◆ TKKI KANAYAMA’S OFFICIAL HOMEPAGE.
◆ KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY HANDBOOK.
(Kjhh)02127
‘‘ KANAYAMA’S
IMAGE ALBUM
OF THE ODA
CLAN No.1.’’
BILINGUAL
◆ TKKI カナヤマ オフィシャル ホームページ。
◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。
カナヤマ 織田氏
画像アルバム
No.1。
2カ国語
■ RENEWED ON NOVEMBER 19, 2019.
■ Copyright(C) TKKI Kanayama 1999−.
All Rights Reserved.
■ 更新日 2019年 11月 19日。
■ 当ホームページの制作・著作権 TKKI カナヤマ
(1999年〜)。
1.ENGLISH PAGE #ep
■ KANAYAMA’S IMAGE
ALBUM OF THE
ODA CLAN No.1.
■ LET’S HAVE A LOOK AT THE WONDERFUL
PICTURES CONCERNING THE ODA
CLAN, SHALL WE ?
MENU (TABLE OF CONTENTS) #epmenu
◆ ODA Nobunaga’s KIYOSU CASTLE.
■ THE BUILDING OF KIYOSU
CASTLE.
■ THE SITE OF KIYOSU
CASTLE.
◆ ODA Nobunaga’s OKEHAZAMA
BATTLE.
■ THE MAP OF THE OKEHAZAMA
BATTLE.
■ THE BATTLEFIELD OF OKEHAZAMA.
◆ ODA Nobunaga’s NAGASHINO-
SHIDARAGAHARA BATTLE.
■ THE BATTLEFIELD OF
SHIDARAGAHARA.
◆ ODA Nobunaga’s BATTLES
WITH THE ASAKURA AND
ASAI ARMY.
■ ICHIJODANI.
● THE SAMURAI WARRIOR’S
RESIDENCES IN THE
ICHIJODANI BASE OF THE
ASAKURA CLAN.
■ KANEGASAKIJO CASTLE.
● THE SITE OF KANEGASAKIJO
CASTLE ON CAPE
KANEGASAKI.
● THE SITE OF THE
HONMARU MAIN BUILDING
OF KANEGASAKI CASTLE.
■ MT.TORAGOZENYAMA
● MT.TORAGOZENYAMA
VIEWED FROM THE SITE
OF ODANIJO CASTLE.
■ ANEGAWA RIVER.
● ANEGAWA OLD BATTLEFIELD.
● ANEGAWA OLD BATTLEFIELD.
□ RELATED PAGES AND OTHER PAGES.
■ THE TABLE OF UPPER WEB SITES.
□ (KOH) Kanayama’s Official >
□ (Cse) International Understanding >
□ (Ke) Encyclopedia. >
□ (Khh) History Handbook. >
□ (Kjhh) Japanese History Handbook. >
□ (Kjhh) The Image Album of the >
□ (Kjhh) This English Page .
■ THE TABLE OF ABBREVIATION CODES
OF TKKI KANAYAMA’S MAIN OFFICIAL
HOMEPAGES.
LKOH GIMEH ETCSS GIMJH JTCSS JP.
◆ RELATED PAGES.
■ THE LINKING WEB PAGES.
■ THE WEB PAGES RELATED TO THIS
PHOTO COLLECTION.
□ ‘‘ THE WARRING STATES PERIOD ’’,
‘‘ THE AZUCHI-MOMOYAMA PERIOD ’’
AND ‘‘ THE EDO PERIOD ’’OF MY
□ THE WHOLE CHRONOLOGY OF JAPAN-
□ A CHRONOLOG Y OF WORLD HISTORY.
▼ 〈a〉 NO.1 1a
◆ ODA Nobunaga’s KIYOSU
CASTLE.
■ THE BUILDING OF KIYOSU
CASTLE.
(PHOTO TAKEN BY TKKI KANAYAMA).
■ THE SITE OF KIYOSU
CASTLE.
(PHOTO TAKEN BY TKKI KANAYAMA).
■ KIYOSU CASTLE WAS THE RESIDENTIAL
CASTLE OF ODA Nobunaga THAT WAS
LOCATED IN OWARI PROVINCE ( PRESENT
WESTERN AICHI PREFECTURE IN CENTAL
JAPAN).
