TKKI カナヤマ オフィシャル ホームページ。     

   TKKI KANAYAMA’S OFFICIAL HOMEPAGE.

◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY 

   HANDBOOK

 

 

 カナヤマ 日本歴史 辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 む 』。

 

#jpmenu     

メ ニュー (目次)。

■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

□ 日本史 辞典 (総合)

□     ● 五十音順 ( あいうえお順)。

 □ 見出し語 むた

 □ 見出し語 むな

 □ 見出し語 むら

 

 

〇 むこ   向日。

              (むこう)。 《首都》。

             (⇒ 首都長岡京)。

             (⇒ 古都都城)。

             ■ 向日 (むこう)は、

             日本の首都が置かれた場所の1つ

             である。

             ■ 向日には、日本の首都として、

             朝廷が、 長岡京 (ながおかきょう、

             京都府向日(むこう)市・長岡京

             (ながおかきょう)市・京都市南

             部付近、784年ー794年) を置く。

 

 むさ   武蔵 国。

             (むさし のくに)。《旧地域名》。

             = 武州(ぶしゅう))。 

          (≒ 概ね、現・東京都と埼玉県

          の相当地域)。

          MUSASHI PROVINCE.

          (律令制定後・古代・中世・近

           世日本・旧地域名の、

           旧国(令制国)の正式名)。

                    (⇒ 武州)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

          ■ 武蔵 国。

             <東海道 (旧広域地方)。

             <五畿七道(ごきしちどう、日本本土)。

          (⇒ 東海道・旧広域地方)。

                   (⇒ 五畿七道)。

                         ■ (RWM) 日本の、中地域名の

             変遷。

             ● 国造・県主分国⇒ 旧国(令制国)

              ⇒ 旧都道府県⇒ 現47都道府県。

             ■ 武蔵 国 (むさし のくに、= 武州

             (ぶしゅう))は、 現・関東地方の、概

             ね、現在の東京都と埼玉県に相当す

             る地域であり、 東海道(とうかいどう)・

             旧広域地方に属する。

                     (⇒ 関東地方)。

                      (⇒ 都道府県)。

             ■ 武蔵 国 (= 武州)は、 前近代日

             本の、旧国(令制国)である。

             ■ 武蔵 国 (= 武州)は、 五畿七道

             (ごきしちどう)の、東海道(とうかいど

                          う)・旧広域地方に属する。

             ■ 武蔵 国 (= 武州)は、 約68旧

             国(令制国)の1つであり、 東海道

             (とうかいどう)・旧広域地方の1国で

             ある。

             ■ 武州 (ぶしゅう)は、 律令制定

             後・古代・中世・近世日本・旧地域名

             の、旧 国(令制国)正式名の、武蔵 国 

             (むさし のくに) の別称である。

             ■ 武蔵 国 (むさし のくに)は、律令

             制定後・古代・中世・近世日本・旧地域

             名の、旧国(令制国)の正式名である

             ■ 旧国(令制国)(きゅうこく(りょうせ

             いこく))は、 前近代日本の、飛鳥白

             鳳時代末期から江戸時代まで、 紀元

             (後)701年頃から1868年頃まで、 

             日本で使用された地方行政区分の地

             域名である。

 

 むし   武者。  

             (むしゃ)。 《武士》。

             (= 武士、侍(さむらい)) 。

          (10〜19世紀)。

          (⇒ 武士)。

 

#muta

 

 むつ  

             (むつ)。   《時刻》。

             ■ 六 (むつ、別名:六つ、六ツ)

             とは、午前6時頃 、午後6時頃であ

                          る。

          (⇒前近代日本の

        時刻・時法

             ■ 六 (むつ、別名:六つ、六ツ)

                          は、 前近代日本(室町時代後期〜

             江戸時代)の「日の出や日没を基準

             とする不定時法」の、時鐘数表示時

             刻の主要時間区分である。

             ■ 別名 : 六つ、 六ツ。

             ● 午前6時頃 : 

                明け六つ (あけむつ)。

             ● 午後6時頃 : 

                暮れ六つ (くれむつ)。

             ■ 午前6時00分 午前6時頃

             ≒ (明) 六つ、六ツ。

             ≒ 卯の刻(うのこく)の正刻 (正卯

               (しょうぼう))。

             ■ 午後6時00分 午後6時頃

             ≒ (暮) 六つ、六ツ。

             ≒ 酉の刻(とりのこく)の正刻 (正酉

               (しょうゆう))。

             ○ 六つ(六ツ) ≒

             (明) 六つ ≒

                午前6時00分〜午前7時00分。

             (暮) 六つ ≒

                午後6時00分〜午後7時00分。

             ○ 六つ半(六ツ半) ≒  

             (明) 六つ半 ≒

                午前7時00分〜午前8時00分。

             (暮) 六つ半 ≒

                午後7時00分〜午後8時00分。

 

 むつ   陸奥 国。

             (むつ のくに)。 《旧地域名》。

          (= 奥州(おうしゅう)、陸州(りくしゅ

             う、ろくしゅう)

             (≒ 概ね、現・青森県、岩手県、

          宮城県、福島県の相当地域)

          MUTSU PROVINCE.

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の、

           旧国(令制国)の正式名)。

                    (⇒ 奥州陸州)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

          ■ 陸奥 国。

             <東山道・旧広域地方。

             <五畿七道(ごきしちどう、日本本土)。

          (⇒ 東山道・旧広域地方)。

                   (⇒ 五畿七道)。

                         ■ (RWM) 日本の、中地域名の

             変遷。

             ● 国造・県主分国⇒ 旧国(令制国)

              ⇒ 旧都道府県⇒ 現47都道府県。

             ■ 陸奥 国 (むつ のくに、= 奥州(お

             うしゅう)陸州 (りくしゅう)) は、 現・

             東北地方の、概(おおむ)ね、現・青森

             県、岩手県、宮城県、福島県に相当す

             る地域であり、 東山道(とうさんどう)・

                          旧広域地方に属する。

           (⇒ 東北地方)。

                   (⇒ 都道府県)。

             ■ 陸奥 国 (= 奥州陸州)は、前近

             代日本の、旧国(令制国)である。

             ■ 陸奥 国 (= 奥州陸州)は、 五

             畿七道(ごきしちどう)の東山道(とうさ

                          んどう) ・旧広域地方に属する。

             ■ 陸奥 国 (= 奥州陸州)は、約68

             旧国(令制国)の1つであり、 東山道

                          (と うさんどう)・旧広域地方の1国であ

             る。

             ■ 奥州 (おうしゅう)や 陸州 (りくし

             ゅう、ろくしゅう)は、 旧国名(令制国 )

             正式名の、陸奥 国 (むつ のくに)の

             別称 である。

             ■ 陸奥 国 (むつ のくに)は、 律令

             制定後・古代・中世・近世日本・旧地域

             名の、旧国(令制国)の正式名である

             ■ 旧国(令制国)(きゅうこく(りょうせ

             いこく))は、 前近代日本の、飛鳥白

             鳳時代末期から江戸時代まで、 紀元

             (後)701 年頃から1868年頃まで、 

             日本で使用された地方行政区分の地

             域名である。

 

〇 むつ  睦仁天皇

                          (むつひとてんのう )。 《人名》。

          (= 明治天皇 めいじてんのう) 。

           MUTSUHITO EMPEROR

                          (:THE EMPEROR 

           MUTSUHITO).

