◆ TKKI KANAYAMA’S OFFICIAL HOMEPAGE.
◆ KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY HANDBOOK.
(Kjhh)02123
‘‘ KANAYAMA’S
IMAGE ALBUM
OF THE
TAKEDA CLAN
No.1.’’
BILINGUAL
◆ TKKI カナヤマ オフィシャル ホームページ。
◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。
カナヤマ 武田氏
画像アルバム
No.1。
2カ国語
■ RENEWED ON OCTOBER 24, 2019.
■ Copyright(C) TKKI Kanayama 1999−.
All Rights Reserved.
■ 更新日 2019年 10月 24日。
■ 当ホームページの制作・著作権 TKKI カナヤマ
(1999年〜)。
1.ENGLISH PAGE #ep
■ KANAYAMA’S IMAGE
ALBUM OF THE
TAKEDA CLAN No.1.
■ LET’S HAVE A LOOK AT THE WONDERFUL
PICTURES CONCERNING THE TAKEDA
CLAN, SHALL WE ?
MENU (TABLE OF CONTENTS) #epmenu
■ TAKATENJIN-JO CASTLE.
● THE MAP OF TAKATENJIN-JO
CASTLE.
● THE CENTRAL AREA OF
TAKATENJIN-JO CASTLE.
□ RELATED PAGES AND OTHER PAGES.
■ THE TABLE OF UPPER WEB SITES.
□ (KOH) Kanayama’s Official >
□ (Cse) International Understanding >
□ (Ke) Encyclopedia. >
□ (Khh) History Handbook. >
□ (Kjhh) Japanese History Handbook. >
□ (Kjhh) The Image Album of the >
□ (Kjhh) This English Page .
■ THE TABLE OF ABBREVIATION CODES
OF TKKI KANAYAMA’S MAIN OFFICIAL
HOMEPAGES.
LKOH GIMEH ETCSS GIMJH JTCSS JP.
◆ RELATED PAGES.
■ THE LINKING WEB PAGES.
■ THE WEB PAGES RELATED TO THIS
PHOTO COLLECTION.
□ ‘‘ THE WARRING STATES PERIOD ’’,
‘‘ THE AZUCHI-MOMOYAMA PERIOD ’’
AND ‘‘ THE EDO PERIOD ’’OF MY
□ THE WHOLE CHRONOLOGY OF JAPAN-
□ A CHRONOLOG Y OF WORLD HISTORY.
▼ 〈a〉 NO.1 1a
■ TAKATENJIN-JO CASTLE.
● THE MAP OF TAKATENJIN-JO
CASTLE.
(THE LOCAL EXPLANATION BOARD).
● THE CENTRAL AREA OF
TAKATENJIN-JO CASTLE.
(PHOTO TAKEN BY TKKI KANAYAMA).
■ TAKATENJIN-JO CASTLE WAS
LOCATED IN TOTOMI PROVINCE
(THE SOUTHERN SHIZUOKA
PREFECTURE OF JAPAN).
■ THE FALL OF TAKATENJIN-JO
CASTLE IS ONE OF THE MAIN
REASONS WHY THE TAKEDA
CLAN WAS RUINED.
TAKEDA Katsuyori’S TAKEDA
ARMY DID NOT HELP THE
FRIENDY ARMY OF TAKATENJIN-
JO CASTLE AND DID NOT SEND
REINFORCEMENTS TO
TAKATENJIN-JO CASTLE .
SO THE TAKEDA CLAN
BETRAYED THE TRUST OF THE
FEUDAL LORDS IN THE
TERRITORY OF THE TAKEDA
CLAN.
▼ 〈a〉 NO.2 1b
▼ 〈a〉 NO.3 1c
▼ 〈a〉 NO.4 1d
▼ 〈a〉 NO.5 1e
▼ 〈a〉 NO.6 1f
‘‘ WHAT HAS REMAINED IN
YOUR HEART ? ’’
THANK YOU.
