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◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY 

   HANDBOOK

 

 カナヤマ 日本歴史 辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 う 』。

 

 

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メ ニュー (目次)。

■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

□ 日本史 辞典 (総合)

□         ●  五十音順 (アイウエオ順)。

 □ 見出し語 うか

 □ 見出し語 うさ

 □ 見出し語 うな

 □ 見出し語 うま

 □ 見出し語 うら

 

 

〇 うい  ウィリアム・アダムズ

            (= William ADAMS、三浦按針)。

         (1564年−1620年)。

                    ○ イギリス人の平民の船乗り。

                    ○ 青い目のサムライ、幕臣・旗本。

                    ○ 徳川家康の外交顧問。

             ■ ウイリアム・アダムズ (= William 

             ADAMS、三浦按針、1564年−1620

             年) は、 有能であり、 江 戸時代初期

             の江戸幕府の外交官であった。

             ■ イギリス人のウイリアム・アダムズは、

             1600年に日本に漂着したオランダ商船

             「リーフデ号」の船員で、徳川家康や徳川

             氏に仕える。

                同じ船の「リーフデ号」の船員の、オ

             ランダ人のヤン・ヨーステン (Jan 

             JOOSTEN、1556年?−1623年)も、

             徳川家康や徳川氏に仕える。

 

〇 うー  御内原。

                          (うーちばら)。 沖縄の歴史》。

          (琉球王国)。

          (= 琉球王国の国王の後宮)。

       (⇒ 琉球王国沖縄の

        歴史)。

 

〇 うぇ   親方。

                          (うぇーかた)。沖縄の歴史》。

          (琉球王国)。

          (= 親方(おやかた)、琉球王国の

          上級武士)。

       (⇒ 琉球王国沖縄の

        歴史)。

 

〇 うえ  上様 。 

            (うえさま)。 《敬称》。

                   (= 将軍、将軍の尊称、高貴の

          人への尊称)。

         (= 天下人(日本本土支配(統治、

          統一)者への尊称)。

         (⇒ 将軍

          ■ 上様 (うえさま)とは、 将軍、将軍の尊

              称、高貴の人への尊称であり、 天下人(て

                           んかびと、日本本土支配(統治、統一)者)

             への尊称である。

 

〇 うえ    上杉 景勝 

                          (うえすぎ かげかつ)。 《人名》。

          (= 長尾 顕景、長尾喜平次、

           幼名:長尾 卯松)。

           (1555年ー1622年)。

          □ 直江兼続ガイドブック

          □ 直江兼続 関連年代順

             出来事ブック

           ○ 上杉謙信の甥 (おい)。

           ○ 上杉謙信の姉・仙桃院の

           男子。

           ○ 越後の国主、後、国替し、

            会津の領主、その後、出羽米

            沢藩藩祖。

           ○ 上杉謙信の養子の一人。

 

〇 うえ   上杉 景勝 詳細年表

             (うえすぎ かげかつ しょうさいねんぴょう)。 

            (⇒ 日本史年表) 。

          《人物年表》。

 

〇 うえ  上杉 景虎

             (うえすぎ かげとら)。 《人名》。

          (= 上杉三郎景虎、 北条三郎)。

                   ○ 北条氏康の男子。

                   ○ 上杉謙信の養子の1人。

          □ 直江兼続ガイドブック

          □ 直江兼続 関連年代順

             出来事ブック

 

〇 うえ   上杉 謙信

           (うえすぎ けんしん)。 《人名》。 

          (総合)。

          (= 上杉輝虎、上杉政虎、

          長尾景虎、幼名:長尾

          虎千代、越後の龍(えちご

             のりゅう))。

          (1530年ー1578年)。 

          □ 上杉謙信ガイドブック

           □ 上杉謙信 関連年代順

             出来事ブック  

           □ 上杉氏 画像アルバム 

             No.1

          □ 直江兼続ガイドブック

          □ 直江兼続 関連年代順

             出来事ブック

           ○ 上杉謙信は、

          越後国 (えちご のくに、現・

             新潟県本土の相当地域)

          の国主(こくしゅ)で ある。

           ○ 上杉謙信は、

          関東管領 (かんとうかんれい

          室町幕府の役職)である。

 

〇 うえ   上杉 謙信 ガイド

        ブック

             (うえすぎけんがいどぶっく)。

           《人物のガイドブック》。

 

〇 うえ   上杉謙信 関連

        年代順 出来事ブック  

             (うえすぎけんしん かんれんねん

             だいじゅんできごとぶっく)。

          《人物の年代順出来事》。

 

〇 うえ   上杉謙信 詳細年表 

              (うえすぎけんしん しょうさいね

              んぴょう) 。

           《人物の年表》。

             (⇒ 日本史年表) 。

 

〇 うえ   上杉謙信の侍女。

                (うえすぎけんしんのじじょ)。

          (仮称、伝説上の人物)。

          ○ 直江実綱(景綱)の娘。

          ○ お船(おせん)の姉。

                ■ 伝説上の人物の、上杉謙信の侍女 

             (うえすぎけんしんのじじょ、仮称) は、 

                           直江 実綱 (さねつな、景綱(かげつ

             な)) の娘で、 お船(おせん)の姉

             である。

             ● 上杉謙信の侍女は、 NHK大河ド

             ラマでは、「浪(なみ)」「お悠 (おゆう)

             という名(仮称)で登場する。

 

〇 うえ   上杉氏 

             (うえすぎし・うえすぎうじ)。

             《武家の氏族》。

          (= 上杉家)。

          (13世紀頃ー19世紀)。 

          (武家、1252年〜1871年)。 

           □ 上杉氏 画像

             アルバム No.1

          □ 上杉謙信ガイドブック

           □ 上杉謙信 関連年代順

             出来事ブック  

                  (⇒ 上杉 謙信)。

          □ 直江兼続ガイドブック

          □ 直江兼続 関連年代順

             出来事ブック

          ○ 武家としての上杉氏。 

          ○ 武家の上杉氏は、武家の

           氏族で、関東管領、大名で

          ある。

          ○ 上杉氏は、上杉重房(うえす

          ぎしげふさ)を始祖とする一族で

          ある。

                    □ 日本歴史で活躍した氏族:

          天皇家藤原氏伊勢平氏

          河内源氏鎌倉北条氏

          足利氏上杉氏武田氏

          井伊氏小田原北条氏

          真田氏織田氏豊臣氏

          徳川氏

              ■ 武家の上杉氏 (うえすぎし・うえ

             すぎうじ 、 = 上杉家)は、 武家の

             氏族であり、13世紀 頃から19世紀

             まで存在した武家、大名である。

             ■ 上杉氏 (うえすぎし・うえすぎうじ、

             = 上杉家)は、 武家で、 上杉重房

             (うえすぎしげふさ)を始祖とする一族

             である。

 

〇 うえ  上杉 綱憲

             (うえすぎ つなのり)。 《人名》。

          (1663年ー1704年)。

          (⇒ 元禄赤穂事件)。

          ○ 元禄赤穂事件の被害者の、

          吉良上野介(義央)の実子(長

          男)

          ○ 上杉家に養子に入り、上杉

          家当主、米沢藩(山形県東南

          部、15万石)の第4代藩主。

          ○ 赤穂浪士・吉良邸討ち入り

          時、実父の吉良上野介(義央)

          の殺害を防げず。

             ■ 上杉綱憲 (うえすぎつなのり)は、 

             元禄赤穂事件= 赤穂事件)の被害者の、

             吉良上野介(義央)の実子(長男)である。

             ■ 上杉綱憲は、 上杉家に養子に入り、

             上杉家当主、米沢藩(山形県東南部、

             15万石)の第4代藩主 となる。

             ■ 上杉綱憲は、 赤穂浪士・吉良邸討

             ち入り時、実父の吉良上野介(義央)の

             殺害を防げなかった。

             ■ 1702年(元禄15年)12月に、

             吉良上野介(義央)の実子(長男)・上杉

             綱憲(うえすぎつなのり)が藩主を務める

             上杉家は、 本所の吉良邸に、100人以

             上の上杉家家臣を居合わせ、吉良上野

             介(義央)を警備し守っていた。

                1702年(元禄15年)12月15日に、

             上杉家は、 赤穂浪士の本所・吉良邸討

             ち入り(午前3時半頃〜午前5時頃)の

             知らせを聞いて、上杉家の家臣を集めて、

             本所の吉良邸に向かわせる。 

                赤穂浪士討ち入りの知らせを聞いて

             駆けつけた上杉家の応援部隊は、 12

             月15日の午前6時頃に、本所の吉良邸

             に到着する。 しかし、既に赤穂浪士討ち

             入り終了後の、約1時間後であった。

             ■ 元禄赤穂事件 (げんろくあこうじけ

             ん、= 赤穂事件)は、 狭義では、1702

             年(元禄15年)12月14日〜15日に起こ

             った、赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件で

             ある。

             ■ 元禄赤穂事件 (げんろくあこうじけ

             ん、= 赤穂事件)は、 広義では、1701

             (元禄14年)年3月の江戸城松の廊下

             の刃傷に始まり、 1702年(元禄15年)

             12月の吉良邸討ち入りを経て、 1703

             年(元禄16年)2月の赤穂浪士の切腹

             に終わる。

 

〇 うえ  上杉富子

            (うえすぎ とみこ)。 《人名》。

          (= 富子、梅嶺院(ばいれいいん))。

          (1643年ー1704年)。

          ○ 元禄赤穂事件の被害者の吉

          良上野介(義央)の正室夫人。

          (⇒ 元禄赤穂事件)。

             ■ 上杉富子 (うえすぎ とみこ、= 富子、

             梅嶺院(ばいれいいん) 、1643年ー17

             04年) は、 元禄赤穂事件の被害者の

             吉良上野介(義央)の正室夫人である。

             ● 上杉富子 (うえすぎ とみこ)は、 上杉

             家当主・第2代米沢藩(山形県東南部)

             主・上杉定勝の娘であり、 上杉景勝の孫

             である。

             ● 上杉富子は、 上杉家当主・米沢藩(

             形県東南部)第4代藩主 ・上杉 綱憲(つな

             のり)の 生母である。

             ● 上杉富子は、 本所松坂町の吉良邸に

             は移らず(同道(同行)せず)、 芝・白金

             の上杉家下屋敷に住む。  

                 上杉家出身の富子別居により、赤穂

             浪士は、上杉家を考えず、本所松坂町の

             吉良邸に討ち入りを行えるようになった。

 

〇 うえ  上杉 鷹山(治憲)

             (うえすぎ ようざん(はるのり))。 《人名》。

          (1751年ー1822年)。

          ○ 江戸後期に、巨額の藩の借

          金をほぼ返済し、更に、東北の

          地に、高産業・高福祉社会を実

          現した、世界に誇る、日本の政

          治家。

          ○ 鷹山の名言 「なせば成る。 

          なさねば成らぬ何事も」。

          ○ 上杉家当主、米沢藩(山形県

          東南部)・第9代藩主。

             ■ 上杉 鷹山(治憲) (うえすぎ ようざん

             (はるのり)、1751年ー1822年) は、

             江戸時代後期に、巨額の藩の借金をほ

             ぼ返済し、更に、東北の地に、高産業・高

             福祉社会を実現した、世界に誇る、日本の

             政治家である。

          ■ 上杉 山の名言には 「なせば成る。 

             なさねば成らぬ何事も」がある。

              ■ 上杉 鷹山(治憲)は、 上杉家当主で

             あり、・米沢藩(山形県 東南部)・第9代

             主である。

 

〇 うえ  上田合戦

             (うえだがっせん)。 《戦い》。

             THE UEDA BATTLES.

