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  KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY HANDBOOK

 

 

 カナヤマ 日本歴史辞典 

 日本語版  

 見出し語 『 こ 』。

 

 

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メ ニュー (目次)。

 ■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

 □ 日本史 辞典 (総合)     

 

□      ● 五十音順 ( あいうえお順)。

 

 □ 見出し語 こうし

 □ 見出し語 こうす

 □ 見出し語 こか

 □ 見出し語 こさ

 □ 見出し語 こな

 □ 見出し語 こま

 □ 見出し語 こら

 

 

〇 ご    後。

             (ご)。 《西暦》。

          (= 紀元後)。 

          ○ (例) 後1世紀、後100年。

        (⇒ 西暦

 

 こい  小一郎。

             (こいちろう)。  《人名》。

          (= 豊臣秀長、羽柴長秀、木下小

          一郎)。  《人名》。

          ○ 豊臣秀吉の弟。

       (⇒ 豊臣秀長

 

 ごい  五位

             (ごい)。 《位階》。

          (⇒ 位階叙位)。

             ■ 近・現代日本の、職員令(20

          位階)、叙位条例(16位階)、位

          階令(16位階)の位階。

             <1869年頃〜現在、使用>。

             ● 正五位 (しょうごい)。

             ● 従五位 (じゅごい)。

           (⇒ 位階令の位階)。

           (⇒ 叙位条例の位階)。

          (⇒ 職員令の位階)。

          (⇒ 近・現代日本政府の位階)。

             (1) 五位 (ごい)は、 近・現代日本の、

                      職員令(20位階)、叙位条例(16位階)、

             位階令(16位階)で、 正五位 (しょうご

             い) と 従五位 (じゅごい)の2つの位階

             として、1869年頃から現在まで使用され

             ている。

          ■ 前近代日本の、朝廷の律令

          官制の位階(30位階)。

             <701年頃〜1869年頃、使用>

             ● 正五位上 (しょうごいのじょう)。

             ● 正五位下 (しょうごいのげ)。

             ● 従五位上 (じゅごいのじょう)。

             ● 従五位下 (じゅごいのげ)。 

          (⇒ 朝廷の律令官制の位階)。

          (⇒ 殿上人)。

             (2) 五位 (ごい)は、 前近代日本の、

             朝廷の律令官制の位階(30位階)で 、

             正五位上(しょうごいのじょう)、 正五位下

             (しょうごいのげ)、 従五位上 (じゅごい

             のじょう)、 従五位下 (じゅごいのげ)

             4つの位階として、  701年頃から1869年

             頃まで使用された。

 

〇 ごう  

            (ごう)。 《人名》。

         (別名:お 江(おごう)、小督(おごう)

          お江与(おえよ)、(落飾後)崇源院

                       (すうげんい ん))。

         (1573〜1626年)。

         ○ 浅井3姉妹 (あざいさんしまい、

          茶々、初、江(ちゃちゃ、はつ、ごう)

          の一人。

         ○ 江戸幕府・第2代将軍・徳川

          秀忠の正室夫人。

         ○ 江戸幕府・第3代将軍・徳川

          家光の生母。

             (⇒ お江(おごう)関連出来事

                        (年代順・詳細)) 。

           (⇒ お江簡略年表)。

          (⇒ お江詳細年表)。

             (⇒ 織田信長)。

             (⇒ 織田信長ガイドブック)。

                           (⇒ 淀殿お初)。

                           (⇒ 浅井長政お市)。

                           (⇒ 小谷城、北庄城、豊臣大阪城)。

 

 ごう  

            (ごう)。 《氏名》。

         (= 雅号)。

         ○ 人生の転機や隠居時などに

          称した前近代日本の個人名。

         ○ 前近代日本の個人名の1つ。

         (⇒ 前近代日本の人名) 。

 

○ こう  康安。 

            (こうあん)。  《和暦》。

            ○ 1361年 ー1362年。

         (⇒ 南北朝競合二重年号

         (⇒ 和暦の二重年号存立

         (⇒ 西暦和暦対照表 ・

            日本語版

         (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

         (⇒ 和暦ガイドブック 

         ■ 南北朝競合二重年号。

         ● 北朝 (持明院統)方の暦年号。

               1361年・康安元年・3月29日〜

               1362年・康安 2年・9月23日。

            ● 室町時代前期の和暦年号。

            ● (注意) 同時期に、南朝 (大覚寺統、

              後醍醐天皇系統)方の暦年号の、正平

              (しょうへい)元年〜25年(1346〜13

              70年) も存立する。 

 

○ こう  弘安。 

            (こうあん)。  《和暦》。

            ○ 1278年 ー1288年。

            ● 1278年・弘安 元年・2月29日〜

               1288年・弘安11年・4月28日。

            ● 鎌倉時代中期の和暦年号。

           (⇒ 西暦和暦対照表 ・

              日本語版

           (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

           (⇒ 和暦ガイドブック 

 

○ こう   弘安の役

               ( こうあんのえき)。 《外国の侵略》。

             (= 2回目の蒙古襲来(もうこしゅうら

             い(= 元寇(げんこう))) 。

           (13世紀後半の1281年)。

        (⇒ 蒙古襲来)。

                     ○ 鎌倉時代の、2回目のモン

          ゴル軍来襲。

              ■ 弘安の役 (こうあんのえき) とは、

             鎌倉時代の、2回目のモンゴル軍来襲

             (1281年) である。

              ■ 文永・弘安の役 (ぶんえい・こうあん

             のえき) とは、 蒙古襲来(もうこしゅうら

             い)であり、  元寇(げんこう) である。

              ● 文永・弘安の役(= 蒙古襲来、元寇)

              は、13世紀後半の1274年( 文永の役)、

             1281年(弘安の役)に起こった。

              ● 文永・弘安の役(= 蒙古襲来、元寇)

             は、 鎌倉時代の、2度にわたるモンゴル

             軍来襲 である。

 

○ こう  康永。 

            (こうえい)。 《和暦》。

            ○ 1342年ー1345年。

           (⇒ 南北朝競合二重年号

           (⇒ 和暦の二重年号存立

           (⇒ 西暦和暦対照表 ・

              日本語版

           (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

           (⇒ 和暦ガイドブック 

         ■ 南北朝競合二重年号。

         ● 北朝 (持明院統)方の暦年号。

              1342年・康永元年・ 4月27日〜

              1345年・康永 4年・10月21日。

            ● 室町時代前期の和暦年号。

            ● (注意) 同時期に、南朝 (大覚寺統、

             後醍醐天皇系統)方の暦年号の、興国

             (こうこく)元年〜7年(1340〜1346年)

             も存立する。 

 

○ こう  康応。 

            (こうおう)。 《和暦》。

            ○ 1389年 ー1390年。

           (⇒ 南北朝競合二重年号

           (⇒ 和暦の二重年号存立

           (⇒ 西暦和暦対照表 ・

              日本語版

           (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

           (⇒ 和暦ガイドブック 

         ■ 南北朝競合二重年号。

         ● 北朝 (持明院統)方の暦年号。

              1389年・康応元年・2月 9日〜

              1390年・康応 2年・3月26日。

            ● 室町時代前期の和暦年号。

            ● (注意) 同時期に、南朝 (大覚寺統、

             後醍醐天皇系統)方の暦年号の、元中

             (げんちゅう)元年〜9年(1384〜139

             2年) も存立する。 

 

○ こう  弘化。

            (こうか)。 《和暦》。

            ○ 1844 年ー1848年。

            ● 1844年・弘化元年・12月 2日〜

               1848年・弘化 5年・ 2月28日。

            ● 江戸時代後期の和暦年号。

           (⇒ 西暦和暦対照表 ・

              日本語版

           (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

           (⇒ 和暦ガイドブック 

 

○ こう  公儀。

            (こうぎ)。  《日本の政治》。

         (= 江戸幕府、幕府、政府、朝廷)。

        (⇒ 江戸幕府

 

○ こう  公議政体派

            (こうぎせいたいは)。 

         《幕末の政治派閥》。 

 

○ こう  公議政体派・佐幕派と尊

       皇(王)倒幕派との対立。

            (こうぎせいたいは・さばくは と そんの

            うとうばくは とのたいりつ)。

         《幕末の政治派閥》。

         <1866〜1867年頃>。

       (⇒ 幕末日本政治・政争

       変遷一覧表)。

 

○ こう  公議政体論

            (こうぎせいたいろん)。

         《幕末の政治思想》。

 

○ こう  皇極天皇。

            (こうぎょくてんのう)。 《女性天皇》。

             (= 後の斉明(さいめい)天皇)。 

                   THE EMPRESS KOGYOKU.

         ○ 2回、天皇に即位。

                   (1) 第1回天皇即位、初即位

           皇極天皇在位:

           642年ー645年。

         (2) 第2回天皇即位、再即位

           斉明天皇在位:

           655年ー666年。

          ○ 645年の乙巳の変(いっしの

           へん)の時の天皇。

          ○ 中大兄皇子(なかのおおえのお

             うじ、天智天皇) と 大海人皇子

             おおあまのみこ、天武天皇) の生

          母。

             ■ 皇極(こうぎょく)天皇 (在位:642年

                ー645年、英:THE EMPRESS KO-

             GYOKU)は、 飛鳥白鳳時代の女性天

             皇(= 女帝)で あり、 後に、斉明(さいめ

             い)天皇(天皇在位:655ー666年))と

             して再即位する。

             ■ 皇極(斉明)天皇は、 舒明(じょめ

             い)天皇の皇后であり、 天智(てんじ)

             天皇や天武(てんむ)天皇の生母である。 

             ■ 皇極(斉明)天皇は、 645年の乙巳

             の変(いっしのへん)の時の天皇であり、 

             子の中大兄皇子(なかのおおえのみこ

             (おうじ)、後の天智天皇)と協力して、 

             多くの政策を実施し、大化の改新を推進

             し、また、飛鳥(あすか)文化を発展させる。 

          (⇒ 女性天皇斉明天皇)。

          (⇒ 乙巳の変)。

              ◆ 女性天皇 (8人10代)

           (⇒ 女性天皇)。   

           (⇒ 推古(すいこ)天皇)。

           (⇒ 皇極斉明(こうぎょく

                (さいめい))天皇)。

           (⇒ 持統(じとう)天皇)。

           (⇒ 元明(げんめい)天皇)。

           (⇒ 元正(げんしょう)天皇)。

           (⇒ 孝謙称徳(こうけん

                (しょうとく))天皇)。

           (⇒ 明正(めいしょう)天皇)。

           (⇒ 後桜町(ごさくらまち)天皇)。

             ■ 日本の古代から現代までの間に、女性

             天皇は、 飛鳥白鳳(あすかはくほう)時代、

             奈良(なら)時代に天皇に即位(就 任)した、

             推古(すいこ)、皇極(斉明)(こうぎょく(さい

             めい))、持統(じとう)、元明(げんめい)、

             元正(げんしょう)、孝謙(称徳)(こうけん

             (しょうとく))の6人8代の天皇 や 江戸

             (えど)時代に天皇に即位(就 任)した、明

             正(めいしょう)、後桜町(ごさくらまち)の2

             人2代の天皇がいて、合計して8人10代の

             女性天皇(= 女帝がいる。

 

○ こう   皎月院。 

             (こうげついん)。 《人名》。

            (生年不詳ー1600年)。

          ○ 石田三成の正室夫人。

          (⇒ 石田 三成)。

                          ■ 皎月院 (こうげついん、生年不詳ー 

                        1600年)は、 石田三成(いしだみつなり)

             の正室夫人であり、 宇多 頼忠(うだ より

             ただ)の娘である。

             ● 皎月院は、 真田丸(2016年NHK大

             河ドラマ)では、「うた」という名(仮称)で登

             場する。

 

○ こう  康元。 

            (こうげん)。 《和暦》。

                         ○ 1256年ー1257年。

            ● 1256年・康元元年・10月 5日〜

               1257年・康元 2年・ 3月14日。

            ● 鎌倉時代中期の和暦年号。

           (⇒ 西暦和暦対照表 ・

              日本語版

           (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

           (⇒ 和暦ガイドブック  

 

○ こう  孝謙天皇

            (こうけんてんのう)。 《女性天皇》。

         (= 阿倍内親王、後の称徳(しょう

             とく)天皇)。

         (生没年:718年ー770年)。

                   THE EMPRESS KOKEN.

          (⇒ 女性天皇

        称徳(しょうとく)天皇)。

          (⇒ 東大寺大仏(奈良の大仏))。

         ○ 2回、天皇に即位。

                   (1) 第1回天皇即位、初即位

           孝謙天皇在位:

           749年ー758年

         (2) 第2回天皇即位、再即位

           称徳天皇在位:

           764年ー770年。

          ○ 大仏開眼時の天皇。

          ○ 聖武(しょうむ)天皇の皇女(娘) 。

             ■ 孝謙天皇 (こうけんてんのう、在位:

             749年ー758年、英:THE EMPRESS 

             KOKEN)は、 奈良時代の女性天皇(= 女

             帝) で あり、 後に、称徳天皇 (しょうとく

             てんのう、在位:764年ー770年)として再

             即位する。

             ■ 孝謙(称徳)天皇 (こうけん(しょうとく)

             てんのう、在位:749年ー758年、764年

             ー770年)は、 阿倍内親王(あべ(の)ない

             しんのう)であり、 聖武(しょうむ)天皇の

             皇女(娘)である。 

             ■ 孝謙(称徳)天皇は、 752年(天平勝宝

             4年)の大仏開眼時の天皇であり、 父の聖

             武天皇(聖武太上(だじょう)天皇)、 橘諸兄

             (たちばなのもろえ)、 吉備真備(きびのまき

             び)、 藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)、 

             道鏡(どうきょう) と協力して、 多くの政策

             を行い、 東大寺大仏造営を推進し完成させ、 

             仏教鎮護(ちんご)国家による国家の安定を

             はかり、 また、天平(てんぴょう)文化を現出

             させる。

              ◆ 女性天皇 (8人10代)

           (⇒ 女性天皇)。   

           (⇒ 推古(すいこ)天皇)。

           (⇒ 皇極斉明(こうぎょく

                (さいめい))天皇)。

           (⇒ 持統(じとう)天皇)。

           (⇒ 元明(げんめい)天皇)。

           (⇒ 元正(げんしょう)天皇)。

           (⇒ 孝謙称徳(こうけん

                (しょうとく))天皇)。

           (⇒ 明正(めいしょう)天皇)。

           (⇒ 後桜町(ごさくらまち)天皇)。

             ■ 日本の古代から現代までの間に、女性

             天皇は、 飛鳥白鳳(あすかはくほう)時代、

             奈良(なら)時代に天皇に即位(就 任)した、

             推古(すいこ)、皇極(斉明)(こうぎょく(さい

             めい))、持統(じとう)、元明(げんめい)、

             元正(げんしょう)、孝謙(称徳)(こうけん

             (しょうとく))の6人8代の天皇 や 江戸

             (えど)時代に天皇に即位(就 任)した、明

             正(めいしょう)、後桜町(ごさくらまち)の2

             人2代の天皇がいて、合計して8人10代の

             女性天皇(= 女帝がいる。

 

○ こう  皇后。

            (こうごう)。 《天皇家》。

         ○ 天皇の正室夫人。

         ○ 前近代では、天皇の正室

         夫人(複数)の上位から、 @ 皇

         后、A 中宮、B 女御の中で、

         第1番目の身分の正室夫人。

         (⇒ 皇族)。

         (⇒ 正室夫人中宮、

        女御)。

            ■ 皇后(こうごう)とは、 天皇の正室夫人

            (せいしつふじん)である。

            ■ 皇后(こうごう)は、 前近代日本では、

            天皇の正室夫人(複数)の上位から、

            @ 皇后(こうごう)、A 中宮(ちゅうぐう)、

            B 女御(にょうご)の中で、第1番目の身分

            の正室夫人である。

 

○ こう  興国。 

            (こうこく)。  《和暦》。

            ○ 1340年 ー 1346年。

          (⇒ 南北朝競合二重年号

          (⇒ 和暦の二重年号存立

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

         ■ 南北朝競合二重年号。

            ● 南朝 (大覚寺統)方の暦年号。

             1340年・興国元年・ 4月28日〜

             1346年・興国 7年・12月 8日。

            ● 室町時代前期の和暦年号。

            ● (注意) 同時期に、北朝 (持明院統、

                          光厳(こうごん)・光明(こうみょう)天皇系

             統) 方の暦年号の、 暦応(りゃくおう)

             元年〜5年(1338〜1342年)、 康永

             (こうえい)元年〜4年(1342〜1345 

             年)、 貞和(じょうわ)元年〜6年(1345

             〜1350年) も存立 する。

 

○ こう  光厳天皇。 

            (こうごんてんのう)。 《人名》。 

                   ○ 持明院統(じみょういんとう)

          天皇。 

            (⇒ 持明院統皇統の

         分立)。

 

#koushi

 

〇 こう   甲子。

             (こうし、かつし)。 《干支》。

              《干支年》。 《干支暦》。

          (⇒ 干支(かんし)

          (⇒ 甲子(こうし) 、癸亥(きがい))。

          (⇒ 干支表示年(= 干支年)

          (⇒ 干支年・西暦年変換法

          (⇒ 干支暦

             ■ 甲子(こうし、かつし)は、 

             干支(かんし)の1番目の文字である。

             ■ 干支年(かんしねん)は、 

             干支(かんし)を暦として用いた年で

             ある。

             ■ 干支暦(かんしれき)は、

             60年ごとに同じ年がめぐってくる暦

             である。

             ● 干支暦は、

             1番目の甲子(こうし)の年から60番

             目の癸亥(きがい)の年までである。

          ■ 甲子の干支年の表。

             ● 古墳時代(狭義)の甲子の干支年。  

               244年、 304年、  364年、

                424年、 484年、 544年。

             ● 飛鳥白鳳時代の甲子の干支年。  

               604年、 664年。

             ● 奈良時代の甲子の干支年。  

               724年、 784年。

             ● 平安時代の甲子の干支年

                844年、 904年、 964年、 

                1024年、 1084年、 1144年。

             ● 鎌倉時代の甲子の干支年 

               1204年、 1264年。

             ● 室町時代の甲子の干支年 

               1324年、 1384年、 1444年、

               1504年、 1564年。

             ● 江戸時代の甲子の干支年 

               1624年、 1684年、 1744年、

               1804年、 1864年。

             ● 大正時代の甲子の干支年 

               1924年。

             ● 昭和時代の甲子の干支年 

               1984年。

          ■ 干支年・西暦年速算法。

             ■ 干支年⇒西暦年。

             西暦年= 「過去近似の一番近い甲子・

             干支年の基準年」 + 「既知干支年

             の干支表番号」 −1年。

             ■ 西暦年⇒干支年。

             西暦年 − 「過去近似の一番近い甲

             子・干支年の基準年」 + 1年 =

             干支表の番号(番号から干支年を知る)。

             ● (例) その歴史上の出来事の年に対

             し、 過去近似の一番近いと推測される甲

             子の干支年を選び、 既知干支年に対し

             知りたい西暦年を得たり、 既知西暦年に

             対し知りたい干支年を得る。

             ○ 壬申の乱(じんしんのらん)の壬申の

             干支年は、西暦で何年か。

             「過去近似の一番近い甲子664年」 + 

             「(29)壬辰」ー1年 =692年。

             壬申の干支年は、西暦692年である。

             ○ 西暦692年の干支年を知りたい。

             西暦692年 − 「過去近似の一番近い、

             甲子664年」 +1年 =29 (干支表の

             29番、29番は、壬申)。

             西暦692年は、壬申の干支年である。

          ■ 干支表。

             (1) 甲子  (2) 乙丑   (3) 丙寅 

             (こうし、かっし)(いっちゅう) (へいいん)

             (4) 丁卯  (5) 戊辰   (6) 己巳 

             (ていぼう)  (ぼしん)     (きし)

             (7) 庚午  (8) 辛未   (9) 壬申 

             (こうご)   (しんび)     (じんしん)  

             (10)癸酉  (11)甲戌   (12)乙亥 

             (きゆう)   (こうじゅつ)  (いつがい)

             (13)丙子  (14)丁丑   (15)戊寅   

             (へいし)   (ていちゅう)  (ぼいん)

             (16)己卯  (17)庚辰   (18)辛巳 

              (きぼう)   (こうしん)   (しんし)   

             (19)壬午  (20)癸未   (21)甲申

             (じんご)   (きび)      (こうしん)

             (22)乙酉  (23)丙戌   (24)丁亥 

             (いつゆう)  (へいじゅつ) (ていがい)  

             (25)戊子  (26)己丑   (27)庚寅 

             (ぼし)     (きちゅう)   (こういん)

             (28)辛卯  (29)壬辰   (30)癸巳

             (しんぼう)  (じんしん)   (きし)

             (31)甲午  (32)乙未   (33)丙申 

             (こうご)    (いつび)   (へいしん) 

             (34)丁酉  (35)戊戌   (36)己亥

             (ていゆう)  (ぼじゅつ)   (きがい)

             (37)庚子  (38)辛丑   (39)壬寅 

             (こうし)    (しんちゅう)  (じんいん) 

             (40)癸卯  (41)甲辰   (42)乙巳 

             (きぼう)    (こうしん)   (いつし)

             (43)丙午  (44)丁未   (45)戊申

             (へいご)   (ていび)    (ぼしん)

             (46)己酉  (47)庚戌   (48)辛亥 

             (きゆう)   (こうじゅつ)  (しんがい) 

             (49)壬子  (50)癸丑   (51)甲寅 

             (じんし)    (きちゅう)   (こういん)

             (52)乙卯  (53)丙辰   (54)丁巳 

             (いつぼう)  (へいしん)  (ていし)  

             (55)戊午  (56)己未   (57)庚申

             (ぼご)     (きび)     (こうしん)

             (58)辛酉  (59)壬戌   (60)癸亥

             (しんゆう)  (じんじゅつ)  (きがい)。

 

〇 ごう  郷士

            (ごうし)。 《武士の身分》。

         (= 江戸時代の在郷下級武士)。

 

〇 こう  康治。

            (こうじ)。  《和暦》。

            THE KOJI ERA (1142−1144 AD).

            ○ 1142年 ー1144年。

            ● 1142年・康治元年・4月28日〜

               1144年・康治 3年・2月23日。

            ● 平安時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇 こう  弘治。

            (こうじ) 。  《和暦》。

            THE KOJI ERA (1555−1558 AD).

            ○ 1555年 ー1558年。

            ● 1555年・弘治元年・10月23日〜

               1558年・弘治 4年・ 2月28日。

            ● 室町時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

            ○ 弘治 A年=弘治 A年+1554年=西暦 B年。

            ○ 西暦 B年西暦 B年1554年=弘治 A年

            ● 享禄(きょうろく)⇒天文(てんぶん)⇒弘治

              (こうじ)⇒永禄(えいろく)⇒(元 亀(げんき)⇒

              天正(てんしょう)。

            ● 享禄元年〜 5年(1528年〜1532年)⇒

               天文元年〜24年(1532年〜1555年)⇒

               弘治元年〜 4年(1555年〜1558年)⇒

                永禄元年〜13年(1558年〜1570年)⇒

               元亀元年〜 4年(1570年〜1573年)⇒

               天正元年〜20年(1573年〜1592年)。

 

〇 こう  皇室。

         (こうしつ)。 《天皇家》。

            (= 天皇家)。

       (⇒ 天皇家)。 

 

〇 こう  公爵。

         (こうしゃく)。 《旧社会身分》。

       (⇒ 華族)。 

            ■ 公爵は、 近代日本(明治、大正、昭

            和戦前時代)の社会的身分の貴族である

            華族(かぞく)であり、 華族の公・侯・伯・

            子・男爵(こう・こう・はく・し・だん・しゃく)

            の1番目の地位・身分である。

 

〇 こう  侯爵。

         (こうしゃく)。 《旧社会身分》。

       (⇒ 華族)。 

            ■ 侯爵は、 近代日本(明治、大正、昭

            和戦前時代)の社会的身分の貴族である

            華族(かぞく)であり、 華族の公・侯・伯・

            子・男爵(こう・こう・はく・し・だん・しゃく)

            の2番目の地位・身分である。

 

〇 ごう  郷士。

            (ごうし)。

            《江戸時代の武士身分》。

            ■ 江戸時代に、 武士身分には、農村居 

            住武士の郷士(ごうし) と、 城下町に住

            む家中武士(かちゅうぶし) がいた。

 

〇 ごう  郷士坂本家。

            (ごうしさかもとけ)。 《坂本龍馬》。

         (= 土佐藩郷士の坂本家)。

           (⇒ 坂本家)。   

 

〇 こう   甲州

             (こうしゅう)。 《旧地域名》。

          (= 甲斐 ( かい のくに)の別称)。

          (≒ 概ね、現・山梨県の相当地域)。

          KOSHU AREA.

          (律令制定後・古代・中世・近世

          日本・旧地域名の、

          旧国(令制 国)の別称)。

                    (⇒ 甲斐 )。    

                    (⇒ 山梨県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

                           甲州 (こうしゅう、= 甲斐 国( かい

             のくに)の別称)は、 東海道(とうかいど

             う)・旧広域地方に属し、 概ね、現・中

             部地方の、現在の山梨県に相当する地

            域である。

             ■ 甲州 (こうしゅう)は、  律令制定

             後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             旧国(令制国)正式名の、甲斐 国 (か 

             い のくに) の別称である。

 

〇 こう   向州

             (こうしゅう)。 《旧地域名》。

          (= 日向 (ひゅうが のくに)の別称

          日州(にっしゅう))。

          (≒ 概ね、現・宮崎県の相当地

                  )。

           KOSHU AREA.

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国(令制

           国)の別称)。

                    (⇒ 日向 )。    

                    (⇒ 宮崎県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

                           向州  にっしゅう、= 日向 国(ひゅうが

             のくに)の別称日州)  は、 西海道(さい

             かいどう)・旧広域地方に属し、概ね、現・九

             州地方の、現在の宮崎県に相当する地域

             である。

             ■ 日州( にっしゅう)や向州(こうしゅう)

             は、 律令制定後・古代・中世・近世日本・

             旧地域名の、旧国(令制国)正式名の、

             日向 国 (ひゅうが のくに)の別称であ

             る。

 

〇 ごう   江

             (ごうしゅう)。 《旧地域名》。

          (= 近江 (おうみ のくに)の別称)。

          (≒ 概ね、現・滋賀県の相当 地

          域)。

          GOSHU AREA.

          (律令制定後・古代・中世・近世

          日本・旧地域名の、

          旧国(令制国)の別称)。

                   (⇒ 近江 )。    

                    (⇒ 滋賀県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

                           州 (ごうしゅう、= 近江 国(おうみの

             くに)の別称)は、 東山道(とうさ んどう)・

             旧広域地方に属し、 概ね、現・近畿地方

              の、現在の滋賀県に相当する 地域である。

             ■ 江州 (ごうしゅう)は、  律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、旧 国

             (令制国)正式名の、近江 国 (おうみ のく

             に) の別称である。

 

〇 こう  甲州勝沼の戦い。

                         (こうしゅうかつぬまのたたかい) 。 

            《戊辰戦争》。

            THE KOSHUKATSUNUMA BATTLE.

         (⇒ 戊辰(ぼしん)戦争)。

            ○ 戊辰(ぼしん)戦争 (1868〜

          1869年)の戦いの一つ。

            ○ 新選組と新政府軍との戦い。

 

〇 こう  皇女。

            (こうじょ)。 《天皇家》。

         (= 天皇の女子、娘)。

         ○ (例) 皇女和宮。 

       (⇒ 天皇家

 

〇 こう  康正。 

            (こうしょう) 。 《和暦》。

            THE KOSHO ERA.

            ○ 1455年 ー1457年。

         ● 1455年・康正元年・7月25日〜

            1457年・康正 3年・9月28日。

            ● 室町時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック  

 

〇 こう   皇女。

             (こうじょ)。 《天皇家》。

          (= 天皇の女性皇子) 。 

          (⇒ 皇子(みこ)

 

〇 こう   皇城

              (こうじょう) 《都城・京》。  

           《朝廷》。

          (= 宮城(きゅうじょう)

          皇居)。

          (⇒ 宮城(きゅうじょう))。

           □ 日本古都ガイドブック

           □ 日本古都 関連年代順

                        出来事ブック。  

            (⇒ 天皇天皇家朝廷 

              (⇒ 古都(こと)首都

                           (みやこ))。

              (⇒ 都城(とじょう)(きょう))。

              (⇒ 都城宮城(きゅう

             じょう)内裏(だいり))。

              (⇒ 都城飛鳥京

             藤原京平城京

                  長岡京平安京)。

              (⇒ 都城内の

                      宮城(= 皇城、皇居)

             飛鳥京と 飛鳥諸宮

           藤原京と藤原宮

                平城京平城宮

           長岡京長岡宮

            平安京平安宮大内裏

           (だいだいり))。

            (⇒ 都城内の、

                       宮城(= 皇城、皇居)内の、

            内裏(だいり)

               大極殿(だいごくでん)

            朝堂院(ちょうどういん)、

            曹司(ぞうし))。

 

          ■ 宮城(= 皇城、皇居)。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

              ■ 日本では、宮城(きゅうじょう) 

              とは、 天皇の住居(御殿)の内

             廷 と その周囲の朝廷(官庁)

             施設の外朝を合わせた皇城(皇

             居)である。

             ● 日本では、 宮城(きゅうじ

             ょう)は、 天皇の住居(御殿

             (ごてん))である内廷(ないてい) 

             と その周囲の朝廷(官庁)施設

             である外朝(がいちょう)を合わせ

             た皇城(こうじょう、おうじょう)、

             皇居)である。

              ■ 日本の宮城(= 皇城、皇居)

             には、 

             飛鳥京内の飛鳥諸宮、

             藤原京内の藤原宮、

             平城京内の平城宮、

             長岡京内の長岡宮、

             平安京内の平安宮(大内裏)、

             などがある。

 

             ■ 大内裏。

             (= 平安京の後期平安宮)。

             ● 大内裏 (だいだいり)とは、

             平安宮別名であり、 平安京

             の宮城の平安宮であり、 平安

             時代後期からの平安宮の別称

             である。

             ● 大内裏 (だいだいり)とは、

             平安宮(へいあんきゅう)の別名

             であり、 平安京(へいあんきょ

             う)の宮城(きゅうじょう)の平安

             宮であり、 平安時代後期から

             の平安宮の別称である。

             ● 平安京(へいあんきょう)の

             宮城(きゅうじょう)平安宮 (へ

             いあんきゅう)は、 平安時代後

             期より大内裏(だいだいり)とも

             呼ばれる。

 

          ■ 宮城(= 皇城、皇居)。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

             ■ 宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居)は、  古代日本の時代に、

             藤原宮、平城宮、長岡宮、平安宮

             では、 

             天皇の住居(御殿)である

             内裏の内廷 

             と、 

             その周囲の朝廷(官庁)施設である

             大極殿、朝堂院、曹司等の外朝

             を合わせた皇城(皇居)である。

             ■ 宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居)は、  古代日本の時代に、

             藤原宮、平城宮、長岡宮、平安宮

             では、 

             天皇の住居(御殿(ごてん))であ

             る内裏(だいり)の内廷(ないてい) 

             と、 

             その周囲の朝廷(官庁)施設であ

             る大極殿(だいごくでん)、朝堂院

             (ちょうどういん)、曹司(ぞうし)等

             の、外朝(がいちょう)

             を合わせた皇城 (こうじょう・おう

             じょう、皇居)である。

             ■ 宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居)は、古代日本の時代に、

             藤原宮、平城宮、長岡宮、平安宮

             では、 

             内裏(だいり)、

             大極殿(だいごくでん)、

             朝堂院(ちょうどういん)、

             曹司(ぞうし)、

             などで占められていた。

             ● 宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居)は、古代日本の時代では、

             藤原宮、平城宮、長岡宮、平安宮

             では、 

             内裏(だいり、=天皇の住居、天

             皇の御殿)、 

             大極殿 (だいごくでん、国家儀式

             等を行う建物)、 

             朝堂院 (ちょうどういん、国家政 

             務等を行う建物)、 

             曹司(ぞうし、官人が実務をとる

             中央官庁、官衛(かんが、諸官庁)) 

             などから構成されていた。

             ■ 内裏。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

             ■ 内裏 (だいり)とは、 

             前近代日本の、天皇の住居、居所、

             御殿(ごてん)をいう。

 

             ■ 日本の主要な宮城

             (= 皇城、皇居)。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

             ■ 日本の主要宮城の変遷。

             ● 日本の主要な宮城 (きゅうじ

              ょう、= 皇城、皇居)とその変遷は、

             (1) 飛鳥諸宮 (あすかしょきゅ

              う、飛鳥京の諸宮、飛鳥地域の

              諸宮城、

              奈良県明日香(あすか)村付近)、

             (2) 藤原宮 (ふじわらきゅう、

              奈良県橿原(かしはら)市付近)、

             (3) 平城宮 (へいじょうきゅう、

              奈良県奈良市付近)、 

             (4) 長岡宮 (ながおかきゅう、

              京都府向日(むこう)市付近)、 

             (5) 平安宮 (へいあんきゅう、

              京都府京都市付近) 

             の順序で、概(おおむ)ね、移動

             する。

 

〇 こう  皇女和宮

            (こうじょかずのみや)。 《人名》。

         (= 和宮 かずのみや) 。 

         (天皇家)。

         (1846〜1877年)。

            PRINCESS KAZUNOMIYA.

         (⇒ 和宮

 

 こう  甲信越地方。

            (こうしんえつちほう)。 《現地域名》。

         (= 山梨県と長野県と新潟県)。

            (= 山梨県(斐国) 、長野県(

          濃国)、新潟県(後国、佐渡国

          の地域)。

             ■ 甲信越地方 (こうしんえつちほう )とは、

             山梨県(斐国) 、長野県(濃国)、新潟

              県(後国、佐渡国)の地域 である。

             ■ 信越地方 (しんえつちほう )とは、 長野

             県(濃国) 、新潟県(後国、佐渡国)の地

             域である。

             ● 上信越地方 ( じょうしんえつちほう)と

              は、 群馬県野国) 、長野県(濃国)、

             新潟県(後国、佐渡国)の地域 である。

             ● 甲信越地方 (こうしんえつちほう )とは、

             山梨県(斐国) 、長野県(濃国)、新潟

              県(後国、佐渡国)の地域 である。

             ● 北陸地方 (ほくりくちほう )とは、 新潟

             県・富山県・石川県・福井県の北陸4県、ま

             たは、富山県・石川県・福井県の北陸3県 

             (北陸道・ 旧広域地方) である。

              北信越地方(ほくしんえつちほ う)とは、

             北陸信越地方 (ほくりくしんえつちほう)

                あり、 富山県・石川県・福井県の北陸3県

                (北陸道・ 旧広域地方の一部)、長野県(

                          濃国)、新潟県(後国 、佐渡国)を合わせた

             地域である。

 

#kousu

 

 こう   上野 国。 

             (こうずけのくに)。 

          (旧国(令制国))。 《旧地域名》。

             = 上州(じょうしゅう))。 

          (≒ 概ね、現・群馬県の相当地

          域)。

              KOZUKE PROVINCE.

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の、

           旧国(令制国)の正式名)。

                    (⇒ 上州(じょうしゅう))。

                    (⇒ 群馬県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

          ■ 上野 国。

             <東山道 (旧広域地方)。

             <五畿七道 (ごきしちどう、日本本土)。

          (⇒ 東山道・旧広域地方)。

                   (⇒ 五畿七道)。

                          ■ (RWM) 日本の、中地域名の変遷。

             ● 国造・県主分国⇒ 旧国(令制国)

              ⇒ 旧都道府県⇒ 現47都道府県。

             ■ 上野 国 (こうずけのくに、= 上州(じ

             ょうしゅう))は、  概(おおむ)ね、現・関東

             地方の、現在の群馬県 に相当する 地域

             であり、前近代日本の、旧国(令制国)で

             ある。

           (⇒ 関東地方)。

                   (⇒ 都道府県)。

             ■ 上野 国(= 上州)は、 五畿七道(ご

             きしちどう)の東山道(とうさんどう)の旧

             広域地方に属する。

             ■ 上野 国(= 上州)は、 約68旧国(令

             制国)の1つであり、 東山道(とうさんど

             う)・旧広域地方の1国である。

             ■ 上州 (じょうしゅう)は、 旧国(令 制

             国)正式名の、上野 国 ( こうずけのく

             に) の別称である。

             ■ 上野 国 ( こうずけのくに)は、律令

             制定後・古代・中世・近世日本・旧地域名

             の、旧国(令制国)の正式名である

             ■ 旧国(令制国)(きゅうこく(りょうせい

             こく))は、 前近代日本の、飛鳥白鳳時

             代末期から江戸時代まで、 紀元(後)

             701年頃から1868年頃まで、 日本で

             使用された地方行政区分の地域名であ

             る。

 

〇 こう  孝蔵主

            (こうぞうす)。 《人名》。

           (生年不詳 ー1626年)。

          ○ 豊臣秀吉・正室夫人の

                   おね( ねね)の側近。

 

〇 こう   皇族

             (こうぞく)。 《天皇家》。

          (= 天皇の親族)。

          (⇒ 天皇家)。

          (⇒ 皇族、王、女王、皇子、

           親王、内親王、女院

          (⇒ 正室夫人、皇后、中宮、

          女御)。

             ■ 皇族 (こうぞく)とは、 天皇の親族で

             ある。

             ■ 王(おう)とは、皇族の男子であり、

             女王(じょおう)とは、皇族の女子である。 

             ■ 皇子(みこ)とは、 天皇の子であり、

             天皇の男性皇子や女性皇子(= 皇女)で

             ある。 

             ■ 前近代日本(奈良〜江戸時代)の、

             親王と内親王。 

                前近代日本 (奈良〜江戸時代)では、

             親王、内親王になるには、親王宣下、内親

             王宣下が必要であった。

             ■ 前近代日本の、親王と王。

               前近代日本(奈良〜江戸時代)の、親王

             (しんのう)とは、親王宣下を受けた男性皇

             族であり、主に天皇の男性皇子や兄弟であ

             る。 

                一方、前近代日本 (飛鳥〜江戸時代)

             の、王(おう)とは、男性皇族である。 

             ● 前近代日本(奈良〜江戸時代)の、

              親王と王。

                前近代日本の奈良時代から江戸時代

             までは、大宝令の律令制以後は、親王宣

             下(しんのうせんげ)を受けた男性皇族 

             (主に天皇の男性皇子(みこ)や兄弟)を、

             親王( しんのう)と呼び、 それ以外の男性

             皇族(親王宣下がない男性皇族)で、天皇

             より5世以下の皇族男子を王(おう)と呼ぶ

             場合がある。

                〈王(おう)の例〉 天皇の孫(まご)、

             曾孫(ひまご)の男子。

               ■ 近現代日本(明治時代〜現在)の 、親王。

               近現代日本では、前近代の親王宣下の

             制を廃止し、皇室典範により、近代日本(明

             治・大正・昭和戦前時代)では、天皇の子よ

             り皇玄孫に至る4世までの男性が親王(しん

             のう)であり、 現代日本(昭和戦後・平成時

             代)では、天皇の子・孫までの男性が親王で

             ある。

             ■ 前近代日本の、内親王と女王。

                前近代日本(奈良〜江戸時代)の、

             親王(ないしんのう)は、内親王宣下を受け

             た皇族であり、主に、天皇の女性皇子や姉

             妹である。 

               一方、前近代日本 (飛鳥〜江戸時代)の、

              女王(じょおう)とは、 女性皇族である。 

             ● 前近代日本の(奈良〜江戸時代)の、

             親王と女王。

                前近代日本の奈良時代から江戸時代

             までは、大宝令の律令制以後は、内親王

             宣下(ないしんのうせんげ)を受けた皇族

             女子 (主に天皇の女性皇子(みこ、皇女)

             や姉妹)を、内親王(ない しんのう)と呼び、 

             それ以外の皇族の女子(内親王宣下がな

             い皇族女子)を女王 (じょおう)と呼ぶ場合

             がある。 

                 〈女王(じょおう)の例〉 天皇の孫

             (まご)、曾孫(ひまご)の女子。

               ■ 近現代日本(明治時代〜現在)の内親王。

                 近現代日本では、前近代の内親王宣下

             の制を廃止し、皇室典範により、近代日本

             (明治・大正・昭和戦前時代)では、天皇の

             子より皇玄孫に至る4世までの女性皇族が

             内親王(ないしんのう)であり、 現代日本

             (昭和戦後・平成時代)では、天皇の子・孫

             までの女性皇族が内親王である。

 

 ごう  豪族。

            (ごうぞく)。《前近代日本の勢力》。

         (= 地方の有力者、地方豪族)。 

            (⇒ 前近代日本社会)。

            ■ 豪族 (ごうぞく)とは、 ある地方に

            土着し、大きな富や勢力を持つ一族 で

            ある。

 

〇 ごう  豪族土地人民支配制。 

            (ごうぞくとちじんみんしはいせい)。

         《古代日本》。

            (4〜7世紀)。  

         (⇒ 日本の土地人民統治制度)。

 

〇 ごう  豪族連合政権

             (ごうぞくれんごうせいけん)。

         (= ヤマト政権)。 

         《古代日本》。

         (5世紀〜701年頃)。

         (⇒ 日本の政権・政府)。

 

〇 ごう  豪族連合政治

            (ごうぞくれんごうせいじ)。

         《古代日本》。

         (4〜7世紀)。

         (⇒ 日本の政治形態)。

 

〇 こう  高台院

            (こうだいいん)。 《人名》。

         (= 高台院湖月尼)。

         (= おね(ねね))。

         (生没年:1549年ー1624年)。

         ○ 豊臣秀吉の正室夫人。

         (⇒ ねね(おね))。 

         (⇒ 高台寺)。 

            ■ 高台院 (こうだいいん)とは、 高台院

            湖月尼であり、 豊臣秀吉の正室夫人であり、 

            おね(ねね)である。

            ■ 高台院 (こうだいいん、生没年:1549年

            ー1624年)は、 1598年(慶長3年)の豊臣

            秀吉の死後、高台院の号を勅許され、京(都)・

            高台寺に隠棲(いんせい)した。

            ■ 高台院 (こうだいいん、生没年:1549年

            ー1624年)は、  豊臣秀吉の正室夫人であ

            り、 、ねね、おね、北政所(きたのまんどこ

            ろ)、ねい、吉子 等とも称する。

 

〇 こう  皇太后。

            (こうたいごう)。 《天皇家》。

         (= 天皇の母)。

       (⇒ 天皇家)。

 

〇 こう   高台寺

            (こうだいじ)。 《寺》。

                          KODAI-JI TEMPLE. 

            (1605年ー現在)。

         ○ おね(ねね)が隠棲した寺。

         ○ おね(ねね)が豊臣秀吉の冥

         福を祈るため創建した寺院。

             ■ 京(都)にある、高台寺 (こうだいじ、

            1605年ー現在は、 おね(ねね)が隠棲

            (いんせい)した寺であり、豊臣秀吉・正室

            夫人の、おね(ねね)が豊臣 秀吉の冥福を

            祈るため創建した寺院である。

         (⇒ 方広寺(ほうこうじ)豊国神社

          (とよくにじんじゃ)豊国廟(ほ うこくび

         ょう)豊国社( とよくにしゃ)豊国祭

       (ほうこくさい))。

         (⇒ 豊臣氏 画像アルバム No.1)。

         (⇒ 豊臣 秀吉)。

         (⇒ 豊臣 秀吉 ガイドブック)。

            (⇒ 徳川 家康)。

          (⇒ 徳川家康ガイドブック)。 

            ◆ 豊臣氏関係寺社・墓。 

            ● 京(都)東部の、方広寺、豊国神社、豊

                   臣秀吉の墓、豊国社、豊国廟、高台寺。

            ■ 京(都)東部(京都市東山区)の茶屋町

            には、安土桃山時代の1586年(天正14

            年)より現在まで方広寺(ほうこうじ)があり、 

            方広寺大仏殿跡地に1880年(明治13年)

            から現在まで豊国神社(とよくにじんじゃ)

            がある。

               京(都)東部(京都市東山区)の阿弥陀

            ヶ峰(あみだがみね)には、1598年(慶長

            3年)より現在まで豊臣秀吉の墓があり、 

            1599年(慶長4年)より1615年(慶長20

            年)まで豊国社( とよくにしゃ)があり、 18

            98年(明治31年)から現在まで豊国廟(ほ

            うこくびょう)がある。

               京(都)東部(京都市東山区)の下河

            原町には、 1605年(慶長10年)より現在

            まで高台寺(こうだいじ)がある。

             ■ 京(都)東部にある、方広寺 (ほうこう

            じ)は、豊臣氏の菩提寺(ぼだいじ)である。 

               方広寺には、 江戸時代に、大仏殿

            (だいぶつでん)と梵鐘(ぼんしょう)などが

            あり、1612年(慶長17年)に豊臣秀頼が

            方広寺の大仏殿と梵鐘を完成した。 

               1614年(慶長19年)の「方広寺鐘銘

            事件」(ほうこうじしょうめいじけん)は、大

            坂の陣の戦いの口実となった。

                方広寺の、大仏殿は、江戸時代後

            期の、1798年(寛政10年)に雷火で焼失

            し、梵鐘のみが現存する。

                1605年(慶長10年)に、京(都)東

            部の下河原町に、豊臣 秀吉・正室夫人の、

            おね(ねね)が豊臣 秀吉の冥福を祈るため、

            高台寺(こうだいじ)を創建する。

                1598年(慶長3年)の豊臣秀吉の

            死後、京(都)東部の阿弥陀ヶ峰(あみだ

            がみね)の山腹に、壮大な 豊国社(とよ

            くにしゃ、30万坪、社領1万石) が、方広

            寺の鎮守として着工され、1599年(慶長

            4年)に完成した。 1615年(慶長20年)

            の豊臣氏滅亡前まで、 豊国社の祭礼で

            ある、秀吉の忌日(きじつ)の8月18日の

            豊国祭(ほうこくさい)は、大いに賑(にぎ)

            わった。 

               しかし、1615年(慶長20年)の豊臣

            氏滅亡後、江戸幕府の幕命により、豊国

            社(とよくにしゃ)の、社殿は破壊され、豊

            国祭(ほうこくさい)等の祭礼も停止とな

            った。 

                その後、1880年(明治13年)に、

            豊国神社(とよくにじんじゃ)が、 京(都)

            東部の茶屋町に、方広寺大仏殿跡地に、

            方広寺(ほうこうじ)に隣接して、豊国社

            ( とよくにしゃ)の後身として再興され 、 

            1898年(明治31年)に、京(都)の阿弥

            陀ヶ峰の、豊国社跡地に、豊国廟(ほうこ

            くびょう)が建てられる。

               現在、京(都) 東部(京都市東山区)

            の茶屋町の、方広寺(ほうこうじ)や豊国

            神社(とよくにじんじゃ)があり、 そこから

            少し離れた別の場所の、京(都)東部(京

            都市東山区)の阿弥陀ヶ峰(あみだがみ

            ね)の山腹に、豊臣秀吉を葬った墓 と、 

            豊国社(とよくにしゃ)跡地に建つ豊国廟

            (ほうこくびょう)があり、 京(都)東部(京

            都市東山区)の下河原町に、高台寺(こう

            だいじ)がある。

 

〇 こう   高知県。

             (こうちけん)。

           (現・都道府県)。 《現地域名》。 

           (現・47都道府県の1つ)。

             ○ 高知県の地域は、 概ね

             前 近代日本の、土佐 国 (とさ

           のくに、土州(どしゅう)、 現・高知 

          県)の相当地域である。

                         KOCHI PREFECTURE.