▼ 〈a〉 NO.2 1b
◆ ODA Nobunaga’s
OKEHAZAMA BATTLE.
■ THE MAP OF THE OKEHAZAMA
BATTLE.
(FROM THE LOCAL EXPLANATION BOARD).
■ THE BATTLEFIELD OF OKEHAZAMA.
(FROM THE LOCAL EXPLANATION BOARD).
▼ 〈a〉 NO.3 1c
◆ ODA Nobunaga’s
NAGASHINO-
SHIDARAGAHARA
BATTLE.
■ THE BATTLEFIELD OF
SHIDARAGAHARA.
■ THE FENCE IN THE LEFT, THE MARSHY
AREAS (SWAMPLANDS) IN THE CENTER,
AND THE RIVER IN THE RIGHT OF THE
PHOTO.
(PHOTO TAKEN BY TKKI KANAYAMA).
◆ NAGASHINO-SHIDARAGAHARA
BATTLE.
■ AT SHIDARAGAHARA BATLEFIELD,
THE TAKEDA Katsuyori TROOPS
THAT CAME FROM THE EAST,
ATTACKED THE ODA-TOKUGAWA
TROOPS IN THE FENCE OF THE
WEST, IN 1575 (THE 3RD YEAR
OF TENSHO).
THE TAKEDA Katsuyori TROOPS
WAS DEFEATED.
IT IS SAID THAT AT SHIDA-
RAGAHARA BATLEFIELD, ODA
Nobunaga BROUGHT ABOUT 3000
GUNS, AND THE ODA-TOKUGAWA
TROOPS USED THE GUNS IN THE
BATTLE AND WON THE BATTLE.
▼ 〈a〉 NO.4 1d
◆ ODA Nobunaga’s
BATTLES WITH THE
ASAKURA AND ASAI
ARMY.
■ ICHIJODANI.
● THE SAMURAI WARRIOR’S
RESIDENCES IN THE
ICHIJODANI BASE OF THE
ASAKURA CLAN.
(PHOTO TAKEN BY TKKI KANAYAMA).
■ IN 1573 ODA Nobunaga’S ARMY
ATTACKED ICHIJODANI BASE,
THE BASE OF THE ASAKURA
CLAN. AND IT WAS DESTROYED
IN 1573.
■ KANEGASAKIJO CASTLE.
● THE SITE OF KANEGASAKIJO
CASTLE ON CAPE
KANEGASAKI.
THE SITE OF KANEGASAKIJO
CASTLE VIEWED FROM THE
SOUTH SIDE OF CAPE
KANEGASAKI.
(PHOTO TAKEN BY TKKI KANAYAMA).
● THE SITE OF THE
HONMARU MAIN BUILDING
OF KANEGASAKIJO CASTLE.
(PHOTO TAKEN BY TKKI KANAYAMA).
■ THE ASAKURA CLAN’S
KANEGASAKIJO CASTLE
WAS OCCUPIED BY THE ODA
ARMY IN LATE APRIL, 1970
(THE 1ST YEAR OF GENKI).
■ MT.TORAGOZENYAMA.
● MT.TORAGOZENYAMA VIEWED
FROM THE SITE OF ODANIJO
CASTLE.
● LAKE BIWA CAN BE SEEN
IN THE PHOTO.
(PHOTO TAKEN BY TKKI KANAYAMA).
■ ODA Nobunaga CAMPED AT
MT.TORAGOZENYAMA NEAR
THE ASAI CLAN’S ODANIDO
CASTLE IN 1573.
■ ANEGAWA RIVER.
● ANEGAWA OLD BATTLEFIELD.
(PHOTO TAKEN BY TKKI KANAYAMA).
● ANEGAWA OLD BATTLEFIELD.
(PHOTO TAKEN BY TKKI KANAYAMA).
● ANEGAWA BATTLE BETWEEN
THE ODA Nobunaga’S ARMY AND
THE ASAI AND ASAKURA ARMY
IN 1570 NEAR ANEGAWA RIVER.
