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◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY 

   HANDBOOK

 

 

 カナヤマ 日本歴史辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 て 』。

 

 

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メ ニュー (目次)。  

 ■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

 

 □ 日本史 辞典 (総合)    

 

□        ● 五十音順 (あいうえお順)。

 

 □ 見出し語 てか

 □ 見出し語 てさ

 □ 見出し語 てら

 □ 見出し語 てんか

 □ 見出し語 てんそ

 

 

 

 てい  定位(定額)貨幣。

                          (ていい(ていがく)かへい)。

          《日本流通貨幣》。

            (⇒ 日本流通貨幣)。

       (⇒ 江戸時代の日本流通

        貨幣)。

       (⇒ 両金貨分朱金銀貨

               文銭銅・鉄貨)。

             ■ 「定位(定額)貨幣」(ていい(ていがく)

             かへい)とは、 品位量目を一定にして貨

             面に価額を表示した貨幣であり、 貨面に

             表示された価額で使用 されたお金である。

             ● 「江戸時代の定位(定額)通常貨幣 」

             と は、 江戸時代に、日本で、貨面に表

             示された価額で使用された通常貨幣(お

             金)である。

             ● 「江戸時代の定位(定額)通常貨幣 」

             は、江戸幕府鋳造発行・全国通用・流通

             貨幣の、 両金貨(りょうきんか)の一両

             小判(金)、五両判(金)、 分朱金銀貨

             (ぶしゅきんぎんか)の分金、分銀、朱金、 

             朱銀、 文銭銅・鉄貨(もんせんどう・てっ

             か)の穴銭百・十・四・一文銭 などであ

             る。

                  (⇒ (1) 両金貨、 @ 一両小

          (金)、 A 五両判(金) )。

          (⇒ (2) 分朱金銀貨、 分金

          @ 二分金、 A 分金 

          、  B 二朱金、 C 一朱金

               分銀、  D 分銀、 朱銀、  

          E 二朱銀、 F 一朱銀)。

          (⇒ (3) 文銭銅・鉄貨 @ 

          百文銭銅貨、 A 十文銭銅貨

          B 四文銭銅・鉄貨、 C 一文

          銅・鉄貨)。

 

 てい  帝国議会。

             (ていこくぎかい)。  《議会》。

          ○ 近代日本(明治、大正、昭

          和戦前時代)の旧国会。

          ○ 制限議会。 

                   (⇒ 議院内閣制)。

             ■ 帝国議会は、 近代日本(明治、大正、

             昭和戦前時代)の旧国会であり、 現憲法

             (日本国憲法)下の現国会に比べ、 権限

             がかなり制限されていた制限議会であっ

             た。

             ■ 帝国議会は、 旧憲法(大日本帝国

             憲法)下における立法機関である。

             ■ 帝国議会は、 近代日本(明治、大正、

             昭和戦前の日本)の、二院制(衆議院と貴

             族院)の旧国会である。

                衆議院は、一般の国民によって公選

             された一般国民の衆議院議員で構成され、 

             貴族院は、皇族や華族から選抜された皇

             族や華族の貴族院議員で構成された。

             ■ 帝国議会の歩み。

               近代日本(明治、大正、昭和戦前時代)

             では、 日清戦争前は、 超然主義を唱え

             る政府と衆議院が対立したが、 日清戦争

             後は、政府と衆議院の提携が進み、貴族

             院(きぞくいん、皇族・華族構成議院)が政

             府・衆議院と対立するようになった。 その

             後、大正デモクラシー下で、政党政治が続

             き、衆議院の政治的地位は高まったが、

             枢密院(すうみついん、天皇の諮問機関)・

             官僚・軍部などの議会外政治勢力により、 

             議院内閣制は、制限された。 1932年

             (昭和7年)の5・15事件による政党内閣

             の崩壊以後、(帝国)議会の地位は低下

             した。

 

 てい  定時法。

             (ていじほう)。  《時刻》。

          (⇒ 前近代日本

           刻・時法)。

          (⇒ 時刻法)。

             ■ 定時法は、 日本で使われた時刻法(時

             法)の、時間間隔法(定時法と不定時法)の

             2つの1つである。

             ■ 定時法とは、 季節、昼夜に関係なく、時

             間を刻む間隔が常に一定である時刻法(時

             法) である。

                          ■ 日本で使われた定時法の時刻には、 近

             現代日本使用の1日24時間制・定時法・西

             洋式表示時刻 と、 前近代日本使用の1日

             12等分制・定時法・十二支表示時刻 の2つ

             があった。

 

#teka

 

 でき   出来事。

              (できごと)。 

              (= 年代順出来事)。

           《年表・年代順出来事》。

              TIMELINE.

               (⇒ 日本史年表・

                   年代順出来事)。   

 

#tesa

 

 てっ  鉄砲伝来。 

            (てっぽうでんらい)。 《兵器の利用》。

       (⇒ 鉄砲・大砲の利用)。 

            ■ 1543年(天文12年)に、ポルトガル人

            を乗せた倭寇の船が、種子島に漂着し、

            ポルトガル人から鉄砲が日本に伝えられた。

            ■ ポルトガル人を乗せて、中国の寧波(に

            んぽー)に向かう、王直(おうちょく、生年不

            詳ー1557年)の倭寇(わこう、漢人商人・

            海賊)の船が、1543年(天文12年)に、南

            西諸島の種子島(たねがしま)に漂着し、 

            種子島の領主・種子島時尭 (たねがしま

            ときたか、1528−79年)が、ポルトガル人

            が持っていた鉄砲2丁を購入した。 

               それをもとに種子島で初めて鉄砲(種

            子島銃)が製造され、 それ以後、その鉄砲

            製造技術が日本国内各地に伝わり、国内各

            地で大量の鉄砲が、(部品分業生産で)製造

            されるようになった。

 

 てっ  鉄砲・大砲の利用 

            (てっぽうたいほうのりよう)。

            《兵器の利用》。

         ○ 中世後期・近世前期の日本の鉄

         砲・大砲の利用。

         ○ 1543年に、九州の種子島(たね

               がしま)に鉄砲が伝来。 翌年に国産

         銃ができる。 その後、国産銃の大

         量生産が起こり、大砲もつくられ、戦

         場での大量の銃の使用や大砲の使

         用が、戦国時代・安土桃山時代・江

         戸時代初期の日本での、戦い方を変

         化させた。

 

#tera

 

 てら  寺坂 吉右衛門(信行)

            (てらさか きちえもん(のぶゆき))。

            (赤穂浪士)。  (元禄赤穂事件)。

          《人名》。

        (⇒ 元禄赤穂事件)。

            ■ 寺坂 吉右衛門(信行)は、 赤穂四十七士

            の1人である。

            ● 寺坂 吉右衛門(信行)は、 吉良邸に討ち

            入り赤穂浪士が吉良を殺害後、突然姿を消す。

            ● 寺坂 吉右衛門(信行) は、 赤穂藩元家老

             の大石内蔵助(良雄)から何らかの密命を受け

             て離れたという説がある。 

 

 てら  寺田屋事件 

             (てらだやじけん)。

             《江戸時代の殺傷事件》。

          ○ 1862年と1866年に寺田

          屋で発生した事件。

          ○ 幕末の、1862年、1866

          年に、京(都)伏見の船宿(ふな

                    やど)・寺田屋 で、発生した、2

          つの「寺田屋事件」。

 

〇 てる  光。

             (てる)。  (= 櫛橋 光)。

             《人名》。

             ○ 黒田官兵衛の正室夫人。

             ○ 櫛橋伊定(くしはしこれさだ)の娘。

          (⇒ 櫛橋光黒田官兵衛)。

 

〇 てる  照姫。

            (てるひめ)。 《人名》。

       (⇒ 会津戦争)。

            ○ 会津藩主・松平 容保(まつだいら

          かたもり)の 義姉 で、幕末の会津を

          支えた女性。

 

 でわ  出羽 国。 

             (でわ のくに)。 《旧地域名》。

          (= 羽州(うしゅう)) 。

                    ( 概ね、現・秋田県と山形

           県の相当地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近

           世日本・旧地域名の旧国

           (令制国)の正式名)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                      (⇒ 前近代日本の

         地域名)。

                      (⇒ 旧地域名地域名)。

                      (⇒ 日本の地名)。

          ■ 出羽 国。

             <東山道 (旧広域地方)。

             <五畿七道(ごきしちどう、日本本土)。

          (⇒ 東山道・旧広域地方)。

                   (⇒ 五畿七道)。

                         ■ (RWM) 日本の、中地域名の

                           変遷。

             ● 国造・県主分国⇒ 旧国(令制国)

              ⇒ 旧都道府県⇒ 現47都道府県。

             ■ 出羽 国 (でわ のくに、= 羽州(う

             しゅう))は、 現・東北地方の、概ね、

             現在の秋田県と山形県に相当する地

             域であり、 東山道(とうさんどう)・ 旧

                          広域地方に属する。

             ■ 出羽 国(= 羽州)は、 前近代日

             本の、旧国(令制国)である。

             ■ 出羽 国(= 羽州)は、 五畿七道

             (ごきしちどう)の東山道(とうさんど

                          う)・旧広域地方に属する。

             ■ 出羽 国(= 羽州)は、 約68旧国

             (令制国)の1つであり、 東山道(と う

                          さんどう)・旧広域地方の1国である。

             ■ 羽州 (うしゅう)は、  律令制定

             後・古代・中世・近世日本・旧地域名

             の、旧国(令制国)正式名の、出羽 国  

             (でわ のくに)の別称である。

             ■ 出羽 国 (でわ のくに)は、 律令

             制定後・古代・中世・近世日本・旧地

             域名の、旧国(令制国)の正式名で

                     ある

             ■ 旧国(令制国)(きゅうこく(りょうせ

             こいく))は、 前近代日本の、飛鳥白

             鳳時代末期から江戸時代まで、 紀元

             (後)701 年頃から1868年頃まで、 

             日本で使用された地方行政区分の地

             域名である。

 

〇 てん  天安。 

             (てんあん)。   《和暦》。

             ○  (857年〜859年)。

             ● 857年・天安元年・2月21日〜

                859年・天安 3年・4月15日。

             ● 平安時代前期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇 てん  天永。 

             (てんえい)。 《和暦》。

             ○ (1110 年〜1113年)。

             ● 1110年・天永元年・7月13日〜

                1113年・天永 4年・7月13日。

             ● 平安時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇 てん  天英院

             (てんえいいん)。 《人名》。

             (= 熙子 ひろこ、 近衛熙子 このえ

                         ひろこ)。 

                 ○ 江戸幕府・第6代将軍・徳川

          家宣(いえのぶ)の正室夫人。

 

〇 てん  天延。 

             (てんえん)。 《和暦》。

             ○ (973〜976年)

             ● 973年・天延元年・12月20日〜

                976年・天延 4年・ 7月13日。 

             ● 平安時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇 てん  天応。 

             (てんおう、てんのう)。  《和暦》。

             ○ (781〜782年)。

             ● 781年・天応元年・1月 1日〜

                782年・天応 2年・8月19日 

             ● 奈良時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

#tenka

 

〇 てん  天下。 

             (てんか)。 (= 日本本土)。

               《日本の領域》。

          ○ (例) 天下一(= 日本本土一、

          日本本土で一番)。

          ○ (例) 天下を統一する(= 日本

          本土を統一する)。

             (⇒ 日本の国名)。

             ■ 前近代日本(古代〜江戸時代)では、 

             天下 (てんか)とは、 日本本土(本州、四国、

             九州本土)であり、 蝦夷ヶ島(えぞがしま、北

             海道)や琉球(りゅうきゅう、沖縄)を除く、本州、

             四国、九州本土である。

 

〇 てん  天下統一。 

             (てんかとういつ)。 《日本の政治》。

          (= 日本本土統一)。

          (= 日本本土を政治的に支配す

          ること)。 

             THE UNIFICATION OF MAINLAND 

             JAPAN.             

             THE UNIFICATION OF THE 

             NATION.

             ● 天下統一 (てんかとういつ)とは、 日本

             本土統一であり、 日本 本土(本州、四国、九

             州本土)を政治的に支配することである。

             ● 天下統一とは、 前近代日本で、蝦夷ヶ

             島(えぞがしま、北海道)や琉球(りゅうきゅう、

             沖縄)を除く、 日本本土(本州、四国、九州

             本土)の大部分を政治的に統一し、政治的実

             権を握ることである。

              (例) 1590年の豊臣秀吉の天下統一。

 

〇 てん  天下人。 

             (てんかびと)。 《日本の政治》。

          (= 日本本土支配者、日本本土

          治者、日本本土統一者)。

             THE RULER OF MAINLAND JAPAN.

             ● 天下人 (てんかびと)とは、 前近代日本

             では、 日本本土支配者、日本本土統治者

             日本本土統一者である。

             ● 天下人とは、 日本本土(本州、四国、九州

              本土)の支配者、統治者、統 一者であり、 日本

             本土(本州、四国、九州本土)の大部分を、政治

             的に支配(統治、統一 )する者である。

 

〇 てん  天下布武。 

             (てんかふぶ)。  《織田信長》。   

             THE RULE OF KINAI OR 

             MAINLAND JAPAN BY 

             NOBUNAGA OR BY SAMURAI 

             WARRIORS.

             (⇒ 織田信長)。

             ■ 天下布武とは、 織田信長が美濃国

             (みののくに、現・岐阜県南部相当地域)

             併合支配後、織田信長が唱えた標語であ

             り、 信長が用いた印に刻まれていた文字

             であり、 天下(五畿内(ごきない))、また

             は、天下(日本本土、本州・四国・九州本

             ) を武力で支配(征服)・統一すること、 

             または、朝廷(天皇家・公家)、寺社、武家

             での中、武家が、天下(日本本土)を支配

             (征服)・統一するという意味である。

             ● 五畿内(ごきない)とは、 山城(やまし

             ろ、京都府南部)、大和(やまと、奈良県)、

             摂津(せっつ)、河内(かわち)、和泉(いず

             み)(大阪府の3地域) の地域である。 

             ● 五畿内(ごきない)は、 戦国時代の室

             町幕府の将軍の勢力範囲の地域でもある。

             ■ 天下布武とは、室町幕府の将軍が五

             畿内を武力で統一し、治めるという解釈も

             ある。 

 

〇 てん   天下分け目の戦い。

              (てんかわけめのたたかい)。

           《日本国内の戦争》。

              ■ 天下分け目の戦いとは、

             日本本土の全国支配を方向づけ

             る戦いである。

              ■ 天下分け目の戦いの1つに、

              慶長5年(1600年)に起こった

              「慶長5年の天下分け目の戦い」

             がある。

             (⇒ 慶長5年の天下

          分け目の戦い)。

 

〇 てん  天喜。 

             (てんぎ)。 《和暦》。

             ○ (1053 年〜1058年)。

             ● 1053年・天喜元年・1月11日〜

                1058年・天喜 6年・8月29日。 

             ● 平安時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇 てん  天鏡閣。

             (てんきょうかく)。 

                    《金閣寺(鹿苑寺)》。

       (⇒ 金閣

             ■ 天鏡閣 (てんきょうかく)は、 現在はな

             いが、建設当時存在し、 金閣の後方に建

             てられ、 空中廊下(渡り廊下)で 金閣と結

             ばれていた。 

             ● 天鏡閣 (てんきょうかく)は、  北山

             山荘 (きたやまさんそう、北山殿(きたやま

             でん、きたやまどの)、鹿苑寺、金閣寺) に

             あった、足利義満 (あしかがよしみつ)が

             使った会所 (かいしょ、迎賓館(げいひんか

             ん))で、 宝物も置かれていた。

 

〇 てん  天慶。

             (てんぎょう)。  《和暦》。

             THE TENGYO ERA.

