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     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY 

   HANDBOOK

 

 

 カナヤマ 日本歴史辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 け 』。

 

 

#jpmenu     

メ ニュー (目次)。  

 ■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

 □ 日本史 辞典 (総合)

 

□        ● 五十音順 ( あいうえお順)。

 

 □ 見出し語 けいさ

 □ 見出し語 けいた

 □ 見出し語 けか

 □ 見出し語 けな

 □ 見出し語 けん

 □ 見出し語 けんか

 □ 見出し語 けんさ

 □ 見出し語 けんた

 □ 見出し語 げんだい

 □ 見出し語 けんち

 □ 見出し語 けんな

 □ 見出し語 けんは

 □ 見出し語 けんふ

 □ 見出し語 けんへ

 □ 見出し語 けんほ

 □ 見出し語 けんま

 □ 見出し語 けんら

 □ 見出し語 けんろ

 

 

○ けい   慶安。

              (けいあん)。  《和暦》。

                 THE KEIAN ERA.

               ○ 1648年ー1652年。

              ● 1648年・慶安元年・2月15日〜

                1652年・慶安 5年・9月18日。 

              ● 江戸時代前期の和暦年号。

           (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

           (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

           (⇒ 和暦ガイドブック 

               ■ 慶安 (けいあん、英:THE 

                            KEIAN ERA) とは、和暦であり、 

              江戸時代前期の和暦年号であり、 

              1648年・慶安元年・2月15日から

              1652年・慶安 5年・9月18日まで

              である。

 

○ けい  慶雲。 

             (けいうん、きょううん)。 《和暦》。

               THE KEIUN ERA.

             ○ (704〜708年)。

             ● 704年・慶雲元年・5月10日〜

                708年・慶雲 5年・1月11日。 

             ● 飛鳥白鳳時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

○ けい  慶応

             (けいおう)。 《和暦》。

                THE KEIO ERA.

             ○ 1865年ー1868年。

             ● 1865年・慶応元年・4月 7日〜

                1868年・慶応 4年・9月 8日。 

             ● 江戸時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

              ■ 慶応 (けいおう、英: THE 

                           KEIO  ERA)とは、 和暦であり、 

             江戸時代後期の和暦年号であり、 

             1865年・慶応元年・ 4月7日から

             1868年・慶応 4年・ 9月8日まで

             である。  

             ■ 〈慶応年号の、和暦→西暦/

                西暦→和暦の速算法〉。

             ○ 慶応 A年+1864年=西暦 B年。

             ○ 西暦 B年1864年=慶応 A年

                 ■ 「慶応」の前後の和暦年号(元号):

              ● 元治 (げんじ):

               1864年・元治 元年・2月20日〜

               1865年・元治 2年・4月 7日。 

             ● 明治 (めいじ):

               1868年・明治 元年・9月 8日〜

                1912年・明治45年・7月30日。 

             ■ 幕末、明治時代の和暦年号(元号):

             ● 嘉永(かえい)⇒安政(あんせい)⇒

               万延(まんえん)⇒文久(ぶんきゅう)

               ⇒元治(げんじ)⇒慶応(けいおう)

               明治(めいじ)。

             嘉永元年〜7年 (1848〜1854年)⇒

             安政元年〜7年 (1854〜1860年)⇒

             万延元年〜2年  (1860〜1861年)⇒ 

             文久元年〜4年  (1861〜1864年)⇒ 

             元治元年〜2年  (1864〜1865年)⇒

             慶応元年〜4年  (1865〜1868年)⇒ 

             明治元年〜45年(1868〜1912年)。

 

#keisa

 

〇 けい  経子。

             (けいし・つねこ)。  《人名》。

          (⇒ 平 重盛  たいらのしげもり)。

             ○ 平清盛嫡男・平重盛の正室

          夫人・藤原経子(ふじわらのけいし・

                           つねこ)) 。

                           ■ 経子(けいし・つねこ)は、 平清盛嫡男・

             平重盛の正室夫人・藤原経子(ふじわらの

                            けいし・つねこ) である。

 

〇 げい  芸州

             (げいしゅう)。 《旧地域名》。

          (= 安芸 ( あき のくに))。

          (≒ 現・広島県西部

          相当 地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

          日本・旧地域名の、

          旧国名(令制 国)の別称)。

             GEI PROVINCE.

                   (⇒ 安芸 )。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

             ■ 芸州 ( げいしゅう)は、 律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             国名(令制国)正式名の、安芸 国(あき 

             のくに) の別称である。

                          ● 州(= 安芸 国)は、 山陽道(さん

             ようどう)・旧広域地方に属し、現・四国地

             方の、現在の広島県西部に相当する地域

             である。

 

〇 けい  桂昌院 

             (けいしょういん)。 《人名》。

          (= お玉の方 おたまのかた)。

           (1627年〜1705年)。

          ○ 桂昌院は、

          日本人に慈悲の心(じひ

          のこころ)を植え付け、弱

          者保護、人権擁護を推

          進し、日本人の性質を

          変革した、偉大な女性

          である。

          ○ 桂昌院は、

          江戸幕府の第5代将軍・

          徳川綱吉の生母である。   

          ○ 桂昌院は、 

          深く仏教に帰依し、日本

          人に慈悲の心(じひのこころ)

          を植え付け、弱者保護、

          人権擁護を推進するた

          め、自分の子の将軍・

          徳川綱吉を通して、「生

          類憐みの令」を出させる。

          ○ 桂昌院は、

           江戸幕府の第3代将軍・

          徳川家光の側室夫人で

          ある。  

                          ■ 桂昌院 (= お玉の方)は、 

             深く仏教に帰依し、日本人に慈

             悲の心(じひのこころ)を植え付

             け、弱者保護、人権擁護を推進

             し、日本人の性質を変革した、

             偉大な女性である。

                          ■ 桂昌院 (けいしょういん、=

             お玉の方、1627年〜1705年)

             は、 江戸幕府の第3代将軍・徳

             川家光の側室夫人であり、 江戸

             幕府の第5代将軍・徳川綱吉の

             生母である。

                          ■ 桂昌院 (けいしょういん、生

             没年:1627年〜1705年)は、 

             別名で、お玉の方( おたまのか

             た) という。

 

#keita

 

○ けい  慶長。

             (けいちょう)。 《和暦》。

             THE KEICHO ERA.

             ○ 1596 年〜1615年。

             ● 1596年・慶長 元年・10月27日〜

                1615年・慶長20年・ 7月13日。 

             ● 安土桃山時代・江戸時代前期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

             ● 〈和暦→西暦・西暦→和暦/速算式〉。

             ○ 慶長 A年=慶長 A年+1595年=西暦 B年。

             ○ 西暦 B年西暦 B年1595年=慶長 A年

             ● 永禄(えいろく)⇒ 元亀(げんき)⇒ 天正(て

              んしょう)⇒ 文禄(ぶんろく)⇒ 慶長 (けいちょう)

              ⇒ 元和(げんな)。

             ● 永禄元年〜13年(1558年〜1570年)⇒

                元亀元年〜 4年(1570年〜1573年)⇒

                天正元年〜20年(1573年〜1592年)⇒

                文禄元年〜 5年(1592年〜1596年)⇒

                慶長元年〜20年(1596年〜1615年)⇒

                元和元年〜10年(1615年〜1624年)。

 

〇 けい  慶長の天下分け目の

        戦い

             (けいちょうのてんかわけめの

                        たたかい)。

             (別名:天下分け目の戦い)。

           《日本国内の戦争》。

           (1600年(慶長5年))。

              THE 1600 DECIDING 

              (DECISIVE) WAR FOR THE 

                    RULING OF JAPAN

                     □ 慶長の天下分け目の

           戦い 関連出来事

           ( 新説・従来説比較・

            年代順・詳細)

             (⇒ 内府ちがひの条々)。

             (⇒ 豊臣氏五大老・五奉行

             五大老五奉行)。

            (⇒ 豊臣氏豊臣政権)。

                   (⇒ 小山評定細川ガラシャ)。

           (⇒ 関ヶ原の戦い)。

            □ 「新説 (史実)関ヶ原の

            戦い(= 大垣・山中の戦い)」

            画像アル バム No.2

           □ 「従来説(伝説)関ヶ原の

            戦い」画像アルバム No.3 

           (⇒ 新説(史実)関ヶ原の戦い

            大垣・山中の戦い

            大垣の戦い山中の戦い)。 

           (⇒ 徳川家康美濃赤坂

            山中桃配山陣場 野)。

           (⇒ 石田三成大垣城藤下

            の自害峯山中笹尾山)。

           (⇒ 小早川秀秋松尾山)。

           (⇒ 毛利秀元南宮山)。

              ■ 慶長5年(1600年)の天下分け目の

                            戦い (てんかわけめの たたかい)は、 

             西軍の奉行衆・毛利方(石田方)と東軍

                      の徳川方が1600年(慶長5年)に行っ

             た、関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い) 

             や 日本各地で行った戦いである。

             ■ 慶長5年(1600年)の天下分け目の

             戦いには、 関ヶ原の戦い(= 大垣・山中

             (おおがき・やまなか)の戦い)、伏見(ふ

             しみ)の戦い、大津(おおつ)の戦い、奥

             州 (おうしゅう)の戦い、信濃(しなの)の

             戦い、九州の戦いなどの緒戦がある。

 

〇 けい  慶長の天下分け目の

                戦い関連出来事

                (新説・従来説比較、

        年代順・詳細)

                (けいちょうのてんかわけめのたたかい

              ( しんせつ・じゅうらいせつひかく、

             ねんだいじゅん・しょうさい))。

           《戦い関連出来事》。

 

#keka

 

○ げこ  下剋上。

             (げこくじょう)。 《身分・家格》。

          ○ 下剋上とは、

          実力によって、下位の身分・家

          格の者が、上位の身分・家格

          の者を倒して、政治権力を握

          (にぎ)ること である。

       (⇒ 戦国時代)。  

       (⇒ 安土桃山時代)。  

       (⇒ 江戸時代初期)。  

             ■ 「下剋上」(げこうじょう)とは、 

             実力によって、下の者が上の者に取

             ってかわることである。

             ● 「下剋上」とは、実力によって、

             下位の身分・家格の者が、上位の身

             分・家格の者を倒して、政治権力を

             握(にぎ) ることである。

                          ● 下剋上 (下克上、げこくじょう) とは、

             従来の身分・家格秩序を破る風潮であり、 

             戦国時代、安土桃山時代、江戸時代初期

             に、身分・家格の低い者が、従来の身分・

                        家格の高い者を押しのけて(倒して)、

             実力で上に立ち、政治権力を握(にぎ)る

             ことである。

                         ● 下剋上の実例としては、 守護代

             重臣出身の織田信長の中央日本支配、 

             農民・足軽出身の豊臣秀吉の日本本

             土支配、 国人領主(国衆)出身の徳川

             家康の日本本土支配などがある。

 

〇 げっ  月光院

            (げっこういん)。 《人名》。

          (= お喜世 おきよ)。

             (1685年〜1752年)。

             ○ 美人。

             ○ 江戸幕府・第6代将軍・徳川家

          宣(いえのぶ)の側室夫人。

             ○ 江戸幕府・第7代将軍・徳川家

           継(いえつぐ)の生母。

             ● 月光院 (げっこういん、1685年〜17

             52年)は、 お喜世 (おきよ )である。

             ● 月光院(= お喜世)は、 美人で、江戸

             幕府・第6代将軍・徳川家宣(いえのぶ) の

             側室夫人であり、 江戸幕府・第7代将軍・

             徳川家継(いえつぐ)の生母であった。

 

〇 けっ  結婚。

            (けっこん)。 《婚儀》。

          (= 前近代日本では、婚儀を結ぶ

          こと)。

              (⇒ 前近代日本の早婚と

             多産) 。

                (⇒ 政略結婚)。

              (⇒ 前近代日本の一夫多

              妻制) 。

              (⇒ 前近代日本の家父長

             制の夫婦別 姓)。

             ■ 前近代日本では、封建制、家父長制、身

             分制、一夫多妻制の下(もと)で、上層階層

             では、 本人同士の意志ではなく、 主君・上

             司・家長・親などが婚儀(結婚)を決める、身

                        分・格式・家同士の結婚が主流であった。

             ■ 前近代日本では、 女性の結婚適齢期は、

             10代(ティーンネイジャー) であった。

                前近代日本では、人々の平均寿命は短

             く、医療未発達で子供・大人の病死が多く、

             栄養状態が悪く、女性の容姿の衰えは早く、

             余裕がなく、女性の体力・容姿が良いうちに、

             一刻も早く、婚儀を結び(結婚し)、多くの子を

             産んで、子孫を残す必要があった。

 

#kena

 

○ けに  家人。

             (けにん)。   《封建制》。

          (= 家臣、従者)。 

          ○ 前近代日本の封建制度の家臣。

          (⇒ 封建制度)。

 

○ けび  検非違使

             (けびいし)。 《治安・警察隊長》。

          (= 朝廷の治安警察部隊・隊長)。

 

○ けみ  仮名。

             (けみょう)。

          《前近代日本の氏名》。

          (= 前近代日本の個人名の

           通称)。

            (⇒ 通称) 。

              (⇒ 個人名(いみな)、通称

           法名) 。

               (⇒ 一族名)。

               (⇒ 氏名(一族名+個人名))。

              (⇒ 前近代日本の人名) 。

              ■ 仮名(けみょう)とは、 前近代日

              本の人物氏名の個人名の通称であ

              り、 個人名の1つである。

              ■ 前近代日本の人物氏名の個人

              名の仮名(通称)には、 受領名(ず

              りょうめい)、百官名(ひゃっかんな)、

              東百官(あずまひゃっかん、武家百

              官)、輩行名(はいこうめい)などが

              ある。

              ■ 前近代日本の人物氏名には、 

              一族名(氏族名、家名) と 個人名

              がある。

              ■ 前近代の個人名の諱と通称(=

              仮名)。

              ● 前近代日本の人物氏名の個人

              名には、 (a) 諱(いみな、正式名) 

              と、 (b) 仮名(けみょう、通称) が

              ある。

              ■ 前近代日本の人物氏名の個人

              名には、他に、 (c) 法名(戒名、

              出家名)、 (d) 諡 (おくりな、諡

              号(しごう)、貴人死後の贈り名)、 

              (e) 字 (あざな、学者・文人の別

              名)、 (f) 名跡(みょうせき、商家

              当主継承名、家元・芸名等のブラン

              ド継承名)、 (g) 号(ごう)、など

              がある。

 

#ken

 

○ けん  建永。 

             (けんえい)。 《和暦》。

             THE KENEI ERA.

             ○ (1206〜1207年)。

             ● 1206年・建永元年・4月27日〜

                1207年・建永2年・10月25日。

             ● 鎌倉時代前期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

○ げん  元永。 

             (げんえい)。 《和暦》。

             THE GENEI ERA.

             ○ (1118〜1120年)。

             ● 1118年・元永元年・4月 3日〜

                1120年・元永 3年・4月10日。 

             ● 平安時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

○ げん  元応。 

             (げんおう)。 《和暦》。

             THE GENO ERA.

             ○ (1319〜1321年)。

             ● 1319年・元応元年・4月28日〜

                1321年・元応 3年・2月23日。 

             ● 鎌倉時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック  

 

#kenka

 

○ げん  元亀。

             (げんき)。 《和暦》。

             THE GENKI ERA.

             ○ (1570〜1573年)。

             ● 1570年・元亀元年・4月23日〜

                1573年・元亀 4年・7月28日。 

             ● 室町時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

             ● 永禄(えいろく)⇒(元亀(げんき)⇒天正(て

              んしょう)⇒文禄(ぶんろく)⇒慶長 (けいちょう)

              ⇒元和(げんな)。

             ● 永禄元年〜13年(1558年〜1570年)⇒

                元亀元年〜 4年(1570年〜1573年)⇒

                天正元年〜20年(1573年〜1592年)⇒

                文禄元年〜 5年(1592年〜1596年)⇒

                慶長元年〜20年(1596年〜1615年)⇒

                元和元年〜10年(1615年〜1624年)。

 

〇 けん  建久。

             (けんきゅう)。 《和暦》。

             THE KENKYU ERA.

             ○ 1190年ー1199年

             ● 1190年・建久 元年・4月11日〜

                1199年・建久10年・4月27日。

             ● 平安時代後期・鎌倉時代前期の

               和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

             ■ 建久 (けんきゅう、英:THE 

                           KENKYU ERA) とは、和暦であり、 

              平安時代後期・鎌倉時代前期の和暦

              年号であり、  1190年・建久元年・

              4月11日から1199年・建久10年・

              4月27日までである。  

 

〇 げん  元久。 

             (げんきゅう)。 《和暦》。

             THE GENKYU ERA.

             ○ (1204〜1206年)。

             ● 1204年・元久元年・2月20日〜

                1206年・元久 3年・4月27日。

             ● 鎌倉時代前期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇 けん  乾元。 

             (けんげん)。 《和暦》。

             THE KENGEN ERA.

             ○ (1302〜1303年)。

             ● 1302年・乾元元年・11月21日〜

                1303年・乾元 2年・ 8月 5日。 

             ● 鎌倉時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇 げん  元亨。 

             (げんこう)。 《和暦》。

             THE GENKO ERA.

             ○ (1321〜1324年)。

             ● 1321年・元亨元年・ 2月23日〜

                1324年・元亨 4年・12月 9日。 

             ● 鎌倉時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇 げん  元弘

             (げんこう) 。 《和暦》。

             THE GENKO ERA.

             ○ 1331 年ー1334年 。

           (⇒ 和暦の二重年号存立

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

          ■ 後醍醐・鎌倉幕府競合二重年号。

           ● 後醍醐(ごだいご)天皇 (大覚寺統

               (だいかくじとう)) 方の暦年号。

               1331年・元弘元年・8月 9日〜

               1334年・元弘 4年・1月29日。 

             ● 鎌倉時代後期、建武時代の和暦年号

             ● (注意) 同時期に、光厳(こうごん)天

              皇 (鎌倉幕府擁立、 持明院統(じみょう

              いんとう))方の暦年号の、 元徳(げん

              とく)元年〜4年 (1329〜1332年) 

              と 正慶(しょうきょう)元年〜2年 (13

              32〜1333年) も存立する。

              ● 後醍醐(ごだいご)天皇 (大覚寺統(だ

              いかくじとう)) 方の暦年号。

                  嘉暦(かりゃく)⇒ 元徳(げんとく)元年

              〜3年 (1329〜1331年) ⇒ 元弘

              (げんこう)元年〜4年 (1331〜1334 

              年) ⇒ 建武(けんむ)。

 

〇 げん  元寇。

             (げんこう)。 《外国の侵略》。

           (= 蒙古襲来(もうこしゅうらい)

               文永・弘安の役(ぶんえい・こう

                   あんのえき))。

           (13世紀後半の1274年、

           1281年)。

        (⇒ 蒙古襲来)。

                     ○ 鎌倉時代の、2度にわたる

          モンゴル軍来襲。

              ■ 元寇 (げんこう) とは、 蒙古襲来(もう

             こしゅうらい)であり、  文永・弘安の役(ぶ

                  んえい・こうあんのえき) である。

              ● 文永・弘安の役(= 元寇、蒙古襲来)は、

              13世紀後半の1274年( 文永の役)、12

             81年(弘安の役)に起こった。

              ● 文永・弘安の役(= 元寇、蒙古襲来)は、

             鎌倉時代の、2度にわたるモンゴル軍来襲

             である。

 

〇 げん  元号。

             (げんごう) 。  《和暦》。

          (= 和暦年号、日本の暦の年号)。

          (⇒ 和暦

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

             ■ 元号  (げんごう)とは、 和暦年号、

             日本の暦の年号である。 

 

〇 げん  元号一覧表。

             (げんごういちらんひょう)。 《和暦》。

        (⇒ 和暦年号表 ・

                      日本語版

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

          ○ 当日本史辞典の和暦の

           元号一覧表は、

           日本の和暦の全・元号の

           一覧表であり、

          (a) 西暦和暦対照表 と、

                     (b) 和暦年号表、

           の2種類がある。

 

〇 げん  元号・西暦年号換算表 

             (げんごう・せいれきねんごうかんさんひょう)。

             《西暦和暦換算表》。 

        (⇒ 西暦和暦対照表 ・

          日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

#kensa

 

〇 けん  建治。 

             (けんじ)。 《和暦》。

             THE KENJI ERA.

             ○ (1275〜1278年)。

             ● 1275年・建治元年・4月25日〜

                1278年・建治 4年・2月29日。 

             ● 鎌倉時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇 げん  元治。 

             (げんじ) 。 《和暦》。

             THE GENJI ERA.

             ○ 1864 年ー1865年。

             ● 1864年・元治 元年・2月20日〜

                1865年・元治 2年・4月 7日。 

             ● 江戸時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

              ■ 元治 (げんじ、英:THE 

                          GENJI ERA) とは、和暦であり、 

             江戸時代後期の和暦年号であり、 

             1864年・元治 元年・2月20日から

             1865年・元治 2年・4月7日まで

             である。   

             ■ 〈元治年号の、和暦→西暦/

                西暦→和暦の速算法〉。

             ○ 元治 A年+1863年=西暦 B年。

             ○ 西暦 B年1863年=元治 A年

                 ■ 「元治」の前後の和暦年号(元号):

             ● 文久 (ぶんきゅう):

               1861年ー 1864年。

               1861年・文久元年・2月19日〜

               1864年・文久 4年・2月20日。 

             ■ 幕末、明治時代の和暦年号(元号):

             ● 嘉永(かえい)⇒安政(あんせい)⇒

               万延(まんえん)⇒文久(ぶんきゅう)

               ⇒元治(げんじ)⇒慶応(けいおう)

               明治(めいじ)。

             嘉永元年〜7年 (1848〜1854年)⇒

             安政元年〜7年 (1854〜1860年)⇒

             万延元年〜2年  (1860〜1861年)⇒ 

             文久元年〜4年  (1861〜1864年)⇒ 

             元治元年〜2年  (1864〜1865年)⇒

             慶応元年〜4年  (1865〜1868年)⇒ 

             明治元年〜45年(1868〜1912年)。

 

〇 げん  源氏

             (げんじ、みなもとうじ)。 《氏族》。

                    (⇒ 武家)。

                    (⇒ 清和源氏) (⇒ 河内源氏)。

              ○ 皇族賜姓 (こうぞくしせい)。

          ○ 武家源氏が多い。

              ● 源氏 (げんじ、みなもとうじ)は、 

             皇族賜姓(こうぞくしせい)であり、 

             武家源氏が多い。

 

〇 げん  原始時代・日本  

             (げんしじだい・にほん)。 

           (= 約3万5000年前ー

            紀元(後)3世紀頃)。

                     (= 先史時代・日本)。

                     (= 旧石器時代、縄文時代、

           弥生時代の日本)。

              《日本歴史の時代区分》。

           THE PRIMITIVE AGE 

           OF JAPAN

          ○ 原始時代・日本は、

           概ね、約3万5000年前〜

           紀元(後)3世紀頃である。 

          ■ 旧石器時代

          ■ 縄文時代

          ■ 弥生時代。 

           (⇒ 日本歴史の時代区分)。 

           (⇒ 「日本地域の旧石器 人」、

           縄文 人」、弥生 人」)

              ■ 原始時代の日本とは、 概(おおむ)

             ね、 先史時代の日本であり、 旧石器

             時代、縄文時代、弥生時代の日本であ

             り、 約3万5000年前から紀元(後)3

             世紀頃までの日本である。

              ■ 旧石器時代の日本では、 日本地域

             (日本本土、北海道、南西諸島の日本列

               島)には、 古モンゴロイドやオーストラ

             ロイド類似人類などの狩猟採集主体の

             人々が、 アジア大陸と地続きの日本地

             域を通過したり、日本地域に滞在したり

             する。

              ■ 縄文時代の日本では、 日本地域(日

             本本土、北海道、南西諸島の日本列島)

               には、 日本土着常住民の、古モンゴロ

             イドの縄文人が居住する。

              ■ 弥生時代の日本では、 日本地域(日

             本本土、北海道、南西諸島の日本列島)

               には、 日本土着常住民の、「古モンゴロ

             イドの縄文系の人々」(日本本土、北海

             道、南西諸島)、 「新モンゴロイドの渡来

             系弥生人」(日本本土のみ)、 「古・新モ

             ンゴロイド混血の縄文・弥生渡来・混血系

             の人々」(日本本土のみ) が居住する。

 

〇 げん  源氏政権

             (げんじせいけん)。 (武家政権)。

          《日本の政権・政府》。

          (1185年頃ー1219年頃)。

           (⇒ 鎌倉幕府) 。

           (⇒ 北条政権武家政権)。

                 (⇒ 日本の政権・政府)。

           □ 源氏政権の詳細な内容

          に関しては、鎌倉幕府関連

          出来事を参照してください。

 

〇 げん  源氏物語

             (げんじものがたり)。 《日本の文化》。

             THE TALE OF GENJI.

          ○ 源氏物語は、

          紫式部著作の長編恋愛小説

          である。 

             (⇒ 紫式部藤原彰子

           一条天皇)。

             ■ 源氏物語  (げんじものがたり、英:

             THE TALE OF GENJI)は、 紫式

             部が著作した長編恋愛小説であり、 

             1008年頃に完成する。

 

〇 けん  建春門院。 

             (けんしゅんもんいん)。 《人名》。

                     (= 平 滋子(たいらの しげこ)、建春

          門院滋子)。

          (⇒ 平滋子)。

          ○ 平清盛・正室夫人の平時子

          異母妹。 

          ○ 後白河上皇の正室夫人(寵

          妃)。

             ○ 高倉天皇の生母。

             Kenshunmonin.

             ■ 建春門院 (けんしゅんもんいん)とは、

             平 滋子(たいらの しげこ)、建春門院滋子

             である。

             ● 建春門院は、 平清盛・正室夫人の平

             時子の異母妹 であり、 後白河上皇の正室

             夫人 で寵妃であり、高倉天皇の生母である。

 

〇 けん  見性院。

             (けんしょういん)。 《人名》。

          (= 千代(ちよ)) 。

          (⇒ 千代)。

          ○ 山内一豊(やまうちかずとよ )

          の正室夫人。

 

〇 けん  献上妻子の慣習

             (けんじょうさいしのかんしゅう)。  

             《前近代慣習》。 

           (⇒ 封建制度)。

             ● 前近代の、封建制(生死を共にする

             主従関係)、家父長制、身分制、一夫多

             妻制の社会での慣習。

 

〇 げん  元正天皇。

             (げんしょうてんのう)。 《女性天皇》。 

                   THE EMPRESS GENSHO.

          ○ 元正天皇在位:

            715年ー724年。

             ■ 元正天皇 (げんしょうてんのう、天皇在

                位:715年ー724年、英:THE EMPRESS 

             GENSHO)は、 奈良時代前期の、女性天皇

             (= 女帝)で ある。 

             ■ 元正天皇は、 元明(げんめい)天皇

                位:707ー715年)の皇女(娘)である。

             ■ 元正天皇は、 母の元明(げんめい)天皇

             の政策を引き継ぎ、 多くの政策を行い、律令

             国家の基礎を確立する。

              ◆ 女性天皇 (8人10代)

           (⇒ 女性天皇)。   

           (⇒ 推古(すいこ)天皇)。

           (⇒ 皇極斉明(こうぎょく

                (さいめい))天皇)。

           (⇒ 持統(じとう)天皇)。

           (⇒ 元明(げんめい)天皇)。

           (⇒ 元正(げんしょう)天皇)。

           (⇒ 孝謙称徳(こうけん

                (しょうとく))天皇)。

           (⇒ 明正(めいしょう)天皇)。

           (⇒ 後桜町(ごさくらまち)天皇)。

             ■ 日本の古代から現代までの間に、女性

             天皇は、 飛鳥白鳳(あすかはくほう)時代、

             奈良(なら)時代に天皇に即位(就 任)した、

             推古(すいこ)、皇極(斉明)(こうぎょく(さい

             めい))、持統(じとう)、元明(げんめい)、

             元正(げんしょう)、孝謙(称徳)(こうけん

             (しょうとく))の6人8代の天皇 や 江戸

             (えど)時代に天皇に即位(就 任)した、明

             正(めいしょう)、後桜町(ごさくらまち)の2

             人2代の天皇がいて、合計して8人10代の

             女性天皇(= 女帝がいる。

 

〇 けん  献上夫人

             (けんじょうふじん)。 《前近代慣習》。

          (⇒ 封建制度)。

             ■ 献上夫人は、 前近代の、封建制(生死

             を共にする主従関係)、家父長制、身分制、

             一夫多妻制の社会での慣習である。

 

〇 けん  謙信。

             (けんしん)。 《人名》。

          (= 上杉謙信 うえすぎけんしん)。

          (⇒ 上杉 謙信)。

 

〇 げん  還俗

             (げんぞく)。 《仏教》。

             ■ 還俗 (げんぞく)とは、 一度出家し

             た者が、もとの俗人に戻ることである。

 

#kenta

#gendai

 

〇 げん  現代国民主権政治 

             (げんだいこくみんしゅけんせいじ)。

             《日本の政治》。

           (1945年〜現在)。  

                     (⇒ 日本の政治形態)。

 

〇 げん  現代国民主権民主制 

             (げんだいこくみんしゅけんみんしゅせい)。

             《日本の統治制度》。

          (1945年〜現在)。

          (⇒ 日本の土地人民統治制度)。

 

〇 げん  現代日本 

             (げんだいにほん)。

           (= 1945年頃ー現在)。

           (= 昭和・戦後時代、平成

           時代、令和時代の日本)。

              《日本歴史の時代区分》。

             PRESENT-DAY JAPAN

          ○ 現代日本は、

          概ね、1945年頃〜現在で

          ある 。

          ■ 昭和・戦後時代

          ■ 平成時代。 

          ■ 令和時代

          (⇒ 日本歴史の時代区分)。

             ■ 現代日本 (げんだいにほん、英:

             PRESENT-DAY JAPAN)とは、 

             概(おおむ)ね、 昭和・戦後時代、平

             成時代、令和時代の日本であり、

             1945年頃から現在までの日本である。

             ■ 現代日本では、 日本地域(日本本

             土、北海道、南西諸島の日本列島)に

               は、日本土着常住民の、「本土日本人」

             「アイヌ人」「琉球人」3グループの

             現代日本人が居住する。

 

〇 げん  現代日本人

             (げんだいにほんじん)。

          (人類学上の分類・特徴)。

             (日本人のルーツ)。

                     《日本常住民の日本人》。

             THE PRESENT-DAY JAPANESE 

             PEOPLE.

