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◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY 

   HANDBOOK

 

 

 カナヤマ 日本歴史辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 お 』。

 

 

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メ ニュー (目次)。

 ■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

 

 □ 日本史辞典 (総合)

 

□      ● 五十音順 (あいうえお順)。

 

 □ 見出し語 おか

 □ 見出し語 おさ

 □ 見出し語 おだ

 □ 見出し語 おだの

 □ 見出し語 おだひ

 □ 見出し語 おな

 □ 見出し語 おま

 □ 見出し語 おら

 

 

〇 おい  お市

             (おいち)。 《人名》。

          (= 織田信長の妹)。

                     □ 小谷城 画像アルバム 

             No.1

          ○ 浅井三姉妹(茶々 (=淀殿)、

          初、江)の生母。

          ○ お市の1番目の夫・浅井長

          政の正室夫人。

           ○ お市の2番目の夫・柴田勝

          家の正室夫人。

                         (⇒ 浅井長政)。

                         (⇒ 小谷城、北庄城)。

                         (⇒ 淀殿(= 茶々)、お初お江)。

             (⇒ 織田信長)。

             (⇒ 織田信長ガイドブック)。

             (⇒ 織田信長)。

             (⇒ 織田信長ガイドブック)。

              ■ お市 (おいち)は、 織田信長 (おだ

             のぶなが)の妹であり、 浅井三姉妹 (あ

             ざいさんしまい、茶々(ちゃちゃ)、初 (は

             つ)、江(ごう))の生母であり、 お市の1番

             目の夫・浅井長政(あざいながまさ)の正室

             夫人(せいしつふじん)であり、 お市の2番

             目の夫・柴田勝家(しばたかついえ)の正室

             夫人 であった。

             ■ お市の子・浅井三姉妹の一人の、茶々

             (ちゃちゃ)は、 淀殿(よどどの)とも呼ば

             れ、 豊臣秀吉(とよとみひでよし)の側室

             夫人(そくしつふじん)となり、豊臣秀頼(と

             よとみひでより)の生母となる。

                お市の子・浅井三姉妹の一人の、初

             つ(は)は、 京極高次(きょうごくたかつぐ)

             の正室夫人となる。

                お市の子・浅井三姉妹の一人の、江

             (ごう)は、 江与(えよ)とも呼ばれ、江戸

             幕府・第2代将軍・徳川秀忠(とくがわひで

             ただ)の正室夫人となり、 江戸幕府・第3

                            代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の生

             母となる。

             ● 1573年に、小谷城 (おだにじょう)は、 

             織田信長配下の木下藤吉郎秀吉 (きのし

             たとうきちろうひでよし、豊臣秀吉)に攻めら

             れて、落城した。 その際、浅井長政は、小

             谷城で自害し、 長政の妻子のお市と浅井

             三姉妹 (茶々、初、江)は、小谷城から落ち

             延びた。

             ● 1583年に、北庄城 (きたのしょうじょ

             う)は、 羽柴秀吉(はしばひでよし、豊臣秀

             吉)に攻められて、落城した。 その際、お

             市と柴田勝家は北庄城で自害し、お市の子・ 

             浅井3姉妹(茶々、初、江)は、北庄城から

             落ち延びた。

             ● 1615年に、豊臣大阪城 (とよとみお

             おさかじょう)は、 徳川家康に攻められて、

             落城した。 その際、淀殿(茶々)と豊臣秀

             頼は豊臣大阪城で自害し、 江と徳川秀忠

             との間の娘の千姫(せんひめ)は豊臣大阪

             城から落ち延びた。

 

〇 おい  花魁。  

             (おいらん)。 《高級遊女》。

          (= 太夫 (たゆう))。

          ○ 江戸・吉原遊廓での最高位

             の遊女。

          ○ 江戸の吉原遊廓では、一時

          期、太夫を「花魁」(おいらん)と呼

          んだ。

          (⇒ 吉原遊郭遊女)。

                 ■ 花魁 (おいらん、太夫(たゆう))は、

             高級遊女であり、 江戸・吉原遊廓での最

             高位の遊女である。

             ● 前近代日本の遊郭では、太夫(たゆう)

             が、最高位の遊女であり、 江戸の吉原遊

             廓では、一時期、太夫を「花魁」(おいらん)

             と呼んだ。

             ● 現在、東京都台東区千束(当時の江戸

             の新吉原地域)で、毎年4月に、花魁道中

             (おいらんどうちゅう)が開催されている。

 

〇 おう   王。

             (おう)。 《天皇家》。

          ○ 皇族の男子。

          ○ (例) 長屋王 

             (ながやおう、天武(てんむ)天皇の孫)。

          ○ (例) 厩戸王

          (うまやとおう、厩戸皇子(うまやと(の)お

             うじ)、聖徳太子、用明(ようめい)天皇

          の子)。

          (⇒ 天皇家)。 

          (⇒ 皇族王、女王、皇子、

        親王、内親王)

             ■ 前近代日本では、王(おう)とは、皇族 

             の男子である。 

             ■ 王の例として、長屋王 (ながやおう、天

                武(てんむ)天皇の孫) や 厩戸王(うまやと

             おう、厩戸皇子(うまやと(の)おうじ) 、聖徳

             太子、用明(ようめい)天皇の子)  がいる。

             ■ 前近代日本の、親王と王。

               前近代日本(奈良〜江戸時代)の、親王

             (しんのう)とは、親王宣下を受けた男性皇

             族であり、主に天皇の男性皇子や兄弟であ

             る。 

                一方、前近代日本 (飛鳥〜江戸時代)

             の、王(おう)とは、男性皇族である。 

             ■ 前近代日本(奈良〜江戸時代)の、

              親王と王。

                前近代日本の奈良時代から江戸時代

             までは、大宝令の律令制以後は、親王宣

             下(しんのうせんげ)を受けた男性皇族(主 

             に天皇の男性皇子(みこ)や兄弟)を、親王

             ( しんのう)と呼び、 それ以外の男性皇族

             (親王宣下がない男性皇族)で、天皇より

             5世以下の皇族男子を王(おう)と呼ぶ場

             合がある。

                〈王(おう)の例〉 天皇の孫(まご)、

             曾孫(ひまご)の男子。

 

 おう   応安。 

             (おうあん) 。 《和暦》。

             THE OAN ERA.

             ○ 1368年 −1375年。

          (⇒ 南北朝競合二重年号

           (⇒ 和暦の二重年号存立

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

          ■ 南北朝競合二重年号。

          ● 北朝(持明院統)方の和暦年号

               1368年・応安元年・2月18日〜

               1375年・応安 8年・2月27日。

             ● 室町時代前期の和暦年号。

              ■ 応安 (おうあん、英:THE OAN 

                            ERA)とは、和暦であり、 室町時代前期

             の和暦年号であり、 1368年・応安元年・

             2月18日から1375年・応安 8年・2月27

             日までである。  

              ■ 応安は、 南北朝競合二重年号であり、

             北朝(持明院統)方の 和暦年号 である。

             ■ (注意) 同時期に、南朝 (大覚寺統、

              後醍醐天皇系統)方の和暦年号の、正平

              (しょうへい)元年〜25年(1346〜13

              70年)、 建徳(けんとく)元年〜3年(13

              70〜1372年)、 文中(ぶんちゅう)元年

              〜4年(1372〜1375年) も存立する。

 

 おう   応永。 

             (おうえい)。 《和暦》。

             THE OEI ERA.

             ○  1394年−1428年。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

               ● 1394年・応永 元年・7月 5日〜

                1428年・応永35年・4月27日。 

             ● 室町時代中期の和暦年号。

              ■ 応永 (おうえい、英:THE OEI 

                            ERA)とは、和暦であり、室町時代中期

             の和暦年号であり、 1394年・応永 元

             年・7月 5日から1428年・応永35年・

             4月27日までである。  

 

〇 おう   王家。

             (おうけ)。 《天皇家》。

             (= 天皇家、皇室)。

           (古代日本ー現代日本)。

          ○ 天皇、上皇(じょうこう、 元天皇)、

          皇子皇女、天皇・上皇夫人 など

          の天皇家の一族。

           (⇒ 天皇家)。  

              ■ 王家 (おうけ)とは、 

             古代日本から現代日本まで、天皇

                          家、皇室であり、 天皇、上皇(じょう

                          こう、 元天皇)、皇子、皇女、天皇・

             上皇夫人などの天皇家の一族であ

             る。

 

〇 おう   黄金の茶室

             (おうごんのちゃしつ)。 《茶の湯》。

             ◆ 秀吉の、茶の湯接待。

             ■ 黄金の茶室は、 豊臣秀吉によって、  

             天皇をもてなす禁裏(きんり、禁中(きんち

             ゅう))茶会のためにつくられた。 

             ● 黄金の茶室の中にあった、茶道具は、

             茶せん以外は金製とし、豊臣秀吉は、金製

             茶道具を天皇に献上した。

             ● 黄金の茶室は、移動可能・組み立て式

             茶室であった。

             ● 黄金の茶室は、 秀吉がお茶で天皇を

             接待するために、前代未聞のサプライズが

             ある茶会にするため、造らせた茶室である。

             ● 黄金の茶室は、 朝廷と親交を深める

             ため、 1585年(天正13年)10月の禁裏

             (禁中)茶会(きんり(きんちゅう) ちゃかい)

             のために、  天皇御所 (てんのうごしょ、

             天皇の住まい、= 禁裏(禁中)) での大

             会で天皇を接待するため、また、天皇(正

             親町(おおぎまち)天皇)、皇子、公家たち

             を驚かすため、 千利休(千 宗易)と相談し

             て、豊臣秀吉が造らせた茶室 である。

           (⇒ 豊臣 秀吉千 利休

        茶会)。

             ■ 秀吉の、天下統一前の4大茶会

                            (1584−1587年)。

                             1590年(天正18年)の天下統一(日

             本本土・全土統一統治)の前に、 豊臣秀

             吉は、天下人(天下統一者)を目指して、

             接待のため、千 利休(千 宗易)と相談して、

             1584年(天正12年)から1587年(天正

             15年)までの間、4大茶会(イベント茶会)

             を開いた。

                その4大茶会(イベント茶会)とは、(1) 

             有名茶人接待のための1584年(天正12

             年)10月の大坂城茶会、 (2) 皇族・公家

             接待のための1585年(天正13年)10月の

             禁裏(禁中)茶会、 (3) 九州征伐参加大

             名・武将接待のための1587年(天正15年)

             1月の大坂城茶会、 (4) 民衆接待のため

             の1587年(天正15年)10月の北野天満宮

             茶会(北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ) で

             ある。

             ● (2) 1585年(天正13年)・禁裏(禁中)

              茶会。

                1585年(天正13年)10月の大茶会は、

             朝廷と親交を深めるための禁裏( 禁中)茶会

             (きんり(きんちゅう)ちゃかい) であり、 天

             皇御所 (て んのうごしょ、天皇の住まい、

             = 禁裏(禁中)) で、 天皇(正親町(おおぎ 、

             まち)天皇)、皇子公家たちを招待して行わ

             れた。 

                 黄金の茶室は、 豊臣秀吉によって、 

                天皇をもてなす禁裏(禁中)茶会(きんり(き

             んちゅう)ちゃかい)  のためにつくられた。 

                 千 利休(千 宗易)は、 禁裏(禁中)

              茶会に参加する僧侶身分を得るため、 正

              親町(おおぎまち)天皇より利休居士(りき

              ゅうこじ)の号を与えられる。 

 

〇 おう   奥州。

             (おうしゅう)。 《旧地域名》。

          (= 陸奥国( むつのくに))。

          (≒ 概ね、現・青森県、岩手県、

          宮城県、福島県の相当地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国(令制

           国)の別称)。

           OSHU AREA.

             ■ 奥州 (おうしゅう)や 陸州 (りくし

             ゅう、ろくしゅう)は、 旧国(令制国 )

             正式名の、陸奥 国 (むつ のくに)の別

             称 である。

                          ● 陸州(= 陸奥国)は、 東山道(とうさ

             んどう)・旧広域地方に属し、 概ね、現・

             東北地方の、現・青森県、岩手県、宮城

             県、福島県 に相当する地域 である。

                    (⇒ 陸奥国)。    

                 (⇒ 旧国(= 令制国))。

                   (⇒ 東山道・ 旧広域地方)。

          (⇒ 東北地方)。

                   (⇒ 五畿七道)。

                  (⇒ 都道府県)。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名、地域名)。

             (⇒ 日本の地名)。

 

〇 おう   奥州再仕置。

             (おうしゅうさいしおき)。 《豊臣政権》。

             ■ 奥州再仕置 (おうしゅうさいしおき)

             とは、 1590年の豊臣秀吉の奥州仕置

             後、東北地方の地侍(じざむらい)、農民

             が豊臣秀吉の奥州仕置(おうしゅうしおき)

             に不平不満を持ち、各地に地侍や農民

             一揆(いっき)が起こり、九戸の乱(くのへ

             のらん)も起こったため、 豊臣秀吉は、

             1591年に、豊臣軍を組織し、地侍や農民

             一揆や反乱を鎮圧したことである。 

             ■ 奥州仕置 (おうしゅうしおき)とは、15

             90年の小田原の陣(豊臣秀吉の小田原征

             伐)で北条氏が降伏後、 1590年に、豊臣

             秀吉が、東北地方の検地を行い東北地方

             の各大名の領地の新配分を決定したことで

             ある。

 

〇 おう   奥州仕置。

             (おうしゅうしおき)。 《豊臣政権》。

             ■ 奥州仕置 (おうしゅうしおき)とは、15

             90年の小田原の陣(豊臣秀吉の小田原征

             伐)で北条氏が降伏後、 1590年に、豊臣

             秀吉が、東北地方の検地を行い東北地方

             の各大名の領地の新配分を決定したことで

             ある。

             ■ 奥州再仕置 (おうしゅうさいしおき)

             とは、 1590年の豊臣秀吉の奥州仕置

             後、東北地方の地侍(じざむらい)、農民

             が豊臣秀吉の奥州仕置(おうしゅうしおき)

             に不平不満を持ち、各地に地侍や農民

             一揆(いっき)が起こり、九戸の乱(くのへ

             のらん)も起こったため、 豊臣秀吉 が、

             1591年に、豊臣軍を組織し、地侍や農

             民一揆や反乱を鎮圧したことである。 

 

〇 おう   奥州藤原氏

             (おうしゅうふじわらし)。 

          《武家の氏族》

                ○ 11ー12世紀に東北地方を

          支配した豪族。

             ■ 奥州藤原氏 (おうしゅうふじわらし)

             は、 武家の氏族であり、 11世紀から12

             世紀まで、東北地方を支配した豪族である。

 

○ おう  王政復古の大号令。 

             (おうせいふっこのだいごうれい)。

          《クーデター》。

             ■ 王政復古の大号令 (おうせいふ

             っこのだいごうれい) とは、 

             1867年(慶応3年)12月9日に、京

             (都)の京都御所で、睦仁(むつひと、

             明治)天皇が臨席し、行われた、

             王政復古のクーデター、政変である。

             ■ 王政復古の大号令により、日本近

             代政府が樹立される。

             ■ 王政復古の大号令により、 江戸

             幕府の廃絶と新政府の樹立が宣言さ

             れ、 政権運営は、新たな三職 (さん

             しょく、総裁、議定(ぎじょう)、参与(さ

             んよ)) によって行う事が決定された。

             ■ 1867年(慶応3年)12月9日に、

             西郷隆盛の率いる薩摩藩兵が中心と

             なって、京(都)の京都御所の門を封

             鎖し、その後、京都御所で江戸幕府の

             廃絶と新政府の樹立が宣言される。

             ● 1867年(慶応3年)12月9日に、

             徳川慶喜は、 公議政体派の松平春

             嶽の告知により、事前に王政復古の

             クーデターを知っていたが、京都に進

             軍してきた薩摩藩兵と在京会津・桑名

             藩兵との間で内乱が起こるを避けるた

             め、様子を見ることとした。

              ■ 1867年(慶応3年)12月9日の、

             当日の新政府の初めての会議である、

             小御所会議(こごしょかいぎ)では、

             山内容堂や松平春嶽などの公議政体

             派 と 岩倉具視、大久保利道、西郷

             隆盛などの武力倒幕派が激しく対立し、 

             新政府は、 

             @ 旧江戸幕府・将軍の徳川慶喜の内

             大臣の官位剥奪 と、

             A 徳川氏の領地没収を決定する。

                しかし、その後の武力倒幕派の孤

             立により、新政府の会議で、その決定

             が撤回され、 新政府は、 1867年(慶

             応3年)12月24日に、

             @ 徳川慶喜は、内大臣の官位を返し、

             前内大臣(さきのないだいじん)とする

             こと、 

             A 徳川氏の領地没収は撤回すること、 

             B 徳川慶喜の新政府での議定(ぎじ

             ょう)職の就任を決定した。

              ■ ところが、1867年(慶応3年)12

             月25日に、 旧幕府勢力の庄内藩(し

             ょうないはん)による薩摩藩江戸屋敷

             焼き打ち事件が起こり、 その事件以

             後、旧幕府勢力の薩 摩藩への怒りを

             徳川慶喜が押さえきれず、大阪城に

             いる徳川慶喜が見守る中、1868年

             (慶応4年)1月2日に、徳川慶喜の

             「討薩の表」(とうさつのひょう)を京

             (都)の朝廷に提出し薩摩藩を朝廷よ

             り排除するため、 指揮力を欠く近代

             兵器で武装した約 1万5000人の旧

             幕府軍は、 大坂城より京 都方面へ

             進軍し、 1868年(慶応4年)1月3

             日に、京都御所へ行く途中で、 主に

             鳥羽と伏見の2カ所で、  旧幕府軍

             進軍を阻止しようとする指揮力が高く

             近代兵器で武装した約5000人の薩

             長軍と衝突し、 鳥羽伏見の戦い 

             (1868年(慶応4年)1月3日〜6日) 

             が起こる。 

                 1868年(慶応4年)1月5日に、

             鳥羽伏見の戦場で、薩長軍は「錦の御

             旗」(にしきのみはた)を掲げ、戦況が

             薩長軍に有利となり、 1868年(慶応

             4年)1月6日に、旧幕府軍は、指揮が

             停滞し、戦況が更に不利となり、敗走を

             続ける。 また、これを知った徳川慶喜

             は、大阪城で留まり戦うことを選ばず、

             幕府軍の指揮をとらず、大坂城から脱

             出し船で江戸に向い、結果、旧幕府軍

             は敗戦する。

                徳川慶喜は、江戸にもどり、謹慎

             (きんしん)する。

 

 おう   応長。 

             (おうちょう)。 《和暦》。

             THE OCHO ERA.

             ○ 1311年−1312年。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

             ● 1311年・応長元年・4月28日〜

                1312年・応長 2年・3月20日。 

             ● 鎌倉時代後期の和暦年号。

             ■ 応長 (おうちょう、英:THE 

             OCHO ERA) とは、和暦であり、 

             鎌倉時代後期の和暦年号であり、 

             1311年・応長元年・4月28日から

             1312年・応長 2年・3月20日まで

             である。 

 

〇 おう   大塔宮。

             (おうとうのみや、だいとうのみや)。

           《人名》。

             (= 護良親王(もりよししんのう、

                もりながしんのう)

            (⇒ 後醍醐天皇建武政 権

                          建武の新 政)。

            (⇒ 足利尊氏)。

                大塔宮は、

          後醍醐天皇の皇子である。

                大塔宮は、

          建武時代の、征夷大将軍

          である。

             ■ 大塔宮 (おうとうのみや、だい

             とうのみや)とは、 

             護良親王 (もりよししんのう、もりな

             がしんのう)) であり、 後醍醐天皇

             (ごだいごてんのう)の皇子(みこ)

             であり、 建武(けんむ)時代(13

             33年ー1338年)の、征夷大将軍

             である。

 

〇 おう   応徳。 

             (おうとく) 。 《和暦》。

             THE OTOKU ERA.

             ○ 1084 −1087年。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

             ● 1084年・応徳元年・2月7日〜

                1087年・応徳 4年・4月7日。 

             ● 平安時代後期の和暦年号。

             ■ 応徳 (おうとく、英:THE OTOKU 

             ERA) とは、 和暦であり、 平安時代後期

             の和暦年号であり、 1084年・応徳元年・

             2月7日から 1087年・応徳 4年・4月7日 

             までである。 

 

 おう   応仁。 

             (おうにん) 。 《和暦》。

             THE ONIN ERA.

             ○ 1467 −1469年。

             ● 1467年・応仁元年 3月 5日〜

                1469年・応仁 3年 4月28日。 

             ● 室町時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

             ■ 応仁 (おうにん、英:THE ONIN 

             ERA) とは、和暦であり、 室町時代後期

             の和暦年号であり、 1467年・応仁元年

             3月 5日から 1469年・応仁 3年4月28日 

             までである。 

 

〇 おう   応仁の乱

             (おうにんのらん)。 《戦い》。

                     (= 応仁・文明の乱)。

          (1467年ー1477年)。

                             THE ONIN CIVIL WAR. 

          ○ 応仁の乱は、守護大名の

          家督争い、有力守護大名

          政権主導権争い、足利将軍家

          の家督争いなどによって起こ

          る。

             ■ 「応仁の乱」 (おうにんのらん、= 応

             仁・文明の乱、1467年ー1477年)は、 

              守護大名の家督争い、有力守護大名

             政権主導権争い、足利将軍家の家督争

             いなどによって起こる。

             ■ 応仁の乱の結果、日本を支配(統治)

             していた室町幕府の将軍の権力は衰え、

             諸国を治めていた守護大名の権力は弱

             まり、 日本は、下克上 (げこくじょう、

             下剋上、格式に関係なく、実力によって

             下の者が上の者にとって代わること) と

             なり、日本は、室町時代後期(戦国時代

             の乱世(らんせ)に突入した。

             ● 応仁の乱では、 室町幕府の守護大

             名は東 軍、西軍に敵・味方となり分かれて

             戦い、 東軍、西軍に味方した 守護大名

             は、京(きょう、京都)で戦いを始めたが、

             その後、敵の領国の勢力をそぐために、

             東 軍、西軍の守護大名は、敵の後方かく

             乱のため、日本各地の地方でも戦いを起

             こした。 

                京(京都)での戦いでは、 東西両軍

             は勝敗がつかないまま1477年に京(京

             都)から撤退して応仁の乱は終わった。 

             ● 応仁の乱後、 日本を支配(統治)し

             ていた中央政府の室町幕府の将軍の権

             力は衰え、諸国を治めていた守護大名の

             権力は弱まり、 日本各地の領主が室町

             幕府の将軍や守護大名の命令に従わな

             くなり、下剋上の実力主義の戦国時代に 

             突入し、 室町幕府の将軍の権力・権威

             に頼っていた東西両軍の守護大名の多

             くが、日本各地の地方で、実力のある領

             主の戦国大名に領地を奪われ、没落して

             いった

 

〇 おう   応仁の乱関連出来事

        (年代別・詳細)。

             (おうにんのらんかんれんできごと

             (ねんだいべつ(しょうさい))。

          《戦い関連出来事》。

 

 おう   応保。 

             (おうほう)。 《和暦》。

             THE OHO ERA.

             ○ 1161年ー1163年。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

             ● 1161年・応保元年・9月 4日〜

                1163年・応保 3年・3月29日。 

             ● 平安時代後期の和暦年号。

             ■ 応保 (おうほう、英:THE OHO 

             ERA) とは、和暦であり、 平安時代後期

             の和暦年号であり、 1161年・応保元年・

             9月4日から 1163年・応保 3年・3月29日 

             までである。 

 

 おう   近江 国。 

             (おうみ のくに)。 《旧地域名》。

                    (= 江州(ごうしゅう))。 

          (≒ 概ね、現・滋賀県の相当地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の、

           旧国(令制国)の正式名)。

             OMI PROVINCE.

          ■ 近江 国。

             <東山道 (旧広域地方)。

             <五畿七道 (日本本土)。

             ■ 前近代日本の、旧国(令制国)の、

             近江 国(おうみ のくに= 江州(ごうしゅ

             う) )は、 概(おおむ)ね、現・近畿地方

             の、現在の滋賀県に相当する地域である。

             ■ 江州 (ごうしゅう)は、 旧国(令制 国)

             の正式名の、近江 国 (おうみのくに)

             別称である。

                          ■ (RWM) 日本の、中地域名の変遷。

             ● 国造・県主分国⇒ 旧国(令制国)

              ⇒ 旧都道府県⇒ 現47都道府県。

             ■ 近江 国 (おうみ のくに)は、律令制

             定後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             旧国(令制国)の正式名である

             ■ 近江 国(= 江州)は、 約68旧国(令

             制国)の1つであり、 東山道の1国であり、

             五畿七道 (ごきしちどう)の、東山道(とう

                           さんどう)・旧広域地方に属する。

             ■ 旧国(令制国)(きゅうこく(りょうせい

             こく))は、 前近代日本の、飛鳥白鳳時代

             末期から江戸時代まで、 紀元(後)701

             年頃から1868年頃まで、 日本で使用さ

             れた地方行政区分の地域名である。

                 (⇒ 旧国(= 令制国))。

                   (⇒ 東山道・ 旧広域地方)。

                   (⇒ 五畿七道)。

                  (⇒ 都道府県)。

          (⇒ 近畿地方)。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名、地域名)。

             (⇒ 日本の地名)。

 

 おう   近江閥

             (おうみばつ)。 《政治派閥》。

          (= 豊臣政権の近江閥、

           豊臣政権の近江派、

           近江出身の豊臣家家臣)。

          ○ (例) 石田三成。 

          ○ 豊臣家臣団内で、近江閥

          (近江派)と尾張閥(尾張派)と

          の間の対立が起こる。

             ■ 近江閥  (おうみばつ)は、政治派閥であり、

             豊臣政権の近江閥、豊臣政権の近江派、

              近江出身の豊臣家家臣である。

                                 近江閥 の一人は、石田三成であり、

             豊臣家臣団内で、近江閥(近江派)と尾張閥

             (尾張派)との間の対立が起こる。

 

 おう   近江屋事件。

             (おうみやじけん)。 《事件》。

          (= 坂本龍馬暗殺事件)。

          ○ 1867年(慶応3年)11月15

          日に京(都)・近江屋で、坂本龍馬

          が暗殺された事件。

          (⇒ 坂本龍馬)。

             ■ 近江屋事件 (おうみやじけん)は、坂本

             龍馬暗殺事件であり、 1867年 (慶応3年)

             11月15日に京(都)・近江屋で、坂本龍馬

             が暗殺された事件である。

 

 おう   応和。 

             (おうわ)。  《和暦》。

             THE OWA ERA.

             ○  961年ー964年。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

             ● 961年・応和元年・2月16日〜

                964年・応和 4年・7月10日。 

             ● 平安時代中期の和暦年号。

              ■ 応和 (おうわ、英: THE 

                           OWA ERA)とは、和暦であり、 

             平安時代中期の和暦年号であり、 

                       961年・応和元年・2月16日から

             964年・応和 4年・7月10日まで

             である。  

             ■ 和暦→西暦・西暦→和暦・速算法。

              ・ 応和 A年+960年=西暦 B年。

              ・ 西暦 B年960年=応和 A年

             ■ 天徳元年〜5年(957年〜961年)⇒ 

                応和元年〜4年(961年〜964年)⇒

                康保元年〜5年(964年〜968年)⇒

                 ■ 「応和」の前後の和暦年号(元号):

              ● 康保(こうほう):964年ー968年。

                964年・康保元年・7月10日〜

                968年・康保 5年・8月13日。 

 

 おえ  お栄。 

             (おえい)。 《人名》。

                     (= 栄姫(えいひめ))。

        (⇒ 黒田長政)。

          ○ 黒田長政の2番目の

           正室夫人(継室)。

               ■ お栄 (おえい、= 栄姫(えい

              ひめ))は、 黒田長政の2番目の

              正室夫人(継室)であ る。

 

 おえ   お江与 

             (おえよ)。 《人名》。

          (別名: お江(おごう)、小督

           (おごう)(ごう)、(落飾後)

                  崇源院(すうげ んいん)) 。

          (1573年ー1626年)。

          ○ お江(おごう)の徳川秀忠

          夫人の時期の名称。

           ○ 江戸幕府の第2代将軍・

          徳川秀忠の正室夫人。

           ○ 江戸幕府の第3代将軍・

          徳川家光の生母。

           ○ 浅井三姉妹の一人。

           ○ 淀殿(淀の方)の妹。

              (⇒ 織田信長)。

           (⇒ お江(お江与)関連出来事

          (年代順・詳細)) 。

           (⇒ お江(お江与)簡略年表)。

           (⇒ お江(お江与)詳細年表)。

                          (⇒ 浅井三姉妹淀殿お初)。

                          (⇒ 浅井長政お市)。

                          (⇒ 小谷城、北庄城、豊臣大

           阪城)。

               ■ お江与  (おえよ、1573年ー1626年)

              は、 別名は、お江(おごう)、小督(おごう)

                  江 (ごう)、(落飾後)崇源院(す うげ んいん)

              であり、 お江(おごう)の徳川秀忠夫人の時

                      期の名称である。

               ■ お江与  (お江、小督、江、崇源院)は、

              江戸幕府の第2代将軍・徳川秀忠の正室

              夫人であり、 第3代将軍・ 徳川家光の生

              母であり、 浅井3姉妹の一人であり、 淀

              の方(淀殿)の妹である。

 

〇 おお  大石 内蔵助(良雄) 

             (おおいし くらのすけ(よしたか・よしお))。

              《人名》。 

          (1659年ー1703年)。

          (⇒ 元禄赤穂事件)。

          (⇒ 円山会議)。

          ○ 赤穂浪士・四十七士の指導

           者。

          ○ 播州・赤穂藩(赤穂・浅野家)

          の筆頭家老。

          ○ 元禄赤穂事件で、赤穂・浅野

          家再興運動や吉良邸討ち入りの

          指導者。

              ■ 大石 内蔵助(良雄)  (おおいし くらの

             すけ(よしたか・よしお) 、1659年ー1703

             年) は、 播州・赤穂藩(赤穂・浅野家)の

             筆頭家老であり、 赤穂 浪士・四十七士

                            (あこうろうし・しじゅうしちし)の指導者で

                      った。             

             ■ 大石 内蔵助(良雄) は、 元禄赤穂事

             件で、 赤穂・浅野家再興運動や吉良邸討

             ち入りの指導者であった。

             ■ 1701年(元禄14年)3月の赤穂藩

             のとりつぶし後、赤穂浅野家の赤穂藩の

             旧臣は、 大石 内蔵助(良雄)が率いる

             「お家再興派」 と、 堀部安兵衛(武庸)

             が率いる「仇討優先派」 に分かれる。

             しかし、その後、赤穂浅野家のお家再興

             の望みがなくなり、 1702年(元禄15

             年)7月28日の円山(まるやま)会議後、

             大石内蔵助(良雄)は、仇討に踏み切る。

 

〇 おお  大石 大三郎

             (おおいし だいさぶろう)。 《人名》。

             1702年ー1770年)。

          (⇒ 元禄赤穂事件)。

              赤穂 浪士・四十七士の指導

          者・大石内蔵助(良雄)の遺児

                     (大石三男)。

             ■ 大石 大三郎 (おおいし だいさぶろう

             1702年ー1770年)は、 赤穂浪士・四十

             七士の指導者・大石内蔵助(良雄)の遺児

                        (大石三男)である。

 

〇 おお  大石 主税(良金)。 

             (おおいし ちから(よしかね))。《人名》。

             (幼名:松之丞(まつのじょう))。

             (1688年ー1703年)。

        (⇒ 元禄赤穂事件)。

          ○ 赤穂浪士・四十七士の1人。

              赤穂浪士・四十七士の指導

          者・大石内蔵助(良雄)の長男。

              大石内蔵助(良雄)と石束

          (いしづか)りく  (前近代日本では

          家父長制の夫婦別姓、香林院

          (こうりんいん)) との間の子。

              ■ 大石 主税(良金)  (おおいし ちから

             (よしかね)、幼名:松之丞(まつのじょう) 、

             1688年ー1703年) は、 赤穂浪士・

             四十七士の1人であり、 赤穂浪士・四十

             七士の指導者・大石内蔵助(良雄)の長

             男である。 

                 1702年(元禄15年)12月14日

              〜15日の赤穂浪士の吉良邸討ち入り時、

             大石 主税(良金) は、裏門部隊の隊長で

             あり、主税(良金)の父の大石内蔵助(良

             雄)は、表門部隊の隊長であった。

              ■ 大石 主税(良金)は、 大石内蔵助(良

          雄) と 石束(いしづか)りく (前近代日

             本では家父長制の夫婦別姓、香林院 (こう

             りんいん)) との間の子である。

 

〇 おお  大分県。

             (おおいたけん)。

          (現都道府県)。 《現地域名》。

             (≒ 前近代日本(古代〜江戸時

                    代)の、豊後 国 (ぶんごのくに、豊州

          (ほうしゅう、豊前国や豊後国)、大分県) 

          の相当地域)。

                        OOITA PREFECTURE.

                   (⇒ 前近代日本の地域名)。

                   (⇒ 旧地域名)。

             ■ 大分県 (おおいたけん)は、  前近代日本

             (古代〜江戸時代)の、豊後 国 (ぶんごのく

             に、豊州(ほうしゅう、豊前国や豊後国)、大

             分県) に相当する地域である。

 

〇 おお  大内 政弘。 

             (おおうち まさひろ)。 《人名》。

          (1446年ー1495年)。

          (⇒ 応仁の乱)。

             ■ 大内 政弘 (おおうち まさひろ、1446

             年ー1495年)は、 中国地方西部 の周防

             (すおう)、長門(ながと)、九州北東部の豊

             前(ぶぜん)、筑前(ちくぜん)の守 護大名で

             ある。

             ● 大内 政弘は、 応仁の乱では、西軍に

             参加し、1477年の乱終結まで西軍の武将

             として、徹底抗戦する。

              ● 大内 政弘は、 日野富子の説得で、領

             国を安堵され、領国に引き揚げる。

 

〇 おお  大内 義興

             (おおうち よしおき)。 《人名》。 

          (1477年ー1528年)。

          ○ 大内政弘の子。

          ○ 中国地方西部と九州北東部

          に領地をもつ、有力大名。

             ■ 大内 義興 (おおうち よしおき、1477

             年ー1528年)は、 大内政弘の子であり、 

             中国地方西部と九州北東部に領地をもつ、

             有力大名であった。

 

〇 おお  大浦 慶

             (おおうら けい)。 《人名》。

          ○ 坂本龍馬の支援者。

           ○ 長崎の女性茶商人。

          ○ 亀山社中・海援隊で働く若き

              陸奥陽之介(= 陸奥宗光、後に

          明治期に外相、日清戦争を推進)

          の大ファン。

             ■ 大浦 慶 (おおうら けい) は、 坂本

             龍馬の支援者であり、 長崎の女性茶商

             であり、 亀山社中・海援隊で働く若き

                 陸奥陽之介(= 陸奥宗光、後に明治期に

             外相、日清戦争を推進) の大ファンであ

             った。

 

〇 おお   大江 広元

             (おおえの ひろもと)。 《人名》。

           (1148年ー1225年)。 

             ○ 鎌倉幕府初期の幕政の中心

           となり、 幕府の基礎を固めた政

           治家。

             ○ 鎌倉幕府の公文所(くもんじょ)

              政所(まんどころ)の長官(別当(べっ

              とう))。

              ■ 大江 広元 (おおえの ひろもと、1148

              年ー1225年)は、 鎌倉幕府初期の幕政の

              中心となり、 幕府の基礎を固めた政治家で

              ある。

              ■ 大江 広元 は、 鎌倉幕府の公文所(くも

              んじょ)、政所(まんどころ)の長官(別当 (べ

              っとう)であった。

 

〇 おお  大岡政談(裁き)。

             (おおおかせいだん(さばき))。

          《作り話》。

             ○ 大岡越前守忠相(おおおかえち

          ぜんのかみだだすけ)を主人公とする、

          創作(架空の作り話)。 

          (⇒ 大岡 忠相)。

             ■ 大岡政談(裁き) (おおおかせいだん

             (さばき))は、。大岡越前守忠相 (おおおか

             えちぜんのかみだだすけ)を主人公とする、

             創作(架空の作り話)である。 

 

〇 おお  大岡 忠相

             (おおおか ただすけ)。 《人名》。

          (= 大岡越前 おおおかえちぜん)。

          (1677年ー1751年)。 

          ○ 江戸幕府・第8代将軍・徳川

          吉宗の側近。

          ○ 江戸時代中期の実在の江戸

          町奉行。

          ○ 伝説的名奉行。

             ■ 大岡 忠相 (おおおか ただすけ、大岡

             越前(おおおかえちぜん )、1677年ー17

             51年) は、 江戸幕府・第8代将軍・徳川

             吉宗の側近 であり、 江戸時代中期の実在

             の江戸町奉行である。

             ■ 大岡 忠相 (越前)は、創作(架空の作り

             話)の大岡政談(裁き)などで有名な伝説的

             名奉行でもある。

 

〇 おお   大奥 

              (おおおく)。 《後宮》。

           (= 江戸城・大奥)。

           (= 江戸幕府の将軍の後宮、

           奥御殿)。

           (= 徳川氏本家(宗家)、徳川

           将軍家の当主の後宮、奥御

           殿)。

            (1590年ー1868年)。

            ○ 大奥とは、江戸幕府の

           将軍の後宮、奥御殿である。

            ○ 大奥とは、徳川氏本家

           (宗家)、徳川将軍家の当主

           の後宮、奥御殿である。

            ○ 伏魔殿の大奥。

             ■ 大奥 (おおおく、1590年ー18

             68年) とは、 江戸城の大奥であり、 

             江戸幕府の将軍の後宮(こうきゅう)、

             奥御殿(おくごてん)であり、 徳川氏

             本家(宗家)、徳川将軍家の後宮、奥

             御殿である。

             ■ 大奥 (おおおく)とは、 江戸幕

             府の将軍(= 徳川氏本家(宗家)、徳

             川将軍家の当主)の世継ぎを生み、

             育てる場所である。

             ■ 大奥 (おおおく)とは、 江戸幕

             府の将軍(= 徳川氏本家(宗家)、徳

             川将軍家の当主)の家族の世話をす

             る組織(役所)であり、 将軍のお世

             継ぎを生み育てる場所である。

             ■ 江戸城の本丸にある大奥(おお

             おく)は、 武家(武士)の、江戸幕府・

                       将軍の妻子の住い(住居スペース)

             である。

             ● 大奥は、 江戸城本丸(表(おも

             て)・中奥(なかおく)・大奥)の一部で

             あり、 原則として将軍以外男子禁制

             であり、約1000人の女性が暮らす、

             女の園(おんなのその)である。

             ● 大奥は、 日本支配者の江戸幕

             府の将軍の寵愛を得る女の争いが

             起こった所でもある。 伏魔殿でもあ

             った。

             ■ 1590年に、 天下人 (てんか

                          びと、 =日本本土支配者)の豊臣秀

             吉の命(命令)により、徳川家康の率

             いる徳川氏は、 中部地方の駿河、

             三河、遠江、甲斐、信濃)の領地から、  

             関東地方の旧小田原北条氏領地に、

             領地替えとなり、 太田道灌(おおた

             どうかん)の江戸城跡地に、徳川江

             戸城の築城を開始する。 ここに、江

             戸城の大奥の歴史が始まる。

             ● 1868年(慶応4年)4月11日

             に、徳川慶喜(よしのぶ)の率いる徳

             川氏本家(宗家)は、 江戸城を、明治

             新政府(近代日本政府)に引き渡す。 

             ここに、江戸城の大奥の歴史は終わ

             る。 

             ■ 奥御殿 (おくごてん)とは、 大名

             などの上級武士の後宮(こうきゅう)で

             あり、 武家(武士)の、大名などの

             上級武士の妻子の住い(住居スペー

             ス)である。 

             ■ 奥 (おく、奥向(おくむき))とは、

             前近代日本の妻子の住い(住居スペ

             ース)である。 

 

〇 おお  大奥ガイドブック 

        江戸幕府・大奥

         ガイド ブック

              (おおおくがいどぶっく)。

          《後宮ガイドブック》。

 

〇 おお  大奥 簡略年表 

             (おおおく かんりゃくねんぴょう)。

          《後宮簡略年表》。

                ○ 大奥 (徳川氏宗家(本家)の

           後宮、1590年ー1868年)の

          簡略年表。 

             (⇒ 日本史年表) 。

             ■ 大奥 簡略年表 (おおおく かんりゃくね

             んぴょう)は、 大奥 (徳川氏宗家(本家)の

              後宮、1590年ー1868年)の簡略年表であ

             る。 

 

〇 おお  大奥 詳細年表 

             (おおおく しょうさいねん ぴょう)。

          《後宮詳細年表》。

                ○ 大奥 (徳川氏宗家(本家)の

           後 宮、1590年ー1868年)の

          詳細年表。 

          (⇒ 日本史年表)。

             ■ 大奥 詳細年表 (おおおく しょうさいね

             んぴょう)は、 大奥 (徳川氏宗家(本家)の

              後宮、1590年ー1868年)の詳細年表であ

             る。 

 

〇 おお   大垣。

              (おおがき)。 《地名》。

          (⇒ 関ヶ原の戦い

           決戦)。

          (⇒ 関ヶ原の戦い)。

          (⇒ 新説(史実)

             関ヶ原の戦い

           大垣・山中の戦い

         大垣の戦い山中の戦い)。

                (⇒ 慶長5年の

                 下分け目の戦い)。

           □ 「史実(新説)

            関ヶ原の戦い

            (= 大垣・山中の戦い)」  

            画像アルバム No.2

           □ 「伝説(従来説)

            関ヶ原の戦い」

            画像アルバム  No.3 

          (⇒ 徳川家康福島正則

             池田輝政)。

          (⇒ 毛利秀元)。

          (⇒ 石田三成宇喜多秀家)。

          (⇒ 大谷吉継小早川秀秋)。

          (⇒ 美濃赤坂大垣城

                           南宮山)。

          (⇒ 山中城山玉城

              松尾山藤下の自害峯)。

          (⇒ 関ヶ原盆地桃配山

                           陣場野笹尾山)。

 

             ■ 大垣 (おおがき)は、関ヶ原盆

             地の東方向にあり、現在の岐阜県

             大垣市付近である。

             ■ 「新説(史実)・従来説(伝説)

             の関ヶ原の戦い」で、大垣(おおが

             き)は、戦いが行われた、美濃国

             の大垣付近(美濃赤坂、大垣城、

             南宮山等)であり、1600年 (慶

             長5年)8月26日頃から9月23

             日まで、徳川方の東軍 と西軍

             との間で戦いが行われた場所

             ある。

 

〇 おお   大垣城。

              (おおがきじょう)。 《城》。

          ○ 大垣城は、

          「史実(新説)・伝説(従来

          説)の関ヶ原の戦い」で

          西軍の主力軍が駐留

          していた場所である。

          (⇒ 関ヶ原の戦い

           決戦)。

          (⇒ 関ヶ原の戦い)。

          (⇒ 新説(史実)

             関ヶ原の戦い

           大垣・山中の戦い

         大垣の戦い山中の戦い)。

                (⇒ 慶長5年の

                 下分け目の戦い)。

           □ 「史実(新説)

            関ヶ原の戦い

            (= 大垣・山中の戦い)」  

            画像アルバム No.2

           □ 「伝説(従来説)

            関ヶ原の戦い」

            画像アルバム  No.3 

          (⇒ 徳川家康福島正則

             池田輝政)。

          (⇒ 毛利秀元)。

          (⇒ 石田三成宇喜多秀家)。

          (⇒ 大谷吉継小早川秀秋)。

          (⇒ 美濃赤坂大垣城

                           南宮山)。

          (⇒ 山中松尾山

              藤下の自害峯)。

          (⇒ 関ヶ原盆地桃配山

                           陣場野笹尾山)。

 

             ■ 大垣城 (おおがき じょう)は、

             関ヶ原盆地の東方向にあり、 美

             濃国の大垣(現在の岐阜県大垣

             市)にある。

             ■ 「新説(史実)・従来説(伝説)

              関ヶ原の戦い」では、 1600年

             (慶長5年)8月から9月まで、

             西軍の主力軍は、

             大垣城を本拠地とし、

             西軍の、「小西・宇喜多・石田・

             島津勢等の軍」 と 「福原・熊谷・

             垣見・秋月・相良勢等の軍 」が、

             大垣城に籠城(駐留)する。

 

          ■ 「史実(新説)の関ヶ

           原の戦い」のの概要 。

 

             ■ 「新説(史実)関ヶ 原の戦い

             (= 大垣・山中の戦い)」では、

             1600年(慶長5年)8 月〜9月

             に、大垣城では、奉行衆・毛利

             方の西軍の兵が籠城(ろうじょう、

             駐留)していた。

               1600年(慶長5年)9月14日

             の昼間の時点で、大垣城に籠城

             (駐留)する奉行衆・毛利方の西

             軍の兵は、約2万3500人であり、

             小西・宇喜多・石田・島津勢等の

             軍・約3万人の兵 と、福原・熊谷  

             ・垣見・秋月・相良勢等の軍・

             3500人の兵である。

 

             ● 「新説(史実)関ヶ 原の戦い

             (= 大垣・山中の戦い)」では、

             1600年(慶長5年)9月 14日

             の夜に、奉行衆・毛利方の西

             軍の小西・宇喜多・石田・島津

             勢等の軍・約2万人の兵は、

             大垣城を出て、西軍主力軍と

             して、西方の関ヶ原盆地・山中

             (やまなか)方面へ移動する。

                9月14日の夜以後、奉行

             衆・毛利方の西軍の福原・熊谷・

             垣見・秋月・相良等の軍・

             3500人の兵は、大垣城残留

             兵として、大垣城に残留し、

             1600年(慶長5年)9月23日

             に、徳川方の東軍に降伏し、

             開城する。

 

          ■ 「史実(新説)・伝説

          (従来説)の関ヶ原の戦

           い」の決戦の西軍の

           力軍の行動要点表。

 

              ◆ 「史実(新説)・伝説(従来

              説)の関ヶ原の戦い」の決戦

              での、西軍の主力軍の動き。

 

                  ■ 「史実(新説)関ヶ原の戦

               い(= 大垣・山中の戦い)」の

               決戦での 、西軍(奉行衆・毛

               利方)の主力軍の動き。

              ● 西軍(奉行衆・毛利方)

               の主力軍 (小西、石田、

               宇喜多、島津等の軍) は、

              @ 西軍(奉行衆・毛利方)

               の主力軍は、

               1600年(慶長5年)9月

               14日夜に、

               大垣エリアの大垣城 

               (おおがきじょう、関ヶ原

                                  盆地の東方)を出発

               (1600年(慶長5年)

                9月14日夜)⇒

               ○ 西軍(奉行衆・毛利方)は、

               9月14日夜に、大垣城で、 

               協議して、西軍(奉行衆・毛利

               方)を、主力軍と大垣城守備

               残留軍の2つに分ける。

               ○ 西軍(奉行衆・毛利方)の

               主力軍は、山中村 (やまなか

               むら、関ヶ原盆地の西方・約2

               km) に向かう。

               ○ 西軍(奉行衆・毛利方)の

               大垣城守備残留軍は、大垣城

               に残留し、大垣城を守備する。

              A 西軍(奉行衆・毛利方)の

               主力軍は、9月15日未明に、

               山中村 (やまなかむら、

               関ヶ原盆地の西方・約2km)

               に布陣する。

               〇 西軍(奉行衆・毛利方)の

               主力軍は、

               山中村付近の城山にある

               既存準備陣地の玉城(たまじ

               ょう)を、出撃陣地として使用

               した可能性がある。

               (9月15日未明)⇒

              B 西軍(奉行衆・毛利方)の

               主力軍は、9月15日午前10

               時頃から正午頃まで、山中村

               で、東軍(徳川方)の主力軍と

               交戦(決戦を行う) 

               (9月15日午前10時頃〜

                正午頃)⇒

              C 9月15日正午頃、山中村

               で、西軍(奉行衆・ 毛利方)の

               主力軍は、総崩れ、敗走、敗

               戦となり、東軍(徳川方)の

               主力軍がに西軍(奉行衆・ 毛

               利方)の主力軍に対し決戦で

               勝利を得る

               (9月15日正午頃)。

 

                  ■ 「伝説(従来説の関ヶ原

                の戦い」の決戦での、

                西軍(石田方)の主力軍

                の動き。

               ● 西軍(石田方)の主力軍は、

              @ 西軍(石田方)の主力軍は、

               1600年(慶長5年)9月14日

               夜に、大垣エリアの大垣城 

               (おおがきじょう、関ヶ原盆地

                                の東方)を出発

              (1600年(慶長5年)

               9月14日夜)⇒

               ○ 西軍(石田方) の石田三成

               は、9月14日夜に、大垣城で、 

               西軍(石田方)を、

               主力軍と大垣城守備残留軍

               の2つに分ける。

              A 西軍(石田方)の主力軍は、

               9月15日未明に、関ヶ原盆地

               の西側に布陣

               (9月15日未明)⇒

               B 西軍(石田方)の主力軍は、

               9月15日午前8時頃から

               午後2時頃まで、関ヶ原盆地

               で、東軍(徳川方)の主力軍

               と交戦(決戦を行 う)

               ○ 9月15日の朝から午前

                午後2時頃まで、西軍(石田

               方)石田三成は、

               笹尾山 (ささおやま、関ヶ原

               盆地の北西)で決戦を指揮

               (9月15日午前8時頃〜

               午後2時頃)⇒

              C 9月15日午後2時頃に、

               関ヶ原盆地で、西軍(石田方)

               の主力軍は、総崩れ、敗走、

               敗戦し、東軍(徳川方)の主

               力軍に対し決戦で敗戦する

               (9月15日午後2時頃)。

 

           ■ 「史実(新説)・伝説

           (従来説)の関ヶ原の戦

           い」の決戦日

           東西両軍の主力軍

           の概要。

 

              ■ 一次史料に基づく「新説(史実)

              関ヶ 原の戦い(= 大垣・山中の戦

               い)」 の決戦 (決戦 場所・日時:

              山中(やまなか)村で、1600年(慶

              長5年)9月15日午前10時頃〜正

              午頃) では、 

              美濃赤坂から移動し山中村の東側

              に布陣する徳川方の東軍主力軍 

              と、 大垣城から移動し山中村の西

              に布陣する奉行衆・毛利方の西 

              軍主力軍が、 午前10時頃から正

              午頃まで美濃国の山中(やまな

              か)で戦う。 結果、東軍が勝利

              を得る。

                 美濃赤坂から移動してきた東

              の徳川家康と徳川本隊は、16

              00年(慶長5年)9月15日に、

              山中(やまなか)に向かう途中で、

              関ヶ原盆地南西部で、早朝、奉行

              衆・毛利方の西軍の大谷軍と対峙

              し(遭遇し)戦い、勝利を得る。 

              次に、家康と徳川本隊は、美濃赤

              坂から移動してきた徳川方の東軍

              の福島勢と合流し、東軍主力軍は、

              山中村の東側に布陣する。

                大垣城から移動してきた宇喜

              多秀家と宇喜多軍は、1600年

              (慶長5年)9月15日に、山中村

              の西側に布陣する。

                 大垣城から移動してきた石田

              三成と石田軍は、1600年(慶長5

              年)9月15日に、山中付近の

              の自害峯(とうげのじがいみね)に

              移動し、その後、すぐ近くの山中村

              で西軍主力軍と合流し、山中村の

              西側に布陣する。

                 美濃国の山中(やまなか)村

              で、 1600年(慶長5年)9月15 日

              の午前10時頃から、美濃赤坂から

              移動し山中村の東側に布陣する東

              軍主力軍の福島勢と徳川本隊は、 

              大垣城から移動し山中村の西側に

              布陣する奉行衆・毛利方西軍主

              力軍の小西・宇喜多・石田・島津勢

              等の軍と対峙し、戦い、正午頃に、

              勝利を得る。

 

              ■ 一方、「従来説(伝説)の関ヶ原の

              戦い」の決戦 (決戦 場所・日時:関ヶ

              原盆地で、1600年(慶 長5年)9月

              15日午前8時頃〜午後2時頃) では、

               1600年(慶 長5年)9月15日に、

              美濃赤坂から移動し関ヶ原盆地の東

              側に布陣する徳川方の東軍主力軍

              と 大垣城から移動し関ヶ原盆地の

              西側に布陣する石田方の西軍主力 

              軍が、午前8時頃から午後2時頃ま

              美濃国の関ヶ原盆地で戦う。 

              結果、東軍が勝利を得る。

                  徳川家康と徳川本隊は、16

               00年(慶長5年)9月15 日に、

               最初は(午前8時頃)、関ヶ原盆地

               の東側の、桃配山(ももくばりやま、 

               家康最初陣地)に本陣(陣地)を置

               き、その後(午前10時頃以後)、移

               動し、関ヶ原盆地中央部の陣場野

               (じんばの、家康最終陣地)に本陣

               (陣地)を置き、徳川方の東軍 主力

               軍を指揮する。    

                 大垣城から移動してきた石田

               三成と石田軍は、1600年(慶長

               5年)9月15 日に、関ヶ原盆地の

               西側の、笹尾山(ささおやま)に本

               陣(陣地)を置き、石田方の西軍

               主力軍を指揮する。    

                  大垣城から移動してきた宇喜

               多秀家と宇喜多軍は、1600年

               (慶長5年)9月15日に、関ヶ原盆

               地の西側の天満山(てんまんやま)

               に布陣する。

                 美濃国の関ヶ原盆地で、1600

               年(慶長5年)9月15日の午前8時

               頃から、関ヶ原盆地の東側に布陣

               する徳川方の東軍主力軍は、大垣

               城から移動し関ヶ原盆地の西側

               布陣する石田方西軍主力軍と

               対峙し、戦い、午後2時頃に、勝利

               を得る。

 

〇 おお   大垣の戦い

              (おおがきのたたかい)。 《戦い》。

             (= 大垣合戦)。

             (= 「新説(史実)関ヶ原の戦

          い(= 大垣・山中の戦い)」の

          1つの大垣の戦い)。

           ○ 「新説関ヶ原の戦い(= 大

          垣・山中の戦い)」では、

          大垣の戦いは、1600年 (慶

          長5年)8月26日頃から9月

          15日まで、美濃国の大垣付

          近での戦いである。

             THE BATTLE OF 

          OOGAKI.

          (⇒ 関ヶ原の戦い

           決戦)。

          (⇒ 関ヶ原の戦い)。

          (⇒ 新説(史実)

             関ヶ原の戦い

           大垣・山中の戦い

         大垣の戦い山中の戦い)。

                (⇒ 慶長5年の

                 下分け目の戦い)。

           □ 「史実(新説)

            関ヶ原の戦い

            (= 大垣・山中の戦い)」  

            画像アルバム No.2

           □ 「伝説(従来説)

            関ヶ原の戦い」

            画像アルバム  No.3 

          (⇒ 徳川家康福島正則

             池田輝政)。

          (⇒ 毛利秀元)。

          (⇒ 石田三成宇喜多秀家)。

          (⇒ 大谷吉継小早川秀秋)。

          (⇒ 美濃赤坂大垣城

                           南宮山)。

          (⇒ 山中松尾山

              藤下の自害峯)。

          (⇒ 関ヶ原盆地桃配山

                           陣場野笹尾山)。

 

            ○ 「大垣の戦い」は、美濃

           国の大垣(おおが き)付近 

           (美濃赤坂、大垣城、南宮山

                 等)で、1600年(慶長5年)

           8月26日頃から9月23日

           まで、徳川方の東軍と奉行

           衆・毛利方の西軍が戦った

           合戦である。 合戦の結果、

            徳川方の東軍が勝利を得る。

            ○ 「大垣の戦い」は、「慶長

           5年(1600年)の天下分け

           目の戦い」の中心的な戦い

           の「大垣・山中の戦い」(=

           新説(史実)関ヶ原の戦い、

           大垣の戦いと山中の戦い)

           の1つである。

 

              ■ 「大垣の戦い(おおがきのたたか

              い)」とは、 大垣・山中の戦い(= 新

              説(史実)関ヶ原の戦い、大垣の戦い

              と山中の戦い)の1つであり、 美濃

              国の大垣(おおがき)付近 (美濃赤

              坂、大垣城、南宮山等)で、1600年

              (慶長5年)8月26日頃から 9月23

              日まで、 徳川方の東軍と 奉行衆 ・

              毛利方の西軍との間で行われた

              戦である。 戦いの結果、徳川方の

              東軍が勝利を得る。

              ■ 関ヶ原の戦いには、「新説(史実)

              関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」 

              と、「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」

              という2つの有力な説がある。

               「新説(史実)関ヶ原の戦い(= 大

               垣・山中の戦い)」には、 「大垣の

               戦い」 と、「山中の戦い」 の2つ

               の戦いがある。 

              ■ 「大垣の戦い(おおがきのたたか

              い)」は、  「慶長5年(1600年)の天

              下 分け目の戦い 」の中心的な戦いの

               「新説(史実)関ヶ原の戦い」(= 大

              垣・山中の戦い、大垣の戦いと山中

              の戦い) の1つである。

              ■ 「大垣の戦い」(おおがきのたたか

              い)は、 「新説(史実)関ヶ原の戦い

              (= 大垣・山中の戦い)」の1つであり、 

              関ヶ原の戦い直後の一次史料(同時

              代手紙・日記など) に基づく

              ■ 「新説 (史実)関ヶ原の戦い(=

              大垣・山中の戦い)」では、 奉行衆

              毛利の西軍の中心人物は、 大谷

              吉継、奉行衆・4人(増田長 盛、長

              束正家、前田玄以、石田三成)、宇

              喜多秀家、毛利輝元であり、 西軍

              は、反徳川で団結し、集団指導体制

              である。 

                 一方、徳川方の東軍の中心人

              物は、徳川家康である。

              ■ 「新説(史実)関ヶ原 の戦い」

              (= 大垣・山中の戦い)は、広義で

              は、時期は1600年(慶長5年)

              8月26日頃(東軍の美濃赤坂布

              陣)から9月23日(西軍の大垣

              城落城)までであり、 戦いの場所

              美濃国の大垣(おおがき)付近

              や山中(やまなか)付 近であり、

              濃国に集結した、徳川方の東軍・

              約7万3000人の兵と奉行衆・毛

              利方の西軍・約4万4000人の兵

              の東西両軍・約11万7000人の

              兵が戦う。 

                 その決戦は、主戦場(決戦場)

              の山中(やまなか、美濃国山中村)

              であり、 1600年(慶長5年)9月

              15日の午前10時頃から正午頃

              まで、徳川方の東軍主力軍と奉行

              衆・毛利方の西軍主力軍との間で

              行われ た。 戦いの結果、徳川方

              東軍主力軍が勝利を得る。

 

〇 おお   大垣・山中の戦い

              (おおがき・やまなかのたたかい)。

              《戦い》。

             (= 新説(史実)関ヶ原

        の戦い)。

          THE WAR OF OOGAKI 

          AND YAMANAKA.