          (天皇在位:1867年ー1912年)。

          (生没年:1852年ー1912年)。

 

〇 むつ  陸奥 宗光

             (むつ むねみつ)。 《人名》。

          (= 陸奥陽之介)。

               (⇒ 坂本龍馬亀山社中

           海援隊)。

               (⇒ 条約改正伊藤博文)。

               (⇒ 日清戦争)。

             (⇒ 陸奥 亮子)。

          ○ 陸奥宗光は、紀州藩

          士出身である。

          ○ 幕末、陸奥宗光は、

          坂本龍馬の同志であり、

          亀山社中・海援隊のメン

          バー(貿易担当)であり、

          亀山社中・会計係でもあ

          る。

          ○ 明治期、陸奥宗光は、

          不平等条約改正に尽力

          する。

          ○ 陸奥宗光は、伊藤博

          文と親しく、明治時代に、

          明治政府の米公使、

          相(外務大臣)であり、

          日清戦争の中心遂行者

          の一人である。

 

〇 むつ  陸奥 亮子

             (むつ りょうこ)。 《人名》。

             (1856年ー1900年)。

             (⇒ 陸奥 宗光)。

             (⇒ 鹿鳴館華族)。

        (⇒ 条約改正)。

                           ○ 陸奥亮子は、

          陸奥宗光の夫人である。

             ○ 陸奥亮子は、

          明治時代のトップレディー

          の一人である。

             ○ 陸奥亮子は、

          「鹿鳴館の華(はな)」の

                      一人である。

             ○ 陸奥亮子は、

          美貌と知性、教養をそなえ

          た女性である。

             ○ 陸奥亮子は、駐米日

          本公使・陸奥宗光と共に、

          駐米日本公使夫人として、

          アメリカで不平等条約改

          正に尽力する。

             ■ 陸奥亮子 (むつりょうこ、18

             56年ー1900年) は、 米公使、

             外務大臣の陸奥宗光と共に、不平

             等条約改正(治外法権の撤廃、関

             税自主権の回復など)に尽力する。

             ■ 陸奥亮子は、 明治のトップレ

             ディーの一人であり、 美貌と知性、

             教養をそなえた女性であり、 欧米

             人との交際をになった女性であり、

             「鹿鳴館の華」(1883年〜1887

             年)の一人となり、その後、「米・

             ワシントン社交界の華」(1888年

             〜1890年)となる。

             ■ 陸奥亮子 (むつりょうこ、18

             56年ー1900年)は、 陸奥宗光

             (むつむねみつ)の夫人(1872

             年結婚)である。

                陸奥亮子は、陸奥宗光の勧

             めにより、日本国内で多くの教養

             を身につける。

                 そして、陸奥亮子は、鹿鳴館

             (1883年(明治16年)〜1887

             年(明治20年))で活躍する。

                1888年(明治21年)に、陸

             奥宗光は、アメリカ公使(1888年

             〜1890年)となり、 陸奥亮子

             は、陸奥宗光と共に、アメリカに

             渡り、アメリカ公使夫人として、

             アメリカ社交界で活躍し、「ワシン

             トン社交界の華(はな)」といわれ、

             1890年(明治23年))に帰国する。

             ■ 鹿鳴館。

                鹿鳴館  (ろくめいかん、18

             83年(明治16年)ー1887年(明

             治20年))は、 日本初の迎賓館

             (げいひんかん)であり、 外務卿・

             井上馨(いのうえかおる)の進め

             る欧米との不平等条約改正のな

             どの目的で、 条約改正の第一歩

             として社交を通じて欧米各国の政

             府高官との信頼関係を築こうと設

             立され、 国賓(こくひん)や外交

             官などの外国客を招待、接待する

             ための社交場であり、園 遊会や舞 

              踏会などが頻繁に開かれ、 バッ

             スルスタイルの煌(きら)びやかな

             ドレスをまとう、華族(かぞく、18

             69 年ー1947年)や政府高官な

             どの上流夫人が、活躍した。

             ■ 「鹿鳴館の華」。

                優雅なダンスと美貌で、洗練

             されたマナーと振る舞いで、「鹿鳴

             館の華」 (ろくめいかんのはな)

             と称(たた)えられた女性には、

             (a) 井上 武子 (いのうえ たけ

             こ、井上 馨(かおる)夫人、

             1850年−1920年)、

             (b)  大山 捨松 (おおやま すて

             まつ、大山 巌(いわお)夫人

             1860年ー1919年)、  

             (c) 戸田 極子 (とだ きわこ、

             戸田 氏共(うじたか)夫人、

             1858年−1936年)、 

             (d) 陸奥 亮子 (むつ りょうこ、

             陸奥 宗光(むねみつ)夫人、

             1856年ー1900年)、 

             (e) 鍋島 栄子 (なべしま なが

             こ、鍋島 直大(なおひろ)夫人、

             1855年−1941年) 

             などがいる。

 

#muna

 

 むね  宗子。 

             (むねこ)。 《人名》。

             (= 藤原 宗子(ふじわらの むね

              こ)、池禅尼(いけのぜんに)) 。

        (⇒ 藤原宗子)。

             ■ 宗子(= 藤原 宗子、池禅尼)は、

             平清盛の継母(ままはは)である。

             ■ 宗子 (むねこ、= 藤原 宗子(ふ

             じわらの むねこ)、池禅尼(いけの

                     ぜんに) は、 平清盛の父・平忠盛

             (ただもり)の、正室夫人である。

 

〇 むね  統子内親王。

             (むねこないしんのう)。 《人名》。

                          (=上西門院)。

           (1126−1189年)。

        (⇒ 鳥羽上皇)。

           ■ 統子内親王 (むねこないしんの

             う、=上西門院、生没年:1126−11

             89年)は、 鳥羽上皇の次女である。

 

〇 むね  領子。

             (むねこ)。 《人名》。

             (= 藤原 領子(ふじわらのむねこ)

        (⇒ 平 時忠)。

           ○ 平清盛正室夫人・平時子

          の弟・平時忠の正室夫人。

           ○ 平時子の義妹。

 

#mura

 

〇 むら  紫式部

             (むらさきしきぶ)。 《人名》。

          (978年ー1016年?)。

             (⇒ 藤原道長藤原彰子

          源氏物語)。

             ■ 紫式部 (むらさきしきぶ、978

             年ー1016年?))は、 平安時代

             中期の女流文学者である。   

             ■ 紫式部は、 源氏物語の作者で

             ある。

             ■ 紫式部は、 藤原道長の娘・藤

             原彰子(ふじわらのしょうし)に仕

             (つか)えた女官(女房(にょうぼう、

             上級侍女)である。

             ■ 紫式部は、 藤原宣孝(ふじわ

             らののぶたか)の 側室夫人である。 

             ● 紫式部は、 藤原宣孝が急死し、

             未亡人となり、その頃より、「源氏

             物語」の著作を始める。

             ■ 藤原道長は、 紫式部のスポン

             サーであり、恋人である。

 

〇 むら  紫式部日記

             (むらさきしきぶにっき)。

          《日本歴史の史料》。 

          ○ 紫式部が著作した、1008

          年〜1010年の日記。

          ○ 平安時代中期を知る史料。

          (⇒ 日本史・第一級史料リスト)。

 

 むら  村松殿。 

            (むらまつどの)。 《人名》。

            (1565年−1630年)。

         (⇒ 真田氏

       真田 幸村(信繁))。

            ■ 村松殿 (むらまつどの、1565−16

            30年) は、 真田 幸村(信繁)の姉であ

            り、 真田 幸村(信繁)の父・真田 昌幸(ま

            さゆき)の長女 である。

            ● 村松殿は、  真田丸 (さなだまる)

            (NHKテレビ・2016年大河ドラマ)では、

            「松(まつ)」という名(仮称)で登場する。

 