             ● 現代日本人 = 現代日本地域土着・常

              住民。

            ○ 「本土日本人」、「琉球人」、

           「アイヌ人」 の3グループの現代

                     日本人

                         ●  「本土日本人の現代日本人」、

                「琉球人の現代日本人」、

                「アイヌ人の現代日本人」。

              ● 現代日本人とは、 現代日本地域土着・

                           常住民であり、 現代日本の時期に、 日

              本地域に居住している、「現代日本人の本

             土日本人」、 「現代日本人の琉球人」、 

             「現代日本人のアイヌ人」 の3グループの

                           人類 である。

             ● 現代日本人 (= 現代日本地域土着・

              常住民)。

             <日本人 (= 日本地域土着・常住民)。

             <モンゴロイド。

             <現生人類(= 新人、ホモ・サピエンス種)。

             <ヒト属。

             <人類(= ヒト亜族))。

              ● 現代日本人の 地域的 ・文化的特徴 

             (人類学上の分類・特徴)。

                          ●  ほとんどの現代日本人は、「本土日本

              人」である。

                現代日本人の「琉球人」や「アイヌ人」

              は、極めて少ない。

              ● 現代日本人とは、 現代日本の時期に

             (昭和・戦後時代と平成時代に)、 日本地

              域(日本本土、北海道、南西諸島の日本列

             島)に居住している、「現代日本人の本土

             日本人」、「現代日本人の琉球人」、「現代 

             日本人のアイヌ人」の3グループの人類で

             あり、

                日本本土(本州、四国、九州)・南西諸

              島・北海道に土着・居住する「本土日本人」

             の現代日本人であり、

                南西諸島を中心に土着・居住する「琉

             球人」の現代日本人であり、 

                北海道を中心に土着・居住する「アイヌ

             人」の現代日本人である。

              ● 「本土日本人」は、 古・新モンゴロイド

             混血の縄文・弥生渡来・混血系の人類であ

             る。

                 「琉球人」は、 古・新モンゴロイド混

             血の縄文・弥生渡来・混血系の人類である。

                「アイヌ人」は、 古・新モンゴロイド混

             血の縄文・北アジア諸民族・混血系の人類

             である。

             ● 現代日本人(日本常住民)への進化表。

               化石類人猿(= 中新世ホミノイド)⇒ 

             人類の、猿人⇒ 原人(= ホモ・エレクト

             ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類

             ⇒ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス

             (種))⇒ モンゴロイド⇒ 縄文人⇒ 

             弥生人⇒ 古代日本人⇒ 中世日本人 

             ⇒ 近世日本人⇒ 近代日本人 

             現代日本人

             ● 日本人(日本常住民)への進化表。

               化石類人猿(= 中新世ホミノイド)⇒ 

             人類の、猿人⇒ 原人(= ホモ・エレクト 

             ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類

             ⇒ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス

             (種))⇒ モンゴロイド⇒ 縄文人⇒ 

             弥生人⇒ 古代日本人⇒ 本土日本人

             (= 本土人)、 「琉球人」、「アイヌ人」。

            (⇒ 日本人)。 

            (⇒ 縄文・弥生渡来・混血系)。

            (⇒ 本土日本人(= 本土人))。 

            (⇒ 琉球人)。 

            (⇒ 縄文系)。

            (⇒ アイヌ人)。 

            (⇒ 原日本人)。

          (⇒ 日本人ルーツ・ガイドブック)。

 

〇 げん  現代日本 

        (「敗戦後の日本の繁栄 」

 

〇 げん  現代日本文化

                          (げんだいにほんぶんか)。

             《日本の文化》。

          (20世紀中頃〜現在)。

          (⇒ 日本の文化)。

 

 げん  現代日本歴史 詳細年表

             (げんだいにほんれきし しょうさいねんぴょう)。

          (⇒ 日本史年表) 。

 

〇 げん  現代日本政府

              (げんだいにほんせいふ)。 

             (= 現代日本民主政府)。

             《日本の政府》。

          ● 1945年〜現在。

          (⇒ 近現代日本政権)。

          (⇒ 日本の政権・政府)。

 

〇 げん  現代日本民主政権

               (げんだいにほんみんしゅせいけん)。  

             《日本の政権》。

          ● 1945年〜現在。

          (⇒ 現代日本政権) 。

          (⇒ 日本の政権・政府)。

 

〇 げん  現代日本民主政府

             (げんだいにほんみんしゅせいふ)。

             (= 現代日本政府)。 

             《日本の政府》。

          ● 1945年〜現在。

          (⇒ 近現代日本政権)。

          (⇒ 日本の政権・政府)。

 

#kenchi

 

〇 げん  現地域名。

             (げんちいきめい)。 《地域名》。

           (= 日本の現地域名)。

          (⇒ 現8地方)。 

          (⇒ 現地方名)。

                     (⇒ 都道府県)。

                      (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

             ■ 地域名には、 現地域名 と 旧地域名

             がある。

             ■ 現地域名は、 現・大地域名(現地方

             名)の北海道・東北・関東・中部・近畿・

             中国・四国・九州地方 や 現・中地域名

             の都道府県 や 現・小地域名の市町村名、 

             小土地名などである。

                     ■ 現地域名。

             <地域名。

             <日本の地名。

                     ■ 日本の現・大地域名。

                        ■ 日本の現・地方名。

                        ● 日本の現・大地方名。

                      日本の現・大地方名は、北海道、本州、

               四国、九州、南西諸島 である。

                        ● 日本の現・中地方名。

               日本の現・中地方名は、 北海道地方、

              東北地方、関東地方、中部地方、近畿地方、 

              中国地方、四国地方、九州地方 である。

                     ■ 日本の現・中地域名。

              ● 日本の現・中地域名は、都道府県名で

               ある。

                     ■ 日本の現・小地域名。

              ● 日本の現・小地域名は、 市町村名、

              小土地名、その他の各地の地名である。

 

〇 げん   現地方名。

              (げんちほうめい)。 《地域名》。

           (= 日本の現地方名)。

          (⇒ 地方名)。

           (⇒ 現8地方)。 

           (⇒ 現地域名)。

                     (⇒ 都道府県)。

                      (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

             ■ 地方名には、 現地方名と旧地方名が

             ある。

                     ■ 日本の現・大地方名。

                    ● 日本の現・大地方名は、 北海道、本

             州、四国、九州、南西諸島 である。

                     ■ 日本の現・中地方名。

             ● 日本の現・中地方名は、 北海道地方、

             東北地方、関東地方、中部地方、近畿地方、

             中国地方、四国地方、九州地方 である。

                     ■ 現地方名。

             <地方名。

             <地域名。

             <地名。

 

〇 げん  元中。

             (げんちゅう)。 《和暦》。

             THE GENCHU ERA.

             ○ (1384〜1392年)。

          (⇒ 南北朝競合二重年号

           (⇒ 和暦の二重年号存立

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

          ■ 南北朝競合二重年号。

          ● 南朝 (大覚寺統)方の暦年号。

                1384年・元中元年・4月28日〜

                1392年・元中 9年・(うるう)10月5日。

             ● 室町時代前期の和暦年号。

             ● 前近代日本の旧暦(太陰太陽暦)では、

                  約3年に一度、 1ヶ月の余分な閏月(うるう

              づき)を挿入して、年13ヶ月とし、暦と季節

              のずれを少なくした。

             ● (注意) 同時期に、 北朝 (持明院統、

              光厳(こうごん)・光明(こうみょう)天皇系

              統) 方の暦年号の、 至徳(しとく)元年〜

              4年(1384〜1387年)、 嘉慶(かきょう)

              元年〜3年(1387〜1389年)、 康応

              (こうおう)元年〜2年(1389〜1390年)、 

              明徳(めいとく)元年〜5年(1390〜139

              4年) も存立する。

             ● 元中年号(元中元年〜9年、1384〜

              1392年)より後は、 南朝(大覚寺統)方 

              は、 暦年号編成を中止する。 1392年

              の南北朝合体で、事実上南朝が北朝に

              吸収合併され、 南朝が消滅したため。

              ● 南朝 (大覚寺統、後醍醐天皇系統)

              方の暦年号。

                建武(けんむ)⇒ 延元(えんげん)⇒ 

              興国(こうこく)⇒ 正平(しょうへい)⇒ 

              建徳(けんとく)⇒ 文中(ぶんちゅう)⇒ 

              天授(てんじゅ)⇒ 弘和(こうわ)⇒ 

              中(げんちゅう)⇒ 暦年号編成中止

 

〇 けん  建長。 

             (けんちょう)。  《和暦》。

             THE KEICHO ERA.

             ○ (1249〜1256年)。

             ● 1249年・建長元年・ 3月18日〜

                1256年・建長 8年・10月 5日。

             ● 鎌倉時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇 けん  遣唐使

             (けんとうし)。 《公式使節》。

                     □ 日本対外関係 画像アル

             バム  No.1

             ○  遣唐使の計画期間:

             630年ー894年

             ○  遣唐使の計画・約20回の

            うち、約15回が実際、唐へ

            渡航。

             (⇒ )。

              ■ 遣唐使 (けんとうし、計画期間:630

              年ー894年)とは、 日本が中国の唐(と

              う)に派遣した公式使節である。

                 中国の記述では、「倭国が唐に派遣し

              た朝貢使」となっている。

              ■ 遣唐使の派遣は、 飛鳥・白鳳時代

              の630年(舒明 (じょめい)天皇2年)の

              第1次遣唐使 (英:the 1st Mission 

              to Tang China)から、 平安時代 前期

              の894年(寛平6年)の第 20次遣唐使ま

              で、 朝廷により、約20回 計画された。

                  894年(寛平6年)に、朝廷は、遣唐

               使の中止を決定した。

               ■ 遣唐使は、 約20回計画され、約

               15回の遣唐使が、実際に中国の唐へ

               渡航した。

 

〇 けん  建徳。 

             (けんとく)。 《和暦》。

             THE KENTOKU ERA.

             ○ (1370〜1372年)。

          (⇒ 南北朝競合二重年号

           (⇒ 和暦の二重年号存立

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

          ■ 南北朝競合二重年号。

          ● 南朝 (大覚寺統)方の暦年号

                1370年・建徳元年・7月24日〜

                1372年・建徳 3年・4月。

             ● 室町時代前期の和暦年号。

              ● (注意) 同時期に、北朝 (持明院統、

                           光厳(こうごん)・光明(こうみょう)天皇系統) 

             方の暦年号の、  応安(おうあん)元年〜8

                           年(1368年〜1375年) も存立する。

 

〇 げん  元徳 

             (げんとく) 。 《和暦》。

             THE GENTOKU ERA.

           (⇒ 和暦の二重年号存立

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

          ■ 後醍醐・鎌倉幕府競合二重年号。

             ● 後醍醐(ごだいご)天皇 (大覚寺

              (だいかくじとう))方の暦年号。

             ○ (1329〜1331年 )。

               1329年・元徳元年・8月29日〜

               1331年・元徳 3年・8月 9日。 

             ● 鎌倉時代後期の和暦年号

              ● 後醍醐(ごだいご)天皇 (大覚寺統(だ

              いかくじとう)) 方の暦年号。

                  嘉暦(かりゃく)⇒ 元徳(げんとく)元年

              〜3年 (1329〜1331年) ⇒ 元弘

              (げんこう)元年〜4年 (1331〜1334 

              年) ⇒ 建武(けんむ)。

           ● 光厳(こうごん)天皇 (鎌倉幕府擁

               立、持明院統(じみょういんとう))方の

           暦年号。

             ○ (1329〜1332年)。

               1329年・元徳元年・8月29日〜

               1332年・元徳 4年・4月28日。 

             ● 鎌倉時代後期の和暦年号

              ● 光厳(こうごん)天皇 (鎌倉幕府擁立、

              持明院統(じみょういんとう))方の暦年号。

                嘉暦(かりゃく) ⇒ 元徳(げんとく)元

              年〜4年 (1329〜1332年) ⇒ 正慶

              (しょうきょう)元年〜2年 (1332〜133

              3年)⇒ 暦年号編成中止。 

 

#kenna

 

○ げん  元和。

              (げんな、げんわ)。 《和暦》。

             THE GENNA ERA.

             ○ (1615〜1624年)。

             ● 1615年・元和 元年・7月13日〜

                1624年・元和10年・2月30日。 

             ● 江戸時代前期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

             ○ 元和 A年=元和 A年+1614年

                =西暦 B年。

             ○ 西暦 B年西暦 B年1614年

                =元和 A年

             ● (元亀(げんき)⇒天正(てんしょう)⇒文禄

              (ぶんろく)⇒慶長(けいちょう )⇒元和(げん

              な)⇒寛永(かんえい)。

             ● 元亀元年〜 4年(1570年〜1573年)⇒

                天正元年〜20年(1573年〜1592年)⇒

                文禄元年〜 5年(1592年〜1596年)⇒

                慶長元年〜20年(1596年〜1615年)⇒

                元和元年〜10年(1615年〜1624年)⇒

                寛永元年〜21年(1624年〜1644年)。

 

○ げん  原日本人 

             (げんにほんじん)。

             (= 「縄文人」 と 「渡来系弥生人」)。

          (人類学上の分類・特徴)。

                    《日本常住民の日本人》。

             THE PROTO-JAPANESE.

                ○ 日本人の祖先の人類。

             ○ 原日本人とは、 縄文人 と 渡来系

             弥生人 である。

             ● 原日本人とは、 縄文時代に、日本地

             域(日本本土、南西諸島、北海道)に居住

             していた、古モンゴロイドの「縄文人」 と、 

             弥生時代に、日本地域の日本本土に居住

             していた、新モンゴロイドの「渡来系弥生

             人」 の人類である。

             ○ 日本人の祖先である、原日本人 は、 

             縄文系・古モンゴロイド(= 南方モンゴロイ

             ド)の「縄文人」 と、 弥生渡来系・新モン

             ゴロイド(= 北方モンゴロイド)の「渡来系

             弥生人」 の2グループの人々 である。

                ○ 原日本人が中心(中核)となって、他

             の諸族と混血、文化融合して、現在の日

             本人が形成され、出現した。

             ○ 原日本人は、 中世日本(鎌倉〜室町

             時代)より、 「本土日本人」、「琉球人」、

             「アイヌ人」 となる。

                 ○  主に、縄文人とその子孫の「縄文系」

             の人々 と、 渡来系弥生人とその子孫の

             「弥生渡来系」の人々 が、混血して、 「本

                          土日本人」を形成する。 

             ○ 日本人(日本常住民)への進化表。

               化石類人猿(= 中新世ホミノイド)⇒ 

             猿人⇒ 原人(= ホモ・エレクトス類)⇒ 

             旧人(= 前ホモ・サピエンス類)⇒ 現生

             人類(= 新人ホモ・サピエンス)⇒ モン

             ゴロイド⇒ 縄文人⇒ 弥生人⇒ 古代

             日本人⇒ 本土日本人」(= 本土人)

             「琉球人」、「アイヌ人」。

             ○ 現代日本人(日本常住民)への進化表。

               化石類人猿(= 中新世ホミノイド)⇒ 

             猿 人⇒ 原人(= ホモ・エレクトス類)⇒ 

             旧人(= 前ホモ・サピエンス類)⇒ 現生

             人類(= 新人ホモ・サピエンス)⇒ モン

             ゴロイド⇒ 縄文人⇒ 弥生人⇒ 古代 

             日本人⇒ 中世日本人⇒ 近世日本人⇒ 

             近代日本人 現代日本人

             ○ モンゴロイドへの進化表。

                化石類人猿(= 中新世ホミノイド)⇒ 

              猿人⇒ 原人(= ホモ・エレクトス類)⇒

              旧人(= 前ホモ・サピエンス類)⇒ 現生

              人類(= 新人ホモ・サピエンス)⇒ 

              ンゴロイド⇒  古モンゴロイ ド= 南方モ

              ンゴロイド)⇒ モンゴロイド= 北方モ

             ンゴロイド)。

            (⇒ 縄文系)。 

           (⇒ 弥生渡来系)。

            (⇒ 日本人)。 

          (⇒ 日本人ルーツ・ガイドブック)。

          (⇒ 古モンゴロイド= 南方モン

          ゴロイド))。

          (⇒ モンゴロイド= 北方モン

          ゴロイド))。

          (⇒ モンゴロイド)。

 

○ けん  顕如

              (けんにょ)。 《人名》。

             KENNYO.

          (⇒ 一向宗)。

             ○ 僧侶で、一向宗門徒の本拠地

           (本山)・石山本願寺の法主。

             ○ 織田信長と敵対したが、後に

           和睦。

             ● 顕如  (けんにょ)は、 僧侶で、一向宗門

              徒の本拠地(本山)・石山本願寺の法主 であ

              る。

             ● 顕如 は、 織田信長と敵対したが、後に和

              睦する。

 

○ けん  建仁。

             (けんにん)。 《和暦》。

             THE KENNIN ERA.

             ○ (1201〜1204年)。

             ● 1201年・建仁元年・2月13日〜

                1204年・建仁 4年・2月20日。

             ● 鎌倉時代前期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

○ げん  元仁。 

             (げんにん)。 《和暦》。

             THE GENNIN ERA.

             ○ (1224〜1225年)。

             ● 1224年・元仁元年・11月20日〜

                1225年・元仁 2年・ 4月20日。

             ● 鎌倉時代前期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

#kenha

 

○ げん  原爆被害

             (げんばくひがい)。

          (⇒ 近代日本歴史詳細年表

             ■ 原爆被害とは、 第2次世界大戦(太平

             洋戦争)中の、米軍機による1945年8月

             の広島(8月6日)、長崎(8月9日)への原

             爆(原子爆弾)投下の被害である。

             ● 日本の原爆被害は、 人類最初の、実

             戦で使われた原爆の被害となった。

             ● 日本の原爆被害の惨状は、 世界に伝

             わり、 現代世界の世界核戦争の抑止と世

             界平和に貢献する。

 

〇 げん  現8地方。

             (げんはちちほう)。 《現地域名》。

          (= 日本の現8地方)。

           (⇒ 現地方名)。

           (⇒ 現地域名)。

                     (⇒ 都道府県)。

                      (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

             ■ 日本の現8地方には、 北海道地方、

             東北地方、関東地方、中部地方、近畿地

             方、中国地方、四国地方、九州地方であ

             る。

                         ■ (RWL) 日本の、大地域名の変遷。

             ● 五畿七道⇒  旧近現代地方⇒ 現8

             地方。

                     ● 五畿七道 (ごきしちどう) (紀元

             (後)701年頃ー1868年頃、飛鳥白鳳

             時代末期ー明治時代)⇒ 旧近現代地

             方 (1868年頃ー1989年頃、明治時

             代ー昭和時代)⇒ 現8地方。

 

#kenhu

 

 けん  玄武館。

             (げんぶかん)。 《剣術道場》。

             ○ 幕末に江戸にあった、北辰

          一刀流の道場。 

        (⇒ 幕末の江戸剣術道場)

             ● 玄武館(げんぶかん)は、 幕末に江戸

             にあった、北辰一刀流の剣術道場である。 

 

○ げん  玄武隊。

             (げんぶたい)。 《会津戦争》。

           (= 会津藩玄武隊)。

       (⇒会津戦争)。

          ○ 会津戦争で 会津藩士の中核

           部隊の1つ。

             ● 玄武隊 (げんぶたい)とは、 会津戦争

             での会津藩玄武隊であり、 会津戦争で会津

             藩士の中核部隊の1つであった。

 

○ げん  元文。 

             (げんぶん)。 《和暦》。

             THE GENBUN ERA.

             ○ (1736〜1741年)。

             ● 1736年・元文元年・4月28日〜

                1741年・元文 6年・2月27日。 

             ● 江戸時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック  

 

#kenhe

 

 げん  源平競合二重年号

                           (げんぺいきょうごうにじゅうねんごう)。

                          《和暦》。

             ● 平安時代末期。

              ● 1181年〜1185年。

             ● 平安時代後期の和暦年号。

           (⇒ 和暦の二重年号存立

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

             ■ 伊勢平氏政権(安徳天皇擁立)方の暦

             年号。 

               安元(あんげん)元年〜3年 ⇒ 治承

             (じしょう)元年〜5年 (1177〜1181年

             ⇒ 養和(ようわ)元年〜2年 (1181〜

             1182年) ⇒ 寿永(じゅえい) 元年〜4年

             (1182〜1185年)⇒  暦年号編成中止。

             ■ 河内源氏・源頼朝政権 (後鳥羽天皇

              擁立)方の暦年号。 

               安元(あんげん)元年〜3年 ⇒ 治承 

              (じしょう)元年〜8年 (1177〜 1184

              年) ⇒ 元暦(げんりゃく)元年〜2年

              (1184〜1185年) ⇒ 文治(ぶんじ)。

 

 けん  憲兵隊。

             (けんぺいたい)。

          (= 旧日本軍の警察部隊)。

          (1881年〜1945年)。

           ○ 憲兵隊は、戦前、政治

          思想、反戦の弾圧も行った。

          (⇒ 昭和戦前期の

        旧日 本軍実態ガイド

        ブック)。

          (⇒ 特別高等警察)。

             ■ 憲兵隊は、特別高等警察と共

             に、日本の軍国主義、全体主義を

             推進する。

             ■ 憲兵隊 (けんぺいたい、18

             81年〜1945年)は、 

             旧日本軍の警察 部隊である。

             ■ 憲兵隊は、

             戦前、政治思想、反戦の弾圧も行

             った。

 

 けん  源平の争乱。

             (げんぺいのそうらん)。 《戦争》。

          (= 源平合戦)。

                 (= 治承・寿永の乱(じしょ

             う・じゅえいのらん)の一部)、

             (1180 年〜1185年)。

       (⇒ 平安時代末期

        詳細年表)。

             ■ 源平の争乱(= 源平合戦)とは、 

             治承・寿永の乱(じしょう・じゅえい

             のらん、1180〜1185年または

             1189年)の一部であり、 河内源

              氏と伊勢平氏との戦いである。

             ■ 源平の争乱(= 源平合戦)で

             は、北条氏をはじめ多くの坂東(ば

             んどう、関東)武士は、河内源氏 の

             源頼朝に味方した。

                    ■ 源平の争乱(= 源平合戦)では、 

             伊勢平氏(幼帝の安徳天皇擁立)も、 

             内源氏(幼年の後鳥羽天皇擁立)

             も、 幼帝を擁立して日本の覇権を

             争う。

 

#kenho

 

 けん  憲法。 

             (けんぽう) 。 《法律》。

          ○ 国の基本法。

          ○ 国家の権力をしばる法律。

        (⇒ 近代日本現代日本)。

             ■ 憲法 (けんぽう)は、 国の基本法であり、

              国家の権力をしばる法律 である。

 

 けん  建保。 

             (けんぽう)。 《和暦》。

             THE KENPO ERA.

              1213年ー1219年。

             ● 1213年・建保元年・12月 6日〜

                 1219年・建保 7年・ 4月12日。

             ● 鎌倉時代前期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

              ■ 建保 (けんぽう、英: THE 

                           KENPO ERA) とは、和暦であり、 

             鎌倉時代前期の和暦年号であり、 

             1213年・建保元年・12月6日から

             1219年・建保7年・4月12日までで

             ある。  

              ■ 次年号 

             (承久元年・1219年・4月12日

              承久4年・1222年・4月13日)。

 

 げん  減封

             (げんぽう)。 《領地》。

             (= 領地削減)。

          (⇒ 領地江戸幕府)。

          ○ 領地(所領)の一部を削減す

           ること 。 

          ○ 封建・武士支配者の領地(封

           土)政策の1つ。

          ○ 江戸時代では、江戸幕府の

           命令で、大名(藩主)の領地(所

                      領)の一部を削減すること。 

               ● 減封 (げんぽう)とは、領地削減である。

               ● 減封は、領地(所領)の一部を削減す

               ることである 。 

                  減封は、江戸時代では、江戸幕府の

               命令で、大名(藩主)の領地(所 領)の一部

              を削減することである。 

               ● 減封 は、 封建・武士支配者の領地(封

               土)政策の1つであった。

 

#kenma

 

 けん   建武 

               (けんむ) 。 《和暦》。

               THE KENMU ERA.

            ○ 建武時代。

           (⇒ 南北朝競合二重年号

           (⇒ 和暦の二重年号存立

           (⇒ 西暦和暦対照表 ・

              日本語版

           (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

           (⇒ 和暦ガイドブック 

            ■ 南北朝競合二重年号。

            ● 南朝 (大覚寺統、後醍醐天皇

               系統) 方の 「建武」暦年号。

            ○ 1334年〜1336年。

               1334年・建武元年・1月29日〜

               1336年・建武 3年・2月29日。 

               ● 建武時代の和暦年号。

                ● 南朝 (大覚寺統、後醍醐天皇系

               統)方の暦年号。

                ■ 建武 (けんむ、英 :THE 

                             KENMU ERA) とは、 南朝(大

               覚寺統、後醍醐天皇系統)方の和暦

               であり、 建武時代の和暦年号であり、 

              1334年・建武元年・1月29日から

              1336年・建武 3年・2月29日まで

              の期間である。  

              ■ 建武(けんむ)⇒ 延元(えんげん)  

               ⇒ 興国(こうこく)⇒ 正平(しょうへ

               い)⇒ 建徳(けんとく)⇒ 文中(ぶん

               ちゅう)⇒ 天授(てんじゅ)⇒ 弘和

               (こうわ)⇒ 元中(げんちゅう)⇒ 

               暦年号編成中止

           ● 北朝 (持明院統、光厳・光明天

               皇系統) 方の「建武」暦年号。

           ○ 1334年ー1338年。

               1334年・建武元年・1月29日〜

               1338年・建武 5年・8月28日。 

               ● 建武時代の和暦年号。

               ● 北朝 (持明院統、光厳(こうご

               ん)・光明 (こうみょう)天皇系統)方

               の暦年号。

                ■ 建武 (けんむ、英 :THE 

                             KENMU ERA) とは、 北朝(持

               明院統、光厳(こうごん)・光明 (こう

               みょう)天皇系統)方の和暦であり、

               建武時代の和暦年号であり、 

               1334年・建武元年・1月29日から

               1338年・建武 5年・8月28日まで 

               の期間である。  

               ■ 建武(けんむ)⇒ 暦応(りゃくお

               う)⇒ 康永(こうえい)⇒ 貞和(じょ

               うわ)⇒ 観応(かんのう)⇒ 文和

               (ぶんな)⇒ 延文(えんぶん)⇒ 康

               安(こうあん)⇒ 貞治(じょうじ)⇒ 

               応安(おうあん)⇒ 永和(えいわ)⇒ 

               康暦(こうりゃく)⇒ 永徳(えいとく)

               ⇒ 至徳(しとく)⇒ 嘉慶(かきょう)

               ⇒ 康応(こうおう)⇒ 明徳(めいと

               く)。

 

 けん  建武時代 

                         (けんむじだい)。

          (= 1333年ー

           1338年または1336年)。

          《日本歴史の時代区分》。 

          THE KENMU PERIOD

          <中世日本。

                      中世日本

          (⇒ 日本歴史の時代区分) 。

             ■ 建武時代 (けんむじだい)とは、

             1333年(元弘3年、正慶2年)から 、

             1338年(建武5年・暦応元年、延元

             3年)または1336年まで、の期間で

             ある。

             ■ 建武時代。

              ● 1333年は、 建武政府が成立

              した年である。

              ● 1336年は、 建武政府が事実

              上崩壊し、 室町幕府(= 足利幕府)

              が事実上成立した年である。

              ● 1333年は、 室町幕府(= 足利

              幕府)が名目的に成立した年である。

              ■ 建武時代。

              ● 1333年は、 幕府根拠地の鎌

              倉が陥落し、鎌倉幕府が滅亡し、 

              後醍醐天皇が帰京し、政府機関を設

              置し、建武政府が成立した年である。

              ● 1336年は、 後醍醐天皇が吉

              野に移り、建武(けんむ)政府が事

              実上崩壊し、 足利尊氏が、光明

              (こうみょう)天皇を擁立し、建武式

              目を制定し、室町幕府(= 足利幕府)

              が事実上成立した年である。

              ● 1338年は、 足利尊氏が征夷

              大将軍になり、室町幕府(= 足利幕

              府)が名目的に成立した年である。

             ■ 建武時代は、 中世日本 (= 鎌

             倉時代、建武時代、室町時代;11

             92年頃ー1573年頃) の一時期

             である。

 

 けん  建武政権 

             (けんむせいけん)。 《政権》。

             THE KENMU GOVERNMENT.

          (1333年頃ー1336年頃)。

          ○ 建武政権は、

          後醍醐(ごだいご)天皇が樹立

          した政権である。 

          ○ 建武政権は、

          現実を無視し、理想を追求し

          て、崩壊する。 

          (⇒ 日本の政権・政府)。

             ■ 建武 政権 (けんむせいけん、13

             33年頃〜1336年頃)は、 後醍醐

             (ごだいご)天皇が樹立した政権である。

             ■ 後醍醐天皇は、 現実を無視し、

              理想を追求して、日本本土を統治し、

             政権を崩壊させる。

 

 けん  建武の新政 

             (けんむのしんせい)。 《政治》。

          (1333年頃〜1336年頃)。

          ○ 建武の新政は、

           後醍醐(ごだいご)天皇が行っ

          た政治である。

          ○ 建武の新政は、

          天皇親政政治を復活させる。

          ○ 建武の新政は、

          現実を無視し、理想を追求し

                     て、統治し、失敗する。

             ■ 建武の新政  (けんむのしんせい、

             1333年頃〜1336年頃)は、 後醍

             醐(ごだいご)天皇が行った政治であ

             る。

             ■ 後醍醐天皇は、 天皇親政政治を

             復活させたが、 現実を無視し、理想

             を追求して、 日本本土を統治し、失敗

             する。

 

 げん  元明天皇。

             (げんめいてんのう)。 《女性天皇》。 

                   THE EMPRESS GENMEI.