◆ ODA Nobunaga’s BATTLES
WITH THE ASAKURA AND
ASAI ARMY.
■ ODA Nobunaga ATTACKED THE
TERRITORY OF THE ASAKURA
CLAN AND THE ASAI CLAN FROM
1570 AD TO 1573.
■ THE BASE OF THE ASAKURA
CLAN WAS ICHIJODANI BASE.
■ THE BASE OF THE ASAI
CLAN WAS ODANIJO CASTLE.
■ ODA Nobunaga ATTACKED
THE TERRITORY OF THE ASAKURA
CLAN FROM 1570 TO 1573.
IN 1573 ICHIJODANI BASE, THE
BASE OF THE ASAKURA CLAN WAS
DESTROYED. AND ASAKURA
Yoshikage, THE HEAD OF THE
ASAKURA CLAN KILLED HIMSELF
IN ONO NEAR ICHIJODANI BASE.
AND THE ASAKURA CLAN
PERISHED.
■ ODA Nobunaga ATTACKED THE
TERRITORY OF THE ASAI CLAN
FROM 1570 TO 1573.
IN 1573 ODANIJO CASTLE, THE
BASE OF THE ASAI CLAN WAS
DESTROYED. AND ASAI Nagamasa,
THE HEAD OF THE ASAI CLAN
KILLED HIMSELF AT ICHIJODANI
CASTLE. AND THE ASAI CLAN
PERISHED.
▼ 〈a〉 NO.5 1e
▼ 〈a〉 NO.6 1f
‘‘ WHAT HAS REMAINED IN
YOUR HEART ? ’’
THANK YOU.
2.日本語ページ #jp
■ カナヤマ 織田氏
画像アルバム No.1。
■ さあ、織田氏関連の様々な画像を見てみよう。
メ ニュー (目次) #jpmenu
◆ 織田信長の城・清州城(清須城)。
■ 清州城(清須城)の復元建物。
■ 清州城(清須城)の跡地。
◆ 織田信長の桶狭間の戦い。
■ 桶狭間の戦いの地図。
■ 桶狭間の戦いの戦場の
桶狭間山の原風景。
◆ 織田信長の長篠・設楽ヶ原の戦い。
■ 設楽ヶ原。
● 設楽ヶ原の戦場。
◆ 織田信長の朝倉氏・浅井氏との戦い。
■ 一乗谷。
● 朝倉氏の本拠地の一乗谷(いちじょ
うだに)の武家屋敷群の復元建物。
■ 金ヶア城。
● 金ヶア岬の上にあった金ヶア城の跡地。
● 金ヶア城の本丸跡地。
■ 虎御前山。
● 織田信長が布陣した虎御前山。
● 小谷城跡から見た虎御前山(とら
ごぜんやま)。
■ 姉川。
● 姉川の戦いの古戦場。
■ 上位のWEBサイト。
□ (KOH) カナヤマ オフィシャル >
□ (Cse) 国際理解総合ガイド >
□ (Ke) 百科事典。 >
□ (Khh) 歴史学ハンドブック。 >
□ (Kjhh) 日本の歴史ハンドブック。 >
□ (Kjhh) 織田氏 画像アルバム No.1。 >
□ (Kjhh) この日本語ページ 。
■ カナヤマ 主要 公式ホームページ
略号一覧表。
□ 主要サイトの略語・説明表 。
◆ 他の関連ページ。
■ リンク先WEBページ。
■ フォト・アルバム関連WEBページ。
□ 日本史辞典 の 『 戦国時代(室町時代後期)、
□ 世界歴史年表。
▼ 〈b〉 NO.1 2a
◆ 織田信長の城・清州城
(= 清須城)。
■ 清州城(= 清須城)。
● 清州城(= 清須城)の復元建物。
■ 清州城(= 清須城)の跡地。
