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◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY 

   HANDBOOK

 

 

 カナヤマ 日本歴史辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 ま 』。

 

 

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メ ニュー (目次)。  

■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

□ 日本史 辞典 (総合)     

□       ● 五十音順 ( あいうえお順)。

 □ 見出し語 まさ

 □ 見出し語 まな

 □ 見出し語 まま

 □ 見出し語 まら

 

 

〇 まい  舞妓

             (まいこ)。 《職業》。

             (⇒ 衹園 ぎおん)。

                ■ 京都の舞妓。

                          ● 舞妓(まいこ)は、 芸妓(げいこ)

             の見習い修業段階の女性であり、 

             京都の衹園(ぎおん)3花街の衹園

             甲部、衹園東、宮川町と、 先斗町

             (ぽんとちょう)、上七軒 (かみしち

             けん)の2花街の、京都の5花街

             (かがい)で、 京舞(きょうまい)な

             どの芸能を披露する 女性である。 

             ● 舞妓 (まいこ)とは、 日本の伝

             統の和服を着用し、日本髪をし、歌

             舞音曲 (かぶおんぎょく)を提供す

             る、16歳頃から20歳頃までの、京

             都の接待業の女性である。 日本各 

             地出身の女性が舞妓に就業してい

             る。

             ● 舞妓は、 20歳頃を超えると、

             芸妓(げいこ)となる。

             ● 舞妓の衣装は、 江戸時代の町

             娘の服装をモデルにしたと言われて

             いる。

             ● 「一見(いちげん)さんお断り」の

             慣習があり、 誰でもお座敷(宴席)

             で舞妓さんに会えるわけではない。

             ■ 祇園の芸舞妓。

             ● 京都の3花街 (衹園甲部、衹園

             東、宮川町)がある衹園の芸舞妓(げ

             いまいこ)は、現在、約170人いる。

 

〇 まい  舞子。

          (まいこ、仮称・実名不詳)。

          (= 平清盛の母)。  《 人名》。

             (NHK大河ドラマ「平清盛」では、平清

                           盛の生母、白河上皇の側室夫人、

                           祇園女御(ぎおん(の)にょうご)と親

                しい同郷・同職(同じ白拍子出身)の

                          女性という設定 になって いる)。

          (⇒ 祇園女御の妹

          (NHK大河ドラマ「平清盛」の

          登場人物で、平清盛の生母)。 

          《ドラマ》。

          ○ ドラマでは、平清盛の生母。

          ○ 史実では、平清盛の生母

          は不明だが、「祇園女御の妹」

             という説がある。

 

〇 まえ  前田 玄以

            (まえだ げんい)。 《人名》。

          (1539ー1602年)。

          ○ 安土桃山時代の武将、大名。 

          ○ 豊臣政権の五奉行の一人。

             ○  豊臣氏の家臣、豊臣秀吉の

          側近。 

          ○ 天下分け目の戦い(関ヶ原

           の戦い、その他の戦い)で石田

          方西軍に属したが(味方したが)、

          家康から所領を安堵される。

               (⇒ 慶長5年の

         天下分け目の戦い)。

               (⇒ 五奉行五大 老、豊

        臣氏五大老・五奉行

        府ちがひの条々、豊臣

        政権豊臣氏)。

             ■ 前田 玄以 (まえだ げんい、1539ー

             1602年) は、 美濃の人で、安土桃山時

             代に活躍した武将・大名であり、 豊臣氏の

             家臣、豊臣秀吉の側近であり、「豊臣氏五

             奉行」の一人であった。

              ● 前田 玄以は、 1585年(天正13年)

             に丹波亀山城主となる。

              ● 前田 玄以は、宗向、号・徳善院、半夢

             斎、民部卿法印 とも称した。

             ● 前田 玄以は、 初め比叡山の僧で、

             田信長、織田信雄に仕え、後に、豊臣秀吉

             に仕え、京(都)の市政・寺社関係を担当し

             た。

             ● 前田 玄以は、 1600年(慶長5年)の

             天下分け目の戦い(関ヶ原の戦い、その他)

             では、石田方西軍に属したが(味方したが)、

             徳川家康から所領を安堵される。

 

〇 まえ  前田 慶次郎

             (まえだ けいじろう)。  《人名》。

          (= 前田慶次、前田利益(とします)

           前田利貞(としさだ))。

          (1541年?〜1612年?)。

          ○ 前田利家の義理の甥(おい)

          ○ 傾奇者(かぶきもの)の「花の慶

             次」として、安土桃山時代・江戸

          時代初期に 有名となる。

          ○ 文武両道の、正義感の強い、

             良識のある武将。

          ○ 晩年、上杉景勝に仕え、米

                     沢・上杉家を支える。

 

〇 まえ  前田 利家

             (まえだ としいえ)。  《人名》。

          (1538年ー1599年)。

                    ○ 加賀(かが、石川県 南部)の

          大名。

 

〇 まき  槇島城の戦い。 

             (まきしまじょうのたたかい)。 《 戦い》。

          (⇒ 足利義昭

             ■ 槇島城の戦い (まきしまじょうのた

            たかい)は、 1573年(元亀4年)7月に、 

             織田信長 と 室町幕府・第15代将軍・

             足利義昭(よしあき)との、 山城(やま

                          しろ、現・京都府南部の相当地域)での

             戦いである。

             ■ 槇島城の戦いで、足利義昭は敗戦し、

             信長により、京(都)から追放される (室

             町幕府の一応の終焉)。

 

〇 まき  真備。

            (まきび)。  《人名》。

         (= 吉備真備 きびのまきび)。

       (⇒ 吉備真備

 

〇 まく  枕草子 

            (まくらのそうし)。  《 人名》。  

         ○ 清少納言の随筆集。 

         ○ 1020年頃成立。

            (⇒ 清少納言藤原定子

                    一条天皇)。

 

#masa

 

〇 まさ  正岡 子規

             (まさおか しき)。  《人名》。

          (= 正岡 常規(つねのり )

                    正岡 升(のぼる)) 。

          (1867〜1902年)。

          ○ 明治時代の文学者、俳人

                     (はいじん)、近代俳句の父。

 

〇 まさ  正岡 律

            (まさおか りつ) 。  《人名》。

         (1870〜1941年)。

         ○ 正岡子規の妹。

 

〇 まさ  政子。

            (まさこ)。  《人名》。

          (= 北条 政子)。

          ○ 源頼朝の正室夫人。 

         (⇒ 北条 政子)。

 

〇 まさ  和子。

             (まさこ、かずこ)。  《人名》。

         (= 徳川和子)。

         ○ 入内(じゅだい、天皇との婚儀)

             前、和子(かずこ)、入内後、和子

             (まさこ)と称す。

         (⇒ 徳川 和子(まさこ))。

 

〇 まさ  雅仁親王。

            (まさひとしんのう)。  《天皇家》。

          (= 後白河天皇、後白河上皇、

          後白河法皇)。

          (平安後期の親王、天皇、上皇、

          法王)。

                                PRINCE MASAHITO.

             ■ 雅仁親王 (まさひとしんのう)は、平安時

             代後期の親王、天皇、上皇、法王であり、後

             白河天皇、後白河上皇、 後白河法皇である。

         (⇒ 後白河上皇)。

 

〇 まし   増田長盛 

             (ました ながもり)。 《人名》。

          (1545年ー1615年)。

          ○ 安土桃山時代の武将、大名。 

          ○ 豊臣政権の五奉行の一人。

             ○  豊臣氏の家臣、豊臣秀吉の

          側近。 

          ○ 天下分け目の戦い(関ヶ原

           の戦い、その他の戦い)で石田

          方西軍に属し(味方し)、流罪と

          なる。

               (⇒ 慶長5年の

         天下分け目の戦い)。

               (⇒ 五奉行五大 老、豊

        臣氏五大老・五奉行

        府ちがひの条々、豊臣

        政権豊臣氏)。

              ■ 増田長盛 (ました ながもり、1545年

             ー16 15年)は、 安土桃山時代に活躍し

             た武将・大名であり、 豊臣氏の家臣、豊

             臣秀吉の側近であり、「豊臣氏五奉行」の

             一人であった。

              ● 増田長盛は、 大和郡山(やまとこおり

             やま)20万石の領主となる。

              ● 増田長盛は、仁右衛門、官位・右衛門

             尉(うえもんのじょう) とも称した。

             ● 増田長盛は、 豊臣秀吉に仕え、検地

             などに手腕をふるい、文禄の役で戦功をあ

             げる。

             ● 増田長盛は、 1600年(慶長5年)の

             天下分け目の戦い(関ヶ原の戦い、その他)

             では、石田方西軍に属し(味方し)、参戦は

             しなかったが、戦後、高野山に追放され、つ

             いで、武蔵岩槻(いわつき)に流される。

 

 まつ  松浦 武四郎。 

             (まつうら たけしろう)。 《 人名》。

             (1818年ー1888年)。

           ○ 北海道を知りつくした探検

          家、北海道の広報・宣伝者。 

                    (⇒ 北海道の歴史)。

             ■ 松浦武四郎 (まつうら たけしろう

             1818年ー1888年)は、 蝦夷地(えぞ

             ち、北海道)を知りつくした探検家であり

                        北海道の広報・宣伝者であり 北海道

             の地名の命名者である。

             ● 松浦武四郎は、 伊勢国(いせのくに、

             現・三重県の相当地域)出身の探検家で

             あり、北海道の各所を探検し、北海道通

             であった。

             ● 松浦武四郎は、 私人として、また、公

             人(江戸幕府役人や明治政府役人)として、

             北海道に関する多くの書物、地図等を出し、 

             北海道の紹介、広報の活動を行った。

                また、松浦武四郎は、多様性の共存

             を大事にし、 アイヌ人の人権や文化を守

             ろうと努力した。             

             ■ 松浦武四郎(まつうらたけしろう)は、

             約13年の蝦夷地(えぞち、北海道)の

             調査を書物にし、出版する。

             ■ 明治新政府(近代日本政府)は、18

             69年(明治2年)に、西蝦 夷地の北海道

             本島西部や東蝦夷地の北海道本島東部

             と千島列島を、まとめて、「北海道(ほっか

             いどう)」と改名し、また、北蝦夷地の

             太(サハリン)を「樺太」(からふと)と改名

             した。

             ■ 「北海道(ほっかいどう)」の名称では、

             明治新政府(近代日本政府)により開拓

             判官に任じられた松浦武四郎の、「北加

             伊道(きたかいどう)」 等6案の地名提案

             に基づき、明治新政府(近代日本政府)

             が検討し、1869年(明治2年)に、東西

             蝦夷地の北海道本島と千島列島を、「北

             海道(ほっかいどう)」と改名した。

 

 まつ  松尾城。 

            (まつおじょう)。 《城》。

           (= 真田氏本城)。 

          ○ 信濃国・真田の真田氏の城。 

        (⇒ 真田 氏)。

             ■ 松尾城 (まつおじょう、= 真田氏本城

             (さなだしほんじょう) は、 信濃国・真田

             にある城であり、 真田 幸村(信繁(のぶ

             しげ))の祖父や父の真田幸隆(ゆきたか)

             や真田 昌幸( まさゆき)の城であった。

             ● 真田 昌幸(まさゆき)は、 徳川家康

             の援助で、前期上田城を築城し、本城を、

             真田氏本城(= 松尾城)から前期上田城へ

             移す。

 

 まつ   松尾山 

              (まつおやま)。 《地名》。

           ○ 松尾山は、

          「史実(新説)・伝説(従来

          説)の関ヶ原の戦い」で、 

          西軍の小早川秀秋

          小早川軍の本陣 (陣地)

          を置いた場所 である。

 

          (⇒ 小早川秀秋)。

          (⇒ 関ヶ原の戦い

           決戦)。

          (⇒ 関ヶ原の戦い)。

          (⇒ 新説(史実)

             関ヶ原の戦い

           大垣・山中の戦い

         大垣の戦い山中の戦い)。

                (⇒ 慶長5年の

                 下分け目の戦い)。

           □ 「史実(新説)

            関ヶ原の戦い

            (= 大垣・山中の戦い)」  

            画像アルバム No.2

           □ 「伝説(従来説)

            関ヶ原の戦い」

            画像アルバム  No.3 

          (⇒ 徳川家康福島正則

             池田輝政)。

          (⇒ 毛利秀元)。

          (⇒ 石田三成宇喜多秀家)。

          (⇒ 大谷吉継小早川秀秋)。

          (⇒ 美濃赤坂大垣城

                           南宮山)。

          (⇒ 山中城山玉城

              松尾山藤下の自害峯)。

          (⇒ 関ヶ原盆地桃配山

                           陣場野笹尾山)。

 

             ■ 小早川秀秋 (こばやかわひ

             であき)は、1600年(慶長5年)の、

             関ヶ原の戦いに参戦し、 関ヶ原

             盆地の西南 方向の、松尾山(まつ

             おやま)に、本陣(陣地)を置いた。 

             ■ 松尾山 (まつおやま)は、 

             美濃国・関 ヶ原盆地の西南方向に

             あり、 1600年(慶長5年)の、

             「従来説( 伝説)の関ヶ原の戦い」

              や「新説の関ヶ原の戦い(= 大

             垣・山中の戦い)」1600(慶

             長5年)年9月に、小早川秀秋

             (こばやかわひであき)が

             本陣(陣地)を置いた場所である。

             ■ 「伝説(従来説)の関ヶ原の

             戦い」では、西軍の小早川秀秋は、

             1600年(慶長5年)9月14日に、

             関 ヶ原の西南方向の、松尾山(ま

             つおやま)に布陣する西軍の伊藤

             盛正(いとうもりまさ)を追いだし、

             松尾山 の山頂に本陣 (陣地)

             置く。 

 

           ■ 「史実(新説)・伝説

           (従来説)の関ヶ原の戦

           い」の決戦日

           松尾山の

           西軍の

           小早川秀秋と小早川軍

           の行動要点表。

 

                 ■ 「史実(新説)関ヶ原の戦い

               (= 大垣・山中の戦い)」の

               山中村の決戦の当日の

               松尾山の西軍の

               小早川秀秋と小早川軍の動き

              ● 西軍(奉行衆・毛利方)の

                小早川秀秋と小早川軍は、

              @ 西軍(奉行衆・毛利方)の

               小早川秀秋は、東軍(徳川

               方)から領地加増の誘いを受

               け、既に徳川方内通者となり、

               1600年(慶長5年)9月に、

               西軍(奉行衆・毛利方)の

               小早川秀秋と小早川軍は、

               畿内(きない)より移動し、

               美濃国(みののくに、現・岐阜

               県南部)の関ヶ原盆地の南西

               方向にある松尾山(まつおや

               ま)に到着し、布陣する。

               (1600年(慶長5年)9月)⇒

              A 9月14日の夜に、山中村に

               布陣していた西軍(奉行衆・毛

               利方)の大谷吉継と大谷軍が、

               関ヶ原盆地の南西部に移動し

               たため、 それに合わせて、

               西軍(奉行衆・毛利方)の

                小早川秀秋と小早川軍は、

               松尾山を下って、松尾山山麓

               の小高い岡に移動し、布陣す

               る。

               (9月14日の夜)⇒

              B 9月15日の早朝に、関ヶ原

               盆地の南西部にやって来た

               徳川家康と徳川本隊は、

               大谷軍と遭遇し交戦し、

               小早川軍も、家康の徳川本隊

               と共に、西軍(奉行衆・毛利方)

               の先方隊の大谷軍と交戦し、

               挟み撃ちにして、大谷軍を壊

               滅させる

               (9月15日の早朝〜

                午前10時過ぎ頃)⇒

              C 9月15日の午前10時過ぎ

               頃から正午頃まで、

               小早川秀秋と小早川軍は、

               山中村 (やまなかむら、

               関ヶ原盆地の西方・約2km)

               で、西軍(奉行衆・毛利方)

               の主力軍と交戦(決戦を行う)

               (9月15日の午前10時

               過ぎ頃〜正午頃)⇒

              D 9月15日正午頃、山中村

               で、西軍(奉行衆・毛 利方)

               の主力軍は総崩れ、敗走、

               敗戦し、東軍(徳川方)の主

               力軍西軍 (奉行衆・毛利

               方)の主力軍に対し決戦で

               勝利を得る

               (9月15日正午頃)。

 

              ■ 伝説(従来説の関ヶ原

               の戦い」の

               関ヶ原盆地の決戦の当日の

               松尾山の西軍の小早川秀秋

               と小早川軍の動き

              ● 西軍(石田方)の

                小早川秀秋と小早川軍は、

              @ 西軍(石田方)の小早川秀秋

               は、 東軍(徳川方)から領地

               加増の誘いを受けたが、

               東軍(徳川方)に味方するか

               どうか決められず、

               1600年(慶長5年)9月に、

               畿内(きない)より移動し、

               美濃国(みののくに、現・岐阜

               県南部)の関ヶ原盆地の南西

               方向にある松尾山(まつおや

               ま)に到着し、布陣する。

               (1600年(慶長5年)9月)⇒

              A 関ヶ原盆地で、関ヶ原の戦い

               の決戦が9月15日午前8時頃

               から始まり、小早川秀秋は、

               正午頃まで、東軍(徳川方)

               の主力軍と西 軍(石田方)

               主力軍が交戦する(決戦を行

               う)のを松尾山 から、眺め、ど

               ちらが優勢かを見る。

               (9月15日午前8時頃〜

                正午頃)⇒ 

              B 9月15日正午頃に、

               関ヶ原盆地に布陣する東軍

               (徳川方)の徳川家康より

               問鉄砲(といてっぽう)を受ける

               (関ヶ原盆地の東軍の家康は

               東軍の鉄砲隊を松尾山に向か

               わせ、松尾山の西軍の小早川

               秀秋の陣に東軍に味方するよ

               うに脅しの催促の鉄砲を撃ち

               込ませる)。

                  小早川秀秋は、驚いて、

               東軍(徳川方)に味方すること

               を決め、西軍(石田方)の小早

               川軍が、西軍(石田方)を裏切

               り、松尾山を下りて、関ヶ原盆

               地にいる西軍(石田方)の主

               力軍を攻める。

               (9月15日正午頃)。

              C 9月15日午前8時頃から、

               関ヶ原盆地で、東軍(徳川方)

               と 西軍(石田方)の主力軍が

               交戦していた(決戦を 行って

               いたが)が、 正午頃から、

               小早川軍が、大谷軍、その他

               の西軍(石田方)の諸隊を攻

               めてから、大谷軍は壊滅し、

               東軍(徳川方)が合戦で優勢

               となる

               (9月15日正午頃〜午後

                2時頃)⇒ 

              D 9月15日午後2時頃に、

               関ヶ原盆地で、西軍(石田方)

               の主力軍は総崩れ、敗走、

               敗戦し、東軍(徳川方)の主力

               軍西軍(石田方)の 主力軍

               に対し決戦で勝利を得る

               (9月15日午後2時頃)。

 

          ■ 「史実(新説)の関ヶ原

            の戦い(= 大垣・山中の

            戦い)」の決戦の概要。

                   

             ■ 一次史料に基づく「史実(新

             説)の関ヶ原の戦い(= 大垣・山

             中の戦い)」(1600 年(慶長5

             年)8月26日 頃ー9月23日)では、

             次のようなことが起こる。

             ■ 1600 年(慶長5年)8月26日

             頃から9月14日まで、大垣エリア

             の美濃赤坂付近布陣の東軍(徳

             川方)の先手勢(福島組勢と池田

             組勢)の計4万人の兵は、西軍(奉

             行衆・毛利方)の主力軍が駐留す

             る大垣城を攻撃していたが、なか

             なか落城しなかった。

                西軍は、東軍との兵力数で、

              数が少なく、追加の援軍を待っ

             ていた。

              1600 年(慶長5年)8月から

              9月15日の決戦日まで、

              大垣城や南宮山の西軍は、

              豊臣大阪城の毛利輝元に、何

              度ども、美濃国(みののくに、

              現・岐阜県南部)への追加の

              援軍を要請し、 畿内付近から

              西軍の追加の援軍が到着した

              ら、その援軍と共に、東軍の

              主力軍を倒そうと考えていた。 

                しかし、毛利輝元指揮下の

              畿内付近の西軍は、 畿内付近

              の東軍(徳川方)の近江・大津

              城(おうみ・おおつじょう)、丹後・

              田辺城(たんご・たなべじょう)

              の落城にこだわり、 西軍の立

              花宗茂(たちばなむなしげ)軍

              等武勇にも優れた諸隊も攻城

              戦で落城しない限り美濃国へ

             は来られず、西軍の追加の援軍

             の美濃国への到着が遅れてい

             た。

             ■ 9月14日の昼に、徳川家康

             が、東軍(徳川方)の徳川本隊・

             約3万2000人の兵を連れて、大

             垣エリアの美濃赤坂付近に到着

             し、布陣する。

             ■ 家康の指示で、9月15日に、

             東軍(徳川方)の先手勢の福島

             勢と池田勢は、引き続き大垣城

             を攻撃し、 徳川本隊は、南宮山

             の大垣城後詰軍(援軍)の毛利

             勢・約1万5000人の兵を攻撃

             する予定であった。  

             ■ しかし、9月14日の昼に

             大垣エリアの美濃赤坂付近に

             到着した家康の徳川本隊・約3

             万2000人の兵を、大垣城の

             駐留の西軍の幹部は、見て驚き、

             南宮山の大垣城後詰軍(援軍)

             の毛利勢が、9月15日に、大垣

             エリアの美濃赤坂付近布陣の

             東軍(徳川方)の徳川本隊から

             攻撃を受け敗北すると西軍(奉

             行衆・毛利方)の主力軍が駐留

             する大垣城が取り囲まれ孤立し

             危険であると考え、 また、

             9月15日に、東軍(徳川方)が

             西軍の南宮山の毛利勢を攻撃

             したら、南宮山の後詰軍(援軍)

             として、大垣エリアの西方にある

             山中村に布陣し援軍として出陣

             しよう考え、

             大垣城に駐留していた西軍(奉

             行衆・毛利方)の小西・ 宇喜多・

             石田・島津勢等の軍は、

             大垣城残留軍・約3500人の兵

             を残して、

             1600年(慶長5年)9月14日の

             日没後、大垣城を出て、西方の

             関ヶ原盆地・山中(やまなか)方

             面へ向い、西軍(奉行衆方)の

             小西・宇喜多・石 田・島津勢等

             の軍・約2万の兵は、9月15日

             の午前4時頃、 山中(やまなか)

             村に到着し布陣する。

             ■ 一方、西軍(奉行衆方)

             小早川秀秋と小早川軍は、

             1600年(慶長5年)9月14日

             夜に、松尾山 を下り、松尾山山

             の小高い岡に移動し、布陣

             する。

             ■ 東軍(徳川方)の徳川家康

             は、 美濃国(みののくに、現・

             岐阜県南部)で、西軍の畿内付

             近からの援軍が到着する前に、

             一刻も早く、西軍の主力軍を倒

             したいと考えていた。

                大垣城の西軍の主力軍が

             9月14日の夜に、城を出たと

             知った家康は、西軍の南宮山

             の毛利勢・約1万5000人の兵

             の攻撃を中止し、

             家康は、9月15日の早朝に、

             東軍(徳川方)を、先手勢の池

             田組勢、先手勢の福島組勢、

             徳川本隊の3つに分け、

             南宮山前面に東軍の先手勢の

             池田組勢・約2万1000人の兵

             を残し、

             徳川本隊・約3万2000人の兵

             と東軍の先手勢の福島組勢・約

             1万9000人を、東軍(徳川方)

