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◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY 

   HANDBOOK

 

 

 カナヤマ 日本歴史辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 さ 』。

 

 

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メ ニュー (目次)。  

■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

□ 日本史 辞典 (総合)

□      ● 五十音順 ( あいうえお順)。

□ 見出し語 さか

□ 見出し語 ささ

□ 見出し語 さな

□ 見出し語 さま

□ 見出し語 さら

 

 

〇 さい   西海道 

              (さいかいどう)。 《旧地域名》。

           (旧地方名)。

           (= 西海道・広域地方)。

           (= 五畿七道の1つ)。

              SAIKAIDO REGION.

           (律令制定後・古代・中世・

           近世日本・旧地域名の、

           旧地方名の正式名)。

                   (⇒ 五畿七道)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

          ■ 西海道・旧広域地方は、

           前近代日本の、

          @ 対馬 国(長崎県対馬島)、 

          A 壱岐 国(長崎県壱岐島)、 

          B 肥前国・西部(長崎県本土)、 

          C 肥前国・東部(佐賀県)、 

          D 筑前国 (福岡県北西部)、 

          E 筑後国 (福岡県南部)、 

          F 豊前国 (福岡県北東部)、 

          G 豊後 国 (大分県)、 

          H 肥後国 (熊本県)、  

          I 日向 国(宮崎県)、 

          J 薩摩 国 (鹿児島県本土西部)、 

          K 大隅 国 (鹿児島県本土東部、

             大隅諸島・奄美群島)、 

          の地域である

          ■ 西海道・旧広域地方は、

            前近代日本の、

           @ 対馬 国 (つしま のくに、

           現・長崎県対馬島の相当地域)、

           A 壱岐 国 (いき のくに、

           現・長崎県壱岐島の 相当地域)、

           B 肥前 国(ひぜん のくに)・西部

             (現・長崎県本土の相当地域)、

           C 肥前 国・東部  

          (現・佐賀県の相当 地域)、 

           D 筑前 国 (ちくぜん のくに、

           現・福岡県北西部の相当地域)、 

           E 筑後国 (ちくご のくに、

           現・福岡県南部の相当地域)、 

           F 豊前 国 (ふぜん のくに、

           現・福岡県北東部の相当 地域)、 

           G 豊後 国 (ぶ んごのくに、

           現・大分県の相当地域)、 

           H 肥後 国 (ひご のくに、

           現・熊本県の相当地域)、 

           I 日向 国 (ひゅうが のくに、

           現・宮崎県の相当 地域)、 

              J 薩摩 国 (さつま のくに、

           現・鹿児島県本土西部の相当地域)、 

           K 大隅国 (おおすみ のくに、

           現在の鹿児島県本土東部、

           大隅諸島・奄美群島の相当地域)、 

          の地域である。

             ■ 西海道 (さいかいどう、英:SAIKAIDO 

             REGION) は、 旧地域名であり、 西海道

             旧広域地方であり、 五畿七道(ごきしちどう)

             の1つである。

          ■ 西海道・旧広域地方。

            <五畿七道 (ごきしちどう)。

              (≒ 日本本土 (本州、四国、九州))。

            <旧・大地域名。

            <旧地域名。

            <地域名。

            <日本の地名

 

〇 さい  西行。

            (さいぎょう)。 《人名》。

          (= 佐藤 義清(さとう のりきよ))。

          ○ 鳥羽上皇の院政時の北面

          の武士。

          ○ 出家して、西行と名乗る。

          ○ 歌人(かじん )。 

               (⇒ 北面の武士)。

             ■ 佐藤 義清 (さとう のりきよ、= 西行 (さ

             いぎょう)は、 鳥羽上皇の院政時の北面の

             武士であった。

                後に、佐藤 義清は、出家して、西行と

             名乗り、 歌人(かじん )としても有名となる。

 

〇 さい  細菌戦。

            (さいきんせん)。 《日中戦争》。

             ○ 日中戦争中、中国本土で、旧

          日本軍731部隊が開発した細菌

          兵器で、旧日本軍が病原菌を散

          布した作戦。

              (⇒ 731部隊)。

              (⇒ 日中戦争)。

         (⇒ 昭和戦前期の旧日本

               軍実態ガ イドブック)。

             ■ 日中戦争の、細菌戦とは、 日中戦争中、

             中国本土で、旧日本軍731部隊が開発した

             細菌兵器で、旧日本軍が病原菌を散布した

            作戦である。

 

〇 さい  斉衡。 

             (さいこう) 。 《和暦》。

             THE SAIKO ERA.

             ○ 854年ー857年。 

             ● 854年・斉衡元年・11月30日〜

                857年・斉衡 4年・ 2月21日。 

             ● 平安時代前期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

             ■ 斉衡 (さいこう、英:THE SAIKO 

             ERA) とは、和暦であり、 平安時代前期

             の和暦年号であり、 854年・斉衡元年・

             11月30日から 857年・斉衡 4年・2月21

             日までである。  

 

〇 さい  西郷 隆盛 

             (さいごう たかもり)。 《人名》。

         (= 西郷 隆永 たかなが 、西郷

             吉之助 きちのすけ、西郷 南洲

             なんしゅう)。

          (1827年ー1877年)。 

          SAIGO Takamori.

          ■ 西郷 隆盛は、

          近代日本国家の基礎を築

           いた政治家、軍人である。

          ○ 西郷 隆盛は、

          明治新政府首脳である。

          ○ 西郷 隆盛は、

          薩摩藩下級武士出身であ

          る。

          ■ 西郷隆盛の主な功績。

          ● 倒幕 (江戸幕府勢力の

           打倒、幕末〜明治2年)。

          ● 廃藩置県 (1871年

          (明治4年)) の実施。

          ● 近代国家諸改革 (18

           67年(慶応3年)ー1873

           年(明治6年))の断行。

             ■ 西郷 隆盛 (さいごう たかもり、

             西郷隆永、西郷 吉之助(きちのすけ)、

             南洲 (なんしゅう)、1827年ー18

             77年) は、 近代日本国家の 基礎を

             築いた政治家、軍人である。

               西郷 隆盛は、 明治新政府(= 近

              代日本政府)の首脳の一人であり、  

             薩摩藩の下級武士の出身である。

             ■ 西郷 隆盛の主な功績は、 倒幕 

             (江戸幕府勢力の打倒、幕末〜明治2

             年)、 廃藩置県 (1871年(明治4

             年))の実施、 近代国家諸改革 (18

             67年(慶応3年)ー1873年(明治6

             年))の断行などである。

             ■ 西郷隆盛主導留守政府とは、

             旧薩摩藩出身の大久保利通、旧長州

             藩出身の木戸孝允などが欧米視察の

             ため、1871年(明治4年)から1873

             年(明治6年)まで、日本を留守にする

             間、西郷隆盛が主導した、明治新政府

             (近代日本政府)である。

             ■ 西郷隆盛主導留守政府の実施政

             策は、 1871年(明治4年)から18

             73年(明治6年)まで、 近代国家建

             設のため、 日本の、国家財政整備、

             教育、殖産興業、法治国家、国防、

             インフラ整備などのため、

             地租改正、

             徴兵制施行、

             学校教育制度制定、

             太陽暦実施、

             鉄道敷設、

             裁判所設置、

             製糸場建設、

             などを実施する。

 

〇 さい  西郷 隆盛ガイドブック

             (さいごう たかもり しょうさいねんぴょう)。

          《人物ガイドブック》。 (19世紀)。 

          (⇒ 日本史年表) 。

 

〇 さい  西郷 隆盛 関連出来事

        (詳細、年代順)

             (さいごう たかもり かんれんできごと)。

          《人物関連出来事》。 (19世紀)。 

 

〇 さい  西郷 隆盛 年表

             (さいごう たかもり しょうさいねんぴょう)。

          《人物年表》。 (19世紀)。 

          (⇒ 日本史年表) 。

 

〇 さい  西国。 

             (さいごく)。 《地域区分》。 

             (= 西方にある地域)。

            ■ 西国 (さいごく)とは、日本の、西方に

            ある地域である。

            ■ 西国 (さいごく)とは、前近代日本では、

            日本の地域区分の1つとして、  畿内 (き

            ない、現・京都府・大阪府・奈良県 の相当

            地域) からみて、 西方にある地域であり、 

            中国地方、四国、九州本土に相当する地域

            である。

                  (⇒ 東国(とうごく)、畿内(きない))。 

            ■ 日本列島の日本本土(本州、四国、九

            州本土)を区分する方法の1つとして、

            前近代日本では、 日本本土を3分割し、

            (1) 畿内(きない)とその周辺地、 

            (2) 西国(さいごく) 

            (3) 東国(とうごく) 

            の3地域があり、 

            畿内 (きない、現・京都府・大阪府・奈良県

            の相当地域) からみて、 

            (1) 畿内とその周辺地の相当地域の

            近畿地方、

            (2) 西国 (さいごく、畿内からみて、西方

            にある地域)の相当地域の

            中国地方、四国、九州本土、

            (3) 東国 (とうごく、畿内からみて、東方

            にある地域)の相当地域の

            中部地方、関東地方、東北地方

            の3地域がある。

 

〇 さい  才谷 梅太郎。

             (さいたに うめたろう)。 《人名》。

          (= 坂本龍馬)。

                   (⇒ 坂本龍馬)。

             ■ 才谷 梅太郎(さいたに うめた

             ろう)とは、 坂本龍馬である。 

               坂本龍馬は、幕末、身の危険を

             避けるため、才谷 梅太郎とも名乗

             る。

 

〇 さい  才谷屋

             (さいたにや)。 《店舗名》。

                    (= 江戸時代の土佐(とさ、高

          知県)の豪商)。

          ○ 才谷屋は、

          坂本龍馬の(属する分家の)

          郷士(ごうし)・坂本家の、本家

          である。 

                    (⇒ 坂本龍馬)。 

             ■ 才谷屋 (さいたにや)は、 江戸

             時代の土佐(とさ、現・高知県)の豪

             商であり、 坂本龍馬の(属する分家

             の)郷士(ごうし)・坂本家の、本家で

             ある。 

             ■ 郷士(ごうし) は、 武士の下位の

             身分である。

 

〇 さい  埼玉県。

             (さいたまけん)。

          (現・都道府県)。 《現地域名》。

                   SAITAMA PREFECTURE.

