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◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY 

   HANDBOOK

 

 

 カナヤマ 日本歴史辞典 

 日本語版  

 見出し語 『 い 』。

 

 

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メ ニュー (目次)。

 ■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

 

 □ 日本史 辞典 (総合)

 

□       ● 五十音順 (あいうえお順)。

 

 □ 見出し語 いさ

 □ 見出し語 いな

 □ 見出し語 いま

 □ 見出し語 いら

 

 

〇 いい  井伊氏

             (いいし)。 《武家の氏族》。

          (= 井伊家、井伊一族)。

             (12世紀頃ー19世紀)。

               THE I I CLAN.

          □ 井伊氏 画像アルバム 

                          No.1。  

             (⇒ 井伊直虎井伊直 政

          徳川家康)。 

          ○ 武家としての井伊氏。 

          ○ 武家の井伊氏は、武家の

           氏族で、国人領主、大名であ

          る。

                    □ 日本歴史で活躍した氏族:

          天皇家藤原氏伊勢平氏

          河内源氏鎌倉北条氏

          足利氏上杉氏武田氏

          井伊氏小田原北条氏

          真田氏織田氏豊臣氏

          徳川氏

            ■ 武家の井伊氏 (いいし、いいうじ 、

              = 井伊家)は、 武家の氏族で あり、

             12世紀頃から19世紀まで存在した

             武家、国人領主、大名である。

            ■ 井伊氏 (いいし、武家の 井伊氏:平

            安時代ー1871年) は、 初代当主・井伊

            共保(いいともやす)以来、平安時代から、

            鎌倉 時代、建武時代、室町時代、安土

            桃山時代、江戸時代、明治時代初期まで、

            存在した、武家の一族である。

            ● 室町時代後期(戦国時代)・安土桃山

            時代・江戸時代初期の、井伊氏・当主変遷 : 

            (1) 井伊直平⇒ (2) 井伊直宗⇒ 

            (3) 井伊直盛⇒ (4) 井伊直親⇒ 

            (5) 井伊直虎 (次郎法師) 

            (6) 井伊直政⇒ (7)井伊直勝⇒ 

                          (8) 井伊直孝。

            ■ 井伊氏は、 遠江国の、地方豪族で

             ある。 

               井伊氏は、 古代・中世日本で、 遠 

            江国(とおとうみのくに、現・静岡県西部の

            相当地域) の井伊谷 (いいのや)を領有

            する 土豪、国人(こくじん、国衆(くにしゅ

            う)) の武家の 一族であった。

 

〇 いい  井伊 氏 関連出来事

       (年代順・詳細)

             (いいし かんれんできごと (ねんだ

             いじゅん・しょうさい))。

             《井伊氏・関連出来事》。

 

〇 いい  井伊 直弼

             (いい なおすけ)。 《人名》。

           (江戸幕府の重臣)。 

           (1815ー1860年)。

             (井伊氏・第36代当主)。

          I I Naosuke.

          ○ 日本の完全開国主導者。

                   ○ 幕末の、江戸幕府の大老。

        (⇒ 井伊氏)。

             ■ 井伊直弼 (いい なおすけ、生没年:

             1815ー1860年)は、 近江国彦根藩 主

             であり、徳川譜代有力大名であり、 江戸 

             幕府の重臣である。

             ■ 井伊直弼は、 幕末の、江戸幕府の

             大老であり、 日本の完全開国主導者で 

             ある。

             ● 1858年の修好条約(安政の五カ国

             条約)で貿易を行うなど日本を本格的に

             開国した(完全開国した)のを主導した幕

             閣(ばっかく)は、 日本の完全開国主導

             の、江戸 幕府・大老の井伊直弼(いい

             なおすけ)である。

             ● 一方、1854〜55年に4カ国と和親

              条約を結び日本の開国の端を開く(部分

             開国する)のを主導した幕閣は、日本の

             部分開国主導者の、江戸幕府・老中の阿

             部 正弘 (あべ まさひろ)である。

 

〇 いい  井伊 直親。

             (いい なおちか)。 《人名》。

          (幼名:亀之丞(かめのじょう))。

          (戦国武将)。

             (生没年:1535年ー1562年)。

             (井伊氏・第23代当主:1560年

          ー1562年)。

          I I Naochika.

          ○ 井伊直虎(次郎法師)

           大叔父の子。

             (⇒ 井伊氏井伊直虎

        井伊 直 政徳川家康)。 

             ■ 井伊 直親 (いい なおちか、幼名:亀之丞

             (かめのじょう)、生没年:1535年ー1562年) 

             は、 井伊直平(なおひら)の次男・井伊直満

             (なおみつ)の子であり、 井伊直虎(いいなお

             とら、次郎法師)の大叔 父・井伊直満の子であ

             り、 井伊氏の第23代当主であり、遠江国・井 

             伊谷の国人領主である。 

             ● 井伊直親 (いい なおちか、井伊氏当主:

             1560年ー15 62年、生没年:1535年ー15

             62年)は、 戦国武将であり、 遠江国(とお

             とうみのくに、現・静岡県西部の相当地域)の

             国人(国衆)の、井 伊氏の当主となり、 遠江

             の、井伊谷の領主であった。 

             ● 井伊直親は、 幼名は亀之丞(かめのじょ

             う)といい、 井伊直虎(次郎法師)の父・井伊

             直盛(なおもり)の従兄弟(い とこ)である。

 

〇 いい   井伊 直虎

             (いい なおとら)。 《人名》。

           (= 次郎法師、祐円)。

             (生没年:生年不詳ー1582年)。

             (井伊氏暫定当主:1565年ー

          1582年)。

          I I Naotora.

           □ 井伊氏 画像アルバム 

                          No.1。  

          ○ 戦国時代安土桃山時代の

             女性国人領主 、井伊氏暫定当主。 

           ○ 井伊氏大繁栄の基礎を築い

          た女性。

           ○ 徳川家康重臣の、井伊直政

          (なおまさ)の養母、又従兄弟(また

              いとこ)。

           ○ 遠江国(とおとうみのくに、現・静

          県西部の相当地域)の、国人

          (国衆)の、井伊氏暫定当主とな

          り、 遠江国の井伊谷(いいのや)

          女性領主となる。 

           ○ 井伊氏当主・井伊直盛(いい・

             なおもり)の一人娘。

           ○ NHK2017年大河ドラマ

          「おんな城主 直虎」の主人公。

        (⇒ 井伊氏井伊直 政

        徳川家康)。 

             ■ 井伊直虎 (いい なおとら、生年不詳ー

             1582年)  は、 井伊 直盛(なおもり)の娘

             であり、 井伊氏の暫定当主 (井伊氏暫定

             当主:1565年ー1582年) であり、  年少

             の井伊 直政の代理当主であり、 遠江国・

             井伊谷の女性国人領主であった。

             ● 井伊直虎 (いい なおとら、井伊氏暫定

             当主:1565年ー15 82年) は、 井伊氏

             大繁栄の基礎を築いた女性である。 

             ● 井伊直虎は、 徳川家康重臣の、井伊

          直政(いいなおまさ)の養母、又従兄弟(ま

             たいとこ)である。

             ● 井伊直虎 (いい なおとら、次郎法師

             (じろうほうし)、祐円、生没年:生年不詳

             ー1582年、井伊氏暫定当主:1565年ー

              1582年) は、  室町時代後期(戦国時

             代)・安土桃山時代の女性国人領主であり、 

             遠江国 (とおとうみのくに、現・静岡県西

             部の相当地域)の国人(国衆)の、井 伊氏

             の暫定当主となり、 遠江国の井伊谷(い

             いのや)の女性領主となる。 

             ● 井伊直虎は、 井伊氏当主・井伊直盛

             (いいなおもり)の一人娘であった。

             ● 井伊直虎 (井伊氏女性当主、遠江国・

             井伊谷(いいのや)領主)は、 直虎の父・

             井伊直盛の従兄弟(いとこ)・井伊直親( い

             いなおちか)の長男の、井伊 直政を、直虎

             の養子として、育てた。

                井伊 直政は、 徳川 家康の重臣とな

             り、 徳川 家康より近江国佐和山・18万石

             に封じられる。

                 その後、井伊氏は、 江戸時代に、近 

             江国彦根藩主となり、 徳川譜代最有力大

             名となる。

             ● 井伊直虎は、NHK2017年大河ドラ マ

             『 おんな城主 直虎  (おんなじょうしゅ・

             なおとら) 』 の主人公である。

 

〇 いい  井伊直虎 簡略年表

             (いいなおとら かんりゃくねんぴょう)。

             《人物簡略年表》。

 

〇 いい  井伊直虎 関連出来事

               (年代順・詳細)

             (いいなおとら かんれんできごと (ねん

              だいじゅん・しょうさい))。

             《人物関連出来事》。

             (⇒ 井伊氏井伊直 政

        徳川家康)。

 

〇 いい  井伊 直平。

             (いい なおひら)。 《人名》。

             (生年不詳ー1589年)。

             (井伊氏・第20代当主)。

          ○ 井伊直虎(次郎法師)の曾祖父。

          I I Naohira.

             ■ 井伊 直平 (いい なおひら、1479年ま

             たは1489年ー1563年) は、 井伊直虎 

             (いいなおとら、次郎法師(じろうほうし))の 

             曾祖父(そうそふ)であり、 井伊氏の第20

             代当主であり、 遠江国・井伊谷 (とおとう

             みのくに・いいのや、現・静岡県浜松市井伊

             谷)の国人領主である。 

 

〇 いい  井伊 直平の娘 (実名不詳) 

                           (いい なおひらのむすめ)。  《人名》。

             (生没年不詳)。

          I I Naotora’s DAUGHTER.

                     ○  井伊直虎(次郎法師)の大

          叔母(おおおば)

                     ○  井伊氏から今川氏の人質と

          なり、今川氏重臣・関口親永の

          夫人となる。

                     ○  松平元康(徳川家康)・正室

          夫人の瀬名(築山殿)の生母。

        (⇒ 井伊氏井伊直虎

         築山殿井伊直政)。

                          ■ 井伊 直平の娘  (実名不詳、いい な

             おひらのむすめ、生没年不詳 ) は、 

             伊直虎(次郎法師)の大叔母(おおおば)

             である。

             ● 井伊 直平の娘 は、 井伊氏第20代当

             主・井伊 直平の娘であり、 井伊氏から今

             川氏の人質となり、 今川氏重臣・関口親

             永(せきぐちちかなが)の夫人となる。

             ● 井伊 直平の娘 は、 今川氏重臣・関口

             親永(せきぐちちかなが)との間に、瀬名

             (せな、築山殿)という娘をもうける。

                瀬名(せな、築山殿)は、松平元康(徳

              川家康)の正室夫人となる。

             ● 井伊 直平の娘は、 『 おんな城主 直 

             虎 (おんなじょうしゅなおとら) 』 (NH K

             テレビ・2017年大河ドラマ) では、

             「佐名(さな)」とい う名(仮称)で登場する。

             ■ 前近代日本の史料では、女性の実名

             が記載されることは少なく、女性の実名が

             不明なことが多い。 

             (例) 書物(史料)では、井伊 直平女」(奥 

              山直平の娘)、「関口親永室」(関口親永の

             夫人)などと記されている。

                また、ドラマ、映画、小説などでは、

             がないと不便なので、女性の仮称が 使われ

             ることが多し。

 

〇 いい  井伊 直政

             (いい なおまさ) 。 《人名》。

          (戦国武将)。

          (幼名:虎松)。

             (生没年:1561年ー1602年)。

             (井伊氏第24代当主:1582年ー

          1602年)。

          I I Naomasa.

                   ○ 徳川家康の重臣。

                   ○ 井伊直虎(次郎法師)の 養子、

           又従兄弟(またいとこ)

             (⇒ 徳川家康井伊直虎

              井伊氏)。

             ■ 井伊 直政 (いい なおまさ、幼名:虎松、

             万千代、生没年:1561年ー1602年) は、 

             井伊 直親(なおちか)の男子であり、 井伊

             直虎(次郎法師)の養子、又従兄弟(またい

             とこ)であり、 井伊氏の第24代当主であり、

             遠江国・井伊谷の国人領主である。

             ● 井伊 直政は、 徳川 家康より、1590年

             (天正18年)に上野国箕輪(こうずけのくに・

             みのわ)12万石の大名となり、 1600年(慶

             長5年)に近江国・佐和山(おうみのくに・さわ

             やま)18万石の大名(1600−1602年)と

             なる。

                 その後、井伊氏は、 江戸時代に、近

             江国彦根藩 ・藩主となり、 徳川譜代最有力

             大名となる。

             ● 井伊 直政(いい なおまさ)は、 徳川家

             康の重臣である。

             ● 井伊 直政は、 又従兄弟(またいとこ)の

             井伊直虎  (いいなおとら、井伊氏暫定当主、

             遠江国・井伊谷(いいのや) 女性領主) によ

             って、直虎の養子として、育てられた。

 

〇 いい  井伊 直宗。

             (いい なおむね)。 《人名》。

             (生年不詳ー1542年)。

             (井伊氏第21代当主)。

          I I Naomune.

          ○ 井伊直虎(次郎法師)の祖父。

             ■ 井伊 直宗 (いい なおむね、生年不詳ー

             1542年) は、 井伊直虎(次郎法師)の祖

             父であり、 井伊氏の第21代当主であり、 

             遠江国・井伊谷の国人領主である。 

             ● 井伊 直宗は、 今川義元の田原城(たは

             らじょう)攻めに参加し、1542年(天文11年)

             に戦死する。

 

〇 いい  井伊 直盛。

             (いい なおもり)。 《人名》。

          (戦国武将)。

          (生没年:1506年または1526年

          ー1560年)。

             (井伊氏第22代当主:1542年−

           1560年)。

          I I Naomori.

          ○ 井伊直虎(次郎法師)の父。

             (⇒ 井伊直虎井伊直 政

        井伊氏)。 

             ■ 井伊 直盛 (いい なおもり、生没年:15

             06年または1526年ー1560年) は、 井伊

             直虎(なおとら、次郎法師)の父であり、 井伊

             氏の第22代当主(当主:1542年−1560年)

             である。 

             ● 井伊 直盛は、 今川義元に従軍し、桶狭

             間の戦いに参加し、1560年(永禄3年)に戦

             死する。

             ● 井伊直盛 (いい なおちか)は、 戦国武

             将であり、 遠江国(とおとうみのくに、現・静

             岡県西部の相当地域)の国人(国衆)の、井 伊

             氏の当主であり、 遠江国の 井伊谷(いいの

             や)の領主であった。 

 

〇 いい  飯沼 貞吉。

             (いいぬま さだきち) 。 《人名》。

          IINUMA Sadakichi.

          ○ 会津戦争で飯盛山で自刃し

          た白虎隊隊士の唯一の生存者。

        (⇒ 会津戦争)。

             ■ 飯沼 貞吉 (いいぬま さだきち)は、

             会津戦争で飯盛山で自刃した白虎隊隊士

             の唯一の生存者である。

 

〇 いい  井伊谷城。

             (いいのやじょう)。 《城》。

          IINOYA CASTLE.

             (⇒ 井伊氏井伊 直虎

                井伊 直 政)。 

             ■ 井伊谷城 (いいのやじょう) は、 遠

             江国 (とおとうみのくに、現・静岡県西部

             の相当地域) の井伊谷(いいのや)を領

             有する国人(こくじん、国衆(くにしゅう))

             の、井伊氏の居城である。

 

〇 いえ  家定。

             (いえさだ)。  《人名》。

          (= 徳川 家定)。

          Iesada.

          ○ 江戸幕府・第13代将軍。

        (⇒ 徳川家定)。

             ■ 家定(いえさだ) とは、 徳川 家定であ

             り、江戸幕府・第13代将軍である。

 

〇 いえ  イエズス会。

             (いえずすかい)。 《宗教団体》。

          (= ジェスイット教団、ヤソ会)。

                THE JESUIT SOCIETY.

             ○ キリスト教・カトリックの男子

          修道会。

        (⇒ ルイス・フロイス)。

              イエズス会 (いえずすかい)とは、ジ

             ェスイット教団、ヤソ会とも呼ばれ、キリス

             ト教・カトリックの男子修道会、団体(教団) 

             である。

             ● イエズス会は、日本でのキリスト教・カ

             トリックの日本伝道(布教)の中心となった

             団体(教団)である。

             ● イエズス会は、 オルガンティーノ、ル

             イス・フロイス、ヴァリニャーノなどが所属し

             ていた男子修道会、団体(教団) である。

 

〇 いえ  家斉。

             (いえなり)。  《人名》。

          (= 徳川 家斉)。

          Ienari.

               ○ 江戸幕府・第11代将軍。

        (⇒ 徳川家斉)。

             ■ 家斉 (いえなり)とは、 徳川 家斉であ

             り、 江戸幕府・第11代将軍である。

 

〇 いえ  家宣。

             (いえのぶ)。   《人名》。

          (= 徳川 家宣)。

          Ienobu.

                ○ 江戸幕府・第6代将軍。

        (⇒ 徳川家宣)。

             ■ 家宣 (いえのぶ)とは、 徳川 家宣であ

             り、 江戸幕府・第6代将軍である。

 

〇 いえ  家茂。

             (いえもち)。   《人名》。

          (= 徳川 家茂)。

          Iemochi.

                ○ 江戸幕府・第14代将軍。

        (⇒ 徳川家茂)。

             ■ 家茂 (いえもち)とは、 徳川 家茂であ

             り、 江戸幕府・第14代将軍である。

 

〇 いえ  家光。

             (いえみつ)。   《人名》。

          (= 徳川 家光)。

          Iemitsu.

               ○ 江戸幕府・第3代将軍。

        (⇒ 徳川家茂)。

             ■ 家光 (いえみつ)とは、 徳川 家光であ

             り、 江戸幕府・第3代将軍である。

 

〇 いえ  家康。

             (いえやす)。 《人名》。

          (= 徳川家康)。   

          Ieyasu.

                ○ 江戸幕府の創立者、初代

          将軍。

        (⇒ 徳川家康)。

             ■ 家康 (いえやす)とは、 徳川家康であ

             り、 江戸幕府の創立者、初代将軍 である。

 

 いか  位階

             (いかい)。 《位階》。   

              (⇒ 叙位)。

                     the Court Rank.

                ■ 位階 (いかい)は、 近現代日本では

              栄典の位を示し、 前近代日本では 朝廷

              (官位の官職、位階)での序列を示す。 

              (⇒ 一位二位三位(さんみ)四位

          (しい)五位六位七位(しちい)

          八位九位(くい)初位(そい、しょい))。

             ■ <1926年頃現在>。 

             近・現代日本政府の、位階令(1926年制定、

             1947年改正) の位階。

              一位から八位までの、16位階。

             (⇒ 位階令 の位階)。

             ■ <1887年頃〜1926年頃>。

             近代日本政府の、叙位条例(1887年制定)

             の位階。

              一位から八位までの、16位階。

             (⇒ 叙位条例の位階)。

              1869年頃〜1887年頃> 。 

             近代日本政府の、太政官制の職員令

             (1869年制定)の位階。

             一位から八位、九位、初位までの、20位階。

             (⇒ 職員令の位階)。

               <701年頃〜1869年頃> 。

             前近代日本の、朝廷(律令官制)の位階

              一位〜八位、初位までの、30位階。

             (⇒ 朝廷(律令官制)の位階)。

 

〇 いか  位階令の位階

             (いかいれいのいかい)。 《位階》。   

                          ■ 位階令は、 近・現代日本政府の、位階

             などを定めた法令 である。

          位階叙位)。

          ■ 近・現代日本の、位階令(1926

             年制定、1947年改正)の16位階 。

             ● 1926年頃〜現在、使用>

             ● 1926年制定、1947年改正。

             ■ 近・現代日本の、位階令 (1926年制定、

             1947年改正)の16位階は、

              上位順に、 正一位、 従一位、 正二位

             従二位正三位従三位正四位従四位

                        正五位従五位正六位従六位正七位

             従七位正八位従八位 である

          (⇒ 一位二位三位四位

           五位六位七位八位)。

          (⇒ 叙位条例の位階職員令

          位階朝廷の律令官制 の位階

              ■ 位階令の位階  (いかいれいのいかい)

                            は、 近・現代日本の位階であり、 16位階

             であり、 1926年頃 から現在まで使用され

             ている。

             ■ 近・現代日本の位階令の16位階は、

             叙位条例(1887年制定、16位位階)を改

             めて、1926年に制定され、更に1947年

             に改正され、現在まで使用されている。

 

 いが  伊賀越え 

             (いが ごえ)。 《徳川家康》。

          (= 家康の伊賀越え、神君

           伊賀越え)。

        (⇒ 徳川家康)。

             ■ 家康の伊賀越え (いが ごえ、

             = 神君伊賀越え)とは、 本能寺の

             変直後に、家康一行が畿内より命

             からがら伊賀経由で敏速に領国・

             三河へ帰国した出来事である。

             ■ 家康の伊賀越え(= 神君伊賀

             越え)とは、 1582年6月 2日未

             明(早朝)の「本能寺の変」の時畿

             内(きない)に滞在中の徳川家康 

             が、6月2日午前中に本能寺の変

             の織田信長の死去を知り、 明智

             光秀の配下や落ち武者狩りを避け、 

             少人数の同行者・約30人で命か

             らがら、敏速に危険 な伊賀国(い

             がのくに、現・三重県中央西部相

             当地域)を経由して、即ち、敏速

             河内国から山城国、近江国、伊

             賀国、伊勢国を経て、 6月4日に、

             領国の三河国(みかわのくに、現・

             愛知県東部相当地域)へ帰国した

             出来事である。

 

 いが  伊賀 国。 

             (いが のくに)。 《旧地域名》。

          (= 伊州(いしゅう))。 

          (≒ 概ね、現・三重県中央西部

          の相当地域)。

              IGA PROVINCE.

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の、

           旧国名(令制 国)の正式名)。

                   (⇒ 伊州(いしゅう))。

                    (⇒ 三重県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

          ■ 伊賀 国。

             <東海道 (旧広域地方)。

             <五畿七道。

          (⇒ 東海道・旧広域地方)。

                   (⇒ 五畿七道)。

                          ■ (RWM) 日本の、中地域名の変遷。

             ● 国造・県主分国⇒ 旧国(令制国)

              ⇒ 旧都道府県⇒ 現47都道府県。

             ■ 伊賀 国(いが のくに、= 伊州(いしゅ

             う))は、概ね、現・近畿地方の、現在の

                            西三重県中央部に相当する地域で あり、 

             前近代日本の、旧国(令制国)である。

             ■ 伊賀 国(= 伊州)は、 五畿七道 (ご

             きしちどう)の東海道(とうかいどう)・旧広

                           域地方に属する。

             ■ 伊賀 国(= 伊州)は、 約68旧国(令

             制国)の1つであり、 東海道(とうかいど

             う)・旧広域地方の1国である。

             ■ 伊州 (いしゅう)は、  律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、旧国

             名(令制国)正式名の、伊賀 国 (いが の

             くに)の 別称である。

             ■ 伊賀 国 (いが のくに)は、 律令制

             定後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             旧国(令制国)の正式名である

             ■ 旧国(令制国)(きゅうこく(りょうせい

             こく))は、 前近代日本の、飛鳥白鳳時代

             末期から江戸時代まで、 紀元(後)701

             年頃から1868年頃まで、 日本で使用さ

             れた地方行政区分の地域名である。

 

〇 いき  壱岐 国。 

             (いき のくに)。  《旧地域名》。

          (旧国(= 令制国))。

          (= 壱州(いっしゅう))。 

          (≒ 概ね現・長崎県 壱岐島

          相当地域)。

              IKI PROVINCE.

          (前近代日本の、 旧国(= 令

           制国)の正式名)。

                    (⇒ 壱州(いっしゅう))。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

                         ■ (RWM) 

             日本の、中地域名の変遷。

             ● 国造・県主分国⇒ 旧国(令制国)

              ⇒ 旧都道府県⇒ 現47都道府県。

          ■ 壱岐 国(= 壱州)

             <西海道・旧広域地方。

             <五畿七道(ごきしちどう、日本本土)

          (⇒ 西海道・旧広域地方)。

                   (⇒ 五畿七道)。

             ■ 壱岐 国 (いき のくに、= 壱(い

             っしゅう))は、 現・九州地方の、概

             ね、現在の長崎県壱岐島いきのしま、

             壱岐市)に相当する地域であり、 西

             海道(さいかいどう)・旧広域地方に属

                          し、 前近代日本の、旧国(= 令制国)

             である。

                  (⇒ 長崎県都道府県)。

           (⇒ 九州地方)。

              ■ 壱州 (いっしゅう)は、  律令制定

             後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             旧国(= 令制国)の正式名の、壱岐 国

             (いき のくに)の別称である。

 

〇 いぎ  イギリス公使パークス

              (いぎりすこうしぱーくす)。  《人名》。

          (= パークス、ハリー・パークス )。

                     (⇒ パークス

             ■ イギリス公使パークス (いぎりすこうし

             ぱーくす) は、 パークス、ハリー・パークス

             である。

 

〇 いく   幾島。

             (いくしま)。  《人名》。

          (1808年ー1870年)。

          Ikushima.

          ○ 天璋院・篤姫の側近。

          ○ 江戸幕府・大奥の御年寄

          (おとしより、上級幹部)。

                     (⇒ 天璋院・篤姫

             ■ 幾島 (いくしま、1808年ー1870年)

             は、 天璋院・篤姫(てんしょういん・あつ

             ひめ)の側近であり、 江戸幕府・大奥の御

             年寄 (おとしより 、上級幹部) であった。

 

〇 いけ   池田 勝正。 

             (いけだ かつまさ)。  《人名》。

          (1530年/1539年ー

          1578年?)。

          IKEDA Katsumasa.

             ■ 池田 勝正 (いけだ かつまさ、生

             没年:1530年/1539年ー15 78

             年 ?)は、 戦国時代(= 室町時代後

             期)、安土桃山時代に活躍した武将、

             大名であり、 摂津国(せっつのくに、

             大阪府北西部の相当地域)の池田氏

             当主(1563年ー1570年)であり、

             池田城主1563年ー1570年)であ

             った。

             ■ 1563年(永禄6年)に、摂津・池

             田氏当主の池田 長正が死去し、文

             武に秀でていたため、池田 勝正は、

             池田氏当主(1563年ー1570年)と

             なり、池田城主1563年ー1570

             年)となる。

                池田 勝正は、1568年(永禄11

             年)に織田信長により摂津守護に任じ

             られ、その後、織田信長の配下となり、

             織田信長軍に従軍し各地で戦い、15

             70年(元亀元年)4〜5月の金ヶ崎の

             退き口(かねがさきのきぐち)の際に

             は、信長や信長軍の撤退時、木下藤

             吉郎秀吉(豊臣秀吉)、 明智光秀な

             どを率いて、殿(しんがり)軍を務(つ

             とめ)め、信長や信長軍本隊を無事

             に逃がす功を挙げる。

                しかし、1570年(元亀元年)6

             月に、同族の池田知正(ともまさ、

             池田長正の子)や荒木村重により

             池田氏当主の座や池田城を追われ

             る。 

                その後、池田 勝正は、信長に

             より、摂津の原田(はらだ)城主に任

             じられ、織田信長軍に従軍し各地

            で戦う。

                織田信長と将軍の足利義昭と

             の仲が決裂すると、池田 勝正は、

             足利義昭方につき(味方し)、1573

             年(天正元年)より信長の家臣となっ

             ていた荒木村重によって、原田城を

             追われ、高野山に追放される。

 

〇 いけ   池田 恒興 

             (いけだ つねおき)。  《人名》。

          (1536年ー1584年)。

          IKEDA Tsuneoki.

          ○ 室町時代後期(戦国時代)、

           安土桃山時代の武将、大名。

          ○ 池田輝政の父。

          ○ 織田信長の重臣。 

          ○ 織田氏、羽柴氏(豊臣氏)に

           仕(つか)える。

                     (⇒ 池田輝政

             ■ 池田 恒興 (いけだ つねおき、1536

             年ー1584年)は、 室町時代後期(戦国時

              代)、安土桃山時代の武将、大名であり、

             池田輝政の父である。

             ● 池田 恒興は、 織田信長の重臣であり、

             織田氏、羽柴氏(豊臣氏)に仕(つか)える。

 

〇 いけ   池田 輝政 

             (いけだ てるまさ)。  《人名》。

          (1564年ー1613年)。

          IKEDA Terumasa.

          ○ 安土桃山時代、江戸時代初

           期の武将、大名。

          ○ 池田恒興の子。

          ○ 現在の姫路城を完成させた。 

          ○ 関が原の戦いの戦功により、

           播磨国52万石領主となる。

                     (⇒ 姫路城池田恒興

             ■ 池田 輝政 (いけだ てるまさ、1564年

             ー1613年)は、安土桃山時代、江戸時代初

              期の武将、大名であり、 池田恒興の子で

             ある。

             ● 池田 輝政は、 徳川氏に仕(つか) え、 

             関が原の戦いの戦功により、 播磨国52万

             石の領主となり、 現在の姫路城を完成させ

             た。 

 

〇 いけ   池田屋事件

             (いけだやじけん) 。 《事件》。

             ■ 池田屋事件 (いけだやじけん)は、

             1864年に、 京(きょう、京都)で尊皇

             攘夷派・急進派の会合を、新選組が急

             襲し、死傷者、捕縛者を出した事件で

             ある。

 

〇 いけ   池禅尼。 

             (いけのぜんに)。  《人名》。 

                    (= 藤原宗子 ふじわらのむねこ)。

          Ikenozenni.

        (⇒ 藤原宗子)。

             ○ 池禅尼は、 

          平治の乱に参戦し敗れた源

          頼朝の死刑をやめるよう平

          清盛に懇願し、実現させる。

             ○ 池禅尼は、 

          平清盛の継母(ままはは)であ

          る。

             ○ 池禅尼は、 

          平清盛の父・平忠盛(ただもり)

          の、正室夫人である。

             ■ 池禅尼 (いけのぜんに、= 藤原

             宗子(ふじわらのむねこ ))は、 平治

             の乱に参戦し敗れた源頼朝の死刑を

             やめるよう平清盛に懇願し、実現させ

             る。

                   平清盛は、池禅尼の懇願を聞き

             入れ、源頼朝の死刑をやめ、伊豆へ

             の流罪とする。

             ■ 池禅尼 (いけのぜんに、= 藤原

             宗子(ふじわらのむねこ))は、 平清

             盛の継母(ままはは) であり、 平清盛

             の父・平忠盛(ただもり)の、正室夫人

             であり、 貴族の藤原宗兼の娘である。

 

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〇 いし  石垣山一夜城

            (いしがきやまいちやじょう)。  《城》。

         (= 石垣山城、一夜城)。

        (⇒ 一夜城)。

        (⇒ 小田原合戦)。

            ■ 石垣山一夜城 (いしがきやまい

            ちやじょう、= 石垣山城、一夜城)とは、 

            石垣山城、一夜城とも呼ばれ、 豊臣

            秀吉が小田原合戦時に、築城した城で

             ある。

 

〇 いし  石川 数正。

             (いしかわ かずまさ)。  《人名》。

          (生年不詳−1592年)。

          ISHIKAWA Kazumasa.

                   ○ 石川 数正は、

          徳川氏重臣、豊臣氏家臣で

          ある。

       (⇒ 徳川家康)。 

             ■ 石川 数正 (いしかわ かずまさ、

             生年不詳−1592年)は、  徳川氏

             重臣であり、 徳川家康の重臣である。

             ● 石川 数正は、 1585年(天正13

             年)に家康のもとを去り、 豊臣秀吉

             に仕える。

 

〇 いし  石川県。

             (いしかわけん)。

          (現・都道府県)。 《現地域名》。

          (現・47都道府県の1つ)。

                 ISHIKAWA PREFECTURE.

              ○ 石川県の地域は、 

                     (1) 石 川県北部

          (≒ 概ね前近代日本の、

           能登国(能州)の相当地域)

          と、 

                     (2) 石川県南部 

          (≒概ね前近代日本の、

                     加賀国(加州)の相当地域

          に区分される。

                     (⇒ 都道府県)。

                     (⇒ 能登 国)。

                     (⇒ 加賀 国)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                       (⇒ 前近代日本の

          地域名)。

                      (⇒ 旧地域名、地域名)。

                      (⇒ 日本の地名)。

           ■ 石川県の地域

             <中部地方。

             <日本本土 (本州、四国、九州)

             <日本国

             ● 石川県 (いしかわけん、英:ISHI- 

             KAWA PREFECTURE)は、中部

             地方に属する。

                      (⇒ 中部地方)。

           ■ 石川県の地域 

          (能登国 と 加賀国)。

             <北陸道・旧広域地方。

             <五畿七道(ごきしちどう、日本本土)。

          (⇒ 北陸道・旧広域地方)。

                   (⇒ 五畿七道)。

             ■ 石川県(いしかわけん)の地域は、

                           (1) 石川県北部

             (≒ 概ね前近代日本の、能 登国

                            (のとのくに、別称:能州(のうしゅ

             う))の相当地域) 

             と、 

             (2) 石川県南部

             (≒概ね前近代日本の、加賀国 

             (かが のくに、別称:加州(かしゅう))

             の相当地域)  

             に区分される。

             ■ 石川県の地域は、 

             前近代日本(古代〜江戸時代)の、

              旧国(令制国)の、

             (1) 能登 国 (のとのくに、

             別称:能州(のう しゅう)、

             概ね、現・石川県北部の相当地域

             と、 

             (2) 加賀 国 (かが のくに、

             別称:加州(かしゅう)、

             概ね、現・石川県南部の相当地域

             の地域である。

 

〇 いし  石川 五右衛門。  

             (いしかわ ごえもん)。 《人名》。

          (生年不詳ー1594年)。

                  ○ 盗賊。 

          ○ 豊臣氏に捕縛され、処刑され

          る。 

          ○ 安土桃山時代に出没した盗賊。

          ○ 創作で義賊として描かれるこ

          と多し。

             ■ 石川 五右衛門 (いしかわ ごえもん、

             生年不詳ー1594年)は、 盗賊であり、 

              豊臣氏に捕縛され、処刑される。 

                ● 石川 五右衛門は、 安土桃山時代に

             出没した盗賊であり、 創作で義賊として

             描かれることが多い。

 

〇 いし  石束 りく。

             (いしづか りく)。 《人名》。

             (= りく、香林院(こうりんいん))。

             (1669年ー1736年)。

          ○ 赤穂・浅野家(赤穂藩)家老の

           大石内蔵助(良雄)の正室夫人。

         (⇒ 香林院)。 

         (⇒ 元禄赤穂事件)。 

             ■ 石束 りく (いしづか りく、1669年ー

             1736年)とは、 りく、香林院(こうりんいん)

             である。

             ● 石束 りく (= りく、香林院(こうりんいん))

             1669年ー1736年)は、 赤穂・浅野家

             (赤穂藩)家老の大石内蔵助(良雄)の正室

                             夫人である。

              ● 石束 りく(= りく、香林院)は、 但馬国

              (たじまのくに、現・兵庫県北部の相当地域)・

                           豊岡藩(とよおかはん)の筆頭家老(1200 

              石)の石束毎公(いしづかつねよし、1641

              〜1713年)の娘 である。

                     ■ (注意) 前近代日本では、家父長制

             の夫婦別姓であり、 女性は、婚儀(結婚)

             の有無に関係なく、父の氏(一族名)を生

             涯所持したので、 当時、石束 りくは、大

             石内蔵助(良雄)と婚儀(結婚)後、大石

             とは称 さなかった。

             ● (注意) 前近代日本では、女性は、慣

             習で、通常、名(個人名)のみを称した。 

             当時、石束 りくは、 りく、 香林院(こうり

             んいん)とい う個人名で自他呼称していた。

 

〇 いし  石田 三成

             (いしだ みつなり)。 《人名》。

          (= 石田佐吉(いしだ さきち、通称)

             石田 治部いしだ じぶ)、治部少輔

          (じぶのしょう、官位)。

          (1560年ー1600年)。

                ISHIDA Mitsunari.

