TKKI カナヤマ オフィシャル ホームページ。     

   TKKI KANAYAMA’S OFFICIAL HOMEPAGE.

◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY 

   HANDBOOK

 

 

 カナヤマ 日本歴史辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 ろ 』。

 

 

#jpmenu     

メ ニュー (目次)。  

 ■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

 □ 日本史 辞典 (総合) 

  

□     ● 五十音順 ( あいうえお順)。

 

□ 見出し語 ろか

□ 見出し語 ろた

□ 見出し語 ろら

 

 

 ろう  牢人

            (ろうにん) 。 《武士の身分》。

         (= 浪人)。

         (= 前近代日本の、主君を持たない

         武士)。

 

 ろう  老中

            (ろうちゅう)。  《江戸幕府の役職》。

         (⇒ 江戸幕府)。

         ○ 江戸幕府の役職名、重役

          (要職)。 (3名ー6名)。

         ○ 将軍を補佐して、幕政(幕

          府の政治、国政)を指揮する

                    役職

         ○ 常置で、複数人数制の役

          職。

            ■ 老中 (ろうちゅう) とは、 江戸幕

            府の役職名であり、重役(要職)であり、

            3名から6名までの人数が任命された。

            ● 老中は、 将軍を補佐して、幕政

            (幕府の政治、国政)を指揮する役職  

            である。

            ● 老中は、 江戸幕府の常置 の役

            職であり、 複数人数制の役職である。

 

#roka

 

〇 ろく   六位

             (ろくい)。 《位階》。

          (⇒ 位階叙位)。

             ■ 近・現代日本の、職員令(20

          位階)、叙位条例(16位階)、位

          階令(16位階)の位階。

              <1869年頃〜現在、使用>。

             ● 正六位 (しょうろく)。

             ● 従六位 (じゅろくい)。

           (⇒ 位階令の位階)。

           (⇒ 叙位条例の位階)。

          (⇒ 職員令の位階)。

          (⇒ 近・現代日本政府の位階)。

             (1) 六位 (ろくい)は、 近・現代日本の、

                      職員令(20位階)、叙位条例(16位階)、

             位階令(16位階)で、 正六位 (しょうろく)

             と 従六位 (じゅろくい)の2つの位階とし

             て、 1869年頃から現在まで使用されて

             いる。

          ■ 前近代日本の、朝廷の律令

          官制の位階(30位階)。

             <701年頃〜1869年頃、使用>

             ● 正六位上 (しょうろくいのじょう)。

             ● 正六位下 (しょうろくいのげ)。

             ● 従六位上 (じゅろくいのじょう)。

             ● 従六位下 (じゅろくいのげ)。

          (⇒ 朝廷の律令官制の位階)。

          (⇒ 蔵人)。

             (2) 六位 (ろくい)は、 前近代日本の、

             朝廷の律令官制の位階(30位階)で 、

             正六位上 (しょうろくいのじょう)、 

             正六位下 (しょうろくいのげ)、 従六位上

             (じゅろくいのじょう)、 従六位下 (じゅろく

             いのげ) の4つの位階として、 701年頃

             から1869年頃まで使用された。

 

〇  ろく   鹿苑寺。

            (ろくおんじ)。 《仏教寺院》。

          (= 金閣寺(きんかくじ、通称)、 北山

          殿(きた やまでん)、北山山荘(きたやま

              さんそう))。

         ○ 鹿苑寺の通称は、金閣寺。

          (⇒ 金閣寺、北山殿)。

          (⇒ 金閣北山文化

       足利義満)。

             ■ 鹿苑寺 (ろくおんじ)は、 通称は金閣

             寺(きんかくじ)であり、 金閣(きんかく、= 舎

             利殿(しゃりでん))のある、鹿苑寺(= 金閣

             寺)であり、 金閣(= 舎利殿)を含む寺院

                           全体である。

             ■ 鹿苑寺 (ろくおんじ、= 金閣寺)は、北 

             山殿 (きたやまでん、北山山荘(きた やま

             さんそう)) という足利義満 (あしかがよし

             みつ、室町幕府・第3代将軍、法名(戒名)

             :鹿苑院) の別荘(山荘)であっ たが、 足利

             義満死後、現在の鹿苑寺(= 金閣寺)という

              禅宗仏教寺院となった。

             ■ 鹿苑寺(= 金閣寺)の金閣は、舎利殿

             である。

                舎利殿(しゃりでん) とは、 シャカ(=

             ブッダ)の遺骨が納められている建物 であ

                           る。

                金閣 (= 鹿苑寺(= 金閣寺)舎利殿)

             は、 北山文化の代表作の1つである。

 

〇 ろく  鹿苑寺金閣。

            (ろくおんじきんかく)。 《舎利殿》。

          (= 金閣、金閣寺金閣(舎利殿)、

          北山殿(= 北山山荘)の金閣

          (舎利殿))。

         (⇒ 北山文化

        足利 義満)。

            ■ 鹿苑寺 (ろくおんじ、= 金閣寺)は、北 

             山殿 (きたやまでん、北山山荘(きた やま

             さんそう)) という足利義満 (あしかがよし

             みつ、室町幕府・第3代将軍、法名(戒名)

             :鹿苑院) の別荘(山荘)であっ たが、 足利

             義満死後、現在の鹿苑寺(= 金閣寺)という

              禅宗仏教寺院となった。

             ■ 鹿苑寺(= 金閣寺)の金閣は、舎利殿

             である。

                舎利殿(しゃりでん) とは、 シャカ(=

             ブッダ)の遺骨が納められている建物 であ

                           る。

                金閣 (= 鹿苑寺(= 金閣寺)舎利殿)

             は、 北山文化の代表作の1つである。

 

〇 ろく   鹿苑寺・金閣 (金閣)

       画像アルバム No.1

            (ろくおんじ・きんかく がぞうあるばむ)。

             《楼閣アルバム》。

 

〇 ろく  六十干支。

            (ろくじっかんし)。  《干支》。

         (= 十干十二支)。

         ■ 六十干支( ろくじっかんし)とは、十干

            十二支である。

               六十干支は、 十干(じっかん)と十二

         支(じゅうにし)、及び、2つを組み合わせた

            干支(かんし、えと)) である。

       (⇒ 干支(かんし))。

 

〇 ろく   陸州

            (ろくしゅう、りくしゅう)。 《旧地域名》。

          (= 陸奥国( むつのくに))。

          (≒ 概ね、現在の現・青森県、

          岩手県、宮城県、福島県の

          相当地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国名(令制

           国)の別称)。

           ROKUSHU AREA.

