TKKI カナヤマ オフィシャル ホームページ。

   TKKI KANAYAMA’S OFFICIAL HOMEPAGE.

◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY 

   HANDBOOK.  

 

 

 カナヤマ 日本歴史辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 あ 』。

 

 

#jpmenu     

メ ニュー (目次)。

 ■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

 □ 日本史辞典 (総合)  

 

□     ● 五十音順 (あいうえお順)。

 

 □ 見出し語 あか

 □ 見出し語 あさ

 □ 見出し語 あな

 □ 見出し語 あま

 □ 見出し語 あら

 □ 見出し語 あん

 

 

〇 あ−  アーネスト・サトウ

          《人名》。

             (生没年:1843年ー1929年)。

                           Ernest Mason SATOW.

                    ○ アーネスト・サトウは、

          イギリス人の外交官である。

             ○ アーネスト・サトウは、

          幕末・明治時代前期の在日

          イギリス公使館員・通訳(在

          任:1862年ー1883年)で

          ある。

          ○ アーネスト・サトウは、

          後年に出世してイギリス公使

          として再来日する。

                       ■ アーネスト・サトウ (生没年:

              1843年ー1929年、英:Ernest 

              Mason SATOW) は、 

              イギリス人の外交官 であり、 幕末・

              明治時代前期の在日イギリス公使

              館員・通訳 (在任:1862年ー

              1883年)であり、 後年に出世して

              イギリス公使として再来日する。

 

〇 あい   愛知県。

              (あいちけん)。

           (現都道府県)。 《現地域名》。

                           AICHI  PREFECTURE.

           ○ 愛知県は、

           現・47都道府県の1つで

           ある。

             ○ 愛知県の地域は、

          (1) 愛知県東部

          (≒ 概ね前近代日本の、

                      三河国(三州、参州)

               の相当地域) 

           と、

           (2) 愛知県西部

          (≒概ね前近代日本の、

                      尾張 国(尾州)の相当地域

                      に区分される。

                     (⇒ 都道府県)。

                     (⇒ 三河国)。

                     (⇒ 尾張国)。

                      (⇒ 前近代日本の

             地域名)。

           (⇒ 旧国(= 令制国))。

                      (⇒ 旧地域名地域名)。

                      (⇒ 日本の地名)。

           ■ 愛知県の地域

             <中部地方。

             <日本本土 (本州、四国、九州)

             <日本国

             ● 愛知県 (あいちけん、英:AICHI 

              PREFECTURE)は、中部地方

                             属する。

                      (⇒ 中部地方)。

           ■ 愛知県の地域 

            (三河国 と 尾張 国)。

             <東海道・旧広域地方。

             <五畿七道 (ごきしちどう、日本本土)。

          (⇒ 東海道・旧広域地方)。

                   (⇒ 五畿七道)。

             ■ 愛知県(あいちけん)地域は、

                            (1) 愛知県東部 

             (概ね前近代日本の、 三河 国 

             (みかわ のくに、別称:三州(さんしゅ

             う)、参州(さんしゅう)) の相当地域) 

             と、  

             (2)  愛知県西部 

             (概ね前近代日本の、尾張 国 

             (おわり のくに、別称:尾州(びしゅう))

             の相当地域)

             区分される。

             ■ 愛知県の地域は、 

             前近代日本(古代〜江戸時代)の、

             旧国(令制国)の、

             (1) 三河 国 (みかわ のくに、

              別称:三州(さんしゅう)、参州(さん

                           しゅう)、概ね、現・愛知県東部の相

             当地域) 

              と、 

             (2) 尾張 国 (おわり のくに、 別称

                        :尾州(びしゅう)、概ね、現・愛知県

              西部の相当地域) 

             の地域である。

 

〇 あい  会津。

             (あいづ)。 《地名》。

          (旧地方名)。 

          (≒ 福島県西部、

          福島県会津若松地方)。

                        AIZU AREA.

               (⇒前近代日本の

        地域名)。

             ■ 会津 (あいづ)は、 旧地方名で

             あり、 現在の、福島県西部、福島県

             会津若松地方の相当地域である。

 

〇 あい  会津家訓。

             (あいづかきん)。 《会津藩》。

          (会津藩の家訓)。

             AIZU PRECEPTS.

            (⇒ 会津藩)。

             ■ 会津家訓 (あいづかきん) とは、 

             前近代日本の江戸時代の会津藩の

             家訓であり、 会津藩藩祖の保科 正 

             之 (ほしな まさゆき、徳川家光の実

             弟)が定めた家訓である。

 

〇 あい  会津娘子隊。

             (あいづじょうしたい)。 《会津藩》。

                THE AIZU JOSHITAI 

              FIGHTING UNIT.

          ○ 会津娘子隊は、

          会津戦争で奮戦した女性

          兵部隊である。

            (⇒ 会津戦争)。

             ■ 会津娘子隊 (あいづじょうしたい)

             は、幕末、会津戦争で奮戦した女性兵

             部隊である。

 

〇 あい  会津戦争

             (あいづせんそう)。 《会津藩》。

          (戊辰戦争)。 

                (1868年8月〜9月)。 

                THE AIZU WAR.

          ○ 会津戦争は、

          戊辰(ぼしん)戦争の1つ である。

          ○ 会津藩の藩主・藩士は、

          代々、幕末まで、徳川宗家

          (江戸幕府)に忠誠を誓う。

             ■ 会津戦争 (あいづせんそう)は、

             戊辰戦争 (ぼしんせんそう、1868年

             〜1869年)の1つであり、 1868年

             (慶応4年、明治元年)8月から9月ま

             で、 新政府軍と会津藩の間で、会津

             の地(現・福島県会津若松地方)で戦

             われた合戦である。

             ■ 会津藩の藩主・藩士は、会津藩藩

             祖の保科正之 (ほしなまさゆき、徳

             川家光の実弟)が定めた会津家訓(あ

             いづかきん)により、 代々、幕末ま で、

             徳川宗家(江戸幕府)に忠誠を誓う。

 

〇 あい  会津藩

             (あいづはん)。 《藩(大名)》。

          (江戸時代の藩(大名))。

          (17世紀ー19世紀)。

                THE AIZU DOMAIN.

          ○ 会津藩の藩主・藩士は、

          代々、幕末まで、徳川宗家

          (江戸幕府)に忠誠を誓う。

             ■ 会津藩(あいづはん)は、 江戸時

             代の藩(大名)であり、17世紀から19

             世紀まで会津(あいづ、福島県西部の

             会津若松地方)に存在した藩である。

             ■ 会津藩の藩主・藩士は、会津藩藩

             祖の保科正之 (ほしなまさゆき、徳

             川家光の実弟)が定めた会津家訓(あ

             いづかきん)により、 代々、幕末ま で、

             徳川宗家(江戸幕府)に忠誠を誓う。

 

〇 あい  会津白虎隊。

             (あいづびゃっこたい)。 《会津戦争》。

                THE AIZU BYAKKO FIGHTING 

              UNIT.

          ○ 会津白虎隊は、

          会津戦争で奮戦した少年兵

          部隊である。 

          (⇒ 会津戦争)。

             ■ 会津白虎隊 (あいづびゃっこた

             い)は、会津藩の白虎隊であり、会津 

             戦争で奮戦した少年兵部隊である。 

 

〇 あい   アイヌ人 

             (あいぬじん)。

             (= 北海道常住民、アイヌ)。

                    《日本常住民の日本人》。

          (人類学上の分類・特徴)。

             (日本人のルーツ)。

             THE AINU JAPANESE PEOPLE.

             (= 中世日本前期に、北海道で形成さ

             れた、古・新モンゴロイド混血の「縄文・

             北アジア諸民族・混血系の日本人の人

             類)。

             ○ アイヌ人は、

          北海道原住の「縄文・北アジア

          民族・混血系」の人々 である。

            (⇒ 縄文系)。

            (⇒ 北海道の歴史)。 

            (⇒ 古代日本人)。            

            (⇒ 原日本人)。

            (⇒ 日本人)。            

          (⇒ 日本人ルーツ・ガイドブック)。

             ■ アイヌ人(= 北海道土着・常住民)。

             <日本人(= 日本地域土着・常住民)。  

             <モンゴロイド。

             <現生人類(= 新人、ホモ・サピエンス

              種)。 

             <ヒト属。

             <人類(= ヒト亜族) 。

             ● 日本人の人類学上の分類・特徴。

             ■ アイヌ人は、 現存日本人(人類学上

             の分類の、「本土日本人」、「琉球人」、「ア

             イヌ人」)の1グループである。 人数は少

             ない。

             ● アイヌ人は、北海道(蝦夷ヶ島)原住の

             縄文・北アジア諸民族・混血系の人々であ

             る。

             ● アイヌ人は、蝦夷ヶ島人(えぞがしまじ

             ん)、蝦夷人である。

             ● アイヌ人は、 現生人類(= 新人、ホモ・

             サピエンス種)のモンゴロイドの、日本人

             (= 日本地域土着・常住民)の、北海道原

             住の「縄文・ 北アジア諸民族・混血系」

             人々(人類) である。 

             ● アイヌ人は、中世日本以後、日本地域

             の北海道を原住とする、 古モンゴロイド

             の縄文系と古・新モンゴロイドの北アジア

             の諸民族との混血の、「縄文・北アジア諸

             民族・混血系」の人々である。

             ● アイヌ人は、 中世日本前期(鎌倉時

             代)の13世紀頃、 日本地域(日本本土、

             南西諸島、北海道)の、北海道で、 北海

             道に以前より居住していた古モンゴロイド

             の縄文系の人々 と、 交流する北アジア

             の諸民族とが混血して、形成された。

             ■ アイヌ人 (= 北海道土着・常住民)

             への進化表。

               化石類人猿(= 中新世ホミノイド)⇒ 

             人類の、猿人⇒ 原人(= ホモ・エレクト 

             ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類

             ⇒ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス

             (種))⇒ モンゴロイド⇒ 縄文人⇒ 

             弥生人⇒ 古代日本人⇒ 本土日本人

             (= 本土人)、 「琉球人」、「アイヌ人」。

             ■ 現代日本人(日本常住民)への進化表。

               化石類人猿(= 中新世ホミノイド)⇒ 

             人類の、猿人⇒ 原人(= ホモ・エレクト

             ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類

             ⇒ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス

             (種))⇒ モンゴロイド⇒ 縄文人⇒ 

             弥生人⇒ 古代日本人⇒ 中世日本人 

             ⇒ 近世日本人⇒ 近代日本人 

             現代日本人

 

〇 あお  青森県。

             (あおもりけん)。

           (現・都道府県)。 《現地域名》。 

                            AOMORI PREFECTURE.

           ○ 青森県は、

           現・47都道府県の1つである。

             ○ 青森県の地域は、

           前近代日本の、概ね、陸奥国

           (奥州、陸州)の北端部の相当

           地域である。

             ○ 青森県の地域は、

            前近代日本の、概ね

              陸奥国  (むつのくに、奥州(おう

               しゅう)、陸州(りくしゅう、ろくしゅ う)、

           現・青森県・岩手県・宮城県・ 福島県

                      の相当地域)の北端部の相当地

           域である。

                     (⇒ 都道府県)。

                     (⇒ 陸奥国)。

                    (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                      (⇒ 旧地域名地域名)。

                      (⇒ 日本の地名)。

          ■ 青森県の地域。

             <東北地方。

             <日本本土(本州、四国、九州)

             <日本国

             ● 青森県 (あおもりけん、英:

             AOMORI PREFECTURE)は、

             東北地方に属する。

                      (⇒ 東北地方)。

          ■ 青森県の地域

            (陸奥国の北端部)。

             <陸奥国 (むつのくに、旧国(令制

               国)、現・青森県、岩手県、宮城県、

              福島県の相当地域)。

             <東山道(とうさんどう)・旧広域地方

             <五畿七道(ごきしちどう、日本本土)。

          (⇒ 東山道・旧広域地方)。

                   (⇒ 五畿七道)。

             ■ 青森県(あおもりけん)の地域は、 

             概ね前近代日本の、陸奥国 (むつ

             のくに、奥州、陸州)の北端部に相当

             する地域である。

             ■ 青森県(あおもりけん)の地域は、 

             概ね前近代日本(古代〜江戸時代)

              の、旧国(令制国)の、陸奥国 (むつ

             のくに、奥州(おうしゅう)、陸州(りくし

             ゅう、ろくしゅう)、現・青森県・岩手県・

             宮城県・福島県の相当地域) の北端

             部に相当する地域である。

 

#aka

 

〇 あか  赤紙。

             (あかがみ)。 徴兵令状》。

             (= 昭和・戦前の徴兵令状)。

              AKAGAMI CONSCRIPTION 

              (DRAFT) NOTICE.

          (⇒ 太平洋戦争)。

          (⇒ 日中戦争)。

               (⇒ 和戦前期の

          旧日本軍実態 ガイド

         ブック)。

              ■ 赤紙 (あかがみ)とは、昭和時代・

              戦前の徴兵令状である。

 

〇 あか  あか筒。

             (あかとう)。  《化学兵器》。

          (= 旧日本軍の毒ガス弾)。

             AKATO GAS BOMB(S).

             ○ あか筒は、

          旧日本軍が日中戦争中、

          中国本土で使用した毒ガス

          弾(化学兵器)である。

          (⇒ 日中戦争)。

               (⇒ 和戦前期の旧日本

        軍実態ガイドブック)。

                             ■ あか筒 (あかとう)とは、 化学兵器で

             あり、 戦前の旧日本軍の毒ガス弾である。

             ● あか筒は、 旧日本軍が 日中戦争中、

             中国本土で使用した毒ガス弾(化学兵器)で

             ある。

 

〇 あか  赤橋 登子。

             (あかはし とうこ。 《人名》。

              (= 北条 登子)。 

                     (室町幕府の将軍夫人)。 

              AKAHASHI Toko.

          (⇒ 北条 登子)。

          (⇒ 北条 守時足利 尊氏)。

              ■ 赤橋 登子 (あかはし とうこ、

              = 北条登子)は、 

              室町 幕府初代将軍・足利尊氏の

              正室夫人であり、 北条(赤橋)守

              時の妹であり、北条 登子とも称す

              る。

 

〇 あか  赤橋 守時。

             (あかはし もりとき 《人名》。

             (= 北条守時)。

                    (鎌倉幕府の執権)。

              AKAHASHI Moritoki.

          (⇒ 北条 守時)。

           (⇒ 北条 登子足利 尊氏)。

             ■ 赤橋 守時 (あかはし もりとき)は、

             鎌倉幕府の 第16代執権であり、 北条

             守時とも称する。

             ■ 赤橋 守時は、 室町 幕府・初代将

             軍・足利尊氏の正室夫人の赤橋 登子 

             (あかはし とうこ、= 北条 登子) の兄

             である。

 

〇 あか  赤松 広秀。

             (あかまつ ひろひで。 《人名》。

              AKAMATSU Hirohide.

                ○ 赤松政秀の嫡子。

                ○ 安土桃山時代の、西播磨の

           武将。

          (⇒ 赤松 政秀)。

             ■ 赤松 広秀 (あかまつ ひろひで)は、

             赤松政秀の嫡子 であり、 安土桃山時代

              の西播磨の武将である。

 

〇 あか  赤松 政秀

             (あかまつ まさひで 《人名》。

             (生年不詳ー1570年)。

              AKAMATSU Masahide.

                ○ 赤松 政秀は、播磨西部

              に勢力をもった武将である。

                ○ 赤松 政秀は、赤松義祐

           (よしすけ)と播磨の 覇権をめ

           ぐり、対立した。

                ○ 赤松 政秀は、赤松義祐

              (よしすけ)方の、播磨中部の

           小寺政職やその家臣・黒田

           職隆・官兵衛(孝高)父子と

           敵対した。

                 ■ 赤松 政秀 (あかまつ まさひで、

              生年 不詳ー1570年)は、 室町時代

                 後期(戦国時代)に、播磨(はりま、兵

                            庫県南部の相当地域)の西部に勢力

             をもった武将である。

                 ■ 赤松 政秀は、播磨守護・赤松 氏

              の分家・龍野赤松家の当主であり、

              播磨・龍野城・城主であり、 赤松義

              祐(よしすけ) と播磨の覇権をめぐり、

              対立した。

              ● 赤松 政秀は、 赤松義祐(よしす

              け)方の、播磨中部 (はりまちゅうぶ、

              兵庫県南中部)に勢力をもつ小寺政職

              (こでら まさもと) や  その家臣・黒田

              職隆(もとたか)・黒田官兵衛(孝高よし

                             たか) 父子と敵対した。

 

〇 あか  赤松 義祐。

             (あかまつ よしすけ)。 《人名》。

              AKAMATSU Yoshisuke.

                ○ 赤松 義祐は、

           播磨守護・赤松氏本家当主

           である。

                ○ 赤松義祐は、赤松 政秀

           ( まさひでと播磨の覇権をめ

           ぐり、対立した。

                 ■ 赤松 義祐 (あかまつ よしすけ)

              は、播磨守護・赤松 氏本家の当主で

              あり、 播磨・置塩城・城主であり、 

              赤松政秀( まさひで)と播磨国 (はり

              まのくに、兵庫県南部本土の相当地

              域) の覇権をめぐり、対立した。

 

 あき   明子。

              (あきこ)。 (仮称・実名不詳)。

          《人名》。

           (= 高階明子 たかしなのあきこ

          NHK大河ドラマ「平清盛」で

          の仮称)。

           (= 高階基章の娘)。

           (⇒ 高階基章の娘)。

                     Akiko.

                ○ 平清盛の正室夫人(先妻)。 

                ■ 明子 (仮称・実名不詳)(あきこ、= 高

              階明子(たかしなのあきこ))は、高階基

              章(たかしなのもとあき)の娘であり、 N

              HK大河ドラマ「平清盛」での仮称である。

                ■ 高階基章の娘 (たかしなのもとあきの

              むすめ) (仮称:明子)は、平清盛の正室

              夫人(先妻)である。

 

 あき   秋田県。

              (あきたけん)。 《現地域名》。

           (現・47都道府県の1つ)。

           (≒ 概ね、 前近代日本の、

          出羽国(で わ のくに、別名:羽

                          (うしゅう))の北部の相当

          地域)。

                           AKITA PREFECTURE.

                    (⇒ 出羽国)。

                      (⇒ 都道府県)。

                      (⇒ 現地域名)。

                      (⇒ 前近代日本の地域名)。

                      (⇒ 旧国(= 令制国))。

                      (⇒ 旧地域名地域名)。

                      (⇒ 日本の地名)。

                          ■ (RWM) 

              日本の、中地域名の変遷。

              ● 国造・県主分国⇒ 旧国(令制国)

               ⇒ 旧都道府県⇒ 現47都道府県。

           ■ 秋田県の地域

              <東北地方。

              <日本本土(本州、四国、九州)

              <日本国

              ● 秋田県 (あきたけん、英:

              AKITAE  PREFECTURE)は、

                           日本国 の、現・47都道府県の1つで

              あり、 東北地方に属する。

                   (⇒ 東北地方)。

          ■ 秋田県地域

               (出羽 国(羽州)の北部)。

             <出羽国 (でわのくに、羽州(うしゅ

              う)、現・秋田県・山形県の相当地

              域)。

             <東山道(とうさんどう)・旧広域地方

             <五畿七道(ごきしちどう、日本本土)。

          (⇒ 東山道・旧広域地方)。

                   (⇒ 五畿七道)。

             ■ 秋田県の地域は、

             前近代日本の、概ね、旧国(= 令制

             国)の、 出羽国 (でわのくに、 羽州

             (うしゅう)、現・秋田県・山形県の

             相当地域の北部に相当する地域

             である。

             ■ 秋田県(あきたけん)地域は、  

             前近代日本(古代〜江戸時代)の、

             旧国(= 令制国)の、概ね、出羽 国

             (でわのくに、羽州 (うしゅう)、現・

             秋田県・山形県の相当地域)の北部

             に相当する地域であり、 東山道(と

             うさんどう)・旧広域地方に属す。

 

 あき  安芸 国 

             (あき のくに)。  《旧地域名》。

          (旧国(= 令制国))。

          (= 芸州(げいしゅう))。 

          (≒ 概ね、現・広島県西部の

           相当地域)。

              AKI PROVINCE.

          (前近代日本の、 旧国(= 令

           制国)の正式名)。

                    (⇒ 芸州(げいしゅう))。

                    (⇒ 広島県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

                          ■ (RWM) 

             日本の、中地域名の変遷。

             ● 国造・県主分国⇒ 旧国(令制国)

              ⇒ 旧都道府県⇒ 現47都道府県。

          ■ 安芸 国(= 芸州)

             <山陽道・旧広域地方。

             <五畿七道(ごきしちどう、日本本土)。

          (⇒ 山陽道・旧広域地方)。

                   (⇒ 五畿七道)。

             ■ 安芸 国 (あき のくに、= 芸州(げ

             いしゅう))は、 現・中国地方の、概ね、

             現在の広島県西部に相当する地域で

             あり、 山陽道(さんようどう)・旧広域

             地方に属し、 前近代日本の、旧国

             (= 令制国)である。

                  (⇒ 広島県都道府県)。

           (⇒ 中国地方)。

             ■ 芸州 (げいしゅう)は、  律令制

             定後・古代・中世・近世日本・旧地域

             名の、旧国 (= 令制国)正式名の、

             安芸国(あき のくに)の別称である。

 

〇 あき  顕仁 親王。

             (あきひとしんのう)。 《人名》。

             (= 崇徳(すとく天皇(上皇)、

             讃岐院(さぬきいん))。 

                           PRINCE AKIHITO.

         (⇒ 保元の乱)。

             ■ 顕仁 親王 (あきひとしんのう)

             は、 天皇就任前の名であり、 崇徳

             (すとく) 天皇(上皇)、 讃岐院(さぬ

                            きいん)である。

 

〇 あき  明仁天皇

                          (あきひとてんのう)。 《人名》。

          (= 明仁上皇 (あきひとじょうこう))。 

          (天皇在位:1989年−

                                    2019年)。

          (生年・1933年−現在)。

           AKIHITO EMPEROR

                           (:THE EMPEROR 

           AKIHITO).

          (⇒ 徳仁天皇(なるひとてんのう))。

             ■ 明仁天皇 (あきひと てんのう、

             天皇在位:1989年− 2019年、

             生年:1933年−現在)は、 

             2019年(平成31年)の天皇譲位により、 

             明仁上皇(あきひとじょうこう)となる。

 

 あき  秋山 真之

                       (あきやま さねゆき)。 《人名》。

          (1868年ー1918年)。

              AKIYAMA Saneyuki.

          ○ 秋山 真之は、明治・大

          正期の海軍軍人である。

          ○ 秋山 真之は、秋山 好

          古(よしふる)の弟 である

             ■ 秋山 真之 (あきやま さねゆき、

             生没年:1868ー1918年)は、明

             治・大正時代の海軍軍人であり、 

             秋山 好古(よしふる)の弟である。

 

 あき  秋山 季子

             (あきやま すえこ)。 《人名》。

          (= 秋山 すゑ(すえ)) 。

              AKIYAMA Sueko.

          ○ 秋山 季子は、

                          海軍軍人・秋山 真之(さね

          ゆき)の妻 である。

             ■ 秋山 季子 (あきやま すえこ、

             =  秋山すゑ(すえ))は、 海軍軍人・

                          秋山 真之(さねゆき)の妻である。

 

○ あき  秋山 多美

                           (あきやま たみ)。    《人名》。

          (= 秋山多美子(たみこ)) 。

              AKIYAMA Tami.

          ○ 秋山 多美は、 

                            陸軍軍人・秋山好古(よし

             ふる)の妻 である。

             ■ 秋山 多美 (あきやま たみ、= 秋

             山 多美子(たみこ))は、 陸軍軍人・秋

             山好古(よしふる)の妻 である。

 

 あき  秋山 久敬

                           (あきやま ひさたか)。 《人名》。

              AKIYAMA Hisakata.

          ○ 秋山好古(よしふる)と秋山

             真之(さねゆき)の父。    

          ○ 松山藩下級藩士出身。

             ■ 秋山 久敬 (あきやま ひさたか)は、

             松山藩下級藩士出身であり、 秋山好

             古(よしふる) と 秋山真之(さねゆき)

             の父である。

 

 あき  秋山 好古

            (あきやま よしふる)。 《人名》。

         (1859年ー1930年)。

              AKIYAMA Yoshifuru.

          ○ 明治・大正期の陸軍軍人。  

          ○ 秋山 真之(さねゆき)の兄。

             ■ 秋山 好古 (あきやま よしふる、

             生没年:1859年ー1930年)は、 

             明治・大正時代の陸軍軍人であり、  

             秋山 真之(さねゆき)の兄である。

 

〇 あく  悪源太義平。

            (あくげんたよしひら)。 《人名》。

                    (= 源義平、鎌倉悪源太義平)。 

                   (⇒ 平治の乱 へいじのらん)。 

          ○ 「悪」(あく)は強い、猛々(たけ

                     だけ)しいの意。

          ○ 悪源太義平は、源義朝(みな

             もとのよしとも )の長男である。

          ○ 悪源太義平は、源頼朝の

          異母兄である。 

          ○ 悪源太義平は、1159年の

          平治の乱で活躍し、翌年捕縛

          され、斬首される。

             ■ 悪源太義平 (あくげんたよしひら、=

             源義平、鎌倉悪源太義平)は、 源義朝

             (みなもとのよしとも )の長男であり、 

             源頼朝(みなもとのよりとも)の異母兄で

             ある。

             ● 「悪」(あく)は強い、猛々(たけだけ)

             し いという意味である。

             ■ 悪源太義平(= 源義平)は、1159年

             の平治の乱で活躍し、翌年捕縛され、斬

             首される。

 

〇 あく  悪左府。

            (あくさふ)。  《人名》。

         (= 左大臣・藤原 頼長(よりなが)) 。

         (⇒ 藤原 頼長)。

             ■ 悪左府 (あくさふ)とは、左大臣・

            藤原 頼長(よりなが)である。

 

〇 あく  悪党。

            (あくとう)。 《反抗勢力》。

         ○ 悪党は、鎌倉時代中期〜

         室町時代前期の、幕府や荘園

         領主への反抗勢力である。

         (⇒ 鎌倉幕府室町幕府)。

             ■ 悪党(あくとう)とは、反抗勢力であり、

             鎌倉時代中期から室町時代前期までの、

             幕府や荘園領主への反抗勢力である。

 

〇 あく   阿久里。 

            (あぐり)。 《人名》。

            (= 瑤泉院(ようぜいいん)

          (1669年または1674年ー

                      1714年)。

             ○ 阿久里は、

          浅野内匠頭(長矩)の正室

          夫人である。

        (⇒ 瑤泉院)。  

        (⇒ 元禄赤穂事件)。                  

              ■ 阿久里 (あぐり、= 瑤泉院(よう

             ぜいいん)、1669年または1674

                1714年) は、 浅野内匠頭(長

                            矩)(あさのたくみのかみ(ながのり))

             の正室夫人である。

 

〇 あけ   明智 玉(珠)

            (あけち たま)。 《人名》。

                    (= 細川ガラシャ)。

                    (1563年ー1600年)。

          (⇒ 細川ガラシャ)。 

          ○ 明智 玉は、

          慶長の天下分け目の戦い

          時、大坂で、敵の西軍の人

          質になるのを拒み、自害す

          る。

          ○ 明智 玉は、明智光秀の

          娘であり、美人であった。

          ○ 明智 玉は、細川忠興(た

           だおき )の寵愛する正室夫

          人であった。

                     ■ 明智 玉(珠) (あけち たま、= 細

             川ガラシャ、1563年ー1600年)は、

             慶長の天下分け目の戦い時、大坂で、

             敵の西軍の人質になるのを拒み、自

             害する。

                     ■ 明智 玉(珠)(= 細川ガ ラシャ)

             夫の細川忠興(ただおき)は、慶長の

             天下分け目の戦いで、東軍に味方し

             ていた。 大坂にいた玉(珠)は、夫の

             敵の西軍の人質になるのを拒み、自

             害する。

                     ■ 明智 玉(珠) (あけち たま、= 細

             川ガラシャ、1563年ー1600年)は、

             明智光秀の娘であり、 当時の美人で

             あり、 細川忠興(ほそかわただおき)

             の寵愛する正室夫人であった。

                     ■ 明智 玉(珠)は、キリスト教の一派

             のカトリック教徒であり、 ガラシャは、

             明智 玉(珠)のクリスチャン・ネーム

             (= 洗礼名)の個人名である。

                     ■ (注意) 前近代日本では、「家父

             長制の夫婦別姓」であり、女性は、婚

             儀(結婚)の有無に関係なく、父の氏

             (一族名)を生涯所持したので、当時、

             明智 玉(珠)は、細川忠興と婚儀(結

             婚)後も、細川 玉(珠)、細川ガ ラシャ

             とは称さなかった。

                細川ガラシャは、後世の人に呼

             ばれた名称であり、 明智 玉(珠)の

             別名である。

             ■ (注意) 前近代日本では、「家父

             長制の夫婦別姓」であり、女性は、婚

             儀(結婚)の有無に関係なく、父の氏

             (一族名)を生涯所持した。 

                また、前近代日本では、女性は、

             通常、名(個人名)のみを称し、当時

             の慣習で、明智 玉(珠)は、「玉(珠)」

             (たま)、「ガラシャ 」という個人名で

             自他呼称していた。

 

〇 あけ  明智光綱。

             (あけち みつつな)。 《人名》。

          ○ 明智光綱は、

          明智光秀の父である。

                    (= 明智光隆、明智光国)。

             (⇒ 明智光秀)。

             (⇒ 明智光 安)。

             (⇒ 小見の方濃姫

           (= 帰蝶))。

             (⇒ 斎藤 道三)。

             ■ 明智光秀の出自には諸説が

             あるが、明智光秀の父は、美濃国

             の、明智光綱(あけちみつつな)で

             ある。

             ■ 明智光綱 (あけち みつつな、

             = 明智光隆、明智光国)は、父・明

             智光継(みつつぐ)と共に、土岐氏

             や 斎藤道三(利政)(または斎藤

             道三(利政)の父) に仕(つか)え

             る。

             ■ 明智光綱 (あけちみつつな

             1497年 ー1535年)は、明智荘

             (あけちのしょう)の明智長山城城

             主であり、 美濃国(みののくに、

             現・岐阜県南部の相当地域)の土

             岐明智氏の明智光継(みつつぐ)

             の子であり、 明智光安(あけちみ

             つやす)や小見の方(おみのかた)

             の兄である。 

 

〇 あけ   明智 光秀 

             (あけち みつひで)。 《人名》。

         (1528年?ー1582年)。

            AKECHI Mitsuhide.

         ○ 明智 光秀は、

         知将であり、織田信長の

         重臣であった。

                   ○ 明智 光秀は、

          織田信長に謀反を起こし、

          信長を殺害した武将、大名

          である。

             (⇒ 明智光 綱)。

             (⇒ 明智光 安小見の方

               濃姫= 帰蝶))。

             (⇒ 斎藤 道三浅倉義景

              足利 義昭織田信長)。

             (⇒ 豊臣秀吉徳川家康)。

            ■ 明智 光秀 (あけち みつひで、

            1528年? ー1582年)は、知将で

            あり、織田信長の重臣であった。 

            ■ 明智 光秀は、 織田信長に謀反

            を起こし(反旗を翻(ひるが え)し)、

            信長を殺害した(自害に追い込んだ)

             武将、大名である。

             ■ 本能寺の変の明智光秀謀反

              単独実行説の将来悲観説。

               明智光秀の謀反の有力な説の

             1つとしては、 織田信長の重臣の

             1人の明智光秀は、老齢になるが、

             跡継ぎの男子は大きな成果をあげ

             る実力がなく、引退できず、実力主

             義の織田氏で、重臣の林通勝(林

                           秀貞)や佐久間 信盛のように、 

             智家が信長にリストラされると予期

             し (使い捨てにされると予期し)、

             明智光秀は、今まで築いた領地や

             家臣団などを奪われるのを恐れ、 

             謀反を起こし、京(きょう、京都)の

             本能寺を急襲し、信長を殺害する

             (自害させる)。

             ◆ 明智光秀の出自。

             ■ 明智光秀出自美濃国・明智光

             綱の子説。

                明智光秀の出自には諸説あり、

             明智光秀の父が、美濃国の、明智

             光綱(あけちみつつな)であるなら

             ば、 明智 光秀は、美濃国の土岐

             明智氏(ときあけちし、土岐氏の分

             家・支流)の出身である。

             ● 明智光秀の前半生の史料は

             少ない。

              ■ 明智光秀(あけちみつひで)の出

             自には諸説があるが、 明智光秀の

             父が美濃国の明智光綱(あけちみつ

             つな)であり、明智光秀の祖父が

             濃国の明智光継(あけちみつつぐ)

             であるならば、 明智光秀は、土岐

             明智 氏ときあけちし、土岐氏の 分

             家・支流)の出身であり、美濃国(み

             ののくに、現・岐阜県南部の相当地

             域)の明智荘(あけちのしょう、現・岐

             阜県可児市(かにし))で生まれ育ち、 

             明智光綱の弟で明智荘の明智長山

             城(あけちながやまじょう)城主・明智

             光安 (あけちみつやす)は明智光秀

             の叔父(おじ) であり、 明智光綱の

             妹の小見の方 (おみのかた、斎藤

             道三(利政)の正室夫人)明智光

             秀の叔母(おば)であり、 小見の 方

             の娘の濃姫 (のうひめ、= 帰蝶(き

             ちょう)、斎藤道三(利政)の娘、織田

             の正室夫人)は明智光秀の従兄

             妹(いとこ)である。

                            ◆ 明智 光秀の主君。

                            ■ 明智 光秀は、斎藤道三(利政)

             朝倉義 景足利義昭織田信長

             家臣であった。

             ● 明智光秀の出自には諸説があ

             るが、明智光秀の父が、美濃国の

             明智光綱(あけちみつつな)であれ

             ば、明智光秀は、明智長山城城主

             の叔父(おじ)明智光安(みつやす)

             と共に、斎 藤 道三(利政)に仕える。

             ● 明智光秀の出自には諸説あり、

             明智光秀の父が、美濃国の明智

             光綱(あけちみつつな)であるなら

             ば、明智光秀は、美濃国の斎藤氏

             の家臣であり、1556年(弘治2年)

              の長良川の戦いで、斎藤道三(利

             政)方に味方し、斎藤義龍方に敗

             戦して、美濃国から追われて、浪人

                            となり、諸国を巡る。 

                その後、明智光秀は、約10年

             間、越前国の浅倉氏の浅倉義景

              家臣となる。 それから、足利 義昭

             の 家臣となり、更に、織田信長の家

             臣となる。 

 

〇 あけ  明智光安。

             (あけち みつやす)。 《人名》。

                    (= 宗寂)。

             (⇒ 明智光 綱)。

             (⇒ 明智光 秀)。

             (⇒ 小見の方濃姫

           (= 帰蝶))。

             (⇒ 斎藤 道三)。

             ■ 明智 光安 (あけち みつ やす、

             1500年 ー1556年)は、明智光

             継(みつつぐ)の子であり、明智光

             綱(あけちみつつな)の弟であり、 

             美濃国の明智荘(あけちのしょう)の

             明智長山城城主(城主:1535年ー

             1556年)である。

             ■ 明智 光安の子には明智秀満

             などがいる。

             ■ 明智光秀の出自 には諸説があ

             るが、明智光秀の父が、美濃国の、

             明智光綱(あけちみつつな)である

             ならば、

             明智光綱の弟の明智 光安は、 

             明智光秀(あけちみつひで)の叔

             父(おじ)である。

             ■ 明智 光安は、明智長山城城主

             の兄・明智光綱(あけちみつつな)

             が亡くなると、その子の明智光秀

             が幼かったため、1535年(天文4

             年)に、土岐明智氏の家督を継ぎ、

             明智長山城城主となる。

             ■ 明智 光安は、斎藤 道三(利政)

             が美濃国を奪取すると、斎藤道

             三(利政)に近づき、妹の小見の方 

             (おみのかた)を 道三(利政)の正

             室夫人に出し、 道三(利政)の外戚

             となる。

             ■ 明智 光安は、1553年(天文

             22年)に入道して、法名を宗寂と

             号す。

             ■ 明智 光安は、1556年(弘治

             2年)に、長良川の戦い時、斎藤 道

             (利政)に味方し、明智長山城

             に籠城(ろうじょう)し、敗戦し、自

             害する。

 

 あこ   赤穂事件。 

             (あこうじけん)。 《歴史事件》。

             (= 元禄赤穂事件) 。

                    AKO INCIDENT.

        (⇒ 元禄赤穂事件)。

           □ 赤穂事件 画像アルバム  

            No.1

              (⇒ 日本歴史の驚異の出来事

                ー武士道)。

              (狭義:1701年3月の松の廊

          下・刃傷事件)。

              (広義:1701年〜1703年、

          1701年3月の松の廊下・刃

           傷から1702年12月の赤穂

          浪士・吉良邸討ち入りを経て、

          1703年2月の赤穂浪士・切

          腹までの事件)。

          ○ 赤穂事件= 元禄赤穂事

           は、 お家再興ならず、

          仇(かたき)をとる。

          ○ 赤穂事件= 元禄赤穂事

          では、 赤穂浪士の吉良

          邸討ち入りは、幕府・将軍の

          徳川綱吉の失策によって起

          こる。

          ○ 赤穂事件= 元禄赤穂事

          )は、パワハラ事件である。

          ○ 「忠臣蔵(ちゅうしんぐら)」は、

          赤穂事件= 元禄赤穂事件

          をモデル(題材)にした創作

          (フィクション)の物語である。

             ■ 元禄赤穂事件(= 赤穂事件)は、 

             パワハラ事件であり、 浅野が老中

             の指示で接待費減額を遵守したた

             め、吉良と不和になり、更に、江戸

             幕府要職の老中の前で、上司の接

             待指導役の吉良上野介義央が配下

             の供応役の浅野内匠頭(長矩)を叱

             責・中傷したことが原因となり、 

             浅野が遺恨(いこん)をもち吉良に

             刃傷に及び、起こった事件である。

             ■ 赤穂事件 (あこうじけん、=

             禄赤穂事件は、 狭義では、1701

             年(元禄14年)3月に起こったの松

             の廊下・刃傷事件である。

             ■ 赤穂事件 (あこうじけん、= 元禄

             赤穂事件)は、 広義では、1701 年

             (元禄14年)3月の江戸城松の廊下

             の刃傷に始まり、 1702年(元禄15

             年)12月の吉良邸討ち入りを経て、 

             1703年(元禄16年)2月の赤穂浪

             士の切腹で終わる。

             ■ 赤穂事件= 元禄赤穂事件)では、

             江戸幕府・第5代将軍の徳川綱吉の

             失策によって、赤穂浪士の吉良邸討ち

             入りが起こる。 

                徳川綱吉は、 町家出身の母の

             高位叙任に関係する朝廷の使者接

             待中に起こった事件で、切望した母の

             高位叙任が延期となり怒り、 喧嘩両

             成敗 (けんかりょうせいばい)をせず、

             審理を尽くさず、 浅野内匠頭(長矩)

             即日切腹や浅野の赤穂藩とり潰しと

             吉良お構いなしという、浅野内匠頭

             (長矩)に一方的に不利な判決を下す。 

             ■ 赤穂事件= 元禄赤穂事件では、

             赤穂・浅野家のお家再興ならず、赤穂

             浪士が主君・浅野内匠頭(長矩)の仇

             (かたき)をとる。

             ■ 赤穂事件= 元禄赤穂事件は、

             創作 (フィクション)の「忠臣蔵(ちゅう

             しんぐら) 」のモデルとなった事件であ

             る。

 

 あこ  赤穂四十七士。 

             (あこうしじゅうしちし)。

          《元禄赤穂事件》。

          (= 吉良邸討ち入りを行っ

          た、 赤穂 藩(赤穂・浅野家)

          の旧臣)。

       (⇒ 元禄赤穂事件)。

          □ 赤穂事件 画像アルバム  

            No.1

          ○ 赤穂四十七士は、

           吉良邸討ち入りを行った、浅野

                     内 匠頭(長矩)(あさのたくみのか

              み(ながのり))の旧臣である 。

             ■ 赤穂四十七士 (あこうしじゅうしち

              し)は、 元禄赤穂事件で、 吉良邸討

              ち入りを行った、赤穂(赤穂・浅野家)

              の旧臣である。

                 赤穂四十七士は、吉良邸討ち入

             りを行った、浅野内 匠頭(長矩)(あさの

             たくみのかみ(ながのり))の旧臣である。

 

 あこ  赤穂藩。

                         (あこうはん)。 《元禄赤穂事件》。

             (江戸時代の藩(大名))。

                      AKO DOMAIN.

       (⇒ 元禄赤穂事件)。

          □ 赤穂事件 画像アルバム  

            No.1

          ○ 赤穂藩は、

           江戸時代に、播州(ばんしゅう

                播磨(はりま)、兵庫県南部)に

           あった藩である。

          ○ 浅野内匠頭長矩 

             (あさのたくみのかみながのり) は、

          一時期、赤穂藩主であった。

             ■ 赤穂藩 (あこうはん)は、 江戸時

             代の藩(大名)である。

              ■ 赤穂藩は、 江戸時代に、播州(ば

                   んしゅう、播磨(はりま)、兵庫県南部)

              にあった藩であり、 広島の浅野家・本

             家(宗家)の分家である。

              ■ 元禄赤穂事件を起こした、浅野内

             匠頭長矩 (あさのたくみのかみなが

             のり) が、一時期、赤穂藩の藩主であ

             った。

 

 あこ  赤穂浪士。 

             (あこう ろうし)。 《元禄赤穂事件》。

          (= 赤穂藩(赤穂・浅野家)

           の旧臣)。

       (⇒ 元禄赤穂事件)。

          □ 赤穂事件 画像アルバム  

            No.1

          ○ 赤穂浪士は、

          浅野内匠頭(長矩)(あさのたくみ

             のかみ(ながのり))の旧臣である。

             ■ 元禄赤穂事件(= 赤穂事件)の、

             赤穂浪士 (あこう ろうし)は、 赤穂藩

             (赤穂・浅野家)の 旧臣であり、 浅野

             内匠頭(長矩)(あさ のたくみ のかみ

             (ながのり))の旧臣で ある。

 

#asa

 

〇 あさ  浅井三姉妹 

            (あざいさんしまい、あさいさんしまい)。 

             《人名》。

            (= 茶々(ちゃちゃ 、= 淀殿)、初(は

          つ)、 江(ごう)の三姉妹)。

                    □ 小谷城 画像アルバム 

             No.1

         (16世紀後期〜17世紀前期)。

          ○ 浅井三姉妹は、 

          安土桃山時代・江戸時代初

          期に活躍した三姉妹である。

          ○ 浅井三姉妹は、

          浅井長政(あざいながまさ)とお

           市(おいち、小谷方(おだにのか

          た))との間に生まれた3人の

          娘であり、 

          (1) 茶々 (ちゃちゃ、= 淀殿

          (よどどの)、豊臣秀吉の側室

          夫人)、 

          (2) 初 (はつ、= お初(おはつ) 、

             常高院(じょうこういん))、京極

          高次(きょ うごくたかつぐ)の正室

          夫人)、 

          (3) 江 (ごう、= お江(おごう)、

              お江与(おえよ)、崇源院(すうげ

              んいん)、徳川秀忠(ひでただ)

              正室夫人)、

                である

                          (⇒ 淀殿(= 茶々)お初お江)。

                          (⇒ 浅井長政お市)。

                          (⇒ 小谷城、北庄城)。

                          (⇒ 豊臣大阪城)。

             (⇒ 織田信長)。

             (⇒ 織田信長ガイドブック)。

             (⇒ 豊臣 秀吉)。

           (⇒ 豊臣 秀吉ガイドブック)。 

             ■ 浅井三姉妹 (あざいさんしまい)

             とは、 茶々(ちゃちゃ )、初(はつ)、

             江(ごう)の三姉妹である。

             ■ 浅井三姉妹は、 16世紀後期か

             ら17世紀前期まで生き、 安土桃山

             時代・江戸時代初期に活躍した三姉

             妹である。

             ■ 浅井三姉妹は、 浅井長政 (あざ

             いながまさ) と お市 (おいち、小谷

             方(おだにのかた))との 間に生まれた

             3人の娘である。

             (1) 茶々 (ちゃちゃ、= 淀殿(よどど

              の)は、 豊臣秀吉 の側室夫人である。

             (2) 初 (はつ、= お初 (おはつ)、常

              高院(じょうこういん))は、 京極高次

              (きょ うごくたかつぐ) の正室夫人であ

              る。

             (3) 江 (ごう、= お江(おごう)、お江与

              (おえよ)、崇源院(すうげんいん) )は、 

              江戸幕府・第2代将軍の徳川秀忠(ひ

              でただ)・ 正室夫人である。

             ■ 浅井長政(あざいながまさ)とお市

             (おいち、小谷方(おだにのかた)、織田

             信長の妹)との間の子である浅井3姉妹

             は、茶々、初、江(ち ちゃ・はつ・ごう)で

             ある。

             (1) 茶々(ちゃちゃ)は、 豊臣秀吉・

             側室夫人となり、淀殿(よどどの、淀の

             方)とも呼ばれ、 豊臣秀頼(ひでより)

             の生母となる。

             (2) 初(はつ)は、 京極高次(きょう

             ごくたかつぐ)・正室夫人となり、夫死後、

             常高院(じょうこういん)とも呼ばれる。

             (3) 江(ごう)は、 江戸幕府・第2代

             将軍・徳川秀忠・正室 夫人となり、お江

             与(おえよ)、崇源院(す うげんいん、死

             後)とも呼ばれ、 江戸幕府・第3代将軍・

             徳川家光の生母となる。

             ● 1573年に、小谷城 (おだにじょう)

             は、 織田信長配下の秀吉に攻められて、

             落城した。 その際、浅井長政は、小谷

             城で自害し、 長政の妻子のお市と浅井

             3姉妹 (茶々、初、江)は小谷城から落

             ちのびる。

             ● 1583年に、北庄城 (きたのしょう

             じょう)は、 羽柴秀吉(豊臣秀吉)に攻め

             られて、落城する。 その際、お市と柴田

             勝家は北庄城で自害し、お市の子・浅井 

             3姉妹(茶々、初、江)は北庄城から落ち

             のびる。

             ● 1615年に、大阪夏の陣で、豊臣大

             阪城 (とよとみおおさかじょう)は、徳川

             家康の軍に攻められて、落城する。 

               その際、淀殿(茶々)と豊臣秀頼は豊

             臣大阪城で自害し、 江と徳川秀忠との

             間の娘の千姫(せんひめ)は豊臣大阪城

             から落ちのびる。

 

〇 あさ  浅井 長政 

             (あざい ながまさ、あさい ながまさ)。 

                     《人名》。

          (生没年:1545年ー1573年)。

          AZAI Nagamasa.