          ○ 1574年頃または1577年

          頃より羽柴氏(豊臣氏)家臣と

          なる。

             ○ 豊臣氏の家臣、豊臣秀吉の

          側近。 

          ○ 安土桃山時代の武将、大名。 

          ○ 豊臣政権の五奉行の一人。

          ○ 慶長5年の天下分け目の戦い 

          (関ヶ原の戦い(大垣・山中の戦

          い)、他の戦い) で、 敗戦し、

          処刑される。

                   □ 豊臣氏 画像アルバム 

                        No.1

                    □ 豊臣氏 画像アルバム 

            No.2

                    (⇒ 五奉行五大老、豊臣氏五

          大老・五奉行豊臣政権

          豊臣氏)。

                            ■ 石田 三成 (いしだ みつなり、= 石田

             治部いしだ じぶ)、1560年ー1600年)

             は、 豊臣氏の家臣、豊臣秀吉の側近で

             あり、 安土桃山時代の武将、大名であり、 

              豊臣政権の五奉行の一人である。

              ● 石田三成 (いしだ みつなり、石田 治

             部いしだ じぶ)、1560年ー1600年)は、

             近江(おうみ、現・滋賀県)の石田正継(ま

             さつぐ)の子で、 安土桃山時代に活躍し

             た武将・大名であり、 豊臣氏の家臣、豊

             臣秀吉の側近であり、「豊臣氏五奉行」の

             一人であった。

              ● 石田三成は、 若くして豊臣秀吉に

             仕え、1591年(天正19年)に近江佐和

             山・21万石を領し、佐和山城主となる。

              ● 石田三成は、通称・佐吉(さきち)、

             官位・治部少輔(じぶのしょう)とも称した。

             ● 石田三成は、 奉行として、秀吉の

             天下取りの戦い、朝鮮の役(文禄・慶長

             の役)、内政で、軍需品輸送、占領政策、

             太閤検地などで活躍した。 

             ■ 「新説の関ヶ原の戦い(= 大垣・山中

             の戦い)」では、 西軍の奉行衆・毛 利

             西軍(奉行衆方)石田三成は、 1600

             年(慶長5年)9月14日の日没後に、大

             垣城から出て、山中(やまなか)付近の

             (関 ヶ原の笹尾山から南3kmの)藤下

             う(とげ)の 自害峯(じがいみね)という

             場所に午前4時頃、布陣し、その後、すぐ

             近くの山中(やまなか)の西軍本隊に合

             流し、石田三成は、大垣付近から来る東

             軍の徳川方の軍と対峙する

             ■ 石田三成は、 豊臣秀吉死後、慶長

             5年(1600年)の天下分け目の戦い(関

             ヶ原の 戦い(大垣・山中の戦い)、他の

             戦い)で、敗戦し、捕縛され、処刑される。

 

〇 いし   石松丸。

              (いしまつまる)。 《人名》。

          (= 羽柴石松丸秀勝)。

          《豊臣秀吉の子》。

           (生年不詳ー1576年)。

          Ishimatsumaru.

           ○ 豊臣秀吉の実子の長男、

          早世。

        (⇒ 羽柴石松丸秀勝)。

            ■ 石松丸 (いしまつまる= 羽柴石松丸秀

            勝生年不詳ー15 76年) は、 豊臣秀吉

            子であり、 豊臣秀吉の実子の長男であ

            り、 早世する。

             ■ 豊臣秀吉の実子の男子には、 @ 南

            殿(みなみどの)との間に羽柴石松丸秀勝 

            (はしばいしまつまるひでかつ、生年不詳

            (1572年または1574年の説あり)ー

            1576年、早世、秀吉の長浜城主時代の

            子、長男、「竹生島奉加帳」より)、 A 淀

            殿(よどどの、茶々)との間に豊臣鶴松

            (とよとみつるまつ、別名:棄(すて)、15

            89年ー1591年、早世、次男) と、 豊

            臣秀頼 (とよとみひでより、1593年ー

            1615年、幼名:拾丸(ひろいまる)、三男) 

            がいた。

 

〇 いし  石山本願寺。 

            (いしやまほんがんじ)。 《寺院》。

            (⇒ 顕如一向宗)。 

             ■ 石山本願寺 (いしやまほんがんじ)

             は、 1532年から1580年まで、一向

             宗門徒の本拠地(本山)であった。

 

〇 いし  伊州

             (いしゅう)。 《旧地域名》。

          (= 伊賀 ( いが のくに)の別称)。

          (≒ 概ね、現・三重県中央西部

          の相当地域)。

          ISHU AREA.

          (律令制定後・古代・中世・近世

          日本・旧地域名の、

          旧国(令制 国)の別称)。

                    (⇒ 伊賀 )。    

                    (⇒ 前近代日本の地域名)。

                           ■ 伊州 (いしゅう、= 伊賀 国(いが の

                           くに) の別称) は、 東海道(とうかいど

             う)・旧広域地方に属し、  概ね、現・近

             畿地方の、現在の三重県中央西部に相

                            当する地域である。

             ■ 伊州 (いしゅう)は、  律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             国(令制国)正式名の、伊賀 国 (いが

             のくに) の別称である。

 

 いず  伊豆 国。 

             (いず のくに)。 《旧地域名》。

             (= 豆州(ずしゅう)) 。

          ( 現・静岡県東部の伊豆半島

          と 東京都伊豆諸島)。

             IZU PROVINCE.

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国名(令制

           国)の正式名)。

                    (⇒ 前近代日本の地域名)。

          ■ 伊豆 国。

             <東海道 (旧広域地方)。

             ■ 伊豆 国 (いず のくに)は、 律令制

             定後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             旧国名(令制国)の正式名である

             ■ 豆州 (ずしゅう)は、  律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、旧国

             名(令制国)正式名の、伊豆 国 (いず の

             くに)の 別称である。

             ■ 伊豆 国(= 豆州)は、 現・中部地方

             の、現・静岡県東部の伊豆半島 と 現・

             関東地方 の、現・東京都伊豆諸島 に相

                          当する領域である。

             ■ 伊豆 国(= 豆州)は、 五畿七道の

             東海道(とうかいどう)・広域地方に属す

                           る。

 

〇 いず  泉沢 久秀

             (いずみさわ ひさひで)。 《人名》。

          (= 泉沢 又五郎)。

          (生年不詳ー1615年)。

          IZUMISAWA Hisahide.

          ○ 上杉景勝の家臣、越後・

          上田衆の一人。

             ■ 泉沢 久秀 (いずみさわ ひさひで、= 泉

             沢 又五郎、生年不詳ー1615年)  は、 

             上杉景勝の家臣であり、 越後・上田衆の

             一人である。

 

〇 いず  和泉式部

             (いずみ しきぶ)。 《人名》。

          Izumishikibu.

          ○ 平安時代中期の歌人(かじん)

             和歌の天才歌人。

          ○ 歌(うた、和歌)に生き、恋に生

          きた女性。 

          ○ 和歌の才能と美貌で、数多く

          の男性と恋の炎に身をおいた女

          性。

             ■ 和泉式部は、 平安時代中期の歌人(か

             じん)であり、 和歌の天才 であり、 和歌の

             天才歌人であった。 数多くのすばらしい和

             歌が残っている。

             ● 和泉式部は、歌(うた、和歌)に生き、恋

             に生きた女性である。 

             ● 和泉式部は、 和歌の才能と美貌で、数

             多くの男性と恋の炎に身をおいた女性であ

             る。 恋多き女性であった。

             ● 和泉式部は、和歌で多くの男性を虜 (と

             りこ)にした女性である。 

             ● 和泉式部は、男性貴族・皇族に翻弄(ほ

             んろう)され、「一生恋に生きた女性」 である。

 

 いず  和泉 国。

             (いずみ のくに)。 《旧地域名》。

          (= 泉州(せんしゅう))。  

                         概ね、 現・大阪府

          南西部の相当地域)。

             IZUMI PROVINCE.

          (律令制定後・古代・中世・

           近世日本・旧地域名の旧

           国名(令制国)の正式名)。

                    (⇒ 前近代日本の

        地域名)。

          ■ 和泉 国。

             <畿内 (旧広域地方)。

             <五畿七道 (ごきしちどう、

              日本本土)。

             ■ 和泉 国(いずみ のくに、= 泉州

             (せんしゅう))は、 現・近畿地方の、

             概ね現在の大阪府南西部 に相当

                           する地域である。

             ■ 和泉 国(= 泉州)は、 五畿七道

             (ごきしちどう)の畿内(きない)・旧広

             域地方に属する。

             ■ 和泉 国 (いずみ のくに)は、 

             律令制 定後・古代・中世・近世日本・

             旧地域名の、旧国名(令制国)の

             正式名である

             ■ 泉州 (せんしゅう)は、  律令制

             定後・古代・中世・近世日本・旧地域

             名の、旧国 名(令制国)正式名の、

             和泉 国 ( いずみ のくに)の 別称

             である。

 

 いず  出雲 国。

             (いずも のくに)。 《旧地域名》。

          (= 雲州(うんしゅう))。 

          (≒ 概ね、現・鳥根県本土

          東部の相当地域)。

          IZUMO PROVINCE.

          (律令制定後・古代・中世・

           近世日本・旧地域名の、

           旧国名(令制国)の正式名)。

                    (⇒ 前近代日本の

         地域名)。

          ■ 出雲 国。

             <山陰道 (旧広域地方)。

             <五畿七道 (ごきしちどう、

              日本本土)。

             ■ 出雲 国(いずも のくに、= 雲州

             (うんしゅう))は、 現・ 中国地方の、

             概ね現在の鳥根県本土東部に相

                           当する地域である。

             ■ 出雲 国(= 雲州)は、 五畿七道

             (ごきしちどう)の、山陰道(さんいん

                           どう)・旧広域地方に属する。

             ■ 出雲 国 (いずも のくに)は、

             令制定後・古代・中世・近世日本・旧

             地域名の、旧国名(令制国)の正式

             名である

             ■ 雲州 (うんしゅう)は、  律令制

             定後・古代・中世・近世日本・旧地域

             名の、旧国 名(令制国)正式名の、

              出雲 国 (いずものくに)の 別称で

             ある。

 

 いず   出雲大社 

             (いずもたいしゃ)。 《神社》。

             (紀元(後)3世紀頃、創建)。

              IZUMOTAISHA SHRINE.

           (⇒ 寺社)。

          ○ 出雲大社は、

          古代日本で、西の出雲大社、

          東の伊勢神宮と いう朝廷や

          天皇を守る2大神社の1つ

          である。

             ■ 出雲大社 (いずもたいしゃ)は、

             紀元(後)3世紀頃、創建され、

             日本神話の国譲りの、 大国主神

              (おおくにぬしのみこと、 大国主命)

             を祀(まつ)る神社である。

             ■ 出雲大社は、

             現在、男女の縁結びの神を祀(ま

             つ)る神社として有名である。

 

 いず   出雲阿国。 

             (いずものおくに)。 《人名》。

          (女性芸能者)。

          (= 出雲の阿国)。

             (1572年頃ー没年不明)。

             Izumo no Okuni.

          ○ 出雲阿国は、

          歌舞伎踊りの創始者で女性

          芸能者である。

             ■ 出雲阿国 (いずものおくに、=

             出雲の阿国 、1572年頃ー没年不明)

             は、  歌舞伎の祖であり、

             歌舞伎踊りの創始者で女性芸能者で

             ある。

             ■ 出雲阿国は、

             安土桃山時代から江戸時代初期に活

             躍し、  阿国歌舞伎(おくにかぶき)の

             創始者であり、 出自には諸説あり、

             出雲国 (いずものくに、現・鳥根県本

             土東部)の出身で、出雲大社の巫女

             (みこ)となり、出雲大社修理勧進(か

             んじん)のため、諸国を巡回したと言わ

             れている。

               ■ 阿国(おくに)は、

             踊りの芸能団を組織し、諸国をめぐり、

             各種の踊りを興行したところ評判になり、

             京(都)では、初め、四条河原 (しじょ

             うがわら、四条大橋付近の鴨川(かも

             がわ)の河川敷) で舞台を張り、その

             後、北野天満宮で定舞台を張り、興行

             を行なう。 

                ■ 阿国(おくに)は、

              当時の文献(「時慶卿記」など)では、

              「クニ」と呼ばれる。

                ■ 阿国歌舞伎 (おくにかぶき)は、

              1603年(慶長8年)頃から、傾き者(か

              ぶきもの)が茶屋の女と戯(たわむ)れる

              茶屋遊びを描いた場面を上演し、「かぶ

              き踊り」という名称が定着する。 以後、

              多くの追従者が現れ、「かぶき踊り」が

              形成される。

                 阿国(おくに)は、1603年(慶長

              8年)から、上演の「傾き者(かぶきも

              の)の一人に、当時有名であった「美男

              子で遊芸に通じた名古屋(那古野)

              山三郎(なごやさんざぶろう、1572年/

              1576年ー1603年)を取り入れ、踊る

              ようになり、人気を得る。

                ■ 阿国一座は、京(都)での人気が衰

              えると、江戸を含め、諸国を巡業 する。

                 阿国(おくに)は、1607年(慶長

              12年)に、江戸城で勧進歌舞伎を上演

              した後、消息が途絶える。

                ■ 江戸時代初期に、「かぶき踊 り」は、

              遊女屋で取り入れられ(遊女歌舞伎)、全

              国に広まった。

                  江戸幕府は、風紀取り締まりのため、

             1629年(寛永6年)に、女性の芸 能者が

             「かぶき踊り」の舞台に立つこと を禁止す

             る。 その後、幕府は、10年あまりの歳月

             をかけ遊女歌舞伎の規制を強め、徐々に、

             「かぶき踊り」で、女性の芸能者が舞台に

             立つことはなくなった。

               

 いせ  伊勢神宮。 

             (いせじんぐう)。 《神社》。

              ISEJINGU SHRINE.

        (⇒ 寺社)。

          ○ 伊勢神宮は、

             日本神話の天照大神(あま

             てらすおおみかみ)を祀(まつ)

          神社である。

             ■ 伊勢神宮 (いせじんぐう)は、 

             日本神話の天照大神(あまてらす

             おおみかみ)を祀(まつ)る神社で

             ある。

 

○ いせ  伊勢 長氏

             (いせ ながうじ)。 《人名》。

             (= 伊勢 宗瑞(いせ そうずい)、

                     伊勢新九郎いせ しんくろう)。

            (= 北条 早雲 ほうじょう そう

                             うん)。

          ○ 伊勢 長氏は、戦国大名

          の北条 早雲である。

       (⇒ 北条 早雲)。

             ■ 伊勢 長氏 (いせ ながうじ)

             とは、  伊勢 宗瑞(いせ そうず

             い)であり、 伊勢新九郎(いせ

                            しんくろう)であり、 戦国大名の、

                        北条早雲 (ほうじょう そううん)

                           である。

 

 いせ  伊勢 国。 

             (いせ のくに)。 

             《旧地域名》。

           (= 勢州(せいしゅう))。 

              概ね、 現・三重県

          北部・中央中部の相当

          地域)。

          ISE PROVINCE.

          (律令制定後・古代・中世・

           近世日本・旧地域名の旧

           国名(令制国)の正式名)。

                    (⇒ 前近代日本の

           地域名)。

          ■ 伊勢 国。

             <東海道 (旧広域地方)。

             <五畿七道 (ごきしちどう、

              日本本土)。

             ■ 伊勢 国(いせ のくに、= 勢州

             (せいしゅう))は、 現・ 近畿地方

             の、概ね、現在の三重県北部・中

                           央中部 に相当する地域である。

             ■ 伊勢 国(= 勢州)は、 五畿七

             道 (ごきしちどう)の、東海道(とう

                           かいどう)・旧広域地方に属する。

             ■ 伊勢 国 (いせ のくに)は、 

             律令制 定後・古代・中世・近世日

             本・旧地域名の、旧国名(令制国)

             の正式名である

             ■ 勢州 (せいしゅう)は、律令

             制定後・古代・中世・近世日本・

             旧地域名の、旧国 名(令制国)

             正式名の、伊勢 国 (いせ の く

             に)の 別称である。

 

 いせ  伊勢平氏 

             (いせへいし)。   《武家の氏族》。

                     (10世紀頃ー12世紀)。

          (⇒ 桓武平氏)。

           ○ 武家としての伊勢平氏。 

           ○ 武家の伊勢平氏は、武家

           の氏族で、貴族化した武士

           である。

          ○ 平維衡(たいらのこれひら)

          始祖(しそ)とする桓武平氏。

          ○ 平維衡(たいらのこれひら)

          ら 平清盛(きよもり)・平宗盛(む

             ねもり)まで 。

          ○ 伊勢を本拠地とする桓武

             平氏の一族で、武家平氏 。 

          ○ 北条氏などの坂東(ばんど

          う、関東)平氏の桓武平氏と

          競(きそ)った。

                    □ 日本歴史で活躍した氏族:

          天皇家藤原氏伊勢平氏

          河内源氏鎌倉北条氏

          足利氏上杉氏武田氏

          井伊氏小田原北条氏

          織田氏豊臣氏徳川氏

              ■ 武家の伊勢平氏 ( いせへいし)は、

                             武家の氏族で あり、 10世紀頃から

              12世紀まで存在した武家、貴族化した

             武士である。

 

〇 いそ  医僧

             (いそう)。 《医療従事者》。

          (= 前近代日本の、医療行為も行

          う仏僧、僧侶の医師・看護師(士))。

          ○ 戦国・安土桃山時代では、男

          性の従軍医僧が、従軍医師・看護

          師(士)として活躍し、多数の生命

          を救う。

             ■ 医僧 (いそう)とは、医療従事者であり、

             前近代日本の、医療行為も行う仏僧、僧侶

             の医師・看護師(士)である。

             ● 医僧は、 戦国・安土桃山時代では、男

             性の従軍医僧が、従軍医師・看護 師(士)と

             して活躍し、多数の生命を救う。

 

〇 いそ  磯禅師。

             (いそのぜんじ)。 《人名》。

             (= 静御前(しずかごぜん)の母)。

              ■ 磯禅師 (いそのぜんじ) は、 静御前(し

             ずかごぜん)の母である。

          (⇒ 静御前)。

 

〇 いた  板垣 退助

             (いたがき たいすけ)。 《人名》。

          (= 乾(いぬい)退助) 。

          (1837年ー1919年)。

          ITAGAKI Taisuke.

                 ○ 政治家。

                 ○ 幕末は尊皇(王)討幕派。

                 ○ 明治期は自由民権運動家。

                 ○ 明治新政府軍を指揮して、甲州

          勝沼の戦いでは 近藤勇の率いる

          新選(撰)組を撃破、会津戦争では

          会津藩士と戦い勝つ。

             ■ 板垣 退助  (いたがき たいすけ、= 乾(い

             ぬい)退助、1837年ー1919年) は、 政治家

             であった。

             ● 板垣 退助は、 幕末は尊皇(王)討幕 派で

             あり、 明治期は自由民権運動家であった。

                    ● 板垣 退助は、 明治時代初期に、戊辰戦

             争(ぼしんせんそう、1868−1869年)で、 

             明治新政府軍を指揮して、甲州勝沼の戦いで

             は 近藤勇の率いる新選(撰)組を撃破し、 会

             津戦争では会津藩士と戦い勝つ。

 

〇 いち   市。

                          (いち)。 《人名》。

          (= お市(おいち)) 。

          ○ 織田信長の妹。 

             ■ 市 (いち) とは、 お市(おいち)、お市の

             方(おいちのかた) であり、 織田信長の妹で

             ある。

         (⇒ お市)。 

 

〇 いち   一位

            (いちい) 《位階》。

          (⇒ 位階叙位)。

          the 1st Court Rank of 

          the Imperial Court.

             ■ 近・現代日本の、職員令(20

          位階)、叙位条例(16位階)、位

          階令(16位階)の位階。

             <1869年頃〜現在、使用>。

             ● 正一位 (しょういちい)。

             ● 従一位 (じゅいちい)。

           (⇒ 位階令の位階)。

           (⇒ 叙位条例の位階)。

          (⇒ 職員令の位階)。

          (⇒ 近・現代日本政府の位階)。

             (1) 一位 (いちい)は、 近・現代日本の、

                      職員令(20位階)、叙 位条例(16位階)、

             位階令(16位階)で、 正一位 (しょうい

             ちい) と 従一位 (じゅいちい) の2つの

             位階として、 1869年(明治2年)頃から

             現在まで使用されている。

          ■ 前近代日本の、朝廷の律令官

          制 の位階(30位階)。

             <701年頃〜1869年頃、使用>

              ● 正一位 (しょういちい)。

              ● 従一位 (じゅいちい)。

           (⇒ 朝廷の律令官制の位階)。

           (⇒ 公卿)。

              (2) 一位 (いちい)は、 前近代日本の、

             朝廷の律令官制の位階(30位階)で 、

             正一位 (しょういちい) と 従一位 (じゅ

             いちい) の2つの位階として、 701年頃

             から1869年(明治2年)頃まで使用される。

 

〇 いち   一円知行。

             (いちえんちぎょう)。 《土地支配》。

          (= 一元的土地支配)。

       (⇒ 荘園公領制

         戦国時代)。

                   (⇒ 応仁・文明の乱)。

             ■ 一円知行(いちえんちぎょう)とは、中世

             日本(鎌倉・建武・室町時代)の時期に、 あ

             る者が一元的に土地を支配することであり、

             中世日本の荘園公領制で1つの土地に対し

             多数の者がもつ重層的で複雑な土地の支配・

             権利関係を一元化することである。

             ● 戦国時代(室町時代後期)に、武家によ

             り一円知行化が進められ、荘園公領制の荘

             園制や公領制(国衙領制)は崩壊し、ほとん

             どの荘園や国衙領は消滅した。

 

〇 いち   一撃講和。

                         (いちげきこうわ)。  《太平洋戦争》。

            ■ 一撃講和とは、 敵に打撃を与えて、より

            有利な講和条約(停戦条約)締結に持ち込む

            ことである。

            ● 太平洋戦争の後期に、旧日本軍は、 敵

            の米軍などの連合軍に大きな打撃を与えて、

            より有利な講和条約(停戦条約)締結を行う

            一撃講和に、持ち込もうとした。 しかし、旧

            日本軍は、連合軍に大きな打撃を与えられ

            ず、戦力が減少していき、戦争を長引かせ犠

            牲者を激増させ、最後に、日本は無条件降伏

            となった。

 

〇 いち   一次史料。

             (いちじしりょう)。 《史料、歴史資料》。

        (⇒ 日本史・第一級史料

        リスト)。

                   (⇒ 二次史料)。

             ■ 一次史料 (いちじしりょう)とは、 ある

             歴史の出来事と同時期に著作された歴史

             資料である。 

                 一般的に、史実(歴史の事実)の史

             料として、信頼できる(信憑(しんぴょう)性

             のある)歴史資料である。

             ■ ニ次史料 (にじしりょう)とは、出来事

             の50年後記載のような同時期記載でない

             史料である。

                ニ次史料 (にじしりょう)とは、 ある

             歴史の出来事に対し、50年後、100年後

             のように離れた時期に著作された歴史資

             料である。

                 一般的に、史実(歴史の事実)の史

             料として、信頼できない(信憑(しんぴょう)

             性が低い)歴史資料である。

 

〇 いち   一条家。

            (いちじょうけ)。  《公家の氏族》。

            ○ 摂関家(せっかんけ)の五摂家の

          1つ。

       (⇒ 摂関家)。

 

〇 いち   一条天皇

             (いちじょうてんのう)。  《人名》。

          (天皇在位:986年−1011年)。

          (生没年:980年−1011年)。

                            THE EMPEROR ICHIJO.

             (⇒ 藤原定子清少納言枕草子)。

             (⇒ 藤原彰子紫式部源氏物語)。

          ○ 一条天皇は、 2人の正室

          夫人の、藤原道隆の娘・藤原

          定子 と、 藤原道長の娘・藤

          原彰子の夫である。

          ○ 朝廷の、宮中の後宮で、

          一条天皇の正室夫人(2人)の、

          藤原定子には、清少納言が仕

          (つか)え、藤原 彰子には、紫式

          部が仕えた

 

〇 いち   一条 長成。

             (いちじょう ながなり)。 《人名》。

             (生没年不明)。

          ○ 源義経の生母・常盤御前(とき

             わごぜん)の 第2番目の夫。

             (⇒ 常盤御前)。

 

〇 いち   一条 能成。 

                           (いちじょう よしなり)。 《人名》。 

          (1163年ー1238年)。

          ○ 一条 長成と常盤御前との間

          の男子。

             (⇒ 常盤御前)。

 

〇 いち   一族名。

             (いちぞくめい)。 《 氏名》。

          (= 氏名の氏(うじ))。

                    ○ 氏姓、名字、屋号等。

             (⇒ 前近代日本の人名) 。

              (⇒ 氏名(一族名+個人名))。

              (⇒ 一族名)。

              (⇒ 個人名(いみな)、通称

           法名) 。

             ■ 氏名は、一族名 と 個人名 で

                           構成されている。

            〈例〉 鈴木 太郎。 

             一族名の鈴木 と 個人名の太郎。

             ● 一族名は、 氏名の一部である。

             ■ 前近代日本の人物氏名には、 

             一族名(氏族名、家名) と 個人名

             がある。

 

〇 いち   一日12等分制。 

            (いちにちじゅうにとうぶんせい)。

            《時刻法(時法)》。

         (⇒ 時刻法前近代

         日本の時刻・時法)。

            ■ 一日12等分制 (いちにちじゅうにとうぶ

             んせい)は、 日本で使われた時刻法(時法)

            の、時間区分形式(1日24時間制、1日12等

            分制) 2つの1つである。

            ● 一日12等分制は、 1日を12区分にする

            時刻法(時法)である。

                         ● 日本で使われた1日12等分制の時刻に

            は、 前近代日本使用の1日12等分制の、

            定時法・不定時法の十二支表示時刻(=十二

            支呼称時刻) と、 不定時法の時鐘数表示時

            刻(=数呼称時刻) の2つがあった。

 

〇 いち   一日24時間制。 

            (いちにちにじうゅよじかんせい)。

            《時刻法(時法)》。

            THE TIME SYSTEM OF 24 

            HOURS A DAY.

         (⇒ 時刻法)。

            ■ 一日24時間制 (いちにちにじうゅよじ

            かんせい)は、 日本で使われた時刻法(時

            法)の、時間区分形式(1日24時間制、1日

            12等分制)2つの1つ である。

            ● 一日24時間制は、 1日を24時間にす

            る時刻法(時法)である。

                         ● 日本で使われた1日24時間制の時刻に

            は、 近現代日本使用の1日24時間制の、

            定時法の西洋式表示時刻 がある。

 

〇 いち   一分金

            (いちぶきん)。 

                   (江戸時代の日本流通貨幣)。

          《日本流通貨幣》。

             ICHIBUKIN GOLD COIN.

          (⇒ (ぶ)単位・定位(定額)

           通常貨幣)。

         (⇒ 江戸時代の日本流通貨幣)。

         (⇒ 日本流通貨幣)。

         ■ 一分金は、江戸時代の

          1分(ぶ)単位の 金貨である。

            ■ 一分金は、 江戸時代の、江戸幕府

              の定位(定額)通常貨幣である。

            ■ 一分金は、 江戸時代の分朱金銀貨

             の1つである。

              ● 一分金≒ 現在の約25,000円

              ● 一分金4枚一両小判(金)≒4分≒

             16朱≒4000文≒現在の約10 万円。

              分単位の貨幣には、2分金、1分金

             とい う分金(ぶきん、分単位の金貨)   

             と1分銀という分銀(ぶぎん、分 単位

             の銀貨)があった。

              ■ 一分金は、

             江戸時代の、江戸幕府鋳造(発行)の

             定位(定額)通常貨幣・13種類 

                            (五両判(金)、一両小判(金)、二分金、

             一分金、二朱金、一朱金、一分銀、

             二朱銀、一朱銀、百文銭銅貨

             (= 天保銭)、十文銭銅貨、

                         四文銭銅・鉄貨、一文銭銅・鉄貨) 

             のうちの1種類である。  

 

〇 いち   一分銀

            (いちぶぎん)。

                   (江戸時代の日本流通貨幣)。

         《日本流通貨幣》。

             ICHIBUGIN SILVER COIN.

          ■ 一分銀は、江戸時代の

          1分(ぶ)単位の 銀貨である。

          (⇒ (ぶ)単位・定位(定額)

           通 常貨幣)。

          (江戸時代の日本流通貨幣)。

          (日本流通貨幣)。

             ■ 一分銀は、 江戸時代の、江戸幕府

             の定位(定額)通常貨幣である。

             ■ 一分銀は、 江戸時代の分朱金銀貨

             の1つである。

              ● 一分銀≒ 現在の 約25,000円。

              ● 一分銀4枚一両小判(金)≒4分≒

              16朱≒4000文≒現在の約10 万円。

             ■ 分単位の貨幣には、2分金1分金

             いう 分金(ぶきん、分単位の金貨)と  

             1分銀という 分銀(ぶぎん、分 単位の銀

             貨)があった。

              ■ 一分銀は、

             江戸時代の、江戸幕府鋳造(発行)の

             定位(定額)通常貨幣・13種類 

                            (五両判(金)、一両小判(金)、二分金、

             一分金、二朱金、一朱金、一分銀、

             二朱銀、一朱銀、百文銭銅貨

             (= 天保銭)、十文銭銅貨、

                         四文銭銅・鉄貨、一文銭銅・鉄貨) 

             のうちの1種類である。 

 

〇 いち  一幡

                          (いちまん) 。 《人名》。

             ■ 一幡 (いちまん、生没年:11

             98年〜1203年) は、 源頼家

             の長男であり、 源頼朝の孫の男

             子である。  

             ■ 一幡は、 源頼家と、比企能員

             (ひきよしかず)の娘・若狭局(わか

             さのつぼね)との間の男子である。

             ■ 一幡は、 1203年(建仁3年)

             9月2日の比企能員(ひきよしかず)

             の変後、源頼家の嫡男で比企一族

             の男子のため、11月に北条義時の

             手勢(郎党)に捕えられ、数え年6歳

             で、殺害される。

 

〇 いち  一万円紙幣。

                          (いち まんえんしへい) 。 

          (= 一万円日本銀行券)。

                    (近現代日本の日本流通

           貨幣)。

          《日本流通貨幣》。

             10000 YEN BILL (NOTE).

          ○ 一万円紙幣は、現代日本

          、一万円単位の紙幣である。

          (⇒ 円単位定位(定額)・通常

           貨幣、日本流通貨幣)。

          (近現代日本の日本流通

           貨幣)。

          (日本流通貨幣)。

              ■ 現代日本の一万円紙幣は、近現

              代日本の、現代政府の定位(定額)

              通常貨幣である。

              ■ 現代日本の一万円紙幣は、近現

              代日本の紙幣の1つである。

               ● 現代日本の一万円紙幣は 

              日本銀行券のみである。

                        ● 近現代日本の貨幣単位は、 円、

              銭、 (えん、せん、りん)であり、

              1円=100銭=1000である。

              ■ 一万円紙幣(= 一万円日本銀行

             券)は、 近現代日本の、近現代政

             発行の定位(定額)通常貨幣・

             17種類 

                            一万円紙幣五千円紙幣ニ千円

             紙幣、千円紙幣五百円紙幣・硬貨、

             百円紙幣・硬貨、五十円紙幣・硬貨、

             十円紙幣・硬貨、五円紙幣・硬貨、

             一円紙幣・硬貨、五十銭紙幣・硬貨、

             ニ十銭紙幣・硬貨、十銭紙幣・硬貨、

             五銭紙幣・硬貨、一銭紙幣・硬貨、

                         五厘硬貨、一厘硬貨) 

             のうちの1種類である。

 

〇 いち  一文銭

                          (いちもんせん) 。 

          (= 一文銭銅・鉄貨)。

                    (江戸時代の日本流通貨幣)。

                     《日本流通貨幣》。

             ICHIMONSEN COIN.