〇 むろ  室町御所。

             (むろまちごしょ) 。 (= 花の御所、

           室町殿、室町第

                     《足利将軍家の邸宅、政庁》。

          《室町幕府(= 足利幕府)》。

          (1381年ー1559年)。

           ■ 室町幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック。 

          を参照してください。

          □ 足利氏 画像アルバム 

             No.1

           ( 花の御所)。 

           ( 足利将軍家邸)。 

          (⇒ 三条坊門邸)。

          (⇒ 小川御所)。

          (⇒ 足利二条城二条城)。

          ( 足利将軍家室町幕府)。

          (⇒ 室町幕府)。

          (⇒ 室町幕府関連

          出来事)。

          (⇒ 足利氏)。 

                        ■ 室町御所 (むろまちごしょ、=

             別称:室町殿(むろまちどの)、室町

             第(むろまちてい))、通称:花の御

             所(はなのごしょ)、1381年ー15 

             59年)は、 室町幕府(= 足利幕府)

             の、足利将軍家の邸宅、政庁の1つ

             である。

                        ■ 「室町御所」 (別称:室町殿、室

             町第、通称:花の御所)は、 1381

             年(永徳元年)に、  京(きょう、京都)

             の北小路室町 (きたこうじむろまち、

             現・京都市上京区(かみぎょうく)・烏

             丸今出川(からすまいまでがわ)北西

             一帯、裏築地(うらつきじ)町付近)  

             に、 足利義満(あしががよしみつ)に

             よって、建てられた(完成した)。

                 北小路は、現在の今出川(いま

             でがわ)通りである。           

                        ■ 「室町御所」 (花の御所、室町

             殿、室町第)は、 1381年(永徳元

             年)から1559年まで、 室町幕府

             (= 足利 幕府)の第3代将軍・足利

             義満 (あしかがよしみつ)から室町

             幕府・第13代将軍の足利義輝(あし

             かがよしてる)まで、建て替えられて、

             室町幕府(= 足利幕府)の多くの将

             軍の邸宅、政庁となる。 

                        ■ 室町御所 (むろまちごしょ、13

              81年〜1559年)は、 室町殿(む

              ろまちどの)、室町第(むろまちて

              い)とも呼ばれ、 通称は「花の御

              所」(はなのごしょ)といい、 1381

              年(永徳元年)に、 室町幕府・第3

              代将軍の足利義満(あしかがよし

              みつ)が京(きょう、京都)の北小路

              室町に造営した、足利将軍家の邸

              宅、政庁である。

                        ■ 室町御所(= 花の御所)。

             ● 室町御所(= 花の御所)が室町幕

             府(= 足利 幕府)の、足利将軍家の、

             第3代から第13代までの将軍の邸宅・

             政庁であったことから、後世、足利幕

             府を、室町幕府という名称で呼ぶよう

             になった。

                         ■ 1381年(永徳元年)に京(きょ

             う、京都)の北小路室町(きたこうじむろ

             まち、現・京都市上京区(かみぎょうく)

             烏丸今出川(からすまいまでがわ)北

             西一帯)に、 室町幕府(= 足利 幕府)

             の第3代将軍・足利義満 (あしかがよ

             しみつ)は、 室町御所 (むろまちご

             しょ、= 花の御所(はなのごしょ)、室町

             第(むろまちてい)、室町殿(むろまちど

             の)、1381年ー 1559年) を完成し、

             その後、1559年(永禄2年)まで、第

             13代将軍・足利義輝まで、代々の将

             軍の邸宅・政庁となる。 

             ● 1381年(永徳元年)に足利義満

             の造営した室町御所は、 応仁の乱の

             戦火で1476年(文明8年)に全焼した

             が、 室町御所は、その後何度か小規

             模なものながらも再建が繰り返えされ、

             1559年(永禄2年)に、第13代将軍・

             足利義輝が斯波武衛家邸宅跡に、烏

             丸中御門第(からすまなかみかどてい、

             = 別名:足利二条城、二条御所、旧二

             条城)を造営し、移転するまで、1559

             年(永禄2年)まで、代々の将軍の邸宅・

             政庁となる。 

              ■ 室町御所(= 花の御所)は、 室

              町小路(現・室町通り)に面して正門

              が設けられたことから、 室町御所、

              室町殿(むろまちどの)、室町第(む

              ろまちてい)と呼ばれた。

                そして、足利幕府の足利将軍家

              の邸宅、政庁が室町御所 (= 別称:

              室町殿、室町第、通称::花の御所)

              あったことから、足利幕府を室町

              幕府という名称でも呼ぶよ うになり、 

              また、足利幕府の将軍や足利将軍

              家を室町殿(むろまちどの)とも 呼ぶ

              ようになる。

              ■ 室町御所 (= 別称:室町殿、室

              町第、通称::花の御所)は、1476

              年(文明8年)に応仁の乱の戦火で

              焼失(全焼)した。 しかし、 その後

              も、何度か小規模な建物の再建が

              繰り返えされた。 そして、「室町 御

              所」(= 別称:室町殿、室町第、通

              称:花の御所)は、 室町幕府・第

              13代将軍の足利義輝(あしかがよ

              してる)が、1559年に、別の場所

              に、二条御所(= 烏丸中御門第、

              旧二条城)を造営し、移転したため、

                     廃止となった。

              ■ 「室町御所」 (花の御所、室町

             殿、室町第)の跡地は、 現在の京

             都市上京区(かみぎょうく)・烏丸今

             出川(からすまいまでがわ)北西一

             帯にあり、 京都御所のある京都御

             苑(きょうとぎょえん)の北西にあり、 

             烏丸今出川(からすまいまでがわ)

             交差点の北西方向に位置し、東側・ 

             烏丸通 (からすまどおり)、南側・ 今

             出川通(いまで がわどおり、旧・北

             小路)、西側・室町通(むろまちどお

              り)、北側・上立売通(かみだちうり

             どおり) に囲まれた、東西約110

             m、南北約220mの地域である。

                        ■ 室町幕府(= 足利幕府)の、足

             利将軍家の邸宅、政庁である足利

             将軍家邸には、

             (1) 二条万里小路第 (にじょう

             までのこうじてい、

             1336年頃ー1358年頃)、 

             (2) 三条坊門邸 (= 別称:三条

             坊門殿(さんじょうぼうもんどの)、

             1336年頃ー1443年頃)、 

             (3) 室町御所 (むろまちごしょ、

             = 別称:室町殿(むろまちどの)、

             室町第(むろまちてい)、通称:

             花の御所(はなのごしょ)、

             1381年ー1559年)、 

             (4) 小川御所 (おがわのごしょ、

             = 別称:小川殿(おがわどの)、

             1471年頃ー1493年)、 

             (5) 烏丸中御門第 (からすまな

             かみかどてい、= 別名:足利二条

             城、二条御所、旧二条城、前期:

             1559年ー1565年、後期:15

             69年ー1573年)、

             などがある。  

 

〇 むろ  室町時代

             (むろまちじだい)。

          (= 1336年または1338年

           ー1573年)。

          《日本歴史の時代区分》。 

          THE MUROMACHI 

           PERIOD

          □ 室町時代の政治・経済・

          社会、文化の詳細な内容に

          関しては、

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック。 

          を参照してください。

          <中世日本。

          中世日本) 。 

          (⇒ 日本歴史の時代区分)。

          (⇒ 室町幕府)。

          (⇒ 足利氏)。 

             ■ 室町時代 (むろまちじだい)とは、 

             1338年 (建武5年・暦応元年、延元

             3年)または1336年から、1573年

                          元亀4年・天正元年)まで 、の期間

             である。

             ■ 室町時代。

              ● 1336年は、 室町幕府(= 足利

              幕府)が事実上成立した年である。

              ● 1338年は、 室町幕府(= 足利

              幕府)が名目的に成立した年である。

              ● 1573年は、 室町幕府(= 足利

              幕府)が事実上滅亡した年である。

              ■ 室町時代。

              ● 1336年は、 後醍醐天皇が吉

              野に移り、建武(けんむ)幕府が事 

              実上崩壊し、 足利尊氏が、光明

              (こうみょう)天皇を擁立し、建武式

              目を制定し、室町幕府(= 足利幕

              府)が事実上成立した年である。

              ● 1338年は、 足利尊氏が征

              夷大将軍になり、室町幕府(= 足

              利幕府)が名目的に成立した年で

                            ある。

              ● 1573年は、 足利義昭が京(京

              都)から追放され、室町幕府(= 足

              利幕府)が事実上滅亡した年であ

              る。

              室町時代は、 中世日本(= 鎌倉

             時代、建武時代、室町時代 ;1192年

                          頃ー1573年頃) の一時期である。

              室町時代は、 室町時代前期、室

             町時代中期、室町時代後期に分かれ

             る。 

             ● 室町時代前期(1338年または

             1336年ー1392年)は、ほぼ、南北

                          朝時代(1336年ー1392年)である。

             ● 室町時代後期は、戦国時代とも

                          呼ばれる。  

 