                    □ 小谷城 画像アルバム 

             No.1

          ○ 浅井長政は、

          織田信長の妹・お市(小谷方)

          の夫である。

                    ○ 浅井長政は、

          北近江(きたおうみ、現・滋賀県

          北部の相当地域)の戦国大名

          である。

          ○ 浅井長政は、 

          浅井三姉妹 (茶々、初、江)

          の実父である。

                         (⇒ お市小谷城)。

                         (⇒ 淀殿(= 茶々)、お初

           お江)。

             (⇒ 織田信長)。

             (⇒ 織田信長ガイドブック)。

             ■ 浅井長政 (あざいながまさ、生没

             年:1545年ー1573年)は、 北近江

             (きたおうみ、現・滋賀県北部の相当地

             域)の戦国大名であった。

             ■ 浅井長政は、 織田信長の妹・お

             市 (おいち、小谷方(おだにのかた))

             の夫であり、 浅井三姉妹 (あざいさ

             んしまい、茶々(ちゃちゃ)、初(はつ)、

             江(ごう))の実父である。

 

〇 あさ  浅井 久政。 

            (あざい ひさまさ)。 《人名》。

       (⇒ 浅井 長政

        小谷城)。

          ○ 浅井久政は、

          浅井長政の父である。

                    ○ 浅井久政は、

          北近江(きたおうみ)の戦国大名

          である。

             ■ 浅井久政 (あざいひさまさ)は、 

             浅井長政の父であり、 北近江 (きた

             おうみ、現・滋賀県北部の相当地域)

             の戦国大名であった。

 

 あさ  安積 角兵衛

             (あさか かくべい)。 《人名》。

          (= 水戸黄門の格かくさん、

                  渥美格之進)。

          (1656年ー1737年)。

          ASAKA Kakubei.

          ○ 安積 角兵衛は、

          江戸時代前期の儒学者であ

          る。

          ○ 安積 角兵衛は、

          フィクションの物語 「水戸黄門

          の漫遊記」では、水戸黄門のお

          供役の格(かく)さん、(= 渥美格

                之進)のモデルとなった人物で

          ある。

             ■ 安積 角兵衛 (あさか かくべい、16

             56年ー1737年)は、江戸時代前期の

             儒学者であり、 徳川(水戸)光圀の家

                          臣である。

                安積 角兵衛は、 フィクションの物

              語「水戸黄門の漫遊記」の、水戸黄門の

              お供役の格か くさん(= 渥美格之進)

                          モデルとなった人物である。

 

 あさ  朝倉 義景

            (あさくら よしかげ)。 《人名》。

         (1533年ー1573年)。

          ASAKURA Yoshikage.

          ○ 朝倉 義景は、

          越前国の戦国大名である。

             ■ 朝倉 義景 (あさくら よしかげ、15

             33年ー1573年)は、 越前国 (えち

             ぜん のくに、現・福井県北部の相当地

             域)の戦国大名であった。

 

 あさ  浅野 大学(長広) 

            (あさのだいがく(ながひろ))。 《人名》。

                    (元禄赤穂事件)。

            (1670年ー1734年)。

          ASANO Daigaku.

       (⇒ 元禄赤穂事件)。

          □ 赤穂事件 画像アルバム  

            No.1

          ○ 浅野 大学(長広)は、

          赤穂藩の世子であり、 赤穂

          藩主(赤穂・浅野家当主)の浅

             野内匠頭(長矩)の実弟で養

          嗣子である

             ■ 浅野 大学(長広) (あさのだいが

             く(ながひろ)、1670年ー1734)は、 

             赤穂藩の世子であり、 赤穂藩主(赤穂・

                         浅野家当主)の浅野内匠頭(長矩)(あ

             さのたくみのかみ(ながのり))の実弟で

             養嗣子(ようしし)であった。

 

〇 あさ  浅野 内匠頭(長矩)

             (あさの たくみのかみ(ながのり))。

            (元禄赤穂事件)。 《人名》。  

          (1665年ー1701年) 。

          ASANO Naganori.

       (⇒ 元禄赤穂事件)。

          □ 赤穂事件 画像アルバム  

            No.1

             浅野 内匠頭(長矩)は、

          江戸時代の、播州・赤穂藩・

          藩主(赤穂・浅野家当主)で

          ある。

            ○ 浅野 内匠頭(長矩)は、

                  元禄赤穂事件(= 赤穂事件)

          の加害者で、元禄赤穂事件

          (= 赤穂事件)を発生させた

          大名である。

            ○ 浅野 内匠頭(長矩)は、

          幕命(ばくめい、幕府の命令)

          により、1701年(元禄14年)

          2月〜3月に、朝廷の年賀使

          の接待役当番となる。

                      ■ 浅野 内匠頭(長矩) (あさの たく

             みのかみ(ながのり)、1665年ー17

             01年) は、  江戸時代の、播州・赤穂

             藩・藩主 (赤穂・浅野家当主)であった。

                浅野 内匠頭(長矩)は、 元禄赤

             穂事件(= 赤穂事件)の加害者で、元

             禄赤穂事(= 赤穂事件)を発生させた

             大名である。

                浅野 内匠頭(長矩)は、 幕命(ば

             くめい、幕府の命令)により、1701年

             (元禄14年)2月から3月まで、朝廷の

             年賀使の接待役当番となる。

 

 あさ  浅野 綱長 

             (あさの つななが) 。  《人名》。 

            (元禄赤穂事件)。     

         (藩主在任:

            1673年ー1708年)。

          (生没年:1658年ー1708年)。

          ASANO Tsunanaga.

       (⇒ 元禄赤穂事件)。

          □ 赤穂事件 画像アルバム  

            No.1

          ○ 浅野 綱長は、

          広島藩の藩主であり、赤穂・ 

          浅野家(赤穂藩)の本家の、

          広島・浅野本家の当主 である。 

             ■ 浅野 綱長 (あさの つななが、藩

             主在任:1673年ー1708年、生没年:

             1658年 ー1708年)は、 赤穂・浅

             野家(赤穂藩)の本家の、広島・浅野

             本家の当主 で、広島藩・藩主である。 

             ■ 広島藩・藩主で広島・浅野氏本家

                          当主の、野綱長は、  浅野氏分家

                     の赤穂・浅野家との連座(れんざ、ま

             きぞえ処罰)を恐れて、 赤穂・浅野

             家・筆頭家老の大石内蔵助(良雄)

             に無血・領地引渡し・赤穂城開城を

             要求し、 赤穂城開城後、赤穂・浅野

             家・旧臣の吉良邸討ち入りを妨害す

             る。

 

 あさ   浅野 長勝

              (あさの ながかつ)。 《人名》。

                     (= 浅野 又右衛門 長勝)。 

           (生年不詳ー1575年)。

          ASANO Nagakatsu.

          ○ 浅野 又右衛門長勝は、

           「おね(ねね)」、 「やや」、

          浅野長政を養子とし、

          養父となる。

          ○ 浅野 又右衛門長勝は、

          戦国・安土桃山期の武将

          である。 織田信長の

          弓衆であった。

          ■ 浅野 又右衛門長勝。

             ■ 浅野 又右衛門長勝 (あさの

              またえもんながかつ、生年不詳ー

              1575年)は、 

             室町時代後期(= 戦国時代)、

              安土桃山時代に活躍した武将で

             あり、 織田信長の弓衆であり、

             長勝の父は、浅野長詮(あさの

             ながのり、浅野長方)であり、 

             長勝の夫人の七曲殿(ななまが

             りどの、ふく)との間に実子が

             いない。

             ● 浅野 又右衛門長勝は、織田

              信長の家臣・弓衆で、実子がなく、

             (O) 「おね(ねね)」

              (豊臣秀吉の夫人、

               長勝の夫人・七曲殿の姉妹の子)、

             (Y) 「やや(長生院)」

              (おね(ねね)の実妹、

              長勝の夫人・七曲殿の姉妹の子)、

             (N) 浅野弥兵衛長吉(長政)

              (「やや(長生院)」 の婿養子・夫、

              長勝の実姉の子)、 

             を養子とし、養父となる。

              ■ 浅野又右衛門長勝は、

              浅野氏の初代であり、 

              江戸時代前期の播磨(播州)

             赤穂藩・第3代藩主・浅野

             内匠頭長矩(あさのたくみ

             のかみながのり)の祖先で

             ある。

          ■ おね(ねね)、やや。

             ■ 浅野又右衛門長勝の夫人は、

             七曲殿(ななまがりどの、ふく)

             であり、 七曲殿の姉妹には朝日

             殿(あさひどの、こひ)がいる。

             ● 七曲殿の姉妹の朝日殿は、

             杉原定利 (すぎはらさだとし、

             婿養子)の夫人であり、

             二人の間には、次の3人の実子

             がいる。

             ( I ) 杉原(木下)孫兵衛家定

               (すぎはら(きのした)まごへ

               いえさだ、おね(ねね)の

               実兄、小早川秀秋の父)

             (O) 「おね(ねね)」 

               (豊臣秀吉の夫人)。

             (Y) 「やや(長生院)」 

               (おね(ねね)の妹、浅野

               弥兵衛長吉(長政)の夫人)。

          ■ 浅野弥兵衛長吉

            (長政)。

             ■ 浅野又右衛門長勝の姉

             (浅野長詮の娘)は、

             安井重継(やすいしげつぐ)の

             夫人であり、 二人の間には、

             (N) 安井長吉(やすいなが

             よし、= 浅野弥兵衛長吉(長政))

             という実子がいる。

             ● (N) 安井長吉 (生没年:

             1547年ー1611年)は、

             長勝の実姉の子であり、

             浅野弥兵衛長吉(あさのやへい

             ながよし)と改名し、

             浅野又右衛門長勝の

             養女(Y) 「やや(長生院)」の

             婿養子として浅野家に迎えられ、

             後に浅野家の家督を相続する。 

                長政(ながまさ)への改名は、

             秀吉死後で、晩年の改名である。

 

 あさ  浅野 長澄。 

            (あさの ながずみ)。 《人名》。

            (元禄赤穂事件)。

          (藩主在任:1691年ー1718年 )。

          (生没年:1671年ー1718年)。

        (⇒ 瑤泉院)。

       (⇒ 元禄赤穂事件)。

          □ 赤穂事件 画像アルバム  

            No.1

          ○ 浅野 内匠頭(長矩)の正室夫

           人・阿久里あぐり、瑤泉院(ようぜ ん

               いん))の、父。

          ○ 三次藩の藩主。

           三次(みよし)浅野家・当主。

             ■ 浅野 長澄 (あさの ながずみ、藩主在任:

             1691年ー1718年 、生没年:1671年ー17

                           18年)は、三次(みよし)浅野家当主で、三次

             藩藩主であった。

                          ■ 浅野 長澄は、 広島藩主 (広島・浅野本

                 家当主)の浅野綱長の弟である。

                          ■ 浅野 長澄は、 浅野 内匠頭(長矩)の正

              室夫人・阿久里(あぐり、瑤泉院(ようぜ んい

             ん))の、父である。

                 浅野 長澄は、赤穂藩改易後、 阿久里

             (瑤泉院)を引き取る。

 

 あさ  浅野 長政

            (あさの ながまさ)。  《人名》。

          (= 浅野弥兵衛(やへい)、浅野長

          吉(ながよし )) 。

          (生没年:1547年ー1611年)。

          ASANO Nagamasa.

          ○ 浅野 長政は、

          浅野又右衛門長勝の養子

          である。

          ○ 浅野 長政は、

          「おね(ねね)」の妹・「やや」

          の夫である。

          ○ 浅野 長政は、

          戦国・安土桃山時代や江戸

          時代初期の武将である。

          ○ 浅野 長政は、

          広島・浅野本家(広島藩)で

          ある広島・浅野氏の祖であ

          る。

             ■ 浅野 長政 (あさの ながまさ、=

             浅野弥兵衛(やへい)、浅野長吉(な

             がよし)、生没年:1547年ー1611

             年) は、浅野又右衛門長勝の養子で 

             あり、「おね(ねね)」の妹・「やや」の

             夫である。

                浅野 長政は、 室町時代後期(=

             戦国時代)、安土桃山時代、江戸時代

             初期に活躍した武将である。

 

 あさ  浅野 吉長 。 

            (あさの よしなが) 。 《人名》。

            (元禄赤穂事件)。

         (藩主就任:

            1708年ー1752年 )

          (生没年:1681年ー1752年)。

          ASANO Yoshinaga.

       (⇒ 元禄赤穂事件)。

          □ 赤穂事件 画像アルバム  

            No.1

          ○ 浅野 吉長は、 

           広島藩の藩主であり、

          広島・浅野本家(赤穂・浅野家

          の本家)の当主である。

             ■ 浅野 吉長 (あさの よしなが 、藩主

             就任:1708年ー1752年生没年:

             1681年ー1752年) は、 広島藩・藩

              主で、 広島・浅野本家(赤穂・浅野家

             の本家)の 当主であった。

             ■ 広島藩・藩主で広島・浅野本家の浅

                           野 綱長(つななが)は、 赤穂・浅野家と

             の連座(れんざ、まきぞえ処罰)を恐れ

             て、 吉良邸討ち入りを妨害する。 

                             しかし、赤穂浪 士の吉良邸討ち入

             り後、赤穂浪 士が英雄視されると、 広

                         島・浅野本家は、態度を一転させ、 広島

             藩・藩主で広島・浅野本家の浅野綱長

                   子・浅野吉長(よ しなが)は、 赤穂浪士

             のリーダーの、大石内蔵助(良雄)の遺児

                         (三男)・大石大三郎を1500石で召抱え

            る。

 

〇 あさ  朝日姫

             (あさひひめ)。 《人名》。

          (= あさひ(旭))。

          (1543年ー1590年)。

          ○ 朝日姫は、

          豊臣秀吉の妹である。 

          ○ 朝日姫は、

          徳川家康の2番目の正室夫人

          である。

             ■ 朝日姫 (あさひひめ、= あさひ(旭)、

             1543ー1590年)は、 豊臣秀吉の妹

             であり、徳川家康の2番目の正室夫人

             である。

 

〇 あじ   按司。 

             (あじ、あんじ)。

                    《琉球王国の身分》。

          ○ 按司は、

          琉球王国では、国 王、王子・

          王兄弟を除く王族である。

        (⇒ 琉球王国)。

        (⇒ 沖縄の歴史)。

              ■ 按司 (あじ、あんじ)は、琉球王

              国の身分であり、 琉球王国では、

                           王、王子・王兄弟を除く王族をさす。

                           ■   按司は、 琉球王国では、国王、

              王子・王兄弟に次ぐ身分を表す称号

              である。

                           ■  古くは、按司は、 地方小領主を

              意味していた。

 

〇 あじ  アジア・太平洋戦争。

                    (あじあたいへいようせんそう)。 

          《戦争》。

             (= 太平洋戦争)。 

            (1941年ー1945年)。

         (⇒ 太平洋戦争)。

             ■ アジア・太平洋戦争 (あじあ・た

             いへいようせんそう、1941年ー19

             45年)は、  太平洋戦争、 大東亜

             戦争、 東亜戦 とも称する。

                                              

〇 あし  足利 家時。 

             (あしかが いえとき)。 《人名》。

                 (⇒ 足利 尊氏)。 

          (⇒ 足利氏)。 

           ■ 足利尊氏の詳細な内

          容に関しては、

          □ 足利尊氏ガイドブック

          □ 足利尊氏 関連年代順

             出来事ブック。     

          を参照してください。 

           ■ 鎌倉幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。

          ○ 足利 家時は、

          足利尊氏の祖父である。

             ■ 足利 家時 (あしかが いえと

             き)は、足利尊氏(たかうじ)の

             祖父であり、 鎌倉幕府の有力

             御家人であった

 

〇 あし  足利 貞氏。 

            (あしかが さだうじ)。 《人名》。

                 (⇒ 足利 尊氏)。

          (⇒ 足利氏)。 

           ■ 足利尊氏の詳細な内

          容に関しては、

          □ 足利尊氏ガイドブック

          □ 足利尊氏 関連年代順

             出来事ブック。     

          を参照してください。 

           ■ 鎌倉幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。

          ○ 足利 貞氏は、

          足利尊氏の父である。

             ■ 足利 貞氏 (あしかが さだうじ)

             は、足利尊氏(たかうじ)の父で あり、 

             鎌倉幕府の有力御家人であった

 

〇 あし   足利氏

              (あしかがし・あしかがうじ)。

          《武家の氏族》。

           (= 足利家)。

             (12世紀頃ー16世紀)。

          □ 足利氏の鎌倉時代の時

          期の詳細な内容については、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。

           ■ 足利尊氏の詳細な内

          容に関しては、

          □ 足利尊氏ガイドブック

          □ 足利尊氏 関連年代順

             出来事ブック。     

          を参照してください。

          □ 足利氏の室町時代の時

          期の詳細な内容については、

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック。 

          を参照してください。

          □ 鹿苑寺・金閣 画像

             アルバム No.1。 

          □ 足利氏 画像アル  

             バム  No.1

                   (⇒ 河内源氏)。

                   (⇒ 清和源氏)。

          (⇒ 源氏)。

          THE ASHIKAGA CLAN.

          ○ 武家としての足利氏。 

          ○ 武家の足利氏は、

          源義康(みなもとのよしやす)

             始祖とする、河内源氏(かわ

          ちげんじ、清和源氏の一流)

          一族である。

          ○ 武家の足利氏は、

           武家の氏族で、鎌倉幕府

          の御家人、室町幕府の将

          軍家などになる。

             ○ 足利将軍家とは、

          武家で、 室町幕府(= 足利

          幕府)の将軍を出す足利氏

          本家 (宗家)である。

                    □ 日本歴史で活躍した氏族:

          天皇家藤原氏伊勢平氏

          河内源氏鎌倉北条氏

          足利氏上杉氏武田氏

          井伊氏小田原北条氏

          真田氏織田氏豊臣氏

          徳川氏

              ■ 武家の足利氏 (あしかがし・あし

             かがうじ、= 足利家)は、 武家の 氏

             族であり、12世紀 頃から16世紀ま

             で存在した武家であり、 鎌倉幕府

             の御家人、室町幕府の将軍家など

             になる。

             ■ 足利氏 (あしかがし・あしかがう

             じ、= 足利家)は、 武家であり、 源

             義康(みなもとのよしやす)を始祖と

             する、河内源氏 (かわちげんじ、清

             和源氏の一流) の一族である。

              ■ 足利将軍家 (あしかがしょう

             ぐんけ、1338年ー1573年)とは、

             武家で、 室町幕府(= 足利幕府)

             の将軍を出す足利氏本家 (宗家)

             である。

           ○ 室町幕府は、

          足利将軍家の政治組織で

          ある。

                            ■ 室町幕府(= 足利幕府)の、 

             足利将軍家の、将軍15代は、順に、

             ● 初代・足利尊氏(たかうじ)、

             ● 2 代・足利義詮 (よしあきら)

              ● 3 代・足利義満(よしみつ)、

             ● 4 代・ 足利義持(よしもち)、

             ● 5 代・足利義量 (よしかず)、

             ● 6 代・足利義教 (よしのり)、

             ● 7 代・足利義勝 (よしかつ)、

              ●  8 代・足利義政(よしまさ)、

             ● 9 代・足利義尚(よしひさ)、

             ● 10代・足利義稙 (よしたね)、

             ● 11代・足利義澄 (よしずみ)、

              ● 12代・足利義晴 (よしはる)、

             ● 13代・足利義輝 (よしてる)、

             ● 14代・足利義栄 (よしひで)、

             ● 15代・足利義昭 (よしあき)、

             である。

 

〇 あし  足利 成氏 

             (あしかが しげうじ)。 《人名》。

             (鎌倉公方、古河公方)。

             (足利氏の一族)。

          (⇒ 鎌倉公方)。

          (⇒ 古河公方)。

          (⇒ 足利 持氏)。 

          (⇒ 足利氏)。 

           ■ 室町幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック。 

          を参照してください。

             (鎌倉公方在職:

          1449年ー1455年)。

             (古河公方在職:

          1455年ー1497年)。

             (生没年:

          1434年ー1497年)。

          ASHIKAGA Shigeuji.

          ○ 足利成氏は、

             室町幕府の、第5代鎌倉

             公方(かまくらくぼう)である。

          ○ 足利成氏は、

             室町幕府の、初代古河

             (こがくぼう)である。

          ○ 足利成氏は、

          享徳の乱(きょうとくのらん

          1454年ー1482年)を起

          こす。

          ○ 足利成氏は、

             第4代鎌 公方・足利持

             (もちうじ)の子である。

              ■ 足利成氏 (あしかが しげうじ、

             鎌倉公方在職:1449年ー1455年、

             古河公方在職:1455年ー1497年、

             生没年: 1434年ー1497年) は、  

             室町幕府の、鎌倉公方、古河公方

             である。、 

              ■ 足利成氏は、 室町幕府の、第5

             代鎌倉公方(在職:1449年ー1455

             年)であり、 室町幕府の、初代古河

             公方(在職:1455年ー14 97年)で

             あり、 室町幕府の第4代鎌倉公 方・

             足利持氏(もちうじ)の子である。

              ■ 足利成氏(しげうじ)は、 享徳の

             乱(きょうとくのらん、1454年ー14

             82年)を起こす。

 

〇 あし  足利将軍。 

             (あしかがしょうぐん)。 《将軍》。

          (= 足利氏の将軍)。

          (= 室町幕府の将軍)。

          (1338年ー1588年)。

          ( 足利将軍家)。

          ( 足利将軍家邸)。

          (⇒ 足利氏)。 

           ■ 足利将軍の詳細に 関

          しては、

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック。 

          を参照してください。

          ○ 足利将軍とは、

          室町幕府の将軍職に就任

          した、室町時代の足利氏

          の将軍である。

               ■ 足利将軍 (あしかがしょうぐ

               ん、1338年ー1588年)とは、 

               室町幕府(= 足利幕府)の将軍職

                  に就任した、室町時代の足利氏の

              将軍である。

             ■ 室町幕府(= 足利幕府)の、 

             足利将軍家の、将軍15代は、順に、

             ● 初代  将軍・足利尊氏 (たかうじ)、

             ● 第2代 将軍・足利義詮 (よしあきら)

              ● 第3代 将軍・足利義満 (よしみつ)、

             ● 代 将軍・足利義持 (よしもち)、

             ● 第5代 将軍・足利義量 (よしかず)、

             ● 第6代 将軍・足利義教 (よしのり)、

             ● 第7代 将軍・足利義勝 (よしかつ)、

              ● 代 将軍・足利義政 (よしまさ)、

             ● 代 将軍・足利義尚 (よしひさ)、

             ● 10代将軍・足利義稙 (よしたね)、

             ● 11代将軍・足利義澄 (よしずみ)、

              ● 12代将軍・足利義晴 (よしはる)、

             ● 13代将軍・足利義輝 (よしてる)、

             ● 14代将軍・足利義栄 (よしひで)、

             ● 15代将軍・足利義昭 (よしあき)、

             である。

 

〇 あし   足利将軍家 

              (あしかがしょうぐんけ)。

           (足利氏)。 《武家》。

           (1338年ー1588年)。

           ( 足利将軍家邸)。

           ■ 足利将軍家の詳細に

          関しては、

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック。 

          を参照してください。

           ■ 足利尊氏の詳細な内

          容に関しては、

          □ 足利尊氏ガイドブック

          □ 足利尊氏 関連年代順

             出来事ブック。     

          を参照してください。 

           (⇒ 足利氏)。 

          (⇒ 二条万里小路第)。

          (⇒ 三条坊門邸)。

          (⇒ 室町御所花の御所) 。

          (⇒ 小川御所)。

          (⇒ 足利二条城二条城)。

          ○ 足利将軍家とは、

          室町幕府の将軍職に就任

          した、室町時代の足利氏

          本家(宗家)である。

               ■ 足利将軍家 (あしかがしょう

               ぐんけ、1338年ー1588年)とは、 

               室町幕府(= 足利幕府)の将軍職

                  に就任した、室町時代の足利氏本

              家(宗家)である。

             ■ 足利将軍家 (あしかがしょうぐ

              んけ、1338年ー1588年)とは、 

             室町時代の足利氏本家(宗家)であ

               り、 室町時代に室町幕府(= 足利

             幕府)の将軍職を代々世襲した、

             足利氏本家(宗家)である。

              ■ 足利将軍家 (あしかがしょう ぐ

             んけ、1338年ー1573年)とは、

             長く室町幕府(= 足利幕府)の将軍

             職に就任した武家であり、 室町幕

             府(= 足利幕府)の将軍を出す足利

             氏本家(宗家)である。

             ■ 室町幕府(= 足利幕府)の、

             足利将軍家の、将軍15代は、順に、

             ● 初代・足利尊氏 (たかうじ、

                鎌倉幕府有力御家人・足利

                貞氏(さだうじ)の子)、

             ● 2 代・足利義詮  (よしあきら、

                 初代将軍・足利尊氏の子)

              ● 3 代・足利義満  (よしみつ、

                 2代将軍・足利義詮の子)

             ● 4 代・ 足利義持  (よしもち、

                 3代将軍・足利義満 の子)

             ● 5 代・足利義量 (よしかず 、

                 4代将軍・足利義持 の子)

             ● 6 代・足利義教 (よしのり、

                 3代将軍・足利義満 の子

                 4代将軍・足利義持 の弟)、

             ● 7 代・足利義勝 (よしかつ 、

                 6代将軍・足利義教の子)

              ●  8 代・足利義政 (よしまさ、

                 6代将軍・足利義教の子)

             ● 9 代・足利義尚 (よしひさ)、

                 8代将軍・足利義政の子)

             ● 10代・足利義稙 (よしたね、

                 6代将軍・足利義教の孫、

                  8代将軍・足利義政の弟・

                 足利義視(よしみ)の子)、

             ● 11代・足利義澄  (よしずみ、

                 6代将軍・足利義教の孫、

                  8代将軍・足利義政の兄・

                 足利政知(まさとも)の子)、

              ● 12代・足利義晴  (よしはる、

                 11代将軍・足利義澄 の子)

             ● 13代・足利義輝  (よしてる、

                 12代将軍・足利義晴 の子)

             ● 14代・足利義栄  (よしひで、

                 11代将軍・足利義澄 の孫

                 12代将軍・足利義晴 の兄

                 弟・足利義維(よしつな、

                 足利義冬(よしふゆ))の子)、

             ● 15代・足利義昭  (よしあき、

                 12代将軍・足利義晴 の子

                 13代将軍・足利義輝 の弟)、

             である。

 

〇 あし   足利将軍家邸。 

              (あしかがしょうぐんけてい)。

                     《足利将軍家の邸宅、政

           庁》。

          《室町幕府(= 足利幕府)》。

          (⇒ 室町御所

                  花の御所) 。

          (⇒ 二条万里小路第)。

          (⇒ 三条坊門邸)。

          (⇒ 小川御所)。

          (⇒ 足利二条城二条城)。

          ( 足利将軍家)。

           (⇒ 足利氏)。 

           ■ 足利将軍家邸の詳細

          に関しては、

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック。 

          を参照してください。

                        ■ 室町幕府(= 足利幕府)の、足

             利将軍家の邸宅、政庁である足利

             将軍家邸には、 二条万里小路第 

             (にじょうまでのこうじてい)、 三条

             坊門邸 (= 別称:三条坊門殿(さ

             んじょうぼうもんどの))、 室町御

             所(むろまちごしょ、= 別称:室町

             殿(むろまちどの)、室町第(むろま

             ちてい)、通称:花の御所(はなの

             ごしょ))、 小川御所 (おがわの

             ごしょ、= 別称:小川殿(おがわど

             の))、 足利二条城(あしかがにじ

             ょうじょう)の、「足利義輝築・二条

             御所」、「織田信長築・足利義昭居

             住・二条御所」 などがある。  

                         ■ 室町幕府(= 足利幕府)の、足

             利将軍家の邸宅、政庁である足利

             将軍家邸には、次のものである。

             (1) 二条万里小路第 (にじょう

             までのこうじてい、

             1336年頃ー1358年頃)。 

             (2) 三条坊門邸 (= 別称:三条

             坊門殿(さんじょうぼうもんどの)、

             1336年頃ー1443年頃)。 

             (3) 室町御所 (むろまちごしょ、

             = 別称:室町殿(むろまちどの)、

             室町第(むろまちてい)、通称:

             花の御所(はなのごしょ)、

             1381年ー1559年)。 

             (4) 小川御所 (おがわのごし

             ょ、= 別称:小川殿(おがわどの)、

             1471年頃ー1493年)。 

             (5) 「足利義輝築・二条御所」 

             (にじょうごしょ、= 烏丸中御門第

             (からすまなかみかどてい)、155

             9年ー1565年、旧二条城の1つ)。  

             (6) 「織田信長築・足利義昭居住・

             二条御所」 (にじょうごしょ、1569

             年ー1573年、旧二条城の1つ)。

 

〇 あし  足利政権

             (あしかがせいけん)。 《政権》。

            (= 足利氏政権)。

                   (1336年頃1573年頃)

          (⇒ 足利氏)。 

          (⇒ 武家政権

          (⇒ 日本の政権・政府)。

           ■ 足利政権の詳細な内容

          に関しては、

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック。 

          を参照してください。

              ■ 足利政権  (あしかがせいけ ん

             = 足利氏政権)は、 1336年頃

             1573年頃 まで、日本を統治した

             武家政権である。

 

 あし  足利 尊氏

             (あしかが たかうじ)。 《人名》。

             (室町幕府の創設者、

          将軍)。

          (将軍在任:

           1338年ー1358年)。

            生没年:

           1305年ー1358年)。

          ASHIKAGA Takauji.

           ■ 足利尊氏の詳細な内

          容に関しては、

          □ 足利尊氏ガイドブック

          □ 足利尊氏 関連年代順

             出来事ブック。     

          を参照してください。 

           ■ 足利尊氏の鎌倉時代

          の詳細な内容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。 

            足利尊氏の室町時代

          の詳細な内容に関しては、

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック。 

          を参照してください。

          (⇒ 足利氏)。 

          (⇒ 足利 貞氏)。 

          (⇒ 足利 義詮よしあきら))。 

          (⇒ 足利 直義(ただよし))。

          (⇒ 足利 直冬(ただふゆ))。 

          (⇒ 足利尊氏北朝)。

          (⇒ 後醍醐天皇南朝)。

           (⇒ 新田義貞楠正成)。 

          (⇒ 建武の新政)。

          (⇒ 建武政 権)。

                    ○ 足利尊氏は、

          室町幕府(= 足利幕府)

          の創立者である。

                    ○ 足利尊氏は、

          室町幕府(= 足利幕府)

          の初代将軍である。

                    ○ 足利尊氏は、

          鎌倉幕府の有力御家人

          であり、鎌倉幕府を倒し、

          建武政権に対抗し、室町

          幕府を創立する。

                    ○ 足利尊氏は、

           下野国・足利荘の領主で

              鎌倉幕府・有力御家人の

             足利貞氏(さだうじ)の子で

          ある。

             ■ 足利尊氏は、 室町幕府(= 足

             利幕府)の創立者であり、 室町幕

             府の将軍であり、 室町幕府の初代

             将軍(将軍在任:1338年ー1358

             年)である。

              ■ 足利尊氏 (あしかが たかうじ、

             将軍在任:1338年ー1358年、

             没年: 1305年ー1358年) は、 

             下野国足利荘 (しもつけのくに・あ

             しかがのしょう、栃木県足利市)の

             領主であり、鎌倉幕府の有力御家

             人の足利貞氏(さだうじ)の子であり、 

             鎌倉幕府の有力御家人であった。

             ■ 足利尊氏は、 新田義貞(にっ

             たよしさだ)、楠正成(くすのきまさ

             しげ)などと共に、鎌倉幕府を倒す。

 

〇 あし   足利尊氏 関連

        年代順出来事

        ブック詳細)。     

             (あしかがたかうじかんれんねん

             だいじゅんできごとぶっく)。

            《人物関連出来事》。

 

 あし  足利 直冬

             (あしかが ただふゆ)。 《人名》。

             (足利 尊氏の男子)。

             《足利氏の一族》。

             (1327年?1400年?)。

          ASHIKAGA Tadafuyu.

          (⇒ 足利氏)。 

          (⇒ 足利 尊氏足利 直義

          (ただよし))。 

          (⇒ 足利義詮よしあきら))。 

           ■ 足利尊氏の詳細な内

          容に関しては、

          □ 足利尊氏ガイドブック

          □ 足利尊氏 関連年代順

             出来事ブック。     

          を参照してください。 

           ■ 室町幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック

          を参照してください。

                    ○ 足利 直冬は、

          室町幕府の初代将軍・ 

          足利尊氏の実子で、側室

          夫人の男子である。

          ○ 足利 直冬は、

          足利尊氏・弟の足利直義

             (ただよし)の養子である。 

                    ○ 足利 直冬は、

          足利直義派の武将である。

                    ○ 足利 直冬は、

          室町幕府設立後、父・足

          利尊氏と権力闘争を行う。

              ■ 足利 直冬 (あしかが ただふ

             ゆ、1327年?1400年?) は、 

             足利尊氏の男子で、 室町幕府・

                            軍初代将・足利尊 氏の実子で、

             側室夫人の男子であった。

              ■ 足利 直冬は、 足利尊氏・

             弟の足利(ただよし)の養子とな

             り、 室町幕府(= 足利幕府)の

             足利直義派の武将となり、 直義

             と共に、父・足利尊氏に対抗し、

             尊氏と権 力闘争を行う。

 

 あし  足利 直義

             (あしかが ただよし)。 《人名》。

             (足利 尊氏の弟)。

             (足利氏の一族)。

             (1306年ー1352年)。

          ASHIKAGA Tadayoshi.

           (⇒ 足利氏)。 

           ■ 足利尊氏の詳細な内

          容に関しては、

          □ 足利尊氏ガイドブック

          □ 足利尊氏 関連年代順

             出来事ブック。     

          を参照してください。 

           ■ 室町幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック。 

          を参照してください。

           ○  足利直義は、

          室町幕府の初代将軍・

          足利尊氏(たかうじ)の実弟

          である。

                     ○ 足利直義は、

          室町幕府創立後、兄の

          足利尊氏と権力闘争 を

          行う。

              ■ 足利直義 (あしかが ただよし、

             生没年:1306年ー1352年)は、 

             室町幕府の初代将軍・足利 尊氏

             (たかうじ) の実弟であり、 室町

                      幕府創立後、 兄の足利尊氏に対

             抗し、尊氏と権 力闘争を行う。

 

〇 あし   足利二条城。 

              (あしかがにじょうじょう)。

             (= )。

                     《足利将軍家の邸宅、

           政庁》。

          《室町幕府(= 足利幕府)》。

          (⇒ 足利将軍家邸)。

          (⇒ 二条城)。

          ( 足利 義輝足利 義昭)。

          (⇒ 室町御所花の御所) 。

          (⇒ 三条坊門邸)。

          (⇒ 小川御所)。

          ( 徳川二条城)。

          ( 足利将軍家)。

           (⇒ 足利氏)。 

           ■ 室町幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック

          を参照してください。

             ■ (A) 足利二条城には、 

             (A1) 前期・足利二条城の、

             「足利義輝築・二条御所」 

             (にじょうごしょ、= 烏丸中御門第

             (からすまなかみかどてい)、15

             59年ー1565年、旧二条城の

             1つ)、 

             と、

             (A2) 後期・足利二条城の、

             「織田信長築・二条御所」 

             (にじょうごしょ、1569年ー15

             73年、旧二条城の1つ) 

             があり、

             京(きょう、京都)の二条地域付近

             に建設された足利将軍家の邸宅、

             政庁、平城である。

             ● (A1) 前期・足利二条城の、

             「足利義輝築・二条御所」は、 

             室町幕府の第13代将軍の足利

             義輝(あしかがよしてる)が居住

             した「足利義輝築・二条御所」

             (にじょうごしょ、= 烏丸中御門第

             (からすまなかみかどてい)、15

             59年ー1565年、旧二条城の

             1つ)である。 

                跡地の場所は、現在の京都

             市中京区の武衛陣町付近である。

             ● (A1) 後期 ・足利二条城の、 

             「織田信長築・二条御所」は、 

             足利義昭のために織田信長が築

             城し、室町幕府の第15代将軍の

             足利義昭(よしあき)が居住した

             「織田信長築・二条御所」 (にじ

             ょうごしょ、1569年ー1573年、

             旧二条城の1つ)である。

               跡地の場所は、現在の京都市

             中京区の平安女学院付近である。

                         ■ 室町幕府(= 足利幕府)の、足

             利将軍家の邸宅、政庁である足利

             将軍家邸には、次のものである。

             (1) 二条万里小路第 (にじょう

             までのこうじてい、

             1336年頃ー1358年頃)。 

             (2) 三条坊門邸 (= 別称:三条

             坊門殿(さんじょうぼうもんどの)、

             1336年頃ー1443年頃)。 

             (3) 室町御所 (むろまちごしょ、

             = 別称:室町殿(むろまちどの)、

             室町第(むろまちてい)、通称:

             花の御所(はなのごしょ)、

             1381年ー1559年)。 

             (4) 小川御所 (おがわのごし

             ょ、= 別称:小川殿(おがわどの)、

             1471年頃ー1493年)。 

             (5) 「足利義輝築・二条御所」 

             (にじょうごしょ、= 烏丸中御門第

             (からすまなかみかどてい)、155

             9年ー1565年、旧二条城の1つ)。  

             (6) 「織田信長築・足利義昭居住・

             二条御所」 (にじょうごしょ、1569

             年ー1573年、旧二条城の1つ)。

             ◆ 二条城 (にじょうじょう)には、 

             (A) 足利二条城、(B) 織田二条城、

             (C) 豊臣二条城、(D) 徳川二条城

             などの城館がある。

             (A1) 足利二条城の、

             「足利義輝築・二条御所」 

             (にじょうごしょ、= 烏丸中御門第

             (からすまなかみかどてい)、155

             9年ー1565年、旧二条城の1つ)、 

             (A2) 足利二条城の、

             「織田信長築・足利義昭居住・二条

             御所」 (にじょうごしょ、1569年ー

             1573年、旧二条城の1つ)。

             (B) 織田二条城の、

             「二条新御所 」(にじょうしんごしょ、

             1577年ー1582年、旧二条城の

             1つ)。             

             (C) 豊臣二条城の、

             「二条第」(にじょうだい、別名:妙

             顕寺城、顕寺城、1583年ー15

             87年頃)、旧二条城の1つ)。

             (D) 徳川二条城の、

             「二条城」( にじょうじょう、1603年

             ー現在)。

 

〇 あし  足利幕府。 

             (あしかがばくふ)。(= 室町幕府)。

               (⇒ 室町幕府)。

          《日本の政権・政府》。

           (武家の政治組織、武家政権)。 

          (1338年ー1573年)。

             THE MUROMACHI (ASHIKAGA) 

             SHOGUNATE GOVERNMENT.

          (⇒ 足利氏)。 

           ■ 室町幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック。 

          を参照してください。

          □ 足利氏 画像アルバム  

             No.1

          □ 鹿苑寺・金閣 画像アル

             バム No.1。 

                    (⇒ 足利(氏)政権) 。

          (⇒ 幕府武家政権)。

          (⇒ 日本の政権・政府)。

          ( 足利将軍家)。

          ( 足利将軍家邸)。

          (⇒ 室町御所花の御所) 。

          (⇒ 三条坊門邸)。

          (⇒ 小川御所)。

          (⇒ 足利二条城二条城)。

          ■ 足利幕府(= 室町幕府)

          の詳細な内容については、

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック。 

          を参照してください。

           □ 足利尊氏の詳細な内

          容に関しては、「足利尊氏

          関連出来事

          を参照してください。

          □ 足利義昭の詳細な内

          容については、「足利義昭

          関連出来事

          を参照してください。

           ○ 足利幕府(= 室町幕府)

          は、足利氏の足利尊氏が

           京都に開いた(樹立した)

          武家政権である。 

           ○ 足利幕府(= 室町幕府)は、

          京(京都)を本拠地とする、足

          利氏将軍、管領などが指導す

          る武家政権である。

          ○ 足利幕府(= 室町幕府)は、

          将軍と守護大名との主従関係

          による、全国的封建制軍事組

          織である。

           ○ 足利幕府(= 室町幕府)は、

          実体は、管領(かんれい)や有力

                  守護大名が将軍を補佐し政治

          の実権を握る大名連合政権 で

          ある。

              ■ 足利 幕府 (あしかがばくふ、= 室

               町幕府、1338年ー1573年)は、足利

              氏の足利尊氏が京(きょう、京都)に開

              いた(樹立した)武家政権である。 

             ■ 足利 幕府 (あしかがばくふ、= 室

               町幕府、1338年ー1573年)は、 京

             (きょう、京都)を本拠地とする、足利氏

             将軍、管領(かんれい) などが指導する

             武家政権である。

             ■ 織田信長が、1573年(元亀4年)

             に、 第15代将軍・足利義昭を京(きょ

             う、京都)より追放し、室町幕府を 実質

             的に滅ぼす。

              ■ 足利幕府(= 室町幕府)は、幕府

             将軍 と 、守護大名との主従関係に

             よる、全国的軍事組織である。

             ■ 足利幕府(= 室町幕府)は、 京(きょ

             う、京都)を本拠地とする、足利氏将軍

             と管領(かんれい)が指導する武家政権

             である。

              ■ 室町幕府(= 足利幕府)は、実体

             は、管領(かんれい)や有力守護大名

             が将軍を補佐し政治の実権を握る

             名連合政権である。 

                歴代の将軍は、将軍親政を求め、

             政治の主導権をめぐり、管領や有力守

             護大名と対立する。

              ■ 足利幕府(= 室町幕府)は、 足利

             将軍家の政治組織である。 

             ■ 足利幕府(= 室町幕府)は、 武家

             (武士)の政治組織であり、武家政権で

             ある。 

             ■ 足利幕府(= 室町幕府)の、奉公衆 

              (ほうこうしゅう)、奉行人(ぶぎょうにん、

             奉行衆)とは、 室町幕府の将軍と主従

             関係を結んだ武士であり、 室町幕府

             の将軍の直属家臣であり、 奉公衆は

             将軍の直属軍であり、 奉行人は将軍

             の実務官僚である。

             ○ 足利幕府(= 室町幕府)

          の将軍15代。 

             ■ 室町幕府(= 足利幕府)の、

             足利将軍家の、将軍15代は、順に、

             ● 初代・足利尊氏 (たかうじ、

                鎌倉幕府有力御家人・足利

                貞氏(さだうじ)の子)、

             ● 2 代・足利義詮  (よしあきら、

                 初代将軍・足利尊氏の子)

              ● 3 代・足利義満  (よしみつ、

                 2代将軍・足利義詮の子)

             ● 4 代・ 足利義持  (よしもち、

                 3代将軍・足利義満 の子)

             ● 5 代・足利義量 (よしかず 、

                 4代将軍・足利義持 の子)

             ● 6 代・足利義教 (よしのり、

                 3代将軍・足利義満 の子

                 4代将軍・足利義持 の弟)、

             ● 7 代・足利義勝 (よしかつ 、

                 6代将軍・足利義教の子)

              ●  8 代・足利義政 (よしまさ、

                 6代将軍・足利義教の子)

             ● 9 代・足利義尚 (よしひさ)、

                 8代将軍・足利義政の子)

             ● 10代・足利義稙  (よしたね、

                 6代将軍・足利義教の孫、

                  8代将軍・足利義政の弟・

                 足利義視(よしみ)の子)、

             ● 11代・足利義澄  (よしずみ、

                 6代将軍・足利義教の孫、

                  8代将軍・足利義政の兄・

                 足利政知(まさとも)の子)、

              ● 12代・足利義晴  (よしはる、

                 11代将軍・足利義澄 の子)

             ● 13代・足利義輝  (よしてる、

                 12代将軍・足利義晴 の子)

             ● 14代・足利義栄  (よしひで、

                 11代将軍・足利義澄 の孫

                 12代将軍・足利義晴 の兄弟・

                 足利義維(よしつな、足利義

                 冬(よしふゆ))の子)、

             ● 15代・足利義昭  (よしあき、

                 12代将軍・足利義晴 の子

                 13代将軍・足利義輝 の弟)、

             である。

                        ■ 室町御所(= 花の御所)。

             ● 室町御所(= 花の御所)が室町幕

             府(= 足利 幕府)の、足利将軍家の、

             第3代から第13代までの将軍の邸宅・

             政庁であったことから、後世、足利幕

             府を、室町幕府という名称で呼ぶよう

             になった。

                         ■ 1381年(永徳元年)に京(きょう、

             京都)の北小路室町 (きたこうじむろ

             まち、現・京都市上京区(かみぎょうく)

             烏丸今出川(からすまいまでがわ)北

             西一帯)に、 室町幕府(= 足利 幕府)

             の第3代将軍・足利義満 (あしかがよ

             しみつ)は、 室町御所 (むろまちご

             しょ、= 花の御所(はなのごしょ)、室町

             第(むろまちてい)、室町殿(むろまちど

             の)、1381年ー 1559年) を完成し、

             その後、1559年(永禄2年)まで、第

             13代将軍・足利義輝まで、代々の将

             軍の邸宅・政庁となる。 

             ● 1381年(永徳元年)に足利義満

             の造営した室町御所は、 応仁の乱の

             戦火で1476年(文明8年)に全焼した

             が、 室町御所は、その後何度か小規

             模なものながらも再建が繰り返えされ、

             1559年(永禄2年)に、第13代将軍・

             足利義輝が斯波武衛家邸宅跡に、烏

             丸中御門第(からすまなかみかどてい、

             = 別名:足利二条城、二条御所、旧二

             条城)を造営し、移転するまで、1559

             年(永禄2年)まで、代々の将軍の邸宅・

             政庁となる。 

 

〇 あし  足利幕府(= 室町幕府)

        関連年代順出来事

        ブック。

             (あしかがばくふかんれんねんだい

             じゅんできごとぶっく)。

             《政権関連出来事》。

              (⇒ 室町幕府 関連 

        年代順出来事ブック 

 

 あし   足利本家(宗家)

              (あしかがほんけ(そうけ))。 

             《武家》。

          (⇒ 足利氏)。 

           ■ 室町幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック。 

          を参照してください。

 

〇 あし  足利 政知 

             (あしかが まさとも)。 《人名》。

            (堀越公方)。

            (足利氏の一族)。

            (堀越公方在職:

           1457年ー1491年)。

            (生没年:

           1435年ー1491年)。

          (⇒ 堀越公方)。

          (⇒ 足利義政

        足利 義澄よしずみ)。

           ■ 室町幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック。 

          を参照してください。

           (⇒ 足利氏)。

          (⇒ 関東公方

           関東公方足利氏

           鎌倉公方古河公方)。

          (⇒ 堀越公方)。

          (⇒ 関東管領

           関東管領上杉氏

           山内上杉 氏

           扇谷上杉 氏)。 

          ○ 足利政知は、

          室町幕府(= 足利幕府)の

          第8代将軍・足利義政(よし

          まさ)の 異母兄である

          ○ 足利政知は、

          初代堀越公方(ほりごえくぼう

             堀越公方在職:1457年ー1491

             年))である。

          ○ 足利政知は、

          室町幕府の第11代将軍・

          足利 義澄よしずみの父

          である。

          ○ 足利政知は、

          室町幕府の第6代将軍・

          足利義教(よしのり)の子で

          ある。

              ■ 足利 政知(あしかが まさとも)は、 

             室町幕府(= 足利幕府)・第6代将軍

             の足利義教(よしのり)の4人の活躍

             する子の、(1) 足利義勝(よしかつ、

             7代将軍)、 (2) 足利政知(まさと

             も、堀越公方、11代将軍・義澄(よし

             ずみ)の父)、 (3) 足利義政(よし

             まさ、8代将軍)、 (4) 足利義視

             (よしみ、応仁の乱中の西幕府・公

             方(将軍)、10代将軍・義稙(よした

             ね)の父) の一人である。

              ■ 足利政知 (あしかが まさとも

             堀越公方在職:1457年ー1491年、

             生没年:1435年ー1491年) は、 

             室町幕府の第8代将軍・足利義政

             (よしまさ)の異母兄であり、 堀越公

             方 (ほりごえくぼう、= 室町幕府の

             東国統治地方長官) であり、 室町

             幕府の、初代堀越公方 (ほりごえ

             くぼう、堀越公方在職:1457年ー

             1491年)であ る。

             ■ 足利政知は、 室町幕府の第6

             代将軍・足利義教(よしのり) の子で

             あり、 室町幕府(= 足利幕府)の第

             11代将軍・足利 義澄よしずみ) の

             父である。

              ■ 1547年(長禄元年)に、室町幕

             府(= 足利幕府)・第8代将軍の足利

             義政は、 対立する古河公方・足利

             成氏(しげうじ)への対抗策として、

             足利義政の異母兄の足利政知(ま さ

             とも)を鎌倉公方とし、 翌年の15

             48年に足利政知を、 京(きょう、京都)

             から鎌倉公方として送った。 しかし、

             足利政知は、鎌倉に入ることができず、 

             手前の伊豆堀越(いずほりごえ、静岡

             県伊豆の国市)に留まることになり、

             そこに堀越府を樹立し、堀越御所を築

             き、堀越公方(ほりごえくぼう)と 呼ば

             れる。 

             ■ 関東方の諸将は、初代鎌倉公方・

             足利基氏(もとうじ)以来の血筋である

             古河公方・足利成氏(しげうじ)への忠

             誠心が厚く、 堀越公方・足利政知(ま

             さとも)は、 関東の 諸勢力の協力・支

             持を得ることができなかった

 

〇 あし  足利 持氏 

             (あしかが もちうじ)。  《人名》。

             (鎌倉公方、前期関東公方)。

             (関東公方)。

             (足利氏の一族)。

             (鎌倉公方在職:

           1409年ー1439年)。

             (生没年:

           1398年ー1439年)。

          (⇒ 鎌倉公方

        関東公方

        足利成氏)。

          (⇒ 足利氏)。

           ■ 室町幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック。 

          を参照してください。

          ○ 足利持氏は、

          室町幕府の第4代鎌倉公方

             (かまくらくぼう)である。

          ○ 足利持氏は、

             第5代鎌倉公方・足利成氏(し

          げうじ)の父 である。

          ○ 足利持氏は、

          室町幕府の初代鎌倉公方・

          足利基氏(もとうじ)の曾孫(ひま

             ご)である

              ■ 足利持氏 (あしかが もちうじ、鎌倉

             公方在職:1409年ー1439年、生没年:

             1398年ー1439年) は、 鎌倉公方 

             (かまくらくぼう、= 室町幕府の鎌倉府長

             官、前期関東公方)であり、 関東公方 

             (かんとうくぼう、= 室町幕府の東国統治

             地方長官)) である。

             ■ 足利持氏は、 室町幕府(= 足利幕

             府)の、第4 代鎌倉公方(在職:1409

             1439年)であり、 5代鎌倉公方・足

             利成氏(しげうじ)の父であり、 室町幕

             府の初代鎌倉公方足利基氏(もとうじ

             の曾孫(ひまご)である。

 

〇 あし   足利 基氏 

              (あしかが もとうじ)。 《人名》。

             (鎌倉公方、前期関東公方)。

             (関東公方)。

             (関東公方足利氏の始祖)。

             (足利氏の一族)。

             (鎌倉公方在職:

           1349年ー1367年)。

             (生没年:

           1340年ー1367年)。

          (⇒ 鎌倉公方

         関東公方)。

          (⇒ 足利氏)。

           ■ 室町幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック。 

          を参照してください。

          ○ 足利基氏は、

             室町幕府の、初代鎌倉公方

          (かまくらくぼう)である。

          ○ 足利基氏は、

          室町幕府の初代将軍・足利

          尊氏(たかうじ)の子 である。

              ■ 足利基氏 (あしかが もとうじ、鎌倉

             公方在職:1349年ー1367年、生没年:

             1340年ー1367年) は、  鎌倉公方 

             (かまくらくぼう、= 室町幕府(= 足利幕

             府)の鎌倉府長官、前期関東公方) で

             あり、  関東公方 (かんとうくぼう、=

             室町幕府の東国統治地方長官)) であ

             る。

             ■ 足利基氏は、 室町幕府(= 足利幕

             府)の、初代鎌倉公方 (在職:1349

             1367年)であり、 関東公方足利氏

             の 始祖であり、 室町幕府の初代将軍・

             足利尊氏(たかうじ)の子である。

 

〇 あし  足利 義昭

             (あしかが よしあき)。  《人名》。

             (室町幕府の将軍)。

          (将軍在任:

           1568年ー1588年)。

          (生没年:

           1537年ー1597年)。

          ASHIKAGA Yoshiaki.