             の主力軍とする。

             ■ 家康は、 山中村布陣の西

             軍の主力軍・約2万人の兵を攻

             撃するため、東軍(徳川方)の

             先手勢の池田勢と徳川本隊の

             主力軍・約5万1000人の兵を

             連れて、9月15日の早朝に、

             大垣エリアの美濃赤坂付近を

             出発する。

             ■ 徳川家康と徳川本隊・約3万

             2000人の兵は、関ヶ原盆地を

             通り、山中村へ行く途中で、松尾

             山に近い関ヶ原盆地南西部で、

             西軍の先方隊の大谷軍・約1200

             人の兵と遭遇し、交戦し、松尾山

             山麓から来た徳川方内通者の

             小早川秀秋の小早川軍・約8000

             人の兵と共に、挟み撃ちにし、

             大谷軍を壊滅させ、それから、

             小早川軍と共に、山中村に向かう。

             ■ 先手勢の池田勢、徳川本隊、

             小早川軍の東軍(徳川方)の主力

             軍は、 大垣エリアの西方の山中

             村に到着し、山中村で、9月15日

             の午前10時頃から正午頃まで

             西軍の主力軍と交戦する。

             ■ 9月15日の正午頃、山中村で、

             西軍の主力軍は、総崩れ、敗走、

             敗戦し、東軍(徳川方)の主力軍

             は、西軍の主力軍に対し、勝利を

             得る。

 

          ■ 「伝説(従来説)の

           関ヶ原の戦い」の決戦

           の概要。

 

              ■ 「伝説(従来説)の関ヶ原の戦

              い」(広義、1600 年(慶長5年)

              8月26日 頃ー9月23日)では、

              次のようなことが起こる。

              ■ 1600 年(慶長5年)8月26日

              頃から9月14日まで、大垣エリア

              の美濃赤坂付近布陣の東軍(徳

              川方)の先手勢(福島組勢と池田

              組勢)は、西軍(石田方)の主力

              軍が駐留する大垣城を攻撃して

              いたが、なかなか落城しなかった。

                 西軍は、東軍との兵力数で、

              数を上回っていたが、更に大幅に

              数を増やしたいと考え、追加の

              援軍を待っていた。

              1600 年(慶長5年)8月から

              9月15日の決戦日まで、

              大垣城や南宮山の西軍は、

              豊臣大阪城の毛利輝元に、何

              度ども、美濃国(みののくに、

              現・岐阜県南部)への追加の

              援軍を要請し、 畿内付近から

              西軍の追加の援軍が到着した

              ら、その援軍と共に、東軍の

              主力軍を倒そうと考えていた。 

                しかし、毛利輝元指揮下の

              畿内付近の西軍は、 畿内付近

              の東軍(徳川方)の近江・大津

              城(おうみ・おおつじょう)、丹後・

              田辺城(たんご・たなべじょう)

              の落城にこだわり、 西軍の立

              花宗茂(たちばなむなしげ)軍

              等武勇にも優れた諸隊も攻城

              戦で落城しない限り美濃国へ

             は来られず、西軍の追加の援軍

             の美濃国への到着が遅れてい

             た。

              ■ 9月14日の昼に、徳川家康

              が、東軍(徳川方)の徳川本隊

              を連れて、大垣エリアの美濃赤

              坂付近に到着し、布陣する。

              ■ 9月14日の昼に大垣エリア

              の美濃赤坂付近に到着した家康

              の徳川本隊を、大垣城に駐留す

              る西軍の石田三成は、見て驚き、

              東軍(徳川方)の主力軍が、 9月

              15日に、大垣城を無視して、

              大垣エリアの西方の関ヶ原盆地

              を通って、畿内の豊臣大阪城方

              面を目指して進軍するのではな

              いかと考え、 大垣城に駐留して

              いた西軍(石田方)の小西・ 宇喜

              多・石田・島津勢等の軍は、

              大垣城残留軍を残して、

              1600年(慶長5年)9月14日の

              日没後、大垣城を出て、西方の

              関ヶ原盆地へ向い、西 軍(石田

              方)の主力軍は、9月15日の

              未明に、関ヶ原盆地の西側に

              到着し布陣する。

              ■ 東軍(徳川方)の徳川家康

              は、 美濃国(みののくに、現・

              岐阜県南部)で、西軍の畿内付

              近からの援軍が到着する前に、

              一刻も早く、西軍の主力軍を倒

              したいと考えていた。

                大垣城の西軍の主力軍が

              9月14日の夜に、城を出たと

              知った家康は、

              家康は、9月15日の早朝に、

              東軍(徳川方)を、先手勢の池田

              組勢、先手勢の福島組勢、徳川

              本隊の3つに分け、

              南宮山前面に東軍の先手勢の

              池田組勢を残し、

              東軍の徳川本隊と先手勢の

              福島組勢を東軍(徳川方)の

              主力軍とする。

              ■ 家康は、 関ヶ原盆地西側

              布陣の西軍の主力軍を攻撃す

              るため、東軍(徳川方)の先手

              勢の池田組勢と徳川本隊の

              主力軍を連れて、9月15日の

              早朝に、大垣エリアの美濃赤坂

              付近を出発する。

              ■ 一方、 西軍の小早川秀秋は、 

              1600(慶長5年)年9月に、関ヶ

              原の西南方向の、松尾山(まつ

              おやま)の山頂に本陣(陣地)

              を置き、 1600年(慶長5年)

              9月15日の関ヶ原の戦い(午前

              8時頃〜午後2時頃)では、

              正午頃まで、参戦せず、合戦を

              静観する。

              ■ 9月15日の早朝に、先手勢

              の池田勢、徳川本隊、の主力軍

              は、 関ヶ原盆地の東側

              に到着し、関ヶ原盆地で、9月

              15日の午前8時頃から午後2時

              頃まで西軍の主力軍と交戦する。

                午前中は戦況は西軍が優勢

              であったが、正午頃、家康が、

              松尾山で東西軍の戦況を見てい

              た小早川秀秋の陣に問鉄砲(と

              いてっぽう)を行い、驚いた西軍

              の小早川秀秋の小早川軍が、

              東軍に味方し(寝返り)、松尾山

              を下り、西軍を攻撃したので、

              午後から戦況は東軍が優勢と

              なる(合戦で有利となる)。

              ■ 9月15日の午後2時頃、

              関ヶ原盆地で、西軍の主力軍は、

              総崩れ、敗走、敗戦し、東軍(徳

              川方)の主力軍は、西軍の主力

              軍に対し、勝利を得る。

 

 まっ  マッカーサー将軍 

                (まっかーさーしょうぐん)。 《司令官》。

                                GENERAL MACARTHUR.

          ○ アメリカ軍将軍・司令官。

                    ○ 在日占領・連合国軍の最高

          司令官。

             ■ マッカーサー将軍は、 アメリカ合衆

             国軍の将軍・司令官であり、 在日占領・

             連合国軍の最高司令官 であった。

 

〇 まつ  松平 家康。

             (まつだいら いえやす)。 《人名》。

          (= 徳川家康)。

             (生没年:1542年ー1612年)。

             (松平 家康・氏名使用期間:

             1563年ー1566年)。

                                 MATSUDAIRA Ieyasu.

          (⇒ 徳川家康)。

          □ 徳川家康 関連年代順

             出来事ブック

          ○ 松平 家康(= 徳川家康) :

           三河国の国人領主、江戸幕府の

                     創設者 、初代将軍。 

          ○ 徳川家康の氏名の改名。

          松平 竹千代⇒ 松平 元信⇒ 松平

          元康⇒ 松平 家康⇒ 徳川 家康。

             ■ 松平 家康 (まつだいら いえやす)とは、

             徳川家康(とくがわいえやす)である。

               徳川家康 (= 松平 家康)は、 人質か

             ら独立後、1563年に、今川義元からの偏

             諱(へんき)の「元」を返上して、「家」をつけ

             て、松平蔵人佐家康(まつだいらくろうどの

             すけいえやす、1563年−1566年)と称し

             た。

             ■ 徳川家康は、 三河国 (みかわのくに、

             現・愛知県東部の相当地域) の国人領主で

             あり、 江戸幕府の創設者、初代将軍である。

             ■ 徳川 家康の氏名の改名 : 

             松平竹千代 (1542年ー1555年)

             松平元信 (1555年ー1557年)

             松平元康 (1557年ー1563年)、

             松平家康 (1563年ー1566年)、

             徳川家康 (1566年ー1616年)。

             ■ 徳川家康は、 幼名は松平 竹千代 (ま

             つだいら たけちよ、1542年ー1555年)と

             称し、 元服(成人)時、松平 元信 (まつだ

             いら もとのぶ、1555年ー1557年)と称し、 

             その後、松平 元康 (まつだいら もとやす、

             1557年ー1563年)と称し、 その後、松平

             家康(まつだいら いえやす、1563年−

             1566年)と称し、その後、徳川 家康 (とく

             がわ いえやす、1566年ー1616年)と称す。

 

〇 まつ  松平 容保。 

             (まつだいら かたもり)。 《人名》。

          (幕末の会津藩主)。

                                MATSUDAIRA Katamori.

          ○ 幕末の会津藩・藩主。

             ■ 松平容保 (まつだいら かたもり)

             は、江 戸時代の幕末の会津藩藩主

             であった。

 

〇 まつ  松平氏。

             (まつだいらし)。  《氏族》。

          (= 三河松平氏)。

          〇 徳川氏は松平氏

          (= 三河松平氏)の一部。

          (14世紀頃ー19世紀)。

          (⇒ 徳川氏)。

              ■ 松平氏 (まつだいら し、=

             三河松平氏)は、 

             武家の氏族であり、14世紀頃

             から19世紀まで存在した武家、

             大名、将軍家である。

                 徳川氏は、松平氏(= 三

             河松平氏)の一部である。

              ● 三河松平氏 (みかわまつ

             だいらし、松平氏、徳川氏)は、 

             武家の氏族であり、

             室町時代初期に、三河国松平郷

             (みかわのくにまつだいらごう、

             現・愛知県豊田市松平町)に興

             った小豪族であり、 松平親氏

             (まつだいらちかうじ、生没年不

             詳)を祖とする武家の一族であり、 

             14世紀頃から19世紀まで存在

             した武家、大名、将軍家である。

             ● 1566年(永禄9年)以後は、

             松平氏(= 三河松平氏)の中で、

             徳川家康の一族の一部のみの家

             即ち、徳川氏本家(徳川将軍家)

             と徳川氏御三家、徳川氏御三卿

             などの「家康の嫡流の家」が、

             徳川氏を称し、更に、その「家康

             の嫡流の家」の当主のみが徳川

             を名乗れた。

 

〇 まつ  松平 竹千代。

             (まつだいら たけちよ)。 《人名》。

          (= 徳川家康、その他の松平

          氏・嫡子の幼名)。

                                 MATSUDAIRA Takechiyo.

          ○ 竹千代は、三河松平氏や

          徳川氏の本家(宗家)・継子

          (嫡子)の幼名である。

          (⇒ 竹千代)。

          □ 徳川家康 関連年代順

             出来事ブック

             ■ 松平 竹千代 (まつだいら たけち

             よ)は、 徳川家康や他の前代の松平

             氏・嫡子の幼名である。

             ■ 千代 (たけちよ)は、 三河松

             平氏や徳川氏の本家(宗家)の継子

             (嗣子(しし)) が代々名乗る幼名(よう

             みょう)である 。

             ■ 徳川 家康。

          (⇒ 徳川 家康)。

          □ 徳川家康 関連年代順

             出来事ブック

             (生没年:1542年ー1612年)。

             (松平 竹千代・氏名使用期間:

             1542年ー1555年)。

          ○ 徳川家康は、三河国の国

          人領主であり、江戸幕府の創

          設者、初代将軍である。 

          ○ 徳川家康は、氏名を順に

          @ 松平竹千代 

              (1542年ー1555年)

          A 松平元信 

              (1555年ー1557年)

          B 松平元康 

              (1557年ー1563年)、

          C 松平家康 

              (1563年ー1566年)、

          D 徳川家康 

              (1566年ー1616年)、

          のように改名する。

            ■ 徳川家康(とくがわいえやす)は、 

            幼名(ようみょう)は松平竹千代 (ま

            つだいら たけちよ)である。

             ■ 徳川家康は、 三河国 (みかわ

             のくに、現・愛知県東部の相当地域) 

             の国人領主であり、 江戸幕府の創

             設者、初代将軍である。

             ■ 徳川 家康の氏名の改名 : 

             松平竹千代 (1542年ー1555年)

             松平元信 (1555年ー1557年)

             松平元康 (1557年ー1563年)、

             松平家康 (1563年ー1566年)、

             徳川家康 (1566年ー1616年)。

             ■ 徳川家康は、 幼名は松平 竹千 

             代 (まつだいら たけちよ、1542年

             ー1555年)と称し、 元服(成人)時、

              松平元信 (まつだいら もとのぶ、

             1555年ー1557年)と称し、 その 

             後、松平 元康 (まつだいら もとやす、

            1557年ー1563年)と称し、 その後、

             松平家康 (まつだいら いえやす、

             1563年−1566年)と称し、その後、

             徳川 家康 (とくがわ いえやす、15

             66年ー1616年)と称す。

 

〇 まつ  松平 信綱

             (まつだいら のぶつな)。 《人名》。

                    (= 松平伊豆守 まつだいらいずのかみ、

          知恵伊豆 ちえいず)。

          (江戸時代前期の江戸幕府重臣)。 

          (1596年ー1662年)。

                                 MATSUDAIRA Nobutsuna.

              ■ 松平信綱 (まつだいら のぶつな、生没

             年:1596年ー1662年)は、 江戸時代前

             期の江戸幕府重臣であり、 松平伊豆守(い

             ずのかみ)、 または、知恵伊豆(ちえいず) 

             とも呼ばれた。

              ● 松平信綱は、 江戸幕府の政治を、武断

             政治から文治政治(仁政(じんせい))に転換

             させ、春日局(お福)、柳生宗矩(むねのり)と

             共に、江戸幕府の基礎を確立させた一人で

             ある。

 

〇 まつ  松平 信康。

             (まつだいら のぶやす)。 《人名》。

          (徳川家康の長男)。 

                                 MATSUDAIRA Nobuyasu.

          (⇒ 松平信康事件)。

          (⇒ 築山殿)。

        (⇒ 徳川 家康)。

           ○ 松平 信康は、

          徳川家康の長男である。

           ○ 松平 信康は、

           家康 と 築山殿(つきや

           まどの、瀬名(せな)、家康

          の1番目 の正室夫人) 

          との間の男子である。

          ○ 松平 信康は、

          1579年(天正7年)に

          起きた、松平信康事件で、

          自害する。

              ■ 松平 信康(まつだいら のぶやす)は、

                             徳川家康の長男である。 

             ● 松平 信康は、 徳川家康 と 築山 

              殿 (つきやまどの、瀬名(せな)、家康

                 の1番目の正室夫人) との間の男子で

             あった。

             ■ 松平 信康は、 1579年(天正7年)

              に起きた、松平信康事件(= 松平信康自

              害・築山殿殺害事件 )で、自害(自刃)

             する。

             ■ 松平 信康は、 徳川 家康の子では

             あるが、 徳川 家康は、松平 信康をまだ、

             正式に、徳川氏の跡継ぎと決めていなか

             ったので、徳川信康とは言わない。

             

 まつ  松平信康自害・築山殿

        殺害事件。

             (まつだいらのぶやすじがい・つきやまど

             のさつがいじけん)。 《事件》。

          (⇒ 松平信康事件)。

          (= 松平信康事件、

          武田氏内通疑惑事件)。

          (⇒ 徳川家康築山殿)。

          □ 徳川家康ガイドブック 

           □ 徳川家康 関連年代順

             出来事ブック

              ■ 松平信康自害・築山殿殺害事件 

             (まつだいらのぶやすじがい・つきや

             まどのさつがいじけん、) とは、

             松平信康事件であり、  1579年

             (天正7年)に起こった、徳川氏内

             での、徳川家康の 長男・松平信

             の自害、 家康の夫人・築山殿の 殺

             害の事件である。

 

 まつ  松平信康事件

             (まつだいらのぶやすじけん)。 

          《事件》。

          (= 松平信康自害・

          築山殿殺害事件)。

          (⇒ 徳川家康築山殿)。

          □ 徳川家康ガイドブック 

           □ 徳川家康 関連年代順

             出来事ブック。   

              ■ 松平信康事件 まつだいら

             のぶやすけじんとは、 

             松平信康自害・築山殿殺害事件

                     であり、 1579年 (天正7年)に

             起こった徳川氏内での、徳川家康

             の長男の松平信康の自害、家康

             の夫人・築山殿の殺害の事件

             ある。

             ■ 松平信康事件には、主に、

             信康・家康対立説 と、

             信長の信康殺害指示説、

             などがある。

               松平信康事件現在の有力

             説は、信康・家康対立説である。

             ■ 松平信康・徳川家康対立説 

             とは、松平信康  と 徳川家康が 

             三河や遠江の徳川領国の支配を

             めぐり対立し、家康は、逆心(= 謀

             反)の理由で、信康を自刃(じじ

             ん、自害)させたとする説である。 

             ■ 信長の信康殺害指示説とは、

             織田信長の家康妻子への武田氏

             内通疑惑による信康殺害指示説

             である。

             

〇 まつ  松平 広忠

             (まつだいら ひろただ)。 《人名》。

          (= 徳川家康の父)。

             (1526年ー1549年)。

                                 MATSUDAIRA Hirotada.

          (⇒ 徳川家康)。

          □ 徳川家康 関連年代順

             出来事ブック

          ○ 松平 広忠は、

          徳川家康の父である。

              ■ 松平 広忠 (まつだいら ひろた

             だ、生没年:1526年ー1549年)

             は、 徳川家康の父である。

              ■ 松平 広忠は、 三河国・岡崎城

             主・松平清康(まつだいらきよやす)

             の子である。

              ■ 松平 広忠の父で、徳川家康の

             祖父の松平清康は、 三河国(みか

             わのくに、愛知県東部の相当地域)

             で勢力を振った。

                しかし、1535年(天文4年)に、

             松平清康が死去し、松平 広忠は数

             え年10歳であった。 松平 広忠の

             大叔父(おおおじ)の松平信定 (のぶ

             さだ)は、松平清康の三河国 の、岡

             崎城(おかざきじょう)や西三河の所

             領を奪取し、松平 広忠を殺害しよう

             とするが、松平 広忠は逃れる。 

                 その後、松平広忠は、1540年

             (天文9年)まで、各地で逃亡生活を

             送る。

              ■ 1540年(天文9年)に、 松平

             広忠は、 松平信孝(のぶたか)や

             松平康孝(やすたか)の協力を得て、

             三河国・岡崎城に帰城する。

                そして、松平 広忠は、1549年

             (天文18年)の死去まで、三河国・

             岡崎城主として、三河国で多くの敵

             と戦う。

             ■ 16世紀前半の三河国

             ● 16世紀前半(1501年〜15

             50年)の三河国(みかわのくに、

             愛知県東部の相当地域)では、

             尾張の戦国大名の織田氏・織田

             信秀 と 駿河・遠江の戦国大名

             の今川氏・今川義元は、三河国に

             侵入し、領土を奪い合い、敵対関

             係にあった。

             ■ 徳川家康。

             ● 徳川家康 (幼名:竹千代(た

             けちよ)、生没年:1542年〜16

             16年)は、 松平広忠と水野氏出

             身の於大の方(おだいのかた、伝

             通院)との間に生まれる。

             ● 徳川家康(竹千代)は、1544

             年(天文13年)に、数え年3歳で、

             母の於大の方と生き別れ、1547

             年(天文16年)に、数え年6歳で、

             織田氏の人質(1547年〜1549

             年)となり、1549年(天文18年)

             3月に数え年8歳で、父の松平広

             忠と死別し、1549年(天 文18年)

             11月に、数え歳8歳で、今川氏の

             人質(1549年〜1560年)となり、

             人質生活が長く続き、1560年(永

             禄3年)5月の桶狭間の戦い後、

             数え年19歳で、岡崎城に帰り(戻

             り)、独立する。

 

〇 まつ  松平 元信。

             (まつだいら もとのぶ)。 《人名》。

          (= 徳川家康)。

             (生没年:1542年ー1612年)。

             (松平 元信・氏名使用期間:

             1555年ー1557年)。

                                 MATSUDAIRA Motonobu.

          (⇒ 徳川家康)。

          □ 徳川家康 関連年代順

             出来事ブック

          ○ 松平 元信(= 徳川家康) :

           三河国の国人領主、江戸幕府の

                     創設者 、初代将軍。 

          ○ 徳川家康の氏名の改名。

          松平 竹千代⇒ 松平 元信⇒ 松平

          元康⇒ 松平 家康⇒ 徳川 家康。

             ■ 松平 元信 (まつだいら もとのぶ)とは、

             徳川家康(とくがわいえやす)である。

               徳川家康 (= 松平 元信)は、 1555年

             の元服(成人)時、人質先の今川義元から

             偏諱(へんき)の「元」を賜(たまわ)って松平

             次郎三郎元信(まつだいらじろうさぶろうも

             とのぶ、1555年ー1557年)と称した。

             ■ 徳川家康は、 三河国 (みかわのくに、

             現・愛知県東部の相当地域) の国人領主で

             あり、 江戸幕府の創設者、初代将軍である。

             ■ 徳川 家康の氏名の改名 : 

             松平竹千代 (1542年ー1555年)

             松平元信 (1555年ー1557年)

             松平元康 (1557年ー1563年)、

             松平家康 (1563年ー1566年)、

             徳川家康 (1566年ー1616年)。

             ■ 徳川家康は、 幼名は松平 竹千代 (ま

             つだいら たけちよ、1542年ー1555年)と

             称し、 元服(成人)時、松平 元信 (まつだ

             いら もとのぶ、1555年ー1557年)と称し、 

             その後、松平 元康 (まつだいら もとやす、

             1557年ー1563年)と称し、 その後、松平

             家康(まつだいら いえやす、1563年−

             1566年)と称し、その後、徳川 家康 (とく

             がわ いえやす、1566年ー1616年)と称す。

 

〇 まつ  松平 元康。

             (まつだいら もとやす)。 《人名》。

          (= 徳川家康)。

             (生没年:1542年ー1612年)。

             (松平 元康・氏名使用期間:

             1557年ー1563年)。

                                MATSUDAIRA Motoyasu.

          (⇒ 徳川家康)。

          □ 徳川家康 関連年代順

             出来事ブック

          ○ 松平 元康(= 徳川家康) :

           三河国の国人領主、江戸

                     幕府の創設者 、初代将軍。 

          ○ 徳川家康の氏名の改名。

          松平 竹千代⇒ 松平 元信⇒

          松平元康⇒ 松平 家康⇒

                    徳川 家康。

             ■ 松平 元康 (まつだいら もとやす)とは、

             徳川家康(とくがわいえやす)である。

               徳川家康 (= 松平 元康)は、 1557年

              に、祖父の松平清康の偏諱(へんき)の「康」

             をもらい、松平蔵人佐元康(まつだいらくろ

             うどのすけもとやす、1557年ー1563年)と

             称した。

             ■ 徳川家康は、 三河国 (みかわのくに、

             現・愛知県東部の相当地域) の国人領主で

             あり、 江戸幕府の創設者、初代将軍である。

             ■ 徳川 家康の氏名の改名 : 

             松平竹千代 (1542年ー1555年)

             松平元信 (1555年ー1557年)

             松平元康 (1557年ー1563年)、

             松平家康 (1563年ー1566年)、

             徳川家康 (1566年ー1616年)。

             ■ 徳川家康は、 幼名は松平 竹千代 (ま

             つだいら たけちよ、1542年ー1555年)と

             称し、 元服(成人)時、松平 元信 (まつだ

             いら もとのぶ、1555年ー1557年)と称し、 

             その後、松平 元康 (まつだいら もとやす、

             1557年ー1563年)と称し、 その後、松平

             家康(まつだいら いえやす、1563年−

             1566年)と称し、その後、徳川 家康 (とく

             がわ いえやす、1566年ー1616年)と称す。

 

〇 まつ  松平 慶永

             (まつだいら よしなが)。 《人名》。

          (= 松平 春嶽 しゅんがく)。

          (幕末の越前藩藩主)。

              TOMATSUDAIRA 

          Yoshinaga                                

          ○ 幕末の越前藩主。

          ○ 明治維新の推進者。

             ● 松平慶永(春嶽) (まつだいらよしなが

             (しゅんがく)は、 幕末の越前藩主であり、

             明治維新の推進者であった。

 

〇 まつ  松永 久秀 

             (まつなが ひさひで)。 《人名》。

          (1510年ー1577年)。

          (戦国時代の武将)。

                                  MATSUNAGA Hisahide.