〇 むろ  室町幕府 

             (むろまちばくふ)。

                    (= 足利幕府)。 

          《日本の政権・政府》。

           (武家の政治組織、武家政権)。 

          (1338年または1336年

           ー1573年)。

           ■ 室町幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック。 

          を参照してください。

             THE MUROMACHI (ASHIKAGA) 

             SHOGUNATE GOVERNMENT.

                    (⇒ 足利(氏)政権) 。

          (⇒ 武家政権)。

          (⇒ 日本の政権・政府)。

           ○ 室町幕府は、

          足利将軍家が主導する、

          武家の政治組織である。

             ■ 室町幕府の樹立。

             ● 室町幕府 (むろまちばくふ、= 足

             利幕府、1338年または1336年

             1573年)は、 足利氏の足利尊氏が、

             1338年(建武5年・暦応元年、延元

             3年)または1336年に、 京(きょう、

             京都)に開いた(樹立した) 武家政権

             である。

             ● 室町幕府は、 実質的に1336年

             に成立し、 1338年に足利尊氏が征

             夷代将軍となり、名実ともに成立する。

             ■ 室町幕府。

              ● 1336年は、 室町幕府(= 足利

              幕府)が事実上成立した年である。

              ● 1338年は、 室町幕府(= 足利

              幕府)が名目的に成立した年である。

              ● 1573年は、 室町幕府(= 足利

              幕府)が事実上滅亡した年である。

              ■ 室町幕府。

              ● 1336年は、 後醍醐天皇が吉

              野に移り、建武(けんむ)幕府が事 

              実上崩壊し、 足利尊氏が、光明

              (こうみょう)天皇を擁立し、建武式

              目を制定し、室町幕府(= 足利幕府)

              が事実上成立した年である。

              ● 1338年は、 足利尊氏が征

              夷大将軍になり、室町幕府(= 足

              利幕府)が名目的に成立した年で

                            ある。

              ● 1573年は、 足利義昭が京(京

              都)から追放され、室町幕府(= 足利

              幕府)が事実上滅亡した年である。

             ■ 室町幕府の将軍15代。

             ● 室町幕府(足利幕府)の将軍15代 

             は、 足利尊氏、足利義詮、 足利義満

             足利義持、足利義量、足利義教、足利

             義勝、足利義政、足利義尚、足利義稙、

             足利義澄、足利義晴、足利義輝、足利

             義栄、足利義昭 である。

          ■ 室町幕府の将軍

           (初代〜第15代)就任表。

             ■ 室町幕府

             ・初代将軍・ 足利尊氏(たかうじ)   

             (将軍在任:1338年〜1358年)。

             ・第2代将軍 ・ 足利義詮(よしあきら) 

             (将軍在任:1358年〜1367年)。

             ・第3代将軍 ・ 足利義満(よしみつ)  

             (将軍在任:1369年〜1394年)。

             ・第4代将軍 ・ 足利義持(よしもち)   

             (将軍在任:1394年〜1423年)。

             ・第5代将軍 ・ 足利義量(よしかず)  

             (将軍在任:1423年〜1425年)。

             ・第6代将軍 ・ 足利義教(よしのり)   

             (将軍在任:1429年〜1441年)。

             ・第7代将軍 ・ 足利義勝(よしかつ)   

             (将軍在任:1441年〜1443年)。

             ・第8代将軍 ・ 足利義政(よしまさ)   

             (将軍在任:1449年〜1473年)。

             ・第9代将軍 ・ 足利義尚(よしひさ)   

             (将軍在任:1473年〜1489年)。

             ・第10代将軍・ 足利義稙(よしたね)   

             (= 足利義材(よしき)、足利義尹

             (よしただ))。

             (将軍在任:1490年〜1493年、

                     1508年〜1521年)。

             ・第11代将軍・ 足利義澄(よしずみ)   

             (将軍在任:1494年〜1508年)。

             ・第12代将軍・ 足利義晴(よしはる)   

             (将軍在任:1521年〜1546年)。

             ・第13代将軍・ 足利義輝(よしてる)  

             (将軍在任:1546年〜1565年)。

             ・第14代将軍・ 足利義栄(よしひで)   

             (将軍在任:1568年)。

             ・第15代将軍・ 足利義昭(よしあき)  

             (将軍在任:1568年〜1588年)。

 

〇 むろ   室町幕府 関連年代順 

           出来事ブック (詳細)。

              (むろまちばくふかんれんねんだい

              じゅんできごとぶっく)。

              《政権関連出来事》。

 

 むろ   室町文化 

              (むろまちぶんか)。 《日本文化》。 

           ○ 室町文化は、

          14世前紀半〜16世紀後半

          に栄えた文化である。

           (⇒ 日本の文化)。

           (⇒ 足利氏)。 

           □ 室町幕府ガイドブック

            □ 室町幕府 関連年代順 

             出来事ブック。 

 

 

 

 

   ● 五十音順 (あいうえお順)。

 

 

   ■  『 現在は、過去の成果であり、

       未来は、現在の成果である。 

         (良き現在は、過去の人々の良き努力

          や活動の積み重ねの成果であり、 

          明るい良き未来は、現在の人々の、

          良き努力や活動の積み重ねによって

          形成される。)

 

 

■ 上位のWEBサイト。 

 □ (KOH) カナヤマ オフィシャル   >

          ホームページ

 □ (Cse)  国際理解総合サイト     >

          われら地球市民。 

 □ (Ke)   百科事典。           >

 □ (Khh)  歴史学ハンドブック     >

 □ (Kjhh) 日本史ハンドブック。     >

 □ (Kjhh) 日本史辞典(総合版)。   >

 □ (Kjhh) 日本史辞典・日本語版。   >

 □ (Kjhh) この日本語ページ。 

 

 

ようこそ TKK カナヤマのホームページへ !             WELCOME TO TKK KANAYAMA’S HOMEPAGE !  

 

 

■ 当ホームページの制作・著作権 TKKI カナヤマ。

 

■ Copyright(C) TKKI Kanayama.

   All Rights Reserved.