             ○ 938 年〜947年 。

             ● 938年・天慶 元年・5月22日〜

                947年・天慶10年・4月22日。

             ● 平安時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

             ■ 天慶 (てんぎょう、英:THE 

             TENGYO ERA) とは、 和暦であり、 

             平安時代中期の和暦年号であり、 

             938年・天慶 元年・5月22日から

             947年・天慶10年・4月22日まで

             である。

 

〇 てん  天元。 

             (てんげん)。  《和暦》。

             ○ (978〜983年)。

             ● 978年・天元元年・11月29日〜

                983年・天元 6年・ 4月15日。 

             ● 平安時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇 てん  典侍。

             (てんじ)。 (朝廷の後宮の役職)。

          《朝廷》。

          ○ 天皇の後宮の上級女官。

          ○ 後宮の組織(内侍司)に勤務

          する女官。

         (⇒ 内侍司)。 

 

〇 てん  天治。 

             (てんじ)。  《和暦》。

             ○ (1124 年〜1126年)。

             ● 1124年・天治元年・4月 3日〜

                1126年・天治 3年・1月22日。

             ● 平安時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック  

 

〇 てん  天守。 

             (てんしゅ)。  《城》。

             ○ 城の中心となる高層建築の

          建物。

       (⇒  

             ■ 天守(てんしゅ) とは、 城の中心とな

             る高層建築の建物である。 

                天守は、 城のシンボルであり、城

             主の権力の象徴であった。

             ■ 江戸城の天守は、 二度建て替えら

             れた、即ち、徳川家康の建てた天守を秀

             忠、家光が建て替えた。 

               家光の建てた江戸城の天守は、江戸

             時代前期の明暦(めいれき)の大火で焼

             失し、 その後、再建されず、現在に到る。

 

〇 でん  伝七。

             (でんしち )。 《岡っ引》。

                ○ 架空の江戸時代の岡っ引。

               (⇒ 岡っ引 おかっぴき)。

 

〇 てん  天智天皇 

             (てんじてんのう) 。  

          (= 中大兄皇子(なかのおおえのみこ 、

             なかのおおえおうじ))。  《天皇》。

          (生没年:626〜671年)。

          ● 天皇即位:668〜671年。

          ○ (こうぎょく)天皇(女帝)

          の皇子(みこ)

 

○ てん  天授。 

             (てんじゅ)。 《和暦》。

             ○ 1375年〜1381年 。

           (⇒ 南北朝競合二重年号

           (⇒ 和暦の二重年号存立

           (⇒ 西暦和暦対照表 ・

              日本語版

           (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

           (⇒ 和暦ガイドブック 

          ■ 南北朝競合二重年号。

          ● 南朝(大覚寺統)方の暦年号。

               1375年・天授元年・5月27日〜

               1381年・天授 7年・2月10日。

             ● 室町時代前期の和暦年号。

              ● (注意) 同時期に、北朝 (持明院統、

                            光厳(こうごん)・光明(こうみょう)天皇系

              統) 方の暦年号の、  永和(えいわ)元年

              〜5年(1375〜1379年)、 康暦(こうり

              ゃく)元年〜3年(1379〜1381年) も存

                            立する。

              ● 南朝 (大覚寺統、後醍醐天皇系統)

              方の暦年号。

                建武(けんむ)⇒ 延元(えんげん)⇒ 

              興国(こうこく)⇒ 正平(しょうへい)⇒ 

              建徳(けんとく)⇒ 文中(ぶんちゅう)⇒ 

              天授(てんじゅ)⇒ 弘和(こうわ)⇒ 

              中(げんちゅう)⇒ 暦年号編成中止

 

○ てん  天主教。

             (てんしゅきょう)。 

             (= カトリック・キリスト教)。

             《キリスト教》。

       (⇒ キリスト教 

 

○ てん  天正。

             (てんしょう)。 《和暦》。

             THE TENSHO ERA.

             ○ 1573年〜1592年。

             ■ 1573年・天正 元年・ 7月28日〜

                1592年・天正20年・12月8日。 

             ● 安土桃山時代の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

             ●  〈和暦年→西暦年・速算式〉。

              ○ 天正 A年+1572年=西暦 B年。

             ●  〈西暦年→和暦年・速算式〉。

              ○ 西暦 B年1572年=天正 A年

              ■ 天正 (てんしょう、英: THE 

                           TENSHO ERA) とは、和暦であ

             り、 安土桃山時代の和暦年号であり、

             1573年・天正 元年・7月28日から

             1592年・天正20年・12月8日まで

             である。  

             ● 永禄(えいろく)⇒(元亀(げんき)⇒

              天正(てんしょう)⇒文禄(ぶんろく)⇒

              慶長 (けいちょう)⇒元和(げんな)。

             ● 永禄元年〜13年

                    (1558年〜1570年)⇒

                元亀元年〜 4年

                    (1570年〜1573年)⇒

                天正元年〜20年

                    (1573年〜1592年)⇒

                文禄元年〜 5年

                    (1592年〜1596年)⇒

                慶長元年〜20年

                    (1596年〜1615年)⇒

                元和元年〜10年

                    (1615年〜1624年)。

 

〇 てん  天承。 

             (てんしょう)。 《和暦》。

             ○ 1131 年〜1132年。

             ● 1131年・天承元年・1月29日〜

                1132年・天承 2年・8月11日。

             ● 平安時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇 てん  天璋院

             (てんしょういん)。

                    (= 天璋院・篤姫 てんしょういん・

                    あつひめ、篤姫(あつひめ))。

          (= 島津篤子(しま づあつこ)、近

             衛敬子(このえすみこ)) 。

             《人名》。

          (⇒ 篤姫 あつひめ)。

          ● 江戸幕府・第13代将軍・

          徳川家定の正室夫人。 薩

          摩藩・島津家出身。

 

○ てん  天正壬午の乱

             (てんしょうじんごのらん)。 《戦い》。

          (1582年6月ー10月)。

             ■ 天正壬午の乱 (てんしょうじ

             んごのらん、1582年(天正10年)

             6月ー10月)とは、 本能寺の変

             後の、1582年 (天正10年)の信

             濃・甲斐・上野の旧織田領の争奪

             戦である。

             ● 1582年(天正10年)3月の武

             田氏の武田勝頼滅亡後、旧武田領

             の信濃・甲斐・上野(しなの・かい・こ

             うずけ、現在の長野県・山梨県・群

             馬県) の地は、織田信長の領土と

             なった。

                しかし、1582年(天正10年)

             6月の本能寺の変で、織田信長・

             信忠父子が死去すると、信濃・甲斐・

             上野は、織田軍の援軍の来ない、勢

             力が衰えた権力空白地帯となり、 

             1582年(天正10年)6月から10

             月まで、上杉氏の上杉景勝、徳川氏

             の徳川家康、北条氏の北条氏政・

             氏直の諸大名や真田氏などの在郷

             諸勢力が、戦い、信濃・甲斐・上野

             の旧織田領を奪い合った。

             ● 天正壬午の乱の結果として、

             信濃・甲斐・上野の旧織田領では、 

             上杉景勝は信濃北部4郡を領土に

             し、 真田昌幸は上田・沼田領を維

             持し、 徳川家康は上杉領や真田領

             を除く信濃中・南部と甲斐を領土とし、

             北条氏政・氏直は、上野中・南部

             を領土とした。

                徳川家康は、 三河・遠江・駿

             河(現在の愛知県東部、静岡県西

             部・中部)の他に、天正壬午の乱で、

             信濃中・南部と甲斐(現在の長野

             県中部・南部 と山梨県)を領土とし、

             5か国を領有する大大名となる。

 

〇 てん  天正遣欧使節。 

             (てんしょうけんおうしせつ)。

              《キリスト教》。

          ○ キリスト教・カトリックのキリ

          シタン大名が、ヨーロッパに派

          遣した使節。

          ○ 1582年に日本を出発し、

          1590年に帰国した。

          (⇒ キリスト教)。

             ■ 天正遣欧使節 (てんしょうけんおうしせ

             つ、1582 年ー1590年) とは、 キリスト教・

             カトリックのキリ シタン大名が、ヨーロッパに派

             遣した使節であり、 1582年に日本を出発し、

             1590年に帰国した。

 

〇 てん  殿上人 

             (てんじょうびと)。  

             (= 平安時代以後の、内裏また

          は院・東宮の御所(住居)の 、

          常御殿に昇殿を許された者)。

          《 天皇、天皇家、朝廷》。

          ○ 朝廷の身分・地位。

          (⇒ 朝廷の位階朝廷の官職

          )。

          (⇒ 内裏、清涼殿)。

          ■ 内裏の殿上人は、 天皇の

          御所(住居)の内裏または里内

          裏の、天皇の常御殿(つねごて

             ん 、日常の居所)である「清涼

          殿(せいりょうでん)」の、「殿上間」

          (てんじょうのまに昇殿を許され た

          者である。

          ■ 院・東宮の殿上人は、 

          (上皇)や東宮(皇太子)御 所

          (住居)の、常御殿(つね ごてん、

          常の居所)に昇殿を許された者

          である。

             ■ 殿上人 (てんじょうびと)とは、 平安

             時代以後の、内裏(だいり、 天皇の住居)

             または院・東宮 (いん・とうぐう、上皇・皇太

             子)の御所(住居)の、常御所(つねごてん、

             日常の居所)に昇殿(しょうでん、昇ること)

             を許された者である。

              ■ 殿上人。

                殿上人(てんじょうびと)には、 内裏

             の殿上人 と、 院・東宮の殿上人 がある。

             ■ 内裏の殿上人 (だいりのてんじょう

             びと)とは、 天皇の御所(住居)の内裏

             または里内裏の、天皇の常御所(つねご

             てん、日常の居所)である清涼殿(せいり

             ょうでん)の、「殿上間」(てんじょうのま、

             殿上の間)に昇殿(昇ること)を、天皇よ

             り許された者(に入ることを許された者)

             である。

              ● 内裏の殿上人 (だいりのてんじょうび

             と)とは、天皇の常御所(つねごてん、日常

             の居所)である、内裏または里内裏の清涼

             殿(せいりょうでん)の、「殿上間」(てんじょ

             うのま、殿上の間)に昇殿(昇ること)を

             された者(に入ることを許された者)である。

                内裏の殿上人 (だいりのてんじょうび

             と)は、 「内の殿上人 」(うちのてんじょう

             びと)とも言われ、  9世紀以降の日本の

             朝廷において、 @ 位階・ 五位以上の者

             の中で、内裏(だいり、 天皇の住居、天皇

             御所)または里内裏(さとだいり、天皇の

             仮住居、仮御所)内の、天皇の常御所(つ

             ねごてん、日常の居所)である清涼殿(せ

             いりょうでん、天皇の日常の居所)の部屋

             の1つの「殿上間」(てんじょうのま、殿上

             の間)に 、天皇より昇殿(昇ること)を許さ

             れた者(に入ることを許された者)、または、

             A 六位以上の者で 内裏の蔵人(だいり

             のくろうど、天皇秘書役)に叙任された者

             である。 

             ■ 院・東宮の殿上人(いん・とうぐうのて

             んじょうびと)とは、 院(いん、上皇) や東

             宮(とうぐう、皇太子)の御所(住居)の、常

             御所(つねごてん日常の居所)に、院や東

             宮より昇殿(昇ること)を許された者(に入

             ることを許された者)である。

             ■ 天皇や院・東宮の常御所(つねごてん、

             日常の居所)に昇殿(昇ること)を許され

             た者である殿上人は、 天皇や院・東宮の

             一代限りであり、 代替わりに当たっては昇

             殿許可を失い、再び昇殿するには、改めて

             勅許(ちょっきょ、天皇の許可)や院・東宮

             の許可が必要であった。

            ■ 清涼殿(せいりょうでん)は、 平安京の

             内裏(だいり)の殿舎(建物)の1つである。

            ■ 清涼殿(せいりょうでん)は、 平安京

            (= 京都、京の都)の、内裏(だいり、天皇

            の住居)の殿舎(建物)の1つであり、 天

            皇の日常の居所であり、天皇の政務、儀

            式等も行う建物である。

            ■ 清涼殿(せいりょうでん)は、 平安京

            (= 京都、京の都)内の、平安宮(= 大内裏)

            内の、内裏(だいり、天皇の住居)の殿舎

            (建物)の1つであり、 平安宮の内裏の正

            殿の紫宸殿(ししんでん)の北西に隣接し、 

            天皇の日常の御座所(天皇が日常住んだ

            所)であり、 叙位(じょい)、除目(じもく)

            等の政務や四方拝、小朝拝等の儀式の

            天皇の公事(くじ)も行われた。

               清涼殿の中にある部屋の1つに、「殿

            上間」(てんじょうのま、殿上の間)があった。

             ■ 平安京 (へいあんきょう)は、 別名

             は、京都、京の都(きょうのみやこ)と言い、

             平安時代から明治時代初期まで、794年

             から1869年までの間、 京都府・京都市

             付近の、天皇の 住居(= 内裏)、天皇の宮

                      殿(= 宮城)があった都市である。 

             ■ 平安宮 (へいあんきゅう)とは、別名

            は、大内裏(だいだいり)と言い、 日本の

            平安時代(794年〜1192年)の、794年

            から1177年頃まで、日本の京都市上京

            区(かみぎょうく)付近にあった、宮城(= 天

            皇の宮殿 )である。

 

〇 てん  転進。

             (てんしん)。  《近代軍事用語》。

          (= 旧日本軍の部隊の撤退(退

          却))。

             ● 転進とは、 旧日本軍は撤退、退却と

             いう言葉を嫌い、戦前の、旧日本軍の部

             隊の撤退(退却)を意味する。

 

