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◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY 

   HANDBOOK

 

 

 カナヤマ 日本歴史辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 ね 』。

 

 

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メ ニュー (目次)。  

■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

 

 □ 日本史 辞典 (総合)        

 

□       ● 五十音順 (あいうえお順)。

 

 □ 見出し語 ねさ

 □ 見出し語 ねな

 □ 見出し語 ねら

 

 

〇 ねい   ね。

          (= おね(ねね))。 《人名》。

           (生没年:1549年ー1624年)。

                      Ne.

          ○ 豊臣秀吉の正室夫人。

          (⇒ ねね(おね))。

              ■ ね (1549年ー1624年)は、  

              豊臣 秀吉の正室夫人であり、 おね、

              ねね、北政所(きたのまんどころ)、

              高台院(こうだいいん)、ねい、吉子 

              等とも称する。

 

#nesa

 

 ねず  鼠小僧次郎吉

             (ねずみこぞうじろきち)。  《人名》。

                     (1797ー1832年)。

          Nezumikozo Jirokichi.

          ○ 江戸後期出没の実在した

           窃盗犯。

          ○ 貧者にお金を恵む伝説的

           盗賊。

              ■ 鼠小僧次郎吉  (ねずみこぞうじろきち、

              1797ー1832年)は、 江戸後期出没の

              実在した 窃盗犯である。 貧者にお金を恵

              むことはなかった。

                鼠小僧次郎吉 は、映画、ドラマ、小説

              などフィクションの世界では、 貧者にお金

              を恵む伝説的盗賊となっている。

 

#nena

 

 ねね  ねね(おね)  

           《人名》。

           (= ねおね、北政所(きたのまん

                どころ)、高台院 (こうだいいん))。

           (生没年:1549年ー1624年)。  

                     Nene.

          ○ 豊臣秀吉の正室夫人。

           □ 豊臣秀吉 関連年代順

                       出来事

          (⇒ 浅野 長勝)。 

          (⇒ 木下 家定)。 

              ■ ねね (1549年ー1624年)は、 

              豊臣秀吉の正室夫人であり、 ね、おね、

              北政所(きたのまんどころ)、高台院(こ

              うだいいん)、ねい、吉子 等とも称する。

              ■ ねね(おね) (1549年ー1624年)

              は、 織田信長の足軽・杉原 定利(助左

              衛門)の娘であり、後に、信長家臣・浅野

              長勝(又右衛門)の養女となる。

              ● ねね(おね)は、 

              1561年(永禄4年)に、秀吉と

              婚儀を結び、秀吉の正室人夫と

              なり、その後、秀吉を助け、 秀吉

              と共に人生を歩む。 

              ● ねね(おね)は、 1598年(慶長3

              年)の豊臣秀吉の死後、高台院の号を

              勅許され、京(都)・高台寺に隠棲(いん

              せい)した。

          ■ 浅野 又右衛門長勝。

             ■ 浅野 又右衛門長勝は、織田

              信長の家臣・弓衆で、実子がなく、

             (O) 「おね(ねね)」

              (豊臣秀吉の夫人、

               長勝の夫人・七曲殿の姉妹の子)、

             (Y) 「やや(長生院)」

              (おね(ねね)の実妹、

              長勝の夫人・七曲殿の姉妹の子)、

             (N) 浅野弥兵衛長吉(長政)

              (「やや(長生院)」 の婿養子・夫、

              長勝の実姉の子)、 

             を養子とし、養父となる。

          ■ おね(ねね)、やや。

             ■ 浅野又右衛門長勝の夫人は、

             七曲殿(ななまがりどの、ふく)

             であり、 七曲殿の姉妹には朝日

             殿(あさひどの、こひ)がいる。

             ● 七曲殿の姉妹の朝日殿は、

             杉原定利 (すぎはらさだとし、

             婿養子)の夫人であり、

             二人の間には、次の3人の実子

             がいる。

             ( I ) 杉原(木下)孫兵衛家定

               (すぎはら(きのした)まごへ

               いえさだ、おね(ねね)の

               実兄、小早川秀秋の父)

             (O) 「おね(ねね)」 

               (豊臣秀吉の夫人)。

             (Y) 「やや(長生院)」 

               (おね(ねね)の妹、浅野

               弥兵衛長吉(長政)の夫人)。

 

 ねね  ねね(おね) 関連出来事 

        (年代順・詳細)

             (ねね(おね)かんれんできごと

             (ねんだいじゅん・しょうさい))。

          《人物別年代順出来事》。

 

 ねの  子の刻。

              (ねのこく)。  《時刻》。

                (⇒ 前近代日本の時刻・

           時法

             ■ 子の刻  (ねのこく)とは、 前近代日本

              の、定時法と不定時法の、十二支表示時

              刻の主要時間区分 である。

             ■ ≒ 午後11時00分〜午前1時00分。

             ● 子の刻の正刻 (正子(しょうし))

               ≒ 午前0時00分。 夜間・午前0時頃。

               ≒ (暁) 九(ここのつ)、九つ、九ツ。   

             ○ 子一刻(子一つ時)≒

              午後11時00分〜午後11時30分。

             ○ 子二刻(子二つ時)≒

              午後11時30分〜午前0時00分。

             ○ 子三刻(子三つ時)≒

              午前0時00分〜午前0時30分。

             ○ 子四刻(子四つ時)≒

              午前0時30分〜午前1時00分。

 

 ねの  子の方角。

              (ねのほうがく)。   《方位》。

             (= 北の方向)。

          THE NORTH.

        (⇒ 前近代日本の方位

 

#nera

 

 ねん  年月日。

             (ねんがっぴ)。 《日時》。

             THE YEAR, MONTH AND DAY.

          (⇒ 年表示)。

          (⇒ 日時)。

             ● 年月日の年表示には、 西洋年、和

             暦年、干支(かんし)年などがある。

             ● 日時には、 年月日と時刻がある。

             ● 時刻には、 西洋式時刻、干支表示

             時刻、時鐘(じしょう)表示時刻などがあ

             る。

 

 ねん  年号一覧表。

             (ねんごういちらんひょう)。 《和暦》。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

            日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック

          ○ 当日本史辞典の年号

           一覧表は、

           日本の全・年号(元号)の

           一覧表であり、

          (a) 西暦和暦総括対照表 と、

                     (b) 和暦年号一覧表、

           の2種類がある。

 

 ねん   年代順出来事。

              (ねんだいじゅんできごと)。 

           《年表・年代順出来事》。

              TIMELINE.              

               (⇒ 日本 史年表・

                   年代順出来事)。   

 

 ねん  年表示。

             (ねんひょうじ)。  《暦》。

          ● 西暦年。

          (⇒ 西暦

          ● 和暦年。

          (⇒ 和暦

          ● 干支年 (= 前近代

          日本の 干支表示年)。

          (⇒ 干支表示年

          (⇒ 干支暦

 

 ねん   年表。

              (ねんぴょう)。 

           《年表・年代順出来事》。

              CHRONOLOGY.