          ○ 松永久秀は、

           三好長慶の重臣である。

              ■ 松永久秀 (まつなが ひさひで)

             (1510年〜1577年)は、 戦国時

             代の武将であり、三好長慶の重臣で

             あった。 

             ■ 松永久秀は、 室町幕府(= 足

             利幕府)の第13代将軍・足利義輝

             (よしてる)と対立する。

                松永久秀は、 三好三人衆(み

             よしさんにんしゅう)と協力、和睦し

             たり、対立したりする。

                松永久秀は、 第14代将軍・

             足利義栄(よしひで)と対立する。 

                松永久秀は、 第15代将軍・

             足利義昭(よしあき)と協力する。 

                松永久秀は、 織田信長と

             協力、和睦したり、対立したりする。

             ◆ (8) 三好三人衆・松永久秀

                 畿内付近地域支配政権 

                (1564年〜1568年)。

             ■ 三好三人衆 (みよしさんにんし

             ゅう)と松永久秀が、1564年(永禄7

             年)から1568年(永禄11年)まで、

             実質上、畿内付近地域の支配者とな

             る。

             ● 1564年(永禄7年)7月に、三好

             長慶が病死する。 三好長慶に代わ

             って、三好三人衆と松永久秀が、実

             質上、畿内付近地域の支配者となる。

             ● 1568年(永禄11年)に、足利義

             昭・織田信長の軍が上洛し、三好三

             人衆は、義昭・信長の軍により敗走し、

             松永久秀は足利義昭・織田信長に臣

             従する。 三好三人衆と松永久秀に

             代わって、織田信長が実質上、畿内

             付近地域の支配者となる。

             ■ 室町時代後期 (= 戦国時代、

             1467年ー1573年)の畿内付近

             地域の実質支配者

             ● 室町時代後期 (= 戦国時代、

             1467年ー1573年)に、室町幕

             府(= 足利幕府)の足利氏将軍の

             権威は保たれたが、足利氏将軍

             の権力は低下する。

             ● 応仁の乱(1467年ー1477

             年)後、足利氏将軍の支配地は、

             畿内付近地域のみとなり、その後、

             足利氏将軍に代わって、細川氏、

             三好氏、織田氏の勢力が、畿内付

             近地域を支配する。 

                つまり、室町幕府の8代義政、

             9代義尚、10代義稙・前期の時期

             は、足利氏将軍が畿内付近地域を

             支配し、 室町幕府の11代義澄、

             10代義稙・後期、12代義晴、13

             代義輝、14代義栄、15代義昭の

             時期は、順に、細川政元、細川高

             国、細川晴元、三好長慶、三好三

             人衆・松永久秀、織田信長が、

             内付近地域を支配する。

             ■ 室町時代後期(= 戦国時代)の、

             京(きょう、京都)や京周辺の畿内

             付近地域の実質支配者は、順に、

             (1) 足利義政の畿内付近地域

                 支配政権

                (1467年〜1486年 、

                 1489年〜1490年)、

             (2) 足利義尚(義熙) の畿内付

                 近地域支配政権

                (1486年〜1489年)、

             (3) 足利義稙(義材、義尹) の

                 畿内付近地域支配政権

                (1490年〜1493年) 、

             (4) 細川政元の畿内付近地域

                 支配政権

                (1493年〜1507年)、

             (5) 細川高国畿内付近地域

                 支配政権

                (1508年〜1531年) 、

             (6) 細川晴元 の畿内付近地域

                 支配政権

                (1531年〜1549年)、

             (7) 三好長慶の畿内付近地域

                 支配政権

                (1549年〜1564年)、

             (8) 三好三人衆・松永久秀の

                 畿内付近地域支配政権 

                (1564年〜1568年)、

             (9) 織田信長の畿内付近地域

                 支配政権

                (1568年 〜1573年) 、

             となる。

 

〇 まつ  松之丞。 

             (まつのじょう)。 《元禄赤穂事件》。

             (大石主税(良金)(おおいしちから

                      (よしかね)の幼名)。

             (1688年ー1703年)。

                                 MATSUNOJO.

              大石内蔵助(良雄)と石束(い

          しづか)りく(香林院(こうりんいん)

          との間の子。

              大石内蔵助(良雄)の幼名も、

          松之丞。

        (⇒ 元禄赤穂事件

        大石内蔵助(良雄))。

              ■ 松之丞 (まつのじょう)(1688〜1703

                            年)は、 大石主税(良金)(おおいしちから

                       (よしかね)の幼名であり、 大石良雄(内蔵

             助)と石束(いしづか)りく (前近代日本で

             は夫婦別姓、大石りく)(香林院(こうりんい

             ん)) との間の子 である。

               大石内蔵助(良雄)の幼名も松之丞であ

             った。 

 

〇 まつ  松の丸殿。

            (まつのまるどの)。 《人名》。

          (= 京極 龍子 きょうごく たつこ

          ○ 豊臣秀吉・側室夫人。 

                                 MATSUNOMARUDONO.

             ■ 松の丸殿 (まつのまるどの)は、 京極

             龍子 (きょうごく たつこ )の別名であり、 豊

             臣秀吉の側室夫人である。

             (⇒ 京極 龍子)。

 

〇 まつ  松之廊下。

             (まつのろうか)。 《元禄赤穂事件》。

              江戸城・本丸御殿にある廊下

             で、浅野内匠頭(長矩)(あさのたく

             みのかみ(ながのり))が、吉良上野介

          (義央)に刃傷に及んだ場所。

       (⇒ 松之廊下の刃傷

        元禄赤穂事件)。

             ■ 松之廊下 (まつのろうか)は、 元禄赤

             穂事件で、 江戸城・本丸御殿にある廊下で、

             浅野内匠頭(長矩)(あさのたくのかみ(なが

             のり))が、吉良上野介(義央)に刃傷 (にんじ

             ょう)に及んだ場所 である。

 

 まつ  松之廊下の刃傷

             (まつのろうかのにんじょう)。 

                            《元禄赤穂事件》。

             (1701年3月14日)。

          (⇒ 元禄赤穂事件)。

 

〇 まつ  松前藩

             (まつまえはん)。 《江戸時代の藩》。

                                 THE MATSUMAE-HAN DOMAIN.

           ○ 江戸時代に、蝦夷地(えぞち、

          北海道)の一部を支配した藩。

                          ■ 松前藩 (まつまえはん)は、 江戸

             時代の藩であり、江戸時代に、蝦夷地

             (えぞち、北海道)の一部を支配した藩

             である。

 

 まづ  真鶴。

          (まづる、架空の人物)。 《人名》。

          (NHK2011年ドラマ「テンペス

          ト」の主人公)。

          (琉球王国の女性)。 《ドラマ》。

                                 MAZURU.

               (⇒ 沖縄の歴史

          ○ 19世紀の琉球王国の男装

          役人、王の側室夫人。 仲間

          由紀恵が演じる。 

          ○ 別名、孫寧温 (そんねいおん))。 

          美貌と才能を併せ持った女性。

              ■ 真鶴 (まづる、架空の人物、別名:孫寧

             温(そんねいおん) )は、 2011年NHKド

             ラマ「テンペスト」の主人公である。

               フィクションのドラマで、真鶴は、 19世

             紀の琉球王国の男装役人、王の側室夫人

             である。 仲間由紀恵が演じる。 

               ドラマで、真鶴は、美貌と才能を併せ持

             った女性である。

 

#mana

 

〇 まな  間部 詮房。 

            (まなべ あきふさ)。《人物》。

          (徳川家宣の側近)。 

                           MANABE Akifusa.

          ○ 江戸幕府・第6代将軍家宣(い

          えのぶ)と 第7代将軍家継(いえつぐ、

             幼少将軍)の 、側用人(そばように

             ん、老中との取次ぎ役)

          ○ 江戸幕府・第7代将軍 (幼少

          将軍)・徳川家継生母 の月光院

          (げっこういん)の恋人。

       (⇒ 徳川家継月光院

        大奥)。

             ■ 間部 詮房 (まなべ あきふさ)は、

             川家宣(いえのぶ)の側近であり、 江戸

          幕府・第6代将軍徳川家宣 と第7代将軍 ・

             徳川家継(いえつぐ、幼少将軍)の、側用

             人(そばようにん、老中との取次ぎ役)であ

             った。

               また、間部 詮房は、江戸幕府 (幼少将

             軍)・第7代将軍・家継生母 の月光院(げっ

             こういん)の恋人であった。

 

#mama

 

〇 まみ  間宮。 

              (まみや)。 《食糧補給船》。

          (戦前の補給艦)。 《船》。

                                 THE SHIP MAMIYA.

              旧日本海軍のアイドル給糧

             きゅうりょうかん、補給艦)。

              食糧補給船で、主に、スイー

          ツ(甘い物)を製造し、旧日本軍

          兵士に提供した船舶。

             ■ 間宮(まみや)とは、 戦前の補給艦であ

             り、 旧日本海軍のアイドル給糧(きゅうり

             ょうかん、補給艦)であり、 食糧補給船で、

             主に、軍の指揮を高めるため、スイーツ(甘

             い物)を製造し、旧日本軍兵士に提供した船

             舶であり、兵士が待ち焦がれるスイーツ船で

             あった。

             ● 間宮は、 海上のお菓子製造工場であり、 

             一流の菓子職人が乗り込み、豊富な材料・物

             資で、おいしいお菓子をつくり、 旧日本軍兵

             士に提供し、特に、羊羹(ようかん)は、大人

             気であった。

             ● 間宮は、大正時代に建造され、石炭で運

             航し、船足が遅く、 太平洋戦争中、護衛艦

             なしでフィリピンに向かう途中、1944年12

             月に、アメリカ軍の潜水艦シーライオンの魚

             雷が命中し、沈没する。

 

〇 まみ  間宮林蔵。 

              (まみやりんぞう)。  《 人名》。

                                 MAMIYA Rinzo.

              間宮海峡の発見者。

             ■ 1809年に、 間宮林蔵は、29歳の時、

             南北約1000kmの樺太(サハリン)を探検・

             調査し、樺太(サハリン)がアジア大陸の地

             続きの半島でなく、島であることを発見し、

             間宮海峡を発見し、 日本の江戸幕府は、

             樺太(サハリン)を、西蝦夷地(北海道本島

             西部や樺太)から分離し、北蝦夷地(きたえ

             ぞち)と呼称した。

 

〇 まむ  蝮の道三。 

             (まむしのどうさん)。 《人名》。

          (= 斎藤道三(利政 としまさ))。

          ○ 戦国時代の武将。 

                                 MAUSHI NO DOSAN.

       (⇒ 斎藤道三)。

 

〇 まめ  豆板銀。

             (まめいたぎん)。 《日本流通貨幣》。

             (江戸時代の日本流通貨幣)。

                                 MAMEITAGIN SILVER COIN.

          (⇒ 日本流通貨幣)。

              江戸時代の銀貨。

              小型板状銀塊

             ○ 江戸時代の秤量(しょうりょう)

          常貨幣。

             ■ 豆板銀は、 江戸時代の銀貨であり、 小

              型板状銀塊 であり、 江戸時代の秤量(し

              ょうりょう)通常貨幣 である。

              ● 豆板銀 (まめいたぎん)は、 江戸時代

             の、江戸幕府鋳造(発行)の秤量(しょうりょう)

             貨幣 (2種類、丁銀(ちょう ぎん)、豆板銀(ま

             めいたぎん)) の1種類 であった。

             ● 豆板銀は、 江戸時代に、銀の目方・含有

             量で使われた貨幣である。 

                豆板銀は、 その時の銀相場により、両・

             分・朱・文の定位(定額)通常貨幣とも交換さ

             れた。

             ● 1両小判≒4分≒16朱≒4000文≒現

              在の約10万円。

 

#mara

 

○ まる  円山会議。

             (まるやまかいぎ)。 《元禄赤穂事件》。

       (⇒ 元禄赤穂事件)。

             ■ 円山会議 (まるやまかいぎ)は、17

             02年(元禄15年)7月28日に、京(都)・

             丸山で開催され、盟約の同志が集まり、

             大 石内蔵助(良雄)が吉良邸討ち入りを

             決定した会議である。 

                 円山会議で、「お家再興派」代表の

             大石 内蔵助(良雄)と「仇討優先派」代表

             の堀部安兵衛が会談を行った。

             ■ 1701年(元禄14年)3月の赤穂藩

             のとりつぶし後、赤穂浅野家の赤穂藩の

             旧臣は、 大石 内蔵助(良雄)が率いる

             「お家再興派」 と、 堀部安兵衛(武庸)

             が率いる「仇討優先派」 に分かれる。

             しかし、その後、赤穂浅野家のお家再興

             の望みがなくなり、 1702年(元禄15

             年)7月28日の円山(まるやま)会議後、

             大石内蔵助(良雄)は、仇討に踏み切る。

 

○ まん  万延。

             (まんえん)。 《和暦年号》。

                                  THE MANEN ERA.

             ○ 1860 年ー1861年。

             ● 1860年・万延元年・3月18日〜

                1861年・万延 2年・2月19日。 

             ● 江戸時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

              ■ 万延 (まんえん、英:THE 

                           MANEN ERA) とは、和暦であり、 

             江戸時代後期の和暦年号であり、 

             1860年・万延元年・3月18日から

             1861年・万延 2年・2月19日まで

             である。   

             ■ 〈万延年号の、和暦→西暦/

                西暦→和暦の速算法〉。

             ○ 万延A年+1859年=西暦B年。

             ○ 西暦B年1859年 =万延A年

             ■ 幕末、明治時代の和暦年号(元号):

             ● 嘉永(かえい)⇒安政(あんせい)⇒

               万延(まんえん)⇒文久(ぶんきゅう)

               ⇒元治(げんじ)⇒慶応(けいおう)

               明治(めいじ)。

             嘉永元年〜7年 (1848〜18 54年)⇒

             安政元年〜7年 (1854〜1860年)⇒

             万延元年〜2年  (1860〜1861年)⇒ 

             文久元年〜4年  (1861〜1864年)⇒ 

             元治元年〜2年  (1864〜1865年)⇒

             慶応元年〜4年  (1865〜1868年)⇒ 

             明治元年〜45年(1868〜1912年)。

 

○ まん  万治。

             (まんじ)。  《和暦年号》。

                                 THE MANJI ERA.

             ○ 1658 年ー 1661年)。

             ● 1658年・万治元年・7月23日〜

                1661年・万治 4年・4月25日。 

             ● 江戸時代前期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

○ まん  万寿。

             (まんじゅ)。 《和暦年号》。

                                 THE MANJU ERA.

             ○ (1024年 ー1028年)。

             ● 1024年・万寿元年・7月13日〜

                1028年・万寿 5年・7月25日。 

             ● 平安時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

○ まん  満州。 

             (まんしゅう)。 《地名》。

             (= 中国東北部)。 

          MACHURIA

          (⇒ 満州 世界史辞典)。

          (⇒ 満州国)。

          (⇒ 満州事変)。

          (⇒ 和戦前期の旧日本

            軍実態ガイドブック)。

              ■ 満州(まんしゅう)とは、 中国

               東北部であり、 中国東北部の、

              黒龍江省(こくりゅうこう(ヘイロン

              チアン)しょう)、 吉林省(きつり

                ん(チーリン)しょう)、 遼寧省(り

              ょうねい(リャオニン)しょう) の

              地域である。 

 

○ まん  満州映画協会。 

             (まんしゅうえいがきょうかい)。 

             《 日本の国策映画会社》。

                     (= 満映 まんえい

          (⇒ 満州国)。

          (⇒ 和戦前期の旧日本

              軍実態ガイドブック)。

             ■ 満州映画協会 (まんしゅうえい

             がきょうかい、略称:満映(まんえい)) 

             とは、 日本が満州(= 中国東北部)

             に設立した国策映画会社である。

 

○ まん  満州国 

             (まんしゅうこく)。 《旧存在国》。

           (1932年ー1945年)。

          (⇒ 日中戦争)。

                    (⇒ 和戦前期の旧日本軍

               実態ガイドブック)。

             ■ 満州国 (まんしゅうこく、1932年

             〜1945年)とは、 昭和・戦前時代に、

             満州(= 中国東北部)に、日本が建国し

             た傀儡(かいらい)国家である。

 

○ まん  満州事変 

             (まんしゅうじへん)。 《戦争》。

          (1931年〜1933年)。

                    (⇒ 和戦前期の旧日本軍

               実態ガイドブック)。

 

○ まん  満鉄。 

             (まんてつ)。  《国策会社》。

          (= 南満州鉄道会社)。

          (1906年ー1945年)。

          (⇒ 満州国)。

          (⇒ 満州事変)。

          (⇒ 和戦前期の旧日本

            軍実態ガイドブック)。

              ○ 満鉄は、

           日本が満州(= 中国東北部)

           に設立した国策会社である。

             ■ 満鉄 (まんてつ、1906年ー19

              45年、南満州鉄道会社の略称)は、 

             日露戦争(1904−05年)後、19

             06年(明治39年)に設立された、

             日本の満州(中国東北部)経営の中核

             となった国策会社であり、半官半民の

             株式会社であった。

             ■ 満鉄には、 鉄道、炭鉱、製鉄、

             商事の部門があり、 農場や学校の経

             営も行った。

 

 まん  政所

             (まんどころ)。 《組織》。

             ■ 政所は、 鎌倉幕府、室町幕府の政治、

             財政機関である。

             ■ 政所は、 院庁や摂関家の政治、財政

             機関である。

             ■ 政所は、 親王、公卿の家の家政や荘

             園事務をつかさどる機関である。

             ■ 政所は、 荘官が荘園を管理する所で

             ある。

 

 まん  万葉集。

             (まんようしゅう)。 《歌集》。

             ■ 万葉集は、奈良時代の8世紀後半に成

             立した、和歌4500余首の、20巻の歌集で

             ある。  恋愛の和歌が多い。

    

 

 

   ● 五十音順 (あいうえお順)。

 

 

   ■  『 現在は、過去の成果であり、

       未来は、現在の成果である。 

         (良き現在は、過去の人々の良き努力

          や活動の積み重ねの成果であり、 

          明るい良き未来は、現在の人々の、

          良き努力や活動の積み重ねによって

          形成される。)

 

 

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#ma

 

#matsudairahirotada

 

■ 松平広忠  

     (まつだいらひろただ)。

 

■ 松平 広忠。

■ 名称 : 松平 広忠

        (まつだいら ひろただ)。

● 通称は、次郎三郎。

■ 生没年:1526年ー1549年。

■ 松平 広忠は、 

   徳川家康の父である。

■ 松平 広忠は、 

   西三河に領地をもつ、三河国の岡崎城・

   城主である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11437。

 

 

 ■ 松平 広忠。

   ■ 松平 広忠 (まつだいら ひろただ、生没年:

      1526年ー1549年)は、 徳川家康の父

      である。

  

   ■ 松平 広忠は、 西三河に領地をもつ、三河

    国の岡崎城・城主であり、 松平清康 (まつ

    だいらきよやす)の子である。

 

 

 ■ 松平 広忠。

 

   ■ 松平 広忠は、

     約3年間(1535年〜1537年)、放浪生活を

     送る。

   ● 松平 広忠の父で、徳川家康の祖父の松平清

      康は、 三河国(みか わのくに、愛知県東部

      の相当地域)で勢力を振った。

 

   ●  しかし、1535年(天文4年)12月に、

      松平清康が死去する (出陣中に刺殺され

      る) (守山(もりやま)崩れ)。 その時、松平

       広忠は、数え年10歳であった。

 

   ● 松平 広忠の大叔父(おおおじ)の桜井松平

     信定(のぶさだ)は、 松平清康の三河国 の、

     岡崎城(おかざきじょう)を奪取し、松平

     広忠は追放される。 

        その後、松平 広忠は、1537年(天文6

     年)まで、各地で逃亡生活を送る。

 

 

 ■ 松平 広忠。

 

   ■ 今川義元の援助で岡崎城へ帰還。

   ● 今川義元の援助で、1537年(天文6年)6月

     に、松平広忠は、 三河国・岡崎城に帰城する。

        そして、松平 広忠は、1549年(天文18年)

     の死去まで、三河国・岡崎城主として、今川方

     の属将として、三河国で織田信秀と戦う。

 

 

 ■ 16世紀前半三河国

 

   ■ 16世紀前半(1501年〜1550年)の三河国

     (みかわのくに、愛知県東部の相当地域)で

     は、 尾張の戦国大名の織田氏の織田信秀 

     と、 駿河・遠江の戦国大名の今川氏の今川

     義元は、三河国に侵入し、領土を奪い合い、敵

     対関係にあった。

 

 

 ■ 徳川家康。

 

   ■ 徳川家康 (幼名:竹千代(たけちよ)、

    生没年:1542年〜1616年)は、

    1542年(天文12年)12月26日に、

    三河国(みかわのくに、現・愛知県東部)の

    岡崎城主・松平広忠(まつだいらひろただ)

    と、 水野氏出身の於大の方 (おだいのか

    た、水野大)との間に生まれる。

 

   ● 徳川家康 (幼名:竹千代、1542年ー

    1616年)は、 

    1542年(天文12年)12月に三河国の

    岡崎城主・松平広忠の子として、生まれ、

    1544年(天文13年)に、数え年3歳で、

    母の於大の方と生 き別れ、

    1547年(天文16年)8月に、数え年6歳で、

    織田氏の人質となり、 

    1549年(天文18年)3月に、数え年8歳で、

    父の松平広忠と死別し、

    1549年(天文18年)11月に、数え年8歳で、

    今川氏の人質となり、 

    1555年(天文24年)3月に、数え年14歳で

    今川義元の下で元服し(成人し)、

    1560年(永禄3年)5月に、数え年19歳で、

    桶狭間の戦いでの今川義元敗死で、今川氏

    の人質から解放され、独立し、

    1566年(永禄9年)に、数え年25歳で、

    松平氏念願の三河国を統一し三河守に叙任

    され、徳川氏を名乗り、

    1603年(慶長8年)2月に、数え年62歳で、

    征夷大将軍に叙任され、江戸に、幕府を開き、

    1616年(元和2年)4月に、数え年75歳で、

    駿河国(すんぷのくに、現・静岡県中部)の

    駿府城(すんぷじょう)で、病死する。

 

 

 ■ 松平 広忠の婚儀と家康の誕生。

 

   ■ 1541年(天文10年)に、松平 広忠は、 松平

     氏と水野氏との関係を深めるため、政略結婚

     で、水野忠政(みずのたたまさ)の娘の於大の

     方(おだいのかた)と婚儀を結ぶ。 

 

   ● そして、1542年(天文11年)12月 26日

     に、松平広忠の居城・岡崎城で、松平広忠と

     於大の方との間に、徳川家康 (幼名:竹千代、

     生没年:1542年〜1616年)が、生まれる。

 

