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◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY 

   HANDBOOK

 

 

 カナヤマ 日本歴史辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 た 』。

 

#jpmenu     

メ ニュー (目次)。

 ■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

 □ 日本史辞典 (総合)

 

□      ● 五十音順 (あいうえお順)。

 

 □ 見出し語 たいせ

 □ 見出し語 たか

 □ 見出し語 たな

 □ 見出し語 たら

 

 

〇 だい   第1次上田合戦。 

             (たいいちじうえだがっせん)。 《戦い》。

             THE 1ST UEDA BATTLE.

          ● 真田氏(方)と徳川氏(方)と

          の戦 

             (⇒ 真田氏)。

             ■ 第1次上田合戦 (たいい ちじうえだが

             っせん) とは、 1585年(天正13年)に、 

             信濃国 (しなののくに、現・長野県相当地

             域)・小県郡(ちいさがたぐん)の上田地域

             で、 真田氏(方)と徳川氏(方)との間で戦

             われた、戦争である。

 

〇 たい   太陰太陽暦 

             (たいいんたいようれき)。 《暦》。

          (= 太陽太陰暦)。

          (太陰暦)。

             THE LUNISOLAR CALENDAR.

          (⇒ 陰太陽暦 天文学辞典)。

          (⇒ 太陰暦純粋太陰暦)。

             ○ 太陰暦の1つ。

          ○ 純粋太陰暦を補正した暦。

          ○ 日本の旧暦(きゅうれき) 

          ○ 日本では、太陰太陽暦を紀元

          (後)690年頃から1872年(明治

          5年)まで、使用した。

             ■ 太陰太陽暦 (たいいんたいようれき

             英:THE LUNISOLAR CALENDAR

             は、 別名は太陽太陰暦であり、 太陰暦

             の1つであり、 純粋太陰暦を補正した暦で

             あり、 日本の旧暦(きゅうれき) であり、日

             本では、太陰太陽暦を紀元(後)690年頃

             から1872年(明治5年)まで、使用された。

             ● 太陰暦(=陰暦)には、 純粋太陰暦  

                         と、 太陰太陽暦 がある。

             ● 太陰太陽暦は、 太陰暦の1つで、純

             粋太陰暦を補正した暦である。

              太陰暦の、太陰太陽暦は、純粋太陰

             暦を基にして、 閏月(うるうづき)を挿入し

             て、 暦と実際の季節とのずれを補正した

             暦 である。

              太陰暦の、太陰太陽暦は、純粋太陰

             暦を基にして、 閏月(うるうづき)を挿入し

             て、 暦と実際の季節とのずれを補正した

             暦 である。

              太陰太陽暦 は、

             19年に7回 (メトン周期、約2、3年に

             1回(度))、  閏月(うるうづき)1ヶ月を

             加えて、年13か月にする暦である。

              太陰太陽暦は、 日本の旧暦(きゅう

             れき)(= 前近代日本の暦) である。

               日本では、 太陰太陽暦を(紀元後)

             690年頃から1872年(明治5年)まで、

             使用した。             

              純粋太陰暦は、 朔望月(さくぼうげつ、

             月の満ち欠けの1周期)に基づいた暦であ

             る。 

                「純粋太陰暦の暦」 (1年約354日、

             1ヶ月約29.5日X12ヶ月) と、 「実際の

             季節」 (1年=365.2422日(実際の1太

             陽年)) とは、 1年で約11日ずれる。

              太陰太陽暦は、 純粋太陰暦に、19年

             に7回、約2、3年に1回(度)、閏月(うるう

              づき)1ヶ月(29日または30日)を加えて

             (挿入して)、年13か月にして、 「純粋太

             陰暦の暦」 と 「実際の季節」 とのずれ

             を調整した、太陰暦 である。

              日本では、 太陰太陽暦を、(紀元後)

             690年頃から1872年(明治5年)まで、使

             用した。

 

〇 たい  太陰暦。

             (たいいんれき)。 《暦》。

             (= 陰暦、旧暦)。

             THE LUNAR CALENDAR.

          ○ 太陰暦(=陰暦) :

          月の満ち欠けの周期(1朔望月)を

          基にしてつくった暦。

          ○ 前近代日本の太陰暦(= 陰暦)

          は、 旧暦の、太陰暦の太陰太陽 

                    である。 

          ○ 前近代日本では、旧暦の、太

          陰暦(=陰暦)の太陰太陽暦が、

          使われた。

          ○ 太陰暦(= 陰暦)には、 純粋

                     太陰暦 と 太陰太陽暦 がある。

             ○ 前近代日本では、 旧暦の、

          太陰暦(=陰暦)の太陰太陽暦を、

          紀元(後)690年頃から1872(明

          治5年)年まで使用し、 近代・現

          代日本では、新暦(現行西暦)の、

          太陽暦のグレゴリオ暦を、1873

          年(明治6年)から現在まで、使用

          している。

        (⇒ 太陰暦 天文学辞典)。

        (⇒ 太陰太陽暦 日本史辞典)。

          (⇒ (こよみ)陰太陽暦純粋

                 太陰暦 天文学辞典)。

             ■ 太陰暦は、月の動きで計算された暦

             であり、 太陰暦(=陰暦)には、 太陰太

              陽暦 (英:THE LUNISOLAR CAL-

             ENDAR) と 純粋太陰暦 (英:THE 

                          PURELY LUNAR CALENDAR) 

             がある。 

               太陰暦の太陰太陽暦では、暦と実際

             の季節とのずれを調整するため、2,3年

             に一度、1年を13カ月とする年があり、そ

                           の年は閏月(うるうづき)・1カ月を追加す

             る。

                        ■ 太陰暦 (たいいんれき、陰暦、英:THE 

             LUNAR CALENDAR) とは、 月の満

              ち欠けの周期(1朔望月)を基にしてつくっ

             た暦である。 

               暦には、 月の運動(運行)に基づく

             「太陰暦 (=陰暦)」 と、 太陽の運動(運

             行)に基づく「太陽暦(=陽暦)」 がある。  

               日本では、 旧暦の、太陰暦 (=陰暦)の

             太陰太陽暦を、紀元(後)690年頃から18

             72(明治5年)年まで使用し、 新暦(現

             行西暦)の、太陽暦のグレゴリオ暦を、 18

             73年(明治6年)から現在まで、使用してい

             る。

              暦には、 旧暦  と、 新暦 がある。 

             ■ 日本では、 旧暦は、太陰暦(=陰暦)

             太陰太陽暦であり前近代日本(古代ー江

             戸時代)で使用され、 新暦は、太陽暦

             (=陽暦)のグレゴリオ暦 であり、近代・現代

             日本(明治時代ー現代)で使用されている。 

                ■ 太陰暦(=陰暦)には、 純粋太 陰暦 と

                         太陰太陽暦 がある。

              前近代日本では、 旧暦の、太陰暦

             (=陰暦)の太陰太陽暦を、紀元(後)690

             年頃から1872(明治5年)年まで使用し、 

             近代・現代日本では、新暦(現行西暦)の、

             太陽暦のグレゴリオ暦を、1873年(明治

             6年)から現在まで、使用している。

                 ● 前近代日本 の太陰暦(=陰暦)は、太

             陰暦の、太陰太陽暦である。

              ● 前近代日本では、 旧暦の、太陰暦

             (=陰暦)の太陰太陽暦が、使われた。

             ● 日本では、 旧暦、太陰暦(=陰暦 )の

             太陰太陽暦を、紀元(後)690年頃から

             1872年(明治5年)まで、使用した。

                 ● 日本 の旧暦は、 太陰暦(=陰暦)の、

             太陰太陽暦であり、 日本の新暦は、 太

             陽暦(=陽暦)の、グレゴリオ暦 である。 

              純粋太陰暦は、 朔望月(さくぼうげつ、

             月の満ち欠けの1周期)に基づいた暦であ

             る。 

                「純粋太陰暦の暦」 (1年約354日、

             1ヶ月約29.5日X12ヶ月) と、 「実際の

             季節」 (1年=365.2422日(実際の1太

             陽年)) とは、 1年で約11日ずれる。

             ■ 太陰太陽暦は、 太陰暦の1つで、純

             粋太陰暦を補正した暦である。

              太陰太陽暦は、 純粋太陰暦に、19

             年に7回 (約2、3年に1回(度))、閏月

             (うるうづき)1ヶ月(29日または30日)を

             追加して(挿入して 、加えて)、年13か月

             にして、 「純粋太陰暦の暦」 と 「実際

             の季節」(実際の地球の太陽周回日) と

             のずれを調整した、太陰暦である。

 

〇 だい  大永。 

             (だいえい)。   《和暦》。

                THE DAIEI ERA.

             ○ (1521〜 1528年)。

             ● 1521年・大永元年・8月23日〜

                1528年・大永 8年・8月20日。

             ● 室町時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇 だい  大王。

          (だいおう、おおきみ)。 《天皇》。

          (= 天皇)。

                            DAIO.  

       (⇒ 天皇)。  

 

〇 たい  大化。 

             (たいか)。  《和暦》。

                   THE TAIKA ERA.

             ○ (645〜650年)。

              ● 645年・大化元年・6月19日〜

                650年・大化 6年・2月15日。  

              ● 飛鳥白鳳時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇 だい  大覚寺統 

             (だいかくじとう)。  《皇統》。

           (= 亀山天皇の皇統)。

          (1259年−1392年)。

             THE DAIKAKUJITO LINEAGE.

          (⇒ 皇統の分立両統迭立

                持明院統)。

          ○ 後嵯峨天皇の皇子・「亀山天

           皇」から後亀山天皇までの皇統

          ○ 1259年−1392年、大覚寺

          統と持明院統の皇統の分立。

              ■ 大覚寺統 (だいかくじとう) とは、恒

              仁(つねひと)親王である、亀山(かめやま)

              天皇 (天皇在位:1259−1274年) の

              皇統である。

              ● 大覚寺統は、 後嵯峨(ごさが) 天皇

              (天皇在位:1242−46年)の皇子・「亀山

                             (かめやま)天皇」から後亀山(ごか めやま)

              天皇までの皇統 である。

              ● 朝廷では、 1259年(強引天皇譲位)

               から1392年(南北朝の合体)まで、持明

                        院統 (じみょういんとう) と、 大覚寺統

             (だいかくじとう) の皇統の分立が続いた。

             ● 皇統分立の起こり。

                1246年に、 後嵯峨天皇 (天皇在

                            位:1242−46年、生没年:1220−72

             年)が、 皇子(次男)の久仁(ひさひと)親

             王に天皇の位を譲り、 久仁(ひさひと)親

             王は、後深草(ごふかくさ)天皇)  (天皇

             在位:1246−59年) となり、 後嵯峨天

             皇は、後嵯峨上皇となった。

                しかし、1259年に、 後嵯峨上皇は、

             皇子(次男)の、後深草天皇を強引に退位

             させ、 他の皇子(三男)の恒仁(つねひと)

             親王を天皇にし、亀山(かめやま) 天皇(天

             皇在位:1259−74年) が誕生した。 

             その後、亀山(かめやま) 天皇は、次の天

             皇を自分の子 (後宇多(ごうだ)天皇(天

             皇在位:1274−88年) としたため (立

             太子としたため)、 退位した後深草天皇

             は、自分の子の皇位継承ができず、非常

             に不満をもち、鎌倉幕府に仲裁を依頼し、

             1288年に、後深草天皇の子(伏見 (ふし

             み)天皇)天皇に即位することが実現し

             た。 こうして、その後は、鎌倉時代の間、

             鎌倉幕府の介入・仲裁による、両統迭立 

             (りょうとうてつりつ、両統の皇子が交互に

             天皇になる方式) となった。

 

〇 たい  大化の改新

             (たいかのかいしん)。 《政治改革》。

                 (= 大化改新)。

          (645〜654年)。

              THE TAIKA REFORM.

 

〇 だい  大恐慌。

              (だいきょうこう)。  《恐慌》。

          (⇒ 恐慌世界恐慌)。

             ■ 大恐慌は、 非常に大規模な恐慌であり、

             世界恐慌(1929年−1933年)などのよう

             な恐慌である。

 

〇 たい  太原雪斎

             (たいげんせっさい)。 《人名》。

          (= 太原崇孚( たいげんすうふ)

               雪斎(せっさい))。

                     (1496年ー1555年)。

             TAIGEN SESSAI.

           (⇒ 今川義元寿桂尼

             徳川家康

          ○ 室町時代後期(戦国時代)の、

           学識のある禅僧。 

          ○ 今川義元の政治顧問、軍師。  

          ○ 今川義元の教育係。

          ○ 松平元康(= 徳川家康)の教

           育係という説もある。 

              ■ 太原雪斎(たいげんせっさい)とは、 太

                        原崇孚(たいげんすうふ)、 雪斎(せっさい) 

              とも称する。

              ■ 太原雪斎 (たいげんせっさい、生没年:

              1496年ー1555年)は、 室町 時代後期

              (戦国時代)の、学識のある禅僧であり、

              臨済宗(りんざいしゅう)の僧で、駿河・臨済

              寺の住持(じゅうじ)であった。

              ● 太原雪斎は、 駿河・今川氏の家臣・庵

              原(いはら)氏の出身で、 今川義元の政治

              顧問、軍師として活躍した。  

              ● 太原雪斎は、 今川義元の教育係であっ

              た。

              ■ 太原雪斎は、 松平元康(まつだいらもと

              やす、= 徳川家康、1542年−1616年)の

              教育係という説もある。 

                 太原雪斎は、 徳川家康の今川氏人質

              時代(1549年ー1560年)に、青少年期の

              徳川家康の人格を形成した人物と言われて

              いる。

 

〇 たい   太閤。

              (たいこう)。 《身分・地位》。

           (= 前関白)。

                      (= 豊臣秀吉)。

           (⇒ 豊臣秀吉)。

              ■ 太閤 (たいこう) とは、 朝廷の関白職

              を退いた者であり、 前関白であり、 前関

              白の尊称である。

              ● 厳密に言うと、 太閤 とは、 中世・近

              世日本では、 関白経験者の中で、 朝廷

              の関白職に就任し子に関白職を譲り関白

              職を退いた者 や、 朝廷の関白職に就任

              し関白職を退き内覧に就任した者 をいう。

              ■ 豊臣秀吉は、 1585年(天正13年)に、

              朝廷の関白職に就任し、その後、1591年

              (天正19年)に、養子で甥の豊臣秀次(ひ

              でつぐ)に関白職を譲り、関白職を退いた

              ので、前関白となり、その後、太閤 と呼ば

              れた(称された)。

 

○ たい  太閤蔵入地。

             (たいこうくらいれち)。 《豊臣政権》。

          (= 豊臣氏直轄領)。

           (⇒ 豊臣政権)。

          ○ 豊臣政権時代にあった、豊臣

          氏直轄領の1つ。

              ■ 太閤蔵入地 (たいこうくらいれち)とは、

              豊臣氏直轄領であり、 豊臣政権時代にあ

              った、豊臣家直轄領の1つである。

 

○ たい  太皇太后。

                            (たいこうたいごう) 。 《天皇家》。

                    (= 天皇の祖母) 。

        (⇒ 天皇家

             ■ 太皇太后(たいこうたいごう)  とは、

             天皇の祖母である。

 

○ たい  待賢門院。

             (たいけんもんいん)。 《人名》。

          (= 藤原 璋子 (ふじわらの しょうし、

                     ふじわらのたまこ)、待賢門院璋子)。

          (⇒ 藤原 璋子)。

          ○ 鳥羽上皇の正室夫人(中宮)。

          ○ 崇徳上皇、後白河上皇の生母。

             ■ 待賢門院 (たいけんもんいん) は、 藤原

             璋子 (ふじわらの しょうし 、ふじわらのたまこ)、

             待賢門院璋子 とも称する。

             ■ 待賢門院(藤原璋子)は、 鳥羽上皇の正

             室夫人(中宮)であり、 崇徳上皇 (顕仁(あき

             ひと)親王)、後白河上皇(雅仁(まさひと) 親

             王)の生母である。

 

〇 だい   大極殿

             (だいごくでん)。 《宮城》。

           ○ 都城・京>

           宮城(= 皇城、皇居)>

           内裏、大極殿、 朝堂院

           曹司。

            (⇒ 平安京(京都)の宮城

           (大内裏))。

            (⇒ 平安京(京都)の内裏(だ

             いり)内の紫宸殿(ししんでん))。

           □ 日本古都ガイドブック

           □ 日本古都 関連年代順

                        出来事ブック。  

            □ 平城京 画像アルバム 

             No.1

          □ 平安京 画像アルバム

             No.1 

            (⇒ 天皇天皇家朝廷 

              (⇒ 古都(こと)首都

                           (みやこ))。

              (⇒ 都城(とじょう)(きょう))。

              (⇒ 都城宮城(きゅう

             じょう)内裏(だいり))。

              (⇒ 都城飛鳥京

             藤原京平城京

                  長岡京平安京)。

              (⇒ 都城内の

                      宮城(= 皇城、皇居)

             飛鳥京と 飛鳥諸宮

           藤原京と藤原宮

                平城京平城宮

           長岡京長岡宮

            平安京平安宮大内裏

           (だいだいり))。

            (⇒ 都城内の、

                       宮城(= 皇城、皇居)内の、

            内裏(だいり)

               大極殿(だいごくでん)

            朝堂院(ちょうどういん)、

            曹司(ぞうし))。

 

          ■ 大極殿。 

             ■ 大極殿 (だいごくでん)は、

             古代 日本の時代において、宮城 

             きゅうじょう、= 皇城、皇居) の

             中にある、天皇の公的行事(国家

             的儀式)を行う正殿である。 

 

          ■ 大極殿。 

             ■ 大極殿 (だいごくでん)は、

             国家儀式等を行う建物である。 

               大極殿は、 藤原京、平城京、

             長岡京、平安京などで、大極殿が

             ある。  各地で、大極殿の跡地

             が残っている。

             

          ■ 大極殿の復元。 

             ■ 奈良市では、平城京(奈良の

             都)の跡地に、大極殿が忠実に

             復元されている。 

              京都市では、平安神宮に、平安

             京の大極殿が復元されている。 

                 平安神宮の大極殿は1階のみ

             であるが、最近の研究で、平安京の

             大極殿は、2階建てであることがわか

             った。

 

          ■ 平安京の大極殿。 

                   ■ 平安京 (へいあんきょう、=

             京都、京の都(きょうのみやこ))  

             の大極殿(だいごくでん)は、 

             平安宮(へいあんきゅう、= 大内

             裏(だいだいり))内にあった、

             国家儀式等を行う建物であり、

             現在の京都市の千本丸田町の

             交差点付近にあった。

             ■ 平安宮内にある、大極殿は、 

             平安時代末期の1177年(治承元

             年)の火災以降、再建されず、

             その後、天皇の公的行事(国家的

             儀式)は、内裏(だいり)の紫宸殿

             (ししんでん)に移った。

 

             ■ 大極殿。

             ■ 大極殿(だいごくでん)は、 

             古代日 本の時代において、藤原宮

             より、宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居) 内に設置された施設であ

             り、 宮城内で、天皇の公的行事

             (国家的儀式)を行う場として利用

             された。 

               当初、大極殿は、朝堂院とは

             別に形成されていたが、平安宮か

             ら、南面の回廊が撤去され、大極

             殿は、朝堂院の正殿となる。

 

             ■ 朝堂院。

             ■ 朝堂院(ちょうどういん)とは、

             古代日本の時代において、藤原宮

             より、宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居) 内に設置された施設あり、

             宮城内で、天皇の臣下の官人が控

             える場(着座・列立する場)として利

             用された施設である。

 

          ■ 宮城(= 皇城、皇居)。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

             ■ 宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居)は、  古代日本の時代に、

             藤原宮、平城宮、長岡宮、平安宮

             では、 

             天皇の住居(御殿)である

             内裏の内廷 

             と、 

             その周囲の朝廷(官庁)施設である

             大極殿、朝堂院、曹司等の外朝

             を合わせた皇城(皇居)である。

             ■ 宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居)は、  古代日本の時代に、

             藤原宮、平城宮、長岡宮、平安宮

             では、 

             天皇の住居(御殿(ごてん))であ

             る内裏(だいり)の内廷(ないてい) 

             と、 

             その周囲の朝廷(官庁)施設であ

             る大極殿(だいごくでん)、朝堂院

             (ちょうどういん)、曹司(ぞうし)等

             の、外朝(がいちょう)

             を合わせた皇城 (こうじょう・おう

             じょう、皇居)である。

             ■ 宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居)は、古代日本の時代に、

             藤原宮、平城宮、長岡宮、平安宮

             では、 

             内裏(だいり)、

             大極殿(だいごくでん)、

             朝堂院(ちょうどういん)、

             曹司(ぞうし)、

             などで占められていた。

             ● 宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居)は、古代日本の時代では、

             藤原宮、平城宮、長岡宮、平安宮

             では、 

             内裏(だいり、=天皇の住居、天

             皇の御殿)、 

             大極殿 (だいごくでん、国家儀式

             等を行う建物)、 

             朝堂院 (ちょうどういん、国家政 

             務等を行う建物)、 

             曹司(ぞうし、官人が実務をとる

             中央官庁、官衛(かんが、諸官庁)) 

             などから構成されていた。

             ■ 内裏。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

             ■ 内裏 (だいり)とは、 

             前近代日本の、天皇の住居、居所、

             御殿(ごてん)をいう。

 

             ■ 日本の主要な宮城

             (= 皇城、皇居)。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

             ■ 日本の主要宮城。

             ● 日本の主要な宮城(きゅうじょ

              う、= 皇城、皇居)には、

             (1) 飛鳥諸宮 (あすかしょきゅ

              う、= 飛鳥京の諸宮、飛鳥地域

              の諸宮城、

              奈良県明日香(あすか)村付近、

              6世紀頃ー694年)、 

             (2) 藤原宮(ふじわらきゅう、

              = 藤原京の宮城、

              奈良県橿原市(かしはらし)付近、

              694年ー710年)、 

             (3) 平城宮 (へいじょうきゅう、

              = 平城京の宮城、

              奈良県奈良市(ならし)付近、

              710年ー740年・745年ー

              784年)、 

             (4) 長岡宮 (ながおかきゅう、

              = 長岡京の宮城、

              京都府向日市(むこうし)付近、

              784年ー794年)、 

             (5) 平安宮 (へいあんきゅう、

              = 平安京の宮城)、

              京都府京都市付近、

              本来の平安宮は平安時代末期

              まで、京都府京都市上京区(か  

              みぎょうく)付近、

              794年ー1177年頃)、 

             などがある。

 

○ たい  大治。 

             (だいじ)。  《和暦》。

             THE TAIJI ERA.

             ○  1126年−1131年。

             ● 1126年・大治元年・1月22日〜

                1131年・大治 6年・1月29日。

             ● 平安時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

○ たい  対州

             (たいしゅう)。 《旧地域名》。

          (= 対馬 ( つしま のくに))。

          (≒ 現・長崎県対馬島)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国名(令制

           国)の別称)。

                 TAISHU AREA.

                    (⇒ 対馬 )。    

                    (⇒ 長崎県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

             ■ 対州 (たいしゅう)は、 律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             国名(令制国)正式名の、対馬 国 (つし 

             まのくに) の別称である。

                          ● 対州(= 対馬)は、  西街道(さいか

             いどう)・広域地方に属し、 現・九州地方

             の、現在の長崎県対馬島(対馬市)に相 当

             する地域である。

 

○ だい  大樹寺

             (だいじゅじ)。 《寺院》。

             ■ 大樹寺 (だいじゅじ、愛知県岡崎

             市)は、  三河国 (みかわのくに、現・

             愛知県東部の相当地域) の松平氏

             の菩提寺である。 

             ■ 大樹寺には、徳川家康の、松平氏

             (徳川氏の前名)の祖先の代々の墓が

             置かれている。

 

○ たい  大正

             (たいしょう) 。 《和暦》。  

             THE TAISHO ERA.

          ○ 1912年−1926年。

             ● 1912年・大正 元年・ 7月30日〜

                1926年・大正15年・12月25日。 

             ● 大正時代の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

              ■ 大正 (たいしょう、英:THE   

                          TAISHO  ERA) とは、和暦であり、 

             大正時代の和暦年号であり、 

             1912年・大正元年・ 7月30日から

             1926年・大正15年・12月25日まで

                          である。  

             ■ 〈大正年号の、和暦→西暦/

                西暦→和暦の速算法〉。

              ○ 大正 A年+1911年=西暦 B年

             ○ 西暦 B年ー1911年=大正 A年

                ■ 「大正」の前後の和暦年号(元号):

             ● 明治 (めいじ):

               1868年 ー1912年。

               1868年・明治 元年・9月 8日〜

                1912年・明治45年・7月30日。

            ● 昭和 (しょうわ):

               1926年1989年

               1926年・昭和 元年・12月25日〜

                1989年・昭和64年・ 1月 7日。 

             ■ 近現代日本の和暦年号(元号):

             慶応元年〜 4年

                   (1865年〜1868年)⇒ 

             明治元年〜45年

                   (1868年〜1912年)⇒

             大正元年〜15

                   (1912年〜1926年)⇒

             昭和元年〜64年

                   (1926年〜1989年)⇒

             平成元年〜31年

                   (1989年〜 2019年)⇒

             令和元年〜 現在

                    (2019年〜現在)。

 

 たい  大正時代 

             (たいしょうじだい)。

          (= 1912年ー1926年)。

           《日本歴史の時代区分》。 

             THE TAISHO PERIOD

           <近代日本。

           近代日本) 。

                    (⇒ 日本歴史の時代区分)。

             ■ 大正時代  (たいしょうじだい)とは、

             1912年(大正元年)から1926年(大

             正15年)までの期間である。

             ● 大正時代は、 近代日本 (= 明治時

             代、大正時代、昭和・戦前時代 ; 1868

             年ー1945年) の一時期である。 

 

〇 だい  太政大臣

             (だいじょうだいじん、だじょうだいじん) 。 

             《官職》。 

             ○ 太政大臣(だいじょうだいじん)は、

              前近代日本の朝廷の律令官制(りつり

              ょうかんせい)の太政大臣である。

             ○ 太政大臣(じょうだいじん)は、

              明治政府(近代日本政府)の太政官制

              (だじょうかんせい)の太政大臣 である。

          ■ 前近代日本の太政大臣

                (だいじょうだいじん) 。

          (⇒ 朝廷)。

             ● 朝廷の官職。 

          ○ 朝廷の律令官制の官職の最

          高官職。 常設の官職ではない。

              ○ 前近代日本の、高位の朝廷の官職

             は、 高位順に、 @ 太政大臣 (だいじょ

             うだいじん)、 A 左大臣 (さだいじん)、 

             B 右大臣 (うだいじん)、  C 内大臣 

             (ないだいじん)、 D 大納言 (だいな

             ん)、 E 中納言 (ちゅうなごん)、 F 

             参議 (さんぎ) などがある。

           (⇒ 朝廷の官職朝廷公卿)。

          ■ 明治新政府の太政大臣

                (じ ょうだいじん) 。

          (⇒ 近代日本政府)。

          ● 明治新政府(近代日本政府)

          の官職。

          ○ 明治新政府(近代日本政府)

          の太政官制(だじょうかんせい)の名

          目的な最高官職。

 

 たい  大正 天皇。

             (たいしょう てんのう)。 《天皇》。

                       (= 嘉仁(よしひと)天皇) 。

           (⇒ 嘉仁天皇)。

           ○ 大正 天皇(= 嘉仁天皇)

           の天皇在位:

              19 12年〜1926年。

              ■ 大正天皇(たいしょうてんのう、

              天皇在位:19 12年〜1926年)

              とは、嘉仁天皇((よしひとてんのう)

              である。

 

〇 だい  太上天皇。 

             (だいじょうてんのう)。 《朝廷》。

          (= 元天皇、退位した天皇)。

          (⇒ 天皇家)。

              太上天皇(だいじょうてんのう)

             とは、 元天皇、退位した天皇である。

             ○ (例)、孝謙(こうけん)太上天皇。

             ■ 元天皇、退位した天皇は、

             奈良時代から平安時代中期頃までは、

             太上天皇(だいじょうてんのう)といい。

             平安時代後期頃以後は、上皇(じょう

             こう)という。

            

〇 だい  大乗仏教。

             (だいじょうぶっきょう)。 《仏教》。

             MAHAYANA BUDDHISM。

             (⇒ 仏教)。

          ○ 日本に伝来した仏教

          ○ 仏教の宗派の一つ。

          ○ 中国、朝鮮半島、日本など

             に伝播した仏教の宗派。

 

〇 だい  大進局

             (だいしんのつぼね)。 《人名》。

               ■ 大進局 (だいしんのつぼね、生没年

              不詳)は、 源 頼朝の夫人である。

               ■ 大進局は、 源 頼朝との間に、

             貞暁 (男子、じょうぎょう、鎌倉法印)、   

             という子をもうける(得る)。

               ■ 大進局は、 鎌倉の大倉御所(おおく

             らごしょ、大蔵御所)に仕える女房(にょう

             ぼう、女性使用人)であり、  密かに源 頼

             朝の寵愛を受けていた。

 

#taise

 

 たい  大政奉還

             (たいせいほうかん)。 《政権返上》。

           (1867年10月)。

          ○ 江戸幕府(徳川宗家)の朝

          廷への政権返上。

             ■ 大政奉還(たいせいほうかん)とは、

             江戸幕府(徳川氏)の朝廷への政権返上

             である。

                大政奉還とは、江戸幕府(徳川氏)