               (⇒ 日本史年表・

                     年代順出来事)。   

 

 ねん  年齢。 

             (ねんれい)。 《年齢》。

              (⇒ 数え年)。   

          ○ 年齢には、数え年と満年齢と

           がある。

          ○ 前近代日本では、数え年を使

           用、 近現代日本では、満年齢

           を使用した。

 

 

 

   ● 五十音順 (あいうえお順)。

 

 

   ■  『 現在は、過去の成果であり、

       未来は、現在の成果である。 

         (良き現在は、過去の人々の良き努力

          や活動の積み重ねの成果であり、 

          明るい良き未来は、現在の人々の、

          良き努力や活動の積み重ねによって

          形成される。)

 

 

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#jpdictionary(general)

 

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#ne

 

#nezumikozojirokichi

 

■ 鼠小僧次郎吉 

     (ねずみこぞうじろきち) 

      (= 鼠小僧)。

 

■ 鼠小僧次郎吉。 

■ 生没年 : 1797年(寛政9年)〜1832年(天保3年)。 

■ 名称 : 鼠小僧次郎吉 (ねずみこぞうじろきち)、 ま

  たは、鼠小僧 (ねずみこぞう)。 

■ 大名屋敷専門の単独窃盗犯。

● 日本の江戸時代後期に出没し、大名屋敷を専門に荒ら

 しまわった窃盗犯(泥棒)、単独犯。

■ 史実(歴史的事実)では、 盗んだお金を、貧しい人に

 あげた記録は、 全くなく、 盗んだお金は、賭博(とばく)、

 女、飲酒 等に浪費した。

■ ドラマ・映画等のフィクションの世界では、 鼠小僧次郎

 吉 は、 金持ちからお金を盗み、 貧しい人にお金をばら

 撒く 「義賊」 として描かれてる。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

鼠小僧次郎吉 が登場する、面白く、興味

 深い関連ドラマ、映画 、ドキュメンタリー

 

 

■ 鼠小僧次郎吉 (ねずみこぞうじろきち、 生没年 179

 7年(寛政9年)〜 1832年(天保3年) ) は、 大名屋敷

 専門の単独窃盗犯 で、 日本の江戸時代後期に出没し、 

 大名屋敷を専門に荒らしまわった窃盗犯 (泥棒) で、単

 独犯である。

■ 史実(歴史的事実)では、 鼠小僧 は、 盗んだお金を、

 貧しい人にあげた記録は、全くなく、 盗んだお金は、 賭

 博(とばく)、女、飲酒 等 に浪費した。

■ フィクションの世界では、 鼠小僧 は、金持ちからお金

 を盗み、貧しい人にお金をばら撒く 「義賊」 として描かれ

 てる。

 

■ 鼠小僧 は、 とび職(高所作業員)をしていたが、 賭

 博(とばく)が第一の楽しみで、 賭場(とば)に頻繁に出

 入りし、 生活費も浪費し、 生活に困り、 窃盗(せっとう)

 を始める。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 鼠小僧 は、 当時の大名屋敷の、警戒が手薄な、奥

 向(おくむき、女性部屋) を狙い、侵入し、 (品物はあし

 がつくので) 現金のみを盗んでいた。 そのため、 長期

 間、 窃盗を続けられた。

 

■ 鼠小僧 は、 喘息(ぜんそく)の持病があり、1832年

 (天保3年)、 ある大名屋敷で、 奥向(おくむき、女性部

 屋)の天井裏に忍(しの)んでいたとき、喘息がでて咳(せ

 き)をくりかえし、 奥女中に気づかれ、叫ばれ、 その大

 名屋敷の武士に捕まった。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 鼠小僧 は、 生涯、4人の妻を持ち、 妻に犯行がば

 れそうになると、その妻と離縁(離婚)し、 次の妻を迎え

 た。 これを繰り返したという。

 

■ 鼠小僧 は、 1823年(文政6年)から1832年(天

 保3年)まで、 わかっているだけで、 およそ99箇所

 122回にわたって盗みに入り、 3000両以上を盗んだ

 (本人の供述) と言われている。

 

■ 鼠小僧 は、2回捕まる。

■ 鼠小僧 は、1823年(文政6年)からおよそ28箇所、

 32回にわたって、盗みに入る。 

   鼠小僧の、1回目の捕縛は、1825年(文政8年)、土

 屋相模守(土浦藩主)の屋敷に忍び込んで捕まり、 南町

 奉行所で尋問を受け、 初めて盗みに入ったと嘘(うそ)を

 つき切り抜け、 入墨(いれずみ)を入れられ、「中追放」

 の刑を受け、 放免される。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 鼠小僧 は、 1825年(文政8年)、一時は上方へ行く

 が、 江戸に密かに舞い戻り、その後、7年間にわたり、 

 およそ71箇所90回にわたり、 盗みに入る。 

    鼠小僧の、2回目の捕縛は、 1832年(天保3年)5

 月で、 日本橋浜町の松平宮内少輔屋敷で捕まり、 その

 同年8月に、 市中引き回しの上、小塚原刑場で、 獄門

 (ごくもん)となる。 

 

■ 鼠小僧 は、享年36歳で、死去、 墓は、 両国の回向

 院 (えこういん) にある。

 

 

#nezumikozojirokichi-appearingscenes

 

♪♪ 鼠小僧次郎吉 が登場する、興味深い

    関連ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 鼠小僧 が登場する、興味深いドキュメ

   ンタリー。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 1件落着!?

  桜吹雪伝説・遠山の金さん・きまじめ

  官僚の正体 』。 

   (NHKテレビ・2009年 10月本放送・

    歴史ドキュメンタリー番組)。

■ 天保の改革を述べる。 

 

★ 鼠小僧 が登場する、興味深い関連ドラマ、

   映画 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

   また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 八百八町夢日記 』。  

   (日本テレビ・1989年放送・テレビドラマ)。

 

■ 『 鼠小僧次郎吉 』 

    (大映・1965年・映画)。

 

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#nene

 

■ ねね

   (=おね、北政所、高台院)。

 

■ ねね (おね)。 

■ 名称 : ねね。 

■ 生没年 : 1549年(天文18年)1624年

          (寛永元年)。 

■ 別名 : おね、寧々( ねね)、 ね、  北政所 

  (きたのまんどころ)(1585年〜)、 高台院

  (こうだいいん) (1598年〜)、 ねい、 吉子。

○ (注意) 前近代日本では、 家父長制の夫婦別姓。

   女性は、通常、個人名のみで自他呼称。

○ 前近代日本 での家父長制の夫婦別姓

   前近代日本の人名) 。

■ ねね(おね)は、

  豊臣 秀吉の正室 夫人である。 

■ ねね(おね)は、

  木下藤吉郎(豊臣秀吉)と自由恋愛(野合(やごう))

   で婚儀を結ぶ。

 

 □ ねね(おね)の一族

 □ ねね(おね)の氏名

 □ 豊臣氏関係寺社・墓。 

 □ ねね(おね) 関連出来事(年代順・

    詳細)

 □ ねね(おね)が登場する、興味深

    い 関連 ドキュメンタリー、ドラ マ、

    映画

 

 ■ ねね(おね)。

  ■ ねね(おね) (1549年ー1624年)は、 

  織田信長の足軽・杉原 定利助左衛門)の娘であ

  り、後に、信長家臣・浅野 長勝(又右衛門)の養

  女となる。

     ねね(おね)は、 1561年(永禄4年)に、秀

  吉と婚儀を結び、秀吉の正室人夫となり、その後、

  秀吉を助け、人生を歩む。 

     ねね(おね)は、 1598年(慶長3年)の豊臣

  秀吉の死後、高台院の号を勅許され、京(都)・高

  台寺に隠棲(いんせい)した。

 

 

 ■ ねね(おね)。

  ■ ねね(おね)は、 戦国時代室町時代後期)、安土

   桃山時代江 戸時代初期の戦略家の女性で、 豊

  臣秀吉と共に戦国の世を歩み、 秀吉を助け、 秀

  吉の参謀として、 秀吉の日本全国の統一を成功さ

  せた女性 である。

  ● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

 

  ■ ねね(おね)の生没年は、 1549年(天文18年)

    ー1624年(寛永元年) である。 

  ● ねね(おね)の誕生に関しては、 1549年説、15

    48年説、1542年説 などがある。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ ねね(おね)は、 豊臣秀吉の正室夫人であり、 

