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◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY 

   HANDBOOK

 

 

 カナヤマ 日本歴史辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 ち 』。

 

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メ ニュー (目次)。 

 ■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

 □ 日本史 辞典 (総合)    

     

□         ● 五十音順 ( あいうえお順)。

 

 

 □ 見出し語 ちか

 □ 見出し語 ちさ

 □ 見出し語 ちな

 □ 見出し語 ちや

 □ 見出し語 ちゆ

 □ 見出し語 ちら

 

 

〇 ちい   地域名

             (ちいきめい)。  《地名》。

                THE LOCAL PLACE NAME.

                   (⇒ 前近代日本の地域名)。

                   (⇒ 都道府県)。

                   (⇒ 旧地域名)。

                   (⇒ 旧国名(令制国))。

                    (⇒ 日本の地名)。

             ◆ 日本の、地域名には、 広さ別に、 

             (RWL)   日本の大地域名 と、 

             (RWM)  日本の中地域名 と、 

             (RWS)  日本の小地域名  がある。

                         ■ (RWL) 日本の、大地域名の変遷。

             ● @ 五畿七道⇒ A 旧近現代地方

              ⇒ B 現8地方。

                     @ 五畿七道 (ごきしちどう) (紀元

             (後)701年頃ー1868年頃、飛鳥白鳳

             時代末期ー江戸時代) ⇒ 

             A 旧近現代地方 (1868年頃ー19

             89年頃、明治時代ー昭和時代) ⇒ 

             B 現8地方。

                         ■ (RWM) 日本の、中地域名の変遷。

             ● @ 国造・県主分国⇒ A 旧国(令

              制国)⇒ B 旧都道府県⇒ C 現47

             都道府県。

                     @ 国造(くにのみやつこ)・県主(あが

             たぬし)分国  (紀元(後)3世紀頃ー

             701年頃、古代日本前期) ⇒ 

             A 旧国(きゅうこく、令制国(りょうせい

             こく)) (701年頃ー1868年頃、飛鳥

             白鳳時代末期ー江戸時代) ⇒ 

             B 旧都道府県 (1868年頃ー1989

             年頃、明治時代ー昭和時代) ⇒ 

             C 現47都道府県。

                           ◆ 日本の、地域名には、現旧別に、

             (RTJ) 日本の現地域名  と、 

             (RTK) 日本の旧地域名 がある。

             ■ (RTJ) 日本の 、現地域名は、

             (RLJ) 現・大地域名の、現8地方の

             北海道・東北・関東・中部・近畿・中国・

             四国・九州地方 や (RMJ) 現・中地

             域名の、現47都道府県 などである。

             ■ (RTK) 日本の、旧地域名は、 

             (RLKB) 旧・大地域名(旧地方名)の、 

             五畿七道(ごきしちどう) や (RMKB)

             旧・中地域名の、旧国名 (きゅうこくめ

             い、令制国(りょうせいこく)) などである。

             ■ (RTK) 日本の、旧地域名には、

             時代別に、

             (RKA) 近現代日本・旧地域名、 

             (RKB 律令制定後・古代・中世・近

             世日本・旧地域名、

             (RKC) 律令制定前・古代日本・旧地

             域名、 

             がある。  

              ■ (RKB・C) 前近代日本の地域名

              (= 前近代旧地域名) には、 

              (RKB 律令制定後・古代・中世・近世

              日本・旧地域名 と、 

              (RKC) 律令制定前・古代日本・旧地域

              がある。 

                     ■ 地域名。

             <日本の地名。

 

〇 ちえ  知恵伊豆。

             (ちえいず)。 《人名》。

          (= 松平伊豆守信綱 (まつだい

                     らいずのかみのぶつな)

                         (⇒ 松平 信綱)。

 

〇 ちか  親子内親王

             (ちかこ ないしんのう)。 《人名》。

                    (= 和宮 かずのみや)。

       (⇒ 和宮)。 

 

〇 ちき   乳兄弟。

             (ちきょうだい)。 《近親》。

          (⇒ 乳母 うば、めのと)。

             ■ 乳兄弟 (ちきょうだい)とは、

             肉親ではないが、同じ女性の

             乳で育てられた者同士である。

             ■ 例えば、 池田恒興(いけだ つ

             ねおき)の生母は、織田信長の乳

             母(うば)であったので、池田恒興

             と織田信長は、乳兄弟である。

                

#chika

 

〇 ちく   竹阿弥。 

             (ちくあみ)。 《人名》。

          (⇒ 大政所豊臣秀長

          朝日姫)。  

          ○ 豊臣秀吉の生母・なか(大政

                     おおまんどころ)の2番目の夫。

          ○ 秀吉の弟・豊臣秀長と秀吉

          の妹・朝日姫の実父。

 

 ちく   筑後 国。

             (ちくご のくに)。 《旧地域名》。

          (≒ 現・福岡県南部の相当地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国名(令制

           国)の正式名)。

           CHIKUGO PROVINCE.

                   (⇒ 前近代日本の

         地域名)。

          ■ 筑後 国。

             <南海道 (旧広域地方)。

             ■ 筑後 国 (ちくご のくに)は、 律令

             制定後・古代・中世・近世日本・旧地域

             名の、旧国名(令制国)の正式名である

             ■ 筑州 (ちくしゅう)は、 律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             国名(令制国)正式名の、筑前 国 (ち

             くぜん のくに、現・福岡県北西部)、筑

             後 国 (ちくごのくに、現・福岡県南部)

             のいずれか、または、両国を合わせて

             呼ぶ別称である。

                          ● 筑州(= 筑前 国後国)は、 西海

             道(さいかいどう)・広域地方に属し、現・

             九州地方の、現在の福岡県北 西部

             岡県南部に相当する地域である。

                          ● 二筑(にちく)、両筑(りょうちく)は、

             筑前 国、筑後 国の両国を合わせて

             呼ぶ別称である。

             ■ 筑後 国は、 現・九州地方の、現在

             の福岡県 南部 に相当する領域である。

             ■ 筑後 国は、 五畿七道の 西海道(さ

             いかいどう)・旧広域地方に属する。

 

 ちく   筑

             (ちくしゅう)。 《旧地域名》。

          (= 筑前 国(ちくぜんのくに)、 筑後

             ( ちくご のくに))。

          (= 二筑(にちく)、両筑(りょうちく))。

                        CHIKUSHU AREA.

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国名(令制

           国)の別称)。

                   (⇒ 筑前、 筑後国)。    

                   (⇒ 前近代日本の

         地域名)。

          ■ 筑

          (≒ 現在の、福岡県北西部

          福岡県南部の相当地域)。

             ■ 筑州 (ちくしゅう)は、 律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             国名(令制国)正式名の、筑前 国 (ち

             くぜん のくに、現・福岡県北西部の相当

             地域)、 筑後 国 (ちくごのくに、現・福

             岡県南部の相当地域)のいずれか、また

             は、両国を合わせて呼ぶ別称である。

                          ● 二筑(にちく)、両筑(りょうちく)は、

             筑前 国、筑後 国の両国を合わせて

             呼ぶ別称である。

                          ● 筑州(= 筑前 国後 国)は、 西海

             道(さいかいどう)・広域地方に属し、現・

             九州地方の、現在の福岡県北西部

             岡県南部に相当する地域である。

 

 ちく   筑前 国。

             (ちくぜん のくに)。 《旧地域名》。

          (≒ 現・福岡県北西部の相当地

          域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国名(令制

           国)の正式名)。

                   (⇒ 前近代日本の

          地域名)。

          ■ 筑前 国。

             <南海道 (広域地方)。

             ■ 筑前 国 (ちくぜん のくに)は、 

             現・九州地方の、現在 の福岡県北西部

             に概ね相当する地域である。

             ■ 筑前 国は、 五畿七道の、西海道

              (さいかいどう)・旧広域地方に属する。

             ■ 筑前 国 (ちくぜん のくに)は、 律

             令制定後・古代・中世・近世日本・旧地

             域名の、  旧国名(令制国)の正式名で

             ある

             ■ 筑前 国の別称。

             ■ 筑州 (ちくしゅう)は、 律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             国名(令制国)正式名の、筑前 国 (ち

             くぜん のくに、現・福岡県北西部)、筑

             後 国 (ちくごのくに、現・福岡県南部)

             のいずれか、または、両国を合わせて

             呼ぶ別称である。

                          ● 筑州(= 筑前 国後国)は、 西海

             道(さいかいどう)・広域地方に属し、現・

             九州地方の、現在の福岡県北西部

             岡県南部 に概ね相当する地域である。

                          ● 二筑(にちく)、両筑(りょうちく)は、

             筑前 国、筑後 国の両国を合わせて

             呼ぶ別称である。

 

 ちく   竹林院。

             (ちくりんいん)。   《人名》。

             (生年不詳−1649年)。

          CHIKURININ.

          (⇒ 真田氏

        真田 幸村(信繁))。

                    ○ 真田 幸村(信繁)の正室

          夫人。

                        ■ 竹林院 (ちくりんいん、生年不

                        詳−1649年) は、真田 幸村(信

                        繁)の正室夫人であり、 豊臣氏家

                          臣・大谷吉継(おおたによしつぐ)の

                      娘である。

             ■ 真田 幸村(信繁) と、 真田 幸

             村(信繁)正室夫人・竹林院(ちくり

             んいん)との間には、 長男の真田

             幸昌(大助)(ゆきまさ(だいすけ))、 

             次男の真田守信 (さなだ もりのぶ、

             仙台真田家初代当主)、 娘の、あく

             り、菖蒲(しょうぶ)、かね などの子

             がいた。

             ■ 竹林院は、  真田丸 (さなだま

              る) 』(NHKテレビ・2016年大河ドラ

             マ)では、「春 (はる)」という名(仮称)

             で登場する。

 

#chisa

 

 ちさ   ちさ (仮称、実名不詳)

          (ドラマ「戦国疾風伝」での名称)。

                    (= 得月院(とくげついん)、法名)。

             (実名・生没年不詳)。

        (⇒ 得月院)。

          ○ 竹中半兵衛(重治)の正室

          夫人。

          ○ 西美濃三人衆の1人・安藤

          (安東)守就 (あんどう もりなり)の 娘

 

 ちて  治天の君。

             (ちてんのきみ)。 《日本の政治》。

          (⇒ 院政政治)。

             ■ 治天の君 (ちてんのきみ)とは、 

             院政政治の上皇、その他、天皇の上

             に立って日本の政治を支配する者

             である。 

 

 ちど  千鳥ヶ淵。

             (ちどりがふち)。 《桜の名所》。

             ■ 千鳥ヶ淵 (ちどりがふち)は、 

             旧江戸城の北の丸地区の西側の

             内堀(内濠)の地域であり、 現在、

             堀に沿って遊歩道があり、東京都

             心の素晴らしい桜の名所となって

             いる。

             ■ 千鳥ヶ淵に面し、戦没苑がある。

             戦没苑では、太平洋戦争などの戦

             前の無名の戦死者が永眠している。

             

#china

 

〇 ちば  千葉県。

             (ちばけん)。 《現地域名》。

          (現都道府県)。 

                        CHIBA PREFECTURE.

                     (⇒ 都道府県)。

                     (⇒ 下総 国)。

                     (⇒ 上総 国)。

                     (⇒ 安房 国)。

                       (⇒ 前近代日本の

             地域名)。

           (⇒ 旧国(= 令制国))。

                      (⇒ 旧地域名地域名)。

                      (⇒ 日本の地名)。

             (≒ 前近代の、@ 下総 国 (

           もう さ のくに、総州(そうしゅう、下総国

          や上総国)、千葉県北部) 、 と A 

             上総 国 (かずさのくに、総州(そう

             しゅう、下総国や上総国)、千葉県中

          部)、  と B 安房 国 (あわ の

             くに、安州(あんしゅう)、房州(ぼう し

             ゅう)、千葉県南部)、 の相当 地

          域)。

 

〇 ちば  千葉 佐那

             (ちば さな)。 《女剣士》。

          ○ 千葉佐那は、

          坂本龍馬の恋人である。

          ○ 千葉佐那は、

          美貌で知られ、 龍馬の

          死後も彼を想い続け、

          一生を独身で過ごした

          女性である。

          ■ 千葉佐那 (ちば さな)は、

             剣術家であり、 千葉重太郎の妹で

             あり、 坂本龍馬が江戸で剣術修行

             をした小千葉道場の剣術道場主・

              千葉定吉の娘である。

 

〇 ちば  千葉 重太郎

             (ちば じゅうたろう)。 《人名》。

          ○ 幕末の志士。

          ○ 坂本龍馬の友人。

          ○ 小千葉道場の剣術師範代。

          ○ 龍馬の恋人・千葉佐那(さな)

              の兄 。

 

 ちば  千葉道場。

             (ちばどうじょう)。 《剣術道場》。

          (= 江戸の北辰一刀流の道場)。

          (⇒ 幕末の江戸剣術

         道場)

          ● 千葉道場の1つに、小千葉

          道場がある。 小千葉道場は、

          千葉定吉が道場主の北辰一刀

          流の道場で、江戸での坂本龍馬

          の剣術修行道場である。

 

 ちほ  地方豪族 。

             (ちほうごうぞく)。 

          (= 地方の有力者、豪族)。

            (⇒ 前近代日本社会)。

               ■ 地方豪族 (ちほうごうぞく)とは、

             地方の有力者、豪族であり、 ある

             地方に土着し、大きな富 や勢力を持

             つ一族である。

 

 ちほ  地方名。

             (ちほうめい)。 《地名》。

          (= 日本の地方名)。

             ■ 地方名には、 

             現地方名と旧地方名がある。

                     (⇒ 現地方名

                      旧地方名)。

                      (⇒ 前近代日本の 地域名)。

                      (⇒ 地域名)。

                      (⇒ 日本の地名)。

                     ■ 日本の、五畿七道⇒五畿

          八道⇒現8地方。

           ◆ 日本の現地方名。

                     ■ 日本の現・大地方名。

                    ● 日本の現・大地方名は、 北海道、本

             州、四国、九州、南西諸島 である。

                     ■ 日本の現・中地方名。

             ● 日本の現・中地方名は、 北海道地方、

             東北地方、関東地方、中部地方、近畿地方、 

             中国地方、四国地方、九州地方 である。

           ◆ 日本の旧地方名。

                     ■ 日本の旧・中地方名。

             ● 前近代日本の旧・中地方名は、五畿七道 

             (ごきしちどう)・蝦夷地(えぞち)、琉球(りゅう

             きゅう) である。

             ● 前近代日本の旧・中地方名の、五畿七道

             (ごきしちどう)は、 東山道(とうさんどう)、

             東海道(とうかいどう)、北陸道(ほくりくどう)、

             畿内(きない)、南海道(なんかいどう)、

             山陰道(さんいんどう)、山陽道(さんようどう)、

             西海道(さいかいどう) である。

                     ■ 地方名。

          <地域名。

          <地名。

 

#chiya

 

〇 ちゃ  チャイナ・リスク。

          ○  日本の長期資源・食糧供給先

                    として危険な中国。

                    (⇒ チャイナ・リスク(地理学辞典)

                チャイナリスク(世界史辞典)) 。

 

〇 ちゃ  茶会

                           (ちゃかい)。  《茶の湯》。

           (⇒ 豊臣秀吉千利休

        黄金の茶室)。

             ◆ 秀吉の、茶の湯接待。

             ■ 秀吉の、天下統一前の4大茶会

                            (1584−1587年)。

                     ● 1590年(天正18年)の天下統一(日

             本本土・全土統一統治)の前に、 豊臣秀

             吉は、天下人(天下統一者)を目指して、

             接待のため、千 利休(千 宗易)と相談して、

             1584年(天正12年)から1587年(天正

             15年)までの間、4大茶会(イベント茶会)

             を開いた。

             ●  その4大茶会(イベント茶会)とは、(1) 

             有名茶人接待のための1584年(天正12

             年)10月の大坂城茶会、 (2) 皇族・公家

             接待のための1585年(天正13年)10月の

             禁裏(禁中)茶会、 (3) 九州征伐参加大

             名・武将接待のための1587年(天正15年)

             1月の大坂城茶会、 (4) 民衆接待のため

             の1587年(天正15年)10月の北野天満宮

             茶会(北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ) で

             ある。

             ■ (1) 1584年(天正12年)・大坂城茶会。

                1584年(天正12年)10月の大茶会

             (だいちゃかい)は、日本各地の大名や武将

             と親交のある茶人との親交を深め、茶人が

             知る日本各地の情報を得るため、 有名茶

             人(ちゃじん)29人を大坂城の表御殿(おも

             てごての)の大広間に招待して行われた。

             ■ (2) 1585年(天正13年)・禁裏(禁中)

              茶会。

                1585年(天正13年)10月の大茶会は、

             朝廷と親交を深めるための禁裏(禁中)茶会  

             (きんり(きんちゅう)ちゃかい)であり、 天皇

             御所 (て んのうごしょ、天皇の住まい、= 禁

             裏(禁中)) で、 天皇(正親町(おおぎまち)

             天皇)、皇子、公家たちを招待して行われた。 

                 黄金の茶室は、 豊臣秀吉によって、 

                天皇をもてなす禁裏(禁中)茶会 (きんり

             (きんちゅう)ちゃかい) のためにつくられた。 

                 千 利休(千 宗易)は、 禁裏(禁中)茶

               会に参加する僧侶身分を得るため、 正親町

             (おおぎまち)天皇より利休居士(りきゅうこじ)

             の号を与えられる。 

             ■ (3) 1587年(天正15年)・大坂城茶会。

                1587年(天正15年)1月の大茶会は、

             九州征伐前に、 九州大半占領の強敵の島

             津氏に必ず勝つため九州征伐豊臣軍を団結

             させるため、共同飲食で臣下の大名や武将

             の結束を図るため、臣従した大名や武将たち

             を大坂城に招待して、決起集会として、行わ

             れた。 秀吉臣従下の多くの大名は、お互い

             かって敵同士であったこともあるので。

             ■ (4) 1587年(天正15年)・北野天満宮

             茶会(北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ))。

                1587年(天正15年)10月の大茶会は、

             民衆の人気を得るため、民衆の好感度調査

             のため、 京(都)の北野天満宮(きたのてん

             まんぐう)で、一日、民衆を招待して行われた。

 

〇 ちゃ  茶人。

                          (ちゃじん)。  《職業名》。

            (⇒ 千利休)。

            ■  茶人(ちゃじん)とは、茶道を極

            めた者である。

 

〇 ちゃ  茶々。

                         (ちゃちゃ)。 《人名》。

          (= 淀殿、淀の方、お茶々)。

            (⇒ 淀殿 よどどの)。

            ■ 茶々(ちゃちゃ、淀殿(よどどの))

            は、 浅井三姉妹 (あざいさんしまい、

            茶々、初、江(ちゃちゃ、はつ、ごう) )

            の1人である。

 

〇 ちゃ  茶屋四郎次郎

             (ちゃやしろうじろ。 《人名》。

          ○ 茶屋四郎次郎は、

          茶屋家の代々の当主が名

          乗った氏名である。

          ○ 茶屋家は、

          安土桃山時代、江戸時代

          に活躍した商人である。

             ■ 茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろ)

             は、茶屋家のの代々の当主が名乗

             った氏名である。 茶屋四郎次郎

             四郎次郎は、 茶屋家歴代の当主

             の通称である。 

                茶屋家は、安土桃山時代、江戸

             時代に活躍した商人である。

             ■ 家康の伊賀越え時、 茶屋四郎

             次郎清延 (ちゃやしろうじろきよの

             ぶ、初代茶屋四郎次郎)が援助し、

             無事に家康を帰国させる。

             ■ 初代・2代・3代の茶屋四郎次郎

             は、は、徳川家康の側近の経済ブレ

             ーンとなる。

 

#chiyu

 

〇 ちゅ  中宮。

            (ちゅうぐう)。 《天皇家》。

         ○ 天皇の正室夫人。

         ○ 前近代では、天皇の正室

         夫人(複数)の上位から、 @ 皇

         后、A 中宮、B 女御の中で、

         第2番目の身分の正室夫人。

         (⇒ 皇族正室夫人)。

         (⇒ 正室夫人皇后

          女御)。

            ■ 中宮(ちゅうぐう)とは、 天皇の正室

            夫人(せいしつふじん)である。

            ■ 中宮(ちゅうぐう)は、 前近代日本で

            は、 天皇の正室 夫人(複数)の上位から、

            @ 皇后(こうごう)、A 中宮(ちゅうぐう)、

            B 女御(にょうご)の中で、第2番目の身分

            の正室夫人である。

 

〇 ちゅ  中国大返し

             (ちゅうごくおおがし)。

             (= 備中大返し)。

                    《日本歴史出来事》。

          ○ 中国大返しとは、

          (1) 秀吉軍の、足掛け8日間・

                     約230kmの行軍である

          (1582年(天正10年)6月

          6日秀吉本隊高松出発説)。

          (2) 秀吉軍の、足掛け9日間・

                     約230kmの行軍である

          (1582年(天正10年)6月

          5日秀吉本隊高松出発説)。

          ○ 中国大返しによる秀吉

          の敏速な行軍と明智光秀

          軍の討伐は、 結果的に、

          秀吉の天下統一への第一

          歩となる。

             ■ 中国大返し (ちゅうごくおおが

             し、= 備中大返し)とは、 (1) 15

             82年(天正10年)6月6日秀吉本

             隊高松出発説では、 足掛け約8日

             間をかけ、備中・高松城から山城・

             山崎戦場までの、約2万人以上の

             兵の秀吉軍の、約2 30kmの道を

             走破した行軍であり、 (2) 1582

             年(天正10年)6月5日秀吉本隊高

             松出発説では、 足掛け約9日間を

             かけ、備中高松城から山城・山崎

             戦場までの、約2万人以上の兵の

             秀吉軍の、約230kmの道を走破

             した秀吉軍の行軍である。

              ■ 中国大返し (ちゅうごくおおが

             し、= 備中大返し) とは、 羽柴秀

             吉(豊臣秀吉)が、 1582年(天正

             10年)6月2日の本能寺の変を知

             り、 主君・織田信長の弔い合戦

             (ともらいがっせん)のため、 15

             82年(天正10年)6月6日(また

             は6月5日)から 13日までの足掛

             け8日間(または9日間)、 備中国

             (びっちゅうのくに、現・岡山県西部

             相当地域)の高松から山城国(やま

             しろのくに、現・京都府南部相当地

             域)の山崎まで、 羽柴秀吉(豊臣

             秀吉)の本隊の軍が、約230km

             の行程を敏速(スピーディー)に行

             軍したことである。 

             ■ 秀吉本隊の兵は、軽装で移動

             する。 秀吉は、本隊が通る先々の

             各所で食べ物(握り飯)、水、松明

             (たいまつ)等を用意し、 一方、秀

             吉別動隊の輸送部隊は、陸路・海

             路で、荷車、船で、甲冑(かっちゅ

             う)・武器・食料等を運ぶ。

             ■ 羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、中国

             大返しで、自軍の敏速な強行移動

             を行い、 信長・信忠父子は窮地を

             脱し近江(おうみ)へ逃亡という偽

             (いつわ)りの情報の書状を近畿付

             近の各武将へ送り、 秀吉は、 更

             に行軍途中で賛同する軍勢も得て、 

             山城国の山崎戦場で、約3万人の

             兵となり、秀吉は、 1582年(天正

             10年)6月13日に、 軍勢を多く集

             められず準備不足の約1万3000

             人の兵の明智光秀の軍と戦い、山

             崎の戦いで勝利を得る。

 

〇 ちゅ   中国地方 

              (ちゅうごくちほう)。 《現地域名》。

           (= 鳥取県、島根県、岡山県、

              広島県、兵庫県、山口県)。

           (現地方名)。 

              CHUGOKU REGION.