                    (⇒ 足利義昭 関連

        年代順出来事)。

          (⇒ 足利氏)。 

           ■ 室町幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック。 

          を参照してください。

          ○  足利義昭は、

          室町幕府(= 足利幕府)の

          最後の将軍である。

          ○ 足利義昭は、

          室町幕府(= 足利幕府)の

          15代将軍 である 。 

            織田信長に擁立されて、

          将軍となる。

          ○ 足利義昭は、

          室町幕府の第13代将軍・

          足利義輝(よしてる)の弟 で

          ある。

          ○  足利義昭は、

          室町幕府の第12代将軍・

          足利義晴(よしはる)の子 で

          ある。

             ■ 足利義昭は、 室町幕府(= 足利

             幕府)の最後の将軍である。

              ■ 足利義昭 (あしかが よしあき、

             将軍在任:1568年ー1588年、

             没年: 1537年ー1597年) は、 

             室町幕府(= 足利幕府)の将軍であ

             り、 室町幕府の第15代将軍 (将

             軍在任:1423年ー1425年)であ 

             る。 義昭は、織田信長に擁立され

             て、将軍となる。

             ■ 室町幕府(1338年ー1573年)

             は、 1573年(元亀4年)の足利義

             昭の京都追放により、事実上、滅亡

             する。 

             ■ 足利義昭は、 室町幕府の第13

             代将軍・足利義輝(よしてる)の弟で

             あり、 室町幕府の第12代将軍・足

             利義晴(よしはる)の子である。

 

〇 あし  足利義昭 関連年代順

               出来事 (詳細)。

             (あしかがよしあきかんれんできごと

             (ねんだいじゅん・しょうさい))。 

          《人物関連出来事》。

          (⇒ 足利氏)。 

           ■ 室町幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック。 

          を参照してください。

 

〇 あし  足利 義詮

             (あしかが よしあきら)。 《人名》。

            (室町幕府の将軍)。

          (⇒ 足利氏)。

           ■ 室町幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック。 

          を参照してください。

             (将軍在任:

           1358年ー1367年)。 

            生没年:

           1330年ー1367年)。

          ASHIKAGA Yoshiakira.

                    ○ 足利義詮は、

          室町幕府(= 足利幕府)

          の第2代将軍である。

          ○  足利義詮は、

          室町幕府の初代将軍・ 足利

          尊氏(たかうじ)の子 である。

             尊氏が病死し、継子の義詮

          が、将軍になる。

              ■ 足利義詮 (あしかが よしあきら、

             将軍在任:1358年ー1367年、生没年:

             1330年ー1367年) は、 室町幕府

             (= 足利幕府)の将軍であり、 室町幕府

             の第2代将軍 (将軍在任:1358年ー

             1367年)であり、 室町幕府の初代将

             軍・足利尊氏(たかうじ)の 子である。

                1358年(正平13年/延文3年)4

             月に、尊氏が病死し、1358年(正平13

             年/延文3年)12月に、継子の義詮が、

             将軍になる。

 

〇 あし  足利 義量

             (あしかが よしかず)。   《人名》。

             (室町幕府の将軍)。

          (⇒ 足利氏)。

           ■ 室町幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック。 

          を参照してください。

             (将軍在任:

            1423年ー1425年)。

            生没年:

            1407年ー1425年)。

          ASHIKAGA Yoshikazu.

                    ○ 足利義量は、

          室町幕府(= 足利幕府)の

          第5代将軍 である。

          ○  足利義量は、

          室町幕府の第4代将軍・ 足利

          義持(よしもち)の子 である。

          義持より将軍職を譲られる。

              ■ 足利義量 (あしかが よしかず、将軍

             在任:1423年ー1425年、生没年: 14

             07年ー1425年) は、 室町幕府(= 足

             利幕府)の将軍であり、 室町幕府の第

             5代将軍 (将軍 在任:1423年ー1425

             )であり、 室町幕府の第4代将軍・足

             利義持(よしもち)の子である。  義量は、

             義持より将軍職を譲られる。

 

〇 あし  足利 義勝

             (あしかが よしかつ)。   《人名》。

            (室町幕府の将軍)。

          (⇒ 足利氏)。

           ■ 室町幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック。 

          を参照してください。

            (将軍在任:

           1442年ー1443年)。 

             (生没年:

           1434年ー1443年)。

          ASHIKAGA Yoshikatsu.

                    ○ 足利義勝は、

          室町幕府(= 足利幕府)の

          第7代将軍 である。

          ○  足利義勝は、

          室町幕府の第6代将軍・ 足

          利義教(よしのり)の子 である。

             嘉吉の変で、義教が殺害さ

          れ、継子の義勝が将軍にな

          る。

              ■ 足利義勝 (あしかが よしかつ、

             将軍在任:1442年ー1443年、

             没年: 141534年ー1443年) は、 

             室町幕府(= 足利幕府)の将軍であり、  

             室町幕府の第7代将軍 (将軍在任:

             1442年ー1443年)であり、 室町

             幕府の第6代将軍・足利義教(よし の

             り)の子である。

                1441年(嘉吉元年)の嘉吉の

             変で、義教が殺害され、継子の義勝

             が、1442年(嘉吉2年)に、将軍にな

             る。

              ■ 足利 義勝(あしかが よしかつ)

             は、 室町幕府(= 足利幕府)・第6

             代将軍の足利義教(よしのり)の4人

             の活躍する子の、(1) 足利義勝

             (よしかつ、7代将軍)、 (2) 足利

             政知(まさとも、堀越公方、11代将

             軍・義澄(よしずみ)の父)、 (3) 

             足利義政(よしまさ、8代将軍)、 

             (4) 足利義視(よしみ、応仁の乱

             中の西幕府・公方(将軍)、10代将

             軍・義稙(よしたね)の父) の一人

             である。

 

〇 あし  足利 義澄             

             (あしかが よしずみ)。 《人名》。

             (室町幕府の将軍)。

          (⇒ 足利氏)。

           ■ 室町幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック。 

          を参照してください。

             (将軍在任:

            1494年ー1508年)。

            生没年:

            1480年ー1511年)。

          ASHIKAGA Yoshizumi.

                    ○ 足利義澄は、

          室町幕府(= 足利幕府)の

          第11代将軍 である。

           ○ 足利義澄は、

          堀越公方(ほりごえくぼう)・ 足利

             政知 (まさとも、足利義政

          母兄)の子である。 

            明応の政変で、義澄は、

          細川政元、日野富子、伊勢

          貞宗らによって擁立され、

          将軍となる。

          ○  足利義澄は、12代将軍・

          足利義晴(よしはる)の父であり、 

          13代将軍・足利義輝(よしてる)

             の祖父であり、 14代将軍・

          足利義栄(よしひで)の祖父で

          あり、 15代将軍・足利義昭

          (よしあき)の祖父である。

          ○  足利義澄は、

          室町幕府の第6代将軍・ 足

             利義教(よしの り)の孫である。 

              ■ 足利義澄 (あしかが よしずみ、

             将軍在任:1494年ー1508年、

             没年: 1480年ー1511年) は、 

             室町幕府(= 足利幕府)の将軍であり、 

             室町幕府の第11代将軍 (将軍 在任:

             1494年ー1508年)であり、 室町

             幕府の第6代将軍・足利 義教(よしの

             り)の孫であり、 堀越公方(ほ りごえ

             くぼう) ・ 足利政知 (まさとも、足利

             義政の兄弟) の子である。 

                1493年(明応2年)の明応の政

             変で、義澄は、細川政元、日野富子、

             伊勢貞宗らによって擁立され、1494

             年(明応3年)に、将軍となる。

              ■ 足利義澄の子は、 義晴(よしは

             る)と義維(よしつな、義冬(よしふゆ))

             であり、 義晴の子は、義輝(よしてる)

             と義昭(よしあき)であり、 義維(義冬)

             の子は、義栄(よしひで)である。

              ■ 足利義澄は、 12代将軍・足利

             義晴(よしはる)の父であり、 13代

             将軍・足利義輝(よしてる)の祖父で

             あり、 14代将軍・足利義栄(よしひ

             で)の祖父であり、 15代将軍・足利

             義昭(よしあき)の祖父である。

 

〇 あし  足利 義稙

            (あしかが よしたね)。   《人名》。

            《室町幕府・将軍》。

             (= 足利義材(よしき) 、足利

          義尹(よしただ))。

          (⇒ 足利氏)。

           ■ 室町幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック。 

          を参照してください。

          ASHIKAGA Yoshitane.

             (生没年:

          1466年ー1523年)。

          ■ 第1次政権 (将軍在任:

          1490年ー1493年)。

          ■ 第2次政権 (将軍在任: 

             1508年ー1521年)。

             ○ 足利義稙(義材、義尹)は、

          室町幕府(= 足利幕府)の

          第10代将軍 である。

          ○ 足利義稙(義材、義尹)は、

          足利義視(よしみ、足利義政 の

          弟)の子である。 

            第1次政権では、義稙(義

          材、義尹)は、第9代将軍・足

          利義尚が病死し、足利義政・

          日野富子夫妻の支持で、将

          軍となる。

            第2次政権では、義稙(義

          材、義尹)は、大内義興・細川

          高国に擁立されて、将軍にな

          る。

          ○  足利義稙(義材、義尹)は、

          室町幕府の第6代将軍・ 足利

             義教(よしのり)の 孫である。

              ■ 足利義稙 (あしかが よしたね、=

                        足利義材(よしき) 、足利義尹(よした

             だ)、将軍在任:第1次政権1490年ー

             1493年、第2次政権1508年ー15

             21年 ; 生没年: 1466年ー1523年) 

             は、 室町幕府(= 足利幕府)の将軍

             であり、 室町幕府の第10代将軍 

             (将軍在任:1490年ー1493年、15

             08年ー1521年 であり、 室町幕府

             の第6代将軍・足利義教(よしの り)

             孫である。

             ● 義稙の第1次政権では、義稙(義

             材、義尹)は、第9代将軍・足利義尚

             が病死し、足利義政・日野富子夫妻

             の支持で、将軍となる。

             ● 義稙の第2次政権では、義稙(義

             材、義尹)は、 大内義興 、細川高国

             に擁立されて、将軍になる。

             ◆ (3) 足利義稙(義材、義尹)

                 畿内付近地域支配政権

                (1490年〜1493年) 。

             ■ 足利義稙(義材、義尹) (あし

             かが よしたね(よしき、よしただ)、

             生没年:1466年ー1523年) は、

             1490年(延徳2年)から1493年

             (明応2年)まで、畿内付近地域の

             支配者となる。 

             ● 1489年(長享3年)3月に、

             将軍・足利義尚 (よしひさ)が病死

             し、その後幕政を担っていた元将

             軍の足利義 政が、1490年(延徳

             2年)病死し、足利義稙(義材、

             義尹)が、1490年(延徳2年)

             将軍職に就き、義尚 、義政に代わ

             って、畿内付近地域の支配者とな

             る。 

             ● 1493年(明応2年)4月に、

             細川政元は、日野富子と共に、明

             応の政変を起こし、将軍の足利

             稙(よしたね、義材、義尹)の廃立

             を宣言し次期将軍に は足利義澄

             (よしずみ)を擁立して、足利義稙

             (義材、義尹)に代わって、細川政

             元が、実質上、畿内付近地域の支

             配者となる。

             ■ 室町時代後期 (= 戦国時代、

             1467年ー1573年)の畿内付近

             地域の実質支配者

             ● 室町時代後期 (= 戦国時代、

             1467年ー1573年)に、室町幕

             府(= 足利幕府)の足利氏将軍の

             権威は保たれたが、足利氏将軍

             の権力は低下する。

             ● 応仁の乱(1467年ー1477

             年)後、足利氏将軍の支配地は、

             畿内付近地域のみとなり、その後、

             足利氏将軍に代わって、細川氏、

             三好氏、織田氏の勢力が、畿内付

             近地域を支配する。 

                つまり、室町幕府の8代義政、

             9代義尚、10代義稙・前期の時期

             は、足利氏将軍が畿内付近地域を

             支配し、 室町幕府の11代義澄、

             10代義稙・後期、12代義晴、13

             代義輝、14代義栄、15代義昭の

             時期は、順に、細川政元、細川高

             国、細川晴元、三好長慶、三好三

             人衆・松永久秀、織田信長が、

             内付近地域を支配する。

             ■ 室町時代後期(= 戦国時代)の、

             京(きょう、京都)や京周辺の畿内

             付近地域の実質支配者は、順に、

             (1) 足利義政の畿内付近地域

                 支配政権

                (1467年〜1486年 、

                 1489年〜1490年)、

             (2) 足利義尚(義熙) の畿内付

                 近地域支配政権

                (1486年〜1489年)、

             (3) 足利義稙(義材、義尹) の

                 畿内付近地域支配政権

                (1490年〜1493年) 、

             (4) 細川政元の畿内付近地域

                 支配政権

                (1493年〜1507年)、

             (5) 細川高国畿内付近地域

                 支配政権

                (1508年〜1531年) 、

             (6) 細川晴元 の畿内付近地域

                 支配政権

                (1531年〜1549年)、

             (7) 三好長慶の畿内付近地域

                 支配政権

                (1549年〜1564年)、

             (8) 三好三人衆・松永久秀の

                 畿内付近地域支配政権 

                (1564年〜1568年)、

             (9) 織田信長の畿内付近地域

                 支配政権

                (1568年 〜1573年) 、

             となる。

 

 あし  足利 義輝

             (あしかが よしてる)。 《人名》。

             (室町幕府の将軍)。

          (⇒ 足利氏)。

           ■ 室町幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック。 

          を参照してください。

          (将軍在任:

            1546年ー1565年)。

          (生没年:

            1536年ー1565年)。

          ASHIKAGA Yoshiteru.

          ○ 足利義輝は、

          室町幕府(= 足利幕府)の

          第13代将軍 である。

          ○  足利義輝は、

          室町幕府の第12代将軍・

          足利義晴(よしはる)の子 で

          ある。 義晴より将軍職を

          譲られる。

              ■ 足利義輝 (あしかが よしてる、

             将軍在任:1546年ー1565年、

             没年: 1536年ー1565年) は、 

             室町幕府(= 足利幕府)の将軍であ 

             り、室町幕府の第13代将軍 (将

             軍在任:1546年ー1565年)であ 

             り、室町幕府の第 12代将軍・足利

             義晴(よしはる)の子 である。義輝

             は、義晴より将軍職を譲られる。

 

〇 あし  足利 義教

            (あしかが よしのり)。 《人名》。

            (室町幕府の将軍)。

          (⇒ 足利氏)。 

           ■ 室町幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック。 

          を参照してください。

             (将軍在任:

            1429年ー1441年)。 

             (生没年:

            1394ー1441年)。

                        ASHIKAGA Yoshinori.

                    ○ 足利義教は、

          室町幕府(= 足利幕府)

          の第6代将軍 である。

          ○  足利義教は、

          室町幕府の7代将軍・義勝

          (よしかつ)、堀越公方・政知

          (まさとも)、8代将軍・足利義

          政(よしまさ)、足利義視(よし

             み)の4人の 父である。

          ○  足利義教は、

          室町幕府の第3代将軍・ 足

          利義満(よしみつ)の子である。

          ○  足利義教は、

          室町幕府の第4代将軍・ 足

          利義持(よしもち)の弟である。

              義持の弟・4人の中か

          ら、くじ引きで、将軍に選ば

          れた。

          ○  足利義教は、

          将軍権力を強化することに

          努め、恐怖政治を行う。

             ■ 足利義教 (あしかが よしのり、将

             軍在任:1429年−1441年、生没年:

              1394年−1441年) は、 室町幕

             府(= 足利幕府)の将軍 であり、 室町

             幕府の第6代将軍 (将軍在 任:1429

             年−1441年)であり、 室町幕府の

             3代将軍・足利義満(よしみつ)の子で 

             あり、 室町幕府の第4代将軍・足利

              持(よしもち)の弟である。 

                足利義教は、 足利義持(よし も

             ち)の 弟4人の中から、くじ引きで、将

             軍に選ばれた。 

              ■  足利義教は、 室町幕府の7代

             将軍・義勝(よしかつ)、堀越公方・政

             知(まさとも)、8代将軍・足利義政(よ

             しまさ)、足利義視(よしみ)の 4人の

             父である。

             ■ 足利義持(よしもち)は、病状が重

             くなるが、次期将軍の後継者の指名

             を拒否したため、室町幕府重臣は相

             談し、くじ引きで将軍をきめることとし、

             足利義持に伝えたところ、「くじ引きで

             将軍をきめてもよい」との義持の了承

             を得た。 

                室町幕府重臣は、足 利義持死去

             前にくじをつくって神前でく じを引き、

             足利義持死後、開封することにし、義

             持死去直前の1428年(応永35年)

             1月17日に石清水八幡宮でくじが引

             かれ、翌日の義持死去後に開封され、

             僧の義円(後の足利義教)が当たり

             選ばれ、その後、足利義教は還俗し、

             1429年(正長2年)3月15日に征夷

             大将軍に就任する。

 

〇 あし  足利 義晴 

             (あしかが よしはる)。 《人名》。

             (室町幕府の将軍)。

          (⇒ 足利氏)。 

           ■ 室町幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック。 

          を参照してください。

             (将軍在任:

            1521年ー1546年)。

            生没年:

            1511 ー1550年)。

                        ASHIKAGA Yoshiharu.

                    ○ 足利義晴は、

          室町幕府(= 足利幕府)の

          12代将軍である。

          ○  足利義晴は、

          室町幕府の第11代将軍・ 足

          利義澄(よしずみ)の子 である。 

          細川高国に擁立されて、将

          軍になる。

             ■ 足利義晴 (あしかが よしはる、将

             軍在任:1521年−1546年、生没年:

             1511年−1550年) は、 室町幕府

             (= 足利幕府)の将軍であり、 室町幕 

             府の第12代将軍(将軍在任:1521年

             −1546年)であり、 室町幕府の第11

             代将軍・足利義澄(よしずみ)の子であ

             る。

             ● 足利義晴は、細川高国に擁立され

             て、将軍となる。

 

〇 あし  足利 義尚 

                          (あしかが よしひさ)。 《人名》。

            (室町幕府の将軍)。

          (⇒ 足利氏)。 

           ■ 室町幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック。 

          を参照してください。

          (将軍在任:

            1473年ー1489年)。

             (生没年:

            1465ー1489年)。

                        ASHIKAGA Yoshihisa.

                    ○ 足利義尚は、

          室町幕府(= 足利幕府)の

          第9代将軍 である。

          ○  足利義尚は、

          室町幕府の第8代将軍・ 足

          利義政(よしまさ)の子 である。

          義政より将軍職を譲られる。

          ○ 足利義尚は、足利義政と

          日野富子との間の子である。

             ■ 足利義尚 (あしかが よしひさ

             将軍在任:1473年−1489年、

             生没年: 1465年−1489年)は、 

             室町幕府(= 足利幕府)の将軍で

             あり、室町幕府の第9代将軍 (将

             軍在任:1473年−1489年)であ

             り、 室町幕府の  第8代将軍・足

             利義政(よしまさ)の子 である。 義

             尚は、義政より将軍職を譲られる。

             ■ 足利義尚は、 足利義政(よし

             まさ)と日野富子との間の子であり、

             若くして急死する。

             ◆ (2) 足利義尚(義熙) の畿内

                 付近地域支配政権

                (1486年〜1489年)。

             ■ 足利義尚 (あしかが よしひ

             さ、生没年:1465ー1489年) 

             は、1486年(文明18年)から

             1489年(長享3年)まで、畿内付

             近地域の支配者となる。 

             ● 義尚が若年のため、1486年

             (文明18年)まで、前将軍の足利

             義政が、大御所として、幕政を担

             っていたが、1486年(文明18年)

             に、将軍・足利義尚 (よしひさ)に

             幕政を譲(ゆず)り、義尚が、義政

             に代わって、畿内付近地域の支配

             者となる。 

             ● 1489年(長享3年)3月に、

             将軍・足利義尚 (よしひさ)が病死

             し、その後幕政を担っていた元将

             軍の足利義政が、1490年(延徳

             2年)病死し、足利義稙(義材、

             義尹)が、1490年(延徳2年)

             将軍職に就き、義尚、義政に代わ

             って、畿内付近地域の支配者とな

             る。 

             ■ 室町時代後期 (= 戦国時代、

             1467年ー1573年)の畿内付近

             地域の実質支配者

             ● 室町時代後期 (= 戦国時代、

             1467年ー1573年)に、室町幕

             府(= 足利幕府)の足利氏将軍の

             権威は保たれたが、足利氏将軍

             の権力は低下する。

             ● 応仁の乱(1467年ー1477

             年)後、足利氏将軍の支配地は、

             畿内付近地域のみとなり、その後、

             足利氏将軍に代わって、細川氏、

             三好氏、織田氏の勢力が、畿内付

             近地域を支配する。 

                つまり、室町幕府の8代義政、

             9代義尚、10代義稙・前期の時期

             は、足利氏将軍が畿内付近地域を

             支配し、 室町幕府の11代義澄、

             10代義稙・後期、12代義晴、13

             代義輝、14代義栄、15代義昭の

             時期は、順に、細川政元、細川高

             国、細川晴元、三好長慶、三好三

             人衆・松永久秀、織田信長が、

             内付近地域を支配する。

             ■ 室町時代後期(= 戦国時代)の、

             京(きょう、京都)や京周辺の畿内

             付近地域の実質支配者は、順に、

             (1) 足利義政の畿内付近地域

                 支配政権

                (1467年〜1486年 、

                 1489年〜1490年)、

             (2) 足利義尚(義熙) の畿内付

                 近地域支配政権

                (1486年〜1489年)、

             (3) 足利義稙(義材、義尹) の

                 畿内付近地域支配政権

                (1490年〜1493年) 、

             (4) 細川政元の畿内付近地域

                 支配政権

                (1493年〜1507年)、

             (5) 細川高国畿内付近地域

                 支配政権

                (1508年〜1531年) 、

             (6) 細川晴元 の畿内付近地域

                 支配政権

                (1531年〜1549年)、

             (7) 三好長慶の畿内付近地域

                 支配政権

                (1549年〜1564年)、

             (8) 三好三人衆・松永久秀の

                 畿内付近地域支配政権 

                (1564年〜1568年)、

             (9) 織田信長の畿内付近地域

                 支配政権

                (1568年 〜1573年) 、

             となる。

 

〇 あし  足利 義栄  

             (あしかが よしひで)。 《人名》。

             (室町幕府の将軍)。

          (⇒ 室町幕府)。

          (⇒ 室町幕府関連出来事)。

          (⇒ 足利氏)。 

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック。 

             (将軍在任:

            1568年)。

            生没年:

            1538ー1568年)。

                        ASHIKAGA Yoshihide.

                    ○ 足利義栄は、

          室町幕府(= 足利幕府)の

          第14代将軍 である。

          ○ 足利義栄は、

          室町幕府の第12代将軍・

          足利義晴(よしはる)の甥(おい)

             である。

             ○ 足利義栄は、

          室町幕府の第11代将軍・

             義澄よしずみの孫である。

           ○ 足利義栄は、三好三兄弟

          に擁立されて、将軍となる。

             ■ 足利義栄 (あしかが よしひで、将

             軍在任:1568年、生没年: 1538

             ー1568年)  は、 室町幕府の将軍

             であり、 室町幕府(= 足利幕府)の

             14代将軍 (将軍 在任:1568年

             であり、室町幕府の第12代将軍・

             義晴(よしは る)の甥(おい)であり、  

             室町幕府の第11代将軍・足利義澄(

             しずみ)の孫である。

             ■ 足利義栄は、三好三兄弟(みよしさ

             んきょうだい)に擁立されて、将軍とな

             る。   

 

 あし  足利 義政

             (あしかが よしまさ)。 《人名》。

             (室町幕府の将軍)。

          (⇒ 足利氏)。 

           ■ 室町幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック。 

          を参照してください。

          (将軍在任:

            1449 年ー1473年)。 

          (生没年:

            1436年ー1490年)。

          ASHIKAGA Yoshimasa.

            ○ 足利 義政は、

          室町幕府(= 足利幕府)の

          第8代将軍 である。

          ○ 足利 義政は、

          室町幕府 の第6代将軍・足

          利義教(よしのり)の子 である。

            兄の第7代将軍・義勝が

          病死し、同母弟の義政が将

          軍となる。

            ○ 足利 義政は、応仁の乱

          の勃発時の将軍である。 

          応仁の乱を止められず。

             ■ 足利 義政 (あしかが よしまさ、

             将軍在任 :1449年ー1473年、

             没年:1436年ー1490年) は、 

             室町幕府(= 足利幕府)の将軍であり、 

             室町幕府の第8代将軍 (将軍 在任 :

             1449年ー1473年)であり、 室町

             幕府・第6代将軍・足利義教(よしの

             り)の子である。 

                1443年(嘉吉3年)に、兄の第

             7代将軍・足利義勝(よしかつ)が病

             死し、期間をおいて、1449年(文安

             6年)に、同母弟の義政が将軍となる。

              ■ 足利 義政(あしかが よしまさ)は、 

             室町幕府(= 足利幕府)・第6代将軍

             の足利義教(よしのり)の4人の活躍

             する子の、(1) 足利義勝(よしかつ、

             7代将軍)、 (2) 足利政知(まさと

             も、堀越公方、11代将軍・義澄(よし

             ずみ)の父)、 (3) 足利義政(よし

             まさ、8代将軍)、 (4) 足利義視(よ

             しみ、応仁の乱中の西幕府・公方(将

             軍)、10代将軍・義稙(よしたね)の

             父)の一人である。

             ■ 足利 義政は、応仁の乱(1467年

             ー1477年)の勃発時の将軍である。 

                足利 義政は、努力はしたが、

             応仁の乱を止められなかった。

             ■ 足利 義政は、 当時、管領(かん

             れい)や有力守護大名が将軍を補佐

             し政治の実権を握る大名連合政権の

             室町幕府(= 足利幕府)を、将軍とし

             て、自分の思いどうりに運営しようと

             かなり努力したが管領や有力守護大

             名に阻まれて、思いどうり運営できな

             かった。              

             ◆ (1) 足利義政 の畿内付近

                 地域支配政権

                (1467年〜1486年 、

                 1489年〜1490年)。

             ■ 足利義政 (あしかが よしまさ、

             将軍在任:1449年〜1473年

             生没年:1436年〜1490年)は、 

             1467年(応仁元年)から1486年

             (文明18年)まで、畿内付近地域

             の支配者となる。 

             ● 足利義政は、 室町幕府(= 足

             利幕府)の 、将軍として1467年

             (応仁元年)から14 73年まで、大

             御所として1473年から1486年

             (文明18年)まで、 1489年から

             1490年まで、畿内付近地域の支

             配者となる。 

             ● 足利 義政は、1473年(文明

             5年)に、足利 義尚(よしひさ)に

             将軍職を譲り、義尚が若年のため、

             将軍退位後、大御所として、14

             86年(文明18年)まで、幕府の

             政治の実権をもつ。

             ● 前将軍の足利義政は、退任後

             大御所として、将軍の義尚が若年

             のため、1486年(文明18年)

             、幕政を担 っていたが、1486年

             (文明18年)に、将軍・足利義尚

             (よしひさ)に幕政を譲(ゆず)り、

             義尚が、義政に代わって、1489

             年まで、畿内付近地域の支配者と

             なる。 

             ● 1489年(長享3年)3月に、

             将軍・足利義尚 (よしひさ)が病死

             し、その後幕政を担っていた元将

             軍の足利義政が、1490年(延徳

             2年)病死し、足利義稙(義材、

             義尹)が、1490年(延徳2年)

             将軍職に就き、義尚、義政に代わ

             って、畿内付近地域の支配者とな

             る。 

             ■ 室町時代後期 (= 戦国時代、

             1467年ー1573年)の畿内付近

             地域の実質支配者

             ● 室町時代後期 (= 戦国時代、

             1467年ー1573年)に、室町幕

             府(= 足利幕府)の足利氏将軍の

             権威は保たれたが、足利氏将軍

             の権力は低下する。

             ● 応仁の乱(1467年ー1477

             年)後、足利氏将軍の支配地は、

             畿内付近地域のみとなり、その後、

             足利氏将軍に代わって、細川氏、

             三好氏、織田氏の勢力が、畿内付

             近地域を支配する。 

                つまり、室町幕府の8代義政、

             9代義尚、10代義稙・前期の時期

             は、足利氏将軍が畿内付近地域を

             支配し、 室町幕府の11代義澄、

             10代義稙・後期、12代義晴、13

             代義輝、14代義栄、15代義昭の

             時期は、順に、細川政元、細川高

             国、細川晴元、三好長慶、三好三

             人衆・松永久秀、織田信長が、

             内付近地域を支配する。

             ■ 室町時代後期(= 戦国時代)の、

             京(きょう、京都)や京周辺の畿内

             付近地域の実質支配者は、順に、

             (1) 足利義政の畿内付近地域

                 支配政権

                (1467年〜1486年 、

                 1489年〜1490年)、

             (2) 足利義尚(義熙) の畿内付

                 近地域支配政権

                (1486年〜1489年)、

             (3) 足利義稙(義材、義尹) の

                 畿内付近地域支配政権

                (1490年〜1493年) 、

             (4) 細川政元の畿内付近地域

                 支配政権

                (1493年〜1507年)、

             (5) 細川高国畿内付近地域

                 支配政権

                (1508年〜1531年) 、

             (6) 細川晴元 の畿内付近地域

                 支配政権

                (1531年〜1549年)、

             (7) 三好長慶の畿内付近地域

                 支配政権

                (1549年〜1564年)、

             (8) 三好三人衆・松永久秀の

                 畿内付近地域支配政権 

                (1564年〜1568年)、

             (9) 織田信長の畿内付近地域

                 支配政権

                (1568年 〜1573年) 、

             となる。

 

〇 あし  足利 義視 

             (あしかが よしみ) 。 《人名》。

          (= 足利義政の弟)。

             (足利氏の一族)。

          (⇒ 足利氏)。 

           ■ 室町幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック

          を参照してください。

          ASHIKAGA Yoshimi.

             (生没年:

            1439年ー1491年)。

          ○ 足利 義視は、

          室町幕府 の第8代将軍・足

          利義政(よしまさ)の弟 であり、

          第9代将軍後継候補者でも

          あった。

          ○ 足利 義視は、

          室町幕府・第6代将軍・足利

          義教(よしのり)の子 である。

          ○ 足利 義視は、

          室町幕府・第10代将軍・足利

          義稙(よしたね義材(よしき) 、義尹

             (よしただ)の父 である。

             ■ 足利 義視 (あしかが よしみ、生

             没年:1439年ー1491年)は、 室 町

             幕府の第8代将軍・足利義政(よしま

             さ)の弟であり、 室町幕府の第6代将

             軍 ・足 利義教(よしのり)の子であり、 

             室町幕府の第10代将軍・足利義稙

             (よしたね、義材(よしき) 、義尹(よし

             ただ))の父である。

              ■ 足利 義視 (あしかが よしみ)は、 

             室町幕府(= 足利幕府)・第6代将軍

             の足利義教(よしのり)の4人の活躍

             する子の、(1) 足利義勝(よしかつ、

             7代将軍)、 (2) 足利政知(まさと

             も、堀越公方、11代将軍・義澄(よし

             ずみ)の父)、 (3) 足利義政(よし

             まさ、8代将軍)、 (4) 足利義視(よ

             しみ、応仁の乱中の西幕府・公方(将

             軍)、10代将軍・義稙(よしたね)の

             父)の一人である。

             ■ 足利義政の弟の、足利 義視は、

             僧侶であったが、足利義政の要請で、

             還俗して足利義政の養子となり、室町

             幕府(= 足利幕府)の第9代将軍後継

             候補者となった。

                しかし、その後、足利義政と日野

             富子(ひのとみこ)との間に男子の足利

             義尚( よしひさ)が生まれ、足利義尚が

             成人するまでの仲次の将軍という可能

             性もあったが、結局、室町幕府の第9代

             将軍には年少の足利義尚(よしひさ)が

             就任し、足利 義視は、将軍にはなれな

             かった。

                また、足利 義視は、応仁の乱時は、

             初めは、東軍の総大将となり、次に、西

             軍の総大将となる。

             ■ 室町幕府・第9代将軍の足利義尚

             (よしひさ)が若くして急死後、足利義尚

             の生母で後見人の日野富子の要請で、

             足利義視と日野富子の妹との間の子の

             足利義稙(義材、義尹)が、室町幕府の

             第10代将軍となる。

 

〇 あし  足利 義満

             (あしかが よしみつ)。 《人名》。

             (室町幕府の将軍)。

          (⇒ 足利氏)。 

           ■ 室町幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック。 

          を参照してください。

          (将軍在任:

            1368年ー1394年)。

          (生没年:

            1358年ー1408年)。

          ASHIKAGA Yoshimitsu.

          ○ 足利 義満は、

          室町幕府(= 足利幕府)の

          第3代将軍 である。

          ○ 足利 義満は、

          室町幕府の最盛期を築き、

          将軍権力を高める。

          ○ 足利 義満は、

          室町幕府の第2代将軍・ 足

             利義(よしあきら)の子 であ

          る。

          義より将軍職を譲られる。

          ○ 足利 義満は、 

          日明勘合貿易を行い、また、

          北山山荘(後の金閣寺)を造

          営する。

             ■ 足利 義満 (あしかが よしみつ

             将軍在任:1368年ー1394年、生没

             年:1358年ー1408年) は、 室町

             幕府(= 足利幕府)の将軍であり、 

             室町幕府の第3代将軍 (将軍在任:

             1368年ー1394年)であり、 室町幕

             の 第2代将軍・足利義(よしあき

              ら)の子 である。 義満は、義より将

              軍職を譲られる。

              ■ 足利 義満は、 室町幕府の最盛

              期を築き、将軍権力を高める。

                 足利 義満は、中国の明(みん、

              1368年ー1644年)と勘合貿易を

              行い、また、北山山荘(後の金閣寺)

              を造営する。

 

〇 あし  足利 義持

             (あしかが よしもち)。 《人名》。

             (室町幕府の将軍)。

          (⇒ 足利氏)。 

           ■ 室町幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック。 

          を参照してください。

             (将軍在任:

            1394年ー1423年)。 

            生没年:

            1386年ー1428年)。

          ASHIKAGA Yoshimochi.

                    ○ 足利 義持は、

          室町幕府(= 足利幕府)の

          第4代将軍 である。

          ○ 足利 義持は、

          室町幕府の第3代将軍・ 足利

          義満(よしみつ)の子 である。 

          義満より将軍職を譲られる。

             ■ 足利 義持 (あしかが よしもち、

             将軍在任:1394年ー1423年、生没

             年:1386年ー1428年) は、 室町

             幕府(= 足利幕府)の将軍であり、 

             室町幕府の第4代将軍  (将軍在任:

             1394年ー1423年)であり、 室町幕

             府の第3代将軍・足利義満(よしみつ)

             の子である。  義持は、義満より将軍

             職を譲られる。

 

〇 あし  阿州。

            (あしゅう)。 《旧地域名》。

          (旧国(= 令制国))。

          (= 阿波 ( あわ のくに))。

          (≒ 概ね、現・徳島県の相当

           地域)。

                   (⇒ 阿波 (あわ のくに))。

                   (⇒ 徳島県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

             ASHU AREA.

          (前近代日本の、旧国(= 令

           制国)の別称)。

                         ■ (RWM) 

             日本の、中地域名の変遷。

             ● 国造・県主分国⇒ 旧国(令制国)

              ⇒ 旧都道府県⇒ 現47都道府県。

          ■ 阿州(= 阿波 国 )。

             <南海道・旧広域地方 。

             <五畿七道(ごきしちどう、日本本土)

          (⇒ 南海道・旧広域地方)。

                   (⇒ 五畿七道)。

                          ■ 阿州 (あしゅう 、= 阿波 (あわ

             のくに))は、 現・四国地方の、概ね、

              現在の徳島県に相当する地域であり、

                     南海道(なんかいどう)・旧広域地方に

             属し、 前近代日本の、旧国(= 令制

             国)である。

                  (⇒ 徳島県都道府県)。

           (⇒ 四国地方)。

               ■ 阿州 (あしゅう)は、  律令制定

             後・古代・中世・近世日本・旧地域名

             の、旧 国(= 令制国)正式名の、阿波

             国 (あわ のくに)の別称である。

 

 あす   飛鳥。

              (あすか)。

             (⇒ 首都飛鳥京)。

             (⇒ 古都都城)。

             ■ 飛鳥 (あすか)は、

             日本の首都が置かれた場所の1つ

             である。

             ■ 飛鳥には、日本の首都として、

             朝廷が、 飛鳥諸宮 (あすかしょ

             きゅう) を置く。

             ● 飛鳥諸宮 (あすかしょきゅう)

             は、 飛鳥京の諸宮、飛鳥地域

             の諸宮城であり、 

             6世紀頃から694年まで、 

             飛鳥 (現・奈良県明日香(あすか)

             村付近)に、

             日本の首都として置かれる。

 

 あす   飛鳥京と飛鳥宮 

                            (あすかきょうとあすかきゅう)。 

           《都城・京と宮城》。 

           (= 宮城の飛鳥宮 と、 

            飛鳥宮の都市・飛鳥京)

        (⇒ 飛鳥京

           □ 飛鳥京 画像アルバム 

             No.1

           □ 日本古都ガイドブック

           □ 日本古都 関連年代順

                        出来事ブック。  

            (⇒ 天皇天皇家朝廷 

              (⇒ 古都(こと)首都

                           (みやこ))。

              (⇒ 都城(とじょう)(きょう))。

              (⇒ 都城宮城(きゅう

             じょう)内裏(だいり))。

              (⇒ 都城飛鳥京

             藤原京平城京

                  長岡京平安京)。

              (⇒ 都城内の

                      宮城(= 皇城、皇居)

             飛鳥京と 飛鳥諸宮

            藤原京と藤原宮

                 平城京平城宮

            長岡京長岡宮

            平安京平安宮大内裏

           (だいだいり))。

 

           ○ 都城・京>宮城>内裏。

           ○ 飛鳥京= 飛鳥宮、飛鳥諸

           宮城の都市

                     ○ 飛鳥京= 奈良県明日香

           (あすか)村付近の、天皇 の

           住居、宮殿があった都市。

              ○ 飛鳥宮= 飛鳥京の宮城

           (きゅうじょう、= 天皇の宮殿)、

           諸宮城。

              ○ 飛鳥宮= 奈良県明日香

          (あすか)村付近にあった宮城

          (= 天皇の宮殿)、諸宮城。

 

           ■ 飛鳥京。

              ■ 飛鳥京 (あすかきょう)は、 宮城

             (きゅうじょう、= 天皇の宮殿)飛鳥

             宮(あすかきゅう、飛鳥付近の諸宮)

             を中心とする都市である。

 

           ■ 飛鳥宮。

              ■ 飛鳥宮(あすかきゅう)とは、飛鳥京

             の諸宮であり、 飛鳥付近にあった諸宮

             城(= 天皇の諸宮殿)である。

             ■ 飛鳥宮(あすかきゅう)とは、 6世紀

             頃から694年まで、奈良県明日香村(あ

             すかむら)付近にあった諸宮城(しょきゅ

             うじょう、= 天皇の諸宮殿)の総称である。 

              ■ 飛鳥宮の一つに、飛鳥浄御原 (あ

                          すかきよみはら、672年ー694年))

             ある。

 

             ■ 日本の主要な宮城

             (= 皇城、皇居)。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

             ■ 日本の主要宮城。

             ● 日本の主要な宮城(きゅうじょ

              う、= 皇城、皇居)には、

             (1) 飛鳥諸宮 (あすかしょきゅ

              う、= 飛鳥京の諸宮、飛鳥地域

              の諸宮城、

              奈良県明日香(あすか)村付近、

              6世紀頃ー694年)、 

             (2) 藤原宮(ふじわらきゅう、

              = 藤原京の宮城、

              奈良県橿原市(かしはらし)付近、

              694年ー710年)、 

             (3) 平城宮 (へいじょうきゅう、

              = 平城京の宮城、

              奈良県奈良市(ならし)付近、

              710年ー740年・745年ー

              784年)、 

             (4) 長岡宮 (ながおかきゅう、

              = 長岡京の宮城、

              京都府向日市(むこうし)付近、

              784年ー794年)、 

             (5) 平安宮 (へいあんきゅう、

              = 平安京の宮城)、

              京都府京都市付近、

              本来の平安宮は平安時代末期

              まで、京都府京都市上京区(か  

              みぎょうく)付近、

              794年ー1177年頃)、 

             などがある。

 

 あす    飛鳥京 

              (あすかきょう)。《都城・京》。

              (6世紀頃ー694年) 

             THE ANCIENT CAPITAL 

             OF ASUKA.