■ 清州城(= 清須城) (きよすじょう)は、 尾張国
(おわりのくに、現・愛知県西部の相当地域) に
あった、織田信長の居城である。
■ 織田信長の居城の変遷。
織田信長は、自分の居城を、
@ 那古野城 (なごやじょう、現・名古屋
城二の丸付近、信長居住:ー1555年
(弘治元年))、
A 清州城 (きよすじょう、清須城、信長
居住:1555年(弘治元年)ー1563年
(永禄6年))、
B 小牧山城 (こまきやまじょう、信長居
住:1563年(永禄6年)ー1567年(永
禄10年))、
C 岐阜城 (ぎぐじょう、信長居住:15
67年(永禄10年)ー1579年(天正7年))、
D 安土城 (あづちじょう、信長居住:
1579年(天正7年)−1582年(天正10
年)
の順に、移動していった。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
▼ 〈b〉 NO.2 2b
◆ 織田信長の桶狭間の戦い。
■ 桶狭間の戦いの地図。
(現地説明板より)。
■ 桶狭間山。
● 桶狭間の戦いの決戦場の桶狭間山
(おけはざまやま)の原風景。
(現地説明板より)。
◆ 織田信長の桶狭間の戦い。
■ 桶狭間の戦いは、1560年に、尾張国
(おわりのくに、現・愛知県西部)の東部で、
全体では、織田信長軍・約3000人の兵と
今川義元軍・約2万5000人の兵が戦った
合戦であり、緒戦が行われた。
桶狭間の戦いの決戦では、現地の地
理と天候に詳しい織田信長攻撃軍・約20
00人の兵が、尾張国の桶狭間山に休息し
ていた今川義元軍本隊・約5000人を攻撃
し、今川義元を討ち取り、織田信長軍が勝
利を得た。 決戦時、雷や豪雨で混乱して
いた今川義元軍本隊を織田信長攻撃軍が
正面より攻撃し、今川義元軍本隊を押し切
って、今川義元に近づき、逃げる義元を運
よく討ち取った。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 桶狭間の戦いの戦場となった桶狭間山
(おけはざまやま)は、現在、一般の住宅地
となっていて、戦いの痕跡は残っていない。
■ 交通アクセス。
車で現地を訪ねる場合、桶狭間郵便局
を右折して、桶狭間山の住宅地に入ることが
できる。 桶狭間山の頂上近くに、今川義元
の討死地(田楽坪)がある。
▼ 〈b〉 NO.3 2c
◆ 織田信長の長篠・設楽原の戦い。
■ 設楽原の戦場。
● 写真左側に馬防柵と堀があり、写真中央は湿
地であり、旗がある右側に連吾川が流れている。
(TKKI カナヤマ撮影)。
◆ 長篠・設楽原の戦いの決戦の設
楽原の戦場。
■ 1575年(天正3年)に行われた長篠・設楽
原(ながしの・しだらがはら)の戦いの決戦
では、 設楽原(しだらがはら)で、織田・徳
川連合軍が馬防柵と堀(写真左側)で守りを
固め、 連吾川や湿地(写真右側)の方から、
武田勝頼軍が馬防柵や堀に向けて攻め込
んだ。 戦いの結果、武田勝頼軍が敗北し
た。
織田信長は、約3000の鉄砲を入手し、
戦場に持ち込み、織田・徳川連合軍は、それ
らを使い、戦いを有利に進め、勝利を得たと
言われている。 これ以後の合戦は、鉄砲が
中心となっていく。
▼ 〈b〉 NO.4 2d
◆ 織田信長の朝倉氏・浅井
氏との戦い。
■ 一乗谷。
● 朝倉氏(あさくらし)の本拠地の一乗
谷(いちじょうだに)の武家屋敷群の復
元建物。
(TKKI カナヤマ撮影)。
■ 1573年(天正元年)の織田軍の浅倉攻め
の時に、浅倉氏の本拠地の一乗谷(いちじょ
うだに)は、攻撃され、破壊された。
■ 金ヶア城。
● 金ヶア岬の上にあった金ヶア城
の跡地。
金ヶア岬の南側から見た金ヶ
ア城跡地。
(TKKI カナヤマ撮影)。
● 金ヶア城の本丸跡地。
(TKKI カナヤマ撮影)。
■ 金ヶア城は、1570年(元亀元年)の当時
