  り、3つに分類する。

■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣は、  (1) 

  両金貨の、 五両判(金)(1種)、  一両 小判

  (金)(11種)、 (2) 分朱金銀貨の、 二分金

   (3種)、分金(11種)、 二朱金(3種)、 

  一朱金(1種)、 分銀(2種) 二朱銀(3種)、

  一朱銀(1種)、  (3) 文銭銅・鉄貨の、百文銭

  銅貨(= 天保銭)(1種)、 十文銭銅貨(1種)、 

  四文銭銅・鉄貨(2種)、 一文銭銅・鉄貨(1種)  

   の3つに分類される。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 両・分・朱・文区分の分類。

● 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣を、(1)両、

  (2)分、(3)朱、(4)文(りょう、ぶ、しゅ、もん)

  により、4つに分類する。

■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣は、  (1) 

  両単位・定位(定額)・通常貨幣の、五両判(金)

  (1種)、  一両 小判(金)(11種)、 (2) 分単

  位・定位(定額)・通常貨幣の、 二分金(3種)、 

   分金(11種)、 分銀(2種)、  (3) 朱単

  位・定位(定額)・通常貨幣の、 二朱金(3種)、 

   一朱金(1種)、 二朱銀(3種)、 一朱銀(1種)、 

    (4) 銭単位・定位(定額)・通常貨幣の、 百文

     銅貨(= 天保銭)(1種)、 十文銭銅貨(1種)、 

     四文銭銅・鉄貨(2種)、 一文銭銅・鉄貨(1種) 

   の4つに分類される。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 13種類区分の分類。

● 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣を、額面、材

  質等により、13種類に分類する。

■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣は、 五両判

  (金)(1種)、  一両 小判(金)(11種)、 二分金

  (3種)、  分金(11種)、 二朱金(3種)、 

  一朱金(1種)、  分銀(2種) 二朱銀(3種)、

  一朱銀(1種)、 百文銭銅貨(= 天保銭)(1種)、

  十文銭銅貨(1種)、 四文銭銅・鉄貨(2種)、 

  一文銭銅・鉄貨(1種)  の13種類である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 江戸時代(1603年〜1868年)に、 江戸幕府

  により鋳造(発行)され、 全国に流通し、使用さ

  れた定位(定額)・通常貨幣は、 五両判(金)(ご

  りょうばん(きん))(1種)、  一両 小判(金)(いち

  りょうこばん(きん))(11種)、 二分金(にぶきん)

  (3種)、  分金(いちぶきん)(11種)、  二朱

  (にしゅきん)(3種)、  一朱金(いっしゅきん)

  (1種)、  分銀(いちぶぎん)(2種) 二朱銀

  (にしゅぎん)(3種)、  一朱銀(いっしゅぎん)

  (1種)、 百文銭銅貨(= 天保銭)(ひゃくもんせん

  どうか(= てんぽうせん)(1種)、  十文銭銅貨

  (じゅうもんせん)(1種)、 四文銭銅・鉄貨(よんも

  んせんどう・てっか)(2種)、 一文銭銅・鉄貨(い

  ちもんせんどう・てっか)(1種) の13種類である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#monin

 

■ 門院 

    (もんいん)

 

■ 門院。

■ 名称 : 門院 (もんいん)。

■ 女院称号の2形式(○○院、または○○門院)

  1つ。

 朝廷より院(いん、上皇、元天皇)に準ずる待遇

  を受けた女性。

■ 女院は、天皇家の后妃(正室夫人)、天皇生母、

 内親王、准母等の中で女院の尊称を贈られた女性。

 

 

■ 女院(にょいん)とは、 天皇家の女性への尊称の

 1つであり、 朝廷より院(上皇、元天皇)に準ずる

 遇を受けた女性 である。

   女院は、 天皇家の、后妃(正室夫人、皇后、中

 宮、女御)、天皇生母、内親王(ないしんのう、天皇

 の娘)、准母(じゅんぼ、天皇の形式上の義母)等の

 中で、 女院の尊称を贈られた女性(女院を宣下(せ

 んげ)された女性)である。 

 

■ 女院は、 ○○院、または○○門院と呼ばれた。

● 女院称号(女院号)の形式は2つあり、 ○○院、

 または○○門院 である。

   門院(もんいん)は、 女院称号の1つである。 

(例)