                     (⇒ 土佐 国)。

                      (⇒ 都道府県)。

                      (⇒ 前近代日本の地域名)。

                      (⇒ 旧国(= 令制国))。

                      (⇒ 旧地域名地域名)。

                      (⇒ 日本の地名)。

          ■ 高知県の地域。

             <四国地方。

             <日本本土 (本州、四国、九州)

             <日本国

             ● 高知県 (こうちけん、英:KOCHI

             PREFECTURE)は、  四国地方に属

             する。

                      (⇒ 四国地方)。

          ■ 高知県の地域

           (土佐 国)。

             <南海道 (なんかいどう )・旧広域地方

             <五畿七道 (ごきしちどう、日本本土)。

          (⇒ 南海道・旧広域地方)。

                   (⇒ 五畿七道)。

             ■ 高知県 (こうちけん)の地域は、概

             (おおむ)ね、前近代日本の、土佐 国 

             (とさのくに、土州(どしゅう))に相当す

             る地域である。

             ■ 高知県の地域は、 概ね、前近代日

             本(古代〜江戸時代)の、旧国 (令制国)

             の、 土佐 国(とさのくに)のに相当する地

             域である。

 

〇 こう  公地公民制 

            (こうちこうみんせい)。

            《土地人民統治制度》。

                   (7〜10世紀)。

         ○ 古代日本の土地人民統治

          制度。

         (⇒ 日本の土地人民統治制度)。

 

〇 こう  弘長。 

            (こうちょう)。 《和暦》。

            THE KOCHO ERA.

            ○ 1261年 −1264年。

            ● 1261年・弘長元年・2月20日〜

               1264年・弘長 4年・2月28日。

            ● 鎌倉時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

 こう  上月 景貞。 

            (こうづき かげさだ)。 《人名》。

            ○ 播磨・上月城主。

            ○ 櫛橋光(くしはしてる、黒田官兵衛・

             正室夫人)の姉・妙寿尼(遍照院)の夫。

       (⇒ 櫛橋伊定(左京亮)

           櫛橋光)。

 

〇 こう  勾当内侍。

            (こうとうのないし)。 《役職名》。

             (= 長橋局 ながはしのつぼね)。 

          (内裏(だいり)の役職名)。

         ○ 天皇の後宮事務局(= 内侍

         司 ないしのつかさ)の上級女官。

       (⇒ 内侍司)。

 

 こう  皇統の分立

            (こうとうのぶんりつ)。 《皇統》。

             ■ 鎌倉時代中期から室町時代前

          期まで、  1259年から1392年ま

          で、 天皇家が、 後深草天皇 の

          皇統持明院統 」 と 「亀山天皇

          の皇統の大覚寺統 の2つの皇

          統に分立したこと。

             ● 1259年ー1392年。

                    「持明院統」 と、 「大覚寺統」の

          皇統の分立。

          ● 1336年ー1392年。

          朝廷は、「持明院統の北朝」 と、

          「大覚寺統の南朝」 に分裂し、対

          立した。

          (⇒ 両統迭立持明院統

          大覚寺統天皇家)。

              ■ 皇統の分立とは、 鎌倉時代中期から

             室町時代前期まで、  1259年から1392

             年まで、 天皇家が、 後深草(ごふかくさ)

             天皇の皇統持明院統」 と 「亀山 (かめ

             やま)天皇の皇統の大覚寺統 の2つの皇

             統に分立したことである。

              ■ 朝廷では、 1259年( 強引天皇譲位)

               から1392年(南北朝の合体)まで、持明

                        院統 (じみょういんとう) と、 大覚寺統

             (だいかくじとう) の皇統の分立が続いた。

              ■ 朝廷は、 1336年(足利尊氏の光明

               (こうみょう)天皇擁立)から1392年(南北

              朝の合体)まで、 持明院統(じ みょういん

             とう)の北朝 と、 大覚寺統(だいかくじと

             う)の南朝 に分裂し、対立した。

              両統迭立 (りょうとうてつりつ) とは、

             鎌倉時代中期・後期の皇位継承方式であ

             り、 鎌倉幕府の主導で、持明院統(じみょ

             ういんとう)と大覚寺統(だいかくじとう)の

             両統の皇族が交替(こうたい)で 、天皇の

             皇位継承を行うことである。

             ■ 皇統分立の起こり。

                1246年に、 後嵯峨天皇 (天皇在

                            位:1242−46年、生没年:1220−72

             年)が、 皇子(次男)の久仁(ひさひと)親

             王に天皇の位を譲り、 久仁(ひさひと)親

             王は、後深草(ごふかくさ)天皇)  (天皇

             在位:1246−59年) となり、 後嵯峨天

             皇は、後嵯峨上皇となった。

                しかし、1259年に、 後嵯峨上皇は、

             皇子(次男)の、後深草天皇を強引に退位

             させ、 他の皇子(三男)の恒仁(つねひと)

             親王を天皇にし、亀山(かめやま) 天皇(天

             皇在位:1259−74年) が誕生した。 

             その後、亀山(かめやま) 天皇は、次の天

             皇を自分の子 (後宇多(ごうだ)天皇(天

             皇在位:1274−88年) としたため (立

             太子としたため)、 退位した後深草天皇

             は、自分の子の皇位継承ができず、非常

             に不満をもち、鎌倉幕府に仲裁を依頼し、

             1288年に、後深草天皇の子(伏見 (ふし

             み)天皇)天皇に即位することが実現し

             た。 こうして、その後は、鎌倉時代の間、

             鎌倉幕府の介入・仲裁による、両統迭立 

             (りょうとうてつりつ、両統の皇子が交互に

             天皇になる方式) となった。

 

 こう  高徳院大仏。

            (こうとくいん)。 《仏像》。

            (= 鎌倉大仏)。

                    (⇒ 鎌倉大仏)。

 

 こう  高度経済成長。

             (こうどけいざいせいちょう)。

         《日本の経済》。

                         (1955年ー1973年)。

            ■ 高度経済成長とは、 日本の経済で、

            経済成長率が非常に高かった時期(19

            55年−1973年)である。

            ■ 日本の高度経済成長は、 下村(しも

            むら)経済評論家の経済理論(ケアンズ経

            済理論)を、所得倍増計画をかかげる池田

            首相が採用し、日本政府の通産省(経産

            省)が主導して実施し、達成された。

               「技術力の積み重ね」と「若年人口」

            いう日本の「実力」と「幸運」により、日本の

            高度経済成長は、達成された。

               日本は、戦前・戦中に、兵器をつくるた

            めに大量の工業技術者を養成した。 

               また、日本は、戦前・戦中に、兵士を増

            やすために、「生めよ増やせよ」の政策を行

            い、爆発的に若年人口が増えた。 1950年

            代〜1970年代には、老人・子供が少なく、

            10代〜50代の労働者が中心となる人口構

            成となった。 これを人口ボーナスという。            

               下村氏は、終戦後にあふれる、大量の

            工業技術者 と、 勤労意欲と消費欲の高い

            大量の若い労働者を投入して、 「付加価値

            を生む重工業」を育成して、 日本の高度経

            済成長をはかれると考え、 日本政府は、下

            村氏の経済理論を採用して、 政府予算の一

            部を重工業の「企業の設備投資」を促進する

            ためにつかい、日本は、1955年から1973

            年まで、経済成長率・約8%を達成した。

               しかし、日本政府は、環境保全を軽視し

            て、重工業の発展をはかったため、公害問題

            が各地で起こった。

            ● 1973年の石油ショックで、重工業をささ

            える原料の石油の値上がりで、日本の高度経

            済成長は、ストップし、1973年以後、日本は、

            低経済成長となった。

 

 こう  弘仁。 

            (こうにん)。 《和暦》。

             THE KONIN ERA.

            ○ 810 年−824年。

            ● 810年・弘仁 元年・9月19日〜

               824年・弘仁15年・1月 5日。

            ● 平安時代前期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

 こう  弘仁・貞観文化 

            (こうにんじょう がんぶんか)。

         《日本の文化》。

         (9世紀初〜9世紀末)。

         (⇒ 日本の文化)。

 

 こう  高 師直。

            (こうの もろなお)。 《人名》。

            (生年不詳?ー1351年)。

                   ○ 足利尊氏の執事、部将。

                   ○ 足利尊氏の弟・足利直

          義(ただよし)と対立 する。

                (⇒ 足利 尊氏)。 

 

 ごう  江姫、督姫。

            (ごうひめ)。 《人名》。

         (= お江 おごう)。 

        (⇒ お江)。

 

〇 こう  公武合体派

            (こうぶがったいは)。 

                    《幕末の政治派閥》。

 

〇 こう  公武合体派・佐幕派と尊

        皇(王)攘夷派・急進派と

       の対立。

            (こうぶがったいは・さばくはと そんのうじ

                         ょういは・きゅうしんは とのたいりつ)。

         <1860〜1864年頃>。

                    《幕末の政治派閥》。

       (⇒ 幕末日本政治・政争

       変遷一覧表)。

 

〇 こう  公武合体派・佐幕派と尊

       皇(王)倒幕派との対立。

             (こうぶがったいは・さばくは と そんのう

            とうばくは とのたいりつ)。

           <1864〜1866年頃>。

                    《幕末の政治派閥》。

       (⇒ 幕末日本政治・政争

       変遷一覧表)。

 

〇 こう  公武合体論。

            (こうぶがったいろん)。

                    《幕末の政治派閥》。

       (⇒ 公武合体派)。

 

〇 こう  康平。 

            (こうへい)。 《和暦》。

            THE KOHEI ERA.

            ○  1058年ー1065年。

            ● 1058年・康平元年・8月29日〜

               1065年・康平 8年・8月 2日。

            ● 平安時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇 こう  神戸海軍操練所

                         (こうべかいぐんそうれんじょ)。

            《江戸幕府》。

            ○ 幕末、勝海舟の提言で設立

         された、江戸幕府直轄の海軍養

                 成機関。 坂本龍馬も訓練生で

                   あった。

 

〇 こう  康保。 

            (こうほう)。 《和暦》。

            THE KOHO ERA.

            ○  964年ー968年。

            ● 964年・康保元年・7月10日〜

               968年・康保 5年・8月13日。 

            ● 平安時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

            ■ 康保 (こうほう、英:THE 

             KOHO ERA)とは、 和暦であり、 

             平安時代中期の和暦年号であり、 

             964年・康保元年・7月10日から

             968年・康保 5年・8月13日まで 

             である。

                ■ 「康保」の前後の和暦年号(元号):

             ● 応和 (おうわ):961年ー964年。

               961年・応和元年・2月16日〜

                964年・応和 4年・7月10日。 

 

〇 こう  幸松。

             (こうまつ、ゆきまつ)。 《人名》。

                   (= 保科正之 ほしなまさゆき) 。

         ○ 保科正之の幼名。

        (⇒ 保科正之)。

            ■ 幸松 (こうまつ、ゆきまつ)とは、 保科

            正之(ほしなまさゆき)の幼名である。

            ■ 江戸幕府・第2代将軍・徳川秀忠の実

             子の男子には、 @ 侍女 (秀忠側室夫

              人、名不詳)との間に、 長丸 (ちょうまる;

             長男、早世)、 A お江 (おごう、秀忠正

             室夫人)との間に二人の男子、 徳川家光

             (とくがわいえみつ、幼名:竹千代(たけち

             よ);次男) と 徳川忠長 (とくがわただ

             なが、幼名:国松(くにまつ);三男)、 B 

             お静 (おしず、お志津、浄光院;侍女、秀

             忠側室夫人)との間に、 保科正之 (ほし

             なまさゆき幼名:幸松(こうまつ、ゆきま

             つ);四男) がいた。 

 

〇 こう  光明皇后

            (こうみょうこうごう)。 《人名》。

            (天皇家)。

         (= 光明子、光明皇太后)。

                   (生没年:701年ー760年)。 

         ● 聖武(しょうむ)天皇 (在

         位:724〜749年) の皇后。

         ○ 藤原不比等(ふじわらのふひ

            と)の娘。

         ○ 藤原仲麻 呂の叔母(おば)。

         ○ 橘諸兄の同母兄弟。

         ○ 孝謙天皇(再即位 して称

         徳天皇、女帝) の生母。

 

〇 こう  光明天皇。 

            (こうみょうてんのう)。 《人名》。

         (天皇)。 

                    ○ 持明院統(じみょういんとう)

            北朝の天皇。

         (⇒ 持明院統

          皇統の分立) 。

 

〇 こう  孝明天皇 

            (こうめいてんのう)。 《人名》。

         (= 統仁天皇 おさひとてんのう)。

         (天皇在位:1846年−1866年)。

         (生没年:1831年ー1866年)。

            KOME EMPEROR 

                         (:THE EMPEROR KOME).

         ○ 和宮の腹違いの兄。 

         ○ 睦仁(むつひと)天皇(= 明治

          天皇)の父。

 

〇 こう  康暦。 

            (こうりゃく) 。 《和暦》。

            THE KORYAKU ERA.

            ○  1379年ー1381年。

          (⇒ 南北朝競合二重年号

          (⇒ 和暦の二重年号存立

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

         ■ 南北朝競合二重年号。

         ● 北朝 (持明院統)方の暦年号

             1379年・康暦元年・3月22日〜

             1381年・康暦 3年・2月24日。

            ● 室町時代前期の和暦年号。

            ● (注意) 同時期に、南朝 (大覚寺統、

             後醍醐天皇系統)方の暦年号の、 天授

             (てんじゅ)元年〜7年(1375〜1381

             年)、 弘和(こうわ)元年〜4年(1381

             〜1384年) も存立する。 

 

〇 こう  公領 

            (こうりょう)。 

         《土地の支配・権利形態》。

         ○ 公領は、

          国司、国衙の支配下にある

          土地である。

         ○ 公領は、

          平安中期以後は、国衙領

             くがりょう、11〜16世紀)

          とも呼ばれる。

             ■ 公領(こうりょう)とは、 律令制成

             立後、 国司、国府の支配下にある

             土地であり、国司、国衙が支配する

             領域であり、 平安時代中期以後は

             国衙領(こくがりょう)とも呼ばれる。

             私領の荘園(しょうえん)に対して用

             いる。

             ■ 国衙領(こくがりょう)は、 平安

             時代中期以後の公領(こうりょう)の

             別称である。

                平安時代中期以後は、朝廷方

             針変更で、公領(国衙領)では、国

             司(受領)は、 徴税方法を人身賦

             課(人身を対象とする賦課)ではな

             く、荘園と同じように、土地賦課(土

             地を対象とする賦課)に切り替え、

             国司(受領)は、朝廷に一定の租税

             を納めるだけとなる。 

             ■ 国司(こくし)とは、 律令制成立

             後、朝廷が各地方(令制国の諸国)

             に派遣した地方長官であり、 平安

             中期以後は受領(ずりょう)とも呼ば

             れ、 各地方に守護が置かれた後、

             鎌倉時代以後、政治の実権を失って

             いく。

             ■ 国衙(こくが)とは、 律令制成立

             後、 国司が政務を執(と)る所(建

             物)、政庁、役所である。

 

〇 こう  香林院

            (こうりんいん)。 《人名》。

            (= りく、 石束(いしづか)りく)

            (1669年ー1736年)。

          ○ 赤穂藩(赤穂・浅野家)家老

          の大石内蔵助(良雄)の正室夫

          人。

        (⇒ 元禄赤穂事件)。 

             ■ 香林院 (こうりんいん、= りく、石束

             (いしづか)りく、1669ー1736年) は、 

             赤穂藩(赤穂・浅野家)家老の大石内蔵

             助(良雄)の正室夫人であった。

             ● 香林院 (= りく、石束 りく)は、 但馬

             国 (たじまのくに、現・兵庫県北部の相当

                          地域)の豊岡藩(とよおかはん)の筆頭家 

             老(1200石)の石束毎公(いしづかつね

             よし、1641〜1713年)の娘 である。

 

〇 こう  弘和。 

            (こうわ)。 《和暦》。

            THE KOWA ERA (1381ー1384)

                      ○ 1381年ー1384年。

          (⇒ 南北朝競合二重年号

          (⇒ 和暦の二重年号存立

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

         ■ 南北朝競合二重年号。

         ● 南朝 (大覚寺統)方の暦年号。

             1381年・弘和元年・2月10日〜

             1384年・弘和 4年・4月28日。

            ● 室町時代前期の和暦年号。

             ● (注意) 同時期に、北朝 (持明院統、

                           光厳(こうごん)・光明(こうみょう)天皇系

             統) 方の暦年号の、  康暦(こうりゃく)

             元年〜3年(1379〜1381年)⇒ 永徳

             (えいとく)元年〜4年(1381〜1384

             年)⇒ 至徳(しとく)元年〜4年(1384

                          〜1387年)も存立する。

 

〇 こう  康和。 

            (こうわ)。 《和暦》。

            THE KOWA ERA (1099ー1104)

            ○  1099年ー1104年。

            ● 1099年・康和元年・8月28日〜

               1104年・康和 6年・2月10日。

            ● 平安時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇 ごえ  御叡慮。

            (ごえいりょ)。 《天皇》。

                   (= 天皇(天子)の心、考え)。

              (⇒ 天皇)。

 

#koka

 

〇 こか  御家訓。

            (ごかきん)。 《家訓》。

            (= 会津藩家訓(かきん))。

              (⇒ 会津藩)。

 

〇 こが  古河公方

            (こがくぼう)。  《室町幕府の役職》。

            (室町幕府の東国統治地方長官)。

         (= 後期の関東公方)。

                 KOGAKUBO GOVERNOR.

             ○ 1455 年ー1583年、5代

          (⇒ 室町幕府足利将軍)。

          (⇒ 関東公方

           関東公方足利氏鎌倉府

           鎌倉公方古河公方)。

          (⇒ 堀越公方)。

          (⇒ 関東管領

           関東管領上杉氏

           山内上杉 氏扇谷上杉 氏)。 

             ■ 古河公方(こがくぼう)とは、 室町幕

             府の役職であり、 室町幕府の東国統治

             地方長官であり、 東国(とうごく )の関東

             8国、伊豆、甲斐(かい、現・山梨県)を統

             治する室町幕府の役職であり、後期の関

             東公方であり、 1455年から1583年ま

             、5代存続 する。

             ■ 古河公方は、 1455年に鎌倉府が

              解体し、鎌倉公方(1349〜1455年、5

             代)に代わり成立した 、2つの公方 (く

              ぼう、古河公方(こがくぼう)、堀越公方

             (ほりごえくぼう))の1つである。

              ● 古河公方は、 足利成氏、足利政氏、

             足利高基、足利晴氏、足利義氏)の5代

             古河公方が就任 した。 

               下総国古河(しもふさのくにこが、茨城

             県南部の古河)を本拠地とした。 

             ■ 日本の室町時代に、 室町幕府の

             国統治地方長官である関東公方(かんと

             うくぼう、鎌倉公方、古河公方) と 関東

             公方の補佐役の関東管領(かんとうかん

             れい)が、 日本の東国(とうごく、関東・

             東北・中部地方)中の関東8国、伊豆、

             甲斐(かい、現・山梨県))を統治する。 

                  関東管領 職や東国の各国守護職の

             任免権は、 室町幕府の将軍にあり、関

             東公方(鎌倉公方、古河公方))にはなか

             った。

                 関東公方(鎌倉公方、古河公方)

             関東管領は、対立するようになった。

               ■ 関東公方(かんとうくぼう)とは、 室町

             幕府の東国統治地方長官であり、 鎌倉

             公方 (かまくらくぼう、1349年ー1455

             年、5代) と その後身の古河公方 (こ

             がくぼう、1455年ー1583年、5代) で

             ある。

              ● 1455年に鎌倉府が解体し、鎌倉公

              方(1349〜1455年、5代)に代わり、東

             国に、2つの公方(く ぼう、古河公方、堀

             越公方)が成立したが、 堀越公方(ほり

             ごえくぼう、1457年ー149 3年頃、2代)

             は、東国全体を統治できず、事実上、 伊

             豆1国のみの短期統治(1482年ー1493

             年頃)で終わったため、 関東公方(かん

             とうくぼう)とは言わない。

 

〇 ごか  後亀山天皇。 

            (ごかめやまてんのう)。 《人名》。

                   ○ 南北朝合体時の、大覚寺統(だ

            いかくじとう)の南朝の最後の天皇 。

           (⇒ 大覚寺統

         皇統の分立)。

 

〇 ごき  五畿七道 

            (ごきしちどう)。 《旧地域名》。  

            (= 日本本土・8旧地方)。

            (= 畿内七道(きないしちどう))。

            (= 前近代日本の、地域・旧地方名)。

            (= 律令制の広域地方行政区分)。

            GOKISHICHIDO REGIONS.

            ■ 五畿七道。

            = 日本本土の、 五畿 (山城、

         摂津、河内、和泉、大和) の5

         旧国(令制国)) と、 七道 (東

         山道、北陸道、東海道、山陰道、

         山陽道、南海道、西海道 の7広

         域地方。

                   (⇒ 旧国(= 令制国))。

                   (⇒ 前近代日本の地域名)。

                   (⇒ 旧地域名地域名)。

                   (⇒ 日本の地名)。

            ■ 五畿七道(ごきしちどう)とは、 前近代

            日本の、地域・旧地方名であり、 旧大地

            域名である。

            ■ 五畿七道(ごきしちどう)とは、 日本の

            律令制度で定められた地方行政区分(区

            画)であり、 日本本土 (本州、九州、四国)

            の、五畿(山城、摂津、河内、和泉、大和)

            の5旧国(令制国)) と 七道 (東山道、

            北陸道、東海道、山陰道、山陽道、南海道、

            西海道の7広域地方) である。

            ■ 五畿七道は、 前近代日本の地域名

            であり、 旧地域名であり、旧・大地域名で

            あり、旧地方名である。

            ■ 五畿七道は、 旧・大地域名であり、

            前近代日本の、律令 制定後・古代・中世・

            近世日本・旧地域名であり、 日本本土

            (九州本土・四国・本州)とその周辺の諸

            島の、旧地域名である。

               前近代の、五畿七道は、 蝦夷地(え

            ぞち、現在の北海道地方の相当地域)、 

            琉球(りゅうきゅう、現在の沖縄県の相当地

            域)、 小笠原諸島などを除く(含まない)。

            ■ 五畿七道は、 前近代日本の地域名で

            あり、 飛鳥白鳳時代末期から江戸時代ま

            で、 紀元(後)701年頃から1868年頃ま

            で、 日本で使用された地域名である。

            ■ 五畿七道は、 大地域名の旧地方名

            あり、 律令に規定された(律令制に基づい

            て設置された)、日本の広域地方行政区分

            (行政区画)であり、 日本の地理的区分の

            基本単位の1つであった。

            ■ 前近代の五畿七道は、 明治時代以後、 

            五畿八道になるなど、大幅に変更された。

            ■ 五畿七道は、飛鳥白鳳時代末期か

            ら江戸時代まで使用された、広域地方

            政区分(区画)である。

            ■ 前近代の、五畿七道は、 中央の五

            畿(= 畿内)と地方の7道から成っていた。

            ■ 前近代の、五畿七道は、 中央の五畿 

            (= 畿内(きない)、 山城 国(やましろのく

            に、京都府南部)、摂津 国 (せっつのくに、

            大阪府北西部)、河内 国(かわちのくに、

            大阪府中東部)、和泉国 (いずみのくに、

            大阪府南西部)、大和 国 (やまとのくに、

            奈良県)の5旧国(令制国)) と、 地方の

            7道 (= 東山道(とうさんどう)、北陸道(ほ

            くりくどう)、東海道(とうかいどう)、山陰道

            (さんいんどう)、山陽道(さんようどう)、南

            海道(なんかいどう)、西海道(さいかいど

            う)の7広域地方) から成っていた。

            ■ 明治時代以後、 五畿七道や旧国名

            (令制国)に大きな変更が加えられた。 

               東北地方では、1868年(明治元年)

            12月に、陸奥国(むつのくに)は、陸奥(む

            つ)、陸中(りくちゅう)、陸前(りくぜん)、磐

            城(いわき)、岩代(いわしろ)に5分割され、

            出羽国(でわのくに)は、羽後(うご)、羽前

            (うぜん)に2分割された。 

               1869年(明治2年)8月には、蝦夷

            地の本土と千島列島南部を北海道とし、

            五畿七道に加え、五畿八道とした。 そし

            て、蝦夷地の本土と千島列島は、 渡島

            (おしま)、後志(しりべし)、胆振(いぶり)、

            日高(ひだか)、石狩(いしかり)、天塩(て

            しお)、北見(きたみ)、十勝(とかち)、釧

            路(くしろ)、根室(ねむろ)、千島(ちしま)

            の11地区に区分された。

                         ■ (RWL) 日本の、大地域名の変遷。

             ● 五畿七道⇒  旧近現代地方⇒ 

             現8地方。

                     ○ 五畿七道 (ごきしちどう) (紀元

             (後)701年頃ー1868年頃、飛鳥白鳳

             時代末期ー明治時代)⇒ 旧近現代地

             方 (1868年頃ー1989年頃、明治時

             代ー昭和時代)⇒ 現8地方。

                        ■ (RWM) 日本の、中地域名の変遷。

             ● 国造・県主分国⇒ 旧国(令制国)

              ⇒ 旧都道府県⇒ 現47都道府県。

                    ○ 国造(くにのみやつこ)・県主(あが

             たぬし)分国  (紀元(後)3世紀頃ー

             701年頃、古代日本前期)⇒ 旧国(き

              ゅうこく、令制国(りょうせいこく)) (701

             年頃ー1868年頃、飛鳥白鳳時代末期

             ー明治時代)⇒ 旧都道府県 (1868年

             頃ー1989年頃、明治時代ー昭和時代)

             ⇒ 現47都道府県。

                   ■ 五畿七道 (日本本土)。

            <旧広域地方名。

            <旧・大地域名。

            <旧地域名。

            <地域名。

            日本の地名

 

〇 こき  古今和歌集。 

            (こきんわかしゅう)。 《歌集》。

            (⇒ 勅撰和歌集)。

 

〇 こく   国衙。 

          (こくが)。 

            《土地の支配・権利形態》。

         (= 平安中期以後の公領)。

          ○ 国衙とは、

           国司が政務を執(と)る所

          (建物)、政庁、役所であ

                る。

          (⇒ 公領国衙領)。

          (⇒ 国司受領)。

          (⇒ 国衙国府)。

          (⇒ 朝廷律令制)。

             ■ 国衙(こくが)とは、 律令制成立

             後、 国司が政務を執(と)る所(建

             物)、政庁、役所である。

             ■ 国司(こくし)とは、 律令制成立

             後、朝廷が各地方(令制国の諸国)

             に派遣した地方長官であり、 平安

             中期以後は受領(ずりょう)とも呼ば

             れ、 各地方に守護が置かれた後、

             鎌倉時代以後、政治の実権を失って

             いく。

             ■ 国府(こくふ)とは、 律令制成立

             後、 国衙(こくが)の所在地であり、 

             国衙、即ち、国司が政務を執(と)る

             所(建物)、政庁、役所 の所在地で

             ある。

 

〇 こく   国衙領。 

          (こくがりょう)。 

            《土地の支配・権利形態》。

         (= 平安中期以後の公領)。

          (11〜16世紀)。

          ○ 国衙領は、

          平安中期以後の、公領(国

          司、国衙の支配下にある土

          地)である。

          (⇒ 公領国衙領)。

          (⇒ 国司受領)。

          (⇒ 国衙国府)。

          (⇒ 朝廷律令制)。

             ■ 国衙領(こくがりょう)は、 平安

             時代中期以後の公領(こうりょう)の

             別称である。

                平安時代中期以後は、朝廷方

             針変更で、公領(国衙領)では、国

             司(受領)は、 徴税方法を人身賦

             課(人身を対象とする賦課)ではな

             く、荘園と同じように、土地賦課(土

             地を対象とする賦課)に切り替え、

             国司(受領)は、朝廷に一定の租税

             を納めるだけとなる。

              ■ 公領(こうりょう)とは、律令制成

             立後、 国司、国衙の支配下にある

             土地であり、国司、国衙が支配する

             領域であり、 平安時代中期以後は

             国衙領(こくがりょう)とも呼ばれる。

             私領の荘園(しょうえん)に対して用

             いる。

             ■ 国司(こくし)とは、 律令制成立

             後、朝廷が各地方(令制国の諸国)

             に派遣した地方長官であり、 平安

             中期以後は受領(ずりょう)とも呼ば

             れ、 各地方に守護が置かれた後、

             鎌倉時代以後、政治の実権を失って

             いく。

             ■ 国衙(こくが)とは、 律令制成立

             後、 国司が政務を執(と)る所(建

             物)、政庁、役所である。

 

〇 こく   国司。

             (こくし)。

          《朝廷の身分、地位》。

          ○ 国司は、

           朝廷が各地方(諸国)に派

          遣した地方長官である。

          ○ 国司は、

           平安中期以後は、受領とも

           呼ばれる。

          (⇒ 公領国衙領)。

          (⇒ 国司受領)。

          (⇒ 国衙国府)。

          (⇒ 朝廷律令制)。

             ■ 国司(こくし)とは、 律令制成立

             後、朝廷が各地方(令制国の諸国)

             に派遣した地方長官であり、 平安

             時代中期以後は受領(ずりょう)とも

             呼ばれ、 各地方に守護が置かれ

             た後、鎌倉時代以後、政治の実権

             を失っていく。

             ■ 受領(ずりょう)とは、平安時代

             中期以後の国司(こくし)の別名で

             あり、 国司の仕事が徴税吏的性

             格を強めた事に起因し、受領とも呼

             ばれる。

                平安時代中期以後は、朝廷方

             針変更で、公領(国衙領)では、国

             司(受領)は、徴税方法を人身賦課

             (人身を対象とする賦課)ではなく、

             荘園と同じように、土地賦課(土地

             を対象とする賦課)に切り替え、国

             司(受領)は、朝廷に一定の租税を

             納めるだけとなる。

                平安時代中期以後、主に中下

             級貴族が遥任(ようにん)、成功(じ

             ょうごう)などにより国司(受領)に

             なり巨富を蓄える者が現れ、政治

             的に進出し、院政政権の支持層に

             もなる。

                紫式部をはじめ平安女流作家

             の多くが、受領の娘である。

 

〇 こく   国人、国人領主 

            (こくじん、こくじんりょうしゅ)。

         (14〜16世紀)。

             ■ 国人(こくじん)とは、  国衆(くにしゅ

            う)であり、土着・在地領主である。

 

〇 こく   石高。

             (こくだか)。 《収穫高》。

          (= 米の収穫高、収穫量)。

            (⇒ 大名領国制)。

 

〇 こく   国鉄。

             (こくてつ)。 《鉄道会社》。

          (= JR (じぇーあーる))。

             ■ 国鉄(こくてつ)は 日本国有鉄道株

             式会社の略称であり、 現在の鉄道会

             社のJR(じぇーあーる)の前身の会社

             である。

 

〇 こく   国府。

             (こくふ)。 《律令制》。

          (⇒ 国衙国司)。

          (⇒ 朝廷律令制)。

             ■ 国府(こくふ)とは、 律令制成立

             後、 国衙(こくが)の所在地であり、 

             国衙、即ち、国司が政務を執(と)る

             所(建物)、政庁、役所 の所在地で

             ある。

             ■ 国司(こくし)とは、 律令制成立

             後、朝廷が各地方(令制国の諸国)

             に派遣した地方長官であり、 平安

             中期以後は受領(ずりょう)とも呼ば

             れ、 各地方に守護が置かれた後、

             鎌倉時代以後、政治の実権を失って

             いく。

 

〇 こく   国父。

            (こくふ)。 《封建制度》。

          ○ 前近代日本の封建領主の父。

                    ○ 地方領主、日本支配者、の父。

 

〇 こく   国母。

            (こくぼ)。  《封建制度》。

          ○ 前近代日本の封建領主の母。

          ○ 地方領主、日本支配者、の母。

 

〇 こく   国民学校。

            (こくみんがっこう)。 《学校》。

          (≒ 戦前の小学校)。

 

 こく    国民国家。

             (こくみんこっか)。 《国家形態》。

             ■ 国民国家とは、 国家内にいる住民に、

             国民意識をもたせることによって成立する

             国家である。

             ● 国民国家には、プラスの側面とマイナ

             スの側面があります。

             ○ 現代世界では、地球上で、約200カ国

             の独立国家が、各国土をもち、各国家が、

             国土内の住民に国民意識をもたせ、統治し

             ている。

             ○ 日本は、明治時代以降、国民国家とし

             て、歩んでいる。

 

〇 ごけ  御家人。

             (ごけにん)。  武士の身分》。

             (= 将軍の家臣)。

          ■ 鎌倉幕府の、御家人は、

          鎌倉幕府の将軍の家臣で

          ある。

          (⇒ 鎌倉幕府鎌倉将軍)。

             ■ 鎌倉幕府の、御家人。

             ● 鎌倉幕府の、御家人 (ごけに

             ん)とは、 将軍家臣であり、 

             鎌倉幕府の将軍の家臣、従者で

             あり、 将軍家の直臣であり、

             鎌倉幕府の将軍と主従関係を結ん

             だ武士である。

             ● 鎌倉幕府の有力御家人には、

             和田氏、三浦氏、安達氏、足利氏

             などがいる。

          ■ 江戸幕府の、御家人は、

          江戸幕府の将軍の家臣で、

          下級幕臣(旗本の次の地位)

          である。

          (⇒ 江戸幕府徳川将軍

             ■ 江戸幕府の、御家人。

             ● 江戸幕府の、御家人 (ごけにん)

             とは、江戸幕府の将軍の家臣であり、 

             幕府直参(じきさん)の家臣である。 

                        ● 江戸幕府の、御家人は、 知行高

             1万石未満の江戸幕府直参(じきさ

             ん)の家臣の中で、御目見(おめみ

             え)以上の(将軍に謁見できる)上級

             家臣は、 旗本であり、 御目見(おめ

             みえ)以下(将軍に謁見できない)下

             級家臣は、 御家人である。

 

〇 ごこ  御公儀。

            (ごこうぎ)。  《言葉》。

            (= 江戸幕府)。

       (⇒ 江戸幕府

 

 ここ  九 。

            (ここのつ)。 《時刻》。

            ■ 九 (ここのつ、九つ、九ツ)は、 夜間・

            午前0時頃、昼間・正午頃 である。

         (⇒ 前近代日本の時刻

          ・時法

            ■ 前近代日本(室町時代後期〜江戸時代)

            の「日の出や日没を基準とする不定時法」の、

            時鐘数表示時刻の主要時間区分。

            ■ 別名 : 九つ、 九ツ。

            ■ 午前0時00分 夜間・午前0時頃 

             ≒ (暁) 九つ、九ツ。

             ≒ 子の刻(ねのこく)の正刻 (正子(しょうし))。

            ■ 午後0時00分 昼間・正午頃 

             ≒ (昼) 九つ、九ツ。

             ≒ 午の刻(うまのこく)の正刻(正午(しょうご)) 。

            ○ 九つ(九ツ) ≒

            (暁) 九つ ≒ 夜間・午前0時00分〜午前1時00分。

            (昼) 九つ ≒ 昼間・午後0時00分〜午後1時00分。

            ○ 九つ半(九ツ半) ≒  

            (暁) 九つ半 ≒ 夜間・午前1時00分〜午前2時00分。

            (昼) 九つ半 ≒ 昼間・午後1時00分〜午後2時00分。

 

 ごこ  後小松天皇。 

            (ごこまつてんのう)。 《人名》。

                    ○ 南北朝合体時の、持明院統

          (じみょういんとう)の北朝の天皇 。

         (⇒ 持 明院統皇統の

       分立)。 

 

#kosa

 

 ごさ  後嵯峨天皇。

            (ごさがてんのう)。  《人名》。

         (生没年:1220〜1272年)。

         ○ 天皇在位:1242〜1246年。

         ○ 上皇・院政期:

          1246〜1272年。

         ○ 皇統の分立 (持明院統と大

          覚寺統) の原因をつくった天皇。

         (⇒ 皇統の分立)。 

 

 ごさ  後桜町天皇。

         (ごさくらまちてんのう)。 《女性天皇》。

                   THE EMPRESS GOSAKURAMACHI.

          ○ 後桜町天皇在位:

           1762年ー1770年。

          (⇒ 女性天皇)。

             ■ 後桜町(ごさくらまち)天皇 (在位:17

             62年ー1770年、英:THE EMPRESS 

                      GOSAKURAMACHI)は、 江戸時代の

             女性天皇(= 女帝)である。 

              ◆ 女性天皇 (8人10代)

           (⇒ 女性天皇)。   

           (⇒ 推古(すいこ)天皇)。

           (⇒ 皇極斉明(こうぎょく

                (さいめい))天皇)。

           (⇒ 持統(じとう)天皇)。

           (⇒ 元明(げんめい)天皇)。

           (⇒ 元正(げんしょう)天皇)。

           (⇒ 孝謙称徳(こうけん

                (しょうとく))天皇)。

           (⇒ 明正(めいしょう)天皇)。

           (⇒ 後桜町(ごさくらまち)天皇)。

             ■ 日本の古代から現代までの間に、女性

             天皇は、 飛鳥白鳳(あすかはくほう)時代、

             奈良(なら)時代に天皇に即位(就 任)した、

             推古(すいこ)、皇極(斉明)(こうぎょく(さい

             めい))、持統(じとう)、元明(げんめい)、

             元正(げんしょう)、孝謙(称徳)(こうけん

             (しょうとく))の6人8代の天皇 や 江戸

             (えど)時代に天皇に即位(就 任)した、明

             正(めいしょう)、後桜町(ごさくらまち)の2

             人2代の天皇がいて、合計して8人10代の

             女性天皇(= 女帝がいる。

 

 ごさ  御三卿

         (ごさんきょう) 。 《徳川氏》。 

            (= 徳川御三卿)。

         (18〜19世紀)。

         ○ 御三卿は、

         徳川氏の分家である。

         ○ 御三卿は、

         徳川氏の御三卿(田安家、

          一橋家、清水家)である。

            ■ 御三卿 (ごさんきょう)とは、

            別名では、徳川御三卿といい、 

            徳川氏の分家であり、 徳川氏の

            田安家、一橋家、清水家である。

            ■ 御三卿(= 徳川御三卿)は、 

            第8代将軍・徳川吉宗以後、 江戸

            幕府(徳川氏本家(宗家))の将軍

            を助け、将軍に子がない時には継

            嗣(けいし、後継者)を出すとの配

            慮から設立される。 徳川氏の御三

            家を抑える意図をもつ。

 

〇 ごさ  御三家

         (ごさんけ)。 《徳川氏》。

         (= 徳川御三家)。

          (17〜19世紀)。

         ○ 御三家は、

         徳川氏の分家である。

         ○ 御三家は、

         徳川氏の御三家(尾張徳川

         家(尾張藩)、紀州徳川家

         (紀州藩)、水戸徳川家(水

         戸藩)である。

            ■ 御三家 (ごさんけ)とは、別名

            では、徳川御三家といい、 徳川

            氏の分家であり、 徳川氏の尾

            張徳川家(尾張藩)、紀州(紀伊)

            徳川家(紀州藩)、水戸徳川家(水

            戸藩)である。

            ■ 御三家(= 徳川御三家)は、 

            初代将軍・徳川家康以後、 江戸

            幕府(徳川氏本家(宗家))の将軍

            を助け、将軍に子がない時には継

            嗣(けいし、後継者)を出すとの配

            慮から設立される。

 

〇 ごさ  後三年合戦。 

            (ごさんねんがっせん)。 《戦い》。

            (1083〜1087年)。

         (⇒ 奥州藤原)。

 

〇 ごじ  御諚。

            (ごじょう)。 《言葉》。

                   (= 貴人(きじん、地位や家柄が高い

                    人)の命令、仰(おお)せ、お言葉)。

              (⇒ 天皇天皇 家)。

 

〇 ごし  御所巻。

            (ごしょまき)。 《言葉》。

             ■ 御所巻は、 室町時代に行われた

             武力圧力による請願行為の1つであ

                    る。

             ■ 御所巻(ごしょまき)とは、 請願者

             の抑圧者が御所(ごしょ、被抑圧者

             (圧力を受ける者)がいる邸宅)の周

             りを大軍で取り囲み、攻める構えを見

             せ、圧力をかけ、御所にいる被抑圧

             者に要求を申し入れ、要求を通そうと

             することである。

             ■ 御所巻の実例としては、 

             (a) 1349年(正平4年・貞和5年)

             の高 師直(こうの もろなお)勢に

             よる足利直義(ただよし)への御所

             巻では、 結果、直義が要求をのみ、

             武力行使に至(いた)らず、 

             (b) 1565年(永禄8年)の三好勢

             による足利義輝への御所巻では、

             結果、義輝が要求を拒否し、武力行

             使を受け、攻められて殺害される、 

             などの御所巻などがある。

 

〇 こし    後白河法王

               (ごしらかわほうおう)。 《人名》。

           (= 後白河院、後白河上皇、

           後白河天皇(帝)、

            雅仁(まさひと)親王) 。

           The Tonsured 

           ex-Emperor 

           Goshirakawa.

                     (⇒ 保元の乱)。

           (生没年

          1127年〜1192年)。

             ○ 天皇在位 :

                  1155年〜1158年。

            ○ 上皇 :     

          1158年〜1192年。

            ○ 法皇 :      

          1169年〜1192年。

            ○  後白河天皇は、

           藤原忠通 (ふじわらのただみち)

           と協力して、1156年(保元

              元年)の保元の乱(ほうげん

              のらん)で、 勝利を得る。 

              ■ 後白河法王 (ごしらかわほうお

              う、生没年:1127年〜1192年) は、 

              天皇即位前は、雅仁親王(まさひと

              しんのう) と呼ばれ、

              天皇在位中は、後白河天皇 (ごしら

              かわてんのう、天皇在位:1155年〜

              1158年)と呼ばれ、 

              天皇退位後は、後白河上皇 (ごしら

              かわじょうこう、上皇 : 1158年〜

              1192年)と呼ばれ、 

              出家後は、後白河法王 (ごしらかわ

              ほうおう、法皇 :1169年〜1192年) 

              とも呼ばれる。

              ■ 後白河上皇は、 

              藤原忠通 (ふじわらのただみち)と

              協力して、1156年(保元元年)の

              保元の乱(ほうげんのらん)で、勝

              利を得る。

             ■ 後白河法王は、 

             鳥羽(とば)上皇(天皇)の皇子(みこ)

             であり、 待賢門院璋子(たいけんも

             んいんしょうし・たまこ)の男子である。

              ■ 後白河法王は、 

             二条(にじょう)天皇、 以仁王(もち

             ひとおう)、 高倉(たかくら)天皇の

             父である。

              ■ 後白河法王は、 

             六条(ろくじょう)天皇、 安徳(あん

                        とく)天皇、 後鳥羽上皇(ごとばじょ

             うこう、後鳥羽天皇)の祖父である。             

              ● 後白河法王は、 

                            上西門院統子(じょうせいもんいん

             むねこ)の同母弟である。

 

〇 こじ    個人名。

             (こじんめい)。  《氏名》。

          (= 氏名の名(な))。

           (⇒ 前近代日本

          の人名)。

             ■ 氏名は、一族名 と 個人名 

                           で構成されている。

             〈例〉 鈴木 太郎。 

             一族名の鈴木 と 個人名の太郎。

              ■ 個人名は、 氏名の一部である。

 

〇 こし  個人名。

             (こじんめい)。 《氏名》。

          (前近代日本の個人名)。

             (⇒ 個人名(いみな)、通称

           法名) 。

              (⇒ 一族名)。

              (⇒ 氏名(一族名+個人名))。

             (⇒ 前近代日本の人名) 。

             ■ 前近代日本の人物氏名には、 

             一族名(= 氏族名、家名)と個人名

             がある。

             ■ 前近代の個人名。

             ● 前近代日本の人物氏名の個人

             には、 (a) 諱(いみな、正式名)、 

             (b) 通称(仮名(けみょう))、 (c)

             法名(戒名、出家名)、 (d) 諡(お

             くりな、諡号(しごう)、貴人死後の

             贈り名)、 (e) 字 (あざな、学者・

             文人の別名)、 (f) 名跡(みょうせ

             き、商家当主継承名、家元・芸名等

             のブランド継承名)、 (g) 号(ごう)、

             などがある。

 

〇 ごせ   5世紀。

             (ごせいき)。 《世紀》。

          (= 401年〜500年)。

           (⇒ 世紀)。

           (⇒ 世紀・西暦

        年号対照一覧表)。

 

〇 ごせ   五摂家。

             (ごせっけ)。  《公家》。

             (= 摂関家)。

                         (⇒ 摂関家)。

 

〇 こそ  小曾根 英四朗

            (こそね えいしろう)。 《人名》。

                        (⇒ 坂本龍馬)。

          ○ 小曾根 英四朗は、

          坂本龍馬の支援者で

                    長崎の商人である。

 

〇 こぞ  五族協和。

             (ごぞくきょうわ)。 《スローガン》。

          (⇒ 満州国)。

          (⇒ 和戦前期の

             旧日本軍実態

          イドブック)。

             ○ 五族協和とは、

          戦前の満州(= 中国東北部)

                     で、侵略した日本が掲げた

          スローガンである。

             ○ 五族協和とは、

          日本人、漢人、朝鮮人、満州

          人、蒙古人の五族が協力す

          ることである。

 

〇 こだ  後醍醐・鎌倉幕府競合

       二重年号。

              (ごだいご・かまくらばくふきょうごう

             にじゅうねんごう)。   《和暦》。

             ● 鎌倉時代末期。

              ○ 1331年 ー1333年

          (⇒ 和暦の二重年号存立 

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

            日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

              ■ 後醍醐(ごだいご)天皇 (大覚寺統(だ

              いかくじとう)) 方の暦年号。

                  嘉暦(かりゃく)⇒ 元徳(げんとく)元年

              〜3年 (1329〜1331年) ⇒ 元弘

              (げんこう)元年〜4年 (1331〜1334 

              年) ⇒ 建武(けんむ)。

              ■ 光厳(こうごん)天皇 (鎌倉幕府 が擁立、

              持明院統(じみょういんとう))方の暦年号。

                嘉暦(かりゃく) ⇒ 元徳(げんとく)元

              年〜4年 (1329〜1332年) ⇒ 正慶

              (しょうきょう)元年〜2年 (1332〜133

              3年)⇒ 暦年号編成中止。

 

〇 こだ  後醍醐天皇 

             (ごだいごてんのう)。  《人名》。

          (天皇在位:1318ー1332年、

          1333年ー1336年、南朝天

          皇在位:1336年ー1339年)。

          (生没年:1288年−1339年)。

                          THE EMPEROR GODAIGO.