           (⇒ 現8地方)。 

           (⇒ 現地方名)。

                   (⇒ 山陰道山陽道)。

                     (⇒ 地方名旧地 方名)。

                      (⇒ 前近代日本の 地域名)。

                     (⇒ 地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

           (⇒ 前近代日本の地域名)。

           (⇒ 日本の地名)。

          ■ 中国地方。

           ≒ @ 山陰道( さんいんどう)・

           広域地方の一部の、 鳥取県東

          部・西部(因幡国、伯耆国)、島

          根県隠岐諸島・本土東部・本土

          西部(隠岐 国、出雲 国、石見

                  国)、

             A 山陽道( さんようどう)・広域

            地方の一部の、 岡山県北東部・

           南東部・西部(美作 国、備前

           国、備中 国)、 広島県東部・

           西部(備後国、安芸国)、山口

           県東部・西部(周防国、長門国)、 

           の地

          ■ 中国地方。

             <日本本土(本州、四国、九州)

             <日本国

          ■ 中国地方。

             (≒ 旧広域地方の、山陰道、山陽道の一部)。

             <五畿七道 (ごきしちどう、日本本土)。

 

〇 ちゅ  忠臣蔵。

             (ちゅうしんぐら)。 《元禄赤穂事件》。

        (⇒ 元禄赤穂事件)。

            (⇒ 日本歴史の驚異の出来事

           ー武士道)。

            ○ 忠臣蔵は、

          江戸時代中期成立した物語

          である。

            ○ 忠臣蔵は、

          元禄赤穂事件(= 赤穂事件、

           赤穂浪士討ち入り事件、広

           義、1701 〜1703年)をモ

           デル(題材)にしたフィクショ

          ンの物語である。

          ○ 忠臣蔵では、

            お家再興ならず、仇(かたき)

              をとる。

             ■ 「忠臣蔵」 (ちゅうしんぐら)は、元禄

             赤穂事件 (= 赤穂事件 、広義:1701年

             3月〜1703年2月)をモデルにして創作

             されたフィクションの物語である。

             ■ 元禄赤穂事件 (= 赤穂事件、広義:

             1701年3月〜1703年2月) とは、

             赤穂浅野家の赤穂藩主・浅野内匠頭(長

             矩)が刃傷におよび切腹し、赤穂藩がとり

             つぶされ、赤 穂浅野家のお家再興もなら

             ず、赤穂浪士が主君・浅野内匠頭(長矩)

             の仇(かたき)をとった事件である。

             ■ 「忠臣蔵」は、 元禄赤穂事件(= 赤穂

             事件)の約50年後に、江戸時代中期に、

             「仮名手本忠臣蔵」が浄瑠璃や歌舞伎な

             どで演出され、それ以後現在まで、物語と

             して、存続する。

 

〇 ちゅ  中世天皇親政政権 

             (ちゅうせいてんのうしんせいけん)。

             (= 建武政権)。

          《日本の政権・政府》。

                    (1333年頃〜1336年頃)。

          (⇒ 日本の政権・政府)。

 

〇 ちゅ  中世天皇親政政治 

                       (ちゅうせいてんのうしんせいせいじ)。

                    (= 建武の親政)。 

          (1333年頃〜1336年頃)。 

 

〇 ちゅ  中世日本 

             (ちゅうせいにほん)。 

          (= 1192年頃ー1573年)。

         = 鎌倉時代、建武時代、室町

            時代の日本)。

              《日本歴史の時代区分》。

             MEDIEVAL JAPAN

                    ○ 中世日本とは、

          概ね、1192年頃〜1573年

          頃である。 

          ■ 鎌倉時代

          ■ 建武時代

          ■ 室町時代

          (⇒ 日本歴史の時代区分)。  

             ■ 中世日本 (ちゅうせいにほん、英:

             MEDIEVAL JAPAN)とは、 概(お

              おむ)ね、 鎌倉時代、建武時代、室町

             時代の日本であり、 1192年頃から

             1573年頃までの日本である。

              ■ 中世日本では、 日本地域(日本

             本土、北海道、南西諸島の日本列島)

               には、 日本土着常住民の、「本土日

             本人」「アイヌ人」「琉球人」3グ

             ループの中世日本人が居住する。  

 

〇 ちゅ  中世日本人

            (ちゅうせいにほんじん)。

          (人類学上の分類・特徴)。

             (日本人のルーツ)。

                    《日本常住民の日本人》。

             THE MEDIEVAL JAPANESE 

             PEOPLE.

             ● 中世日本人 = 中世日本地域土着・

             常住民。

            (⇒ 日本人)。 

            (⇒ 縄文・弥生渡来・混血系)。

            (⇒ 本土日本人(= 本土人))。 

            (⇒ 琉球人)。 

            (⇒ 縄文系)。

            (⇒ アイヌ人)。 

            (⇒ 原日本人)。

          (⇒ 日本人ルーツ・ガイドブック)。

           ○ 「本土日本人」、「琉球人」、

          「アイヌ人」 の3グループの中世

                    日本人

                         ●  「中世日本の本土日本人」、

                「中世日本の琉球人」 、

                「中世日本のアイヌ人」。

             ● 中世日本人とは、 中世日本地域土着・

                           常住民であり、 中世日本の時期に、 日

              本地域に居住していた、「中世日本の本

             土日本人」、 「中世日本の琉球人」、

             「中世日本のアイヌ人」 の3グループ

                           の人類 である。

              ● 中世日本人 (= 中世日本地域土着・

              常住民)。

             <日本人 (= 日本地域土着・常住民)。

             <モンゴロイド。

             <現生人類(= 新人、ホモ・サピエンス種))。 

             <ヒト属。

             <人類(= ヒト亜族))。

              ● 中世日本人の地域的・文化的特徴 

             (人類学上の分類・特徴)。

               ●  多くの中世日本人は、「本土日本人」で

              ある。

              ● 中世日本人とは、 中世日本の時期に

             (鎌倉時代、建武時代、室町時代に)、 日

             本地域 (日本本土、北海道、南西諸島の

             日本列島) に居住していた、「中世日本

             の本土日本人」、 「中世日本の琉球人」、

             「中世日本のアイヌ人」 の3グループの

                           人類であり、

                日本本土(本州、四国、九州)に居住し

              ていた「本土日本人」の中世日本人であり、 

                南西諸島に居住していた「琉球人」の

             中世日本人であり、

                               北海道に居住していた「アイヌ人」の

             中世日本人である。

              ● 「本土日本人」は、 古・新モンゴロイド

             混血の縄文・弥生渡来・混血系の人類であ

             る。

                 「琉球人」は、古・新モンゴロイド混血

             の縄文・弥生渡来・混血系の人類である。

                「アイヌ人」は、 古・新モンゴロイド混

             血の縄文・北アジア諸民族・混血系の人類

             である。

              ● 中世日本人(日本常住民)への進化表。

               化石類人猿(= 中新世ホミノイド)⇒ 

             人類の、猿人⇒ 原人(= ホモ・エレクト

             ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類

             ⇒ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス

             (種))⇒ モンゴロイド⇒ 縄文人⇒ 

             弥生人⇒ 古代日本人⇒ 中世日本人 

             ⇒ 近世日本人⇒ 近代日本人 

             現代日本人

             ● 日本人(日本常住民)への進化表。

               化石類人猿(= 中新世ホミノイド)⇒ 

             人類の、猿人⇒ 原人(= ホモ・エレクト 

             ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類

             ⇒ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス

             (種))⇒ モンゴロイド⇒ 縄文人⇒ 

             弥生人⇒ 古代日本人⇒ 本土日本人

             (= 本土人)、 「琉球人」、「アイヌ人」。

 

〇 ちゅ  中世日本歴史詳細年表

            (ちゅうせいにほんれきしょうさいねんぴょう)。

             《日本歴史年表》

          (⇒ 日本史年表) 。

 

〇 ちゅ  中尊寺金色堂。

             (ちゅうそんじこんじきどう)。

       (⇒ 平安国風文化

                     奥州藤原氏)。

 

〇 ちゅ  中納言

             (ちゅうなごん)。 《官職》。

          ○ 朝廷の官職。

           (⇒ 朝廷の官職朝廷公卿)。

              ■ 前近代日本の、高位の朝廷の官職

             は、 高位順に、 @ 太政大臣 (だいじょ

             うだいじん)、 A 左大臣 (さだいじん)、 

             B 右大臣 (うだいじん)、  C 内大臣 

             (ないだいじん)、 D 大納言 (だいな

             ん)、 E 中納言 (ちゅうなごん)、 F 

             参議 (さんぎ) などがある。

 

〇 ちゅ  中部地方 

             (ちゅうぶちほう)。 《現地域名》。

          (= 新潟県、富山県、石川県、福

          井県、長野県、岐阜県、山梨県、

          静岡県、愛知県)。

           (現地方)。 

             CHUBU REGION.

           (⇒ 現8地方)。 

           (⇒ 現地方名)。

                   (⇒ 北陸道東山道

                 東海道)。

                     (⇒ 地方名旧地 方名)。

                      (⇒ 前近代日本の 地域名)。

                     (⇒ 地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

           (⇒ 前近代日本の地域名)。

           (⇒ 日本の地名)。

             ■ 中部地方。

           ≒ @ 北陸道(ほくりくどう)

           域地方の、 新潟県佐渡島(佐渡

          国)、新潟県本土 (越後国)、富

          山県 (越中国)、石川県北部・南

          部(能登国、加賀国)、福井県北

          部・南部 (越前国、若狭国) と、

              A 東山(とうさん どう)広域地

             の一部 の、長 野県 (信濃国)、

           岐阜県(飛騨国、美濃国) と、 

          B 東海(とうかいどう)広域地

              の 一 部の、山梨県 (甲斐国)、

           静岡県東部・伊豆半島 (伊豆国

           本土)、静岡県中部・西部 (駿河

           国、遠江国)、愛知県東部・西部

          (三河国、尾張国) の地

          ■ 中部地方。

             <日本本土(本州、四国、九州)

             <日本国

          ■ 中部地方。

             (≒ 旧広域地方の、北陸道 と、 東山

             道(とうさんどう)、東海道の一部)。

             <五畿七道 (ごきしちどう、日本本土)。

 

〇 ちよ   千代 

              (ちよ)。 《人名》。

           (= 見性院)。

           (1557年ー1617年)。 

          ○ 千代は、

          夫に対する内助の功で、

          「日本一(ひのもといち)

          賢妻」と言われた女性で

          ある。

           ○ 千代は、

          政治戦略家であった。

             ■ 千代 (ちよ、= 見性院(け

             んしょういん、1557年ー16

             17年)は、

             山内一豊(やまうちか づとよ)

             の正室夫人であり、 夫を支え、

             室町時代後期(戦国時代)、安

             土桃山時代、江戸時代初期に

             活躍した女性である。

              ■ 千代 (ちよ、= 見性院)は、

             政治戦略家であり、凡庸(ぼん

             よう)な夫の山内一豊(やまうち

             かづとよ)を助け、夫を土佐国

             (とさのくに、現・高知県)一国

             20万石の大名にまで出世させ

             、敏腕 な女性である。 

 

〇 ちょ  長歌。

            (ちょうか)。 《和歌》。

         (⇒ 和歌)。

                ○ 長歌は、

         和歌の1つの形式の詩歌

         である。 

 

〇 ちょ  長寛。

            (ちょうかん)。 《和暦》。

            THE CHOKAN ERA.

            ○ (1163 年− 1165年)。

            ● 1163年・長寛元年・3月29日〜

               1165年・長寛 3年・6月 5日。

            ● 平安時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

             ■ 長寛 (ちょうかん、英:THE 

             CHOKAN ERA)とは、 和暦であり、 

             平安時代後期の和暦年号であり、 

                      1163年・長寛元年・3月29日から

             1165年・長寛 3年・6月 5日まで

             である。 

 

〇 ちょ  長久。 

            (ちょうきゅう)。  《和暦》。

            THE CHOKYU ERA.

            ○ 1040年−1044年 。

            ● 1040年・長久元年・11月10日〜

               1044年・長久 5年・11月24日。 

             ● 平安時代中期の和暦年号。 

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

             ■ 長久 (ちょうきゅう、英:THE 

              CHOKYU ERA)とは、 和暦であり、 

             平安時代中期の和暦年号であり、 

                          1040年・長久元年・11月10日から

                        1044年・長久 5年・11月24日まで

             である。  

 

〇 ちょ  長享。 

            (ちょうきょう)。 《和暦》。

             THE CHOKYO ERA.

             ○ 1487年−1489年。

             ● 1487年・長享元年・7月20日〜

                1489年・長享 3年・8月21日。 

             ● 室町時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

             ■ 長享 (ちょうきょう、英:THE 

                          CHOKYO  ERA)とは、 和暦であり、 

             室町時代後期の和暦年号であり、 

             1487年・長享元年・7月20日から

              1489年・長享 3年・8月21日まで

             である。  

 

〇 ちょ  丁銀。

                          (ちょうぎん)。 

            ○ 江戸時代の銀貨。

         ○ 大型板状銀塊

         ○ 江戸時代の秤量(しょうりょう)通常

          貨幣。

          (⇒ 日本流通貨幣)。

            ■ 江戸時代の、江戸幕府鋳造(発行)の秤量

             (しょうりょう)貨幣 (2種類、丁銀(ちょうぎ

             ん)、豆板銀(まめいたぎん))の1種類である。

            ● 江戸時代に、銀の目方・含有量で使われた

             貨幣。

            ● その時の銀相場により、両・分・朱・文の定

                       額(定位)通常貨幣とも交換された。 

             ● 1両小判≒4分≒16朱≒4000文≒現在

                 の約10万円。

 

〇 ちょ  長元 (ちょうげん)。 

                        ○ (1028〜1037年)。

            ● 1028年・長元 元年・7月25日〜

               1037年・長元10年・4月21日。 

            ● 平安時代中期。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇 ちょ   長治 (ちょうじ)。 

                          ○ (1104〜1106年)。

             ● 1104年・長治元年・2月10日〜

               1106年・長治 3年・4月 9日。

             ● 平安時代後期。   

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇 ちょ  長子相続

            (ちょうしそうぞく)。

             ○ 前近代日本の家督相続制

          度の1つ。

 

〇 ちょ  長州

            (ちょうしゅう)。

          (= 長門 ( ながと のくに))。

          (≒ 現・山口県西部)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国名(令制

           国)の別称)。

           《旧地域名》。

                    (⇒ 長門)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

             ■ 長州 (ちょうしゅう)は、 律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、旧国

             名(令制国)正式名の、長門 国 ( ながと

             のくに)の 別称である。

                         ● 長州(= 長門)は、 山陽道(さんよ

             うどう)・広域地方に属し、現・中国地方の、

             現在の 山口県西部に相当する領域である。

 

〇 ちょ  長州征討。

                         (ちょうしゅうせいとう)。 《戦争》。

            (= 幕長戦争、長州出兵)。

         (1864年、1865年)。

                         ■ 第1次長州征討(1864年)。

            ■ 第2次長州征討(1865年)。 

            ■ 長州征討(= 幕長戦争、長州出兵)と

            は、 幕末の、幕府と長州藩との戦いであ

            る。

            ■ 禁門の変後の長州藩追討勅命により、

            1864年(元治元年)に江戸幕府は、長州

            藩に出兵し、長州藩が恭順の意を表し、戦

            わず、撤兵する(第1次長州征討)。 その

            後、長州藩では倒幕派政権が成立し、江

            戸幕府は、1865年(慶応元年)に再び長

            州藩に出兵したが、長州軍に敗退し、停戦

            する(第2次長州征討)。

 

〇 ちょ  長州藩

                         (ちょうしゅうはん)。

         (= 長門国と周防国を

          領有した藩)。

         (≒ 概ね、現・山口県の

          相当地域を支配した藩)。

            ● 長州藩は、 江戸時代初期から明治

            時代初期まで存続した、長門国(ながと

            のくに、概ね、現・山口県西部の相当領

            域)と周防国(すおうのくに、 概ね、現・山

            口県東部の相当領域)を領有し(統治し)、

            支配基盤(行政地域)とした藩(大名)で

                         ある。

            ● 長州藩は、 江戸時代の外様大名の

            藩である。

 

〇 ちょ  長承。

            (ちょうしょう)。 《和暦》。

             THE CHOSHO ERA.

                         ○ 1132年ー1135年。

             ● 1132年・長承元年・8月11日〜

               1135年・長承 4年・4月27日。

             ● 平安時代後期。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

            日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック

 

〇 ちよ  長次郎 (ちょうじろう) 。

          (= 近藤長次郎)。

       (⇒ 近藤長次郎)

                ○ 坂本龍馬の同志。 

                ○ 亀山社中の中心的メンバー。

 

 ちょ   朝鮮出兵。

             (ちょうせんしゅっぺい)。 《 戦い》。

          (= 文禄・慶長の役 ぶんろく・けいち

             ょうのえき)。

          (1592−1598年)。

          (⇒ 文禄・慶長の役)。

 

 ちょ  朝鮮戦争。

            (ちょうせんせんそう)。  

         ○ 東西冷戦下の、1950〜53

         年の間、朝鮮半島で戦われた戦

         争。

            (⇒ 朝鮮戦争(世界史))。

 

 ちょ   朝鮮特需。

             (ちょうせんとくじゅ)。

                          ○ 朝鮮戦争でアメリカの軍需物資の、

             日本での調達により、日本の工業・産業

             が立ち直る。

             (⇒ 朝鮮戦争(世界史辞典))。

 

〇 ちょ   朝鮮の役。

             (ちょうせんのえき)。

                    (= 文禄・慶長の役、秀吉の朝鮮

          出兵)。

                    (1592年 と 1597〜98年)。

                    (⇒ 文禄・慶長の役

 

〇 ちょ   重祚。

             (ちょうそ)。

          (= 天皇の再即位)。 

          ○ 天皇が再即位すること。

          (⇒ 天皇

 

〇 ちょ  長宗我部 元親

            (ちょうそかべ もと ちか)。

            (1539〜1599年)。

          ○ 四国の戦国大名。

          ○ 美男子で、戦いの天才。

 

〇 ちょ  長宗我部 盛親

             (ちょうそかべ もり ちか)。 《人名》。

          ○ 長宗我部 元親の男子で、

                 土佐の戦国大名。

               (⇒ 長宗我部 元親)。

 

〇 ちょ   蝶々夫人

             (ちょうちょうふじん) 。 《人名》。

             ■ 蝶々夫人 (ちょうちょうふじん)は、

             架空の日本人女性で、 幕末・ 明治初期

             に来日した米海軍士官・ピンカートンと長

             崎で恋に落ち結 婚した女性であり、 オ

             ペラ歌劇「蝶々夫人」の主人公である。

 

 ちょ   朝廷 

             (ちょうてい)。 

             《前近代日本の政治組織》。

           (= 天皇家の政治組織)。 

             THE IMPERIAL COURT.

             ■ 朝廷 (ちょうてい、英:The Imperial 

             Court) とは、 前近代日本の天皇家の政

             治組織である。

               朝廷は、 天皇家が政治をとるところ

             である。

 

 ちょ   朝廷の位階

             (ちょうていのいかい)。

            (= 朝廷の律令官制の位階)。

          位階》。 《朝廷の官位》。

          (701年頃ー1869年頃)。

                         ■ 朝廷は、 律令官制の中で、朝廷の位

             階(ちょうていのいかい)を定めた。

          (⇒ 律令官制位階叙位

                    ○ 前近代日本の、朝廷の位階。

          ○ 前近代日本の、朝廷の官位

          (= 「朝廷の職」と「朝廷の階」)

          の1つ。

          ■ 前近代日本の、朝廷の律令

                          官制8世紀前半制定の 30位階。

             ● <701年頃〜1869年頃、使用>。 

             ■ 前近代日本の、朝廷の律令官制8世

             紀前半制定)の30位階は、

             上位順に、 正一位、 従一位、 正二位

             従二位、  正三位、 従三位、 正四位上

             正四位下従四位上従四位下正五位上

             正五位下従五位上従五位下正六位上

             正六位下従六位上従六位下正七位上

             正七位下従七位上従七位下正八位上

             正八位下従八位上従八位下大初位上

             大初位下少初位上少初位下 である

           (⇒ 一位二位三位四位

            五位六位七位八位初位)。

           (⇒ 朝廷官職公卿)。

           (⇒ 位階令の位階叙位条例 の

          位階職員令の位階

              ■ 朝廷の位階 (ちょていのいかい)は、 

             前近代日本の朝廷の律令官制(りつりょう

             かんれい)の位階であり、  30位階であり、 

             701年頃から1869年頃まで使用された。

             ■ 前近代日本の 、朝廷の律令官制の30

             位階は、 8世紀前半制定の、大宝律令や

             養老律令の位階から、1869年制定の、

             員令の位階への変更まで、使用された。

 

 ちょ   朝廷の官位

             (ちょうていのかんい)。

             (= 「朝廷の官職」と「朝廷の位階」)。

           《朝廷》。

          (⇒ 朝廷の位階朝廷の官職朝廷)。

              (⇒ 位階官職公卿律令官制)。

                     ○ 朝廷の「官職」と「位階」。

                     ○ 前近代日本の、朝廷の官位。

           前近代日本の、朝廷の官位

           (= 「朝廷の職」と「朝廷の階」)

                     ○ 前近代日本の、朝廷での地位・

          身分の1つ。 

 

 ちょ   朝廷の官職 

             (ちょうていのかんしょく)。

          《朝廷の官位》。

                    ■ 前近代日本の、朝廷の官職。

          前近代日本の、朝廷の官位

          (= 「朝廷の職」と「朝廷の階」)

          の1つ。

           (⇒ 官職位階朝廷公卿

          令官制)。

          ○ 朝廷の高位の官職には、

          高位順に、

          @ 太政大臣 (だいじょうだいじん)

          A 左大臣 (さだいじん)

          B 右大臣 (うだいじん)

          C 内大臣 (ないだいじん)

                    D 大納言 (だいなごん)

          E 中納言 (ちゅうなごん)

          F 参議 (さんぎ) などがある。

 

 ちょ   朝堂院。

            (ちょうどういん)。 《宮城》。

       (⇒ 宮城(きゅうじょう))。

          ○ 都城・京>

           宮城(= 皇城、皇居)>

           内裏、大極殿、 朝堂院

           曹司。

           □ 日本古都ガイドブック

           □ 日本古都 関連年代順

                        出来事ブック。  

          □ 平安京 画像アルバム

             No.1 

            □ 平城京 画像アルバム 

             No.1

            (⇒ 天皇天皇家朝廷 

              (⇒ 古都(こと)首都

                           (みやこ))。

              (⇒ 都城(とじょう)(きょう))。

              (⇒ 都城宮城(きゅう

             じょう)内裏(だいり))。

              (⇒ 都城飛鳥京

             藤原京平城京

                  長岡京平安京)。

              (⇒ 都城内の

                      宮城(= 皇城、皇居)

             飛鳥京と 飛鳥諸宮

           藤原京と藤原宮

                平城京平城宮

           長岡京長岡宮

            平安京平安宮大内裏

           (だいだいり))。

            (⇒ 都城内の、

                       宮城(= 皇城、皇居)内の、

            内裏(だいり)

               大極殿(だいごくでん)

            朝堂院(ちょうどういん)、

            曹司(ぞうし))。

 

             ■ 朝堂院。

             ■ 朝堂院(ちょうどういん)とは、

             古代日本の時代において、藤原宮

             より、宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居) 内に設置された施設あり、

             宮城内で、天皇の臣下の官人が控

             える場(着座・列立する場)として利

             用された施設である。

 

             ■ 曹司。

             ■ 曹司(ぞうし)とは、

             古代日本の時代において、 宮城 

             (きゅうじょう、= 皇城、皇居)内に

             あり、 朝堂院(ちょうどういん)

             外に設けられた庁舎・官衙(かんが、

             官庁)である。

               古代日本で、藤原宮から、官人

             が執務する場は、 当初は、宮城内

             の、朝堂院であったが、次第に、

             官人の実務は、宮城内の、曹司(ぞ

             うし)で行われるようになった。

               曹司(ぞうし)は、中央官庁の庁

            舎内の部屋、局なども意味する。

 

             ■ 大極殿。

             ■ 大極殿(だいごくでん)は、 

             古代日 本の時代において、藤原宮

             より、宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居) 内に設置された施設であ

             り、 宮城内で、天皇の公的行事

             (国家的儀式)を行う場として利用

             された。 

               当初、大極殿は、朝堂院とは

             別に形成されていたが、平安宮か

             ら、南面の回廊が撤去され、大極

             殿は、朝堂院の正殿となる。

            

          ■ 宮城(= 皇城、皇居)。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

             ■ 宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居)は、  古代日本の時代に、

             藤原宮、平城宮、長岡宮、平安宮

             では、 

             天皇の住居(御殿)である

             内裏の内廷 

             と、 

             その周囲の朝廷(官庁)施設である

             大極殿、朝堂院、曹司等の外朝

             を合わせた皇城(皇居)である。

             ■ 宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居)は、  古代日本の時代に、

             藤原宮、平城宮、長岡宮、平安宮

             では、 

             天皇の住居(御殿(ごてん))であ

             る内裏(だいり)の内廷(ないてい) 

             と、 

             その周囲の朝廷(官庁)施設であ

             る大極殿(だいごくでん)、朝堂院

             (ちょうどういん)、曹司(ぞうし)等

             の、外朝(がいちょう)

             を合わせた皇城 (こうじょう・おう

             じょう、皇居)である。

             ■ 宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居)は、古代日本の時代に、

             藤原宮、平城宮、長岡宮、平安宮

             では、 

             内裏(だいり)、

             大極殿(だいごくでん)、

             朝堂院(ちょうどういん)、

             曹司(ぞうし)、

             などで占められていた。

             ● 宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居)は、古代日本の時代では、

             藤原宮、平城宮、長岡宮、平安宮

             では、 

             内裏(だいり、=天皇の住居、天

             皇の御殿)、 

             大極殿 (だいごくでん、国家儀式

             等を行う建物)、 

             朝堂院 (ちょうどういん、国家政 

             務等を行う建物)、 

             曹司(ぞうし、官人が実務をとる

             中央官庁、官衛(かんが、諸官庁)) 

             などから構成されていた。

             ■ 内裏。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

             ■ 内裏 (だいり)とは、 

             前近代日本の、天皇の住居、居所、

             御殿(ごてん)をいう。

 

             ■ 日本の主要な宮城

             (= 皇城、皇居)。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

             ■ 日本の主要宮城。

             ● 日本の主要な宮城(きゅうじょ

              う、= 皇城、皇居)には、

             (1) 飛鳥諸宮 (あすかしょきゅ

              う、= 飛鳥京の諸宮、飛鳥地域

              の諸宮城、

              奈良県明日香(あすか)村付近、

              6世紀頃ー694年)、 

             (2) 藤原宮(ふじわらきゅう、

              = 藤原京の宮城、

              奈良県橿原市(かしはらし)付近、

              694年ー710年)、 

             (3) 平城宮 (へいじょうきゅう、

              = 平城京の宮城、

              奈良県奈良市(ならし)付近、

              710年ー740年・745年ー

              784年)、 

             (4) 長岡宮 (ながおかきゅう、

              = 長岡京の宮城、

              京都府向日市(むこうし)付近、

              784年ー794年)、 

             (5) 平安宮 (へいあんきゅう、

              = 平安京の宮城)、

              京都府京都市付近、

              本来の平安宮は平安時代末期

              まで、京都府京都市上京区(か  

              みぎょうく)付近、

              794年ー1177年頃)、 

             などがある。

 