    秀吉との間に子(実子)はなっかた。

       藤吉郎(豊臣秀吉)とねね(おね)は 、 自由

    恋愛(野合(やごう))で婚儀を結ぶ。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 高台寺。

  ■ 京(都)にある、高台寺 ( こうだいじ、1605年

      ー現在は、 おね(ねね)が隠棲(いんせい)し

   た寺であり、 豊臣 秀吉正室夫人の、おね(ね

   ね)が豊臣秀吉の冥福を祈るため創建した寺院

   である。

 

 

#nene-hername

 

 ■ ねね(おね)の氏名。

  ■ ねね (1549年ー1624年)は、 豊臣秀吉の正

  室夫人であり、 おね、寧々 (ねね)、ね、北政所 

  (きたのまんどころ)、高台院 (こうだいいん)、ねい、

  吉子 等とも称する。

  ● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

 

  ■ ねね(おね) は、 ね、 ねね (寧々)、 おね 

  (お寧、祢(ね)、寧(ね)より)、 ねい (寧(ねい)、

  寧子、子為(ねい)より)) と称し、 北政所 (きた

  のまんどころ、従三位に叙せられ、1585年〜) 

  と呼ばれ、 その後、 吉子 (従一位を授かって、

  1588年〜) と呼ばれる。  

     その後、 ねね(おね) は、落飾後(1598年

  〜)、 高台院 (こうだいいん、高台院湖月尼)  

  と称 した。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ● 吉子は、 1588年に 従一位を授かって、朝廷 

   より賜(たまわ)った名で、 公の場面でのみ使用

   した。 

  ● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

 

  ■ < 注意 >

  ●   前近代日本(江戸時代以前の時代)では、

    女性は、通常、個人名のみで自他呼称した。

  ● 前近代日本では、女性は、通常、所持する

    一族名の名字を付けず、個人名のみで、名

    乗ったり、呼ばれたりした。

    (⇒ 前近代日本の人名

  ■ 前近代日本では、 家父長制の夫婦別姓。  

  ● 前近代日本では、女性は、婚儀(結婚)後、

    夫の一族名の名字を、名乗らなかったし、

    また、夫の一族名の名字を付けて呼ばれる

    ことはなかった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 「ねね」の側近。

 

  ■ 「ねね」の側近は、 孝蔵主(こうぞうす)と

    東殿(ひがしどの)である。 

 

  ■ 東殿(ひがしどの)は、 「ねね」の侍女(じじ

    ょ)であり、豊臣氏の後宮の取締役である。 

      東殿は、 「ねね」の生母の朝日殿の

    親類である (「関原軍記大成」から)。

      東殿の子は、 関ヶ原の戦いで活躍し戦

    死した大谷 吉継 (おおたに よしつぐ)であ

    る。 

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

#nene-toyotomi'stemples,shrinesandtomb

 

◆ 豊臣氏関係寺社・墓。 

 

 ■ 京(都)東部の方広寺、豊国神社、豊臣

    秀吉の墓、豊国社、豊国廟、高台寺。

 

  ■ 京(都)東部(京都市東山区)の茶屋町には、 安土桃山

  時代の1586年(天正14年)より現在まで方広寺(ほうこ

  うじ)があり、 方広寺大仏殿跡地に1880年(明治13年)

  から現在まで豊国神社(とよくにじんじゃ)がある。

     京(都)東部(京都市東山区)の阿弥陀ヶ峰(あみだが

  みね)には、 1598年(慶長3年)より現在まで豊臣秀吉

  の墓があり、 1599年(慶長4年)より1615年(慶長20

  年)まで豊国社(とよくにしゃ)があり、 1898年(明治31

  年)から現在まで豊国廟(ほうこくびょう)がある。

     京(都)東部(京都市東山区)の下河原町には、 16

  05年(慶長10年)より現在まで高台寺(こうだいじ)があ

  る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 豊国社。 

    豊国社(とよくにしゃ)は、豊臣秀吉の死後、方広寺の鎮 

  守として着工され、1599年(慶長4年)に完成し、 京(都)

  の阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)の山腹にある、壮大な社殿

  (30万坪、社領1万石)であった。

     安土桃山時代・江戸時代初期の当時(1598年後16

  15年までの間)、 豊国社(とよくにしゃ)の祭礼である、秀

  吉の忌日(きじつ)の8月18日の豊国祭(ほうこくさい)は大

  いに賑(にぎ)わった。

     豊国祭(ほうこくさい)が大いに賑(にぎ)わったため、

  淀殿や豊臣秀頼は大いに喜び、徳川家康は警戒し、懸念

  した。

      1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡後は、江戸幕

  府の幕命により、阿弥陀ヶ峰の豊国社(とよくにしゃ)の

  殿は破壊され、豊国祭(ほうこくさい)の祭礼も廃止となっ

  た。 

      その後、豊国社(とよくにしゃ)は、1880年(明治

  13年)に京(都)の茶屋町の場所に、方広寺大仏殿跡地

  に、方広寺に隣接して、豊国神社(とよくにじんじゃ)として、

  再興された。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 天下統一を果たした豊臣秀吉は、1598年(慶長3年)8月

  18日に、京(都)の伏見城で63歳の生涯を閉じ、 秀吉の

  遺骸は、遺命により、京(都)の阿弥陀ヶ峰(あ みだがみね)

  に豊臣秀吉の墓をつくり、葬られた。

     秀吉の死後、1589年(慶長4年)4月18日に、秀吉は、

  御陽成天皇(ごようぜいてんのう)より、正一位豊国大明神

  (しょういちい・とよくにだいみょうじん)の神位・社号を賜り、

  その後、京(都)の阿弥陀ヶ峰の山腹に、墓や豊国社(とよく

  にしゃ)の社殿(30万坪、社領1万石)が創建された。 以後、

  毎年、盛大な豊国祭等の祭礼が行われた。 

      しかし、1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡後、江戸

  幕府の幕命により、社殿は破壊され、豊国祭(ほうこくさい)

  等の祭礼も取り止めとなった。 以後、墓参する人も少なくな

  った。

     現在の、秀吉の墓と廟所(びょうしょ、墓所)は、1898 

  年(明治31年)に、秀吉死去300年の豊太閤三百年祭に際

  し、全国からの募金により、 豊国社(とよくにしゃ)跡地に豊

  国廟(ほうこくびょう)が建てられ、 古くからあった秀吉の墓

  も壮麗で巨大な墓に建て変えられた。

 

  ■ 京(都)東部にある、方広寺 (ほうこうじ)は、 

    豊臣氏の菩提寺(ぼだいじ)である。 

     方広寺には、 江戸時代に、大仏殿(だいぶつでん)

  と梵鐘(ぼんしょう)などがあり、 1612年(慶長17年)に

  豊臣秀頼大仏殿と梵鐘を完成した。 

     1614年(慶長19年)の「方広寺鐘銘事件」(ほうこう

  じしょうめいじけん)は、 大坂の陣の戦いの口実となった。

      方広寺の、大仏殿は、江戸時代後期の、1798年

  (寛政10年)に雷火で焼失し、梵鐘のみが現存する。

      1605年(慶長10年)に、京(都東部)の下河原町

   に、豊臣秀吉・正室夫人の、おね(ねね)が豊臣秀吉の

   冥福を祈るため、高台寺(こうだいじ)を創建する。

      1598年(慶長3年)の豊臣秀吉の死後、京(都)