             ○ 第1次上田合戦(1585年)

          と 第2次上田合戦(1600年)。

         (⇒ 真田氏)。

       (⇒ 真田 幸村(信繁))。

             ■ 上田合戦には、 第1次上田合戦 (15

             85年(天正13年) 、神川(かんがわ)合戦)) 

             と、 第2次上田合戦(1600年 (慶長5年)) 

             がある。

             ■ 第1次上田合戦 (たいいちじうえだが

             っせん) とは、 1585年(天正13年)に、 

             信濃国 (しなののくに、現・長野県相当地

             域)・小県郡(ちいさがたぐん)の上田地域で、 

             真田氏(方)と徳川氏(方)との間で戦われた、

             戦争である。

             ■ 第2次上田合戦 (たい にじうえだがっ

             せん) とは、 1600年 (慶長5年)に、信

             濃国(しなののくに、現・長野県相当地域)・

             小県郡(ちいさがたぐん)の上田地域で、 

             真田氏(方)と徳川氏(方)との間で戦われ

             た、戦争である。

             ■ 上田合戦は、 上田城攻防戦であり、敵

             を城や城の周辺におびき寄せて、勝利を得

             た。 真田昌幸は、相手を怒らせたりおとり

             作戦でわざと逃げて敵を狭い地区におびき

             出し攻撃したり、予期せぬ場所で伏兵が襲

             ったり、洪水を起こして溺死させるなどの様

             々な巧妙な戦法をとった。

                上田合戦では、 真田戦法のおびき寄

             せ作戦で、徳川軍の多数の敵に対し、少数

             の真田軍が勝利を得た。

             ■ 第1次上田合戦。

               1585年(天正13年)の第1次上田合

             戦では、 約2000人の真田軍は、徳川家

             康の派遣した、徳川軍・約7000人の兵を、

             上田城攻防戦で、おびき寄せ作戦により、

             破り、敗退させた。

             ■ 第2次上田合戦。

               1600年 (慶長5年)の第2次上田合

             戦では、 約5000人の真田軍は、徳川家

             康が派遣した、徳川秀忠軍約38000人

             の兵を、上田城攻防戦で、おびき寄せ作

             戦により、破り、敗退させる。 そのため、

             徳川秀忠軍は、信濃東部の 上田に足止め

             され、関ヶ原の戦いには間に合わなかった。

 

〇 うえ  上田城

             (うえだじょう)。 《城》。

             ○ 前期上田城(1583年−1600年)

          と 後期上田城(1626年ー現在)

          (⇒ 真田氏

         真田 幸村(信繁))。

             ■ 上田城は、 信濃国・上田 (現・長野

             県上田市の相当地域)にある平城(ひら

             じろ、平野にある城) である。

             ■ 前期上田城(1583年−1600年)は、

             真田昌幸が徳川家康の援助を得て、築い

                      た平城であり、 関ヶ原の戦い終了後の

              真田昌幸の降伏後、1600年に徳川方に

             より徹底的に破壊された。

                現在残る、後期上田城(1626年ー

             現在)は、仙石 忠政が再建した平城であ

             る。

             ● 前期上田城 (1584年−1600年) 

             は、 安土桃山時代に、信濃国(しなのの

             くに、信州)の上田を領有した真田氏の本

             城であった。

             ● 前期上田城の城主は、上田領・沼田領

             の領主で真田氏当主の、真田昌幸(さなだ

             まさゆき、真田幸村(信繁)の父) であっ

             た。

             ● 真田昌幸は、山城を持ていたが、街道

             沿いに平城(ひらじろ)を望んでいたが、

             労働力や資金が不足していた。 そこで、

             徳川家康に依頼し、援助で前期上田城を

             建ててもらった。

             ● 前期上田城は、 真田昌幸が徳川家

             康に依頼し、北条氏に対抗するため、徳

             川氏が造った、街道沿いの平城である。

                前期上田城は、 1583年(天正11

             年)に築城し、真田昌幸は、北方の真田

             氏の旧山城(真田(氏)本城)から、徳川

             氏が造った街道沿いの平城の上田城に

             移る。

             ● 前期上田城は、 1600年の関ヶ原の

             戦い後、破却される。 1600年の西軍の

             石田方の真田昌幸・幸村の降伏後、すぐ

             に徳川方に徹底的に破壊され、堀も埋め

             られた。 

             ■ その後、真田信幸(信之)が、荒廃し

             た真田領を領有したが、上田城は再建さ

             れず、 仙石 忠政 (せんごく ただまさ、

             1578−1628年)が、 1622年に、真

             田信幸(信之)に代わって、上田領に入

             封(にゅうほう)し、 上田城(後期上田城、

             1626年ー現在)を再建する。 仙石 忠

             政は、1626年から上田城の築城を開始

             した。

 

〇 うえ  上田衆

             (うえだしゅう)。 《家臣団》。

          (= 中世・近世の、越後国・上田

                    (うえだのしょう)出身の武士達)。

 

 うお  ウォーナー。  

            (= ラングドン・ウォーナー)。

            Langdon WARNER.

         (⇒ ラングドン・ウォーナー)。

         (⇒ ウォーナーリスト)。

 

 うお  ウォーナーリスト。  

            (= 米陸軍文書 M354-17A)。

            THE ARMY SERVICE FORCES 

            MANUAL M354-17A.

               ■ ウォーナーリスト (= 米陸軍文書 M

            354-17A) とは、 太平洋戦争中の、ア

             メリカ政府の「戦災から守るべき日本の文

            化財」(爆撃を避けるべき日本の文化財)

            のリストである。

                ウォーナーリストには、奈良、京都、

            鎌倉、東京、その他の地域の日本本土各

            所の137か所が記載された。

               ■ ラングドン・ウォーナー (1881年ー

            1955年、英:Langdon WARNER) 

            は、 太平洋戦争中、日本の文化財を戦

            禍から救い、 戦後、連合国軍日本占領

            期に、日本の文化財の国外流失を防いだ。

               ■ ウォーナーリストとは、 太平洋戦争

             中、アメリカ政府の要請で、日本美術の 

             専門家の、ラングドン・ウォーナー(英:

             Langdon WARNER)が作成し、米政

                       府に提出した、「戦災から守るべき日本

            の文化財」のリストである。

               ● ウォーナーリストに基づき、アメリカ軍

            は、1944年(昭和19年)から1945年(昭

            和20年)までの日本本土空爆で、空爆戦

            略地図に、「戦災から守るべき日本の文

            化財」(爆撃を避けるべき日本の文化財)

            のある場所を記載し、空爆目標(対象)か

            らはずした。

            ● ウォーナーリストに記載した、日本本

            土の137カ所のうち、約8割が、空爆等の

            戦災による被害をまぬがれた。

               ■ 戦後、連合国軍日本占領期に、ラング

            ドン・ウォーナーは、 GHQ(連合国軍総司

            令部)の美術記念物課の顧問となり、GHQ

            美術記念物課の担当官のシャーマン・リー

            と共に、日本の文化財が賠償品として流失

            するのに反対し、日本の重要文化財の国外

            流失を防いだ。

 

#uka

 

 うか  御仮屋。

             (うかりや)。 《役所》。

          (= 琉球仮屋(りゅ うきゅうかりや)、

             琉球館(りゅうきゅうかん)

          (1609年ー1871年)。

          ○ 琉球王国の薩摩藩在番役所。

          ○ 薩摩藩の琉球支配の拠点。

         (⇒ 琉球王国沖縄の

        歴史)。

 

〇 うき  宇喜多 直家

            (うきた なおいえ)。 《人名》。

            (1529年ー1581年)。

         ○ 室町時代後期(戦国時代)、安

          土桃山時代の、備前の武将、大名。

         ○ 浦上宗景の重臣。

         ○ 毛利氏に味方していたが、後に

          織田氏に味方する。

       (⇒ 黒田官兵衛)。

 

〇 うき  宇喜多 秀家

            (うきた ひでいえ)。 《人名》。

                   (1573年ー1655年)

         ○ 安土桃山時代の武将、大名。

         ○ 豊臣政権の5大老の一人

         ○ 宇喜多直家の次男。

 

〇 うけ  請所

            (うけしょ)。 《年貢請負制度》。

            《日本の土地支配制度》。

         (12世紀ー16世紀)。

         (⇒ 荘園公領(= 国衙領))。

         (⇒ 請所地頭請守護請

          百姓請(= 地下請))。

            ■ 請所(うけしょ、うけどころ)とは、 

            中世日本で、 地頭、守護、村の自

            治組織などの請負人が、荘園や公

            領(国衙領)の年貢の納入を請け負

            う制度である。

            ● 請所(うけしょ、うけどころ)とは、 

            中世日本(鎌倉・建武・室町時代)で、 

            地頭、守護、村の自治組織などの

            負人が一定の年貢(ねんぐ)を納入

            するという条件で、 本所・領家の荘

            園領主や国司・知行国主が、 地頭、

            守護、村落の自治組織などの請負人

            に、荘園や公領(国衙領)の経営を委

            任する制度である。

             ■ 地頭請(じとううけ)とは、 中世日

            本で、地頭が荘園や公領(国衙領)の

            年貢の納入を請け負う制度である。

            ■ 守護請(しゅごうけ)とは、  室町時

            代に守護が、荘園や公領(国衙領)の

            年貢の納入を請け負う制度である。

            ■ 百姓請 (ひゃくしょううけ、= 地下

            請(じげうけ))とは、 室町時代に、畿

            内付近で、村の自治組織が、荘園の年

            貢の納入を請け負う制度である。

 

#usa

 

〇 うじ  氏。

            (うじ)。 《氏名》。

         (= 一族名)。

       (⇒ 前近代の日本

       の人名)。

 

 うし   丑の刻。

             (うしのこく)。 《時刻》。 

            ■ 丑の刻 (うしのこく)は、 概ね、

            午前1時00分頃から午前3時00分頃

            までである。

       (⇒ 前近代日本の時刻・

       時法

            ■ 前近代日本の、定時法と不定時法の、

              十二支表示時刻の主要時間区分。

            ■ ≒ 午前1時00分〜午前3時00分。

            ● 丑の刻の正刻 (正丑(しょうちゅう))

             ≒ 午前2時00分。 夜間・午前2時頃。

             ≒ (暁) 八(やつ)、八つ、八ツ。

            ○ 丑一刻(丑一つ時)≒

             午前1時00分〜午前1時30分。

            ○ 丑二刻(丑二つ時)≒

             午前1時30分〜午前2時00分。

            ○ 丑三刻(丑三つ時)≒

             午前2時00分〜午前2時30分。

            ○ 丑四刻(丑四つ時)≒

             午前2時30分〜午前3時00分。

            ● 「草木も眠る丑三つ時(うしみつどき)」

               「丑三つ時 (うしみつどき)」とは、現

             在の午前2時から午前2時半頃までであ

             る。 丑の刻(うしのこく)を4等分した三 

             番目の時間帯という意味である。

 

 うし   丑三つ時。

            (うしみつどき)。 《時刻》。 

         ○ 現在の午前2時〜午前2時半頃。

         ○ 前近代日本(室町〜江戸時代)

          の時刻法で、丑の刻(うしのこく)を4

          等分した三番目の時間帯。

       (⇒ 前近代日本の時刻・時

       

 

 うし    丑寅、艮の方角。

              (うしとらのほうがく)。  《方向》。 

              (= 北東の方向)。 

         (⇒ 前近代日本の方位

 

 うし    羽州。

            (うしゅう)。  《旧地域名》。

          (= 出羽 (でわ のくに)の別称) 。

          (≒ 概ね、現・秋田県と山形県

                     の相当地域)。

          USHU AREA.