                    (⇒ 陸奥国( むつのくに))。

                    (⇒ 青森県、岩手県、

          宮城県、福島県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

             ■ 奥州 (おうしゅう)や 陸州 (りくしゅ

             う、ろくしゅう)は、 旧国名(令制国 )正

             式名の、陸奥 国 (むつ のくに)の別称 

             である。

                          ● 陸州ろくしゅう、りくしゅう、= 陸奥国

             は、 東山道(とうさんどう)・旧広域地方

             に属し、 現・東北地方の、概ね、現・青森

            県、岩手県、宮城県、福島県に相当する

            地域 である。

 

〇 ろく  六条天皇。 

            (ろくじょうてんのう)。 《天皇》。

            (= 順仁親王(のぶひと しんのう)) 。

         (生没年:1164年〜1176年)。

       (⇒ 二条天皇藤原得子

       ( とくし))。

         ○ 天皇在位:1165年〜1168年。

         ○ 幼少天皇。

         ○ 二条(にじょう)天皇の皇子(みこ)

         後白河(ごしらかわ)上皇(天皇)の孫 。

 

〇 ろく  6世紀。

            (ろくせいき)。 《世紀》。

         (= 501年〜600年)。

         (⇒ 世紀・西暦年号

          対照一覧表)。

         (⇒ 世紀)。

 

〇 ろく   六波羅探題 

            (ろくはらたんだい)。 《鎌倉幕府》。

         (鎌倉幕府・地方行政機関)。

            (1221年ー1333年)。

              The Rokuharatandai

          Administrative Management 

          Agency.

             ■ 六波羅探題とは、 鎌倉時代に、 朝廷の

             監視、京(都)内外の警備、西国の統轄のため

             に、京(都)に置かれた、鎌倉幕府の、地方行

            政機関 である。

 

〇 ろく   六波羅殿。

             (ろくはらどの)。  《人名》。

          (= 平 清盛)。

       (⇒ 平 清盛)。

 

〇 ろく   六波羅入道。

            (ろくはらにゅうどう)。  《人名》。

          (= 平 清盛)。

              (⇒ 平 清盛)。

 

〇 ろく   鹿鳴館 

            (ろくめいかん)。  

         (社交場)。 《近代日本政府》。

            (1883年ー1887年、国際

          社交場としての鹿鳴館、

          鹿鳴館時代)。

               The Rokumeikan Hall.

             (⇒ 井上馨華族)。

             ■ 鹿鳴館 (ろくめいかん、1883年

             (明治16年)〜1887年(明治20年))

             とは、 東京・日比谷にあった、近代

             日本政府の国際社交場である。 

             ■ 鹿鳴館は、 1883年(明治16年)

             1から887年 (明治20年)まで、 

             主に、欧米列強に日本が文明国で

             あることを示し不平等条約改正を有

             利にすすめるためにつくられ た、近

             代日本政府の国際社交場であった。

                その時期に、鹿鳴館では、豪華

             な園遊会や舞踏会などが催された。

                1887年(明治20年)に、 不平

             等条約改正案や欧化主義などの批

             判から、外務卿・ 井上馨の辞職とと

             もに、鹿鳴館時代(1883 年〜18

             87年)は終わった。

             ■ 鹿鳴館。

             ● 鹿鳴館  (ろくめいかん、18

             83年(明治16年)ー1887年(明

             治20年))は、 日本初の迎賓館

             (げいひんかん)であり、 外務卿・

             井上馨(いのうえかおる)の進め

             る欧米との不平等条約改正 な

             どの目的で、条約改正の第一歩

             として社交を通じて欧米各国の

             政府高官との信頼関係を築こう

             と設立され、 国賓(こくひん)や

             外交官などの外国客を招待、接

             待するための社交場であり、 

              遊会や舞踏会などが頻繁に開か

             れ、 バッスルスタイルの煌(きら)

             びやかなドレスをまとう、華族(か

             ぞく、1869 年ー1947年)や政

             府高官などの上流の夫人が、活躍

             する。

              ■ 鹿鳴館は、  外務卿・井上馨(が

             いむきょう・いのうえかおる)の企画

             により、イギリス人・コンドルの設計

             で建てられた、レンガ造り2階建ての

             建物であり、 東京・日比谷に、18

             81年に着工され、1883年(明治

             16年)に落成した。 

                鹿鳴館は、 1883年(明治16

             年)から1887年 (明治20年)まで

             国際社交場として使われ、1890年

             以降は、華族会館となる。

 

〇 ろく   鹿鹿鳴館時代 

            (ろくめいかんじだい)。  

         (明治時代の一時期)。

          《近代日本》。

            (1883年(明治16年)〜

           1887年(明治20年)。

                           ■ 鹿鳴館時代とは、 

             鹿鳴館が国際社交場として利用され

             た、1883年(明治16年) から1887

             年(明治20年)までである。

 

〇 ろく   鹿鳴館の華 

             (ろくめいかんのはな)。《人物》。  

                           ■ 鹿鳴館の華(ろくめいかんのはな)

             とは、 

             1883年(明治16年)から1887年

             (明治20年)まで、国際社交場として

              利用された鹿鳴館で活躍した女性

             たちである。

             ■ 鹿鳴館。

             ● 鹿鳴館  (ろくめいかん、18

             83年(明治16年)ー1887年(明

             治20年))は、 日本初の迎賓館

             (げいひんかん)であり、 外務卿・

             井上馨(いのうえかおる)の進め

             る欧米との不平等条約改正 な

             どの目的で、条約改正の第一歩

             として社交を通じて欧米各国の

             政府高官との信頼関係を築こう

             と設立され、 国賓(こくひん)や

             外交官などの外国客を招待、接

             待するための社交場であり、 

              遊会や舞踏会などが頻繁に開か

             れ、 バッスルスタイルの煌(きら)

             びやかなドレスをまとう、華族(か

             ぞく、1869 年ー1947年)や政

             府高官などの上流の夫人が、活躍

             する。

             ■ 「鹿鳴館の華」。

             ● 優雅なダンスと美貌で、洗練

             されたマナーと振る舞いで、「鹿鳴

             館の華」 (ろくめいかんのはな)