           ○ 「大垣・山中の戦い(= 新

          説(史実)関ヶ原の戦い)」で

          は、関ヶ原の戦いは、広義で

          は、1600 年(慶長5年)8月

          26日頃から9月23日までで、

          美濃国(みののくに)の大垣(おお

          がき)付近や山中(やまなか)

          近での戦いである。

 

          (⇒ 関ヶ原の戦い

           決戦)。

          (⇒ 関ヶ原の戦い)。

          (⇒ 新説(史実)

             関ヶ原の戦い

           大垣・山中の戦い

         大垣の戦い山中の戦い)。

                (⇒ 慶長5年の

                 下分け目の戦い)。

           □ 「史実(新説)

            関ヶ原の戦い

            (= 大垣・山中の戦い)」  

            画像アルバム No.2

           □ 「伝説(従来説)

            関ヶ原の戦い」

            画像アルバム  No.3 

            (⇒ 豊臣氏豊臣政権)。

             (⇒ 豊臣氏五大老・五奉

            五大老五奉行)。

             (⇒ 内府ちがひの条々)。

                    (⇒ 小山評定

            細川ガラシャ)。

          (⇒ 徳川家康福島正則

             池田輝政)。

          (⇒ 毛利秀元)。

          (⇒ 石田三成宇喜多秀家)。

          (⇒ 大谷吉継小早川秀秋)。

          (⇒ 美濃赤坂大垣城

                           南宮山)。

          (⇒ 山中城山玉城

              松尾山藤下の自害峯)。

          (⇒ 関ヶ原盆地桃配山

                           陣場野笹尾山)。

 

           ○ 関ヶ原の戦いは、「慶長

           5年(1600年)の天下分け

           目の戦い」の1つであり、

           「慶長5年(1600年)の天

           下分け目の戦い」の中心

           的な戦いである。

           ○ 関ヶ原の戦いには、

           「新説(史実)関ヶ原の戦い

           (= 大垣・山中の戦い)」 と、 

           「従来説(伝説)の関ヶ原の

           戦い」という2つの有力な説

           がある。

 

          ■ 東西両軍の1600年

          (慶長5年)9月15日の

          山中決戦地は、 

          関ケ原盆地から西方・約

          2kmにあった山中村

          付近(現在の岐阜県関ケ原町

             の山中(やまなか)地区・玉(た

             ま)地区、松尾(まつお)・藤下

             (とうげ)地区)である。

           西軍の石田・宇喜多・

          小西・島津軍等布陣地は、 

             城山( しろやま、現在の岐阜県

             関ケ原町山中地区・玉地区)

          付近である。

             城山 には、既成準備陣地の

             陣城(じんじろ)の玉城(たまじ

             ょう))がある。

              西軍の大谷軍布陣地

             は、関ケ原盆地南西部(現

          在の関ケ原町松尾地区・藤下地

          区)で ある。

              西軍から東軍に寝返

             った小早川軍布陣地は、

          松尾山の山頂 、北部の中

          腹・山麓(現在の関ケ原町松尾

          地区・藤下地区)である。

           東軍の福島勢の

             陣地は、

             城山( しろやま、現在の岐阜県

             関ケ原町山中地区・玉地区)

          の東方(現在の関ケ原町山中

          地区)で ある。

           東軍の家康の率いる

             徳川軍本隊の布陣地は、

          関ケ原盆地南西部(関ケ原

          町松尾地区・藤下地区)、当日

             その後、城山( しろやま、現在

             の岐阜県関ケ原町山中地区・玉

          地区)の東方(現 在の関ケ原町

          山中地区)で ある。

 

          ■ 1600年(慶長5年)

          9月15日の東西両軍の

          大垣対戦地(にらみ合い、合

             戦せず)は、大垣付近(現在

             の岐阜県・垂井(たるい)町)

          ある。

           西軍の毛利秀元 の

          毛利勢は、 関ケ原盆地

          の東方にある南宮山(な

             んぐうさん)の山麓(現在の岐

             阜県垂井町)に布陣する。

           東軍の池田の 布

          陣地は、 南宮山(なんぐう

          さん)の北部(現在の岐阜県垂

             井町)である。

 

              ■ 大垣・山中の戦い (おおがき・や

              まなかのたたかい)とは、新説(史実)

              関ヶ原の戦いである。

              ■ 関ヶ原の戦いには、「大垣・山中

              の戦い(= 新説(史実)関ヶ原の戦

              い)」 と、 「従来説(伝説)の関ヶ原

              の戦い」 という2つの有力な説があ

              る。

 

           ■ 「史実(新説)の関ヶ原

           の戦い」東西両軍の概

                      要。

 

              ■ 大垣・山中の戦い(= 新説(史実)

                              関ヶ原の戦い)は、 1600年(慶長5

              年)に日本各地で行われた「 慶長5

              年(1600年)の天下分 け目の戦

              い」の1つであり、 「慶長5年(1600

              年)の天下分 け目の戦い」の中心的

              な戦いであった。

                  そして、大垣・山中の戦い(= 新

                              説(史実)関ヶ原の戦い)の結果、徳川

                              方の東軍が勝利を得、徳川家康が政

              権基盤を固め、その後、1603年(慶

              長7年)に、家康が将軍宣下(せんげ)

              を受け、 江戸幕府が出現した。

              ■ 「大垣・山中の戦い(= 新説(史

              実)関ヶ原の戦い)」では、 奉行衆

              毛利の西軍の中心人物は、 大谷

              吉継、奉行衆・4人(増田長盛、長

              束正家、前田玄以、石田三成)、宇

              喜多秀家、毛利輝元であり、 西軍

              は、反徳川で団結し、集団指導体制

              である。 

                 一方、徳川方の東軍の中心人

              物は、徳川家康である。

               「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」

               では、 石田の西軍の中心人物

               は石田三成であり、一方、徳川方の

               東軍の中心人物は、徳川家康である。

              ■ 「大垣・山中の戦い」(= 新説(史

               実)関ヶ原 の戦い)は、 広義では、

              1600年(慶長5年) の8月26日頃

              (東軍の美濃赤坂布陣)から9月23

              日(西軍の大垣城落城)までの間、

              美濃国での戦いである。

              (1) 1600年(慶長5年)8、9月の

              時点で、徳川方の東軍は、尾張国

              (おわりのくに、現・愛知県西部の相

              当地域)の清須城(きよすじょう、清

              州城)を本拠地にし、 奉行衆・毛利

              方の西軍は 、美濃国(みの のくに、

              現・岐阜県南部の相当地域)の大垣

              城(おおがきじょう)を本拠地にし、

              幾本もの川を挟んで対峙していた。 

              (2) 徳川方の東軍は、 清須城を

              出て、1600年(慶長5年)8月23日

              に奉行衆・毛利方の西軍の岐阜城

              を落城させ、 徳川方の東軍は、8月

              26日頃より、大垣付近の美濃赤坂

              (みのあかさか)に移動し布陣して、

              9月14日まで奉行衆・毛利方の西

              軍の大垣城を攻撃する。

              (3) 1600年(慶長5年)9月14日

              夜に、奉行衆・毛利方の西軍の大垣

              城にいた大部分の軍は大垣城を抜け

              出し関 ヶ原盆地・山中(やまなか)方

              面へ移動し、また、9月14日夜に、

              大垣付近の美濃赤坂にいた徳川方

              の東軍の多くの軍は、西軍主力軍を

              追って、関ヶ原盆地・山中(やまなか

              )方面へ移動し、9月15日に、東西

              両主力軍は、美濃の平野の山中(や

              まなか)で決戦を行った。

                 山中(やまなか)の戦いの東西

              両主力軍の決戦では、徳川方の

              軍主力軍が勝利を得る。

              (4) 大垣付近の美濃赤 坂にいる徳

              川方の東軍は、1600年(慶長5年)

              9月15日から9月23日まで奉行衆・

              毛利方の西軍の大垣城を攻撃し、

              9月23日に西軍の大垣城を落城さ

              せる。

              ■ 「新説(史実)関ヶ原 の戦い」

              (= 大垣・山中の戦い)は、広義で

              は、時期は1600年(慶長5年)

              8月26日頃(東軍の美濃赤坂布

              陣)から9月23日(西軍の大垣

              城落城)までであり、 戦いの場所

              美濃国  (みののくに、現・岐阜

              県南部の相当地域)の大垣(おお

              がき)付近や山中(やまなか)付 近

              であり、 美 濃国に集結した、徳川

              方の東軍・約7万3000人の兵と

              奉行衆・毛利方の西軍・約5万

              4000人の兵の東西両軍・約12万

              7000人の兵が戦う。 

                 その決戦は、主戦場(決戦場)

              の山中(やまなか、美濃国山中村)

              であり、 1600年(慶長5年)9月

              15日の午前10時頃から正午頃

              まで、徳川方の東軍主力軍と奉行

              衆・毛利方の西軍主力軍との間で

              行われ た。 戦いの結果、徳川方

              東軍主力軍が勝利を得る。

 

           ■ 「伝説(従来説)の関ヶ

           原の戦い」東西両軍の

                      概要。

 

               ■ 「伝説(従来説)関ヶ原の戦い」

              は、広義では、時期は1600年(慶

              長5年)の8月26日頃(東軍の美

              濃赤坂布陣)から9月23日(西軍

              の大垣城落城)まであり、戦いの

              場所は美濃国(みののくに、現・岐阜

              県南部の相当地域)の関ヶ原盆地

              と関ヶ原盆地の周辺地域であり、 

              美濃国に集結した、 徳川方の東軍・

              約7万人の兵と石田方の西軍・約

              8万人の兵の東西両軍・約15万人

              の兵が戦う。 

                 その決戦は、主戦場(決戦地)

              の関ヶ原盆地であり、 1600年(慶

              長5年)9月15日の午前8時頃 から

              午後2時頃まで、徳川方 の東軍主

              力軍と石田方の西軍主力軍との間

              で行われ た。 戦いの結果、徳川

              方の東軍主力軍が勝利を得る。

 

〇 おお   大垣・山中の戦い

            (= 新説関ヶ原の戦い)

         関連出来事(年代順・

        詳細)

               (おおがき・やまなかのたたかいか

               んれんできごと(ねんだいじゅん・

               しょうさい))。

           《戦い関連出来事》。

 

〇 おお   扇谷上杉家 

                 (おうぎがやつうえすぎけ)。 

              (関東管領上杉氏)。

                《武家の氏族》。

           (⇒ 室町幕府足利将軍)。

           (⇒ 関東公方

           関東公方足利氏鎌倉府

           鎌倉公方古河公方)。

           (⇒ 堀越公方)。

           (⇒ 関東管領

           関東管領上杉氏

           山内上杉 氏扇谷上杉 氏)。

             ■ 扇谷上杉 氏 (おうぎがやつうえすぎ

             し)、の始祖は、足利尊氏の生母・上杉清

             子の兄弟・上杉重顕である。

                ■ 関東管領上杉氏 (かんとうかんれいう

             えすぎし)は、 関東管領職を代々世襲した、

             武家の上杉氏の一族である。

             ■ 関東管領は、 関東管領上杉氏諸家が

             世襲し、 室町時代に関東地方に割拠した

             関東管領上杉氏諸家の中では、 山内上 

             杉氏 と 扇谷上杉 氏が有力で、対立し、

             争った。

             ● 山内上杉氏 (やまのうちうえすぎ し)

             の始祖は、足利尊氏の生母・上杉清子(う

             えすぎきよこ)の兄弟・上杉憲房(のりふさ)

             の子・上杉憲顕(のりあき)である。

                ■ 関東管領は、 室町幕府(= 足利幕

             府)の、東国(とうごく )の関東8国、伊豆、

             甲斐(かい、現・山梨県)の政務を統轄

             る役職である。

             ■ 日本の室町時代に、 室町幕府の

             国統治地方長官である関東公方(かんと

             うくぼう、鎌倉公方、古河公方) と 関東

             公方の補佐役の関東管領(かんとうかん

             れい)が、 日本の東国(とうごく、関東・

             東北・中部地方)の中の関東8国、伊豆、

             甲斐(かい、現・山梨県))を統治する。 

                  関東管領 職や東国の各国守護職の

             任免権は、 室町幕府の将軍にあり、関

             東公方(鎌倉公方、古河公方))にはなか

             った。

                 関東公方(鎌倉公方、古河公方)

             関東管領は、対立するようになる。

 

〇 おお  正親町天皇

             (おおぎまちてんのう)。 《人名》。

          (天皇在位:

          1557年ー1586年)。

          (生没年:

          1517年ー1593年)。

          (⇒ 織田信長誠仁親王

          (さねひとしんのう)勧修寺

          晴子(かじゅうじはるこ)

           後陽成(ごようぜい)天皇

          後水尾(ごみずのお)天皇)。

             ■ 正親町天皇 (おおぎまちて

             んのう、生没年:1517年ー15

             93年、天皇在位:1557年ー

             1586年)は、 方仁(みちひと)

             親王であり、 後奈良天皇の第一

             皇子であり、 1557年(弘治3

             年)10月に天皇に即位する。 

             ■ 織田信長と正親町天皇との

             関係。

             ● 戦国時代(室町時代後期)末

             期の当時、朝廷の財政は逼迫

             (ひっぱく)していた。 

             ● 織田信長は、 1568年(永

             禄11年)の上洛以後、正親町天

             皇を援助し、 逼迫(ひっぱく)し

             ていた朝廷の財政を、様々な政

             策や自身の援助により回復させ

             る。

               一方で、織田信長は、天皇の

             権威を利用し、信長の敵対勢力

             に対する講和(和議)の勅命を実

             現させる。

             ■ 正親町天皇の譲位問題。

             織田信長は、正親町天皇の譲位

             に対し、反対したという説と要求

             したという説の2つの説がある。

                有力な説は、病気がちであ

             った正親町天皇の1581年(天

             正9年)の譲位の希望に対し、

             織田信長が反対したという説で

             ある。 正親町天皇の譲位諸儀

             式や仙洞御所(上皇御所、引退

             御所)造営には、莫大な経費が

             かかるため、信長は譲位には消

             極的であった。

             ■ 正親町天皇⇒ 誠仁親王⇒

             後陽成天皇⇒ 後水尾天皇。

             正親町天皇 (おおぎまちてん

             のう)は、 子が誠仁親王(さね

             ひとしんのうであり、 孫が後

             陽成天皇(ごようぜいてんのう)

             であり、 曾孫(ひまご)が後水

             尾天皇(ごみずのおてんのう)で

             ある。

             ● 正親町天皇は、 誠仁親王

             (さねひとしんのう)の父であり、

             誠仁親王の夫人(「女房」)は、 

             勧修寺晴子(かじゅうじはるこ、

             新上東門院)であり、 誠仁親王

             と勧修寺晴子との間の子で第一

             王子(皇子)が、後陽成天皇(ご

             ようぜいてんのう、和仁親王)で

             ある。

             ■ 織田信長と正親町天皇の嫡

             子・誠仁親王との関係。

              ● 誠仁親王 (さねひとしんのう)

             は、 織田信長の庇護を受け、朝

             廷で大勢力をもち、信長が大改

             造した「二条御所」に居住する。 

             ● 「二条御所」は、正親町天皇の

             居住する上御所(かみごしょ)に対

             し、 下御所(しもごしょ)と呼ばれ、

             正親町天皇も朝廷の意思決定で

             は、誠仁親王の意見を求め、副朝

             廷の様相を呈する。

             ● 本能寺の変では、誠仁親王は、

             織田信忠と共に、「二条御所」にい

             たが、信忠同行の村井貞勝と明智

             光秀との交渉により、誠仁親王とそ

             の妻子、宿直の公家は、御所を脱

             出し、禁裏(上御所)へ逃げ込む。

 

〇 おお  大王。

             (おおきみ、だいおう)。 《天皇》。

          (= 古墳時代、飛鳥白鳳時代の

          天皇)。

                    (⇒ 天皇)。

             ■ 大王 (おおきみ、だいおう)は、 日本

             の古墳時代、飛鳥白鳳時代の天皇の名称

             である。

 

 おお  大国 実頼

             (おおくに さねより) 。 《人名》。

          (= 樋口与七、小国 実頼(おぐ

                     に さねより))。 

          (1562年ー1622年)。

          ○ 直江 兼続 (なおえかねつぐ)

             の弟。

          ○ 上杉家家臣。

             ■ 大国 実頼 (おおくに さねより、1562

             年ー1622年) は、 別名で、樋口与七、

             小国 実頼(おぐに さねより) であり、 直江

             兼続(なおえかねつぐ) の弟であり、 上杉

             家家臣であった。

 

〇 おお  大久保 利通

             (おおくぼ としみち)。 《人名》。

          (= 大久保 正助 しょうすけ

          大久保一蔵 いちぞう)。

          (1830年ー1878年)。

                    ○ 明治新政府首脳。

          ○ 西郷隆盛の盟友。

          ○ 薩摩藩下級武士出身。

                       ■ 大久保 利通 (おおくぼ としみち、

             1830年ー1878年)は、 別名では、

             大久保 正助(しょうすけ )、大久保一蔵

             (いちぞう)であり、 明治新政府首脳

             であり、 西郷隆盛の盟友であり、薩摩藩

             下級武士出身であった。

 

〇 おお  大久保 彦左衛門

              (おおくぼ ひこざえもん)。 《人名》。

          (= 大久保 忠教 ただたか)。

           (1560年ー 1639年)。 

          ○ 幕臣(幕府家臣)、旗本。 

          ○ 武功派、「三河物語」の著者。

                       ■ 大久保 彦左衛門 (おおくぼ ひこざえ

             もん、1560年ー 1639年) は、 別名で

             は、大久保忠教(ただたか)であり、 幕臣

             (幕府家臣)、旗本であり、 武功派であり、

             「三河物語」の著者であった。

 

〇 おお  大蔵卿局

             (おおくらきょうのつぼね)。 《人名》。

          ○ 茶々 (ちゃちゃ、淀殿(よどどの)

          淀の方(よどのかた)) の侍女(じじょ)

          乳母(うば)。 

             ■ 大蔵卿局 (おおくらきょうのつぼね)は、

             茶々 (ちゃちゃ、淀殿(よどどの)、淀の方

             (よどのかた)) の侍女(じじょ)、乳母(うば)

          である。

             ● 大蔵卿局は、 NHK大河ドラマ「江(ごう)

             〜姫たちの戦国」では、「サキ」(仮称)で登場

              する人物である。

 

〇 おお  大御所。

             (おおごしょ)。 《幕府》。

          (= 引退した将軍)。

         (⇒ 江戸幕府)。

                       ■ 大御所 (おおごしょ)とは、 引退した

              将軍である。

 

〇 おお   大阪。

              (おおさか)。 《首都》。

             (⇒ 首都豊臣政権)。

             (⇒ 古都豊臣大阪城)。

             ■ 大阪 (おおさか)は、

             日本の首都が置かれた場所の1つ

             である。

             ■ 大阪には、日本の首都として、

             豊臣秀吉が、 豊臣大阪城を中心

             とする 豊臣政権本拠地 (1583

             年〜1603年、現・大阪府大阪市) 

             を置く。

 

〇 おお   大阪城。

              (おおさかじょう)。 《城》。

           (= 豊臣大阪城

                と 徳川大坂城)。

           (⇒ 豊臣大阪城)。

           (⇒ 徳川大坂城)。

        (⇒ )。

           (⇒ 豊臣氏)。

           □ 豊臣秀吉ガイドブック  

           □ 豊臣秀吉 関連年代順

             出来事ブック

              (⇒ 徳川氏)。

              (⇒ 徳川 秀忠)。

              (⇒ 徳川 家光)。

           □ 徳川家康ガイドブック 

          □ 徳川家康 関連年代順

             出来事ブック

           □ 江戸幕府ガイドブック 

            □ 江戸幕府 関連年代順

            出来事ブック。 

               ■ 大阪城 (おおさかじょう、現・

             大阪市中央区)には、 

             旧大阪城の豊臣大阪城 と、

             現大坂城の徳川大坂城 が

             あった。

               ■ 現在の大阪城の地域には、 

             豊臣大阪城(= 豊臣氏築城の

             大阪城、1583年頃ー1615年

             の使用) 

             と、 

             徳川大阪城(= 徳川氏築城の

             大阪城、1629年頃ー1868年

             の使用) 

             があった。 

                 各城の築城の着工、完成

             年には、諸説あり。

               ■ 豊臣秀吉が1583年(天正11

             年)頃に、豊臣大阪城を築城する。

                しかし、1615年(慶長20年)

             に、大坂夏の陣で豊臣大阪城は

             落城し、炎上する。 

                その後、徳川氏によって豊

             臣大阪城の遺構は、徹底的に

             壊され、地中に埋められる。 

             ■ 徳川秀忠が1629年(寛永6

             年)頃に、豊臣大阪城の跡地に、

             徳川大阪城を築城する。

                しかし、1868年(慶応4年)

             1月に、鳥羽伏見の戦い時の火

             災により、大部分の建物を焼失

             する。

                現在、徳川大阪城の門、櫓

             (やぐら)、石垣等の遺構が現存

             する。

               ■ 現存の大坂城の門、櫓(やぐ

             ら)、石垣等の構築物は、 徳川

             大坂城の遺物であり、 現存の

             大坂城の天守閣は、豊臣大阪城

             の復元建物である。

             ● 現存の大阪城の門、櫓(やぐ

             ら)、石垣等の構築物は、

             徳川大阪城の門、櫓、石垣等の

             遺構である。 

                徳川大阪城の大部分の建

             物は戊辰戦争の鳥羽伏見の戦

             い時の1868年(慶応4年)1月

             に焼失する。

             ● 現存の大阪城の天守閣は、

             豊臣大阪城の復元天守閣であ

             り、

             「大坂夏の陣図屏風」(大阪城

             天守閣蔵)を参考に、 1931年

             (昭和6年)に、再建された復元

             建物である。

               

〇 おお  大阪の陣

             (おおさかのじん)。 《戦い》。

          (= 大阪の役 おおさかのえき)。

          (1614年ー1615年)。

             THE WAR OF THE SIEGES OF 

             OSAKA CASTLE.

          ○ 徳川氏と豊臣氏との戦い。

          ○ 前半の1614年の大阪冬の陣

          と、 後半の1615年の大阪夏の陣。

             ■ 大阪の陣 (おおさかのじん、= 大阪の役、

             1614年ー1615年)は、 徳川氏と豊臣氏と

             の戦いであり、 前半の1614年の大阪冬の

             陣 と、 後半の1615年の大阪夏の陣 であ

             る。

                一方、天下分け目の戦いの関ヶ原の戦い

             は、石田方と徳川方との戦いであった。

             ■ 大坂の陣 (おおさかのじん、1614年ー

             1615年、大阪の役) とは、 前半の1614年

             (慶長19年)の大坂冬の陣 と、 後半の16

             15年(慶長20年)の大坂夏の陣 である。

             ■ 徳川家康は、徳川氏政権(江戸幕府)の

             政治基盤をより強固にするため、 日本の政

             治から豊臣氏勢力を排除するため、大坂の陣

             という戦いを起こす。

                徳川家康は、 豊臣氏勢力の指導者の

             豊臣秀頼や淀殿が豊臣大阪城引き渡しに応

             じず、豊臣氏政権復活にこだわったため、自

             害に追い込み、殺害してしまった。

             ■ 大坂の陣 (=大坂冬の陣大坂夏の陣)

             とは、 徳川 氏の江戸幕府の政治(幕藩体制)

             の邪魔になる、豊臣氏の勢力を一掃するため

             に徳川家康が起こした戦い である。

             ● 大坂の陣 (=大坂冬の陣大坂夏の陣)

             とは、 徳川氏により豊臣氏を潰(つぶ)すた

             めの戦いであり、 将来の徳川氏の日本本土

             全国支配の妨(さまた)げとなる豊臣氏の勢

             力を排除するために徳川家康が仕掛けた戦

             いである。

          ■ 大坂冬の陣 (1614年10月ー12月)。

                        THE OSAKA FUYUNOJIN BATTLE.

             ● 大坂冬の陣 (おおさかふゆのじん)は、

             1614年(慶長19年)10月から12月まで、

             大坂付近地域で、 徳川方・約20万人兵力 と 

             豊臣方・約10万人兵力が戦った戦争である。 

             主に、豊臣大阪城の籠城戦(ろうじょうっせん、

             城攻防戦) であった。

             ● 準備。 

                1614年(慶長19年)10月11日に、徳

             川家康は、大坂地域に向かい、駿府城(すん

             ぷじょう)を出発する。

             ● 戦い。

               1614年(慶長19年)11月に、約20万人

              の兵(軍勢)の徳川方は、 約10万人の兵

             (軍勢)がいる豊臣大阪城を囲み、11月19日

             に、開戦となる。

               1614年(慶長19年)12月 20日に、

             臣方と徳川方の和議が成立し、終戦となる。

             ● 後始末。

                豊臣方は、惣堀(そうぼり、城の一番外

             側の堀)のみを埋めると認識していたが、和

             議成立後、すぐ急いで、徳川方は、約1カ月

             をかけて、豊臣大阪城の本丸の堀以外のす

             べての堀(二の丸の堀惣堀 等)を埋め、

             丸以外の殆どの構築物(二の丸、惣構(そう

             がまえ、三の丸)、真田丸等)を壊した ので、 

             豊臣大阪城は、無防備となり、非武装化され、 

             裸城(はだかじろ)同然となる。

          ■ 大坂夏の陣 (1615年4月ー5月)。

                        THE OSAKA NATSUNOJIN BATTLE.

             ● 大坂夏の陣 (おおさかなつのじん)とは、

             1615年(慶長20年)4月から5月まで、

             大坂付近地域で、 徳川方・約15万人兵力と

             豊臣方・約5万人兵力が戦った戦争である。

             主に、豊臣大阪城の南方での野戦(やせん、

             野外戦)であった。

             ● 準備。 

               1615年(慶長20年)4月4日に、徳川家

             康は、大坂地域に向かい、駿府城(すんぷじ

             ょう)を出発する。

             ● 戦い。

                1615年(慶長20年)4月 に、約15万人

             の兵(軍勢)の徳川方は、 豊臣大阪城の南

             方に陣取り、約5万人の兵(軍勢)の豊臣方に

             対峙し、 4月26日に郡山城の戦いが起こり、

             豊臣方と開戦する。

                1615年(慶長20年)5月に、徳川方は 、 

             豊臣大阪城の南方で、豊臣方主力部隊に野

             戦(野外戦)で勝ち、 その後、豊臣大阪城

             攻めて5月7日に落城(陥落)させ、 5月8日

             に淀殿・秀頼母子が自害し、終戦となる。

             ● 後始末。

                徳川方は 、生き残った豊臣方の残党や

             牢人(ろうにん、浪人)を捕(とら)え、豊臣大

             阪城のすべてを取り壊す。 

                後に、徳川方は、 同地に、新しい徳川

             大阪城を築城する。  

 

○ おお  大坂の陣関連出来事

               (年代順・詳細)

             (おおさかのじんかんれんできごと

                      (ねんだいじゅん・しょうさい)。

          《戦い関連出来事》。

 

○ おお  大阪府。

             (おおさかふ)。

          (現都道府県)。 《現地域名》。

          (現・47都道府県の1つ)。

             (≒ 前近代日本の、(1) 摂津

           国(≒現・大阪部北西部)、 (2) 

           河内 国(≒現・大阪府東部)、

                     (3) 和泉 国(≒現・大阪府南

          西部) の相当地域)。

                          OSAKA PREFECTURE.

          ○ 大阪府地域は、 (1) 大阪

          部北西部(≒摂津 国) と、 (2) 

                      大阪府東部(≒河内 国) と、 

          (3) 大阪府南西部(≒和泉 国)

          に区分される。

                  (⇒ 都道府県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                       (⇒ 前近代日本の地域名)。

                      (⇒ 旧地域名、地域名)。

                      (⇒ 日本の地名)。

          ■ (1) 大阪府北西部

              (≒ 前近代日本の、@ 摂津 国 

           (せ っつ のくに、摂州(せっしゅう)の相

                      当地域)。 

          ■ (2) 大阪府東部

          (≒ 前近代日本の、A 河内 国 

           (かわち のくに、河州(かしゅう)の相当

                      地域)。  

          ■ (3) 大阪府南西部

          (≒ 前近代日本の、B 和泉 国 

             いずみ のくに、泉州(せんしゅう)の相

                      当地域)。

              ○ 1868年(明治元年)ー現在。

              ● 大阪府の行政区分(区画)は、1868

              年(明治元年)から現在まで、存在する。

           ■ 大阪府。

             <近畿地方。

             <日本本土 (本州、四国、九州)

             <日本国

             ● 大阪府は、 近畿地方に属する。

                    (⇒ 近畿地方)。

          ■ 大阪府地域

             <畿内 (きない、広域地方)

             <五畿七道 (ごきしちどう、日本本土)。

                    (⇒ 畿内五畿七道)。

             ■ 大阪府地域 (おおさかふちいき) は、 

             前近代日本(古代〜江戸時代)の、 旧国

             (令制国)の、(1) 摂津国 (せっつのく

             に、現・大阪府北西部)  と、(2) 河内国 

             (かわちのくに、現・大阪府東部) と、 (3) 

                            和泉国(いずみのくに、現・大阪府南西部) 

             に相当する地域である。

             ■ 大阪府地域は、 (1) 大阪府北西部 

             (摂津国(せっつのくに)の相当 地域) と、

             (2) 河内国 (かわちのくに、大阪府東

             部の相当地域) と、 (3) 和泉国 (いず

             みのくに、大阪府南西部の相当地域) に

             区分される。 

             ● (1) 大阪府北西部は、 前近代日本

             の、摂津 国 (せ っつ のくに、別称:摂州

                         (せっしゅう)) の相当地域である。 

             ● (2) 大阪府東部は、 前近代日本の、

             河内 国 (かわち のくに、河州(かしゅう)) 

             の相当地域である。 

             ● (3) 大阪府南西部は、 前近代日本

             の、和泉 国 (いずみ のくに、泉州(せんし

             ゅう)) の相当地域 である。 

 

○ おお  大隅 国。 

             (おおすみ のくに)。 《旧地域名》。

          (= 隅州(ぐうしゅう))。 

          (≒ 現・鹿児島県 の本土東部・

                     大隅 諸島・奄美群島相当領

          域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の、

           旧国(令制 国)の正式名)。

              OOSUMI PROVINCE.

                    (⇒ 前近代日本の地域名)。

          ■ 大隅 国。

             <西海道 (旧広域地方)。

             <五畿七道。

             ■ 大隅 国 (おおすみ のくに)は、律令

             制定後・古代・中世・近世日本・旧地域名

             の、旧国(令制国)の正式名である

              ■ 隅州 (ぐうしゅう)は、  律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             国(令制国)正式名の、大隅 国 (おお

             すみ のくに) の別称である。

             ■ 大隅 国(= 隅州)は、 現・九州地方

             の、現在の鹿児島県 の本土東部・大隅諸

                           島・奄美群島 に相当する地域である。

             ■ 大隅 国(= 隅州)は、 五畿七道 (ご

             きしちどう)の西海道(さいかいどう)・旧広

                           域地方に属する。

 

○ おお  太田 牛一 

             (おおた ぎゅういち)。 《人名》。

          ○ 織田信長の後半生を記録し

          た武士。

          ○ メモ魔で、日記で、織田信長

          の記録を残す。

          ○ 信長公記15巻、太田牛一旧

          記などの織田信長や安土桃山時

          代の出来事の第一級史料を残す。

          ○ 「安土日記」の信長公記が、

          一次史料として評価が高い。

             ■ 太田 牛一 (おおた ぎゅういち)は、

             織田信長の後半生を記録した武士であり、

             メモ魔で、日記で、織田信長の記録を残す。

             ■ 太田 牛一は、 「信長公記15巻」、「太

             田牛一旧記 」などの織田信長や安土桃山時

             代の出来事の第一級史料を残す。

                「安土日記」の信長公記が、 一次史料

             として評価が高い。

 

〇 おお  大谷 吉継

             (おおたに よしつぐ)。  《人名》。

           (1559年ー1600年)。

          ○ 安土桃山時代に活躍した、

          武将、大名。

          ○ 関ヶ原の戦いで西軍につき、

          戦死する。

             ■ 大谷 吉継 (おおたに よしつぐ、生没年:

             1559年ー1600年、大谷 刑部(おおたに ぎ

             ょうぶ)、刑部少輔(ぎょうぶのしょう、官位))

             は、 安土桃山時代に活躍した、武将、大名

                            である。

                大谷 吉継は、関ヶ原の戦いで西軍につ

             き、戦死する。

 

○ おお  大殿。

             (おおとの)。 《封建制》。

          ○ 主君の父、隠居した前主君、

          当主の父 等に対するへの敬称。

          ○ 貴人をさす尊称。

        (⇒ 封建制度)。  

              ■ 大殿 (おおとの)は、 主君の父、隠居

              した前主君、当主の父 等に対するへの敬

                              称であり、 貴人をさす尊称である。

 

〇 おお  大塔宮。

             (おおとうのみや、だいとうのみや)。 

          《人名》。

           (= 護良親王(もりよししんのう))。

           ○  後醍醐(ごだいご)天皇の皇子

          (みこ)

           ○ 建武政権の征夷大将軍。

            (⇒ 後醍醐天皇

            (⇒ 建武政権建武の

         新政足利尊氏

              ■ 大塔宮 (おおとうのみや、だいとうの

             みや) は、 別名では、護良親王(もりよし

             しんのう)であり、 後醍醐(ごだいご) 天皇

             の皇子(みこ)であり、 建武政権の征夷大

             将軍である。

 

〇 おお  大友宗麟。

             (おおとも そうりん)。  《人名》。

           (1530年ー1587年)。

          ○ 戦国・安土桃山時代に活躍

          した、九州の武将、大名。

          ○ キリシタン大名で、天正遣

          欧使節派遣の主宰者の1人。

              ■ 大友宗麟 (おおとも そうりん、1530

              年ー1587年)は、 戦国・安土桃山時代

              に活躍した、九州の武将、大名であり、

              キリシタン大名で、天正遣 欧使節派遣の

              主宰者の1人である。

 

〇 おお  大野 治長

             (おおの はるなが)。 《人名》。

          ○ 豊臣秀頼の側近。

          ○ 大蔵卿局 (おおくらきょうのつぼ

            ね)の子。

              ■ 大野 治長 (おおの はるなが)は、

              豊臣秀頼の側近であり、 大蔵卿局(おお

              くらきょうのつぼね)の子である。

 

〇 おお  大姥局

             (おおばのつぼね)。 《人名》。

                  ○ 大姥局は、

           江戸幕府・第2代将軍・徳川

           秀忠の乳母(うば 、めのと)、

              側近 である。

              ■ 大姥局 (おおばのつぼね、おお

              うばのつぼね)は、 江戸 幕府・第2

              代将軍・徳川秀忠の乳母(うば 、め

                            のと)、側近である。

 

〇 おお   大判(金)。

                          (おおばん(きん))。

           《日本流通貨幣》。

                     (安土桃山・江戸時代の

                     日本流通貨幣)。

              ■ 近世贈答・恩賞用金貨。

           ■ 安土桃山・江戸時代の、

           贈答・恩賞用金貨。

            (江戸時代の日本流通貨幣)。

            (日本流通貨幣)。 

              ■ 大判(金)

              <安土桃山・江戸時代・贈答・恩賞用金貨。

              <安土桃山・江戸時代・贈答・恩賞用貨幣。

              <安土桃山・江戸時代・日本流通貨幣。

              <近世・日本流通貨幣。

              <日本流通貨幣。

             ■ 大判(金) (おおばん(きん))は、

             安土桃山・江戸時代の日本流通 貨幣であり、

             近世贈答・恩賞用金貨であり、 安土桃山・

             江戸時代の、 贈答・恩賞用金貨である。

             ■ 大判(金) (おおばん(きん))は、 安土

                           桃山時代、江戸時代の鋳造金貨、楕円形

             金貨である。 

             ● 江戸時代では、大判は、その時の金相

             場により、 両・分・朱・文の定位(定額)通

             常貨幣と交換された。

             ● 1両小判≒4分≒16朱≒4000文≒

             現在の約10万円 。

 

〇 おお  大姫。

             (おおひめ)。 《人名》。

             ■ 大姫 (おおひめ、生没年:1178

             年頃〜1197年)は、

             源頼朝の娘である。

             ■ 大姫は、 源頼朝 と、北条政子

             (ほうじょうまさこ)との間の女子であ

             る。

             ■ 大姫は、 数え年20歳頃に病死

             する。

              ■ 大姫と源義高との婚約と死別。

             ●  源頼朝の娘の大姫は、 数え年

             6歳頃、1183年(寿永2年)に、数え

             年11歳で鎌倉に人質として送られ

             てきた、源(木曽)義仲の長男の源義

             高(みなもとのよしたか)と婚約する。

             ● 大姫は、 鎌倉で、許婚(いいな

             ずけ)と源義高と親密となり、大姫の

             生涯の思い人となる。

              ● その後、源頼朝と源(木曽)義仲

             の関係は破局し、1184年(寿永3

             年)正月に、義仲は、源頼朝軍によっ

             敗死する。

             ● 1184年(元暦元年)4月に、将

             来の禍根を断つべく (源義高を生

             かしておけば、将来、貴種の義高に

             人が集まり頼朝の大きな敵となると

             考え)、 源頼朝は、大姫の許婚の

             源義高の殺害を決める。 それを

             いた大姫は、源義高を逃がすが、

             源義高は見つかり討ち取られ、殺

             害される。

             ● 数え年7歳頃の大姫の心は、

             深く傷つき、その後、大姫は、十余

             年を経ても、源義高への思いに囚

             われて、床(とこ)にふす日々が続

             き、また、婚儀を拒否し続け、11

             95年(建久6年)に、数え年18歳

             頃、一応、回復する。 

             ■ 源頼朝の大姫入内工作。

             ● 1195年(建久6年)2月に、

             源頼朝は、大姫や北条政子を伴っ

             て、上京する。 主目的は大姫の

             入内工作(じゅだいこうさく)であっ

             た。

             ● 源頼朝は、 朝廷統制のため、

             大姫を入内(じゅだい)させ、天皇

             の外戚となる(頼朝の外孫の天皇

             が即位すること)を目指す。

                源頼朝は、大姫を入内(じゅ

             だい)させ、大姫を後鳥羽天皇の

             妃にし、子を産ませ、その子が天

             皇になるという天皇の外戚となる

             工作を行う。

               しかし、大姫は、病が回復せず、

             1197年(建久8年)7月に、数え

             年20歳頃に、病死する。

             

〇 おお  大政所

             (おおまんどころ)。 《人名》。

          (= なか(仲))。

           (1513年ー1592年)。

          ○ 豊臣秀吉の生母。

              ■ 大政所  (おおまんどころ、= なか(仲)、

             1513年ー1592年)は、 豊臣秀吉の生母

             である。

 

〇 おお  大御台(所)。

             (おおみだい(どころ))。 《幕府》。

          ○ 元・御台所(みだいどころ、

          元・将軍正室夫人)。

          (⇒ 江戸幕府)。

              ■ 大御台(所) (おおみだい(どころ))は、

             元・御台所(みだいどころ、元・将軍正室夫

             人)である。

 

〇 おお  大村益次郎。

             (おおむらますじろう)。 《人名》。

          (= 大村永敏、村田良庵、

           村田蔵六)。

          (1825年−1869年)。

          ○ 幕末、明治時代初期の

           長州出身の兵学者。

             ■ 大村益次郎 (おおむらますじろう、

             1825年−1869年)は、 別名では、

             大村永敏、村田良庵、村田蔵六といい、

             幕末・明治時代初期の長州(ちょうしゅう、

             現・山口県の相当地域)出身の兵学者で

             ある。

             ■ 第2次長州征討で、 約5000人の長

             兵州対10数万人の幕府軍との戦いで、

             近代兵制改革の軍事訓練実施、当時の最

             新近代兵器(ミニエー銃)導入、散兵戦術

             などを採用して、長州藩を勝利に導く。

             ■ 大村益次郎は、長州藩の農民出身で、

             村医者の子として生まれ、大坂の緒方洪

             庵(おがたこうあん)の適塾(てきじゅく)で

             蘭学(らんがく)を学び、塾頭にもなる。 

             その後、故郷の長州へ帰り、村医者にな

             る。 

                その後、大村益次郎は、1853年

             (嘉永6年)に、伊予国(いよのくに、現・愛

             媛県の相当地域)の宇和島藩へ行き、洋

             学の才により、蘭学翻訳をし、兵学を教え、

             兵学者となる。 それから、江戸幕府の招

             きで、江戸で、蘭学翻訳をし、兵学を教え、

             幕臣となる。 それから、長州藩の招きで、

             幕府を辞め、長州藩で兵学を教える。

                  大村益次郎は、1866年(慶応2

             )の第2次長州征討や戊辰戦争(1868

             年ー1869年)で、作戦指揮を行い、長州

             藩の軍隊の中核的人物となる。 

                  大村益次郎は、1869年(明治2

             年)に、明治新政府(近代日本政府)の兵

             部大輔(ひょうぶたいふ)となり、近代軍制

             の樹立に尽力する。

             ■ 大村益次郎は、1869年(明治2年)に

             反対派士族に襲われ、傷つき、死去する。

 

〇 おお  大山 巌。

             (おおやま いわお)。 《人名》。

             ○ 大山 巌は、西郷隆盛の

           従兄弟(いとこ)である。

          (⇒ 西郷隆盛

         新島八重会津戦争)。

             ■ 大山 巌 (おおやま いわお)は、

             西郷隆盛の従兄弟(いとこ)である 。

             ■ 大山 巌は、会津戦争に参戦する。

             ■ 大山 巌は、上野の西郷像の立像

              依頼主である。

                      大山 巌は、 明治後期・日本陸軍

              元帥・大将である。

                      大山 巌は、 日露戦争時の、満州

             (まんしゅう、中国東北部)での現地日

             本陸軍の総指揮官であった。

 

〇 おお  大山 捨松

             (おおやま すてまつ)。 《人名》。

                            ○ 大山 捨松は、大山 巌

          の夫人である。

             ○ 大山 捨松は、明治期

          のトップレディーの1人で

          ある。

                           ○ 大山 捨松は、「鹿鳴

          館の華(はな)」の一人 で

          ある。

             (⇒ 大山 巌)。

             (⇒ 鹿鳴館華族)。

             ■ 大山捨松 (おおやますてま

             つ、1860年ー1919年)は、大 

             山巌(おおやまいわお)の夫人

             1883年結婚)である。 大山巌

             は、1883年(明治16年)11月

             8日に、大山捨松と婚儀を結び、

             その1ヶ月後、完成したばかり

             の鹿鳴館で結婚披露宴を催(も

             よお)した。 

                大山捨松は、1871年(明治

             4年)から1882年(明治15年)ま

             で、アメリカに留学する。

                 そして、大山捨松は、鹿鳴館

             (1883年(明治16年)〜1887

             年(明治20年))で活躍する。

                 また、大山捨松は、日本の

              女子教育に貢献する。 大山捨

              松は、下田歌子と共に、1884

              年(明治17年)の華族女学校

              (後の学習院女子中・高等科)の

              設立の準備を行う。 また、19

              00年(明治33年)の津田梅子

              の女子英学塾(後の津田塾大学)

              の設立を援助する。

             ■ 鹿鳴館。

                鹿鳴館  (ろくめいかん、18

             83年(明治16年)ー1887年(明

             治20年))は、 日本初の迎賓館

             (げいひんかん)であり、 外務卿・

             井上馨(いのうえかおる)の進め

             る欧米との不平等条約改正のな

             どの目的で、条約改正の第一歩

             として社交を通じて欧米各国の

             政府高官との信頼関係を築こう

             と設立され、 国賓(こくひん)や

             外交官などの外国客を招待、接

             待するための社交場であり、 

              遊会や舞踏会などが頻繁に開か

             れ、 バッスルスタイルの煌(きら)

             びやかなドレスをまとう、華族(か

             ぞく、1869 年ー1947年)や政

             府高官などの上流夫人が、活躍

             した。

             ■ 「鹿鳴館の華」。

             ● 優雅なダンスと美貌で、洗練

             されたマナーと振る舞いで、「鹿鳴

             館の華」 (ろくめいかんのはな)

             と称(たた)えられた女性には、

             (a) 井上 武子 (いのうえ たけ

             こ、井上 馨(かおる)夫人、

             1850年−1920年)、

             (b)  大山 捨松 (おおやま

             すてまつ、大山 巌(いわお)夫人

             1860年ー1919年)、  

             (c) 戸田 極子 (とだ きわこ、

             戸田 氏共(うじたか)夫人、

             1858年−1936年)、 

             (d) 陸奥 亮子 (むつ りょうこ、

             陸奥 宗光(むねみつ)夫人、

             1856年ー1900年)、 

             (e) 鍋島 栄子 (なべしま なが

             こ、鍋島 直大(なおひろ)夫人、

             1855年−1941年) 

             などがいる。

 

〇 おお  大輪田泊。

             (おおわだのとまり)。 《人名》。

             ■ 大輪田泊 (お おわだのとまり)は、

             平清盛が日宋貿易のために、福原に

             築いた人工港である。

             ■ 大輪田泊は、後に、神戸港となる。

 

#oka

 

〇 おか  岡田 以蔵

             (おかだ いぞう)。 《人名》。

           (= 人斬り以蔵 ひときりいっぞう)。

          (1838年ー1865年)。

          ○ 土佐藩・藩士。

          ○ 人の命を奪う一方、人の命

          を守った以蔵、 幕末に、暗殺

                  者、要人警護の用心棒として、

          活躍。

                       ■ 岡田 以蔵 (おかだ いぞう、1838年

              ー1865年)は、 別名は人斬り以蔵(ひ

             ときりいぞう)と呼ばれ、 土佐藩・藩士で、

             人の命を 奪ったり、守ったりして、幕末に、

                     暗殺者、要人警護の用心棒として活躍した。

 

○ おが  緒方 洪庵

             (おがた こうあん)。 《人名》。

          (1810年ー1863年)。 

          ○ 江戸時代後期の医者、名医、

          優秀な西洋医。

                       ■ 緒方 洪庵 (おがた こうあん、1810

             年ー1863年)は、 江戸時代後期の医者、

             名医であり、優秀な西洋医であった。

 

〇  おか  於一

             (おかつ)。 《人名》。

             (= 天璋院・篤姫 てんしょういん・

             あつひめ)。 

          (⇒ 篤姫 あつひめ)。

          ○ 江戸幕府・第13代将軍・徳

          川家定(いえさだ)の正室夫人。

                       ■ 於一 (おかつ)とは、 天璋院・篤姫

             (てんしょういん・あつひめ)であり、 江戸

             幕府・第13代将軍・徳川家定(いえさだ)

             の正室夫人 (せいしつふじん)である。

 

〇  おか  岡っ引  

             (おかっぴき)。 《治安》。

          (= 目明し(めあかし)) 。

           ○ 江戸時代の犯罪捜査担当

          役人の、私的使用人。

                       ■ 岡っ引 (おかっぴき、= 目明し(めあか

             し) ) は、 江戸時代の犯罪捜査担当役人

             の、私的使用人である。

 

〇  おか  御上。

             (おかみ)。 《封建制》。

                     (= 政府、役所、主君、主人、

                     天皇、朝廷など)。

             (⇒ 封建制度)。

             ■ 御上 (おかみ)とは、 政府、役所、

                         主君、主人、天皇、朝廷などである。

 

〇  おか  岡山県。

             (おかやまけん)。

          (現都道府県)。 《現地域名》。

          (現・47都道府県の1つ)。

                         OKAYAMA PREFECTURE.

             ○ 岡山県地域は、 (1) 岡山

           県北東部(≒美作国)、 と (2) 

          岡山県南東部(≒備前国)、  と  

          (3) 岡山県西部(≒備中国)

          区分される。

                     (⇒ 都道府県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                      (⇒ 前近代日本の

         地域名)。

                      (⇒ 旧地域名、地域名)。

                      (⇒ 日本の地名)。

             ○ 岡山県地域は、 

              前近代日本の、(1) 美作国(≒

           現・岡山県北東部)、 と (2)  備

          前 国(≒現・岡山県南東部) と、

                 (3) 備中 国(≒現・岡山県西部)、

          の相当地域である。

             ○ 岡山県地域は、 

              前近代日本の、(1) 美作 国 

           (み まさ かさ のくに、別称:作州(さくし

          ゅう)、現・岡山県北東部)、と (2) 

             備前国  びぜん のくに、別称:備州

             (びしゅう 、備前国・備中国・備後国)、現・

          岡山県南東部) 、  と (3) 備中

          国 (びっちゅう のくに、別称:備州( びし

          ゅう、備前国・備中国・備後国)、現・岡山

          県西部) の相当地域である。

           ■ 岡山県。

             <中国地方。

             <日本本土 (本州、四国、九州)

             <日本国

             ● 岡山県は、中国地方に属する。

                    (⇒ 中国地方)。

           ■ 岡山県地域

             <山陽道・旧広域地方。

             <五畿七道 (ごきしちどう、日本本土)。

          (⇒ 山陽道・旧広域地方)。

                   (⇒ 五畿七道)。

             ■ 岡山県地域 (おかやまけんちいき)は、  

             前近代日本(古代〜江戸時代)の、 旧国

             (令制国)の、(1) 美作 国(み まさ かさ

               のくに、現・岡山県北東部) と、 (2) 備

              前 国(びぜん のくに、現・岡山県南 東部) 

              と、 (3) 備中 国(びっちゅう のくに、現・

              岡山県西部) に相当する地域である。

             ■ 岡山県地域は、 (1) 岡山県北東部

               (≒美作国)  と (2) 岡山県南東部(≒ 

              備前 国)  と(3) 岡山県西部(≒備中 国)

              に区分される。

             ● (1) 岡山県北東部は、 前近代日本の、  

             美作 国 (み まさ かさ のくに、別称:作州

             (さくしゅう)) の相当地域である。  

             ● (2) 岡山県南東部は、 前近代日本の、

             備前国 (びぜん のくに、別称:備州 (びしゅ

             う 、備前国・備中国・備後国)) の相当地域

             である。

             ● (3) 岡山県西部は、 前近代日本の、

             備中 国(びっちゅう のくに、別称:備州( びし

             ゅう、備前国・備中国・備後国) の相当地域

             である。

 

〇 おが  小川御所。

             (おがわのごしょ) 。

          (= 小川殿 《室町幕府》。 

                     《足利将軍家の邸宅》。

          (1471年頃ー1493年)。

          □ 足利氏 画像アルバム 

             No.1

          足利将軍家邸)。 

          ( 足利将軍家室町幕府)。

          (⇒ 室町御所花の御所) 。

          (⇒ 三条坊門邸)。

          (⇒ 小川御所)。

          (⇒ 足利二条城二条城)。

                         ■ 小川御所 (おがわのごしょ、=

             別称:小川殿(おがわどの)、1 471

             年頃ー1493年) は 室町幕府(=

             足利幕府)の、足利将軍家の邸宅、

             政庁の1つである。                         

             ■ 小川御所(= 小川殿)の跡地は、

             現在、京都市上京区にある。

             ■ 小川御所(= 小川殿)は、元細川

             勝元の邸宅の1つであったが、足利

             義政が1471年 (文明3年)頃より小

             川御所を利用し、1476年(文明8

             年)の室町御所の焼失(全焼)で、義

             政の正室夫人の日野富子や義政の

             子で将軍の足利義尚(よしひさ)も

             小川御所に移り住む。 その後、義

             政も義尚も小川御所を去り、日野富

             子のみの居所となり、1493年(明応

             2年)に、明応の政変時、焼失した。

                         ■ 室町幕府(= 足利幕府)の、足

             利将軍家の邸宅、政庁である足利

             将軍家邸には、

             (1) 二条万里小路第 (にじょう

             までのこうじてい、

             1336年頃ー1358年頃)、 

             (2) 三条坊門邸 (= 別称:三条

             坊門殿(さんじょうぼうもんどの)、

             1336年頃ー1443年頃)、 

             (3) 室町御所 (むろまちごしょ、

             = 別称:室町殿(むろまちどの)、

             室町第(むろまちてい)、通称:

             花の御所(はなのごしょ)、

             1381年ー1559年)、 

             (4) 小川御所 (おがわのごしょ、

             = 別称:小川殿(おがわどの)、

             1471年頃ー1493年)、 

             (5) 烏丸中御門第 (からすまな

             かみかどてい、= 別名:足利二条

             城、二条御所、旧二条城、前期:

             1559年ー1565年、後期:15

             69年ー1573年)、

             などがある。  

 

〇 おき  沖縄県。

             (おきなわけん)。

          (現都道府県)。 《現地域名》。

          (現・47都道府県の1つ)。

             (≒ 前近代日本の、琉球の相当

                     地域)。

                         OKINAWA PREFECTURE.

          ■ 沖縄県地域。

          (≒ 前近代日本の、琉球 (りゅう

          きゅう、 沖縄県) の相当地域)。

                      (⇒ 前近代日本の

        地域名)。

                 (⇒ 都道府県)。

                     (⇒ 旧地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

          ■ 沖縄県。

             <南西諸島。

             <九州地方(= 日本本土の九州

              南西諸島)。

             <日本国

             ● 沖縄県は、 九州地方に属する。

             ● 沖縄県は、 沖縄諸島と先島(さきし

             ま)諸島の地域である。

                     (⇒ 九州地方)。

           ■ 沖縄県地域。

             <琉球国(りゅうきゅうこく)。

             ■ 沖縄県地域は、 前近代日本の、旧

             地域名の、琉球(琉球王国の支配地) 

             に相当する地域である。

                    (⇒ 琉球琉球王国)。

                    (⇒ 沖縄の歴史)。

             ■ 沖縄県地域 (あいちけんちいき) は、  

             前近代日本(古代〜江戸時代)の、 琉球 

             (りゅうきゅう、現・沖縄県) に相当する地

             域である。

 

〇 おき   沖縄戦

              (おきなわせん)。 《戦い》。

                     (1944年(昭和19年)ー

          1945年(昭和20年))。

                     (= 太平洋戦争、第2次世界

          大戦中の、沖縄地域での

          日米軍の戦い)。

             (⇒ 沖縄の歴史)。

             (⇒ 太平洋戦争)。

                          ■ 沖縄戦 (おきなわせん)とは、 

             太平洋戦争、第2次世界大戦中の、

             1944年(昭和19年)から1945年

             (昭和20年)までの、沖縄地域で

             の日米軍の戦いである。

                          ■ 大本営(だいほんえい、旧日本

             軍本部)の幹部の命令により、 

             日本本土(本州、四国、九州)での

             本土決戦を遅らせるため、また、

             本土決戦前の米軍の勢力をそぐ

             ため、 沖縄にいた旧日本軍軍人

             や民間人は、持久戦(じきゅうせん)

             を強いられ、 沖縄地域では、米兵

             約9万人、日本人約20万人の戦死

             者(民間人戦死者・約10万人以上)

             を出した、血まみれの激しい攻防

             戦となった。 

             ■ 沖縄の本島や離島では、

             在沖縄・旧日本軍の幹部は、軍事力

             不足を補(おぎな)うため、 「防衛

             召集」(ぼうえいしょうしゅう)により、

             避難させるはずの民間人を、戦争

             直前に、軍と行動を共にする、軍務

             要員 や 「斬り込み」(きりこみ、

             手製の爆弾等をもって敵陣に突っ

             込む戦闘行為)等の兵士などとして

             徴用し、民間人・約10万人以上の

             死亡者の犠牲を出してしまった。

 

〇 おき  沖縄の歴史

             (おきなわのれきし)。 《地域史》。

          (= 琉球の歴史)。

 

〇 おき  沖縄の歴史・詳細年表

             (おきなわのれきし・しょうさいねんぴょう) 。

          《地域詳細年表》。

                     (⇒ 日本史年表) 。

 

〇 おき  隠岐 国。 

                           (おき のくに)。 《旧地域名》。

             = 隠州(おんしゅう、いんしゅう))。

          (≒ 現・鳥根県隠岐諸島の相当

          地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の、

           旧国(令制 国)の正式名)。

              OKI PROVINCE.

                 (⇒ 旧国(= 令制国))。

                   (⇒ 山陰道・旧広域地方)。

                   (⇒ 五畿七道)。

                  (⇒ 都道府県)。

           (⇒ 中国地方)。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                      (⇒ 旧地域名、地域名)。

             (⇒ 日本の地名)。

          ■ 隠岐 国。

             <山陰道 (旧広域地方)。

             <五畿七道。

             ■ 隠岐 国 (おき のくに、= 隠州(お

             んしゅう、いんしゅう))は、 現・中国地

             方の、現在の鳥根県隠岐諸島 に相当

             する地域であり、 前近代日本の、旧国

             (令制国)である。

             ■ 隠岐 国(= 隠州)は、 五畿七道

             (ごきしちどう)の山陰道(さんいんどう)・

                          旧広域地方に属する。

             ■ 隠州 (おんしゅう、いんしゅう)は、

             律令制定後・古代・中世・近世日本・旧

             地域名の、旧国(令制国)正式名の、

              岐 国 (おき のくに)の 別称である。

                         ■ (RWM) 日本の、中地域名の変遷。

             ● 国造・県主分国⇒ 旧国(令制国)

              ⇒ 旧都道府県⇒ 現47都道府県。

             ■ 隠岐 国 (おき のくに)は、 律令制

             定後・古代・中世・近世日本・旧地域名

             の、旧国(令制国)の正式名である

             ■ 隠岐 国(= 隠州)は、 約68旧国

             (令制国)の1つであり、 山陰道の1国

             であり、五畿七道 (ごきしちどう)の山陰

             (さんい んどう)・旧広域地方に属する。

             ■ 旧国(令制国) (きゅうこく(りょうせ

             いこく))は、 前近代日本の、飛鳥白鳳

             時代末期から江戸時代まで、 紀元(後)

             701年頃から1868年頃まで、 日本で

             使用された地方行政区分の地域名であ

             る。

 

〇 おき  お喜世。

          (おきよ)。 《人名》。

          (= 月光院 げっこういん)。 

                   (⇒ 月光院)。

          ○ お喜世は、

          江戸幕府・第7代将軍・

          徳川家継の生母 である。

             ■ お喜世 (おきよ、= 月光院(げっ

             こういん))は、 江戸幕府・第7代将

             軍・ 徳川家継(いえつぐ)の生母で

             ある。

 

〇 おく   奥   

                           (おく)。  《後宮》。

           (= 奥向(おくむき))。 

               (= 前近代日本の妻子の住い)。

          (⇒ 大奥)。

             ■ 奥 (おく、奥向(おくむき) )とは、前近

             代日本の妻子の住いである。

             ■ 奥 (おく、奥向(おくむき)) とは、

             前近代日本の妻子の住い(住居スペース)

             ある。 

                奥は、 現代日本の敬語の「奥様」の

             語源の一部である。

             ■ 奥御殿 (おくごてん) とは、大名など

             の上級武士の後宮(こうきゅう)であり、 武

             家(武士)の、大名などの上級武士の妻子

             の住い(住居スペース)である。 

             ■ 大奥 (おおおく) とは、 徳川氏本家

             (江戸幕府)の江戸城の後宮(こうきゅう)

             あり、 武家(武士)の 、江戸幕府・将軍の

             妻子の住い(住居スペース) である。

 

〇 おく   奥御殿。 

                           (おくごてん)。 《後宮》。

               (= 大名などの上級武士の後宮

          (こうきゅう))。

             ■ 奥御殿 (おくごてん) とは、大名など

             の上級武士の後宮(こうきゅう)であり、 武

             家(武士)の、大名などの上級武士の妻子

             の住い(住居スペース)である。 

             ● 大奥 (おおおく) とは、 徳川氏本家

             (江戸幕府)の江戸城の後宮(こうきゅう)

             あり、 武家(武士)の 、江戸幕府・将軍の

             妻子の住い(住居スペース) である。

             ● 奥 (おく、奥向(おくむき)) とは、

             前近代日本の妻子の住い(住居スペース)

             ある。 

          (⇒ 大奥)。

             ■ 江戸時代の盗賊・鼠小僧(ねずみこぞ

             う)は、史実では、主に江戸の武家の大名

             屋敷の「奥御殿」を狙い、盗品を重ね、長年、

             捕まらなかった。 大名が対面を重んじ、奉

             行所に被害届を出さなかったため。

                史実では、最後には捕まり、奉行所の

             取調べにより、鼠小僧は、盗品で得た金を

             博打(ばくち)、女性などに使い果たし、人助

             けには使われなかった。

 

〇 おく   奥山朝利の娘 (実名不詳) 

                          (おくやまともとしのむすめ)。 《人名》。

             (生年不詳−1585年)。

                     ○ 井伊直親の夫人。

                     ○ 井伊直政 (幼名:虎松)の

           生母。

        (⇒ 井伊氏、井伊直盛、

         井伊直政井伊直虎)。

                         ■ 奥山朝利の娘 (実名不詳、おくやまと

             もとしのむすめ、生年不詳 −1585年) は、

             井伊直親の夫人であり、 井伊直政 (幼名:

             虎松)の生母である。

                          ● 奥山朝利の娘 (実名不詳、おくやまと

             もとしのむすめ、生年不詳 −1585年) は、

             井伊氏の一族の奥山朝利の娘であり、 井

             伊氏第23代当主井伊直親(いいなおちか)

             の夫人である。

             ● 井伊直親  と、 井伊直親夫人・奥山

             朝利の娘との間には、 男子の井伊直政

             (いいなおまさ) などの子がいた。

             ● 奥山朝利の娘は、 『 おんな城主 直 

             虎 (おんなじょうしゅ なおとら) 』 (NH

             Kテレビ・2017年大河ドラマ) では、

             「しの」とい う名(仮称)で登場する。

             ■ 前近代日本の史料では、女性の実名

             が記載されることは少なく、女性の実名が

             不明なことが多い。 

             (例) 書物(史料)では、「奥山朝利女」 

              (奥山朝利の娘)、「井伊直親室」(井伊

              直親の夫人)などと記されている。

                また、ドラマ、映画、小説などでは、

             がないと不便なので、女性の仮称が 使わ

             れることが多し。

 

〇 おぐ  小倉百人一首。 

             (おぐらひゃくにんいっしゅ)。 《 詩歌》。

             (⇒ 百人一首)。  

             ■ 小倉百人一首 (おぐらひゃくにんいっ

             しゅ)は、百人一首の1種類である。

 

〇 おぐ  小栗 忠順。 

             (おぐり ただまさ)。 《人名》。

             (= 小栗 上野介(おぐり こうずけのすけ))。

                    (1827年ー1868年)。

             OGURI Tadamasa (Kozukenosuke).

             ○ 江戸幕府の幕臣。

               ■ 小栗忠順(上野介) (おぐりただまさ(こ

             うずけのすけ)、1827年ー1868年) は、 

             江戸幕府の幕臣であり、徳川氏旗本である。

               ● 小栗忠順(上野介)は、 幕末に、江戸幕

             府の外国奉行、勘定奉行、軍艦奉行を務め

             る。

                小栗上野介は、 1860年に、徳川氏遣

             米使節の一員となり、アメリカを見て回り、日

             本の近代化の必要性を痛感する。

               ● 小栗忠順(上野介)は、 フランスの援助

             により、1865年に、造船や機械類の工場や

             学校を併設した、横須賀造船所の建設を始

             める。 

                幕末、小栗忠順(上野介)は、横須賀造

             船所での造船・機械類造りにより、日本の工

             業力を高め、 徳川氏の手によって、近代国

             家を建設し、日本の近代化をはかろうとした

             ためである。

               ● 小栗忠順(上野介)が造った、造船や機

             械類の工場や学校を併設した、横須賀造船

             所は、明治政府(日本近代政府)に引き継

             がれ、 明治時代初期から続々と近代船、

             近代機械、近代機械技術者を生み出し 日

             本工業の近代化に貢献した。

             ● 小栗忠順(上野介)は、1868年に、戊

             辰(ぼしん)戦争では、徹底抗戦を主張し、

             退けられ、自分の知行地に戻り、そこで殺害

             される。

 

〇 おけ  桶狭間の戦い

             (おけはざまのたたかい)。 《戦い》。

             (1560年5月)。

             (⇒ 織田信長今川義元)。

             ■ 桶狭間の戦いとは、1560年(永

             禄3年)5月19日に、尾張 (おわり、

             概ね・現在の愛知県西部の地域)の

             桶狭間山で、 織田信長の率いる織 

             田軍・約3000人の兵 と、 今川義

             元の率いる今川軍・約2万5000人

             の兵とが戦った合戦であり、 織田信

             長の率いる織田軍が、今川義元を討

             ちとり、今川軍に勝利を得る。

             ■ 桶狭間の戦い以後、織田信長

             天下統一(日本本土統一)事業が始

             まる。

 

〇 おご  お江

           (おごう)。 《人名》。

          (別名:(ごう)お江与

          (おえよ)、小督(おごう)

                    (落飾後)崇源院 (すうげん

              いん))。

          (1573年ー1626年)。

           ○ 江戸幕府の第2代将軍・

          徳川秀忠の正室夫人。

           ○ 江戸幕府の第3代将軍・

          徳川家光の生母。

           ○ 淀殿(淀の方)の妹。

          ○ 浅井三姉妹(茶々(= 淀殿)、

           初、江)の一人。

           (⇒ お江(お江与)関連出来事

          (年代順・詳細)) 。

           (⇒ お江(お江与)簡略年表)。

           (⇒ お江(お江与)詳細年表)。

                          (⇒ 浅井三姉妹淀殿(= 茶々)

            お初)。

                          (⇒ 浅井長政お市)。

                          (⇒ 小谷城、北庄城)。

                          (⇒ 豊臣大阪城)。

             (⇒ 織田信長)。

             (⇒ 織田信長ガイドブック)。

             (⇒ 豊臣 秀吉)。

           (⇒ 豊臣 秀吉ガイドブック)。 

              ■ お江、 小督  (おごう、1573年

              ー1626年)は、 別名は、お江(お

                  ごう)、小督(おごう)江 (ごう)

              お江与(おえよ) 、(落飾後)崇源院

              (すうげ んいん)である。

              ■ お江、 小督  (江、お江与、崇源

             院)は、江戸幕府の第2代将軍・徳川

             秀忠の正室夫人であり、 第3代将軍・

             徳川家光の生母であり、 浅井3姉妹

             の一人であり、 淀の方(淀殿)の妹

             である。

 

 おご  (おごう)関連出来事

        (年代順・詳細)

             (おごう かん れんできごと)

           《人物関連出来事》。

 

 おご  お江 おごう、お江与、崇源院)

        簡略年表

             (おごう かんりゃくねんぴょう)

           《人物簡略年表》。

                          (⇒ 日本史年表) 。

 

 おご  お江 おごう、お江与、崇源院)

             詳細年表

             (おごう しょうさいねんぴょう)

           《人物詳細年表》。

             (⇒ 日本史年表) 。

 

#osa

 

  おし   御師。 

             (おし)。 《職業》。

          ○ 神社のために働く者。

                    (⇒ 寺社

              ■ 御師(おし)は、神社のために働く者

              であり、 神社の神官の指示で、神社の

              諸事に従事した。 

                 例えば、御師は、神社の札(お守

              り等)を信仰者に配布したりした。

 

  おし   お静 

             (おしづ)。 《人名》。

          (= お志津(おしづ)、 浄光院(じょう

                           こういん))。

                     (生没年:1584年ー1635年)。

                     ○ 江戸幕府・第2代将軍・徳川

           秀忠の側室夫人。

          ○ 会津藩祖・保科正之(ほしな

           まさゆき、幼名:幸松(こうまつ))の

           生母 。

              ■ お静 (おしづ、お志津(おしづ)、浄光

                            院( じょうこういん)、生没年:1584年ー

              1635年) は、 江戸幕府・第2代将軍・

              徳川秀忠の側室夫人であり、 会津藩祖・

              保科正之(ほしなまさゆき、幼名:幸松(こ

              うまつ))の生母である。

 

  おし   お褥下がり。

             (おしとねさがり)。 

          《江戸幕府・大奥のしきたり》。

             (⇒ 大奥)。

        (⇒ 大奥ガイドブック)。

             ■ お褥下がり (おしとねさがり)とは、

             江戸幕府・大奥のしきたりであり、女性

             の子づくり30歳定年制という江戸幕府

             の大奥のきまりである。

                前近代日本では(江戸時代まで)、

             平均寿命が短く、女性の婚期は10代

             であり、女性の30代以降の子づくり

             は、高齢出産と考えられた。

                   ■ お褥下がり(おしとねさがり)は、

             丈夫で健康な子供の出産のため、女

             性の出産適齢期(卵子老化、妊婦出

             産負担軽減など)を考慮した、大奥の

                          きまりである。

 

〇 おせ  お船 

             (おせん)。  《人名》。

          (= 貞心尼)。

          (1557年ー1637年)。

          ○ お船は、

          直江兼続(なおえかねつぐ )

          正室夫人である。

          ○ お船は、

          直江 実綱(さねつな,景綱

              げつな)の娘 である。

              ■ お船 (おせん、= 貞心尼、1557

             年ー1637年)は、 直江兼続(なおえ

             かねつぐ)の正室夫人であり、 直江

             実綱(さねつな 景綱かげつな)の娘で

             ある。

 

#oda

 

〇 おだ  於大の方。

             (おだいのかた)。 《人名》。

          (= 伝通院、水野 大)。

          ○ 於大の方は、

          徳川家康の生母である。

              ■ 於大の方 (お だいのかた、=

             、伝通院(でんづういん)、水野 大

             (みずの だい)、1528年ー1602

             年)は、 水野氏(みずのし)出身  

             の、徳川家康の生母である。

              ■ 於大の方の第1番目の夫  

             (夫との婚儀期間:1541年婚儀

             ー1544年離縁) は、

             三河国・岡崎城主・松平広忠

             (まつだいらひろただ)である。

             ● 於大の方は、松平広忠との間

             に、徳川家康のみ一子を儲ける

             (得る)。

              ■ 於大の方の第2番目の夫

             (夫との婚儀期間:1547年婚儀

             〜死別) は、 

             尾張国・阿古居城主・久松俊勝

             (ひさまつとしかつ)である。

             ● 於大の方は、久松俊勝との

             間に、三男三女を儲ける(得る)。

             ■ 於大の方の父・水野 忠政は、

             尾張国知多郡東部と三河国碧海

             郡西部を領有する国人領主であ

             る。

             ■ 1528年(享禄元年)に、於大

             の方は、尾張国知多郡の緒川

             主・水野忠政(みずのたたまさ)と

             華陽院(於富)との間に生まれる。

             ■ 家康は数え年3歳で母・於大

             の方と生き別れ。

             ● 16世紀前半(1501年〜15

             50年)の三河国(みかわのくに、

             愛知県東部の相当地域)では、

             尾張の戦国大名の織田氏の織田

             信秀 と 駿河・遠江の戦国大名

             の今川氏の今川義元は、三河国

             に侵入し、領土を奪い合い、敵対

             関係にあった。

             ● 水野忠政は、所領を尾張国

             知多郡緒川の他に、三河国にも

             所領をもっており、 水野氏と松

             平氏との友好関係を深めるため、

             1541年(天文10年)に、於大の

             方の父・水野忠政は、政略結婚で、

             於大の方を松平広忠に嫁(とつ)

             がせる。 そして、1542年(天文

             11年)12月26日に、於大の 方

             は、松平広忠の継子の、竹千代

             (徳川家康)を、松平広忠の居城・

             岡崎城で、出産する。 

             ● しかし、その後、1543年(天

             文12年)に、水野氏の水野忠政

             の家督を継いだ、於大の方の 異

             母兄・ 水野信元(のぶもと)が、織

             田氏に臣従したため(織田氏と同

             盟を結んだため)、 今川氏に臣

             従する(今川氏に庇護されている)

             松平広忠は、 1544年(天文13

             年)に、 織田氏臣従に転向した

             (織田氏と同盟をむすんだ)水野

             氏出身の於大の方を離縁し、

             大の方は、実家の水野氏に戻る。 

             ● 松平氏の継子の徳川家康(竹

             千代)は、数え年3歳で母と生き別

             れとなる。

             ● 於大の方は実家の水野氏に

             戻り、三河国の水野氏所領の刈谷

             城(かりやじょう)付近の椎の木屋

             敷(しいのきやしき)で暮らす。

             ■ 水野氏と久松氏との関係強化

             のため、1547年(天文16年)に、

             於大の方の兄・水野信元は、政略

             結婚で、於大の方を、尾張国知多

             郡の阿古居城主・久松俊勝(とし

             かつ)に嫁がせる。 その後、於大

             の方は、久松俊勝との間に、三男

             三女を儲ける(得る)。

 

〇 おだ  織田 有楽斎

             (おだ うらくさい)。 《人名》。

          (= 織田 長益(おだ ながます))。

                 (1547年ー1621年)。

          ○ 織田信長の弟。

                    ○ 武将、大名、茶人。 

          ○ お市や浅井三姉妹の

            保護者。

           ■ 織田信長の詳細な内

          容に関しては、

          □ 織田信長ガイドブック

          □ 織田信長 関連年代順

             出来事ブック

          を参照してください。 

              ■ 織田 有楽斎 (おだ うらくさい、

             = 織田長益(おだながます)、1547

             年ー1621年)は、 織田信長の弟

             であり、 武将、大名、茶人であり、

             お市や浅井三姉妹の保護者である。

 

〇  おだ   織田氏

             (おだし・おだうじ)。

           《武家の氏族》。 

             (= 織田家)。

            (16世紀頃ー19世紀)。

           ○ 武家としての織田氏。 

           ○ 武家の織田氏は、武

           家の氏族で、大名である。

           ■ 織田信長の詳細な内

          容に関しては、

          □ 織田信長ガイドブック

          □ 織田信長 関連年代順

             出来事ブック

          を参照してください。 

                     □ 織田氏 画像アルバム 

            No.1

                     □ 織田氏 画像アルバム 

            No. 2

                     □ 安土城 画像アルバム 

                         No.1

                    □ 日本歴史で活躍した氏族:

          天皇家藤原氏伊勢平氏

          河内源氏鎌倉北条氏

          足利氏上杉氏武田氏

          井伊氏小田原北条氏

          真田氏織田氏豊臣氏

          徳川氏

              ■ 武家の織田氏 (おだし・おだうじ 、

             = 織田家)は、 武家の氏族で あり、

             16世紀頃から19世紀まで存在した

             武家、大名である。

 

〇  おだ  織田政権

             (おだせいけん)。 《政権》。

          (1573年頃ー1582年頃)。

          (⇒ 武家 政権) 

          (⇒ 日本の政権・政府)。

           ■ 織田信長の詳細な内

          容に関しては、

          □ 織田信長ガイドブック

          □ 織田信長 関連年代順

             出来事ブック

          を参照してください。 

              ■ 織田政権 (おだせいけん、

             1573年頃ー1582年頃)とは、 

             織田信長が樹立した武士政権

             である。

 