          ○ 元明天皇在位:

            707年ー715年。

           (⇒ 女性天皇)。 

             ■ 元明天皇 (げんめいてんのう、天皇在

                位:707ー715年、英:THE EMPRESS 

             GENMEI)は、 飛鳥白鳳時代、奈良時代

             初期の、女性天皇(= 女帝)で ある。 

             ■ 元明天皇は、 天智天皇の皇女(娘)で

             あり、 文武(もんむ)天皇や元正(げんしょ

             う)天皇(女性天皇、在位:715年ー724年)

             の生母であり、 聖武天皇の祖母である。

             ■ 元明天皇は、  平城京 (へいじょうきょ

             う、710年ー784年)遷都、その他多くの政

             策を行い、律令国家の基礎を築く。

              ◆ 女性天皇 (8人10代)

           (⇒ 女性天皇)。   

           (⇒ 推古(すいこ)天皇)。

           (⇒ 皇極斉明(こうぎょく

                (さいめい))天皇)。

           (⇒ 持統(じとう)天皇)。

           (⇒ 元明(げんめい)天皇)。

           (⇒ 元正(げんしょう)天皇)。

           (⇒ 孝謙称徳(こうけん

                (しょうとく))天皇)。

           (⇒ 明正(めいしょう)天皇)。

           (⇒ 後桜町(ごさくらまち)天皇)。

             ■ 日本の古代から現代までの間に、女性

             天皇は、 飛鳥白鳳(あすかはくほう)時代、

             奈良(なら)時代に天皇に即位(就 任)した、

             推古(すいこ)、皇極(斉明)(こうぎょく(さい

             めい))、持統(じとう)、元明(げんめい)、

             元正(げんしょう)、孝謙(称徳)(こうけん

             (しょうとく))の6人8代の天皇 や 江戸

             (えど)時代に天皇に即位(就 任)した、明

             正(めいしょう)、後桜町(ごさくらまち)の2

             人2代の天皇がいて、合計して8人10代の

             女性天皇(= 女帝がいる。

 

#kenra

 

 けん  建暦。 

             (けんりゃく) 。 《和暦》。

             THE KENRYAKU ERA.

             ○ (1211〜1213年)。

             ● 1211年・建暦元年・ 3月9日〜

                1213年・建暦 3年・12月6日。

             ● 鎌倉時代前期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

 げん  元暦。

             (げんりゃく) 。 《和暦》。

             THE GENRYAKU ERA.

             ○ 1184 年ー1185年。

          (⇒ 和暦の二重年号存立

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック  

          ■ 源平競合二重年号。

             ■ 1181年から1185年まで、日本で

              は、 源平競合二重年号が使用される。

             ■ 河内源氏・源頼朝政権(後鳥

             羽天皇擁立)方の暦年号。 

             ○ 1184年ー1185年。   

             ● 1184年・元暦元年・4月16日〜

                1185年・元暦 2年・8月14日。

             ● 平安時代後期の和暦年号

             ● (注意) 同時期に、伊勢平氏政権(安

             徳天皇擁立)方の暦年号の寿永(じゅえい)

             元年〜4年 (1182〜1185年)も存立

             する。

             ■ 河内源氏・源頼朝政権 (後鳥羽天皇

              擁立)方の暦年号。 

             ● 安元(あんげん)元年〜3年  (1175

              年〜1177年) ⇒ 治承(じしょ う)元年 

              〜8年 (1177年〜 1184年) ⇒ 

              元暦(げんりゃく)元年〜2年  (1184

              〜1185年) ⇒ 文治(ぶんじ )元年〜

              6年 (1185年〜1190年)。

 

 けん  県令。

               (けんれい)。 《地方長官》。

                         (= 県の長官 、県知事に相当)。

       (⇒ 都道府県)。

             ■ 県令 (けんれい)とは、 明治新政

             府(近代日本政府)の県の長官 (県知

             事に相当する役職)である。

             ● 県令 (けんれい)は、 明治新政府

             (近代日本政府)から任命・派遣された

             県の長官(トップ、県知事に相当する役

             職)である。

             ● 近代日本政府の、県の長官は、 廃

             藩置県を行った1871年(明治4年)から

             1886年(明治19年)まで、県令と呼び、

             それ以後は、県知事と呼ふ。

 

 けん  建礼門院 。

             (けんれいもんいん)。 《人名》。

                     (= 平 徳子(たいらのとくこ)

          建礼門院 徳子)。 

        (⇒ 平 徳子)。  

                     ○ 平 清盛の娘。

          ○ 高倉(たかくら)天皇の正室 夫

           人、安(あんとく)天皇の生母。

                             ■ 建礼門院  (けんれいもんいん)とは、

              平 徳子(たいらのとくこ)であり、  建礼

              門院 徳子である。 

                             ● 建礼門院は、 平 清盛の娘であり、

              高倉(たかくら)天皇の正室 夫人であり、

              安徳(あんとく)天皇の生母である。

 

#kenro

 

 げん  元禄。

             (げんろく)。 《和暦》。

             THE GENROKU ERA.

             ○ 1688 年ー1704年。

             ● 1688年・元禄 元年・9月30日〜

                1704年・元禄17年・3月13日。 

             ● 江戸時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

             ■ 元禄 (げんろく、英:THE 

             GENROKU ERA)とは、和暦 であ

             り、 江戸時代中期の和暦年号であり、 

             1688年・元禄 元年・9月30日から

              1704年・元禄17年・3月13日まで

             の期間である。

 

 げん  元禄赤穂事件 

             (げんろく あこうじけん)。《歴史事件》。

                          (= 赤穂事件)。 

             GENROKU AKO INCIDENT.

             (狭義:1701年3月の松の廊

          下・刃傷事件)。

             (広義:1701年〜1703年、

          1701年3月の松の廊下・刃傷

           から1702年12月の赤穂浪士・

          吉良邸討ち入りを経て、1703

          年2月の赤穂浪士・切腹までの

          事件)。

          □ 赤穂事件 画像アルバム  

            No.1

             (⇒ 日本歴史の驚異の出来事

             ー武士道)。

          ○ 元禄赤穂事件(= 赤穂事

           件)は、お家再興ならず、

          仇(かたき)をとる。

          ○ 赤穂浪士の吉良邸討ち入

          りは、幕府・将軍の徳川綱吉

          の失策によって起こる。

          ○ 元禄赤穂事件(= 赤穂事

          件)は、パワハラ事件である。

          ○ 「忠臣蔵(ちゅうしんぐら)」は、

          元禄赤穂事件(= 赤穂事件)

          をモデル(題材)にした創作

          (フィクション)の物語である。

             ■ 元禄赤穂事件 (げんろくあこうじけ

             ん、= 赤穂事件)は、 狭義では、1701

             年(元禄14年)3月に起こったの松の廊

             下・刃傷事件である。

             ■ 元禄赤穂事件 (げんろくあこうじけ

             ん、= 赤穂事件)は、 広義では、1701

             年(元禄14年)3月の赤穂藩主・浅野の

             江戸城松の廊下の刃傷に始まり、17

             02年(元禄15年)12月の赤穂浪士の

             吉良邸討ち入りを経て、 1703年(元

             禄16年)2月の赤穂浪士の切腹に終わ

             る。

             ■ 元禄赤穂事件 (= 赤穂事件、広

             義:1701年3月〜1703年2月) とは、

             赤穂浅野家の赤穂藩主・浅野内匠頭

             (長矩)が刃傷におよび切腹し、赤穂藩

             がとりつぶされ、赤 穂浅野家のお家再

             興もならず、赤穂浪士が主君・浅野内

             匠頭(長矩)の仇(かたき)をとった事件

             である。

             ■ 元禄赤穂事件(= 赤穂事件)は、

             作(フィクション)の「忠臣蔵(ちゅうしん

             ぐら)」のモデルとなった事件である。

             ■ 元禄赤穂事件 (= 赤穂事件)は、 

             パワハラ事件であり、 浅野内匠頭(長

             矩)が老中の指示で接待費減額を遵守し

             たため接待費減額を望まない吉良と不

             和になり、 浅野は持病の痞 (つかえ、

             慢性的神経性胃炎)の痛みがあり当日

             天気が曇りで痛みが悪化し、 更に、

             中等の江戸幕府幕閣の前で勅使接待

             指導役の吉良上野介(義央)が勅使供

             応役の浅野内匠頭(長矩)を叱責・中傷

             したことが原因となり、浅野が遺恨(いこ

             ん)をもち、怒りを抑えきれず吉良に刃

             傷におよび、起こった事件である。

             ■ 元禄赤穂事件(= 赤穂事件)では、

             江戸幕府・第5代将軍の徳川綱吉の

             失策によって、赤穂浪士の吉良邸討ち

             入りが起こる。 

                徳川綱吉は、 町家出身の母の

             高位叙任に関係する朝廷の使者接

             待中に起こった事件で、切望した母の

             高位叙任が延期となり怒り、 喧嘩両

             成敗をせず、審理を尽くさず、 浅野

             即日切腹や浅野の赤穂藩とり潰しと

             吉良お構いなしという、浅野内匠頭

             (長矩)に一方的に不利な判決を下す。 

             ■ 1701年(元禄14年)3月14日 に、 

             江戸城内の松之廊下(まつのろうか)で、 

             浅野内匠頭(長矩)が、遺恨(いこん)で、

             吉良上野介(義央)を斬りつける刃傷(に

             んじょう)事件が起こる。

                 江戸幕府・第5代将軍の徳川綱吉

             は、 勅使接待を台無しにされ、 綱吉の

             母の町家出身の桂昌院が高位を得るチ

             ャンスが延びてしまい、 神経質な徳川

             綱吉は、激怒して、喧嘩両成敗(けんか

             りょうせいばい)を無視し、詳しく調べもせ

             ず、 吉良上野介はお咎(とが)めなしと

             し(罪なしとし)、 一方的に、浅野内匠頭

             (長矩)に即日切腹を言い渡し、その後、

             綱吉は、赤穂浅野家の赤穂藩をとりつぶ

             し、赤穂浅野家の再興を認めなかった。

                この綱吉の失策が、1702年(元禄

             15年)12月の赤穂浪士の吉良邸討ち入

             りを招いてしまう。

             ■ 1701年(元禄14年)3月の赤穂藩

             のとりつぶし後、赤穂浅野家の赤穂藩の

             旧臣は、 大石 内蔵助(良雄)が率いる

             「お家再興派」 と、 堀部安兵衛(武庸)

             が率いる「仇討優先派」 に分かれる。

             しかし、その後、赤穂浅野家のお家再興

             の望みがなくなり、 1702年(元禄15

             年)7月28日の円山(まるやま)会議後、

             大石内蔵助(良雄)は、仇討に踏み切る。

             ◆ 赤穂浪士の吉良邸討ち入り前。

             ■ 1702年(元禄15年)11月に、大石

              内蔵助(良雄)らの赤穂浪士は、 江戸

             に集結する。

                大石 内蔵助(良雄)らの赤穂浪士は、

             江戸で、吉良邸討ち入りの計画をねる(作

             戦をたてる)。 

                赤穂浪士は、本所の吉良邸内外を

             探索し、吉本所の良邸の図面も手に入れ

             る。

                吉良上野介(義央)は、江戸で、2つ

             の屋敷に居て、江戸城近くの上杉家屋敷

             に居ることも多く、江戸城から離れた本所

             の屋敷にいつ居るかが重要であった。 

             赤穂浪士は、情報を収集し、1702年(元

             禄15年)の12月14日の昼間に江戸・本

             所の屋敷で吉良が茶会を開くことがわか

             り、大石は、12月14日から15日までを

             討ち入り決行日とした。 

                吉良上野介(義央)は、 1702年

             (元禄15年)の12月14日の昼間に、

             本所の吉良邸で茶会を開き、そのまま、

             吉良は本所の吉良邸に泊まり、吉良を

             守る上杉家の家臣は、12月14日の茶

             会終了後、夜に酒を振るまわれ、就寝す

             る。

             ◆ 赤穂浪士の吉良邸討ち入り。

                             ■ 赤穂浪士の吉良邸討ち入りは、 

             1702年(元禄15年)の12月14日から

             12月15日まで行われる。

                赤穂浪士・四十七士 (あこうろうし・

             しじゅうしちし)は、 1702年(元禄15

             年)の12月14日の午後6時過ぎに、47

             士全員が江戸・堀部安兵衛(武庸)(たけ

             つね)宅に集合し、別れの杯(さかずき)を

             酌み交わす(くみかわす)。 その後、赤

             穂浪士は、吉良邸近くの堀部宅、杉野

             宅、前原宅の3つの家に分散する。 

                 1702年(元禄15年)12月15日

             の午前3時頃に、赤穂浪士は、 火消し 

             装束 (山型模様の羽織ではなく、目立た

             ない黒色装束で、白い線を装束の腕回

             りに入れ、内に鉄の鎖帷子(くさびかた

             びら)を着用) の服装で、それぞれ、3つ

             の家から出発し、 12月15日の午前3

             時半頃に、江戸・本所(ほんじょ)の吉良

             邸に到着する。 赤穂浪士は、完全武装

             し、幕府の役人に見つかったら、「火消し」

             と言うことにした。

                そして、 本所の吉良邸に到着した

             赤穂浪士47人は、 表門部隊と裏門部隊

             に分かれて、100人以上の上杉家家臣が

             守る広い吉良邸に討ち入る。 赤穂浪士

             は、乱闘・捜索の末、12月15日の午前5

             時頃に、「台所裏の物置」に隠れていた吉

             良上野介(義央)を発見し、その首を討ちと

             り、合図の笛が吹かれ、大歓声をあげる。

             赤穂浪士の誰も吉良の顔を知らないため、

             捕えた吉良の額と背中の傷を見る。暗闇

             で発見時に白髪の老人の吉良の額に槍を

             刺したため額の傷がわからず、背中の傷

             から吉良と断定し、その後、捕えた上杉

             家家臣に吉良の首を見せ本人と確認し

             た。 不意をつかれた吉良側の家臣は死

             傷者38人、完全武装した赤穂浪士は、

             負傷者2人であった。 すぐ、赤穂浪士は、 

             江戸・本所(ほんじょ)から、浅野内匠頭

             (長矩)の墓のある江戸・泉岳寺(せんが

             くじ)に向う。

             ■ 一方、1702年(元禄15年)12月に、

             吉良上野介(義央)の実子(長男)・上杉

             綱憲(うえすぎつなのり)が藩主を務める

             上杉家は、 本所の吉良邸に、100人以

             上の上杉家家臣を居合わせ、吉良上野

             介(義央)を警備し守っていた。

                1702年(元禄15年)12月15日に、

             上杉家は、 赤穂浪士の本所・吉良邸討

             ち入り(午前3時半頃〜午前5時頃)の

             知らせを聞いて、上杉家の家臣を集めて、

             本所の吉良邸に向かわせる。 

                赤穂浪士討ち入りの知らせを聞いて

             駆けつけた上杉家の応援部隊は、 12

             月15日の午前6時頃に、本所の吉良邸

             に到着する。 しかし、既に赤穂浪士討ち

             入り終了後の、約1時間後であった。

             ■ 赤穂浪士は、 吉良邸の本所(ほん

             じょ)から墓所の泉岳寺まで、約12kmを

             約3時間で、行進し、 1702年(元禄15

             年)12月15日の午前8時頃に、浅野内匠

             頭(長矩)の墓のある江戸・泉岳寺に到着

             する。 赤穂浪士は、主君の浅野内匠頭

             (長矩)の墓前に、討ちとった吉良上野介

             (義央)の首を供(そな)え、涙を流し、大声

             で泣く。

 

〇 げん   元禄赤穂事件 関連出来事

        (年代順・詳細)

 

 げん  元禄文化。

              (げんろくぶんか)。 《文化》。

          (⇒ 江戸期文化)。

 

 

 

   ● 五十音順 (あいうえお順)。

 

 

   ■  『 現在は、過去の成果であり、

       未来は、現在の成果である。 

         (良き現在は、過去の人々の良き努力

          や活動の積み重ねの成果であり、 

          良き未来は、現在の人々の、良き努力

          や活動の積み重ねにより形成される。)

 

 

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#jpdictionary(general)

 

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#ke

 

◆ 派生見出し語サイト。

■ 「け」 基本・見出し語WEBサイト No. ja−ke

  の、派生見出し語サイト。

 

■ No. ja− ke−4733。

● 見出し語項目 げ   ( ん 47 / し 33   

  付近  第1部・ん・サ行グループ)。

〇 げん  原始時代・日本 (げんしじだ

          い・にほん) (= 先史時代・日本)。

 

■ No. ja− ke−4741。

● 見出し語項目 げ   ( ん 47 / だ 41

  付近 第1部・ん・タ行グループ)。

〇 げん  現代日本 (げんだいにほん) 。

〇 げん  現代日本文化 (げんだいにほ

                     んぶんか) (20世紀前半〜現在)。

〇 げん  現代国民主権政治 

                     (げんだ いこく みん しゅけんせいじ)

〇 げん  現代国民主権民主制 

             (げんだいこくみんしゅけんみんしゅせい)

〇 げん  現代日本民主政権

               (げんだいにほんみんしゅせいけん)  

〇 げん  現代日本政府 (げんだいにほん

                せいふ) (= 現代日本民主政府)。

〇 げん  現代日本民主政府 (げんだい

             にほんみんしゅせいふ)

 

■ No. ja− ke−4775。

● 見出し語項目 け   ( ん 47 / む 75   

  付近  第1部・ん・マ行グループ )。

 けん  建武時代 (けんむじだい)

          ○ 1333年〜1338年。

 けん  建武 (けんむ) 。

 けん  建武政権 (けんむせいけん) 。 

          (1333年頃〜1336年頃)。

 けん  建武の新政 

             (けんむのしんせい)。

          (1333年頃〜1336年頃)。

 

■ No. ja− ke−4797。

● 見出し語項目 げ   ( ん 47 / ろ 97   

  付近  第1部・ん・ラ行グループ)。

 げん  元禄赤穂事件 

             (げんろくあこうじけん)。 

 

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#the1600decidingwarfortherulingofjapan

 

■ 慶長5年の天下 

   分け目の戦い 。 

     (けいちょうごねんのてんかわ

      かめのたたかい)。

 

■ 慶長5年の天下分け目の

   戦い。

■ 名称 : 慶長5年の天下分け目の戦い

        (けいちょうごねんのてんかわ

        けめのたたかい)。

■ 英語名 : 

  THE 1600 DECIDING (DECISIVE) 

  WAR FOR THE RULING OF 

    JAPAN

■ 慶長5年の天下分け目の戦いとは、

   慶長5年(1600年)に、日本全国各地で、

   新説(史実)では西軍の奉行衆・毛利方と

   東軍の徳川方 (従来説(伝説)では、西軍

   の石田方と東軍の徳川方) が戦った戦争

   である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 22235。

 

 

 □ 「新説 (史実)関ヶ原の戦い

    (= 大垣・山中の戦い)」

    の画像アルバム No.2

 

 □ 「従来説 (伝説)の関ヶ原の戦い」

    の画像アル バム No.3 

 

 □ 新説 (史実)・天下分け目の戦い

      関連出来事(年代順・詳細)

   

 

 ■ 慶長5年の天下分け目の戦い。

  ■ 慶長5年(1600年)の天下分け目の戦い (て

  んかわけめのたたかい)  は、 西軍の奉行衆・

  毛利方 と 東軍の徳川方(新説) (西軍の石田

  方と東軍の徳川方(従来説)) が1600年(慶長

  5年)に行った、関ヶ原の戦い(= 垣・山中の戦

  )  や 日本各地で行った戦いである。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 慶長5年(1600年)の天下分け目の戦いには、

  関ヶ原の戦い (= 大垣・山中(おおがき・やま

  なか)の戦い)、  伏見(ふしみ)の戦い、 

  (おおつ)の戦い、 奥州(おうしゅう)の戦い、 

  信濃(しなの)の戦い、 九州の戦いなどの緒

  戦がある。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 慶長5年(1600年)の天下分け目の戦いには、

  関ヶ原の戦い(= 大垣・山中(おおがき・やまな

  か)の戦い)、 伏見(ふしみ)の戦い(伏見城攻 

  防戦)、 大津(おおつ)の戦い(大津城攻防戦)、 

  奥州 (おうしゅう)の戦い東北の奥州合戦)、  

  信濃(しなの)の戦い(第2次上田合戦)、九州

  の戦い などの諸々の戦いがある。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 関ヶ原の戦い= 大垣・山中の戦い)

 

  ■ 関ヶ原の戦いは、 慶長5年(1600年)の天

  下分け目の戦いの中心的な戦いである。

 

  ■ 関ヶ原の戦いには、 

    「新説 (史実)関ヶ原の戦い(= 大垣・山中 の

     戦い)」 

     と、 

    「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」 

     という2つの説がある。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」。

 

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」は、 

    「日本戦史」(明治26年の旧日本陸軍参謀

    本部著作)の資料に基づく、後世に編集され

    た、関ヶ原の戦いである。

 

  ● 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」は、1600

  年 (慶長5年)8月26日頃から9月15 日まで、

  美濃国(みの のくに、現・岐阜県南部の相当

  地域)の、大垣(おおがき)、関ヶ原盆地、山中

  (やまなか)の付近で、西軍の石田方と東軍の

  徳川方が戦った戦いである。

 

  ● 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」の決戦は、

  1600年(慶長5年)9月15日に、 美濃国の

  関ヶ原盆地で、西軍の石田方と東軍の徳川

  方が戦った合戦である。

 

  ● 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」は、西軍の

  石田方 と 東軍の徳川方との豊臣氏家臣間

  の内部抗争である。 

 

  ● 東軍の徳川方は、苦戦したが、勝利を得た。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 「新説(史実)関ヶ原の戦い

    (= 大垣・山中の戦い)」。 

 

  ■ 「新説(史実)関ヶ原の戦い (= 大垣・

    山中の戦い(おおがき・やまなかのたた

    かい)、慶長庚子の大乱(けいちょうこう

    しのたいらん)」は、 

    江戸時代初期の戦い直後の一次史料

    (同時代手紙・日記など)に基づく

 

  ● 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

  は、1600年 (慶長5年)8月26日 頃から9月

  15日まで、美濃国(みの のくに、現・岐阜県

  南部の相当地域)の、大垣(おおがき)、関ヶ

  原盆地、山中(やまなか)の付近で、 西軍の

  奉行衆・毛利方と 東軍の徳川方が戦った戦

  いである。

 

  ● 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

  の決戦は、1600年(慶長5年)9月15日に、  

  美濃国の山中(やまなか)付近で、西軍の

  行衆・毛利方と 東軍の徳川方が戦 った合

  戦である。

 

  ● 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

  には、 「大垣の戦い」 と、「山中の戦い」の

  2つの合戦がある。 

 

  ● 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

  は、 西軍の奉行衆・毛利方 と 東軍の徳川

  方 との豊臣氏家臣間の内部抗争である。 

 

  ● 東軍の徳川方が有利に戦いをすすめ、勝利

  を得た。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 奥州の戦い(東北の奥州合戦)。 

 

  ■ 伊達正宗 対 上杉景勝 の戦い。

  ■ 慶長5年(1600年)の天下分け目の戦い 

   (関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)、その

    他の戦い) の奥州の戦いでは、

    1600年(慶長5年)に、 伊達 政宗は、 

    東軍の徳川方に味方し、奥州 (おうしゅう、

    現・東北地方北東部・南部相当地域)で、 

     上杉 景勝などの西軍の奉行衆・毛利

    方(石田方)の大名と戦う。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 大津の戦い(大津城攻防戦)。 

 

  ■ 大津城攻防戦。

  ● 慶長5年(1600年)の天下分け目の戦い

  (関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)、その他の

  戦い) の大津の戦いでは、1600年(慶長5年)

  に、京極高次(き ょうごくたかつぐ)は、 徳川方

  に味方し、大津城(おおつじょう)に籠城(ろうじ

  ょう)して、関ヶ原方面(大津・関ヶ原盆地・山中

  方面)に向かう西軍の奉行衆・毛利方(石田方)

  の軍隊の一部を、大津(おおつ)でくい止めた。 

  結果的に、関ヶ原で戦う西軍の勢力の一部が

  削がれた。

 

  ● 戦局を変える名将の西軍の奉行衆・毛利

  方(石田方)の立花宗茂(たちばなむねしげ)は、

  大津城攻防戦にくい止められ、 中心的戦いの

  関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)に参加でき

  なかった。

 

  ● 1600年(慶長5年)に、東軍の徳川方の

  大津城 (おおつじょう)は、敵の西軍の奉行衆・

  毛利方(石田方)の軍勢に囲まれ、  激しく攻

  められて、落城寸前に、開城降伏した。 その

  際、お初とお初の夫・京極高次(きょうごくたか

  つぐ)は、かろうじて命が助かった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 信濃の戦い(第2次上田合戦)。 

 

  ■ 慶長5年(1600年)の天下分け目の戦い (

  ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)、その他の戦

  い) の信濃の戦いでは、 1600年(慶長5年)

  に、 真田 幸村(信繁)は、 知将の父・真田 昌

  幸(まさゆき)に従い、 西軍の奉行衆・毛利方

  (石田方)に味方し、真田昌幸・幸村(信繁)父子

  は、 信濃(信州)の上田城(前期上田城)で徳

  川方の徳川秀忠軍と戦い(第2次上田合戦を

  い)、勝利を得る。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 天下分け目の戦いでの、第2次上田合戦。

  ● 真田昌幸と次男・真田幸村(信繁)の父子

  は、 西軍の奉行衆・毛利方(石田方)に味方し、 

  真田昌幸の長男の真田信幸(信之)は、 東軍

  の徳川(家康)方に味方し、 天下分け目の戦い 

  (1600年(慶長5年)関ヶ原の戦い= 大垣

  ・山中の戦い)、 その他の戦い) の1つの、第2

    次上田合戦を行った。

 

  ● 真田 幸村(信繁)は、 1600年(慶長5年)

  の天下分け目の戦いの、第2次上田合戦では、 

  知将の父・真田 昌幸(まさゆき)に従い、 西軍の

  奉行衆・毛利方(石田方)に味方した(に応じた)。 

 

  ● 1600年(慶長5年) 9月2日に、東軍の徳川

  方の徳川秀忠軍 は、上田近くの、信濃(信州)・小

  諸に到着した。 

 

  ● 真田 昌幸の長男の真田信幸(信之)も、徳川

  秀忠軍に従軍していた。  徳川秀忠は、 東軍の

  徳川方の真田信幸(信之)の隊に、 上田城近くに

  ある、西軍の奉行衆・毛利方(石田方)の真田

  村(信繁)の守る支城の砥石城(といしじょう)を攻

  めさせた。 真田幸村(信繁)は、 (事前に父・

  真田昌幸に指示されていた通り) 兄の信幸(信

  之)と戦わず、支城を捨て、退却した。 

     そのため、東軍の徳川方の真田信幸(信之)

  は、支城の砥石城を占領し手柄をたて、そこに居

  座り、その後、 西軍の奉行衆・毛利方(石 田方)

  の真田昌幸・真田幸村(信繁)・父子の 軍と戦わ

  ずに済んだ。

 

  ● 信濃(信州 )・上田 (しなの(しんしゅう)・うえ

  だ、現在の長野県上田市相当地域) で、 西軍の

  奉行衆・毛利方(石田方)の真田昌幸と次男・真田

  幸村(信繁)の父子は、 約5000人 で守備する上

  田城を、東軍の徳川方の約38000人の徳川秀忠

  軍に攻めさせ、徳川軍を翻弄(ほんろう)し、 徳川

   秀忠(ひでただ)軍の西上を遅らせた。 そのため、

  徳川秀忠軍は、関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦

  い)には 間に合わなかった。

 

  ● 西軍の奉行衆・毛利方(石田方)に味方した

  真田昌幸・真田幸村(信繁)の父子は、 1600年

  (慶長5年)9月15日の関ヶ原の戦い(大垣・山中

  の戦い)の決戦後 (西軍の奉行衆・毛利方(石田

  方)が関が原の戦いで敗北後)、 東軍の家康方

  に降伏し、真田氏当主の真田昌幸は、所領の上

  田領・沼田領を没収され、 徳川方に味方した真

  田昌幸の長男の真田信幸(信之)が 上田領・沼

  田領を所領として得た。 

 

  ● 東軍の徳川方に味方した兄・真田 信幸

  (信之)(の ぶゆき)の嘆願で、 真田昌幸・幸村

  (信繁)の親子は、共に切腹を免れ、 紀伊国

  (きいのくに、現在の和歌山県相当地域)の、高

  野山麓の、九度山(くどやま)に配流(はいる、

  追放)され蟄居(ちっきょ)となり、 牢人(ろうに

  ん、浪人)となる。 

     西軍の奉行衆・毛利方(石田方)に味方した

  真田昌幸・幸村(信繁)の親子の蟄居(ちっき ょ)

  免除も許されず、1611年に、真田幸村(信繁)

  や真田 信幸の父・真田昌幸は、蟄居先の九度

  山で死去する。

 

  ● 高野山麓の、九度山で、真田幸村(信繁)は、

  1614年まで、約14年間、幽閉生活を送る。

     その後、真田幸村(信繁)は、九度山を脱出

  し、1614年から14 15年まで、大坂の冬の陣、

  夏の陣で大活躍し、戦死し、「日本一の兵(ひの

  もといちのつわもの)」と呼ばれる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 九州の戦い(九州合戦)。 

 

  ■ 黒田 官兵衛は、 豊臣秀吉の家臣であったが、

  豊臣秀吉没後、 慶長5年(1600年)の天下分

  け目の戦い (関 ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦

  い)、その他の戦い) の九州の戦いでは、 東軍

  の徳川方に味方し、九州で、 西軍の奉行衆・毛

  利方(石田方)の大友氏などの大名と戦う。

 

  ● 東軍の徳川方の黒田官兵衛は、豊後(ぶん

  ご、大分県南部)で、西軍の奉行衆・毛利方(石

  田方)の大友氏と戦い、石垣原合戦(いしがきば

  るがっせん)で勝利を得る。 その後、東軍の徳

  川方の黒田官兵衛の率いる黒田軍は、 徳川家

  康の停戦要請を受けるまで、 西軍の奉行衆・

  毛利方(石田方)の九州の各地の大 名と戦う。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#thetenkawakemenotatakaiwar-appearingscenes

 

♪♪ 慶長5年の天下分け目の戦いを描い

    た、興味深い関連ドキュメンタリー、

    ドラマ、映画。 

 

★ 慶長5年の天下分け目の戦いを描いた、

   興味深い関連ドキュメンタリー。 

 

 ■ 諸説あり!関ヶ原の戦いスペシャル

   『 関ヶ原の戦いの真実 』 (2)。 

   (TBSテレビ・2018年1月6日・本放送・

    歴史ドキュメンタリー番組)。

  ■ 「新説(史実)関ヶ原の戦い(= 大垣・

     山中の戦 い)」 と、 「従来説(伝説)

     の関ヶ原の戦い」の2つの説を詳細

     に述べる。

 

 ■ 諸説あり!