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国(令制

           国)の別称)。

                    (⇒ 出羽 )。    

                    (⇒ 前近代日本の地域名)。

             ■ 羽州 (うしゅう,= 出羽 国(でわ のく

             に)の別称)  は、 東山道(とうさんどう)・

              旧広域地方に属し、 概ね、現・東北地

              方の、現・秋田県と 山形県に相当する地

              域である。

             ■ 羽州 (うしゅう)は、  律令制定

             後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             旧国名(令制国)正式名の、出羽 国 

             (でわ のくに) の別称である。

 

 うし   御主加那志前。

            (うしゅがなしめー)。 《沖縄の歴史》。

            (琉球王国)。

         (= 琉球王国の国王)。

         (⇒ 琉球王国沖縄の

        歴史)。

 

 うし  牛若。

         (うしわか)。 《人名》。

         (= 源義経の幼名)。

         ○ 源義朝(みなもとのよしとも)と常盤御

            (ときわごぜん)との間の3人の男子 、

            今若(いまわか、阿野全成)、  乙若

         (おとわか、義円)、 牛若(うしわか、 源

         義経) の一人。 

        (⇒ 源義経常盤御前) 。

 

 うだ  右大臣

            (うだいじん)。 《官職》

         ○ 朝廷の官職。

          (⇒ 朝廷の官職朝廷公卿)。

            ■ 前近代日本の、高位の朝廷の官職

             は、 高位順に、 @ 太政大臣 (だいじょ

             うだいじん)、 A 左大臣 (さだいじん)、 

             B 右大臣 (うだいじん)、  C 内大臣 

             (ないだいじん)、 D 大納言 (だいな

             ん)、 E 中納言 (ちゅうなごん)、 F 

             参議 (さんぎ) などがある。

 

 うた  御嶽

             (うたき)。 《沖縄の歴史》。

               沖縄の聖なる地。

            ■ 御嶽  (うたき)とは、 沖縄の聖なる地

            である。

 

 うち   内管領。

              (うちかんれい、うちのかんれい、

             ないかんれい、)。 

         (= 内管領(ないかんれい))。

          (⇒ 内管領( ないかんれい))。

                    《鎌倉時代の武士身分》。

                     ○ 内管領とは、

           北条得宗家(鎌倉北条氏・

           本家)の執事、家令、家臣

           代表、御内人筆頭である。

 

 うつ  宇都宮仕置 。

            (うつのみやしおき)。

            《領地等の戦後処置》。

         (1590年7月26日頃ー8月14

          日頃)。

         ○ 1590年の小田原合戦後の

         領地等の戦後措置。

            (⇒ 小田原合戦)。

            ■ 宇都宮仕置 (うつのみやしおき、15

            90年7月26日頃〜8月14日頃) とは、

            1590年の小田原合戦後の領地等の戦後

            措置である。

            ● 1590年(天正18年)に、小田原合戦終

            了後、豊臣秀吉は、 宇都宮仕置(うつのみ

              やしおき、1590年7月26日頃〜8月14日

            頃) で、 下野国 宇都宮城(しもつけのくに・

            うつのみやじょう)に出頭した関東や奥羽の

            諸領主(大名たち)に対し関東や奥羽の領地

            等に対する戦後措置を行い、 関東地方と東

            北地方のほぼすべての大名が、豊臣秀吉に

            服属・臣従し、 既に服属・臣従する九州、四

            国、中国、近畿、中部地方の大名たちと合わ

            せて、 ここに、豊臣秀吉は、天下統一(日本

            本土統一)を成し遂げた。

 

 うと   有徳人。 

             (うとくにん) 。 《室町時代》。

          (= 室町時代の金持ち、富裕層

          の人々)。

          (⇒ 応仁の乱)。

 

#una

 

 うの  卯の刻。 

             (うのこく)。 《時刻》。

             ■ 卯の刻 (うのこく)は、 概ね、午前

             5時00分頃〜午前7時00分頃までであ

             る。

          (⇒ 前近代日本の時刻・

        時法

             ■ 前近代日本の、定時法と不定時法の、

              十二支表示時刻の主要時間区分。

             ■ ≒ 午前5時00分〜午前7時00分。

             ● 卯の刻の正刻 (正卯(しょうぼう))

              ≒ 午前6時00分。 午前6時頃。

              ≒ (明) 六(むつ)、六つ、六ツ。   

              ≒  明け六つ (あけむつ)。

             ○ 卯一刻(卯一つ時)≒

              午前5時00分〜午前5時30分。

             ○ 卯二刻(卯二つ時)≒

              午前5時30分〜午前6時00分。

             ○ 卯三刻(卯三つ時)≒

              午前6時00分〜午前6時30分。

             ○ 卯四刻(卯四つ時)≒

              午前6時30分〜午前7時00分。   

               ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 うの  卯の方角 。

             (うのほうがく)。 《方向》。

             (= の方向)。

       (⇒ 前近代日本の方位

 

〇 うば  乳母

            (うば)。 《職業》。

          (= めのと(乳母))。

          ○ 上層階層者の生母の代わり

           に、子に乳を与え、守り育てる

          女性。 

          ○ (例)、お福(おふく、春日局 )

          は徳川家光の乳母。 大蔵卿局

              (おおくらきょうのつぼね)は淀殿(茶

          々)の乳母。

 

#uma

 

 うま  午の刻。

            (うまのこく)。  《時刻》。

             ■ 午の刻 (うまのこく)は、 概ね、

             午前11時00分頃から午後1時00分

             頃までである。

       (⇒ 前近代日本の時刻・

           時法

             ■ 前近代日本の、定時法と不定時法の、

              十二支表示時刻の主要時間区分。

             ■ ≒ 午前11時00分〜午後1時00分。

             ● 午の刻の正刻 (正午(しょうご))

              ≒ 午後0時00分。 昼間・正午頃。

              ≒ (昼) 九(ここのつ)、九つ、九ツ。   

             ○ 午一刻(午一つ時)≒

              午前11時00分〜午前11時30分。

             ○ 午二刻(午二つ時)≒

              午前11時30分〜午後0時00分。

             ○ 午三刻(午三つ時)≒

              午後0時00分〜午後0時30分。

             ○ 午四刻(午四つ時)≒

              午後0時30分〜午後1時00分。

 

 うま  の方角 。

             (うまのほうがく)。 《人名》。

          (= の方向)。 

       (⇒ 前近代日本の方位

 

〇 うま  厩戸王

            (うまやとおう)。 《人名》。

         (= 厩戸皇子(うまやと(の)おうじ、うまや

            とのみこ)、聖徳太子(しょうとくたいし)) 。

         (574年−622年)。

            ■ 以前と異なり、現在、聖徳太子という名

            は、仏教の信仰の対象としての名称である。

            ■ 厩戸王 (うまやとおう)は、 厩戸皇子

            (うまやと(の)おうじ、うまやとのみこ)、

            聖徳太子(しょうとくたいし)  である。

            ■ 厩戸王 (うまやとおう、厩戸皇子、聖

            徳太子、生没年:574年−622年) は、 

            推古天皇(すいこてんのう)の摂政(せっし

            ょう)として、 蘇我馬子(そがのうまこ)

            共に、 倭国(わこく、日本)の内外の政治

            にあたった。

 

#ura

 

〇 うら  浦上 政宗。

            (うらがみ まさむね)。 《人名》。

       (⇒ 赤松政宗

            ■ 浦上 政宗 (うらがみ まさむね)は、

            播磨国(ありまのくに、兵庫県南部)の

            南西部沿岸部を支配した武将である

            ■ 浦上 政宗は、 赤松政宗により

            滅ぼされる。

            ■ 浦上 政宗は、浦上 宗景の兄弟

            である。  

 

〇 うら  浦上 宗景。

            (うらがみ むねかげ)。 《人名》。

       (⇒ 宇喜多直家

            ■ 浦上 宗景 (うらがみ むねかげ)は、 

            備前国 (びぜんのくに、岡山県東南部)

            を支配した武将である

            ■ 浦上 宗景は、 宇喜多直家の主君で

            ある。

            ■ 浦上 宗景は、 浦上 政宗の兄弟 で

            ある。

 

〇 うる  閏、閏日、閏月、閏年

             (うるう、うるうび、うるうづき、うるうどし) 。 

         《暦》。 

            THE INTERCALARY SYSTEM.

            THE LEAP (INTERCALARY) DAY, 

            LEAP MONTH, LEAP YEAR.

       (⇒ 閏、閏日、閏月、閏年

             天文学辞典 )。

               ■ 閏 (うるう)とは、 暦(の上の季節)と

             実際の季節とのずれを調節するため、 1年

             のうちの日数・月数を普通の年よりも多くし、

             暦に余分な日や月を入れることである。

               太陽暦では、約4年に1度、2月を1日増

             やし、 太陰太陽暦では、約2、3年に1度、

             ある月を2回繰り返す。

             ■ 閏日 (うるうび)とは、 暦と実際の季節

             とのずれを調節するため、暦に余分な日を入

             れる、その日のことである。  

              (例)、太陽暦(新暦)の閏日。

             ● 現行の太陽暦(新暦、グレゴリオ暦)では、

             400年に97回(年)、約4年に1回、閏日 (う

             るうび)を1日加えて、2月が29日になる。

             ■ 閏月 (うるうづき)とは、 暦と実際の季

             節とのずれを調節するため、暦に余分な月を

             入れる、その月のことである。  

              (例)、太陰太陽暦(旧暦)の閏月。 

                ● 太陰暦の、太陰太陽暦(旧暦)では、19

              年に7回(メトン周期)、約2、3年に1回、閏

             月を1ヵ月加えて、1年が13か月になる。

             ● 純粋太陰暦 では、 朔望月(さくぼうげつ、

             月の満ち欠けの1周期)に基づいた暦で、

             純粋太陰暦の「暦」(1年約354日、1ヶ月約

             29.5日X12ヶ月) と、「実際の季節」(1年

             =365.2422日(実際の1太陽年)) とが、

             1年で約11日ずれる。 

                太陰太陽暦では、純粋太陰暦に19年に

             7回(メトン周期)、約2、3年に1回(度)、閏

             月1ヶ月(29日または30日)を加えて(挿入

             して)、年13か月にして、「純粋太陰暦の暦」

             と「実際の季節」とのずれを調整した。

            ■ 閏年 (うるうどし)とは、 閏のある年で、

            閏日、または、閏月を入れる年 である。

              閏年とは、1年の日数、または、月数が

            普通の年(平年)より多い年である。

 

〇 うん  雲

            (うんしゅう)。 《旧地域名》。

         (= 出雲 ( いずも のくに)の別称)。

         (≒ 概ね、現・鳥根県本土東部

          の相当地域)。

             UNSHU AREA.

          (律令制定後・古代・中世・近世

          日本・旧地域名の、

          旧国(令制 国)の別称)。

                   (⇒ 出雲 )。    

                    (⇒ 島根県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名

             ■ 雲州 (うんしゅう,= 出雲 国( いず

            ものくに)の別称) は、 山陰道(さんいん

             どう)・旧広域地方に属し、 概ね、現・四

             国地方の、現在の鳥根県本土東部に相

             当する地域である。

             ■ 雲州 (うんしゅう)は、  律令制定

             後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             旧国名(令制国)正式名の、出雲 国 

             (いずも のくに) の別称である。

 

 

 

   ● 五十音順 (あいうえお順)。

 

 

   ■  『 現在は、過去の成果であり、

       未来は、現在の成果である。 

         (良き現在は、過去の人々の良き努力

          や活動の積み重ねの成果であり、 

          明るい良き未来は、現在の人々の、

          良き努力や活動の積み重ねによって

          形成される。)

 

 

■ 上位のWEBサイト。 

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#jpdictionary(general)

 

◆ 日本史辞典

 

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#u

 

◆ 派生見出し語サイト。

■ 「う」 基本・見出し語WEBサイト No. ja−u  

  の、派生見出し語サイト。

 

■ No. ja−u−0430。

● 見出し語項目 う   ( え 04 / す 30

  付近  第1部・え・サ行総合グループ )。

〇 うえ  上杉 景勝 (うえすぎ かげかつ) 。

         (上杉謙信の甥おい

                     謙信の養子)。

〇 うえ  上杉 景勝 詳細年表

〇 うえ  上杉 景虎 (うえすぎ かげとら) 。 

         (= 上杉三郎景虎、北条三郎)。

 

■ No. ja−u−0431。

● 見出し語項目 う   ( え 04 / す 31

  付近  第1部・え・サ行グループ )。

〇 うえ  上杉 氏 (うえすぎ し) 。

         (= 上杉家)。

                  (武家、1 252年〜1871年)。

 

■ No. ja−u−0433。

● 見出し語項目 う   ( え 04 / す 33

  付近  第1部・え・サ行グループ )。

〇 うえ  上杉 謙信 (うえすぎ けんしん)。

          (= 上杉輝虎、 長尾 景虎)。

〇 うえ  上杉 謙信 詳細年表

 

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#thearmymanualm354-17a

 

■ ウォーナーリスト  

  

■ ウォーナーリスト。

■ 名称 : ウォーナーリスト。

■ 別名 : 米陸軍文書 M354-17A。

■ 英名 : THE ARMY SERVICE FORCES 

  MANUAL M354-17A.