             ○ 後醍醐天皇は、鎌倉幕府を

          倒し、建武の新政 (天皇親政

          政治、1333年〜1336年)を

          行うが、理想にはしり、失敗する。

 

〇 こだ  古代天皇親政政権

            (こだいてんのうしんせいせ いけん)。

          《日本の政権・政府》。

            (= 律令政権)。

          (701年頃ー977年頃) 。

         (⇒ 日本の政権・政府)。

 

〇 こだ  古代日本 

             (こだいにほん)。

          (= 紀元(後)3世紀頃ー

                       1192年頃)。

         = 古墳時代(狭義)、飛鳥白

           鳳時代、奈良時代、平安時

            代の日本)。

              《日本歴史の時代区分》。

                ANCIENT JAPAN

          ○ 古代日本は、

           概ね、紀元(後)3世紀頃〜

                     1192年頃である。

          ■ 大和時代

                    (= 古墳時代、飛鳥白鳳時代)。

                    ●  古墳時代(狭義)

          ● 飛鳥白鳳時代

          ■ 奈良時代

          ■ 平安時代

          (⇒ 日本歴史の時代区分)。 

             ■ 古代日本 (こだいにほん、英:

             ANCIENT JAPAN)とは、 概(お 

             おむ)ね、古墳時代(狭義)、飛鳥白

             鳳 時代、奈良時代、平安時代の日

             本であり、紀元(後)3世紀頃から11

             92年頃までの日本である。

              ■ 古代日本では、日本地域(日本

             本土、北海道、南西諸島の日本列

               島)には、 日本土着常住民の、「弥

             生渡来系古代日本人」「 縄文系

             (在来系)古代日本人」「縄文・弥

             生渡来・混 血系古代日本人」3グ

             ループの古代日本人 が居住する。

 

○ こだ  古代日本人 

             (こだいにほんじん)。

          (人類学上の分類・特徴)。

             (日本人のルーツ)。

                    《日本常住民の日本人》。

             THE ANCIENT JAPANESE 

             PEOPLE.

             ● 古代日本人 = 古代日本地域土着・

             常住民。 

          ○ 「縄文系」の古代日本人、

          「弥生渡来系」の古代日本人、 

          「縄文・弥生渡来・混血系」の

          古代日本人、

                    の3グループの 古代日本人。

          ● およそ古代日本の時期に、

                    人種的に、「日本人」が、形成

          された。

                          ●  「縄文系(在来系)」の古代日本人、

             「弥生渡来系」の古代日本人、

             「縄文・弥生渡来・混血系」の古代日本人。

             ■ 古代日本人とは、 古代日本地域土着・

              常住民であり、 古代日本の時期に、 日

              本地域に居住していた、「縄文系」の古代

              日本人、 「弥生渡来系」の古代日本人、 

              「縄文・弥生渡来・混血系」の古代日本人

             の3グループの人類 である。

             ● 古代日本人 (= 古代日本地域土着・常

                      住民)。 

             <日本人 (= 日本地域土着・常住民)。

             <モンゴロイド。

             <現生人類(= 新人、ホモ・サピエンス種))。 

             <ヒト属。

             <人類(= ヒト亜族))。

             ● 古代日本人の地域的・文化的特徴 

             (人類学上の分類・特徴)。

                         ●  多くの古代日本人は、 「縄文・弥生渡

             来・混血系」の古代日本人である。

             ■ 古代日本人とは、 古代日本の時期に

             (古墳、飛鳥白鳳、奈良、平安時代に)、

             日本地域(日本本土、北海道、南西諸島

             の日本列島)に居住していた、「縄文系」

              の古代日本人、「弥生渡来系」の古代日

              本人、 「縄文・弥生渡来・混血系」の古代 

              日本人の3グループの人類であり、

                日本本土(本州、四国、九州)に居住

             していた「縄文系」、「弥生渡来系」、「縄文・

             弥生渡来・混血系」の古代日本人であり、 

                南西諸島に居住していた「縄文系」の

             古代日本人であり、 

                北海道に居住していた「縄文系」の

             古代日本人である。

                          ■ 「縄文系(在来系)」の古代日本人は、

             古モンゴロイド(= 南方モンゴロイド)の人

             類である。

                「弥生渡来系」の古代日本人は、 新

             モンゴロイド(= 北方モンゴロイド)の人類

             である。

                「縄文・弥生渡来・混血系」の古代日

             本人は、 古モンゴロイド(= 南方モンゴロ

             イド)の「縄文系」の人々と新モンゴロイド

             (= 北方モンゴロイド)の「弥生渡来系」の

             人々が混血した、古・新モンゴロイド混血

             の人類である。

             ■ 現在のほとんどの日本人は、「本土日

             本人」 である。

             ■ 日本人の「本土日本人」の形成。

             主に、縄文人とその子孫の「縄文系(在来 

             系)」の人々 と、 渡来系弥生人とその子

             孫 の「弥生渡来系」の人々が、 日本本土

             (九州本土、四国、本州)で、古代日本

             期(奈良・平安時代)に、混血して、本土日

             本人日本人を形成する。

             ■ およそ古代日本の時期に、「日本人」

             が、形成された。   

             ● 古代日本後期に、日本本土(本州、四

             国、九州)で、「縄文・弥生渡来・混血系」の

             人々が大多数を占め「本土日本人」が形成

             され、 古代日本後期に、南西諸島で、「縄

             文系」と「弥生渡来系」の人々が混血して

             「琉球人」が形成され、 中世日本前期に、

             北海道で、「縄文系」と「北アジア諸民族」の

             人々が混血して、「アイヌ人」が形成された。 

             ■ 古代日本人(日本常住民)への進化表。

               化石類人猿(= 中新世ホミノイド)⇒ 

             人類の、猿人⇒ 原人(= ホモ・エレクト

             ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類

             ⇒ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス

             (種))⇒ モンゴロイド⇒ 縄文人⇒ 

             弥生人⇒ 古代日本人⇒ 中世日本人 

             ⇒ 近世日本人⇒ 近代日本人 

             現代日本人

             ■ 日本人(日本常住民)への進化表。

               化石類人猿(= 中新世ホミノイド)⇒ 

             人類の、猿人⇒ 原人(= ホモ・エレクト 

             ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類

             ⇒ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス

             (種))⇒ モンゴロイド⇒ 縄文人⇒ 

             弥生人⇒ 古代日本人⇒ 本土日本人

             (= 本土人)、 「琉球人」、「アイヌ人」。

           (⇒ 日本人)。 

           (⇒ 縄文・弥生渡来・混血系)。

           (⇒ 本土日本人(= 本土人))。 

           (⇒ 琉球人)。 

           (⇒ 縄文系)。

           (⇒ アイヌ人)。 

           (⇒ 弥生渡来系)。

           (⇒ 原日本人)。

         (⇒ 日本人ルーツ・ガイドブック)。

 

〇 こだ  古代日本歴史詳細年表

             (こだいにほんれきししょうさいねんぴょう)。

             《日本史年表》。

              A DETAILED CHRONOLOGY

          OF ANCIENT JAPAN

          (⇒ 日本史年表) 。

 

〇 ごた  五大老

             (ごたいろう)。 《役職名》。

          (= 豊臣氏五大老)。

          (1598年ー1600年)。

                    ○ 豊臣政権の職制。

          ○ 豊臣政権の最高権威をもつ

          職名。

                    ○ 徳川家康、前田利家、毛利 輝

               元、宇喜多(うきた)秀家、上杉景勝 

                    の 5名。

                    (⇒ 徳川家康前田利家毛利

                 輝元宇喜多秀家上杉景勝)。 

                    (⇒ 五奉行、豊臣氏五大老・五

          奉行大老豊臣政権豊臣氏)。

             ■ 五大老 (ごたいろう、1598年−1600

             ) とは、 豊臣政権の(役)職名の通称であ

             る。

             ● 五大老は、 豊臣秀吉死去直前の、159

             8年(慶長3年)に成立し、徳川家康、前田利

             家、毛利輝元、宇喜多(うきた)秀家、上杉景

             勝の5名が就任した。

             ■ 豊臣氏五大老・五奉行 (とよとみしごた

             いろう・ごぶぎょう、1598年−1600年)は、 

             豊臣秀吉によって、豊臣秀吉死去直前の、

             1598年(慶長3年)に成立し、 豊臣氏を支

             える政治機構として形成され、豊臣政権の

             公儀制を維持しようとした。 五大老と五奉

             行の10人で、豊臣氏を代表して、国政全般

             を担当すべきものとされた。

                豊臣氏五大老・五奉行は、 徳川家康、

             前田利家(後、前田利長)、毛利輝元、宇喜

             多(うきた)秀家、上杉景勝の 5名の五大老 

             と、 石田三成、増田(ました)長盛、浅野長

             政、長束(なつか)正家、前田玄以の5名の

             五奉行 である。

             ■ 五大老は、 五奉行(ごぶぎょう)の上位に

             位置づけられ、 五大老と五奉行の10人で、

             豊臣氏を代表して、国政全般を担当すべきも

             のとされた。

                しかし、五大老は、 1599年(慶長4年)

             前田利家の死去により子の利長が跡を継ぎ、

             1599年(慶長4年)に前田利長と上杉景勝が

             帰国し、次第に徳川家康の独断専行となり、

             1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの徳川方

             西軍の勝利により、解体した。

 

 こだ  児玉 滝。

                           (こだま たき)。 《人名》。

          (= 杉 滝(すぎ たき))。

                      ○ 吉田 松陰、杉 文の実母。

                      ○ 杉家当主・杉 百合之助

          (常道)の夫人。

       (⇒ 杉 百合之助(常道))。

            (⇒ 楫取 美和子吉田 松陰)。

            (⇒ 楫取 久子杉 梅太郎)。

          (⇒ 久坂 玄瑞)。

             ■ 児玉 滝 (こだま たき)(= 杉 滝)は、

             杉家当主・杉 百合之助(常道)の夫人

             であり、 杉 百合之助(常道)との間に

             三男・四女(梅太郎、寅之助、敏三郎、

             芳子、寿(ひさ)、艶(つや)、文(ふみ)

             をもうける。

 

 こち  小千葉道場。

                           (こちばどうじょう)。 《剣術道場》。

          ○ 千葉定吉が道場主の北辰一

           刀流の道場。

          ○ 江戸での坂本龍馬の剣術修

          行道場。

       (⇒ 幕末の江戸剣術道場)。

 

 ごち  御着城。

             (ごちゃくじょう)。 《城》。

             ○ 小寺氏の城(本城)。1580年 

          に破壊される。

             ○ 播磨国(はりまのくに)姫路(兵庫

          県姫路市東部)にあった城。

          (⇒ 黒田官兵衛)。

 

〇 こで  小寺 氏職。 

             (こでら うじもと)。 《人名》。

             ○ 小寺政職(こでらうまさもと)の嫡男。

              (⇒ 小寺 政職黒田職隆)。

             ■ 小寺 氏職 (こでら うじもと)は、播磨・

             御着城(ごちゃくじょう)城主・小寺政職(こ

             でらまさもと)の嫡男である。

             ● 小寺 氏職は、 1580年の小寺氏滅亡

             後、 黒田職隆 (くろだ もとたか、黒田官

             兵衛(孝高)の父)に育てられ、後に黒田氏

             家臣となる。

             ● 小寺 氏職は、 NHK大河ドラマ「軍師 官

                            兵衛」では、「斎(いつき)」という仮称の幼名

             で登場する。

 

〇 こで  小寺 政職 

            (こでら まさもと)。 《人名》。

             (1517年ー1582年)。

            ○ 播磨国(はりまのくに、兵庫県)の

          武将、戦国大名。

            ○ 黒田官兵衛の第1番目の主君。

            ○ 黒田官兵衛は、小寺政職の家

                     老で、小寺氏の姫路城の城代。

         (⇒ 黒田 官兵衛)。

 

〇 こで  小寺 職隆。 

            (こでら もとたか)。 《人名》。

            (= 黒田 職隆)。

               ○ 黒田官兵衛の父。

         (⇒ 黒田 官兵衛)。

 

〇 こで  小寺 孝高。 

            (こでら よしたか)。 《人名》。

            (= 黒田官兵衛)。

         (⇒ 黒田 官兵衛)。

 

〇 こと   古都

             (こと)。  《都市》。

              (⇒ 首都(みやこ))。

              (⇒ 都城(とじょう)

             (きょう))。

              (⇒ 飛鳥飛鳥京)、

             橿原藤原京)、

             奈良平城京)、

                  向日長岡京)、

             京都平安京)、

             鎌倉

             安土

             大阪

             江戸 )。

           □ 日本古都ガイドブック

           □ 日本古都 関連年代順

                        出来事ブック。  

          □ 飛鳥京 画像アルバム 

             No.1

          □ 藤原京 画像アルバム

             No.1 

            □ 平城京 画像アルバム 

             No.1

          □ 長岡京 画像アルバム 

             No.1

          □ 平安京 画像アルバム

             No.1 

 

          ■ 古都。

              ■ 古都とは、広義では、

              歴史的に重要な都市である。

              ■ 古都とは、 狭義では、

              昔の首都(国家政権・政府の本

              拠地)であり、

              ある国において、過去に首都が

              置かれた場所である。

              ■ 日本の首都とは、

              日本の国家政権・政府の本拠地

                           であり、

              日本本土を統治する全国政権・政

              府の中核都市である。

 

          ■ 日本の、首都と都城

             や京。

               ■ 日本の首都とは、

              日本本土を統治する全国政権・

              政府の中核都市である。

               ■ 前近代日本の都城・京 (と

              じょう・きょう)とは、 天皇の住

             居がある都市である皇居都市で

             ある。

               ■ 日本の、鎌倉時代、安土桃

              山時代、江戸時代では、日本の

             首都(政治・行政の中心地)と皇

                            居都市(都城・京)とは別になる。

 

          ■ 日本の過去の首都

             ■ 紀元後7世紀頃から現在まで、

             日本の過去の首都は、主に、

             飛鳥 (あすか、飛鳥京、

                  現・奈良県明日香村)、

             橿原 (かしはら、藤原京、

                                      現・奈良県橿原市)、

             奈良 (平城京、

                                      現・奈良県奈良市)、

             向日 (むこう、長岡京、

                                      現・京都府向日市)、

             京都 (平安京、

                  現・京都府京都市)、

             鎌倉 (鎌倉幕府本拠地、

                                      現・神奈川県鎌倉市)、

             安土 (あづち、織田政権本拠地、

                                     現・滋賀県安土町)、

             大阪 (豊臣政権本拠地、

                                      現・大阪府大阪市)、

             江戸 (江戸幕府本拠地、

                                      現・東京都千代田区)、

             などにあった。

 

〇 ごと  後藤 象二郎

            (ごとう しょうじろう)。 《人名》。

                 (1838年ー1897年)。

         ○ 幕末/明治期の政治家 。

         ○ 吉田東洋の甥(おい) 。

         ○ 幕末の土佐藩の大監察(藩主

          の補佐役(官))。

 

〇 ごと   五徳。

              (ごとく)。 《人名》。

          (= 徳姫)。

          (⇒ 徳姫)。

           (⇒ 徳川家康)。

             ■ 徳姫 (とくひめ、= 五徳(ごと

             く)、生没年:1559年ー1636年)

             は、 織田信長の娘であり、徳川

             家康の嫡男・松平信康(まつだい

             らのぶやす)の正室夫人である。

 

〇 ごと   後鳥羽上皇

              (ごとばじょうこう)。 《人名》。

           (= 後鳥羽院、後鳥羽天皇

           (帝))。

                     (生没年:

           1180年〜1239年)。 

           ● 天皇在位:

                       1183年〜1198年。

           ● 上皇 :

           1198年〜1239年。

           ○ 後鳥羽上皇は、

           高倉天皇と藤原殖子(ふじわ

               らのしょくし・たねこ)との間の

           皇子(みこ)である。

                     ○  後鳥羽上皇は、

           後白河法王の孫である。

           ○ 後鳥羽上皇は、

           鎌倉幕府と対立し、

            1221年に承久の乱を起こ

           し失敗し、隠岐に流される

 

#kona

 

〇 こに  小西行長

             (こにしゆきなが)。  《人名》。

             (生年不詳〜1600年)。

          ○ 安土桃山時代の武将、大名。 

             ○  豊臣氏の家臣。 

             ■ 小西行長 (こにしゆきなが、生年不詳ー

             1600年)は、堺の豪商・小西立佐(りゅうさ)

             の子で、 安土桃山時代に活躍した武将・大

             名であり、 キリシタン大名であった。 

              ● 小西行長は、 初め宇喜多氏のち豊臣

             秀吉に仕え、1588年(天正16年)に肥後宇

             土12万石を領した。

              ● 小西行長は、 摂津守(せっつのかみ)、

             通称・弥九郎、洗礼名・アグスチノとも称す。

             ● 小西行長は、秀吉の天下取りの戦いや

             朝鮮の役(文禄・慶長の役)などの戦いで活

             躍した。 朝鮮の役に出陣し、明と講和交渉

             を行う。

             ● 小西行長は、 1600年(慶長5年)の天

             下分け目の戦い(関ヶ原の戦い、その他)で

             は、石田方西軍に味方し(属し)、敗れて、処

             刑される(斬首される)。

 

〇 この  近衛家。

             (このえけ)。  《家名》。

             ○ 摂関家(せっかんけ)の五摂家

             の1つ。 

          (⇒ 摂関家)。

                ■ 近衛家 (このえけ)は、 摂関家(せっ

             かんけ)の五摂家(ごせっけ)の1つ である。 

 

〇 この  近衛 敬子。

             (このえ すみこ)。 《人名》。

            (= 天璋院・篤姫(てんしょういん・あつ

          ひめ)、島津篤子(しまづあつこ)) 。

         (⇒ 篤姫

             ■ 天璋院・篤姫 (てんしょういん・あつひ

                           め)、島津篤子(しまづあつこ)) は、名目的

             に、近衛家の養女となり、近衛 敬子(このえ

             すみこ)と称する。

 

〇 この  近衛 忠熙 

             (このえ ただひろ )。 《人名》。

          1808 年ー1898年)。

          ○ 天璋院・篤姫てんしょ ういん・

                      あつひめ )の名目的養父。

          ○ 昭和期の首相・近衛文麿の

          曽祖父。

 

〇 この  近衛天皇。 

             (このえてんのう)。 《人名》。

                          (= 体仁(なりひと)親王)。

          (生没年:1139年ー1155年)。

          ○ 天皇在位:1141年〜1155年。 

          ○ 鳥羽上皇(天皇) と 藤原得子

          (ふじわらの とくし・なりこ、美福門院

          ふくもんいん) との間の皇子(みこ)

 

〇 この  近衛 熙子。

             (このえ ひろこ)。 《人名》。

          (= 天英院)。

       (⇒ 天英院)。

 

〇 こは  小八兵衛

             (こはちべい)。 《人名》。

             ○ 元盗賊で、徳川光圀の配下

          となる 。

           ○ 「風車の弥七」のモデル。 

          フィクションの物語「水戸黄門」

          (テレビドラマ)では、黄門のお

          供の「風車の弥七」(= 小八兵

          衛))。

 

〇 こば  小早川 隆景

                          (こばやかわたかかげ)。 《人名》。

          1533年ー1597年)。

          ○ 毛利元就(もとなり)の三男。

           小早川家の養子となる。 毛利

           輝元の叔父(おじ)。   

          ○ 室町時代後期(戦国時代)、

          安土桃山時代の武将で、毛利

          家を支えた、小早川家の当主。

          (⇒ 毛利輝元中国大返し)。

          (⇒ 毛利元就)。

 

〇 こば   小早川 秀秋

              (こばやかわ ひであき)。 

             《人名》。

           (= 金吾(きんご)、豊臣秀俊) 。

          (生没年:

            1582年ー1602年)。

            (⇒ ねね(おね)

        豊臣秀吉松尾山

           □ 「伝説(従来説)

            関ヶ原の戦い」

            画像アルバム No.3 

           □ 「史実(新説)

            関ヶ原の戦い

            (= 大垣・山中の 戦い)」  

            画像アルバム  No.2

          ○ 小早川秀秋は、

          慶長5年(1600年)の天

          下分け目の戦い、関ヶ原

          の戦いに参戦する。

          ○ 小早川秀秋は、

          小早川隆景の養子である。

          ○ 小早川秀秋は、

          豊臣秀吉の正室夫人・ね

          ね(おね)の甥(おい)であり、

          ねね(おね)の兄・木下(杉

          原)家定の実子であり、

           豊臣秀吉の義理の甥 であ

          る。

          (⇒ 関ヶ原の戦い)。

          (⇒ 新説(史実)

             関ヶ原の戦い

           大垣・山中の戦い

         大垣の戦い山中の戦い)。

                (⇒ 慶長5年の

                 下分け目の戦い)。

            (⇒ 豊臣氏豊臣政権)。

             (⇒ 豊臣氏五大老・五奉

            五大老五奉行)。

             (⇒ 内府ちがひの条々)。

          (⇒ 徳川家康美濃赤坂

           山中桃配山陣場野)。

          (⇒ 毛利秀元南宮山)。

          (⇒ 小早川秀秋松尾山)。

          (⇒ 石田三成大垣城

            藤下の自害峯山中

           笹尾山)。

             (⇒ 豊臣氏豊臣政権)。

              ■ 小早川秀秋 (こばやかわひ

              であき、金吾(きんご)、豊臣 秀俊、

                              生没年:1582年ー1602年)  は、

                             豊臣秀吉の正室夫人・ねね(おね)

              の甥(おい)であり、 ねね(おね)の

              兄・木下(杉原)家定の実子であり、

              豊臣秀吉の義理の甥である。

              ■ 小早川秀秋は、秀吉の命(令)

              で、小早川隆景の養子となる。

              ■ 小早川秀秋(こばやかわひで

              あき)は、

                              1600年(慶長5年)の、関ヶ原の

              戦いに参戦し、 関ヶ原盆地の南

              西方向の、 松尾山(まつおやま)に、

              本陣(陣地)を置く。 

 

〇 こば  小判

             (こばん)。  (= 1両小判(金))。

                    (江戸時代の日本流通貨幣)。

          《日本流通貨幣》。

          ○ 江戸時代の1両(りょ う)の単

           位の金貨。

           (⇒ 単位・定位(定額)通常貨幣) 。

           (江戸時代の日本流通貨幣)。

           (日本流通貨幣)。 

             ■ 小判 (= 1両小判(金))

             <江戸時代・両単位・定位(定額)通常貨幣。

             <江戸時代・両金貨

             <江戸時代・定位(定額)通常貨幣。

             <江戸時代・日本流通貨幣。

             <近世・日本流通貨幣。

             <日本流通貨幣。

              ○ 江戸時代の、江戸幕府の定位(定額)

               通常貨幣、楕円形「両金貨」

              ○ 江戸時代の両金貨の1つ 。

             ● 1両小判(金)≒ 現在の約10万円

               1両小判(金)≒4分≒16朱

              4000文≒現在の約10万円

              小判(1両小判(金))は、江戸時代の

             定位(定額)通常貨幣の基軸通貨として、

             使用された。

             ● 小判(1両小判(金)(11種)は、一分

             金(11種)、一文銭銅・鉄貨(1種)と共に、

             江戸時代の定位(定額)通常貨幣の中心

             通貨として、使用された。 

             ■ 両単位の貨幣には、 一両小判(金) 

             と、 5両判(金) という両金貨(両判金

             (りょうばんきん)) があった。

              ■ 江戸時代の、江戸幕府鋳造(発行)の

             定位(定額) 通常貨幣・13種類 (五両判

             (金)、一両小判(金)、二分金、一分金、

             二朱金、一朱金、一分銀、二朱銀、一朱銀、

             百文銭銅貨(= 天保銭)、十文銭銅貨、

             四文銭銅・鉄貨、一文銭銅・鉄貨) のうち

             の1種類。

 

〇 こふ  後深草天皇。 

             (ごふかくさてんのう)。 《人名》。

             ○ 持明院統の最初の天皇。

             ○ 後深草天皇の皇統を、持明院

          統(じみょういんとう)と いう 。

             (⇒ 持明院統

        皇統の分立)。

 

〇 ごぶ  五奉行

             (ごぶぎょう)。 《役職名》。

          (= 豊臣氏五奉行)。

          (1598年ー1600年)。

                    ○ 豊臣政権の職制。

          ○ 増田長盛、長束正家、前田

           玄以、石田三成、浅野長政の

          5名。

                     (⇒ 長束(なつか)正家

                増田(ました)長盛前田

        玄以石田三成浅野

        長 政)。

                  (⇒ 五大 老、豊臣氏五大老・五

           奉行内府ちがひの条々、

           豊臣政豊臣氏)。

             ■ 五奉行 (ごぶぎょう、1598年−1600

             )は、 豊臣政権の (役)職名の通称であ

             る。  

             ● 五奉行は、 増田長盛 (ましたながも

             り)、 長束正家 (なつかまさいえ)、 前田

             玄以 (まえだげんい)、 石田三成 (いし

             だみつなり)、 浅野長政 (あさのながまさ)

             の5名である。

             ● 五奉行は、 豊臣秀吉死去直前の、15

             98年(慶長3年)7月に成立し、石田三成、

              増田(ました)長盛、浅野長政、長束(なつ

             か)正家、前田玄以の5名が就任した。

             ■ 豊臣氏五大老・五奉行 (とよとみしごた

             いろう・ごぶぎょう、1598年−1600年)は、 

             豊臣秀吉によって、豊臣秀吉死去直前の、

             1598年(慶長3年)に成立し、 豊臣氏を支

             える政治機構として形成され、豊臣政権の

             公儀制を維持しようとした。 五大老と五奉

             行の10人で、豊臣氏を代表して、国政全般

             を担当すべきものとされた。

                豊臣氏五大老・五奉行は、 徳川家康、

             前田利家(後、前田利長)、毛利輝元、宇喜

             多(うきた)秀家、上杉景勝の 5名の五大老 

             と、増田(ました)長盛、長束(なつか)正家、

             前田玄以、石田三成、浅野長政の5名の

             五奉行 である。

             ■ 五奉行は、五大老(ごたいろう)の下位に

             位置づけられ、 五大老と五奉行の10人で、

             豊臣氏を代表して、国政全般を担当すべき

             ものとされた。

                しかし、五奉行は、1599年(慶長4

             年)の浅野長政、石田三成の隠退、蟄居

             (ちっきょ)によって弱体化し、1600年

             (慶長5年)の関ヶ原の戦いの徳川方西軍

             の勝利により、解体した。

 

〇 こふ   古墳時代

              (こふんじだい)。  

           (= 狭義、紀元(後)3世紀〜

           592年)。 

           (= 広義、紀元(後)3世紀〜

            7世紀)。

                   《日本歴史の時代区分》。

           THE TUMULUS 

           PERIOD

                THE KOFUN PERIOD.

           <古代日本。 

          ( 古代日本) 。

          (⇒ 日本歴史の時代区分)。

          ( 古墳文化)。

             ■ 古墳時代 (こふんじだい)は、 

             狭義では、 紀元(後)3世紀から

                          592年までの期間である。

             ■ 古墳時代 (こふんじだい)は、 

             広義では、  紀元(後)3世紀 から

             7世紀までの期間である。

             ■ 古墳時代は、 古代日本(= 古

             墳時代、飛鳥・白鳳時代、奈良時

             代、平安時代 ; 紀元(後)3世紀頃

             ー1192年頃) の一時期である。

 

〇 こふ  古墳文化

             (こふんぶんか)。 《日本の文化》。

          (⇒ 日本の文化)。

          ( 古墳時代)。

          (⇒ 飛鳥白鳳時代)。

          THE TUMULUS

          CULTURE.

             ○ 古墳文化は、

          3世紀ー7世紀の日本の

          文化である。

             ■ 古墳文化 (こふんぶんか、英:

             THE TUMULUS CULTURE)は、 

             紀元(後)3世紀から紀元7世紀まで

             の日本の文化である。

 

〇 ごほ  後北条氏

             (ごほうじょうし)。 《武士の氏族》。

          (= 小田原北条氏)。

          (⇒ 小田原北条氏)。

             ■ 後北条氏とは、小田原北条氏である。

 

#koma

 

〇 こま  小松 帯刀 

             (こまつ たてわき )。 《人名》。

          (= 小松 清 こまつ きよかど、

             肝付尚五郎 きもつき なおごろう

          1835〜1870年)。

 

〇 こま   小松姫。 

             (こまつひめ)。 《人名》。

             (1573年−1620年)。

          (⇒ 真田氏

        真田 幸村(信繁))。

                            ■ 小松姫 (こまつひめ、1573−1620

                          年) は、 真田 幸村(信繁)の兄・真田信

             幸(信之)(さなだのぶゆき)の正室夫人で

             あり、 徳川家重臣・本多忠勝(ほんだただ

             かつ)の娘 である。

             ● 小松姫は、  真田丸 (さなだまる)

             (NHKテレビ・2016年大河ドラマ) では、

             「稲(いな)」という名(仮称)で登場する。

 

〇 ごみ  後水尾天皇 

             (ごみずのおてんのう)。 《人名》。

          (天皇在位:

           1611年 ー1629年)。

          (上皇 : 

           1629年ー1680年)。

          (生没年:

           1596年ー1680年 )

          (⇒ 後陽成(ごようぜい)天皇

          徳川家康徳川和子

          誠仁親王(さねひとしんのう)

           正親町(おおぎまち)天皇)。

             ■ 後水尾天皇 (ごみずのお て

             んのう天皇在位:1611年 ー

             1629年、生没年:1596年ー

             1680年 は、 江戸幕府・第3

             代将軍・徳川家光の妹・徳川和 子

             の夫である。 

             ● 後水尾天皇は、 江戸幕府・

             2代将 軍・徳川秀忠とお江(お

             ごう)との間 の娘・徳川和子(ま

              さこ、かずこ)の夫 である。

             ● 後水尾天皇は、 退位後、

             院政を行う。

             ● 後水尾天皇は、 父・後陽

              成(ごようぜい)天皇と不仲で、

             徳川家康の後押し(指名)で、

             天皇となる。

             ■ 正親町天皇⇒ 誠仁親王⇒

             後陽成天皇⇒ 後水尾天皇⇒ 

             明正天皇。

             ● 後水尾天皇 (ごみずのお

             てんのう)は、 子が明正天皇

             (女性)(めいしょうてんのう)で

             あり、 父が後陽成天 (ごよ

             うぜいてんのう)であり、 祖父

             が誠仁親王 (さねひとしんの

             うであり、 曾祖父が正親町

             天皇 (おおぎまちてんのう)で

             ある。

 

〇 こむ  小村 寿太郎

             (こむら じゅたろう)。 《人名》。

          (生没年:1855年ー1911年)。

          ● 幕末の不平等条約の改正を

          成功(完成)させた外交官。

          ○ 明治期の卓越した外交官。

 

〇 こも  古モンゴロイド。 

                         (こもんごろいど)。 《人類》。

                         (= 南方モンゴロイド、縄文系)。

         (人類学上の分類・特徴)。

             THE SOUTHERN MONGOLOID.

         ○ 古モンゴロイド(= 南方モンゴ

         ロイド) と、 新モンゴロイド(= 北

         方モンゴロイド) の2グループの

         モンゴロイドの1つ。

          ○ 日本地域の、「旧石器人の一

          部」、「縄文人」、「縄文系(在来系)

          弥生人」、「縄文系(在来系)古代

          日本人」などの、「縄文系」の人々。

         (⇒ 古モンゴロイド(古人類学

             辞典))。

             ■ 古モンゴロイド(= 南方モンゴロイド)

             人々は、 約4万年前に、アジア南東部で

             出現した。

                          ● 古モンゴロイド(= 南方モンゴロイド)は、

             約4万年前、 アジア南東部 ( 東アジア南

             部・東南アジア北部)で、 現生人類(= 新人、

                        ホモ・サピエンス)の、容姿・外見(体色・体

             型)が変化し、出現した人類 である。

             ● 約4万年前にアジア南東部で出現した

             古モンゴロイド(= 南方モンゴロイド)は、北

             上し、寒冷地のシベリア東部に長く居住し、

             古モンゴロイドの一部の人々は、約2万年

             前にシベリア東部で、容姿が寒冷地適応に

             変化し、新モンゴロイド(= 北方モンゴロイド)

             となった。

              ● 古モンゴロイド(= 南方モンゴロイド)は、

             現生人類(= 新人、ホモ・サピエンス)の人

             種分類グループの、モンゴロイド (古モンゴ

             ロイドと新モンゴ ロイドの2種)の1つである。

              ■ モンゴロイドは、 約4万年前にアジア南

             東部で出現した、古モンゴロイド(= 南方モ

             ンゴロイド) と、 約2万年前にシベリア東

             部で出現した、新モンゴロイド(= 北方モン

             ゴロイド)の2種類の人類に分類される。

             ■ 古モンゴロイド(= 南方モンゴロイド)は、

             日本地域の、「旧石器人」(日本の旧石器時

              代人、古モンゴロイドとオーストラロイド類似

             人類)の一部である。

              ● 古モンゴロイド(= 南方モンゴロイド)は、

             日本地域の、「縄文人」、「縄文系(在来系)

             弥生人」、 「縄文系(在来系)古代日本人」

             などの、「縄文系」の人々である。

              ■  アジア大陸から先に、約12000年前か

            ら縄文時代に、日本地域へ移動し てきた、古

            モンゴロイド(= 南方 モンゴロイド)の人々は、

             日本地域(日本本土、南西諸島、北海道)で

            「縄文人」、「縄文系」の人々となり、 アジア

            大陸から後から、約2400年前から弥生時

            代前期に、日本本土へ移動してきた、新モン

            ゴロイド(= 北方モンゴロイド)の人々は、日

            本本土で、「渡来系弥生人」、「弥生渡来系」

            の人々となり、 古代日本後期(奈良・平安

            時代)に、古・新モンゴロイドの「縄文系」

            「弥生渡来系」が、日本本土で混血して、

            「本土日本人」(= 本土人)(現在のほとんど

            の日本人)となる。

            ■ 古モンゴロイドへの進化表。

                化石類人猿(= 中新世ホミノイド)⇒ 

              人類の、猿人⇒ 原人(= ホモ・エレクト

              ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類

              ⇒ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス

              (種))⇒ モンゴロイド古モンゴロイ ド

              = 南方モンゴロイド)⇒ モンゴロイド

              モンゴロイド= 北方モンゴロイド)。

             ■ 日本人(人種)への進化表。

               化石類人猿(= 中新世ホミノイド)⇒ 

             人類の、猿人⇒ 原人(= ホモ・エレクト 

             ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類

             ⇒ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス

             (種))⇒ モンゴロイド⇒ 縄文人⇒ 

             弥生人⇒ 古代日本人⇒ 本土日本人

             (= 本土人)、 「琉球人」、「アイヌ人」。

             ■ 現代日本人(人種)への進化表。

               化石類人猿(= 中新世ホミノイド)⇒ 

             人類の、猿人⇒ 原人(= ホモ・エレクト

             ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類

             ⇒ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス

             (種))⇒ モンゴロイド⇒ 縄文人⇒ 

             弥生人⇒ 古代日本人⇒ 中世日本人 

             ⇒ 近世日本人⇒ 近代日本人 

             現代日本人

         (⇒ モンゴロイド)。

           (⇒ 日本人)。 

           (⇒ 原日本人)。

         (⇒ 縄文人)。

           (⇒ 縄文系)。

           (⇒ 本土日本人(= 本土人))。 

         (⇒ 日本人ルーツ・ガイドブック)。

         (⇒ 古モンゴロイド)。

 

〇 こよ  後陽成天皇

            (ごようぜいてんのう)。 《人名》。

                    (和仁(かずひと)親王)。

          (天皇在位:

          1586年ー1611年)。

          (生没年:

          1571年ー1617年)。

          (⇒ 豊臣秀吉徳川家康

          誠仁親王(さねひとしんのう)

          勧修寺晴子(かじゅうじはる

             こ)後水尾(ごみずのお)

               天皇正親町(おおぎまち)

             天皇)。

               後陽成天皇 (ごようぜいてん

             のう、天皇在位:1586年ー16

             11年、生没年:1571年ー

             1617年)は、 正親町天皇(おお

             ぎまちてんのう)の嫡子・誠仁親王

             (さねひとしんのう)の第一王子(皇

             子)である。

             ● 後陽成天皇の生母は、 勧修寺

             晴子 (かじゅうじはるこ、新上東門

             院)であり、 誠仁親王と勧修寺晴子

             との間の子で第一王子(皇子)が、

             後陽成天皇 (ごようぜいてんのう、

             和仁親王)である。

             ■ 正親町天皇⇒ 誠仁親王⇒

             後陽成天皇⇒ 後水尾天皇。

             後陽成天皇 (ごようぜいてんのう)

             は、 父が誠仁親王 (さねひとしん

             のう)であり、 祖父が正親町天皇 

             (おおぎまちてんのう)であり、子が

             後水尾天皇(ごみずのおてんのう)

             である。

 

〇 こよ  暦

            (こよみ、れき)。 《暦》。

          (= カレンダー)。

             THE CALENDAR

          ● 暦には、 太陽暦 と 太陰暦

          がある。

          ● 太陽暦には、 グレゴリオ暦

          と ユリウス暦 などがある。

          ● 太陰暦(=陰暦)には、 太陰

          太陽暦 と 純粋太陰暦 がある。 

          ● 世界の現行中心暦や日本

          の現行暦は、 太陽暦の、グレ

          ゴリオ暦 である。

        (⇒ (こよみ) 天文学辞典)。

        (⇒ 太陽暦(日本の新暦)

                      日本史辞典)。

        (⇒ 太陰太陽暦(日本の旧暦)

         日本史辞典)。

          (⇒ 太陽暦)。

          (⇒ グレ ゴリオ暦ユリウス暦)。

          (⇒ 太陰暦)。

          (⇒ 陰太陽暦純粋太陰暦)。

 

#kora

 

〇 ごり   御料(御領)。

             (ごりょう)。  《領土名》。

          (= 室町時代以後の皇室領)。

               (⇒ 天皇家)。

 

〇 ごり   五稜郭の戦い。

                           (ごりょうかくのたたかい)。 《戦い》。

             (= 箱館戦争 の1つ)。

          ○ 1868〜69年に、北海道の

          箱館(函館)付近で、徳川方と新

          政府方が戦った戦争。

              戊辰(ぼしん)戦争(1868〜

          1869年)の戦いの一つ。

          (⇒ 戊辰戦争)。

 

〇 ごり   五輪書。 

             (ごりんのしょ)。 《書名》。

              宮本武蔵が記した、日本が世

          界に誇る、人間形成の書。  

              アメリカ人ビジネスマンの愛読

          書の1つ。

          (⇒ 宮本武蔵)。

 

〇 ごり  五両判(金)

             (ごりょうばん(きん))。

                    (江戸時代の日本流通貨幣)。

          《日本流通貨幣》。

          ■ 江戸時代の、5両(りょう)の単

          位の金貨。

                五両判(金)は、 江戸時代の、5両(り

             ょう)の単位の金貨である。           

              ● 五両判(金)は、 江戸時代の、江戸幕

               府の定位(定額)通常貨幣である。

              ● 五両判(金)は、 江戸時代の両金貨の

             1つである 。

           (⇒ 単位・定位(定額)通常貨幣) 。

           (江戸時代の日本流通貨幣)。

           (日本流通貨幣)。          

             ●  五両判(金)≒ 現在の約50万円

               1両小判(金)≒4分≒16朱

              4000文≒現在の約10万円

             ■ 両単位の貨幣には、 一両小判(金) 

             と、 5両判(金) という両金貨(両判金

             (りょうばんきん)) があった。

                五両判(金)は、 江戸時代の、江戸幕

             府鋳造(発行)の定位(定額) 通常貨幣・

             13種類 (五両判(金)、一両小判(金)、

             二分金、一分金、二朱金、一朱金、一分

             銀、二朱銀、一朱銀、百文銭銅貨(= 天保

             銭)、十文銭銅貨、四文銭銅・鉄貨、一文

             銭銅・鉄貨) のうちの1種類である。

 

〇 これ  惟任。 

             (これとう)。 《人名》。

             (= 明智光秀)。

           ○ 織田氏の重臣。

          (⇒ 明智光秀)。

          (⇒ 豊臣秀吉)。

 

〇 ごろ   頃。  

          (ごろ)。 (= およそ、約)。

          ABOUT ; 

        c.,ca.:circaの省略名).