             と称(たた)えられた女性には、

             (a) 井上 武子 (いのうえ たけ

             こ、井上 馨(かおる)夫人、

             1850年−1920年)、

             (b)  大山 捨松 (おおやま すて

             まつ、大山 巌(いわお)夫人

             1860年ー1919年)、  

             (c) 戸田 極子 (とだ きわこ、

             戸田 氏共(うじたか)夫人、

             1858年−1936年)、 

             (d) 陸奥 亮子 (むつ りょうこ、

             陸奥 宗光(むねみつ)夫人、

             1856年ー1900年)、 

             (e) 鍋島 栄子 (なべしま なが

             こ、鍋島 直大(なおひろ)夫人、

             1855年−1941年) 

             などがいる。

 

〇 ろく   六文銭。 

            (ろくもんせん)。 《家紋》。

         (= 六連銭)。

         (真田氏(真田家)の家紋)。 

                     The Rokumonsen Family 

                        Crest.

         (⇒ 真田氏

       真田 幸村(信繁))。

             ■ 六文銭 (ろくもんせん)とは、

                       武家の、真田氏(真田家)の家紋で

             ある。                      

             ● 六文銭とは、 一文銭6枚であり、 

              死後三途(さんず)の川を渡るときの

             渡し賃を意味するといわれている。

             ● 真田氏(真田家)の六文銭は、 

             いつでも死ぬ覚悟ができているとい

             うことを示し、真田氏(真田家)の勇

             気の明かしであった。

             ● 大坂夏の陣での真田幸村(信繁)の

             死後は、真田氏(真田家)の六文銭は、 

             すべてに死ぬ気で臨む覚悟の印(しる

             し)となった。

 

#rota

 

〇 ろっ   ロッシュ 

         《人名》。

                   (= フランス公使ロッシュ) 。

         (1809年ー1900年)。

         ○ 幕末のフランス在日公使

         (在日公使在任、1864〜68年)。

 

#rora

 

〇 ろん  ロンドン・オリンピック2012。

             (ろんどん・おりんぴっくたいかい)。

             《 国際スポーツ競技大会》。

             (夏季オリンピック大会)。

             (⇒ ロンドン・オリンピック

        2012 (地理学辞典))。

          ● 日本代表選手が活躍した20

          12年ロンドン・オリンピック (金

          メダル7個、銀メダル14個、銅メ

          ダル17個、合計38個のオリンピ

          ック・メダルを獲得)。

 

 

 

   ● 五十音順 (あいうえお順)。

 

 

   ■  『 現在は、過去の成果であり、

       未来は、現在の成果である。 

         (良き現在は、過去の人々の良き努力

          や活動の積み重ねの成果であり、 

          明るい良き未来は、現在の人々の、

          良き努力や活動の積み重ねによって

          形成される。)

 

 

■ 上位のWEBサイト。 

□ (KOH) カナヤマ オフィシャル   >

         ホームページ

□ (Cse)  国際理解総合サイト     >

         われら地球市民。 

□ (Ke)   百科事典。          >

□ (Khh)  歴史学ハンドブック    >

□ (Kjhh) 日本史ハンドブック。    >

□ (Kjhh) 日本史辞典(総合版)。   >

□ (Kjhh) 日本史辞典・日本語版。  >

□ (Kjhh) この日本語ページ。 

 

 

ようこそ TKK カナヤマのホームページへ !             WELCOME TO TKK KANAYAMA’S HOMEPAGE !  

 

 

■ 当ホームページの制作・著作権 TKKI カナヤマ。

 

■ Copyright(C) TKKI Kanayama.

   All Rights Reserved.

 

 

#jpdictionary(general)

 

◆ 日本史辞典

 

● 見出し語はグリーンでマークされています

 

□ メニュー(目次)の先頭へ戻る。 

□ 日本史辞典・日本語版の先頭ページへ

□ 日本史ハンドブック・日本語版へ

□ 日本史辞典・英語版 へ

□ 日本史ハンドブック・英語版 へ

 

 

#ro

 

#therokumeikanhall

 

■ 鹿鳴館  

      (ろくめいかん)。

 

■ 鹿鳴館。 

■ 名称 : 鹿鳴館 (ろくめいかん)。

■ 英語名 : The Rokumeikan Hall。

■ 《近代日本政府の、国際社交場》。

■ 1883年(明治16年)〜1887年(明治20年)

■ 鹿鳴館とは、

   東京・日比谷にあった、近代日本政府の国際

   社交場である。

■ 「鹿鳴館の華」と称(たた)えられた女性には、

  井上 武子 (いのうえ たけこ)、 大山 捨松 

  (おおやま すてまつ)、 戸田 極子 (とだき わ

  こ)、 陸奥 亮子 (むつ りょうこ)、 鍋島 栄子 

  (なべしま ながこ)などがいる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 31415。

 

 

 ■ 鹿鳴館。

 

   ■ 鹿鳴館 (ろくめいかん)とは、 1883年(明

     治16年)から1887年(明治20年)までの

     間、東京・日比谷にあった、近代日本政府

     の国際社交場である。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 鹿鳴館  (ろくめいかん、1883年(明治16

     年)ー1887年(明治20年))は、 日本初の

     迎賓館(げいひんかん)であり、 外務卿・

     井上馨(いのうえかおる)の進める欧米との

     不平等条約改正のな どの目的で、条約改正

     の第一歩として社交を通じて欧米各国の政府

     高官との信頼関係を築こうと設立され、 国賓

     (こくひん)や外交官などの外国客を招待、接

     待するための社交場であり、 園遊会や舞踏

     会などが頻繁に開かれ、バッスルスタイルの

     煌(きら)びやかなドレスをまとう、華族(かぞく、

     1869 年ー1947年)や政府高官などの上流

     夫人が、活躍した。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 鹿鳴館は、 1883年(明治16年)から 18

     87年(明治20年)まで、 主に、欧米列強に

     日本が文明国であることを示し不平等条約

     改正を有利にすすめるためにつ くられた、

     近代日本政府の国際社交場である。

        その時期に、鹿鳴館では、豪華な園遊

     会 舞踏会などが催された。

        1887年(明治20年)に、 不平等条約

     改正案や欧化主義などの批判から、外務卿・

     井上 馨(がいむきょう・いのうえ かおる)の辞

     職とともに、鹿鳴館時代 (1883年(明治

     16年)〜1887年(明治20年))は終わった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 ■ 鹿鳴館 。 