  東部阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)の山腹に、壮大な

  国社(とよくにしゃ、30万坪、社領1万石)が、 方広寺

  の鎮守として着工され、1599年(慶長4年)に完成した。 

  1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡前まで、 豊国社

  (とよくにしゃ)の祭礼である、秀吉の忌日(きじつ)の8月

  18日の豊国祭(ほうこくさい)は、大いに賑(にぎ)わった。 

      しかし、1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡後、

  戸幕府の幕命により、豊国社( とよくにしゃ)の、社殿は

  破壊され、豊国祭(ほうこくさい)等の、祭礼も停止となっ

  た。 

      その後、1880年(明治13年)に、豊国神社(とよ

  くにじんじゃ)が、 京(都)東部の茶屋町に、方広寺大仏

  殿跡地に、方広寺(ほうこうじ)に隣接して、豊国社(とよ

  くにしゃ)の後身として再興され 、 1898年(明治31年)

  に、京(都)の阿弥陀ヶ峰の、豊国社跡地に、豊国廟(ほ

  うこくびょう)が建てられる。

     現在、京(都)東部(京都市東山区)の茶屋町に、方

  広寺(ほうこうじ)や方広寺大仏殿跡地に建つ豊国神社

  (とよくにじんじゃ)があり、 そこから少し離れた別の場

  所の、京(都)東部(京都市東山区)の阿弥陀ヶ峰(あみ

  だがみね)の山腹に、豊臣秀吉を葬った墓 と、  豊国社

  (とよくにしゃ)跡地に建つ豊国廟(ほうこくびょう)があり、 

  京(都)東部(京都市東山区)の下河原町に、高台寺(こ

  うだいじ)がある。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#nene-herclan

 

◆ ねね(おね)の一族。

 

  ■ ねね(おね)と秀吉との間に実子はいなっかた。

 

  ■ ねね(おね)の実父は、 杉原 定利助左衛門)

    である。

  ● 杉原 定利助左衛門)は、 ねね(おね)の実父

    である。

  ● ねね(おね)は、 杉原 定利助左衛門)の実娘 

    (実子の娘)である。

  ● ねね(おね)の実父は、 杉原定利助左衛門)  

    (すぎはら さだとし、生年不詳ー1593年)で、 

    織田信長に仕え、後、豊臣秀吉に仕え た武将 

    である。  

  ● 杉原定利助左衛門)は、 朝日の父・杉原 家

    の養子であり、 朝日の婿養子である。

  ● 杉原定利助左衛門)の子は、 木下(杉原)家定、 

    「ねね(おね)」、 「やや」の3人である。

 

  ■ ねね(おね)の実母は、 朝日(あさひ) である。

  ● 朝日(あさひ)は、 ねね(おね)の実母である。

  ● 朝日の実父は、 杉原家利 である

  ● 朝日は、 杉原家利の実娘 である。 

  ● 朝日は、 浅野又右衛門長勝の夫人・七曲 の

    実姉妹である。

  ● (注意) 豊臣秀吉の妹も 朝日(あさひ、旭、

    朝日姫)という名である。

  ● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

 

  ■ ねね(おね)の養父は、 浅野長勝(又右衛門)

    である。

  ● 浅野長勝(又右衛門)は、 ねね(おね)の養父

    である。

  ● ねね(おね)は、 浅野 長勝(又右衛門)の養女

    であった。

  ● ねね(おね)の養父は、 浅野長勝 (あさのな

     がかつ、生年不詳ー1575年、浅野又右衛門)

    であり、 織田家の弓衆 として織田氏に仕えた

    武将である。

 

  ■ ねね(おね)の叔母、養母は、 長曲 である。

  ● 長曲は、 ねね(おね)の叔母であり、養母

    である。

  ● ねね(おね)の叔母は、 長曲であり、

    長曲は、 浅野長勝(又右衛門)の夫人である。

  ● ねね(おね)は、 妹の「やや」と共に、2人で、

    浅野長勝(又右衛門)の養女となる (浅野長勝

    (又右衛門)の夫人が、「ねね(おね)」や「やや」

    の叔母の「長曲」であった関係で)。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。  

 

  ■ ねね(おね)の兄弟は、 兄の木下(杉原) 家定、 

     妹の「やや(彌々長生院)」  である。

  ● 木下(杉原) 家定は、 ねね(おね)の兄であり、

   「やや(彌々長生院)」は、 ねね(おね)の妹であ

   る。

  ■ ねね(おね)の実兄は、 木下(杉原) 家定である。

  ● 木下(杉原) 家定は、 ねね(おね)の実兄である。

  ● ねね(おね)は、 木下(杉原) 家定の実妹である。

  ● ねね(おね)の兄は、 木下 (杉原) 家定 (きのし

    た(すぎはら) いえさだ)であり、 ねね(おね)の実

    兄 である。

  ● ねね(おね)の実兄の木下 (杉原) 家定 (きのした

    (すぎはら) いえさだ)は、 実父の杉原(すぎはら)

    姓を改名して、木下姓を名乗る。 

  ● また、木下 (杉原) 家定は、 豊臣秀吉に、木下姓

    を与えたと言われている。

 

  ■ ねね(おね)の兄・木下(杉原) 家定の子が、小早 

    川秀秋(金吾(きんご))である。

  ● 木下(杉原) 家定は、 小早川秀秋の実父である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ ねね(おね)の実妹は、「やや」(彌々長生院)

    ある。

  ● 「やや(彌々長生院)」は、 ねね(おね)の実妹

    である。

  ● ねね(おね)の妹の「やや」(彌々長生院)は、 

  浅野長勝(又右衛門)の実姉の男子である安井 

  弥兵衛(浅野家の婿養子となり、浅野長吉(長政)

  と称す)と婚儀を結び(結婚し)、浅野長政(長吉)

  夫人 となる。  

  ● 「やや(彌々長生院)」は、 

    寧々(ねね)の実妹ではないという説がある。 

      「やや(彌々長生院)」は、 杉原 定利

  左衛門)の実娘ではなく、浅野長勝(又衛右門

  実娘 という説 もある。

 

  ■ ねね(おね)の妹の「やや(彌々長生院)」の夫が、

   浅野長政(長吉) である。

  ● 浅野長政(長吉)は、 ねね(おね)の妹の「やや(彌々

    長生院)」の 夫である。

  ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

#nene-appearingscenes

 

♪♪  ねね(おね)が登場する、興味深い

    関連ドキュメンタリー、ドラマ、映画。 

 

 ★ ねね(おね)が登場する、興味深い

    関連ドラマ、映画。

 

  ● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

   また、 現代風にアレンジしてあります。

 

 

 ■ 『 寧々〜おんな太閤記 

       (ねね おんなたいこうき) 』 。   

     (テレビ東京の2009年制作テレビドラマ)。 

     (原作:橋田壽賀子(はしだすがこ)の

      「おんな太閤記」)。

     (脚本:金子成人 (かねこなりと))。

 

  ■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土

    桃山時代、江戸時代初期の活躍人物、風習、

    建築物、社会状況などを描いたドラマ。

 

  ■ 豊臣秀吉の一族、織田信長、徳川家康など

    が登場する。

 

  ● ねね (おね; 豊臣秀吉正室夫人; 浅野

      長勝の養女 ; 木下(杉原)家定の妹 ;

    浅野長勝の夫人・七曲殿(ななまがりど

    の)の姉・朝日殿(あさひどの)と杉原定利

    (すぎはらさだとし)との間の女子 ; 寧々

    (ねね)、北政所(きたのまんどころ)、高台

    院(こうだいいん)、ねい、吉子)を演じた 

    女優名 :仲間 由紀恵 (なかま ゆきえ)。  

 

  ● 豊臣 秀吉 (とよとみひでよし、= 木下 藤

    吉郎秀吉、 羽柴 秀吉) を演じた俳優名 : 

    二代目市川 亀治郎 (いちかわかめじろう、

    四代目市川猿之助(いちかわえんのすけ))。

     

 

 ▼ 浅井氏一族。

 

  ● 浅井 長政 (あざい ながまさ、北近江の

    戦国大名)を演じた俳優名 : 