〇 てん  天神様。

             (てんじんさま)。  《人名》。

          (= 菅原 道真 すがわら みちざね) 。

          ● 菅原 道真の信仰対象の名称。

       (⇒ 菅原道真)。

 

#tenso

 

〇 てん  天像。

             (てんぞう)。  《仏像》。

              (例) 毘沙門天像。

          (⇒ 仏 像)。

 

〇 てん  天長。 

             (てんちょう)。  《和暦》。

             ○ (824 年〜834年)。

             ● 824年・天長 元年・1月5日〜

                834年・天長11年・1月3日。 

             ● 平安時代前期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇 てん  天徳。 

             (てんとく)。   《和暦》。

             ○ (957年〜961年)。

             ● 957年・天徳元年・10月27日〜

                961年・天徳 5年・ 2月16日。 

             ● 平安時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック

 

〇 てん  天和。 

             (てんな)。  《和暦》。

              (1681年〜1684年)。

             ● 1681年・天和元年・9月29日〜

                1684年・天和 4年・2月21日。 

             ● 江戸時代前期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇 てん  天仁。 

             (てんにん)。  《和暦》。

             ○ (1108年〜1110年)。

             ● 1108年・天仁元年・8月 3日〜

                1110年・天仁 3年・7月13日。

             ● 平安時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇 てん  天皇 

             (てんのう)。  《天皇》。

          (= 大王 (おおきみだいおう)

           (みかど)、主上(しゅじょう))。

             (4世紀〜現在)。

 

〇 てん  天皇家

             (てんのうけ)。 《天皇家》。

          (= 王家、皇室)。

           (古代日本〜現代日本)。

           (4世紀頃ー現在)。

           ○ 皇族の天皇家。 

          ○ 天皇、上皇(じょうこう、元天

          皇)、皇子皇女、天皇・上皇

          夫人 などの一族。

                    □ 日本歴史で活躍した氏族:

          天皇家藤原氏伊勢平氏

          河内源氏鎌倉北条氏

          足利氏上杉氏武田氏

          井伊氏小田原北条氏

          真田氏織田氏豊臣氏

          徳川氏

              ■ 皇族の天皇家 (てんのうけ)は、 

             紀元(後)4世紀頃から現在まで存在

             する一族である。

 

〇 てん  天皇親政政権  

                         (てんのうしんせいせいけん)。

          《日本の政権》。

 

〇 てん  天皇制

             (てんのうせい)。

          《日本の政治》。

          (4世紀〜現在)。

 

 てん  天平。

             (てんぴょう)。  《和暦》。

             ○ (729年〜749年)。

             ● 729年・天平 元年・8月 5日〜

                749年・天平21年・4月14日。

             ● 奈良時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

 てん  天平感宝。 

             (てんぴょうかんぽう)。 

             ○ (749年)。  《和暦》。

             ● 749年・天平感宝元年・4月14日〜

                749年・天平感宝元年・7月 2日。

             ● 奈良時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

 てん  天平勝宝。 

             (てんぴょうしょうほう)。 《和暦》。

          ○ (749〜757年)。

             ● 749年・天平勝宝元年・7月 2日〜

                757年・天平勝宝 9年・8月18日。

             ● 奈良時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

 てん  天平神護。 

             (てんぴょうじんご)。  《和暦》。

          ○ (765〜767年)。

             ● 765年・天平神護元年・1月 7日〜

                767年・天平神護 3年・8月16日。

             ● 奈良時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

 てん  天平文化 

             (てんぴょう ぶんか)。

             《日本の文化》。

          (8世紀初頭〜8世紀末)。

          (⇒ 日本の文化)。

 

 てん  天平宝字。 

             (てんぴょうほうじ)。  《和暦》。

          ○ (757〜765年)。

             ● 757年・天平宝字元年・8月18日〜

                765年・天平宝字 9年・1月 7日。

             ● 奈良時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

 てん  天福。 

             (てんぷく)。   《和暦》。

             ○ (1233年〜1234年)。

             ● 1233年・天福元年・ 4月15日〜

                1234年・天福 2年・11月 5日。 

             ● 鎌倉時代前期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

 てん  天文。

             (てんぶん)。   《和暦》。

             THE TENBUN ERA.

             ○ 1532年〜1555年 。

             ● 1532年・天文 元年・ 7月29日〜

                1555年・天文24年・10月23日。 

             ● 室町時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

              ■ 天文 (てんぶん、英:THE 

                           TENBUN ERA)とは、和暦であり、 

              室町時代後期の和暦年号であり、 

              1532年・天文 元年・7月29日から

              1555年・天文24年・10月23日まで

              である。  

             ○ 天文 A年+1531年=西暦 B年。

             ○ 西暦 B年1531年=天文 A年

             ● 享禄(きょうろく)⇒天文(てんぶん)

              ⇒弘治(こうじ)⇒永禄(えいろく)⇒

              (元亀(げんき)⇒天正(てんしょう)。

             ● 天文前後の年号。

             享禄元年〜 5年(1528年〜1532年)⇒

             天文元年〜24年(1532年〜1555年)⇒

             弘治元年〜 4年(1555年〜1558年)⇒

             永禄元年〜13年(1558年〜1570年)⇒

             元亀元年〜 4年(1570年〜1573年)⇒

             天正元年〜20年(1573年〜1592年)⇒

 

 てん   転封

              (てんぽう)。 《領地》。

           (= 移封(いほう)

           国替え(くにがえ))。  

          (⇒ 領地豊臣政権

                      江戸幕府)。

          ○ 転封とは、

          領地替えである。

          ■ 転封(てんぽう)とは、

             別名は、移封(いほう)、国替え

             (くにがえ)であり、 領地替え、

             領地配置換えのことである。

                ■ 転封(= 移封 、国替え)とは、 

             前近代日本の封建制社会で、 

             封建領主が、他の領地(所領)

                            に移ることである。 

                ■ 転封(= 移封 、国替え)は、 

             桃山時代や江戸時代では、

             大名等の領地配置換えである。

                ■ 転封(= 移封 、国替え)は、 

             封建領主の武士の支配者の

             領地(封土)政策の1つである。

                ■ 転封(= 移封 、国替え)は、 

             桃山時代では、豊臣政権の命

             令での大名等の領地配置換え

             であり、 江戸時代では、江戸

             幕府の命令での大名(藩主)等

                         の領地配置換えである。

                ■ 転封(= 移封 、国替え)は、 

             前近代日本の封建制社会の

             主従関係では、 

             勢力のある支配者が、領地(封

             土)政策の1つとして、臣下の領

             (所領)を他に移すことである。

             ● 実例としては、 安土桃山

             時代に、豊臣秀吉の命令で、

             1590年に、徳川家康の領地は、

             中部地方から関東地方に領地

             替えとなった。 これ以後、家康

             の関東の本拠地の江戸の基盤

             整備が行われ、今日の東京の

             初期の基盤ができる。

 

 てん  天保。

             (てんぽう)。   《和暦》。

             ○ (1830年〜 1844年)。

             ● 1830年・天保 元年・12月10日〜

                1844年・天保15年・12月 2日。 

             ● 江戸時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

 てん  天保通宝百文銭銅貨 。

             (てんぽうつうほうひゃくもんせんどうか)。

          (= 天保銭)。 

                    (江戸時代の日本流通貨幣)。

          《日本流通貨幣》。

          ○ 江戸時代の、江戸幕府鋳造

           の100(もん)単位の定額(定

          位)通常貨幣。

          ○ 江戸時代の文銭銅・鉄貨の

          1つ。

          ● 現在貨幣価値約2,500円 。

               天保通宝100文銭40枚≒

          1両小 判(金)≒4分≒16朱

             現在の約10万円 

                      (⇒ 百文銭)。

          (⇒ (もん)単位 ・定位(定額

                     通常貨幣)。

            (⇒ 江戸時代の日本流通貨幣)。

            (⇒ 日本流通貨幣)。

 

〇 てん  天武天皇 

             (てんむてんのう)。  

          (= 大海人皇子(おおあまのみこ・

             おうじ)) 。  《天皇》。

          (天皇即位:673〜686年 )。

                    (生没年:631年?〜686年)。

          ● 天智(てんじ)天皇の弟。

 

 てん  天明。

             (てんめい)。   《和暦》。

             ○ (1781 年〜1789年)。

             ● 1781年・天明元年・4月 2日〜

                1789年・天明 9年・1月25日。 

             ● 江戸時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

 てん  天養。

             (てんよう)。   《和暦》。

             ○ (1144年〜1145年)。

             ● 1144年・天養元年・2月23日〜

                1145年・天養 2年・7月22日。

             ● 平安時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

 てん  天暦。 

             (てんりゃく)。   《和暦》。

             ○ (947年〜957年)。

             ● 947年・天暦 元年・ 4月22日〜

                957年・天暦11年・10月27日。 

             ● 平安時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック  

 

 てん  天領。 

             (てんりょう)。 

             (= 江戸幕府の直轄領)。

             《江戸幕府》。

             ○ 江戸時代に、江戸幕府は、約400

             万石の天領を持つ。

       (⇒ 江戸幕府

 

 てん  天禄。 

             (てんろく)。   《和暦》。

             THE TENROKU ERA.

             ○ 970年 −973年。

             ● 970年・天禄元年・ 3月25日〜

                973年・天禄 4年・12月20日。 

             ● 平安時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

             ■ 天禄 (てんろく、英:THE 

             TENROKU ERA)とは、和暦であり、 

             平安時代中期の和暦年号であり、 

             970年・天禄元年・ 3月25日から

             973年・天禄 4年・12月20日まで 

             である。

                 ■ 「天禄」の前後の和暦年号(元号):

             ● 安和 (あんな):968年−970年。

               968年・安和元年・8月13日〜

               970年・安和 3年・3月25日。 

 

 てん  天和。

             (てんわ、てんな)。   《和暦》。

          ○ (1681年〜1684年)。

        ⇒ 天和 (てんな、てんわ)。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

 

   ● 五十音順 (あいうえお順)。

 

 

   ■  『 現在は、過去の成果であり、

       未来は、現在の成果である。 

         (良き現在は、過去の人々の良き努力

          や活動の積み重ねの成果であり、 

          明るい良き未来は、現在の人々の、

          良き努力や活動の積み重ねによって

          形成される。)

 

 

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#jpdictionary(general)

 

◆ 日本史辞典

 

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#te

 

◆ 派生見出し語サイト。

■ 「て」 基本・見出し語WEBサイト No. ja−te 

  の、派生見出し語サイト。 

 

 No. ja−te−4140。

● 見出し語項目 て   ( ら 41 / だ 40

  付近   第1部・ら・タ行総合グループ )。

 てら  寺田屋事件 (てらだやじけん) 。

         (1862,1866年に寺田屋で

                    起こった事件)。

 

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#thetenshojingonoranwar

 

■ 天正壬午の乱 

      (てんしょうじんごのらん)。

 

■ 天正壬午の乱。 

■ 名称 : 天正壬午の乱 

        (てんしょうじんごのらん)。

■ 時期 : 1582年6月から10月まで。 

■ 《戦い》。 (領土争奪戦)。

■ 天正壬午の乱は、

  本能寺の変後の、1582年(天正10年)の

  信濃・甲斐・上野の旧織田領の争奪戦である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11813。

 

 

■ 天正壬午の乱。

  ■ 天正壬午の乱 (てんしょうじんごのらん、

    1582 年6月ー10月)とは、 本能寺の変

    後の、1582年(天正10年)の信濃・甲斐・

    上野の旧織田領の争奪戦である。

 

■ 天正壬午の乱。

  ■ 1582年(天正10年)3月の武田氏の武田

    勝頼滅亡後、旧武田領の信濃・甲斐・上野

    (しなの・かい・こうずけ、現在の長野県・山

    梨県・群馬県) の地は、織田信長の織田氏

    の領土となった。

       しかし、1582年(天正10年)6月の本

    能寺の変で、織田信長・信忠父子が死去す

    ると、 信濃・甲斐・上野は、織田軍の援軍

    が来ない、勢力が衰えた権力空白地帯とな

    り、勢力が衰えた権力空白地帯となり、

    1582年(天正10年)6月から10月まで、

    上杉氏の上杉景勝、徳川氏の徳川家康、

    北条氏の北条氏政・氏直の諸大名や真田氏

    などの在郷諸勢力が、戦い、信濃・甲斐・上

    野の旧織田領を奪い合った。

 

■ 天正壬午の乱。

  ■ 天正壬午の乱の結果として、信濃・甲斐・

    上野の旧織田領では、 上杉景勝は信濃

    北部4郡を領土にし、 真田昌幸は上田・

    沼田領を維持し、 徳川家康は上杉領や

    真田領を除く信濃中・南部と甲斐を領土

    とし、 北条氏政・氏直は、上野中・南部

    を領土とした。

  ● 徳川家康は、 三河・遠江・駿河(現在の

    愛知県東部、静岡県西部・中部)の他に、

    天正壬午の乱で、 信濃中・南部と甲斐

    (現在の長野県中部・南部 と山梨県)を

    領土とし、 5か国を領有する大大名と

    なる。

 

  ■ 甲斐や信濃中・南部の織田領。

  ● 本能寺の変の時、織田氏の甲斐・信濃中・

    南部方面軍の2人の大将の河尻秀隆・毛

    利長秀や国衆の木曾義政の織田勢が、

    甲斐や信濃中・南部(現・山梨県・長野県

    中部・南部)の織田領を保有していたが、

    本能寺の変後、国人衆が一揆を起こし、

    河尻秀隆は殺害され、徳川軍や北条軍

    攻めてきて、織田勢は、戦いに敗れ、甲斐

    や信濃中・南部の織田領保持できなくな

    り、明け渡し、結局、徳川軍、甲斐や信

    中部・南部を占領し、徳川家康は、甲斐

    や信濃中・南部を徳川氏の領土とする。

 

  ■ 信濃北部の織田領。

  ● 本能寺の変の時、織田氏の信濃北部

    方面軍の大将の森長可の織田勢は、

    北信濃の織田領を保有していたが、本能

    寺の変後、上杉軍が攻めてきたため、

    長可は、 信濃北部の織田領を保持でき

    なくなり、信濃北部(しなのほくぶ、現・長

    野県北部)で、上杉軍との戦いを避け、逃

    げ、本拠地の美濃国に退去し、 上杉

    が信濃北部を占領し、上杉景勝は、信

    濃北部を上杉氏の領土とする。

 

  ■ 上野の織田領。

  ● 本能寺の変の時、織田氏の関東方面軍

    の大将の、滝川一益の織田勢は、 上野

    (こうずけ、 現・群馬県)の織田領を保有    

    していたが、本能寺の変後、北条軍が攻

    めてきたため、武蔵(むさし、現・埼玉県・

    東京都本土)で、北条軍と戦い、敗れ、

    上野の織田領を保持できなくなり、本拠

    地の伊勢長島(いせながしま、現・三重

    県)に退去し、 北条軍が、上野北部の

    真田の沼田領以外の上野を占領し、北

    条氏政・氏直は、上野中・南部(現・群馬

    県中部・南部)を小田原北条氏の領土と

    する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#-appearingscenes

 