   『 関ヶ原の戦いの真実 』 (1)。 

   (TBSテレビ・2017年9月2日・本放送・

    歴史ドキュメンタリー番組)。

  ■ 「新説(史実)関ヶ原の戦い(= 大垣・

     山中の戦 い)」 と、 「従来説(伝説)

     の関ヶ原の戦い」の2つの説を詳細

     に述べる。

 

 

★ 慶長5年の天下分け目の戦いを描い

   た、興味深い関連ドラマ、映画。 

 

  ● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

 ■ 『 軍師 官兵衛 (ぐんし かんべい) 』 。 

     (NHKテレビ・2014年大河ドラマ)。 

  ■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

    江戸時代初期を描いたドラマ。

  ■ 1600年の天下分け目の戦いの、九州の戦い

   と 従来説(伝説)の関ヶ原の戦い  を描く。

   (E) 『 軍師 官兵衛 』 第 47回「如水謀(は

   か)る」・2014年11月23日・本放送・NHKテ

   レビ・大河ドラマ。

  (E) 『 軍師 官兵衛 』 第 48回「天下動乱」・

   2014年11月30日・本放送・NHKテレビ・

   大河ドラマ。

  (E) 『 軍師 官兵衛 』 第49回「 如水最後の

   勝負」・2014年12月7日・本放送・NHK

   テレビ・大河ドラマ。  

  (E) 『 軍師 官兵衛 』 第50回「 乱世ここに

   終わる」(最終回)・2014年12月21日・

   本放送・NHKテレビ・大河ドラマ。  

 

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#the1600decidingwarfortherulingofjapan-thehappenings

 

 

◆ 新説(史実)の慶長5年の

   天下分け目の戦い 関連

    出来事 (年代順・詳細)

 

   ■ ここでは、一次史料に基づく史実の「新説

         天下分け目の戦い」 (慶長5年(1600年)の、

    新説関ヶ原の戦い、その他の戦い) を述べ、 

    「従来説(伝説)の天下分け目の戦い」と異な

    る箇所は、その従来説(伝説)も追加併記した。

 

   ● 「従来説(伝説)の天下分け目の戦い」

    (慶長5年(1600年)の、従来説((伝説)の

    関ヶ原の戦い、その他の戦い) は、 

    創作が多く、信憑性(しんぴょうせい)があま

    りない。

 

 ■ 西軍の主力軍と東軍の主力軍の

   動向を記載した。

 

 ■ 1600年(慶長5年)の、「新説関ヶ

   原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

    前の状況、動向。

 

 

◆ 新説関ヶ原の戦い(= 大垣・

    山中の戦い関連出来事

   (年代順・詳細)

 

■ 1600年(慶長5年)の、「新説関ヶ

   原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

   の決戦前の状況、動向。

 

■ 1598年(慶長3年)。

■ 1598年(慶長3年)8月18日に、豊臣秀吉 が

  死去する。 

 

 

■ 1599年(慶長4年)。

■ 1599年(慶長4年)3月1 0日に石田三成が、

   近江国の佐和山城で蟄居(ちっきょ)する。

                

 

 1600年(慶長5年)。

■ 1600年(慶長5年)に、徳川家康は、 会津・

  上杉討伐 以前に、反徳川勢力の奉行衆・毛利

  方との戦いに備えて、 多くの大名に、徳川

  の味方になるように、多くの手紙を書く。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

  

 

 1600年(慶長5年)6月。

 1600年(慶長5年)6月18日に、  徳川家康

   が、伏見城を発ち、会津遠征に向かう(を開始

   する)。

 

● 1600年(慶長5年)6月に、豊臣家五大老

   1人・徳川家康は、 会津・上杉討伐を実施する。 

      奉行衆・毛利方と反目する多くの豊臣恩

   顧(おんこ)の大名が家康に付き従って、会津・

   上杉討伐の軍に加わって、大阪城から出陣し

   た。

 

 

 1600年(慶長5年)7月。

  1600年(慶長5年)7月11日頃に、奉行衆

  毛利大谷吉継(おおたによしつぐ))が、 

  近江国の佐和山城(さわやまじょう)を来訪し、 

  徳川家康討伐を打ち明け、石田三成を説得し

  て、石田三成は、奉行衆・毛利に加わる。

 

 1600年(慶長5年)7月12日頃以降、奉行衆 

  毛利大谷吉継が、 近江国の佐和山城で、

  石田三成計略をめぐらす。

 

 

 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、1600

  年(慶長5年)7月11日 頃に、石田三成(いし だ

  みつなり)が、 近江国の佐和山城(さわやまじ

  ょう)で、来訪した大谷吉継(おおたによしつぐ)

  に、徳川家康討伐を打ち明け、説得して、大谷

  吉継は、石田方に加わる。

 

 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、1600

   年(慶長5年)7月12日頃以降、石田方の石田

   三成が、近江国の佐和山城で、大谷吉継

   略をめぐらす。

 

 

 1600年(慶長5年)7月17日。

 1600年(慶長5年)7月17日に、奉行衆・毛

   毛利輝元( もうりてるもと)が、豊臣

   大阪城に入る。

 

 1600年(慶長5年)7月17日に、「内府ち が

  ひの条々」(ないふちがいのじょうじょう、13

  か条)が、 奉行衆・毛利の長束正家・増田

  長盛・前田玄以三奉行名で、公布される。  

     その後、それが、全国の大名に送付され

  る(出回る)。

     徳川家康は、この時点から、公儀上、豊

  臣氏の敵となる。

 

 1600年(慶長5年)7月17日に、奉行衆・ 毛

  利の西軍が、徳川方の東軍に対して、挙兵

  する。

 

 奉行衆・ 毛利の西軍の中心人物は、 奉行

   衆3人(増田長盛、長束正家、前田玄以)

   毛利輝元である。  一方、徳川方の東軍の中

  心人物は、徳川家康である。

      奉行衆3人とは、 五奉行の中の3人で

   あり、増田長盛 (ましたながもり)、 長束正 

   家(なつかまさいえ)、 前田玄以 (まえだげ

   んい) である。

 

 

 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、1600

   年(慶長5年)7月17日に、 石田三成や石田

   方西軍が、徳川方の東軍に対して、挙兵する。

 

 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、 石田

   方の西軍の中心人物は、 石田三成である。

   一方、徳川方の東軍の中心人物は、徳川家康

   である。

 

 

 1600年(慶長5年)7月19日。

 1600年(慶長5年)7月19日に、奉行衆・毛利

  の西軍が、徳川方の東軍の伏見城を攻撃す

  る。

 

 

 1600年(慶長5年)7月25日。

 1600年(慶長5年)7月25日 に、徳川方東軍

  にて、小山評定(おやまひょうじょう)が開かれ

  る。 

 

● 1600年(慶長5年)7月25日に、下野国 (し

  もつけのくに、現・栃木県の相当地域) の

  小山(おやま)で、 徳川家康が、会津遠征の

  諸将を集め軍議を開き、 西軍(奉行衆・毛利

  方)を討つための西上を決定する。

 

 小山評定後、 徳川家康は、徳川氏の軍を、

   旗本防衛部隊と主力攻撃部隊の二手に分け、 

   先に、徳川秀忠の率いる徳川氏主力攻撃部

   隊(精鋭部隊)・約3万8000人を奉行衆・

   毛利方西軍の北方の上杉氏に備えながら、

   東山道(とうさんどう、中山道(なかせんどう)) 

   経由で、徳川氏領地の関東地方の脅威とな

   る奉行衆・毛利方西軍の真田氏討伐に向わ

   せた。

 

 

 1600年(慶長5年)8月5日。

 1600年(慶長5年)8月5日に、徳川家康が、

  江戸城に戻る。

 

● 1600年(慶長5年)8月5日に、徳川家康は、

  徳川氏旗本防衛部隊と共に、一旦、江戸城に

  戻った。

 

● 1600年(慶長5年)8月5日に、江戸に戻った

   徳川家康は、 先に西上している家康に付き

   従った徳川方東軍の豊臣恩顧(おんこ)の諸

   将・大名の動向を注視していた。

      というのも、小山評定(おやまひょうじょう)

   の時点で、奉行衆・毛利方西軍の「内府ちがひ

   の条々」や奉行衆・毛利方西軍が集めた約10

   万人の大軍勢の規模を、徳川家 康や家康に

   き従った徳川方東軍の豊臣恩顧の諸将・大名

   は、詳しく知らなかった。

      徳川家康に付き従った徳川方東軍の

   臣恩顧の諸将・大名が家康に味方すると約束

   した、小山評定後、徳川方東軍の豊臣恩顧  

   の諸将・大名が、家康を批判する「内府ちが

   ひの条々」  や 奉行衆・毛利方西軍が約10

   万人もの兵を集めたことを知り、徳川方東軍の

   豊臣恩顧の諸将・大名が家康を裏切るのでは

   ないかと徳川家康は、恐れていたためである。

      小山評定後、 奉行衆・毛利方西軍の豊

   臣氏三奉行の名で公布され た「内府 ちがひ

   の条々」(ないふちがいのじょうじょう)が、 

   徳川方東軍の豊臣恩顧の諸将・大名に詳し

   く伝わり、 徳川家康に正当性がないと主張

   するのではないかと家康は案じていた。 徳

   川家康は、小山評定で味方となった徳川方

   東軍の豊臣恩顧の諸将・大名の裏切りを恐れ

   るようになった。

 

● 徳川家康は、 家康に付き従った徳川方東軍の

   豊臣恩顧の諸将・大名が西上して奉行衆・毛

   利方西軍と実際に本当に戦うのか疑い、これ

   を見極めるため、 先に、家康に付き従った徳

   川方東軍の豊臣恩顧の諸将・大名の軍を西方

   に向かわせ、 徳川家康は、江戸城に約1ヶ月

   ほど留まり、情勢をみながら、100通以上の書

   状を全国の諸大名に送った。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 1600年(慶長5年)8月10日。

 1600年(慶長5年)8月10日に 、奉行衆・毛

   利方西軍が、 美濃国(みののくに、現・ 岐阜

   県南部の相当地域)の大垣城(おおがきじ

   ょう)に入る。

 

● 奉行衆・毛利方西軍は、 徳川方東軍との長期

   戦に備え、 徳川方東軍を美濃国 (みののく

   に、現・岐阜県南部の相当地域) で待ち構え、

   大垣城(おおがきじょう)を奉行衆・毛利方西軍

   の美濃国の本拠地とし、 佐和山城・豊臣大阪

   城方面へ行く東山道(中山道)を守る拠点とし

   て、 南宮山(なんぐうさん)に、奉行衆・毛利

   方西軍の毛利秀元の軍を布陣させ、 更に、

   松尾山(まつおやま)に、奉行衆・毛利方西軍

   の毛利輝元の軍を布陣させる予定であった。 

   しかし、奉行衆・毛利方西軍の毛利輝元は、

   豊臣大坂城を動かなかった。

 

 

 1600年(慶長5年)8月。

 1600年(慶長5年)8月に、徳川家康と小山(お

   やま)で分かれ西上した福島正則(ふくしままさ

   のり)はじめ徳川方東軍の豊臣恩顧の諸将・大

   名は、 尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部

   の相当地域)の福島正則の居城・清須城(きよ

   すじょう)に集結し、徳川家康の出陣を待ちわ

   びていた。

      江戸城にいる徳川家康は、 尾張にいる

   徳川方東軍の豊臣恩顧の諸将・大名に、美濃

   (みの、現・岐阜県南部)の奉行衆・毛利方西

   軍を攻撃するように促す。

 

 

 1600年(慶長5年)8月23日。

 1600年(慶長5年)8月23日に 、福島正則は

  じめ徳川方東軍の豊臣恩顧の諸将・大名が、 

  奉行衆・毛利方西軍の美濃の拠点の1つの岐

  阜城(ぎふじょう)を攻撃し、1日で落城させる。

                 

 

 1600年(慶長5年)8月26日。

 1600年(慶長5年)8月26日に、  福島正則は

   じめ徳川方東軍の豊臣恩顧の諸将・大名が、 

   奉行衆・毛利方西軍の美濃の本拠地・大垣城

   に近い、美濃赤坂(みのあかさか)付近に集結

   する。

       その後、徳川方東軍の豊臣恩顧の諸将・

   大名は、 奉行衆・毛利方西軍の美濃の本拠

   地の大垣城の駐留軍を攻撃し、大垣城攻防

   戦を行っていたが、 9月7日に大垣城の西方

   の南宮山(なんぐうさん)に、奉行衆・毛利方西

   軍の毛利秀元(もうりひでもと)が率いる毛利

   勢が布陣する。

 

 

 1600年(慶長5年)9月1日。

 1600年(慶長5年)9月1日に、徳川家康が、江

  戸城を出発し、上方(かみがた)に向う。

 

● 石田方西軍の拠点の1つの岐阜城攻略などで、

  西上した豊臣恩顧の徳川方東軍の諸将が石田

  方の西軍と実際に戦う気があり自分を裏切らな

  いと知ると、 徳川家康は、慌てて、徳川氏旗本

  防衛部隊・約3万人と共に、江戸城を出発し、 

  一方、真田氏討伐に向った徳川氏主力攻撃部

  隊に、東山 道(中山道)経由で上方(かみがた)

  へ向うように伝令を送った。

 

 美濃国 (みののくに、現・岐阜県南部の相当地

  域)で、豊臣恩顧の徳川方東軍の諸将 は、 岐阜

  城攻略・落城後、 石田方の西軍の美濃の本拠

  地の大垣城(おおがきじょう)に近い美濃赤坂(み

  のあかさか)付近に布陣し総大将の家康の到着

  を待たず、石田方西軍と決戦を始める勢いを 知

  り、家康は、慌てて、1600年(慶長5年)9月1日

  に、徳川家康 の率いる徳川氏旗本防衛部隊・約

  3万人と共に、江戸城を 出発し、東海道を通り、

  尾張・美濃へ向かった。 

     家康の江戸城出陣時、 家康は、真田氏討

  伐に向かった秀忠の徳川氏主力攻撃部隊・約3

  万8000人に、「真田氏 討伐をやめ、一刻も早く

  東山道(中山道)経由で尾張・美濃に向かい二手

  に分かれた徳川氏の軍は尾張・美濃あたりで

  合流する」という家康の伝達の使者を送った。 

  しかし、使者は、利根川の洪水に阻まれて、伝達

  が遅れた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 1600年(慶長5年)9月11日。

 1600年(慶長5年)9月11日に、  徳川方東軍

   の、徳川家康が、尾張の清州城に到着する。

 

 

 1600年(慶長5年)9月13日。

■ 1600年(慶長5年)9月13日に、徳川方東軍

  徳川家康が、 尾張の清州城を出発する。

 

■ 徳川方東軍の徳川家康は、 徳川本隊  (約3

  万2000人、徳川家康、井伊直政、本多忠勝、

  家康馬廻り衆等の軍) と  東軍(徳川方)の

  徳川方先手勢の豊臣恩顧大名の福島勢・池

  田勢の軍(計約4万人)の総計・約7万2000人

  の東軍(徳川方)で、 美濃国(みののくに、現・

  岐阜県南部の相当地域)で、 約5万4000人

  の西軍(奉行衆・毛利方)と決戦をする決意を

  固めた。 

      1600年9月13日に、徳川家康は、徳川

  秀忠の率いる徳川氏別動隊(主力攻撃部隊)・

  約3万8000人を待たず、尾張の清州城を出て、 

  9月14日の正午頃に、徳川方の東軍の集結す

  る、美濃赤坂付近に到着する。

 

 

 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、1600

   年(慶長5年)9月13日に、徳川方東軍の徳川

   家康が、尾張の清州城を出発する。

 

 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、徳川方東

  軍の徳川家康は、 徳川氏旗本防衛部隊・約3万 

  人 と 徳川方東軍の 家康に付き従った豊臣恩顧

  諸将大名・約4万人の 計・約7万人の徳川方東

  軍で、 美濃国(みののくに、現・岐阜県南部の相

  当地域)で、 約8万人の石田方西軍と決戦をす

  る決意を固めた。 

      1600年9月13日に、徳川家康は、徳川

  秀忠の率いる徳川氏主力攻撃部隊・約3万8000

  人を待たず、尾張の清州城を出て、 9月14日の

  正午頃に、徳川方の東軍の集結する、美濃赤坂

  付近に到着する。

 

 

 1600年(慶長5年)9月14日。

■ 1600年(慶長5年)9月14日に、 西軍(奉

  行衆・毛利方)の小早川秀秋が、松尾山の陣

  地の西軍(奉行衆・毛利方)を押しのけて、松

  尾山に到着し、勝手に松尾山を占領し、松尾

  山山麓に布陣する。

 

 

 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、1600

  年(慶長5年)9月14日に、石田方西軍 の小早

  川秀秋が、松尾山の陣地の石田方西軍の軍

  勢を押しのけて、松尾山に到着し、勝手に松

  尾山を占領し、松尾山山頂に布陣する。

     松尾山の陣地は、石田方西軍が、石田

  方西軍の毛利輝元のために用意した陣地で

  あった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 1600年(慶長5年)9月14日昼間。

 1600年(慶長5年)9月14日に、徳川方東軍の

  徳川家康が、9月13日に清州城を出た後、9月

  14日の正午頃、美濃赤坂付近に到着する。

 

■ 9月14日の昼間、西軍(奉行衆・毛利方)

  南宮山 東側布陣の毛利勢 (約1万3000人)

  は、大垣付近にいる東軍(家康方)合計・約7

  万2000人の大軍に恐れをなして戦わず。

 

 

■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、1600

  年(慶長5年)9月14日に、徳川家康は、 徳川

  方東軍に内通し毛利秀元軍の先鋒隊で南宮山

  の下山道を押さえる、石田方の西軍の吉川広

  家に、 石田方の西軍の毛利秀元の南宮山下

  山・徳川方東軍攻撃を阻(はば)み、毛利秀元

  を戦いで静観させるように要請した。 

      徳川家康は、事前に、黒田長政の仲介

  で、南宮山(なんぐうさん)に布陣する石田方

  の西軍の吉川広家(きっかわひろいえ、1561

  −1625年)を調略し、吉川広家に毛利氏本家

  領国安堵の徳川氏の起請文(きしょうもん)を

  渡し、内通させていた。

 

 

 1600年(慶長5年)9月14日昼間。

 1600年(慶長5年)9月14日に、島左近の率

  いる 石田方西軍が、抗瀬川の戦いで徳川方

  東軍に勝利する。

       徳川方東軍の中の徳川本隊と石田方

   西軍の大垣垣城籠城勢(駐留軍)の中の石田

   隊が 抗瀬川付近で戦い、石田方西軍の島左

   近の率いる石田隊が勝つ。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 「新説の関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

  では、1600年(慶長5年)9月14日に、

  美濃赤坂付近に集結した西軍(奉行衆・毛利

  方)の徳川本隊(約3万2000人)や徳川方先

  手勢(約4万人) と、 大垣城籠城勢(約3万

  3500人)や南宮山の毛利勢(約1万3000人)

  との間で、小競り合いがあった。 

     しかし、その一部が、抗瀬川の戦いであ

  ったかどうかは不明である。

 

 

 1600年(慶長5年)9月14日夜。

■ 1600年(慶長5年)9月14日夜に、 東軍

   (徳川方)の徳川家康と徳川本隊 (約3万

   2000人) や 徳川方先手勢の福島勢の軍 

   (約1万9000人)  は、 美濃赤坂付近から

   出陣し、 関ヶ原盆地・山中方面に移動(転

   進)する。

 

■ 1600年(慶長5年)9月14日夜に、西軍(奉行

   衆・毛利方) の小西・宇喜多・石田・島津勢

   等の軍(約3万人)は、大垣城を出て、関ヶ原 

   盆地・山中方面に移動(転進)する。

 

■ 1600年(慶長5年)9月14日夜に奉行衆・毛

   利方西軍の主力軍が西方の関ヶ原・山中

   面に移動したのを徳川方東軍は知り、徳川

   方東軍の主力軍は、9月14日 夜に、奉行衆・

   毛利方西軍の主力軍を追って、西方の関ヶ

   原・山中方面に移動する。

 

■ 9月15日以降に予想される南宮山の毛利勢

   への東軍(徳川方)の攻撃に備えて、南宮

   山の毛利勢後詰軍(後援軍)として西軍(奉行

   衆・毛利方)の大垣城の大部分の軍は9月

   14日の夜に関ヶ原盆地・山中方面に移動

   したのを東軍(徳川方)は知り、 9月14日夜

   に、 東軍(徳川方)の主力軍は、 西軍(奉行

   衆・毛利方)の主力軍を追って、関ヶ原盆地・

   山中方面に移動する。

 

 

 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、1600年

   (慶長5年)9月14日夜に、  徳川家康と徳川

   方東軍は、美濃赤坂付近から出陣し、関ヶ原盆

   地方面に移動する。

 

 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、1600年

  (慶長5年)9月14日 夜に、石田三成や石田方

  西軍の大垣城の駐留軍が、大垣城から出陣する。

 

 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、1600年

   (慶長5年)9月14日 夜に徳川方東軍の主力軍

   が西方の関ヶ原方面に移動したのを石田方西

   軍は知り、 9月14日 夜に、石田方西軍の主力

   軍は、 大垣城を出て、徳川方東軍を追って、西

   方の関ヶ原方面に移動する。

 

 

 1600年(慶長5年)9月14日夜。

● 1600年(慶長5年)9月14日夜に、西軍(奉行

  衆・毛利方)の大谷吉継が、関ヶ原盆地南西部

  に布陣する。

 

 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、1600

  年(慶長5年)9月3日に、石田方西軍の大谷吉

  継が、山中村宮上に布陣する。

 

 

■ 1600年(慶長5年)の、「新説関ヶ

   原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

   の決戦時の状況、動向。

 

 1600年(慶長5年)9月1 5日朝。

■ 東軍(徳川方)の主力軍や西軍(奉行衆・毛利

  方)の主力軍は、 1600年(慶長5年)9月1 5

  日の朝に、関ヶ原盆地南西部や山中(やまなか)

  に到着する。

 

■ 山中の戦いでは、決戦前に、最初に、 関ヶ原盆

   地南西部で、16 00年(慶長5年)9月15日の 

   夜明けに、 大垣付近から移動してきた 東軍

   (徳川方)の徳川本隊 や  既に松尾山山麓に

   布陣する西軍から東軍に寝返った小早川軍 と、

   既に関ヶ原盆地南西部に布陣 する西軍(奉行

   衆・毛利方)の大谷軍 との間で合戦が行われ

   る。 結果は、大谷軍が全滅する。

 

 

■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、石田方

   西軍の主力軍や徳川方東軍の主力軍は、

   1600年(慶長5年)9月1 5日の朝に、関ヶ原

   盆地に到着する。

 

 

■ 1600年(慶長5年)9月15日昼間

  の「関ヶ原の戦い」の決戦。

 

■ 関ヶ原の戦いの決戦は、主戦場は山中であり、 

   1600年(慶長5年)9月15日の午前10時頃

   から正午頃まで、 徳川方の東軍と奉行衆・毛

   利方の西軍との間で行われ た。 戦いの結果、

   徳川方の東軍が勝利を得る。

 

■ 関ヶ原の戦いの決戦では、 関が原盆地の

   西方向・約2kmにある山中(やまなか)で

   午前10時頃から正午頃まで、 大垣 付近か

   ら移動してきた東軍(徳川方)の徳川方先手勢 

   の福島勢 や 徳川本隊 と、 大垣付近の大

   垣城から移動して来た西軍(奉行衆・毛利方)

   の小西・宇喜多・石田・島津勢等の軍 とが戦

   った。 結果は、西軍(奉行衆・毛利方)の小西・

   宇喜多・石田・島津勢等の軍は、総崩れとなり

   敗走し、敗北し、徳川方の東軍が勝利を得る。

 

● 関ヶ原の戦いの決戦では、 関が原盆地の

   西方向・約2kmにある山中(やまなか)で

   午前10時頃から正午頃まで、 大垣付近 から

   移動してきた東軍(徳川方)の徳川方先手勢

   の福島勢 (約1万9000人、福島・黒田・細川・

   藤堂・筒井・田中・加藤嘉明・京極高知等) や 

   徳川本隊 (約3万2000人、徳川家康、井伊

   直政、本多忠勝、家康馬廻り衆等の軍) の

   計5万1000人の軍 と、 大垣付近の大垣城

   から移動して来た西軍(奉行衆・毛利方)の小

   西・宇喜多・石田・島津勢等の約3万人の軍 

   が争った戦いである。 

      結果は、西軍(奉行衆・毛利方)の小西・

   宇喜多・石田・島津勢等の軍は、総崩れとなり

   敗走し、敗北し、徳川方の東軍が勝利を得る。

 

 

■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、 関ヶ原

  の戦いの決戦は、主戦場の関ヶ原盆地であり、

  1600年(慶長5年)9月15日の午前8時頃から

  午後2時頃まで、徳川方東軍と石田方西軍との

  間で行われ た。 戦いの結 果、徳川方東軍が

  勝利を得る。

 

 

■ 1600年(慶長5年)の、「新説関ヶ原

   の戦い(= 大垣・山中の戦い)」の

   決戦後の状況、動向。

 

 1600年(慶長5年)9月1 7日。

■ 1600年(慶長5年)9月17日に、徳川方東軍

   が、 奉行衆・毛利方の西軍の近江国の石田

   三成の佐和山城を攻めて、落城させる。

 

 

 1600年(慶長5年)9月1 9日。

■ 1600年(慶長5年)9月19日に、 徳川方東軍の、

  徳川家康が、草津に入る。

 

■ 1600年(慶長5年)9月19日に、奉行衆・毛利

  西軍の小西行長が、息吹山山中で捕えられる。

 

 

 1600年(慶長5年)9月 21日。

■ 1600年(慶長5年)9月21日に、奉行衆・毛利

   西軍の石田三成が、 古橋村 (現・滋賀県

   木之本町の相当地域)で徳川方東軍に捕えら

   れる。

 

 

 1600年(慶長5年)9月 23日。

■ 1600年(慶長5年)9月23日に、奉行衆・毛利

   西軍 の大垣城の残留軍が降伏し、大垣城

   が開城される。

 

● 1600年(慶長5年)9月15日に関ヶ原の戦い

   の山中(やまなか)の戦いでの東西両軍の決

   戦奉行衆・毛利方西軍の敗北の趨勢が決

   した後も、 奉行衆・毛利方西軍 の福原・垣見・

   熊谷・秋月・相良の大垣城残留勢(約3500

   人)は、 戦いを続け、  寝返りも出て、最後に、

   9月23日に、徳川方東軍に降伏し、大垣城は

   開城する。

 

 

 1600年(慶長5年)9月 23日。

■ 1600年(慶長5年)9月23日に、 奉行衆・毛利

   方西軍の安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)が、

   京(都)で捕えられる。

 

 

■ 1600年(慶長5年)10月1日。

■ 1600年(慶長5年)10月1日に、徳川方東軍

   の徳川家康は、 奉行衆・毛利方西軍の、 石

   田三成、小西行長、安国寺 恵瓊(あんこくじ

   えけい)を、京(都)六条河原で 処刑する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 1600年(慶長5年)

 戦後処理で、  徳川方東軍の徳川家康は、奉 

   行衆・毛利方西軍の 大名・武将から没収した

   約80%の領地を、戦いの勝利の恩賞として、 

   徳川方東軍の、家 康に付き従った豊臣恩顧

   の大名(外様大名)・武将に与えねばならな

   かった。

 

■ 1603年(慶長8年)。

■ 1603年(慶長8年)2月12日に、 徳川家康は、 

   征夷大将軍となり、 江戸幕府を開く。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#thejapanesemissionstotangchina

 

■ 遣唐使 

     (けんとうし)

 

■ 遣唐使。 

■ 名称 : 遣唐使 (けんとうし)。

■ 英語名 : THE JAPANESE MISSIONS 

  TO TANG CHINA.