    田中 実 (たなか みのる)。

 

  ● お市の方 (おいちのかた、織田 信長の妹、

    浅井長政正室夫人、浅井三姉妹・茶々・初・

    江の生母)を演じた女優名 : 

    高岡 早紀 (たかおか さき)。  

 

  ● お初 (おはつ、京極高次正室夫人、常高

    院、浅井三姉妹・茶々・初・江の一人)を演じ

    た女優名 : 小林 京子。

 

 

 ▼ 織田氏一族。

 

  ● 織田 信長を演じた俳優名 : 村上 弘明

         (むらかみ ひろあき)

 

  ● 織田 信雄 (おだ のぶかつ、織田 信長の

    次男)を演じた俳優名 : 

    井之上 チャル (いのうえ ちゃる)。

 

  ● 織田 信孝 (おだ のぶたか、織田 信長の

    三男)を演じた俳優名 : 

    宮下 直紀 (みやした なおき)

 

 

 ▼ 織田氏家臣。

 

  ● 柴田 勝家 (しばた かついえ、織田氏筆頭

    家老)を演じた俳優名 : 

    柴 俊夫 (しば としお)

 

  ● 前田 利家 (まえだとしいえ)を演じた俳優 

    名 : 原田 泰造(はらだ たいぞう)。

 

  ● まつ (前田 利家夫人)を演じた女優名 : 

    中山 忍 (なかやま しのぶ)。  

 

  ● 丹羽 長秀 (たんば ながひで、織田氏次席

    家老)を演じた俳優名 : 

    魁 三太郎 (さきがけ さんたろう)

 

  ● 大沢次郎佐衛門基康 (おおさわじろうざえ

    もんもとやす、鵜沼(うぬま)城主、元美濃・

    斎藤氏方国人領主):  本田 博太郎

    (おんだ ひろたろう)。

    

 

 ▼ 浅野氏・木下(杉原)氏一族。

 

  ● 浅野 長勝 (あさの ながかつ、通称:

    又右衛門 ; おね(ねね)、やや、浅野 長政

    の3人の養父)を演じた俳優名 : 

    渡辺 哲 (わたなべ てつ)。

 

  ● 浅野 長政 (あさの ながまさ、通称:弥兵

    衛 ; 浅野長勝の婿養子; おね(ねね)の

    妹・ややの夫 ; 浅野長勝の姉の男子)

    演じた俳優名 : 

    大柴 隼人 (おおしば はやと)。

 

  ● 木下(杉原)家定 (きのした(すぎはら)

    いえさだ ; 杉原定利(すぎはらさだとし)

    と朝日殿(あさひどの)との間の男子 ;

    おね(ねね)、ややの兄 ; 名字を杉原

    から木下に改名する)。

    ドラマでは、不登場。

 

  ● やや (おね(ねね)の妹 ; 浅野長勝の

    養女; 浅野長政夫人; 浅野長勝の夫人・

    七曲殿(ななまがりどの)の姉・朝日殿(あ

    さひどの)と杉原定利(すぎはらさだとし)

    との間の女子; 木下(杉原)家定の妹、

    長生院(ちょうせいいん))を演じた女優名 : 

    星野 真里 (ほしの まり)。

 

  ● 木下 勝俊 (きのした かつとし;おね(ね

    ね)の兄・木下(杉原)家定の長男)を演じ

    た俳優名 : 和田 正人 (わだ まさと)。

 

  ● 小早川 秀秋 (こばやかわ ひであき ;お

    ね(ねね)の兄・木下(杉原)家定の五男 ;

    羽柴秀俊、通称:金吾(きんご)中納言、

    幼名:辰之助)を演じた俳優名 : 

    二代目 尾上 松也 (おのえ まつや)。

 

 

 ▼ 豊臣氏一族。

 

  ● なか (豊臣秀吉の生母、大政所(おおま

    んどころ))を演じた女優名 : 十朱 幸代 

    (とあけ ゆきよ)。

 

  ● 豊臣 秀長 (とよとみ ひでなが、通称:

    小一郎、豊臣秀吉の異父弟)を演じた

    俳優名 : 福士 誠治 (ふくし せいじ)。

 

  ● とも (豊臣秀吉の同父姉、豊臣秀次の

    生母)を演じた女優名 : 横山めぐみ

    (よこやまめぐみ)。

 

  ● 三好 吉房 (みよし よしふさ、弥助、とも

    の夫、豊臣秀次の実父)を演じた俳優名 :

    吉見 一豊 (よしみ かずとよ)。

 

  ● 豊臣 秀次 (とよとみ ひでつぐ、孫七郎、

    ともの男子、豊臣秀吉の甥(おい))を演じ

    た俳優名 : 濱田 岳 (はまだ がく)。

 

  ● 朝日姫 (あさひひめ、豊臣秀吉の異父妹、

    徳川家康継室夫人、旭姫)(ドラマ名:きい、

    あさひ)を演じた女優名 : 田畑 智子

    (たばた ともこ)。

 

  ● 副田 吉成 (そえだ よしなり、ドラマ名:

    甚兵尉(じんべい)、朝日姫の前夫)を演じ

    た俳優名 : 蟹江 一平 (かにえ いっぺい)。

 

 

 ▼ 豊臣氏一族。

 

  ● 淀の方 (よどのかた、茶々、淀殿、豊臣

    秀吉側室夫人、浅井三姉妹・茶々・初・江

    の一人)を演じた女優名 : 吹石 一恵 

    (ふきいしがづえ)。

 

  ● 豊臣 秀頼 (とよとみ ひでより、豊臣 秀

    吉の三男)を演じた俳優名 : 

    中村 壱太郎

 

 

 ▼ 淀の方側の豊臣氏家臣。

 

  ● 石田 三成 (いしだ みつなり ; 豊臣氏

    五奉行の一人)を演じ た俳優名 : 

    中村 俊介 (なかむら しゅんすけ)。

 

  ● 大蔵卿局 (おおくらきょうのつぼね、淀の

    方の乳母、側近 ; 大野治長の生母)を演じ

     た女優名 : 

         池上 季実子 (いけがみ きみこ)。

 

  ● 大野 治長 (おおの はるなが ; 大蔵卿局

    の男子)を演じた俳優名 : 

    海東 健 (かいとう けん)。

 

 

 ▼ ねね(おね)側の豊臣氏家臣。

 

  ● 孝蔵主 (こうぞうす、おね(ねね)の侍女

    筆頭)を演じた女優名 : 吉沢 京子 

    (よしざわ きょうこ)。

 

  ● 中山又一 (なかやままたいち、ねねの

    忍者) : 金田 明夫 (かねだ あきお)。

 

  ● 小笹 / 茜(こささ/あかね、ねねの忍者):

    小沢 真珠 (おざわ まじゅ)。

 

  ● 蜂須賀正勝 (はちすか まさかつ ; 通称:

    小六(ころく))を演じ た俳優名 : 

    梨本 謙二郎 (なしもと けんじろう)。

 

  ● 加藤 清正 (かとう きよまさ)を演じた

    俳優名 : 山田 純大 (やまだ じゅんだい)。

 

  ● 片桐 且元 (かたぎり かつもと、豊臣氏

    直参家臣; 関ヶ原の戦い以後、豊臣秀頼

    の家老)を演じた俳優名 : 

    石井 英明 (いしい ひであき)。

 

 

 ▼ 徳川氏一族。

 

  ● 徳川 家康 (とくがわいえやす)を演じた

    俳優名 : 高橋 英樹 (たかはし ひでき)。

 

  ● 徳川 秀忠 (とくがわ ひでただ)を演じた

    俳優名 : 浜田 学 (はまだ まなぶ)。

 