           □ 飛鳥京 画像アルバム 

            No.1

           □ 日本古都ガイドブック

           □ 日本古都 関連年代順

                        出来事ブック。  

            (⇒ 天皇天皇家朝廷 

              (⇒ 古都(こと)首都

                           (みやこ))。

              (⇒ 都城(とじょう)(きょう))。

              (⇒ 都城宮城(きゅう

             じょう)内裏(だいり))。

              (⇒ 都城飛鳥京

             藤原京平城京

                  長岡京平安京)。

              (⇒ 都城内の

                      宮城(= 皇城、皇居)

             飛鳥京と 飛鳥諸宮

           藤原京と藤原宮

                平城京平城宮

           長岡京長岡宮

            平安京平安宮大内裏

           (だいだいり))。

 

          ○ 都城・京>宮城>内裏。

          ○ 飛鳥京 = 飛鳥宮(= 飛

          鳥付近の諸宮城の総称)、

          飛鳥諸宮城の都市

                    ○ 飛鳥京= 奈良県明日香

          (あすか)村付近の、天皇の

          住居、宮殿があった都市。

             ○ 飛鳥宮= 飛鳥京の宮城

          (きゅうじょう、= 天皇の宮殿)、

          諸宮城。

             ○ 飛鳥宮= 奈良県明日香

          (あすか)村付近にあった宮城

          (= 天皇の宮殿)、諸宮城。

 

          ■ 飛鳥京。

             ■ 飛鳥京 (あすかきょう)は、 飛鳥

             宮の都市であり、 飛鳥京の諸宮の

             都市であり、 飛鳥地域の諸宮城(=

             天皇の諸宮殿)の都市である。

             ■ 飛鳥京 (あすかきょう)は、 6世

             紀頃から694年まで、飛鳥・白鳳時

             代に、奈良 県明日香(あすか)村付

              近の、天 皇の住居、天皇の宮殿(=

             宮城)があった都市である。 

 

          ■ 飛鳥諸宮。

             ■ 飛鳥宮 (あすかきゅう)は、飛鳥

             京の宮城(きゅうじょう、= 天皇の宮

             殿)であり、 飛鳥京の諸宮であり、 

             飛鳥地域の諸宮城(= 天皇の諸宮殿)

                          の総称である。

             ■ 飛鳥宮 (あすかきゅう)は、6世

             紀 頃から694年まで、 飛鳥・白鳳時

             代に、奈良県明日香(あすか)村付近

                      にあった宮城(= 天皇の宮殿)であり、 

             飛鳥地域の諸宮城(= 天皇の諸宮殿)

                          である。

             ■ 飛鳥宮の一つに、飛鳥浄御原(あ

                         すかきよみはら、672年ー694年))

                         がある。

 

           ■ 首都が、飛鳥京の飛

           鳥浄御原宮から藤原京

           に移動し、次に、藤原京

           から平城京に移動する。

              ■ 694年に、持統(じとう)天皇

              (女性の天皇)は、 飛鳥京の飛 

              鳥浄御原宮 (あすかきよみはら

              きゅう、都:672年ー694年、奈

              良県明日香(あすか)村付近)か

              ら、 藤原京(都: 694年ー710

              年、奈良県橿原(かしはら)市付

             近)に遷都し、 710年(和銅3年)

              に、 元明(げんめい)天皇(女性

              の天皇)は、 藤原京から、平城

             京 (へいじょうきょう、都: 710年

             ー740年・745年ー784年、奈 良

             県奈良市付近)に遷都する。                         

 

          ■ 都城や京。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

              ■ 日本では、 都城や京とは、

             宮城(きゅうじょう、皇城、皇居)

             を中心とする都市である。

              ■ 日本では、 都城や京とは、

             天皇の住居(御殿)の内廷 と朝

             廷(官庁)施設の外朝を合わせ

             た、宮城(皇城、皇居)を中心と

             する都市である。

             ● 日本では、都城(とじょう)

             や京(きょう)とは、 

             天皇の住居 (御殿(ごてん))で

             ある内廷(ないてい) と 

             朝廷(官庁)施設である外朝(が

             いちょう)を合わせた

             宮城 (きゅうじょう、皇城(こうじ

             ょう、おうじょう)、皇居)を中心と

             する都市である。

              ■ 日本の都城や京には、

             飛鳥京、

             藤原京、

             平城京、

             長岡京、

             平安京

             などがある。

 

          ■ 宮城(= 皇城、皇居)。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

              ■ 日本では、宮城(きゅうじょう) 

              とは、 天皇の住居(御殿)の内

             廷 と その周囲の朝廷(官庁)

             施設の外朝を合わせた皇城(皇

             居)である。

             ● 日本では、 宮城(きゅうじ

             ょう)は、 天皇の住居(御殿

             (ごてん))である内廷(ないてい) 

             と その周囲の朝廷(官庁)施設

             である外朝(がいちょう)を合わせ

             た皇城(こうじょう、おうじょう)、

             皇居)である。

              ■ 日本の宮城(= 皇城、皇居)

             には、 

             飛鳥京内の飛鳥諸宮、

             藤原京内の藤原宮、

             平城京内の平城宮、

             長岡京内の長岡宮、

             平安京内の平安宮(大内裏)、

             などがある。

 

             ■ 日本の主要な都城・京

             (= 皇居都市)。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

              ■ 主要な都城・京(= 皇居都市)

             の移動。

               飛鳥京⇒ 藤原京⇒ 

              平城京(奈良の都)⇒ 長岡京⇒ 

              平安京(京都、京の都)⇒ 東京。

             ■ 日本の主要な都城・

              (= 皇居都市)の変遷。

             ● 古代日本中期から近世日本

              までの、日本の主要な、宮城

              (きゅうじょう、= 皇城、皇居)

              があった都市 の京とその変遷は、

             (1) 飛鳥京 (あすかきょう、

              奈良県明日香(あすか)村付近、

              7世紀頃から694年まで)、 

             (2) 藤原京 (ふじわらきょう、

              奈良県橿原(かしはら)市付近、

              694年ー710年)、 

             (3) 平城京 (へいじょうきょう、

              奈良県奈良市付近、

              710年ー740年、

              745年ー784年)、 

             (4) 長岡京 (ながおかきょう、

              京都府向日(むこう)市・長岡京

              (ながおかきょう)市・京都市南

              部付近、

              784年ー794年)、

             (5) 平安京 (へいあんきょう、

              別名:京の都(きょうのみやこ)、

              京都、

              京都府京都市付近、

              794年ー1869年)、

             の順序で、概(おおむ)ね、移動

             する。

 

 あす   飛鳥時代。 

             (あすかじだい)。

             《日本歴史の時代区分》。

          ○ (狭義) 592年 ー673年。

          ○ (広義) 592年 ー710年。

       (⇒ 飛鳥白鳳時代)。

       (⇒ 大和時代)。

          ( 古代日本) 。

          (⇒ 日本歴史の時代区分)。

                        ■ 飛鳥時代は、 狭義では、592

             年から673年(天武天皇即位年)ま

             での時期であり、 広義では、592年

             から710年までの時期である。

 

 あす   飛鳥白鳳時代 

                (あすかはくほうじだい)。 

                     (= 592年ー710年)。

           《日本歴史の時代区分》。 

               THE ASUKA-HAKUHO 

          PERIOD

           <古代日本。

                     ( 古代日本) 。

          (⇒ 日本歴史の時代区分)。

             ■ 飛鳥白鳳時代 (あすかはくほう

             じだい)とは、  592年から710年

             和銅3年 )までの期間である。

             ■ 飛鳥白鳳時代は、 古代日本

             (= 古墳時代、飛鳥・白鳳時代、奈良

             時代、平安時代 ; 紀元(後)3世紀

             頃ー1192年頃) の一時期である。

 

 あす   飛鳥・白鳳文化   

             (あすか・はくほうぶんか)。

          《日本の文化》。 

          (⇒ 日本の文化)。

          (⇒ 飛鳥白鳳時代)。

          THE ASUKA-

          HAKUHO CULTURE.

             ○ 飛鳥・白鳳文化は、

          592年頃ー710年頃の

          日本の文化である。

             ■ 飛鳥・白鳳文化 (あすか・はく

             ほうぶんか、英:THE ASUKA-

             HAKUHO CULTURE) とは、 

             592年頃から710年頃までの

             日本の文化である。

 

〇 あだ  アダムズ。

          《人名》。

            (= ウィリアム・アダムズ、三浦

          按針)。

          William ADAMS.

         (⇒ ウィリアム・アダムズ)。

             ■ アダムズ (英:William ADAMS)とは、

             ウィリアム・アダムズ、三浦按針である。

 

 あち  阿茶局。

            (あちゃのつぼね)。 《人名》。

          Achanotsubone.

             ■ 阿茶局 (あちゃのつぼね) とは、 

             徳川家康が信頼する側室夫人であ

             る。

             ● 阿茶局は、 大坂の冬の陣(16

             14年)の和議で、徳川方の停戦交

             渉役を務める。

 

 あづ   安土。

              (あづち)。 《首都》。

             (⇒ 首都織田政権)。

             (⇒ 古都安土城)。

             ■ 安土 (あづちは、

             日本の首都が置かれた場所の1つ

             である。

             ■ 安土には、日本の首都として、

             織田信長が、 安土城を中心とする 

             織田政権本拠地 (1576年〜15

             82年、現・滋賀県安土町) を置く。

 

 あづ  安土城  

                           (あづちじょう)。 《城》。

             AZUCHI CASTLE.

          (1579年ー1585年)。

          ○ 安土城は、織田信長

          の本城、居城である。

          (⇒ )。

             (⇒ 織田信長織田氏)。

             (⇒ 織田信長ガイドブック)。

                           (⇒ お市豊臣 秀吉

           前田利家徳川家康)。

             ■ 安土城 (あづちじょう)は、近

             江国(おうみのくに、現・滋賀県の

             相当地域)の安土山にあった、

             田信長(おだのぶなが)の本城(ほ

             んじょう、本拠地の城)である。

             ■ 安土城は、織田信長の居城で

             あり、信長の最終の居城であった。

             ● 安土城は、琵琶湖(びわこ)湖

             畔にあり、 琵琶湖を望む壮大な

             眺めをもつ、地下1階地上6階の

             壮麗な天主(天守)がある城であっ

             た。

             ● 安土城は、 城を「高い石垣」で

             囲んだ初期の城であり、その後の

             築城造りの模範となった城である。

             ■ 安土城は、 織田信長により、

             1576年(天正4年)に着工し、

             1579年(天正7年)に天主(天守)

             が完成し信長が移り住み、1582

             年(天正10年)6月2日に本能寺

             の変が起き最初の城主の信長が

             死去し、同年6月13日の山崎の戦

             いでの明智光秀軍の敗北後、安土

             城の天主(天守)と本丸は原因不明

             の火災で焼失し、1585年(天正

             13年)には、安土城(全体)は廃城

             となる。

 

 あづ  安土日記。  

                          (あづち にっき)。 《史料》。

        (⇒ 信長公記)。

           (⇒ 日本史・第一級史料リスト)。

           ○ 安土日記は、信長公記

          1つである。

                         ■ 安土日記  (あづちにっき)は、信長

              公記の1つである。

                         ■ 信長公記 (しんちょうこうき)は、室

              町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代

              を知る史料であり、 太田牛一が著作し、

                        江戸時代初期に成立する。

             ■ 太田牛一(おおたぎゅういち)著作の

             信長公記には、 「安土日記」(古期・信

              長公記、慶長頃の写)、 「信長記」(中

              期・信長公記、慶長18年(1613年)頃

              の写)、 「信長公記」(新期・信長公記、

              元禄12年(1699年)の写) がある。

                「安土日記」(古期・信長公記、慶長

             頃の写)が、一次史料として、信頼が高い。

 

 あづ  安土桃山時代  

                          (あづちももやまじだい)。

                    (= 1573年ー1603年)。

             《日本歴史の時代区分》。

           THE AZUCHI-

          MOMOYAMA PERIOD

           <近世日本。

                     ( 近世日本) 。

                     (⇒ 日本歴史の時代区分)。

             ■ 安土桃山時代  (あづちももやま

             じだい)とは、 1573年 (元亀4年・

             天正元年)から1603年(慶長8年)

             までの期間である。

             ■ 安土桃山時代は、 近世日本

             (= 安土桃山時代と江戸時代 ;15

             73年ー1868年) の一時期である。 

 

 あづ  安土桃山時代 詳細

        年表

                          (あづちももやまじだい・しょうさい

                           ねんぴょう)。

           《年表》。

             (日本歴史の時代別年表)。

              THE DETAILED CHRONOLOGY 

              OF THE AZUCHI-MOMOYAMA 

              PERIOD.

           (⇒ 日本史年表) 。

 

 あづ  安土桃山文化 

             (あづちもも やまぶんか)。

                     《日本文化》。

                            THE AZUCHI-MOMOYAMA 

             CULTURE.

                    ○ 1573年頃ー1603年

          (16世紀後半〜17世紀

          初期)の日本文化。  

          (⇒ 日本の文化)。

              ■ 安土桃山文化  (あづちもも

             やまぶんか)は、 1573年頃から

             1603年頃まで(16世紀後半〜

             17世紀初期)の日本文化 である。  

 

〇 あつ  篤姫

              (あつひめ)。 《人名》。

           (= 天璋院 てんしょういん・篤姫)。

          (総合)。

          (1836年ー1883年)。

          LADY ATSUHIME

          ○ 将軍夫人。

          ○ 薩摩藩出身で、江戸幕府・

          第13代将軍・徳川家定の正室

          夫人。

              ■ 篤姫 (あつひめ、= 天璋院(てんしょ

             ういん)・篤姫、1836年ー1883年) は、

             将軍夫人であり、 薩摩藩出身で、江戸

             幕府・第13代将軍・徳川家定(いえさだ)

             の正室夫人(せいしつふじん)である。

 

 あつ  篤姫 詳細年表

             (あつひめ しょうさいねんぴょう)。

          《年表》。

            (日本歴史の人物別年表)。

             THE DETAILED CHRONOLOGY OF 

             LADY ATSUHIME.

             (⇒ 日本史年表) 。

 

〇 あつ  篤姫 

        天璋院・篤姫ガイ

        ブック

             (あつひめ)。

          A GUIDEBOOK  OF 

          LADY ATSUHIME

             《人物ガイドブック》。

 

 あづ  吾妻鏡 

             (あづまかがみ)。  《日本歴史・史料》。

                     (= 東鑑)。

             AZUMAKAGAMI.

             ○ 平安時代末期、鎌倉時代 を

          知る史料。 

          ○ 北条得宗家(ほうじょうとくそうけ)

             が著作し、1300年頃成立。

          (⇒ 日本史・第一級史料リスト)。 

              ■ 吾妻鏡 (あづまかがみ、= 東鑑)は、

             平安時代末期、鎌倉時代を知る史料であり、 

             北条得宗家(ほうじょうとくそうけ)が著作し、

             1300年頃成立した。

 

 あつ  渥美 格之進

             (あつみ かくのしん)。  《人名》。

          (= 水戸黄門の格さん)。

                       (= 安積 覚兵衛 あさか かくべえ)。

          ATSUMI Kakunoshin.

           ○ フィクションの物語「水戸黄

          門」のお供の格さん(= 渥美格

          之進)。 

          (⇒ 安積 覚兵衛)。

             ■ 渥美 格之進 (あつみ かくのしん)

             は、 フィクションの物語「水戸黄門」のお

             供の格さんである。

                水戸黄門の格さんの渥美 格之進

             のモデルになった人物は、 水戸藩藩主・

             徳川(水戸)光圀(とくがわ(みと)みつく

             に)の家臣の、安積 覚兵衛(あさか かく

             べえ)といわれている。

 

 あつ  敦盛。

              (あつもり)。  《人名》。

             (= 平 敦盛 (たいらの あつもり))。

                      Atsumori.

           ○ 平 清盛異母弟・平 経盛

                            (たいらの つねもり) の子。

          (⇒ 平 経盛)。

              ■ 敦盛(あつもり)とは、 平 敦盛 (たい

              らの あつもり) であり、 平 清盛異母弟・

                            平 経盛 (たいらの つねもり) の子である。

 

 あつ  敦盛

             (あつもり)。 《幸若舞》。

             ATSUMORI.

          ○ 幸若舞の演目の1つ。

             ■ 敦盛(あつもり)は、 幸若舞の演目の

             1つである。 

                織田信長は、敦盛(あつもり)を好んだ。

 

 あて  阿弖流為

             (あてるい)。 《人名》。

          (生年不詳ー802年)。

               Aterui.

             ■ 阿弖流為 (あてるい、生年不詳ー802

             年は、 奈良時代末 期、平安時代初期の

             東北地方(蝦夷(えぞ)) の英雄の武人であ

              り、 母礼(もれ)と共に、 蝦夷討伐の朝廷

             軍の坂上田村麻呂(さかのう えのたむらま

             ろ)ら と戦う。

 

#ana

 

〇 あな  穴銭。

                        (あなせん)。 《日本流通貨幣》。

          (= 銭貨 せんか)。

       (⇒ 銭貨)。

             ■ 穴銭(あなせん)とは、 前近代の銭

             貨 (せんか 、アジアや日本で使用され

             た硬貨の貨幣) である。

 

〇 あな  穴山 信君。

                        (あなやま のぶきみ)。 《人名》。

            (= 穴山 梅雪 あなやま ばいせつ)。

            (1541年ー1582年)。

             ANAYAMA Nobukimi (Baisetsu).

              ■ 穴山信君 (あなやまのぶきみ、穴山梅

             雪(ばいせつ))は、 武田氏重臣であった。

             信君(梅雪)の母は、武田信玄の姉であっ

             た。

              ● 穴山信君(= 穴山梅雪)は、1582年に

             織田信長に降伏し、安土の信長に謁した。

                穴山信君(= 穴山梅雪)は、本能寺の

             変後、帰国の途中で、一揆のために殺され

             る。

 

〇 あの  阿野 全成。

                        (あの ぜんじょう・ぜんせい)。 《人名》。

          ○ 阿野 全成は、

           源頼朝の異母弟である。

              ■ 阿野 全成 (あの ぜんじょう・ぜんせ

             い、生没年:1153年〜1203年) は、

             は、 源義朝(みなもとのよしとも)の七男

             で、 源頼朝の異母弟である。

              ■ 阿野 全成は、 源頼朝の信任を得て、

             駿河国(するがのくに、現・静岡県中部)

             阿野荘を領有し、鎌倉幕府の御家人とし

             て仕(つか)える。

              ■ 阿野 全成は、 北条政子 の異母妹の

             阿波局(あわのつぼね)と婚儀を結ぶ。 

                阿波局は、源頼朝の男子の千幡(せ

             んまん、源実朝の幼名)の乳母となる。

              ■ 阿野 全成は、 源頼朝死後、千幡(源

             実朝)を擁立する源実朝一派となり、源頼

             家一派と対立する。

                1203年(建仁3年)5月に、源頼家は、

             源頼家一派と対立する阿野全成を謀反

             人(むほんにん)として捕縛し、常陸国(ひ

             たちのくに、現・茨木県)に配流し、阿野

             全成は、6月に源頼家の命(めい)で、

             害される。

 

〇 あの  穴太衆。

              (あのうしゅう)。 《石工集団》。

                (安土桃山時代ー現在)。

          (⇒ )。

              ■ 穴太衆 (あのうしゅう、安土桃山

             時代ー現在)は、 日本の優秀な石工

             集団である。

             ● 穴太衆は、 日本の優秀な石工  

             集団であり、 前近代日本では、城の

             石垣などの城の築城に貢献した。 

             ■ 現代日本では、 穴太衆による

             速道路の耐久性のある基礎土台の造

             作などに高い評価を得ている。

 

〇 あべ  阿部 定。

             (あべ さだ)。 《人名、女性》。

             (1905年−没年不明)。

              ■ 阿部 定 (あべ さだ、1905年ー没

             年不明、女性)は、 1936年(昭和11

             年)5月に、阿部 定事件という恋愛事件

             を起こす。

                恋愛相手の男性の石田吉蔵は睡眠

             薬を多量に飲み、阿部は、大量に飲

             酒し、恋愛中に、相手の男性の独占を望

             み石田を殺害する事件を起こす。 阿部

             は、刑服役後1941年(昭和16年)に

             釈放され、その後、「吉井昌子」と名を変

             え、相手の石田吉蔵の冥福を祈り続ける。 

             阿部は、1971年(昭和46年)以後、

             消息不明となる。

 

〇 あべ  安倍 晴明

             (あべの せいめい)。 《人名》。

          (921年ー1005年)。

          ABE no Seimei.

                  ○ 天文博士、陰陽師(おんみょうじ)

          ○ 平安時代中期の陰陽家。

          ○ 藤原道長の顧問。

              ■ 安倍 晴明 (あべの せいめい、921年

             ー1005年)は、 朝廷の中務省の陰陽寮

             (おんみょうりょう、天文・暦・時刻・占い等担

             当機関) の職員(役人)であった。

              ■ 安倍 晴明は、 天文博士  (てんもんは

             かせ、天文学学者) であり、 陰陽師 (おん

             みょうじ、陰陽道の占い師)であった。   

              ■ 安倍 晴明は、 平安時代中期の陰陽家

             であり、 藤原道長の顧問であった。

 

〇 あべ  阿部内親王

              (あべ(の)ないしんのう)。 《人名》。

          (= 孝謙(こうけん)天皇、称徳

           (しょうとく)天皇)。

          ABE no Naishino.

          ○ 聖武天皇の皇女、娘。

        (⇒ 孝謙天皇)。 

        (⇒ 称徳天皇)。

              ■ 阿部内親王 (あべ(の)ないしんのう)

             は、 聖武天皇の皇女、娘であり、 孝謙

             (こうけん)天皇、称徳(しょうとく) 天皇とな

             る。

 

〇 あべ  阿部 正弘 

             (あべ まさひろ)。 《人名》。

          (幕末の江戸幕府の重臣、老中)。 

          ABE Masahiro.

           (生没年:1819年ー1857年)。

          ○ 日本の部分開国主導者。

             ○ 1845年ー1855年に老中

           首座。

          ○ 幕政転換 (諸大名・幕臣

          の幕政への意見陳述依頼など)

          を行った幕府・老中。

             ■ 阿部 正弘 (あべ まさひろ、生没年:18

             19年ー1857年) は、 江戸幕府の重臣、

             老中であった。

             ■ 阿部 正弘は、1845年から1855年まで、

             老中首座となり、国政を主導する。

             ■ 阿部 正弘 は、 幕政転換 (諸大名・幕臣

             の幕政への意見陳述依頼など)を行った幕府・

             老中であり、 日本の部分開国主導者となる。

             ■ 1854〜55年に4カ国と和親条約を 結び

              日本の開国の端を開く(部分開国する)の を

             主導した幕閣は、 日本の部分 開国主導者の、

             江戸幕府・老中の阿部正弘 (あべ ま さひろ)

             である。

        (⇒ 和親条約

             ■ 一方、1858年の修好通商条約(安政の

             五カ国条約)で 貿易を行うなど日本を本格的

             に開国した(完全開国した)のを主導 した幕閣

             (ばっかく)は、 日本の完全開国主導者の、

             江戸幕府・大老の井伊 直弼(いい なおすけ)

             である。

        (⇒ 修好通商条約。 

 

#ama

 

〇 あま   尼子 勝久。

             (あまご かつひさ)。  《人名》。

          (戦国時代の武将)。 

          AMAGO Katsuhisa.

          (⇒ 山中 鹿介

               ■ 尼子 勝久(あまご かつひさ)は、

             戦国時代の武将であり、 尼子氏

             重臣であり、 尼子氏滅亡後、 

             尼子氏忠臣・山中 鹿介(幸盛)(やま

                          なか しかのすけ(ゆきもり))と共に、

             尼子氏再興に尽力(じんりょく)する。  

             しかし、尼子氏再興はできなかった。

 

〇 あま   尼御台

             (あまみだい)。 《人名》。

          (= 北条政子、尼御台所)。

                    (⇒ 北条 政子)。

                                 ■ 尼御台 (あまみだい)とは、 

             尼御台所(あまみだいどころ)

             とも言い、北条政子(ほうじょうま

             さこ)のことである。 

             ● 当時、将軍の正室夫人は、

             御台所(みだいどころ)と呼ばれ、 

             将軍の正室夫人の北条政子が、 

             鎌倉幕府・初代将軍の源頼朝死後、

             落飾(らくしょく)して(出家して尼

             (あま)になり)、北条政子は、尼御

             台(あまみだい)と言われた。

                                 ■ 北条政子 (ほうじょうまさこ、

             生没年:1157年〜1225年)は、

             鎌倉幕府・初代将軍の源頼朝の

             正室夫人(御台所)である。 

             ■ 1199年建久10年)の鎌倉

             幕府初代将軍・源頼朝死後

             鎌倉幕府の政治実権は、 

                  1219年(建保7年)の鎌倉幕府

             の3代将軍・源実朝の死去までは、 

             (1) 尼御台の北条政子 と、 

             (2) 源氏将軍 (2代・源頼家、

             3代・源実朝) とに二分割される。

                更に、1219年(建保7年)の

             鎌倉幕府3代将軍・源実朝の死

             後は、 尼御台の北条政子が、

             将軍代行(尼将軍)となり、 1225

             年(嘉禄元年)の北条政子が死去 

             するまで、鎌倉幕府実権を、一人

             で握る。

                                 ■ 北条政子は、 1199年建久  

             10年)の源頼朝死後、 父・北条時

             政(ときまさ)、弟・北条義時(よしと

             き)と共に、 鎌倉幕府の政治に従

             事する。 

                 2005年(元久2年)に、父・

             北条時政は、失脚し、122 4年(元

             仁元年)に、北条義時は死去する。

             ■ 結果的に、北条政子は、 源頼

             朝と北条政子で築いた鎌倉幕府 や

             鎌倉北条氏本家(=北条得宗家)を

             存続・増強させるためため、 その

             妨げとなる政子の実父 ・時政や

             の実 の子・孫をも幕府の政治か

             ら排除する。

             ■ 尼将軍

             ● 鎌倉幕府の第3代将軍の源実

             朝の死去後、1219年から1225

             年(死去)まで、将軍が空位の間、

             北条政子は、将軍代行として、鎌

             倉幕府の政治を指導したので 

             (京から招いた幼い藤原頼経の後

             見人となって幕政の実権を握り)、 

             その期間の北条政子を後世の人

             は、尼将軍(あましょぐん)と呼ぶ。

 

〇 あめ  アメリカン・ボード。

          (キリスト教教団)。 《宗教団体》。

          ○ 新島襄の学校創立を援助した

           外国伝道団体。

          ○ キリスト教のプロテスタント(各

          )の一派でピューリタン系「会衆

           派」の、アメリカの外国伝道団体。

          (⇒ 新島襄。  

                                 ■ アメリカン・ボードは、 キリスト教教団で、

             新島襄の学校創立を援助した外国伝道団体

             であり、 キリスト教のプロテスタント(各派

              の一派でピューリタン系「会衆派」の、アメリ

             カの外国伝道団体である。

#ara

 

○ あら  荒木 村重 

             (あらき むらしげ)。 《人名》。

             (1535年ー1586年)。

               ○ 安土桃山時代の武将。

                ARAKI Murashige.

                                 ■ 荒木村重 (あらき むらしげ、1535年

             ー1586年) は、 安土桃山時代の武将

             である。 

             ● 荒木村重は、 1573年に織田信長の

             家臣となり、その後、摂津の国主となった。 

                しかし、1578年に、信長に反旗を翻

             (ひるがえ)し(信長にそむき)、信長に攻め

             られて1579年に、本城の有岡城が落城し、

             逃走した。 

                その後、荒木村重は、毛利氏を頼った

             のち、 茶道で豊臣秀吉に近侍(きんじゅう)

             した。

 

○ あり  有岡城。 

            (ありおかじょう)。 《日本の城》。

          ARIOKA CASTLE.

               ○ 荒木村重が城主だった城。

          (⇒ 荒木村重

                                 ■ 有岡城 (ありおかじょう)は、荒木村重

             が城主だった城である。

 

○ ある  歩き巫女。 

             (あるきみこ)。 《職業》。

             ○ 前近代日本で、各地を回り、

          祈祷・踊り・治療をする女性の

          巡回祈祷師・ダンサー・看護師

          (士)。

           ○ (例) 武田氏の歩き巫女

                     (スパイ組織))。

                    (⇒ 前近代日本社会

             ■ 歩き巫女 (あるきみこ)は、 前近代

             日本で、各地を回り、 祈祷・踊り・治療を

             する女性の巡回祈祷師・ダンサー・看護

             師(士)である。

             ■ 室町時代後期(戦国時代)に活躍した

             有名な歩き巫女は、 武田氏の歩き巫女

                    (スパイ組織)である。

 

○ あわ  淡路 国。  

             (あわじ のくに)。 《旧地域名》。

          (旧国(= 令制国))。

                    (= 淡州(たんしゅう))。 

          (≒ 概ね、現・兵庫県淡路島

          相当地域)。

          AWAJI PROVINCE.

          (前近代日本の、 旧国(= 令

           制国)の正式名)。

                    (⇒ 淡州(たんしゅう))。

                    (⇒ 兵庫県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

                         ■ (RWM) 

             日本の、中地域名の変遷。

             ● 国造・県主分国⇒ 旧国(令制国)

              ⇒ 旧都道府県⇒ 現47都道府県。

          ■ 淡路 国(= 淡州)

             <南海道・旧広域地方。

             <五畿七道 (ごきしちどう、日本本土)。

          (⇒ 南海道・旧広域地方)。

                   (⇒ 五畿七道)。

             ■ 淡路 国 (あわじ のくに、= 淡州

             (たんしゅう))は、  現・近畿地方の、  

             概ね、現在の兵庫県淡路島に相当す

             る地域であり、 南海道(なんかいどう)・

             旧広域地方に属し、 前近代日本の、

             旧国(= 令制国)である。

                  (⇒ 兵庫県都道府県)。

           (⇒ 近畿地方)。

             ■ 淡州 (たんしゅう)は、  律令制

             定後・古代・中世・近世日本・旧地域名

             の、旧国 (令制国)の正式名の、淡路  

             国(あわじのくに)の別称である。

 

○ あわ  安房 国。 

             (あわ のくに)。 《旧地域名》。

          (旧国(= 令制国))。

          (= 房州(ぼうしゅう)、安州

           (あんしゅう))。

          (≒ 概ね、現・千葉県南部

          の相当地域)。

          AWA PROVINCE.

          (前近代日本の、 旧国

           (= 令制国)の正式名)。

                    (⇒ 房州(ぼうしゅう)

              安州(あんしゅう))。

                    (⇒ 千葉県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

                         ■ (RWM) 

             日本の、中地域名の変遷。

             ● 国造・県主分国⇒ 旧国(令制国)

              ⇒ 旧都道府県⇒ 現47都道府県。

          ■ 安房 国(= 房州、安州)。

             <東海道・旧広域地方。

             <五畿七道(ごきしちどう、日本本土)。

          (⇒ 東海道・旧広域地方)。

                   (⇒ 五畿七道)。

             ■ 安房 国 (あわ のくに、= 房州

              (ぼうしゅう)、安州(あんしゅう) は、 

              現・関東地方の、概(おおむ)ね、 現

                            在の千葉県南部に相当する地域で

               あり、 東海道(とうかいどう)・旧広

              域地方に属し、前近代日本の、旧国

              (= 令制国)である。

            (⇒ 千葉県関東地方)。

                   (⇒ 都道府県)。

             ■ 房州(ぼうしゅう) や 安州(あん

             しゅう)は、  律令制定後・古代・中世・

             近世日本・旧地域名の、旧国(令制国)

             の正式名の、安房 国(あわ のくに)の

             別称である。

 

○ あわ  阿波 国。 

             (あわ のくに)。 《旧地域名》。

          (旧国(令制国))。

          (= 阿州(あしゅう))。 

          (≒ 概ね、現・徳島県の相当

           地域)。

              AWA PROVINCE.

           (前近代日本の、 旧国(= 令

           制国)の正式名)。

                    (⇒ 阿州(あしゅう))。

                    (⇒ 徳島県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

                         ■ (RWM) 

             日本の、中地域名の変遷。

             ● 国造・県主分国⇒ 旧国(令制国)

              ⇒ 旧都道府県⇒ 現47都道府県。

          ■ 阿波 国(= 阿州

             <南海道・旧広域地方。

             <五畿七道(ごきしちどう、日本本土)。

          (⇒ 南海道・旧広域地方)。

                   (⇒ 五畿七道)。

             ■ 阿波 国 (あわ のくに、= 阿州(あ

             しゅう))は、 現・四国地方の、概(おお

             む)ね、現在の徳島県に相当する地域

             であり、 南海道(なんかいどう)・旧広

             域地方に属し、 前近代日本の、旧国

             (= 令制国)(きゅうこく(= りょうせいこ

             く))である。

           (⇒ 徳島県四国地方)。

                   (⇒ 都道府県)。

             ■ 阿州 (あしゅう)は、 律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             国(= 令制国)の正式名の、阿波 国(あ

             わのくに)の別称 ある。

 

○ あわ   阿波局。 

              (あわのつぼね)。 《人名》。

           ■ 阿波局は、

                     主に次の5人である。

           ○ 阿波局

             (北条時政の娘)。

           ○ 阿波局

                         (北条義時夫人)。

           ○ 阿波局

            (松宵の小侍従)。

           ○ 阿波局

            (加地信実の娘)。

           ○ 阿波局

            (朝山意林庵の娘)。

              ■ 阿波局は、

                         主に次の5人である。

             ● 阿波局(北条時政の娘)は、

             北条時政(ほうじょうときまさ)の

             娘で、平安末期・鎌倉時代初期

             の女性である。

             ● 阿波局(北条義時の夫人)は、

             北条義時(ほうじょうよしとき)の

             夫人の一人で、平安末期・鎌倉

             時代初期の女性である。

             ● 阿波局(松宵の小侍従)は、

             松宵の小侍従(まつよいのこじじ

             ゅう)として知られ、女流歌人で、

             平安末期・鎌倉時代初期の女性

             である。

             ● 阿波局(加地信実のの娘)は、

             加地信実(かじのぶざね)の娘で、

             鎌倉時代初期の女性である。

             ● 阿波局(朝山意林庵の娘)は、

             朝山意林庵(あさやまいりんあん)

             の娘で、江戸時代初期の女性で

            ある。

 

○ あわ  阿波局

        (北条時政の娘)。 

             (あわのつぼね (ほうじょうと

                            きまさのむすめ)。  《人名》。

          ○ 阿波局は、

          北条時政の娘である。 

          ○ 阿波局(北条時政の

          娘)は、 北条政子の妹

          である。 

             ■ 阿波局 (北条時政の娘、あ

             わのつぼね)、生年不詳〜1227

             年)は、 北条政子(ほうじょうま

             さこ)の妹である。

             ■ 阿波局 (北条時政の娘、あ

             わのつぼね)、生年不詳〜1227

             年)は、 生母は伊東祐親(いとう

             すけちか、= 伊東入道)の娘であ

             り、 異母姉妹には、北条政子

             (まさこ)、北条時子(ときこ)がい

             て、 同母兄弟には、北条宗時

             (むねとき)、北条義時(よしとき)

             がいて、 異母兄弟には、北条時

             房(ときふさ)、北条政範(まさの

             り)がいる。 

             ■ 阿波局 (北条時政の娘)は、

             阿野全成(あのぜんじょう、1153

             年ー1203年、源義経の同母兄)

             の夫人となり、子の阿野時元(あ

             のときもと)を得る。

             ■ 阿波局 (北条時政の娘)は、

             後に鎌倉幕府・第3代将軍となる、

             源実朝(みなもとのさねとも)の乳

             母(うば)となる。

             ■ 阿波局 (北条時政の娘)は、

             NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」

             では、北条政子の妹の「実衣(み

             い)」で登場する。

 

○ あわ  阿波局

        (北条義時の夫人)。 

             (あわのつぼね (ほうじょうよし

                            ときのふじん)。  《人名》。

          ○ 阿波局は、

          北条義時の夫人である。 

          ○ 阿波局北条義時の

          夫人)は、 北条泰時の

          生母である。 

             ■ 阿波局(北条義時の夫人、

             あわのつぼね)、生没年不詳)は、

             北条義時の側室夫人で、北条泰

             時の生母である。 

             ■ 阿波局(北条義時の夫人)は、

             NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」

             では、「八重(やえ)」で登場する。

              

#an

 

○ あん  安永。

             (あんえい)。 《和暦》。

             THE ANEI ERA.

             ○ 1772年ー1781年。

             ■ 1772年・安永 元年・11月16日〜

                1781年・安永10年・ 4月 2日。 

             ● 江戸時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

             ●  〈和暦年→西暦年・速算式〉。

              ○ 安永 A年+1771年=西暦 B年。

             ●  〈西暦年→和暦年・速算式〉。

              ○ 西暦 B年1771年=安永 A年

              ■ 安永 (あんえい、英: THE ANEI 

                           ERA) とは、和暦であり、 江戸時代

             後期の和暦年号であり、 1772年・

             安永 元年・11月16日から1781年・

             安永10年・4月2日までである。  

 

○ あん  安元。

             (あんげん)。 《和暦》。

             THE ANGEN ERA.

             ○ 1175年ー1177年。

             ● 1175年・安元元年・7月28日〜

                1177年・安元 3年・8月 4日。 

             ● 平安時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

              ■ 安元 (あんげん、英:THE 

                           ANGEN ERA) とは、和暦であり、 

              平安時代後期の和暦年号であり、 

                           1175年・安元元年・7月28日から

              1177年・安元 3年・8月4日まで

              である。  

 

○ あん  安国寺 恵瓊 

             (あんこくじ えけい)。 《人名》。

             (1539年?ー1600年)。

          ANKOKUJI Ekei.

          (⇒ 中国大返し)。

          ○ 安国寺 恵瓊は、初め毛

          利氏の外交僧、後に、豊臣

          氏の外交僧となる。

          ○ 安国寺 恵瓊は、

          室町時代後期(戦国時代)、

          安土桃山時代に活躍した

          仏僧(禅僧)である。

          ○ 安国寺 恵瓊は、

          安土桃山時代の大名であ

          る。 

              ■ 安国寺 恵瓊 (あんこくじ えけい、

             1539年?ー1600年)は、 安芸(あ

             き、現・広島県西部)の人であり、 室

             時代後期(戦国時 代)、安土桃山時

             代に活躍した仏僧(禅僧)であり、 

             土桃山時代の大名である。

              ● 安国寺 恵瓊は、 初め毛利氏の外

             交僧、後に豊臣氏の外交僧として活躍

             し、秀吉の信任を得て、四国・伊予(い

             よ、現・愛媛県 の相当地域)・6万石の

             大名となる。 

             ■ 安国寺 恵瓊は、1598年(慶長3

             年)に東福寺住持となる。

              ● 安国寺 恵瓊は、 号・瑶甫(ようほ)

             とも称す。

             ■ 安国寺 恵瓊は、 1600年(慶長5

             年)の天下分け目の戦い(関ヶ原の戦

             い、その他)では、 西軍(奉行衆・毛利

             方、石田方)に味方し(属し)、南宮山

             の毛利秀元勢の軍に属し、西軍が敗れ

             て、捕縛され、処刑される(斬首される)。

 

○ あん  安州

              (あんしゅう)。 《旧地域名》。

           (旧国(= 令制国))。

           (= 安房 ( あわ のくに))。

           (≒ 概ね、現・千葉県南部

            の相当地域)。

           ANSHU AREA.

           (前近代日本の、 旧国

           (= 令制国)の別称)。

                    (⇒ 安房(あわ のくに)

          房州)。

                    (⇒ 千葉県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

                         ■ (RWM) 

             日本の、中地域名の変遷。

             ● 国造・県主分国⇒ 旧国(令制国)

              ⇒ 旧都道府県⇒ 現47都道府県。

          ■ 安州(= 房州、 安房 国)。

             <東海道・旧広域地方。

             <五畿七道(ごきしちどう、日本本土)。

          (⇒ 東海道・旧広域地方)。

                   (⇒ 五畿七道)。

             ■ 安州 (あんしゅう、= 房州(ぼう

             しゅう)、 安房 国(あわ のくに))は、 

             安房 国(あわ のくに)の別称であり、

             東海道(とうかいどう)・旧広 域地方

             に属し、 前近代日本の、旧国(=

             制国)であり、 現・関東地方の、

                          (おおむ)ね、 現在の千葉県南部に

             相当する地域である。 

           (⇒ 千葉県関東地方)。

                   (⇒ 都道府県)。

             ■ 安州(あんしゅう)や 房州(ぼう

             しゅう)は、  律令制定後・古代・中

             世・近世日本・旧地域名の、旧国(令

             制国)の正式名の、安房 国(あわ の

             くに)の別称である。

 

○ あん  安政。 

             (あんせい)。 《和暦》。

             THE ANSEI ERA.

             ○ 1854年ー1860年 。

             ● 1854年・安政元年・11月27日〜

                1860年・安政 7年・ 3月18日。 

             ● 江戸時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

              ■ 安政 (あんせい、英:THE 

                           ANSEI ERA) とは、和暦であり、 

             江戸時代後期の和暦年号であり、 

             1854年・安政元年・11月27日から

             1860年・安政7年・3月18日まで

             の期間である。   

             ■ 〈安政年号の、和暦→西暦/

                西暦→和暦の速算法〉。

             ○ 安政A年+1853年=西暦B年。

             ○ 西暦B年1853年=安政A年

                 ■ 「安政」の前後の和暦年号(元号):

              ● 嘉永 (かえい):

               1848年ー1854年。

               1848年・嘉永元年・ 2月28日〜

                1854年・嘉永 7年・11月27日。 

             ● 万延 (まんえん):

               1860年ー1861年。

               1860年・万延元年・3月18日〜

               1861年・万延 2年・2月19日。 

             ■ 幕末、明治時代の和暦年号(元号):

             ● 嘉永(かえい)⇒安政(あんせい)⇒

               万延(まんえん)⇒文久(ぶんきゅう)

               ⇒元治(げんじ)⇒慶応(けいおう)

               明治(めいじ)。

             嘉永元年〜7年 (1848〜1854年)⇒

             安政元年〜7年 (1854〜1860年)⇒

             万延元年〜2年  (1860〜1861年)⇒ 

             文久元年〜4年  (1861〜1864年)⇒ 

             元治元年〜2年  (1864〜1865年)⇒

             慶応元年〜4年  (1865〜1868年)⇒ 

             明治元年〜45年(1868〜1912年)。

 

○ あん  安政の改革。

             (あんせいのかいかく)。 《政治改革》。

          ○ 1853年ー1857年に阿部

          正弘が行った、強兵・富国の幕

          政改革。

             ■ 安政の改革は、1853 年から1857年

             まで、阿部正弘が行った、強兵・富国の幕

             政改革である。 

                安政の改革で、老中首座・阿部正 弘

             は、 江戸幕府の政策に広く意見を求めた

             ため、幕府の専制(独裁体制)が、崩れ始

             める。

 

○ あん  安政の五カ国条約 

             (あんせいのごかこくじょうやく)。  

             《条約》。

          (= 1858年の安政の5カ国

                条約)。

          (= 1858年の修好通商条約)。

          ○ この条約で、日本は、

          完全開国する。

          (⇒ 修好通商条約)。

                (⇒ 日米 修好通商条約)。

                (⇒ 開国井伊 直弼

                     堀田 正睦条約改正) 。

             ■ 安政の5カ国条約 (あんせいの

             ごかこくじょうやく)とは、 1858年

             の安政の5カ国条約であり、 1858

             年の修好通商条約である。 この

             条約で、日本は、完全開国する。

             ● 安政の5カ国条約 (あんせいの

             ごかこくじょうやく)は、 1858年に、

             日本の江戸幕府が米・蘭・露・英・仏

              の5カ国の欧 米諸国と結んだ、修好

              通商条約であり、領事裁判権(治外

              法権)、関税自主権の欠如の規定な

             どがある、不平等条約であった。

             ● 江戸幕府は、 1854年(嘉永7年、

                安政元年)から1855年(安政2年)

             までの間に、アメリカ、イギリス、ロシ

             ア、オランダと和親条約を結び、部分

             開国し、 更に、1858年(安政5年 )

             に、アメリカ、オランダ、ロシア、イギ

             リス、フランスと修好通商条約を結び、

              完全開国する。

 

○ あん  安政の大獄。 

             (あんせいのたいごく)。 《弾圧政策》。

             (= 1858年ー1859年の井伊

          直弼の弾圧政策)。

               (⇒ 井伊直弼)。

             ■ 安政の大獄 (あんせいのたいごく)は、

             1858年から1859年まで、江戸幕府大老・

             井伊直弼が行った弾圧政策である。

             ● 安政の大獄で、江戸幕府老・井伊直

             弼は、江戸幕府の政策や専制(独裁体制)

             に反対する勢力の一掃をはかった。

 

○ あん  安貞。

             (あんてい)。 《和暦》。

              THE ANTEI ERA.

                          ○ 1227年ー1229年。

             ● 1227年・安貞元年・12月10日〜

                1229年・安貞 3年・ 3月 5日。 

             ● 鎌倉時代前期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

             ■ 安貞 (あんてい、英:THE 

             ANTEI ERA)とは、 和暦であり、 

             鎌倉時代前期の和暦年号であり、 

             1227年・安貞元年・12月10日から

             1229年・安貞 3年・3月5日まで

             の期間である。 

                 ■ 「安貞」の前後の和暦年号(元号):

             ● 嘉禄 (かろく ):1225年−1227年。

               1225年・嘉禄元年・ 4月20日〜

               1227年・嘉禄 3年・12月10日。 

             ● 寛喜 ( かんぎ):1229年−1232年。

               1229年・寛喜元年・3月5日〜

               1232年・寛喜 4年・4月2日。 

 

○ あん  安堵

             (あんど)。  《領地》。

             (= 領地(の所有)を保障する

           こと)。

              ■ 安堵 (あんど)とは、領地(の所有)

             を保障することである。

 

○ あん  安藤 守就

             (あんどう もりなり)。 《人名》。

          ANDO Morinari.

          ○ 安藤 守就は、

           竹中半兵衛の正室夫人・得

           月院の父である。

          ○ 安藤 守就は、

           西美濃三人衆の1人である。

        (⇒ 竹中半兵衛)。

              ■ 安藤 守就 (あんどう もりなり)は、

             竹中半兵衛の正室夫人・得月院の父

             であり、西美濃三人衆の1人である。

 

○ あん  安徳天皇

             (あんとくてんのう)。 《天皇》。

                          (= 言仁(ときひと)親王)。

             (生没年:1178年ー1185年)。

              THE EMPEROR ANTOKU.

             ○ 天皇在位:

           1180年ー1185年、幼帝。

                ○ 安徳天皇は、

          高倉天皇と平徳子(平清盛の

          娘)との間の皇子(みこ)である。 

          ○ 安徳天皇は、

          壇ノ浦の戦い時、平時子(平

          清盛夫人)と共に入水し死去

          する。

             ■ 安徳天皇 (あんとくてんのう、生没

             年:1178年ー1185年、天皇在位:11

             80年ー1185年、幼帝) とは、 言仁

             親王(ときひとしんのう)であ り、 高倉

              天皇 と 平徳子 (平清盛の娘、= 建礼

             門院) との間の皇子(みこ) である。 

             ● 安徳天皇は、 壇ノ浦の戦い時、平

             時子(平 清盛夫人)と共に入水し死去す

             る。

 

○ あん  安和。

             (あんな、あんわ)。 《和暦》。

             THE ANNA ERA.

             ○ 968年−970年。

             ● 968年・安和元年・8月13日〜

                970年・安和 3年・3月25日。 

             ● 平安時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

            日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

             ■ 安和 (あんな、あんわ、英:THE 

             ANNA ERA)とは、 和暦であり、 

             平安時代中期の和暦年号であり、 

             968年・安和元年・8月13日から

             970年・安和 3年・3月25日まで 

             の期間である。

                 ■ 「安和」の前後の和暦年号(元号):

              ● 康保(こうほう):964年ー968年。

                964年・康保元年・7月10日〜

                968年・康保 5年・8月13日。 

             ● 天禄 (てんろく):970年−973年 。

                970年・天禄元年・ 3月25日〜

                973年・天禄 4年・12月20日。 

 

 

 

   ● 五十音順 (あいうえお順)。

 

 

   ■  『 現在は、過去の成果であり、

       未来は、現在の成果である。 

         (過去の良き積み重ねが良き現在を

          つくり、 現在の良き行為が、明るい

          良き未来をつくる。)

         (良き現在は、過去の人々の良き努力

          や活動の積み重ねの成果であり、 

          明るい良き未来は、現在の人々の、

          良き努力や活動の積み重ねによって

          形成される。)

 

 

■ 上位のWEBサイト。 

 □ (KOH) カナヤマ オフィシャル   >

          ホームページ

 □ (Cse)  国際理解総合サイト     >

          われら地球市民。 

 □ (Ke)   百科事典。           >

 □ (Khh)  歴史学ハンドブック     >

 □ (Kjhh) 日本史ハンドブック。     >

 □ (Kjhh) 日本史辞典(総合版)。   >

 □ (Kjhh) 日本史辞典・日本語版。   >

 □ (Kjhh) この日本語ページ。 

 

 

ようこそ TKK カナヤマのホームページへ !             WELCOME TO TKK KANAYAMA’S HOMEPAGE !  

 

 

◆ カナヤマ日本歴史辞典 

   日本語版。

 

 ■ 当ホームページの制作・著作権 TKKI カナヤマ。

 

 ■ Copyright(C) TKKI Kanayama.

    All Rights Reserved.