 

 ■ 松平 広忠の死去。

 

   ■ 徳川家康の父である松平 広忠 (生没年:

     1526年ー1549年)は、 

     1549年(天文18年)3月6日に死去する。

     数え年24歳であった。

 

   ■ 松平 広忠の死因には、 殺害説 と 病死説

     がある。

 

   ● 松平 広忠の殺害説には、

     家臣の岩松八弥(いわまつはちや)によって

     殺害された説 (『岡崎領主古記』より) や 

     一揆によって殺害された説 (『三河東泉記』

     より) などがある。

 

   ● 松平 広忠の病死説は、 『家忠日記増補』、

     『松平記』、『三河物語』、『徳川実記』 など

     の史料による。

     

 

 ■ 家康は母と生き別れ。

 

   ■ しかし、その後、水野氏の水野忠政の家督を

     継いだ、於大の方の兄 で水野氏当主の水野

     信元(みずののぶもと)が織田氏に臣従したた

     め(織田氏と同盟を結んだため)、今川氏に

     臣従する(今川氏に庇護されている)松平広

     忠は、1544年(天文13年)に、織田氏臣従

     に転向した(織田氏と同盟を結んだ)水野氏

     の出身の於大の方(家康の生母)を離縁する。 

        徳川家康(竹千代)は、数え年3歳で母と

     生き別れとなる。

 

 

 ■ 家康の母の再婚と出産。

 

   ■ 於大の方は実家の水野氏に戻り、三河国の

     水野氏所領の刈谷城(かりやじょう)付近の

     椎の木屋敷(しいのきやしき)で暮らす。 

        その後、於大の方の兄・水 野信元の意

     向で、水野氏と久松氏との関係強化のため、

     1547年(天文16年)に、於大の方は、政 略

     結婚で、尾張国知多郡の阿古 居城主・久松

     俊勝(ひさまつとしかつ)に嫁(とつ)ぐ。 

        その後、於大の方は、久松俊勝との

     間に、三男三女を儲ける(得る)。

 

 

 ■ 家康は織田氏の人質となる。

 

   ■ 1547年(天文16年)に、徳川家康(竹千代)

     は、数え年6歳で、人質として、織田氏の

     織田信秀の元へ行く。 

        しかし、松平広忠は、今川氏の今川義

     元への従属を貫いた。

 

   ■ 竹千代(徳川家康)が織田氏の人質となった経

     緯については、2つの有力な説がある。

 

     (1) 織田信秀の三河侵攻で、1547年(天文

     16年) 8月に、松平広忠は、 今川氏の加勢を

     得るため、竹千代(徳川家康)を駿府の今川義

     元の元へ人質として送るが、途中で戸田康光の

     裏切りにあい、徳川家康(竹千代)は織田信秀

     の元へ連れて行かれる。

 

     (2) または、織田信秀の三河侵 攻で、1547

      年(天文16年)9月に、松平 広忠は、岡崎城

      陥落で、織田信秀に敗戦したので、松平広忠

      が降伏の条件 として、徳川家康(竹千代)を人

      質として織田信秀に差し出す (『本成寺文書』

      より)。

              

   ■ その後、竹千代(徳川家康)は、 尾張国の熱

     田(あつた)で、約2年間、織田信秀の元で、

     人質として、拘束される。

 

   ● 竹千代(徳川家康)は、 尾張国熱田の加藤順

     盛の屋敷に、1547年 (天文16年)から1549

     (天文18年)年までの間、約2年間、 留め置か

     れる。

 

 

 ■ 広忠の死去と今川氏の領地奪取。

 

   ■ 1549年(天文18年)3月に、三河国・岡崎城

     主の松平 広忠は、数え年24歳で死去する。 

     松平広忠の死去には、 病死説と殺害説があ

     る。

        今川義元は、領主が死去し不在となった

     松平氏の西三河の所領を今川氏の領土とし、

     松平氏の岡崎城は、今川氏から派遣された

     城代によって支配される。

        後に、徳川家康(竹千代)は、墓参りのた

     めと称し、岡崎城に帰参した際には、城代

     いる本丸ではなく、ニの丸に入る。

 

 

 ■ 家康は今川氏の人質となる。

 

   ■ 1549年(天文18年)11月に、今川義元重臣

     の太原雪斎は、織田勢と対陣し、織田方の西

     三河支配の牙城である安祥城(あんじょうじょ

     う)を陥落させ (第4次安城合戦)、安祥城

     の守備を任されていた織田信広 (のぶひろ、

     三郎五郎、織田信秀の子、信長の異母兄、

     生年不詳〜1574年)は、今川軍に敗れ、

     生け捕りにされ、捕虜となる。 今川氏は、

     この戦いで織田氏に勝ち、三河国での織田

     信秀の勢力を退ける。

        そして、今川義元は、織田信秀とはかり、

     1549年(天文1 8年)11月に、織田信広と

     「織田氏に拘束されている徳川家 康(竹千

     代)」とを人質交換し、 松平氏を継ぐ竹千代

     (徳川家康)は、今川氏の人質として、数え

     年8歳で今川氏の駿河へ送 られる。 

        その後、徳川家康(幼名:竹千代)は、

     1560年(永禄3年)に、桶狭間の戦い後、

     数え年19歳で独立するまで、今川氏の人質

     となる。

 

 

♪♪ 松平 広忠が登場する、興味 深い

      関連ドキュメンタリー、ドラマ、映

    画。 

 

 ★ 松平 広忠が登場する、興味深い

    関連ドラマ、映画。 

 

   ● (注意) ドラマ、映画は、フィクションです。 

     歴史のドラマや映画は、史実(歴史上の

     事実) と架空の出来事が、混じって、描

     かれています。 また、現代風にアレンジ

     してあります。

 

 ■ 『 麒麟(きりん)がくる 』。 

     (NHKテレビの2020年大河ドラマ)。 

     (池端俊策・岩本真耶 作・脚本)。

 

  ■ 日本の戦国時代(室町時代後期)、安土

    桃山時代を描く。

 

  ● 徳川家康の父・松平広忠(まつだいら

    ひろただ)を演じる俳優名: 浅利 陽介。 

 

  ● 徳川家康を演じる俳優名: 

    〈少年、松平竹千代 岩田琉聖 

    〈成人、松平元信・元康・家康〉 

     風間 俊介。

  ● 徳川家康の母・於大の方(おだいの

    かた、松平広忠正室夫人、後、離縁;

    水野信元の妹)を演じる女優名: 

       松本 若菜。

  ● 徳川家康の伯父(おじ)・水野信元(み

    ずののぶもと、於大の方の兄)を演じる

    俳優名: 横田 栄司。

 

  ● 徳川家康の母・於大の方(おだいの

    かた、松平広忠正室夫人、後、離縁;

    水野信元の妹)を演じる女優名: 

       松本 若菜。

  ● 徳川家康の伯父(おじ)・水野信元(み

    ずののぶもと、於大の方の兄)を演じる

    俳優名: 横田 栄司。

 

  ● 今川義元(いまがわよしもと)を演じる

    俳優名: 片岡 愛之助。

  ● 今川義元の軍師・太原雪斎(たいげん

    せっさい)を演じる俳優名: 伊吹 吾郎。

 

  ● 織田 信長を演じる俳優名: 染谷 将太 

    (そめたにしょうた)。

  ● 織田 信長の父・織田 信秀(おだ のぶ

    ひで)を演じる俳優名 : 高橋 克典。

 

  ● 明智 光秀 (斎藤 道三(利政)の家臣、

   朝倉義景の家臣、足利義昭の家臣、

   織田信長の家臣) を演じる俳優名 :  

   長谷川 博己 (はせがわ ひろき)。

 

  ● 斎藤 道三(利政)の娘・帰蝶(濃姫)(き

    ちょう(のうひめ)、織田信長の正室夫 

    人)を演じる女優名 : 川口 春奈。 

 

  ● 織田 信長の母・土田御前(どだごぜん)

    を演じる女優名: 檀 れい。 

  ● 織田 信長の弟・織田 信勝(のぶかつ)

    を演じる俳優名 : 木村 了。

  ● 織田 信長の守役(もりやく)・平手政秀

    (ひらてまさひで)を演じる俳優名 : 

    上杉 祥三。

 

  ● 木下 藤吉郎秀吉(= 羽柴 秀吉、豊臣

    秀吉)を演じる俳優名 : 

       佐々木 蔵之介。

 

 

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#thematsudairanobuyasuincident

 

■ 松平信康事件。  

     (まつだいらのぶやすじけん)

 

■ 松平信康事件。

 

■ 名称 : 松平信康事件

        (まつだいらのぶやすじけん)。

 

■ 別名 : 

  ● 松平信康自害・築山殿殺害事件

     (まつだいらのぶやすじがい・つ

      きやまどのさつがいじけん)。

 

■ 松平信康事件とは、

   1579年 (天正7年)に起こった、徳川氏内で

   の、徳川家康の嫡男・松平信康の自害  と 

   家康の夫人・築山殿の殺害の事件である。

 

■ 松平信康事件は、諸説あるが、主に2つの説

   がある。 

   「信康・家康対立説」 と、 「信長の信康

   殺害指示説」 である。

     「信康・家康対立説」が現在、有力である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 91638。

 

 

 ■ 松平信康事件

    (= 松平信康自害・築山殿殺害事件)。

 

  ● 徳川氏の分裂危機を招いた、

    松平信康事件が起こる。

  ■ 松平信康自害・築山殿殺害事件。

  ● 1579年(天正7年)8月〜9月に、松平信康

    事件(まつだいらもとやすじけん、= 松平信康

    自害・築山殿殺害事件)が起きる。

 

  ■ 松平信康の氏名。

  ● 1566年(永禄9年)以後、徳川を名乗れる

    のは、「徳川家康の嫡流の家」の「当主」のみ

    である。

       従って、松平信康は、まだ当主ではない

    ので、徳川を名乗れない。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。

 

 

  ● 松平信康事件。

  ■ 松平信康事件。

   1579年(天正7年)に、 徳川家康は、

    8月3日に、岡崎城を訪れ、 8月4日に、

    松平信康は岡崎城を去る。

        徳川家康は、8月29日に、二俣城へ

    の護送中に、佐鳴湖(さなるこ、浜松市西区・

    中区)の湖畔で、家康の正室夫人で松平信

    康の生母の築山殿(つ きやまどの)を家臣

    に殺害させ、 9月15日に、二俣城(ふたま

    たじょう、現・浜松市天竜区)で、家康の長

    男・松平信康(まつだいらもとやす)を自刃

    (じじん、自害)させる。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

  ● 「信康・家康対立説」 と 

     「信長の信康殺害指示説」。

  ● 「信康・家康対立説」が有力。

  ■ 1579年 (天正7年)に起こった、徳川氏内

    での、松平信康事件(= 松平信康自害・築山

    殿殺害事件)には、 諸説あるが、主に、

    2つの説がある。

       「松平信康・徳川家康対立説」 と、 

    「織田信長の松平信康殺害指示説」 であり、 

    「松平信康・徳川家康対立説」が、現在、

    有力である。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

  ● 「信康・家康対立説」。 

  ■ 松平信康事件(= 松平信康自害・築山殿殺

    害事件)での、松平信康・徳川家康対立説。

 

  ■ 松平信康・徳川家康対立説とは、 

    松平信康 と 徳川家康 が 三河や遠江

    の徳川領国の支配をめぐり対立し、家康は、

    逆心(= 謀反)の理由で、信康を自刃(じじ

    ん、自害)させたとする説である。 

 

  ■ 松平信康・徳川家康対立説は、 

    事件同時期著作の一次史料の「家忠日記」

    (いえただにっき、徳川氏家臣(国衆)の松

    平家忠の日記)、 事件同時期著作の一次

    史料の、太田牛一(おおたぎゅういち)の

    「安土日記」(古期・信長公記)、 江戸期寛

    永年間頃に成立した史書「当代記」(とうだ

    いき、當代記)、などによる。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。

 

 

   ● 「信康・家康対立説」。 

   ● 家康は、信康を自害させ徳川

         氏分裂危機を回避する。

  ■ 松平信康・徳川家康対立説。

  ● 徳川家康長男の松平信康は、 

    家康の後継者とは決まっていなかったが、 

    家康の忠告を聞かず、三河や遠江の徳川

    領国を、自分の領地のように考え、自分勝

    手に振る舞い、何年もの間、家康の許可

    なく、徳川氏家臣(国衆)たちに命令を出す。 

       そのため、家康の徳川領国の支配体

    制が混乱し、家康は、徳川氏家臣(国衆)

    たちを統制できなくなる。

        身を慎むように何度言っても従わない、

    わがままな家康長男の松平信康に手を焼い

    た家康は、 信康の岡崎城主の地位を奪い、

    岡崎城から追放し、謹慎させる。

        また、家康は、この処置(処分)に猛反

    対する信康の生母で家康の正室夫人の築山

    殿を殺害し、 その後も、信康は、改心せず

    家康に反抗的であったため、家康は信康を

    自刃(自害)させる。 

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。

 

 

 ■ 「信長の信康殺害指示説」。

 

  ■ 松平信康事件 (= 松平信康自害・築山殿

    殺害事件)での、

    織田信長の松平信康殺害指示説。

 

  ■ 織田信長の 松平信康殺害指示説は、

    松平信康事件で、以前に有力であった説

    である。

 

  ■ 織田信長の 松平信康殺害指示説は、

    1579年 (天正7年)に、 織田信長の家康

    妻子への武田氏内通疑惑により信長が信康

    の殺害を指示し、 徳川家康は、 正室夫人・

    築山殿を殺害し、長男・信康を自害(自刃)さ

    せたとする説である。 

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。

 

 

 

#thematsudairanobuyasuincident

 

♪♪ 松平信康事件(= 松平信康自害・築山

     殿殺害事件)が登場する、興味深い

    関連ドキュメンタリー、ドラマ、映

    画。 

 

 ★ 松平信康事件が登場する、興味深

      い関連ドキュメンタリー。 

 

 ■ 英雄たちの選択

   『 家康、生涯最悪の決断〜

    ‘‘信康事件’’の真相に迫

    る!〜 』。 

       (NHKテレビ・2017年10月19日・

      本放送・ドキュメンタリー番組)。

  ■ 松平信康事件(= 松平信康自害・築山殿

   殺害事件)を詳細に述べる。

 

 ■ 解明!片岡愛之助の歴史捜査

   『 〈徳川家未解決事件ファイル〉

     家康の嫡男信康の切腹 

     正室築山殿 殺害事件

     の真相を追え! 』。 

        (日テレ・テレビ・2017年11月23日・

       本放送・ドキュメンタリー番組)。

 

  ■ 松平信康事件(= 松平信康自害・築山殿

    殺害事件)を詳細に述べる。

  ■ 太田牛一(おおたぎゅういち)の信長公

    に は、 「安土日記」(古期・信長公記、

    慶長頃の写)、 「信長記」(中期・信長

    公記、慶長18年(1613年)頃)、 「信

    長公記」(新期・信長公記、元禄12年

    (1699年)写)がある。

  ■ 徳川家康の改名(竹千代⇒松平元信⇒  

    松平元康⇒ 松平家康⇒ 徳川家康)を述

    べる。

  ■ 徳川家康の幼年期、青年期、前半生や

    築山殿・松平信康を、詳しく述べる。

 

 

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#themaikogirl

 

■ 舞妓 

     (まいこ)。

 

■ 舞妓。

■ 名称 : 舞妓 (まいこ)。

■ 《職業》。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11915。

 

 

■ 京都の舞妓。

  ■ 舞妓(まいこ)は、 芸妓(げいこ)の見習い

    修業段階の女性であり、 京都の衹園(ぎ

    おん)3花街の衹園甲部、衹園東、宮川町 

    と、 先斗町(ぽんとちょう)、上七軒(かみ

    ひちけん)の2花街の、京都の5花街(かが

    い)で、 京舞(きょうまい)などの芸能を披

    露する女性である。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 舞妓 (まいこ)とは、 日本の伝統の和服

    を着用し、日本髪をし、歌舞音曲(かぶおん

    ぎょく)を提供する、16歳頃から20歳頃ま

    での、京都の接待業の女性である。 日本

    各地出身の女性が舞妓に就業している。 

       舞妓は、 20歳頃を超えると、芸妓

    (げいこ)となる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 舞妓の衣装は、 江戸時代の町娘の服装

    をモデルにしたと言われている。

 

  ■ 「一見(いちげん)さんお断り」の慣習があ

    り、誰でもお座敷(宴席)で舞妓さんに会え

    るわけではない。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 花街。

  ■ 花街(かがい、はなまち)とは、 芸舞妓(げ

    いまいこ)の芸能を披露する店を中心に形づ

   くられた区域であり、 料理屋、待合茶屋、置

   屋などがある。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 京都の芸舞妓。

  ■ 舞妓(まいこ)や芸妓(げいこ)を、まとめて、

    芸舞妓(げいまいこ)と呼ぶ。

        

  ■ 京都の芸舞妓(げいまいこ)は、 各花街

    (かがい)の置 屋(おきや)に所属し、京都

    で芸能を披露する。

 

  ■ 置屋(おきや)とは、 芸舞妓(げいまいこ)

    が所属するプロダクションのような場所で

    ある。

 

  ■ 「都をどり」、「鴨川をどり」、「京をどり」、「北

    野をどり」、「衹園をどり」などは、 京都の芸

    舞妓が芸能を披露する場である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 京都の衹園地域。

  ■ 京都の衹園(ぎおん)は、 京都の八坂神社

    (やさかじんじゃ)の西部の、四条通り(しじ

    ょうどおり)をはさんで、南北に広がる京都市

    東山区のエリアである。

 

  ■ 衹園地域の南部の一部は、 江戸時代まで

    建仁寺(けんにんじ)の寺領地の一部であっ

    たが、明治時代に地上げされ、きり離されて、

    衹園の一部として、独立する。

 

  ■ 衹園地域は、 明治時代に、街並みが整い、 

    花街(かがい)の部分地は、個人の所有地

    ではなく、組合の所有地である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 祇園の3花街。

  ● 京都の衹園地域には、 花見小路通(はな

    みこうじどおり)や白川南通(しらかわみなみ

    どおり)などを中心に、 「衹園東」(ぎおんひ

    がし)、 「衹園甲部」(ぎおんこうぶ)、 「宮

    川町」(みやがわちょう) の3花街(かがい)

    がある。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 衹園の 芸舞妓。

  ■ 京都の5花街 (ごががい、衹園甲部、衹園

    東、宮川町、先斗町、上七軒)で、 (ぎ

    おん)地域には、 花見小路通(はなみこうじ

    どおり) や 白川南 通(しらかわみなみど

    おり)などを中心に、「衹園東」 (ぎおんひが

    し)、 「衹園甲部」(ぎおんこうぶ)、「宮川

    町」(みやがわちょう)の3花街(かがい)が

    ある。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ● 衹園の舞妓とは、 園の3花 街で、所属

    する各花街を中心に活動する舞妓である。

 

  ● 京都の3花街(衹園甲部、衹園東、宮川町)

    がある衹園の芸舞妓(げいまいこ)は、現在、

    約170人いる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

             

             

■ 京都の衹芸妓の歴史。

  ■ 園(ぎおん)地域は、 江戸時代に、八坂

    神社(やさかじんじゃ)の門前町であり、 八

    坂神社の西楼門(にしろうもん)の西部に、

    四条通り(しじょうどおり)をはさんで、南北

    に、たくさんの、茶屋(ちゃや、喫茶店)や芝

    居小屋(しばいごや、歌舞伎座)が並んでい

    た。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 園地域は、 江戸時代に、単なる休憩の

  茶屋(ちゃや、喫茶店)の水茶屋(みずじゃや)

  があるエリアから、 女性を置いてお酒を出し

  舞いを披露する本茶屋(ほんじゃや)がある

  エリアに発展する。 ここに、「芸妓(ぎお

  んげいこ)」が、江戸時代前期に、誕生し、今

  日に至っている。

 

  ■ また、京都・高台寺(京都・下河原町)に

  移り住んだ高台院(こうだいいん、おね(ねね))

  が京都に連れてきた芸の達人たちが、下河原

  の茶屋の座敷にあがり、隣町の園の芸妓

  (げいこ)は、その影響を 受け、さらに、芸を磨

  く。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

                

 

 

♪♪ 舞妓が登場する興味 深い、ドキ

     ュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 舞妓が登場する、興味深い関連ドキ

   ュメンタリー。

     

■ 京都ぶらり歴史探訪 

  『 衹物語 〜女が支える花街

    の彩〜 』。 

    (テレビ朝日の2018年1月30日・

   本放送・テレビ・ドキュメンタリー番組)。

■ 舞妓(まいこ)や3花街 (さんかがい、衹園

  甲部、衹園東、宮川町)のある衹園(ぎお

  ん)地域を詳細に述べる。

  

 

★ 舞妓が登場する、興味深い関連ドラ

   マ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実)

   と 架空の出来事 が混じって描かれています。

   また、現代風にアレンジしてあります。

   

■ 『 舞妓 Haaaan !!! 』 。  

   (2007年(平成19年)日テレ・東宝映画)。

 舞妓(まいこ)や京都の花街( かがい、なはま

  ち)を描く。

 コメディー映画。

 

● 柴咲 コウ (しばさき コウ) 出演。

 

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#mashitanagamori

 

■ 増田 長盛 

     (ました ながもり)。

 

■ 増田 長盛。

■ 名称 : 増田長盛 (ました ながもり)。

■ 生没年 : 1545年ー1615年。

■ 安土桃山時代の武将、大名。 

■ 豊臣政権五奉行の一人。

■ 豊臣氏の家臣、豊臣秀吉の側近。 

■ 1600年(慶長5年)の天下分け目の戦い関ヶ原の

     戦い、その他の戦い)で石田方西軍に属し(味方し)、

   敗れて、流罪となる。

■ 当日本史辞典の 『 五奉行奉行、豊臣氏五大老・

  五奉行五大老(ごたいろう)豊臣政権豊臣氏 』

  も参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 72334。

 

            

■ 増田長盛 (ました ながもり、1545年ー16 15年)

  は、 安土桃山時代に活躍した武将・大名であり、

  豊臣氏の家臣、豊臣秀吉の側近であり、「豊臣氏

  奉行」の一人であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 増田長盛は、 大和郡山(やまとこおりやま)20万石

  の領主となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 増田長盛は、仁右衛門、官位・右衛門 尉(うえもんの

  じょう) とも称した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 増田長盛は、 豊臣秀吉に仕え、検地などに手腕をふ

  るい、文禄の役で戦功をあげる。

 TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 増田長盛は、 1600年(慶長5年)の天下分け目の

     戦い関ヶ原の戦い、その他の戦い)では、石田方西

  軍に属し(味方し)、参戦はしなかったが、戦後、高野

  山に追放され、ついで、武蔵岩槻(いわつき)に流され

  る。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 豊臣氏五大老・五奉行 (とよとみしごた いろう・ごぶ

  ぎょう、1598年−1600年)は 、 豊臣秀吉によって、

  豊臣秀吉死去直前の、1598年(慶長3年)に成立し、 

  豊臣氏を支える政治機構として形成され、豊臣政権

  公儀制を維持しようとした。 五大老五奉行の10人

  で、豊臣氏を代表して、国政全般を担当すべきものと

  された。

     豊臣氏五大老・五奉行は、 徳川家康(とくがわい

  えやす)、 前田利家(まえだと しいえ)(後、前田利長)、  

  毛利輝元(もうりてるもと)宇喜多秀家(うきたひでい  

  え)、上杉景勝(うえすぎかげかつ) の 5人の五大老  

  と、 石田三成(いしだみつなり)、増田長盛(ましたな

  がもり)、浅野長 政(あさのながまさ)、長束正家(なつ

  かまさいえ)、前田玄以(まえだげんい)の5人の五奉行 

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 増田長盛が登場する興味 深い、ドキ

    ュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 増田長盛が登場する、興味深い関連ドラ

   マ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実)