〇 おた  御館の乱

             (おたてのらん)。 《戦い》。

          (1578年ー1579年)。 

          ○ 上杉景勝方 と 上杉景虎方

           との、上杉氏家督の継承をめ

          ぐる、越後の内乱。

              ■ 御館の乱  (おたてのらん、1578年

             ー1579年)とは、 上杉景勝方 と 上杉

              景虎方との、上杉氏家督の継承をめぐる、

             越後(えちご)の内乱である。

 

〇 おだ  織田 長益。

             (おだ ながます)。 《人名》。

          (= 織田 有楽斎(おだ うらくさい))。 

        (⇒織田 有楽斎)。

           ■ 織田信長の詳細な内

          容に関しては、

          □ 織田信長ガイドブック

          □ 織田信長 関連年代順

             出来事ブック

          を参照してください。 

              ■ 織田 長益 (おだ ながます) とは、

             織田有楽斎(おだ うらくさい)である。

 

〇 おだ  小谷城  

                           (おだにじょう)。 《城》。

          ○ 小谷城は、浅井長政の

            本拠地の城である。

                          (⇒ 浅井長政お市)。

                           (⇒ 淀殿= 茶々)、

          お初お江)。

                           (⇒ 北庄城、豊臣大阪城)。

          (⇒ )。

             (⇒ 織田信長)。

             (⇒ 織田信長ガイドブック)。

          (⇒ 豊臣 秀吉豊臣氏)。

          (⇒ 豊臣 秀吉 ガイドブック)。

           ■ 織田信長の詳細な内

          容に関しては、

          □ 織田信長ガイドブック

          □ 織田信長 関連年代順

             出来事ブック

          を参照してください。 

              ■ 小谷城 (おだにじょう)は、 北近江(き

             たおうみ、現・滋賀県北部の相当地域) に

             あった、浅井長政(あざいながまさ)の本拠

             地の城(本城(ほんじょう))である。

             ● 小谷山に浅井氏の本城の小谷城があり、 

             周辺の山々には、浅井氏の支城があった。

             ● 小谷城は、 現在は、城跡のみである。

              ● 小谷城は、 琵琶湖湖畔にあり、 琵琶

             湖を望む壮大な眺めをもつ、山城(やまじろ)

             であった。

              ● 小谷城は、 浅井長政 (あざいながま

             さ)、 お市 (おいち、小谷方、浅井長政・

             正室夫人、織田信長の妹、浅井3姉妹の生 

             母)、 浅井3姉妹 (茶々(ちゃちゃ、淀殿)、

             初(はつ、常高院)、江(ごう、江与、崇源院)) 

             が住んでいたお城である。

             ● 浅井長政は、 戦時、小谷城の本丸(ほ

             んまる)で指揮し、浅井長政の父・浅井久政

             (あざいひさまさ)は、小谷城の小丸(こまる)

             で指揮を執(と)っていた。

             ● 浅井長政は、 織田信長と同盟関係にあ

             ったが、 1570年に浅井氏と親密な関係に

             ある朝倉氏に味方し織田信長に反旗を翻

             (ひるがえ)したため、 約3年間織田信長と

             敵対した。

                そして、遂に、1573年に、小谷城は、 

             織田信長配下の秀吉に攻められて、落城し

             た。 その際、浅井長政は、小谷城で自害し、

             長政の妻子のお市と浅井3姉妹 (茶々、初、

             江)は小谷城から落ち延びた。

 

#odano

 

〇 おだ  織田 信雄

             (おだ のぶかつ、おだ のぶお)。

          《人名》。

          (1558年ー1630年)。

          ○ 織田信長の次男。

                    ○ 安土桃山時代・江戸時

          代初期の武将、大名。

           ■ 織田信長の詳細な内

          容に関しては、

          □ 織田信長ガイドブック

          □ 織田信長 関連年代順

             出来事ブック

          を参照してください。 

                       ■ 織田 信雄 (おだ のぶかつ、

             おだ のぶお、1558年ー1630

                        年)は、 織田信長の次男であり、 

             安土桃山時代・江戸時代初期の

             武将、大名である。

 

〇 おだ  織田 信包

             (おだ のぶかね) 。 《人名》。

          (1543年ー1614年)。

          ○ 織田信長の弟。

          ○ 武将、大名。

          ○ お市や浅井三姉妹の

             保護者。

           ■ 織田信長の詳細な内

          容に関しては、

          □ 織田信長ガイドブック

          □ 織田信長 関連年代順

             出来事ブック

          を参照してください。 

                       ■ 織田 信包 (おだ のぶかね、

             1543年ー1614年)は、

              織田信長の弟であり、 武将、大

             名であり、お市や浅井三姉妹の

             保護者であった。

 

〇 おだ  織田 信孝

             (おだ のぶたか)。 《人名》。

           (1558年ー1583年)。

          ○ 織田 信孝は、

          織田信長の三男である。

          ○ 織田 信孝は、

          安土桃山時代の武将、

          大名である。

           ■ 織田信長の詳細な内

          容に関しては、

          □ 織田信長ガイドブック

          □ 織田信長 関連年代順

             出来事ブック

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                       ■ 織田 信孝 (おだ のぶたか、

              1558年ー1583年)は、 

             織田信長の三男であり、 安土桃

             山時代の武将、大名である。

 

〇 おだ  織田 信忠

             (おだ のぶただ)。 《人名》。

          (1557年ー1582年)。

          ○ 織田 信忠は、

          織田信長の嫡子、長男であ

          る。

          ○ 織田 信忠は、

          安土桃山時代の武将、大名

          である。  

          ○ 織田 信忠は、三法師(さ

             んぽうし、さんぼうし)の父 である。

           ■ 織田信長の詳細な内

          容に関しては、

          □ 織田信長ガイドブック

          □ 織田信長 関連年代順

             出来事ブック

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                      ■ 織田 信忠 (おだ のぶただ、15

             57年 ー1582年)は、 織田信長の

             嫡子、長男であり、 安土桃山時代

             の武将、大名であり、三法師(さんぽ

             うし、さんぼうし)の父 である。

 

〇  おだ  織田 信長

             (おだ のぶなが)。 《人名》。

          (1534年ー1582年)。

              ODA Nobunaga

           ■ 織田信長の詳細な内

          容に関しては、

          □ 織田信長ガイドブック

          □ 織田信長 関連年代順

             出来事ブック

          を参照してください。 

                     □ 安土城 画像アルバム 

                          No.1

                     □ 織田氏 画像アルバム 

             No.1

                     □ 織田氏 画像アルバム 

             No. 2

           ○ 織田信長は、

          織田政権の創立者である。

           ○ 織田信長は、

          日本中央部を支配した

          戦国大名である。

           ○ 織田信長は、

               成果主義と 抜擢人事で、

           日本屈指の軍団をつくる。

           ○ 織田信長は、

           尾張出身の武将、守護代

           奉行(重臣、織田氏の分

           家、支 族)出身の戦国大

           名である。 

           ○ 織田信長は、

           尾張 国 (おわり のくに、現・

              愛知県西部の相当地域)

           の国主(こくしゅ)となる。

             ■ 織田信長

                       ■ 織田 信長 (おだ のぶなが、

             1534年ー1582)は、 

             織田政権の創立者であり、日本

             中央部を支配した大名である。

                       ■ 織田 信長は、 

             尾張国 (おわりのく に、現・愛知

             県西部の相当地域)、織田弾正

             忠家(おだだんじょうのちゅうけ、

             勝幡織田氏(しょばたおだし))           

              の出身の武将であり、 守護代

             奉行 (清州織田氏(きよすおだし、

             織田大和守氏(おだやまとのか

             みし))の重臣、織田氏の分家・

             支族)出身の戦国大名であり、

             後に、尾張国を統一し、国主(こく

             しゅ)となる。

              ■ 織田信長は、 

                  成果主義と抜擢(ばってき)人事

             で、日本屈指の軍団をつくる。

             ● 織田信長は、

             農民・足軽の秀吉登用のように

             身分を全く問わない超実力主義

             の家臣登用や家臣の使い捨て

             と豊かな経済力で、当時、強力

             な軍団をつくり、日本中央部に

             一大勢力を築く。

             ● 織田信長の家臣は、

             息をつく暇もなく働き、過去に功

             績があっても、現在や未来の成

             果を信長から常に求めらた。 

          ■ (R) 織田信長

              居住地の変遷。

             ● (R1)⇒(R6)

             (R1)勝幡城

                   (1534年ー1538年頃)、

             (R2)那古野城

                    (1538年頃ー1555年)、

              (R3)清洲城1555年1563年)、

             (R4)小牧山城

                     (1563年1567年)、

             (R5)岐阜城1567年1579年)、

             (R6)安土城1579年1582年)。

             ■ 織田信長 (生没年:1534年

             ー1582年)は、

             自分の(R)居住地を、次のような

             順序で、移動する

             ● (R1) 勝幡城 (しょばた

              じょう)、尾張国 (おわりのくに、

                             現・愛知県西部)に、

             1534年(天文3年)から

             1538年(天文7年)頃まで

             居住する。

             ● (R2) 那古野城 (なごや

             じょう、尾張国)に、

             1538年(天文7年)頃まで

                            1555年(天文24年)まで

             居住する。

             ● (R3) 清州城 (きよすじょう、

             清須城(きよすじょう)、尾張国)に、

             1555年(天文24年)から

             1563年(永禄6年)まで

             居住する。

             ● (R4) 小牧山城 (こまき

             やまじょう、尾張国)に、

             1563年(永禄6年)から

             1567年(永禄10年)まで

             居住する。

             ● (R5) 岐阜城 (ぎふじょう、

             美濃 国(みののくに、現・岐阜県

             南部)に、

             1567年(永禄10年)から

             1579年(天正7年)まで

             居住する。

             ● (R6) 安土城 (あづちじょう、

             近江国(おうみのくに、現・滋賀県)、

             1579年(天正7年)から

             1582年(天正10年)まで

             居住する。

          ■ (C) 織田信長

             本城、居城の変遷。

             ● (C1)5)

             (C1)那古野城⇒ 

                   (1544年頃1555年)、

             (C2)清州城1555年1563年)、

              (C3)小牧山城

                     (1563年1567年)、

             (C4)岐阜城1567年1579年)、

             5)安土城1579年1582年)。

             ■ 織田信長 (生没年:1534年

             ー1582年)は、 

             自分の(C)本城(ほんじょう、= 本拠

             地の城) 、居城を、次のような順序で、

             移動する

             ● (C1) 那古野城 (なごや

             じょう、尾張国 (おわりのくに、

                             現・愛知県西部)、現・名古屋城

             二の丸付近)を、

             1544年(天文13年)頃 から

                            1555年(天文24年)まで

             本城、居城とする

             ● 2) 清州城 (きよすじょ

             う、別名:清須城(きよすじょう)、

              尾張国(おわりのくに、

             現・愛知県西部)を、

             1555年(天文24年)から

             1563年(永禄6年)まで

             本城、居城とする

             ● 3) 小牧山城 (こまきやま

             じょう、尾張国)を、

             1563年(永禄6年)から

             1567年(永禄10年)まで

             本城、居城とする

             ● 4) 岐阜城 (ぎふじょう、

             美濃国(みののくに、現・岐阜県

             南部)を、

             1567年(永禄10年)から

             1579年(天正7年)まで

             本城、居城とする

             ● 5) 安土城 (あづちじょう、

             近江国(おうみのくに、

             現・滋賀県)を、

             1579年(天正7年)から

             1582年(天正10年)まで

             本城、居城とする

              ■ 本能寺の変の明智光秀謀反の

                単独実行説の将来悲観説。

             ● 織田信長に対する明智光秀の謀

             反の有力な説の1つとしては、

              織田信長の重臣の1人の明智光秀は、

              老齢になるが、跡継ぎの男子は大き

              な成果をあげる実力がなく、引退でき

              ず、重臣の林通勝(林秀貞)や佐久間

              信盛のように、明智家 も信長にリスト

              ラされると予期し(使い捨てにされる

             と予期し)、信長の1580年代領地

             転換方針により、 明智光秀は、今ま

             で築いた領地や家臣団などを奪われ

             るのを恐れ、謀反を起こし、京(きょう、

             京都)の本能寺を急襲し、信長を殺害

             する(自害させる)。

 

〇 おだ  織田信長ガイドブック

             (おだのぶなががいどぶっく)。

             《人物歴史ガイドブック》。

           □ 織田信長 関連年代順

              出来事ブック

                     □ 安土城 画像アルバム 

                          No.1

                     □ 織田氏 画像アルバム 

             No.1

                     □ 織田氏 画像アルバム 

             No. 2

 

〇 おだ    織田信長 関連年代順

         出来事ブック (詳細)。

              (おだのぶながかんれんできごと)。

              《人物関連年代順出来事》。

                      □ 安土城 画像アルバム 

                          No.1

                     □ 織田氏 画像アルバム 

             No.1

                     □ 織田氏 画像アルバム 

             No. 2

 

〇 おだ   織田信長 年表   

              (おだ のぶなが ねんぴょう)。

              《人物年表》。

              (16世紀)。 

              (⇒ 日本史年表)。

           ■ 織田信長の詳細な内

          容に関しては、

          □ 織田信長ガイドブック

          □ 織田信長 関連年代順

             出来事ブック

          を参照してください。 

                     □ 安土城 画像アルバム 

                          No.1

                     □ 織田氏 画像アルバム 

             No.1

                     □ 織田氏 画像アルバム 

             No. 2

 

 おだ   織田信長の松平信

        康殺害指示説。 

              (おだのぶながのまつだいらのぶ

              やすさつがいしじせつ)。

           (= 松平信康・築山

        殿・武田氏内通疑

        惑・織田信長の松

        平信康殺害指示説)。

             《事件》。

          (= 松平信康事件の

        説の1つ)。

          (= 松平信康自害・築山

          殿殺害事件の説の1つ)。

          (⇒ 松平信康事件)。

          (⇒ 徳川家康松平信康

             築山殿)。

          ○ 織田信長の松平信

          康殺害指示説は、

          1579年(天正7年)

           起きた松平信康事件

          (= 松平信康自害・築山

          殿殺害事件)での説の

          1つである。

             ■  松平信康事件には、

             諸説あるが、主に、「松平信康・

             徳川家康対立説」 と、 「織田

             信長の松平信康殺害指示説」 

             ある。

             ● 松平信康事件の現在の有 力

             な説は、

             松平信康・徳川家康対立説であ

             る。

             ■ 松平信康事件 は、 

             1579年 (天正7年)に起こり、

             徳川氏内での、徳川家康の長男・

             松平信康の自害、家康の正室夫

             人・築山殿の殺害が起こった事件

             である。

              ■ 織田信長の松平信康殺害指

             示説 (おだのぶながのまつだい

             らのぶやすさつがいしじせつ)は、

             織田信長の松平信康・築山殿・

             田氏内通疑惑・松平信康殺害

             指示説であり、

             松平信康自害・築山殿殺害事件

             である松平信康事件の説の1つ

               である。 

              ■ 織田信長の松平信康殺害指

             示説は、

             織田信長が松平信康・築山殿の

             田氏内通を疑い、松平信康の

             殺害を指示したという説である。

 

〇 おだ   織田信秀

             (おだ のぶひで)。  《人名》。

           (1511年ー1552年頃)。 

           ○ 織田信秀は、

           織田信長の父である。 

          ○ 織田信秀は、

           尾張国の武将、戦国

           大名である。

           ■ 織田信長の詳細な内

          容に関しては、

          □ 織田信長ガイドブック

          □ 織田信長 関連年代順

             出来事ブック

          を参照してください。 

             ■ 織田信秀。

                       ■ 織田信秀 (おだ のぶひで、

             生没年:1511年ー1552年頃)

             は、 織田信長の父であり、 室町

             時代後期(=戦国時代)の 、尾張

             国(おわりのくに、現・愛知県西部

             の相当地域)の武将、戦国大名

             である。

                      ■ 尾張の織田信秀は、

             尾張の国内他所を侵略せず国内

             を統一をせず、

             他国侵略を繰り返し、隣国に勢力

                            を拡大し領土を得るが、晩年には、

             隣国の侵略領土を失う。

                       ■ 強力な勢力をもつ尾張の織田

             信秀は、 主に、3勢力と戦う。

             ● 織田信秀は、

              尾張国内で国内諸勢力と戦い、 

              東方面の三河国で今川氏勢力と

             戦い、

             西北方面の美濃国で斎藤氏勢力と

             戦う。

             ■ (C) 織田信秀の

                本城の変遷。

             ● (C1)⇒(C4) 

             (C1)勝幡城

                (1527年頃ー1538年頃)、

             (C2)那古野城

                (1538年頃ー1544年頃)、

              (C3)古渡城

                 (1544年頃ー1548年)、

             (C4)末森城

                 (1548年ー1552年頃)。

             ● 信長の父の織田信秀 (おだの

             ぶひで、生没年:1511年ー1552

             年頃)は、

             信秀の(C)本城、居城を、 

             1) 勝幡城 (しょばたじょう) 

             C2 那古野城  (なごやじょう)、 

             C3 古渡城 (ふるわたりじょう)、 

             C4 末森城 (すえもりじょう) 、

             の順に移動する。

              

〇 おだ   織田 信行

             (おだ のぶゆき)。 《人名》。

          (= 織田 信勝)。

          ○ 織田信長の実弟。

          ○ 織田信長生母・土田御前が

           寵愛した子。

          ○ 織田信長に3度敵対し、織田

           信長に殺害される。

           ■ 織田信長の詳細な内

          容に関しては、

          □ 織田信長ガイドブック

          □ 織田信長 関連年代順

             出来事ブック

          を参照してください。 

              ■ 織田 信行 (おだ のぶゆき、

              = 織田 信勝)は、 織田信長の実

              弟であり、 織田信長生母・土田

              御前が寵愛した子であり、

              織田信長に何度も敵対し、織田

                       信長に殺害される。

 

#odahi

 

〇 おだ  織田 秀信

             (おだ ひでのぶ)。 《人名》。

             (= 三法師(さんぽうし、さんぼうし)

             幼名)。

          (1580年ー1605年)。

          ○ 織田信長の嫡孫

            (ちゃくそん)

           ○ 織田信長の嫡男の

              織田信忠(のぶただ)の子。

          ○ 安土桃山時代の武将、

           大名。

           ○ 清洲会議で、羽柴秀

           吉(豊臣秀吉)の推薦で

           名目的に織田氏の

                 継ぎとなった少年。

           ■ 織田信長の詳細な内

          容に関しては、

          □ 織田信長ガイドブック

          □ 織田信長 関連年代順

             出来事ブック

          を参照してください。 

                       ■ 織田 秀信 (おだ ひでのぶ、= 三法師

              (さんぽうし、さんぼうし、 幼名)、1580年

              ー1605年)は、 織田信長の嫡孫(ちゃく

              そん)であり、 織田信長の嫡男の織田信

              忠(のぶただ)の子であり、安土桃山時代の

              武将、大名である。

                       ■ 織田 秀信(三法師)は、清洲会議で、

             羽柴秀吉(豊臣秀吉)の推薦で名目的に織

             田家の跡継ぎとなった少年である。

 

〇 おた  お玉。

          (おたま)。   《人名》。

          (= 桂昌院 けいしょういん)。

                  (⇒ 桂昌院)。 

          ○ 徳川家光の側室夫人の1人。

          ○ 江戸幕府・第5代将軍・徳川

           綱吉の生母。

                           ■ お玉 (おたま、= 桂昌院 けいしょうい

             ん)は、 徳川家光の側室夫人の1人であり、

             江戸幕府・第5代将軍・徳川 綱吉の生母

             でえある。

 

〇 おた  小田村 伊之助。 

             (おだむら いのすけ)。 《人名》。

                    (= 楫取 素彦 (かとり もとひこ))。

                 (⇒ 楫取 素彦)。 

                          ■ 小田村 伊之助 (おだむら いのすけ、

             = 楫取 素彦 (かとり もとひこ ))は、

             吉田松陰の妹・楫取美和子 (かと り

             わこ、文(ふみ)、杉 文(すぎふみ))  の

             第2番目の夫である。

 

〇 おだ  小田原合戦 

             (おだわらかっせん)。 《 戦い》。

                    (= 小田原の陣)。

                    (= 秀吉の小田原征伐、

          秀吉の小田原攻め)。 

                    (1590年3月〜7月)。

             ○ 豊臣方と北条方との戦い。

                           ■ 小田原合戦 (おだわらかっせん、

             1590年3月〜7月、= 小田原の陣) は、

             秀吉の小田原征伐、秀吉の小田原攻め

             であり、 豊臣方と北条方との戦いである。

                           ■ 小田原合戦 (おだわらかっせん)とは、  

             1590年(天正18年)に、関東地方で、豊

             臣秀吉の豊臣方と北条氏政・氏直の北条

             方が、戦った合戦である。

             ■ 小田原合戦では、 総勢・兵士約21万

             人の豊臣方の軍が、 総勢・兵士約8万人

             の北条方の軍が守る北条領の関東各地に

             攻め込み、関東各地で、戦いが繰り広げら

             れ、北条方が敗れ降伏し、豊臣方が勝利を

             得た。

             ■ 小田原合戦では、 関東各地の北条氏

             支城(北条方の城)は、豊臣方の軍に対し

             戦って落城したり戦わず開城したりし、一方、

             北条氏本城の小田原城は、豊臣方の軍に

             対し籠城戦を行った。

 

〇 おだ  小田原北条氏

             (おだわらほうじょうし)。

                           《武家の氏族》。 

       (⇒ 小田原北条氏

        5代・当主)。

          (= 後北条氏(ごほう じょうし))。

          (= 相模国の戦国大名の

           北条氏)。

          (武家の大名の小田原北条氏:

          15世紀頃ー16世紀、

          1495年頃ー1590年)。

             THE ODAWARA HOJO 

          CLAN.

          ○ 小田原北条氏は、

           武家の氏族で、大名である。

               □ 小田原北条氏は、

          相模の戦国大名の北条氏

          (後北条氏、1495〜1590年)

          である。

               □ 小田原北条氏は、

          戦国時代(室町時代後期)か

          ら安土桃山時代まで、相模国の

          小田原城を本拠地に関東、伊豆

          一円を支配した戦国大名である。

               □ 小田原北条氏は、

          相模国の戦国大名の北条氏

          (1495年頃ー1590年)である。

          ○ 小田原北条氏は、

          相模 国 (さがみ のくに、現・ 神

          奈川県の相当地域)の武家、戦

             国大名、国主(こくしゅ)である。

          ○ 戦国大名の小田原北条氏は、

          北条早雲(そううん)、氏綱(うじつ

                     な)、氏康(うじやす)、氏政(うじまさ)

          氏直(うじなお)の 北条氏5代、約

          100年続いた武家の戦国大名

          である。

          ○ 戦国大名の小田原北条氏は、

          1495年の北条早雲(伊勢宗

          瑞)の小田原城奪取から1590

          年の豊臣秀吉の小田原征伐(小

          田原合戦)まで続いた。

          ○ 相模の戦国大名の北条氏・

          5代・各当主(北条早雲、氏綱、

          氏康、氏政、氏直)。

          (⇒ 北条氏5代:

             北条早雲北条氏綱

        北条氏康北条氏政

        北条氏直)。

                    □ 日本歴史で活躍した氏族:

          天皇家藤原氏伊勢平氏

          河内源氏鎌倉北条氏

          足利氏上杉氏武田氏

          井伊氏小田原北条氏

          真田氏織田氏豊臣氏

          徳川氏

              ■ 小田原北条氏は、 室町時代後期、

             安土桃山時代に存在した、小田原に本

             拠をおく、武家の氏族である。 別名は、

             後北条氏、北条氏ともいう。

              ■ 武家の小田原北条氏 (おだわら ほ

             うじょうし、= 後北条氏、小田原北条家)

             は、 武家の氏族で あり、15世紀から

             16世紀まで存在した武家、大名である。

             ■  小田原北条氏(おだわらほうじょうし、

             = 後北条氏)は、 戦国時代(室町時代後

              期)から安土桃山時代まで、相模国の

              小田原城を本拠地に関東、伊豆一円を

              支配した戦国大名である。

            ■ 小田原北条氏 ( おだわらほうじょうし、

             = 後北条氏)は、 室町時代後期(戦国時

             代)から安土桃山時代まで、  相模国(さ

             がみの くに、概ね、現・神奈川県の相当

             地域)の小田原城を本拠地にし、 北条

             早雲(そううん、初代)、北条氏綱(うじつ

             な、第2代)、北条氏康(うじやす、第3代)、

              北条氏政(うじまさ、第4代)、北条氏直

                          (うじなお、第5代)の北条氏5代、約

             100年間続いた、戦国大名、相模国の

              国主(こくしゅ)であり、盛期には、関東地

             方一円に勢力を広げた。

             ■ 小田原北条氏は、 初代の伊勢宗瑞

             (いせそうずい、= 北条早雲)が、1495

             年に小田原城を奪い、相模国に進出する。 

                   その後、小田原北条氏2代目から北

                             条氏を名乗る。

             ■ 小田原北条氏は、 備中伊勢氏の室

             町幕府申次衆・伊勢盛定(いせもりさだ)

             の子・伊勢盛時(= 北条早雲(ほうじょう

             そううん)、伊勢宗瑞(いせそうずい)、

             伊勢新九郎、伊勢長氏)を祖とする一族

             である。

             ■ 小田原北条氏の、初代の伊勢宗瑞

             (いせそうずい、= 北条早雲)は、室町幕

             府の幕臣であり、 室町幕府の申次衆

             (もうしつぎしゅう)・奉公衆(ほうこうしゅ

             う)であった。

                 申次衆(もうしつぎしゅう)は、室町

              幕府の将軍との取次役であり、 奉公

              衆(ほうこうしゅう)とは、室町幕府の将

              軍直属軍の武将であった。

             ■ 小田原北条氏の、初代の伊勢宗瑞

             (いせそうずい、= 北条早雲)の妹は、 

             駿河国(するがのくに、静岡県中部の相

             当地域)の守護大名の今川義忠の正室

             夫人・北川殿であり、 伊勢宗瑞は、妹

             の北川殿の子で今川氏嫡男の龍王丸

             (今川氏親(いま がわうじちか))を、元

             服前(成人前)も、 元服後も支えた。 

             その成果により、伊勢宗瑞は、 今川氏

             家臣となり駿河国に所領を与えられ、

             伊豆国(いずのくの、静岡県東部の相当

             地域)、相模国(さがみのくに、神奈川県

             の相当地域)への進出の足がかりとし た。

 

〇 おち  落合 与左衛門(勝信)。 

             (おちあい よざえもん(かつのぶ)。

             《人名》。  

          (生没年不明)。

        (⇒ 瑤泉院

        元禄赤穂事件)。

             ■ 落合 与左衛門(勝信) (おちあい

             よざえもん(かつのぶ)は、 赤穂藩主・

             浅野内匠頭(長矩)夫人・瑤泉院(よう

             ぜんいん、阿久里)の用人 (ようにん)

             であった。

             ● 落合 与左衛門(勝信)は、 元禄

             赤穂事件の一次史料の日記 「江赤見

             聞記」の著者である。

 

〇 おち  落ち武者狩り

            (おちむしゃがり)。 《略奪行為》。

             (⇒ 野盗、野武士)。

          ○ 落ち武者を襲う農民などの

          土民の物とり。

          ○ (例) 明智光秀は、山崎の

          戦いで敗れ坂本城へ逃亡中に、

          落ち武者狩りの農民などの土

          に襲われ、命を落とす

             ■ 落ち武者 (おちむしゃ)とは、 戦いに

             負けて逃げ落ちる武士である。

             ● 落ち武者狩り (おちむしゃがり)  と

             は、 落ち武者 を襲う農民などの土民の

             物とりである。 

             ● 落ち武者狩りは、 略奪または恩 賞、

             遺恨などのため、戦力が弱まった 敗残兵

             の落ち武者を農民などの土民が襲うこと

              である。

             ● 落ち武者狩りの例として、明智光秀は、

             山崎の戦いで敗れ坂本城へ逃亡中に、

             ち武者狩りの農民などの土民に襲われ、

             命を落とす

             ■ 前近代日本では、 日本各地で、戦時

             逃亡者や戦力が弱まった敗残兵の落ち武

             者は、 敵兵の他に、 野盗 (やとう、山

             野にひそんでいる盗賊)、 落ち武者狩り 

             (おちむしゃがり、落ち武者を襲う農民など

             の土民の物とり)、 野武士 (のぶし、領

             主(主君)を持たない武士や武装した土民

             (どみん、土着の住民)) などに襲われる

             ことが多かった。

 

〇 おち  お茶々。

             (おちゃちゃ)。 《人名》。

          (= 茶々、淀殿、淀の方)。

       (⇒ 淀殿)。

             ■ お茶々 (おちゃちゃ)は、 茶々(ちゃ

             ちゃ)、淀殿(よっどの)、 淀の方(よど

             ののかた) とも呼ばれる。

 

 おど  御土居。

            (おどい)。 《土塁》。

             ■ 豊臣秀吉は、 1591年(天正

             19年)に、 京(きょう、京都) を、

             御土居(おどい)という土塁で囲

             む。

             ■ 御土居 (おどい)は、 豊臣秀

             吉によって、1591年(天正19年)

             に完成した、京(きょう、京都)を取

             り囲む土塁(どるい、土の防護壁)

             である。

             ■ 豊臣秀吉は、 京(京都)や京の

             人を外敵から守るため、また、鴨川

             の氾濫(はんらん)から京(京都)や

             京の人を守るため、 1591年(天正

             19年)に、約4カ月で、高さ約10m、

             傾斜・約45〜60%、総延長・約22

             km以上の土塁の、御土居をつくる。

             ■ 桃山時代では、御土居の内側を

             洛中、御土居の外側を洛外といった。

             ■ 御土居の跡は、現在、京都市の

             各所で散見できる。 

                北野天満宮(きたのてんまんぐ

             う)の境内にも、御土居の跡が残る。

             ■ 御土居ができる前の京(京都)の

             人は、 土塁がなく、京への侵入者

             に対し、自衛しなければならなかった。

             ■ 豊臣秀吉は、 1590年(天正18

             年)の小田原攻めの時、小田原城を

             守る総構えの大規模な土塁を参考に

             し、 豊臣氏が関白としての権威を保

             ち高めるためにも、また、他勢力が安

             易に豊臣氏が統治する京(京都)に侵

             入をすると豊臣氏の権威が失墜する

             ので、 京(きょう、京都)を守る土塁

             つくる。

 

 おと  お蝶

            (おちょう)。 《人名》。

          ○ 坂本龍馬の恋人の1人。

          ○ 江戸在住、京風美人。

             ■ お蝶は、 坂本龍馬の恋人の1人であ

             り、 江戸在住の、京風美人であった。

 

 おと  お伽衆。 

             (おとぎしゅう)。 《身分》。

             ■ お伽衆(おとぎしゅう)とは、  室町

             時代後期(戦国時代)や安土桃山時代

             に、大名の側近にあって、その話し相

             手になる役である。

 

 おと  お登勢 

             (おとせ)。 《人名》。

          (1832年ー1877年)。

          ○ 幕末の、京(都)・伏見の船

                     宿(ふなやど)・寺田屋・女将(おかみ) 。

          ○ 坂本龍馬の支援者。

          ○ 2つの「寺田屋事件」が起き

          た寺田屋の女性経営者。

                       ■ お登勢 (おとせ、1832年ー1877

             年)は、 幕末の、京(都)・伏見の船宿

                        (ふなやど)・寺田屋・女将(おか み)で

             ある。

                       ■ お登勢は、 坂本龍馬の支援者であ

              り、 2つの「寺田屋事件」が起き た寺田

              屋の女性経営者である。

 

 おと  乙若。 

            (おとわか)。 《人名》。

                    (義円の幼名)。

          ○ 源義朝(よしとも)と常盤御前

              (ときわごぜん)との間の3人の男

             子、 今若(いまわか、阿野全成)、

          乙若(おとわか、義円)、  牛若(

          しわか、 源義経) の一人。

       (⇒ 常盤御前源義経) 。

       (⇒ 常盤御前源義経) 。

                       ■ 乙若 (おとわか、義円の幼名)は、

             源義朝(よしとも)と常盤御前 (ときわご

              ぜん)との間の3人の男子、今若(いまわ

             か、阿野全成)、乙若(おとわか、義円)、  

             牛若(うしわか、源義経) の一人である。

 

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〇 おな  お夏。

          (おなつ)。 《人名》。

          (= 順性院)。

          ○ 徳川家光の側室夫人の1人。

          ○ 江戸幕府・第6代将軍・徳川

             家宣(いえのぶ)の祖母 。

       (⇒ 春日局)。

             ■ お夏 (おなつ、= 順性院)は、 徳川家

             光の側室夫人の1人であり、 江戸幕府・第

             6代将軍・徳川家宣(いえのぶ) の祖母であ

             る。

 

〇 おな  お奈津。

             (おなつ)。 《人名》。

          ○ 徳川家康の側室夫人の1人。

          ○ 徳川家康の側近の、平時・戦

          時身辺護衛者、身辺実務担当者。 

          ○ 戦時、鎧(よろい)を着け、家康

          の戦場身辺護衛者、影武者 とな

          る。

        (⇒ 徳川家康)。

              ■ お奈津 (おなつ) は、 徳川家康の側

              室夫人の1人であり、 徳川家康の側近の、

              平時・戦時身辺護衛者、身辺実務担当者

              であり、 戦時、鎧(よろい) を着け、家康

              の戦場身辺護衛者、影武者となる。

 

〇 おに  鬼平犯科帳。

             (おにへいはんかちょう)。 

          《時代小説・劇》。

          ○ 実在の火付盗賊改方の長官、

          長谷川平蔵が活躍する時代小説・

          劇。

        (⇒ 谷川平蔵)。

              ■ 鬼平犯科帳 (おにへいはんかちょう)

              は、 時代小説・劇 であり、 実在の火付

              盗賊改方の長官、長谷川平蔵が活躍する

              時代小説・劇である。

 

〇 おに  御庭番

             (おにわばん)。 《身分》。

          (江戸中期〜幕末)。

          ○ 御庭番は、

          江戸幕府の、将軍直属の監察

          官である。

          ○ 御庭番は、 忍者ではない。

              ■ 御庭番  (おにわばん、江戸中期〜

              幕末)は、 江戸幕府の、将軍直属の

             監察官であり、忍者ではない。

 

〇 おね  おね。

          (= ねね)。 《人名》。

           (生没年:1549年ー1624年)。

                     ○ おね(= ねね)は、

          豊臣秀吉の正室夫人である。

          (⇒ ねね(おね))。 

           □ 豊臣秀吉 関連年代順

                        出来事

              ■ おね (1549年ー1624年)は、

              秀豊臣吉の正室夫人であり、 

              ね、ねね、寧々、北政所(きたのまん

              どころ)、高台院(こうだいいん)、

              ねい、吉子 等とも称する。

 

〇 おの  お濃。 

             (おのう)。 《人名》。

          (= 濃姫(のうひめ) 、帰蝶(きちょう))。

           ○ 織田信長の正室夫人。

           ○ 美濃の戦国大名・斎藤道三

                     (利政)の娘。

             ■ お濃 (おのう、= 濃姫(のうひめ) 、

             帰蝶(きちょう))は、 織田信長の正室夫

             人であり、 美濃の戦国大名・斎藤道三

                         (利政)の娘である。

         (⇒ 濃姫織田信長)。

 

〇 おの  小野小町 

             (おののこまち)。 《人名》。

          (生没年不詳)。

         (⇒ 和歌)。

          (⇒ クレオパトラ7世

        楊貴妃)。

           ○ 平安時代前期の女流歌人。 

          美人。

             ■ 小野小町(おののこまち)は、 平安時

             代前期の女流歌人である。

             ● 日本では、小野小町は、 クレオパトラ

             7世、楊貴妃 と並んで、美人と言われて い

             る女性である。

 

〇 おの  小野 政次。 

             (おの まさつぐ)。 《人名》。

             (生年不詳ー1570年)。 

          ONO Masatsugu.

          ○ 今川氏寄りの、井伊氏重臣。

          ○ 小野 政直の子。

        (⇒ 井伊直虎

        井伊直親井伊氏)。

             ■ 小野 政次 (おの まさつぐ、生年不詳

             ー1570年)は、 今川氏寄りの (親今川

             氏派の)、井伊氏重臣であり、 小野 政直

             の子である。

             ●  井伊直虎(次郎法師)の大叔父・井伊

             直満(いいなおみつ)の男子で直虎の元許

             婚(いいなずけ)の、井伊氏第23代当主・

             井伊直親(いいなおちか)は、 小野 政次

             の讒言(ざんげん)により、今川氏に殺害さ

             れる。

             ● 小野 政次は、 『 おんな城主 直虎 

             (おんなじょうしゅ なおとら) 』 (NHKテ

             レビ・2017年大河ドラマ) では、幼名で

             は「鶴丸(つるまる)」という名(仮称)で登

             場する。

 

〇 おの  小野 政直。 

             (おの まさなお)。 《人名》。

             (生年不詳ー1554年)。 

             (= 小野道高)。

          ONO Masanao.

        (⇒ 井伊直虎井伊氏)。

          ○ 今川氏寄りの、井伊氏重臣。

             ■ 小野 政直 (おの まさなお、= 小野道高

             (みちたか)、生年不詳ー1554年)  は、

             今川氏寄りの (親今川氏派の)、井伊氏重

             臣であった。

             ●  井伊直虎(次郎法師)の大叔父・井伊

             直満(いいなおみつ)は、 小野 政直の讒

             言(ざんげん)に より、今川氏に殺害される。

 

〇 おは  お初

             (おはつ)。 《人名》。

              (= 初(はつ)、常高院 じょうこういん)。

          (1570年?〜1633年)。

                     □ 小谷城 画像アルバム 

             No.1

                     ○ 京極高次(ぎょうごくたかつぐ)

           正室夫人。 

           ○ お市(織田信長の妹)と浅井

                      長政との間の娘。 

          ○ 浅井三姉妹(茶々(= 淀殿)、

           初、江)の一人。

                           (⇒ 浅井三姉妹淀殿(= 茶々)

             お江)。

                           (⇒ 浅井長政お市)。

                           (⇒ 小谷城、北庄城)。

                           (⇒ 豊臣大阪城)。

             (⇒ 織田信長)。

             (⇒ 織田信長ガイドブック)。

             (⇒ 豊臣 秀吉)。

           (⇒ 豊臣 秀吉ガイドブック)。 

             ■ お初 (おはつ、= 初(はつ、1570年?

             〜1633年)、常高院( じょうこういん))は、

             京極高次(ぎょうごくたかつぐ)の正室夫人

              である。

             ■ お初は、 お市(織田信長の妹)と浅井

                         長政との間の娘であり、 浅井三姉妹(あ

             ざいさんしまい、茶々、初、江)の一人であ

             る。

             ● 1573年に、小谷城 (おだにじょう)は、 

             織田信長配下の秀吉に攻められて、落城し

             た。 その際、浅井長政は、小谷城で自害

             し、 長政の妻子のお市と浅井3姉妹 (茶

             々、初、江)は小谷城から落ち延びた。

             ● 1583年に、北庄城 (きたのしょうじょ

             う)は、 羽柴秀吉(豊臣秀吉)に攻められ

             て、落城した。 その際、お市と柴田勝家

             は北庄城で自害し、お市の子・浅井3姉妹 

             (茶々、初、江)は北庄城から落ち延びた。

             ● 1600年に、大津城 (おおつじょう)

             は、 敵の石田方の軍勢に囲まれ、激しく

             攻められて、落城寸前に、開城降伏した。 

             その際、お初とお初の夫・京極高次(きょう

             ごくたかつぐ)は、かろうじて命が助かった。

             ■ 浅井長政(あざいながまさ)とお市(おい

             ち、織田信長妹)との間の子・浅井3姉妹の、

             茶々(ちゃちゃ)は、淀殿(よどどの)とも呼

             ばれ、豊臣秀吉・側室夫人となり、 豊臣秀

             頼(ひでより)の生母となり、 初(はつ)は、

             京極高次(きょうごくたかつぐ)・正室夫人

             となり、 江(ごう)は、江与(えよ)とも呼ば

             れ、江戸幕府・第2代将軍・徳川秀忠・正

                          室夫人となり、江戸幕府・第3代将軍・徳川

             家光の生母となる。

 

 おは  お初(おはつ)関連出来事

        (年代順・詳細)

             (おはつかんれんできごと)。

          《人物関連出来事》。

 

〇 おふ  お藤

             (おふじ)。 《人名》。

          ○ 直江兼続の母。

             ■ お藤 (おふじ)は、 直江兼続(なおえ

             かねつぐ)の母である。

 

〇 おふ  お福。

             (おふく)。 《人名》。

             (= 春日局(かすがの つぼね)、福) 。

              (⇒ 春日局)。

          ○ 徳川家光の乳母(うば、めのと)。

             ■ お福 (おふく、= 春日局(かすがの

             つぼね)、福)は、 徳川家光の乳母 (うば、

             めのと)である。

 

〇 おへ  お部屋様。

             (おへやさま)。 子を産んだ夫人》。

       (⇒ 大奥)。

             ■ お部屋様 (おへやさま)は、 江戸幕府

             の将軍の側室夫人で、将軍の子を産んだ女

             性である。

 

〇 おね  おね

          《人名》。

           (= ねね(寧々))。

          ○ 豊臣秀吉の正室夫人。

          (⇒ ねね( 寧々))。

              ■ おね (= ねね(寧々))は、 豊臣秀吉

              の正室夫人である。

 

〇 おま  お万。

             (おまん)。 《人名》。

          (= 徳川家康側室夫人のお万)。

          ○ 徳川家康の側室夫人の1人。

              ■ お万 (おまん)は、 徳川家康の側室

              夫人の1人である。

 

#oma

 

〇 おま  お万。

             (おまん)。 《人名》。

          (= 徳川家光側室夫人のお万)。

          ○ 徳川家光の側室夫人の1人。

          ○ 江戸幕府・第3代将軍・徳川

          家光の寵愛する夫人、元尼僧。

          ○ 家光時代の、春日局死後の

          大奥の実務総支配役。

          ○ 江戸幕府・第5代将軍・徳川

          綱吉の生母のお玉(= 桂昌院)

          は、お万の側近、侍女。

         (⇒ 徳川家光)。

         (⇒ 大奥大奥ガイド

          ブック)。

              ■ お万 (おまん)は、 徳川家光の側室

              夫人の1人であり、 江戸幕府・第3代将軍・

              徳川家光の寵愛する夫人、元尼僧である。

              ■ お万は、 家光時代の、春日局死後の

              大奥の実務総支配役であった。

              ■ 江戸幕府・第5代将軍・徳川綱吉の生母

              のお玉(= 桂昌院)は、  お万の側近、侍女

              であった。

 

〇 おみ  小見の方

             (おみのかた)。 《人名》。

             ( 1513年ー没年不詳)。 

          ○ 小見の方は、室町時代

           後期(戦国時代)の女性

          ○ 小見の方は、斉藤道三

                      (利政)(さいとうどうさん(としま

              さ))の正室夫人である。

          ○ 小見の方は、帰蝶(きち

           ょう、= 濃姫(のうひめ)、 織

           田信長の正室夫人)の生

                    である

             ○ 小見の方は、斎藤孫

           四郎(まごしろう)、斎藤喜平

           次(きへいじ)の生母である。

             ○ 小見の方は、明智光

          秀の叔母(おば)である。

             ■ 小見の方 (おみのかた、1513

             年ー没年不詳)は、 室町時代後期

             (戦国時代)の 女性であり、 美濃国

             の戦国大名の斎藤道三(利政)(さい

             とうどう さん(としまさ))の正室夫人

             である。

             ■ 小見の方は、 帰蝶 (きちょう、

             = 濃姫(のうひめ)、織田信長の正室

             夫人)、 織田信長の正室夫人) の

             生母)であり、 斎藤 孫四郎(まごし

              ろ う)、 斎藤 喜平次(きへいじ)の生

             母である。 

             ■ 明智光秀の出自 には諸説がある

             が、明智光秀の父が、美濃国の、

             智光綱(あけちみつつな)であるなら

             ば、小見の方は、 明智光秀(あけち

             みつひで)の叔母(おば)である。

 

〇 おみ  お美代。

             (おみよ)。 《人名》。

          (= お美代の方)。

             OMIYO NO KATA.

        (⇒ 徳川家斉)。

        (⇒ 大奥ガイドブック)。

             ○ 江戸幕府・第11代将軍・徳川

          家斉(いえなり)の側室夫人。

             ■ お美代 (おみよ、= お美代の方)は、 

             当時の美人であり、 江戸幕府・第11代将

             軍・徳川家斉(いえなり) の側室夫人である。

             ● 将軍・徳川家斉(いえなり)には、 正室夫

             人の他に、約40人の側室夫人がいて、そし

             て、約55人の子供がいた。 お美代は、その

             中で、徳川家斉に特に寵愛された、側室夫人

             であった。

             ● お美代と家斉の間には、溶姫(ようひめ)

             という娘がいた。 家斉の命(命令)により、娘

             の溶姫は、加賀藩藩主(加賀藩主・前田斉泰) 

             に嫁いた。

                溶姫が嫁ぐときに徳川家斉その記念

             (祝い)に造らせた門が、 (現在、東京大学

             に残る)赤門(あかもん)である。

             ● 一人の美しい町娘の壮大な陰謀。

               更に、お美代は、 次期12代将軍に、加

             賀藩に嫁いだ自分の子の溶姫(ようひめ)が

             生んだ男子(前田慶寧)をすえようと考え、幕

             府の3人の老中と謀(はか)って、将軍・家斉

             の遺言書を偽造した。 しかし、 その件が発

             覚してしまった。 そして、お美代は、 お美

             代の子の溶姫の嫁ぎ先の加賀藩に、「お預

             け」となった。

 

〇 おも  表十五人。 

             (おもてじゅうごにん)。 《身分・地位》。 

          (= 十五人衆、奉行衆)。

             ○ 首里城の評定所に必要があれ

          ば集まって協議した、琉球王国・王

          府の各官庁の、長官と次官。 

          (⇒ 琉球王国

         沖縄の歴史)。

             ■ 表十五人 (おもてじゅうごにん、= 十五

             人衆、奉行衆) は、 前近代の沖縄で、 首

             里城の評定所に必要があれ ば集まって協議

             した、琉球王国・王府の各官庁の、長官と次

             官である。

 

〇 おも   お元 

             (おもと)。 《人名》。

          ○ 坂本龍馬の恋人の1人。

          ○ 長崎・丸山(まるやま)の芸妓

             (げいこ)。

             ■ お元 (おもと)は、 坂本龍馬の恋人の

             1人であり、 長崎・丸山(まるやま)の芸妓

             (げいこ)である。

 

〇 おも   御物奉行。

              (おものぶぎょう)。 《身分・地位》。

          (= 物奉行 (ものぶぎょう))。

          (⇒ 琉球王国沖縄の歴史)。

          ○ 琉球王国・行政組織の1グル

          ープ。

             ■ 御物奉行 (おものぶぎょう、= 物奉行

                             (ものぶぎょう) )は、 前近代の沖縄で、

              琉球王国・行政組織の1グループである。

 

〇 おや  親方。

          (おやかた)。 《身分・地位》。

          (= 監督者)。

          (⇒ 琉球王国沖縄の歴史)。

          ○ 琉球王国の上級武士の1つで、

          親方(ウェーカタ)

             ■ 親方 (おやかた)は、前近代の沖縄では、

             琉球王国の上級武士の1つで、 親方(ウェー

             カタ)である。

 

〇 おや  御屋形様。

             (おやかたさま)。 《尊称》。

          (= 主君、主君への尊称、

          殿(との)、 貴人をさす尊称)。

        (⇒ 封建制度)。  

             ■ 御屋形様 (おやかたさま)は、

             尊称であり、主君、主君への尊称

             であり、 殿(との)、貴人をさす尊

             称である。

 

〇 おや  おやつ。  

          《間食》。

          ○ 江戸時代に、八(やつ)の時

          刻の午後2時頃に、間食(おや

          つ(お八))をとる(行う)習慣があ

          ったため。

          (⇒ 前近代日本の時刻・

          時法

             ■ 間食の「おやつ」(食べ物)の語源は、

             江戸時代の「おやつ(お八)」 (間食行為)

             から来ている。

             ● 間食の「おやつ」(食べ物)の語源は、

             江戸時代に、八(やつ)の時刻の午後2時

             頃に、間食(おやつ(お八))をとる(行う)

             習慣があったため。

 

〇 おや  小山評定。 

             (おやまひょうじょう)。 《会合》。

                    (1600年7月)。

                    (⇒ 関ヶ原の戦い)。    

                    (⇒ 天下分け目の戦い)。    

                    (⇒ 細川ガラシャ)。

                          ■ 小山評定 (おやまひょうじょう

             は、 上杉征伐に向かった徳川家康

             指揮・豊臣軍が、  大坂での奉行衆・

             毛利方(石田方)の決起を知り、16 

             00年7月25日に、 下野国の小山

             (現・栃木県小山)で、 反奉行衆・

             毛利方(反石田方)の豊臣氏家臣の

             諸大名と話し合った(相談した)会合

             である。  

                奉行衆・毛利方(石田方)との戦

             いは、徳川家康の単独では決められ

             なかったため、反奉行衆・毛利方(反

             石田方)の豊臣氏家臣の諸大名と相

             談する、小山評定が開かれた。

             ■ 小山評定の会談の結果、反奉行

             衆・毛利方(反石田方)の諸大名は、

             上杉征伐を行わず、 上方(かみがた、

             関西)にいる奉行衆・毛利方(石田方)

             と戦うことが決まった。

                小山評定以後、 反奉行衆・毛利

             方(反石田方)の諸大名は、 慶長の

             天下分け目の戦いで、徳川方の東軍

             の大名となった。 

             ● 小山評定での、福島正則の積極的

             な発言は、後世の創作という可能性も

             ある。

 

〇 おゆ   お由羅 

             (おゆら)。 《人名》。

          (= 由良ゆら由羅ゆら、遊羅

          ゆら) 。

          (1795年ー1866年)。

          ○ お由羅は、

          島津 斉興(しまづ なりおき )

          側室夫人である。

          ○ お由羅は、

          島津久光の生母である。

             ■  お由羅 (おゆら、1795年ー18

             66年) は、 別名で、由良(ゆら)、

             羅(ゆら)、遊羅 (ゆら)であり、 島津

             斉興(しまづ なりおき )の側室夫人で

             あり、 島津久光の生母である。

 

〇 およ  およそ。  

          (= 、頃)。  《言葉》。

          ABOUT ; c.,ca.

        :circaの省略名).

             ■ およそ とは、 、頃であり、 

          英語名は、ABOUT ; c.,ca.

             (:circaの 省略名)である。

 

#ora

 

〇 おら  お楽。

          (おらく)。 《人名》。

          (= 宝樹院)。

          ○ お楽は、

          徳川家光の側室夫人の1人

          である。

          ○ お楽は、

          江戸幕府・第4代将軍・徳川

          家綱(いえつな)の生母である。

        (⇒ 春日局)。

             ■ お楽 (おらく、= 宝樹院)は、 

             春日局(かすがのつぼね)がスカウト

             した町娘であり、 徳川家光の側室

              夫人の1人であり、 江戸幕府・第4代

                          将軍・徳川家綱(いえつ な)の生母

             ある

 

〇 おり   お龍 

          (おりょう)。 《人名》。

          (= 楢崎 龍 ならさき りょう)。

          (1841年?〜1906年)。

          ○ お龍は、 

          坂本 龍馬の夫人である。

             ■ お龍 (おりょう、 楢崎 龍(ならさ

             きりょう)、生没年:1841年?〜19

             06年) は、 坂本 龍馬 (さかもと

             りょうま)の夫人である。

 

 おわ  尾張 国。 

             (おわり のくに)。 《旧地域名》。

          (= 尾(びしゅう))。 

          (≒ 現・愛知県西部の相当地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国(令制

           国)の正式名)。

                   (⇒ 前近代日本の

         地域名)。

          ■ 尾張 国。

             <東海道 (旧広域地方)。

             ■ 尾張 国 (おわりのくに、= 尾州

             (びしゅう))は、 現・中部地方の、

             在の愛知県西部に相当する地域であ

             る。

             ■ 尾張 国(= 尾州)は、 五畿七道(ご

             きしちどう)の東海道(とう かいどう)・旧

             広域地方に属する。

             ■ 尾張 国 ( おわり のくに)は、律令

             制定後・古代・中世・近世日本・旧地域

             名の、旧国(令制国)の正式名である

             ■ 尾州 (びしゅう)は、 律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             国名(令制国)の正式名の、尾張 国 

             (おわり のくに) の別称である。

 

 おわ  尾張閥

             (おわりばつ)。 《政争グループ》。

          (= 尾張派、尾張出身の豊臣

          氏家臣)。

          ○ 尾張閥豊臣氏家臣

          は、加藤清正、福島正則等が

          いる。

          ○ 豊臣政権では、近江閥

          (近江派)と尾張閥(尾張派)

          の豊臣氏家臣の間が対立が

          起こる。

             ■ 尾張閥 (おわりばつ、尾張派)は、 

             豊臣政権の政争グループであり、 尾張

             出身の豊臣氏家臣 であり、 加藤清正、

             福島正則などである。

             ■ 豊臣政権時代に、豊臣 氏家臣団の

             近江閥(近江派)と尾張閥(尾張派)が対

             立 した。

 

〇 おわ  尾張藩

                         (おわりはん)。 《藩》。

          (= 尾張国を領有した藩)。

          (≒ 概ね、現・愛知県西部の相

          当地域を支配した藩)。

             ■ 尾張藩は、 江戸時代初期から明治

             時代初期まで存続した、尾張 国 (おわ

             り のくに、概ね、現・愛知県西部の相当

              地域を 、領有し(統治し、領地とし)、

             支配基盤(行政地域)とした藩(大名)で

             ある。

              ■ 尾張藩は、 江戸時代の、徳川氏の

             御三家の1つであり、 親藩大名の藩で

             あった。

 

〇 おん  隠

             (おんしゅう、いんしゅう)。《旧地域名》。

          (= 隠岐 ( おき のくに))。

          (≒ 現・鳥根県・隠岐諸島の相

          当領域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

          日本・旧地域名の、

          旧国名(令制 国)の別称)。

             ON AREA.

                   (⇒ 隠岐 )。    

                   (⇒ 前近代日本の

        地域名)。

                         ■ 州 (おんしゅう、いんしゅう、=

              隠岐国(おきのくに))は、 山陰道(さ

             んいんどう)・旧広域地方に属し、現・

             中国地方の、現在の鳥根県・隠岐諸島

             に相当する地域である。

             ■ 隠州 (おんしゅう、いんしゅう)は、  

             律令制定後・古代・中世・近世日本・旧

             地域名の、旧国名(令制国)正式名の、 

             隠岐 国(おき のくに) の別称である。

 

〇 おん  恩賞・贈答貨幣。

                        (おんしょう・ぞうとうかへい)。

          《日本流通貨幣》。

                    (= 贈答・恩賞貨幣)。

       (⇒ 贈答・恩賞貨幣)。

             ■ 恩賞・贈答貨幣  (おんしょう・ぞう

             とうかへい)は、 日本流通貨幣の、

             贈答・恩賞貨幣である。

 

〇 おん  御曹司。  

                      (おんぞうし)。 《敬称》。

          (= 名門の子息)。

          (⇒ 封建制度)。  

             ■ 御曹司 (おんぞうし)は、 敬称であ

              り、名門の子息である。

 

〇 おん  女戦国大名。

             (おんなせんごくだいみょう)。

             (= 女大名)。

          (⇒ 井伊直虎寿桂尼)。  

          (⇒ 戦国大名)。

          ○ 女戦国大名とは、

          戦国時代安土桃山時代に、

          男性領主のいない間の臨時

          の領主として、または、男性

          領主をたてて後見人として、

          領国政治の実権を握った女

          性領主である。

          ○ 女戦国大名には、

          井伊直虎、寿桂尼洞松院尼

          など がいる

             ■ 女戦国大名 (おんなせんごくだい

              みょう、= 女大名)とは、 室町時代 後

              期(= 戦国時代)、安土桃山時代に、

              男性領主のいない間の臨時の領主と

              して、または、男性領主をたてて後見

              人として、領国政治の実権を握った女

              性領主であり、 井伊直虎(いいなお

              とら)、寿桂尼(じゅけいに)、洞松院尼

              (とうしょういんに) などでいる。

 

〇 おん  陰陽師

             (おんみょうじ)。 《占い・呪術師》。

             (= 陰陽道の占い・呪術師)。

             (奈良時代 ー明治時代初期)。

                     ○  陰陽師とは、

          陰陽道(おんみょうどう)に基 づき、

          占い、呪術を行う者である。

                     ○ 陰陽師は、

          前近代日本(奈良期〜明治初

          期)の占い・呪術師、セラピスト

          である。

             ■ 陰陽師(おんみょうじ)とは、 陰陽

             道(おんみょうどう)に 基づき、占い(う

             らない)や呪術(じゅじゅつ)を行う者で

             ある。

              ■ 陰陽師  (おんみょうじ、奈良時代

             ー明治時代初期) とは、 陰陽道(おん

             みょうどう)の占い・呪術師であり、セラ

             ピストである。

              ■ 平安時代の陰陽師の安倍晴明 

             (あべのせいめい)は、 役人であり、朝 

             廷官人(国家公務員)であり、 朝廷の

             中務省(なかつかさしょう)の陰陽寮(お

             んみょうりょう)の職員であり、 花山天

             皇、一条天皇、藤原兼家、藤原道長な

             どの天皇家や公家の信頼を得ていた。

             ■ 陰陽師 (おんみょうじ)は、 平安

             時代に活躍する。

                平安時代の上層階層の人々は、

             もののけや怨霊(おんりょう)を信じ、恐

             れ、占いや呪術(じゅじゅつ)を行う陰陽

             師(おんみょうじ)に頼った。 

                陰陽道(おんみょうどう)に基づく吉

                凶の判断や呪術を行う者である陰陽師

                の安倍晴明 (あべのせいめい)が、平

             安時代に登場し、活躍する。

 

〇 おん  陰陽道

             (おんみょうどう)。  《思想》。

             ■ 陰陽道 (おんみょうどう)は、 古代

             の陰陽五行説に基づく天文、暦学、易占

             いなどに関するに日本の学問、思想で

                          あり、また、自然現象を説明し、禍福吉

             凶を判じた。 

                陰陽五行説は,中国で漢代に成立

             し,日本には、5〜6世紀頃に、伝わっ

             た。

 

〇 おん  陰陽寮

             (おんみょうりょう)。  《朝廷》。

             (奈良時代ー明治時代初期)。

          ○ 陰陽寮は、

             朝廷の中務省(なかつかさしょう)

             の機関である。

              ■ 陰陽寮 (おんみょうりょう、奈良時

             代ー明治時代初期)は、 朝廷の中務

             省(なかつかさしょう)の機関である。

              ■ 陰陽師の安倍晴明 (あべのせい

             めい)は、 官人(国家公務員)であり、 

             朝廷の中務省(なかつかさしょう)の陰

             陽寮(おんみょうりょう)の職員であり、 

             一条天皇や藤原道長などの天皇家や

             公家の信頼を得ていた。

 

〇 おん  厭離穢土 欣求浄土。

             (おんりえど ごんぐじょうど)。  《標語》。

          ○ 厭離穢土 欣求浄土は、

          徳川家康の流れ旗の標語

          である。 

          (⇒ 徳川家康)。  

              ■ 厭離穢土 欣求浄土 (おんりえどご

             んぐじょうど)は、 徳川家康が徳川軍の

             流れ旗に示した標語であり、 「けがれな

             き世を築くために生きよ」という意味であ

             る。

                

 

 

   ● 五十音順 (アイウエオ順)。

 

 

   ■  『 現在は、過去の成果であり、

       未来は、現在の成果である。 

         (良き現在は、過去の人々の良き努力

          や活動の積み重ねの成果であり、 

          良き未来は、現在の人々の、良き努力

          や活動の積み重ねにより形成される。)

 

 

■ 上位のWEBサイト。 

□ (KOH) カナヤマ オフィシャル   >

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#jpdictionary(general)

 

◆ 日本史辞典

 

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#o

 

◆ 派生見出し語サイト。

■ 「お」 基本・見出し語WEBサイト No. ja−o  

   の、派生見出し語サイト。

 

■ 《現行HP》。

 No. ja−o−0450。

● 見出し語項目 お   ( え 04 / よ 50   

   付近  第1部・え・ナ行〜ヤ行総合グループ  )。

 おえ  お江与 (おえよ) 。

          (= 江 ごう、 小督おごう) 。

 

■ 《現行HP》。

 No. ja−o−0530。

● 見出し語項目 お   ( お 05  / お 30

   付近  第1部・お・ア行〜サ行総合グループ  )。

〇 おお  大奥 (おおおく) (= 江戸城

                    大奥、 1590〜1868年)。

〇 おお  大奥 簡略年表 

             (おおおく かんりゃくねんぴょう) 。

〇 おお  大奥 詳細年表 

             (おおおく しょうさいねんぴょう) 。

 

■ 《現行HP》。

 No. ja−o−0525。

● 見出し語項目 お   ( お 05  / く 25

  付近  第1部・お・カ行グループ  )。

〇 おお  大久保 利通 (おおくぼ としみち) 。

          (薩摩藩士)。

 

■ 《現行HP》。

 No. ja−o−0531。

● 見出し語項目 お   ( お 05  / さ 31

  付近  第1部・お・サ行グループ  )。

〇 おお  大阪の陣 (おおさかのじん) 。 

          (1614〜15年)。

 

■ 《現行HP》。

 No. ja−o−0640。

● 見出し語項目 お  た〜つ ( か 06 / た〜つ 

   40 付近  第1部・カ行・タ行総合グループ  )。

〇 おか  岡田 以蔵 (おかだ いぞう) 。

        (1838〜65年)

○ おが  緒方 洪庵 (おがた こうあん) 。

             (1810〜63年)

〇  おか  岡っ引 (おかっぴき) (= 目明し

          (めあかし)

 

■ 《現行HP》。

 No. ja−o−0751。

● 見出し語項目 お   ( き 07 / な 51 

   付近  第1部・き・ナ行グループ  )。

〇 おき  沖縄の歴史 (おきなわのれきし)

          (= 琉球の歴史)

〇 おき  沖縄の歴史・詳細年表

             (おきなわ のれきし・しょうさいねんぴょう)。

 

■ 《現行HP》。

 No. ja−o−1015。

● 見出し語項目 お   ( ご 10 / う 15   

   付近  第1部・こ・ア行グループ  )。

〇 おご  お江 (おごう) 、小督 (おごう) (浅井

                    3 姉妹の一人)、(徳川秀忠の正室

                    夫人))、 (別名、 (ごう)お江与(お

                    えよ)、(落飾後)崇源院(すうげんいん)。 

 おご  お江 おごう、お江与、崇源院)

        年表 (おごう かんりゃくねんぴょう)

 おご  お江 おごう、お江与、崇源院)

             年表 (おごう しょうさいねんぴょう)

 おご   (おごう) 関連出来事 (年

       順・詳細)

 

■ 《現行HP》。

 No. ja−o−1250。

● 見出し語項目 お   ( し 12 / ず 50   

   付近  第1部・し・サ行〜ナ行総合グループ  )。

  おし   お静 (おしず) (徳川秀忠・側室、

                     会津藩祖・保科正之の生母)。

 

■ 《現行HP》。

 No. ja−o−1450。

● 見出し語項目 お   ( せ 14 / ん 50   

   付近  第1部・せ・ナ行〜ラ行ワン総合グループ  )。

〇 おせ  お船 (おせん) 。(直江兼続・正室 、

          直江実綱(景綱)の娘)(= 貞心尼) 

                     (1557〜1637)。

 

 

■ 《現行HP》。

 No. ja−o−1602。

● 見出し語項目 お  共通 ( だ 16 / 共通 02 

   第1部・た・共通グループ )。

〇  おだ  《内容》 織田氏(家)

〇 おだ  織田氏 (おだし)

 

■ 《現行HP》。

 No. ja−o−1603。

● 見出し語項目 お  共通 ( だ 16 / 共通 03

   第1部・た・共通グループ )。 

〇  おだ  《内容》 織田(氏)政権

〇 おだ  織田政権 (おだせいけん)

 

■ 《現行HP》。

 No. ja−o−1605。

● 見出し語項目 お  共通 ( だ 16 / 共通 05 

   第1部・た・共通グループ )。   

〇  おだ  《内容》 織田信長

〇 おだ  織田信長 (おだのぶなが)

〇 おだ  織田信長関連出来事

       (概要)(おだのぶながかんれんで

             きごと(がいよう))。

〇 おだ  織田信長 簡略年表 

             (おだのぶ ながしょうさいねんぴょう)。

〇 おだ  織田信長 詳細年表

 

■ 《現行HP》。

 No. ja−o−1606。

● 見出し語項目 お  共通 ( だ 16 / 共通 06 

   第1部・た・共通グループ )。

〇  おだ  《内容》 織田信長の父、

       伯(叔)父

〇 おだ  織田信秀 (おだのぶひで)

 

■ 《現行HP》。

 No. ja−o−1607。

● 見出し語項目 お  共通 ( だ 16 / 共通 07 

   第1部・た・共通グループ )。 

〇  おだ  《内容》 織田信長の兄弟

〇 おだ  織田 有楽斎 (おだ うらくさい)

〇 おだ  織田 信包 (おだ のぶかね) 

〇 おだ  織田 信行 (おだ のぶゆき) 

 

■ 《現行HP》。

 No. ja−o−1608。

● 見出し語項目 お  共通 ( だ 16 / 共通 08 

   第1部・た・共通グループ )。

〇  おだ  《内容》 織田信長の子、孫

〇 おだ  織田 信忠 (おだ のぶただ)

〇 おだ  織田 信雄 (おだ のぶかつ・のぶお)  

〇 おだ  織田 信孝 (おだ のぶたか)

〇 おだ  織田 秀信 (おだ ひでのぶ)

 

■ 派生見出し語移動案内

   ページ。

■ 《旧HP》。

 No. ja−o−1630。

● 見出し語項目 お  し〜せ ( だ 16 / し〜せ 

   30 付近  第1部・た・サ行総合グループ  )。

〇  おだ  織田氏 (おだし)

〇  おだ  織田政権 (おだせいけん)

 

■ 《旧HP》。

 No. ja−o−1650。

● 見出し語項目 お   ( だ 16 / の 50   

     付近  第1部・た・ナ行総合グループ  )。

〇 おだ  織田信長 (おだのぶなが)

〇 おだ  織田信長関連出来事

       (概要)(おだのぶながかんれん

             できごと(がいよう))。

〇 おだ  織田信長 簡略年表 

             (おだのぶ ながしょうさいねんぴょう)。

〇 おだ  織田信長 詳細年表

 