 

〇 ころ  小六。 

             (ころく)。 《人名》。

             (= 蜂須賀小六、蜂須賀正勝(はち

          すかまさかつ))。

          ○ 羽柴秀吉(豊臣秀吉)の側近。

          (⇒ 豊臣秀吉)。

 

〇 ごん  権官

             (ごんかん)。  《官職》。

          (= 朝廷の官職で、定員を超えて

          任命される官職)。

          ○ (例)

          権官の、権中納言(ごんちゅうなごん)

              正官の、中納言(ちゅうなごん)

 

〇 こん  婚儀。

             (こんぎ)。 (≒ 結婚)。

            (⇒ 前近代日本の早婚と

        多産政略結婚)。

 

〇 ごん  権現様。

             (ごんげんさま)。 《人名》。

          (= 徳川 家康、徳川 家康の尊称)。

       (⇒ 徳川 家康)。

 

〇 こん  近藤 勇 

            (こんどう いさみ)。 《人名》。

       (⇒ 新選組)。

                    ■ 近藤 勇 (こんどういさみ)は、 幕末に

            幕府の京(都)の治安の一部を担った、新選

            組の局長であった。

 

〇 こん  金剛禅少林寺

                         (こんごうぜん しょうりんじ) 。 《寺院》。

          (= 日本・四国の香川県多度津町

          の少林寺)。

          ○ 日本人・宗道臣(そうどうしん)が、

          戦後、北禅の禅宗を開いた寺院。

          ○ 宗門の行(しゅうもんのぎょう)

          「少林寺拳法」の中心地。

 

〇 こん  近藤 長次郎

             (こんどう ちょうじろう)。 《人名》。

          ○ 亀山社中の中心的メンバー、

          商才があり商談で活躍。

          ○ 勝 海舟の門人、坂本龍馬の

           同志、土佐出身。

                   ○ 海軍塾、神戸海軍操練所メン

          バー。

 

 

   ● 五十音順 (あいうえお順)。

 

 

   ■  『 現在は、過去の成果であり、

       未来は、現在の成果である。 

         (良き現在は、過去の人々の良き努力

          や活動の積み重ねの成果であり、 

          明るい良き未来は、現在の人々の、

          良き努力や活動の積み重ねによって

          形成される。)

 

 

■ 上位のWEBサイト。 

 □ (KOH) カナヤマ オフィシャル   >

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#jpdictionary(general)

 

◆ 日本史辞典

 

● 見出し語はグリーンでマークされています

 

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#ko

 

◆ 派生見出し語サイト。

  ■ 「こ」 基本・見出し語WEBサイト No. ja−ko  

    の、派生見出し語サイト。

 

 No. ja−ko−0302。

  ● 見出し語項目 ご   ( う 03 / 共通 02  

    第1部・う・共通グループ )。  

〇 ごう  (ごう) (浅井3姉妹の一人、徳川

          秀忠の正室 ・夫人)

 ごう   (ごう) 関連出来事 (年代

       順・詳細)

 

■ No. ja−ko−0320。

  ● 見出し語項目 こ   ( う 03 / き 20

    付近  第1部・う・総合グループ  )。

○ こう  公議政体派 (こうぎせいたいは) 

              (幕末)

 

■ No.ja−ko−0330。

 ■ 「こ」 基本・見出し語WEBサイト No. ja−ko の、 

   派生見出し語サイト No. ja−ko−0330。

  ● 見出し語項目 こ  し〜そ ( う 03 / し〜そ 

   30  付近 第1部・う・サ行グループ )。

〇 ごう  豪族土地人民支配制 (ごうぞ

       くとちじんみんしはいせい) (4〜7世紀)

〇 ごう  豪族連合 政権 (ごうぞくれんごう

            せいけん) (5世紀〜701年)

〇 ごう  豪族連合政治 (ごうぞくれんごうせ

              いじ) (4〜7世紀 )

 

■ No.ja−ko−0390。

 ■ 「こ」 基本・見出し語WEBサイト No. ja−ko の、 

   派生見出し語サイト No. ja−ko−0350。

  ● 見出し語項目 こ  た〜め ( う 03 / た〜め 

    50 付近 第1部・う・タ行〜マ行総合グループ)。

〇 こう  公地公民制 (こうちこうみんせい) 

         ( 7〜10世紀)

〇 こう  公武合体派 (こうぶがったいは)

〇 こう  孝明天皇 (こうめいてんのう) (18

         31〜66)

 

■ No.ja−ko−0370。

 ■ 「こ」 基本・見出し語WEBサイト No. ja−ko の、 

   派生見出し語サイト No. ja−ko−0370。

  ● 見出し語項目 こ   ( う 03 / み 70

    付近  第1部・う・マ行総合グループ  )。

〇 こう  光明皇后 (こうみょうこうごう) (= 光

         明子、光明皇太后)。

 

■ No.ja−ko−0390。

 ■ 「こ」 基本・見出し語WEBサイト No. ja−ko の、 

   派生見出し語サイト No. ja−ko−0390。

  ● 見出し語項目 こ   ( う 03 / り 70

    付近  第1部・う・総合グループ  )。

〇 こう  公領 (こうりょう) (10〜16世紀)

          (国司等が支配する領域)

 

■ No.ja−ko−1180。

 ■ 「こ」 基本・見出し語WEBサイト No. ja−ko の、 

   派生見出し語サイト No. ja−ko−1180。

  ● 見出し語項目 ご   ( さ 11 / ん 80

     付近   第1部・さ・総合グループ  )。

 ごさ  御三卿  (ごさん きょう)。    

〇 ごさ  御三家 (ごさんけ)

 

■ No.ja−ko−1614。

 ■ 「こ」 基本・見出し語WEBサイト No. ja−ko の、 

   派生見出し語サイト No. ja−ko−1614。

  ● 見出し語項目 こ   ( だ 16 / い 14

    付近   第1部・た・ア行グループ)。

〇 こだ  古代日本 (こだいにほん )

                   (3世紀〜 1192)

〇 こだ  古代天皇親政政権 (こだいて

          んのうし んせいせ いけん) (= 律令政権) 

          (701年頃〜977年頃) 。

         (⇒ 日本の政権・政府)。

 

■ No.ja−ko−1630。

 ■ 「こ」 基本・見出し語WEBサイト No. ja−koの、 

   派生見出し語サイト No. ja−ko−1630。

  ● 見出し語項目 ご   ( だ 16 / い 30

    付近   第1部・た・総合グループ  )。

〇 こだ  後醍醐天皇 (ごだいごてんのう) 

                (1288〜1339)。 

 

■ No.ja−ko−2899。

  ● 見出し語項目 こ   ( ふ 28 / ん 99

   付近 第1部・ふ・ハ行グループ )。

 こふ  古墳時代 

             (こふんじだい)。

          (狭義、紀元(後)3世紀頃

          〜592年)

 

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#thehistoricalcity

 

■ 古都。 

     (こと)

 

■ 古都。 

 

■ 名称 : 古都 (こと)

 

■ 《都市》。

 

■ 古都とは、

   広義では、歴史的に重要な都市である。

 

■ 古都とは、

   狭義では、昔の首都(国家政権・政府の

  本拠地)であり、

  ある国において、過去に首都が置かれた

  場所である。

 

■ 日本の首都とは、

   日本の国家政権・政府の本拠地であり、

   日本本土を統治する全国政権・政府の

   中核都市である。

 

■ 紀元後7世紀頃から現在まで、

   日本の首都は、主に、  

   飛鳥 (あすか、飛鳥京、現・奈良県明日香村、

         7世紀頃ー694年)、

   橿原 (かしはら、藤原京、現・奈良県橿原市、

         694年ー710年)、

   奈良 (平城京、現・奈良県奈良市、

         710年ー740年、745年ー784年)、

   向日 (むこう、長岡京、現・京都府向日市

         784年ー794年)、

   京都 (平安京、現・京都府京都市

         794年ー1185年、1333年ー

         1576年1582年ー1583年、

         1867年ー1869年)、

   鎌倉 (鎌倉幕府本拠地、現・神奈川県鎌倉市

         1185年ー1333年)、

   安土 (あづち、織田政権本拠地、現・滋賀県

         安土町、

         1576年ー1582年)、

   大阪 (豊臣政権本拠地、現・大阪府大阪市、

         1583年ー1603年)、

   江戸 (江戸幕府本拠地、現・東京都千代田区、

         1603年ー1867年)、

   東京 (近現代政府本拠地、現・東京都

         千代田区、

         1869年ー現在)、

  などである

 

■ より理解を深めるために、本史辞典の、 

   古都(こと)、(みやこ)、

   都城(とじょう)、(きょう)、

   飛鳥飛鳥京)、

   橿原藤原京)、

   奈良平城京)、

   向日長岡京)、

   京都平安京)、

   鎌倉

   安土

   大阪

   江戸

   東京、 

  の項目も参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 41528。

 

 

  □ 日本古都ガイドブック

   □ 日本古都 関連年代順

          出来事ブック。  

 

  □ 飛鳥京 画像アルバム 

     No.1

  □ 藤原京 画像アルバム

     No.1 

    □ 平城京 画像アルバム 

     No.1

  □ 長岡京 画像アルバム 

     No.1

  □ 平安京 画像アルバム

     No.1 

 

 

 ■ 古都。

 

  ■ 古都とは、

     広義では、歴史的に重要な都市である。

 

  ■ 古都とは、

     狭義では、昔の首都(国家政権・政府の

    本拠地)であり、

    ある国において、過去に首都が置かれた

    場所である。

 

 

 ■ 首都。

 

  ■ 首都とは、

    ある国の、政権・政府の本拠地であり、

    ある国全土を統治する全国政権・政府の

      中央政府の本拠地である。

 

 

 ■ 日本の首都。

 

  ■ 日本の首都とは、

    日本の国家政権・政府の本拠地であり、

    日本本土を統治する全国政権・政府の

    中核都市である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 日本の、首都と都城や京。

 

  ■ 日本の首都とは、

    日本本土を統治する全国政権・政府の

    中核都市である。

              

  ■ 前近代日本の都城・京 (とじょう・きょう)

    とは、 天皇の住居がある都市である皇居

    都市である。

             

  ■ 日本の、鎌倉時代、安土桃山時代、江戸

    時代では、日本の首都(政治・行政の中心

         地)と皇居都市(都城・京)とは別になる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 日本の首都。

 

  ■ 紀元後7世紀頃から現在まで、

    日本の首都は、主に、

    飛鳥 (あすか、飛鳥京、現・奈良県明日香村、

         7世紀頃ー694年)、

    橿原 (かしはら、藤原京、現・奈良県橿原市、

         694年ー710年)、

    奈良 (平城京、現・奈良県奈良市、

         710年ー740年、745年ー784年)、

    向日 (むこう、長岡京、現・京都府向日市

         784年ー794年)、

    京都 (平安京、現・京都府京都市

         794年ー1185年、1333年ー

         1576年1582年ー1583年、

         1867年ー1869年)、

    鎌倉 (鎌倉幕府本拠地、現・神奈川県鎌倉市

         1185年ー1333年)、

    安土 (あづち、織田政権本拠地、現・滋賀県

         安土町、

         1576年ー1582年)、

    大阪 (豊臣政権本拠地、現・大阪府大阪市、

         1583年ー1603年)、

    江戸 (江戸幕府本拠地、現・東京都千代田区、

         1603年ー1867年)、

    東京 (近現代政府本拠地、現・東京都

         千代田区、

         1869年ー現在)、

    などである

  ● TKKI カナヤマ著 古都ガイドブック。

 

 

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#theton.ex-emp.goshi.

 

■ 後白河法王。 

     (ごしらかわほうおう)

 

■ 後白河法王。 

 

■ 名称 : 後白河法王 (ごしらかわほうおう)

● 別名 : 後白河院(ごしらかわいん)

● 英語名: the Tonsured ex-Emperor 

  Goshirakawa。

■ 別名 : 雅仁親王(まさひとしんのう)、

  後白河天皇、 後白河上皇(じょうこう)。 

 

■ 生没年 : 1127年〜1192年。

 

 

■ 後白河法王は、

   平安時代末期の天皇上皇法王である。

 

■ 後白河法王は、

  藤原忠通(ふじわらのただみち)と協力して、

  保元の乱(ほうげんのらん)を起こし、勝利を

  得る。

■ 後白河法王は、

  後白河天皇 (在位:1155年〜1158年)、

  後白河上皇 (1158年〜1192年)、

  後白河法皇 (1169年〜1192年)、

  であった。

 

■ 後白河法王は、

  鳥羽上皇(とばじょうこう)の皇子(みこ)

  である。

 

■ 後白河法王は、

  待賢門院璋子(たいけんもんいん

  しょうし・たまこ)の男子である。

 

■ 後白河法王は、

  二条(にじょう)天皇 

  高倉(たかくら)天皇

  以仁王(もちひとおう)  

  の父である。

 

■ 後白河法王は、

  六条(ろくじょう)天皇 (= 二条天皇の皇子)、 

  安徳(あんとく)天皇  (= 高倉天皇の皇子)、

  後鳥羽上皇(ごとばじょうこう、後鳥羽天皇 )

                (= 高倉天皇の皇子)、

  の祖父である。

 

■ 後白河法王は、

  崇徳(すとく)天皇の同母 弟、または、異母弟。

 

■ 上西門院統一(じょうせいもんいんむねこ)

  の同母姉。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 41528。

 

 

 □ 平安 後期・鎌倉前期日本政治

    実権者変遷一覧表

 

 □ 後白河上皇が登場する、興味

    深い関連ドキュメンタリー、ドラ

    マ、映画 

    

    

       

 

■ 後白河上皇は、 「大天狗」(だいてんぐ)と

  言われている。 

    後白河上皇は、 処世術に極めて長(た)

  けていたからである。 権謀術数(けんぼう

  じゅっすう)で、その時々の情勢によって、協

  力関係を結ぶ人間を次々に変えていく。 生

  き残るためなら、平氏であろうが源氏であろ

  うが味方につけたと言われている。

     しかし、一方で、後白河上皇は、 実は、

  それほど深く考えた上での行動ではなく、常

  に行き当たりばったりだったという見方もある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。  

 

■ 後白河上皇 (ごしらかわじょうこう、生没年

  1127年ー1192年) は、 天皇即位前は、

  雅仁親王(まさひとしんのう)と呼ばれ、天皇

  在位中は、後白河天皇 (ごしらかわてんのう、

  天皇在位:1155年ー1158年)と呼ばれ、 

  天皇退位後は、後白河上皇 (ごしらかわじょ

  うこう、上皇 : 1158年ー1192年)と呼ばれ、 

  出家後は、後白河法王 (ごしらかわほうおう、

   法皇 :1169年ー1192年) とも呼ばれた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 後白河上皇は、 藤原忠通 (ふじわらのただみ

  ち)と協力して、保元の乱(ほうげんのら ん)で、

  勝利を得る。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

            

■ 後白河上皇は、 鳥羽(とば)上皇(天皇)の皇

  子(みこ)であり、 待賢門院璋子 (たいけんも

  んいんしょうし・たまこ)の男子である。

             

■ 後白河上皇は、 二条(にじょう)天皇、 以仁

  王(もちひとおう)、 高倉(たかくら)天皇 の父

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 後白河上皇は、 六条(ろくじょう)天皇、 安

  徳(あんとく)天皇、 後鳥羽(ごとば)天皇(後

  鳥羽上皇) の祖父である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

                       

■ 後白河上皇は、 上西門院統子(じょうせいも

  んいんむねこ)の同母弟 である。

                           

 

■ 後白河天皇・上皇の出現の経緯。

■ 後白河上皇 は、 即位前は雅仁(まさひと)親

  王と呼ばれ、即位して後白河天皇となり、その

  後、退位し、後白河上皇となった。 

   1155年、 近衛天皇が崩御(ほうぎょ、死去)

  し、 次の天皇を決めるとき、 鳥羽上皇の寵妃

  の美福門院 (びふくもんいん、藤原得子( ふじ

  わらのなりこ・とくし)の意向により、 美福門院

  (藤原得子) が養母となり育てた守仁親王(もり

  ひとしんのう、後の二条天皇)が、 天皇になる

  ことがほぼ決まった。 しかし、守仁親王の父の

  雅仁親王(まさひとしんのう、後の後白河天皇) 

  をさしおいて、天皇になるわけにもいかず、 後

  に皇位を守仁親王(後の二条天皇)に譲るという

  条件で、中継ぎとして雅仁親王を天皇とすること

  で決着がつき、 雅仁親王が、後白河天皇として、

  即位した。

    後白河天皇は、1155年から1158年までの

  天皇在位時、 天皇親政政治を行い、 天皇が日

  本の政治の実権を握り、日本を支配した。

     だが、1158年に、美福門院(藤原得子)が、

  後白河天皇に譲位をせまったため、やむを得ず、

  後白河天皇は、皇位を守仁親王に譲り、後白河

  上皇となった。 守仁親王は、二条天皇として、

  即位した。 

     しかし、二条天皇は、 実の親子ではあるが

  父の後白河上皇とは縁が薄く、 天皇親政政治

  を強く望み、 後白河上皇の院政を阻(はば)もう

  として、後白河上皇と激しく対立した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 後白河上皇の2つの誤算。

  後白河上皇の政治権力奪取を阻(はば)んだ、二条

 天皇の天皇親政 と、平清盛、源頼朝らの武家政治。

● 後白河上皇は、 1158年より、白河・鳥羽上皇の

 ように院政政治(院政で朝廷の政務の実権を握り、更

 に、日本の政治の実権を握る政治) を行おうとした

 が、できなかった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

(1) 二条天皇の政治権力奪取。

  1158年に、後白河 天皇は、皇位を二条天皇に譲

 り、上皇なる。 しかし、二条天皇は、即位後、天皇親

 政を強く望み、 後白河上皇と 激しく対立し、 二頭政

 治(1158〜61年)となる。

   更に、1161年に、二条天皇は、後白河上皇の政

 治介入を停止し(院政を停止し)、実権を掌握(しょう

 あく)し、 天皇親政政治(1161〜65年)を始め、日

 本の政治の実権を握った。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

(2) 武家の政治権力奪取。

   1165年に二条天皇が死去し、今度は、1165年

 より平清盛が、伊勢平氏武家政治(1165〜80年)

 を始め、 その後、伊勢平氏と河内源氏が武家二頭政

 (1180 〜85年)を行い、 1185年の伊勢平氏滅

 亡後、1185年より源 頼朝河内源氏武家政治

 (1185〜1219年)を始めた。  

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

(3) このように、1158年より、後白河上皇は、日本

 の政治の実権を、独占的に得ることはできなかった。

 

 

■ 後白河天皇(在位、1155年〜1158年) は、 兄

 の崇徳(すとく)上皇と対立し、 1156年の保元の乱

 (ほうげんのらん) となる。

■ 保元の乱

   後白河天皇は、 藤原忠通(ふじわらのただみち)

 信西(しんぜい、藤原通憲(ふじわらのみちのり))

 協力して、 保元の乱(ほうげんのらん)を 起こし、勝

 利を得る。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

● 後白河天皇は、 藤原 忠通、信西(藤原通憲)と協

 力し、 崇徳上皇(すとくじょうこう)や左大臣・藤原 頼

 (ふじわらのよりなが)と敵対して、 保元の乱(11

 56年7月)を起こし、勝利を得る。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

● 後白河天皇は、 保元の乱の勝利後、朝廷の政務

 の実権を握り、更に 日本の政治の実権を握り、11

 58年まで、 天皇親政政治を行う。

 

■ 後白河天皇は、1158年に、 皇位を皇子の守仁

 (もりひと)親王(二条天皇)に譲り、上皇となったが、 

 二条天皇は、即位後天皇親政を強く望み、後白河天

 皇は、 二条天皇やその支持者・臣下と対立し、朝

 廷の政治の実権を全面的に握れず、 院政がうまく

 いかなかった。 それが、平治の乱発生の一因とな

 る。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 後白河上皇 は、 台頭してきた武家に対し、朝廷

 や公家の勢力維持に努めた。

 

■ 後白河天皇 は、1158年に譲位し、後白河上皇と

 なり、 後白河上皇は、譲位後、二条(にじょう)天皇、

 六条(ろくじょう)天皇、高倉(たかくら)天皇、安徳(あ

 んとく)天皇、後鳥羽(ごとば)天皇の5朝にわたり、院

 政(1158〜1192年)を行う。 

   但し、後白河上皇は、 院政期(1158〜1192年)

 に、 朝廷の政治の実権を握れなかったり、握れたりと

 変動し、 二条天皇、伊勢平氏、河内源氏に阻(はば)

 まれ、日本の政治の実権を、独占的に握(にぎ)れなか

 った。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 後白河上皇 は、崇仏の念(ねん)が厚く(仏教を厚

 く信仰し)、造寺造仏を行い、熊野参詣を行い、「梁塵

 秘抄(りょうじんひしょう)」(平安時代末期の流行歌謡

 集、20巻)の編者でもあった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 後白河上皇の一族(家族・親族)。

■ 後白河上皇の父は、 鳥羽上皇(とばじょ

  うこう)である。

■ 後白河上皇の生母は、 藤原 璋子 (ふ

  じわらのしょうし・たまこ、待賢門院(たいけ

  んもんいん)、鳥羽上皇の正室夫人(中宮)) 

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ 後白河上皇の夫人は、 平 滋子(たいら

  の しげこ) で、 後に建春門院 (けんしゅ

  んもんいん)と称される。 平時子(たいらの

  ときこ)の異母妹 である。

■ 後白河上皇の子は、 二条(にじょう)天皇 

  高倉(たかくら)天皇、 以仁王(もちひとお

  う) などである。

■ 後白河上皇の孫は、 六条(ろくじょう)天皇

  (= 二条天皇の皇子)、 安徳(あんとく)天

  (= 高倉天皇の皇子)、 後鳥羽(ごとば)

  天皇(= 高倉天皇の皇子、後鳥羽上皇) な

  どである。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ 後白河上皇の同母兄は、 崇徳(すとく)天

  である。 後白河上皇の同母姉は、 上西

  門院統子(じょうせいもんいんむねこ)である。

 

 

◆ 平安時代後期・鎌倉時代前期の

   歴代天皇一覧。

■ 日本の平安時代後期・鎌倉時代前期の

  天皇の皇位継承順は、 

  白河(しらかわ)天皇 ⇒

  堀河(ほりかわ)天皇 ⇒ 

  鳥羽(とば)天皇 ⇒ 

  崇徳(すとく)天皇 ⇒ 

  近衛(このえ)天皇 ⇒ 

  後白河(ごしらかわ)天皇 ⇒ 

  二条(にじょう)天皇 ⇒ 

  六条(ろくじょう)天皇 ⇒ 

  高倉(たかくら)天皇 ⇒ 

  安徳(あんとく)天皇 ⇒ 

  後鳥羽(ごとば)天皇 ⇒ 

  土御門(つちみかど)天皇 ⇒ 

  順徳(じゅんとく)天皇 ⇒ 

  仲恭(ちゅうきょう)天皇 ⇒ 

  後堀河(ごほりかわ)天皇 ⇒ 

  四条(しじょう)天皇 ⇒ 

  後嵯峨(ごさが)天皇 

  の順である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

◆ 平安時代後期の歴代天皇一覧。

■ 天皇の皇位継承順は、次の通りである。

@ 白河(しらかわ)天皇    (貞仁(さだひと)親王) ⇒

  (天皇在位、1072年〜1086年)

A 堀河(ほりかわ)天皇    (善仁(たるひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1086年〜1107年)

B 鳥羽(とば)天皇       (宗仁(むねひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1107年〜1123年)

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

C 崇徳(すとく)天皇      (顕仁(あきひと)親王)  ⇒

  (天皇在位、1123年〜1141年)

D 近衛(このえ)天皇     (体仁(なりひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1141年〜1155年)

E 後白河(ごしらかわ)天皇 (雅仁(まさひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1155年〜1158年)

F 二条(にじょう)天皇     (守仁(もりひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1158年〜1165年)

G 六条(ろくじょう)天皇    (順仁(のぶひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1165年〜1168年)

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

H 高倉(たかくら)天皇    (憲仁(のりひと)親王)  ⇒ 

  (天皇在位、1168年〜1180年)

I 安徳(あんとく)天皇      (言仁(ときひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1180年〜1185年)

J 後鳥羽(ごとば)天皇    (尊成(たかひら)親王)

  (天皇在位、1183年〜1198年)

 

■ 上皇 (じょうこう) とは、 譲位した(退位した)天皇

 (元天皇)で、 法皇(ほうおう) とは、仏門に入った上

 皇 である。

■ 院政 とは、天皇を後見(こうけん)しながら上皇が

 朝廷の実権をにぎる政治形態 である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 後白河上皇は、平安時代末期の天皇上皇である。

■ 後白河上皇 (ごしらかわじょうこう)は、 生没年は、

 1127年〜1192年であり、 別名は、後白河院(ご

 しらかわいん)とも言う。 英名は、the retired 

 Emperor Goshirakawa である。

■ 後白河上皇 は、鳥羽上皇(とばじょうこう)の皇子

 (みこ) である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 雅仁親王 (まさひとしんのう) は、1155年に即位

 し、後白河天皇(天皇即位、1155年〜1158年)とな

 り、 1158年に譲位して(退位して)、 後白河上皇

 (1158年〜1192年)となる。

■ 後白河上皇 は、 1169年に出家して法皇(ほうお

 う)となる (後白河法皇 (1169年〜1192年))。

 

 

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♪♪ 後白河法王が登場する、興味深い

        関連 ドキュメンタリー、ドラマ、映画。 

 

 ★ 後白河法王が登場する、興味深い

    関連ドキュメンタリー。 

 

 ■ にっぽん!歴史鑑定 

   『 源平を操った後白河法皇 』。

     (TBSテレビ・ 2017年11月27日・

      本放送・歴史ドキュメンタリー番組)。

  ■ 後白河上皇(天皇、法王)を詳細に述べる

  ■ 平安時代後期の政治状況、時代状況や活

     躍した人々を詳細に述べる

 

 ■ 歴史秘話ヒストリア 

  『 私たち、草食系武士です。 

    〜新・平家家族物語〜 』。

   (NHKテレビ・ 2009年(平成21年)

   12月16日・本放送、第27回)。

 

 ■ 後白河上皇述べる

 

 

 ★ 後白河法王が登場する、興味深い、

    関連ドラマ、映画。

 

   ● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

     歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

     と 架空の出来事が混じって描かれています。

     また、 現代風にアレンジしてあります。

 

 ■ 『 平清盛 (たいらのきよもり) 』 。 

     (NHKテレビの2012年大河ドラマ、

      全50話)。

 

  ■ 後白河法王 (後白河上皇、後白河天皇、

    雅仁親王(まさひとしんのう)描く

  ■ 平安時代後期を描いたドラマで、平安時

    代後期に活躍した人物、当時の時代状況

    を描く

  ■ 平清盛の生涯を描く

 

  ● 後白河上皇を演じた俳優名: 松田 翔太。

 

  ● 後白河上皇・夫人の平 滋子(たいらの

    しげこ、建春門院) を演じた女優名 : 

    成海璃子。

  ● 平 清盛 を演じる俳優名: 松山 ケンイチ。

 

 

 ■ 『 義経 (よしつね) 』 。 

    (NHKテレビ・2005年大河ドラマ)。

● 古代日本の平安時代後期を描いたドラ   

  マで、 源 義経(みなもとのよしつね)の

  生涯 や、 平安時代末期の色々な武士

  の活躍を描いたドラマ です。

● 源 義朝を演じた俳優名 : 加藤 雅也。

● 平 清盛を演じた俳優名 : 渡 哲也。

● 常盤御前(ときわごぜん、源 義朝 の側

  室夫人)を 演じた女優名 : 稲森 いずみ。

● 後白河上皇 を演じた俳優名: 平 幹二朗。

 

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#go

 

■ 号 

      (ごう)。

 

■ 号。

■ 時期 : 古代日本 〜 近世日本の時期頃 

  (大和時代(古墳・飛鳥白鳳時代) 〜 江戸時代頃)。

■ 名称 : (前近代日本の) 号 (ごう)。

 人生の転機や隠居時などに称した前近代の個人名 。

 前近代日本の、個人名の1つ。

 

 

■ 号 (ごう) とは、 前近代日本では、 個人名の1つで、 人生の転機や

 隠居時などに称する前近代の個人名  である。

 

■ 前近代の日本では、 人生の転機や隠居時などに、 個人名(「名(な)」)

 の「諱(いみな)の実名 」を、音読みや僧侶風・文化人風の「号(ごう)」と呼

 ばれる個人名(「名(な)」)に改める風習もあった。

● 例えば、幕末、明治初期に活躍した、越前藩主の松平慶永(まつだいらよ

 しなが)が、 松平春嶽(しゅんがく)の「春嶽」という号を持った。 また、 土

 佐藩主 の山内豊信(やまうちとよしげ)は、 山内容堂(ようどう)の「容堂」

 という号を持った。 幕臣で海軍奉行の勝麟太郎(かつりんたろう) は、 勝

 海舟の、「海舟」という号をもった。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 文化人の雅号もあった。 安土桃山時代活躍した絵師(えし)、狩野永徳

 (かのうえいとく)の「永徳」、 江戸時代に活躍した俳人(はいじん)、 松尾

 芭蕉(まつおばしょう)の「芭蕉」、 江戸時代に活躍した文学者、国学者、の

 上田秋成(うえだあきなり、1734〜1809年)の「秋成」 などである。

 

 

■ 日本では、前近代と現代の氏名を比較すると、 

  前近代の一族名(「氏(うじ)」)には、 氏姓 (し

  せい)、 名字 (みょうじ)、 屋号 (やごう) 等

  があり、 また、 前近代の個人名(「名(な)」)

  には、  (いみな、実名)、 通称 (あだ名)、 

   (ごう)、  律令官名 (りつりょうかんめい)、 

  法名 (ほうみょう) 等があった。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 前近代日本の人名。

■ 前近代日本の上層階層の日本人成人男性 

  は、 現代日本人の名字と名のワンパターン

  構成の氏名ではなく、 「複数パターン(組合

  せ)構成の氏名」 を持っていた。

 一族名 (氏(うじ)) + 個人名 (名(な)) 

  の組み合わせ。

 @ 「 名字(みょうじ) + 通称(つうしょう)」。  

   A 「 名字 + 律令官名(りつりょうかんめい) 」 。 

   B 「 氏姓(しせい)の氏族名・姓(かばね) + 

     諱(いみな)の実名 」。 

   C 「 名字 + 諱(いみな)の実名 」。 

   D 「 名字  (ごう) 」。

     E 「 名字 + 法名(ほうみょう) 」(後世の呼び名)。

   F 「 屋号(やごう) + 通称 」。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ (例) 戦国大名の織田 信長 (おだ のぶなが) 

   の場合。 

  @ 「 織田 三郎 」(おだ さぶろう)、 

  A 「 織田 弾正忠  」(おだ だんじょうのちゅう)、

  B 「 平 朝臣 信長 」(たいらの あそん のぶ

    なが)、 

  C 「  織田 信長 」(おだ のぶなが) 

   等の氏名を持っていた。 

 現在の正式名の C 「 名字+諱(いみな)の

  実名 」パターンの 呼び方、 C 「 織田 信長 」

  と呼ばれるケース は、 当時は、少なかった。

■ (例) 越前藩主の松平 慶永 (まつだいら よ

  しなが) の場合。 

   D 「  松平 春嶽 」(まつだいら しゅんがく) 

  等の氏名を持っていた。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ (例) 戦国大名の上杉 謙信 (うえすぎ けん

  しん) の場合。 

 法名 「不識庵(不識院)謙信」 より 謙信をと

  って、 E 「 上杉 謙信 」 (うえすぎ けん

  しん) と後世の人に呼ばれた。 

 当時は、俗世の名字と法名(ほうみょう)を一緒

  に呼ぶことはなかった。

    本人は、当時は、「 不識庵(不識院)謙信 」

  と称していた。

■ (例) 豪商の茶屋 四郎次郎 (ちゃや しろうじ

  ろう) の場合。 

  F 「 茶屋  四郎次郎 」(ちゃや しろうじろう) 

  等の氏名を持っていた。

 

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#kobayakawahideaki

 

■ 小早川 秀秋  

     (こばやかわ ひであき)。

 

■ 小早川 秀秋

■ 生没年 : 1582年ー1602年。 

■ 名称 : 小早川 秀秋 (こばやかわ ひであき)。 

● 初め、木下辰之助、木下秀俊(ひでとし)と称し、 

  豊臣(羽柴)秀吉の養子になり、羽柴 秀俊

  (はしば ひでとし)、豊臣 秀俊と称した。

  その後、小早川 隆景の養子となり、小早川

   秀秋と称した。  関が原の戦い(1600年)後、

   小早川秀詮 と称す。

● 筑前中納言、 小早川 金吾、 金吾中納言 

  とも称された。 

● 別名: 金吾(きんご)。 秀秋が、左衛門督

  (唐名、金吾)の官位に叙任されていたことから。

■ 官位 : 従三位、 権中納言(ごんちゅうなご

  ん)。 左衛門督。

■ 関が原の戦いに参戦する。

■ 安土桃山時代の武将、大名。

■ 豊臣秀吉の正室(夫人)・「ねね(おね)」の兄の

  子。

■ 豊臣秀吉の正室・ねね(おね、北政所、高台院)

  の甥。 

■ ねね(北政所、高台院)の兄の木下(杉原)家定 

  の男子。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

□ 「新説 (史実)関ヶ原の戦い(= 大垣・

   山 中の戦い)」 画像アルバム 

   No.2

□ 「従来説(伝説)関ヶ原の戦い」画像

   アルバム No.3 

□ 小早川 秀秋が登場する、興味深い、

   ドキュメンタリー、ドラマ、映画

 

 

◆ 小早川 秀秋。

 小早川秀秋(こばやかわひであき)は、1600

  年(慶長5年)の、関ヶ原の戦いに参戦し、

  関ヶ原の西南方向の、松尾山(まつおやま)に、

  本陣(陣地)を置いた。 

              

 関ヶ原の戦いでは、 西軍の小早川秀秋は、 

  1600年(慶長5年)9月14日に、関ヶ原の西

  南方向の、松尾山(まつおやま)に布陣する西

  軍の伊藤盛正(いとうもりまさ)を追いだし、

  松尾山 の山頂に本陣 (陣地)にを置く。 

 

 

◆ 「新説の関ヶ原の戦い(= 大垣・

  山中の戦い)」と小早川 秀秋

 

 「新説関ヶ原の戦い」と決戦。

■ 一次史料に基づく「新説の関ヶ原の戦い(= 大

  垣・山中の戦い)」(1600年(慶長5年)8月26

  日頃ー9月15日)では、西軍(奉行衆方)南宮

  の 大垣城後詰軍の毛利勢が東軍の徳川方

  から攻撃を受け敗北すると西軍(奉行衆方)が

  駐留する大垣城が孤立し不利となるので、大垣

  城に駐留していた西軍の奉行衆・毛利方の小西・

  宇喜多・石 田・島津勢等の軍は、1600年(慶長

  5年)9月15日に予想される東軍の徳川方によ

  る南宮山の西軍の奉行衆・毛利方の毛利勢へ

  の攻撃に備えて(の後詰として)、1600年(慶長

  5年)9月14日の日没後、大垣城を出て、関ヶ原

  盆地・山中(やまなか)方面へ向い、 西軍の奉

  行衆・毛利方の小西・宇喜多・石 田・島津勢等

  の西軍主力軍・約3万人の兵は、9月15日の午

  前4時頃、 山中(やまなか)付近に布陣し、その

  後、 1600年(慶長5年)9月15日の午前10時

  頃から正午頃まで、 西軍主力軍を追って大垣付

  近から移動してき東軍の徳川方の東軍主力軍・

  約5万1000人の兵と山中で決戦を行い、敗北す

  る。

 

 小早川秀秋。

■ 「大垣・山中の戦い(= 新説の関ヶ原の戦い)」

  では、 西軍(奉行衆・毛利方) の小早川秀秋は、

  東軍(徳川方)に寝返る。 

 

■ 西軍(奉行衆・毛利方)の小早川秀秋は、 16

  00年(慶長5年)9月14日に、関ヶ原盆地の南

  西方向の、松尾山(まつおやま)に布陣する西

  軍(奉 行衆・毛利方)の伊藤盛正(いとうもりま

  さ)を追いだし、松尾山山麓に布陣する。 

     1600年(慶長5年)9月15日の夜明けに、

  関ヶ原盆地南西部で、東軍(徳川方)の徳川本隊

  が、西軍(奉行衆・毛利方) の大谷軍を攻撃してい

  る時、 西軍(奉行衆・毛利方)の小早川秀秋は、

  東軍(徳川方)に寝返り、大谷軍を攻撃し、挟み撃

  ちにして、大谷軍を全滅させる。

 

 「新説関ヶ原の戦い」と「山中の戦い」。

 ■ 新説関ヶ原の戦いの「山中(やまなか)戦い」では、 

   第1段階では、1600年(慶長5年)9月 15日の夜

   明けに、関ヶ原盆地南西部に布陣する西軍の奉

   行衆・毛利方の先方隊・大谷吉継軍を、大垣付近

   から移動して来た東軍の徳川方の徳川本隊と松

   尾山麓布陣の西軍の奉行衆・毛利方で東軍寝返

   りの小早川秀秋(こばやかわひであき)の軍が挟

   み撃ちにして全滅させ、 その後、第2段階では、

   9月15日の午前10時頃より、大垣付近から来た

   東軍の徳川方の、先手衆・福島勢と徳川本隊の

   東軍主力軍が、山中村に布陣する宇喜多秀家、

   石田 三成等の率いる西軍主力軍と決戦を行い、

   正午頃に西軍主力軍が総崩れとなり、 西軍

   奉行衆・毛利方の主力軍は、最終的に、徳川家

   の率いる東軍の徳川方の主力軍に敗北した。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 「新説関ヶ原の戦い」の決戦時の

   石田三成の動き。

 ■ 石田三成は、 1600年(慶長5年)9月14

  日の日没後に、大垣城から出て、以前から築い

  ておいた、山中(やまなか)付近の藤下(と う

  げ、関ヶ原盆地の笹尾山から南3km)の自害

  峯(じがいみね)という場所に午前4時頃、

  陣し、石田三成は、その後、他の西軍の諸将

  と合流するため、自害峯のすぐ近くの山中(や

  まなか)に移動し、大垣付近から移動してくる

  かもしれない東軍の徳川方の東軍主力軍 や 

  裏切るかもしれない松尾山山麓に布陣する西

  軍(奉行衆方)の小早川秀秋の軍に備える。

 

■ 西軍(奉行衆方)の小早川秀秋は、 1600年

  (慶長5年)9月14日に、関ヶ原盆地南西部に

  近い、松尾山 山麓に布陣する。

     1600年(慶長5年)9月15日の夜明けに、

  関ヶ原西南部で、東方から移動してきた東軍 の

  徳川方の徳川本隊が、西軍(奉行衆方)の大谷

  軍を攻撃した時、西軍(奉行衆方)の小早川秀

  秋は、東軍(徳川 方)に寝返り、南側から大谷軍

  を攻撃し、挟み撃ちにして、大谷軍を全滅させる。

 

 

 

 

◆ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」

   と小早川 秀秋

■ 小早川 秀秋 は、安土桃山時代の武将、大名で、 

  「従来説(伝説)関が原の戦い」で、決戦の勝敗の

  鍵(かぎ)を握った武将である。

■ 「従来説(通説)の関ヶ原の戦い」(1600(慶長5

  年)午前8時頃〜午後2時頃)では、 西軍の小早

  川秀秋は、 1600(慶長5年)年9月14日に、

  関ヶ原の西南方向の、松尾山(まつおやま)山頂

  に本陣(陣地)を置き、 1600年(慶長5 年)9月

  15日の関ヶ原の戦いの決戦(午前8時頃〜午後

  2時頃)では、正午頃まで、決戦の合戦を静観す

  る。

     関ヶ原の陣場野(じんばの、家康第2陣地)

  に布陣する東軍の徳川家康が、正午頃、 松尾

  山山頂に布陣する西軍の小早川秀秋に問鉄砲

  (とい てっぽう)を行い、西軍の小早川秀秋は、

  東軍に寝返り、東軍は、関ヶ原盆地の決戦の

  戦で有利となった

 

 

◆ 小早川 秀秋。

■ 小早川 秀秋は、 豊臣秀俊(ひでとし)と呼ばれ豊臣秀吉の養子で

 あったが、 淀殿が拾(ひろい、豊臣秀頼)を出産後、 豊臣家本家から

 豊臣秀吉により排除され、 他家(小早川隆景)に養子に出された。

 

■ 豊臣秀吉は、 57歳で、切望の跡継ぎの、実子の拾(ひろい、豊臣

 秀頼)を得た。 豊臣秀吉 は、 淀殿が秀吉の実子の拾(ひろい、豊臣

 秀頼)を出産した後、 実子の拾(豊臣秀頼)を将来脅かしそうな既にい

 た豊臣秀吉の養子を豊臣家本家から排除するため、 秀吉の養子の

 関白の豊臣秀次(ひでつぐ、秀吉の姉の子)を自刃(じじん、自害)させ、

 秀吉の養子の豊臣秀俊(ひでとし、小早川秀秋、ねねの兄の子)を他家

 (小早川隆景(たかかげ))に養子に出した。

 

■ 小早川 秀秋 (こばやかわ ひであき、 生没年 : 1582〜1602

 ) は、  初め、木下辰之助、木下秀俊(ひでとし)と称し、 豊臣(羽

 柴)秀吉の養子になり、羽柴 秀俊(はしば ひでとし)、豊臣秀俊と称す。

 その後、小早川 隆景の養子となり、小早川 秀秋と称した。 関が原の

  戦(1600年)後、小早川秀詮 と称す。

● 小早川 秀秋 は、 筑前を領有したため筑前中納言、 左衛門督を

 兼ねたことから小早川 金吾、 金吾中納言 とも称された。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

◆ 小早川 秀秋。

■ 小早川 秀秋 の官位は、 従三位、 権中納言(ごんちゅうなごん)

 で、 左衛門督 である。

■ 豊臣秀吉は、小早川 秀秋の叔父(おじ) で、 小早川 秀秋 は、 

 豊臣秀吉の正室・ねね(おね、北政所、高台院)の甥で、 ねね(おね、

 北政所、高台院)の兄の木下家定の男子 である。

 

■ 小早川 秀秋 (こばやかわ ひであき) は、 初め、叔父である豊臣

 秀吉の養子となり、 後、小早川隆景の養子となる。

 

■ 小早川 秀秋 (こばやかわ ひであき) は、 慶長の役(けいちょうの

 えき)では、 総大将として、 朝鮮半島へ渡る。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 小早川 秀秋 は、 関が原の戦で、勝敗の鍵(かぎ)を握った武将で、

 関が原の戦で、 石田三成側の西軍に属したが、徳川家康側の東軍に

 内通して、 東軍に寝返(ねが)えり、 東軍を勝利に導いた。 

● 小早川 秀秋 は、 この功により、 徳川家康より、50万石を与えら

 れ、 備前国岡山に居城した。

 

◆ 小早川 秀秋。

■ 小早川 秀秋 (こばやかわ ひであき) は、生没年は 1582〜160

 年  である。 

● 小早川 秀秋 は、 初め、木下辰之助、木下秀俊(ひでとし)と称し、 

 豊臣(羽柴)秀吉の養子になり、羽柴 秀俊(はしば ひでとし)、豊臣 秀

 俊 と称した。 その後、小早川 隆景の養子となり、小早川 秀秋と称

 した。   関が原の戦(1600年)後、小早川秀詮 と称す。

● 小早川 秀秋 は、 筑前中納言、 小早川 金吾、 金吾中納言 とも

 称された。 

● 小早川 秀秋 は、別名は、 金吾(きんご) と呼ばれる。 秀秋が、

 左衛門督(唐名、金吾)の官位に叙任されていたことから。

■ 小早川 秀秋 は、官位は、 従三位、 権中納言(ごんちゅうなごん)

 で 左衛門督 であった。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 小早川 秀秋 は、関が原の戦いで、 勝敗の鍵(かぎ)を握った武将

 である。

■ 小早川 秀秋 は、 安土桃山時代の武将、大名である。

■ 小早川 秀秋 は、 豊臣秀吉の正室(夫人)・ねねの兄の子で、。

 豊臣秀吉の正室・ねね(おね、北政所、高台院)の甥(おい) である。 

■ 小早川 秀秋 は、 ねね(北政所、高台院)の兄の木下 (杉原)家定

 の男子 である。

 

 

#kobayakawahideaki-appearingscenes

 

♪♪ 小早川秀秋が登場する、 興味深い

    ドキ ュメンタリー、ドラマ、映画。 

 

 小早川秀秋 が登場する、興味深い、

   ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

     歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実)

  と 架空の出来事が 混じって描かれています。

  また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 真田丸 (さなだまる) 』 。  

   (NHKテレビ・2016年大河ドラマ)。

 日本の安土桃山時代や江戸時代初期の時

  代を描く。

● ドラマで「小早川 秀秋(豊臣秀俊) (こばや

  かわ ひであき(とよとみひでとし)、おね(ね

  ね)の兄・木下家定の子) を演じた俳優名 : 

  浅利 陽介 (あさり ようすけ)。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』 。 

   (NHKテレビ・2011年大河ドラマ) 

 

■ 『 天地人 (てんちじん) 』 。 

   (NHKテレビ・2009年大河ドラマ)。 

● 小早川秀秋 を演じる俳優名 : 上地 雄輔。

 

■ 『 功名が辻 (こうみょうがつじ) 』 。 

   (NHKテレビ・2006年大河ドラマ)。

 

■ 『 戦国自衛隊 関が原の戦い 

     (せんごくじえいたい せきがはらのた

     たかい) 』。 

    (日本テレビ・2006年制作テレビドラマ)。

● 小早川秀秋 を演じた俳優名 : 藤原 竜也。

 

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#theimperialfamilymembers

 

■ 皇族  

     (こうぞく)。

 

■ 皇族。 

■ 名称 : 皇族 (こうぞく)。

■ 《天皇家》。

■ = 天皇の親族。 

■ 当日本史辞典の 天皇家」、皇子、王、女王、

  親王、内親王、女院上皇、法王、准母、正室

  夫人、皇后、中宮女御」も参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 81925。

 

 

■ 皇族 (こうぞく)とは、  天皇の親族である。

 

■ 王(おう)とは、皇族の男子であり、 女王(じょ

   おう)とは、皇族の女子である。 

 

■ 皇子(みこ)とは、 天皇の子であり、天皇の男

  性皇子や女性皇子(= 皇女)である。 

 

■ 上皇(じょうこう)とは、  前天皇であり、 法王

  とは、出家した前天皇である。

 

■ 准母 (じゅんぼ)は、 天皇の形式上の義母

  である。

 

 

■ 前近代日本の、天皇の正室夫人

  (皇后、中宮女御)

■ 前近代日本では、天皇の正室夫人は複数であり、

  上位から、 第1番目の身分の、皇后(こうごう)、

  第2番目の身分の、 中宮(ちゅうぐう)、第3番目

  の身分の、 女御(にょうご) の正室夫人がいた。

 

■ 前近代日本の、女院

■ 女院(にょいん)とは、 前近代日本で、朝廷より、

  女院号宣下(にょいんごうせんげ)され、院(上皇、

  元天皇)に準ずる待遇を受けた女性である。

 

■ 前近代日本の、親王と親王。

■ 前近代日本(奈良〜江戸時代)の、親王と内親王。 

    前近代日本 (奈良〜江戸時代)では、親王、内

  親王になるには、 親王宣下、内親王宣下が必要

  であった。

 

 

■ 親王と王。

■ 前近代日本の、親王と王。

     前近代日本(奈良〜江戸時代)の親王(しん

  のう)とは、親王宣下を受けた男性皇族であり、

  主 に天皇の男性皇子や兄弟である。 

      一方、前近代日本(飛鳥〜江戸時代)の

  (おう)とは、男性皇族である。 

● 前近代日本(奈良〜江戸時代)の、親王と王。

     前近代日本の奈良時代から江戸時代までは、

  大宝令の律令制以後は、親王宣 下(しんのうせん

  げ)を受けた男性皇族  (主に天皇の男性皇子(み

  こ)や兄弟)を、親王( しんのう)と呼び、 それ以

  外の男性皇族(親王宣下がない男性皇族)で、天

  皇より5世以下の皇族男子を王(おう)と呼ぶ場合

  がある。

     〈王(おう)の例〉 天皇の孫(まご)、曾孫(ひま

   ご)の男子。

             

■ 近現代日本(明治時代〜現在)の、親王。

     近現代日本では、前近代の親王宣下の制を廃

   止し、皇室典範により、近代日本(明治・大正・ 昭和

  戦前時代)では、天皇の子より皇玄孫に至る4世ま

  での男性が親王であり、現代日本(昭和戦後・平成

  時代)では、天皇の子・孫までの男性が親王である。

 

 

■ 内親王と女王。

■ 前近代日本の、親王と女王。

     前近代日本(奈良〜江戸時代)の内親王(ない

  しんのう)は、内親王宣下を受けた皇族であり、 主に、

  天皇の女性皇子 や姉妹である。 

      一方、前近代日本(飛鳥〜江戸時代)の女王

  (じょおう)とは、 女性皇族である。 

● 前近代日本(奈良〜江戸時代)の、親王と女王。

      前近代日本の奈良時代から江戸時代まで

   は、大宝令の律令制以後は、内親王 宣下(ない

   しんのうせんげ)を受けた皇族女子 (主に天皇の

   女性皇子(みこ、皇女)や姉妹)を、内親王(ない し

   んのう)と呼び、 それ以外の皇族の女子(内親王宣

   下がない皇族女子)を女王 (じょおう)と呼ぶ場合

   がある。 

     〈女王(じょおう)の例〉 天皇の孫(まご)、曾孫

   (ひまご)の女子。

 

■ 近現代日本(明治時代〜現在)の、内親王。

      近現代日本では、前近代の内親王宣下の制を

    廃止し、皇室典範により、近代日本(明治・ 大正・

   昭和戦前時代)では、天皇の子より皇玄孫に至る

   4世までの女性皇族が内親王(ない しんのう)であり、 

   現代日本(昭和戦後・平成時代)では、天皇の子・孫

   までの女性皇族が内親王である。

         

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#gotairo

 

■ 五大老  

     (ごたいろう)。

 

■ 五大老。 

■ 名称 : 五大老 (ごたいろう)。

■ 別名 : 豊臣氏五大老。

■ 時期 : 1598ー1600年 (桃山時代)。

■ 《役職名》。

■ 豊臣政権の職制。

■ 豊臣政権の最高権威をもつ職名。

■ 豊臣秀吉(とよとみひでよし)が晩年に設けた職制で、

  1598年(慶長3年)に設置。

■ 徳川家康(とくがわいえやす)、 前田利家(まえだと

  しいえ)、 毛利輝元(もうりてるもと)、 宇喜多秀家

 (うきたひでいえ)、 上杉景勝(うえすぎかげかつ) の

 5人の大名。 

■ 当日本史辞典の 『 五奉(ごぶぎょう)、豊臣氏五

  大老・五奉行大老豊臣政権豊臣氏 』も参照して

  ください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 72332。

 

□ 関ヶ原 画像アルバム  No.1

                   

 

■ 五大老 (ごたいろう、1598年−1600年)は、 豊臣

  政権の(役)職名の通称である。

             

■ 五大老は、 豊臣秀吉死去直前の、1598年(慶長3年)