  ● お江 (おごう、小督(おごう)、徳川秀忠

    正室夫人、崇源院(すうげんいん)、浅井

    三姉妹・茶々・初・江の一人)を演じた

    女優名 : 高橋 かおり。

 

 

 ▼ 徳川氏家臣。

 

  ● 本多 忠勝 (ほんだ ただかつ、通称:

    平八郎(へいはちろう))を演じた

    俳優名 : 岸田 裕二。

 

  ● 本多 正信 (ほんだ まさのぶ)を演じた

    俳優名 : 

    名高 達男 (なだか たつお)。

 

  ● 本多 正純 (ほんだ まさずみ、本多正信

    の長男)を演じた俳優名 : 

    市瀬 秀和 (いちのせ ひでかず)。

 

  ● 鳥居 元忠 (とりい もとただ)を演じた

    俳優名 : 谷口 高史 (たにぐち たかし)。

 

 

 ■ 『 真田丸 (さなだまる) 』 。  

     (NHKテレビの2016年大河ドラマ)。

 

  ■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土

    桃山時代、江戸時代初期の活躍人物、風習、

    建築物、社会状況などを描いたドラマ。

 

  ● ねね (おね、寧々(ねね)、ドラマ名:寧(ね

     い)、豊臣秀吉正室夫人、北政所(きたのま

     んどころ))(を演じた女優名 : 

     鈴木 京香 (すずき きょうか)。

 

  ● 豊臣 秀吉を演じる俳優名 : 

    小日向 文世。

 

 

 ■ 『 軍師 官兵衛 (ぐんしかんべえ) 』 。     

     (NHKテレビの2014年大河ドラマ)。 

 

  ■ 日本の 室町時代後期(戦国時代)、安土

     桃山時代の活躍人物、風習、建築物、

    社会状況などを描いたドラマ。

 

  ● ねね(おね)を演じた女優名 : 黒木 瞳

      (くろき ひとみ)

 

  ● 豊臣 秀吉を演じた俳優名 : 竹中 直人。

    (たけなか なおと)。

  ● 黒田 官兵衛を演じる俳優名: 岡田 准一。

 

 

 ■ 『 戦国疾風(しっぷう)伝 二人の

    軍師〜秀吉に天下を獲らせた男

    たち 』。   

     (テレビ東京の2011年放映テレビドラマ)。 

 

  ■ 日本の 室町時代後期(戦国時代)、安土

     桃山時代の活躍人物、風習、建築物、

    社会状況などを描いたドラマ。

 

  ■ 黒田 官兵衛(孝高(よしたか))、竹中 半

    兵衛(重治(しげはる))の2人の軍師を中心

    に、描く。

 

  ● ねね(おね)を演じた女優名: 余 貴美子。

 

  ● 豊臣 秀吉を演じた俳優名 : 

    西田敏行

  ● 黒田 官兵衛を演じた俳優名: 高橋 克典 

    (たかはし かつのり)。

  ● 竹中 半兵衛を演じた俳優名: 山本 耕史。 

 

 

 ■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』。  

     (NHKテレビの2011年大河ドラマ)。 

 

  ■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土

    桃山時代、江戸時代初期の活躍人物、風習、

    建築物、社会状況などを描いたドラマ。

 

  ● ねね(おね)を演じた女優名 : 大竹 しのぶ。

 

  ● 豊臣 秀吉を演じた俳優名 : 岸谷 五郎。

 

 

 ■ 『 天地人 (てんちじん) 』 。  

     (NHKテレビ・2009年大河 ドラマ)。

 

  ■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土

    桃山時代、江戸時代初期の活躍人物、風習、

    建築物、社会状況などを描いたドラマ。

  ● ねね(おね)を演じた俳優名 : 富司 純子。

 

  ● 豊臣 秀吉を演じた俳優名 : 笹野 高史 

    (ささの たかし)。

 

 

 ■ 『 功名が辻 (こうみょうがつじ) 』 。   

     (NHKテレビ・2006年大河ドラマ)。

 

  ■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土

    桃山時代、江戸時代初期の活躍人物、風習、

    建築物、社会状況などを描いたドラマ。

 

  ● 豊臣 秀吉を演じた俳優名 : 柄本 明 

    (えもと あきら)。

 

 

 ■ 『 利家とまつ〜加賀百万石

     物語〜 』。  

     (NHKテレビ・2002年大河ドラマ)。

 

  ■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土

    桃山時代、江戸時代初期の活躍人物、風習、

    建築物、社会状況などを描いたドラマ。

 

 

 ■ 『 信長 KING OF ZIPANGU 』 。  

     (NHKテレビ・1992年大河ドラマ)。

 

  ■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土

    桃山時代の活躍人物、風習、建築物、

    社会状況などを描いたドラマ。

 

  ● ねね(おね)を演じた俳優名 : 中山美穂。

 

  ● 羽柴秀吉(木下藤吉郎、豊臣 秀吉)を演じ

    た俳優名 : 仲村トオル。

 

 

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#nene-thehappenings

 

 ねね(おね) 関連出来事 

       (ねね(おね)かんれんできごと)。

 

#nenehappeningsbyperiod

 

ねね(おね) 関連出来事

  (年代順、詳細)。

 

■ ねね(おね) 年代順 詳細項目。

 

 □ 1532年〜1585年のねね(おね)

    関連出来事

 □ 1585年〜1598年のねね(おね)

    関連出来事

 □ 1598年〜1614年のねね(おね)

    関連出来事

 □ 1614年〜1624年のねね(おね)

    関連出来事

 

ねね(おね) 関連出来事

    (年代順、詳細)。

 

#nenehappeningsbyperiod-1532

 

■ 1532年 (享禄5年、天文元年)。

■ 1532年 (天文 元年)  天文(てんぶん、てんもん)

     改元。 

    1532年7月29日に、 和暦の「享禄」(きょうろく、

    享禄元年〜5年) が、 「天文」 (てんぶん、てんも

    ん、天文元年・1532年・7月29日〜天文24年・15

  55年・10月23日) に改元される。 

 

■ 1549年 (天文18年)。

■ 1549年(天文18年)に、 ねね(おね)は、 尾張国

  (おわりのくに、現・愛知県西部・相当地域)の、杉原

  定利(助左衛門)の次女として、生まれる。 

     ねね(おね)の生年には、 1549年説、1548

  年説、1542年説がある。

■ その後、 ねね(おね)は、 叔母の嫁ぎ先の(尾張

  国の津島の)浅野長勝(又右衛門)の養女となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1554年 (天文23年)。

■ 1554年(天文23年)頃に、秀吉(木下藤吉郎)は、 

   織田信長に小者として、 仕える。 

● その後、秀吉(木下藤吉郎)は、 清洲城の普請奉

  行、台所奉行などを率先して引き受け、大きな成果を

  あげる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1555年 (天文24年、弘治元年)。

■ 1555年 (弘治 元年) 弘治(こうじ)改元。    

   1555年10月23日に、和暦の「天文」 (てんぶん、

  てんもん 、天文元年〜24年) が、  「弘治」 (こう

  じ、 弘治元年・1555年・10月23日〜  弘治4年・

  1558年・2月28日) に改元される。 

 

■ 1558年 (弘治4年、永禄元年)。

■ 1558年 (永禄 元年) 永禄(えいろく)改元。 

   1558年2月28日に、和暦の「弘治」 (こうじ、弘

  治元年〜4年)が、 「永禄」 (えいろく、永禄元年・

  1558年・2月28日〜 永禄13年・1570年・4月

  23日) に改元される。 

 

■ 1560年 (永禄3年)。

■ 1560年に、秀吉(木下藤吉郎)は、 木下秀吉と

  称する。

 

■ 1561年 (永禄4年)。

■ 1561年(永禄4年)に、 織田信長の家臣、秀吉(木

  下秀吉)に嫁ぐ (通説では14歳)。

 