 

 

 

#jpdictionary(general)

 

◆ 日本史辞典

 

● 見出し語はグリーンでマークされています

 

□ メニュー(目次)の先頭へ戻る。 

□ 日本史辞典・日本語版の先頭ページへ

□ 日本史ハンドブック・日本語版へ

□ 日本史辞典・英語版 へ

□ 日本史ハンドブック・英語版 へ

 

 

#a

 

◆ 派生見出し語サイト。

  ■ 「あ」 基本・見出し語WEBサイト No. ja−a  

   の、派生見出し語サイト。

 

■ No.ja−a−0770。

  ● 見出し語項目 あ   ( き 07 / や 70

  付近  第1部・ほ・総合グループ )。

 あき  秋山 真之

             (あきやま さねゆき)。

                    (明治・大正期の海軍軍人)。

 あき  秋山 季子

             (あきやま すえこ)。

                    (= 秋山すえ、 秋山すゑ)。

                    (海軍軍人・秋山真之(さねゆき)

             の 妻)。

○ あき  秋山 多美

             (あきやま たみ)。

          (= 秋山 多美子(たみこ))。

          (陸軍軍人・秋山好古(よしふる)

              の妻) 。

 あき  秋山 久敬

             (あきやま ひさたか)。

          (秋山好古、秋山真之の父)。      

 あき  秋山 好古

             (あきやま よしふる)。

          (明治・大正期の陸軍軍人)。             

 

■ No.ja−a−1030。

  ● 見出し語項目 あ   ( こ 10 / う 30  

   付近  第1部・こ・総合グループ )。

■ 派生見出し語移動案内ページ。

 あこ   赤穂事件 

              (あこうじけん)。

 

■ No.ja−a−1130。

  ● 見出し語項目 あ  い〜か ( さ 11 / い〜か 

   30 付近  第1部・さ・総合グループ )。

〇 あさ   浅井三姉妹 

             (あざいさんしまい)。

          (= 茶々ちゃちゃ、初はつ、江ごう) 。

〇 あさ   浅井 長政 

             (あざいながまさ)。

          (近江(おうみ)の戦国大名)。

 

■ No.ja−a−1221。

  ● 見出し語項目 あ   ( し 12 / か 21

    付近  第1部・し・カ行グループ )。

〇 あし  《内容》 足利氏(家)

〇 あし  足利氏

             (あしかがし)。

 

■ No.ja−a−1222。

  ● 見出し語項目 あ   ( し 12 / か 22

   付近  第1部・し・カ行グループ )。

〇 あし  《内容》 足利宗家

       (本家)・足利将軍家、

       足利(氏)政権

〇 あし  足利 本家(宗家)

             (あしかがほんけ(そうけ))。

〇 あし   足利将軍家 

             (あしかがしょうぐんけ)。

〇 あし  足利政権

             (あしかがせいけん)。

             (1336年頃〜1573年頃)。

 

■ No.ja−a−1223。

  ● 見出し語項目 あ   ( し 12 / か 23

  付近  第1部・し・カ行グループ )。

〇 あし  《内容》 足利将軍家、

        室町時代の足利 氏

                本家 (宗家)当主、 

        室町幕府・将軍

〇 あし  足利 尊氏

                        (あしかが たかうじ)。

       (⇒足利尊氏

〇 あし  足利 義詮

              (あしかが よしあきら)。  

〇 あし   足利 義満

             (あしかが よしみつ)。

〇 あし  足利 義持

             (あしかが よしもち)。  

〇 あし  足利 義量

             (あしかが よしかず)。  

〇 あし  足利 義教

             (あしかが よしのり)。

〇 あし  足利 義勝

             (あしかが よしかつ)。  

 あし   足利 義政

             (あしかが よしまさ)。

〇 あし  足利 義尚 

             (あしかが よしひさ)。

〇 あし  足利 義稙

             (あしかが よしたね)。

〇 あし  足利 義澄

             (あしかが よしずみ

〇 あし  足利 義晴

             (あしかが よしはる)。

 あし   足利 義輝

             (あしかが よしてる)。

〇 あし  足利 義栄

             (あしかが よしひで)。

〇 あし  足利 義昭

             (あしかが よしあき)。

 

■ No.ja−a−1224。

  ● 見出し語項目 あ   ( し 12 / か 24

  付  第1部・し・カ行グループ)。

〇 あし  《内容》 足利本家

       (宗家)の、当主

             以外の人々

 あし  足利 直義

             (あしかが ただよし)。

 あし  足利 直冬

             (あしかが ただふゆ)。

〇 あし  足利 義視

                あしかがよしみ) 。

 

■ No.ja−a−1225。

  ● 見出し語項目 あ   ( し 12 / か 25

  付近  第1部・し・カ行グループ )。

〇 あし  《内容》

               足利分家の人々

〇 あし  足利 基氏 

            (あしかが もとうじ)。

〇 あし  足利 成氏 

             (あしかが しげうじ)。

〇 あし  足利 政知 

                   あしかが まさとも)。

 

■ No.ja−a−1227。

  ● 見出し語項目 あ   ( し 12 / か 27

  付近  第1部・し・カ行グループ )。

〇 あし  《内容》 足利尊氏

〇 あし  足利尊氏 

            (あしかが たかうじ)。

 

■ No.ja−a−1230。

  ● 見出し語項目 あ   ( し 12 / か 30

  付近  第1部・し・総合グループ)。

■ 派生見出し語移動案内ページ。

〇 あし  足利将軍家

〇 あし  足利将軍家当主

〇 あし  室町 時代の足利宗家

               (本家) 当主

〇 あし  室町幕府・将軍

〇 あし  足利尊氏

 

■ No.ja−a−1321。

  ● 見出し語項目 あ   ( す 13 / か 21

   付近 第1部・す・さ行グループ )。

 あす  飛鳥白鳳時代 

             (あすかはくほうじだい)。

          (592年〜710年)

 

■ No.ja−a−1830。

  ● 見出し語項目 あ   ( づ 18 / ち 30

   付近  第1部・つ・総合グループ )。

■ 派生見出し語移動案内ページ。

 あづ  安土桃山時代

 

■ No.ja−a−1842。

  ● 見出し語項目 あ   ( づ 18 / ち 42

   付近  第1部・つ・タ行グループ )。

 あづ  安土桃山時代 

             (あづちももやまじだい)。

           (1573〜1603年)

 あづ  安土桃山文化 

          (あづちももやまぶんか) 。

          (16世紀後半〜17世紀初期)。 

          (⇒ 日本の文化)。

 

■ No.ja−a−1843。

  ● 見出し語項目 あ   ( づ 18 / ち 43

   付近  第1部・つ・タ行グループ )。

 あづ  安土桃山時代 詳細年表

                          (あづちももやまじだい・しょうさいねんぴ

              ょう)。

                          (⇒ 日本史年表) 。

 

■ No.ja−a−1850。

  ● 見出し語項目 あ   ( つ 18 / ひ 50

  付近  第1部・つ・総合グループ  )。

〇 あつ  篤姫

             (あつひめ)。(総合)。

           (= 天璋院てんしょういん・篤姫) 。 

          (1836年〜1883年)。

 あつ  篤姫 詳細年表

             (あつひめ・かんりゃくねんぴょう)

〇 あつ  篤姫 

       天璋院・篤姫ガイド

       ブック

 

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。  

□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

 『 さあ、日本の歴史を

    詳しく見てみよう。 』

 

 

#akiprovince

 

■ 安芸国 

     (あきのくに)。

 

■ 安芸国。

■ 名称 : 安芸 国 (あき のくに)。

■ 別称 : 芸州 (げいしゅう) 。

■ 英語名 :  AKI PROVINCE.

■ 《旧地域名》。 旧国(= 令制国)。

■ 安芸 国は、

  概ね、現・広島県西部の相当地域である。

■ 安芸 国は、

  前近代日本の、旧国(= 令制国)の正式名

  である。

■ (⇒ 旧国(= 令制国))。

     (⇒ 前近代日本の地域名)。

     (⇒ 旧地域名地域名)。

     (⇒ 日本の地名)。

■ 安芸 国 (= 芸州)

  <山陽道・旧広域地方。

  <五畿七道 (ごきしちどう、日本本土)。

  (⇒ 山陽道・旧広域地方)。

    (⇒ 五畿七道)。

■ (RWM) 日本の、中地域名の変遷。

  ● 国造・県主分国⇒ 旧国(令制国)

    ⇒ 旧都道府県⇒ 現47都道府県。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11923。

      

             

■ 安芸 国。

  ■ 安芸 国 (あき のくに、= 芸州(げいしゅ

  う))は、 

  現・中国地方の、概ね、現在の広島 県西部に

  相当する地域であり、 山陽道(さんようどう)・

  旧広域地方に属し、 前近代日本の、旧国(=

  令制国)である。

    (⇒ 広島県都道府県)。

  (⇒ 中国地方)。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 安芸 国。

  ■ 安芸 国 (あき のくに、= 芸州(げいしゅ

  う))は、

  五畿七道 (ごきしちどう)の山陽道(さんよう

  どう)・旧広域地方に属する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 安芸 国。

  ■ 安芸 国 (あき のくに)は、 

  律令制 定後・古代・中世・近世日本・旧地域

  名の、旧国(= 令制国)の正式名である

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 安芸 国。

  ■ 安芸 国 (= 芸州)は、 

  約68旧国(= 令制国)の1つであり、 山陽道

   (さんよ うどう)・旧広域地方の1国である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 安芸 国。

  ■ 芸州 (げいしゅう)は、  

  律令制定後・古代・中世・近世日本・旧地域

  名の、旧国(= 令制国)正式名の、安芸 国 

  (あき のくに)の 別称である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 旧国(= 令制国)。

  ■ 旧国(= 令制国) (きゅうこく、= りょうせ

  いこく)は、 

  前近代日本の地域名であり、 飛鳥白鳳時

  代末期から江戸時代まで、 紀元(後)701

  年頃から1868年頃まで、 日本で使用され

  た地方行政区分の地域名である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。  

□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

#akechimitsuhide

 

■ 明智 光秀 

     (あけち みつひで)。

 

■ 明智 光秀。

■ 名称 : 明智 光秀 (あけち みつひで)。

■ 生没年: 1526 年?〜1582年。

■ 明智 光秀は、 知将であり、織田信長

  重臣であった。

■ 明智 光秀は、 織田信長に謀反を起こし、

  信長を殺害した武将、大名である。

■ 明智 光秀は、 斎藤道三(利政)朝倉義

  足利義昭、織田信長の家臣であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11419。

 

 明智光秀関連ドキュメンタリー 、

   ドラマ、映画。 

 

 

■ 明智 光秀 (あけち みつひで、生没年:

  1526年?〜1582年)は、 室町時代

  後期(戦国時代)、安土桃山時代の武将

  である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 明智 光秀 (あけち みつひで、生没年:

     1528年? ー1582年)は、知将であり、

  織田信長の重臣であった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 明智光秀の謀反。

■ 明智 光秀は、 織田信長に謀反を起こし

  (反旗を翻(ひるが え)し)、 信長を殺害し

  た(自害に追い込んだ)武将、大名である。

 

● 明智 光秀は、1582年(天正10年)6月

  2日未明本能寺の変織田信長を自害

  に追い込む。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 明智光秀の謀反の有力な説の

  1つ。

■ 本能寺の変の明智光秀謀反単独実行説の

   将来悲観説。

    明智光秀の謀反の有力な説の1つとして

  は、 織田信長の重臣の1人の明智光秀は、

  老齢になるが、跡継ぎの男子は大きな成果

  をあげる実力がなく、引退できず、実力主

  義の織田氏で、重臣の林通勝(林 秀貞)や

    佐久間 信盛のように、明智家が信長にリス 

  トラされると予期し (使い捨てにされると予

  期し)、 明智光秀は、今まで築いた領地や

   家臣団などを奪われるのを恐れ、謀反を起

  こし、京(きょう、 京都)の本能寺で信長を

  殺害する(自害させる)。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 明智光秀の領地。

■ 明智 光秀は、 本能寺の変前の織田信長

  家臣時、 近江国(おうみのくに、現・滋賀県

  の相当地域)南西部・近江・坂本(近江・坂本

  城主)5万石の領主 と、 丹波国(たんばの

  くに、京都府中部の相当地域)(丹波・亀山

  城主)29万石の領主であった。  

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 明智光秀の思考。

■ 明智光秀は、旧社会秩序回復をめざす。

  新社会秩序構築をめざす、織田信長とは

  意見が異なっていた。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 明智光秀の出自。

  ■ 明智光秀出自美濃国・明智光綱説。

      明智光秀の出自には諸説があるが、

    明智光秀の父が美濃国の明智光綱

    (あけちみつつな)であるならば、

    明智 光秀は、美濃国(みののくに、現・

    岐阜県南部の相当地域)の土岐明智

    氏(ときあけちし、土岐氏の分家・支流)

    の出身である。

  ● 明智光秀の前半生の史料は少ない。

 

■ 斎藤道三(利政)と明智光秀。

   ■ 明智光秀出自美濃国・明智光綱説。

      明智光秀の出自には諸説がある

   が、 明智光秀の父が美濃国の明智

   光綱(あけちみつつな)であるならば、 

   明智光秀は、土岐明智氏(ときあけち

   し、土岐氏の分家・支流)の出身であり、 

   明智光秀は斎藤道三(利政)の家臣で

   あり、 斎藤道三(利政)の家臣で明智

   光綱の弟の明智光安 (あけちみつや

   す)は明智光秀の叔父(おじ)であり、 

   斎藤道三(利政)の 正室夫人で明智

   光綱の妹の小見の方おみのかた)

   は明智光秀の叔母(おば)であり、 

   斎藤道三(利政)と小見の方との間の

   娘の濃姫(のうひめ、帰蝶、織田信長

   の正室夫人)は明智光秀の従兄妹(い

   とこ)である。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 明智光秀の出自。

     ■ 明智光秀出自美濃国・明智 光綱説。

      明智光秀(あけちみつひで)の出自

    には諸説があるが、 明智光秀の父が

    美濃国の明智光綱(あけちみつつな)

    であり、明智光秀の祖父が濃国の

    智光継(あけちみつつぐ)であるならば、 

    明智光秀は、土岐明智 氏ときあけちし、

    土岐氏の分家・支流)の出身であり、 

    美濃国(みののくに、現・岐阜県南部

    の相当地域)の明智荘(あけちのしょう、

    現・岐阜県可児市(かにし))で生まれ

    育ち、 明智光綱の弟で明智荘の明智

    長山城(あけちながやまじょう)城主・

    明智光安 ( あけちみつやす)は明智

    光秀の叔父(おじ) であり、 明智光綱

    の妹の小見の方 (おみのかた、斎藤

    道三(利政)の正室夫人)明智光秀

    の叔母(おば)であり、 小見の方の娘

    の濃姫 (のうひめ、= 帰蝶(きちょう)、

    斎藤道三(利政)の娘、田信の正

     室夫人)は明智光秀の従兄妹(いとこ)

    である。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 明智光秀の主君。

■ 明智 光秀は、斎藤道三(利政)朝倉義

  足利義昭、織 田信長の家臣であった。

 

■ 明智光秀は、美濃国の斎藤氏の家臣であ

   り、1556年(弘治2年)の長良川の戦い時、

  斎藤道三(利政)方に味方し、斎藤義龍方に

     敗戦して、美濃国から追われて、浪人となり、

      諸国を巡る。 その後、明智光秀は、約10

   年間、越前国の浅倉氏の浅倉義景の家臣

   となる。 それから、足利 義昭の家臣とな

   り、更に織田信長の家臣となる。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 明智光秀の主君。

■ 長良川の戦い (なからがわのたたかい)は、

  1556年に、美濃国の長良川付近で、斎藤義

  龍(さいとうよしたつ)方と斎藤道三(どうさん)

  方とが戦った合戦である。 斎藤道三方が敗

  北し、斎藤道三は敗死する。

      明智光秀は、長良川の戦い時、斎藤道

  三方で戦い、斎藤義龍方によって居城の明智

  城を攻められ敗れ、脱出し、その後、放浪の生

  活をする。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 明智 光秀は、 美濃国(みののくに、現在の

  岐阜県南部)の守護・土岐(とき)氏の一族(支

  族)で、 戦国大名の斎藤道三(利政)(さいと

  うどうさん(としまさ))に仕(つか)える。

     1556年(弘治2年)に、斎藤道三(利政)

  と斎藤義龍の争いの際、 斎藤道三(利政)に

  味方して、斎藤義龍に明智城を攻められ、敗

  れ、一族は離散する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 明智光秀の主君。

■ 明智 光秀が仕(つか)えた人々。

    明智光秀は、 斎藤道三(利政) (さいとう

  どうさん(としまさ)、美濃の戦国大名)、 足利

  義昭 (あしかがよしあき、足利家、後に足利

  幕府第15代将軍)、 朝倉義景(あさくらよし

  かげ、越前の戦国大名)、 織田信長 (おだの

  ぶなが、尾張の戦国大名) の家臣であった。

  ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 明智 光秀は、 美濃国(みののくに、現在の

  岐阜県南部)の守護・土岐(とき)氏の一族(支

  族)で、 初め、美濃国の国主(こくしゅ)の斎藤

  道三(利政)(さいとうどうさん(としまさ))に仕

  (つか)え、 後に、越前国(えちぜんのくに、現

  在の福井県北部)の国主の朝倉義景(あさくら

  よしかげ)や足利家の足利義昭(あしかがよし

  あき)に仕(つか)え、 次に、 尾張国(おわり

  のくに、現在の愛知県西部)の国主の織田信長

  (おだのぶなが)に仕えた。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 足利義昭・織田信長家臣時の

   明智光秀の活躍。

■ 足利義昭随行織田信長上洛出兵で、 15

  66年(永禄9年)8月の第1次信長上洛出兵

  (失敗)の仲介役は、足利義昭家臣の細川

  藤孝(幽斎) であり、 1568年(永禄11年)

  11月の第2次信長上洛出兵(成功)の仲介

  役は、足利義昭家臣の明智光秀と細川 藤

  孝(幽斎) である。

 

■ 足利家の足利義昭は、朝倉義景に上洛を期

  待していたが、朝倉義景は動かなかった。

     そこで、足利義昭は、2回目の要請として、

  織田信長に対し、明智光秀を通して、京都に

  攻め上(のぼ)って自分を、征夷大将軍(室町

  幕府の将軍)につけるように要請した。

     足利家の足利義昭の信長への2回目の

  要請を受けて、明智光秀は、織田信長と会見

  し、義昭の要請を伝える。

    織田信長は、 足利家の足利義昭の2回目

  の要請を 受け入れ 京都に攻め上(のぼ)って、

  足利義昭を、征夷大将軍室町幕府将軍)に

  就(つ)けた。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 明智光秀の謀反の有力な説の

  1つ。

■ 1580年代の織田信長の人事・領地変革は、 

  林 通勝(林 秀貞)や佐久間信盛の追放を生じ

  させ、明智光秀の謀反(むほん)に影響を与え

    る。

     明智光秀の謀反の有力な説の1つとしては、

  織田信長の重臣の1人の明智光秀は、老齢に

  なるが、跡継ぎの男子は大きな成果をあげる実

  力がなく、引退できず、 重臣の林通勝(林秀貞)

  や佐久 間信盛のように、 明智家が信長にリス

  トラされると予期し(使い捨てにされると予期し)、

    今まで築いた領地や家臣団などを奪われるのを

  恐れ、1582年(天正10年)6月に、 謀反(む

  ほん、本能寺の変)を起こし、 京・本能寺で信

  長を殺害する(自害させる)。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 明智光秀の謀反の有力な説の

  1つ。

■ 本能寺の変の、明智光秀の動機。

     明智光秀が本能寺の変を起こした理由に

  は、諸説がある。 これも 有力な説の1つである。

    1580年代の織田信長の人事・領地変革は、 

  林 通勝(林 秀貞)や佐久間信盛の追放を生じ

  させ、明智光秀の謀反(むほん)に影響を与え

    る。

    1580年(天正8年)8月に、 織田信長は、

  林 通勝(林 秀貞)と佐久間信盛を、織田氏(織

  田軍団)より追放した。

    1582年当時、明智光秀は、 実力主義の

  織田家家中で、窮地に立たされていた。 織田

  信長により、リストラされる可能性があった。

    1582年当時、明智光秀(1528〜1582

  年)は、老齢になるが(当時の上層階層でも平

  均寿命50〜60歳位)、跡継ぎとなる男子の明

  智光慶(あけちみつよし、玄琳、1569−158

  2年)や次男の十二郎(安古丸)などがまだ若く、

  大きな成果をあげる実力はなく、 明智光秀は、

  隠居もできず、引退できず、 織田軍団でハード

  に働き、今後も大きな成果をあげなければなら

  なかった。

     過去に大きな成果をあげた家臣でも、現在

  や未来に成果をあげず、役に立たないとみなし

  た家臣は、織田家中より追放するのが、織田信

  長の方針であった。 明智光秀は、重臣 の佐久

  間信盛のように、現在や将来に大きな成果をあ

  げないと、職務怠慢という理由で、 織田信長に

  より、織田家(織田家臣団)より追放される可能

  性があった。

    明智光秀は、 織田家の重臣でありながら、

  1582年5月に、信長より秀吉の援軍を言い渡

  されたとき、ライバルの秀吉に負け、織田家中

  での地位の低下をまねいたと考えた。

    明智光秀は、信長による追放や領地没収を

  恐れ、 今まで築いた明智家や明智家臣団を

  守るため、 1582年5月に、織田信長を討つ

  決意を固めた。 そして、明智光秀は、1582

  6月2日に、信長が滞在する本能寺を急襲し、

  信長を自害させた。

  ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

■ 明智光秀と本能寺の変。

■ 明智光秀は、1582年(天正10年)6月2日未

  本能寺の変織田信長を自害に追い込む。

     明智光秀は、 1582年(天正10年)6月2

  日未明に、 織田信長が滞在していた、京(都)

  の本能寺(ほんのうじ)を急襲し、 本能寺を明

  智軍約1万人の兵で囲み、 織田信長を自害さ

  せる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 明智光秀は、1582年(天正10年)に、 本能

  寺の変を起こして、織田信長織田信忠父子を

  殺害したが、羽柴秀吉(豊臣秀吉に山崎の戦

  いで敗れ、 坂本へ敗走中に、農民に殺された。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

● 戦国時代(室町時代後期)、安土桃山時代には、 

  農民は、 敗残兵から武具、鎧(よろい)など価

  値のあるものを得るため、 よく、敗残兵を襲(お

  そ)った。 明智光秀も、そのような農民に襲われ、

  殺された。

  ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

■ 明智光秀と「山崎の戦い」

  (1582年(天正10年)6月13日)。

● 秀吉の中国大返しの到着地の山城の山崎での

  戦い。

 

■ 羽柴秀吉(豊臣秀吉)の主要の軍は、 1582

  年(天正10年)6月6日に備中・高松(びっちゅう・

  たかまつ)を出発し(移動を開始し)、1582年

  (天正10年)6月13日に、山城・山崎 (やましろ・

  やまざき)に到着し(移動を終え)、移動開始から

  約7日の行程であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 明智光秀の軍は、 本能寺の変を知って毛利と

  和睦し中国地方から引き返してきた羽柴秀吉の

  軍を、 山崎 (現在の京都府大山崎町と大阪府

  島本町にまたがる地)で、 迎え撃った。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1582年(天正10年)6月13日に、 約2万人の

  兵の羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍と約1万人の兵

  明智光秀の 軍との間で、山崎の戦いが行われ、 

  約4時間で決着し、羽柴秀吉(豊臣秀吉) の軍が

  勝利を収めた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、1582年(天正10年)

  6月13日の昼頃に、 山城の、山崎に着陣した。

  勝敗を左右する天王山は、 秀吉方の先遣隊(せ

  んけんたい)の中川清秀らに占拠されていた。

    山崎の戦いでは、毛利軍から借り受けた、毛

  利軍の旗を明智軍に見せて、毛利軍も味方して

  いるように明智軍に思わせたと言われている。

     6月13日の申の刻(さるのこく、午後4時頃)

  に、 秀吉方と光秀方の「山崎で戦い」が始まる。 

  兵力差もあって秀吉軍優位で戦いが推移し、秀

  吉は、この状況を見て、全軍に総攻撃を発令し、

  乱戦となり、 兵力で勝る秀吉軍が光秀軍を圧倒

  し、光秀軍が総崩れとなった。 約4時間の戦い

  であった。

     その後、明智光秀は、兵を率いて勝竜寺城

  に立てこもったが、 数万の兵に包囲され攻撃さ 

  れ、支えきれず、 明智光秀は、勝竜寺城より近

  臣を従えて、 居城・坂本城をめざして、逃亡した。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ そして、 1582年(天正10年)6月14日未明に、 

  小栗栖(おぐるす、京都市伏見区)で、逃亡中の

  明智光秀が、落ち武者狩りの、土民に殺害される。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#akechimitsuhide-appearingscenes

 

♪♪ 明智光秀が登場する、興味深

    い関連ドラマ、映画、ドキュメン

    タリー。 

 

★ 明智光秀が登場する興味深い、

   ドキュメタンリー。

 

■ 京都ぶらり歴史探訪 

   4時間スペシャル

   『 明智光秀VS豊臣秀吉 』。 

   (テレビ朝日の2020年3月10日・

   本放送・歴史ドキュメンタリー番組)。 

  ■ 明智光秀の後半生と豊臣秀吉の

    後半生を詳しく述べる。

  ■ 明智光秀関連と豊臣秀吉関連

    の京都の名所を詳しく述べる。

 

■ にっぽん歴史鑑定 『 信長の才

   を見抜いた男 斎藤道三 』 。 

    (TBSテレビ・2017年9月25日・

    本放送・歴史ドキュメンタリー番組)。

 ■ 斎藤道三(利政)の、「従来説の美濃国

   盗り本人一代説」 と、 「新説の美濃国

   盗り父子二代説」を詳しく述べる。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 女中は

  見た!!〜本能寺の変・信長最

  後の3日間〜 』。  

   (NHKテレビ・2010年(H22 年)4月7日 ・

   本放送ドキュメンタリー番組) 。

 

 

★ 明智光秀 が登場する、 興味深い

   関連ドラマ、映画。 

 ● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

   歴史のドラマや映画は、 史実(歴史上の

   事実) と架空の出来事が、混じって、描か

   れています。また、現代風にアレンジしてあ

   ります。

 

■ 『 麒麟(きりん)がくる 』。 

   (NHKテレビの2020年大河ドラマ)。 

   (池端俊策、岩本真耶、他 作・脚本)。

 ■ 日本の戦国時代(室町時代後期)、

   安土桃山時代を描く。

 

 ● 明智 光秀 (斎藤 道三(利政)の家臣、

  朝倉義景の家臣、足利義昭の家臣、

  織田信長の家臣) を演じる俳優名 :  

  長谷川 博己 (はせがわ ひろき)。

 

 ● 明智 光秀の母・お牧(まき)の方を演じ

  る女優名 : 石川 さゆり。 

 ● 明智 光秀の叔父・明智 光安(あけちみ

  つやす)を演じる俳優名 : 西村 まさ彦。 

 ● 明智 光秀の正室夫人・熙子(ひろこ)を

  演じる女優名: 

  木村 文乃 (きむらふみの)。 

 

 ● 斎藤 道三(利政)(さいとうどうさん(とし

  まさ))を演じる俳優名: 本木 雅弘。

 ● 斎藤 道三(利政)の側室夫人・深芳野 

   (みよしの、土岐 頼芸(とき よりのり)の

   元側室夫人)を演じる女優名: 南 果歩。 

 ● 斎藤 道三(利政)の男子・斎藤 義龍

  (さいとうよしたつ)を演じる俳優名: 

  伊藤 英明。

 ● 斎藤 道三(利政)の正室夫人・小見の 

  方 (おみのかた、濃姫(= 帰蝶)の生

  母)を演じる女優名: 片岡 京子。 

 ● 斎藤 道三(利政)の娘・帰蝶(濃姫)(き

  ちょう(のうひめ)、織田信長の正室夫 

  人)を演じる女優名 : 川口 春奈。 

 ● 斎藤氏家臣の稲葉一鉄(良通)(いなば

  いってつ(よしみち))を演じる俳優名: 

  村田 雄浩。

 

 ● 美濃国守護の土岐 頼芸(とき よりのり)

  を演じる俳優名: 尾美 としのり。

 ● 美濃国守護の土岐 政頼(頼武)(とき ま

  さより(よりたけ))の子の土岐頼純(とき

  よりずみ)を演じる俳優名: 矢野 聖人。

 

 ● 織田 信長を演じる俳優名: 染谷 将太 

  (そめたにしょうた)。

 ● 織田 信長の父・織田 信秀(おだ のぶ

  ひで)を演じる俳優名 : 高橋 克典。

 ● 織田 信長の母・土田御前(どだごぜん)

  を演じる女優名: 檀 れい。 

 ● 織田 信長の弟・織田 信勝(のぶかつ)

  を演じる俳優名 : 木村 了。

 ● 織田 信長の守役(もりやく)・平手政秀

  (ひらてまさひで)を演じる俳優名 : 

  上杉 祥三。

 

 ● 木下 藤吉郎秀吉(= 羽柴 秀吉、豊臣

  秀吉)を演じる俳優名 : 

     佐々木 蔵之介。

 

 ● 徳川家康を演じる俳優名: 

  〈少年、松平竹千代 岩田琉聖 

  〈成人、松平元信・元康・家康〉 

   風間 俊介。

 ● 徳川家康の父・松平広忠(まつだいら

  ひろただ)を演じる俳優名: 浅利 陽介。

 ● 徳川家康の母・於大の方(おだいの

  かた、松平広忠正室夫人、後、離縁;

  水野信元の妹)を演じる女優名: 

     松本 若菜。

 ● 徳川家康の伯父(おじ)・水野信元(み

  ずののぶもと、於大の方の兄)を演じる

  俳優名: 横田 栄司。

 

 ● 室町幕府・第13代将軍・足利義輝

  (あしかがよしてる)を演じる俳優名 : 

  向井 理。

 ● 室町幕府・第15代将軍・足利義昭

  (あしかがよしあき、足利義輝の弟)

  を演じる俳優名 : 滝藤 賢一 。

 ● 室町幕府幕臣、後、織田信長家臣の

  細川藤孝(幽斎)(ほそかわふじたか

  (ゆうさい))を演じる俳優名 : 

  眞島 秀和。

 ● 室町幕府幕臣の三淵藤英(みつぶち

  ふじひで、細川藤孝(幽斎)の異母兄)

  を演じる俳優名 : 谷原 章介。

  

 ● 室町幕府管領(かんれい)の細川晴元

  (ほそかわはるもと)を演じる俳優名 : 

  国広 富之。

 ● 細川晴元家臣の三好長慶(みよしなが

  よし)を演じる俳優名 : 山路 和弘。

 ● 三好長慶家臣の松永久秀(まつながひ

  さひで)を演じる俳優名: 吉田 鋼太郎。

 

 ● 今川義元(いまがわよしもと)を演じる

  俳優名: 片岡 愛之助。

 ● 今川義元の軍師・太原雪斎(たいげん

  せっさい)を演じる俳優名: 伊吹 吾郎。

 

 

■ 『 軍師 官兵衛 』。 

   (NHKテレビ・2014年大河ドラマ)。 

 ■ 日本の戦国時代(室町時代後期)、安土

   桃山時代 、江戸時代初期の時代を描く。

 

 ● 明智 光秀を演じた俳優名 : 春風亭

  小朝 (しゅんぷうてい こあさ)。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』。

   (NHKテレビ・2011年 大河ドラマ) 

 ■ 日本の戦国時代(室町時代後期)、安土

   桃山時代 、江戸時代初期の時代を描く。

 

 ● 明智 光秀を演じた俳優名 : 市村 

  正親 (いちむら まさちか)。

 

■ 『 敵は本能寺にあり 

     (てきはほんのうじにあり) 』 。 

    (テレビ朝日の2007年制作・

     テレビドラマ)。 

 ■ 日本の戦国時代(室町時代後期)、

  安土桃山時代の時代を描く。

 ● 明智 光秀を演じた俳優名 : 中村 

  梅雀 (なかむら ばいじゃく)。

 

 ● 織田 信長を演じた俳優名 : 玉木 宏  

  (たまきひろし)。

 ● 森 蘭丸を演じた俳優名 : 本田 大善。

 ● 斎藤 利三(さいとう としみつ) を演じ

  た俳優名 : 田宮 五郎 (たみや ごろう)。

 ● 明智 左馬助(さまのすけ)を演じた俳

  優名 :  市川 染五郎 (7代目) (いち

  かわ そもめごろう)。

 ● 近衛 前久(このえ さきひさ)を演じた

  俳優名 : 柄本 明 (えもと あきら)。

 ● 清玉上人(せいぎょくしょうにん)を演じ

  た俳優名: 岸部 一徳  (きしべ いっ

  とく)。

 ● 羽柴(豊臣)秀吉を演じた俳優名:竹中

  直人 (たけなか なおと)。

 ● 徳川家康を演じた俳優名 : 椎名 

  桔平 (しいな きっぺい)。

 ● 狩野 永徳を演じた俳優名 : 藤田 

   まこと。

 

■ 『 天地人 (てんちじん) 』 。

   (NHKテレビ・2009年大河ドラマ)。

 ■ 日本の戦国時代(室町時代後期)、安土

   桃山時代 、江戸時代初期の時代を描く。

 

■ 『 寧々〜おんな太閤記 

    (ねね おんなたいこうき) 』 。 

    (テレビ東京の2009年制作・

    テレビドラマ)。 

 ■ 日本の戦国時代(室町時代後期)、安土

   桃山時代 、江戸時代初期の時代を描く。

 ● 明智 光秀を演じた俳優名 : 西村

   和彦。

 

■ 『 明智光秀 〜神に愛されなか

   った男〜 』。 

   (フジテレビの2007年制作テレビドラマ)。

 ■ 日本の戦国時代(室町時代後期)、安土

   桃山時代を描く。

 

■ 『 功名が辻 (こうみょうがつじ) 』 。 

   (NHKテレビの2006年大河ドラマ)。

 ■ 日本の戦国時代(室町時代後期)、安土

  桃山時代 、江戸時代初期の時代を描く。

 

■ 『 信長 KING OF ZIPANGU 』 。 

   (NHKテレビ・1992年大河ドラマ)。

 ■ 日本の戦国時代(室町時代後期)、安土

   桃山時代を描く。

 ● 明智光秀を演じた俳優名 : マイケル

   富岡。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。  

□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

#asukakyocapital

 

■ 飛鳥京  

     (あすかきょう)

 

■ 飛鳥京。

■ 名称 : 飛鳥京 (あすかきょう)。

■ 英語名 : 

   Asukakyo Capital.

■ 《京》。

■ 存在期間 : 

  6世紀頃 から694年までの間、

  飛鳥・白鳳時代。

■ 存在場所 : 奈良県明日香(あすか)村付近

■ 飛鳥京とは、奈良県明日香(あすか)村付近の、

  天皇の住居(= 内裏)、天皇の宮殿(= 宮城)が

  あった都市である。

■ 京の移動。

  飛鳥京⇒ 藤原京⇒ 平城京(奈良の都)⇒

  長岡京⇒ 平安京(京都、京の都)⇒ 東京。

▲ 京(きょう)に関しては、「」、「宮城、「内裏

     を 参照してください。

▲ 時代状況に関しては、『飛鳥・白鳳時代』を

   照してください。

▲ 京(きょう)の移動に関しては、 「飛鳥京」、

  藤原京」、平城京」 (奈良の都)、「長岡京」、 

     平安京」 (京の都、京都)を参照して ください。

▲ 宮城 (きゅうじょう、= 天皇の宮殿)に関して

  は、 「宮城、 内 裏」(だいり、天皇の住居)、 

   などを参照してください。

▲ 内裏 (だいり、= 天皇の住居)に関しては、

   「内 裏を参照してください。

▲ 天皇に関しては、天皇」、「天皇家」、「朝廷 

  を参照してください。

▲ 日本の主要なの京(きょう、= 都城)の画像

  アルバムに関しては、

 □ 平安京 画像アルバム No.1

 □ 長岡京 画像アルバム No.1

 □ 平城京 画像アルバム No.1

 □ 藤原京 画像アルバム No.1

 □ 飛鳥京 画像アルバム No.1

 を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 21516。 

 

□ 飛鳥京 画像アルバム No.1

 

 

◆ 飛鳥京。

■ 飛鳥京 (あすかきょう)は、 飛鳥宮 (あすか

  きゅう、飛鳥付近の諸宮の総称)の都市である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

             

■ 飛鳥京 (あすかきょう)は、6世紀頃 から694年

  までの間、飛鳥・白鳳時代に、奈良県明日香(あ

  すか)村付近の、天皇の住居(= 内裏)、天皇の宮

  殿(= 宮城)があった都市である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 京の移動。

  飛鳥京⇒ 藤原京⇒ 平城京(奈良の都)⇒

  長岡京⇒ 平安京(京都、京の都)⇒ 東京。

 

■ 飛鳥京⇒ 藤原京。

■ 694年に、持統(じとう)天皇(女帝)は、 飛鳥京 

  の飛鳥浄御原 (あすかきよみはら、都:672年ー

  694年、奈良県明日香(あすか)村付近) から、 

  藤原京(都:694年ー710年、奈良県橿原(かしは

  ら)市付近)に遷都する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 飛鳥宮。

■ 飛鳥宮 (あすかきゅう、飛鳥地域の諸宮の総称)、

  すなわち、飛鳥付近の諸宮は、 飛鳥京の宮城(き

  ゅうじょう、= 天皇の宮殿)である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。             

 

 飛鳥宮 (あすかきゅう、飛鳥付近の諸宮の総称)、

  すなわち、飛鳥付近の諸宮は、 6世紀頃 から

  694年までの間、飛鳥・白鳳時代に、奈良県明日

  香(あすか)村付近にあった、宮城(= 天皇の宮殿)

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 京、宮城、内裏。

■ 京 (きょう)とは、 皇居のある土地であり、 天

  皇が住む都市であり、 朝廷の所在地であり、 

  天皇の住居(= 内裏(だいり))、天皇の宮殿(= 宮

  城(きゅうじょう))がある都市をいう。

 

■ 京 (きょう)とは、 天皇の宮殿(= 宮(きゅう))

  を中心とする都市である。

 

■ 宮城 (きゅうじょう、= 宮(きゅう))とは、 天皇

  の宮殿をいう。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 内裏 (だいり)とは、 前近代日本の、天皇の

  住居、居所、天皇御所をいう。

 

 

■ 天皇の宮殿は、日本の歴史では、 宮城(きゅうじ

  ょう)都宮 (ときゅう)、大内裏(だいだいり)) 

  などと 呼ばれた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。            

 

■ 宮城 (きゅうじょう、= 天皇の宮殿)は、 古代日

  本の時代において、藤原宮、平城宮、長岡宮、平

  安宮では、 内裏 (だいり、=天皇の住居、天皇御

  所)、 大極殿 (だいごくでん、国家儀式等を行う 

  建物)、 朝堂院 (ちょうどういん、国家政務等を

  行う建物)、 曹司(ぞうし、官人が実務をとる中央

  官庁) などから構成されていた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

         

 

■ 古代日本中期から近世日本までの、日本の主要

  な、宮城 ( きゅうじょう、= 天皇の宮殿)を中心と

  する都市 と その変遷は、  

   (1) 飛鳥京 (あすかきょう、奈良県明日香

      村付近、6世紀頃 から694年まで)、 

   (2) 藤原京 (ふじわらきょう、奈良県橿原

      市付近、694年ー710年)、 

   (3) 平城京 (へいじょうきょう、奈良県奈

      良市付近、710年ー740年・745年

      ー784年)、 

   (4) 長岡京 (ながおかきょう、京都府向日

      市・長岡京市・京都市南部付近、784年

      ー794年)、

   (5) 平安京 (へいあんきょう、京都府京都

      市付近、794年ー1869年、別名:京都、

      京の都(きょうのみやこ)) 

   の順序で、概(おおむ)ね、移動した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 日本の主要な宮城 ( きゅうじょう、= 天皇の宮

  殿) と その変遷は、

   (1) 飛鳥宮 (あすかきゅう、飛鳥京の諸宮、

     飛鳥地域の諸宮城の総称、奈良県明日香

     (あすか)村付近)、

   (2) 藤原宮 (ふじわらきゅう、奈良県橿原

     市付近)、

   (3) 平城宮 (へいじょうきゅう、奈良県奈

     良市付近)、 

   (4) 長岡宮 (ながおかきゅう、京都府向日

     市付近)、 

   (5) 平安宮 (へいあんきゅう、京都府京都

     市付近) 

   の順序で、概(おおむ)ね、移動した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 日本の主要な宮城( きゅうじょう、= 天皇の宮殿)には、

  (1) 飛鳥宮 (あすかきゅう、飛鳥京の諸宮、飛鳥地

  域の諸宮城の総称、奈良県明日香(あすか)村付近、

  6世紀頃ー694年)、 

 

  (2) 藤原宮(ふじわらきゅう、藤原京の宮城、奈良県

   橿原市(かしはらし)付近、

   694年ー710年)、 

 

  (3) 平城宮 (へいじょうきゅう、平城京の宮城、奈良

   県奈良市(ならし)付近、

   710年ー740年・745年ー784年)、 

 

  (4) 長岡宮 (ながおかきゅう、長岡京の宮城、京都

   府向日市(むこうし)付近、

   784年ー794年)、 

 

  (5) 平安宮 (へいあんきゅう、= 平安京の宮城)、

   京都府京都市付近、本来の平安宮は平安時代末

   期まで、京都府京都市上京区(かみぎょうく)付近、

   794年ー1177年頃)、

   などがある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 飛鳥京が登場する興味深い、ド

    キュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 飛鳥京が登場する興味深い、ドキ

   ュメタンリー。

 

 

★ 飛鳥京が登場する興味深い、ドラ

     マ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

   実) と 架空の出来事が 混じって描かれ

   ています。 また、 現代風にアレンジしてあ

     ります。

 

■ 『 聖徳太子 (しょうとくたいし) 』 

   (NHKテレビ・2001年・本放送・

    古代史ドラマスペシャル)。

● 厩戸王 (厩戸皇子(うまやとおうじ、うま

   やとのみこ)、聖徳太子) を演じた俳優 : 

   本木 雅弘。

● 蘇我馬子を演じた俳優 : 

     緒形 拳。

● 崇峻天皇(泊瀬部皇子)を演じた俳優 : 

   加藤 雅也。

● 推古天皇(額田部皇女)を演じた女優 : 

   松坂 慶子。

● 小野妹子(おののいもこ)を演じた俳優:

   今田 耕司。

 

■ 『 大化改新 (たいかのかいしん) 』 。 

   (NHKテレビ・2005年・本放送・

   古代史ドラマスペシャル)。

● 山背大兄王 (やましろのおおえのおう)を

   演じた俳優 : 山口 祐一郎。

● 蘇我 入鹿(そがのいるか)を演じた俳優 : 

   渡部 篤郎。

 

● 蘇我 蝦夷(毛人)(そがのえみし)を演じた

   俳優 :  原田 芳雄。

● 蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだの

   いしかわまろ)を演じた俳優 :  伊武 雅刀。

● 中大兄皇子 (なかのおおえのみこ、皇極

   天皇の息子、後の天智(てんじ)天皇)を

   じた俳優 : 小栗 旬。

● 中臣 鎌足(なかとみの かまたり)を演じた

   俳優 : 岡田 准一 (おかだ じゅんいち)。

● 皇極天皇 (こうぎょくてんのう、宝皇女(た

   からのひめみこ)を演じた女優 : 高島 礼子。

● 軽皇子(かるのみこ、皇極天皇の弟)を演

   じた俳優 : 吹越 満。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。  

□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

#azuchicastle

 

■ 安土城 

     (あづちじょう)。

 

■ 安土城。 

■ 名称 : 安土城 (あづちじょう)

■ 《城》。

■ 織田信長の本城。 

■ 城に関しては、「」を参照してください。

■ 織田信長に関しては、織田信長」、織田

  信長ガイドブック」を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 02235。

 

□ 安土城 画像アルバム   No.1

 

 

■ 安土城。

■ 安土城 (あづちじょう)は、近江国(おうみ

  のくに、現・滋賀県の相当地域)の安土山

  にあった、織 田信長(おだのぶなが)の本

  城(ほんじょう、本拠地の城)である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

             

● 安土城は、 琵琶湖(びわこ)湖畔にあり、 

  琶琵湖を望む壮大な眺めもつ、地下1階

  地上6階の壮麗な天主(天守)がある

  であった。

 

● 安土城は、 城を「高い石垣」で囲んだ

  初期の城であり、その後の築城造りの模

  範となった城である。

             

■ 安土城は、 織田信長により、1576年

  (天正4年)に着工し、1579年(天正7

  年)に天主(天守)が完成し信長が移り住

  み、1582年(天正10年)6月2日に本能

  寺の変が起き信長が死去し、同年6月

  13日の山崎の戦いでの明智光秀軍の

  敗北後、安土城の天主(天守)と本丸

  は原因不明の火災で焼失し、1585年

  (天正13年)には、安土城は廃城となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 安土城に、一時期、織田信長の家臣

  豊臣 秀吉前田利家徳川家康

  屋敷を設けていた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 安土城。

 ■ 安土城 (あづちじょう、1579年(天正

   7年)頃−1585年(天正13年)、英:

   AZUCHI-JO CASTLE)は、 織田

   信長の居城  (信長居住:1579年(天正

   7年)−1582年(天正10年)であった。

     安土城は、 当時、近江国の安土(現・

   滋賀県の安土町)にあり、琵琶湖に面し

   ていた。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 ■ 安土城の天主(天守) (てんしゅ、英:

   CASTLE TOWER)は、 地上6階地下

   1階建ての建築物であり、 1582年(天

   正10年)6月に原因不明の火災で焼失

   した。

      織田信長が築城した安土城の天主

  (天守)の最上階(6階)は、内外装とも、

  金箔で覆(おお)われていた。

     安土城の天主(天守)の原寸大の

   元建物がある。 それは、1992年の

   スペインセビリア万博日本出品展示物

   であり、 安土城の天主(天守)の原寸

   大の建物の5、6階が復元され、現在、

   滋賀県の安土町の「安土城天主 信長

   の館」で展示されている。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 安土城。

■ 安土城は、織田信長の居城であり、

  信長の最終の居城であった。

 

■ 織田信長の居城の変遷。 

    織田信長は、自分の居城を、

  @ 那古野城(なごやじょう、現・名古屋

  城二の丸付近、信長居住:ー1555年

  (弘治元年))、

  A 清州城(きよすじょう、清須城、信長

  居住:1555年(弘治元年)ー1563年

  (永禄6年))、

  B 小牧山城(こまきやまじょう、信長居

  住:1563年(永禄6年)ー1567年(永

   禄10年))、

  C 岐阜城(ぎぐじょう、信長居住:1567

  年(永禄10年)ー1579年(天正7年))、

  D 安土城(あづちじょう、信長居住:

  1579年(天正7年)−1582年(天正10

  年)

  の順に、移動していった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

             

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。  

□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

#emperorakihito

 

■ 明仁天皇 

     (あきひとてんのう)。

 

■ 明仁天皇。

■ 名称 : 明仁天皇 (あきひとてんのう)。 

■ 別名 : 明仁上皇 (あきひとじょうこう)。

■ 英語名 : 

     THE EMPEROR AKIHITO.

   AKIHITO EMPEROR.