■ 太平洋戦争中の、アメリカ政府の「戦災から守る

  べき日本の文化財」のリスト

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 81339。

                   

 

■ ウォーナーリスト (= M354-17A リスト) とは、

     太平洋戦争中の、アメリカ政府の「戦災から守るべ

  き日本の文化財」(爆撃を避けるべき日本の文化

  財)のリストである。

      ウォーナーリストには、奈良、京都、鎌倉、

  東京、その他の地域の日本本土各所の137か所

  が記載された。

            

■ ラングドン・ウォーナー (1881年ー1955年、英:

  Langdon WARNER) は、 太平洋戦争中、日

  本の文化財を戦禍から救い、 戦後、連合国軍日本

  占領期に、日本の文化財の国外流失を防いだ。

 

■ ウォーナーリストとは、 太平洋戦争中、アメリカ政

  府の要請で、日本美術の専門家の、ラングドン・ウォ

  ーナー(英:Langdon WARNER)が作成し、米政

  府に提出した、「戦災から守るべき日本の文化財」の

  リストである。

 

● ウォーナーリストに基づき、アメリカ軍は、1944年

  (昭和19年)から1945年(昭和20年)までの日本本

  土空爆で、空爆戦略地図に、「戦災から守るべき日本

  の文化財のある場所」(爆撃を避けるべき日本の文化

  財)のある場所を記載し、空爆目標(対象)からはずし

  た。

 

● ウォーナーリストに記載した、日本本土の137カ所

  のうち、約8割が、空爆等の戦災による被害をまぬが

  れた。

            

■ 戦後、連合国軍日本占領期に、ラングドン・ウォーナ

  ーは、 GHQ(連合国軍総司令部)の美術記念物課の

  顧問となり、 GHQ美術記念物課の担当官のシャーマ

  ン・リーと共に、日本の文化財が賠償品として流失する

  のに反対し、日本の重要文化財の国外流失を防いだ。

            

 

♪♪ ウォーナー・リスト が登場する、興味

    深いドラ、映画、ドキュメンタリー。 

 

★ ウォーナー・リスト が登場する、興味深

   い、ドキュメンタリー。 

 

■ BS1スペシャル 『 美術家たち

     の太平洋戦争〜日本の文化財は

   こうして守られた 』。

   (NHKテレビ・2017年1月8日・

    本放送・歴史ドキュメンタリー番組)。

● ウォーナーリストの詳細を述べる。

● 太平洋戦争中に日本の文化財を戦災から守

  ったラングドン・ウォーナー、 戦後、、連合国

  軍日本占領期に、日本の文化財の国外流失

  を防いだラングドン・ウォーナーやシャーマン・

  リーについて述べる。

 

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#williamadams

 

■ ウィリアム・

   アダムズ。  

  

■ ウィリアム・アダムズ。 

■ 名称 : ウィリアム・アダムズ。

■ 別名 : 三浦按針 (みうらあんじん)。

■ 英語名 : William ADAMS。

■ 生没年 : 1564年−1620年。

■ イギリス人の平民の船乗り。

  青い目のサムライ、幕臣・旗本。

   徳川家康の外交顧問。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 71437。

                   

 

■ ウィリアム・アダムズは、有能であり、 江戸時代初期

  の江戸幕府の外交官であった。

 

■ イギリス人のウイリアム・アダムズは、 1600年に日本

  に漂着したオランダ商船「リーフデ号」の船員で、 徳川

  家康や徳川氏に仕える。

     同じ船の「リーフデ号」の船員の、オランダ人のヤ

  ン・ヨーステン(Jan JOOSTEN、1556年?−16

  23年)も、徳川家康や徳川氏に仕える。

 

 ウィリアム・アダムズ (別名:三浦按針(みうらあんじ

   ん)、英:William ADAMS、生没年:1564年−

   1620年) は、 徳川家康の外交顧問 であった。

       三浦按針とは、 家康より与えられた名称で、

   三浦半島の航海士(こうかいし)、水先案内人という

   意味である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ ウィリアム・アダムズは、 イギリス人の平民の船乗り

  であり、 後に、青い目のサムライ、幕臣・旗本となる。

 

 

■ ウィリアム・アダムズは、 日本滞在後、 日本女性の

  お雪と婚儀を結び、子をもうける。 

     また、ウィリアム・アダムズは、日本滞在後、 

  康より、幕臣の250石の旗本にとりたてられ、 相模国・

  三浦郡の逸見 (神奈川県横須賀市逸見(へみ)) に

  領地を与えられ、約100人の領民を得た。 

     家康は、当時、三浦半島の、浦賀(うらが)を貿易

  港にし、海外貿易を行おうと考えていたので、 アダム

  ズに、浦賀に近い逸見に領地を与えた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 徳川家康は、 世界各地と貿易を行うための、大型帆

  を望んだ。 

     ウィリアム・アダムズは、 造船技師ではなかった

  が、家康より、失敗してもいいからつくってみろと言わ

  れ、 リーフデ号などを参考に、船大工の多い 伊東で、

  120トンの大型帆船をつくった。

     その後、、その船は、メキシコまでの大航海を行い、

  貿易船と使われた。

 

 ウィリアム・アダムズは、 1564年に、イギリスで生

  まれ、 父は船乗りで、 貧しい家庭で育つ。

    1576年に、12歳の時、アダムズは、船大工の見

  習いになる。

    1588年に、24歳で、アダムズは、船乗りとなり、

  輸送船などに乗る。

    1598年に、34歳の時、アダムズは、オランダ船

  に乗り、日本を目指す。

    1600年に、36歳の時に、日本の九州に漂着す

  る。

          1600年に、アダムズは、徳川家康の顧問とな

  り、 後に、家康より、幕臣の250石の旗本にとりた

  てられ、 相模国・三浦郡 (神奈川県横須賀市逸見

  (へみ)) に領地を得た。 

     アダムズは、 イギリスに帰れば、平民でしか

  なく、日本では、領主であり、武士道に感銘し、家康

  や徳川氏に忠誠を抱き、日本人妻子の家族もいるた

  め、日本に留まることにした。

          アダムズは、 幕臣・旗本の武士として生きるこ

  とを決意し、 母国・イギリスに帰らず、江戸幕府(徳

  川家)の交易拡大に努め、 日本に留まり、1620年

  に、病に倒れ、56歳で死去した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ウィリアム・アダムズと徳川家康との出会い。

 ウィリアム・アダムズは、 日本との交易を目指すオラ

  ンダ 商船の船員総数500名・五隻の大型帆船の一隻

  「リーフデ号」に船員として雇われ、1598年に出発し

  た。

      しかし、「リーフデ号」一隻のみが、1600年(慶

  長5年)3月16に日本・九州の豊後国(ぶんごのくに、

  現・大分県相当地域)の臼杵(うすき)に漂着し、航海中

  に飢餓と病で弱り切っていた24名の外国人船員がい

  た。 その一人の船員が、ウィリアム・アダムズであっ

  た。.

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 徳川家康は、 大量の威力のある武器・弾薬がほしか

  った。

     家康は、リーフデ号の船長との会見を望み、160

  0年3月25日に、リーフデ号船長は、漂着時、重傷で動

  けず、船長の代行として、船員の中でかろうじて動けた

  アダムズを、 当時豊臣家大老だった徳川家康は、

  臣大阪城西の丸に呼び出し、会見し、 オランダ商船

  「リーフデ号」に積載された大量の大砲(19門の最新

  式大砲)と大砲弾(約5000発)の積み荷を知り、 ま

  た、世界情勢をアダムズより聞く

     徳川家康は、 「リーフデ号」の大砲・弾薬と船員

  を利用することとし、アダムズを自分の顧問とし、その

  後、家康は、1600年9月15日の関ヶ原の戦いで、そ

  の大砲・弾薬や大砲を操作する外国人船員を使用し

  た。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 徳川家康は、 海外貿易を行い、貿易の利益を得よ

  うと考えていた。 布教と貿易を同時に行うスペイン・

  ポルトガルよりも、キリスト教の布教を行わないイギ

  リスやオランダとの貿易を、家康は行いたいと考え、

  家康は、イギリス人のアダムズを自分の外交顧問と

  し、頻繁に城に呼び出し、世界情勢や欧米の知識を

  得たり、 外交の助言を行わせたり、、貿易商人との

  交渉や契約の助言や通訳を行わせた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ ウイリアム・アダムズ が登場する、興

    味深いドラ、映画、ドキュメンタリー。 

 

★ ウイリアム・アダムズ が登場する、興味

  深い、ドキュメンタリー。 

 

■ THE歴史列伝

   〜そして傑作が生まれた〜 

   『 青い目のサムライ 三浦 按針 』。

   (TBSテレビ・2016年2月26日・本放送BS・

   TBS歴史ドキュメンタリー番組。

● ウイリアム・アダムズの詳細を述べる。

● 安土桃山時代や江戸時代初期を述べる。

 

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#princeumayato

 

■ 厩戸王  

     (うまやとおう)= 聖徳太子

  

■ 厩戸王。 

■ 名称 : 厩戸王 (うまやとおう)。

■ 別名 : 厩戸皇子  (うまやとおうじ、うまや

   とのみこ)、 聖徳太子 (しょうとくたいし)

■ 生没年 : 574年〜622年。

■ 飛鳥・白鳳時代の政治家。

■ 推古天皇(すいこてんのう)の甥(おい)で、

   推古天皇の摂政(せっしょう)となる。

■ 用明天皇(ようめいてんおう)の皇子(みこ)。 

■ 蘇我氏 (そがし、古代の 飛鳥・白鳳時代)の

  中央豪族) の一族。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61531。

 

 

■ 厩戸王 聖徳太子) は、 推古天皇(すいこて

  んのう)の摂政(せ っしょう)として、 蘇我馬子

  (そがのうまこ)と共 に、 倭国(わこく、日本)の

  内外の政治にあたった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 厩戸王 聖徳太子)は、 冠位十二階(かんい

  じゅうにかい)や十七条憲法(じゅうななじょうの

  けんぽう)の制定、 国史の編纂(こくしのへんさ

  ん)、遣隋使(けんずいし)の派遣、 法隆寺(ほ

  うりゅうじ)、四天王寺(してんのうじ)の建立(こ

  んりゅう) などを行う。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 厩戸王 (うまやとおう、聖徳太子、生没年:57 

  4〜622年) は、 飛鳥・白鳳時代の政治家で

  あり、 推古天皇(すいこてんのう)の甥(おい)

  であり、 推古天皇の摂政(せっしょう)となる。

 

■ 厩戸王 (聖徳太子)は、 用明天皇(ようめい

  てんおう)の皇子(みこ) であった。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 厩戸王 (聖徳太子)は、 蘇我氏 (そがし、古

  代の飛鳥・白鳳時代)の中央豪族) の一族 で

  あった。

 

■ 厩戸王 (聖徳太子)の別名は、 厩戸皇子(う

  まやとおうじ、うまやとのみこ)、 聖徳太子(しょ

  うとくたいし) な どである。

     聖徳太子は、当時の呼び名ではなく、死後

  100年以後に呼ばれた名称である。 太子は、

  皇太子という意味であるが、皇太子の制度が

  できたのは、7世紀半ば以後であり当時はなか

  った。 厩戸王(うまやとおう)は、仏教を広めた

  聖人として奈良時代から聖徳太子と呼ばれるよ

  うになった。 聖徳太子は、 信仰の対象として

  の呼び名である。  旧1万円紙幣などの聖徳

  太子像は、 8世紀からもつようになった笏(し

  ゃく)を手にもっているなど不自然な描写があ

  るため、現在では、本人の実像ではないとされ

  ている。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 蘇我馬子 (そがのうまこ、生没年?〜626年)