■ 1570年 (永禄13年、元亀 元年)。

■ 1570年 (元亀 元年) 元亀(げんき)改元。  

     1570年4月23日に、 和暦の「永禄」 (えいろく、

  永禄元年〜13年) が、 「元亀」 (げんき、 元亀元

  年・1570年・4月23日〜元亀4年・ 573年・7月28

  日) に改元される。 

 

■ 1573年 (元亀4年、天正 元年)。

■ 1573年 (天正 元年) 天正(てんしょう)改元。 

  1573年7月28日に、 和暦の「元亀」 (げんき、元

  亀元年〜4年) が、 「 天正」 (てんしょう、天正元

  年・1573年・7月28日〜天正20年・1592年・12

  月8日) に改元される。 

 

■ 1573年 (元亀4年、天正元年)。

■ 1573年(天正元年)に、浅井氏が滅亡すると、秀吉(木下秀吉)は、

 旧北近江三郡を、信長より封じられ(与えられ)、 今浜の地を「長浜」

 と改め、長浜城の城主となり、 近江(おおみ、滋賀県)・長浜12万石

 の領主となる。

● 1573年に、秀吉(木下秀吉)は、 木下姓を、羽柴姓に改め、羽柴

 (はしば)秀吉と称した。

● 秀吉(羽柴秀吉) は、 近江(おうみ、滋賀県)より、人材発掘に励み、

 旧浅井家臣団や石田三成など有望な若者を、 積極的に登用する。

   後に、近江(おうみ)出身の家臣(石田三成など) は、尾張(おわり)

 出身の家臣(加藤清正、福島正則など)と対立するようになる。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 1574年 (天正2年)。

■ 1574年(天正2年)に、 ねね(おね) は、 秀吉が近江・長浜12万

 石の領主となった、長浜へ、 秀吉の生母なかと共に、長浜へ転居する。

● 遠征で長浜をあけることの多い夫・秀吉(羽柴秀吉)に代わり、領主代

 行のような役目をはたす。

● ねね(おね) は、 秀吉(羽柴秀吉)との間に子がなかったので、 秀

   吉や自分の親類縁者を、養子や家臣として、養育する。 

         その中で、加藤清正(かとうきよまさ)、 福島正則(ふくしままさの

    り) は、 秀吉子飼いの武将 (ねね(おね)チルドレン) として、有名

  である。

 

■ 1582年 (天正10年)。

■ 1582年(天正10年)に、織田信長が本能寺の変で死去する。

● ねね(おね) は、 近江の長浜城より一時難を避けて、 領内の大吉

 寺に身を寄せる。

● 秀吉(羽柴秀吉)は山崎の戦いで明智光秀を破り、長浜に帰り、 ねね

 (おね) は、 秀吉(羽柴秀吉)と再会する。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 1583年 (天正11年)。

■ 1583年(天正11年)8月に、秀吉(羽柴秀吉)は、石山本願寺の跡地

 に、大阪城の築城を開始する (1588年大阪城完成)。

 

■ 1584年 (天正12年)。

■ 1584年8月に、秀吉は、大阪城に移る。 ねね(おね) は、 夫の秀

 吉(羽柴秀吉)と共に、大阪に移る。

 

 

#nenehappeningsbyperiod-1585

 

■ 1585年 (天正13年)

■ 1585年(天正13年)に、 秀吉(羽柴秀吉)が 関白となり、 ねね(お

 ね) が関白夫人となり、 ねね(おね)は、 北政所(きたのまんどころ) と

 称す。

 

■ 1586年 (天正14年)

■ 1586年(天正14年)に、 秀吉(羽柴秀吉)は 豊臣の姓を賜(たまわ)

 る。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 1588年 (天正16年)

■ 1588年(天正16年)に、 ねね(おね)は、 従一位に叙せられ、吉子

 の名を賜る。

■ 1588年(天正16年)に、 茶々(淀殿) は、 父・浅井長政と母・お市

 の仇(かたき)の、秀吉(豊臣秀吉)の側室(夫人)となる。 大阪城へ入る。

■ その後、黒百合事件 (くろゆりじけん) が起こる。

 大阪城で、 珍しい黒百合(くろゆり)の観賞をめぐり、 ねね(おね) と 

 茶々(淀殿)の仲 が 決定的に悪くなる。 以後、一生、2人の不仲は、戻

 らず。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 1589年 (天正17年)

■ 1589年(天正17年)に、 茶々(淀殿) は、 秀吉(豊臣秀吉)の男子、

 鶴松(つるまつ)を生む。  

● 茶々(淀殿) は、 この懐妊・出産を喜んだ秀吉(豊臣秀吉)から、淀城

 を賜(たまわ)り、 以後、茶々(淀殿)は、「淀の方(よどのかた)」 と呼ば

 れるようになる。

● その後、 淀殿(茶々) は、鶴松を、秀吉の正室の 寧々(ねね)に預け、 

  寧々(ねね)が鶴松を引き取り、育てる。

● 安土桃山時代では、 武家のしきたりとして、 側室の子を、正室が育て

 ていた。

● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

 

■ 1591年 (天正19年)

■ 1591年(天正19年)に、 秀吉の正室の ねね(おね)の元で育てられ

 ていた、鶴松 (淀殿(茶々)の男子) が、病気で、 死亡する。

● 当時の武家では、側室の子を、正室が育てる慣習があった。

 

■ 1592年 (天正20年、文禄元年)。

■ 1592年 (文禄 元年) 文禄改元。 

   1592年12月8日に、 和暦の「天正」 (てんしょう 、天正元年

  〜20年) が、 「 文禄」 (ぶんろく、 文禄元年・1592年・12月

  8日〜 文禄5年・ 1596年・10月27日) に改元される。 

 

■ 1593年 (文禄2年)

■ 1593年(文禄2年)に、 淀殿(茶々) は、 秀吉(豊臣秀吉)の男子、

 拾(ひろい、秀頼)を生む。 秀吉の許しを得て、 自分の手元で、育てる。

● 今回は、 淀殿(茶々)は、 拾(秀頼)を秀吉の正室のねね(おね)に預

 けず。

● そん後、拾 (ひろい、拾丸、後の豊臣秀頼) は、 伏見城で、 育つ。

 

■ 1596年 (文禄5年、慶長元年)。

■ 1596年 (慶長 元年) 慶長(けいちょう)改元。 

   1596年10月27日に、 和暦の「文禄」 (ぶんろく 、文禄元年

 〜5年) が、「 慶長」 ( けいちょう、 慶長元年・1596年・10月

 27日〜 慶長20年・1615年・7月13日) に改元される。 

 

 

#nenehappeningsbyperiod-1598

 

■ 1598年 (慶長3年)。

■ 1598年(慶長3年)に、 秀吉(豊臣秀吉)が没する(死去する) と、

 ねね(おね) は、 落飾(らくしょく、出家)して、 高台院湖月尼 と称

 した。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 1598年(慶長3年)に、 秀吉(豊臣秀吉)が没する(死去する)と、 秀

 吉の遺言により、 淀殿(茶々)と豊臣秀頼 は、 伏見城より、 大阪城の

 本丸に移る。

● 豊臣秀頼 が、 豊臣宗家の当主となり、 淀殿(茶々)は、 幼い豊臣秀

 頼の後見人となる。 淀殿(茶々)は、 淀殿(茶々)の乳母(うば)の、大蔵

 卿局 (おおくらきょうのつぼね、大野治長の母)、 饗庭局 (あえばのつぼ

 ね) を重用(ちょうよう)する。 また、淀殿(茶々)は、 石田三成をはじめ

 とする、自分の出身地の近江(おうみ、滋賀県)出身の武将 (近江派) を

 側近とする。

 