● 八条院 

   八条院 (はちじょういん)は、 二条天皇の准母

 (じゅうぼ)で、 ワ子(あきこ)内親王(ないしんのう)

 で、 鳥羽天皇の五女、 生母は美福門院(びふくも

 んいん、藤原得子(ふじわらのなりこ)) である。

● 建礼門院 

   建礼門院 (けんれいもんいん) は、 高倉(たか

 くら)天皇の中宮 (ちゅうぐう)で、 平徳子(たいらの

 とくこ、1155〜1213年)で、 平清盛の娘、 安徳

 (あんとく)天皇の生母 である。

 

■ 女院の宣下(せんげ)は、  平安時代中期より、江

 戸時代後期まで行われた。 最初の平安時代中期の

 東三条院(一条天皇の母、962〜1001年)から、最

 後の江戸時代後期の正親町雅子(おおぎまちなおこ、

 孝明天皇の母、1803〜1856年) まで続いた。

 

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#mochihitoo

 

■ 以仁王  

      (もちひとおう) 。

 

■ 以仁王

■ 名称 : 以仁王 (もちひとおう)。 

■ 後白河法皇(ごしらかわじょうこう、後白河上皇)の第

 3皇子(みこ)。

■ 「以仁王の令旨」(もちひとおうのりょうじ)を発した。 

 

 

■ 以仁王 (もちひとおう) は、 後白河法皇(ごしらか

 わじょうこう、後白河上皇)の第3皇子(みこ) である。

 

■ 1179年に、伊勢平氏は、治承(じしょう)三年の政変

 を起こし、 後白河法皇から政治権力を剥奪する  (後白

 河院政が完全停止となる)。

■ 1180年(治承(じしょう)4年)に、平清盛及び後白河

 法皇の孫の言仁親王 (高倉天皇と平清盛の娘・平徳子

 との間の子) が、 安徳(あんとく)天皇として、幼少で

 即位し、 後白河法皇の第3皇子(みこ)の以仁王 は、皇

 位継承の見込みが無くなった。

 

■ 「以仁王の令旨

 以仁王は、 1180年(治承(じしょう)4年)に、諸国

 に伊勢平氏討伐の挙兵を求める以仁王の命令、令旨

 (りょうじ、親王の命令)、即ち、「以仁王の令旨」 (もち

 ひとおうのりょうじ) を発した。

 1180年(治承(じしょう)4年)に、 全国の源氏や大

 寺社などの全国の武家、寺社に 、伊勢平氏を討てと

 いう親王の命(めい)(= 令旨)に、源氏が決起する。

 

■ 令旨(りょうじ) は、 皇太子、三后(さんごう、皇后、

 皇太后、太皇太后)、親王(しんのう)、宮門跡(もんぜ

 き)、女院(にょいん)などの命令を下達する(伝える)と

 出す文書 である。

 

■ 以仁王は、 1180年(治承(じしょう)4年)に、「以仁

 王の令旨」(もちひとおうのりょうじ)を発し、 源氏の武

 将・源頼政と手を結び挙兵し、 伊勢平氏打倒を試みた

 が、失敗し、討死した。

 

 

♪♪ 以仁王 が登場する、興味深い関

    連ドラマ、映画、ドキュメンタリー。 

 

★ 以仁王 が登場する、興味深い関連

   ドキュメンタリー。 

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 私たち、

  草食系武士です。〜新・平家

  家族物語〜 』。 

  (NHKテレビ・2009年(平成21年)

  12月16日・本放送、第27回)。

■ 以仁王を述べる。

 

★ 以仁王が登場する、興味深い、関連

   ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクションです。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の

   事実) と 架空の出来事が、 混じって、

   描かれています。 また、現代風にアレン

   ジしてあります。

 

■ 『 平清盛 (たいらのきよもり) 』 。 

   (NHKテレビ・2012年大河ドラマ)。

■ 平安時代末期を描いたドラマで、 

  平清盛の生涯や 当時活躍した人

  物や当時の時代状況を描く

■ 以仁王を描く。

 

■ 『 義経 (よしつね) 』 。 

   (NHKテレビ・2005年大河ドラマ)。

 古代日本の平安時代末期を描いた  

  ドラマで、 源 義経(みなもとのよし

  つね)の生涯 や、 平安時代末期の

  色々な武士の活躍を描いたドラマ。

■ 以仁王を描く。

 