■ 《旧HP》。

 No. ja−o−1655。

● 見出し語項目 お  う〜の ( だ 16 / 

    う〜の 55 付近  第1部・た・総合グループ  )。

〇 おだ  織田 有楽斎 (おだ うらくさい)

〇 おだ  織田 信包 (おだ のぶかね) 

〇 おだ  織田 信忠 (おだ のぶただ)

〇 おだ  織田 信雄

             (おだ のぶかつ・のぶお)。

〇 おだ  織田 信孝 (おだ のぶたか)

 

 

■ 《現行HP》。

 No. ja−o−1697。

● 見出し語項目 お   ( だ 16 / わ 97 

  付近  第1部・た・ラ行ワングループ  )。

 ほう  小田原北条氏

       (= 後北条氏)

              (おだわらほうじょうし)。

 

■ 《現行HP》。

 No. ja−o−2030。

● 見出し語項目 お   ( と 20 / せ 30   

  付近  第1部・と・サ行総合グループ  )。

 おと  お登勢 (おとせ)

         (1832〜77年)。

 

■ 《現行HP》。

 No. ja−o−2645。

● 見出し語項目 お   ( は 26 / つ 45   

  付近  第1部・は・タ行グループ  )。

〇 おは  お初 (おはつ)。

    (= 浅井三姉妹の一人) 。

 おは  お初 (おはつ) 関連出来事 

                (年代順・詳細)

 

■ 《現行HP》。

 No. ja−o−3850。

● 見出し語項目 お  う〜ら ( ゆ 38 / う〜ら 50  

   付近  第1部・ゆ・ア行〜 ラ行総合グループ  )。

〇 おゆ  お悠 (おゆう) 。

          (仮称、伝説上の人物)。

          (16世紀) (上杉謙信の侍女、

          直江実綱(景綱)の娘)。

〇 おゆ  お由羅 (おゆら) (島津斉興

          しまづなりおき の側室夫人)。

          1795〜1866 )。

 

■ 《現行HP》。

 No. ja−o−4280。

● 見出し語項目 お   ( り 42 / ょ 80  

   付近  第1部・り・ヤ行総合グループ  )。

〇 おり   お龍 (おりょう) (= 楢崎 龍 なら

                    さき りょう) 。 (坂本 龍馬夫人)。

 

■ 《現行HP》。

■ No. ja−o−5073。

● 見出し語項目 お   ( ん 50 / み 73   

  付近  第1部・ん・マ行グループ  )。

〇 おん  陰陽師 (おんみょうじ)

〇 おん  陰陽道 (おんみょうどう)。

〇 おん  陰陽寮 (おんみょうりょう)。  

 

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#theokehazamabattle

 

■ 桶狭間の戦い 

     (おけはざまのたたかい)。

 

■ 桶狭間の戦い。

■ 名称 : 桶狭間の戦い 

        (おけはざまのたたかい)。

■ 時期 : 1560年(永禄3年)5月19日。

■ 当記載の「桶狭間の戦い」は、 

  史実の新説(一次資料、主に「信長公記」)

  に基づく、 脚色・誇張が多い従来説(明治・

  陸軍参謀本部の「日本戦史」)は採用してい

  ない。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11925。

 

 

■ 桶狭間の戦い。

  ■ 桶狭間の戦いとは、1560年(永禄3年)5

    月19日に、 尾張 (おわり、概ね・現在の

    愛知県西部の地域)の南東の桶狭間山で、 

    織田信長(おだのぶなが)の率いる織田軍・

    約3000人の兵 と、 今川義元(いまがわ

    よしもと)の率いる今川軍・約2万5000人

    の兵とが戦った合戦であり、 織田信長の率

    いる織田軍が、今川義元を討ちとり、今川軍

    に勝利を得る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 桶狭間の戦い以後、織田信長の天下統一

    (日本本土統一)事業が始まる。

 

■ 桶狭間の戦い。

  ■ 新説(史実)と従来説(脚色・誇張多し)。

       当記載の「桶狭間の戦い」は、 史実の

    新説(一次資料、主に信長公記)に基づく。

       史実でない従来説(脚色・誇張が多い、

    「日本戦史の桶狭間役」)は、当記載の

    「桶狭間の戦い」では採用していない。

       「日本戦史の桶狭間役(おけはざまの

    えき)」とは、 従来説の根拠となり、 明治

    31年(1898年)刊行の、日本陸軍参謀本

    部編纂の「日本戦史の桶狭間役」であり、 

    脚色・誇張が多く、史実でない。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 桶狭間の戦い。

  ● 決戦当日の今川義元率いる今川軍本隊

    の動き。

    義元の移動は、 沓掛城出発⇒桶狭間

    山(大高城方面に向かう途中で人馬を休

    めた「おけはざま山」で義元討死)。

 

  ● 決戦当日の織田信長率いる織田軍本隊

    の動き。

    信長の移動は、 清州城出発⇒熱田神宮

    ⇒善照寺砦⇒中島砦⇒今川軍前衛部隊

    ⇒桶狭間山休息中の今川軍本隊(義元殺

    害)。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 ■ 今川軍側。

  ■ 桶狭間の戦いでは、1560 年(永禄3年)

    5月19日の決戦当日に、今川義元 (いま

    がわよしもと)は、今川軍を分散させてい

    た。 

  ● 今川軍本隊は、決戦当日、 尾張の今川方

    の沓掛城(くつかけじょう)を出発し、 尾

    張の今川方の大高城(おおたかじょう)に

    向かう途中で、 約5000人の兵が、湧水

    (わきみず)が豊富な桶狭間山(「おけはざ

    ま山」)の西側中腹で人馬を休め、織田軍

    本隊によって正面攻撃され、義元は討死す

    る。 

      桶狭間山、即ち、信長公記の「おけはざ

    ま山」は、 現在の愛知県の名古屋市緑(み

    どり)区と豊明(とよあけ)市にまたがる丘陵

    地帯である。

 

  ● 一方、本隊以外の今川軍・約2万の兵は、 

    決戦当日、 本隊前衛(先発)部隊、 尾張の

    今川方各城駐留部隊(沓掛城、大高城、鳴

    海城)、 尾張の織田方砦(出城)攻撃各部

    隊(丸根砦(まるねとりで)、鷲津砦(わしず

    とりで)) などでに分かれていた。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 ■ 織田軍側。

  ■ 織田信長(おだのぶなが)の率いる織田軍

    本隊は、1560 年(永禄3年)5月19日の

    決戦当日に、

    (1) 清州城(きよすじょう)を出発し(未明

    に、5人の供を連れて)、 (2) 熱田神宮

    (あつたじんぐう)に寄り(午前7時頃に着き、

    尾張(おわり、現・愛知県東部)の全体の兵

    を待ち、ここで集め)、 (3) 善照寺砦(ぜ

    んしょうじとりで)に寄り (午前10時頃に

    着き、各砦(出城)の兵も集め約2500人

    の兵となり、約500の兵を砦に残し)、 (4) 

    中島砦(ながじまとりで)に寄り (正午頃に

    着き、親衛・精鋭部隊・約800人を含む約

    2000人の兵で)、 桶狭間山(おけはざま

    やま)方面に向かい、 (5) 今川軍前衛

    (先発)部隊に正面攻撃を行い撃破し、 

    強風ゲリラ豪雨が発生し、 (6) 桶狭間

    山休息中の今川軍本隊に正面攻撃を行い

    (午後2時頃より)、 今川義元を討ちとる。  

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 桶狭間の戦い。

  ■ 桶狭間山(信長公記の「おけはざま山」)

    は、 桶狭間にある丘陵地帯(高さ・64.7

    m)である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 桶狭間の戦いの信長の勝因。

  ■ 今川軍分散と「おとり」の織田方の砦(出

    城)。

       織田信長は、 約3000人の兵の織

    田軍で、敵の大軍の約2万5000人の兵

    の今川軍とそのまま対戦したら、勝ち目が

    ないと考え、 なるべく今川軍を分散させ、

    織田軍本隊で今川軍本隊のみを攻撃し総

    大将の今川義元を討ちとろうと考える。

       織田信長は、織田方の5つの砦(出

    城)をおとりに今川軍を分散させ、今川軍

    が分散した状態で、今川軍本隊のみを攻

    撃する作戦を実行する。

  ● 織田方の砦(出城)は、今川軍分散のおと

    りの役割を果たす。

  ● 織田信長にとっては、 織田方の5つの砦

    (とりで、出城)の、丸根砦(まるねとりで)、

    鷲津砦(わしずとりで)、丹下砦(たんげとり

    で)、善照寺砦(ぜんしょうじとりで)、中島

    砦(なかじまとりで)は、 大軍の今川軍・約

    2万5000人の兵を分散させる、おとりの

    役割をはたす。

  ● 今川軍・約2万5000人の兵は、兵力を

     分散させ、 今川軍本隊は、桶狭間山で

     の決戦時、約5000人の兵であった。

     織田信長は、その今川軍本隊を正面攻

     撃し、今川義元を討ちとる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 敵を欺(あざむ)くため味方を欺く。

  ● 織田信長は、織田軍の中に、今川軍に

    内通する者がいると考え、1560 年(永

    禄3年)5月19日の桶狭間の戦いの決戦

    当日の前日の5月18日に、軍議を開かず、

    城出撃を悟られず、籠城(ろうじょう)する

    と今川方に思わせる。

 

  ■ 地の利。

  ● 織田信長は、尾張東部の地形をよく知り

    軍を動かし、今川軍は、尾張の地形がわ

    からず、うろたえる。

 

  ■ 今川義元の輿の使用。

       今川義元は、乗り物の輿(こし)を使

    用していたため、織田軍は、今川軍本隊

    攻撃時、輿(こし)を目印に突進し、輿の

    近くにいた今川義元を討ちとり、織田信長

    は、今川軍に勝利を得る。

       今川義元は、乗馬ができるが、今川

    家は足利将軍家の分家であり、高貴な身

    分であることを示すため、輿(こし)を使用

    していた。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 兵の質。

  ● 兵の質では、 今川軍・約2万5000人

     の兵は、 90%の約2万2500人が戦

     い時駆り出される武術訓練未熟の農民

     兵であり、 10%の約2500人の兵が

     武士兵である。

        一方、織田軍は、 武術訓練未熟

     の農民兵は3分の1の約1000人であ

     り、 3分の2の約2000人の兵は、尾

     張統一過程で集まった武士兵であり、 

     その武士兵のうち、特訓を受けた(二男・

     三男の命知らずの)親衛・精鋭部隊・約

     800人の兵がいたと推測される。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 桶狭間の戦い。

 ■ 今川軍の動き。

  ● 今川義元は、 1560年(永禄3年)5月

    に、駿河、遠江、三河の国主であったが、

    更に、尾張支配の目的のため、軍を起こ

    す (尾張奪取説)。 

        現在、義元が京都へ軍を進める目

    的のためという従来の「日本戦史」の上洛

    説は、史実でなく、誤りとされている。

      

  ● 今川義元の率いる今川軍は、 1560年

    (永禄3年)5月12日に、駿府(すんぷ、

    現・静岡県中部の駿府)の今川館(いまが

    わやかた)を出発し、 5月18日に、尾張

    (おわり、現・愛知県西部)の沓掛城(くつ

    かけじょう)に入る。  

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ● 桶狭間の戦いの1560年(永禄3年)5

    月19日の決戦当日に、  今川義元の率

    いる今川軍本隊は、未明に、 前日宿泊

    した尾張の今川方の沓掛城(くつかけじ

    ょう)を出発し、 尾張の今川方の大高城

    (おおたかじょう)へ向かう。 

        大高城へ向かう途中で、今川義元

    の率いる今川軍本隊は、 約5000の

    兵で、昼頃、桶狭間山(おけはざまやま、

    桶狭間の丘陵地帯)で、人馬を休め、そ

    こで、今川義元は、討たれる。

       今川軍本隊と尾張東南に展開し分

    散した今川軍は、織田方の2つの砦(出

    城)の丸根砦(まるねとりで)、鷲津砦(わ

    しずとりで)を攻め、2つの砦(出城)落城

    後、 尾張の今川方の大高城(おおたか

    じょう)に集結し、その後、大高城から、

    織田信長の本城(ほんじょう、本拠地の

    城)の清州城を攻撃する計画であった。

 

  ● 今川義元の率いる今川軍は、 織田軍の

    今川軍本隊への正面攻撃によって今川義

    元が敗死し、 大将(総指揮官、大寄親)を

    失い、混乱し、総崩れとなり、引き揚げ、 

    桶狭間の戦いで敗北する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 ■ 織田軍の動き。   

  ● 織田信長の率いる織田軍本隊(本陣)は、 

    1560 年(永禄3年)5月19日の決戦当

    日に、次のような行動をとる。

 

  (1) 5月19日の未明に、

    織田信長は、鷲津砦、丸根砦が今川軍に

    攻撃されているという知らせを受けて、

    清州城(きよすじょう)を、5人の供を連れ

    て出発する。

    ● 信長は、おとりの織田方の鷲津砦、丸

    根砦の2つの砦に今川軍をおびき寄せ、

    今川義元のいる今川軍本隊の兵を減らす

    作戦をとる。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  (2) 5月19日の午前7時頃に、

    織田信長は、熱田神宮(あつたじんぐう)

    に着き、 尾張(おわり、現・愛知県東部)

    の全体の兵を待ち、ここで集め、必勝祈

    願をする。 その後、善照寺砦に向かう。

 

  (3) 5月19日の午前10時頃に、

    織田信長の軍は、尾張の善照寺砦(ぜん

    しょうじとりで)に到着し、そこで、各砦(出

    城)からの兵も集め、 約2500人の兵と

    なり、約500の兵を善照寺砦に残す (織

    田軍本隊が善照寺砦に留まっていると今

    川軍に思わせるため)、 その後、中島砦

    (なかじまとりで)に向かう。  

        一方、午前10時頃に、織田信長は、

    中島砦より約300人の兵で今川軍本隊前

    衛(先発)部隊を攻撃させ、退却させる (わ

    ざと負けて、勝利に浮かれさせ今川義元を

    油断させるため)。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  (4) 5月19日の正午頃に、

    織田信長の軍は、中島砦(ながじまとりで)

    に着く。 

 

  (5) 5月19日の正午すぎに、

    織田信長の軍は、中島砦を出発し、 親衛・

    精鋭部隊・約800人を含む約2000人の

    兵で、 桶狭間山(おけはざまやま)方面に 

    向かい、途中で、今川軍前衛(先発)部隊

    に正面攻撃を行い撃破する。 その後、

    今川軍本隊に向かう。 

        昼頃、織田信長の軍が中島砦から

    桶狭間山へ向かう途中で、強風ゲリラ豪雨

    が発生し、 今川軍前衛(先発)部隊に対し

    追い風となり有利に働き、一方、桶狭間山

    にいる今川軍本隊は混乱する。

      

  (6) 5月19日の午後2時頃より、

    桶狭間山に休息中の今川軍本隊に正面攻

    撃を行い、 輿(こし)を目印に、輿の近くに

    いた、今川義元を討ち取り、織田信長は、

    勝利を得る。

        今川義元は、乗馬ができるが、高貴

    な身分であることを示すため、輿(こし)を

    使用していた。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ● 織田信長の率いる織田軍は、 今川軍本

    隊への正面攻撃によって今川義元を敗死

    させ (正面攻撃説)、 今川軍は大将(総

    指揮官、大寄親)を失い、混乱し、総崩れと

    なり、引き揚げ、 織田軍は、桶狭間の戦い

    で勝利を得る。

       現在、新説の正面攻撃説が有力とな

    り、従来説の「日本戦史」の迂回攻撃奇襲

    説は、史実でなく、誤りとされている。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 桶狭間の戦い。

  ■ 桶狭間の戦いでは、1560 年(永禄3年)

    5月19日の決戦当日に、 織田軍・約30

    00人の兵は、 おとりで今川軍各部隊を

    引き寄せる、尾張南東の織田方の5つの

    砦(とりで、出城)を守る、織田軍・砦(出城)

    守備隊の兵の部隊 と、 今川軍本隊を襲

    う織田軍本隊の今川軍本隊攻撃部隊に分

    かれる。 

 

  ■ 桶狭間の戦では、 1560 年(永禄3年)

    5月19日の決戦当日に、 大 軍の今川軍・

    約2万5000人の兵は、 今川軍本隊の兵 

    と、 本隊前衛(先発)部隊、 尾張の今川

    方各城駐留部隊(沓掛城、大高城、鳴海城)、 

    尾張の織田方砦(出城)攻撃各部隊(丸根

    砦(まるねとりで)、鷲津砦(わしずとりで)) 

    などでに分かれる。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 桶狭間の戦い。

  ■ 桶狭間の戦では、 1560年(永禄3年)5

    月19日決戦当日 の未明に、 今川軍の砦

    (出城)攻撃部隊が、尾張東南の織田方の

    2つの砦に攻撃を開始したという報告を受

    けると、 織田信長は、 尾張南部の清洲

    城(きよすじょう)から出発し、 尾張南部の

    熱田神宮(あつたじんぐう)へ行き、尾張全

    体から兵を待ち集め、兵と共に戦勝祈願後、 

    尾張東南の善照寺砦(ぜんしょうじとりで)

    に行き、 そして、その隣の中島砦(なかじ

    まとりで)に移り、 更に、中島砦から出て、 

    織田軍本隊攻撃部隊・約2000人の兵は、

    当時周りが沼地だった、鳴海道の深田の

    狭い1本道を通って、今川軍本隊前衛(先

    発)部隊の兵を蹴散らしながら、桶狭間山

    (おけはざまやま)へ突進し、桶狭間山に

    到着する。

       織田信長の率いる信長軍本隊・約20

    00人の兵は、 桶狭間山に休息していた、

    今川軍本隊・約5000人の兵に突撃し(正

    面攻撃を行い、本隊めがけて突進し)、 

    桶狭間山で織田・今川両軍は、激戦となり、 

    織田軍は、輿(こし)の近くにいた敵将の、

    今川軍の総大将の今川義元(いまがわよし

    もと)を殺害し、討ち取り、今川軍に勝利を

    得る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 桶狭間の戦いと信長の軍改革。

  ■ 戦国時代の軍団の構成。

  ● 戦国時代に、 戦国大名の軍団は、大寄

    親 (おおよりおや、戦国大名)、 寄親 

    (よりおや、国人(こうじん)領主、地頭(じと

    う))、 寄子 (よりこ、地侍(じざむらい))、 

    雑兵 (ぞうひょう、農民兵) などで構成さ

    れていた。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 戦国時代では、 雑兵 (ぞうひょう)は、

    一般的に、戦いの度にかり出される農民

    であった。 

      桶狭間の戦いで、今川軍の雑兵も、農

    民兵であった。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 兵の質。

     兵の質では、 今川軍・約2万5000人

     の兵は、 90%の約2万2500人が戦

     い時駆り出される武術訓練未熟の農民

     兵であり、 10%の約2500人の兵が

     武士兵である。

        一方、織田軍は、 武術訓練未熟

     の農民兵は3分の1の約1000人であ

     り、 3分の2の約2000人の兵は、尾

     張統一過程で集まった武士兵であり、 

     その武士兵のうち、特訓を受けた(二男・

     三男の命知らずの)親衛・精鋭部隊・約

     800人の兵がいたと推測される。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 織田軍の親衛・精鋭部隊と兵農分離。

  ● 桶狭間の戦いでは、 織田軍の勇猛で武

    術に優れた親衛・精鋭部隊・約800人は、 

    織田軍の今川軍本隊攻撃部隊・約2000

    人の兵の中核となって戦い、 今川軍本隊・

    約5000人の兵を攻撃し蹴散(けち)らし、 

    総大将の今川義元を討ちとる。

 

  ● 織田信長の軍の中核の親衛・精鋭部隊

    の兵は、 尾張の士農工商で跡継ぎでな

    い、次男・三男などのフリーの厄介者など

    であり、 伊勢湾の湊(みなと)の津島湊

    (つしまみなと)、熱田湊(あつたみなと)

    などの港湾流通の湊搬出入料、湊通行

    料、売買上納金などで富を得ていた信長

    より給料を得ていた職業軍人であり、 農

    繁期・農閑期に関係なく、一年中訓練を

    行い出動でき、 命知らずで功名をあげ

    るために戦う部隊であり、 非常に指揮が

    高かった。 

       桶狭間の戦いで、織田信長の今川軍

    本隊への突撃時、武力に優れた信長の

    衛・精鋭部隊・約800人は、 今川軍の武

    術訓練未熟の農民兵の雑兵を攻撃し蹴散

    (けち)らし、 信長は、敵将の今川義元

    殺害し、今川軍に勝つことができた。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 桶狭間の戦いが登場する、興味

    深い関連ドキュメンタリー、ドラマ、

    映画。 

 

★ 桶狭間の戦いが登場する、興味深

  い、関連ドキュメンタリー。 

 

■ 英雄たちの選択 

  『 桶狭間の戦い。 信長を天才

    にした逆境 』。 

   (NHKテレビの2014年10月30日・

       本放 送・歴史ドキュメンタリー番組)。  

 ■ 織田信長の、桶狭間の戦いを述べる。

 

 

★ 桶狭間の戦いが登場する、興味深

   い関連ドラマ、映画。 

 

■ 『 麒麟(きりん)がくる 』。 

   (NHKテレビの2020年大河ドラマ)。 

   (池端俊策、岩本真耶、他 作・脚本)。

   第20回「家康への文」、

   第21回「決戦!桶狭間」。

 ■ 織田信長の、桶狭間の戦いを描く。 

 ■ 「麒麟がくる」第21回の『決戦!桶狭

    間」の末部解説で、桶狭間の戦いの

    史実の概要を描き、述べる。

 

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#ominokata

 

■ 小見の方 

     (おみのかた) 。

 

■ 小見の方。

■ 名称 : 小見の方 (おみのかた)

■ 生没年 : 1513年ー没年不詳。 

■ 小見の方は、 室町時代後期(戦国時代)

  の女性である。

■ 小見の方は、美濃国(みののくに、岐阜

   県南部の相当地域)の国主・斎藤道三

  (利政)(さいとうどうさん(としまさ)の

  正室夫人である。

■ 小見の方は、帰蝶 (きちょう、= 濃姫(の

  うひめ) 、織田信長の正室夫人)の生母

    である。

■ 小見の方は、斎藤孫四郎(まごしろう)、 

  斎藤喜平次(きへいじ)の生母である

■ 小見の方は、明智光秀の叔母(おば)

     である

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典  11335。

 

 

■ 小見の方(総合)。

■ 小見の方 (おみのかた、1513 年ー没

  年不詳)は、斎藤道三(利政)(さいとうどう

  さん(としまさ))の正室夫人である。

 

● 小見の方 (おみのかた、1513 年ー没

  年)は、 室町時代後期(戦国時代)

  女性であり、 美濃国(みののくに、岐阜県

  南部の相当地域)の戦国大名で国主の

  藤道三(利政)(さいとうどう さん(としまさ))

  の正室夫人である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 小見の方は、1532年(天文元年)に、斎藤

  道三(利政)) (「 新説の美濃国盗り父子二

  代説」では、長井 新左衛門尉(ながい しん

  ざえもんのじょう)の子・長井規秀(ながいの

  りひで)) に正室夫人として、嫁ぎ、1535

  年(天文4年)に、斎藤道三 (利政)との間に、

  女子(帰蝶、= 濃姫(のうひめ))をもうけ る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 小見の方の子。

■ 小見の方は、 帰蝶(きちょう、= 濃姫(のう

  ひめ)、斎藤 孫四郎(まごしろう)、斎 藤 喜

  平次(きへいじ)の生母であ る。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 小見の方は、 帰蝶(きちょう、= 濃姫(のう

  ひめ)、織田信長の正室夫人)の生母である。

 

■ 小見の方は、 斎藤 孫四郎(まごしろう)、斎

   藤 喜平次(きへいじ)の生母である。 

● 斎藤道三(利政)の子の、斎藤孫四郎 (まご

  しろう、龍重、龍元)、 斎藤喜平 次(きへいじ

  龍定、龍之) の生母は、小見の方であるとい 

  説が有力である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 小見の方の出自。

■ 小見の方は、 土岐明智氏 (ときあけちし、

  土岐氏の 分家・支流)の、明智光継の娘で

  あり (美濃国諸旧記)、 明智光綱(あけち

  みつつな)の妹である。

      明智光継やその子の明智光綱は、

  美濃国の明智荘(あけちのしょう、現・岐阜

  県可児市(かにし))の、明智長山城(あけ

  ちながやまじょう)の城主である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 小見の方と明智光秀。

  ■ 明智光秀の出自には諸説があるが、明

    智光秀の父が、美濃国の明智光綱(あけ

    ちみつつな)であるならば、

    明智光綱の妹の小見の方は、明智光秀

    の叔母(おば)で ある。

  ● 明智光秀の前半生の史料は少ない。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 明智光秀の出自。

     ■ 明智光秀(あけちみつひで)の出自

    には諸説があるが、 明智光秀の父が

    美濃国の明智光綱(あけちみつつな)

    であり、明智光秀の祖父が美濃国の

    智光継(あけちみつつぐ)であるならば、 

    明智光秀は、土岐明智 氏ときあけちし、

    土岐氏の 分家・支流)の出身であり、 

    美濃国(みののくに、現・岐阜県南部

    の相当地域)の明智荘(あけちのしょう、

    現・岐阜県可児市(かにし))で生まれ

    育ち、 明智光綱の弟で明智荘の明智

    長山城(あけちながやまじょう)城主・

    明智光安 ( あけちみつやす)は明智

    光秀の叔父(おじ) であり、 明智光綱

    の妹の小見の方 (おみのかた、斎藤

    道三(利政)の正室夫人)明智光秀

    の叔母(おば)であり、 小見の方の娘

    の濃姫 (のうひめ、= 帰蝶(きちょう)、

    斎藤道三(利政)の娘、織田信の正

     室夫人)は明智光秀の従兄妹(いとこ)

    である。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 斉藤道三(利政)の子供間の対

  立。

  ● 斎藤義龍(よしたつ) は、 斎藤道三(利

  政)の側室夫人・深芳野 が生母の子であり、

      一方、孫四郎、喜平次、帰蝶(= 濃姫)は、

  斎藤道三(利政)の 正室夫人・小見の方が

  生母の子である。

  ● 1554年(天文23年)に、斎藤道三(利

  政)の側室夫人・深芳野が生母の、斎藤義

  龍(よしたつ) が 斎藤道三(利政)(さいと

  うどうさん(としまさ)) より、美濃国の斎藤

  氏の家督(かとく)を継ぎ、 美濃国の国主

  となる。

  ● 斎藤道三(利政)の子供達は、 斎 藤義

  龍(よしたつ)  と、 孫四郎、喜平次、帰蝶

  (= 濃姫) とが対立する。

     斎藤道三(利政)の子供達は、斎藤道

  三(利政)の側室夫人・深芳野 が生母の、

  斎藤義龍(よしたつ)  と、 斎藤道三(利

  政)の正室夫人・小見の方が生母の、孫四

  郎、喜平次、帰蝶(濃姫)  とが対立する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 斉藤道三(利政)夫人。

  ■ 斎藤道三(利政)の夫人には、深芳野

  (みよしの)、 小見の方おみ のかた)など

  がいる。

 

  ● 深芳野 (みよしの)は、 

  斎藤道三(利政)の側室夫人であり、

  美濃国の土岐氏の土岐 頼芸 (とき よりの

  り・よりなり・よりあき)から拝領した(もらい

  うけた)拝領夫人であり、 

  斎藤 義 龍の生母である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ● 小見の方(おみ のかた)は、

  斉藤道三(利政)の正室夫人であり、 

  孫四郎、喜平次、帰蝶 (きちょう、= 濃姫

  の生母であり、

  明智 光秀の叔母(おば)である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 斉藤道三(利政)の子。

■ 斎藤道三(利政)の子には、 

  (1) 長男の斎藤 義 龍(よしたつ)

  (2) 次男の孫四郎  (まごしろう 、= 龍重、

     龍元)、

  (3) 三男の喜平次 (きへいじ、= 龍定、

     龍之)

  (4) 娘の帰蝶 (きちょう、= 濃姫(のうひめ)、

     織田信長の正室夫人) 

  などがいた。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ (1) 長男の斎藤  義龍(よしたつ)は

   斎藤道三(利政) と 深芳野(みよしの)

   との間の子である。

  ● 斎藤 義龍(よしたつ)は、 土岐頼芸の

  子か、斎藤 道三(利政)の子か、どちらの子

   か、父親が不明である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ (2) 次男の孫四郎  (まごしろう 、= 龍重、

    龍元)、 (3) 三男の喜平次 (きへいじ、=

   龍定、龍之)は、 

   斎藤道三(利政) と 小見の方 (おみの

   かた、明智光秀の叔母(おば))  との間の

   子である。  

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ● (2) 次男の孫四郎 (まごしろう 、= 龍重、

   龍元)、 (3) 三男の喜平次 (きへいじ、=

   龍定、龍之) は、 生母が、小見の方(おみ

   のかた)であるとする説が有力である。

  ● (3) 三男の喜平次 (きへいじ、= 龍定、

  龍之)は、一色右兵衛大輔と名乗っているこ

  とから深芳野の子とする説もある。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ (4) 斎藤道三(利政)の娘の帰蝶 (きち

   ょう、= 濃姫(のうひ め)、織田信長の正室

   夫人) は、 

   斎藤道三(利政) と 小見の方 (おみの

   かた、明智光秀の叔母(おば))との間の子

   である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#-appearingscenes

 

♪♪ 小見の方が登場する、興味深い

    関連ドラマ、映画、ドキュメンタリ

    ー。 

 

★ 小見の方が登場する、興味深い、

   ドキュメンタリー。

 

■ にっぽん歴史鑑定 『 信長の才

   を見抜いた男 斎藤道三 』 。 

    (TBSテレビ・2017年9月25日・

    本放送・歴史ドキュメンタリー番組)。

 ■ 日本の戦国時代(室町時代後期)を 述

   べる。

 ■ 小見の方を述べる。

 ■ 斎藤道三(利政)の、「従来説の美濃国

   盗り本人一代説」 と、 「新説の美濃国

   盗り父子二代説」を詳しく述べる。

 

★ 小見の方が登場する、興味深い、

   ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画は、歴史的事実(史実) と 

  架空の出来事 が、混じって、描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 麒麟(きりん)がくる 』。 

   (NHKテレビ・2020年大河ドラマ)。 

   (池端俊策 作・脚本)。

 日本の戦国時代(室町時代後期)、安土桃

   山時代を描く。

 

● 斎藤 道三(利政)の正室夫人・小見の 

  方 (おみのかた、濃姫(= 帰蝶)の生

  母)を演じる女優名: 片岡 京子。 

 

● 斎藤 道三(利政)の娘・帰蝶(濃姫)(き

  ちょう(のうひめ)、織田信長の正室夫人) 

  を演じる女優名 : 川口 春奈。 

● 斎藤 道三(利政)(さいとうどうさん(とし

  まさ))を演じる俳優名: 本木 雅弘。

● 斎藤 道三(利政)の側室夫人・深芳野 

   (みよしの、土岐 頼芸(とき よりのり)の

   元側室夫人)を演じる女優名: 南 果歩。 

● 斎藤 道三(利政)の男子・斎藤 義龍(さ

  いとうよしたつ)を演じる俳優名: 

  伊藤 英明。

● 斎藤氏家臣の稲葉一鉄(良通)(いなば

  いってつ(よしみち))を演じる俳優名: 

  村田 雄浩。

 

● 美濃国守護の土岐 頼芸(とき よりのり)

  を演じる俳優名: 尾美 としのり。

● 美濃国守護の土岐政頼(頼武)(とき ま

  さより(よりたけ))の子の土岐頼純(とき

  よりずみ)を演じる俳優名: 矢野 聖人。

 

● 明智 光秀を演じる俳優名 :  

  長谷川 博己 (はせがわひろき)。

● 明智 光秀の母・お牧(まき)の方を演じる

  女優名 : 石川 さゆり。 

● 明智 光秀の叔父・明智 光安(あけちみつ

  やす)を演じる俳優名 : 西村 まさ彦。 

● 明智 光秀の正室夫人・熙子(ひろこ)を演

  じる女優名: 木村 文乃 (きむらふみの)。 

 

● 織田 信長を演じる俳優名: 染谷 将太 

  (そめたにしょうた)。

● 織田 信長の父・織田 信秀(おだ のぶひ

  で)を演じる俳優名 : 高橋 克典。

 

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#oogakiyamanakawar

 

■ 大垣・山中の戦い。 

     (おおがき・やまなかのたたかい)。

 

■ 大垣・山中の戦い。 

■ 名称 : 大垣・山中の戦い 

        (おおがき・やまなかのたたかい)。

■ 別名 : 新説関ヶ原の戦い。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 41639。

 

 

 □ 「新説 (史実)関ヶ原の戦い

    (= 大垣・山中の戦い)」 画像

    アルバム No.2

 

 □ 「従来説(伝説) ・関ヶ原の戦い」

    画像アル バム No.3 

 

 □ 大垣・山中の戦い(= 新説(史実)

    関ヶ原の戦い) (総合)

 

 □ 従来説(伝説)の関ヶ原の戦い

 

 □ 大垣・山中の戦い(= 新説(史実)

    関ヶ原の戦い) (人物別)

 

 □ 大垣の戦い (= 大垣・山中 

    の戦い(= 新説(史実)関ヶ原

   の戦い)の大垣の戦い)

 

 □ 山中の戦い (= 大垣・山中

   の戦 い(= 新説(史実)関ヶ原

   の戦い)の山中の戦い)

 

 □ 大垣・山中の戦い(= 新説(史実)

      関ヶ原の戦い) 関連出来事

   (年代順・詳細)

 

 □ 大垣・山中の戦い(= 新説(史実)

    関ヶ原の戦い)関連ドキュメタリー、

      ドラマ、映画

 

 

 

  ■ 「大垣・山中の戦い」(= 史実

     (新説)関ヶ原の戦い)の布陣図。

 

  

 

 

 

 

 ■ 「大垣・山中の戦い」(= 新説

       (史実)関ヶ原の戦い)の決戦。

 

  ■ 一次史料に基づく「大垣・山中の戦い(= 新

  説(史実)関ヶ原の戦い)」(1600年(慶長5

  年)8月26日頃ー9月 23日)では、 もし奉

  行衆・毛利方西軍の南宮山布陣の 大垣

  城後詰軍の毛利勢が 9月15日以後に予

  想される徳川方の東軍から攻撃を受け

  北すると、 奉行衆・毛利方の西軍が駐留

  する大垣城が孤立し非常に不利と なるので、 

  大垣城に駐留していた奉行衆・毛利方の

  西軍の小西・宇喜多・石 田・島津勢等の軍

  は、 1600年(慶長5年)9月15日以後に

  予想される東軍の徳川方による南宮山の

  奉行衆・毛利方の西軍の毛利勢への攻撃

  に備えて(の後詰として)、奉行衆・毛利方

  の西軍の小 西・宇喜多・石 田・島津勢等

  の西軍主力軍・約3万人の兵は、1600年

  (慶長5年)9月 14日の日没後、大垣城を

  出て、関ヶ原盆地・山中(やまなか)方面へ

  向う。 

     一方、9月14日の日没後、その西

  軍主力軍を追って徳川方の福島勢と家康

  の徳川本隊の東軍主力軍・約5万1000人

  の兵は大垣付近から関ヶ原盆地・ 山中(や

  まなか)方面へ向う。 

     奉行衆・毛利方の西軍主力軍は9月

  15日の午前4時頃、山中(やまなか)付近

  に布陣する。 

     その後、西軍主力軍を追って移動し

  てきた徳川方の東軍主力軍・約5万1000

  人の兵と奉行衆・毛利方の西軍主力軍・

  約3万人の兵とが、1600年(慶長5年)

  9月15日の午前10時頃から正午頃まで、 

  関ヶ原盆地の南西方向・約2kmにある、

  山中(やまなか)村で決 戦を行い、徳川方

  の東軍主力軍が勝利を得、奉行衆・毛利

  方の西軍主力軍が敗北する。

 

           

 ◆ 「関ヶ原の戦い」の新説(史実)と

    従来説(伝説)。

  ■ 関ヶ原の戦いには、 史実の「大垣・山中

  (おおがき・やまなか)の戦い(= 新説(史

  実)関ヶ原の戦い」  と、 「従来説(伝説)

  関ヶ原の戦い」 という2つの有力な説が

  ある。

 

  ■ 「大垣・山中の戦い(= 新説関ヶ原の戦い)」

  は、 関ヶ原の戦い直後の一次史料(いちじ

  しりょう、同時代日記・手紙など)に基づく、

  史実の関ヶ原の戦いである。 

      「大垣・山中の戦い(= 新説(史実)

  関ヶ原の戦い」では、 『 歴史群像・2017

  年10月号掲載の「通説打破!関ヶ原合戦

  の真実」(白峰旬教授著) 』、その他の多く

  の一次史料も、参考資料・データとして、利

  用している。   

 

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」は、後世

  の創作である。 

      「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」は、

  江戸時代に自慢話が重なってつくられた

  後世の創作の関ヶ 原の戦いである

 

 

 ◆ 新説(史実)・従来説(伝説)共通

    の「関ヶ原の戦い」。

  ■ 関ヶ原の戦い(大垣・山中の戦い)は、1600

  年(慶長5年)に日本各地で行われた、「慶長

  5年(1600年)の天下分 け目の戦い」の1つ

  であり、 「慶長5年(1600年)の天下分 け目

  の戦い」の中心的な合戦であった。 そして、

  関ヶ原の戦いの結果、徳川方の東軍が勝利

  を得、徳川家康が政権基盤を固め、その

  後、1603年(慶長7年)に、家康が将軍宣下

  (せんげ)を受け、 江戸幕府が出現した。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 関ヶ原の戦いは、 広義では、1600年(慶

  長5年)の8月26日頃(東軍の美濃赤坂布

  陣)から9月23日(西軍の大垣城落城)まで

  の間、美濃国での戦いである。

 

  (1) 1600年(慶長5年)8、9月の時点で、

  徳川方の東軍は、尾張国(おわりのくに、現・

  愛知県 西部の相当地域)の清須城(きよす

  じょう、清州城)を本拠地にし、 西軍は、美

  濃国(み ののくに、現・岐阜県南部の相当

  地域)の大垣城(おおがきじょう)を本拠地に

  し、幾本もの川を挟んで対峙していた。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  (2) 徳川方の東軍は、清須城を出て、16

  00年(慶長5年)8月23日に西軍の岐阜

  城を落城させ、 徳川方の東軍は、8月26

  日頃より、大垣付近の美濃赤坂(みのあか

  さか)に移動し布陣して、9月14日まで西軍

  の大垣城を攻撃する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

              

  (3) 1600年(慶長5年)9月14日夜に、

   西軍の大垣城にいた大部分の軍は大垣

   城を抜け出し関ヶ原盆地方面へ移動し、

   また、9月14日夜に、大垣付近の美濃赤

   坂にいた東軍の多くの軍は関ヶ原盆地方

   面へ移動し、9月15日に、東西両主力軍

   は、美濃国の平野で決戦を行った。

      東西両主力軍の決戦では、徳川方の

   東軍主力軍が勝利を得る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  (4) 大垣付近の美濃赤坂にいる徳川方の

   東軍は、1600年(慶長5年)9月15日か

   ら9月23日まで西軍の大垣城を攻撃し、

   9月23日に西軍の大垣城を落城させる。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 

 ◆ 新説(史実)・従来説(伝説)共通

    の「関ヶ原の戦い」。

 

  ■ 京極高次 (き ょうごくたかつぐ)は、東軍

  の徳川方に味 方し、大津城(おおつじょう)

  に籠城(ろうじょう)して (大津城攻防戦)、

  美濃国方面(大垣・関ヶ原盆地・山中方面)

  に向かう西軍の軍隊の一部を、 大津(おお

  つ)でくい止めた。 結果的に、美濃国で戦

  う西軍の勢力の一部が削(そ)がれた。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 関ヶ原の戦いでは、戦い後、西軍の石田三成

   小西行長安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)

   は処刑され(斬首され)、 その他の 多くの西

   軍の諸将は、 改易(かいえき、領地没収)、

   減封(げんぽう、領地削減・縮小)等の処分を

   受け、 関ヶ原の戦いは、本来は、豊臣家の

   家臣団の戦いではあったが、徳川方東軍の

   勝利により、事実上、徳川政権の基礎的基盤

   ができ、結果的に、「天 下分け目の戦 いとな

   り、1600年(慶長5年)に徳川(氏)政権が出

   現し、その後、多くの西軍の諸将の改易・減

   封処分、多くの東軍の諸将の加増、家康の将

   軍職就任などの徳川家康の政権基盤強化に

   より、1603年(慶長8年)に江戸幕府が成立

   した。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ◆ 「新説関ヶ原の戦い」(= 大垣・

    山中の戦い) (総合)。

 

  ■ 「大垣・山中の戦い」(= 新説(史実)関ヶ原

   の戦い)は、 広義では、時期は1600年

   (慶長5年)の 8月26日頃(東軍の美濃赤

   坂布陣)から9月23日(西軍の大垣城落

   城)までであり、 戦いの場所は美濃国の

   大垣(おおがき)付近や山中(やまなか)

   近であり、美濃国に集結した、徳川方の

   東軍・ 約7万3000人の兵と奉行衆・毛利

   方の西軍・約5万4000人の兵の東西両軍・

   約12万7000人の兵が戦う。 

       その決戦は、主戦場(決戦場)の山中

   (やまなか、美濃国山中村)であり、1600年

   (慶長5年)9月15日の午前10時頃から正

   午頃まで、徳川方の東軍主力軍と奉行 衆・

   毛利方の西軍主力軍との間で行われ た。

       戦いの結果、徳川方の東軍主力軍が

   勝利を得る。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ◆ 「新説関ヶ原の戦い」(= 大垣・

    山中の戦い) (総合)。

 

  ■ 「新説(史実)関ヶ原 の戦い」(= 大垣・山中

  の戦い)は、関ヶ原の戦い直後の一次史料

  (同時代日記・手紙など)に基づく、大垣・山

  中(おおがき・やまなか)の戦いであり、 

  史実の関ヶ原の戦いである。

 (⇒ 新説(史実)関ヶ原

           の戦い)。

 (⇒ 大垣・山中の戦い)。

 

  ■ 「新説(史実)関ヶ原 の戦い」(= 大垣・山中

  の戦い)は、徳川方の東軍 と、奉行衆・毛

  利方の西軍 との豊臣氏家臣間の内部抗争

  であり、 徳川方の東軍が勝利を得る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11238。

 

  ■ 全体の戦いの中心人物 : 

     全体の戦いの奉行衆・毛利の西軍の

  中心人物は、大谷吉継奉行衆・4人(増田

  長盛長束正家前田玄以石田三成)、

  宇喜多秀家毛利輝元であり、西軍は、

  反徳川で団結し、集団指導体制である。 

     一方、全体の戦いの徳川方の東軍の

  中心人物は、徳川家康である。

 

  ■ 全体の戦いの人数 : 

   徳川方の東軍・約7万3000人 と、 

   奉行衆・毛利方の西軍・約5万4000人の戦い。 

 

  ■ 全体の戦いの時期 : (広義)

   1600年(慶長5年)8月26日頃〜9月23日。 

 

  ■ 全体の戦いの場所 : 

   美濃国 (みののくに、現・岐阜県南部

   の相当地域)の、

   大垣(おおがき)付近と山中(やまなか)付近。

 

  ■ 決戦の時期 :

   1600年(慶長5年)9月15日

   午前10時頃〜正午頃。

 

  ■ 決戦の場所 :

   山中 (やまなか、美濃国山中村)。

 

  ■ 決戦での参加人数 :

   徳川方の東軍主力軍・約5万1000人 と、 

   奉行衆・毛利方の西軍主力軍・約3万人の戦い。 

 

 

  ■ 「新説(史実)関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の

     戦い)」の、大垣の戦い と 山中の戦い。

 

  ● 大垣の戦い。 徳川方の勝利。

  時期 : 1600年(慶長5年) 8月26日頃

        から9月23日まで。

  場所 : 美濃国の大垣付近 

        (美濃赤坂(みのあかさか)、大垣城

        (おおがきじょう)、南宮山(なんぐう

        さん)などの地域)。

 

  ● 山中の戦い。 徳川方の勝利。

  時期 : 1600年(慶長5年)9月15日

        の夜明けから正午頃まで。

  場所 : 美濃国の山中(やまなか)付近  

        ((関ヶ原盆地南西部、山中(やまなか)

        藤下(とうげ)、松尾山(まつおやま)

        山麓などの地域) 。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ◆ 「従来説(伝説)関ヶ原の戦い」

      (総合)。

 

  ■ 「従来説(伝説)関ヶ原の戦い」は、広義

   では、 時期は1600年(慶長5年)の8月

   26日頃(東軍の美濃赤坂布陣)から9月

   23日(西軍の大垣城落城)までであり、戦

   いの場所は美濃国(みののくに、現・岐阜

   県南部の相当地域)の関ヶ原盆地と 関ヶ

   原盆地の周辺地域であり、 美濃国に集

   結した、 徳川方の東軍・約7万人の兵と

   石田方の西軍・約8万人の兵の東西両軍・

   約15万人の兵が戦う。 

      その決戦は、主戦場(決戦地)の関ヶ

   原盆地であり、 1600年(慶長5年)9月

   15日の午前8時頃 から午後2時頃まで

   徳川方 の東軍主力軍と石田方の西軍主

   力軍との間で行われ た。 

      戦いの結果、徳川方の東軍主力軍が

   勝利を得る。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ◆ 「従来説(伝説)関ヶ原の戦い」

      (総合)。

  ■ 「従来説(伝説)関ヶ原の戦い」は、

  「日本戦史」(明治26年の旧日本陸軍参謀

  本部著作)の資料に基づく、関ヶ原の戦い

  であり、創作が多く、信憑性(しんぴょうせい)

    がない。

 (⇒ 関ヶ原の戦い)。

 

  ■ 「従来説(伝説)関ヶ原の戦い」は、徳川方の

  東軍と石田方の西軍との豊臣氏家臣間の内

  部抗争であり、 徳川方の西軍が勝利を得る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11239。

 

  ■ 全体の戦いの中心人物 : 

    全体の戦いの石田方の西軍の中心人物は、 

  石田三成である。

    一方、全体の戦いの徳川方の東軍の中心

  人物は、徳川家康である。

 

  ■ 全体の戦いの人数 :  

    徳川方の東軍・約7万人 と、 

    石田方の西軍・約8万人の戦い。 

 

  ■ 全体の戦いの時期 : (広義) 

     1600年(慶長5年)8月26日頃〜9月23日。 

 

  ■ 全体の戦いの場所 : 

   美濃国 (みののくに、現・岐阜県南部

   の相当地域)の、

   関ヶ原盆地と関ヶ原盆地の周辺。

 

  ■ 決戦の時期 :

   1600年(慶長5年)9月15日

   午前8時頃〜午後2時頃。

 

  ■ 決戦の場所 :

   美濃国の関ヶ原盆地。

 

 

 ■ 「新説関ヶ原の戦い」と「大垣の戦い」。

 

   ■ 新説関ヶ原の戦いでは、 1600年(慶長5年)

   9月に、美濃赤坂(みのあかさか)エリアには、

   既に、東軍の徳川方の先手勢(豊臣恩顧の大名)

   約4万人の兵がいた。

      1600年(慶長5年)9月14日に、徳川家康の

   率いる東軍の徳川方の徳川本隊・約3万2000人

   の兵が美濃赤坂エリアに到着した。

      1600年(慶長5年)9月14日に、南宮山(なん

   ぐうさん)に布陣し、約1万3000人の兵を率いる

   西軍の奉行衆・毛利方の毛利秀元(もうりひでもと)

   は、美濃赤坂エリアにいる、東軍の徳川方の先手

   勢・約4万人の兵(福島勢・約1万9000人の兵と

   池田勢・約2万1000人の兵) と 東軍の徳川方

   の徳川本隊・約3万2000人の兵の東軍の徳川方・

   計約7万2000人の兵を、南宮山から見た。 

   そして、西軍の奉行衆・毛利方 の毛利秀元は、

   宮山の陣より、野戦に強い東軍の徳川方の大軍

   を見て、西方からの西軍の援軍を待つことにし、

   東軍の徳川方と戦いを避け、動かなかった。

      更に、1600年(慶長5年)9月15日も、約

   1万3000人の兵を率いる南宮山布陣の西軍の

   奉行衆・毛利方の毛利秀元は、 徳川方の先手

   勢の池田勢・約2万1000人の兵が南宮山の前

   面に残留し、行く手を阻み、西軍の主力軍・約3

   万人の兵の援軍に駆けつけられず、 関ヶ原盆

   地・山中(やまなか)方面に出陣した東軍の徳川

   方の主力軍・約5万1000人の兵を挟み撃ちに

   できなかった。

             大垣城(おおがきじょう)を出た西軍の奉行

   ・ 毛利の主力軍・約3万人の兵は、 南宮

   布陣の 毛利軍の後詰(ごずめ)として、西方の

   山中(やまなか)に布陣し、東方の南宮山布陣の

   西軍の毛利秀元の約1万3000人の兵と協力し、

   関ヶ原盆地や山中に出てきた東軍の徳川方の

   主力軍・約5万1000人の兵 (徳川本隊・約3

   万2000人の兵と福島勢・約1万9000人の兵

   を挟み撃ちにしようと考えていた。

      しかし、1600年(慶長5年)9月15日に、

   東方の南宮山布陣の西軍の毛利秀元は、 東軍

   の徳川方の先手勢の池田勢に行く手を阻(はば)

   まれて、動けなかった。 このため、西軍の奉行

   ・ 毛利南宮山の毛利秀元の援軍もなく、

   西軍の奉行・毛利の主力軍・約3万 の兵

   は、山中(やまなか)での決戦で、一方的に攻め

   られ、総崩れとなり、その結果、西軍の奉行衆

   毛利の 主力軍は、 東軍の徳川方の主力軍に

   敗北した。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#oogakiyamanakawar-general

 

 「大垣・山中の戦い(= 新説

   (史実)関ヶ原の戦い)」。 

 

 

 ■ 「大垣・山中の戦い(= 新説(史実)

    関ヶ原の戦い)」 (総合)。 

 

  ■ 「大垣・山中の戦い」 (おおがき・やまなかのた

  たかい、= 新説関ヶ原の戦い、慶長庚子の大

  乱(けいちょうこうしのたいらん)) は、 関ヶ原

  の戦い直後の一次史料(同時代手紙・日記など)

  に基づく「史実の関ヶ原の戦い」である。

 

  ■ 「大垣・山中の戦い(= 新説関ヶ原の戦い)」には、

  「大垣(おおがき) の戦い」 と 「山中(やまなか)

  の戦い」 の2つの合戦がある。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 「大垣・山中 の戦い」(= 新説関ヶ原の戦い)で

   は、 奉行衆・ 毛利の西軍の中心人物は、 

   奉行衆3人(増田長盛、長束正家、前田玄以)

   と毛利輝元である 一方、徳川方の東軍の中

   心人物は、徳川家康である。

      奉行衆3人とは、 五奉行の中の3人で

   あり、増田長盛 (ましたながもり)、 長束正 

   家(なつかまさいえ)、 前田玄以 (まえだげ

   んい) である。

 

  ■ 「大垣・山中の戦い(= 新説関ヶ原の戦い)」の

   決戦は、1600年(慶長5年)9月15日の午前

   10時頃から正午頃までの約2時間の間、

   美濃国の主戦場の山中(やまなか)で、徳川

   の東軍と奉行衆・毛利方の西軍との間で行

   われた戦いである。 徳川方の東軍は、戦いを

   有利にすすめ、勝利を得る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 徳川家康は、 自身の書状で、関ヶ原の戦いの

  主戦場は、 「濃州山中」 (のうしゅうやまなか、

  美濃国の山中村)) と述べている (「慶長五年

  九月十五日付伊達政宗宛徳川家康書状」より)。

 

  ■ 「大垣・山中の戦い」は、 「新説関ヶ原の戦い」

  の別名であり、 関ヶ原の戦い直後の一次史料

  (同時代日記・手紙など)に基づき、 美濃国 

  大垣 付近や山中付近で、 1600年(慶長

  5年)8月26日頃から9月15日まで、徳川方

  の東軍と奉行衆・毛利方の西軍との間で行わ

  れた合戦である。 

     結果は、徳川方の東軍が勝利を得た。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 「大垣・山中の戦い」(= 新説関ヶ原の戦い)は、

   時期は1600年(慶長5年)の(東軍の美濃赤

   坂(みのあかさか)布陣の)8月26日頃から

   (東西両軍の決戦の)9月15日まであり、 

   場所は美濃国 (みののくに、現・岐阜県南部の

   相当地域)の大垣(おおがき)付近や山中(やま

   なか)付近であり、 美濃国に結集した、東軍・

   約7万3000人、西軍・約5万4000人の東西

   両軍・約12万7000人が戦い、 その決戦は、

   美濃国の主戦場の山中であり、 1600年(慶

   長5年)9月15日の 午前10時頃から正午頃ま

   で、徳川方の東軍と奉行 衆(ぶぎょうしゅう)・

   毛利(もうり)方の西軍との間で行われた。 

      戦いの結果、徳川方の東軍が勝利を得る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

               

  ■ 「大垣・山中の戦い(= 新説の関ヶ原 の戦い)」

   は、 徳川方の東軍と奉行衆・毛利方の西軍

   との間の、豊臣氏家臣間の内部抗争である。 

      「大垣・山中の戦い(= 新説関ヶ原の戦

   い)」では、 当初は、大垣城(おおがきじょう)を

   攻め落とすことが 「天下之勝負」(天下分け目

   の戦いの勝敗を決めること)であった。 しかし、

   その決戦は、美濃国の主戦場の山中(やまな

   か)で行われた。

      徳川方の東軍が有利に戦いをすすめ、勝

   利を得た。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ◆ 「大垣・山中の戦い (= 新説関ヶ原

    の戦い)」。 

 

  ■ 「大垣・山中の戦い(= 新説関ヶ原の戦い)」は、

   1600年(慶長5年)8月26日から9月15日 ま

   で、 美濃国 (みののくに、概ね、現・岐阜県

   南部の相当地域) の大垣(おおがき)付近

   や山中(やまなか)付近で、  徳川方の東軍と

   奉行衆・毛利方の西軍が戦 った合戦である。

      「大垣・山中の戦い(= 新説関ヶ原の戦い)」

   には、 「大垣の戦い」 と、 「山中の戦い」 の

   2つの合戦がある。 

 

   ■ 大垣の戦いは、 1600年(慶長5年) 8月

   26日頃から9月15日までの戦いである。

      最初東軍(徳 川方)の徳川方先手勢の

   池田勢・福島勢の豊臣恩顧の大名の軍 と、 

   西軍(奉行衆・毛利方)の本隊の大垣城籠城衆 

   (駐留軍)との大垣城の攻防戦である。 

      次に、東軍(徳川方)の徳川方先手勢の池

   田勢・福島勢の豊臣恩顧の大名の軍 や (後か

   ら来た)徳川本隊の軍 と、 西軍(奉行衆・毛利

   方)の、本隊の大垣城籠城衆(駐留軍) や (大

   垣城後詰軍として後から来た)南宮山 (なんぐう

   さん)東側に布陣する毛利勢の軍 との対峙であ

   る。 

      次に、東軍(徳川方)の徳川方先手勢の

   福島勢の豊臣恩顧の大名の軍 や 徳川本隊

   の軍 と 西軍(奉行衆・毛利方)の本隊の大垣

   城籠城衆(駐留軍)は、関ヶ原分地・山中方面に

   移動し、 大垣付近に残留した、東軍(徳川方)

   の徳川方先手勢の池田勢の豊臣恩顧の大名の

   軍 と、 大垣付近に残留した、西軍(奉行衆・

   毛利方)の、大垣城少数残留軍 や 南宮山東

   側に布陣する毛利勢の軍 との対峙である。 

       戦いの結果、徳川方の東軍が勝利を得、

   奉行衆・毛利方の西軍が敗北する。

 

   ■ 山中の戦いは、 1600年(慶長5年)9月

   15日の夜明けから 正午頃までの間の戦いであ

   る。

      最初に、関ヶ原盆地南西部で、 (大垣付近

   から来た)東軍(徳川方)の徳川本隊  や (西軍

   から東軍(徳川方)に寝返り関ヶ原盆地南方の

   松尾山山麓布陣の)小早川 隊 と、 西軍(奉行

   衆・毛利方)の(関ヶ原盆地南西部布陣の)大谷

   軍との合戦であり、大谷軍が全滅する。 

       次に、関が原盆地の南西方向・約2km

   にあ る山中(やまなか)で、 東軍 (徳川方)の

   (大垣付近の美濃赤坂から来た)徳川方先手勢 

   の福島勢 や 徳川本隊等の軍 と、 西軍(奉

   行衆・毛利方)の(大垣付近の大垣城から来た)

   小西・宇喜多・石田・ 島津勢等の軍 との間で

   われた合戦であり、西軍が総崩れとなる。 

      戦いの結果、徳川方の東軍が勝利を得、

   奉行衆・毛利方の西軍が敗北する。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ◆ 「大垣・山中の戦い(= 新説関ヶ原

    の戦い)」。 

 

 ■ 「大垣の戦い」 と 「山中の戦い」。

 

 ■ 「大垣・山中の戦い(= 新説の関ヶ原の戦い)」は、

  1600年(慶長5年)8月26日頃から9月15日 まで、 

  美濃国(みののくに、現・岐阜県南部の相当地域)

  の大垣(おおがき)付近や山中(やまなか)付近で

  徳川方の東軍と奉行衆・毛利方の西軍が戦 った合

  戦である。 戦いの結果、徳川方の東軍が勝利をる。

     「大垣・山中の戦い(= 新説の関ヶ原の戦い)」

  には、 「大垣の戦い」 と、 「山中の戦い」 の

  2つの合戦がある。 

     大垣の戦いは、 1600年 (慶長5年))8月

  26日から9月15日までの大垣(おおがき)付近で

  戦いであり、 最初に、東軍(徳川方) の徳川方

  先手衆の福島勢や池田勢の軍 と 西軍(奉行衆・

  毛利方)の大垣城在留軍との大垣城の攻防戦で

  あり、 次に、東軍(徳川方)の徳川本隊や徳川方

  先手衆の福島勢・池田勢の軍 と、 西軍(奉行衆・

  毛利方)の、大垣城後詰軍として南宮山 (なんぐう

  さん)東側に布陣する毛利勢 や 大垣城在留軍 

  との対峙である。 戦いの結果、徳川方の東軍が

  勝利をる。

     山中の戦いは、1600年(慶長5年)9月15

  日の夜明けから 正午頃までの間の戦いであり、 

  最初に、関ヶ原盆地西南部で、次に、関が原盆

  地の南西方向・約2kmにある主戦場山中(や

  まなか)で行われた戦いである。 戦いの結果、

  徳川方の東軍が勝利を得る。

 

  ■ 「大垣・山中の戦い(= 新説関ヶ原の戦い)」

  は、 大垣(おおがき )付近山中(やま なか)

  付近で戦われた合戦である。 

      大垣の戦いは、最初に、東軍(徳川方)

  の徳川方先手勢 と、 西軍(奉行衆・毛利方)の

  大垣城籠城衆(駐留軍)が戦った大垣城攻防戦

  の合戦であり、 次に、東軍(徳川方)の徳川本

  隊・徳川方先手勢 と、 西軍(奉行衆・毛利方)

  の南宮山(なんぐうさん)東側布陣の大垣城後

  詰軍の毛利勢や大垣城籠城衆(駐留軍) との

  対峙である。 戦いの結果、徳川方の東軍が勝

  利を得る。

      山中(やまなか)の戦いは、 最初に、東

  軍(徳川方)の徳川本隊や西軍から東軍に寝

  返り小早川の軍 と、 西軍(奉行衆・毛利方)

  の大谷軍とが戦った関ヶ原盆地西部の合戦

  であり、 次に、東軍(徳川方)の徳川方先手勢

  の福島勢や徳川本隊等の軍 と、 西軍(奉行衆

  ・毛利方)の小西・宇喜多・石田・ 島津勢等の軍

  とが戦った、主戦場の山中(やまなか)での合戦

  である。 戦いの結果、徳川方の東軍が勝利を

  得る。

 

 ◆ 「大垣・山中の戦い(= 新説の関ヶ原

    の戦い)」。 

  ■ 「大垣・山中の戦い(= 新説関ヶ原の戦い)」では、

  「内府ちがひの条々」(ないふちがいのじょうじょう)

  を出した豊臣氏・奉行衆3人 (長束正家(なつかま

  さいえ)、増田長盛(ましたながもり)、前田玄以(ま

  えだげんい)の豊臣氏の3奉行) が、 徳川家康を

  弾劾(だんがい)し、それに賛同した大名・武将が

  西軍(奉行衆・毛利方)となり、 西軍(奉行衆・毛

  利方)の毛利輝元(もうりてるもと)は豊臣大坂城に

  入り、 西軍(奉行 衆・毛利方)の宇喜田秀家(うき

  たひでいえい)や 石田三成は、奉行衆・毛利方

  西軍を率いて、東方に出陣し、美濃国で布陣する。

     一方、弾劾された徳川家康に味方した大名・

   武将は、東軍(徳川方)となる。

 

  ■ 「大垣・山中の戦い(= 新説関ヶ原の戦い)」は、

  西軍(奉行衆・毛利方)東軍(徳川方)との豊臣

  氏家臣間の内部抗争である。 徳川方が有利に

  戦いをすすめ、勝利を得た。

     「大垣・山中の戦い(= 新説関ヶ原の戦い)

  では、大垣城 を攻め落とすことが「天下之勝負」

  (天下分け目の戦いの勝敗を決めること)であり、

  徳川方が有利に戦いをすすめ、勝利を得た。

      「大垣・山中の戦い(= 新説関ヶ原の戦

  い)」では、 東軍(徳川方)の現場指揮者は、徳

  川家康、福島正則、池田輝政であり、 西軍(奉

  行衆方)の現場指揮者は、宇喜多秀家、石田三

  成、大谷吉継、毛利秀元であり、 また、西軍(奉

  行衆・毛利方)の小早川秀秋は、 東軍(徳川方)

  に寝返る。

 

 

#oogakiyamanakawar-thetraditionaltheory

 

 「伝説(従来説)の関ヶ原

   の戦い」。

 

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」は、 「日本

  戦史」(明治26年の旧日本陸軍参謀本部著作)

  の資料に基づく、後世に編集された、関ヶ原の

  戦いである。

  (注意) 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」は、

  後世につくられ、創作が多く、信憑性(しんぴょ

  うせい)があまりない。 「物語の関ヶ原の戦い」

  である。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、 石田

   方の西軍の中心人物は、 石田三成である。

   一方、徳川方の東軍の中心人物は、徳川家康

   である。

 

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」の決戦は、

   1600年(慶長5年)9月15日 の午前8時頃か

   ら午後2時頃までの約6時間の間、美濃国の

   主戦場の関ヶ原盆地で、徳川方の東軍と石田

   方の西軍との間で行われた戦いである。 徳川

   方の東軍は、苦戦をして、勝利を得る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」は、 広義で

   は、時期は1600年(慶長5年)の(東軍の美濃

   赤坂布陣の)8月26日頃から9月15日まであ

   り、場所は美濃国の関ヶ原盆地と関ヶ原盆地の

   周辺地域であり、 美濃国に集結した、東軍・約

   7万人、西軍・約8万人の東西両軍・約15万人

   が戦い、 その決戦は、主戦場の関ヶ原盆地で

   あり、 1600年(慶長5年)9月15日の午前8

   時頃から午後2時頃まで、 徳川方の東軍と石

   田方の西軍との間で行われた。 戦いの結 果、

   徳川方の東軍が勝利を得る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」は、 1600年

   (慶長5年)8月26日頃から9月15日まで、

   美濃国 (みののくに、現・岐阜県南部の相当

   地域)の関ヶ原盆地と関ヶ原盆地の周辺地域で 、 

   徳川方の東軍と石田方の西軍との間で行われ

   た戦いである。 結果は、徳川方の東軍が勝利

   を得る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

              

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」は、 徳川方の

  東軍と石田方の西軍との豊臣氏家臣間の内部抗

  争である。  結果は、徳川方の東軍が、勝利を

  得る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#oogakiyamanakawar-byperson

 

 「大垣・山中の戦い

   (= 新説関ヶ原の戦い)」。 

 

 

 ■ 徳川家康。

     「大垣・山中の戦い(= 新説関ヶ原の戦い)」

  では、 東方からやって来た、東軍(徳川方)の徳

  川家康は、徳川本隊と共に、1600年(慶長5年)

  9月14日に、(関ヶ原盆地の桃配山の北東方向

  にある)美濃赤坂(みのあかさか)という場所で

  布陣し、 西軍(奉行衆・毛利方)の南宮山(なん

  ぐうさん)東側に布陣する毛利勢の軍や大垣城

  籠城衆(駐留軍) と対峙し、 その後、9月14日

  夜に、西軍(奉行衆・毛利方)を追って移動し、

  9月15日夜明けに東軍(徳川方)の 徳川家康と 

  徳川本隊は、関ヶ原地西部に 移動しそこで西

  軍(奉行衆・毛利方)の大谷軍と対峙し戦い勝利

  を得、次に、山中(やまなか)に移動し、西軍(奉

  行衆・毛利方)の小西・宇喜多・石田・ 島津勢等

  の軍と対峙しそこで戦い、勝利を得る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 ■ 徳川家康

      「大垣・山中の戦い(= 新説の関ヶ原の戦

  い)」では、 1600年(慶長5年)9月14日に、

  東方からやって来た徳川家康は、徳川本隊と共

  に、(関ヶ原の桃配山の北東方向にある)美濃赤

  坂(みのあかさか) という場所で布陣し、 南宮

  山(なんぐ うさん)東側に布陣する毛利勢の軍

  や大垣城籠城衆(駐留軍)と対峙 する。 

      1600年(慶長5年)9月14日夜に、家康と

  徳川本隊(約3万2000人)は、 西軍(奉行衆・毛

  利方)の主力軍の関ヶ原盆地・山名方面への移動

  の情報を聞きつけ、 西軍(奉行衆方)を追って、

  徳川方先手勢の福島勢(約1万9000人)と共に、

  関ヶ原盆地・山中(やまなか)方面へ移動し、9月

  15日夜明けに関ヶ原盆地南西部に移動し、関ヶ

  原西南部に布陣する西軍(奉行衆・毛利方)の

  谷 軍(約1200人)と遭遇し戦い勝利を得、 その

  後、山中(やまなか)に移動し、山中(やまなか)に

  いた西軍(奉行衆・毛利方)の小西・宇喜多・石田・

  島津勢等の軍(約3万人)と戦い、勝利を得る。

 