   と 架空の出来事 が混じって描かれています。

   また、現代風にアレンジしてあります。

   

■ 『 真田丸 (さなだまる) 』 。  

   (NHKテレビ・2016年大河ドラマ)。

 日本の安土桃山時代や江戸時代初期の

  時代を描く。

 五大老、五奉行を描く。

 

■ 『 軍師 官兵衛 』。 

   (NHKテレビ・2014年大河ドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

 五大老、五奉行を描く。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』。

      (NHKテレビ・2011年大河ドラマ) 

■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土

  桃山時代、江戸時代初期を描いたドラマ。

 五大老、五奉行を描く。

 

■ 『 天地人 (てんちじん) 』 。 

   (NHKテレビ・2009年大河ドラマ) 。

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

 五大老、五奉行を描く。

 

   

  ○ ドラマ「天地人」の書籍販促PRフォト。

 

■ 『 茶々 天涯の貴妃 (ちゃちゃ

     てんがいのおんな) 』。 

    (日本の2007年制作・東映映画)。 

■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土

  桃山時代、江戸時代初期を描いたドラマ。

 五大老、五奉行を描く。

 豊臣大阪城の炎上のシーンが出てくる。

 大坂夏の陣で、真田幸村が戦うシーンが、

  登場します。

● 真田幸村(信繁)を演じた俳優名 : 

   黄川田将也。

 

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#matsunagahisahide

 

■ 松永 久秀  

     (まつなが ひさひで)。

 

■ 松永久秀。

■ 名称 : 松永久秀 (まつながひさひで)。 

■ 生没年 : 1510年ー1577年。

■ 松永久秀は、三好長慶の重臣である。

■ 松永久秀は、

  1564年(永禄7年)の三好長慶の死後、

  1568年(永禄11年)まで、三好三人衆

  と共に畿内付近地域を支配する。

■ 松永久秀は、

  大和国の国主となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 松永久秀。

■ 松永久秀は、

  1564年(永禄7年)の三好長慶の死後、

  1568年(永禄11年)まで、三好三人衆

  と共に畿内付近地域を支配する。

     1565年(永禄8年)に、三好・松永

  勢は、将軍の足利義輝(よしてる)を殺害

  し、その後、松永久秀は、 三好三人 衆と

  畿内付近地域の覇権を争う。

 

■ 松永久秀。

■ 松永久秀 (まつながひさひで、生没年:15

  10〜1577年) は、 三好長慶の重臣であ

  り、 武将、戦国大名で、大和国(やまとのく

  に、現・奈良県の相当地域)の国主となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 松永久秀。

■ 松永久秀は、知略、謀略(ぼうりゃく)をつく

  して大名にのしあがった人物である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 松永久秀。

■ 松永久秀の息子の松永久通は、 三好三人

  衆(みよしさんにんしゅう) と共に、 1565年

  (永禄8年)に、 三好長慶の死を好機とみて

  将軍親政を行おうとした、室町幕府・第13代

  将軍の足利義輝(よしてる)を殺害する (永

  禄の変)。 その後、松永久秀は、 三好三人

  衆と畿内付近地域の覇権を争う。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 松永久秀。

■ 1567年(永禄10年)10月に、松永久秀は、

  三好三人衆が陣をおく東大寺の奇襲に成功

  し、三好三人衆に勝利を得る (東大寺大仏

  の殿戦い)。 このとき、大仏殿に出火が起こ

  る。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 松永久秀。

■ 1565年(永禄8年)5月に、松永久秀の息子

  の松永久通は、 三好義継、三好三人衆と共

  に、室町幕府第13代将軍足利 義輝を惨殺

  する。

     このとき、足利義輝の弟の、覚慶(足利義

  昭)も、松永久秀らによって捕縛され、興福寺に

  幽閉された。 覚慶(足利義昭)は将来興福寺

  別当の職を約束されていたので、 興福寺は、

  大和(やまと、奈良県)の守護大名でもあり、

  覚慶(足利義昭)を殺すことで興福寺を敵に回

  すことを恐れて、松永久秀らは、覚慶(足利義

  昭)を殺さず、幽閉にとどめた。 しかし、覚慶

  (足利義昭)は、足利義輝の側近の細川藤孝

  に助けられて、興福寺を脱出する。 

      その後、今度は、畿内の主導権をめぐり、

  松永久秀と三好三人衆がお互いに敵対し争う

  ようになった。 

     三好三人衆は、信長に敵対したので、 松

  永久秀は、好機と考え、1568年に、織田信長

  の入京を機に、 信長に臣従することにした。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 松永久秀。

■ 松永久秀(まつながひさひで)は、 1568年

  に、 織田信長足利義昭を伴って入京したと

  き、信長に臣従したが、 1577年(天正5年)

  10月に、大和・信貴山城(しぎさんじょう、奈良

  県平群(へぐり)町)にたてこもり、 信長に反逆

  する。  久秀の反逆により、信長のもとに人質

  に差し出した久秀の2人の孫は、 京(都)の六

  条河原で処刑された。

     松永久秀は、敗死する。 久秀は、愛用の

  茶釜・平蜘蛛茶釜(ひらぐもちゃがま)とともに 

  (自害(自爆)直前に、自ら壊し、または茶釜に

  爆薬を仕込んで)、火薬に火をかけて、爆死

  る。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 松永久秀。

  ■ 永禄の政変。

  ● 1564年(永禄7年)に、幕政の実権を握っ

  ていた三好長慶が病死し、室町幕府・13代

  足利 義輝(あしかが よしてる)は、これを

  好機として、幕府権力の復活をめざし、将軍親

  政を行おうとするが、 三好長慶の死後の幕政

  の実権を握ることを目論(もくろ)む、三好三人

  (みよしさんにんしゅう)や松永久秀(まつな

  がひさひで)と足利義栄あし かが よしひで)

  を擁立し、足利義輝を排除しようとして、 15

  65年(永禄8年)5月に、三好義継(よしつぐ、

  三好長慶の甥)、三好三人衆、松永久通(ひさ

  みち、松永久秀の子)の軍が、足利義輝の二

  条御所を取り囲み、政治的要求を行い(突き

  付け)、足利義輝側は、その要求を拒否し、三

  好・松永側と足利義輝側の両軍の衝突に発展

  し、戦いになり、結果的に三好・松永側は、義

  輝の二条御所を襲撃し、 足利 義輝は、奮戦

  (ふんせん)したが、殺害される。

  ■ しかし、13代将軍・足利義輝惨殺後、15

  65年(永禄8年)から、 三好三人衆と松永久

  の権力抗争が開始される。 やっと、1568

  年(永禄11年)2月に、三好三人衆の推挙に

  より、 足利義栄(足利義輝の従兄弟)が、 室

  町幕府の第14代将軍となる。 しかし、三好三

  人衆と松永久秀の抗争は止らず、 1568年9

  月には、 織田信長が、 足利義昭(あしかが

  よしあき、足利義輝の弟)を擁立(ようりつ)して

  上洛してきた。 三好三人衆は、織田信長に畿

  内で抗戦したが敗れ、 松永久秀も織田信長に

  臣従し、足利義栄は、阿波国(あわのくに)に逃

  れ急死し、 障害がなくなり、1568年(永禄11

  年)10月に、足利義昭が、室町幕府の第15代

  将軍となる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 松永久秀。

■ 1564年から1577年までの間の三好

   義継、松永久秀、三好三人衆の動き。

 

  @ 1564年(永禄7年)の三好長慶の

    死後、 三好長慶に代わって、機内

    付近地域の三好氏の勢力は、三好義

    継(三好長慶の甥、長慶の養嗣子)を

    擁立して、三好三人衆と松永久秀が、

    事実上、畿内付近地域の支配者となる。

             

  A 1565年(永禄8年)に、 三好三人衆

    は、 三好義継、松永久通(松永久秀の

    息子)と共に、三好長慶の死を好機とみ

    て畿内付近の将軍親政を行おうとした、

    室町幕府・第13代将軍の足利義輝(よ

    してる)を殺害する (永禄の変)。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  B 1565年(永禄8年)の足利義輝殺

     害後、三好義継を担ぐ三好三人衆は、

     松永久秀と対立する。 

 

  C 1567年(永禄10年)から、三 好三

     人衆は、 三好三人衆から出奔し松

     永久秀を頼った三好義継 や 松永

     久秀 と対立する。

 

  D 1568年(永禄11年)に、 三好義継

     や 松永久秀は、 織田信長に味方

     し、 足利義昭の上洛を助け、三好

     三人衆と対立し、 三好三人衆は、

     9月に畿内付近地域から駆逐され、

     三好義継や松永久秀は、将軍となっ

     た足利義昭の幕臣となる。

 

  E 1570年(元亀元年)12月に、 松永

     久秀は、信長と三好三人衆との和睦

     交渉をまとめる。

 

  F 1572年(元亀3年)に、 松永久秀は、

     三好義継や三好三人衆と組んで、織

     田信長に敵対する。

 

  G 1573年(天正元年)に、 三好三人

     衆は、織田信長軍に敗れて壊滅し、

     11月に三好義継が敗死し、12月末

     に松永久秀は、信長軍に多聞山城を

     包囲されて降伏し、信長に服属する。

 

  H 1577年(天正5年)に、 松永久秀は、

     信貴山城にたてこもり、織田信長と対

     決姿勢を見せ、敵対し、信長軍に攻め

     られて自害する。

     ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ (8) 三好三人衆・松永久秀

     畿内付近地域支配政権 

     (1564年ー1568年)。

 

■ 三好三人衆 (みよしさんにんしゅう)と

   松永久秀が、1564年(永禄7年)から

   1568年(永禄11年)まで、実質上、

   内付近地域の支配者となる。

             

  ● 1564年(永禄7年)7月に、三好長

    慶が病死する。 三好長慶に代わっ

    て、三好三人衆と松永久秀が、実質

    上、畿内付近地域の支配者となる。

 

  ● 1568年(永禄11年)に、 足利義

    昭・織田信長の軍が上洛し、三好三

    人衆は、義昭・信長の軍により敗走

    し、松永久秀は足利義昭・織田信長

    に臣従する。 三好三人衆と松永久

    秀に代わって、織田信長が実質上、

    畿内付近地域の支配者となる。

 

■ 室町時代後期(= 戦国時代

    1467年ー1573年)の畿内

    付近地域の実質支配者。

  ● 室町時代後期(= 戦国時代、14

    67年ー1573年)に、室町幕府

    (= 足利幕府)の足利氏将軍の権

    威は保たれたが、足利氏将軍の

    権力は低下する。

  ● 応仁の乱(1467年ー1477年)

    後、足利氏将軍の支配地は、畿内

    付近地域のみとなり、その後、足利

    氏将軍に代わって、細川氏、三好

    氏、織田氏の勢力が、畿内付近地

    域を支配する。 

       つまり、室町幕府の8代義政、

    9代義尚、10代義稙・前期の時期

    は、足利氏将軍が畿内付近地域を

    支配し、 室町幕府の11代義澄、

    10代義稙・後期、12代義晴、13

    代義輝、14代義栄、15代義昭の

    時期は、順に、細川政元、細川高

    国、細川晴元、三好長慶、三好三

    人衆・松永久秀、織田信長が、

    内付近地域を支配する。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 室町時代後期(= 戦国時代

   1467年ー1573年)の畿内

   付近地域の実質支配者。

  ■ 室町時代後期(= 戦国時代)の、

   京(きょう、京都)や京周辺の畿内

   付近地域の実質支配者は、 順に、

  (1) 足利義政の畿内付近地域

      支配政権

      (1467年〜1486年、

      1489年〜1490年)、

  (2) 足利義尚(義熙) の畿内付

      近地域支配政権

      (1486年〜1489年)、

  (3) 足利義稙(義材、義尹)の

      畿内付近地域支配政権

      1490年〜1493年) 、

  (4) 細川政元の畿内付近地域

      支配政権

      (1493年〜1507年)、

  (5) 細川高国の畿内付近地域

      支配政権

      (1508年〜1531年) 、

  (6) 細川晴元の畿内付近地域

      支配政権

      (1531年〜1549年)、

  (7) 三好長慶の畿内付近地域

      支配政権

      (1549年ー1564年)、

  (8) 三好三人衆・松永久秀の

      畿内付近地域支配政権 

      (1564年ー1568年)、

  (9) 織田信長の畿内付近地域

      支配政権

      (1568年ー1573年) 、

  となる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 松永久秀 が登場する興味深い、

    ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 松永久秀が登場する、興味深い

   関連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

  実) と 架空の出来事 が混じって描かれ

  ています。 また、 現代風にアレンジしてあ

    ります。

 

■ 『 軍師 官兵衛 (ぐんし かんべえ) 』。 

   (NHKテレビ・2014年大河ドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

 松永久秀を描く。

● 松永久秀を演じた俳優名: ミッキー・カーチ

  ス。

 

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#thebloodshedofthematsunorokacorridor

 

■ 松之廊下の刃傷 

     (まつのろうかのにんじょう)。

 

■ 松之廊下の刃傷。

■ 名称 : 松之廊下の刃傷 

        (まつのろうかのにんじょう)。

■ 英語名 : THE BLOODSHED OF THE 

  MATSUNOROKA CORRIDOR。

 

 

■ 松之廊下の刃傷 (まつのろうかのにんじょう)

    とは、 1701年(元禄14年)3月14日 に、 江

  戸城内の松之廊下(まつのろうか)で、 浅野

  匠頭(長矩) (あさのたくみのかみ(ながのり)) 

  が、 遺恨(いこん)で、 吉良上野介(義央) 

  (きらこうずけのすけ(よしなか・よしひさ)) を

  斬(き)りつけた出来事である。

 

■ 松之廊下の刃傷 は、 元禄赤穂事件(1701

  年3月の浅野刃傷〜1703年2月の旧臣切腹)

  の中の1つの出来事であり、 1701年(元禄

  14年)3月14日に、起こった。

 

 

◆ 松之廊下の刃傷 (1701年3月)。

 

■ (1) 松之廊下の刃傷前

■ 江戸幕府第5代将軍の、徳川 綱吉 (とくがわ

  なよし 、将軍就任:1680〜1709年、生没 

  年:1646〜1709年) は、比較的朝廷への

  慣例を重視し、 毎年、朝廷へ年賀の使者を参

  内(さんだい)させると同時に、 朝廷からの返

  礼として、勅使・院使(ちくし・いんし)の江戸下

  向(げこう)が、毎年行われた。

     江戸に下向する勅使・院使の接待として、

  江戸幕府は、 饗応役(きょうおうやく)を設置し、

  中小大名にその役目を命じた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1701年(元禄14年)1月に、 江戸幕府

  軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)の、朝廷の東山

  天皇、霊元上皇への「年賀の挨拶」(ねんがのあ

  いさつ)として、高家 (こうけ、江戸幕府の儀式指

  導係)・筆頭の吉良上野介(義央) (きらこうずけ

  のすけ(よしなか・よしひさ)、1641〜1702年)  

  が、京(都)の朝廷に遣(つか)わされた。 その返

  礼に、東山天皇の勅使 (ちょくし、朝廷の天皇の

  使者) と、 霊元上皇の院使 (いんし、朝廷の上

  皇の使者) が、 江戸に下向(げこう)することと

  なった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 浅野内匠頭(長矩) は、 江戸幕府の、幕命(ば

  くめい、幕府の命令)により、 1701年(元禄14

  年)2月から3月まで、 江戸城で、朝廷の年賀使

  の接待役当番となる。

 

■ 1701年(元禄14年)2月4日に、 江戸幕府

  は、 勅使饗応役  (ちょくしきょうおうやく、朝廷

  の天皇の使者の接待役) として、 赤穂藩(あ

  こうはん、赤穂・浅野家)・藩主・浅野内匠頭(長

  矩) (あさのたくみのかみ(ながのり)、1665

  〜1701年) を任(にん)じ、 院使饗応役(い

  んしきょうおうやく、朝廷の上皇の使者の接待

  役) として、 伊予吉田藩(いよよしだはん、伊

  予(愛媛県)の宇和島藩の支藩)の、藩主・伊達

  宗治 (だてむねはる、律令官名:左京亮(さきょ

  うのすけ)、後に伊達村豊(むらとよ)、1682〜

  1737年)を任じ、指南役(しなんやく)に、 高

  家(こうけ、江戸幕府の儀式指導係)・筆頭の、

  吉良上野介(義央) (きらこうずけのすけ(よしな

  か・よしひさ)、1641〜1702年) を指名した。

     浅野内匠頭(長矩)は、 1683年(天和3

  年)に、一度、勅使饗応役に命ぜられており、吉

  良上野介(義央)の指南のもと、 勅使饗応役を

  務(つと)め上げていた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1701年(元禄14年)1月に京(都)の朝廷に

  遣(つか)わされていた、吉良上野介(義央)が、

  1701年(元禄14年)2月29日に、 京(都)よ

  り、江戸に戻ってきた。

 

 

■ (2) 松之廊下の刃傷(にんじょう)

        (1701年3月)。

■ 勅使・院使一行  (ちょくし・いんしいっこう)は、 

  1701年(元禄14年)3月11日から15日まで

  江戸に滞在する予定で、 3月12日に、江戸城

  で、将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)に 「勅

  宣」 (ちょくせん、勅命の宣旨(せんじ)、みこと

  のり)、「院宣」(いんぜん) の伝奏(でんそう)

  を行い、 3月13日に、江戸城で猿楽能を観賞 

  し、 3月14日に、江戸城で、将軍・徳川綱吉

  り「奉答の儀」(ほうとうのぎ)を受け、 3 月15

  日に、芝・増上寺(しば・ぞうじょうじ)に参拝し、

  帰京(ききょう)する(京(都)に帰る)予定になっ

  ていた

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 京(都)より江戸に下向した勅使・院使一行 は、 

  1701年(元禄14年)3月11日に、 江戸に到

  着し、 伝奏屋敷(でんそうや しき)に滞在した。

     勅使・院使一行は、 1701年(元禄14年)

  3月12日に、 伝奏屋敷から、江戸城に登城し、 

  江戸城・本丸御殿 (えどじょう・ほんまるごてん、

  現在の皇居東御苑(こうきょひがしぎょえん)) 

  にある、白書院 (しろしょいん) にて、 将軍・

  徳川綱吉(つなよし) に「勅宣」 、「院宣」の伝奏

  を行った。

     勅使・院使一行は、 1701年(元禄14年)

  3月14日に、 江戸城・本丸御殿・白書院にて、

  「勅宣」、「院宣」に対して返事を奏上(そうじょう)

  するという「奉答の儀」(ほうとうのぎ)が執(と)り

  行われ予定であり、 勅使・院使一行は、江戸城

  に登城し、 将軍・徳川 綱吉から、「奉答の儀」を

  受ける予定であった。

     ところが、1701年(元禄14年)3月14日の

  巳の刻(みのこく、午前9時すぎ)に、 江戸城・本

  丸御殿で、 「奉答の儀」が行われる白書院へ と

  つながる松之廊下(まつのろうか)において、 赤

  穂藩主(赤穂・浅野家)の浅野内匠頭(長矩)が、 

  高家・筆頭の吉良上野介(義央)斬(き)りかか

  った。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 勅使(ちょくし、朝廷の天皇の使者)の江戸下向

  時の接待役の赤穂藩(あこうはん、赤穂・浅野家)

  藩主・浅野内匠頭(長矩) (あさのたくみのかみ

  (ながのり)) に、 吉良上野介(義央) (きらこ

  うずけのすけ(よしなか・よしひさ))が、典礼を指

  導した。 

     しかし、 短慮な性格で 吉良上野介(義央)

  と接待費減額の件でもめていた、赤穂藩主の浅

  野内匠頭(長矩)は、 1701年(元禄14年)3月

  14日に、 江戸城中で、幕府の高官で幕府の儀

  式典礼をつかさどる高家(こうけ)筆頭・吉良上野

  介(義央)に、殿中 (でんちゅう、江戸城中)で、斬

  (き)りかかった。  吉良は、軽傷で、助かった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 江戸城の本丸御殿(ほんまるごてん)の表(お

  もて)には、 障壁画に松を描いた「松之廊下」

  (まつのろうか) があった。 

    「松之廊下」は、 江戸城で一番長い廊下で、

  全長約55mもあり、 刃傷(にんじょう)事件が

  起こった場所である。 「松之廊下」は、 徳川

  綱吉(つなよし)の 治世に、 1701年(元禄

  14年)3月14日に、赤穂藩主(あこうはんしゅ)

  の、浅野内匠頭(長矩) (あさのたくみのかみ

  (ながのり)、1665〜1701年が、 高家筆

  頭 (こうけひっとう、江戸幕府の儀式指導係筆

  頭) の、吉良上野介(義央) (きらこうずけの

  すけ(よしなか・よしひさ)) を斬(き)りつけた場

  所で、 元禄赤穂事件 (げんろくあこうじけん、

  赤穂事件、1701〜1703年) が発生した場所

  である。 

     浅野内匠頭(長矩 )は、 たまたま、勅使(ち

  ょくし、朝廷の 天皇の使者)の接待係になり、 

  傷(にんじょう)の動機では、 浅野内匠頭(長矩 )

  は、 江戸幕府の老中から、従来(例年)の接待

  費を1200両から700両に減額するように言わ

  れそれに従うと、 高家(儀式指導係)の吉良

  野介(義央)から接待費を従来(例年)の接待費と

  同じとし接待費を減らさないように言われ、 板ば

  さみとなり、 吉良上野介(義央)と不和になった。 

     そして、1701年(元禄14年)3月14日に、

  薄暗い松之廊下(まつのろうか)で、 吉良上野介

  (義央)旗本の梶川頼照(かじかわよりてる)が

  儀式の段取りについて立ち話をしていた時、 短

  慮な性格で吉良上野介(義央)と接待費減額の件

  でもめていた浅野内匠頭(長矩 )は、 吉良上野

  (義央)に 小刀(短刀、約30cm)で4回斬(き)

  りつけ、 最初は、約1.5mの距離で、吉良の背

  後(後姿)に斬りかかり、 その後、振り向いた吉

  良に斬りつけ、 更に、しつこく追いかけ2回斬り

  つけて、 その後、 梶川与惣兵衛(頼照)、伊達

  宗治、その他近くにいた者に取り押さえられた と

  いう説がある (梶川氏日記より)。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 梶川与惣兵衛(頼照)は、元禄赤穂事件の刃傷

  (にんじょう)、その他の出来事を記した、梶川氏

  日記(かじかわしにっき、梶川与惣兵衛日記)を

  残し、元禄赤穂事件を知る、一次的史料となって

  いる。

 