● 以仁王を演じた俳優名 : 岡 幸二郎。

● 源 頼政を演じた俳優名 : 丹波哲郎。

 

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#mochihitoonoryoji

 

■ 以仁王の令旨  

   (もちひとおうのりょうじ)

 

■ 以仁王の令旨

■ 名称 : 以仁王の令旨 (もちひとおうのりょうじ)。 

 

 

■ 1179年に、伊勢平氏は、治承(じしょう)三年の政変

 を起こし、 後白河法皇から政治権力を剥奪する  (後

 白河院政が完全停止となる)。

■ 1180年(治承(じしょう)4年)に、平清盛及び後白河

 法皇の孫の言仁親王 (高倉天皇と平清盛の娘・平徳子

 との間の子) が、 安徳(あんとく)天皇として、幼少で

 即位し、 後白河法皇の第3皇子(みこ)の以仁王 は、

 皇位継承の見込みが無くなった。

 

■ 「以仁王の令旨」

 以仁王(もちひとおう)は、 1180年(治承(じしょう)

 4年)に、諸国に伊勢平氏討伐の挙兵を求める以仁王

 の命令、令旨(りょうじ、親王の命令)、即ち、「以仁王

 の令旨」 (もちひとおうのりょうじ) を発した。

 1180年(治承(じしょう)4年)に、 全国の源氏

 寺大社などの全国の武家、寺社に 、伊勢平氏を討てと

 いう親王の命(めい)(= 令旨)に、 源氏が決起する。

 

■ 令旨(りょうじ) は、 皇太子、三后(さんごう、皇后、

 皇太后、太皇太后)、親王(しんのう)、宮門跡(もんぜ

 き)、女院(にょいん)などの命令を下達する(伝える)と

 出す文書 である。

 

 

♪♪ 以仁王の令旨 が登場する、面白く、

 興味深い関連ドラマ、映画、ドキュメンタリ

 ー。 

 

★ 以仁王の令旨 が 登場する、面白く、

 興味深い関連ドキュメンタリー。 

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 私たち、草食系

 武士です。〜新・平家家族物語〜 』 

  (NHKの2009年(平成21年)12月16日本放送、

  第27回)。

 

★ 以仁王の令旨 が登場する、面白く、興

 味深い、関連ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 歴史

 のドラマ、映画 は、史実(歴史上の事実) と 架空の

 出来事 が 混じって描かれています。 また、 現代

 風にアレンジしてあります。

 

■ 『 平清盛 (たいらのきよもり) 』 

 (NHK2012年大河ドラマ)。

● 平安時代末期を描いたドラマで、 平清盛の生涯や

 当時活躍した人物や当時の時代状況を描く

 

■ 『 義経 (よしつね) 』 

 (NHK2005年大河ドラマ)。

● 古代日本の平安時代末期を描いたドラマで、 源 義 

 経(みなもとのよしつね)の生涯 や、 平安時代末期の

 色々な武士の活躍を描いたドラマ です。

● 以仁王を演じた俳優名 : 岡 幸二郎。

● 源 頼政を演じた俳優名 : 丹波哲郎。

 

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#moriyaku

 

  傅役 

     (もりやく)。

 

■ 傅役。

■ 名称 : 傅役 (もりやく)。 

■ 時期 : 前近代日本。

■ 「上層階層者の子」の教育係。 

■ 例として、平手政秀 (ひらてまさひで)は、上層

  階層者の織田信秀の子の織田信長の 傅役。

 

 

■ 傅役 (もりやく)は、 前近代日本の、 「上層階層

   者の子」の教育係である。 

 

■ 前近代日本では、 「上層階層者の子」の役 

  は、 「上層階層者の子」の成人後、 乳母(うば、

  めのと)や乳母の子と並び、 その「上層階層者の

  子」側近として、重要な働きをした。

 

■ 傅役の例として、「上層階層者・織田信秀の子」の

  織田信長の守役として、平手政秀(ひらてまさひで) 

  などがいる。

 

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#moriranmaru

 

■ 森 蘭丸  

       (もり らんまる) 

        (= 森 成利)

 