  は、 有力豪族・蘇我氏本家の当主であり、 蘇

  我稲目(そがのいなめ)の子で、 大和朝廷の

  大臣(おおおみ) であった。

      蘇我馬子は、 587年に、大連(おおむ

  らじ)の物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼし、 

  592年に、 崇峻(すしゅん)天皇を暗殺し、倭

  国(わこく、日本)の政治権力を握(にぎ)った。 

     蘇我馬子は、 592年に、 蘇我氏と血 縁

  のある(蘇我馬子の妹が生んだ)推古天皇(す

  いこてんのう、女帝)を擁立した。 593年に、

  推古天皇(女帝)は、  蘇我氏と血縁 のある、

  厩戸王 (聖徳太子)を、推古天皇の摂政(せ

  っしょう)とした。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 厩戸王 (聖徳太子)は、 593年、叔母(お

  ば)の推古(すいこ)天皇 (女帝、在位 :592

  〜628年)の摂政(せっしょう) となり、 蘇

  我馬子(そがのうまこ)の協力を得て、 倭国

  (わこく、日本)の政治を行った。 

      厩戸王 (聖徳太子)は、 遣隋使の派 

  遣(600年、607年)等の外交、 冠位十ニ

  階の制定(603年)、 憲法十七条の制定(6

  04年)、国史の編纂(へんさん) などを行っ

  たといわれている。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 厩戸王 (聖徳太子)は、 仏教を奨励し、 法

  隆寺(ほうりゅうじ)、 四天王寺(してんのうじ)、 

  を建てた。

    聖徳太子の政治理想は、後の大化の改新、

  律令制度に結実した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 厩戸王 (聖徳太子)の業績は、 藤原不比等

  の意向により潤色(じゅんしょく、粉飾)さ れた

  という説もある。

 

 厩戸王 (聖徳太子)は、 622年に死去したが、

  そのおよそ100年後、日本書紀が編纂(へんさ

  ん、720年完成)され、 そこに、厩戸王 (聖徳

  太子)の業績が書かれてい る。 最近の研究で、

  日本書紀の矛盾点も出てきた。

      藤原不比等の意向により、律令国家の

  基礎を築いた人々の象徴、代表として、厩戸王

  (聖徳太子)の業績を、日本書紀に記載したとい

  う説もある。

 

■ 厩戸王 (聖徳太子)の死後、 厩戸王(聖徳太

  子)の理想を引き継いだ、厩戸王(聖徳太子)

  子の山背大兄王 (やましろのおおえのおう、生

  年不詳ー643年)は、 皇位継承の有力候補で

  あったが、 蘇我馬子の孫の蘇我入鹿 (そがの

  いるか、生年不詳ー645年 に滅ぼされる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 厩戸王(聖徳太子)や子の山背大

  兄王 が登場する興味深い、ドキュ

  メンタリー、 ドラマ、映画。

 

★ 厩戸王(聖徳太子)や子の山背大兄

  王 が登場する興味深い、ドラマ、

  映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

    歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

    と 架空の出来事が混じって描かれています。 

   また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 聖徳太子 (しょうとくたいし) 』 

   (NHKテレビ・2001年・本放送・

    古代史ドラマスペシャル)。

● 厩戸王 (厩戸皇子(うまやとおうじ、うま

   やとのみこ)、聖徳太子) を演じた俳優 : 

   本木 雅弘。

● 蘇我馬子を演じた俳優 : 

     緒形 拳。

● 崇峻天皇(泊瀬部皇子)を演じた俳優 : 

   加藤 雅也。

● 推古天皇(額田部皇女)を演じた女優 : 

   松坂 慶子。

● 小野妹子(おののいもこ)を演じた俳優:

   今田 耕司。

 

■ 『 大化改新 (たいかのかいしん) 』 。 

   (NHKテレビ・2005年・本放送・

   古代史ドラマスペシャル)。

● 山背大兄王 (やましろのおおえのおう)を

   演じた俳優 : 山口 祐一郎。

● 蘇我 入鹿(そがのいるか)を演じた俳優 : 

   渡部 篤郎。

 

● 蘇我 蝦夷(毛人)(そがのえみし)を演じた

   俳優 :  原田 芳雄。

● 蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだの

   いしかわまろ)を演じた俳優 :  伊武 雅刀。

● 中大兄皇子 (なかのおおえのみこ、皇極

   天皇の息子、後の天智(てんじ)天皇)を

   じた俳優 : 小栗 旬。

● 中臣 鎌足(なかとみの かまたり)を演じた

   俳優 : 岡田 准一 (おかだ じゅんいち)。

● 皇極天皇 (こうぎょくてんのう、宝皇女(た

   からのひめみこ)を演じた女優 : 高島 礼子。

● 軽皇子(かるのみこ、皇極天皇の弟)を演

   じた俳優 : 吹越 満。

 

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#udaijin

 

■ 右大臣  

     (うだいじん)

 

■ 右大臣。

■ 名称 : 右大臣 (うだいじん)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51912。

 

 

■ 右大臣 (うだいじん)は、 前近代日本の、

  朝廷の官職(ちょうていのかんしょく) である。 

            

 朝廷の官職。

■ 朝廷の官職 (ちょうていのかんしょく) は、 

  朝廷の官位 (= 「朝廷の位階」と「朝廷の官

  職」) の1つであり、 前近代日本(古代から

  江戸時代までの日本)の、朝廷での身分・地

  位の1つである。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

                  

 朝廷の官職。

 前近代日本の 、高位の朝廷の官職には、 

  高位順に、 @ 太政大臣 (だいじょうだ

  いじん)、 A 左大臣 (さだいじん)、 

  B 右大臣 (うだいじん)、  C 内大臣 

  (ないだいじん)、 D 大納言 (だいな

  ごん)、 E 中納言 (ちゅうなごん)、  

  F 参議 (さんぎ) などがある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 官位相当制

■ 官位相当制 (かんいそうとうせい)とは、

  前近代日本の、朝廷での、位階に対応した

  官職に就くことを原則とする制度である。

■ ( )は、原則として朝廷の官職に相当する

  朝廷の位階の位階で ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 前近代日本の、高位の朝廷の官職には、 

  高位順に、次のような官職があった。

● 第1位 太政大臣   (従一位  (以上))。  

  (だいじょうだいじん)  (じゅいちい)

   臨時の官職 (常設でない官職)。

● 第2位 左大臣     (正二位 (以上 ))。  

  (さだいじん)       (しょうにい)

● 第3位 右大臣     (正二位 (以上))。

  (うだいじん)

● 第4位 内大臣     (従二位 (以上 ))。

  (ないだいじん)          (じゅにい)

● 第5位 大納言     (正三位 (以上 ))。

  (だいなごん)      (しょうさん

● 第6位 中納言     (従三位 (以上 ))。  

  (ちゅうなごん)     (じゅさん

● 第7位 参議       (四位   (以上))。 

  (さんぎ)         (しい)

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 公卿。

● 公卿(くぎょう)とは、前近代日本の、朝廷の、

  位階三位(さんみ)以上の者や位階・四位(し

  い)以上で参議の官職に叙任(じょにん)された

  者である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#ukitanaoie

 

  宇喜多 直家  

      (うきた なおいえ)。

 

■ 宇喜多 直家。

■ 名称 : 宇喜多 直家 (うきた なおいえ)。

■ 生没年 : 1529〜1581年。

 

 

■ 宇喜多 直家 (うきた なおいえ、生没年:15

  29〜1581年)は、室町時代後期(戦国時代)、

  安土桃山時代の、備前(びぜん、岡山県 東南

  部)の武将、大名 である。

 

■ 宇喜多 直家は、 備前を支配していた、浦上

  宗景(うらがみむねかげ)の重臣 であった。

 

■ 1575年(天正3年)に、 毛利氏と結んだ、浦

  上宗景の重臣の、宇喜多直家(うきたなおいえ、

  1529〜81年)は、 備前を支配していた、浦上

  宗景(うらがみむねか げ、生没年不詳)を打ち破

  り、追放し、 播磨の西方の隣国の、備前(びぜ

  ん、岡山県東南部)を領国とする (天神山城の

  戦い)。

 

■ 宇喜多 直家は、 毛利氏に味方していたが、後

  に織田氏に味方する。

    1579年(天正7年)10月に、 宇喜多直家(う

  きたなおいえ、1529〜81年)は、毛利氏と手を

  切って織田信長に臣従する。

     宇喜多 直家は、以前より黒田官兵衛から、

  織田信長への臣従を進言されていたが、1579年

  (天正7年)10月に、信長に臣従する。

 

■ 1582年に、 織田信長の計らいで、宇喜多直

  家(うきたなおいえ、1529〜81年)死後、直家・

  次男の宇喜多秀家が、幼少ながら備前の本領を

  安堵(あんど)され宇喜多家の家督を継ぐ。 叔

  父の宇喜多忠家が秀家の代理として軍を率い、

  宇喜多直家の重臣が秀家を補佐した。

 

 

♪♪ 宇喜多直家 が登場する興味

  深い、ドキュメンタリー、ドラマ、映

  画。

 

★ 宇喜多直家が登場 する、興味深

  い関連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

  実) と 架空の出来事 が混じって描かれ

  ています。 また、 現代風にアレンジしてあ

    ります。

 

■ 『 軍師 官兵衛 』 

   (NHK2014年大河ドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

 

● 宇喜多 直家 (うきた なおいえ、備前・美作

  (びぜん・みまさか)の国主(こくしゅ)) を演

  じた俳優名 : 

  陣内 孝則 (じんない たかのり)。

 

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#uesugitomiko

 

 上杉 富子  

     (うえすぎ とみこ)。

 

■ 上杉富子。

■ 名称 : 上杉富子 (うえすぎ とみこ)。

■ 別名 : 富子(とみこ)、 梅嶺院 (ばいれい

  いん)、 参姫(三姫)。

 (注意) 前近代日本では、夫婦別姓 

   前近代日本の人名)。

■ 生没年 : 1643〜1704年。

■ 元禄赤穂事件の被害者の吉良上野介(義央)

  の正室夫人

■ 上杉家当主・第2代米沢藩(山形県東南部)

  藩主・上杉定勝の娘。

 

 

■ 上杉富子 (うえすぎ とみこ、生没年:1643

  〜1704年) は、 元禄赤穂事件の被害者の

  吉良上野介(義央) (きらこうずけのすけ(よ

  しなか・よしひさ)、生没年:1641〜1702年)

  の正室夫人 である。

 

■ 上杉富子の氏名。

 上杉富子の別名は、 富子、 梅嶺院(ば いれ

  いいん) である。

■ 上杉富子の、一族名(氏・名字)は、上杉(うえ

  すぎ)で、 個人名は、富子(とみこ)、梅嶺院

  (ばいれいいん) であり、 実名は、参姫(三

  姫)、 富子は、(いみな、婚儀後)で、 梅嶺

  院は、法名(ほうみょう) である。

 前近代日本では 、上層階層の女性は、 夫の

  死などの人生の転機を迎えたときに、 法名

  得て、仏門に入る慣習があった。 

● (注意) 前近代日本では、日本の女性は、18

  72年(明治5年)1月施行の壬申戸籍(じんしん

  こせき)までは、 夫婦別姓である。 

     前近代日本の女性は、 明治5年(1872

  年)1月施行の壬申戸籍(じんしんこせき)まで、 

  父の氏(名字)を一生持ち、 婚儀を結んでも

  (結婚しても)夫婦別姓で、 夫の一族名(氏・名

  字)を称さず。

    上杉富子は、吉良上野介(義央)と婚儀を結

  んだ(結婚した)後も、 氏名は、上杉富子のま

  まであった。

 (注意) 前近代日本では 、 日本の女性は、

  父の氏(名字、上杉)を持っていたが、 通常、

  慣習で、個人名(参姫、梅嶺院)のみで自他 呼

  称した。

 

■ 上杉富子は、 上杉家当主・第2代米沢藩(

  形県東南部)藩主・上杉定勝の娘であり、 上

  杉景勝の孫 である。

 

■ 上杉富子は、 上杉家当主・米沢藩(山形県東

  南部)4代藩主 ・上杉 綱憲(つなのり)の生

  母 である。

 

■ 屋敷替えになった際、 吉良の正室夫人の、

  富子(とみこ、上杉富子、梅嶺院)は、 江戸の

  本所松坂町の吉良邸には移らず(同道(同行)