             が政権を朝廷に返上し、 列藩会議を設

             置し、徳川氏宗家当主の徳川慶喜が諸

             侯の一員として、その列藩会議に参画す

             ることなどである。

             ■ 坂本龍馬の提案(船中八策等)をもと

              に、土佐藩参政・後藤象二郎が前土佐藩

              主・山内容堂を説いて、土佐藩の進言に

             より、徳川慶喜は、大政奉還を行う。

             ■ 1867年(慶応3年)6月22日に、

             武力によらない倒幕をめざす、公議政体

             派の土佐藩の後藤象二郎、坂本龍馬は、

             武力討幕派の薩摩藩の西郷隆盛や大久

             保利道と会い、江戸幕府・将軍の徳川慶

             喜が大政奉還を受け入れたら、武力蜂起

             しないと2人に約束させる。

                一方、武力討幕派の薩摩藩の西郷

             隆盛や大久保利道は、徳川慶喜が易々

             と大政奉還を受け入れ政権を手放すは

             ずがないと考え、1867年(慶応3年)10

             月14日に、討幕の密勅(みっちょく)(朝

             廷が薩長藩主に出した討幕の密勅)を得

             るが、徳川慶喜が大政奉還を受け入れた

             ため、一時的に武力討幕を中止する。

             ■ 大政奉還(たいせいほうかん)では、 

             列藩会議による公議政体論を構想し幕府

             の政権返上を主張する、土佐藩は、18

             67年(慶応3年)の、10月3日に、大政奉

             還の建白書を将軍に提出し、熟慮後、徳

             川慶喜は、大政奉還を決意し、1867年

             (慶応3年)の、10月12日に、京(都)の

             二条城の黒書院で、江戸幕府の将軍(徳

             川氏当主)・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)

             が幕府の役人に大政奉還を公表し(この

             場面が有名な絵図で描かれている)、 

             翌日の10月13日に、二条城の大広間で、

             幕府老中が、集まった各藩の重臣に大政

             奉還を公表し、 10月14日に、徳川慶喜 

             は、大政奉還の上表文を朝廷に提出し

             (政権の返上を申し出て)、 10月15日

             に、朝廷はこれを許可した。 

                これにより、江戸幕府(徳川氏)の政

             権返上が決定した。 

                しかし、徳川慶喜は、江戸幕府(徳川

             氏)の政権返上後、政治運営や外交のノー

             ハウがない朝廷は、旧江戸幕府の徳川氏

             に政権を任せると考え、 徳川慶喜の狙い

             は、政権返上後の実質的 な徳川氏支配の

             再構築にあり、 徳川慶喜は、列藩会議を

             主導して、日本の政治の主導権を握れると

             考えていた。 

                ところが、1867年(慶応3年)の12

             月9日の王政復古のクーデターにより、薩

             長の武力討幕派が、政治の主導権を握っ

             てしまった。

 

 だい  大仙陵古墳。

             (だいせんりょうこふん)。

          《天皇家》。 《古墳》。

           (= 伝仁徳天皇陵)。

          □ 天皇家 画像アルバム 

            No.1

          ○ 大仙陵古墳は、

           日本最大の陵墓・古墳で

                      ある。

               ■ 大仙陵古墳は、日本中央部の、

              大坂府堺市大仙町にある。

              ■ 大仙陵古墳は、 和泉(いずみ、

              現・大阪 府南西部の相当地域) に

              ある、百舌鳥(もず)古墳群の1つで

              ある。

              ■ 大仙陵古墳 (だいせんりょうこ

              ふん)は、 仁徳天皇陵(にんとくて

              んのうりょう)、即ち、仁徳天皇(に

              んとくてんのう)の陵墓といわれて

                            いる。

              ■ 大仙陵古墳は、 5世紀中頃に

              完成した前方後円墳であり、 全長

              486mもあり、 日本最大の陵墓・

              古墳である。

 

〇 だい  大初位

             (だいそい)。 《位階》。

             (⇒ 初位(そい)位階叙位)。

             (⇒ 朝廷の位階)。

             ■ 大初位 (だいそい)は、 近代

             日本の、職員令の位階1869年頃

             から1887年頃・使用) の20位階

             の、 19番目の位 階である。

             ● 大初位は、 1869年頃から

             1887年頃まで、使用された。

 

〇 だい  大初位下 

             (だいそいのげ)。 《位階》。

             (⇒ 初位(そい)位階叙位)。

             (⇒ 朝廷の位階)。

             ■ 大初位下 (だいそいのげ)は、

             前近代日本の、朝廷(律令官制)の

             位階(701年頃〜1869年頃・使用)

             の30 位階の、28番目の位階であ

             る

             ● 大初位下は、 701年頃から

             1869年頃まで、使用された。

 

〇 だい  大初位上 

             (だいそいのじょう)。 《位階》。

             (⇒ 初位(そい)位階叙位)。

             (⇒ 朝廷の位階)。

             ■ 大初位上 (だいそいのじょう)は、

             前近代日本の、朝廷(律令官制)の位 階

             (701年頃〜1869年頃・使用)の30 位

             階の、 27番目の位階 である

             ● 大初位上は、 701年頃から1869年

             頃まで、使用された。

 

〇 たい  大掃討作戦。

          (だいそうとうさくせん)。《日中戦争》。

             (= 三光作戦)。

          (⇒ 三光作戦 さんこ

                うさくせん

          ○ 旧日本軍の中国・華北

             侵略作戦。

             ■ 大掃討作戦 (だいそうとうさく

             せん、= 三光作戦) とは、 旧日本

             軍の中国・華北侵略作戦である。

 

〇 だい   大内裏。

             (だいだいり)。 《宮城》。

           (= 平安京の後期平安宮)。

        (⇒ 平安京と

         平安宮(へいあんきゅう))。

           (⇒ 宮城(きゅじょう))。

           ○ 都城・京>

              宮城(大内裏)>内裏。

           □ 平安京 画像アルバム

              No.1 

           □ 日本古都ガイドブック

           □ 日本古都 関連年代順

                        出来事ブック。  

            (⇒ 天皇天皇家朝廷 

              (⇒ 古都(こと)首都

                           (みやこ))。

              (⇒ 都城(とじょう)(きょう))。

              (⇒ 都城宮城(きゅう

             じょう)内裏(だいり))。

              (⇒ 都城飛鳥京

             藤原京平城京

                  長岡京平安京)。

              (⇒ 都城内の

                      宮城(= 皇城、皇居)

             飛鳥京と 飛鳥諸宮

           藤原京と藤原宮

                平城京平城宮

           長岡京長岡宮

            平安京平安宮大内裏

           (だいだいり))。

            (⇒ 都城内の、

                       宮城(= 皇城、皇居)内の、

            内裏(だいり)

               大極殿(だいごくでん)

            朝堂院(ちょうどういん)、

            曹司(ぞうし))。

 

          ■ 平安京の後期平安宮

             である大内裏。

             ■ 京都の平安京>

             後期平安宮(= 大内裏)>内裏。

             (都城・京>宮城(大内裏)>内裏)。

             ■ 大内裏 (だいだいり )とは、 

             京都の平安京の宮城(きゅうじょう、

             = 皇城、皇居)である平安宮(へい

             あんきゅう)の後期の呼び名である。  

             ■ 大内裏(だいだいり )とは、

             平安時代の平安京 内の、平安宮

             (へいあんきゅう、= 平安京の宮城

             皇城、皇居) の後期の呼び名で

             る。

             ■ 京都の平安京(へいあんきょう)

             では、 平安京の中に、平安宮 (へ

             いあんきゅう、= 大内裏(だいだいり、

             = 平安京の宮城があり、 平安宮(=

             大内裏)の中に、内裏 (だいり、

             天皇の住居、天皇私邸)がある。

 

             ■ 大内裏。

             (= 平安京の後期平安宮)。

             ■ 大内裏。

             ● 大内裏 (だいだいり)とは、

             平安宮別名であり、 平安京

             の宮城の平安宮であり、 平安

             時代後期からの平安宮の別称

             である。

             ● 大内裏 (だいだいり)とは、

             平安宮(へいあんきゅう)の別名

             であり、 平安京(へいあんきょ

             う)の宮城(きゅうじょう)の平安

             宮であり、 平安時代後期から

             の平安宮の別称である。

             ■ 平安京(へいあんきょう)の

             宮城(きゅうじょう、= 皇城、皇居)

             平安宮(へいあんきゅう)は、

             平安時代後期より大内裏(だい

             だいり)とも呼ばれる。

 

          ■ 宮城(= 皇城、皇居)。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

             ■ 宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居)は、  古代日本の時代に、

             藤原宮、平城宮、長岡宮、平安宮

             では、 

             天皇の住居(御殿)である

             内裏の内廷 

             と、 

             その周囲の朝廷(官庁)施設である

             大極殿、朝堂院、曹司等の外朝

             を合わせた皇城(皇居)である。

             ■ 宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居)は、  古代日本の時代に、

             藤原宮、平城宮、長岡宮、平安宮

             では、 

             天皇の住居(御殿(ごてん))であ

             る内裏(だいり)の内廷(ないてい) 

             と、 

             その周囲の朝廷(官庁)施設であ

             る大極殿(だいごくでん)、朝堂院

             (ちょうどういん)、曹司(ぞうし)等

             の、外朝(がいちょう)

             を合わせた皇城 (こうじょう・おう

             じょう、皇居)である。

             ■ 宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居)は、古代日本の時代に、

             藤原宮、平城宮、長岡宮、平安宮

             では、 

             内裏(だいり)、

             大極殿(だいごくでん)、

             朝堂院(ちょうどういん)、

             曹司(ぞうし)、

             などで占められていた。

             ● 宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居)は、古代日本の時代では、

             藤原宮、平城宮、長岡宮、平安宮

             では、 

             内裏(だいり、=天皇の住居、天

             皇の御殿)、 

             大極殿 (だいごくでん、国家儀式

             等を行う建物)、 

             朝堂院 (ちょうどういん、国家政 

             務等を行う建物)、 

             曹司(ぞうし、官人が実務をとる

             中央官庁、官衛(かんが、諸官庁)) 

             などから構成されていた。

             ■ 内裏。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

             ■ 内裏 (だいり)とは、 

             前近代日本の、天皇の住居、居所、

             御殿(ごてん)をいう。

 

             ■ 日本の主要な宮城

             (= 皇城、皇居)。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

             ■ 日本の主要宮城。

             ● 日本の主要な宮城(きゅうじょ

              う、= 皇城、皇居)には、

             (1) 飛鳥諸宮 (あすかしょきゅ

              う、= 飛鳥京の諸宮、飛鳥地域

              の諸宮城、

              奈良県明日香(あすか)村付近、

              6世紀頃ー694年)、 

             (2) 藤原宮(ふじわらきゅう、

              = 藤原京の宮城、

              奈良県橿原市(かしはらし)付近、

              694年ー710年)、 

             (3) 平城宮 (へいじょうきゅう、

              = 平城京の宮城、

              奈良県奈良市(ならし)付近、

              710年ー740年・745年ー

              784年)、 

             (4) 長岡宮 (ながおかきゅう、

              = 長岡京の宮城、

              京都府向日市(むこうし)付近、

              784年ー794年)、 

             (5) 平安宮 (へいあんきゅう、

              = 平安京の宮城)、

              京都府京都市付近、

              本来の平安宮は平安時代末期

              まで、京都府京都市上京区(か  

              みぎょうく)付近、

              794年ー1177年頃)、 

             などがある。

 

〇 だい  大同。 

             (だいどう)。  《和暦》。

             (806〜810年)。

             ● 806年・大同元年・5月18日〜

                810年・大同 5年・9月19日。 

             ● 平安時代前期。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇 だい  大東亜戦争。

             (だいとうあせんそう)。 《太平洋戦争》。

               (= 太平洋戦争、アジア・太平洋

          戦争、東亜戦)。

          (1941年ー1945年)。 

          (⇒ 太平洋戦争)。

             ■ 大東亜戦争 (だいとうあせんそう

             1941年ー1945年)とは、

             太平洋戦争であり、 アジア・太

             平洋戦争、東亜戦とも称する。

 

〇 だい  大東亜共栄圏。

             (だいとうあきょうえいけん)。

               (= 共栄圏)。 《太平洋戦争》。

          (⇒ 太平洋戦争)。

             ● 大東亜共栄圏は、 戦前の旧日本

             軍の占領・支配地域である。

 

〇 だい  大納言

            (だいなごん)。  《官職》。

           (⇒朝廷の官職朝廷公卿)。

          ○ 朝廷の官職。

             ○ 前近代日本の、高位の朝廷の官職

             は、 高位順に、 @ 太政大臣 (だいじょ

             うだいじん)、 A 左大臣 (さだいじん)、 

             B 右大臣 (うだいじん)、  C 内大臣 

             (ないだいじん)、 D 大納言 (だいな

             ん)、 E 中納言 (ちゅうなごん)、 F 

             参議 (さんぎ) などがある。

 

〇 だい   第2次上田合戦。 

             (たいにじうえだがっせん)。 《戦い》。

             THE 2ND UEDA BATTLE.

             (⇒ 真田氏)。

          ○ 真田氏(方)と徳川氏(方)と

          の戦い。 

             ■ 第2次上田合戦 (たい にじうえだがっ

             せん) とは、 1600年 (慶長5年)に、信

             濃国(しなののくに、現・長野県相当地域)・

             小県郡(ちいさがたぐん)の上田地域で、 

             真田氏(方)と徳川氏(方)との間で戦われ

             た、戦争である。

 

〇 だい  大の月。

              (だいのつき)。  《暦》。

             ○ 大の月の月末 は30日

          である。

        (⇒ 太陰太陽暦)。

             ■ 日本の旧暦(太陰太陽暦)では、

             一か月の日数が30日ある月を「大

             の月」(だいのつき)、一か月の日数

             が29日以下の月を小の月(しょうの

             つき)という。 

             ■ 日本の旧暦(太陰太陽暦)では、

             「大の月」(だいのつき)とされた月は

             月末が30日であり、 「小の月」(しょ

             うのつき)とされた月は、月末が29日

             以下である。

             ■ 為政者が、どの月間を、「大の月」、

             「小の月」にするか決めていた。

             ■ 太陰太陽暦(たいいんたいようれ

             き)では、月間は、平均約29.5日で

             ある。

             ■ 前近代日本では、太陰太陽暦が

             使用され、それが、日本の旧暦である。

             ● 前近代日本の、紀元(後)7世紀頃

             から1872年(明治5年)まで、太陰太

             陽暦が使用され、それが日本の旧暦で

             ある。

 

〇 たい  大仏、大仏開眼 。

             (だいぶつ、だいぶつかいげん)。 

             《 大仏》。

             (⇒ 東大寺大仏

           鎌倉大仏)。

 

〇 たい  太平洋戦争

                           (たいへいようせんそう)。 《戦い》。

               (= アジア・太平洋戦争、

          大東亜戦争、東亜戦)。

           (1941年ー1945年)。 

          THE PACIFIC WAR.

        (⇒ 本土空襲沖縄戦)。

          ○ 第2次世界大戦の、アジア・

          太平洋地域の戦争。

             ■ 太平洋戦争 (たいへいようせん そう

             1941年ー1945年、英:THE PACIFIC

             WAR) とは、  アジア・太平洋戦争、大東

                亜戦争、東亜戦ともいい、 第2次世界大

             戦(1941年−1945年)の、アジア・太平

             洋地域の戦争 である。

 

〇 たい  大宝。

             (たいほう、だいほう)。 《和暦》。

             THE TAIHO ERA.

             ○ 701年ー704年。

             ● 701年・大宝元年・3月21日〜

                  704年・大宝 4年・5月10日。 

             ● 飛鳥白鳳時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

              ■ 大宝 (たいほう、だいほう、英:THE 

                            TAIHO ERA) とは、 和暦であり、飛鳥

             白鳳時代後期の和暦年号であり、 701年・

             大宝元年・3月21日から704年・大宝 4年・

             5月10日までである。  

 

〇 だい  大本営。

             (だいほんえい)。 旧日本軍》。

          (= 旧日本軍本部)。

          (= 戦前の旧日本軍の

             最高統帥機関)。

        (⇒ 太平洋戦争

        日中戦争 

          ■ 大本営 (だいほんえい)とは、 

             旧日本軍本部であり、 昭和・戦前

                          時代の旧日本軍の最高統帥機関

                          (さいこうとうすいきかん)である。

 

〇 だい  大名

             (だいみょう)。 《領主》。

          (= 地方領国領主)。

          (室町時代〜江戸時代)。

          ( 大名戦国大名守護

           大名近世大名) 。

          ○ 大名には、

          (1) 室町時代前期・中期の

           守護大名、

          (2) 室町時代後期(= 戦国

           時代)の戦国大名、

          (3) 安土桃山時代・江戸時

                   代の近世大名、

          がある。

                       ■ 大名 (だいみょう)とは、 広大

             な(広く大きな)領地、所領をもって

             いる武家、武士であり、 地方領国

             領主であり、 室町時代から江戸時

             代までの、日本本土各地の武家の

             大領主である。

                        ■ 日本各地の大名支配の変遷 : 

             守護大名支配⇒戦国大名支配⇒

             近世大名支配。

             ● 日本本土各地を、室町時代前期・

             中期では、守護大名(しゅごだいみょ

             う)が支配し、 室町時代後期(= 戦国

             時代)では、戦国大名(せんごくだい

                      みょう)が支配し、 安土桃山時代・

             江戸時代では、近世大名(きんせい

             だいみょう)が支配する。

             ■ 大名の変遷の概略。

             ● 大名の変遷では、 室町時代前

             期・中期に、室町幕府(= 足利幕府)

             の将軍に臣従した、各地の領国支

             配者の武家、武士が、守護大名とな

             り、 室町時代後期(= 戦国時代)に、

             室町幕府の将軍や守護大名の権力

                          が低下し(弱まり)、多くの守護大名

             は没落し、代わって、実力で領国を

             支配する戦国大名が多くの出現し、

             安土桃山時代に、多くの戦国大名

             が全国を統一した豊臣氏に臣従し

             て近世大名となり、 江戸時代前期

             に、江戸幕府樹立後、多くの近世大

             名は、江戸幕府(= 徳川幕府)の将

             軍に臣従して、藩主(はんしゅ)とな

             る。

             ■ 大名には、 時代・時期と内容の

             相違により、 守護大名、戦国大名、

             近世大名などがある。

             ● 守護大名 (しゅごだいみょう)は、

             概ね、室町時代前期・中期 (1338

             年頃〜1467年頃)の時期の大名で

             あり、 戦国大名 (せんごくだいみょ

             う)は、 概ね、室町時代後期(= 戦国

             時代) (1467年頃〜1573年頃) 

             の時期の大名であり、 近世大名(き 

             んせいだいみょう)は、 概ね、安土

             桃山時代や江戸時代 (1573年頃

             〜1868年頃)の時期の大名である。

 

〇 だい  大名庭園。

             (だいみょうていえん)。 《庭園》。

        (⇒ 藩邸藩と領主)。

          ■ 大名庭園 (だいみょうていえん)

                     とは、 江戸時代の、江戸の藩邸内の

             大名の庭園、または、大名の国もとの

             領地の邸宅内の庭園である。

 

〇 だい  大名領国制 

             (だいみょうりょうごくせい)。

             《土地人民統治制度》。

          (16〜19世紀)。

            (⇒ 日本の土地人民統治制度)。

 

〇 たい  太陽太陰暦。

             (たいようたいいんれき)。 《暦》。

             (= 太陰太陽暦)。

          (⇒ 太陰太陽暦)。

 

〇 たい  太陽暦 

             (たいようれき )。 《暦》。

          (= 陽暦)。 

             THE SOLAR CALENDAR

          (⇒ 太陽暦 天文学辞典)。

          (⇒ グレゴリオ暦ユリウス暦)。

           太陽暦は、 

          日本の新暦 (しんれき)であり、

          日本の現行暦である。 

             ● 日本の現行暦は、

          太陽暦のグレゴリオ暦であり、

          1873年(明治6年)から現在

          まで、使用されている。

           ● 太陽暦には、 

           現行西暦の、グレゴリオ暦 と、 

           前西暦の、ユリウス暦  などが

          ある。

                    ● 現行西暦は、

          太陽暦のグレゴリオ暦である。

          ● 世界の現行中心暦や日本

          の現行暦は、

          太陽暦の、グレゴリオ暦である。

          ● 太陽暦は、 

          1太陽年 (365.2422日)を

          基準とする暦である。

          ● 日本では、

          太陽暦のグレゴリオ暦を、18

          73年(明治6年)から現在まで

          使用している。

              ■ 太陽暦は、 太陽の動きで計算され

             た暦であり、 太陽暦には、グレゴリオ暦 

              (英:THE GREGORIAN CALEN- 

              DAR) と、 ユリウス暦  (英:THE 

                          JULIAN CALENDAR) などがある。

             ■ 太陽暦には、 グレゴリオ暦や

             ユリウス暦 などがある。

              ● 太陽暦には、  現行西暦の、グレ

              ゴリオ暦(新太陽暦) と 、 前西暦の、

              ユリウス暦(旧太陽暦)  などがある。

             ■ 現行西暦は、

             太陽暦のグレゴリオ暦である。

              ■ 太陽暦 (英:THE SOLAR 

                           CALENDAR)は、

              1太陽年(365.2422日)を基準と

                 する暦である。

             ● 太陽暦には、 現行西暦の、グレゴ

                     リオ暦 (1年を365.2425日とする) 

              や 旧西暦の、ユリウス暦 (1年を

              365.25日とする) などがある。

              ■ 世界の現行中心暦や日本の現行暦

              は、 太陽暦の、グレゴリオ暦である。

             ● 1582年に制定した太陽暦のグレ

             ゴリオ暦(= グレゴリウス暦)が、 世界

             の現行中心暦  (今日広く全世界で使

             用されている暦) や 日本の現行暦で

             ある。 

             ● 太陽暦のグレゴリオ暦は、日本では、

             明治6年(1873年)1月1日から採用さ

             れている。

 

〇 たい  太陽暦の採用 

             (たいようれきのさいよう)。  《暦》。

          ○ 明治新政府は、

          明治6年(1873年)1月1日

          から太陽暦(新暦)を採用す

          る。

          ○ 明治新政府は、 

          太陰太陽暦(旧暦)の明治5

          年(1872年)12月2日の翌

          日(12月3日)を、太陽暦(新

          暦)の明治6年(1873年)

          1月1日とする。

           ○ 明治新政府は、

          (a) 近代国家建設のため、

          (b) 旧暦(太陰太陽暦)に

          まとわる因習打破のため、

          (c) 月給制の公務員給料

          の削減のため、 

          太陽暦(新暦)を採用する。

              ■ 太陽暦の採用。

             ● 明治新政府(近代日本政府)は、

             太陰太陽暦(旧暦)の明治5年(18

             72年)12 月2日の翌日を、太陽暦

             (新暦)の明治6年(1873年)1月

             1日とする。

                  その結果、 日本の暦では、

              明治5年(1872年)12月3日から

              12月31日までが存在しない。

              ■ 明治新政府(日本近代政府)は、 

             (a) 近代国家建設のため、  (b)

             旧暦(太陰太陽暦)にまとわる因習

             (古い習慣・しきたり)打破のため、 

             (c) 政府の月給制の公務員給料

             削減のため、 新暦(太陽暦)を採

             用する。

             ■ 明治新政府の深刻な財政難。

             ● 明治時代前期に、樹立間もな

             明治新政府にとって、財政難は

             深刻であり、 国家公務員の給料

             は月給制であり、 明治新政府は、

             太陰太陽暦(旧暦)では、2・3年

             に1度、13か月になり、1カ月分

             (閏月分)を公務員に余分に払わ

             なければならない。 

                そこで、明治新政府は、明治

             5年(1872年)に、国家支出削減

             のため、月給制の公務員給料が

             1年12か月ですむ太陽暦(新暦)

             を採用することを決断する。

 

〇 たい  平氏。

             (たいらうじ、へいし)。  《氏族》。

          (⇒ 平氏へいし)。

             ■ 平氏(たいらうじ)とは、 平氏

             (へいし)である。

              ■ 源(みなもと)、平(たいら)な

             の朝廷から賜(たまわ)った氏

             (名字)のみに、原則として、「の」

             を付ける。 

               例えば、平 清盛 (たいら の

             きよもり)などがある。

 

〇 たい  平 敦盛。 

             (たいらの あつもり)。 《伊勢平氏》。

             ○ 平 敦盛は、

          平清盛異母弟・平経盛の子

          である。

          (⇒ 平 経盛)。

             ■ 平 敦盛 (たいらのあつもり)は、

             伊勢平氏の、平清盛の異母弟・平経

             盛(たいらのつねもり)の子である。

 

〇 たい  平 家貞。

             (たいらの いえさだ)。 

          《伊勢平氏郎党・家臣》。

          ○ 平 家貞は、

          平忠盛・平清盛の側近、有力

          家臣である。

          (⇒ 平 清盛)。

             ■ 平 家貞 (たいらの いえさだ)は、

             伊勢平氏郎党・家臣であり、伊勢平氏

             の、平忠盛・平清盛の側近、有力家臣

             である。

 

〇 たい  平 家盛  

             (たいらの いえもり)。 《伊勢平氏》。

             ○ 平 家盛は、

          平清盛の異母弟である。

             ■ 平 家盛 (たいらのいえもり)は、

             伊勢平氏の、平清盛の異母弟である。

 

〇 たい  平 清盛 

             (たいらの きよもり)。 《伊勢平氏》。

          (1118年ー1181年)。

          ○ 平 清盛は、

          平氏政権の創始者である。

          ○ 平 清盛は、

          伊勢平氏の頭首である。

          ○ 平 清盛は、

          保元の乱、平治の乱の伊勢

          平氏軍の指導者で、勝者と

          なる。

          ○ 平 清盛は、

          貿易立国をめざした武将で

          ある。

             ■ 平 清盛 (たいらの きよもり、

             生没年:1118年ー1181年)は、 

             平氏政権 (1167年頃ー1185

             年頃)の創始者である。

             ■ 平 清盛は、 伊勢平氏の党首

             であり、 保元の乱、平治の乱の伊

             勢平氏軍の指導者で、勝者となる。

             ■ 平 清盛は、 貿易立国をめざ

             した武将である。

                      ■ 平清盛 (たいらのきよもり)

             は、 朝廷のある京(きょう、京都)で、

             武士が貴族となり朝廷と同化するこ

             とで、 朝廷から政治の実権を奪い、

             武家政権(平氏政権)をつくる。

               一方、源 頼朝 (みなもとの より

             とも)は、 朝廷に組み込まれないよ

             うに、京(きょう、京都)から離れた鎌

             倉で、 朝廷から独立して、 朝廷か

             ら政治の実権を奪い、新しい武家政

             権(源氏政権)をつくる。

 

〇 たい  平 清盛 簡略年表 

             (たいらのきよもりかんりゃくねんぴょう) 。  

          《人物年表》。

          (⇒ 日本史年表) 。

 

〇 たい  平 維衡。

             (たいらの これひら)。 《伊勢平氏》。

          (= 伊勢平氏の始祖)。

        (⇒ 伊勢平氏)。

                     (⇒ 桓武平氏) (⇒ 平氏)。

                   (⇒ 武家武士)。 

          ○ 平清盛、平宗盛の祖先。

             ■ 平 維衡 (たいらの これひら)は、

             伊勢平氏の始祖である。

 

〇 たい  平 維将。

             (たいらの これまさ)。

           《鎌倉北条氏》。

          (= 伊豆の北条氏、鎌倉北条

            氏の始祖)。

        (⇒ 鎌倉北条氏) 。

                     (⇒ 北条氏)、

                     (⇒ 桓武平氏) (⇒ 平氏)。

                   (⇒ 武家武士)。 

          ○ 平 維将は、

          北条時政、北条政子の祖先

          である。

             ■ 平 維将 (たいらの これまさ)は、

             伊豆の北条氏、即ち、鎌倉北条氏の

             始祖であり、 北条時政、北条政子、

             北条義時の祖先である。

 

〇 たい  平 維盛。

             (たいらの これもり)。 《 伊勢平氏》。

             (1158 年ー1184年)。

          (⇒ 平 重盛)。

          ○ 平清盛の長男・嫡男・平重盛

           の長男。

             ■ 平 維盛 (たいらの これもり)は、

             伊勢平氏の、平清盛の五男である。

 

〇 たい  平 完子。

                            (たいらの さだこ・かんし) 。 

          《伊勢平氏の女性》。

        (⇒ 平清盛)。

          ○ 平清盛六女。 

          ○ 摂政関白・近衛基通の正室

           夫人。

             ■ 平 完子 (たいらの さだこ・かんし)は、

             伊勢平氏の、平清盛の六女である。

 

〇 たい  平 滋子

             (たいらの しげこ)。

          《公家(堂上平氏)》。

          (= 滋子( しげこ)、 建春門院(けん

          しゅんもんいん)、 建春 門院滋子)。

             (1142 年ー 1176年)。

                     TAIRA no shigeko.