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 02122。

 

□ 日本対外関係 画像アルバム  

   No.1

        

  ■ 遣唐使 (けんとうし、計画期間:630年ー

    894年)とは、 日本が中国の(とう)に

    派遣した公式使節である。

      中国の記述では、「倭国が唐に派遣した

   朝貢使」となっている。

   ■ 遣唐使の派遣は、 飛鳥・白鳳時代の

   630年(舒明(じょめい)天皇2年)の第1次遣

   唐使 (英:the 1st Mission to Tang 

   China) から、 平安時代前期の894年(寛

   平6年)の第20次遣唐使まで、朝廷により、

   約20回計画された。

     894年(寛平6年)に、朝廷は、遣唐使の

   中止を決定した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 遣唐使は、 約20回計画され、約15回の

   遣唐使が、実際に中国の唐へ渡航した。

  ● 第6次遣唐使 (667年(天智(てんじ)天

   皇6年)) は、 中国へは行かなかった。

  ● 第11次遣唐使 (746年(天平(てんぴょ

   う)18年)、 第14次遣唐使 (761年(天平

   宝字5年)), 第15次遣唐使 (762年(天

   平宝字6年)), 第20次遣唐使 (894年

   (寛平(かんぴょう)6年) は、 計画が中止

   された。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 日本の遣唐使。

     遣唐使 (けんとうし、計画期間:630年ー

    894年) とは、 中国のに派遣された公

    式使節である。

      日本の遣唐使一行は、 朝貢使であり、

   大使、副使、判官(はんがん)、録事などからなり、

   多くの留学生が随行した。  日本の遣唐使は、

  唐の先進文物・制度の輸入が目的であったが、 

  日本の国際的地位の向上をはかることも使命で

  あった。

      9世紀に入り、民間商人が唐の文物を輸入

   するようになると、次第に遣唐使は派遣されなく

   なった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 日本の朝廷は、 遣唐使に随行した日本人留学

   生が持ち帰った唐の前期の先進文物・制度を

   模範とし、 中国の唐の前期の、均田制(きんで

   んせい)、租庸調制(そようちょうせい)、府兵制

   (ふへいせい)等の律令体制を参考にして、飛鳥 

   白鳳時代、奈良時代の日本の国家体制を形成

   する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 唐。

■  (とう、618年ー907年、皇帝・20代、英:

  THE TANG EMPIRE) は、 中国の王朝、

  帝国 である。

 

■ 唐は、 建国後、前期には、中国本土では、均

  田制(きんでんせい)、租庸調制(そようちょうせ

  い)、府兵制(ふへいせい) 等を採用し、 周辺

  の異民族居住中国支配地では、 覊縻(きび)政

  策(間接統治)を採用し、律令体制を形成する。

     しかし、その後、唐は、 中国本土では、大

  土地所有の進行、農民没落、徴兵制の崩壊な

  どが起こり、 周辺の異民族居住中国支配地で

  は、独立化が起こり、前期の律令体制は崩壊し、

  唐は、後期には、均田制に代わり荘園制、租庸

  調制に代わり両税法(780年実施)、府兵制に

  代わり募兵制(ぼへいせい、722年実施) 等

  を採用し、 周辺の異民族居住中国支配地で

  は、 節度使(710年実施)を採用し、新体制を

  形成する。

● TKKI カナヤマ著 中国史ガイドブック。

 

 

♪♪ 中国の唐王朝が登場する、興味深

   い関連ドキュメンタリー、ドラマ、映画。 

 

★ 中国の唐王朝が登場する、興味深い

   関連ド キュ メンタリー。 

 

■ ザ・プロファイラー 

  『 〜夢と野望の人生〜 楊貴妃 

   大国を衰退へと導いた美女 』。 

   (NHKテレビ・2016年11月6日・

   本放送・歴史ドキュメンタリー番組)。

■ 唐帝国を述べる。

■ 唐皇帝・玄宗の妃・楊貴妃を詳細に

   述べる。 

■ 唐皇帝・玄宗、唐宰相・楊国忠、唐軍

   人・安禄山を述べる。

 

■ 中国王朝 よみがえる伝説  

  『 悪女たちの真実 楊貴妃 』。 

   (NHKテレビ・2017年3月2日・

   本放送・歴史ドキュメンタリー番組)。

■ 唐帝国を述べる。

■ 唐皇帝・玄宗の妃・楊貴妃を詳細に

   述べる。 

■ 唐皇帝・玄宗、唐宰相・楊国忠、唐軍

   人・安禄山を述べる。

 

 

★ 中国の唐王朝が登場する、興味深

   い関連ドラマ、映画 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

   実) と 架空の出来事が、 混じって、描か

   れています。 また、 現代風にアレンジして

   あります。

 

■ 『 王朝的女人・楊貴妃 』。

   (英語題名:Lady of the Dynasty)。

   (2015年中国・韓国・日本合作映画)。

■ 唐帝国を描く。

■ 唐皇帝・玄宗の妃・楊貴妃を描く。

■ 唐皇帝・玄宗、唐宰相・楊国忠、唐軍人・

   安禄山を描く。

 

● 主演 ファン・ビンビン(楊貴妃役)。

 

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#thepresentdayjapaneserace

 

■ 現代日本人 

     (げんだいにほんじん)

 

■ 現代日本人。 

■ 名称 : 現代日本人 (げんだいにほんじん)。

■ 英語名 : THE PRESENT-DAY 

   JAPANESE RACE.

■ 現代日本人 = 現代日本地域土着・常住民。

■ 現代日本人の人種的・文化的特徴 (人類学

  上の分類・特徴)。

■ 「本土日本人」、「琉球人」、「アイヌ人」 の3グ

  ループの現代日本人

■ 現代日本人 (= 現代日本地域土着・常住民)。

  <日本人 (= 日本地域土着・常住民)。

  <モンゴロイド

  <現生人類(= 新人ホモ・サピエンス(種)。 

  ヒト属

  <人類(= ヒト亜族))。

■ 日本人のルーツ(起源)の詳細に関しては、

  日本史辞典の「日本人」、「原日本人」や「

  本人ルーツ・ガイドブック」を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61214。

 

□ 現代日本人(人種)の学術分類表  

 

           

■ 現代日本人の人種的・文化的特徴 

  (人類学上の分類・特徴)。

■ 日本人の人種的・文化的特徴 (人類学上の

  分類・特徴)。

 

 現代日本人。

 現代日本人の3グループ

■ 現代日本人とは、 現代日本地域土着・常住民で

  あり、 現代日本の時期に(昭和・戦後時代と平成

  時代に)、 日本本土・南西諸島・北海道に居住す

  る「本土日本人」、 南西諸島を中心に居住する

  「琉球人」、 北海道を中心に居住する「アイヌ人」 

  の3グループの人々である。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 ■ 現代日本の時期に(昭和・戦後時代と平成時代

  に)、 日本地域(日本本土、北海道、南西諸島の

    日本列島)には、

     日本本土には、 「本土日本人」現代日本

  が主に居住し、 

     北海道には、 「アイヌ人」現代日本人  と 

  「本土日本人」現代日本人が 主に居住し、 

     南西諸島には、  「琉球人」現代日本人 と 

  「本土日本人」現代日本人が主に居住している。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 「本土日本人」は、 古・新モンゴロイド混血(= 南

  方・北方モンゴロイド混血)の縄文・弥生渡来・混

  血系の人類である。

     「アイヌ人」は、 古・新モンゴロイド混血(= 南

  方・北方モンゴロイド混血)の縄文・北アジア諸民

  族・混血系の人類である。

        「琉球人」は、  古・新モンゴロイド混血(= 南

  方・北方モンゴロイド混血)の縄文・弥生渡来・混血

  系の人類である。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ ほとんどの現代日本人は、 「本土日本人」である。

    現代日本人の「琉球人」や「アイヌ人」は、極めて

  少ない。

 

 

 現代日本人。

 現代日本人の3グループ

■ 現代日本人には、 「現代日本 人の本土

  日本人」、 「現代日本人の琉球人」、 「現代

  日本人のアイヌ人」 の3グループがいる。

 

■ 現代日本では、 日本地域(日本本土、北海道、

  南西諸島の日本列島)には、 「本土日本人」

  「アイヌ人」「琉球人」3グループの現代日本

  人が居住する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 現代日本人は、 現生人類(= 新人、ホモ・サ

  ピエンス)のモンゴロイドの、日本人(人種)の、

  現代日本「本土日本人」、「琉球人」、「アイ

  ヌ人」の人々である。 

             

■ ここでいう現代日本人とは、 1945年頃か

  ら現在まで (昭和・戦後時代と平成時代に)、 

  日本地域(日本本土、南西諸島、北海道) に

  居住している日本人(人種)であり、 「本土日

  本人」、「琉球人」、「アイヌ人」 の3グループの

  現代日本人である。

     現代日本人(人種)の英語名は、 THE 

  PRESENT-DAY JAPANESE RACE で

  ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

                         

■ 現代日本では、  日本地域(日本本土、南西諸

  島、北海道)には、 人種的・文化的特徴上、 

  文・弥生渡来・混血系の「本土日本人(= 本土

  人) (日本本土・北海道・南西諸島居住)、 「

  球人」  (南西諸島中心居住) と、  縄文・北ア

  ジア諸民族・混血系の「アイヌ人」 (北海道中心

  居住) が居住している。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 現代日本人の本土日本人は、 一般的に、加

  工食品を多く食べ、 硬いものを噛(か)まなく

  なり、 顔の骨格、顔の形が変化する。

 

■ 現代日本では、 日本地域(日本本土、北海道、南

    西諸島の日本列島)には、 

          日本本土には、 古・新モンゴロイド混血(= 南

    方・北方モンゴロイド混血)の縄文・弥生渡来・混血

    系の「本土日本人」現代日本人が主に居住し、 

          北海道には、古・新モンゴロイド混血(= 南方・

    北方モンゴロイド混血)の縄文・北アジア諸民族・混

    血系の「アイヌ人」現代日本人 と 古・新モンゴ

    ロイド混血(= 南方・北方モンゴロイド混血)の縄文・

    弥生渡来・混血系の「本土日本人」現代日本人

    主に居住し、

     南西諸島には、古・新モンゴロイド混血(= 南方・

    北方モンゴロイド混血)の縄文・弥生渡来・混血系の

     「琉球人」現代日本人 と 古・新モンゴロイド混

     血(= 南方・北方モンゴロイド混血)の縄文・弥生渡

  来・混血系の「本土日本人」現代日本人が主に居

     住している。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 日本人の形成。

     主に、縄文人とその子孫の「縄文系」の人々 

  と、 渡来系弥生人とその子孫 の「弥生渡来系」の

  人々が、 日本本土(九州本土、四国、本州)で、

  古代日本後期(奈良・平安時代)に、混血して、本

  土日本人の日本人を形成する。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 進化表。

■ 日本人(人種)への進化表。

 ○ 化石類人猿(= 中新世ホミノイド) 

    (人類と類人猿の共通祖先)。

 ⇒ ○ 人類の、猿人 (直立二足歩行)。 

 ⇒ ○ 原人(= ホモ・エレクトス類) (肉食主食)。

 ⇒ ○ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類)。 

 ⇒ ○ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス (種)

      (アフリカで出現)。 

 ⇒ ○ モンゴロイド (アジアで容姿が変化)。 

 ⇒ ○ 縄文人。  

 ⇒ ○ 弥生人。 

 ⇒ ○ 古代日本人 (縄文・弥生渡来・混血系

      の本土日本人の形成)。  

 ⇒ ○ 「本土日本人」(= 本土人)、「琉球人」、

       「アイヌ人」。

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

■ 現代日本人(人種)への進化表。

 ○ 化石類人猿(= 中新世ホミノイド) 

    (人類と類人猿の共通祖先)。

 ⇒ ○ 人類の、猿人 (直立二足歩行)。 

 ⇒ ○ 原人(= ホモ・エレクトス類) (肉食主食)。

 ⇒ ○ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類)。 

 ⇒ ○ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス種)

      (アフリカで出現)。 

 ⇒ ○ モンゴロイド (アジアで容姿が変化)。 

 ⇒ ○ 縄文人。  

 ⇒ ○ 弥生人。 

 ⇒ ○ 古代日本人 (縄文・弥生渡来・混血系の

      本土日本人の形成)。  

 ⇒ ○ 中世日本人。 

 ⇒ ○ 近世日本人。 

 ⇒ ○ 近代日本人

 ⇒ ○ 現代日本人

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

■ モンゴロイドへの進化表。

 ○ 化石類人猿(= 中新世ホミノイド) 

    (人類と類人猿の共通祖先)。

 ⇒ ○ 人類の、猿人 (直立二足歩行)。 

 ⇒ ○ 原人(= ホモ・エレクトス類) (肉食主食)。

 ⇒ ○ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類)。 

 ⇒ ○ 現生人類(= 新人ホモ・サピエン種)

      (アフリカで出現)。 

 ⇒ ○ モンゴロイド (アジアで容姿が変化)。 

  → ○ 古モンゴロイ = 南方モンゴロイド)

      (約4万年前に、アジア南東部で出現)。

  → ○ モンゴロイド= 北方モンゴロイド)

      (約2万年前に、シベリア東部(北アジ

      ア東部)で出現)。

● TKKI カナヤマ著 古人類学辞典。

 

 

#thepresentdayjapaneserace-theclassificationtable

 

■ 現代日本人の学術分類表 。  

    (詳細上位分類、上位所属の分類、日本語名・

    学名・英語名対照)。

○ THE SCIENTIFIC CLASSIFICATION 

  TABLE OF THE PRESENT-DAY 

  JAPANESE RACE.

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典  51014。

 

■ 現代日本人

    (英語名: THE PRESENT-DAY 

    JAPANESE RACE)。

 

■ 地球生物            LIFE ON EARTH。

⇒ 真核生物。        (ドメイン: 真核生物域 

                   Domain Eukaryota) 

                   (英名: EUKARYOTE(S))。

⇒ 動物。           ( 界 : 動物界    

                   Kingdom Animalia) 

                                   (英名:ANIMAL (S))。

⇒ 脊索(せきさく)動物。 ( 門 : 脊索動物門   

                      Phylum Chordata) 

                    (英名:CHORDATE (S))

⇒ 脊椎(せきつい)動物。 (亜門 : 脊椎動物亜門 

                       Subphylum Vertebrata) 

                    (英名:VERTEBRATE(S))

                  ● TKKI カナヤマ著 日本史

                  辞典。

⇒ 有顎(ゆうがく)動物   (下門 : 有顎動物下門 

  (顎口類、有顎類)。      Infraphylum

                    Gnathostomata) 

                    (英名: VERTEBRATE (S)

                    WITH JAW)。

⇒ 四肢(しし)動物。    (上 : 四肢動物上綱 

                    Superclass Tetrapoda ) 

                   (英名:TETRAPOD (S))  

⇒ 有羊膜類。         (ランク(階級)なし   

  (ゆうようまくるい)      Amniota) 

                   (英名:AMNIOTE (S))。   

⇒ 哺乳類。         (  綱  : 哺乳   

                    Class Mammalia) 

                  (英名:MAMMAL(S))。

⇒ 獣類。           (亜綱  : 亜綱    

                  Subclass Theria) 

                  (英名:THERIAN(S))。

⇒ 真獣類 (正獣類)  綱  : 真獣下(正獣下)  

  (有胎盤類、有胎盤     Infraclass Eutheria)         

  哺(ほ)乳類)。       (英名:EUTHERIAN(S)) 

                   (英名:PLACENTAL 

                  MAMMAL(S)) 。

                      ● TKKI カナヤマ著 日本史

                  辞典。

⇒ 霊長類。          目  : 霊長目(サル目)    

                     Order Primates) 

                    (英名:PRIMATE(S))。

 

⇒ 直鼻猿類 (新分類法)。亜目 : 直鼻猿亜目    

                   Suborder Haplorrhini) 

                   (英名:HAPLORRHINE(S))。

   真猿類   (新分類法)。下目 : 真猿下目 

                     Infraorder Simiiformes) 

                    (英名: SIMIAN(S))。

   狭鼻猿類 (新分類法)。小目 : 狭鼻小目 

                    Parvorder Catarrhini  ) 

                    (英名: CATARRHINE(S))。

 または、

   真猿類   (旧分類法)。亜目 : 真猿亜目  

                    Suborder Simiiformes) 

                    (英名: SIMIAN(S))。

    狭鼻猿類 (旧分類法) 。(下目 : 狭鼻下目  

                   Infraorder Catarrhini) 

                   (英名: CATARRHINE(S))。

⇒ ホミノイド           (上科 : ヒト上科   

  (類人猿と人類)。       Superfamily Hominoidea) 

                    (英名: HOMINOID(S))。

⇒ 大型類人猿と人類    ( 科 : ヒト科     

 (オランウータン、ゴリラ、   Family Hominidae)      

 チンパンジーと人類)。    英名: NONHUMAN GREAT  

                    APE(S) AND HUMAN(S))。

                    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

⇒ ゴリラとチンパンジ   亜科 : ヒト亜科   

  ーと人類。          Subfamily Homininae)   

                   (英名:  HOMININE(S))。

⇒ チンパンジーと人類。 ( 族 :  ヒト族      

                   Tribe Hominini) 

                  (英名 :HOMININ(S))。

⇒ 人類。                  (亜族 : ヒト亜族    

                   Subtribe Hominina) 

                  (英名: HUMAN(S))。       

⇒ ヒト属(= ホモ属)    ( 属  : ヒト属(= ホモ属)         

  の人類。           Genus Homo) 

                  (英名: HUMAN(S) OF   

                  THE GENUS HOMO)。       

⇒ ホモ・サピエンス       ( 種   ホモ・サピエンス種    

 (= 現生人類、新人)。    Species Homo sapiens) 

                   (英名: HOMO SAPIENS,

                  EXTANT HUMAN  SPECIES)。

⇒ ホモ・サピエンス     ( 亜種   ホモ・サピエンス・サピ

  サピエンス。         エンス亜種    

                  Subspecies Homo 

                  sapiens sapiens 

                   (英名: HOMO SAPIENS  

                  SAPIENS)。

⇒ モンゴロイド        (グループ:  モンゴロイド・グループ

  (= アジア人種)。      Group Mongoloid)。

○ 「古モンゴロイド」     (英名: MONGOLOID(S))。  

 と 「新モンゴロイド」。    ○ モンゴロイドは、容姿・外見

                   (体色・体型) による、人種分類

                  グループの1つである。

                  ○ モンゴロイドは、 古モンゴロ

                  イド(= 南方モンゴロイド、英:

                  SOUTHERN MONGOLOID

                  (S)) と、 新モンゴロイド(= 北

                  方モンゴロイド、英:NORTHERN

                  MONGOLOID(S)) の2種類

                  に分かれる。

                    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

⇒ 縄文人。         (グループ : 縄文人グループ

                  Group Jomonjin race)。

                   (英語名: THE JOMONJIN 

                  RACE)。

                  ○ 「縄文人」は、 古モンゴロイ

                  ド(= 南方モンゴロイド)の日本先

                  住民であ り、 原日本人 (英:

                  THE PROTO-JAPANESE 

                  RACE) の1グループであり、「縄

                  文系」  (英:THE JOMONKEI  

                  PEOPLE) の人々である。

⇒ 弥生人。          (グループ : 弥生人グループ

○ 「縄文系(在来系)     Group Yayoijin  race)。

 弥生人」  と          (英語名: THE YAYOIJIN

 「渡来系弥生人」。     RACE)。

                  ○ 弥生人とは、「縄文系(在来

                  系)弥生人」 と 「渡来系弥生人」

                  である。

                  ○ 弥生人は、縄文時代(約1万

                  2000年前〜約2400年前)か

                  ら日本の先住民の古モンゴロイ

                  ド(= 南方モンゴロイド)の「縄文

                  系(在来系)弥生人」  と、 弥生

                  時代(約2400年前〜約1700

                  年前)にアジア大陸からの移住

                                   民の新モンゴロイド(= 北方モン

                  ゴロイド)の「渡来系弥生人」であ

                  る。

                               ○ 「渡来系弥生人」は、 原日本

                  人の1 グループであり、 「弥生

                  渡来系」 (英:THE YAYOI-

                  TORAIKEI PEOPLE) の人

                  々である。

                   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

⇒ 日本人。         (グループ : 日本人グループ

○ 「古代日本人」      Group Japanese  race)。

 → 「本土日本人」、     ( 英語名: THE JAPANESE

 「琉球人」、「アイヌ人」。  RACE)。

○ 「古代日本人」      ○ 日本人は、  古代日本で形成さ

 → 「中世日本人」     れた。 

 → 「近世日本人」     ○ 日本人は、 古・新モンゴロイ ド

 → 「近代日本人」     混血の、「縄文・弥生渡来・混血系」

 → 「現代日本人」。    の、「本土日本人」や「琉球人」  と、 

                  古・新モンゴロイド混血の、「縄文・

                  北アジア諸民族・混血系」の、「アイ

                  ヌ人」の3種類の人類に分かれる。

                  ○ 日本人は、 古・新モンゴロイ ド

                  混血の、「縄文・弥生渡来・混血系」

                  の、「本土日本人」や「琉球人」 (英:

                  THE MAINLAND JAPANESE

                  RACE, THE RYUKYU JA-

                                    PANESE RACE) と、 古モン

                  ゴロイドの、縄文系の、 「アイヌ人」

                  (英:THE AINU JAPANESE 

                  RACE) の3種類の人類に分かれ

                  る。

                  ○ 現在のほとんどの日本人は、 

                  「本土日本人」である。

                  ○ 「本土日本人」は、 古代日本

                  後期に形成された。

                  ○ 「本土日本人」は、  「縄文人」

                  とその子孫の「縄文系」 と、 「渡

                  来系弥生人」とその子孫の「弥生

                  渡来系」 との混血の人類である。

                  ○ 「本土日本人」は、 古・新 (南

                  方・北方)モンゴロイド混血の、「

                  文・弥生渡来・混血系」 (英:THE 

                  JOMONKEI-YAYOITORAIKEI 

                  MIXED RACIAL PEOPLE) の

                  人々である。 

                  ○ 古代日本で形成された日本 人

                  は、時代と共に、「古代日本人」 か

                  ら、 「中世日本人」、「近世日本人」、

                  「近代日本人」、「現代日本人」へと  

                  少しずつ、 平均身長が伸びるなど、 

                  容姿・外見(体型・体色)を変化させ

                  ていった。

                    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

                  ○ 古代日本で形成された日本 人

                  は、時代と共に、「古代日本人」(英:

                  THE ANCIENT JAPANESE 

                  RACE) から、 「中世日本人」、

                  「近世日本人」、「近代日本人」、

                  「現代日本人」 (英:THE ME-

                  DIEVAL JAPANESE RACE, 

                  THE EARLY MODERN 

                  JAPANESE RACE, THE 

                  MODERN JAPANESE RACE,  

                   THE PRESENT-DAY JAPAN-

                                    ESE RACE) へと少しずつ、 平

                  均身長が伸びるなど、 容姿・外見

                  (体型・体色)を変化させていった。

                   

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#theprotojapanese

 

■ 原日本人  

     (げんにほんじん)

 

■ 原日本人。 

■ 名称 : 原日本人 (げんにほんじん)。

■ 英語名 : Proto-Japanese 。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51013。

■ 日本人のルーツ(起源)に関しては、日本史辞

  典の「日本 人」や「日本人ルーツ・ガイドブック

  も参照してください。

 

□ 日本人の学術分類表  

□ 原日本人が登場する興味深い、

     ドキュメンタリー、ドラマ、映画

 

 

■ 原日本人 (げんにほんじん)は、日本人の祖先

  の人類 である。

     原日本人の英語名は、 Proto-Japanese 

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 原日本人が中心(中核)となって、他の諸族と混

  血、文化融合して、現在の日本人が形成され、

  現した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 原日本人とは、 古モンゴロイド (= 南方モンゴロ

  イド) の「縄文人」 と、 新モンゴロイド(= 北方モ

  ンゴロイド)の「渡来系弥生人」 である。  

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

               

■ 主に、 縄文人とその子孫の「縄文系」の人々 と、 

  渡来系弥生人とその子孫の「弥生渡来系」の人々

  が、 日本人を形成する。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 原日本人は、 中世日本(鎌倉〜室町時代)より、 

  「本土日本人」(= 本土人)、「琉球人」、「アイヌ人

  となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 日本人(人種)への進化表。

 ○ 化石類人猿(= 中新世ホミノイド) 

    (人類と類人猿の共通祖先)。

 ⇒ ○ 人類の、猿人 (直立二足歩行)。 

 ⇒ ○ 原人(= ホモ・エレクトス類) (肉食主食)。

 ⇒ ○ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類)。 

 ⇒ ○ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス (種)

      (アフリカで出現)。 

 ⇒ ○ モンゴロイド (アジアで容姿が変化)。 

 ⇒ ○ 縄文人。  

 ⇒ ○ 弥生人。 

 ⇒ ○ 古代日本人 (縄文・弥生渡来・混血系

      の本土日本人の形成)。  

 ⇒ ○ 「本土日本人」(= 本土人)、「琉球人」、

       「アイヌ人」。

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

■ 現代日本人(人種)への進化表。

 ○ 化石類人猿(= 中新世ホミノイド) 

    (人類と類人猿の共通祖先)。

 ⇒ ○ 人類の、猿人 (直立二足歩行)。 

 ⇒ ○ 原人(= ホモ・エレクトス類) (肉食主食)。

 ⇒ ○ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類)。 

 ⇒ ○ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス (種)

      (アフリカで出現)。 

 ⇒ ○ モンゴロイド (アジアで容姿が変化)。 

 ⇒ ○ 縄文人。  

 ⇒ ○ 弥生人。 

 ⇒ ○ 古代日本人 (縄文・弥生渡来・混血系の

      本土日本人の形成)。  

 ⇒ ○ 中世日本人。 

 ⇒ ○ 近世日本人。 

 ⇒ ○ 近代日本人

 ⇒ ○ 現代日本人

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

■ モンゴロイドへの進化表。

 ○ 化石類人猿(= 中新世ホミノイド) 

    (人類と類人猿の共通祖先)。

 ⇒ ○ 人類の、猿人 (直立二足歩行)。 

 ⇒ ○ 原人(= ホモ・エレクトス類) (肉食主食)。

 ⇒ ○ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類)。 

 ⇒ ○ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス (種)

      (アフリカで出現)。 

 ⇒ ○ モンゴロイド (アジアで容姿が変化)。 

  → ○ 古モンゴロイ = 南方モンゴロイド)

      (約4万年前に、アジア南東部で出現)。

  → ○ モンゴロイド= 北方モンゴロイド)

      (約2万年前に、シベリア東部(北アジ

      ア東部)で出現)。

● TKKI カナヤマ著 古人類学辞典。

 

 

 

#theprotojapanese-theclassificationtable

 

■ 原日本人の学術分類表 。  

    (詳細上位分類、上位所属の分類、日本語名・

    学名・英語名対照)。

○ THE SCIENTIFIC CLASSIFICATION 

  TABLE OF THE PROTO-JAPANESE 

  RACE.

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典  51014。

 

■ 原日本人 (= 縄文人と渡来系弥生人)。

    (英語名: THE PROTO-JAPANESE

       RACE)。

 

■ 地球生物            LIFE ON EARTH。

⇒ 真核生物。        (ドメイン: 真核生物域 

                   Domain Eukaryota) 

                   (英名: EUKARYOTE(S))。

⇒ 動物。           ( 界 : 動物界    

                   Kingdom Animalia) 

                                   (英名:ANIMAL (S))。

⇒ 脊索(せきさく)動物。 ( 門 : 脊索動物門   

                      Phylum Chordata) 

                    (英名:CHORDATE (S))

⇒ 脊椎(せきつい)動物。 (亜門 : 脊椎動物亜門 

                       Subphylum Vertebrata) 

                    (英名:VERTEBRATE(S))

                  ● TKKI カナヤマ著 日本史

                  辞典。

⇒ 有顎(ゆうがく)動物   (下門 : 有顎動物下門 

  (顎口類、有顎類)。      Infraphylum

                    Gnathostomata) 

                    (英名: VERTEBRATE (S)

                    WITH JAW)。

⇒ 四肢(しし)動物。    (上 : 四肢動物上綱 

                    Superclass Tetrapoda ) 

                   (英名:TETRAPOD (S))  

⇒ 有羊膜類。         (ランク(階級)なし   

  (ゆうようまくるい)      Amniota) 

                   (英名:AMNIOTE (S))。   

⇒ 哺乳類。         (  綱  : 哺乳   

                    Class Mammalia) 

                  (英名:MAMMAL(S))。

⇒ 獣類。           (亜綱  : 亜綱    

                  Subclass Theria) 

                  (英名:THERIAN(S))。

⇒ 真獣類 (正獣類)  綱  : 真獣下(正獣下)  

  (有胎盤類、有胎盤     Infraclass Eutheria)         

  哺(ほ)乳類)。       (英名:EUTHERIAN(S)) 

                   (英名:PLACENTAL 

                  MAMMAL(S)) 。

                      ● TKKI カナヤマ著 日本史

                  辞典。

⇒ 霊長類。          目  : 霊長目(サル目)    

                     Order Primates) 

                    (英名:PRIMATE(S))。

 

⇒ 直鼻猿類 (新分類法)。亜目 : 直鼻猿亜目    

                   Suborder Haplorrhini) 

                   (英名:HAPLORRHINE(S))。

   真猿類   (新分類法)。下目 : 真猿下目 

                     Infraorder Simiiformes) 

                    (英名: SIMIAN(S))。

   狭鼻猿類 (新分類法)。小目 : 狭鼻小目 

                    Parvorder Catarrhini  ) 

                    (英名: CATARRHINE(S))。

 または、

   真猿類   (旧分類法)。亜目 : 真猿亜目  

                    Suborder Simiiformes) 

                    (英名: SIMIAN(S))。

    狭鼻猿類 (旧分類法) 。(下目 : 狭鼻下目  

                   Infraorder Catarrhini) 

                   (英名: CATARRHINE(S))。

⇒ ホミノイド           (上科 : ヒト上科   

  (類人猿と人類)。       Superfamily Hominoidea) 

                    (英名: HOMINOID(S))。

⇒ 大型類人猿と人類    ( 科 : ヒト科     

 (オランウータン、ゴリラ、   Family Hominidae)      

 チンパンジーと人類)。    英名: NONHUMAN GREAT  

                    APE(S) AND HUMAN(S))。

                    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

⇒ ゴリラとチンパンジ   亜科 : ヒト亜科   

  ーと人類。          Subfamily Homininae)   

                   (英名:  HOMININE(S))。

⇒ チンパンジーと人類。 ( 族 :  ヒト族      

                   Tribe Hominini) 

                  (英名 :HOMININ(S))。

⇒ 人類。                  (亜族 : ヒト亜族    

                   Subtribe Hominina) 

                  (英名: HUMAN(S))。       

⇒ ヒト属(= ホモ属)    ( 属  : ヒト属(= ホモ属)         

  の人類。           Genus Homo) 

                  (英名: HUMAN(S) OF   

                  THE GENUS HOMO)。       

⇒ ホモ・サピエンス       ( 種   ホモ・サピエンス種    

 (= 現生人類、新人)。    Species Homo sapiens) 

                   (英名: HOMO SAPIENS,

                  EXTANT HUMAN  SPECIES)。

⇒ ホモ・サピエンス     ( 亜種   ホモ・サピエンス・サピ

  サピエンス。         エンス亜種    

                  Subspecies Homo 

                  sapiens sapiens 

                   (英名: HOMO SAPIENS  

                  SAPIENS)。

⇒ モンゴロイド        (グループ:  モンゴロイド・グループ

  (= アジア人種)。      Group Mongoloid)。

○ 「古モンゴロイド」     (英名: MONGOLOID(S))。  

 と 「新モンゴロイド」。    ○ モンゴロイドは、容姿・外見

                   (体色・体型) による、人種分類

                  グループの1つである。

                  ○ モンゴロイドは、 古モンゴロ

                  イド(= 南方モンゴロイド、英:

                  SOUTHERN MONGOLOID

                  (S)) と、 新モンゴロイド(= 北

                  方モンゴロイド、英:NORTHERN

                  MONGOLOID(S)) の2種類

                  に分かれる。

                    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

⇒ 縄文人。         (グループ : 縄文人グループ

                  Group Jomonjin race)。

                   (英語名: THE JOMONJIN 

                  RACE)。

                  ○ 「縄文人は、 古モンゴロイ

                  ド(= 南方モンゴロイド)の日本先

                  住民であり、 原日本人 (英:

                  THE PROTO-JAPANESE 

                  RACE) の1グループであり、「縄

                  文系」  (英:THE JOMONKEI  

                  PEOPLE) の人々である。

⇒ 弥生人。          (グループ : 弥生人グループ

○ 「縄文系(在来系)     Group Yayoijin  race)。

 弥生人」 と          (英語名: THE YAYOIJIN

 「渡来系弥生人」。     RACE)。

                  ○ 弥生人とは、「縄文系(在来

                  系)弥生人」 と 「渡来系弥生人」

                  である。

                  ○ 弥生人は、縄文時代(約1万

                  2000年前〜約2400年前)か

                  ら日本の先住民の古モンゴロイ

                  ド(= 南方モンゴロイド)の「縄文

                  系(在来系)弥生人」  と、 弥生

                  時代(約2400年前〜約1700

                  年前)にアジア大陸からの移住

                                   民の新モンゴロイド(= 北方モン

                  ゴロイド)の「渡来系弥生人」であ

                  る。

                               ○ 「渡来系弥生人」は、 原日本

                  人の1 グループであり、 「弥生

                  渡来系」 (英:THE YAYOI-

                  TORAIKEI PEOPLE) の人

                  々である。

                   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

⇒ 日本人。         (グループ : 日本人グループ

○ 「古代日本人」      Group Japanese  race)。

 → 「本土日本人」、     (英語名: THE JAPANESE

 「琉球人」、「アイヌ人」。  RACE)。

○ 「古代日本人」      ○ 日本人は、  古代日本で形成さ

 → 「中世日本人」     れた。 

 → 「近世日本人」     ○ 日本人は、 古・新モンゴロイ ド

 → 「近代日本人」     混血の、「縄文・弥生渡来・混血系」

 → 「現代日本人」。    の、「本土日本人」や「琉球人」  と、 

                  古・新モンゴロイド混血の、「縄文・

                  北アジア諸民族・混血系」の、「アイ

                  ヌ人」の3種類の人類に分かれる。

                  ○ 日本人は、 古・新モンゴロイ ド

                  混血の、「縄文・弥生渡来・混血系」

                  の、「本土日本人」や「琉球人」 (英:

                  THE MAINLAND JAPANESE

                  RACE, THE RYUKYU JA-

                                    PANESE RACE) と、 古モン

                  ゴロイドの、縄文系の、 「アイヌ人」

                  (英:THE AINU JAPANESE 

                  RACE) の3種類の人類に分かれ

                  る。

                  ○ 現在のほとんどの日本人は、 

                  「本土日本人」である。

                  ○ 「本土日本人」は、 古代日本

                  後期に形成された。

                  ○ 「本土日本人」は、  「縄文人」

                  とその子孫の「縄文系」 と、 「渡

                  来系弥生人」とその子孫の「弥生

                  渡来系」 との混血の人類である。

                  ○ 「本土日本人」は、 古・新 (南

                  方・北方)モンゴロイド混血の、「

                  文・弥生渡来・混血系」 (英:THE 

                  JOMONKEI-YAYOITORAIKEI 

                  MIXED RACIAL PEOPLE) の

                  人々である。 

                  ○ 古代日本で形成された日本 人

                  は、時代と共に、「古代日本人」 か

                  ら、 「中世日本人」、「近世日本人」、

                  「近代日本人」、「現代日本人」へと  

                  少しずつ、 平均身長が伸びるなど、 

                  容姿・外見(体型・体色)を変化させ

                  ていった。

                    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

                  ○ 古代日本で形成された日本 人

                  は、時代と共に、「古代日本人」(英:

                  THE ANCIENT JAPANESE 

                  RACE) から、 「中世日本人」、

                  「近世日本人」、「近代日本人」、

                  「現代日本人」 (英:THE ME-

                  DIEVAL JAPANESE RACE, 

                  THE EARLY MODERN 

                  JAPANESE RACE, THE 

                  MODERN JAPANESE RACE,  

                   THE PRESENT-DAY JAPAN-

                                    ESE RACE) へと少しずつ、 平

                  均身長が伸びるなど、 容姿・外見

                  (体型・体色)を変化させていった。

                   

 

#theprotojapanese-appearingscenes

 

♪♪ 原日本人が登場する興味深い、

  ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 原日本人 が登場する、興味深い

  関連ドキュメンタリー。 

 

■ 『 日本人 はるかな旅 』 

   (NHKテレビ・2001年制作ドキュメンタ

   リー番組)。 

   「第五集 そして‘‘日本人’’が

   生まれた」。

 水田稲作を行う、農耕主体の新モンゴロ イ

  ド(= 北方モンゴロイド)の人々が、弥生時代

  前期に、アジア大陸より日本地域(初め九州

  本土)に渡来し、日本の「渡来系弥生人」(弥

  生渡来系の人々)となり、 狩猟・採集主体

  の日本の先住民の古モンゴロ イド(= 南方モ

  ンゴロイド)の「縄文系弥生人」と対立しなが

  ら、日本本土を北上・東進した。 

     その後、弥生時代後期には、「渡来系弥

  生人」と「縄文系弥生人」は、協力し、水田稲

  作を行うようになった。

 

#-theclassificationtable

 

■ 現代日本人の学術分類表 。  

    (詳細上位分類、上位所属の分類、日本語名・

    学名・英語名対照)。

○ THE SCIENTIFIC CLASSIFICATION 

  TABLE OF THE PRESENT-DAY 

  JAPANESE RACE.

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典  51016。

 

■ 現代日本人

    (英語名: THE PRESENT-DAY 

    JAPANESE RACE)。

 

■ 地球生物           LIFE ON EARTH。

⇒ 真核生物。        (ドメイン: 真核生物域 

                   Domain Eukaryota) 

                   (英名: EUKARYOTE(S))。

⇒ 動物。           ( 界 : 動物界    

                   Kingdom Animalia) 

                                   (英名:ANIMAL (S))。

⇒ 脊索(せきさく)動物。 ( 門 : 脊索動物門   

                      Phylum Chordata) 

                    (英名:CHORDATE (S))

⇒ 脊椎(せきつい)動物。 (亜門 : 脊椎動物亜門 

                       Subphylum Vertebrata) 

                    (英名:VERTEBRATE(S))

            ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

⇒ 有顎(ゆうがく)動物   (下門 : 有顎動物下門 

  (顎口類、有顎類)。      Infraphylum

                    Gnathostomata) 

                    (英名: VERTEBRATE (S)

                    WITH JAW)。

⇒ 四肢(しし)動物。    (上 : 四肢動物上綱 

                    Superclass Tetrapoda ) 

                   (英名:TETRAPOD (S))  

⇒ 有羊膜類。         (ランク(階級)なし   

  (ゆうようまくるい)      Amniota) 

                   (英名:AMNIOTE (S))。   

⇒ 哺乳類。         (  綱  : 哺乳   

                    Class Mammalia) 

                  (英名:MAMMAL(S))。

⇒ 獣類。           (亜綱  : 亜綱    

                  Subclass Theria) 

                  (英名:THERIAN(S))。

⇒ 真獣類 (正獣類)  綱  : 真獣下(正獣下)  

  (有胎盤類、有胎盤     Infraclass Eutheria)         

  哺(ほ)乳類)。       (英名:EUTHERIAN(S)) 

                   (英名:PLACENTAL 

                  MAMMAL(S)) 。

            ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

⇒ 霊長類。           目  : 霊長目(サル目)    

                     Order Primates) 

                    (英名:PRIMATE(S))。

 

⇒ 直鼻猿類 (新分類法)。亜目 : 直鼻猿亜目    

                   Suborder Haplorrhini) 

                   (英名:HAPLORRHINE(S))。

   真猿類   (新分類法)。下目 : 真猿下目 

                     Infraorder Simiiformes) 

                    (英名: SIMIAN(S))。

   狭鼻猿類 (新分類法)。小目 : 狭鼻小目 

                    Parvorder Catarrhini  ) 

                    (英名: CATARRHINE(S))。

 または、

   真猿類   (旧分類法)。亜目 : 真猿亜目  

                    Suborder Simiiformes) 

                    (英名: SIMIAN(S))。

    狭鼻猿類 (旧分類法) 。(下目 : 狭鼻下目  

                   Infraorder Catarrhini) 

                   (英名: CATARRHINE(S))。

⇒ ホミノイド           (上科 : ヒト上科   

  (類人猿と人類)。       Superfamily Hominoidea) 

                    (英名: HOMINOID(S))。

⇒ 大型類人猿と人類    ( 科 : ヒト科     

 (オランウータン、ゴリラ、   Family Hominidae)      

 チンパンジーと人類)。    英名: NONHUMAN GREAT  

                    APE(S) AND HUMAN(S))。

            ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

⇒ ゴリラとチンパンジ   亜科 : ヒト亜科   

  ーと人類。          Subfamily Homininae)   

                   (英名:  HOMININE(S))。

⇒ チンパンジーと人類。 ( 族 :  ヒト族      

                   Tribe Hominini) 

                  (英名 :HOMININ(S))。

⇒ 人類。                  (亜族 : ヒト亜族    

                   Subtribe Hominina) 

                  (英名: HUMAN(S))。       

⇒ ヒト属(= ホモ属)    ( 属  : ヒト属(= ホモ属)         

  の人類。           Genus Homo) 

                  (英名: HUMAN(S) OF   

                  THE GENUS HOMO)。       

⇒ ホモ・サピエンス       ( 種   ホモ・サピエンス種    

 (= 現生人類、新人) 。    Species Homo sapiens) 

                   (英名: HOMO SAPIENS,

                  EXTANT HUMAN  SPECIES)。

⇒ ホモ・サピエンス     ( 亜種   ホモ・サピエンス・サピ

  サピエンス。         エンス亜種    

                  Subspecies Homo 

                  sapiens sapiens 

                   (英名: HOMO SAPIENS  

                  SAPIENS)。

⇒ モンゴロド         (グループ : モンゴロド・グループ

  (= アジア人種)。      Group Mongoloid)。

                   (英名: MONGOLOID(S))。  

                  ○ モンゴロイドは、容姿・外見

                   (体色・体型) による、人種分類

                  グループの1つである。

                  ○ モンゴロイドは、 古モンゴロ

                  イド(= 南方モンゴロイド) と、 

                  新モンゴロイド(= 北方モンゴロ

                  イド)の2種類に分かれる。

            ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

⇒ 縄文人。         (グループ : 縄文人グループ

                  Group Jomon People)。

                   (英語名: THE JOMON 

                  PEOPLE)。

                  ○ 縄文人は、 古モンゴロイド

                  (= 南方モンゴロイド)の日本先

                  住民である。

⇒ 弥生人。         (グループ : 弥生人グループ

                   Group Yayoi People)。

                    (英語名: THE YAYOI 

                   PEOPLE)。

                   ○ 弥生人とは、 先住民の古モ

                   ンゴロイド(= 南方モンゴロイド)の

                   「縄文系(在来系)弥生人」 と、 

                   移住民の新モンゴロイド(= 北方

                   モンゴロイド)の「渡来系弥生人」

                  である。

            ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

⇒ 日本人。          (グループ : 日本人グループ

○ 古代日本人         Group Japanese People)。

 → 中世日本人       ( 英語名: THE JAPANESE 

 → 近世日本人        PEOPLE)。

 → 近代日本人       ○ 日本人は、古代日本で形成

 → 現代日本人。      された。 

                  ○ 日本人は、 古・新モンゴロイ

                  ド混血の、縄文・弥生渡来・混血

                  系の、「本土日本人」や「琉球人」 

                  と、 古モンゴロイドの、縄文系の、

                  「アイヌ人」 の3種類の人類に分

                  かれる。

                  ○ 現在のほとんどの日本人は、 

                  「本土日本人」である。

                  ○ 「本土日本人」は、 先住民の

                  「縄文人」と移住民の「渡来系弥生

                  人」の混血の人種である。

                     「本土日本人」は、 古・新モ

                  ンゴロイド混血の、縄文・弥生渡来・

                  混血系であり、 古代日本後期に

                  形成された。

                  ○ 古代日本で形成された日本人

                  は、時代と共に、古代日本人から、

                  中世日本人、近世日本人、近代日

                  本人、現代日本人へと少しずつ、

                   平均身長が伸びるなど、容姿・外見

                  (体型・体色)を変化させていった。

 

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#thedamagefromtheatomicbombs

 

■ 原爆被害  

     (げんばくひがい)

 

■ 原爆被害。 

■ 名称 : 原爆被害 (げんばくひがい)。

 

 

■ 原爆被害とは、 第2次世界大戦(太平 洋戦争)

  中の、米軍機による1945年8月の広島(8月6

  日)、長崎(8月9日)への原爆(原子爆弾)投下

  の被害である。

 

■ 日本の原爆被害は、 人類最初の、実戦で使わ

  れた原爆の被害となった。

 

■ 日本の原爆被害の惨状は、 世界に伝わり、 現

  代世界の世界核戦争の抑止と世界平和に貢献

  する。

 

■ 原爆、即ち、原子爆弾は、 放射線、熱線、爆風

  などにより、人を殺傷する。

    爆風が一番死者を増やした。

    ファットマンという原子爆弾を使った長崎の

  原爆被害では、 爆風の衝撃波により、死者の半

  数が殺されたと推測される。

 

■ 広島原爆投下。

● 広島への原爆投下は、 1945年(昭和20年)8

  月6日に行われ、 世界最初の実戦の原爆投下

  となった。 

   

● たった1発の原子爆弾での次のような、犠牲者が

  でた。 犠牲者は、非戦闘員が大多数を占める。

    広島原爆投下の犠牲者は、 死者11.4万人、

  重傷者3万人、 軽傷者4.8万人 であった。

 

 

■ 1945年(昭和20年)6月の沖縄戦の敗戦後、

  1945年(昭和20年)7月時点で、日本 本土では、

  戦う飛行機も戦艦も 武器弾薬も食料もほとんどな

  くなり主要都市は米軍機爆撃で焦土と化し、 裕

  仁天皇(昭和天皇)は本土決戦前の降伏を望み、

  1945年(昭和20年)7月から、日本政府は、

    皇家存続(天皇制存続)という条件なら、本土決

  戦前に、降伏をしてもよい旨を、ソ連 (ロシア)や

  他のルートを通じて、連合国側に伝えたが、無視

  される。

     アメリカ合衆国のトルーマン大統領は、 

  時中のアメリカ国民の反日強硬派や反日の世論

  の反発を考慮して、また、アメリカの力をソ連そ

  の他の世界の諸国に誇示(こじ)するため、また、

  実験として原爆の威力を知るため、日本降伏前

  の原爆投下を望み(ポツダム宣言に天皇家存続

  の文言を挿入し、日本がすぐ降伏してしまうと原

  爆威力人体実験のチャンスを失うため)、 19

  45年(昭和20年)7月26日の日本への降伏勧

  告のポツダム宣言には、降伏条件に天皇家存

  続(天皇制存続)の文言を挿入しなかった。 

     日本政府は、ポツダム宣言の降伏条件に、

  天皇家存続(天皇制存続)の文言がなかったた

  め、すぐに、受諾(じゅたく)しなかった。

     1945年(昭和20年)8月上旬に、 アメリ

  カ合衆国のトルーマン大統領は、 アメリカの力

  をソ連その他の世界の諸国に誇示するため、ま

  た、実験として原爆の威力を知るため、 広島や

  長崎に原爆を投下する。

 

 

#-appearingscenes

 

♪♪ 原爆被害 が登場する、興味深

   い、ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 原爆被害 が登場する、興味深い、

   ドキュメンタリー。

 

■ BS1スペシャル 『 ヒロシマ 

  世界を変えたあの日 』。 

   (イギリスChannel 5・フランスBrook 

   Lapping ARTE France・日本・NHK・

   2015年国際共同制作ドキュメンタリー)。

   (NHKテレビ・2015年8月16日・

   本放送・ドキュメンタリー番組)。

■ 太平洋戦争の戦争終結、ポツダム宣言

  の受諾、原爆投下について詳細に述べ

  ている。

 

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#kennyo

 

■ 顕如  

     (けんにょ)

 

■ 顕如。 

■ 名称 : 顕如 (けんにょ)。

■ 生没年 : 1543年〜1592年。

 

 

■ 顕如 (けんにょ、生没年:1543年〜1592

  年)は、 仏教の僧侶で、 一向宗(いっこうし

  ゅう、本願寺)の、本願寺十一世法主(ほっす)

  である。 

     顕如は、一向宗(本願寺)門徒の本拠地

  (本山)・石山本願寺(いしやまほんがんじ)の

  法主 であった。

 

■ 顕如 は、 織田信長と敵対し、1570年から

  1580年まで、石山合戦を行ったが、 後に和

  睦する。

    石山合戦では、一向宗(本願寺)門徒が、石

  山本願寺に籠城(ろうじょう)して、戦った。

 

■ 顕如の時代に、一向宗(本願寺)教団は、盛期

  を迎えた。

 

■ 石山本願寺は、 室町時代後期(戦国時代)

  に大阪・石山に建てられた一向宗(本願寺)の

  寺院であり、 1532年に、山科本願寺(やま

  しなほんがんじ)の焼失後、 一向宗( 本願寺)

  の本拠地(本山) となる。 

     1570年から1580年まで、 織田信長

  の軍の攻撃を受け、 一向宗(本願寺)門徒が

  籠城(ろうじょう)して、戦った。 1580年に、

  顕如は、織田信長と和睦した (石山合戦が

  終わる)。

     石山本願寺は、1580年の和睦退去の際

  に、焼失した。 後に、(旧)大阪城は、その跡

  地に築かれたと言われている。

     安土桃山時代に、1580年以後、一向宗

  (本願寺)教団は、 大阪・石山以外の地に

  拠地(本山)を移した。 大阪・石山から紀伊国

  鷺森、和泉国貝塚に移った。

 

■ 安土桃山時代後期に、 顕如の次子・准如(じ

  ゅんにょ)が、豊臣秀吉の援助を得て、1591

  年に、京(都)に、西本願寺(にしほんがんじ、

  本願寺派本山)を建立した。 

     また、1602年に、顕如の長子・教如(きょ

  うにょ)が、徳川家康の援助を得て、京(都)に、

  東本願寺(ひがしほんがんじ、大谷派本山)を

  建立した。 

     一向宗(本願寺)教団は、二派に二分され、

  今日に到る。 明治時代以降、一向宗( 本願寺)

  は、 浄土真宗という名称となった。

 

 

♪♪ 顕如 が登場する興味深い、ド

  キュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 顕如 が登場する、興味深い関連

  ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

  実) と 架空の出来事 が混じって描かれ

  ています。 また、 現代風にアレンジしてあ

    ります。

 

■ 『 軍師 官兵衛 』 

   (NHK2014年大河ドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

 

● 顕如 (けんにょ、織田信長の敵、本願寺

  (一向宗)法主) を演じた俳優名 : 

  眞島 秀和 (ましま ひでかず)。

 

● 織田信長を演じた俳優名 : 江口洋介

  (えぐち・ようすけ)。

 

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#decreasingthefief

 

■ 減封  

     (げんぽう)

 

■ 減封。 

■ 名称 : 減封 (げんぽう)。

■ 領地削減。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 42329。

 

 

■ 減封 (げんぽう) とは、 領地削減 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 減封は、 封土の領地(所領)の一部を削減す

  ること である 。 

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

■ 減封 (げんぽう) とは、 封土 (ほうど、英:

  FIEF(S),FEUDAL ESTATE(S)) の

  領地 を、減じる、つまり、削減(さくげん)する

  ことであ。

 

■ 減封は、 封建・武士支配者の領地(封土)政

  策の1つ である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 減封は、 江戸時代では、江戸幕府の命令で、

  大名(藩主)の領地(所領)の一部を削減するこ

  と である。 

 

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#thefeudalcustombestowingchildrenandwives

 

■ 献上妻子の慣習 

     (けんじょうさいしのかんしゅう)

 

■ 献上妻子の慣習。 

■ 名称 : 献上妻子の慣習 (けんじょうさいし

  のかんしゅう)。

■ 前近代の、封建制(生死を共にする主従関係)、

  家父長制、身分制、一夫多妻制の社会での慣

  習。

 

 

■ 献上妻子の慣習 (けんじょうさいしのかんし

  ゅう) は、 前近代日本の、封建制(生死を共

  にする主従関係)、家父長制、身分制、一夫多

  妻制の社会の上層階層において、 生死を共

  にする君臣関係を強めるため、 家臣が、 自

  分の夫人または子供を、 主君に献上する(提

  供する)ことである。

 

■ 前近代日本の、封建社会で、主君(主人)と

  家臣(従者)の関係は、 生死を共にするもの

  で、運命共同体であった。 主従関係を強め

  るための方法の1つとして、 家臣が、 自分

  側室夫人、または、自分の側室夫人の子 など

  の妻子を、主君に献上する慣習があった。 

 

■ 献上妻子の慣習は、 家臣が主君に家臣の

  妻子を献上する慣習であり、 前近代 日本の、

  封建制、家父長制、身分制の社会の、前近代

  日本の、一夫多妻制の上層階層での慣習の1

  つ である。

     その逆の慣習には、 家臣が主君より主君

  の妻子をもらいうける、拝領妻子の慣習 があ

  る。

 

■ 献上夫人は、 拝領夫人と並び、前近代封建

  制の君主の御落胤(ごらくいん、隠し子)の供給

  源の1つとなっている。

 

■ 献上夫人

■ 献上夫人 ( けんじょうふじん)は、 前近代日

  本の封建制(生死を共にする主従関係)、家父

  長制、身分制の社会の一夫多妻制の上層階層

  において、 生死を共にする君臣関係を強める

  ため、 主君に献上した(提供した)家臣の夫人 

  である。

 

■ 献上夫人。 

    前近代日本の封建制社会では、 主君が、

  忠臣の家に泊まった時に、 忠臣の家の女性

  の一人が、 夜、主君に添い寝することもあっ

  た。 添い寝の女性が、忠臣の夫人の一人(忠

  臣も一夫多妻制)という場合もあった。 

     その場合、 その後間もなく生まれた、忠

  臣の夫人の子供は、 忠臣の血をひく子供な

  のか、 主君の血をひく子供なのか、 わから

  なくなる場合もあった。 

 

■ 現代社会ではDNA鑑定という方法もあるが、

  その当時は、 推定するしかなかった。

             

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#thefeudaldedicatedwives

 

■ 献上夫人  

     (けんじょうふじん)

 

■ 献上夫人。 

■ 名称 : 献上夫人 (けんじょうふじん)。

■ 前近代の封建制(生死を共にする主従関係)、

  家父長制、身分制、一夫多妻制の社会での

  慣習。

 

 

■ 献上夫人 (けんじょうふじん)は、 前近代日

  本の、封建制(生死を共にする主従関係)、家

  父長制、身分制、一夫多妻制の社会の、上層

  階層において、 生死を共にする君臣関係を

  強めるため、 主君に献上した(提供した)家

  臣の夫人 である。

 

■ 前近代日本の、封建社会で、主君(主人)と

  家臣(従者)の関係は、 生死を共にするもの

  で、運命共同体であった。 主従関係を強め

  るための方法の1つとして、 家臣が、 自分

  側室夫人または、自分の側室夫人の子 など

  の妻子を、主君に献上する慣習があった。 

 

■ 献上夫人は、 拝領夫人と並び、前近代封建

  制の君主の御落胤(ごらくいん、隠し子)の供

  給源の1つとなっている。

 

■ 献上妻子の慣習 (けんじょうさいしのかんし

  ゅう)は、 前近代日本の、封建制(生死を共に

  する主従関係)、家父長制、身分制、一夫多妻

  制の社会の上層階層において、 生死を共に

  する君臣関係を強めるため、 家臣が、自分の

  夫人または子供を、 主君に献上する(提供す

  る)ことである。

 

 

■ 前近代封建制の主従関係での、

  父親不明の子供。

 

■ 献上夫人。 

    前近代日本の封建制社会では、 主君が、

  忠臣の家に泊まった時に、 忠臣の家の女性

  の一人が、 夜、主君に添い寝することもあっ

  た。 添い寝の女性が、忠臣の夫人の一人

  (忠臣も一夫多妻制)という場合もあった。 

     その場合、 その後間もなく生まれた、忠

  臣の夫人の子供は、 忠臣の血をひく子供な

  のか、 主君の血をひく子供なのか、 わから

  なくなる場合もあった。 

 

■ 現代社会ではDNA鑑定という方法もあるが、

  その当時は、 推定するしかなかった。

 

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#thetaleofgenji

 

  源氏物語  

     (げんじものがたり)

 

 源氏物語。

■ 名称 : 源氏物語 (げんじものがたり)。

■ 平安時代中期に書かれた、紫式部の長編恋

  愛小説。

■ 1008年頃完成。

■ 安国風文化の作品。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典  51515。

 

□ 紫式部 が登場する、面白く、興味

     深い関連映画、ドラマ、ドキュメン

   タリー。 

□ 源氏物語 (映画 「源氏物語 千年 

     の謎」)  画像  NO.1。 

□ 源氏物語 (映画 「千年の恋 ひか

   る源氏物語」) 画像アルバム

   No.1。 

 

 

■ 日本の平安時代中期に、煌(きら)びやかな宮

  廷文化を花開かせた、平安文化の担(にな)い

  手は、 紫式部むらさきしきぶ)、清少納言(せ

  いしょうなごん)、和泉式部(いずみしきぶ)など

  の、宮中の女性であった。

 

■ 源氏物語 (げんじものがたり) は、平安時代

  中期に書かれた、紫式部の長編恋愛 小説 で

  ある。

    源氏物語は、 安国風文化の作品であり、

  1008年頃に完成した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 源氏物語(げんじものがたり)は、 女流作家・

  紫式部により、平安時代中期に書かれた長編

  恋愛小説で、およそ54帖(じょう)より成る。

    源氏物語は、平安時代中期を舞台に、天皇

  の皇子(みこ)として生まれ、才能、容姿とも恵

  まれながら臣籍降下し源氏姓となった光源氏の

  栄華と苦悩の人生及び光源氏の子孫らの人生

  を描く。 

    源氏物語は、 概(おおむ)ね、三部よりなり、 

  第一部では、 光源氏の数多き恋愛遍歴、栄華

  を極める前半生、 第二部では、 光源氏の愛

  情生活の破綻(はたん)や無常を自覚する後半

  生や源氏を取り巻く子女の恋愛、 第三部では、

  源氏死後の子孫達の恋と人生 などである。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 紫式部の「源氏物語」は、 著作の動機は、不

  明であり、 何時頃(いつごろ)から書き始めて、

  何時頃に書き終えたのかは、 正確にはわかっ

  ていない。 

     紫式部は、 1001年(長保3年)の夫の藤

  原宣孝(ふじわらののぶたか)死去後、悲しみを

  乗り越えて「源氏物語」を書き始め、1008年頃

  に、完成したと言われている。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 「源氏物語」の当時の時代背景。

● 平安時代の貴族社会では、 一夫多妻制 (上

  層階級での前近代日本の一夫多妻制) であり、  

  また、 通い婚 (かよいこん、夫が夫人の元に

  通う結婚生活) であり、 子供を、実家の費用

  で、夫人の実家で育てることが多かった。

■ 日本の平安時代に、朝廷では、有力貴族など

  の後ろ盾(うしろだて、バック)がない天皇の皇

  子(みこ)は、 東宮 (とうぐう、天皇の跡継ぎ、

  皇太子) にはなれないことが多かった。 平安

  時代初期・中期に、 東宮になれない天皇の皇

  子は、 臣籍降下しんせきこうか)し、 天皇の

  臣下となることが多かった。

     「源氏物語」の光源氏も、 有力貴族など

  の後ろ盾がない皇子であったため、 東宮(皇

  太子)にはなれず、 源氏の氏(氏族名)を与え

  られ、臣籍降下し、天皇の臣下となった。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

  

■ 紫式部 (むらさきしきぶ、 生没年 978年〜

  1016年?) は、平安中期の女流文学者 で、 

  源氏物語の作者 である。

     紫式部は、 越前(えちぜん、福井県)の守

  (かみ、国司、受領)・藤原為時(ふじわらのため

  とき)の娘 であった。 受領(ずりょう 、国司)階

  級の女性であった。     

     紫式部は、 998年(長徳4年)頃、 藤原

   宣孝(ふじわらののぶたか)の夫人となり、 

   999年(長保元年)に娘の藤原賢子(ふじわら

   のけんし・かたいこ、999〜1082年?、大弐

   三位(だいにのさんみ))をもうけたが、その後、

   1001年(長保3年)に藤原宣孝が急死する。

      紫式部の娘、藤原賢子(大弐三位)  は、

   1017年頃、紫式部の後を継ぎ、彰子(上東門

   院)に女房として出仕する。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 紫式部 は、 夫との死別後、 政治家の藤原

  道長 (966−1027 年) にその文才を認めら

  れて、 藤原道長の娘の藤原彰子 (ふじわらの

  しょうし、988年〜1074年、上東門院)に、 女

  房(にょうぼう、側仕えの上級女性)として、 仕

  (つか)えた。

    紫式部の仕えた、藤原彰子 は、 一条天皇

  の正室夫人(中宮、皇后)で、 後一条天皇や後

  朱雀天皇の生母 となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

◆ 源氏物語 と 藤原氏の摂関

  政治。

■ 紫式部の源氏物語の著作は、 日本政治の実権

  獲得を望む摂関家(せっかんけ)藤原道長一族

  の計略に関(かか)わっていた。

    平安時代中期の当時、 日本政治の実権獲得

  をめぐり、 藤原氏の近親同士の、 兄・藤原道隆

  (ふじわらのみちたか) と 弟・藤原道長(ふじ わ

  らのみちなが、生没年:966〜1027年) の権

  力闘争があった。 

     文学青年の、一条天皇(いちじょうてんのう)