 ■ 大谷吉継。

     「大垣・山中の戦い(= 新説関ヶ原の戦い)」

  では、 西軍(奉行衆 ・毛利方)の大谷吉継(おおた

  によしつぐ) と大谷軍(約1200人)は、北陸方面

  から移動してきて、1600年(慶長5年)9月14日

  の夜に、関ヶ原盆地西南部に布陣した。 

     「山中の戦い」合戦の第1段階として、 16

  00年(慶長5年)9月15日夜明けに、 関ヶ原盆地

  南西部で、 西軍(奉行衆・毛利方)の先方隊の大

  谷軍は、 東軍(徳川方)の徳川本隊の軍と戦い、 

  更に松尾山山麓から移動して来た、東軍(徳川方)

  に寝返った小早川軍と戦い、 挟み撃ちにされて、

  大谷吉継は自害(自刃) し、大谷軍は、全滅した。

  

 

 ■ 石田三成。

  ■ 「大垣・山中の戦い(= 新説関ヶ原の戦い)」

  では、石田三成は、 西軍結成(挙兵)の首謀者

  ではなく、 家康と良好な関係にあったが、 西

  (奉行衆 ・毛利方)の大谷吉継の説得で西軍

  に加わる。

 

  ■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

  は、 石田三成は、 豊臣秀吉 の死後、徳川家

  康とは友好な関係であったが、 1600年(慶長

  の5年)天下分け目の戦い (関ヶ原の戦い(大垣・

  山中の戦い)、他の戦い)では、 大谷吉継の説

  得で、  西軍(奉行衆 ・毛利方)に加わり、敗れて、

  捕まり、処刑される(斬首される)。

 

 ■ 石田三成。

  ■ 「大垣・山中の戦い(= 新説関ヶ原の戦い)」

  では、 西軍(奉行衆・毛利方)の石田三成は、

  1600年(慶長5年)8月26日から9月14日まで、

  大垣城で籠城し、東軍(徳川方)と戦い、9月14日

  の日没後、大垣城を出て、関ヶ原盆地・山中(やま

  なか)方面へ向い、 その後、石田三成 は、1600

  年(慶長5年)9月15日 の午前4時頃に、山中(や

  まなか)近くの、(関ヶ原の笹尾山から南3kmの)

  藤下 (とうげ)の自害峯(じがいみね)という場所

  に布陣し、 大垣付近から来るかもしれない東軍

  (徳川方)や裏切るかもしれない西軍(奉行衆方)

  の松尾山山麓に布陣する小早川秀秋の軍と対峙

  し、 その後、すぐ近くの山中(やまなか)へ移動し、

  そして、石田三成は、午前10時頃から正午頃まで、

  山中(やまなか)で、大垣付近から来た東軍(徳川

  方)の徳川方先手勢の福島勢や徳川本隊と戦い、

  敗北する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 ■ 石田三成。

      「大垣・山中の戦い(= 新説関ヶ原の戦

  い)」では、 西軍(奉行衆・毛利方)の石田三成

  は、1600年(慶長5年)8月26日から9月14日

  まで、 大垣城で籠城し、東軍(徳川方)と大垣

  城攻防戦を行う。

      西軍(奉行衆・毛利方)南宮山の大垣

  城後詰軍の毛利勢が9月15日 以後に予想され

  る東軍(徳川 方)から攻撃を受け敗北すると西

  軍(奉行衆・毛利方)が駐留する大垣城が孤立し

  不利になるので、 石田三成は、9月15日の東

  軍(徳川方)による西軍(奉行衆・毛利方)の南

  宮山布陣の毛利勢への攻撃に備えて(の後詰

  として)、 1600年(慶長5年)9月14日の日没

  後、大垣城を出て、関ヶ原盆地・山中(やまなか)

  方面へ向う。 

     石田三成は、9月15 日の午前四時頃、

  山中(やまなか)近くの、(関ヶ原の笹尾山から

  南3kmの)藤下(とうげ)の (以前より整備して

  いた)自害峯(じがいみね)という場所に布陣し、 

  石田三成は、大垣付近から来るかもしれない

  東軍(徳川方)の軍 や 東軍(徳川方)に寝返

  るかもしれない松尾山山麓に布陣する西軍(奉

  行衆・毛利方)の小早川秀秋の軍と対峙する。

     石田三成は、すぐ近くの山中(やまなか)に

  移動し、 9月15日の午前10時頃から正午頃ま

  で、  大垣付近から追って来て山中に現れた

  軍(徳川方)の徳川方先手勢の福島勢や徳川本

  隊等の軍と戦い、敗北する。

 

 ■ 石田三成。

  ■ 一次史料に基づく「新説関ヶ原の戦い(= 大

  垣・山中の戦い)」(1600年(慶長5年)8月26

  日ー9月15日)では、 9月15日以後に西軍(奉

  行衆・毛利方)南宮山(なんぐうさん)の 大垣城

  後詰軍の毛利勢が東軍(徳川方)から攻撃を受

  けて敗北すると西軍(奉行衆・毛利方) の拠点の

  大垣城が孤立し不利となるので、 大垣城に駐

  留していた西軍(奉行衆・毛利方)の小西・宇喜

  多・石 田・島津勢等の軍は、1600年(慶長5年)

  9月15日以後に予想される東軍(徳川方)による

  西軍(奉行衆・毛利方) の南宮山の毛利勢への

  攻撃に備えて(の後詰として)、 1600年(慶長

  5年)9月14日の日没後、大垣城を出て、関ヶ原

  盆地・山中(やまなか)方面へ向い、 西軍(奉行

  衆方)の小西・宇喜多・石 田・島津勢等の軍は、

  9月15日の未明に、 山中(やまなか)付近に布陣

  し、 大垣付近から来るかも しれない東軍(徳川方)

  の軍 や 松尾山山麓に布陣し裏切るかもしれな

  い西軍(奉行衆・毛利方)の小早川秀秋の軍と対

  峙する。 

     西軍(奉行衆 ・毛利方)の小早川秀秋は、

  1600年(慶長5年)9月14日に、松尾山山麓

  に布陣する。

     石田三成は、 1600年(慶長5年)9月14

  日の日没後に、大垣城から出て、山中(やまな

  か)付近の(関ヶ原盆地の笹尾山から南3kmに

  ある)藤 下(とうげ)の 自害峯(じがいみね)とい 

  う場所に、午前4時頃、布陣し、石田三成は、

  大垣付近から来るかもしれない東軍(徳川方)の

  軍 や 東軍(徳川方)に寝返るかもしれない松尾

  山山麓に布陣する西軍(奉行衆・毛利方)の小早

  川秀秋の軍と対峙する。 その後、石田三成は、 

  すぐ近くの山中(やまなか)に移動し、9月15日の

  午前10時頃から正午頃まで、  大垣付近から追っ

  て来て山中(やまなか)に現れた東軍(徳川方)の

  徳川方先手勢の福島勢や徳川本隊等の軍と戦い、

  敗北する。

 

 

 ■ 小早川秀秋。

  ■ 「大垣・山中の戦い(= 新説関ヶ原の戦い)」

  では、 西軍(奉行衆・毛利方) の小早川秀秋は、

  東軍(徳川方)に寝返る。 

 

  ■ 西軍(奉行衆・毛利方)の小早川秀秋は、 16

  00年(慶長5年)9月14日に、関ヶ原盆地の南

  西方向の、松尾山(まつおやま)に布陣する西

  軍(奉 行衆・毛利方)の伊藤盛正(いとうもりま

  さ)を追いだし、松尾山山麓に布陣する。 

     1600年(慶長5年)9月15日の夜明けに、

  関ヶ原盆地南西部で、東軍(徳川方)の徳川本隊

  が、西軍(奉行衆・毛利方) の大谷軍を攻撃してい

  る時、 西軍(奉行衆・毛利方)の小早川秀秋は、

  東軍(徳川方)に寝返り、大谷軍を攻撃し、挟み撃

  ちにして、大谷軍を全滅させる。

 

 

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◆ 大垣の戦い。

 

  ■ 大垣の戦いの場所 : 美濃国の大垣(おおがき )

   の付近 (美濃赤坂、大垣城、南宮山(なんぐうさ

   ん)東側の付近)。

   大垣の戦いの時期 : 1600年(慶長5年) 8月

   26日〜9月15日。

 

  ● (S) 「大垣の戦いの西軍(奉行衆・毛利方)参加

      軍」は、

  @ 大垣城籠城衆(駐留軍) 

     ( 8月26日〜9月14日:約3万3500人、

     小西・宇喜多・石田・島津勢等の軍・約3万人 

     や 福原・熊谷・垣見・秋月・相良等の軍・約

     3500人、 9月15日:約3500人のみ、

     福原・熊谷・垣見・秋月・相良等の残留軍)     

  A 南宮山の毛利勢の軍 

     (9月7日〜9月15日、約1万 3000人、毛利

     秀元・吉川・安国寺・長束・長宗我部等の軍

  の計約4万6500人である。

 

  ● (T) 「大垣の戦いの東軍(徳川方)参加軍」は、

  @ 東軍(徳川方)の徳川方先手勢の福島勢の 軍

     (8月26日〜9月14日、約1万9000人、

     福島・黒田・細川・藤堂・筒井・田中・加藤

     嘉明・京極高知等の軍)

  A 徳川方先手勢の池田勢の軍  

     ( 8月26日〜9月15日、約2万1000人、

      池田・山内・堀尾・有馬・松下・浅野幸長等

     の軍) 、

  B 東軍(徳川方)の徳川本隊 

          (9月14日、約3万2000人、徳川家康、井伊

     直政、本多忠勝、家康馬廻り衆等の軍)

  の計約72000人である。  

 

 

  ● 〈第1段階〉 

  1600年(慶長5年)8月26日から9月13日まで、 

  美濃国の大垣城周辺で、

  (S) 西軍(奉行衆・毛利方)の、大垣城籠城衆

      (駐留軍)(約3万3500人) や 南宮山

      の毛利勢の軍(約1万3000人、9月7日

      〜13日

  と、

  (T) 東軍(徳川方)の、徳川方先手勢の福島勢

      の軍(約1万9000人) や 徳川方先手

      勢の池田勢の軍 (約2万1000人)

  とが対峙し戦う。 

     結果、大垣城攻防戦で大垣城は落城せず。

 

  ● 〈第2段階〉 

  1600年(慶長5年)9月14日の昼間に、

  美濃国の南宮山東側や大垣城周辺で、

  (S) 西軍(奉行衆・毛利方)の、 大垣城籠城衆

      (駐留軍)(約3万3500人) や 南宮山

      の毛利勢の軍(約1万3000人

  と、 

  (T) 東軍(徳川方)の、徳川本隊(約3万2000

     人) や 徳川方先手勢の福島勢の軍(約

     1万9000人)、徳川方先手勢の池田勢 の

     軍 (約2万1000人) 

  とが対峙する。 

     結果、 西軍(奉行衆・毛利方)の南宮山布

  陣の毛利勢(約1万3000人)は、 9月14日の

  昼間、東軍(徳川方)合計・約7万2000人の大

  軍に恐れをなして戦わず、即ち、強力な東軍の

  徳川方の大軍を見て、勝ち目がないとみて、西

  方からの西軍の援軍の到着を待ち、戦いを避け

  る。 

     一方、 西軍(奉行衆・毛利方)は、9月15

  日以後の南宮山の毛利勢攻撃に備えて (南宮

  山布陣の毛利勢が敗退すれば西軍の大垣城が

  孤立し不利となるので、南宮山の毛利勢の後詰

  軍(後援軍)として)、 西軍(奉行衆・毛利方)の

  大垣城籠城衆(駐留軍)(約3万3500人)は、 

  9月14日の日没後、大垣城に残留在番衆部隊

  (約3500人)を残して、 大垣城を出て、関ヶ原

  盆地・山中方面へ向う。 それを知った東軍(徳

  川方)は、9月14日夜、 西軍(奉行衆・毛利方)

  の小西・宇喜多・石 田・島津勢等の軍(約3万人)

  の主力軍を追撃するため、 徳川方先手勢の池

  勢の 軍(約2万1000人)を大垣付近に残して、 

  徳川本隊(約3万2000人)と徳川方先手勢の

  福島勢の軍(約 1万9000人)の主力軍が、関ヶ

  原盆地・山中方面へ向う。

 

  ● 〈第3段階〉 

  1600年(慶長5年)9月15日に

  美濃国の南宮山東側や大垣城周辺で、

  (S) 西軍(奉行衆・毛利方)の、南宮山 の毛利勢

     の軍(約1万5000人) や 大垣城残留勢

     (約3500人)

  と、 

  (T) 東軍(徳川方)の徳川方先手勢の池田勢の

      軍 (約2万1000人) 

  とが対峙する。 

     結果、 山中(やまなか)の戦いでの西軍(奉

  行衆方)の敗北を知り、 西軍(奉行衆・毛利方)

  南宮山の毛利勢は戦場を離脱し(追撃され)、

  東軍(徳川方)が勝利を得る。 

     一方、大垣城残留勢 (約3500人、福原・熊

  谷・垣見・秋月・相良等の軍)は、戦いを続ける。

 

 

 ■ 「新説関ヶ原の戦い」と「大垣の戦い」。

 

   ■ 新説関ヶ原の戦いでは、 1600年(慶長5年)

   9月に、美濃赤坂(みのあかさか)エリアには、

   既に、東軍の徳川方の先手勢(豊臣恩顧の大名)

   約4万人の兵がいた。

      1600年(慶長5年)9月14日に、徳川家康の

   率いる東軍の徳川方の徳川本隊・約3万2000人

   の兵が美濃赤坂エリアに到着した。

      1600年(慶長5年)9月14日に、南宮山(なん

   ぐうさん)に布陣し、約1万3000人の兵を率いる

   西軍の奉行衆・毛利方の毛利秀元(もうりひでもと)

   は、美濃赤坂エリアにいる、東軍の徳川方の先手

   勢・約4万人の兵(福島勢・約1万9000人の兵と

   池田勢・約2万1000人の兵) と 東軍の徳川方

   の徳川本隊・約3万2000人の兵の東軍の徳川方・

   計約7万2000人の兵を、南宮山から見た。 

   そして、西軍の奉行衆・毛利方 の毛利秀元は、

   宮山の陣より、野戦に強い東軍の徳川方の大軍

   を見て、西方からの西軍の援軍を待つことにし、

   東軍の徳川方と戦いを避け、動かなかった。

      更に、1600年(慶長5年)9月15日も、約

   1万3000人の兵を率いる南宮山布陣の西軍の

   奉行衆・毛利方の毛利秀元は、 徳川方の先手

   勢の池田勢・約2万1000人の兵が南宮山の前

   面に残留し、行く手を阻み、西軍の主力軍・約3

   万人の兵の援軍に駆けつけられず、 関ヶ原盆

   地・山中(やまなか)方面に出陣した東軍の徳川

   方の主力軍・約5万1000人の兵を挟み撃ちに

   できなかった。

             大垣城(おおがきじょう)を出た西軍の奉行

   ・ 毛利の主力軍・約3万人の兵は、 南宮

   布陣の 毛利軍の後詰(ごずめ)として、西方の

   山中(やまなか)に布陣し、東方の南宮山布陣の

   西軍の毛利秀元の約1万3000人の兵と協力し、

   関ヶ原盆地や山中に出てきた東軍の徳川方の

   主力軍・約5万1000人の兵 (徳川本隊・約3

   万2000人の兵と福島勢・約1万9000人の兵

   を挟み撃ちにしようと考えていた。

      しかし、1600年(慶長5年)9月15日に、

   東方の南宮山布陣の西軍の毛利秀元は、 東軍

   の徳川方の先手勢の池田勢に行く手を阻(はば)

   まれて、動けなかった。 このため、西軍の奉行

   ・ 毛利南宮山の毛利秀元の援軍もなく、

   西軍の奉行・毛利の主力軍・約3万 の兵

   は、山中(やまなか)での決戦で、一方的に攻め

   られ、総崩れとなり、その結果、西軍の奉行衆

   毛利の 主力軍は、 東軍の徳川方の主力軍に

   敗北した。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 「大垣の戦い」。

 

  ■ 「大垣の戦い (おおがきのたたかい)」とは、 

  美濃国 (みののくに、現・岐阜県南部の相当地

  域)の大垣(おおがき)付近 (美濃赤坂、大垣城、

  南宮山東側の付近)で、 1600年(慶長5年)

  8月26日から9月15日まで、 徳川方の東軍 と

  奉行衆・毛利方の西軍 との間で行われた合戦で

  ある。 戦いの結果、徳川方の東軍が勝利を得る。

              

  ■ 「大垣の戦い」では、 第一段階として、大垣城

  の攻防戦で、1600年(慶長5年)8月26日

  ら9月13日まで東軍(徳川方)徳川方先手

  勢の福島勢、池田勢の豊臣恩顧大名の軍 (約

  4万人)と西軍(奉行衆・毛利方)の大垣 城在留

  軍との間で大垣城攻防戦が戦われ、 1600年

  (慶長5年)9月 7日に南宮 山(なんぐうさん)に

  大垣城後詰軍の西軍(奉行衆方)の毛利勢が布

  陣する。 

     第2段階として、西軍(奉行衆・毛利方)の

  大垣城後詰軍の毛 利勢を降参させ西軍(奉行

  衆・毛利方)拠点の大垣城を孤立させるため、 

  1600年(慶長5年)9月14日に、東軍(徳川方)

  徳川家康は、東方 から来て美濃赤坂(みのあか

  さか)付近に布陣し、西軍(奉行衆・毛利方)の毛

  利勢や大垣城籠城衆(駐留軍)と対峙し、 西軍

  (奉行衆・毛利方)の南宮山の大垣城後詰軍の

  毛利勢は、9月14日に、東軍(徳川方)の大軍を

  恐れて戦わず、即ち、強力な東軍の徳川方の

  軍を見て、勝ち目がないとみて、西方からの西軍

  の援軍の到着を待ち、戦いを避ける。 

     第3段階として、その後、西軍(奉行衆・毛利

  方)の南宮山の毛利勢は、9月15日に、戦場を離

  脱し(追撃され)、東軍(徳川方)は勝利を得る。

 

 ■ 大垣の戦い。

 

  ■ 大垣(おおがき )の戦いでは、 1600年(慶長

  5年)8月26日頃から、東軍(徳川方)の徳川方

  先手勢の福島勢、池田勢の豊臣恩顧大名の軍

  は、美濃赤坂(みのあかさか)付近に布陣し、

  西軍(奉行衆・毛利方)の拠点の大垣城(おおが

  きじょう)へ向い、西軍(奉行衆・毛利方)の大垣

  城籠城衆(駐留軍)への攻防戦が開始される。 

  その後、大垣城の西方にある南宮山(なんぐう

  さん)東側に9月7日より布陣する大垣城後詰軍

  の約1万3000人の西軍(奉行衆・毛利方)の

  毛利 勢を攻め降伏させ大垣城を孤立させるた

  め、1600年(慶長5年)9月14日 の昼間に、

  東方から来て美濃赤坂に入った東軍(徳川方)

  の徳川家康率いる約3万2000人の徳川本隊  

  (井伊直政、本多忠勝、家康馬廻り 衆等の軍) 

  は、 東軍(徳川方)の徳川方先手勢の福島勢・

  池田勢(計・約4万人)と共に、 西軍(奉行衆・

  毛利方)の毛利勢の軍 (約1万3000人)や大垣

  城籠城衆(駐留軍)(約3万3500人) と対峙す

  る。 

      しかし、9月14日の昼間、西軍(奉行衆・

  毛利方)の南宮山東側布陣の毛利勢の軍(約1万

  3000人)は、 大垣付近にいる東軍(徳川方)の

  大軍・計約7万2000人に恐れをなし戦わず、

  即ち、強力な東軍の徳川方の大軍を見て、勝ち

  目がないとみて、西方からの西軍の援軍の到着

  を待ち、戦いを避ける。 

     一方、 西軍の小西・宇喜多・石田・ 島津

  勢 などの軍(約3万人)が9月14日の日没後

  に、大垣城を出て関ヶ原盆地・山中(やまなか)

  方面に転進(移動)したことを東軍徳川方 ) は

  知り、 東軍(徳川方)は、 西軍(奉行衆・毛利

  方)の南宮山の毛利勢や大垣城残留勢に対峙

  させるため、徳川方先手勢の池田勢(約2万

  1000人)を南宮山東側に残し、 9月14日夜、

  大垣付近の東軍(徳川方)の徳川本隊や徳川方

  先手勢の福島 勢等の軍は、 西軍(奉行衆・毛

  利方)を追って(追撃するため)、関ヶ原盆地・山

  中(やまなか)方面へ移動する。

     9月15日に、山中(やまなか)の戦いでの

  東軍(徳川方)の勝利・西軍(奉行衆・毛利方)の

  敗戦を知り、 西軍(奉行衆・毛利方)の 南宮山の

  毛利勢の軍は、戦場を離脱する (そして、追撃さ

  れる)。

 

 ■ 大垣の戦い。

 

  ■ 「大垣・山中の戦い(= 新説関ヶ原の戦い)」の

  1つの、「大垣の戦い」では、  合戦の第1段階と

  して、大垣城の攻防戦で、1600年(慶 長5年)

  8月26日から 9月13日まで、 東軍(徳川方)の

  徳川方先手勢の福島勢・池田勢の豊臣恩顧大

  名の軍(約4万人)は、 美濃赤坂(みのあかさ

  か)付近に布陣し、西軍(奉行衆・毛利方)の拠

  点の大垣城(おおがきじょう)の大垣城籠城衆

  (駐留軍)(約3万3500人)を攻め、大垣城の

  防戦を行うが、 大垣城は落城せず。 一方、

  1600年(慶長5年)9月7日に、南宮山(なんぐ

  うさん)に、西軍(奉行衆・毛利方)大垣城 後

  詰軍の毛利勢(約1万3000人)が布陣する。

     「大垣の戦い」では、美濃国(みののくに、

  現・岐阜県南部の相当地域)で、 豊臣恩顧

  徳川方の東軍の諸将は、 岐阜城攻略・落城

  後、 西軍(奉行衆・毛利方)の美濃の本拠地の

  大垣城(おおがきじょう)に近い美濃赤坂(みの

  あかさか)付近に布陣し、大垣城攻防戦を行っ 

  ていたが、9月7日に大垣城の西方の南宮山

  (なんぐうさん)に大垣城後詰部隊の毛利勢(約

  1万3000人)が布陣し、それ以後圧力を受け、

  総大将の徳川家康と徳川本隊(約3万2000人

  の到着を待っていた。

      合戦の第2段階として、西軍(奉行衆・毛利

  方)大垣城後詰軍の毛利勢(約1万3000人)を

  降参させ大垣城を孤立させるため、 1600年

  (慶長5年)9月14日に、東方から来た東軍(徳

  川方)の徳川家康は、徳川本隊(約3万2000人、

  井伊直政・本多忠勝・家康馬廻り衆等の軍)と共

  に、美濃赤坂(みのあかさか)付近に布陣し、 

  1600年(慶長5年)9月14日 の昼間に、東軍

  (徳川方)の徳 川家康と徳川本隊(約3万2000

  人) や 徳川方先手勢の福島勢・池田勢 (約4

  万人)は、 西軍(奉行衆・毛利方)南宮山の

  大垣城後詰軍の毛利勢(約1万3000人) や 

  大垣城籠城衆(駐留軍)(約3万3500人) と対

  峙し、 9月15 日以降に、 東軍(徳川方)は、

  南宮山の毛利 勢や大垣城籠城衆の駐留軍を

  総攻撃する予定であった。 

      しかし、9月14日の昼間、西軍(奉行衆・

  毛利方)の南宮山東側布陣の毛利勢の軍(約1

  万3000人)は、 大垣付近にいる東軍(徳川方)

  大軍・計約7万2000人に恐れをなし戦わず 、

  即ち、毛利秀元は、強力な東軍の徳川方の大軍

  ・計約7万2000人を南宮山より見て、勝ち目が

  ないとみて、西方からの西軍の援軍の到着を待

  ち、静観し、戦いを避ける。 

      一方、9月15日以降に予想される東軍

  (徳川方)による西軍(奉行衆方)の南宮山の毛

  利勢攻撃に備えて、9月14日に、日没後、毛利

  勢後詰軍(後援軍)として、西軍(奉行衆・毛利

  方)大垣城籠城衆(駐留軍)の小西・宇喜多・

  石田・島津勢等の軍(約3万人)は、 大垣城に

  残留(約3500人)を残して、 大垣城を出て 、

  関ヶ原盆地・山中(やまなか)方面へ転進 する

  (移動する)。 

     その後、合戦の第3段階として、1600年

  (慶長5年)9月15日に、山中 (やまなか)の戦

  いでの西軍(奉行衆・毛利方)の敗北を知り、 

  西軍(奉行衆・毛利方)の南宮山の毛利勢は

  場を離脱し (追撃され)、東軍(徳川方)は勝利を

  得た。 

     また、1600年(慶長5年)9月15日の山中

  (やまなか)の戦いで東西両軍の戦い西軍(奉

  行衆・毛利方)の敗北の趨勢が決した後も、  西

  軍(奉行衆・毛利方)福原・ 垣見・熊谷・秋月・

  相良の大垣城残留 勢(約3500人)は、戦いを

  続け、 寝返りも出て、最後に、9月23日に、東軍

  (徳川方)に降伏し、大垣城は開城する。

      戦いの結果、徳川方の東軍が勝利を得、

   奉行衆・毛利方の西軍が敗北する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

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◆ 山中の戦い。

 

  ■ 山中の戦いの時期 : 1600年(慶長5年)9月

    15日の夜明け〜正午頃。

    山中の戦いの場所 : 美濃国の山中(やまなか)

    付近 (関ヶ原盆地西部、山中の付近) 。

 

  ● (S) 「山中の戦いの西軍(奉行衆方)参加軍」は、

  @ 関ヶ原盆地西部布陣の先方隊の大谷軍

     (約1200人)、

  B 山中(やまなか)付近に布陣し、山中に移動

     して戦った小西・宇喜多・石 田・島津勢等の軍

     (約3万人)

  の計約3万1200人である。

 

  ● (T) 「山中の戦いの東軍(徳川方)参加軍」は、

  @ 関ヶ原盆地西部、次に山中(やまなか) に

     移動して戦った東軍(徳川方)の徳川本隊

    (約3万2000人、徳川家康、井伊直政、

     本多忠勝、家康馬廻り衆等の軍

  A 松尾山山麓に布陣し、西軍から東軍に寝返り、

     関ヶ原盆地南西部に移動し戦った小早川軍

    (約8000人)、

  B 山中(やまなか)に移動して戦った東軍(徳川

         方)の徳川方先手勢の福島勢の軍(約1万

    9000人、福島・黒田・細川・藤堂・筒井・田中・

    加藤嘉明・京極高知等の軍)

  の計約5万9000人である。

 

 

  ● 〈第1段階〉 

  1600年(慶長5年)9月15日の夜明け、 

  美濃国の関ヶ原盆地 西部で、

  (S) 西軍(奉行衆・毛利方)の先方隊の大谷軍

     (約1200人)

  と、 

  (T) 東軍(徳川方)の徳川本隊(約3万2000

     人) や この時東軍に寝返った西軍(奉行

     衆・毛利方)の小早川軍(約8000人)

  とが対峙し、戦う。 

     結果、 西軍(奉行衆・毛利方)の大谷軍は

  全滅し、 東軍(徳川方)は勝利を得る。

 

  ● 〈第2段階〉 

  1600年(慶長5年)9月15日の午前10時頃 から

  正午頃まで、 

  美濃国の山中(やまなか)で、

  (S) 西軍(奉行衆・毛利方)の小西・宇喜多・石田・

      島津勢等の軍(約3万人)

  と、 

  (T) 東軍(徳川方)の徳川方先手勢の福島勢の

     軍(約1万9000人)や徳川本隊(約3万2000

     人)

  とが対峙し、戦う。 

     結果、 西軍(奉行衆・毛利方)は、総崩れとな

  り敗走し、敗北し、東軍(徳川方)が勝利を得る。

 

 

 ■ 「新説関ヶ原の戦い」と「大垣の戦い」。

 

  ■ 新説関ヶ原の戦いでは、 1600年(慶長5年)

   9月に、美濃赤坂(みのあかさか)エリアには、

   既に、東軍の徳川方の先手勢(豊臣恩顧の大名)

   約4万人の兵がいた。

      1600年(慶長5年)9月14日に、徳川家康の

   率いる東軍の徳川方の徳川本隊・約3万2000人

   の兵が美濃赤坂エリアに到着した。

      1600年(慶長5年)9月14日に、南宮山(なん

   ぐうさん)に布陣し、約1万3000人の兵を率いる

   西軍の奉行衆・毛利方の毛利秀元(もうりひでもと)

   は、美濃赤坂エリアにいる、東軍の徳川方の先手

   勢・約4万人の兵(福島勢・約1万9000人の兵と

   池田勢・約2万1000人の兵) と 東軍の徳川方

   の徳川本隊・約3万2000人の兵の東軍の徳川方・

   計約7万2000人の兵を、南宮山から見た。 

   そして、西軍の奉行衆・毛利方 の毛利秀元は、

   宮山の陣より、野戦に強い東軍の徳川方の大軍

   を見て、西方からの西軍の援軍を待つことにし、

   東軍の徳川方と戦いを避け、動かなかった。

      更に、1600年(慶長5年)9月15日も、約

   1万3000人の兵を率いる南宮山布陣の西軍の

   奉行衆・毛利方の毛利秀元は、 徳川方の先手

   勢の池田勢・約2万1000人の兵が南宮山の前

   面に残留し、行く手を阻み、西軍の主力軍・約3

   万人の兵の援軍に駆けつけられず、 関ヶ原盆

   地・山中(やまなか)方面に出陣した東軍の徳川

   方の主力軍・約5万1000人の兵を挟み撃ちに

   できなかった。

             大垣城(おおがきじょう)を出た西軍の奉行

   ・ 毛利の主力軍・約3万人の兵は、 南宮

   布陣の 毛利軍の後詰(ごずめ)として、西方の

   山中(やまなか)に布陣し、東方の南宮山布陣の

   西軍の毛利秀元の約1万3000人の兵と協力し、

   関ヶ原盆地や山中に出てきた東軍の徳川方の

   主力軍・約5万1000人の兵 (徳川本隊・約3

   万2000人の兵と福島勢・約1万9000人の兵

   を挟み撃ちにしようと考えていた。

      しかし、1600年(慶長5年)9月15日に、

   東方の南宮山布陣の西軍の毛利秀元は、 東軍

   の徳川方の先手勢の池田勢に行く手を阻(はば)

   まれて、動けなかった。 このため、西軍の奉行

   ・ 毛利南宮山の毛利秀元の援軍もなく、

   西軍の奉行・毛利の主力軍・約3万 の兵

   は、山中(やまなか)での決戦で、一方的に攻め

   られ、総崩れとなり、その結果、西軍の奉行衆

   毛利の 主力軍は、 東軍の徳川方の主力軍に

   敗北した。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 「新説関ヶ原の戦い」と「山中の戦い」。

 

  ■ 新説関ヶ原の戦いの「山中(やまなか)戦い」では、 

   第1段階では、1600年(慶長5年)9月 15日の夜

   明けに、関ヶ原盆地南西部に布陣する西軍の奉

   行衆・毛利方の先方隊・大谷吉継軍を、大垣付近

   から移動して来た東軍の徳川方の徳川本隊と松

   尾山麓布陣の西軍の奉行衆・毛利方で東軍寝返

   りの小早川秀秋(こばやかわひであき)の軍が挟

   み撃ちにして全滅させ、 その後、第2段階では、

   9月15日の午前10時頃より、大垣付近から来た

   東軍の徳川方の、先手衆・福島勢と徳川本隊の

   東軍主力軍が、山中村に布陣する宇喜多秀家、

   石田 三成等の率いる西軍主力軍と決戦を行い、

   正午頃に西軍主力軍が総崩れとなり、 西軍

   奉行衆・毛利方の主力軍は、最終的に、徳川家

   の率いる東軍の徳川方の主力軍に敗北した。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 「山中の戦い」。

 

  ■ 「山中の戦い( やまなかのたたかい)」 とは、

  美濃国 (みののくに、現・岐阜県南部の相当地

  域)の山中(やまなか)付近 (関ヶ原盆地西部、

  山中の付近)で、1600年(慶長5年) 9月15日

  の夜明けから正午頃まで、 徳川方の東軍 と 

  奉行衆・毛利方の西軍 との間で行われた合戦

  である。 戦いの結果、徳川方の東軍が勝利を

  得る。

 

  ■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」の、

  「山中の戦い」の、主戦場は、 美濃国(みののく

  に、現・岐阜県南部相当地域)の、関ヶ原盆地で

  はなく、 関ヶ原盆地の西 方向・約2kmにあ

  る美濃国の山中(やま なか)であった。

 

 

 ■ 「山中の戦い」。

 

  ■ 「大垣・山中の戦い(= 新説関ヶ原の戦い)」の

  1つの「山中の戦い」は、 1600年(慶長5年)

  9月15日に、  美濃国の、関ヶ原盆地西部  

  や 関ヶ原盆地の南西方向・約2kmにある

  美濃国・山中(やまなか)で、 西軍(奉行衆・

  毛利方)の小西・宇喜多・石田・島津勢等の軍 

  や大谷軍 と、 東軍(徳川方)の徳川方先手

  勢の福島勢、 徳川本隊、(西軍から東軍に寝

  返った)小早川軍などの軍 が戦った合戦であ

  り、  戦いの結果、徳川方の東軍が勝利を得、

  奉行衆・毛利方の西軍が敗北する。

 

 

 ■ 「山中の戦い」。

 

  ■ 「山中の戦い」では、 第一段階として、関ヶ原

  盆地南西部で、1600年(慶長5年)9月15日

  夜明 けに、 関ヶ原盆地西部で、東軍(徳

  川方)の 徳川本隊や(西軍から東軍へ寝返っ

  た)小早川軍 と、 西軍(奉行衆・毛利方)

  大谷軍との間で戦われ、 西軍(奉行衆・毛利

  方)の大谷軍が全滅した。 

     「山中の戦い」では、 第2段階として、

  関が原盆地の南西方向・約2kmにある主戦場

  の山中(やまなか)で、1600年(慶長5年) 9月

  15日の午前10時頃から正午頃までの間、

  東軍(徳川方)の徳川方先手勢の福島勢、徳川

  本隊 などの軍 と、 西軍(奉行衆・毛利方)の

  小西・宇喜多・石田・島津勢 などの軍との間で

  戦われ、 西軍(奉行衆 ・毛利方)が総崩れとな

  り敗走し、敗北し、徳川方の東軍が勝利を得る。

 

 

 ■ 山中の戦い。

 

  ■ 山中(やまなか)の戦いでは、西軍(奉行衆・毛利

  方) の小早川 秀秋は、 松尾山(まつおやま)に

  いた西軍(奉行衆・毛利方)の伊藤盛正(いとうも

  りまさ)を追いだし松尾山を占拠し、1600年(慶

  長5年)9月14日に、松尾山山麓に布陣する。 

     山中(やまなか)の戦いでは、 西軍(奉行衆・

  毛利方)は、 9月14日夜に大谷吉継の軍は関ヶ

  原盆地南西部に布陣し、 9月15日未明に小西

  行長、宇喜多秀家、石田三成、島津勢(島津義弘・

  島津豊久)の軍は、 山中(やまなか)付近に布陣

  する。

     石田三成の軍は、 山中付近の藤下(とうげ)

  の(以前より整備していた)自害峰(じがいみね)

  という場所に布陣し、その後、すぐ近くの山中(や

  まなか)に移動し、山中へ攻めてきた東軍(徳川

  方)と戦う。

     第1段階として、関ヶ原盆地南西部で、東軍

  (徳川方)の 徳川本隊が、1600年(慶長5年)9

  月15日夜明けに西軍(奉行衆 ・毛利方)の先

  方隊の大谷軍と戦い、 更に西軍(奉行衆・毛利

  方)の小早川秀秋の小早川軍が東軍(徳川方)に

  寝返り、後 方から西軍(奉行衆・毛利方)の大谷軍

  を攻め、 挟み撃ちにして、大谷軍を全滅させる。

     第2段階として、その後、9月15日午前10

  時頃から正午頃までの約2時間、 東軍(徳川方)

  の徳川方先手勢の福島勢や徳川本隊等の軍は、 

  西軍(奉行衆方)小西・宇喜多・石田・島津勢等

  の軍と山中(やまなか)で戦い、 山中で防戦する

  西 軍(奉行衆・毛利方)小西・宇喜多・石 田・

  島津勢等の軍は、総崩れとなり敗走し、敗北し、

  徳川方の東軍が勝利を得る。

  

 ■ 山中の戦い。

 

  ■ 「大垣・山中の戦い(= 新説関ヶ原の戦い)」の

  1つの、「山中の戦い」では、  第1段階として、

  1600年(慶長5年) 9月15日の夜明けに関 ヶ

  原盆地西南部で、東軍(徳川方)の徳川本隊

  3万2000人) や 西軍(奉行衆・毛利方)で東軍

  に寝返った小早川(約8000人)等の軍 と、 西

  軍(奉行衆・毛利方)の先方隊の大谷軍(約1200

  人) との間で戦われ、 西軍(奉行衆・毛利方)の

  大谷軍が全滅した。

      第2段階として、関が原盆地の南西方向・

  約2kmに ある主戦場の山中(やまなか)で、 

  1600年(慶長5年) 9月15日の午前10時頃か

  ら正午頃までの間、 東軍(徳川方)の徳川方先

  手勢の福島勢(約1万9000人)や徳川本隊(約

  3万2000人)等の軍 と、 西軍(奉行衆・毛利方)

  の小西・宇喜多・石田・ 島津勢等の軍(約3万人)

  との間で戦いが行われ、 西軍(奉行衆・毛利方)

  が総崩れとなり敗走し敗北し、徳川方の東軍が勝

  利を得た。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 山中の戦い

 

  ■  「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

   の1つの、「山中の戦い」は、 1600年(慶長

   5年)9月15日の夜明けから正午頃までの戦い

   である。

      9月15日以後に予想される東軍(徳川方)

   の南宮山(なんぐうさん)攻撃に備えて(の後詰

   として)、西軍(奉行衆・毛利方)の小西行長、

   喜多秀家、石田三成、 島津勢(島津義弘・島津

   豊久)等の軍(約3万人)は、 9月14日の日没

   後、 西軍(奉行衆・毛利方)の大垣城から出て、

   夜を徹して1600年(慶長5年)9月15日午前4

   時頃に、山中(やまなか)付近に移動し布陣す

   る。 

       一方、大谷吉継の軍は、既に、9月14日

   夜に、西軍(奉行衆・毛利方)の先方隊として、

   関ヶ原盆地西部に移動し、布陣する。

      山中(やまなか)の戦いでは、西軍(奉行衆・

   毛利方)は、 大谷吉継の軍は関が原盆地西

   部に布陣し、 小西行長、石田三成、宇喜多秀

   家 、島津勢(島津義弘・島津豊久)等の軍は山

   中(やまなか)付近に布陣する。 

      西軍 (奉行衆・毛利方)の石田三成の軍は、 

  山中(やまなか)付近の藤下(とうげ)の自害峰(じ

  がいみね)に布陣する。 その後、すぐ近くの山中

  に移動し、山中で東軍(徳川方)と戦う。

     一方、 西軍の小西・宇喜多・石田・ 島津勢

  などの軍(約3万人)が9月14日の日没後に大垣

  城を出て関ヶ原盆地・山中(やまなか)方面に転進

  (移動)したことを東軍徳川方)は知り、 東軍(

  川方)は、 南宮山の毛利勢に対峙させるため

  川方先手勢の池田勢(約 2万1000人)を南宮山

  東側に残し、 東軍(徳川方)徳川方先手勢の

  福島勢(約1万9000人)や徳川本隊(約3万20

  00人)等の軍は、 西軍(奉行衆・毛利方)追撃

  するため、 関ヶ原盆地・山中(やまなか)方面へ

  移動する。

     山中(やまなか)の戦いでは、 東軍(徳川

  方)の徳川本隊の軍は、 関ヶ原盆地西部で、

  西軍(奉行衆・毛利方)の先方隊の大谷軍と対

  峙し、 東軍(徳川方)徳川方先手勢の福島 勢

  の軍は、山中(やまなか)で、西軍の小西・ 宇喜

  多・石田・ 島津勢等の軍と対峙た。

     合戦の第1段階として、1600年(慶長5年)

  9月15日夜明けに、関ヶ原 盆地西部で、 東軍

  (徳川方)の徳川本隊の軍が西軍(奉行衆・毛利

  方)の先方隊の大谷軍と戦い、 更に 松尾山山

  麓に布陣していた西軍(奉行衆・毛利方)の小早

  川軍は東軍(徳川方)に寝返り、関ヶ原盆地西

  部に出撃して、南側から西軍 (奉行衆・毛利方)

  の大谷軍を攻め、挟み撃ちにして、大谷軍を全

  滅させる。

     その後、合戦の第2段階として、東軍の

  川方先手勢の福島勢の軍(約1万9000人)や

  徳川本隊(約3万人)は、 山中(や まなか)で、 

  9月15日午前10時頃から正午頃までの約2

  時間、 小西・宇喜多・石田・ 島津勢 などの軍

  (約3万人)を攻め、 最終的に、山中で防戦す

  る西軍(奉行衆方)小西・宇喜多・石田・ 島津

  勢等のを敗走 させ、敗北させ、徳川方の東軍

  が勝利を得る。

 

 

 ■ 「山中の戦い」。

 

  ■ 「大垣・山中の戦い(= 新説関ヶ原の戦い)」

   の1つの「山中の戦いでは、第一段階として、

   1600年(慶長5年)9月15日に、夜明けに、

   前哨戦として、 山中(やまなか)の東の関ヶ原

   盆地西部で、大谷吉継が予期していなかっ

   た、東軍(徳川方)の徳川本隊が急に現れ、

   西軍(奉行衆・毛利方)の先方隊の大谷吉継

   軍と激突し、そこに南側の側面から松尾山山

   麓から出撃した西軍(奉行衆・毛利方)の小早

   川秀秋軍が、東軍(徳川方)に寝返り、大谷吉

   継軍に襲いかかり、大谷吉継軍は、挟(はさ)

   み打ちとなり、全滅した。

     その後、第2段階として、1600年(慶長5

   年)9月15日の午前10時頃から正午頃まで、

   主戦場の山地の山中(やまなか)で、 山中や

   隣の藤下(とうげ)に布陣していた西軍(奉行

   衆・毛利方)の小西・宇喜田・石田・島津勢な

   どの軍 と、 山中(やまなか)の東側に現れ

   東軍(徳川方)の 徳川方先手勢の福島勢

   や徳川本隊などの軍が、戦い、東 軍(徳川方)

   が優勢の中で、奉行衆・毛利方の西軍(奉行

   衆・毛利方)が敗退し、徳川方の東軍が勝利

   を得る。

      山中にいた西軍(奉行衆・毛利方)の

   井軍は、東軍(徳川方)に寝返る。

 

  ■ 島津勢の敵中突破。

       山中にいた西軍(奉行衆・毛利方)の

    津勢(島津義弘・島津豊久の軍)は、  「大垣

    城への退却」を決意し、 山中(やまなか)の

    東側にいた徳川方の東軍(徳川方)の中を

    「敵中突破 」し、逃走し、大垣城に向って脱

    出し、追撃され、途中で大垣城も危ない と知

    るや伊勢街道を通り、南下し、大阪に向い、

    大阪湾で船に乗り、薩摩に帰国する。

        敗走途中、東軍(徳川方)の追撃で島

    津勢の多くの兵が勇敢に戦い戦死し、島津

    義弘(しまづよしひろ)の甥・島津豊久(しま

    づとよひさ)も戦死し、結局、敗走途中、東軍

    (徳川方)の追撃や落ち武者狩り などで、

    1500人いた島津勢の兵のうち無事帰国でき

    たのは、島津義弘と約70人の島津氏家臣 だ

    けであった。

 

 

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♪♪ 「大垣・山中の戦い(= 新説関ヶ原

    の戦い)」を描いた、興味深い関

    連ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

     

 ★ 「大垣・山中の戦い(= 新説関ヶ原

    の戦い)」が登場する、興味深い、

    ドキュメンタリー。

 

 ■ 諸説あり!関ヶ原の戦いスペシャル

    『 関ヶ原の戦いの真実 』 (2)。 

     (TBSテレビ・2018年1月6日・本放送・

      歴史ドキュメンタリー番組)。

 

  ■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

    と、 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」の

    2つの有力な説を詳細に述べる。

 

 

 ■ 諸説あり!

    『 関ヶ原の戦いの真実 』 (1)。 

     (TBSテレビ・2017年9月2日・本放送・

      歴史ドキュメンタリー番組)。

 

  ■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

     と、 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」の

     2つの有力な説を詳細に述べる。

 

 

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#oogakiyamanakawar-thehappenings

 

◆ 大垣・山中の戦い(= 新説

    関ヶ原の戦い)関連出来事

   (年代順・詳細)

     (おおがき・やまなかのたたかいかんれん

     できごと(ねんだいじゅん・しょうさい))。

 

    ■ ここでは、 一次史料に基づく史実の

         「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦

    い)」を述べ、 「従来説(伝説)の関ヶ原

    の戦い」と異なる箇所は、その従来説

    (伝説)も追加併記した。

 

    ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」は、

    後世の創作であり、信憑性(しんぴょう

    せい)がない。

 

 ■ 1600年(慶長5年)の、

    大垣・山中の戦い

    (= 新説関ヶ原の戦い)」

     前の状況、動向。

 

◆ 大垣・山中の戦い(= 新説

    関ヶ原の戦い)関連出来事

   (年代順・詳細)

 

 ■ 1600年(慶長5年)の、

    「大垣・山中の戦い

    (= 新説関ヶ原の戦い)」

    の決戦前の状況、動向。

 

 ■ 1598年(慶長3年)。

  ■ 1598年(慶長 3年)8月18日に、豊臣秀吉

  が死去する。 

 

 

 ■ 1599年(慶長4年)。

  ■ 1599年(慶長4年)3月1 0日に石田三成が、

   近江国の佐和山城で蟄居(ちっきょ)する。

                

 

 ■ 1600年(慶長5年)。

  ■ 1600年(慶長5年)に、徳川家康は、 会津・

  上杉討伐 以前に、反徳川勢力の奉行衆・毛利

  方との戦いに備えて、 多くの大名に、徳川

  の味方になるように、多くの手紙を書く。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

  

 

 ■ 1600年(慶長5年)6月。

  ■ 1600年(慶長5年)6月18日に、  徳川家康

   が、伏見城を発ち、会津遠征に向かう(を開始

   する)。

 

  ● 1600年(慶長5年)6月に、豊臣家五大老

   1人・徳川家康は、 会津・上杉討伐を実施する。 

      奉行衆・毛利方と反目する多くの豊臣恩

   顧(おんこ)の大名が家康に付き従って、会津・

   上杉討伐の軍に加わって、大阪城から出陣し

   た。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)7月。

 

  ■  1600年(慶長5年)7月11日頃に、奉行衆

  毛利大谷吉継(おおたによしつぐ))が、 

  近江国の佐和山城(さわやまじょう)を来訪し、 

  徳川家康討伐を打ち明け、石田三成を説得し

  て、石田三成は、奉行衆・毛利に加わる。

 

  ● 1600年(慶長5年)7月12日頃以降、奉行衆 

  毛利大谷吉継が、 近江国の佐 和山城で、

  石田三成計略をめぐらす。

 

 

  ◆ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」。

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、1600

  年(慶長5年)7月11日 頃に、石田三成(いし だ

  みつなり)が、 近江国の佐和山城(さわやまじ

  ょう)で、来訪した大谷吉継(おおたによしつぐ)

  に、徳川家康討伐を打ち明け、説得して、大谷

  吉継は、石田方に加わる。

 

  ● 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、1600

   年(慶長5年)7月12日頃以降、石田方の石田

   三成が、近江国の佐和山城で、大谷吉継

   略をめぐらす。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)7月17日。

 

  ■ 1600年(慶長5年)7月17日に、奉行衆・毛

   毛利輝元( もうりてるもと)が、豊臣

   大阪城に入る。

 

  ■ 1600年(慶長5年)7月17日に、「内府ち が

  ひの条々」(ないふちがいのじょうじょう、13

  か条)が、 奉行衆・毛利の長束正家・増田

  長盛・前田玄以三奉行名で、公布される。  

     その後、それが、全国の大名に送付され

  る(出回る)。

     徳川家康は、この時点から、公儀上、豊

  臣氏の敵となる。

 

  ■ 1600年(慶長5年)7月17日に、奉行衆・ 毛

  利の西軍が、徳川方の東軍に対して、挙兵

  する。

 

  ■ 奉行衆・ 毛利の西軍の中心人物は、 奉行

   衆3人(増田長盛、長束正家、前田玄以)

   毛利輝元である。  一方、徳川方の東軍の中

  心人物は、徳川家康である。

      奉行衆3人とは、 五奉行の中の3人で

   あり、増田長盛 (ましたながもり)、 長束正 

   家(なつかまさいえ)、 前田玄以 (まえだげ

   んい) である。

 

 

  ◆ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」。

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、1600

   年(慶長5年)7月17日に、 石田三成や石田

   方西軍が、徳川方の東軍に対して、挙兵する。

 

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、 石田

   方の西軍の中心人物は、 石田三成である。

   一方、徳川方の東軍の中心人物は、徳川家康

   である。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)7月19日。

 

  ■ 1600年(慶長5年)7月19日に、奉行衆・毛利

  の西軍が、徳川方の東軍の伏見城を攻撃す

  る。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)7月25日。

 

  ■ 1600年(慶長5年)7月25日 に、徳川方東軍

  にて、小山評定(おやまひょうじょう)が開かれ

  る。 

 

  ● 1600年(慶長5年)7月25日に、下野国 (し

  もつけのくに、現・栃木県の相当地域) の

  小山(おやま)で、 徳川家康が、会津遠征の

  諸将を集め軍議を開き、 西軍(奉行衆・毛利

  方)を討つための西上を決定する。

 

  ■ 小山評定後、 徳川家康は、徳川氏の軍を、

   旗本防衛部隊と主力攻撃部隊の二手に分け、 

   先に、徳川秀忠の率いる徳川氏主力攻撃部

   隊(精鋭部隊)・約3万8000人を奉行衆・

   毛利方西軍の北方の上杉氏に備えながら、

   東山道(とうさんどう、中山道(なかせんどう)) 

   経由で、徳川氏領地の関東地方の脅威とな

   る奉行衆・毛利方西軍の真田氏討伐に向わ

   せた。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)8月5日。

 

  ■ 1600年(慶長5年)8月5日に、徳川家康が、

    江戸城に戻る。

 

  ● 1600年(慶長5年)8月5日に、徳川家康は、

  徳川氏旗本防衛部隊と共に、一旦、江戸城に

  戻った。

 

  ● 1600年(慶長5年)8月5日に、江戸に戻った

   徳川家康は、 先に西上している家康に付き

   従った徳川方東軍の豊臣恩顧(おんこ)の諸

   将・大名の動向を注視していた。

      というのも、小山評定(おやまひょうじょう)

   の時点で、奉行衆・毛利方西軍の「内府ちがひ

   の条々」や奉行衆・毛利方西軍が集めた約10

   万人の大軍勢の規模を、徳川家 康や家康に

   き従った徳川方東軍の豊臣恩顧の諸将・大名

   は、詳しく知らなかった。

      徳川家康に付き従った徳川方東軍の

   臣恩顧の諸将・大名が家康に味方すると約束

   した、小山評定後、徳川方東軍の豊臣恩顧  

   の諸将・大名が、家康を批判する「内府ちが

   ひの条々」  や 奉行衆・毛利方西軍が約10

   万人もの兵を集めたことを知り、徳川方東軍の

   豊臣恩顧の諸将・大名が家康を裏切るのでは

   ないかと徳川家康は、恐れていたためである。

      小山評定後、 奉行衆・毛利方西軍の豊

   臣氏三奉行の名で公布され た「内府 ちがひ

   の条々」(ないふちがいのじょうじょう)が、 

   徳川方東軍の豊臣恩顧の諸将・大名に詳し

   く伝わり、 徳川家康に正当性がないと主張

   するのではないかと家康は案じていた。 徳

   川家康は、小山評定で味方となった徳川方

   東軍の豊臣恩顧の諸将大名の裏切りを恐れ

   るようになった。

 

  ● 徳川家康は、 家康に付き従った徳川方東軍の

   豊臣恩顧の諸将・大名が西上して奉行衆・毛

   利方西軍と実際に本当に戦うのか疑い、これ

   を見極めるため、 先に、家康に付き従った徳

   川方東軍の豊臣恩顧の諸将・大名の軍を西方

   に向かわせ、 徳川家康は、江戸城に約1ヶ月

   ほど留まり、情勢をみながら、100通以上の書

   状を全国の諸大名に送った。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)8月10日。

 

  ■ 1600年(慶長5年)8月10日に 、奉行衆・毛

   利方西軍が、 美濃国(みののくに、現・ 岐阜

   県南部の相当地域)の大垣城(おおがきじ

   ょう)に入る。

 

  ● 奉行衆・毛利方西軍は、 徳川方東軍との長期

   戦に備え、 徳川方東軍を美濃国 (みののく

   に、現・岐阜県南部の相当地域) で待ち構え、

   大垣城(おおがきじょう)を奉行衆・毛利方西軍

   の美濃国の本拠地とし、 佐和山城・豊臣大阪

   城方面へ行く東山道(中山道)を守る拠点とし

   て、 南宮山(なんぐうさん)に、奉行衆・毛利

   方西軍の毛利秀元の軍を布陣させ、 更に、

   松尾山(まつおやま)に、奉行衆・毛利方西軍

   の毛利輝元の軍を布陣させる予定であった。 

   しかし、奉行衆・毛利方西軍の毛利輝元は、

   豊臣大坂城を動かなかった。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)8月。

 

  ■ 1600年(慶長5年)8月に、徳川家康と小山(お

   やま)で分かれ西上した福島正則(ふくしままさ

   のり)はじめ徳川方東軍の豊臣恩顧の諸将・大

   名は、 尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部

   の相当地域)の福島正則の居城・清須城(きよ

   すじょう)に集結し、徳川家康の出陣を待ちわ

   びていた。

      江戸城にいる徳川家康は、 尾張にいる

   徳川方東軍の豊臣恩顧の諸将・大名に、美濃

   (みの、現・岐阜県南部)の奉行衆・毛利方西

   軍を攻撃するように促す。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)8月23日。

 

  ■ 1600年(慶長5年)8月23日に 、福島正則は

  じめ徳川方東軍の豊臣恩顧の諸将・大名が、 

  奉行衆・毛利方西軍の美濃の拠点の1つの岐

  阜城(ぎふじょう)を攻撃し、1日で落城させる。

                 

 

 ■ 1600年(慶長5年)8月26日。

 

  ■ 1600年(慶長5年)8月26日に、 福島正則は

   じめ徳川方東軍の豊臣恩顧の諸将・大名が、 

   奉行衆・毛利方西軍の美濃の本拠地・大垣城

   に近い、美濃赤坂(みのあかさか)付近に集結

   する。

       その後、徳川方東軍の豊臣恩顧の諸将・

   大名は、 奉行衆・毛利方西軍の美濃の本拠

   地の大垣城の駐留軍を攻撃し、大垣城攻防

   戦を行っていたが、 9月7日に大垣城の西方

   の南宮山(なんぐうさん)に、奉行衆・毛利方西

   軍の毛利秀元(もうりひでもと)が率いる毛利

   勢が布陣する。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)9月1日。

 

  ■ 1600年(慶長5年)9月1日に、徳川家康が、江

  戸城を出発し、上方(かみがた)に向う。

 

  ● 石田方西軍の拠点の1つの岐阜城攻略などで、

  西上した豊臣恩顧の徳川方東軍の諸将が石田

  方の西軍と実際に戦う気があり自分を裏切らな

  いと知ると、 徳川家康は、慌てて、徳川氏旗本

  防衛部隊・約3万人と共に、江戸城を出発し、 

  一方、真田氏討伐に向った徳川氏主力攻撃部

  隊に、東山 道(中山道)経由で上方(かみがた)

  へ向うように伝令を送った。

 

  ● 美濃国 (みののくに、現・岐阜県南部の相当地

  域)で、豊臣恩顧の徳川方東軍の諸将 は、 岐阜

  城攻略・落城後、 石田方の西軍の美濃の本拠

  地の大垣城(おおがきじょう)に近い美濃赤坂(み

  のあかさか)付近に布陣し総大将の家康の到着

  を待たず、石田方西軍と決戦を始める勢いを 知

  り、家康は、慌てて、1600年(慶長5年)9月1日

  に、徳川家康 の率いる徳川氏旗本防衛部隊・約

  3万人と共に、江戸城を 出発し、東海道を通り、

  尾張・美濃へ向かった。 

     家康の江戸城出陣時、 家康は、真田氏討

  伐に向かった秀忠の徳川氏主力攻撃部隊・約3

  万8000人に、「真田氏 討伐をやめ、一刻も早く

  東山道(中山道)経由で尾張・美濃に向かい二手

  に分かれた徳川氏の軍は尾張・美濃あたりで

  合流する」という家康の伝達の使者を送った。 

  しかし、使者は、利根川の洪水に阻まれて、伝達

  が遅れた。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)9月11日。

 

  ■ 1600年(慶長5年)9月11日に、  徳川方東軍

   の、徳川家康が、尾張の清州城に到着する。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)9月13日。

 

  ■ 1600年(慶長5年)9月13日に、徳川方東軍

  徳川家康が、 尾張の清州城を出発する。

 

  ■ 徳川方東軍の徳川家康は、 徳川本隊(約3

  万2000人、徳川家康、井伊直政、本多忠勝、

  家康馬廻り衆等の軍) と  東軍(徳川方)の

  徳川方先手勢の豊臣恩顧大名の福島勢・池

  田勢の軍(計約4万人)の総計・約7万2000人

  の東軍(徳川方)で、 美濃国(みののくに、現・

  岐阜県南部の相当地域)で、 約5万4000人

  の西軍(奉行衆・毛利方)と決戦をする決意を

  固めた。 

      1600年9月13日に、徳川家康は、徳川

  秀忠の率いる徳川氏別動隊(主力攻撃部隊)・

  約3万8000人を待たず、尾張の清州城を出て、 

  9月14日の正午頃に、徳川方の東軍の集結す

  る、美濃赤坂付近に到着する。

 

 

  ◆ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」。

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、1600

   年(慶長5年)9月13日に、徳川方東軍の徳川

   家康が、尾張の清州城を出発する。

 

  ● 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、徳川方東

  軍の徳川家康は、 徳川氏旗本防衛部隊・約3万 

  人 と 徳川方東軍の 家康に付き従った豊臣恩顧

  諸将大名・約4万人の 計・約7万人の徳川方東

  軍で、 美濃国(みののくに、現・岐阜県南部の相

  当地域)で、 約8万人の石田方西軍と決戦をす

  る決意を固めた。 

      1600年9月13日に、徳川家康は、徳川

  秀忠の率いる徳川氏主力攻撃部隊・約3万8000

  人を待たず、尾張の清州城を出て、 9月14日の

  正午頃に、徳川方の東軍の集結する、美濃赤坂

  付近に到着する。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)9月14日。

 

  ■ 1600年(慶長5年)9月14日に、 西軍(奉

  行衆・毛利方)の小早川秀秋が、松尾山の陣

  地の西軍(奉行衆・毛利方)を押しのけて、松

  尾山に到着し、勝手に松尾山を占領し、松尾

  山山麓に布陣する。

 

 

  ◆ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」。

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、1600

  年(慶長5年)9月14日に、石田方西軍 の小早

  川秀秋が、松尾山の陣地の石田方西軍の軍

  勢を押しのけて、松尾山に到着し、勝手に松

  尾山を占領し、松尾山山頂に布陣する。

     松尾山の陣地は、石田方西軍が、石田

  方西軍の毛利輝元のために用意した陣地で

  あった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)9月14日昼間。

 

  ■ 1600年(慶長5年)9月14日に、徳川方東軍の

  徳川家康が、9月13日に清州城を出た後、9月

  14日の正午頃、美濃赤坂付近に到着する。

 

  ■ 9月14日の昼間、西軍(奉行衆・毛利方)

  南宮山 東側布陣の毛利勢 (約1万3000人)

  は、大垣付近にいる東軍(家康方)合計・約7

  万2000人の大軍に恐れをなして戦わず。

 

 

  ◆ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」。

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、1600

  年(慶長5年)9月14日に、徳川家康は、 徳川

  方東軍に内通し毛利秀元軍の先鋒隊で南宮山

  の下山道を押さえる、石田方の西軍の吉川広

  家に、 石田方の西軍の毛利秀元の南宮山下

  山・徳川方東軍攻撃を阻(はば)み、毛利秀元

  を戦いで静観させるように要請した。 

      徳川家康は、事前に、黒田長政の仲介

  で、南宮山(なんぐうさん)に布陣する石田方

  の西軍の吉川広家(きっかわひろいえ、1561

  −1625年)を調略し、吉川広家に毛利氏本家

  領国安堵の徳川氏の起請文(きしょうもん)を

  渡し、内通させていた。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)9月14日昼間。

 

  ■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

  では、1600年(慶長5年)9月14日に、

  美濃赤坂付近に集結した西軍(奉行衆・毛利

  方)の徳川本隊(約3万2000人)や徳川方先

  手勢(約4万人) と、 大垣城籠城勢(約3万

  3500人)や南宮山の毛利勢(約1万3000人)

  との間で、小競り合いがあった。 

     しかし、その一部が、抗瀬川の戦いであ

  ったかどうかは不明である。

 

 

  ◆ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」。

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、

  1600年(慶長5年)9月14日に、島左近の率

  いる 石田方西軍が、抗瀬川の戦いで徳川方

  東軍に勝利する。

       徳川方東軍の中の徳川本隊と石田方

   西軍の大垣垣城籠城勢(駐留軍)の中の石田

   隊が 抗瀬川付近で戦い、石田方西軍の島左

   近の率いる石田隊が勝つ。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)9月14日夜。

 

  ■ 1600年(慶長5年)9月14日夜に、 東軍

   (徳川方)の徳川家康と徳川本隊 (約3万

   2000人) や 徳川方先手勢の福島勢の軍 

   (約1万9000人)  は、 美濃赤坂付近から

   出陣し、 関ヶ原盆地・山中方面に移動(転

   進)する。

 

  ■ 1600年(慶長5年)9月14日夜に、西軍(奉行

   衆・毛利方) の小西・宇喜多・石田・島津勢

   等の軍(約3万人)は、大垣城を出て、関ヶ原 

   盆地・山中方面に移動(転進)する。

 

  ■ 1600年(慶長5年)9月14日夜に奉行衆・毛

   利方西軍の主力軍が西方の関ヶ原・山中

   面に移動したのを徳川方東軍は知り、徳川

   方東軍の主力軍は、9月14日 夜に、奉行衆・

   毛利方西軍の主力軍を追って、西方の関ヶ

   原・山中方面に移動する。

 

  ■ 9月15日以降に予想される南宮山の毛利勢

   への東軍(徳川方)の攻撃に備えて、南宮

   山の毛利勢後詰軍(後援軍)として西軍(奉行

   衆・毛利方)の大垣城の大部分の軍は9月

   14日の夜に関ヶ原盆地・山中方面に移動

   したのを東軍(徳川方)は知り、 9月14日夜

   に、 東軍(徳川方)の主力軍は、 西軍(奉行

   衆・毛利方)の主力軍を追って、関ヶ原盆地・

   山中方面に移動する。

 

 

  ◆ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」。

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、1600年

   (慶長5年)9月14日夜に、  徳川家康と徳川

   方東軍は、美濃赤坂付近から出陣し、関ヶ原盆

   地方面に移動する。

 

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、1600年

  (慶長5年)9月14日 夜に、石田三成や石田方

  西軍の大垣城の駐留軍が、大垣城から出陣する。

 

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、1600年

   (慶長5年)9月14日 夜に徳川方東軍の主力軍

   が西方の関ヶ原方面に移動したのを石田方西

   軍は知り、 9月14日 夜に、石田方西軍の主力

   軍は、 大垣城を出て、徳川方東軍を追って、西

   方の関ヶ原方面に移動する。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)9月14日夜。

 

  ● 1600年(慶長5年)9月14日夜に、西軍(奉行

  衆・毛利方)の大谷吉継が、関ヶ原盆地南西部

  に布陣する。

 

 

  ◆ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」。

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、1600

  年(慶長5年)9月3日に、石田方西軍の大谷吉

  継が、山中村宮上に布陣する。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)の、「大垣・山中

    の戦い(= 新説関ヶ原の戦い)」

    の決戦時の状況、動向。

 

 ■ 1600年(慶長5年)9月1 5日朝。

 

  ■ 東軍(徳川方)の主力軍や西軍(奉行衆・毛利

  方)の主力軍は、 1600年(慶長5年)9月1 5

  日の朝に、関ヶ原盆地南西部や山中(やまなか)

  に到着する。

 

  ■ 山中の戦いでは、決戦前に、最初に、 関ヶ原盆

   地南西部で、16 00年(慶長5年)9月15日の 

   夜明けに、 大垣付近から移動してきた 東軍

   (徳川方)の徳川本隊 や  既に松尾山山麓に

   布陣する西軍から東軍に寝返った小早川軍 と、

   既に関ヶ原盆地南西部に布陣 する西軍(奉行

   衆・毛利方)の大谷軍 との間で合戦が行われ

   る。 結果は、大谷軍が全滅する。

 

 

  ◆ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」。

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、石田方

   西軍の主力軍や徳川方東軍の主力軍は、

   1600年(慶長5年)9月1 5日の朝に、関ヶ原

   盆地に到着する。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)9月15日昼間

    の「関ヶ原の戦い」の決戦。

 

  ■ 関ヶ原の戦いの決戦は、主戦場は山中であり、 

   1600年(慶長5年)9月15日の午前10時頃

   から正午頃まで、 徳川方の東軍と奉行衆・毛

   利方の西軍との間で行われ た。 戦いの結果、

   徳川方の東軍が勝利を得る。

 

  ■ 関ヶ原の戦いの決戦では、 関が原盆地の

   西方向・約2kmにある山中(やまなか)で

   午前10時頃から正午頃まで、 大垣 付近か

   ら移動してきた東軍(徳川方)の徳川方先手勢 

   の福島勢 や 徳川本隊 と、 大垣付近の大

   垣城から移動して来た西軍(奉行衆・毛利方)

   の小西・宇喜多・石田・島津勢等の軍 とが戦

   った。 結果は、西軍(奉行衆・毛利方)の小西・

   宇喜多・石田・島津勢等の軍は、総崩れとなり

   敗走し、敗北し、徳川方の東軍が勝利を得る。

 