♪♪ 天正壬午の乱が登場する、興味深

    い、ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

   

★ 天正壬午の乱が登場する、興味深い

   関連ドラマ、映画。 

  ● (注意) ドラマ、映画は、フィクションです。 

       歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実)

    と 架空の出来事が 混じって描かれてい

    ます。 また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 真田丸 (さなだまる) 』 。

   (NHKテレビの2016年大河ドラマ)。

       (作・三谷幸喜)。

   第5回「窮地」、第6回「迷走」、

   第7回「奪回」、第8回「調略」、

   第9回「駆引」。

 ■ 天正壬午の乱が登場するドラマ。

 ■ 安土桃山時代や江戸時代初期の時代

  状況やその時期に活躍した人々を描く。

 ■ 安土桃山時代や江戸時代初期の 真田

  氏を描く。

 ■ 1582年(武田氏滅亡)から1615年

  (大坂の夏の陣)までの、真田幸村(信 

  繁)(さなだ ゆきむら(のぶしげ))、真田

  信幸(信之)、真田 昌幸などを描く。

 

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#emperors

 

■ 天皇 

      (てんのう)。

 

■ 天皇。 

■ 存続時期 : 古代日本から現代日本まで。 

■ 名称 : 天皇 (てんのう)。 

● 別名 : 大王 (おおきみ、だいおう)、 帝(みか

         ど)、 主上(しゅじょう)。

■ 天皇には、 男性天皇 と 女性天皇(女帝)が

  いる。

● 天皇家、天皇制 に関しては、 『 天皇家(てん

  のうけ) 天皇制 (てんのうせい) 』 を参照し

  てください。

 

□ 日本の現皇室 画像アルバム 

   No.1

□ 古代〜近代日本 天皇家  画像

   アルバム No.1

□ 日本の女性天皇 画像 アルバム

   No.1

 

 

■ 天皇(てんのう)は、 古代日本から現代日本

  まで存続し、 別名として、 大王 (おおきみ、

  だいおう)、 帝(みかど)、 主上(しゅじょう)と

  も呼ばれた。

 

◆ 天皇、天皇家 関連 言葉。

■ 御叡慮(ごえいりょ)とは、天皇の心、考えを意

  味する。  

     御諚 (ごじょう)とは、 貴人(きじん、地位や

  家柄が高い人)の命令、仰(おお)せ、お言葉を

  意味する。

■ 崩御(ほうぎょ)とは、 天皇やその家族などの

  死去を意味する。 

■  行幸(ぎょうこう)は、 天皇の 訪問外出、 天皇

  のお出まし、御幸(みゆき) を意味する。

     御幸(みゆき)は、天皇、上皇、女院の外出

  を意味する。

 

    

■ 天皇の許可を、勅許(ちょっきょ) といい、天

  皇の命令を、勅命(ちょくめい) という。

     天皇本人の意思(考え)に反し、天皇に

  仕える公家が勝手に出した、偽(いつわ)りの

  勅命を、 偽勅(ぎちょく) という。

    内々(ないない)に下(くだ)された勅命を、

  密勅(みっちょく) という。

 

 

■ 7世紀後半に、 日本の中央集権化が強化された天武

 天皇の時期から、 「天皇」という名称が使われるように

 なった。

     天皇 という名称 は、 天武(てんむ)天皇(在位、67

 3〜686年) の治世から現在まで使用され、 それ以前

 の日本では、大王(おおきみ、だいほう)と呼ばれていた。

   

■ 天皇には、 男性天皇 と 女性天皇(女帝) がいる。

    日本古来より、過去に、優秀な女性天皇(女帝)も、数 

 多く、登場している。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 重祚 (ちょうそ) とは、 再即位であり、 天皇が再即位

 すること である。

   例として、重祚した天皇 は、 皇極(斉明)天皇(女帝) 

 と 孝謙(称徳)天皇(女帝) である。

 

■ 現代日本 (昭和・戦後時代、平成時代) に在位する

 天皇 は、

○ 明仁(あきひと)天皇 (今上天皇 (きんじょうてんのう、現在

                 の天皇の意、在位1989年〜現在) 

○ 裕仁(ひろひと)天皇 (昭和天皇、在位1926年〜1989年)、

 である。

 

■ 近代日本 (明治・大正、昭和・戦前時代) に在位した

 天皇 は、

○ 裕仁(ひろひと)天皇 (昭和天皇、在位1926年〜1989年)、 

○ 嘉仁(よしひと) 天皇 (大正天皇、在位1912年〜1926年)、 

○ 睦仁(むつひと)天皇 (明治天皇、在位1867年〜1912年)、 

 である。

 

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#theimperialfamily

 

■ 天皇家 

      (てんのうけ)。

 

■ 天皇家。 

■ 存続時期 : 古代日本から現代日本まで。 

■ 名称 : 天皇家 (てんのうけ)。

■ 別名 : 王家 (おうけ)、 皇室 (こうしつ)。

■ 天皇の家系。

■ 天皇 という名称 は、 天武(てんむ)天皇 

  (天皇在位、673〜686年) の時代から現

  在まで使用され、 それ以前の日本では、 大

  王(おおきみ、だいほう) と呼ばれていた。  

■ 天皇には、 男性天皇 と 女性天皇(=

  )  がいる。

● 日本古来より、過去に、優秀な女性天皇(女

  帝)も、数多く、出現している。

● 天皇、天皇制 に関しては、 『 天皇(てん

  のう)天皇 (てんのうせい) 』 を参照し

  てください。

 

□ 日本の現皇室 画像アルバム 

   No.1

□ 古代〜近代日本 天皇家 画像

   アルバム No.1

□ 日本の女性天皇 画像 アルバム

   No.1

 

 

■ 前近代日本の政治に貢献した天皇家。

■ 古代日本から近世日本までの各時代に、 日本

  の政治の実権をもつ者は、 天皇家の存在によ

  り、 日本の政治の祭事的権限はもてず、 政治

  権限の二重構造となり、 政治の絶対独裁者を防

  いだ。 また、天皇家は、政治の争いの仲裁も行

  い、 利害の対立による、国家、日本民族の大混

  乱を防いだ。

 

■ 天皇家は、 前近代日本の政治を支配した勢力

  である、 天皇家、 公家、 武家、 寺社(の僧

  侶・神官)勢力 の1つである。

 

◆ 前近代日本では、 天皇家の人々は、次のよう

  に呼ばれた。

■ 天皇の子、孫。

  ○ 皇子、親王、内親王、王、女王。

 

■ 天皇の子や孫などは、 皇子、親王、皇女、内

  親王、王、女王 と呼ばれた。

 

■ 天皇の男子(息子)は、 皇子(みこ)、親王(し

  んのう)と呼ばれた。  

     天皇の女子(娘)は、皇女(こうじょ)、内親

  王 (ないしんのう)と呼ばれた。

 

 天皇 の孫の男子は、 王(おう)と呼ばれた。 

  但し、 天皇の皇子(みこ)や曾孫(ひまご)を、

  王(おう)と呼ぶ場合もある。 

     天皇の孫の女子(孫娘)は、女王(じょおう) 

  と呼ばれた。

○ (例) 長屋王 (ながやおう天武(てんむ)天

   皇の孫)

○ (例) 厩戸王 (うまやとおう厩戸皇子(うまや

  と(の)おうじ)、聖徳太子、用明(ようめい)天皇

   の子)。

 

■ 東宮 (とうぐう)とは、 皇太子であり、 天皇の

   跡継ぎ、 次期天皇予定者 である。

    天皇に内定した子は、 皇太子(こうたいし)と

  も呼ばれる。

 

■ 太上天皇、上皇、院、法皇。

    天皇位(皇位)を退いた天皇 (元天皇) は、 

  太上天皇(だいじょうてんのう)、 上皇(じょう

  こう)、  院(いん) と呼ばれた。 

    出家した上皇、院 は、法皇(ほうおう) と呼

  ばれた。

 

■ 皇太后、太皇太后、准母。

    先代の天皇の皇后は、 皇太后(こうたいごう)

  と呼ばれた。

    先々代の天皇の皇后は、 太皇太后(たいこう

  たいごう)と呼ばれた。  

    天皇の母は、皇太夫人(こうたいふじん) と呼

  ばれた。

    天皇の形式的な義母は、 准母(じゅんぼ)と呼

  ばれた。

 

◆ 天皇、天皇家 関連 言葉。

■ 御叡慮(ごえいりょ)とは、天皇の心、考えを意

  味する。  

     御諚 (ごじょう)とは、 貴人(きじん、地位や

  家柄が高い人)の命令、仰(おお)せ、お言葉を

  意味する。

■ 崩御(ほうぎょ)とは、天皇やその家族などの

  死去を意味する。 

■  行幸(ぎょうこう)は、天皇の外出を意味する。

     御幸(みゆき)は、天皇、上皇、女院の外

  出を意味する。

 

■ 天皇の許可を、勅許(ちょっきょ) といい、天

  皇の命令を、勅命(ちょくめい) という。

     天皇本人の意思(考え)に反し、天皇に

  仕える公家が勝手に出した、偽(いつわ)りの

  勅命を、 偽勅(ぎちょく) という。

    内々(ないない)に下(くだ)された勅命を、

  密勅(みっちょく) という。

 

◆ 天皇の夫人。

■ 前近代日本の天皇の正室夫人は、 複数であり、 

  皇后(こうごう)、 中宮(ちゅうぐう)、 女御(にょ

  うご) などである。 一方、天皇家の 側室夫人は、

  複数で、 典侍(てんじ) などである。

 

■ 天皇の正室夫人。

● 皇后、中宮、女御。

     天皇正室夫人は、 複数いて、 身分の

  違いにより、上位順に、 皇后 (こうごう)、  中

  宮(ちゅうぐう)、 女御(にょうご) などと呼ば

  れた。

    例えば、 光明子 (こうみょうし)は、聖武(し

  ょうむ)天皇の皇后 であった。 徳川和子 (と

  くがわ まさこ・かずこ) は、後水尾天皇の中宮 

  であった。

● 入内(じゅだい)は、 天皇の正室夫人となるべ

  き人が、正式に内裏(だいり、天皇御所(天皇が

  住む御所)) に入ること である。

    入内(じゅだい)とは、天皇の正室夫人 (皇

  后、中宮、女御のいずれか) となることである。 

● 10世紀の後半から、 天皇は、 複数の后(き

  さき、正室夫人)を持つようになった。 

     10世紀の後半に、権力闘争で、一条天皇 

  が、 藤原道隆の娘の定子と、 藤原道長の娘

  の彰子の2人の后(きさき、正室夫人)をもつ事

  例ができたため。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

  

■ 天皇の側室夫人。

 典侍。

   天皇家の側室夫人には、 典侍(てんじ 、高

  級女官)と呼ばれる側室夫人がいた。  

    例として、 和宮の生母は、典侍の橋本経

  子(観行院(かんぎょういん)) である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 天皇家(皇室)が私有する所領は、 皇室領(こ

  うしつりょう)と呼ばる。  

    皇室領は、大化以前の屯倉(みやけ)から始

  まり、様々な名称で呼ばれた。

     室町時代以後の皇室領を、御料(御領)(ご

  りょう)という。

          

◆ 女院 (院 または 門院)。

   天皇家の、后妃(正室夫人、皇后、中宮、女御)、

  天皇生母、内親王(ないしんのう、天皇の娘)、准

  母(じゅんぼ、天皇の形式上の義母)等の中で、 

  女院(にょいん)の尊称を贈られた女性(女院を宣

  下(せんげ)された女性)は、 院(いん)または門

  院(もんいん)と呼ばれた。 

    女院は、朝廷より、上皇(院(いん))に準ずる

  待遇をうけた。  

     前近代日本では、 皇后の地位をあけるため、

  皇后の女性が、女院にされることがよくあった。

 

 

■ 天皇家の長期存続理由。

    歴史学の観点から見て、天皇家が、日本で

  長く存続できた実質的な主な理由は、 次のよ

  うなものである。

■ 政治の実権を持たない時期が長く続く。

    天皇家が、 日本の政治の実権を持たない

  時期が長く続き、 政治の実権を持たない時期

  に、政治の失政の責任を問われなかった。

    また、 「勝てば官軍、負ければ賊軍」 とい

  うように、 日本の政治の実権を持たない時期 

  に、 天皇家は、勝者、強者の味方になること

  が多かった。

■ 官位の授与。

    伝統的権威がある、天皇家は、 律令官制

  の官位を、その時期の日本の政治支配者(日

  本の政治の実権を持つ者)に配(はい)し、権

  威を高めた。

■ 血統の継承。

   一夫多妻制で、継承者を確保した。 例えば、

  江戸時代の天皇は、 多くが、側室夫人の子

  供である。 医療等未発達等で成人するまで

  に多くの子供がなくなった前近代日本 では、

  天皇家直系の子孫を絶やさぬため、 天皇は、

  多くの夫人を持った。 一夫多妻制により、断

  絶を避けることができた。

 

 

◆ 日本の天皇  (現代から過去へ)。

■ 現代日本、近代日本、幕末の天皇。

 

■ 徳仁(なるひと)天皇 (= 今上(きんじょう)天皇、

   現在の天皇の意) 

   (天皇在位、2019年〜現在)。

● 妃(妻) : 小和田  雅子 (おわだ まさこ)、 

          現 雅子皇后 。

 

■ 明仁(あきひと)天皇 

   (天皇在位、1989年〜2019年)。

● 妃(妻)で、浩宮 徳仁 親王の生母 : 正田(し

  ょうだ) 美智子、 現 美智子皇后 。

● 継嗣(けいし) : 第一皇子・浩宮 徳仁 親王  

  (ひろのみや なるひと しんのう) (1960年−

  現在、 現 徳仁皇太子)。

 

■ 裕仁(ひろひと)天皇 (= 昭和天皇)。

  (天皇在位、1926年〜1989年)。

● 妃(妻)で、継宮 明仁 親王の生母 : 良子女王

  (ながこじょおう)、後の香淳(こうじゅん)皇后。

● 継嗣 : 第一皇子・継宮 明仁 (つぐのみや あ

  きひと) 親王 (1933年−現在、後の明仁(あき

  ひと)天皇 (= 今上(きんじょう)天皇))。

 

■ 嘉仁(よしひと) 天皇 (= 大正天皇)。

  (天皇在位、1912年〜1926年)。

● 妃(妻)で、迪宮 裕仁親王の生母 : 九条節子

  (さだこ)、 後の貞明(ていめい)皇后。

● 継嗣 : 第一皇子・迪宮 裕仁 (みちのみや ひ

  ろひと) 親王 (1901−1989、後の裕仁 (ひ

  ろひと)天皇 (= 昭和天皇))。

 