■ 森 蘭丸。

■ 名称 : 森 蘭丸 (もり らんまる)。 

● 別名 : 森 成利 (もり なりとし)、 森 長定 

    (もり ながさだ)。 

● 通称 :  乱、 乱丸 (らんまる)、 乱法師。 

 (いみな) : 成利 (なりとし) 、 長定 

    (ながさだ)。

■ 生没年 : 1565年(永禄8年)〜1582年

     (天正10年)。

■ 織田信長の側近 、近習(きんじゅう)。 

   信長の奏者(そうじゃ)や奉行として活躍。

■ 京(都)の本能寺の変で、信長に殉(じゅん)じた。

■ 織田信長の家臣、森 可成 (もり よしなり)の三男。

■ 兄弟には、 兄の、森 可隆、 森 長可 (ながよし)、 

    弟の、森 坊丸(ぼうまる 、森 長隆(ながたか))、 

    森 力丸 (りきまる、森 長氏(ながうじ))、 

    政 (ただまさ) がいた。

■ フィクションのドラマ、映画では、 女性のような、

   さわやかな美男子として描かれているが、 森 蘭

   丸の容姿の記述は、 同時代の史料にはない。

 

 

 森 蘭丸 (もり らんまる) は、 織田信長(織田政

     権)の有能な事務官であった。

 森 蘭丸 は、 15歳で織田信長の小姓(こしょう)

  として仕え、 その後、 信長の奏者(そうじゃ)や奉

  行を務めた。

 

 森 蘭丸 は、1582年(天正10年)6月に、本能

  寺の変で、 信長に殉じた。

 森 蘭丸の弟の坊丸(ぼうまる)、力丸(りきまる)

  は、 蘭丸と共に、本能寺の変で、信長に殉じた。

 

■ 本能寺の変とは、 安土桃山時代、 1582年

  月2日に、 京(都)の本能寺に滞在の、織田信長 

  や、 妙覚寺に滞在の、信長嫡子の織田信忠(の

  ぶただ) を、 明智光秀が、急襲し、 彼らを、

  害させた事件 である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 1582年5月29日に、 織田信長は、 油断して、

  100名ほどの近習(きんじゅう)の者だけを伴い、

  (京)都の本能寺へ入った。 そこに、 6月2日に、 

  羽柴(豊臣)秀吉への援軍を命じたはずの智軍

  1万3,000の兵が、押し寄せてきた。 

 

 本能寺の変で、 織田信長は、 明智光秀の反乱

  を知り、 「是非(ぜひ)に及ばず」(しかたがない)

  (信長公記)と言い、 応戦したが、 その後、家臣

  に寺に火を付けさせ、 奥にこもり、自刃(じじん、

  自害)した と伝えられている。  享年49歳であっ

  た。

● 信長の側近の、森 蘭丸 (もり らんまる、森 成利

  (なりとし))、 森坊丸  (ぼうまる、森 長隆(なが

  たか))、 森 力丸(りきまる 、森 長氏(ながうじ))

  の3兄弟は、 信長を守って明智光秀軍に討ちと

  られた (討ち死にした)。 

 

 

■ 森 蘭丸 (もり らんまる、 生没年:1565〜

  1582年) は、 織田信長の側近で、 信長の

  奏者(そうじゃ)や奉行として活躍した。

 

■ 森 蘭丸 (もり らんまる) は、 後世に付け

  られた名で、 当時は、 森 乱丸 (もりらん

  まる) と称した。 別名は、 森 成利 (もり 

  なりとし)、 森 長定 (もり ながさだ) と称

  す。

● 森 蘭丸の通称(仮名(けみょう))は、 乱、 

  乱丸 (らんまる)、 乱法師 である。 

 森 蘭丸の諱(いみな) は、 成利 (なり

  とし) 、 長定 (ながさだ)である。

 

■ 森 蘭丸は、 京(都)の本能寺の変で、 

  信長に殉(じゅん)じた。

 

■ 森 蘭丸は、  織田信長の家臣、森 可成 

  (もり よしなり)の三男である。

 

■ 森 蘭丸の兄弟 には、 兄の森 可隆、 森 長

  可(ながよし)、弟の森 坊丸(ぼうまる)、 

   力丸(りきまる)、  忠政(ただまさ) いた。

 

 森 蘭丸の末弟の森 忠政(ただまさ)は、後

  に、 美作(みまさか、岡山県)の、津山(つや

  ま)藩祖(初代藩主) となる。

 