                    (⇒ 武蔵国)。

                      (⇒ 都道府県)。

                      (⇒ 前近代日本の地域名)。

                      (⇒ 旧国(= 令制国))。

                      (⇒ 旧地域名地域名)。

                      (⇒ 日本の地名)。

             ■ 埼玉県は、 

           前近代日本の、武蔵国(

          さしのくに、= 武州(ぶしゅう)、

          概ね、現・埼玉県・東京都本土の

          相当地域) の北部の相当

          地域である。

             ■ 埼玉県 (さいたまけん)は、現地

             域名現 ・都道府県であり、前近代

             日本の、武蔵 国(むさし の くに、=

             武州(ぶしゅう)、概ね、現・埼玉県・

             東京都本土) の北部の相当地域で

             ある。

 

〇 ざい  在庁官人。

             (ざいちょうかんじん)。

          《朝廷の役人・職員》。

          ○ 在庁官人は、

          諸国の国衙(こくが)に仕え

          る役人、官吏である。

          (⇒ 公領国衙領)。

          (⇒ 国司受領)。

          (⇒ 国衙国府)。

          (⇒ 官人在庁官人)。

          (⇒ 朝廷)。

             ■ 在庁官人は、 諸国の国衙(こ

             くが)に仕える(属する)役人、官吏

             である。 

             ■ 官人(かんじん)とは、 朝廷に

             仕える役人、官吏である。

             ■ 国衙(こくが)とは、律令制成立

             後、 国司が政務を執(と)る所(建

             物)、政庁、役所である。

             ■ 在庁官人 (ざいちょうかんじん)

             は、 地方役人であり、 朝廷の地

             方役所の国衙(こくが)の役人・職員

             であり、 現在の国家公務員に相当

             する。

             ■ 在庁官人は、 諸国の国衙に属

             する職員であり、 公領 (こうりょう、

             平安時代中期以後は国衙領(こくが

             りょう)とも呼ばれる) の 国衙(こく

             が、国司が政務をとる政庁、現・県

             庁に相当)に属する職員である。

             ■ 官人(かんじん)とは、朝廷の役

             人であり、国家公務員である。

             ■ 国司(こくし)とは、 律令制成立

             後、朝廷が各地方(令制国の諸国)

             に派遣した地方長官であり、 平安

             中期以後は受領(ずりょう)とも呼ば

             れ、 各地方に守護が置かれた後、

             鎌倉時代以後、政治の実権を失っ

             ていく。

             ■ 国衙(こくが)とは、 律令制成立

             後、 国司が政務を執(と)る所(建

             物)、政庁、役所である。

             ■ 国府(こくふ)とは、 律令制成立

             後、 国衙(こくが)の所在地であり、 

             国衙、即ち、国司が政務を執(と)る

             所(建物)、政庁、役所 の所在地で

             ある。

             ■ 公領(こうりょう)とは、 律令制成

             立後、 諸国の国司、国衙の支配下

             にある土地であり、 平安時代中期以

             後は国衙領(こくがりょう)とも呼ばれ

             る。 私領の荘園(しょうえん)に対し

             て用いる。

                平安時代中期に、律令制の土地

             公有制度は崩壊し、日本の土地は、

             公領と荘園に分立する。

             ■ 現代日本では、国の国家公務員、

             県市町村の地方公務員に分かれてい

             るが、 前近代日本では、国家公務員

             のみであり、朝廷は、基本的に、中央

             政庁官人(中央機関(官庁)職員) と 

             在庁官人(ざいちょうかんじん、地方

             機関(官庁)職員)で構成されている。

 

〇 さい  斎藤 龍興

            (さいとう たつおき)。 《人名》。

          (1548年ー1573年)。

          ○ 美濃(みの、岐阜県南部)の

          戦国大名。

          ○ 斎藤義龍(よしたつ)の子。

          ○ 斎藤道三(利政) (どうさん

           (と しまさ))の孫。

          ○ 竹中半兵衛(重治)の

          主君。

             ■ 斎藤龍興 (さいとう たつおき

             1548年ー1573年)は、 美濃国

             (みののくに、現・岐阜県南部の相

             当地域)の戦国大名であった。

             ● 斎藤龍興は、 斎藤義龍(よした

             つ) の子であり、 斎藤道三(利政)

             (どうさ ん(としまさ))の孫である。 

             ● 斎藤龍興は、竹中半兵衛(重治)

             の主君であった。

 

〇 さい  斎藤道三

             (さいとう どうさん)。 《人名》。

            (= 斎藤利政(さいとうとしまさ)) 。

          ○ 斎藤道三(利政)は、

          美濃国の戦国大名である。

          ○ 斎藤道三(利政)は、

           織田信長の正室夫人(せいし

             つふじん)・濃姫(のうひめ)の父

                 である。

             ■ 斎藤 道三(利政) (さいとう ど

             うさん(としまさ))は、 室町時 代後

             期(戦国時代)の武将であり、 

             美濃国(みののくに、現・岐阜県

             部の相当地域)の戦国大名で あり、 

             美濃国盗り(みのくにとり)を行った

             戦国大名ある。

                斎藤 道三の生没年は、 

             「従来説の美濃 国盗り本人一代説」

             では、1494年頃ー1556年であり、

             また、「新説の美濃国盗り父子二代

             説」では、生年不明ー1556年であ

             る。

             ■ 斎藤道三(利政)の美濃国盗り

             には、2つの有力な説がある。

             ● 「従来説の美濃国盗り本人一代

             説」では、

             斎藤道三(利政)は、 本人一代で

             美濃国を平定する。 

             ● 「新説の美濃国盗り父子二代説」

             では、

             斎藤道三(利政)の父・「長井 新左衛

             門尉」(ながい しんざえもんのじょう) 

             と 斎藤道三(利政)本人・「長井 規

             秀」(ながい のりひで) の父子二代

             で美濃国を平定する。

             ■ 斎藤道三(利政)の子には、男子

             斎藤義龍(よしたつ)、孫四 郎(ま

             ごしろう)や喜平次(きへいじ)、 娘

             の帰蝶(きちょう、= 濃姫(のうひめ)、

             織田 信長の正室夫人) などがいる。

             ■ 斎藤道三(利政)の美濃国盗り

             (みのくにとり、= 美濃国の平定)の

             方法は、以下の通りである。

             斎藤道三(利政)は、

             (1) 僧侶より油商人となる。

             (2) 美濃国(みののくに、現・岐阜県

              南部の相当地域)の土岐氏(ときし)

                             の小守護代・長井 長弘(しょうしゅご

             だい・ながいながひろ)の家臣となる。

             (3) 現・美濃国守護(しゅご)の土岐

             頼武(政頼)(とき よりたけ(まさより))

             を追放し、土岐 頼芸(とき よりのり・よ

             りなり・よりあき)を、美濃国守護として

             擁立する。

             (4) 美濃国の小守護代・長井 長弘を

             殺害する。

             (5) 美濃の守護代・斎藤氏の名跡を

             継ぐ。

             (6) 擁立した美濃国守護・土岐頼芸

              を追放し、美濃国一国をのっとる。

             ● 「従来説の美濃国盗り本人一代説」

                           では、 (1)から(6)までを、斎藤道三

                           (利政)本人が一代で行い、美濃国

                           一国を手に入れる。

             ● 「新説の美濃国盗り父子二代説」

              では、 (1)から(3)までを、斎藤道三

              (利政)の父が行い、 (4)から(6)ま

              でを斎藤道三(利政)本人が行い、

                            美濃国一国を手に入れる。

 

〇 さい  斎藤道三(利政)関連

       出来事( 概要、年代順)。 

            (さいとうどうさん(としまさ)かんれん

            できごと(がいよう、ねんだいじゅん))。 

          《人物関連出来事》。

 

〇 さい  斎藤道三(利政)関連

       出来事( 詳細、年代順)。 

            (さいとうどうさん(としまさ)かんれん

            できごと (しょうさい、ねんだいじゅん))。 

          《人物関連出来事》。

 

〇 さい  斎藤 利三。

             (さいとう としみつ)。 《人名》。

          ○ 明智光秀の重臣。

          ○ 春日局(= お福)の実父。

        (⇒ 春日局)。

             ■ 斎藤 利三 (さいとう としみつ) は、

             明智光秀の重臣であり、 春日局(かす

             がのつぼね、= お福)の実父である。

 

〇 さい  斎藤 一。

             (さいとうはじめ)。 《人名》。

             (= 山口二郎、藤田五郎)。

          ○ 幕末、新選組幹部として活

           躍

          ○ 明治期、警官となり、西南

            戦争で活躍。

        (⇒ 新選組)。

             ■ 斎藤 一 (さいとうはじめ)の、幕末の

             氏名は、斎藤 一であり、明治期の 氏名

             は、山口二郎、藤田 五郎である。

                       ■ 斎藤 一は、 幕末、新選組隊員・幹

              部として、京 (都)の治安、会津戦争で活

             躍した。

                        ■  斎藤 一は、明治期、明治政府・警官

              となり、 1877年(明治10年)の西南戦

                争で、明治政府軍警察部隊・警官として、

             活躍した。

 

〇 さい  斎藤飛騨守。

             (さいとうひだのかみ)。 《人名》。

        (⇒ 斎藤龍興)。

             ■ 斎藤飛騨守 (さいとうひだのかみ)は、

             斎藤龍興(たつおき)の側近の家臣であっ

             た。

                斎藤龍興(たつおき)は、美濃国(みの

             のくに、現・岐阜県南部の相当地域)の戦 国

             大名であり、 斎藤義龍(よしたつ) の子であ

             り、斎藤道三(利政)(どうさん(と しまさ))

             の孫である。

             ● 斎藤飛騨守は、 竹中半兵衛(重治)の

             稲葉山城奪取時、殺害される。

 

〇 さい  斎藤山城守。

             (さいとうやましろのかみ)。 《人名》。

          (= 斎藤道三(利政))。

             ■ 斎藤山城守 (さいとうやましろのかみ)

             とは、 斎藤道三(利政)である。

 

〇 さい  斎藤 義龍

                           (さいとう よしたつ) 。 《人名》。

             (1527年ー1561年)。

          SAITO Yoshitatsu.

          ○ 美濃(みの、岐阜県南部)の戦 国

          大名。

          ○ 斎藤道三(利政)(どうさん(と し

             まさ))の子。

          ○ 竹中半兵衛(重治)の主君。

             ■ 斎藤 義龍 (さいとう よしたつ、1527

             年ー1561年)は、 美濃国(みの のくに、

             現・岐阜県南部の相当地域)の戦 国大名

             であった。

             ● 斎藤 義龍は、 斎藤道三(利政) (どう

             さん(と しまさ))の子であり、 竹中半兵衛

             (重治)の主君であった。

 

〇 ざい  財閥解体

            (ざいばつかいたい)。 《戦後改革》。

             (1945年ー 1947年)。

             ■ 財閥解体(ざいばつかいたい)は、

             終戦後の戦後改革の1つであり、 GHQの

             指令により、 1945年から1947年まで行

             われた経済改革である。

 

〇 さい  斉明天皇。

             (さいめいてんのう)。 《女性天皇》。

                   EMPEROR SAIMEI.