■ 睦仁(むつひと)天皇 (= 明治天皇)。

  (天皇在位1867年〜1912年)。 

● 妃(妻)で、明宮 嘉仁親王の生母: 典侍・柳原

  愛子。

● 継嗣 : 第二皇子・明宮 嘉仁 (はるのみや よ

  しひと) 親王 (1879−1926、後の嘉仁 (よ

  しひと)天皇 (= 大正天皇))。

 

■ 孝明(こうめい)天皇

  (天皇在位、1846年〜1866年)。 

● 妃(妻)で、睦仁 親王の生母 : 典侍・ 中山

  慶子。

● 継嗣 : 第二皇子・睦仁 親王 (むつひと しん

  のう) (1852−1912、後の睦仁天皇 (明治

  天皇))。

 

■ 仁孝(にんこう)天皇

  (天皇在位、1817年〜1946年)。

● 妃(妻)で、統仁 親王の生母 : 典侍・正親町

  雅子。

● 継嗣 : 第四皇子・統仁 親王 (おさひと しん

  のう) (1831−66年、後の統仁 天皇(=孝明

  天皇))。

● 妃(妻)で、和宮 親子 内親王の生母 : 典侍・

   橋本経子 (観行院))。

● 第八皇女・親子 内親王 (ちかこ ないしんのう)

  (1846−77年、後の和宮 親子 内親王)。

 

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#tennoshinseiseiken

 

■ 天皇親政政権 

       (てんのうしんせいせいけん)。

 

■ 天皇親政政権。 

■ 存続時期 : 

● 古代日本の、大和・奈良・平安時代の一時期、 

● 中世日本の建武の中興時代、 

● 近代日本の明治・大正・昭和戦前時代。 

■ 名称 : 天皇親政政権 (てんのうしんせいせいけん)。

■ 天皇親政政権 とは、天皇親政政治を行う政権で、

 天皇が国家権力(国家の政治の実権)を握る、政権。

● 天皇、天皇家、天皇制 に関しては、 『 天皇(てんの

 う) 、天皇家(てんのうけ)、 天皇制 (てんのうせい) 』 

 を参照してください。

 

 

■ 天皇親政政治 とは、 天皇が国家権力(国家の政治

 の実権)を握る政治形態 である。

 天皇が、 国家の最高統治者で、 国家の政治の実権

 (最高権力)を握り、直接または間接的に、 政治を動か

 し、 日本を統治(支配)する政治形態 である。

● 天皇親政政治 には、 古代天皇親政政治 (古代日

 本の大王・天皇親政政治、律令政治) と、 中世天皇親

 政政治 (中世日本の建武の新政) と 近代天皇親政

 政治 (近代日本の近代天皇絶対主義政治) がある。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 天皇親政政権。

■ 天皇親政政権には、 古代天皇親政政権 と 中世天

 皇親政政権 と 近代天皇親政政権 がある。

 

■ 古代天皇親政政権 は、 古代日本の、 大王(おおき

 み)・天皇親政政権 (4世紀〜7世紀の断続的な期間) 

 や 律令政権 (存在8世紀前半〜10世紀後半) である。

 

■ 中世天皇親政政権 は、 中世日本の、建武政権で、 

 (存在1333〜36年) である。

 

■ 近代天皇親政政権 は、 天皇絶対主義政権で、 近

 代日本政府であり、 明治・大正・昭和戦前時代の政権

 で、 明治・大正・昭和戦前政府 (存在1867〜1945

 年) である。

● 近代天皇親政政権 に関しては、  日本史 辞典 の 

 『 近代日本政権 (きんだいにほんせいけん) 』 

 参照して下さい。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 日本の政治形態。

 豪族連合政治 (4〜8世紀) ⇒ 律令政治 (8〜10世紀) ⇒ 

 摂関政治 (10〜11世紀)⇒ 院政政治 (11〜12世紀) ⇒ 

 武家政治 (12〜19世紀) ⇒ 近代天皇親政政治 

 (近代天皇絶対主義政治) (19〜20世紀) ⇒ 現代国民主権政治

 (現代主権在民政治) (20〜21世紀)。

 

● 日本の政治形態、 豪族連合政治、 律令政治、 摂関政治、 院政政治、 

 武家政治、 近代天皇親政政治、 現代国民主権政治 に関しては、 

 日本史辞典の 『 日本の政治形態 (にほんのせいじけいたい)、 豪族

 連合政治 (ごうぞくれんごうせいけん)、 律令政治 (りつりょうせいじ)、

 摂関政治 (せっかんせいじ)、 院政 (いんせい)、 武家政治 (ぶけ

 せいじ)、 近代天皇親政政治 (きんだいてんのうしんせいせいじ)、 現

 代国民主権政治 (げんだいこくみんしゅけんせいじ) 』 

 の項目を参照して下さい。

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。                            

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

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#tennosei

 

■ 天皇制 

      (てんのうせい)。

 

■ 天皇制。 

■ 存続時期 : 古代日本から現代日本まで。 

■ 名前 : 天皇制 (てんのうせい)。

■ 現在の日本は、国民主権・天皇象徴制の時代である。

■ 天皇制 とは、 戦後は、天皇が日本国家の国家の象

 徴(名誉職) であるとする政治制度 である。

■ 歴史学上の、天皇制 には、 天皇が名誉職(国家の

 象徴)または名目的統治者である「名目的な天皇制」  と、 

 天皇が実質的統治者である「実質的な天皇制」 がある。

● 天皇、天皇家 に関しては、 『 天皇(てんのう)天皇

  (てんのう け) 』 を参照してください。

 

 

■ 現在の日本は、国民主権・天皇象徴制の時代である。

  天皇制 とは、 戦後は、天皇が日本国家の国家の象

 徴(名誉職)であるとする政治制度である。

 

■ 歴史学上の、天皇制とは、 天皇(国王)が 国家の象

 徴または統治者であるとする政治制度で、 歴史学上の、

 天皇制 には、 天皇が名誉職(国家の象徴)または名目

 的統治者である「名目的な天皇制」 と、 天皇が実質的

 統治者である「実質的な天皇制」 がある。

 

■ 天皇 という名称 は、 天武(てんむ)天皇(在位、67

 3〜686年)の治世(時代)から使用され、 それ以前は、

 大王(おおきみ、だいおう) と呼ばれていた。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 現在、世界の国々の実質的政治・統治制度は、 共和

 国・民主制(フランス、ドイツ等)、 大統領・民主制(アメ

 リカ等)、 王国・民主制(イギリス、スウェーデン、日本等)、 

 一党独裁制(中国、ベトナム、キューバ、イラン等)、 王族

 ・首長独裁制(サウジアラビア等)、 個人・絶対独裁制(北

 朝鮮等) などがある。

● 共和国・民主制は、 国の統治者を、 選挙で選び、 大

 統領と首相に分けて、 政治権力を分散し、 ニ重権力政

 治体制・構造にし、 絶対独裁者の出現を防いで、民主主

 義政治を実現している。 

● 将来、日本が 政治・統治制度をどのような形にするか、

 天皇制(国王制)を存続させるかどうかは、 日本国民の大

 多数が決めることになるであろう。

 

■ 天皇制 は、 古代日本から現代日本まで、 日本の国

 家権力(国家の政治の実権)を、 誰が(どちらが)握るか

 により、 2つに分類される。

● 天皇以外の者が国家権力(日本の政治の実権)を握る 

 「名目的な天皇制」 と 天皇が国家権力(日本の政治の

 実権)を握る 「実質的な天皇制」 に分かれる。

 

■ 名目的な天皇制 とは、 天皇以外の者が、 国家権力

 (国家の政治の実権(最高権力)) をもち、 日本を統治

 (支配)する制度 である。

 

 (例) 戦後(現代日本)の 「 国民主権・象徴天皇制 」。

■ 名目的な天皇制 とは、 天皇は、 名誉職(国家の象

 徴)または名目的統治者で、 政治の実権を持たず、その

 時代の政治的実力者が、 政治の実権(最高権力)を持ち、 

 日本を統治(支配)する統治制度 である。

 

● 古代の豪族連合政治 (4〜8世紀)、 摂関政治 (10

 〜11世紀)、院政 (11〜12世紀) や 中世、近世の武

 家政治 (12〜19世紀)、 や 現代国民主権政治 (現

 代の現代主権在民政治) (20〜21世紀) の日本では、 

 天皇制 は、 「名目的な天皇制」 である。

 

● 「名目的な天皇制」 は、 古代日本から現代日本まで、 

 天皇以外の者、 即ち、 有力豪族、 皇族(王族)、 天皇

 の補佐職の人臣の摂政関白、 上皇(法皇)、 武家の頭

 領(棟梁、将軍、執権、管領、老中その他の権力者)、 選

 挙で選ばれ組織された政府の首相、 などが、 最高統治

 者で、 政治の実権(最高権力)をもち、 日本を統治(支

 配)する制度 である。

 

● 名目的な天皇制の時代 は、 日本のニ重権力政治体

 制・構造の時代 で、 天皇は、 政治の実権を持たず、 

 天皇以外の者が政治の実権(最高権力)をもち、 日本を

 統治(支配)する時代 である。 

  民主主義の観点から見て、 好ましい時代である。

● 名目的な天皇制 は、民主主義でない時代には、絶対

 独裁者を防ぐ意味で、ニ重権力政治体制・構造をつくり、

 有効な政治制度であった。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 実質的な天皇制 とは、 天皇が政治の実権(最高権

 力)を持ち、 日本を統治(支配)する統治制度 である。

 (例) 戦前(近代日本)の 「 近代絶対主義天皇制 」。

 

■ 実質的な天皇制 とは、 天皇が 最高統治者で、そ

 の時代の政治的実力者で、 政治の実権(最高権力)を

 持ち、 政治の最終決定権を持ち、 日本を統治(支配)

 する制度 である。 天皇の補佐職は、天皇を単に補佐

 ・助言するだけ である。

● 古代の律令政治 (8〜10世紀)、 中世の建武の新

 政 (1333〜36年)、 近代の近代天皇親政政治 (近

 代天皇絶対主義政治) (19〜20世紀) の日本の政

 治権力体制・構造 は、 実質的な天皇制 であった。 

● 実質的な天皇制の時代は、 日本の単一権力政治体

 制・構造の時代で、 絶対独裁者の天皇が、 日本を支

 配した時代 である。 

   民主主義の観点から見れば、非常に好ましくない時

 代である。

 

■ 天皇親政政治 とは、 天皇が、 国家の政治の実権

 を握り、 直接または間接的に 政治を動かし、 日本を

 統治(支配)する政治形態 である。

■ 天皇親政政治 には、 古代天皇親政政治 (古代日

 本の大王親政政治、律令政治) と、 中世天皇親政政

 治 (中世日本の建武の新政) と 近代天皇親政政治 

 (近代日本の近代天皇絶対主義政治) がある。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 日本の政治形態。

 豪族連合政治 (4〜8世紀) ⇒ 律令政治 (8〜10

 世紀) ⇒ 摂関政治 (10〜11世紀)⇒ 院政 (11

 〜12世紀) ⇒ 武家政治 (12〜19世紀) ⇒ 近代

 天皇親政政治 (近代天皇絶対主義政治) (19〜20

 世紀) ⇒ 現代国民主権政治 (現代主権在民政治) 

 (20〜21世紀)。

 

● 日本の政治形態、 豪族連合政治、 律令政治、 摂

 関政治、 院政、 武家政治、 近代天皇親政政治、 現

 代国民主権政治 に関しては、 日本史辞典の 『 日本

 の政治形態 (にほんのせいじけいたい)、 豪族連合政

 治 (ごうぞくれんごうせいけん)、 律令政治 (りつりょ

 うせいじ)、 摂関政治 (せっかんせいじ)、 院政政治

 (いんせいせいじ)、 武家政治 (ぶけせいじ)、 近代

 天皇親政政治 (きんだいてんのうしんせいせいじ)、 現

 代国民主権政治 (げんだいこくみんしゅけんせいじ) 』 

 の項目を参照して下さい。

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● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

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#tenjobitocourtnobles

 

■ 殿上人 

     (てんじょうびと)

 

■ 殿上人。

■ 名称 : 殿上人 (てんじょうびと)。

● 英名 : Tenjobito Court Noble(s)。 

■ 朝廷の官僚制の地位(身分)の1つ。 

  特権身分。

■ 殿上人 (てんじょうびと)とは、 平安時代以後

  の、内裏または院・東宮の御所(住居)の 、常御

  殿に昇殿 (しょうでん、昇ること)を許された者で

  ある。

■ 殿上人(てんじょうびと)には、 内裏の殿上人

  と、 院・東宮の殿上人 がある。

■ 内裏の殿上人 (だいりのてんじょうびと)とは、

  天皇の御所(住居)の内裏または里内裏の、

  天皇の常御所(つねごてん、日常の居所)であ

  る「清涼殿」(せいりょうでん)の、「殿上間」(て

  んじょうのま)に、天皇より昇殿(昇ること)を

  された者である。

 院・東宮の殿上人(いん・とうぐうのてんじょうび

  と)とは、 院(いん、上皇)や東宮(とうぐう、皇太

  子)の御所(住居)の、常御所(つねごてん、日常

  の居所)に、院や東宮より昇殿を許された者

  ある。

▲ 内裏 (だいり、= 天皇の住居)、「清涼殿」(せい

  りょうでん)に関しては、 「内 裏」、「清涼殿」を参

  照してください。

▲ 天皇に関しては、天皇」、「天皇家」、「朝廷」を 

  参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 01026。

 

 

◆ 殿上人 (総合)。

■ 殿上人 (てんじょうびと)とは、 平安時代以後

  の、内裏または院・東宮の御所(住居)の、常御

  殿に昇殿を許された者である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

● 殿上人 (てんじょうびと)とは、 平安時代以後

  の、内裏(だいり、 天皇の住居)または院・東宮

  (いん・とうぐう、上皇・皇太子)の御所(住居)の、

  常御所(つねごてん、日常の居所)に昇殿(しょう

  でん、昇ること)を許された者である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 殿上人は、 天皇や院・東宮の常御所(つねご

  てん、日常の居所)に昇殿(昇ること)を許された

  者であり、 朝 廷の地位(身分)であり、特権身

  分であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 殿上人。    

    殿上人(てんじょうびと)には、内裏の殿上人 

  と、 院・東宮の殿上人がある。

 