          ○ 一文銭は、江戸時代の、

           1文(もん)単 位の銅・鉄貨で

                       ある。

          (⇒ (もん)単位定額(定位)・

          通常貨幣日本流通貨幣)。

          (江戸時代の日本流通貨幣)。

          (日本流通貨幣)。

              ■ 江戸時代の一文銭は、江戸時代の、

              江戸幕府の定位(定額)通常貨幣で

              ある。

              ■ 江戸時代の一文銭は、江戸時代の

             文銭銅・鉄貨の1つである。

               ● 江戸時代の一文銭は、 寛永通宝

             一文銭銅貨・鉄貨のみである。

                        ●  一文銭≒現在の約25円。

              ● 1文銭4000枚1両小判(金)≒

              4分≒16朱≒4000文(4貫文)≒

              現在の約10万円。

              ■ 一文銭(= 一文銭銅・鉄貨)は、

             江戸時代の、江戸幕府鋳造(発行)の

             定位(定額)通常貨幣・13種類 

                            (五両判(金)、一両小判(金)、二分金、

             一分金、二朱金、一朱金、一分銀、

             二朱銀、一朱銀、百文銭銅貨

             (= 天保銭)、十文銭銅貨、

                         四文銭銅・鉄貨、一文銭銅・鉄貨) 

             のうちの1種類である。

 

〇 いち   一夜城。

             (いちやじょう)。 《城》。

          (= 石垣山一夜城)。

             ICHIYAJO CASTLE.

          小田原合戦)。 

             ■ 一夜城 (いちやじょう、= 石垣山一夜城)

             は、 1590年(天正18年)に、小田原合戦中

             に、小田原城を見下ろす石垣山に、豊臣秀吉

                     が築城した城である。

             ● 一夜城 (= 石垣山一夜城)は、4万人で

             約80日で、急いで築城した城で、総石垣の城

            であった。

             ● 一夜城 (= 石垣山一夜城)は、小田原城

             に籠城(ろうじょう)する北条氏から見えない

             ように工事を行い、秀吉は、完成時、石垣山

             の周りの木を切らせ、突然、総石垣の城が出

             現したように見せたので、一夜城というこの名

             がある。

             ● 開戦・約3カ月後、北条氏は、北条氏本城

             の小田原城を秀吉の軍勢・約10万人以上で

             取り囲まれ、関東各地の北条氏方支城も多く

             が落ち、伊達正宗が秀吉に臣従し援軍も期

             待できず、戦争継続か降伏か意見が分かれ

             る評定(小田原評定)を繰り返していた。 

                開戦・約3カ月後、突然現れた総石垣の

             立派な一夜城 (= 石垣山一夜城)を小田原城

             から見上げた、北条氏勢力は、短・中期戦の

             目論見が外れ長期戦の籠城戦になると考え、

             戦う気力を失い、北条氏家臣の内通者も出

             て、父で隠居の北条氏政(うじまさ)は反対し

             たが、子で北条氏当主の北条氏直(うじなお)

             は降伏を選び、北条氏本城の小田原城を開

             城し、北条氏政は自害させられ、北条氏直は

             高野山に追放となった。 ここに小田原合戦

             は終わり、5代100年続いた戦国大名の北条

             氏は、滅んだ。

 

〇 いち   一領具足

             (いちりょうぐそく)。 《身分》。

             ■ 一領具足 (いちりょう ぐそく)

             とは、 土佐国 (とさのくに、現・

             高知県)に、室町時代後期(戦国

             時代)、安土桃山時代、江戸時代

             初期に、存在した、長宗我部氏

             (ちょううそかべし)が運用した半

             農半兵の兵士および組織である。

             ■ 長宗我部氏が、

             土佐国の兵農分離前の武装農

             民や地侍(じざむらい)を編成し、

             一領具足が出現する。

             ■ 長宗我部氏の長宗我部元親

             (ちょうそかべもとちか)は、

             精強な一領具足を率いて四国統

             一を果たす。

             ■ しかし、その後、豊臣秀吉に

             より、長宗我部氏の領国は、

             土佐一国のみとなる。

             ■ その後、長宗我部氏の長宗

             我部盛親(もりちか)が、関ヶ原

             の戦いで西軍に加わり敗戦した

             ため、長宗我部氏は、戦後、土

             佐国の所領を没収され、改易と

             なる。

             ■ 日本一(ひのもといち)の賢

             妻と言われた千代(ちよ)の夫

             の、山内一豊(やまうちかずと

             よ)が、 徳川家康によって土佐

             を与えられ、土佐山内氏(とさや

             まうちし)が成立し、土佐の大名

             (土佐藩の初代藩主)となる。

             ■ 一領具足を中心とする長宗

             我部氏の遺臣団は、 

             土佐山内氏の土佐支配に対し

             反乱を頻繁に起こし、土佐山内

             によって鎮圧される。

             ■ 土佐山内氏は、

             反乱鎮圧後、長宗我部氏の遺臣

             団への懐柔策として、一領具足

             を土佐藩の郷士(ごうし)の下士

             身分(下級武士)とし取り込み、 

             長宗我部氏直臣で名家だった者

             の一部は、上士身分(上級武士)

             として取り立てる。 

             ■ こうして、江戸時代前期に、

             土佐藩では、 山内一豊の土佐

             入国前の土佐出身でない山内

             氏家臣 や 長宗我部氏の遺臣

             の直臣の中で名家だった者の

             一部は、 土佐藩の上士(じょう

             し、上級武士)となり、 一領具

             足や直臣は、 郷士(ごうし)の

             下士(かし、下級武士) となる。 

             土佐では、この武士の身分制度

             が幕末まで続く。

             ■ 土佐・坂本家は、土佐藩で

             は、 豪商(商人)であったが、

             江戸時代後期に、土佐藩の郷士

             の武士の資格(身分)を買い、

             土佐・坂本家の分家として、郷士

             坂本家を成立させる。 

             ● 幕末に、郷士坂本家から

             坂本龍馬が出現する。

 

〇 いち   一両小判(金)

             (いちりょうこばん(きん))。

          (= 小判)。

                    (江戸時代の日本流通貨幣)。

          《日本流通貨幣》。

                    1 RYO GOLD COIN.

          ■ 1両小判(金)(= 小判)は、

          江戸時代の、1両(りょう)の単

          位の金貨である。

           (⇒ 単位・定位(定額)通常貨幣) 。

           (江戸時代の日本流通貨幣)。

           ( 日本流通貨幣)。 

             ■ 1両小判(金)(= 小判)

             <江戸時代・両単位・定位(定額)通常貨幣。

             <江戸時代・両金貨

             <江戸時代・定位(定額)通常貨幣。

             <江戸時代・日本流通貨幣。

             <近世・日本流通貨幣。

             <日本流通貨幣。

              ■ 1両小判(金)(= 小判)は、

             江戸時代の、江戸幕府の定位(定額)

               通常貨幣であり、楕円形「両金貨」

             である

              ■ 1両小判(金)(= 小判)は、

             江戸時代の両金貨の1つである。

             ● 1両小判(金)(= 小判

              ≒ 現在の約10万円

             ● 1両小判(金)(= 小判

               ≒4分≒16朱≒4000文

                      ≒現在の約10万円

              1両小判(金)(= 小判)は、

             江戸時代の定位(定額)通常貨幣

             基軸通貨として、使用された。

             ● 1両小判(金)(= 小判(11種)は、

              一分金(11種)、一文銭銅・鉄貨

             (1種)と共に、江戸時代の定位(定

             額)通常貨幣の中心通貨 として、

             使用された。 

             ■ 両単位の貨幣には、 一両小判

             (金) と、 5両判(金) という両金貨

             (両判金(りょうばんきん)) があった。

              ■ 1両小判(金)(= 小判)は、

             江戸時代の、江戸幕府鋳造(発行)の

             定位(定額)通常貨幣・13種類 

                            (五両判(金)、一両小判(金)、二分金、

             一分金、二朱金、一朱金、一分銀、

             二朱銀、一朱銀、百文銭銅貨

             (= 天保銭)、十文銭銅貨、

                         四文銭銅・鉄貨、一文銭銅・鉄貨) 

             のうちの1種類である。

 

〇 いつ  斎。

             (いつき)。 《仮称》。

             (= 小寺氏職(こでらうじもと))。

          (NHK大河ドラマ「軍師 官兵衛」

          で登場する小寺氏職の仮称の幼

          名)。

              ○ 小寺政職(こでらまさもと)の嫡男。

                (⇒ 小寺氏職)。

                (⇒ 小寺政職黒田職隆)。

             ■ 斎 (いつき)は、 NHK大河ドラマ「軍

              師 官兵衛」で登場する小寺氏職の仮称の

              幼名であり、 小寺氏職(こでらうじもと) であ

              り、 小寺政職(こでらうまさもと)の嫡男 であ

                             る。

 

〇 いっ  一休 宗純

            (いっきゅう そうじゅん)。 《人名》。

         (= 一休さん)。 

         (1394年ー1481年)。

         ○ 自由奔放で、奇行が多かった、

          室町時代の禅僧。

            ■ 一休 宗純 (いっきゅう そうじゅん、= 一

            休さん、1394年ー1481年)は、 自由奔放

            で、奇行が多かった、 室町時代中期の禅僧

            である。

 

〇 いっ  一向宗 

             (いっこうしゅう)。(= 本願寺)。

             《仏教の宗派》。

             ■ 一向宗 (いっこうしゅう)は、

             本願寺ともいい、仏教の一派(宗

             派)であり、 親鸞によって鎌倉時

             代に起こった真宗(=浄土真宗)の

             一派であり、室町時代後期(戦国

             時代)、安土桃山時代に、隆盛期

             を迎える。 

             ● 一向宗では、 

             1532年から1580年まで、

             大阪・石山の石山本願寺が 、

             一向宗(本願寺)門徒の本拠地

             (本山)であった。

             ● 一向宗(本願寺)は、

             16世紀末期に、二派(西本願寺、

             東本願寺)に分裂し、 明治時代

             以後、他の真宗諸派と合わせて、

             浄土真宗と呼ばれる。

 

〇 いっ   一刻。

             (いっこく)。 《時刻》。

       (⇒前近代日本の時刻・時 法)。

          ○ 一刻(いっこく)は、 通常、約

          30分ではあるが(1日48刻法・

          (いっとき)4分法の時間細分

          法では)、 前近代日本の各時

          間細分法により、時間数は、異

          なる。

          ○ 一刻(いっとき)と読むときは、

          一時(いっとき)と同意語で、約2

          時間である。

          ● 前近代日本で使われた1日

          12等分制の時刻法の時間区分

          の、時間細分単位の1つ。

 

〇 いっ  乙巳の変。

             (いっしのへん)。 《事件》。

             (645年)。

              ISSHINOHEN INCIDENT.

                    ○ 中大兄皇子・中臣鎌足が

          我蝦夷・入鹿父子を殺害する。

          (⇒ 大化の改新)。

             ■ 乙巳の変 (いっしのへん)は、

             年に起こり、 中大兄皇子(なかのおお

             えのおうじ)や中臣鎌足(なかとみのか

             またり)が、 蘇我蝦夷 ・蘇我入鹿(そ

             がのえみし・そがのいるか)父子を殺害

             する。

             ■ 優秀な政策者の曽我蝦夷・入鹿父

             子は、曽我氏に権力を集中させ国家の

             難局に対処しようとしたが、 645年の

             乙巳の変で、王族(皇族)中心の国家に

             こだわる中大兄皇子や中臣鎌足に阻止

             される。

             ■ 後に、 中大兄皇子は、天智天皇

             (てんじてんのう、生没年:626 年−

             671年、称制:661年−668年、在

             位:668年−671年) になり、 中臣

             鎌足は、藤原鎌足(ふじわらのかまた

             り、生没年:614−669年、藤原氏の

             祖)となる。

 

〇 いっ  壱州。  

             (いっしゅう)。 《旧地域名》。

          (= 壱岐 ( いき のくに)の別称)。

          (≒ 概ね、現・長崎県壱岐島

          相当地域)。

             ISSHU AREA.

          (律令制定後・古代・中世・近世

          日本・旧地域名の、

          旧国(令制 国)の別称)。

                   (⇒ 壱岐 )。    

                   (⇒ 前近代日本の地域名)。

                          ■ 壱 (いっしゅう、= 壱岐 国( いき

             のくに)の別称)は、 西海道(さい かい

             どう)・旧広域地方に属し、概ね、現・九州

             地方の、現在の長崎県壱岐島(いきのしま、

             壱岐市)に相当する地域である。

             ■ 壱州 (いっしゅう)は、  律令制定

             後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             旧国名(令制国)正式名の、壱岐 国 

             (いき のくに) の別称である。

 

〇 いつ  一朱金

             (いっしゅきん)。 《日本流通貨幣》。

                   (江戸時代の日本流通貨幣)。

             ISSHUKIN GOLD COIN.

          ○ 江戸時代の、1朱(しゅ)

          単位の金貨。

          (⇒ 朱単位・定位(定額)通常貨幣)。

          (⇒ 江戸時代の日本流通貨幣)。

          (⇒ 日本流通貨幣)。

             ■ 一朱金 (いっしゅきん)は、江戸時代

             の、1朱(しゅ)の単位の金貨である。

             ● 一朱金は、 江戸時代の、江戸幕府の

              定位(定額)通常貨幣である。

             ● 一朱金は、 江戸時代の分朱金銀貨

             の1つである。

             ● 一朱金≒ 現在の約6,250円

                1朱金16枚≒1両小判 (金)≒4分≒

                             16朱≒40 00文≒現在の約10万円 。

             ■ 江戸時代の、朱単位の貨幣には、2朱

             金(3種)、1朱金(1種)という 朱金(しゅ

             きん、朱単位の金貨) と 2朱銀(3種)

             1朱銀(1種)という 朱銀(しゅぎん、 朱単

             位の銀貨) があった。

 

〇 いっ  一朱銀

            (いっしゅぎん)。 《日本流通貨幣》。

                   (江戸時代の日本流通貨幣)。

             ISSHUGIN SILVER COIN.

          ○ 江戸時代の、1朱(しゅ)

          単位の銀貨。

          (⇒ 朱単位・定位(定額)通常貨幣)。

          (⇒ 江戸時代の日本流通貨幣)。

          (⇒ 日本流通貨幣)。

             ■ 一朱銀 (いっしゅぎん)は、江戸時代

             の、1朱(しゅ)の単位の銀貨である。

             ● 一朱銀は、 江戸時代の、江戸幕府

              の定位 (定額)通常貨幣である。

             ● 一朱銀は、 江戸時代の分朱金銀貨

             の1つである。

             ● 一朱銀≒ 現在の約6,250円

                1朱銀16枚≒1両小判 (金)≒4分≒

                             16朱≒40 00文≒現在の約10万円 。

             ■ 江戸時代の、朱単位の貨幣には、2朱

             金(3種)、1朱金(1種)という 朱金(しゅ

             きん、朱単位の金貨) と 2朱銀(3種)

             1朱銀(1種)という 朱銀(しゅぎん、 朱単

             位の銀貨) があった。

 

〇 いっ  一心太助

             (いっしんたすけ)。 《架空の人物》。

                    ○ 江戸前期の魚屋さん、架空の

          人物

             ■ 一心太助 (いっしんたすけ)は、 江戸

             時代前期の魚屋さんであり、 架空の人物

             である。

 

〇 いっ  1世紀。

             (いっせいき)。 《世紀》。

          (= 1年〜100年)。

          (⇒ 世紀世紀・西暦年

        号対照一覧表)。

 

 いつ  五 。

             (いつつ)。 《時刻》。

             ■  (いつつ、別名:五つ、五ツ) は、 

             昼間・午前8時頃、夜間・午後8時頃である。

                          (⇒ 前近代日本の時刻・

        時法

             ■ 前近代日本(室町時代後期〜江戸時代)

             の「日 の出や日没を基準とする不定時法」の、

             時鐘数表示時刻の主要時間区分。

             ■ 別名 : 五つ、 五ツ。

             ■ 午前8時00分 昼間・午前8時頃

              ≒ (朝) 五つ、五ツ。

              ≒ 辰の刻(たつのこく)の正刻 (正辰(しょうしん))。

             ■ 午後8時00分 夜間・午後8時頃

              ≒ (夜) 五つ、五ツ。

              ≒ 戌の刻(いぬのこく)の正刻 (正戌(しょうじゅつ))。

             ○ 五つ(五ツ) ≒

             (朝) 五つ ≒ 昼間・午前8時00分〜午前9時00分。

             (夜) 五つ ≒ 夜間・午後8時00分〜午後9時00分。

             ○ 五つ半(五ツ半) ≒  

             (朝) 五つ半 ≒ 昼間・午前9時00分〜午前10時00分。

             (夜) 五つ半 ≒ 夜間・午後9時00分〜午後10時00分。

 

〇 いっ   一時。

             (いっとき、ひととき)。 《時刻》。

          (= 約2時間)。

          (= 一刻(いっとき))。

        (⇒前近代日本の時刻・

                  時 法)。

           ○ 一時(いっとき)は、約2時間で

          ある。

           ○ 一時(いっとき)を、一時(いっとき)

          の別名の一刻(いっとき)と言うとき

          は、一刻(いっとき)は、約30分で

          はなく、 約2時間である。

           ● 前近代日本で使われた1日

          12等分制の時刻法の時間区分

          の中心となった時間 単位

 

〇 いっ   一夫多妻制。

             (いっぷたさいせい)。 《婚儀制度》。

                          ○ 一夫多妻制は、

           前近代日本(江戸時代まで)の

           婚儀(結婚)制度の1つである。

                           (⇒ 前近代日本の一夫

         多妻制)。

               ○ 前近代日本では、 医療未発

          達で、栄養学の知識も乏しく、子

          供も大人も病死が多く、 家を存

          続させるため、 家長は、 複数の

          夫人をもち、子を多くつくり、子孫

          を残すことが多かった。

               ○ 封建制、家父長制、身分・家

          格制の前近代日本の上層階層で

          は、夫が夫人を自由に選ぶことは

          許されず、夫の正室夫人や多くの

          側室夫人を、君主、上司、家長、

          親などが選び、に押し付け、

          は、容姿・性格など自分の好みで

          ない夫人を多く抱え、精神的負担、

          経済的負担が大きく、夫人間の調

          停もせねばならず、大変であった。

 

〇 いと   伊藤 助太夫。

             (いとう すけだゆう)。 《人名》。

          ○ 伊藤 助太夫は、

          坂本 龍馬の支援者で下関

           の商人である。

          (⇒ 坂本龍馬)。

             ■ 伊藤 助太夫 (いとう すけだゆう)は、

             坂本 龍馬の支援者で下関の商人である。

 

〇 いと   伊藤 助太夫。

             (いとう すけだゆう)。 《人名》。

          ○ 伊藤 助太夫は、

          坂本 龍馬の支援者で下関

           の商人である。

          (⇒ 坂本龍馬)。

             ■ 伊藤 助太夫 (いとう すけだゆう)は、

             坂本 龍馬の支援者で下関の商人である。

 

〇 いと  伊東祐事件

             (いとうすけちかじけん)。

             《 事件名》。

          (= 千鶴丸殺害事件)。

          (⇒ 源 頼朝)。

          (⇒ 平 清盛)。

          ○ 1175年(安元元年)

          9月に伊東祐事件

          (= 千鶴丸殺害事件)が

             起こる。

          ○ 伊東祐事件により、

          北条時政が伊東祐に代

          わって流人の源頼朝の監

          視役となり、その後、流人

          の源頼朝は、伊豆・北条家

          に取り入り、規模は小さい

          が武力を得て、平家打倒の

          基盤を固める。

             ■ 伊東祐 (いとう すけちか

             = 伊東入道)は、平家方(伊勢平氏

             方)の武将で、 平清盛から流人

             (るにん、流罪にあった人)の源頼

             朝の監視役を依頼され、 伊豆国

             本土(伊豆半島)で、1160年から

             1175年までの約15年の間、流人

             (流刑者)の源頼朝の監視役を担っ

             ていた。 

             ■ 伊東祐が、 大番役(おおば

             んやく、約3年間の京都大番役)を

             終え、京(都)から戻ると、 伊東祐

             親が留守の間に、流人の源頼朝と

             伊東祐の娘の八重姫(やえひめ)

             が親密となり、2人の間に、男子の

             千鶴丸(せんつるまる)が誕生してい

             たのを知り、驚き、激怒し、1175

             (安元元年)9月に、平家の怒りを恐

             れて、千鶴丸を川に沈めて死なせ、

             また、流人(流刑者)の源頼朝を殺

             害しようとする。

             ● 伊東祐の動向を知った、流人

             の源頼朝は、北条時政(ほうじょうと

             きまさ)の館(やかた)に逃げ込み、 

             北条時政(ほうじょうときまさ)が、

             伊東祐に代わって、1175年から

             1180年までの約5年間、 流人の

             源頼朝の監視役を担うこととなる。

             ● その後、北条時政の監視期間中

             に、流人の源頼朝は、監視役の伊豆

             の小豪族の北条家に取り入り、規模

             は小さいが武力を得て、1180年(治

             承4年)の平家打倒挙兵の基盤を固

             める。  

 

〇 いと  伊東悌次郎。

             (いとうていじろう)。 《人名》。

         (⇒ 新島八重会津戦争)。

          ○ 会津戦争で飯盛山で自刃した

          白虎隊部隊隊士の一人。

          ○ 山本(新島)八重の銃の教え子。

 

〇 いと   伊藤 博文

             (いとう ひろぶみ)。 《人名》。

           (= 伊藤俊輔 (いとう しゅんすけ)

          伊藤利助(いとう りすけ))。

                     (1841年ー1909年)。 

              ○ 明治時代の政治家、長州藩

           士出身。

                     ○ 幕末、勤王の志士、明治期、

           政府の指導者。

 

#ina

 

 いな  因幡 国。

             (いなば のくに)。 《旧地域名》。

                    (= 因州(いんしゅう))。 

          (≒ 概ね、現・鳥取県東部の

          相当地域)。

          INABA PROVINCE.

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の、

           旧国(令制 国)の正式名)。

                    (⇒ 前近代日本の地域名)。

          ■ 因幡 国。

             <山陰道 (旧広域地方)。

             <五畿七道。

             ■ 因幡 国(いなば のくに、=

             (いんしゅう))は、 

             現・ 中国地方の、現在の鳥取県東部

             相当する地域である。

             ■ 因幡 国(= )は、 五畿七道 (ご

             きしちどう)の山陰道(さんいんどう)・旧

                           広域地方に属する。

             ■ 因幡 国 (いなば のくに)は、律令制

             定後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             旧国名(令制国)の正式名である

             ■ 因州 (いんしゅう)は、 律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、旧国

             名(令制国)正式名の、因幡 国 ( いなば

             くに)の 別称である。

 

 いな  稲葉山城。

             (いなばやまじょう)。  《城》。

               (= 後の岐阜城)。

                   (⇒ 岐阜城)。

          ■ 戦国時代の稲葉山城(後の

                  岐阜城)の城主の変遷。

             ■ 稲葉山城は、 美濃・斎藤氏の本城、居

             城であった。

             ■ 稲葉山城 (いなばやまじょう、= 後の岐

             阜城(ぎふじょう)、岐阜県岐阜市)は、 

             濃国(みののくの、現・岐阜県南部の相当

             地域)の、標高・329mの金華山(きんかざ

             ん)の山頂にあった城である。

             ■ 戦国時代(= 室町時代後期)の、岐阜城 

             (ぎふじょう、前の稲葉山城(いなばやまじょ

             う))の城主は、次の順序で、変わっていった。

             (1) 稲葉山城城主・守護代斎藤氏(しゅごだ

              いさいとうし)。

             (2) 稲葉山城城主・長井長弘(ながいなが

              ひろ)。

             (3) 稲葉山城城主・斎藤道三(利政)(さい

              とうどうさん(としまさ))。

             (4) 稲葉山城城主・斎藤義龍(さいとうよし

              たつ)。

             (5) 稲葉山城城主・斎藤龍興(さいとう た

              つおき)。

             (6) 岐阜城城主・織田信長(おだのぶなが)。

              ■ 1567年(永禄10年)に、織田信長は、

             美濃国(みののくの、現・岐阜県南部の相

             当地域)を平定し、 稲葉山城に入り、こ

             れを岐阜城(ぎふじょう)と改名し、天下取

             りの足がかりとする。

 

 いぬ  戌の刻。 

             (いぬのこく)。 《時刻》。

          (⇒ 前近代日本の時刻・

        時法

             ■ 前近代日本の、定時法と不定時法の、

              十二支表示時刻の主要時間区分。

             ■ ≒ 午後7時00分〜午後9時00分。

             ● 戌の刻の正刻 (正戌(しょうじゅつ))

               ≒ 午後8時00分。 夜間・午後8時頃。

               ≒ (夜) 五(いつつ)、五つ、五ツ。   

             ○ 戌一刻(戌一つ時)≒

              午後7時00分〜午後7時30分。

             ○ 戌二刻(戌二つ時)≒

              午後7時30分〜午後8時00分。

             ○ 戌三刻(戌三つ時)≒

              午後8時00分〜午後8時30分。

             ○ 戌四刻(戌四つ時)≒

              午後8時30分〜午後9時00分。

 

 いぬ  戌亥、乾の方角

              (いぬいのほうがく)。  《方位》。

             (= 北西の方向)。 

        (⇒ 前近代日本の方位

 

 いぬ  犬伏密談。

             (いぬぶしみつだん))。 《会議》。

           (= 真田父子犬伏密談)。 

              (1600年7月)。

          (⇒ 天下分け目の戦い)。

          (⇒ 真田氏

         真田 幸村(信繁))。

             ■ 犬伏密談とは、関ヶ原の戦いの数カ月

             前の、1600年(慶長5年)7月に、下野国

             (しもつけのくに、現・栃木県)の犬伏(いぬ

             ぶし)で、 真田氏当主の真田昌幸(さなだ

             まさゆき) と、 昌幸の次男の真田幸村

             (信繁(のぶしげ))  と、 昌幸の長男の真

             田信幸(信之)(のぶゆき) の3人が行った

             密談 である。 

             ■ 犬伏密談は、 真田氏当主の真田昌幸

             と、 昌幸の次男の真田幸村(信繁 ) と、 

             昌幸の長男の真田信幸(信之)(のぶゆき) 

             の 3人や真田氏のその後の運命を変える

             会談であった。

             ■ 密談の結果、 天下分け目の戦い(16

              00年の関ヶ原の戦い、その他の戦い)で、 

             真田昌幸と次男・真田幸村(信繁)の父子

             は、石田(三成)方の西軍に味方し、 昌幸・

             長男の真田信幸(信之)は、徳 川(家康)方

             の東軍に味方することとなった。 

 

 いの  井上馨

             (いのうえ かおる)  《人名》。

             INOUE Kaoru.

             (1835年−1915年)。

                          ○ 井上馨は、明治時代の

             外務卿(がいむきょう、外務

          大臣)である。

              (⇒ 条約改正伊藤博文)。

            (⇒ 鹿鳴館)。

            (⇒ 井上武子華族)。

            ■ 井上馨 (いのうえかおる、生没

            年:1835年−1915年)は、 明治

            時代の外務卿(がいむきょう、外務

            大臣)である。

            ■ 井上馨は、長州藩出身で、尊王

            攘夷運動に参加し、イギリスに留学

            し、帰国後倒幕運動で活躍し、明治

            政府(近代日本政府)に入り、後に、

            第1次伊藤内閣の外務卿(外相)と

            して、欧化政策を推進する。

            ■ 井上馨は、明治時代・大正時代

            初期に、外相、農相、内相、蔵相な

            どを歴任し、18 98年以後、元老と

            なり、 明治時代・大正 時代初期に、

            政界、財界に大きな発言力をもった。

            ■ 井上馨は、明治政府(近代日本

            政府)の第1次伊藤博文内閣の外

            務卿(外相)となり、欧化政策をとり、

            不平等条約改正に努力したが、

            批判をうけ辞職する。

            ■ 外務卿・井上馨の企画により、

            鹿鳴館  (ろくめいかん、1883年(明

            治16年)ー1887年(明治20年))が

            つくられた。

            ● 鹿鳴館 では、1883年(明治16

            年)から1887年 (明治20年)まで、

            豪華な園遊会や舞踏会などが催さ

            れた。

               1887年(明治20年)に、 不平

            等条約改正案や欧化主義などの

            批判から、外務卿・ 井上馨の辞職と

            ともに、鹿鳴館時代(1883年(明治

            16年)ー1887年(明治20年)

            終わった。      

 

 いの  井上武子

             (いのうえたけこ)。  《人名》。

             INOUE Takeko.

             (1850年−1920年)。

                          ○ 井上武子は、井上馨

          夫人である。

            ○ 井上武子は、明治期の

          トップレディーの1人であ

          る。

                          ○ 井上武子は、鹿鳴館の

          女主人であり、「鹿鳴館の

          華(はな)」の一人 である。

            (⇒ 井上馨鹿鳴館)。

            (⇒ 華族)。

             ■ 井上武子 (いのうえたけこ、

             1850年−1920年)は、 井上

             馨(いのうえかおる)の夫人(18

             70年結婚)である。 

                鹿鳴館開館前、井上武子は、

             1876(明治9年)に、欧米視察

             の井上馨と共に、1876年から

             1878年まで、アメリカやヨーロッ

             パに渡り、西洋のマナーとファッ

             ションを身につけ、西洋式社交術

             を修得し、 1878年(明治11年)

             に帰国する。

                 そして、井上武子は、鹿鳴

             ((1883年明治16年)〜18

             87年(明治20年))で活躍する。

                 井上武子は、鹿鳴館を企

             画した外務卿(がいむきょう、外

             務大臣)の井上馨(いのうえかお

             る)の夫人であり、鹿鳴館の女主

             人であった。 華麗で優雅なファ

             ッションを身につけていた。

             ■ 鹿鳴館。

                鹿鳴館  (ろくめいかん、18

             83年(明治16年)ー1887年(明

             治20年))は、 日本初の迎賓館

             (げいひんかん)であり、 外務卿・

             井上馨(いのうえかおる)の進め

             る欧米との不平等条約改正のな

             どの目的で、条約改正の第一歩

             として社交を通じて欧米各国の

             政府高官との信頼関係を築こう

             と設立され、 国賓(こくひん)や

             外交官などの外国客を招待、接

             待するための社交場であり、 

              遊会や舞踏会などが頻繁に開か

             れ、 バッスルスタイルの煌(きら)

             びやかなドレスをまとう、華族(か

             ぞく、1869 年ー1947年)や政

             府高官などの上流夫人が、活躍

             した。

             ■ 「鹿鳴館の華」。

             ● 優雅なダンスと美貌で、洗練

             されたマナーと振る舞いで、「鹿鳴

             館の華」 (ろくめいかんのはな)

             と称(たた)えられた女性には、

             (a) 井上 武子 (いのうえ たけ

             こ、井上 馨(かおる)夫人、

             1850年−1920年)、

             (b)  大山 捨松 (おおやま すて

             まつ、大山 巌(いわお)夫人

             1860年ー1919年)、  

             (c) 戸田 極子 (とだ きわこ、

             戸田 氏共(うじたか)夫人、

             1858年−1936年)、 

             (d) 陸奥 亮子 (むつ りょうこ、

             陸奥 宗光(むねみつ)夫人、

             1856年ー1900年)、 

             (e) 鍋島 栄子 (なべしま なが

             こ、鍋島 直大(なおひろ)夫人、

             1855年−1941年) 

             などがいる。

 

 いの   亥の刻。

              (いのこく)。 《時刻》。

           (⇒ 前近代日本の時刻・

        時法

             ■ 亥の刻 (いのこく)は、 前近代日本の、

              定時法と不定時法の、十二支表示時刻の

              主要時間区分である。

             ■ ≒ 午後9時00分〜午後11時00分。

             ● 亥の刻の正刻 (正亥(しょうがい))

              ≒ 午後10時00分。 夜間・午後10時頃。

              ≒ (夜) 四(よつ)、四つ、四ツ。      

             ○ 亥一刻(亥一つ時)≒

              午後9時00分〜午後9時30分。

             ○ 亥二刻(亥二つ時)≒

              午後9時30分〜午後10時00分。

             ○ 亥三刻(亥三つ時)≒

              午後10時00分〜午後10時30分。

             ○ 亥四刻(亥四つ時)≒

              午後10時30分〜午後11時00分。

 

 いの  井上 之房(九郎右衛門)。 

             (いのうえ ゆきふさ(くろうえもん))。

          《人名》。

             ○ 黒田氏重臣。

             (⇒ 黒田官兵衛 (孝高)

            櫛橋 伊定櫛橋 光)。

             ○ 黒田官兵衛(孝高) の夫人・櫛橋光

             (くしはし てる)の妹、の夫。

             ○ 播磨・志方(しかた)城主の櫛橋伊定

             (左京亮)(くしはしこれさだ(さきょうのす

             け)の三女(実名不詳)、の夫。

 

 いば  茨城県。

             (いばらきけん)。 《現地域名》。

             (≒ 前近代日本の、常陸 国 (

           た ち のくに、常州(じょうしゅう)、茨城

          県) の相当領域)。

          (現都道府県)。 

                         IBARAKI PREFECTURE.

                   (⇒ 前近代日本の地域名)。

                    (⇒ 旧地域名)。

             ■ 茨城県 (いばらきけん)は、 前近代日

             本の、常陸 国(ひた ち のくに、常州(じょう

             しゅう)) の相当領域である。

 

 いほ  移封。

             (いほう) 。 《領地》。

             (= 転封(てんぽう)

            国替え(くにがえ))。

          (⇒ 転封)。

          ○ 移封とは、

          領地替えである。

 

#ima

 

〇 いま  今井 宗久

             (いま い そうきゅう)。 《人名》。

                    (1520年 ー1593年)。

                 ○ 茶人。 堺の豪商。 

                 ○ 織田信長、豊臣秀吉に仕

             (つか)える。

             ■ 今井 宗久 (いま い そうきゅう、1520

             年 ー1593年)は、 茶人で、堺の豪商で

             あり、織田信長、豊臣秀吉に仕(つか)える。

 

〇 いま  今川 氏真

             (いまがわ うじざね)。 《人名》。

                    (1538年ー1614年)。

                     IMAGAWA Ujizane.