 ちょ  長徳 (ちょうとく) 。 

             ○ (995〜999年)。

             ● 995年・長徳元年・2月22日〜

                999年・長徳 5年・1月13日。 

             ● 平安時代中期。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

            日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

 ちょ  長保 (ちょうほう) 。 

             ○ (999〜1004年)。

             ●  999年・長保元年・1月13日〜

                1004年・長保 6年・7月20日。 

             ● 平安時代中期。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

            日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

 ちょ   長丸。 

           (ちょうまる)。 (幼名、早世)。

          (江戸幕府・第2代将軍・徳川秀

          忠の長男)。 《人名》。

                     ○ 長丸の生母夫人は

          侍女で、名不詳である。

                     (⇒ 徳川秀忠お江(おごう)

             ■ 江戸幕府・第2代将軍・徳川秀忠の実

             子の男子には、 @ 侍女 (秀忠側室夫

              人、名不詳)との間に、 長丸 (ちょうまる;

             長男、早世)、 A お江 (おごう、秀忠正

             室夫人)との間に二人の男子、 徳川家光

             (とくがわいえみつ、幼名:竹千代(たけち

             よ);次男) と 徳川忠長 (とくがわただ

             なが、幼名:国松(くにまつ);三男)、 B 

             お静 (おしず、お志津、浄光院;侍女、秀

             忠側室夫人)との間に、 保科正之 (ほし

             なまさゆき)幼名:幸松(こうまつ、ゆきま

             つ);四男) がいた。 

 

 ちょ   長暦 (ちょうりゃく) 。 

             ○ (1037〜1040年)。

             ● 1037年・長暦元年・ 4月21日〜

                1040年・長暦 4年・11月10日。 

             ● 平安時代中期。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

            日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

 ちょ   長禄 (ちょうろく) 。 

              ○ (1457〜1460年)。

               ● 1457年・長禄元年・ 9月28日〜

                 1460年・長禄 4年・12月21日。 

              ● 室町時代中期。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

            日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

 ちょ   長和 (ちょうわ) 。 

             ○ (1012〜1017年)。

             ● 1012年・長和元年・12月25日〜

                1017年・長和 6年・ 4月23日。 

             ● 平安時代中期。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

            日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

 ちょ   勅撰和歌集

             (ちょくせんわかしゅう)。

              ○ 古今和歌集、新古今和歌

          集など21歌集。

 

#chira

 

〇 ちん  鎮西八郎。

             (ちんぜいはちろう)。

                    (= 源為朝 みなもとのためとも)。

               (⇒ 保元の乱 ほうげんのらん)。 

          ○ 鎮西八郎は、

           源為義の子源義朝の弟、

          源頼朝の叔父である。

          ○ 鎮西八郎は、

                     1156年の保元の乱で活躍し、

          捕縛され、伊豆大島へ配流さ

          れる。

 

〇 ちん  鎮台

             (ちんだい)。 《旧日本陸軍》。

          (= 明治新政府(近代日本政

          府)の常備の陸軍)。

          ○ 鎮台は、明治初期の日

          本の軍隊である。

          ○ 鎮台は、旧日本陸軍・

          師団の前身である。

             ■ 鎮台 (ちんだい)は、 日本各地

                       におかれた、明治新政府(近代日本

             政府)の、陸軍駐屯部隊である。

             ■ 鎮台は、明治初期の日本各地の

              反政府の暴動、反乱等の鎮圧に 活

             躍した。

          

 

 

   ● 五十音順 (あいうえお順)。

 

 

   ■  『 現在は、過去の成果であり、

       未来は、現在の成果である。 

         (良き現在は、過去の人々の良き努力

          や活動の積み重ねの成果であり、 

          明るい良き未来は、現在の人々の、

          良き努力や活動の積み重ねによって

          形成される。)

 

 

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#jpdictionary(general)

 

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#chi

 

◆ 派生見出し語サイト。

■ 「ち」 基本・見出し語WEBサイト No. ja−chi  

  の、派生見出し語サイト。

 

 No. ja−chi−3815。

● 見出し語項目 ち   ( ゅ 38 / う 15

  付近   第1部・ゆ・ア行グループ )。

〇 ちゅ  中世日本 (ちゅうせいにほん)

                    (1192 年 〜1573年) 

〇 ちゅ  中世天皇親政政権 (ちゅうせい

          て んの うしんせい せいけん) (= 建武政

                    権) (1333 年頃〜1336年頃)。

〇 ちゅ  中世天皇親政政治 (ちゅうせ

                       いてんのうしんせいせいじ) (= 建武の親

          政) (1333年頃〜1336年頃)。 

 

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#theteaceremonyparty

 

■ 茶会  

     (ちゃかい)。

 

■ 茶会。 

■ 名称 : 茶会 (ちゃかい)

■ 英語名 : 

   TEA-CEREMONY PARTY (PARTIES).

■ 《茶の湯》。

■ 「豊臣 秀吉」、 「千 利休」、 「黄金の茶室」 も参照して

  ください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 71836。

 

 

◆ 秀吉の、茶の湯接待。

■ 秀吉の、天下統一前の4大茶会。

■ 秀吉の、天下統一前の4大茶会(1584−1587年)。

     1590年(天正18年)の天下統一(日本本土・全土

  統一統治)の前に、 豊臣 秀は、天下人(天下統一

  者)を目指して、接待のため、  千 利休(千 宗易)と相

  談して、1584年(天正12年)から1587年(天正15年)

  までの間、4大茶会(イベント茶会) を開いた。

     その4大茶会(イベント茶会)とは、(1) 有名茶人接

  待のための1584年(天正12年)10月の大坂城茶会、

  (2) 皇族・公家接待のための1585年(天正13年)10

  月の禁裏(禁中)茶会、 (3) 九州征伐参加大名・武将

  接待のための1587年(天正15年)1月の大坂城茶会、

  (4) 民衆接待のための1587年(天正15年)10月の

  北野天満宮茶会(北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ) で

  ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

              

■ (1) 1584年(天正12年)・大坂城茶会。

    1584年(天正12年)10月の大茶会(だいちゃかい)

   は、 日本各地の大名や武将と親交のある茶人との親

   交を深め、茶人が知る日本各地の情報を得るため、

   有名茶人(ちゃじん)29人を大坂城の表御殿(おもてご

   ての)の大広間に招待して行われた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ (2) 1585年(天正13年)・禁裏(禁中)茶会。

      1585年(天正13年)10月の大茶会は、朝廷と親

  交を深めるための禁裏(きんり、禁中(きんちゅう))茶会

  であり、 天皇御所 (てんのうごしょ、天皇の住まい、

  = 禁裏(禁中)) で、 天皇(正親町(おおぎまち)天皇)、

  皇子、公家たちを招待して行われた。 

      黄金の茶室は、 豊臣秀吉によって、天皇をもて

     なす禁裏(禁中)茶会 (きんり(きんちゅう)ちゃかい) 

  のためにつくられた。 

      千 利休(千 宗易)は、 禁裏(禁中)茶会に参加

    する僧侶身分を得るため、 正親町(おおぎまち)天皇よ

  り利休居士(りきゅうこじ)の号を与えられる。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ (3) 1587年(天正15年)・大坂城茶会。

     1587年(天正15年)1月の大茶会は、九州征伐

  前に、九州大半占領の強敵の島津氏に必ず勝つため

  九州征伐豊臣軍を団結させるため、 共同飲食で秀吉

  の臣下の大名や武将の結束を図るため、臣従した大

  名や武将たちを大坂城に招待して、決起集会として、

  行われた。 秀吉臣従下の多くの大名は、お互いかっ

  て敵同士であったこともあるので。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

             

■ (4) 1587年(天正15年)・北野天満宮茶会 (北野

   大茶湯(きたのおおちゃのゆ)。

       1587年(天正15年)10月の大茶会は、民衆の

   人気を得るため、民衆の好感度調査のため、 京(都)

   の北野天満宮(きたのてんまんぐう)で、一日、民衆を

   招待して行われた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#-appearingscenes

 

♪♪ 茶会 が登場する、興味深い、ド キュメ

       ンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 茶会 が登場する、興味深い関連ドキュメ

   ンタリー。 

 

■ 高島礼子・日本の古都∇戦国歴史

   ミステリーSP 『 歴史ミステリー 

   豊臣秀吉 天下取りに隠された

   四大茶会の謎 』 (前編と後編)。

    (TBSテレビ・2016年7月 15日・本放送

   ドキュメンタリー番組)。 

■ 1590年の天下統一前に、秀吉が、千利休

   と相談して、もよおした4大茶会 (@158

   4年10月大坂城茶会、A1585年10月禁

  裏(禁中)茶会、B1587年1月大坂城茶会

   C1587年10月北野天満宮茶会) の詳

  細に述べる。

● 前篇で、@1584年10月大坂城茶会、A

  1585年10月禁裏(禁中)茶会の大茶会の

  詳細を述べる。

● 後編で、B1587年1月大坂城茶会、 C

  1587年10月北野天満宮茶会の大茶会の

  詳細を述べる。

 

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#thelocalplacename

 

■ 地域名  

      (ちいきめい)

 

■ 地域名。

■ 名称 : 地域名 ( ちいきめい)。

■ 英語名 : 

   THE LOCAL PLACE NAME.

■ 《日本の地域名》。

◆ 日本の、地域名には、 広さ別に、 

  (RWL)   日本の大地域名 と、 

  (RWM)  日本の中地域名 と、 

  (RWS)  日本の小地域名  がある。

◆ 日本の、地域名には、 現旧別に、 

  (RTJ) 日本の現地域名  と、 

  (RTK) 日本の旧地域名 がある。

■ 地域名。

  <日本の地名

■ 前近代・旧地域名に関しては、  「前近代日本

  の地域名」を参照してください。 

■ 日本の地名の全体に関しては、 「日本の地名

  を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61912。

 

 

■ 日本の地域名。

◆ 日本の、地域名には、 広さ別に、 

  (RWL)   日本の大地域名 と、 

  (RWM)  日本の中地域名 と、 

  (RWS)  日本の小地域名  がある。

 

■ (RWL) 日本の、大地域名の変遷。

  ● @ 五畿七道⇒ A 旧近現代地方

    ⇒ B 現8地方。

 

   @ 五畿七道 (ごきしちどう) (紀元 (後)701

   年頃ー1868年頃、飛鳥白鳳時代末期ー江

   戸時代) ⇒ 

  A 旧近現代地方 (1868年頃ー1989年頃、

      明治時代ー昭和時代) ⇒ 

  B 現8地方。

 

■ (RWM) 日本の、中地域名の変遷。

  ● @ 国造・県主分国⇒ A 旧国(令制国)⇒ 

     B 旧都道府県⇒ C 現47都道府県。

             

   @ 国造(くにのみやつこ)・県主(あがたぬし)

    国 (紀元(後)3世紀頃ー701年頃、古代日

        本前期) ⇒ 

  A 旧国(きゅうこく、令制国(りょうせいこく)) 

    (701年頃ー1868年頃、飛鳥白鳳時代末期

        ー江戸時代) ⇒ 

  B 旧都道府県 (1868年頃ー1989年頃、明

    治時代ー昭和時代) ⇒ 

  C 現47都道府県。

 

 

■ 日本の地域名。

◆ 日本の、地域名には、 現旧別に、 

  (RTJ) 日本の現地域名  と、 

  (RTK) 日本の旧地域名 がある。

  

■ (RTJ) 日本の 、現地域名は、 (RLJ) 現・大

   地域名の、現8地方の北海道・東北・関東・中部・

   近畿・中国・四国・九州地方 や (RMJ) 現・中

   地域名の、現47都道府県 などである。

 

■ (RTK) 日本の、旧地域名は、 (RLKB) 旧・

   大地域名(旧地方名)の、 五畿七道(ごきしち

   どう) や (RMKB) 旧・中地域名の、旧国名 

   (きゅうこくめい、令制国(りょうせいこく))などで

   ある。

 

 

■ (RTK) 日本の、旧地域名。

■ (RTK) 日本の、旧地域名には、  時代別に、

  (RKA) 近現代日本・旧地域名、  (RKB 律

  令制定後・古代・中世・近世日本・旧地域名、

  (RKC) 律令制定前・古代日本・旧地 域名、 が

  ある。  

             

■ (RKB・C) 前近代日本の地域名(= 前近代旧

  地域名)には、 (RKB 律令制定後・古代・中

  世・近世日本・旧地域名 と、 (RKC) 律令制

  定前・古代日本・旧地域名がある。 

 

 

  

 

 

  

 

 

  

  

 

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#chuburegion

 

■ 中部地方 

     (ちゅうぶちほう)

 

■ 中部地方。 

■ 名称 : 中部地方 (ちゅうぶちほう)。

■ 英語名 : CHUBU REGION.

■ 現地方名。 《現地域名》。

■ 中部地方。

  <日本本土(本州、四国、九州)。

  <日本国

■ 中部地方に関係する、北陸道(ほくりくどう)、

  東山道(とうさんどう)、東海道(とうかいどう)の

  広域地方に関しては、「北陸道」、「東山道」、

  「東海道」を参照してください。

■ 前近代・旧地域名に関しては、 「前近代日本の

  地域名」を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61825。

 

 

■ 中部地方(ちゅうぶちほう)は、 新潟県、 富山

  県、 石川県、 福井県、 長野県、 岐阜県、

  山梨県、 静岡県、 愛知県 の地である。

 

    

 

 

 

■ 中部地方(ちゅうぶちほう)は、  新潟県佐渡島

  (佐渡国)、 新潟県本土 (越後国)、 富山県

  (越中国)、 石川県北部・南部 (能登国、加賀

  国)、 福井県北部・南部 (越前 国、若狭国)、 

  長野県(信濃国)、 岐阜県北部・南部 (飛騨

  国、美濃国)、 山梨県 (甲斐国)、 静岡県東

  部・伊豆半島 (伊豆国本土)、 静岡県中部・西

  部(駿河国、遠江国)、 愛知県東部・西部(三河

  国、尾張国)、の地である。

 

■ 中部地方(ちゅうぶちほう)は、 

  @ 北陸道(ほくりくどう)・広域地方の全部

  の、新潟県佐渡島 (佐渡 国(さど のくに))、 

  新潟県本土 (越後 国(えちご のくに))、 富

  山県 (越中 国(えっちゅう のくに))、 石川県

  北部・南部 (能登 国(のと のくに)、加賀 国

  (かが のくに))、 福井県北部・南部 (越前

  国 (えちぜん のくに)、若狭 国(わかさ のく

  に)) と、  

   A 東山(とう さんどう)・広域地方の一部

  の、長野県 (信濃 国(しなの のくに))、 岐

  阜県北部・南部 (飛騨 国(ひだ のくに)、美濃

  国(みの のくに)) と、 

  B 東海道(とうかいどう) ・旧広域地方の一部

  の、山梨県 (甲斐 国(かい のくに))、 静岡県

  東部・伊豆半島 (伊豆 国(いず のくに)本土)、 

  静岡県中部・西部 (駿河 国(するが のくに)、

  遠江 国 (とおとうみ のくに))、 愛知県東部・

  西部 (三河 国(みかわ のくに)、尾張 国(お

  わり のくに))、 の地である。

 

 

 北陸道、東山道、東海道の広域地方は、 飛

  鳥白鳳時代末期から江戸時代まで使用された、

  律令制定後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

  旧地方名の、五畿七道 (ごきしちどう、8地方)の

  広域地方の3つである。

 

■ 北陸道。

■ 北陸道(ほくりくどう)広域地方は、 現在の

  新潟県佐渡島(佐渡 国)、 新潟県本土 (越後

  国)、 富山県 (越中 国)、 石川県北部・南部

  (能登 国、加賀 国)、 福井県北部・南部 (越前

    国、若狭 国) の地域に相当する領域で ある。

 

 東山道。

 東山道(とうさんどう)・旧広域地方は、 現在の

  青森県、岩手県、宮城県、福島県 (陸奥 国)、 

  秋田県、山形県 (出羽 国)、 栃木県 (下野 国)、 

  群馬県 (上野 国)、 長野県 (信濃 国)、 岐阜

  県北部・南部 (飛騨 国、美濃 国)、 滋賀県  (近

  江 国) の地域に相当する領域である。

 

 東海道。

 東海道 (とうかいどう)・旧広域地方は、 現在の

  茨城県 (常陸 国)、千葉県北部・中部・南部 (下

  総 国、上総 国、安房 国)、東京都本土、埼玉県

  (武蔵 国)、 神奈川県 (相模 国)、 山梨県(甲

  斐 国)、 東京都伊豆諸島、静岡県東部・伊豆半

  島(伊豆 国)、 静岡県中部・西部 (駿河 国、遠

  江 国)、 愛知県東部・西部(三河国、尾張 国)、 

  三重県北部・中央中部・中央東部・中央西部 (伊

    勢 国、志摩 国、伊賀 国) の地域に相当する領

  域である。

 

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#chugokuregion

 

■ 中国地方 

      (ちゅうごくちほう)

 

■ 中国地方。 

■ 名称 : 中国地方 (ちゅうごくちほう)。

■ 英語名 : CHUGOKU REGION.

■ 現地方名。 《現地域名》。

■ 中国地方。

  <日本本土(本州、四国、九州)。

  <日本国

■ 中国地方に関係する、山陰道(さんいんどう)、

  山陽道(さんようどう)の広域地方に関して

  は、「山陰道」、「山陽道」を参照してください。

■ 前近代・旧地域名に関しては、 「前近代日本

  の地域名」を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61815。

 

 

■ 中国地方 (ちゅうごくちほう)は、 鳥取県、 島

     根県、岡山県、広島県、兵庫県、山口県 の地

     である。

 

    

 

 

 

■ 中国地方 (ちゅうごくちほう)は、

  @ 山陰道(さんいんどう)・広域地方の一部

  の、鳥取県東部・西部 (因幡 国(いなば のく

  に)、伯耆 国(ほうき のくに))、 島根県隠岐諸

  島・本土東部・本土西部 (隠岐 国(おき のく

  に)、出雲 国(いずのくに)、石見 国(いわみ の

  くに))、

    A 山陽道(さんようどう)・広域 地方の一部

  の、岡山県北東部・南東部・西部 (美作 国(み

  まさか のくに)、備前 国(びぜん のくに)、備中

  国(びっちゅう のくに)、 広島県東部・西部

  (備後 国(びんご のくに)、安芸 国(あき のく

  に))、 山口県東部・西部 (周防 国(すおう の

  くに)、長門 国(ながと のくに))、 の地域 である

 

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#themedievaljapaneserace

 

■ 中世日本人 

     (ちゅうせいにほんじん)

 

■ 中世日本人。 

■ 名称 : 中世日本人 (ちゅうせいにほんじん)。

■ 英語名 : THE MEDIEVAL JAPANESE 

  RACE.

■ 中世日本人 = 中世日本地域土着・常住民。

■ 中世日本人の人種的・文化的特徴 (人類学

  上の分類・特徴)。

■ 「本土日本人」、「琉球人」、「アイヌ人」 の3グ

  ループの中世日本人

■ 中世日本人 (= 中世日本 地域土着・常住民)。

  <日本人 (= 日本地域土着・常住民)。

  <モンゴロイド

  <現生人類(= 新人ホモ・サピエンス(種)。 

  ヒト属

  <人類(= ヒト亜族))。

■ 日本人のルーツ(起源)の詳細に関しては、

  日本史辞典の「日本人」、「原日本人」や「日本

  人ルーツ・ガイドブック」を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61214。

 

□ 中世日本人(人種)の学術分類表  

 

 

■ 中世日本人の人種的・文化的特徴 

  (人類学上の分類・特徴)。

■ 日本人の人種的・文化的特徴 (人類学上の

  分類・特徴)。

 

 中世日本人。

 中世日本人の3グループ

■ 中世日本人とは、 中世日本地域土着・常住民

  であり、 中世日本で、 日本地域に居住してい

  た、「本土日本人」、「琉球人」、「アイヌ人」 

  グループの人類である。

 

■ 中世日本 (鎌倉時代、建武時代、室町時代)で

  は、 日本地域 (日本本土、北海道、南西諸島

  の日本列島) には、 

       日本本土には、 「本土日本人」の中世日本

  が主に 居住し、 

     北海道には、 「アイヌ人」の中世日本人

  主に居住し、 

     南西諸島には、 「琉球人」の中世日本人

  主に居住していた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 「本土日本人」は、 古・新モンゴロイド混血(= 南

  方・北方モンゴロイド混血)の縄文・弥生渡来・混

  血系の人類である。

     「アイヌ人」は、 古・新モンゴロイド混血(= 南

  方・北方モンゴロイド混血)の縄文・北アジア諸民

  族・混血系の人類である。

        「琉球人」は、  古・新モンゴロイド混血(= 南

  方・北方モンゴロイド混血)の縄文・弥生渡来・混血

  系の人類である。

 

■ 多くの中世日本人は、「本土日本人」で ある。

             

 

 中世日本人。

 中世日本人の3グループ

■ 中世日本人とは、 中世日本の時期に(鎌倉時

  代、建武時代、室町時代に)、 日本本土に居住

  していた「本土日本人」、 南西諸島に居住して

  いた「琉球人」、 北海道に居住していた「アイヌ

  人」 の3グループの人々である。

 

■ 中世日本人には、 「中世日本の本土日本

   人」、 「中世日本の琉球人」、 「中世日本

   のアイヌ人」 の3グループの人々がいた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 中世日本では、 日本地域(日本本土、北海道、

    南西諸島の日本列島)には、 「本土日本人」

  「アイヌ人」「琉球人」3グループの中世日本

  人が居住していた。

 

■ 中世日本人は、 現生人類(= 新人、ホモ・サピエ

  ンス)のモンゴロイドの、日本人(人種)の、中世日

  本の「本土日本人」、「琉球人」、「アイヌ 人」の人

  類である。 

 

■ ここでいう中世日本人とは、 1192年頃から

  1573年頃まで (鎌倉時代、建武時代、室町

  時代に)、 日本地域(日本本土、南西諸島、

  北海道) に居住していた日本人(人種)であ

  り、  「本土日本人」、「琉球人」、「アイヌ人」 の

  3グループの中世日本人である。

      中世日本人(人種)の英語名は、 THE 

  MEDIEVAL JAPANESE RACE である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

             

■ 中世日本では、 日本地域(日本本土、南西

  諸島、北海道)には、 人種的・ 文化的特徴上、 

  縄文・弥生渡来・混血系の「本土日本人(= 本

  土人)(日本本土居住)、 「琉球人」(南西 諸島

  居住) と、 縄文・北アジア諸民族・混血系の

  「アイヌ人」(北海道居住) が居住していた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 中世日本では、 日本地域(日本本土、北海道、

  南西諸島の日本列島)には、 

       日本本土には、 古・新モンゴロイド混血

  (= 南方・北方モンゴロイド混血)の縄文・弥生渡

  来・混血系の「本土日本人」の中世日本人が主に

  居住し、 

     北海道には、 古・新モンゴロイド混血(= 南

  方・北方モンゴロイド混血)の縄文・北アジア諸

  民族・混血系の「アイヌ人」の中世日本人が主に

  居住し、 

     南西諸島には、 古・新モンゴロイド混血

  (= 南方・北方モンゴロイド混血)の縄文・弥生渡

  来・混血系の「琉球人」の中世日本人が主に居住

  していた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 日本人の形成。

     主に、縄文人とその子孫の「縄文系」の人々 

  と、 渡来系弥生人とその子孫 の「弥生渡来系」の

  人々が、 日本本土(九州本土、四国、本州)で、

  古代日本後期(奈良・平安時代)に、混血して、本

  土日本人の日本人を形成する。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 進化表。

■ 中世日本人(人種)への進化表。

  猿人⇒ 

  原人(= ホモ・エレクトス類)⇒

  旧人(= 前ホモ・サピエンス類)⇒ 

  現生人類(= 新人ホモ・サピエンス種)⇒ 

  モンゴロイド⇒ 

  縄文人⇒ 

  弥生人⇒ 

  古代日本人⇒ 

  中世日本人⇒ 

  近世日本人⇒ 

  近代日本人

  現代日本人

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

■ 日本人(人種)への進化表。

  猿人⇒ 

  原人(= ホモ・エレクトス類)⇒

  旧人(= 前ホモ・サピエンス類)⇒ 

  現生人類(= 新人ホモ・サピエンス種)⇒ 

  モンゴロイド⇒ 

  縄文人⇒ 

  弥生人⇒ 

  古代日本人⇒ 

  「本土日本人」(= 本土人)、「琉球人」、

  「アイヌ人」。

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

■ モンゴロイドへの進化表。

  猿人⇒ 

  原人(= ホモ・エレクトス類)⇒

  旧人(= 前ホモ・サピエンス類)⇒ 

  現生人類(= 新人ホモ・サピエンス種)⇒ 

  古モンゴロイ = 南方モンゴロイド)⇒

    モンゴロイド= 北方モンゴロイド)。

● TKKI カナヤマ著 古人類学辞典。

 

 

#themedievaljapaneserace-theclassificationtable

 

■ 中世日本人の学術分類表 。  

    (詳細上位分類、上位所属の分類、日本語名・

    学名・英語名対照)。

○ THE SCIENTIFIC CLASSIFICATION 

  TABLE OF THE MEDIEVAL 

  JAPANESE RACE.