 

   ■ 鹿鳴館は、 外務卿・井上馨(いのうえかおる)

     の企画により、イギリス人・コンドルの設計で建

     てられた、レンガ造り2階建ての建物であり、 

     東京・日比谷に、1881年(明治14年)に着工

     され、1883年(明治16年)に落成した。  

        1883年(明治16年)11月28日に、鹿鳴

     館は、開館した。 

        鹿鳴館は、 1883年(明治16年)から

     1887年(明治20年)まで国際社交場として

     使われ、 その後、1890年(明治23年)以降

     は、華族会館となる。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 鹿鳴館は、 日本人と欧米人との国際社交場と 

     なり、 華族(かぞく、1869年ー1947年)や

     政府高官などの夫人が、活躍した。

         明治時代前期の、1883年(明治16年)

     から1887年(明治20年)まで、鹿鳴館では、

     上層階層の男女が集(つど)い、夜な夜な、饗

     宴(きょうえん)が繰り広げられた。

         鹿鳴館は、 外国からの客を 招待、接待

     するための社交場であった。 当時の明治政府

     (近代日本政府)は、欧米諸国と対等にわたり

     あえる近代国家になろうと必死であった。一刻

     も早く日本の風俗や習慣を西洋風に改めさせ

     ようとした。

         その使命を背負い、鹿鳴館で踊っていた

     のが、華族や政府高官と夫人などの紳士・淑女

     であった。

         優雅なダンスと美貌で「鹿鳴館の華」と称

     (たた)えられた、貴婦人の女性たちには、 

     井上 武子 (いのうえ たけこ)、 大山 捨松 (お

     おやま すてまつ)、 戸田 極子(とだ きわこ)、 

     陸奥 亮子(むつりょうこ)、 鍋島 栄子(なべしま

     ながこ) などである。 洗練されたマナーと振る

     舞いで鹿鳴館を彩(いろど)った貴婦人たちであ

     る。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 「鹿鳴館の華」。

 

   ■ 鹿鳴館 (ろくめいかん、1883年(明治16

     年)〜1887年(明治20年))は、 外国からの

     客を接待するための社交場であり、 華族(か

     ぞく、1869年ー1947年)や政府高官な どの

     上流の夫人などが、活躍した。

 

   ■ 優雅なダンスと美貌で、洗練されたマナーと

     振る舞いで、「鹿鳴館の華」 (ろくめいかんの

     はな)と称(たた)えられた女性には、次のよう

     な女性などがいた。

 

    (a) 井上 武子 (いのうえ たけこ、

       井上 馨(かおる)夫人、

       1850年−1920年) 。

 

    (b) 大山 捨松 (おおやま すてまつ、

       大山巌(いわお)夫人

       1860年ー1919年)。  

 

    (c) 戸田 極子(とだ きわこ、戸田 氏共

       (うじたか)夫人、

       1858年−1936年)。

 

    (d) 陸奥 亮子 (むつ りょうこ、

       陸奥 宗光(むねみつ)夫人、

       1856年ー1900年)。

 

    (e) 鍋島 栄子 (なべしま ながこ、

       鍋島 直大(なおひろ)夫人、

       1855年−1941年)。 

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 井上武子。

 

   ■ 井上武子 (いのうえたけこ、岩松(新田)武子、

     幕臣・下級旗本・武士の娘、1850年−1920

     )は、 井上馨(いのうえかおる)の夫人(18

     69年結婚)である。 

 

   ■ 井上武子の実家は、 江戸幕府の交代寄合

     旗本 (こうたいよりあいはたもと、江戸付近に

     居住しない幕臣・旗本)の、上野国(こうずけの

     くに、現・群馬県)新田郡に領地のある、岩松

     家(明治になり新田家に改称)120石であり、 

     井上武子は、その当主・岩松(新田)俊純(いわ

     まつ(にった)としずみ)の娘である。 下級旗

     本の娘である。

 

   ■ 井上武子は、 初め外国判事の中井弘(なか

     いひろし)に嫁ぎ、1869年(明治2年)に離別

     し、 1870年(明治3年)8月に、大隈重信(お

     おくましげのぶ)の仲介で、井上馨(いのうえか

     おる)と再婚する。

 

   ■ 鹿鳴館開館前、井上武子は、 1876(明治9

     年)に、欧米視察の井上馨と共に、1876年か

     ら1878年まで、アメリカやヨーロッパに渡り、

     西洋のマナーとファッションを身につけ西洋式

     社交術を修得し、 1878年(明治11年)に帰国

     する。

 

   ■ 井上武子は、 鹿鳴館を企画した外務卿(がい

     むきょう、外務大臣)の井上馨(いのうえかおる)

     の夫人であり、鹿鳴館の女主人であった。 

       そして、井上武子は、 

     1883年(明治16年)から1887年(明治20年)

     まで、鹿鳴館で活躍 する。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 大山捨松。

 

   ■ 大山捨松 (おおやますてまつ、山川 さき、

     1860年ー1919年、会津藩重臣・武士の娘)

     は、 大山巌(おおやまいわお)の夫人(1883

     年結婚)である。

 

   ■ 大山捨松は、 会津藩の国家老の山川尚江

     重固(やまかわなおえしげたか)の2男5女の

     末娘である。

 

   ■ 山川家では、 さきの兄・山川健次郎と共に、

     山川さき(大山捨松)も、 政府主導の北海道

     開拓使の10年間の官費留学の募集に応じ、

     2人の留学が決まる。 岩倉使節団に随行し

     て渡米することとなる。

        12歳の時、山川 さき (大山捨松)は、

     アメリカ留学で日本を去る時、武家の母のえん

     が山川さきに、懐剣を渡し、「てたつもりでお

     前の帰りを待っ()ている」と述べ、さきを捨松

     と改名させる。

 

   ■ 大山捨松は、 日本最初の女子留学生の一人

     で、 1871年(明治4年)から1882年(明治

     15年)まで、アメリカに留学する。 

        そして、大山捨松は、アメリカの大学を卒業

     した初の日本人女性となる。

 