                 ○ 今川 氏真は、

          今川 義元の子である。

                 ○ 今川 氏真は、

                 駿河国 (するが のくに、現・ 静岡

          県中部の相当領域)の戦国大

             名、国主(こくしゅ)であった。

          ○ 今川 氏真は、

          家康に敗戦し、戦国大名の今

          川氏は滅亡する。

          (⇒ 今川義元寿桂尼

        徳川家康武田信玄

             ■ 今川 氏真 (いまがわ うじざね

             1538年ー1614年は、 駿河国(す

             るがのくに、現・静岡県中部の相当地

                          域)の戦国大名であり、 駿河 国の

             国主(こくしゅ)であった。

             ■ 今川 氏真は、今川 義元の子であ 

             り、1560年(永禄3年)の父・今川 義

             元の敗死後、 駿河・今川氏の当主

             (1560−69年)となり、 父・義元に

             代わって、駿河、遠江、三河(するが・

             とおとうみ・みかわ、現・静岡県中部・

             西部、愛知県東部)の3国の統治者と

             なるが、その後、すべての領国を失う。

             ■ 今川 氏真は、 祖母の寿桂尼(じ

             ゅけいに、生年不詳〜1568年)の補

             佐を受けるが、 勢力挽回に努めるが、 

             武田信玄と徳川家康による領国の攻

             撃を受け、次々に領地を失い、家臣の

             離反も起こり、 最後に、1569年(永

             禄12年)に、徳川家康に、籠城(ろうじ

             ょう)した遠江・掛川城(かけがわじょ

             う)を開城して、降伏する。

             ● 今川 氏真は、 敗戦・降伏後、主

             に、徳川家康に身をよせる。

 

〇 いま  今川 義元

             (いまがわ よしもと)。 《人名》。

                    (1519 ー1560年)。

                     IMAGAWA Yoshimoto.

                 ○ 今川 義元は、

                  駿河、遠江、三河を領する、

          東海の戦国大名であった。

                 ○ 今川 義元は、

                  桶狭間の戦いで、討ち死に

          する。

        (⇒ 桶狭間の戦い

         織田信長)。

           (⇒ 寿桂尼太原雪斎

         今川氏真

        (⇒ 徳川家康築山殿)。

             (⇒ 井伊氏井伊 直虎

                   井伊 直 政)。 

             ■ 今川 義元は、 西進の途次、15

             60年(永禄3年)に、織田信長により、

             桶狭間(おけはざま)の戦いで、敗死

             する。 

             ■ 1560年(永禄3年)の今川 義元

             討死後、 今川氏の人質であった徳川

             家康(松平元康)が、三河(みかわ、現・

             愛知県東部)に戻り独立する。 また、 

             子の今川氏真(うじざね)が今川氏の

             家督(かとく)を継ぎ、 今川氏真は、

             祖母の寿桂尼(生年不詳 ー1568年

             の補佐を受け、今川氏の勢力挽回に

             努めるが、 1569年(永禄12年)に、

             徳川家康に敗戦・降伏し、戦国大名の

             今川氏は、滅びる。

             ■ 今川 義元 (いまがわ よしもと

             1519ー1560年は、 駿河国(す

             るがのくに、現・静岡県中部の相当地

                          域)の戦国大名 、国主(こくしゅ)であり、 

             東海の駿河、遠江、三河を領有した。

             ■ 今川 義元は、 生母の寿桂尼(じ

             ゅけいに、生年不詳 ー1568年) や

             政治顧問・軍師の太原雪斎 (たいげ

             んせっさい、生没年:1496年ー15

             55年)の補佐を受けて、 駿河、遠江、

             三河(するが・とおとうみ・みかわ、現・

             静岡県中部・西部、愛知県東部)の3

             国に勢力を広げる。

 

〇 いま  今若。 

             (いまわか)。 《人名》。

           (= 阿野全成の幼名)。

        (⇒ 常盤御前源義経) 。

          ■ 今若 (いまわか)は、 源義朝 (よ

              しとも)と常盤御前(ときわごぜん) との

             間の3人の男子 (今若(阿野全成)、

          乙若(おとわか、義円)、牛若(うしわか 、

             源義経)) の一人である。 

 

〇 いみ  

             (いみな)。          

             《 前近代日本の氏名》。

           (= 前近代日本の個人名の

           実名)。

               (⇒ 個人名(いみな)、通称) 。

               (⇒ 氏族名)。

              (⇒ 氏名(氏族名+個人名))。

              (⇒ 前近代日本の人名) 。

             ■  (いみな)は、 前近代日本の

             個人名の実名、正式名であり、 個人

             名の1つである。

              ■ 前近代日本の人物氏名には、 

             一族名(= 氏族名、家名)と個人名

             がある。

             ■ 前近代の個人名の諱と通称(=

             仮名)。

             ● 前近代日本の人物氏名の個人

             名には、 (a) 諱(いみな、正式名) 

             と、 (b) 通称(仮名(けみょう) が

             ある。

             ■ 前近代日本の人物氏名の個人

             には、他に、 (c) 法名(戒名、

             出家名)、 (d) 諡 (おくりな、諡

             号(しごう)、貴人死後の贈り名)、 

             (e) 字 (あざな、学者・文人の別

             名)、 (f) 名跡(みょうせき、商家

             当主継承名、家元・芸名等のブラン

             ド継承名)、 (g) 雅号(がごう)な

             どがある。

 

○ いよ  伊予 国。

             (いよ のくに)。

          (旧国(令制国))。 《旧地域名》。

             = 予州(よしゅう))。 

          (≒ 概ね、現・愛媛県の相当

          地域)。

                    IYO PROVINCE.

          (前近代日本の、 旧国(令制国)

           の正式名)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                      (⇒ 前近代日本の

         地域名)。

                      (⇒ 旧地域名地域名)。

                      (⇒ 日本の地名)。

          ■ 伊予 国。

             <南海道(なんかいどう)・旧広域地方。

             <五畿七道(ごきしちどう、日本本土)。

          (⇒ 南海道・旧広域地方)。

                   (⇒ 五畿七道)。

                         ■ (RWM) 日本の、中地域名の変遷。

             ● 国造・県主分国⇒ 旧国(令制国)

               ⇒ 旧都道府県⇒ 現47都道府県。

             ■ 伊予 国いよ のくに、= 予州(よし

             ゅう))は、 現 ・ 四国地方の、概ね、現

             在の 愛媛県(えひめけん)に相当する

             地域であり、 海道(なんかいどう)・

             旧広域地方に属し、 前近代日本の、

             旧国(令制 国)である。

                  (⇒ 都道府県)。

           (⇒ 四国地方)。

             ■ 予州 (よしゅう)は、  律令制定

             後・古代・中世・近世日本・旧地域名

             の、旧国名(令制国)正式名の、伊予   

             国(いよ のくに)の別称である。

             ■ 伊予 国 (いよ のくに)は、 律令

             制定後・古代・中世・近世日本・旧地

             域名の、旧国名(令制国)の正式名で

             ある

             ■ 伊予 国(= 予州)は、 五畿七道

             の南海道( なんかいどう)・広域地方

                          に属する。

 

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〇 いわ  岩倉 具視

             (いわくら ともみ)。 《人名》。

                     (1825年ー1883年)。

          ○ 岩倉 具視は、

          優秀な政治家、公家である。

             ■ 岩倉 具視 (いわくら ともみ、

             1825年ー1883年)は、  優秀な

             政治家であり、公家(くげ)である。

 

〇 いわ  岩崎 弥太郎

             (いわさき やたろう)。 《人名》。

          (1834年ー1885年)。

          ○ 岩崎弥太郎は、

           三菱財閥、現在の三菱

           グループの創業者であ

          る。

          ○ 岩崎弥太郎は、

          土佐出身で、土佐藩下

                      級武士の地下浪人(じげ

           ろうにん)出身である。

          ○ 岩崎弥太郎は、

           幕末、吉田東洋、後藤

            象二郎の部下(手下)

          であった。

          ○ 岩崎弥太郎は、

           幕末、坂本龍馬の海援

           隊の経理係であった。

                   ○ 岩崎弥太郎は、明治

          時代に、実業家、政商と

          なる。

             ■ 岩崎弥太郎 (いわさきや

             たろう、生没年:1834年ー

             1885年)は、 

             三菱財閥(現・三菱グループ)の

             創始者のである。

             ■ 岩崎弥太郎は、 

              土佐(とさ、現・高知県)出身で

                           あり、 土佐藩下級武士の地下

              浪人(じげろうにん、郷士の資

             格(身分)を売った武士)の出身

             である。

             ● 岩崎弥太郎は、 

               幕末、吉田東洋、後藤象二郎

             の部下(手下)であった。

              岩崎弥太郎は、 

             坂本龍馬の海援隊の会計係

             (経理係)でもあった。

             ■ 岩崎弥太郎 (いわさきやた

             ろう、1834年−1885年、

             三菱財閥の創始者)は、 

             幕末に赤字であった土佐商会

             引き継ぎ、代表に就任し、立て

             直し、運営する。

             ■ 岩崎弥太郎は、 

             明治時代に、実業家、政商となり、 

             旧三菱財閥、現在の三菱グルー

             プの創業者となる。

 

○ いわ  岩手県。

             (いわてけん)。

           (現都道府県)。 《現地域名》。

           ○ 岩手県は、現・47

           都道府県の1つである。

                             IWATE PREFECTURE.

             ○ 岩手県の地域は、

            前近代の陸奥国(奥州、

           陸州) の中北部の相当

           地域である。

             ○ 岩手県の地域は、

            概ね前近代日本の、

              陸奥国(むつのくに、奥州(おう

               しゅう)、陸州(りくしゅう、ろくしゅ

           う)、現・青森県・岩手県・宮城県・

                      福島県の相当地域) の中北部

           の相当地域である。

                     (⇒ 都道府県)。

                     (⇒ 陸奥国)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                       (⇒ 前近代日本の

          地域名)。

                      (⇒ 旧地域名地域名)。

                      (⇒ 日本の地名)。

          ■ 岩手県の地域

             <東北地方。

             <日本本土 (本州、四国、九州)

             <日本国

             ● 岩手県 (いわてけん、英:

              IWATE  PREFECTURE)は、

              東北地方に属する。

                    (⇒ 東北地方)。

          ■ 岩手県地域

                (陸奥国の中北部)。

             <陸奥国 (むつのくに、旧国名(令

              制国)、現・青森県、岩手県、宮城

              県、福島県の相当地域)。

             <東山道(とうさんどう )・旧広域地方

             <五畿七道(ごきしちどう、日本本土)。

          (⇒ 東山道・旧広域地方)。

                   (⇒ 五畿七道)。

             ■ 岩手県(いわてけん)地域は、  

             概ね前近代日本(古代〜江戸時

             代)の、陸奥国 (むつのくに、奥州

             (おうしゅう)、陸州 (りくしゅう、ろ

             くしゅう)、現・青森県・岩手県・宮

             城県・福島県の相当地域) の

             中北部に相当する地域である。

             ■ 岩手県の地域は、概ね、前近

             代日本(古代〜江戸時代)の、旧国

             名(令制国)の、 陸奥国(むつのく

             に)の中北部に相当する地域である。

 

○ いわ  石見 国。 

             (いわみ のくに)。 《旧地域名》。

             = 石州(せきしゅう))。 

          (≒ 現・鳥根県本土西部(石見

          地方)の相当地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国名(令制

           国)の正式名)。

          IWAMI PROVINCE.

                    (⇒ 前近代日本の

         地域名)。

          ■ 石見 国。

             <山陰道 (広域地方)。

             ■ 石見 国 (いわみ のくに)は、 律令制

             定後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             旧国名(令制国)の正式名である

             ■ 石州 (せきしゅう)は、  律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、旧国

             名(令制国)正式名の、石見 国 (いわみ

             のくに)の 別称である。

             ■ 石見 国(= )は、 現・ 中国地方

             の、現在の鳥根県本土西部(石見地方)

             に相当する地域である。

             ■ 石見 国(= )は、 五畿七道 (ご

             きしちどう)の山陰道(さんいんどう)・旧広

                           域地方に属する。

 

〇 いん  院。

             (いん)。 《朝廷》。

          (= 元天皇、上皇、法皇、女院)。

          ○ 院は、

          狭義では、元天皇、上皇、法皇

           のみだが、広義では、元天皇、

          上皇、法皇と女院である。

          ○ 法皇は、仏門にはいった上

          皇である。

                    (⇒ 上皇女院)。

             ■ 院 (いん)とは、 狭義では、元天皇、

             上皇、法皇のみだが、 広義では、元天皇、

             上皇、法皇と女院である。

               法皇は、 仏門にはいった上皇である。

 

〇 いん  院司。

             (いんし)。 《朝廷》。

           (= 院庁の職員)。

               (⇒ 院庁)。

             ■ 院司 (いんし)は、 朝廷の、院庁

             の職員である。

 

〇 いん  因州

             (いんしゅう)。 《旧地域名》。

          (= 因幡 (いなば のくに))。

          (≒ 現・鳥取県東部の相当領域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

          日本・旧地域名の、

          旧国名(令制 国)の別称)。

             INSHU AREA.

                   (⇒ 因幡 )。    

                   (⇒ 前近代日本の

        地域名)。

                         ■ 因州 (いんしゅう、= 因幡 国(いな

             ば のくに))は、 前近代日本の、山陰

             道(さんいんどう)・旧広域地方に属し、 

             現・中国地方の、現在の鳥取県東部

             相当する地域である。

             ■ 因州 (いんしゅう)は、  律令制定

             後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             旧国名(令制国)正式名の、因幡 国 

             (いなば のくに) の別称である。

 

〇 いん  隠州

             (いんしゅう、おんしゅう)。 《旧地域名》。

          (= 隠岐 (おき のくに)の別称)。

          (≒ 概ね、現・鳥根県・隠岐諸島

          の相当地域)。

             INSHU AREA.

          (律令制定後・古代・中世・近世

          日本・旧地域名の、

          旧国名(令制 国)の別称)。

                    (⇒ 隠岐 )。    

                    (⇒ 前近代日本の地域名)。

                           州(いんしゅう、おんしゅう、= 隠岐

             国(おき のくに)の別称) は、 山陰道

             (さんいんどう)・旧広域地方に属し、 概

             ね、現・中国地方の、現在の鳥根県・隠岐

             諸島に相当する地域である。

             ■ 隠州 ( いんしゅう、おんしゅう)は、  

             律令制定後・古代・中世・近世日本・旧

             地域名の、旧国(令制国)正式名の、 

             隠岐 国(おき のくに) の別称である。

 

〇 いん  院政

             (いんせい)。 《政治体制》。

          ○ 上皇が朝廷の政治の実権

          を単に握ること

 

〇 いん  院政政権

             (いんせいせいけん) 。 《政権》。

          (= 上皇政権)。

          (11〜 12世紀)。

                    (⇒ 日本の政権・政府)。

 

〇 いん   院政政治

              (いんせい せいじ)。

           《政治形態》。

          (= 上皇政治)。

          (11世紀〜12世紀)。

          (⇒ 日本の政治形態)。

          ○ 院政政治は、

           上皇が朝廷の政治の

           実権を握り、 更に日本

           の政治の実権を握り

           日本を支配する政治

           形態である。

 

〇 いん  院宣。

             (いんぜん)。  《上皇》。

                     (= 上皇の命令、上皇

          (= 院)の命令を下達する

           (伝える)ときに出す文書)。

          ○ 奉書(ほうしょ)の1つ 。

        (⇒ 奉書御教書

        (みぎょうしょ、みきょうじょ))。

        (⇒ 院庁院政

         院政 政院政

               上 皇上皇

        政権)。

 

〇 いん  院近臣。

             (いんのきんしん)。  《上皇》。

          (= 上皇(= 院)の重臣)。

               (⇒ 院庁院政院政政

        院政政権上 皇

                皇政権)。

 

〇 いん  院庁

             (いんのちょう)。  《上皇》。

                    ○ 上皇(じょうこう、 引退した天皇)

                   の事 務機関で、院政時は、政務

          機関。

 

〇 いん  院庁下文。

             (いんのちょうくだしぶみ)。  《上皇》。

             ○ 院庁(いんのちょう)から出される

          公文書。

                (⇒ 院庁院政院政政

        院政政権上 皇

        皇政権)。

 

〇 いん  インパール作戦

             (いんぱーるさくせん)。《戦い》。

              ■ インパール作戦 (いんぱーる

             さくせん)とは、 

             旧日本軍が、太平洋戦争中に、

             マビル(ミャンマー)・インドの国境

             地帯で行った作戦である。

              ■ インパール作戦は、  

             太平洋戦争時に、旧日本軍幹部

             が行ったの無謀な作戦の 1つで

             ある。

 

〇 いん   陰暦。 

             (いんれき)。 《暦》。

             (= 太陰暦)。

             THE LUNAR CALENDAR.

          ○ 陰暦(=太陰暦):

          月の満ち欠けの周期(1朔望月)

          を基にしてつくった暦。

          ○ 前近代日本の陰暦(=旧暦

          太陰暦)は、太陰暦の、太陰太

                    陽暦 である。 

          ○ 日本では、 旧暦は、太陰

          暦(=陰暦)の太陰太陽暦 であり、 

          新暦は、太陽暦(= 陽暦)のグレ

          ゴリオ暦 である。 

       (⇒ 太陰太陽暦 日本史辞典)。

       (⇒ 太陰暦 天文学辞典)。

         (⇒ (こよみ)陰太陽暦純粋

                 太陰暦 天文学辞典)。

                        ■ 陰暦 (いんれき、英:THE LUNAR 

             CALENDAR とは、 太陰暦であり、

             月の満ち欠けの周期(1朔望月)を基にして

             つくった暦である。 

                ● 陰暦(=太陰暦)には、 純粋太 陰暦 と

                         太陰太陽暦 がある。

                ● 前近代日本 の陰暦は、 旧暦の、太陰

             暦の太陰太陽暦である。

             ● 日本では、 旧暦は、太陰暦(=陰暦)

             太陰太陽暦であり、 新暦太陽暦(=陽

             暦)のグレゴリオ暦 である。 

             ● 前近代日本では、 陰暦(=太陰暦)の、

             太陰太陽暦が、使われた。

 

 

   ● 五十音順 (あいうえお順)。

 

 

   ■  『 現在は、過去の成果であり、

       未来は、現在の成果である。 

         (良き現在は、過去の人々の良き努力

          や活動の積み重ねの成果であり、 

          明るい良き未来は、現在の人々の、

          良き努力や活動の積み重ねによって

          形成される。)

 

 

■ 上位のWEBサイト。 

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#jpdictionary(general)

 

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#i

 

◆ 派生見出し語サイト。

■ 「い」 基本・見出し語WEBサイト No. ja−i  

  の、派生見出し語サイト。

 

 No. ja−i−0202。

● 見出し語項目 い  共通 ( い 02 / 共通 

  02  第1部・い・共通グループ  )。

〇 いい  井伊氏

             (いいし)。 

〇 いい  井伊 氏 関連出来事

       (年代順・詳細)

             (いいし かんれんできごと (ねんだ

             いじゅん・しょうさい))。

〇 いい   井伊 直虎

             (いい なおとら)。

〇 いい  井伊直虎 簡略年表

             (いいなおとら かんりゃくねんぴょう)。

〇 いい  井伊 直虎 関連出来事

               (年代順・詳細)

             (いいなおとら かんれんできごと (ねん

             だいじゅん・しょうさい))。

〇 いい  井伊 直弼

             (いい なおすけ)。

〇 いい  井伊 直政

             (いい なおまさ) 。

 

 No. ja−i−0612。

● 見出し語項目 い   ( か 06 / い 

  12 付近  第1部・か・ア行グループ  )。

 いか  位階 (いかい)。  

 

■ No. ja−i−1230。

● 見出し語項目 い  か〜だ ( し 12 / か〜だ 

  30 付近  第1部・し・総合グループ  )。

〇 いし  石田 三成 (いしだ みつなり) 

          (豊臣秀吉の側近)

 

■ No. ja−i−1765。

● 見出し語項目 い   ( ち 17 / ふ 65

  付近  第1部・ち・ハ行グループ  )。

〇 いち   一分金 (いちぶきん)

〇 いち   一分銀 (いちぶぎん) 

 

■ No. ja−i−1793。

● 見出し語項目 い   ( ち 17 / り 93

  付  第1部・ち・ラ行・ワ・ン・グループ  )。

〇 いち   一両小判(金)

                (いちりょうこばん(きん)) 。

 

■ No. ja−i−1835。

● 見出し語項目 い   ( っ 18 /  35

  付近  第1部・つ・サ行グループ  )。

〇 いつ  一朱金 (いっしゅきん)

〇 いっ  一朱銀 (いっしゅぎん)

 

■ No. ja−i−3251。

● 見出し語項目 い   ( み 32 / な 51

  付近  第1部・み・ナ行グループ  )。

〇 いみ   (いみな)  。

 

■ No. ja−i−4737。

● 見出し語項目 い   ( ん 47 / せ 37

  付近  第1部・ん・サ行グループ  )。

〇 いん  院政 (いんせい)

〇 いん  院政政権 (いんせいせいけん)

〇 いん  院政政治 (いんせい せいじ)

〇 いん  院庁 (いんのちょう)

 

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#igagoe

 

■ 伊賀越え 

    (いがごえ)

 

 伊賀越え

■ 名称 : 伊賀越え (いがごえ)。

■ 別名 : 家康の伊賀越え、 

         神君伊賀越え(しんくんいがごえ)。

■ 家康の伊賀越えとは、 

  本能寺の変直後に、家康一行が畿内より命

  からがら伊賀経由で敏速に領国・三河へ帰

  国した出来事である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11815。

 

□ 家康一行の帰還ルート

□ 家康一行の帰国援助者

□ 伊賀越えが登場する、興味深い、

     ドキュメンタリー、ドラマ、映画

 

 

 伊賀越え

  ■ 家康の伊賀越え (いが ごえ、= 神君伊賀

   越え)とは、 本能寺の変直後に、家康一行

   が畿内 (きない、現・大阪府・京都府南部・

   奈良県)より、命からがら、伊賀(いが、現・三

   重県中央西部)経由で敏速に領国・三河(み

   かわ、現・愛知県東部)へ帰国した出来事で

   ある。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 伊賀越え

  ■ 家康の伊賀越え(= 神君伊賀越え)とは、

    1582年6月 2日未明(早朝)の「本能寺の

    変」の時畿内(きない)に滞在中の徳川家康

    が、 6月2日午前中に本能寺の変の信長

    の死去を知り、 明智光秀の配下や落ち武

    者狩りを避け、 少人数の同行者・約30人

    で命からがら、敏速に危険な伊賀(いが、現・

    三重県中央西部相当地域)を経由して、即

    ち、敏速に河内国から山城国、近江国、伊

    賀国、伊勢国を経て、6月4日に、領国の三 

    河国(みかわのくに、現・愛知県東部相当地

    域)へ帰国した出来事である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 畿内から三河へ家康一行の帰国。

  ■ 徳川家康は、 信長家臣で家康一行の

    饗応・案内役の長谷川秀一(はせがわひ

    でかず)と共に、 少人数の供(とも) ・約

    30人を連れて、織田信長の勧めで堺(さ

    かい)を見物し堺で茶会を催(もよお)し

    た松井友閑(まついゆうかん)屋敷から

    京(きょう、京都)へ上洛の途中で、15

    82年(天正10年)6月2日午前中に、河

    内国飯盛山(かわちのくに・いいもりやま)・

    山麓で、 京から来た茶屋四郎次郎清延

    (ちゃやしろうじろきよのぶ)に、本能寺の

    変で信長が死去したことを知らされる。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 徳川氏存亡の危機

  ■ 本能寺の変直後の徳川氏存亡の危機。

  ● 1582年(天正10年)6月2日未明 (早朝)

    に本能寺の変が起こ る。 

       本能寺の変の時、畿内の京・堺を見

    物(遊覧)していた家康一行は、 徳川氏

    の当主・徳川家康と主要徳川氏重臣たち

    が、揃(そろ)っており、少人数 ・約30人

    の供(とも)しか連れず、 明智勢勢力圏

    の敵中にいることとなってしまい、 家康

    一行は、明智勢配下や土民一揆などに

    襲われ命を落とす危険に直面し、 徳川

    氏存亡の危機となる。

       主要徳川氏重臣たちには、石川数正、

     本田忠勝、酒井忠次、井伊直政、榊原康

     政、大久保忠隣(だだちか)などである。

       家康一行は、敏速に6月2日から逃

    走(移動)し、河内国から山城国、近江国、

    伊賀国、伊勢国を経て、命からがら、6月

    4日に、領国の三河国に帰国する。

       途中まで家康一行と同行していた

    穴山新君(梅雪)一行は、山城国宇治田

    原で、落ち武者狩りに襲われて、殺され

    る。  

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 家康の謁見上洛、帰国、行軍。

    ■ 家康の信長謁見上洛。

  ● 徳川家康は、  信長の武田氏征伐の際の

    駿河拝領の礼を述べるため、1582年(天

    正10年)5月29日に安土城に行き信長に

    面会し、その後、信長の勧めで、少数の供

    を連れて、畿内の京・堺を見物(遊覧)する。

 

  ■ 徳川家康の帰国と行軍。

    ■ 家康の領国・三河への帰国。

    ■ 家康の伊賀越え

  ● 徳川家康は、 畿内の堺の見物(遊覧)後、

    京へ上洛する途中で、河内国飯盛山・山麓

    で、1582年(天正10年)6月2日午前中に、

    本能寺の変での信長の死去を知り、すぐ帰

    国を決意し、少数の供・約30人を連れて、

    河内国から山城国、近江国、伊賀国、伊勢

    国を経て、 6月4日に、領国の三河国 (み

    かわのくに)の岡崎城 (現・愛知県岡崎市)

    に到着する。

  ■ 家康の明智討伐の中止と天正壬午の乱

    参入。

  ● 徳川家康も、領国の三河国で、軍備を整

    え、明智光秀討伐をめざして、尾張国熱田

    まで進軍したが、そこで家康は、秀吉によ

    る明智光秀討伐を知り、家康は、討伐を中

    止し、一転して、甲斐・信濃攻めに着手し、

    領国拡大をめざす (家康の天正壬午の

    乱参入)。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 徳川家康の帰国と行軍。

  ■ 畿内にいた徳川家康は、  慌(あわ)てて 

    伊賀越えをし、命(いのち)からがら領地

    に帰国し、家康は、領地の三河で明 智討

    の軍を準備し、出発し、尾張(おわり、

    愛知県西部)熱田まで行軍したが、そこ

    で 明智光秀が秀吉により討伐され敗死

    したことを知り、 家康は、明智討伐を断

    念し、そのまま、一転して、甲斐・信濃方

    面に向かう。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 徳川家康の帰国と行軍。

  ■ 畿内にいた徳川家康は、 本能寺の変を

    知り、すぐ帰国を決意し、敏速に伊賀国を

    経由して、領国・三河国へ帰還し、家康は、

    軍勢を整え、明智光秀討伐に向かうが、

    秀吉による光秀敗死を知り、甲斐・信濃

    攻めに向かう。

  ● 1582年(天正10年)6月2日午前中に、

    本能寺の変を知った後、 徳川家康は、

    命(いのち)からがら、敏速に河内国から

    陸路で伊賀越えをし、伊勢から海路で、

    6月4日に、領地の三河(みかわ、愛知

    県東部)に戻る。 家康は、領国で軍勢を

    整え明智光秀討伐に向かうが、尾張国

    熱田で、秀吉による光秀敗死を知り、

    一転して、その軍勢で甲斐・信濃攻めに

    向かう。

 

■ 徳川家康の帰国と行軍。

  ■ その後、徳川家康は、明智光秀を討つため、

    軍勢を集めて、尾張(おわり、現・愛知県西

    部の相当地域)にまで進軍した。 しかし、

    そこで既に、明智光秀 が討伐されたことを

    知り、即ち、羽柴秀吉(豊臣秀吉) によって、

    1582年(天正10年)6月13日 に明智光秀

    の軍が山崎の戦いで敗戦し、6月14日に

    光秀が逃亡中討たれたことを知り、家康は、

    明智光秀討伐を断念 し、 一転して、そのま

    ま、甲斐・信濃攻めに行軍を進め、領国拡大

    をめざす (家康の天正壬午の乱参入)。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#igagoe-thehelpingpeople

 

■ 畿内から三河へ徳川家康の帰国

   と帰国援助者。

  ■ 徳川家康一行は、 少人数の供(とも) ・

    約30人しか連れておらず、 長谷川秀一

    (ルート決定者、ルート各所通過依頼者)、 

    茶屋四郎次郎清延 (本能寺の変・第一

    報・通知者、ルート各所通過依頼 者)、 

    服部半蔵正成 (伊賀・道案内、ルート各

    所通過依頼者)、 伊賀衆・甲賀衆(追加

    警護集団)などの援助を受け、 1582年

    (天正10年)6月2日に、畿内を出発し、

    敏速に、河内国から山城国、近江国、伊

    賀国、伊勢国を経て、 命からがら、6月

    4日に、領国の三河国に帰国する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 長谷川秀一。

  ● 長谷川秀一(はせがわひでかず)は、 

    土地鑑に乏しい家康一行の案内をかった

    出て、 家康一行の脱出経路を決定し、 

    家康一行に、河 内国から山城国、近江国

    を経て伊賀国へと抜ける道取りを説明し、 

    秀一は、  旧知の各地武将に支援を求め、

    山城国宇治田原の山口甚介、近江国甲

    賀小川の多羅尾光俊へ使者を送り支援

    を求め、 秀一は、家康一行にも同行する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

    ■ 茶屋四郎次郎清延。

  ● 茶屋四郎次郎清延(ちゃやしろうじろき

     よのぶ)は、 元武士で、京都の呉服商

     であり、茶人であり、 本能寺の変を一

     刻も早く家康一行に知らせるため、早馬

     で駆けつけ、 河内国四条畷(しじょうな

     わて)の飯盛山(いいもりやま)・山麓で、

     京(きょう、京都)に上洛途中の家康に、

     本能寺の変と信長死去を家康に伝える。      

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 服部半蔵正成。

  ● 徳川家康は、 栗(くり)にいた、伊賀

    に縁が深い武士の服部半蔵正成(はっと

    りはんぞうまさなり(まさしげ))を急ぎ、召

    し出し(呼び出し)、家康の帰国途中で正

    成と合流し、 正成に伊賀・伊勢白子経

    由で三河の岡崎城まで、家康一行を護衛

    させる。 正成は、家康一行の帰国逃亡

    途中で、家康一行を襲う土民一揆を守る

    ため、怪我をする。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

    ■ 伊賀衆・甲賀衆。

  ● 呼び出された服部半蔵正成 (はっと

     りはんぞうまさなり(まさしげ))は、 茶

     屋四郎次郎清延と共に、 伊賀国や近

     江国甲賀の地元の土豪と交渉し、 伊

     賀衆・甲賀衆に、家康一行を警護させ、

     近江国、伊賀国、伊勢国を経て、家康

     領地の三河国まで護衛させる。

        この時家康の困難な帰国を助けた

     伊賀衆・甲賀衆は、後に、徳川氏の馬回

     り、伊賀同心、甲賀同心として、江戸幕

     府に仕える。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#igagoe-theroute

 

■ 家康一行の帰還ルート。

  ■ 家康一行の帰還ルートは、 次の順に

    (1)  河内国の四條畷(しじょうなわて)

         の飯盛山(いいもりやま)・山麓

         (現・大阪府東部の大東市・四條

         畷市にまたがる飯盛山・山麓)⇒ 、

    (2)  山城国の京田辺(きょうたなべ)の

         興戸(こうど)

         (現・京都府南部の京田辺市

         興戸)⇒ 、

    (3)  山城国の宇治田原(うじたわら)

         (現・京都府南部の宇治田原市)⇒ 、

    (4)  近江国の甲賀小川(こうかおがわ)

         (現・滋賀県南部の甲賀市信楽

         (しがらき)⇒ 、

    (5)  近江国・伊賀国堺の御斎峠(おと

         ぎとうげ)

         (現・滋賀県・三重県堺の甲賀市・

         伊賀市にまたがる御斎峠)⇒ 、

    (6)  伊賀国の柘植(つげ)

         (現・三重県中央西部の柘植)⇒ 、

    (7)  伊賀国・伊勢国堺の加太峠(かぶと

         とうげ)

         (現・三重県中央西部・北部堺の伊

         賀市・亀山市にまたがる加太峠)⇒ 、

    (8)  伊勢国の白子(しろこ)

         (現・三重県北部の鈴鹿(すずか)

          市の白子)⇒ 、

    (9) 三河国の大浜(おおはま) 

         (現・愛知県東部南の碧南(へきな

         ん)市大浜)⇒ 、

    (10) 三河国の岡崎城(おかざきじょう)

         (現・愛知県東部中央の岡崎市の

          岡崎城)、

    へと移動する。  

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 家康一行の帰還ルート。

  ■ 家康一行の帰還ルートは、 次の順に

    (1)  河内国東部の四條畷(しじょうな

         わて)の飯盛山(いいもりやま)・

         山麓

         (現・大阪府東部の大東市・四條

         畷(しじょうなわて)市にまたがる

         飯盛山(いいもりやま)・山麓) ⇒ 、

    (2)  山城国南部の京田辺(きょうた

         なべ)の興戸(こうど)

         (現・京都府南部の京田辺(きょ

         うたなべ)市興戸(こうど)) ⇒ 、

    (3)  山城国南部の宇治田原(うじたわ

         ら)

         (現・京都府南部の宇治田原

         (うじたわら)市) ⇒ 、

    (4)  近江国南部のの甲賀小川(こうか

         おがわ)