 

 

#jpdictionary(general)

 

◆ 日本史辞典

 

● 見出し語はグリーンでマークされています

 

□ メニュー(目次)の先頭へ戻る。 

□ 日本史辞典・日本語版の先頭ページへ

□ 日本史ハンドブック・日本語版へ

□ 日本史辞典・英語版 へ

□ 日本史ハンドブック・英語版 へ

 

 

#mu

 

◆ 派生見出し語サイト。

■ 「む」 基本・見出し語WEBサイト No. ja−mu  

  の、派生見出し語サイト

 

 

■ 《新HP》。

■ No.ja−mu−4572。

● 見出し語項目 む   ( ろ 45  / ま 72

   付近  第1部・ろ・マ行総合グループ )。

〇 むろ  室町幕府 ( むろまちばくふ)。 

          (1336年または1338年

          〜1573年)。

■ No.ja−mu−4573。

● 見出し語項目 む   ( ろ 45  / ま 73

   付近  第1部・ろ・マ行総合グループ )。

〇 むろ   室町幕府 関連

        年代別出来事 

             (むろまちばくふかんれんねんだい

                          べつできごと)。

          (1336年または1338年

          〜1573年)。

■ 《旧HP》。

■ No.ja−mu−4570。

● 見出し語項目 む   ( ろ 45  / ま 70

   付近  第1部・ろ・マ行総合グループ )。

〇 むろ  室町幕府 ( むろまちばくふ)。 

          (1338〜1573年)。

 

 

■ 《新HP》。

■ No.ja−mu−4570。

● 見出し語項目 む   ( ろ 45  / ま 70

   付近  第1部・ろ・マ行グループ )。

〇 むろ  室町時代 (むろまちじだい)

          (1338〜1573年)。

■ No.ja−mu−4575。

● 見出し語項目 む   ( ろ 45  / ま 75

   付近  第1部・ろ・マ行グループ )。

 むろ  室町文化 ( むろまちぶんか)

          (14 世前紀半〜16世紀後半)。

■ 《旧HP》。

■ No.ja−mu−4571。

● 見出し語項目 む   ( ろ 45  / ま 71

  付近  第1部・ろ・マ行グループ )。

〇 むろ  室町時代 (むろまちじだい)

          (1338〜1573年)。

 むろ  室町文化 ( むろまちぶんか)

          (14 世前紀半〜16世紀後半)。

 

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。        

□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

#themuromachiresidence

 

■ 室町御所 

      (むろまちごしょ)。

    (= 花の御所)。

 

■ 室町御所。

■ 名称 : 室町御所 (むろまちごしょ)。  

■ 別名 : 

■ 存在期間 : 。

 

 

#theemperormutsuhito

 

■ 睦仁 天皇 

      (むつひと てんのう)。

    (= 明治天皇)。

 

■ 睦仁 天皇。

■ 名称 : 睦仁天皇 (むつひと てんのう)。  

■ 別名 : 明治天皇 (めいじてんのう、

    崩御後(死後)の称号、贈名に相当 する)。  

     贈名(おくりな、諡)とは、人の死後に

  贈る称号である。

■ 英語名 : 

  THE EMPEROR MUTSUHITO.

■ 睦仁天皇(= 明治天皇)の在位 : 

  1867年(慶応3年)〜1912年(明治45年)。 

■ 睦仁天皇(= 明治天皇)の生没年 : 

  1852年(嘉永5年)〜1912年(明治45年)。

■ 睦仁天皇(= 明治天皇)は、

  明治時代に、有能な多数の人材を、うまく、

  まとめ、活用し、指導して、日本を近代資本

  主義国家へと発展させる。  

■ 睦仁天皇(= 明治天皇)の父は、

   統仁(おさひと)天皇 (= 孝明(こうめい)

   天皇) である。

■ 睦仁天皇(= 明治天皇)の継子は、 

   嘉仁(よしひと)天皇 (= 大正天皇)である。

■ 敬称は省略させていただきます。

 

□ 睦仁(むつひと)天皇(= 明治天皇) 

   画像 N o.1

□ 明治維新 画像アルバム No.1

 

 

■ 睦仁天皇(= 明治天皇)。

■ 明治時代の天皇。

■ 睦仁天皇 (むつひとてんのう、= 明治天皇、

  生没年:1852年〜1912年、天皇在位:18 

  67年〜1912年) は、 明治時代の天皇で

  あり、 明治時代に、日本人や外国人の有能

  な多数の人材をうまく、まとめ、活用し、指導

  して、日本を、近代資本主義国家へと発展さ

  せた天皇である。  

 

■ 睦仁天皇(= 明治天皇)の活躍。

■ 睦仁(むつひと)天皇(= 明治天皇)は、

  大政奉還後、 明治政府(近代日本政府)と

  共に、 徳川氏(江戸幕府)勢力を倒し、東

  京遷都を行い、 国内諸改革を行い、大日

  本帝国憲法、帝国議会をつくり、日清戦争、

  日露戦争、条約改正、韓国併合などを行い、

  国権を伸張させ、 日本を、近代資本主義国

  家へと発展させる。

  

■ 睦仁(むつひと)天皇(= 明治天皇)は、 明

    治政府(近代日本政府)と共に、大日本帝国

  憲法、 教育勅語(きょういくちょくご)、 軍人

  勅諭(ぐんじんちょくゆ)などをつくり、 近代天

    皇制絶対主義政権を強化し、 近代天皇制絶

     対主義国家(近代天皇親政国家)を樹立する。

 

 

■ 睦仁天皇(= 明治天皇)。

■ 睦仁(むつひと)天皇(= 明治天皇)の生没年

  は、 1852年(嘉永5年)から1912年(明治

  45年)までである。 

 

■ 睦仁(むつひと)天皇(= 明治天皇)の天皇在

  位は、 1867年(慶応3年)から1912年(明

  治45年)までである。 

 

■ 睦仁天皇(= 明治天皇)の氏名。

■ 睦仁 天皇 (むつひと てんのう、生没年:18

  52〜1912年、天皇在位:1867年〜1912

    年)は、 別名は、明治天皇 (めいじてんのう、

  崩御後(死後)の称号、贈名に相当) である。

     贈名 (おくりな、諡)とは、 人の死後に

  贈る称号である。 

 

● 睦仁(むつひと)天皇(= 明治天皇)の

  天皇即位前の名は、 祐宮睦仁親王(さちの

  みやむつひとしんのう)である。

 

● 睦仁(むつひと)天皇(= 明治天皇)の

  諱 (いみな、個人名の実名)は、 睦仁(む 

  つひと)である。 

 

● 睦仁(むつひと)天皇(= 明治天皇)の

  御称号(ごしょうごう、幼少時の皇族の名称)

  は、 祐宮 (さちのみや)である。

 

 

◆ 睦仁天皇(= 明治天皇)の家族。

 

■ 睦仁天皇(= 明治天皇)の父。

■ 睦仁(むつひと)天皇(= 明治天皇)の父は、 

   孝明(こうめい)天皇(= 統仁(おさひと)天 

   皇)である。

● 睦仁(むつひと)天皇(= 明治天皇)は、孝

  明(こうめい)天皇の第2皇子(だいにみこ、

  次男)である。

 

■ 睦仁天皇(= 明治天皇)の継子。

■ 睦仁(むつひと)天皇(= 明治天皇)の継子は、

  嘉仁親王(よしひとしんのう)、明宮 (はるの

  みや)であり、 嘉仁(よしひと)天皇(= 大正天

  皇)である。

 

■ 睦仁天皇(= 明治天皇)の母。

■ 睦仁(むつひと)天皇(= 明治天皇)の生母 

  は、中山 慶子 (なかやま よしこ、生没年:

  1835年−1907年)であり、 孝明天皇の

  側室夫人であり、 典侍(てんじ、天皇の後

  宮の高級女官)である。

 

■ 古来の皇室は、 皇統(こうとう、天皇の血

  統)を絶やさぬために、伝統的に、一夫多妻

  制である。 

      古代日本から近代日本までに即位した

  男性天皇の正妃(正室夫人)は、過保護・運

  動不足で子を生む体力が弱く、また、愛情と

  は無関係に選ばれることが多いため、 古代

  日本から近世日本までに即位した天皇の多

  くは、側室夫人の皇子(みこ)である。

      嘉仁(よしひと)天皇(= 大正天皇)以

   後は、現在まで、天皇は、側室夫人を持って

   いない。

 