   ■ 吉井友実(よしいともざね)は、大山巌の夫人

     (吉井友実の長女)が3人の娘を残して死去し、

     大山巌の後妻を探していた。 そして、吉井は、

     捨松に着目し、大山巌に会わせた。 西洋か

     ぶれだった大山巌は、捨松の西洋流に洗練

     された美しさに心を奪われ、一目で恋に落ちる。 

     2人の出身が官軍・薩摩藩の薩摩人と賊軍・

     会津藩の会津人であるため、大山巌の従弟

     (いとこ)の西郷従道が山川家の捨松の兄を

     説得し、捨松は、デートを提案し、約3か月の

     デート後、結婚を決意する。

 

   ■ 1883年(明治16年)11月8日に、大山捨松

     は、大山巌と結婚式を挙げる。

         その1ヶ月後、完成したばかりの鹿鳴館

     で、大山夫妻の盛大な結婚披露宴が催(もよ

     お)される。 

 

   ● そして、大山捨松は、 

     1883年(明治16年)から1887年(明治20年)

     まで、鹿鳴館で活躍 する。

 

   ■ また、大山捨松は、日本の女子教育に貢献

     する。大山捨松は、下田歌子と共に、1884年

     (明治17年)の華族女学校(後の学習院女子

     中・高等科)の設立の準備を行う。 

        また、大山捨松は、1900年(明治33年)

     の津田梅子の女子英学塾(後の津田塾大学)

     の設立を援助する。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 戸田 極子。

 

   ■ 戸田 極子 (とだ きわこ、1858年−1936年、

     岩倉極子、下級公家の娘)は、

     戸田 氏共(とだうじたか)夫人(1871年結婚)

     である。

 

   ■ 戸田 極子は、 下級公家・岩倉具視(いわくら

     ともみ)の三女であり、 元・美濃国大垣藩第

     11代藩主(1865年〜1869年)の戸田氏共

     (とだうじたか、生没年:1854年ー1936年)

     と1871年(明治4年)2月に東京で結婚式を挙

     げ (極子数え年14歳、氏共数え年18歳で)、

     戸田 極子は、戸田氏共の夫人となる。

 

   ■ 岩倉(戸田) 極子は、 日本国内で、早くから

     教育を受け、新妻になると、すぐ夫は留学し、

     夫が5年間欧米に留学中や帰国後も、国内

     で英語とダンスを学び、英語とダンスが堪能と

     なる。

 

   ■ そして、戸田 極子は、

     1883年(明治16年)から1887年(明治20年)

     まで、鹿鳴館で活躍 する。

         鹿鳴館では、戸田極子(とだ きわこ)は、

     陸奥亮子(むつりょうこ)、鍋島 栄子(なべしま

      ながこ)と共に、 鹿鳴館の華(ろくめいかんの

     はな)と呼ばれる。

 

   ● その後、1887年(明治20年))に、 戸田

     極子の夫の戸田氏共がオーストリア公使(18

     87年〜1890年)となり、戸田 極子は、戸田

     氏共と共に、オーストリア・ウィーンへ行き、

     オーストリア公使夫人として「ヨーロッパの社交

     界」で活躍し、1890年(明治23年))に帰国す

     る。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 陸奥亮子。

 

   ■ 陸奥亮子(むつりょうこ、金田亮子、1856年ー

     1900年、幕臣・旗本・武士の娘、東京・新橋の

     美人芸子)は、 

     陸奥宗光(むつむねみつ)の夫人(1872年結婚)

     である。

 

   ■ 陸奥亮子は、

    幕臣・旗本の武士・金田の娘であり、 東京・新橋の

    美人芸子(芸者)となり、 1872年(明治5年)5月

    に、17歳で、陸奥宗光(むつむねみつ)の後妻とな

    る。

 

   ■ 陸奥亮子は、

     陸奥宗光の勧めにより、日本国内で多くの教養

     を身につける。

 

   ■ そして、陸奥亮子は、

     1883年(明治16年)から1887年(明治20年)

     まで、鹿鳴館で活躍 する。

         鹿鳴館では、戸田極子(とだ きわこ)、

     鍋島 栄子 (なべしま ながこ)と共に、 鹿鳴館

     の華(ろくめいかんのはな)と呼ばれる。

 

   ■ 1888年(明治21年)に、陸奥宗光は、

     アメリカ公使(1888年〜1890年)となり、

     陸奥亮子は、陸奥宗光と共に、アメリカに渡り、

     アメリカ公使夫人として、アメリカ社交界で活

     躍し、「ワシントン社交界の華(はな)」といわ

     れ、1890年(明治23年))に帰国する。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 鍋島 栄子。

 

   ■ 鍋島 栄子 (なべしま ながこ、1855年−

     1941年、広橋 栄子、名家公家の娘)は、

     鍋島 直大(なべしま なおひろ)の夫人(18

     81年結婚)である。 

 

   ■ 鍋島 栄子 (なべしま ながこ、1855年−

     1941年、名家公家の娘)は、 元・肥前

     佐賀藩第11代(最後)の藩主(1861年ー

     1869年)の鍋島 直大(なべしま なおひ

     ろ)の夫人(1881年結婚)である。 

        鍋島 直大は、1871年(明治4年)の

     渡航から1878年(明治11年)の帰国まで、

     欧米に留学する。

 

   ■  鍋島 栄子は、公卿(名家公家)・権大納

     言(ごんだいなごん)・広橋 胤保(ひろはし

      たねやす、1819年ー1876年)の五女

     として生まれる。 広橋 胤保は、祐宮(さち

     のみや、後の明治天皇)の習字師範であ

     った。

 

   ■ 広橋 栄子は、 結婚前は、宮中で仕え、

     初め、岩倉具義 (いわくらともよし、岩倉

     具視の長男、1842年ー1879年、興福

     寺僧侶・慶応4年(1868年)還俗、明治

     2年南岩倉家創設、男爵)と結婚し、18

     79年(明治12年)に死別する。 その後、

     広橋 栄子は、1881年(明治14年)4月

     に、当時イタリア公使であった鍋島 直大と

     ローマで結婚する。 その後、鍋島 直大

     との間に一男四女に恵まれる。

 

   ■ 鍋島直大は、 留学から帰国後、1879

     年(明治12年)に外務省御用掛となり、

     1880年(明治13年)からイタリア公使

     (1880年〜1882年)を務め、 鍋島栄子

     は、イタリア公使夫人(1881年結婚〜

     1882年)としてイタリアで約2年を過ごし、

     「ヨーロッパの社交界」で活躍し、鍋島直大・

     栄子は、1882年(明治15年)に帰国する。 

     鍋島直大は1884年(明治17年)に、侯爵

     に列する。

 