          ○ 日本の歴史を変えた美女・

           才女

          ○ 平清盛の正室夫人・平時子

                      の異母妹。

          ○ 後白河上皇の正室夫人、

                       寵妃。

          ○ 高倉天皇の生母。

          ○ 安徳(あんとく)天皇や後鳥羽

           (ごとば)上皇の祖母 。

          ○ 平家政権を樹立する時の礎

           (いしずえ)となった女性。

             ■ 平 滋子 (たいらの しげこ)は、 伊勢

             平氏の、平清盛の正室夫人・平時子の異

                         母妹であり、 後白河上皇の正室夫人、寵

                          妃であった。

              ● 平 滋子は、 日本の歴史を変えた美女・

              才女である。

              ● 平 滋子(たいらの しげこ) (= 滋子 (し

              げこ)、 建春門院(けんしゅんもんいん)、 建

              春門院滋子、1142〜 1176年) とは、

              平清盛・正室夫人・平時子の異母妹であり、 

              後白河上皇の正室夫人・寵妃であり、 高倉

              天皇の生母である。

              ● 平 滋子は、 平家政権を樹立する時の

              礎(いしずえ)となった女性であり、 安徳

              (あんとく)天皇や後鳥羽(ごとば)上皇の祖

              母である。

 

〇 たい  平 重衡

             (たいらの しげひら)。 《伊勢平氏》。

             ○ 平清盛の五男 。

             ■ 平 重衡 (たいらの しげひら)は、

             伊勢平氏の、平清盛の五男である。

 

〇 たい  平 重盛

             (たいらの しげもり)。 《伊勢平氏》。

             ○ 平清盛の長男、嫡男 。

             ■ 平 重盛 (たいらの しげもり)は、

             伊勢平氏の、平清盛の長男(嫡男)である。

 

〇 たい  平 資盛。

             (たいらの すけもり)。 《伊勢平氏》。

             (1158 または1161〜

          1185年)。 

        (⇒ 平 重盛)。

          ○ 平清盛の長男(嫡男)・

                   平重盛の次男。

             ■ 平 資盛 (たいらの すけもり)は、

             伊勢平氏の、平清盛の長男(嫡男)・

                      平重盛の次男である。

 

〇 たい  平 高望。

             (たいらの たかもち)。桓武平氏》。

          (= 高望王)。

          (9世紀後半〜10世紀)。

              (⇒ 桓武平氏)。

                  (⇒ 伊勢平氏、伊豆の北条氏

             鎌倉北条氏) 。 

                  (⇒ 平氏)。

                  (⇒ 武家武士)。 

          ○ 桓武平氏の祖

          ○ 桓武天皇の曾孫。          

          ○ 軍事貴族出身の武家、武士。

          ○ 平 惟衡(これひら、伊勢平氏の

          始祖)、平清盛、惟将(これまさ、

          伊豆・北条氏の祖)、北条時政の

          祖先。

             ■ 平 高望 (たいらの たかもち)は、

             桓武天皇の曾孫で、桓武平氏の祖である。

 

〇 たい  平 忠度

              (たいらの ただのり)。 《伊勢平氏》。

          ○ 平清盛の異母弟。

             ■ 平 忠度 (たいらの ただのり)は、

             伊勢平氏の、平清盛の異母弟である。

 

〇 たい  平 忠正

              (たいらの ただまさ)。 《伊勢平氏》。

          ○ 平清盛の叔父。

             ■ 平 忠正 (たいらの ただまさ)は、

             伊勢平氏の、平清盛の叔父である。

 

〇 たい  平 忠盛

             (たいらの ただもり)。 《伊勢平氏》。

          ○ 平清盛の父。

             ■ 平 忠盛 (たいらの ただもり)は、

             伊勢平氏の、平清盛の父である。

 

〇 たい  平 経盛 

             (たいらの つねもり)。 《伊勢平氏》。

          ○ 平清盛の異母弟。

             ■ 平 経盛 (たいらの つねもり)は、

             伊勢平氏の、平清盛の異母弟である。

 

〇 たい  平 時子 

             (たいらの ときこ)。

          《公家(堂上平氏)》。

          ○ 平清盛の第2番目の正室

          夫人(後妻)。

             ■ 平 時子 (たいらの ときこ)は、平

             清盛の第2番目の正室夫人である。

 

〇 たい  平 時忠  

             (たいらの ときただ)。

          《公家(堂上平氏)》。

             ○ 公家(堂上平氏) 。

          ○ 平 時子の弟。

          ○ 平清盛正室夫人・平 時子

                     の同母弟。

             ■ 平 時忠 (たいらの ときただ)は、

             平清盛正室夫人・平 時子の同母弟である。

 

〇 たい  平 徳子  

             (たいらの とくこ・とくし・のりこ)。

          《伊勢平氏の女性》。

             (= 建礼門院(けんれいもんいん)) 。

          (1155〜1213年)。

             ○ 平清盛の娘。 

             ○ 高倉(たかくら)天皇の正室

           夫人(宮)。

             ○ 安徳(あんとく)天皇の生母。

             ■ 平 徳子 (たいらの とくこ・とくし・

             のりこ)は、 伊勢平氏の、平清盛の娘

             である。

 

〇 たい  平 知盛

             (たいらの とももり)。 《伊勢平氏》。

             ○ 平清盛の四男 。

             ■ 平 知盛 (たいらの とももり)は、

             伊勢平氏の、平清盛の四男である。

 

〇 たい  平 教盛 

             (たいらの のりもり)。 《伊勢平氏》。

          ○ 平清盛の異母弟。

             ■ 平 教盛 (たいらの のりもり)は、

             伊勢平氏の、平清盛の異母弟である。

 

〇 たい  平 将門

             (たいらの まさかど)。 《桓武平氏》。

           (生年不詳ー940年)。

             ■ 平 将門 (たいらの まさかど)は、

             桓武平氏の、坂東(ばんどう、関東地

             方)の豪族である。

 

〇 たい  平 正盛 

             (たいらの まさもり)。 《伊勢平氏》。

          ○ 平清盛の祖父。

             ■ 平 正盛 (たいらの まさもり)は、

             伊勢平氏の、平清盛の祖父である。

 

〇 たい  平 宗盛

             (たいらの むねもり)。 《伊勢平氏》。

          ○ 平清盛の三男。

             ■ 平 宗盛 (たいらの むねもり)は、

             伊勢平氏の、平清盛の三男である。

 

〇 たい  平 基盛

              (たいらの もともり)。 《伊勢平氏》。

             ○ 平清盛の次男 。

             ■ 平 基盛 (たいらの もともり)は、

             伊勢平氏の、平清盛の次男である。

 

〇 たい  平 盛国。

             (たいらの もりくに)。

          《伊勢平氏郎党・家臣》。

          (⇒ 平 清盛)。

          ○ 平清盛の側近、有力家臣。

             ■ 平 盛国 (たいらの もりくに)は、

             伊勢平氏の、平清盛の側近、有力家臣

             である。

 

〇 たい  平 盛子。

             (たいらの もりこ・せいし)。

          《伊勢平氏の女性》。

          (⇒ 平清盛)。

             ○ 平清盛の四女。 

          ○ 摂政関白・近衛基実

           正室夫人。

          ○ 近衛基通 の養母。

             ■ 平 盛子 (たいらの もりこ・せいし)

             は、伊勢平氏の、平清盛の四女である。

 

〇 たい  平 頼盛

             (たいらの よりもり)。 《伊勢平氏》。

          ○ 平清盛の異母弟。

             ■ 平 頼盛 (たいらの よりもり)は、

             伊勢平氏の、平清盛の異母弟である。

 

〇 だい   内裏

             (だいり)。 《宮城》。

           (= 天皇の住居、宮居、

           天皇の住む御殿、

          天皇私邸)。

           ○ 内裏とは、

          前近代日本の、天皇の

          住居、天皇私邸である。

            (⇒ 平安京(京都)の里内裏)。

          ○ 都城・京>宮城>

          内裏、大極殿、 朝堂院

          曹司。

           □ 日本古都ガイドブック

           □ 日本古都 関連年代順

                        出来事ブック。  

          □ 飛鳥京 画像アルバム 

             No.1

          □ 藤原京  画像アルバム

             No.1 

            □ 平城京 画像アルバム 

             No.1

          □ 長岡京 画像アルバム 

             No.1

          □ 平安京 画像アルバム

             No.1 

            (⇒ 天皇天皇家朝廷 

              (⇒ 古都(こと)首都

                           (みやこ))。

              (⇒ 都城(とじょう)(きょう))。

              (⇒ 都城宮城(きゅう

             じょう)内裏(だいり))。

              (⇒ 都城飛鳥京

             藤原京平城京

                  長岡京平安京)。

              (⇒ 都城内の

                      宮城(= 皇城、皇居)

             飛鳥京と 飛鳥諸宮

           藤原京と藤原宮

                平城京平城宮

           長岡京長岡宮

            平安京平安宮大内裏

           (だいだいり))。

            (⇒ 都城内の、

                       宮城(= 皇城、皇居)内の、

            内裏(だいり)

               大極殿(だいごくでん)

            朝堂院(ちょうどういん)、

            曹司(ぞうし))。

 

          ■ 内裏。

             ■ 内裏 (だいり)とは、 

             前近代日本の、天皇の住居、宮居

             であり、天皇の居住場所であり、

             天皇の住む御殿であり、天皇私邸

             である。

 

          ■ 京都の平安京の内裏。

             ■ 平安京(= 京都、京の都)>

                平安宮(= 大内裏)> 内裏。

             ■ 京都の平安京(へいあんきょう) 

             では、平安京の中に、平安宮(へい

             あんきゅう、= 大内裏(だいだいり、

             = 平安京の宮城(きゅうじょう、= 皇

                            城、皇居)平安宮(= 大内裏)があ

             り、 平安 宮(= 大内裏)に、内裏 

             (だいり、天皇の住居、天皇私邸)

                            がある。

             ■ 平安京 (へいあんきょう、= 京

             都、京の都(きょうのみやこ)) の

             内裏 (だいり)は、 平安宮 (へい

                            あんきゅう、= 大内裏(だいだいり))

             内にあった、天皇の住居であり、

             現在の京都市上京区(かみぎょうく)

             下立売通土屋町付近にあった。

 

          ■ 京都の平安京の

                           里内裏

                ■ 平安宮 (へいあんきゅう)とは、

             大内裏(だいだいり)であり、 平安

             京の宮城(きゅうじょう、= 皇城、皇

             居)である。

             ■ 京都の平安京内の、平安宮(へ

             いあんきゅう、=大内裏(だいだいり))

             内の、内裏 (だいり、天皇御所)は、

             本来の内裏の地で断続的に存在し

             たが、 鎌倉時代中期以後、平安京

             の本来の内裏の地に内裏が再建さ

             れることはなくなり、 平安京の内裏

             は、京都(= 平安京)の各所に、 

             里内裏 (さとだいり、天皇の仮御所、

             平安京の本来の内裏の地以外の場

             所にある臨時の内裏) として、置か

             れた。

             ● 里内裏 (さとだいり)とは、

             天皇の仮御殿であり、 平安京の

             本来の内裏の地以外の場所にある

             臨時の内裏(= 天皇の住居)である。

 

          ■ 京都の平安京の

             里内裏

             ■ 平安京(= 京都、京の都)では、 

             里内裏は、初め、平安京の本来の

             内裏の地に建つ内裏が火災など

             で使用不能となった時に、その他

             の地で、臨時に使用される内裏で

             あったが、次第に、内裏は平安京

             (= 京都、京の都)の本来の内裏

             の地に再建されることが少なくなり、

             鎌倉時代中期以後、1869年(明

             治2年)まで、平安京の本来の内裏

             の地に、内裏が再建されることは

             なくなくなった。

 

          ■ 宮城(= 皇城、皇居)。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

             ■ 宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居)は、  古代日本の時代に、

             藤原宮、平城宮、長岡宮、平安宮

             では、 

             天皇の住居(御殿)である

             内裏の内廷 

             と、 

             その周囲の朝廷(官庁)施設である

             大極殿、朝堂院、曹司等の外朝

             を合わせた皇城(皇居)である。

             ■ 宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居)は、  古代日本の時代に、

             藤原宮、平城宮、長岡宮、平安宮

             では、 

             天皇の住居(御殿(ごてん))であ

             る内裏(だいり)の内廷(ないてい) 

             と、 

             その周囲の朝廷(官庁)施設であ

             る大極殿(だいごくでん)、朝堂院

             (ちょうどういん)、曹司(ぞうし)等

             の、外朝(がいちょう)

             を合わせた皇城 (こうじょう・おう

             じょう、皇居)である。

             ■ 宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居)は、古代日本の時代に、

             藤原宮、平城宮、長岡宮、平安宮

             では、 

             内裏(だいり)、

             大極殿(だいごくでん)、

             朝堂院(ちょうどういん)、

             曹司(ぞうし)、

             などで占められていた。

             ● 宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居)は、古代日本の時代では、

             藤原宮、平城宮、長岡宮、平安宮

             では、 

             内裏(だいり、=天皇の住居、天

             皇の御殿)、 

             大極殿 (だいごくでん、国家儀式

             等を行う建物)、 

             朝堂院 (ちょうどういん、国家政 

             務等を行う建物)、 

             曹司(ぞうし、官人が実務をとる

             中央官庁、官衛(かんが、諸官庁)) 

             などから構成されていた。

             ■ 内裏。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

             ■ 内裏 (だいり)とは、 

             前近代日本の、天皇の住居、居所、

             御殿(ごてん)をいう。

 

             ■ 日本の主要な宮城

             (= 皇城、皇居)。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

             ■ 日本の主要宮城。

             ● 日本の主要な宮城(きゅうじょ

              う、= 皇城、皇居)には、

             (1) 飛鳥諸宮 (あすかしょきゅ

              う、= 飛鳥京の諸宮、飛鳥地域

              の諸宮城、

              奈良県明日香(あすか)村付近、

              6世紀頃ー694年)、 

             (2) 藤原宮(ふじわらきゅう、

              = 藤原京の宮城、

              奈良県橿原市(かしはらし)付近、

              694年ー710年)、 

             (3) 平城宮 (へいじょうきゅう、

              = 平城京の宮城、

              奈良県奈良市(ならし)付近、

              710年ー740年・745年ー

              784年)、 

             (4) 長岡宮 (ながおかきゅう、

              = 長岡京の宮城、

              京都府向日市(むこうし)付近、

              784年ー794年)、 

             (5) 平安宮 (へいあんきゅう、

              = 平安京の宮城)、

              京都府京都市付近、

              本来の平安宮は平安時代末期

              まで、京都府京都市上京区(か  

              みぎょうく)付近、

              794年ー1177年頃)、 

             などがある。

 

〇 たい  大老

             (たいろう)。 《役職名》。

          ○ 豊臣氏大老。

          ○ 江戸幕府(徳川政権、徳川氏

              宗家(本家))・大老。

                     (⇒ 五大老、豊臣氏五大老・五

              奉行豊臣政権豊臣氏)。

          (⇒ 江戸幕府徳川政権

              徳川氏)。

             ■ 豊臣氏大老は、 豊臣政権の家臣の最

              高職であり、豊臣政権の(役)職名、重役

              (要職)である。 

             ■ 江戸幕府(徳川政権、徳川氏宗家(本

              家))・大老は、江戸幕府(徳川政権)の家

              臣の最高職であり、 江戸幕府の(役 )職

              名、重役(要職)である。

             ● 江戸幕府(徳川氏宗家(本家))・大老は、

              江戸幕府の将軍を補佐して、幕政(幕府の

              政治、国政)を指揮する最高職であり、

              常置でなく、1人で、老中の上 位にある役

              職であった。

 

#taka

 

〇 たか  高倉天皇

             (たかくらてんのう)。 《天皇》。

          (= 憲仁親王(のりひとしんのう))。

          (生没年:1161〜1181年)。

          ● 天皇在位:1168〜80年。

          ○ 後白河上皇(天皇)と平滋子

           (たいらのしげこ)との間の皇子(みこ)

          ○ 安徳天皇の父、 後鳥羽天皇

           (上皇)の父。

 

〇 たか  孝子。 

             (たかこ)。 《人名》。

          ○ 江戸幕府・第3代将軍・徳川家

           光の正室夫人。

                     (⇒ 徳川家光)。    

            

〇 たか  高階 明子。

             (たかしなの あきこ)。 《人名》。

          (仮称、実名不詳、NHK大河ドラマ

          「平清盛」で の名称)。 

          (= 高階基章の娘(たかしなのもとあき

             のむすめ))。

             ○ 平清盛の第1番目の正室夫人

          (先妻))。

          ○ 平重盛の生母。

          (⇒ 高階基章の娘)。

 

 たか  高階 道憲。

              (たかしなのみちのり)。 《人名》。

          (= 信西(しんぜい)、藤原 通憲

             (ふじわらのみちのり))。

                    (⇒ 藤原 通憲平治の乱)。

          ○ 後白河上皇の院近臣(いんのき

             んしん、上皇の重臣)。

          ○ 平治の乱(へい じのらん)で戦死。

          平清盛を従えて、平治の乱(へ い

            じのらん)を戦う。 乱の中で、死去。

          ○ 三条公教(さんじょうきんのり)と共

           に、平治の乱(へいじのらん)で戦うが、

          戦争中追い詰められ自害。

 

〇 たか  高階基章の娘

              (たかしなのもとあきのむすめ)。

                     (実名不詳) 。 《人名》。

          ○ 平清盛の第1番目の正室

          夫人(先妻)。

                    ○ 高階基章の娘(たかしなのもと

                           あきのむすめ)

          ○ 平重盛(しげもり)の生母 。

          ○ NHK大河ドラマ「平清盛」

          で明子、高階明子( たかしなの

             あきこ、仮称・実名不詳)で登場。

                         ■ 高階基章の娘  (実名不詳、たかし

                          なのもとあきのむすめ) は、 平清盛の

             第1番目の正室夫人(先妻) であり、 

             高階基章(た かしなのもとあき)の娘 

             である。

                         ■ 高階基章の娘は、 平重盛(たいらの

             しげもり)の生母である。

 

〇 たか  高杉 晋作

             (たかすぎ しんさく)。 《人名》。

          ○ 幕末の長州藩のリーダー、

           戦略家。 

          ○ 奇兵隊の創設者。

 

〇 たか  鷹司家。

             (たかつかさけ)。 《摂関家》。

                           ○ 摂関家(せっかんけ)の五摂家

             の1つ)。

          (⇒ 摂関家)。

 

〇 たか  高梨内記の娘。

             (たかなしないきのむすめ)。 

          (実名不詳)。 《人名》。

              (生没年不詳)。

          (⇒ 真田氏

             真田 幸村(信繁))。

                     ○ 真田 幸村(信繁)の側室夫人。

                          ■ 高梨内記の娘 (実名不詳、たかなし な

             いきのむすめ、生没年不詳) は、 真田 幸 

                          村(信繁)の側室夫人であり、 高梨内記(た

             かなし ないき)の娘 である。

             ● 真田 幸村(信繁) と、 真田 幸村(信

             繁)・側室夫人・高梨内記の娘との間には、 

             娘の、市(いち、早世)、 梅 (うめ、片倉重

             長夫人) などの子がいた。

             ● 高梨内記の娘は、  真田丸 (さなだ

             まる) 』 (NHKテレビ・2016年大河ドラ

             マ)では、「きり」という名(仮称)で登場する。

             ■ 前近代日本の史料では、女性の実名

             が記載されることは少なく、女性の実名が

             不明なことが多い。 

             (例) 書物(史料)では、「高梨内記女」 

              (高梨内記の娘)などと記されている。

                また、ドラマ、映画、小説などでは、

             がないと不便なので、女性の仮称が 使われ

             ることが多し。

 

〇 たか  高橋 是清

             (たかはし これきよ)。 《人名》。

           (1854年〜1936年)。

          ○ 近代日本の財政を支えた

           人物。

          ○ 財政家、日銀総裁、蔵相

            (ぞうし ょう、大蔵大臣、財務相)、

                      首相 。

 

〇 たか  高松城水攻め。 

             (たかまつじょうみずぜめ)。 《戦い》。

       (⇒ 清水宗治)。

       (⇒ 中国大返し)。

             ■ 黒田官兵衛の献策により、織田信長

             重臣の羽柴秀吉(豊臣秀吉)が、 毛利輝

             元配下の清水宗治の高松城を、川をせき

             止め氾濫させて城の周囲を水で囲んで攻

             めた。

 

〇 たか  尊成親王。 

             (たかひらしんのう)。 《人名》。

             (= 後鳥羽(ごとば)天皇(上皇))。

        (⇒後鳥羽上皇)。

 

〇 たか  高松 太郎

             (たかまつ たろう)。 《人名》。

          ○ 坂本龍馬の甥(おい) 。

          ○ 土佐藩士。

 

〇 たか  高山 右近

             (たかやま うこん)。 《人名》。

             (1552年?〜1615年)。

                     ○ 安土桃山時代の武将、キリシ

          タン大名。

                     ○ 江戸幕府のキリスト教禁教令

          により、1614年に、フィリピンに

          追放される。

 

  たき   滝川 一益 

             (たきがわ かずます)。 《人名》。

          (1525〜1586年)。

          ○ 室町時代後期(戦国時代)、

           安土桃山時代の武将、大名。

          ○ 織田信長の重臣。 

          ○ 織田氏、羽柴氏(豊臣氏)に

          仕(つか)える。

 

  たき   滝山 

             (たきやま)。 《人名》。

          (1805年ー1876年)。

           ○ 江戸幕府の大奥の御年寄

                     (おとしより)(上級幹部)。

 

 たけ  武田 勝頼 

             (たけだ かつより)。 《人名》。

          (= 諏訪 勝頼)。

          (1546年ー1582年)。

 

 たけ  武田勝頼 詳細年表

             (たけだかつより しょうさいねんぴょう) 。

          (⇒ 日本史年表) 。

 

 たけ  武田氏

          (たけだし)。 《武家の氏族》。  

          (= 武田家)。

                     (12世紀頃−16世紀)。

             THE TAKEDA CLAN.

             □ 武田氏 画像アルバム 

             No.1

           □ 武田信玄ガイドブック

           □ 武田信玄 関連年代順

              出来事ブック

           ○ 武田氏武家としての

           武田氏。 

           ○ 武家の武田氏は、

            武家の氏族で、守護、

           大名である。

            ○ 武家の武田氏は、

                      代々、甲斐 国の守護を

           継承した一族、武家で

           ある。

                    □ 日本歴史で活躍した

          氏族:

          天皇家藤原氏

          伊勢平氏河内源氏

          鎌倉北条氏足利氏

          上杉氏武田氏

          織田氏豊臣氏

          徳川氏小田原北条氏

          真田氏井伊氏

              ■ 武家の武田氏 (たけだし・た

             けだうじ 、 = 武田家)は、 

             武家の氏族であり、12世紀頃から

             16世紀まで存在した武家、守護、

             大名である。

             ■ 武田氏 (たけだし、= 武田家)

             は、 代々、甲斐国 (かい のくに、

             現・山梨県の相当地域) の守護 

             (しゅご、現在の知事に 相当)を

             継承した一族、武家 ある。

             

 たけ   武田 信玄 

           (たけだ しんげん)。 《人名》。

            (1521年ー1573年) 。

             TAKEDA Shingen.

           □ 武田信玄ガイドブック

           □ 武田信玄 関連年代順

              出来事ブック

           ○ 甲斐の戦国大名。

           ○ 甲斐 国 (かい のくに

             現・山梨県の相当領域)

             の国主(こくしゅ)

             ■ 武田信玄 (たけだ しんげん、

             生没年:1521年ー1573年)は、 

             甲斐の戦国大名であり、 甲斐 国 

             (かい のくに、現・ 山梨県の相当

             領域) の国主(こくしゅ)であった。

 

〇 たけ  武田信玄ガイドブック

             (たけだしんげん がいどぶっく) 。

          《人物ガイドブック》。

             THE GUIDEBOOK ON 

             TAKEDA Shingen.

 

 たけ  武田信玄 関連

         年代順 出来事ブック

             (たけだしんげん かんれんねん

             だいじゅんできごとぶっく)。

          《人物の年代順出来事》。

 

 たけ  武田信玄 ・詳細年表 

             (たけだしんげん しょうさいねん

             ぴょう) 。

          《人物の年表》。

             THE DETAILED CHRONOLOGY 

              OF TAKEDA Shingen.

             (⇒ 日本史年表) 。

 

〇 たけ  武市 半平太

             (たけち はんぺいた)。 《人名》。

          (= 武市 瑞山 ずいざん)。

          (1829年ー1865年)。

             TAKECHI Hanpeita (Zuizan).

 

〇 たけ  竹千代。

             (たけちよ)。 《人名》。

           (= 徳川氏(三河松平氏)本家

          (宗家)・継子の幼名)。

          (= 徳川家康、徳川秀忠、徳川

          家光などの幼名)。

             Takechiyo.

 

             ■ 千代 (たけちよ)は、 徳川氏(三河

             松平氏)本家(宗家)の継子(嗣子(しし))

             が代々名乗る幼名(ようみょう)である 。

             ■ 竹千代 は、 徳川家康、徳川秀忠、

             徳川家光などの幼名である。

          (⇒ 徳川 家康)。

          (⇒ 徳川 秀忠)。

          (⇒ 徳川 家光)。

             ■ 徳川 家康。

          (⇒ 松平 竹千代

        徳川 家康)。

          ○ 徳川家康 : 三河国の国人領

          主、江戸幕府の創設者、初代将軍。 

          ○ 徳川家康の氏名の改名。

          松平 竹千代⇒ 松平 元信⇒ 松平

          元康⇒ 松平 家康⇒ 徳川 家康。

            ■ 徳川家康(とくがわいえやす)は、幼名

            (ようみょう)は松平竹千代 (まつだいら

            たけちよ)である。

            ■ 徳川家康は、 三河国 (みかわのくに、

            現・愛知県東部の相当地域) の国人領主で

            あり、 江戸幕府の創設者、初代将軍である。

             ■ 徳川 家康の氏名の改名 : 

             松平竹千代 (1542年ー1555年)

             松平元信 (1555年ー1557年)

             松平元康 (1557年ー1563年)、

             松平家康 (1563年ー1566年)、

             徳川家康 (1566年ー1616年)。

             ■ 徳川家康は、 幼名は松平 竹千代 (ま

            つだいら たけちよ、1542年ー1555年)と

            称し、 元服(成人)時、松平 元信 (まつだ

            いら もとのぶ、1555年ー1557年)と称し、 

            その後、松平 元康 (まつだいら もとやす、

            1557年ー1563年)と称し、 その後、松平

            家康 (まつだいら いえやす、1563年−

            1566年)と称し、 その後、徳川 家康 (とく

            がわ いえやす、1566年ー1616年)と称す。

             ■ 徳川 家光。

          (⇒ 徳川 家光)。

          ○ 徳川家光 : 江戸幕府の第3

          代将軍。 

              ■ 徳川家光(とくがわいえみつ)は、幼名

              (ようみょう)は徳川 竹千代 (とくがわ

              たけちよ)である。

              ■ 徳川家康は、 江戸幕府の第3代将軍

              である。   

             ■ 江戸幕府・第2代将軍・徳川秀忠の実

             子の男子には、 @ 侍女 (秀忠側室夫

              人、名不詳)との間に、 長丸 (ちょうまる;

             長男、早世)、 A お江 (おごう、秀忠正

             室夫人)との間に二人の男子、 徳川家光

             (とくがわいえみつ、幼名:竹千代(たけち

             よ);次男) と 徳川忠長 (とくがわただ

             なが、幼名:国松(くにまつ);三男)、 B 

             お静 (おしず、お志津、浄光院 ; 侍女、

             秀忠側室夫人)との間に、 保科正之(ほ 

             しなまさゆき)幼名:幸松(こうまつ、ゆき

             まつ);四男) がいた。 

 

〇 たけ  竹中 久作。 

             (たけなか きゅうさく)。 《人名》。

                     (= 竹中 重矩(たけなか しげのり))。

             TAKENAKA Kyusaku (Shigenori).

        (⇒ 竹中 半兵衛)。

             ○ 竹中 半兵衛(重治)の、弟。

             ■ 竹中久作 (たけなか きゅうさく、竹中

             重矩(たけなか しげのり)) は、 竹中 半

             兵衛(重治)の弟である。

             ● 竹中久作(重矩)は、 竹中 半兵衛(重

             治)の稲葉山城奪取時の協力者 である。

 

〇 たけ   竹中 重門。 

             (たけなか しげかど)。 

                      (= 幼名:吉助)。 《人名》。

           (1573〜1631年)。

             TAKENAKA Shigekado.

        (⇒ 竹中 半兵衛)。

             ○ 竹中 半兵衛(重治)の、嫡男。

             ● 竹中 重門 (たけなか しげかど、幼名:

             吉助、1573〜1631年) は、 竹中 半兵

             衛(重治)の、嫡男である。

             ● 竹中 重門は、 黒田官兵衛の嫡男・黒

             田長政(幼名:松寿丸)の幼馴染(おさなな

             じみ) である。

             ● 竹中 重門は、 豊臣氏、徳川氏に仕(つ

             か)え、江戸時代初期に、6000石の江戸幕

             府の旗本 となる。

 

〇 たけ  竹中 重利。 

              (たけなか しげとし)。  《人名》。

             TAKENAKA Shigetoshi.

        (⇒ 竹中 半兵衛)。

          ○ 竹中 半兵衛(重治)の、従兄弟

          (いとこ)。

             ■ 竹中重利 (たけなか しげとし)は、竹中

             半兵衛(重治)の、従兄弟(いとこ)である。

             ● 竹中 半兵衛(重治)の嫡男・竹中重門(し

             げかど)(幼名:吉助) の後見人 であった。

 

〇 たけ  竹中 半兵衛

             (たけなか はんべえ)。  《人名》。

             (= 竹中重治(たけなか しげはる))。

          (1544〜1579年)。

                             TAKENAKA Hanbee (Shigeharu).

          ○ 美濃国(みののくに、現・岐阜県

          南部の相当地域)の武将。

          ○ 美濃国菩提山城・城主。

          ○ 戦国時代、安土桃山時代の

          武将、天才軍師。

          ○ 羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕えた

          優秀な軍師。

                      □ 豊臣氏 画像アルバム 

                        No.1

                      □ 豊臣氏 画像アルバム 

            No.2

             ■ 竹中 半兵衛 (たけなか はんべえ、生没

             年:1544 年ー1579年) は、 美濃国(みの

             のくに、現・岐阜県南部の相当地域) の武将

             である。

             ● 竹中 半兵衛 は、 美濃国菩提山城・城主

             であった。

             ● 竹中 半兵衛 は、 戦国時代、安土桃山時

             代の武将 であり、 天才軍師であった。

             ● 竹中 半兵衛 は、 羽柴秀吉(豊臣秀吉)

             に仕えた優秀な軍師 であった。

 

〇 たけ  竹中半兵衛(重治)関連

                  出来事 (年代順・詳細)

          (たけなかはんべえ(しげはる)かんれんで

             きごと)。 

          《人物関連出来事》。

             THE EVENTS RELATED TO 

             TAKENAKA Hanbee (Shigeharu).