■ 睦仁天皇(= 明治天皇)の夫人。

■ 睦仁(むつひと)天皇(= 明治天皇)の正妃

  (正室夫人)は、 一条 美子 (いちじょう は

  るこ、生没年:1849年−1914年)であり、 

  睦仁(むつひと)天皇(= 明治天皇)の皇后で

  あり、 後に、昭憲皇太后(しょうけんこうたい

  ごう)と呼ばれる。

   

■ 睦仁(むつひと)天皇(= 明治天皇)の側室

  夫人は、 柳原 愛子 (やなぎはら なるこ、生

  没年:1859年−1943年)であり、 睦仁(む

  つひと)天皇(= 明治天皇)の典侍 (てんじ、

  天皇の後宮の高級女官)であり、 嘉仁(よし

  ひと)天皇(= 大正天皇)の生母である。

 

 

#theemperormutsuhito-appearingscenes

 

♪♪ 睦仁(むつひと)天皇(明治天皇)  が 

  登場する、興味深い、ドキュメンタリー、

  ドラマ、映画。

 

★ 睦仁(むつひと)天皇(明治天皇)  が 

  登場する、興味深い、ドキュメンタリー。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 ‘‘相棒’’

  はお前だけ〜西郷隆盛と山岡鉄舟 

  明治をつくった熱い絆〜 』 

   (NHK201 2年(H24)2月1日 ・本放送

   テレビ・ドキュメンタリー番組)。

 睦仁(むつひと)天皇(明治天皇)  と、 明治

  時代前期に睦仁天皇の侍従となった山岡鉄

  舟が登場する。

 

 睦仁(むつひと)天皇(明治天皇) が 登

  場する、興味深い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が、混じって、描かれていま

  す。 また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 坂の上の雲 (さかのうえのくも) 』 

   (NHKテレビ・2009年〜2011年ドラマ)。

 睦仁(むつひと)天皇(明治天皇)が登場する。

 

● 日本の明治時代を描いた、ドラマ。

● 2009年に5回、 2010年に4回、 2011年

  に4回、 計13回で放送された。

● 1人の文豪 (正岡子規) と 2人の軍人(後に

  日露戦争で活躍する陸軍軍人と海軍軍人) を

  通して、 明治時代初期から、日露戦争が起き

  た明治時代末期までを描く、 ドラマである。

 

   

   ○ 『 坂の上の雲 』 関係書籍販促PRフォト。

 

■ 『 ラスト・サムライ 』 

   (英語題名: ‘‘ THE LAST SAMURAI ’’)。

   (2003年アメリカ映画,トム・クルーズ主演) 

 睦仁(むつひと)天皇(明治天皇)が登場する。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。                

 

 

#mutsumunemitsu

 

■ 陸奥 宗光  

     (むつ むねみつ)。 

 

■ 陸奥宗光。 

■ 名称 : 陸奥 宗光 (むつ むねみつ)。 

 別名、 陸奥 陽之介 (むつ ようのすけ)。

■ 紀州藩藩士出身。

■ 幕末、 坂本龍馬の同志。 亀山社中・海援隊メンバ

   ー、 亀山社中の会計係。

■ 明治期、明治政府の外相で、多くの問題を解決。 

   日清戦争の中心遂行者。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61323。

 

 

◆ 幕末の陸奥 宗光。

■ 陸奥 宗光 (むつ むねみつ、陸奥陽之介)は、幕末、 

 紀州藩士で、 亀山社中、海援隊に加わり、 坂本龍馬

 と行動を共にする。

● 陸奥陽之介 (陸奥 宗光) は、 坂本龍馬と海軍塾

  で知り合う。

    海軍塾閉鎖後、陸奥陽之介 (陸奥 宗光) は、龍

 馬に従い、亀山社中、海援隊に参加した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 陸奥陽之介 (陸奥 宗光) は、 亀山社中の会計を

 任される (火の車の会計担当を、龍馬より任される)。 

    亀山社中から海援隊に組織組織替えになった後、 

 海援隊の会計係は、 岩崎弥太郎(いわさきやたろう、

 明治期の三菱財閥の創始者)になる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 陸奥陽之介 (陸奥 宗光)は、 女性に人気があった。

● 陸奥陽之介 (陸奥 宗光)は、 坂本龍馬の支援者の

 長崎の女性商人・大浦慶(おおうらけい) に気に入られ

 る。 大浦慶は、彼のことが大好きであった。

 

■ 龍馬暗殺後、 陸奥陽之介 (陸奥 宗光) は、その敵

  討(かたきうち)のため、殺傷事件を起こす。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

◆ 明治期の陸奥 宗光。

■ 陸奥 宗光 は、 明治期に、明治政府(近代日本政府)

 で、外務大臣を務め、 カミソリ外相と言われ、 多くの山

 積する外交問題を解決する。 

■ 陸奥 宗光 は、 対外戦争では、 日清戦争の中心的

 遂行者となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 陸奥 宗光 が登場する、面白く、興

   味深いドキュメンタリー、ドラマ、映画。 

★ 陸奥 宗光 が登場する、面白く、興味

  深いドラマ、映画。 

 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が、混じって、描かれていま

  す。 また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん)  

   (日本のNHK2010年大河ドラ マ)。

● 幕末期に、坂本龍馬の同志で、亀山社中・

  海援隊メンバーとして、登場する。

● 陸奥陽之介(陸奥 宗光)を演じる俳優 : 

  平岡 祐太(ひらおか ゆうた)。

 

■ 『 坂の上の雲 (さかのうえのくも) 』  

   (2009〜2011年の NHKのドラマ)。

● 陸奥陽之介(陸奥 宗光)が、 明治期に、

  明治政府の外相として登場する。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。                

 

 

#murasakishikibu

 

 紫式部   

     (むらさきしきぶ)

 

 紫式部。

■ 名称 : 紫式部 (むらさきしきぶ)。   

  本名不明。

■ 生没年 : 978年−1016年?

■ 平安中期の女流文学者。

 長編恋愛小説の「源氏物語」の作者。

■ 越前(えちぜん)の守(かみ)・藤原為時(ため

  とき)の娘。

■ 藤原道長の娘 ・藤原彰子(ふじわらのしょうし)

  に仕えた、女官(女房) 。

■ 藤原道長は、紫式部のスポンサー、恋人。

■ 藤原宣孝(ふじわらののぶたか)の側室夫人。

● 藤原宣孝が急死し、未亡人となり、「源氏物語

  の著作を始める。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51515。

 

□ 紫式部 が登場する、面白く、興味

  深い関連映画、ドラマ、ドキュメンタ

  リー。 

□ 源氏物語 (映画 「源氏物語 千年 

     の 謎」)  画像  NO.1。 

□ 源氏物語 (映画 「千年の恋 ひか

   源氏物語」) 画像 アルバム

   No.1。 

 

 

■ 日本の平安時代中期に、煌(きら)びやかな宮

  廷文化を花開かせた、平安文化の担(にな)い

  手は、 紫式部むらさきしきぶ)、清少納言(せ

  いしょうなごん)、和泉式部(いずみしきぶ)など

  の、宮中の女性であった。

 

■ 紫式部 (むらさきしきぶ、 生没年 978年〜

  1016年?) は、平安中期の女流文学者 で、 

  源氏物語の作者 である。

 

■ 紫式部は、平安時代中期の三才女の1人であ

  る。

     紫式部は、平安時代中期の、小説家の紫式

  部、エッセイイストの清少納言、歌人(かじん)の

  和泉式部の三才女の1人 である。

 

■  紫式部は、 越前(えちぜん、福井県)の守

  (かみ、国司、受領)・藤原為時(ふじわらのため

  とき)の娘 であった。 受領(ずりょう、国司)階

  級の女性であった。  

 