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典  51011。

 

■ 中世日本人。

    (英語名: THE MEDIEVAL JAPANESE 

    RACE)。

 

■ 地球生物            LIFE ON EARTH。

⇒ 真核生物。        (ドメイン: 真核生物域 

                   Domain Eukaryota) 

                   (英名: EUKARYOTE(S))。

⇒ 動物。           ( 界 : 動物界    

                   Kingdom Animalia) 

                                   (英名:ANIMAL (S))。

⇒ 脊索(せきさく)動物。 ( 門 : 脊索動物門   

                      Phylum Chordata) 

                    (英名:CHORDATE (S))

⇒ 脊椎(せきつい)動物。 (亜門 : 脊椎動物亜門 

                       Subphylum Vertebrata) 

                    (英名:VERTEBRATE(S))

                  ● TKKI カナヤマ著 日本史

                  辞典。

⇒ 有顎(ゆうがく)動物   (下門 : 有顎動物下門 

  (顎口類、有顎類)。      Infraphylum

                    Gnathostomata) 

                    (英名: VERTEBRATE (S)

                    WITH JAW)。

⇒ 四肢(しし)動物。    (上 : 四肢動物上綱 

                    Superclass Tetrapoda ) 

                   (英名:TETRAPOD (S))  

⇒ 有羊膜類。         (ランク(階級)なし   

  (ゆうようまくるい)      Amniota) 

                   (英名:AMNIOTE (S))。   

⇒ 哺乳類。         (  綱  : 哺乳   

                    Class Mammalia) 

                  (英名:MAMMAL(S))。

⇒ 獣類。           (亜綱  : 亜綱    

                  Subclass Theria) 

                  (英名:THERIAN(S))。

⇒ 真獣類 (正獣類)  綱  : 真獣下(正獣下)  

  (有胎盤類、有胎盤     Infraclass Eutheria)         

  哺(ほ)乳類)。       (英名:EUTHERIAN(S)) 

                   (英名:PLACENTAL 

                  MAMMAL(S)) 。

                      ● TKKI カナヤマ著 日本史

                  辞典。

⇒ 霊長類。          目  : 霊長目(サル目)    

                     Order Primates) 

                    (英名:PRIMATE(S))。

 

⇒ 直鼻猿類 (新分類法)。亜目 : 直鼻猿亜目    

                   Suborder Haplorrhini) 

                   (英名:HAPLORRHINE(S))。

   真猿類   (新分類法)。下目 : 真猿下目 

                     Infraorder Simiiformes) 

                    (英名: SIMIAN(S))。

   狭鼻猿類 (新分類法)。小目 : 狭鼻小目 

                    Parvorder Catarrhini  ) 

                    (英名: CATARRHINE(S))。

 または、

   真猿類   (旧分類法)。亜目 : 真猿亜目  

                    Suborder Simiiformes) 

                    (英名: SIMIAN(S))。

    狭鼻猿類 (旧分類法) 。(下目 : 狭鼻下目  

                   Infraorder Catarrhini) 

                   (英名: CATARRHINE(S))。

⇒ ホミノイド           (上科 : ヒト上科   

  (類人猿と人類)。       Superfamily Hominoidea) 

                    (英名: HOMINOID(S))。

⇒ 大型類人猿と人類    ( 科 : ヒト科     

 (オランウータン、ゴリラ、   Family Hominidae)      

 チンパンジーと人類)。    英名: NONHUMAN GREAT  

                    APE(S) AND HUMAN(S))。

                    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

⇒ ゴリラとチンパンジ   亜科 : ヒト亜科   

  ーと人類。          Subfamily Homininae)   

                   (英名:  HOMININE(S))。

⇒ チンパンジーと人類。 ( 族 :  ヒト族      

                   Tribe Hominini) 

                  (英名 :HOMININ(S))。

⇒ 人類。                  (亜族 : ヒト亜族    

                   Subtribe Hominina) 

                  (英名: HUMAN(S))。       

⇒ ヒト属(= ホモ属)    ( 属  : ヒト属(= ホモ属)         

  の人類。           Genus Homo) 

                  (英名: HUMAN(S) OF   

                  THE GENUS HOMO)。       

⇒ ホモ・サピエンス       ( 種   ホモ・サピエンス種    

 (= 現生人類、新人)。    Species Homo sapiens) 

                   (英名: HOMO SAPIENS,

                  EXTANT HUMAN  SPECIES)。

⇒ ホモ・サピエンス     ( 亜種   ホモ・サピエンス・サピ

  サピエンス。         エンス亜種    

                  Subspecies Homo 

                  sapiens sapiens 

                   (英名: HOMO SAPIENS  

                  SAPIENS)。

⇒ モンゴロイド        (グループ:  モンゴロイド・グループ

  (= アジア人種)。      Group Mongoloid)。

○ 「古モンゴロイド」     (英名: MONGOLOID(S))。  

 と 「新モンゴロイド」。    ○ モンゴロイドは、容姿・外見

                   (体色・体型) による、人種分類

                  グループの1つである。

                  ○ モンゴロイドは、 古モンゴロ

                  イド(= 南方モンゴロイド) と、 

                  新モンゴロイド(= 北方モンゴロ

                  イド)の2種類に分かれる。

                    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

⇒ 縄文人。         (グループ : 縄文人グループ

                  Group Jomonjin Race)。

                   (英語名: THE JOMONJIN 

                  RACE)。

                  ○ 「縄文人」は、 古モンゴロイ

                  ド(= 南方モンゴロイド)の日本先

                  住民であ り、 原日本人の1グ

                  ループであり、 「縄文系」の人

                  々である。

⇒ 弥生人。          (グループ : 弥生人グループ

○ 「縄文系(在来系)     Group  Yayoijin Race)。

 弥生人」  と          (英語名: THE YAYOIJIN

 「渡来系弥生人」。     RACE)。

                  ○ 弥生人とは、「縄文系(在来

                  系)弥生人」 と 「渡来系弥生人」

                  である。

                  ○ 弥生人は、縄文時代(約1万

                  2000年前〜約2400年前)か

                  ら日本の先住民の古モンゴロイ

                  ド(= 南方モンゴロイド)の「縄文

                  系(在来系)弥生人」  と、 弥生

                  時代(約2400年前〜約1700

                  年前)にアジア大陸からの移住

                                   民の新モンゴロイド(= 北方モン

                  ゴロイド)の「渡来系弥生人」であ

                  る。

                               ○ 「渡来系弥生人」は、 原日本

                  人の1 グループであり、 「弥生渡

                  来系」の人々である。

                   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

⇒ 日本人。         (グループ : 日本人グループ

○ 「古代日本人」      Group Japanese  Race)。

 → 「本土日本人」、     ( 英語名: THE JAPANESE

 「琉球人」、「アイヌ人」。  RACE)。

○ 「古代日本人」      ○ 日本人は、古代日本で形成

 → 「中世日本人」     された。 

 → 「近世日本人」     ○ 日本人は、 古・新モンゴロイ

 → 「近代日本人」     ド混血の、「縄文・弥生渡来・混血

 → 「現代日本人」。    系」の、「本土日本人」や「琉球人」 

                  と、 古モンゴロイドの、縄文系の、

                  「アイヌ人」 の3種類の人類に分

                  かれる。

                  ○ 現在のほとんどの日本人は、 

                  「本土日本人」である。

                  ○ 「本土日本人」は、  「縄文人」

                  とその子孫の「縄文系」 と、 「渡

                  来系弥生人」とその子孫の「弥生

                  渡来系」 との混血の人類である。

                  ○ 「本土日本人」は、 古・新 (南

                  方・北方)モンゴロイド混血の、「

                  文・弥生渡来・混血系」であり、古 

                  代日本後期に形成された。

                  ○ 古代日本で形成された日本

                  人は、時代と共に、「古代日本人」

                  から、「中世日本人」、「近世日本

                  人」、「近代日本人」、「現代日本

                   人」へと少しずつ、平均身長が伸

                  びるなど、容姿・外見(体型・体色)

                  を変化させていった。

                    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#choteinokani

 

■ 朝廷の官位 

      (ちょうていのかんい)。

 

■ 朝廷の官位。 

■ 名称 : 朝廷の官位 (ちょうていのかんい)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51913。

 

 

■ 朝廷の官位 ( ちょうていのかんい) とは、

  朝廷の」  と 「朝廷の」 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 朝廷官位は、 前近代日本(古代から江戸

  時代までの日本)の、朝廷の官位であり、 朝

  廷の「官職」(かんしょく)  と 「位階」(いかい)

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 朝廷の官位は、 前近代日本(古代から江戸

  時代までの日本)の、朝廷での地位・身分の

  1つ である。          

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 朝廷の官職。

 前近代日本の 、高位の朝廷の官職には、 

  高位順に、 @ 太政大臣 (だいじょうだ

  いじん)、 A 左大臣 (さだいじん)、 

  B 右大臣 (うだいじん)、  C 内大臣 

  (ないだいじん)、 D 大納言 (だいな

  ごん)、 E 中納言 (ちゅうなごん)、  

  F 参議 (さんぎ) などがある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 朝廷の位階。

 前近代日本の 、朝廷の 位階の30位階。

  (上位順に、 正一位、 従一位、 正二位

  従二位、  正三位、 従三位、 正四位上

  正四位下従四位上従四位下正五位上

  正五位下従五位上従五位下正六位上

  正六位下従六位上従六位下正七位上

  正七位下従七位上従七位下正八位上

  正八位下従八位上従八位下大初位上

  大初位下少初位上少初位下)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 官位相当制

■ 官位相当制

■ 官位相当制 (かんいそうとうせい)とは、

  前近代日本の、朝廷での、位階に対応した

  官職に就くことを原則とする制度である。

■ ( )は、原則として朝廷の官職に相当する

  朝廷の位階の位階で ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 前近代日本の、高位の朝廷の官職には、 

  高位順に、次のような官職があった。

● 第1位 太政大臣   (従一位  (以上))。  

  (だいじょうだいじん)  (じゅいちい)

   臨時の官職 (常設でない官職)。

● 第2位 左大臣     (正二位 (以上 ))。  

  (さだいじん)       (しょうにい)

● 第3位 右大臣     (正二位 (以上))。

  (うだいじん)

● 第4位 内大臣     (従二位 (以上 ))。

  (ないだいじん)          (じゅにい)

● 第5位 大納言     (正三位 (以上 ))。

  (だいなごん)      (しょうさん

● 第6位 中納言     (従三位 (以上 ))。  

  (ちゅうなごん)     (じゅさん

● 第7位 参議       (四位   (以上))。 

  (さんぎ)         (しい)

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#chunagon

 

■ 中納言 

     (ちゅうなごん)

 

■ 中納言。

■ 名称 : 中納言 (ちゅうなごん)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51912。

 

 

■ 中納言 (ちゅうなごん)は、 前近代日本の、

  朝廷の官職 (ちょうていのかんしょく)である。 

 

 朝廷の官職。

■ 朝廷の官職 (ちょうていのかんしょく) は、 

  朝廷の官位 (= 「朝廷の位階」と「朝廷の官

  職」) の1つであり、 前近代日本(古代から

  江戸時代までの日本)の、朝廷での身分・地

  位の1つである。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

                  

 朝廷の官職。

 前近代日本の 、高位の朝廷の官職には、 

  高位順に、 @ 太政大臣 (だいじょうだ

  いじん)、 A 左大臣 (さだいじん)、 

  B 右大臣 (うだいじん)、  C 内大臣 

  (ないだいじん)、 D 大納言 (だいな

  ごん)、 E 中納言 (ちゅうなごん)、  

  F 参議 (さんぎ) などがある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 官位相当制

■ 官位相当制 (かんいそうとうせい)とは、

  前近代日本の、朝廷での、位階に対応した

  官職に就くことを原則とする制度である。

■ ( )は、原則として朝廷の官職に相当する

  朝廷の位階の位階で ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 前近代日本の、高位の朝廷の官職には、 

  高位順に、次のような官職があった。

● 第1位 太政大臣   (従一位  (以上))。  

  (だいじょうだいじん)  (じゅいちい)

   臨時の官職 (常設でない官職)。

● 第2位 左大臣     (正二位 (以上 ))。  

  (さだいじん)       (しょうにい)

● 第3位 右大臣     (正二位 (以上))。

  (うだいじん)

● 第4位 内大臣     (従二位 (以上 ))。

  (ないだいじん)          (じゅにい)

● 第5位 大納言     (正三位 (以上 ))。

  (だいなごん)      (しょうさん

● 第6位 中納言     (従三位 (以上 ))。  

  (ちゅうなごん)     (じゅさん

● 第7位 参議       (四位   (以上))。 

  (さんぎ)         (しい)

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 公卿。

● 公卿(くぎょう)とは、前近代日本の、朝廷の、

  位階三位(さんみ)以上の者や位階・四位(し

  い)以上で参議の官職に叙任(じょにん)された

  者である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#thehideyoshi'shardmarchtoyamashiro

 

■ 中国大返し  

      (ちゅうごくおおがえし)。

 

■ 中国大返し。

■ 名称 : 中国大返し (ちゅうごくおおがし)。

■ 別名 : 備中大返し (びっちゅうおおがし)。

■ 中国大返しとは、 

  備中・高松から山城・山崎まで、約2万人以上

  兵の秀吉軍の、足掛け8日間(または9日間)

  の、約230kmの敏速な行軍である。

■ 中国大返しによる秀吉の敏速な、行軍と明

  智光秀軍の討伐は、結果的に、秀吉の天下

  統一への第一歩となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典  11738。

 

□ 中国大返し (総合)

□ 他の主な織田勢力( 織田軍団)

   の状況

□ 中国大返しの出発点の備中・

   高松での状況

   (1582年6月2日〜6月6日

   (または6月5日)。

□ 中国大返しの行軍途中の状況

   (1582年6月6日(または6月

   5日)〜6月13日)。

□ 中国大返しの到着地の山城で

     の「山崎の戦い」

   (1582年6月13日)。

□ 中国大返し関連ドキュメンタリ

   ー、ドラマ、映画

 

 

■ 中国大返し。

  ■ 中国大返し (ちゅうごくおおがし、= 備

    中大返し)とは、 足掛け約8日間(また

    は9日間 )をかけ、備中高松城から山城・

    山崎までの約230kmの道を走破した、

    約2万人以上の兵の秀吉軍の敏速な行

    軍である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 中国大返し。

  ■ 中国大返しは、 

  1582年(天正10年)6月6日(または6月5

  日)から6月13日まで、 主君・織田信

  弔い合戦(ともらいがっせん)のため、 約2

  万人以上の兵の羽柴吉 (はしばひでよし、

  豊臣秀吉)の軍の、備中 国(びっちゅうのくに、

  現・岡山県西部)の高松から山城国(やましろ

  のくに、現・京都府南部)の山崎までの敏速な

  強行移動 と、 山城の「山崎の戦い」での勝

  利(1582年(天正10年)6月13日)をいう。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 中国大返しの2つの有力な説。

  ■ 中国大返し (ちゅうごくおおがし、= 備中

    大返し)とは、 (1) 1582年(天正10年)

    6月6日秀吉本隊高松出発説では、 足掛

    け約8日間をかけ、備中・高松城から山城・

    山崎戦場までの、約2万人以上の兵の

    吉軍の、約230kmの道を走破した行軍で

    あり、 (2) 1582年(天正10年)6月5

    日秀吉本隊高松出発説では、 足掛け約

    9日間をかけ、備中高松城から山城・山崎

    戦場までの、約2万人以上の兵の秀吉軍

    の、約230kmの道を走破した秀吉軍の

    行軍である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 中国大返し。

  ■ 中国大返し (ちゅうごくおおがし、=

   備中大返し)とは、 秀吉が1582年(天

   正10年)6月2日の本能寺の変を知り、

   主君・織田 信の弔い合戦(ともらいが

   っせん)のため、 1582年(天正10年)

   6月6日(または6月5日)から13日まで

   の足掛け8日間(または9日間)、備中国 

   (び っちゅうのくに、現・岡山県西部の

   相当地域)の高松から山城国(やましろ

   のくに、現・京都府南部の相当地域)の

   山崎までの、約2万人以上の兵の羽柴

   秀吉(豊臣秀吉)の軍の、約230kmの

   行程の敏速な (スピーディーな)行軍で

   ある。 

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 秀吉本隊の兵は、軽装で移動する。

   秀吉は、 本隊が通る先々の各所で食

   べ物(握り飯)、水、松明(たいまつ)等

   を用意し、 一方、秀吉別動隊の輸送

   部隊は、陸路・海路で、荷車、船で甲冑

   (かっちゅう)、武器、食料等を運ぶ。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 中国大返し。

  ■ 羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、 中国大

   返しで、自軍の敏速な強行移動を行い、 

   秀吉は、信長・信忠父子は窮地を脱し

   近江(おうみ)へ逃亡という偽(いつわ)

   りの情報の書状を近畿付近の各武将へ

   送り、 秀吉は、更に行軍途中で賛同す

   る軍勢も得て、山城国の山崎で、約3万

   人の兵となり、 秀吉は、1582年(天

   正10年)6月13日に、 軍勢を多く集

   められず準備不足の約1万3000人の

   兵の明智光秀の軍と戦い、山崎の戦い

   で勝利を得る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#thehideyoshi'shardmarchtoyamashiro-general

 

◆ 中国大返し (総合)。

  ■ 中国大返し (ちゅうごくおおがし)とは、

   1582年(天正10年)の6月6日(または6月

   5日)から6月13日まで、 主君の弔い合戦

   (ともらいがっせん)のため、 備中(びっちゅ

    う、現・岡山県西部)の高松から山城(やま

   しろ、現・京都府南部)の山崎まで、 約2万人

   以上の兵の羽柴秀吉(豊臣 秀吉)の本隊の

   が、敏速な強行移動をし、 山城の「山崎の戦

   い」で羽柴秀吉の軍が勝利を得たこと(1582

   年(天正10年)6月13日) をいう。

      中国大返しは、別名で、備中大返し (び

   っちゅうおおがし)という。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 中国大返し。

  ■ 中国大返しでは、1582年(天正10年)

   6月3日に、秀吉は、織田信長・信忠父子の

   死を知り、1582年(天正10年)6月2日未

   明(早朝)に織田 信を襲った明智光秀の

   軍を急いで討伐するため、 毛利氏の軍と

   は領地割譲と前線軍の責任者の自害とい

   う条件で以前より下交渉をしていたが、

   信長の死を秘して、秀吉は、 1582年(天

   正10年)6月4日に和議を結び備中・高松

   城城 主の清水 宗治(しみずむねはる)を切

   腹させる。

      秀吉は、備中(びっ ちゅう、現・岡山県西

   部)の高松で、1582年(天正10年)6月3日

   から6月6日(または6月5日)まで、行軍の準

   備をし、 秀吉の本隊は、1582年6月6日に

   (「浅野家文書」、「惟任謀反記」等より)、また

   は、6月5日に、備中 の高松を出発し、 約2万

   人以上の兵の羽柴秀吉(豊臣秀吉)の 本隊の

    軍は、 梅雨期に、 織田軍により以前より拡

   張整備されていた軍用道路を、備中の高松か

   ら山城(やましろ、京都府南部)の山崎まで、

   約230kmを、足掛け約8日間(または約9日

   間)をかけて、踏破し、移動する。 強行行軍

   であった。 

      秀吉は、途中で、味方する勢力を加えて、

   1582年(天正10年)6月12日に富田(とん

   だ)で織田信孝(のぶたか)と合流し、6月13

   日に、秀吉の軍は、最終到着地の山崎(やま

   ざき)では、約3万人の兵となり、 6月13日

   の山崎の戦いで、軍勢を多く集められず準

   備不足の約1万3000人の兵の明智光秀の

   軍と戦い、勝利を収める。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 中国大返しでは、 1582年(天正10年)

   6月13日の山崎の戦いで羽柴秀吉軍は、

   智光秀の軍と戦い、勝利を得る。 

      そして、1582年(天正10年)6月14日

   未明に、小栗栖(おぐるす、京都市伏見区)で、

   近江(おうみ)の坂本城に向い逃亡中の明智

   光秀は、土民に殺害される。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 中国大返し。

  ■ 中国大返しを成功させた手段。

  @ すばやい停戦。

    秀吉方は、敵対する毛利方とすばやい停戦交

   渉を行い、約12時間後に、停戦をまとめた。  

     秀吉方は、毛利氏の軍とは、領地割譲と前線

  軍の責任者の自害という条件で以前より下交渉を

  していたため、すばやい停戦ができた。

     秀吉は、停戦の合意により、一応、毛利方か

   らの追撃の危険はなくなった。

  A すばやい行軍を行う。

    梅雨期ではあったが、 織田軍により以前より

   拡張整備されていた道路を使用し、早い移動が

   可能であった。

  B 行軍の兵に、金銀をばらまき、沿道でまかな

   い飯をふるまう。

     秀吉の率いる織田軍は、織田信長の死によ

   り総大将を失い、多くの兵が逃亡する可能性が

   あった。 

     秀吉は、強行の行軍の兵に、姫路城で、金

   銀、金銭を与え、秀吉の織田軍から逃亡しない

   ようにさせ、 また、強行の行軍の兵に、沿道で、

   まかない飯をふるまい、行軍の兵の不満をなく

    し、行軍の兵が、秀吉の織田軍に踏み留まるよ

   うにさせた。

  C 宿敵の毛利の旗も掲げる。

     秀吉は、味方を増やすため、毛利から借り

   受けたの毛利の旗も行軍の兵にもたせ、毛利

   氏の軍も秀吉の織田軍に援軍として参加して

   いるように見せ掛け、近畿周辺の武将を味方

   につけていった。

     また、山崎の戦いで、明智軍に、借り受けた

   毛利の旗を見せ、毛利氏の軍も秀吉の織田軍

   に援軍として参加しているように見せ掛け、明

   智軍の戦意をそごうとした。

  D 巧みな宣伝。

     秀吉は、 「織田信長・信忠様は生きている」

   と近畿付近の武将に偽(いつわ)りの手紙を書き

   送り、織田信長・信忠父子が本能寺で難を逃れ

   近江で生きていると触れ回り、 近畿付近の武将

   が明智光秀に味方するのを躊躇(ちゅうちょ)させ、 

   謀反人の明智光秀を討伐する秀吉の軍に参加

   するように要請した。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#thehideyoshi'shardmarchtoyamashiro-a

 

◆ 他の主な織田勢力(軍団)の状況。

 

■ 織田氏の四国方面軍。

  ■ 本能寺の変時、1582年(天正年)6月

   3日出発予定の織田氏の四国方面軍を

   指揮する織田信孝や丹羽長秀は、 四国

   の長宗我部氏討伐のため、大阪にいた。

   本能寺の変後、織田信孝や丹羽長秀は、

   織田四国方面軍で多くの織田軍の兵が

   逃亡し、明智光秀討伐に向かえず、明智

   討伐を断念する。

 

  ■ 大阪にいた織田信孝(のぶたか)・ 丹羽

  長秀(にわながひで)の軍は、 本能寺の変

  で織田信長・信忠父子の死去を知った、兵

  の多くが逃亡し、 守りを固め、羽柴秀吉(豊

  臣秀吉)の軍を待つこととなった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 本能寺の変の時、 1582年(天正年)

  6月3日出発予定の長宗我部氏討伐・織田

  ・四国方面軍は大阪にいた。 

     1582年(天正10年)6月2日の本能

  寺の変の知らせが届いた、大阪に いた四国

  方面軍は、 織田信長 ・信忠父子の死によ

  り織田氏の総指揮者を失い、多くの織田軍

  の兵が逃亡し、混乱のうちに四散し、

      織田氏四国方面軍指揮者の、織田信

   (おだの ぶたか)丹羽長秀(にわながひ

   で)は、 動員できる兵力が激減し、 大規

   模な軍事行動に移ることができなくなった。 

      やむをえず、織田信孝と丹羽長秀は、

   大坂で守りを固めて、羽柴 秀吉(はしばひ

   でよし、豊臣秀吉)の軍の到着を待ち、畿

   内(きない)にやって来る羽柴軍(豊臣軍)

   に合流することにした。  

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 織田氏の北陸方面軍。

  ■ 本能寺の変時、織田氏の北陸方面軍を

   指揮する柴田勝家は、 上杉氏を攻め、越

   中の上杉氏拠点の魚津城を攻めていた。 

   本能寺の変後、柴田勝家は、 1582年

   (天正10年)6月3日に魚津城陥落(落城)

   させた後、本拠地の越前に戻り、軍備を

   整え、明智光秀討伐に向かうが、6月18

   日に近江に到着時、明智軍の敗戦と光秀

   死去を知り、明智討伐を 中止する。

 

  ■ 柴田勝家は、  交戦中の越中から居城の

  越前・北庄城(えちぜん・きたのしょうじょう)に

  戻り、明智討伐軍の準備をし、  越前を出

  発し、1582年(天正10年)6月18日に近江

  (おうみ、滋賀県の相当地域)に到着したが、

  既に、明智光秀の軍は、敗戦し、光秀は討た

  れていたことを知り、 明智討伐を断念する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 織田軍の北陸戦線で、柴田勝家前田利

    佐々成 政(さっさなりまさ)の北陸方面

    織田軍は、 上杉氏の上杉景勝の拠点の

    越中(えっちゅう、富山県の相当地域)の

    魚津城(うおづじょう) を、1582年(天正

    10年)6月3日に陥落(落 城)させ、越後

    (えちご、新潟県の相当地域)へ向かおう

    としていた時、 本能寺の変の 知らせが届

    いた。 

   ● 柴田勝家は、 越中での後事を前田利

    や佐々成政らに託し、 越中の魚津から

    船に乗り、 柴田勝家の居城の越前・北庄

    城 (きたのしょうじょう、福井県福井市) 