■ 明仁天皇の在位 : 

   1989年(平成元年)〜2019年(平成31年)。 

■ 明仁天皇(= 明仁上皇)の生没年 : 

   1933年(昭和8年)〜現在。

■ 明仁天皇は、 

     平成時代の天皇で、日本国の象徴 (日本

     国憲法上)である。 

■ 明仁天皇は、 

   2019年(平成31年)に、天皇を退位し、

   明仁上皇となる。

■ 明仁天皇(= 明仁上皇)の父は、

  裕仁天皇( ひろひとてんのう、= 昭和天皇

  (天皇在位:1926年−1989年))である。

■ 明仁天皇(= 明仁上皇)の継子は、 

  徳仁(なるひと)天皇(天皇在位: 2019年

  〜現在)である。

■ 当項目は、日本の宮内庁のホームページ

  を参考にして、作成しています。 

  敬称は、省略させていただきます。

■ 皇族の名称は、宮内庁の皇族の名称に準

  拠している。

 

 

 □ 日本の現皇室 画像アルバム 

    No.1

 

 

 ■ 明仁天皇(= 明仁上皇)。

 

   ■ 平成時代の天皇。

   ■ 明仁天皇 (あきひとてんのう、= 明仁上皇、

     天皇在位:1989年〜2019年、生没年:

     1933年〜現在) は、 

     平成時代の天皇であり、 日本国の象徴 

     (日本国憲法上)である。

 

   ■ 明仁天皇は、

     天皇を退位し、上皇(じょうこう、= 前天皇)

     となる。

   ■ 明仁天皇は、

     2019年(平成31年)に、天皇を退位し、

     明仁上皇となる。

 

 

 ■ 明仁天皇(= 明仁上皇)。

 

   ■ 明仁(あきひと)天皇(= 明仁上皇)の生没年

     は、

     1933年(昭和8年)から現在までである。 

 

   ■ 明仁(あきひと)天皇(= 明仁上皇)の天皇

     在位は、 

     1989年(平成元年)から2019年(平成

     31年)までである。 

 

 ■ 明仁天皇(= 明仁上皇)の氏名。

 

   ■ 明仁天皇 (あきひとてんのう、= 明仁上皇、

     天皇在位:1989年〜2019年、生没年:19

     33年〜現在) は、 

     2019年(平成31年)に、天皇を退位し、

     明仁上皇となる。

 

   ● 明仁(あきひと)天皇(= 明仁上皇)の

     天皇即位前の名は、 

     明仁親王 (あきひとしんのう)、継宮

     (つぐのみや) である。

 

   ● 明仁(あきひと)天皇(= 明仁上皇)の

     諱 (いみな、個人名の実名)は、 

     明仁(あきひと)である。 

 

   ● 明仁(あきひと)天皇(= 明仁上皇)の

     御称号(ごしょうごう、幼少時の皇族の名称)

     は、 継宮(つぐのみや)である。

 

   ■ 皇族には、一族名の「氏(うじ)」がない。  

   ● 皇室では、「氏(うじ)」 は、

     天皇が臣下に与える名称であるという

     伝統があるため。

 

 

 ■ 明仁上皇 と 美智子上皇后。

 

   ■ 「上皇陛下」 (じょうこうへいか)、明仁上皇

     (明仁天皇) (あきひとじょうこう(あきひとて

     んのう))は、 

     天皇在位前の名は、明仁 親王(あきひとしん

     のう)、継宮 (つぐのみや) である。

 

   ● 明仁上皇(明仁天皇)の、諱(いみな、個

     人名の実名)は、

     明仁(あきひと)である。 

 

   ● 明仁上皇(明仁天皇)の、御称号(ごしょ

     うごう、幼少時の皇族の名称)は、 

     継宮(つぐのみや)である。

 

   ● 明仁上皇(明仁天皇)の生年は、

     1933年(昭和8年)〜現在である。 

 

   ■ 明仁上皇(明仁天皇)の上皇后(皇后)は、

     美智子上皇后(皇后) (みちこじょうこうごう

     (こうごう))であり、 生年は、1934年(昭

     和9年)〜現在であり、 旧名は、正田 美智

     子(しょうだ みちこ)である。

 

 

◆ 明仁天皇(明仁上皇)の

   御家族。

 

 ■ 明仁天皇(明仁上皇)の父。

 

   ■ 明仁天皇 (あきひとてんのう、= 明仁上皇、

     天皇在位:1989年〜2019年、生没年:

     1933年〜現在) の父は、 裕仁天皇 (ひ

     ろひとてんのう、= 昭和天皇、天皇在位:19

     26年−1989年、生没年:1901年〜19

     89年) である。

 

   ■ 明仁(あきひと)天皇(= 明仁上皇)は、

     裕仁(ひろひと)天皇(= 昭和天皇)の

     第一皇子(長男)である。

 

 ■ 明仁天皇(明仁上皇)の継子。

 

   ■ 明仁(あきひと)天皇(= 明仁上皇)の継子は、 

     徳仁(なるひと)天皇 (天皇在位: 2019年

     〜現在)である。

 

 ■ 明仁天皇(明仁上皇)の母。

 

   ■ 明仁(あきひと)天皇(= 明仁上皇)の母は、 

     香淳皇后 (こうじゅんこうごう、1903年〜

     2000年)であり、 別名は、良子女王(なが

     こじょおう)である。

 

 ■ 明仁天皇(明仁上皇)の夫人。

   ■ 明仁(あきひと)天皇(= 明仁上皇)の皇后は、

     美智子皇后 (みちここうごう)(= 美智子上皇

     后)であり、生年は、1934年〜現在であり、 

     旧名は、正田 美智子 (しょうだ みちこ)で

     ある。

 

 

 ■ 明仁天皇(明仁上皇)の子や子の

    御家族。

 

   ● 明仁(あきひと)天皇(= 明仁上皇)の皇子・

      皇女。  

       明仁(あきひと)天皇(= 明仁上皇)は、

     美智子皇后(= 美智子上皇后)との間に、

     二男一女の皇子・皇女がいる。

 

   ■ 明仁(あきひと)天皇(= 明仁上皇)の

     第一皇子(長男)は、 

     徳仁天皇 (前名は皇太子 徳仁親王(こ

     うたいし なるひと しんのう))、生年は、

     1960年〜現在であり、徳仁親王 (なる

     ひと しんのう)、浩宮 (ひろのみや))であり、

     徳仁天皇の在位は、2019年(令和元年)

     〜現在である。

 

   ● 徳仁天皇 (皇太子 徳仁親王(こうたいし

     なるひと しんのう))、1960年〜現在)の、

     妃(きさき、妻) は、 

     雅子皇后 (前名は皇太子妃 雅子(こうた

     いしひまさこ)、皇太子徳仁親王妃 雅子

     (こうたいしなるひとしんのうひ まさこ))

     であり、生年は、1963年〜現在であり、 

     旧名は、小和田  雅子(おわだ まさこ)で

     ある。

 

   ● 徳仁天皇 (皇太子徳仁親王)、1960年〜

     現在)の、第一女子(長女)は、 

     愛子内親王(あいこないしんのう)、敬宮(と

     しのみや)であり、 生年は、2001年〜現在

     である。

 

 

   ■ 明仁(あきひと)天皇(= 明仁上皇)の第二

     皇子(次男)は、 秋篠宮文仁親王 (あきし

     ののみや ふみひとしんのう、1965年〜

     現在) であり、 別名は、文仁親王(ふみ

     ひとしんのう)、礼宮(あやのみや))である。 

 

   ● 秋篠宮 文仁親王の、妃(きさき、妻)は、 

     文仁親王妃 紀子 (ふみひと しんのうひ 

     きこ、1966年〜現在、旧名は、川嶋

     紀子(かわしま きこ)) である。 

 

   ● 秋篠宮 文仁親王の子の、

     第一男子(長男)は、 

     悠仁親王(ひさひとしんのう、2006年〜

     現在)であり、 

     第一女子(長女)は、

     小室 眞子 (こむろ まこ、夫・小室 圭(こむ

     ろけい)、2021年10月26日入籍により、

     前名は 「眞子内親王殿下」 (まこないし

     んのうでんか)、 眞子 内親王(まこないし

     んのう)、1991年−現 在) であり、

     第二女子(次女)は、 

     佳子内親王 (かこないしんのう、1994年

     −現在)である。

 

 

   ■ 明仁(あきひと)天皇(= 明仁上皇)の第一

     皇女(長女)は、 

     黒田 清子 (くろだ さやこ、1969年〜現在)

     であり、 前名は、清子内親王(さやこないしん

     のう)、紀宮(のりのみや)) である。

 

   ● 黒田 清子 (くろだ さやこ、別名: 清子内親

     王 (さやこ ないしんのう)、紀宮(のりのみや))

     の、夫は、 

     黒田 慶樹 (くろだよしき、1965年〜現在)

     である。

 

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。  

□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

#ernestsatow

 

■ アーネスト・サトウ 

 

■ アーネスト・サトウ。

■ 生没年 : 1843年〜1929年。

■ 名称 : アーネスト・サトウ 。 

  日本名は、佐藤 愛之助、薩道愛之助。

■ 英語名 : Ernest Mason SATOW。 

■ 幕末・明治前期の在日イギリス公使館員・通訳 (18

  62年〜83年)、 明治後期に、イギリス在日公使(18

  95〜1900年)。 

■ イギリスの外交官。

■ ロンドンで生まれる。 父は、 スウェーデン国籍をも

  つソルブ(スラブ)系ドイツ人で、 母は、イギリス人で

  あった。

■ イギリスでの日本学の基礎を築く。

 

 アーネスト・サトウ が登場する、興味深

     いドラマ、映画、ドキュメンタリー

 

 

■ アーネスト・サトウは、 イギリス外交官として、幕末

  に、幕府や各藩の人々 などとの通訳、交渉で、活躍

  し、重要な役割を果たす。

 

■ アーネスト・サトウは、 幕末、明治前期に、  在日イ

  ギリス公使館員・通訳 (1862年〜83年) として、 

  イギリス在日公使の オールコック(公使在任、1859

  〜65年) や パークス(公使在任、1865〜83年)

  の指示のもとに、 活躍する。

 

■ アーネスト・サトウは、 1861年に、イギリス外務省

  (領事部門)の通訳生として入省し、 1862年9月に、

  在日イギリス公使館の通訳生として、日本に着任し、  

  1865年に通訳官に昇進し、1868年に、日本語書

  記官に昇進し 、1883年まで、公使館員として滞日

  した。

 

■ アーネスト・サトウ には、 『 一外交官の見た明治

  維新 』 など日本を記述した、多数の著作がある。 

 

■ アーネスト・サトウ (生没年 1843年〜1929年)

  は、 英名は、 「 Ernest Mason SATOW 」 で、 

  日本名は、佐藤 愛之助、薩道 愛之助である。

 

■ アーネスト・サトウは、  江戸時代の幕末や明治

  時代前期の在日イギリス公使館員・通訳 (1862

  〜83年) で、 イギリスの外交官 であった。

 

■ アーネスト・サトウは、 ロンドンで生まれる。 

     父は、スウェーデン国籍をもつドイツ北東部の

  ヴィスマール(独:Wismar)出身のソルブ(西スラ

  ブ)系ドイツ人で、母はイギリス人であった。

 

■ アーネスト・サトウは、 イギリスでの日本学の基

  礎を築く。

 

 

#ernestsatow-appearingscenes

 

♪♪ アーネスト・サトウ が登場する、興味

    深いドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

★ アーネスト・サトウ が登場する、興味深

   いドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

   歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) と 

   架空の出来事が 混じって描かれています。 

   また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』。

   (NHK テレビ・2010年大河ドラマ)。

 日本の江戸時代 末期を描く。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。  

□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

#asakakakubei

 

■ 安積 覚兵衛  

     (あさか かくべい)。

 (= 格さん かくさん、 渥美格之進)。

 

■ 安積 覚兵衛。

■ 生没年 1656年(明暦2年)〜1737年(元文2年)。

■ 名称 : 安積覚兵衛 (あさか かくべい)。 

● 別名 : 安積 澹泊 (あさか たんぱく)。 

● フィクションの物語「水戸黄門」では 格さん (かくさん、 渥美格之進)。

■ 江戸時代初期〜中期に活躍した儒学者。

■ 徳川光圀(水戸黄門)の助手で、大日本史の編集協力者。

■ フィクションの物語「水戸黄門の諸国漫遊記」に登場する格さん (かく

 さん、 渥美格之進)のモデルとなった人物。

■ フィクションの世界では、 諸国漫遊の水戸黄門のお供の武士。

● フィクションの物語「水戸黄門」の、水戸黄門お供役の格さん (かくさん、

  渥美格之進)のモデルとなった人物。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

□ 安積 覚兵衛 (格さん) が登場する、

   味深い、ドキュメンタリー、ドラマ、映画

 

 

■ 安積覚兵衛 (あさか かくべい) は、 生没年は 1656年(明暦2年)

 〜1737年(元文2年) で、 別名は 安積 澹泊 (あさか たんぱく)

 である。 

■ 安積覚兵衛 は、 フィクションの物語「水戸黄門」では、 格さん (かくさ

 ん、 渥美格之進) である。

■ 安積覚兵衛 は、 江戸時代初期〜中期に活躍した儒学者 である。

■ 安積覚兵衛 は、 徳川光圀(水戸黄門)の助手で、 大日本史の編集

 の協力者 である。

■ 安積覚兵衛 は、 物語「水戸黄門」に登場する格さん (かくさん、

 渥美格之進) のモデル である。

■ フィクションの世界では、 安積覚兵衛 は、  諸国漫遊の水戸黄門

 のお供の武士 で、 フィクションの水戸黄門のお供役の格さん (かくさ

 ん、 渥美格之進)のモデル である。

 

■ 徳川光圀(水戸黄門) は、 佐々介三郎 (さっさすけさぶろう、儒

 学者、 ドラマ・映画の「水戸黄門」の助さん(すけさん、佐々木助三

 郎)のモデル)) や 安積覚兵衛 (あさかかくべい、儒学者、 ドラマ

 ・映画の「水戸黄門」の格さん(かくさん、渥美格之進)のモデル)) な

 どの協力を得て、 チームワークで、 大日本史の編纂を行った。

● 諸国漫遊の旅をした(日本中各地を旅した)のは、 助さん(すけさ

 ん、佐々介三郎) のみであり、 一方、 水戸黄門 (徳川光圀)は、

 水戸領内をぶらり散歩する程度であった。

 

■ 佐々介三郎 (助さん) や 安積覚兵衛 (格さん) は、 大日本

 史の編集に携わった人物である。

  佐々介三郎(助さん)が集めた史料を、 安積覚兵衛(格さん)がまと

 めた。 

● 徳川 光圀(水戸黄門)存命中に、 光圀の指示で、 佐々介三郎 

 (さっさすけさぶろう、儒学者、 ドラマ・映画の「水戸黄門の諸国漫遊

 記」の助さん(すけさん、佐々木助三郎)のモデル)) は、 日本中各

 地を旅し、「大日本史」編纂の史料を集め、 水戸にいた安積覚兵衛 

 (あさかかくべい、儒学者、 ドラマ・映画の「水戸黄門の諸国漫遊記」

 の格さん(かくさん、渥美格之進)のモデル) が、 水戸で、 佐々介

 三郎 (助さん)が送ってきたり、持ち帰ったりした、その史料をまとめた。

 

 

#asakakakubei-appearingscenes

 

■ 安積覚兵衛 (安積 澹泊、格さん、渥美格

   之進) が登場する、興味深い、ドキュメン

   タリー、ドラマ、映画。

 

♪♪ 安積覚兵衛 (あさか かくべい、安積 澹泊

    (あさかたんぱく)、格さん) が登場する、

    興味深いドキュメンタリー。 

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 マニアの殿の

   大偉業・水戸黄門‘‘大日本史’’奮闘記 』 

     (NHKテレビ・2009年5月放映ドキュメンタリー)。

 

★ フィクションの物語 「水戸黄門(水戸光圀、

  徳川光圀)の諸国漫遊記」の 格さん (かくさ

   ん、 渥美格之進、安積覚兵衛)が登場する、

  興味深い関連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事 が 混じって描かれています。

   また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 水戸黄門 』。

    (TBSテレビ・連続テレビドラマ)。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。                

 

 

#ankokujiekei

 

■ 安国寺 恵瓊 

       (あんこくじ えけい)。

 

■ 安国寺 恵瓊。

■ 名称 : 安国寺 恵瓊 (あんこくじ えけい)。

■ 生没年 : 1539?〜1600年。

■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代の

  仏僧。

■ 毛利氏の外交僧、後に、豊臣氏の武将、大名。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51336。

 

 

■ 安国寺 恵瓊 (あんこくじ えけい、生没年:

  1539?〜1600年)は、 室町時代後期(戦

  国時代)、安土桃山時代の仏僧であり、 毛利

  氏の外交僧、後に、豊臣氏の武将、大名 であ

  る。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。  

 

■ 安国寺 恵瓊の氏名。

     安国寺 恵瓊の、安国寺は、 安国寺 恵瓊

  が住持した、安芸(あき、広島県西部)の寺・安

  国寺からである。

 

■ 安国寺 恵瓊は、 生年は1539年(天文8年)

  または、1537年(天文6年)という説があり、 

  安芸武田氏の一族と伝えられ、 1541年(天

  文10年)に安芸武田氏が滅亡すると、 幼年

  の恵瓊は、家臣に連れらて脱出し、安芸(あき、

  広島県西部)安国寺に入って出家した。

     その後、安国寺 恵瓊は、京(都)の東福寺

  に入り、恵心の弟子となる。 恵心は、毛利隆

  元と親交のある人物であったため、これがきっ

  かけとなり、毛利氏と関係を持ち、 その後、毛

  利氏の外交僧となる。

     また、安国寺 恵瓊は、 1574年(天正2

   年)に、安芸・安国寺(不動院)の住持となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。  

 

■ 安国寺 恵瓊は、 毛利氏の外交僧 である。

     外交僧とは、 武家の対外交渉の任を務

  めた仏僧 である。

 

■ 1582年の中国大返しでは、 安国寺 恵瓊は、 

  羽柴秀吉(豊臣秀吉)方と交渉した、毛利輝元

  方の交渉役であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。  

 

■ 安国寺 恵瓊は、 豊臣政権では、 豊臣秀吉

  により取り立てられ、 1585年に豊臣秀吉の

  家臣、大名となった。

 

■ 1600年の天下分け目の戦い (1600年の

  関が原の戦 い、その他の戦い) では、 安国

  寺恵瓊は、 西軍・石田方に味方した。

     安国寺 恵瓊は、西軍・石田方の首脳の1

  人として、 徳川家康により、京(都)の六条河

  原で斬首(ざんしゅ)される。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。  

 

 

♪♪ 安国寺恵瓊が登場する興味 深い、

  ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 安国寺恵瓊が登場する、興味深い関

  連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実)

  と 架空の出来事 が混じって描かれています。

  また、現代風にアレンジしてあります。

   

■ 『 軍師 官兵衛 』。 

   (NHKテレビ・2014年大河ドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

■ 安国寺 恵瓊を描く。

● 安国寺 恵瓊を演じた俳優名 : 山路 和弘

  (やまじ かずひろ)。

 

● 小早川隆景を演じた俳優名 : 鶴見 辰吾。

● 吉川元春を演じた俳優名 : 吉見。

● 毛利輝元を演じた俳優名 : 三浦。

● 黒田 官兵衛を演じた俳優名: 岡田 准一。

● 羽柴秀吉(豊臣秀吉)を演じた俳優名:

    竹中 直人。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。  

□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

#akamatsumasahide

 

■ 赤松 政秀  

       (あかまつ まさひで)。

 

■ 赤松 政秀。

■ 名称 : 赤松 政秀 (あかまつ まさひで)。

■ 生没年 : 生年不詳〜1570年。

■ 室町時代後期(戦国時代)の、西播磨に勢力

  をもった武将 であり、 播磨国・龍野城城主。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 赤松 政秀 (あかまつ まさひで、生没年:生年

  不詳〜1570年) は、 室町時代後期(戦国時

  代)の、播磨(はりま、兵庫県南部)の西部に勢

  力をもった武将 である。

          赤松 政秀 は、  播磨国・(はりまのくに、兵

  庫県南部)の龍野城(たつのじょう、現在の兵庫

  県たつの市龍野町) の城主であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 赤松 政秀は、 播磨の守護・赤松氏の庶流の

  一族の龍野赤松氏(たつのあかまつし)の当主 

  である。

 

■ 赤松 義祐 (あかまつ よしすけ)は、 播磨守護・

  赤松家本家当主であり、 播磨・置塩城・城主で、

  赤松政秀と播磨の覇権をめぐり、対立した。

■ 赤松 政秀 (あかまつ まさひで)は、 播磨守護・

  赤松家分家・龍野赤松家当主であり、 播磨・龍

  野城・城主で、 赤松義祐(よしすけ)と播磨の覇

  権をめぐり、対立した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 播磨(はりま、兵庫県南部)では、 赤松氏宗家

  (あかまつしそうけ、赤松氏本家)の置塩城(おき

  しお・おじお じょう)城主の赤松義祐(あかまつよ

  しすけ) と、 龍野 赤松氏の龍野城城主・赤松

  政秀が、 対立していた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 赤松 政秀は、 赤松義祐方の、播磨中部(はり

  まちゅうぶ、兵庫県南中部)に勢力をもつ小寺政

  (こでらまさもと)  や その家臣・黒田職隆(も

  とたか)・黒田官兵衛(孝高(よしたか))父子 と

  敵対した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 西播磨の海側に領地をもつ、浦上政宗・清宗親

  子は、 赤松義祐(あかまつよしすけ)方の、播磨

  中部の小寺 政職(こでら まさもと) と手を組み、

  小寺政職の家臣・黒田職隆の娘と婚儀を結ぶこ

  ととなった。 

    西播磨に勢力をもつ赤松 政秀は、危機感を

  抱き、 1564年(永禄7年)1月11日に、 浦上

  清宗と黒田職隆の娘の婚礼当日に、 赤松義祐

  方の、浦上政宗・清宗(うらがみまさむね・きよむ

  ね)親子の守る、室津城(むろつじょう)に、夜襲

  を仕掛け、 浦上政宗・清宗親子と小寺政職の家

  臣・黒田職隆の娘・志織を討ち、 浦上政宗の海

  沿いの室津近辺領土を奪取した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 赤松 政秀は、 1569年(永禄12年)に、青山・

  土器山の戦い(あおやま・かわらけやまのたたか

  い) で、 赤松義祐方の、小寺氏家臣の黒田職

  (もとたか)・黒田官兵衛(孝高(よしたか))親

  子の守る、小寺氏支城の、姫路城の攻略を約

  3000人の兵で、狙うが、 失敗する。

     赤松 政秀は、1569年(永禄12年)8月に、

  約3000人の兵で、姫路城を狙うが、青山で待ち

  伏せをうけ、龍野へ敗走する (青山の戦い)。

     赤松 政秀は、1569年(永禄12年)9月に、

  約3000人の兵で、姫路城を狙うが、 土器山(か

  わらけやま)に陣を張った黒田軍に夜襲を仕掛け、

  追い詰めるが、翌日の昼には、政秀軍が陣を張る

  小丸山まで後退し、その後、政秀軍は、小丸山の

  本陣を奇襲されて、龍野へ敗走する (土器山の

  戦い)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1569年(永禄12年)11月に、 青山・土器山の

  戦い(あおやま・かわらけやまのたたかい)での敗

  退を知った、赤松義祐方の(赤松義祐の援軍の)、

  備前・天神山城主の浦上宗景 (うらがみむねか

  げ、生没年不詳)は、 西播磨の赤松政秀の領土

  に侵入し、 赤松 政秀は、降伏し、所領を削られ、 

  龍野・赤松氏は、 西播磨における覇権を失う。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 赤松 政秀は、1570年に、何者かに毒殺される。

   

■ 赤松 政秀の死後、龍野・赤松氏は、赤松 政秀の

  嫡子の赤松 広秀(あかまつ ひろひで)が継いだ。

 

■ 1568年(永禄11年)以後、 備前・天神山城主

  の浦上宗景 (うらがみむねかげ、生没年不詳)

  は、 播磨の西方の隣国の備前(びぜん、岡山県

  南東部)を支配していた。 

     しかし、 1575年(天正3年)に、浦上宗景  

  は、 毛利氏と結んだ、浦上宗景の重臣の、宇喜

  多直家(うきたなおいえ、1529〜81年)に打ち

  破られ、領国の備前を失う (天神山城の戦い)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 赤松 政秀 が登場する興味深い、 ドキ

   ュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 赤松 政秀が登場する、興味深い関連ドラ

   マ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事 が 混じって描かれていま

  す。 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 軍師 官兵衛 』。 

   (NHKテレビ・2014年大河ドラマ)。 

 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土桃山

  時代、江戸時代初期を描いたドラマ。

 

● 赤松 政秀を演じた俳優名 : 団 時朗

  (だん じろう)。

 

● 赤松 広秀を演じた俳優名 : 野杁 俊希。

● 浦上政宗を演じた俳優名 : 新納 敏正。

● 浦上清宗を演じた俳優名 : 達 淳一。

● 黒田 官兵衛を演じた俳優名: 岡田 准一。

● 黒田 官兵衛の父の黒田職隆(もとたか)を

  演じる俳優 : 柴田恭兵。

● 黒田 官兵衛の最初の主君の小寺政職(こで

  らまさもと)を演じる俳優 : 片岡鶴太郎。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。  

□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

#asanotsunanaga

 

■ 浅野 綱長  

      (あさの つななが)。

 

■ 浅野 綱長。

■ 名称 : 浅野 綱長 (あさの つななが) 。

■ 生没年 : 1658〜1708年。

■ 藩主就任 : 1673〜1708年。 

■ 元禄赤穂事件で改易(かいえき、領地没収)さ

  れた、赤穂・浅野家(赤穂藩)の本家の、広島・

  浅野本家の当主。  広島藩主。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 浅野 綱長 (あさの つななが、藩主就任:16

  73〜1708年、生没年:1658〜1708年)

  は、 元禄赤穂事件で改易された、赤穂・浅野

  家(赤穂藩)の本家の、広島・浅野本家の当主 

  であり、 広島藩主 である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 広島・浅野本家の、浅野 綱長は、 赤穂・浅野

  家との連座(れんざ、まきぞえ処罰)を恐れて、

  赤穂・浅野家・筆頭家老の大石内蔵助(良雄)

  に無血・領地引渡し・赤穂城開城を要求し、 赤

  穂城開城後、 赤穂・浅野家旧臣の吉良邸討ち

  入りを妨害する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 浅野 綱長 (あさのつななが、藩主就任:167

  3〜1708年、生没年:1658〜1708年)は、

  広島藩主で、 赤穂・浅野家(赤穂藩)の本家

  ある、広島・浅野本家の当主 である。

     広島・浅野本家は、赤穂・浅野家との連座

  (れんざ、まきぞえ処罰)を恐れて、 赤穂・浅野

  家旧臣の吉良邸討ち入りを妨害する。 

    広島・浅野本家当主で広島藩主の浅野 綱長

  は、 広島浅野本家より家臣を派遣し、 吉良邸

  討ち入りを止めさせるべく、 赤穂城開城後、赤

  穂浅野家・旧家臣(遺臣)の同志を説得して盟約

  から抜けさせるなど、 一党の切り崩しを図った。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。  

□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

#asanodaigaku(nagahiro)

 

■ 浅野大学(長広) 

      (あさのだいがく(ながひろ))。

 

■ 浅野大学(長広)。

■ 名称 : 浅野大学(長広) 

        (あさのだいがく(ながひろ))。

■ 生没年 : 1670〜1734

■ 赤穂藩主の世子。 元禄赤穂事件を起こした

   赤穂藩主(赤穂・浅野家当主)の浅野内匠頭

   (長矩)の実弟で養嗣子(ようしし)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 浅野大学(長広) (あさのだいがく(ながひろ)、

  生没年:1670〜1734) は、 赤穂藩主

  (あこうはんしゅ)の世子であり、 元禄赤穂事

  を起こした 赤穂藩主(赤穂・浅野家当主)の

  浅野内匠頭(長矩) (あさのたくみ のかみ(な

  がのり))の実弟で、 養嗣子(ようしし)である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 浅野大学(長広)の氏名。

     浅野(あさの)は、一族名で、 大学だい

  くが)や長広ながひろ)は、個人名で、 大学

  通 称で、 長広(いみな) である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 浅野内匠頭(長矩)の実弟で旧赤穂藩(赤穂・

  浅野家)養嗣子である、浅野大学(長広)(あさ

  のだいがく(ながひろ))は、 1701年(元禄

  14年)3月の浅野内匠頭(長矩)の松之廊下の

  刃傷(にんじょう)の事件後、 閉門(へいもん)

  となる。 

    後に、1702年(元禄15年)7月18日に、江

  戸幕府は、浅野大学(長広)に、領地を召(め)し

  上げ、 広島藩(広島・浅野宗家(本家))への永

  預かりを言い渡たした。 

     この処分で、 旧赤穂藩(赤穂・浅野家)

  活のお家再興の見込みが完全に絶たれる (絶

  望的となる)。 

     この処分を受け、 大石内蔵助(良雄)は、

  以後、 討ち入り一本と決め、堀部安兵衛(武

  庸)(たけつね)らの「仇討ち優先派」(江戸急進

  派)との対立は、ここに解消される。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ この時点で、 創作(フィクション)の忠臣蔵で

  「神文返し」の場面が出てくるが、 史実(歴史

  上の事実)ではない。

 

■ 赤穂・浅野家の養嗣子の浅野大学(長広)。

    浅野内匠頭(長矩)の実弟で旧赤穂藩(赤穂・

  浅野家)の養嗣子である、浅野大学(長広)(あさ

  のだいがく(ながひろ)、1670〜1734年) は、

  1702年(元禄15年)7月に、 江戸幕府により、 

  浅野大学(長広)は、領地 ・3000石を召(め)し

  上げられ、 広島・浅野宗家(本家)へ永預けと

  なる。

    その後、 浅野大学(長広)は、 1709年(宝

  永6年)8月に、江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉

  の死去に伴う大赦で許され、 1710年(宝永7

  年)9月に、 新将軍・徳川家宣に拝謁し、 安房

  国(あわのくに、千葉県南部)に500石の所領を

  賜(たまわ)り、旗本に復した。 これとは別に浅

  野宗家(本家)からも300石が浅野大学(長広)

  に継続的に支給された。 ここに、 赤穂・浅野

  家は、旗本ながら、お家再興を果たした。 

     1734年(享保19年)6月に、 浅野大学

  (長広)は、 65歳で死去し、 兄の浅野内匠頭

  (長矩)や赤穂浪士と同じ江戸の高輪・泉岳寺

  (たかなわ・せんがくじ)に葬られた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 浅野大学(長広) が登場する、 興味深

    い、ドキュメンタリー、ドラマ、映画。 

 

★ 浅野大学(長広) が登場 する、興味深い、

   ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 忠臣蔵 瑤泉院の陰謀 (ちゅう

     しんぐら ようぜいんのいんぼう) 』。 

    (テレビ東京・2007年制作テレビドラマ)。

■ 江戸時代中期の日本を描いたドラマ。

■ 元禄赤穂事件を描いたたドラマ。

 

● 浅野大学(長広)を演じた俳優 : 伊澤 健。

 

● 浅野内匠頭を演じた俳優 : 高嶋政伸。

● 瑤泉院(阿久利)を演じた女優 : 稲森いずみ。

● 大石内蔵助を演じた俳優 : 北大路欣也。

● お喜世(左京の局)を演じた女優 : 吹石一恵。

● 堀部安兵衛を演じた俳優 : 山田純大。

 

■ 『 忠臣蔵 その義 その愛 (ちゅう

      しんぐら そのぎ そのあい) 』 。  

    (テレビ東京・2012年1月2日・

     本放送・テレビドラマ)。

■ 江戸時代中期の日本を描いたドラマ。

■ 元禄赤穂事件を描いたたドラマ。

 

● 浅野大学を演じた俳優 : 浜口 望海。

 

● 浅野内匠頭を演じた俳優 : 市川染五郎。

● 吉良上野介を演じた俳優 : 柄本 明。

● 大石内蔵助を演じた俳優 : 舘 ひろし。

● 瑤泉院(あぐり)を演じた女優 : 田中美里。

● 堀部安兵衛を演じた俳優 : 内野 聖陽。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。  

□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

#asanotakuminokami(naganori)

 

■ 浅野 内匠頭(長矩) 

      (あさの たくみのかみ(ながのり))。

 

■ 浅野 内匠頭(長矩)。

■ 名称 : 浅野 内匠頭(長矩) (あさの たくみ

   のかみ(ながのり))。

■ 生没年 : 1665〜1701年

■ 江戸時代の播州・赤穂藩・藩主(赤穂・浅野家

  当主)。

■ 元禄赤穂事件の加害者で、元禄赤穂事件を発

  生させた大名。

■ 幕命(ばくめい、幕府の命令)により、1701年

  (元禄14年)2月〜3月に、江戸城で、朝廷の年

  賀使の接待役当番となる。

 

□ 元禄赤穂事件 (全体)

□ 浅野内匠頭(長矩)が登場する、興

   味深い、ドキュメンタリー、ドラマ、

   映画。 

 

 

■ 浅野 内匠頭(長矩) (あさの たくみのかみ(な

  がのり)、生没年:1665〜1701年) は、 

  戸時代の、 播州(ばんしゅう、播磨、兵庫県南

  部)の、 赤穂藩・藩主(赤穂・浅野家当主) で

    あった

 

■ 浅野 内匠頭(長矩)の氏名。

     浅野(あさの)は、一族名で、 内匠頭たく

  みのかみ)や長矩ながのり)は、個人名で、 

  匠頭律令官名(りつりょうかんめい)で、  長矩

  (いみな) である。

 

■ 浅野内匠頭(長矩) は、元禄赤穂事件の加害

  者で、 元禄赤穂事件を発生 させた大名である。

 

■ 浅野内匠頭(長矩) は、 江戸幕府の、幕命(ば

  くめい、幕府の命令)により、 1701年(元禄14

  年)2月から3月まで、 江戸城で、朝廷の年賀使

  の接待役当番となる。

 

 

■ 浅野内匠頭(長矩)。

■ 江戸幕府第5代将軍の、徳川 綱吉 (とくがわ

  なよし 、将軍就任:1680〜1709年、生没 

  年:1646〜1709年) は、比較的朝廷への

  慣例を重視し、 毎年、朝廷へ年賀の使者を参

  内(さんだい)させると同時に、 朝廷からの返

  礼として、勅使・院使(ちくし・いんし)の江戸下

  向(げこう)が毎年行われた。

     江戸に下向する勅使・院使の接待として、

  江戸幕府は、 饗応役(きょうおうやく)を設置し、

  中小大名にその役目を命じた。

 

■ 1701年(元禄14年)2月4日に、 江戸幕府

  は、 勅使饗応役 (ちょくしきょうおうやく、朝廷

  の天皇の使者の接待役) として、 赤穂藩(あ

  こうはん、赤穂・浅野家)・藩主・浅野内匠頭(長

  矩) (あさのたくみのかみ(ながのり)、1665

  〜1701年) を任(にん)じ、 院使饗応役(い

  んしきょうおうやく、朝廷の上皇の使者の接待

  役) として、 伊予吉田藩(いよよしだはん、伊

  予(愛媛県)の宇和島藩の支藩)の、藩主・伊達

  宗治 (だてむねはる、律令官名:左京亮(さきょ

  うのすけ)、後に伊達村豊(むらとよ)、1682〜

  1737年) を任じ、指南役(しなんやく)に、 高

  家(こうけ、江戸幕府の儀式指導係)・筆頭の、

  吉良上野介(義央) (きらこうずけのすけ(よしな

  か・よしひさ)、1641〜1702年) を指名した。

     浅野内匠頭(長矩)は、 1683年(天和3

  年)に、一度、勅使饗応役に命ぜられており、吉

  良上野介(義央)の指南のもと、 勅使饗応役を

  務(つと)め上げていた。

 

■ 勅使・院使一行  (ちょくし・いんしいっこう)は、 

  1701年(元禄14年)3月11日から15日まで

  江戸に滞在する予定で、 3月12日に、江戸城

  で、将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)に 「勅

  宣」 (ちょくせん、勅命の宣旨(せんじ)、みこと

  のり)、 「院宣」(いんぜん) の伝奏(で んそう)

  を行い、 3月13日に、江戸城で猿楽能を観賞 

  し、 3月14日に、江戸城で、将軍・徳川綱吉

  り「奉答の儀」(ほうとうのぎ)を受け、 3 月15

  日に、芝・増上寺(しば・ぞうじょうじ)に参拝し、

  帰京(ききょう)する(京(都)に帰る)予定になっ

  ていた

 

■ 京(都)より江戸に下向した勅使・院使一行 は、 

  1701年(元禄14年)3月11日に、 江戸に到

  着し、 伝奏屋敷(でんそうやひき)に滞在した。

     勅使・院使一行は、 1701年(元禄14年)

  3月12日に、 伝奏屋敷から、江戸城に登城し、 

  江戸城・本丸御殿 (えどじょう・ほんまるごてん、

  現在の皇居東御苑(こうきょひがしぎょえん))

  ある、白書院 (しろしょいん) にて、 将軍・

  川綱吉(つなよし) に「勅宣」 、「院宣」の伝奏

  行った。

     勅使・院使一行は、 1701年(元禄14年)

  3月14日に、 江戸城・本丸御殿・白書院にて、

  「勅宣」、「院宣」に対して返事を奏上(そうじょう)

  するという「奉答の儀」が執(と)り行われ予定で

  あり、 勅使・院使一行は、江戸城に登城し、 将

  軍・徳川 綱吉から、「奉答の儀」を受ける予定で

  あった。

     ところが、1701年(元禄14年)3月14日の

  巳の刻(みのこく、午前9時すぎ)に、 江戸城・本

  丸御殿で、 「奉答の儀」が行われる白書院へ と

  つながる松之廊下(まつのろうか)において、 赤

  穂藩主の浅野内匠頭(長矩)が、 高家・筆頭の

  吉良上野 介(義央)斬(き)りかかった。

 

■ 勅使(ちょくし、朝廷の天皇の使者)の江戸下向

  時の接待役の赤穂藩(あこうはん)藩主・浅野内

  匠頭(長矩)(あさのたくみのかみ(ながのり))に、 

  吉良上野 介(義央) (きらこうずけのすけ(よしな

  ・よしひさ))が、典礼を指導した。 

     しかし、 短慮な性格で 吉良上野介(義央)

  と接待費減額の件でもめていた、赤穂藩主の浅

  野内匠頭(長矩)は、 1701年(元禄14年)3月

  14日に、 江戸城中で、幕府の高官で幕府の儀

  式典礼をつかさどる高家(こうけ)筆頭・吉良上野

  介(義央)に、殿中 (でんちゅう、江戸城中)で、斬

  (き)りかかった。  吉良は、軽傷で、助かった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 江戸城の本丸御殿(ほんまるごてん)の表(お

  もて)には、 障壁画に松を描いた「松之廊下」

  (まつのろうか) があった。 

    「松之廊下」は、 江戸城で一番長い廊下で、

  全長約55mもあり、 刃傷(にんじょう)事件が

  起こった場所である。 「松之廊下」は、 徳川

  綱吉(つなよし)の 治世に、 1701年(元禄

  14年)3月14日に、 赤穂藩主(あこうはんしゅ)

  の、浅野内匠頭(長矩) (あさのたくみのかみ

  (ながのり)、1665〜1701年が、 高家筆

  頭 (こうけひっとう、江戸幕府の儀式指導係筆

  頭) の、吉良上野 介(義央) (きらこうずけの

  すけ(よしなか・よしひさ)) を斬(き)りつけた場

  所で、 元禄赤穂事件 (げんろくあこうじけん、

  赤穂事件、1701〜1703年) が発生した場所

  である。 

     浅野内匠頭(長矩 )は、 たまたま、勅使(ち

  ょくし、朝廷の 天皇の使者)の接待係になり、 

  傷(にんじょう)の動機では、 浅野内匠頭(長矩 )

  は、 江戸幕府の老中から、従来(例年)の接待

  費を1200両から700両に減額するように言わ

  れそれに従うと、 高家(儀式指導係)の吉良上 野

  (義央)から接 待費を従来(例年)の接待費と

  同じとし接待費を減らさないように言われ、 板ば

  さみとなり、 吉良上野介(義央)と不和 になった。 

     そして、1701年(元禄14年)3月14日に、

  薄暗い松之廊下(まつのろうか)で、 吉良上野介

  (義央)旗本の梶川頼照(かじかわよりてる)が

  儀式の段取りについて立ち話をしていた時、 短

  慮な性格で吉良上野介(義央)と接待費減額の件

  でもめていた浅野内匠頭(長矩 )は、 吉良上野

  (義央)に 小刀(短刀、約30cm)で4回斬(き)

  りつけ、 最初は、約1.5mの距離で、吉良の背

  後(後姿)に斬りかかり、 その後、振り向いた吉

  良に斬りつけ、 更に、しつこく追いかけ2回斬り

  つけて、 その後、 梶川与惣兵衛(頼照)、伊達

  宗治、その他近くにいた者に取り押さえられた と

  いう説がある (梶川氏日記より)。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 梶川与惣兵衛(頼照)は、元禄赤穂事件の刃傷

  (にんじょう)、その他の出来事を記した、梶川氏

  日記(かじかわしにっき、梶川与惣兵衛日記)を

  残し、元禄赤穂事件を知る、一次的史料となって

  いる。

 

■ 江戸幕府第5代将軍の、徳川 綱吉(とくがわ

  つなよし) は、 1701年(元禄14年)3月14

  日の事件の起こった当日に、 柳沢吉保(やなぎ

  さわよしやす)を通じて、 その知らせを聞いて、 

  朝廷との儀式を台無しにされたとして激怒(げき

  ど)し、 当日、 浅野内匠頭(長矩)の即日切腹 

  と 赤穂・浅野家(赤穂藩)の改易(かいえき、領

  地没収)を命(めい)じた。

     浅野内匠頭(長矩)の切腹は、 殿中抜刀

  (でんちゅうばっとう、禁じられている江戸城中で

  刀を抜いた罪) 及び、 傷害・殺人未遂の罪に

  よるものであった。

     吉良上野 介(義央)のお咎(とが)め無しは、

   浅野内匠頭(長矩)の殿中抜刀に吉良が手向

   かいしなかったことが殊勝(しゅしょう)であると

   されたためであった。

     慎重な取調べをせず、大名が事件当日に即

  日切腹することは異例のことで、 将軍・徳川 綱

  が異例ともいえる決定を下したのは、 勅使(ち

  くし、朝廷の 天皇の使者)に対し、 自らの天皇へ

  忠誠 心をアピールし、綱吉の生母・桂 昌院(け

  いしょういん)最大の念願である、従一位(じゅい

  ちい)叙任の位階(いかい)を取り消されないよう

  にするためだったと言われている。

      将軍・徳川綱吉は、 喧嘩両成敗(けんかり

  ょうせいばい)を無視し、 慎重な取調べをせず、 

  江戸幕府の 綱吉の命(命令)で、 吉良上野介

  (義央)はお咎(とが)めなしとし(罪なしとし)、

  野内匠頭(長矩) は即日切腹となり、 即日、赤

  穂藩(赤穂・浅野家)は、改易(かいえき、領地没

  収) と決定された。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 刃傷(にんじょう)の事件後、 江戸幕府は、す

  ぐさま、勅使饗応役を戸田忠真へと交代し、「奉

  答の義」は、白書院から黒書院へと移された。

  

■ 赤穂藩主の浅野内匠頭(長矩) (あさのたくみ

  のかみ(ながのり)) は、 芝・愛宕下 (しば・

  あたごした、現在の東京都港区新橋4丁目) の、

  陸奥の一関藩 (いちのせはん、岩手県一関市

  (いちのせし)) の藩主・田村 建顕 (たむらた

  つあき、律令官名:右京大夫(うきょうのだいぶ)、

  武官名:因幡守(いなばのかみ)、1656〜170

  8年) の屋敷にお預けとなる。

     浅野内匠頭(長矩)は、 江戸幕府の検使

  の正使・大目付・庄田安利 (しょうだやすとし、下

  総守(しもうさのかみ)) や 副使・目付・多門伝

  八郎(重共)ら が立会い、 田村邸(一関藩・藩

  邸)の、座敷でなく、白砂(庭先)にて、 1701年

  (元禄14年)3月14日の、六つ半 (午後7時40

  分頃)に、 切腹する。

     浅野内匠頭(長矩)の、辞世(じせい) は、

  「風さそう 花よりも猶 我はまた 春の名残を

  いかにとか(や)せん」 であった。

    江戸幕府・目付で、浅野内匠頭(長矩) の切腹

  時の副検視役を務(つと)めた、多門伝八郎(重

  共)は、元禄赤穂事件の、刃傷(にんじょう)、その

  他の出来事を記した「多門筆記」を残し、元禄赤穂

  事件を知る一次的史料となっている。

     その後、 浅野内匠頭(長矩)は、 赤穂・浅

  野家の菩提寺(ぼだいじ)の江戸・高輪(たかな

  わ)の泉岳寺(せんがくじ、東京都港区高輪)に葬

  られた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#asanotakuminokami(naganori)-thegenrokuakoincident

 

■ 元禄赤穂事件。

■ 元禄赤穂事件 (げんろくあこうじけん)は、 赤

  穂事件、赤穂浪士討ち入り(あこうろうしうちいり)

  事件とも言う。 

     元禄赤穂事件をモデル(題材)にした創作

  (フィクション)の物語 「忠臣蔵(ちゅうしんぐら)」

  は、有名である。

● TKKI カナヤマ著 日本歴史の驚異の出来事。

 

■ 元禄赤穂事件・赤穂浪士の討ち入りの概要。

     1701年(元禄14年)3月に、 江戸城内で、

  赤穂藩(あこうはん、赤穂・浅野家)・藩主浅野

    内匠頭(長矩) (あさのたくみのかみ(ながのり)) 

  が、 高家(こうけ、江戸幕府の儀式 指導係)・筆

  頭の、吉良上野介(義央) (きらこうずけのすけ

  (よしなか・よしひさ)) に斬(き)りつけ、 浅野

  内匠頭(長矩) は、 即日切腹(せっぷく)し、 赤

  穂藩(赤穂・浅野家)は、即日 改易(かいえき、

  没収)と 決まり、 赤穂藩(赤穂・浅野家)の元家

  老・大石内蔵助(良雄) (おおいしくらのすけ(よし

  たか・よしお))は、 お家再興(おいえさいこう、赤

  穂・浅野家再興) を願い出るが許されず、 17

  02年(元禄15年)12月に、 大石内蔵助(良雄) 

  ら赤穂藩(赤穂・浅野家)の旧家臣47人 が、 吉

  良邸(きらてい)に討ち入り、 吉良上野介(義央)

  を殺害し、 1703年(元禄16年)2月に、 赤穂

  (赤穂・浅野家)の旧臣46人 (他の1人は、 討

  ち入り後、立ち去る) が、切腹する。

● TKKI カナヤマ著 日本歴史の驚異の出来事。

 

 

#asanotakuminokami(naganori)-appearingscenes

 

♪♪ 浅野内匠頭(長矩) が登場する、

  興味深い、ドキュメンタリー、ドラマ、

  映画。 

 

★ 浅野内匠頭(長矩)が登場す る、興

  味深い関連ドキュメンタリー。 

 

■ ザ・プレミアム 『 よみがえる江戸

   城 』。 

    (NHKテレビ・2014年1月4日・本放送・ドキュ

   メンタリー)。

■ 元禄赤穂事件(1701〜1703年)の、江戸城

  の松之廊下の浅野内匠頭(長矩 )の刃傷(にん

  じょう)について述べる。

■ 江戸城の詳細について述べる。

■ 江戸城の本丸御殿を、 江戸時代に製作され

  た建築図面、下絵等に基づいて、 CG(コンピ

  ュータ・グラフィックス)で、再現した。

■ 江戸幕府の将軍の一日の生活を述べる。

 