■ 紫式部は、 一条(いちじょう)天皇の正室夫人

 (中宮)の藤原彰子(ふじわらのしょうし)に仕えた。

 

■ 紫式部の著書には、 長編恋愛小説の「源氏物

  」、 宮仕(みやずか)えの様子を書きとめた

  「紫式部日記」(むらさきしきぶにっき)、 和歌を

  まとめた歌集の「紫式部集」(むらさきしきぶしゅ

  う) がある。 

 

■ 紫式部の実名は不明で、 紫式部は、実名では

  ない。 紫式部の父や兄弟が、朝廷の式部省の

  役人であったことと、 「源氏物語」の登場人物の

  紫の上(むらさきのうえ)の名から、 当時の人々

  がつけた呼び名だと言われている。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 紫式部は、 998年(長徳4年)頃、 藤原宣

   孝(ふじわらののぶたか)の 側室夫人となり、 

   999年(長保元年)に娘の藤原賢子(ふじわら

   のけんし・かたいこ、999〜1082年?、大弐

   三位(だいにのさんみ))をもうけたが、その後、

   1001年(長保3年)に藤原宣孝が急死する。

 

■ 紫式部の娘、藤原賢子(大弐三位)は、 1017

   年頃、紫式部の後を継ぎ、彰子(上東門 院、藤

   原道長の娘)に女房として出仕する。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 紫式部 は、 夫との死別後、 政治家の藤原

  道長 (966−1027 年) にその文才を認めら

  れて、 藤原道長娘の藤原彰子 (ふじわらの

  しょうし、988年〜1074年、上東門院)に、 女

  房(にょうぼう、側仕えの上級女性)として、 仕

  えた。

    紫式部の仕えた、藤原彰子 は、 一条天皇

  の正室夫人(中宮、皇后)で、 後一条天皇や後

  朱雀天皇の生母 となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

◆ 紫式部作の『 源氏物語 』。

■ 紫式部の「源氏物語」は、 著作の動機は、不

  明であり、 何時頃(いつごろ)から書き始めて、

  何時頃に書き終えたのかは正確にはわかって

  いない。 

     紫式部は、 1001年(長保3年)の夫の

  藤原宣孝(のぶたか)死去後、悲しみを乗り越

  えて紫式部が、「源氏物語」を書き始め、100

  8年頃完成したと言われている。 

     紫式部が想定していた「源氏物語」の読

  者対象者は、京(都)の宮廷の人達であったと

  言われている。

     当時、紙(和紙)は高価であり、大量の紙

  代や生活費を含め、 紫式部の恋人の藤原道

  が、 スポンサー(経済的援助者)となり、「源

  氏物語」の著作活動に貢献した。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 「源氏物語」の当時の時代背景。

● 平安時代の貴族社会では、 一夫多妻制 (上

  層階級での前近代日本の一夫多妻制) であり、  

  また、 通い婚 (かよいこん、夫が夫人の元に

  通う結婚生活) であり、 子供を、実家の費用

  で、夫人の実家で育てることが多かった。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

■ 日本の平安時代に、朝廷では、有力貴族など

  の後ろ盾(うしろだて、バック)がない天皇の皇

  子(みこ)は、 東宮 (とうぐう、天皇の跡継ぎ、

  皇太子) にはなれないことが多かった。 平安

  時代初期・中期に、 東宮になれない天皇の皇

  子は、 臣籍降下しんせきこうか)し、 天皇の

  臣下となることが多かった。

     「源氏物語」の光源氏も、 有力貴族など

  の後ろ盾がない皇子であったため、 東宮(皇

  太子)にはなれず、 源氏の氏(氏族名)を与え

  られ、臣籍降下し、天皇の臣下となった。

 

■ 源氏物語(げんじものがたり)は、 女流作家・

  紫式部により、平安時代中期に書かれた長編

  恋愛小説で、およそ54帖より成る。

    源氏物語は、平安時代中期を舞台に、天皇

  の皇子(みこ)として生まれ、才能、容姿とも恵

  まれながら臣籍降下し源氏姓となった光源氏の

  栄華と苦悩の人生及び光源氏の子孫らの人生

  を描く。

    源氏物語は、  概(おおむ)ね、三部よりなり、 

  第一部では、 光源氏の数多き恋愛遍歴、栄華

  を極める前半生、 第二部では、 光源氏の愛

  情生活の破綻(はたん)や無常を自覚する後半

  生や光源氏を取り巻く子女の恋愛、 第三部で

  は、 光源氏死後の子孫達の恋と人生 などで

  ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

◆ 紫式部 と 藤原氏の摂関政

  治。

■ 紫式部は、 日本政治の実権獲得を望む摂関家

  (せっかんけ)藤原道長一族の計略に関(かか)

  わっていた。

    平安時代中期の当時、 日本政治の実権獲得

  をめぐり、 藤原氏の近親同士の、 兄・藤原道隆

  (ふじわらのみちたか) と 弟・藤原道長(ふじ わ

  らのみちなが、生没年:966〜1027年) の権

  力闘争があった。 

     文学青年の、一条天皇(いちじょうてんのう)

  の正室夫人には、 藤原道隆の娘・定子(ていし、

  藤原定子(ふじわらのていし、夫人期間:990年

  〜1000年))と、 藤原道 長の娘・彰子(しょうし、

  藤原彰子(ふじわらのしょうし、夫人期間:999年

  〜1011年) がいた。

     清少納言 (せいしょうなごん) は、 紀元

  (後) 993年頃から1000年頃まで、 朝廷の、

  宮中で、 藤原道隆の娘・定子(ていし) の女房 

  (にょうぼう、側仕えの上級女官)) として仕えた。 

     一方、 紫式部(むらさきしきぶ)は、 紀元

  (後)1005年頃から1012年頃まで、 朝廷の、

  宮中で、 藤原道長の娘・彰子(しょうし)の女房 

  (にょうぼう、側仕えの上級女官)) として仕えた。 

      藤原道隆の娘で天皇・正室夫人の定子(て

  いし)には、 993年頃より、清少納言(せいしょ

  うなごん)が仕(つか)えた。 清少納言や他の女

  房(にょうぼう、側近の上級女官)は、 宮中で、 

  文化サロンを形成し、 随筆(後の枕草子)、

  、その他様々な手段を使い、 後宮で文化宣

  伝活動を行い、 文学青年の、一条天皇は、

  子のもとに頻繁に通い、 一条天皇と定子は、親

  密な関係となり、 999年に定子は、敦康親王

  (あつやすしんのう)という皇子(みこ)をもうけた。 

     しかし、995年に、関白であった定子の父・

  藤原道隆が死去し、996年に、定子の兄弟も藤

  原道長に失脚させられた(長徳の変)。 1000

  年に定子も死去し、 清少納言は、 1000年頃

  に、宮中を去った(宮中から身を引いた)。

    定子死後、定子を愛し忘れられない一条天

  皇は、 藤原道隆の娘・定子(ていし)の生んだ

  皇子(みこ)の敦康親王(あつやすしんのう)を、 

  皇太子(東宮(とうぐう)、次期天皇)にしたいと

  考えていた。 しかし、藤原道長の計略により、 

  藤原道長の娘・彰子(しょうし)の生んだ皇子が、 

  皇太子(東宮、次期天皇) となった。

     藤原道長は、 自分の娘・彰子が生んだ子

  を、皇太子(東宮、次期天皇)にするため、 

  学青年の、一条天皇の気持ちを彰子(しょうし、

  藤原彰子)に向けさせ、 自分の娘・彰子にも

  皇子をもうけてもらうため、 藤原道長の娘で

  一条天皇・正室夫人の彰子には、1005年頃

  から、紫式部 (むらさきしきぶ)を仕(つか)え

  させた。 

     紫式部和泉式部、他の女房(にょうぼう、

  側近の上級女官)は、 宮中で文化サロンを形

  成し、 物語(後の源氏物語)、和歌、その他様

  々な手段を使い、 宮中で文化宣伝活動を行

  い、 文学青年の、一条天皇は、 彰子の元に

  頻繁に通い、 一条天皇と彰子は、 親密な関係 

  となり、 彰子は、1008年に、敦 成親王(あつ

  ひらしんのう)という皇子(みこ)をもうけた。 

    敦成親王(あつひらしんのう)は、1011年

  に、皇太子となった。 敦成親王は、 三条天

  皇 (天皇在位、1011〜16年、冷泉天皇と

  道長の妹・超子(ちょうし)との皇子) の皇太

  子 (東宮、次期天皇予定者) となった。 

     その後、敦成親王は、1016年に天皇に

  即位して、後一条(ごいちじょう)天皇 となっ

  た。 藤原道長は、 天皇の外戚(生母の父)