  せず)、 江戸の芝・白金の上杉家下屋敷(しも

  やしき、別邸)に住む。  同道(同行)しなかっ

  た理由は、不明である。

     上杉家出身の富子別居により、 赤穂浪

  士は、 上杉家を考えず、本所松坂町の吉良

  邸に討ち入りを行えるようになった。

             

■ 1701年(元禄14年)8月に、 江戸幕府 は、

  吉良上野介(義央)に対し、 吉良の呉服橋の

  屋敷から、本所(ほんじょ)の松平信望の屋敷 

  (現在の東京都墨田区両国3丁目の地)へ屋敷

  替えを命じた。

     屋敷替えになった際、 吉良の正室夫人の、

  富子(とみこ、上杉富子、梅嶺院)は、 江戸の

  本所松坂町の吉良邸には移らず(同道(同行)

  せず)、 江戸の芝・白金の上杉家下屋敷(しも

  やしき、別邸)に住む。  同道(同行)しなかった

  理由は、不明である。

     上杉家出身の富子別居により、赤穂浪士

  は、上杉家を考えず、本所松坂町の吉良邸に

  討ち入りを行えるようになった。

     上杉富子(うえすぎ とみこ、梅嶺院(ばい

  れいいん)、1643〜1704年)は、 吉良上野

  介(義央)の正室夫人 である。

     上杉富子は、 上杉家当主・第2代米沢藩

  (山形県東南部)藩主・上杉定勝の娘 であり、

  上杉景勝の孫 である。

     上杉富子と吉良上野介(義央)との間の子

  には、 養子に入って、上杉家を相続し、第4代

  米沢藩主となった、 吉良長男の上杉綱憲(うえ

  すぎつなのり) がいる。

             

               

♪♪ 上杉富子 が登場する、興味深

  い、ドキュメンタリー、ドラマ、映画。 

 

★ 上杉富子 が登場 する、面白く、興

  味深い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 忠臣蔵 その義 その愛 (ちゅう

      しんぐら そのぎ そのあい) 』  

   (2012年1月2日・本放送・テレビ東京・テ

   レビドラマ)。

● 富子を演じた女優 : ひろ みどり。 

 

● 吉良上野介を演じた俳優 : 柄本 明 

  (えもと あきら)。

● 浅野内匠頭を演じた俳優 : 市川 染五郎。

  (まんだ ひさこ)。

● 瑤泉院(あぐり)を演じた女優 : 田中 美里。

● 大石内蔵助を演じた俳優 : 舘 ひろし 

  (たち ひろし)。

● リく(香林院)を演じた女優 : 萬田 久子 

 

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#uesugitsunarori

 

 上杉 綱憲  

     (うえすぎ つなのり)。

 

■ 上杉 綱憲。

■ 名称 : 上杉 綱憲 (うえすぎ つなのり)。

■ 生没年 : 1663〜1704年。

   藩主就任 : 1664〜1703年。

■ 元禄赤穂事件の被害者の、吉良上野介(義央)

  の実子(長男)。

■ 上杉家・米沢藩(山形県東南部、当時15万石)・

  第4代藩主 。

 

 

■ 上杉 綱憲 (うえすぎ つなのり、生没年:1663

   〜1704年) は、 吉良上野介(義央)の実子

  (長男) である。

 

■ 上杉 綱憲は、 上杉家・米沢藩(山形県東南部、

  当時15万石)・第4代藩主  である。

     上杉 綱憲は、 1664年(寛文4年)6月に、

  上杉家に養子に入り上杉家・米沢藩に藩主に就

  任し、 1703年(元禄16年)8月に、病のため

  隠居し、嫡男の上杉吉憲に家督を譲った。

 

■ 1664年(寛文4年)閏5月に、上杉家・米沢藩

  第3代藩主・上杉綱勝が、嗣子(しし、跡継ぎ)が

  無いまま、急死する。

    上杉家・米沢藩は、無嗣断絶により改易(かい

  えき、領地没収)されるべきところを、徳川家光

  弟・会津藩主・保科正之(ほしなまさゆき)の計ら

  いで、 吉良上野介(義央) (扇谷上杉家の上杉

  氏定の子孫) と 上杉富子(上杉家・第2代米沢

  藩主の娘) の間に生まれた、三之助(当時2歳、

  上杉景倫(かげのり・かげとも)と改名、後の上杉

  綱憲)を、 1664年(寛文4年)6月に、末期養

  子とすることで、上杉家・米沢藩は、江戸幕府よ

  り存続を許された。 

     しかし、上杉家米沢藩は、 末期養子による

  相続の代償として、 江戸幕府により、藩領の信

  夫郡と伊達郡を削(けず)られ、置賜郡のみとな

  り、30万石の所領は、15万石に半減された。

  このため、 上杉家・米沢藩は、恒常的な財政逼

  迫(ひっぱく)に悩まされることになる。

    第4代藩主・上杉綱憲以後、上杉家・米沢藩

  は、 代々、徐々に財政逼迫は深刻化し、財政立

  て直しは、上杉家・米沢藩主・上杉鷹山(ようざん)

  の藩政改革を待つことになる。

 

■ 上杉 綱憲は、 実父の吉良上野介(義央)の吉

  良家に、毎年、約6000石の財政援助を行う。

 

■ 上杉 綱憲は、 自分の子の1人、次男・春千代

   を吉良家に養子に出し跡継ぎとし、吉良左兵衛

  (義周) (きらさひょうえ(よしまさ)、1686〜17

   06年) とした。

     吉良左兵衛(義周)は、 上杉 綱憲の実父の、

  吉良上野介(義央)の隠 居後に、吉良家当主とな

  った

 

■ 上杉 綱憲は、 赤穂浪士・吉良邸討ち入り時、 吉

    良邸にいた、自分の実父と実子の殺傷を防げなか

  った。

     吉良邸討ち入り時、実父の、吉良上野介(義

  央)は、殺害され、 実子の吉良左兵衛(義周)は、

  重傷を負い、命(いのち)は助かった。

 

■ 吉良邸討ち入り時、 (吉良上野介(義央)の実

  子・上杉綱憲が養子に入って米沢藩主となった) 

  上杉家米沢藩の動き。

● 米沢転居前の吉良の茶会。

    上杉家当主・第4代米沢藩主の、上杉綱憲 

  (うえすぎつなのり、1663〜1704年) は、実

  父の吉良上野介(義央)を、 江戸は赤穂の浪

  人が多くいて危険なので、米沢 (よねざわ、山

  形県東南部) に転居するように勧めていた。

     赤穂浪士の吉良邸襲撃の前日の1702年

  (元禄15年)12月14日の茶会は、 吉良の江

  戸での別れの茶会であったと言われている。

     米沢藩(よねざわはん、山形県東南部)は、

  上杉氏を当主とする、当時15万石の大名 であ

  った。

 

● 上杉家の救援の遅滞と幕命による救援中止。

     吉良邸討ち入り時、 赤穂浪士は、 上杉家

  からの 援軍 と 引き揚げ時の追撃 を警戒し

  ていた。

     実際に、上杉家では、上杉家米沢藩邸に赤

  穂浪士の吉良邸討ち入りの報が入ると、 米沢

  藩邸は、 赤穂浪士に対抗できるだけの人数を

  集めていた。 

     そうしているうちに、吉良上野介(義央)

  ち取られ赤穂浪士が吉良邸を引き揚げたという

  報告が上杉家米沢藩邸に入った。 

     やがて、江戸幕府の幕閣から、上杉家米沢

  藩に、 赤穂浪士の処分は幕府が行うので手出

  しをしないように命じられる。 上杉家米沢藩は、

  幕命(ばくめい、幕府の命令)に従う他なかった。 

     赤穂浪士の吉良邸討ち入りを知った上杉家・

  米沢藩主・上杉 綱憲 (うえすぎ つなのり、生没

  年:1663〜1704年)がいきり立ち、実父の

  上野介(義央)援軍に出馬 しようとするところ

  を、上杉家縁戚の高家・畠山義寧が、とめた。  

  上杉家縁戚の高家・畠山義寧がとめた。  

     上杉家・米沢藩主・上杉綱憲 の行動制止は、

  江戸幕府・老中から出兵差し止め命令を上杉綱

  憲に伝えるべく上杉家米沢藩邸に赴(おもむ)い

  た、上杉家縁戚の高家・畠山義寧であった。

      フィクション(創作)の忠臣蔵での上杉綱憲

  の行動制止は、 家老の千坂高房(既に1700

  年に死去)、または、色部安長(父喪中で藩邸に

  出仕していない) となっていることが多い。

 

■ 吉良邸討ち入り時、 吉良上野介(義央)の隠

  居後吉良家当主となった、吉良左兵衛(義周)

  (きらさひょうえ(よしまさ)、1686〜1706年)

  は、自ら武器をとり、応戦したが、面と背中を斬

  (き)られ、気絶し、捨て置かれ、斬首(ざんしゅ)

  されることはなかった。

 

■ 1703年(元禄16年)2月4日に、幕命(ばくめ

  い、江戸幕府の命令)により、 討ち入りした赤

  穂浪士46人は、 切腹した。

    一方、1703年(元禄16年)2月に、 江戸

  幕府は、 吉良上野 介(義央)の孫で吉良上野

  介(義央)引退後の吉良家の当主の、吉良左兵

  衛(義周)(きらさひょうえ(よしまさ)、1686〜

  1706年) の改易(かいえき、領地没収)と信

  州配流(はいる)の処分を決めた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#uesugiyozan(harunori)

 

 上杉 鷹山(治憲) 

     (うえすぎ ようざん(はるのり))。

 

■ 上杉 鷹山(治憲)。

■ 名称 : 上杉 鷹山(治憲) 

        (うえすぎ ようざん(はるのり))。

■ 生没年 : 1751〜1822年。

■ 江戸時代後期に、 巨額の藩の借金をほぼ返

  済し、更に、東北の地に、高産業・高福祉社会

  を実現した、世界に誇る日本の政治家。

■ 上杉家当主・米沢藩(山形県東南部) ・第9代

  藩主。

■ 上杉 鷹山(治憲)の名言 

  「なせば成る。 なさねば成らぬ何事も」。

 

 

■ 上杉 鷹山(治憲) (うえすぎ ようざん(はるの

  り)、藩主就任:1767〜85年、生没年:1751

  〜1822年) は、 江戸時代後期の、上杉家 ・

  米沢藩(山形県東南部)・第9代藩主 である。

     上杉 鷹山(治憲)は、1785年に隠居し、

  自由の身となり (藩主として参勤交代で江戸

  に行かなく済み)、 藩政改革・財政立て直しを

  更に、推進する。

 

■ 上杉 鷹山(治憲)は、 江戸時代後期に、 巨

  額の藩の借金をほぼ返済し、更に、東北の地に、

  高産業・高福祉社会を実現した、世界に誇る

  治家 である。

 

■ 上杉 鷹山(治憲)は、 九州の日向国高鍋(ひゅ

  うがのくにたかなべ)藩主の二男で、 上杉家・米

  沢藩・第8代藩主の上杉重定の養子となり、 

  杉家・米沢藩・第9代藩主 となる。

 

■ 上杉 鷹山(治憲) は、 民のために国がある、

  民を幸福にすることがリーダーの務め と主張

  した人である。  

     また、 上杉 鷹山(治憲)の有名な名言に、 

  「なせば成る。 なさねば成らぬ何事も」 などが

  ある。

 

■ 上杉 鷹山(治憲) は、 藩財政を改革し、殖産

  興業、新田開発、特産品開発、商品作物の育成、

  生糸産業育成、倹約の奨励(しょうれい)、備え米

  (そなえまい)制度などを行い、 巨額の藩の借金

  をほぼ返済し、 更に、様々な産業を興(おこ)し、

  高福祉政策を行い、 東北の地に、高産業・高福

  祉社会を実現した。

    上杉 鷹山(治憲)は、 米沢藩の民の教育を

  推進し、 藩校・興譲館も創立する。

  

 

#uesugiyozan(harunori)-appearingscenes

 

♪♪ 上杉 鷹山(治憲) が登場する、

    興味深い、ドキュメンタリー、ドラ

    マ、映画。

 