■ 江戸幕府第5代将軍の、徳川 綱吉(とくがわ

  つなよし) は、 1701年(元禄14年)3月14

  日の事件の起こった当日に、 柳沢吉保(やなぎ

  さわよしやす)を通じて、 その知らせを聞いて、 

  朝廷との儀式を台無しにされたとして激怒(げき

  ど)し、 当日、 浅野内匠頭(長矩)の即日切腹 

  と 赤穂・浅野家(赤穂藩)の改易(かいえき、領

  地没収)を命(めい)じた。

     浅野内匠頭(長矩)の切腹は、 殿中抜刀

  (でんちゅうばっとう、禁じられている江戸城中で

  刀を抜いた罪) 及び、 傷害・殺人未遂の罪に

  よるものであった。

     吉良上野 介(義央)のお咎(とが)め無しは、

   浅野内匠頭(長矩)の殿中抜刀に吉良が手向

   かいしなかったことが殊勝(しゅしょう)であると

   されたためであった。

     慎重な取調べをせず、大名が事件当日に即

  日切腹することは異例のことで、 将軍・徳川 綱

  が異例ともいえる決定を下したのは、 勅使(ち

  くし、朝廷の 天皇の使者)に対し、自らの天皇へ

  忠誠心をアピールし、綱吉の生母・桂昌院(け

  いしょういん)最大の念願である、従一位(じゅい

  ちい)叙任の位階(いかい)を取り消されないよう

  にするためだったと言われている。

      将軍・徳川綱吉は、 喧嘩両成敗(けんかり

  ょうせいばい)を無視し、 慎重な取調べをせず、 

  江戸幕府の 綱吉の命(命令)で、 吉良上野介

  (義央)はお咎(とが)めなしとし(罪なしとし)、

  野内匠頭(長矩) は即日切腹となり、 即日、赤

  穂藩(赤穂・浅野家)は、改易(かいえき、領地没

  収) と決定された。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 刃傷(にんじょう)の事件後、 江戸幕府は、す

  ぐさま、勅使饗応役を戸田忠真へと交代し、「奉

  答の義」は、白書院から黒書院へと移された。

  

■ 赤穂藩主浅野内匠頭(長矩) (あさのたくみ

  のかみ(ながのり)) は、 芝・愛宕下 (しば・

  あたごした、現在の東京都港区新橋4丁目) の、

  陸奥の一関藩 (いちのせはん、岩手県一関市

  (いちのせし)) の藩主・田村 建顕 (たむらた

  つあき、律令官名:右京大夫(うきょうのだいぶ)、

  武官名:因幡守(いなばのかみ)、1656〜170

  8年) の屋敷にお預けとなる。

    浅野内匠頭(長矩)は、 江戸幕府の検使

  の正使・大目付・庄田安利 (しょうだやすとし、下

  総守(しもうさのかみ)) や 副使・目付・多門伝

  八郎(重共)ら が立会い、 田村邸(一関藩・藩

  邸)の、座敷でなく、白砂(庭先)にて、 1701年

  (元禄14年)3月14日の、六つ半  (午後7時40

  分頃)に、 切腹する。

     浅野内匠頭(長矩)の、辞世(じせい) は、

  「風さそう 花よりも猶 我はまた 春の名残を

  いかにとか(や)せん」 であった。

    江戸幕府・目付で、浅野内匠頭(長矩) の切腹

  時の副検視役を務(つと)めた、多門伝八郎(重

  共)は、元禄赤穂事件の、刃傷(にんじょう)、その

  他の出来事を記した「多門筆記」を残し、元禄赤穂

  事件を知る一次的史料となっている。

     その後、 浅野内匠頭(長矩)は、 赤穂・浅

  野家の菩提寺(ぼだいじ)の江戸・高輪(たかなわ)

  の泉岳寺(せんがくじ、東京都港区高輪)に葬られ

  た。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ (3) 刃傷後赤穂・浅野家の処遇

        (1701年3月〜4月)。

■ 江戸幕府は、 赤穂・浅野家(赤穂藩)の江戸

  の藩邸(はんてい)を接収した。 幕府は、 17

  01年(元禄14年)3月16日に、赤穂・浅野家

  の鉄砲洲の上屋敷(かみやしき、公邸、現在の

  中央区・聖路加病院の地)を接収し、続いて、同

  年3月18日に、 赤穂・浅野家の赤坂南部坂の

  下屋敷(しもやしき、別邸、現在の港区赤坂6丁

  目の地) を接収した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 江戸幕府は、 改易(かいえき、領地没収)と決

  まった赤穂藩(赤穂・浅野家)に接収役を派遣し、 

  赤穂城を、1701年(元禄14年)4月19日に

  収し、 赤穂藩(赤穂・浅野家)の所領をひとまず、

  天領(てんりょう、幕府直轄領)とした。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 浅野内匠頭(長矩)の実弟で旧赤穂藩(赤穂・

  浅野家)養嗣子である、浅野大学(長広)(あさ

  のだいがく(ながひろ))は、 1701年(元禄

  14年)3月の浅野内匠頭(長矩)の松之廊下の

  刃傷(にんじょう)の事件後、 閉門(へいもん)

  となる。 

 

■ 1701年(元禄14年)3月14日に、  夫の

  野内匠頭(長矩)が、江戸城中で吉良上野介

  (義央)に刃傷(にんじょう)に及び、 殿中抜刀

  の罪により、即日切腹した後、 浅野内匠頭 (長

  矩)(あさのたくみのかみ(ながのり))の正室夫

  人の、阿久里(あぐり、瑤泉院(ようぜんいん)、

  生没年:1669または1674〜1714年) は、 

  同年3月16日に、 赤坂・今井町にある、実家

  の三次浅野家(みよしあさのけ)の下屋敷(しも

  やしき)に引き取られた。 

 

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#themandokoroorganization

 

■ 政所  

     (まんどころ)

 

■ 政所。

■ 名称 : 政所 (まんどころ)。

■ 鎌倉幕府室町幕府の政治、財政機関。

■ 院庁や摂関家の政治、財政機関。

■ 親王、公卿の家の家政や荘園事務をつかさど

  る機関。

■ 荘官が荘園を管理する所。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 42334。

 

 

■ 政所 (まんどころ) は、 鎌倉幕府室町幕府

  の政治、財政機関 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 政所は、 院庁や摂関家の政治、財政機関 で

  ある。

■ 政所は、親王、公卿(くぎょう)の家の家政や

  事務をつかさどる機関 である。

■ 政所は、 荘官が荘園を管理する所 である。

 

■ 鎌倉幕府の、政所 (1190年〜1333年)。

    政所は、鎌倉幕府の政務、財政をつかさどり

  (担い)、 平安時代末期に、1190年に、

   が、 右近衛大将になったときに、設置され

  た。 従来の公文所(くもんじょ)を、政所の一部

  局とした。 政所の初代の別当(べっとう、長官)

  に、大江広元(おおえのひろもと、1148〜12

  25年)が任じられた。

    その後、北条氏が、 政所の別当を世襲した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 室町幕府の、政所。

    政所は、室町幕府の政務、財政をつかさどり

  (担い)、 管領(かんれい)の下(もと)に属して、

  財政事務を多く取り扱い、 執事(しつじ)の職は、 

  初め、二階堂氏が、 後に伊勢氏が世襲した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#themanchurianwar

 

■ 満州事変  

       (まんしゅうじへん)  

 

■ 満州事変

■ 名称 : 満州事変 (まんしゅうじへん)。

■ 戦争期間 : 1931年〜1933年。

■ 昭和・戦前の旧日本軍の事態に関しては、

  「和戦前期の旧日本軍実態ガイドブック

  をご覧ください。

 

 

■ 満州事変 (まんしゅうじへん) は、 昭和・

  戦前時代(1926〜45年)の、 満州(= 中国

  東北部)への侵略戦争 である。

 

■ 満州事変の原因。

    旧日本軍の幹部が軍部の勢力拡大を求め

  暴走し、 日本の首脳は、 昭和恐慌による日

  本資本主義の危機の打開、 日本の市場と資

  源を広大な満州(= 中国東北部)に求め、 現

  状打開を、武力侵略に求めた。

    日本の南満州鉄道に対抗する、張学良(ち

  ょうがくりょう)による鉄道の併行線建設により、 

  満州(= 中国東北部)での日本の権益が脅かさ

  れる。

 

■ 在中国・旧日本軍の関東軍は、 1931年9

  月18日に、 柳条湖(りゅうじょうこう)事件を

  起こし、 それを口実に、中国軍と戦う。 

    関東軍は、 若槻礼次郎(わかつきれいじ

  ろう)内閣の不拡大方針を無視して、 戦線を

  拡大し、 1933年の熱河(ねっか)作戦後の、

  塘沽(タンクー)協定で、戦火は一応収まった。

  

■ 満州国は、 日本が、満州事変(まんしゅうじ

  へん、1931〜33年、中国東北部への侵略

  戦争)時に、 建国する。

■ 日本は、 満州国の執政(しっせい)に、 元中

  国皇帝(中国清朝最後の皇帝・宣統帝)の、溥

  儀(ふぎ)を迎えて、 1932年に、 満州国を

  建国した。 満州国の都は、長春(新京)とした。 

  1934年には、 満州国を帝制とし、溥儀が満

  州国の皇帝となる

 

■ 国際連盟は、 満州事変をめぐる、日中紛争

  の調査団を、 イギリス人・リットンを団長とし

  て、1932年に、 満州(= 中国東北部)に派遣

  し、調査させた。 

    1932年の国際連盟のリットン調査団派遣

  の報告に基(もと)づき、 1933年の国際連盟

  総会で、 (1) 満州(= 中国東北部)に対する

  中国の主権の確認、 (2) 日本軍の満州

  (= 中国東北部)からの撤兵勧告、を可決した。

  日本の満州国承認の要求が敗れると、 日本

  は、1933年に、国際連盟を脱退した。

 

■ 満州国は、 日本の植民地、軍事基地であり、

  華北、華中、華南での、日中戦争(1937〜4

  5年) 中の補給基地となった。

 

■ 南満州鉄道 (みなみまんしゅうてつどう、満鉄 

  (まんてつ)) は、 日本が満州(= 中国東北部)

  に建設した鉄道 である。

      

 

♪♪ 満州事変 が登場する、興味深い

    関連ドキュメンタリー、ドラマ、映画。 

 

★ 満州事変 が登場する、興味深い、

   関連ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画 は、史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 李香蘭 (りこうらん) 』 

   (満州編) (上海編)。

   (BSジャパン・テレビ・2013年11月

   10日・本放送・ドラマ・スペシャル)。

● 昭和・戦前期の中国や日本を描いたドラマ。

● 昭和・戦前期の当時に活躍した人物を描き、

  満州(= 中国東北部)、北京、上海、東京など

  の当時の時代状況を描く

 

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#manchukuo

 

■ 満州国  

       (まんしゅうこく)  

 

■ 満州国

■ 名称 : 満州国 (まんしゅうこく)。

■ 英語名 : Manchukuo.

■ 存在期間 : 1932年〜1945年。

■ 満州国は、

  日本の中国東北部(= 満州)の植民地である。

■ 昭和・戦前の旧日本軍の事態に関しては、

  「和戦前期の旧日本軍実態ガイドブック

  をご覧ください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 31918。

 

 

 ■ 満州国

 

  ■ 満州国 (まんしゅうこく) は、 昭和・戦前時

    代(1926〜45年)に、 満州(= 中国東北部)

    に、 1932年から1945年まで存在した、日

    本が建国した傀儡(かいらい)国家 であった。

 

  ■ 満州国は、 日本が、満州事変(まんしゅうじ

    へん、1931〜33年、中国東北部への侵略

    戦争) 時に、 建国する。

 

  ■ 日本は、 満州国の執政(しっせい)に、元・中

    国皇帝(中国清朝最後の皇帝・宣統帝)の、溥

    儀(ふぎ)を迎えて、 1932年に、 満州国を

    建国した。 満州国の都は、長春(新京)とした。 

    1934年には、 満州国を帝制とし、溥儀が満

    州国の皇帝となる

 

  ■ 1932年の国際連盟のリットン調査団派遣の

    結果、 国際連盟で満州国承認の要求が認め

    られず、 日本は、 1933年に、国際連盟を

    脱退した。

 

 ■ 満州国

 

  ■ 在中国・旧日本軍が、満州国を主導した。

  ● 満州国は、 在中国・旧日本軍の関東軍の

    司令官の実権下に、 日本人が政府要職を占

    め、 議会はなく、 官製国民組織の協和会が

    唯一の政治団体であった。

       満州国は、 1945年の日本の敗戦により

    崩壊した。

 

  ■ 満州国は、 日本の植民地、軍事基地であり、

    華北、華中、華南での、日中戦争(1937〜4

    5年) 中の補給基地となった。

 

  ■ 南満州鉄道 (みなみまんしゅうてつどう、満鉄 

    (まんてつ)) は、 日本が満州(= 中国東北部)

    に建設した鉄道 である。

 

 

 ■ 李香蘭。

 

  ■ 満州映画協会 (まんしゅうえいがきょうかい、

    満映(まんえい)) は、 日本が満州(= 中国東

    北部)に設立した国策映画会社 である。

        満州映画協会は、 戦前に歌手・女優で

    有名な李香蘭 (りこうらん、リー・シャンラン、

    1920年〜現在) が、一時期、所属していた

    映画会社である。

 

 

 ■ 李香蘭。

 

  ■ 李香蘭 (りこうらん、リー・シャンラン、1920年

    (大正9年)〜現在) は、 戦前や1950年代に

    歌手、女優として、国際的なスターで、日中文化

    交流に貢献した、日本人女性 である。

       戦前、1950年代に、李香蘭の芸名で、中国、

    台湾の人々や海外の華僑(かきょう)で有名な、

    スター(歌手、女優)であった。

 

 

♪♪ 満州国が登場する、興味深い

    関連ドキュメンタリー、ドラマ、

    映画。

   

 ★ 満州国が登場する、興味深い、

    関連ドラマ、映画。

 

  ● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

    歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

    実) と 架空の出来事が 混じって描かれ

    ています。 また、現代風にアレンジしてあり

    ます。

 

 ■ 『 レッドクロス〜女たちの

     赤紙〜 (おんなたちのあかがみ) 』 。 

     (TBSテレビの2015年制作テレビドラマ)。 

     (脚本:松本 裕志 (まつもと ひろし))。

 

  ■ 満州国の活躍した人物、風習、建物、社会

    状況等を描く。

 

  ■ 赤十字社の従軍看護婦(じゅうぐんかんご

    ふ)の生き様を描く。

 

  ■ 満州国の満州開拓民、軍人、現地民の状況

    を描く。

 

  ■ 従軍看護婦の「天野希代」の大正時代後半

    から昭和時代戦後までを描く。

 

  ● 「天野希代」(あまのきよ)を演じた女優名 : 

    (成人) 松嶋 菜々子、(女学生) 高田里穂。

    〇 「天野希代」は、

    赤十字社の従軍看護婦である。

 

  ● 「村本多美」(むらもとたみ)を演じた女優名 : 

    柴本 幸 (しばもと ゆき)。

    〇 「村本多美」は、

    従軍看護婦で、天野希代の職場の同僚である。

 

  ● 「天野大祐」(あまのたいすけ)を演じた俳優名 : 

    山崎 努。

    〇 「天野大祐」は、

    天野希代の祖父である。

 

  ● 「中川亘」(なかがわわたる)を演じた俳優名 : 

    西島秀俊 (にしじまひでとし)

    〇 「中川亘」は、

    満州開拓民で、天野希代の夫である。

 

   「中川博人 」(なかがわひろひと)を演じた

    俳優名 : (成人) 工藤 阿須加、 

    (少年) 中村瑠輝人、 (幼年) 高村佳偉人。

    〇 「中川博人」は、

    天野希代と中川亘との間の男子である。

 

 

 ■ 『 李香蘭 (りこうらん) 』 

    (満州編) (上海編)。

     (BSジャパン・テレビ・2013年11月

      10日・本放送・ドラマ・スペシャル)。

 

  ■ 昭和・戦前期の中国や日本を描いたドラマ。

 

  ■ 昭和・戦前期の当時に活躍した人物を描き、

    昭和・戦前期の、満州(= 中国東北部)、北京、

    上海、東京などの当時の時代状況を描く

 

 

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#thematsumaedomain

 

■ 松前藩  

       (まつまえはん)  

 

■ 松前藩

■ 名称 : 松前藩 (まつまえはん)。

■ 江戸時代に、蝦夷地(えぞち、北海道)を支配

  した藩(外様大名)。

■ 蝦夷地(えぞち、北海道)の歴史の詳細に関し

  ては、「北海道の歴史」を参照してください。

 

 

■ 松前藩 (まつまえはん)は、江戸時代に、

  夷地(えぞち、北海道)を支配した藩(外様大

  名)で ある。

    1604年から1807年まで、1821年から

  1855年まで、松前藩が、蝦夷地(北海道)を

  支配した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 江戸時代に、蝦夷地(えぞち、北海道)では、

  当時は米が収穫できなかったため、 松前藩

  は、無高の藩であった。 しかし、松前藩は、

  商人と手を組み、交易で、藩の財政をささえた。

    松前藩では、家臣への知行として、商場知

  行制(あきないばちぎょうせい) が成立した。

  商場知行制は、 特定の地域におけるアイヌ

  との交易権を家臣に知行として与える制度で

  ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 江戸時代に、松前藩では、 漁師が海から豊

  富な魚介類や海藻などを収穫し、 松前藩と

  提携した近江商人(おうみしょうにん)が、 そ

  れらを北前船(きたまえぶね)という廻船で運

  び、 本土で売りさばき、 高額な利益を得た。 

  近江商人の北前船の一 回の航海で、約1千両

  の利益が出たと言われている。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 江戸時代に、松前藩の城下町の福山(松前)

  は、 蝦夷地(北海道)の交易の中心地として、

  発展した。 

    城下町の福山(松前)には、 近江商人の

  店があり、 百貨店のように各種の様々な商

  品が1つの店の中に並べられていた。 

 

 

◆ 14〜19世紀の蝦夷地(北海道)

  の歴史。

■ 室町時代(1333〜1573年)前期に、北海

  道・渡島(おしま)半島南端に、和人は、 アイ

  ヌ蜂起に備えた小規模城砦(じょうさい)の、道

  南十二館(どうなんじゅうにたて)を建設する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 1457年に、 蠣崎氏(かきざきし)の客将の

  武田信広が、 蝦夷地(えぞち、北海道)のコシ

  ャマインの蜂起を平定し、 鎮圧した蠣崎氏が、

  道南の和人居住地の支配者に成長した。 

 

 1593年に、蠣崎氏(かきざきし)は、豊臣秀吉

  に蝦夷地の所 領を安堵(あんど)される (蝦夷

  ヶ島主に認定される。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1599年に、蠣崎氏は、松前氏 (まつまえし)

  と改姓する。

 

■ 1604年に、江戸時代に、松前氏は、 徳川家

  康に蝦夷地の所領を安堵(あんど)され、   藩

  (大名)となる。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1604年から1807年まで、 松前氏は、 

  前藩主(大名)となり、 蝦夷地(北海道)の一部

  を支配した。

 

■ 17世紀前半に、蝦夷地(北海道)にある、松前

   で、商場知行制(あきないばちぎょうせい)が

   成立する。

     商場知行制は、 特定の地域におけるアイ

  ヌとの交易権を家臣に知行として与える制度で

  ある。 

     この制度は、不等価交換や自由貿易の制限

  などで、アイヌの人々には不利なものであった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 18世紀前半に、蝦夷地(北海道)に、場所請負

  制度(ばしょうけおいせいど)が成立する。

    場所請負制度は、商場( あきないば、場所)で

  の交易を内地(日本本土)商人に請け負わせる

  制度である。 

    この制度は、アイヌの人々を苦しめた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1799年に、江戸幕府は、東蝦夷地(北海道東

  部)のみを、幕府直轄領とする。 松前藩は、そ

  の他の蝦夷地(北海道)を支配する。

 

■ 1807年に、 江戸幕府は、西蝦夷地(北海道

  西部)も、幕府直轄領とする。

    1807年から1821年までは、 江戸幕府が、

  ロシアへの防備上、蝦夷地全土(北海道全土)

  を、幕府直轄領(= 天領)とし、 蝦夷地の支配

  と北辺警備に当たった。 幕府の松前奉行の下

  (もと)に、東北諸藩を警備に当たらせる。 

    松前藩の蝦夷地の直接支配は、一時、終わる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 1821年に、江戸幕府は、松前藩に、東西蝦夷

  地を返す。 

    1821年から、蝦夷地は、松前藩に返還され

  る。 松前藩が、蝦夷地全土(北海道全土)を

  支配する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 1821年から1855年まで、松前藩が、蝦夷地

  を、直接支配する。

 

 1854年に、江戸幕府は、ロシアと日露和親条

  約を締結する。 日露国境が画定する。

 

 1855年から、再び、蝦夷地は、江戸幕府の幕

  府直轄領となる。 松前藩の蝦夷地の直接支配

  は、終わる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1868年に、旧幕府直轄領は、明治新政府 (近

  代日本政府)の支配地となり、 蝦夷地(北海道)

  も、明治新政府(近代日本政府)の支配地となる。

 

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#makuranososhi

 

■ 枕草子 

       (まくらのそうし)  

 

■ 枕草子

■ 名称 : 枕草子 (まくらのそうし)。

■ 平安時代中期に書かれた、清少納言の随筆集。 

■ 1020年頃成立。

■ 安国風文化の作品。

 

 

■ 日本の平安時代中期に、煌(きら)びやかな宮

  廷文化を花開かせた、平安文化の担(にな)い

  手は、 清少納言(せいしょうなごん)、紫式部

  むらさきしきぶ)、和泉式部(いずみしきぶ)

  どの、宮中の女性であった。

 

■ 枕草子 (まくらのそうし)は、 清少納言(せ い

  しょうなごん)が著作した随筆集(ずいしつしゅう)

  で、 1020年頃に成立した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 清少納言の作品には、 随筆集の「枕草子」(ま

  くらのそうし) や 「清少納言集」 などがある。

 

■ 枕草子は、 源氏物語と並ぶ平安時代の女流文

  学の1つであり、 平安時代中期の随筆集で、作

  は  清少納言で、3巻から成る。

     枕草子は、  清少納言の宮廷生活に関連す

  る随筆 である。

      枕草子は、 およそ300章で成り立ち、3分

  の1の部分は清少納言が日記のように出来事を

  記録したものであり、 3分の2の部分は清少納

  言が心の向くままに思いついたことやすばらしい

  と感じたことを書きとめたものであり、 華麗な平

  安文化を描いている作品である。 平安時代中

  期の貴族たちの、ファッション、スイーツ、甘い恋

  の駆け引きの記載もある。

     枕草子は、 平安時代中期の、上層階層の

  平安女性の日常生活を記載している。 平安女

  性のトキメキの詰まった宝箱のようなものである。

  平安女性が何にときめいていたかを知る、平安

  文化のカタログのような作品 である。

   

 

■ 清少納言は、 一条天皇(いちじょうてんのう)の

  正室夫人(中宮)の藤原定子(ふじわらのていし)

  に仕(つか)えた。

     清少納言は、 紀元(後)993年頃から100

  0年頃まで宮中で、 摂関家(せっかんけ)の藤原

  道隆の娘・定子 (ていし)の女房 ( にょうぼう、側

  仕えの上級女官))として仕えた

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 摂関家(せっかんけ)の藤原道隆の娘で一条天

  ・正室夫人の藤原定子(ふじわらのていし)に

  は、 清少納言(せいしょうなごん)が仕えた。

     清少納言や他の女房(にょうぼう、側近の

  上級女官)は、 宮中で文化サロンを形成し、宮

  中で文化宣伝活動を行い、 一条天皇は、定子

  のもとに頻繁に通い、 一条天皇と定子は、親密

  な関係となり、皇子(みこ)をもうけた。 

     しかし、定子が死去し、 清少納言は、宮中

  を去った。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 平安時代中期に、清少納言 (せいしょうなごん、

  生没年不詳、実名不明)は、 和歌の名門の清原

  家の娘で、父より英才教育を受け、和歌や漢文に

  通じ、文学の素養にあふれる女性に成長し、 京

  (都)から遠い地の周防国(すおうのくに、山口県)

