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KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY
HANDBOOK.
カナヤマ 日本歴史辞典
日本語版
見出し語 『 ゆ 』。
メ ニュー (目次)。
■ 次の項目を選び、クリックして下さい。
□ 日本史 辞典 (総合)。
□ ゆ ● 五十音順 ( あいうえお順)。
□ 見出し語 ゆか。
□ 見出し語 ゆた。
□ 見出し語 ゆら。
〇 ゆう 祐円。
(ゆうえん )。 《人名》。
(= 井伊直虎、次郎法師)。
Yuen.
○ 井伊直虎(次郎法師)の
出家名。
(⇒ 井伊直虎)。
■ 祐円 (ゆうえん)は、 井伊直虎 (いい
なおとら、次郎法師(じろうほうし) 、井伊氏
暫定当主:1565年ー15 82年、生没年:生
年不詳ー1582年、遠江国・井伊谷(とおと
うみのくに・いいのや)の女性領主) の出家
名である。
〇 ゆう 遊廓。
(ゆうかく )。 《娯楽施設》。
(= 遊郭、遊里、遊女屋街) 。
(⇒ 遊女)。
〇 ゆう 結城合戦。
(ゆうきがっせん)。 《合戦》。
(⇒ 鎌倉公方)。
■ 1440年に、下総国の豪族・結城氏朝
が、鎌倉公方・足利持氏の遺子を擁(よう)
し、挙兵するが、 結城氏朝は敗死し、室町
幕府軍に敗れる。
〇 ゆう 祐椿尼。
(ゆうしゅんに)。 《人名》。
(生年不詳ー1578年)。
Yushunni.
○ 井伊直虎の生母。
○ 今川氏家臣・新野親矩の妹。
■ 祐椿尼 (ゆうしゅんに、生年不詳ー15
78年)は、 今川氏家臣・新野親矩(にいの
ちかのり)の妹であり、 井伊直虎 (次郎法
師)の生母である。
● 祐椿尼は、 井伊直虎 (いい なおとら、
井伊氏当主:1565年ー1582年、生没年:
生年不詳ー1582年、次郎法師(じろうほう
し)、祐円、遠江国の井伊谷の 女領主) の
母である。
● 祐椿尼は、 新野親矩(にいのちかの
り)の娘であり、 井伊氏 第22代当主・井伊
直盛(いいなおもり)の夫人である。
● 祐椿尼は、 『 おんな城主 直虎 (お
んなじょうしゅ なおとら) 』 (NHKテレビ・
2017年大河ドラマ) では、「千賀(ちか)」
という名(仮称)で登場する。
〇 ゆう 遊女。
(ゆうじょう、あそびめ)。 《遊女》。
(= 女郎、娼婦、売春婦)。
〇 ゆう 遊歴算家。
(ゆうれきさんか)。 《数学教師》。
(= 出張数学教師)。
(⇒ 和算)。
■ 遊歴算家 (ゆうれきさんか)とは、 出張
数学教師であり、 江戸時代に、数学ブーム
が起こり、 遊歴算家が村や町を訪れ、農民
や町人に数学を教えていた。
〇 ゆき 幸松。
(ゆきまつ、こうまつ)。 《人名》。
(= 保科正之 ほしなまさゆき) 。
○ 保科正之の幼名。
(⇒ 保科正之)。
■ 江戸幕府・第2代将軍・徳川秀忠の実
子の男子には、 @ 侍女 (秀忠側室夫
人、名不詳)との間に、 長丸 (ちょうまる;
長男、早世)、 A お江 (おごう、秀忠正
室夫人)との間に二人の男子、 徳川家光
(とくがわいえみつ、幼名:竹千代(たけち
よ);次男) と 徳川忠長 (とくがわただ
なが、幼名:国松(くにまつ);三男)、 B
お静 (おしず、お志津、浄光院;侍女、秀
忠側室夫人)との間に、 保科正之 (ほし
なまさゆき)、幼名:幸松(こうまつ、ゆきま
つ);四男) がいた。
〇 ゆた ユタ。
(ゆた)。 《沖縄の祈祷師》。
(= 沖縄(琉球)の民間祈祷師、民
間霊媒師、在野のシャーマン)。
歴史)。
〇 ゆな 湯女。
(ゆな)。 《遊女》。
(= 温泉宿や風呂屋でサービスす
る娼婦)。
〇 ゆら 由良御前。
(ゆらごぜん)。 《人名》。
(= 由良姫)。
○ 源頼朝の生母。
○ 源義朝の正室夫人。
〇 ゆり 由利 公正。
(ゆり きみまさ)。 《人名》。
(1829年−1909年)。
■ 由利 公正(ゆり きみまさ、三岡八郎)は、
幕末期の福井藩の藩士であり、 幕末の、
越前(えちぜん、現・福井県東部相当地域)
で藩政改革を行い、成功する。
由利 公正は、 坂本龍馬と親しかった。
● 由利 公正は、 明治時代初期に明治政
府(近代日本政府)の参与となり、財政を担
当する。
● 由利 公正は、五カ条の誓文に参与し、