  となり、内覧(ないらん)となって、 日本の政

  治の実権を握(にぎ)った。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 紫式部、「源氏物語」、藤原彰子と 

  藤原氏の摂関政治。

■ 平安時代中期の、一条天皇 (いちじょうてん

  のう、天皇在位:986〜1011年、生没年:98

  0〜1011年) の時期に、一条天皇の正室夫

  として、 藤原定子 (ふじわらのていし、97

  7〜1000年) と 藤原彰子 (ふじわらのしょ

  うし、988〜1074年) がいた。 

     藤原道隆の娘の定子(ていし)は、 990

  年に入内(じゅだい)し、 清少納言 (せいしょ

  うなごん) が仕えた。 清少納言は、 993年

  頃から1000年頃まで宮中で宮仕えをした。 

     995年に関白であった定子の父・藤原道

  隆が死去し、 996年に、定子の兄・伊周(これ

  ちか)や弟・隆家(たかいえ)も藤原道長に失脚

  させられ(長徳の変)、 定子は、有力な後ろ盾

  を失った。 しかし、一条天皇は、 定子を寵愛

  し、 999年に、定子は、一条天皇の第一皇子・

  敦康(あつやす)親王を出産し、一条天皇は喜

  んだが、 定子は、 1000年に死去した  (

  条天皇の第二皇女出産時)。 清少納言は、

  ほどなく、1000年頃に、宮中を去った。

     藤原道長の娘の彰子(しょうし)は、999年

  に入内(じゅだい)した。 その後、彰子は、しば

  らく、一条天皇の子をなかなか懐妊(かいにん)

  しなかった。 1002年より、一条天皇の政治的 

  配慮により、 彰子は、亡くなった定子の敦康

  (あつやすしんのう)を養育していた。  

     藤原道長は、焦(あせ)り、 紫式部の 宮中

  への出仕を望み、 1005年頃より、紫式部は 、

  宮中にいる、彰子(しょうし)に仕えた。 

     藤原道長の娘の藤原彰子(ふじわらのしょ

  うし) は、 999年に入内 (じゅだい、天皇の

  室夫人として宮中の天皇の後宮に入ること) し

  たが、 一条天皇 (いちじょうてんのう、在位9

  86〜1011年) の御渡りが少なく (彰子のも

  とに来ることが少なく)、 藤原道長は、 一条

  天皇に、藤原道長の娘の彰子にもっと関心をも

  ってもらい、 彰子のもとに頻繁に来てもらうこ

  とを望む。 そこで、藤原道長が目をつけたのが、

  教養があり文才にとんだ紫式部であった。 

     藤原道長の要請で、 紫式部は、1005年

  頃、藤原道長の娘の彰子(しょうし)の女房(にょ

  うぼう、側仕えの上級女官) 兼家庭教師として

  仕え、 その後、1012年頃まで彰子に仕えた。 

     平安時代の当時は、現在と違い、娯楽が少

  なく、物語などは、現在の人気のテレビ、映画、

  ゲームほどの人気があった。

     彰子・女房の紫式部の、教養や 物語(後の

  「源氏物語」 )は、 一条天皇の興味をそそり、一 

  条天皇は、 紫式部の物語、詩歌などを聞きに、

  彰子のもと(居室)に前より多く通うようになった

  と推測される。 

     そして、一条天皇は、藤原道長の娘の藤原

  彰子と親密になり、 彰子は、 1008年に敦成

  親王 (あつひらしんのう、後の後一条(ごいちじ

  ょう)天皇) を生み、 1009年に敦良親王 (あ

  つながしんのう、後の後朱雀(ごすざく)天皇)を

  生み、 一条天皇の、二人の皇子を生んだ。 

     その後、 1011年に敦成親王  (あつひら

  しんのう)は、 立太子となり  (東宮(皇太子)に

  なり)、 1016年に天皇 (後一条(ごいちじょう)

  天皇) になった。 

     これにより、 藤原道長は、 天皇と外戚関

  係ができ、 内覧となって朝廷の実権を掌握し、

  日本の政治の実権を握り、摂関政治を行い、栄

  華を極めた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#murasakishikibu-appearingscenes

 

♪♪ 紫式部 が登場する、興味深い

    関連ドラマ、映画、ドキュメンタ

    リー。 

 

★ 紫式部 が登場する、興味深い

   関連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

   ドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実)と 

   架空の出来事が混じって描かれています。   

   また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 源氏物語 千年の謎 』。 

     (2011年日本映画)。

□ 「 源氏物語 」 (映画 源氏物語 千年の謎)

  画像 NO.1

■ 光源氏の前半生を描く (源氏物語・三部作の

  第一部を描く)。

■ 平安時代中期に活躍した人々 や 源氏物語

  などを描く。

■ 「源氏物語」の作者の紫式部、 摂関家の藤

   原道長、 道長の娘の彰子、 道長の顧問の

   安倍晴明 も登場する。

 

● 紫式部を演じた女優 : 中谷美紀。

● 藤原道長を演じた俳優 : 東山紀之。

 

■ 『 千年の恋 ひかる源氏物語 』。 

   (英題:GENJI−A THOUSAND YEAR 

    LOVE) 

   (2001年日本映画)。

□  源氏物語 」 (映画 千年の恋 ひかる源

  氏物語)  画像 アルバム No.1

■ 光源氏の前半生と後半生を描く (源氏物語・

  三部作の第一部・第二部を描く)。

■ 平安時代中期に活躍した人々 や 源氏物語

  などを描く。

■ 「源氏物語」の作者の紫式部や摂関家の藤原

  道長も登場する。

 

● 紫式部を演じた女優 : 吉永小百合 (よしな

  がさゆり)。

● 藤原道長を演じた俳優 : 渡辺 謙。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。                

 

 

#murasakishikibunikki

 

■ 紫式部日記 

       (むらさきしきぶにっき)。

 

■ 紫式部日記

■ 名称 : 紫式部日記 (むらさきしきぶに

  っき)。

■ 著者 : 紫式部。 

■ 平安時代に成立。 

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

■ 平安時代中期を知る一次的史料。

 

 

■ 紫式部日記 (むらさきしきぶにっき)は、

 著者は紫式部で、 平安時代に成立した。 

   紫式部日記は、 平安時代中期を知る一

  次的史料 である。

 

■ 「紫式部日記」 (むらさきしきぶにっき)

  は、 平安時代中期の紫式部の女流日記文学

  で、 1008年〜1010年の日記で、 2巻 で

  ある。 

    「紫式部日記」は、宮仕(みやずか)えの様

  子を書きとめた日記で、 宮廷の儀式、調度、

  服飾などを見聞するままに記し、 また、和泉

  式部(いずみしきぶ)、清少納言(せいしょうな

  ごん)らの批評なども記す。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。  

□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』

 

 

以  上