         (現・滋賀県南部の甲賀市信楽

         (しがらき)) ⇒ 、

    (5)  伊賀国東部の、近江国・伊賀国

         堺の御斎峠(おとぎとうげ)

         (現・滋賀県・三重県堺の甲賀市・

         伊賀市にまたがる御斎峠(おとぎ

         とうげ)) ⇒ 、

    (6)  伊賀国中央部の柘植(つげ)

         (現・三重県中央西部の柘植

         (つげ)) ⇒ 、 

    (7)  伊賀国西部の、伊賀国・伊勢国

         堺の加太峠(かぶととうげ)

         (現・三重県中央西部・北部堺の

         伊賀市・亀山市にまたがる加太

         峠(かぶととうげ)) ⇒ 、

    (8)  伊勢国北東部の白子(しろこ)

         (現・三重県北部の鈴鹿(すずか)

         市白子(しろこ)) ⇒ 、

    (9)  三河国南西部の大浜(おおはま) 

         (現・愛知県東部南の碧南(へ

         きなん)市大浜(おおはま)) ⇒ 、

    (10) 三河国中央部の岡崎城(おかざ

         きじょう)

         (現・愛知県東部中央の岡崎市

         の岡崎城(おかざきじょう))、

    へと移動する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 家康一行の帰還ルート。

  ■ 徳川家康は、 僅(わず)かな供回り(と

    もまわり)・約30人を連れて、 

    1582年(天正10年)6月2日に、 

    (1) 河内国四條畷(しじょうなわて)の  

      飯盛山 (いいもりやま、大阪府・奈

      良県堺の生駒山地北西枝の山、現・

      大阪府大東市・四條畷市の飯盛山)

      の山麓から

    (2) 山城国京田辺(きょうたなべ)の興

      戸(こうど、現・京都府京田辺市興戸

      (こうど))の木津川(きづがわ)渡しへ

      行き、 山城国京田辺の興戸から、

    (3) 6月2日に、山城国宇治田原(うじ

      たわら、現・京都府宇治田原市)で、

      土豪・山口甚介(じんすけ)の館で宿

      泊し、 

    (4) 6月3日に、山城国宇治田原から 

      近江国甲賀小川(こうかおがわ、現・滋

      賀県甲賀市信楽(しがらき))で、 土豪・ 

      多羅尾光俊(たらおみつとし、山口甚介

      の父)の館で宿泊し、

    (5) 6月4日に、多羅尾光俊の子の光雅・

      光広らが甲賀衆を率いて伊勢白子(い

      せしろこ、三重県鈴鹿市白子)までの道

      中警護に加わり、 近江国甲賀小川を

      発し、 近江国・伊賀国堺・御斎峠(おと

      ぎとうげ、滋賀県甲賀市・三重県伊賀市

      の御斎峠)から伊賀国に入り、伊賀の土

      豪は家康一行を守る姿勢を見せ、 

    (6) 伊賀国柘植(つげ、現・三重県伊賀

      市柘植町)を経て、 

    (7) 伊賀国・伊勢国堺・加太峠(かぶとと

      うげ、現・三重県伊賀市・亀山市の加太

      峠)で土民一揆に襲われ、多羅尾家の

      率いる甲賀衆が追い払い、

    (8) 伊勢国白子 (しろこ、現・三重県鈴鹿

       市白子)付近の長太(なご)で乗船し、 

    (9) 6月4日に、三河国大浜(おおはま、

      現・愛知県碧南(へきなん)市大浜)に

      たどり着き(下船し)、 

    (10) 6月4日に、三河国岡崎城(おかざ

      きじょう、現・愛知県岡崎市)に帰還する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#igagoe-appearingscenes

 

♪♪ 伊賀越えが登場する、興味深い、

    ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

   

★ 伊賀越えが登場する、興味深い関

   連ドラマ、映画。 

  ● (注意) ドラマ、映画は、フィクションです。 

     歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実)

   と 架空の出来事が 混じって描かれてい

   ます。 また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 真田丸 (さなだまる) 』 。

   (NHKテレビの2016年大河ドラマ)。

       (作・三谷幸喜)。

   第5回「窮地」。

 ■ 伊賀越えが登場するドラマ。

 ■ 安土桃山時代や江戸時代初期の時代

  状況やその時期に活躍した人々を描く。

 ■ 安土桃山時代や江戸時代初期の 真田

  氏を描く。

 ■ 1582年(武田氏滅亡)から1615年

  (大坂の夏の陣)までの、真田幸村(信 

  繁)(さなだ ゆきむら(のぶしげ))、真田

  信幸(信之)、真田 昌幸などを描く。

 

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#ikairei

 

■ 位階令の位階 

    (いかいれいのいかい)

 

 位階令の位階

■ 名称 : 位階令の位階 (いかいれい)。

■ 位階令は、1926年制定、1947年改正。

■ 位階令は、近・現代日本政府の、位階などを

  定めた法令。

■ 1926年制定の位階令から現在まで。

■ 位階令の位階は、1926年(大正15年・昭和

  元年)頃から現在まで、使用されている。

■ 近・現代日本の位階令の16位階

  1926年頃〜現在、使用>

  ○ 上位順に、正一位、従一位、正二位、

  従二位、正三位、従三位、正四位、従四位、

  正五位、従五位、正六位、従六位、正七位、

  従七位、正八位、従八位。

■ 位階(いかい)、叙位(じょい)に関しては、

  「位階、「叙位」を参照ください。

■ 近・現代日本の、近・現代日本政府の位

  階に関しては、「近・現代日本政府の位階

  を参照してください。

■ 前近代日本の、朝廷の位階に関しては、

    朝廷の位階」を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 91338。

 

□ 近・現代の叙位条例や位階令の

     位階

   (1887年頃〜現在)。 

 

 

■ 位階令 (いかいれい)は、 近・現代日本

  政府の、位階などを定めた法令 である。

    位階令は、1926年に制定 され、1947

  年に改正され、 現在効力をもつ法令である。

■ 位階令の位階は、1926年(大正15年・昭

  和元年)頃から現在まで、使用されている。

 

 

■ 位階は、 明治時代中期以後の近・現代日

  本では、栄典の位を示し、 前近代や明治時

  代初期の日本では、官職の序列を示す。

 

■ 近・現日本の叙位条例(1887年制定)や位

  階令(1926年制定)叙位では、 位階は、

  正一位(しょういちい)から従八位(じゅはちい)

  までの16位階 がある。 

    戦後は、位階令は改正され(1947年の

  改正位階令で)、 生存者への叙位を停止し、 

  天皇に叙位の決定権はなく、日本国憲法下、

  内閣の助言と承認により、天皇が国事行為

  として、功績のあった、故人(死亡者)へのみ、

  叙位を行っている。

 

■ 1871年(明治4年)に、官位相当制 (朝廷

  で、位階に対応した官職に就くことを原則とす

  る制度) は、廃止され、 位階と官職の関係

  は断たれ、位階は、1887年の叙位条例の公

  布により、以後、栄典の役割に特化した。 

     また、戦後、生存者への叙位は、行われ

  なくなり、故人(死亡者)のみへの叙位が行わ

  れている。

 

■ 叙位 (じょい)とは、 位階を授与すること、

  位階に叙(じょ)すること である。   天皇が

  位階を授与することである。

    位階には、 時代別に、3グループの位階

  がある。  (1) 701年頃から1869年頃まで

  の前近代日本の朝廷(律令官制)の位階、  

  (2) 1869年頃から1887年頃までの、太政

  官制の職員令(1869年制定)の位階 、 (3) 

  1887年頃から現在までの、叙位条例(1887

  年制定)の位階位階令(1926年制定、19

  47年改正)位 階 がある。

 

 

 位階令の位階制度と他の時期の

  位階制度との比較表。

 時代別、3グループの位階。

 

(1) 近・現代の叙位条例や位階令

  の位階。

   近・現代日本政府の、叙位条例(1887

  年制定)や位階令(1926年制定、1947

  年改正)の位階。

   <1887年頃〜現在、使用>。

   一位から八位までの、16位階。

    (⇒ 位階令 の位階)。

    (⇒ 叙位条例の位階)。

 

(2) 近代の職員令の位階

    近代日本政府の、太政官制の職員令

  の(1869年制定)の位階。

   1869年頃〜1887年頃、使用>。

  一位から八位、九位、初位までの、20位階。

  (⇒ 職員令の位階)。

 

(3) 前近代の朝廷(律令 官制)の

  位階

    前近代日本の、朝廷(律令官制)の位階。

   <701年頃〜1869年頃、使用>。 

  一位から八位、初位までの、30位階。

   (⇒ 朝廷(律令官制) の位階)。

 

■ (1) 近・現代の叙位条例や位階令の位階。

        近・現代日本の叙位条例(1887年制定)、

   位階令(1926年制定、1947年改正)では、

     位階は、正一位(しょういちい)から従八

   位(じゅはちい)までの16位階 がある。 

     戦後は、功績のあった故人(死亡者)へ

   のみ、叙位が行われている。

   (⇒ 位階令 の位階)。

   (⇒ 叙位条例の位階)。

 

■ (2) 近代の職員令の位階

     近代日本の太政官制の職員令 (1869

   年制定)の叙位では、

   位階は、正一位(しょういちい)から少初位

   (しょうそい)までの20位階 がある。

  (⇒ 職員令の位階)。

 

■ (3) 前近代の朝廷(律令 官制)の位階

     前近代日本の朝廷律令官制)の叙位

   では、 朝廷(律令官制)の位階は、正一位

   (しょういちい)から少初位下(しょうそいの

   げ)までの30位階 がある。

   (⇒ 朝廷(律令官制) の位階)。

 

 

#ikairei(d)

 

◆ 近・現代日本政府の、叙位条例

  (1887年制定)や位階令(1926年制

   定、1947年改正) の位階。

   (⇒ 位階令 の位階)。

   (⇒ 叙位条例の位階)。

 

■ <1887年頃〜現在> 16位階。

■ 近・現代日本政府の位階の、「一位〜八位

  8グループの、16位階。 

● 近・現代の叙位条例や位階令の位階には、

  一位から八位までの8段階があり、正(しょう)・

  従(じゅ)をつけ加えて、16位階がある。

 

■ 近・現代の叙位条例や位階令の16位階 

  (上位順に、 正一位、 従一位、 正二位、

  従二位、正三位、従三位、正四位、従四位、

  正五位、従五位、正六位、従六位、正七位、

  従七位、正八位、従八位)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 一位 (いちい)。  

       (英: The 1st Ikai Rank)。

  ● 正一位 (しょういちい)。

       (英: The Ordinary 1st Ikai Rank)。

  ● 従一位 (じゅいちい)。

       (英: The Subordinate 1st Ikai 

       Rank)。

       ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 ■ 二位 (にい)。  

  ● 正二位 (しょうにい)。

  ● 従二位 (じゅにい)。

 ■ 三位 (さんみ)。  

  ● 正三位 (しょうさんみ)。

  ● 従三位 (じゅさんみ)。

 ■ 四位 (しい)。  

  ● 正四位 (しょうしい)。

  ● 従四位 (じゅしい)。

 ■ 五位 (ごい)。  

  ● 正五位 (しょうごい)。

  ● 従五位 (じゅごい)。

 ■ 六位 (ろくい)。  

  ● 正六位 (しょうろくい)。

  ● 従六位 (じゅろくい)。

 ■ 七位 (しちい)。  

  ● 正七位 (しょうしちい)。

  ● 従七位 (じゅしちい)。

 ■ 八位 (はちい)。  

  ● 正八位 (しょうはちい)。

  ● 従八位 (じゅはちい)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 近・現代日本政府の、叙位条例

  や位階令の位階。

   <1887年頃〜現在> 

   一位から八位までの16位階。

 

■ 近・現代日本政府の、叙位条例(1887年

  制定)や位階令(1926年制定、1947年改

  正)の位階は、 一位から八位までの、16

  位階 であり、 1887年頃 から現在まで、

  使用されている。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 叙位条例や位階令の位階。 

   <1887年頃〜現在>

 ● 叙位条例や位階令の位階は、 近・現代日

  本政府の位階の「一位〜八位」の8グループ

  の位階である。

 ● 叙位条例 や位階令の位階は、 正一位(し

  ょういちい)から従八位(じゅはちい)までの

  近・現代日本政府の16位階 である。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#imphaloperation

 

■ インパール作戦 

     (いんぱーるさくせん)。

 

■ インパール作戦

■ 名称 : インパール作戦 (いんぱーるさくせん)。

● 正式名 : ウ号作戦 (うごうさくせん)。

■ 時期 : 太平洋戦争中の、1944年3月〜7月

■ 昭和戦前期の旧日本軍の詳細については、 

  「 旧日本軍の実態 ガイド(要覧) 」 を参照して

  下さい。

 

□ インパール作戦が登場する興味

   深い、ドキュメンタリー、ドラマ、

   映画

 

 

■ インパール作戦。

 インパール作戦は、 太平洋戦争時に、旧日本

  軍幹部が行ったの無謀な作戦の1つである。

 

 旧日本軍のインパール作戦は、 「食料や弾薬

   等の物資補給をせず」、豪雨の大河・高山地帯

  を通ってイギリス軍拠点のインパールの攻略を

  めざした約470kmの行軍であった。

      旧日本軍の第15軍の牟田口(むたぐち)司

  令官は、 食糧・弾薬等の物資補給を無視して

  無謀に進軍させ、 旧日本軍の日本人一般隊員

  (兵士、軍属)の、死者・約3万人(餓死・病死・戦

  死者)、傷病者・約4万人を出してしまった。

     

■ インパール作戦は、 旧日本軍幹部が 旧日本

  軍の日本人一般隊員(兵士、軍属)の命(いのち)

  を軽(かろ)んじ、 人権を無視し、無駄死(むだ

  じに)にさせてしまった、太平洋戦争での作戦の

  一つ である。

 

■ インパール作戦は、 太平洋戦争の、歴史的な

  敗北となった無謀(むぼう)な作戦 である。

      食糧・弾薬等の物資の補給がなく、旧日

  本軍の日本人一般隊員(兵士、軍属)は、 友軍

  の死体を食べ、作戦中や作戦中止後の撤退途

  中で、飢えや病気で通路(ビルマ(ミャンマー)・

  インド間)やチャンドウィン大河で力尽きて倒れ

  死ぬものが多数出た。

 

■ 上層部の大本営陸軍部や南方軍やビルマ軍の

  総司令官は、 ビルマ(ミャンマー)方面での戦局

  を一気に打開し、 太平洋戦争を優勢に転じた

  いという思惑もあり、 無謀な作戦であると知り

  ながら、 牟田口廉也(むたぐちれんや)中将の

  立案したインパール作戦に賛同し、 大本営 

  (だいほんえい、= 旧日本軍本部)は、 最終的

  に、1944年(昭和19年)1月にインパール作戦

  を認可してしまった。

 

■ インパール作戦は、 旧日本軍の作戦名はウ号

  (うごう)作戦で、 1944年(昭和19年)の3月8

  日から7月3日まで、 旧日本陸軍により行われた、

  英軍根拠地の、インド北東部の都市・インパール

  攻略を目指した作戦 である。

 

 作戦中、旧日本軍は、 航空兵力の支援を受け

  たイギリス・インド軍の強力な反撃を受け、 食

  糧・弾薬等の物資補給を無視したため、 補給が

  途絶(とだ)え、 雨季で増水、泥だらの、大中河

  川、高山、ジャングル等の長距離の道を徒歩で

  進軍したため、 作戦に参加した旧日本軍の日

  本人一般隊員(兵士・軍属)の9万2000人のうち、

  死者・約3万人(餓死・病死・戦死者)や傷病者・

  約4万人を出し、 主に、飢えと病気により多数の

  日本人一般隊員(兵士・軍属)を失う悲惨な作戦

  となった。  

 

■ 1944年7月3日に、作戦中止が、正式に決定し

  た。 

     7月10日に、この作戦を立案し、指揮した、

  旧日本軍の第15軍司令官の牟田口廉也(むた

  ぐちれんや)中将 (生没年:1888年ー1966

  年) は、 命(いのち)からがら帰還した兵士の

  幹部を集め、泣きながら、 次のように、1時間

  以上、訓示した。 

     『 諸君、 食(く)う物がないから戦争は出

  来んと言って勝手に退(しりぞ)きよった。 これ

  が皇軍 (こうぐん、天皇の軍隊) か。 皇軍は

  食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。 

  兵器がない、やれ弾薬がない、食う物がないな

  どは戦いを放棄する理由にならぬ。 弾丸がな

  かったら銃剣 (じゅうけん、銃の先に装備した

  剣)があるじゃないか。 銃剣がなくなれば、腕

  (うで)でいくんじゃ。 腕もなくなったら足で蹴(け)

  れ。 足もやられたら口で噛(か)みついて行け。 

  日本男子には 大和魂(やまとだましい) があ

  るということを忘れちゃいかん。  日本は神州

  (しんしゅう、神道の国) である。 神々が守っ

  て下さる ・・・ 』。 

     牟田口司令官の1時間以上も続いた演説中、

  聞いていた多くの幹部兵士達 (作戦中食糧不足

  で栄養失調状態になっていた) は、 立ち続ける

  ことができず、次々に倒れた。

 

 

■ 白骨街道。

■ 白骨街道 (はっこつかいどう)は、 旧日本軍の、

  太平洋戦争中のインパール作戦 (1944年3 〜

  7月) でのビルマ(ミャンマー)とインド東部間と

  の間の通路である。

 白骨街道は、 旧日本軍幹部が、食糧・弾薬

  の物資補給を無視して進軍させ、 一般日本人

  兵士・軍属の、死者・約3万人(餓死・病死・戦死

  者)、傷病者・約4万人を出し、旧日本軍の一般

  隊員を無駄死にさせて、日本人一般隊員死体

  だらけとなった、インパール作戦の通路である。

 

 白骨街道 (はっこつかいどう)とは、 太平洋

  戦争中のインパール作戦 (1944年3月〜7

  月)でのビルマ(ミャンマー)とインド東部間の通 

  路である。

 

■ 旧日本軍の幹部は、食糧・弾薬等の物資補給

  を無視して軍を進軍させ、 一般日本人兵士・

  軍属の、約3万人(餓死・病死・戦死者)を無駄

  死にさせ、 ハエがむらがりウジ虫のわいた一

  般日本人隊員の死体だらけの、インパール作

  戦の通路を、 作戦に参加した一般日本人隊員

  が、 「白骨街道」 と呼んだ。

 現在、 白骨街道は、  問題の多い国境付近

  にあるため、 インド政府が、外国人の立ち入

  りを制限しているため、 遺骨の収集は進んで

  おらず、未だに、  多くの日本人兵士の遺骨が、  

  「白骨街道」に散乱している。

 

■ インパール作戦。

■ インパール作戦で、 多大な貴重な軍備・人員を

  損失してしまい、 この作戦の失敗以後、 旧日本

  陸軍は、 ビルマ(ミャンマー)方面で、 連合国軍

  に対し守勢に転じ、 反撃の機会を与え、インドシ

  ナ半島の各地で、敗戦し、敗退していく。


 

■ インパール作戦に賛成した、上層部の大本営陸軍

  部や南方軍やビルマ軍の総司令官は、 作戦の失

  敗で、自分達が責任を問われることを恐れたため、 

  結局、 インパール作戦で旧日本軍の日本人一般

  隊員(兵士・軍属)の死者・約3万人(餓死・病死・

  戦死)、傷病者・約4万人を 出し、日本人一般隊

  員を無駄死にさせた作戦の失敗に対し、 牟田口

  司令官は、 厳しい責任を問われることもなかった。 

 

 

#imphaloperation-appearingscenes

 

♪♪ インパール作戦が登場する興味

    深い、ドキュメンタリー、ドラマ、

    映画。

 

 インパール作戦が登場する興味深

   い、ドキュメンタリー。

 

■ 『 戦慄の記録 インパール  

   前編 こうして作戦は決行された。

   後編 責任なき作戦続行。 』 

    (NHKテレビ・2017年12月10日・

    本放送・ドキュメンタリー番組)。

 インパール作戦を詳細に述べる。

     インパール作戦は、太平洋戦争時に

  旧日本軍幹部が行ったの無謀な作戦の

  1つである。

 

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#imagawayoshimoto

 

■ 今川 義元  

      (いまがわ よしもと)。

 

■ 今川 義元。 

■ 名称 : 今川 義元 (いまがわ よしもと)。

■ 英語名 : IMAGAWA Yoshimoto.

■ 《人名》 武将、大名。

■ 生没年: 1519 ー1560年。

■ 駿河国の戦国大名。

■ 駿河国 (するが のくに、現・静岡県中部の相当

  領域)の国主(こくしゅ)。

■ 駿河、遠江、三河を領する、東海の戦国大名。

■ 今川氏真の父。

■ 桶狭間の戦いで、討ち死。

■ 寿桂尼、太原雪斎、今川氏真、徳川家康に関して

  は、「寿桂尼、 「太原雪斎」、 「今川氏真」、「徳川

  家康」を参照してください.

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 81317。

 

 

■ 今川 義元 (いまがわ よしもと、1519ー1560年

  は、 駿河国 (するがのくに、現・静岡県中部の相

  当地域)の戦国大名であり、駿河 国 の国主(こくし

  ゅ)であった。

 

■ 今川 義元は、 生母の寿桂尼 (じゅけいに、生年

  不詳ー1568年)  や 政治顧問・軍師の太原雪斎 

  (たいげんせっさい、生没年:1496年ー1555年

  の補佐を受けて、 駿河、遠江、三河(する が・とおと

  うみ・みかわ、現・静岡県中部・西部、愛知県東部)の

  3国に勢力を広げた。

 

■ 今川 義元は、 西進の途次、1560年(永禄3年)に、

  織田信長により、桶狭間(おけはざま)の戦いで、討ち

  死にする。

          

 

 今川 義元 ( いまがわよしもと、 生没年 15

  19〜60年) は、 戦国時代(室町時代 後期) 

  の武将、戦国大名で あり、 駿河(するが、静岡

  県中部)、 遠江(とおとうみ、静岡県西部)、 三

  河(みかわ、愛知県西部)を領する、戦国大名 

  であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 今川 義元は、 油断して、1560年(永禄3年)

     に、 桶狭間(おけはざま)の戦いで、 織田信

  長に討たれる。

 

■ 今川 義元は、 幼少で仏門に出され、梅岳承

  芳 (ばいがくしょうほう、栴岳承芳(せんがくし

  ょうほう))と称していたが、 生母・寿桂尼の

  後押しを受け、 今川家家臣達に今川家当主

  継承を乞(こ)われて、 還俗(げんぞく)して、

  今川義元となる。 

     しかし、一部の今川家家臣が今川義元の

  家督相続に反対し、「花倉の乱」(はなくらのら

  ん、1536年)という内乱が起こり、 今川義元

  は、内乱を鎮(しず)めて、 今川家当主となり、

  家督相続を果たす。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 寿桂尼。

 寿桂尼 (じゅけいに、生年不詳 ー1568年

  は、今川氏親(うじちか)の正室夫人で、 今川

  氏輝(うじてる)や今川義元(よしもと)の生母で、

  今川氏真(うじざね)の祖母であり、 寿桂尼の

  夫・今川氏親死後、 今川氏輝、今川義元、今川

  氏真の今川氏3代に渡り、政務を補佐した。

    寿桂尼は、 戦国時代(室町時代後期)に、

  男性当主を立てて、 後見人として実質的に領

  国政治実権を握った女性であり、女戦国大名

  の1人 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 太原雪斎。

■ 太原雪斎(たいげんせっさい)とは、 太原崇孚(た

     いげんすうふ)、 雪斎(せっさい) である。

■ 太原雪斎は、 今川義元の教育係であった。 

■ 太原雪斎 (たいげんせっさい、生没年: 1496年ー

  1555年)は、 室町 時代後期(戦国時代)の、学識

  のある禅僧で あり、 臨済宗(りんざいしゅう)の僧で、

   今川義元により駿河・臨済寺の住持(じゅうじ)に迎

  えられる。

 

■ 太原雪斎は、今川義元の政治顧問、軍師でもあっ

  た。 

■ 太原雪斎は、 駿河・今川氏の家臣・庵 原(いはら)

  氏の出身で、 今川義元の政治顧問、軍師として活

  躍した。  

 

■ 太原雪斎 (たいげんせっさい、1496 年ー155

  5年) は、 今川義元の教育係 であった。

    太原雪斎 は、 父方は駿河の今川氏の譜代

  の重臣の庵原(いはら)氏で、 秀才と言われ、 

  京(都)の建仁寺で修行し、 学識のある禅僧で

  あった。 

     駿河(するが、静岡県中部)の戦国大名・今

  川氏親(うじちか)から、帰国して今川氏に仕える

  ように要請され、 氏親の五男の今川義元(芳菊

  丸)の教育係となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 松平元康(= 徳川家康)。

■ 今川 義元は、 自分の師であり学識のある禅

  僧の太原雪斎を、松平元康(= 徳川家康)の教

  育係として就(つ)けたという説がある。

■ 今川 義元は、 今川家の人質となった松平家の

  松平元康(= 徳川家康)を優遇し、 一流の教育

  を受けさせた。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 太原雪斎は、 松平元康(まつだいらもとやす、=

  川家康、1542年−1616年)の教育係という説があ

  る。 

     太原雪斎は、 徳川家康の今川氏人質時代(15

  49年ー1560年)に、青少年期の徳川家康の人格を

  形成した人物と言われている。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 今川 義元が登場する興味深い、

    ドキュメタンリー、ドラマ、映画。

 

★ 今川 義元が登場する興味深い、ド

   ラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実)

   と 架空の出来事 が 混じって描かれています。

   また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 おんな城主 直虎 (おんな

      じょうしゅ なおとら) 』 。 

   (NHKテレビ・2017年大河ドラマ)。

■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土桃山

   時代の時代状況やその時代に活躍した人々

  を描く。

● 今川 義元を演じる俳優 : 春風亭 昇太。

● 寿桂尼(じゅけいに)を演じる女優 :  

   浅丘ルリ子。

● 今川氏真(うじざね)を演じる俳優  : 

   尾上 松也。

 

■ 『 風林火山 (ふうりんかざん) 』 。 

   (NHKテレビ・2007年大河ドラマ)。

■ 日本の室町時代後期(戦国時代)の時代

  状況やその時代に活躍した人々を描く。

■ 今川 義元の、駿河(静岡県)の守護(国主)

  就任から、 武田氏や北 条氏との戦い、

  武田氏の信濃の征服などを描 いている。

● 今川氏真を演じた俳優  :  風間 由次郎。

● 今川氏輝を演じた俳優  :  五宝 孝一。

● 今川 義元を演じた俳優 : 谷原 章介。

● 寿桂尼を演じた女優   : 藤村 志保。

● 太原雪斎を演じた俳優  : 伊武 雅刀 

  (いぶ まさとう)。

 

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#imagawaujizane

 

■ 今川 氏真  

      (いまがわ うじざね)。

 

■ 今川 氏真。 

■ 名称 : 今川 氏真 (いまがわ うじざね)。

■ 英語名 : IMAGAWA Ujizane.

■ 《人名》 武将、大名。

■ 生没年: 1538年ー1614年。

■ 今川 氏真 は、

  駿河国の戦国大名である。

■ 今川 氏真 は、

  駿河国 (するが のくに、現・静岡県中部の

  相当領域)の国主(こくしゅ)である。

■ 今川 氏真 は、

  今川 義元の子 である。

■ 今川 氏真 は、

  敗戦し、武家の今川氏が滅亡する。

■ 今川 義元、寿桂尼、徳川家康 に関しては、

  「今川義元」、寿桂尼、 「徳川家康」を参

  照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11815。

 

 

■ 今川 氏真 (いまがわ うじざね、1538年ー1614

  年は、 駿河国 (するがのくに、現・静岡県中部の

  相当地域)の戦国大名であり、 駿河 国の国主(こく

  しゅ)であった。

 

■ 今川 氏真は、 今川 義元の子であり、 1560年

  (永禄3年)の父・今川 義元の敗死後、 駿河・今川

  氏の当主(1560−69年)となり、 父に代わって、

  駿河、遠江、三河(するが・とおとうみ・みかわ、現・

  静岡県中部・西部、愛知県東部の相当地域)の3国

  の統治者となるが、 その後、すべての領国を失う。

             

■ 今川 氏真は、 祖母の寿桂尼 (じゅ けいに、生年

  不詳ー1568年)の補佐を受けるが、 武田信玄の

  勢力に押され、また、戦国武将としての力量(資質)

  が乏しく、家臣の離反 や 武田信玄と徳川家康に

  よる領国の攻撃を受け、次々に領地を失い、最後に、

  1569年(永禄12年)に、籠城(ろうじょう)した遠江

  (とおとうみ、現・静岡県西部相当地域)の掛川城

  (かけがわじょう)を開城し、降伏する。

             

■ 今川 氏真は、 敗戦・降伏後、主に、 徳川家康に身

  をよせる。

             

 

♪♪ 今川 氏真が登場する興味深 い、

    ドキュメタンリー、ドラマ、映画。

 

★ 今川 氏真が登場する興味深 い、ド

   ラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実)

   と 架空の出来が 混じって描かれています。

   また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 おんな城主 直虎 (おんなじょう

      しゅ なおとら) 』 。 

   (NHKテレビ・2017年大河ドラマ)。

■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土桃山

   時代の時代状況やその時代に活躍した人々

  を描く。

● 今川氏真(うじざね)を演じる俳優  : 

   尾上 松也。

● 今川 義元を演じる俳優 : 春風亭 昇太。

● 寿桂尼(じゅけいに)を演じる女優 :  

   浅丘ルリ子。

 

■ 『 風林火山 (ふうりんかざん) 』 。 

   (NHKテレビ・2007年大河ドラマ)。

■ 日本の室町時代後期(戦国時代)の時代

  状況やその時代に活躍した人々を描く。

■ 今川 義元の、駿河(静岡県)の守護(国主)

  就任から、 武田氏や北 条氏との戦い、

  武田氏の信濃の征服などを描 いている。

● 今川氏真を演じた俳優  :  風間 由次郎。

● 今川氏輝を演じた俳優  :  五宝 孝一。

● 今川 義元を演じた俳優 : 谷原 章介。

● 寿桂尼を演じた女優   : 藤村 志保。

● 太原雪斎を演じた俳優  : 伊武 雅刀 

  (いぶ まさとう)。

 

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#inouekaoru

 

■ 井上 馨  

      (いのうえ かおる)。

 

■ 井上 馨。 

■ 名称 : 井上 馨 (いのうえ かおる)。

■ 英語名 : INOUE Kaoru.