   ■ そして、鍋島栄子は、

     1883年(明治16年)から1887年(明治20

     年)まで、鹿鳴館で活躍する。

         鹿鳴館では、鍋島栄子は、戸田極子

     (とだ きわこ)、陸奥亮子(むつりょうこ)と共に、

     鹿鳴館 の華(ろくめいかんのはな)と呼ばれ

     る。

        鹿鳴館で鍋島栄子は、特別にあつらえ

     たバッスルドレスをまとい、素晴らしいダン

     スを踊った。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 鹿鳴館が登場する興味深い、 ドキュ

    メタンリー、ドラマ、映画。

 

 ★ 鹿鳴館が登場する興味深い、 ドキュ

    メタンリー。

 

 ■ にっぽん!歴史鑑定 

   『 鹿鳴館の華 陸奥亮子 』 。 

      (TBSテレビの2017年1月30日・

      本放送の歴史ドキュメンタリー番組)。

    

  ■ 鹿鳴館を詳しく述べる。

  ■ 陸奥亮子や陸奥宗光を詳しく述べる。

  ■ 条約改正を述べる。

 

 

 ■ ザ・プレミアム 『 華族 150年

    の旅路 激動を生き抜いた日本

    の名家 』 。 

      (NHKテレビの2016年9月10日・

      本放送の歴史ドキュメンタリー番組)。

 

  ■ 外務卿・井上馨(がいむきょう・いの

    うえかおる)が企画した、明治時代

    前期の鹿鳴館を述べる。

  ■ 華族を詳しく述べる。

 

 

 ★ 鹿鳴館が登場する興味深 い、

    ドラマ、映画。

 

   ● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

     歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の

     事実) と 架空の出来事が 混じって描

     かれています。 また、現代風にアレンジ

     してあります。

 

 ■ 『 花燃ゆ (はなもゆ) 』 。 

    (NHKテレビの2015年大河ドラマ)。

 

  ■ 鹿鳴館の舞踏会の場面を描く。

  ■ 日本の明治維新、幕末、明治時代前期

     の時代状況やその時代に活躍した人々

     を描く。

  ■ 明治時代前期の鹿鳴館、華族、幕末や

    明治時代前期の井上馨を描く。

 

 

□ メニュー(目次)の先頭へ戻る。 

□ 日本史辞典の先頭ページへ。 

□ 日本史ハンドブック ・ 日本語版へ

 

 

#rochu

 

■ 老中  

     (ろうちゅう)

 

■ 老中。

■ 名称 : 老中 (ろうちゅう)。

■ 老中は、

   江戸幕府の役職名、重役(要職) である。

■ 老中は、

   将軍を補佐して、幕政(幕府の政治、国政)を

   指揮する役職 である。

■ 老中は、

   常置で、複数人数制の役職である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 31415。

 

 

 ■ 老中。

 

   ■ 老中 (ろうちゅう)は、 江戸幕府の役職名で、 

     重役(要職)であり、 江戸幕府の将軍を補佐し

     て、幕政(幕府の政治、国政)を指揮する役職

     である。

       老中は、常置で、複数人数制の役職である。

     江戸幕府初期には、 老中は、年寄(としよ

     り)という名称であった。

 

 

 ■ 老中。

 

   ■ 老中は、複数いて、幕政(幕府の政務)を合議

     して決めた。

 

   ■ 老中は、 将軍に直属し、 三奉行・大目付を

     指揮して、 政務を総理する常置の、江戸幕府

     の政治(幕政)の最高執政機関である。

 

   ■ 老中は、 定員が4〜5名で、 月番制をとり、

      2万5千石以上の譜代大名(ふだいだいみ

     ょう)から任じられた。

 

   ■ 江戸幕府重役(要職)には、 上位順に、 大老

     (たいろう)、 老中首座(ろうちゅうしゅざ)、 老中

     (ろうちゅう)、 若年寄(わかどしより) などが

     いた。

       その他の江戸幕府の重役 (要職)には、 将軍

     近侍(きんじゅう)する側用人(そばようにん) など

     がいた。

 

 

□ メニュー(目次)の先頭へ戻る。 

□ 日本史辞典の先頭ページへ。 

□ 日本史ハンドブック ・ 日本語版へ

 

 

#therokuharatandaioffice

 

■ 六波羅探題  

     (ろくはらたんだい)。

 

■ 六波羅探題。

■ 名称 : 六波羅探題 (ろくはらたんだい)。

■ 存立期間 : 1221年〜1333年。

■ 六波羅探題は、

  京(都)に置かれた、倉幕府の、地方行政機関 

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 31416。

 

 

 ■ 六波羅探題。

 

   ■ 六波羅探題 (ろくはらたんだい、存立期間 :

     1221〜1333年) は、 鎌倉時代に、 朝

     廷の監視、京(都)内外の警備、西国(せいご

     く)の統轄のために、京(都)に置かれた、

     倉幕府の、地方行政機関 である。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 六波羅探題。

 

   ■ 六波羅探題は、 承久の乱(じょうきゅうのら

     ん、1221年)後、 京(都)に設置された。

     それ以後、六波羅探題は、 鎌倉幕府の西国

     (さいごく、西日本)支配の重要な拠点となっ

     た。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 北条氏執権主導の鎌倉幕府は、承久の乱後、

     皇位の継承に介入すると共に、 1221年に、

     京(都)に新たに、六波羅探題を置いた。 

 

   ■ 承久の乱で、朝廷方が敗北し、承久の乱後、

     以前の朝廷鎌倉幕府の日本の二元的支配は、

     大きく変わり、 日本は、鎌倉幕府中心の政治

     支配の状況となった。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 六波羅探題。

 

   ■ 六波羅探題の長官は、 鎌倉幕府の執権(し

     っけん)、連署(れんしょ)につぐ重職であった。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 六波羅探題には、南北2つの六波羅探題が

     あった。

 

  ■ 六波羅探題(1221年〜1333年) は、13

    33年に、元弘の変で 足利尊氏が、 六波羅

    探題を攻め滅ぼすまで、 鎌倉幕府の西国(さ

    いごく、西日本)支配の重要な拠点となった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

□ メニュー(目次)の先頭へ戻る。 

□ 日本史辞典の先頭ページへ。 

□ 日本史ハンドブック ・ 日本語版へ

 