  ● 関ヶ原の戦いの決戦では、 関が原盆地の

   西方向・約2kmにある山中(やまなか)で

   午前10時頃から正午頃まで、 大垣付近 から

   移動してきた東軍(徳川方)の徳川方先手勢

   の福島勢 (約1万9000人、福島・黒田・細川・

   藤堂・筒井・田中・加藤嘉明・京極高知等) や 

   徳川本隊 (約3万2000人、徳川家康、井伊

   直政、本多忠勝、家康馬廻り衆等の軍) の

   計5万1000人の軍 と、 大垣付近の大垣城

   から移動して来た西軍(奉行衆・毛利方)の小

   西・宇喜多・石田・島津勢等の約3万人の軍 

   が争った戦いである。 

      結果は、西軍(奉行衆・毛利方)の小西・

   宇喜多・石田・島津勢等の軍は、総崩れとなり

   敗走し、敗北し、徳川方の東軍が勝利を得る。

 

 

  ◆ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」。

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、 関ヶ原

  の戦いの決戦は、主戦場の関ヶ原盆地であり、

  1600年(慶長5年)9月15日の午前8時頃から

  午後2時頃まで、徳川方東軍と石田方西軍との

  間で行われ た。 戦いの結 果、徳川方東軍が

  勝利を得る。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)の、「大垣・山中

    の戦い(= 新説関ヶ原の戦い)」の

    決戦後の状況、動向。

 

 ■ 1600年(慶長5年)9月1 7日。

 

  ■ 1600年(慶長5年)9月17日に、徳川方東軍

   が、 奉行衆・毛利方の西軍の近江国の石田

   三成の佐和山城を攻めて、落城させる。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)9月1 9日。

 

  ■ 1600年(慶長5年)9月19日に、 徳川方東軍の、

  徳川家康が、草津に入る。

 

  ■ 1600年(慶長5年)9月19日に、奉行衆・毛利

  西軍の小西行長が、息吹山山中で捕えられる。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)9月 21日。

 

  ■ 1600年(慶長5年)9月21日に、奉行衆・毛利

   西軍の石田三成が、 古橋村 (現・滋賀県

   木之本町の相当地域)で徳川方東軍に捕えら

   れる。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)9月 23日。

 

  ■ 1600年(慶長5年)9月23日に、奉行衆・毛利

   西軍 の大垣城の残留軍が降伏し、大垣城

   が開城される。

 

  ● 1600年(慶長5年)9月15日に関ヶ原の戦い

   の山中(やまなか)の戦いでの東西両軍の決

   戦奉行衆・毛利方西軍の敗北の趨勢が決

   した後も、 奉行衆・毛利西軍 の福原・垣見・

   熊谷・秋月・相良の大垣城残留勢(約3500

   人)は、 戦いを続け、  寝返りも出て、最後に、

   9月23日に、徳川方東軍に降伏し、大垣城は

   開城する。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)9月 23日。

  ■ 1600年(慶長5年)9月23日に、 奉行衆・毛利

   方西軍の安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)が、

   京(都)で捕えられる。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)10月1日。

 

  ■ 1600年(慶長5年)10月1日に、徳川方東軍

   の徳川家康は、 奉行衆・毛利方西軍の、 石

   田三成、小西行長、安国寺 恵瓊(あんこくじ

   えけい)を、京(都)六条河原で 処刑する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)。

 

  ● 戦後処理で、  徳川方東軍の徳川家康は、奉 

   行衆・毛利方西軍の 大名・武将から没収した

   約80%の領地を、戦いの勝利の恩賞として、 

   徳川方東軍の、家 康に付き従った豊臣恩顧

   の大名(外様大名)・武将に与えねばならな

   かった。

 

 ■ 1603年(慶長8年)。

 

  ■ 1603年(慶長8年)2月12日に、 徳川家康は、 

   征夷大将軍となり、 江戸幕府を開く。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

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#ootanioshitsugu

 

■ 大谷吉継  

     (おおたによしつぐ)。

 

■ 大谷 吉継。 

■ 名称 : 大谷 吉継 (おおたに よしつぐ)

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 02217。

 

□ 「 新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山

   中の戦い)」 画像アルバム No.2

□ 「従来説(伝説)関ヶ原の戦い」画像

   アル バム No.3 

 

 

■ 大谷 吉継 (おおたに よしつぐ、生没年:1559年ー

  1600年、大谷 刑部(おおたに ぎょうぶ)、刑部少輔

  (ぎょうぶのしょう、官位))は、 安土桃山時代に活

  躍した、武将、大名である。

      大谷 吉継は、 関ヶ原の戦いで西軍につき、

  戦死する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 真田 信繁(幸村)は、 大谷 吉継の娘を、正室夫人

  とする。 

 

 

 「新説関ヶ原の戦い」と大谷吉継。

 

 「新説関ヶ原の戦い」と決戦。

■ 一次史料に基づく「新説の関ヶ原の戦い(= 大

  垣・山中の戦い)」(1600年(慶長5年)8月26

  日頃ー9月15日)では、西軍(奉行衆方)南宮

  の 大垣城後詰軍の毛利勢が東軍の徳川方

  から攻撃を受け敗北すると西軍(奉行衆方)が

  駐留する大垣城が孤立し不利となるので、大垣

  城に駐留していた西軍の奉行衆・毛利方の小西・

  宇喜多・石 田・島津勢等の軍は、1600年(慶長

  5年)9月15日に予想される東軍の徳川方によ

  る南宮山の西軍の奉行衆・毛利方の毛利勢へ

  の攻撃に備えて(の後詰として)、1600年(慶長

  5年)9月14日の日没後、大垣城を出て、関ヶ原

  盆地・山中(やまなか)方面へ向い、 西軍の奉

  行衆・毛利方の小西・宇喜多・石 田・島津勢等

  の西軍主力軍・約3万人の兵は、9月15日の午

  前4時頃、 山中(やまなか)付近に布陣し、その

  後、 1600年(慶長5年)9月15日の午前10時

  頃から正午頃まで、 西軍主力軍を追って大垣付

  近から移動してき東軍の徳川方の東軍主力軍・

  約5万1000人の兵と山中で決戦を行い、敗北す

  る。

 

 大谷吉継。

     「新説の関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

  では、 西軍(奉行衆 ・毛利方)の大谷吉継(おおた

  によしつぐ) と大谷軍(約1200人)は、北陸方面

  から移動してきて、1600年(慶長5年)9月14日

  の夜に、関ヶ原盆地西南部に布陣した。 

     「山中の戦い」合戦の第1段階として、 16

  00年(慶長5年)9月15日夜明けに、 関ヶ原盆地

  南西部で、 西軍(奉行衆・毛利方)の先方隊の大

  谷軍は、 東軍(徳川方)の徳川本隊の軍と戦い、 

  更に松尾山山麓から移動して来た、東軍(徳川方)

  に寝返った小早川軍と戦い、 挟み撃ちにされて、

  大谷吉継は自害(自刃) し、大谷軍は、全滅した。

 

 「新説関ヶ原の戦い」と「山中の戦い」。

 ■ 新説関ヶ原の戦いの「山中(やまなか)戦い」では、 

   第1段階では、1600年(慶長5年)9月 15日の夜

   明けに、関ヶ原盆地南西部に布陣する西軍の奉

   行衆・毛利方の先方隊・大谷吉継軍を、大垣付近

   から移動して来た東軍の徳川方の徳川本隊と松

   尾山麓布陣の西軍の奉行衆・毛利方で東軍寝返

   りの小早川秀秋(こばやかわひであき)の軍が挟

   み撃ちにして全滅させ、 その後、第2段階では、

   9月15日の午前10時頃より、大垣付近から来た

   東軍の徳川方の、先手衆・福島勢と徳川本隊の

   東軍主力軍が、山中村に布陣する宇喜多秀家、

   石田 三成等の率いる西軍主力軍と決戦を行い、

   正午頃に西軍主力軍が総崩れとなり、 西軍

   奉行衆・毛利方の主力軍は、最終的に、徳川家

   の率いる東軍の徳川方の主力軍に敗北した。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」

  と大谷吉継。

 大谷吉継。

 1600年(慶長5年)9月3日に、石田方の西軍

  の大谷吉継が、山中村宮上に布陣する。

 

■ 1600年(慶長5年)9月15日正午頃、美濃国の関 

  ヶ原で、石田方の西軍の小早川秀秋が、徳川家康

  の問鉄砲(といてっぽう)により、石田方の西軍を裏

  切り、松尾山より下山し、石田方の西軍の大谷隊を

  攻撃する。

 

■ 1600年(慶長5年)9月15日午後1時頃、美濃国

  の関ヶ原で、 石田方 の西軍の脇坂(わきさか)ら

  4隊も石田方西軍を裏切り、石田方の西軍の大谷

  隊やその他の隊を攻撃する。

 

■ 1600年(慶長5年)9月15日午後に、大谷吉継

   自害(自刃) し、大谷軍は、全滅した。

 

 

#-appearingscenes

 

◆ 大谷 吉継 が登場する、興味深い、ド

   キュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 大谷 吉継 が登場する、興味深い関

   連ドラマ、映画 

● (注意) ドラマ、映画 は、フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画は、歴史的事実(史実) と 

  架空の出来事 が、混じって、描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 真田丸 (さなだまる) 』 。  

   (NHKテレビ・2016年大河ドラマ)。

● ドラマで「大谷 吉継」 (おおたに よしつぐ、

  豊臣家重臣) を演じる俳優 : 

  片岡 愛之助 (かたおか あいのすけ)。

 

● ドラマで「真田 信繁(幸村)」 (さなだの

  ぶしげ(ゆきむら))を演じた俳優名 : 

  堺 雅人 (さかい まさと)。

 

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#theoogakibattle

 

■ 大垣の戦い。

      ( おおがきのたたかい)。

      (= 新説関ヶ原の戦い

        の大垣の戦い)。

        (

■ 大垣の戦い。

    (= 新説関ヶ原の戦い

      の大垣の戦い)。

■ 名称 : 大垣の戦い 

        (おおがきのたたかい)。

■ 別名 : 大垣合戦。

■ 《戦い》。

■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

   の大垣の戦い。

■ 大垣の戦いは、1600年(慶長5年)8月26

   日頃から9月15日までの、美濃国の大垣

   (おおがき)付近での戦い。

■ (⇒ 大垣・山中の戦い)。

   (⇒ 関ヶ原の戦い)。

   (⇒ 天下分け目の戦い)。

  (⇒ 五奉行五大 老、豊臣氏五大老・五奉行

     内府ちがひの条々、豊臣政権豊臣氏)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 02319。

 

□ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中

   の戦い)」 画像アルバム No.2

□ 「従来説 (伝説) ・関ヶ原の戦い」

   画像アル バム No.3 

 

 「大垣の戦い (おおがきのたた かい)」とは、

   新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)の

   合戦の1つであり、 美濃国の大垣(おおが

   き)付近 (美濃赤坂、大垣城、南宮山東側

   等)で、 1600年(慶長5年)8月26日頃

   から9月15日まで、 東軍の徳川方 と、西

   軍の奉行衆・毛利方 との間で行われた

   戦である。  合戦の結果、東軍の徳川方

   勝利を得る。

 

 ■ 「新説関ヶ原の戦い」(= 大垣・山中の戦い)の布陣図。

  

 

 「大垣・山中の戦い」(= 新説関ヶ

     原の戦い)の決戦。

■ 一次史料に基づく「大垣・山中の戦い(= 新説

  関ヶ原の戦い)」(1600年(慶長5年)8月

  26日頃ー9月15日)では、もし西軍 の奉行衆・

  毛利方南宮山布陣の 大垣城後詰軍の毛利

  勢が 9月15日に予想される東軍の徳川方か

  ら攻撃を受け敗北すると西軍 の奉行衆・毛利

  方が駐留する大垣城が孤立し非常に不利と

  なるので、 大垣 城に駐留していた西軍の奉

  行衆・毛利方の小西・宇喜多・石 田・島津勢

  等の軍は、1600年(慶長5年)9月15日に

  予想される東軍の徳川方による南宮山の西

  軍の奉行衆・毛利方の毛利勢への攻撃に備

  えて(の後詰として)、西軍の奉行衆・毛利方

  小 西・宇喜多・石 田・島津勢等の西軍主力

  軍・約3万人の兵は、1600年(慶長5年)9月

  14日の日没後、大垣城を出て、関ヶ原盆地・

  山中(やまなか)方面へ向い、 14日の日没

  後、その西軍主力軍を追って徳川方の福島

  勢と家康の徳川本隊の東軍主力軍・約5万

  1000人の兵は大垣付近から関ヶ原盆地・

  山中(やまなか)方面へ向い、 奉行衆・毛利

  方の西軍主力軍は9月15 日の午前4時頃、

  山中(やまなか)付近に布陣し、 その後、

  西軍主力軍を追って移動してきた徳川方の

  東軍主力軍・約5万1000人の兵と奉行衆・

  毛利方の西軍主力軍・約3万人の兵とが、

  1600年(慶長5年)9月15日の午前10時

  頃から正午頃まで、 関ヶ原盆地の南西方

  向・約2kmにある、山中 (やまなか)村で決

  戦を行い、徳川方の東軍主力軍が勝利を得、

  奉行衆・毛利方の西軍主力軍が敗北する。

 

 

              ◆ 「大垣の戦い」。

              ● 大垣の戦いは、  大垣付近 (美濃

              赤坂、大垣城、南宮山東側等) で、16

              00年(慶長5 年)8月26日頃から9月15

              日までの間、東軍(徳川方) と 西軍(奉

              行衆・毛利方) とが争った戦いである。 

              戦いの結果、徳川方の東軍が勝利を得る。

              ● 最初に、1600年(慶長5 年)8月26

              日頃から9月13日まで、大垣付近で、東

              軍(徳川方)の 徳川方先手勢の福島勢や

              池田勢の軍 と、 西軍(奉行衆・毛利方)

              の大垣城籠城衆(駐留軍) とが大垣城の

              攻防戦を行うが、勝敗の決着はつかなか

              った。

                 次に、9月14日の昼間に、大垣付近

              で、 東軍(徳川方)の徳川本隊 や 徳

              川方先手勢の福島勢や池田勢の軍 と、

              西軍(奉行衆・毛利方)の大垣城後詰軍

              南宮山東側布陣の毛利勢の軍 や 大垣

              城籠城衆(駐留軍) とが対峙する。

                次に、 9月14日の夜に、大垣付近の

              西軍(奉行衆・毛利方)の大垣城の大部分

              の軍が関ヶ原盆地・山中方面に移動し、

              それを追って、9月14日の夜に、大垣付

              近にいた、東軍(徳川方)の徳川本隊 や 

              徳川方先手勢の福島勢の軍が、関ヶ原盆

              地・山中方面に移動する。

                  次に、9月15日に、大垣付近で、移 

              動せず残った、東軍(徳川方)の徳川方先

              手勢の池田勢の軍 と、 西軍(奉行衆・毛

              利方)の南宮山布陣の毛利勢の軍 や 

              大垣城残留軍 とが対峙する。

                  その後、大垣付近で、西軍(奉行衆・ 

              毛利方)の南山東側布陣の毛 利勢の軍 

               は、戦線を離脱し、 西軍(奉行衆・毛利方)

              の大垣城の残留軍は、降参し、開城する。

                 戦いの結果、徳川方の東軍が勝利を

               得、奉行衆・毛利方の西軍が敗北する。

              ● 最初に、8月26日 頃から9月13日ま

              で、大垣付近で、東軍の 徳川方先手勢の

              福島勢・約1万9000人の兵(福島・黒田・

              細川・藤堂・筒井・田中・加藤嘉明・京極高

              知等) や 池田勢・約2万1000 人の兵

              (池田・山内・堀尾・有馬・松下・浅野幸長

              等) の計・約4万人の兵の軍 と、 西軍

              の奉行衆・毛利方の大垣城籠城衆(駐留

              軍)の約3万3500人の 兵の軍 とが大垣

              城の攻防戦を行うが、勝敗の決着はつか

              なかった。

                 次に、9月14日の昼間に、大垣付近

              で、 東軍の徳川方の徳川本隊・約3万

              2000人の兵(徳川家康、井伊直政、本多

              忠勝、家康馬廻り衆等の軍) や 徳川方

              先手勢の福島勢や池田勢の軍・約4万人の

              兵 と、 西軍の奉行衆・毛利方の大垣城

              後詰軍の南宮山布陣の毛利勢の軍・約1 万

              3000人の兵(毛利秀元・吉川・安国寺・長

              束・長宗我部等) や 大垣城籠城衆(駐留

              軍)・約3万3500人 の兵(小西・宇喜多・

              田・島津勢等の軍・約3万人の兵と福原・垣

              見・熊谷・秋月・相良の軍・約3500人の兵) 

              とが対峙する。

                 次に、 9月14日の夜に、大垣付近

              の西軍の奉行衆・毛利方の大垣城の大部

              分の軍・約3万人の兵(小西・宇喜多・石田・

              島津勢等の軍)が、関ヶ原盆地・山中方面

              に移動する。 それを追って、9月14日の

              夜に、大垣付近にいた、東軍の徳川方の

              徳川本隊・約3万2000人の兵 や 徳川方

              先手勢の福島勢の軍・約1万9000人 の兵 

              が、関ヶ原盆地・山中方面に移動する。

                 次に、9月15日に、大垣付近で、移 

              動せず残った、東軍の徳川方先手勢の

              池田勢の軍・約2万1000人 の兵 と、  

              西軍の奉行衆・毛利方の南宮山 布陣の

              毛利勢の軍・約1万3000人の兵 や 

              大垣城の残留軍・約3500人の兵 と

               が対峙する。

                 その後、西軍の奉行衆・毛利方の南 

              宮山布陣の毛利勢の軍・約1万3000人

              の兵は、戦線離脱し、 西軍 の奉行衆・毛

              利方の大垣城の残留軍・約3500人の兵

              は、降参し、開城する。   

                 戦いの結果、徳川方の東軍が勝利を

               得、奉行衆・毛利方の西軍が敗北する。

               ■ 「大垣の戦い」。

                  「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中

               の戦い)」の1つの、「大垣の戦い」では、  

                  第1段階として、大垣城の攻防戦で、

               1600年(慶 長5年)8月26日頃から 9

               月13日まで、 東軍(徳川方)の徳川方先

               手勢の福島勢・池田勢の豊臣恩顧大名

               の軍・約4万人の兵は、 美濃赤坂(みのあ

               かさか)付近に布陣し、西軍(奉行衆 ・毛

               利方) の拠点の大垣城(おおがきじょう)

               の大垣城籠城衆(駐留軍 )・約3万350

               0人の兵を攻め、大垣城の攻防戦を行うが、

               大垣城は落城せず。 一方、1600年

               (慶長5年)9月 7日に、南宮山(なんぐう

               さん)に、伊勢方面から来た西軍 の奉

               行衆・毛利方 の大垣城後詰軍の毛利 勢・

               約1万3000人が布陣する。

                  第2段階として、西軍 の奉行衆・毛利

               方 の大垣城後詰軍の南宮山布陣の毛利

               勢・約1万3000人 の兵を降参させ大垣城

               を孤立させるため、 1600年(慶長5年)

               9月14日に、東方から来た東軍 の徳川方

               の徳川家康は、徳川本隊・約3万2000人

               の兵(井伊直政・本多忠勝・家康馬廻り衆

               等の軍)と共に、美濃 赤坂(みのあかさか)

               付近に布陣し、 1600年(慶長5年)9月

               14日の昼間、東軍 の徳川方の徳川家康

               と徳川本隊・約3万2000人 や 徳川方

               先手勢の福島勢・池田勢 ・約4万人は、 

               南宮山布陣の西軍 の奉行衆 ・毛利方の

               大垣城後詰軍の毛利勢 ・約1万3000人 

               の兵 や 大垣城籠城衆(駐留軍) ・約3

               万3500人の兵と対峙し、 翌日の9月

               15日以降に、東軍 の徳川方は、南宮山の

               毛 利勢や大垣城籠城衆(駐留軍)を総攻

               撃する予定であった。 

                  一方、9月14日の昼間、西軍 の奉行

                衆・毛利方の南宮山布陣の毛利 勢・約

                1万3000人の兵は、大垣付近にいる

                野戦に強い東軍・家康方の合計・約7万

                2000人の大軍に恐れをなして戦わず。

                   大垣城の西軍は、9月15日以後

                に予想される東軍の大軍の総攻撃で

                南宮山の西軍の毛利勢が敗れ大垣城

                が孤立するのを恐れて、9月14日の夜

                に、西軍主力軍・約3万人の兵は、大

                垣城に約3500人の兵を残し、大垣城

                を出て、関ヶ原盆地・山中方面に向う。 

                一方、9月14日の夜に、徳川本隊や

                徳川方先手勢の福島勢の東軍主力軍・

                約4万1000人の兵は、東軍の池田勢

                約2万1000人の兵を大垣付近に残し、

                西軍主力軍を追って、大垣付近より去

                り関ヶ原盆地・山中方面に向う。

                     9月15日以降に予想される

                軍の徳川方による西軍の奉行衆・毛利

                の南宮山 布陣の毛利勢攻撃に備え

                て、 9月14日に、日没後、南宮山の

                利勢後詰軍(後援部隊)として、西軍(奉

                行衆・毛利方)大垣城籠城衆(駐留軍)

                の小西・宇喜多・石田・島津勢等の軍 ・約

                3万人 の兵の西軍主力軍は、 大垣城

                に残留・約3500 人の兵を残して、大

                垣城を出て 、南宮山西方の関ヶ原盆地・

                山中(やまなか)方面に転進する(移動

                する)。 

                   その後、第3段階として、9月15日

                 午前中、南宮山布陣の西軍の毛利勢・

                約1万3000人の兵は、南宮山の前面に

                いる東軍の徳川方 残留の先手勢の池田

                勢・約2万1000人の兵と対峙し、動け

                ず、山中(やまなか)にいる西軍主力軍

                の援軍に駆けつけられず、15日正午頃

                の山中(やまなか)の戦いでの西軍の奉

                行衆・毛利方の敗北を知り、 その後、

                南宮山の西軍 の毛利勢は戦場を離脱

                し(追撃され)、 西方に向い、大垣付近

                でも、東軍 の徳川方は勝利を得た。

                   また、9月15日の山中(やまなか)

                の戦いで西軍の奉行衆・毛利方が敗北

                東 西両軍の戦いの趨勢 (すうせい)が

                決した後も、 西軍 の奉行衆・毛利方

                福原・垣見・熊谷・秋月・相良の大垣城

                残留勢・約3500人 の兵は、戦いを続け

                寝返りも出て、最後に、1600年(慶 長

                5年)9月 23日に、東 軍の徳川方に降

                伏し、開城する。

                   戦いの結果、東軍の徳川方が勝

                利を得、西軍の奉行衆・毛利方が敗北

                する。

 

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#ononokomachi

 

■ 小野小町  

     (おののこまち)。

 

■ 小野小町。 

■ 名称 : 小野小町 (おののこまち)

■ 平安時代前期の女流歌人。 美人。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 81328。

 

 

■ 小野小町に関する一次的史料は少ない。

 

■ 小野小町 (おののこまち、生没年不詳)は、 平安

  時代前期の女流歌人である。 才能と美貌に恵まれ

  た女性であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 小野小町は、 日本では、クレオパトラ7世楊貴妃 

  と並んで、美人と言われている女性である。

             

■ 小野小町の有名な和歌の1つに、 古今和歌集の

  次の歌がある。

     『 花の色は うつりにけりな いたづらに

        わが身 世にふる ながめせしまに  』。

 

■ 小野小町は、 飛鳥時代から鎌倉時代までの和歌

  を集めた和歌集 の百人一首(ひゃくにんいっしゅ)に

  登場する歌人の一人である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 小野小町は、 宮中務めをし、宮中務め後、実家の

  ある、京(都)南東部の小野に戻った。

 

■ 小野小町は、 独身で、婚儀を結ばなかったと言わ

  れている。

     小野小町は、 数多くの男性に思いをよせられ、

  多くの恋文を受け取ったが、ほとんど応じなかった。

     しかし、小野小町は、 深草少将(ふかくさのしょ

  うしょう)という男性には、心ひかれ、好意を寄せた。 

  しかし、恋が実る前に、深草少将は死去してしまった。

 

■ 小野小町の邸宅跡は、 京(都)南東部の小野(現・

  京都市山科区小野)の隨心院(ずいしんいん)付近に

  あったと言われている。

 

 

♪♪ 小野小町 が登場する、興味深い

  関連ドラマ、映画、ドキュメンタリー。 

 

★ 小野小町 が登場する、興味深い関

  連ドキュメンタリー。 

 

■ 京都ぶらり歴史探訪 2時間

   スペシャル 『 時代に翻弄

   された新撰組と女たち 』。 

    (テレビ朝日・2017年2月7日・本放

   送・テレビ・ドキュメンタリー番組)。

■ 新選組、小野小町、祇王(ぎおう、平清

  盛の白拍子)、紫式部について詳しく述

  べる。

 

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#theodawarawar

 

■ 小田原合戦  

     (おだわらかっせん)。

 

■ 小田原合戦。 

■ 名称 : 小田原合戦 (おだわらかっせん)。

■ 別名 : 秀吉の小田原征伐。

■ 《戦争》。

■ 1590年(天正18年)3月〜7月。

■ 豊臣方と北条方との戦い。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 72323。

 

 

◆ 小田原合戦の内容。

■ 小田原合戦 (おだわらかっせん) とは、 1590年

  (天正18年)に、関東地方で、豊臣秀吉の豊臣方と

  北条氏政・氏直の北条方が、戦った合戦である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 豊臣秀吉は、1590年(天正18年)3月に、関東地

  方の北条領に攻撃を開始し、1590年7月に、北条

  氏直は降伏を申し出て、関東の北条氏(後北条氏)

  は、領地没収となり、滅亡した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

             

■ 小田原合戦では、 総勢・兵士約 21万人の豊臣方

  の大軍が、総勢・兵士約8万人の北条方の軍が守る

  北条領の関東各地に攻め込み、関東各地で、戦いが

  繰り広げられ、北条方が敗れ降伏し、豊臣方が勝利を

  得た。

     小田原合戦は、 1590年(天正18年)3月1日に

  開戦し(秀吉が出陣し)、1590年(天正18年)7月5

  日に終戦となった(小田原城が落城した)。

 

■ 小田原合戦では、 関東各地の北条氏方支城(北条

  方の城)は、豊臣方の軍に対し戦って落城したり戦わ

  ず開城したりし、一方、北条氏本城の小田原城は、豊

  臣方の軍に対し籠城戦を行った。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

◆ 北条氏本城の小田原城・籠城戦。

     小田原合戦では、 秀吉は、北条氏本城の小田

  原城を約10万人の兵で取り囲み、補給路を完全に

  絶ち、更に、北条氏本城の小田原城を見下ろす山に、

  秀吉は、総石垣の、石垣山一夜城(いしがきやまいち

  やじょう)を約80日で築城し、長期戦の構えを見せ、

  短・中期の籠城戦(ろうじょうせん)を目指していた

  北条氏を圧倒し、父で隠居の北条氏政は反対したが、

  子で北条氏当主の北条氏直は、籠城戦をあきらめ、

  小田原城を開城し降伏した。

     秀吉により、関東の北条氏は領地を没収され、

  北条氏政は 自害(切腹)をさせられ、北条氏直は高

  野山へ追放となった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 石垣山一夜城と終戦。

■ 一夜城 (いちやじょう、= 石垣山一夜城)は、 15

  90年(天正18年)に、 1590年(天正18年)に、

  小田原合戦中 に、小田原城を見下ろす石垣山に、

  豊臣秀吉が築城した城である。

                     

■ 一夜城 (= 石垣山一夜城)は、4万人で約80日で、

   急いで築城した城で、総石垣の城であった。

            

■ 一夜城 (= 石垣山一夜城)は、小田原城に籠城(ろ

  うじょう)する北条氏から見えないように工事を行い、

  秀吉は、完成時、石垣山の周りの木を切らせ、突然、

  総石垣の城が出現したように見せたので、一夜城と

  いうこの名がある。

 

■ 開戦・約3カ月後、北条氏は、北条氏本城の小田原

  城を秀吉の軍勢・約10万人以上で取り囲まれ、関東

  各地の北条氏方支城も多くが落ち、伊達正宗が秀吉

  に臣従し援軍も期待できず、戦争継続か降伏か意見

  が分かれる評定(小田原評定)を繰り返していた。 

    開戦・約3カ月後、突然現れた総石垣の立派な

  夜城 (= 石垣山一夜城)を小田原城から見上げた、

  北条氏勢力は、短・中期戦の目論見が外れ長期戦の

  籠城戦になると考え、戦う気力を失い、北条氏家臣

  の内通者も出て、父で隠居の北条氏政(うじまさ)は

  反対したが、子で北条氏当主の北条氏直(うじなお)

  は降伏を選び、北条氏本城の小田原城を開城し、北

  条氏政は自害させられ、北条氏直は高野山に追放と

  なった。 ここに小田原合戦は終わり、5代100年続

  いた戦国大名の北条氏は、滅んだ。

         

 

■ 忍城(おしじょう)攻防戦。

    小田原合戦では、 関東の北条氏支城(北条方の

  城)の1つの、武蔵国(むさしのくに、現・埼玉県・東京

  都の相当地域)の、忍城(おしじょう)は、 水攻めが

  行われ、 成田氏長 (なりたうじなが、1542年−

  1596年)が率いる約2000人の兵(農民兵を含む)

  が、最後まで、1590年7月まで(6月16日頃から7月

  16日頃まで)、 石田三成の率いる約2万人の派兵

  (援軍を含む)の豊臣方の軍に対し降伏せず、頑強に

  抵抗し、その後、開城・降伏した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 東北地方の諸領主の服従・臣従。

     一方、小田原合戦で関東地方を攻める、豊臣秀

  吉の率いる、総勢・兵士約16万人の豊臣方の大軍を

  知った、東北地方の、陸奥国(むつのくに、現・青森・

  岩手・宮城・福島県の相当地域)や出羽国(でわの

  くに、現・秋田・山形県の相当地域) の諸領主は、 

  小田原合戦での秀吉の関東平定後、秀吉が大軍で

  東北地方の陸奥国・出羽国に侵入し攻撃され領地を

  没収をされるのを恐れて、 次々に秀吉のいる小田

  原に使者を送ったり、参陣したりして、臣従した。

     小田原合戦の後期には、陸奥国の戦国大名の、

  伊達正宗(だてまさむね)も、 秀吉のいる小田原に

  参陣し、臣従を誓い、 減封(げんぽう、領地減少)

  になったが、改易(かいえき、領地没収)は免れた。

     1590年(天正18年)に、小田原合戦終了後、

  豊臣秀吉は、 宇都宮仕置 (うつのみやしおき、

  1590年7月26日頃〜8月14日頃) で、 下野国

     宇都宮城(しもつけのくに うつのみやじょう) に

  出頭した関東や奥羽の諸領主(大名たち)に対し

  東や奥羽の領地等の戦後措置を行い、 関東地方

  と東北地方のほぼすべての大名が、豊臣秀吉に服

  属・臣従し、 既に服属・臣従する九州、四国、中国、

  近畿、中部地方の大名たちと合わせて、 ここに、豊

  臣秀吉は、天下統一(= 日本本土統一)を成し遂げた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 徳川家康の関東への領地替え(転封

  (てんぽう)) と 江戸大移動。 

      1590年(天正18年)に、秀吉の命(命令)

  により、 徳川家康は、三河、遠江、駿河、甲斐、信

  濃などの中部地方の領地から相模、武蔵、上総、

  下総、上野、伊豆などの旧北条氏領土の関東地方

  の領地に移る。

      1590年(天正18年)に、当時政治の中心地

  の大坂・京都に近い、中部地方に大勢力をもつ、徳

  川家康の勢力拡大を恐れた、豊臣秀吉は、 小田

  原合戦で北条氏の降伏後、政治の中心地の大坂・

  京(都)から遠い、未開墾地の多い、北条氏から没収

  した、旧北条領のうちの約230万石の領地に、徳川

  家康を封じ込め、領地替え(転封(てんぽう))させた。

       1590年(天正18年)に、徳川家康は、関東

  地方の徳川の領地の中心地を、江戸 (えど、現・東

  京23区地域の相当地域) とし、 ここに、徳川氏に

  よる江戸(現・東京)の都市開発が始まる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 小田原合戦の背景。

■ 天下統一(日本本土統一)を目指していた、豊臣秀

  は、 東国(とうごく)の関東地方や東北地方の服

  属を望み、また、それまで西国(さいごく)の征討で

  功績のあった武将たちへの恩賞の領地が不足して

  いため、 関東地方や東北地方の大名たち(諸領主)

  に対しては、単なる秀吉への臣従による領土安堵(あ

  んど)ではなく、討伐による領地没収を行おうとした。

     更に、豊臣秀吉は、 北条氏を討伐し滅ぼした

  後、徳川家康の領地を、当時政治の中心地の大坂・

  京(都)から遠い、北条氏領地の関東に移し、家康

  の三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の中部の領地に、豊

  臣恩顧の大名を配置し、家康が大坂・京(都)に攻め

  上るのを防ごうと考えた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 小田原合戦の口実となった、名胡桃城(なぐるみじ

  ょう)事件。

● 名胡桃城事件(なぐるみじょうじけん)は、 1589年

  (天正17年)11月に起こった、小田原合戦(1590年

  (天正18年))の口実となった事件である。

● 1589年(天正17年)7月に、関白の秀吉の裁定

  により、 上野国(こうずけのくに、現・群馬県の相当

  地域)の 沼田領のうち、沼田城(ぬまたじょう)があ

  る利根川以東の地域は北条氏の 領地に、名胡桃城

  (なぐるみじょう)がある利根川以西の地域は真田氏

  の領地となる。 

      ところが、その後、1589年(天正17年)11月

  に、北条氏の家臣が、真田領の名胡桃城(なぐるみ

  じょう)を占領し、奪取する。 豊臣秀吉の意を受けた、

  真田昌幸(まさゆき、真田幸村(信繁)の父)が、策略

  で北条氏の家臣に名胡桃城を占領するように仕向け

  たと推測される。

     その後、豊臣秀吉は、北条氏による真田領の

  名胡桃城(なぐるみじょう)占領事件で、北条氏が秀

  吉の許しなく勝手に戦いを行い占領したとし、 惣無

  事令(そうぶじれい)違反とし、 秀吉への臣従によ

  る領土安堵(あんど)を望んでいた北条氏を討伐する

  ため、 1589年(天正17年)12月に、既に秀吉に

  服属する全国の諸大名に、北条討伐の討伐令を通 

  知した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#-appearingscenes

 

♪♪ 小田原合戦 が登場する、興味深

     い、ド キュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 小田原合戦 が登場する、興味深い

    関連ドキュメンタリー。 

 

■ 高島礼子・日本の古都 ▼戦国

   歴史ミステリー 『 秀吉 小田原

   合戦の謎 』。  

   (TBSテレビ・2016年12月2日・本放送・

    歴史ドキュメンタリー番組)。

 小田原合戦(秀吉の小田原征伐)、

  小田原城、石垣山一夜城、北条

  氏政、北条氏直などを述べる。

 

■ 尾上松也の古地図で謎解き 

   日本探究  『 秀吉が動いた!

   北条氏 繁栄と滅亡への道 』。  

■ (BS11テレビ・2016年6月28日・本放送・

    歴史ドキュメンタリー番組)。

● 北条氏、小田原城、石垣山一夜城、小田原

  合戦(秀吉の小田原征伐)、北条早雲、北条

  氏政、北条氏直などを述べる。

 

 

★ 小田原合戦が 登場する、興味深い

  関連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

     歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実)

  と 架空の出来事が 混じって描かれています。

  また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 真田丸 (さなだまる) 』 。  

   (NHKテレビ・2016年大河ドラマ)。

 安土桃山時代や江戸時代初期の時代を描く。

 1582年(武田氏滅亡)から1590年(小田

  原合戦)までの北条氏を描く。

 1582年(武田氏滅亡)から1615年(大坂の

  夏の陣)までの、真田氏 や 真田幸村(信繁)

  (さなだ ゆきむら(のぶしげ)) を描く。

 

● 北条氏政を演じた俳優名: 高嶋政伸。

● 北条氏直を演じた俳優名: 細田善彦。

● 北条氏重臣の板部岡 紅雪斎(いたべおか

   こうせつさい)を演じた俳優名: 山西 惇。

● 豊臣秀吉を演じた俳優名: 小日向 文世。

 

■ 『 のぼうの城 』 。  

   (日本映画)。

 安土桃山時代を描く。

 1590年の小田原合戦(秀吉の小田原征伐)

  での、北条方の忍城(おしじょう)攻防戦を描く。

 

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#odanicastle

 

■ 小谷城 

     (おだにじょう)。

 

■ 小谷城。 

■ 名称 : 小谷城 (おだにじょう)

■ 《城》。

■ 浅井長政の本拠地の城 (本城(ほんじょう))。 

■ 城に関しては、「」を参照してください。

■ 織田信長に関しては、織田信長」、織田信長ガイド

  ブック」を参照してください。

■ 羽柴秀吉(豊臣秀吉)に関しては、「豊臣 秀吉、 「豊臣

  秀吉ガイドブック」を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 72137。

 

□ 小谷城 画像アルバム  No.1

 

 

■ 小谷城 (おだにじょう)は、 北近江 (きたおうみ、現・

  滋賀県北部の相当地域) にあった、浅井長政(あざい

  ながまさ)の 本拠地の城(本城(ほんじょう))である。

    小谷山に浅井氏の本城の小谷城があ り、周辺の山々

  には、浅井氏の支城があった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 小谷城は、 琵琶湖湖畔にあり、 琵琶湖を望む壮大な

  眺めをもつ、山城(やまじろ)であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 ■ 小谷城は、 浅井長政 (あざいながまさ)、  お市 

  (おいち、小谷方(おだにのかた)、浅井長政・正室夫人、

  織田信長の妹、浅井3姉妹の生母)、 浅井3姉妹の、

  (1) 茶々 (ちゃちゃ淀殿)、  (2) 初 (はつ、お初

  常高院(じょうこういん))、 (3) 江(ご う、お江江与

  (えよ)、崇源院(すうげんいん)) が住んでいたお

  ある。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 小谷城 (おだにじょう)は、 浅井長政 (あざいながま

  さ)、 お市 (おいち、小谷方(おだにのかた)、浅井長

  政・正室夫人、織田信長の妹、浅井3姉妹の生母)、 浅

  井3姉妹 (茶々(ちゃちゃ、淀殿(よどどの))、 初(は

  つ、常高院(じょうこういん))、 江(ごう、江与(えよ)、崇

  源院(すうげんいん))) が住んでいたお城である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 浅井長政は、 戦時、小谷城の本丸(ほんまる)で指揮

  し、 浅井長政の父・浅井久政(あざいひさまさ)は、小

  谷城の小丸(こまる)で指揮を執(と)っていた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 浅井長政は、 織田信長と同盟関係にあったが、 15

  70年に 、織田信長が浅井氏と親密な関係にある朝倉

  氏を攻めたため信長との同盟を破棄し朝倉氏に味方し

  織田信長に反旗を翻(ひるがえ)し、 約3年間、織田

  信長と敵対した。

     そして、遂に、1573年(天正元年)8月に、小谷城

  は、 織田信長配下の秀吉に攻められて、落城した。 

  その際、浅井長政は、小谷城で自害し、長政の妻子の

  お市と浅井3姉妹 (茶々、初、江)は小谷城から落ち延

  びた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

     ■ 織田信長の浅井・朝倉攻め。

        1573年(天正元年)8月8日に、織田信

     長は、北近江 (きたおうみ、現・滋賀県北部

     の相当地域) に、約3万人の軍勢を率いて

     出兵し、8月10日に、浅井氏の小谷城の向え

     にある(の喉元にあたる)、虎御前山(とらご

     ぜんやま)の砦(とりで)に入り、浅井氏(あざ

     いし、あさいし)の小谷城(おだにじょう)を包

     囲する。

        1573年(天正元年)年8月10日に、越

     前国 (えちぜんのくに、福井県東部)から

     北近江に浅井氏の救援にきた約1万5000

     人の兵の朝倉軍が現れ、8月13日に、北近

     江で、織田信長は、朝倉軍と戦い、撃破する。 

        その後、織田信長は、小谷城の攻撃を

     後回しにして、織田信長の織田軍は、敗走

     する朝倉遠征軍を追撃し、8月14日に、朝

     倉義景(あさくらよしげ)と朝倉軍を刀根坂

     (とねざか)の戦いで撃破し、刀根山を越え、

     越前国に敦賀(つるが)に着陣し、その後、

     敦賀を平定し、敦賀を経由して、8月16日

     には、木芽峠(きのめとうげ)を越え、織田

     信長は、8月18日に、越前府中(えちぜん

     ふちゅう)の龍門寺(りゅうもんじ)に着陣す

     る。 

        1573年(天正元年)年8月18日に、

     織田信長は、越前の朝倉氏の本拠地の一

     乗谷の市街地を襲撃制圧し、焼き払う。

     柴田勝家らの織田軍が8月18日に、一乗

     谷に攻め込み、放火は三日三晩続いた。

         1573年(天正元年)8月15日に一

     乗谷に帰っていた朝倉義景は、織田軍が

     来る前に、手勢のみを率いて、本拠地の

     一乗谷(いちじょうだに)の館を捨てて、

     山田庄(やまだのしょう)に逃(のが)れる。

        山田庄へ逃げた朝倉義景は、更に柴

     田勝家らの織田軍に攻め立てられ、 一族

     の朝倉景鏡(あさくらかげあきら)や平泉寺

     (へいせんじ)の僧兵にも裏切られ、1573

     年(天正元年)8月20日に朝倉氏当主の

     倉義景は、山田庄の(大野郡の)六坊賢松

     寺(ろくぼうけんしょうじ、福井県大野市)で、

     自刃(じじん、自害)し、越前の朝倉氏は滅

     亡する。

        織田信長は、越前国より戻り、1573

     年(天正元年)8月26日に、浅井氏の小谷

     城の向えにある、虎御前山(とらごぜんや

     ま)の砦に戻る。 8月27日に、木下秀吉

     (豊臣秀吉)の攻撃によって、小谷城の京

     極丸(きょうごくまる)が陥落し、これで久政

     が守る小丸と長政が守る本丸との間が

     断ち切られ、8月28日に小丸が落ち、浅井

     長政の父・久政が自刃(じじん、自害)し、8

     28日から9月1日までの間に、小谷城の

     本丸(ほんまる)も陥落し、浅井長政は、小

     谷城の本丸近くの赤尾清綱(あかおきよつ

     な)の屋敷に入って、自刃(自害)し、北近江

     の朝倉氏は、滅亡する。

        浅井長政は、落城前に、1573年(天

     正元年)8月28日夜に、浅井長政に嫁(と

     つ)いだ信長の妹のお市とその女子(茶々、

     初、江(ちゃちゃ、はつ、ごう)の3人の娘)を

     駕籠(かご)で信長の陣に送り届ける。

          浅井長政の嫡男(当時10歳)の万福

     丸(まんぷくまる)は、お市の腹ではなく

     側室夫人との子であり、 朝倉方に人質とし

     て送られていたが、織田軍により、探し出さ

     れて、敦賀(つるが)で捕えられ、磔刑にされ

     た。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 小谷城 が登場する、興味深い、ドキ

    ュメンタリー、ドラマ、映画。

 

 小谷城 が登場する、興味深い、ドラマ、

   映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

     歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

     と架空の出来事が混じって描か れています。 

      また、現代風にアレンジし てあります。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』。 

    (NHKテレビ・2011年大河ドラマ) 

■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

   江戸時代初期を描く。

 

(E) 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』

    第1回「湖国の姫」・2011年1月9日・

       本放送・NHKテレビ・大河ドラマ。

■ 小谷城の詳細を描く。

 浅井長政と織田信長の妹・お市との婚儀

  から1573年の小谷城の落城までを描く。

     浅井長政とお市の2人の生活浅井

  3姉妹(茶々、初、江)の誕生や3人の生活

  を描く。

 

● 浅井長政 (お市の夫、浅井3姉妹の父)を

   演じた俳優名 : 

     時任 三郎(ときとう・さぶろう)。

● お市(おいち、浅井長政夫人、浅井3姉妹の

  母)を演じた女優 : 

  鈴木 保奈美 (すずき・ほなみ)。

● 茶々(ちゃちゃ、淀の方、浅井長政の娘)を

   演じた女優 : 宮沢 りえ (みやざわ・りえ)。

● 初 (はつ、常高院、浅井長政の娘)を演じた

   女優 : 水川 あさみ (みずかわ・あさみ)。

● 江 (ごう、、浅井長政の娘、お江(おごう)、

   小督(おごう)、お江与(おえよ)、崇源院

  (すうげんいん))を演じた俳優名 :

   上野 樹里 (うえの・じゅり) 。

 

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#oichi

 

■ お市  

      (おいち)。

    (織田信長の妹)

 

■ お市。 

■ 生没年 : 1547年(天文16年)?〜1583年

  (天正11年)。

■ 名称 : お市 (おいち)。 

● 別名 : お市の方(おいちのかた)。 小谷の方。

  (注意) 

  ○  前近代日本では、女性は、通常、個人

    名のみで自他呼称。

   ○ 前近代日本では、 家父長制の夫婦別姓

     前近代日本の人名

■ 織田信長の妹。

■ 戦国時代、安土桃山時代の女性。

■ 浅井三姉妹 (茶々(ちゃちゃ)、初(はつ)、江

  (ごう)) の生母。

■ 1番目の夫の浅井長政の正室( 夫人) 

  (1567〜73年)。

■ 2番目の夫の柴田勝家の正室( 夫人) 

  (1582〜83年)。

■ 1583年4月に、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が越前の

  北庄城 (きたのしょうじょう)を攻めてきた時、越

  前北庄城内で、夫の柴田勝家と共に自害した。 

  享年37歳。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

□ 小谷城 画像アルバム   No.1

□ お市 関連出来事 (年代順・詳細)

□ お市 が登場する、興味深い、ドキュ

   メンタリー、ドラマ、映画

 

 

■ お市 (おいち) は、お市の方(おいちのかた)、

  または、 小谷の方 とも呼ばれた。

■ お市の、生没年は、 1547年(天文16年)?

  〜1583年(天正11年)である。

■ お市は、 戦国時代、安土桃山時代の女性 で

  あった。

■ お市は、 浅井三姉妹 (茶々(ちゃちゃ)、初

  (はつ)、江(ごう)) の生母 である。

■ 浅井3姉妹は、 浅井長政の3人の娘で、 

  茶々  (ちゃちゃ、淀殿)、   (はつ、常高院)、 

   (ごう、小督( おごう)、お江与(おえよ)、 

  源院(すうげんいん)) である。

 

■ お市は、 浅井長政の正室(夫人) (1567〜

  73年) であり、 柴田勝家の正室(夫人) (15

  82〜83年) であった。

 

■ お市 は、織田信長の妹 である。 

● 通説では、 お市は、織田信長の妹である。 

  一説では、お市は、 信長の妹ではなく、 信長

  の従妹(いとこ、信長の叔父・織田信光の娘) 

  または、 信長の従兄弟(いとこ)・織田広良(與

  康)の娘 とも言われている。 また、一説では、

  長政に嫁ぐ前はお市は信長の愛妾であり、茶々

  は信長の娘という奇説まである。

 

■ お市は、 1583年4月に、豊臣秀吉(羽柴秀

  吉)が越前(越前、現在の福井県)の北庄城 (き

  たのしょうじょう)を攻めてきた時、 越前北庄城

  内で、 夫の柴田勝家と共に自害した。 享年

  37歳であった。

 

 

#oichi-appearingscenes

 

♪♪ お市 が登場する、興味深い、ドラ

  マ、映画、ドキュメンタリー。

 

★ お市 を描いた、興味深い関連ドラマ、

  映画 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』。 

    (NHKテレビ・2011年大河ドラマ) 

■ お市(おいち)の詳細を描く。

■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描く。

● お市 (おいち、浅井長政夫人、柴田勝家夫人、

  浅井3姉妹の母) を演じた女優 : 

  鈴木 保奈美 (すずき・ほなみ)。

 

● 浅井長政 (お市の夫、浅井3姉妹の父) を演

   じた俳優名 : 時任 三郎(ときとう・さぶろう)。

● 茶々(ちゃちゃ、淀の方、お市と浅井長政の娘)

   を演じた女優 : 宮沢 りえ (みやざわ・りえ)。

● 初 (はつ、常高院、お市と浅井長政の娘)を演

   じた女優 : 水川 あさみ (みずかわ・あさみ)。

● 江 (ごう、、お市と浅井長政の娘、お江(おご

   う)、小督(おごう)、お江与(おえよ)、崇源院

  (すうげんいん))を演じた俳優名 :

  上野 樹里 (うえの・じゅり) 。

 

■ 『 寧々〜おんな太閤記 (ねね 

     おんなたいこうき) 』 。 

   (テレビ東京・2009年制作テレビドラマ)。

● お市を演じた女優名 : 高岡 早紀。

 

■ 『 太閤記〜天下を獲った男・

    秀吉 』。 

   (テレビ朝日・2006年制作テレビドラマ)。

● お市を演じた俳優 :相田 翔子。

 

■ 『 功名が辻 (こうみゅうがつじ) 』 。 

    (NHKテレビ・2006年大河ドラマ)。

● お市を演じた俳優 : 大地 真央。

 

■ 『 国盗り物語 (くにとりものがた

     り) 』。 

   (テレビ東京・2005年制作テレビドラマ)。 

● お市を演じた俳優 : 高木 まみ子。

 

■ 『 太閤記 サルと呼ばれた男 』。 

   (フジテレビ・2003年制作テレビドラマ)。 

● お市を演じた俳優 : 宮沢 りえ。

 

■ 『 利家とまつ〜加賀百万石物

    語〜 』。 

   (NHKテレビ・2002年大河ドラマ)。

● お市を演じた俳優 : 田中 美里。

 

■ 『 秀吉 』。 

   (NHKテレビ・1996年大河ドラマ)。

● お市を演じた俳優 : 頼近 美津子。

 

■ 『 信長 KING OF ZIPANGU 』 。  

   (NHKテレビ・1992年NHK大河ドラマ)。

● お市を演じた俳優 : 鷲尾 いさ子。

 

■ 『 徳川家康 』。 

   (NHKテレビ・1983年NHK大河ドラマ)。

● お市を演じた俳優 : 眞野 あずさ。

 

■ 『 おんな太閤記 』。 

   (NHKテレビ・1981年大河ドラマ) 。

● お市を演じた俳優 : 夏目 雅子。

 

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#oichi-happenings

 

◆ お市 関連出来事 (年代順・詳細)。

 

■ 浅井長政 は、1564年、織田信長と同盟を結び、1567年、同

 盟を強固にするため、 織田信長の妹のお市と政略結婚した。しかし、

 後に、信長と決裂し、戦い、敗れて、自害し、浅井氏は、1573年に、

 滅亡した。

@ 1564年(永禄7年)の、浅井家と織田家の同盟は、「 同盟がある

 限り、織田は朝倉に進軍せず、どのような事態でも朝倉に進軍する時

 は必ず一報をいれる」という条件を付した同盟であった。

A 1570年(元亀元年)に、信長は、長政と交わした「朝倉への不戦

 の誓い」を破り、徳川家康と共に、越前の朝倉方の城を攻め始めた。 

 浅井は、朝倉との同盟関係を重視し、 織田・徳川軍を背後から急襲

 した。 信長は、苦戦しながら、近江を脱出した(金ヶ崎の退き口)。

B 1573年(天正元年)、信長は、北近江に攻め寄せ、 小谷城を囲

 んだ。 お市は、 長政と運命を共にする覚悟であったが、 長政に

 諌(いさ)められて、 お市は、浅井三姉妹を連れて、 小谷城を脱出

 し、 信長の元へ落ちのびた。

 

■ お市の夫・浅井長政が、お市の兄・織田信長に敵対する。

● 1573年(天正元年)に、 浅井長政の小谷城が、織田信長(配下

 の豊臣秀吉)の軍勢に攻められ、 落城すると、 茶々(淀殿)ら3人

 の娘(3姉妹) は、母・お市と共に、城を落ちのびる。

● このとき、 父・浅井長政、祖父の浅井久政は、自害し、 長政の

  先妻の子で腹違いの子の万福丸 (お市の子という説もある) は、 

  捕らえられ、 信長の命で秀吉により処刑される。 

 

■ その後、 お市と浅井三姉妹 は、 叔父の織田信包等の庇護の下

 (もと)におかれ、 尾張で暮す。

● その後、 お市と3人の娘は、約9年間、 織田信長の弟の、織田信

 包(のぶかね)の庇護(ひご)を受け、清州城(きよすじょう)にて、平穏

 に過ごした。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 1582年(天正10年)に、 本能寺の変で織田信長の死去後、 お

 市が、 織田家重臣の柴田勝家と再婚すると、 茶々(淀殿)ら3人の

 娘(浅井三姉妹)は、 母・お市と共に、 北庄城 (きたのしょうじょう、

 福井市)へ移る。

 

■ 1583年(天正11年)4月に、 柴田勝家の北庄城が、羽柴秀吉

 (豊臣秀吉)の軍勢に攻められ、 柴田勝家と お市が自害し、 落城

 時、お市の茶々(淀殿)らお市の3人の娘(浅野三姉妹)は、逃がされ、

 城を落ちのびる。 

 

■ その後、 茶々(淀殿)らお市の3人の娘(浅野三姉妹) は、織田長

 益、京極龍子らの庇護の下(もと)におかれた。 

 

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#ookunisaneyori

 

■ 大国実頼   

     (おおくに さねより)。

     (直江兼続の弟)。

    (樋口 与七)

 

■ 大国実頼。

■ 生没年 : 1562年(永禄5年) 〜 1622年(元和8年)。

■ 名称 : 大国実頼 (おおくに さねより)。 初めの名は、 樋口

 与七 (ひぐち よしち)。 1582年より、 小国 実頼 (おぐに さねよ

 り)と称し、 1587年より、 大国 実頼 (おおくに さねより) と称す。

■ 直江 兼続 (=樋口兼続(ひぐち かねつぐ)、樋口 与六( よろく))

 の弟。

■ 安土桃山時代、 江戸時代初期の武士、武将。

■ 長尾・上杉氏の家臣。

■ 大国実頼 (樋口 与七)の父 は、樋口 兼豊(ひぐち かねとよ、 樋口

 惣右衛門)。

■ 大国実頼 (樋口 与七)の母 は、 お藤 (おふじ)。

■ 大国実頼 (樋口 与七)の兄弟 は、 直江兼続 (樋口兼続、樋口与

 六、長男、兄) と  樋口秀兼 (三男、弟) と きた (仮称、長女) と 

 次女 と 三女 。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

■ 大国実頼 (樋口 与七) は、 生没年は、 1562年 (永禄5年)〜

 1622年 (元和8年) である。

 

■ 大国実頼 (樋口 与七) は、直江 兼続(=樋口兼続(ひぐち かねつ

 ぐ)の弟 である。 

 

■ 大国実頼 (樋口 与七) は、 安土桃山時代、 江戸時代初期の武士、

 武将 で、長尾・上杉氏の家臣で、 ある。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 大国実頼 (樋口 与七)の父 は、 樋口 兼豊(ひぐち かねとよ、 樋口

 惣右衛門)、樋口 与七の母 は、 お藤 (おふじ) である。

 

■ 大国実頼 (樋口 与七) (次男)の兄弟 は、 直江兼続 (樋口兼続、

 樋口与六、長男、兄) と 樋口秀兼 (三男、弟) と きた (仮称、長

 女) と 次女 と 三女 である。

 

■ 樋口 与七 (ひぐち よしち) は、 1582年より、 小国 実頼 (おぐ

 にさ ねより)と称し、 1587年より、 大国 実頼 (おおくに さねより) 

 と称す。

● 大国実頼 (樋口 与七) は、1582年(天正10年)に、天神山城主・

 小国重頼の養子となり、 小国氏の家督を継ぐ。 1587年、上杉景勝

 の命(めい)により、 苗字を 大国と改めた。  

  また、大国実頼 (樋口 与七)の武家官位 は、 但馬守 である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

♪♪ 大国実頼 (樋口 与七) が登場する、興味深い、

 ドラマ、映画。

■ 『 天地人 (てんちじん) 』  

 (日本のNHK2009年大河ドラマ)。

● 大国実頼 (樋口 与七)を演じた俳優名 : 小泉 孝太郎。  

 

■ 直江 兼続 (兄)、 樋口兼豊 (樋口 惣右衛門、父)、 お藤 (母)、 

 きた (仮称、姉妹) に関しては、 当日本史辞典の 『 直江兼続 (なお

 えかねつぐ)、 樋口兼豊 (ひぐち かねとよ)、 お藤 (おふじ)、 きた 』 

 を参照して下さい。

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#thegoldenteaceremonyroom

 

■ 黄金の茶室  

     (おうごんのちゃしつ)。

 

■ 黄金の茶室。 

■ 名称 : 黄金の茶室 (おうごんのちゃしつ)

■ 英語名 : THE GOLDEN 

  TEA-CEREMONY ROOM.

■  《茶の湯》。

■ 1585年(天正13年)10月初披露。

■ 黄金の茶室は、 豊臣秀吉によって、 天皇をもてなす

  禁裏(禁中)茶会 (きんり(きんちゅう)ちゃかい) のた

  めにつくられた。 

■ 「豊臣 秀吉」、 「千 利休」、 「茶会」 も参照して くださ

  い。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 71837。

 

 

◆ 秀吉の、茶の湯接待。

■ 黄金の茶室は、豊臣秀吉によって、 天皇をもてなす禁

  裏(禁中)茶会 (きんり(きんちゅう)ちゃかい)のために

  つくられた。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 黄金の茶室の中にあった、茶道具は、茶せん以外は金

  製とし、 豊臣秀吉は、 金製茶道具を天皇に献上した。

             

■ 黄金の茶室は、移動可能・組み立て式 茶室であった。

             

■ 黄金の茶室 (おう ごんのちゃしつ) は、接待のため、

  茶会(ちゃかい)を盛り上げるために、豊臣秀吉が造ら

  せた茶室である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 黄金の茶室は、 秀吉がお茶で天皇を接待するために、

  前代未聞のサプライズがある茶会にするため、造らせた

  茶室である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 黄金の茶室は、 朝廷と親交を深める ため、 1585年

  (天正13年)10月の禁裏(禁中)茶会 (きんり(きんちゅ 

  う)ちゃかい) のために、 天皇御所 (てんのうごしょ、

  天皇の住まい、= 禁裏(禁中)) での大茶会で天皇を接

  待 するため、また、天皇(正親町(おおぎまち)天皇)、

  皇子、公家たちを驚かすため、 千 利休(千 宗易)と相

  談して、豊臣秀吉が造らせた茶室 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 秀吉の、茶の湯接待。

■ 秀吉の、天下統一前の4大茶会。

■ 秀吉の、天下統一前の4大茶会(1584−1587年)。

     1590年(天正18年)の天下統一(日本本土・全土

  統一統治)の前に、 豊臣 秀吉は、天下人(天下統一

  者)を目指して、接待のため、 千 利休(千 宗易)と相

  談して、1584年(天正12年)から1587年(天正15年)

  までの間、4大茶会(イベント茶会) を開いた。

     その4大茶会(イベント茶会)とは、(1) 有名茶人

  接待のための1584年(天正12年)10月の大坂城茶会、

  (2) 皇族・公家接待のための1585年(天正13年)10

  月の禁裏(禁中)茶会、 (3) 九州征伐参加大名・武将

  接待のための1587年(天正15年)1月の大坂城茶会、

  (4) 民衆接待のための1587年(天正15年)10月の

  北野天満宮茶会(北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ) で

  ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

              

■ (1) 1584年(天正12年)・大坂城茶会。

    1584年(天正12年)10月の大茶会(だいちゃかい)

   は、 日本各地の大名や武将と親交のある茶人との親

   交を深め、茶人が知る日本各地の情報を得るため、

   有名茶人(ちゃじん)29人を大坂城の表御殿(おもてご

   ての)の大広間に招待して行われた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ (2) 1585年(天正13年)・禁裏(禁中)茶会。

      1585年(天正13年)10月の大茶会は、朝廷と親

  交を深めるための禁裏(禁中)茶会 (きんり(きんちゅう) 

  ちゃかい)  であり、 天皇御所 (て んのうごしょ、天皇

  の住まい、= 禁裏(禁中)) で、 天皇(正親町(おおぎま

  ち)天皇)、皇子、公家たちを招待して行われた。 

      黄金の茶室は、豊臣秀吉によって、 天皇をもてな

     す禁裏(禁中)茶会 (きんり(きんちゅう)ちゃかい)のた

  めにつくられた。 

      千 利休(千 宗易)は、 禁裏(禁中)茶会に参加

    する僧侶身分を得るため、 正親町(おおぎまち)天皇よ

  り利休居士(りきゅうこじ)の号を与えられる。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ (3) 1587年(天正15年)・大坂城茶会。

     1587年(天正15年)1月の大茶会は、九州征伐

  前に、九州大半占領の強敵の島津氏に必ず勝つため

  九州征伐豊臣軍を団結させるため、 共同飲食で秀吉

  の臣下の大名や武将の結束を図るため、臣従した大

  名や武将たちを大坂城に招待して、決起集会として、

  行われた。 秀吉臣従下の多くの大名は、お互いかっ

  て敵同士であったこともあるので。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

             

■ (4) 1587年(天正15年)・北野天満宮茶会 (北野

   大茶湯(きたのおおちゃのゆ)。

       1587年(天正15年)10月の大茶会は、民衆の

   人気を得るため、民衆の好感度調査のため、 京(都)

   の北野天満宮(きたのてんまんぐう)で、一日、民衆を

   招待して行われた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#-appearingscenes

 

♪♪ 黄金の茶室 が登場する、興味深

     い、ド キュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 黄金の茶室 が登場する、興味深い

    関連ドキュメンタリー。 

 

■ 高島礼子・日本の古都∇戦国歴史

   ミステリーSP 『 歴史ミステリー 

   豊臣秀吉 天下取りに隠された

   四大茶会の謎 』 (前編と後編)。

    (TBSテレビ・2016年7月 15日・本放送

   ドキュメンタリー番組)。 

■ 1590年の天下統一前に、秀吉が、千利休

   と相談して、もよおした4大茶会 (@158

   4年10月大坂城茶会、A1585年10月禁

  裏(禁中)茶会、B1587年1月大坂城茶会

   C1587年10月北野天満宮茶会) の詳

  細に述べる。

● 前篇で、@1584年10月大坂城茶会、A

  1585年10月禁裏(禁中)茶会の大茶会の

  詳細を述べる。

● 後編で、B1587年1月大坂城茶会、 C

  1587年10月北野天満宮茶会の大茶会の

  詳細を述べる。

 

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#oguritadamasa(kozukenosuke)

 

■ 小栗 忠順  

     (おぐり ただまさ)。

 

■ 小栗 忠順。 

■ 名称 : 小栗 忠順 (おぐり ただまさ)。 《人名》。

■ 別名 : 小栗 上野介 (おぐり こうずけのすけ)。

■ 英語名 : 

   OGURI Tadamasa (Kozukenosuke).