は、朝倉氏の城であり、 金ヶア岬の上に
建てられ、金ヶア城の南側、西側、北側は
海に囲まれ、東側のみが陸続きの天然の
要害であった。
金ヶア岬の頂上に、金ヶア城の本丸
があった。
■ 金ヶア城は、1570年(元亀元年)4月下
旬、織田軍により占領される。
● 朝倉氏の金ヶア城は、1570年(元亀元
年)4月26日に、開城し、織田軍により占
領される。
● 金ヶア城は、1570年(元亀元年)4月26
日から、織田軍の朝倉攻めの時に、織田
信長と織田軍が布陣した(陣をおいた)場
所である。 1570年(元亀元年)4月26
〜28日に浅井氏の裏切りを知り、朝倉・
浅井氏の軍による南北からの挟み撃ちを
避けるため、4月28日に織田信長 と織田
軍本隊は撤退し、 そして、池田勝正(い
けだかつまさ)指揮下、木下藤吉郎秀吉
(しんがり)軍が金ヶア城に残り、朝倉・浅
井氏の軍を防ぎ、その後撤退する。
■ 金ヶ崎の退き口。
■ 金ヶ崎の退き口 (かねがさきののきぐ
ち、= 金ヶアの撤退)とは、1570年(永禄
13年、元亀元年)4〜5月の、織田軍と浅
倉・浅井軍との戦い(= 金ヶアの戦い)で、
織田信長と織田軍の越前(えちぜん、現・
福井県東部)から京(きょう、京都)への撤
退戦である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 姉川。
■ 姉川の戦いの古戦場。
● 写真の右手に姉川(あねがわ)が見える。
● 姉川を挟(はさ)んで、北側(写真の左側)に、
浅井・朝倉軍が布陣し、南側(写真の右側奥)
に、織田・徳川軍が布陣し、戦った。
(TKKI カナヤマ撮影)。
■ 姉川の戦いの古戦場。
● 写真の中央に姉川(あねがわ)が見える。
● 姉川を挟(はさ)んで、北側(写真の左側)に、
浅井・朝倉軍が布陣し、南側(写真の右側)に、
織田・徳川軍が布陣し、戦った。
(TKKI カナヤマ撮影)。
■ 姉川の戦いは、 1570年(元亀元年)に、
姉川(あねがわ)を挟んで、織田・徳川軍と
浅井・浅倉軍との間で行われた合戦である。
■ 虎御前山。
● 織田信長が布陣した虎御前山。
● 小谷城(おだにじょう)跡から見た
虎御前山(とらごぜんやま)。
● 虎御前山の後方に、琵琶湖(び
わこ)が 見える。
(TKKI カナヤマ撮影)。
■ 虎御前山(とらごぜんやま)は、 1573年
(天正元年)に、織田軍の浅井攻めの時に、
織田信長が布陣した(陣をおいた)場所で
ある。
■ 虎御前山は、小谷城のある小谷山(おだ
にやま)の向えにあり (約500m離れた
場所)にあり、 虎御前山に布陣する織田
信長は、小谷城の動きを手に取るように
把握できた。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
◆ 織田信長の朝倉・浅井氏
攻め。
■ 1570年の織田信長の
越前・朝倉攻め(= 金ヶ
アの戦い)と金ヶ崎の退
き口。
(1) ■ 金ヶアの戦い。
織田信長は、 1570年(永禄13年、
元亀元年)4〜5月に、大軍で越前の朝倉
氏を攻めたが、浅井氏の裏切りにより、失
敗する。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
(2) ■ 織田信長は、 1570年(永禄13年)
4月20日に、約3万人の兵の織田軍を
率いて、越前(えちぜん)の朝倉義景(あ
さくらよしかげ)の朝倉氏を攻めるため、
京(きょう、京都)から出陣する。 織田
軍には、近畿の武将の池田勝正や松永
久秀ら、徳川家康、明智光秀、木下藤吉
郎秀吉なども従軍していた。
織田信長と織田軍は、 近江国
(おうみのくに、現・滋賀県の相当地域)
の西近江路 (にしおうみじ、琵琶湖西
部の沿岸)、 若狭国 (わかさのくに、