■ フィクションのドラマ、映画では、 女性のよう

  な、さわやかな美男子として描かれているが、 

  森 蘭丸の容姿の記述は、 同時代の史料

  はない。

 

 森 蘭丸の墓は、 京都の、阿弥陀寺(あみだ

  じ)にある。

 

 

★ 森 蘭丸(もり らんまる)が登場する、興

  味深い、ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画 は、フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が、 混じって、描かれてい

  ます。 また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 軍師 官兵衛 』。 

   (NHKテレビ・2014年大河ドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

● 森 蘭丸を演じた俳優名 : 柿澤。

 

● 織田信長を演じた俳優: 江口 洋介。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』 。 

   (NHKテレビ・2011年大河ドラマ)。 

● 森 蘭丸を演じた俳優名 : 瀬戸 康史。  

 

■ 『 寧々〜おんな太閤記 

     (ねね おんなたいこうき) 』 。 

   (テレビ東京の2009年制作・テレビ

   ドラマ)。 

● 森 蘭丸を演じた俳優名 : 河野 朝哉。

 

■ 『 敵は本能寺にあり 

     (てきはほんのうじにあり) 』 。 

   (テレビ朝日・2007年制作・テレビ

   ドラマ)。 

● 森 蘭丸を演じた俳優名 : 本田 大善。

● 織田 信長を演じた俳優名 : 玉木 宏 

  (たまき ひろし)。

 

■ 『 功名が辻 (こうみょうがつじ) 』 。 

   (NHKテレビ・2006年大河ドラマ)。

● 森 蘭丸を演じた俳優名 : 渡辺 大。

 

■ 『 利家とまつ〜加賀百万石物

    語〜 』。 

   (NHKテレビ・2002年大河ドラマ)。

● 森 蘭丸を演じた俳優名:ウエンツ瑛士。

 

■ 『 信長 KING OF ZIPANGU 』 

   (NHKテレビ・1992年大河ドラマ)。

● 森 蘭丸を演じた俳優名 : 石野 太呂字。

 

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#mouriterumoto

 

◆ 毛利 輝元。  

       (もうり てるもと)。

 

■ 毛利 輝元。

 

■ 名称 : 毛利 輝元 (もうり てるもと)。 

 

■ 生没年 : 1553年〜1625年。

 

■ 毛利 輝元は、

   安土桃山時代に中国地方に勢力をもった、

   武将、大名である。

 

■ 毛利 輝元は、

   安芸・吉田郡山城・城主である。

 

■ 毛利 輝元は、

   毛利 元就 (もうり もとなり)の孫(まご)

   である

 

■ 毛利 輝元は、

   豊臣政権の、五大老の一人 となる。

 

■ 毛利 輝元は、

   天下分け目の戦い(1600年の関が原の戦 い

   その他の戦い)では、 西軍の主将と

   なる。

 

■ 毛利 輝元は、

   中国地方の山陰、山陽10か国を領す(領有

   する)。

● しかし、毛利 輝元は、

  慶長5年の天下分け目の戦い (1600

  年の関が原の戦 い、その他の日本各地の戦い)

  の敗戦後、 周防(すおう)、長門(ながと)の2国・

  36万石に減封(げんぽう)となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51633。

 

 

 ■ 毛利 輝元。

 

  ■ 毛利 輝元 (もうり てるもと、生没年:1553〜

    1625年)は、 毛利 元就(もうりもとなり)の

    孫(まご)であり、 安土桃山時代、江戸時代

    初期の武将、大名である。  

 

  ● 毛利 輝元は、 毛利 元就の嫡孫で、 安芸・

    吉田郡山(あき・よしだこおりやま)城主で、毛

    利家当主である。

 

  ● 毛利 輝元は、 毛利元就の後継者となった。

      毛利家の毛利輝元を、 小早川家の小早川

    隆景(こばやかわ たかかげ) と、 吉川家の

    川元春(きっかわもとはる) の2人の武将 が

    支える。 また、安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい) 

    は、毛利氏の外交僧として、毛利輝元を支える。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。  

 

 

 ■ 毛利 輝元。

 

  ■ 毛利輝元及び小早川 隆景、吉川元春は、 15

    83年(天正11年)の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い

    の後、 羽柴秀吉(豊臣秀吉)に従属 する。

 