1871年(明治4年)に東京府知事となり、
1872年に、岩倉使節団に随行した。後に、
元老院議官、貴族院議員となる。
● 五十音順 (あいうえお順)。
■ 『 現在は、過去の成果であり、
未来は、現在の成果である。 』
(良き現在は、過去の人々の良き努力
や活動の積み重ねの成果であり、
明るい良き未来は、現在の人々の、
良き努力や活動の積み重ねによって
形成される。)
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◆ 日本史辞典
● 見出し語は、グリーンでマークされています。
□ 日本史辞典・英語版 へ。
■ 由良御前
(ゆらごぜん) (由良姫)。
■ 由良御前。
■ 生没年 : 生年不詳〜1159年3月。
■ 名称 : 由良御前 (ゆらごぜん) (実名不詳)。
● 別名 : 由良姫 (ゆらひめ)。
■ 源義朝(みなもとのよしとも)の正室(せいしつ)夫人。
■ 源頼朝 (みなもとのよりとも)の生母。
■ 熱田神宮(あつたじんぐう)の熱田大宮司(だいぐうじ)・
藤原季範の娘。
■ 平安末期当時は、 熱田大宮司家の、男子は、後白
河上皇の北面の武士になったり、 後白河上皇の母(藤
原璋子(たまこ・しょうし)、待賢門院) や 後白河上皇
の姉(統子内親王 (むねこないしんのう、上西門院、
鳥羽上皇の次女、1126−89年) に仕える女房(にょ
うぼう、侍女) がいた。
■ 由良御前も、 上西門院の女房(にょうぼう、侍女)で
あった可能性もある。
■ 由良御前 (ゆらごぜん) は、実名不詳で、 別名は、
由良姫 (ゆらひめ) ともいう。
由良御前は、 生年不詳で、没年は1159年3月 で
ある。
由良御前は、源義朝(みなもとのよしとも)の正室(せい
しつ)夫人で、 源頼朝 (みなもとのよりとも)の生母 で
ある。
由良御前は、 熱田神宮(あつたじんぐう)の熱田大宮司
(だいぐうじ)・藤原季範の娘 である。
♪♪ 由良御前 が登場する、面白く、興味
深い、ドラマ、映画、ドキュメンタリー 。
★ 由良御前 が登場する、面白く、興味深
い、ドラマ、映画。
● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 歴史
のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) と 架空
の出来事 が 混じって描かれています。 また、現代
風にアレンジしてあります。
■ 『 平清盛 (たいらのきよもり) 』
(NHK2012年大河ドラマ、50話)。
● 平安時代末期を描いたドラマで、 平安時代末期
に活躍した人物、当時の時代状況、平清盛の生涯
などを描く。
● 由良御前(由良姫)は、大河ドラマの前半部に 登
場する。
● 由良御前を演じた女優名 : 田中 麗奈 (たな
か れな)。
● 由良御前の夫の源義朝(みなもとのよしとも)を
演じた俳優名 : 玉木 宏。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
■ 遊女
(ゆうじょ)。
■ 遊女。
■ 時期 : 古代日本より、現代日本まで。
■ 名称 : 遊女 (ゆうじょ、あそびめ)。
■ 別名 : 女郎 (じょろう、じょろ) 、 娼婦、
売春婦。
■ 「客を遊ばせる女」という意味である。
■ 男性に性的サービスをする売春婦。
■ 遊女 (ゆうじょ、あそびめ)は、別名は、女郎
(じょろう、じょろ)、 娼婦、売春婦 とも言い、
「客を遊ばせる女」という意味で、 日本の古代
より現代まで存在し、 男性に性的サービスをす
る売春婦 である。
■ 時代により、 遊女 は、古来より多くの呼称が
あり、日本の古代では、 遊行女婦 (うかれめ、
万葉集では)、 平安時代には、遊女(あそび)、
中世では、傀儡女(くぐつめ)、白拍子(しらびょ
うし)、 傾城(けいせい)、上臈(じょうろう)、 近
世では、女郎(じょろう)、遊君(ゆうくん)、娼妓
(しょうぎ) などとも呼ばれた。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 場所により、 遊女 は、 湯屋(ゆや、現在の
銭湯)で働く 「湯女」 (ゆな、私娼)、 旅籠(は
たご、現在の旅館・ホテル)で働く 「飯盛女」 (め