■ 生没年: 1835年−1915年。

■ 明治時代の外務卿 (がいむきょう、外務大臣)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 82338。

 

 

■ 井上馨は、明治時代・大正時代初期に、 外相、農

  相、内相、蔵相などを歴任し、1898年以後、元老と

  なり、 明治時代・大正時代初期に、政界、財界に大

  きな発言力をもった。

 

■ 井上馨は、長州藩出身で、尊王攘夷運動に参加し、

  イギリスに留学し、帰国後倒幕運動で活躍し、明治

  政府(近代日本政府)に入り、後に、第1次伊藤内閣

  の外務卿(外相)として、欧化政策を推進する。

 

■ 井上馨 (いのうえ かおる生没年:1835年−1915

  年)は、 明治時代の外務卿(がいむきょう、外務大臣)

  である。

● 井上馨は、 明治政府(近代日本政府)の第1次伊藤

  博文内閣の外務卿(外相)となり、欧化政策をとり、不

  平等条約改正に努力したが、批判をうけ辞職する。

 

  外務卿・井上馨(いのうえかおる)の企画により、鹿鳴 

   (ろくめいかん、1883年〜1887年)がつくられた。

 鹿鳴館は、 1883年(明治16年)から 1887年 (明治

  20年)まで、主に、欧米列強に日本が文明国であること

  を示し不平等条約改正を有利にすすめるためにつくら

  れた、明治政府(近代日本政府)の国際社交場であった。

     その時期に、鹿鳴館では、豪華な園遊会 や舞踏会

  などが催された。

     1887年(明治20年)に、 不平等条約改正案や欧

  化主義などの批判から、外務卿・井上馨 (がいむきょう・

  いのうえかおる)の辞職とともに、鹿鳴館時代(1883年

  ー 1887年)は終わった。      

 鹿鳴館 は、 日本人と欧米人との国際社交場となり、 

  華族(かぞく、1869年ー1947年)の夫人が、大活躍

  した。

 

 井上馨は、 幕末、1863年(文久3年)にイギリスに

  留学し、 四国艦隊下関砲撃で帰国し講和に努力し、

  その後、討幕運動に活躍した。

     井上馨は、明治時代に入り、明治政府(近代日

  本政府)の参与(さんよ)となり、大蔵大輔(おおくらた

  ゆう)として地租改正・秩禄処分(ちそかいせい・ちつ

  ろくしょぶん)を推進し、その後、辞職し、実業界で活

  躍する。

     後に、井上馨は、 政府に復帰し、第1次伊藤

  博文内閣の外務卿(がいむきょう、外相)となり、欧

  化政策を推進し、不平等条約改正に努力したが、批

  判をうけ辞職する。

     その後、井上馨は、 農相、内相、蔵相などを

  歴任し、1898年以後、元老なり、 明治時代・大正

  時代初期に、 政 界、財界に大きな発言力をもった。

 

 

♪♪ 井上馨が登場する興味深い、ド

    キュメタンリー、ドラマ、映画。

 

■ ザ・プレミアム 『 華族 150年の

    旅路 激動を生き抜いた日本の

   名家 』 。 

    (NHKテレビの2016年9月10日・本放送

    の歴史ドキュメンタリー番組)。

■ 外務卿・井上馨(がいむきょう・いのうえかおる)

  が企画した、明治時代前期の鹿鳴館を述べる。

■ 華族を詳しく述べる。

 

★ 井上馨が登場する興味深 い、ドラ

  マ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

   実) と 架空の出来事 が 混じって描かれ

   ています。 また、 現代風にアレンジしてあ

   ります。

 

■ 『 花燃ゆ (はなもゆ) 』 。 

   (NHKテレビの2015年大河ドラマ)。

■ 日本の明治維新、幕末、明治時代前期の時代

   状況やその時代に活躍した人々を描く。

■ 幕末や明治時代前期の華族や鹿鳴館を描く。

 

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#ishikawagoemon

 

■ 石川 五右衛門   

          (いしかわ ごえもん)。

 

■ 石川 五右衛門。  

■ 生没年 : 生年不詳 ?〜1594年(文禄3年)。 

■ 名称 : 石川 五右衛門 (いしかわ ごえもん)。  

■ 安土桃山時代に出没した盗賊。 

■ 史実(歴史的事実)として、わかっているのは、 石川五右

 衛門という人物が、 安土桃山時代に徒党を組んで盗賊を

 働き、捕(つか)まり、京(都)で、1594年(文禄3年)に、

  処刑された(釜煎りにされた)ことのみである。

■ フィクションの世界では、 江戸時代以後、 現代まで、 

 義賊として、親しまれている。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

□ 石川 五右衛門 が登場する、興味深い、

     ドラマ、映画、ドキュメンタリー

 

 

■ 石川 五右衛門 (いしかわ ごえもん) は、 生年不詳で、

  没年は1594年(文禄3年) である。

 

■ 石川 五右衛門 は、 安土桃山時代に出没した盗賊 で

     ある。 

 

■ 史実(歴史的事実)として、わかっているのは、石川五右衛

  門という人物が、 安土桃山時代に徒党を組んで盗賊を働

  き、 京(都)で、1594年(文禄3年)に、 処刑された(釜

  煎りにされた) ことのみである。

 

● 「日本王国記」、「言経卿記」、「豊臣秀吉譜」 などの史料

  によれば、 石川五右衛門という盗賊が、強盗、追剥(おい

  はぎ)、悪逆非道を働いたので、 豊臣秀吉の命(めい)に

  より、 (京都奉行の) 前田玄以 (まえだげんい)に捕らえ

  られ、 仲間の盗賊と共に、京都の三条河原で、 生きたまま 

  油で煮(に)られた と記されている。

 

● 石川 五右衛門の実際の行動について記録された一次的

  史料は、 少ない。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 釜煎りにされたとは、 ただ湯で釜茹(かまゆ)でにされたの

  ではなく、 テンプラのように油で茹(ゆ)でられたのである。

 

 

■ フィクションのヒーローとしての、

  石川 五右衛門。

■ フィクションの世界では、石川 五右衛門は、 江戸時代以 

  後、現代まで、 義賊として、親しまれている。

 

● 石川 五右衛門の実際の行動について記録された史料は、 

  少なく、 反面、 そのことが、 創作の作者達の想像力と

  創作意欲をかきたてたことは間違いない。

 

● 石川 五右衛門 は、 江戸時代に、 浄瑠璃(じょうるり)、

  歌舞伎(かぶき)の演題としてとりあげられ、 これらの創作

  の中で次第に、 義賊として扱われるようになり、 伝説の

  大泥棒として認知された。 

 

● 京都南禅寺の山門で、 『 絶景かな、 絶景かな、 春の

  眺めは値千金とは小せえ、ちいせい 』 と、 髪が伸びす

  ぎた状態を表す百日鬘(ひゃくにちかつら)に大どてらとい

  う格好をして、煙管(きせる)片手に、見得(みえ)を切る場

  面は、 有名である。  

     実際には、 京都南禅寺の山門は、 石川 五右衛門

  の死後の1628年の建築である。

 

● 釜煎りにされながら詠む 『 石川や 浜の真砂は 尽きる

  とも 世に盗人の 種は尽きまじ 』 は、 石川 五右衛門

  の辞世の句で、有名である。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

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#ishikawagoemon-appearingscenes

 

♪♪ 石川 五右衛門 が登場する、興味深い、

  ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 石川 五右衛門 が登場する、興味深い、

  映画、ドラマ。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画 は、史実(歴史上の事実) と 

  架空の出来事 が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 梟の城 (ふくろうのしろ) 』。

   (OWLS’ CASTLE) 

   (日本の1999年映画)。

● 中井喜一、鶴田真由、葉月里緒菜、上川隆也 など

  が出演する。

● 絢爛豪華(けんらんごうか)な 安土桃山時代を描

  いた映画 である。

● 伊賀忍者(中井喜一)の活躍、 豊臣秀吉の政治を

  描いた映画 です。

● 司馬遼太郎原作の「梟の城」 を映画化した作品。 

 

■ 『 五右衛門 (ごえもん) 』。

   (ドラマ、 NHK1994年制作テレビドラマ)。

● NHKが石川 五右衛門死去400周年記念番組として、

  1994年1月8日放映。

● 石川 五右衛門を演じた俳優名 : 片岡 鶴太郎。

● 絢爛豪華(けんらんごうか)な 安土桃山時代を描いた

  ドラマ である。

● ドラマでは、 石川 五右衛門は、 伊賀の石川村の

  忍者で、 裕福な人たちから、金品を奪い、貧しい庶

  民に金品をばら撒(ま)く 義賊として描かれている。 

  京都の三条河原で、 釜煎りの時に、 豊臣秀吉に向い、

  「 秀吉は、天下を盗んだ大泥棒だ 」 と叫ぶ場面は、 

  印象的である。

 

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#imaisokyu

 

■ 今井 宗久 

      (いまい そうきゅう)

 

■ 今井 宗久。 

■ 名称 : 今井 宗久  (いまい そうきゅう)。

■ 生没年 : 1520年〜1593年。

■ 茶人。 堺の豪商。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典 71837。

 

 

■ 今井 宗久  (いまい そうきゅう、生没年:1520〜1593

  年) は、 茶人であり、 堺の豪商 であった。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

 

■ 今井 宗久は、 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時

  の、茶人、堺(さかい)の豪商であり、 織田信長(おだ

  のぶなが) 、 豊臣秀吉(とよとみひでよし)  に仕(つか)

  える。

● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

 

■ 今井 宗久は、 茶の湯(茶道)を、武野紹鷗(たけのじょ

    うおう、1502〜55年) に学ぶ。

 

■ 今井 宗久 (いまいそうきゅう、生没年:1520〜1593

  年) は、 千 利休(千 宗易) (せんのりきゅう(せんのそ

  うえき)、生没年:1522〜91年) 、 津田宗及 (つだそ

  うぎゅう、生没年:生年不詳〜1591年)と共に、 茶道

  の三宗匠(さんそうしょう、天下三宗匠(てんかさんそうし

  ょう)) の1人である。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

 

■ 今井 宗薫 (いまいそうくん、1552〜1627年)は、 今

    井宗久の子で、 茶人、堺の豪商であり、 茶道を父・今井

  宗久に学び、 豊臣秀吉豊臣秀頼に仕(つか)え、後に、

    徳川家康に仕えて信任されその茶頭となった。

● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 今井 宗久 が登場する興味深い、ドキ

  ュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 今井 宗久 が登場する、興味深い関連ドラ

  マ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

  実) と 架空の出来事 が混じって描かれ

  ています。 また、 現代風にアレンジしてあ

    ります。

 

■ 『 軍師 官兵衛 』 

   (NHK2014年大河ドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

● 今井 宗久を演じた俳優名 : 小西 博之。

 

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#ikkoshu

 

■ 一向宗。  

     (いっこうしゅう)

 

■ 一向宗。 

■ 名称 : 一向宗 (いっこうしゅう)。

■ 別名 : 本願寺 (ほんがんじ)。

 

 

 ■ 一向宗(本願寺)。

 

  ■ 一向宗 (いっこうしゅう、本願寺)は、 

    鎌倉時代に起こった仏教の浄土真宗(= 真

    宗)の一派であり、 安土桃山時代に、隆盛

    期を迎える。 

        一向宗は、 本願寺とも言い、 明治

    時代以後、他の真宗諸派と合わせて、浄土

    真宗と呼ばれる。

 

 

 ■ 一向宗(本願寺)。

 

  ■ 一向宗(本願寺)は、 

    1532(天文2年)年から1580年(天正8年)

    まで、 大坂の石山本願寺が、 一向宗(本

    願寺)門徒の本拠地(本山)であった。

 

  ■ 石山本願寺 (いしやまほんがんじ)は、 

    室町時代後期(戦国時代)に摂津国東成郡

    大坂(せっつのくに・ひがしなりぐん・おおさ

    か、現・大阪府大阪市)に建てられた一向

    宗(本願寺)の寺院であり、 1532年(天文

    2年)に、山科本願寺(やましなほんがんじ)

    の焼失後、 一向宗(本願寺)の本拠地(本

    山)となる。 

 

 

 ■ 一向宗(本願寺)。

 

  ■ 顕如の時代に、一向宗(本願寺)教団は、

    隆盛期を迎える。

 

  ■ 本願寺法主の顕如 (けんにょ、生没年:

    1543年〜1592年)は、 仏教の僧侶で、 

    一向宗(いっこうしゅう、本願寺)の、本願

    寺十一世法主(ほっす)である。 

       顕如は、一向宗(本願寺)門徒の本拠

    地(本山)の石山本願寺(いしやまほんが

    んじ)の法主であった。

 

  ■ 本願寺法主の顕如は、 

    織田信長と敵対し、1570年(元亀元年)9月

    から1580年(天正8年)8月まで、石山合戦

    (いしやまがっせん、1570年ー1580年)を

    行ったが、 後に織田信長と和睦する。

 

  ● 石山合戦では、信長軍によて、石山本願寺

    が攻められ、一向宗(本願寺)門徒が、石山

    本願寺に籠城(ろうじょう)して、戦った。

 

 

 ■ 一向宗(本願寺)。

 

  ■ 石山本願寺は、

    1570年(元亀元年)9月から1580年(天正

    8年)8月まで、 織田信長と敵対し、 一向宗

    (本願寺)門徒が籠城(ろうじょう)して、戦った。 

    1580年(天正8年)に、 顕如は、織田信長と

    和睦した (石山合戦が終わる)。

       石山本願寺は、1580年(天正8年)の和

    睦退去の際に、焼失した。 後に、豊臣大阪城

    は、その跡地に築かれる。

       安土桃山時代に、1580年(天正8年)以

    後、一向宗(本願寺)教団は、 大坂以外の地

    に本拠地(本山)を移 す。 摂津国大坂から

    紀伊国鷺森、和泉国貝塚などに移る。

 

 

 ■ 一向宗(本願寺)。

 

  ■ 安土桃山時代後期に、 顕如の次子・准如

    (じゅんにょ)が、 豊臣秀吉の援助を得て、

    1591年(天正19年)に、京(都)に、西本願

    寺 (にしほんがんじ、本願寺派本山)を建立

    する。 

 

  ■ また、安土桃山時代後期に、 1602年(

    長7年)に、 顕如の長子・教如(きょうにょ)

    が、 徳川家康の援助を得て、京(都)に、

    東本願寺 (ひがしほんがんじ、大谷派本山)

    を建立する。 

 

  ■ 一向宗(本願寺)教団は、 

    安土桃山時代後期に、 2派に二分され、

    明治時代以降、一向宗(本願寺)は、

    他の真宗諸派と合わせて、浄土真宗という

    名称となる。

 

 

 

♪♪ 一向宗 が登場する興味深い、

    ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

 ★ 一向宗 が登場する、興味深い関

    連ドラマ、映画。 

 

  ● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

    歴史のドラマ、映画は、史実(歴史の事実) 

    と 架空の出来事が混じって描かれています。

    また、現代風にアレンジしてあります。

 

 

 ■ 『 どうする家康 

     ( どうするいえやす) 』。 

     (NHKテレビの2023年大河ドラマ)。 

     (古沢 良太(こさわ りょうた) 作・脚本)。

 

    1563年〜1564年の西三河の三河

     一向一揆(みかわいっこういっき)を

     詳しく描く。

 

  ■ 日本の 室町時代後期(戦国時代)、安土

     桃山時代、江戸時代初期の人物、風習、

     建築物、社会状況などを描く。

 

 

 ■ 『 軍師 官兵衛 』。 

     (NHKテレビの2014年大河ドラマ)。 

 

  ■ 織田方と一向宗門徒が戦う場面が各所に

    出てくる。

  ■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

    江戸時代初期の活躍人物、風習、建築物、

    社会状況などを描いたドラマ。

 

  ● 顕如を演じた俳優名 : 眞島 秀和

    (ましま ひでかず)。

 

  ● 織田信長を演じた俳優名 : 江口洋介

    (えぐち・ようすけ)。

 

 

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#ikedaterumasa

 

■ 池田 輝政。 

     (いけだ てるまさ)

 

■ 池田 輝政。

■ 名称 : 池田輝政  (いけだ てるまさ)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 41617。

 

 

 ■ 池田 輝政。

 

  ■ 池田輝政  (いけだ てるまさ)は、安土桃山

    時代、江戸時代初期の武将、大名で、池田

    恒興(信輝)の子ある。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 池田 輝政。

 

  ■ 池田輝政は、 羽柴氏(豊臣氏)、徳川氏

    仕(つか)える。

 

  ■ 池田輝政は、 

    関が原の戦いの戦功により、播磨国 (はりま

    のくに、現・兵庫県南部)52万石領主となる。

 

  ■ 池田輝政は、 

    織田信長の側近の池田恒興(いけだつねお

    き)の子(次男)であり、 1584年(天正12

    年)に、父・池田恒興(信輝)の戦死にともな

    い、池田氏の家督を継ぐ。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 池田 輝政。

 

  ■ 江戸時代初期のの1610年(慶長15年 )に、

    姫路城・城主の池田輝政 (いけだてるまさ)

    が、 姫路城増改築し、完成させる。 

  ● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

 

  ■ 徳川家康に仕(つか)えた、池田輝政は、

    関が原の戦いの戦功により、1600年

    (慶長5年)に、播磨国(はりまのくに、兵庫

    県南部)・52万石を領(りょう)した。 

 

  ■ 播磨国の、姫路城は、

    1600年(慶長5年 )に池田輝政(いけだてる

    まさ)が城主となり、 江戸時代初期に、江戸

    幕府が、池田輝政に命(めい)じ、 江戸 幕府

    の西日本の軍事拠点とするため、増改築して

    1610年(慶長15年)に完成させた城である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 池田輝政が登場する、興味深い、

    ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

 ★ 池田輝政が登場する、興味深い、

    ドラマ、映画。

 

  ● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

    歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史の事実) 

    と 架空の出来事が、混じって描かれています。

    また、現代風にアレンジしてあります。

 

 ■ 『 宮本武蔵 』。 

     (テレビ朝日の2014年3月15・16日

     放送テレビドラマ)。

 

  ■ 池田輝政が登場する。

  ■ 日本の安土桃山時代、江戸時代初期の

     活躍人物、風習、建築物、社会状況など

     を描く。

 

  ● 宮本武蔵を演じた俳優 : 木村拓哉。

 

 

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#izumishikibu

 

■ 和泉式部。 

     (いずみしきぶ)

 

■ 和泉式部。

■ 名称 : 和泉式部  (いずみしきぶ)。

■ 和泉式部は、

  平安時代中期の、歌人(かじん)、和歌の天

  才歌人である。

■ 和泉式部は、

  和歌で多くの男性を虜(とりこ)にした女性

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 41612。

 

 

 ■ 和泉式部。

 

  ■ 和泉式部 (いずみしきぶ)は、

    平安時代中期の歌人(かじん)であり、 和歌

    の天才であった。

 

 

 ■ 和泉式部。

 

  ■ 和泉式部は、

    平安時代中期の三才女の1人である。

 

  ■ 和泉式部は、

    平安時代 中期の、小説家の紫式部、  エッ

    セイイストの清少納言、 歌人(かじん)の

    和泉式部の三才女の1人 である。

 

  ■ 日本の平安時代中期に、煌(きら)びやかな宮

    廷文化を花開かせた、平安文化の担(にな)い

    手は、 和泉式部(いずみしきぶ)、紫式部むら

    さきしきぶ)、清少納言(せいしょうなごん) など

    の、宮中の女性であった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 和泉式部。

 

  ■ 和泉式部 (いずみしきぶ)は、和歌で多くの男

    性を虜(とりこ)にした女性 である。

       和泉式部は、紫式部も認める、和歌の天才

    であった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 和泉式部は、 平安時代中期の歌人(かじん)で

    あり、 和歌の天才であり、 和歌の天才歌人で

    あった。 数多くのすばらしい和歌が残っている。

 

 

 ■ 和泉式部。

 

  ■ 和泉式部は、

    歌(うた、和歌)に生き、恋に生きた女性である。 

 

  ■ 和泉式部は、 和歌の才能と美貌で、数多く

    男性と恋の炎に身をおいた女性である。 恋多き

    女性であった。

 

  ■ 和泉式部は、和歌で多くの男性を虜(とりこ)にし

    た女性である。 

 

  ■ 和泉式部は、男性貴族・皇族に翻弄(ほんろう)

    され、 「一生恋に生きた女性」である。

 

 

 ■ 和泉式部。

 

  ■ 下級貴族の娘の和泉式部は、 男性貴族・皇族

    に翻弄(ほんろう)され、 「一生恋に生きた女性」

    である。

 

  ■ 下級貴族の娘の和泉式部が、 美貌の2人の

    皇子と恋に落ち、生活を共にし、平安時代の一

    大スキャンダルとなった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 和泉式部。

 

  ■ 平安時代に、貴族社会では、女性が男性にもて

    る条件は、容貌(顔)よりも歌(うた、和歌)であっ

    た。 

       華麗なる王朝文化が花開いた、平安時代に、

    三十一文字の和歌には、魂を揺さぶる力があり、

    更に、言霊(ことだま)があると信じられていた。

       和泉式部は、 歌(うた、和歌)で男性をひき

    つけた女性であった。 歌が恋になり恋が歌にな

    った。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 和泉式部は、 平安時代中期の歌人(かじん) 

    である。 下級貴族の娘であった。

    小倉百人一首(おぐらひゃくにんいっしゅ)に、

    和泉式部の歌が1首(しゅ)ある。

                           

  ■ 和泉式部は、 藤原道長に雇われ、道長の娘で

    一条天皇正室夫人(中宮)・藤原彰子(ふじわ

    らのしょうし)に仕(つか)え、約1年間、宮中生活

    を送る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 和泉式部 と 藤原氏の摂関政治。

  ■ 和泉式部は、 日本政治の実権獲得を望む摂関

    (せっかんけ)藤原道長一族の計略に関(か

    か)わっていた。

      平安時代中期の当時、 日本政治の実権獲得

    をめぐり、 藤原氏の近親同士の、 兄・藤原道隆

    (ふじわらのみちたか) と 弟・藤原道長(ふじ わ

    らのみちなが、生没年:966〜1027年) の権

    力闘争があった。 

       文学青年の、一条天皇(いちじょうてんのう)

    の正室夫人には、 藤原道隆の娘・定子(ていし、

    藤原定子(ふじわらのていし、夫人期間:990年

    〜1000年)) と、藤原道 長の娘・彰子(しょうし、

    藤原彰子(ふじわらのしょうし、夫人期間:999年

    〜1011年) がいた。

       清少納言 (せいしょうなごん)は、 紀元

    (後) 993年頃から1000年頃まで、 朝廷の、

    宮中で、 藤原道隆の娘・定子(ていし) の女房 

    (にょうぼう、側仕えの上級女官)) として仕えた。 

       一方、 紫式部(むらさきしきぶ)は、 紀元

    (後)1005年頃から1012年頃まで、 朝廷の、

    宮中で、 藤原道長の娘・彰子(しょうし)の女房 

    (にょうぼう、側仕えの上級女官)) として仕えた。 

        藤原道隆の娘で天皇・正室夫人の定子(て

    いし)には、 993年頃より、清少納言(せいしょ

    うなごん)が仕(つか)えた。 清少納言や他の女

    房(にょうぼう、側近の上級女官)は、 宮中で、 

    文化サロンを形成し、 随筆(後の枕草子)、

    、その他様々な手段を使い、 後宮で文化宣

    伝活動を行い、 文学青年の、一条天皇は、

    子のもとに頻繁に通い、 一条天皇と定子は、親

    密な関係となり、 999年に定子は、敦康親王

    (あつやすしんのう)という皇子(みこ)をもうけた。 

       しかし、995年に、関白であった定子の父・

    藤原道隆が死去し、996年に、定子の兄弟も藤

    原道長に失脚させられた(長徳の変)。 1000

    年に定子も死去し、 清少納言は、 1000年頃

    に、宮中を去った(宮中から身を引いた)。

      定子死後、定子を愛し忘れられない一条天

    皇は、 藤原道隆の娘・定子(ていし)の生んだ

    皇子(みこ)の敦康親王(あつやすしんのう)を、 

    皇太子(東宮(とうぐう)、次期天皇)にしたいと

    考えていた。 しかし、藤原道長の計略により、 

    藤原道長の娘・彰子(しょうし)の生んだ皇子が、 

    皇太子(東宮、次期天皇) となった。

       藤原道長は、 自分の娘・彰子が生んだ子

    を、皇太子(東宮、次期天皇)にするため、 

    学青年の、一条天皇の気持ちを彰子(しょうし、

    藤原彰子)に向けさせ、 自分の娘・彰子にも

    皇子をもうけてもらうため、 藤原道長の娘で

    一条天皇・正室夫人の彰子には、1005年頃

    から、紫式部 (むらさきしきぶ)を仕(つか)え

    させた。 

       紫式部和泉式部、他の女房(にょうぼう、

    側近の上級女官)は、 宮中で文化サロンを形

    成し、 物語(後の源氏物語)、和歌、その他様

    々な手段を使い、 宮中で文化宣伝活動を行

    い、 文学青年の、一条天皇は、 彰子の元に

    頻繁に通い、 一条天皇と彰子は、 親密な関係 

    となり、 彰子は、1008年に、敦成親王(あつ

    ひらしんのう)という皇子(みこ)をもうけた。 

      敦成親王(あつひらしんのう)は、1011年

    に、皇太子となった。 敦成親王は、 三条天

    皇 (天皇在位、1011〜16年、冷泉天皇と

    道長の妹・超子(ちょうし)との皇子) の皇太

    子 (東宮、次期天皇予定者) となった。 

       その後、敦成親王は、1016年に天皇に

    即位して、後一条(ごいちじょう)天皇 となっ

    た。 藤原道長は、 天皇の外戚(生母の父)

    となり、内覧(ないらん)となって、 日本の政

    治の実権を握(にぎ)った。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 和泉式部が登場する、興味深い

      関連ドキュメンタリー、ドラマ、映画。 

 

 ★ 和泉式部が登場する、興味深い関

      連ドキュメンタリー。 

 

 ■ 歴史秘話ヒストリア 

   『 和泉式部の恋多き生涯

     〜平安王朝・女の生き方〜 』。 

      (NHKテレビの2014年2月26日・本放送・

     ドキュメンタリー番組)。

 

 

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#theizumotaishashrine

 

■ 出雲大社  

     (いずもたいしゃ)

 

■ 出雲大社。

■ 名称 : 出雲大社  (いずもたいしゃ)。

■ 紀元(後)3世紀頃、創建。

■ 大国主神(大国主命)(おおくにぬしのみこと)

  を祀(まつ)る神社。

 

 

■ 出雲大社  (いずもたいしゃ、島根県大社町)は、 

  紀元(後)3世紀頃に創建され、 大国主神(大

  主命)(おおくにぬしのみこと) を祀(まつ)る 

  神社である。

 

■ 出雲大社

    出雲大社は、 古代より続く神道の神社で、

  代日本で、  西の出雲大社いずもたいしゃ、島根

  県)東の伊勢神宮(いせじんぐう、三重県)という

  朝廷や天皇を守る2大神社の1つ である。

    出雲大社は、 日本神話の国譲(くにゆず)り

  の、 大国主神(おおくにぬしのみこと、大国主命)

  を祀(まつ)る神社 である。 

    出雲大社は、現在、男女の縁結びの神を祀(ま

  つ)る神社として有名 である。

              

■ 古墳時代に、ヤマト政権は、日本各地を征服し、 

  日本各地の豪族に、 前方後円墳(ぜんぽうこう

  えんふん)をつくらせる。

    弥生時代後期に、 中国地方に大勢力を持っ

  ていた、四角形(四隅突出型)墳墓をもつ、出雲

  (いずも)勢力を、紀元(後)3世紀中頃までに、 

  血みどろの激しい戦いの末に、 ヤマト政権は、

  武力で制圧、征服する。

    ヤマト政権は、大和 (やまと)の地(奈良盆地)

  の政治の都(みやこ)とは別に、 戦いに敗れた出

  雲勢力の民を取り込むため、共存共栄のため、出

  雲勢力の中心地の出雲に、 出雲の神の大国

  神(おおくにぬしのみこと、大国主命)の神殿をつ

  くり、宗教的な都(みやこ)をつくる。

    更に、ヤマト政権は、 日本神話(古事記、日

  本書紀)で、 出雲の神の大国主神(おおくにぬ

  しのみこと、大国主命)が、 天照大神(あまてら

  すおおみかみ)の子 孫の大王(おおきみ、天皇)

  に、出雲の国(くに)を譲ったこととし、 ヤマト政

  権や大王(天皇)の守 り神(守護神) とした。

     ヤマト政権の、奈良盆地にある、纏向(まき

  むく)遺跡の建築遺構から、 出雲大社(島根県)

  や伊勢神宮(いせじんぐう、三重県)の建築様式

  に類似した建物がヤマト政権の奈良盆地の遺跡

  にもあることが判明した。

      その後、ヤマト政権や大王は、朝廷や天皇と

  なり、 古代の律令制の中央集権国家で、 出雲

  大社は、 西の大国主神を祀る出雲大社、東の

  天照大神を祀る伊勢神宮 という朝 廷や天皇を

  守る、2大神社の1つ となった。

 

 

#-appearingscenes

 

★ 出雲大社 が登場する、興味深い関

    連ドキュメンタリー。 

 

■ NHKスペシャル 『 2つの遷宮(せ

   んぐう)〜伊勢と出雲のミステリー〜 』 

    (NHK・2014年1月4日本放送・ドキュメン

   タリー)。

 

■ NHKスペシャル 『 遷宮 (せんぐう)

    第2回 出雲 』 

     (NHK・2014年1月2日本放送・ドキュメン

   タリー)。

 

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#ikedatsuneoki

 

■ 池田 恒興  

     (いけだ つねおき)

 

■ 池田 恒興。

■ 名称 : 池田 恒興  (いけだ つねおき)。

■ 別称 : 池田 信輝。

■ 生没年 : 1536〜1584年。

■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時

  の武将、大名。

■ 織田氏、羽柴氏(豊臣氏)に仕える。

■ 織田信長の重臣。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 42327。

 

 

■ 池田 恒興  (いけだ つねおき、生没年:1536

  〜1584年) は、 室町時代後期(戦国時代)、

  安土桃山時 の武将、大名  である。

■ 池田 恒興は、 織田氏、羽柴氏(豊臣氏に仕

  (つか)えた。

■ 池田 恒興は、 織田信長の重臣 であった。 

 

■ 池田 恒興は、 1582年の清洲会議の四宿老

  の1人である。

 

■ 池田 恒興は、 池田輝政(いけだてるまさ)の 

  父である。

 

■ 池田 恒興は、父は池田恒利で、母は養徳院

  である。  

     池田 恒興の母・養徳院は、織田信長の乳

  母で、再婚して、信長の父・織田信 秀の側室夫

  人であった。

     池田 恒興は、織田信長の、乳兄弟(ちき

  ょうだい)で、義理の兄弟であった。

 

■ 池田 恒興  (いけだ つねおき、生没年:1536

  〜1584年) は、  室町時代後期(戦国時代)、

  安土桃山時代の武将、大名 であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 池田 恒興は、 1582年(天正10年)6月2日

  本能寺の変のあと、  中国大返し(ちゅうごく

  おおがえし)で中国地方・備中から引き返してき

  た羽柴秀吉(豊臣秀吉)に合流し、 山崎の戦い

  では、池田 恒興は 、 兵4000人を率い、右翼

  先方を務め、 清洲会議(きよすかいぎ)では、

  織田家の宿老として列した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦い

  で、戦死する。 享年49歳であった。 池田家

  の家督は、 次男の池田輝政(いけだてるまさ)

  が継いだ。

 

 

♪♪ 池田 恒興が登場する興 味深い、

  ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 池田 恒興が登場する、面白く、興

  味深い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画 は、 フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画は、歴史的事実(史実) と 

  架空の出来事 が、混じって、描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 信長 KING OF ZIPANGU 』  

   (NHK1992年大河ドラマ)。

■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代の

  時代状況やその時代に活躍した人物を描く。

● 池田 恒興を演じた俳優名 : 的場 浩司。

 

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#theemperorichijo

 

■ 一条天皇 

     (いちじょうてんのう)。

 

■ 一条天皇。 

■ 名称 : 一条天皇 (いちじょうてんのう)。

■ 生没年 : 980〜1011年

■ 天皇在位:986〜1011年。

■ 円融天皇の皇子。

■ 一条天皇には、2人の正室夫人がいた。

  2人の正室夫人の、藤原道隆の娘・藤原定子

  と 藤原道長の娘・藤原彰子 の夫 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典 42324。

 

 

■ 一条天皇 (いちじょうてんのう、生没年:980

  〜1011年) は、円融天皇の皇子で、 天皇在

  位 は、 紀元(後) 986年から1011年まで 

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 一条天皇は、 2人の正室夫人の、藤原道隆の

  娘・藤原定子 と 藤原道長の娘・藤原彰子 の 

  夫 である。

 

■ 藤原定子 (ふじわらの ていし、生没年:976

  〜1000年) は、 藤原道隆の娘で、一条天皇

  の正室夫人 である。

■ 藤原彰子 (ふじわらのしょうし、生没年:988

  〜1074年) は、 藤原道長の娘で、一条天皇

  の正室夫人 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 朝廷の、宮中の後宮で、一条天皇の正室夫人

  (2人)の、藤原定子には、清少納言作者・清少

  納言が仕(つか)え、 藤原彰子には、源氏物語

  作者・紫式部が仕えた。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 10世紀の後半から、 天皇は、 複数の后(き

  さき、正室夫人) を持つようになった。 

     10世紀の後半に、藤原氏の権力闘争で、

  一条天皇(いちじょうてんのう) が、 藤原道隆

  の娘の定子  (ていし、清少納言仕える藤原

  定子) と、 藤原道長の娘の彰子 (しょうし、

  式部が仕える藤原彰子) の2人の后(きさき、

  正室夫人) をもつ事例ができたため。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 一条天皇と藤原彰子と間の皇子には、 後一条

  (ごいちじょう)天皇 や 後朱雀(ごすざく)天皇 

  がいた。

 

 

◆ 一条天皇 と 藤原氏の摂関

  政治。

■ 一条天皇は、 日本政治の実権獲得を望む

     関家(せっかんけ)の藤原氏の摂関政治と深く

    かかわっていた。

    平安時代中期の当時、 日本政治の実権獲得

  をめぐり、 藤原氏の近親同士の、 兄・藤原道隆

  (ふじわらのみちたか) と 弟・藤原道長(ふじ わ

  らのみちなが、生没年:966〜1027年) の権

  力闘争があった。 

     文学青年の、一条天皇(いちじょうてんのう)

  の正室夫人には、 藤原道隆の娘・定子(ていし、

  藤原定子(ふじわらのていし、夫人期間:990年

  〜1000年))と、 藤原道 長の娘・彰子(しょうし、

  藤原彰子(ふじわらのしょうし、夫人期間:999年

  〜1011年) がいた。

     清少納言 (せいしょうなごん) は、 紀元

  (後) 993年頃から1000年頃まで、 朝廷の、

  宮中で、 藤原道隆の娘・定子(ていし) の女房 

  (にょうぼう、側仕えの上級女官)) として仕えた。 

     一方、 紫式部(むらさきしきぶ)は、 紀元

  (後)1005年頃から1012年頃まで、 朝廷の、

  宮中で、 藤原道長の娘・彰子(しょうし)の女房 

  (にょうぼう、側仕えの上級女官)) として仕えた。 

      藤原道隆の娘で天皇・正室夫人の定子(て

  いし)には、 993年頃より、清少納言(せいしょ

  うなごん)が仕(つか)えた。 清少納言や他の女

  房(にょうぼう、側近の上級女官)は、 宮中で、 

  文化サロンを形成し、 随筆(後の枕草子)、

  、その他様々な手段を使い、 後宮で文化宣

  伝活動を行い、 文学青年の、一条天皇は、

  子のもとに頻繁に通い、 一条天皇と定子は、親

  密な関係となり、 999年に定子は、敦康親王

  (あつやすしんのう)という皇子(みこ)をもうけた。 

     しかし、995年に、関白であった定子の父・

  藤原道隆が死去し、996年に、定子の兄弟も藤

  原道長に失脚させられた(長徳の変)。 1000

  年に定子も死去し、 清少納言は、 1000年頃

  に、宮中を去った(宮中から身を引いた)。

    定子死後、定子を愛し忘れられない一条天

  皇は、 藤原道隆の娘・定子(ていし)の生んだ

  皇子(みこ)の敦康親王(あつやすしんのう)を、 

  皇太子(東宮(とうぐう)、次期天皇)にしたいと

  考えていた。 しかし、藤原道長の計略により、 

  藤原道長の娘・彰子(しょうし)の生んだ皇子が、 

  皇太子(東宮、次期天皇) となった。

     藤原道長は、 自分の娘・彰子が生んだ子

  を、皇太子(東宮、次期天皇)にするため、 

  学青年の、一条天皇の気持ちを彰子(しょうし、

  藤原彰子)に向けさせ、 自分の娘・彰子にも

  皇子をもうけてもらうため、 藤原道長の娘で

  一条天皇・正室夫人の彰子には、1005年頃

  から、紫式部 (むらさきしきぶ)を仕(つか)え

  させた。 

     紫式部和泉式部、他の女房(にょうぼう、

  側近の上級女官)は、 宮中で文化サロンを形

  成し、 物語(後の源氏物語)、和歌、その他様

  々な手段を使い、 宮中で文化宣伝活動を行

  い、 文学青年の、一条天皇は、 彰子の元に

  頻繁に通い、一条天皇と彰子は、 親密な関係 

  となり、 彰子は、1008年に、敦 成親王(あつ

  ひらしんのう)という皇子(みこ)をもうけた。 

    敦成親王(あつひらしんのう)は、1011年

  に、皇太子となった。 敦成親王は、 三条天

  皇 (天皇在位、1011〜16年、冷泉天皇と

  道長の妹・超子(ちょうし)との皇子) の皇太

  子 (東宮、次期天皇予定者) となった。 

     その後、敦成親王は、1016年に天皇に

  即位して、後一条(ごいちじょう)天皇 となっ

  た。 藤原道長は、 天皇の外戚(生母の父)