■ 天皇や院・東宮の常御所(つねごてん、日常の居

  所)に昇殿(昇ること)を許された者である殿上人

  は、 天皇や院・東宮の一代限りであり、 代替わ

  りに当たっては昇殿許可を失い、再び昇殿するに

  は、改めて勅許(ちょっきょ、天皇の許可)や院・東

  宮の許可が必要であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 内裏の殿上人。 

■ 内裏の殿上人 (だいりのてんじょうびと)とは、

  天皇の御所(住居)の内裏または里内裏の、

  天皇の常御所(つねごてん、日常の居所)である

  「清涼殿」(せいりょうでん)の、「殿上間」(てんじ

  ょうのま、殿上の間)に昇殿(昇ること)を許され

  た者(に入ることを許された者)である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 内裏の殿上人。 

■ 内裏の殿上人 (だいりのてんじょうびと)とは、

  内裏(だいり、天皇の住居、天皇御所)または

  里内裏(さとだいり、天皇の仮住居、仮天皇御

  所)の、天皇の常御所(つねごてん、日常の居

  所)である「清涼殿」(せいりょうでん)の、「殿上

  間」(てんじょうのま)に 、天皇より昇殿(昇るこ

  と)を許された者である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 内裏の殿上人 (だいりのてんじょうびと)は、

  「内の殿上人」(うちのてんじょうびと)とも言われ、

   9世紀以降の日本の朝 廷において、 @ 位階

  五位以上の者の中で、内裏(だいり、 天皇の住

  居、天皇御所)または里内裏(さとだいり、天皇の

  仮住居、仮御所)内の、天皇の常御所(つねごて

  ん、日常の居所)である清涼殿(せいりょうでん、

  天皇の日常の居所)の部屋の1つの「殿上間」

  (てんじょうのま、殿上の間)に昇殿(昇ること)を

  許された者(に入ることを許された者)、または、

  A 六位以上の者で内裏の蔵人(だいりのくろう

  ど、天皇秘書役)に叙任された者である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 内裏の殿上人。 

● 内裏(だいり、天皇の住居)の殿上人は、位階

  五位以上の者で内裏(だいり、 天皇の住居、天

  皇御所)の、天皇の常御所(つねごてん、日常の

  居所)である「清涼殿」(せいりょうでん)の、「殿

  上間」(てんじょうのま)に、天皇より昇殿を許さ

  た者、または、六位以上の者で 天皇から内裏

  の蔵人(くろうど、天皇秘書役)に叙任された者

  である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 内裏の殿上人。 

■ 内裏の殿上人は、位階・五位以上で昇殿を許

  された者や位階・六位以上の内裏の蔵人(くろ

  うど、天皇秘書役)である。

 内裏の殿上人は、 朝廷の位階・五位以上の

  者で「清涼殿」(せいりょうでん)の「殿上間」

  (てんじょうのま)に天皇より昇殿を許された者 

  (五位以上の者の一部) や 朝廷の位階・六

  位以上の者で天皇より内裏の蔵人(くろうど、

  天皇秘書役)に叙任された者である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 院・東宮の殿上人。  

 院・東宮の殿上人(いん・とうぐうのてんじょうびと)

  とは、 院(いん、上皇)や東宮(とうぐう、皇太子)の

  御所( ごしょ、住居)の、常御所(つねごてん、日常

  の居所)に、院や東宮より昇殿(昇ること)を許され

  た者(に入ることを許された者)である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 院・東宮の殿上人(いん・とうぐうのてんじょうびと)

  とは、 院・東宮(いん・とうぐう)御所の殿上人であ

  り、 院の御所(いんのごしょ、上皇の住居)や

  宮 の御所(とうぐうのごしょ、皇太子の住居)の、

  常御所(つねごてん、日常の居所)に、院(上皇)や

  東宮(皇太子)より昇殿(昇ること)を許された者(に

  入ることを許された者)である。 

      院・東宮の殿上人には、院・東宮(いん・と

  うぐう)の近臣が多かった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 清涼殿  

■ 清涼殿(せいりょうでん)は、 平安京の内裏(だい

  り)の殿舎(建物)の1つである。

 

■ 清涼殿(せいりょうでん)は、 平安京(= 京都、京の

  都)の、内裏(だいり、天皇の住居)の殿舎(建物)の

  1つであり、 天皇の日常の居所であり、天皇の政務、

  儀式等も行う建物である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 清涼殿(せいりょうでん)は、 平安京(= 京都、京の

  都)内の、平安宮(= 大内裏)内の、内裏(だいり、天

  皇の住居)の殿舎(建物)の1つであり、 平安宮の

  内裏の正殿の紫宸殿(ししんでん)の北西に隣接し、 

  天皇の日常の御座所(天皇が日常住んだ所)であり、

  叙位(じょい)、除目(じもく)等の政務や四方拝、小

  朝拝等の儀式の天皇の公事(くじ)も行われた。

     清涼殿の中にある部屋の1つに、「殿上間」(て

   じょうのま、殿上の間)があった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 平安京と平安宮  

■ 平安京 (へいあんきょう)は、 別名は、京都、京の

  都(きょうのみやこ)と言い、  平安時代から明治時

  代初期まで、794年から1869年までの間、 京都

  府・京都市付近の、天皇の 住居(= 内裏)、天皇の

  宮殿(= 宮城)があった都市である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 平安宮 (へいあんきゅう)とは、別名 は、大内裏

  (だいだいり)と言い、 日本の平安時代(794年〜

  1192年)の、794年から1177年頃まで、 日本

  の京都市上京区(かみぎょうく)付近にあった、宮城

  (= 天皇の宮殿 )である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。            

 

 

◆ 内裏の殿上人になるための最低条

  件の位階。

 

■ 従五位下。

■ 内裏の殿上人は、 朝廷の位階・五位以上 の者

  で天皇より昇殿を許された者である。

● 朝廷の位階・従五位下 (じゅごいのげ)は、 

  蔵人を除き、内裏の殿上人になるための最低条

  件の朝廷の位 階 であり、 正一位(しょういちい)

  から少初位下(しょうそいのげ、しょうしょいのげ)

  までの朝廷の30位階の、上から14番目の位階

  である。

 

■ 従六位下。

■ 内裏の殿上人は、朝廷の位階・六位以上 の者で

  天皇により内裏の蔵人(くろうど、天皇秘書官)に

  叙任された者である。

● 朝廷の位階・従六位下 (じゅろくいのげ)は、蔵

  人(くろうど)に叙任され、内裏の殿上人になるた

  めの最低条件の朝廷の位階 であり、 正一位(し

  ょういちい)から少初位下(しょうそいのげ、しょう

  しょいのげ)までの朝廷の30位階の、上から18

  番目の位階である。

 

 

◆ 内裏の蔵人。

■ 蔵人(くろうど)とは、 秘書役であり、 天皇、

  院(= 上皇)、摂関家などの秘書役である。

 

● 蔵人(くろうど)は、 内裏(だいり、天皇の住

  居)の他に、院の御所や摂関家の御殿などで

  も置かれた。

 

■ 天皇の秘書役は、内裏の蔵人(だいりのくろ

  うど)である。

 

■ 内裏の蔵人(だいりのくろうど)は、 天皇の

  秘書役であり、 内裏(だいり、= 天皇の住居)

  の蔵人所(くろうどどころ)の職員である。

 

● 蔵人所(くろうどどころ)は、 内裏の蔵人が事

  務を行う場所で、内裏内の殿舎(建物)の1つで

  ある校書殿(きょうしょでん)の北部に置かれた。

 

■ 内裏の蔵人は、 宮中の雑事(事務、行事等)

  の処理に当たる。

 

■ 内裏の蔵人は、朝廷の官職であり、 朝廷の

  位階・六位以上で天皇より蔵人に叙任された

  者であり、   天皇より 昇殿(しょうでん)を許さ

  れた、殿上人(てん じょうびと)の身分・地位で

  ある。

 

■ 内裏の蔵人は、 令外官(りょうげのかん、律

  令制の職員令に規定されていない官職)である。 

 

■ 内裏の蔵人は、 朝廷では平安 時代初期に置

  かれ、天皇家(王家,皇室)の文書を保管する

  倉(くら)を管理する蔵人所(くろうどどころ)の役

  職であ り、 次第に天皇(家)に近侍して朝廷の

  務に 関与するようになり、要職となった。  

 

■ 内裏の蔵人は、 当初は機密文書・訴訟などを

  扱(あつか)い、後には、宮中の雑事(事務、行

  事等)の処理にも当たり、更に、詔勅(しょうちょ

  く)や上奏(じょうそう)の伝達、天皇の警護、事

  務、雑務等の、天皇の常御所(つねごてん、日

  常の居所)である「清涼殿」(せいりょうでん)の、

  「殿上間」(てんじょうのま)のあらゆることを取

  り仕切る機関となる。

 

 

 

◆ 朝廷の身分・地位。

■ 公卿 (くぎょう )は、 位階三位(さんみ)以上 の

  者で、公卿の官職に叙任された者 や、 位階・四

  位以上の者で公卿の参議(さんぎ)に 叙任された者

  である。 

     公卿は、朝廷の政務を左右する重要職であっ

  た。

 

■ 内裏の殿上人 ( だいりのてんじょうびと)は、 

  位階・五位以 上の者で、 天皇の常御所(つねごて

  ん、日常の居所)である「清涼殿」(せいりょうでん)

  の、「殿上間」(てんじょうのま)に、天皇より昇殿を

  許可された者 (五位以上の者の一部) や、 位

  階・六位以上の者で、蔵人(くろうど、天皇秘書役)

  に叙任された者である。

 

 

◆ 朝廷の位階。

■ 前近代日本 (古代日本の飛鳥白鳳時代〜

  近世日本の江戸時代) の律令官制(律令制

  度の官僚制)の朝廷の位階は、一位 (いちい)

  から八位(はちい)、初位(そい)までで、30位

  階があった。

 

■ 貴族 (きぞく、一位から五位まで) は、

  五位以上の位階をもつ者 

 ● 貴 (き、一位から三位まで) 

 ● 通貴 (つうき、四位から五位まで)。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ 六位以下の位階をもつ者 (六位七位

  初位(そい))。

 

◆ 貴族 、五位以上の位階をもつ者。

 ● 一位から五位までの、14位階の者。

 

 ■ 貴 (一位から三位までの、6位階) 

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。 

 ■ 一位 (いちい)。  

 ● 正一位 (しょういちい)。

 ● 従一位 (じゅいちい)。

 ■ 二位 (にい)。  

 ● 正二位 (しょうにい)。

 ● 従二位 (じゅにい)。

 ■ 三位 (さん)。  

 ● 正三位 (しょうさん)。

 ● 従三位 (じゅさん)。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 ■ 通貴 (四位から五位までの、8位階)。

 ■ 四位 (しい)。  

 ● 正四位上 (しょうしいのじょう)。

 ● 正四位下 (しょうしいのげ)。

 ● 従四位上 (じゅしいのじょう)。

 ● 従四位下 (じゅしいのげ)。

 ■ 五位 (ごい)。  

 ● 正五位上 (しょうごいのじょう)。

 ● 正五位下 (しょうごいのげ)。

 ● 従五位上 (じゅごいのじょう)。

 ● 従五位下 (じゅごいのげ)。

 

◆ 六位以下の位階をもつ者。

 ■ 六位 (ろくい)。  

 ● 正六位上 (しょうろくいのじょう)。

 ● 正六位下 (しょうろくいのげ)。

 ● 従六位上 (じゅろくいのじょう)。

 ● 従六位下 (じゅろくいのげ)。

 

 

♪♪ 殿上人が登場する、興味深い、

  ドキュメンタリー、ドラマ、映画。 

 

★ 殿上人が登場する、興味深い、ド

  ラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画 は、フィクションです。 

  歴史のドラマや映画は、史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が、 混じって、描かれてい

  ます。 また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 平清盛 (たいらのきよもり) 』 

   (NHKテレビ・2012年大河ドラマ、50話)。

● 平安時代末期を描いたドラマで、 当時活

  躍した人物や当時の時代状況を描く

● 平清盛が、 内裏の殿上人になるための、

  従五位下という位階を叙位されるシーンが

  登場する。

 

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#terasakakichiemon(nobuyuki)

 

■ 寺坂 吉右衛門(信行) 

     (てらさか きちえもん(のぶゆき)

 

■ 寺坂吉右衛門(信行) 

■ 名称 : 寺坂吉右衛門(信行) 

        (てらさかきちえもん(のぶゆき))。

■ 元禄赤穂事件の、赤穂四十七士の1人。

■ 吉良邸討ち入り後、姿を消す (切腹・自害

  せず)。

 

 

■ 寺坂吉右衛門(信行) (てらさかきちえもん

  (のぶゆき)) は、 元禄赤穂事件の、赤穂

  四十七士の1人 である。

 

■ 寺坂吉右衛門(信行)は、 吉良邸に討ち入

  した赤穂浪士47人の1人で あり、 赤穂藩

  元足軽である (士分ではない)。

 

■ 寺坂吉右衛門(信行)は、 吉良邸に討ち入

  り、赤穂浪士が吉良を殺害後、 何らかの理

  由で、突然姿を消す。

 

■ 寺坂吉右衛門(信行)は、 赤穂藩元家老の

  大石内蔵助(良雄)から何らかの密命を受け

  て離れたという説がある。 

 

            

■ 寺坂 吉右衛門(信行)。

■ 1703年(元禄16年)2月に、 江戸幕府の命

  (命令)で、 討ち入りをした赤穂浪士47人のう

  ち46人が、切腹した。 討ち入りした赤穂浪士

  は、江戸の高輪・泉岳寺に葬られた。

       1702年(元禄15年)12月の吉良邸討ち入り

  後、 赤穂浪士が幕府の指定した屋敷にお預け

  になる前に、 吉良邸に討ち入りした赤穂浪士

  47人の1人の赤穂藩元足軽の寺坂吉右衛門(信

  行)(てらさかきちえもん(のぶゆき))が、 何らか

  の理由で突然姿を消したため、 後に、1703年

  (元禄16年)2月に切腹したのは、 赤穂浪士46

  人である。

     寺坂吉右衛門(信行) は、 赤穂藩元家老

  の大石内蔵助(良雄)から何らかの密命を受けて

  離れたという説がある。 

     寺坂吉右衛門(信行)は、討ち入り時38歳で、

  赤穂事件後に幾つかの家に仕(つか)えた後、享

  年83歳で、江戸で没す。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#changingthefief

 

■ 転封。  

     (てんぽう)

 

■ 転封。 

■ 名称 : 転封 (てんぽう)。

■ 別名 : 移封(いほう)、 国替え(くにがえ)。

■ 《領地》。

■ 転封とは、領地替え である。

■ 領地豊臣政権 江戸幕府

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 41918。

 

 

 ■ 転封。

 

  ■ 転封(てんぽう)とは、

    別名は、移封(いほう)、国替え(くにがえ)であり、

    領地替え、領地配置換えのことである。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 転封(= 移封 、国替え)とは、 