 

#the6thrank

 

■ 六位  

     (ろくい)。

 

■ 六位。

■ 名称 : 六位 (ろくい)。

■ 六位とは、

   位階(いかい)のグループ である。

■ 六位の使用期間(叙位期間) は、 

  ● 古代日本の飛鳥白鳳時代から現代日本の

     現在までである。 

  ● (西暦紀元後)701年頃から現在までであ

    る。

■ 六位は、

   「朝廷(律令官制)」、「職員令」、「叙位条例 」、

   位階令」の位階 (701年頃〜現在、叙位に

   使用)である。

■ 六位には、

      正六位 (しょうろくい)  と 従六位 (じゅ

   ろくい) の2つの位階がある

■ 前近代日本の「朝廷(律令官制)」の位階 では、

  六位には、

  ● 正六位の、

  ○ 正六位上 (しょうろくいのじょう)、

  ○ 正六位下 (しょうろくいのげ) 、

  ● 従六位の、

  ○ 従六位上 (じゅろくいのじょう)、

  ○ 従六位下 (じゅろくいのげ)、

  がある。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

 □ 前近代の朝廷(律令官制)の位階

 □ 位階

 □ 叙位

 

 

 ■ 六位。

 

   ■ 六位 (ろくい) とは、 正六位 (しょうろく

     い) と 従六位 (じゅろくい) の2つの

      である。 

       更に、前近代日本の「朝廷(律令官制)」の

     位階では、六位には、 正・従(しょう・じゅ)

     六位の2つの位階に上下を付けて、次のよ

     うな4つの位階があった。

     ● 正六位

     ○ 正六位上 (しょうろくいのじょう)。

     ○ 正六位下 (しょうろくいのげ)。

     ● 従六位

     ○ 従六位上 (じゅろくいのじょう)。

     ○ 従六位下 (じゅろくいのげ)。

 

 ■ 六位。

 

   ■ 六位 (ろくい)は、 古代日本の飛鳥白鳳

     時代から現代日本の現在までの期間の

     に使用されている位階 で、 (西暦紀元

     後)701年頃から現在までの期間の叙位に、

     使用されている。  

 

   ■ 現在は、1947年の改正位階令により、

     「功績のあった、故人(死亡者)へのみ」、叙

     位が行われている。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

 ■ 六位。

 

  ■ 前近代の「律令官制」の位階。 

      <701年頃〜1869年頃>

    ● 朝廷の位階の「一位〜八位、初位」の

      9グループの6番目のグループの位階。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

    ● 朝廷の30位階(いかい)の、

      15番目の正六位上 (しょうろくいのじょう)、

      16番目の正六位下 (しょうろくいのげ)、

      17番目の従六位上 (じゅろくいのじょう)、

      18番目の従六位下 (じゅろくいのげ)、

      の4つの位階である。

 

  ■ 「職員令(1869年制定)」の位階。

      <1869年頃〜1887年頃>

    ● 近代日本政府の位階の「一位〜九位、

      初位」の10グループの 6番目のグループ

      の位階。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。 

    ● 近代日本政府の20位階の、

      11番目の正六位 (しょうろくい)、

      12番目の従六位 (じゅろくい)、

      の2つの位階である。

 

  ■ 「叙位条例(1887年制定)」、

     「位階令(1926年制定、1947年

         改正)」、

     の位階。

       <1887年頃〜現在>

    ● 近・現代日本政府の位階の「一位〜八位

      8グループの 6番目のグループの位階。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。 

    ● 近・現代日本政府の16位階の 、

      11番目の正六位 (しょうろくい)、

      12番目の従六位 (じゅろくい)、

      の2つの位階である。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

 ■ 六位。

 

  ■ 律令官制の位階。 

      <701年頃〜1869年頃>

    ● 六位は、 朝廷の位階の「一位〜八位、初

      位」の9グループのうちの、上から 6番目の

      グループの位階である。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。 

    ● 六位は、 正一位(しょういちい)から少初

      位下(しょうそいのげ)までの朝廷の30位

      階(いかい)の、

      15番目の正六位上 (しょうろくいのじょう)、

      16番目の正六位下 (しょうろくいのげ)、

      17番目の従六位上 (じゅろくいのじょう)、

      18番目の従六位下 (じゅろくいのげ)、

      の4つの位階である。

 

  ■ 職員令(1869年制定)の位階。

      <1869年頃〜1887年頃>

    ● 六位は、 近代日本政府の位階の「一位〜

      九位、初位」の10グループのうちの上から

      6番目のグループの位階である。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。 

    ● 六位は、 正一位(しょういちい)から少初

      位(しょうそい、しょうしょい)までの近代日

      本政府の20位階の、

      11番目の正六位 (しょうろくい)、

      12番目の従六位 (じゅろくい)、

      の2つの位階である。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

  ■ 叙位条例(1887年制定)、位階令

     (1926年制定、1947年改正)の位階。

     <1887年頃〜現在>

    ● 六位は、 近・現代日本政府の位階の「一

      位〜八位」の8グループの うちの上から6

      番目のグループの位階である。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。 

    ● 六位は、 正一位(しょういちい)から従八

      位(じゅはちい)までの近・現代日本政府の

      16位階の、

      11番目の正六位 (しょうろくい)、

      12番目の従六位 (じゅろくい)、

      の2つの位階である。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

#the6thrank-premoderncourt

 

◆ 律令官制の位階。 

 

 ■ 従六位下。

   ● 前近代日本の朝廷で、内裏の殿上人である、

     蔵人になるための最低条件の位階。

 

   ■ 内裏の、殿上人(てんじょうびと) は、位階

     ・六位以上の者で蔵人(くろうど)に叙任さ

     た者である。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

   ■ 従六位下(じゅろくいのげ)は、 内裏(だいり、

     天皇御所)の、殿上人(てんじょうびと) である、 

     蔵人になるための、朝廷の最低条件の位階

     である。 

 