しもりおんな、仲居を兼ねた私娼)、 街頭で 色
香(いろか)を売る 「辻君」(つじぎみ、私娼)や
「夜鷹」(よたか、私娼) とも呼ばれた。
■ 近世(安土桃山・江戸時代)になると、遊女屋
(ゆうじょや、女郎屋、売春婦宿) は、都市の一
か所に集められ、 「遊廓」 (ゆうかく、遊郭、遊
女屋街、女郎屋街) ができた。
「遊廓 (ゆうかく) 」 とは、 遊女屋(女郎
屋)が集まっている所、地域 である。 遊里(ゆ
うり)、いろざと とも言う。
● 遊廓では、 最高位の遊女は、 「太夫」 (たゆ
う)と言われ、 江戸の吉原遊廓では、一時期、
「花魁」 (おいらん) とも言われた。
■ ≪ コメント ≫ 『 女と酒 は、ほどほどに 』
● 今も昔も、男性 は、 きれいな水商売の女性
(遊女)に弱く、 水商売の女性(遊女)にのめり
こみ、貢(みつ)いだあげくに、 現代や昔の男性
にとって、 多くの悲惨な結末が待っている。
● 水商売の女性(遊女)は、 「男=お金」 と考え
ており、 男性に対する本当の愛情はなく、 現代
や昔の男性 は、 きれいな水商売の女性(遊女)
にのめりこみ、 次々に貢(みつ)ぎ、 私財を失っ
たり、 公金を横領したり、 借金地獄に陥(おち
い)るケースが多い。 くれぐれも注意が必要で
ある。
◆ 公認の遊廓の歴史。
■ 安土桃山時代に、豊臣秀吉の治世の1584年
(天正13年)に、 大阪の道頓堀川北岸に最初
の大規模な公認の遊廓がつくられた。
また、1589年(天正17年)に、 京(都)柳町
に大規模な公認の遊廓がつくられた。
江戸時代に、 江戸幕府は、1617年(元和3
年)に、江戸の日本橋人形町付近に、大規模な公
認の遊廓 (元吉原、吉原 遊廓) を設けた。
● 17世紀に、大阪の遊廓は、新町(新町遊廓)へ移
転し、 京(都)柳町の遊廓は、朱雀野(島原遊廓)
へ移転し、 江戸・日本橋の遊廓(元吉原、吉原 遊
廓)も、 1657年(明暦3年)に、 浅草日本堤付近
(新吉原、吉原 遊廓)へ移転した。
■ 江戸時代には、 大阪・新町、京(都)・島原、江戸・
吉原の公許の三大遊廓(ゆうかく)があり、 他に、
日本全国に20数箇所の公許の遊廓があり公娼の
娼婦が多数いた、 また、 各宿場(しゅくば)には、
飯盛女(めしもりおんな)という私娼の娼婦が多数
いた。
■ 1873年(明治6年)に芸娼妓解放令が出され、
娼婦が自由意志で営業するという建前になったが、
前借金に縛られた境遇という実態は変わらず、
1946年(昭和21年)には、GHQの指令により、
遊廓は廃止され、「赤線」(あかせん)に看板を変
えたが、1957年(昭和32年)の売春防止法の施
行により、 赤線も消滅し、実質的に、日本全国の
遊廓は、消滅した。
♪♪ 遊女 が登場する、面白く、興味深い、
ドラマ、映画。
■ 『 吉原炎上 』 (日本映画)。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
■ 湯女
(ゆな)。
■ 湯女。
■ 時期 : 日本の、中世より近世まで。
■ 名称 : 湯女 (ゆな)。
■ 温泉宿や風呂屋で男性に性的なサービスをした娼婦。
■ 湯女 (ゆな) とは、 日本の、中世より近世まで、温泉宿や
風呂屋で男性に性的なサービスをした娼婦 (私娼) である。
■ 湯女 (ゆな) は、 日本の中世より温泉宿において見られ、
次第に都市の風呂屋に移入されていった。 当初は、垢(あか)
すりや髪(かみ)すきのサービスだけだったが、次第に飲食や音
曲(おんぎょく)に加えて性的なサービス (現在のソープランド
のサービスに相当) を提供するようになった。
■ 江戸時代初期より、各地に風呂屋が多く現れ、同時に、多くの
湯女 (ゆな) を抱え、 湯女が男性の背を流し、 性的サービスも
行った。
● 風呂屋(湯女風呂) では、 湯女は、風呂場で、男性の客の垢
(あか)をかき、髪を洗うなどをし、男性の背を流し、入浴させた後、
湯女は、 風呂上がりの休憩場を、俄仕立(にわかじた)ての座敷
とし金屏風(きんびょうぶ)を立て、 湯女は、化粧し美服に着替え、
そこで、茶や湯をすすめ、浮世話をし、三味線などを弾き、小唄な
どを歌った。
『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』
以 上