             (= 前の皇極(こうぎょく)天皇)。 

          ○ 2回、天皇に即位。

          (⇒ 女性天皇)。

          (⇒ 皇極天皇)。

          (⇒ 乙巳の変(いっしのへん))。

                   (1) 第1回天皇即位、初即位

           皇極天皇在位:

           642年ー645年。

         (2) 第2回天皇即位、再即位

           斉明天皇在位:

           655年ー666年。

          ○ 斉明天皇は、

          中大兄皇子(なかのおおえのお

             うじ、天智天皇) と、 大海人

             皇子(おおあまのみこ、天武天

          皇) の生母である。

             ■ 斉明(さいめい)天皇 (在位:

              655年ー666年、英:EMPEROR 

              SAIMEI))は、 飛鳥白鳳時代の

              性天皇(= 女帝)で あり、 以前即位

                した皇極(こうぎょく)天皇 (在位:

                      642年ー645年)でもあった。

             ■ 斉明(皇極)天皇は、 舒明(じょ

             めい)天皇の皇后であり、 天智(て

             んじ)天皇や天武(てんむ)天皇の生

             母である。 

             ■ 斉明(皇極)天皇は、 子の中大

             兄皇子(なかのおおえのみこ(おう

             じ)、後の天智(てんじ)天皇)と協

             力して、 多くの政策を実施し、また、

             飛鳥(あすか)文化を発展させる。 

              ◆ 女性天皇 (8人10代)

           (⇒ 女性天皇)。   

           (⇒ 推古(すいこ)天皇)。

           (⇒ 皇極斉明(こうぎょく

                (さいめい))天皇)。

           (⇒ 持統(じとう)天皇)。

           (⇒ 元明(げんめい)天皇)。

           (⇒ 元正(げんしょう)天皇)。

           (⇒ 孝謙称徳(こうけん

                (しょうとく))天皇)。

           (⇒ 明正(めいしょう)天皇)。

           (⇒ 後桜町(ごさくらまち)天皇)。

             ■ 日本の女性天皇・8人10代。

             ● 日本の古代から現代までの間

             に、日本の女性天皇は、 

              (a) 飛鳥白鳳(あすかはくほう)時

             代、奈良(なら)時代に天皇に即位

                          就任)した、

             (1) 推古(すいこ)天皇、

                          (2) 皇極(斉明)(こうぎょく(さい

                            めい))天皇、

             (3) 持統(じとう)天皇、

             (4) 元明(げんめい)天皇、

             (5) 元正(げんしょう)天皇、

             (6) 孝謙(称徳)(こうけん(しょう

               とく))天皇

             の6人8代の天皇 や、 

             (b) 江戸(えど)時代に天皇に

             即位(就 任)した、

             (7) 明正(めいしょう)天皇、

             (8) 後桜町(ごさくらまち)天皇

             の2人2代の天皇がいて、

             合計して8人10代の日本の女性

             天皇(= 女帝がいる。

 

 ざい   在来系弥生人。 

             (ざいらいけいやよいじん)。 

          《日本地域の常住民》。

             (= 縄文系弥生人)。 

          (人類学上の分類・特徴)。

            (⇒ 弥生人)。            

            (⇒ 日本人)。

          (⇒ 日本人ルーツ・ガイド

             ブック)。

             ■ 在来系弥生人 (ざいらいけいやよいじ

             ん)とは、 人類学上の分類・特徴から、

             日本地域の常住民であり、 縄文系弥生人

             である。

 

 ざい   在来系古代日本人。 

            (ざいらいけいこだいにほんじん)。

          《日本地域の常住民》。

            (= 縄文系古代日本人)。 

         (人類学上の分類・特徴)。

           (⇒ 古代日本人)。            

           (⇒ 日本人)。

         (⇒ 日本人ルーツ・ガイド

            ブック)。

             ■ 在来系古代日本人 (ざいらいけいこだい

            にほんじん) とは、  人類学上の分類・特徴

            から、 日本地域の常住民であり、 縄文系

            古代日本人である。

 

#saka

 

 さか  佐賀県。

             (さがけん)。

          (現都道府県)。 《現地域名》。

          ■ 佐賀県は、

              前近代日本の、肥前 国 (ひぜんのく

           に 、現・佐賀県・長崎県本土の相当地域)の

          東部、 肥州(ひしゅう、肥前国と肥後国、

             現・佐賀県・長崎県本土・熊本県の相当地域)

          の北東部 (佐賀県)、の相当地域

          である

                         SAGA PREFECTURE.

                    (⇒ 肥前 国)。

                      (⇒ 都道府県)。

                      (⇒ 前近代日本の地域名)。

                      (⇒ 旧国(= 令制国))。

                      (⇒ 旧地域名地域名)。

                      (⇒ 日本の地名)。

             ■ 佐賀県 (さがけん)は、 現地域名で、

             近代日本の、肥前 国 (ひぜん のくに、現・佐

             賀県・長崎県本土の相当地域)の東部、  肥州

             (ひしゅう、肥前国や肥後国、現・佐賀県・長崎

             県本土・熊本県の相当地域)) の北東部 の相

             当地域である。

 

 さか  坂崎事件。

            (さかざきじけん)。 《事件》。

          (1616年)。

          ○ 坂崎出羽守直盛(さかざきで わ

          のかみなおもり、成正(なりまさ)) の、

          徳川氏に対する、反乱未遂事件。 

          (⇒ 柳生宗矩千姫)。

              ■ 坂崎事件 (さかざきじけん)は、16

              16年に起こった、坂崎出羽守直盛(さか

             ざきでわのかみなおもり、成正(なりまさ))

             の、徳川氏に対する、反乱未遂事件であ

             る。 

 

 さか  坂上田村麻呂

             (さかのうえのたむらまろ)。

          (758年ー811年)。 《人名》。

          ○ 奈良時代末期、平安時代初

          期の、武将。

                    ○ 京(都)の清水寺(きよみずでた)

          の創建者。 

             ■ 坂上田村麻呂 (さかのうえのたむらまろ、

             758年ー811年)は、 奈良時代末期、平安

             時代初期の、武将であり、 京(都)の清水寺

             (きよみずでた)の創建者である。

                    ● 坂上田村麻呂は、 桓武天皇の命令で、

                        朝廷軍を率いて蝦夷(えぞ、東北地方)討伐

             を行い、征夷大将軍に任じられ、 蝦夷軍(東

             北軍)の阿弖流為(あて るい)らと戦い勝ち、

             蝦夷(えぞ、東北地方)を征服し、蝦夷(東北

             地方)経略に功績を残す。

 

○ さが  相模 国。 

             (さがみ のくに)。

          (旧国(令制国))。 《旧地域名》。

          (= 相州(そうしゅう))。 

          (≒ 現・神奈川県の相当地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国(令制

           国)の正式名)。

              SAGAMI PROVINCE.

                    (⇒ 相州(そうしゅう))。

                    (⇒ 神奈川県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

          ■ 相模 国。

             <東海道・旧広域地方。

             <五畿七道 (ごきしちどう、日本本土)。

          (⇒ 東海道・旧広域地方)。

                   (⇒ 五畿七道)。

             ■ 相模 国 ( さがみ のくに)は、律令

             制定後・古代・中世・近世日本・旧地域

             名の、旧国(令制国)の正式名である

             ■ 相州 (そうしゅう)は、  律令制定

             後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             旧国名(令制国)正式名の、相模 国( さ 

             がみ のくに) の別称である。

             ■ 相模 国(= )は、 現・ 関東地

             方の、現在の 神奈川県 に相当する地

             域である。

             ■ 相模 国(= )は、 五畿七道

             (ごきしちどう)の東海道(とう かいどう)・

                           旧広域地方に属する。

 

 さか  坂本家

             (さかもとけ)。 《氏族》。

          (= 坂本龍馬の、郷士坂本家、

          土佐藩郷士の坂本家)。

                (1770年ー1871年)。

             ■ 坂本家 (さかもとけ、1770年ー18

             71年) は、  坂本龍馬の、郷士坂本家、

             土佐藩郷士の坂本家である。

 

 さか  坂本 乙女

             (さかもと おとめ)。 《人名》。

          (1832年ー1879年)。

          ○ 坂本龍馬の姉。

          ○ 龍馬のよき理解者、相談

          相手。

          ○ 龍馬の母親代わり。

             ■ 坂本 乙女 (さかもと おとめ、1832

             年ー1879年)は、坂本龍馬の姉 であり、

              龍馬のよき理解者、相談 相手であり、龍

             馬の母親代わりであった。

 

 さか  坂本 権平

            (さかもと ごんぺい)。

          (= 坂本直方)。 《人名》。

          (1814年ー1871年)。

          ○ 坂本龍馬の兄。

          ○ 郷士坂本家の4代目当主。 

             ■ 坂本 権平 (さかもと ごんぺい、=

             坂本直方、1814年ー1871年)は、 坂本

             龍馬の兄であり、 郷士坂本家の4代目当

             主である。 

 

 さか  坂本 龍馬 

            (さかもと りょうま) 。(総合)。《人名》。

                   (1835年ー1867年)。 

                    ○ 幕末の政治改革者。

                    ○ 政治家、実業家。

                    ○ 薩長同盟仲介者、大政奉還

          提案者、新政府(近代日本政府)

          構想者。

                    ○ 土佐藩下級武士・郷士出身。

          土佐脱藩浪士となる。

             ■ 坂本 龍馬 (さかもと りょうま、1835

             年ー1867年)は、 幕末の政治改革者で

                        あり、政治家、実業家である。 

             ■ 坂本 龍馬は、 土佐藩下級武士・郷士

             出身で、土佐脱藩浪士となる。

             ■ 坂本 龍馬は、 幕末、薩長同盟仲介

             者、大政奉還提案者、新政府(近代日本

             政府)の構想者であった。

             ■ 坂本 龍馬は、 1867年(慶応3年)

             11月15日に、 京(都)の近江屋  (おう

             みや、京都・河原町)で、 旧江戸幕府の

             保守派の京都見廻組(みまわりぐみ)の

             隊士に暗殺される。

 

 さか   坂本龍馬   

               (坂本龍馬ガイドブック)

             (さかもとりょうま)。

             《人物ガイドブック》。

 

 さか  坂本龍馬 関連出来事

        (詳細、年代順)

             (さかもとりょうま かんれんできごと)。

          《人物関連出来事》。

 

 さか  坂本龍馬 年表 

             (さかもとりょうま ねんぴょう)。

             (⇒ 日本史年表) 。 

          《人物年表》。

 

 さか  坂本龍馬が愛した女性達。 

             (さかもとりょうまがあいしたじょせいたち) 。

             《人名》。

          ○ 加尾(かお)、佐那(さな)、お龍

          (おりょう)等 。

          ○ 平井 加尾(ひらい かお)、千葉

          佐那(ちば さな )、 楢崎龍 ならさき

             りょう、お龍 おりょう)、お元(おもと)

             錦路、お蝶 等。

             ■ 坂本龍馬(さかもとりょうま)が愛した女

             性達は、 加尾(かお)、佐那(さな) 、お龍

          (おりょう) などであり、 平井 加尾(ひらい

             かお)、 千葉 佐那(ちば さな)、 楢崎龍

             (ならさきりょう、お龍 おりょう)、 お元(おも

             と)、 錦路、 お蝶  等である。

 

○ さき  サキ

         (仮称、実名不詳)。 《人名》。

             (NHK大河ドラマ「江ごう)〜姫たちの

             戦国」にサキ(仮称)で登場する人物)。

          (= 大蔵卿局 おおくらきょうのつぼね)。

          ○ 茶々(淀殿、淀の方)の侍女、

             乳母 。

       (⇒大蔵卿局)。

             ■ サキ(仮称、実名不詳)は、 NHK大河ド

             ラマ「江ごう)〜姫たちの戦国」にサキ(仮称)

             で登場する人物であり、大蔵卿局(おおくらき

             ょうのつぼね)である。

             ■ 大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)は、

             茶々(淀殿、淀の方)の侍女、乳母(うば)で

             ある。

 

○ さく   作州

             (さくしゅう)。

          (旧国の別称)。 《旧地域名》。

          (= 美作 国(みまさか のくに)

          (≒ 現・岡山県北東部の相当

          地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近

           世日本・旧地域名の

           旧国(令制国)の別称)。

             SAKUSHU AREA.