  の正室夫人には、 藤原道隆の娘・定子(ていし、

  藤原定子(ふじわらのていし、夫人期間:990年

  〜1000年)) と、藤原道 長の娘・彰子(しょうし、

  藤原彰子(ふじわらのしょうし、夫人期間:999年

  〜1011年) がいた。

     清少納言 (せいしょうなごん) は、 紀元

  (後) 993年頃から1000年頃まで、 朝廷の、

  宮中で、 藤原道隆の娘・定子(ていし) の女房 

  (にょうぼう、側仕えの上級女官)) として仕えた。 

     一方、 紫式部(むらさきしきぶ)は、 紀元

  (後)1005年頃から1012年頃まで、 朝廷の、

  宮中で、 藤原道長の娘・彰子(しょうし)の女房 

  (にょうぼう、側仕えの上級女官)) として仕えた。 

      藤原道隆の娘で天皇・正室夫人の定子(て

  いし)には、 993年頃より、清少納言(せいしょ

  うなごん)が仕(つか)えた。 清少納言や他の女

  房(にょうぼう、側近の上級女官)は、 宮中で、 

  文化サロンを形成し、 随筆(後の枕草子)、

  、その他様々な手段を使い、 後宮で文化宣

  伝活動を行い、 文学青年の、一条天皇は、

  子のもとに頻繁に通い、 一条天皇と定子は、親

  密な関係となり、 999年に定子は、敦康親王

  (あつやすしんのう)という皇子(みこ)をもうけた。 

     しかし、995年に、関白であった定子の父・

  藤原道隆が死去し、996年に、定子の兄弟も藤

  原道長に失脚させられた(長徳の変)。 1000

  年に定子も死去し、 清少納言は、 1000年頃

  に、宮中を去った(宮中から身を引いた)。

    定子死後、定子を愛し忘れられない一条天

  皇は、 藤原道隆の娘・定子(ていし)の生んだ

  皇子(みこ)の敦康親王(あつやすしんのう)を、 

  皇太子(東宮(とうぐう)、次期天皇)にしたいと

  考えていた。 しかし、藤原道長の計略により、 

  藤原道長の娘・彰子(しょうし)の生んだ皇子が、 

  皇太子(東宮、次期天皇) となった。

     藤原道長は、 自分の娘・彰子が生んだ子

  を、皇太子(東宮、次期天皇)にするため、 

  学青年の、一条天皇の気持ちを彰子(しょうし、

  藤原彰子)に向けさせ、 自分の娘・彰子にも

  皇子をもうけてもらうため、 藤原道長の娘で

  一条天皇・正室夫人の彰子には、1005年頃

  から、紫式部 (むらさきしきぶ)を仕(つか)え

  させた。 

     紫式部和泉式部、他の女房(にょうぼう、

  側近の上級女官)は、 宮中で文化サロンを形

  成し、 物語(後の源氏物語)、和歌、その他様

  々な手段を使い、 宮中で文化宣伝活動を行

  い、 文学青年の、一条天皇は、 彰子の元に

  頻繁に通い、 一条天皇と彰子は、 親密な関係 

  となり、 彰子は、1008年に、敦 成親王(あつ

  ひらしんのう)という皇子(みこ)をもうけた。 

    敦成親王(あつひらしんのう)は、1011年

  に、皇太子となった。 敦成親王は、 三条天

  皇 (天皇在位、1011〜16年、冷泉天皇と

  道長の妹・超子(ちょうし)との皇子) の皇太

  子 (東宮、次期天皇予定者) となった。 

     その後、敦成親王は、1016年に天皇に

  即位して、後一条(ごいちじょう)天皇 となっ

  た。 藤原道長は、 天皇の外戚(生母の父)

  となり、内覧(ないらん)となって、 日本の政

  治の実権を握(にぎ)った。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 「源氏物語」紫式部、藤原彰子と 

  藤原氏の摂関政治。

■ 平安時代中期の、一条天皇 (いちじょうてん

  のう、天皇在位:986〜1011年、生没年:98

  0〜1011年) の時期に、一条天皇の正室夫

  として、 藤原定子 (ふじわらのていし、97

  7〜1000年) と 藤原彰子 (ふじわらのしょ

  うし、988〜1074年) がいた。 

     藤原道隆の娘の定子(ていし)は、 990

  年に入内(じゅだい)し、 清少納言 (せいしょ

  うなごん) が仕えた。 清少納言は、 993年

  頃から1000年頃まで宮中で宮仕えをした。 

     995年に関白であった定子の父・藤原道

  隆が死去し、 996年に、定子の兄・伊周(これ

  ちか)や弟・隆家(たかいえ)も藤原道長に失脚

  させられ(長徳の変)、 定子は、有力な後ろ盾

  を失った。 しかし、一条天皇は、 定子を寵愛

  し、 999年に、定子は、一条天皇の第一皇子・

  敦康(あつやす)親王を出産し、一条天皇は喜

  んだが、 定子は、 1000年に死去した  (

  条天皇の第二皇女出産時)。 清少納言は、

  ほどなく、1000年頃に、宮中を去った。

     藤原道長の娘の彰子(しょうし)は、999年

  に入内(じゅだい)した。 その後、彰子は、しば

  らく、一条天皇の子をなかなか懐妊(かいにん)

  しなかった。 1002年より、一条天皇の政治的 

  配慮により、 彰子は、亡くなった定子の敦康

  (あつやすしんのう)を養育していた。  

     藤原道長は、焦(あせ)り、 紫式部の 宮中

  への出仕を望み、 1005年頃より、紫式部は 、

  宮中にいる、彰子(しょうし)に仕えた。 

     藤原道長の娘の藤原彰子(ふじわらのしょ

  うし) は、 999年に入内 (じゅだい、天皇の

  室夫人として宮中の天皇の後宮に入ること) し

  たが、 一条天皇 (いちじょうてんのう、在位9

  86〜1011年) の御渡りが少なく (彰子のも

  とに来ることが少なく)、 藤原道長は、 一条

  天皇に、藤原道長の娘の彰子にもっと関心をも

  ってもらい、 彰子のもとに頻繁に来てもらうこ

  とを望む。 そこで、藤原道長が目をつけたのが、

  教養があり文才にとんだ紫式部であった。 

     藤原道長の要請で、 紫式部は、1005年

  頃、藤原道長の娘の彰子(しょうし)の女房(にょ

  うぼう、側仕えの上級女官) 兼家庭教師として

  仕え、 その後、1012年頃まで彰子に仕えた。 

     平安時代の当時は、現在と違い、娯楽が少

  なく、物語などは、現在の人気のテレビ、映画、

  ゲームほどの人気があった。

     彰子・女房の紫式部の、教養や 物語(後の

  「源氏物語」 )は、 一条天皇の興味をそそり、一 

  条天皇は、 紫式部の物語、詩歌などを聞きに、

  彰子のもと(居室)に前より多く通うようになった

  と推測される。 

     そして、一条天皇は、藤原道長の娘の藤原

  彰子と親密になり、 彰子は、 1008年に敦成

  親王 (あつひらしんのう、後の後一条(ごいちじ

  ょう)天皇) を生み、 1009年に敦良親王 (あ

  つながしんのう、後の後朱雀(ごすざく)天皇)を

  生み、 一条天皇の、二人の皇子を生んだ。 

     その後、 1011年に敦成親王  (あつひら

  しんのう)は、 立太子となり  (東宮(皇太子)に

  なり)、 1016年に天皇 (後一条(ごいちじょう)

  天皇) になった。 

     これにより、 藤原道長は、 天皇と外戚関

  係ができ、 内覧となって朝廷の実権を掌握し、

  日本の政治の実権を握り、摂関政治を行い、栄

  華を極めた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#thetaleofgenji-appearingscenes

 

♪♪ 源氏物語 が登場する、興味深

    い関連ドキュメンタリー、ドラマ、

    映画。 

 

★ 源氏物語 が登場する、興味深い

   関連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

   ドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実)と 

   架空の出来事が 混じって描かれています。  

   また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 源氏物語 千年の謎 』。 

     (2011年日本映画)。

□ 「 源氏物語 」 (映画 源氏物語 千年の謎)

  画像 NO.1

■ 平安時代中期に活躍した人々 や 源氏物語

  などを描く。

■ 光源氏の前半生を描く (源氏物語・三部作の

  第一部を描く)。

■ 「源氏物語」の作者の紫式部、 摂関家の藤

   原道長、 道長の娘の彰子、 道長の顧問の

   安倍晴明 も登場する。

 

● 紫式部を演じた女優 : 中谷美紀。

● 藤原道長を演じた俳優 : 東山紀之。

 

■ 『 千年の恋 ひかる源氏物語 』。 

   (英題:GENJI−A THOUSAND YEAR 

    LOVE) 

   (2001年日本映画)。

□  源氏物語 」 (映画 千年の恋 ひかる源

  氏物語)  画像アルバム No.1

■ 平安時代中期に活躍した人々 や 源氏物語

  などを描く。

■ 光源氏の前半生と後半生を描く (源氏物語・

  三部作の第一部・第二部を描く)。

■ 「源氏物語」の作者の紫式部や摂関家の藤原

  道長も登場する。

 

● 紫式部を演じた女優 : 

  吉永小百合 (よしながさゆり)。

● 藤原道長を演じた俳優 : 渡辺 謙。

 

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#thegenkoera

 

■ 元弘 

      (げんこう)。

 

■ 元弘。

■ 名称 : 元弘 (げんこう)。

■ 日本暦年号(和暦年号、元号)。

■ 後醍醐・鎌倉幕府競合二重年号(1331

   〜1333年)の1つ。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

■ 後醍醐(ごだいご)天皇 (大覚寺統(だい

  かくじとう)) 方の暦年号。

 ● 「元弘」元年〜4年(1331〜1334年)。

  1331年・元弘元年・8月 9日〜

  1334年・元弘 4年・1月29日。 

■ 中世日本の鎌倉時代後期、建武時代の

  年号。

 

 

■ 元弘 (げんこう) は、 日本暦年号(和暦

  年号、元号)で、 中世日本の鎌倉時代後期、

  建武時代の年号であり、 後醍醐(ごだいご)

  天皇(大覚寺統(だいかくじとう)) 方の暦年

  号として使用され、 元弘元年から4年まで

  西暦1331年から1334年まで) である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 元弘 (げんこう) は、 日本暦年号(和暦

  年号、元号)で、 中世日本の鎌倉時代後期、

  建武時代の年号 である。

 

■ 「元弘」(げんこう) は、 後醍醐・鎌倉幕府

  競合二重年号(1331〜1333年)の1つで、

  後醍醐(ごだいご)天皇(大覚寺統(だいかく

  じとう)) 方の暦年号として使用された。

 

■ 後醍醐(ごだいご)天皇(大覚寺統(だ いか

  くじとう)) 方の暦年号の、 「元弘 」(げんこ

  う) は、 元弘元年から4年まで (西暦13

  31年から1334年まで) であり、 1331年

  ・元弘元年・8月9日から1334年・元弘4年・

  1月29日まで である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 ■ 後醍醐(ごだいご)天皇 (大覚寺統(だ

  いかくじとう)) 方の暦年号。

    嘉暦(かりゃく)⇒ 元徳(げんとく)元年

  〜3年 (1329〜1331年) ⇒ 元弘

  (げんこう)元年〜4年 (1331〜1334 

  年) ⇒ 建武(けんむ)。

 

 

■ 1331年8月に、大覚寺統の後醍醐天皇

  (即位1318〜39年)は、倒幕計画発覚後、 

  「元弘」(げんこう、1331年8月〜1334年

  1月) に改元した。 鎌倉幕府は、「元弘」

  への改元を認めず、 「元徳」(げんとく、

  1329〜31、32年)の年号を使い続ける。

    1331年9月に、鎌倉幕府は、持明院統

  の光厳(こうごん)天皇(即位1331〜33年)

  を擁立した。

    1332年4月に、鎌倉幕府に擁立された

  光厳(こうごん)天皇は、 「正慶」(しょうきょ

  う)(1332年・正慶元年・4月28日〜133

  3年・正慶 2年・5月25日)の年号に改元す

  る。 

    1333年・(うるう)2月に、鎌倉幕府に

  より、後醍醐(ごだいご)天皇は、隠岐(おき)

  へ配流(はいる)される。 

    1333年6月に、後醍醐(ごだいご)天皇

  は、帰京する。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

◆ 後醍醐・鎌倉幕府競合二重年号

  一覧表。

■ 1331年から1333年まで、日本暦年号

  (和暦年号、元号)は、二重存立する。

■ 後醍醐(ごだいご)天皇 (大覚寺統(だ

  いかくじとう)) 方の暦年号。

 ▼ 元徳(げんとく) ⇒ 元弘(げんこう)。

 ● 「元徳」 (げんとく) 

   (元徳元年〜元徳3年、1329〜1331年)。

 ● 「元弘」 (げんこう)

   (元弘元年〜元弘4年、1331〜1334年)。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 光厳(こうごん)天皇 (鎌倉幕府擁立、

  明院統(じみょういんとう)) 方の暦年号。

 ▼ 元徳(げんとく)⇒ 正慶(しょうきょう)

   ⇒ 暦年号編成中止。

 ● 「元徳」 (げんとく)

   (元徳元年〜元徳4年、1329〜1332年) 。

 ● 「正慶」 (しょうきょう)

   (正慶元年〜正慶2年、1332〜1333年)。

 

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#thegentokuperiod

 

■ 元徳 

      (げんとく)。

■ 元徳。

■ 元徳 (げんとく)。

■ 日本暦年号(和暦年号、元号)。

■ 後醍醐・鎌倉幕府競合二重年号(1331

   〜1333年)の1つ。

■ 後醍醐(ごだいご)天皇 (大覚寺統(だい

  かくじとう))方の暦年号。

 ● 「元徳」元年元徳3年(1329〜1331年)。

   1329年・元徳元年・8月29日〜

   1331年・元徳 3年・8月 9日。 

 ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

■ 光厳(こうごん)天皇 (鎌倉幕府擁立、持

  明院統(じみょういんとう))方の暦年号。

 ● 「元徳」元年元徳4年(1329〜1332年)。

   1329年・元徳元年・8月29日〜

   1332年・元徳 4年・4月28日。 

■ 中世日本の鎌倉時代後期の年号。

 

 

■ 元徳 (げんとく) は、 日本暦年号(和暦年

  号、元号)で、 中世日本の 鎌倉時代後期の

  年号であり、 後醍醐(ごだいご)天皇 (大覚

  寺統(だいかくじとう)) 方の暦年号では、「元

  徳」元年から元徳3年まで (西暦1329年か

  1331年まで) であり、 光厳(こうごん)天

  皇 (鎌倉幕府擁立、持明院統(じみょういんと

  う))方 の暦年号では、 「元徳」元年から元徳

  4年まで  (西暦1329年から1332年まで) 

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 元徳は、 後醍醐・鎌倉幕府競合二重年号

  (1331〜1333年)の1つ で、 後醍醐(ご

  だいご)天皇 (大覚寺統(だいかくじとう)) 方

  の暦年号としても使用され、 光厳(こうごん)

  天皇 (鎌倉幕府擁立、持明院統(じみょういん 

  とう)) 方の暦年号としても使用された。

 

■ 後醍醐(ごだいご)天皇 (大覚寺統(だいか

  くじとう)) 方の暦年号の、元徳は、 「元

  徳」元年から元徳3年まで (西暦1329年か

  1331年まで) であり、1329年・元徳元年

  ・8月29日から1331年・元徳3年・8月9日ま

  で である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 後醍醐(ごだいご)天皇 (大覚寺統(だ いか

  くじとう)) 方の暦年号。

      嘉暦(かりゃく)⇒ 元徳(げんとく)元年

   〜3年 (1329〜1331年) ⇒ 元弘(げ

  んこう)元年〜4年 (1331〜1334年) ⇒ 

  建武(けんむ)。

 

■ 光厳(こうごん)天皇(鎌倉幕府擁立、持明院

  統(じみょういんとう))方の暦年号の、元徳

  は、 「元徳」元年から元徳4年まで  (西暦

  1329年から1332年まで) であり、1329

  年・元徳元年・8月29日から1332年・元徳

  4年・4月28日まで である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 光厳(こうごん)天皇 (鎌倉幕府擁立、 持

  明院統(じみょういんとう))方の暦年号。

  嘉暦(かりゃく) ⇒ 元徳(げんとく)元

  年〜4年 (1329〜1332年) ⇒ 正慶

  (しょうきょう)元年〜2年 (1332〜133

  3年)⇒ 暦年号編成中止。

 

 

■ 1331年8月に、大覚寺統の後醍醐天皇

  (即位1318〜39年)は、倒幕計画発覚後、 

  「元弘」(げんこう、1331年8月〜1334年

  1月) に改元した。 鎌倉幕府は、「元弘」

  への改元を認めず、 「元徳」(げんとく、

  1329〜31、32年)の年号を使い続ける。

    1331年9月に、鎌倉幕府は、持明院統

  の光厳(こうごん)天皇(即位1331〜33年)

  を擁立した。

    1332年4月に、鎌倉幕府に擁立された

  光厳(こうごん)天皇は、 「正慶」(しょうきょ

  う)(1332年・正慶元年・4月28日〜133

  3年・正慶 2年・5月25日)の年号に改元す

  る。 

    1333年・(うるう)2月に、鎌倉幕府に

  より、後醍醐(ごだいご)天皇は、隠岐(おき)

  へ配流(はいる)される。 

    1333年6月に、後醍醐(ごだいご)天皇

  は、帰京する。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

◆ 後醍醐・鎌倉幕府競合二重年号

  一覧表。

■ 1331年から1333年まで、日本暦年号

  (和暦年号、元号)は、二重存立する。

■ 後醍醐(ごだいご)天皇 (大覚寺統(だ

  いかくじとう)) 方の暦年号。

 ▼ 元徳(げんとく) ⇒ 元弘(げんこう)。

 ● 「元徳」 (げんとく) 

   (元徳元年〜元徳3年、1329〜1331年)。

 ● 「元弘」 (げんこう)

   (元弘元年〜元弘4年、1331〜1334年)。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 光厳(こうごん)天皇 (鎌倉幕府擁立、

  明院統(じみょういんとう)) 方の暦年号。

 ▼ 元徳(げんとく)⇒ 正慶(しょうきょう)

   ⇒ 暦年号編成中止。

 ● 「元徳」 (げんとく)

   (元徳元年〜元徳4年、1329〜1332年) 。

 ● 「正慶」 (しょうきょう)

   (正慶元年〜正慶2年、1332〜1333年)。

 

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#kebiishisecuritypolicecommander

 

■ 検非違使 

      (けびいし)。

 

■ 検非違使。

■ 名称 : 検非違使 (けびいし)。

■ 朝廷の治安警察部隊・隊長。

 

 

■ 検非違使 (けびいし) とは、 朝廷の治安警察

 部隊・隊長 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 検非違使は、 平安時代初期に設けられた官職

 で、令外官(りょうげのかん)。

   検非違使は、初め、嵯峨(さが)天皇治世に、

 (都)の治安・警察のため、 衛門府(えもんふ)の

 中に置かれた官職であったが、 次第に独立して、

 朝廷は、824年に、検非違使庁を設置した。

   検非違使の権限も、 犯人の検挙、風俗の粛清

 (しゅくせい)から訴訟裁判に及び、 極めて強大と

 なった。 後に、地方諸国にも置かれが、武士の勃

 と共に、形式化した。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

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#keio

 

■ 慶応 

      (けいおう)。

 

■ 慶応。

■ 期間 : 1865年から 1868年まで。

■ 名称 : 慶応 (けいおう)。

■ 慶応 (けいおう、1865.4.7−1868.9.

     8.)。 

 和暦年号。 (⇒ 日本暦・重要年号)。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

■ 慶応元年・1865年・4月7日〜慶応4年・

    1868年・9月8日。

 近世の江戸時代の幕末の年号。 

■ 元治(げんじ)の後、明治(めいじ)の前の年号。

 

 

■ 慶応 (けいおう) とは、和暦年号で、1865

 年から1868年までの期間 である。

■ 慶応 (けいおう、 1865.4.7−1868.9.

  8.) は、 慶応元年・1865年・4月7日から 

 慶応4年・1868年・9月8日 までの期間である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

■ 慶応 は、 近世の江戸時代の幕末の和暦年

 号で、 元治(げんじ)の後、 明治(めいじ)の前

 の年号 である。

 

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#genji

 

  源氏  

       (げんじ・みなもとうじ)。

 

 源氏。

 名称 : 源氏 (げんじ、みなもとうじ)。 

● 源朝臣(みなもとのあそん)。

  氏族名は、 源(みなもと)で、 

  姓(かばね)は、 朝臣(あそん) である。

■ 皇族賜姓 (こうぞくしせい)。

■ 賜姓源氏 (しせいげんじ)。

■ 公家源氏 と 武家源氏 がある。

■ 天皇ごとに、主に18の源氏がある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 42337。

 

 

  源氏 (げんじ、みなもとうじ) は、 皇族賜姓

  の賜姓源氏 で、一族名の正式名は、源朝臣

  (みなもとのあそん) で、 一族名の氏族名は、

  源(みなもと)、一族名の姓(かばね)は、朝臣

  (あそん) である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 皇族賜姓 (こうぞくしせい) とは、 皇族が天

  皇より賜(たまわ)る氏(氏族名)で、 皇族が臣

  下に下る際に天皇より賜(たまわ)る氏(氏族名)

  であり、 源氏の他に、平氏、在原(ありわら)氏

  などがある。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 源氏 (げんじ、みなもとうじ) は、 平氏や在

  原氏などと同様に、 族が臣籍降下する際に

  名乗る氏(氏族名)の一つである。

  

■ 源氏 (げんじ、みなもとうじ) は、 平氏や在原

  氏などと同様に、 皇族賜姓 (こうぞくしせい、

  族が臣下に下る際に天皇より賜(たまわ)る氏(氏

  族名)) の一つ である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 朝廷は、 平安時代前期の嵯峨(さが)天皇以 

  後、 財政事情その他の理由で、 増えた皇族

  に、 源氏として臣籍降下させた (皇族賜姓

  源氏の氏(氏族名)を与えて、臣籍に下した)。 

 

■ 臣籍降下。

    臣籍降下は、 皇族が、天皇より皇族賜姓(こ

  うぞくしせい)の氏(氏族名)賜(たまわ)って、

  天皇の臣下に下ることである。

    朝廷は、 平安時代前期・中期に、財政事情そ

  の他の理由で、増えた皇族に、 源氏平氏、在

  原(ありわら)氏などの皇族賜姓の氏(氏族名)

  与えて、臣籍降下させた。 

    平安後期以後、 皇位継承に関わりのない皇

  族(皇子皇女達)は出家する慣例が生まれたため、

  皇族に源氏、平氏、在原氏などの皇族賜姓の氏

  (氏族名)を与えて臣籍降下させることは、少なく

  なった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 賜姓源氏(しせいげんじ)。

    源氏 は、 平安時代前期の嵯峨(さが)天皇

  (在位809〜823年)から安土桃山時代の正親

  町(おおぎまち)天皇(在位1560〜86年)まで

  の中で、 およそ18代の天皇、の子孫に与えられ

  氏(氏族名) である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 主な源氏。  

  天皇ごとに、主に18の源氏がある。

    源氏とは、 源氏の氏(氏族名)を与えられ臣籍

  に下った、天皇の皇族の子孫 (天皇を祖とする一

  族) である。

 ● 嵯峨源氏      源氏の氏を与えられ臣籍降下し

              た、嵯峨天皇(さがてんのう、即位

              809〜823年、生没年786〜84

              2年)の皇族、の子孫。

 ● 仁明源氏    源氏の氏を与えられ臣籍降下した、

              仁明天皇の皇族、の子孫。

 ● 文徳源氏    源氏の氏を与えられ臣籍降下した、

              文徳天皇の皇族、の子孫。

 ● 清和源氏    源氏の氏を与えられ臣籍降下した、

              清和天皇の皇族、の子孫。

 ● 陽成源氏    源氏の氏を与えられ臣籍降下した、

              陽成天皇の皇族、の子孫。

 ● 光孝源氏    源氏の氏を与えられ臣籍降下した、

                           光孝天皇の皇族、の子孫。

              ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 ● 宇多源氏    源氏の氏を与えられ臣籍降下した、

              宇多天皇の皇族、の子孫。

 ● 醍醐源氏    源氏の氏を与えられ臣籍降下した、

              醍醐天皇の皇族、の子孫。

 ● 村上源氏    源氏の氏を与えられ臣籍降下した、

              村上天皇の皇族、の子孫。

 ● 冷泉源氏    源氏の氏を与えられ臣籍降下した、

              冷泉天皇の皇族、の子孫。

 ● 花山源氏    源氏の氏を与えられ臣籍降下した、

              花山天皇の皇族、の子孫。

 ● 三条源氏      源氏の氏を与えられ臣籍降下し

              た、三条天皇(さんじょうてんのう、

              即位1011〜1016年、生没年

              976〜1017年)の皇族、の子孫。

 ● 後三条源氏   源氏の氏を与えられ臣籍降下した、

              後三条天皇の皇族、の子孫。  

              ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 ● 後白河源氏   源氏の氏を与えられ臣籍降下した、

              後白河天皇の皇族、の子孫。  

 ● 順徳源氏    源氏の氏を与えられ臣籍降下した、

              順徳天皇の皇族、の子孫。

 ● 後嵯峨源氏   源氏の氏を与えられ臣籍降下した、

              後嵯峨天皇の皇族、の子孫。  

 ● 後深草源氏   源氏の氏を与えられ臣籍降下した、

              後深草天皇の皇族、の子孫。  

 ● 正親町源氏   源氏の氏を与えられ臣籍降下した、

              正親町天皇の皇族、の子孫。  

 

 

■ 源氏には、 公家源氏 と 武家源氏 がある。

● 公家となった源氏が公家源氏 で、 武家となった

 源氏が武家源氏 である。

(例) 宇多天皇の孫の源雅信(みなもとのまさのぶ)

 の子孫は、公家源氏として堂上家として栄え、 武

 家源氏として佐々木氏(近江源氏)として栄えた。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 武家源氏。

● 武家源氏には、 清和天皇の子孫の清和源氏、 

 峨天皇の子孫の嵯峨(さが)源氏の渡辺氏、松浦(まつ

 うら)氏、 文徳天皇の子孫の文徳源氏の坂戸氏、 宇

 多(うだ)天皇の子孫の宇多源氏の佐々木氏(近江源

 氏)、出雲源氏の諸氏 などである。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 清和源氏は、平安時代前期に、 皇族賜姓により誕

  生し、後に、 桓武 平氏と並び、 武士の首長、棟梁(と

 うりょう)となった家 である。   

 

■ 清和源氏の武家源氏には、 河内(かわち)源氏の、 

 源頼信(みなもとの よりのぶ、968〜1048年)、 源

 義家(よしいえ、1039〜1106年)、 源頼朝(よりとも 、

 1147〜99年)、 源義仲(よしなか、木曽義仲 、115

 4〜84年)、源義経(よしつね 、1159〜89年)、 

 利 (あしかが)氏の源義康(よしやす)とその子孫の

 利尊氏(たかうじ)、 新田(にった)氏の源義重(よし

 しげ)とその子孫の新田義貞(よしさだ)、 摂津(せっ

 つ)源氏の源頼光 みなもとの よりみつ、948〜10

 21年)とその子孫の源頼政(よりまさ1104〜1180

 )、  甲斐(かい)源氏の源義光(みなもとの よしみ

 つ) などがいる。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

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#genjiseiken

 

■ 源氏政権 

   (げんじせいけん)。

 

■ 源氏政権。

■ 名称 : 源氏政権 (げんじせいけん)。

■ 時期 : 1185年頃〜1219年頃。

■ 清和源氏系の河内源氏源頼朝(みなも

  とのよりとも)とその子の政権。

 源氏政権の詳細な内容に関しては、

  鎌倉幕府関連出来事を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11716。

 

 鎌倉幕府関連出来事

 

 

■ 源氏政権。

 ■ 1185年3月に、 壇の浦(だんのうら)の戦い

   で伊勢平氏( いせへいし)が滅亡後、 源頼朝は、

   1185年(文治元年)11月に、 守護・地頭

   (しゅご・じとう)の設置を朝廷から認められ、

   源氏政権を樹立し、  源頼朝は、1192年

   (建久3年)に、鎌倉幕府を開き、鎌倉幕府 の

   初代将軍となり、 1219年(建保7年)1月に、

   鎌倉幕府第3代将軍で源氏将軍の源実朝(み

   なもとのさねとも)が暗殺され源頼朝の源氏

   嫡流が断絶し、源氏政権は、 三代で、消滅す

   る。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 源氏政権。

 ■  源氏政権 (げんじせいけん)は、 1185年

    (文治元年)頃から1219年(建保7年)

    までである。 

       1185年(寿永4年、元暦2年)3月に、

    壇の浦(だんのうら)の戦いで伊勢平氏が滅

    亡後、 源頼朝は、1185年(文治元年)11月

    に、 守護・地頭(しゅご・じとう)の設置を朝廷

    からめられ、源氏政権を樹立し、 源頼朝は、

    1192年 (建久3年)7月に、鎌倉幕府開き、

    鎌倉幕府初代将軍となる。 

       1219年(建保7年)1月に、、鎌倉幕府・

    第3代将軍で源氏将軍の源実朝(みなもとの

    さねとも)が暗殺され、源頼朝の源氏嫡流が断

    絶し、氏政権は、 三代で、消滅する。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 平安時代末期の、政権(日本の政治

  の実権)の変遷。

 ■ 白河上皇・院政政治(政権)期

  (1086〜1129年)。

 ● 1086年に、白河上皇が、日本の政治の

  実権を握り、院政政治を始める。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 ■ 鳥羽上皇・院政政治(政権)期

  (1129〜1156年)。

 ● 1129年に、鳥羽上皇が、日本の政治の

  実権を握り、院政政治を始める。

 

 ■ 後白河天皇・親政政治(政権)期

  (1156〜1158年)。

 ● 1156年に、後白河天皇が、日本の政治の

  実権を握り、天皇親政政治を始める。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 ■ 後白河上皇・二条天皇・二頭政治(政権)期

  (1158〜1161年)。

 ● 1158年に、後白河上皇と二条天皇が、日本

  の政治の実権を握り、二頭政治を始める。

 

 ■ 二条天皇・親政政治(政権)期

  (1161〜1165年)。

 ● 1161年に、二条天皇が、日本の政治の実

  権を握り、天皇親政政治を始める。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 ■ 伊勢平氏・武家政治(政権)期