 ★ 上杉 鷹山(治憲)が登場する、興味

    深い、ドキュメンタリー。

 

■ BS歴史館 『 シリーズ 江戸のス

  ーパー変革者 A 心の壁を打ち破

  れ! 上杉鷹山・巨額債務返済計画 』 

   (NHKの2014年1月16日・本放送テレビ・

   ドキュメンタリー番組)。

 

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#uba

 

  乳母。 

      (うば)。

 

■ 乳母。

■ 名称 : 乳母 (うば)。 

     別名 : 乳母 (めのと)。

■ 時期 : 前近代日本。

■ 乳母とは、

  上層階層者の生母の代わりに、子に乳を

  与え、守り育てる女性である。 

■ 前近代日本では、

  乳母 (うば、めのと) と 乳兄弟(ちきょうだ

  い) は、 上層者 の子の側近として、重要な

  働きをする。

■ 乳母(うば、めのと)の例として、

   お福 (おふく、春日局徳川家光の乳母)、 

   大蔵卿局 (おおくらきょうのつぼね、淀殿

   (お茶々)の乳母)などである。

■ 乳兄弟(ちきょうだい)の例として、

  お福(おふく、春日局徳川家光の乳母) の

  実子の稲葉 正勝と徳川家光、

  大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね、淀 の方

  (茶々)の乳母)の実子の大野治長(おお の

  はるなが)と淀の方。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 41538。

 

 

 ■ 乳母。

 

  ■ 前近代日本では、一般的に、上層階層の女性は、

    産んだ子供を乳母(うば、めのと)に育てさせる

    慣習があった。 

 

  ● 前近代日本では、一般的に、 上層階層の子は、

    男子、女子を問わず、 乳母(うば、めのと)を付

    けて育てる慣習があった。

 

  ● 乳母の例として、お福 (おふく、春日局徳川

    家光の乳母) 、 大蔵卿局(おおくらきょうのつぼ

    ね、淀殿(お茶々)の乳母) などが挙(あ)げら

    れる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 

 ■ 乳母。

 

  ■ 産みの親 と 育ての親。

  ● 産みの親とは、 生母であり、 育ての親

    とは、 乳母(うば、めのと)である。

 

  ● 前近代日本の社会では、 

    生母である、上層階層の夫人(正室、側室を問

    わず)は、 子供の養育を、 乳母(うば、めの

    と)に委 (ゆだ)ねることが多かった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 乳母。

 

  ■ 乳母 (うば、めのと) とは、 

    前近代日本で、 上層階層者の生母の代わ

    りに、子に乳を与え、守り育てる女性である。 

 

  ■ 前近代日本の上層階級の家では、 

   子供にとって、生母(せいぼ)は、産みの親

   であり、 乳母(うば、めのと)は、育ての親

   であった。

 

  ■ 前近代日本の社会では、 

    乳母 (うば、めのと) と 乳兄弟 (ちきょう

    だい) は、 上層 階層者の子の側近として、

    重要な働きをする。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 乳兄弟。

 

  ■ 乳兄弟 (ちきょうだい)とは、 

    肉親ではないが、同じ女性の乳で育てられ

    た者同士である。 

 

  ■ 乳母の実子は、 子供時代から上層 階層

    者の子の遊び相手になったり、話し相手に

    なったりして、 上層 階層者の子と子供時代

    から交流を持つことも 多く、 上層階層者の

    子にとって気の許せる人物であり、 上層階

    層者の子の身近な側近になることが多かっ

    た。

 

  ● 例として、 

    お福(おふく、春日局徳川家光の乳母) の

    実子の稲葉 正勝 (お福の長男)と徳川家光、

    大蔵卿局 (おおくらきょうのつぼね、淀 の方

    (茶々)の乳母)の実子の大野治長(おおのは

    るなが)と淀の方、 

    などである。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 乳母。

 

  ■ 権力者の側近として、政治権力をもつ乳母

    も出現した。 

  ● 乳母(うば、めのと)は、「育ての親」として、

    権力者の側近として、政治権力をもつ乳母

    も出現した。

 

  ■ 通常は、乳母は、生母と協調するが、

    生母と対立する場合もあった。

       例えば、江戸幕府3代将軍・徳川家光

    の乳母のお福(春日局)は、 権力争いで、 

    家光の生母・お江(おごう)と対立 する。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 乳母(うば、めのと)が登場する、興味

    深い、ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

 ★ 乳母が登場する、興味深い関連ドラ

    マ、映画。 

 

  ● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

    歴史のドラマ、映画は、史実(歴史の事実) 

    と 架空の出来事が混じって描かれています。 

    また、 現代風にアレンジしてあります。

 

 ■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』。

     (NHKテレビの2011年・大河ドラマ) 

 

  ■ お江(おごう、お江与)の乳母の民部卿局

    (みんぶきょうのつぼね)が登場する。

  ■ 淀の方(よどのかた)の乳母の大蔵卿局

    (おおくらきょうのつぼね)が登場する。

 

  ● お江(おごう、小督、お江与、崇源院)を

    演じる女優名 : 

    上野 樹里 (うえの じゅり) 。

  ● 淀の方(よどのかた、淀殿、茶々)を演じ

    た女優名 : 宮沢 りえ。

 

 

 ■ 『 寧々〜おんな太閤記 

     (ねね おんなたいこうき) 』 。 

     (テレビ東京の2009年制作

      テレビドラマ)。 

 

  ■ 淀の方(よどのかた)の、乳母の大蔵卿局

    (おおくらきょうのつぼね)や乳兄弟(ちきょ

    うだい)の大野治長が登場する。

 

  ● 淀殿(お茶々)を演じた女優名 : 

    吹石 一恵。

  ● 大蔵卿局を演じた女優名 : 池上 季実子。

  ● 大野治長を演じた俳優名 : 海東 健。

 

  ● お江(小督)(おごう)を演じた女優名 : 

    高橋 かおり。

 

 

 ■ 『 天下騒乱〜徳川三代の陰謀

     (てんかそうらん〜とくがわさんだいの

       いんぼう) 』 。 

     (テレビ東京の2006年制作テレビドラマ)。 

 

  ■ 徳川家光の乳母のお福(春日局)が登場

         する。

 

  ● 徳川家光(とくがわいえみつ)を演じた俳

    優名 : 池内博之。

  ● お福(おふく、春日局)を演じた女優名 : 

    片平 なぎさ。

  ● お江(おごう、小督、お江与、崇源院)を演じ

     た女優名 : かたせ梨乃  (かたせ りの)。

 

 

 ■ 『 大奥・第一章 

       (おおおく だいいっしょう) 』 。 

     (フジテレビの2004・2005年制作・

      テレビドラマ)。

 

  ■ 徳川家光の、乳母のお福(春日局)や乳兄

    弟(ちきょうだい)の稲葉正勝が登場する。

 

  ■ 初代将軍家康、2代将軍秀忠、3代将軍家

    光の時代 と その時代の大奥を描いた

    ドラマ。 

 

  ● 徳川家光を演じた俳優名 : 西島 秀俊。

  ● お福(おふく、春日局)を演じた女優名 : 

    松下 由樹 (まつした ゆき)。

  ● 稲葉 正勝(いなばまさかつ、お福の長男)

    を演じた俳優名: 榊 英雄 (さかきひでお)。

 

  ● お江(おごう、小督、お江与、崇源院)を

    演じた女優名 : 高島 礼子。

 

 

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#uedashu

 

 上田衆 

     (うえだしゅう)。

 

■ 上田衆。

■ 時期 : 16世紀。

■ 名称 : 上田衆 (うえだしゅう)。

■ 越後国・上田庄出身の武士達。

● 越後国(えちごのくの)・上田庄(うえだのしょう) 

  (現在の新潟県・南魚沼市(みなみうおぬまし)) 

  出身の武士達。

■ 越後・坂戸(さかど)城主で上田・長尾家当主の、

  長尾政景(ながおまさかげ)、上杉景勝(うえすぎ

  かげかつ)に仕えた武士達。

■ 勇猛果敢な武士達として知られる。 

■ 直江兼続 (なおえかねつぐ) も上田衆の一人。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

□ 上田衆が登場する、興味深い、

    ドキュメンタリー、ドラマ、映画

 

 

■ 上田衆 (うえだしゅう) とは、 越後・坂戸

 (さかど)城主で上田・長尾家当主の、 長尾政

 景(ながおまさかげ)、上杉景勝(うえすぎかげか

 つ)に仕えた武士達で、 越後国(えちごのくの)・

 上田庄(うえだのしょう) (= 現在の新潟県・南

 魚沼市(みなみうおぬまし)) 出身の武士達

 である。

■ 直江兼続 (なおえかねつぐ) も上田衆の一人 である。

■ 上田衆 は、勇猛果敢な武士達 として知られる。

■ 例を挙げると、 上田衆は、 樋口 兼豊

  (樋口惣右衛門、直江兼続の父)、 樋口与七

  (直江兼続の弟)、 栗林政頼 (くりばやしまさより、

  上田長尾家の家老)、 深沢利重 (ふかざわとし

   しげ、上田長尾家の 家老)。 

  また、 上田衆には、 雲洞庵時代(幼少)

  から上杉景勝に仕える、直 江兼続(なおえかね

  つぐ)、 泉沢久秀 (いずみさわひさひで)、 阿部 

  政吉(あべまさよし)、 登坂藤右衛門 (のぼりさ

  かとうえもん、 甘糟景継)、 桜井晴吉 (さくらい

  はるよし)、 深沢弥七郎 (ふかざわやしちろう) 

  などがいる。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

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◆ 関連項目。

■ 上田衆の主君の、  

  長尾 政景 (上田衆主君、上杉景勝の父)、  

  上杉景勝 (上田衆主君)、 上杉 謙信 

   (上田衆主家の長尾・ 上杉家の頭領)、 

  に関しては、 

  当日本史辞典の 『  長尾 政景(ながお 

  まさかげ)、 上杉 景勝 (う えすぎ かげかつ)、 

  上杉 謙信 (うえすぎ けんしん) 』 を参照して

   下さい。

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■ 上田衆各人の、 直江 兼続、 樋口 兼豊 

  (樋口 惣右衛門、 直江 続の父、 樋口

  与七 (直江兼続の弟)、 泉沢久秀 (直江

  兼続の同僚) に関しては、 

   当日本史辞典の 『 直江兼続 (なおえか

   ねつぐ)、 樋口 兼豊 (ひぐ ちかねとよ)、 

   樋口与七 (ひぐち よしち)、 泉沢久秀 (い

   ずみさわひさひで) 』 を参照して下さい。

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#uedashu-appearingscenes

 

♪♪ 上田衆 が登場する、興味深い、

  ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 上田衆 が登場する、興味深い、

   ドキュメンタリー。

 

■ その時歴史が動いた 『 戦国にか

  かげた‘‘ 愛 ’’ 〜北の関ヶ原 直

  江兼続の決断〜 』 

   (NHK2009年(H21)1月本放送テレビ・

   ドキュメンタリー番組、第347回)。

 

★ 上田衆 が登場する、興味深いドラ

  マ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) と 

  架空の出来事 が 混じって描かれています。 

  また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 天地人 (てんちじん) 』 

   (日本のNHK2009年大河ドラマ)。

● 直江 兼続を演じた俳優名 : 妻夫木 聡 

  (つまぶき さとし)。  

● 幼少時代の直江 兼続 (なおえ かねつぐ) 

  を演じた俳優名 : 加藤 清史郎。

 

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#ukitahideie

 

 宇喜多 秀家  

     (うきた ひでいえ)。

 

 宇喜多 秀家。

■ 生没年 : 1573〜1655年。

■ 名称 : 宇喜多 秀家 (うきた ひでいえ)。

■ 安土桃山時代の武将、大名。

■ 豊臣政権五大老の一人。

■ 豊臣秀吉の寵愛を受けた人物。

■ 備前国(びぜんのくの)の戦国大名、宇喜多直

  の子。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

□ 関ヶ原 画像アルバム  No.1

 

 

■ 宇喜多 秀家 (うきた ひでいえ、 生没年 15

  73〜1655年) は、 安土桃山時代の武将、

  大名で、 豊臣政権の五大老の一人であった。

 