    封土の領地(所 領)を他に移すことである。

 

  ■ 転封 (てんぽう)とは、 封土 (ほうど、英:

    FIEF(S),FEUDAL ESTATE(S)) の

    領地を、転じる、つまり、替(か)えることで

    ある。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 転封(= 移封 、国替え)とは、 

    前近代日本の封建制社会で、 

    封建領主が、他の領地(所領)に移ることで

    ある。 

                            

  ■ 転封(= 移封 、国替え)は、 

    桃山時代や江戸時代では、

    大名等の領地配置換えである。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 転封。

 

  ■ 転封(= 移封 、国替え)は、 

    封建領主の武士の支配者の

    領地(封土)政策の1つ である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 転封(= 移封 、国替え)は、 

    桃山時代では、

    豊臣政権の命令での大名等の領地配置換え

    であり、 

    江戸時代では、

    江戸幕府の命令での大名(藩主)等の領地配

    置換えである。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 

 ■ 転封。

 

  ■ 転封(= 移封 、国替え)は、 

    前近代日本の封建制社会の主従関係では、 

    勢力のある支配者が、領地(封土)政策の

    1つとして、臣下の領地(所領)を他に移す

    ことである。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ● 実例としては、 

    安土桃山時代に、

    豊臣秀吉の命令で、1590年(天正18年)

    に、徳川家康の領地は、中部地方から関東

    地方に領地替えとなった。 

       これ以後、家康の関東の本拠地の江

    戸の基盤整備が行われ、今日の東京の初

    期の基盤ができる。

 

 

 

 

♪♪ 転封が登場する、興味深 い、ドキ

    ュメンタリー、ドラマ、映画。 

 

 ★ 転封が登場する、 興味深い、ドラ

    マ、映画。

 

  ● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

    歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

    実) と 架空の出来事が 混じって描かれ

    ています。 また、現代風にアレンジしてあり

    ます。

 

 ■ 『 引っ越し大名! 』。

     (2019年制作日本映画)。

     (原作:土橋章宏の小説

          「引っ越し大名三千里」)。

     (脚本:土橋章宏(どばしあきひろ))。

 

  ■ 江戸時代の人物、風習、建物、社会状況

    などを描く。

 

  ■ 江戸時代の転封(=国替え)を描く。

 

  ● 「片桐春之介」(かたぎりはるのすけ)を演じ

    た俳優名 : 星野 源 (ほしの げん)。

    〇 「片桐春之介」は、 松平家の上士(じょ

    うし、上級武士)で内気で本の虫で、家老か

    ら、藩の書庫番から藩の引っ越し奉行の職を

    強引に引き受けさせられ、任命される。

 

  ● 「於蘭」(おらん)を演じた女優名 : 

    高畑 充希 (たかはた みつき)。

    〇 「於蘭」は、 松平家の下士(かし、下級

    武士)で前の引っ越し奉行の板倉重蔵(いた

    くらしげぞう、過労死)の娘であり、藩引っ越し

    の手引書を所持する。

    

  ● 「松平直矩」(まつだいらなおのり)を演じた

    俳優名 : 及川 光博 (おいかわ みつひろ)。

    〇 「松平直矩」は、 江戸幕府に、生涯に

    6回も転封(=国替え)をさせられた松平家

    (後の越前松平家に連なる親藩)の藩主で

    ある。 

    〇 「松平直矩」は、歴史上実在した人物

    で、史実でも6回も転封(=国替え)をさせられ

    ている。 

    〇 転封(=国替え)先: 

    出羽国山形藩⇒播磨国姫路藩⇒

    越後国村上藩⇒播磨国姫路藩⇒

    豊後国日田藩⇒出羽国山形藩⇒

    陸奥国白河藩。

    

  ● 「鷹村源右衛門」(たかむらげんえもん)を演

    じた俳優名 : 高橋 一生 (たかはし いっ

    せい)。

    〇 「鷹村源右衛門」は、松平家の御刀番で

    片桐春之介の幼馴染みで、 家老から、誰も

    引き受けたがらない引っ越し奉行の職を引き

    受けさせられそうになり、片桐春之介を推薦し、

    春之介に強引に引き受けせる。

 

 

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#thepremodernusageofgunsandcanons

 

■ 鉄砲・大砲の利用 

     (てっぽう・たいほうのりよう)

 

■ 鉄砲・大砲の利用 

■ 名称 : 鉄砲・大砲の利用 (てっぽう・たい

  ほうのりよう)。

■ 前近代日本の中世後期・近世前期の日本の、

  鉄砲・大砲の利用。

■ 1543年に、九州の種子島(たねがしま)に鉄

  砲が伝来。 翌年に国産銃ができる。 その後、

  国産銃の大量生産が起こり、 戦場での大量の

  銃の使用が戦い方を変化させる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61726。

 

 

■ 中世後期・近世前期の日本の鉄砲・大砲の利用。

     1543年に、九州の種子島(たねがしま)に

  鉄砲が伝来する。 翌年に国産銃ができる。 

     その後、国産銃の大 量生産が起こり、大砲も

  つくられ、戦場での大量の銃の使用や大砲の使

  用が、戦国時代・安土桃山時代・江戸時代初期の

  日本での、戦い方を変化させた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 前近代日本の鉄砲・大砲の利用 (てっぽうた

  いほうのりよう) は、 日本では、16世紀から

  本格的に始まる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 鉄砲伝来。

    1543年(天文12年)に、ポルトガル人を乗せた

  倭寇の船が、種子島に漂着し、ポルトガル人から鉄

  砲が日本に伝えられた。

    ポルトガル人を乗せて、中国の寧波(にんぽー)

  に向かう、王直(おうちょく、生年不詳ー1557年)

  の倭寇(わこう、漢人商人・海賊)の船が、1543年

  (天文12年)に、南西諸島の種子島(たねがしま)に

  漂着し、種子島の領主・種子島時尭 (たねがしま

  ときたか、1528−79年)が、ポルトガル人が持っ

  ていた鉄砲2丁を購入した。 

     それをもとに種子島で初めて鉄砲(種子島銃)

  が製造され、それ以後、その鉄砲製造技術が日本

  国内各地に伝わり、国内各地で大量の鉄砲が、(部

  品分業生産で)製造されるようになった。

 

■ 鉄砲伝来。

    1543年に、九州の種子島(たねがしま)に鉄砲

  が伝来する。 翌年に国産銃ができる。

    1543年に、九州の種子島に、 倭寇(わこう)の

  船が漂着し、 漂着船に乗っていたポルトガル人  

  (または、倭寇(わこう)の頭目(とうもく、リーダー)

  の漢人(五峰(ごほう、王直)) は、 種子島領主の、

  種子島時堯 (たねがしまときたか、1528〜79年)

  に、 鉄砲を高額で売却した。

    16世紀当時、 ポルトガルは、 東シナ海や南シ

  ナ海に勢力をもつ倭寇(わこう、海賊) と手をくみ、 

  東アジア諸国や東南アジアとの貿易を行っていた。

     種子島時堯は、 ポルトガル人 (または、倭

  寇(わこう)の漢人) から買い取った鉄砲およ び火

  の製法を家臣に学ばせ、 砂鉄のとれる種子島

  で、鉄砲を鍛冶(かじ)職人に見せ、 同じものを製

  作させる。 翌年の1544年に、種子島で、模造国

  産銃が、ほぼ完成する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ その後、国産銃の大量生産が起こり、 戦場での

  大量の銃の使用が戦い方を変化させる。

     国産銃の大量生産や大砲の流入とそれらの使

  用で、 戦国時代、安土桃山時代、江戸時代の戦争

  は、徐々に、刀、槍、弓矢などの従来の武器から、 

  鉄砲・大砲などの武器が中心となっていき、戦法が

  変化していった。

     日本各地のも、鉄砲や大砲などの兵器 にも

  備えられる形態に変化した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 関ヶ原の戦いでの大砲使用。

  ● 石田三成は、 1600年(慶長5年)の関ヶ原の

   戦いで大砲を使用し、 徳川方の敵兵の勢いをひ

   るませる、戦果をあげた。

 

■ 大坂冬の陣での大砲の大量使用。

  ● 徳川家康の率いる徳川方は、 1614年(慶長

   19年)の、大坂冬の陣で、大量の大砲を使い、多

   数の砲弾を撃ち込み、当時の砲弾自体は爆発し

   ないが建物、構築物を貫通させる威力があり、 

   豊臣方の兵士に、精神的ダメージを与えた。

      特に、イギリス製の高性能の大砲は、飛距離

   が長く、 砲弾自体は爆発しないが建物、構築物を

   貫通させる威力があり、 豊臣大阪城の天主まで

   届いた砲弾による建物破壊で淀殿の侍女が死去し、

   淀殿を怯(おび)えさせた。 これが、豊臣方の和議

   (停戦)の原因の1つとなった。

   

 

■ 鉄砲・大砲の利用が登場する、興味

  深いドキュメンタリー 、ドラマ、映画。 

 

★ 鉄砲・大砲の利用が登場する、興味

  深いドキュメンタリー。 

 

■ BS歴史館 『 シリーズ 日本の

  インパクト@ 鉄砲伝来〜最強兵

  器が時代を変えた〜 』。 

   (NHKテレビ・2013年(H25)11月14日・

   本放送のドキュメンタリー番組)。

● 鉄砲や大砲がもたらした日本の変化を述べる。

 

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#theemperortenmu

 

■ 天武天皇 

     (てんむてんのう)

 

■ 天武天皇。

■ 名称 : 天武天皇 (てんむてんのう)。

● 英名 : the Emperor Tenmu、 

   the Tenmu Emperor。 

■ 天智天皇(てんじてんのう)の弟。

 

 

 天武天皇 (てんむんのう)は、 天智天皇

  (てんじてんのう)の弟 である。

    天武天皇は、 即位前は、 大海人皇子

   (おおあまのみこ) と名乗る(称す)。

    天武天皇は、 生没年は631年?〜

  686年で、 天皇在位は673年〜686

  である。

    天武天皇の英名 は、the Emperor 

  Tenmu、 the Tenmu Emperor で

  ある。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 671年に、天智(てんじ)天皇 (在位668

  〜671年、中大兄皇子)が 崩御(ほうぎょ、

  死去)し、 672年に、 天智天皇(中大兄皇

  子)の弟の大海人皇子(おおあまのみこ、後

  の天武天皇、631?〜686年) と 天智天

  皇(中大兄皇子)の子の大友皇子(おおとも

  のみこ、648〜672年)の間で、 壬申の乱

  (じんしんのらん)が起こり、 大海人皇子が

  勝利を得る。 672年の壬申の乱後、 翌年

  673年に、大海人皇子は、 飛鳥浄御原宮

  (あすかきよみはらのみや)で、天武天皇(て

  んむてんのう)として即位した。 

    壬申の乱で大友皇子の近江朝廷(おうみ

  ちょうてい)に味方した有力中央豪族が没落

  し、 強力な権力を手にした、天武天皇は、朝

  廷の実権を握り、 政治改革を本格的に実施

  し、 天武天皇時代(在位673〜686年)か 

  ら、 中央集権化(中央集権的国家体制の形

  成)、律令制度の基礎が進んだ (本格的に形

  成され始める)。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

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#theemperortenji

 

■ 天智天皇 

     (てんじてんのう)

 

■ 天智天皇。

■ 名称 : 天智天皇 (てんじてんのう)。

● 英名 : the Emperor Tenji、

    the Tenji Emperor。 

■ 皇極(こうぎょく)天皇(女帝)の子。

 

 

 天智天皇 (てんじてんのう)は、 皇極(こ

  うぎょく)天皇(女帝)の子 である。

    天智天皇は、 即位前は、 中大兄皇子

  (なかのおおえのみこ) と名乗る(称す)。

    天智天皇は、 生没年は626〜671年

  で、 天皇在位は668〜671年である。

    天智天皇の英名 は、 the Emperor 

  Tenji、 the Tenji Emperor である。 

 

■ 大化の改新では、 中大兄皇子 (なかのお

  おえのみこ、626−671年、後の天智天皇)、 

  中臣鎌足 (なかとみのかまたり、614−669

  年、後の藤原鎌足) が、 乙巳の変(いっしの

  へん)で、 朝廷の実権を握る、有力豪族の蘇我

  の蘇我蝦夷(そがの えみし)、蘇我入鹿(そが

  のいるか)父子を滅ぼし、 孝徳(こうとく)天皇

  を擁立し、 中大兄皇子が朝廷の実権を握り、政

  治改革に着手した。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 大化の改新 とは、 有力豪族を排除し、 王

  族中心の中央集権政治をめざした改革で、豪

  族による土地人民の私有と氏姓制度による官

  職の世襲を取り除いて、 中央集権国家を作り

  上げようとした。

 

■ 大化の改新 (たいかのかいしん、大化改新)

  は、 飛鳥白鳳時代(あすかはくほうじだい、

  592〜710年)の政治改革で、 645 年(大

  化元年)から654年までの孝徳天皇(在位6

  45〜654年)時代の諸改革である。

 

■ 中大兄皇子 (なかのおおえのおうじ、後の

  天智天皇)、 中臣鎌足(なかとみのかまたり、

  後の藤原鎌足)が、中央集権化や律令制度

  の基礎の構築に着手し始める。 

 

■ 豪族 (ごうぞく)とは、 地方の有力者である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 645年、初めて、倭国(わこく、日本)の年号 

  (日本暦) を定めた。 

    645年の乙巳の変(いっしのへん)後、中  

  大兄皇子(天智天皇)は、 645年を、大化元

  年とした。

 

■ 645年の乙巳の変(いっしのへん)。  

    中大兄皇子(天智天皇)、中臣鎌足(藤原

  鎌足)のクーデター。

● 中大兄皇子(天智天皇)、中臣鎌足(藤原

  鎌足)が、 朝廷の実権を握(にぎ)っていた

  蘇我氏の蘇我蝦夷・蘇我入鹿(そがのえみ

  し・いるか)父子を殺害し、 代わって、中大

  兄皇子(なかのおおえのみこ、後の天智天

  皇)、 中臣鎌足(なかとみのかまたり、後の

  藤原鎌足) が、 朝廷の実権を握った。

● 大王位(皇位)継承問題。

     蘇我氏の蘇我蝦夷、蘇我入鹿父子は、

  次期の大王(天皇)に、中大兄皇子以外の

  蘇我氏系の皇子・古人大兄王(ふるひとの

  おおえのおう)を、擁立しようと考えていた。 

     蘇我氏の意にならず、蘇我氏系でもな

  い、大王位(天皇)継承候補の、中大兄皇子

  は、 朝廷の実権を握っていた蘇我氏の蘇

  我蝦夷・蘇我入鹿父子にとって邪魔であり、 

  蘇我蝦夷・蘇我入鹿父子により暗殺される

  可能性があった。 

    次期の大王位(皇位)の継承もできず、ま

  た、いつ殺されるかわからない、中大兄皇子

  は、 蘇我氏の分家で軍事力をもつ、蘇我倉

  山田石川麻呂 (そがのくらやまだのいしかわ

  まろ、生年不詳ー649年) の娘を嫁にもらい、 

  中臣鎌足(後の藤原鎌足)や軽皇子(かるのみ

  こ、後の孝徳天皇) を味方につけ、 先手を

  打って、蘇我蝦夷・入鹿父子を殺害した。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 645年(大化元年)に、 中大兄皇子(なか