  (1165〜1180年)が始まる。

 ● 1165年に、伊勢平氏が、日本の政治の実

  権を握り、武家政治を始める。

 

 ■ 伊勢平氏・河内源氏・武家二頭政治(政権)期

  (1180〜1185年)。

 ● 1180年に、伊勢平氏と河内源氏が、日本の

  政治の実権を握り、武家二頭政治を始める。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 ■ 河内源氏・武家政治(政権)期

  (1185〜1219年)。

 ● 1185年に、河内源氏が、武家政治を始める。 

  河内源氏3代(源頼朝、源頼家、源実朝)まで

  続く。

 

 

◆ 鎌倉幕府の将軍と執権。

 

◆ 鎌倉幕府の将軍。

  ■ 鎌倉将軍 (かまくらしょうぐん)とは、 

    鎌倉幕府の将軍であり、 9代の鎌倉

    将軍が就任する。

 

  ■ 鎌倉幕府の、初代、第2代、第3代将

    軍は源氏将軍であり、 第4代、第5

    代将軍は、摂家(せっけ)将軍(= 藤原

    将軍)であり、 第6代、第7代、第8代、

    第9代将軍は、宮(みや)将軍(= 皇族

    将軍)である。

 

  ■ 鎌倉幕府の第4〜9代鎌倉将軍は、

     鎌倉北条氏が擁立した、政治権力

     のない傀儡将軍である。

 

■ 源氏将軍。

 ■ 初代将軍  源頼朝 (みなもとのよりとも、

                将軍在任1192〜1199年)。

 ■ 2代将軍  源頼家 (みなもとのよりいえ、

                将軍在任1202〜1203年)。

 ■ 3代将軍  源実朝 (みなもとのさねとも、

                将軍在任1203〜1219年)。

 ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 摂家将軍、宮将軍

   (執権(しっけん)政治における 実権

   のない形式的、名目的な将軍

 

 摂家将軍 (せっけしょうぐん、藤原将軍、藤原氏

            出身の将軍、 1226年〜1252年)。

 ■ 4代将軍  藤原頼経 (ふじわらのよりつね、

                  九条頼経)。

                 (将軍在任1226〜1244年)

 ■ 5代将軍  藤原頼嗣 (ふじわらのよりつぐ、

                  九条頼嗣)。

                 (将軍在任1244〜1252年)

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 宮将軍   (みやしょうぐん、親王出身の将軍、

            1252年〜1333年)。

 ■ 6代将軍  宗尊親王 (むねたか しんのう)

                 (後嵯峨天皇の皇子(みこ))。

                 (将軍在任1252〜1266年)

 ■ 7代将軍  惟康親王 (これやす しんのう)

                 (宗尊親王の子)。

                 (将軍在任1266〜1289年)

 ■ 8代将軍  久明親王 (ひさあき  しんのう)

                 (後深草天皇の皇子)。

                 将軍在任1289〜1308年)

 ■ 9代将軍  守邦親王 (もりくに しんのう)

                 (久明親王の子)。

                     (将軍在任1308〜1333年)。

 

 

◆ 鎌倉幕府の得宗(とくそう)

  ■ 得宗。

  ● 得宗 (とくそう 、= 鎌倉北条氏・本家の

        当主とは、 鎌倉時代の鎌倉北条氏

    (= 執権北条氏)の本家(宗家)の当主で

       あり、 得宗家 (とくそうけ、= 鎌倉北条

    氏・本家)の当主である。 

 

  ■ 広義の得宗と狭義の得宗。

       得宗 (とくそう、= 鎌倉北条氏・本

    家の当主とは、 広義では、北条時政

    (ほうじょうときまさ)を含め鎌倉北条氏

    本家(宗家)の当主・ 9代であり、 狭義

    では、北条時政を除く北条義時(ほうじ

    ょうよしとき)以後の鎌倉北条氏・本家

    (宗家)の当主・8代である。

 

  ● 鎌倉幕府で強権をもつ得宗 (とくそう、

    = 鎌倉北条氏・本家の当主は、 順に、 

    (1) 北条時政(ときまさ)、

    (2) 北条義時(よしとき)、 

    (3) 北条泰時(やすとき)、

    (4) 北条時氏(ときうじ)、

    (5) 北条経時(つねとき)、

    (6) 北条時頼(ときより)、

    (7) 北条時宗(ときむね)、

    (8) 北条貞時 (さだとき)、

    (9) 北条高時(たかとき) 、

    である。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 鎌倉幕府の執権(しっけん)

  ■ 鎌倉幕府の執権 (しっけん、= 将軍補佐職)

    とは、 鎌倉幕府の将軍を補佐する役職であ

    り、 鎌倉北条氏が執権を代々世襲する。

 

 ■  初代執権  北条 時政 (ほうじょう ときまさ)。

 ■  2代執権   北条 義時 (ほうじょう よしとき)  

                    北条得宗(とくそう、北条氏本

                    家・当主)。  法名 徳宗。

 ■  3代執権   北条 泰時 (ほうじょう やすとき) 

                    北条得宗(北条氏本家・当主)。

 ■  4代執権   北条 経時 (ほうじょう つねとき) 

                          北条得宗(北条氏本家・当主)。

 ■  5代執権   北条 時頼 (ほうじょう ときより)  

                    北条得宗(北条氏本家・当主)。

 ■  6代執権   北条 長時 (ほうじょう ながとき)。 

            ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 ■  7代執権   北条 政村 (ほうじょう まさむら)。

 ■  8代執権   北条 時宗 (ほうじょう ときむね)  

                    北条得宗(北条氏本家・当主)。

 ■  9代執権   北条 貞時 (ほうじょう さだとき)     

                    北条得宗(北条氏本家・当主)。

 ■ 10代執権   北条 師時 (ほうじょう もろとき)。 

 ■ 11代執権   北条 宗宣 (ほうじょう むねのり) 

                   (= 大仏(おさらぎ)宗宣)。

 ■ 12代執権   北条 熙時 (ほうじょう ひろとき)。 

 ■ 13代執権   北条 基時 (ほうじょう もととき)。

            ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 ■ 14代執権   北条 高時 (ほうじょう たかとき)  

                    北条得宗(北条氏本家・当主)。

 ■ 15代執権   北条 貞顕 (ほうじょう さだあき)  

                    (= 金沢貞顕)。

 ■ 16代執権   北条 守時 (ほうじょう もりとき)  

                    足利尊氏の正室夫人の兄。

 

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#keishoin

 

■ 桂昌院 

        (けいしょういん) (= お玉)。

 

■ 桂昌院。

■ 名称 : 桂昌院 (けいしょういん)。

● 別名 : お玉(おたま)、

        お玉の方(おたまのかた)。

   (注意) 前近代日本では、一夫多妻制、

   封建家父長制・夫婦別姓。 

   前近代日本では、日本女性は、父系一族名

   (名字)をもつが、通常、個人名のみで自他

   呼称。

■ 生没年 : 

  1627年(寛永元年)〜1705年 (宝永2年)。

■ 桂昌院(お玉の方)は、

   京(都)の二条家の家司(家政の職員)の武士

   の本庄(北小路)宗政 (ほんじょう むねまさ)

     の長女である。

■ 桂昌院(お玉の方)は、

   深く仏教に帰依し、自分の子の江戸幕府の第5

   代将軍徳川綱吉を通して、生類憐みの令(しょ

   うるいあわれみのれい、)を出させ、 日本人に

   慈悲の心(じひのこころ)を植え付け、弱者保護、

      人命尊重を推進し、日本人の性質を変革した 、

     偉大名女性である。

■ 桂昌院(お玉の方)は、

   江戸幕府の第3代将軍・徳川家光の 側室夫人

   であり、 江戸(徳川)幕府の5代将軍・徳川綱吉 

   (とくがわつなよし、将軍在任:1680年〜1709

   年) の生母である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 31838。

 

 

 □ 桂昌院(お玉)の宝塔 (増上寺・

    徳川家霊廟内)

 

 □ 桂昌院(お玉)が登場する、興味深

    い、ドキュメンタリー、ドラマ、映画

 

 

 ■ 桂昌院。

 

  ■ 桂昌院(お玉の方)は、

    深く仏教に帰依し、自分の子の江戸幕府の第5

    代将軍徳川綱吉を通して、生類憐みの令(しょ

    うるいあわれみのれい、1682年〜1709年)を

    出させ、 日本人に慈悲の心(じひのこころ)を

       植え付け、弱者保護、人命尊重を推進し、日本

      人の性質を変革した、偉大な女性である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 桂昌院。

 

  ■ 桂昌院 (けいしょういん、お玉の方(おたまの

   かた))は、

   江戸幕府の第3代将軍・徳川家光の 側室夫人

   であり、 江戸(徳川)幕府の5代将軍・徳川綱吉 

   (とくがわつなよし、将軍在任:1680年〜1709

   年) の生母である。 

 

  ■ 桂昌院 (けいしょういん)は、 別名は、お玉 

   の方(おたまのかた)といい、生没年は、1627年 

   (寛永元年)から1705年(宝永2年)までである。

 

  ■ 徳川綱吉は、 江戸幕府の第3代将軍徳川

   家光 と お玉の方(桂昌院) の間に生まれた

   男子である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 桂昌院。

 

  ■ お玉の方(桂昌院)は、

   京(都)の二条家の家司(家政の職員)の武士の

   本庄(北小路)宗政 (ほんじょう むねまさ)の長

     女である。 

 

  ■ お玉の方(桂昌院)は、 

   参議・六条有純の娘で公家出身の尼僧の永光

   院の侍女(じじょ)となる。

      その公家出身の尼僧・永光院が、 1939

   年(寛永16年)に、江戸幕府の第3代将軍・

   徳川家光に謁見した時、家光は、その尼僧を

   気に入り、 公家出身の尼僧・永光院を還俗

   (げんぞく)させ、 その尼僧・永光院は、大奥で

   は、お万の方(おまんのかた)と呼ばれ、 家光

   の側室夫人となり、大奥に入る。 それに伴い、

   お万の方の侍女だったお玉(桂昌院)も、部屋子

   として、お万の方に仕え、大奥に入り、働く。

      その後、お玉(桂昌院)は、 お福(おふく、

   春日局(かすがのつぼね)) の目に留まり、長じ

   て将軍付き御中臈(おちゅうろう)となり、徳川家

   光に見初(みそ)められて、家光の子を懐妊(か

   いにん)し、1646年(生保3年)1月に、徳川綱

   吉を産む。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 桂昌院。

 

  ■ お玉の方(桂昌院)は、 

   教育熱心で、 家光とお玉の間の男子の綱吉

   に学問を学ばせる。 

      次の4代将軍は、お楽(宝樹院)の子が継ぎ、

   将軍になる見込みはなかったが、諦(あきら)めず、 

   指導者としての素養を自分の子に身につけさせる。 

      その後、4代将軍は、跡継ぎを残さず、死

   去し、 綱吉は有力な将軍候補 で堀田正俊が徳

   川家光に血筋が近いと綱吉を将軍に推したため、 

   お玉(桂昌院)の男子・綱吉が、 5代将軍となり、

   徳川綱吉となる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 桂昌院。

 

  ■ お玉(桂昌院)は、 

   母親想いの5代将軍の徳川綱吉に生類憐み

   の令(しょうるいあ われみのれい、1682年〜

   1709年)を出させ、  人間をはじめ、生き物の

   殺生(せっしょう)を禁じ、 慈悲の心を持ち、

   人命尊重、生き物の生命尊重、生活困窮者、病

   人、孤児、行き倒れの旅人の世話など弱者保護

   の政策を強力に推進し、日本全国に行わせる。 

      この生類憐みの令により、これ以後、日本は、 

   武力を重んじ武力で相手を殺傷し物事を解決しよ

   うする「戦国の世」は終わりをつげ、 殺生(せっし

   ょう)を嫌い、人命尊重、弱者保護、人に親切にし、

   やさしい心を持つことが美徳とされる時代となる。

      また、江戸幕府は、仏教の寺院の再建・修復

   や、人命・生き物の生命尊重・弱者保護などの公

   共事業のために多額の出費を行い、経済が活性

   化され、華やかな元禄文化を出現させる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 桂昌院。

 

  ■ 徳川綱吉は、将軍になった後、綱吉の側室夫

   人のお伝の方(おでんのかた)との間の男子・

   徳松が1683年(天和3年)に5歳で早世し、

   徳川綱吉は 、世継ぎの男子がいなくなり、世継

   ぎの誕生を望み、 お玉(桂昌院)は、世継ぎの

   誕生を切望し、「功徳」(くどく)が足りないと考え、

   功徳を積むことが重要と思い、 日本全国の多

   くの仏教の寺院の再建・修復を行う。

      しかし、お玉(桂昌院)の「功徳」(くどく)の

   甲斐もなく、結局、お伝の方の男子が早世後、

   徳川綱吉正室・側室夫人に、徳川綱吉の世継

   ぎの男子は生まれず、 お玉(桂昌院)は、綱吉

   の跡継ぎの顔を見ることなく、1705年(宝永2

   年)6月に、失意のうちにこの世を去る。 その後、

   徳川綱吉も、1709年(宝永6年)1月に、世継ぎ

   の男子を得ることなく、この世を去る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 桂昌院。

 

  ■ 桂昌院(お玉の方)は、

   江戸幕府の第3代将軍・徳川家光が好みそうで、

   丈夫(じょうぶ)な子が産めそうな女性と見込み、

   お福(おふく、春日局(かすがのつぼね ))がスカ

   ウトした、3人の娘(お楽、お夏、お玉) の一人

   である。 

 

  ■ 桂昌院(お玉の方)は、

   1646年(生保3年)1月に、 江戸幕府の第3代

   将軍・徳川家光との間に、 徳川綱吉を産む。 

 

  ■ 徳川家光の側室夫人の、3人の町娘 (お楽、

   お夏、お玉) 

 

  ● お楽(おらく、宝樹院)は、 4代将軍・徳川家綱

   (いえつな)の母となり、 お夏(おなつ、順性院) は、

   6代将軍・徳川家宣(いえのぶ)の祖母となり、 お

   玉(おたま、桂昌院)は、 5代将軍・徳川綱吉(つ

   なよし)の母となる。

 

  ● お玉(桂昌院)は、 

   江戸幕府の第3代将軍・徳川家光の、丈夫な子供

   を生んでもらうため、 家光の乳母(うば)のお福

   (春日局) がスカウトした、 3人の娘(お楽、お夏、

   お玉) の一人であり、 江戸城の大奥に入り、

   家光に見初(みそ)められ、 家光の男子を産む。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 桂昌院。

 

  ■ 徳川 綱吉の失策により、赤穂事件が起こる。

  ● 江戸幕府第5代将軍の、徳川 綱吉(とくがわ

   つなよし)は、 身分が低かった生母の桂昌院

   (けいしょういん)に、高位を得させるため、

   1701年(元禄14年)3月に、朝廷の使者(勅

   使(ちょくし))を江戸城に迎える。 

     そのときの朝廷の使者(勅使)の接待役が、 

   赤穂藩主(あこうはんしゅ)の浅野内匠頭長矩

   (あさのたくみのかみながのり)、1665〜170

   1年) であり、 その接待役を監督指導したの

   が、 高家筆頭 (こうけひっとう、江戸幕府の

   儀式指導係筆頭) の吉良上野介義央)(きらこ

   うずけのすけよしひさ(よしなか))であった。

     ところが、 1701年(元禄14年)3月14日

   に、 江戸城内の松之廊下(まつのろうか)で、 

   浅野内匠頭(長矩)が、遺恨(いこん)で、吉良

   上野介義央を斬りつけ、 勅使接待を台無しに 

   され、綱吉の母の桂昌院が高位を得るチャンス

   が延びてしまい、 神経質な徳川綱吉は、激怒

   して、 喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)を

   無視し、 詳しく調べもせず、 吉良上野介は

   お咎(とが)めなしとし(罪なしとし)、 一方的に、

   浅野内匠頭(長矩)に即日切腹を言い渡し、 

   失策を行ってしまった。 

      これが、後に、1702年(元禄15年)12月

   の赤穂浪士の吉良邸討ち入りを招いてしまう。

      徳川 綱吉は、人間同士での殺し合い、武

   器をとり喧嘩・殺傷をする、殺伐(さつばつ)とし

   た弱肉強食の戦国時代の風潮を終わらせたい

   と願っていたため、 将軍の命令に従わず敵討

   ち(かたきうち)をした赤穂浪士を許せなかった

   が、 自分の失策から招いた事件でもあり、 主

   君に忠義をつくした赤穂浪士を斬首 (ざんしゅ、

   罪人として首を切ること) にするわけにもいかず、 

   徳川 綱吉は、悩み、結局、1703年(元禄16年)

   2月に、赤穂浪士に、名誉ある死である切腹をさ

   せ、事を収める。

   ● TKKI カナヤマ著 日本歴史の驚異の出

      来事。

 

 

 

#keishoin-appearingscenes

 

♪♪ 桂昌院(お玉の方)が登場する、

    興味深い、ドキュメンタリー、ドラ

    マ、映画

 

 ★ 桂昌院(お玉の方)が登場する、興

    味深いドキュメンタリー。 

 

 ■ 歴史秘話ヒスとリア 

  『 大奥 シンデレラ・ストーリー〜 

    将軍の母・桂昌院元祖「玉の輿」

    物語〜 』。 

      (NHKテレビ・2012年(H24)2月8日・

      本放送のテレビ・歴史ドキュメンタリー

      番組)。

  ● 江戸幕府5代将軍・徳川綱吉とその生母・

   桂昌院(お玉)が登場する。

 

 

 ★ 桂昌院(お玉の方)が登場する、興

    味深い関連ドラマ、映画。 

 

   ● (注意) ドラマ、映画は、フィクションです。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事が、 混じって、描かれてい

   ます。 また、現代風にアレンジしてあります。

 

 ■ 『 大奥・華の乱 (おおおく はなのら

       ん) 』。 

     (フジテレビ・2005年制作テレビドラマ)。

 

  ■ 4代将軍家綱、5代将軍綱吉 時代 と 

   その時代の大奥 を描いたドラマ。

 

  ■ 内山理名、藤原紀香、小池栄子、高岡早紀、

   中山忍 など美人女優が出演。

 

  ■ 5代将軍の生母である、晩年のお玉(桂昌院)

   が登場する。

 

  ● 桂昌院(お玉)を演じた俳優名 : 江波杏子。

 

 

 ■ 『 忠臣蔵 瑤泉院の陰謀 

       (ちゅうしんぐら ようぜいいん

       のいんぼう) 』。 

     (テレビ東京の2007年制作テレビドラマ)。 

 

  ■ 5代将軍・綱吉の生母である、晩年のお玉

    (桂昌院)が登場する。

 

 

 ■ 『 大奥・第一章

     (おおおく だいいっしょう) 』。 

     (フジテレビ・2004・2005年

      製作テレビドラマ)。

  ■ 初代将軍・徳川家康、2代将軍・徳川秀忠、

   3代将軍・徳川家光の時代  と その時代の

   大奥を描いたドラマ。  

  ■ 家光側室夫人の若き日のお玉(桂昌院)

   登場する。

 

  ● お玉(桂昌院)を演じた女優名 : 星野 真里。

  ● 松下由樹、 高島礼子、 瀬戸朝香 などが

    出演。

 

 

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#gekkoin

 

■ 月光院。  

     (げっこういん) (お喜世)。

 

■ 月光院。

■ 名称 : 月光院 (げっこういん)。

■ 生没年 : 1685年〜1752年。

■ 別名 : お喜世の方 (おきよのかた)。

 「月光院」の名称 は、落飾後(出家後)の

   1712年より称す。

   (注意) 前近代日本では、一夫多妻制、 

   封建家父長制・夫婦別姓である。 

■ 美人。

■ 町娘。 元加賀藩士で浅草唯念寺の住職・

   勝田玄哲の娘。

■ 江戸幕府の6代将軍・徳川家宣(いえのぶ、

   将軍就任 1709−12年、生没年 1662−17

   12年)の側室夫人。

■ 江戸(徳川)幕府の7代将軍・徳川家継(いえ

    つぐ)の生母。 

■ 徳川吉宗、 天英院 (熙子(ひろこ)、徳川

  家宣正室・夫人)、 絵島、 絵島生島事件 に

  関しては、  当日本史辞典の 『 徳川吉宗 

  (とくがわよしむね)、 天英院 (てんえいいん)、 

  絵島 (えじま)、 絵島生島事件 (えじま いく

  しまじけん) 』 の項目を参照して下さい。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 □ 月光院(お喜世)の宝塔 (増上

    寺・徳川家霊廟内)

 

 □ 月光院(お喜世)が登場する、

    興味深いドキュメンタリー、ドラ

    マ、映画

 

 

 ■ お喜世(月光院)。

 

  ■ お喜世 (月光院)は、 江戸幕府の6代将

   軍・徳川家宣 ( とくがわいえのぶ、将軍就任、

   1709−12年、生没年 1662−1712年)

   側室夫人であった。

 

  ■ お喜世 (おきよ、月光院)は、 江戸幕府の

   7代将軍・徳川家継(とくがわいえつぐ)の生母

   であった。 

 

 

 ■ お喜世(月光院)。

 

  ■ お喜世の方 (おきよのかた、生没年1685

   年〜1752年)は、 落飾後(出家後)、1712

   年より、月光院 (げっこういん)と称する。

 

  ■ 月光院(お喜世)は、 美人で、町娘であった。

   月光院(お喜世)は、元加賀藩士で浅草唯念寺

   の住職・勝田玄哲の娘であった。

 

  ■ 6代将軍家宣(いえのぶ)の側室夫人の、

   お喜世(月光院) は、世継ぎの男子を生み、 

   その子が、幼少で7代将軍、徳川家継(いえ

   つぐ)となる。 

 

 

 ■ お喜世(月光院)。

■ 徳川家継(いえつぐ) は、 第6代将軍徳川家

 宣(いえのぶ) とお喜世 (月光院) の間に生ま

 れた男子 である。

● 徳川家継(いえつぐ) は、幼少(5歳頃)で、将

 軍となり、 病弱であった。

  間部詮房(まなべあきふさ、側用人(そばように

 ん))と新井白石(あらいくせい、学者) が、 幼少

 将軍を補佐して、幕府の政治を行った。

 

 

■ 家宣の正室・夫人の熙子(ひろこ、天英院)は、 

 家宣(いえのぶ)との間に、 男子をもけたが、そ

 の男子は早世した。 一方、 家宣の側室夫人の

 お喜世(おきよ、月光院)が、男子をもうけ、育ち、 

 お喜代(月光院)の男子が、 幼少で、 7代将軍

 ・徳川家継(いえつぐ) となった。

 

■ 1713年に、 徳川 家継 (いえつぐ、将軍在

 任1713〜16、生没年1709〜16年)が、 江

 戸幕府・第7代将軍となる。 家継将軍時代の、

 1713〜14年に、 家継生母の月光院(お喜世) 

 が、大奥の最高権力者となった。

   そして、1713〜14年に、 月光院付御年寄

 (おとしより)の絵島(えじま)が、 大奥の実務の

 実権をに握った。

 

 

■ お喜世(月光院)。

 

■ 幼年の7代将軍家継 (いえつぐ、在任 1713

 〜16年)の時代に、家継生母の月光院(お喜世) 

 が、 初めは、1713〜14年 に、江戸城本丸の

 大奥で、大きな権力をもったが、 1714年の

 島生島(えじまいくしま)事件後、光院(お喜世) 

 は、面目を失い、大奥で、権力を低下させ、 6代

 将軍・家宣(いえのぶ)の正室 夫人・天英院(てん

 えいいん)が、 前の6代将軍家宣時代(1709〜

 12年)と同様に、 1714〜16年に、大奥で、権

 力をもりかえした。  

 

● 月光院(お喜世)の生んだ家継(いえつぐ)が、

 幼少(5歳頃)で、7代将軍となり、 幼少将軍の

 補佐役に、側用人(そばようにん)の間部詮房(ま

 なべあきふさ) と 学者の新井白石(あらいはく

 せき)が付き、 政治を行った。 

 

 

■ 月光院 (お喜世) の禁断の愛。  

■ 1713年に、 6代将軍徳川家宣(いえのぶ)

 の側室夫人で7代将軍・徳川家継 (いえつぐ)の

 生母の月光院 と その側近の絵島(えじま)を

 始めとする月光院側の奥女中(女官) は、江戸

 城本丸の大奥で は、 6代将軍徳川家宣の正室

 夫人の天英院と天英院側の大奥の奥女中(女

 官)に代わって、 「大奥の実権」を 握った。 

   しかし、その後(1713年以後)、大奥の風紀

 は、乱れていった。

 

■ 月光院(お喜世)の夫、6代将軍・徳川家宣(い

 えのぶ)が死去し(1712年)、 月光院(お喜世)

 の子、徳川家継(いえつぐ)が将軍になった後

 (1713年以後)、 江戸城本丸で、本丸の大奥

 トップとなった、現将軍家継・生母の月光院(お

 喜世)は、 幕閣(ばっかく、幕府の重臣)の側用

 人(そばようにん)、間部 詮房(まなべ あきふさ)

 を、たびたび、将軍以外男子禁制の大奥に招き

 れ、一緒に過ごしていたと言われてる。

● 『 月光院様は大奥の掟をやぶって、幕臣の

 1人を毎晩のように自室に招いては、仲むつまじ

 く時を過ごすようになった 』 (「三王外記」の記

 述より)。

 

■ お喜世(月光院) と 間部詮房 との仲。

    お喜世(月光院、町娘出身) と 間部詮房

 (まなべあきふさ、能役者出身、1667〜1720

 年)は、 次期将軍世継ぎの争い(1709〜10

 年)をめぐり、 関係を深めていった。 

   お喜世(月光院)と間部詮房は、 甲斐甲府

 藩桜田御殿や江戸城西の丸の時期(1704〜

 1709年)からの知り合いで、 元々身分の低い

 者同士で助け合い、 1709〜10年に、お喜世

 (月光院)は、自分の子・家宣四男・鍋松(家継)

 を次期将軍世継ぎにと望み、 家宣(綱豊)の腹

 心の部下の間部詮房(まなべあきふさ)を通じて

 働きかけ、鍋松(家継)を世継にと薦(すす)めた。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 月光院(お喜世)の夫の徳川家宣の将軍就任

  前の甲斐甲府藩時代 (1704年)。 

    町娘のお喜世 (おきよ、後の月光院)は、

  1704年(宝永元年)に、 甲府藩の桜田御殿

  (さくらだごてん)に出仕し、 1704年に、桜田

  御殿で、 美人のお喜世は、  甲斐甲府藩主・

  徳川綱豊(つなとよ、甲府藩主1678〜1704

  年、後の徳川家宣)から寵(ちょうあい)をうけ、 

  甲府藩主・綱豊(家宣)の側室夫人となった。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 月光院(お喜世)の夫の徳川家宣の将軍就任

 前の江戸城西の丸時代 (1704〜1709年)。 

   1704年12月に、お喜世 (月光院)の夫の徳

 川綱豊(家宣)が、 6代将軍継嗣(けいし)となり、 

 お喜世(月光院)は、綱豊(つなとよ、家宣)と同行

 して、江戸城・西の丸に入った。 

 

■ 月光院(お喜世)の夫の徳川家宣の将軍就任

 後の江戸城本丸の大奥時代 (1709年〜)。 

   1709年5月に、夫の徳川綱豊(家宣)が、江

 戸幕府将軍(1709〜12年)に就任により、お喜

 世(月光院)は、江戸城・本丸の大奥に入る。

   1709年7月に、お喜世(月光院)は家宣(綱

 豊)の四男・鍋松(後の徳川家継)を出産する。

 既に、家宣(綱豊)の側室夫人のお須免が産ん

 家宣の三男・大五郎が次期将軍候補となって

 いたが、 お喜世(月光院)は、鍋松(家継)を次

 期将軍世継ぎにと望み、 家宣(綱豊)の腹心の

 部下の間部詮房(まなべあきふさ)を通じて働き

 かけ、鍋松(家継)を世継にと薦(すす)めてい

 た。 1710年(宝永7年)に、お須免の子・大五

 郎が3歳で急死し、 お喜世(月光院)の子・鍋松

 (後の徳川家継)が次期将軍候補となった。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 月光院(お喜世)の子の、江戸幕府の幼少の

  7代将軍・徳川家継(いえつぐ)の死後、 徳川

  吉宗が、 江戸幕府の8代将軍に就任した。

■ 徳川吉宗が8代将軍就任後、 美麗で31歳の

  若さの月光院は、 かって吉宗の政敵ではあった

  が吉宗に近づき、 吉宗と情を交わす仲となった 

  (「続三王外記」より)。

■ 月光院(お喜世)の美貌は衰えず、 月光院(お喜

  世)は、出家してはいたが、 権勢を取り戻すため、

  吉宗に近づき、 逢引(あいびき)し親密となり、

  宗の恋人 となる。

 

 

#gekkoin-appearingscenes

 

♪♪ 月光院(お喜世)が登場する、面

 白く、興味深い ドキュメンタリー、ドラ

 マ、映画。 

 

★ 月光院(お喜世)が登場する、面白

 く、興味深いドキュメンタリー。 

 

■ その時歴史が動いた 『 大奥 悲

  しみの果てに〜徳川家宣正室 天英

  院 熙子の生涯〜 』 

   (日本のNHK2006年(H18)4月 ・本放送

   のドキュメンタリー番組)。

 

★ 月光院(お喜世)が登場する、 興味

     深い関連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画 は、フィクションです。 

 歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実)  

 と架空の出来事 が、 混じって、描かれていま

 す。 また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 大奥 』 

   (日本の2006年製作東映・映画)。

● 7代将軍家継時代 と その時代の大奥 を

   描いた映画。

● 月光院(お喜世)を演じた女優 : 井川遥。

● 仲間由紀恵、高島礼子、井川遥、浅野ゆう子 

  出演。

 

■ 『 大奥・もうひとつの物語 』 

   (日本の2006年制作フジテレビ・テレビド

   ラマ)。

● 6代将軍家宣時代 と その時代の大奥 を

  描いたドラマ。

● 深田恭子、高島礼子、井川遥、浅野ゆう子 

  出演。

 

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 『 あなたのハートには 

    何が残りましたか? 』

 

 

 

以  上。