2.日本語ページ #jp
■ カナヤマ 武田氏
画像アルバム No.1。
■ さあ、武田氏関連の様々な画像を見てみよう。
メ ニュー (目次) #jpmenu
■ 高天神城。
● 遠江国(とおとうみのくに、現・静岡県西部
の相当地域)にあった高天神城(たかてん
じんじょう)の地図。
● 高天神城の本丸の跡地。
■ 上位のWEBサイト。
□ (KOH) カナヤマ オフィシャル >
□ (Cse) 国際理解総合ガイド >
□ (Ke) 百科事典。 >
□ (Khh) 歴史学ハンドブック。 >
□ (Kjhh) 日本の歴史ハンドブック。 >
□ (Kjhh) 武田氏 画像アルバム No.1。 >
□ (Kjhh) この日本語ページ 。
■ カナヤマ 主要 公式ホームページ
略号一覧表。
□ 主要サイトの略語・説明表 。
◆ 他の関連ページ。
■ リンク先WEBページ。
■ フォト・アルバム関連WEBページ。
□ 日本史辞典 の 『 戦国時代(室町時代後期)、
□ 世界歴史年表。
▼ 〈b〉 NO.1 2a
■ 高天神城。
● 遠江国(とおとうみのくに、現・静岡県西部
の相当地域)にあった高天神城(たかてん
じんじょう)の地図。
(現地掲示板)。
● 高天神城の本丸の跡地。
(TKKI カナヤマ撮影)。
■ 高天神城攻防戦。
■ 高天神城 (たかてんじんじょう)は、
遠江国 (とおとうみのくに、現・静岡県西
部の相当地域)にあった、山城(やまじろ)
である。
■ 高天神城攻防戦。
1581年(天正9年)に、武田勝頼の援
軍がないまま、武田勝頼方の高天神城は、
徳川家康方の軍の攻撃をうけ、落城し、城
兵は討ち死にした。 これが武田氏滅亡の
原因の1つとなった。
武田勝頼の援軍がなく武田勝頼方の
高天神城が落城したことは、 武田領国内
の多くの国人領主の信頼を失い、武田領国
内の多くの国人領主の武田氏からの離反を
招き、1582年(天正10年)に、織田軍・徳
川軍・北条軍による武田氏への総攻撃が行
われ、西方(織田軍)・南方(徳川軍)・東方
(小田原北条軍)から三軍が武田氏領地へ
攻め込んだ時に、武田氏領内の多くの国人
領主が抵抗せず、降伏する原因となった。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 織田信長の策略。
武田勝頼の援軍がないまま、武田氏
方の高天神城が落城し城兵が討ち死にす
れば、武田氏領内の多くの国人領主が武
田氏への信頼を失い、武田氏から離反し、
織田信長が武田氏領内に攻め込んだ時に
多くの国人領主が戦わず降参し抵抗しな
いと織田信長は考えた。
徳川家康の徳川氏方の軍は、初め、
少数の城兵が籠る、武田氏方の高天神城を
囲み、兵糧攻めで、降伏を待っていた。
しかし、徳川家康の同盟者の織田信長は、
城兵の降伏を許さず討ち死にさせるように
徳川家康に要請し、徳川家康の徳川氏方
の軍は、その要請に従った。
そして、武田氏方の高天神城は落城
し城兵は討ち死して、それを知った武田氏
領内の多くの国人領主が武田氏への信頼
を失い、 織田信長の策略は、見事に当た
った。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 武田氏滅亡の原因。
■ 1582年(天正10年)に、 織田信長は、
武田氏領へ侵攻し、それに伴なって、小田
原北条氏や徳川氏も武田領内へ攻め込み、
武田勝頼の武田氏領は、東方、西方、南方
の三方から攻め込まれ、武田氏領国内の
多くの国人領主が戦わず降参し抵抗せず、
武田勝頼は、敗戦をつづけ、自害し、武家
の武田氏は滅亡する。
■ 武田氏滅亡の原因は、主に2つある。
■ 武田氏滅亡の主因の1つは、武田勝頼
が強国の小田原北条氏との同盟を破棄し、
弱い国 (御館の乱(おたてのらん、1578
−1579年)の内乱で分裂状態) の上杉
景勝の上杉氏と同盟を結んだことである。
武田氏領国は、 西方(織田軍)・南方
(徳川軍)・東方(小田原北条軍)の三方から
敵に囲まれ、味方の北方の内乱後の弱い
上杉景勝の上杉氏からは少ない援軍しか
得られないことである。
● 御館の乱(おたてのらん、1578−15
79年)の内乱中に、上杉氏の同盟者の
小田原北条氏の要請で、武田勝頼は、
越後 (えちご、新潟県の相当地域)に、
援軍を出す。 ところが、 武田勝頼は、
小田原北条氏方の上杉虎景に味方せず、
上杉景勝方 と 上杉景虎方との仲介役に
回ってしまった。 それを知って北条氏は
激怒し、その後、武田氏との同盟を破棄
した。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 武田氏滅亡のもう1つの主因は、高天神
城(たかてんじんじょう)攻防戦で、武田勝頼
が武田氏方の高天神城に援軍を送らず、落
城させ、城兵は討ち死させたことである。
武田氏方の高天神城を落城させ城兵
を見殺しにしたことは、 武田領国内の多く
の国人領主の信頼を失わせた。
● 武田勝頼は、 織田信長と終戦の交渉を
している時、徳川家康による、遠江 (とおと
うみ、静岡県西部の相当地域)の高天神城
の攻防戦が起こり、 武田勝頼は、織田信長
を刺激し、信長との終戦交渉をやめたくない
ために、武田方の高天神城への援軍を出さ
なかった。 一方、織田信長は、本気で、武
田勝頼と終戦の交渉をするつもりはなかっ
た。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
▼ 〈b〉 NO.2 2b
▼ 〈b〉 NO.3 2c
▼ 〈b〉 NO.4 2d
▼ 〈b〉 NO.5 2e
▼ 〈b〉 NO.6 2f
『 あなたのハートには 何が
残りましたか? 』。
以 上。