  のおおえのみこ、軍事力なし、後の天智天

  皇) が、 蘇我倉山田石川麻呂 (蘇我氏の

  分家で軍事力をもち、中大兄皇子の夫人の

  父、生年不詳〜649年)、 中臣鎌足 (なか

  とりのかまたり、神官職で軍事力なし、後の藤

  原鎌足) らの協力を得て、 宮中で、皇極(こ

  うぎょく)天皇(女帝)の御前で、 蘇我 入鹿(そ

  がのいるか、豪族の一人、大軍事力をもつ、生

  年不詳〜645年) を殺害し、 その後すぐ、

  蘇我入鹿の父の蘇我蝦夷 (そがのえみし、

  生年不詳〜645年)の館(やかた)を急襲し、 

  蘇我蝦夷を自殺させた。 その結果、 中大兄

  皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足(後の藤原鎌

  足)が、 朝廷の実権を握った。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 蘇我氏の勢力喪失。

■ 中大兄皇子 (なかのおおえのおうじ、後の

  智 (てんじ)天皇)、  中臣鎌足(なかとみのか

  またり、後の藤原鎌足)、  蘇我氏分家の蘇我

  倉山田石川麻呂 (そがのくらやまだのいしか

  わまろ)らが、 645年に起こした乙巳の変(い

  っしのへん)で、 蘇我氏本家の蘇我蝦夷・蘇我

  入鹿父子を滅ぼし、 乙巳の変後、 649年に、

  蘇我氏分家の蘇我倉山田石川麻呂が、 讒言

  (ざんげん)により中大兄皇子らに攻められて

  山田寺(やまだでら)で自殺し、 蘇我氏は、

  力を失った。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 大化の改新。

■ 645年の乙巳の変(いっしのへん)後、 中

  大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足(後の 

  藤原鎌足) が、 中央集権化や律令制度の

  基礎の構築に着手し始める。 

    中大兄皇子(天智天皇)、中臣鎌足(藤原

  鎌足) は、氏姓制度から律令制度の基礎へ

  の転換をめざした。

    しかし、 蘇我氏以外の日本の各豪族の

  勢力を弱めることは容易なことではなかった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 唐・新羅と対抗。

■ 618年に建国した中国の唐は、 朝鮮半島

  の新羅(しらぎ、4C.半〜935年)と組んで、 

  朝鮮半島の百済(くだら、4C.半〜660年)、

  高句麗(こうくり、?〜668年)を攻め、 倭

  国(わこく、日本)と友好関係にあった百済 

  (くだら)は660年に滅び、 中大兄皇子

  (天智天皇)は、唐の倭国(日本)への侵略

  を恐れた。 

    そのため、 中大兄皇子 (626〜671

  年、天智(てんじ)天皇・在位668〜671年) 

  は、 中国の唐の勢力を抑えるため、 663

  年に、百済(くだら)復興をめざし、 倭国(わ

  こく、日本)と旧百済残存勢力 が、 唐・新

  羅連合軍と戦い、 決戦の「白村江 (はくす

  きのえ、はくそんこう)の戦い」(663年)が起

  こり、惨敗した。

    倭国(わこく、日本)の敗戦後、 中大兄 

  皇子(天智天皇)は、 中国の唐の侵入に備

  え、倭国(日本)の防備を固め、 唐の技術、

  文化をより積極的に採り入れることにも努力

  する。

    中大兄皇子(天智天皇)は、 667年に、

  都を、近江大津宮(おうみおおつのみや)に

  移し、 668年に、天智天皇(てんじてんのう、

  天皇即位:668−671年) として即位した。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 天智天皇死去後。 

■ 671年に、天智(てんじ)天皇 (在位668

  〜671年、中大兄皇子)が 崩御(ほうぎょ、

  死去)し、 672年に、 天智天皇(中大兄皇

  子)の弟の大海人皇子(おおあまのみこ、後

  の天武天皇、631?〜686年) と 天智天

  皇(中大兄皇子)の子の大友皇子(おおとも

  のみこ、648〜672年)の間で、 壬申の乱

  (じんしんのらん)が起こり、 大海人皇子が

  勝利を得る。 672年の壬申の乱後、 翌年

  673年に、大海人皇子は、 飛鳥浄御原宮

  (あすかきよみはらのみや)で、天武天皇(て

  んむてんのう)として即位した。 

    壬申の乱で大友皇子の近江朝廷(おうみ

  ちょうてい)に味方した有力中央豪族が没落

  し、 強力な権力を手にした、天武天皇は、朝

  廷の実権を握り、 政治改革を本格的に実施

  し、 天武天皇時代(在位673〜686年)か 

  ら、 中央集権化(中央集権的国家体制の形

  成)、律令制度の基礎が進んだ (本格的に形

  成され始める)。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

♪♪ 天智天皇(中大兄皇子)が登場す

  る興味深い、ドキュメンタリー、 ドラ

  マ、映画。

 

★ 天智天皇(中大兄皇子)が登場する

  興味深い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

    歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

    と 架空の出来事が混じって描かれています。 

   また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 大化改新 (たいかのかいしん) 』 。 

   (NHKテレビ・2005年・本放送・

   古代史ドラマスペシャル)。

● 中大兄皇子 (なかのおおえのみこ、皇極

  天皇の息子、後の天智(てんじ)天皇)を

  じた俳優 : 小栗旬。

 

● 中臣鎌足(なかとみのかまたり)を演じた

  俳優 : 岡田 准一 (おかだ じゅんいち)。

● 皇極天皇 (こうぎょくてんのう、宝皇女(た

  からのひめみこ)を演じた女優 : 高島礼子。

● 軽皇子(かるのみこ、皇極天皇の弟)を演

  じた俳優 : 吹越 満。

● 蘇我蝦夷(毛人)(そがのえみし)を演じた

  俳優 :  原田芳雄。

● 蘇我入鹿(そがのいるか)を演じた俳優 : 

  渡部 篤郎。

● 蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだの

  いしかわまろ)を演じた俳優 :  伊武雅刀。

● 山背大兄王 (やましろのおおえのおう)を

  演じた俳優 : 山口 祐一郎。

 

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#tenpyobunka

 

■ 天平文化 

      (てんぴょうぶんか)。

 

■ 天平文化。

■ 時期 : 8世紀初頭〜8世紀末。

■ 名称 : 天平文化 (てんぴょうぶんか)。

■ 奈良時代の、 高度な貴族文化、 盛唐(せいとう)文

 化の影響が強い国際文化、 鎮護(ちんご)国家思想に

 基づく仏教文化 等を中心とする文化。

 

  東大寺大仏 アルバム NO.1

 

 

■ 天平文化  (8世紀初頭〜8世紀末)。

● 日本の天平(てんぴょう)文化 (8世紀初頭〜8世紀末) 

 は、 奈良時代の、 高度な貴族文化、 盛唐(せいとう)文

 化の影響が強い国際文化、 鎮護(ちんご)国家思想に基

 づく仏教文化 等を中心とする文化 である。 

 

● 天平(てんぴょう)文化の仏教文化は、 鎮護(ちんご)国

 家、 学力を必要とする顕教(けんぎょう) 等を特徴とする。

 

● (天平文化の例) 東大寺大仏。 唐招提寺金堂(とうしょ

 うだいじこんごう)、 西大寺(さいだいじ)仏像群。

 

 

■ 日本の奈良時代は、主に、 天皇、 仏僧、 など が、 

 政治権力(政実治の権)をもち、 民衆を支配した時代 

 である。

■ 日本の奈良時代は、主に、 天皇親政政権 が、日本

 を統治・支配した時代 で、律令政治を行った。 

■ (S2) 律令政治 とは、 従来の、豪族(ごうぞく、地

 方の有力者)による土地人民の私有と氏姓制度による

 官職の世襲を取り除いて、 公地公民制と官僚制を基礎

 にした中央集権国家の政治形態 である。

■ (T2) 公地公民制 (7〜10世紀) とは、 土地・人

 民の私有を許さないという律令制の原則 である。 朝廷

 が、 土地人民を、公有地(公地)、公民にして、 支配す

 る統治制度 である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

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#teneiin

 

■ 天英院 

      (てんえいいん) (熙子 ひろこ

 

■ 天英院。

■ 名称 : 天英院 (てんえいいん)。

● 正式名 : 近衛 熙子 (このえ ひろこ)。

 (注意) 前近代の日本では、夫婦別姓

● 夫の徳川家宣(いえのぶ)が在命中は、 熙子(ひろ

 こ) と称す。 落飾後、 天英院 (てんえいいん) と

 称す。

■ 江戸幕府6代将軍・徳川家宣の正室(妻)。

■ 江戸幕府第8代将軍に、紀州藩主・徳川吉宗を指名

  した女性。

■ 月光院(お喜世)、 徳川吉宗 、絵島生島事件、 絵

 島、 に関しては、 当日本史辞典の 『 月光院 (げっ

 こういん)、 徳川吉宗 (とくがわよしむね)、 絵島生島

 事件 (えじまいくしまじけん)、 絵島 (えじま) 』の項

 目を参照して下さい。

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□ 天英院(熙子)の宝塔 (増上寺・徳川家

  霊廟内)

 

□ 天英院(熙子)が登場する、面白く、興味

  深いドキュメンタリー、ドラマ、映画。 

 

 

■ 天英院 (てんえいいん) は、 正式名は 近衛 熙子 (このえ ひろ

 こ) で、 夫の徳川家宣(いえのぶ)が在命中は 熙子 (ひろこ) と称

 す。 落飾後、 天英院 (てんえいいん) と称した。

 

■ 天英院 は、 江戸幕府6代将軍・徳川家宣の正室(妻) である。

● 家宣の正室の熙子(ひろこ、天英院) は、 家宣との間に、男子を

 もけたが、 その男子は早世した。 一方、 家宣の側室のお喜世(お

 きよ、月光院)が、 男子をもうけ、無事育ち、 お喜世(月光院)の男子

 が、 幼少で、 7代将軍・徳川家継(いえつぐ) となった。

 

■ 幼年の7代将軍家継 (いえつぐ、在任、1713〜16年、 4歳〜8

 歳)の時代に、 家継生母の月光院(お喜世)が、 初めは、1713〜

 14年、大奥で、大きな権力をもったが、 1714年の絵島生島(えじ

 まいくしま)事件後、月光院は、面目を失い、大奥で、権力を低下させ、

 6代将軍家宣(いえのぶ)の正室・天英院(てんえいいん)が、 前の6

 代将軍家宣時代(1709〜12年)と同様に、1714〜16年、大奥で、 

 権力をもりかえした。  

 

■ 天英院(熙子) は、 徳川吉宗を、江戸幕府第8代将軍にした女性

 である。

● 1716年、天英院 は、 幼少で病弱な7代将軍徳川家継(いえつぐ)

 が危篤時、 吉宗を将軍にするのは夫・家宣の遺言であると述べ、 幕

 府の老中達を説得し、 その将軍後継者 (7代将軍家継の後見人)に

 紀州藩主・徳川吉宗 を指名した。 

  そのおかげで、 徳川吉宗は、 病弱の家継が死去すると、1716年、 

 江戸幕府第8代将軍となることができた。


● 天英院が幕臣に吉宗を8代将軍に擁立しようと提案した言葉は、 

 『 紀州 徳川吉宗様にご後見を頼みましょう 』 (徳川将軍家の正史

 「徳川実記」より)。 

● 天英院が幕臣を説き伏せた言葉は、 『 これは先代将軍・家宣様

 のご遺志なのです 』 (徳川将軍家の正史「徳川実記」より)。

 

■ 徳川吉宗、 月光院(お喜世)、 絵島、 絵島生島事件 に関しては、 

 当日本史辞典の 『 徳川吉宗 (とくがわよしむね)、 月光院 (げっこ

 ういん)、 絵島 (えじま)、 絵島生島事件 (えじまいくしまじけん) 』

 の項目を参照して下さい。

 

 

#teneiin-appearingscenes

 

■ 天英院(熙子)が登場する、面白く、興

  味深いドキュメンタリー 、ドラマ、映画。 

 

★ 熙子(ひろこ、天英院)が登場する、面

  白く、興味深いドキュメンタリー。 

 

■ その時歴史が動いた 『 大奥 悲

  しみの果てに〜徳川家宣正室 天英

  院 熙子の生涯〜 』 

   (日本のNHK2006年(H18)4月本放送のド

   キュメンタリー番組)。

 

★ 熙子(ひろこ、天英院)が登場する、面

  白く、興味深い関連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画 は、フィクションであり、 

   史実(歴史上の事実) と 架空の出来事 が、 

   混じって、描かれています。

 

■ 『 徳川風雲録 八代将軍吉宗 

     (とくがわふううんろく はちだいしょう

     ぐんよしむね) 』 

    (日本の2008年制作テレビ東京・テレ

    ビドラマ)。 

 

■ 『 大奥 』 

   (日本の2006年制作東映・映画)。

● 7代将軍家継時代 と その時代の大奥 を

  描いた映画。

● 仲間由紀恵、高島礼子、井川遥、浅野ゆう子 

  出演。

 

■ 『 大奥・もうひとつの物語 』 

   (日本の2006年制作フジテレビ・テレビドラマ)。

● 6代将軍家宣時代  と その時代の大奥 を

  描いたドラマ。

● 深田恭子、高島礼子、井川遥、浅野ゆう子 出

  演。

 

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#tenshoin

 

■ 天璋院 

      (てんしょういん) (篤姫) 。

 

■ 天璋院。

■ 天璋院 (てんしょういん、 篤姫の落飾後の名) に関

 しては、 『 篤姫(あつひめ) 』 を参照して下さい。

● 天璋院 (てんしょういん 、落飾後の名) 、 於一 

 (おかつ、 島津本家養女入前の名)、 篤姫 (あつひめ、 

 島津本家養女入後の名)、 島津 篤子 (しまづ あつこ

 島津本家養女入後の名)、 近衛 敬子 (このえ すみこ、  

  近衛家養女入後の名)、  と 同一人物で ある。

 

 

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 『 あなたのハートには 

    何が残りましたか? 』。

 

 

以  上。