 

〇 たけ  竹御所 

             (たけのごしょ)。 《人名》。

                         1202年〜1234年 )。

                          Takenogosho.

             ■ 竹御所 (たけのごしょ、生没

             年:1202年〜1234年)は、

             源頼家の娘であり、 源頼朝の孫 娘

             である。

             ■ 竹御所は、 源頼家と、源義仲

             の娘(『尊卑分脈』)、または、若狭

             局(わかさのつぼね)との間の娘で

             ある。

             ■ 竹御所は、 1204年(元久元

             年)の父・源頼家暗殺事件後、 

             祖母・北条政子の庇護のもとにあり、

             幕府の政争に巻き込まれることを免

             (まぬが)れる。

             ■ 竹御所は、 北条政子の死後に、

             その実質的な後継者となる。 

                幕府関係者の中で源頼朝の血

             筋を引く唯一の生き残りである竹御

             所は、 幕府の権威の象徴として、

             御家人(ごけにん、将軍家の直臣)

             の尊敬を集め、彼らをまとめる役目

             を果たす。

             ■ 竹御所は、 鎌倉幕府の第4代

             将軍将軍の藤原頼経(ふじわらの

             よりつね)の正 室夫人であったが、

             1234年(天福2年)に夫婦間に子

             がないまま死去する (難産の末男

             児を死産し本人も死去する)。 

                ここに、源頼朝の最後の直系

             子孫の竹御所が子を残さず死去し、 

             源頼朝の直系子孫はいなくなり、  

             源氏将軍の血筋は断絶する。

 

〇 たけ  武野 紹鷗。 

             (たけの じょうおう)。 《人名》。

                           (1502年ー1555年)。

                             TAKENO Joo.

       (⇒ 千利休今井宗久)。

             ■ 武野 紹鷗 (たけの じょうおう) は、

             千利休、今井 宗久、津田宗及の茶道の

             師 である。

             ● 武野 紹鷗は、 堺に住んで、千利休、

             今井宗久、津田宗及に茶道を教えた。

 

 だし   だし。 

          (NHK大河ドラマでの仮称)。

          (= 荒木村重夫人)。

          《人名》。

        (⇒ 荒木村重)。

                   ○ 荒木村重の正室夫人。

                        ● だしは、 荒木村重の正室夫人である。

              ● 荒木村重夫人(NHK大河ドラマでの仮

              称・だし)は、有岡城落城時取り残され捕ま

                           り、 信長への反逆者・荒木村重の親族や

              家臣家族の女性・子供と共に、 信長への

                           反逆者の見せしめとして、京(都)で引き

              回しの上、処刑される。

 

 たじ   太政大臣。

             (だじょうだいじん、だいじょうだいじん) 。

          《官職》。

        (⇒ 太政大臣)。

           (⇒ 近代日本政府)。

           (⇒ 朝廷の官職)。

             ■ 太政大臣じょうだいじん)は、

             明治政府(近代日本政府)の太政官制

             (だじょうかんせい)の太政大臣 である。

             ■ 太政大臣(だいじょうだいじん)は、

             前近代日本の朝廷の律令官制(りつり

             ょうかんせい)の太政大臣である。

 

 たじ   但馬守宗矩。

                 (たじまのかみむね のり)。

          (= 柳生 宗矩)。 《人名》。

          ○ 江戸幕府の惣目付(そうめつ

          け、大監察、後の大目付)。

        (⇒ 柳生 宗矩)。

 

 たじ   但馬 国。

             (たじま のくに)。 《旧地域名》。

                     = 但州(たんしゅう))。 

           (≒ 現・兵庫県本土北部の相当

          地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国名(令制

           国)の正式名)。

             TAJIMA PROVINCE.

                    (⇒ 但州(たんしゅう))。

                    (⇒ 兵庫県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

          ■ 但馬 国。

             <山陰道 (広域地方)。

             ■ 但馬 国 (たじま のくに)は、 律令制

             定後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             旧国名(令制国)の正式名である

             ■ 但州 (たんしゅう)は、  律令制定

             後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             旧国名(令制国)正式名の、但馬 国 (た 

             じま のくに) の別称である。

             ■ 但馬 国(= 但州)は、 現・近畿地方

             の、現在の兵庫県北部 に相当する 地域

                           である。

             ■ 但馬 国(= 但州)は、 五畿七道 (ご

             きしちどう)の山陰道(さんいんどう)・旧

                           広域地方に属する。

 

 たじ   太政官制。 

             (だじょうかんせい)。 《政体》。

          (1868年から1885年までの

          日本近代政府の政体)。

          (⇒ 近代日本政府)。

 

〇 たち  橘 諸兄

             (たちばなの もろえ)。 《人名》。

          (684年ー757年)。

                            TACHIBANA No Moroe.

          ○ 奈良時代の政治家。

 

 たつ  辰の刻。

             (たつのこく)。 《時刻》。

       (⇒ 前近代日本の時刻・

          時法

             ■ 前近代日本の、定時法と不定時法の、

              十二支表示時刻の主要時間区分。

             ■ ≒ 午前7時00分〜午前9時00分。

             ● 辰の刻の正刻 (正辰(しょうしん))

              ≒ 午前8時00分。昼間・午前8時頃。

              ≒ (朝) 五(いつつ)、五つ、五ツ。   

             ○ 辰一刻(辰一つ時)≒

              午前7時00分〜午前7時30分。

             ○ 辰二刻(辰二つ時)≒

              午前7時30分〜午前8時00分。

             ○ 辰三刻(辰三つ時)≒

              午前8時00分〜午前8時30分。

             ○ 辰四刻(辰四つ時)≒

              午前8時30分〜午前9時00分。

 

 たつ  辰巳、巽の方角 。

             (たつみのほうがく)。  《方向》。

             (= 南東の方向)。 

        (⇒ 前近代日本の

          方位

 

 だて  伊達 政宗

             (だて まさむね)。 《人名》。

          (1569年ー1636年)。

                            DATE Masamune.

 

#tana

 

 たな  田中 久重。  

             (たなか ひさしげ)。 《人名》。

                            TANAKA Hisashige.

             ■ 田中 久重 (たなか ひさしげ)は、 江戸

             時代後期の優秀な、からくり師であり、 傑作

             の万年時計(国宝)をつくる。 

                田中 久重は、 明治時代初期に、機械・

             電気技術者となる。

 

 たね  種子島 時堯

             (たねがしま ときたか)。 《人名》。

             (1528 年ー1579年)

                             TANEGASHIMA Tokitaka.

          (⇒ 鉄砲・大砲の利用)。

 

 たま  玉。

             (たま)。 《人名》。

          (= お玉の方、明智 玉(明智 珠、

          あけち たま)、細川ガラシャ)。

                     (1563年ー1600年)。

                             Tama.

          (⇒ 細川ガラシャ)。

          ○ 明智光秀の娘。 美人。

          ○ 細川忠興(ただおき )の寵愛する

           正室夫人。

                     ■ 明智 玉(珠) (あけち たま、= 細川ガラ

             シャ、1563 年ー1600年) は、 明智光秀の

             娘であり、 当時の美人であり、 細川忠興

             ( ほそかわただおき)の寵愛する正室夫人

             であった。

                     ● ガラシャは、クリスチャン・ネームの個人

             名である。

                     ● (注意) 前近代日本では、家父長制の

             夫婦別姓であり、 女性は、婚儀(結婚)の

             有無に関係なく、父の氏(一族名)を生涯所

             持したので、 当時、明智 玉(珠)は、細川

             忠興と婚儀(結婚)後、細川 玉(珠)、細川ガ

             ラシャとは称さなかった。

                細川ガラシャは、後世の人に呼ばれた

             氏名である。

             ● (注意) 前近代日本では、女性は、婚

             儀(結婚)の有無に関係なく、父の氏(一族

             名)を生涯所持したが、通常、名(個人名)

             のみを称し、当時、明智 玉(珠)は、玉(珠)、

             ガラシャという個人名で自他呼称していた。

 

 たま  玉木 文之進

             (たまき ぶんのしん)。  《人名》。

             (1810年ー1876年)。

                             TAMAKI Bunnoshin.

          ○ 吉田松陰の叔父。 

          ○ 長州藩士で、教育者、兵学者。

                    (⇒ 杉 百合之助(常道))。

          (⇒ 吉田 松陰)。

          (⇒ 乃木 稀典)。

                           ■ 玉木 文之進は、吉田松陰の叔父(おじ)

             であり、 長州藩士で、代官職を務め、教育

             者、兵学者であった。

                           ● 玉木 文之進は、甥(おい)の吉田松陰を

              少年期に教育し、兵学者にするために尽力

             する。

             ● 玉木 文之進は、松下村塾 (しょうかそ

             んじゅく、1842年〜1858年、1869年〜

             1876年)の開設者、運営者である。

             ● 1857年から1858年まで、吉田松陰は、

             叔父・玉木 文之進が開いていた松下村塾で

             講義を行い、多くの人材を育てる。

 

 たま  璋子。

             (たまこ、しょうし)。 《人名》。

             (= 藤原 璋子(ふじわらのしょうし・た

              まこ)、待賢門院 たいけんもんいん、

             待賢門院璋子)。

             LADY TAMAKO, LADY SHOSHI.

          (⇒ 藤原 璋子)。

          ○ 鳥羽上皇の正室夫人(中宮)。

          ○ 崇徳上皇、後白河上皇の生

          母。

 

 たま   玉城。

              (たまじょう)。 《陣城》。

              (= 史実(新説)関ケ原の

           戦い(= 大垣・山中の戦い)

                      時に築かれた陣城)。

           (⇒ 陣城(じんじろ))。

          (⇒ 関ヶ原の戦い

           決戦)。

          (⇒ 関ヶ原の戦い)。

          (⇒ 新説(史実)

             関ヶ原の戦い

           大垣・山中の戦い

         大垣の戦い山中の戦い)。

                (⇒ 慶長5年の

                 下分け目の戦い)。

           □ 「史実(新説)

            関ヶ原の戦い

            (= 大垣・山中の戦い)」  

            画像アルバム No.2

           □ 「伝説(従来説)

            関ヶ原の戦い」

            画像アルバム  No.3 

          (⇒ 徳川家康福島正則

             池田輝政)。

          (⇒ 毛利秀元)。

          (⇒ 石田三成宇喜多秀家)。

          (⇒ 大谷吉継小早川秀秋)。

          (⇒ 美濃赤坂大垣城

                           南宮山)。

          (⇒ 山中城山玉城

              松尾山藤下の自害峯)。

          (⇒ 関ヶ原盆地桃配山

                           陣場野笹尾山)。

 

                           ■ 玉城(たまじょう)は、

             関ヶ原盆地の西方にあり、

             岐阜県関ケ原町の山中地区・

             玉地区の城山にある。

             ■ 玉城(たまじょう)は、

             「史実(新説)関ヶ原の戦い

              (= 大垣・山中の戦い)」では、

             1600年(慶長5年)8月より

             9月15日まで、

             西軍(奉行衆 ・毛利方)が、

             陣地を置いた既存準備陣地

             の場所である。

                 しかし、史実(新説)関ヶ

             原の戦いの山中村の決戦の時

             には、

             出撃陣地として使用された可能

             性はあるが、 籠城(ろうじょう)

             陣地としては使用されなかった。

                           ■ 玉城(たまじょう)は、

             史実(新説)関ケ原の戦い(大垣・

             山中の戦い)の西軍(奉行衆・毛

             利方)の陣城 (じんじろ、合戦時

             の臨時の城)である。

                           ■ 安土桃山時代に構築された 

             玉城は、 近年に、航空測量時

             の赤色測量図で、発見される。

                           ■ 玉城 (たまじょう)は、 

              史実(新説)関ケ原の戦い(大垣・

              山中の戦い)の山中村の決戦

              では、

             西軍(奉行衆・毛利方)は、

             玉城を出撃陣地として使用し玉城

              から西軍が出撃して戦ったか、

              または、玉城を使用しなかったか、

              どちらかの可能性が高い。

             ■ 西軍は玉城で籠城せず。

             ● 山中村付近には、 関ヶ原

              の戦い時、城山(しろやま)に

              西軍(奉行衆・毛利方)が築い

              た既成準備陣地の、陣城(じん

              じろ、陣地の城)の玉城(たまじ

              ょう)があった。

                 しかし、玉城には、十分な

              兵糧(ひょうりょう)と水(井戸、

              湧き水)がなく、 西軍(奉行

              衆・毛利方)の約2万人の兵が

              籠城するには、不十分であり、

              1600年(慶長5年)9月15日

              午前10時頃〜正午頃の関ヶ

              原の戦いの山中村での決戦時

              には、

              西軍(奉行衆・毛利方)は、

                              織田秀信の岐阜城出撃のよう

              に、玉城を出撃陣地として使

               用し玉城から西軍が出撃して

               戦ったか、または、玉城を使

               用しなかったか、どちらかの

                              可能性が高い。

 

                  ■ 「史実(新説)関ヶ原の戦

               い(= 大垣・山中の戦い)」の

               決戦での 、西軍(奉行衆・毛

               利方)の主力軍の動き。

              ● 西軍(奉行衆・毛利方)

               の主力軍 (小西、石田、

               宇喜多、島津等の軍) は、

              @ 西軍(奉行衆・毛利方)

               の主力軍は、

               1600年(慶長5年)9月

               14日夜に、

               大垣エリアの大垣城 

               (おおがきじょう、関ヶ原

                                  盆地の東方)を出発

               (1600年(慶長5年)

                9月14日夜)⇒

               ○ 西軍(奉行衆・毛利方)は、

               9月14日夜に、大垣城で、 

               協議して、西軍(奉行衆・毛利

               方)を、主力軍と大垣城守備

               残留軍の2つに分ける。

               ○ 西軍(奉行衆・毛利方)の

               主力軍は、山中村 (やまなか

               むら、関ヶ原盆地の西方・約2

               km) に向かう。

               ○ 西軍(奉行衆・毛利方)の

               大垣城守備残留軍は、大垣城

               に残留し、大垣城を守備する。

              A 西軍(奉行衆・毛利方)の

               主力軍は、9月15日未明に、

               山中村 (やまなかむら、

               関ヶ原盆地の西方・約2km)

               に布陣する。

               〇 西軍(奉行衆・毛利方)の

               主力軍は、

               山中村付近の城山にある

               既存準備陣地の玉城(たまじ

               ょう)を、出撃陣地として使用

               した可能性がある。

               (9月15日未明)⇒

              B 西軍(奉行衆・毛利方)の

               主力軍は、9月15日午前10

               時頃から正午頃まで、山中村

               で、東軍(徳川方)の主力軍と

               交戦(決戦を行う) 

               (9月15日午前10時頃〜

                正午頃)⇒

              C 9月15日正午頃、山中村

               で、西軍(奉行衆・ 毛利方)の

               主力軍は、総崩れ、敗走、敗

               戦となり、東軍(徳川方)の

               主力軍がに西軍(奉行衆・ 毛

               利方)の主力軍に対し決戦で

               勝利を得る

               (9月15日正午頃)。

 

 たま  珠姫。 

             (たまひめ) 。 《人名》。

             (= 徳川秀忠の次女)。

                LADY TAMAHIME.

          ○ 江戸幕府・第2代将軍・徳川

          秀忠の次女。 

          ○ 秀忠とお 江との間の娘。

        (⇒ お江(おごう)徳川秀忠) 。

 

 たみ  多美(子)。

             (たみ(こ))。 《人名》。

              (= 秋山多美子、佐久間多美子)。

                Tami (Tamiko).

          ○ 秋山好古の妻(夫人)。

        (⇒ 秋山多美子)。 

 

 たゆ  太夫。 

             (たゆう) 。 《遊女の身分・地位》。

             (= 遊廓での最高位の遊女)。

                TAYU GIRL(S).

          ○ 江戸の吉原遊廓では、一時

           期、太夫を「花魁」(おいらん)と呼

           んだ。 

          (⇒ 遊女吉原遊郭)。

             ■ 太夫 (たゆう)は、遊廓(ゆうかく)で

             の最高位の遊女である。

 

#tara

 

 たる  善仁親王。 

             (たるひとしんのう) 。 《人名》。

                    (= 堀河(ほりかわ)天皇)。

                    (生没年:1079年ー1107年)。

              PRINCE TARUHITO.

          (⇒ 白河上皇)。

                       ○ 天皇在位:

          1086年ー1107年。

             ○ 白河(しらかわ)上皇(天皇)の

          皇子(みこ)

          ○ 鳥羽(とば)天皇(上皇)の父 。

 

 たん  短歌。

             (たんか)。 《和歌》。

             TANKA POEM(S).

          (⇒ 和歌)。

             ■ 短歌 (たんか)は、

             和歌の1つの形式の詩歌で

             ある。 

 

 たん  丹後 国。 

             (たんご のくに)。 《旧地域名》。

          (≒ 現・京都府北部の相当

            地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国名(令制

           国)の正式名)。

             TANGO PROVINCE.

                    (⇒ 丹州(たんしゅう))。

                    (⇒ 京都府)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

          ■ 丹後 国。

             <山陰道 (広域地方)。

             ■ 丹後 国 (たんご のくに)は、律令制

             定後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             旧国名(令制国)の正式名である

             ■ 北丹(ほくたん)や奥丹(おくたん)は、

             律令制定後・古代・中世・近世日本・旧地

             域名の、旧国名(令制国)正式名の、丹後

             国 ( たんご のくに)の 別称である。

             ■ 丹州 (たんしゅう)は、 律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             国名(令制国)正式名の、丹後国( たん

             ごのくに、現・京都府北部)  と 丹波国

             (たんば のくに、現・京都府中部) のい

             ずれか、または 、両国を合わせて呼ぶ

             別称である。

             ● 両丹(りょうたん)は、 丹後国 、丹波

             の両国を合わせて呼ぶ別称である。

             ■ 丹後国(= 北丹奥丹)は、 現・近畿

             地方の、現在の 京都府北部 に相当する

                           地域である。

             ■ 丹後国(= 北丹奥丹)は、 五畿七

             道(ごきしちどう)の山陰道(さんいんどう)

                          ・旧広域地方に属する。

 

 だん  男爵。

          (だんしゃく)。 《旧社会身分》。

             BARON(S).

        (⇒ 華族)。 

             ■ 男爵は、 近代日本(明治、大正、昭

             和戦前時代)の社会的身分の貴族である

             華族(かぞく)であり、 華族の公・侯・伯・

             子・男爵(こう・こう・はく・し・だん  しゃく)

             の5番目の地位・身分である。

 

 たん  淡州

             (たんしゅう)。 《旧地域名》。

          (= 淡路 ( あわじ のくに))。

          (≒ 現・兵庫県淡路島)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国名(令制

           国)の別称)。

             AWAJI TANSHU AREA.

                    (⇒ 淡路 国)。

                    (⇒ 兵庫県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

             ■ 淡州 (たんしゅう)は、  律令制定

             後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             旧国名(令制国)正式名の、淡路 国 

             (あわじのくに) の別称である。

                           ● 淡州(= 淡路 国)は、 南海道(なん

             かいどう)・広域地方に属し、現・近畿地

             方の、現在の 兵庫県淡路島に相当する

             地域である。

 

 たん  但州。

             (たんしゅう)。 《旧地域名》。

          (= 但馬 ( たじま のくに))。

          (≒ 現・兵庫県本土北部の相当

          領域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国名(令制

           国)の別称)。

             TAJIMA TANSHU AREA.

                    (⇒ 但馬)。

                    (⇒ 兵庫県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

             ■ 但州 (たんしゅう)は、  律令制定

             後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             旧国名(令制国)正式名の、但馬 国 

             (たじま のくに) の別称である。

                           ● 但州(= 但馬 国)は、  山陰道(さん

             いんどう)・広域地方に属し、現・近畿地

             方の、現在の兵庫県 本土北部に相当す

             る地域である。

 

 たん  丹

             (たんしゅう)。 《旧地域名》。

          (= 丹後、 丹波国)。

          (= 両丹(りょうたん))。

          @ 丹後(たんごのくに)現・

          都府北部の相当地域)、 A 

                     丹波国(たんば のくに)(現・京都

          府中部の相当地域)。 

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国名(令制

           国)の別称)。

             TANSHU AREA OF TANGO 

             AND TANBA.

                    (⇒ 丹後 丹波国)。

                    (⇒ 京都府)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

             ■ 丹州 (たんしゅう)は、 律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             国名(令制国)正式名の、丹後国( たん

             ごのくに、現・京都府北部)  と 丹波国

             (たんば のくに、現・京都府中部) のい

             ずれか、または 、両国を合わせて呼ぶ

             別称である。

             ● 両丹(りょうたん)は、 丹後国 、丹波

             の両国を合わせて呼ぶ別称である。

                            ● 丹州(= 丹後丹波国)は、 山陰道

             (さんいんどう)・広域地方に属し、現・近

             畿地方の、現在の京都府北部京都府

             中部に相当する 地域である。

 

 たん  丹波 国。

             (たんば のくに)。 《旧地域名》。

          (≒ 現・京都府中部)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国名(令制

           国)の正式名)。

             TANBA PROVINCE.

                    (⇒ 丹州)。

                    (⇒ 京都府)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名

          ■ 丹波 国。

             <山陰道 (広域地方)。

             ■ 丹波 国 (たんば のくに)は、律令制

             定後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             旧国名(令制国)の正式名である

             ■ 丹州 (たんしゅう)は、 律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             国名(令制国)正式名の、丹後国( たん

             ごのくに、現・京都府北部)  と 丹波国

             (たんば のくに、現・京都府中部) のい

             ずれか、または 、両国を合わせて呼ぶ

             別称である。

             ● 両丹(りょうたん)は、 丹後国 、丹波

             の両国を合わせて呼ぶ別称である。

             ■ 丹波 国は、 現・近畿地方の、現在の

             京都府中部 に相当する地域である。  

             ■ 丹波 国は、 五畿七道 (ごきしちどう)

             の山陰道(さんいんどう)・広域地方に属する。

 

 

 

   ● 五十音順 (あいうえお順)。

 

 

   ■  『 現在は、過去の成果であり、

       未来は、現在の成果である。 

         (良き現在は、過去の人々の良き努力

          や活動の積み重ねの成果であり、 

          明るい良き未来は、現在の人々の、

          良き努力や活動の積み重ねによって

          形成される。)

 

 

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#jpdictionary(general)

 

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#ta

 

◆ 派生見出し語サイト。

■ 「た」 基本・見出し語WEBサイト No. ja−ta  

   の、派生見出し語サイト。

 

■ No. ja−ta−0221。

● 見出し語項目 た   ( い 02 / か 21

   付近  第1部・い・カ行グループ )。

〇 たい  大化の改新

             (たいかのかいしん)。

 

■ No. ja−ta−0230。

● 見出し語項目 た   ( い 02 / い 30

  付近  第1部・い・総合グループ )。

〇 たい  太陰太陽暦 

             (たいいんたいようれき)。(= 旧暦)

          (日本の太陰太陽暦、690年

           〜1872年 )。

 

■ No. ja−ta−0233。

● 見出し語項目 た   ( い 02 / し 33   

  付近  第1部・い・サ行グループ )。

○ たい  大正 (たいしょう) 。 

          (1912〜1926年)。

 たい  大正時代 (たいしょうじだい)

          ○ 1912〜1926年。

 

■ No. ja−ta−0239。

● 見出し語項目 だ   ( い 02 / そ 39   

  付近  第1部・い・サ行グループ )。

〇 だい  大初位 (だいそい)。

〇 だい  大初位上 (だいそいのじょう)。

〇 だい  大初位下 (だいそいのげ)。

 

■ No. ja−ta−0250。

● 見出し語項目 た  か〜へ ( い 02 / か〜へ 

   付近 50  第1部・い・カ行〜ハ行総合グループ )。

 

■ 派生見出し語移動案内ページ。

〇 たい  大化の改新 (たいかのかいしん)

〇 たい  太平洋戦争 (たいへいようせ

             んそう)。

 

■ No. ja−ta−0267。

● 見出し語項目 た   ( い 02 / へ 67 

   付近  第1部・い・ハ行グループ )。

〇 たい  太平洋戦争 (たいへいようせ

             んそう)。

 

■ No. ja−ta−0270。

● 見出し語項目 た  よ〜ら ( い 02 / よ〜ら 

   70 付近  第1部・い・ヤ行・ラ行・ワ・ン総合グループ )。

〇 たい  太陽暦 (たいようれき )

          (=日本の太陽暦、1873年〜

                     現在)。

〇 たい  太陽暦の採用 (たいようれき

        のさいよう) (1872 〜73)

〇 たい  平 清盛 (たいらの きよもり) 

       ( 1118〜81)

〇 たい    平 将門 (たいらの まさかど)

          (生年不詳 ? 〜 940年)

 

■ No. ja−ta−0291。

● 見出し語項目 た   ( い 02 / ら 91  

   付近  第1部・い・ラ行・ワ・ン・グループ )。

〇 たい  平 清盛 (たいらの きよもり)

       (1118〜81年)

〇 たい  平 清盛 簡略年表 (たいら

             のきよもり かんりゃくねんぴょう)

 

■ No. ja−ta−0292。

● 見出し語項目 た   ( い 02 / ら 92  

  付近  第1部・い・ラ行・ワ・ン・グループ)。

〇 たい  平 重盛 (たいらの しげもり)

             (平清盛の長男)

〇 たい  平 基盛 (たいらのもともり)

             (平清盛の次男)

〇 たい  平 宗盛 (たいらのむねもり)

             (平清盛の三男)

〇 たい  平 知盛 (たいらのとももり)

             (平清盛の四男)

〇 たい  平 重衡 ( たいらのしげ ひら)

             (平清盛の五男)

〇 たい  平 徳子 (たいらのとくこ)

             (平清盛の娘) 

 

■ No. ja−ta−0293。

● 見出し語項目 た   ( い 02 / ら 93  

  付近  第1部・い・ラ行・ワ・ン・グループ)。

〇 たい  平 正盛 (たいらの まさもり)

             (平清盛の祖父)

〇 たい  平 忠盛 (たいらの ただもり)

          (平清盛の父)。

〇 たい  平 忠正 (たいらの ただまさ)

          (平清盛の叔父)

〇 たか  高階基章の娘 (たかしな

                          のもとあきのむすめ)

          (平清盛の正室夫人、先妻)。

〇 たい  平 時子 (たいらのときこ) 

          (平清盛の正室夫人、後妻)

〇 たい  平 時忠 (たいらのときただ) 

             (公家(堂上平氏)

          (平 時子の同母弟)。

〇 たい  平 滋子 (たいらの しげこ) 

          (平時子の異母妹)

          (後白河上皇の夫人)。 

             (建春門院 (けんしゅんもんいん))。

 

■ No. ja−ta−0294。

● 見出し語項目 た   ( い 02 / ら 94 

  付近  第1部・い・ラ行・ワ・ン・グループ )。

〇 たい  平 家盛 (たいらの いえもり)

             (平清盛の異母弟)

〇 たい  平 経盛 (たいらのつねもり)

          (平清盛の異母弟)

〇 たい  平 教盛 (たいらののりもり)

          (平清盛の異母弟)

〇 たい  平 頼盛 ( たいらのよりもり)

          (平清盛の異母弟)

〇 たい  平 忠度 (たいらのただのり)

          (平清盛の異母弟)

 

■ No. ja−ta−0930。

● 見出し語項目 た   ( け 09 / だ 30

  付近  第1部・け・総合グループ、 「武田」単独

  グループ  )。

 たけ  武田家 (武田氏)

       (たけだけ、たけだし)

 たけ  武田 勝頼 (たけだ かつより)

          (= 諏訪勝頼)(1546〜82)。  

 たけ  武田 勝頼 詳細年表 。  

 

■ No. ja−ta−0933。

● 見出し語項目 た   ( け 09 / だ 33

   付近  第1部・け・総合グループ、 「武田」単独

   グループ  )。

 たけ  武田 信玄 (たけだ しんげん) 

       (1521〜73)。  

 たけ  武田 信玄 詳細年表 。  

 

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#thedairiimperialresidence

 

■ 内裏 

     (だいり)

 

■ 内裏。

■ 名称 : 内裏 (だいり)。

■ 英語名 : 

   THE DAIRI IMPERIAL RESIDENCE.

   THE DAIRI IMPERIAL DOMICILE.