現・福井県西部の相当地域) の東部を
通り、4月25日に、越前国(えちぜんの
くに、福井県東部)に侵攻する。 信長
の進軍中の4月23日に、元号が永禄
(えいろく)より元亀(げんき)に改元され
る。
金ヶ崎城(かねがさきじょう、かなが
さきじょう)は、 福井県敦賀(つるが)市
の北東部に突き出た岬の金ヶア(かねが
さき)にあった城である。 金ヶ崎城は、戦
国時代の当時は、南北西が海に囲まれ
た要害の地に建つ城であり、東方に手筒
山城(てづつやまじょう)があった。
侵攻した越前で、織田信長と織田軍
は、朝倉氏の本拠地の一乗谷(いちじょう
だに)をめざして北上し、4月25日に、越
前の敦賀(つるが)に入ると、要害の地の
手筒山城(てづつやまじょう)を襲い、激戦
となり、多くの犠牲者を出して、1日で落城
させる。 更(さら)に、すぐ近くの敦賀の
主城・金ヶ崎城(かねがさきじょう、かなが
さきじょう)を囲む。 金ヶア城は、朝倉義
景(よしかげ)の従兄弟(いとこ)の朝倉景
恒(かげつね)が守っていたが、信長は、
大軍を背景に城を明け渡すように説得し
た結果、朝倉景恒は、4月26日に、開城
に応じた。
ここに、織田信長と織田軍は、1570
年(元亀元年)4月26日に、朝倉氏の金ヶ
崎城を下(くだ)し、開城させ、入城し、敦
賀全域を支配下におく。
そして、越前の金ヶア城に入城した
織田信長と織田軍は、 越前の一乗谷
(いちじょうだに)から出陣し南下して越
前の木芽峠(きのめとうげ)一帯に布陣
する北方の朝倉軍と対峙する。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 金ヶ崎の退き口。
(3) ■ 金ヶ崎の退き口 (かねがさきののき
ぐち、= 金ヶアの撤退)とは、1570年(永禄
13年、元亀元年)4〜5月の、織田軍と浅倉・
浅井軍との戦い(= 金ヶアの戦い)での、織
田信長と織田軍の越前(えちぜん、現・福井
県東部)から京(きょう、京都)への撤退戦で
ある。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
(4) ■ 1570年(元亀元年)4月26〜28
日に、織田信長と織田軍は、木芽峠(き
のめとうげ)を越えて朝倉氏の本拠地の
一乗谷けに向て進軍しようとした時、浅
井長政(あざいながまさ)の浅井氏の裏
切りを知る。
お市の方が信長に贈った、浅井氏
の裏切りを伝える小豆袋(あずきぶくろ)
の逸話(いつわ)は、後世の創作である。
● 1570年(元亀元年)4月26日から
28日までの間に、織田信長は、北近江
(きたおうみ、滋賀県北部の相当地域)
の浅井氏が織田信長に反旗を翻(ひる
がえ)したことを知り、 織田信長は、越
前の木芽峠の北方から朝倉軍が、北近
江の南方から浅井軍が越前に侵攻した
織田軍を攻撃し、南北から織田軍を挟
み撃ちにするのを恐れ、撤退を決意し、
4月28日に、越前国・敦賀(つるが)の
金ヶ崎城(かねがさきじょう)より織田
信長と織田軍は、急ぎ京(きょう、京都)
に向け、引き揚げる(退却を開始する)。
● .この時、池田勝正(いけだかつま
さ)指揮下、木下藤吉郎秀吉(豊臣秀
がり)の軍 (軍隊の撤退時、敵から本
隊を守るための最後尾の防戦(応戦)
部隊) を務めて、越前・敦賀(えちぜ
ん・つるが)の金ヶ崎城(かねがさきじ
ょう)に留まり、敵の朝倉・浅井軍と
応戦し、防戦しながら、撤退する。
池田勝正、秀吉、光秀は、かろうじて、
生き残り、功績をあげる。
● 史実では、徳川家康は、殿(しんが
り)の軍には参加していない。
徳川家康が殿(しんがり)の軍に
参加したという一次史料はない。
江戸幕府編纂の「寛永諸家系図伝」
(1641年−1643年編纂)、徳川実
記」(19世紀前半編纂)などの二次