    に帰り、 柴田勝家は、明智光秀討伐の

    準備をして、柴田勝家の軍は出発し、 

    1582年(天正10年)6 月18日には、

    近江国(おうみのくに、現・滋賀県の相当

    地域)の長浜(ながはま)まで進出した。 

       しかし、その時、 明智光秀が1582

    年(天正10年)6月14日に秀吉により討

    伐され敗死したことを知り (既に、羽柴秀

    吉(豊臣秀吉)によって、1582年(天正

    10年)6月13日に明智光秀の軍が山崎

    の戦いで敗戦し、6月14日に逃亡中光秀

    が討たれたことを知り)、柴田勝家は、

    光 秀討伐を断念する。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 織田氏の関東方面軍。

  ■ 本能寺の変時、織田氏の関東方面軍

    指揮する、滝川一益は、 上野(こうずけ、

    現・群馬県)にいた。 本能寺の変後、明智

    光秀討伐の軍を準備しようとしたが、  

    北条軍が攻めてきたため、武蔵で、北条

    軍と戦い、敗れ、軍を失い、本拠地の伊

    勢長島(いせながしま)に退去する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 本能寺の変の知らせが届いた時、  織田

    氏の関東方面軍の大将の、滝川一益

    きがわかずます)は、 関東での織田軍の

    本拠地の上野(こうずけ、群馬県) にいた。

      1582年(天正10年)6月2日の本能

    寺の変織田信長・信忠父子が死去した

    後、 本能寺の変後、関東での織田軍の

    本拠地の上野(こうずけ、現・群馬県の相

    当地域)に向かって、 北条氏直(北条氏

    政の嫡男)や北条 氏邦(氏政の弟)

    条軍が動き出した (北条氏政・氏直の天

    正壬午の乱参入)。

       滝川 一益は、 北条軍が上野(こうず

    け)に向かって来る事を知り、 滝川の軍を

    すぐに明智討伐に向けられず、 滝川の軍

    を武蔵(むさし、現・埼玉県、東京都の相

    当地域)方面に向ける。

       滝川一益は、 武蔵にて、約2万人の

    兵で北条軍を迎え撃ち、 約5万人の兵の

    北条軍と戦い(神流川の戦い)、 1582年

    (天正10年)6月19日に、敗(やぶ)れ、 

    上野の箕輪城(みのわじょう)へ逃げ帰る。 

    この敗北で、滝川一益は、 上野 国(こうず

     けのくに、現・群馬県の相当地域)を保持

    できなくなり、 自身の本拠地の伊勢長島

    (いせながしま、三重県)に退去することに

    決める。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 家康の帰国と家康軍。    

  ■ 本能寺の変時、徳川家康は、少人数の供

    を連れ、畿内の堺にいた。 

      本能寺の変後、1582年(天正10年)

    6月2日午前中に、堺見物(遊覧)後、京

    へ上洛する途中で、河内国飯盛山(いい

    もりやま)・山麓にいたとき、本能寺の変

    の一報を聞く。

      家康は、敏速に河内国から山城国、近

    江国、伊賀国、伊勢国を経て、6月4日に、 

    領国の三河国 (みかわのくに)の岡崎城

    (現・愛知県岡崎市)に到着する。

       家康は、領国の三河国で、軍備を整

    え、明智光秀討伐をめざして、尾張国熱

    田まで進軍したが、明智軍敗北と光秀の

    死去を知り、中止し、一転して、織田領の

    甲斐・信濃攻めに着手し、領国拡大をめざ

    す。

    

  ■ 家康の謁見上洛、帰国、行軍。

    ■ 家康の信長謁見上洛。

  ● 徳川家康は、  信長の武田氏征伐の際の

    駿河拝領の礼を述べるため、1582年(天

    正10年)5月29日に安土城に行き信長に

    面会し、その後、信長の勧めで、少数の供

    を連れて、畿内の京・堺を見物(遊覧)する。

 

  ■ 徳川家康の帰国と行軍。

    ■ 家康の領国・三河への帰国。

    ■ 家康の伊賀越え

  ● 徳川家康は、 畿内の堺の見物(遊覧)後、

    京へ上洛する途中で、河内国飯盛山(いい

    もりやま)・山麓で、1582年(天正10年)

    6月2日午前中に、本能寺の変での信長の

    死去を知り、すぐ帰国を決意し、少数の供・

    約30人を連れて、河内国から山城国、近

    江国、伊賀国、伊勢国を経て、6月4日に、 

    領国の三河国 (みかわのくに)の岡崎城

    (現・愛知県岡崎市)に到着する。

  ■ 家康の明智討伐の中止と天正壬午の乱

    参入。

  ● 徳川家康も、領国の三河国で、軍備を整

    え、明智光秀討伐をめざして、尾張国熱田

    まで進軍したが、そこで家康は、秀吉によ

    る明智光秀討伐を知り、家康は、光秀討

    伐を中止し、一転して、甲斐・信濃攻めに

    着手し、領国拡大をめざす (家康の天正

    壬午の乱参入)。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#thehideyoshi'shardmarchtoyamashiro-b

 

■ 中国大返しの出発点の備中・高松

  での状況

  (1582年6月2日〜6日)。

  ■ 毛利軍との停戦に一応成功した、秀吉軍。

 

  ■ 1582年(天正10年)に、 織田信長の部将・

  羽柴秀吉(豊臣秀吉)の中国攻めで、 毛利氏

  と戦う羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、 毛利氏に味

  方する、清水宗治(しみずむねはる)の高松城

  を水攻めにする。 

     一方、羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、清水 宗治

  への援軍の毛利軍を足止めさせる。

 

  ■ 1582年(天正10年)の備中高松城の戦い

  では、羽柴秀吉(豊臣秀吉)方の軍と戦う、毛利

  輝元方の軍・約3万人を、 吉川元春小早川

  隆景が、率いていた。 

     備中高松城の戦いは膠着(こうちゃく)状態

  になり、毛利方は、和睦を考えていた。 毛利方

  は、織田信長の死を知らずに、秀吉方より和睦

  の条件が示され1582年(天正10年)6月4日

  早朝に和睦した。 その後、秀吉軍撤退の中国

  大返し時に追 撃しなかった。 

    「川角太閤記」では、織田軍撤退の中国大

  返し時、 吉川元春は追撃を主張したが、小早

  川 隆景に静止されたと記述されている。また、

  「吉川家文書」では、両名が、追撃は無謀であ

  り、失敗すれば、毛利は滅びると懸念し追撃し

  なかったと記述されている。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。  

 

  ■ 1582年(天正10年)6月2日未明本能

  寺の変織田信長が自害した時、 織田氏配下

  の羽柴秀吉豊臣秀吉の軍は、 山陰・山陽

  の中国地方の攻略のため、 備中(びっちゅう、

  岡山県西部)の敵の毛利方の高松城(たかま

  つじょう)を水攻めにしていた。

 

  ■ 羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、1582年(天正

  10年)の6月3日夜に、織田信長の死の報を

  受ける。

     羽柴秀吉(豊臣秀吉)が、本能寺の変での

  織田信長の死を知ったのは、 1582年(天正

  10年)の6月3日 の夜であり、 秀吉は、信長の

  死の情報が漏洩(ろうえい)しないように、 備

  中・備前への道を完全に遮断(しゃだん)し、自

  陣(じじん)に対しても緘口令(かんこうれい)を

  しいた。

     羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、 毛利方に信長

  の死を秘して講和を結び、 一刻もはやく上洛

  て、主君の弔い合戦(ともらいがっせん)を行お

  うとした。

     羽柴秀吉(豊臣秀吉)にとって幸運だったこ

  とは、 毛利方も、水攻めにされた、清水宗治

  (しみずむねはる)の高松城(たかまつじょう)の

  救援が困難だとの結論に達し、また、その他の

  様々な戦況から、和睦(わぼく)に傾いていたこ

  とである。

     羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、1582年(天正

  10年)1582年の6月3日の夜のうちに、毛利

  方の外交僧・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を、 

  自陣に招き、秀吉方の黒田官兵衛(孝高(よし

  たか))と交渉させた。

     和睦の会談で、 秀吉方の黒田官兵衛

  (孝高) は、備中・美作・伯耆(びっちゅう・みま

  さか・ほうき、岡山県西部・岡山県東北部・鳥

  取県西部)の3カ国の織田氏への割譲や高松

  城主・清水宗治(しみずむねはる)の切腹と高

  松城の城兵の助命という和睦の条件を毛利方

  安国寺恵瓊(あんこくじえけい)に提示した。  

     交渉は、1582年(天正10年)の6月3日

  の夜から6月4日の早朝まで続き、 秀吉方は、

  毛利方に内藤広俊を講和の使者に立て、 提

  示条件を知った毛利方は、 忠義を尽(つく

   した清水宗治の切腹の条件には難色を示し

  たが、安国寺恵瓊が、 高松城の城兵の助命

  を条件に開城を説(と)き、 清水宗治を説得し

  て、清水宗治も切腹を決断し、 遂に、秀吉方

  と毛利方の講和が結ばれた。

     1582年(天正10年)6月4日午前中に

  (午前10時頃と推定される)、 清水宗治は、

  水攻めの高松城を囲む水上で、 小舟の舟上

  で、ひとさし舞った後(曲舞を舞い納めた後に)、

  切腹して自害した(自刃(じじん)した)。

     1582年(天正10年)6月 6日に、羽柴

  秀吉(豊臣秀吉)は、 明智光秀討伐のため、

  中国大返し(1582年(天正10年)年6月6日

  〜13日)を始める。 但し、秀吉は、高 松城付

  近に、秀吉の一部の軍を杉原家次(すぎはら

  いえつぎ)に任(まか)せ、留め置いた。

     また、羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、万一毛

  利勢から追撃される場合を想定して、備前

  (びぜん、岡山県東南部)に、 秀吉方の

  宇喜多秀家(うきたひでいえ)の軍を留め置

  いた。

 

  ■ 1582年(天正10年)6月4日の夕方に、

  毛利方は、本能 寺の変と織田信長の死を知る

  ことになる。 

     この時、毛利方の吉川元春(きっかわもと

  はる)から秀吉軍を追撃しようという声があがっ

  たが、元春の弟の小早川隆景(こばやかわたか

  かげ)は、これを制し、誓紙(せいし)を交換して

  いる上は和睦を遵守(じゅんしゅ)すべきだと主

  張したため、毛利方は、秀吉方との交戦には至

  らなかったという説がある。 

     毛利方の軍は、 秀吉の織田軍撤退の

  国大返し時に追撃しなかった。 毛利輝元もこ

  れを了承した。 そして、毛利方と秀吉方で人

  質が交換された。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 1582年(天正10年)6月4日〜6日に、

    柴秀吉(豊臣秀吉) は、 出発地の備中(び

    っちゅう、岡山県西部)の高松で、行軍の準

    備を行う。

 

 

#thehideyoshi'shardmarchtoyamashiro-c

 

■ 中国大返しの行軍途中の状況

  (1582年6月6日〜13日)。

 

■ 羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、出発地の備中(びっ

  ちゅう、岡山県西部)・高松(たかまつ)から途中

  の播磨(はりま、兵庫県南部)の姫路(ひめじ)ま

  での移動区間は、行軍を迅速(じんそく)に行っ

  たが、 姫路から山城(やましろ、京都府南部)

  の山崎(やまざき)まで移動区間は、慎重さをと

  もない、着実な行軍に重点をおいた。

 

■ 1582年(天正10年)6月6日、備中・高松から

  山城・山崎に向けて出発。

    1582年6月6日に、羽柴秀吉(豊臣秀吉

  の主要な軍は、 出発地の備中(びっちゅう、岡

  山県西部)・高松から、行軍を開始する。

     備中・高松から姫路までの移動区間は、毛

  利方の追撃を免れるため、何よりもスピードが

  重視された。

 

■ 1582年(天正10年)6月8日、途中、播磨・

   姫路城に寄る。

     1582年(天正10年)6月8日の朝に、

  羽柴秀吉(豊臣秀吉)の 主要な軍は、 中継

  地の播磨(はりま、兵庫県南部)の姫路城に

  到着する。

 

■ 羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、行軍途中の姫路城

  で、行軍の兵に戦功の前金を渡す。 疲労の

  濃い兵士の指揮をあげ、兵の逃亡を防ぐため

  であった。

    山城(やましろ、京都府南部)までの行軍の

  途中の、羽柴秀吉(豊臣秀吉)がもつ姫路城で、

  秀吉は、 織田信長の死により総大将を失った

  織田軍の行軍の兵に、 軍の指揮を高め、兵の

  離散を防ぐため、 秀吉は、兵の戦功の前金とし

  て、持っていた金銭・金銀を、兵に分け与え、渡

  した。

 

  ■ 1582年(天正10年)6月8日〜13日、

  播磨・姫路城から山城・山崎へ。

    1582年(天正10年)6月8日から13日ま

  で、  播磨(はりま、兵庫県南部)の姫路(ひめ

  じ)から山城(やましろ、京都府南部)の山崎

  (やまざき)までの移動区間は、明智光秀の放  

  った伏兵などを警戒し、 同盟者を募(つの)り、 

  情報戦を繰り広げながらの行軍であった。

     羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、行軍の途中では、

  毛利軍から借り受けた、 毛利軍の旗も見せて、

  毛利軍も味方しているように思わせたと言われ

  ている。

     羽柴秀吉(豊臣秀吉)の主要の軍は、15

  82年(天正10年)6月6日に備中・高松を出

  発し(移動を開始し)、1582年(天正10年)

  6月13日に、山城・山崎に到着し(移動 を終

  え)、 移動開始から足掛け約8日の行程で

  あった。

 

  ■ 羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、行軍決定の15

  82年(天正10年)6月4日から、近畿各地の武

  将に書状を送り、 「織田信長・信忠父子は窮

  地を脱し近江へ逃亡されたという偽(いつわ)

  りの情報や逆賊・明智光秀を討つための義戦

  であること」を書状で強調し、宣伝を行った結果、 

  池田恒興、中山 清秀、高山右近などの摂津(せ

  っつ、大阪府)付近の諸将が、相次いで、秀吉

  陣営にはせ参じた。

      織田氏中国地方方面軍司令官の羽柴

  秀吉(豊臣秀吉)が、大軍を率いて無傷で帰還

  したことは、 明智方か秀吉方かどちらにに味

  方するかそれまで去就をためらっていた諸勢

  力が一気に秀吉方につくこととなった。 おか

  げで、羽柴秀吉軍は、 約3万人の大軍となり、 

  1582年(天正10年)6月13日の、「山崎の戦

  い」(やまざきのたたかい)で、約1万人の明智

  光秀軍に比べて、兵の数で有利となり、 秀吉

  の勝利につながった。

     羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、畿内の有力諸将

  を味方にし、軍事力を増強し、 兵の多くが逃亡

  し秀吉を待っていた織田信孝( おだのぶたか)・

  丹羽長秀(にわながひで)の軍とも大阪で合流

  し、 織田信孝を名目的な総大将にして明智討

  伐軍を編成する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#thehideyoshi'shardmarchtoyamashiro-d

 

■ 中国大返しの到着地の山城での

  「山崎の戦い」

  (1582年6月13日)。

 

  ■ 羽柴秀吉(豊臣秀吉)の主要の軍は、15

    82年(天正10年)6月6日に、 備中・高

    松を出発し(移動を開始し)、1582年(天

    正10年)6月13日に、山城・山崎に到着し

    (移動 を終え)、 移動開始から足掛け約

    8日の行程であった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

  ■ 明智光秀の軍は、 本能寺の変を知って毛

    利と和睦し中国地方から引き返してきた羽柴

    秀吉の軍を、 山崎 (やまざき、現在の京

    都府大山崎町と大阪府島本町にまたがる地)

    で、 迎え撃つ。

 

  ■ 1582年(天正10年)6月13日に、 約3

    万人の兵の羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍と約

    1万3000人の兵の明智光秀の 軍との間

    で、山崎の戦いが行われ、 約4時間で決

    着し、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍が 勝利を

    収めた。

 

  ■ 山崎の戦いでは、 1582年(天正10年)

    6月13日に、山城(やましろ、京都府南部)

    の山崎で、 小泉川(こいずみがわ)を挟ん

    で、京都側に明智光秀軍が布陣し、 天王

    山(てんのうざん)に近い大坂側に羽柴秀吉

    軍が布陣し、小泉川付近で、両軍が激突す

    る。

 

  ■ 羽柴秀吉(豊臣秀吉) の本隊は、1582

    年(天正10年)6月13日の昼頃に、 山

    城の、山崎に着陣した。

       勝敗を左右する天王山(てんのうざん)

    は、 秀吉方の先遣隊(せんけんたい)の

    中川清秀らに占拠されていた。 秀吉軍は、

    天王山に秀吉軍の瓢箪(ひょうたん)の軍

    旗を掲げ、それは、天王山を占拠したことを

    意味し、明智光秀軍の指揮を下げることと

    なる。

       山崎の戦いでは、毛利軍から借り受け

    た、毛利軍の旗を明智光秀軍に見せて、毛

    利軍も味方しているように明智光秀軍に思

    わせたと言われている。

       6月13日の申の刻(さるのこく、午後4

    時頃)に、 秀吉方と光秀方の「山崎で戦い」

    が始まる。 兵力差もあって秀吉軍優位で戦

    いが推移し、秀吉は、この状況を見て、全軍

    に総攻撃を発令し、乱戦となり、 兵力で勝

    る秀吉軍が光秀軍を圧倒し、光秀軍が総崩

    れとなった。 約4時間の戦いであった。

       その後、明智光秀は、兵を率いて勝竜

    寺城(しょりゅうじじょう)に立てこもったが、  

    数万の兵に包囲され攻撃され、支えきれず、 

    明智光秀は、勝竜寺城より近臣を従えて、 

    近江(おうみ、滋賀県)の居城・坂本城をめ

    ざして、逃亡した。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ そして、1582年(天正10年)6月14日未

    明に、 小栗栖(おぐるす、京都市伏見区)

    で、逃亡中の明智光秀が、落ち武者狩り

    土民に殺害される。

 

 

#thehideyoshi'shardmarchtoyamashiro-ap.scenes

 

♪♪ 中国大返しが登場する興味深

    い、 ドキュメンタリー、ドラマ、映

       画。

    

★ 中国大返しが登場する、興味深い

    関連ドキュメンタリー。

 

■ 英雄たちの選択

   『 新発見!秀吉・中国大返し

   〜これが幻の高速移動シス

   テムだ!〜 』。 

   (NHKテレビの2020年4月8日・

   本放送・歴史ドキュメンタリー番組)。 

  ■ 秀吉の中国大返しの内容を詳し

    く述べる。

 

■ 京都ぶらり歴史探訪 

   4時間スペシャル

   『 明智光秀VS豊臣秀吉 』。 

   (テレビ朝日の2020年3月10日・

   本放送・歴史ドキュメンタリー番組)。 

  ■ 秀吉の中国大返しの内容を詳し

    く述べる。

  ■ 明智光秀の後半生と豊臣秀吉の

    後半生を詳しく述べる。

  ■ 明智光秀関連と豊臣秀吉関連

    の京都の名所を詳しく述べる。

 

■ ザ・プロファイラー 

   『 黒田 官兵衛 』。 

   (NHKテレビの2014年1月1日・

   本放送・歴史ドキュメンタリー番組)。 

  ■ 秀吉の中国大返しの内容を

    詳しく述べる。

 

★ 中国大返し が登場する興味深い、

  ドラマ、映 画。

  ● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

   歴史のドラマや映画は、史実(歴史上の事実) 

   と架空の出来事が、混じって、描かれています。

   また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 麒麟(きりん)がくる 』。 

   (NHKテレビ・2020年大河ドラマ)。 

   (池端俊策作・脚本)。

 ■ 日本の戦国時代(室町時代後期)、

   安土桃山時代を描く。

 

 ● 羽柴 秀吉(= 木下 藤吉郎秀吉、豊臣

  秀吉)を演じる俳優名 : 

     佐々木 蔵之介。

 

 ● 明智 光秀 (斎藤 道三(利政)の家臣、

  朝倉義景の家臣、足利義昭の家臣、

  織田信長の家臣) を演じる俳優名 :  

  長谷川 博己 (はせがわ ひろき)。

 

 ● 織田 信長を演じる俳優名: 染谷 将太 

  (そめたにしょうた)。

 

 ● 徳川家康を演じる俳優名: 風間 俊介。

 

 ● 室町幕府幕臣、後、織田信長家臣の

  細川藤孝(幽斎)(ほそかわふじたか

  (ゆうさい))を演じる俳優名 : 

  眞島 秀和。

 

 ● 明智 光秀の正室夫人・熙子(ひろこ)

  を演じる女優名: 

  木村 文乃 (きむらふみの)。 

 ● 織田 信長の母・土田御前(どたごぜ

  ん)を演じる女優名: 檀 れい。 

 ● 濃姫 (のうひめ、織田信長の正室

  夫人、斎藤 道三(利政)の娘・帰蝶(き

  ちょう))を演じる女優名 : 川口 春奈。 

 

 ● 室町幕府・第15代将軍・足利義昭(あ

  しかがよしあき、足利義輝の弟)を演じ

  る俳優名 : 滝藤 賢一 。

 

■ 『 軍師 官兵衛 』 

   (NHKテレビの2014年大河ドラマ)。 

 ■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山

  時代、江戸時代初期を描いたドラマ。

 

 ● 羽柴秀吉(豊臣秀吉)を演じた俳優名:

     竹中 直人。

 ● 黒田 官兵衛を演じた俳優名:

   岡田 准一。

 

 ● 明智 光秀を演じた俳優名 : 

   春風亭 小朝 (しゅんぷうてい こあさ)。

 

 ● 織田信長を演じた俳優: 江口 洋介。

 

 ● 清水宗治を演じた俳優名: 宇梶 剛士。

 ● 安国寺 恵瓊を演じた俳優名 :

    山路 和弘。

 ● 小早川隆景を演じた俳優名 :

       鶴見 辰吾。

 ● 吉川元春を演じた俳優名 : 吉見。

 ● 毛利輝元を演じた俳優名 : 三浦。

 

 ● 石田三成を演じ た俳優名: 田中 圭。

 

■ 『 戦国疾風伝 (せんごくしっぷう

   でん)  二人の軍師〜秀吉に

   天下を獲らせた男たち 』。 

    (テレビ東京の2011年テレビ東京・

     放映テレビドラマ)。 

 ■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山

   時代、江戸時代初期を描いたドラマ。

 ■ 戦国・安土桃山時代を描いたドラマ。

  黒田 官兵衛(孝高(よしたか))、竹中

  半兵衛(重治(しげはる))の2人の軍師

  を中心に描く。

 

 ● 豊臣 秀吉(羽柴秀吉)を演じた

   俳優名 : 西田敏行

 ● 黒田 官兵衛を演じた俳優名:

   高橋 克典 (たかはし かつのり)。

 ● 蜂須賀小六正勝を演じた俳優名 : 

   北見敏之。

 ● 木下小一郎秀長を演じた俳優名 : 

   中本賢。

 ● 清水宗治を演じた俳優名 : 中村

   雅俊 (なかむらまさとし)。

 

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#chayashirojiro

 

■ 茶屋四郎次郎 

      (ちゃやしろうじろう)。

 

■ 茶屋四郎次郎。

■ 名称 : 茶屋四郎次郎 (ちゃやしろうじろう)。

■ 茶屋四郎次郎は、 

  茶屋家の代々の当主が名乗った氏名である。

  茶屋四郎次郎四郎次郎は、 茶屋家歴代

  の当主の通称である。 

■ 茶屋家は、

  安土桃山時代、江戸時代に活躍した商人で

  ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11813。

 

 

■ 茶屋家(茶屋四郎次郎)は、 安土桃山時代、

  江戸時代の商人であり、 安土桃山時代、江

  戸時代初期は徳川家康の側近の経済ブレー

  ンであった。 

    四郎次郎は、 茶屋家歴代の当主の通称

  である。

 

■ 茶屋家(茶屋四郎次郎)。

  ■ 茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろ)は、 

  茶屋家の代々の当主が名乗った氏名である。

  茶屋四郎次郎四郎次郎は、 茶屋家歴代

  の当主の通称である。 

 

  ■ 茶屋家(ちゃやけ)は、

  安土桃山時代、江戸時代に活躍した商人で

  ある。

 

■ 茶屋家(茶屋四郎次郎)。

  ■ 茶屋家と徳川氏との出会い。

    家康の伊賀越え時、 茶屋四郎次郎清延

    (ちゃやしろうじろきよのぶ、初代茶屋四郎

    次郎)が援助し、無事に家康を帰国させる。

 

  ■ 初代・2代・3代の茶屋四郎次郎は、 

    徳川家康の側近の経済ブレーンとなる。

 

  ■ 茶屋家は、 京(きょう、京都)の商人出身

    で、 安土桃山時代や江戸時代 初期に、

    徳川家康の側近の経済ブレーンとして活

    躍し、 江戸幕府の財政に貢献する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 茶屋家(茶屋四郎次郎)。

  ■ 京(きょう、京都)の呉服商であった初代

   茶屋四郎次郎清延(きよのぶ)は、家康の

   伊賀越えの脱出時に、家康一行に物心共

   に援助を行う。 この恩により、家康によっ

   て、 徳川氏の御用商人として取り立てら

   れ、徳川氏の呉服師(呉服御用達、御用呉

   服商)となる。

      茶屋家は、 初代清延(きよのぶ)

   ら、 徳川氏の呉服師の他に、 5代延宗

   (のぶむね)まで、南海貿易に従事し、更

   に朱印船貿易と糸割符(いとわっぷ)の特

   権も得て、巨利を得て、栄える。 しかし、

   1635年(寛永12年)の異国渡海の禁に

   より、南海貿易は中止のやむなきにいた

   る。 以後、茶屋家は、徳川氏の呉服師や

   生糸(きいと)販売に専念するが、次第に

   振わなくなる。

 

  ■ 茶屋家(茶屋四郎次郎)は、代々、徳川氏

    (江戸幕府)の呉服師(呉服御用商 )となる。

       茶屋家(茶屋四郎次郎)は、 徳川氏

    の呉服師(呉服御用商 )の他に、 南海貿

    易にも従事する。

       茶屋家(茶屋四郎次郎)は、 安土桃

    山時代、江戸初期に、  初代茶屋四郎次

    郎清延が、南海貿易で、豊臣秀吉より、朱

    印状を得て、アンナン(安南、ベトナム)貿

    易などで活躍する。 以後、茶屋家(茶屋

    四郎次郎)は、代々、5代まで朱印船貿易

    で繁栄し、 更に、3代目茶屋四郎次郎

    清次(きよつぐ、1584〜1622年)の時

    に、糸割符の特権も得て、更に繁栄し、

    莫大な富を得る。

        しかし、茶屋家(茶屋四郎次郎)は、

    鎖国以後、南海貿易は中止となり、徳川

    氏の呉服師(呉服御用商 )や生糸(きいと)

    販売に専念するが、次第に衰える。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 茶屋家(茶屋四郎次郎)の

   初期5代。

  ● 初代茶屋四郎次郎は、

    茶屋清延(ちゃやきよのぶ、1545年

    ー1596年)である。

  ● 2代目茶屋四郎次郎は、

    茶屋清忠(ちゃやきよただ、1582年?