■ 《天皇》、《天皇家》、《朝廷》。

■ 内裏とは、 前近代日本の、天皇の住居、居所、

  天皇の住む御殿、天皇御所をいう。

▲ 京(きょう)に関しては、「」、「宮城、「内裏

     を 参照してください。

▲ 京(きょう)の移動に関しては、 「飛鳥京」、

  藤原京」、  平城京 」、 「長岡京」、 

     平安京」を参照して ください。

▲ 宮城 (きゅうじょう、= 天皇の宮殿)に関して

  は、 「宮城、 内 裏(だいり)」、 「大極殿

  (だいごくでん)」、 「朝 堂 院(ちょうどういん)」

  曹司(ぞうし)」 などを参照してください。

▲ 内裏 (だいり、= 天皇の住居)に関しては、

   「内 裏を参照してください。

▲ 天皇に関しては、天皇」、「天皇家」、「朝廷」を 

  参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 01025。

 

 

■ 内裏 (だいり)とは、 天皇の住居、居所、天皇の

  住む御殿、天皇御所であり、 前近代日本の天 皇

  御所である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

◆ 平安京の内裏。

■ 平安京(= 京都、京の都)>平安宮(= 大内裏)>

  内裏。

 

■ 京都の平安京(へいあんきょう)では、 平安京

  の中に、宮城(きゅうじょう)の平安宮 (へいあん

  きゅう、= 大内裏(だいだいり) があり、 平安宮

  (= 大内裏)の中に、内 裏 (だいり、天皇御所、

  天皇私邸)がある。

 

■ 平安京の、平安宮内にあった、内裏(だいり、=天

  皇の住居)は、 平安時代から鎌倉時代中期まで

  断続的に続き、その後は、明治2年(1869年)ま

  で、本来の内裏跡地以外の京都(平安京)の各所

  で、里内裏(さとだいり、= 天皇の仮御所)という形

  式で存続した。

 

■ 内裏 (だいり)は、 天皇御所で、 天皇の在所

  である。

     平安京(へいあんきょう)では、 平安京の北

  辺に、宮城(きゅうじょう)である平安宮(へいあん

  きゅう、= 大内裏(だいだいり)) があり、 その内

  部に、内裏があった。

     その平安京の本来の内裏(だいり)の場所は、 

  京都市上京区下立売通付近であり、 現在の京都

  御所(京都市上京区京都御苑)の北西に位置して

  いる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 平安京の、里内裏。

■ (5) 京都の平安京内の、平安宮(へいあん

  きゅう、=大内裏(だいだいり))内の、内裏 (だ

  いり、天皇御所)は、 鎌倉時代中期以後、平安

  京の本来の内裏の地に内裏が再建されること

  はなくなり、 平安京の内裏は、京都(平安京)

  の各所に、里内裏 (さとだいり、天皇の仮御所、

  平安京の本来の内裏の地以外の場所にある臨

  時の内裏) として、京都の各所に置かれた。

 

● 里内裏 (さとだいり)とは、 天皇の仮御所であり、

  平安京の本来の内裏の地以外の場所にある臨時

  の内裏(天皇御所)である。

      里内裏は、 平安宮の本来の内裏の地に建

  つ内裏が火災などで使用不能となった時に、臨時

  に使用される内裏である。

 

■ 里内裏 (さとだいり)は、 平安時代中期以降出

  現し、 天皇の私邸、仮御所であり、 平安宮内裏

  (へいあんきゅうだいり)に対する私邸の内裏(だい

  り、天皇の住む御殿、天皇御所、皇居)であり、 平

  安宮(へいあんきゅう、= 大内裏(だいだいり))内の

  本来の内裏以外の、天皇の在所(天皇御所、皇居) 

  である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 本来の平安宮の内裏 (だいり、天皇御所)は、

  平安京が出来た当初は、現在の京都御所の

  北西にあった平安宮(= 大内裏(だいだいり))

  の中に置かれていた。 その後、内裏は、火災

  などが相次ぎ、平安宮(= 大内裏)を離れ、平安

  時代中期以降、平安京内を転々と移った。 この

  本来の平安宮(= 大内裏)を離れた、内裏(天皇

  御所)を、里内裏 (さとだいり、天皇の仮御所

  という。

     里内裏(天皇の仮御所)は、室町時代前期

  (南北朝時代)以後、 (現在の京都御所のある)

  京都御苑の中あるいはその周辺に長く置かれた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 平安京の本来の内裏は、 平安時代 に度重なる

  火災で焼失後、しばしば、天皇の在所を一時的に

  他所へ移した。 その場合、後院(天皇退位後の

  在所)や天皇外戚の邸宅などが仮皇居の里内裏

  (さとだいり、天皇の仮御所)として用いられた。 

     しかし、平安時代後期以降は、平安京の本来

  の内裏が荒廃し、  里内裏天皇の仮 所)を 皇居

  (天皇御の在所)とすることが一般化した。 

      里内裏天皇の仮御所の1つに、土御門東

  洞院 殿(つちみかどひがしのとういんどの) がある。

     現在の京都御所は、 里内裏(仮御所)の土

  御門東洞院殿を拡張した御所である。 

     土御門東洞院殿は、 本来の平安 宮内裏の南

  東に位置し、 現在の 京都御所(京都市上京区京

  都御苑)の位置にあった。 土御門東洞院殿は、

  平安時代後期に、善仁(たるひと)親王(堀河天皇)

  が即位前に使用した御所であり、 六条・高倉天皇

  の里内裏(天皇の仮御所)であった。 

     土御門東洞院殿は、 鎌倉時代末期に、光厳

  (こうごん)天皇の里内裏天皇の仮御所となり

  その後、室町時代前期(南北朝時代)にたびたび

  北朝の里内裏天皇の仮御所)となり、 室町時代

  中期以降、主要な里内裏天皇の仮御所) として、 

  明治2年(1869年)の東京遷都まで、 天皇の里

  内裏(仮御所)として使用された。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 京、宮城、内裏。

■ 京 (きょう)とは、 皇居のある土地であり、 天

  皇が住む都市であり、 朝廷の所在地であり、 

  天皇の住居(= 内裏(だいり))、天皇の宮殿(= 宮

  城(きゅうじょう))がある都市をいう。

 

■ 京 (きょう)とは、 天皇の宮殿(= 宮(きゅう))

  を中心とする都市である。

 

■ 宮城 (きゅうじょう、= 宮(きゅう))とは、 天皇

  の宮殿をいう。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 内裏 (だいり)とは、 前近代日本の、天皇の

  住居、居所、天皇御所をいう。

 

 

■ 天皇の宮殿は、日本の歴史では、 宮城(きゅうじ

  ょう)都宮 (ときゅう)、大内裏(だいだいり)) 

  などと 呼ばれた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。            

 

■ 宮城 (きゅうじょう、= 天皇の宮殿)は、 古代日

  本の時代において、藤原宮、平城宮、長岡宮、平

  安宮では、 内裏 (だいり、=天皇の住居、天皇御

  所)、 大極殿 (だいごくでん、国家儀式等を行う 

  建物)、 朝堂院 (ちょうどういん、国家政務等を

  行う建物)、 曹司(ぞうし、官人が実務をとる中央

  官庁) などから構成されていた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

         

 

■ 古代日本中期から近世日本までの、日本の主要

  な、宮城 ( きゅうじょう、= 天皇の宮殿)を中心と

  する都市 と その変遷は、  

   (1) 飛鳥京 (あすかきょう、奈良県明日香

      村付近、6世紀頃 から694年まで)、 

   (2) 藤原京 (ふじわらきょう、奈良県橿原

      市付近、694年ー710年)、 

   (3) 平城京 (へいじょうきょう、奈良県奈

      良市付近、710年ー740年・745年

      ー784年)、 

   (4) 長岡京 (ながおかきょう、京都府向日

      市・長岡京市・京都市南部付近、784年

      ー794年)、

   (5) 平安京 (へいあんきょう、京都府京都

      市付近、794年ー1869年、別名:京都、

      京の都(きょうのみやこ)) 

   の順序で、概(おおむ)ね、移動した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 日本の主要な宮城 ( きゅうじょう、= 天皇の宮

  殿) と その変遷は、

   (1) 飛鳥宮 (あすかきゅう、飛鳥京の諸宮、

     飛鳥地域の諸宮城の総称、奈良県明日香

     (あすか)村付近)、

   (2) 藤原宮 (ふじわらきゅう、奈良県橿原

     市付近)、

   (3) 平城宮 (へいじょうきゅう、奈良県奈

     良市付近)、 

   (4) 長岡宮 (ながおかきゅう、京都府向日

     市付近)、 

   (5) 平安宮 (へいあんきゅう、京都府京都

     市付近) 

   の順序で、概(おおむ)ね、移動した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 日本の主要な宮城( きゅうじょう、= 天皇の宮殿)には、

  (1) 飛鳥宮 (あすかきゅう、飛鳥京の諸宮、飛鳥地

  域の諸宮城の総称、奈良県明日香(あすか)村付近、

  6世紀頃ー694年)、 

 

  (2) 藤原宮(ふじわらきゅう、藤原京の宮城、奈良県

   橿原市(かしはらし)付近、

   694年ー710年)、 

 

  (3) 平城宮 (へいじょうきゅう、平城京の宮城、奈良

   県奈良市(ならし)付近、

   710年ー740年・745年ー784年)、 

 

  (4) 長岡宮 (ながおかきゅう、長岡京の宮城、京都

   府向日市(むこうし)付近、

   784年ー794年)、 

 

  (5) 平安宮 (へいあんきゅう、= 平安京の宮城)、

   京都府京都市付近、本来の平安宮は平安時代末

   期まで、京都府京都市上京区(かみぎょうく)付近、

   794年ー1177年頃)、

   などがある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#taigensessai

 

■ 太原雪斎  

      (たいげんせっさい)。

 

■ 太原雪斎。 

■ 名称 : 太原雪斎 (たいげんせっさい)。

■ 英語名 : TAIGEN SESSAI.

■ 別名 : 太原崇孚 (たいげんすうふ)、 雪斎(せ

  っさい)。

■ 《人名》 禅僧、政治顧問、軍師

■ 生没年: 1496年ー1555年

■ 室町時代後期(戦国時代)の、 学識のある禅僧。 

■ 今川義 元の政治顧問、軍師。  

■  今川義元(よしもと)の教育係。

■ 松平元康(= 徳川家康)の教育係という説もある。

■  今川義元、寿桂尼、今川氏真、徳川家康に関して

  は、「今川義元」、「寿桂尼」、 「今川氏真」、「徳川

  家康」を参照してください.

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 81315。

           

 

■ 太原雪斎(たいげんせっさい)とは、 太原崇孚(た

     いげんすうふ)、 雪斎(せっさい) である。

■ 太原雪斎は、 今川義元の教育係であった。 

■ 太原雪斎 (たいげんせっさい、生没年: 1496年ー

  1555年)は、 室町 時代後期(戦国時代)の、学識

  のある禅僧で あり、 臨済宗(りんざいしゅう)の僧で、

   今川義元により駿河・臨済寺の住持(じゅうじ)に迎

  えられる。

 

■ 太原雪斎は、今川義元の政治顧問、軍師でもあっ

  た。 

■ 太原雪斎は、 駿河・今川氏の家臣・庵 原(いはら)

  氏の出身で、 今川義元の政治顧問、軍師として活

  躍した。  

 

■ 太原雪斎 (たいげんせっさい、1496 年ー155

  5年) は、 今川義元の教育係 であった。

    太原雪斎 は、 父方は駿河の今川氏の譜代

  の重臣の庵原(いはら)氏で、 秀才と言われ、 

  京(都)の建仁寺で修行し、 学識のある禅僧で

  あった。 

     駿河(するが、静岡県中部)の戦国大名・今

  川氏親(うじちか)から、帰国して今川氏に仕える

  ように要請され、 氏親の五男の今川義元(芳菊

  丸)の教育係となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 松平元康(= 徳川家康)。

■ 今川 義元は、 自分の師であり学識のある禅

  僧の太原雪斎を、松平元康(= 徳川家康)の教

  育係として就(つ)けたという説がある。

■ 今川 義元は、 今川家の人質となった松平家の

  松平元康(= 徳川家康)を優遇し、 一流の教育

  を受けさせた。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 太原雪斎は、 松平元康(まつだいらもとやす、=

  徳川家康、1542年−1616年)の教育係という

  説がある。 

     太原雪斎は、 徳川家康の今川氏人質時代

  (1549年ー1560年)に、青少年期の徳川家康の

  人格を形成した人物と言われている。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 太原雪斎が登場する興味深 い、

    ドキュメタンリー、ドラマ、映画。

 

★ 太原雪斎が登場する興味深 い、

   ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実)

   と 架空の出来事が 混じって描かれています。

   また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 おんな城主 直虎 (おんな

      じょうしゅ なおとら) 』 。 

   (NHKテレビ・2017年大河ドラマ)。

■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土桃山

   時代の時代状況やその時代に活躍した人々

  を描く。

● 今川 義元を演じる俳優 : 春風亭 昇太。

● 寿桂尼(じゅけいに)を演じる女優 :  

   浅丘ルリ子。

● 今川氏真(うじざね)を演じる俳優  : 

   尾上 松也。

 

■ 『 風林火山 (ふうりんかざん) 』 。 

   (NHKテレビ・2007年大河ドラマ)。

■ 日本の室町時代後期(戦国時代)の時代

  状況やその時代に活躍した人々を描く。

■ 今川 義元の、駿河(静岡県)の守護(国主)

  就任から、 武田氏や北 条氏との戦い、

  武田氏の信濃の征服などを描 いている。

 

● 太原雪斎を演じた俳優  : 伊武 雅刀 

  (いぶ まさとう)。

 

● 今川 義元を演じた俳優 : 谷原 章介。

● 寿桂尼を演じた女優   : 藤村 志保。

● 今川氏輝を演じた俳優  :  五宝 孝一。

● 今川氏真を演じた俳優  :  風間 由次郎。

 

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#tairo

 

■ 大老  

     (たいろう)

 

■ 大老。

■ 名称 : 大老 (たいろう)。

■ 《役職名》。

■ 豊臣氏大老。

■ 江戸幕府(徳川政権、徳川氏宗家(本家))・大老。

● 江戸幕府の役職名、重役(要職)。

● 将軍を補佐して、幕政(幕府の政治、国政)を

  指揮する最高職

● 常置でなく、1人で、老中の上位にある役職。

 

 

■ 豊臣氏大老。

● 豊臣氏大老は、 豊臣政権の家臣の最高職で

  あり、豊臣政権の(役)職名、重役(要職)である。 

              

■ 江戸幕府(徳川政権、徳川氏宗家(本家))・大老。

 

● 江戸幕府(徳川政権、徳川氏宗家(本

   家))・大老は、江戸幕府(徳川政権)の家

   臣の最高職であり、 江戸幕府の(役 )職

   名、重役(要職)である。

● 江戸幕府(徳川氏宗家(本家))・大老は、

  江戸幕府の将軍を補佐して、幕政(幕府の

  政治、国政)を指揮する最高職であり、

  常置でなく、1人で、老中の上 位にある役

   職であった。

     (⇒ 五大老、豊臣氏五大老・五

   奉行豊臣政権豊臣氏)。

  (⇒ 江戸幕府徳川政権徳川氏)。

 

■ 大老 (たいろう)は、 江戸幕府の役職名で、 

  重役(要職)であり、 江戸幕府の将軍を補佐

  して、幕政(幕府の政治、国政)を指揮する最

  高職 である。

     大老は、将軍に直属し、1人で、常置でな

  く、老中の上位にある、将軍の家臣で最高職 

  である。

    

■ 大老は、 江戸幕府で、1636年の酒井忠世に

  始まり、計13名が就任した。 

    大老は、10万石以上の譜代大名(ふだいだ

  いみょう)から任じられ、 井伊、酒井などの名門

  の譜代大名が、ほとんど、独占した。

    大老は、常置でない、 老中を指揮して、 政

  務を総理する江戸幕府の政治(幕政)の最高執

  政職 である。

 

■ 江戸幕府重役には、 上位順に、 大老(た

  いろう)、 老中首座(ろうちゅうしゅざ)、 老中

  (ろうちゅう)、 若年寄(わかどしより) などが

  いた。

    その他の江戸幕府の重役には、 将軍に近

  侍(きんじゅう)する側用人(そばようにん) など

  がいた。

 

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#tamakibunnoshin

 

■ 玉木文之進 

     (たまき ぶんのしん)。

 

■ 玉木 文之進。

■ 名称 : 玉木 文之進 (たまき ぶんのしん)。

■ 吉田松陰の叔父。 

■ 長州藩士で、教育者、兵学者。

■ 松下村塾 の開設者、運営者。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61213。

 

 

■ 玉木 文之進 (たまき ぶんのしん、生没年:

  1810〜1876年) は、 吉田 松陰(よしだ

  しょういん)の叔父(おじ)であり、 長州藩・藩

  士で、幕末の長州藩では代官職を務め、教育

  者、兵学者であった。

 

■ 吉田 松陰の祖父である、杉 常徳(杉 七兵衛)

  の実子には、 杉 百合之助 (すぎ ゆりのすけ、

  杉 常道、吉田松陰の実父)、 吉田大助 (吉田

  家の養子となる)、 玉木 文之進 (玉木家の養

  子となる) がいた。

 

■ 玉木 文之進は、 1810年に、萩で、杉 常徳

  (杉 七兵衛)の3男として生まれ、1820年に、

  40石取りの玉木正路(十右衛門)の玉木家の

  養子となる。

 

 玉木 文之進は、 玉木家の親類の乃木家よ

  り、養子を得る。 養子の玉木正誼 (乃木稀

  (のぎ まれすけ)の兄弟) である。

 

■ 1834年に、 吉田 松陰 (杉 寅次郎(矩方)、

  生没年:1830〜1859年)  は、 叔父(お

  じ)の兵学師範の吉田大助の養子となり、 以

  後、吉田寅次郎と称 す。

     1835年に、吉田大助が死去したため、 

  吉田 松陰は、別の叔父の玉木文之進の運営

  する松下村塾で指導を受けた。

 玉木 文之進は、 甥(おい)の吉田松陰(よし

  だしょういん)を少年期に教育し、兵学者にす

  るために尽力(じんりょく)する。

    玉木 文之進の甥(おい、実兄の子吉田

  松陰は、 1834年に、 幼少期に吉田家の兵

  学者の吉田大助(吉田賢良、吉田松陰の叔父)

  の養子となったが、 間もなく、1835年に吉田

  大助が亡くなり、 亡き兵学者の吉田大助に代

  わって、 吉田松陰の叔父で兵学者の玉木 文

  之進が、 少年期の吉田松陰を、立派な兵学者

  にするため、教育した。

          

■ 玉木 文之進は、  私塾の、松下村塾 (しょうか

  そんじゅく、1842年〜1858年、1869年〜18

  76年)の開設者、運営者である。

● 玉木 文之進は、1842年に、私塾の松 下村塾を

  開設する。 

     玉木 文之進は、 松下村塾を1858年に 一

  旦閉鎖するが、 1869年(明治2年)に再開し、

  1876年(明治9年)まで存続させた。

● 玉木 文之進は、 私塾の松下村塾で、少年期

  の吉田松陰や乃木稀典(のぎ まれすけ)、その他

  の多くの子弟(年少者)を教育した。

 

■ 吉田松陰は、 1857年から1858年までの間、

  叔父・玉木 文之進が開いていた松下村塾で、講

  義を行い、多くの人材を育てた。

 

 玉木 文之進は、 幕末、長州藩では、代官職

  を務め、 1869年(明治2年)に引退し、私塾

  の松下村塾(1842年〜1858年、1869年〜

  1876年)を再開し、子弟の教育に務めた。

 

■ 1876年(明治9年)に、 山口県(旧長州藩)で、

  明治政府(近代日本政府)の政策に反対する、萩

  の乱(はぎのらん)が起こり、 玉木 文之進の

  子の玉木正誼や松下村塾の多くの門弟が参加し

  たため、責任を感じ、玉木 文之進は、自害した。

     その後、玉木家は、玉木正誼の子の玉木正

  之が跡を継いだ。

 

 

♪♪ 玉木 文之進が登場する興味深

  い、ドキュメタンリー、ドラマ、 映画。

 

★ 玉木 文之進が登場する興味深い、

  ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

   実) と 架空の出来事 が 混じって描かれ

   ています。 また、 現代風にアレンジしてあ

   ります。

 

■ 『 花燃ゆ (はなもゆ) 』 

   (日本のNHK2015年大河ドラマ)。

■ 日本の明治維新、幕末、明治時代の時代

  状況やその時代に活躍した人々を描く。

● 玉木 文之進 (たまき ぶんのしん、吉田

  松陰の叔父) 演じ た俳優 :   

  奥田 瑛二 (おくだ えいじ)。

 

● 吉田 松陰 (吉田 寅次郎)を演じた俳優 :   

  伊勢谷 友介 (いせや ゆうすけ)。

● 杉 文 (杉 美和、楫取(かとり)美和子、

  吉田松陰の妹)を演じた女優 : 

    井上 真央 (いのうえ まお)。

● 杉 百合之助 を演じる俳優 : 

  長塚 京三 (ながつか きょうぞう)。

     杉 百合之助 (すぎ ゆりのすけ)は、

  文(ふみ)、吉田松陰(よしだしょういん)、寿

  (ひさ)の実父である。 

● 滝 (児玉 滝、杉 滝) を演じる女優 : 

  檀 ふみ (だん ふみ)。

     滝 (たき、児玉 滝(こだま たき)、杉

  滝(すぎ たき)) は、 杉 百合之助(すぎ

  ゆりのすけ)夫人で、文(ふみ)、吉田 松

  陰(よしだしょういん)、寿(ひさ )の実母で

  ある。 

● 杉 梅太郎 (杉 民治) を演じる俳優 : 

  原田 泰造 (はらだ たいぞう)。

     杉 梅太郎  (すぎ うめたろう、杉 民治

  (みんじ)、杉 修道)は、文(ふみ)の実兄で

  ある。 

● 寿 (杉 寿楫取 久子) を演じる女優 : 

  優香 (ゆうか)。

     寿  (ひさ、杉 寿(すぎ ひさ)、楫取 久

  子(かとり ひさこ))は、文(ふみ)の実姉で

  ある。 

 

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#dainagon

 

■ 大納言 

     (だいなごん)

 

■ 大納言。

■ 名称 : 大納言 (だいなごん)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51912。

 

 

■ 大納言 (だいなごん)は、 前近代日本の、

  朝廷の官職(ちょうていのかんしょく) である。 

 

 朝廷の官職。

■ 朝廷の官職 (ちょうていのかんしょく) は、 

  朝廷の官位 (= 「朝廷の位階」と「朝廷の官

  職」) の1つであり、 前近代日本(古代から

  江戸時代までの日本)の、朝廷での身分・地

  位の1つである。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

                  

 朝廷の官職。

 前近代日本の 、高位の朝廷の官職には、 

  高位順に、 @ 太政大臣 (だいじょうだ

  いじん)、 A 左大臣 (さだいじん)、 

  B 右大臣 (うだいじん)、  C 内大臣 

  (ないだいじん)、 D 大納言 (だいな

  ごん)、 E 中納言 (ちゅうなごん)、  

  F 参議 (さんぎ) などがある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 官位相当制

■ 官位相当制 (かんいそうとうせい)とは、

  前近代日本の、朝廷での、位階に対応した

  官職に就くことを原則とする制度である。

■ ( )は、原則として朝廷の官職に相当する

  朝廷の位階の位階で ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 前近代日本の、高位の朝廷の官職には、 

  高位順に、次のような官職があった。

● 第1位 太政大臣   (従一位  (以上))。  

  (だいじょうだいじん)  (じゅいちい)

   臨時の官職 (常設でない官職)。

● 第2位 左大臣     (正二位 (以上 ))。  

  (さだいじん)       (しょうにい)

● 第3位 右大臣     (正二位 (以上))。

  (うだいじん)

● 第4位 内大臣     (従二位 (以上 ))。

  (ないだいじん)          (じゅにい)

● 第5位 大納言     (正三位 (以上 ))。

  (だいなごん)      (しょうさん

● 第6位 中納言     (従三位 (以上 ))。  

  (ちゅうなごん)     (じゅさん

● 第7位 参議       (四位   (以上))。 

  (さんぎ)         (しい)

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 公卿。

● 公卿(くぎょう)とは、前近代日本の、朝廷の、

  位階三位(さんみ)以上の者や位階・四位(し

  い)以上で参議の官職に叙任(じょにん)された

  者である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#takayamaukon

 

■ 高山右近 

     (たかやまうこん)

 

■ 高山 右近。

■ 名称 : 高山 右近 (たかやま うこん)。

■ 生没年 : 1552年?〜1615年。

 

 

■ 高山 右近 (たかやま うこん、生没年:1552

  年?〜1615年)は、 安土桃山時代の武将で

  あり、 キリシタン大名であった。

    高山 右近は、 摂津国(せっつのくに、大阪

  府北西部)の高槻(たかつき)城主であった。

    高山 右近は、 初め、荒木村重(あらきむら

  しげ)に属し、後、織田信長に従う。

    本能寺の変後、播磨国明石に封じられたが、

  秀吉のキリスト教・禁教後も信仰を守ったため、

  除封(じょほう、領地没収)される。

 

■ 高山 右近は、 茶道に優れ、千利休(せんの

  りきゅう)の高弟であった。

 

■ 高山 右近 は、 江戸幕府のキリスト教禁教令

  により、1614年に、フィリピンのマニラに追放

  される。 そこで客死 (かくし、旅先・他郷で死

  ぬこと) した。

 

 

♪♪ 高山 右近 が登場する興味深

  い、ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 高山 右近が登場する、興味深い

  関連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

  実) と 架空の出来事 が混じって描かれ

  ています。 また、 現代風にアレンジしてあ

    ります。

 

■ 『 軍師 官兵衛 』 

   (NHK2014年大河ドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

● 高山右近を演じた俳優名 : 生田 斗真

  (いくた とうま)。

 

● 織田信長を演じた俳優名 : 江口洋介

  (えぐち・ようすけ)。

● 黒田 官兵衛を演じる俳優名: 岡田 准一。

 

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#takigawakazumasu

 

■ 滝川 一益  

     (たきがわ かずます)

 

■ 滝川 一益。

■ 名称 : 滝川 一益 

   (たきがわ かずます)。

■ 生没年 : 1525〜1586年。

■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時

  の武将、大名。

■ 織田氏、羽柴氏(豊臣氏)に仕える。

■ 織田信長の重臣。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 71312。

 

 

■ 滝川 一益 (たきがわ かずます、生没年:15

  25〜1586年) は、  室町時代後期(戦国

  時代)、安土桃山時 の武将、大名であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ 滝川 一益は、 織田氏、羽柴氏(豊臣氏に仕

  (つか)えた。

■ 滝川 一益は、 織田信長の重臣 であった。 

 

■ 神流川の戦い (かんりゅうがわのたたかい)。

    1582年6月2日の本能寺の変を知った、

  条氏直ら北条氏は、直ちに、関東の織田軍の本

  拠地の上野(こうずけ、群馬県)に向かい北条軍

  を行軍させ北上したため、 滝川一益は、 明智

  光秀討伐をあきらめ、 北条軍に対抗するため、 

  織田氏の関東方面軍を率いて南下し、 武蔵野

  国(むさしのくに、埼玉県・東京都)の神流川付近

  で、 北条軍と戦い、1582年6月19日に、敗戦

  する。

     一方、羽柴秀吉(豊臣秀吉豊臣秀吉 は、

  中国大返し(ちゅうごくおおがえし) を行い、 毛

  利氏と和睦し、1582年6月13日の山崎の戦い

  で、 明智光秀を敗(やぶ)り、14日に光秀を敗

  死させる。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 滝川 一益は、 織田信長の重臣 で、織田氏

  の関東方面軍司令官であった。 

     本能寺の変の知らせが届いた時、滝川一

  益は、 関東での織田軍の本拠地の上野(こう

  ずけ、上州、群馬県) にいた。

     1582年6月2日の本能寺の変織田信

  長が死去した後、 関東での織田軍の本拠地

  の上野(こうずけ、群馬県)に向かって、 北条

  氏直(氏政の嫡男)や北条氏邦(氏政の弟)

  北条軍が動き出した。

     滝川 一益は、 北条軍が上野に向かって

  来る事を知り、 軍をすぐに明智光秀討伐に向

  けられず、 軍を武蔵(埼玉県、東京都)方面に

  向ける。

     滝川 一益は、  武蔵国(むさしのくに、埼

  玉県・東京都)にて、 約2万人の兵で迎え撃

  ち、 約5万人の兵の北条軍との戦い(神流川

  の戦い)、 1582年6月19日に、敗(やぶ)れ、

  上野の箕輪城(みのわじょう)へ逃げ帰った。 

     この敗北で、滝川 一益は、上野を保持で

  きなくなり、 自身の本拠地の伊勢長島に退去

  することを決めた。 滝川 一益は、伊勢に帰る

  途中に、 尾張の清洲に立ち寄り、三法師(さ

  んぽうし、織田秀信)に拝礼し、伊勢に帰った。

  清洲会議(きよすかいぎ)には、欠席した。

    清洲会議後、織田信長の嫡孫・三法師(織

  田秀信)が、織田氏の後継者となったが、 羽

  柴秀吉(豊臣秀吉)方と柴田勝家方が対立し、

  滝川一益は、 柴田勝家方に味方した。1583

  年(天正11年)に、 秀吉は、滝川一益の、伊

  勢長島の長島城を攻撃し、約1ヶ月の籠城戦

  (ろうじょうせん)の末、 滝川一益は降伏し、所

  領をすべて没収され、隠居した。

     1584年(天正12年)より、羽柴秀吉(

  臣秀吉に隠居から呼び戻され、 秀吉のため

  に、 外交活動や小牧・長久手(こまき・ながく

  て)の戦いを行い、 秀吉より、一益自身に30

  00石、 一益の次男で嫡子となった「一次」に

  1万2000石が与えられた。

     1586年(天正14年)に、 滝川一益 は、

  死去する。 享年62歳であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 滝川一益が登場する、興味深い、

  ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

 滝川一益 が 登場する、興味深い、

  ドラマ、映画。

 

■ 『 真田丸 (さなだまる) 』 。  

   (NHKテレビ・2016年大河ドラマ)。

 安土桃山時代や江戸時代初期の時代状

  況やその時期に活躍した人々を描く。

● 滝川一益を演じた俳優名 : 段田 安則

  (だんた やすのり)。

 

■ 『 軍師 官兵衛 (ぐんし かんべえ) 

   (NHKテレビ・2014年大河ドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

● 滝川一益を演じた俳優名 : 川野 太郎。

 

■ 『 功名が辻 (こうみょうがつじ) 』  

   (日本のNHK2006年大河ドラマ)。

■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期の時代状況やその時期に活

  躍した人々を描いたドラマ である。

 

■ 『 信長 KING OF ZIPANGU 』  

   (NHK1992年大河ドラマ)。

■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代

  の時代状況やその時期に活躍した人々を

  描いたドラマ

● 滝川一益を演じた俳優名 : 柴 俊夫。

 

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#tairanmasakado

 

■ 平 将門  

     (たいらの まさかど)。

 

■ 平 将門。

■ 生没年 : 生年不詳? 〜 940年。

■ 名称 : 平 将門 (たいらの まさかど)

■ 平安中期の武将。

■ 承平・天慶(じょうへい・てんぎょう)の乱を起

  こした、2人の武将の一人。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 42238。

 

 

■ 平 将門 (たいらの まさかど、 生年不詳?〜

  940年) は、平安中期の武将で、 承平・天慶

  (じょうへい・てんぎょう)の乱を起こした、2人の

  武将の一人 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 平 将門 は、関東土着の豪族として、勢力があ

  ったが、一族と所領を争い、 935年、叔父(おじ)

  の平国香を殺害し、 ついで、武蔵野国(現在の

  埼玉県と東京都)の国司と郡司(ぐんじ)との争い

  に介入し、 939年には、常陸(ひたち、茨城県)、

  上野(こうずけ、群馬県)、下野(しもつけ、栃木県)

  の国府(こくふ)を占領し、 自(みずか)ら、新皇と

  称して、勢力をふるったが、 940年に、平貞盛と

  藤原秀郷(ひでさと)らに滅ぼされた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 平 将門 は、 桓武平氏の祖、高望(たかもち)王

  の孫(まご) である。

 

■ 承平・天慶の乱 (じょうへい・てんぎょうのらん) 

  とは、 平安時代中期の、935年(承平5年)〜9

  41年(天慶4年)に、 藤原純友が西国で、 平将

  門が東国で、 ほぼ時期を同じくして起こした反乱 

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#daikakujito

 

■ 大覚寺統 

     (だいかくじとう)

 

■ 大覚寺統。

■ 名称 : 大覚寺統 (だいかくじとう)。

■ 英語名 : THE DAIKAKUJITO LINEAGE.