  に成立し、 徳川家康前田利家毛利 輝元宇喜多 (う

  きた)秀家上杉景勝の5名が就任した。

             

■ 五大老は、 五奉行(ごぶぎょう)の上位に位置づけら

  れ、 五大老と五奉行の10人で、豊臣氏を代表して、

  国政全般を担当すべきものとされた。

    しかし、五大老は、 1599年(慶長4年)に前田利

  家の死去により子の利長が跡を継ぎ、 1599年(慶長

  4年)に前田利長と上杉景勝が 帰国し、次第に徳川家

  康の独断専行となり、 1600年(慶長5年)の関ヶ原の

  戦いの徳川方西軍の勝利により、解体した。

 

■ 豊臣氏五大老・五奉行 (とよとみしごた いろう・ごぶ

  ぎょう、1598年−1600年)は 、 豊臣秀吉によって、

  豊臣秀吉死去直前の、1598年(慶長3年)に成立し、 

  豊臣氏を支える政治機構として形成され、豊臣政権

  公儀制を維持しようとした。 五大老五奉行の10人

  で、豊臣氏を代表して、国政全般を担当すべきものと

  された。

     豊臣氏五大老・五奉行は、 徳川家康(とくがわい

  えやす)、 前田利家(まえだと しいえ)(後、前田利長)、  

  毛利輝元(もうりてるもと)宇喜多秀家(うきたひでい  

  え)、上杉景勝(うえすぎかげかつ) の 5人の五大老  

  と、 石田三成(いしだみつなり)、増田長盛(ましたな

  がもり)、浅野長 政(あさのながまさ)、長束正家(なつ

  かまさいえ)、前田玄以(まえだげんい)の5人の五奉行 

  である。

 

 

■ 五大老 (ごたいろう)は、 豊臣政権の最高権威をも

  つ職名であり、 豊臣秀吉が晩年に設けた職制であり、

  1598年(慶長3年)に設置した。

 

■ 徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景

 勝の5人の大名が、 豊臣秀吉により、 五大老に任じら

 れた。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 五大老 は、 五奉行 (ごぶぎょう) の上位にあって 

 (五奉行の後見として)、 豊臣政権で、 重要政務を合

 議した。

 

■ 五大老 (ごたいろう)は、 徳川家康の勢力拡大とと

  もに、有名無実となり、 関が原の戦い以後、廃止され

  た。

● 五大老 は、1599年の前田利家死後、徳川家康が中

  心となり、 1600年の関が原の戦い後、崩壊した。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

♪♪ 五大老(ごたいろう)五奉行が登場する興味

   深い、ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 五大老が登場する、興味深い関連ドラマ、映

   画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実)

  と 架空の出来事 が混じって描かれています。

  また、現代風にアレンジしてあります。

   

■ 『 真田丸 (さなだまる) 』 。  

   (NHKテレビ・2016年大河ドラマ)。

 日本の安土桃山時代や江戸時代初期の時代

  を描く。

 五大老、五奉行を描く。

 

■ 『 軍師 官兵衛 』。 

   (NHKテレビ・2014年大河ドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

 五大老、五奉行を描く。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』。

      (NHKテレビ・2011年大河ドラマ) 

■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土

  桃山時代、江戸時代初期を描いたドラマ。

 五大老、五奉行を描く。

 

■ 『 天地人 (てんちじん) 』 。 

   (NHKテレビ・2009年大河ドラマ) 。

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

 五大老、五奉行を描く。

 

● 徳川家康を演じる俳優名 : 松方 秀樹。

● 前田利家を演じる俳優名 : 宇津井 健。

● 毛利輝元を演じる俳優名 : 中尾 彬。

● 宇喜多秀家を演じる俳優名 : 。

● 上杉景勝を演じる俳優名 : 北村 一輝。

 

   

  ○ ドラマ「天地人」の書籍販促PRフォト。

 

■ 『 茶々 天涯の貴妃 (ちゃちゃ

     てんがいのおんな) 』。 

    (日本の2007年制作・東映映画)。 

■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土

  桃山時代、江戸時代初期を描いたドラマ。

 大坂夏の陣で、真田幸村が戦うシーンが、登

  場します。

 豊臣大阪城の炎上のシーンが出てくる。

● 真田幸村(信繁)を演じた俳優名 : 

   黄川田将也。

 

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#gobugyo

 

■ 五奉行 

       (ごぶぎょう)。

 

■ 五奉行。

■ 名称 : 五奉行 (ごぶぎょう)。

■ 別名 : 豊臣氏五奉行。

■ 時期 : 1598ー1600年 (桃山時代)。

■ 《役職名》。

■ 豊臣政権の職制。

■ 豊臣政権の職名。

■ 豊臣秀吉(とよとみひでよし)が晩年に設けた職制で、

  1598年(慶長3年)に設置。

■ 五奉行は、 石田三成増田長盛浅野長政長束

   正家前田玄以 の五名。

■ 当日本史辞典の 『 豊臣氏五大老・五奉行、 奉行、

  五大老(ごたいろう)、大老豊臣政権豊臣氏 』も参

  照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 72333。

 

□ 関ヶ原 画像アルバム  No.1

 

 

■ 五奉行 (ごぶぎょう、1598年−1600年)は、 豊臣

  政権の(役)職名の通称である。

             

■ 五奉行は、 豊臣秀吉死去直前の、1598年(慶長3年)

     7月に成立し、石田三成、増田(ました)長盛、浅野長政、

  長束(なつか)正家、前田玄以の5名が就任した。

 

■ 五奉行は、五大老(ごたいろう)の下位に位置づけられ、 

  五大老と五奉行の10人で、豊臣氏を代表して、国政全

  般を担当すべきものとされた。

     しかし、五奉行は、1599年(慶長4年)の浅野長政、

  石田三成の隠退、蟄居(ちっきょ)によって弱体化し、16

     00年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの徳川方西軍の勝利

     により、解体した。

 

■ 豊臣氏五大老・五奉行 (とよとみしごた いろう・ごぶ

  ぎょう、1598年−1600年)は 、 豊臣秀吉によって、

  豊臣秀吉死去直前の、1598年(慶長3年)に成立し、 

  豊臣氏を支える政治機構として形成され、豊臣政権

  公儀制を維持しようとした。 五大老五奉行の10人

  で、豊臣氏を代表して、国政全般を担当すべきものと

  された。

     豊臣氏五大老・五奉行は、 徳川家康(とくがわい

  えやす)、 前田利家(まえだと しいえ)(後、前田利長)、  

  毛利輝元(もうりてるもと)宇喜多秀家(うきたひでい  

  え)、上杉景勝(うえすぎかげかつ) の 5人の五大老  

  と、 石田三成(いしだみつなり)、増田長盛(ましたな

  がもり)、浅野長 政(あさのながまさ)、長束正家(なつ

  かまさいえ)、前田玄以(まえだげんい)の5人の五奉行 

  である。

 

 

■ 五大老(有力大名)、 豊臣秀吉、 石田三成(秀吉の側

 近)、に関しては、 当日本史辞典の 『 五大老 (ごたい

 ろう)、 豊臣秀吉 (とよとみひでよし)、 石田三成 (いし

 だみつな り) 』 を参照して下さい。

 

■ 五奉行 (ごぶぎょう 1585〜1600年)は、 豊臣政権

 の職名であり、 豊臣秀吉が設けた職制であり、 1598年

  (慶長3年)に設置した。

■ 五奉行は、 石田三成、 増田長盛、 浅野長政、 長束正

  家、 前田玄以 の五名 である。

● 豊臣秀吉は、 子飼いの部下の、その5人に、 豊臣政権の

  重要職務を分担させた。

● 石田三成、 増田長盛、 浅野長政は、 豊臣政権の、民政

  を分担し、 長束正家は、財政を分担し、 前田玄以は、 京

  都市政や寺社の取り締まりを分担し、 大事件は合議で決し

  た。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 武将間では 五奉行の権威は弱く、そのため、豊臣秀吉は、 

  さらに、五大老を設置した。

 

■ 石田三成をはじめ五奉行は、 文治派の大名であり、 福

  島正則、加藤清正をはじめとする武断派の大名 と対立した。

 

 

♪♪ 五奉行が登場する興味 深い、ドキュメ

   ンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 五奉行が登場する、興味深い関連ドラマ、

   映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実)

   と 架空の出来事 が混じって描かれています。

   また、現代風にアレンジしてあります。

   

■ 『 真田丸 (さなだまる) 』 。  

   (NHKテレビ・2016年大河ドラマ)。

 日本の安土桃山時代や江戸時代初期の

  時代を描く。

 五大老、五奉行を描く。

 

■ 『 軍師 官兵衛 』。 

   (NHKテレビ・2014年大河ドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

 五大老、五奉行を描く。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』。

      (NHKテレビ・2011年大河ドラマ) 

■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土

  桃山時代、江戸時代初期を描いたドラマ。

 五大老、五奉行を描く。

 

■ 『 天地人 (てんちじん) 』 。 

   (NHKテレビ・2009年大河ドラマ) 。

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

 五大老、五奉行を描く。

 

   

  ○ ドラマ「天地人」の書籍販促PRフォト。

 

■ 『 茶々 天涯の貴妃 (ちゃちゃ

     てんがいのおんな) 』。 

    (日本の2007年制作・東映映画)。 

■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土

  桃山時代、江戸時代初期を描いたドラマ。

 五大老、五奉行を描く。

 大坂夏の陣で、真田幸村が戦うシーンが、登

  場します。

 豊臣大阪城の炎上のシーンが出てくる。

● 真田幸村(信繁)を演じた俳優名 : 

   黄川田将也。

 

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#konishiyukinaga

 

■ 小西 行長 

       (こにし ゆきなが)。

 

■ 小西行長。

■ 名称 : 小西行長 (こにしゆきなが)。

■ 生没年 : 生年不詳〜1600年。

■ 安土桃山時代の武将、大名。 

■ 豊臣氏の家臣。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 72322。  

 

□ 関ヶ原 画像アルバム  No.1

 

 

■ 小西行長 (こにしゆきなが、生年不詳ー1600年)

  は、堺の豪商・小西立佐(りゅうさ)の子で、 安土桃

  山時代に活躍した武将・大名であり、 キリシタン大

  名であった。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。  

             

■ 小西行長は、 初め宇喜多氏のち豊臣秀吉に仕え、

  1588年(天正16年)に肥後宇土12万石を領した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。  

             

■ 小西行長は、 摂津守(せっつのかみ)、通称・弥九

  郎、洗礼名・アグスチノとも称す。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。  

 

■ 小西行長は、秀吉の天下取りの戦いや朝鮮の役(文

  禄・慶長の役)などの戦いで活躍した。 朝鮮の役に

  出陣し、 明と講和交渉を行う。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。  

 

■ 小西行長は、 1600年(慶長5年)の天下分け目の

  戦い(関ヶ原の戦い、その他)では、石田方西軍に味

  方し(属し)、敗れて、処刑される(斬首される)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。  

 

 

♪♪ 小西行長が登場する興味 深い、ドキ

  ュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 小西行長が登場する、興味深い関連ド

  ラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実)

  と 架空の出来事 が混じって描かれています。

  また、現代風にアレンジしてあります。

   

■ 『 軍師 官兵衛 』。 

   (NHKテレビ・2014年大河ドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

 小西行長の活躍を描く。

 

● 羽柴秀吉(豊臣秀吉)を演じた俳優名:

    竹中 直人。

● 黒田 官兵衛を演じた俳優名: 岡田 准一。

● 安国寺 恵瓊を演じた俳優名 : 山路 和弘

  (やまじ かずひろ)。

 

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#kodaijitemple

 

■ 高台寺  

     (こうだいじ)。

 

■ 高台寺

■ 名称 : 高台寺 (こうだいじ)。

■ 英語名 :  KODAI-JI TEMPLE. 

■ 《寺》。

■ 存在期間 : 1605年(慶長10年)ー現在。

■ おね(ねね)が隠棲した寺。

■ おね(ねね)が豊臣秀吉の冥福を祈るため創建し

  た寺院。

■ 豊臣秀吉、徳川家康に関しては、「豊臣 秀吉」、

  「豊臣 秀 吉ガイドブック」、「徳川 家康」、「徳川

  家康ガイドブック」を 参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 72139。

 

□ 豊臣氏  画像アルバム No.1

□ 関ヶ原 画像アルバム  No.1

         

 

■ 京(都)にある、高台寺 (こうだいじ、1605年ー

  現在は、 おね(ねね)が隠棲(いんせい)した寺

  であり、豊臣 秀吉正室夫人の、おね(ねね)が豊

  臣秀吉の冥福を祈るため創建した寺院である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 豊臣氏関係寺社・墓。 

■ 京(都)東部の方広寺、豊国神社、豊臣

   秀吉の墓、豊国社、豊国廟、高台寺。

■ 京(都)東部(京都市東山区)の茶屋町には、 安土桃山

  時代の1586年(天正14年)より現在まで方広寺(ほうこ

  うじ)があり、 方広寺大仏殿跡地に1880年(明治13年)

  から現在まで豊国神社(とよくにじんじゃ)がある。

     京(都)東部(京都市東山区)の阿弥陀ヶ峰(あみだが

  みね)には、 1598年(慶長3年)より現在まで豊臣秀吉

  の墓があり、 1599年(慶長4年)より1615年(慶長20

  年)まで豊国社(とよくにしゃ)があり、 1898年(明治31

  年)から現在まで豊国廟(ほうこくびょう)がある。

     京(都)東部(京都市東山区)の下河原町には、 16

  05年(慶長10年)より現在まで高台寺(こうだいじ)があ

  る。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 豊国社。 

    豊国社(とよくにしゃ)は、豊臣秀吉の死後、方広寺の鎮 

  守として着工され、1599年(慶長4年)に完成し、 京(都)

  の阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)の山腹にある、壮大な社殿

  (30万坪、社領1万石) であった。

     安土桃山時代・江戸時代初期の当時(1598年後16

  15年までの間)、 豊国社(とよくにしゃ)の祭礼である、秀

  吉の忌日(きじつ)の8月18日の豊国祭(ほうこくさい)は大

  いに賑(にぎ)わった。

     豊国祭(ほうこくさい)が大いに賑(にぎ)わったため、

  淀殿や豊臣秀頼は大いに喜び、徳川家康は警戒し、懸念

  した。

      1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡後は、江戸幕

  府の幕命により、阿弥陀ヶ峰の豊国社(とよくにしゃ)の

  殿は破壊され、豊国祭(ほうこくさい)の祭礼も廃止となっ

  た。 

      その後、豊国社(とよくにしゃ)は、1880年(明治

  13年)に京(都)の茶屋町の場所に、方広寺大仏殿跡地

  に、方広寺に隣接して、豊国神社(とよくにじんじゃ)として、

  再興された。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 天下統一を果たした豊臣秀吉は、1598年(慶長3年)8月

  18日に、京(都)の伏見城で63歳の生涯を閉じ、 秀吉の

  遺骸は、遺命により、京(都)の阿弥陀ヶ峰(あ みだがみね)

  に豊臣秀吉の墓をつくり、葬られた。

     秀吉の死後、1589年(慶長4年)4月18日に、秀吉は、

  御陽成天皇(ごようぜいてんのう)より、正一位豊国大明神

  (しょういちい・とよくにだいみょうじん)の神位・社号を賜り、

  その後、京(都)の阿弥陀ヶ峰の山腹に、墓や豊国社(とよく

  にしゃ)の社殿(30万坪、社領1万石)が創建された。 以後、

  毎年、盛大な豊国祭等の祭礼が行われた。 

      しかし、1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡後、江戸

  幕府の幕命により、社殿は破壊され、豊国祭(ほうこくさい)

  等の祭礼も取り止めとなった。 以後、墓参する人も少なくな

  った。

     現在の、秀吉の墓と廟所(びょうしょ、墓所)は、1898 

  年(明治31年)に、秀吉死去300年の豊太閤三百年祭に際

  し、全国からの募金により、 豊国社(とよくにしゃ)跡地に豊

  国廟(ほうこくびょう)が建てられ、 古くからあった秀吉の墓

  も壮麗で巨大な墓に建て変えられた。

 

■ 京(都)東部にある、方広寺 (ほうこうじ)は、 豊臣氏

  菩提寺(ぼだいじ)である。 

     方広寺には、 江戸時代に、大仏殿(だいぶつでん)

  と梵鐘(ぼんしょう)などがあり、 1612年(慶長17年)に

  豊臣秀頼大仏殿と梵鐘を完成した。 

     1614年(慶長19年)の「方広寺鐘銘事件」(ほうこう

  じしょうめいじけん)は、 大坂の陣の戦いの口実となった。

      方広寺の、大仏殿は、江戸時代後期の、1798年

  (寛政10年)に雷火で焼失し、梵鐘のみが現存する。

      1605年(慶長10年)に、京(都東部)の下河原町

   に、豊臣秀吉・正室夫人の、おね(ねね)が豊臣秀吉の

   冥福を祈るため、高台寺(こうだいじ)を創建する。

      1598年(慶長3年)の豊臣秀吉の死後、京(都)

  東部阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)の山腹に、壮大な

  国社(とよくにしゃ、30万坪、社領1万石)が、 方広寺

  の鎮守として着工され、1599年(慶長4年)に完成した。 

  1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡前まで、 豊国社

  (とよくにしゃ)の祭礼である、秀吉の忌日(きじつ)の8月

  18日の豊国祭(ほうこくさい)は、大いに賑(にぎ)わった。 

      しかし、1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡後、

  戸幕府の幕命により、豊国社( とよくにしゃ)の、社殿は

  破壊され、豊国祭(ほうこくさい)等の、祭礼も停止となっ

  た。 

      その後、1880年(明治13年)に、豊国神社(とよ

  くにじんじゃ)が、 京(都)東部の茶屋町に、方広寺大仏

  殿跡地に、方広寺(ほうこうじ)に隣接して、豊国社(とよ

  くにしゃ)の後身として再興され 、 1898年(明治31年)

  に、京(都)の阿弥陀ヶ峰の、豊国社跡地に、豊国廟(ほ

  うこくびょう)が建てられる。

     現在、京(都)東部(京都市東山区)の茶屋町に、方

  広寺(ほうこうじ)や方広寺大仏殿跡地に建つ豊国神社

  (とよくにじんじゃ)があり、 そこから少し離れた別の場

  所の、京(都)東部(京都市東山区)の阿弥陀ヶ峰(あみ

  だがみね)の山腹に、豊臣秀吉を葬った墓 と、  豊国社

  (とよくにしゃ)跡地に建つ豊国廟(ほうこくびょう)があり、 

  京(都)東部(京都市東山区)の下河原町に、高台寺(こ

  うだいじ)がある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#kondoisami

 

■ 近藤 勇 

     (こんどう いさみ)

 

 近藤 勇

■ 名称 : 近藤 勇 (こんどう いさみ)。

■ 新選組の局長。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 71435。

 

□ 「 近藤 勇 」 画像 NO.1

 

 

  近藤 勇 (こんどういさみ)は、 幕末に幕府の京

  (都)の治安の一部を担った、新選組の局長であっ

     た。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 新選組は、1963年(文久(ぶんきゅう)3年)に

  結成され、 会津藩預かりとなり、江戸幕府勢力

  の京都守護職の会津藩配下となり (1963〜

  67年、会津藩預りの浪士組)、 後に、江戸幕府

  配下(1967〜69年、幕府直属浪士隊) となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

◆ 京(都)治安維持での新選組の活躍。

■ 新選組は、 1863年から1869年まで存続し

  た江戸幕府勢力の、浪士隊 である。 

    新選組は、幕末、明治時代初めの幕府勢力

  の非正規の治安警備隊、軍隊 である。

    新選組は、幕末の京(都)及び京(都)周辺

  の治安維持に貢献した。

    新選組 は、京都所司代、会津藩兵、見廻組

  (みまわりぐみ)と共に、 幕末の京(都)及び京

  (都)周辺の治安を回復させ、 幕末の京(都)及

  び京(都)周辺の治安維持に貢献した。 

 

 

◆ 戊辰戦争(ぼしんせんそう)での新選組

  の参戦と活躍。

■ 1868年(慶応4年)に、 鳥羽伏見の戦い(18

  68年1月3日)、 淀千両松の戦い(1868年1月

  5日)、 橋本の戦い(1868年1月6日)、 甲斐

  勝沼の戦い(1868年3月6日)、 下総流山(しも

  うさながれやま)の戦い(1868年4月2〜3日)、 

  宇都宮城の戦い(1868年4〜5月)、 白河口(し

  らかわぐち)の戦い(1868年6〜7月)、 母成峠

  (おなりとうげ)の戦い(1868年8月21日、会津

  戦争の1つ) で、 新選組は、 明治新政府軍(

  代日本政府の軍隊)と戦って、破れる。 

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 近藤勇の死去。

    下総流山(しもうさながれやま)の戦い(1868

  年4月2〜3日)で、 新選組の 局長の近藤勇(こう

  んどういさみ)は、 4月3日に投降し、 1868年

  4月25日に、 板橋刑場(東京都板橋区付近)で、

  斬首される。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 明治改元。

   1868年9月に、「明治」改元となる。1868

  年9月8日に、慶応4年が明治元年となる 。

 

■ 新選組の消滅。

    1869年(明治2年)の、函館戦争(1869年

  4〜5月)では、 北海道の、二股口(ふたまたぐ

  ち)の戦い(1869年4月)、 箱館(函館の旧名)

  の、弁天台場(べんてんだいば)の戦い(1869

  年5月)で、 新選組 は、明治新政府軍と戦う。 

    相馬主計の率いる弁天台場を守備する新選

  組は、 弁天台場で、 1869年(明治2年)5月

  14日に明治新政府軍に降伏し、 函館を本拠と

  する旧幕府軍も1869年(明治2年)5月18日に

  降伏し、 ここに、新選組は、四散し、消滅する。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 土方歳三の死去。

    土方歳三(ひじかたとしぞう)は、 函館戦争

  で、 1869年(明治2年)5月11日に、 箱館

  (函館の旧名)の一本木関門付近の戦いで、 銃

  弾にあたり、戦場で、戦死した。 

 

 

#-appearingscenes

 

♪♪ 新選組 が登場する、興味深

    い、ドキュメンタリー、ドラマ、

    映画。

 

★ 新選組 が登場する、興味深

   い関連ドキュメンタリー。 

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 新選組最強

  ヒーロー!斎藤一 〜会津藩・松平

  容保との絆〜 』。 

    (NHKテレビ・ 2013年(H25年)4月24日・

   本放送・歴史ドキュメンタリー番組)。

■ 新選組 や 斎藤一を述べる。

 

■ 片岡愛之助の解明!歴史捜査 

  『 最新歴史捜査ファイルA

    新選組 近藤勇・土方歳三

    の剣と死 』。 

    (日テレ・テレビ・ 2016年3月24日・

   本放送・歴史ドキュメンタリー番組)。

■ 新選組 や 近藤勇、土方歳三を述べる。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 ずっと気張

  っていたかった〜新選組 土方歳三

  の生きる道〜 』。 

    (NHKテレビ・2012年 (H24年)5月9日・

   本放送・歴史ドキュメンタリー番組)。

■ 新選組 や 土方歳三を述べる。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 新選組 京

  都青春録 〜素顔の沖田・土方・近

   藤〜 』。 

    (NHKテレビ・2009年 (H21年)5月13日・

   本放送・ドキュメンタリー番組・第6回)。

■ 新選組 や 近藤勇、土方歳三を述べる。

 

 

★ 新選組 が登場する、興味深

   い関連ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画 は、フィクション です。 

  歴史のドラマや映画 は、 史実(歴史上の事

   実) と 架空の出来事 が、 混じって、描か

  れています。 また、現 代風にアレンジしてあ

  ります。

 

■ 『 新選組血風録 (しんせんぐみけ

     っぷうろく) 』 。 

   (NHKテレビ・2011年スペシャルドラマ)。

■ 日本の、幕末(江戸時代末期)を描いたド

  ラマ。

■ 幕末の、新撰組の活躍を描いたテレビドラ

  マ。

   

  

  ○ ドラマ「新選組血風録」のPRフォト。

 

■ 『 新選組! (しんせんぐみ) 』 。  

   (NHKテレビ・2004年大河ドラマ)

■ 日本の、幕末(江戸時代末期)を描いたド

  ラマ。

■ 近藤勇の、生涯 や 幕末の、新撰組の

    活躍を描いたテレビドラマ。

● 近藤勇(こんどういさみ)を演じた俳優名 

  : 香取慎吾 (SMAP)。

 

   

   ○ ドラマ「新選組」の書籍販促PRフォト。

 

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#kotonobunritu

 

■ 皇統の分立 

     (こうとうのぶんりつ)。

 

■ 皇統の分立。

■ 名称 : 皇統の分立 (こうとうのぶんりつ)。

■ 《皇統》。 

■ 皇統の分立 : 

   鎌倉時代中期から室町時代前期まで。

■ 皇統の分立 : 鎌倉時代中期から室町時代前期

  まで、1259年から1392年まで、  天皇家が、 

  「後深草(ごふかくさ)天皇の皇統持明院統」  と、

  「亀山 (かめやま)天皇の皇統の大覚寺統 の2つ

  の皇統に分立したこと。

■ 1259年ー1392年、

    持明院統 (じみょういんとう) と、 大覚寺統 (だ

  いかくじとう) の皇統の分立

● 1336年ー1392年、

  朝廷は、 持明院統の北朝 と、 大覚寺統の南朝

  に分裂し、対立する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 71312。

 

 

■ 皇統の分立。 

■ 皇統の分立とは、 鎌倉時代中期から室町時代前

  期まで、1259年から1392年まで、  天皇家が、 

  「後深草(ごふかくさ)天皇の皇統持明院統」  と、

  「亀山 (かめやま)天皇の皇統の大覚寺統 の2つ

  の皇統に分立したことである。

             

■ 皇統の分立。 

■ 朝廷では、 1259年( 強引天皇譲位)から1392年

  (南北朝の合体)まで、 持明院統 (じみょういんと

    う) と、 大覚寺統 (だいかくじとう) の皇統の分立

  が続いた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 朝廷は、 1336年(足利尊氏の光明(こうみょう)天

  皇擁立)から1392年(南北 朝の合体)まで、 持明

  院統(じ みょういんとう)の北朝 と、 大覚寺統(だ

  いかくじとう)の南朝 に分裂し、対立した。

 

■ 両統迭立。 

■ 両統迭立 (りょうとうてつりつ) とは、鎌倉時代中

  期・後期の皇位継承方式であり、 鎌倉幕府の主導

  で、 持明院統 (じみょういんとう) と 大覚寺統

  (だ いかくじとう) の両統の皇族が交替(こうたい)

  で 、天皇の皇位継承を行うことである。

 

■ 皇統の分立。 

■ 皇統の分立 (こうとうのぶんりつ) とは、 1259年

  から1392年まで、 鎌倉時代中期から室町時代前

  期まで、 天皇家が、 持明院統 と 大覚寺統 の

  2つの皇統に分立したことである。

     更に、 1336年から1392年まで、 建武時代

  から室町時代前期まで、 朝廷 は、 持明院統(じみ

  ょういんとう)の北朝(ほくちょう) と、 大覚寺統(だ

  いかくじとう)の南朝(なんちょう) に分裂し、対立し

  た。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。 

 

■ 和暦年号の二重存立。

■ 大覚寺統の天皇家 と 持明院統の天皇家の対立 を

  為政者(政権実力者)が利用し、和暦年号元号)の二

  重存立を 起こす。

 

 

■ 大覚寺統。

■ 大覚寺統 は、 亀山天皇の皇統 であり、

  鎌倉時代中期から室町時代前期まであった

  天皇家の皇統 (2つの大覚寺統・持明院統)

  の1つで、 持明院統と皇位を争った。

■ 大覚寺統は、 後嵯峨(ごさが)天皇の皇子・

  「亀山(かめやま)天皇」から後亀山(ごかめ

  やま)天皇までの皇統 である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

 

■ 持明院統

■ 持明院統は、 後深草天皇の皇統 であり、

  鎌倉時代中期から室町時代前期まであった

  天皇家の皇統 (2つの大覚寺統・持明院統) 

  の1つで、 大覚寺統と皇位を争った。

■ 持明院統 は、 後嵯峨(ごさが)天皇の皇子

  ・「後深草(ごふかくさ)天皇」から後小松(ご

  こまつ)天皇までの皇統 である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

 

 

■ 皇統分立の起こり。

■ 皇統分立の起こり。

     1246年に、 後嵯峨天皇 (天皇在位:1242

     −46年、生没年:1220−72年)が、 皇子(次男)

  の久仁(ひさひと)親王に天皇の位を譲り、 久仁(ひ

  さひと)親王は、後深草(ごふかくさ)天皇) (天皇在

  位:1246−59年) となり、 後嵯峨天皇は、後嵯

     峨上皇となった。

     しかし、1259年に、 後嵯峨上皇は、皇子(次

  男)の、後深草天皇を強引に退位させ、 他の皇子

  (三男)の恒仁(つねひと)親王を天皇にし、亀山(か

  めやま) 天皇(天皇在位:1259−74年) が誕生し

  た。 その後、亀山(かめやま) 天皇は、次の天皇を

  自分の子 (後宇多(ごうだ)天皇(天皇在位:1274

  −88年) としたため (立太子としたため)、 退位

  した後深草天皇は、自分の子の皇位継承ができず、

  非常に不満をもち、鎌倉幕府に仲裁を依頼し、12

  88年に、後深草天皇の子(伏見 (ふしみ)天皇)

  天皇に即位することが実現した。 こうして、その後

  は、鎌倉時代の間、 鎌倉幕府 の介入・仲裁による、

  両統迭立  (りょうとうてつりつ、両統の皇子が交互

  に天皇になる方式) となった。

 

■ 皇統の分立の原因。

    鎌倉幕府の主導で、1242年に、 後

  嵯峨(ごさが)天皇 (天皇在位:1242〜

  46年、生没年:1220〜1272年)が、

  即位した。 

    後嵯峨天皇は、退位後、上皇となり、20 

  数年にわたり、 院政 (いんせい、上皇が

  朝廷の実権をにぎり朝廷を動かすこと) を

  行う (上皇・院政期:1246〜1272年)。 

    後嵯峨(ごさが)天皇には、 3人の皇子

  (みこ)がいた。 後嵯峨(ごさが)天皇は、

  3人の皇子を、将軍や天皇に就任させた。

  一人の皇子は、宗尊(むねたか)親王で、

  鎌倉幕府の宮家将軍にさせる。 他の2人

  の皇子は、 天皇に即位させ、 後深草(ご

  ふかくさ)天皇(在位1246〜59年) と 

  亀山(かめやま)天皇(在位1259〜74年) 

  になった。

    後嵯峨天皇(上皇)は、 皇子の後深草

  天皇(在位1246〜59年)に譲位後、 次

  に、後深草天皇を、強制的に退位させ、同

  じ皇子で後深草天皇の弟 (亀山天皇(在

  位1259〜74年)に譲位させた。 こうして、

  両者(両統)対立の原因をつくる。

     1272年の後嵯峨上皇(天皇)の死後、

  後嵯峨上皇(天皇)の2人の皇子の後深草

  天皇 と 亀山天皇 は、 天皇の皇位継承、

  院政の権利、皇室領荘園の相続などをめぐ

  って対立し、 両者ともに鎌倉幕府に働きか

  け有利な地位を得ようとした。 鎌倉幕府の

  介入で、 結局、 両者の天皇の子孫は、今

  後、交替(こうたい)で、 天皇の皇位を継承

  することとなった (両統迭立(りょうとうてつ

  りつ)となった)。

    後嵯峨天皇の皇子の後深草(ごふかくさ)

  天皇は、 持明院統(じみょういんとう)の最

  初の天皇となり、 もう一人の後嵯峨天皇の

  皇子の亀山(かめやま)天皇は、 大覚寺統

  (だいかくじとう)の最初の天皇 となった。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 両統迭立。 

■ 鎌倉幕府の主導で、 持明院統と大覚寺統

  の両統の皇族が交替(こうたい)で天皇の皇

  位継承を行うことを、 両統迭立 (りょうとう

  てつりつ) という。 

 

 

■ 後醍醐天皇と鎌倉幕府の対立。

● 後醍醐天は、 両統迭立による後醍醐

  天の皇子皇位継承見込みなしを契機(け

  いき)(きっかけ)に、鎌倉幕府と対立し、や

  がて、倒幕を決意する。

● 北条執権の鎌倉幕府の介入による、13

  17年の「文保の和談」(ぶんぽうのわだん)

  では、次の事が決まった。 持明院統(じみ

  ょういんとう)の花園天皇が皇位を大覚寺

  統(だいかくじとう)の尊治(たかはる)親王

  (後醍醐天皇)に譲ることが決まり、 そして、

  尊治親王(後醍醐天)の次の皇位では、 

  大覚寺統内の皇位継承候補の皇族は複数

  いて、尊治親王(後醍醐天)の兄弟の子・

  邦良(くによし)親王(大覚寺統の後二条天

  皇の皇子)が、尊治親王(後醍醐天)の次

  の皇位を継承することが決まり、 その後は

  両統迭立(りょうとうてつりつ)で、持明院統

  の量仁(かずひと)親王が皇位を継ぐことが

  決まった。 

    「文保の和談」により、1318年に、尊治

  (たかはる)親王は、後醍醐天皇 (在位13

  18〜32、1333〜39年) として即位する

  が、 後醍醐天(尊治親王)の子孫には、

  皇位継承の見込みがなかった。 

     大覚寺統の後醍醐天皇(尊治親王)は、

  即位後、不満をもち、自分の皇子を天皇にす

  ることを切望し、鎌倉幕府と対立した。 

    後醍醐天皇は、 自分の皇子の皇位継承

  や天皇親政政治をめざし、 鎌倉幕府の倒幕

  を計画し、 1324年の正中の変(しょうちゅ

  うのへん) と 1331年の元弘の変(げんこ

  うのへん) の2つの倒幕計画を起こすが、い

  ずれも失敗する。  鎌倉幕府により、1332

  年に、隠岐(おき)に配流(はいる)される。

     一方、邦良(くによし)親王は急死したの

  で、鎌倉幕府の主導により、1332年に持明

  院統の量仁(かずひと)親王が、光厳(こうご

  ん)天皇(在位1332〜33年)として即位す

  る。

     1333年に、後醍醐天皇は、  配流先の

   隠岐(おき)を脱出し、 足利尊氏(あしかが

   たかうじ)、新田義貞(にったよしさだ)などの

   反幕府勢力と手を組み、 北条執権の鎌倉

   幕府を倒し、1333年に、建武(けんむ)政

   権(1333〜36年)を成立させた。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

■ 朝廷の南北朝分裂と合体。

■ 朝廷の南北朝分裂 (1336〜1392年)。

● 1336年に、 朝廷は、大覚寺統(だいか

  くじとう)の天皇家の「南朝」(なんちょう) と 

  持明院統(じみょういんとう)の天皇家の「北

  朝」(ほくちょう) の2つに分裂する。

● 1336年から1392年まで、朝廷は、大覚寺

  統の天皇家の南朝と持明院統の天皇家の北

  朝に分裂し、対立した。

     吉野を本拠地とした、大覚寺統の後醍

  醐天皇系統の天皇家の朝廷を、南朝といい、

  京(都)を本拠地とした、持明院統の光厳(こ

  うごん)・光明(こうみょう)天皇系統の天皇家

  の朝廷を、北朝という。

● 1336年に、建武(けんむ)政権(1333〜

  36年)が崩壊し、大覚寺統後醍醐天皇が、

  京(都)を去り、吉野(よしの)に移る。 一方、 

  1336年に、京(都)では、足利尊氏に擁立

  された、持明院統の光明(こうみょう)天皇

  (在位1336〜48年、光厳(こうごん)天皇

  の弟)が、即位する。 ここに、朝廷は、吉野

  にある、大覚寺統の後醍醐天皇系統の天皇

  家の「南朝」 と 京(都)にある、持明院統の

  光厳(こうごん)・光明(こうみょう)天皇系統

  の天皇家の「北朝」に分裂し、 南北朝時代

  (1336年〜1392年) となる。

 

■ 朝廷の合体 (南北朝の合一)。

     1392年に、室町幕府第3代将軍・足利

  義満(あしかがよしみつ)は、 南朝側と交渉

  して、大覚寺統の 天皇家の「南朝」 と 持明

  院統の天皇家の「北朝」を合一させるのに成

  功し、 南朝と北朝の対立は、ここに解消した。

    足利義満は南朝側と交渉し、 大覚寺統の

  後醍醐天皇系統の天皇家の南朝の、後亀山

  (ごかめやま)天皇が1392年に、皇位を放棄

  して入京し、 朝廷の天皇は、 持明院統の光

  厳(こうごん)・光明(こうみょう)天皇系統の天

  皇家の北朝の、後小松(ごこまつ)天皇一人と

  なった。

    1392年の南北朝合体後は、南北朝とい

  う区別はなくなる。 南北朝合体後は、 持明

  院統の光厳(こうごん)・光明(こうみょう)天皇

  系統の旧北朝の天皇が、 朝廷の皇位を代々

  を継ぐ。 一方、大覚寺統の後醍醐天皇系統

  の旧南朝の皇族が、皇位を継ぐことはなかっ

  た。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

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#gokishichidoregions

 

■ 五畿七道  

      (ごきしちどう)

 

■ 五畿七道。

■ 名称 : 五畿七道 ( ごきしちどう)。

■ 別名 : 畿内七道(きないしちどう)。

■ 英語名 : 

   GOKISHICHIDO REGIONS.

■ 旧・大地域名。 《日本の地域名》。

■ = 前近代日本の、地域・旧地方名。

■ = 律令制の広域地方行政区分。

■ 律令制定後・古代・中世・近世日本・旧地域

  名の、 地域・旧地方名。 《旧地域名》。

■ 前近代日本の地域名の、旧広域地方名。

■ 五畿七道 (ごきしちどう) (日本本土)。

  <旧広域地方名。

  <旧・大地域名。

  <旧地域名。

  <地域名。

  <日本の地名

■ 旧地方名に関しては、  「旧地方名」を参照し

  てください。

■ 前近代・旧地域名に関しては、  「前近代日本

  の地域名」を参照してください。 

■ 日本の地名の全体に関しては、 「日本の地名

  を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61912。

 

 

■ 五畿七道 (ごきしちどう)は、 地域・旧広域地

  方名であり、 前近代日本の、日本の地方行政

  区分(区画) である。

 

  

 

 

  

 

 

  

 

 

 

 

■ 五畿七道・旧広域地方。 

 

■ 五畿七道 (ごきしちどう) の別名は、 畿内七道

  (きないしちどう)である。

■ 五畿七道の、英語名は、 GOKISHICHIDO 

  REGIONS である。

■ 五畿七道は、 日本の地域名であり、 旧・大地

  域名 である。 

■ 五畿七道は、 旧地域名であり、 律令制定後・

  古代・中世・近世日本・旧地域名の、 地域・旧地

  方名 である。 

■ 五畿七道は、 前近代日本の地域名の、旧広域

  地方名 である。

■ 五畿七道は、  前近代日本の、地域・旧地方名

  であり、 律令制の広域地方行政区分である。

■ 五畿七道は、 前近代日本の地域名であり、 

  地域名であり、 旧・大地域名であり、旧地方名

  ある。

 

 

■ 五畿七道・旧広域地方。 

            

■ 五畿七道。

  = 日本本土の、 五畿 (山城、 摂津、

  河内、和泉、大和) の5 旧国(令制国)) 

  と、 七道 (東山道、北陸道、東海道、

  山陰道、山陽道、南海道、西海道 の7

  広域地方。

 

■ 五畿七道(ごきしちどう)とは、 前近代日本の、

  地域・旧地方名であり、 旧大地域名である。

            

■ 五畿七道(ごきしちどう)とは、 日本の律令制度

  で定められた地方行政区分(区画)であり、 日本

  本土(本州、九州、四国)の、畿内(きない、五畿)

  の、山城、摂津、河内、和泉、大和)の5旧国(令

  制国) と、 七道の、東山道(とうさんどう)、北陸

  ほくりくどう)、東海道(とうかいどう)、山陰道

  (さんいんどう)、山陽道さんようどう)、南海道

  (なんかいどう)、西海道(さいかいどう))の7広

  域地方 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 五畿七道・旧広域地方。 

 

■ 五畿七道は、 旧・大地域名であり、 前近代日

  本の、律令 制定後・古代・中世・近世日本・旧地域

  名であり、 日本本土(九州本土・四国・本州)とそ

  の周辺の諸島の、旧地域名である。

     前近代の、五畿七道は、 蝦夷地 (えぞち、

  現在の北海道地方の相当地域)、 琉球(りゅうき

  ゅう、現在の沖縄県の相当地域)、 小笠原諸島な

  どを除く(含まない)。

 

■ 五畿七道は、 前近代日本の地域名であり、飛 

  鳥白鳳時代末期から江戸時代まで、 紀元(後)

  701年頃から1868年頃まで、 日本で使用さ

  れた地域名である。

 

■ 五畿七道は、 大地域名の旧地方名であり、 律

  令に規定された(律令制に基づいて設置された)、

  日本の広域地方行政区分(行政区画)であり、日

  本の地理的区分の基本単位の1つであった。

 

■ 前近代の五畿七道は、 明治時代以後、五畿八

  道になるなど、大幅に変更された。

 

 

■ 五畿七道・旧広域地方。 

 

■ 前近代の、五畿七道は、 中央の五畿(= 畿内)

  と地方の7道から成っていた。

 

■ 前近代の、五畿七道は、 中央の五畿 

  (= 畿内(きない)、 山城 国(やましろのく

  に、京都府南部)、摂津 国 (せっつのくに、

  大阪府北西部)、河内 国(かわちのくに、

  大阪府中東部)、和泉国 (いずみのくに、

  大阪府南西部)、大和 国 (やまとのくに、

  奈良県)の5旧国(令制国)) と、 地方の

  7道 (= 東山道(とうさんどう)、北陸道(ほ

  くりくどう)、東海道(とうかいどう)、山陰道

  (さんいんどう)、山陽道(さんようどう)、南

  海道(なんかいどう)、西海道(さいかいど

  う)の7広域地方) から成っていた。

 

 

■ 五畿七道・旧広域地方。 

 

■ 明治時代以後、 五畿七道や旧国名(令制国)に

  大きな変更が加えられた。 

     東北地方では、1868年(明治元年)12月に、

  陸奥国(むつのくに)は、 陸奥(むつ)、陸中(りく

  ちゅう)、陸前(りくぜん)、磐城(いわき)、岩代(い

  わしろ)に5分割され、 出羽国(でわのくに)は、羽

  後(うご)、羽前(うぜん)に2分割された。 

      1869年(明治2年)8月には、蝦夷地の本

  土と千島列島南部を北海道とし、 五畿七道に加

  え、五畿八道とした。 そして、蝦夷地の本土と千

  島列島は、 渡島(おしま)、後志(しりべし)、胆振

  (いぶり)、日高(ひだか)、石狩(いしかり)、天塩

  (てしお)、北見(きたみ)、十勝(とかち)、釧路(く

  しろ)、根室(ねむろ)、千島(ちしま)の11地区に

  区分された。

 

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#the5ryogoldcoin

 

■ 五両判(金) 

    (こりょうばん(きん))

 

■ 五両判(金)。

■ 名称 : 五両判(金) 

        (ごりょうばん(きん))。

 5両(りょう)の単位の金貨。

■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣の1つ。

■ 江戸幕府が鋳造・発行した、江戸時代の定額

  (定位)・通常貨幣。

  5小判(金) ≒ 現在の約 50万円。

 1両小判(金) ≒ 4分 ≒ 16朱 ≒ 4000

  文 (4貫文) ≒ 現在の約10万円。

■ 江戸時代の両単位貨幣の定位(定額)・通 常貨

  幣については、「単位 定位(定額)・通常貨幣

  や「両 金貨」 を参照してください。

■ 江戸時代の貨幣の全体については、「江戸時代

  の日本流通貨幣」を参照してください。

■ 日本の流通貨幣の全体については、「日本流通

  貨幣を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61726。

 

 

■ 五両判(金) (ごりょうばん(きん))は、 5両

  (りょう)の単位の金貨である。

     五両判(金)は、 江戸幕府が鋳造・発行

  した、江戸時代の定額(定位)・通常貨幣であっ

  た。  

     五両判(金)は、 1枚で、現在の 貨幣価値

  で約50万円に相当する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 五両判(金)は、  江戸時代の定位(定額)・通

  常貨幣であり、 江戸時代の各時期で価値は変

  動したが、 現在の貨幣価値で約 50万円 で

  あった。

      江戸時代に、1両小判(金)は、およそ4分、

  1両小判(金)は、およそ16朱 1両小判(金) 

  は、およそ4000文(4貫文) と交換された。

  1両小判(金)は、現在の 貨幣価値で約10万円

  に相当する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 五両判(金)。

■ 五両判(金) (ごりょうばん(きん))は、 5両の

  単位の金貨で、  江戸時代の定位(定額)・通常 

  貨幣で、 江戸幕府により一時期(天保期)に鋳

  造された金貨で、 五両判(金)は、現在の貨幣価

  値で約50万円に相当する。

 

■ 江戸幕府により鋳造され、江戸時代に全国に流

  通した、五両判(金)は、 1種類である。

     それは、 「天保五両判金」(てんぽうごりょう

  ばんきん)であり、 鋳造は、1837年(天保8年)

  〜1843年(天保14年)であり、 品位は、

  金84.2%、 銀15.8%で、 量目は、33.75g 

  であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 江戸時代に、 両金貨 (両判金(りょうばんきん)、

  両(りょう)単位の金貨) の、単位定位(定額)・

  通常貨幣の、 一両小判(金)(11種) と、 五両

  (金)(1種)  の2種類の貨幣が、 鋳造され、流

  通し、使用された。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 五両判(金)は、 江戸時代の、江戸幕府鋳造

  (発行)の定位(定額)貨幣 ・13種類の、五両判

    (金)(1種)、 一両小判(金)(11種)、 二分金

    (3種)、  分金(11種)、  二朱金(3種)、 

  一朱金(1種)、  分銀(2種)、 二朱銀(3種)、

  一朱銀(1種)、  百文銭銅貨(= 天保銭)(1種)、 

  十文銭銅貨(1種)、 四文銭銅・鉄貨(2種)、 

  一文銭銅・鉄貨 (1種)  のうちの1種類である。

 

 

■ 江戸時代の貨幣。

■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣。

● 江戸時代の両・分・朱・文(りょう、ぶ、しゅ、もん)

  の定位(定額)・通常貨幣。

■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣は、 五両判

  (金)(1種)、  一両 小判(金)(11種)、 二分金

  (3種)、  分金(11種)、 二朱金(3種)、 

  一朱金(1種)、  分銀(2種) 二朱銀(3種)、

  一朱銀(1種)、 百文銭銅貨(= 天保銭)(1種)、

  十文銭銅貨(1種)、 四文銭銅・鉄貨(2種)、 

  一文銭銅・鉄貨(1種)  の13種類である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ 江戸時代(1603年〜1868年)に、 江戸幕府

  により鋳造(発行)され、 全国に流通し、使用さ

  れた定位(定額)・通常貨幣は、 五両判(金)(ご

  りょうばん(きん))(1種)、  一両 小判(金)(いち

  りょうこばん(きん))(11種)、 二分金(にぶきん)

  (3種)、  分金(いちぶきん)(11種)、  二朱

  (にしゅきん)(3種)、  一朱金(いっしゅきん)

  (1種)、  分銀(いちぶぎん)(2種) 二朱銀

  (にしゅぎん)(3種)、  一朱銀(いっしゅぎん)

  (1種)、 百文銭銅貨(= 天保銭)(ひゃくもんせん

  どうか(= てんぽうせん)(1種)、  十文銭銅貨

  (じゅうもんせん)(1種)、 四文銭銅・鉄貨(よんも

  んせんどうてっか)(2種)、 一文銭銅・鉄貨(いち

  もんせんどうてっか)(1種) の13種類である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#koban

 

■ 小判 

    (こばん)

 

■ 小判。

■ 名称 : 小判 (こばん)。

■ 別名 : 小判金 (こばんきん)。

 別名 : 一両小判(金) 

        (いちりょうこばん(きん))。

 1両(りょう)の単位の金貨。

■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣の1つ。

■ 江戸幕府が鋳造・発行した、江戸時代の定位

  (定額)・通常貨幣。

 小判(金) ≒ 現在の約10万円。

 小判(金) ≒ 4分 ≒ 16朱 ≒ 4000  

  文(4貫文) ≒ 現在の約10万円。

■ 江戸時代の両単位貨幣の定位(定額)・通 常貨

  幣については、「単位 定位(定額)・通常貨幣

  や「両 金貨」 を参照してください。

■ 江戸時代の貨幣の全体については、「江戸時代

  の日本流通貨幣」を参照してください。

■ 日本の流通貨幣の全体については、「日本流通

  貨幣を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61726。

 

 

■ 小判(こばん)は、 一両小判(金) (いちりょうこ

  ばん(きん))であり、 1両(りょう)の単位の金貨

  である。

   小判の別名は、 一両小判(金) (いちりょうこ

  ばん(きん))である。

    小判は、 江戸幕府が鋳造・発行した、江戸時

  代の定位(定額)・通常貨幣であり、、基軸通貨で

  あった。  

    小判は、 1枚で、現在の 貨幣価値で約10万

  円に相当する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 一両小判(金)は、  江戸時代の基軸貨幣であり、

  江戸時代の各時期で価値は変動したが、 現在

  の貨幣価値で約10万円 であった。

     江戸時代に、 1両小判(金)は、およそ4分、

  1両小判(金)は、およそ16朱 1両小判(金) 

  は、およそ4000文(4貫文) と交換された。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 江戸時代に、 両金貨 (両判金(りょうばんきん)、

  両(りょう)単位の金貨) の、単位定位(定額)・

  通常貨幣の、 一両小判(金)(11種) と、 五両

  (金)(1種)  の2種類の貨幣が、 鋳造され、流

  通し、使用された。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 江戸幕府により鋳造され、江戸時代に全国に流

  通した、一両小判(金)は、 次の11種類である。

  慶長小判(金) (けいちょうこばん(きん))。

  元禄小判(金) (げんろくこばん(きん))。 

  宝永小判(金) (ほうえいこばん(きん))。 

  正徳小判(金) (しょうとくこばん(きん))。  

  佐渡小判(金) (さどこばん(きん))。  

  享保小判(金) (きょうほうこばん(きん))。 

  元文小判(金) (げんぶんこばん(きん))。 

  文政小判(金) (ぶんせいこばん(きん))。  

  天保小判(金) (てんぽうこばん(きん))。 

  安政小判(金) (あんせいこばん(きん))。  

  万延小判(金) (まんえんこばん(きん))。  

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1両小判(金)は、  江戸時代の、江戸幕府鋳造

  (発行)の定位(定額)貨幣・13種類の、五両判

    (金)(1種)、 一両小判(金)(11種)、 二分金

    (3種)、  分金(11種)、  二朱金(3種)、 

  一朱金(1種)、  分銀(2種)、 二朱銀(3種)、

  一朱銀(1種)、  百文銭銅貨(= 天保銭)(1種)、 

  十文銭銅貨(1種)、 四文銭銅・鉄貨(2種)、 

  一文銭銅・鉄貨 (1種)  のうちの1種類である。

 

 

■ 江戸時代の貨幣。

■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣。

● 江戸時代の両・分・朱・文(りょう、ぶ、しゅ、もん)

  の定位(定額)・通常貨幣。

■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣は、 五両判

  (金)(1種)、  一両 小判(金)(11種)、 二分金

  (3種)、  分金(11種)、 二朱金(3種)、 

  一朱金(1種)、  分銀(2種) 二朱銀(3種)、

  一朱銀(1種)、 百文銭銅貨(= 天保銭)(1種)、

  十文銭銅貨(1種)、 四文銭銅・鉄貨(2種)、 

  一文銭銅・鉄貨(1種)  の13種類である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ 江戸時代(1603年〜1868年)に、 江戸幕府

  により鋳造(発行)され、 全国に流通し、使用さ

  れた定位(定額)・通常貨幣は、 五両判(金)(ご

  りょうばん(きん))(1種)、  一両 小判(金)(いち

  りょうこばん(きん))(11種)、 二分金(にぶきん)

  (3種)、  分金(いちぶきん)(11種)、  二朱

  (にしゅきん)(3種)、  一朱金(いっしゅきん)

  (1種)、  分銀(いちぶぎん)(2種) 二朱銀

  (にしゅぎん)(3種)、  一朱銀(いっしゅぎん)

  (1種)、 百文銭銅貨(= 天保銭)(ひゃくもんせん

  どうか(= てんぽうせん)(1種)、  十文銭銅貨

  (じゅうもんせん)(1種)、 四文銭銅・鉄貨(よんも

  んせんどうてっか)(2種)、 一文銭銅・鉄貨(いち

  もんせんどうてっか)(1種) の13種類である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#theancientjapaneserace

 

■  古代日本人 

        (こだいにほんじん)。

 

■ 古代日本人。

■ 名称 : 古代日本人 (こだいにほんじん)。

■ 英語名 : THE ANCIENT JAPANESE 

  RACE.