    ー1603年)である。

  ● 3代目茶屋四郎次郎は、

    茶屋清次(ちゃやきよつぐ、1584年

    ー1622年)である。

  ● 4代目茶屋四郎次郎は、

    茶屋道澄(ちゃやみちすみ)である。

  ● 5代目茶屋四郎次郎は、

    茶屋延宗(ちゃやのぶむね)である。

 

 

■ 伊賀越えと茶屋家(茶屋四郎次郎)。

  ■ 初代の茶屋四郎次郎清延(ちゃやしろう

    じろうきよのぶ、1545年〜1596年)が、 

    1582年(天正10年)6月の家康の伊賀

    越え (神君伊賀越え(しんくんいがごえ)、

    本能寺の変直後の家康三河逃亡時の伊

    賀越え) で手柄(てがら)をたて、 その

    後、徳川家康によって、徳川氏の御用商

    人(呉服御用商)、側近の経済ブレーンと

    なる。

       茶屋清延は、急ぎ、早馬で駆けつけ、

    本能寺の変の第一報を家康に知らせる。

      当時、家康の伊賀越えの時、落ち武

    者狩りの農民が、少人数の家康一行を

    襲い、殺害する危険があった。 茶屋清

    延は、 伊 賀越えの時、 後発の家康一

    行・約30人の先発隊として、通行先の村

    々にお金を配り、なるべく農民が家康一

    行を襲わないようにさせた。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 茶屋四郎次郎が登場する興味

    深い、ドキュメンタリー、ドラマ、

    映画。

 

★ 茶屋四郎次郎が登場する興味深

   い、ドキュメンタリー。

 

■ 謎解き!江戸のススメ 

   『 徳川幕府の黒幕 』。  

    (TBSテレビの2013年11月4日・

    本放送・TBSドキュメンタリー番組)。

 ■ 徳川家康の側近の次の5人のブレーンを

   解説する。 

     天海僧正(てんかいそうじょう)、 本多

   正信・正純(ほんだまさのぶ・まさずみ)父

   子、 三浦按針(みうらあんじん)、 お奈

   津の方(おなつのかた)、 茶屋四郎次郎 

   (ちゃやしろうじろう)である。

  

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#chokusenwakashu

 

■ 勅撰和歌集 

      (ちょくせんわかしゅう)。

 

■ 勅撰和歌集。

■ 名称 : 勅撰和歌集 (ちょくせんわかしゅ

  う)。

■ 古今和歌集、新古今和歌集など21歌集。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 勅撰和歌集 (ちょくせんわかしゅう) は、

  平安時代から室町時代まで、勅命(ちょくめ

  い、天皇の命令)または院宣(いんぜん、上

  皇の命令)によって選ばれた和歌集 である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 勅撰和歌集は、 905年の「古今和歌集」

  (こきんわかしゅう)に始まり、1439年の

  「新続古今和歌集」(しんぞくこきんわかしゅ

  う)に終わる、21歌集 である。

 

■ 勅撰和歌集 は、 次の21歌集である。

   平安時代の、古今和歌集、 後撰和歌集、

  拾遺和歌集、 後拾遺和歌集、 金葉和歌

  集、 詞花和歌集、 千載和歌集 である。

    鎌倉時代の、 新古今和歌集、 新勅撰

  和歌集、 続後撰和歌集、 続古今和歌集、 

  続拾遺和歌集、 新後撰和歌集、 玉葉和

  歌集、 続千載和歌集、 続後拾遺和歌集 

  である。

    室町時代の、 風雅和歌集、 新千載和

  歌集、 新拾遺和歌集、 新後拾遺和歌集、

  新続古今和歌集 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 藤原定家は、 後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)

  の寵臣で、 「新古今和歌集」(しんこきんわ

  かしゅう)の中心的撰者(せんじゃ)となる。

    藤原定家の嫡孫の藤原為氏(ふじわらの

  ためうじ)を祖とする歌学の二条家は、 鎌倉

  時代以来の歌学の3宗家の1つで、 鎌倉時

  代の「新勅撰和歌集」(新古今和歌集の次)

  以来、多くの勅撰(ちょくせん)和歌集の撰

  (せん)を行う。 

    また、 藤原定家の孫の、藤原為相(ふじ

  わらのためすけ)を祖とする、冷泉家 (れい

  ぜいけ) は、 鎌倉時代以来の歌学の3宗

  家の1つで、 京(都)の、和歌(わか、やま

  とうた)を伝える公家の名家 である。 冷泉

  家は、現在も京都にあり、公家の様式を現代

  に伝えている。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#theikarankoftheimperialcourt

 

■ 朝廷の位階 

     (ちゅうていのいかい)。

 

■ 朝廷の位階。

■ 名称 : 朝廷位階 (ちょうていのいか い)。

● 英名 : The Ikai Rank of the 

  Imperial Court。 

■ 前近代日本の、朝廷の位階。

■ 前近代日本の、朝廷の官位(朝廷の位階と

    廷の官職)の1つ。

■ 近・現代日本の、近・現代日本政府の位階に

  関しては、 日本史辞典の近・現代日本政府

  の位階」を参照してください。

■ 位階や叙位の全体 (古代日本から現代日本

  (現在)まで) に関しては、 日本史辞典の「

  」、「叙位」を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 913336。

 

 

 前近代日本の、朝廷(律令官制)

  の位階。

  <701年頃〜1869年頃> 30位階。

 朝廷の位階の、「一位〜八位、初位」の

  9グループの、30位階。 

● 前近代の朝廷(律令官制)の位階には、 

  一位から八位まで、初位(そい)までの9段

  階があり、 正(しょう)・従(じゅ)・上(じょう)・

  下(げ)をつけて、30位階がある。

 

 前近代日本の、朝廷の位階の30位階。

  上位順に、 正一位、 従一位、 正二位

  従二位、   正三位、 従三位、 正四位上

  正四位下従四位上従四位下正五位上

  正五位下従五位上従五位下正六位上

  正六位下従六位上従六位下正七位上

  正七位下従七位上従七位下正八位上

  正八位下従八位上従八位下大初位上

  大初位下少初位上少初位下

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 前近代日本の、朝廷(律令官制)の30 位階。

○ 上位順に、 正一位、 従一位、 正二位、

  従二位、  正三位、  従三位、 正四位上、

  正四位下、従四位上、従四位下、正五位上、

  正五位下、従五位上、従五位下、正六位上、

  正六位下、従六位上、従六位下、正七位上、

  正七位下、従七位上、従七位下、正八位上、

  正八位下、従八位上、従八位下、大初位上、

  大初位下、少初位上、少初位下 。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 一位 (いちい)。  

       (英: The 1st Ikai Rank of the 

       Imperial Court)。

  ● 正一位 (しょういちい)。

       (英: The Ordinary 1st Ikai 

       Rank of the Imperial Court)。

  ● 従一位 (じゅいちい)。

       (英: The Subordinate 1st Ikai 

       Rank of the Imperial Court)。

       ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 ■ 二位 (にい)。  

  ● 正二位 (しょうにい)。

  ● 従二位 (じゅにい)。

 ■ 三位 (さん)。  

  ● 正三位 (しょうさん)。

  ● 従三位 (じゅさん)。

          ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 ■ 四位 (しい)。  

  ● 正四位上 (しょうしいのじょう)。

       (英: The Higher (Upper) Ordinary 

       4th Ikai Rank of the Imperial 

       Court)。

  ● 正四位下 (しょうしいのげ)。

       (英: The Lower Ordinary 4th 

       Ikai Rank of the Imperial Court)。

  ● 従四位上 (じゅしいのじょう)。

       (英: The Higher (Upper) 

       Subordinate 4th Ikai Rank of 

       the Imperial Court)。

  ● 従四位下 (じゅしいのげ)。

       (英: The Lower Subordinate 4th 

       Ikai Rank of the Imperial Court)。

           ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 ■ 五位 (ごい)。  

  ● 正五位上 (しょうごいのじょう)。

  ● 正五位下 (しょうごいのげ)。

  ● 従五位上 (じゅごいのじょう)。

  ● 従五位下 (じゅごいのげ)。

 ■ 六位 (ろくい)。  

  ● 正六位上 (しょうろくいのじょう)。

  ● 正六位下 (しょうろくいのげ)。

  ● 従六位上 (じゅろくいのじょう)。

  ● 従六位下 (じゅろくいのげ)。

 ■ 七位 (しちい)。  

  ● 正七位上 (しょうしちいのじょう)。

  ● 正七位下 (しょうしちいのげ)。

  ● 従七位上 (じゅしちいのじょう)。

  ● 従七位下 (じゅしちいのげ)。

          ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 ■ 八位 (はちい)。  

  ● 正 八位上 (しょうはちいのじょう)。

  ● 正八位下 (しょうはちいのげ)。

  ● 従八位上 (じゅはちいのじょう)。

  ● 従八位下 (じゅはちいのげ)。

 ■ 初位 (そい、しょい)。  

       (英: The Lowest Ikai Rank 

       of the Imperial Court)。

  ● 大初位上 (だいそいのじょう)。

       (英: The Higher (Upper) Ordinary 

       Lowest Ikai Rank of the Imperial 

       Court)。

  ● 大初位下 (だいそいのげ)。

       (英: The Lower Ordinary Lowest

       Ikai Rank of the Imperial Court)。

  ● 少初位上 (しょうそいのじょう)。

       (英: The Higher (Upper) 

       Subordinate Lowest Ikai Rank of 

       the Imperial Court)。

  ● 少初位下 (しょうそいのげ)。

       (英: The Lower Subordinate 

       Lowest Ikai Rank of the Imperial 

       Court)。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 前近代日本の、朝廷(律令官制)

  の位階。

   <701年頃〜1869年頃> 

   一位〜八位、初位までの30位階。

 

 前近代日本の、朝廷(律令官制)(701年の

  大宝令及び718年の養老令の制定)の位階

  は、 一位〜八位、初位までの、30位階 で

  あり、 紀元(後)701年頃から1869年頃ま

  で、使用された。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 律令官制の位階。 

  <701年頃〜1869年頃>。

 ● 律令官制の位階は、朝廷の位階の「一位

   〜八位、初位」の9グループの位階である。

 ● 律令官制の位階は、 正一位(しょういち

   い)から少初位下(しょうそいのげ)までの

   朝廷の30位階 である。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 位階は、 前近代日本では、官職の序列を示

  し、 近・現代日本では栄典の位を示す。

 

■ 前近代の朝廷の位階 (ちょうていのいか い) 

  は、前近代日本の、朝廷の官位 (朝廷の位階

    朝廷の官職) の1つ である。

    朝廷の位階の英名は、 The Ikai Rank 

  of the Imperial Court である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 前近代の朝廷の位階は、 前近代日本 (古

  代日本の飛鳥白鳳時代〜近世日本の江戸時

  代) の律令官制(律令制度の官僚制)の

  である。 

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 前近代日本の、古代日本の飛鳥白鳳時代

  から近世日本の江戸時代までの叙位では、

  朝廷 律令官制)の位階  は、正一位(しょ

  ういちい)から少初位下(しょうそいのげ)ま

  での30位階 があった。 

    朝廷の位階とは、大宝律令(701年制

  定)や養老律令(718年制定)の令(りょう)

  の律令官制の位階 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。 

 

■ 朝廷律令官制)の位階制度は、  大宝律令や

  養老律令の律令制度の官僚制で定めた、人材

  登用制度で、 朝廷に仕える職員を、能力によっ

  て位階で位置づけ、 その位階に見合った官職

  に就(つ)けて、 官職の世襲(せしゅう)を妨(さ

  また)げることが大きな目的であった。 

    しかし、高位者の子孫に一定以上の位階を

  授(さず)ける制度である「蔭位の制」(おんいの

  せい)を設(もう)けていたため、 藤原氏など一

  部の上流貴族の世襲的な官職の独占を許し、上

  級官職の世襲化により、 平安時代前期に、

  材登用制度の位階制度は、形骸化(けいがいか)

  した。

    だが、位階制度は、以後も、基本的な体系は

  変わらず、ある程度の効力をもって存続し、江戸

  時代まで保持された。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 前近代日本朝廷律令官制)の、内裏(だ

  いり、天皇御所)の、地位・身分には、 公卿

  (くぎょう、= 位階(いかい)・三位(さんみ)以上

  の者や参議(さんぎ))、 「殿上人」 (てんじょ

  うびと、= 位階・五位以上の者で昇殿(しょうで

  ん)を許可された者や蔵人(くろうど) 、天皇秘

  書官)、「貴族」 (きぞく、= 位階・五位以上

  者) などがある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 朝廷の官位。

■ 朝廷の位階。

■ 前近代日本で、位階は、 朝廷 律令官制

  (律令制度の官僚制))での、 個人の地位を

  表す序列・等級 であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。 

 

■ 朝廷の位階は、一位 (いちい)から八位(は

  ちい)、初位(そい)まで の9グループがあり、

  正一位(しょういちい)から少初位下(しょうそ

  いのげ)までの、30位階(いかい)があった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 五位以上の位階をもつ者 (一位二位

  四位五位の位階の者)。

   ( 貴族 (きぞく)。 

■ 一位から五位までの、14の位階の者。 

   (殿上人

 ● 貴 (き、一位から三位までの、6つの位

   階の者) 

   (≒ 公卿

 ● 通貴 (つうき、四位から五位までの、8つ

   の位階の者)。  

■ 六位以下の位階をもつ者 (六位七位

  初位(そい)の位階の者)。

■ 無位(むい无位(むい))の者。  

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 殿上人 (てんじょうびと )は、 位階・五位

  以上の者で昇殿を許可された者 や、 位

  階・六位以上の者で蔵人(くろうど)に叙任

  された者 である

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 公卿 (くぎょう )は、 位階三位(さんみ)

  以上の者、や 位階・四位(しい)の者で

  (さんぎ)の官職に叙任された者 である。

 

■ 前近代の、朝廷律令官制)の位階特徴

  は、「一位から八位まで 」と「八位の下の初

  位」の位階を、 細分して、正(しょう)、従(じ

  ゅ)を付け、 更に、「四位から八位まで」 と 

  「八位の下の初位」は、位階に上下(じょう

  げ)を付け加えた。 

    従(したが)って、「一位から三位まで」は、 

  正一位から従三位までの6位階 (正・従の

  み) があり、 「四位から八位まで」は、正四

  位上から従八位下までの20位階 (正・従と

  上・下) があり、 「八位の下の初位」は、大

  初位上から少初位下までの4位階(正・従と

  上・下) があった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

● 「八位の下の初位」では、 八位の更に下

  (した)に初位(そい)の位 階があり、 初位

  を分けて、大初位少初位 をもうけ、 更に

  細分して上下を付け加えて、 大初位上

  (だいそいのじょう)から少初位(しょうそ

  いのげ)まで、 4位階(初位上 、初位

  下、少初位上、少初位下) があった。

 

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#imperialcourtposts

 

■ 朝廷の官職 

      (ちゅうていのかんしょく)。

 

■ 朝廷の官職。

■ 名称 : 朝廷の官職 

  (ちょうていのかんしょく)。

● 英名 : Imperial Court post(s)。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ 前近代日本の、朝廷の官位 (朝廷の位階

  と朝廷の官職) の1つ。

 

          

■ 朝廷の官職 (ちょうていのかんしょく) は、 

  朝廷の官位 (= 「朝廷の位階」と「朝廷の官

  職」) の1つであり、 前近代日本(古代から

  江戸時代までの日本)の、朝廷での身分・地

  位の1つである。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

                  

 朝廷の官職。

 前近代日本の、高位の朝廷の官職には、 

  高位順に、 @ 太政大臣 (だいじょうだ

  いじん)、 A 左大臣 (さだいじん)、 

  B 右大臣 (うだいじん)、  C 内大臣 

  (ないだいじん)、 D 大納言 (だいな

  ごん)、 E 中納言 (ちゅうなごん)、  

  F 参議 (さんぎ) などがある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 高位の朝廷の官職には、 高位順に、

   @ 太政大臣 (だいじょうだいじん)、

  A 左大臣(さだいじん)、

  B 右大臣 (うだいじん)、

  C 内大臣 (ないだいじん)、

  D 大納言 (だいなごん)、

  E 中納言 (ちゅうなごん)

    F 参議 (さんぎ) などがある。

 前近代日本の、高位の朝廷の 官職 には、

  高位順に @太政大臣、A左大臣、B右大

  臣、C内大臣、D大納言、E中納言、F参

  議 などがある。

 

 

■ 前近代日本では、 官職 (かんしょく)とは、 

  朝廷の官職 である。

     前近代日本の、官職は、 朝廷の官位

  (= 「朝廷の職」と「朝廷の階」) の1つで

  ある。

     前近代日本の、官職は、 朝廷での身分・

  地位の1つ である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 官職 (かんしょく) とは、 官吏が国家から

  委任された、一定範囲の国家事務 である。

 

■ 公卿。

● 公卿(くぎょう)とは、 前近代日本の、朝廷の、

  位階三位(さんみ)以上の者や位階・四位(し

  い)以上で参議の官職に叙任(じょにん)された

  者である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 朝廷の官職 (ちょうていのかんし ょく) は、

  前近代日本の、朝廷の官位(朝廷の位階

  朝廷の官職)の1つ である。

   朝廷の官職の英名は、 Imperial Court 

  Post(s) である。 

 

■ 前近代日本朝廷律令官制)の、内裏(だ

  いり、天皇御所)の、地位・身分には、 公卿

  (くぎょう、= 位階(いかい)・三位(さんみ)以上

  の者や参議(さんぎ))、 「殿上人」 (てんじょ

  うびと、= 位階・五位以上の者で昇殿(しょうで

  ん)を許可された者や蔵人(くろうど))、「貴族」 

  (きぞく、= 位階・五位以上の者) などがある。

 

 

◆ 朝廷の要職。

■ 摂政・関白

 摂政 (せっしょう) は、朝廷の 役職で、 幼

  少(成人前)または女帝の天皇を補佐して、

  の政務を行う役職 である。

 関白 (かんぱく) は、 朝廷の 役職で、成人

  の天皇を補佐して、朝廷の政務を行う役職 で

  ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 内覧 (ないらん)。

   内覧(ないらん)は、 朝廷の役職で、 天皇

  に奏上(そうじょう)する(提出する)、奏状(そう

  じょう、公文書)を、 天皇が見る前に(天皇に

  奏聞する前に)、 臣下が事前に目を通す(内

  覧、内見する)役職 である。 事実上、天皇の

  政務を代行する役職であった。  摂政か関白

  が、天皇に任命されて、内覧となることが多か

  った。

    例として、藤原道長は、 「内覧」となり、朝

  廷の政務の実権を握(にぎ)り、 更に日本の

  政治の実権を握り、日本の政治を支配した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

◆ 朝廷の官位。

◆ 朝廷の位階。

■ 前近代日本で、位階は、 朝廷 律令官制

  (律令制度の官僚制))での、 個人の地位を

  表す序列・等級 であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。 

 

■ 朝廷の位階は、一位 (いちい)から八位(は

  ちい)、初位(そい)まで の9グループがあり、

  正一位(しょういちい)から少初位下(しょうそ

  いのげ)までの、30位階(いかい)があった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 五位以上の位階をもつ者 (一位二位

  四位五位の位階の者)。

● 貴族 (きぞく)。

● 一位から五位までの、14の位階の者。 

   (殿上人

 ■ 貴 (き、一位から三位までの、6つの位

   階の者) 

   (≒ 公卿

 ■ 通貴 (つうき、四位から五位までの、8つ

   の位階の者)。  

■ 六位以下の位階をもつ者 (六位七位

  初位(そい)の位階の者)。

■ 無位(むい无位(むい))の者。  

 

 殿上人 (てんじょうびと )は、 位階・五位

  以上の者で昇殿を許可された者 や、 位

  階・六位以上の者で蔵人(くろうど)に叙任

  された者 である

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 公卿 (くぎょう )は、 位階三位(さんみ)

  以上の者、 や 位階・四位(しい)の者で

  公卿の参議(さんぎ)の官職に叙任された

  者 である。

 

◆ 朝廷の官職。

■ 官位相当制 (かんいそうとうせい)。

● 官位相当制 (かんいそうとうせい)とは、

  前近代日本の、朝廷での、位階に対応した

  官職に就くことを原則とする制度である。

● 官位相当制とは、 日本の律令制度の官

  僚制律令官制で朝廷の官人に付与され

  る位階と官職との間に、一定の相当関係を

  設定した官僚序列制度 である。

● 日本の律令制度の官僚制(律令官制)では、 

  位階を主とし官職を従とする官位制が導入

  され、 朝廷の官人はまず位階によって序列

  化され、そして、位階に応じて官職が与えら

  れた。

    但し、様々な事情で、位階と官職の相当

  関係が成立しない事例も発生した。

● 朝廷の官職は、 官位相当制(かんいそうと

  うせい)により官職と位階を相当させた。

     上位の官職の例では、 朝廷の位階の

  一位から四位までには、 太政大臣( 従一

  位(以上))、 左大臣(正二位(以上))、 右

  大臣(正二位(以上))、 内大臣(従二位(以

  上))、 大納言(正三位(以上))、 中納言

  (従三位(以上))、 参議(四位(以上 )) な

  どがあった。 

    ( )は、原則として官職に相当する位階

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 官位相当制

■ 官位相当制 (かんいそうとうせい)とは、

  前近代日本の、朝廷での、位階に対応した

  官職に就くことを原則とする制度である。

■ ( )は、原則として朝廷の官職に相当する

  朝廷の位階の位階で ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 前近代日本の、高位の朝廷の官職には、 

  高位順に、次のような官職があった。

● 第1位 太政大臣   (従一位 (以上))。  

  (だいじょうだいじん)  (じゅいちい)

   臨時の官職 (常設でない官職)。

● 第2位 左大臣     (正二位 (以上))。  

  (さだいじん)       (しょうにい)

● 第3位 右大臣     (正二位 (以上))。

  (うだいじん)

● 第4位 内大臣     (従二位 (以上))。

  (ないだいじん)          (じゅにい)

● 第5位 大納言     (正三位 (以上))。

  (だいなごん)      (しょうさん

● 第6位 中納言     (従三位 (以上))。  

  (ちゅうなごん)     (じゅさん

● 第7位 参議       (四位   (以上))。 

  (さんぎ)         (しい)

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 四等官制 (しとうかんせい)。 

● 朝廷の各組織には、4階級の階級があり、上

  位から、 長官(かみ)、 次官(すけ)、 判官

  (じょう)、 主典(さかん) があった。

    中央官庁の統括部(太政官(だいじょうか

  ん))では、 長官(かみ)は、太政・左・右・内

  大臣、 次官(すけ)は大納言である。 

    中央官庁の省では、 長官は、卿、 次官

  大・少輔である。

    地方の国(国司)では、 長官は、守(かみ)、

  次官は介(すけ) である。

    大宰府(だざいふ)では、 長官は、師(そつ、

  そち)、 次官は、大・少弐 である。

 

■ 朝廷の機関の長官のことを、別当(べっとう) と

  呼んだ。

● 別当は、 院庁(いんのちょう)や摂関家(せっか

  んけ)の政所(まんどころ)の長官、 蔵人所(くろ

  うどどころ)別当、 検非違使庁(けびいしちょう)

  別当 などである。

 

◆ 公達。

■ 公達 (きんだち)とは、親王や貴族の尊称で

  ある。

 

◆ 朝廷での地位。 

■ 公卿。

■ 公卿(くぎょう)とは、 朝廷の 地位・身分で、

  朝廷の位階・三位(さんみ)以上の者 や、 

  廷の位階・四位の者で参議(さんぎ)の官職に

  叙任された者 で ある。

■ 公卿は、 朝廷の政務の合議に参加で きる身

    分・地位 である。  朝廷の公卿会議に参加で

  きる。

 