史料 (にじしりょう、出来事の50年
後記載のような同時期記載でない史
料)に、徳川家康がこの殿(しんがり)
軍に加わったという記載があるが、
家康礼賛(らいさん、ほめたたえるこ
と)のための後世の創作と考えられる。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
(5) ■ 織田信長は、 困難を乗り越え、一
気に京へ駆け戻る。 信長は、越前国・
敦賀の金ヶア城から若狭(わかさ)東部
や 浅井氏領の北近江(きたおうみ)の
琵琶湖西部の山岳地帯の朽木谷(くつ
きだに)を通過して(朽木越え)、京(きょ
う、京都)に向け、一気に馬で駆け抜け、
無事に4月30日の夜に京(京都)に到
着する。
朽木谷を支配する朽木元綱(くつき
もとつな)は、浅井氏に従っていたが、関
係は強くなく、信長を通過させてくれた。
信長の京(京都)到着時、信長に付添って
いた家臣は、わづか十人程度であったと
いう。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
(6) ■ 織田軍本隊も、越前国(えちぜんの
くに、現・福井県東部)・敦賀の金ヶア城
から京(きょう、京都)に向け撤退し、若狭
(わかさ)、近江(おうみ)を通過し撤退し、
なんとか、5月に京(京都)へ戻る。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 1570年の織田信長
の北近江の浅井氏攻
めと姉川の戦い。
■ 織田信長は、1570年(元亀元年)
6月に、裏切った浅井氏を攻め、姉川の合
戦で勝利を収め、当時の信長の本拠地の
岐阜と京を結ぶ近江ルートを確保する。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 織田信長は、 信長を裏切った浅井
長政(あざいながまさ)の浅井氏を討伐す
るため、 1570年(元亀元年)6月19日
に、約2万人の織田軍を率いて、 北近江
の浅井氏の本拠地・小谷城(おだにじょう)
に向けて、岐阜を出陣する。
しかし、小谷城の本城は山上の要害
の地にあり、周囲に多くの支城があり、
浅井氏の守りは固く、信長は、容易に攻
められないと判断する。
織田信長は、長期戦覚悟で、まず
その足掛かりとして、北近江(きたおうみ、
滋賀県北部の相当地域)の南方の浅井
氏の支城の横山城(よこやまじょう)を囲
む。
北近江にいる織田軍には、徳川家
康が約5000人の兵の徳川軍の援軍を
率いて駆けつけ、加勢する。 一方、浅
井長政は、約5000人の兵の浅井軍を
率いて北近江の小谷城から出陣し、浅
井軍には、朝倉景健(かげたけ)の率い
る約8000人の兵の朝倉軍の援軍が駆
けつけ、加勢すし、大依山(おおよりやま)
で浅井軍と合流し、陣をとる。
6月24日に、織田・徳川軍は、横山城
の攻撃を開始する。 6月25日に、浅井・
朝倉軍は、夜陰に紛れて、大依山より南
下し、姉川(あねがわ)の北方に移動する。
織田・徳川軍は、その動きを察知し、姉川
の南方に移動する。 こうして、織田・徳
川軍と浅井・朝倉軍が、姉川と挟んで、
対面する。
そして、1570年(元亀元年)6月28
日に、織田・徳川軍と浅井・朝倉軍が、姉
川と挟んで、姉川の合戦を行う。 激戦と
なったが、兵力に勝る織田・徳川軍が有利
に戦いを展開し、浅井・朝倉軍が総崩れと
なり、織田・徳川軍が合戦で勝利を得る。
その後、勝利を収めた信長は、浅井
氏の横山城を開城させ、木下藤吉郎秀吉
を置き、 浅井氏の佐和山城を丹羽長秀ら
に攻撃させ奪取し、当時の信長の本拠地
の岐阜(ぎふ)と京(きょう、京都)を結ぶ
近江ルートを回復する。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 1573年の織田信長の