   ■ 内裏の、殿上人(てんじょうびと) とは、位階

     ・五位以上の者で昇殿を許可された者、 や

     位階・六位以上の者で蔵人(くろうど)に叙任さ

     れた者である。

       内裏の、殿上人(てんじょうびと) とは、

     の位階・五位以上の者で天皇より昇殿を許

     可された者(昇殿を許された者)、 や 朝廷

     の位階・位以上の者で天皇 により蔵人に叙

     任された者 である。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

   ■ 従六位下(じゅろくいのげ) は、 蔵人に叙

     任され、内裏の殿上人になるための最低条

     件の朝廷の位階 で、 正一位(しょういちい)

     から少初位下(しょうそいのげ)までの朝廷

     の30位階の、上から18番目の位階 であ

     った。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

□ メニュー(目次)の先頭へ戻る。 

□ 日本史辞典の先頭ページへ。 

□ 日本史ハンドブック ・ 日本語版へ

 

 

#roches

 

■ ロッシュ 

     (フランス公使 ロッシュ)。 

 

■ ロッシュ。

■ 名称 : ロッシュ。  

   ミシェル・ジュール・マリー・レオン・ロッシュ。

■ フランス語名 : 

   Michel Jules Marie Léon ROCHES。

■ 別名 : フランス公使ロッシュ。

■ 生没年 : 1809年〜1900年。

■ ロッシュは、 フランスの外交官で、

   幕末のフランス在日公使 (公使在任:1864年

   〜1868年)である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 31416。

 

 

 ■ フランス公使ロッシュ。

 

   ■ ロッシュ (生没年: 1809年〜1900年)は、 

     フランスの外交官で、 フランス公使ロッシュで

     ある。 

 

   ■ フランス公使ロッシュは、 

     江戸時代の幕末のフランス在日公使(公使在任:

     1864年〜1868年) であった。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

 ■ フランス公使ロッシュ。

 

   ■ 幕末に、 フランス公使ロッシュは、

     江戸幕府を支持し、 従来の江戸幕府の独裁政権

     の実現を期待し、 一方、イギリス公使ークスは、 

     討幕をすすめる薩摩藩・長州藩を支持し、天皇を

     中心とする雄藩連合政権の実現を期待した。 

        両者とも、日本における自国の有利な立場を

     確立しようとした。

 

   ■ フランス公使ロッシュは、 江戸幕府に財政的、

     軍事的援助を続けた。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

 ■ フランス公使ロッシュ。

 

   ■ 幕末に、 ロッシュは、 

     1864年(元治元年)3月に、ベルクール在日

     公使の後任として、フランス在日公使に就任

     する。

 

   ■ フランス公使ロッシュは、 日本で、積極的に、

     フランス外交を推進した。

 

   ● 幕末、イギリスの対日外交政策に対抗して、 

     フランス公使ロッシュ は、 江戸幕府を助け、 

     1865年(慶応元年)に、横須賀製鉄所の建

     設を請け負い、 1966年(慶応2年)に、フラ

     ンスから経済使節団を来日させ、幕府と借款

     や武器売り込みの契約を結び、 1867年に

     は、フランス人軍事顧問団を招いて幕府に

     軍制改革を着手させ、 パリ万博への日本参

     加を援助し、 幕府中心の統一政権の確立

     に努め、幕末に、日本での自国の有利な立場

     を確立しようとした。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

 ■ フランス公使ロッシュ。

 

   ■ 1868年に、 フランス本国でフランス公使ロッ

     シュの親幕府外交を支持した外相が辞任し、

     後任の外相が、親薩摩藩・長州藩政策を採用し

     たため、フランス公使ロッシュは罷免(ひめん)

     され、帰国した。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

♪♪ フランス公使ロッシュが登場する、興味

    深いドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

 ★ フランス公使ロッシュが登場する、興味

    深いドラマ、映画。

 

   ● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

     歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の

     事実) と 架空の出来事が 混じって描

     かれています。 また、現代風にアレンジ

     してあります。

 

 ■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 

    (NHKテレビの2010年大河ドラマ) 

 

   ■ フランス公使ロッシュが登場する。

 

 

□ メニュー(目次)の先頭へ戻る。 

□ 日本史辞典の先頭ページへ。 

□ 日本史ハンドブック ・ 日本語版へ

 

 

#ronin

 

■ 牢人  

     (ろうにん)。

 

■ 牢人。 

■ 名称 : 牢人 (ろうにん)。

■ 別称 : 浪人 (ろうにん)。

■ 期間 : 安土桃山時代、江戸時代、明治時代初期。 

■ 牢人(浪人)とは、

   前近代日本の、主君をもたない武士である。

■ 牢人(浪人)とは、

   武士の身分が固定した安土桃山時代から、 武士

   階級が消滅する明治初期までの時期で、 主君を

   持たない、プロの職業軍人である武士である。

■ 武士に関しては、 当日本史辞典の『 武士 (ぶし) 』 

   を参照して下さい。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 31425。

 

 

 ■ 牢人(浪人)。 

 

   ■ 牢人 (ろうにん) とは、 安土桃山時代、江戸

     時代、明治時代初期に、 前近代日本の、主君

     をもたない武士である。

 

   ■ 牢人とは、 武士の身分が固定した安土桃山時

     代より、 武士階級が消滅する明治初期までの

     時期で、 主君を持たない、プロの職業軍人であ

     る武士である。   

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 ■ 牢人(浪人)。 

 

   ■ 平安中期より室町時代までは、 半農半武士

     である武士は多かった。

 

   ■ 平安中期より室町時代までは、 武士の身分

     は、固定しておらず、特に、中級・下級武士は、 

     他の職業から武士への転進も多かった。 

        また、武士より、 他の職業へ転進する場

     合も多かった。

     (例) 美濃の斉藤道三 (油売りの商人から武士へ)、 

         豊臣秀吉 (農民から武士へ)。 

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ プロの職業軍人である武士は、 

     織田信長が、 軍事以外の仕事をしない、プロの

     職業軍人である武士を大量に生み出し、 その後、

     豊臣秀吉が、1591年(天正19年)8月に、身分

     統制令(武士と農工商民との身分区分法)を定め、

     武士の身分が固定し、その後、 明治初期の18

     76年(明治9年)の廃刀令や秩禄処分による武士

     階級の消滅まで、存在した。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

□ メニュー(目次)の先頭へ戻る。 

□ 日本史辞典の先頭ページへ。 

□ 日本史ハンドブック ・ 日本語版へ

 

 

  『 あなたのハートには 

    何が残りましたか? 』

 

 

以  上。