  で育ち、暮らしていたが、 28歳頃、京(都)の宮

  中の宮仕えの誘いを受け、憧(あこが)れて、宮

  中に入る。 

    清少納言は、 宮中生活で、初めは、慣れず

  大変苦労したが、 慣れると、才能がありセンス

  のよい名物女房(女官)と評判になり、 評判を

  聞きつけて清少納言のもとにやって来た貴公子

  の貴族たちと甘い恋を楽しむ幸福な夢のような

  宮中生活の日々が続いた。 この頃に清少納言

  がつくった次のような恋の歌の和歌が百人一首

  に選ばれている。 「夜(よ)をこめて 鳥の空音

  (そらね)は はかるとも よに逢坂(おうさか)の 

  関(せき)は許さじ」 (男性が甘い言葉で私を誘

  っても、私はそう簡単には会いません)。

     清少納言は、藤原定子(ふじわらのていし)

  のもとで宮仕えをしていたが、一時期、定子のも

  とを離れ、実家に引きこもっていたことがあった。 

  この時期が、「枕草子」の書き始めの時期と言わ

  れている。

     993年頃から清少納言は、宮中で、宮仕え

  をし、定子の文化サロンの一員となっていたが、

  995年に、関白であった定子の父・藤原道隆が

  死去し、その後、ライバルの藤原道長が、陰謀

  を画策し、藤原道隆一族を没落させようと政治

  工作を行っていた。 定子は、父・道隆の死去、

  兄弟の失脚で、父や兄弟の後ろ盾を失い、更に、

  実家の藤原道隆一族の豪華な屋敷が原因不明

  の火事で焼失してしまった。

     清少納言と恋仲になった貴族が藤原道長

  の側近であったため、清少納言は、政敵の道

  長のスパイと定子方の同僚から疑われ耐え切

  れず、これ以上いると定子に迷惑がかかると考

  え、 一時期、定子のもとを離れ、清少納言は

  実家に引きこもった。 一方、 没落し始めた、

  定子は、宮中で孤立していき、女房(女官)たち

  も定子のもとを次々に去っていき、定子の文化

  サロンは輝きを失い、 その時期に定子が

  章書きが好きな清少納言のために当時は非常

  に貴重な紙をプレゼントとして送った。 清少

  納言は、非常に喜び、 藤原定子と過ごした楽

  しい日々を紙に書きしるし、定子に送った。 

  落し始めた定子に向けて定子を励ます文章の

  内容であった。 定子から、定子のもとに戻 る

  ように言われ、 清少納言は、宮中の定子のも

  とに戻り、定子を支えた。 この頃、清少納言は

  定子の健康と安産祈願のため、寺社もよく訪問

  した。

     しかし、1000年に定子は、難産で死去し

  (お産で、24歳で死去し)、  定子を失った、清

  少納言は、ほどなく、1000年頃に、宮中を去

  った。

     その後、清少納言は、 宮中を去ったのち、

  藤原定子との楽しい日々を思い出しながら、

  かって定子のために書き始めた文章を1つの

  作品として、「枕草子」として、完成させた。

     「枕草子」は、 たった1人の姫君の定子に

  捧げられた作品であり、 清少納言にとって

  子との美しい思い出が詰まった宝箱であった。

     その後、 「枕草子」は、 平安貴族に読ま

  れ、 平安時代中期や後期の平安貴族の愛読

  書の1つ となった。

 

 

◆ 枕草子 と 藤原氏の摂関政

  治。

■ 清少納言の枕草子の著作は、 日本政治の実権

  獲得を望む摂関家(せっかんけ)の藤 原道隆一族

  の計略に関(かか)わっていた。

    平安時代中期の当時、 日本政治の実権獲得

  をめぐり、 藤原氏の近親同士の 兄・藤原道隆

  (ふじわらのみちたか) と 弟・藤原道長(ふじ わ

  らのみちなが) の権力闘争があった。 

     文学青年の、一条天皇(いちじょうてんのう)

  の正室夫人には、 藤原道隆の娘・定子(ていし、

  藤原定子(ふじわらのていし、夫人期間:990年

  〜1000年)) と、藤原道 長の娘・彰子(しょうし、

  藤原彰子(ふじわらのしょうし、夫人期間:999年

  〜1011年) がいた。

     清少納言 (せいしょうなごん) は、 紀元

  (後) 993年頃から1000年頃まで、 朝廷の、

  宮中で、 藤原道隆の娘・定子(ていし) の女房 

  (にょうぼう、側仕えの上級女官)) として仕えた。 

     一方、 紫式部(むらさきしきぶ)は、 紀元

  (後)1005年頃から1012年頃まで、 朝廷の、

  宮中で、 藤原道長の娘・彰子(しょうし)の女房 

  (にょうぼう、側仕えの上級女官)) として仕えた。 

      藤原道隆の娘で天皇・正室夫人の定子(て

  いし)には、 993年頃より、清少納言(せいしょ

  うなごん)が仕(つか)えた。 清少納言や他の女

  房(にょうぼう、側近の上級女官)は、 宮中で、 

  文化サロンを形成し、 随筆(後の枕草子)、

  、その他様々な手段を使い、 後宮で文化宣

  伝活動を行い、 文学青年の、一条天皇は、

  子のもとに頻繁に通い、 一条天皇と定子は、親

  密な関係となり、 999年に定子は、敦康親王

  (あつやすしんのう)という皇子(みこ)をもうけた。 

     しかし、995年に、関白であった定子の父・

  藤原道隆が死去し、996年に、定子の兄弟も藤

  原道長に失脚させられた(長徳の変)。 1000

  年に定子も死去し、 清少納言は、 1000年頃

  に、宮中を去った(宮中から身を引いた)。

    定子死後、定子を愛し忘れられない一条天

  皇は、 藤原道隆の娘・定子(ていし)の生んだ

  皇子(みこ)の敦康親王(あつやすしんのう)を、 

  皇太子(東宮(とうぐう)、次期天皇)にしたいと

  考えていた。 しかし、藤原道長の計略により、 

  藤原道長の娘・彰子(しょうし)の生んだ皇子が、 

  皇太子(東宮、次期天皇) となった。

     藤原道長は、 自分の娘・彰子が生んだ子

  を、皇太子(東宮、次期天皇)にするため、 

  学青年の、一条天皇の気持ちを彰子(しょうし、

  藤原彰子)に向けさせ、 自分の娘・彰子にも

  皇子をもうけてもらうため、 藤原道長の娘で

  一条天皇・正室夫人の彰子には、1005年頃

  から、紫式部 (むらさきしきぶ)を仕(つか)え

  させた。 

     紫式部和泉式部、他の女房(にょうぼう、

  側近の上級女官)は、 宮中で文化サロンを形

  成し、 物語(後の源氏物語)、和歌、その他様

  々な手段を使い、 宮中で文化宣伝活動を行

  い、 文学青年の、一条天皇は、 彰子の元に

  頻繁に通い、 一条天皇と彰子は、 親密な関係 

  となり、 彰子は、1008年に、敦成親王(あつ

  ひらしんのう)という皇子(みこ)をもうけた。 

    敦成親王(あつひらしんのう)は、1011年

  に、皇太子となった。 敦成親王は、 三条天

  皇 (天皇在位、1011〜16年、冷泉天皇と

  道長の妹・超子(ちょうし)との皇子) の皇太

  子 (東宮、次期天皇予定者) となった。 

     その後、敦成親王は、1016年に天皇に

  即位して、後一条(ごいちじょう)天皇 となっ

  た。 藤原道長は、 天皇の外戚(生母の父)

  となり、内覧(ないらん)となって、 日本の政

  治の実権を握(にぎ)った。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 「枕草子」、清少納言藤原定子

  藤原氏の摂関政治。

■ 平安時代中期の、一条天皇 (いちじょうてん

  のう、天皇在位:986〜1011年、生没年:98

  0〜1011年) の時期に、一条天皇の正室夫

  として、 藤原定子 (ふじわらのていし、97

  7〜1000年) と 藤原彰子 (ふじわらのしょ

  うし、988〜1074年) がいた。 

     藤原道隆の娘の定子(ていし)は、 990

  年に入内(じゅだい)し(正室夫人となり)、 

  少納言 (せいしょ うなごん) が仕えた。 清少

  納言は、 993年頃から1000年頃まで宮中

  で宮仕えをした。 

     995年に関白であった定子の父・藤原道

  隆が死去し、 996年に、定子の兄・伊周(これ

  ちか)や弟・隆家(たかいえ)も藤原道長に失脚

  させられ(長徳の変)、 定子は、有力な後ろ盾

  を失った。 しかし、一条天皇は、 定子を寵愛

  し、 999年に、定子は、一条天皇の第一皇子・

  敦康(あつやす)親王を出産し、一条天皇は喜

  んだが、 定子は、 1000年に死去した  (

  条天皇の第二皇女出産時)。 清少納言は、

  ほどなく、1000年頃に、宮中を去った。

     藤原道長の娘の彰子(しょうし)は、999年

  に入内(じゅだい)し(正室夫人となった) 

  その後、彰子は、しば らく、一条天皇の子をなか

  なか懐妊(かいにん)しなかった。 1002年より、

  一条天皇の政治的配慮により、 彰子は、亡くな

  った定子の敦康(あつやすしんのう)を養育

  していた。  

     藤原道長は、焦(あせ)り、 紫式部の 宮中

  への出仕を望み、 1005年頃より、紫式部は 、

  宮中にいる、彰子(しょうし)に仕えた。 

     藤原道長の娘の藤原彰子(ふじわらのしょ

  うし) は、 999年に入内 (じゅだい、天皇の

  室夫人として宮中の天皇の後宮に入ること) し

  たが、 一条天皇 (いちじょうてんのう、在位9

  86〜1011年) の御渡りが少なく (彰子のも

  とに来ることが少なく)、 藤原道長は、 一条

  天皇に、藤原道長の娘の彰子にもっと関心をも

  ってもらい、 彰子のもとに頻繁に来てもらうこ

  とを望む。 そこで、藤原道長が目をつけたのが、

  教養があり文才にとんだ紫式部であった。 

     藤原道長の要請で、 紫式部は、1005年

  頃、藤原道長の娘の彰子(しょうし)の女房(にょ

  うぼう、側仕えの上級女官) 兼家庭教師として

  仕え、 その後、1012年頃まで彰子に仕えた。 

     平安時代の当時は、現在と違い、娯楽が少

  なく、物語などは、現在の人気のテレビ、映画、

  ゲームほどの人気があった。

     彰子・女房の紫式部の、教養や 物語(後の

  「源氏物語」 )は、 一条天皇の興味をそそり、一 

  条天皇は、 紫式部の物語、詩歌などを聞き入り、

  彰子のもと(居室)に前より多く通うようになった

  と推測される。 

     そして、一条天皇は、藤原道長の娘の藤原

  彰子と親密になり、 彰子は、 1008年に敦成

  親王 (あつひらしんのう、後の後一条(ごいちじ

  ょう)天皇) を生み、 1009年に敦良親王 (あ

  つながしんのう、後の後朱雀(ごすざく)天皇)を

  生み、 一条天皇の、二人の皇子を生んだ。 

     その後、 1011年に敦成親王  (あつひら

  しんのう)は、 立太子となり  (東宮(皇太子)に

  なり)、 1016年に天皇 (後一条(ごいちじょう)

  天皇) になった。 

     これにより、 藤原道長は、 天皇と外戚関

  係ができ、 内覧となって朝廷の実権を掌握し、

  日本の政治の実権を握り、摂関政治を行い、栄

  華を極めた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 枕草子 が登場する、興味深い

    関連ドキュメンタリー、ドラマ、映画。 

 

★ 枕草子 が登場する、興味深い関

    連ドキュメンタリー。 

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 「春はあけ

  ぼの」の秘密〜清少納言 悲しき愛

  の物語〜 』 

    (NHKテレビ・2014年4月2日・本放送・

   ドキュメンタリー番組)。

■ 清少納言の生涯や清少納言の著書「枕草子」

  などについて述べる。

 

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#maiko

 

■ 舞子 

       (まいこ)  

 

■ 舞子

■ 名称 : 舞子 (まいこ) (仮称・実名不詳)。

● NHK大河ドラマ「平清盛」での仮称。

 

 

■ 平 清盛(たいらのきよもり)の生母は、不明であるが、

 平清盛の生母は、「祇園女御(ぎおん(の)にょうご)の妹」

 であり、 また、「祇園女御の妹」は、白河上皇(しらかわ

 じょうこう)の側室夫人であった という説がある。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ NHK大河ドラマ「平清盛」では、 平清盛の生母の「舞

 子(まいこ)」 (仮称・実名不詳)は、 白河上皇の側室夫

 人で、 祇園女御の妹ではなく、 祇園女御(ぎおん(の)

 にょうご)と親しい同郷・同職(同じ白拍子出身)の女性

 という設定になっていて、 平清盛は、 白河上皇と、祇

 園女御(ぎおん(の)にょうご)と親しい同郷・同職(同じ

 白拍子出身)の女性の「舞子」と、の間で生まれた子とな

 っている。

 

■ 平清盛の生母は、不明であるが、 平清盛の生母 は、

 「祇園女御(ぎおん(の)にょうご)の妹」であり、 「祇園

 女御(ぎおんのにょうご)の妹」は、 白河上皇の側室夫

 人であった という説がある。 

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ NHK大河ドラマ「平清盛」では、 平清盛の生母の「舞

 子(まいこ)」 (仮称・実名不詳)は、 白河上皇の側室夫

 人で、 祇園女御の妹ではなく、 祇園女御(ぎおん(の)

 にょうご)と親しい同郷・同職(同じ白拍子出身)の女性

 という設定になっていて、 平清盛は、 白河上皇と、祇

 園女御(ぎおん(の)にょうご)と親しい同郷・同職(同じ

 白拍子出身)の女性の「舞子」と、の間で生まれた子とな

 っている。

    また、NHK大河ドラマ「平清盛」では、 平清盛の

 生母の「舞子(まいこ)」 は、白河上皇の命(命令)によ

 り出産後間もなく、殺害される。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

♪♪ 祇園女御の妹の、舞子 (まいこ、仮称・

   実名不詳) が登場する、興味深い、ドラ

   マ、映画、ドキュメンタリー。

 

 祇園女御の妹の、舞子 (まいこ、仮称・実

  名不詳) が登場する、興味深い、ドラマ、

  映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画は、 歴史的事実(史実) と 

  架空の出来事が、混じって、描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 平清盛 (たいらのきよもり) 』 。 

   (NHKテレビの2012年NHK大河ドラマ) 

● 祇園女御の妹の、舞子 (まいこ、仮称・実名

  不詳)を演じた女優名 : 

  吹石 一恵 (ふきいし かづえ)。

 

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#matsudairanobutsuna

 

 松平 信綱 

     (まつだいら のぶつな) 

          (松平伊豆守)。

 

 松平 信綱。

■ 生没年 : 1596年〜1662年。

■ 名称 : 松平 信綱 (まつだいら のぶつな) 。  

● 別名 : 松平伊豆守 (まつだいら いずのかみ)。 

  知恵伊豆(ちえいず) と呼ばれた。

■ 江戸幕府・3代将軍徳川家光の側近。

■ 家光乳母(うば)の春日局 (かすがのつぼね、お福)、

  幕府・惣目付(大目付)の柳生 宗矩 (やぎゅう むね

  のり) と共に、徳川家光を支えた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ 江戸時代前期の聡明・優秀な政治家、江戸幕府の重臣。

■ 武蔵野国(むさしのくに、現在の埼玉県・東京都)・川越

  (かわごえ)藩主。

 

 

■ 松平信綱 (まつだいら のぶつな、生没年:1596〜

  1662年) は、 江戸時代前期の江戸幕府重臣であり、

  松平伊豆守(いずのかみ)、 または、知恵伊豆(ちえい

  ず) とも呼ばれた。

             

■ 松平信綱は、 江戸幕府の政治を、武断政治から文治

  政治(仁政(じんせい))に転換させ、 春日局(お福)、

  柳生宗矩と共に、江戸幕府の基礎を確立させた一人

  である。

             

■ 松平 信綱 (まつだいら のぶつな、 松平伊豆守(いず

  のかみ)、1596−1662年) は、 春日局(かすがのつ

  ぼね、お福(おふく))、 柳生 但馬守宗矩 (やぎゅう た

  じまのかみむねのり)、幕府惣目付(大目付)、生没年:

  1571−1646年) と共に、 江戸幕府3代将軍・徳川

  家光を支えた。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 松平 信綱 は、 徳川家光に仕(つか)え、 後に、幕府

 の老中となり、 島原の乱を鎮定(ちんてい)する。

 

■ 松平 信綱 は、 徳川家光没後は、 幼少の4代将軍・

 徳川家綱(いえつな)を補佐し、 幕府政治の確立に尽力

 (じんりょく)した。

 

 

■ 松平 信綱 (まつだいら のぶつな、生没年 1596年

 〜1662年)は、 別名は、 松平伊豆守 (まつだいら い

 ずのかみ)、 知恵伊豆(ちえいず) と呼ばれた。

■ 松平 信綱 は、 江戸幕府・3代将軍・徳川家光の側

 近 で、  江戸時代前期の聡明(そうめい)・優秀な政治

 家、幕府の重臣 であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

■ 松平 信綱 は、 武蔵野国 (むさしのくに、現在の埼

 玉県・東京都)の川越(かわごえ)藩主 である。

 

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#maedageni

 

 前田 玄以 

     (まえだ げんい)。

 

 前田玄以。

■ 生没年 : 1539年〜1602年。

■ 名称 : 前田 玄以 (まえだ げんい) 。  

■ 戦国時代(室町時代後期)、安土桃山時代の政治家、

 武将。

■ 織田 信忠(のぶただ織田信長の子)、の家臣。

■ 豊臣秀吉(とよとみひでよし)の家臣。

■ 豊臣政権五奉行(ごぶぎょう)の一人。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

■ 前田 玄以 は、 織田信忠(織田信長の子)に仕え、 そ

 の後、 豊臣秀吉に仕え、五奉行の一人となり、 豊臣政権

 の民政関係、京都市政をつかさどった。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 前田 玄以 は、 関が原の戦いでは、 西軍に属したが、 

 徳川家康に許された。

 

 

■ 前田 玄以 (まえだ げんい、生没年 1539〜1602年) 

 は、戦国時代(室町時代後期)、安土桃山時代の政治家、武

 将で、 織田信忠(のぶただ織田信長の子)の家臣であった。 

 後、 豊臣政権の五奉行(ごぶぎょう)の一人 となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

★ 前田 玄以 (まえだ げんい) が登場する、

 興味深い、ドラマ、映画。

 

■ 『 梟の城 (ふくろうのしろ) 』 

 (OWLS’ CASTLE) (日本の1999年映画)。

 

■ 『 五右衛門 (ごえもん) 』 (ドラマ、 NHK199

 4年製作テレビドラマ。

 

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#maedakeijiro

 

■ 前田 慶次郎  

     (まえだ けいじろう)。

 (前田慶次、 前田利益 (とします) 

  前田利貞(としさだ)。  

 

■ 前田 慶次郎。

■ 生没年 : 1533年〜1605年、 または 1541年

 〜1612年。

■ 名称 : 前田 慶次郎 (まえだ けいじろう)。 前田 慶

 次 (まえだ けいじ)。 別名、 前田 利益 (とします)、 

 前田 利貞(としさだ)。

■ 戦国時代(室町時代後期)、安土桃山時代、江戸時代初

 期の武将。

■ 前田利家(としいえ)の義理の甥(おい)。

■ 前田家に仕え、前田家をささえた、武将 (1590年頃の

 出奔(しゅっぽん)前まで)。 

■ 傾奇者(かぶきもの)の「花の慶次」として、安土桃山時

 代、江戸時代初期に有名。

■ 晩年、上杉景勝に仕え、米沢・上杉家を支える。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

■ 前田 慶次郎 は、 滝川一族の出身と言われ、 文武両

 道の武将であったが、 奇矯(ききょう)な振る舞いを好むか

 ぶき者としても知られていた。

 

■ 前田 慶次郎 は、 傾奇者(かぶきもの)の「花の慶次」

 として、安土桃山時代、江戸時代初期に有名となる。 前田

 慶次郎 は、文武両道の、正義感の強い、良識のある武将

 であった。 

 

■ 前田 慶次郎 (まえだ けいじろう) は、 生没年は 15

 33年〜1605年、または 1541年〜1612年で、 前田

 慶次(まえだ けいじ)とも呼ばれ、 別名は、 前田 利益

 (とします)、前田 利貞(としさだ) とも言われた。

 

■ 前田 慶次郎 は、 前田利家(としいえ)の兄・前田利久

 (としひさ)の夫人の連れ子 であり、 前田利久 は、慶次

 郎を養子とした。 

   前田 慶次郎 は、 将来、前田家の当主となる身分で

 あったが、 織田信長の命(めい)で、 前田家は、前田利

 久に代わり、 前田利家が家督を継ぎ、 前田 慶次郎 は、

 前田家の当主となれず。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 前田 慶次郎 は、 戦国時代(室町時代後期)、安土桃

 山時代、江戸時代初期の武将で、 前田利家(としいえ)

 の義理の甥で、 前田利家に仕え、 前田家を支えた武将

 であった。 しかし、 1590年(天正18年)頃、前田家を

 出奔(しゅっぽん)する。 慶次郎の妻子は、出奔には随行

 しなかった。

   前田 慶次郎 は、浪人となり、 多くの大名から仕官の

 誘いを受けたが、 上杉景勝を気に入り、晩年、上杉景勝

 に仕え、米沢・上杉家を支える。

 

■ 前田 慶次郎 は、 夫人の前田安勝の娘との間に、一男

 三女をもうけた。 

● 前田 慶次郎の嫡男の、前田正虎は、 従兄弟の前田利

 常に仕えた。 娘の一人は、戸田方勝の夫人となる。

● 前田 慶次郎の孫娘 (戸田方勝の夫人の娘) は、今井

 局と称し、 幼少だった前田綱紀(つなのり)の養育にあたっ

 たと言われている。

 

■ 前田 慶次郎 の当時の一次史料は、ほとんど存在しない。

● 前田 慶次郎に関する資料の多くが、 江戸中期以降に作

 られた逸話集 である。

● 現代の知名度は、小説、漫画、ゲーム等の影響が大きい。

 

■ 前田 慶次郎の生没年は、1533年〜1605年、 または 

 1541年〜1612年 である。

   1533年(天文2年)?〜1605年(慶長10年)?の15

 33年説、 または、 1541年(天文10年)?〜1612 年

 (慶長17年)?の1541年説 がある。

 

 

 前田 慶次郎 が登場する、興味深い、

    ドラマ、映画。

 

■ 『 利家とまつ〜加賀百万石物語〜 』 

     (日本のNHK2002年大河ドラマ)。

● 前田 慶次(郎)を演じた俳優 : 及川 光博。

 

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#maedatoshiie

 

■ 前田利家  

     (まえだとしいえ)。

 

■ 前田利家。

● 生没年 : 1538年〜1599年。

● 名称 : 前田 利家 (まえだ としいえ)。  

● 戦国時代(室町時代後期)、安土桃山時代の武将。

● 豊臣政権の五大老の1人。

● 加賀藩祖。 加賀100万石の初代藩主。

● 前田 利家の正室夫人 は、 まつ。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

■ 前田 利家 (まえだ としいえ、生没年 : 1538〜99

 年) は、 戦国時代(室町時代後期)、安土桃山時代の武

 将 で、 豊臣政権の五大老の1人で、 加賀藩祖 (加賀

 100万石の初代藩主) である。

 

■ 前田 利家の正室夫人 は、 まつ である。

 