 

★ 浅野内匠頭(長矩) が登場 する、

  面白く、興味深い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 忠臣蔵 瑤泉院の陰謀 (ちゅう

     しんぐら ようぜいんのいんぼう) 』。 

   (テレビ東京・2007年制作テレビドラマ)。

■ 江戸時代中期の日本を描いたドラマ。

■ 元禄赤穂事件を描いたたドラマ。

 

● 浅野内匠頭を演じた俳優 : 高嶋 政伸。

 

● 瑤泉院(阿久利)を演じた女優 : 稲森 いずみ。

● 大石内蔵助を演じた俳優 : 北大路 欣也。

● お喜世(左京の局)を演じた女優 : 吹石 一恵。

● 堀部安兵衛を演じた俳優 : 山田 純大。

 

■ 『 忠臣蔵 その義 その愛 (ちゅう

      しんぐら そのぎ そのあい) 』 。  

   (テレビ東京・2012年1月2日・本放送・テ

   レビドラマ)。

■ 江戸時代中期の日本を描いたドラマ。

■ 元禄赤穂事件を描いたたドラマ。

 

● 浅野内匠頭を演じた俳優 : 市川 染五郎。

 

● 吉良上野介を演じた俳優 : 柄本 明。

● 大石内蔵助を演じた俳優 : 舘 ひろし。

● 瑤泉院(あぐり)を演じた女優 : 田中 美里。

● 堀部安兵衛を演じた俳優 : 内野 聖陽。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。  

□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

#arakimurashige

 

■ 荒木 村重  

      (あらき むらしげ)。

 

■ 荒木 村重。

■ 名称 : 荒木 村重 (あらき むらしげ)。

■ 生没年 : 1535〜1586年。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 荒木村重 (あらきむらしげ、生没年:1535年ー

  1586年) は、 安土桃山時代の武将、大名

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

                              

■ 荒木村重は、 1573年に織田信長の家臣となり、

  その後、摂津の国主となった。 

     しかし、荒木村重は、1578年に、信長に反

  旗を翻(ひるがえ)し(信長にそむき)、信長に攻

  められて1579年に、本城の有岡城が落城し、逃

  走した。 

     その後、荒木村重は、毛利氏を頼ったのち、

  茶道で豊臣秀吉に近侍(きんじゅう)した。

 

■ 荒木村重は、 初め、池田氏に仕(つか)え、次

  に織田信長に仕えて、 摂津国(せっつのくに、

  大阪府北西部)の 伊丹城主 となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 荒木村重は、 1578年に、織田信長に反(は

  ん)し、 敗れて毛利氏を頼り、 剃髪(ていは

  つ)して茶道に親しみ、千利休の高弟となった。

 

■ 1578年7月に、 荒木村重(あらきむらしげ)

  が織田信長に対し謀反(むほん)を起こし (有岡

  城の戦い(1578年7月〜1579年10月)、 

  田 官兵衛(孝高)は、 荒木村重を翻意 (ほんい)

  させるため (謀反をやめ織田氏に再びつかせる

  ため)、 1578年11月頃、荒木村重の有岡城

  (ありおかじょう)に乗り込んだが、成功せず、 約

  1年間、幽閉される。 

     荒木村重は、同盟関係にある小寺政職(こで

  らまさもと)の手前、 黒田官兵衛(孝高)を捕らえ

  て牢獄(ろうごく)に閉じ込めてしまった。 約1年

  後、黒田 官兵衛(孝高)は、 1579年10月に、

  荒木村重の有岡城が落城し、救出される。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 荒木村重の、正室夫人は、 だし である。

    だし は、 有岡城落城時取り残され捕まり、信

  長への反逆者・荒木村重の親族や家臣家族の女

  性・子供と共に、 信長への反逆者の見せしめとし

  て、 京(都)で引き回しの上、処刑される。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 荒木村重 が登場する興味深い、ドキ

   ュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★  荒木村重 が登場する、 興味深い関連

   ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が 混じって描かれていま

  す。 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 軍師 官兵衛 』。 

   (NHKテレビ・2014年大河ドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

● 黒田 官兵衛を幽閉する、荒木村重を演じ

  た俳優 : 田中 哲司 (たなか てつし)。

 

● 荒木村重の正室夫人・だしを演じた女優名

  : 桐谷 美玲。

● 黒田 官兵衛の最初の主君の小寺政職(こ

  でらまさもと)を演じる俳優 : 片岡鶴太郎。

● 別所長治を演じた俳優名 : 入江 甚儀

  (いりえ じんぎ)。

● 黒田 官兵衛を演じる俳優名: 岡田 准一。

 

■ 『 戦国疾風伝 (せんごくしっぷうでん) 

   二人の軍師〜秀吉に天下を獲ら

   せた男たち 』 

    (テレビ東京・2011年放映テレビドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

● 荒木村重を演じた俳優名 : 山田純大。

 

● 黒田 官兵衛を演じた俳優名: 高橋 克典 

  (たかはし かつのり)。

● 小寺政職(こでらまさもと)を演じた俳優名: 

  品川 徹。

● 織田信長を演じた俳優名 : 加藤雅也。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。  

□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

#theainujapanesepeople

 

■ アイヌ人 

      (あいぬじん)。

 

■ アイヌ人。

■ 名称 : アイヌ人 (あいぬじん)。

■ 英語名 : 

  The Ainu Japanese  People。

■ 存在時期と居住地 : 

  中世日本前期〜 現代日本(鎌倉 〜平成時代)

  に、北海道で居住する人々。

■ 縄文・北アジア諸民族・混血系の人々。

■ アイヌ人。

  <日本人(日本常住民)。

  <モンゴロイド。

  <現生人類(= 新人、ホモ・サピエンス種)。 

■ 北海道の歴史の詳細に関しては、「北海道の

  歴史」を参照してください。

■ 日本人のルーツ(起源)の詳細に関しては、

  日本史辞典の「日本人」、「原日本人」や「日本

  人ルーツ・ガイドブック」を参照してください。

 

□ アイヌ人の学術分類表  

 

 

■ (紀元後)13世紀頃に、 縄文系の人々は、交

  流する北アジアの諸民族と混血して、「アイヌ人

  を形成する。

 

■ 「アイヌ人」は、  (紀元後)13世紀頃に、 北海

  道で形成された人々である。 自然と共生しなが

  ら独自の文化を築く。 縄文系の、蝦夷ヶ島人、

  蝦夷人(えぞじん)が、 アイヌ人となる。

     「アイヌ人」は、 古モンゴロイドの縄文人の

  「縄文系」 と 北アジアの諸民族との混血の人

  々 である。

     「アイヌ人」は、 「縄文・北アジア諸民族・

  混血系」の現生人類(= 新人、ホモ・サピエンス)

  である。

     北海道では、明治時代以降、「本土日本人」

  が本格的に移住し、 「アイヌ人」は、土地を奪わ

  れ人口が激減し、現在、「アイヌ人」は、少ない。

● 「アイヌ人」や北海道(蝦夷地(えぞち))の歴

  史の詳細に関しては、「北海道の歴史」を参照

  してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ アイヌ人は、 現在、 北海道を中心にいるが、 

  数が少ない。 

 

■ アイヌ人 (あいぬじん)は、 北海道(蝦夷ヶ島)

  原住の縄文系(古モンゴロイド)の現生人類 で

  ある。 

 

■ アイヌ人は、 中世日本前期〜 現代日本 (鎌倉

   〜平成時代)の時期に、 北海道で居住する。

 

■ アイヌ人は、 蝦夷ヶ島人(えぞがしまじん)、蝦

  夷人 である。

    アイヌ人の英語名は、The Ainu Japanese 

  People である。

 

■ アイヌ人は、 現生人類(= 新人ホモ・サピ エ

  ンス) のモンゴロイドであり、 中世日本以後、日

  本地域の、北海道を原住とする、「縄文・北アジ

  ア諸民族・混血系」の人類 である。

 

 

■ アイヌ人は、 中世日本前期(鎌倉・建武時代)の

  13世紀頃、 日本地域の、北海道 で、 北海道

  に以前よりいた縄文系の古モンゴロイドの人々 と

  北アジアの諸民族とが混血して、 形成される。

    アイヌ人は、 中世日本(鎌倉〜室町時代)以

  後、 日本地域の、北海道を原住とする、縄文・北

  アジア諸民族・混血系 の現生人類(= 新人、ホ

  モ・サピエンス) である。

 

 

◆ アイヌ人。

■ 北海道では、 古代日本の紀元(後)3世紀頃か

  ら1192年までの間、 縄文時代や弥生時代と

  同様に引き続き、 「古モンゴロイドの(旧土着系)

  縄文人」(古モンゴロイドの縄文系)の子孫 が暮

  らしていた(居住していた)。 この人達が、 交流

  する北アジアの諸民族と混血して、 13世紀頃、 

  アイヌ人となる。

    「アイヌ人」の英語名は、 he Ainu 

  Japanese People  である。

     明治時代以後に、北海道では、本土日本人

  の本格的な移住が始まり、 アイヌ人は土地を取

  り上げられ、人口が大減少し、現在の北海道の

  ほとんどの住民は、 本土日本人である。

 「アイヌ人」や北海道(蝦夷地(えぞち))の歴

  史の詳細に関しては、「北海道の歴史」を参照

  してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

 原日本人。

■ 原日本人 (げんにほんじん) とは、 古モンゴロ

  イドの「縄文人」 と 新モンゴロイドの「渡来系

  生人」 である。

    原日本人は、 中世日本 (鎌倉〜室町時代、

  1192〜1573年)より、 「本土日本人」、 「

  球人」、 「アイヌ人」 となる。

 

 

 日本人の形成過程簡略表。

■ 日本人のルーツ(起源)の詳細に関しては、

  当辞典の「日本人」 及び、  「日本人ルーツ・

  ガイドブック」を参照してください。

 

(1) 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス)  ⇒

(2) モンゴロイド ⇒

(3) 古モンゴロイド と 新モンゴロイド ⇒

(4) 原日本人の、 縄文系の古モンゴロイドの

   「縄文人」 と  弥生渡来系の新モンゴロイド

   の「渡来系弥生人」 ⇒

(5) 中世日本以後、 縄文・弥生渡来・混血系の

   「本土日本人」(= 本土人)、「琉球人」 と 

   文・北アジア諸民族・混血系の「アイヌ人」 ⇒

(6) 現在の日本人。

      現在のほとんどの日本人が、縄文・弥生渡

   来・混血系の「本土日本人(= 本土人)である。

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

 

■ 日本人(日本常住民)への進化表。

 ○ 化石類人猿(= 中新世ホミノイド) 

    (人類と類人猿の共通祖先)。

 ⇒ ○ 人類の、猿人 (直立二足歩行)。 

 ⇒ ○ 原人(= ホモ・エレクトス類) (肉食主食)。

 ⇒ ○ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類)。 

 ⇒ ○ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス種

      (アフリカで出現)。 

 ⇒ ○ モンゴロイド (アジアで容姿が変化)。 

 ⇒ ○ 縄文人。  

 ⇒ ○ 弥生人。 

 ⇒ ○ 古代日本人 (縄文・弥生渡来・混血系

      の本土日本人の形成)。  

 ⇒ ○ 「本土日本人」(= 本土人)、「琉球人」、

       「アイヌ人」。

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

■ 現代日本人(日本常住民)への進化表。

 ○ 化石類人猿(= 中新世ホミノイド) 

    (人類と類人猿の共通祖先)。

 ⇒ ○ 人類の、猿人 (直立二足歩行)。 

 ⇒ ○ 原人(= ホモ・エレクトス類) (肉食主食)。

 ⇒ ○ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類)。 

 ⇒ ○ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス 種

      (アフリカで出現)。 

 ⇒ ○ モンゴロイド (アジアで容姿が変化)。 

 ⇒ ○ 縄文人。  

 ⇒ ○ 弥生人。 

 ⇒ ○ 古代日本人 (縄文・弥生渡来・混血系の

      本土日本人の形成)。  

 ⇒ ○ 中世日本人。 

 ⇒ ○ 近世日本人。 

 ⇒ ○ 近代日本人

 ⇒ ○ 現代日本人

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

■ モンゴロイドへの進化表。

 ○ 化石類人猿(= 中新世ホミノイド) 

    (人類と類人猿の共通祖先)。

 ⇒ ○ 人類の、猿人 (直立二足歩行)。 

 ⇒ ○ 原人(= ホモ・エレクトス類) (肉食主食)。

 ⇒ ○ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類)。 

 ⇒ ○ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス 種

      (アフリカで出現)。 

 ⇒ ○ モンゴロイド (アジアで容姿が変化)。 

  → ○ 古モンゴロイ = 南方モンゴロイド)

      (約4万年前に、アジア南東部で出現)。

  → ○ モンゴロイド= 北方モンゴロイド)

      (約2万年前に、シベリア東部(北アジ

      ア東部)で出現)。

● TKKI カナヤマ著 古人類学辞典。

 

 

#theainujapanesepeople-theclassificationtable

 

■ アイヌ人の学術分類表 。  

    (詳細上位分類、上位所属の分類、日本語名・

    学名・英語名対照)。

○ THE SCIENTIFIC CLASSIFICATION 

  TABLE OF THE AINU JAPANESE 

  PEOPLE.

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典  71229。

 

■ アイヌ人

      (英語名: THE AINU JAPANESE PEOPLE)。

 

■ 地球生物            LIFE ON EARTH。

⇒ 真核生物。        (ドメイン: 真核生物域 

                   Domain Eukaryota) 

                   (英名: EUKARYOTE(S))。

⇒ 動物。           ( 界 : 動物界    

                   Kingdom Animalia) 

                                   (英名:ANIMAL (S))。

⇒ 脊索(せきさく)動物。 ( 門 : 脊索動物門   

                      Phylum Chordata) 

                    (英名:CHORDATE (S))

⇒ 脊椎(せきつい)動物。 (亜門 : 脊椎動物亜門 

                       Subphylum Vertebrata) 

                    (英名:VERTEBRATE(S))

                  ● TKKI カナヤマ著 日本史

                  辞典。

⇒ 有顎(ゆうがく)動物   (下門 : 有顎動物下門 

  (顎口類、有顎類)。      Infraphylum

                    Gnathostomata) 

                    (英名: VERTEBRATE (S)

                    WITH JAW)。

⇒ 四肢(しし)動物。    (上 : 四肢動物上綱 

                    Superclass Tetrapoda ) 

                   (英名:TETRAPOD (S))  

⇒ 有羊膜類。         (ランク(階級)なし   

  (ゆうようまくるい)      Amniota) 

                   (英名:AMNIOTE (S))。   

⇒ 哺乳類。         (  綱  : 哺乳   

                    Class Mammalia) 

                  (英名:MAMMAL(S))。

⇒ 獣類。           (亜綱  : 亜綱    

                  Subclass Theria) 

                  (英名:THERIAN(S))。

⇒ 真獣類 (正獣類)  綱  : 真獣下(正獣下)  

  (有胎盤類、有胎盤     Infraclass Eutheria)         

  哺(ほ)乳類)。       (英名:EUTHERIAN(S)) 

                   (英名:PLACENTAL 

                  MAMMAL(S)) 。

                      ● TKKI カナヤマ著 日本史

                  辞典。

⇒ 霊長類。          目  : 霊長目(サル目)    

                     Order Primates) 

                    (英名:PRIMATE(S))。

 

⇒ 直鼻猿類 (新分類法)。亜目 : 直鼻猿亜目    

                   Suborder Haplorrhini) 

                   (英名:HAPLORRHINE(S))。

   真猿類   (新分類法)。下目 : 真猿下目 

                     Infraorder Simiiformes) 

                    (英名: SIMIAN(S))。

   狭鼻猿類 (新分類法)。小目 : 狭鼻小目 

                    Parvorder Catarrhini  ) 

                    (英名: CATARRHINE(S))。

 または、

   真猿類   (旧分類法)。亜目 : 真猿亜目  

                    Suborder Simiiformes) 

                    (英名: SIMIAN(S))。

    狭鼻猿類 (旧分類法) 。(下目 : 狭鼻下目  

                   Infraorder Catarrhini) 

                   (英名: CATARRHINE(S))。

⇒ ホミノイド           (上科 : ヒト上科   

  (類人猿と人類)。       Superfamily Hominoidea) 

                    (英名: HOMINOID(S))。

⇒ 大型類人猿と人類    ( 科 : ヒト科     

 (オランウータン、ゴリラ、   Family Hominidae)      

 チンパンジーと人類)。    英名: NONHUMAN GREAT  

                    APE(S) AND HUMAN(S))。

                    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

⇒ ゴリラとチンパンジ   亜科 : ヒト亜科   

  ーと人類。          Subfamily Homininae)   

                   (英名:  HOMININE(S))。

⇒ チンパンジーと人類。 ( 族 :  ヒト族      

                   Tribe Hominini) 

                  (英名 :HOMININ(S))。

⇒ 人類。                  (亜族 : ヒト亜族    

                   Subtribe Hominina) 

                  (英名: HUMAN(S))。       

⇒ ヒト属(= ホモ属)    ( 属  : ヒト属(= ホモ属)         

  の人類。           Genus Homo) 

                  (英名: HUMAN(S) OF   

                  THE GENUS HOMO)。       

⇒ ホモ・サピエンス       ( 種   ホモ・サピエンス種    

 (= 現生人類、新人)。    Species Homo sapiens) 

                   (英名: HOMO SAPIENS,

                  EXTANT HUMAN  SPECIES)。

⇒ ホモ・サピエンス     ( 亜種   ホモ・サピエンス・サピ

  サピエンス。         エンス亜種    

                  Subspecies Homo 

                  sapiens sapiens 

                   (英名: HOMO SAPIENS  

                  SAPIENS)。

⇒ モンゴロイド        (グループ:  モンゴロイド・グループ

  (= アジア人種)。      Group Mongoloid)。

○ 「古モンゴロイド」     (英名: MONGOLOID(S))。  

 と 「新モンゴロイド」。    ○ モンゴロイドは、容姿・外見

                   (体色・体型) による、人種分類

                  グループの1つである。

                  ○ モンゴロイドは、 古モンゴロ

                  イド(= 南方モンゴロイド、英:

                  SOUTHERN MONGOLOID

                  (S)) と、 新モンゴロイド(= 北

                  方モンゴロイド、英:NORTHERN

                  MONGOLOID(S)) の2種類

                  に分かれる。

                    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

⇒ 縄文人。         (グループ : 縄文人グループ

                  Group Jomonjin people)。

                   (英語名: THE JOMONJIN 

                  PEOPLE)。

                  ○ 「縄文人」は、 古モンゴロイ

                  ド(= 南方モンゴロイド)の日本先

                  住民であ り、 原日本人 (英:

                  THE PROTO-JAPANESE 

                  RACE) の1グループであり、「縄

                  文系」  (英:THE JOMONKEI  

                  PEOPLE) の人々である。

⇒ 弥生人。          (グループ : 弥生人グループ

○ 「縄文系(在来系)     Group Yayoijin  people)。

 弥生人」  と          (英語名: THE YAYOIJIN

 「渡来系弥生人」。     PEOPLE)。

                  ○ 弥生人とは、「縄文系(在来

                  系)弥生人」 と 「渡来系弥生人」

                  である。

                  ○ 弥生人は、縄文時代(約1万

                  2000年前〜約2400年前)か

                  ら日本の先住民の古モンゴロイ

                  ド(= 南方モンゴロイド)の「縄文

                  系(在来系)弥生人」  と、 弥生

                  時代(約2400年前〜約1700

                  年前)にアジア大陸からの移住

                                    民の新モンゴロイド(= 北方モン

                  ゴロイド)の「渡来系弥生人」であ

                  る。

                               ○ 「渡来系弥生人」は、 原日本

                  人の1 グループであり、 「弥生

                  渡来系」 (英:THE YAYOI-

                  TORAIKEI PEOPLE) の人

                  々である。

                   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

⇒ 日本人。         (グループ : 日本人グループ

○ 「古代日本人」      Group Japanese  people)。

 → 「本土日本人」、     ( 英語名: THE JAPANESE

 「琉球人」、「アイヌ人」。  PEOPLE)。

○ 「古代日本人」      ○ 日本人は、  古代日本で形成さ

 → 「中世日本人」     れた。 

 → 「近世日本人」     ○ 日本人は、 古・新モンゴロイ ド

 → 「近代日本人」     混血の、「縄文・弥生渡来・混血系」

 → 「現代日本人」。    の、「本土日本人」や「琉球人」  と、 

                  古・新モンゴロイド混血の、「縄文・

                  北アジア諸民族・混血系」の、「アイ

                  ヌ人」の3種類の人類に分かれる。

                  ○ 日本人は、 古・新モンゴロイ ド

                  混血の、「縄文・弥生渡来・混血系」

                  の、「本土日本人」や「琉球人」 (英:

                  THE MAINLAND JAPANESE

                  PEOPLE, THE RYUKYU JA-

                                     PANESE PEOPLE) と、 古モン

                  ゴロイドの、縄文系の、 「アイヌ人」

                  (英:THE AINU JAPANESE 

                  PEOPLE) の3種類の人類に分

                  かれる。

                  ○ 現在のほとんどの日本人は、 

                  「本土日本人」である。

                  ○ 「本土日本人」は、 古代日本

                  後期に形成された。

                  ○ 「本土日本人」は、  「縄文人」

                  とその子孫の「縄文系」 と、 「渡

                  来系弥生人」とその子孫の「弥生

                  渡来系」 との混血の人類である。

                  ○ 「本土日本人」は、 古・新 (南

                  方・北方)モンゴロイド混血の、「

                  文・弥生渡来・混血系」 (英:THE 

                  JOMONKEI-YAYOITORAIKEI 

                  MIXED RACIAL PEOPLE) の

                  人々である。 

                  ○ 古代日本で形成された日本 人

                  は、時代と共に、「古代日本人」 か

                  ら、 「中世日本人」、「近世日本人」、

                  「近代日本人」、「現代日本人」へと  

                  少しずつ、 平均身長が伸びるなど、 

                  容姿・外見(体型・体色)を変化させ

                  ていった。

                    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

                  ○ 古代日本で形成された日本 人

                  は、時代と共に、「古代日本人」(英:

                  THE ANCIENT JAPANESE 

                  PEOPLE) から、 「中世日本人」、

                  「近世日本人」、「近代日本人」、

                  「現代日本人」 (英:THE ME-

                  DIEVAL JAPANESE PEOPLE, 

                  THE EARLY MODERN 

                  JAPANESE PEOPLE, THE 

                  MODERN JAPANESE PEOPLE,  

                   THE PRESENT-DAY JAPAN-

                                     ESE PEOPLE へと少しずつ、 平

                  均身長が伸びるなど、 容姿・外見

                  (体型・体色)を変化させていった。

                   

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ。 

□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

#theanseitreatyofamityandcommerce

 

■ 安政の五カ国条約 

     (あんせいのごかこくじょうやく)

 

■ 安政の五カ国条約。

■ 名称 : 安政の5カ国条約 (あんせいのごかこ

  くじょうやく)。

■ 英語名 : the Treaty of  Amity and 

  Commerce between Japan and

  Foreign Countries である。

■ 別名 : 修好通商条約 (しゅうこうつうしょうじ

  ょうやく)。

■ 1858年の安政の5カ国条約。

■ 1858年に、日本の江戸幕府が米・蘭・露・英・

  仏の欧米諸国と結んだ、修好通商条約

■ 治外法権、関税自主権の欠如の規定などがあ

  る、不平等条約。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。  

 

 

■ 「安政の5カ国条約」は、1858年に調印された

   5つの修好通商条約である。

    は、1858年に、日本の江

  戸幕府が米・蘭・露・英・仏の欧米諸国と結んだ、

  修好通商条約 である。

    安政の5カ国条約は、  領事裁判権(治外法

  権)、関税自主権の欠如の規定などがある、不平

  等条約 であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。  

 

■ 安政の5カ国条約 (あんせいのごかこくじょう

  やく) とは、 1858年(安政5年)に、日本と欧

  米5カ国との間で調印された、修好通商条約 (し

  ゅうこうつうしょうじょうやく) である。 

    修好通商条約の英語名は、the Treaty of 

  Amity and Commerce Between Japan 

  and Foreign Countries である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。  

 

■ 1858年の日米修好通商条約の取り決めの主

  な内容 は、 (1) 神奈川、長崎、新潟(にいが

  た)、兵庫(ひょうご) の開港 と、 江戸、大阪

  の開市(かいし)、 (2) 通商は、自由貿易とす

  ること、 (3) 開港場に居留地(きょうりゅうち)

  を設け、 一般外国人の、国内旅行を禁じること、 

  (4) 居留地内での、領事裁判権(りょうじさい

  ばんけん)を認めること (治外法権(ちがいほう

  けん))、 (5) 関税については、日本に税率の

  決定権はなく、 相互で協定して決める協定関

  税とすること (関税自主権の欠如(かんぜいじ

  しゅけんのけつじょ) などであった。

    後に日本にとって問題となるのが、 (4)の

  治外法権 と (5)の関税自主権の欠如 であ

  った。

     その後、 江戸幕府は、 1858年に、オラ

  ンダ、ロシア、イギリス、フランスとも、 同様の

  内容の修好通商条約を結んだ。 

     アメリカとの修好通商条約を含め、これら5

  カ国の修好通商条約を、「安政の5カ国条約」と

  いう。

    江戸幕府は、老中首座・堀田正睦の条約締

  結失敗後、大老・井伊直弼の条約締結実施によ

  り、約200年以上にわたる鎖国政策をやめ、完

  全に開国した。

    日本は、 江戸幕府・大老の井伊直弼の決断

  により、 欧米5カ国と修好通商条約に調印し、

  全開国した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。  

 

■ 日米修好通商条約を含め、1858年の修好通

    商条約(安政五か国条約)は、 領事裁判権を

  認める、関税自主権がない、などといった不平

  等条約 であった。 

    日本の明治政府(近代日本政府)の、長年

  の度重なる、条約改正交渉の結果、やっと、

  「安政の五か国条約」や「改税約書」の不平等

  条項の完全な撤廃が最終的に実現されたのは、

  日露戦争(1904〜05年)後の、明治時代末

  の1911年(明治44年)のことであった。

    その一例として、幕末の不平等条約である

  日米修好通商条約の不平等な 規定が撤廃され

  たのは、 1911年(明治44年)であった。 明

  治政府(近代日本政府)の外相の小村寿太郎 

  (こむらじゅたろう) が、アメリカと条約改正の

  交渉を行い、 1911年に、日米通商航海条約

  を調印し、 関税自主権の回復を果たした。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ。 

□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

 

#asukahakuhobunka

 

■ 飛鳥・白鳳文化 

      (あすか・はくほうぶんか)。

 

■ 飛鳥・白鳳文化。

■ 時期 : 紀元7世紀〜紀元8世紀初頭。

■ 名称 : 飛鳥・白鳳文化 (あすか・はくほ

  うぶんか)。

■ 大和時代後期の、 隋、唐、朝鮮の文化や 

  仏教文化 等を中心とする文化。

 

 

■ 飛鳥・白鳳文化  

  (紀元(後)7世紀〜紀元8世紀初頭)。

● 日本の飛鳥・白鳳(あすか・はくほう)文化 

  (紀元7世紀〜紀元8世紀初頭) とは、 大和

  時代後期の、 隋、唐、朝鮮の文化 や 仏教

  文化 等を中心とする文化である。 

 

■ 飛鳥文化は、7世紀前半の時期、 白鳳文化は、

  7世紀後半〜8世紀初頭の時期 の文化である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

● 飛鳥(あすか)文化の仏教文化は、氏族仏教、

  氏寺(うじでら) 等を特徴とする。

○ (飛鳥文化の例) 法隆寺(ほうりゅうじ)五重塔、 

  法隆寺玉虫厨子(たまむしのずし)。

 

 白鳳(はくほう)文化の仏教文化は、鎮護(ちん

  ご)国家、 大寺(だいじ)制、 国家保護 等を

  特徴とする。

○ (白鳳文化の例) 薬師寺東院堂聖観音(とう

  いんどうしょうかんのん)像。 高松塚(たかまつ

  づか)古墳壁画。 キトラ古墳壁画。

 

 

■ ヤマト政権 (大和朝廷) は、 4世紀後半から、

  7世紀後半まで、豪族による土地人民の私有 と

  氏姓制度による官職の世襲 を基礎にした、 地

  方分権国家の政治形態である、 豪族連合政治

  を行う。

 

■ (S1) 豪族連合政治 とは、 大王(おおきみ、

  天皇)を連合政治の盟主とし、 豪族の土地人民

  の私有と「氏姓制度」を基本にした政治形態 で

  ある。 

 

■ (T1) 豪族土地人民支配制 とは、 大王(天

  皇)を豪族の盟主とし、 豪族により土地人民の

  私有を基礎にして政治を行う、統治制度 である。

    豪族とは、地方の有力者 である。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。  

□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

#azumakagami

 

■ 吾妻鏡 

       (あずまかがみ)。

 

■ 吾妻鏡

■ 名称 : 吾妻鏡 (あづまかがみ)

■ 別名 : 東鑑。

■ 著者 : 北条得宗家 (ほうじょうとく

    そうけ)。 

■ 鎌倉時代(1300年頃)に成立。 

■ 平安時代末期、鎌倉時代を知る一次的史

  料。

 

 

■ 吾妻鏡 は、 平安時代末期、鎌倉時代を

  知る一次的史料 である。

■ 吾妻鏡 (あづまかがみ) は、 別名は東

  鑑とも言い、著者は、北条得宗家 (ほうじょ

  うとくそうけ)で、 鎌倉時代(1300年頃)に

  成立した。 

 

■ 「吾妻鏡」 (あづまかがみ、東鑑)  は、

   1180年から1266年までの鎌倉幕府関

   連の出来事を編年体で記した史料で、全 

   52巻 である。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。  

□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

#aterui

 

■ 阿弖流為 

       (あてるい)。

 

■ 阿弖流為

■ 名称 : 阿弖流為 (あてるい)。

  阿弖利為。

■ 生没年 : 生年不詳?〜802年。

■ 奈良時代末期、平安時代初期に活躍した

  蝦夷(えぞ、東北地方)の、陸奥国(むつのく

  に、福島県・宮城県・岩手県・青森県)の武人。

 

 

■ 阿弖流為 (あてるい、阿弖利為) は、 生

  没年は生年不詳?〜802年で、 奈良時代

  末期、平安時代初期に活躍した蝦夷(えぞ、

  東北地方)の、陸奥国(むつのくに、福島県・

  宮城県・岩手県・青森県)の武人 である。

     阿弖流為は、陸奥北部(岩手県付近)の

  有力者であった。

 

■  桓武天皇は、 蝦夷(えぞ、東北地方)を討

  ち、蝦夷(東北地方)を律令体制の中に組み

  入れる(朝廷の支配下に入れる)ことを強く望

  む。  

    桓武天皇の率いる朝廷は、 東北地方の

  陸奥国 (むつのくに、福島県、宮城県、岩手

  県、青森県) に、 金(きん)、砂鉄、毛皮(け

  がわ)、海産物などを得ることを望む。

 

■ 789年に、 征東大使・紀古佐美(きのこさ

  み)の率いる朝廷軍が、 蝦夷(えぞ、東北

  地方)の阿弖流為(あてるい)らの率いる蝦

  夷軍と戦い、大敗する。

    坂上田村麻呂 は、京(都)の中央の近

  衛府(このえふ)の武官であったが、 桓武

  天皇の命令で、 征東副使として791年よ

  り、朝廷軍を率いて、蝦夷(東北地方)討伐

  を行い、活躍し、 797年には征夷大将軍

  に任じられ、 801年に、蝦夷(東北地方)

  の阿弖流為(あてるい)、母礼(もれ)らの

  率いる蝦夷軍と戦い勝ち、 蝦夷(東北地

  方)を征服した。

    坂上田村麻呂 は、 802年に胆沢城

  (いさわじょう)を築(きず)き、鎮守府(ちん

  じゅふ)を多賀城(たがじょう)から胆沢城

  に移転する。 

    また、 802年に、阿弖流為(あてるい)、

  母礼(もれ)が投降(降伏)し、 坂上田村麻

  呂は、802年に投降(降伏)した蝦夷軍の

  リーダーの阿弖流為(あてるい)、母礼(も

  れ)を伴い、入京した。 坂上田村麻呂は、

  彼らの助命を嘆願(たんがん)したが、 京

  (都)の貴族に反対され、二人を処刑した。

    更に、坂上田村麻呂 は、 東北地方の

  陸奥に、803年には志波城(しわじょう)を

  築く(築造する)。

 

■ 本土日本人の形成。

■ 弥生時代初めにアジア大陸の中国地域から、朝

  鮮半島を経て、日本本土の九州に大挙やって来

  た、農耕主体の、弥生渡来系新モンゴロイドの人

  々は、 弥生時代とその後の古代日本(古墳、飛

  鳥白鳳、奈良、平安時代)の時期に、日本本土に

  住む縄文系古モンゴロイドの人々と混血しながら、 

  徐々に、 日本本土(九州、四国、本州)を北上す

  る。

     そして、古代日本後期(奈良・平安時代には、 

  農耕を行うため、 本州に住む弥生渡来系新モン

  ゴロイドの人々が北上し、東北地方に進出し、 一

  方、九州に住む弥生渡来系新モンゴロイドの人々

  は、南下し、南西諸島に進出し、 それぞれ、現地

  の縄文系古モンゴロイドの人々と一緒に住み

  血する

 「本土日本人」は、 古代日本後期(奈良・平 安時

  代)に、 日本地域の、日本本土で、 縄文 系古

  モンゴロイドの人々 と 弥生渡来系新モンゴロ

  イドの人々 とが混血して形成される。

 

 

★ 阿弖流為(あてるい)が登場する、 興味深い

   関連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画 は、史実(歴史上の事

  実) と 架空の出来事 が 混じって描かれ

  ています。 また、 現代風にアレンジしてあ

  ります。

 

■ 『 火怨(かえん)・北の英雄 アテル

    イ伝 』 

    (NHKテレビ・2013年スペシャルドラマ) 

       (歴史ドラマ、全4回) 

■ 日本の奈良時代末期、平安時代初期を描い

   た歴史ドラマ。

● 蝦夷(東北地方)軍のリーダーの一人、アテ

  ルイ (阿弓流為)を演じた俳優 : 

   大沢 たかお。

● 蝦夷(東北地方)軍のリーダーの一人、モレ

  (母礼)を演じた俳優 : 北村 一輝。

 

● 坂上田村麻呂を演じる俳優 : 高嶋 政宏。

● 桓武天皇を演じる俳優 : 近藤 正臣。 

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。  

□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

#theemperorantoku

 

■ 安徳天皇 

     (あんとくてんのう)。

 

■ 安徳天皇。

■ 生没年 : 1178〜1185年。

■ 名称 : 安徳天皇 (あんとくてんのう)。

■ 言仁(ときひと)親王 (天皇即位前の名)。

■ 平安時代末期の天皇。

■ 天皇在位、1180〜1185年 (幼帝)。

■ 高倉(たかくら)天皇の皇子(みこ)。

■ 平清盛の娘・平徳子(たいらのとくこ、建礼

  門院)と高倉(たかくら)天皇との間の子。

 壇ノ浦(だんのうら)の戦い時、平時子(平

  清盛夫人)と共に入水し死去。

 

□ 平安末期・ 鎌倉初期日本政治実

  権者変遷一覧表

 

 

■ 安徳天皇 は、 源平合戦で、伊勢平氏と共

  に西走し、1185年の壇ノ浦(だんのうら)の

  戦いで、平氏一門の平時子(たいらのときこ、

  平清盛・正室夫人、二位尼(にいのあま))と

  共に、入水し、死去する。

 

■ 安徳天皇 (天皇在位、1180〜1185年) 

  は、 1183年(寿永2年)に後鳥羽天皇が即

  位したため、1183〜85の間、後鳥羽天皇と

  天皇在位期間が重複している。

 

■ 安徳天皇 (あんとくてんのう) は、 生没年

  は1178〜1185年で、 平安時代末期の天

  皇で、 幼帝である。

    安徳天皇 は、 高倉(たかくら)天皇の皇

  子(みこ)で、 平清盛の娘・平徳子(たいらの

  とくこ、建礼門院)と高倉(たかくら)天皇との

  間の子 である。

    安徳天皇 は、 壇ノ浦(だんのうら)の戦い

  時、平時子(平清盛夫人)と共に入水し、死去

  する。

    安徳天皇の天皇在位は、1180〜1185年

  である。 安徳天皇の即位前の名は、 言仁(と

  きひと)親王 である。   

 

◆ 平安時代末期の歴代天皇一覧。

■ 天皇の皇位継承順 は、次の通りである。

@ 白河(しらかわ)天皇    (貞仁(さだひと)親王) ⇒

  (天皇在位、1072年〜1086年)

A 堀河(ほりかわ)天皇    (善仁(たるひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1086年〜1107年)

B 鳥羽(とば)天皇       (宗仁(むねひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1107年〜1123年)

  ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

C 崇徳(すとく)天皇      (顕仁(あきひと)親王)  ⇒

  (天皇在位、1123年〜1141年)

D 近衛(このえ)天皇     (体仁(なりひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1141年〜1155年)

E 後白河(ごしらかわ)天皇 (雅仁(まさひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1155年〜1158年)

F 二条(にじょう)天皇     (守仁(もりひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1158年〜1165年)

G 六条(ろくじょう)天皇    (順仁(のぶひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1165年〜1168年)

  ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

H 高倉(たかくら)天皇    (憲仁(のりひと)親王)  ⇒ 

  (天皇在位、1168年〜1180年)

I 安徳(あんとく)天皇      (言仁(ときひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1180年〜1185年)

J 後鳥羽(ごとば)天皇    (尊成(たかひら)親王)

  (天皇在位、1183年〜1198年)

 

 

♪♪ 安徳天皇 が登場する、興味深い関連

    ドラマ、映画、ドキュメンタリー。 

 

★ 安徳天皇 が 登場する、興味深い関連

     ドキュメンタリー。 

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 ‘‘地獄’’を

  見たプリンセス 平清盛の娘 建礼

  門院徳子の生涯 』。  

   (NHKテレビ・2012年(平成24年)8月29日・

  本放送ドキュメンタリー番組)。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。    

 

 

#atsumori

 

■ 敦盛 

     (あつもり)。

 

■ 敦盛。

■ 名称 : 敦盛 (あつもり)。

■ 幸若舞(こうわかまい)の演目の1つ。

■ 織田信長が好んで演じた。

 

 

■ 敦盛 (あつもり) とは、幸若舞(こうわかまい)の

 目の1つで、 1184年(元暦元年)に起きた「一ノ谷の

 戦い」で、 平氏軍の元服(げんぷく、成人)間もない平

 敦盛(たいらのあつもり)を討ちとった源氏軍の熊谷直

 実(くまがい なおざね)がその後無常を感じて出家した

 とする話に基づいて作られた。

      「敦盛」を、 織田信長が好んで演じたと言われてい

 る。

 

    

    ○ ドラマ「信長」関連のDVD販促のPRフォト。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。    

 

 

#ando

 

■ 安堵 

     (あいど)。

 

■ 安堵。

■ 名称 : 安堵 (あいど)。

■ 領地を保障すること。

■ 土地所有権を確認させること。

 

 

■ 安堵 (あいど)とは、 領地を保障することで、

 前近代日本で、支配者に、土地の所有権を確認し

 てもらうことである。

 

■ 明治時代以後の近代・現代日本では、民法の規

 定により、 土地の所有権の不可侵が規定され、 

 政治の実権者(支配者)の交代に関係なく、土地の

 所有権が保障されている。 

   一方、 前近代日本では、支配者(政治の実権

 者)が交代するごとに、土地の所有権を確認しても

 らう必要があった。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。    

 

 

#theaizuwar

 

■ 会津戦争 

     (あいづせんそう)。

 

■ 会津戦争。

■ 名称 : 会津戦争 (あいづせんそう)。

■ 幕末・明治初期の戊辰(ぼしん)戦争(18

  68〜1869年)の1つ。

■ 1868年(慶応4年、明治元年)の8月〜9月。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 会津地方(東北地方の福島県西部)で、 会

  津藩の軍と明治新政府軍が戦った戦争で、 

  会津藩が降伏する。

 

□ 会津戦争 が登場する、興味深い、

   ドキュメンタリー 、ドラマ、映画

 

 

■ 現在でも、 会津人(あいづじん、福島県西

  部出身者) と 長州人(ちょうしゅうじん、山

  口県出身者)は 仲が良くないと言われてい

  るが、 会津藩と長州藩の2つの藩の幕末で

  の抗争、特に会津戦争などが原因となってい

  る。

 

 会津藩の藩主・藩士は、代々、幕末まで、徳

  川宗家(江戸幕府)に忠誠を誓う。

○ 会津藩祖・保科正之の意向で会津藩の藩主・

  藩士は、代々、 江戸時代前期から幕末まで、

  徳川宗 家(江戸幕府)に忠誠を誓い、徳川分

  家の会津松平家の会津藩は、  幕末、徳川宗

  家(徳川本家、江戸幕府)と命運を共にし、京

  都守護職を引き受け、また、会津戦争を起こ

  す。

 

■ 会津戦争は、 幕末・明治初期の戊辰(ぼし

  ん)戦争の1つで、 1868年(慶応4年、明

  治元年)の8月21日頃から9月21日頃まで、 

  会津地方(東北地方の福島県西部)で、 会

  津藩の軍 と 明治新政府軍 (官軍、西軍)

  が戦った戦争 である。 

    激戦の末、会津若松城・篭城(ろうじょう)

  約1ヶ月で、会津藩は、降伏する。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 会津藩 は、 江戸時代に、 陸奥国(むつ

  のくに)会津地方(東北地方の福島県西部)

  を領した藩 である。

 

■ 会津藩 は、 1868年(慶応4年)4月の

  江戸城開場のあと、  朝廷や明治新政府

  (近代日本政府)に恭順(きょうじゅん)の態

  度を示したが、許されず、  明治新政府軍

  と戦うこととなった。 特に、薩長土肥中心

  の明治新政府(日本近代政府)の中で、長

  州藩(現在の山口県)が、会津征伐を主張し

  た。 佐幕派の会津藩は、 江戸幕府のため

  に、幕末、京都で、幕府勢力の中心となり、

  会津藩主の松平容保(ま つだいら かたもり)

  が、京都守護職(1862年〜1867年)を務

  め、 反幕府勢力を鎮圧し て、 尊皇(王)攘

  夷派討幕派長州藩の出身者(志士、藩士

  等)を多数殺傷し、 反幕府勢力の長州藩の

  恨みは大きかった。 また、会津藩は、幕末、

  京都で、 反幕府勢力の尊皇(王)攘夷派

  幕派を弾圧した、新選組の雇い主でもあった

  (新選組を配下におき、新選組のスポンサー

  でもあった)。

 

■ 藩主の松平容保には、 照姫(てるひめ)と

  いう姉(義姉)がおり、 性格の明るい照姫は、

  松平容保を励(はげ)まし、会津戦争を助

  た。 照姫のもとに集まった会津藩の女性た

  ちは、 会津戦争中、炊事(すいじ)、 負傷者

  看護、鉄砲の弾丸づくり、落下大砲弾の爆発

  防止 等に励(はげ)んだ。 

    落下大砲弾の爆発防止とは、飛んで落ち

  てきた大砲の弾(タマ)の導火線の火を消し、

  爆発を防(ふせ)ぐことである。 当時、新政

  府軍から城内に飛んで落ちてきた大砲の弾

  は、導火線がついていて、落ちたあとすぐ爆

  破せず、ダイナマイトのように導火線が根元

  に来たときに爆発する。 会津戦争中に城内

  にいた会津の女性たちは、 新政府軍から

  飛んで落ちてきた大砲の弾を見つけ、 爆発

  前に、濡(ぬ)れた布団等を上からかぶせ、大

  砲の弾の導火線の火を消し、爆発を防(ふせ)

  いだ。 非常に勇敢な行為であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 会津藩 は、会津戦争前に、 明治新政府

  軍を迎え撃つため、 軍政改革を実施した。

     主力部隊は、 藩士を年齢別に編成し、

  18歳から35歳までの藩士を朱雀隊(しゅざ

  くたい)に編成し、 36歳から49歳までの藩

  士を青龍隊(せいりゅうたい)に編成し、 50

  歳以上の藩士を玄武隊(げんぶたい) に編

  成した。

    会津藩 は、その他にも、色々な部隊を

  編成した。  全部で、38の部隊があった。 

  その中には、 有名な会津白虎隊(あいづび

  ゃっこいた)や会津娘子隊(あいづじょうした

  い) があった。

● 会津白虎隊(あいづびゃっこいた)は、 16

  歳、17歳の少年で編成された、少年部隊で、

  予備軍(予備部隊) であった。

● 会津娘子隊(あいづじょうしたい) は、 藩

  士の娘等の女性で編成された女子部隊 で、 

  その中に、美貌の女剣士の、中野竹子(なか

  のたけこ) がいた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 会津藩は、 会津軍を分散して、東西南北

  の会津藩の国境(くにざかい)の峠(とうげ)

  で、敵の明治新政府軍を待ち構え、 会津

  藩領に敵を一歩も踏み込ませない作戦を取

  った。  この兵力分散の戦略が、会津白虎

  隊、その他の多くの犠牲者を出す悲劇をも

  たらした。

    というのも、1868年8月21日に、板垣

  退助、伊地知正治の率いる明治新政府軍 

  は、 兵士3000人、大砲20門で、会津藩

  の東の国境(くにざかい)の母成峠(おなりと

  うげ)の1箇所に、集中攻撃をかけ、800人

  の会津兵と交戦し、 その後、そこを突破し、

  会津藩領の中心にある、会津若松の城下町

  や会津本城・若松城めがけて、進軍した。 

     東の国境(くにざかい)の母成峠を破ら

  れ、慌(あわ)てた会津藩は、西・南・北の会

  津領国境の峠にいた会津軍の主力部隊を呼

  び戻す指示をだしたが、間に合わず、会津領

  国境にいる 会津軍の主力部隊が会津若松に

  戻るまで、敵の進軍を防ぐため、 予備兵力

  を投入し、 白虎隊(少年兵部隊)をはじめと

  する予備軍を、 会津若松から出立(しゅっ

  つ)させ、 会津藩東部で、応戦することとした。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 会津藩東部で、 会津白虎隊(少年兵部隊)、

  をはじめとする予備軍 や 土方歳三の率い

  る新選組は、  多数の明治新政府軍と戦い、

  苦戦し、会津若松の城下町まで後退した(敗

  走した、逃げ帰った)。 そして、新政府軍が、

  会津若松の城下町に進入した。  

     会津若松の城下町では、 若松城へ逃

  げ遅れたり、若松城に入れなかった、会津若

  松の城下町にいた、会津藩士の妻子の約20

  0名は、 敵の明治新政府軍に「捕らえられた

  り、辱めをうけることがあっては、武家の妻子

  として、末代までの恥辱」と考え、 捕虜にな

  り恥をさらすことを恐れて、自害した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 会津藩東部の戦いでは乱戦となり、 会津若