◆ 公卿の官職。

 朝廷の高位の官職は 、高位順に、@太政大

  臣、A左大臣、B右大臣、 C内大臣、D大納

  言、E中納言、F参議 などである。 

■ 朝廷の中枢部(太政官(だいじょうかん))の

  公卿(くぎょう)の官職。

    ( )は、原則として朝廷の官職に相当する

  朝廷の位階である。

● 第1位 太政大臣   (従一位 (以上))。  

  (だいじょうだいじん)  

   臨時の官職 (常設でない官職)。

● 第2位 左大臣     (正二位 (以上))。  

  (さだいじん)

● 第3位 右大臣     (正二位 (以上))。

  (うだいじん)

● 第4位 内大臣     (従二位 (以上))。

  (ないだいじん)

● 第5位 大納言     (正三位 (以上))。

  (だいなごん)

● 第6位 中納言     (従三位 (以上))。  

  (ちゅうなごん)

● 第7位 参議       (四位   (以上))。 

  (さんぎ)

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 参議 (さんぎ) は、 前近代日本での朝廷

  の官職で、大臣、大・中納言に次ぐ重職 で

  特権身分 である。

    参議 は、 朝廷の位階・四位以上で参議

    に叙任された者 である。 参議 は、公卿(く

    ぎょう)の身分の1つ である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 殿上人。    

■ 殿上人(てんじょうびと)とは、 朝廷で昇殿

  (しょうでん)を許された者 である。

 殿上人(てんじょうびと)とは、 朝 廷の地

  位(身分)で、 特権身分で、 朝廷で昇殿

  (しょうでん)を許された者 である。

 天皇との関係では、 内裏の、殿上人とは、 

  天皇の儀式御殿の清涼殿(せいりょうでん)

  に昇殿を許された者である。 即ち、 内裏

  の、殿上人は、 内裏(だいり、天皇の御所)

  の天皇の儀式御殿の清涼殿(せいりょうで

  ん)の「殿上の間」(てんじょうのま)に昇(の

  ぼ)る(行く)ことを天皇より許可された者で

  ある。 

    内裏の、殿上人は、 朝廷の位階・五位

  以上の者で天皇より昇殿を許可された者

  (五位以上の者の一部) や 六位以上の

  者で天皇より蔵人(くろうど)に叙任された

  者 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ 院(いん、上皇)や東宮(とうぐう、皇太子)

  との関係では、 院・東宮御所の、殿上人

  とは、 院や東宮の儀式御殿や常御殿(つ

  ねごてん)に昇殿(しょうでん)を許された

  者 である。 即ち、院・東宮御所の、殿上

    人は、 院の御所や東宮御所の、儀式御

  殿や常御殿に昇る(行く)ことを、院(上皇)

  や東宮(皇太子)より許可された者である。 

  近臣が多かった。

 

■ 蔵人 (くろうど)。

    蔵人(くろうど )は、朝廷の位階・六位以上

  で、天皇より蔵人に叙任された者 である。

    蔵人(くろうど)は、 朝廷の官職で、 蔵人

  所(くろうどどころ)の職員で、 天皇(家)の秘

  書官 で、 雑務を担当した。 

    蔵人は、 朝廷では平安初期に置かれ、

  皇家(王家,皇室)の文書を保管する倉(くら)

  を管理する蔵人所(くろうどどころ)の役職であ

  り、 次第に天皇(家)に近侍して朝廷の政

  に関与するようになり、 要職となった。  

    蔵人は、 当初は機密文書・訴訟などを扱

  (あつか)い、 後には、宮中の雑事の処理に

  も当たった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

◆ 朝廷の官職。

■ 権官 (ごんかん)。

   権官 (ごんかん)とは、朝廷の官職で、 定員

  を超えて任命される官職 である。 

    例として、正官の、中納言(ちゅうなごん)に

  たいして、権官の、 権中納言(ごんちゅうなご

  ん) がある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 令外官 (りょうげのかん)。

    令外官 (りょうげのかん) とは、 朝廷の官

  職で、律令制制定当初無かった官職で、 大宝

  律令(大宝令(たいほうりょう))や養老律令の官

  位令に規定されていない官職で、 律令制成立

  時の令の規定になかった官職 である。 

    令外官には、 蔵人(くろうど)、検非違使(け

  びいし)、追捕使(ついぶし)、押領使(おうりょう

  し)、 その他の官職がある。

 

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#theimperialcourt

 

■ 朝廷 

    (ちゅうてい)。

 

■ 朝廷。

■ 名称 : 朝廷 (ちょうてい)。

● 英語名 : the Imperial Court。 

■ 天皇家の政治組織。

■ 前近代日本の、天皇家の政治組織。

■ 天皇家が政治をとるところ。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ 朝廷の官僚制。

  朝廷の官僚制 (朝廷律令官制律令制

  の官僚制 )、律令の身分制)には、官位が

  あり、 官位には、位階 と官職があった。

■ 本拠地は、京(都)の内裏(だいり、天皇の

  御所、政庁)や院庁(いんのちょう、上皇の

  政庁) など。

 

 

■ 朝廷 (ちょうてい)とは、 天皇家の政治組織

  である。 朝廷は、天皇または上皇を頂点とす

  る政治組織 である。

■ 朝廷 は、前近代日本の、天皇家の政治組織

  であり、 天皇家が政治をとるところ である。

    朝廷の英名は、 the Imperial Court 

  である。 

 

■ 前近代日本朝廷律令官制)の、内裏(だ

  いり、天皇御所)の、地位・身分には、 公卿

  (くぎょう、= 位階(いかい)・三位(さんみ)以上

  の者や参議(さんぎ))、 「殿上人」 (てんじょ

  うびと、= 位階・五位以上の者で昇殿(しょうで

  ん)を許可された者や蔵人(くろうど))、「貴族」 

  (きぞく、= 位階・五位以上の者) などがある。

 

 

■ 朝廷の政務、業務。

■ 朝廷の中央省庁(中央官庁)では、 天皇の政庁

 では朝廷の上級貴族の公卿(くぎょう)が政務を行い、

 上皇の院庁(いんのちょう)では 上級・下級貴族の院

 近臣(いんのきんしん)が政務を行った。 また、 朝

 廷の地方役所(地方官庁)では、国司(こくし)または

 目代(もくだい)が、政務を行った。

 

■ 朝廷の中央省庁(中央官庁)では、 在京(都)の官

 人が朝廷の業務を行い、 朝廷の地方役所(地方官

 庁)では、 地方の官人の在庁官人が 朝廷の業務を

 行った。

 

■ 在庁官人 (ざいちょうかんじん) は、 朝廷の地方

 役人で、 朝廷の地方役所の職員、官人である。 

   在庁官人は、 国司(こくし)や目代(もくだい)の部

 下で、国衙 (こくが、現在の県庁に相当)で、業務を

 行った職員で、 多くは、地方豪族(地方の有力者)が

 任命された。 在庁官人の一部は、 武士(武者(むし

 ゃ))となった。

 

■ 朝廷の場所、建物。

■ 大内裏 (だいだいり) とは、 前近代日本の、

  朝廷の中心政治機関(中央官公庁)の建物の

  ある場所 である。

● 京(都)の大内裏の出入口の門が、 朱雀門

  (すざくもん)で、 朱雀門に通じる京(都)の都

  の中央のメインストリートが、 朱雀大路(すざ

  くおおじ)で、 現在の京都市の千本通り(せん

  ぼんどおり)である。

■ 内裏 (だいり)とは、 前近代日本で、大内裏

  の中にある、 天皇の御所(ごしょ)、皇居、天

  皇の住む御殿 である。

■ 大極殿(だいごくでん)は、 前近代日本で、大

  内裏の中にある、 天皇が政務を行う場所で、 

  重要な国家行事、儀式を行う場所であった。 

     1994年に、京(都)の大極殿の基礎部分

  が、偶然発見される。

     朝廷の大極殿を復元した建物が、明治時

  代に建築した平安神宮の建物の1つにある。

 

■ 朝廷。

■ 朝廷 (ちょうてい) とは、 前近代日本の、 天皇

 家の政治組織で、 天皇家(天皇、上皇、皇子等)が

 政治をとるところ である。 英名は 、the Imperial 

 Court である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ 朝廷の本拠地は、 京(都)の内裏(だいり、天皇の

  政庁)や院庁(いんのちょう、上皇の政庁) などで

  ある。 朝廷の官僚制には、 位階と官職があった。

 

◆ 朝廷の官僚制。

■ 官人(かんじん)とは、 朝廷に仕える職員

  である。 現在の国家公務員に相当する。 

● 官人(かんじん)とは、 広義では、朝廷

  仕える職員(現在の国家公務員に相当)で、

  朝廷の位階(いかい)をもつ者と朝廷の位階

  をもたない者(無位の者)がいた。 狭義で

  は、官人は、朝廷の位階をもつ者のみを意

  味する場合もある。

● 位階・五位以上の官人(広義の朝廷に仕え

  る職員)を上級官人、 位階・六位以下の官

  人や無位の官人を、下級官人という場合が

  ある。

■ 官人には、 律令官制朝廷の位階( 一

  位〜八位、初位(そい))を持つ者 と、 朝

  廷の位階を持たない者 がいる。

■ 官人(かんじん、朝廷に仕える職員)には、

  中央政庁の官人 と、 地方役所の官人

  (在庁官人) がいた。

■ 朝廷の官僚制 (= 朝廷の律令官制律令

  制度の官僚制)、律令の身分制) には、官

  位があり、 官位には、位階と官職があった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ 朝廷律令官制律令制度の官僚制)の 官

  位(位階・官職)は、 10世紀頃の律令制度

  の崩壊後 も、朝廷における地位を示すため、

  江戸時代後期まで、 名目的に存続した。

 

◆ 朝廷の官位(位階・官職)。

◆ 朝廷の位階。

■ 前近代日本で、位階は、 朝廷 律令官制

  (律令制度の官僚制))での、 個人の地位を

  表す序列・等級 であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。 

 

■ 朝廷の位階は、一位 (いちい)から八位(は

  ちい)、初位(そい)まで の9グループがあり、

  正一位(しょういちい)から少初位下(しょうそ

  いのげ)までの、30位階(いかい)があった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 五位以上の位階をもつ者 (一位二位

  四位五位の位階の者)。

● 貴族 (きぞく)。

● 一位から五位までの、14の位階の者。 

   (殿上人

 ■ 貴 (き、一位から三位までの、6つの位

   階の者) 

   (≒ 公卿

 ■ 通貴 (つうき、四位から五位までの、8つ

   の位階の者)。  

■ 六位以下の位階をもつ者 (六位七位

  初位(そい)の位階の者)。

■ 無位(むい无位(むい))の者。  

 

 殿上人 (てんじょうびと )は、 位階・五位

  以上の者で昇殿を許可された者 や、 位

  階・六位以上の者で蔵人(くろうど)に叙任

  された者 である

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 公卿 (くぎょう )は、 位階三位(さんみ)

  以上の者、 や 位階・四位(しい)の者で

  (さんぎ)の官職に叙任された者 であ る。

    公卿は、 朝廷の政務の合議に参加で

    きる身分・地位 である。  朝廷の公卿会議

  に参加できる。

 

◆ 朝廷の官職。

■ 官位相当制 (かんいそうとうせい)。

● 朝廷の官職は、 官位相当制(かんいそうと

  うせい)により官職と位階を相当させた。

    上位の官職の例では、 朝廷の位階

  一位から四位までには、 太政大臣(従一位

  以上)、 左大臣(正二位以上)、 右大臣(正

  二位以上)、 内大臣(従二位以上)、 大納

  言(正三位以上)、 中納言(従三位以上)、

  参議(四位以上) などがあった。

    ( )は、原則として官職に相当する位階

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 四等官制 (しとうかんせい)。 

● 朝廷の各組織には、4階級の階級があり、上

  位から、 長官(かみ)、 次官(すけ)、 判官

  (じょう)、 主典(さかん) があった。

    中央官庁の統括部(太政官(だいじょうか

  ん))では、 長官(かみ)は、太政・左・右・内

  大臣、 次官(すけ)は大納言である。 

    中央官庁の省では、 長官は、卿、 次官

  大・少輔である。

    地方の国(国司)では、 長官は、守(かみ)、

  次官は介(すけ) である。

    大宰府(だざいふ)では、 長官は、師(そつ、

  そち)、 次官は、大・少弐 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

◆ 公達。

■ 公達 (きんだち)とは、親王や貴族の尊称で

  ある。

 

◆ 朝廷での地位。 

■ 公卿。

■ 公卿(くぎょう)とは、 朝廷の地位 ・身分、で、

  朝廷の位階・三位(さんみ)以上 の者や 位階

  ・四位の者で参議(さんぎ)の官職に叙任された

  者 である。

    公卿は、 朝廷の政務の合議に参加できる

    身分・地位 である。  朝廷の公卿会議(朝廷の

  政務合議会議)に参加できる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

            

■ 殿上人。    

■ 殿上人(てんじょうびと)とは、 朝廷で昇殿

  (しょうでん)を許された者 である。

 殿上人(てんじょうびと)とは、 朝 廷の地

  位(身分)で、 特権身分で、 天皇御所(て

  んのうごしょ)の清涼殿(せいりょうでん)に

  昇殿(しょうでん)することを許された者 で

  ある。

 天皇との関係では、 内裏の、殿上人とは、 

  天皇の儀式御殿の清涼殿(せいりょうでん)

  に昇殿を許された者である。 即ち、 内裏

  の、殿上人は、 内裏(だいり、天皇の御所)

  の天皇の儀式御殿の清涼殿(せいりょうで

  ん)の「殿上の間」(てんじょうのま)に昇(の

  ぼ)る(行く)ことを天皇より許可された者で

  ある。 

    内裏の、殿上人は、 朝廷の位階・五位

  以上の者で天皇より昇殿を許可された者

  (五位以上の者の一部) や 六位以上の

  者で天皇より蔵人(くろうど)に叙任された

  者 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ 院(いん、上皇)や東宮(とうぐう、皇太子)

  との関係では、 院・東宮御所の、殿上人

  とは、 院や東宮の儀式御殿や常御殿(つ

  ねごてん)に昇殿(しょうでん)を許された

  者 である。 即ち、院・東宮御所の、殿上

    人は、 院の御所や東宮御所の、儀式御

  殿や常御殿に昇 る(行く)ことを、院(上皇)

  や東宮(皇太子)より許可された者である。 

  近臣が多かった。

 

■ 堂上

 堂上 (どうじょう、とうしょう)とは、 堂の上の

  意で、 昇殿を許された位階4位以上の者であ

  る。

    堂上は、 天皇御所(てんのうごしょ)の清涼

  殿(せいりょうでん)に昇殿(しょうでん)すること

  を許された、 公卿(くぎょう)や 位階4位以上の

  殿上人(てんじょうびと) である。

 

■ 地下、地下人。

 地下、地下人(じげ、じげにん)は、地下の人の

  意で、 6位以下の官人、無位の官人でる。

 

 地下、地下人 は、狭義では、 天皇御所の清涼

 殿に昇殿することを許されない官人、宮人(きゅう

 じん) である。

 地下、地下人 は、狭義では、 殿上人(てんじょ

  うびと)以外の官人 である。

 地下、地下人 は、狭義では、 堂上(どうじょう)

  以外の官人 である。

 地下、地下人 は、広義では、 宮中に奉仕する

  人以外の者 である。

           

 

◆ 朝廷の要職。 

■ 摂政・関白

 摂政 (せっしょう) は、 幼少(成人前)また

  は女帝の天皇を補佐して、朝廷の政務を行う

  役職 である。

 関白 (かんぱく) は、 成人の天皇を補佐

  して、朝廷の政務を行う役職 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 内覧 (ないらん)。

    内覧(ないらん)は、 朝廷の役職で、 天皇

  に奏上(そうじょう)する(提出する)、奏状(そ

  うじょう、公文書)を、 天皇が見る前に  (天皇

  に奏聞する前に)、 臣下が事前に目を通す

  (内覧、内見する)役職 である。 事実上、天

  皇の政務を代行する役職であった。  摂政か

  関白が、天皇に任命されて、内覧となることが

  多かった。

    例として、藤原道長は、 「内覧」となり、朝廷

  の政務の実権を握(にぎ)り、更に日本の政治

  の実権を握り、日本の政治を支配した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 蔵人 (くろうど)。

    蔵人(くろうど )は、朝廷の位階・六位以上で

  蔵人に叙任された者  である。

    蔵人(くろうど)とは、 朝廷の官職で、 蔵人

  所(くろうどどころ)の職員で、 天皇(家)の秘書

  官で、 雑務を担当した。 

    蔵人は、 朝廷では平安初期に置かれ、天皇

  (王家,皇室)の文書を保管する倉(くら)を管

  理する蔵人所(くろうどどころ)の役職であり、 次

  第に天皇(家)に近侍して朝廷の政務に関与す

  るようになり、 要職となった。  

    蔵人は、  当初は機密文書・訴訟などを扱

  (あつか)い、 後には、宮中の雑事の処理にも

  当たった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#oldestsoninheriting

 

■ 長子相続 

       (ちゅうしそうぞく)。

 

■ 長子相続。

■ 時期 : 前近代日本。

■ 名称 : 長子相続 (ちょうしそうぞく)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ 年長者の(先に誕生した)男子が、一家の家督(かと

 く)を相続すること。

■ 前近代日本の家督相続制度の1つ。

 

 

■ 長子相続(ちょうしそうぞく)とは、前近代日本の家督

 相続制度の1つで、 厳格な父系社会の前近代日本で、 

 年長者の(先に誕生した)男子が、一家の家督(かとく)

 を相続することである。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 実力のある男子が、一家の家督を相続するという状

 況にすると、兄弟間で争いが起こることを考慮して、こ

 の相続形式が、成立した。

 

■ 下克上(げこくじょう)の実力主義の、戦国時代、安土

 桃山時代、江戸時代初期 は、 実力・才能のある男子

 が、 一家の家督を相続する傾向が強かったため、 一

 家の家督の相続をめぐり、兄弟間で血みどろの激しい争

 いが絶えず起こった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 特に、平和な江戸時代は、長子相続が主流であった。

● 江戸幕府は、徳川家の幕藩体制を維持するため、ま

 た、平和な社会を維持するため、 長子相続を奨励(し

 ょうれい)した。

   江戸時代は、3代将軍・徳川家光治世の時代から、

 長子相続で争いのない平和な社会を築いた。

   しかし、長子相続による弊害もでた。 実力もなく才

 能もないのに先に誕生した男子というだけで長男が一

 家の当主となり、 次男以下の男子は、長男が病死した

 り養子に出ない限り、当主にはなれなかった(部屋住み

 の男子)。 後で生まれたために実力があり才能もある

 次男以下の男子が一家の当主になれないという状況が

 出現した。 

   そこで、一家の重臣、重役が、実力・才能のない当

 主に代わり、 一家の実務を担うシステム(当主代行家

 老システム) が、江戸時代に整備された。

   また、次男以下の中で実力・才能のある男子は、男

 子のいない他家に養子に出て、その家の当主となった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#chochofujin

 

 蝶々夫人 

     (ちょうちょうふじん)。

 

 蝶々夫人。

■ 名称 : 蝶々夫人 (ちょうちょうふじん)。 

 英名 : MADAME BUTTERFLY。

■ 架空の日本人女性。

 幕末から明治初期に、来日した米海軍士官・ ピンカ

 ートンと長崎で恋に落ち結婚した女性 で、オペラ歌劇

 「蝶々夫人」の主人公。

■ オペラ歌劇「蝶々夫人」は、イタリア人作曲家のプッチ

 ーニのオペラ。

 モデルとなったのは、 幕末に商人として活躍したト

 ーマス・グラバー夫人のツルとする説がある。

■ ≪ コメント ≫ 現代の日本では、 外国人男性に弄

 (もてあそ)ばれ捨てられる日本人女性の、現代版「蝶々

 夫人」が、増えている。

 

 

■ オペラ歌劇「蝶々夫人」 は、 イタリア人作曲家のプ

  ッチーニのオペラ である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 蝶々夫人 (ちょうちょうふじん 英名: MADAME 

 BUTTERFLY) は、 架空の日本人女性で、 幕末か

 ら明治初期に、来日した米海軍士官・ ピンカートンと長

 で恋に落ち結婚した女性で、 オペラ歌劇「蝶々夫人」

 の主人公 である。

 

■ ≪ コメント ≫ 現代の日本では、 外国人男性に弄

 (もてあそ)ばれ捨てられる日本人女性の、現代版「蝶々

 夫人」が増えている。 

● 現代の1つの例として、 外国人男性が、日本で仕事

 し稼ぐため、長期滞在のために(長期滞在ビザ、永住権

 ビザ等の取得のために)、 日本人女性に近づき、 日本

 人女性を事実上現地妻とし、子供をもうけることもあり、 

 稼いだあと仕事を終え単身帰国し、 帰国後音信不通と

 なるという、外国人男性のケースも増えている。

 

 オペラ歌劇「蝶々夫人」の主人公のモデルとなったの

 は、 幕末に商人として活躍したトーマス・グラバー

 人のツルとする説がある。

● ツルが、長崎の武士出身の娘で、「蝶」の紋付(もんつ

 き)を好んで着て、  「蝶々さん」と呼ばれたりした。長崎

 湾を見下(みお)ろす旧グラバー邸も物語の設定と一致

 する。 しかし、 「蝶々夫人」の経歴とツルの経歴とは、

 似ている部分もあるが、 重要な部分では、異なる点も

 多い。 グラバーとツルとの間にできた子供の倉場富三  

 郎は、米ペンシルべニア大学に留学している。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 蝶々夫人 (ちょうちょうふじん)は、 幕末から明治初

 期に、長崎を舞台に、美しい娘の蝶々さんと、アメリカ人

 海軍士官のピンカートンとの恋愛の悲劇を描く物語に登

 場する、主人公 である。 

 ● オペラ歌劇「蝶々夫人」の内容の概要 は、幕末から

 明治初期、海軍士官ピンカートン (PINKERTON) は、 

 米海軍の戦艦で来日し、  長崎で、没落藩士の武士出

 身の娘で芸妓(げいこ、芸者)の蝶々さんと恋に落ち、

 婚し、子供をもうけ、 その後、任務を終え、 再来日

 束し、蝶々さんと子供を置いて 、アメリカに戻る。 

   その後、 ピンカートンは、 アメリカに戻った後 、アメ

 リカ人女性と結婚した 。 一方、 蝶々夫人は、 彼を、約

 3年も待った。 そして、 約3年後、ピンカートンは、アメ

 リカ人の ・ケイトを伴(ともな)って、 子供を引き取りに

 再度来日した。 主人公の蝶々夫人は、 ピンカートンに

 メリカ人の妻・ケイトがいる ことを知り、 また、 自分の

 子供を引き取りに来たことを知ってショック受け、誇りを傷

 つけられて、 蝶々夫人は、 ピンカートンとの間にできた

 子供の前で、 最後には、自殺してしまう。

 

■ オペラ歌劇「蝶々夫人」 は、 アメリカ人弁護士

  のジョン・ルーサー・ロングが1897年に著作した

  短編小説 「マダム・バタフライ  (MADAME 

  BUTTERFLY)」 を原作にして、 アメリカ人劇

  作家・デー ビッド・ベラコスが1900年に制作した

  戯曲を、イリッカとジャコーザのイタリア人が歌劇

  台本化した作品  である。 1904年に、初めて、

  ミラノのスカラ座で、初演された。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 江戸時代後期の長崎では、 日本に駐在する外

  国人の軍人や商人と結婚し、現地妻となる女性

  が多くいた。

● 江戸時代後期の長崎では、 普通の商人や下級

  の軍人は、 売春宿などに通って欲求を発散して

  いた。  

    経済的に余裕のある、裕福な商人や高級将校

  などは、 居宅に女性と暮らしていたが、 あくまで

  も、一時的なものであった。 それらの女性達は、

  長崎の外国人居留地へ農家から出稼ぎにきた娘

  達で、 生活のため、洋妾(ようしょう)になったの

  で、 互いに割り切った関係であった。 オペラ歌

  劇「蝶々夫人」のような、外国人男性との真実の恋

  愛は稀(まれ)であった。 まして、外国人男性の夫

  に裏切られて 自殺した女性の記録はない。 

     長崎居留の外国人男性と日本人女性との同

  居は、江戸幕府の長崎奉行所も、公認していた。

 

● ドイツ人医師のシーボルトにも、 長崎滞在中に、 

  楠本滝という日本人妻がいたが、 シーボルトの帰

  国後、結婚、離婚を繰り返している。

 

 

♪♪ 蝶々夫人 が登場する、面白く、興

 味深い、ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

★ 蝶々夫人 が登場する、面白く、興味

  深い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 蝶々さん・最後の武士の娘 』  

   (2011年NHKスペシャルドラマ)。

● 前編(2011年11月19日) と 後編(2011

  年11月26日) の2回で、 ドラマを放送した。

● 日本の幕末・明治時代初期を描いた、ドラマ。

● 蝶々さんを演じた女優 : 宮崎あおい。

 

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#choshuhan

 

■ 長州藩 

      (ちょうしゅうはん)。

 