■ 前田 利家 (まえだ としいえ) は、 織田信長に仕(つ

 か)え歴戦し、 織田信長の死後、 一時、柴田勝家につい

 たが、 後に豊臣秀吉に属し、 尾山城(金沢城)に移って、 

 能登、加賀、越中を領有し、 豊臣政権下では 五大老に列

 し、 秀吉の死後は、 豊臣秀頼の後見人、守り役(もりやく)

 となった。

 

 

♪♪ 前田 利家 が登場する、面白く、

  興味深い、ドラマ、映画、ドキュメン

  タリー。

 

★ 前田 利家 が登場する、面白く、興

  味深いラマ、映画。 関連ド

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画 は、 史実(歴史上の事

  実) と 架空の出来事 が 混じって描かれ

  ています。 また、 現代風にアレンジしてあ

  ります。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』 

     (日本の2011年 N HK大河ドラマ) 

● 前田 利家 を演じる俳優名 : 和田 啓作 

   (わだ けいさく)。

 

■ 『 天地人 (てんちじん) 』 

     (日本のNHK2009年大河ドラマ)。

● 前田 利家 を演じた俳優名 : 宇津井 健。

 

■ 『 利家とまつ〜加賀百万石物

         語〜 』 

   (日本のNHK2002年大河ドラマ)。

● 前田 利家 を演じた俳優名 : 唐沢 寿明。

 

■ 『 信長 KING OF ZIPANGU 』 

   (NHK1992年大河ドラマ)。

● 前田 利家を演じた俳優名 :  橋爪 淳。

 

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#masaokashiki

 

■ 正岡 子規  

     (まさおか しき) 

    (正岡 常規 つねのり

 

■ 正岡 子規。

■ 生没年 : 1867年〜1902年。

■ 名称 : 正岡 子規 (まさおか しき)。  

● 別名、 正岡 常規 (まさおか つねのり)、正岡

   升(まさおか のぼる)。

● 名は、常規(つねのり)、 通称は、升(のぼる)。

● 1889年(明治22年)に、初めて、「子規」と号

  する。

■ 近代俳句(はいく)の父。

■ 明治時代の文学者 で、 俳人(はいじん)、歌

  人(かじん)。

■ 言文一致の写生文を提唱。

■ 写実主義文学の理論を俳句に導入した。 また、

  写実に基づく和歌革新を唱えた。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

■ 正岡 子規 は、 1897年に、 俳誌「ホトトギス」

  を創刊した。

■ 正岡 子規 の俳句の代表作の1つ。

   「 柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺 」。

 

■ 正岡 子規 (まさおか しき、生没年 1867年〜1902

 年) は、名は、常規(つねのり)、 通称は、升(のぼる)で、

 正岡 常規 (つねのり)、 正岡 升 (のぼる) とも称する。

■ 正岡 子規 は、 1889年(明治22年)に、初めて、「子

 規」と号する。 子規 とは、 鳥のホトトギスを意味する。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。 

 

■ 正岡 子規 は、 近代俳句(はいく)の父で、 明治時代

 の文学者で、 俳人 (はいじん、俳句を作る人)、 歌人 

 (かじん、和歌を作る人) である。

 

■ 正岡 子規 は、 言文一致の写生文を提唱した。

■ 正岡 子規 は、 写実主義文学の理論を俳句に導入し

 た。 また、写実に基づく和歌革新を唱えた。

 

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♪♪ 正岡子規 が登場する、興味深い、ドラ

    マ、映画、ドキュメンタリー。

 

★ 正岡子規 が登場する、興味深い関連ドキ

   ュメンタリー。 

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 友よ、泣かず

  に笑え〜正岡子規 闘病を支えた絆〜 』。 

   (NHKテレビ・2009年(平成21年)12月2日・本放送、

   第25回)。

 

★ 正岡子規 が登場する、興味深い関連ドラ

  マ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 歴史 

 のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) と 架空の

 出来事 が 混じって描かれています。 また、 現代風

 にアレンジしてあります。

 

■ 『 坂の上の雲 (さかのうえのくも) 』。 

   (NHKテレビ・2009〜2011年ドラマ)。

● 正岡子規 を演じた俳優名 : 香川 照之。

 

● 坂の上の雲は、 日本の明治時代を描いた、ドラマ。

● 坂の上の雲は、2009年に5回、 2010年に4回、 

 2011年に4回、 計13回で、ドラマを放送されました。 

● 坂の上の雲は、1人の文豪 (正岡子規) と 2人の

 軍人 (後に日露戦争で活躍する陸軍軍人と海軍軍人) 

 を通して、 明治時代初期から、日露戦争が起きた明治

 時代末期までを描く、 ドラマ です。

 

   

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#masaokaritsu

 

■ 正岡 律  

     (まさおか りつ)。

 

■ 正岡 律。

■ 生没年 : 1870年〜1941年。

■ 名称 : 正岡 律 (まさおか りつ)。

■ 正岡子規の妹。  

■ 和裁の教師。

 

 

■ 正岡 律 は、 最初、15歳のとき、陸軍軍人と結婚す

 るが離縁し、 2度目は、旧制松山中学校の教師と結婚

 するが離縁し、3度目は、主治医と結婚した。

 

■ 正岡 律 は、 兄の正岡子規の死去後、翌年、共立女

 子職業学校に入学し、卒業後、 その学校の和裁の教師

 となり、1921年まで務めた。 母の八重の看病のために

 退職した後、 東京の「子規庵」で裁縫教室を開き、 生計

 を立てた。

 

■ 正岡 律 (まさおか りつ、生没年 1870年〜1941年) 

 は、 正岡子規の妹 である。

■ 正岡 律 は、 和裁の教師 であった。

 

 

♪♪ 正岡律 が登場する、興味深い、ドラ

    マ、映画、ドキュメンタリー。

 

■ 『 坂の上の雲 (さかのうえのくも) 』 。 

    (NHKテレビ・2009〜2011年ドラマ)。

■ 日本の明治時代を描いた、ドラマ。

■ 2009年に5回、 2010年に4回、 2011年

  に4回、 計13回で、ドラマが放送されました。

■ 1人の文豪 (正岡子規) と 2人の軍人 (後

  に日露戦争で活躍する陸軍軍人と海軍軍人) 

  を通して、 明治時代初期から、日露戦争が起

  きた明治時代末期までを描く、ドラマ です。

● 正岡 律 を演じた女優名 : 菅野 美穂 

  (すがの みほ)。

● 正岡子規 を演じた俳優名 : 香川 照之。

 

   

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#douglasmacarthur

 

■ マッカーサー将軍 

    (まっかーさーしょうぐん)。

 

■ マッカーサー将軍。 

■ 生没年 : 1880年〜1964年。

■ 名称 : マッカーサー将軍 (まっかーさー しょうぐ

 ん)。

● 英名: General MacArthur、 Douglas 

 MacArthur。

■ アメリカ合衆国の軍人。 在日連合国軍最高司令官。

■ GHQ(在日連合国軍総司令部)の最高司令官 (在

 任、1945〜1951年)。

■ マッカーサー将軍 は、日本の政治、経済の民主化

 に、多大な貢献をした。

■ 在日占領連合国軍(GHQ)による、民主化政策に関

 しては、当日本史辞典の『 連合国軍日本占領、 

 改革(のうちかいかく)、 財閥解体(ざい ばつかいた

 い) 』 も参 照して下さい。

 

□ マッカーサー将軍 画像 NO.1

□ 裕仁天皇(昭和天皇) 画像 NO.1

 

 

■ マッカーサー将軍は、 アメリカ合衆国の軍人 で

 在日連合国軍最高司令官 であった。

   マッカーサー将軍 (まっかーさー しょうぐん) は、

 生没年は 1880年〜1964年 で、 英名 は、 

 General MacArthur、 Douglas MacArthur 

 である。

 

■ 戦後 (終戦後)、1945年から1951年まで、 在日

 占領米軍の長であるマッカーサー将軍 が、GHQ(=

 在日占領連合国軍総司令部)の最高司令官であった。 

   マッカーサー将軍 は、日本の敗戦後の占領政策を

 指揮し、指導する。

   マッカーサー将軍 は、日本の政治、経済の民主化

 に、多大な貢献をした。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

◆ 戦後の根本的大改革。

 

● 戦後、大多数の日本人は、 二度と同じ過ち

  を繰り返さないために、 日本の国や社会を根

  本的に見直し新しい国や社会を築く決意をし

  。 そして、日本を 平和で、世界一豊かな、す

  ばらしい国にしようと考えた。

 

● 吉田茂 (よしだしげる、首相、外交官)をはじ

  め、各界の日本の指導者は、 この日本国民の

  深い反省の意思と、外圧(在日占領連合国軍・

  GHQの指示)を利用して、 徹底的に日本の国

  や日本社会を改造した。 そして、 自由・平等

  や民主主義にもとづく社会、言論の自由、政治、

  経済、教育、農地その他の大改革を実行した

    それらの基盤をもとに、日本は、今の繁栄を

  築くこと ができたのである。

 

◆ GHQの指示のもと、次のような、民

  主化政策が、主に、実行された。

■ 在日占領連合国軍 (GHQ) による日本の

  民主化政策には、政治改革、経済改革、農地

  改革、労働改革、教育改革 などがある。

■ 当時のGHQの各部局にいた、アメリカ軍人

  や顧問は、リベラル派が多く、日本を改革し、

  自由と平等、民主主義の徹底した理想国家の

  実現を目指した。

 

■ 政治改革 (1945〜1950年)。 

● 全体主義、軍国主義の排除のため、天皇親政政治

 (天皇絶対主義政治)の廃止、 天皇人間宣言と天皇

 の象徴化(天皇象徴制)、 国教分離(国家と神道の

 分離)、 全体主義者や軍国主義者の公職追放、 秘

 密警察の廃止・市民警察への移行、 政治犯の釈放、 

 戦争犯罪人の処罰、 旧日本軍の武装解除・解体と

 警察予備隊(後の自衛隊)の創設などを実施した。

 

● 民主主義政治の実施のため、 日本国憲法の制定

 と発効 (主権在民、平和主義、基本的人権の象徴)、

 議会制民主主義の徹底、 人権尊重、 思想信条の

 自由、 言論・出版の自由、 政党政治の復活、 女

 性参政権(選挙権、被選挙権)の実施、女性国会議

 員の誕生、 満20歳以上の成人男女の選挙権、 地

 方自治法の成立と地方自治体の長の公選、 民法と

 刑法の改正(民主的民法と刑法の成立) などを実施

 した。 

 

■ 経済改革 (1945〜1947年)。 

● 経済の民主化を図るため、経済機構の財閥解体、

 独占禁止法の施行と巨大独占企業の分割 などが

 行われた。

 

■ 農地改革 (1946〜1950年)。 

● 戦前の寄生地主制除去を目的に、一定面積(平均

 1町歩、北海道平均4町歩)を超える農地を、 政府

 が大地主から強制的に買い上げて、小作人に優先

 的に安く売り渡した。 その結果、日本の小作人農民

 の大半が、自作農となる。

 

■ 労働改革 (1945〜1947年)。 

● 労働基本権の確立のため、 労働三法(労働組合

 法、労働関係調整法、労働基準法)が制定され、 労

 働者の団結権、団体交渉権、争議(そうぎ)権が保障

 され、 多くの労働組合が結成され、 自由な労働運

 動が実現し、 8時間労働制などが行わた。

 

■ 教育改革 (1945〜1948年)。 

● 教育制度の自由主義的改革のため、 教育基本法、

 学校教育法が制定され、 民主主義教育、 教育の機

 会均等、 男女共学、 義務教育9年制、 6・3・3・4

 制の新学制、 教育委員会の設置、 国定教科書から

 検定教科書への移行、 全体主義・軍国主義的教員の

 追放 などが行われた。

 

 

♪♪ マッカーサー将軍 が登場する、面

  白く、興味深い、ドラマ、映画、ドキュメ

  ンタリー。

 

■ 『 マッカーサー 』 ‘‘ MACARTHUR

   (MACARTHUR,THE REBEL GENERAL) ’’ 

   (1977アメリカ映画)。

● 第二次世界大戦(太平洋戦争)から日本占領、朝

  鮮戦争にかけて活躍した、マッカーサー将軍の半

  生を描く。

 

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#matsudairakatamori

 

■ 松平 容保 

    (まつだいら かたもり)。

 

■ 松平 容保。

■ 生没年 : 1836年〜1893年(明治26

  年)。

■ 名称 : 松平 容保 (まつだいら かた

  もり)。  幼名は、松平_之丞。 官名は

  肥後守。

■ 江戸時代大名

■ 佐幕派、の大名。

■ 会津藩の第9代会津藩主 (藩主1852〜

  68年)、 会津松平家当主 (当主1852

  〜68年)。

■ 高須藩・松平家出身で、会津松平家の養子

  となる。

■ 京都守護職(1862年〜1867年)として活

  躍し、 佐幕派の中心的存在として戊辰(ぼ

  しん)戦争(1868年〜1869年)を戦った。

■ 会津戦争を指揮し、敗北する。

 

□ 会津藩 が登場する、興味深い、

  ドラマ、映画、ドキュメンタリー

 

 

■ 会津藩は、 江戸時代、 陸奥国(むつのくの) 

  会津地方(東北地方の福島県西部) を領した

  藩で、 23万石、 城下町は会津若松であった。

 

■ 京都守護職 (きょうとしゅごしょく、1862〜

  1867年)は、 京都所司代の上に立ち、幕末

  置かれた、京(都)の治安を維持する、江戸

  幕府の役職 である。 

    京都守護職に、 会津藩主・松平容保が就

  任した (1862年〜1867年)

 

■ 幕末、 会津藩の第9代藩主、 松平容保 (か

  たもり、高須藩・松平家から養子に入る) は、 

  会津藩士を指揮し、 佐幕派の中心的存在とし

  て、 京都守護職(1862年〜1867年)として

  活躍し、 戊辰(ぼしん)戦争(1868年〜186

  9年)を戦った。

● 幕末、 会津藩預かりの 壬生浪士組(みぶろ

  うしぐみ)、後の「新撰組」 が、京、大阪の治安

  を担(にな)って、活躍した。

● 戊辰戦争中、 会津藩の会津若松城の落城の

  際の白虎隊の悲劇は、 有名である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 松平容保は、 高須藩・松平家出身で、会

  津松平家の養子となる。

    松平容保は、1846年、 会津藩8代藩

  主松平容敬の養子となり、 1852年に 会

  津藩の9代藩主となる。

■ 松平容保は、美濃国(みののくの)高須藩

  (尾張藩の支藩)の、藩主・松平義建の6男

  で、高須藩・松平家(尾張徳川家)より会

  松平家の養子となる。

    松平 容保は、 「高須4兄弟」の1人で、 

  兄の徳川慶勝(14代・17代尾張藩主)、 徳

  川茂徳(15代尾張藩主、10代一橋家当主)、 

  弟の松平定敬(桑名藩主) の高須藩・松平

  家(尾張徳川家、尾張藩の支藩)の兄弟がい

  る。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 幕末、 会津藩は、 藩主・藩士とも、江戸幕

  府(徳川宗家)に忠誠を尽くした。

● 幕末の会津藩主・藩士は、 江戸幕府(徳川

  宗家)と運命を共にすると述べている。 なぜ

  であろうか。

    というのも、会津藩・松平家が、徳川宗家

  (徳川本家)直系(2代将軍秀忠の子孫)の分

  家であり、 会津藩の家訓は、 江戸幕府(徳

  川宗家)に忠誠を尽くすことを旨(むね)として

  いたから である。

● 会津藩の家訓 (1668年に定めた「会津家

  訓十五箇条」) は、  会津藩23万石を領さ

  せ「徳川宗家を頼む」と言い残し1651年に

  死去した3代将軍・徳川家光の遺言に感銘し

  た、会津藩・初代藩主(会津松平家初代当主)

  の保科正之(ほしなまさゆき)が、 1668年に

  定めたものである。

● それ以後、幕末まで、 会津藩主・藩士 は、

  機会あるごとに、 この「会津家訓十五箇条」

  を唱え、 江戸幕府(徳川宗家)に忠誠を尽

  (つ)くすことを旨(むね)としていた。

 

■ 1643年に、保科正之 (ほしなまさゆき、 2

  代将軍・徳川秀忠の子)が、 江戸幕府により、 

  会津藩主に封(ほう)じられる。 正之は、会津

  松平家の初代当主、津藩の初代藩主(藩祖) 

  となる。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 会津松平氏の起こりは、 徳川宗家の江戸

  幕府第2代将軍・徳川秀忠(ひでただ) が、 

  江戸城大奥で、一人の女性を愛したことから、

  始まった。 

    2代将軍・秀忠には、 正室夫人・お江(お

  ごう、お江与)がいて、 お江との間には、家

  光と忠長の2人の男子が、いた。 将軍・秀忠

  は、恐妻家で、お江を恐れて、 ずっと、 他

  の妻(側室夫人)を持たなかった。  しかし、

  あるとき、 気が緩み、 身の回りの世話をす

  る侍女(じじょ)の、お静(おしず)を見初(み

  そ)めてしまった(に手を付けてしまった)。そ

  して、 お静は懐妊(妊娠)した。

    将軍・秀忠は、 正室夫人のお江の怒りを

  恐れて、 見性院 (けんしょういん、穴山梅

  雪(信君)・正室夫人) の元にお静を預け、 そ

  こで、1611年に、お静は、 男子を生んだ。 

  その男子が、幸松、後の保科正之(ほしなまさ

  ゆき) である。 幸松(保科正之)は、見性院

  の元に預けられ、育ち、その後、1617年に、

  幸松(保科正之)は、 保科家に預けられた

  (名目上、保科正光の子とされ、養育された)。  

 

★ お静(おしず)が登場する、興味深い、ドラマ。

■ 『 大奥・第一章 』 (日本の2004・2005

  年製作フジテレビ・テレビドラマ)。

● お静を演じた女優名 : 雛形(ひながた)あ

  きこ。  

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国 』

 

■ 秀忠・正室夫人のお江の死後、 保科正之は、

  1629年、18歳で、初めて、父・秀忠と面会

  する。 保科正之は、3代将軍家光の腹違い

  の弟である。

    その後、 保科正之は、3代将軍家光を補

  佐し、 幕政に貢献し、幕府より、 1643年に、

  会津藩23万石を与えられ、 会津藩主(初代、

  会津藩祖)、会津松平家当主(初代) となった。

    その後、 幕末まで(最後の9代会津藩主・

  松平容保の代まで)、 会津藩主・藩士は、江戸 

  幕府(徳川宗家)に忠誠を尽くした。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

♪♪ 松平容保 が登場する、興味深い、ド

    ラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

 松平容保 が登場する、興味深い、テレ

   ビ・ドキュメンタリー番組。

 

■ その時歴史が動いた 『 義に死す

 とも不義に生きず〜会津戦争 松平

 容保 悲運の決断〜 』 (NHK20 07年

 (H19)10月本放送番組、第302回)。

 

★ 松平容保 が登場する、興味深い、ドラ

   マ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事 が 混じって描かれています。

   また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 八重の桜 (やえのさくら) 』 。 

    (NHKテレビ・2013年大河ドラマ)。

■ 日本の幕末、明治時代を描いた、ドラマ。

● 新島(山本)八重を演じる女優 : 綾瀬 はるか

  (あやせ はるか)。

 

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#matudairayoshinaga

 

■ 松平 慶永  

     (まつだいら よしなが)。

     (= 松平春嶽)

 

■ 松平 慶永。 .

■ 名称 : 松平 慶永(まつだいら よしなが)。 

   号は、春嶽(しゅんがく)という。

■ 生没年 : 1828年〜1890年。

■ 松平 慶永(春嶽)は、

   尊王派、一橋派、公武合体派、公議政体派の

   大名である。

● 松平 慶永(春嶽)は、

     田安徳川家の出身である。 

   田安徳川家第3代当主・徳川斉匡の8男で

     ある。

● 松平 慶永(春嶽)は、

   越前福井藩主 (藩主在任:1838〜1858年)

     である。  松平 慶永(春嶽)は、田安徳川家

   より、越前松平氏の松平斉善(越前藩主)の

   養子となる。

● 松平 慶永(春嶽)は、

   江戸幕府・第12代将軍・徳川家慶(いえよし)

   の従兄弟(いとこ)である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 31435。

 

 

 □ 松平 慶永(春嶽) 画像 NO.1

 

 □ 松平 慶永が登場する、興味深い、

     ドキュメンタリー・ドラマ・映画

 

 

 ■ 松平 慶永(春嶽)。

 

   ■ 松平 慶永(春嶽)は、 開明的な公武合体派、公議

     政体派の大名 であった。

 

   ● 松平 慶永(春嶽)は、 明治維新の改革者の1人で、

    日本の近代国家成立に貢献した。

 

   ● 松平 慶永(春嶽)は、慶永は、徳川家の御三卿の1

    つ、田安徳川家の第3代当主・徳川斉匡の8男で、 田

    安徳川家より、越前松平氏の松平斉善(越前藩主)の

    養子となった。

 

   ● 松平 慶永(春嶽)は、1838年(天保9年)に、養父

    ・松平斉善(越前藩主)が死去すると、 11歳で、越前

    藩主 (在任1838〜58年、16代越前福井藩主) と

    なり、 在職中、藩政改革を行った。

 

   ● 松平 慶永(春嶽)は、 英明な藩主で、幕末の四賢

    侯の1人 である。 

 

   ● 松平 慶永(春嶽)は、 勝海舟(かいしゅう)や坂本

    龍馬を庇護(ひご)した。

 

 

 ■ 松平 慶永(春嶽)。

 

   ■ 松平 慶永(春嶽)は、 次期14代将軍継嗣問題で

    は、 老中・阿部正弘(まさひろ)、 前水戸藩主徳川斉

    昭(なりあき)、 薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)、13

    代将軍家定正室・篤姫(あつひめ)と共に、 一橋慶喜

    (よしのぶ)を次期14代将軍に支持する、一橋派の大

    名であった。  

       慶永(春嶽)は、 安政の大獄で1859年に、 徳

    川慶福(よしとみ、家茂)を次期14代将軍に支持した

    南紀派(紀州派)の大老・井伊直弼(なおすけ)より処

    罰され、 謹慎処分を受けた。

       しかし、その後、慶永(春嶽)は、 1862年の文政

    の改革では政治総裁職(1862〜63年)に就任し、公

    武合体、 幕政改革に尽力(じんりょく)した。

       慶永(春嶽)は、1867年の大政奉還後は、 徳川

    家擁護に努力した。

 

 

 ■ 松平 慶永(春嶽)。

 

   ■ 松平 慶永(春嶽)は、 明治初期、明治新政府(近

    代日本政府)でも重要な役割を果たした。

       慶永(春嶽)は、 明治新政府(近代日本政府)で、 

    議定、民部卿、大蔵卿などを歴任し、1870年(明治3

    年)に、政務を退いた。  

 

   ● 「明治」という年号は、慶永(春嶽)が命名したと言わ

     れている。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 

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♪♪ 松平慶永(よしなが) が登場する、

      興味深い、ドラマ、映画、ドキュメンタ

      リー。

 

 ★ 松平慶永 が登場する、興味深い、

    ドラマ、映画。

 

   ● (注意) ドラマ、映画は、フィクションです。 

    歴史の ドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

    実) と 架空の出来事が 混じって描かれ

    ています。 また、現代風にアレンジしてあり

     ます。

 

 ■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 。  

     (NHKテレビの2010年大河ドラマ)。

 

  ● 松平 慶永を演じた俳優名 : 

     夏八木 勲 (なつやぎ いさお)。

 

 ■ 『 篤姫 (あつひめ) 』 。  

     (NHKテレビの2008年大河ドラマ)。

 

  ● 松平 慶永を演じた俳優名 : 矢島健一。

 

 

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  『 あなたのハートには 

    何が残りましたか? 』

 

 

以  上。