  となり、内覧(ないらん)となって、 日本の政

  治の実権を握(にぎ)った。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 一条天皇 と 藤原氏の摂関政治。

■ 平安時代中期の、一条天皇 (いちじょうてん

  のう、天皇在位:986〜1011年、生没年:98

  0〜1011年) の時期に、一条天皇の正室夫

  として、 藤原定子 (ふじわらのていし、97

  7〜1000年) と 藤原彰子 (ふじわらのしょ

  うし、988〜1074年) がいた。 

     藤原道隆の娘の定子(ていし)は、 990

  年に入内(じゅだい)し、 清少納言 (せいしょ

  うなごん) が仕えた。 清少納言は、 993年

  頃から1000年頃まで宮中で宮仕えをした。 

     995年に関白であった定子の父・藤原道

  隆が死去し、 996年に、定子の兄・伊周(これ

  ちか)や弟・隆家(たかいえ)も藤原道長に失脚

  させられ(長徳の変)、 定子は、有力な後ろ盾

  を失った。 しかし、一条天皇は、 定子を寵愛

  し、 999年に、定子は、一条天皇の第一皇子・

  敦康(あつやす)親王を出産し、一条天皇は喜

  んだが、 定子は、 1000年に死去した  (

  条天皇の第二皇女出産時)。 清少納言は、

  ほどなく、1000年頃に、宮中を去った。

     藤原道長の娘の彰子(しょうし)は、999年

  に入内(じゅだい)した。 その後、彰子は、しば

  らく、一条天皇の子をなかなか懐妊(かいにん)

  しなかった。 1002年より、一条天皇の政治的 

  配慮により、 彰子は、亡くなった定子の敦康

  (あつやすしんのう)を養育していた。  

     藤原道長は、焦(あせ)り、 紫式部の 宮中

  への出仕を望み、 1005年頃より、紫式部は 、

  宮中にいる、彰子(しょうし)に仕えた。 

     藤原道長の娘の藤原彰子(ふじわらのしょ

  うし) は、 999年に入内 (じゅだい、天皇の

  室夫人として宮中の天皇の後宮に入ること) し

  たが、 一条天皇 (いちじょうてんのう、在位9

  86〜1011年) の御渡りが少なく (彰子のも

  とに来ることが少なく)、 藤原道長は、 一条

  天皇に、藤原道長の娘の彰子にもっと関心をも

  ってもらい、 彰子のもとに頻繁に来てもらうこ

  とを望む。 そこで、藤原道長が目をつけたのが、

  教養があり文才にとんだ紫式部であった。 

     藤原道長の要請で、 紫式部は、1005年

  頃、藤原道長の娘の彰子(しょうし)の女房(にょ

  うぼう、側仕えの上級女官) 兼家庭教師として

  仕え、 その後、1012年頃まで彰子に仕えた。 

     平安時代の当時は、現在と違い、娯楽が少

  なく、物語などは、現在の人気のテレビ、映画、

  ゲームほどの人気があった。

     彰子・女房の紫式部の、教養や 物語(後の

  「源氏物語」 )は、 一条天皇の興味をそそり、一 

  条天皇は、 紫式部の物語、詩歌などを聞きに、

  彰子のもと(居室)に前より多く通うようになった

  と推測される。 

     そして、一条天皇は、藤原道長の娘の藤原

  彰子と親密になり、 彰子は、 1008年に敦成

  親王 (あつひらしんのう、後の後一条(ごいちじ

  ょう)天皇) を生み、 1009年に敦良親王 (あ

  つながしんのう、後の後朱雀(ごすざく)天皇)を

  生み、 一条天皇の、二人の皇子を生んだ。 

     その後、 1011年に敦成親王  (あつひら

  しんのう)は、 立太子となり  (東宮(皇太子)に

  なり)、 1016年に天皇 (後一条(ごいちじょう)

  天皇) になった。 

     これにより、 藤原道長は、 天皇と外戚関

  係ができ、 内覧となって朝廷の実権を掌握し、

  日本の政治の実権を握り、摂関政治を行い、栄

  華を極めた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#-appearingscenes

 

♪♪ 一条天皇 が登場する、興味深い

    関連ドラマ、映画、ドキュメンタリー。 

 

★ 一条天皇 が登場する、興味深い関

    連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

  ドラマ、映画 は、 史実(歴史上の事実)と 架

  空の出来事 が 混じって描かれています。  

  また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 源氏物語 千年の謎 』。 

     (2011年日本映画)。

□ 「 源氏物語 」 (映画 源氏物語 千年の謎)

  画像 NO.1

■ 光源氏の前半生を描く (源氏物語・三部作の

  第一部を描く)。

■ 平安時代中期に活躍した人々 や 源氏物語

  などを描く。

■ 「源氏物語」の作者の紫式部、 摂関家の藤

   原道長、 道長の娘の彰子、 道長の顧問の

   安倍晴明 も登場する。

 

● 紫式部を演じた女優 : 中谷美紀。

● 藤原道長を演じた俳優 : 東山紀之。

 

 

■ 『 千年の恋 ひかる源氏物語 』。

   (英題:GENJI−A THOUSAND YEAR 

    LOVE) 

   (2001年日本映画)。

□  源氏物語 」 (映画 千年の恋 ひかる源

  氏物語)  画像 アルバム No.1

■ 光源氏の前半生と後半生を描く (源氏物語・

  三部作の第一部・第二部を描く)。

■ 平安時代中期に活躍した人々 や 源氏物語

  などを描く。

■ 「源氏物語」の作者の紫式部や摂関家の藤原

  道長も登場する。

 

● 紫式部を演じた女優 : 吉永 小百合 

  (よしなが さゆり)。

● 藤原道長を演じた俳優 : 渡辺 謙。

 

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#the1strank

 

■ 一位  

     (いちい)

 

■ 一位。

■ 名称 : 一位 (いちい)。

■ 位階のグループ。

■ 使用期間(叙位期間) : 

  古代日本の飛鳥白鳳時代から現代日本の

  現在まで。 

  (西暦紀元後)701年頃から現在まで。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

■ 朝廷(律令官制)、職員令、叙位条例、位階

  令の位階 (701年頃〜現在、叙位使用)。

● 正一位 (しょういちい) と 従一位 (じゅ

  いちい) の2つの位階

 

 位階

 叙位

 

 

■ 一位。

■ 一位 (いちい)とは、 正一位 (しょういち

  い) と 従一位 (じゅいちい) の2つの

   である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 一位 (いちい)は、 古代日本の飛鳥白鳳

  時代から現代日本の現在までの期間の

  に使用されている位階 で、 (西暦紀元

  後)701年頃から現在までの期間の叙位に、

  使用されている。  

     現在は、1947年の改正位階令により、

  功績のあった、故人(死亡者)へのみ、叙位

  が行われている。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 一位。

■ 律令官制の位階。 

  <701年頃〜1869年頃>

 ● 朝廷の位階の「一位〜八位、初位」の9

   グループの1番目グループの位階(いかい)。

 ● 正一位(しょういちい)から少初位下(しょ

   うそいのげ)までの朝廷の30位階の、

   1番目の正一位 (しょういちい)、

   2番目の従一位 (じゅいちい)、

   の2つの位階。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 職員令(1869年制定)の位階。

  <1869年頃〜1887年頃>

 ● 近代日本政府の位階の「一位〜九位、初

   位」の10グループの1番目 グループの位階。

 ● 正一位(しょういちい)から少初位(しょうそ

   い、しょうしょい)までの近代日本政府の20

   位階の 、

   1番目の正一位 (しょういちい)、

   2番目の従一位 (じゅいちい)、

   の2つの位階。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 叙位条例(1887年制定)、位階令

  (1926年制定、1947年改正)

  位階。

  <1887年頃〜現在>

 ● 近・現代日本政府の位階の「一位〜八位

   8グループの 1番目グループの位階。

 ● 正一位(しょういちい)から従八位(じゅはち

   い)までの近・現代日本政府 の16位階の、

   1番目の正一位 (しょういちい)、

   2番目の従一位 (じゅいちい)、

   の2つの位階。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 一位。

◆ 律令官制の位階。 

  <701年頃〜1869年頃>

 ● 一位は、 朝廷の位階の「一位〜八位、初

  位」の 9グループのうちの上から1番目のグ

  ループの位階である。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 ● 一位は、 正一位(しょういちい)から少初

   位下(しょうそいのげ)までの朝廷の30位階

   (いかい)の、

   1番目の正一位 (しょういちい)、

   2番目の従一位 (じゅいちい)、

   の2つの位階である。

 

◆ 職員令(1869年制定)の位階。

   <1869年頃〜1887年頃>

 ● 一位は、 近代日本政府の位階の「一位〜

   九位、初位」の10グループの うちの上から

   1番目のグループの位階である。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 ● 一位は、 正一位(しょういちい)から少初位

   (しょうそい、しょうしょい)までの近代日本政

   府の20位階の 、

   1番目の正一位 (しょういちい)、

   2番目の従一位 (じゅいちい)、

   の2つの位階である。

 

■ 叙位条例(1887年制定)、位階令

  (1926年制定、1947年改正)の位階。

   <1887年頃〜現在>

 ● 一位は、 近・現代日本政府の位階の「一

   位〜八位」の8グループの うちの上から

  1番目のグループの位階である。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 ● 一位は、 正一位(しょういちい)から従八

   位(じゅはちい)までの近・現代日本政府の

   16位階の、

   1番目の正一位 (しょういちい)、

   2番目の従一位 (じゅいちい)、

   の2つの位階である。

 

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#1moncoins

 

■ 一文銭 

  (いちもんせん)

 

 一文銭

■ 名称 : 一文銭 (いちもんせん)。

■ 別名 : 一文銭銅・鉄貨。

 一文(もん)単位の定額(定位)・通常貨幣

■ 文銭(もんせん、文単位の非貴金属貨幣)。

■ 江戸幕府が鋳造・発行した、江戸時代の一文

  位の定額(定位)・通常貨幣。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 江戸時代に、一文単位貨幣では、「寛永通宝一文

 銭銅貨・鉄貨」 が流通し、使用された。

 江戸時代に、文単位貨幣では、 文銭(文単位の

 非貴金属貨幣)が鋳造され、 文銭額面別に、

 一文銭(1種)、四文銭(2種)、十文銭(1種)、百文

 (1種) の4種類の貨幣が 、流通し、使用された。

 一両小判(金) ≒ 4分 ≒ 16朱 ≒ 4000文 

  (4貫文) ≒ 現在の約10万円。

■ 江戸時代の貨幣の詳細については、「日本流通

  貨幣を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 一文銭 

  一文銭 (いちもんせん)は、 1文単位の貨幣で、

 現在の貨幣価値は約25円で、 寛永通宝(かんえい

 つうほう)一文銭銅貨・鉄貨(寛永銭)のみ1種で、 お

 よそ寛永通宝一文銭4000枚と1両小判(金)とが交

 換された。 寛永通宝一文銭は、江戸初期の寛永3年

 (1626年)から幕末まで鋳造された。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 寛永通宝一文銭銅貨・鉄貨 (寛永一文銭)。

 寛永通宝一文銭銅貨・鉄貨(寛永一文銭)は、一文

 銭 (いちもんせん)で、 1文単位の貨幣で、 現在

 の貨幣価値は約25円で、 およそ寛永通宝一文銭

 4000枚と1両小判(金)とが交換された。 寛永通

 宝(寛永銭)一文銭銅貨・鉄貨は、 細分すると数

 100種があり、 江戸初期の寛永3年(1626年)か

 ら幕末まで鋳造された。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 一文銭の貨幣は、 日本の江戸時代の流通貨幣

   の1つで、 寛永通宝一文銭銅貨である。 

      当貨幣は、、江戸幕府により、銭座(ぜに

   ざ)で請負(うけお)い鋳造された通常貨であり、 

   一文銭銅貨の寛永銭(かんえいせん) である。 

      表に、「寛永通宝」(かんえいつうほう)の文

   字が描かれている。  

      江戸時代の寛永3年(1626年)に初めて

   一文銭が鋳造され、寛永通宝と称され(刻印さ

   れ)、それ以後、江戸時代末期まで、一文銭は

   同じ名称を使い(刻印し)、使用された。

      当貨幣の寛永一文銭の価値は、 江戸時

   代の物価変動により上下変動するが、 現在

   の約¥25である。 

● 寛永一文銭は、 一両小判と並んで、江戸 時代

  の時代劇ドラマ・映画に頻繁に登場する。

        一つの例をあげると、フィクションの時代劇

  ドラマ「銭形平次」(ぜにがたへいじ)で、 目明し

  の平次が捕物(とりもの)で投げていた貨幣は、こ

  の寛永一文銭である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 江戸時代の貨幣。

■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣。

● 江戸時代の両・分・朱・文(りょう、ぶ、しゅ、もん)

  の定位(定額)・通常貨幣。

■ 江戸時代の定位(定額)・通常貨幣は、 五両判

  (金)(1種)、  一両小判(金)(11種)、 二分金

  (3種)、  分金(11種)、 二朱金(3種)、 

  一朱金(1種)、  分銀(2種) 二朱銀(3種)、

  一朱銀(1種)、 百文銭銅貨(= 天保銭)(1種)、

  十文銭銅貨(1種)、 四文銭銅・鉄貨(2種)、 

  一文銭銅・鉄(1種)  の13種類である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ 江戸時代(1603年〜1868年)に、 江戸幕府

  により鋳造(発行)され、 全国に流通し、使用さ

  れた定位(定額)・通常貨幣は、 五両判(金)(ご

  りょうばん(きん))(1種)、  一両 小判(金)(いち

  りょうこばん(きん))(11種)、 二分金(にぶきん)

  (3種)、  分金(いちぶきん)(11種)、  二朱

  (にしゅきん)(3種)、  一朱金(いっしゅきん)

  (1種)、  分銀(いちぶぎん)(2種) 二朱銀

  (にしゅぎん)(3種)、  一朱銀(いっしゅぎん)

  (1種)、 百文銭銅貨(= 天保銭)(ひゃくもんせん

  どうか(= てんぽうせん)(1種)、  十文銭銅貨

  (じゅうもんせん)(1種)、 四文銭銅・鉄貨(よんも

  んせんどうてっか)(2種)、 一文銭銅・鉄貨(いち

  もんせんどうてっか)(1種) の13種類である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 文単位 定位(定額)・通常貨幣 。

 文単位 定位定額)・通常貨幣 は、額面別に、次の

 4種類がある。 一文銭、 四文銭 、 十文銭、 百文

 銭 の4種類である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 江戸時代に、文単位貨幣では、 文銭(文単位の

 非貴金属貨幣)が鋳造され、 文銭額面別に、

 一文銭(1種)、四文銭(2種)、十文銭(1種)、百文

 (1種) の4種類の貨幣が 、流通し、使用された。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 文単位定額(定位)・通常貨幣 。

 文単位定額(定位)・通常貨幣 は、貨幣グループ別

 に、次の5種類がある。 寛永通宝一文銭銅貨・鉄貨、 

 寛永通宝四文銭銅貨・鉄貨、 文久永宝四文銭銅貨、

 宝永通宝十文銭銅貨、 天保通宝百文銭銅貨 の

 種類である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 江戸時代の文単位貨幣。

 江戸時代に、文単位貨幣では、 文銭(文単位

  の非貴金属貨)が鋳造され、 文銭貨幣グル

  ープ別に、 

  寛永通宝一文銭銅貨・鉄貨、 

  寛永通宝四文銭銅貨・鉄貨、 

  文久永宝四文銭銅貨、 

  宝永通宝十文銭銅貨、 

  天保通宝百文銭銅貨、 

  の5種類の貨幣が流通し、使用された。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 小判。

■ 1両小判(金)は、江戸時代の基軸貨幣で あり、 

  江戸時代の各時期で価値は変動したが、 現在

  の貨幣価値で約 10万円 であった。

      江戸時代に、 1両小判(金)は、およそ4分、

  1両小判 (金)は、およそ16朱 1両小判(金)

  は、およそ4000文 (4貫文) と交換された。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#theiseheishiclan

 

■ 伊勢平氏  

      (いせへいし)。

 

■ 伊勢平氏。 

■ 名称 : 伊勢平氏 (いせへいし)。

● 英名 : The Ise Heishi Clan 。

■ 桓武平氏の武家平氏。

■ 平維衡(たいらのこれひら)を始祖(しそ)とする桓武

  平氏の一族。

■ 伊勢を本拠地とする桓武平氏の一族で、武家平氏。

■ 平惟衡(たいらのこれひら)から始まり、平清盛(きよ

  もり)・平宗盛(むねもり)まで。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

□ 伊勢平氏 が登場する、興味深い関連

  ドラマ、映画、ドキュメンタリー 

 

 

■ 伊勢平氏 (いせへいし) は、 桓武平氏の武家平

 氏 で、 平維衡(たいらのこれひら)を始祖(しそ)とす

 る桓武平氏の一族で、 伊勢を本拠地とする桓武平氏

 の一族である。

   伊勢平氏は、 武家平氏で、 平維衡(たいらのこれ

 ひら)から始まり、 平清盛(きよもり)・平宗盛(むねも

 り)までの桓武平氏の一族 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

◆ 伊勢平氏。

■ 桓武(かんむ)天皇の皇子(みこ)の葛原親王(かず

 らはらしんのう)の孫の高望王(たかもちおう)(平高望

  (たいらのたかもち)の子孫(系統) が、 桓武平氏と

 称した。

■ 桓武平氏は、 葛原 親王の孫の高望王(平高望)に

 始まる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 高望王の子の、平国香(たいらのくにか、平将門の

 伯父(おじ))や平良持(たいらのよしもち)、 高望王

 の孫の、平将門 (たいらのまさかど、平良持の子)、 

 高望王の孫の、平貞盛 (たいらのさだもり、平国香

 の子、平清盛北条時政北条政子の祖先)  が、関 

 東で、 勢力をふるった。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 後に、平貞盛の子・平維衡(たいらのこれひら)が、  

 関東(坂東(ばんどう))より伊勢に移り、 伊勢国(い

 せのくに)を根拠地にして、 伊勢平氏を称し、 その

 伊勢平氏の子孫が、 平正盛(たいらのまさもり)、

 忠盛(ただもり)、平清盛(きよもり) 、平 宗盛(むねも

 り) である。

● 伊勢平氏は、 院政政治の武力として活躍し、 次

 第に中央政界に進出した。 そして、 伊勢平氏の平

 清盛が平氏政権を樹立した。 

   伊勢平氏は、平正盛、忠盛、清盛、宗盛の4代に

 わたり、 日宋貿易などの海外貿易で、輸入品を貴

 族や朝廷に献上したり、 中国銭などの金属貨幣を

 大量に輸入し流通させたり、また、輸入品を売却し

 たりして、利益を得て、経済的に繁栄した。 

   伊勢平氏は、南宋(なんそう、1127〜1279年)

 などとの日宋貿易等海外貿易で、 中国銭などの金

 属貨幣を日本に大量に持ち込んむ。 中国銭などの

 金属貨幣は米や絹などの物品貨幣に比べて、人々

 に便利なものと認識されて使用され、 伊勢平氏は、

 中国銭などの金属貨幣を大量に輸入し流通させ、利

 益を得て、経済的に繁栄した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1181年(治承5年)2月、平清盛が、死去する。

   平清盛は、 熱病で苦しみ、貿易立国の夢の実現

 を惜しみ、また、伊勢平氏の行く末安泰(あんたい)

 を願い、死去する。

● 1181年4月に、 養和の飢饉(ききん)が起こる。

 1183年まで続く。 

   伊勢平氏は、家人(けにん、家臣)が西国(さいご

 く)に多く、養和の飢饉で、動員兵力が下がる。 

   また、養和の飢饉で米などの食品が不足し、伊勢

 平氏が日本に大量に持ち込んで人々に便利だと使

 用された中国銭などの金属貨幣の価値が下がり(米

 や絹などの物品貨幣に比べて)、 人々の中国銭な

 どの金属貨幣への信用の低下により、 中国銭など

 の金属貨幣を大量に輸入し流通させ利益を得、経済

 的に繁栄していた伊勢平氏は、 経済力が低下する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1183年5月、源義仲(みなもとのよしなか、木曽

 義仲)が、 俱利伽羅峠 (くりからとうげ、砺波山(と

 なみやま))の戦いで、伊勢平氏に勝利する。

  1183年7月、伊勢平氏が都落ちし、源義仲が入

 京する。 

  その後、伊勢平氏は、再度、勢力を盛り返そうとす

 るが、 源頼朝の派遣する源氏軍に緒戦で破れ、最

 後に、伊勢平氏は、 1185年3月に、壇の浦(だん

 のうら)の戦いで、滅亡した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#theiseheishiclan-appearingscenes

 

♪♪ 伊勢平氏 が登場する、興味深い関

    連ドラマ、映画、ドキュメンタリー。 

 

★ 伊勢平氏 が登場する、興味深い関連

   ドキュメンタリー。 

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 異色の革命児 

   平安を動かす〜日本を変えたヒーロ 

   ー平清盛〜 』。 

     (NHKテレビ・2012年(平成24年)1月11日 ・

    本放送ドキュメンタリー番組)。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 私たち、草食

   系武士です。〜新・平家家族物語〜 』。 

    (NHKテレビ・2009年(平成21年)12月16日・

    本放送ドキュメンタリー番組)。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 源義経 in 

   the Dark 〜伝説のヒーローは闇

   から生まれた〜 』 

   (NHKテレビ・2010年9月1日・本放送・ドキ

    メンタリー番組)。

 

★ 伊勢平氏 が登場する、興味深い、

   関連ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実)

   と 架空の出来事が 混じって描かれています。

   また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 平清盛 (たいらのきよもり) 』 。 

   (NHKテレビ・2012年大河ドラマ、全50話)。

● 平安時代末期を描いたドラマで、 平清盛の生涯や

  当時活躍した人物や当時の時代状況を描く

● 平 清盛  を演じる俳優名 : 松山 ケンイチ。

● 清盛の継母の、藤原宗子(ふじわらのむねこ、池禅

  尼(いけのぜんに))を演じる女優名 : 和久井映見。

 

■ 『 義経 (よしつね) 』 。 

   (NHKテレビ・2005年大河ドラマ)。

● 平 清盛  を演じた俳優名 : 

   渡 哲也 (わたり てつや)。

 

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#itagakitaisuke

 

■ 板垣 退助 

       (いたがき たいすけ) 

     (= 乾(いぬい)退助)。 

 

■ 板垣 退助。

■ 生没年 : 1837年(天保8年)〜1919年

  (大正8年)。

■ 名称 : 板垣 退助 (いたがき たいすけ、

  1868年〜)。 

● 別名 : 乾 退助 (いぬい たいすけ)。

● 幕末期は、 乾(いぬい)退助と称し、 明治

  期は、 板垣 退助 と称す。 1868年(慶応

  4年)2月に、板垣に改称する。

● 正式名 : 板垣 正躬(いたがき まさみ)、後

  に、板垣 正形 (いたがき まさかた)。

● 個人名の、「通称」 は、退助 (たいすけ) 。

● 個人名の、「(いみな)」 は、 最初は、正

  躬 (まさみ)、後に、正形 (まさかた)。

 政治家。 幕末は、尊皇(王)討幕派、 明治

  時代は 、自由民権運動家。

■ 土佐藩士・乾(いぬい)栄六正成の長男。 

■ 幕末、乾(いぬい)家は、 土佐藩の220石

  取りの馬廻役(うままわりやく)。 上士(じょ

  うし)身分。

■ 土佐藩士・後藤象二郎(しょうじろう)とは、

  幼馴染(おさななじみ)。

■ 幕末、土佐藩の要職を歴任。

■ 戊辰戦争で、明治新政府軍を指揮して、会津

  戦争では会津藩士と戦い勝ち、「甲州勝沼の戦

  い」で近藤勇の率いる新選(撰)組を撃破 した。

■ 明治時代、明治新政府(近代日本政府)の要

  職を歴任。

■ 明治六年の政変後、 自由民権運動家となり、

  自由党党首となる。  「板垣死すとも自由は死

  せず」と述べた言葉は、有名。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 幕末、1867年(慶応3年)に、尊皇(王)討幕

  派の乾(いぬい、板垣) 退助は、薩摩藩西郷

  吉之助(隆盛)と倒幕の薩土(さつど)密 約を結

  ぶ。 

     乾(板垣) 退助は、 戊辰戦争(ぼしんせん

  そう、1868〜1869年) では、  討幕軍(官

  軍)に参加し、土佐藩軍司令として従軍し、 東

  山道を進み、天領(幕府直轄領)の甲斐(甲州、

  山梨県)で、甲州民衆の支持を得ようと、 18

  68年(慶応4年)2月に、先祖の旧姓の 板垣姓

  に改称し (実際は甲斐の勇将・板垣信方とは

  血縁関係はない)、 「甲州勝沼の戦い」で、近

  藤勇の率いる新選(撰)組を撃破する。 

    更に、板垣退助  は、 戊辰戦争の東北戦

  争では、 三春藩(みはるはん)、二本松藩(に

  ほんまつはん)、仙台藩、会津藩などの攻略を

  行い、 軍功をあげる。 戊辰戦争の会津戦争

  (1868年8〜9月)では、 会津若松城開城に

  大きく貢献した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 日本の政界での、土佐閥(とさばつ) は、

  市半平太坂本龍馬中岡慎太郎が、明治期

  まで生き残れず、板垣退助が土佐閥の代表

  として、 1869年(明治2年)に参与となり、 

  明治新政府(近代日本政府)の中枢に入った。

    板垣 退助 は、 1873年の「明治六年

  の政変」で失脚し、 1875年(明治8年)に、

  参議に復帰したが間もなく辞職し、  その後、

  板垣退助 は、  政府外で、薩長藩閥政府に

  対し、政治権力の再度の奪取を目指し、  少

  数派の土佐閥の派閥争いを起こして、 自由

  民権運動を推進し、自由党を結成する。

    その後、板垣 退助 は、 再び、1896年

  (明治29年)から、入閣し、内務大臣などの

  要職につき、 政府の中枢に入るが、 長く

  残れず、 1900年(明治33年)に、政界を

  引退する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1882年(明治15年)の、岐阜事件 。

    板垣 退助は、「板垣死すとも自由は死せ

  ず」と述べる。

 板垣 退助は、 1881年(明治14年)に自

  由党の党首となり、由党の党勢拡大のた

  め、全国を遊説してまわり、 1882年(明治

  15年)4月に、 岐阜で、遊説中に、暴漢に

  襲われ、負傷する (岐阜事件)。 その際に、

  板垣 退助 が述べたことが、後世にまで 、人

  々に広く伝わる。 

 板垣 退助 は、 襲われた後、出血しながら

  起き上がり、 「吾死スルトモ自由ハ死セン」と

  述べた。 それが、やがて、「板垣死すとも自

  由は死せず」 という表現で、 広く伝わった。

● この事件により、 板垣退助 は、 自由民権

  運動家として知られ、人気を得た。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 板垣 退助 (いたがき たいすけ、1837年

  〜1919年) は、別名は、 乾 退助 (い

  ぬい たいすけ) である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 板垣 退助 は、 幕末期 は、 乾(いぬい)

  退 助と称し、 明治期は、 板垣 退助と称す。 

  1868年(慶応4年)2月に、 板垣 (いたがき)

  に改称する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 板垣 退助の、正式名 は、 板垣 正躬(いた

  がき まさみ)、 後に、板垣 正形 (いたがき

  まさかた) である。

 

■ 板垣 退助 の 個人名の、「通称」 は、退助 

  (たいすけ)  で、個人名の、「(いみな)」 は、 

  最初は、正躬 (まさみ)、 後に、正形 (まさか

  た) である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 板垣 退助 は、 政治家 である。 幕末は、尊

  皇(王)討幕派であり、  明治期は、自由民権

  運動家 であった。

 

■ 板垣 退助 は、 土佐藩士・乾(いぬい)栄六

  正成の長男である。 

    幕末、板垣 退助の、乾(いぬい)家は、 土

  佐藩の220石取りの馬廻役(うままわりやく)で、 

  板垣 退助は、上士(じょうし)身分であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 板垣 退助 は、 土佐藩士・後藤象二郎(しょ

  うじろう)とは、幼馴染(おさななじみ) であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 板垣 退助 は、 幕末は、土佐藩の要職を歴

  任し、  明治期は、明治新政府(近代日本政府)

  の要職を歴任した。

 

■ 板垣 退助 は、 「明治六年の政変」後、 自由

  民権運動家となり、自由党党首となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

★ 板垣 退助 が登場する、面白く、興味

  深い、ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

   また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 八重の桜 (やえのさくら)  

    (日本のNHK2013年大河ドラマ)。

● 日本の幕末、明治時代の時代状況やその時

  代に活躍した人々を描いた、ドラマ。

 

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#iinaosuke

 

■ 井伊 直弼  

     (いい なおすけ)。

 

■ 井伊 直弼。  

■ 名称 : 井伊 直弼 (いい なおすけ)。  

■ 生没年 : 1815年〜1860年。 

■ 幕末の政治家。 譜代(ふだい)大名。 

  近江国(おうみのくの、現在の滋賀県) の、 

  彦根藩主(ひこねはんしゅ)。

■ 彦根藩主。 江戸幕府の大老 (大老就任 

   1858〜60年)。 

■ 幕末 (江戸時代末期)に関しては、当日本

  史辞典の 『 幕末(ばくまつ)、 幕末年表 

  (ばくまつねんぴょう) 』 を参照して下さい。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

□ 井伊直弼 が登場する、興味深い、

  ドキュメンタリー、ドラマ、 映画

□ 関連項目

 

 

■ 井伊 直弼は、 徳川氏・譜代大名の彦根藩主で

  あり、 江戸幕府の大老となり、欧米列強と修好通

  商条約を結び、開国の道を開き、尊皇攘夷運動に

  目を光らせ、 幕府の方針に反抗する勢力を次々

  と粛清し、 安政の大獄では吉田松陰ら反抗分子

  を処刑し、 その強引な手腕は多くの反発を招き、

  1860年3月に、水戸藩士らによって、桜田門前で

  暗殺される。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 井伊 直弼 (いい なおすけ、生没年 1815

    〜60年) は、 幕末の政治家で、 譜代(ふ

  だい)大名 である。 

 

■ 井伊 直弼 は、 近江国(おうみのくの、現在

  の滋賀県) の、彦根藩主(ひこねはんしゅ)で、 

  江戸幕府の大老 (大老就任185 8〜60年) 

  となった。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ @ 1858年(安政5年)、大老に就任。 

● 井伊 直弼 (いい なおすけ) は、 1858年、

  紀州藩主・徳川慶福 (とくがわよしとみ、徳川

  家茂) を、 将軍継嗣 (将軍の跡継ぎ、14代

  将軍) に決定する。 そして、 徳川家茂(いえ

  もち、徳川慶福) は、13代将軍・徳川家定(い

  えさだ) の養子となった。

● 井伊 直弼 は、1858年(安政5年)、米、蘭、

  露、英、仏 と不平等条約の修好通商 条約(安 

  政の5か国条約) を結び、調印した。

● 井伊 直弼 は、1858年、勅許(ちょっきょ、

  天皇の許可)を得ないで、 安政の5か国条

  約に調印した。 条約勅許問題。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1858年の修好通商条約(安政五か国条約) 

  は、領事裁判権を認める、関税自主権がない、

  などといった不平等条約 であった。 

    その後の長年の度重なる、条約改正交渉の

  結果、やっと、五か国条約の不平等な部分が

  解消されたのは、日露戦争後の、1911年(明

  治44年)のことであった。

    その一例として、幕末の不平等条約である

  日米修好通商条約の不平等な部分が解消され

  たのは、 1911年(明治44年)であった。 明

  治政府(近代日本政府)の外相の小村寿太郎 

  (こむらじゅたろう) が、アメリカと条約改正の

  交渉を行い、 1911年に、日米通商航海条約

  を調印し、関税自主権の回復を果たした。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ A 1858年、井伊直弼の専断を非難する世

  論がたかまった。

 

■ B 「 安政の大獄 」

  (1858〜59年の井伊直弼の弾圧政策)。

● 井伊 直弼 は、 1858〜59年に、安政の

  大獄(あんせいのたいごく)を起こして、井伊

  反対派を弾圧して、 幕府強化をはかった。 

    そして、井伊反対の勢力は衰えた。

● 井伊 直弼 は、 一橋派(14代将軍に一橋

  慶喜(= 徳川慶喜を擁立しようとした) の幕

  府役人、大名や公家とその活動を行った家臣

  を処罰した。

● 井伊 直弼は、 反井伊、反幕府、尊王攘夷

  公卿、大名や、  それらの家臣や、志士

  の逮捕、処罰を、大量に行った。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ C 「桜田門外の変」 (さくらだもんがいのへ

  ん)。 (1860年の井伊直弼暗殺事件)。         

● 1860年、 安政の大獄に憤慨(ふんがい)し

  た水戸・薩摩藩出身の浪士ら18人の同志が、 

  井伊直弼を襲撃し、 井伊直弼 は、江戸城桜

  田門外にて、殺害された。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#iinaosuke-relateditems