                    (⇒ 美作 国)。    

                    (⇒ 岡山県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

             ■ 作州 (さくしゅう)は、 律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             国(令制国)正式名の、美作 国(みまさ 

             かのくに、現・岡山県北東部)の別称で

             ある。

                          ● 作州(= 美作 国は、 山陽道(さんよ

             うどう)・旧広域地方に属し、現・中国地方

             の、現在の、岡山県北東部に相当する 地

             域である。

 

○ さく  冊封。

            (さくほう、さっぽう)。 《外交形態》。

         (= 中国の皇帝と主従関係を結ぶ

         こと)。

       (⇒ 沖縄の歴史)。

            ■ 冊封(さくほう、さっぽう)は、 

            中国の皇帝と主従関係を結ぶことである。

 

○ さく   佐久間 象山。

            (さくま しょうざん)。 《人名》。

                    (1811年ー1864年)。

         ○ 江戸時代・幕末の蘭学者、

          兵学者。

            ■ 佐久間 象山 (さくま しょうざん、1811

            年ー1864年)は、  江戸時代・幕末の蘭学

            者、兵学者であった。 

 

○ さく   佐久間 多美子(多美)

                          (さくま たみこ(たみ) )。 《人名》。

          (= 秋山多美子)。

          ○ 秋山好古の妻。

            (⇒ 秋山多美子(多美))。

            ■ 佐久間 多美子(多美) (さくま たみこ

            (たみ)、= 秋山多美子)は、 秋山好古の

             夫人である。

 

○ さく  佐久間 信盛 

            (さくま のぶもり)。 《人名》。

            (1528年?ー1582年)。

             ○ 織田氏の重臣。 

            (⇒ 織田信長)。

            ■ 佐久間 信盛 (さくま のぶもり、1528年?

            ー1582年)は、織田氏の重臣である。

            ● 佐久間 信盛は、 織田氏重臣の林通勝の

             追放と同様に、織田信長の1580年代の人事・

             領地変革で、1580年(天正8年)8月に、織田

             氏(織田軍団)より追放される。

            ● 佐久間 信盛は、 1580年代の織田信長の

            人事・領地変革(家臣重用から織田一族重用へ

             の転換)は、明智光秀の謀反(むほん)に影響を

            与える。

 

○ さく  桜田門外の変。 

            (さくらだもんがいのへん)。 《事件》。

                     1860年の井伊直弼暗殺事件。

         (⇒ 井伊直弼)。

            ■ 桜田門外の変 (さくらだもんがいのへ

            ん)は、1860年の井伊直弼暗殺事件であ

            る。

 

〇 さこ  鎖国

                          (さこく) 。 《江戸時代の対外政策》。

         (1639年頃〜1858年頃)。

         ○ 日本の江戸幕府による対外

         関係の統制・制限政策。

         ○ 江戸時代初期の鎖国完成の

         1639年頃から江戸時代末期

         完全開国の1858年頃までの政

         策。

            ■ 鎖国 (さこく)とは、1639年頃から

            1858年頃までの、江戸時代の対外政策

            である。

               鎖国は、日本の江戸幕府による対外

            関係の統制・制限 であり、 江戸時代初期

            の鎖国完成の1639年から江戸時代末期

            の完全開国の1858年まで の政策である。

#sasa

 

〇 ささ   笹尾山 

             (ささおやま)。 《地名》。

             MT.SASAO.

          ○ 笹尾山は、

          「伝説(従来説)の関ヶ原

          の戦い」で、石田三成が

          本陣(陣地)を置いた

          場所である。

          (⇒ 石田三成)。

          (⇒ 関ヶ原の戦い

           決戦)。

          (⇒ 関ヶ原の戦い)。

          (⇒ 新説(史実)

             関ヶ原の戦い

           大垣・山中の戦い

         大垣の戦い山中の戦い)。

                (⇒ 慶長5年の

                 下分け目の戦い)。

           □ 「史実(新説)

            関ヶ原の戦い

            (= 大垣・山中の戦い)」  

            画像アルバム No.2

           □ 「伝説(従来説)

            関ヶ原の戦い」

            画像アルバム  No.3 

          (⇒ 徳川家康福島正則

             池田輝政)。

          (⇒ 毛利秀元)。

          (⇒ 石田三成宇喜多秀家)。

          (⇒ 大谷吉継小早川秀秋)。

          (⇒ 美濃赤坂大垣城

                           南宮山)。

          (⇒ 山中城山玉城

              松尾山藤下の自害峯)。

          (⇒ 関ヶ原盆地桃配山

                           陣場野笹尾山)。

 

             ■ 笹尾山 (ささおやま)は、 

             関ヶ原盆地の北西部にあり、 

             「伝説(従来説)の関ヶ原の戦い」

                            の決戦で、 西軍の石田三成が、

             1600年(慶長5年)9月15日

             未明から午後2時頃まで、

             本陣(陣地)を置いた場所である。

 

             ■ 「伝説(従来説)の関ヶ原の

             戦い」の決 戦では、 

             1600年(慶長5年)9月14日の

             夜に大垣エリアの大垣城 から移

             動してきた、西軍 (石田方)の

             石田三成と石田軍は、

              1600年(慶長5年)9月15日の

             早朝に、関ヶ原盆地北西部の

             笹尾山(ささおやま)に、

             本陣(陣地)を置き、

             石田三成は、西軍(石田方)全体

             の指揮をとり、

             関ヶ原盆地で、午前8時頃から

             午後2時頃まで、東軍(徳川方)

             と戦い(決戦を行い)、

             午後2時頃、西軍(石田方)全体

             や西軍の石田軍は、総崩れとな

             り、敗走、敗北し、東軍(徳川方)

             が勝利を得る。

 

              ■ 一方、「史実 (新説)の関ヶ原

              の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

              決戦では、

              1600年(慶長5年)9月14 日の

              夜に大垣エリアの大垣城 から移

              動してきた西軍(奉行衆 ・毛利

              方)の石田三成と 石田軍は、

              9月15日の早朝に、山中村に

              近い下の自害峯(と うげのじ

              がいみね)の既存整備陣地に

              立ち寄り、 松尾山山麓に布陣

              する西軍(奉行衆・毛利方)を裏

              切るかもしれない徳川方内通者

              疑惑の小早川秀秋の軍と対峙

              し、小早川軍を牽制する。

                 その後、西軍(奉行衆・毛

              利方)の石田三成と 石田軍は、

              すぐ近くの山中村で、9月15日

              の朝に、西 軍(奉行衆・毛利方)

              の主力軍と合流し、関ヶ原盆地

              の西方・約2kmの山中村の西

              側に布陣する。

                9月15日の午前10時頃に、

              西軍(奉行衆・毛利方)の主力

              軍は、 山中村で、

              9月15日の早朝に大垣エリ ア

              の美濃赤坂付近から山中村に

              移動してきた東軍(徳川方)の

              主力軍の先手勢の福島勢、家

              康、徳川本隊と対峙する。

                  西軍(奉行衆・毛利方)の

              石田三成と 石田軍は、

              山中村で、午前10時頃から正

              午頃まで、山中村に移動してき

              た東軍(徳川方)の主力軍と

              い(決戦を行い)、正午頃、西軍

              (奉行衆・毛利方)主力軍

              体や石田軍は、総崩 れとなり、

              敗走、敗戦し、その結果、東軍

              (徳川方)の主力軍が、勝利を

              得る。  

              

              ◆ 「史実(新説)・伝説(従来

              説)の関ヶ原の戦い」の決戦

              での、西軍の動き。

 

                  ■ 「伝説(従来説の関ヶ原

                の戦い」の決戦での、

                西軍(石田方)の主力軍

                の動き。

               ● 西軍(石田方)の主力軍は、

              @ 西軍(石田方)の主力軍は、

               1600年(慶長5年)9月14日

               夜に、大垣エリアの大垣城 

               (おおがきじょう、関ヶ原盆地

                                の東方)を出発

              (1600年(慶長5年)

               9月14日夜)⇒

               ○ 西軍(石田方) の石田三成

               は、9月14日夜に、大垣城で、 

               西軍(石田方)を、

               主力軍と大垣城守備残留軍

               の2つに分ける。

              A 西軍(石田方)の主力軍は、

               9月15日未明に、関ヶ原盆地

               の西側に布陣

               (9月15日未明)⇒

              B 西軍(石田方)の主力軍は、

               9月15日午前8時頃から

               午後2時頃まで、関ヶ原盆地

               で、東軍(徳川方)の主力軍

               と交戦(決戦を行う)

               ○ 9月15日の朝から午前

                午後2時頃まで、西軍(石田

               方)石田三成は、

               笹尾山 (ささおやま、関ヶ原

               盆地の北西)で決戦を指揮

               (9月15日午前8時頃〜

               午後2時頃)⇒

              C 9月15日午後2時頃に、

               関ヶ原盆地で、西軍(石田方)

               の主力軍は、総崩れ、敗走、

               敗戦し、東軍(徳川方)の主

               力軍に対し決戦で敗戦する

               (9月15日午後2時頃)。

 

                  ■ 「史実(新説)関ヶ原の戦

               い(= 大垣・山中の戦い)」の

               決戦での 、西軍(奉行衆・毛

               利方)の主力軍の動き。

              ● 西軍(奉行衆・毛利方)

               の主力軍 (小西、石田、

               宇喜多、島津等の軍) は、

              @ 西軍(奉行衆・毛利方)

               の主力軍は、

               1600年(慶長5年)9月

               14日夜に、

               大垣エリアの大垣城 

               (おおがきじょう、関ヶ原

                                  盆地の東方)を出発

               (1600年(慶長5年)

                9月14日夜)⇒

               ○ 西軍(奉行衆・毛利方)は、

               9月14日夜に、大垣城で、 

               協議して、西軍(奉行衆・毛利

               方)を、主力軍と大垣城守備

               残留軍の2つに分ける。

               ○ 西軍(奉行衆・毛利方)の

               主力軍は、山中村 (やまなか

               むら、関ヶ原盆地の西方・約2

               km) に向かう。

               ○ 西軍(奉行衆・毛利方)の

               大垣城守備残留軍は、大垣城

               に残留し、大垣城を守備する。

              A 西軍(奉行衆・毛利方)の

               主力軍は、9月15日未明に、

               山中村 (やまなかむら、

               関ヶ原盆地の西方・約2km)

               に布陣する。

               〇 西軍(奉行衆・毛利方)の

               主力軍は、

               山中村付近の城山にある

               既存準備陣地の玉城(たまじ

               ょう)を、出撃陣地として使用

               した可能性がある。

               (9月15日未明)⇒

              B 西軍(奉行衆・毛利方)の

               主力軍は、9月15日午前10

               時頃から正午頃まで、山中村

               で、東軍(徳川方)の主力軍と

               交戦(決戦を行う) 

               (9月15日午前10時頃〜

                正午頃)⇒

              C 9月15日正午頃、山中村

               で、西軍(奉行衆・ 毛利方)の

               主力軍は、総崩れ、敗走、敗

               戦となり、東軍(徳川方)の

               主力軍がに西軍(奉行衆・ 毛

               利方)の主力軍に対し決戦で

               勝利を得る

               (9月15日正午頃)。

 

〇 ささ  佐々木 小次郎。 

            (ささき こじろう)。 《人名》。

            (= 岩流(がんりゅう))。

         ○ 巌流島(舟島)の決闘で、宮本

         武蔵と戦った相手。

         (⇒ 宮本武蔵)。

             ■ 佐々木 小次郎 (ささき こじろう、=岩流

             (がんりゅう))は、 巌流島(舟島)の決闘で、

             宮本武蔵と戦った相手である。

 