■ 《皇統》。 

■ 大覚寺統 : 1259年−1392年。

■ 大覚寺統 : 亀山天皇の皇統。

■ 大覚寺統 : 後嵯峨(ごさが)天皇の皇子・

  「亀山(かめやま)天皇」から後亀山(ごかめ

  やま)天皇までの皇統

■ 大覚寺統 : 持明院統と皇位を争った亀山天皇の

  皇統。

■ 1259年ー1392年、

    持明院統 (じみょういんとう) と、 大覚寺統 (だ

  いかくじとう) の皇統の分立

● 1336年ー1392年、

  朝廷は、 持明院統の北朝 と、 大覚寺統の南朝

  に分裂し、対立する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 71312。

          

 

■ 大覚寺統。

■ 大覚寺統 (だいかくじとう) とは、  恒仁(つねひ

  と)親王である、亀山(かめやま)天皇 (天皇在位:

  1259−1274年) の皇統である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 大覚寺統は、 後嵯峨(ごさが) 天皇 (天皇在位:

  1242−46年)の皇子・「亀山(かめやま)天皇」か

  ら後亀山(ごかめやま)天皇までの皇統 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 皇統の分立。 

■ 朝廷では、 1259年( 強引天皇譲位)から1392年

  (南北朝の合体)まで、 持明院統 (じみょういんと

    う) と、 大覚寺統 (だいかくじとう) の皇統の分立

  が続いた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

            

■ 朝廷は、 1336年(足利尊氏の光明(こうみょう)天

  皇擁立)から1392年(南北 朝の合体)まで、 持明

  院統(じ みょういんとう)の北朝 と、 大覚寺統(だ

  いかくじとう)の南朝 に分裂し、対立した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 大覚寺統。

■ 大覚寺統 (だいかくじとう) とは、 亀山天皇

  の皇統 である。

 

■ 大覚寺統は、鎌倉時代中期から室町時代前

  期まであった天皇家の皇統 (2つの大覚寺統

  ・持明院統) の1つで、 持明院統と皇位を争

  った亀山天皇の皇統 である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 大覚寺統は、後嵯峨(ごさが)天皇の皇子・

  「亀山(かめやま)天皇」から後亀山(ごかめ

  やま)天皇までの皇統 である。

     亀山天皇の子・後宇多(ごうだ)天皇が

  譲位後京(都)・嵯峨の大覚寺(だいかくじ)

  にいたため、 この名がある (亀山天皇の

  皇統を、大覚寺統と言った)。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 皇統の分立。 

■ 皇統の分立 (こうとうのぶんりつ) とは、 1259年

  から1392年まで、 鎌倉時代中期から室町時代前

  期まで、 天皇家が、 持明院統 と 大覚寺統 の

  2つの皇統に分立したことである。

     更に、 1336年から1392年まで、 建武時代

  から室町時代前期まで、 朝廷 は、 持明院統(じみ

  ょういんとう)の北朝(ほくちょう) と、 大覚寺統(だ

  いかくじとう)の南朝(なんちょう) に分裂し、対立し

  た。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。 

 

 

■ 皇統分立の起こり。

■ 皇統分立の起こり。

     1246年に、 後嵯峨天皇 (天皇在位:1242

     −46年、生没年:1220−72年)が、 皇子(次男)

  の久仁(ひさひと)親王に天皇の位を譲り、 久仁(ひ

  さひと)親王は、後深草(ごふかくさ)天皇) (天皇在

  位:1246−59年) となり、 後嵯峨天皇は、後嵯

     峨上皇となった。

     しかし、1259年に、 後嵯峨上皇は、皇子(次

  男)の、後深草天皇を強引に退位させ、 他の皇子

  (三男)の恒仁(つねひと)親王を天皇にし、亀山(か

  めやま) 天皇(天皇在位:1259−74年) が誕生し

  た。 その後、亀山(かめやま) 天皇は、次の天皇を

  自分の子 (後宇多(ごうだ)天皇(天皇在位:1274

  −88年) としたため (立太子としたため)、 退位

  した後深草天皇は、自分の子の皇位継承ができず、

  非常に不満をもち、鎌倉幕府に仲裁を依頼し、12

  88年に、後深草天皇の子(伏見 (ふしみ)天皇)

  天皇に即位することが実現した。 こうして、その後

  は、鎌倉時代の間、 鎌倉幕府 の介入・仲裁による、

  両統迭立  (りょうとうてつりつ、両統の皇子が交互

  に天皇になる方式) となった。

 

■ 皇統の分立の原因。

    鎌倉幕府の主導で、1242年に、 後

  嵯峨(ごさが)天皇 (天皇在位:1242〜

  46年、生没年:1220〜1272年)が、

  即位した。 

    後嵯峨天皇は、退位後、上皇となり、20 

  数年にわたり、 院政 (いんせい、上皇が

  朝廷の実権をにぎり朝廷を動かすこと) を

  行う (上皇・院政期:1246〜1272年)。 

    後嵯峨(ごさが)天皇には、 3人の皇子

  (みこ)がいた。 一人の皇子は、宗尊(むね

  たか)親王で、鎌倉幕府の宮家将軍にさせ

  る。 他の2人の皇子は、 天皇に即位させ、

  後深草天皇(在位1246〜59年) と 亀山

  天皇(在位1259〜74年) になった。

    後嵯峨天皇(上皇)は、 皇子の後深草

  天皇(在位1246〜59年)に譲位後、 次

  に、後深草天皇を、強制的に退位させ、同

  じ皇子で後深草天皇の弟 (亀山天皇(在

  位1259〜74年)に譲位させた。 こうして、

  両者(両統)対立の原因をつくる。

     1272年の後嵯峨上皇(天皇)の死後、

  後嵯峨上皇(天皇)の2人の皇子の後深草

  天皇 と 亀山天皇 は、 天皇の皇位継承、

  院政の権利、皇室領荘園の相続などをめぐ

  って対立し、 両者ともに鎌倉幕府に働きか

  け有利な地位を得ようとした。 鎌倉幕府の

  介入で、 結局、 両者の天皇の子孫は、今

  後、交替(こうたい)で、 天皇の皇位を継承

  することとなった (両統迭立(りょうとうてつ

  りつ)となった)。

    後嵯峨天皇の皇子の後深草(ごふかくさ)

  天皇は、 持明院統(じみょういんとう)の最

  初の天皇となり、 もう一人の後嵯峨天皇の

  皇子の亀山(かめやま)天皇は、 大覚寺統

  (だいかくじとう)の最初の天皇 となった。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 両統迭立。 

■ 鎌倉幕府の主導で、 持明院統と大覚寺統

  の両統の皇族が交替(こうたい)で天皇の皇

  位継承を行うことを、 両統迭立 (りょうとう

  てつりつ) という。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

■ 後醍醐天皇と鎌倉幕府の対立。

● 後醍醐天は、 両統迭立による後醍醐

  天の皇子皇位継承見込みなしを契機(け

  いき)(きっかけ)に、鎌倉幕府と対立し、や

  がて、倒幕を決意する。

● 北条執権の鎌倉幕府の介入による、13

  17年の「文保の和談」(ぶんぽうのわだん)

  で、 持明院統の花園天皇が皇位を大覚寺

  統の尊治(たかはる)親王(後醍醐天皇)に

  譲ることが決まる。 その他に、「文保の和

  談」では、 大覚寺統内の皇位継承候補の皇

  族は複数いて、後醍醐天の兄弟の子・邦

  良(くによし)親王(大覚寺統の後二条天皇の

  皇子)が、後醍醐天の次の皇位を継承し、 

  その後は 両統迭立(りょうとうてつりつ)で、 

  持明院統の量仁(かずひと)親王が皇位を継

  ぐことが決まった。 

    「文保の和談」により、1318年に後醍醐

  天皇 (在位1318〜32、1333〜39年)は、

  天皇に即位するが、 後醍醐天の子孫に

  は、皇位継承の見込みがなかった。 

     大覚寺統の後醍醐天皇は、自分の皇子

  を天皇にすることを切望し、鎌倉幕府と対立

  した。 

    後醍醐天皇は、 自分の皇子の皇位継承

  や天皇親政政治をめざし、 鎌倉幕府の倒幕

  を計画し、 1324年の正中の変(しょうちゅ

  うのへん) と 1331年の元弘の変(げんこ

  うのへん) の2つの倒幕計画を起こすが、い

  ずれも失敗する。  鎌倉幕府により、1332

  年に、隠岐(おき)に配流(はいる)される。

     一方、邦良(くによし)親王は急死したの

  で1332年に持明院統の量仁(かずひと)親

  王が、光厳(こうごん)天皇(在位1332〜33

  年)として即位する。

     1333年に、後醍醐天皇は、隠岐(おき)

   を脱出し、 足利尊氏(あしかがたかうじ)、

   新田義貞(にったよしさだ)などの反幕府勢

   力と手を組み、 北条執権の鎌倉幕府を倒

   し、1333年に、建武(けんむ)政権(1333

   〜36年)を成立させた。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

■ 朝廷の南北朝分裂と合体。

■ 朝廷の南北朝分裂 (1336〜1392年)。

● 1336年に、朝廷は、 大覚寺統(だいか

  くじとう)の「南朝」(なんちょう) と 持明院統

  (じみょういんとう)の「北朝」(ほくちょう) の

  2つに分裂する。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

● 1336年に、建武(けんむ)政権(1333〜

  36年)が崩壊し、大覚寺統後醍醐天皇が、

  京(都)より吉野(よしの)に移ると、 1336

  年に、京(都)では、足利尊氏に擁立された、

  持明院統の光明(こうみょう)天皇(在位133

  6〜48年)が、即位し、 ここに、朝廷は、吉

  野の大覚寺統の「南朝」 と 京(都)の持明 

  院統の「北朝」に分裂し、南北朝時代 (13

  36年〜1392年) となる。

 

■ 朝廷の合体 (南北朝の合一)。

     1392年に、室町幕府第3代将軍・足利

  義満(あしかがよしみつ)は、 南朝側と交渉

  して、大覚寺統の「南朝」 と 持明院統の「北

  朝」を合一させるのに、成功し、 大覚寺統と

  持明院統の対立は、 ここに解消した。

    足利義満は南朝側と交渉し、大覚寺統の

  南朝の後亀山(ごかめやま)天皇が1392年

  に、皇位を放棄して入京し、 朝廷の天皇は、

  持明院統の北朝の後小松(ごこまつ)天皇一

  人となった。

     1392年の南北朝合体後は、大覚寺統

  南朝は消滅し、南北朝という区別はなくなり、 

  後小松天皇の持明院統の北朝の天皇が、朝廷

  の皇位を代々を継ぐ。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

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#daijodaijin

 

■ 太政大臣 

     (だいじょうだいじん、

           だじょうだいじん) 。

 

■ 太政大臣。

■ 名称 : 太政大臣 (だいじょうだいじん、

  だじょうだいじん)。

◆ 前近代日本の太政大臣 (だいじょうだい

  じん)。

● 朝廷の官 職。 

○ 朝廷律令官制(りつりょうかんせい)の官

  職の最高官職。 常設の官職ではない。

 

◆ 明治新政府の太政大臣(じょうだいじん)。

 明治新政府(近代日本政府)の官職。

 明治新政府(近代日本政府)の太政官制

  (だじょうかんせい)の名目的な最高官職。

 

 

◆ 明治新政府の太政大臣。

■ 明治新政府の太政大臣 (だじょうだいじん) 

  は、 明治新政府(近代日本政府)の官職で

  ある。

■ 明治新政府の太政大臣 は、 明治新政府

  (近代日本政府)の太政官制(だじょうかんせ

  い)の名目的な最高官職 である。

    明治新政府(近代日本政府)の太政大臣

  には、 三条実美(さんじょうさねとみ) など

  が就任した。

 

 

◆ 前近代日本の太政大臣。

■ 前近代日本の、太政大臣 (だいじょうだい

  じん) は、 朝廷の官職(ちょうていのかんし

  ょく) である。 

 

■ 前近代日本の太政大臣 は、 朝廷律令

  官制(りつりょうかんせい)の官職の最高官

  職である。 常設の官職ではない。 適任者

  のない場合は置かなかった。

 

 朝廷の官職。

■ 朝廷の官職 (ちょうていのかんしょく) は、 

  朝廷の官位 (= 「朝廷の位階」と「朝廷の官

  職」) の1つであり、 前近代日本(古代から

  江戸時代までの日本)の、朝廷での身分・地

  位の1つである。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

                  

 朝廷の官職。

 前近代日本の 、高位の朝廷の官職には、 

  高位順に、 @ 太政大臣 (だいじょうだ

  いじん)、 A 左大臣 (さだいじん)、 

  B 右大臣 (うだいじん)、  C 内大臣 

  (ないだいじん)、 D 大納言 (だいな

  ごん)、 E 中納言 (ちゅうなごん)、  

  F 参議 (さんぎ) などがある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 官位相当制

■ 官位相当制 (かんいそうとうせい)とは、

  前近代日本の、朝廷での、位階に対応した

  官職に就くことを原則とする制度である。

■ ( )は、原則として朝廷の官職に相当する

  朝廷の位階の位階で ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 前近代日本の、高位の朝廷の官職には、 

  高位順に、次のような官職があった。

● 第1位 太政大臣   (従一位  (以上))。  

  (だいじょうだいじん)  (じゅいちい)

   臨時の官職 (常設でない官職)。

● 第2位 左大臣     (正二位 (以上 ))。  

  (さだいじん)       (しょうにい)

● 第3位 右大臣     (正二位 (以上))。

  (うだいじん)

● 第4位 内大臣     (従二位 (以上 ))。

  (ないだいじん)          (じゅにい)

● 第5位 大納言     (正三位 (以上 ))。

  (だいなごん)      (しょうさん

● 第6位 中納言     (従三位 (以上 ))。  

  (ちゅうなごん)     (じゅさん

● 第7位 参議       (四位   (以上))。 

  (さんぎ)         (しい)

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 公卿。

● 公卿(くぎょう)とは、前近代日本の、朝廷の、

  位階三位(さんみ)以上の者や位階・四位(し

  い)以上で参議の官職に叙任(じょにん)された

  者である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 太政大臣。

■ 前近代日本の太政大臣は、飛鳥白鳳時

  の、天智朝(天智(てんじ)天皇下の朝廷)

  の大友皇子(おおとものみこ・おおじ)が初任

  である。 その後、 703年から754年まで、

  4人の皇親(皇族)の、刑部(おさかべ)親王、

  穂積親王、 舎人(とねり)親王、鈴鹿王 が

  相ついで、知太政官事(ちだいじょうかんじ、

  太政大臣に相当する国政の最高官)に就任

  した。

     臣下では、 奈良時代に、藤原仲麻呂

  (ふじわらのなかまろ)、道鏡(どうきょう)が

  太政大臣に任じられ、 平安時代の藤原良

  房(ふじわらのよしふさ)以後は、藤原氏

  しばしば太政大臣に任じられた。 平清盛

  (たいらのきよもり)、 利義満(あしかがよ

  しみつ)、豊臣秀吉(とよとみひでよし) など

  も太政大臣に任じられた。

   

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#theemperortakakura

 

■ 高倉 天皇 

     (たかくら てんのう)

 

■ 高倉天皇。

■ 生没年 : 1161年(応保元年)〜1181年

  (治承5年)。

■ 名称 : 高倉天皇 (たかくらてんのう)。

● 英名 : the Emperor Takakura ; the 

 Takakura Emperor。

● (いみな)は、憲仁 (のりひと)。

■ 憲仁親王 (のりひとしんのう)。

■ 平安時代末期の 天皇 。

■ 天皇在位 1168年(仁安3年)〜1180年

  (治承4年)。

■ 安徳天皇の父、 後鳥羽天皇(後鳥羽上皇

  の父。

 

□ 平安末期・ 鎌倉初期日本政治実権

  者変遷一覧表

 

 

■ 高倉天皇は、 後白河上皇の皇子(みこ)  

  である

    高倉天皇の父は、  後白河上皇で、生母は、

  平滋子(たいらのしげこ)  である。

 高倉天皇は、 安徳天皇の父 で、 後鳥羽天

  皇(後鳥羽上皇)の父  である。

 高倉天皇の夫人は、 平徳子  (たいらのとく

  こ、正室夫人(中宮))、 藤原殖子(側室夫人

  (典侍)) などである。

 安徳天皇(生没年:1178〜85年)は、 高倉

  天皇と平徳子との間の子 である。

 

 

 高倉天皇 の父は、後白河上皇(ごしらかわほうお

 う) で、 生母は、平滋子(たいらのしげこ) である。

    平滋子 は、 平清盛正室夫人・平時子(たいら

 のときこ)の異母妹である。

 高倉天皇の正室夫人(中宮)は、 平徳子(たいら

 のとくこ)で、 高倉天皇と平徳子との間の子が、安徳

 天皇である。

   平徳子(後の建礼門院、生没年:1155〜1213

 年) は、平清盛と平清盛正室夫人・平時子との間の

 娘である。

 

 高倉天皇の夫人は、 平徳子(たいらのとくこ、正室

 夫人(中宮))、 藤原殖子(側室夫人(典侍)、1157

 〜1228年) などである。

 安徳天皇(言仁親王、生没年:1178〜85年)は、 

 高倉天皇と平徳子との間の子である。

   守貞親王(生没年:1179〜1223年)や後鳥羽天

 皇(尊成 (たかひら)親王、後鳥羽上皇生没年:118

 0〜1239年)は、 高倉天皇と藤原殖子との間の子

 である。

 

■ 高倉天皇 は、 生没年は、1161年(応保元年)〜

 1181年(治承5年)で、 天皇在位は、 1168年(仁

 安3年)〜1180年(治承4年) である。

 

■ 高倉天皇 (たかくらてんのう)は、(いみな)は、

 仁 (のりひと)で、 即位前は、憲仁親王 (のりひとし

 んのう) と言う。 高倉天皇の英名: the Emperor 

 Takakura ; the Takakura Emperor である。

 

■ 高倉天皇 は、 平安時代末期の 天皇 で、 後白河

 上皇の皇子(みこ)で、 安徳天皇の父、 後鳥羽天皇

 後鳥羽上皇)の父 である。

 

 

◆ 平安時代末期の歴代天皇一覧。

■ 天皇の皇位継承順 は、次の通りである。

@ 白河(しらかわ)天皇    (貞仁(さだひと)親王) ⇒

  (天皇在位、1072年〜1086年)

A 堀河(ほりかわ)天皇    (善仁(たるひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1086年〜1107年)

B 鳥羽(とば)天皇       (宗仁(むねひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1107年〜1123年)

  ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

C 崇徳(すとく)天皇      (顕仁(あきひと)親王)  ⇒

  (天皇在位、1123年〜1141年)

D 近衛(このえ)天皇     (体仁(なりひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1141年〜1155年)

E 後白河(ごしらかわ)天皇 (雅仁(まさひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1155年〜1158年)

F 二条(にじょう)天皇     (守仁(もりひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1158年〜1165年)

G 六条(ろくじょう)天皇    (順仁(のぶひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1165年〜1168年)

  ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

H 高倉(たかくら)天皇    (憲仁(のりひと)親王)  ⇒ 

  (天皇在位、1168年〜1180年)

I 安徳(あんとく)天皇      (言仁(ときひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1180年〜1185年)

J 後鳥羽(ごとば)天皇    (尊成(たかひら)親王)

  (天皇在位、1183年〜1198年)

 

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#takenakahanbe

 

■ 竹中 半兵衛 

     (たけなか はんべい)

 

■ 竹中 半兵衛。

■ 名称 : 竹中 半兵衛 (たけなか はんべえ)。

■ 別名 : 竹中 重治 (たけなか しげはる)。

■ 生没年 : 1544〜1579年。

■ 戦国時代(室町時代後期)、安土桃山時代の、

  天才軍師、武将。

■ 織田信長配下の、羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕

  (つか)えた、優秀な軍師(ぐんし)、参謀。

■ 美濃国(みののくの、岐阜県南部)の武将。 

■ 美濃の武将・土豪で斎藤家家臣の竹中 重元

  (たけなか しげちか・もと)の子。

■ 美濃の斎藤氏に仕え、後、織田氏、羽柴 氏

  (豊臣氏)に仕える。

 美濃国不破郡岩手(ふわぐんいわで)の菩提

  山城(ぼだいさんじょう)・城主。

 竹中 半兵衛(重治)の、正室夫人は、得月院

  (とくげついん)で、 嫡男は、竹中重門(しげ

  かど、幼名:吉助)で、 弟には、竹中久作(重

  矩(しげのり)、 従兄弟(いとこ)には、竹中重

  利(しげとし) がいる。

■ 軍功に関し、後世の創作によるエピソードも

  多し。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 02215。

 

□ 豊臣氏 画像アルバム No.1

□ 豊臣氏 画像アルバム No.2

□ 竹中半兵衛(重治)関連出来事 

   (年代順・詳細)

 

 

■ 竹中半兵衛(重治)。

 ■ 菩提山城(ぼだいさんじょう)は、 美濃国

   (みののくに、現・岐阜県南部の相当地域)

   にある、標高402mの菩提山(ぼだいさん)

   の頂上に建つ山城(やまじろ)である。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 ■ 菩提山城(ぼだいさんじょう)は、 竹中半

   兵衛(重治 )(たけなかはんべい(しげはる))

   の居城である。

 

 ■ 竹中半兵衛(重治)(1544年−1579年)

   は、 竹中重元(たけながしげもと)の子

   で、 美濃国 (みののくに、現・岐阜県南

   部の相当地域)で、1544年(天文13年)

   に生まれ、そこで育つ。

 

 ■ 竹中半兵衛(重治)は、 戦国時代、安土桃

   山時代に活躍した武将であり、 木下藤吉

   郎秀吉(豊臣秀吉)の家臣となる。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 ■ 竹中半兵衛(重治)は、初め、美濃の国主・

   斎藤龍興(さいとうたつおき)に仕(つか)え、

   その後、織田信長配下の木下藤吉郎秀吉 

   (羽柴秀吉、豊臣秀吉)に仕える。

 

 ■ 武将の竹中半兵衛(重治)は、 武将の黒

   田官兵衛と共に、 織田信長配下の木下

   藤吉郎秀吉 (羽秀柴吉、豊臣秀吉)の

   軍師として、戦国時代、安土桃山時代に

   活躍した。

 

 ■ 竹中半兵衛(重治)は、1579年(天正7

   年)に、 織田信長配下の羽柴秀吉(豊臣

   秀吉)の播磨(はりま)攻略の三木城(み

   きじょう)攻めの最中に、死去する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 竹中半兵衛(重治)。

■ 竹中 半兵衛(重治) (たけなか はんべえ(しげ

  はる)、生没年:1544〜1579年) は、美濃の

  武将・土豪で斎藤家家臣の竹中 重元(たけなか

   しげちか・もと)の子で、 戦国時代(室町時代

  後期)、安土桃山時代の、美濃国(みののくの、

  岐阜県南部)の武将、天才軍師 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 竹中 半兵衛(重治)は、 天才軍師で、信義の

  人 として知られている。

    信義(しんぎ)とは、 約束を守り、務(つと)め

  を果(は)たすことである。 竹中 半兵衛(重治)

  は、 戦国時代、安土桃山時代に、 裏切りが多

  かった乱世の世にあって、 信義を通し、当時の

  多くの武将から信頼・信用を得た。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 竹中 半兵衛(重治)の、軍功に関しては、後世の

  創作によるエピソードも多い。

 

■ 竹中 半兵衛(重治) は、 斎藤義龍(よしたつ)

  の家臣として(1560〜61年)、 斎藤龍興(さ

  いとうたつおき)の家臣として(1561〜64年)、 

  織田信長直臣とし(1567〜70年)、 信長配

  下の羽柴秀吉(臣秀吉) の与力として(1570

  〜79年)、 仕(つか)えた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 竹中 半兵衛(重治)(たけなか はんべえ(しげ

  はる) は、武将で、天才軍師で、 織田 信長

  信長配下の羽柴秀吉(豊臣秀吉)に 仕(つか)え

  た、優秀な軍師(ぐんし)、参謀 であった。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 竹中 半兵衛(重治) は、 美濃国(みののくの、

  岐阜県南部)出身の武将 であった。 美濃国不

  破郡岩手(ふわぐんいわで)、菩提山城(ぼだ

  いさんじょう)・城主であった。

    竹中 半兵衛(重治)は、 美濃斎藤氏 (みのさ

  いとうし) に仕(つか)え、 後に、 織田氏、羽柴

  氏(はしばし、豊臣氏) に仕(つか)える。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 竹中 半兵衛の氏名。

   竹中 半兵衛 (たけなか はんべえ) の別名は、 

  竹中 重治 (たけなか しげはる) である。  

     竹中は、一族名で、 半兵衛や重治は、個人

  名で、半兵衛は、通称で、重治は(いみな)で

  ある。 

     前近代日本では、上層階層の男性は、2種

  類以上の個人名を持ち、日常では「通称」を使

  用し公式の場合のみ「諱(いみな)」を使用した。 

     近現代日本で、便宜上、「通称」と「諱(いみ

  な)」を組み込んだ竹中半兵衛重治」という氏

  名の呼称が使用される場合があり、当書でも、

  便宜上、使用している。 

     しかし、前近代日本では、当時、そのような

  氏名の呼称は使用されなかった。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 竹中 半兵衛(重治)の正室夫人の、得月院。

   竹中 半兵衛(重治)の正室夫人は、 得月院 

  (とくげついん、法名、実名・生没年不詳) で、 

  安藤守就(あんどうもりなり、安東守就)の娘 で

  ある。 

 

■ 竹中 半兵衛(重治)の舅の、安藤(安東)守就。

    得月院の父である、安藤(安東)守就は、西

  美濃三人衆(にしみのさんにんしゅう)の1人で、

  美濃国北方城(きたがたじょう)の城主 であった。 

     安藤(安東)守就は、 美濃守護の土岐家の

  土岐頼芸(ときよりのり)、 美濃斎藤家の、斎藤

  道三(利政)(さいとうどうさん(としまさ))、斎藤

  義龍(よしたつ)、斎藤龍興(たつおき)、  織田家

  の織田信長 に仕(つか)えた。 

     竹中 半兵衛(重治)の舅(しゅうと)で、得月

  院の父である、安藤(安東)守就は、竹中 半兵衛

  (重治)の稲葉山城(いなばやまじょう、後の岐阜

  城)奪取のとき、 竹中 半兵衛(重治)に協力した。

     その後、安藤(安東)守就は、  斎藤龍興(た

  つおき、1548〜1573年)をみかぎり、  織田信

  長に味方し、織田信長の家臣となる。

     安藤(安東)守就は、  1580年に、 織田信

  長により織田家家中より追放され、 1582年6月

  2日の「本能寺の変」後、再起を試みるが、 同年

  6月8日に、当時の美濃国北方城・城主の稲葉一

  鉄(良通)に攻められ、敗北し、一族と共に、自害

  する。  ここに、美濃安藤(安東)氏は、滅亡する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 竹中 半兵衛(重治)の弟の、竹中久作(重矩)。

    竹中 半兵衛(重治)の弟には、 竹中重矩 

  (たけなかしげのり、1546〜1682年、通称

  は久作、彦作) がいた。

    竹中久作(重矩)は、斎藤氏に仕え、斎藤氏

  滅亡後は、織田氏に仕えた。

    1564年2月の稲葉山城奪取の際には、稲

  葉山城に人質として入っていた竹中久作(重矩)

  の病気見舞いと称して、竹中 半兵衛(重治)

  16名が城内に入り、主君の斎藤龍興(さいとう

  たつおき)を油断させた隙(すき)に、稲葉山城

  を占拠したと言われる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 竹中 半兵衛(重治)の嫡男の、竹中重門。

    竹中 半兵衛(重治)の嫡男は、 竹中重門(た

  けなかしげかど、1573〜1631年、幼名:吉助) 

  である。

    竹中重門は、1579年の竹中 半兵衛(重治)