■ 生没年 : 1827年ー1868年。 

■ 江戸幕府の幕臣。 幕末の江戸幕府の開明派官僚。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 71312。

 

□ 小栗忠順(上野介)が登場する、 興味

   深い、ドキュメンタリー、ドラマ、映画

 

 

■ 小栗 忠順(上野介) (おぐり ただまさ(こうずけのす

  け)、1827年ー1868年) は、江戸幕府の幕臣であ

  り、 徳川氏旗本である。

 

■ 小栗忠順(上野介)は、 幕末に、江戸幕府の外国奉

  行、勘定奉行、軍艦奉行を務める。

     小栗忠順(上野介)は、 1859年(安政6年)に、

  江戸幕府の目付(めつけ)となる。

     小栗忠順(上野介)は、 1860年(万延元年)に、

  徳川氏遣米使節の一員となり、 9か月の旅で、アメリ

  カを見て回り、日本の近代化の必要性を痛感する。

     帰国後、小栗忠順(上野介)は、 江戸幕府の外

  国奉行、勘定奉行、軍艦奉行を歴任する。

 

■ 小栗忠順(上野介)は、 フランスの援助により、18

  65年(慶応元年)から、 造船や機械類の工場や学

  校を併設した、横須賀造船所の建設を始める。 

     幕末、小栗忠順(上野介)は、 横須賀造船所で

  の造船・機械類造りにより、日本の工業力を高め、

  徳川氏の手によって(徳川氏主導で)、 優れた近代

  国家を建設し、日本の近代化をはかろうとしたため

  である。

             

■ 小栗忠順(上野介)が造った、造船や機械類の工場

  や学校を併設した、横須賀造船所は、 明治政府(日

  本近代政府)に引き継がれ、 明治時代初期から続

  々と近代船、近代機械、近代機械技術者を生み出し、

  日本工業の近代化に貢献した。

     小栗忠順(上野介)の造った、横須賀造船所の

  場所は、 現在のアメリカ海軍横須賀基地の場所

  にある。

 

■ 小栗忠順(上野介)は、1868年に、戊辰(ぼしん)

  戦争では、徹底抗戦を主張し、退けられ、自分の知

  行地に戻り、そこで殺害される。

     小栗忠順(上野介)は、1868年に、戊辰(ぼ

  しん)戦争では、薩長土肥軍に徹底抗戦を主張し、

  幕府の陸海軍は健在であり、江戸に攻めてくる討

  幕軍の撃退作戦を提案するが、 徳川慶喜(よし

  のぶ)によって、退けられ、1868年(慶応4年)1月

  15日に、幕府の役職を解任される(免職となる)。

     徳川慶喜(よしのぶ)は、朝敵の汚名を恐れ、

  戦わずして降伏することを選び、 徳川氏復権のた

  めの小栗忠順(上野介)の討幕軍の撃退計画を退

  けた。 

     その後、 失意の中、小栗忠順(上野介)は、 

  江戸の屋敷を引き払い、知行地(領地)の、上野国 

  (こうずけのくに、上州(じょうしゅう)、現・群馬県相

  当地域)の、権田村(ごんだむら)に向かう。 

     小栗忠順(上野介)は、 かって江戸幕府の徹

  底抗戦派重臣であったため薩長土肥軍は見逃さず、 

  知行地で、薩長土肥軍に捕まり、 1868年(慶応

  4年)4月6日に斬首(ざんしゅ)される(殺害される)。 

  享年42歳であった。

 

 

#oguritadamasa(kozukenosuke)-appearingscenes

 

♪♪ 小栗忠順(上野介) が登場する、

        興味深い、ドキュメンタリー、ドラマ、

    映画。

 

★ 小栗忠順(上野介) が登場する、興

     味深い、ド キュメンタリー。

 

■ 先人たちの底力 知恵泉 

  『 スケールの大きな夢に挑むには。

    小栗上野介・プレッシャーや逆風

     に勝つ極意。 』。

    (NHKテレビ・2016年2月2日・本放送

    ドキュメンタリー番組)。

● 小栗忠順(上野介)の詳細を述べる。

 

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#theokinawabattle

 

■ 沖縄戦  

     (おきなわせん)。

 

■ 沖縄戦。 

■ 名称 : 沖縄戦 (おきなわせん)。

■ 時期 : 

  1944年(昭和19年)ー

          1945年(昭和20年)。

■ 太平洋戦争、第2次世界大戦中の、

  沖縄地域での日米軍の戦い。

■ 沖縄の歴史の全体(古代から現代まで)に関して

  は、「沖縄の歴史」を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 41913。

 

 

 ■ 沖縄戦。

 

  ■ 沖縄戦 (おきなわせん)とは、 

    太平洋戦争、第2次世界大戦中の、

    1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)

    までの、沖縄地域での日米軍の戦いである。

 

 

 ■ 沖縄戦。

 

    ■ 大本営(だいほんえい、旧日本軍本部)の

    幹部の命令により、 

    日本本土(本州、四国、九州)での本土決戦を

    遅らせるため、また、本土決戦前の米軍の勢

    力をそぐため、 

    沖縄にいた旧日本軍軍人や民間人は、

    持久戦(じきゅうせん)を強いられ、 

    沖縄地域では、 米兵約9万人、日本人約20

    万人の戦死者(民間人戦死者・約10万人以

    上)を出した、血まみれの激しい攻防戦となっ

    た。 

 

 

 ■ 沖縄戦と米軍の困惑。

 

  ■ 1945年(昭和20年)6月に終了した沖縄戦で、

    沖縄地域に上陸した米兵・約9万人死亡という

    犠牲者を出したことは、アメリカ大統領や米軍を

    困惑させ、 日本本土決戦での米兵の本土上

    陸には犠牲者はかなりの数にのぼることを意

    味し、日本本土決戦前に、アメリカ大統領や米

    軍は、日本が降伏することを切望する。

        アメリカ大統領や米軍は、日本の本土無

    差別爆撃を増強する。

 

 

 ■ 沖縄戦。

 

  ■ 沖縄の本島や離島では、

    在沖縄・旧日本軍の幹部は、軍事力不足を補

    (おぎな)うため、 

    「防衛召集」(ぼうえいしょうしゅう)により、

    避難させるはずの民間人を、戦争直前に、

    軍と行動を共にする、軍務要員 や 「斬り込

    み」(きりこみ、手製の爆弾等をもって敵陣に突

    っ込む戦闘行為)等の兵士などとして徴用し、

    民間人・約10万人以上の 死亡者の犠牲を

    出してしまった。

            

 

#-appearingscenes

 

♪♪ 沖縄戦が登場する、興味深い、

       ドキ ュメンタリー、ドラマ、映画。

 

 ★ 沖縄戦が登場する、興味深い、

      ドキュ メンタリー。

 

 ■ NHKスペシャル  『 沖縄戦 

    全記録 』。

      (NHKテレビ・2015年6月14日・

      本放送ドキュメンタリー番組)。

 

  ■ 沖縄戦の詳細を述べる。

 

 

 ★ 沖縄戦が登場する、興味深い、

       ドラマ、 映画。 

 

  ● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

    歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

    実) と 架空の出来事が 混じって描かれ

    ています。 また、現代風にアレンジしてあり

    ます。

 

 ■ 『 さとうきび畑の唄 

       (さとうきびばたけのうた) 』 。 

     (TBSの2003年制作テレビドラマ)。 

     (脚本:遊川和彦、新垣秀雄、冬花社)。

 

  ■ 太平洋戦争の沖縄戦の、沖縄本島南部

    での悲惨な状況を描く。

 

  ■ 沖縄県の沖縄本島南部でのどかに暮らす

    写真店店主の平山幸一の一家が、 太平

    洋戦争の沖縄戦に巻き込まれいく様子を

    描く。 

       2003年夏に高校で森川良子が「さと

    うきび畑」を歌っている場面からドラマが始

    まる。 

        沖縄戦中の昭和20年に沖縄本島

    の、さとうきび畑で産まれた平山幸子(写真

    店主・平山幸一の三女)が、孫娘の登校拒

    否の女子高校生を連れて、沖縄本島南部

    に行き、現地で、太平洋戦争の沖縄戦を語

    る。

    

  ● 写真店主・平山幸一の三女の、「平山幸子」

    を演じた女優 : 黒木 瞳 (くろき ひとみ)。

  ● 平山幸子の孫娘を演じた女優 : 

    上戸 彩 (うえと あや)。

 

  ● 昭和時代・戦前に那覇で写真店を営む平山

    幸一を演じた俳優名 : 明石家さんま。

  ● 写真店主・平山幸一の妻の、「平山美知子」

    を演じた女優名 : 黒木 瞳 (くろき ひとみ)。

  ● 写真店主・平山幸一の長男で県職員の、

    「平山勇」を演じた俳優名 : 坂口 憲二。

  ● 「平山勇」の妻の、「平山紀子」

    を演じた女優名 : 仲間 由紀恵。

  ● 写真店主・平山幸一の長女で女学生の、

    「平山美枝」を演じた女優名 : 上戸 彩。

  ● 平山美枝が恋する青年の学徒兵の、

    「吉岡」を演じた俳優名 : オダギリジョー。

  ● 写真店主・平山幸一の次男で中学生の、

    「平山昇」を演じた俳優名 : 勝地 涼 

    (かつじ りょう)。

 

 

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#theoninnoranwar

 

■ 応仁の乱  

     (おうにんのらん)。

 

■ 応仁の乱。 

■ 時期 : 1467年〜1477年。 

■ 名称 : 応仁の乱 (おうにんのらん)。

■ 別名 : 応仁・文明の乱 (おうにん・ぶん

  めいのらん)。

■ 応仁の乱は、日本の歴史を大変革させる出

  来事であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11315。

 

□ 応仁の乱 (総合)

□ 応仁の乱 関連出来事 

   (年代順・詳細)。

□ 応仁の乱が登場する、興味深い、

   ドキュメンタリー、ドラマ、映画

 

 

■ 「応仁の乱」 (おうにんのらん、= 応仁・文

  明の乱、1467年ー1477年)は、 守護大

  の家督争い、有力守護大名の政権主導

  権争い、足利将軍家の家督争いなどによっ

  て起こる。

 

■ 応仁の乱は、 室町時代(1338〜1573

  年)の中頃に起こった、京(都)を主戦場に

  した、守護大名の勢力争いや将軍家の内

  紛などによって起こった戦争である。

     その結果、室町幕府の、将軍権力の

  弱体化や守護大名の弱体化をまねく。

 

■ 応仁の乱の結果、日本を支配(統治)して

   いた室町幕府の将軍の権力は衰え、諸

   国を治めていた守護大名は力は弱まり、

   日本は、下克上 (げこくじょう、下剋上、

   格式に関係なく、実力によって下の者が

   上の者にとって代わること) となり、日本

   は、室町時代後期(戦国時代の乱世(ら

   んせ)に突入した。

 

● 応仁の乱では、 室町幕府の守護大名は

   東軍、西軍に敵・味方となり分かれて戦い、

   東軍、西軍に味方した守護大名は、京(き

   ょう、京都)で戦いを始めたが、その後、敵

   の領国の勢力をそぐために、東軍、西軍

   の守護大名は、敵の後方かく乱のため、

   日本各地の地方でも戦いを起こした。 

       京(京都)での戦いでは、 東西両

   軍は勝敗がつかないまま1477年(文明

   9年)に京(京都)から撤退して応仁の乱

   は終わった。 

 

● 応仁の乱後、 日本を支配(統治)していた

  中央政府の室町幕府の将軍の権力は衰え、

  諸国を治めていた守護大名の権力は弱まり、

  日本各地の領主が室町幕府の将軍や守護

  大名の命令に従わなくなり、下剋上の実力

  主義の戦国時代に突入し、 室町幕府の将

  軍の権力・権威に頼っていた東西両軍の守

  護大名の多くが、日本各地の地方で、実力

  のある領主の戦国大名に領地を奪われ、没

  落していった

 

 

#theoninnoranwar-general

 

◆ 応仁の乱 (総合)。

 

■ 応仁の乱は、日本の歴史を大変革させる出

  来事であった。

 

■ 応仁の乱。

■ 応仁の乱 (おうにんのらん) は、 時期は

  1467年から1477年までで、 別名は 応

  仁・文明の乱 (おうにんぶんめいのらん)と

  も言う。

 

■ 応仁の乱の原因。

■ 「応仁の乱」 (おうにんのらん、= 応仁・文

  明の乱、1467年ー1477年)は、 守護大

  の家督争い、有力守護大名の政権主導

  権争い、足利将軍家の家督争いなどによっ

  て起こる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 応仁の乱の初期の原因は、 室町幕府・第

  8代将軍の足利義政(あしかがよしまさ)の

  早すぎる将軍引退(隠居)願望と将軍後継者

  問題 や、 畠山 義就 (はたけやまよしな

  り)と畠山 政長(はたけやま まさなが)が起

  こした畠山氏の家督争い である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

■ 応仁の乱の内容。

■ 応仁の乱は、 室町時代(1338〜1573年)

  の中頃に起こった、京( きょう、京都)を主戦

  場にした、守護大名の勢力争いの戦争である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

● 応仁の乱では、 室町幕府の守護大名は

   東軍、西軍に敵・味方となり分かれて戦い、

   東軍、西軍に味方した守護大名は、京(き

   ょう、京都)で戦いを始めたが、その後、敵

   の領国の勢力をそぐために、東軍、西軍

   の守護大名は、敵の後方かく乱のため、

   日本各地の地方でも戦いを起こした。 

       京(京都)での戦いでは、 東西両

   軍は勝敗がつかないまま1477年(文明

   9年)に京(京都)から撤退して応仁の乱

   は終わった。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 日野 富子(ひの とみこ)が、応仁の乱を終

  わらせる。

 

 

■ 応仁の乱後。

■ 応仁の乱の結果、日本を支配(統治)して

   いた室町幕府の将軍の権力は衰え、諸

   国を治めていた守護大名は力は弱まり、

   日本は、下克上 (げこくじょう、下剋上、

   格式に関係なく、実力によって下の者が

   上の者にとって代わること) となり、日本

   は、室町時代後期(戦国時代の乱世(ら

   んせ)に突入した。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 応仁の乱後、 日本を支配(統治)していた

  中央政府の室町幕府の将軍の権力は衰え、

  諸国を治めていた守護大名の権力は弱まり、

  日本各地の領主が室町幕府の将軍や守護

  大名の命令に従わなくなり、下剋上の実力

  主義の戦国時代に突入し、 室町幕府の将

  軍の権力・権威に頼っていた東西両軍の守

  護大名の多くが、日本各地の地方で、実力

  のある領主の戦国大名に領地を奪われ、没

  落していった

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 応仁の乱 (おうにんのらん、= 応仁・文明

   の乱、1467年ー1477年)は、 室町幕府

  (= 足利幕府)の権力を地に落とすと共に、

   日本各地を統治する(治める)守護大名の

  力を弱めてしまい、 下剋上の世となり、応 

  仁の乱以後は、「下剋上」の戦国時代となる。

 

■  「下剋上」(げこうじょう)とは、 家格・家柄

  に関係なく、 実力によって下の者が上の者

  にとって代わることである。

 

 

◆ 応仁の乱(= 応仁・文明の乱)。

■ 応仁の乱の終息。

    応仁の乱は、1477年(文明9年)に、戦い

  に疲れた東西両軍の間で和議が結ばれ、京

  (都)では終戦を迎え、守護大名は、京(都)よ

  り領国にくだった。 

    1477年(文明9年)の9月に、西軍の主戦

  の畠山義就(はたけやまよしひろ・よしなり)

  が、畠山政長(はたけやままさなが)の追討を名

  目に、河内に下国し(領国に下り)、京(都)を離

  れ、 西軍の最大勢力であった、大内政弘(お

  おうちまさひろ)は、室町幕府・第9代将軍・足

  利義尚(よしひさ、生没年:1465−89年)・生

  母の日野富子(ひのとみこ)に賄賂(わいろ)を

  贈り、守護職を安堵(あんど)され、 そして、

  1477年(文明9年)の11月11日に、西軍の

  大内政弘をはじめ諸大名が京(都)から撤収し、

  西軍は事実上解体し、東軍は京(都)で戦う相

  手がいなくなり、 延べ数十万人の兵が京(都)

  に集結し足掛け11年にも及んだ、応仁の乱

  (1467年−1477年)の京(都)での戦乱は、

  ここに、終息した。

    1477年(文明9年)11月20日に、室町幕

  府によって「天下静謐」(てんかせいひつ)の祝

  宴が催された。

    戦後、応仁の乱の東西両軍で罪に問われる

  守護大名もいなかった。 

    応仁の乱の終了後も、畠山義就と畠山政長

  は、領国で、戦い続けた。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 応仁の乱の終息後。

■ 守護在京制の崩壊と室町幕府の権威低下。

     室町幕府から任命された、守護大名は、室

  時代前期・中期では、在京が原則であったが、

  応仁・文明の乱(1467年ー1477年)後、自ら

  領国を守るため京(きょう、京都)より領国に下

  (くだ)り、 領国の政情不安のため帰国したま

  ま、京(京都)に戻らず、 室町幕府の守護在

  京制は崩壊し、守護大名は、幕府の統制を離

  れる。  よって、応仁の乱以後の戦国時代(室

  町時代後期)に、守護在京制は崩壊し、室町

  幕府の権威は低下する。

     また、守護在京制の崩壊により、室町幕

  府は、守護大名から、段銭(たんせん、守護大

  名や幕府奉行衆が各領国から徴収する幕府

  収入)などの徴収ができなくなり、幕府財政が

  窮乏する。 日野 富子は、室町幕府の財政窮

  乏を救うため、蓄財に励(はげ)む。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 多くの守護大名の没落。

● 応仁の乱で、 室町幕府から 叙任された守護

  大名が、京(きょう、京都)で戦いを繰り返してい

  た頃、 守護大名の領国では、守護代(しゅごだ

  い)や有力国人(こくじん)などの家臣が戦って

  力をのばし、 応仁の乱後、領国支配の実権は、

  次第(しだい)に彼らに移り、 下国し領主化を

  強化できなかった守護大名は、 守護代や有力

  国人などの家臣に権力を奪われ、没落していっ

  た。 代わりに、 室町幕府の将軍や守護大名

  の命令に従わない、実力でのし上った戦国大名

  が、日本各地の領国を支配していく。

     応仁の乱以後、室町幕府の身分・家 格秩

  序は崩壊し、下克上(げこくじょう)の戦国時代

  (室町時代後期)に入った。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 一円知行化と荘園公領制の崩壊。

    応仁の乱終息後全国各地で、領主化 を推

  進する守護大名、戦国大名、守護代、国人 など

  の武家により、一円知行化が進められ、「公家

  や寺社の荘園」や「国衙領」(こくがりょう)は

  横領され、 また、室町幕府の権力低下により、

  公家や寺社の荘園や朝廷の国衙領の支配は

  絶望的となった。 戦国時代(室町時代後期)

  に、荘園公領制の荘園制や公領制(国衙領制)

  は崩壊し、ほとんどの荘園や国衙領は消滅す

  る。

     一円知行(いちえんちぎょう)とは、ある者

  が一元的に土地を支配することであり、 中世

  日本の荘園公領制で1つの土地に対し多数の

  者がもつ重層的で複雑な土地の支配・権利関

  係を一元化することである。

     戦国時代(室町時代後期)に、ほとんどの

  荘園や国衙領の消滅により、公家は収入を断

  たれ没落し、朝廷の収入も激減した。 このた

  め、戦国時代(室町時代後期)に、献金による

  官位の売官が行われるようになった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

◆ 応仁の乱(= 応仁・文明の乱)。

■ 西幕府と東幕府。

     応仁の乱(1467年ー1477年)の間に、

  西軍は、 次期将軍候補の足利義視(あしか

  がよしみ、足利義政の弟)を擁立して、西幕

  府(1468年ー1477年)を樹立し、 東軍は、

  第8代将軍の足利 義政(あしかがよしまさ)

  や第9代将軍の足利義尚(あしかがよしひさ、

  足利義政の子)を擁立する東幕府を擁護して、

  対立し、室町幕府は、分裂状態となった。

     西幕府は、守護大名や守護代を任命し、

  1つの領国に、 東西両幕府の二人の守護大

  名が存在する領国も出現するという事態と

  なった。

 

■ 室町幕府の身分・家格秩序の崩壊・流動化。

     応仁の乱(1467年ー1477年)の間に、 

  東西両軍は、味方を得るために、今までの身

  分・家格を無視して、幕府の役職の叙任を

  行った。 

     例を挙げれば、東軍の東幕府は、有力

  武将の朝倉孝景を、守護代でもなかったのに

  越前国守護に就任させたり(任命したり)、 

  西軍の西幕府は、一介の国人(こくじん)の

  越智家栄を、大和国守護に就任させたりし

  た(任命したりした)。

     このため、応仁の乱以後、室町幕府の

  身分・家格秩序は、崩壊し、流動化した。

 

 

◆ 応仁の乱(= 応仁・文明の乱)。

■ 応仁の乱は、 日本人の既成の価値観を変え、

  現代人にも通じる新しい価値観である実力主

  義や人間中心主義などを生み出し、 当時上

  級文化の担い手の公家が京都から地方に避

  難したことにより、 当時の首都の京( きょう、

  京都)と地方の文化格差の縮小や文化交流

  が起こり、地方に も立派な文化が生まれる。

     応仁の乱は、 日本人の既成の価値観

  を変え、家柄重視、上意服従から実力重視

  の下克上(げこくじょう)へ移り実力主義を生

  み出し、 神仏中心の時代から人間中心の

  時代へ移り人間中心主義を生み出す。

     応仁の乱による公家の知識人の地方

  疎開により、 当時上級文化の担い手の

  家は、 京(京都)より地方各地に離散し、カ

  ルチャー教室を開き、生活を支え、 当時の

  首都の京(京都)にひけをとらない立派な文

  化が 、地方にも生まれる。

      京(京都)の室町幕府の中央権力が、 

  地方各地に及ばなくなり、 現代にも通じる

  村や町の自治組織が、地方各地に生まれる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

     

■ 家柄・家格よりも実力。

    応仁の乱により、実力主義の下克上(げこく

  じょう)の戦国時代(室町時代後期)が始まる。

     実力主義の下克上の戦国時代(室町時代

  後期)以後、 (a) 尾張国(おわりのくに、現・

  愛知県西部の相当地域)の守護代家老出身

  で近畿・中部日本を支配下においた織田信長、 

  尾張の農民出身で天下をとった(日本本土全国を

  支配した)豊臣秀吉、 三河(みかわ、愛知県東

  部)の国人出身で天下をとった(日本本土全国

  を支配した)徳川家康を生み出す。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 応仁の乱(= 応仁・文明の乱)。

■ 当時日本の首都だった京(都)を焼き尽くした

  応仁の乱。  日本の大衆にとっては価値のあ

  る破壊であった。

     応仁の乱は、 京(都)に、全国から最大

  約27万人もの兵士が集まり、 京(都)の、

  家、寺社など約3万軒を焼失させ、11年に渡

  り戦われ、京(都)を焼け野原にした戦いであ

  った。 東軍、西軍に分かれて戦ったが、勝敗

  がつかず(わからず)終わる。

    応仁の乱で、 京(都)で、富裕な民家、公

  家屋敷、神社仏閣におかまいなしに火をつけ

  て焼き、略奪を繰り返す、アナーキーな兵士で

  ある、東西両軍の傭兵(ようへい)の、足軽(あ

  しがる)が、出現する。 

     京(都)は、 室町時代中期の当時、大衆

  の富を搾取(さくしゅ)する、日本一の有徳人

  (うとくにん、金持ち)の町であった。 室町時代

  中期の日本の社会は、 一握りの富裕層と大多

  数の貧困層に分かれていた、大格差社会であっ

  た。 格差是正の徳政一揆(とくせいいっき)な

  どの反乱がよく起こった。 徳政一揆などの反乱

  のときに武装し戦い慣れた人々が、活躍した。 

  その人々が、応仁の乱で活躍する足軽 となる。 

     応仁の乱で大活躍した足軽兵士は、 戦い

  の報酬として略奪しただけでなく、 大衆の富を

  搾取(さくしゅ)する、裕福な商人や公家、荘園を

  持ち富裕な寺社の、富の既得権益を根こそぎな

  くすことを望み、 京(都)の富裕な民家、公家屋

  敷、神社仏閣に火をつけて、略奪して回った。

     地方の大衆の人々は、 日本の大衆の富を

  搾取する、京(都)の有徳人(うとくにん、金持ち)

  の、富裕な民家、公家屋敷、神社仏閣が焼かれ

  ることを喜ぶ。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 応仁の乱 (応仁・文明の乱)。

 室町幕府8代将軍の足利義政の早すぎる

  将軍引退願望 と 将軍後継者問題。

     足利 義政は、 将軍就任後、室町幕府の

  権力をより強力にしようと努力したが、うまくい

  かず、政治に嫌気(いやけ)がさし、 将軍職を

  他の者に譲り、なるべく早く引退(隠居)し、 文

  化活動に専念したいと望む。

     足利義政は、 足利義政の正室夫人の

  野富子(ひの とみこ)との間に子ができないの

  で、 1464年に、 29歳の室町幕府第8代将

  軍の足利 義政は、 引退(隠居)を望みその

  準備のために、 出家した弟・義尋(ぎじん)を

  還俗(げんぞく)させ、 足利義視(あしかが

  しみ)と改名させ、後嗣(こうし)に指名する(次

  の将軍の後継者とした)。 

     しかし、翌年の1465年に、足利義政と日

  野富子との間に、足利義尚(あしかがよしひさ) 

  が、誕生した。 日野富子は、足利義尚を次期

  将軍にと切望する。

    これ以後、 足利義政の弟・足利義視 と、 

  足利義尚の生母の日野富子 が、将軍の後継

  者問題で、 対立する。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 畠山 政長・義就の家督争い。

    1454年に、 畠山義就(はたけやまよしな

  り) と 畠山政長(はたけやままさなが)が家

  督争いを始める。

    1467年1月に、 畠山義就 と 畠山政長

  の対立が激化し、 京(都)で、上御霊社(か み

  ごりょうしゃ)の戦いが起こる。 ここに、応仁の

  乱(おうにんのらん、1467〜77年)が始まる。

    1467年5月に、京(都)で、 畠山義就に、

  有力守護大名の山名持豊(やまなもちとよ、宗

  全(そうぜん))が味方し西軍となり、  畠山政

  長に、有力守護大名の細川勝元(ほそかわか

  つもと)が味方して東軍となる。 

     更に、対立していた足利義視 と 日野富

  子・足利義尚が東軍と西軍に分かれて味方し、 

  他の対立する多くの守護大名も、東西両軍に

  分かれて戦争に加わり、 これ以後、守護大名

  の勢力争いの戦争が、京(都)を中心に、続く。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ まず最初に、 畠山(はたけやま)家の家督(か

  とく)争いの内紛が起こった。 この畠山家の家

  督争いに、 幕府の実権を握ろうとして争ってい

  た、 細川 勝元(ほそかわ かつもと) と 山名

  宗全(持豊)(やまな そうぜん(もちとよ)) が介

  入し、 対立が激化し、 1467年(応仁元年)に、 

  応仁の乱が、起こった。

● 畠山 政長 (まさなが) と 畠山 義就 (よしなり)

  が、 畠山家の家督争いを起こし、 畠山政長に

  有力守護大名の細川勝元が味方し(東軍となり)、 

  畠山義就に有力守護大名の山名持豊(宗全)が

  味方し(西軍となり)、 戦い(応仁の乱)が、 始

  まった。 その後、2つの軍(東軍と西軍)に、 将

  軍家と斯波家が2つに分かれて参戦し、 その他

  の多くの守護大名もそれぞれ分かれて参戦して、 

  京(都)を主戦場にして、争った。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 応仁の乱の途中で、 足利義政の弟・足利義

  視は、西軍に味方し、 日野富子と足利義政の

  子の足利義尚は、 東軍に味方した。

    山名持豊(やまなもちとよ、宗全(そうぜん))

  が、 足利義政の弟・足利義視 を、西軍に誘い、

  取り込む。 これにより、将軍家も、東西両軍に

  分かれて争うこととなった。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 現実逃避し、応仁の乱の中止責任を放棄する、

  足利 義政。

    足利 義政は、 応仁の乱中、現実逃避し、 

  応仁の乱の途中で、 足利 義政は、 応仁の乱

  (1467〜77年)を終わらせず、 1473年に、

  将軍職を、子の義尚(よし ひさ)に譲り、 将軍

  職を退いてしまう。

 

■ 応仁の乱では、 守護大名は、 東軍(細川方) 

  と 西軍(山名方)の両軍に分かれて、戦い、主

  戦場となった京(都)は、 戦火に焼けて荒廃し、 

  1477年(文明9年)に、 戦いに疲れた両軍の

  間に和議が結ばれ、 一応、 終止符が打たれ

  た。

 1477年に、 戦いに疲弊し、東軍と西軍のす

  べての守護大名の兵が、京(都)より領国に引き

  あげる。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ しかし、 争乱は、 その後も、 地域的争いと

  して続けられ、 全国に広がっていった。  応

  仁の乱後、 室町幕府の権威は衰え、 全国の

  武士は、将軍や守護大名の命令をきかなくなり、 

  下克上 (げこくじょう、下位者が上位者を押し

  のけて権力を握る) の世(時代) となる。 つ

  まり、 応仁の乱以前の下位者 (守護代、国

  人領主など)が、 室町幕府の権威に頼ってい

  た、応仁の乱以前の上位者 (守護大名など) 

  を押しのけて (没落させて)、 権力を握った。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

#theoninnoranwar-happenings

 

◆ 応仁の乱 関連 出来事 

  (年代順・詳細)。

 

■ 1454年。

■ 1454年に、 畠山義就(はたけやまよしな

  り) と 畠山政長(はたけやままさなが)が家

  督争いを始める。  

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1464年。

■ 1464年に、 室町幕府第8代将軍 で、29歳

  の足利 義政は、 引退(隠居)を望みその準

  備のため、 足利義政の正室夫人の日野富子

  (ひのとみこ)との間に子もできないので、 

  家した弟・義尋(ぎじん)を還俗(げんぞく)させ、

  足利義視(あしかがよ しみ)と改名させ、後嗣

  う(こし)に指名する (次の将軍の後継者とし

  た)。 

    足利義政は、 将軍就任後、室町幕府の権

  力をより強力にしようと努力したが、うまくいが

  ず、政治に嫌気がさし、 将軍職を他の者に譲

  り、なるべく早く引退(隠居)し、文化活動に専

  念することを切望する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1465年。

■ 1465年に、 足利義政と日野富子との間に、

  足利義尚(あしかがよしひさ)が、誕生する。

  日野富子は、足利義尚を次期将軍にと切望す

  る。

     これ以後、 足利義政の弟・足利義視 と、 

  足利義尚の生母の日野富子 が将軍の後継者

  問題で、 対立する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1467年。

■ 1467年1月に、 畠山義就 と 畠山政長 の

  対立が激化し、 京(都)で、上御霊社(か みご

  りょうしゃ)の戦いが起こる。 ここに、応仁の乱

  (おうにんのらん、1467〜77年)が始まる。

    1467年5月に、京(都)で、 畠山義就 に、

  有力守護大名の山名持豊(やまなもちとよ、宗

  全(そうぜん))が味方し西軍となり、  畠山政

  長に、有力守護大名の細川勝元(ほそかわか

  つもと)が味方して東軍となる。   

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1467年。

■ 1467年7月に、細川勝元(ほそかわかつもと)

  が、 室町幕府の管領(かんれい)となる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1468年。

■ 室町幕府の分裂。

    1468年11月に、 足利義政の弟 で将軍

  後継者の足利義視(よしみ)が、西軍に加わる。 

     これ以後、 足利義政の弟・足利義視が、

  山名持豊(宗全)の西軍に味方し、 日野富子

  や足利義尚が、細川勝元の東軍に味方する。

    足利義視を擁立する西軍は、西幕府となり、

  足利義尚を擁立する東軍は、 東幕府となる。

  各陣営は、勢力を拡大するため、 足利義視

  を擁立する西軍の西幕府は、実力のある(軍

  事力のある)武士を守護大名に任命し、 足利

  義尚を擁立する東軍の東幕府も、実力のある

  (軍事力のある)武士を守護大名に任命する。 

  これにより、 1つの地方の国に、二人の守護

  大名が乱立する地方の国も生まれる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1472年。

■ 1472年に、 西軍の山名持豊(宗全)と東軍

  の細川勝元が和睦しようとするが、 西軍の守

  護大名や東軍の守護大名に阻(はば)まれる。

     西軍の山名持豊(宗全)は、自殺未遂し、 

  東軍の細川勝元は、出家する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1473年。

■ 1473年3月に、西軍の山名持豊(宗全)が

  死去し、 1473年5月に、東軍の細川勝元

  が死去する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

  

■ 1473年12月19日に、足利義尚が、 室町

  幕府 (足利義尚を擁立する東軍の東幕府)

  の9代将軍となる。

      足利 義政は、 応仁の乱中、現実逃避し、 

  応仁の乱の途中で、 足利 義政は、応仁の乱

  (1467〜77年)を終わらせず、 1473年に、

  将軍職を、子の義尚(よしひさ)に譲り、 将軍

  職を退いてしまう。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1474年。

■ 1474年に、 西軍の山名持豊(宗全)の後

  継者の山名政豊(やまなまさとよ) と 東軍

  の細川勝元後継者の細川政元(ほそかわま

  さもと) が和睦する。

    しかし、他の西軍や東軍の守護大名は、戦

  いを続ける。 特に、東軍の畠山義就(はたけ

  やまよしなり)  と 西軍の大内政弘(おおうち

  まさひろ) が、徹底抗戦を続ける。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1477年。

■ 1477年9月に、東軍の畠山義就が、河内国

  (かわちのくに)に撤兵する。

    1477年11月に、西軍の大内政弘、山名氏

  (やまなし)、六角氏(ろっかくし)が 領国に引き

  揚げる。 1477年11月に、西軍の足利義視も、

  西軍の土岐成頼と共に、美濃に退去する。

    1477年に、 戦いに疲弊し、東軍と西軍の

  すべての守護大名の兵が、京(都)より領国に

  引きあげる。

    応仁の乱では、 守護大名は、 東軍(細川

  方) と 西軍(山名方)の両軍に分かれて、戦

  い、主戦場となった京(都)は、 戦火に焼けて

  荒廃し、 1477年(文明9年)に、 戦いに疲れ

  た両軍の間に和議が結ばれ、 一応、 終止符

  が打たれた。

        日野富子は、 自分の子の足利義尚(よしひ

  さ)を擁立する室町幕府の政権基盤を安定させ

  るため、 応仁の乱を終わらせたいと考え、 戦

  いで財力を使い果たし帰国できない守護大名の

  兵には帰国費用を渡し、 また、 領国安堵(り

  ょうごくあんど)を望む守護大名には、室町幕府

  が領国を安堵し、 京都にいた東軍や西軍の守

  護大名の兵を、すべて帰国させた。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1477年。

■ 1477年11月20日に、 室町幕府 (東軍の

  東幕府と西軍の西幕府を合併した幕府) は、

  天下静謐(せいひつ)の祝賀を催す。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#theoninnoranwar-appearingscenes

 

♪♪ 応仁の乱 が登場する、興味

      い、 ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 応仁の乱 が登場する、興味深い、

     ド キュメンタリー。

 

■ 英雄たちの選択スペシャル

   『 まさかまさかの応仁の乱

   もうどうにも止まらない11年

   戦争 』。

   (NHKテレビ・2017年7月27日・

   本放送・歴史ドキュメンタリー番組)。

 ■ 応仁の乱を詳細に述べる。

 ■ 応仁の乱の原因、切っ掛け、内容、

  結果や応仁の乱の影響を述べる。

 

■ BS歴史館 『 シリーズ日本の転

  換点@ 京都炎上! 応仁の乱

  そのとき‘‘日本人’’が生まれた〜』。

   (NHKテレビ・2013年10月10日・

   本放送ドキュメンタリー番組)。

● 応仁の乱の原因、切っ掛け、内容、結果や応仁

  の乱の影響を述べる。

 

■ その時歴史が動いた 『 応仁の乱、

  天下を滅ぼす〜終わりなき‘‘ 戦い

  の連鎖 ’’〜 』。 

   (NHKテレビ・2008年(H20)7月・本放

   送ドキュメンタリー番組、 第332回)。

 

★ 応仁の乱 が登場する(を描いた)、興

   味深いドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクションです。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

   また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 花の乱 (はなのらん) 』。 

   (NHKテレビ・1994年大河ドラマ)。

■ 室町時代の中期を描いたドラマであり、 

  室町時代の中期に活躍した人々 を描く。

■ 東山文化を描く。

■ 将軍夫人の日野富子(ひのとみこ)、 

  日野富子の夫の室町幕府将軍の足利

  義政(あしががよしまさ)、応仁の乱 

  などを描いたドラマ。

 

  

    ○ NHK大河ドラマ「花の乱」での、日野富子(左)

    と足利義政(右)。

 

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#ooishidasaburo

 

■ 大石 大三郎 

     (おおいしだいさぶろう)。

 

■ 大石 大三郎。

■ 名称 : 大石 大三郎 (おおいし だいさぶろう)。

■ 生没年 : 1702〜1770年。

■ 元禄赤穂事件の、赤穂四十七士の指導者・大石

  内蔵助(良雄)の遺児(大石三男)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 大石 大三郎 (おおいし だいさぶろう 、生没年:

  1702〜1770年) は、 元禄赤穂事件の、赤

  穂四十七士の指導者・大石内蔵助(良雄)の遺

  児(大石三男) である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 大石 大三郎は、 大石内蔵助(良雄) と 石束

  (いしづか)りく (香林院(こうりんいん)) との間

  の子 である。

 

■ 1701年(元禄14年)7月より大石と暮らした京

  都・山科で身ごもった、大石夫人の「りく」香林

  は、 1702年(元禄15年)4月に形式的に大

  石と離縁し実家に帰り、 実家の豊岡 (とよおか、

  兵庫県北部)で、 1702年7月に、大石大三郎

  を産む。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 広島・浅野本家浅野綱長(つななが)は、  赤

  穂・浅野家との連座を恐れて、 赤穂浪士の吉良

  邸討ち入りを妨害する。 

     しかし、吉良邸討ち入り後、赤穂浪士が英

  雄化されると、 広島・浅野本家は、態度を一転

  させ、 広島・浅野本家の浅野綱長の子・浅野

  長(よしなが)は、  大石内蔵助(良雄)の遺児

  (大石三男)・大石大三郎を、1500石で、召抱

  える。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#ooishikuranosuke(yoshitaka)

 

■ 大石内蔵助(良雄) 

     (おおいし くらのすけ(よしたか・よしお))。

 

■ 大石 内蔵助(良雄)。

■ 名称 : 大石 内蔵助(良雄)

     (おおいし くらのすけ(よしたか・よしお))。

■ 生没年 : 1659〜1703年。

■ 赤穂四十七士の指導者。

■ 播州・赤穂藩(赤穂浅野家)の筆頭家老。

■ 元禄赤穂事件で、赤穂・浅野家再興運動や吉

  良邸討ち入りの指導者。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

□ 元禄赤穂事件 (全体)

□ 大石 内蔵助(良雄)が登場する、

   興味深い、ドキュメンタリー、ドラ

   マ、映画。 

 

 

■ 大石 内蔵助(良雄) (おおいし くらのすけ( よ

  したか・よしお)、生没年:1659〜1703年)

  は、 赤穂四十七士の指導者で、 江戸時代の、 

  播州(ばんしゅう、播磨、兵庫県南部)の、 播州・

  赤穂藩(赤穂・浅野家)の筆頭家老 であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 大石 内蔵助(良雄)の氏名。

     大石(おおいし)は、一族名で、 内蔵助(く

  らのすけ)や良雄(よしたか・よしお)は、個人名

  で、 内蔵助律令官名(りつりょうかんめい)で、

  良雄(いみな) である。

 

■ 大石内蔵助(良雄)は、 元禄赤穂事件で、赤

  穂・浅野家再興運動 や 吉良邸討ち入り の

  指導者である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 大石内蔵助(良雄)。

■ 播州・赤穂の赤穂・浅野家(赤穂藩)家臣の対応。

    赤穂藩(あこうはん)藩主の浅野内匠頭(長

  矩) (あさのたくみのかみ(ながのり))が、江戸

  城中で刃傷(にんじょう)に及び、即日切腹し、即

  日赤穂藩(赤穂・浅野家)が改易(かいえき、領

  地没収)と決まったとの報が播州(ばんしゅう、播

  磨、兵庫県南部)・赤穂の赤穂・浅野家(赤穂藩)

  家臣に伝わったのは、 1701年(元禄14年)3

  月20日のことであった。

     浅野内匠頭(長矩)の実弟で養嗣子(ようし

  し)の浅野大学(長広) (あさのだいがく(ながひ

  ろ)、1670〜1734年)からの書状が、播州(播

  磨)・赤穂の赤穂・浅野家(赤穂藩)の家老・大石

  内蔵助(良雄) (おおいしくらのすけ(よしお・よし

  たか) に届いた。

    赤穂・浅野家(赤穂藩)の筆頭家老(1500石)

  の、大石内蔵助(良雄)は、赤穂にいる200名ほ

  どの藩士全員に登城命令を出した。

     1701年(元禄14年)3月27日から3日間

  にわたり、今後の対応について、赤穂城の城内広

  間において大会議が開催された。 この会議では、

  篭城(ろうじょう)を主張する抗戦派(こうせんは) 

  と 開城しお家再興を嘆願する恭順派(きょうじゅ

  んは) に意見が分かれて対立した。

    大石内蔵助(良雄)は、 赤穂城で殉死切腹を

  主張し、殉死切腹に同意した 一部の藩士には、神

  文血判誓紙(しんもんけっぱんせいし)を提出させ

  たあと、 殉死切腹を思いとどまらせ、 それら藩

  士と 吉良上野介(義央)の処断や赤穂・浅野家再

  興を江戸幕府に求める義盟を結んだ。

    その後、大石内蔵助(良雄)が、 藩士全員を

  開城に誘導し、 結局、赤穂・浅野家家中は、赤

  穂城開城で意見がまとまる。

    1701年(元禄14年)4月19日に、大石内蔵

  助(良雄)は、 江戸幕府の接収役に赤穂城を

  渡し、 赤穂城を無血開城した。

    赤穂城は、開城され、赤穂藩(赤穂・浅野家)

  旧藩士(旧臣)たちは、 浪人となり、日本各地へ

  散った。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 赤穂藩(赤穂・浅野家)・旧家老の、大石内蔵助

  (良雄)は、 赤穂城を開城し領地を引き渡した、

  1701年(元禄14年)4月から、 1701年(元

  禄14年)6月まで、 残務処理などのため、播州・

  赤穂に留まる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 大石内蔵助(良雄)をはじめとする、盟約を結ん

  だ赤穂浪士たちは、 1701年(元禄14年)4月

  の赤穂城開城から1702年(元禄15年)12月の

  吉良邸討ち入り(きらていうちいり)まで、 広島・

  浅野本家、 江戸幕府の各機関、 吉良家・上杉

  家により、 その行動を監視されていた。

     広島・浅野本家は、吉良邸討ち入りにより、

  幕府による、分家の赤穂・浅野家との連座(れん

  ざ、まきぞえ処罰)を恐れる。 江戸幕府の各機

  関は、 幕命(幕府の命令)に背くかどうか疑惑

  をいだく。 吉良家・上杉家は、赤穂浪士により

  吉良邸に討ち入られ、 吉良上野介(義央)の命

  (いのち)が奪われるのを恐れる。 

     特に、吉良上野介(義央)と親密な上杉家米

  沢藩は、 赤穂浪士の吉良邸討ち入りを阻止しよ

  うとした。 というのも、吉良の長男は、上杉家米

  沢藩に養子に入り、上杉家・第4代米沢藩主・

  杉綱憲 (うえすぎ つなのり)であり、 吉良の夫人・

  上杉富子は、上杉家・第2代米沢藩主の娘であり、 

  吉良の跡継ぎは、上杉家・米沢藩主・上杉綱憲

  次男であるため。

      大石内蔵助(良雄)をはじめとする、盟約を結

  んだ赤穂浪士たちは、 間者(かんじゃ、スパイ)は

  隠密行動のため史料はほとんどないが、 吉良邸

  討ち入りを行うかどうかという件で、 広島・浅野本

  家、江戸幕府の各機関、吉良家・上杉家 の間者

  に、その行動を監視されていた と推測される。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1701年(元禄14年)7月より、 大石内蔵助

  (良雄)は、 赤穂退去後、家族と共に、京(都)・

  山科(やましな)に居住する。 

     大石内蔵助(良雄)は、 1701年(元禄14

  年)4月の赤穂城開城から1702年(元禄15年)

  7月の赤穂・浅野家再興不能まで、 幕府の幕

  閣や僧・隆光などに嘆願を出すなどして、 お家

  再興(赤穂・浅野家再興)運動の政界工作を行

  った。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 大石内蔵助(良雄)は、 1701年(元禄14年)

  3月の浅野内匠頭(長矩)の刃傷 (にんじょう)よ

  り、 1702年(元禄15年)12月の吉良邸 討ち

  入りまでに、 江戸東下(あずまくだ)り(第1次、

  第2次)を、2回行っている。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 赤穂・浅野家旧臣の意見は、 赤穂勤め旧臣

  が多い「お家再興優先派」 と 江戸勤め旧臣

  が多い「仇討ち優先派」の2つに分かれ始 め

  た。 「仇討ち優先派」は、 江戸急進派とも

  呼ばれた。 この2派が、 1701年(元禄14

  年) 4月の赤穂城開城から1702年(元禄15

  年)7月の赤穂・浅野家再興不能 (浅野大学

  (長広)の広島・浅野本家(広島藩)永預かり)

  まで、 対立した。

     「お家再興優先派」は、 お家(赤穂・浅野

  家)再興を果(は)たせば、浅野内匠頭(長矩)

  の敵討(かたきう)ちの吉良邸討ち入りを行わず、

  お家再興が果たせない時のみ吉良邸討ち入り

  を行いたいグループであり、 一方、「仇討ち優

  先派」は、 お家(赤穂浅野家)再興の有無とは

  関係なく、亡き主君・浅野内匠頭(長矩)の敵討

  (かたきう)ちの吉良邸討ち入りを行いたいグル

  ープである。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 高田馬場の決闘で活躍し、その後、赤穂藩家臣

  となった、堀部安兵衛(武庸) (ほりべやすべえ

  (たけつね)、1670〜1703年)は、 吉良への

  仇討ちを主張する、「仇討ち優先派」(江戸急進

  派)の中心人物であった。 大石内蔵助(良雄)

  は、お家再興を優先させることを主張し、時節到

  来を待つように、 「仇討ち優先派」(江戸急進派)

  の、堀部安兵衛(武庸)を説得し、暴走を抑えた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 討ち入りからだいぶ前の1701年(元禄14年)

  11月に、 大石第1次東下り時、 大石内蔵助

  (良雄)は、 瑤泉院ようぜんいん、阿久里)に

  拝謁(はいえつ)し、 赤穂・浅野家(赤穂藩)の

  再興や吉良邸討ち入りの運動資金として、 瑤

  泉院(阿久里)拠出の資金を受け取った。

     瑤泉院(阿久里は、  討ち入り直前には、

  大石内蔵助(良雄)とは会 っていない。 忠臣蔵

  の南部坂の雪の別れは、 残念ながら、創作(フ

  ィクション)で、事実ではない。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 藩の改易(かいえき、領地没収)後、 赤穂・

  浅野家(赤穂藩)の元家老・大石内蔵助(良雄)

  (おおいしくらのすけ(よしお)) は、 吉良上野

  介(義央)への処分とお家再興を求めるが、

  戸幕府は 、聞き入れなかった。

    後に、1702年(元禄15年)7月に、 江戸

  幕府により、浅野大学(長広)は、領地を召(め)

  し上げられ、 広島・浅野宗家(本家)へ永預け

  となる。 

     この処分で、 旧赤穂藩(赤穂・浅野家)

  活のお家再興の見込みがなくなり (絶望的とな

  り)、 この処分を受け、 大石内蔵助(良雄)は、

  吉良上野介(義央)への仇討(あだう)ちを決意す

  る。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 吉良への復讐と江戸幕府の失政を正すため、 

  大石内蔵助(良雄) は、吉良の殺害を決意する。 

  そして、 赤穂藩(赤穂・浅野家)の改易(領地没

  収)時、赤穂城開城前に血判した旧赤穂藩士の

  同志 や その他の旧赤穂藩士の同志の、盟約

  の同志と共に、 計画的な行動に出る。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 円山会議。

    円山会議 (まるやまかいぎ) は、 お家(赤

  穂・浅野家)再興の望みが絶(た)たれ、 吉良邸

  討ち入り(きらていうちいり)を決定した会議 で

  ある。

    1702年(元禄15年)7月28日に、大石内蔵

  助(良雄)は、  「仇討ち優先派」(江戸急進派)の

  堀部安兵衛(武庸) (ほりべやすべえ(たけつね)

  を招いて、 盟約の同志が集まり、 京(都)の円

  山(まるやま、京都市東山区円山町)で、 同志と

  の会議を開き、 円山会議 (まるやまかいぎ)で、 

  江戸・本所(えど・ほんじょ)の吉良屋敷への討ち

  入りを決定した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 大石内蔵助(良雄)は、 第2次大石東下(あず

  まくだ)りとして、 1702年(元禄15年)11月

  5日に、江戸に入る。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 盟約を結んだ赤穂浪士同志全員の江戸潜伏時、 

  1702年(元禄15年)11月から12月まで、

  大石ら赤穂・浅野家旧臣は、 吉良上野介(義

  央)が本所吉良屋敷にいる確実な在邸日を探り、

  討ち入り日を決定した。

     江戸で、 大石内蔵助(良雄)は、 赤穂・浅

  野家旧臣の同志に、 本所吉良屋敷を探らせ、

  吉良邸絵図面を入手し、 吉良上野介(義央)が

  本所吉良屋敷にいる確実な在邸日を探り、 討ち

  入り日を決定した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 吉良邸討ち入り直前に、大石内蔵助(良雄)は、

  瑤泉院(ようぜんいん、阿久里)から受領した活

  動資金の会計決算書「預置候金銀請払帳」を、

  瑤泉院(阿久里)の用人・落合 与左衛門(勝信)

  (おちあいよざえもん(かつのぶ)、生没年不明) 

  に提出している。 

     瑤泉院に対して大石内蔵助(良雄)が作成

  した会計決算書 「預置候金銀請払帳」 (あず

  かりおきそうろうきんぎんうけはらいちょう、箱根

  神社所蔵) は、 お家(赤穂・浅野家)再興、及

  び、吉良邸討ち入りのための活動資金として、

  大石が瑤泉院から受領した資金・約691両(現

  在の約1億3000万円相当) に対する、1702

  年(元禄15年)11月付の会計決算書(収支報

  告書) である。

     瑤泉院(阿久里は、  討ち入り直前には、

  大石内蔵助(良雄)とは会っていない。 忠臣蔵

  の南部坂の雪の別れは、 残念ながら、創作(フ

  ィクション)で、事実ではない。

     大石内蔵助(良雄)の会計決算書「預置候

  金銀請払帳」、 瑤泉院(阿久里)の用人・落合

  与左衛門(勝信)の日記「江赤見聞記」 は、

  在、 貴重な元禄赤穂事件の一次的史料となっ

  ている。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 江戸時代の、1702年(元禄15年)12月15

  日未明・午前4時頃に、 江戸(東京)で、 赤穂

  (あこう)藩元家老、 大石内蔵助(良雄) (お

  おいしくらのすけ(よしたか・よしお)、1659〜

  1703年)の率いる赤穂浪士47人は、 江戸の

  吉良邸へ討ち入り、 約2時間の激闘の末、 主

  君の仇(かたき)の、吉良上野介(義央) (きら

  こうずけのすけ(よしなか・よしひさ))、1641〜

  1702年) を討ち取り、 その本懐(ほんかい)

  を遂げた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 吉良邸討ち入り時、 大石内蔵助(良雄) は、 

  吉良邸の表門で指揮をとり、 大石内蔵助(良

  雄)の子、大石主税(良金)(おおいしちから(よ

  しかね)、1688〜1703年)は、 吉良邸の裏

  門で指揮をとった。

    大石主税(良金)は、 大石内蔵助(良雄)と

  大石・正室夫人の石束(いしづか)りく(香林院

  (こうりんいん)、1669〜1736年)との間の子

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 吉良上野介(義央)を殺害後、 赤穂浪士一行

  は、 江戸市中を行進し、 主君の浅野内匠頭

  (長矩)の墓がある江戸の高輪・泉岳寺へ行き、 

  主君の墓前に、 吉良上野介(義央) の首級を

  供え、仇討ちを報告した。

    大石内蔵助(良雄)は、 赤穂浪士2名を江戸

  幕府の大目付・仙石久尚の邸宅に送り、口上書

  を提出し、幕府の裁定に委ねた。 そして、赤穂

  浪士一行は、  派遣された幕府の役人の誘導で、

  大目付・仙石久尚の屋敷に移動した。 その後、

  討ち入り赤穂浪士は、幕府により、4つの大名家

  の屋敷に分けて預けられた。

     吉良邸に討ち入りした赤穂浪士47人の1人

  の赤穂藩元足軽の寺坂吉右衛門(信行) (てら

  さかきちえもん(のぶゆき)) が、 吉良邸討ち入

  り後、 赤穂浪士が幕府の指定した屋敷にお預け

  になる前に、 何らかの理由で突然姿を消した。 

  寺坂吉右衛門(信行) は、 赤穂藩元家老の大石

  内蔵助(良雄)から何らかの密命を受けて 離れたと

  いう説がある。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1702年(元禄15年)12月14〜15日の吉良

  邸討ち入り後、 大石内蔵助(良雄)をはじめ討

  ち入りした赤穂浪士46名 (1人は、討ち入り後

  立ち去る) は、幕府により、大名家の屋敷に預

  けられ、 1703年(元禄16年)2月4日に、大

  石内蔵助(良雄)は、 幕命(ばくめい、江戸幕府

  の命令)により、 討ち入りした赤穂浪士 の指導

  者として、切腹し、 江戸の高輪・泉岳寺(たかな

  わ・せんがくじ)に葬られた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1703年(元禄16年)2月に、 江戸幕府の命

  (命令)で、 討ち入りをした赤穂浪士47人のう

  ち46人が、切腹した。 討ち入りした赤穂浪士は、

  江戸の高輪・泉岳寺に葬られた。

       1702年(元禄15年)12月の吉良邸討ち入り

  後、 赤穂浪士が幕府の指定した屋敷にお預け

  になる前に、 吉良邸に討ち入りした赤穂浪士47

  人の1人の赤穂藩元足軽の寺坂吉右衛門(信行)

  (てらさかきちえもん(のぶゆき))が、 何らかの

  理由で突然姿を消したため、 後に、1703年(元

  禄16年)2月に切腹したのは、 赤穂浪士46人

  である。

     寺坂吉右衛門(信行) は、 赤穂藩元家老

  の大石内蔵助(良雄)から何らかの密命を受けて

  離れたという説がある。 

     寺坂吉右衛門(信行)は、討ち入り時38歳で、

  赤穂事件後に幾つかの家に仕(つか)えた後、享

  年83歳で、江戸で没す。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#ooishikuranosuke(yoshitaka)-thegenrokuakoincident

 

■ 元禄赤穂事件。

■ 元禄赤穂事件 (げんろくあこうじけん)は、 赤

  穂事件、赤穂浪士討ち入り(あこうろうしうちいり)

  事件とも言う。 

     元禄赤穂事件をモデル(題材)にした創作

  (フィクション)の物語 「忠臣蔵(ちゅうしんぐら)」

  は、有名である。

● TKKI カナヤマ著 日本歴史の驚異の出来事。

 

■ 元禄赤穂事件・赤穂浪士の討ち入りの概要。

     1701年(元禄14年)3月に、 江戸城内で、

  赤穂藩(あこうはん、赤穂・浅野家)・藩主浅野

    内匠頭(長矩) (あさのたくみのかみ(ながのり)) 

  が、 高家(こうけ、江戸幕府の儀式 指導係)・筆

  頭の、吉良上野 介(義央) (きらこうずけのすけ

  (よしなか・よしひさ)) に斬(き)りつけ、 浅野

  内匠頭(長矩) は、 即日切腹(せっぷく)し、 赤

  穂藩(赤穂・浅野家)は、即日 改易(かいえき、

  没収)と 決まり、 赤穂藩(赤穂・浅野家)の元家

  老・大石内蔵助(良雄) (おおいしくらのすけ(よし

  たか・よしお))は、 お家再興(おいえさいこう、赤

  穂・浅野家再興) を願い出るが許されず、 17

  02年(元禄15年)12月に、 大石内蔵助(良雄) 

  ら赤穂藩(赤穂・浅野家)の旧家臣47人 が、 吉

  良邸(きらてい)に討ち入り、 吉良上野介(義央)

  を殺害し、 1703年(元禄16年)2月に、 赤穂

  (赤穂・浅野家)の旧臣46人 (他の1人は、 討

  ち入り後、立ち去る) が、切腹する。

● TKKI カナヤマ著 日本歴史の驚異の出来事。

 

 

#ooishikuranosuke(yoshitaka)-appearingscenes

 

♪♪ 大石内蔵助(良雄) が登場する、

  興味深い、ドキュメンタリー、ドラマ、

  映画。 

 

★ 大石内蔵助(良雄) が登場 する、

  面白く、興味深い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 忠臣蔵 瑤泉院の陰謀 (ちゅう

     しんぐら ようぜんいんのいんぼう)  

   (日本の2007年制作テレビ東京・テレビ

   ドラマ)。

● 大石内蔵助を演じた俳優 : 北大路欣也。

 

● 浅野内匠頭を演じた俳優 : 高嶋政伸。

● 瑤泉院(阿久利)を演じた女優 : 稲森いずみ。

● お喜世(左京の局)を演じた女優 : 吹石一恵。

● 堀部安兵衛を演じた俳優 : 山田純大。

 

■ 『 忠臣蔵 その義 その愛 (ちゅう

      しんぐら そのぎ そのあい) 』  

   (2012年1月2日・本放送・テレビ東京・テ

   レビドラマ)。

● 大石内蔵助を演じた俳優 : 舘 ひろし。

 

● 浅野内匠頭を演じた俳優 : 市川染五郎。

● 吉良上野介を演じた俳優 : 柄本 明。

● 瑤泉院(あぐり)を演じた女優 : 田中美里。

 

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#ooenohiromoto

 

■ 大江広元  

    お おえのひろもと

 

■ 大江広元。

■ 名称 : 大江広元  (おおえの ひろもと)

■ 生没年 : 1148〜1225年。

■ 鎌倉幕府初期の幕政の中心となり、 鎌倉幕

  府の基礎を固めた、政治家。

■ 鎌倉幕府の、公文所(くもんじょ)、政所(まん

  どころ)の別当(べっとう、長官)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 42336。

 

 

■ 大江広元  (おおえの ひろもと、生没年:114

  8〜1225年) は、 平安時代末期、鎌倉時代

  初期の政治家であり、 鎌倉幕府初期の幕政の

  中心となり、 鎌倉幕府の基礎を固めた人物 で

  ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 大江広元は、 1184年に、源頼朝に招かれ

  て、鎌倉に下(くだ)り、 鎌倉幕府創設に参画

  (さんかく)した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 大江広元は、 鎌倉幕府の、公文所(くもんじょ)、

  政所(まんどころ)の別当(べっとう、長官) であ

  る。

    大江広元は、 鎌倉幕府の、公文所(くもん

  じょ)、 政所(まんどころ、1190年〜1333年

  の初代別当(べっとう、長官)となり、 鎌倉幕府

  初期の幕政の中心として活躍し、 鎌倉幕府の

  基礎を固めた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 守護・地頭の設置は、 大江広元の献策によ

  る。

 

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#ootagyuichi

 

■ 太田牛一  

     (おおた ぎゅういち)。

 

■ 太田牛一。

■ 名称 : 太田牛一 (おおたぎゅういち)。

■ 信長公記15巻、太田牛一旧記、その他の書

  物で、 織田信長や安土桃山時代、室町時代後

  期(戦国時代)の末期、江戸時代初期の出来事

  を記した一次的史料を残す。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典  82316。

  

 

■ 太田牛一 (おおたぎゅういち)は、 織田信長

  の後半生を記録した武士 である。

 

■ 太田牛一は、 メモ魔で、日記で、織田信長

  の記録を残す。

     太田牛一 は、尾張時代より、日記を書き、 

  織田信長の日常生活を記録していた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 太田牛一(おおたぎゅういち)の信長公記には、

  「安土日記」(古期・信長公記、慶長頃の写)、 

  「信長記」(中期・信長公記、慶長18年(1613

  年)頃)、 「信長公記」(新期・信長公記、元禄

  12年(1699年)写) がある。

     「安土日記」(古期・信長公記、慶長頃の

  写)が一次史料として、信頼が高い。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 太田牛一は、 信長公記15巻、 太田牛一旧

  記、その他の書物で、 織田信長、豊臣秀吉、安

  土桃山時代、室町時代後期(戦国時代)、江戸時

  代初期の出来事を記録し、後世に残した。

     現在、太田牛一の書物は、織田信長や安土

  桃山時代を知る一次的史料となっている。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 信長公記 (しんちょうこうき) は、 15巻、約

  15年間で、 信長の上洛の時期から、 本能寺

    の変の時期までを記録している。 

     信長死後も、太田牛一 は、取材活動を行

  い、 信長の言行を詳しく調べあげて、 信長公

  記を書き上げた。

     太田牛一の取材記録の例では、 本能寺

  の変で信長が自害前に述べた「是非に及ばす」

  (ぜひにおよばず、 天が下した運命ならしかた

  がない) は、 信長が本能寺で死ぬ直前まで

  身近にいた侍女(じじょ)から取材して聞き出し

  たものである。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 太田牛一は、 織田信長の家臣となり、弓の

  名手で、 信長と共に、 各地を回った。

      織田信長死後、 太田牛一は、 豊臣秀吉

  豊臣秀頼に仕えた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 太田牛一 が登場する、興味深い

  関連ドラマ、映画、ドキュメンタリー。 

 

★ 太田牛一 が登場する、興味深い、

  関連ドキュメンタリー。 

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 英雄を

   記録した男 太田牛一 』 。 

   (NHKテレビ・2013年12月4日・

       本放送・歴史 ドキュメンタリー番組)。  

● 織田信長や安土桃山時代の出来事を

  記録し、後世に残した、太田牛一の生

  涯を述べる。

 

■ 解明!片岡愛之助の歴史捜査

  『 〈徳川家未解決事件ファイル〉

   家康の嫡男信康の切腹 

   正室築山殿 殺害事件

   の真相を追え! 』。 

     (日テレ・テレビ・2017年11月23日・

    本放送・ドキュメンタリー番組)。

■ 太田牛一(おおたぎゅういち)の信長公

  には、 「安土日記」(古期・信長公記、

  慶長頃の写)、 「信長記」(中期・信長公

  記、慶長18年(1613年)頃)、 「信長

  公記」(新期・信長公記、元禄12年(16

  99年)写)がある。

■ 松平信康自害・築山殿殺害事件(= 武田

  氏内通疑惑事件)を詳細に述べる。

■ 徳川家康の幼年期、青年期、前半生や

  築山殿・松平信康を、詳しく述べる。

■ 徳川家康の改名(竹千代⇒松平元信⇒  

  松平元康⇒ 松平家康⇒ 徳川家康)を述

  べる。

 

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#ouchiyoshioki

 

■ 大内 義興  

     (おおうち よしおき)。

 

■ 大内義興。

■ 名称 : 大内 義興 (おおうち よしおき)。

■ 生没年 : 1477〜1528年。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 大内 義興 (おおうち よしおき)は、 大内政

  弘(おおうち まさひろ)の子で、 中国地方西

  部と九州北東部に領地をもつ、有力大名 で

  あった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 大内 義興 は、 中国地方西部の周防(すお

  う)、 長門(ながと)、 安芸(あき)、 石見(い

  わみ)、 九州北東部の豊前(ぶぜん)、筑前

  (ちくぜん) の守護・戦国大名 であった。

 

■ 大内 義興は、 細川高国と組んで、足利 義稙

  を擁して、京(都)に上 (のぼ)り、 1508年に、

  足利 義稙(義尹(よしただ))を将軍職に復職さ

  せる。 

    その後、 約10年間(1508〜1518年)、

  京(都)に留まり、管領代として、 足利 義稙の

  室町幕府を支えた。

● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

 

■ 大内 義興 は、 10年間在京し(1508〜15

  18年)、 室町幕府10代将軍・足利義稙 (あ

  ひかがよしたね、足利義尹(よしただ)) を支え、 

  足利義稙第2次政権時(1508〜21年)の室町

  幕府の管領代(かんれいだい) となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 大内 義興 は、 1516年以後、室町幕府より

  遣明船の派遣を一任され、 対明貿易を独占し

  て巨利を収め、 大内氏の最盛期を築く。

 

■ 足利 義稙 (あしかが よしたね、生没年:14

  66年〜1523年)は、室町幕府(足利幕府)の 、

  10代将軍 (将軍在任、1490〜93年、150

  8〜21年)で、 足利義視(あしかがよしみ、

  利義政の弟) の子で あった。、 

     足利 義稙は、日野富子(ひのとみこ)に擁

  立されて1490年に将軍となったが、やがて、

  1493年に細川政元(ほそかわまさもと)に将

  軍職を追われた。 後に、大内義興(おおうちよ

  しおき)の助力を得て、 足利義澄 (よしずみ、

  室町幕府11代将軍(就任1494〜1508年))

  を追って、 1508年に、将軍職に復職した。

     将軍復職後、足利 義稙は、 管領(かんれ

  い)の細川高国(ほそかわたかくに)と抗争が続

  き、 1521年に、京(都)より出奔(しゅっぽん)

  し、 1523年に、阿波国(あわのくに、徳島県)

  で没した。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

♪♪ 大内 義興 が登場する、面白く、興

  味深い関連ドラマ、映画、ドキュメンタ

  リー。 

 

★ 大内 義興 が登場する、面白く、興味

  深い、関連ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

   歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事が 混じって描かれていま

   す。 また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 塚原卜伝 (つかはらぼくでん) 』 

   (NHK・2011年時代劇スペシャルドラマ)。  

 

● 室町時代後期(戦国時代)を描いたドラマで、

   当時活躍した人物、当時の時代状況を描く

● 室町幕府の10代将軍・足利義稙(よしたね、

  足利義尹(よしただ))、  管領代の大内義興、

  管領の細川高国 が登場する。

● 塚原卜伝の生涯を描いたドラマである。

● 塚原卜伝が、武者修行の旅に出て、日本各

   地の剣術家と試合をし、己の剣術に磨きをか

     けるストーリーが展開する。

● 大内 義興 (おおうちよしおき)を演じた

  俳優名: 吉見 一豊 (よしみ かずとよ)。

 

● 塚原卜伝 (つかはらぼくでん)を演じた

  俳優名: 堺 雅人。

 

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#theoshufujiwaraclan

 

■ 奥州藤原氏  

     (おうしゅうふじわらし)。

 

■ 奥州藤原氏。

■ 名称 : 奥州藤原氏 (おうしゅうふじわらし)。

■ 平安時代後期、 11〜12世紀に、東北地方(陸

 奥(むつ)と出羽(でわ))を支配した豪族(ごうぞく、

 有力者)。

■ 奥州藤原氏の創始者は、藤原 清衡(ふじわらの

 きよひら) である。

   藤原 清衡は、 藤原経清(ふじわらのつねきよ)

 の子である。

■ 初代当主 は、 藤原 清衡(ふじわらの きよひら、

 生没年:1056年〜1128年)。

■ 2代目当主は、 藤原 基衡(ふじわらの もとひら、

 生没年:1090年?〜1158年?)