■ 古代日本人 = 古代日本地域土着・常住民。

■  「縄文系(在来系)」の古代日本人、

  「弥生渡来系」の古代日本人、

  「縄文・弥生渡来・混血系」の古代日本人。

■ 古代日本人の人種的・文化的特徴 (人類学

  上の分類・特徴)。

■ 「縄文系(在来系)」の古代日本人、「弥生渡来

  系」の古代日本人、 「縄文・弥生渡来・混血系」

    の古代日本人の3グループの古代日本人。

■ およそ古代日本の時期に、「日本人」が、形成

  される。

■ 古代日本人 (= 古代日本 地域土着・常住民)。

  <日本人 (= 日本地域土着・原住民)。

  <モンゴロイド

  <現生人類(= 新人ホモ・サピエンス (種)。 

  ヒト属

  <人類(= ヒト亜族))。

■ 日本人のルーツ(起源)の詳細に関しては、

  日本史辞典の「日本人」、「原日本人」や「

  本人ルーツ・ガイドブック」を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61214。

 

□ 古代日本人(人種)の学術分類表  

 

 

■ 古代日本人の人種的・文化的特徴 

  (人類学上の分類・特徴)。

■ 日本人の人種的・文化的特徴 (人類学上の

  分類・特徴)。

 

 古代日本人。

 古代日本人の3グループ

■ 古代日本人とは、 古代日本 地域土着・常住民

  であり、 古代日本の時期に、 日本地域に居

  住していた、「縄文系(在来系)」の古代日本人、 

  「弥生渡来系」の古代日本人、  「縄文・弥生渡

  来・混血系」の古代日本人 の3グループの人類

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 古代日本人とは、 古代日本の時期に(古墳、

  飛鳥白鳳、奈良、平安時代に)、 日本地域(日

    本本土、北海道、南西諸島の日本列島)に居住

   していた、「縄文系」の古代日本人、「弥生渡来

   系」の古代日本人、「縄文・弥生渡来・混血系」の

    古代日本人の3グループの人類であり、

     日本本土に居住していた「縄文系」、「弥生

  渡来系」、「縄文・弥生渡来・混血系」の古代日本

  人であり、 

     南西諸島に居住していた「縄文系」の古代日

  本人であり、 

     北海道に居住していた「縄文系」の古代日本

  人である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。 

 

■ 「弥生渡来系」の古代日本人は、 新モンゴロイド

   (= 北方モンゴロイド)の人類である。

      「縄文系(在来系)」の古代日本人は、 古モ

   ンゴロイド(= 南方モンゴロイド)の人類である。

      「縄文・弥生渡来・混血系」の古代日本人は、

   古モンゴロイド(= 南方モンゴロイド)の「縄文系」

   の人々と新モンゴロイド(= 北方モンゴロイド)の

   「弥生渡来系」の人々が混血した、古・新モンゴ

   ロイド混血の人類である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。 

             

■ およそ古代日本の時期に、「日本人」が、形成さ

  れた。   

■ 古代日本後期に、日本本土で、「縄文・弥生渡来・

  混血系」の人々が大多数を占め「本土日本人」が

  形成され、 古代日本後期に、南西諸島で、「縄文

  系」と「弥生渡来系」の人々が混血して「琉球人

  が形成され、 中世日本前期に、北海道で、「縄文

  系」と「北アジア諸民族」の人々が混血して、「アイ

  ヌ人」が形成された。 

 

■ 現在のほとんどの日本人は、 「本土日本人」 で

  ある。

■ 日本人の「本土日本人」の形成。

● 現在のほとんどの日本人は、 「本土日本人」で

  あり、 古・新モンゴロイド混血の、「縄文系(在来

  系)」と「弥生渡来系」の混血の人類の「本土日本

  人」 である。

     主に、縄文人とその子孫の「縄文系(在来

  系) の人々 と、 渡来系弥生人とその子孫 の

  「弥生渡来系」の人々が、 日本本土(九州本土、

  四国、本州)で、古代日本後期(奈良・平安時代)

  に、混血して、本土日本人日本人を形成する。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 古代日本人。

 古代日本人の3グループ

■ 古代日本人には、 「縄文系」の古代日本人、

  「弥生渡来系」の古代日本人、 「縄文・弥生渡

  来・混血系」の古代日本人の3グループの古代

  日本人がいた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。 

 

■ 古代日本では、 日本地域(日本本土、北海道、

  南西諸島の日本列島)には、 「弥生渡来系」の

  古代日本人「 縄文系(在来系)」の古代日本人

  「縄文・弥生渡来・混血系」の古代日本人3グ

  ループの古代日本人が居住する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 古代日本では、 日本地域(日本本土、北海道、

  南西諸島の日本列島)には、 「縄文系(在来系)」

  の古代日本人 「弥生渡来系」の古代日本人

  「縄文・弥生渡来・混血系」の古代日本人 の3グ

  ループの古代日本人が居住する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 多くの古代日本人は、 「縄文・弥生渡来・混血

  系」の古代日本人である。

 

■ およそ古代日本の時期に、人種的に、「日本人」

     が、形成された。

             

■ 古代日本人とは、 古代日本の時期に(古墳、飛

  鳥・白鳳、奈良、平安時代に)、 日本本土に居住

  していた「縄文系」、「弥生渡来系」、「縄文・弥生渡

  来・混血系」の古代日本人、 南西諸島や北海道に

  居住していた「縄文系」の古代日本人の人々である。 

            

 

■ 日本人の形成。

     主に、縄文人とその子孫の「縄文系」の人々 

  と、 渡来系弥生人とその子孫 の「弥生渡来系」の

  人々が、 日本本土(九州本土、四国、本州)で、

  古代日本後期(奈良・平安時代)に、混血して、本

  土日本人の日本人を形成する。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 進化表。

■ 古代日本人(人種)への進化表。

  猿人⇒ 

  原人(= ホモ・エレクトス類)⇒

  旧人(= 前ホモ・サピエンス類)⇒ 

  現生人類(= 新人ホモ・サピエンス種)⇒ 

  モンゴロイド⇒ 

  縄文人⇒ 

  弥生人⇒ 

  古代日本人⇒ 

  中世日本人⇒ 

  近世日本人⇒ 

  近代日本人

  現代日本人

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 古代日本人とは、 「縄文系古代日本人」、 

  「弥生渡来系古代日本人」、 「縄文・弥生渡来・

  混血系古代日本人」の3グループの古代日本人 

  である。

      古代日本人(人種)の英語名は、 THE 

  ANCIENT JAPANESE RACE である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ ここでいう古代日本人とは、 紀元後3世紀頃

  から1192年頃まで (古墳、飛鳥・白鳳時代、

  奈良時代、平安時代に)、 日本地域(日本本土、

  南西諸島、北海道) に居住していた日本人(人

  種) である。

            

■ 古代日本では、 日本地域(日本本土、南西諸

  島、北海道)には、 人種的・文化的特徴上、

  日本本土では、縄文系、弥生渡来系、縄文・弥生

  渡来・混血系の人々(後の「本土日本人」)、 南

  西諸島では、縄文系、弥生渡来系、縄文・弥生渡

  来・混血系の人々 (後の「琉球人」) と、 北海

  道では、縄文系の人々 (後の「アイヌ人」) が居

  住していた。

 

■ 古代日本の時期に、 「日本人」が、形成される。

 

■ 現在のほとんどの日本人は、「本土日本人」 で

  ある。

 

■ 古代日本の時期に、 日本地域の日本本土(九

  州本土、四国、本州)に居住していた、 古モン

  ゴロイド(=南方モンゴロイド)の「縄文系」の人々 

  と、 新モンゴロイド(= 北方モンゴロイド)の「弥

  生渡来系」の人々が混血して、 「本土日本人」

  が形成された。

 

■ 古代日本後期に、 日本本土では、「縄文・弥

  生渡来・混血系」古代日本人が大多数を占め、 

  「本土日本人」が形成された。 

     更に、近・現代日本の時期に(明治時代

  以後)、北海道や南西諸島へも「本土日本人」

  が移住・拡散した。

 

■ 古代日本で、 日本本土(九州本土、四国、本州)

  にて、 古モンゴロイド(=南方モンゴロイド)の「縄

  文系」の人々 と、 新モンゴロイド(= 北方モンゴ

  ロイド)の「弥生渡来系」の人々が混血して、「本土

  日本人」を形成した。

               

■ 古代日本では、 日本地域(日本本土、南西諸島、

  北海道)には、人種的・ 文化的特徴上、 日本本

  土では、 縄文系の人々、 弥生渡来系の人々、 

  縄文・弥生渡来・混血系の人々(後の「本土日本

  人」)の日本人の人々が居住し、 南西諸島では、

    縄文系の人々、 弥生渡来系の人々、 縄文・弥

  生渡来・混血系の人々(後の「琉球人」) の日本

  人の人々が居住し、 北海道では、 縄文系の人

  々(後の「アイヌ人」) の日本人の人々が居住し

  ていた。

            

■ 古代日本の時期に、 日本地域の日本本土(九州

  本土、四国、本州)に居住していた、 古モンゴロイ

  ド(=南方モンゴロイド)の「縄文系」の人々 と、 新

  モンゴロイド(= 北方モンゴロイド)の「弥生渡来系」

  の人々が混血して、 「本土日本人」が形成された。

 

○ 古代日本後期に、 日本本土では、「縄文・弥生渡

  来・混血系」古代日本人が大多数を占め、人種的・

  文化的に、「本土日本人」が形成された。 

     更に、近・現代日本の時期に(明治時代以後)、

  北海道や南西諸島へも「本土日本人」が移住・拡散

  した。

            

■ 古代日本人は、 現生人類(= 新人、ホモ・サピ

  エンス種)のモンゴロイドの、日本人(人種)の、古

  代日本縄文系」、「弥生渡来系」、「縄文・弥

  生渡来・混血系」の人類である。

 

■ 古代日本人とは、 「縄文系古代日本人」、 「弥

  生渡来系古代日本人」、 「縄文・弥生渡来・混血

  系古代日本人」 である。

    古モンゴロイド(= 南方モンゴロイド)の「縄文系

  古代日本人」 と、 新モンゴロイド(= 北方モンゴロ

  イド)の「弥生渡来系古代日本人」、 古・新モンゴ

  ロイド(= 南方・北方モンゴロイド)混血の「縄文・弥

  生渡来・混血系古代日本人」 である。

 

■ 古代日本人は、 古・新(南方・北方)モンゴロイド

  の現生人類(= 新人、ホモ・サピエンス) である。

             

■ 古代日本人は、 古代日本の時期 (古墳、飛鳥

  白鳳、奈良、平安時代、紀元(後)3世紀頃(約17

  00年前)〜1192年) に、 日本本土に居住し

  ていた、主に、 「縄文系古代日本人」、 「弥生渡

  来系古代日本人」、 「縄文・弥生渡来・混血系古

  代日本人」、 の3グループの現生人類(= 新人

  ホモ・サピエンス である。

 

■ 古代日本 (紀元(後)3世紀頃(約1700年前)〜

  1192年)の間)の時期に、日本地域の、日本本土

  (九州本土・四国・本州)には、 主に、 古モンゴロ

  イド(=南方モンゴロイド)の「縄文系古代日本人」、

  新モンゴロイド(= 北方モンゴロイド)の「弥生渡来

  系古代日本人」、 古・新モンゴロイド(= 南方・北

  方モンゴロイド)混血の「縄文・弥生渡来・混血系

  古代日本人」 の3グループの古代日本人が、 居

  住していた。

 

■ 弥生時代前期にアジア大陸の中国地域から、朝

  鮮半島を経て、日本本土の九州に大挙やって来

  た、農耕主体の、弥生渡来系・新モンゴロイドの人

  々は、 弥生時代とその後の古代日本(古墳、飛

  鳥白鳳、奈良、平安時代)の時期に、日本本土に

  住む縄文系古モンゴロイドの人々と混血しながら、 

  徐々に、 日本本土(九州、四国、本州)を北上す

  る。

     そして、古代日本後期(奈良・平安時代)には、 

  農耕を行うため、本州に住む弥生渡来系・新モンゴ

  ロイドの人々が、北上し、東北地方にも進出し、一

  方、九州に住む弥生渡来系・新モンゴロイドの人々

  は、南下し、南西諸島に進出し、 それぞれ、現地

  の縄文系・古モンゴロイドの人々と一緒に住み、混

  血する。

 

 「本土日本人」は、 古代日本後期(奈良・平 安時

  代)に、 日本地域の、日本本土で、 縄文 系古

  モンゴロイドの人々 と 弥生渡来系新モンゴロ

  イドの人々 とが混血して形成される。

 

■ 古代日本後期に、日本本土で、「縄文・弥生渡来・

  混血系」の人々が、大多数を占め、 「本土日本人

  を形成した。 

     更に、近現代日本(明治〜平成時代)で、北海

  道や南西諸島へも「本土日本人」が移住・拡散した。

     現在のほとんどの日本人は、 「本土日本人」 

  である。

 

■ 古代日本人は、 古・新モンゴロイドの古代日本

  人 で、 日本地域の日本本土に、古代日本の時

  期に居住していた、 縄文系古モンゴロイド と 

  弥生渡来系新モンゴロイド の現生人類  である。

 

■ 古代日本人は、現生人類(= 新人ホモ・サ ピ

  エンス) の、モンゴロイドの、古・新モンゴロイ

  ドである。

    古代日本では、人口は少なかった。

    古代日本人 (こだいにほんじん)は、日本

  本土に居住していた、3グループの古代日本人

  である。 

    日本本土の古代日本人は、 「縄文系古代

  日本人」、 「弥生渡来系古代日本人」、 「縄

  文・弥生渡来・混血系古代日本人」 である。

    また、古代日本にアジア大陸から移民が、

  数は多くはないが、先進文化を持って、流入し

  た。 彼らは、「古代移住大陸系古代日本人」

  となる。 

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 古代日本では、 日本地域(日本本土、北海道、

  南西諸島の日本列島)には、 

     日本本土には、 新モンゴロイド(= 北方モ

  ンゴロイド)の「弥生渡来系古代日本人」 や、

  古モンゴロイド(= 南方モンゴロイド)の「縄文系

  (在来系)古代日本人」 や、 古モンゴロイド

  (=南方モンゴロイド)の「縄文系」の人々と新モ

  ンゴロイド(= 北方モンゴロイド)の「弥生渡来

  系」の人々が混血した「縄文・弥生渡来・混血

  系古代日本人」が主に居住し、 

     北海道や南西諸島には、 古モンゴロイド

  (= 南方モンゴロイド)の「縄文系(在来系)古代

  日本人」が、主に居住していた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 原日本人。

■ 原日本人 (げんにほんじん) とは、 古モンゴロ

  イドの「縄文人」 と 新モンゴロイドの「渡来系

  生人」 である。

    原日本人は、 中世日本 (鎌倉〜室町時代、

  1192〜1573年)より、 「本土日本人」、 「

  球人」、 「アイヌ人」 となる。

 

 

 日本人の形成過程簡略表。

■ 日本人のルーツ(起源)の詳細に関しては、

  当辞典の「日本人」 及び、  「日本人ルーツ・

  ガイドブック」を参照してください。

 

(1) 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス種)  ⇒

(2) モンゴロイド ⇒

(3) 古モンゴロイド と 新モンゴロイド ⇒

(4) 原日本人の、 縄文系の古モンゴロイドの

   「縄文人」 と  弥生渡来系の新モンゴロイド

   の「渡来系弥生人」 ⇒

(5) 中世日本以後、 縄文・弥生渡来・混血系の

   「本土日本人」(= 本土人)、「琉球人」 と 縄

   文系の「アイヌ人」 ⇒

(6) 現在の日本人。

      現在のほとんどの日本人が、縄文・弥生渡

   来・混血系の「本土日本人(= 本土人)である。

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

 

◆ 原日本人。

■ 日本国家建設の中心となった、弥生渡来系の人

  々。

     弥生時代と古代日本前期の、紀元前4世紀

  頃(約2300年前)から古代日本の紀元(後)7世

  紀頃まで(約1300年前)まで、 アジア大陸から、

  先進文化をもって、 多くの人々が、日本本土に

  やって来て、定住した。

     弥生時代には、「新モンゴロイドの渡来人」が

  多数押し寄せて(やって来て)定住し、「渡来系弥

  生人」となった。 

     古代日本前期には、数多くはないが、 「古・

  新モンゴロイド混血の大陸人」がやって来て、定

  住し、古代大陸系「古代移住大陸系古代日本人」 

  となった。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

  

■ 弥生時代の紀元前4世紀頃から紀元(後)3世

  紀頃までの間(約2300年前〜約1700年前の

  間)、 日本本土では、  新モンゴロイドの渡来

  人の「渡来系弥生人」 と 古モンゴロイドの(旧

  土着系)縄文人の「縄文系(在来系)弥生人」 と

  が、 少しずつ混血を繰り返した。

■ 古代日本紀元(後)3世紀頃から1192年 ま

  での間、 日本本土では、 新モンゴロイド の渡

  来人の渡来系弥生人子孫の「弥生渡来系古代

  日本人」 と 古モンゴロイドの(旧土着系)縄文

  の縄文系(在来系)弥生人子孫の「縄文系古

  代日本人」 とが、一緒に暮らし、 更に混血が

  繰り返された。 

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 日本の弥生時代、古代(古墳、飛鳥白鳳、奈良、

  平安時代)の時期に、 新モンゴロイドの渡来

  人の「渡来系弥生人、弥生渡来系古代日本人」

  は、 先住の古モンゴロイドの(旧土着系)縄文

  の「縄文系(在来系)弥生人、縄文系古代日本

  人」 とも混血を繰り返しながら、 九州地方から

  徐々に、 東進して、東北地方まで、移動してい

  った。

     現在の日本人 (アイヌ人を除く本土日本人

  や琉球人)は、 「新モンゴロイドの渡来人」の渡

  来系弥生人、弥生渡来系古代日本人 と、 先住

  の「古モンゴロイドの(旧土着系)縄文人」 の縄文

  系(在来系)弥生人、縄文系古代日本人 と の

  混血の民族 である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

◆ 本土日本人。

■ 日本本土で、 主に、3グループの古代日本人

  が混血して、 私達「本土日本人」が、 古代日

  本後期に形成された。

    「本土日本人」の英語名は、THE MAIN-

   LAND JAPANESE RACE である。

■ 古代日本紀元(後)3世紀頃から1192年 ま

  での間、 日本本土 には、 古モンゴロイドの(旧

  土着系)縄文人の縄文系(在来系)弥生人子孫 

  の「縄文系古代日本人」 と、 新モンゴロイドの

  渡来人の渡来系弥生人子孫の「弥生渡来系古

  代日本人」 と、 弥生時代以後に両者が混血し

  た「縄文・弥生渡来混血系古代日本人」の3グ

  ループが、主に、一緒に暮らしていた(居住して

  いた)。 

    その他に、日本本土には、多数ではないが、

  古代日本前期に、大陸より移住した古・新モンゴ

  ロイド混血の大陸人の古代大陸系の「古代移住

  大陸系古代日本人」(中国系、朝鮮半島系など)

  も一緒に暮らしていた(居住していた)。 

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

◆ 琉球人、アイヌ人。

■ 南西諸島では、 古代日本紀元(後)3世紀

  頃から1192年までの間、 縄文時代弥生時

  と 同様に引き続き、 「古モンゴロイドの(旧

  土着系)縄文人」 が暮らしていた(居住してい

  た)。 

    しかし、 古代日本後期に、 日本本土の九

  州から、 沢山の古代日本人 (「弥生渡来系」、

  「縄文系」、「縄文・弥生渡来・混血系」) が、南

  西諸島に押し寄せ、住み、 以前より南西諸島

  にいた「古モンゴロイドの(旧土着系)縄文人」

  (縄文系の古モンゴロイド)と混血する。 この人

  達が、古代日本後期に、琉球人となる。 

    「琉球人」の英語名は、THE RYUKYU

    JAPANESE RACE である。

     現在の沖縄方言(= 琉球語)には、 日本本

  土の九州地方の古代日本の言葉が多く含まれる。 

  また、琉球人は、南西諸島で、明治時代前期まで、

  独立を保ち、独自の文化を育てた。

● 「琉球人」や沖縄(琉球(りゅうきゅう))の歴史の

  詳細に関しては、「沖縄の歴史」を参照してくだ

  さい。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 北海道では、 古代日本の紀元(後)3世紀頃か

  ら1192年までの間、 縄文時代や弥生時代と

  同様に引き続き、 「古モンゴロイドの(旧土着系)

  縄文人」(縄文系の古モンゴロイド)の子孫 が暮

  らしていた(居住していた)。 この人達が、 13

  世紀頃、 アイヌ人となる。

    「アイヌ人」の英語名は、THE AINU 

  JAPANESE RACE である。

     明治時代以後に、北海道では、本土日本人

  の本格的な移住が始まり、 アイヌ人は土地を取

  り上げられ、人口が大減少し、現在の北海道の

  ほとんどの住民は、 本土日本人である。

 「アイヌ人」や北海道(蝦夷地(えぞち))の歴

  史の詳細に関しては、「北海道の歴史」を参照

  してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 日本人の形成。

     主に、縄文人とその子孫の「縄文系」の人々 

  と、 渡来系弥生人とその子孫 の「弥生渡来系」の

  人々が、 日本本土(九州本土、四国、本州)で、

  古代日本後期(奈良・平安時代)に、混血して、本

  土日本人の日本人を形成する。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 進化表。

■ 古代日本人(人種)への進化表。

  猿人⇒ 

  原人(= ホモ・エレクトス類)⇒

  旧人(= 前ホモ・サピエンス類)⇒ 

  現生人類(= 新人ホモ・サピエンス種)⇒ 

  モンゴロイド⇒ 

  縄文人⇒ 

  弥生人⇒ 

  古代日本人⇒ 

  中世日本人⇒ 

  近世日本人⇒ 

  近代日本人

  現代日本人

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

■ 日本人(人種)への進化表。

  猿人⇒ 

  原人(= ホモ・エレクトス類)⇒

  旧人(= 前ホモ・サピエンス類)⇒ 

  現生人類(= 新人ホモ・サピエンス種)⇒ 

  モンゴロイド⇒ 

  縄文人⇒ 

  弥生人⇒ 

  古代日本人⇒ 

  「本土日本人」(= 本土人)、「琉球人」、

  「アイヌ人」。

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

■ モンゴロイドへの進化表。

  猿人⇒ 

  原人(= ホモ・エレクトス類)⇒

  旧人(= 前ホモ・サピエンス類)⇒ 

  現生人類(= 新人ホモ・サピエンス種)⇒ 

  古モンゴロイ = 南方モンゴロイド)⇒

    モンゴロイド= 北方モンゴロイド)。

● TKKI カナヤマ著 古人類学辞典。

 

 

#theancientjapaneserace-theclassificationtable

 

■ 古代日本人の学術分類表 。  

    (詳細上位分類、上位所属の分類、日本語名・

    学名・英語名対照)。

○ THE SCIENTIFIC CLASSIFICATION 

  TABLE OF THE ANCIENT 

  JAPANESE RACE.

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典  51011。

 

■ 古代日本人。

    (英語名: THE ANCIENT JAPANESE 

    RACE)。

 

■ 地球生物            LIFE ON EARTH。

⇒ 真核生物。        (ドメイン: 真核生物域 

                   Domain Eukaryota) 

                   (英名: EUKARYOTE(S))。

⇒ 動物。           ( 界 : 動物界    

                   Kingdom Animalia) 

                                   (英名:ANIMAL (S))。

⇒ 脊索(せきさく)動物。 ( 門 : 脊索動物門   

                      Phylum Chordata) 

                    (英名:CHORDATE (S))

⇒ 脊椎(せきつい)動物。 (亜門 : 脊椎動物亜門 

                       Subphylum Vertebrata) 

                    (英名:VERTEBRATE(S))

                  ● TKKI カナヤマ著 日本史

                  辞典。

⇒ 有顎(ゆうがく)動物   (下門 : 有顎動物下門 

  (顎口類、有顎類)。      Infraphylum

                    Gnathostomata) 

                    (英名: VERTEBRATE (S)

                    WITH JAW)。

⇒ 四肢(しし)動物。    (上 : 四肢動物上綱 

                    Superclass Tetrapoda ) 

                   (英名:TETRAPOD (S))  

⇒ 有羊膜類。         (ランク(階級)なし   

  (ゆうようまくるい)      Amniota) 

                   (英名:AMNIOTE (S))。   

⇒ 哺乳類。         (  綱  : 哺乳   

                    Class Mammalia) 

                  (英名:MAMMAL(S))。

⇒ 獣類。           (亜綱  : 亜綱    

                  Subclass Theria) 

                  (英名:THERIAN(S))。

⇒ 真獣類 (正獣類)  綱  : 真獣下(正獣下)  

  (有胎盤類、有胎盤     Infraclass Eutheria)         

  哺(ほ)乳類)。       (英名:EUTHERIAN(S)) 

                   (英名:PLACENTAL 

                  MAMMAL(S)) 。

                      ● TKKI カナヤマ著 日本史

                  辞典。

⇒ 霊長類。          目  : 霊長目(サル目)    

                     Order Primates) 

                    (英名:PRIMATE(S))。

 

⇒ 直鼻猿類 (新分類法)。亜目 : 直鼻猿亜目    

                   Suborder Haplorrhini) 

                   (英名:HAPLORRHINE(S))。

   真猿類   (新分類法)。下目 : 真猿下目 

                     Infraorder Simiiformes) 

                    (英名: SIMIAN(S))。

   狭鼻猿類 (新分類法)。小目 : 狭鼻小目 

                    Parvorder Catarrhini  ) 

                    (英名: CATARRHINE(S))。

 または、

   真猿類   (旧分類法)。亜目 : 真猿亜目  

                    Suborder Simiiformes) 

                    (英名: SIMIAN(S))。

    狭鼻猿類 (旧分類法) 。(下目 : 狭鼻下目  

                   Infraorder Catarrhini) 

                   (英名: CATARRHINE(S))。

⇒ ホミノイド           (上科 : ヒト上科   

  (類人猿と人類)。       Superfamily Hominoidea) 

                    (英名: HOMINOID(S))。

⇒ 大型類人猿と人類    ( 科 : ヒト科     

 (オランウータン、ゴリラ、   Family Hominidae)      

 チンパンジーと人類)。    英名: NONHUMAN GREAT  

                    APE(S) AND HUMAN(S))。

                    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

⇒ ゴリラとチンパンジ   亜科 : ヒト亜科   

  ーと人類。          Subfamily Homininae)   

                   (英名:  HOMININE(S))。

⇒ チンパンジーと人類。 ( 族 :  ヒト族      

                   Tribe Hominini) 

                  (英名 :HOMININ(S))。

⇒ 人類。                  (亜族 : ヒト亜族    

                   Subtribe Hominina) 

                  (英名: HUMAN(S))。       

⇒ ヒト属(= ホモ属)    ( 属  : ヒト属(= ホモ属)         

  の人類。           Genus Homo) 

                  (英名: HUMAN(S) OF   

                  THE GENUS HOMO)。       

⇒ ホモ・サピエンス       ( 種   ホモ・サピエンス種    

 (= 現生人類、新人)。    Species Homo sapiens) 

                   (英名: HOMO SAPIENS,

                  EXTANT HUMAN  SPECIES)。

⇒ ホモ・サピエンス     ( 亜種   ホモ・サピエンス・サピ

  サピエンス。         エンス亜種    

                  Subspecies Homo 

                  sapiens sapiens 

                   (英名: HOMO SAPIENS  

                  SAPIENS)。

⇒ モンゴロイド        (グループ:  モンゴロイド・グループ

  (= アジア人種)。      Group Mongoloid)。

○ 「古モンゴロイド」     (英名: MONGOLOID(S))。  

 と 「新モンゴロイド」。    ○ モンゴロイドは、容姿・外見

                   (体色・体型) による、人種分類

                  グループの1つである。

                  ○ モンゴロイドは、 古モンゴロ

                  イド(= 南方モンゴロイド、英:

                  SOUTHERN MONGOLOID

                  (S)) と、 新モンゴロイド(= 北

                  方モンゴロイド、英:NORTHERN

                  MONGOLOID(S)) の2種類

                  に分かれる。

                    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

⇒ 縄文人。         (グループ : 縄文人グループ

                  Group Jomonjin people)。

                   (英語名: THE JOMONJIN 

                  PEOPLE)。

                  ○ 「縄文人」は、 古モンゴロイ

                  ド(= 南方モンゴロイド)の日本先

                  住民であ り、 原日本人 (英:

                  THE PROTO-JAPANESE 

                  RACE) の1グループであり、「縄

                  文系」  (英:THE JOMONKEI  

                  PEOPLE) の人々である。

⇒ 弥生人。          (グループ : 弥生人グループ

○ 「縄文系(在来系)     Group Yayoijin  people)。

 弥生人」  と          (英語名: THE YAYOIJIN

 「渡来系弥生人」。     PEOPLE)。

                  ○ 弥生人とは、「縄文系(在来

                  系)弥生人」 と 「渡来系弥生人」

                  である。

                  ○ 弥生人は、縄文時代(約1万

                  2000年前〜約2400年前)か

                  ら日本の先住民の古モンゴロイ

                  ド(= 南方モンゴロイド)の「縄文

                  系(在来系)弥生人」  と、 弥生

                  時代(約2400年前〜約1700

                  年前)にアジア大陸からの移住

                                    民の新モンゴロイド(= 北方モン

                  ゴロイド)の「渡来系弥生人」であ

                  る。

                                ○ 「渡来系弥生人」は、 原日本

                  人の1 グループであり、 「弥生

                  渡来系」 (英:THE YAYOI-

                  TORAIKEI PEOPLE) の人

                  々である。

                   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

⇒ 日本人。         (グループ : 日本人グループ

○ 「古代日本人」      Group Japanese  people)。

 → 「本土日本人」、     ( 英語名: THE JAPANESE

 「琉球人」、「アイヌ人」。  PEOPLE)。

○ 「古代日本人」      ○ 日本人は、  古代日本で形成さ

 → 「中世日本人」     れた。 

 → 「近世日本人」     ○ 日本人は、 古・新モンゴロイ ド

 → 「近代日本人」     混血の、「縄文・弥生渡来・混血系」

 → 「現代日本人」。    の、「本土日本人」や「琉球人」  と、 

                  古・新モンゴロイド混血の、「縄文・

                  北アジア諸民族・混血系」の、「アイ

                  ヌ人」の3種類の人類に分かれる。

                  ○ 日本人は、 古・新モンゴロイ ド

                  混血の、「縄文・弥生渡来・混血系」

                  の、「本土日本人」や「琉球人」 (英:

                  THE MAINLAND JAPANESE

                  PEOPLE, THE RYUKYU JA-

                                      PANESE PEOPLE) と、 古モン

                  ゴロイドの、縄文系の、 「アイヌ人」

                  (英:THE AINU JAPANESE 

                  PEOPLE) の3種類の人類に分か

                  れる。

                  ○ 現在のほとんどの日本人は、 

                  「本土日本人」である。

                  ○ 「本土日本人」は、 古代日本

                  後期に形成された。

                  ○ 「本土日本人」は、  「縄文人」

                  とその子孫の「縄文系」 と、 「渡

                  来系弥生人」とその子孫の「弥生

                  渡来系」 との混血の人類である。

                  ○ 「本土日本人」は、 古・新 (南

                  方・北方)モンゴロイド混血の、「

                  文・弥生渡来・混血系」 (英:THE 

                  JOMONKEI-YAYOITORAIKEI 

                  MIXED RACIAL PEOPLE) の

                  人々である。 

                  ○ 古代日本で形成された日本 人

                  は、時代と共に、「古代日本人」 か

                  ら、 「中世日本人」、「近世日本人」、

                  「近代日本人」、「現代日本人」へと  

                  少しずつ、 平均身長が伸びるなど、 

                  容姿・外見(体型・体色)を変化させ

                  ていった。

                    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

                  ○ 古代日本で形成された日本 人

                  は、 時代と共に、「古代日本人」(英:

                  THE ANCIENT JAPANESE 

                  PEOPLE) から、 「中世日本人」、

                  「近世日本人」、「近代日本人」、

                  「現代日本人」 (英:THE ME-

                  DIEVAL JAPANESE PEO-

                  PLE, THE EARLY MODERN 

                  JAPANESE PEOPLE, THE 

                  MODERN JAPANESE PEOPLE

                   THE PRESENT-DAY JAPAN-

                                       ESE PEOPLE へと少しずつ、 

                  平均身長が伸びるなど、 容姿・外見

                  (体型・体色)を変化させていった。

 

 

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#kobayakawatakakage

 

■ 小早川 隆景 

     (こばやかわ たかかげ)。

 

■ 小早川 隆景。 

■ 名称 : 小早川 隆景 (こばやかわ たかかげ)。

■ 生没年 : 1533〜1597年。

■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代の

  武将で、毛利家を支えた、小早川家の当主。

■ 毛利元就(もとなり)の三男。 小早川家の養子

  となる。 毛利輝元の叔父(おじ)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51336。

 

 

■ 小早川 隆景 (こばやかわ たかかげ、生没年: 

  1533 〜1597年)は、 室町時代後期(戦国

  時代)、安土桃山時代の武将で、毛利家を支え

  た、小早川家の当主 であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。  

 

■ 小早川 隆景は、 毛利元就(もうりもとなり)の

  三男で、 小早川家の養子となる。 

     小早川 隆景は、 毛利輝元(もうりてるも

  と)の叔父(おじ) である。

     毛利元就(もうりもとなり)の長男は毛利隆

  元(たかもと)、元就の次男は吉川元春(きっか

  わもとはる)、 元就の三男は小早川 隆景であ

  り、毛利輝元は、毛利隆元の 嫡男で、毛利元

  の孫である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。  

 

■ 1582年の備中高松城の戦いでは、小早川

  隆景は、 吉川元春と共に、 羽柴秀吉(豊臣

  秀吉)方の軍と戦う、毛利輝元方の軍・約3万

  人を率いていた。

    備中高松城の戦いは膠着(こうちゃく)状態

  になり、毛利方は、和睦し、 その後、秀吉の織

  田軍撤退の中国大返し時に追撃しなかった。 

    「川角太閤記」では、織田軍撤退の中国大

  返し時、吉川元春は追撃を主張したが、小早

  川 隆景に静止されたと記述されている。また、

  「吉川家文書」では、両名が、追撃は無謀であ

  り、失敗すれば、毛利は滅びると懸念し追撃し

  なかったと記述されている。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。  

 

■ 小早川 隆景、吉川元春及び毛利氏は、 15

  83年(天正11年)に、賤ヶ岳(しずがたけ)の

  戦い後、 羽柴秀吉(豊臣秀吉)に従属した。

 

■ 小早川 隆景は、 1594年(文禄3年)に、羽

  柴秀俊(はしばひでとし、小早川秀秋)を養子に

  迎え、 1595年(文禄4年)に小早川秀秋に

  小早川家の家督を譲って、隠居する。

    小早川 隆景は、1597年(慶長2年)6月に、

  病死する。 享年65歳であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。  

 

 

♪♪ 小早川 隆景 が登場する興味

  深い、ドキュメンタリー、ドラマ、映

    画。

 

★ 小早川 隆景が登場する、興味深

  い関連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

  実) と 架空の出来事 が混じって描かれ

  ています。 また、 現代風にアレンジしてあ

    ります。

 

■ 『 軍師 官兵衛 』 

   (NHK2014年大河ドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

● 小早川 隆景を演じた俳優名 : 鶴見 辰吾

  (つるみ しんご)。

 

● 毛利家・武将の、浦 宗勝(うら むねかつ)を

  演じた俳優名: 佐藤 尚宏 (さとう たかひろ)。

● 吉川元春を演じた俳優名 : 吉見 一豊

  (よしみ かずとよ)。

● 毛利輝元を演じた俳優名 : 三浦 孝太

  (みうら こうた)。

 

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#korinin

 

■ 香林院  

       ( こうりんいん)。

 

■ 香林院。

■ 名称 : 香林院 (こうりんいん)。

■ 別名 : りく、 石束(いしづか)りく。

 (注意) 前近代日本では、夫婦別姓 

   前近代日本の人名)。

■ 生没年 : 1669〜1736年。

■ 元禄赤穂事件で吉良上野介義央(きらこうずけ

  のすけよしなか)を討った、赤穂藩家老の大石

  内蔵助(良雄) (おおいしくらのすけ(よしたか・

  よしお) の正室夫人

 

 

■ 香林院 (こうりんいん、りく、1669〜1736年) 

  は、 元禄赤穂事件吉良上野介(義央) (きら

  こうずけのすけ(よしなか・よしひさ)) を討った、

  赤穂藩・家老(あこうはん・かろう)の大石内蔵助

  (良雄) (おおいしくらのすけ(よしたか・よしお))

  の正室夫人 である。

 

■ 香林院(りく)の氏名。

■ 香林院(こうりんいん)の別名は、 りく、 石束

  (いしづか)りく、 である。

■ 香林院(りく)の、一族名(氏・名字)は、 石束

  (いしづか)で、 個人名は、りく、香林院 であ

  り、 りくは、実名で、 香林院は、法名(ほうみ

  ょう) である。

 前近代日本では 、上層階層の女性は、 夫の

  死去などの人生の転機を迎えたときに、法名

  得て、仏門に入る慣習があった。 

● (注意) 前近代日本では 、日本の女性は、18

  72年(明治5年)1月施行の壬申戸籍(じんしん

  こせき)までは、 夫婦別姓である。 

     前近代日本の女性は、 明治5年(1872

  年)1月施行の壬申戸籍(じんしんこせき)まで、 

  父の氏・名字一族名石束)を一生持ち、 婚

  儀を結んでも(結婚しても)夫婦別姓で、 夫の

  氏・名字(一族名、大石)を称さず。

    香林院(りく)は、大石内蔵助(良雄)と婚儀

  を結んだ(結婚した)後も、 氏名は、 石束りく 

  のままであった。

 (注意) 前近代日本では 、日本の女性は、

  の氏(名字、石束)を持っていたが、 通常、慣

  習で、個人名(りく、香林院)のみで自他呼称し

  た。

 

■ 香林院 (りく) は、 但馬国(たじまのくに、兵

    庫県北部)・豊岡藩(とよおかはん)の筆頭家老

  (1200石)の石束毎公  (いしづかつねよし、

  1641〜1713年)の娘 である。

            

■ 1701年(元禄14年)4月の赤穂城開城後、

  1701年(元禄14年)5月に、 大石内蔵助(良

  雄)は、赤穂で、 残務処理などに当たっている

  間、 夫人・りく(香林院)と4人の子を、りくの実

  家の豊岡に帰した。

     その後、大石は、京都の山科(やましな)に、

  住居を定めたので、 1701年(元禄14年)7月

  に、りく(香林院)と4人の子は山科に移り、 再び

  一緒に暮らした。

 

■ 1701年(元禄14年)7月より、 大石内蔵助

  (良雄)は、 赤穂退去後、家族と共に、京(都)・

  山科(やましな)に居住する。 

     大石内蔵助(良雄)は、 1701年(元禄14

  年)4月の赤穂城開城から1702年(元禄15年)

  7月の赤穂・浅野家再興不能まで、 幕府の幕

  閣や僧・隆光などに嘆願を出すなどして、 お家

  再興(赤穂・浅野家再興)運動の政界工作を行

  った。

 