 

 ■ 毛利輝元。

 

  ■ 毛利元就(もとなり)の長男は毛利隆元(た か

      もと)、 

    元就の次男は吉川元春、 

    元就の三男は小早川 隆景(こばやかわたか

    かげ)であり、 

    毛利輝元は、毛利隆元の嫡男で、毛利元就

    孫である。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。  

 

 

 ■ 毛利 輝元。

 

  ■ 毛利 輝元は、 1573年(天正元年)から、

    織田信長により追放された、足利義昭を擁

    (よう)し、 織田信長と対立したが、 1582

    年(天正10年)の信長が死去した本能寺の

    の時、 羽柴秀吉(豊臣秀)と和睦し、 

    のち豊臣秀に属し、 九州の島津征伐 や 

    文禄・慶長の役(ぶんろくけいちょうのえき) 

    などに従軍する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 毛利 輝元。

 

  ■ 毛利 輝元は、 

    豊臣政権では、五大老の一人となり、 

       慶長5年の天下分け目の戦い (1600年 の

    関が原の戦 い、その他の日本各地の戦い)

    では、西軍の主将となる。

 

  ■ 毛利 輝元は、 

    山陰、山陽(中国地方)10カ国を領していたが、

    慶長5年の天下分け目の戦い (1600年 の

    関が原の戦 い、その他の日本各地の戦い)

    の後、 西軍の敗戦により、 徳川家康に よって、 

    周防(すおう)、長門(ながと)の2国・36万石に

    減封される。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 毛利輝元が登場する、興味深い、

    ドラマ、映画、ドキュメンタリー。 

 

 ★ 毛利輝元が登場する、興味深い

    ドキュメンタリー。 

 

 ■ 歴史秘話ヒストリア 『 家族って大

   変だ!? 〜戦国武将・毛利元就、

   秘密の悩み〜 』 

    (NHKテレビの2010年(H22)6月2日・

     本放送のドキュメンタリー番組)。

 

 

 ★ 毛利輝元が登場する、興味深い、

    ドラマ、映画。 

 

  ● (注意) ドラマ、映画は、フィクションです。 

    歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

    と 架空の出来事 が、 混じって、描かれてい

    ます。 また、現代風にアレンジしてあります。

 

 ■ 『 軍師 官兵衛 (ぐんし かんべえ) 』。 

     (NHKテレビの2014年大河ドラマ)。 

 

  ■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

    江戸時代初期を描いたドラマ。

 

  ● 毛利輝元を演じた俳優名 : 三浦 孝太

    (みうら こうた)。

 

  ● 吉川元春を演じた俳優名 : 吉見 一豊

    (よしみ かずとよ)。

  ● 小早川 隆景を演じた俳優名 : 鶴見 辰吾

    (つるみ しんご)。

  ● 毛利家・武将の、浦 宗勝(うら むねかつ)

    を演じた俳優名: 佐藤 尚宏 (さとう たか

    ひろ)。

 

 

 ■ 『 天地人 (てんちじん) 』 

     (NHKテレビの2009年大河ドラマ)。

 

  ● 毛利輝元を演じた俳優名 : 中尾 彬。

 

 

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#mourimotonari

 

■ 毛利 元就  

     (もうり もとなり)。

 

■ 毛利元就。

■ 生没年 : 1497〜1571年。

■ 名称 : 毛利 元就 (もうり もとなり)。 

■ 室町時代後期(戦国時代)の、中国地方の、

  武将、戦国大名。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

■ 毛利 元就 (もうり もとなり) は、 生没年は

  1497〜1571年で、 国人領主出身で、戦国

  時代(室町時代後期)の、中国地方の、武将、

  戦国大名 で ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。  

 

■ 毛利元就(もとなり)の長男は毛利隆元(たか

    もと)、 元就の次男は吉川元春、 元就の三男

  は小早川 隆景(こばやかわたかかげ)であり、 

  毛利輝元は、毛利隆元の嫡男で、毛利元就

  孫である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。  

 