〇 ささ  佐々木 道誉。

            (ささき どうよ)。 《人名》。

         (= 京極(きょうごく)道誉

          佐々木(京極)高氏(たかうじ))。

            (1306年ー1373年)。

                   ○ 佐々木(京極)道誉は、

          足利尊氏に味方し、室町幕

          府の創設に貢献した武将で

          ある。

                   ○ 佐々木(京極)道誉は、

          近江源氏の北近江出身の武

          将であり、 室町幕府の要職

          を歴任する。

                 (⇒ 足利 尊氏)。

             ■ 佐々木 道誉 (ささき どうよ、京極

            (きょうごく)道誉、佐々木(京極)高氏

             たかうじ)、1306年ー1373年) は、 

             足利尊氏 に味方し、室町幕府(= 足利

             幕府)の創設に貢献した武将である。

                      ■ 佐々木道誉 (京極道誉)は、 北近

             江(きたおうみ、現・滋賀県北部の相

             当地域)出身の武将であり、 室町幕

             府の要職を歴任する。

 

〇 さじ  佐治 一成

            (さじ かずなり) 。 《人名》。

         (1569年ー1634年)。

         ○ 安土桃山時代、江戸時代初

         期の武将。

         ○ 浅井3姉妹の1人の、お江

         (おごう)の1番目 の夫。

             ■ 佐治 一成 (さじ かずなり、1569年

            ー1634年)は、 安土桃山時代、江戸時

            代初期の武将 であり、 浅井3姉妹の1人

            の、お江(おごう)の1番目の夫 である。

 

〇 さし   佐州

             (さしゅう)。 

          (旧国の別称)。 《旧地域名》。

          (= 佐渡 (さど のくに))。

          (≒ 現・新潟県佐渡島)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国(令制

           国)の別称)。

              SASHU AREA.

                   (⇒ 佐渡)。    

                    (⇒ 新潟県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

             ■ 佐州(さしゅう)や渡州(としゅう)  は、  

             律令制定後・古代・中世・近世日本・旧地

             域名の、旧国(令制国)正式名の、佐渡

             国 (さど のくに)の 別称である。

                          ● 佐州(= 佐渡、渡州 )は、 北陸道

             (ほくりくどう)・旧広域地方に属し、現・中

             部地方の、現在の新潟県佐渡島(佐渡市)

             に相当する地域である。

 

〇 さだ   左大臣

              (さだいじん)。 《官職》。

           (⇒朝廷の官職朝廷公卿)。

              ■ 左大臣  (さだいじん)は、 朝廷の

             上級官職である。

             ○ 朝廷の上級官職。

              ■ 前近代日本の、高位の朝廷の官職

             は、 高位順に、 @ 太政大臣 (だいじょ

             うだいじん)、 A 左大臣 (さだいじん)、 

             B 右大臣 (うだいじん)、  C 内大臣 

             (ないだいじん)、 D 大納言 (だいな

             ん)、 E 中納言 (ちゅうなごん)、 F 

             参議 (さんぎ) などがある。

 

〇 さだ  完子

            (さだこ)。 《人名》。

          ○ お江(おごう)とお江の2番目の

          夫・豊臣秀勝(ひでかつ)との間の娘。

          ○ 九条忠栄(幸家)の正室夫人。 

          (豊臣氏の血筋)。

             ■ 完子 (さだこ)は、 お江(おごう) とお江

             の2番目の夫・豊臣秀勝(ひでかつ) との間

             の娘である。

             ● 完子 は、 九条忠栄(幸家)の正室夫人

             であり、 豊臣氏の血筋である。 

 

〇 さだ  完子。

            (さだこ・かんし)。 《人名》。

          (= 平完子)。

          ○ 平清盛六女。 

          ○ 摂政・関白近衛基 通の正室

          夫人。

          (⇒ 平清盛)。

             ■ 完子 (さだこ・かんし、= 平完子)は、

             平清盛の六女であり、 摂政・関白 の近衛

             基通の正室 夫人である。

 

〇 さだ   貞仁親王。 

            (さだひとしんのう)。 《人名》。

          (= 白河(しらかわ)天皇(上皇、

          法皇))。

         (⇒ 白河(しらかわ)天皇)。 

             ■ 貞仁親王 (さだひとしんのう)とは、

             白河(しらかわ)天皇(上皇、 法皇)である。

 

〇 さっ  佐々 介三郎

            (さっさ すけさぶろう)。 《人名》。

         (= 佐々木 助三郎)。

         ○ 江戸時代初期の儒学者。

         ○ 助(すけ)さんのモデルになった

         武士。 フィクションの物語 「水戸

         黄門の漫遊記」では黄門のお供を

         する、助さん(= 佐々木助三郎) )。

            ■ 佐々 介三郎 (さっさ すけさぶろう、= 佐々

            木 助三郎)は、江戸時代初期の儒学者である。

               佐々 介三郎は、 フィクションの物語 「水

            戸黄門の漫遊記」では黄門のお供をする、助

            (すけ)さん(= 佐々木助三郎) のモデルになっ

            た武士である。

 

〇 さっ   薩州。  

             (さっしゅう)。 

          (旧国の別称)。 《旧地域名》。

          (= 薩摩 ( さつま のくに))。

          (≒ 現・鹿児島県の本土西部

          の相当地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

          日本・旧地域名の、

          旧国(令制国)の別称)。

             SASSHU AREA.

                    (⇒ 薩摩 )。    

                    (⇒ 鹿児島県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

             ■ 薩州 (さっしゅう)は、  律令制定

             後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             旧国(令制国)正式名の、薩摩 国 

             (さつま のくに) の別称である。

                          ■ 州(= 薩摩 国)は、 西海道(さい

             かいどう)・旧広域地方に属し、現・九州

             地方の、現在の鹿児島県の本土西部

             相当する地域である。

 

〇 さっ  薩長同盟

         (さっちょうどうめい)。《政治・軍事同盟》。

         (= 薩長連合)。

         (1866年(慶応2年)1月)。 

         ○ 幕末、薩摩藩と長州藩との間

                   で結ばれた、反幕府の政治・軍事

         同盟(密約)。

            ■ 薩長同盟  (さっちょうどうめい、= 薩長

            連合)は、 幕末の、1866年(慶応2年)1月

            に、薩摩藩と長州藩との間に結ばれた反幕 

                      府の政治・軍事同盟(密約)である。

            ■ 薩長同盟の正式な合意文書はない。

 

〇 さっ  薩長土肥。

            (さっちょうとひ)。 《江戸時代の藩》。

            (= 薩摩藩(鹿児島県)、長州藩(山

         口県)、土佐藩(高知県)、肥前藩

         (佐賀県・長崎県本土))。

             (⇒ 薩摩藩長州藩

          土佐藩肥前藩)。

            ■ 薩長土肥 (さっちょうとひ)は、 江戸時

            代の4藩(大名)であり、 薩摩藩 (さつまは

            ん、現・鹿児島県の相当地域)、 長州 藩 

            (ちょうしゅうはん、現・山口県の相当地域)、 

            土佐藩 (とさはん、現・高知県の相当地域)、

            肥前藩 (ひぜんはん、現・佐賀県・長崎県

            本土の相当地域) である。

 

○ さっ   薩摩 国。

             (さつま のくに)。

          (旧国(令制国))。 《旧地域名》。

             = 薩州(さっしゅう))。 

          (≒ 現・鹿児島県の本土西部

          相当地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の、

           旧国(令制 国)の正式名)。

              SATSUMA PROVINCE.

                   (⇒ 薩州(さっしゅう))。

                    (⇒ 鹿児島県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

          ■ 薩摩 国。

             <西海道・旧広域地方。

             <五畿七道 (ごきしちどう、日本本土)

             ■ 薩摩 国 (さつま のくに)は、律令制

             定後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             旧国(令制国)の正式名である

             ■ 薩州 (さっしゅう)は、  律令制定

             後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             旧国(令制国)の正式名の、薩摩 国 ( さ

             つま のくに) の別称である。

             ■ 薩摩 国(= )は、 現・ 九州地方

             の、現在の鹿児島県の本土西部 に相当

                           する地域である。

             ■ 薩摩 国(= )は、 五畿七道 (ご

             きしちどう)の西海道(さいかいどう)・旧広

                           域地方に属する。

 

〇 さつ  薩摩藩

                         (さつまはん)。  《江戸時代の藩》。

         (= 薩摩 国と大隅 国を領有した

          藩)。

         (≒ 概ね、現・鹿児島県の相当

         地域を支配した藩)。

            ■ 薩摩藩は、 江戸時代の外様大名の

            藩である。

            ■ 薩摩藩は、江戸時代に、 薩摩 国と

            大隅 国を領有した藩であり、 概ね、現・

            鹿児島県の相当地域を支配した藩であ

            る。

            ■ 薩摩藩は、 江戸時代初期から明治

            時代初期まで存続した、薩摩 国 (さつ

            まのくに、概ね、現・鹿児島県本土西部

             の相当領域) と 大隅 国(おおすみ の

            くに、概ね、鹿児島県本土東部、大隅諸

                         島、奄美群島の相当領域) を領有し(統

            治し)、支配基盤(行政地域)とした藩(大

            名) である。

 

〇 さと  佐藤 義清。 

                     (さとう のりきよ)。  《人名》。

         (= 西行(さいぎょう))。

          ○ 鳥羽上皇の院政時の北面

          の武士。

          ○ 出家して、西行と名乗る。

          ○ 歌人(かじん )。

       (⇒ 北面の武士)。

            ■ 佐藤 義清 (さとう のりきよ、= 西

            行(さいぎょう)は、 鳥羽上皇の院政

            時の北面の武士であり、 出家して、

            西行と名乗る。 歌人(かじん )でもある。

 

〇 さと  里内裏。

         (さとだいり)。 《内裏》。

         (= 天皇の私邸、仮御所)。

              ○ 平安宮 (= 大内裏)の本来の

          内裏(だいり)以外の、天皇御所、

          皇居。

       (⇒ 内裏 だいり)。

            ■ 里内裏 (さとだいり)は、 平安時代中

            期以降に出現し、 天皇の私邸、仮御所で

            あり、 平安宮内裏(へいあんきゅうだいり)

            に対する私邸の内裏 (だいり、天皇の住む

            御殿、天皇御所、皇居)であり、 平安宮(へ

              いあんきゅう、= 大内裏(だいだいり))内の

            本来の内裏以外の、天皇の在所(天皇御所、

            皇居) である。 

 

〇 さど  佐渡 国。 

             (さど のくに)。

          (旧国(令制国))。 《旧地域名》。

                    (= 佐州(さしゅう)、渡州( としゅう))。 

          (≒ 現・新潟県佐渡島)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国(令制

           国)の正式名)。

              SADO PROVINCE.