■ 宇喜多 秀家 は、備前国(びぜんのくの)の戦国

  大名、宇喜多直家の子 で、 豊臣秀吉の寵愛を

  受けた人物 である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 1582年に、 織田信長の計らいで、宇喜多直

  (うきたなおいえ、1529〜81年)死後、直家・

  次男の宇喜多秀家が、幼少ながら備前の本領を

  安堵(あんど)され宇喜多家の家督を継ぐ。 叔

  父の宇喜多忠家が秀家の代理として軍を率い、

  宇喜多直家の重臣が秀家を補佐した。

 

■ 宇喜多 秀家 は、朝鮮出兵の文禄の役(ぶんろく

  のえき)で、 碧蹄館(へきていかん)の戦いで、勇

  名をはせた。

 

■ 宇喜多 秀家 は、関が原の戦いで、西軍の中心

  人物となり、敗れて、一時幽閉され、 1606年に、

  八丈島に流されて、その地で、1655年、没した。

 

 

♪♪ 宇喜多 秀家 が登場する、興味深

    いドラマ、映画、ドキュメンタリー。 

 

 宇喜多 秀家 が登場する、興味深い

  ドキュメンタリー。 

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 愛したのは 

  あなただけ〜戦国セレブ夫妻 宇喜

  多秀家と豪姫〜 』 

   (NHKテレビの2010年(平成22年)

   1月20日・本放送)。

 

 宇喜多秀家 が登場する、興味深い

  ドラマ、映画。 

 

  ● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

    歴史のドラマ、映画は、史実(歴史の事実) 

    と 架空の出来事が混じって描かれています。

    また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 真田丸 (さなだまる) 』 。  

   (NHKテレビ・2016年大河ドラマ)。

 日本の安土桃山時代や江戸時代初期の時

  代を描く。

● ドラマで「宇喜多 秀家」 (うきた ひでいえ)

  を演じた俳優名 : 

  高橋 和也 (たかはし かずや)。

 

■ 『 軍師 官兵衛 』 

   (NHK2014年大河ドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

 

■ 『 天地人 (てんちじん) 』 

   (NHK2009年大河ドラマ)。

 

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#ukesho

 

■ 請所   

     (うけしょ)。

 

■ 請所。

■ 名称 : 請所 (うけしょ、うけどころ)。 

■ 時期 : 中世日本 (12世紀〜16世紀)。

■ 請所とは、 

  中世日本で、 地頭、守護、村の自治組織など

  の請負人が、荘園や公領(国衙領)の年貢の

  納入を請け負う制度である。

■ 請所には、

  請負人の地頭、守護、村の自治組織などの相

  違により、 

  地頭請 (じとううけ)、

  守護請 (しゅごうけ)、

  百姓請 (ひゃくしょううけ、= 地下請(じげうけ)) 

  などがある。

● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典 11728。

 

 

 請所。

  ■ 請所(うけしょ、うけどころ)には、請負人の

    地頭、守護、村の自治組織などの相違によ 

    り、地頭請(じとううけ)、守護請 (しゅごう

    け)、百姓請 (ひゃくしょううけ、= 地下請(じ

    げうけ)) などがある。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 

■ 請所。

  ■ 請所(うけしょ、うけどころ)とは、 中世日本

    で、 地頭、守護、村の自治組織などの請負

    人が、荘園や公領(国衙領)の年貢の納入を

    請け負う制度である。

 

  ● 請所(うけしょ、うけどころ)とは、 中世日本

    (鎌倉・建武・室町時代)で、 地頭、守護、村

    の自治組織などの請負人が一定の年貢(ね

    んぐ)を納入するという条件で、 本所・領家

    の荘園領主や国司・知行国主が、 地頭、守

    護、村の自治組織などの請負人に、荘園や

    公領(国衙領)の経営を委任する制度である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 請所。

  ● 請所(うけしょ、うけどころ)とは、 中世日本

    (鎌倉・建武・室町時代)の荘園や公領(国衙

    領)で、 地頭、守護、村の自治組織などが、

    本所・領家の荘園領主や国司・知行国主に対し、

    一定の年貢を納めることを請け負い、代わり

    に、地頭、守護、村の自治組織などの請負人に、

    その荘園や公領(国衙領)の経営を委任する

    制度である。

       請所は、 室町時代後期(戦国時代)の

    大名領国制の成立と共に、消滅する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 請負人別の請所。

  ■ 地頭請。

  ■ 地頭請(じとううけ)とは、 中世日本で、

    頭が荘園や公領(国衙領)の年貢の納入を

    請け負う制度である。

 

  ● 地頭請(じとううけ)とは、 中世日本(鎌倉・

    建武・室町時代)で、 地頭が一定の年貢

    (ねんぐ)を納入するという条件で、 本所・

    領家の荘園領主や国司・知行国主が、地頭

    に荘園や公領(国衙領)の経営を委任する

    制度である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 地頭請。

  ■ 地頭請は、 中世日本で、荘園領主が荘園

    の収穫物、年貢(ねんぐ)の取立てを、地頭に

    請け負わせ、その収穫物、年貢(ねんぐ)の一

    部を、荘園領主が受け取る制度である。 

  ■ 地頭請とは、 一定額の年貢(ねんぐ)を納

    入することを条件に、荘園の管理を地頭に一

    任する制度 である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 地頭請。

  ● 地頭請(じとううけ)とは、 中世日本で、

    一定の年貢(ねんぐ)を納入する(請け負う)

    ことを条件に、代わりに、地頭に荘園や公領

    (国衙領)の管理、経営を一任する制度であ

    る。一定の年貢(ねんぐ)納入を条件に、

  ● 地頭請は、 中世日本(鎌倉・建武・室町時

    代)に、 本所・領家の荘園領主や国司・知

    行国主荘園や公領(国衙領)の 年貢(ねん

    ぐ)の取立てを、地頭に請け負わせ、その年

    貢の一部を、本所・領家の荘園領主や国司・

    知行国主受 け取り、代わりに、地頭にその

    荘園や公領(国衙領)の経営を委任する制度

    である。

       地頭は、中世日本で、土地管理・年貢

    徴収などの権限を利用し、荘園や公領(国

    衙領)の年貢の不法抑留、土地横領を企て

    ることが多く、本所・領家の荘園領主や国司・

    知行国主との紛争が絶えなかったので、こ

    れを避けるため、本所・領家の荘園領主や

    国司・知行国主は、地頭請や下地中分の方

    法をとる。

        荘園や公領(国衙領)が地頭の請所とな

    ると、 地頭が、その荘園や公領(国衙領)を

    事実上支配した。

   ● 地頭請により、荘園や公領(国衙領)は、

     本所・領家の荘園領主や国司・知行国主

     の支配力が衰え、地頭の支配力が強まる。

   ● 地頭請により、中世の鎌倉時代に、地頭は、

     荘園や公領(国衙領)の事実上の支配権を

     握り、荘園や公領(国衙領)の侵略を進め、

     在地領主化していく。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

  ■ 守護請。

  ■ 守護請(しゅごうけ)とは、 室町時代に守護

    が、荘園や公領(国衙領)の年貢の納入を請

    け負う制度である。

 

  ● 守護請(しゅごうけ)とは、 室町時代に、守

    護が一定の年貢(ねんぐ)を納入するという

    条件で、 本所・領家の荘園領主や国司・知

    行国主が、守護に、荘園や公領(国衙領)の

    経営を委任する制度である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 守護請。

  ● 守護請(しゅごうけ)とは、中世の室町時代

    に、守護領国制下、守護が、本所・領家の荘

    園領主や国司・知行国主に、一定の年貢を

    納め(請け負い)、代わりに、荘園や公領(国

    衙領)の経営を任される制度であり、 一定の

    年貢(ねんぐ)を納入する(請け負う)ことを条

    件に、代わりに、守護に荘園や公領(国衙領)

    の管理、経営を一任させる制度である。

  ● 守護請は、 中世日本の室町時代に、守護領

    国制下、本所・領家の荘園領主や国司・知行

    国主荘園や公領(国衙領)の 年貢(ねんぐ)

    の取立てを、守護に請け負わせ、 その年貢

    (ねんぐ)の一部を、本所・領家の荘園領主や

    国司・知行国主受 け取り、代わりに、守護に

    その荘園や公領(国衙領)の経営を委任する

    制度である。

        荘園や公領(国衙領)が守護の請所とな

    ると、 守護が、その荘園や公領(国衙領)を

    事実上支配した。

   ● 守護請により、荘園や公領(国衙領)は、

     本所・領家の荘園領主や国司・知行国主

     の支配力が衰え、守護の支配力が強まる。

        守護請は、 地頭等の年貢抑留に

     困った(に悩む)本所・領家の荘園領主や

     国司・知行国主が、 今までよりも低額の

     安定した収入を確保しようと、 実力のある

     守護(地頭等を被官化している守護)に年

     貢の請負を委任する制度である。

        室町時代前期・中期には、守護は、

     半済(はんぜい)や守護段銭(しゅごたん

     せん)などの守護領国制の経済的基礎

     とともに、守護大名の支配権拡大の一方

     法となる。 更に、守護大名は、守護請を

     利用し、年貢未進、強制請負などで所領

     を拡大する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

  ■ 百姓請。

  ■ 百姓請 (ひゃくしょううけ、= 地下請(じげ

    うけ))とは、 室町時代に、畿内付近で、

    村の自治組織が、荘園の年貢の納入を請

    け負う制度である。

 

  ● 百姓請 (ひゃくしょううけ、= 地下請(じげ

    うけ))とは、 室町時代に、畿内付近で、村

    の自治組織、一定の年貢(ねんぐ)を

    入するという条件で、本所・領家の荘園領

    主が、村の自治組織に、荘園の経営を委任

    する制度である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 百姓請。

  ● 百姓請 (ひゃくしょううけ、= 地下請(じげ

    うけ))とは、 中世の室町時代の荘園で、

    荘園の年貢徴収、管理などを、村落(郷村 )

    の名主・地侍を中心とする農民自治組織

    (= 惣)が請け負う制度であり、 本所・領

    家の荘 園領主から課せられた年貢、扶役

    を現地に住む名主・地侍を中心とする農

     民自治組織(= 惣)が請け負い、一定の年

    貢(ねんぐ)、扶役を 納める(請け負う)こ

    とを条件に、代わりに、名主・地侍を中心

    とする農民自治組織(= 惣)に、荘園の管

    理、経営を一任する制度である。 村単位

    の百姓請(地下請)を、村請(むらうけ)と

       いう。

       中世の室町時代に、戦乱、天災などで

    年貢、扶役を規定通り徴収できないことが

    多かったので、百姓請(地下請)が成立する。

       畿内やその周辺地域で、郷村制が発

    達し、守護勢力を排除しようとする本所・領

    家の荘園領主と守護に対立して村落を支配

    しよとする名主・地侍を中心とする農民自治

    組織(= 惣)が結びついて百姓請(地下請)

    を生んだ。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 下地中分。

  ■ 下地中分(したじちゅうぶん)とは、 中世

   日本(鎌倉・建武・室町時代)で、荘園を二分

   して、地頭と本所・領家の荘園領主で、荘園

   を分割支配する制度である。

 

  ■ 下地中分(したじちゅうぶん)とは、 中世

   日本で、荘園を地頭と荘園領主で分割支配

   する制度であり、 荘園を分割して、片方を

   地頭の支配に任せ、互いに干渉しない取り

   決めを結ぶ制度である。 

 

  ■ 地頭は、中世日本で、土地管理・年貢

    徴収などの権限を利用し、荘園や公領(国

    衙領)の年貢の不法抑留、土地横領を企て

    ることが多く、本所・領家の荘園領主や国司・

    知行国主との紛争が絶えなかったので、こ

    れを避けるため、本所・領家の荘園領主や

    国司・知行国主は、地頭請や下地中分の方

    法をとる。

  ■ 下地中分は、 中世日本の、地頭と

    所・領家の荘園領主との荘園の土地の領

    有権の取り決めである。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

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 『 あなたのハートには 

    何が残りましたか? 』。

 

 

 

以  上。