■ 1702年(元禄15年)4月に、 大石内蔵助(良

  雄)は、 盟約に加わることを望んだ大石長男の

  大石主税良金(おおいしちから(よしかね))を除

  いて、 正室夫人の「りく」(香林院) や りくとの

  間の子たちを、 りく(香林院)の実家の豊岡(と

  よおか、兵庫県北部) に戻した。

     盟約に加わった同志たちの間での密談が進

  む中、「妻子にもしゃべらない」とする盟約の原則

  を守るため、 また、 夫人・りく(香林院)と子らに

  連座が及ばぬようにとの配慮から、りくと形式的

  に離縁したことにするためである。

     石束(いしづか)りく (香林院(こうりんいん)、

  1669〜1736年)は、 但馬国(たじまのくに、

  兵庫県北部)・豊岡藩(とよおかはん)の筆頭家

  老(1200石)の石束毎公 (いしづかつねよし、

  1641〜1713年) の娘 である。

     1701年(元禄14年)7月より大石と暮らし

  た京都・山科で身ごもった、大石夫人の「りく」

  (香林院)は、 1702年(元禄15年)4月に形

  式的に大石と離縁し実家に帰り別れた後、 りく

  (香林院)の実家の豊岡 (とよおか、兵庫県北

  部)の、石束家(いしづかけ)で、 1702年7月

  に、大石 大三郎 (おおいし だいさぶろう、170

  2〜1770年)を産ん だ。

     大石 大三郎は、 大石内蔵助(良雄)と石

  束(いしづか)りく (香林院(こうりんいん))との

  間の子で、 大石内蔵助(良雄)の遺児 (大石

  三男) である。

 

 

♪♪ 香林院 が登場する、興味深い、 ドキュ

      メンタリー、ドラマ、映画。 

 

★ 香林院 が登場 する、興味深い、ドラマ、

     映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 忠臣蔵 瑤泉院の陰謀 (ちゅう

     しんぐら ようぜいんのいんぼう) 』。 

   (テレビ東京・テレビ・2007年制作テレビ・

   ドラマ)。

● りく(香林院)を演じた女優 : 松坂 慶子。

 

● 大石内蔵助を演じた俳優 : 北大路 欣也。

● 浅野内匠頭を演じた俳優 : 高嶋 政伸。

● 瑤泉院(阿久利)を演じた女優 : 稲森 いずみ。

● お喜世(左京の局)を演じた女優 : 吹石 一恵。

● 堀部安兵衛を演じた俳優 : 山田 純大 

  (やまだ じゅんだい)。

 

■ 『 忠臣蔵 その義 その愛 (ちゅう

      しんぐら そのぎ そのあい) 』 。  

   (テレビ東京・テレビ・2012年1月2日・

   本放送・テレビドラマ)。

● リく(香林院)を演じた女優 : 萬田 久子 

  (まんだ ひさこ)。

 

● 大石内蔵助を演じた俳優 : 舘 ひろし 

  (たち ひろし)。

● 浅野内匠頭を演じた俳優 : 市川 染五郎。

● 吉良上野介を演じた俳優 : 柄本 明 

  (えもと あきら)。

● 瑤泉院(あぐり)を演じた女優 : 田中 美里。

 

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#koderamasamoto

 

■  小寺 政職  

        (こでら まさもと)。

 

■ 小寺 政職。

■ 名称 : 小寺 政職 (こでら まさもと)。

■ 生没年 : 1517〜1582年。

 

 

■ 小寺 政職 (こでら まさもと) は、 播磨国(は

  りまのくに、兵庫県)の武将、戦国大名 である。

 

 

■ 小寺 政職は、 黒田 官兵衛の第1番目の主君

  であった。  

    黒田官兵衛の第2番目の主君は、 織田信長

  の家臣の、羽柴秀吉(豊臣秀吉) である。

■ 黒田 官兵衛は、  小寺政職の家老で、小寺氏の

  姫路城の城代 であった。

 

■ 小寺政職 (こでらまさもと、1517〜82年) は、 

  赤松分家の小寺氏の当主で、 御着城(ごちゃくじ

  ょう、兵庫県姫路市東部)の城主で、 播磨国(は

  りまのくに、兵庫県)の豪族(ごうぞく、有力者)で、

  戦国大名であった。

    小寺氏は、 御着城を本城 とし、姫路城を支城

  としていた。 支城の姫路城に、家老の黒田氏を

  城代として派遣していた。

    黒田 官兵衛(孝高)は、 小寺氏の家老の1人

  であった。

    小寺政職は、 黒田 官兵衛の最初の主君であ

  る。

 

■ 小寺政職(こでらまさもと)は、 黒田重隆(し

  げたか)・職隆(もとたか)の親子(黒田 官兵衛

  の祖父と父)の能力を認め、家臣とした。

     黒田官兵衛の父の黒田職隆(くろだもとた

  か)は、小寺政職の敵の香川重道を討ち取り、 

  その功績により、 1545年に、小寺政職は、黒

  田氏の黒田職隆を家老に列し (家老職に引き

  上げ)、 黒田職隆に小寺政職の養女(明石宗

  和の娘)を娶(めと)らせ、 小寺の名字を与え、 

  姫路城を任(まか)せ姫路城の城代にした。 

     1545年から1580年頃まで、黒田氏は、

   小寺(こでら)と名乗る。

     また、小寺政職(こでらまさもと)は、黒田氏

  に、橘紋(たちばなもん)の家紋を与えた。 

     1567年頃に、小寺政職は、 黒田 官兵衛

  には、小寺政職の姪(めい)で、 姫路の北東に

  ある志方(しかた)城・城主の櫛橋伊定(くしはし

  これさだ)の娘の光(てる)を、正室夫人とさせた。

     1567年頃に、黒田 官兵衛(小寺孝高)は、 

  父・黒田職隆(小寺職隆)から家督(かとく)と家老

  職を継(つ)ぎ、 小寺政職の姪(めい)で姫路の

  北東にある志方(しかた)城・城主の櫛橋伊定(くし

  はしこれさだ)の娘の光(てる・みつ、櫛形 光)を

  正室夫人に迎(むか)え、 姫路城代となる。  

     1567年頃に、黒田 官兵衛(小寺孝高)の

  父・黒田職隆(もとたか、小寺職隆、15 24〜15

  85年)は、 隠居後、黒田宗円と称し、姫路城の

  南東に位置する、国府山城(こうやまじょう)に移

  る。

     1576年に、播磨(はりま、兵庫県南部)は、

  東から織田氏、 西から毛利氏 の大勢力が迫っ

  てきた。 小寺政職は、 家老の黒田 官兵衛(孝

  高)の進言により織田氏に味方した。 

     しかし、小寺政職は、1578年の、別所長治

  (べっしょながはる)の離反 (三木合戦(みきか

  っせん、1578〜80年)) や 織田氏重臣の

  木村重の織田氏への謀反(1578〜79年))に

  同調し、毛利氏に通じて織田氏に敵対したため、 

  小寺政職は、 1580年に織田軍に居城の御着

  城(ごちゃくじょう)を攻撃され敗れ落城し、逃亡し 

  毛利氏のもとへ落ち延びた。

    黒田 官兵衛の父の黒田職隆(くろだもとたか、

  隠居後、黒田宗円)は、 小寺政職が織田軍に敗

  れ落城し、御着城(ごちゃくじょう)から逃亡し、毛

  利氏のもとへ落ち延びた後、 小寺政職の子・斎

  (いつき)を密かに引き取って養育した (織田信

  長が反逆者・小寺政職を許さないため)。 

    斎 (いつき、元服(成人)後小寺氏職(こでら

  うじもと)) は、 播磨・御着城(ごちゃくじょう)城

  主・小寺政職(こでらまさもと)の嫡男であり、15

  80年の小寺氏滅亡後、黒田職隆(くろだもとたか、

  黒田官兵衛(孝高)の父)に育てられ、 後に黒田

  氏家臣となる。

 

■ 1580年頃から、黒田氏は、小寺氏の名字をや

  め、 黒田の名字を用いる。

 

 

♪♪ 小寺政職(こでらまさもと)が登場する

  興味深い、 ドキュメンタリー、ドラマ、

    映画。

 

★ 小寺政職 が登場 する、面白く、興

  味深い関連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事 が 混じって描かれていま

  す。 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 軍師 官兵衛 』 

   (NHK2014年大河ドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

● 黒田 官兵衛の最初の主君の小寺政職(こ

  でらまさもと)を演じる俳優 : 片岡 鶴太郎

  (かたおか つるたろう)。

 

● 黒田 官兵衛を演じる俳優名: 岡田 准一。

● 黒田 官兵衛の正室夫人・光(てる)を演じる

  女優名: 中谷 美紀。

● 黒田 官兵衛の父の黒田職隆(もとたか)を

  演じる俳優 : 柴田恭兵。

● 黒田 官兵衛の祖父の黒田重隆(しげたか)

  演じる俳優 : 竜 雷太 (りゅう らいた)。

● 黒田 官兵衛を幽閉する、荒木村重(あらきむ

  らしげ)を演じる俳優 : 田中哲司 (たなか

  てつし)。

 

■ 『 戦国疾風伝 (せんごくしっぷうでん) 

   二人の軍師〜秀吉に天下を獲ら

   せた男たち 』 

    (日本の2011年テレビ東京・放映テレビ

    ドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

● 黒田 官兵衛の最初の主君の小寺政職(こ

  でらまさもと)を演じた俳優名: 品川 徹。

 

● 黒田 官兵衛を演じた俳優名: 高橋 克典 

  (たかはし かつのり)。

● 黒田 官兵衛の父・黒田宗円(職隆)を演じ

  た俳優名 : 橋爪 功。

● 黒田 官兵衛の正室夫人・光(てる、櫛橋光)

  を演じた女優名 : 奥貫 薫。

● 織田信長を演じた俳優名 : 加藤雅也。

● 荒木村重を演じた俳優名 : 山田純大。

 

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#kogakubo

 

■ 古河公方  

       ( こがくぼう)。

 

■ 古河公方。

■ 名称 : 古河公方 (こがくぼう)。

■ 1455〜1583年、 5代。

■ 室町幕府の、東国(とうごく、関東 8国、伊豆、

  甲斐(かい、山梨県))の政務を統轄する役職。 

    5代(足利成氏、政氏、高基、 晴氏、義氏

  古河公方が就任した。 

■ 下総国古河(しもふさのくにこが、茨城県南部

  の古河)を本拠地とした。 

■ 鎌倉公方(1349〜1455年、5代)に代 わり

  成立した 、2つの公方(くぼう、古河公方堀越

  公方)の1つ。

 

 

■ 古河公方

    古河公方 (こがくぼう、1455〜1583年

  5代) は、 堀越公方(ほりごえくぼう)や関東

  管領(かんとうかんれい)と並んで、室町幕府の 、

  東国(とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、山

  梨県))の政務を統轄する役職 である。

    古河公方は、 5代鎌倉公方足利成氏(あ

  しかがしげうじ、1434〜97年)により成立し、そ

  の子孫が、世襲した。 5代(足利成氏、政氏、

  基、晴氏、義氏)の古河公方が就任した。 

    古河公方は、 下総国古河(しもうさ(しもふさ)

  のくにこが、茨城県南部の古河)を本拠地とした。

    古河公方は、 鎌倉公方(1349〜1455年、

  5代)に代わり成立した 、2つの公方(くぼう、古河

  公方、堀越公方)の1つ である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 古河公方 と 堀越公方。

● 古河公方 (こがくぼう、1455〜1583年、5

  代、足利成氏、政氏、高基、晴氏、義氏) と、 

  堀越公方 (ほりごえくぼう、1457〜91年、2

  代、足利政知、茶々丸)。

     鎌倉公方 (かまくらくぼう、5代)は、 13

  49年から1455年まで続いた。 その後、鎌倉

  公方は、 古河公方(こがくぼう、1455〜158

  3年、5代) と、 堀越公方(ほりごえくぼう、14

  57〜91年、2代) に代わった。

     古河公方や堀越公方 は、 室町幕府の 、

  東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、

  山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) 

  の政務を統轄する 役職 である。

 

 

◆ 室町時代中期・後期の東国 (関東・

  伊豆・山梨・東北) の出来事。

■ 東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、山

  梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) では、 

  永享の乱や享徳の乱以後、 「戦国の世」となる。

    永享の乱 (えいきょうのらん、1438−1439

  年)で、 室町幕府・第6代将軍足利 義教(よし

  のり)は、 義教と対立する、第4代鎌倉公方の足

  利持氏(もちうじ)と戦い、勝利を得た。

     しかし、永享の乱後、義教は、 鎌倉公方が

  統治する東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐

  (かい、山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(で

  わ)) を、完全に支配しようしたが、東国の武士

  の諸勢力の反対にあい、できなかった。 また、

  義教の子を、鎌倉公方に就任させようとしたが、

  東国の武士の諸勢力の反対にあい、就任させら

  れなかった。

      統治力のある強い鎌倉公方を失い、永享の

  乱以後の1439年から、 東国 (とうごく、関東8

  国、伊豆、甲斐(かい、山梨県)、東北2国(陸奥

  (むつ)・出羽(でわ)) では、 諸勢力が入り乱 

  れ、豊臣秀吉が日本本土を統一する1590年ま

  で、「戦国の世」となった。

 

■ 第4代鎌倉公方足利持氏  (あしかがもちうじ、

  1398〜1439年) は、 室町幕府・第6代将軍

  の足利義教 (よしのり、将軍 在任1429〜1441

   や 関東管領の上杉憲実(のりざね) と対

  立し、1438年に、永享の乱 (えいきょうのらん、

  1438〜39年)を起こし、 1439年に、幕府・上

  杉軍に敗(やぶ)れて、自殺する。 

    1440年(永享12年)に、結城合戦(ゆうきか

  っせん、1440年)が起こる。 下総国 (しもうさ

  のくに、千葉 県北部相当地域)の豪族・結城氏朝

  (ゆうきうじとも)が、鎌倉公方・足利持氏の2人

  の遺子を擁(よう)し、挙兵するが、派遣された室

  町幕府軍に敗れ、 結城氏朝は敗死し、2人の遺

  子は殺される。

     その後、1449年に、 足利持氏の子の、

  利成氏 (あしかがしげうじ、生没年:1434〜9

  7年) が、 迎えられて、第5代鎌倉公方(就任:

  1449年ー1455年) となる。 

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 第5代鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利成氏(あ し

  かがしげうじ、生没年:1434〜97年) が、 14

  54年(享徳3年)に、関東管領(かんとうかんれい)

  の上杉憲忠(うえすぎのりただ)を謀殺(ぼうさつ)し、

  利成氏は、 関東管領の上杉氏と戦い、享徳の

  (きょうとくのらん、1454〜82年) が始まる。

  室町幕府は、上杉氏を支援した。

     足利成氏(しげうじ)は、 本拠地の鎌倉を放

  棄し、 本拠地を下総国古河 (しもうさ(しもふさ)

  のくに・こが、茨城県南西部の古河) に移し、 

  河公方 (こがくぼう、1455年ー1583年、5代、

  足利成氏、政氏、高基、 晴氏、義氏) となる。

    一方、足利成氏(しげうじ)を討つべく室町幕府

  から派遣された足利政知 (あしかがまさとも、14

  35年ー1491年、足利義政の兄弟) は、 鎌倉

  に入れず、 伊豆国堀越 (いずのくにほりごえ、

  静岡県東部・伊豆半島の堀越) に本拠地を置き、 

  対峙(たいじ)し、堀越公方 (ほりごえくぼう、 就

  任:1457年ー1491年、2代) となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 享徳の乱(きょうとくのらん、1454〜1482年)

  が起こり、 古河 公方や堀越公方が成立する。

     足利成氏は、享徳の乱(きょうとくのらん)

  を起こす。 鎌倉公方の足利成氏 (あしかが

  しげうじ、1434〜97年) は、 鎌倉公方を補

  佐する役職の執事(しつじ、関東管領)の上杉

  氏と対立し、 鎌倉を保ちえず、 1455年に、 

  逃れて、 下総国古河城(しもうさのくにこがじ

  ょう) に移り、古河公方(こがくぼう) と称す。 

  1454年に、鎌倉公方の足利成氏は、 関東管

  領の上杉憲忠(うえすぎのりただ)を謀殺(ぼう

  さつ)し、 享徳の乱(きょうとくのらん)を起こし、 

  1455年に、関東管領・上杉房顕(ふさあき)が、 

  鎌倉公方の足利成氏を、 下総・古河(しもうさ・

  こが)に逐う。 成氏は、鎌倉を放棄し、古河公

  方(こがくぼう)となる(と呼ばれる)。  以後、

  古河公方 (1455〜1583年) は、 足利成

  氏(しげうじ)の子孫により、 2代・政氏、3代・

  高基、4代・晴氏、5代・義氏と続いたが、 15

  83年に古河公方の5代・足利義氏の死によっ

  て滅んだ。

     一方、享徳の乱(きょうとくのらん)が起こり、

   1457年に、 足利義政(よしまさ)の命令で、 

   足利成氏(しげうじ)を討つべく幕府から関東に

   派遣された、足利政知  (あしかがまさとも、14

   35〜91年、足利義政の兄弟) は、 鎌倉に

   入れず、 伊豆国(いずのくに)堀越に根拠地を

   置き、 堀越公方 (ほりごえくぼう、1457〜9

   1年、初代堀越公方) となる(と呼ばれる)。堀

   越公方は、1491年の足利政知(まさとも)死後、 

   政知の子の足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる、

   ?〜1491年) が、継いで2代堀越公方となる

   が、 1491年に、伊勢宗瑞(いせそうずい、北

   条早雲) に攻められ足利茶々丸は自殺し、

   越公方は、滅びる。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

♪♪ 古河公方 が登場する、興味深い、

   ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 古河公方 を描いた、興味深い、ドラ

  マ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

  実) と 架空の出来事 が 混じって描かれ

  ています。 また、現代風にアレンジしてあり

  ます。

 

■ 『 里見八犬伝 (さとみはっけんでん) 』 。 

   (TBSテレビ・2006年ドラマ)。 

■ 室町時代後期(戦国時代)の関東の時代状況

  を描いたドラマ。

■ 古河公方(こがくぼう)と関東管領との対立も

  描く。

■ 室町時代後期(戦国時代)の関東地方の状況

  がとてもよく描かれていて、必見の価値あり。

 

● 当時の関東の2大軍事勢力の 古河公方(こ

  がくぼう) と、 関東管領(かんとうかんれい)

  ・扇谷上杉氏(おうぎがやつうえすぎし) と

  が対立する中で、 小国の安房(あわ、千葉県

  南部)の里見氏(さとみし)が、 生き残りをか

  けて戦う。

 

● 綾瀬はるか、仲間、菅野をはじめ多数の美人

  女優が出演し、滝沢など有名な男優多数

  演している戦国時代ドラマ。

 

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#the5thrank

 

■ 五位  

     (ごい)

 

■ 五位。

■ 名称 : 五位 (ごい)。

■ 位階のグループ。

■ 使用期間(叙位期間) : 

● 古代日本の飛鳥白鳳時代から現代日本の

  現在まで。 

● (西暦紀元後)701年頃から現在まで。

■ 朝廷(律令官制)、職員令、叙位条例、位階

  令の位階 (701年頃〜現在、叙位に使用)。

● 正五位 (しょうごい)  と 従五位 (じゅご

  い) の2つの位階

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

■ 前近代日本の朝廷(律令官制)の位階。

● 正五位

  ○ 正五位上 (しょうごいのじょう)。

  ○ 正五位下 (しょうごいのげ)。

● 従五位

  ○ 従五位上 (じゅごいのじょう)。

  ○ 従五位下 (じゅごいのげ)。

 

 前近代の朝廷(律令官制)の位階

 位階

 叙位

 

 

■ 五位。

■ 五位 (ごい) とは、 正五位 (しょうごい) 

  と 従五位 (じゅごい) の2つの位階であ

  る。

    更に、前近代日本の朝廷(律令官制)の

  位階では、五位には、 正・従(しょう・じゅ)

  五位の2つの位階に上下を付けて、次のよ

  うな4つの位階があった。

 ● 正五位

  ○ 正五位上 (しょうごいのじょう)。

  ○ 正五位下 (しょうごいのげ)。

 ● 従五位

  ○ 従五位上 (じゅごいのじょう)。

  ○ 従五位下 (じゅごいのげ)。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 五位 (ごい)は、 古代日本の飛鳥白鳳時

  代から現代日本の現在までの期間の叙位

  に使用されている位階 で、 (西暦紀元後)

  701年頃から現在までの期間の叙位に、使

  用されている。  

     現在は、1947年の改正位階令により、

  功績のあった、故人(死亡者)へのみ、叙位

  が行われている。

 

 

■ 五位。

■ 律令官制の位階。 

   <701年頃〜1869年頃>

 ● 朝廷の位階の「一位〜八位、初位」の

   9グループの5番目のグループの位階。

 ● 朝廷の30位階(いかい)の、

   11番目の正五位上 (しょうごいのじょう)、

   12番目の正五位下 (しょうごいのげ)、

   13番目の従五位上 (じゅごいのじょう)、

   14番目の従五位下 (じゅごいのげ)、

   の4つの位階である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 職員令(1869年制定)の位階。

   <1869年頃〜1887年頃>

 ● 近代日本政府の位階の「一位〜九位、

   初位」の10グループの 5番目のグループ

   の位階。

 ● 近代日本政府の20位階の、

   9番目の正五位 (しょうごい)、

   10番目の従五位 (じゅごい)、

   の2つの位階である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 叙位条例(1887年制定)、位階令

  (1926年制定、1947年改正)

  位階。

   <1887年頃〜現在>

 ● 近・現代日本政府の位階の「一位〜八位

   8グループの 5番目のグループの位階。

 ● 近・現代日本政府の16位階の 、

   9番目の正五位 (しょうごい)、

   10番目の従五位 (じゅごい)、

   の2つの位階である。

 

 

■ 五位。

■ 律令官制の位階。 

  <701年頃〜1869年頃>

 ● 五位は、 朝廷の位階の「一位〜八位、初

   位」の9グループのうちの、上から5番目の

   グループの位階である。

 ● 五位は、 正一位(しょういちい)から少初

   位下(しょうそいのげ)までの朝廷の30位

   階(いかい)の、

   11番目の正五位上 (しょうごいのじょう)、

   12番目の正五位下 (しょうごいのげ)、

   13番目の従五位上 (じゅごいのじょう)、

   14番目の従五位下 (じゅごいのげ)、

   の4つの位階である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 職員令(1869年制定)の位階。

  <1869年頃〜1887年頃>

 ● 五位は、 近代日本政府の位階の「一位〜

   九位、初位」の10グループの うちの上から

   5番目のグループの位階である。

 ● 五位は、 正一位(しょういちい)から少初

   位(しょうそい、しょうしょい)までの近代日

   本政府の20位階の、

   9番目の正五位 (しょうごい)、

   10番目の従五位 (じゅごい)、

   の2つの位階である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 叙位条例(1887年制定)、位階令

  (1926年制定、1947年改正)の位階。

  <1887年頃〜現在>

 ● 五位は、 近・現代日本政府の位階の「一

   位〜八位」の8グループの うちの上から5

   番目のグループの位階である。

 ● 五位は、 正一位(しょういちい)から従八

   位(じゅはちい)までの近・現代日本政府の

   16位階の、

   9番目の正五位 (しょうごい)、

   10番目の従五位 (じゅごい)、

   の2つの位階である。

 

 

#the5thrank-premoderncourt

 

◆ 律令官制の位階。 

■ 従五位下。

■ 前近代日本の朝廷で、

● 貴族になるための、最下位の位階。

● 内裏の、殿上人になるための最低条件の

  位階。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 通常、朝廷の位階五位以上の者を貴族と呼

  ぶので、 従五位下は、朝廷の貴族になるた

  めの、朝廷の最下位の位階 である。

 

■ 内裏の、殿上人(てんじょうびと) は、位階・

  六位以上の者で蔵人(くろうど)に叙任された

  者 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

■ 従五位下(じゅごいのげ)は、 蔵人(くろうど)

  を除き、 内裏(だいり、天皇御所)の、殿上人

  (てんじょうびと)になるための、朝廷の最低条

  件の位階である。 

 

■ 内裏の、殿上人(てんじょうびと) とは、位階

  ・五位以上の者で昇殿を許可された者、 や

  位階・六位以上の者で蔵人(くろうど)に叙任さ

  れた者 である。

    内裏の、殿上人(てんじょうびと) とは、

  の位階・五位以上の者で天皇より昇殿を許

  可された者(昇殿を許された者)、 や、 朝

  廷の位階・位以上の者で天皇 により蔵人

  叙任された者 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 従五位下(じゅごいのげ) は、 朝 廷の位階

  、正一位(しょういちい)から少初位下(しょ

  うそいのげ)までの朝 廷の30位階(いかい)

  の上位14番目の位階である。

 

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#kongozenshorinjitemple

 

■ 金剛禅少林寺 

     (こんごうぜんしょうりんじ)。

 

■ 金剛禅少林寺 。

■ 名称 : 金剛禅少林寺  (こんごうぜんしょうりんじ)。

● 正式名: 金剛禅総本山少林寺。

■ 北禅の禅宗・仏教の寺院。

 

 

■ 金剛禅少林寺  (こんごうぜんしょうりんじ) は、

 式名は 金剛禅総本山少林寺で、 北禅の禅宗・仏教

 の寺院 である。

 

■ 金剛禅少林寺(日本) は、 日本・四国の香川県多

 度津町にあり、 日本人・宗道臣(そうどうしん)が、 戦

 後、北禅の禅宗を開いた寺院で、 宗門の行の「少林

 寺拳法」の中心地である。

 

■ 金剛禅の教えの中心思想は、 「自己確立」、「自他

 共楽」、「拳禅一如」、「力愛不二」 などである。 

■ 金剛禅少林寺(日本) では、 座禅行、 易筋行の

 少林寺拳法、 その他の方法で、 修行を行っている。

 

■ 禅宗には北禅と南禅がある。 金剛禅少林寺 (こん

 ごうぜんしょうりんじ)は、 日本の北禅の禅宗の仏教

 寺院であり、 中国の崇山少林寺と並ぶ、「北禅の禅宗

 の世界の2大仏教寺院」の1つ である。 日本の金剛

 禅少林寺は、 中国の崇山少林寺とは、交流(友好関

 係)はあるが、 直接、関係はない。

 

■ 日本の金剛禅少林寺や中国の崇山少林寺などに共

 通する北禅の禅宗・仏教の目的の1つは、 厳(きび)し

 い肉体と精神の鍛錬(たんれん)を通じて、 人が人生

 の如何(いか)な状況・困難にもめげず立ち向かい、打

 ち勝つための 「不屈の精神力」  を養うことにある。

 

 

■ 易筋行 (えききんぎょう)は、 中国の崇山少林寺で、 

 仏教の布教のため中国を訪れた、禅宗の開祖のインド

 人仏僧・達磨大師や他のインド人仏僧が、インド拳法を

 基礎に、 修行の1つとして行っていた 拳法である。

 

■ 禅宗(ぜんしゅう)は、大乗仏教の一派で、達磨大師

 以後、中国で発展し、修行を易筋行(えききんぎょう)に

 重点を置く「北禅の禅宗」 と 修行を座禅行に重点を

 おく「南禅の禅宗」 に分かれる。

 

● 「北禅の禅宗」 は、中国では、達磨大師以後、崇山

 少林寺などを中心に、栄え、現在に至る。 一方、「北

 禅の禅宗」は、 戦後、中国から日本に伝えられ、日本

 で、金剛禅少林寺(こんごうぜんしょうりんじ)などの寺

 院が形成され、栄え、現在に至る。 

 

● 「南禅の禅宗」は、中国では、達磨大師以後、唐・宋

 代に栄え、明代に衰え、現在に至る。 一方、南禅の

 禅宗」は、中国の宋の時代(960〜1279 年、北宋・南

 宋時代)に、 中国から日本に伝えられ、その後、日本

 で、曹洞宗(そうとうしゅう)、臨済宗(りんざいしゅう)、

 黄檗宗(おうばくしゅう)などの寺院が形成され、栄え、

 現在に至る。 

 

 

◆ 少林寺拳法。

■ 少林寺拳法 (しょうりんじけんぽう)は、 北禅の禅宗

 仏教寺院の「金剛禅少林寺(日本)」で、  座禅行と並び、

 宗門の行として行われている拳法 (易筋行(えききんぎ

 ょう)、拳術と柔術)) である。

 

■ 易筋行 (えききんぎょう)は、 中国の崇山少林寺で、 

 仏教の布教のため中国を訪れた、禅宗の開祖のインド

 人仏僧・達磨大師や他のインド人仏僧が、インド拳法を

 基礎に、 修行の1つとして行っていた拳法 である。

 

■ 「少林寺拳法」は、 中国の崇山少林寺の宗門の行

 少林拳とは全く別の技法体系をもつ。

 

■ 戦前に中国で活動し崇山少林寺でも修行し少林拳も

 体得した日本人拳法家・宗道臣(そうどうしん)が、 戦

 後、日本に金剛禅少林寺を建て、少林拳や他の中国系

 拳法を融合し採り入れ宗門の行(拳禅一如)とした拳法

 である、「少林寺拳法」を日本に普及し、その後、世界各

 国に道場をもうけ、少林寺拳法が、 世界に広まる。 

 

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#theretiredemperorgotoba

 

■ 後鳥羽上皇 

     (ごとばじょうこう)

 

■ 後鳥羽上皇。 

■ 生没年 : 1180年〜1239年。

■ 名称 : 後鳥羽上皇 (ごとばじょうこう)

● 別名 : 後鳥羽院 (ごとばいん)

● 英名: the retired Emperor Gotoba。

■ 平安時代末期、鎌倉時代初期の天皇上皇

■ 後鳥羽天皇 (天皇在位:1183年〜1198年)。

■ 後鳥羽上皇 (上皇、1198年〜1239年)。

■ 高倉天皇と藤原殖子(ふじわらのしょくし・た

  ねこ)との間の皇子(みこ)。

■ 後白河上皇の孫。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

□ 平安末期・鎌倉初期日本政治実権

  者変遷一覧表

 

 

■ 1183年、後白河法皇が、伊勢平氏に対抗する

   ため、 後鳥羽天皇(当時、幼帝)を擁立する。 

       伊勢平氏に対抗する河内源氏・源頼朝政権

  これを支持する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 後鳥羽天皇は、生没年 は1180年〜1239年

   で、 天皇在位は1183年〜1198年である。

■ 後鳥羽天皇 (天皇在位:1183年〜1198年)

  は、1183〜85の間、 安徳天皇 (天皇在位、

  1180〜1185年) と天皇在位期間が重複して

  いる

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 後鳥羽上皇は、 鎌倉幕府打倒を図り、北面の武

 士の他に、西面の武士(さいめんのぶし)を設置し、

 1221年に、承久の乱(じょうきゅうのらん)を起こし

 たが失敗し、 隠岐(おき)に流される。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

◆ 平安時代後期・鎌倉時代前期の

   歴代天皇一覧。

■ 日本の平安時代後期・鎌倉時代前期の

  天皇の皇位継承順は、 

  白河(しらかわ)天皇 ⇒

  堀河(ほりかわ)天皇 ⇒ 

  鳥羽(とば)天皇 ⇒ 

  崇徳(すとく)天皇 ⇒ 

  近衛(このえ)天皇 ⇒ 

  後白河(ごしらかわ)天皇 ⇒ 

  二条(にじょう)天皇 ⇒ 

  六条(ろくじょう)天皇 ⇒ 

  高倉(たかくら)天皇 ⇒ 

  安徳(あんとく)天皇 ⇒ 

  後鳥羽(ごとば)天皇 ⇒ 

  土御門(つちみかど)天皇 ⇒ 

  順徳(じゅんとく)天皇 ⇒ 

  仲恭(ちゅうきょう)天皇 ⇒ 

  後堀河(ごほりかわ)天皇 ⇒ 

  四条(しじょう)天皇 ⇒ 

  後嵯峨(ごさが)天皇 

  の順である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

◆ 平安時代後期の歴代天皇一覧。

■ 天皇の皇位継承順 は、次の通りである。

@ 白河(しらかわ)天皇    (貞仁(さだひと)親王) ⇒

  (天皇在位、1072年〜1086年)

A 堀河(ほりかわ)天皇    (善仁(たるひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1086年〜1107年)

B 鳥羽(とば)天皇       (宗仁(むねひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1107年〜1123年)

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

C 崇徳(すとく)天皇      (顕仁(あきひと)親王)  ⇒

  (天皇在位、1123年〜1141年)

D 近衛(このえ)天皇     (体仁(なりひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1141年〜1155年)

E 後白河(ごしらかわ)天皇 (雅仁(まさひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1155年〜1158年)

F 二条(にじょう)天皇     (守仁(もりひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1158年〜1165年)

G 六条(ろくじょう)天皇    (順仁(のぶひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1165年〜1168年)

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

H 高倉(たかくら)天皇    (憲仁(のりひと)親王)  ⇒ 

  (天皇在位、1168年〜1180年)

I 安徳(あんとく)天皇      (言仁(ときひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1180年〜1185年)

J 後鳥羽(ごとば)天皇    (尊成(たかひら)親王)

  (天皇在位、1183年〜1198年)

 

 

■ 後鳥羽天皇(尊成親王、後鳥羽上皇、 生没年118

 0〜1239年)は、 高倉天皇と藤原殖子(ふじわらの

 しょくし・たねこ) との間の子である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 後鳥羽天皇 (在位:1183年〜1198年)は、11

 83年に即位し、1198年に譲位して(退位して)、 後

 鳥羽上皇 (1198年〜1239年) となる。

 

■ 後鳥羽上皇は、平安時代末期、鎌倉時代初期の

 上皇 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 後鳥羽上皇 (ごとばじょうこう)は、 生没年は、11

 80年〜1239年であり、 後鳥羽院 (ごとばいん)と

 もいう。 英名は、the retired Emperor Gotoba

 である。

■ 院政 とは、上皇が、 天皇を後見(こうけん)しなが

  ら朝廷の政治の実権をにぎる政治形態である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 上皇(じょうこう)とは、 退位した(譲位した)天皇

  で、元天皇 である。

 

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#gomizunootenno

 

■ 後水尾 天皇 

     (ごみずのおてんのう)。

 

■ 後水尾 天皇

■ 名称 : 後水尾 天皇 (ごみずのお てんのう)。 

● 別名は、政仁 天皇 (ことひと てんのう)。 

● (いみな)は、政仁(ことひと)。 追号は、後水尾

 (ごみずのお)

■ 生没年 : 1596年(慶長元年)〜1680年(延宝8

 年)

■ 天皇在位 : 1611年(慶長16年)〜1629年(寛

 永6年)

● 退位後、後水尾 上皇 (ごみずのお じょうこう)。 

  (上皇、1629年〜1680年)。

■ 父・後陽成(ごようぜい) 天皇と不仲。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 江戸幕府2代将軍・徳川秀忠とお江(おごう)との間の

 娘・和子(ま さこ、かずこ) の夫。

■ 江戸幕府3代将軍・徳川 家光の妹・和子、の夫。

■ 江戸時代初期の天皇。

■ 後陽成 天皇の第3皇子 。

■ 父 は、 後陽成(ごようぜい) 天皇 (生没年1571

 〜1617年、天皇在位1586〜1611年)。

■ 母 は、 近衛 前子 (このえさきこ、藤原前子、中和

 門院(ちゅうわもんいん))。 後陽成 天皇の女御(にょう

 ご、正室・夫人)。 元関白・近衛前久(このえ さきひさ)

 の娘。

■ 生涯を通じ、女性関係は派手で、 正室夫人の和子

 以外の側室夫人6人。  子供34人を産ませる。

 

 

■ 父・後陽成 天皇の意に反し、 徳川家康の後押し

 (指名)で、天皇となる。

 

■ 1620年(元和6年)に、 徳川秀忠五女(徳川家康

 の孫娘)の( まさこ、かずこ)と婚儀を結ぶ(結婚

 する)  (和子が女御(にょうご)として入内( じゅだい)

 する)。

 

■ 江戸幕府の朝廷への統制に不満を抱(いだ)く。 

 

■ 1627年(寛永4年)に、紫衣(しえ)事件を起こす。 

 その後、 お福(おふく、春日局)と会見する。

 

■ 1629年(寛永6年)に、 天皇の権威の失墜に耐え

 かねて天皇を退位する。 天皇の位を、和子の娘の興

 子内親王(おきこないしんのう、1623〜96年)に譲位

 し、 興子内親王は、明正(めいしょう)天皇(女帝)とな

 る。

 

■ 後水尾 天皇は、退位後、後水尾 上皇として、その後、

 明正(めいしょう)天皇から霊元天皇までの4代の天皇の

 後見人として、 院政(1629年〜1680年)を行う。 そ

 の間、江戸幕府と対立する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 江戸幕府の方針に忠実な朝廷の運営が行われる

  ことを目指して、 江戸幕府 は、 朝廷の行動の

  統制を目的として、1613年(慶長18年)6月に、

  「公家衆法度」、「勅許紫衣(しえ)法度」を制定した。 

  続いて、1615年(慶長20年)7月に、「禁中並公

  家諸法度」を公布した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 以後、朝廷の行動全般が、京都所司代を通じて、

  江戸幕府の管理下に置かれた。 朝廷の運営も摂

  政・関白が朝議を主宰し、その決定を武家伝奏(ぶ

  けでんそう)を通じて幕府の承諾を得ることによっ

  て初めて施行できる体制 へと変化した。 これに

  より、 摂家(せっけ)以外の公卿(くぎょう)や上皇 

  は、 朝廷の政策決定過程から排除され、 幕府の

  方針に忠実な朝廷の運営が行われた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 後水尾 天皇は、 江戸幕府の朝廷への統制に不

  満を抱(いだ)く。 

 

 

■ 後水尾 天皇 (ごみずのお てんのう)は、 父・後

  陽成(ごようぜい) 天皇とは不仲 であった。

 

■ 父・後陽成 天皇の意に反し、 1611年(慶長16

  年)に、 後水尾天皇 は、 徳川家康の後押し(指

  名)で、 天皇 (在位 1 611〜29年) となる。

 

■ 江戸幕府は、 朝廷の行動の統制を目的として、

  1613年(慶長18年)6月に、「公家衆法度」、「勅

  許紫衣(しえ)法度」 を制定した。

     続いて、江戸幕府は、1615年(慶長20年)

  7月に、「禁中並公家諸法度」を公布した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 後水尾 天皇 (ごみずのお てんのう) は、 2代

  将軍徳川秀忠の娘の和子(かずこ、まさこ)との婚

  儀前に、 隠し子(女官の四辻与律子の皇子・皇女)

  がいることが発覚し、 近臣を処罰して、徳川秀忠

  に侘(わ)びを行う。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1620年(元和6年)に 、後水尾 天皇は、 徳川

  秀忠五女(徳川 家康の孫娘)の和子(かずこ、まさ

  こ)と婚儀を結ぶ(結婚する) (和子が女御(にょう

  ご)として入内(じゅだい)する)。

 

■ 後水尾 天皇 (ごみずのお てんのう) は、1627

  年(寛永4年)に、 紫衣(しえ)事件を起こす。 

     その後、 徳川家光の乳母(うば、めのと)のお

  福(春日局)が、無位無官で朝廷に参内(さんだい)

  し、後水尾 天を悩ませる。

● 紫衣(しえ)事件とは、 従来の天皇による紫衣(し

  え)の勅許を無効とした(認めないとした)事件 で

  ある。 後水尾 天皇は、不満をもった。

● 紫衣(しえ)事件とは、 従来、天皇が主な寺院の

  高僧に紫衣(しえ)を着用する許可を与えていた

  が、 諸宗寺院法度や禁中並公家諸法度の法度

  に照らして、 江戸幕府が、その行為を認めない

  とした事件 である。

   その後、 幕府は、1929年に、紫衣(しえ)事

  件に抗議した沢庵(たくあん)ら僧侶を処罰した。 

  この処置により、 朝廷に対する、幕府の優越が、

  明確になる。

     この事件により、「幕府の法度(はっと)」は、 

  「天皇の勅許(ちょっきょ、天皇の許可)」 より優

  先するということが明示された。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

@ 幕府は、1615年に、禁中並公家諸法を公布し、朝廷がみだりに

 紫衣(しえ)や上人号を授(さず)けることを禁じた。

A 幕府が紫衣(しえ)の授与を規制したにもかかわず、1627年(寛

 永4年)に、後水尾 天皇 が、 従来の慣例どうり、幕府に諮(はか)

 らずに(事前の相談もなく)、10数名の僧侶に紫衣着用の勅許を与

 えた。

B これを知った幕府 (3代将軍・家光) は、 法度違反とみなし、そ

 れらの勅許状を無効とみなし、1627年に、 法度違反の紫衣を取り

 上げるよう命じた。

C 朝廷は、授与した紫衣着用の勅許の無効に強く反対した。 また、

 沢庵(たくわん)ら大寺の高僧も、 朝廷に同調して幕府に抗弁書を

 提出した。

D 幕府は、1929年(寛永6年)に、 幕府に反抗した、沢庵(たくわ

 ん)ら高僧を流罪(るざい)に処(しょ)した。

 

■ 1629年(寛永6年)に、後水尾 天皇 は、 天皇の権威の失墜に

 耐えかねて、天皇を退位する。 天皇を、和子の娘の興子内親王(お

 きこないしんのう、1623〜96年)に譲位し、 興子内親王は、明正

 (めいしょう)天皇 となる。

■ 退位後、後水尾 天皇 は、 後水尾 上皇として、 その後の霊元

 天皇までの4代の天皇の後見人として、院政を行う。 その間、江戸

 幕府と対立する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 後水尾 天皇 (ごみずのお てんのう)は、 生没年は、1 596

 年(慶長元年)〜1680年(延宝8年) で、 天皇在位は、1611

 年(慶長16年)〜1629年(寛永6年) である。

■ 退位後、後水尾 上皇 (ごみずのう じょうこう、上皇、1629年〜

 1680年) となる。 

■ 後水尾 天皇は、 別名は、 政仁 天皇 (ことひと てんのう)で

 ある。

● 後水尾 天皇の 諱(いみな) は、 政仁 (ことひと) である。

 後水尾 天皇追号は、 後水尾 (ごみずのう) である

■ 後水尾 天皇 は、 江戸幕府2代将軍・徳川秀忠とお江(おごう)

 との間の娘・和子(かずこ、まさこ) 、の夫 である。

■ 後水尾 天皇は、 江戸幕府3代将軍・徳川 家光の妹・和子、の

 夫 である。

■ 後水尾 天皇は、 後陽成 天皇の第3皇子 で、 江戸時代初期

 の天皇 である。

 

■ 後水尾 天皇の、父は、 後陽成(ごようぜい) 天皇 (生没年15

 71〜1617年、 天皇在位1586〜1611年) である。

■ 後水尾 天皇の、母 は、 近衛 前子(このえさきこ、藤原前子、中

 和門院(ちゅうわもんいん)、1575〜1630年) で、 後陽成 天皇

 の女御(にょうご、正室・夫人)であり、 元関白・近衛 前久(このえさ

 きひさ)の娘 である。

■ 後水尾 天皇は、 生涯を通じ、女性関係は派手で、正室の和子

 以外の側室・夫人は6人で、 子供34人を産ませる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#kozosu

 

■ 孝蔵主 

     (こうぞうす)。

 

■ 孝蔵主

■ 名称 : 孝蔵主 (こうぞうす)。 実名 不詳。

  出家して、孝蔵主(こうぞうす)と称す。

■ 生没年 : 生年不詳?〜1626年(寛永3年)。

■ 安土桃山時代、江戸時代初期の武家女性。

■ ねね(おね)の側近として仕え、 後に、徳川

   秀忠に仕えた。

■ 父は、蒲生(がもう)貞秀の家臣の、川副 勝重

  (かわぞえ かつしげ)。

■ 一生未婚ですごし、子はなかった。

 

 

■ 孝蔵主 (こうぞうす)は、ねね(おね)に仕え、 

  北政所(きたのまんどころ)のねね(おね)を支え、 

  豊臣政権では、 北政所や秀吉の奏者(そうじ

  ゃ)として、諸大名との取次に当たったりした。

 

■ 孝蔵主 は、 1599年に(慶長4年)に、高台

  院となった、ねね(おね)と共に、大阪城を退去し、

  京(都)の三本木に移った。 その後、高台院の

  執事(しつじ)として、折衝役や講和交渉役など

  を務めた。

 

■ 孝蔵主 (こうぞうす)は、1614年(慶長19年)

  に、高台院のねね(おね、生没年1548年?〜

  1624年) の元を離れ、江戸に移る。 

 その後、2代将軍・徳川秀忠 (ひでただ、将軍

  在位1605〜23年、生没年1579〜1632年) 

  に仕(つか)え、 江戸城大奥の取り締まりにあ

  たる。  

 

■ 孝蔵主は、 1625年(寛永2年)に、江戸幕

  府より、河内国(かわちのくに)に200石の

  領地を与えられる。 その翌年に死去する。

 

■ 孝蔵主 (こうぞうす) は、一生未婚であり子供

  がいなかったため、 特別に、孝蔵主の甥(おい)

  の川副重次(かわぞえしげつぐ)が、 孝蔵主の

  養子となり、その200石の領地を継(つ)いだ。

 

 

■ 孝蔵主 (こうぞうす)は、 ねね(おね)の側近とし

  て仕え、 後に、徳川秀忠に仕えた。 

■ 孝蔵主は、 実名は不明で、 出家して、孝蔵主 

  (こうぞうす )と称す。

■ 孝蔵主 (こうぞうす、 生没年 生年不詳?〜

  1626年(寛永3年))は、 安土桃山時代、江戸

  時代初期の武家女性 である。

■ 孝蔵主の父は、 蒲生(がもう)貞秀の家臣であっ

  た、川副 勝重(かわぞえ かつしげ) である。

■ 孝蔵主は、 一生未婚ですごし、子はいなかった。

 

 

■ 孝蔵主の墓所は、 南泉寺 (東京都荒川区西日

  暮里)にある。

 

 

★ 孝蔵主(こうぞうす)が登場する、興味

   深い、ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画 は、フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事 が、 混じって、描かれています。 

  また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』 。 

   (NHKテレビ・2011年大河ドラマ) 

 

■ 『 寧々〜おんな太閤記 (ねね 

   おんなたいこうき) 』 。 

   (テレビ東京・2009年制作テレビドラマ)。 

● 孝蔵主を演じた女優名 : 吉沢 京子。

 

■ 『 功名が辻 (こうみょうがつじ) 』 。 

   (NHKテレビ・2006年大河ドラマ)。

● 孝蔵主を演じた女優名 : 神津 はづき。

 

■ 『 利家とまつ〜加賀百万石

    物語〜 』。 

   (NHKテレビ・2002年大河ドラマ)。

 

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#goshi

 

■ 郷士 

     (ごうし)。

 

■ 郷士。

■ 時期 : 江戸時代。

■ 名称 : 「郷士」 (ごうし)。

■ 江戸時代の下級武士 (= 下士(かし))。

■ 江戸時代の在郷下級武士。

■ 江戸時代の下級武士の階級身分の1つ。

■ 「郷士」の例、 土佐藩士(とさはんし)の坂本龍馬

  (さかもとりょうま)。

 