  松の城下町まで戻れず、逃げ遅れた、伊東 悌

  次郎(いとうていじろう)、飯沼貞吉(いいぬま

  さだきち)などの白虎隊(少年兵部隊)の一部

  の約20名は、 会津若松の城下町へ退却途

  中、 会津若松の城下町を見渡せる飯盛山

  (いいもりやま)に着いた。

     そこで、 白虎隊士(白虎隊の隊員 )は、

  会津若松の城下町の各所が燃えているのを

  見た。 しかし、約20名の白虎隊の隊員  は、 

  会津藩本城の若松城が落ちたと勘違いし、会

  津武士として、もはやこれまでと、 飯盛山で

  自害した。

    通りがかりの人が、自害した1名がまだ息

  があると気づき、救護した。 その白虎隊の

  年兵が、 飯沼貞吉(いいぬまさだきち) であ

  る。 飯沼貞吉は、後世に、白虎隊の悲劇を伝

  えた。

     また、飯盛山の白虎隊員20名とは別に、

  戦いや敗走の途中で、白虎隊本隊の仲間から

  一人はぐれてしまった白虎隊員の酒井の記録

  が、近年見つかり、戦時中の白虎隊の行動を

  詳細に伝えている。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 一方、会津若松の城下町では、明治新政府

  軍と会津軍との乱戦が続き、 会津娘子 隊

  (あいづじょうしたい)も、奮戦し、 会津娘子

  隊の一人で、会津藩の美貌の女剣士の中野

  竹子(なかのたけこ)も応戦し、討ち死にした。

  22歳であった。  また、会津藩の銃の名手

  の山本八重 (やまもとやえ、後に新島襄と

  結婚して、新島八重)は、 銃を撃ちまくり、

  戦し、 明治新政府軍に打撃を与えた。  

     大山巌 (おおやまいわお、西郷隆盛の

  従兄弟(いとこ)、後の明治後期に日本陸軍

  元帥・大将で、上野の西郷像製作の依頼主)

  も、 この会津戦争で兵士として参戦した。

    その後、新政府軍は、 市街戦で、抵抗が

  激しいため、会津若松の城下町より、一時後

  退した。 西・南・北の会津領国境にいた会

  軍の主力部隊も会津若松の城下町や若松

  に戻った。

     明治新政府軍は、  会津若松の若松城

  や城下町を取り囲み、大砲で、城や城下町に、

  集中的に砲撃を加えた。

    多数の死傷者が出てしまい、会津藩主の

  松平容保(まつだいらかたもり)は、1868年

  (明治元年)9月に、降伏し(矢玉止めを決め)、

  会津若松城を新政府軍に明け渡した。 

    その後、明治新政府の許可を得た後、

  津藩の松平容保や生存者は、 会津戦争の

  戦死者の弔(とむら)いを行った。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#aidubattle-appearingscenes

 

♪♪ 会津戦争が登場する、興味深い、ド

    ラマ、映画、ドキュメンタリー 。

 

★ 会津戦争が登場する、興味深い、ドキ

   ュメンタリー。

 

■ 歴史秘話ヒスとリア 『 白虎隊奇 

  跡の生還劇 〜八重とともに戦っ

  た少年たち〜 』。 

   (NHKテレビ・ 2013年(平成25年)1月16日・

  本放送ドキュメンタリー番組)。

 

■ 歴史秘話ヒスとリア 『 ‘‘ハン

  サムウーマン’’がゆく 新島八重 

  不屈の会津魂 』。 

   (NHKテレビ・2013年(平成25年)1月9日・

   本放送ドキュメンタリー番組)。

 

■ その時歴史が動いた 『 義に死す

  とも不義に生きず 〜会津戦争 松

  平容保 悲運の決断〜』。 

   (NHKテレビ・2007年(H19)10月本放送

   ドキュメンタリー番組、第302回)。

 

★ 会津戦争 が登場する、興味深い、

  ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事 が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 八重の桜 (やえのさくら) 』 。 

    (2013年NHK大河ドラマ)。

● 日本の幕末、明治時代を描いた、ドラマ。

● 新島(山本)八重を演じた女優 : 綾瀬 はるか

  (あやせ はるか)。

 

   

  ○ ドラマ「八重の桜」の書籍販促PRフォト。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。                

 

 

#theaizudomain

 

■ 会津藩 

     (あいづはん)。

 

■ 会津藩。

■ 名称 : 会津藩 (あいづはん)。

 英名 : THE AIZU DOMAIN。

■ 江戸時代に、 陸奥国(むつのくに)会津地方 

 (東北地方の福島県西部) を領した藩 。

■ 藩主は、 会津松平氏で、 会津藩は23万石

   で、 城下町は会津若松、 会津藩の城は、

  津若松城 である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

□ 会津藩 が登場する、興味深い、

     ドキュメンタリー、ドラマ、映画

 

 

■ 会津藩 とは、 江戸時代に、 陸奥国(むつ

  のくに)の会津地方 (現在の東北地方の福

  島県西部) を領した藩 である。

■ 藩主 は、会津松平氏で、 会津藩 は23万

  石で、 城下町は会津若松 である。  会津

  藩の城は、 会津若松城 である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 会津藩の藩主・藩士は、代々、幕末まで、徳

  川宗家(江戸幕府)に忠誠を誓う。

○ 会津藩祖・保科正之の意向で会津藩の藩主・

  藩士は、代々、 江戸時代前期から幕末まで、

  徳川宗家(江戸幕府)に忠誠を誓い、徳川分

  家の会津松平家の会津藩は、 幕末、徳川宗

  家(徳川本家、江戸幕府)と命運を共にし、京

  都守護職を引き受け、また、会津戦争を起こ

  す。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1643年に、 保科正之 (ほしなまさゆき、 

  2代将軍・徳川秀忠の子)が、 江戸幕府によ

  り、 会津藩主に封(ほう)じられた。 保科正 

  之は、 会津松平家の初代当主、 会津藩の 

  初代藩主(会津藩祖) となる。

 

■ 幕末、 会津藩の第9代藩主、 松平容保 

  (まつだいらかたもり) は、高須藩・松平家

  から養子に入り、 会津藩士を指揮し、 京

  都守護職として活躍し、 佐幕派の中心的

  存在として戊辰(ぼしん)戦争を戦った。

● 幕末、 会津藩預かりの、「壬生浪士組」 

  後の「新選組」が、 京(都)、大阪の治安

  の一旦を担(にな)って、 活躍した。

● 戊辰戦争中、会津戦争で、会津藩の会津若

  松城の落城の際の白虎隊の悲劇は、 有名

  である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 幕末、 会津藩は、 藩主・藩士とも、 江戸幕

  府(徳川宗家)に忠誠を尽くした。

 

● 幕末の会津藩主・藩士は、 江戸幕府(徳川宗

  家)と運命を共にすると述べている。 なぜであ

  ろうか。

    というのも、 会津藩・松平家が、 徳川宗家

  (徳川本家)の直系(2代将軍・徳川秀忠の子孫)

  の分家であり、 会津藩の家訓は、江戸幕府(徳

  川宗家)に忠誠を尽くすことを旨(むね)としてい

  たから である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

● 会津藩の家訓 (1668年に定めた「会津家訓

  (あいづかきん)十五箇条」)は、会津藩23万石

  を領させ「徳川宗家を頼む」と言い残し1651年

  に死去した江戸幕府第3代将軍・徳川家光 の

  遺言に感銘した、 会津藩・初代藩主(会津松平

  家初代当主)の 保科正之(ほしなまさゆき) が、 

  1668年に定めたものである。

 

● それ以後、幕末まで、 会津藩主・藩士 は、機

  会あるごとに、この「会津家訓十五箇条」を唱(と

  な)え、 江戸幕府(徳川宗家)に忠誠を尽くすこ

  とを旨(むね)としていた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ また、什の掟 (じゅうのおきて)は、 会津藩の

  藩士やその一族の生活規範 である。

     会津藩の藩士は、 少年時代、会津武士の

  規範である「什の掟」(じゅうのおきて)を守り、年

  長者を敬い、卑怯(ひきょう)な行いを嫌い、会津

  武士としての気質を養った。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 会津松平氏の起こりは、 徳川宗家の江戸

  幕府第2代将軍・徳川秀忠(ひでただ) が、 

  江戸城大奥で、一人の女性・お静(おしず、お

  志津浄光院)を愛したことから、始まった。 

    2代将軍・秀忠には、妻(正室)・お江(おご

  う、お江与(おえよ))がいて、 お江との間には、 

  家光(いえみつ)と忠長(ただなが)の2人の男

  子が、いた。  

    将軍・秀忠は、 恐妻家で、お江を恐れて、 

  ずっと、他の夫人(側室夫人)をもたなかった。  

  しかし、あるとき、 気が緩(ゆる)み、 身の回

  の世話をする侍女(じじょ)の、お 静 (おしず、お

  志津、浄光院) を見初(みそ)めた (に手を付け

  てしまった)。 そして、お静は、 懐妊(かいにん、

  妊娠)した。

     将軍・秀忠は、 正室夫人お江の怒 りを

  恐れて、 見性院(けんしょういん、穴山梅 雪(信

  君)の正室 ・夫人) の元にお静を預け、そこで、 

  1611年、 お静は、 男子を生んだ。 

  その男子が、幸松で、後の保科 正之(ほしな ま

  さゆき) である。 幸松(保科正之) は、見性

  院の元に預けられ育ち、  その後、1617年、

  幸松(保科正之)は、 保科家に預けられた(名

  目上、保科正光の子とされ、養育された)。  

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 保科正之 (ほしな まさゆき)は、 3代将軍

  ・徳川 家光の腹違いの弟 である。

 

● 徳川秀忠正室夫人・お江(おごう)の死後、 

  保科 正之(ほしな まさゆき) は、 1629年、

  18歳で、初めて、父・秀忠と面会する。 

    その後、 保科正之 は、 3代将軍・徳川

  家光を補佐し、 幕政に貢献し、幕府より、16

  43年に、会津藩23万石を与えられ、 会津

  藩主(初代、会津藩祖)、会津松平家当主(初

  代) となった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ その後、 幕末まで (最後の9代会津藩主・

  松平容保(かたもり)の代まで)、 会津藩主・

  藩士 は、 江戸幕府(徳川宗家)に忠誠を尽

  くした。

    そして、幕末に、会津藩 は、 江戸幕府(徳

  川宗家)のため、 京都守護職に就き、会津戦

  を起こし、 会津藩は、江戸幕府(徳川宗家)

  と運命を共にすることとなる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ。 

□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

#aidudomain-appearingscenes

 

♪♪ 会津藩 が登場する、興 味深い、ド

        キュ メンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 会津藩 が登場する、興味深い、ドキ

   ュメンタリー。

 

■ 歴史秘話ヒスとリア 『 白虎隊 

  奇跡の生還劇 〜八重とともに

  戦った少年たち〜 』。 

   (NHKテレビ・2013年(平成25年)1月16日・

  本放送 ドキュメンタリー番組)。

 

■ 歴史秘話ヒスとリア 『 ‘‘ハン

  サムウーマン’’がゆく 新島八重 

  不屈の会津魂 』。 

    (NHKテレビ・2013年(平成25年)1月9日・

   本放送 ドキュメンタリー番組)。

 

 

■ その時歴史が動いた 『 義に死

  すとも不義に生きず 〜会津戦争 

  松平容保 悲運の決断〜』 

   (NHKテレビ・2007年(H19)10月・本放送

  ドキュメンタリー番組、第302回)。

 

★ 会津藩が登場する、興味深い、ドラマ、

   映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 八重の桜 (やえのさくら) 』 。

     (NHKテレビ・2013年大河ドラマ)。

● 日本の幕末、明治時代を描いた、ドラマ。

● 八重を演じる女優 : 綾瀬 はるか

  (あやせ はるか)。

   

   

  ○ ドラマ「八重の桜」の書籍販促PRフォト。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』。 

   (NHKテレビ・2011年大河ドラマ) 

● 後に会津藩初代藩主となる、幼少の保科

  幸松(こうまつ、保科正之)を演じた俳優名 :

   小林 海人。

● 江(ごう、お江与)を演じた女優名 : 上野

   樹里 (うえの じゅり)。

 

■ 『 大奥・第一章 』。 

   (フジテレビ・2004・2005年制作・テレビ

   ドラマ)。

● 会津藩祖・保科 正之の生母、お静(おし

  ず、お志津、浄光院)を演じた女優名 : 

  雛形 あきこ (ひながた あきこ)。  

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。                

 

 

#abenoseimei

 

■ 安倍 晴明 

    (あべのせいめい)。

 

■ 安倍 晴明。

■ 生没年 : 921年〜1005年 (平安時代中期)

■ 名称 : 安倍 晴明 (あべの せいめい) (あべ

    の はるあきら、はれあき)。

■ 朝廷の中務省の陰陽寮の役人で、天文博士、

    陽師(おんみょうじ)。

■ 平安時代中期の陰陽家で、 土御門家の祖 で

  ある。

■ 朝廷の中務省(なかつかさしょう)の陰陽寮(おん

  みょうりょう)に属し、 天文博士であった。

■ 役人で、 天文学者で、 陰陽師で、 長寿者であ

  った。

■ 藤原道長の顧問。

 

 安倍晴明が登場する、興味深い、ド キ

   ュメタンリー、ドラマ、映画

 

 

■ 安倍 晴明 (あべの せいめい、921年ー1005年)

  は、 朝廷の中務省の陰陽寮 (おんみょうりょう、

  文・暦・時刻・占い等担当機関)の職員(役人)であっ

  た。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 安倍 晴明は、 天文博士  (てんもんはかせ、天

  文学学者)であり、 陰陽師(おんみょうじ、陰陽道

  の占い師)であった。   

             

■ 安倍 晴明は、 平安時代中期の陰陽家であり、 

  藤原道長の顧問であった。

             

 

   

   ○ 日本映画(2001年) 『 陰陽師〜おんみょ

   うじ〜 』 のPRフォト (中央の人物が、安 倍

   晴明 (あべのせいめい、野村 萬斎が演じる))。

 

 

■ 陰陽師 (おんみょうじ) は、陰陽道(おんみょう

  どう)に基づく吉凶の判断や呪術を行う者である。

 

■ 陰陽師 (おんみょうじ) は、 狭義には、 陰陽

  道(おんみょうどう) に基づく吉凶の判断や呪術を

  行う者である。 広義には、 朝廷の陰陽寮(おん

  みょうりょう)の職員 も意味した。 

 

● 朝廷の陰陽師 (おんみょうじ、奈良時代〜明治

  時代初期)は、 朝廷の陰 陽寮(おんみょうりょう)

  の職員で、 奈良時代から江戸時代まで朝廷に

  仕え、活躍した。  

 

● 民間の陰陽師 は、 室町時代に現れ、それ以

  後江戸時代まで、活躍した。

 

■ 律令制では、朝廷は、中務省(なかつかさしょ

  う)に、陰陽寮(おんみょうりょう)を設け、 天文

  博士、暦博士、漏刻博士、陰陽博士 などを置き、

  天文道、暦道、陰陽道 などを担った。

● 陰陽師・安倍 晴明は、天文博士に任命されて

  いる。

 

■ 朝廷の陰陽寮(おんみょうりょう)の職員は、 

  天文、暦、時の編纂(へんさん、暦法や時法)、

  占(うらな)い などの仕事を行った。

 

■ 朝廷の、陰陽寮は、1870年(明治3年)に、廃

  止された。

 

 

■ 陰陽師として、 平安時代中期の 陰陽家の安

     倍晴明(あべのせいめい、921〜1005年)が、

     有名である。

 

■ 有名な朝廷の陰陽師・安倍晴明 (あべのせい

    めい、921〜1005年) は、 朝廷の中務省の

    陰陽寮の役人で、 天文博士で、 陰陽師(おん

  みょうじ) である。

 

● 安倍晴明は、 朝廷の中務省(なかつかさしょう)

  の陰陽寮(おんみょうりょう)に属し、天文博士で

  あった。

 

■ 安倍晴明は、 平安時代中期の陰陽家で、 土御

  門家の祖である。

● 安倍晴明は、 土御門家 (つちみかどけ、朝廷

  の陰陽道を代々担う家) の祖となる。

 

■ 安倍晴明は、 役人で、 天文学者で、 陰陽師で、 

  長寿者であった。

● 安倍晴明 は、 朝廷の陰陽寮 (おんみょうりょう、

  現在の国立天文台、気象庁のような役所) の職員

  で、 天文学者で、 陰陽師 (おんみょうじ、祈祷師

  (きとうし)、占い師のような役職) で、 享年85歳

  で当時としては長生きした人物 であった。

 

■ 陰陽師 (おんみょうじ) は、陰陽道(おんみょうど

  う)に基づく吉凶の判断や呪術を行う者 である。

 

● 奈良時代から平安時代まで、陰陽師は、朝廷に仕

  える陰陽師のみであったが、 室町時代に、民間の

  陰陽師が、現れ、それ以後江戸時代まで、朝廷の

  陰陽師と共に、活躍した。 

 

● 朝廷の陰陽師 は、 朝廷の陰陽寮(おんみょうり

  ょう)の職員で、 奈良時代から江戸時代まで朝廷

  に仕え、活躍した。  

 

● 民間の陰陽師 は、 室町時代に現れ、それ以後

  江戸時代まで、活躍した。

 

■ 陰陽師 (おんみょうじ) は、 狭義には、 陰陽

  道(おんみょうどう) に基づく吉凶の判断や呪術を

  行う者である。 広義には、 朝廷の陰陽寮(おん

  みょうりょう)の職員 も意味した。 

 

■ 陰陽道 (おんみょうどう)とは、 古代の陰陽五

  行説に基づく天文、暦学、易占いなどに関する学

  問であり、 また、 自然現象を説明し、禍福吉凶

  を判じた。 

     陰陽五行説は,中国で漢代に成立し,日本

  には、5〜6世紀頃、伝わった。

 

■ 陰陽道(おんみょうどう)は、 10世紀中頃から、

  平安時代に非常に流行した。

 

■ 平安時代末期より、 安倍氏 (後、改名して土

  御門氏(つちみかどし))が、 陰陽道で優勢と

  なり、 それ以後、 江戸時代初期まで、日本

  の陰陽道の中心的な勢力となった。

 

■ 陰陽道とは直接関係ないが、 土御門氏出身で、

  江戸時代の幕末に、和宮(かずのみや)の側近と

  して、朝廷と幕府との調停に貢献した女性として、 

  土御門藤子 (つちみかどふじこ) がいる。

 

● 土御門藤子は、 朝廷の陰陽頭(おんみょうのか

  み)で陰陽師の土御門(つちみかどはるお) の

  妹である。

 

 

■ 陰陽寮 (おんみょうりょう) は、 律令制では、

  中務省(なかつかさしょう)に属する機関の1つで

  あった。 天文、暦、時の編纂(へんさん、暦法や

  時法)、占(うらな)いなどを担当する部署であった。

■ 陰陽寮の長官が、 陰陽頭 (おんみょうのかみ) 

  である。

 

■ 朝廷の陰陽寮(おんみょうりょう)の職員 は、 朝

  廷の職員として、 天文、暦、時の編纂(へんさん、

  暦法や時法)、占(うらな)い などの仕事を行った。

 

■ 朝廷は、 律令制で、中務省(なかつかさしょう)に、

  陰陽寮(おんみょうりょう)を設け、天文博士、暦博士、

  漏刻博士、陰陽博士 などを置き、天文道、暦道、陰

  陽道 などを担(にな)わせた。

● 陰陽師・安倍晴明は、 天文博士に任命されている。

● 陰陽寮には、 天文の観察、占星術を行う天文博士

  と天文生、 暦の編纂(へんさん)を行う暦博士と暦 

  生、 時刻(漏刻)を管理し時報を行う漏刻博士と守

  辰丁(時報の鐘をつく)、 陰陽道(おんみょうどう)に

  基づく吉凶の判断を行う陰陽博士と陰陽生 などが

  いた。

 

■ 10世紀中頃から、天文道は 安倍氏(後、改名して

  土御門氏)が、 暦道は、賀茂氏が独占的に担い、

  代々受け継ぐようになった。

 

■ 1869年(明治2年)に、陰陽頭 (陰陽寮の長官、

  在任1842〜69年)の土御門晴雄 (つちみかど 

  はるお・はれお・はれたけ、生没年1827〜69年)

  が、 死去し、 その嫡男の土御門晴栄の代に、18

  70年(明治3年)に、 朝廷の陰陽寮は、 明治新

  政府(近代日本政府)により、 非近代的なものとさ

  れ、廃止された。

 

 

#abenoseimei-appearingscenes

 

♪♪ 安倍晴明 が登場する興味深い、

  ドキュメタンリー、ドラマ、映画。

 

★ 安倍晴明 が登場する興味深い、

  ドキュメタンリー。

 

■ 諸説あり!『 陰陽師・安倍晴明

   の真実! 』。  

     (TBSテレビ・2018年4月14日・

    本放送ドキュメンタリー番組)。

■ 安倍晴明、陰陽師、陰陽道、陰陽寮

   (役所)について詳しく述べる。

 

■ にっぽん!歴史鑑定 『 陰陽師・

   安倍晴明の実像 』 。  

     (TBSテレビ・2018年2月12日・

    本放送ドキュメンタリー番組)。

■ 安倍晴明、陰陽師、陰陽道、陰陽寮

   (役所)について詳しく述べる。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 謎の呪術 

  使い 陰陽師の真実〜不吉な

  ‘‘鬼’’を追いはらえ! 』。  

    (NHKテレビ・2010年(H22年)4月28日 ・

   本放送ドキュメンタリー番組)。

■ 安倍晴明、陰陽師、陰陽道、陰陽寮

   (役所)について詳しく述べる。

 

★ 陰陽師 が登場する興味深い、ドラ

  マ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画 は、史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 源氏物語 千年の謎 』。

   (2011年日本映画)。

● 安倍晴明を演じた俳優 : 窪塚洋介。

 

■ 『 陰陽師 〜おんみょうじ〜 』。   

   (2001年日本映画)。

● 平安時代中期の陰陽家の安倍晴明が、

  登場する。

● 陰陽師・安倍晴明(あべのせいめい)の

  活躍を描いたSF時代劇。 

● 安倍晴明を演じた俳優 : 野村 萬斎。

 

● 安部晴明を演じた俳優 : 二世野村萬斎

  (にせいのむらまんさい、1966年〜現在、

  狂言師)。

 

   

   ○ 日本映画(2001年) 『 陰陽師〜おんみ

    ょうじ〜 』 のPRフォト (中央の人物が、

    倍晴明 (あべのせいめい、野村 萬斎が演

    じる))。

 

■ 『 陰陽師 (おんみょうじ) 』。 

   (NHKテレビ・2001年(4〜6月)

    放送ドラマ、全10話)。

● 平安時代中期の陰陽家の安倍晴明が、

  登場する。

● 安倍晴明 (あべのせいめい)を演じた

  俳優: 稲垣 吾郎 (いながき ごろう、

     SMAP)。

 

● 源博雅 (みなもとのひろまさ)を演じた

  俳優: 杉本 哲太 (すぎもと てった)。

● 蜜虫 (みつむし)を演じた

  女優: 本上 まなみ (ほんじょう まなみ)。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。                

 

 

#asakurayoshikage

 

■ 朝倉 義景 

     (あさくら よしかげ) 

 

■ 朝倉 義景。

■ 生没年 : 1533年〜1573年。

■ 名称 : 朝倉 義景 (あさくら よしかげ)。 

■ 越前(えちぜん、福井県東部)の戦国大名。

 

□ 朝倉 義景 が登場する、興味深いドラ マ、

     映画、ドキュメンタリー

 

 

■ 朝倉 義景 (あさくら よしかげ、生没年1533年〜1573年)

 は、 越前(えちぜん、福井県東部)の戦国大名 である。

 

■ 朝倉氏 は、 室町時代の前期より、越前・守護の斯波(しば)

 氏の重臣であった。 応仁の乱の時、朝倉孝景は、越前の守護

 となり、 一乗谷城を居城とした。 以後、北陸に、勢力を誇った。

 朝倉氏 は、朝倉 義景の時に、織田信長と対立して、1573年

 に滅亡した。

 

■ 朝倉 義景は、 北近江(きたおうみ、滋賀県北部)の浅井氏と

 連合して、織田信長と対立した。 1570年の、姉川(あねがわ)

 の戦いで織田信長の軍に破れ、 その後、1573年に、織田信

 長の越前侵攻により、一乗谷城から逃れて、自害し、ここに、浅

 倉氏は、滅亡した。

 

 

     ■ 織田信長の浅井・朝倉攻め。

        1573年(天正元年)8月8日に、織田信

     長は、北近江 (きたおうみ、現・滋賀県北部

     の相当地域) に、約3万人の軍勢を率いて

     出兵し、8月10日に、浅井氏の小谷城の向え

     にある(の喉元にあたる)、虎御前山(とらご

     ぜんやま)の砦(とりで)に入り、浅井氏(あざ

     いし、あさいし)の小谷城(おだにじょう)を包

     囲する。

        1573年(天正元年)年8月10日に、越

     前国 (えちぜんのくに、福井県東部)から

     北近江に浅井氏の救援にきた約1万5000

     人の兵の朝倉軍が現れ、8月13日に、北近

     江で、織田信長は、朝倉軍と戦い、撃破する。 

        その後、織田信長は、小谷城の攻撃を

     後回しにして、織田信長の織田軍は、敗走

     する朝倉遠征軍を追撃し、8月14日に、朝

     倉義景(あさくらよしげ)と朝倉軍を刀根坂

     (とねざか)の戦いで撃破し、刀根山を越え、

     越前国に敦賀(つるが)に着陣し、その後、

     敦賀を平定し、敦賀を経由して、8月16日

     には、木芽峠(きのめとうげ)を越え、織田

     信長は、8月18日に、越前府中(えちぜん

     ふちゅう)の龍門寺(りゅうもんじ)に着陣す

     る。 

        1573年(天正元年)年8月18日に、

     織田信長は、越前の朝倉氏の本拠地の一

     乗谷の市街地を襲撃制圧し、焼き払う。

     柴田勝家らの織田軍が8月18日に、一乗

     谷に攻め込み、放火は三日三晩続いた。

         1573年(天正元年)8月15日に一

     乗谷に帰っていた朝倉義景は、織田軍が

     来る前に、手勢のみを率いて、本拠地の

     一乗谷(いちじょうだに)の館を捨てて、

     山田庄(やまだのしょう)に逃(のが)れる。

        山田庄へ逃げた朝倉義景は、更に柴

     田勝家らの織田軍に攻め立てられ、 一族

     の朝倉景鏡(あさくらかげあきら)や平泉寺

     (へいせんじ)の僧兵にも裏切られ、1573

     年(天正元年)8月20日に朝倉氏当主の

     倉義景は、山田庄の(大野郡の)六坊賢松

     寺(ろくぼうけんしょうじ、福井県大野市)で、

     自刃(じじん、自害)し、越前の朝倉氏は滅

     亡する。

        織田信長は、越前国より戻り、1573

     年(天正元年)8月26日に、浅井氏の小谷

     城の向えにある、虎御前山(とらごぜんや

     ま)の砦に戻る。 8月27日に、木下秀吉

     (豊臣秀吉)の攻撃によって、小谷城の京

     極丸(きょうごくまる)が陥落し、これで久政

     が守る小丸と長政が守る本丸との間が

     断ち切られ、8月28日に小丸が落ち、浅井

     長政の父・久政が自刃(じじん、自害)し、8

     28日から9月1日までの間に、小谷城の

     本丸(ほんまる)も陥落し、浅井長政は、小

     谷城の本丸近くの赤尾清綱(あかおきよつ

     な)の屋敷に入って、自刃(自害)し、北近江

     の朝倉氏は、滅亡する。

        浅井長政は、落城前に、1573年(天

     正元年)8月28日夜に、浅井長政に嫁(と

     つ)いだ信長の妹のお市とその女子(茶々、

     初、江(ちゃちゃ、はつ、ごう)の3人の娘)を

     駕籠(かご)で信長の陣に送り届ける。

          浅井長政の嫡男(当時10歳)の万福

     丸(まんぷくまる)は、お市の腹ではなく

     側室夫人との子であり、 朝倉方に人質とし

     て送られていたが、織田軍により、探し出さ

     れて、敦賀(つるが)で捕えられ、磔刑にされ

     た。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#asakurayoshikage-appearingscenes

 

♪♪ 朝倉 義景 が登場する、興味深いド

    ラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

★ 朝倉 義景 が登場する、興味深いドラ

   マ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) と 

  架空の出来事が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』。 

    (NHKテレビ・2011年大河ドラマ) 

(E) 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』

    第1回・「湖国の姫」・2011年1月

        9日(日)・本放送・大河ドラマ。

■ 朝倉 義景を描く。

■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描く。

● 朝倉 義景を演じた俳優名 : 中山 仁 

  (なかやま じん) 。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。                

 

 

#asahihime

 

■ 朝日姫 

      (あさひひめ)  (あさひ)。

 

■ 朝日姫。

■ 生没年 : 1543年(天文12年)〜1590年(天正

  18年)。

■ 名称 : 朝日姫 (あさひひめ)。 別名 : 旭姫 

  (あさひひめ)。

● 通称は、あさひ(旭) と称す。 

 徳川家康との婚儀(結婚)後は、「駿河御前」(1586年

 〜)と呼ばれる。

■ 豊臣 秀吉の妹。

■ 徳川 家康の正室・夫人。

■ 戦国時代、安土桃山時代の女性。

■ 1番目の夫 は、 副田 甚兵衛 (そえだ じんべい)。

 2番目の夫 は、 徳川 家康。

■ 父 は、 竹阿弥 (ちくあみ)。

■ 母 は、 なか (仲、大政所(おおまんどころ))。

■ 兄弟姉妹 は、 姉の「とも」(智、日秀(にっしゅう)) 

 と 兄の藤吉郎(とうきちろう、豊臣秀吉) と 兄の「小

 一郎」(こいちろう、豊臣 秀長)  である。

● なか(大政所)の産んだ2男2女の末っ子。

■ 2人の夫との間に、 子はなかった。

 

 

■ 朝日姫 (あさひひめ) は、 生没年は、 1543年(天文12年)〜

 1590年(天正18年) である。

 

■ 朝日姫 (あさひひめ) は、 通称は、あさひ(旭) と言い、 1586

 年の徳川家康との婚儀後は、 「駿河御前」(1586年〜)と呼ばれる。

 

 

■ あさひ(旭、朝日姫) は、 豊臣秀吉の妹 である。

   あさひ(旭、朝日姫) は、 なか(大政所)の産んだ2男2女の末 っ

 子である。

 

■ あさひ(旭、朝日姫) は、 戦国時代、安土桃山時代の女性 で あ

 る。

 

 あさひ(旭、朝日姫)の、1番目の夫は、 副田 甚兵衛 (そえだ じ

  んべい)。 副田甚兵衛吉成  (そえだじんべいよしなり、別名 佐治

 日向守(さじひゅうがのかみ)  である。

● 甚兵衛 (じんべい) は、 尾張国(おわりのくに、愛知県西部)の

 農夫で、 秀吉により、武士にとりたてられた と言われている。

 

 あさひ(旭、朝日姫)の、2番目の夫は、 徳川 家康 である。

■ あさひ(旭、朝日姫) は、 徳川家康の正室・夫人  (1586年〜

 1590年)である。 1586年の2人の政略結婚時、朝日姫は、44歳、

 徳川家康は、43歳 であった。

 

■ あさひ(旭、朝日姫) は、  1586年に、 秀吉の家康懐柔のため、

 強制的に夫の甚兵衛と離縁させられ、 徳川家康に嫁がされた。 

 あさひ(旭、朝日姫) は、 家康が上洛し秀吉に臣下の礼をとった

 後、 家康の元を離れ、1588年に、上洛し、そのまま、京都の聚楽第

 (じゅらくだい)に住む。

● 甚兵衛との離縁などによる精神的負担も重なって、病気がちとなり、

 母・なか(大政所)に先立って、死去した。

 

■ あさひ(旭、朝日姫)の、母 は、 なか (仲、大政所(おおまんどこ

 ろ)) である。

■ あさひ(旭、朝日姫)の、父 は、 母・なかの2番目の夫の竹阿弥 

 (ちくあみ) である。

● あさひ(旭、朝日姫)の、父 は、 母・なかの1番目の夫の弥右衛

 門 (やえもん)という説 もある。

 

 

■ あさひ(旭、朝日姫)の、兄弟姉妹 は、 姉の「とも」(智、日秀(にっ

 しゅう)) と 兄の藤吉郎(とうきちろう、豊臣秀吉) と 兄の「小一郎」

 (こいちろう、豊臣秀長) である。

 

■ 2人の夫との間に、 子はなかった。

 

■ あさひ(旭、朝日姫)の、墓所は、京都市の、東福寺南明院 にある。

 

 

♪♪ あさひ(旭、朝日姫) が登場する、興味

    深いドラマ、映画。

 

★ あさひ(旭、朝日姫) が登場する、興味深

   いドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

   歴史のドラマ、映画 は、史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事 が 混じって描かれています。

   また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』。 

     (NHKテレビ・2011年大河ドラマ) 

 

■ 『 寧々〜おんな太閤記 (ねね 

      おんなたいこうき) 』 。 

    (テレビ東京・2009年制作テレビドラマ)。 

● あさひ(きい)を演じた 女優名 : 田畑 智子。

● 豊臣 秀吉を演じた俳優名 : 市川 亀治郎。

 

■ 『 功名が辻 (こうみょうがつじ) 』。 

   (NHKテレビ・2006年大河ドラマ)。

 

■ 『 利家とまつ〜加賀百万石

    物語〜 』。 

   (NHKテレビ・2002年大河ドラマ)。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 

 

 

#asanonagamasa

 

 浅野 長政  

     (あさの ながまさ)。

 

■ 浅野 長政。

■ 生没年 : 1547〜1611年。

■ 名称 : 浅野長政 (あさの ながまさ)

  通称は、弥兵衛。 初め、長吉(ながよし)と称し、

    晩年に、長政と称す

■ 戦国時代、安土桃山時代、江戸初期のの武将。

■ 豊臣政権では五奉行の1人。 1600年の天下

     分け目の戦いでは、 家康方につき、 江戸幕府

     成立後は、家康に近侍した。

■ 「ねね(おね)の妹の「やや(彌々長生院)

     夫。

■ 浅野又右衛門長勝の養子

● 浅野長吉(長政)は、 男子の実子がいない叔父

    の浅野長勝(又右衛門)の養子 となり、 浅野長

    (又右衛門) の娘(養女または実娘)の「やや」と

    結婚し、婿養子となり、 後に浅野家の家督を継い

    だ。

■ 養父 は、 浅野又右衛門長勝 である。

■ 実父 は、 安井重継 である。

■ 夫人 は、 「やや(彌々長生院)」 で、 「ねね

    (おね)」の妹。

■ 子 は、 3男3女がいて、 長男の浅野幸長、次

     男の浅野長晟、 3男の浅野長重 がいた。

● 3男の浅野長重の曾孫が、元禄赤穂事件(赤穂

    討ち入り事件)で 有名な浅野長矩(ながのり、内

  匠頭)。

 

 

■ 浅野長政 (あさの ながまさ) は、生没年は、 1547〜1611年

 で、 通称は、弥兵衛で、 初め、長吉(ながよし)と称し、晩年に、長

 政と称す

 

■ 浅野長政 は、 戦国時代、安土桃山時代、江戸初期のの武将  で

 ある。

 

■ 浅野長政 は、 「ねね(おね)」の妹の「やや(彌々長生院)」の夫

 である。

 

■ 浅野長政 は、浅野 又右衛門長勝(ながかつ)の養子 である

● 浅野長吉(長政)は、 男子の実子がいない叔父浅野長勝(又右

 衛門)の養子 となり、 浅野長勝(又右衛門) の娘(養女または実娘)

 の「やや」と結婚し、婿養子となり、 後に浅野家の家督を継いだ。

 

■ 浅野長政の父 は、 安井重継 である。

 

■ 浅野長政の夫人 は、 「やや(彌々長生院)」 で、 「ねね(おね)」

 の妹 である。

 

■ 浅野長政の子 は、 3男3女 がいた。

■ 浅野長政と「やや(彌々長生院)」との間には、3人の男子がいた。

 長男の浅野幸長、 次男の浅野長晟、 三男の浅野長重 がいた。

● 浅野長政の次男の浅野長晟 は、  1619年(元和5年)に、安芸国

 広島藩に、加増転封となる (広島浅野氏)。 、

● 浅野長政の男の浅野長重  は、 長重の子の長直の代に、播磨国

 赤穂藩に転封となる (赤穂浅野氏)。  長直の子は、長友で、長友の

 子が浅野長矩(なが のり、内匠頭) である。

● 浅野長政の男の浅野長重、の曾孫 が、元禄赤穂事件で有名な浅

 野長矩(ながのり、内匠頭) である。

 

■ 浅野長政 は、 織田信長に仕え(秀吉の与力として)、 その後、 羽

 柴秀吉(豊臣秀吉) に仕え、 徳川家康に仕えた。

 

■ 浅野長政 は、 豊臣政権では五奉行の1人として、活躍した。

■ 浅野長政 は、 1599年(慶長4年)に、家康から、前田利長らと共

 に暗殺の嫌疑をかけられ、 浅野家の家督を長男・幸長に譲って、武蔵

 野国府中に隠居した。

■ 浅野長政 は、 1600年の天下分け目の戦いでは、家康方に味方し、 

 江戸幕府成立後は、 家康に近侍した。

 

■ 浅野長政の墓所は、茨城県桜井市の天目山伝正寺 と 和歌山県

 高野町の高野山悉地院 にある。

 

 

♪♪  浅野長政 が登場する、興味深い 関連

    ドラマ、映画、ドキュメンタリー。 

 

★ 浅野長政 が登場する、興味深い関連ド

   ラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 天地人 (てんちじん) 』 。 

   (NHKテレビ・2009年大河 ドラマ)。

 

■ 『 寧々〜おんな太閤記 (ねね 

   おんなたいこうき) 』 。 

   (テレビ東京・2009年制作テレビドラマ)。 

● 浅野長政(弥兵衛)を演じた俳優名 : 

  大柴 隼人

● ねね(寧々)を演じた俳優名 : 仲間由紀恵。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。  

□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

#asanonagakatsu

 

  浅野 長勝  

     (あさの ながかつ)。

      (= 浅野又右衛門)

 

■ 浅野 長勝。

■ 生没年 : 生年不詳〜1575年。

■ 名称 : 浅野長勝 (あさの ながかつ)

  通称は、又右衛門 (またえもん)。 

■ 「ねね(おね)」、「やや(長生院)」、浅野長政

  (長吉)の、養父。

■ 戦国時代、安土桃山時代の武将。 

  織田家家臣。

■ 浅野又右衛門(長勝)の夫人 は、 七曲 (な

  なまがり) であり、 杉原 定利(すぎはら さだ

  とし、ねね(おね)とややの実父) の夫人・朝日

  の実姉妹。

■ 浅野又右衛門(長勝)の養子 は、 浅野長政

  (長吉)、「ねね(おね)」、「やや(彌々(長生

  院)」。

● 「ねね(おね)」、「やや(彌々、長生院)」 は、 

  杉原 定利(すぎはらさだとし)の実娘 であり、 

  浅野又右衛門(長勝)の養女 となる。

● 「やや(彌々、長生院)」 は、 杉原 定利の娘

  ではなく、 浅野又右衛門(長勝)の実娘 とい

  う説 もある。

■ 浅野又右衛門(長勝)の父 は、浅野長詮 

  ある。 浅野長詮の実子には、浅野長勝(又右

  衛門) と 安井重継の夫人 がいる。

 

 

■ 浅野長勝(あさの ながかつ) は、 生没年は、生年不詳〜157 5

 年で、 通称 は、又右衛門 である。

 

■ 浅野長勝(あさの ながかつ、又右衛門) は、 戦国時代、安土桃

 山時代の武将 である。

 

■ 浅野長勝(又右衛門)の夫人 は、 七曲 (ななまがり) で ある。

 七曲 は、 原 定利(すぎはら さだとし)夫人・朝日の 実姉妹 で

 ある。

 

■ 浅野長勝(又右衛門) の養子 は、 浅野長政(長吉)、 「ねね

 (おね)」、 「やや(彌々長生院)」 である。

● 浅野長勝(又右衛門) は、 実子がなく、 浅野長政(長吉)、「ね

 ね(おね)」、「やや(彌々長生院)」 を養子とした。

 

■ 浅野長政(長吉) は、 浅野長勝(又右衛門) の養子 となる。

● 浅野長政(長吉(ながよし)) は、 安井重継の実子である。

● 浅野長勝(又右衛門) は、 男子の実子がなく、 浅野長政(長吉

 (ながよし)) は、 叔父浅野長勝(又右衛門)の養子 となる 、そ

 して、長勝の娘(養女または実娘)の「やや」と結婚し、婿養子となる。

 

■ 「ねね(おね)」 と 「やや(彌々長生院)」 は、 杉原 定利(すぎ

  はらさだとし)の娘 であり、 浅野長勝(又 右衛門)の養女 となる。

● 「やや(彌々長生院)」 は、 杉原 定利の娘ではなく、 浅野長勝

 (又右衛門)の実娘 という説 もある。

● 通説では、「ねね(おね)」、「やや(彌々長生院)」は、 杉原 定利

  (すぎはらさだとし)の娘 で、実姉妹で、 ともに浅野家 (浅野長勝

 (又右衛門)) の養女になったとされているが、 「やや(彌々長生

 院)」 は、 浅野長勝(又右衛門)の実の娘だったとする説  もある。

 

■ 浅野長勝(又右衛門)父  は、 浅野長詮 である。  

 浅野長詮の実子には、 浅野長勝(又右衛門) と 安井重継の夫人

 がいた。

 

■ 浅野長勝(又右衛門) は、 織田信長に仕え、 その後、 羽柴秀

 吉(豊臣秀吉) に仕える。

 

 

♪♪ 浅野長勝(又右衛門) が登場する、

  面白く、興味深いドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画 は、史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事 が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 寧々〜おんな太閤記 (ねね

    〜おんなたいこうき) 』 。 

   (テレビ東京・2009年制作テレビドラマ)。 

● 浅野長勝(又右衛門)を演じた 俳優名 

   : 渡辺 哲。

 

● 豊臣 秀吉を演じた俳優名 

   : 市川 亀治郎。

 

■ 『 功名が辻 (こうみょうがつじ) 』 。 

   (NHKテレビ・2006年大河ドラマ)。

 

■ 『 利家とまつ〜加賀百万石物

   語〜 』。 

   (NHKテレビ・2002年大河ドラマ)。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。  

□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

#abemasahiro

 

■ 阿部 正弘 

     (あべ まさひろ)。

 

■ 阿部 正弘。

■ 生没年 : 1819 年〜1857年。

■ 名称 : 阿部 正弘 (あべ まさひろ)。

■ 幕末の政治家。 江戸幕府・老中。  

■ 1843〜1857年に老中就任。

■ 1845〜1855年に老中首座。

■ 幕政転換(朝廷報告、諸大名・幕臣の幕政へ

  の意見陳述など)を行った、幕府・老中。

 

□ 阿部 正弘が登場する、興味深い、

   ドキュメンタリー、ドラマ、映画

 

 

■ 阿部 正弘 (生没年 1819〜57年) は、 

  江戸時代(1603〜1868年)末期の政治家

  で、 江戸幕府の老中 (在任1843〜57年) 

  であった。

 

■ 阿部 正弘は、 国事多難時に将軍を助け、 

  幕政を担当した。 有力大名と協調し、人材を

  登用し、幕政を強化し、国論統一に苦心した。

     阿部 正弘は、 弘化(1844〜48)年間、

  嘉永(1848〜54)年間、 安政(1854〜6

  0)年間の、国事多難時に将軍を助け、幕政

  を担当した。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 阿部 正弘は、 1853年(嘉永6年)のぺりー

  来航以後、 安政の改革(1853〜55年)を行

  った。

    阿部 正弘は、 幕府の国政を老中会議と将

  軍の独断で決めていた、それまでの幕政の方

  針を変えて、 朝廷への報告を行い、 諸大名

  や幕臣にも意見を述べさせて、 挙国的に対策

  を立てようとした。

    しかし、 この措置は、 朝廷の権威を高め、

  諸大名に、幕府の国政に発言の機会を与えるこ

  ととなり、 幕政を転換させる契機(けいき)とな

  った。

    阿部 正弘は、 江戸幕府に優秀な人材を身

  分に拘(こだわ)らず登用するともに、国防充実

  ため、 江戸湾(現在の東京湾)に台場(だい

  ば、砲台)を築き、 国内の大船建造の禁を解い

  た。 

      阿部 正弘は、 越前藩主・松平慶永(まつ

  だいらよしなが)、薩摩藩主・島津斉彬(しまづな

  りあきら)、宇和島藩主・伊達宗城(だてむねな

  り)などの有力大名の協力を得、 また、前水戸

  藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)を幕政参与

  とした。 

    1854〜55年の和親条約調印後、幕府や

  諸藩とも、 軍事力の強化、海外情報の収集、人

  材育成などを行った。

 

■ 阿部 正弘 は、 備後国(びんごのくに)福山

  藩主 であった 。

 

■ 阿部 正弘は、 1843年から1857年まで、 

  江戸幕府の老中に就任した。 そして、1845

  年から1855年まで、 江戸幕府の老中首座

  に就任した。

    阿部 正弘は、 1845年に、水野忠邦(み

  ずのただくに) に代わって、 老中首座 (老

  中首座期間 1845〜1855年) となる。

    阿部 正弘は、1857年に、 (老中)在職

  中に、病没した。

 

 

■ 阿部 正弘は、 1854年から1855年まで、米、

  英、露、蘭(アメリカ、イギリス、ロシア、オランダ)

  の4カ国と和親条約を結び、 日本の開国の端を

  開く(部分開国する)のを主導した幕閣 である。

     一方、1858年の修好通商 条約(安政の五

  カ国条約)で日本を本格的に開国した(完全開国

  した)のは、 江戸幕府・大老の井伊直弼(いいな

  おすけ) である。

 

 

■ 阿部 正弘 は、 次期14代将軍に一橋慶喜

  (ひとつばしよしのぶ、徳川慶喜)を支持する、

  一橋派の、譜代(ふだい)大名 であった。

    阿部 正弘 は、 次期14代将軍に一橋慶喜

    (ひとつばしよしのぶ)を支持、擁立する、一橋派

  の中心人物 であった。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 阿部 正弘 は、 一橋派の中心人物で、 一橋

  派の薩摩藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)の養

  女・篤姫 (あつひめ、島津篤子(しまづあつこ)、

  天璋院(てんしょういん)) の輿入(こしい)れ を

  バックアップして、 篤姫を、江戸幕府13代将軍・

  徳川家定(いえさだ)の正室夫人御台所)とした。

 

● 阿部 正弘 は、 江戸幕府の大奥の奥女中(女

  官)に、非常に人気があった。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。                

 

 

#abemasahiro-appearingscenes

 

■ 阿部 正弘 が登場する、興味深い、ドキュ

  メンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 阿部 正弘(まさひろ) が登場する、

  興味深い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクションです。 

  歴史のドラマや映画は、史実(歴史上の事実)  

  と架空の出来事が、 混じって、描かれてい

  ます。 また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 。 

   (NHKテレビ・2010年大河ドラマ)。

 日本の江戸時代末期を描く。

 

 『 篤姫 (あつひめ) 』 。 

   (NHKテレビ・2008年大河ドラマ)。

 日本の安土桃山時代 、江戸時代初期の時代を描く。

● 阿部 正弘を演じた俳優名 : 草刈 正雄。

 

 『 大奥・幕末の女たち 』。 

   (フジテレビ・2003、2004年制作・テレビドラマ)。

 日本の江戸時代末期、明治時代初期を描く。

● 阿部 正弘を演じた俳優名 : 五王 四郎。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。  

□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

 

 『 あなたのハートには 

    何が残りましたか? 』

 

 

 

以  上。