                   (⇒ 佐州渡州)。

                    (⇒ 新潟県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

          ■ 佐渡 国。

             <北陸道・旧広域地方。

             <五畿七道 (ごきしちどう、日本本土)。

          (⇒ 北陸道・旧広域地方)。

                   (⇒ 五畿七道)。

                         ■ (RWM) 日本の、中地域名の変遷。

             ● 国造・県主分国⇒ 旧国(令制国)

              ⇒ 旧都道府県⇒ 現47都道府県。

             ■ 佐渡 国 (さど のくに)は、 律令制

             定後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             旧国(令制国)の正式名である

             ■ 佐州(さしゅう) や 渡州(としゅう)は、  

             律令制定後・古代・中世・近世日本・旧地

             域名の、旧国 名(令制国)正式名の、佐渡

             国 (さど のくに)の 別称である。

             ■ 佐渡 国(= 佐州、渡州)は、 現・ 中部

             地方の、現在の新潟県佐渡島 (佐渡市) 

                           に相当する地域である。

             ■ 佐渡 国(= 佐州、渡州)は、 五畿七

             道 (ごきしちどう)の北陸道(ほくりくどう)・

                           旧広域地方に属する。

 

〇 さと  里見氏

            (さとみし)。  《武家の氏族》。

         ○ 武家、 室町時代〜江戸初期

         に房総地方(千葉県南部)を領し

         た大名。

         ○ フィクションの物語「南総里

         見八犬伝」のモデルになった大

         名家。

            ■ 里見氏 (さとみし)は、 武家で、 室町

             時代から江戸初期まで、房総地方(千葉

            県南部)を領した大名である。

            ● 里見氏 は、 フィクションの物語「南総

            里見八犬伝」のモデルになった大 名家で

            ある。

 

#sana

 

 さな  佐那。

            (さな)。 《人名》。

          (= 千葉 佐那)。

         ○ 坂本龍馬の恋人。

       (⇒ 千葉 佐那)。

            ■ 佐那 (さな)は、 千葉 佐那であり、

            坂本龍馬の恋人である。

 

 さな  真田氏

            (さなだし)。  《武家の氏族》。

         (= 真田一族、真田家)。

            THE SANADA CLAN.

            (16世紀頃ー19世紀)。

            (1548年頃ー1871年)。

                    □ 真田氏 画像アルバム 

            No.1

          ○ 武家としての真田氏。 

          ○ 武家の真田氏は、

           武家の氏族で、国人領主、

          大名である。

       (⇒ 真田 幸村(信繁))。

                    □ 日本歴史で活躍した氏族:

          天皇家藤原氏伊勢平氏

          河内源氏鎌倉北条氏

          足利氏上杉氏武田氏

          井伊氏小田原北条氏

          真田氏織田氏豊臣氏

          徳川氏

             ■ 武家の真田氏 ( さだなし、さなだ

             うじ 、 = 真田家)は、 武家の氏族で

             あり、16世紀頃から19世紀まで存在

             した、武家、国人領主、大名である。

             ■ 真田氏 (さなだし、武家の真田氏:

             1548年頃ー1871年)は、 室町時代

             後期(戦国時代)、安土桃山時代、江戸

             時代、明治時代初期に存在した、武家

             の一族である。

             ● 室町時代後期(戦国時代)・安土桃

             山時代・江戸時代初期の、 真田氏・

             当主変遷 : 

             (1) 真田幸隆(幸綱)⇒(2) 真田

             信綱⇒ (3) 真田 昌幸⇒ (4) 

              真田信幸(信之) ⇒ (5) 真田

             信政⇒ (6) 真田 幸道。

             ■ 真田氏は、 天才的戦略家であ り、

             日の本一の兵 (ひのもといちのつわも

             の)と 言われた武将の、真田 幸村(信

             繁) や 真田戦法を生み出した、武家

            の一族である。

              ● 真田戦法とは、 少数の兵で多数

             の敵兵に勝つために、「おびき寄せて

             たたく」という戦法である。 

             ■ 真田氏は、 信濃(= 信州)の、地

            方豪族である。 

               真田氏は、  室町時代後期(戦国

            時代)、安土桃山時代、江戸時代初期

            に、 信濃 国(= 信州)(しなののくに

            (しんしゅう)、現・長野県の相当地域)

            の東北部の小県郡(ちいさがたぐん)

            の上田の領主(国衆(くにしゅう)) で

            あった。

 

 さな  真田氏 (真田一族)

            (さなだし (さなだいちぞく))。

                《真田氏》。

 

 さな  真田氏の歴代当主

             (さなだしのれきだいとうしゅ)。

                《真田氏》。

 

 さな  真田氏 関連出来事

              (年代順・詳細)

             (さなだし かんれんできごと (ねん

             だいじゅん・しょうさい))。

                    《氏族関連出来事》。

 

 さな  真田氏本城。

            (さなだしほんじょう)。 《城》。

           (= 松尾城(まつおじょう))。 

       (⇒ 真田 氏)。  

          ○ 真田氏本城とは、

              松尾城である。

          ○ 真田氏本城とは、

           上田城・本城へ移る前の

           真田氏の本城である。 

             ■ 真田氏本城 (さなだしほんじょう、=

             松尾城(まつおじょう))は、 信濃国・真田

             にある城であり、真田 幸村(信繁(のぶし

             げ))の祖父や父の真田幸隆(ゆきたか)

             や真田 昌幸( まさゆき)の城であった。

             ● 真田 昌幸(まさゆき)は、 徳川家康

             の援助で、前期上田城を築城し、本城を、

             真田氏本城(= 松尾城)から前期上田城へ

             移す。

 

 さな  真田 信繁。

            (さなだ のぶしげ)。 《人名》。

           (= 真田 幸村(ゆきむら))。 

       (⇒ 真田 幸村(信繁))。

            ■ 真田 信繁 (さなだ のぶしげ)とは、

           真田 幸村(ゆきむら)である。

 

 さな  真田 信尹。

            (さなだ のぶただ)。 《人名》。

                    (1547年?−1632年)。

             SANADA Nobutada. 

          ○ 真田 信尹は、

           真田 幸村(信繁)の叔父

          (おじ)である。

            ■ 真田 信尹 (さなだ のぶただ、1547年

            ?−1632年) は、 室町時代後期(戦国

            時代)、安土桃山時代、江戸時代初期に活

            躍した、武将である。

            ● 真田 信尹 (さなだ のぶただ、1547年

            ?−1632年) は、 真田 幸村(信繁)の叔

            父(おじ)であり、 真田 幸村(信繁)の祖父・

            真田 幸隆(幸綱)(ゆきたか(ゆきつな))の 

            四男である。

            ● 真田 信尹は、 大坂の陣で徳川方に味

            方し、後に、徳川氏の旗本となる。

 

 さな  真田 信綱。

            (さなだ のぶつな)。  《人名》。

                   (1537年1575年)。

            (真田氏・第2代当主)。

            (真田氏当主:15671575年)。

             SANADA Nobutsuna.

         ○ 真田 信綱は、

          真田 幸村(信繁)の伯父

             (おじ)である。

         (⇒ 真田氏

          真田 幸村(信繁))。

            ■ 真田 信綱 (さなだ のぶつな、 1537

            年ー1575年) は、 室町時代後期(戦国

            時代)、安土桃山時代に活躍した武将で あ

            り、 真田氏・第2代当主 (真田氏当主:

            15671575年) であり、 信濃(しな

            の、 現・長野県の相当地域)の上田領の 

            領主であった。

            ■ 室町時代後期(戦国時代)・安土桃山時

            代・江戸時代初期の、 真田氏・当主変遷 : 

            (1) 真田幸隆(幸綱)⇒(2) 真田 信綱⇒ 

            (3) 真田 昌幸⇒ (4) 真田 信幸(信之)

            ⇒ (5) 真田 信政⇒ (6) 真田 幸道。

            ■ 真田 信綱 (さなだ のぶつな、 1537年

            ー1575年) は、 真田氏の当主  (1567

            年−1575年) であり、 信濃・上田領の領

             主 (1567−1575年)  であった。

            ● 真田 信綱 (さなだ のぶつな)、1537

            年ー1575年) は、 真田 幸村(信繁)の

            伯父(おじ)であり、 真田 幸隆(幸綱)の長

            男であり、 室町時代後期(戦国時代)、安土

            桃山時代の武将であった。

            ● 真田 信綱は、 1575年の長篠の戦いで

            武田氏方の武将として参戦し、戦死する。

 

 さな  真田 信政。

             (さなだ のぶまさ)。  《人名》。

            (1597年ー1658年)。

            (真田氏・第5代当主)。

            (真田氏当主:1656−1658年)。

             SANADA Nobumasa. 

         ○ 真田 信政は、

          真田 幸村(信繁)の甥(おい)

             であり、 真田 幸村(信繁)

             の兄・真田信幸(信之)の

          次男である。

         (⇒ 真田氏

            真田 幸村(信繁))。

            ■ 真田 信政 (さなだ のぶまさ、1597年

            ー1658年) は、 江戸時代初期に活躍し

            た武将であり、 真田氏・第5代当主 (真田

            氏当主:1656−1658年)であり、真田

            氏の信濃・松代(まつしろ)藩・第2代藩主

            (藩主:1656−1658年)   である

            ■ 室町時代後期(戦国時代)・安土桃山時

            代・江戸時代初期の、 真田氏・当主変遷 : 

            (1) 真田幸隆(幸綱)⇒(2) 真田 信綱⇒ 

            (3) 真田 昌幸⇒ (4) 真田 信幸(信之)

            ⇒ (5) 真田 信政⇒ (6) 真田 幸道。

            ■ 真田 信政 (さなだ のぶまさ、1597年

            ー1658年) は、 真田氏の当主 (1656 

            −1658年) であり、 信濃・松代(まつし

            ろ)領、上野・沼田(ぬまた)領の領主 (16

            56−1658年) であった。

            ● 真田 信政 (さなだ のぶまさ、1597年

            ー1658年) は、 真田 幸村(信繁)の兄・

            真田信幸(信之)(のぶゆき)の次男(嫡子、

            正室夫人の子)であり、 真田 幸村(信繁)

            の 甥(おい) (幸村(信繁)の兄・信幸(信

            之)の子) であり、 信幸(信之)と信幸(信

            之)正室夫人・小松姫との間の子である。

 

 さな  真田 信幸(信之)。

             (さなだ のぶゆき)。 《人名》。

            (1566年1658年)。

            (真田氏・第4代当主)。

            (真田氏当主:1600−1656年)。

             SANADA Nobuyuki.

         ○ 真田 信幸(信之)は、

          真田 幸村(信繁)の兄である。

         (⇒ 真田氏

            真田 幸村(信繁))。

            ■ 真田 信幸(信之) (さなだ のぶゆき、

            1566年ー1658年)  は、 安土桃山時

            代、江戸時代初期に活躍した武将であり、

            真田氏・第4代当主 (真田氏当主:1600

            年−1656年) であり、 真田氏の信濃・上

            田 (うえだ)藩・初代藩主(藩主:1600年

            −1622年)であり、 真田氏の信濃・松代

            (まつしろ)藩・初代藩主(藩主:1622年−

            1656年)である。

            ■ 室町時代後期(戦国時代)・安土桃山時

            代・江戸時代初期の、 真田氏・当主変遷 : 

            (1) 真田幸隆(幸綱)⇒(2) 真田 信綱⇒ 

            (3) 真田 昌幸⇒ (4) 真田 信幸(信之)

            ⇒ (5) 真田 信政⇒ (6) 真田 幸道。

            ■ 真田 信幸(信之) (さなだ のぶゆき、

            1566年ー1658年) は、 真田氏の当主 

            (1600年−1656年)であり、 信濃・上田

            領の領主 (1600年−1622年)であり、 

            信濃・松代(まつしろ)領の領主(1622−

            1656年)であり、 上野(こうずけ)・沼田

            領の領主(1600年−1656年) であった。

            ● 真田 信幸(信之) (さなだ のぶゆき、

            1566年ー1658年)は、 真田 昌幸(まさ

            ゆき)の長男であり、 真田 幸村(信繁)の

            兄であり、 安土桃山時代、江戸時代初期の

            武将であった。

 

 さな  真田父子犬伏密談。

            (さなだふしいぬぶしみつだん)。 

          (= 犬伏密談)。 《会議》。

             (1600年7月)。

             THE CONFIDENTIAL TALK BY 

             SANADA’S FATHER AND SONS 

             IN INUBUSHI.