■ 3代目当主は、 藤原秀衡(ふじわらの ひでひら、

 生没年:生年不詳〜1187年)。

■ 4代目当主は、 藤原 泰衡(ふじわらの やすひら、

 生没年:1155年〜1189年)。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 奥州藤原氏 が登場する、興味 深い

   関連ドラマ、映画、ドキュメンタリー。 

 

 

■ 奥州藤原氏 (おうしゅうふじわらし) は、 平安時

 後期、 11〜12世紀に、 東北地方(陸奥(むつ)

 と出羽(でわ))を支配した豪族(ごうぞく、有力者)で

 ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 奥州藤原氏の創始者は、藤原 清衡(ふじわらの

 きよひら)である。

   藤原 清衡は、 藤原経清(ふじわらのつねきよ)

 の子である。

■ 陸奥(むつ)は、福島、宮城、岩手、青森県で、出羽

 (でわ)は、山形県、秋田県 である。

■ 奥州藤原氏の初代当主は、 藤原 清衡 (ふじわら

  のきよひら、生没年:1056年〜1128年)で、 奥州

 藤原氏の2代目当主は、 藤原 基衡(ふじわらの もと

 ひら、生没年:1090年?〜1158年?)で、 奥州藤

 原氏の3代目当主は、 藤原秀衡(ふじわらの ひでひ

 ら、生没年:生年不詳〜1187年)で、 奥州藤原氏の

 4代目当主は、 藤原 泰衡(ふじわらの やすひら、生

 没年:1155年〜1189年) である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 奥州藤原氏は、 平安時代後期の陸奥国の豪族で、

 後三年の役(ごさんねんのえき)後、 藤原清衡(ふじ

 わらのきよひら)、藤原基衡(もとひら)、藤原秀衡(ひ

 でひら)の3代にわたって、 奥州・平泉(ひらいずみ)

 を中心に、 京都文化を移植(いしょく)し繁栄した。

    しかし、1189年に、4代目当主・藤原泰衡(やす

 ひら)が、源頼朝(みなもとのよりとも)により、滅 ぼさ

 れて、滅亡した。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 源義経 と 奥州藤原氏。

    奥州藤原氏の3代目当主の藤原秀衡 (ふじわら

 のひでひら、生没年:生年不詳〜1187年) は、源

 氏の挙兵前に、 平氏に追われる、源 義経(みなもと

 のよしつね)を受け入れて保護する。 

    源 義経の兄・源 頼朝(みなもとの よりとも)の挙

 兵時、 藤原秀衡は、 源義経がその挙兵に参加する

 ため藤原秀衡の元を去るのを見送る。 

    その後、兄・源 頼朝と不和となり亡命してきた

  義経を、 藤原秀衡は、再び、受け入れて保護する。

    1187年の藤原秀衡の死後、 4代目当主の藤

 原泰衡(ふじわらのやすひら、1155〜89年) は、

 父・秀衡の遺命で源 義経を保護していたが、 源頼

 朝に圧迫されて (源頼朝の圧力に耐えかねて)、

 1189年に、衣川の館(ころもがわのやかた)にいた

 源 義経を攻(せ)め殺す。 その後、同年の1189年

 に、 藤原泰衡は、源頼朝の討伐を受け、 奥州藤原

 氏は滅亡する。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

■ 藤原経清の陸奥赴任。

■ 藤原経清(ふじわらのつねきよ) は、 京(都)か

 ら陸奥(むつ)の国府、多賀城(たがじょう)に赴任し

 てきた貴族で、 多賀城では、 京(都)から赴任した

 陸奥守(むつのかみ)に仕える家臣 であった。

   藤原経清は、地元の陸奥(むつ、福島、宮城、岩

 手、青森県)の豪族の安倍氏の娘と婚儀を結び、二

 人の間に、藤原清衡(ふじわらのきよひら) が生ま

 れる。 

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 前九年合戦 (ぜんくねんがっせん)。

 前九年合戦(1051〜62年)は、陸奥守や清原氏

 対安倍氏の戦いで、 陸奥守や清原氏が勝利をおさ

 める。

   藤原経清は、安倍氏に味方して戦い、 敗死する。 

   陸奥守・源頼義(みのもとのよりよし)とその子源

 頼家(よりいえ)が、 出羽(でわ、山形県、秋田県)の

 豪族の清原氏の清原武則(きよはらのたけのり)の軍

 の援助を受けて、 安倍氏の安倍頼時(あべのよりと

 き)とその子の安倍貞任(さだとう)の軍を破る。

    その後、藤原経清の夫人で藤原清衡の母は、勝

 者の清原氏の清原武則の嫡子・清原武貞(たけさだ)

 の夫人となり、 連れ子の清衡は、清原氏に引き取ら

 れ、清原氏の子となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

 後三年合戦 (ごさんねんがっせん)。

 後三年合戦(1083〜87年)は、出羽・陸奥を支配

 していた清原氏の兄弟間の戦いで、 清原(藤原)清

 衡が勝利をおさめる。 最終的に、清原(藤原)清衡が、

 出羽・陸奥の東北地方を支配する。

    清原(藤原)清衡は、陸奥守の源頼家(みなもとの

 よりいえ)の支援を得る。 最初に、同母兄弟の清原

 (藤原)清衡や清原家衡(きよはらのいえひら)が、異

 母兄弟の清原真衡(さねひら)と戦い、 勝利を得る。 

 その後、同母兄弟の清原(藤原)清衡と清原家衡 が、

 戦い、 清原(藤原)清衡が勝利をおさめる。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

■ 後三年合戦後。

■ 後三年合戦後、 清原(藤原)清衡(1056〜112

 8年)は、 陸奥・出羽押領使に就任し、平泉(ひらい

 ずみ、岩手県平泉)を拠点に東北地方全域を支配す

 る。 

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 また、清原(藤原)清衡は、晩年、 東北人同士が

 争い、沢山の血が流され、多くの犠牲者が出た、前九

 年合戦や後三年合戦での犠牲者の死者の鎮魂 や

 奥州の永久(とわ)の平和と繁栄を願って、1124年

 に、平泉に、中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)

 を建立(こんりゅう)する。 

   中尊寺金色堂は、阿弥陀堂(あみだどう)で、奥州

 での豊富な金の産出を背景に、内面、外面、須弥壇

 (しゃみだん)にいたるまで、黒漆(くろうるし)を塗った

 上に金箔(きんぱく)をほどこし、須弥壇や巻柱(まき

 ばしら)には、夜光貝をほどこしている。 須弥壇の下

 には、藤原清衡、基衡、秀衡の三代の遺骸がミイラの

 状態で安置されている。 

   中尊寺金色堂は、現在、世界遺産の1つとなって

 いる。 

   中国の元に長年滞在したマルコポーロ(1254〜

 1324年)の「世界の記述」(東方見聞録)にあるジパ

 ングの王宮の記述は、 中尊寺金色堂、毛越寺などの

 平泉の黄金文化をさしている可能性がある。 平泉の

 黄金文化の噂(うわさ)が、 平泉から東北地方北部

 の十三湊(とさみなと)をはじめ日本各地の湊(みなと)

 を経て、日本海側・太平洋側日宋・日元貿易ルートか

 ら中国の南宋(1127〜1279年)や元(1271〜13

 68年) に伝わっていった可能性がある。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

#theoshufujiwaraclan-appearingscenes

 

♪♪ 奥州藤原氏 が登場する、面白く、興

 味深い関連ドラマ、映画、ドキュメンタリー。 

 

★ 奥州藤原氏 が登場する、面白く、興味

 深い関連ドキュメンタリー。 

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 東北に輝け!幻

 の黄金都市〜世界遺産・平泉 奥州藤原

 氏100年の夢〜 』 (20 12年(H24年)3月

 14日本放送・NHKテレビ・ドキュメンタリー番組)。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 源義経 in the

 Dark 〜伝説のヒーローは闇から生まれ

 た〜 』 (2010年9月1日本放送・NHKテレビ・ドキ

 ュメンタリー番組・第49回)。

 

★ 奥州藤原氏 が登場する、面白く、興味

 深い関連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 歴史

 のドラマ、映画 は、史実(歴史上の事実) と 架空

 の出 来事 が混じって描かれています。 また、 現

 代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 平清盛 (たいらのきよもり) 』 

 (NHK2012年大河ドラマ)。

 

■ 『 義経 (よしつね) 』 

 (NHK2005年大河ドラマ)。

● 古代日本の平安時代末期を描いたドラマで、 奥州

 藤原氏の3代目当主の藤原秀衡、 秀衡の子の泰衡

 (4代目当主)、国衡忠衡3兄弟、 源義経主従が

 登場する。 

● 藤原秀衡を演じた俳優名 : 高橋 英樹。

● 藤原泰衡を演じた俳優名 : 渡辺 いっけい。

● 藤原国衡を演じた俳優名 : 長嶋 一茂。

● 藤原忠衡を演じた俳優名 : ユキ リョウイチ。

● 藤原秀衡の夫人(桔梗(ききょう))を演じた女優名 

 : 鶴田さやか。

 

● 源 義経 を演じた俳優名 : 滝沢 秀明 (たきざ

  わ ひであき)。

● 静御前 (しずかごぜん)を演じた女優名: 

 石原 さとみ。

■ 義経主従。

● 武蔵坊弁慶 を演じた俳優名 : 松平 健。

● 伊勢三郎 を演じた俳優名 : 南原 清隆。

● 駿河次郎を演じた俳優名 : うじき つよし。

● 喜三太を演じた俳優名 : 伊藤淳史。

● 佐藤忠信(たたのぶ) を演じた俳優名 : 海東 健。

● 佐藤継信 を演じた俳優名 : 宮内 敦士。

● 鷲尾三郎(義久) を演じた俳優名 : 長谷川朝。

 

  

  (ドラマ「義経」関連の書籍の販促のPRフォト)

 

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#oobanotubone

 

■ 大姥局  

     (おおばのつぼね)。

 

■ 大姥局。

■ 名称 : 大姥局 (おおばのつぼね)。

■ 生没年 : 1525年(大永5年)〜1613年

  (慶長18年)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 大姥局 (おおばのつぼね)は、 江戸幕府

  第2代将軍徳川秀忠( ひでただ)の乳母(う

  ば、めのと)  であった。

    大姥局の生没年は、1525年(大永5年)

  〜1613年(慶長18年)である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 大姥局は、 安土桃山時代から江戸時代

  期にかけて、徳川家江戸城の草創期の

  (1590年〜1868年)で権勢を振るった。

 

■ 大姥局の夫の川村善右衛門重忠は、今川家

  に仕(つか)え、 今川家の人質時代の、徳川

  家康の世話役であった。 その後、浜松城時

  代の徳川家康が、大姥局を召し出し、徳川秀

  の乳母(うば、めのと)とした。 その後、大

  姥局は、1590年、徳川家の領地換えで、浜

  松城から江戸城へ移った。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 大姥局は、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(ひで

  ただ)の乳母(うば、めのと)で、 安土桃山時代

  から江戸初期にかけて、徳川家の江戸城の草創

  期の大奥(1590年〜1868年)で権勢を振るっ

  た。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

■ 大姥局 (おおばのつぼね) は、生没年は、15

  25年(大永5年)〜1613年(慶長18年)である。

 

■ 大姥局の侍女・お志津(おしづ、浄光院の妊娠・出産。

 大姥局には、お志津という侍女(じじょ)がいた。 

    徳川秀忠は、愛妻家であり、恐妻家であった。 秀忠

 には、嫉妬(しっと)深い、お江(おごう、お江与(おえよ))

 という正室夫人がいて、お江には頭があがらなかった。

    徳川秀忠は、気の緩みで、身の回りの世話をする侍

 女のお静 (おしず、お志津、浄光院(じょうこういん)) 

 手をだし、妊娠させてしまった。  秀忠は、 正室・夫人・

 お江の怒りを恐れる。 これを知った大姥局は、 お静

 庇護(ひご) し、 正室・夫人のお江(おごう)から匿(かく

 ま)って、 お静を見性院に 預け、1611年に見性院の元

 で無事出産させた。 生まれた男子は、幸松といい、 大

 姥局が懇意にする見性院(穴山梅雪・正室夫人、武田信

 玄次女)に母子共、預けられた後、 幸松は、1617年、 

 保科家(ほしなけ)の養子となり (名目上、保科正光の

 子とされ)、 母子共に、保科家の高遠城へ移った。 

    幸松は、 後の保科正之(ほしなまさゆき)で、3代将

 軍・徳川家光を補佐し、会津藩の藩祖となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

♪♪ 大姥局 が登場する、興味 深い、

   ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

★ 大姥局 が登場する、興味深い、ド

   ラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』 。 

      (NHKテレビ・2011年大河ドラマ) 

● 大姥局(おおばのつぼね)を演じた女優名 : 

  加賀まりこ (かがまりこ)。

 

■ 『 大奥・第一章 (おおおく だい

      いっしょう) 』 。 

   (フジテレビ・2004・2005年制作テレビ

    ドラマ)。

 

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#oonoharunaga

 

■ 大野 治長 

     (おおの はるなが)。

 

■ 大野 治長。

■ 名称 : 大野 治長 (おおの はるなが)。

■ 生没年 : 1569年(永禄12年)〜1615年(慶長20

 年)。

 豊臣家家臣。

 豊臣秀頼(とよとみひでより)の側近 (豊臣秀吉死後)。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

■ 大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね )の子。

● 大蔵卿局は、 豊臣秀吉側室夫人・淀殿(よどどの、淀

 の方、茶々)の乳母(うば、めのと)。

■ 父は、大野佐渡守(おおのさどのかみ)。

■ 淀殿(お茶々)の乳兄弟(ちきょうだい)。

 

■ 大野 治長 は、豊臣家家臣で、 豊臣秀吉死後(159

 8年)、 豊臣秀頼(とよとみひでより)の側近として、仕(つ

 か)える。

   大野 治長 は、1599年(慶長4年)に、家康暗殺疑惑

 事件の首謀者の一人として家康に罪を問われ、流罪(るざ

 い)となる。 1600年(慶長5年)の関が原の戦いでは、東

 軍に参戦し武功をあげ、家康から罪を許される。 関が原の

 戦い後、大阪城に入る。

   1614年(慶長19年)に、豊臣家の家老である片桐且

 (かたぎりかつもと)が追放されると、大野 治長 は、豊

 臣家を主導する立場となる。

    1615年(慶長20年)に、大阪夏の陣では、大野 治長

 は、治長の切腹を条件に淀殿と豊臣秀頼の助命を嘆願する

 ため、秀頼正室夫人の千姫を使者とし送り出す。 最後は、

 淀殿と豊臣秀頼と共に、大阪城の山里曲輪で、 自害する。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 大野 治長 (おおの ながはる) は、 生没年は、15

 69年(永禄12年)〜1615年(慶長20年) である。

■ 大野 治長 は、大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね )の

 子で、 大蔵卿局は、 豊臣秀吉側室夫人・淀殿(よどどの、

 淀の方、茶々)の乳母(うば、めのと) である。

   大野 治長 は、淀殿(お茶々) の乳兄弟(ちきょうだい)

 である。   

   大野 治長の父は、大野佐渡守(おおのさどのかみ)

 である。

 

 

♪♪ 大野 治長 が登場する、興味深い、

   ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

★ 大野治長 が登場する、興味深い、ド

  ラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

   歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事が混じって描かれています。 

   また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』。

   (NHKテレビ・2011年大河ドラマ)

● 大野 治長を演じた俳優名 : 武田真治 

  (たけだしんじ)。

 

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#ookurakyonotsubone

 

■ 大蔵卿局   

     (おおくらきょうのつぼね)。

 

■ 大蔵卿局。

■ 生没年 : 生年不詳〜1615年。

■ 名称 : 大蔵卿局 (おおくらきょうのつぼね)。

  実名不詳。

● NHK大河ドラマ「江(ごう)〜姫たちの戦国」では、

   「サキ」(仮称)で登場する人物。

■ 茶々(ちゃちゃ、淀殿)の側近。

■ 茶々(淀殿、西の丸殿)の侍女、乳母(うば、めのと)。

 茶々(淀殿、西の丸殿)は、 豊臣政権を樹立した、豊

  臣秀吉の側室夫人で、豊臣政権を継承した、豊臣秀頼

  の生母。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 子には、大野三兄弟 (大野治長、大野治房、大野治

 胤)がいる。 

 

 

■ 大蔵卿局 (おおくらきょうのつぼね、生年不詳〜161

  5年) は、実名不詳で、 茶々(ちゃちゃ、淀殿)の側近

 で、 大蔵卿局と呼ばれた。 子には、大野三兄弟 (

 野治長、大野治房、大野治胤) がいる。 

● NHK大河ドラマ「江(ごう)〜姫たちの戦国」では、「サ

 キ」(仮称)で登場する人物 である。

 

 茶々 (ちゃちゃ、淀殿、西の丸殿) は、 豊臣政権を

  樹立した、豊臣秀吉の側室夫人で、 豊臣政権を継承

  した、豊臣秀頼の生母 である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 大蔵卿局は、 近江(おうみ、滋賀県)の浅井家の侍

  女で、 茶々( 淀殿)の乳母となった女性である。 

  野家滅亡(1573年)後も、茶々の侍女として茶々の

  傍(そば)に仕える。 茶々(淀殿)の生涯にわたり、 茶

  々(淀殿)の側近として重要な役割を果たした。

 

■ 豊臣秀吉存命中は(1598年まで)、 大阪城で、豊臣

  家の「奥」(後宮)には、 東西南北の女性がいた。 

       東西南北の女性とは、北政所 (きたのまんどこ

   ろ)、秀吉正室夫人のおね(ねね))、 西の丸殿 (に

   しのまるどの、秀吉側室夫人の茶々(淀殿))、 東殿 

   (ひがしどの、おね(ねね)の侍女で、豊臣秀吉が信

   頼する女性であり、関が原の戦いで西軍で活躍した

   大谷吉継の生母)、 南殿 (みなみどの、秀吉側室

   夫人で、秀吉の長浜城時代に秀吉の子1男1女(2子

   とも早世)をもうけた女性) である。

       大蔵卿局は、 ねね(おね)の側近の考蔵主

   と共に、 大阪城の 「奥」(後宮)を取り仕切った。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 豊臣秀吉正室夫人・ねね(おね)の側近の考蔵主 (こ

  うぞうす)が、 大阪城を去った後 (1599年〜1615

  年の間)、 大蔵卿局は、茶々(淀殿の側近として、

  大阪城で、豊臣家の「奥」(後宮)を取り仕切った。

 

■ 大蔵卿局 は、1615年に、大阪の夏の陣で、炎の包

  まれた大阪城で、 茶々殿)や豊臣秀頼と共に、自

  刃(じじん、自害)する。

 

 

♪♪ 大蔵卿局 が登場する、興味深い、

   ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

★ 大蔵卿局 が登場する、興味深い、ド

   ラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画 は、史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事 が混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 真田丸 (さなだまる) 』 。  

   (NHKテレビ・2016年大河ドラマ)。

● ドラマで「大蔵卿局)」 (おおくらきょうの

  つぼね、淀殿の乳母(うば))を演じた女優 : 

  峯村 リエ (みねむら りえ)。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』 

   (NHKテレビ・2011年大河ドラマ) 

● 大蔵卿局 (仮称、サキ) を演じた女優名 : 

   伊佐山 ひろ子 。

 

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#otatenoranbattle

 

■ 御館の乱   

     (おたてのらん)。

 

■ 御館の乱。

■ 期間 : 1578(天正6年)〜1580年

                (天正8年)。

■ 名称 : 御館の乱 (おたてのらん)。

● 御館 (おたて) とは、 上杉憲政(うえすぎの

  りまさ)の屋敷。

■ 上杉家家督継承(相続)をめぐる越後の内乱。

● 上杉景勝方と上杉三郎景虎方との間の、上杉

  家の家督継承(相続)をめぐる、越後の内乱。  

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

□ 御館の乱(おたてのらん)が登場する、

   興味深い、ドキュメンタリー、ドラマ、

   映画

 

 

■ 1578年(天正6年)3月に、上杉謙信が急死した。 

     上杉謙信には、 実子がなく、後継者を定めること

   なく急死したため、 養子の上杉景勝と上杉景虎

   が、後継ぎ争いを始めた。 これが、御館の乱(お

   たてのらん) である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1578年に、 上杉謙信の2人の養子の上杉景勝

   と上杉三郎景虎との間に、 上杉家の家督継承

   (相続)をめぐって 争いが起こり、 越後の上杉

   家の家臣が二手に分かれて、1580年まで、戦い

   争った。   

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1578年に、 上杉景勝は、 武田家の武田勝

    頼と甲越同盟を結ぶ。

 

■ 1578年 (天正6年)に、 上杉景勝は、武田家

    の武田勝頼と甲越同盟を結び、武田家の菊姫を

    景勝の正室夫人にむかる。

 

■ 1579年 (天正7年)に、 上杉景勝は、武田家

   の後ろ盾を得て、戦い(御館の乱)を有利にす

   すめ、上杉三郎景虎が自刃(じじん、自害)す

   る。

 

■ 1580年 (天正8年)に、 御館の乱で、上杉

   三郎景虎に味方した勢力(家臣)に最終的

   に勝利を得る。 そして、上杉景勝が、上杉

   家の家督を継承(相続)する。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 御館 (おたて)とは、 上杉謙信が越後・春日山

   城下に建設した関東管領館 (かんとうかんれ

   いかん)で、 上杉憲政の屋敷 である。 

 

● 上杉謙信 (うえすぎけんしん)が、 関東管領

   (かんとうかんれい)の上杉憲政 (うえすぎの

   りまさ) を迎えた時に、 その居館として、

   越後国(えちごのくに、現・新潟県の相当地域)

   の春日山城下に、 御館(おたて) を建設し、

   上杉謙信も それを、政庁として使用した。  

 

  ■ 上杉 景勝は、 1587年の上杉謙信の

    急死後、 その家督の継承をめぐって、 上杉

    景虎と争い (御館の乱(おたてのらん、1578

    〜79年))、 1579年3月に、 景虎を攻め

    て自害させた。、 その後も、上杉景虎に味方

    した勢力と争い、 1580年に最終的に勝利

    する。 越後を二分した内乱は、 上杉景勝が

    勝利し、 上杉謙信の後継者として、上杉 景

    勝は、 上杉氏の当主となる。

 

  ■ 御館の乱 (おたてのらん)とは、

    上杉家家督継承(相続)をめぐる越後の内乱 

    であり、1578(天正6年)から1579年(天正

    9年)までの間、続いた。

 

   ■ 御館の乱は、 上杉景勝方と上杉三郎景虎

     方との間の、上杉家の家督継承(相続)をめ

     ぐる、越後の内乱 である。  

   ● 御館 (おたて)とは、 関東管領の上杉憲

     政(うえすぎのりまさ)の屋敷である。

 

  ■ 1578年 (天正6年)に、 上杉謙信の2人の

    養子の上杉景勝と上杉三郎景虎の間に、

    上杉家の家督継承(相続)をめぐって 争い

    が起こり (御館の乱(おたてのらん、1578〜

    1579年))、 越後の上杉氏の家臣が二手に

    分かれて、1579年まで、戦う。    

 

 

 ■ 御館の乱。

 

  ■ 御館の乱 (おたてのらん、1578〜1579

    年) とは、 1578年(天正6年)の上杉謙

    信の急死後、 上杉謙信の家督の継承をめ

    ぐって、 謙信の2人の養子である、上杉 景

    勝 (うえすぎ かげかつ、 上杉謙信の姉の

    男子) と 上杉 景虎 (うえすぎ かげとら、 

    北条氏康の男子) との間に起こった、越後

    国(えちごのくに、現・新潟県)の内乱である。 

 

  ● 上杉景勝に味方する勢力 と 上杉景虎に

    味方する勢力が戦い、 1579年(天正7年 )

    3月の上杉景虎の死後も、 上杉景勝は、 

    上杉 景虎に味方した勢力と争い、 それら

    を攻めて勝利し、 最終的に乱が収束した

    のは、 1580年(天正8年)であった。

  ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

#otatenoranbattle-appearingscenes

 

♪♪ 御館の乱(おたてのらん) が登場する、

    興味深い、ドラマ、映画、ドキュメン

    タリー。

 

★ 御館の乱 が登場する、興味深い、ド

   ラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画 は、フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画 は、歴史的事実(史実) と 

  架空の出来事 が、 混じって、描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしたあります。

 

■ 『 天地人 (てんちじん) 』 。 

   (NHKテレビ・2009年大河ドラマ)。 

 

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#ochimushagari

 

■ 落ち武者狩り 

     (おちむしゃがり)。

 

■ 落ち武者狩り。

■ 名称 : 落ち武者狩り (おちむしゃがり)。

■ 敗残兵などの戦時逃亡者の追跡。

 

 

■ 落ち武者狩り (おちむしゃがり)とは、 農民

  どが、略奪、恩賞、または遺恨などのため、

  敗残兵などを襲うことであり、 または、落ち武

  者狩りは、勝者の軍の兵士が、敗者の軍の敗

  残兵などを探し、捕縛したり、殺害したりするこ

  とである。

 

 落ち武者狩り (おちむしゃがり)とは、戦国時

  代、安土桃山時代、江戸時代初期に、 農民な

  どが、略奪、恩賞、または遺恨などのため、

  残兵などを襲い、捕縛して、持ち物を奪ったり、

  殺害したりする行為であり、 または、落ち武者

  狩りは、勝者の軍の兵士が、敗者の軍の敗残兵

  などを探し、捕縛したり、殺害 したりする行為 で

  ある。

 

■ 農民などの落ち武者狩り。

     戦国時代(室町時代後期)、安土桃山時代、

  江戸時代初期に、 敗残兵(負けた軍の兵士)

  どに対し、 農民などは、 竹槍(たけやり)など

  の自前の武器で、 戦いの後、敗残兵などが逃

  げる途中を襲い、 敗残兵など持ち物 (身に

  つけているもの、衣類、鎧(よろい))や持ってい

  る金品、武器、食糧など) を奪ったり、 または、

  恩賞のため、敗残兵などを殺害して、首など死体

  の一部を取って、勝者の軍に差出したりした。 

 

 1582年(天正10年)に、明智光秀も、山崎の

  戦いで敗れ、坂本城へ逃亡中に、落ち武者狩り

  の農民に襲われ、命を落とした。

 

 

♪♪ 落ち武者狩り が登場する、興味深

  い関連ドラマ、映画、ドキュメンタリー。 

 

★ 落ち武者狩り が登場する、興味深い

  関連ドキュメンタリー。 

 

■ タイムスクープハンター 

   『 落武者脱出行 』 

   (NHKテレビ・2009年(H21)4月・

   本放送・ドキュメンタリー番組・ファー

   ストシーズン(セクション))。

● 室町時代後期(戦国時代)の、敗残兵の

  落ち武者と、 落ち武者を襲う農民を描い

  ている。

 

★ 落ち武者狩り が登場する、興味深

  い関連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が、混じって描かれていま

  す。 また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』 

   (日本の2011年NHK 大河ドラマ) 

● 明智光秀が、山崎の戦いで敗れ坂本城へ

  逃亡中に、落ち武者狩りの農民に襲われ、

  命を落とすシーンが登場する。

 

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#ookubohikozaemon

 

■ 大久保 彦左衛門 

    (おおくぼ ひこざえもん) 

    (大久保忠教)。

 

■ 大久保 彦左衛門。

■ 生没年 : 1560年(永禄3年)〜1639年(寛永16年)。

■ 名称 : 大久保 彦左衛門 (おおくぼ ひこざえもん)。

● 個人名の(いみな) は、 忠雄、のち忠教 (ただたか)。 

   個人名の通称 は、 彦左衛門 (ひこざえもん)。

● 正式名 : 大久保 忠雄、 大久保 忠教 (おおくぼ ただたか)。

■ 徳川家家臣、 幕臣(ばくしん、江戸幕府の家臣))、 旗本 (は

 たもと)。

● 徳川家康に仕(つか)え、戦功をたて、その後、徳川秀忠・家光に

 仕えた。

■ 武功派の武士、 「三河物語」(みかわものがたり)の著者。 

■ 関ヶ原の戦い、大阪の陣など多くの戦いに参加し、活躍した、

 歴戦の勇士。

■ 徳川家家臣の大久保 忠員(ただかず)の8男。

■ 父 は、大久保 忠員(ただかず)。 兄  は、 大久保 忠世、 

 大久保 忠佐 など。

■ 兄・大久保 忠世の子(甥(おい))が、大久保 忠隣(ただちか) 。

■ フィクションのドラマ、映画 では、 大久保 彦左衛門 は、河竹

 黙阿弥(明治前期活躍)の芝居・著作に基づく講談などにより、江

 戸時代前期に、 3代将軍・徳川家光に意見を述べ、「天下の御意

 見番」(てんかのごいけんばん) となり、 武功派の武士達を擁護

 したように描かれている。 しかし、 実際の彦左衛門 は、それほ

 ど、幕政への大きな発言力は、 持っていなかった。

 

 

■ 大久保 彦左衛門 は、1560年(永禄3年)に、 三河国上和田

 (愛知県岡崎市)で生まれた。 大久保 彦左衛門の、父 は、徳川

 家家臣の大久保 忠員(ただかず) である。

■ 大久保 彦左衛門 は、 徳川家家臣として、17歳頃、兄の大久

 保忠世と共に、 遠江平定戦に参加した。 その後、兄の大久保忠

 世、忠佐とともに、 各地を転戦した。

■ 大久保 彦左衛門 は、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは、

 家康本陣で、 槍(やり)奉行を務め、活躍する。

■ その後、 大久保長安事件で、甥の大久保 忠隣(ただちか)の失

 脚、改易に連座して、 大久保 彦左衛門 も、 改易(かいえき、領

 地没収) となる。 

■ しかし、後に、大久保 彦左衛門 は、 徳川家康直臣の旗本とし

 て召し出され、 三河国(みかわのくに、愛知県東部)の額田に10

 00石を拝領し、復帰する。

■ 大坂の陣(1914〜15年)では、 大久保 彦左衛門 は、槍奉行

 として、従軍した。

■ 徳川家康死後、 大久保 彦左衛門 は、2代将軍秀忠、3代将軍

 家光に仕え、旗奉行となり、 更に、1000石を加増される。

■ 大久保 彦左衛門 は、晩年は、 「三河物語」の執筆に没頭する。

 

■ 大久保 彦左衛門 は、 武功派で、当時の武功派の武士達に支

 持され、 江戸時代前期に、 自分の出世を顧みず、 太平の世で、

 平和になり、改易となり、浪人となった武士の世話をよくみて、就職

 活動にも奔走していた と言われている。

 

 

■ 大久保 彦左衛門 (おおくぼ ひこざえもん) は、 生没年 は、 

 1560年(永禄3年)〜1639年(寛永16年) で、別名は、 大久

 保 忠教(おおくぼ ただたか) である。

● 大久保 彦左衛門の、個人名の(いみな) は、 忠雄、のち

 (ただたか) で、 個人名の通称 は、 彦左衛門(ひこざえもん)

 である。

■ 大久保 彦左衛門 は、 徳川家家臣で、 幕臣(ばくしん、江戸

 幕府の家臣))であり、 旗本 (はたもと) であった。

● 大久保 彦左衛門 は、 徳川家康に仕(つか)え、戦功をたて、

 その後、徳川秀忠・家光に仕えた。

■ 大久保 彦左衛門 は、 武功派の武士 で、 「三河物語」(み

 かわものがたり)の著者 である。 

■ 大久保 彦左衛門 は、 関ヶ原の戦い、大阪の陣など多くの戦

 いに参加し、活躍した、歴戦(れきせん)の勇士 である。

■ 大久保 彦左衛門 は、 徳川家家臣の大久保 忠員(ただかず)

 の8男 である。

■ 大久保 彦左衛門の、父 は、大久保 忠員(ただかず)、 兄 は、

 大久保 忠世、大久保 忠佐 などで、 兄・大久保 忠世の子(彦

 左衛門の甥(おい)) が、 大久保 忠隣(ただちか) である 。

 

■ 大久保 彦左衛門のお墓 は、 東京都港区白金(しろがね)の、

 智光山立行寺 (通称「大久保寺」) にある。

 

 

♪♪ 大久保 彦左衛門 が登場する、興味深い

    関連ドラマ、映画、ドキュメンタリー。 

 

★ 大久保 彦左衛門 が登場する、興味深い関

   連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 柳生武芸帳 (やぎゅうぶげいちょう) 』 。 

   (テレビ東京・2010年制作テレビドラマ)。 

 大久保 彦左衛門 が、 求職中の沢山の浪人

  を自宅に住まわせていシーンがドラマに出てくる。

 

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#theowarifaction

 

■ 尾張閥 

    (おわり ばつ)

 

■ 尾張閥。

■ 時期 : 安土桃山時代 (1573〜1603年)。

■ 名称 : 尾張閥 (おわりばつ)。

● 別名 : 尾張派。

■ 尾張出身の豊臣家家臣。  豊臣政権の派閥

  の1つ。

■ 豊臣家臣団の、尾張 (おわり、現在の愛知県

  西部) 出身の武将、大名。

■ 豊臣家臣団の、 近江閥(おうみばつ)の近江

  出身の武将、大名 と 尾張閥(おわりばつ)の

  尾張出身の武将、大名 との間の対立。

■ 例、 尾張閥の尾張出身の、加藤清正、福島正

  

■ 武断派 (ぶだんは、豊臣政権で、軍務を多く

  担った武将) の武将、大名が多い。

 

□ 尾張閥が登場する、興味深い、 ドキ

  メンタリー、ドラマ、映画

 

 

■ 尾張閥 (おわりばつ) とは、 豊臣家臣団の、 

  尾張(現在の愛知県西部) 出身の武将、大名 

  である。

     例えば、 尾張閥の尾張出身の、加藤清正

  福島正則などがいる。

■ 尾張閥の尾張出身者 には、 武断派(豊臣政

  権で、軍務を多く担った武将) の武将、大名が

  多かった。

 

◆ 尾張閥と近江閥との対立。 

■ 豊臣氏家臣団の中で、 近江(おうみ)出身の近江

  閥の武将、大名 と 尾張(おわり)出身の尾張閥

  の武将、大名との間の対立 が、 豊臣政権の崩

  壊の一因となった。

 

■ 安土桃山時代 (1573〜1603年)に、 豊臣

  家臣団では、 尾張閥の尾張出身の武将、大名 

  と 近江閥の近江出身の武将、大名 とが対立し

  た。

 

■ 豊臣政権内で、 近江出身者が、 近江閥(近

  江出身の豊臣家家臣)を形成し、尾張出身者が、 

  尾 張閥(尾張出身の豊臣家家臣) を形成し、 

  両者が対立し、 豊臣政権崩壊の一因となった。

 

■ 近江閥 (おうみばつ) とは、 近江(おうみ、現

  在の滋賀県) 出身の武将、大名 である。 

    例えば、 石田三成 などがいる。

■ 尾張閥 (おわりばつ) とは、 豊臣家臣団の、

  尾張 (現在の愛知県西部) 出身の武将、大名 

  である。

    例えば、 尾張閥として、加藤清正福島正則

  などがいる。

 

■ 加藤清正福島正則等の尾張(おわり、愛知県

  西部)出身の尾張閥の武将、大名は、 武断派

  多く、 石田三成等の近江(おうみ、滋賀県)出

  身の近江閥の武将、大名は、文治派が多く、 豊

  臣政権内で、事あるごとに対立した。

 

■ 1598年の豊臣秀吉の死後、 豊臣氏家臣団の

  中で、近江出身の近江閥の武将、大名の多くは、 

  近江出身の秀吉・側室夫人の淀殿(よどどの、お

  茶々)に味方し、 尾張出身の尾張閥の武将、大

  名の多くは、尾張出身の秀吉・正室夫人のねね

  (おね)に味方した。

 

■ 1598年の豊臣秀吉死去後、 尾張出身の多い

  武断派と近江出身の多い文治派の両者の武将、

  大名は、対立を深め、前田利家が抑(おさ)えて

  いたが、 1599年の前田利家の死去直後、 今

  までの両者の敵意がふきだし、 尾張出身の武断

  派の加藤清正福島正則等が、 近江出身の文

  治派の代表の石田三成を襲撃した (石田三成

  襲撃事件)。 

     石田三成 は、難をのがれたが、 豊臣政権

  の筆頭大老の、徳川家康から、近江での蟄居(ち

  っきょ)を申し渡され、 1599年に、石田三成は、 

  豊臣政権の奉行の職をとかれ、失脚した。

 

■ 1600年に、石田三成が挙兵すると、 天下分

  目の戦い関ヶ原の戦い、その他 の戦い)では、 

  近江出身の多い文治派 (豊臣政権で、政務を

  多く担った武将) の武将、大名の多くが、  西

  軍の石田方に味方し、 尾張出身の多い武断派 

  (豊臣政権で、軍務を多く担った武将)  の武将、

  大名の多くが、 東軍の徳川方に味方した。

 

 

#theowarifaction-appearingscenes

 

♪♪ 尾張閥の武将・大名が登場する、

    興味深い、ドキュメンタリー、ドラ

    マ、映画。

 

★ 尾張閥の武将・大名登場する、

   興味深いドラマ、映画。

 

  ● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

    歴史のドラマ、映画は、史実(歴史の事実) 

    と 架空の出来事が混じって描かれています。 

    また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 寧々〜おんな太閤記 (ねね 

     おんなたいこうき) 』 。 

   (テレビ東京・2009年制作テレビドラマ)。  

■ 豊臣氏家臣団の尾張閥の武将・大名が登

  場する。

● 尾張出身の多い秀吉子飼いの武将が、少

  年時代から、沢山描かれている。

 

● 加藤清正を演じた俳優名 :  山田純大。

● 福島正則を演じた俳優名 :  樋口浩二。

● ねね(おね)を演じた 女優名 : 仲間 由紀恵。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』 。 

   (NHKテレビ・2011年大河ドラマ) 

■ 豊臣氏家臣団の尾張閥の武将・大名が登

  場する。

 

■ 『 天地人 (てんちじん) 』 。  

   (NHKテレビ・2009年大河 ドラマ)。

■ 豊臣氏家臣団の尾張閥の武将・大名が登

  場する。

● 寧々(ねね)を演じた俳優名 : 富司 純子。

 

■ 『 功名が辻 (こうみょうがつじ) 』 。  

   (NHKテレビ・2006年大河ドラマ)。

■ 豊臣氏家臣団の尾張閥の武将・大名が登

  場する。

 

■ 『 利家とまつ〜加賀百万石物

    語〜 』。  

   (NHKテレビ・2002年大河ドラマ)。

■ 豊臣氏家臣団の尾張閥の武将・大名が登

  場する。

 

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#theoumifaction

 

■ 近江閥 

    (おうみ ばつ)

 

■ 近江閥。

■ 時期 : 安土桃山時代 (1573〜1603年)。

■ 名称 : 近江閥 (おうみばつ)。

● 別名 : 近江派 (おうみは)

■ 近江出身の豊臣家家臣。 豊臣政権の派閥の1つ。

■ 豊臣家臣団の、近江(おうみ、現在の滋賀県) 出身

 の武将、大名。

■ 豊臣家臣団の、 近江閥(おうみばつ)の近江出身の 

 武将、大名と尾張閥(おわりばつ)の尾張出身の武将、

 大名 との間の対立。

■ 例、 近江閥の近江出身の石田三成

■ 文治派 (ぶんちは、豊臣政権で、政務を多く担った

  武将) の武将、大名が多い。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

□ 近江閥が登場する、興味深い、 ドキ

     メンタリー、ドラマ、映画

 

 

■ 近江閥 (おうみばつ)とは、 豊臣家臣団の、

  近江(おうみ、現在の滋賀県) 出身の武将、大

  名 である。 例えば、 近江閥のとして、近江出

  身の石田三成がいる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 近江閥には、 文治派 (豊臣政権で、政務を

 多く担った武将) の武将、大名が多かった。

 

 

◆ 尾張閥と近江閥との対立。 

■ 豊臣家臣団の中で、 近江(おうみ)出身の近江

  閥の武将、大名 と 尾張(おわり)出身の尾張閥

  の武将、大名との間の対立 が、 豊臣政権の崩

  壊の一因となった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 安土桃山時代 (1573〜1603年)に、 豊臣

  家臣団では、 尾張閥の尾張出身の武将、大名 

  と 近江閥の近江出身の武将、大名 とが対立し

  た。

 

■ 豊臣政権内で、 近江出身者が、 近江閥(近

  江出身の豊臣家家臣)を形成し、尾張出身者が、 

  尾 張閥(尾張出身の豊臣家家臣) を形成し、 

  両者が対立し、 豊臣政権崩壊の一因となった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 近江閥 (おうみばつ) とは、 近江(おうみ、現

  在の滋賀県) 出身の武将、大名 である。 

    例えば、 石田三成 などがいる。

 

■ 尾張閥 (おわりばつ) とは、 豊臣家臣団の、

  尾張 (現在の愛知県西部) 出身の武将、大名 

  である。

    例えば、 尾張閥として、加藤清正福島正則

  などがいる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 加藤清正福島正則等の尾張(おわり、愛知県

  西部)出身の尾張閥の武将、大名は、 武断派

  多く、 石田三成等の近江(おうみ、滋賀県)出

  身の近江閥の武将、大名は、文治派が多く、 豊

  臣政権内で、事あるごとに対立した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1598年の豊臣秀吉の死後、 豊臣氏家臣団の

  中で、近江出身の近江閥の武将、大名の多くは、 

  近江出身の秀吉・側室夫人の淀殿(よどどの、お

  茶々)に味方し、 尾張出身の尾張閥の武将、大

  名の多くは、尾張出身の秀吉・正室夫人のねね

  (おね)に味方した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1598年の豊臣秀吉死去後、 尾張出身の多い

  武断派と近江出身の多い文治派の両者の武将、

  大名は、対立を深め、前田利家が抑(おさ)えて

  いたが、 1599年の前田利家の死去直後、 今

  までの両者の敵意がふきだし、 尾張出身の武断

  派の加藤清正福島正則等が、 近江出身 の文

  治派の代表の石田三成を襲撃した (石田三成

  襲撃事件)。 

     石田三成 は、難をのがれたが、 豊臣政権

  の筆頭大老の、徳川家康から、近江での蟄居(ち

  っきょ)を申し渡され、 1599年に、石田三成は、 

  豊臣政権の奉行の職をとかれ、失脚した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 「従来説(通説)の関ヶ原の戦い」では、1600

  年に、石田三成が挙兵すると、 天下分け目の

  戦い関ヶ原の戦い、その他 の戦い)では、 

  近江出身の多い文治派 (豊臣政権で、政務を

  多く担った武将) の武将、大名の多くが、  西

  軍の石田方に味方し、 尾張出身の多い武断派 

  (豊臣政権で、軍務を多く担った武将) の武将、

  大名の多くが、 東軍の徳川方に味方した。

 

 

#theoumifaction-appearingscenes

 

♪♪ 近江閥の武将・大名が登場する、

    興味深い、ドキュメンタリー、ドラ

    マ、映画。

 

★ 近江閥の武将・大名登場する、

   興味深いドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 寧々〜おんな太閤記 (ねね 

     おんなたいこうき) 』 。 

   (テレビ東京・2009年制作テレビドラマ)。 

■ 豊臣氏家臣団の近江閥の武将・大名が登

  場する。

 

● 石田三成を演じた俳優名 : 中村俊介。

● 淀の方を演じた 女優名 : 吹石一恵。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』。 

   (NHKテレビ・2011年 NHK大河ドラマ) 

■ 豊臣氏家臣団の近江閥の武将・大名が登

  場する。

 

■ 『 天地人 (てんちじん) 』 。 

   (NHKテレビ・2009年大河 ドラマ)。

■ 豊臣氏家臣団の近江閥の武将・大名が登

  場する。

 

● 寧々(ねね)を演じた俳優名 : 富司 純子。

 

■ 『 功名が辻 (こうみょうがつじ) 』 。 

   (NHKテレビ・2006年大河ドラマ)。

■ 豊臣氏家臣団の近江閥の武将・大名が登

  場する。

 

■ 『 利家とまつ〜加賀百万石物

    語〜 』。 

   (NHKテレビ・2002年大河ドラマ)。

■ 豊臣氏家臣団の近江閥の武将・大名が登

  場する。

 

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#oomandokoro

 

■ 大政所 

   (おおまんどころ) (なか)。

 

■ 大政所。 

■ 生没年 : 1513(永正10年)〜1592年(天

   正20年)。

■ 名称 : 大政所 (おおまんどころ)。

  通称は、「なか」(仲) と称す。 1585年より 

  「大政所」と呼ばれた。

■ 豊臣秀吉の生母。

■ 尾張国(おわりのくに、現在の愛知県西部)の中 

  村(現在の名古屋市中村) の農民。

 1番目の夫は、 弥右衛門 (やえもん)。

 2番目の夫は、 竹阿弥 (ちくあみ)。

■ 2人の夫との間に、 2男2女をもうける。

■ 子 は、 

 1番目の夫・弥右衛門(やえもん)との間に、長

  の「とも」(智、日秀(にっしゅう)) と 長男の

  藤吉郎(とうきちろう、豊臣秀吉) をもうけた。

● 2番目の夫・竹阿弥(ちくあみ)との間に、 次男

  の「小一郎」(こいちろう、豊臣秀長)、 次女の

  「あさひ」(旭、朝日姫) をもうけた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

□ なか(大政所) が登場する、興味深

   い、ドキュメンタりー、ドラマ、映画

 

 

■ 大政所 (なか(仲))は、 豊臣秀吉の生母であ

   り、 生没年は、 1513(永正10年)〜1592

   年(天正20年) である。 

● 生年を1516(永正13年)とする説もある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 豊臣秀吉は、 生母の、大政所(なか(仲))を、終

      生、大切にした。

 

■ 豊臣秀吉は、 強力な軍事力を持つ徳川家康に

   臣下の礼をとらすべく、 上洛(じょうらく)を勧(す

   す)めたがうまくいかなかった。 

 

● そこで、 豊臣秀吉は、 秀吉の妹の朝日姫を、

   家康の正室夫人とし、家康の元へ人質として送

   り込んで、 家康に上洛(じょうらく)を促(うなが)

   したが、 それでも、家康は、上洛しなかった。

 

● 思案の挙句、 豊臣秀吉は、 秀吉の大切な生

   母の、大政所(なか(仲))を、 家康の元へ人質

   として送り込んで、 家康に上洛(じょうらく)

   を促(うなが)し、 その結果、やっと、家康は、

   上洛に応じ、大阪で、秀吉に臣下の礼をとった。 

   その間、 秀吉の母の大政所(なか(仲)) は、   

   家康の領国で軟禁され、 家康の上洛後、大阪

   に戻った。

 

 

 

■ 大政所 (おおまんどころ)は、 初めは、「なか」 (仲)と言い、 

 1585年より 「大政所」と呼ばれた。

● 1585年(天正13年)に、秀吉が、関白になった際に、か(仲))

 は、 従一位を朝廷より授かり、「大政所」と呼ばれるようになった。

● 大政所 は、 摂政・関白の母親に対し天皇より贈られる尊称で、

 「大北政所」の略称 である。

 

■ 大政所(なか(仲)) は、 尾張国(おわりのくに、現在の愛知県

 西部)の中村 (現在の名古屋市中村) の農民 であった。

 

 大政所(なか(仲)) は、 2人の夫との間に、 2男2女をもうける。

 

 大政所(なか(仲))の1番目の夫 は、 弥右衛門(やえもん)。

 大政所(なか(仲))の2番目の夫 は、 竹阿弥(ちくあみ)。

■ 産んだ子は、 長女の「とも」(智、日秀(にっしゅう)) と 長男の藤

 吉郎(とうきちろう、豊臣秀吉)、 次男の「小一郎」(こいちろう、豊臣

 秀長)、 次女の「あさひ」(旭、朝日姫) である。

● 産んだ子は、 1番目の夫・弥右衛門との間に、長女の「とも」(智、

 日秀(にっしゅう)) と 長男の藤吉郎(とうきちろう、豊臣秀吉) がい

 て、 2番目の夫・竹阿弥(ちくあみ)との間に、次男の「小一郎」(こい

 ちろう、豊臣秀長)、 次女の「あさひ」(旭、朝日姫) がいる。

 

 大政所(なか(仲))の1番目の夫は、 弥右衛門(やえもん) で

 ある。

 なか(仲、大政所)と なかの1番目の夫・弥右衛門(やえもん)と

 の間にできた子が、「とも」 (智、日秀(にっしゅう)) と 「藤吉郎」

 (とうきちろう、豊臣秀吉) である。

 

 大政所(なか(仲))の2番目の夫は、 竹阿弥(ちくあみ) である。

 なか(仲、大政所)と なかの2番目の夫・竹阿弥(ちくあみ)との

 で間にきた子が、 「小一郎」(豊臣秀長) と 「あさひ」 (旭、朝日

 姫)である。 

 

■ 大政所(なか(仲))の産んだ子は、 1番目の夫・弥右衛門との間に、

 長女の「とも」( 智、日秀(にっしゅう)) と 長男の藤吉郎(とうきちろう、

 豊臣秀吉) がいて、 2番目の夫・竹阿弥(ちくあみ)との間に、次男

 「小一郎」(こいちろう、豊臣秀長)、 次女の「あさひ」(旭、朝日姫) が

 いる。

● 「小一郎」(豊臣秀長) と 「あさひ」 (旭、朝日姫)の父については、

 弥右衛門(やえもん)とする異説もある。

 

■ 大政所(なか(仲))の墓所は、 大徳寺内天瑞寺跡にある。

 

 

#oomandokoro-appearingscenes

 

◆ なか( 大政所) が登場する、興味深

  い、ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

♪♪ なか(大政所) が登場する、興味

   深いドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 寧々〜おんな太閤記 (ねね 

     おんなたいこうき) 』 。 

   (テレビ東京・2009年制作テレビドラマ)。 

■ なか(大政所)が描かれている。

 

● なか(大政所)を演じた 女優名 : 十朱 幸代。

● 豊臣 秀吉を演じた俳優名 : 市川 亀治郎。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』。  

   (NHKテレビ・2011年大河ドラマ) 

■ なか(大政所)が描かれている。

 

● なか(大政所)を演じ る女優名 : 

  奈良岡 朋子。

 

■ 『 天地人 (てんちじん) 』 。  

   (NHKテレビ・2009年大河 ドラマ)。

■ なか(大政所)が描かれている。

 

 

■ 『 功名が辻 (こうみょうがつじ) 』 。  

   (NHKテレビ・2006年大河ドラマ)。

■ なか(大政所)が描かれている。

 

● なか(大政所)を演じた 女優名 : 菅井 きん。

● 豊臣 秀吉を演じた俳優名 : 柄本 明 (えも

  と あきら)。

 

■ 『 利家とまつ〜加賀百万石

    物語〜 』。  

   (NHKテレビ・2002年大河ドラマ)。

■ なか(大政所)が描かれている。

 

● なか(大政所)を演じた 女優名 : 草笛 光子。

 

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#owarihan

 

■ 尾張藩 

      (おわりはん)。

 

■ 尾張藩。

■ 名称 : 尾張藩 (おわりはん)。

 存続時期 : 江戸時代初期〜明治時代初期。

 根拠地: 尾張国 (おわりのくに、現・愛知県

   西部の相当地域)。

■ 1607年成立。 

■ 藩祖(初代藩主)は、徳川家康の男子、徳川義

   直(よしなお)である。

■ 62万石の藩。

■ 徳川御三家の1つ。 親藩。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 藩 (はん)とは、 大名の領地とその支配機構 

    である。

 

■ 尾張藩 (おわりはん)とは、 尾張国 (おわりの

  くに、現・愛知県西部の相当地域)を根拠地とし、 

  江戸時代初期から明治時代初期まで存在した

  藩である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 尾張藩は、 親藩 (徳川家康の男子が始祖と

  なている藩) である。

 

■ 尾張藩は、 徳川御三家の1つの尾張徳川氏

  の当主が、代々、藩主を務(つと)めた藩である。

 

■ 尾張藩は、 1607年に成立し、 藩祖(初代藩

  主)は、徳川家康の男子の、徳川義直(よしなお)

  であり、 62万石の藩である。

 

 

★ 尾張藩 が登場する、興味深い、

  ドキュメンタリー。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 特写!

  お殿様のスクープ写真 〜幕末

  の名君 人生山あり谷あり〜 』 

   (NHKテレビ・20 10年(H22)6月

   16日・本放送ドキュメンタリー番組)。

● 幕末の尾張藩主の徳川慶勝が登場する。

 

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#oourakei

 

■ 大浦慶   

      (おおうらけい)

 

■ 大浦慶。

■ 名称 : 大浦慶 (おおうらけい)。

■ 坂本龍馬の支援者。

 長崎の女性茶商人。

 亀山社中・海援隊で働く若き陸奥陽之介((陸奥

  宗光、後、明治期に外相)の大ファン。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 大浦慶 (おおうらけい)は、長崎の女性茶商人で、 

  坂本龍馬の支援者 である。

 

■ 大浦慶は、 長崎で女傑(じょけつ)と言われ、 茶

  商の大浦慶は、 亀山社中や海援隊に、多額の資

  金援助と隠れ家(かくれが)の提供を行った。 

  大浦慶の持つ製茶工場に志士達の隠れ家をつく

  った。

 

■ 幕末当時、若き陸奥陽之介 (陸奥宗光、後、明

  治期に外相)は、女性に人気があり、 大浦慶 は、 

  亀山社中・海援隊で働く若き陸奥陽之介が大好き

  であった。

 

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#ocho

 

■ お蝶  

     (おちょう)。

 

■ お蝶 。

■ 名称 : お蝶 (おちょう)。

■ 坂本龍馬の恋人。

 京風美人。

 江戸在住。

 

 

■ お蝶 (おちょう) は、 坂本龍馬の恋人である。

 

■ 土佐勤王党の大石弥太郎の回顧録(かいころく)によると、 お蝶 は、

 京風美人で、 江戸に在住していた。 

 

■ お蝶 (おちょう) は、 京(都)の公家で侍女(腰元)をしていたが、龍

 馬が江戸へ連れて行った女性 と言われている。

 

 

  

 

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#oookatadasuke

 

■ 大岡 忠相  

     (おおおか ただすけ) (大岡越前)

 

■ 大岡 忠相。 

■ 生没年 1677年(延宝5年)〜1751年(宝暦元年)。 

■ 名称 : 大岡 忠相 (おおおか ただすけ)。

  別名 : 「 大岡越前 (おおおかえちぜん) 」

  初め、大岡 忠義と称し、 後に、大岡 忠相と称す。

● 官位 : 能登守(1712〜17年)、のち、越前守 

  (えちぜんのかみ、1717年〜)。

■ 江戸町奉行 (江戸町奉行所の奉行 )。

● 江戸時代中期の江戸町奉行(江戸南町奉行) 

  (在任1717〜36年)。

■ 江戸幕府の幕臣で、 のち大名となる。

■ 名奉行と言われ、「大岡裁き」で有名だが、ほと

  んど後世の創作。

■ 史実(歴史的事実)として、 ドラマ、映画のよう

  な、名裁きをした記録は、 ほとんどない。 

● 大岡忠相が裁きをした記録の残っているものは、 

  1727年(享保27年)の「白子屋お熊(しらこや

  おくま)事件」のみで、 これ1件のみである。

■ フィクションの世界では、 「 大岡越前 (おうお

  かえちぜん) 」 と称し、 江戸町奉行として、 創

  作(フィクション)の「大岡政談」、「大岡裁き」という

  名裁きをした、伝説的名奉行。  名裁きの「大岡

  政談」、「大岡裁き」は、作り話。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

□ 大岡 忠相が登場する、興味深い、

   ドキュメンタリー、ドラマ、映画

 

 

■ 大岡 忠相 (おおおか ただすけ) は、 生没年は 1677年(延宝

 5年)〜1751年(宝暦元年) である。

■ 大岡 忠相 は、 別名は 「 大岡越前 (おおおかえちぜん) 」と呼

 ばれる。

■ 大岡 忠相 は、 初め、大岡 忠義と称し、 後に、大岡 忠相と称す。

■ 大岡 忠相 は、 官位は 能登守(1712〜17年)、のちに、越前守

 (えちぜんのかみ、 1717年〜) となる。

■ 大岡 忠相 は、 江戸町奉行 (江戸町奉行所の奉行 ) であった。

● 大岡 忠相 は、 江戸時代中期の江戸町奉行(江戸南町奉行) (在

 任1717〜36年) であった。

■ 大岡 忠相 は、 江戸幕府の幕臣で、 のち大名となる。

■ フィクションの世界では、 大岡 忠相 は、「 大岡越前 (おうおかえ

 ちぜん) 」 と称し、 江戸町奉行として、 創作(フィクション)の「大岡

 政談」、「大岡裁き」という名裁きをした、伝説的名奉行 である。 

● 名裁きの「大岡政談」、「大岡裁き」 は、 作り話である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

■ 8代将軍徳川吉宗 (将軍在任1716〜45年) は、 享保の改革

 (1716〜45年)と呼ばれる幕政改革に着手するが、 大岡忠相 は、

 諸改革のうち、 江戸町奉行(在任1717〜36年)として、 江戸の都

 市政策に携わり、 多忙を極める。

■ 大岡 忠相 は、 名奉行と言われ、 「大岡裁き」で有名だが、 ほと

 んどご後世の創作 である。

■ 史実(歴史的事実)として、 大岡 忠相 は、 ドラマ、映画のような、

 名裁きをした記録は、 ほとんどない。 

■ 史実(歴史的事実)として、大岡 忠相 が 町奉行時代に実際に裁

 いたものは、 1727年(享保27年)の「白子屋お熊(しらこやおくま)

 事件」 のみである。

● 大岡忠相が裁きをした記録の残っているものは、江戸の材木問屋

 「白子屋」のセレブ娘のお熊(おくま)の事件で、 これ1件のみである。

 

■ 大岡 忠相 は、 目付(在任1708〜12年)、 山田奉行(伊勢奉行、

 在任1712〜16年)、 普請奉行(在任1716〜17年)、 江戸町奉行

 (江戸南町奉行)(在任1717〜36年)、 寺社奉行(在任1736〜51

 年) を勤める。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 大岡 忠相 は、 三河国(みかわのくに、現在の愛知県東部)に1万

 石(ごく)を領(りょう)した。

● 大岡 忠相 は、1748年(寛延元年)に、 大名(1万石、三河国西

 大平)(現岡崎市) となり、 西大平藩初代藩主(在任1748〜51年) 

 となる。

 

 

#oookatadasuke-appearingscenes

 

■ 大岡 忠相 が登場する、興 味深い、

  ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

♪♪ 大岡 忠相 (大岡越前) が登場

   する、興味深い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画 は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事 が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 暴れん坊将軍 』 I〜XII、スペシャル 

    (テレビ朝日・1978〜2008年制作・

    連続テレビドラマ)。

● 大岡 忠相を演じた俳優名 : 

  ○ (『 暴れん坊将軍 』 I〜XII、スペシャル)。

  田村 亮 。

  ○ (『 暴れん坊将軍 』 スペシャルのみ)。

  大和田 伸也。

 

■ 『 徳川風雲録 八代将軍吉宗 

     (とくがわふううんろく はちだいしょう

     ぐんよしむね) 』 。 

    (テレビ東京・2008年テレビドラマ)。

● 大岡 忠相を演じた俳優名 : 石黒 賢。

 

■ 『 名奉行!大岡越前 (めいぶ

    ぎょう おおおかえちぜん) 』 。 

    (テレビ朝日・2005−2006年

    テレビドラマ)。

● 大岡 忠相を演じた俳優名 : 北大路欣也。

 

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#okatsu

 

■ 於一 

     (おかつ)。

 

■ 於一。

■ 於一 (おかつ、 篤姫) については、 『 篤姫 (あつひめ) 』 

 を参照して下さい。

□ 日本史 辞典 の見出し語 「あ」 の ページへ 。                 

● 於一 (おかつ、島津本家養女入前の名) 、 篤姫 (あつひめ、 

 島津本家養女入後の名)、 島津 篤子 (しまづ あつこ、 島津本家 

 養女入後の名)、 近衛 敬子(このえ すみこ、 近衛家養女入後の名)、  

 天璋院 (てんしょういん、落飾後の名) と 同一人物 です。

 

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#oniwaban

 

■ 御庭番  

     (おにわばん)。 

  (将軍直属の監察官)。

 

■ 御庭番。

■ 時期 : 江戸中期〜幕末。

■ 名称 : 御庭番 (おにわばん)。

■ 将軍直属の監察官。 

■ 江戸幕府の第8代将軍・徳川吉宗が新設した

  江戸幕府の役職。

■ 実在した御庭番は、武士であり、忍者ではない。

● ドラマ、映画などフィクションの世界では、 御

  庭番は、忍者姿で現れることが多いが、 武士

  であり、 忍者ではない。 忍者の姿をすること

  もなかった。

■ フィクションの世界では、 「御庭番」は、 現実

  の「御庭番」の諜報活動に比べて、 時代劇、時

  代小説、漫画などで、大幅な脚色が見られる。 

  忍者姿で現れることも多い。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

□ 御庭番 が登場する、面白く、興味

  深い、ドキュメンタリー、ドラマ、映画

 

 

■ 御庭番 (おにわばん) は、 江戸幕府の第8

    代将軍・徳川吉宗が新設した江戸幕府の役職 

    である。

 

■ 御庭番は、 江戸中期〜幕末に、 将軍直属の

    監察官であり、 事態としては、 大目付、目付な

  どを補う役職であった。

 

■ 御庭番は、 身分は低くとも、 将軍自身の意思

  を受けて行動する特殊な立場にあった。

 

■ 御庭番は、 江戸幕府の職制で、広敷役人(大奥

  に属する男性の職員)のひとつで、 江戸城本丸

  に位置する庭に設けられた御庭番所に詰め、奥

  向きの警備を表向きの職務とするが、 時には将

  軍の側近である側御用取次から命令を受け、 情

  報収集活動を行った。 また、お庭番は、 日常的

  に大名、幕臣のことや江戸市中のことを観察し、

  異常があれば、報告するように定められていた。

 

■ 御庭番は、 幕臣としての身分を隠し遠国に実情

  を調査に出かける旅行である 「遠国御用」 とい

  う間諜活動も行った。

 

■ 御庭番 (おにわばん) は、 吉宗のとき、紀州

  藩から幕府に編入された者達で、 初代のお庭

  番に任命された者達の子孫10数家の世襲から

  なり、 その補充はほとんど行われなかった。 

     彼等は、御庭番の家筋としての団結を保ち、

  御庭番の職務を協同して行った。

     お庭番の家筋の諸家は、 当初はすべてが

  下級の御家人であったが、 幕末までに大半の

  家が下級の旗本にまで上昇した。

 

 

#oniwaban-appearingscenes

 

■ 御庭番 が登場する、面白く、興味

    深い、ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

♪♪ 御庭番 が登場する、面白く、興

    味深い関連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画 は、フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事 が、 混じって、描かれてい

  ます。 また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 妻は、くノ一 (つまは、くのいち) 』。 

   (日本のNHK・2013年制作テレビドラマ、

   全8回)。 

● 女忍者・織江の上司・御庭番・川村真一郎

  を演じた俳優 : 和田聰宏。

● 女忍者・織江(おりえ)を演じた女優 : 

  瀧本 美織 (たきもと みおり)。

● 女忍者の夫・平戸藩士・雙星彦馬(ふたぼし

  ひこま)を演じた俳優 : 市川染五郎。

● 川村家に仕える、女忍者で織江の母・雅江

  を演じた女優 : 若村麻由美。

● 川村家に仕える、同僚の女忍者・お蝶(おち

  ょう)を演じた女優 : 黒川智花。

● 江戸時代後期の女忍者の活躍を描く。

    江戸が舞台で、江戸時代後期の、平戸藩

  士とその妻の活躍を描く。 

    平戸藩士の武士が、九州・平戸で美人の

  女性と婚儀を結んだ。 しかし、その妻は、幕

  府・隠密の凄腕(すごうで)の忍者で、新婚早

  々失踪(しっそう)し、江戸に戻る。 夫の、平

  戸藩士は、何も知らず、その妻を追って、江戸

  に出て、江戸で、妻と出会う。

     忍者の妻は、江戸幕府の将軍の御庭番

  (将軍直属の監察官の武士、忍者ではない)

  の配下の忍者であった。

    

■ 『 暴れん坊将軍 』 I〜XII、スペ

   シャル。 

   (1978年〜2008年製作テレビ朝日・連続

   テレビドラマ)。

● 徳川 吉宗を演じた俳優名 : 松平 健 。

 

■ 『 徳川風雲録 八代将軍吉宗 

   (とくがわふううんろく はちだいしょうぐん

    よしむね) 』。 

   (日本の2008年製作テレビ東京・テレビ

    ドラマ)。 

● 徳川 吉宗を演じた俳優名 : 中村 雅俊 。

 

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#ofuji

 

■ お藤  

     (おふじ) (直江兼続の母)。

 

■ お藤。

■ 名称 : お藤 (おふじ)。

  (注意) 前近代日本では、夫婦別姓。

■ 生没年 : 不詳 (16世紀頃)。

■ 直江兼続 の 母。

● 直江兼続 (なおえかねつぐ) の生母。

■ お藤の夫は、 樋口兼豊 (ひぐち かねとよ、

   樋口 惣右衛門)。

■ お藤の子供 は、 直江兼続 (樋口兼続、樋

  口与六、 長男) と 大国実頼 (樋口与七、

  次男) と 樋口秀兼 (三男) と きた (仮

  称・名不詳、長女) と 次女 (名不詳) と 

  三女 (名不詳)。

■ 出自には、2つの説がある。 泉 重歳(いずみ

  しげとし、信濃国の豪族)の娘 または、 直江

  親綱 (越後守護代・長尾家の譜代家臣) の娘 

  (= 長尾・上杉家家老の直江実綱(景綱) (なお

  えさねつな(かげつな))の妹)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ お藤 (おふじ)は、 直江兼続の生母であり、  

  樋口 兼豊 (樋口惣右衛門) の夫人 である。

 

■ お藤 (おふじ)の子供は、 直江兼続 (=樋口

  兼続、樋口与六、長男)、 大国実頼 (=樋口

  与七、次男)、 樋口秀兼 (三男)、 きた (仮称・

  名不詳、長女)、 次女 (名不詳) と 三女 (名

  不詳) である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ お藤 (おふじ)の出自には、2つの説がある。 お

  藤 は、 泉 重歳(いずみ しげとし、信濃国の豪族)

  の娘、 または、 直江親綱 (越後守護代・長尾家

  の譜代家臣) の娘 (=長尾・上杉家家老の直江実

  綱(景綱) (なおえさねつな(かげつな)) の妹) で

  ある。

 

 

◆ 関連項目。

■ 直江兼続 (お藤の長男)、 樋口兼豊(= 樋口 惣

  右衛門、お藤の夫)、 樋口与七 (=お藤の次男)、 

  きた (仮称、お藤の長女)、 直江実綱(景綱) に

  関しては、 当日本史辞典の 『 直江 兼続 (な

  おえ かねつぐ)、 樋口兼豊(ひぐち かねとよ)、樋

  口 与七 (ひぐち よしち)、 きた、 直江 実綱 (な

  おえ さねつな) 』 を参照して下さい。

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。                

 

 

♪♪ お藤(おふじ)が登場する、興味深い、

   ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ お藤が登場する、興味深い、ドラマ、

  映画。

 

■ 『 天地人 (てんちじん) 』 

   (NHKテレビ・2009年大河ドラマ) 

● お藤 を演じた女優名 : 田中 美佐子。

 

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#one

 

■ おね 。

    (ねね、北政所、高台院)。

 

■ おね (秀吉正室)。

■ おね (豊臣秀吉正室夫人) については、 

   『 ねね (秀吉正室) 』 を参照してください。

 

■ おね (秀吉正室、《祢(ね)、寧(ね)より》) 、 

  ねね 《寧々》、 ねい 《寧(ねい)、寧子、子為(ね

  い)より)》、 また、 北政所 (きたのまんどころ、

  従三位に叙せられ、1585年〜)  また、 吉子

  (従一位を授かって、1588年〜)  その後、落

  飾後 (1598年〜)、 高台院 (こうだいいん、

  高台院湖月尼) と 同一人物 で ある。

 

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#omoto

 

■ お元  

     (おもと)。

 

■ お元。

■ 生没年 : 不明 (幕末)。

■ 名称 : お元 (おもと)。

■ 坂本龍馬の 恋人 (寵愛(ちょうあい)した女

   性)。

■ 長崎・丸山(まるやま)の花街(はなまち)の

   芸舞(げいこ、芸者)。

■ 美人で、琴(こと)、三味線(しゃみせん)、踊

  りに長(た)けていた。

 

  

 

 

■ お元(おもと)は、長崎の丸山の遊女で、 お元

  (おもと) は、龍馬にとって、 長崎妻ともいえる

  存在で、 長崎の吉原と呼ばれた丸山の遊女で、 

  美人であった。 龍馬が長崎の清風亭で後藤象

  二郎と会見した席にも侍(はべ)っていた。

 

■ 動乱の幕末で、東奔西走(とうほんせいそう)す

  る龍馬にとって、愛する女性達と過ごす時間は、 

  癒(いや)されるひと時であった。

 

■ お元 (おもと) は、幕末、 坂本龍馬の恋人で、 

  長崎・丸山(まるやま)の花街(はなまち)の芸舞

  (げいこ、芸者) である。

■ お元 (おもと) は、 美人で、 琴(こと)や三味

  線(しゃみせん)、 踊りに長(た)たけていた(得

  意だった) と言われている。

 

 

♪♪ お元(おもと) が登場する興味深

  い、ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

   実) と 架空の出来事 が 混じって描かれ

   ています。 また、 現代風にアレンジしてあ

   ります。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 

   (NHKテレビ・2010年大河ドラマ)。

● お元(おもと)を演じる女優 : 蒼井 優 

  (あおい ゆう)。

 

 

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 『 あなたのハートには 

    何が残りましたか? 』。

 

 

以  上。