■ 毛利 元就 (もうり もとなり) は、 1555年

  に、 陶晴賢(すえはるかた)の大軍を厳島(い

  つくしま)の戦で破り、 その後、長門(ながと、

  山口県西部)、 安芸(あき、広島県西部)、 周

  防(すおう 、山口県東部) を平定した。 更に、

  尼子氏(あまごし)を滅ぼし、 石見(いわみ、

  島根県西部)、 出雲(いずも、島根県東部)、  

  因幡(いなば、鳥 取県東部)等を攻略して、中

  国地方に覇を唱え、 毛利氏の基礎を固めた。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

♪♪ 毛利 元就が登場する、面白く、

  興味深い、ドラマ、映画、ドキュメン

  タリー。 

 

★ 毛利 元就が登場する、面白く、

  興味深いドキュメンタリー。 

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 家族って

  大変だ!? 〜戦国武将・毛利元

  就、秘密の悩み〜 』 

  (日本のNHK2010年(H22)6月2日・本

  放送のドキュメンタリー番組 、第41回)。

 

 毛利 元就 が登場する、面白く、

  興味深い、ドラマ。

■ 『 毛利元就 (もうりもとなり) 』 

   (NHK1997年大河ドラマ)。

 

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#momo

 

■ 桃  

     (もも) (仙桃院) 

 

■ 桃。

■ 桃 (もも)に関しては、 『 仙桃院 (せんとうい

  ん) 』 を参照して下さい。

 

● 桃 (もも) は、 上杉謙信の(実)姉で、 桃姫、 

  仙桃院(せんとういん)、仙洞院、 綾、 綾姫 と 

  同一人物 である。

 

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#morinoishimatsu

 

◆ 森の石松。  

     (もりのいしまつ)。

 

■ 森の石松。

 

■ 名称 : 森の石松 (もりのいしまつ)。

● 森の石松の「森」は、出身地の遠州森 (静岡

  県森町)の森から、きている。

 

■ 実在の人物か架空の人物か不明。

■ 生没年 : ?(生年不明) 〜 1860年(万

  延(まんえん)元年)。

 

■ 清水次郎長(しみずのじろちょう)の子分。

 

 

  ■ 森の石松 は、 清水次郎長(しみずのじろ

  ちょう)の子分で、 実在の人物か架空の人

  物か不明 である。

 

  ■ 森の石松 (もりのいしまつ) は、生年不明

  で1860年(万延(まんえん)元年に死去し、 

  森の石松の「森」は、出身地の遠州森町村

  (静岡県森町)の森から、きている。

 

  ■ フィクションの世界では、 講談、浪曲、ドラ

  マ、映画では、 隻眼で現れ、 酒飲みの荒く

  れ者だが、義理人情に厚く、どこか間が抜け

  ていて、仲間から「馬鹿は死ななきゃ直らな

  い」とからかわれる、といったキャラクターで、 

  数多く登場する。

 

  ● 「石松三十石舟」の中で、 石松が、舟に乗

  り合わせた旅人に「あんた江戸っ子だってね、 

  食いねぇ、寿司(すし)を食いねぇ」と勧めてい

  る場面は、有名である。

 

  ■ 森の石松 (もりのいしまつ) は、その出身

  地は、遠州森町村(静岡県森町)で生まれ育

  ったか、 三州半原村(愛知県新城市富岡)

  で生まれ父親に付いて移り住んだ遠州森町

  村で育ったとも、 伝えられている。

 

  ■ 1860年(万延元年)に、森の石松の預か

  った香典を狙った都田(静岡県浜松市都田)

  の吉兵衛に、遠州中部(静岡県浜松市小松)

  にて、森の石松は、騙(だま)し討ちに遭い、

  斬られて死亡した。 

    都田の吉兵衛は、翌1861年(万延2年)

  に、清水次郎長(しみずのじろちょう)によっ

  て討ち果たされた。

 

 

♪♪ 森の石松が登場する、興味深

    い、ドキュメンタリー、ドラマ、

    映画。

 

 ★ 森の石松が登場する、興味深

    い、ドラマ、映画。

 

 ■ 『 次郎長 背負い富士 』 

         (NHKテレビ・2006年ドラマ)

  ● 森の石松を演じた俳優名 : 山本太郎。

 

 ■ 『 次郎長三国志 』 

    (2008年角川映画)。

  ● 森の石松を演じた俳優名 : 温水洋一。

 

 

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 『 あなたのハートには 

    何が残りましたか? 』。

 

 

 

以  上。