          ○ 真田父子犬伏密談とは、

          下野国犬伏で、真田昌幸・ 幸村

          (信繁)・信幸(信之)の真田父子

          3人が行った密談である。

                (⇒ 慶長5年の

         天下分け目の戦い)。

          (⇒ 真田氏

           真田 幸村(信繁))。

             ■ 真田父子犬伏密談  (さなだふしいぬ

             ぶしみつだん、= 犬伏密談) とは、1600

             (慶長5年)7月に、下野国犬伏で、真田

             昌幸・幸村(信繁)・信幸(信之)の真田父子

             3人が行った密談である。

             ■ 犬伏密談とは、関ヶ原の戦いの数カ月

             前の、1600年(慶長5年)7月に、下野国

             (しもつけのくに、現・栃木県の相当地域)

             の犬伏(いぬぶし)で、 真田氏当主の真田

             昌幸(さなだまさゆき) と、 昌幸の次男の

             真田幸村(信繁(のぶしげ))  と、 昌幸の

             長男の真田信幸(信之)(のぶゆき) の3人

             が行った密談 である。 

             ■ 犬伏密談は、 真田氏当主の真田昌幸

             と、 昌幸の次男の真田幸村(信繁 ) と、 

             昌幸の長男の真田信幸(信之)(のぶゆき) 

             の 3人や真田氏のその後の運命を変える

             会談であった。

             ■ 密談の結果、 天下分け目の戦い(16

              00年の関ヶ原の戦い、その他の戦い)で、 

             真田昌幸と次男・真田幸村(信繁)の父子

             は、石田(三成)方の西軍に味方し、 昌幸・

             長男の真田信幸(信之)は、徳 川(家康)方

             の東軍に味方することとなった。 

 

 さな  真田 昌幸。

             (さなだ まさゆき)。  《人名》。

            (1547年1611年)。

            (真田氏・第3代当主)。

            (真田氏当主:1575−1600年)。

             SANADA Masayuki. 

         ○ 真田 昌幸は、

          真田 幸村(信繁)の父である。

         (⇒ 真田氏

            真田 幸村(信繁))。

            ■ 真田 昌幸 (さなだ まさゆき、1547年

            ー1611年) は、 安土桃山時代に活躍し 

            た、武将であり、 真田氏の第3代当主(当 

                        主:1575年−1600年) であり、 信濃

            (現・長野県)・上田領や上野(こうずけ、現・

            群馬県))・沼田領の領主であった。 

            ■ 室町時代後期(戦国時代)・安土桃山時

            代・江戸時代初期の、 真田氏・当主変遷 : 

            (1) 真田幸隆(幸綱)⇒(2) 真田 信綱⇒ 

            (3) 真田 昌幸⇒ (4) 真田 信幸(信之)

            ⇒ (5) 真田 信政⇒ (6) 真田 幸道。

                          ■ 真田 昌幸 (さなだ まさゆき、1547年

                        ー1611年) は、 信濃 (現・長野県の相

            当地域)・上田領の領主 (1575−1600

            年) であり、 上野(こうずけ、現・群馬県・

            相当地域)・沼田領の領主 (1580年ー

            1600年) であった。

            ● 真田 昌幸 (さなだ まさゆき、1547年

            ー1611年) は、 真田 幸隆(幸綱)の三

            男であり、 真田 幸村(信繁)の父であり、 

            安土桃山時代の武将であった。

 

 さな  真田丸。

             (さなだまる)。 《砦(とりで)》。

          (1614年11月〜12月)。

             SANADAMARU FORTRESS.

           ○ 真田丸は、

          大坂冬の陣の時の砦で

          ある。

          (⇒ 大坂の陣)。

          (⇒ 真田氏

             真田 幸村(信繁))。

             ■ 真田丸 (さなだまる、1614年11月ー

             12月)は、 大坂冬の陣の砦(とりで)である。

             ■ 大坂冬の陣では、 徳川軍は、約20万

             人の兵で、豊臣大阪城を囲んで、東西南 北

             から攻撃したが、 真田幸村(信繁)は、 約

             5000人の兵で、城南から攻め寄せる兵 を

             真田丸に引き寄せて、約1万人以上の兵を

             討ち、徳川方主力部隊に大打撃を与えた。

             ■ 真田丸 (さなだまる)は、 大坂冬の陣

             の砦(とりで)であり、 1614年(慶長19年 )

             の11月から12月まで、 豊臣大坂城の 南方

             存在した出城(でじろ)であ る。 

             ● 真田丸は、 真田幸村(信繁) (さなだ

             ゆきむら(のぶしげ))が、大坂冬の陣で、豊

             臣方の籠城戦 (ろうじょうせん、城攻防戦)

             有利にするため、1614年10月より約1カ月

             の突貫工事で、豊臣大阪城の南方に造った、

             無敵の砦(とりで)であった。

             ● 1614年12月に豊臣方と徳川方の間で、

             和睦が成立し、大坂冬の陣は終わった。 和

             睦の条件は、 大阪城の堀の埋め立て と

             本丸以外の構築物の破壊 (二の丸、惣構

             (そうがまえ、三の丸)の破壊) であっため、 

             徳川方は、停戦後すぐ、約1カ月をかけて

             堀の埋め立てと本丸以外の構築物の破壊を

             行い、その時に、真田丸も消滅した。

             ● 2014年に真田丸の学術調査が行われ

             た。

                真田丸の正確な場所は、今までは特定

             できなかったが、 2014年の学術調査で、

             真田丸は、現在の大坂の餌差町(えさしまち)

             の大坂明星学園(おおさかめいせいがくえん)

             付近にあったことがわかった。

                また、2014年の学術調査で、真田丸

             は、東西220m・南北230mの大きさで、

             四角形の台形型であり、 寺町の市街地の

             中にあったことがわかった。

 

 さな  真田 守信。

             (さなだ もりのぶ)。  《人名》。

            (幼名:大八(だいはち))。

            (1612年−1670年)。

             SANADA Morinobu. 

           ○ 真田 守信は、

          真田 幸村(信繁)の次男で

          ある。

           ○ 真田 守信は、

          仙台藩・真田幸村(信繁)家

            の祖である。

          (⇒ 真田氏

            真田 幸村(信繁))。

                           ■ 真田 守信 (さなだ もりのぶ、幼名:大八

                           (だいはち)、1612−1670年) は、 真田

                            幸村(信繁)(ゆきむら(のぶしげ))の次男で

                            あり、 幸村(信繁)と竹林院(ちくりんいん)

              との間の子であり、 仙台藩の真田幸村(信

               繁)家の祖である。

                            ● 真田 守信は、 1615年の大坂夏の陣

                            後、片倉重長 (かたくらしげなが、片倉小十

                           郎(景綱)の子) に保護され、 その後、仙

                           台藩片倉氏家臣となる。

 

 さな   真田 幸隆(幸綱)。

             (さなだ ゆきたか(ゆきつな))。 《人名》。

             (15131574年)。

             (真田氏・初代当主)。

             (真田氏当主:1548年頃−1567)。

              SANADA Yukitaka (Yukitsuna). 

          ○ 真田 幸隆(幸綱)は、

          真田 幸村(信繁)の祖父

          である。

          (⇒ 真田氏

             真田 幸村(信繁))。

             ■ 真田 幸隆(幸綱) (さなだ ゆきたか

             (ゆきつな)、1513年ー1574年)は、室町

             時代後期(戦国時代)に活躍した武将で

             あり、 真田氏の初代当主 (真田氏当主:

            1548年頃−1567) であり、 信濃(しな

            の、現・長野県の相当地域)の上田領の領

            主であった。

            ■ 室町時代後期(戦国時代)・安土桃山時

            代・江戸時代初期の、 真田氏・当主変遷 : 

            (1) 真田幸隆(幸綱)⇒(2) 真田 信綱⇒ 

            (3) 真田 昌幸⇒ (4) 真田 信幸(信之)

            ⇒ (5) 真田 信政⇒ (6) 真田 幸道。

            ■ 真田 幸隆(幸綱) (さなだ ゆきたか(ゆ

             きつな)、1513年ー1574年) は、 海野

            (うんの)氏分家であり(諸説あり)、 真田氏

            の当主  (当主:1548年頃−1567年) で  

            あり、 信濃(しなの、現・長野県)・上田領の 

            領主(1548年頃−1567年) であった。

            ● 真田 幸隆(幸綱) は、 真田 信綱や真

             田昌幸の父であり、 真田 幸村(信繁)の祖

            父であり、 室町時代後期(戦国時代)の武

            将であった。

 

 さな  真田 幸昌(大助)。

            (さなだ ゆきまさ(だいすけ))。 《人名》。

            (1600年頃ー1615年)。

             SANADA Yukimasa. 

           ○ 真田 幸昌(大助)は、

          真田 幸村(信繁)の長男で

          ある。

           ○ 真田 幸昌(大助)は、

          真田 幸村(信繁)と共に、

          大坂夏の陣で戦死する。

         (⇒ 真田氏

          真田 幸村(信繁))。

            ■ 真田 幸昌(大助) (さなだ ゆきま

             さ(だいすけ)、1600年頃ー1615年) 

            は、 真田 幸村(信繁)(ゆきむら(のぶ

            しげ))の長男であり、 幸村(信繁)と竹

             林院(ちくりんいん)との間の子であり、 

            真田 幸村(信繁)と共に、 1615年の

            大坂夏の陣で戦死する。

 

 さな  真田 幸道。

            (さなだ ゆきみち)。 《人名》。

            1657−1727年)。

         (真田氏・第6代当主)。

         (真田氏当主:

           1658−1727年)。

          SANADA Yukimichi. 