 

■ 「郷士」 (ごうし) とは、 江戸時代の、在郷下級

  武士 である。

■ 「郷士」 (ごうし) は、 江戸時代の下級武士

  (= 下士(かし))であり、 江戸時代の下級武士の

  階級身分の1つ である。

■ 「郷士」の例として、 土佐藩士(とさはんし)の坂

  本龍馬(さかもとりょうま) などがいる。

 

■ 郷士(ごうし) とは、 江戸時代の武士の階級身

  分の1つで、 一般的に、城下ではなく、 農村等

  に居住していた 下級武士 つまり、 在郷下級武士 

  である。

● 江戸時代、 江戸幕府の一国一城令により、 各藩

  は、 一藩に1つの城だけを持ち、 多くの藩士(藩

  に属する武士)は、 城下(じょうか)に住んだが、 

  下級武士の一部は、 農村等に住んだ。 一般的に

  農村等に居住していた下級武士を、 江戸時代に、 

  郷士(ごうし) と呼んだ。

 

 

♪♪ 郷士(ごうし)が登場する興味深 い、

    ドキュメンタリー、ドラマ、映画、。

 

★ 郷士が登場する興味深い、ドラマ、

   映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

   歴史のドラマ、映画 は、史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事 が 混じって描かれています。 

   また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 。

   (NHKテレビ・2010年大河ドラマ)。

● 土佐藩の下士(かし、下級武士)で郷士

  (ごうし)の、坂本龍馬(さかもとりょうま) 

  が登場 する。 

 

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#konin-joganbunka

 

■ 弘仁・貞観文化 

      (こうにん・じょうがんぶんか)。

 

■ 弘仁・貞観文化。

■ 時期 : 8世紀 末〜9世紀末。

■ 名称 : 弘仁・貞観文化 (こうにんじょうがんぶんか)。

■ 平安時代初期の、 文芸で国家の隆盛をめざす文章経国(もんじ

 ょうけいこく)思想、 宮廷漢文学、 密教仏教 等を中心とする文化。

 

 

 弘仁・貞観文化    (8世紀 末〜9世紀末)。

● 日本の弘仁・貞観(こうにん・じょうがん)文化 (8世紀末〜9世紀

 末)は、平安時代初期の、 文芸で国家の隆盛をめざす文章経国(も

 んじょうけいこく)思想、 宮廷漢文学、 密教仏教 等を中心とする

 文化である。

● 弘仁・貞観(こうにん・じょうがん)文化の仏教文化は、 現世利益

 (げんぜりやく)、 資質が必要な密教(みっきょう) 等を特徴とする。

● (弘仁・貞観文化の例) 菅原道真(すがわらみちざね)編纂の「類

 聚国史(るいじゅうこくし)」(歴史書)。  新興仏教の最澄(さいちょ

 う)の天台宗(てんだいしゅう)や空海(くうかい)の真言宗(しんごんし

 ゅう)。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

■ 日本の平安時代 は、主に、 天皇、 貴族、 上皇、 武士 など  

 が、 政治権力(政治の実権)をもち、 民衆を支配した時代 である。

■ 日本の平安時代 は、主に、 天皇親政政権 (平安初期)、 藤

 原氏・摂政関白政権 (平安中期)、院庁や平氏政権 (平安後期) 

 が、日本を支配した時代 である。 

 

■ (S2) 律令政治 とは、 従来の、豪族による土地人民の私有と

 氏姓制度による官職の世襲を取り除いて、 公地公民制と官僚制を

 基礎にした中央集権国家の政治形態 である。

 

■ (T2) 公地公民制 (7〜10世紀) とは、 土地・人民の私有を

 許さないという律令制の原則 であり、 朝廷が、 土地人民を、公有

 地(公地)、公民にして、 支配する統治制度 である。

 

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#kobekaigunsorensho

 

■ 神戸海軍操練所 

       (こうべかいぐんそうれんじょ)

 

■ 神戸海軍操練所。

■ 名称 : 神戸海軍操練所 (こうべかいぐんそうれんじょ)。  

 別名 : 海軍操練所 (かいぐんそうれんじょ)。

■ 幕末、 1864年(元治 元年)に設立される。 

 設立後、約1年間で閉鎖 される。 

 

■ 勝海舟は、まず、 神戸海軍操練所の開設までの準備期間に、海軍学を

 学ばさせるために私塾の海軍塾をもうけ、 神戸海軍操練所設立後も、 海

 軍塾を存続させた。 

● 坂本龍馬など脱藩者や浪人は、 直接、幕府直轄の神戸海軍操練所に

 関わることができなかったため、 海軍塾に所属した。

 

■ 神戸海軍操練所 (かいぐんそうれんじょ) とは、 幕末、神戸で、勝海

 の提言で設立された、江戸幕府直轄の海軍養成機関 である。

 

■ 海軍塾や神戸海軍操練所 には、 日本各地から訓練生が集められた。

 

 

■ 亀山社中は、 勝海舟の設立した海軍塾・神戸海軍操練所 (こうべかい

 ぐんそうれんじょ)の廃止に伴い行き場を失った、海軍塾・神戸海軍操練所

 のメンバー20数名で、1865年に、組織された。

● 1864年(元治(げんじ)元年)に相次いで起きた、 池田屋事件、 禁門

 の変(蛤御門の変)で、 海軍塾や神戸海軍操練所のメンバーも関わって い

 た。

  江戸幕府の上層部は、 海軍塾や神戸海軍操練所を不穏分子のたまり場

 として危険視し、 1864年(元治元年)11月に、 浪人を保護したいう理由

 で勝海舟を海軍奉行から解任する。 その後、神戸海軍操練所の廃止も決

 める。 ここに、勝海舟は、失脚する。 坂本龍馬海軍塾・神戸海軍操練所

 のメンバー(訓練生)は、 行き場を失ってしまう。 

   勝海舟の要請により薩摩藩の西郷隆盛 は、 薩摩藩邸で、 龍馬ら

 軍塾・神戸海軍操練所のメンバー(訓練生)を保護する。 

   坂本龍馬は、 浪人により私設艦隊を結成し、平時は海運や貿易を行い、

 有事には海軍として活躍する社中(結社)を構想する。

   坂本龍馬は、 薩摩藩家老・小松帯刀(たてわき)に 社中(結社)結成の

 多額の資金援助を要請し、承諾を得る。  薩摩藩は、 先の薩英戦争で海

 軍が壊滅的な打撃をうけ、 海軍塾・神戸海軍操練所のメンバー(訓練生)

 力をかりて、薩摩藩の海軍を再建したいという目論見(もくろみ)もあったと言

 われている。

 

 

♪♪ 海軍塾 が登場する、面白く、興味深い、ドラマ、映画、

 ドキュメンタリー。

 

 海軍塾 が登場する、面白く、興味深い、ドラマ、映画、ド

 キュメンタリー。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 歴史のドラマ、映画 は、 

 史実(歴史上の事実) と 架空の出来事 が 混じって描かれています。 

 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 (日本の2010年NHK大河ドラマ)。

 

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#kondochojiro

 

 近藤 長次郎 

     (こんどう ちょうじろう)

 

■ 近藤長次郎。

■ 生没年 : 1838年(天保9年)〜1866年(慶応2年)。

■ 名称 : 近藤 長次郎 (こんどう ちょうじろう)。

 別名 : 饅頭屋長次郎。

■ 土佐(現、高知県)出身、勝海舟の門人、坂本龍馬の同志。

■ 海軍操練所(かいぐんそうれんじょ)のメンバー。

■ 亀山社中(かめやましゃちゅう)で、中心的役割を担(にな)う。 商才

  があり商談で活躍する。

 

 

■ 近藤 長次郎 (こんどう ちょうじろう) は、 生没年は、1838年

 (天保9年)〜1866年(慶応2年)で、 別名は、饅頭屋長次郎という。

 

■ 近藤 長次郎 (こんどう ちょうじろう) は、土佐(現、高知県)出身で、 

 勝海舟の門人で、 坂本龍馬の同志 であった。

 

■ 近藤 長次郎 は、 高知城下の饅頭(まんじゅう)商人の子で、長

 次郎も饅頭を売り歩いていた。 

  近藤 長次郎 は、幼少期から聡明で、 学問に秀(ひい)で、 その

 才能を土佐藩に認められ、 神戸海軍操練所に入った。

 

■ 近藤 長次郎 は、 勝海舟が神戸に設立した海軍操練所(かいぐ

 んそうれんじょ)で学び、 操練所解散後、 坂本龍馬が長崎に設立

 した亀山社中(かめやましゃちゅう)に入り、中心的役割をはたし、商

 才があり商談で活躍する。

 

■ 長次郎密航事件。 1866年(慶応2年)1月。

  近藤 長次郎 は、 長州藩の勧めでイギリス留学をする予定であ

 ったが、 亀山社中の他の隊員(仲間)から脱退をとがめられ、自刃

 (じじん、自害)した。

● 近藤 長次郎 は、長州藩の兵器・軍艦買い付けで、多大な功績が

 あったので (亀山社中の社員として、売買に尽力したので)、 長州

 藩から謝礼金を受け取った。 しかし、近藤 長次郎 は、 受け取った

 謝礼金の一部を使い、 仲間に内緒でイギリスへの留学を計画した。 

   トーマス・グラバーの手配した船に乗船したが、悪天候のため、長

 崎に引き返し、仲間に見つかってしまった。 近藤 長次郎 は、 社中

 の隊員(仲間)から亀山社中の盟約書違反を追求されて、 責任をとっ

 て、小曾根(こそね)邸で、切腹した。 この時、亀山社中のリーダーの

 坂本龍馬 は、長崎にはいなかった。

  

 

♪♪ 近藤 長次郎 が登場する、面白く、興味深い、ド

 ラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

 近藤 長次郎 が登場する、面白く、興味深い、ドラ

 マ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 歴史のドラマ、映 

 画は、 史実(歴史上の事実) と 架空の出来事 が 混じって描か

 れています。 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 (日本の2010年NHK大河ド

 ラマ)。

● 近藤 長次郎を演じた俳優名 : 大泉 洋 (おおいずみ よう)。

 

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#kokenempress

 

 孝謙 天皇 

       (こうけん てんのう)。

 

 孝謙 天皇。

■ 生没年 : 718〜770年。

■ 名称 :孝謙 天皇 (こうけんてんのう)   (在位749〜758年)。

  孝謙 天皇が、 重祚(ちょうそ)して(天皇再即位して)、 称徳 天皇 

 (しょうとくてんのう) (在位764〜770年) となる。

● 女帝の即位前の名称 は、 阿部内親王 (あべないしんのう、あ

 べのないしんのう)。

● 改名 は、 阿部内親王 ⇒ 孝謙 天皇 (749年〜) ⇒孝謙 上

 皇(太上天皇) (758年〜) ⇒ 称徳 天皇 (764年〜)。

■ 奈良時代女帝 (じょてい、女性の天皇)。

■ 聖武(しょうむ)天皇の皇女(こうじょ、娘)。

■ 父 は、 聖武天皇(しょうむてんのう)、 母 は、 光明皇后 (こ

 うみょうこうごう)。

 

□ 奈良時代日本政治実権者変遷

  一覧表

  東大寺大仏 アルバム NO.1

□ 女帝の孝謙天皇 (= 称徳天皇)

   登場する興味深い、ドラマ、

  映画、ドキ ュメンタリー

 

 

■ 孝謙(称徳)天皇 (こうけん(しょうとく)てんのう、 在位749〜7

 58、(在位764〜770年)) は、 奈良時代の女帝 である。 聖

 武(しょうむ)天皇の娘で、 聖武天皇 (聖武 上皇(太上天皇)、しょ

 うむ じょうこう(だいじょうてんのう)、 橘諸兄 (たちばなのもろえ)、

 吉 備真備 (きびのまきび)、 藤原仲麻呂 (ふじわらのなかまろ)、 

 道 鏡 (どうきょう) と共に、 多くの政策を行い、 東大寺大仏造営

 を推進し完成させ、 仏教鎮護(ちんご)国家による国家の安定をは

 かり、 また、 天平(てんぴょう)文化を現出させた。

 

■ 752年 (天平勝宝(てんぴょうしょうほう)4年)に、 孝謙天皇 (こ

 うけんてんのう、在位749〜758年)の治世に、 東大寺大仏の建立

 (こんりゅう)がある程度、完成し、 東大寺大仏の開眼(かいげん)が

 行われた。

● 孝謙天皇(称徳天皇)の父、聖武上皇(太上天皇) (しょうむじょうこ

 う(だいじょうてんのう))が、 生前に、大仏開眼を望み、 ある程度完

 成した時点で、 大仏開眼(だいぶつかいげん)が行われた。

 

■ 孝謙天皇 は、 初め、 藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)を重用

 (ちょうよう)し、 藤原仲麻呂に圧迫されて、 淳仁(じゅんにん)天皇

 (在位758〜764年)へ譲位(じょうい)する。 

   その後 、孝謙天皇 は、  孝謙上皇(太上天皇) (こうけん じょ

 うこう(だ いじょうてんのう) となり、道鏡(どうきょう)を寵愛(ちょうあ

 い)し、 再び政治 の実権を取り戻そうとして藤原仲麻呂と対立し、藤

 原仲麻呂の乱を招いた (恵美押勝の乱)。

   孝謙上皇(太上天皇 )は、 乱の鎮圧後、 淳仁天皇を廃して、称

 徳天皇(しょうとくてんのう、在位764〜770年) として 再び即位し、

 称徳天皇(孝謙天皇)の寵愛する、道鏡 が、 専制政治を行った。

 

■ 764年の恵美押勝(えみのおしかつ)の乱

● 孝謙上皇(称徳天皇)方 が、 事前に計画し、藤原仲麻呂(恵美押

 勝)方へ戦いをしかける。

● 孝謙上皇(称徳天皇)方 は、 764年9月に、奈良の平城京で、

 原仲麻呂(恵美押勝)方から、駅令(えきれい、駅制の鈴) と 天皇御

 璽(てんのうぎょじ、天皇公印)を奪い、 その後、 藤原仲麻呂(恵美

 押勝)方が、平城京を脱出すると、 孝謙上皇(称徳天皇) 方 は そ

 れを追撃し、 藤原仲麻呂(恵美押勝) は、 琵琶湖の西岸で、敗死 

 する ( 続日本紀(しょくにほんぎ)より )。

 

 

■ 孝謙天皇 は、 聖武(しょうむ)天皇の皇女(こうじょ、娘)で、奈良

 時代の女帝 (じょてい、女性の天皇) である。

■ 孝謙天皇の父 は、 聖武天皇(しょうむてんのう)、 母 は、 光

 明皇后(こうみょうこうごう) である。

 

■ 孝謙天皇 (こうけんてんのう、生没年 718〜770年) は、在位 

 は749〜758年 で、 重祚(ちょうそ)して(再即位して)、 称徳天皇

 (しょうとくてんのう) (在位764〜770年) とも称した。

● 女帝の即位前の名称 は、 阿部内親王(あべのないしんのう、あ

 べないしんのう)。

■ 孝謙天皇 は、 天皇在位前は、 阿部内親王 (あべ(の)ないし

 んのう) と称し、 749年から 孝謙 天皇 (こうけんてんのう) と称

 し、 758年から 孝謙 上皇(太上天皇) (こうけん じょうこう(だい

 じょうてんのう) と称し、 764年から 称徳 天皇 (しょうとくてんの

 う) と称した。

 

 

#thetableofmenhavingactualpoliticalpower

 

◆ 奈良時代日本政治実権者一覧表。

■ (1) 藤原不比等・政治(政権)期 (697〜720年)。

■ (2) 長屋王・政治(政権)期 (720〜729年)。

■ (3) 藤原武智麻呂・政治(政権)期 (729〜737年)。

■ (4) 橘諸兄・政治(政権)期 (737年〜757年)。

■ (5) 藤原仲麻呂・政治(政権)期 (757〜764年)。

■ (6) 道鏡・政治(政権)期 (764〜770年)。

■ (7) 藤原百川・政治(政権)期 (770年〜779年)。

■ (8) 光仁天皇親政・政治(政権)期 (779〜781年)。

■ (9) 桓武天皇親政・政治(政権)期 (781〜806年)。

 

◆ 奈良時代中期の政権の推移。

■ 中臣鎌足(なかとみのかまたり)の子、藤原

  不比等(659〜720年)は、律令政治の確

  立に尽(つ)くし、大宝律令撰修に参加し、大

  宝律令を701年に完成させ、 養老律令の

  編纂(へんさん)を主宰し718年に養老律令

  を完成させる。 藤原不比等は、710年に、

  平城京(へいじょうきょう)遷都を行う。 藤原

  不比等は、藤原不比等の娘の宮子(みやこ)

  を文武(もんむ)天皇(在位697〜707年、

  生没年683〜707年)の夫人とし、聖武(し

  ょうむ)天皇を生ませ、 娘の安宿媛(あすか

  べひめ)を聖武天皇(在位724〜749年、

  生没年701〜756年)の夫人(後の光明(こ

  うみょう)皇后)とする。 藤原不比等は、藤

  原武智麻呂(むちまろ)、藤原房前(ふささき)、 

  藤原宇合(うまかい)、藤原麻呂(まろ)4子を

  もうけ、そこから藤原四家が成立する。

 

■ 藤原不比等(659〜720年)の死後、皇族

  の長屋王(ながやおう、676?〜729年)が

  政権の実権を握った (長屋王政権720〜

  729年)。 藤原不比等の子の4兄弟が、外

  戚の地位が危うくなるのを恐れて、 729年

  に、策謀によって、 長屋王を自殺させ (長

  屋王の変)、政権の実権を握った (藤原武

  智麻呂政権729〜737年)。

 

■ 737年に、 藤原氏4兄弟とも、流行してい

  た天然痘(てんねんとう)で、病死して (その

  4人の子供達の一部は生き残ったが)、 政

  権内での藤原氏の勢力は、一時、後退した。

    藤原4兄弟が病死後、かわって、皇族出身

  の橘諸兄(たちばなのもろえ、684〜757年)

  が政権の実権を握(にぎ)った (橘諸兄政権

  737年〜757年)。

 

■ 光明皇后 (こうみょうこうごう、生没年701

  〜760年) は、 藤原不比等の娘で、 光明

  子 (こうみょうし) といい、 聖武(しょうむ)天

  (在位724〜749年)の皇后で、 のち、光

  明皇太后 (こうみょうこうたいごう) となる。 

  光明皇后 は、 孝謙(こうけん)天皇(在位7 

  49〜758年)の生母であり、 藤原仲麻呂の

  叔母(おば) である。

    藤原南家の藤原武智麻呂(ふじわらのむち

  まろ)の子の藤原仲麻呂は、 叔母(おば)の

  光明皇太后 と結び、 次第に政治の実権を

  得ていき、 藤原仲麻呂 が、757年に、橘奈

  良麻呂(たちばなのならまろ、橘諸兄の子)の

  乱を抑えて (橘奈良麻呂の変)、 淳仁(じゅ

  んにん)天皇(在位758〜764年) を擁立し

  て、 政権の専制を確立する (藤原仲麻呂政

  権(757〜764年))。

 

■ 760年に、藤原仲麻呂は、後ろ盾であった

  の叔母(おば)の光明皇太后が死去すると孤

  立を深め、 孝謙太上天皇(こうけんだいじょ

  うてんのう)が寵愛する、道鏡 が進出したの

  で、 藤原仲麻呂が、 764年に乱を起こした

  が (恵美押勝の乱)、 敗死した。 道鏡(ど

  うきょう)は、称徳(しょうとく)天皇 (在位76

  4〜770年)の支持を得て、 764年に政権

  の実権を握った (道鏡政権764〜770年)。 

 

■ 称徳(しょうとく)天皇が死去すると、 道鏡は、

  後ろ盾を失って、失脚し、 かわって、 藤原

  式家の藤原百川 (ふじわらのももかわ、73

  2〜779年) らがはかって、 光仁(こうにん)

  天皇(在位770〜781年、生没年709〜78

  1年) を擁立し、 政権の実権を握った (藤

  原百川政権770年〜779年)。

    光仁(こうにん)天皇の死去後、 光仁(こう

  にん)天皇の皇子の桓武天皇(在位781年〜

  806年、生没年737〜806年)が即位する。

  桓武天皇は、律令政治の刷新を図(はか)り、

  仏教勢力を政治から退(しりぞ)けようとする。

 

 

#kokenempress-appearingscenes

 

♪♪ 女帝の孝謙天皇 (= 称徳天皇) 

  登場する興味深い、ドラマ、映画、ドキ

  ュメンタリー。

 

★ 女帝の孝謙(こうけん)天皇 (= 称徳

  (しょうとく)天皇)登場する興味深

  い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) と 

  架空の出来事 が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 大仏開眼 (だいぶつかいげん) 』 。 

   (NHKテレビ・2010年古代史

   ドラマスペシャル)。

■ 孝謙(称徳)(こうけん(しょうとく))天皇 

  (在位749〜758、764〜770年) が、

  登場する。 孝謙(称徳)天皇の即位前の

  名称は、 阿部内親王(あべ(の)ないしん

  のう)。

 

● 孝謙天皇 (= 阿部内親王(あべ(の)な

  いしんのう)、称徳天皇)を演じた女優 : 

  石原 (いしはら) さとみ。

 

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#kofunbunka

 

■ 古墳文化 

       (こふんぶんか)。

 

■ 古墳文化。

■ 時期 : 紀元3世紀〜紀元7世紀。

■ 名称 : 古墳文化 (こふんぶんか)。

■ 大和時代の、 有力豪族の古墳 等を中心とする文化である。 

■ (古墳文化の例) 大仙陵(だいせんりょう)古墳 (旧、仁徳天皇稜)。

 

 

■ 古墳文化  (紀元3世紀〜紀元7世紀)。

■ 日本の古墳(こふん)文化 (紀元3世紀〜紀元7世紀) とは、大和時

 代の、 有力豪族の古墳 等を中心とする文化である。 

■ 古墳文化の例として、 大仙陵(だいせんりょう)古墳 (旧、仁徳天皇

 稜)などがある。

 

 

■ ヤマト政権 (大和朝廷) は、 4世紀後半から、7世紀後半まで、豪

 族による土地人民の私有 と 氏姓制度による官職の世襲 を基礎にし

 た、 地方分権国家の政治形態である、 豪族連合政治を行う。

 

■ (S1) 豪族連合政治 とは、 大王(おおきみ、天皇)を連合政治

 の盟主とし、 豪族の土地人民の私有と「氏姓制度」を基本にした政治

 形態。 

 

■ ヤマト政権 (大和朝廷) は、3世紀後半に、 大和地方の小国家

 政治連合として成立し、 その後、遅くとも、4世紀後半までに、 日本

 の統一をほぼ終る。 

 

■ (T1) 豪族土地人民支配制 とは、 大王(天皇)を豪族の盟主と

 し、 豪族により土地人民の私有を基礎にして政治を行う、統治制度。

 豪族とは、地方の有力者 である。

 

■ (S1) 豪族連合政治 とは、 大王(おおきみ、天皇)を連合政治

 の盟主とし、 豪族の土地人民の私有と「氏姓制度」を基本にした政治

 形態。 

 

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#gonkan

 

■ 権官 

     (ごんかん)。

 

■ 権官。

■ 平安時代より明治時代まで。

■ 名称 : 権官 (ごんかん)。

■ 朝廷の官職で、定員を超えて任命される官職。 

  定員外の官人。

■ 権大納言(ごんだいなごん)、 権中納言(ごん

  ちゅうなごん)、権守(ごんのかみ)、権介、権兵

  衛(ごんのひょうえ)、権僧正 など。

 

 

■ 権官 (ごんかん) とは、 朝廷の官職で、 定員外の官人の意で、

 平安時代より明治時代まで行われ、 正規の員数を越えて任命する

 官職 である。

■ 権官の例として、権大納言(ごんだいなごん)、権中納言(ごんちゅう

 なごん)、権守(ごんのかみ)、権介、権兵衛(ごんのひょうえ)、権僧正

 など がある。

 

■ 正規の官と権官(ごんかん)を比(くら)べると、 両者とも同格の権力

 を有した(持った)官職であった場合 と 正規の官は権力を持ったが権

 官は名目上の官職(権力を持たなかった名前だけの官職)であった場合 

 がある。 例(たと)えば、 中納言(ちゅうなごん) と 権中納言 (ご

 んちゅうなごん) である。

 

■ 政敵の打倒時、 相手に名目上の権官(ごんかん)を授(さず)けるこ

 ともある。 菅原 道真 (すがわらの みちざね) は、 藤原氏の陰謀に

 より、失脚し、 太宰権帥(太宰帥の権官)として、 九州の地への流罪と

 なり、そこで死した。

● その時、菅原 道真が就任した、太宰権帥(だざいのごんのそち(そ

 つ)) とは、 大宰府(だざいふ)の長官である太宰帥(だざいのそち(そ

 つ))、の権官(ごんかん、定員外の官人)にあたり、 高い官位は維持

 したが、 この場合は、権力を有しない、名前だけの官職であった。

 

■ 平安時代には、 公卿(くぎょう)では、 多数の権官(ごんかん)が存

 在した。 

  藤原氏をはじめ名家の家長や子弟などは、 一定の年齢に達すると、

 実力に関係なく、 自動的に官位が与えられるのが慣習となっていたが、

 官職には定員が決まっていたため、 定員外の権官(ごんかん)としての

 官職を授(さず)けざるを得なかったため。

 

■ 大納言や中納言の場合は、 南北朝時代以後は、 正員 (大納言や

 中納言) がなくなり、 権官 (権大納言や権中納言) ばかりとなった。

 

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#gotoshojiro

 

■ 後藤 象二郎

     (ごとう しょうじろう)。

 

■ 後藤 象二郎。

■ 生没年 : 1838〜1897年。 

■ 名称 : 後藤 象二郎 (ごとう しょうじろう)。

■ 吉田東洋の甥(おい)。

■ 土佐藩士。 幕末の土佐藩の大監察 (藩主の補佐官)。

■ 幕末や明治期の政治家。

■ 幕末、開国派公武合体派公議政体派 。

■ 幕末の1967年に、 坂本龍馬と共に、大政奉還

 実現 するために尽力(じんりょく)し、奔走(ほんそう)

 して、「大政奉還」(たいせいほうかん)を実現させる。

■ 幕末の1967年に、 坂本龍馬 は、 後藤象二郎

 と手を結び、 海援隊(亀山社中の後身)を結成。

■ 明治期に、明治新政府(近代日本政府)の参与、参

 議 となる。 のち、下野し、自由党結成に参加し、の

 ち、政府と妥協して、黒田清隆内閣の逓信相(ていし

 んしょう、郵政大臣) となる。

 

 

■ 後藤 象二郎 は、幕末の1967年に、 坂本龍馬と共に、大政奉

 を実現 するために尽力(じんりょく)し、 奔走(ほんそう)して、「大

 政奉還」(たいせいほうかん)を実現させる。

 

■ 幕末、 後藤象二郎は、 土佐藩の実権を握る、前土佐藩主(15

 代土佐藩主)・山内容堂の 信任を得て、 土佐藩の藩政改革を推進

 する。 

● 後藤象二郎は、 暗殺された、叔父(おじ)の吉田東洋に代わって、

 土佐藩の藩政改革を実施する。

■ 幕末の1967年に、 坂本龍馬 は、 後藤象二郎と手を結び、海

 援隊(亀山社中の後身)を結成する。

 

■ 後藤 象二郎 は、 明治期に、明治新政府(近代日本政府)の参

 与、参議 となる。 1973年(明治6年)に、征韓論(せいかんろ

 ん)に敗れて下野(げや)し(政府を去り)、 板垣退助らと愛国公党

 を結成し、ついで、自由党結成に参加する。 のち、政府と妥協して、

 黒田清隆内閣の逓信相(ていしんしょう、郵政大臣) となる。

 

■ 後藤 象二郎 (ごとう しょうじろう 生没年 1838〜1897年)は、

  幕末や明治期の政治家 である。

■ 後藤 象二郎 (ごとう しょうじろう 生没年 1838〜1897年)は、 

  土佐藩参政(さんせい)の吉田東洋の甥(おい)  である。

■ 幕末、 後藤 象二郎 は、 開国派公武合体派公議政体派

 であった。

■ 幕末、 後藤 象二郎 は、 土佐藩士で、 幕末の土佐藩の大監

 察 (だいかんさつ、藩主の補佐官) であった。

 

 

♪♪ 後藤象二郎 が登場する興味深い、

   ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) と 

  架空の出来事 が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』。 

   (NHKテレビ・2010年大河ドラマ)。

● 後藤象二郎を演じた俳優 : 青木 崇高。

 

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#komurajutaro

 

■ 小村 寿太郎 

     (こむら じゅたろう)。

 

■ 小村寿太郎。

■ 名称 : 小村寿太郎 (こむらじゅたろう)。

■ 生没年 : 1855〜1911年。

■ 明治時代の日本の超優秀な外交官。

■ 幕末の不平等条約の最終的な改正に成功。  

■ 日英同盟 や 日露戦争終結のポーツマス条約

  を締結し、韓国併合、関税自主権の回復 などを

  実現させる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61634。

 

 

■ 小村寿太郎 (こむらじゅたろう、生没年 1855

  〜1911年) は、 明治時代の超優秀な外交官

  で、 幕末の不平等条約の最終的な改正を成功

  させる。  

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 小村寿太郎 は、 外相として、1901年に、日

  英同盟を締結し、 1905年に、日露戦争終結

  のポーツマス条約を締結し、 1908〜11年に、 

  韓国併合、 関税自主権の回復 などを実現さ

  せる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 幕末の不平等条約の最終的な改

  正を成功させた、小村寿太郎。

■ 日本の明治政府(近代日本政府)の、長年の

  度重なる、条約改正交渉の結果、やっと、「安

  政の五か国条約」や「改税約書」の不平等条

  項の完全な撤廃が最終的に実現されたのは、

  日露戦争(1904〜05年)後の、明治時代末

  の1911年(明治44年)のことであった。

    その一例として、幕末の不平等条約である

  日米修好通商条約の不平等な 規定が撤廃され

  たのは、 1911年(明治44年)であった。 明

  治政府(近代日本政府)の外相の小村寿太郎 

  (こむらじゅたろう) が、アメリカと条約改正の

  交渉を行い、 1911年に、日米通商航海条約

  を調印し、 関税自主権の回復を果たした。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 日露戦争を有利な条件で終結させ

  た、小村寿太郎。

◆ 日露戦争の実態。

■ 借金で、戦争をする。

    当時お金のない日本は、 莫大な軍事費を、

  英、米などからの借金で (英、米などに日本の

  海外公債を買ってもらい)、 日露戦争(1904

  年ー1905年)を遂行する。

 

■ 『 もうひとつの戦争 』。 

● 大きな戦争には、莫大な戦費がかかり、日本は、

  日露戦争の戦前、 戦中に、戦費調達に奔走(ほ

  んそう)する。 

● 高橋是清(たかはしこれきよ)など の日本の財

  政関係者が、 日露戦争の戦争前も、日本軍が

  戦地で戦っている最中も、 欧米で、頭を下げ、

  戦争遂行資金の調達(借金)に奔走(ほんそう)

  する。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 日本は、お金がないので、戦争が

  継続できない。 

■ 総力戦の日露戦争(1904年ー1905年)で

  は、敵国のロシアとは、国力での戦いとなる。 

  日本は、 当時の大国で経済力、人口など国

  力が3倍以上のロシアと戦わなければならな

  かった。

    総力戦の戦争では、莫大な戦費がかかる。

  日本は、 日露戦争で約1年経過した、1905

  年の後半には、外債で今まで借りた借金が膨

  大となり (当時の国家予算の7倍の借金をし

  て)、 更に、借金で戦争を継続することは不

  可能であった。

    また、シベリア鉄道を使い、ロシアは、ヨー

  ロッパより大部隊を満州に続々と補給し、送り

  込んできている。 日露戦争で約1年経過した

  1905年の後半には、 旧日本軍は、軍の維

  持費もなく、今後迫り来るロシアの補給大部隊

  と戦い勝てないと考え、大敗をきす前に、軍幹

  部は、日本政府に強く終戦を望んだ。

     日本政府は、賠償金や領土はいらないの

  で、一刻も早く、日露戦争の終戦を望み、ロシ

  アの満州や朝鮮半島からの撤退や日本の満

  州や朝鮮半島の覇権さえロシアから得られれ

  ば良いとの意向を、1905年のポーツマス講

  和会議の小村寿太郎日本全権代表に伝えた。

    しかし、小村日本代表は、 賠償金要求の

  国内世論や今後の日本の莫大な借金の返済

  を考え、賠償金にこだわり、ロシアにしつこく

  要求し続けたため、会議は長引き、 結局、国

  内暴動が起き政情不安定な、ロシアは、対外

  戦争よりも国内反乱鎮圧などの国内政情安定

  の優先を望み、 賠償金支払いには応じなか

  ったが、南樺太のロシア領土を譲ることで、

  小村日本代表を納得させ、ポーツマス条約を

  日本と結び、終戦を決着させた。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

♪♪ 小村寿太郎 が登場する、興味深

  い関連ドラマ、映画、ドキュメンタリー。 

 

★ 小村寿太郎 が登場する、興味深い

  関連ドキュメンタリー。 

 

■ 英雄たちの選択 『 決裂も辞さず 

  日露講和会議の小村寿太郎 』。  

   (NHKテレビ・2015年5月28日・

   本放送・ドキュメンタリー番組)。

■ 日露戦争を述べる。

■ 日露戦争終結交渉をおこなった、小村

  寿太郎を述べる。

 

★ 小村寿太郎 が登場する、興味深い

  関連ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

  また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 坂の上の雲 (さかのうえのくも) 』 。 

   (NHKテレビ・2009年〜2011年・

   本放送スペシャルドラマ)。

■ 日本の明治時代を描いたドラマ。

■ 小村寿太郎の活躍を描いたドラマ。

 

   

   ○ 「坂の上の雲」の書籍販促PRフォト。

 

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#kokujin

 

■ 国人 

         (こくじん) 。 (= 国人領主)。

 

■ 国人。 

■ 国人の存在期間 : 室町時代。 

■ 名前 : 国人 (こくじん)。

 別名 : 国人領主。

■ 国人 とは、 室町時代の 地方の土豪で、 

  在地領主 で、 室町時代の 地頭 。

■ 国人 とは、 室町時代の、 荘園や国衙領

  (公領)の、現地支配者で、在地領主。

 

 

■ 国人(こくじん、国人領主) とは、 室町時代の 地方の土豪で、 

 在地領主 で、 室町時代の 地頭 である。

■ 国人 (こくじん、国人領主) とは、 室町時代の、 荘園や国衙領

 (公領)の、現地支配者 で、 在地領主 である。

 

● 地頭 や 守護・地頭 や 守護、守護大名 に関しては、 日本史

 辞典の 『 地頭、国人 (じとう、こくじん)、 守護、守護大名(しゅご、

 しゅごだいみょう)、 守護・地頭の設置 (しゅごじとうのせっち)  』 

 の項目を 参照して下さい。

 

■ 地頭 は、鎌倉時代には、 荘園や国衙領(公領)の現地管理者で

 あったが、 次第に、在地領主化し、 室町時代には、 荘園や国衙領

 (公領)の現地支配者となり、 地方の土豪、在地領主となり、 国人

 (こくじん、国人領主) とも 呼ばれるようになる。 

 

■ 室町時代では、 国人(領主)  は、自立の気質が強く、 守護(大

 名)の支配に反発する国人(領主)  も、 多く現われる。 

 

■ 室町時代後期の戦国時代に入ると、 国人(領主) は、戦国大名

 の家臣団 (上級家臣) に結集される。

 

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#konoetadahiro

 

■ 近衛 忠煕 

     (このえ ただひろ)。

 

■ 近衛 忠煕。

■ 生没年 1808(文化5年)〜98(明治31年)。 

■ 名称 : 近衛 忠煕 (このえ ただひろ)。

■ 朝廷の5摂関家・筆頭の近衛家の当主。

■ 幕末に、公武合体派として、活躍した公卿

■ 天璋院・篤姫(てんしょういん・あつひめ)の養父。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 昭和・戦前に、1937年以後、3度内閣を組織

  した、政治家の近衛 文麿(ふみまろ)の、曽祖父

  (そうそふ)。

● 近衛忠煕 (このえ ただひろ) ⇒ 近衛 忠房 

  (ただふさ、忠煕の4男) ⇒ 近衛 篤麿 (あつ

  まろ、忠房の長男) ⇒ 近衛文麿 (ふみまろ、 

  篤麿の長男)。

 

 

■ 近衛 忠煕 (このえ ただひろ、 生没年 :1808

  年(文化5年)〜1898(明治31年)) は、 朝廷

  の5摂関家・筆頭の近衛家の当主であった。

 

■ 近衛 忠煕は、幕末に、公武合体派として、活躍

  した公卿 である。

 

■ 近衛 忠煕は、天璋院・篤姫(てんしょういん・あ

  つひめ)の養父 である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 近衛 忠煕は、 昭和・戦前に、1937年以後、3度

  内閣を組織した、政治家の近衛 文麿(ふみまろ)の、

  曽祖父(そうそふ) である。

● 近衛 忠煕の4男が、近衛 忠房 (ただふさ) で、

  近衛忠房の長男が、 近衛 篤麿 (あつまろ)で、 

  近衛篤麿の長男が、 近衛 文麿(ふみまろ) である。

■ 近衛 忠煕 (このえ ただひろ)は、 1857年(安政

  4年)、左大臣になるが、徳川将軍後継者争いで、一

  橋派に属したため、安政の大獄で失脚し、落飾謹慎

  (らくしょくきんしん)する。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 近衛 忠煕は、 1862年(文久2年)に、復帰して、

  関白内覧を勤めるが、1863年に尊皇攘夷派の台

  頭により、関白を辞した。 

     その後は、明治新政府とは距離をおき、 京都

  で孫の近衛篤麿(あつまろ)を引き 取り、養育に専念し、 

  明治天皇の要請により、 1878年(明治11年)に、

  東京に移る。

 

 

♪♪ 近衛 忠煕(ただひろ)が登場する、興味

    深い、 ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

★ 近衛 忠煕が登場する、興味深い、 ドラ

   マ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事 が 混じって描かれています。 

   また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 篤姫 (あつひめ) 』 。

   (NHKテレビ・2008年大河ドラマ)。 

● 近衛 忠煕を演じた俳優名 : 春風亭小朝。

 

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#kohachibei

 

■ 小八兵衛  

     (こはちべい)。

 

■ 小八兵衛。

■ 生没年 : 不明  (17世紀頃)。 

■ 名称 : 小八兵衛 (こはちべい)。 

■ テレビドラマ「水戸黄門」の「風車の弥七(かざぐるまのやしち)」の

 モデル。

■ 元盗賊で、 徳川光圀の配下となる。

■ フィクションの世界では、 テレビドラマ「水戸黄門」の「風車の弥七

 (かざぐるまのやしち)」として有名で、 水戸黄門の諸国漫遊の旅で、

 水戸黄門を守り、助ける。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。 

 

■ 徳川光圀(水戸黄門)の指示で、 小八兵衛 (こはちべい、テレビド

 ラマ「水戸黄門」の風車の弥七(かざぐるまのやしち)のモデル) は、 

 水戸領内での治安維持 や 近隣諸国の動向を探った。

■ 小八兵衛 は、 元盗賊で、 徳川光圀の配下となる。

● 盗賊であった、小八兵衛 (風車の弥七) は、 盗賊をして捕まり

 死罪になるところを、 徳川 光圀により罪を許され、 救われた。

● 小八兵衛 (風車の弥七) は、 盗賊から足を洗い、 光圀のため

 に働くようになった。  小八兵衛(風車の弥七) は、 光圀の指示で、 

 水戸領内での治安維持にあたって犯罪を少なくしたり、 近隣諸国の

 動向を探ったりした (「桃蹊雑話(とうけいざつわ)」より)。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

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#komatsutatewaki

 

■ 小松 帯刀 

      (こまつ たてわき)。

     (肝付尚五郎) (小松 清廉) 。

 

■ 小松 帯刀。

■ 生没年:1835年ー1870年。 

■ 名称 : 小松 帯刀 (こまつ たてわき)。 

● 正式名 : 小松 清 (こまつ きよかど)。

● 初めの名前は、 肝付(きもつき) 兼才 (尚五

    郎、なおごろう)で、 1856年の小松家へ養子

    入後、 小松 兼才 (尚五郎)。  

   1858年より、 小松 清 (帯刀) と称す。

■ 薩摩藩士。 薩摩藩家老  (1862年〜69年)。

■ 薩摩藩の喜入領主・肝付 兼善(きもつき かね

   よし、5500石)の3男。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ フィクションのドラマ「篤姫(あつひめ)」(2008

  年NHK大河ドラマ)では、小松 帯刀が、篤姫と

  幼馴染(おさななじみ)で篤姫との友情、恋情が

  描かれているが、 実際は、両者が接点を持った

  史実はなく、 ドラマ上の創作である。

 

□ 小松 帯刀 が登場する、 興味深い、

   ドキュメンタリー、ドラマ、映

 

 

■ 薩摩藩の上流武士階級の、喜入領主・肝付 兼善(きもつき かねよし、

 1802〜76年、5500石)の3男として生まれ、育ち、 肝付(きもつき)

 兼才 (尚五郎(なおごろう) と称す。 その後、薩摩藩の上流武士階級

 の、小松家の養子となる。

  1856年(安政3年)1月に、吉利領主の小松清猷(こまつ きよもと、き

 よみち、1827〜55年、2600石、家格一所持)の養子となり、 小松家

 の家督を継承する。 同時に、1856年に、 小松清猷の実妹の千賀(小

 松近(こまつちか)、1828〜84年)を、 小松帯刀の正室(夫人)とする。 

● 通称は、 尚五郎(なおごろう)、後に、帯刀 (たてわき、1858年〜)。

● 諱(いみな)は、 兼才、後に、 清 (きよかど、1858年〜)。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

● 江戸時代、武家では、 長子(長男)相続であり、その家の長男が死去

 又は養子に出ない限り、 長男以外の男子は、「冷や飯食い」か、 他家

 へ養子に出る以外に、生きる術(すべ)がなかった。 肝付尚五郎 (なお

 ごろう、小松帯刀) は、 他家 (肝付家より小松家) へ養子に出る道を

 選んだ。

 

■ フィクションのドラマ「篤姫(あつひめ)」(2008年NHK大河ドラマ)では、

 小松 帯刀が、篤姫と幼馴染(おさななじみ)で篤姫との友情、恋情が描か

 れているが、 実際は、両者が接点を持った史実はなく、 ドラマ上の創作

 である。

 

■ 薩摩藩の、島津斉彬(なりあきら)、島津久光(ひさみつ)を補佐し、藩政 

 を、処理し、大久保利通(としみち)、西郷隆盛(たかもり)らを重用して、薩

 長連合後、 討幕運動を推進する。

 

■ 薩摩藩家老として、藩政改革に精を出し、幕末に、朝廷や幕府との連絡

 役として、活躍する。 京都赴任時代には、 坂本龍馬(りょうま)とも交流

 をもつ。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 小松帯刀の側室(夫人、京(都)祇園(ぎおん)の芸子)には、 琴 (こと、

 琴仙子三木琴、1848〜74年) がいる。 芸子の職業柄から、小松の京

 (都)での情報収集に協力し、 1865年(慶応元年) には、小松帯刀に引

 き取られて、京(都)の小松邸の接待掛(せんたいがかり)となる。 小松帯

 刀との間に、 1男(安千代、1866年)、1女(壽美(すみ、1870年) をも

 うける。

 小松帯刀が、大阪で病床に伏すと、琴は、 献身的に看病し、 最後を看

 取(みと)る。

● 1870年(明治3年)に、小松帯刀の死後、 琴 は、 長男の安千代を正

 室の千賀に預け、 小松帯刀と親交の厚かった、五代友厚(ごだいともあつ)

 邸で、長女の壽美と共に暮らす。 後、1872年(明治5年)に、小松清直(安

 千代)が、小松家を継承する。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 明治時代をむかえてすぐ、1870年(明治3年)、 

  享年36才という若さで亡くなる。

 

 

#komatsutatewaki-appearingscenes

 

♪♪ 小松帯刀 が登場する、興味深い、

    ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 小松帯刀、島津久光、が登場する、興

   味深い、ドキュメンタリー。

 

■ その時歴史が動いた 『 幕末最後の

   60日!新政府誕生への道〜小松・

   大久保・西郷、奔走す〜 』。

    (NHKテレビ・2008年(H20)11月・本放送・

    ドキュメンタリー番組、第343回)。

 

■ その時歴史が動いた 『 幻の大艦隊 

   〜イギリスから見た薩英戦争〜 』。

    (NHKテレビ・2006年(H18)6月・本放送・

    ドキュメンタリー番組、第255回)。

 

♪♪ 小松帯刀(たてわきが登場する、興味

    深い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事 が 混じって描かれています。 

   また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 篤姫 (あつひめ) 』 。 

   (NHK2008年大河ドラマ)。

● 小松 帯刀 (肝付尚五郎(きもつきなおご ろう)

   を演じた俳優名 : 瑛太。

 

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#kojokazunomiya

 

■ 皇女和宮 

       (こうじょ かずのみや)。

 

■ 皇女和宮。

■ 皇女和宮 については、 『 和宮 (かずのみや) 』  を参

 照して下さい。

 

● 皇女和宮 、 和宮、  親子 (ちかこ)、 和宮親子内親王

 (かずのみやちかこないしんのう)、  静寛院、  静寛院宮 (せい

 かんいんの、 和宮の落飾後の名) と同一人物  である。

 

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#kodaiin

 

■ 高台院 

    (こうだいいん)。 

    (ねね)(おね)(北政所)  

    (豊臣秀吉の正室夫人)

 

■ 高台院。

■ 高台院 については、 『 ねね (おね、秀吉正室

  夫人) 』 を参照して下さい。

 

● 高台院 (こうだいいん、秀吉正室、落飾後の名)、 

  ねね 《寧々》、おね 《祢(ね)、寧(ね)より》)、 ねい  

  《寧(ねい)、寧子、子為(ねい)(より)》 、また、

  北政所 (きたのまんどころ、従三位に叙せられ15

  (85年〜)。 その後、 豊臣吉子 (従一位を授かっ

  て、1588年〜)。 その後、 落飾後 (1598年〜)、

  高台院 (こうだいいん、高台院湖月尼)  と 同一

  人物 で ある。

 

 

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 『 あなたのハートには 

    何が残りましたか? 』

 

 

以  上。