■ 長州藩。

 存続時期 : 江戸時代初期〜明治時代初期。

■ 名称 : 長州藩 (ちょうしゅうはん)。

 長門と周防 (ながととすおう、現在のほぼ山口

  県)に存在した藩。

■ 毛利氏を藩主とする藩。

■ 幕末に、薩摩藩と共に、倒幕運動の中心勢力と

  なる。

■ 明治期に、薩長藩閥政治の政治勢力の「長州閥」

  を形成し、長州藩出身者から多くの有力政治家を

  出した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61213。

 

 

■ 長州藩は、 幕末に、薩摩藩と共に、倒幕運動の

  中心勢力となる。  明治期に、 長州藩出身者は、 

  明治新政府(近代日本政府)では、「薩摩閥」と共

  に、 「第1次大戦までの日本の政治を支配した

  薩長藩閥政治」の政治勢力の「長州閥」を形成し、 

  長州藩出身者の中から多くの有力政治家を出した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 明治期に、 長州藩出身者は、 明治新政府(近代

   日 本政府)では、「薩摩閥」と共に、 日本の政治を

  支配した藩閥政治の政治勢力の「長州閥」を形成し、

   長州藩出身者の中から多くの政治家を搬出した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 幕末、明治期に、日本の政治で活躍した長州藩出

  身者 は、吉田松陰(よしだしょういん)、 久坂玄瑞

  (くさかげんずい)、 高杉晋作(たかすぎしんさく)、 

  木戸孝允(きどたかよし、桂小五郎)、 伊藤博文(い

  とうひろぶみ)、 井上馨(いのうえかおる)、 山県

  有朋(やまがたありとも)、 桂太郎(かつらたろう)

  などである。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 幕末、明治期に、日本の政治で活躍した長州藩出

  身者は、 吉田松陰 (よしだしょういん、幕末、 明倫

  館や松下村塾で講義し、政治家人材育成)、 久坂

  玄瑞 (くさかげんずい、幕末、尊皇攘夷派・急進派

  指導者)、 高杉晋作(たかすぎしんさく、幕末、倒幕

  派指導者)、 木戸孝允(きどたかよし、 桂小五郎、幕

  末、倒幕派指導者、明治期、新政府首脳)、 伊藤博

  (いとうひろぶみ、明治期、内閣制や旧憲法の制

  定、内閣総理大臣)、 井上馨(いのうえかおる、明治

  期、参議、外務卿、外相など新政府高官、欧化政策

  を指導)、 山県有朋(やまたありとも、内閣総理大

  臣)、 桂太郎(かつらたろう、内閣総理大臣) など

  である 。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 幕末、明治初期では、 長州藩の藩主は、 第15

  代藩主・毛利 敬親(もうり たかちか) (生没年:18

  19〜71年、藩主在任:1836年〜1869年) 及

  び、 第16代藩主・毛利元徳(もうりもとのり)(藩主

  在任 :1869年〜1871年) である。

     毛利元徳は、 養父・毛利敬親の隠居 (いんき

  ょ)により、藩主となる。 

     1869年から1871年までの、長州藩の実権

  は、毛利元徳の養父の毛利敬親が握っていた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 長州藩の、初代藩主は、毛利輝元(もうりてるもと)

  で、藩主在任は、1600年〜1623年  である

 

■ 長州藩 (ちょうしゅうはん)とは、ほぼ山口県の地

   域に、 江戸時代初期から明治時代初期まで存在

    した、(はん) である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 長州藩 は、 江戸時代、長門国(ながとのくに)と

  周防国(すおうのくに)領有した(領国とした)、 外

  様大名(とざまだいみょう)の毛利氏(もうりし)を藩

  主とする藩 である。

 

■ 長州藩は、 毛利(もうり)氏(家)当主が、代々、

  (はんしゅ)を務(つと)めた藩 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 長州藩の、初代藩主は、毛利輝元(もうりてるもと)

  (藩主在任、1600年〜1623年) で ある。

 

■ 幕末、明治初期の、長州藩の藩主 。

     第15代藩主は、毛利 敬親(もうりたかちか)で、 

  藩主在任は、1836年〜 1869年で、 生没年は、

  1819〜71年 である。

     第16代藩主は、 毛利元徳(もうりもとのり)で、 

  藩主在任、1869年〜1871年) で、 養父・毛利敬

  親の隠居(いんきょ)により 藩主となる。

    1869年から1871年までの、長州藩の実権は、

  毛利元徳の養父の毛利敬親 (1819〜1871年)が

  握っていた。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 長州藩が登場する興味深い、ド

  キュメタンリー、ドラマ、 映画。

 

★ 長州藩が登場する興味深い、ドラ

  マ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

   実) と 架空の出来事 が 混じって描かれ

   ています。 また、 現代風にアレンジしてあ

   ります。

 

■ 『 花燃ゆ (はなもゆ) 』 

   (日本のNHK2015年大河ドラマ)。

■ 日本の明治維新、幕末、明治時代の時代

  状況やその時代に活躍した人々を描く。

 

● 毛利 敬親(長州藩藩主)を演じた俳優 : 

   北大路 欣也。

● 吉田 松陰 (吉田 寅次郎) を演じた俳優 :   

  伊勢谷 友介 (いせや ゆうすけ)。

● 高杉晋作 を演じる俳優 :   

   高良 健吾 (こうら けんご)。

      高杉晋作(たくすぎしんさく)は、 吉田

  松陰の松下村塾の塾生の1人である。

● 久坂玄瑞 を演じる俳優 :  

  東出 昌大 (ひがしで まさひろ)

     久坂玄瑞 (くさかげんずい)は、文(ふ

  み)の1番目の夫である。 

● 木戸孝允 (桂小五郎) を演じる俳優 :   

   東山 紀之 (ひがしやま のりゆき)。

      木戸 孝允 (きど たかよし、桂 小五郎

  (かつら こごろう))は、  藩校明倫館の教

  授の吉田松陰から兵学などを学ぶ

● 伊藤博文 (伊藤利助) を演じる俳優 :   

   劇団 ひとり (げきだん ひとり)。

      伊藤博文(いとうひろぶみ、伊藤利助

  (いとうりすけ))は、 吉田松陰の松下村

  塾の塾生の1人である。

 

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#chikako

 

■ 親子  

     (ちかこ)。

 

■ 親子。

■ 親子(ちかこ)については、 『 和宮(かずのみや) 』 

  を参照して下さい。

●  (ちかこ) 、 和宮、  皇女和宮、 和宮親

  内親王 (かずのみやちかこないしんのう)、 静寛院、 

  静寛院宮 (せいかんいんのみや) 同一人物である。

 

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#chindai

 

 鎮台   

     (ちんだい)。

 

■ 鎮台。

■ 鎮台 (ちんだい)。

■ 明治時代前期に、 治安維持を目的に、日本各地に

 おかれた、 明治新政府(近代日本政府)の、 陸軍

 駐屯部隊。

■ 明治初期の日本各地の反政府の暴動、反乱等の鎮

 圧に活躍した。

■ 士族の反乱鎮圧などに活躍。

■ 1888年(明治21年)に、 陸軍の師団(しだん)に

 改組される。

 

 

■ 鎮台(ちんだい) とは、 明治時代前期に、治安維

 持を目的に、 日本各地におかれた、 明治新政府

 近代日本政府)の、陸軍駐屯部隊 である。

 

■ 鎮台 は、明治初期に、明治新政府(近代日本政府)

 により、 初め、1871年(明治4年)に、東京、大阪、 

 東北(石巻)、鎮西(ちんぜい、小倉)の、4鎮台 が置

 かれ、 その後、1873年(明治6年)に、東京、大阪、

 仙台、広島、名古屋、熊本の、6鎮台 が置かれた。

 

■ 鎮台 は、 明治初期の日本各地の反政府の暴動、

 反乱等の鎮圧に活躍した。

  鎮台 は、 日本国内の暴動や反乱の鎮圧にあたり、 

 特に、士族の反乱鎮圧などに活躍した。

  内戦である、1877年(明治10年)の西南戦争 で

 は、 明治新政府(近代日本政府)の、熊本鎮台 が、 

 鹿児島から北上した、西郷反乱軍との戦いで、 先鋒

 (せんぽう)となった。

 

■ 鎮台 は、1888年(明治21年)には、 陸軍の師

 団(しだん)に改組された。

 

 

♪♪ 鎮台 が登場する、面白く、興味深い、

 ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

★ 鎮台  が登場する、面白く、興味深い、 ド

 ラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 歴史

 のドラマ、映画 は、 史実(歴史上の事実) と 架空

 の出来事 が 混じって描かれています。 また、 現代

 風にアレンジしてあります。

 

■ 『 坂の上の雲 (さかのうえのくも) 』  

 (2009〜2011年のNHKのドラマ)。

● 日本の明治時代を描いた、ドラマ。

● 2009年に5回、2010年に4回、2011年に4回、 

 計13回で、ドラマを放送した。

● 1人の文学者 (正岡子規) と 2人の軍人 (後に

 日露戦争で活躍する陸軍軍人・秋山好古と海軍軍人・

 秋山真之) を通して、 明治時代初期から、日露戦争

 が起きた明治時代末期までを描いた、ドラマです。

 

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#chibasana

 

■ 千葉 佐那  

      (ちば さな)。

 

■ 千葉 佐那。

■ 生没年 : 1838年(天保9年)〜1896(明治29年)。

■ 名称 : 千葉 佐那(ちば さな)。 

 別名、 千葉 佐那子(ちば さなこ)、 千葉 さな子(ちば

 さなこ)。

■ 坂本龍馬の恋人、婚約者。

■ 美貌で知られ、龍馬の死後も彼を想い続け、一生を独

 身で過ごした女性。

■ 剣術の達人。 北辰一刀流小太刀免許皆伝。 

  長刀師範。

■ 江戸出身で、千葉定吉の二女。 

● 美貌をそなえ、剣術の達人であったため、「鬼小町(お

 にこまち)」と呼ばれた。

■ 龍馬が江戸遊学中、剣術修行で通った、千葉道場 (通

 称、小千葉道場) の道場主の千葉定吉、 の娘 である。

■ 千葉 佐那の、父は、千葉定吉(ちばさだきち)で、 北

 辰一刀流創始者の千葉周作の弟で、 鳥取藩士で、 江

 戸・桶町(おけまち)の千葉道場 (通称、小千葉道場)の

 道場主、剣術師範である。

● 千葉周作 は、 北辰一刀流剣術の開祖 である。

■ 千葉 佐那の、兄は、千葉重太郎(ちばじゅうたろ) で、 

 千葉道場 (通称、小千葉道場) の剣術師範代 である。

 

  

 

 

■ 千葉 佐那(ちば さな) は、 生没年は 1838年(天保9年)〜

 1896(明治29年)で、 別名は、 千葉 佐那子(ちば さなこ)、

 千葉 さな子(ちば さなこ) とも言う。

■ 千葉 佐那 は、 剣術の達人で、 北辰一刀流小太刀免許皆伝、

 長刀師範 であった。

■ 千葉 佐那 は、 江戸出身で、千葉定吉の二女 である。 

■ 千葉 佐那 は、 美貌をそなえ、剣術の達人であったため、「鬼小

 町(おにこまち)」 と呼ばれた。

■ 千葉 佐那(ちば さな) は、 江戸出身 で、 千葉定吉(千葉周

 作の弟)の二女 である。 

■ 千葉 佐那 は、 坂本龍馬の恋人、婚約者で、 美貌で知られ、

 竜馬の死後も彼を想い続け、一生を独身で過ごした。

■ 龍馬が江戸遊学中、剣術修行で通った、千葉道場 (通称、小千

 葉道場) の道場主の千葉定吉の娘 である。

■ 父は、千葉定吉(ちばさだきち)で、 北辰一刀流創始者の千葉周

 作の弟で、 鳥取藩士で、 江戸・桶町(おけまち)の千葉道場 (通

 称、小千葉道場)の道場主、剣術師範である。

● 千葉周作 は、 北辰一刀流剣術の開祖 である。

■ 兄は、千葉重太郎(ちばじゅうたろ) で、 千葉道場 (通称、小千

 葉道場) の剣術師範代 である。

 

 

◆ 千葉 佐那  

 (龍馬との交際期間 :1853年〜1867年)。  

■ 千葉 佐那 (ちば さな) は、 龍馬とは、江戸(東京)で知り合

 った女性で、 江戸の剣術道場主の娘である。

  佐那 (さな) は、 1853年(嘉永6年)に、 龍馬が遊学先の

 江戸(東京)の剣術道場で知り合い、 その後、龍馬の恋人となっ

 た女性であり、 剣術の達人である。 

  佐那 は、 龍馬を、一生、愛した女性である。  龍馬と婚約を

 交わしたとも言われている。 

  佐那 は、 龍馬の死後、明治期、 学習院女子部に舎監として

 奉職した後、 東京の千住にて針灸を生業としてすごした。 

  佐那は、 龍馬の死後も、 龍馬のことが忘れられず、一生、独

 身で過ごした。 

 

■ 千葉 佐那 は、死後、 山梨県甲府市の日蓮宗妙清山清運

 寺に納骨され、 墓石には、「坂本龍馬室」 と彫られている。

 

 

♪♪ 千葉 佐那 が登場する、面白く、興味

 深い、ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

★ 千葉 佐那 が登場する、面白く、興味深

 い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 歴

 史のドラマ、映画 は、 史実(歴史上の事実) と 架

 空の出来事 が 混じって描かれています。 また、現

 代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 

   (日本の2010年NHK大河ドラマ)。

● 千葉 佐那を演じた女優 : 貫地谷 しほり。

 

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#chibajutaro

 

■ 千葉 重太郎 

      (ちば じゅうたろう)。

 

■ 千葉 重太郎。

■ 千葉 重太郎 (ちば じゅうたろう)

■ 幕末の志士。

■ 坂本龍馬の友人、 龍馬の恋人・佐那(さな)の兄。

■ 小千葉道場の剣術師範代。

 

■ 千葉重太郎 (ちばじゅうたろう) は、 幕末の志士 

 で、 坂本龍馬の友人、 龍馬の恋人・佐那(さな)の兄

 である。

 

■ 千葉重太郎 は、 千葉定吉の子で、 千葉定吉が道場主の千葉道

 場(小千葉道場)の剣術師範代 である。

 

■ 坂本龍馬は、 千葉重太郎の紹介で、 江戸で、多くの志士と出会っ

 ている。

 

■ 千葉道場 (ちばどうじょう) (= 小千葉道場) は、千葉定吉が道場主

 の北辰一刀流 の道場 で、 江戸での坂本龍馬の剣術修行道場 であ

 る。

 

 

♪♪ 千葉重太郎 が登場する、面白く、興味深い、ドラ

 マ、映画、ドキュメンタリー。

 

★ 千葉重太郎 が登場する、面白く、興味深い、ドラマ、

 映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 歴史のドラマ、映画 

 は、 史実(歴史上の事実) と 架空の出来事 が 混じって描かれて

 います。 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 (日本の2010年NHK大河ドラ

 マ)。

● 千葉重太郎を演じた俳優 : 渡辺 いっけい。

 

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#chiyo

 

千代。  

     (ちよ)。 

      (= 見性院、

      山内一豊の妻)

 

   

     (ドラマPRフォト、ドラマの山内一豊(左)と千代(右))。

 

 

 

■ 千代。 

■ 名称 : 千代 (ちよ)。  

 別名、まつ。 落飾(出家)後、見性院 (けんし

  ょういん) と称す。

  (注意) 前近代日本では、慣習で、女性は通常、

  日常で氏を名乗らず、名のみで自他呼称する。

■ 《人名》。(女性名)。

■ 生没年 :

      1557年(弘治3年)〜1617年(元和3年)。 

■ 千代は、

   戦国時代(室町時代後期)・安土桃山時代、江戸

   時代初期に活躍した政治戦略家の女性である。

■ 千代は、

   凡庸な夫・山内 一豊を、一国の大名にまで出世

   させた敏腕女性である。

■ 千代は、

     土佐国(とさのくに、現・高知県)の土佐藩初代

   藩主、山内 一豊 (やまうち かずとよ) の、

   正室夫人である

■ 千代は、

   夫に対する内助の功で、日本一(ひのもといち)

     の賢妻 と言われた女性である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。          

 

 

 □ 千代(ちよ、山内一豊・正室、見性

    院)が登場する、興味深い、ドラマ、

      映画、ドキュメンタリー

 

          

 ■ 千代。

 

  ■ 千代 (ちよ)は、 

   戦国時代(室町時代後期)・安土桃山時代、江戸

   時代初期に活躍した、政治戦略家の女性である。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 千代(ちよ、= 見性院、1557年ー1617年)

    は、  土佐藩藩主、山内 一豊 (やま うちか

    ずとよ)の、正室夫人であり、 夫を支え、

    戦国時代(室町時代後期)・安土桃山時代、

    江戸時代初期に活躍した女性である。

 

  ■ 千代(ちよ、= 見性院)は、

    政治戦略家であり、凡庸(ぼん よう)な夫

    山内一豊(やまうちかづとよ)を助け、夫を

    土佐国(とさのくに、現・高知県)一国の大名

    にまで出世させた、敏腕女性である。 

             

 

 ■ 千代。

 

  ■ 千代 (ちよ)は、 生没年は、1557(弘治3

   年)〜1617年(元和3年)であり、 別名、まつ

   で、 落飾(出家)後、見性院 (けんしょういん) 

   と称する。

 

  ● (注意) 前近代日本では、慣習で、女性は

   通常、日常で氏を名乗らず、名のみで自他

   呼称する。

      また、前近代日本では、上層階級では、

   慣習で通常、日常で、男女とも実名不使用で

   通称を使用する。

      前近代日本では、慣習で女性は、家父

   長制・夫婦別姓であった。

 

 

 ■ 千代。

 

  ■ 千代 (ちよ)は、 夫に対する内助の功で、

   日本一(ひのもといち)の賢妻と言われた女性

   である。

 

  ● 千代の夫・山内一豊(やまうち かずとよ)

   に対する一方的な愛ではなく、 山内一豊夫婦

   は 相思相愛で、 山内一豊が 妻の千代を心

   から愛したがゆえに、 千代が 一豊の愛に応

   (こた)えたものであった。

 

 

 ■ 千代。

 

  ■ 千代は、 千代の夫、山内一豊と共に戦国

   の乱世を歩み、 凡庸(ぼんよう)な夫を助け、

   導き、 夫を土佐20万石の大名にさせた、聡

   明(そうめい)な女性である。 

 

  ● 選手とコーチ。

     現代的に言うと、 オリンピック競技のスポー

   ツに例えるならば、 千代の夫、山内一豊が、

   オリンピック競技の選手なら、 妻の千代は

   オリンピック選手のコーチであり、 千代は、 

   選手である千代の夫を指導し、金メダルをとら

   せたコーチといった存在であった。

 

  ■ 千代の夫、山内一豊 (やまうち かずとよ)は、

   尾張(おわり、愛知県)出身の武士で、 織田信長

   豊臣秀吉徳川家康の家臣となり、 土佐藩藩主 

   (土佐国(とさのくに、現・高知県)の初代土佐

   藩主、 土佐山内家初代当主) となった、

   戦国武将である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 千代。

 

  ■ 千代の出自については、 諸説がある。

  ● 千代は、 近江国(おうみのくに、現・滋賀県)

   の浅井氏家臣の若宮喜助友興の子(娘)、または、

   美濃国(みののくに、現・岐阜県南部)の郡上

   八幡城主・遠藤氏の遠藤盛数の子(娘)と言われ

   ている。

 

 

 ■ 千代。

 

  ■ 山内一豊と千代の間には、娘(与祢姫)が一

   人生まれたが、 天正大地震で幼くして失い、

   それ以後、子供に恵まれなかった。

 

  ● なお、千代の育て子(拾い子、拾い育てた子)

   として、 「拾」(ひろい)、後の京都・妙心寺住職

   の湘南宗化がいる。 

      この「拾」は、 与祢姫の供養のための妙心

   寺参りの門前、あるいは、山内家の京都屋敷前

   で千代に拾われたという言い伝えがある。

 

 

 ■ 千代。

 

  ■ 山内一豊は、 弟の山内 康豊(やすとよ)の子、

   山内 忠義(山内一豊の甥)を、養子にして、 

   土佐・山内家を相続させる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 千代は、 千代の夫の山内一豊が1605年の

   秋に亡(な)くなると、 山内一豊の弟の山内康

   豊を、山内 忠義の後見(人)とし、 半年後には

   土佐国を引き払い、 湘南宗化のいる京都の

   妙心寺近くに移り住んで、余生を過ごした。

 

 

 ■ 千代。

 

  ■ 千代 (見性院)は、 1617年(元和3年)に、 

   京(都)で死去し、 墓所は、 高知県高知市の

   山内家墓所にある。 京都・妙心寺にも山内

   一豊夫妻の廟所がある。

 

 

#chiyo-appearingscenes

 

♪♪ 千代(ちよ、山内一豊の妻、見性

    院)が登場する、興味深い、ドラ

    マ、映画、ドキュメンタリー。

 

 ★ 千代が登場する、興味深い、ドラ

    マ、映画。

 

 ■ 『 功名が辻 (こうみょうがつじ) 』 。  

     (日本のNHK2006年大河ドラマ)。

     (原作:司馬 遼太郎(しば りょうたろう、

      福田定一)の『 功名が辻 』)、

       脚本:大石 静(おおいし しずか))。

 

  ■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

   江戸時代初期の時代状況やその時期に活

   躍した人々を描いたドラマである。

 

  ■ 千代と夫の山内一豊の後半生を描いたドラ

   マである。

 

  ● 千代を演じた女優名 : 仲間 由紀恵。

 

   

   ○ PRフォト (ドラマ「功名が辻」の

    山内一豊(左)と千代(右))。

 

 

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#chosokabemotochika

 

 長宗我部 元親  

     (ちょうそかべ もとちか)

 

 長宗我部 元親。

■ 生没年 : 1539年〜1599年。 

■ 名称 : 長宗我部 元親 (ちょうそかべ もとちか)。 

● 別名 : 長曽我部 元親 (ちょうそかべ もとちか)。

■ 戦国時代(室町時代後期)、安土桃山時代の四国の

 戦国大名

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 土佐国(とさのくに、高知県)出身の、戦国大名。

■ 美男子で、戦いの天才。

 

 

■ 長宗我部 元親 (ちょうそかべ もとちか) は、生没 

 年は1539〜1599年で、 戦国時代(室町時代後期)、

 安土桃山時代の、四国の戦国大名 である。

  長宗我部 元親は、別名は長曽我部 元親(ちょうそか

 べ もとちか)である。

  長宗我部 元親は、 土佐国(とさのくに、高知県)出

 身の、戦国大名で、 土佐国の小領主から身を起こし、

 土佐の半農半武士の家臣を従えて、 土佐国一国を

 平定し、 更に、四国全域を征服した。

   長宗我部 元親は、 美男子で、戦いの天才として

 知られる。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 長宗我部 元親 は、1571年に土佐(とさ、現在の四

 国の高知県)一国を統一し、 さらに 四国の、阿波(あ

 わ)、讃岐(さぬき)、伊予(いよ)を攻め、 1583年に 

 は、四国全土を平定した。 しかし、長宗我部 元親 は、

 1585年に、大軍の豊臣秀吉軍の四国征伐を受け、降

 伏し、 土佐以外の征服地を秀吉に没収され、土佐一

 国を保った (秀吉に安堵(あんど)された)。

   長宗我部 元親 は、天下分け目の戦い(関が原の戦

 い、その他の戦い)の1600年の前年の1599年に死去

 した。 四男の長宗我部 盛親が、長宗我部 元親の意向

 により、 土佐の長宗我部氏の家督を継いだ。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 長宗我部元親の子の長宗我部 盛親(もりちか) が、 

 天下分け目の戦い (1600年、関が原の戦い、その他

 の戦い) では、 石田方(西軍)に味方して、長宗我部

 氏は、敗北した。

   長宗我部 盛親 は、 天下分け目の戦いで西軍に味

 方し、 領国の土佐国(とさのくに、高知県)を没収され、

 浪人となり、 経済的に困窮しながら、京(都)で、暮らし

 た。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 1600年の天下分け目の戦い関が原の戦い、 そ

 の他の戦い)後、徳川家康の指示により、土佐国は、 

 戦国大名の山内一豊(やまうちかずとよ)の領国となり、 

 山内一豊と、山内一豊の正室夫人・千代(ちよ)、その

 家臣団が、土佐に入り、半農半武士の長宗我部氏の

 家臣たちを抑えた。 江戸時代になり、山内一豊は、

 佐藩の初代藩主となった。 千代は、夫 に対する内助

 の功で、日本一(ひのもといち)の妻と言われた女性 

 である。

 

■ 長宗我部 盛親 は、大阪の陣(1614〜15年)が

 起こると、豊臣方から誘いを受け、長宗我部氏の旧家

 臣たちと共に、大阪の陣で豊臣方で参戦し、徳川方と

 勇敢に戦った。 しかし、大阪城落城 で豊臣方が敗れ、

 長宗我部 盛親 は、 逃亡し潜伏したが捕らえられ、

 処刑された。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 土佐に残留した、半農半武士の長宗我部氏の家臣

 たちは、江戸時代に入り、 山内家の土佐藩のもとで、

 農民か下士(かし、下級武士) となる。

 

 

♪♪ 長宗我部 元親が登場する、興味深

    い、ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 長宗我部 元親が登場する、興味深い

   ドキュメンタリー。 

 

■ 歴史秘話ヒスとリア 『 美しき武将 

 戦国アニキの秘密〜長宗我部元親 

 信長・秀吉と戦う〜 』 (日本のNHK20

 12年(H24)5月16日本放送のテレビ・歴史ド

 キュメンタリー番組)。

 

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『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』。

 

 

以  上。