■ 淀殿(茶々)の推(お)す三成派 と ねねの推す家康派 との豊臣家内 

 での対立。

● 秀吉(豊臣秀吉)死後、 淀殿(茶々)の信頼する石田三成派の豊臣家

 臣団と 寧々(ねね)の信頼する徳川家康派の豊臣家臣団 とが、豊臣家

 内で、対立する。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 淀殿 (茶々、近江出身) が信頼する、石田三成をはじめとする近江派

 (おうみは、近江出身の武将)の豊臣家家臣 が、 豊臣家で、大きな勢力

 となる。 ねね(おね)が信頼する、尾張派(おわりは、尾張(現在の愛知県

 西部)出身の武将)の豊臣家家臣は、 近江派の豊臣家家臣に圧迫される。

 

● 秀吉の正室・夫人のねね(おね) は、 淀殿(茶々)が信頼する、石田

 三成をはじめとする近江派の豊臣家臣に対抗して、徳川家康に、石田三

 成をはじめとする近江派の豊臣家臣の勢力を 減少させるように依頼し、

 豊臣家の将来を託す。

  1599年(慶長4年)に、 ねね(おね) は、 豊臣家の家臣で大老の家

 康を擁して、 石田三成派の豊臣家家臣を牽制(けんせい)ため、 自分の

 住む大阪城の西の丸を引き払い、家康に引き渡し、 孝蔵主などわずかな

 中達を引き連れて、 京都新城へ移り、 関ヶ原の戦い後、 京都・三本

 木の屋敷に移り住む。 

● ねね(おね) は、 化粧料として 秀吉から与えられていた大名並みの

 1万5,000石にものぼる広大な領地を、 徳川家からも認められ (安堵

 (あんど)され)、 北政所としての品位を保った。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 1600年 (慶長5年) 

■ 1600年に、 関が原の戦い。  豊臣家臣団の戦い。

● 豊臣家臣団の間に、 徳川家康派と石田三成派の内紛が起こり、戦争と

 なり、 徳川家康派の豊臣家臣団 が、 戦いに勝つ。

● 勝利後、 家康が、大阪城に出向き、 家康の主君の豊臣秀頼とその後

 見人の淀殿(茶々、秀頼の生母) に、 徳川家康派の豊臣家臣団の戦争

 の勝利を報告する。

● 戦後処理で、 豊臣家大老の家康 は、豊臣家の主君(豊臣秀頼)の許し

 を得ず、 全国の大名の所領を、勝手に、処理(移動分配)する。

  家康 は、 豊臣家宗家の所領も、処理(分配)し、 豊臣家宗家 は、22

 2万石から、 65万石の一大名へ転落する。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 豊臣家への徳川家康の裏切り。

 

■ 1603年 (慶長8年)

■ 1603年に、 豊臣家の家臣で大老の、徳川家康が、 主君の豊臣家の

 許可を得ず、 勝手に、 征夷大将軍となり、 徳川家が 江戸幕府を開く。 

● この出来事に、 淀殿(茶々) や ねね(おね) が、豊臣家への裏切りと、

 驚く。 

  しかし、 関が原の戦いで負けて家康に許されて(領地)減封となった石田

 三成派の豊臣家臣団 や 関が原の戦いで勝って家康より領地を加増された

 徳川家康派の豊臣家臣団 や 中立派の豊臣家臣団 は、 この出来事に

 驚くが、 豊臣家に代わり、 徳川家を主君とすることに、 已(や)むを得え

 ず、 同意する。

● その結果、 徳川家が、豊臣家に代わって、日本を支配することになった。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 1605年 (慶長10年)

■ 1605年(慶長10年)に、 ねね(おね)は、 秀吉の

  冥福を祈るため、家康に依頼し、 京都東山に高台院

  を建立し、 ここを終焉(しゅうえん)の地と定めた。

 

■ 徳川家康が豊臣家を滅亡させる戦略をねる。

 

■ 1611年 (慶長16年)

■ 1611年(慶長16年)に、 京都・二条城で、 家康が、 

  成長し立派になった、豊臣秀頼に会う。 

● 会見時、 家康は、 立派になりカリスマ性をもつ豊臣

  秀頼に会って驚き、家康は、内心で、 全国の豊臣恩

  顧の大名が立派になった豊臣秀頼に将来参陣し、徳川

  氏の支配がひるがえることを恐れ、 豊臣秀頼を排除す

  る決意を固める。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

#nenehappeningsbyperiod-1614

 

■ 豊臣家と徳川家との戦争。

 

■ 1614年 (慶長19年)。

■ 1614年(慶長19年)に、大阪冬の陣がおこる。 

  豊臣家と徳川家との戦争。

● 徳川家康が、 豊臣家の寺の方広寺の鐘に「国

  家安康」という呪い文ありという言いがかりをつ

  け(方広寺鐘銘事件)、 それを許すために 豊

  臣氏に「秀頼江戸参勤、 国替え(大阪城明け渡

  し)、 淀殿(茶々)人質」 のどれかの条件を要求

  し、 豊臣氏を怒らせ、戦争を引き起こさせる。

● 経過と結果。 

     豊臣方の軍と徳川方の軍が戦うが、 大阪城

  の周囲の堀(ほり)に阻(はば)まれて、 徳川方の

  軍が勝てず。 徳川家康は、 この事態を打開する

  ため、和議を申し出る。 そして、 大阪城の本丸を

  残し、二の丸、三の丸を破壊し、周囲の堀を埋める

  という条件で、1614年12月に、和議が成立する。 

  ここに、戦いは、一旦中止となる。

● 和議が成立すると、 徳川家康 は、徳川方に工事

  を急いで進めさせ、大阪城の本丸を残し、二の丸、三

  の丸を破壊し、 大阪城の周囲の堀を埋めさせた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1615年 (慶長20年)。

■ 1615年(慶長20年)に、大阪夏の陣がおこる。 

  豊臣方と徳川方との戦争。

● 1615年に、 徳川家康は、 浪人が退城しない

  事に不審感を抱(いだ)き、 更に、大阪城内の浪

  人の解雇(総追放) や 豊臣家の移封 (国替え、

  大阪城明け渡し) を豊臣方に要求し、 豊臣方が

  それらを拒否し大阪城周囲の堀や塀(へい)を復旧

  させ始めると、 その和議条件の違反を理由に、

  1615年4月に、 戦争を再開する。

● 経過と結果。 

      1615年に、豊臣方は、奮戦するが、 豊臣

  方の本拠地の大阪城は 本丸のみで堀のない裸城

  (はだかじろ)のため、遂に、徳川軍に侵入され、16

  15年5月7日に、炎上し、消滅する。

      1615年に、炎(ほのお)の中で、 大阪城に

  いた、淀殿(茶々)と その子、豊臣秀頼(享年23歳) 

  は、自害する。

      但し、2人の最期を目撃した者はおらず、また、

  2人の遺体も確認されなかった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1615年(慶長20年)に、遂に、ねね(おね)が、夫の

  秀吉と共に築いた豊臣氏が滅亡する。  

● 豊臣氏が滅亡した後も、 ねね(おね)は、 江戸幕府

  の保護を受けた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1615年 (慶長20年、元和元年)。

■ 1615年 (元和 元年) に、 元和改元。 

   1615年7月13日に、 和暦の「慶長」 (けいちょう 、

  慶長元年〜20年) が、 「 元和」 (げんな、 元和元

  年・1615年・7月13日〜 元和10年・ 1624年・2月

  30日) に改元される。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1624年 (寛永 元年)。

■ ねね(おね)は、 夫の秀吉の菩提をともらう日々をおく

  ったあと、1624年(寛永元年)9月に死去する。

 

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