  の死後、 一族の竹中重利(しげとし、従兄弟(い

  とこ))の後見を受けて、 羽柴秀吉(豊臣秀吉

  に仕(つか)え、 1588年に山麓に岩手城(いわ

  でじょう、後の竹中氏陣屋)を築城し平時不便な

  山城の菩提山城(ぼだいさんじょう)より移り、15

  89年に、秀吉より、美濃国不破郡 (みののくに

  ふわぐん) に5000石を授(さず)けられる。

    竹中重門は、1600年の関が原の戦いでは、

  幼なじみの黒田長政の軍に合力して奮戦する。

    竹中重門は、1600年の関が原の戦い後、

  徳川家に仕え、徳川家康より1000石を得て、

  不破郡岩手(ふわぐんいわで)6000石を安堵

  (あんど)され、 江戸幕府旗本となり、 竹中

  重門の、岩手城(いわでじょう)は、 竹中氏陣屋

  と呼ばれる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 竹中一族と黒田 官兵衛。

    黒田 官兵衛(孝高)(くろだかんべえ(よした

  か)) と 竹中半兵衛(重治)(たけなか はんべ

  え(しげはる)) は、 織田信長配下の、羽柴秀

  吉(豊臣秀吉) に仕(つか)える参謀(軍師)で

  り、 心の通じ合う友 であった。

     織田信長に対する荒木村重(あらきむらし

  げ)謀反の時、 1578年(天正6年)に、荒木

  の有岡城に説得に行った、黒田 官兵衛(孝高)

  戻がらず、 織田信長は、 黒田 官兵衛(孝高)

  が主家の小寺政職(こで らまさもと)と共に、

  木方に寝返ったと判断し、 秀吉に、人質として

  預けられていた黒田 官兵衛(孝高)の子・松寿

  丸(しょうじゅまる、後の黒田長政) の殺害を命

  じた。

     しかし、秀吉より事情を聞いた、竹中半兵

  衛(重治)は、機転をきかせ、秀吉から信長に

  偽の首を進呈させ、身の危険を顧みず、密かに

  松寿丸(黒田長政)を匿(かくま)った。 

     また、竹中半兵衛(重治)は、生前に、

  田父子を案じる手紙を残していた。

     黒田 官兵衛は、荒木の有岡城から救出さ

  れた時、 竹中半兵衛兵(重治)は、病気で既に

  亡(な)くなっていた。 

     黒田 官兵衛(孝高)は、 盟友である竹中

  半兵衛兵(重治)への感謝の気持ちを忘れず、 

  その後、竹中半兵衛兵(重治)の子・竹中重門

  をはじめ、竹中の一族を援助した。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#takenakahanbei-thehappenings

 

◆ 竹中半兵衛(重治) 関連

  出来事 (年代順・詳細)。

 

■ 1544年(天文13年)に、竹中 半兵衛(重治)

  (たけなか はんべえ(しげはる) は、 美濃斎

  藤氏の家臣で、 美濃国大野郡(岐阜県大野

  町)の大御堂城主・竹中重元(たけなかしげも

  と)の子として、 同地に生まれる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1558年に、 竹中 半兵衛(重治)の父・竹中

  重元は、 美濃国(みののくに、岐阜県南部)の

  不破郡岩手(ふわぐんいわで)の岩手城主の岩

  手弾正を攻略した。

 

■ 1559年(永禄2年)に、 竹中 半兵衛(重治)

  の父・竹中重元は、 美濃国不破郡岩手(みの

  のくにふわぐんいわで)に、 菩提山城(ぼだい

  さんじょう)を築いて居城を移し、 竹中 半兵衛

  (重治)もこれに従う。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1560年(永禄3年)に、 竹中 半兵衛(重治)

  は、 父・竹中重元の死去または隠居により、

  父・竹中重元より家督(かとく)を相続し、 菩提

  山城の城主となり、 美濃国の国主・斎藤義龍

  (よしたつ)に仕(つか)える。

 

■ 1561年(永禄4年)に、 竹中 半兵衛(重治)

  (たけなか はんべえ(しげはる)は、 美濃国の

  国主・斎藤義龍(よしたつ)が死去すると、その

  後を継いだ美濃国の国主・斎藤龍興(たつおき

  1548〜1573年に仕(つか)える。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 竹中 半兵衛(重治)の、稲葉山城の奪取。

    1564年2月に、竹中 半兵衛(重治)は、西

  美濃三人衆(にしみのさんにんしゅう)の1人で

  舅(しゅうと)の安藤(安東)守就(あんどうもりな

  り)の協力を得て、 クーデターを起こし、わずか

  1日で、 稲葉山城(いなばやまじょう)を奪取す

  る。 そして、1564年8月に、斎藤龍興 (さいと

  うたつおき)に返還する。

     竹中 半兵衛(重治)は、16人で稲葉山城

  に乗り込み、稲葉山城・城主の斎藤龍興(たつ

  おき)を追い出し、稲葉山城(いなばやまじょう、

  後の岐阜城)を奪取し、 安藤(安東)守就は、

  2000人の兵で、稲葉山城下を制圧し、一帯を

  占領した。 しかし、稲葉山城奪取後、 竹中 半

  兵衛(重治)や安藤(安東)守就は、 他の斎藤

  家の家臣から思ったより支持を得られず、 進

  退に窮し、 1564年8月に、斎藤龍興に 返還

  する。 

    主君の斎藤龍興(たつおき)は、酒色におぼ

  れ政務を顧(かえり)みず、 一部の側近だけを

  重んじ、竹中 半兵衛や西美濃三人衆を政務か

  遠ざけていた。 竹中 半兵衛(重治)は、 主

  君の斎藤龍興(たつおき)を諌(いさ)めるため、 

  斎藤龍興の居城の稲葉山城を奪取した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1564年に、竹中 半兵衛(重治)は、 奪取した

  稲葉山城を斎藤龍興に返還後、 斎藤家を去り、 

  約1年間、北近江で3000貫の禄を得て浅井長

  の客分となる。 その後、禄を辞し、美濃国不

  破郡岩手(ふわぐんいわで)菩提山城(ぼだい

  さんじょう)に戻り、 隠棲(いんせい)する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1567年に、 美濃斎藤氏を滅亡させ、美濃国

  (みののくに、岐阜県南部)を制圧し織田信長 

  は、 浪人をしていた、竹中 半兵衛(重治)を、自

  分の家臣(直臣(じきしん))として、登用した。

 

■ 1570年頃から、竹中 半兵衛(重治)(たけなか

  はんべえ(しげはる)は、 織田信長の直臣(じき

  しん)から、 羽柴秀吉(豊臣秀吉)の与力(より

  き)となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1578年(天正6年)に、 織田信長に対する

  木村重(あらきむらし げ)謀反の時、 荒木の有

  岡城に説得に行った、黒田 官兵衛(孝高)が

  戻らず、 織田信長は、 黒田 官兵衛(孝高)が

  主家の小寺政職(こで らまさもと)と共に、荒木

  方に寝返ったと判断し、 秀吉に、人質として預

  けられていた黒田 官兵衛(孝高)の子・松寿丸

  (しょうじゅまる、後の黒田長政)の殺害を命じた。

     しかし、秀吉より事情を聞いた、竹中半兵

  衛(重治)は、機転をきかせ、秀吉から信長に偽

  の首を進呈させ、身の危険を顧みず、密かに松

  寿丸(黒田長政)を匿(かくま)った。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1579年(天正7年)4月に、播磨(はりま、兵庫

  県南部)の三木城(みきじょう)の包囲中に、竹中

  半兵衛(重治)(たけなかはんべい(しげはる)は、

  病で倒れる。 

     羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、 病状を心配し、

  竹中半兵衛(重治)を、京(都)で療養させた。

  しかし、竹中半兵衛(重治)は、死期が近いこと

  を悟り、武士ならば戦場で死にたいと秀吉に懇

  願して、播磨・三木の平井山秀吉本陣に戻り、

  陣中で、1579年(天正7年)6月に、享年36歳

  で、死去した。 肺の病気(肺炎か肺結核)で死

  去したと言われている。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

★ 竹中 半兵衛(重治)が登場する、面

  白く、興味深い関連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

  また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 軍師 官兵衛 』 

   (NHK2014年大河ドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

● 竹中 半兵衛(重治)を演じた俳優名 :

  谷原 章介 (たにはら しょうすけ)。

 

● 竹中の友の黒田 官兵衛(孝高)を演じた俳

  優名: 岡田 准一。

 

■ 『 戦国疾風(しっぷう)伝 二人の

  軍師〜秀吉に天下を獲らせた男

  たち 』 

   (日本の2011年テレビ東京・放映テレビ

   ドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

 戦国・安土桃山時代を描いたドラマ。

    黒田 官兵衛(孝高(よしたか))、竹中半

  兵衛(重治(しげはる))の2人の軍師を中心

  に、描く。

● 竹中 半兵衛(重治)を演じた俳優名

   : 山本 耕史。 

 

● ちさ(竹中半兵衛(重治)夫人)を演じた女

   優名 : 京野ことみ。

● 黒田 官兵衛(孝高)を演じた俳優名:

  高橋 克典 (たかはし かつのり)。

● 豊臣 秀吉を演じた俳優名 : 西田敏行

● ねね(豊臣 秀吉夫人)を演じた女優名 : 

  余 貴美子。

● 蜂須賀小六(正勝)を演じた俳優名 : 

  北見 敏之。

● 木下小一郎(豊臣秀長)を演じた俳優名 : 

  中本 賢。

● 織田信長を演じた俳優名 : 加藤 雅也。

● 黒田 官兵衛の子・松寿丸(黒田長政)を

  演じた俳優名: 尾崎右宗。

 

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#daimyo

 

■ 大名 

     (だいみょう)。

 

■ 大名。

■ 名称 : 大名 (だいみょう)。

■ 時期 : 室町時代〜江戸時代。

■ 大名とは、

  地方領国領主であり、地方大領主である。

■ 大名には、

  (1) 室町時代前期・中期の

      守護大名

  (2) 室町時代後期(= 戦国時代)の

      戦国大名

  (3) 安土桃山時代・江戸時代の

            近世大名

  がある。

■ ( 大名戦国大名守護大名

     近世大名) 。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11732。

 

 

■ 大名。

  ■ 大名 (だいみょう)とは、 室町時代から江戸

    時代まで地方領国領主であり、地方 大領主

    である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 大名。

   ■ 大名 (だいみょう)とは、 広大な(広く大きな)

   領地、所領をもっている武家、武士であり、地方

   領国領主であり、 室町時代から江戸時代まで

   の、日本本土各地の武家の大領主である。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 大名。

  ■ 守護大名 (しゅごだいみょう)とは、 概ね、

    町時代前期・中期に、 室町幕府(= 足利幕府)

    将軍と主従関係を結んで、国(令制国)の支

    配を任(まか)され、 領国を支配する武家、武

    士である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 戦国大名 (せんごくだいみょう)は、 概ね、

    室町時代後期(= 戦国時代)に、 下剋上(げこ

    くじょう)で、実力で領国を支配する武家、武士

    であり、 独立地方政権の領主である。

       多くの戦国大名は、守護大名を滅ぼして、

    領国を支配する。

 

  ■ 近世大名(きんせいだいみょう)は、 概ね、 

    安土桃山時代や江戸時代の時期に、豊臣氏

    や徳川氏に臣従して、領国を支配する武家、

    武士である。

      多くの戦国大名は、豊臣氏に臣従して、

   近世大名となり、 その後、江戸幕府(= 徳川

   幕府)の将軍と主従関係を結んで、藩主となる。

  ● 江戸時代の藩主(はんしゅ)は、 江戸幕

     府の将軍と主従関係を結んだ大名である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  

■ 大名。

    ■ 日本各地の大名支配の変遷 : 

    守護大名支配⇒戦国大名支配⇒

    近世大名支配。

  ● 日本本土各地を、室町時代前期・中期では、

    守護大名(しゅごだいみょう)が支配し、 室

    町時代後期(= 戦国時代)では、戦国大名

    (せんごくだいみょう)が支配し、 安土桃山

    時代・江戸時代では、近世大名(きんせいだ

    いみょう)が支配する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 大名。

  ■ 大名の変遷の概略。

  ● 大名の変遷では、 室町時代前期・中期

    に、室町幕府(= 足利幕府)の将軍に臣従

    した、各地の領国支配者の武家、武士が、

    守護大名となり、 室町時代後期(= 戦国

    時代)に、室町幕府の将軍や守護大名の

    権力が低下し(弱まり)、多くの守護大名

    は没落し、代わって、実力で領国を支配す

    る戦国大名が多く出現し、 安土桃山時代

    に、多くの戦国大名が全国を統一した豊臣

    氏に臣従して近世大名となり、 江戸時代

    前期に、江戸幕府樹立後、多くの近世大名

    は、江戸幕府(= 徳川幕府)の将軍に臣従

    して、藩主(はんしゅ)となる。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 大名。

  ■ 大名には、 時代・時期と内容の相違により、

    守護大名、戦国大名、近世大名などがある。

             

  ● 守護大名 (しゅごだいみょう)は、概ね、室

    町時代前期・中期 (1338年頃〜1467年

    頃)の時期の大名であり、 戦国大名 (せん

    ごくだいみょう)は、 概ね、室町時代後期(=

    戦国時代) (1467年頃〜1573年頃) 

    時期の大名であり、 近世大名(きんせいだい 

    みょう)は、 概ね、安土桃山時代や江戸時代 

    (1573年頃〜1868年頃)の時期の大名で

    ある。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#takamatsutaro

 

■ 高松 太郎 

     (たかまつたろう)。

 

■ 高松太郎。

■ 生没年 : 1842年(天保13年)〜1898年(明治31

 年)。

■ 名称 : 高松太郎 (たかまつたろう)。

 1871年(明治4年)に、坂本 直(さかもと なお) と改名

 する。

■ 土佐藩士。

 坂本龍馬の甥(おい)。 坂本龍馬の姉・千鶴(ちづる)

 の長男。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 土佐勤王党に加盟。

■ 神戸海軍操練所亀山社中海援隊に加わる。

■ 1871年(明治4年)に、坂本龍馬の名跡(みょうせき、

 跡目)を相続し、 坂本 直 (さかもと なお) と改名する。

 

 

■ 高松太郎 (たかまつたろう、1842年〜1898年) は、 

 土佐藩士で、 坂本龍馬の甥(おい)で、 坂本龍馬の姉・

 千鶴(ちづる)の長男 である。

 

■ 高松太郎 は、 幕末、 (龍馬が土佐で剣術修行した)

  日根野(ひねの)道場で、 修業し、土佐勤王党に加盟し

  た。 高松太郎 は、 龍馬に誘われて、神戸海軍操練所、

 長崎の亀山社中、海援隊に加わる。 亀山社中、海援隊で

 は、中心的な役割を果(は)たす。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 高松太郎 は、 明治期に入り、明治新政府(近代日本

  政府)に出仕し、 1868年(明治元年)に、 北海道の箱

  館府の権判事として赴任し、 北方開発の建白を行う。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 1871年(明治4年)に、 坂本龍馬の名跡が途絶える

 ことを惜しんだ明治新政府(近代日本政府)から、 坂本

 龍馬の名跡(跡目)相続を命じ られ、高松太郎 は、坂本

 直(さかもと なお) と改名する。

 

 

 

 

 

♪♪ 高松太郎 が登場する、興味深い

    関連ドラマ、映画、ドキュメンタリー。 

 

★ 高松太郎 が登場する、 興味深い関

  連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画 は、フィクションです。  

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事が、混じって、描かれています。 

   また、現代風にアレンジしてあります。

 

 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 。

    (NHKテレビ・2010年大河ドラマ)。

● 高松太郎を演じた俳優名 : 

   川岡 大次郎 (かわおか だいじろう)。

 

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#tachibananomoroe

 

■ 橘 諸兄 

       (たちばなの もろえ)。  

 

■ 橘 諸兄。

■ 生没年 : 684〜757年。  

■ 名称 : 橘 諸兄 (たちばなの もろえ)。  

 別名 : 葛城王 (かずらぎおう、かずらきおう)。

● 葛城王は、736年に臣籍降下して、橘諸兄と称す。

■ 奈良時代の政治家。 

■ 父は、美努王(みののおう)。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 光明皇后 (こうみょうこうごう) の異父兄。  

■ 橘諸兄政権 737〜756年。

■ 橘諸兄の子は、橘奈良麻呂(たちばなのならまろ、

 721〜757年)。

 

□ 奈良時代日本政治実権者変遷

  一覧表

□ 橘諸兄 が登場する、面白く、興

  味深い、ドラマ、映画、ドキュメン

  タリー

 

 

■ 橘諸兄 (たちばなのもろえ、生没年 684〜757年) は、  

 奈良時代の政治家 である。  

■ 橘諸兄 は、 葛城王(かずら ぎ きおう)とも言い、 皇族出身で、

 736年に、臣籍(しんせき)に降下する。

● 橘諸兄 は、 別名で、 葛城王 (かずらぎおう、かずら きおう)

 と言う (臣籍降下前の皇族名)。

● 葛城王は、736年に臣籍降下して、橘諸兄と称す。

■ 父は、美努王(みののおう)。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 橘諸兄 は、 光明皇后(こうみょうこうごう)の異父兄であり、

 光明皇后とは、 父が違うが、 県犬養橘三千代 (あがたのい

 ぬかいのたちばなのみちよ 、県犬養三千代(あがたいぬかいの

 みちよ)、生年?〜733年) という同じ母 である。

 

 

■ 橘諸兄政権737〜756年。

 729年から737年まで朝廷の政治の実権を握っていた、

 4兄弟が、 737年に、4人とも、天然痘で死去後、 橘諸兄

  が、 737から756年まで、朝廷の政治の実権を握(にぎ)る。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 橘諸兄 は、 行政改革を断行し、右大臣(うだいじん)、左

 大臣に至ったが、 次第に、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)

 に圧倒され、756年に、辞任する。

 

■ 橘諸兄の子は、橘奈良麻呂(たちばなのならまろ、721〜75

 7年) である。 

 橘奈良麻呂は、757年に、藤原仲麻呂を倒そうとしたが、逆

 に滅ぼされた (橘奈良麻呂の変)。

 

 

#tachibananomoroe-appearingscenes

 

♪♪ 橘諸兄 が登場する、面白く、興味深い、ドラ

 マ、映画、ドキュメンタリー。

 

★ 橘諸兄 が登場する、面白く、興味深い、ドラマ、

 映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 歴史のドラマ、映

 画 は、史実(歴史上の事実) と 架空の出来事 が 混じって描

 かれています。 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 大仏開眼 (だいぶつかいげん) 』 (日本の2010年

 NHK古代史ドラマスペシャル)。

■ 橘諸兄演じた俳優 : 草刈 正雄 (くさかり まさお)。

 

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#taiseihokan

 

■ 大政奉還  

     (たいせいほうかん)。

 

■ 大政奉還。

■ 時期 :1867年(慶応3年)10月。

■ 名称 : 大政奉還 (たいせいほうかん)。

■ 徳川宗家の江戸幕府の、朝廷への政権返上。

 

 

■ 徳川慶喜 は、 「大政奉還」時、大政奉還と

     公議政体樹立を奏上(そうじょう)している。

● 徳川慶喜 は、 江戸幕府が政権を朝廷に返

    上後、 公議政体論に基づき、 朝廷下の徳川

    主導諸藩連合政権の樹立を目指した。

 

■ 公儀政体派の土佐藩士の坂本龍馬や後藤象

    二郎が、尽力(じんりょく)して、「大政奉還」を実

    現させた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 坂本龍馬は、 龍馬考案の「船中八策」の第1策

    の大政奉還を、 2つのルートで、幕府将軍・徳川

    慶喜(よしのぶ)へアピールし、 「大政奉還」を実

    現させた。

(1) 坂本龍馬 ⇒ 後藤象二郎 ⇒ 山内容堂の建

      白書 ⇒ 徳川慶喜。

(2) 坂本龍馬 ⇒ 永井 尚志(ながい なおゆき、徳

   川慶喜側近・幕臣) ⇒ 徳川慶喜。

 

 

■ 大政奉還 (たいせいほうかん) とは、 幕府が

  朝廷へ政権を返上することである。

 1867年(慶応3年)10月に、 徳川宗家(そうけ)

  の江戸幕府が、 朝廷に政権を返上した。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 徳川慶喜 は、 「大政奉還」時、大政奉還と公議

  政体樹立を奏上(そうじょう)している。

● 徳川慶喜 は、 江戸幕府が政権を朝廷に返上後、 

  公議政体論に基づき、 朝廷下の徳川氏主導諸藩

  連合政権の樹立を目指した。

 

● 徳川慶喜(よしのぶ) は、 一旦(いったん)政権

  を朝廷に返上しても、 いずれ政局収拾の主導権

  は、慶喜の手中に収まり、日本の政治の主導権は、

  徳川宗家が握れるという思惑もあった。 

     また、公議政体論に基づき、 旧江戸幕府の

  徳川宗家が、 日本の政治の中心となり、列藩会議

  政府 (列候会議政府、諸藩連合政府、列候会議政

  体 )でも、徳川慶喜が政治の実権をもてるとみてい

  た。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 徳川慶喜(よしのぶ)は、 今の幕府では、従来通り

  の治世を維持できないことを悟り、 また、 江戸幕

  府を消滅させても、 徳川家の力なしに、新体制は、

  動かせないことを見越して、 公議政体論を掲げ、

  将軍としてではなく、大君として、列候会議の中心

  に位置して、日本の政治の実権を握ろうし、 「幕

  府」という名を捨てて実を取ろうとして、 1867年

  10月に、「大政奉還」に踏み切った。

     しかし、 徳川慶喜の公議政体による国家運

  営という構想 、即ち、列藩会議(列候会議)政府は、 

  1867年12月の「王政復古のクーデター」により、 

  実現されなかった。

● 公議政体論 とは、 幕末に、天皇の下で徳川宗

  家当主(幕府将軍)を議長とする列藩会議による政

  体で日本統治しようとする主張 である。 朝廷のも

  とに徳川主導の諸藩の連合政権を樹立するという

  構想である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1867年(慶応3年)の10月3日に、 前土佐藩主の山内豊信(とよしげ、

 容堂(ようどう)) が、 公議政体と大政奉還の建白書を、  老中・板倉勝

 静(かつきよ)を通して、 江戸幕府15代将軍の徳川慶喜(よしのぶ)に提

 出した。

 

■ 1867年(慶応3年)の10月13日に、 江戸幕府15代将軍の徳川慶喜 

 が、 京(都)の二条城に、 在京の諸藩の重臣達を召集し、 そこで、 大

 政奉還を諮問(しもん)した。 江戸幕府15代将軍の徳川慶喜 は、 10月

 14日に、これを受け入れ、大政奉還の上表(じょうひょう)を朝廷に提出し、

 朝廷に政権の返上を申し入れた。  翌日の10月15日に、朝廷は、これを

 認めた。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 王政復古の大号令。

 公議政体派が打ち出した「大政奉還」で、  幕府がなくなり幕府打倒の名

 目を失い、機先を制せられた形の(武力)倒幕派は、 1867年(慶応3年)

 12月9日に、朝廷で、クーデターを起こし、成功し、「王政復古の大号令」を

 発し、新政府(近代日本政府)を樹立(じゅりつ)した。 ここに、1603年以

 来、265年続いた江戸幕府 は、消滅した。 

 

■ 小御所会議。

 「王政復古の大号令」が出された、1867年(慶応3年)12月9日の夜に、

 京(都)の朝廷の京都御所で、小御所会議(こごしょかいぎ)が開かれ、 岩

 倉具視、大久保利通、西郷隆盛などの(武力)倒幕派 (徳川宗家打倒派)

 と、 山内容堂(ようどう)や松平 春嶽(しんがく)などの公議政体派 (徳川

 宗家擁護派)が、 対立したが、 (武力)倒幕派に押しきられて、 徳川宗家

 (旧江戸幕府)抜きの新政府樹立の「王政復古」 となった。 

● 新政府(近代日本政府)は、 最初は、 総裁(そうさい)、議定(ぎじょう)、

 参与(さんよ)の三職(さんしょく)を置き、 徳川宗家抜きの、雄藩連合とい

 う形をとった。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 1867年(慶応3年)12月9日の夜の小御所会議では、 徳川宗家の

 当主・徳川慶喜(よしのぶ)に辞官納地(じかんのうち、内大臣の辞退と

 領地の一部返上)を命じる処分も決定された。 これを知り、反発した徳

 川慶喜 は、京都から大阪城に引き揚げ、 新政府と軍事的に対決する

 こととなった

 

■ 坂本龍馬は、 幕末、 旧幕府より新政府への「平和的な政権移行」を

 画策(かくさく)した。  

■ 1867年(慶応3年)に、尊皇(王)倒幕派から公議政体派へ転向した

 坂本龍馬。

■ もし「大政奉還」が実現しない場合には、武力倒幕を考えていた 坂本

 龍馬。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 坂本龍馬 は、 龍馬考案の「船中八策」の第1策の大政奉還を、 2つ

 のルートで、幕府将軍・徳川慶喜(よしのぶ)へアピールし(訴え)、「大政

 奉還」を、実現させた。

(1) 坂本龍馬 ⇒ 後藤象二郎 ⇒ 山内容堂の建白書 ⇒ 徳川慶喜。

(2) 坂本龍馬 ⇒ 永井 尚志(なおゆき、慶喜側近幕臣) ⇒ 徳川慶喜。

 

■ 坂本龍馬は、 龍馬考案の「船中八策」(1967年6月、夕顔丸(ゆうが

 おまる)船中で構想)の第1策の大政奉還を、 2つのルートで、幕府将軍

 ・徳川慶喜(よしのぶ)へアピールし、 「大政奉還」を実現させた。

(1) 坂本龍馬 が 後藤象二郎へ提案し、後藤象二郎が山内容堂へ提案

 し、山内容堂が建白書を提出し、徳川慶喜に大政奉還を勧(すす)めた。

(2) 坂本龍馬 が 永井 尚志(なおゆき、慶喜側近幕臣)へ提案し(に働き

 かけて)、永井 尚志が徳川慶喜に大政奉還を勧(すす)めた。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 坂本龍馬は、まず、倒幕の薩長同盟を、1866年(慶応2年)1月に成立

 させた。  その後、龍馬は、 江戸幕府(徳川宗家)にアピールして、 

 議政体論に基づく幕府の「大政奉還」 を実現させようとした。 坂本龍馬

 は、 「大政奉還」が幕府に採り入れられない場合は、 武力倒幕を推(お)

 し進める考えを持っていた。 そして、「大政奉還」(たいせいほうかん、徳

 川宗家の政権返上) が1867年(慶応3年)10月に実現し、 成功した。

 

● しかし、 薩摩藩、長州藩、土佐藩の倒幕派が、 公議政体論に反対で

 あったため、 「大政奉還」後、 公議政体派の土佐藩出身の坂本龍馬と

 (武力)倒幕派の薩摩藩の西郷隆盛、長州藩の桂小五郎、土佐藩の乾(い

 ぬい、板垣)退助らとの間に、 路線対立が起こった。 その様な状況の下

 で、 1867年(慶応3年)11月に、 公議政体派へ転向した坂本龍馬 は、

 何者かに暗殺される。

● 土佐藩 は、 幕末の1866〜67年、 後藤象二郎らの公議政体派 と 

 乾(いぬい、板垣)退助らの武力倒幕派に、 藩論が分かれていた。

● 薩摩藩、長州藩、土佐藩の倒幕派は、 「大政奉還」後、公議政体論に

 基づく、列藩会議政府で は、徳川宗家や旧幕府勢力が、中央政府に残存

 し、また、盛り返すことを恐れ、強く反対し、 武力で旧幕府勢力を徹底的

 に排除し、徳川宗家(旧江戸幕府)を 滅亡させることを望んでいた。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 坂本龍馬は、 旧幕府より新政府への平和的な政権

 移行を画策(かくさく)した。  

■ もし「大政奉還」が実現しない場合には、 武力倒幕を考えていた坂本

 龍馬。

■ 1867年、尊王倒幕派から公議政体派へ転向した坂本龍馬。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 坂本龍馬は、まず、倒幕の薩長同盟を、1866年(慶応2年)1月に成立

 させた。  その後、龍馬は、 江戸幕府(徳川宗家)にアピールして、 

 議政体論に基づく幕府の「大政奉還」を実現させようとした。 坂本龍馬は、

 「大政奉還」が幕府に採り入れられない場合は、武力倒幕を推(お)し進め

 る考えを持っていた。 そして、「大政奉還」(たいせいほうかん、徳川宗家

 の政権返上) が1867年(慶応3年)10月に実現し、 成功した。

● しかし、 薩摩藩や長州藩の倒幕派が、 公議政体論に反対であったた

 め、 「大政奉還」後、 公議政体派の土佐藩出身の坂本龍馬と薩摩藩・長

 州藩の(武力)倒幕派のとの間に、 路線対立が起こった。 その様な状況

 下で、 1867年(慶応3年)11月に、 公議政体派へ転向した坂本龍馬は、 

 何者かに暗殺される。

 

 

■ 龍馬が画策し実現させた「大政奉還」が、国を2分する

 大規模な日本の内乱 を防いだ。

● 「大政奉還」 (たいせいほうかん) とは、 天皇への徳川宗家の政権返

 上である。

  1867年(慶応3年)10月の「大政奉還」 により、 徳川宗家の江戸幕府 

 は消滅し、 徳川宗家の旧幕府 は、正式な日本の政府ではなくなった。  

  「大政奉還」(政権返上)で徳川宗家の旧幕府が正式な政府ではなくなった 

 ことにより、 徳川宗家の旧幕府側に味方すべきか、薩摩長州連合主力の

 新政府側に味方すべきか迷っていた日本全国の藩の多くが、 戊辰戦争(ぼ

 しんせんそう、1868〜69年)では、 徳川宗家の旧幕府側より当初は軍事

 力で劣っていた薩摩長州連合主力の新政府側の官軍に、 戊辰戦争中に、

 日本全国の藩の多くが、次々に味方するようになり、 抵抗勢力が少なくなり、 

 戊辰戦争で、新政府側が、一方的な勝利をおさめる結果となった。 そして、 

 大規模な内乱に発展せず、 薩摩長州連合主力の新政府が、 強力な軍事

 力を保持しながら、 日本の近代化を進めることとなった。

   日本で大規模な内乱がおき、 徳川宗家の旧幕府側と薩摩長州連合主

 力の新政府側の両方が戦争し、両方が消耗して、日本全体の軍事力が弱

 体化した時に、 日本を植民地にし搾取(さくしゅ)しようと機会をねらってい

 た英、仏、米、露など欧米列強も、日本を植民地にするのを諦(あきら)めた。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