 

◆ 関連項目。

■ 一橋慶喜 (徳川慶喜)、 徳川家定 (江戸幕

  府13代将軍)、 大奥(江戸幕府・大奥)、 本

  寿院 (徳川家定の生母)、 天璋章・篤姫 (徳

  川家定の正室)、 徳川家茂 (徳川慶福、 江

  戸幕府14代将軍)、 に関しては、 当日本史辞

  典の 『 徳川慶喜 (とくがわよしのぶ)、 徳川

  家定 (とくがわいえさだ)、 大奥 (おおおく)、 

  本寿院(ほんじゅいん)、 篤姫(あつひめ)、 

  川家茂 (とくがわいえもち) 』 を参照して下さ

  い。  

 

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#iinaosuke-appearingscenes

 

♪♪ 井伊 直弼(なおすけ) が登場する、

    興味深いドキュメンタリー、ドラマ、

   映画。 

 

★ 井伊 直弼 が登場する、興味深い、

     ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事 が 混じって描かれていま

  す。 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 花燃ゆ (はなもゆ) 』 

   (NHK2015年大河ドラマ)。

■ 日本の明治維新、幕末、明治時代の時代

  状況やその時代に活躍した人々を描く。

■ 吉田松陰の妹・文(ふみ)の生涯を描く。

 

● 井伊直弼を演じる俳優 :   

   高橋 英樹 (たかはし ひでき)。

       井伊直弼 ( いいなおすけ)は、幕末の

  江戸幕府の大老で、安政の大獄で吉田松

  陰を処刑する。

 

■ 『 八重の桜 (やえのさくら)  

    (NHK2013年大河ドラマ)。

● 日本の幕末、明治時代を描いた、ドラマ。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 

   (NHK2010年大河ドラマ)。

■ 日本の幕末の時代状況やその時代に活躍

  した人々を描く。

 

■ 『 篤姫 (あつひめ) 』  

      (NHK2008年大河ドラマ)。

● 井伊 直弼を演じた俳優名 : 中村 梅雀。

 

■ 『 大奥・幕末の女たち 』 

   (フジテレビ・2003、2004年制作

   テレビドラマ)。

● 井伊 直弼を演じた俳優名 : 窪田 弘和。

 

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#ikushima

 

■ 幾島   

     (いくしま)。

 

■ 幾島。 

■ 生没年 : 1808年〜1870年。 

■ 名称 : 幾島 (いくしま)。

● 本名 朝倉 糸。

■ 薩摩藩士の娘。

■ 璋院・篤姫(てんしょういん・あつひめ)の側近。

■ 江戸幕府の大奥の御台所(みだいどころ、将軍

  の正室)付御年寄 (おとしより、大奥上級幹部)。 

■ 幾島 は、 江戸幕府の13代将軍・徳川家定の

  正室夫人・璋院・篤姫 (近衛敬子( このえすみ

  )) 付御年寄。

■ 1856年〜1865年頃、大奥在留。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

□ 幾島 が登場する、興味深い、ドキュ

     メンタリー、ドラマ、映画

 

 

■ 幾島 (いくしま、 生没年 1808〜70年) は、 

    本名 は 朝倉 糸で、 薩摩藩士の娘 である。

 

■ 幾島 は、 天璋院・篤姫(てんしょういん・あつひ

    め)の側近 で、 江戸幕府の大奥の御台所(みだ

  いどころ、将軍の正室夫人)付御年寄 (おとしより、

  大奥上級幹部) となった。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 幾島 は、 江戸幕府の13代将軍・徳川家定の

  正室夫人・璋院・篤姫 (敬子( このえ すみ

  こ)) 付御年寄であり、 1856年から1865年頃

  まで、大奥に在留した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 幾島 は、 天璋院・篤姫(てんしょういん・あつひ

  め)を助け、 補佐した御年寄 (おとしより、 上級

  の奥女中(=老女(ろうじょ)、局(つぼね)) であっ

  た。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 朝倉 糸 (幾島)は、 島津藩主・島津斉彬(しま

  づなりあきら)の要請により、 天璋院・篤姫 (島津

  篤子(あつこ)) 付老女 (ろうじょ、奥向幹部)とな

   り、 幾島と名を改め、 1857年に、 天璋院・篤姫 

  (近衛敬子(すみこ)) が、 13代将軍・徳川家定

  (とくがわいえさだ)の正室夫人となり、 大奥に入る

  と、 御台所(みだいどころ)付御年寄 (天璋院・

  姫付御年寄) となる。

● 幾島 は、 1865年頃、 御年寄職を辞する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#ikushima-appearingscenes

 

◆ 幾島(いくしま)が登場する、興味深い、

  ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 幾島 が登場する、興味深い、ドラマ、

  映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事 が 混じって描かれています。 

  また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 篤姫 (あつひめ) 』  

   (NHK2008年大河ドラマ)。

● 幾島を演じた女優名 : 松坂 慶子。

 

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#ikedayajiken

 

■ 池田屋事件 

      (いけだやじけん)。

 

■ 池田屋事件。

■ 時期 : 1864年(元治(げんじ)元年)6月。

■ 名称 : 池田屋事件 (いけだやじけん)。

■ 1864年に尊皇攘夷派・急進派の会合を、新選

  が急襲し、多数の死傷者を出した事件。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 池田屋事件 (いけだやじけん) とは、1864年

  (元治(げんじ)元年)6月に、 尊皇攘夷派・急進

  派の会合を、新選組が急襲し、多数の死傷者を出

  した事件 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1863年の八月十八日の政変以後、 尊王攘夷

  派の急進派の志士達は、 勢力回復の機会をうか

  がい、 朝廷や幕府の要人を暗殺する計画を企

  (くわだ)てていた。

      1864年(元治(げんじ)元年)6月に、幕府

  側では、これを探知し、 京(都)三条の旅館・池田

  屋で集会を開き謀議中の長州、土佐、熊本などの

  諸藩の志士達を、 会津藩預りの新選組が急襲し、 

  多数の死傷者を出した。  

     長州藩は、これに憤激し、京(都)へ上京の決

  意を固め、挙兵して、1864年(元治(げんじ)元年)

  7月に、 京(都)で、 禁門の変 (きんもんのへん、

  蛤御門の変) が、起こった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 池田屋事件 が登場する興味深い、

  ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 池田屋事件 が登場する興味深い、ド

  ラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事 が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 

   (日本の2010年NHK大河ドラマ)。

 

■ 『 新選組!(しんせんぐみ) 』 

   (日本の2004年NHK大河ドラマ)。

 

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#izumisawahisahide

 

■ 泉沢 久秀  

     (いずみさわ ひさひで)

    (= 泉沢 又五郎)。 

 

■ 泉沢 久秀。

■ 生没年 : 生年不詳?〜1615年(元和元年)。 

■ 名称 : 泉沢 久秀 (いずみさわ ひさひで)。 

● 通称は 又五郎。 武家官位は、 河内守。

■ 上杉 景勝(うえすぎかげかつ)の家臣。

■ 上田衆 (うえだしゅう、越後国・上田庄出身の

  武士達) の一人。

■ 安土桃山時代、江戸時代初期の武将。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

□ 泉沢 久秀 が登場する、興味深

   い、ドキュメンタリー、ドラマ、映画

□ 関連項目

 

 

■ 泉沢 久秀 (いずみさわ ひさひで、生年不詳〜

  1615年) は、 通称が 又五郎、 武家官位

  は、河内守で、 上杉景勝(うえすぎかげかつ)

  の家臣で、 安土桃山時代、江戸時代初期の武

  将 である。 

 

■ 泉沢 久秀 は、上田衆 (越後国・上田庄出身

  の武士達) の一人である。

● 上田衆 とは、 越後・坂戸(さかど)城主で上田・

  長尾家当主の、 長尾政景(ながおまさかげ)、上

  杉景勝(うえすぎかげかつ)に仕えた武士達で、 

  越後国(えちごのくの)・上田庄(うえだのしょう) 

  (現在の新潟県・南魚沼市(みなみうおぬまし)) 

  出身の武士達 である。

 

■ 泉沢 久秀 は、 越後国(えちごのくに、新潟県)

  の上田庄 (うえだのしょう)出身の、上田衆とし

  て、早くから、上杉景勝に側近として仕える。

● 上杉景勝が上杉家の家督を継いだ後も重用さ

  れ、 特に、財政に重きをなした。

 

■ 泉沢 久秀 は、 1588年(天正16年)に、上

  杉景勝とともに上洛し、 しばらく在京する

。 

■ 泉沢 久秀 は、 1592年(天正20年)に、朝

  鮮出兵のため、肥前国名護屋城 (びぜんのくに

  なごやじょう)へ入った。

 

■ 泉沢 久秀 は、 1598年(慶長3年)に、 豊

  臣秀吉により上杉家が会津に加増・移封される

  と、 荒砥城代・若松所司代に任じられ、 知行

  1万1000石を領した。

 

■ 泉沢 久秀は、 後年は直江兼続 (なおえか

  ねつぐ)の属将となった。  

     泉沢 久秀は、嗣子(跡継ぎ)がなかったた

  め、 その死後、泉沢家は改易となった。

 

 

#izumisawahisahide-relateditems

 

◆ 関連項目。

■ 上杉景勝 (泉沢 久秀主君)、 上田衆、 (

  洞庵時代(幼少)から泉沢 久秀と一緒に上杉景勝

  に仕える) 直江兼続、 上杉謙信 (泉沢久秀の、

  主家の長尾・上杉家の頭領)、  に関しては、 当

  日本史辞典の 『 上杉 景勝 (うえすぎ かげかつ)、 

  上田衆 (うえだしゅう)、 直江兼続 (なおえかね

  つぐ)、 上杉 謙信 (うえ すぎけ んしん) 』 を参

  照して下さい。

 

 

#izumisawahisahide-appearingscenes

 

■ 泉沢 久秀 が登場する、興味深い、ド

  キュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 上田衆の、泉沢 久秀 が登場する、興

  味深い、ドキュメンタリー。

 

■ その時歴史が動いた 『 戦国にか

  かげた‘‘ 愛 ’’〜北の関ヶ原直江

  兼続の決断〜 』 

   (NHKテレビ・2009年(H21)1月・本放送

   テレビ・ドキュメンタリー番組、 第347回)。

 

 上田衆の、泉沢 久秀 が登場する、興

  味深い 関、連ドラマ映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が 混じって描かれています。

  また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 天地人 (てんちじん) 』  

   (NHKテレビ・2009年大河ドラマ)。

● 泉沢 久秀を演じた俳優名 : 東 幹久 。

 

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#iso

 

■ 医僧  

      (いそう)。  

 

■ 医僧 。

■ 名称 : 医僧 (いそう)。

 時期 : 古代日本から近世日本まで。

 医療行為も行う仏僧。

■ 前近代日本の僧侶の医師・看護師(士)。

■ 従軍医僧では、 戦場での死者の祈祷に随行

  していた医僧が、徐々に、戦場の傷病人の治

  療にあたるようになる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61523。

 

 

■ 医僧(いそう)とは、 医療行為も行う仏僧で、

  僧侶の医師・看護師(士) である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 従軍医僧では、 戦場での死者の祈祷に随行

  していた医僧が、徐々に、戦場の傷病人の治

  療にあたるようになる。

 

■ 戦国・安土桃山時代では、男性の従軍医僧が、

  従軍医師・看護師(士)となり、 緊急治療医・

  看護師(士)として活躍し、多数の生命を救った。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 医僧は、 医療行為も行う仏僧であり、 戦国・

  安土桃山時代では、 従軍医僧 、即ち、従軍医

  師・看護士として活躍した。

     仏僧は、 初めは、死者を戦場で弔(とむら)

  うために、従軍していたが、次第に 医術を身に

  つけ、戦場で、戦傷者の応急措置、治療をする

  ようになった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 奈良時代に、仏僧の道鏡(どうきょう)は、 孝謙

  太上天皇(こうけんだいじょうてんのう、孝謙天皇

  称徳(しょうとく)天皇)の病気を治療し、 回復さ

  せ、信頼を得る。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 医僧 が登場する、興味深い関連

  ドラマ、映画、ドキュメンタリー。 

 

★ 医僧 が登場する、興味深い関連ド

  キュメンタリー。 

 

■ タイムスクープハンター 『 戦国

  の救急救命士 』。 

   (NHKテレビ・ファーストステージ・

   2009年(H21)4月本放送・ドキ

   ュメンタリー番組)。

● 室町時代後期(戦国時代)の従軍医僧

  の活躍を描いている。

 

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#ikkyusojun

 

■ 一休 宗純  

     (いっきゅう そうじゅん)

     (一休さん)。

 

■ 一休宗純。

■ 生没年 : 1394年〜1481年。

■ 名称 : 一休 宗純 (いっきゅう そうじゅん) 。

   「一休さん」 は、 一休 宗純の愛称。

■ 室町時代の、臨済宗(りんざいしゅう)大徳寺派の

  禅僧。

■ 自由奔放(ほんぽう)で、奇行が多かったと言われ

  ている。

■ フィクションの世界では、 様々な説話を生涯を通

  じ残した事から、 江戸時代に説話が作られ、 頓

  知(とんち)で有名となる。 

     また、 昭和の中頃まで、絵本の童話や紙芝

  居のの題材として、よく用いられた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 一休 宗純 (いっきゅう そうじゅん、生没年 13

  94年〜1481年)は、 愛称は、 一休さんと呼ば

  れ、 室町時代の、臨済宗(りんざいしゅう)大徳寺

  派の禅僧 であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 一休 宗純 は、自由奔放(ほんぽう)で、奇行が

  多かったと言われている。

 

■ 一休 宗純 は、 フィクションの世界では、 様々

  な説話を生涯を通じ残した事から、 江戸時代に

  説話が作られ、 頓知(とんち)で有名となる。 

     また、 一休 宗純は、 昭和の中頃まで、絵

  本の童話や紙芝居の題材として、よく用いられた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 一休宗純 が登場する、面白く、興

  味深い、ドキュメタンリー、ドラマ、映

  画。

 

★ 一休宗純 が登場する、面白く、興味

  深い、ドキュメタンリー。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 みんな好

  き好き一休さん 〜禅の心で自由

  に生きろ〜 』  

    (NHK2010年(H22年)4月21日本放送) 。

 

★ 一休宗純  が登場する、面白く、興

  味深い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画 は、史実(歴史上の事

  実) と 架空の出来事 が 混じって描かれ

  ています。 また、 現代風にアレンジしてあ

  ります。

 

■ 『 花の乱 (はなのらん) 』 

   (1994年NHK大河ドラマ)。

● 一休宗純を演じた俳優 : 奥田 瑛ニ

 

■ 『 一休さん 』 

   (ドラマ、フジテレビの1985年、1986年

   の月曜ドラマランド)。

 

■ 『 一休さん 』 

   (NETテレビのテレビ・アニメ、 1975〜

   82年、全296話 )。

 

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#isshintasuke

 

■ 一心太助  

     (いっしんたすけ)。

 

■ 一心太助。

■ 名称 : 一心太助 (いっしんたすけ)。

■ 架空の人物、 江戸時代の魚屋 (さかなや)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 一心太助 (いっしんたすけ) は、 架空の人物

  で、 江戸時代の魚屋 (さかなや) である。

 

■ ドラマ・映画の「一心太助」 や 小説・戯曲・講

  談などの「大久保武蔵鐙」など に登場する魚屋

  で、 江戸幕府三代将軍・徳川家光の時代に、 

  大久保彦左衛門のもとで活躍した。

■ 一心太助 (いっしんたすけ) は、義理人情に厚

  く、江戸っ子の典型として描かれることが多い。

■ 一心太助の名は、腕に、「一心如鏡(いっしんに

  ょきょう)、 一心白道(いっしんびゃくどう)」 の

  入れ墨(いれずみ)があったことに由来する。

● 「一心如鏡」 とは、一心鏡の如しで、 一心の

  「白道」は、「極楽浄土へ続くとされる道」を意味

  する。

■ ドラマや映画の中の、一心太助のトレードマー

  クの一つ「一の魚」は、 魚運搬専用のトラック

  などに多く採用されている。

 

■ 一心太助 は、架空の人物だが、 「一心太助

  石塔」と書かれた、一心太助の墓が、 東京都

  港区白金の立行寺の大久保家墓所の傍(そば)

  に、 しかも大久保彦左衛門の一番近くに立っ

  ている。

 

■ 一心太助は、架空の人物であるというのが定

  説であるが、 一説には、実在の人物で、若い

  頃、大久保彦左衛門の草履取(ぞうりと)りだっ

  たという説もある。

 

 

♪♪ 一心太助 が登場する、興味深い、

  ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 一心太助が登場する、を描いた、興

  味深いドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画 は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が 混じって描かれています。

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 スキッと一心太助 』 

   (ドラマ、1999年のNHK金曜時代劇、

   全24話)。

● 主演 緒形 直人 (おがた なおひと)。

 

■ 『 一心太助 男の中の男一匹 』 

   (映画、1963年の東映映画)。

● 主演 中村 錦之助 (なかむら きんのすけ)。

 

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#itohirobumi

 

■ 伊藤 博文 

        (いとうひろぶみ)

    

■ 伊藤 博文。

■ 名称 : 伊藤 博文 (いとう ひろぶみ)。

  幕末では、伊藤 俊輔(いとう しゅんすけ)、

  伊藤利助(いとう りすけ)など。 

  明治期では、伊藤 博文。

■ 生没年 : 1841年〜1909年。

■ 明治時代の、政治家、元老(げんろう)。

■ 長州藩士出身。

■ 幕末、長州藩士で、勤王(勤皇)の志士(幕末

  の志士)として、活躍 する。

■ 明治期に入り、明治新政府(近代日本政府)に

  出仕し、のち、政府の指導者となり、 日本最初

  の内閣総理大臣となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 伊藤 博文(利助)は、 幕末、長州藩の下級武

  士で松下村塾の塾生の1人であり、吉田松陰死

  後イギリスに秘密留学し帰国後討幕運動に突き

  進み、 明治期には、明治政府樹立後、岩倉使

  節団の副使として欧米を視察し、大久保利通死

  後、内務卿となり、日本初の内閣総理大臣とな

  る

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

  

■ 伊藤 博文 (いとう ひろぶみ、生没年:1841

  年〜1909年) は、 長州藩士出身で、 明治

  時代の、政治家、元老(げんろう) である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 伊藤 博文は、 幕末、 長州藩士で、勤王(勤

  皇)の志士(幕末の志士)として、活躍 する。

 

■ 伊藤 博文は、 明治期に入り、  明治新政府

  (近代日本政府) に出仕し、のち、政府の指導

  者となり、 日本最初の内閣総理大臣となる。

 

■ 伊藤博文 (いとうひろぶみ)は、 幕末では、 

  伊藤俊輔 (いとう しゅんすけ)、伊藤 利助

  (いとう りすけ)などと称し、 明治期には、伊藤

  博文 と称す。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 明治期の伊藤博文

■ 伊藤博文 は、明治期に入り、  明治新政府(

  代日本政府)に出仕し、のち、 政府の指導者と

  なり、 日本最初の内閣総理大臣となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 伊藤博文 は、 明治期に入り、 岩倉遣外使節

  (いわくらけんがいしせつ)の副使として、欧米を

  視察する。 次第に、政府の重要な地位に立ち、 

  1878年の大久保利通(おおくぼとしみち)の死

  後、 参議(さんぎ)兼内務卿(ないむきょう)とし

  て、政府の指導者となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 伊藤博文 は、 1882年以降、 憲法制定事業

  に全力を注ぎ、 華族令制定、 内閣制度創設、 

  枢密院設置を行い、 1885年に、最初の内閣

  を組織し、 1889年に大日本帝国憲法を発布

  し、 立憲政体樹立に貢献した。

     伊藤博文 は、1900年に、立憲政友会を

  組織し、その総裁となり、 日露戦争後、韓国総

  監として、韓国併合の基礎をつくり、1909年に

  ハルビンで、安重根(あんじゅうこん)に暗殺され

  る。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 伊藤博文 は、 1885年(明治18年)に、内閣

  制度設立を行い、最初の内閣を組織した。 伊藤

  博文 は、 憲法制定に力を注ぎ、 1889年(明

  治22年)に大日本帝国憲法を発布し、 日本の

  立憲政体樹立に貢献した。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 伊藤博文 は、 内閣を、4度、 1885〜88年、

  1892〜96年、1898年、1900〜1901年に、 

  組織した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 伊藤博文 は、 1884年(明治17年)7月に、

  華族令(かぞくれい)制定を行い、 1888年(明

  治21年)4月に枢密院(すうみついん)設置を行

  う。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 伊藤博文 は、 1900年(明治33年)に、立憲

  政友会(りっけんせいゆうかい)を組織して、 そ

  の総裁となる。 

 

 伊藤博文 は、 日露戦争(1904〜1905年)後、 

  韓国総監として、 韓国併合の基礎を作り、 190

  9年に、中国東北部(満州)の、ハルビンで、 安重

  根(あんじゅうこん)に暗殺される。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 伊藤 博文は、 1885年(明治18年)に内閣

  制度を創設し、 最初の内閣を組織する。 

     伊藤 博文は、憲法制定に力を注ぎ、 18

  89年(明治22年)に大日本帝国憲法を発布し、 

  日本の立憲政体樹立に貢献した。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 伊藤 博文は、 明治時代に、内閣を4度、組織

  した (1885〜88年、1892〜96年、1898

  年、1900〜1901年)。

 

■ 伊藤 博文は、 1884年(明治17年)に、華族

  令(かぞくれい)制定し、 1888年(明治 21年)

  に枢密院(すうみついん)設置した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 伊藤 博文は、韓国併合をすすめ、 1909年

  (明治42年)に、ハルビンで、 安重根(あんじ

  ゅうこん)に暗殺される。

 

 

 幕末の伊藤博文

■ 伊藤博文 は、 幕末、長州藩士で、 松下村

  塾に学び、勤王の志士として、 尊王攘夷運動

  に参加し(尊王攘夷派として)、 活躍する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1865年(慶応元年)に、 長州藩 は、幕府と

  の戦い (1866年の第2次長州征伐)を控え、

  早急に武器を手に入れる必要があった。  

     そこで、坂本龍馬は、 亀山社中が仲介し

  薩摩名義での武器や蒸気船の購入を、薩長に

  提案し、了解を取り付けた。 そして、1865年

  (慶応元年)に、 長州藩の伊藤俊輔 (伊藤博

  文)、井上聞多(いのうもんた、井上馨(かおる)) 

  が、 長崎や薩摩に渡り、 武器や蒸気船の購

  入の交渉を始めた。

    長州藩の伊藤俊輔(伊藤博文)、井上聞多(井

  上馨)は、 (坂本龍設立の)亀山社高松

  太郎近藤長次郎の斡旋で、 イギリス人商人の

  グラバー から武器を購入した。 薩摩藩名義で、

  洋式銃7300挺の購入を決めた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 吉田 松陰は、 長州藩の、藩校・明倫館や私塾・

  松下村塾などで、 講義を行った。

■ 吉田 松陰は、 幕末1857年から1858年 ま

  での間、 私塾の松下村塾 (しょうかそんじゅく )

  で、講義を行った。

     吉田 松陰は、アメリカ密航に失敗して藩 地

  の萩(はぎ)に謹慎(きんしん)中、1857年から

  1858年 までの間、 吉田 松陰の叔父の私塾で、

  講義を行った。

     吉田 松陰は、 松下村塾の塾生(門下生)

  に、時事問題、尊攘(そんじょう、尊皇攘夷)思想

  などを教え、多くの明治維新の志士を出した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 吉田 松陰の教えを受けた人物には、 藩校・

  明倫館では、桂小五郎 (かつらこごろう、木戸

  孝允(きどたかよし))、 松下村塾では、 久坂

  玄瑞 (くさかげんずい)、 高杉晋作 (たかす

  ぎしんさく)、 伊藤博文 (いとうひろぶみ)、 

  山県有朋 (やまがたありとも) などであり、

  多くの幕末や近代日本のリーダーの人材を育成

  した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 伊藤博文 が登場する、興味深い、

  ドキュメンタリー、ドラマ、映画、

 

★ 伊藤博文 が登場する、興味深い、ド

  ラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事 が 混じって描かれていま

  す。 また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 花燃ゆ (はなもゆ) 』 

   (NHKテレビ・2015年大河ドラマ)。

■ 日本の明治維新、幕末、明治時代の時代

  状況やその時代に活躍した人々を描く。

 

● 伊藤博文(利助)を演じる俳優 :   

   劇団 ひとり (げきだん ひとり)。

      伊藤博文(いとうひろぶみ、伊藤利助

  (いとうりすけ))は、 吉田松陰の松下村

  塾の塾生の1人である。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 

   (NHKテレビ・2010年大河ドラマ)。

■ 日本の幕末の時代状況やその時代に活躍

  した人々を描く。

● 幕末期の伊藤博文が登場する。

 

■ 『 坂の上の雲 (さかのうえのくも) 』 

   (NHKテレビ・2009〜11年スペシャル

   ドラマ)。

■ 日本の幕末、明治時代の時代状況やその

  時代に活躍した人々を描く。

● 明治期の伊藤博文が登場する。

 

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#iwakuratomomi

 

■ 岩倉 具視  

    (いわくら ともみ)。

 

■ 岩倉 具視。 

■ 生没年 : 1825年〜1883年。 

■ 名前 : 岩倉 具視 (いわくら ともみ)。

■ 幕末、明治時代の公卿、政治家。

■ 幕末の時期、 公武合体派、 尊王討幕派、

  の公家(くげ)。

■ 下級公家出身。

■ 近代日本政府 (近代天皇親政政権・政府) 

  の実力者。

● 明治初期、近代日本政府の実権を握った権

  力者の一人

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典 42317。

 

□ 岩倉 具視 画像 NO.1

 

 

■ 岩倉 具視 (いわくら ともみ) は、 生没年は 

  1825〜1883年で、 幕末、明治時代の公卿、

  政治家 である。 幕末の時期は、公武合体派、

  後、尊王討幕派の公家(くげ)で、 明治初期に、

  近代日本政府 (近代天皇親政政権・政府、近

  代天皇絶対主義政権・政府、1867〜1945年)

  の実権を握った権力者の一人であった。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 岩倉は、 公武合体策をとり、和宮降嫁に尽力

  (じんりょく)した。 その後、岩倉は、 1866年

  以後、 尊王討幕派の中心として活動し、 王政

  復古(天皇親政政府樹立) を実現した。

 

■ 岩倉は、 明治新政府の指導者となり、欧米を

  視察した。 岩倉は、 西郷隆盛のおす征韓論

  に反対し、また、自由民権運動をおさえて、 日

  本の国内整備 と 天皇親政政府の確立に努め

  た。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

♪♪ 岩倉具視 が登場する、興味深い、

   ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 岩倉 具視 が登場する、興味深い、

     ドキュメンタリー。

 

■ BS歴史館 『 シリーズ 日本のフ

  ィクサー@ 岩倉具視 中央突破!

  めげない乱世のプランナー  』 

   (NHKの2013年12月5日・本放送・テレビ・

   歴史ドキュメンタリー番組)。

 

■ その時歴史が動いた 『 岩倉使節

  団 世界一周の旅 〜明治日本・西

  洋と出会う〜 』 

   (NHK2009年(H21)1月本放送テレビ・

   ドキュメンタリー番組、 第348回)。

 

★ 岩倉具視 が登場する、面白く、興

    味深い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

      歴史のドラマ、映画 は、 史実(歴史上の事

   実) と 架空の出来事 が 混じって描かれ

   ています。 また、 現代風にアレンジしてあ

   ります。

 

■ 『 八重の桜 (やえのさくら)  

    (NHK2013年大河ドラマ)。

● 日本の幕末、明治時代を描いた、ドラマ。

● 新島(山本)八重を演じる女優 : 綾瀬 はるか

  (あやせ はるか)。

 

■ 『 篤姫 (あつひめ) 』 

   (NHK2008年大河ドラマ)。

● 岩倉具視を演じた俳優名 : 片岡 鶴太郎。

● 天璋院・篤姫を演じた女優名 : 宮崎あおい。

● 日本の江戸時代の12代将軍家慶、13代将軍

  家定、14代将軍家茂、15代将軍慶喜 時代 

  及び明治時代初期を描いたドラマ。

● 篤姫の、生涯 や 篤姫が、将軍の妻となり、

  夫の将軍の死後、幕末の徳川幕府(徳川宗家)

  を支える、 活躍を描いたテレビドラマ。

 

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#iwasakiyataro

 

 岩崎 弥太郎   

     (いわさき やたろう)。

 

 岩崎 弥太郎。

■ 生没年 : 1834(天保5年)〜1885年。

■ 名称 : 岩崎 弥太郎 (いわさき やたろう)。

■ 土佐 (とさ、現在の高知県) 出身。

■ 土佐藩下級武士・地下浪人(じげろうにん)出

    身。

■ 幕末、吉田東洋後藤象二郎の部下(手下)。

● 長崎で、土佐商会主任。

● 坂本龍馬の海援隊 (亀山社中の後身)の 会

    計係(経理係)。

■ 明治期の政商。 実業家。

■ 三菱財閥(現在の三菱グループ)の創業者。

■ 明治維新の動乱期に、政商として、巨利を得た

    有名な人物。

■ 父は、岩崎弥次郎(彌次郎)。 土佐藩の地下浪

    人(じげろうにん、半農半武士階級)。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

■ 母は、美和、(美輪)。

■ 弟は、岩崎弥之助、後の、第4代日銀総裁。

■ 妹は、さき。

■ 子は、長男の岩崎久弥。

■ 岩崎家の家系は、岩崎弥太郎の曾祖父(そうそ

    ふ)の代に、土佐藩郷士(ごうし)の郷士株を売

  り、その後の岩崎家の人々は、 土佐藩地下浪

  人(じげろうにん)という半農半武士階級 となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61214。

 

 

■ 岩崎弥太郎 は、 幕末は、 吉田東洋、後藤象

  二郎の部下(手下)で、 龍馬の海援隊の会計係

  (経理係) であった。

 

■ 岩崎弥太郎 は、 明治維新の動乱期に、 明

  治期の政商として、 巨利を得た有名な人物 で

  ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 岩崎弥太郎 (いわさきやたろう、1834−1885

  年) は、 土佐(とさ、現在の高知県) 出身の実

  業家で、三菱財閥の創業者 である。 

 

■ 岩崎家の家系。

● 岩崎弥太郎の曾祖父(そうそふ)の代に、土佐藩

  郷士(ごうし)であったが、 郷士株を売った。 そ

  の後、 郷士株を売って居ついた土佐藩地下浪人

  (じげろうにん)という半農半武士階級のため、 岩

  崎家の人々は、 極貧を極める。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 岩崎弥太郎の家族。

● 父は、岩崎弥次郎で、 土佐藩地下浪人(じげ

  ろうにん)であった。

     母は、美和で、妹は、さき である。 弟は、

  岩崎弥之助で、 後の、第4代日本銀行(日銀)

  総裁 となる。

 

■ 1856年に、土佐(高知県)で、 岩崎弥太郎 (い

  わさきやたろ(う)は、 当時蟄居(ちっきょ)中であ

  った吉田東洋(よしだとうよう)が開いた少林塾に入

  塾し、 後藤象二郎と知遇を得る。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 吉田東洋が土佐藩の参政となると、 岩崎弥太郎 

  は、 吉田東洋に仕え、 土佐勤王党(とさきんのう

  とう)の監視や脱藩藩士の探索などに従事する。

● 吉田東洋暗殺時、 岩崎弥太郎 は、吉田東洋暗

  殺の犯人を追って同僚の井上佐一郎(いのうえさ

  いちろう)と共に大阪へ行くが、 捕縛の困難を悟り、 

  同僚の井上佐一郎を残して、土佐へ帰国した。 

    大阪に残った同僚の井上佐一郎は、人斬り以蔵 

  (ひときりいぞう、岡田以蔵)らに殺害され、 岩崎

  弥太郎は、一命を取り留める形となった。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

■ 岩崎弥太郎 は、 長崎で、土佐商会の主任(18

  67〜68年)をやり、 長崎の、坂本龍馬の海援隊

  (亀山社中の後身)の会計係 (経理係)もやり、 海

  援隊の活動を金銭面で支(ささ)えた。

 

■ 1867年(慶応3年)に、岩崎弥太郎は、 後藤象

  二郎により、土佐藩の、商務組織の土佐商会の主

  任 や 長崎留守居役(るすいやく) に抜擢(ばっ

  てき)され、 土佐藩の貿易に従事する。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 1867年(慶応3年)に、坂本龍馬が脱藩の罪を

  許され、海援隊が土佐藩の外郭機関となると、 

  岩崎弥太郎は、 藩命により、海援隊の経理を担

  当した。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 明治期に入り、明治期の政商として、最初に岩崎

  弥太郎が巨利を得るのは、 明治新政府が樹立さ

  れ、 全国統一貨幣制度に乗り出したときのことで

  ある。

     各藩が発行していた藩札を新政府が買い上

  げることを事前に知った弥太郎は、 藩札を大量

  に買占め、 それを新政府に買い取らせて莫大な

  利益を得た。 この情報を流したのは、明治新政府

  の高官となっていた、同じ土佐出身の後藤象二郎

  (ごとうしょうじろう)であった。 今でいうインサイダ

  ー取引である。 いわば、岩崎弥太郎 は、最初か

  ら、政商として暗躍(あんやく)していた。

 

 

♪♪ 岩崎弥太郎 が登場する興味深い、

   ドキュメンタリー、ドラマ、映画、 。

 

★ 岩崎弥太郎 が登場する興味深い、ド

  ラマ、映画。

 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事 が 混じって描かれていま

  す。 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 

   (日本の2010年NHK大河 ドラマ)。

● 岩崎弥太郎を演じた俳優 : 香川 照之 

   (かがわ てるゆき)。

 

 

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 『 あなたのハートには 

    何が残りましたか? 』。

 

 

 

以  上。