浅井・朝倉攻めと浅井氏・
朝倉氏の滅亡。
織田信長は、1573年(天正元年)8〜
9月に、朝倉氏、浅井氏を大軍で攻め、滅
ぼす。 信長は、前年からの用意周到な準
備を経て、浅井氏の小谷城を囲むと、援
軍に駆けつけた朝倉軍を撃破し、そのまま
朝倉氏の本拠地の一乗谷まで追撃して、
浅倉氏を滅ぼした後、浅井氏の小谷城に
引き返して、浅井氏を攻めて、滅ぼす。
1573年(天正元年)8月8日に、織田信
長は、北近江 (きたおうみ、現・滋賀県北部
の相当地域) に向けて、約3万人の軍勢を
率いて出兵し、8月10日に、浅井氏の小谷
城の向えにある(の喉元にあたる)、虎御前
山(とらごぜんやま)の砦(とりで)に入り、浅
井氏(あざいし、あさいし)の小谷城(おだに
じょう)を包囲する。
1573年(天正元年)年8月10日に、越
前国 (えちぜんのくに、福井県東部)から
北近江に浅井氏の救援にきた約1万5000
人の兵の朝倉軍が現れ、8月13日に、北近
江で、織田信長は、朝倉軍と戦い、撃破する。
その後、織田信長は、小谷城の攻撃を
後回しにして、織田信長の織田軍は、敗走
する朝倉遠征軍を追撃し、8月14日に、朝
倉義景(あさくらよしげ)と朝倉軍を刀根坂
(とねざか)の戦いで撃破し、刀根山を越え、
越前国の敦賀(つるが)に着陣し、その後、
敦賀を平定し、敦賀を経由して、8月16日
には、木芽峠(きのめとうげ)を越え、織田
信長は、8月18日に、越前府中(えちぜん
ふちゅう)の龍門寺(りゅうもんじ)に着陣す
る。
1573年(天正元年)年8月18日に、
織田信長は、越前の朝倉氏の本拠地の一
乗谷の市街地を襲撃制圧し、焼き払う。
柴田勝家らの織田軍が8月18日に、一乗
谷に攻め込み、放火は三日三晩続いた。
1573年(天正元年)8月15日に一
乗谷に帰っていた朝倉義景は、織田軍が
来る前に、手勢のみを率いて、本拠地の
一乗谷(いちじょうだに)の館を捨てて、大
野郡の山田庄(やまだのしょう)に逃(のが)
れる。
山田庄へ逃げた朝倉義景は、更に柴
田勝家らの織田軍に攻め立てられ、 一族
の朝倉景鏡(あさくらかげあきら)や平泉寺
(へいせんじ)の僧兵にも裏切られ、1573
年(天正元年)8月20日に朝倉氏当主の朝
倉義景は、大野郡の山田庄の六坊賢松寺
(ろくぼうけんしょうじ、福井県大野市)で、
自刃(じじん、自害)し、越前の朝倉氏は滅
亡する。
織田信長は、越前国より戻り、1573
年(天正元年)8月26日に、浅井氏の小谷
城の向えにある、虎御前山(とらごぜんや
ま)の砦に戻る。 8月27日に、木下秀吉
(豊臣秀吉)の攻撃によって、小谷城の京
極丸(きょうごくまる)が陥落し、これで久政
が守る小丸と長政が守る本丸との間が
断ち切られ、8月28日に小丸が落ち、浅井
長政の父・久政が自刃(じじん、自害)し、8
月28日から9月1日までの間に、小谷城の
本丸(ほんまる)も陥落し、浅井長政は、小
谷城の本丸近くの赤尾清綱(あかおきよつ
な)の屋敷に入って、自刃(自害)し、北近江
の朝倉氏は、滅亡する。
浅井長政は、落城前に、1573年(天
正元年)8月28日夜に、浅井長政に嫁(と
つ)いだ信長の妹のお市とその女子(茶々、
初、江(ちゃちゃ、はつ、ごう)の3人の娘)を
駕籠(かご)で信長の陣に送り届ける。
浅井長政の嫡男(当時10歳)の万福
丸(まんぷくまる)は、お市の腹ではなく
側室夫人との子であり、 朝倉方に人質とし
て送られていたが、 織田軍により探し出さ
れて、敦賀(つるが)で捕えられ、磔刑にされ
た。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
▼ 〈b〉 NO.5 2e
▼ 〈b〉 NO.6 2f
『 あなたのハートには、何が
残りましたか? 』。
以 上。