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#daimyoryogokusei

 

■ 大名領国制  

     (だいみょうりょうごくせい)。

 

■ 大名領国制。 

■ 形成時期 16世紀。 

■ 存続時期 16世紀頃〜19世紀頃。

■ 名前 : 大名領国制 (だいみょうりょうごく

  せい)。

  別名 : 大名知行制。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

■ 大名領国制 (だいみょうりょうごくせい) は、

  16世紀に形成され、16世紀頃から19世紀頃

  まで、存続した。

     大名領国制 (だいみょうりょうごくせい)。

  の別名は、 大名知行制 である。

 

■ 大名領国制 とは、 武士の大名 が、支配領

  域内の土地・人民を完全に支配し、 司法、立

  法、行政などの諸権を掌握する統治制度 であ

  る。 

 

■ 大名の領国の大きさは、 ○○万石のように、 

  石高 (こくだか)(= 米の収穫高、収穫量)で、

  言い表す。

 

■ (T4) 大名領国制 (16〜19世紀) とは、 

  武士の大名 が、 支配領域内の土地・人民を完

  全に支配し、 司法、立法、行政などの諸権を掌

  握する統治制度 である。 

 

■ (T3) ⇒ (T4) 日本の国土の、荘園や公領は、12〜15世紀に

 地頭や守護等の武士により侵略、領地化され、 1467年の応仁の乱

 後出現した武士の戦国大名が16世紀には完全に大名の領地としたた

 め消滅し、 (T3) 荘園・公領制 (10〜16世紀) は、 (T4) 大

 名領国制 (16〜19世紀) に移行する(へ変わる)。 

 

■ 「荘園・公領二重統治体制」 が衰えて、大名領国制 が、始まる。

■ 15世紀後半の応仁の乱(1467〜77)後、 室町幕府が弱体化

 し、室町幕府の権威がなくなると、 下克上となり、 室町幕府の権威

 により勢力を保っていた、多くの守護大名が退けられて、 戦国大名

 が、 日本各地に出現する。  戦国大名は、 荘園や公領を侵略し、

 支配する。 そして、16世紀には、大名領国制 が、成立する。

 《 戦国大名の例 》 織田信長 (尾張の守護代の重臣)、 豊臣秀吉 

 (尾張の農民)、 徳川家康 (三河の国人領主)。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 16世紀に、大名領国制が成立し、 荘園 (貴族・寺社等の支配す

 る私有地、寄進地系荘園、10〜16世紀) と 公領 (国衙領、7〜

 16世紀) が 消滅していく。

 

■ 大名領国制 は、 武士の大名が支配領域内の土地・人民を完全に

 支配し、 司法、立法、行政などの諸権を掌握する統治制度で、 領内

 は、 一種の国家のような性格をもった。 

 

■ 大名領国制 は、 室町時代中期までの、守護領国制よりはるか

 に強い支配で、 その基礎は、戦国時代(室町時代後期)につくられ、 

 江戸時代の幕藩体制の下で、 確立した。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

● 荘園、公領 に関しては、 日本史辞典の 『 荘園 (しょうえん)、

 公領 (こうりょう)  』 の項目を参照して下さい。

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■ (T4) ⇒ (T5) 明治時代の初期の1871年の廃藩置県後、(T4) 

 大名領国制 (16〜19世紀)の幕藩体制 は、 (T5) 近代制限議会 

 内閣制 (19〜20世紀) に移行する(へ変わる)。

 

■ (T) 日本の土地人民統治制度。

 (T1) 豪族土地人民支配制 (5〜7世紀) ⇒ (T2) 公地公民制

 (7〜10世紀) ⇒ (T3) 荘園・公領制 (10〜16世紀) ⇒ (T4)

 大名領国制 (16〜19世紀) ⇒ (T5) 近代制限議会内閣制 (19

 〜20世紀) ⇒ (T6) 現代国民主権民主制(20〜21世紀の現在)。

● 上記項目の詳細に関しては、 当日本語辞典の各項目を参照して下

 さい。

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#takahashikorekiyo

 

■ 高橋 是清  

     (たかはし これきよ)。

 

■ 高橋 是清。

■ 生没年 : 1854年(嘉永7年)−1936年

  (昭和11年)。

■ 名称 : 高橋 是清 (たかはし これきよ)。 

  愛称 だるまさん。

■ 政治家。 非常に有能な財政家。

● 明治期後期から昭和期初期に活躍した、非常に有

  能な財政家で、 日銀総裁、大蔵大臣(財務大臣)と

  して、近代日本の多くの問題を解決した。

■ 近代日本の日銀総裁、蔵相(大蔵大臣、財務相)、

 首相(内閣総理大臣)。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 非常に波乱に富んだ人生を歩む。

■ 近代日本の財政を支えた人物。

■ 1936年に、二・二六事件で、暗殺される。

 

 

■ 高橋是清 (たかはしこれきよ、 1854年−19

 36年) は、 愛称 「だるまさん」 と呼ばれ親しま

 れ、政治家で、 明治期後期から昭和期初期に活躍

 した、非常に有能な財政家で、日銀総裁、大蔵大臣

 (財務大臣)として、近代日本の多くの問題を解決し

 た。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 高橋是清 は、 近代日本で、日銀総裁、蔵相(大

 蔵大臣、財務相)、 首相(内閣総理大臣) を務める。 

 1936年に、二・二六事件で、暗殺される。

 

■ 高橋是清 は、 非常に波乱に富んだ人生を歩み、 

 また、近代日本の財政を支えた人物で、近代日本の

 財政方面で多大な貢献をなした。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 1934年に大蔵大臣に就任し、インフレを抑えるた

 めに軍事予算を縮小しようとしたことが 軍部の恨(う

 ら)みを買い、 1936年2月26日に、二・二六事件で、

 赤坂の自宅2階で、青年将校達に暗殺された。

 

 

★ 高橋是清 が登場する、面白く、興味深

 い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 歴史

 のドラマ、映画 は、 史実(歴史上の事実) と架空の

 出来事 が 混じって描かれています。 また、 現代風

 にアレンジしてあります。

 

■ 『 坂の上の雲 (さかのうえのくも) 』  

 (2009〜2011年のNHKのドラマ)。

● 日本の明治時代を描いた、ドラマ。

● 2009年に5回、 2010年に4回、 2011年に

 4回、 計13回で、ドラマが放送された。

● 1人の文学者 (正岡子規) と 2人の軍人 (後

 に日露戦争で活躍する陸軍軍人・秋山好古と海軍軍

 人・秋山真之) を通して、 明治時代初期から、日露

 戦争が起きた明治時代末期までを描いた、ドラマです。

 

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#takasugishinsaku

 

■ 高杉 晋作  

     (たかすぎ しんさく)。

 

■ 高杉 晋作。

■ 名称 : 高杉 晋作 (たかすぎ しんさく)。

■ 生没年 : 1839年(天保10年)〜1867年

 (慶応3年)。

■ 幕末の長州藩の指導者の一人で、戦略家。

■ 幕末、長州藩を、倒幕に方向づけた。

■ 長州藩藩士。  

■ 幕末、長州藩の尊皇(王)倒幕派の志士とし

  て、活躍する。  破天荒な風雲児 で、29歳

  で散った人生であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51525。

 

 

■ 高杉 晋作は、長州藩の名門の高杉家の藩士

  で、 吉田松陰の松下村塾の塾生の1人であ

  り、 吉田松陰死後、上海に渡って欧米列強に

  植民地化された中国の惨状を目にし、尊皇攘

  夷運動に身を投じ、1863年に身分を問わず

  兵を集め奇兵隊を結成し、 1866年に幕府と

  の戦いの最中に肺結核が悪化し、1867年に

  下関で29歳の生涯を終えた。

 

 

■ 高杉 晋作 (たかすぎ しんさく)は、 幕末の

  長州藩の指導者の一人であり、戦略家である。

     高杉 晋作は、 幕末長州藩を、倒幕に

  方向づけた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 高杉 晋作は、 秀才の久坂玄瑞(くさかげん

  ずい)、 伊藤博文(いとうひろぶみ) 山県

  有朋(やまがたありとも)、 桂小五郎 (かつ

  らこごろう、木戸孝允(きどたかよし)) と共

  に、 吉田松陰(よしだしょういん)が時事問

  題、尊攘(そんじょう、尊皇攘夷)思想などを

  教えた松下村塾(しょうかそんじく、1857年

  〜59) の塾生であった。

  

■ 長州藩は、 外国船が良く通る、三方 が海に

  囲まれた、 馬関海峡(ばかんかいきょう、現

  在の関門海峡) に面していた。

 

■ 高杉 晋作は、 江戸幕府の上海の貿易視察

  の一行に、長州藩代表として、中国の上海へ

  視察に行く。 イギリスなど欧米列強の植民地

  化した上海を見て、攘夷派(じょういは) とな

  る。

 

■ 高杉 晋作 (たかすぎ しんさく)は 長州藩

  士であり、 幕末、長州藩の尊王倒幕派の志士

  として、活躍する。 破天荒な風雲児であった。

     高杉 晋作の生没年は、1839年(天保10

  年)〜1867年(慶応3年) である。

     29歳で散った人生であった。

 

■ 高杉 晋作の、諱(いみな)は、春風で、 通称

  は、 晋作、 東一、 和助 である。 

     高杉 晋作の、字(あざな)は、暢夫で、号

  は、 東行(とうぎょう、25歳以後)である。

    1865年(慶応元年)9月に、藩命により、谷 

  潜蔵 と改名する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 高杉晋作は、1839年(天保10年)に、 長州

  藩士の「高杉小忠太」(大組・200石) と 「み

  ち」 との間の、 長男として、生まれる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 高杉晋作は、 坂本龍馬と共に、江戸で、イギ

  リス公使暗殺を画策するが、失敗する。

 

■ 高杉晋作(東行)は、 伊藤博文 (いとうひろ

    ぶみ、長州藩の民兵隊・力士隊(お相撲さんの

  部隊)隊長、後の明治期・総理大臣) などの民

  兵部隊の諸隊の協力を得て、 長州で近代的

  な軍隊を編成し、長州藩の戦力を強化し、 江

  戸幕府の第2次長州征伐では、 長州藩士、農

  工商民を率いて、 少数の戦力で大軍の幕府軍

  に対抗し、 桂小五郎(木戸孝允(きどたかよ

  し))と共に戦い、 長州藩の海 軍総督として活 

  躍し、 幕府軍約10万人対長州 藩軍約3000

  人の戦いで、 幕府軍との戦いで勝利をおさめ

  る。 

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 高杉晋作は、 奇兵隊(きへいたい)を創設した。

    奇兵隊 (きへいたい)とは、 奇襲攻撃(ゲリ

  ラ戦)の軍隊の意 である。

    奇兵隊は、 高杉晋作のつくった、下級武士、

  農工商民を合わせた、志願兵による軍隊であっ

  た。  

    奇兵隊は、 長州藩の約400種類の民兵 軍

  (民間兵軍隊)部隊 の諸隊の1つである。

    奇兵隊は、 西洋式の軍事訓練を行い、最新

  式の銃を導入した。

    約6年半の奇兵隊存続期間のうち、 高杉晋

  作は、 最初の約3か月半のみ奇兵隊隊長であ

  り、 その後、奇兵隊を退く。 その後、山県有朋

  (やまがたありとも、後の明治期・総理大臣)が、

  奇兵隊隊長になる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 高杉晋作(東行)は、 1867年(慶応3年)4月

  に、肺結核で、死去する。 高杉晋作の墓所 は、

  山口県下関市にある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 松下村塾 (しょうかそんじゅく、1857年〜

  59)は、幕末に、吉田 松陰が開いた私塾

  である。

     吉田 松陰が、アメリカ密航に失敗して藩

  地の萩(はぎ)に謹慎(きんしん)中の1857

  年に、 叔父の塾を受け継いで開いた。

     吉田 松陰は、塾生(門下生)に、時事問

  題、尊攘(そんじょう、尊皇攘夷)思想などを教

  え、 多くの明治維新の志士を出した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 吉田 松陰の教えを受けた、松下村塾の門下

  生(塾生)には、 秀才の久坂玄瑞 (くさかげ

  んずい)、桂小五郎 (かつらこごろう、木戸孝

  (きどたかよし))、 高杉晋作 (たかすぎし

  んさく)、 伊藤博文 (いとうひろぶみ)、 山

  県有朋 (やまがたありとも) など多くの近代

  日本のリーダーの人材を育成した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 高杉晋作 が登場する味深い、

  ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 高杉晋作 が登場する興味深い、

  ドキュメンタリー。

 

■ 謎解き!江戸のススメ 『 風雲児 

  高杉晋作  

   (TBS・2014年4月14日・本放送ドキュメ

   ンタリー番組)。

 

★ 高杉晋作 が登場する、面白く、興

 味深い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画 は、 史実(歴史上の事

  実)と架空の出来事 が 混じって描かれて

  います。 また、現代風にアレンジしてありま

  す。

 

■ 『 花燃ゆ (はなもゆ) 』 

   (日本のNHK2015年大河ドラマ)。

■ 日本の明治維新、幕末、明治時代の時代

  状況やその時代に活躍した人々を描く。

■ 吉田松陰の妹・文(ふみ)の生涯を描く。

 

● 高杉晋作を演じる俳優 :   

   高良 健吾 (こうら けんご)。

      高杉晋作(たくすぎしんさく)は、 吉田

  松陰の松下村塾の塾生の1人である。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 

   (NHK2010年大河ドラマ)。

■ 日本の幕末の時代状況やその時代に活躍

   した人々を描く。

 

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#takiyama

 

■ 滝山   

     (たきやま) (瀧山)

 

■ 滝山 。 

■ 生没年 1805〜76年。 

 名称 : 滝山(たきやま)。 正式名は、 

 瀧山(たきやま)。

■ 江戸幕府の幕臣の娘。

■ 江戸幕府・大奥の御年寄 (おとしより、上級幹

  部、御年寄在任:1853〜67年) 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 将軍付御年寄で、

  13代将軍家定(いえさだ、在任1853〜58)時代、

  14代将軍家茂(いえもち、在任1858〜66)時代

  に、 幕末の大奥を運営し、総支配をしていた女性。

  1866年に辞意を表明し、大奥の引き継ぎを済ませ、

  1867年(慶応3年)に退職する(大奥を去る)。

 

□ 滝山(たきやま)が登場する、興味深い、

    ラマ、映画、ドキュメンタリー

 

 

■ 滝山 ((たきやま、 生没年 1805〜76年) は、 

  正式名は、 瀧山(たきやま)で、 江戸幕府の幕臣

  の娘 である。

 

■ 滝山 は、 江戸幕府・大奥の御年寄(おとしより

  上級幹部 、御年寄在任:1853〜67年) であっ

  た。

 

■ 滝山 は、 将軍付御年寄で、 13代将軍家定

  (いえさだ、在任1853〜58)時代、14代将軍

  家茂(いえもち、在任1858〜66)時代に、 幕

  末の大奥を運営し、総支配をしていた女性 であ

  る。 

● 滝山 は、 和宮に、1866年に辞意を表明し、

  大奥の引き継ぎを済ませ、1867年(慶応3年)

  に退職する (大奥を去る)。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 滝山 は、 13代将軍徳川家定(いえさだ)、14

  代将軍徳川家茂(いえもち)、の2代にわたり、仕

  えた、大奥の御年寄(おとしより、上級幹部 で、 

  大奥の実務の最高責任者であった。

● 滝山は、 14代将軍家茂死後(1866年)、 18

  67年(慶応3年)に、 御年寄職を辞した。

■ その後、 滝山 は、 川口 (埼玉県川口市) で、

  過ごし、 1876年(明治9年)、72歳で死去した。 

 

 

#kakiyama-appearingscenes

 

♪♪ 滝山 (たきやま) が登場する、興

  味深い、ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

★ 滝山が登場する、面白く、興味深い、ド

  キュメンタリー。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 大奥の秘密〜

  ‘‘出世の花道’’を生きた女たち〜 』 

   (日本のNHK2010年(H22)6月9日・本放送

   のドキュメンタリー番組、第42回)。

 

★ 滝山 (たきやま) が登場する、興味

  深い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 篤姫 (あつひめ) 』  

   (日本のNHK2008年大河 ドラマ)。

● 滝山を演じた女優名 : 稲森 いずみ。

 

■ 『 大奥・幕末の女たち 』 

   (日本の2003、2004年制作フジテレビ・

   テレビドラマ)。

● 滝山を演じた女優名 : 浅野 ゆう子。

 

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#datemasamune

 

■ 伊達 政宗  

     (だて まさむね)。

 

■ 伊達 政宗 

■ 生没年 1569〜1636年。

■ 名称 : 伊達 政宗 (だて まさむね)。 

■ 安土桃山時代江戸 時代初期の武将、大名。

■ 仙台藩の始祖。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 奥州(東北地方)の大名で、 豊臣秀吉の 小

  田原征伐の時、秀吉に服し、 50万石を領す。 

  天下分け目の戦い (1600年 の関が原の戦

  い、その他の戦い)では、徳川家康に味方し、

  その後、 仙台・青葉山城に移り、 62万石を

  領す。

■ 1613年に、家臣の支倉常長(はせくらつね

  なが)をローマへ派遣。

 

□ 伊達 政宗 が登場する、興味深

   い関連ドキュメンタリー、ドラマ、

   映画。 

 

 

■ 伊達 政宗 (だて まさむね、生没年1569

  〜1636年) は、 安土桃山時代、江戸初

  期の武将、大名で、 仙台藩の始祖である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 伊達 政宗 は、 奥州(東北地方)の大名 

  で、豊臣秀吉の小田原征伐の時、秀吉に服

  し、50万石を領す。  

 

  天下分け目の戦い (1600年の関が原

  の戦い、その他の戦い)では、伊達 政宗は、

  徳川家康に味 方し、その後、 仙台青葉山城

  に移り、62万石を領す。

● 伊達 政宗 は、 天下分け目の戦い (16

  00年の関ヶ原の戦い、その他の戦い)では、 

  徳川方に味方し、 奥州(東北地方)で、上杉

  景勝などの石田方の大名と戦う。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

■ 伊達政宗の遣欧使節 (1613〜20年)。

■ 支倉 常長 (はせくら つねなが、1571〜

   1622年) は、 伊達 政宗(だて まさむね)

    の家臣で、 伊達政宗の遣欧使節 (けんお

  うしせつ、1613〜20年) のリーダーであ

  った。

    支倉 常長は、 スペインへ行き、ソテロと

  共に、 仙台藩とスペインとの交易(貿易)を

  要請したが、成功しなかった。 

 

■ 伊達 政宗は、 利益を得られる、スペイ ン

  との交易(貿易)を求めて、 1613年に、家

  臣の支倉 常長 (はせくら つねなが) 一行

  を、スペインへ派遣する。 スペインは、 

  台藩との交易(貿易)を拒絶し、失敗に終わ

  り、支倉 常長一行は、 失意のうちに1620

  年に、仙台藩に帰国し伊達政宗にその旨を

  報告した。  

     伊達 政宗は、 メキシコなどのスペイン

  植民地やヨーロッパのスペインとの交易を断

  念した。

  

■ 支倉 常長一行は、 1613年に日本を出て、

  メキシコを経由して、スペインへ行き、 ソテロ

  と共に、スペイン国王・フェリペ3世と謁見(え

  っけん)したが、 交易(貿易)の交渉は行き詰

  まる。 

    支倉 常長一行は、 スペイン国王との仲介

  を求めて、 イタリアへ行き、ローマ教皇と謁

  見(えっけん)したがうまくいかず、 スペイン

  へ戻り、再交渉したが、打開できず、帰国を求

  めらる。 

    スペインで粘(ねば)った末、スペイン国王

  からスペイン領フィリピンのマニアで返事を待

  ように言われ、 支倉 常長一行は、スペインを

  去り、 メキシコを経由して、フィリピン・マニア

  に行き、滞在し待ったが、返事は来なかった。

    支倉 常長一行は、 ソテロをマニラに残し、 

  失意のうちに、1620年に、日本の仙台藩に

  帰国した。

 

■ 1639年頃に、江戸幕府の鎖国は、 完成し、 

  それ以後、海外との交易(貿易)は、 スペイン

  を除き、 事実上、オランダ、中国、朝鮮などの

  少数の国のみとなり、 江戸幕府が、 海外の

  少数の国との交易(貿易)を独占し、利益を得

  た。

 

 

#datemasamune-appearingscenes

 

♪♪ 伊達 政宗 が登場する、興味深い

    関連ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

★ 伊達 政宗 が登場する、興味深い関

   連ドキュメンタリー。 

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 いつも崖

  っぷちだった〜独眼竜・伊達政宗

  の世渡り人生〜 』 

   (NHKの2009年(平成21年)11月18日

   本放送、第23回)。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 激突!真

  田幸村 vs.伊達政宗〜めぐりあい

  大阪夏の陣〜 』 

   (NHKの2010年(平成22年)1月6日本

   放送、第28回)。

 

■ 四百年の旅、はるか 『 伊達政

   宗の夢を託された男、 支倉常長 』 

  (BS日テレの2013年11月16日・本放送)。

● 伊達政宗の遣欧使節(1613〜20年)につ

  いて語る。

 

 

★ 伊達 政宗 を描いた、興味深い関

     連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事 が 混じって描かれていま

  す。 また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 真田丸 (さなだまる) 』 。  

   (NHKテレビ・2016年大河ドラマ)。

 日本の安土桃山時代や江戸時代初期の時

  代を描く。

● ドラマで「伊達 政宗」 (だてまさむね)を演

  じた俳優名 : 

  長谷川 朝晴 (はせがわ ともはる)。

 

● ドラマで「片倉景綱」 (かたくら かげつな、

  伊達正宗の重臣)を演じた俳優名 : 

  ヨシダ 朝 (よしだ あさひ)。

 

■ 『 天地人 (てんちじん) 』 。

   (NHKテレビ・2009年大河ドラマ)。

● 伊達 政宗を演じる俳優名 : 松田 龍平。

 

■ 『 天下騒乱〜徳川三代の陰謀 

     (てんかそうら んとくがわさんだいの

     いんぼう) 』 。 

    (テレビ東京・2006年製作テレビドラマ)。 

● 伊達 政宗を演じた俳優名: 清水 綋治。

 

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#takechihanpeita

 

■ 武市 半平太  

     (たけち はんぺいた)。

 

■ 武市半平太。

■ 生没年 : 1829年〜1865年。

■ 名称 : 武市半平太 (たけちはんぺいた)、 

  武市 瑞山 (たけち ずいざん) 。

● 諱(いみな)は小楯(こたて)、 通称は半平太

  (はんぺいた)、号は瑞山(ずいざん)。 

  後に、柳川左門とも称し、その雅号は 吹山。

■ 幕末の志士。 尊王攘夷派・急進派の志士。

■ 土佐勤王党 (とさきんのうとう)の首領、盟主。

■ 「一藩勤皇」(いっぱんきんのう)を掲(かか

   げる。

■ 土佐の、剣術道場・道場主。

■ 文武に優れた人物。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 土佐藩藩士。 土佐藩郷士(ごうし)。  

● 下士(下級武士)の郷士ではあったが、上士

  (上級武士)に準ずる扱いの白札という身分

  であった。

■ 妻は、 島村 富子。 土佐藩郷士・島村氏の

  娘の富子。 子女はなし。 

  (注意) 前近代 日本では夫婦別姓

 

□ 武市半平太 が登場する、 興味深

   い、ドラマ、映画、ドキュメンタリー

 

 

■ 武市半平太 (たけちはんぺいた、 生没年1829年〜1865年) は、

 通称で、武市瑞山 (たけちずいざん) とも称した。

● 諱(いみな)は小楯(こたて)、通称は半平太(はんぺいた)、号は瑞山

 (ずいざん)。 後に、柳川左門とも称し、その雅号は 吹山 である。

■ 武市半平太 は、 土佐の、剣術道場道場主で、 文武に優れた人物

 で、 幕末の勤王志士で 尊王攘夷派・急進派 であった。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 武市半平太 は、 土佐勤王党(とさきんのうとう) の首領、盟主 で

 あった。

■ 武市半平太 は、 土佐藩の藩士で、 土佐藩郷士(ごうし) であった。

● 土佐藩では、 土佐藩藩士 は、 上級武士の「上士」 (じょうし) と

 下級武士の「下士」(げし)という身分 に分かれていた。 郷士(ごうし) 

 は、 「下士」(げし)に属し、 土佐藩では、最下級の身分の武士 であっ

 た。

● 武市半平太 は、 土佐藩の下士(下級武士)の郷士ではあったが、上

 士(上級武士)に準ずる扱いの白札という身分であった。

 

■ 武市半平太 は、 1849年(嘉永2年)に、 土佐藩の城下の新町に、

 剣術道場を開く。 この道場の門下には、中岡慎太郎、 岡田以蔵(人斬

 り以蔵)等もいて、 後の土佐勤王党の母体 となる。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 武市半平太 は、 1856年(安政3年)に、江戸へ出て、 江戸の土佐

 藩邸に近く土佐藩士が多い、江戸3大道場の一つである 「士学館(しがく

 かん)」 の 鏡心明智(きょうしんあけち)流 の桃井春蔵(もものいしゅん

 ぞう)に学び、 そこの塾頭となる。

 ○ 江戸3大道場に関しては、「幕末の江戸剣術道場」を参照。

● 江戸では、 武市半平太 は、 久坂玄瑞 (くさかげんずい)、 高杉晋

  (たかすぎしんさく)、 桂小五郎 (かつらこごろう、木戸孝允)、などの

 長州藩士 とも交流する。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 武市半平太 は、1861年(文久元年)に、「一藩勤皇」を掲(かか)げて、

 同志を集めて、 江戸にて、土佐勤王党を結成する。 

● 2年後には、192名が土佐勤王党の連判に参加する。

 

 土佐勤王党は、 幕末の尊王攘夷派(そんのうじょういは)の過激集団で、

 人斬り以蔵 (岡田以蔵((おかだいぞう))、平井収二郎 (ひらいしゅうじろ

 う)、中岡慎太郎、 吉村寅太郎、 坂本龍馬(さかもとりょうま)、なども加

 わる。

 

■ 武市半平太 (たけちはんぺいた) は、 1862年に、 同志に、 公武合

 体派の土佐藩参政の吉田東洋(よしだとうよう)を暗殺させ、 一時、土佐藩

 の藩論を尊王攘夷派に導いた。 しかし、1863年の「八月十八日の政変」

 後、 土佐藩の公武合体派により、 1863年9月に投獄され、 1865年に、

 自害した。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 武市半平太 は、 1862年(文久2年)に、 同志に(実行犯は那須信吾、

 大石団蔵、安岡嘉助)、 土佐藩参政で開国・公武合体派の吉田東洋(よし

 だとうよう)を暗殺させ、 土佐藩の藩政の実権を掌握し、 土佐藩主・山内豊

 範を奉じて、京(都)に進出した。 

 

■ 武市半平太 は、 1862年(文久2年)秋に、 朝廷から幕府に対する

 攘夷(じょうい)催促の勅使の江戸下向時には、 副使・姉小路公知と共に、

 柳川左門という変名で、 江戸に随行した。

 

■ 1862年(文久2年)〜1863年(文久3年)に、 尊王攘夷派の、武市半

 平太 は、京(都)での、政敵や佐幕派、公武合体派、開国派などの数々の

 人々の暗殺に関与し、同志の刺客を放ち、 天誅(てんちゅう)、斬奸 と称し

 て、 彼らを暗殺させた。

● 武市半平太の下で動いていた人物では、 土佐藩の人斬り以蔵 (岡田

 以蔵)、  薩摩藩の田中新兵衛 などが有名である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ しかし、 1863年(文久3年)の、「八月十八日の政変」後、 京(都)の

 中央政界 では、長州藩が失脚し、尊王攘夷派が急速に衰退し、代わって 

  公武合体派が主導権を握る。 

   土佐藩でも、公武合体派が影響力を増し、土佐藩の公武合体派により、

 武市半平太は、 1863年(文久3年)9月に逮捕、投獄され、 また、 土

 佐藩では、 吉田東洋(よしだとうよう)暗殺や京 (都)の一連の暗殺に関与

 した、 土佐勤王党の同志がことごとく捕らえられる。 

   その後、 武市半平太 は 土佐藩の実権をもつ公武合体派の前藩主

 山内容堂から切腹を命じられ、  1865年(慶応元年)(うるう)5月に、

 自害する。

 

 1863年(文久3年)8月の「八月十八日の政変」以後からは(以後1868

 年頃まで)、 京(都)及び京(都)周辺では、 佐幕派の会津藩兵、  見廻組

 (みまわりぐみ)、会津藩預りの新選組(しんせんぐみ) などが、 京(都)及

 び京(都)周辺での治安を守るようになると、 尊王攘夷派、尊王倒幕派の

 勤皇志士達 は、 京(都)や京(都)周辺での活動や 公武合体派、佐幕派

 の人々の暗殺が難しくなり、 逆に、追われる立場になっていった。

 

 

#takechihanpeita-appearingscenes

 

♪♪ 武市半平太が登場する、興味

    深い関連ドラマ、 映画、ドキュ

    メンタリー。 

 

  ● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

       歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史の事実) 

     と 架空の出来事 が、混じって、描かれて

     います。 また、現代風にアレンジしてあります。

 

  『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 。  

     (NHK2010年大河ドラマ)。

 

  ● 武市半平太を演じた俳優名 : 

    大森 南朋 (おおもり なお)。

 

 

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 『 あなたのハートには 

   何が残りましたか? 』

 

 

以  上。