         ○ 真田 幸道は、

          真田 幸村(信繁)の大甥

             (おおおい)である。

         (⇒ 真田氏

            真田 幸村(信繁))。

            ■ 真田 幸道 (さなだ ゆきみち、真田右衛

            門、1657−1727年) は、 真田氏の第

            6代当主 (真田氏当主:1658−1727

            年)であり、 真田氏の、松代(まつしろ)藩・

            第3代藩主 (藩主:1658−1727年)で

            ある

            ■ 室町時代後期(戦国時代)・安土桃山時

            代・江戸時代初期の、真田氏・当主変遷 : 

            (1) 真田幸隆(幸綱)⇒(2) 真田 信綱⇒ 

            (3) 真田 昌幸⇒ (4) 真田 信幸(信之)

            ⇒ (5) 真田 信政⇒ (6) 真田 幸道。

            ■ 真田 幸道 (さなだ ゆきみち、真田右

            衛門、1657−1727年) は、 真田氏

            の当主 (当主:1658−17 27年) で

            あり、 信濃・松代(まつしろ)領の領主(16

            58−1727年)  であった。

            ● 真田 幸道は、 信濃・真田氏 の松代藩

            第2代藩主・真田 信政(のぶまさ)の六男で 

            あり、 真田 幸村(信繁)の大甥(おい) (幸

            村(信繁)の兄・信幸(信之)の孫) であり、 

            信政と信政夫人・松寿院との間の子である。

            ● 1658年(明暦4年)6月に、幕命により、

            真田 幸道は、信濃・松代(まつしろ)領を相

            続し、松代藩主となり、 真田 信利(信直)

            は、上野・沼田(ぬまた)領を相続し、沼田藩

            主となった。

            ● 真田 信幸(信之)(のぶゆき)の長男(庶

            子、側室夫人の子) は、  側室夫人・清音

            院との間の子・真田 信吉(のぶよし、15

            95−1635年)であり、 真田 信吉(のぶよ

            し)の次男は、 真田 信利(信直)(さなだ の

            ぶとし(のぶなお)、生没年:1635−1688

            年) であった。

              1658年(明暦4年)6月に、真田 信利

            (信直)(のぶとし(のぶなお)、信吉の次男)

            は、 幕命で、松代藩から分離独立して、上

            野(こうずけ、現・群馬県)・沼田(ぬまた)領

            の領主 (1658−1681年) となり、 

            上野・真田氏・沼田(ぬまた)藩・初代藩主

            (1658−1681年) となる。 しかし、

            沼田藩は、1681年(天名(てんな)元年)11

            月に、改易(かいえき、領地没収) となる。  

 

 さな  真田 幸村(信繁)

            (さなだ ゆきむら(のぶしげ))。 《人名》。

          (1567年−1615年)。

             SANADA Yukimura 

          (Nobushige). 

          ○ 真田 幸村(信繁)は、

          日本一の兵 (ひのもといちのつ

          わもの)、戦国一の兵 (せんごく

          いちのつわもの) といわれた、

          武将である。         

          ○ 真田 幸村(信繁)は、

          天才的戦略家である。

          ○ 真田 幸村(信繁)は、

          安土桃山時代・江戸時代初

          期に活躍した武将である。

          (⇒ 真田氏)。

             ■ 真田 幸村(信繁) (さなだ ゆきむら(の

             ぶしげ)、1567年ー1615年) は、 安土

             桃山時代、江戸時代初期に活躍した、武将

             である。

             ● 真田 幸村(信繁)は、 天才的戦略家であ

             り、 日本一の兵 (ひのもといちのつわもの)、

             戦国一の兵 (せんごくいちのつわもの) と

             いわれた武将 である。

             ● 真田 幸村(信繁)は、 大坂の陣(1614

             −15年)に豊臣方の武将として参戦し、幸村

             (信繁)は、1614年の大坂冬の陣では真田

             丸の砦を使い多くの兵を討ち取り徳川方に大

             打撃を与え、1615年の大坂夏の陣では大活

             躍し野戦で徳川家康本陣間際まで迫り、戦死

             する。

             ● 真田戦法とは、 少数の兵で多数の敵兵

             に勝つために、「おびき寄せてたたく」という

             戦法であった。 

             ● 真田 幸村(信繁)は、上田領・領主の真田

             昌幸の次男として生まれ、 真田氏・当主では

             なかった。

             ● 真田 幸村(信繁) (さなだ ゆきむら(のぶ

             しげ)、1567〜1615年) は、 真田 昌幸

             (まさゆき)の次男であり、 安土桃山時代、江

             戸時代初期の武将であった。

             ● 真田 幸村(信繁)は、 大坂の陣(1614−

             15年)に豊臣方の武将として参戦し、1615年

             の大坂夏の陣で、戦死する。

             ● 真田 幸村(信繁)(さなだ ゆきむら(のぶ

             しげ)の一族の男性は、 

             (1) 祖父の 、真田 幸隆(幸綱)(ゆきたか

                (ゆきつな))、 

             (2) 伯父(おじ)の、真田 信綱(のぶつな)

               や真田昌輝(まさてる)、

             (3) 叔父(おじ)の、真田 信尹(のぶただ)、 

             (4) 父の真田 昌幸(まさゆき)、 

             (5) 兄の 、真田 信幸(信之)(のぶゆき)、 

             (6) 幸村(信繁)の長男の、真田幸昌(大

               助)(ゆきまさ(だいすけ))、

             (7) 次男の真田 守信(もりのぶ)、 

             (8) 三男の三好幸信(左馬之介)(みよし

               ゆきのぶ(さまのすけ))

             などである。 

             ● 真田 幸村(信繁) (さなだ ゆきむら(の

             ぶしげ) の一族の女性は、 

             (1) 祖母の恭雲院  (きょううんいん)

               (NHK大河ドラマ「真田丸」で仮称「とり」

               で登場)、

             (2) 生母の山手殿  (やまのてどの) 

               (NHK大河 ドラマ「真田丸」で仮称「薫

               (かお る)」で登場)、

             (3) 兄・信幸(信之)の側室(元正 室)夫

               人の清音院 (せいおんいん ) 

               (NHK大河ドラマ 「真田丸」で仮称「こう」

               で登場)、

             (4) 兄・信幸(信之)の正室夫人の小松姫 

               (こまつひめ) 

               (NHK大河ドラマ「真田丸」で仮称「稲

               (いな)」で登場)、

             (5) 姉の村松殿 (むらまつどの ) 

               (NHK 大河ドラマ「真田丸」で仮称「松

               (まつ)」で登場)、

             (6) 幸村(信繁)の正室夫人の、竹林院 

               (ちくりんいん) 

               (NHK大河ドラマ「真田丸」で仮称「春

               (はる)」で登場)、 

             (7) 幸村(信繁)の側室夫人の、堀田興重

               の妹 (実名不詳、ほったおきしげのいも

               うと) 

                (NHK大河ドラマ「真田丸」で仮称「 梅

               (うめ)」で登場)、 

             (8) 幸村(信繁)の側室夫人の高梨内記の

               娘 (実名不詳、たかなしないきのむすめ) 

               (NHK大河ドラマ「真田丸」で仮称「 きり」

               で登場)、

             (9) 幸村(信繁)の側室夫人の隆清院 

                (りゅうせいいん) 

             (10) 幸村(信繁)の娘の、菊 (きく、長女)、  

               市 (いち、次女)、 梅 (うめ、三女)、 

               あくり (あぐり、四女)、 なほ (御田姫

               (おたひめ、顕性院)、五女)、 菖蒲 

               (しょうぶ、六女)、 かね (七女) など

               である。

 

 さな   真田 幸村(信繁)の参戦

             (さなだ ゆきむら(のぶしげ)のさんせん)。

            《真田幸村(信繁)》。

 

 さな   真田 幸村(信繁)の一族

             (さなだ ゆきむら(のぶしげ)のいちぞく)。

            《真田幸村(信繁)》。

 

 さな   真田幸村(信繁) 簡略年表

             (さなだゆきむら(のぶしげ) かんりゃくねん

             ぴょう)。

                      真田幸村(信繁)の略年表》。

 

 さな   真田 幸村(信繁) 関連

               出来事 (年代順・詳細)

             (さなだ ゆきむら(のぶしげ) かんれん

             できごと (ねんだいじゅん・しょうさい))。

                      真田幸村(信繁)・人物関連

          出来事》。

 

○ さぬ  讃岐 国。

             (さぬき のくに)。

             旧国(令制国)。 《旧地域名》。

          (= 讃州(さんしゅう))。 

          (≒ 現・香川県の相当地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の、

           旧国(令制 国)の正式名)。

             SANUKI PROVINCE.

                    (⇒ 讃州(さんしゅう))。

                    (⇒ 香川県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

          ■ 讃岐 国。

             <南海道・旧広域地方。

             <五畿七道。

             ■ 讃岐 国 (さぬき のくに)は、 律令制

             定後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             旧国(令制国)の正式名である

             ■ 讃州 (さんしゅう)は、 律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、旧国

             名(令制国)正式名の、讃岐 国 (さぬき

             のくに)の 別称である。

             ■ 讃岐 国(= 讃州)は、 現・ 四国地方

             の、現在の香川県 に相当する 地域であ

             る。

             ■ 讃岐 国(= 讃州)は、 五畿七道 (ご

             きしちどう)の南海道(なんかいどう)・旧広

                           域地方に属する。

 

 さね   誠仁親王。

             (さねひとしんのう)。 《人名》。

           (生没年:

           1552年ー1586年)。

           (⇒ 織田信長正親町(お

             おぎまち)天皇勧修寺晴子

          (かじゅうじはるこ)後陽成(ご

          ようぜい)(和仁親王)、

          後水尾(ごみずのお)天皇)。

             ■ 誠仁親王 (さねひとしんのう

             生没年:1552年ー1586年

             は、 正親町天皇(おおぎまちてん

             のう)の嫡子であり、 誠仁親王の

             夫人(「女房」)は、 勧修寺晴子

             (かじゅうじはるこ、新上東門院)で

             あり、 誠仁親王と勧修寺晴子と

             の間の子で第一王子(皇子)が、

             後陽成天皇(ごようぜいてんのう、

             和仁(かずひと)親王)である。

             ■ 正親町天皇⇒ 誠仁親王⇒

             後陽成天皇⇒ 後水尾天皇。

             誠仁親王 (さねひとしんのうは、 

             父が正親町天皇 (おおぎまちて

             んのう)であり、 子が後陽成天皇

             (ごようぜいてんのう)であり、孫

             が後水尾天皇(ごみずのおてん

             のう)である。

             ■ 織田信長と誠仁親王との関係。

              ● 誠仁親王 (さねひとしんのう)

             は、 織田信長の庇護を受け、朝廷

             で大勢力をもち、信長が大改造した

             「二条御所」に居住する。 

             ● 「二条御所」は、正親町天皇の

             居住する上御所(かみごしょ)に対

             し、 下御所(しもごしょ)と呼ばれ、

             正親町天皇も朝廷の意思決定では、

             誠仁親王の意見を求め、副朝廷の

             様相を呈する。

             ● 本能寺の変では、誠仁親王は、

             織田信忠と共に、「二条御所」にい

             たが、信忠同行の村井貞勝と明智

             光秀との交渉により、誠仁親王とそ

             の妻子、宿直の公家は、御所を脱

             出し、禁裏(上御所)へ逃げ込む。

 

 さね  真之。

            (さねゆき)。 《人名》。

          (= 秋山 真之)。

          ○ 明治・大正期の海軍軍人。

          (⇒ 秋山 真之)。

             ■ 真之(さねゆき、= 秋山 真之)は、

             明治・大正期の海軍軍人である。

 

 さの  佐野 常民。 

            (さの つねたみ)。  《人名》。

          (1822年ー1902年)。

          ○ 明治時代の政治家。

          ○ 日本赤十字社の創立者。

          (⇒ 日本赤十字社)。

             ■ 佐野 常民 (さの つねたみ 、1822年

             ー1902年) は、 明治時代の政治家であ

             り、 日本赤十字社の創立者である。

 

 さば  佐幕派

            (さばくは)。 《幕末政治運動派閥》。

          ○ 幕末に、江戸幕府と協力して

          日本を統治しようとする政治運動

             を行った人(者)。 

          ○ (例) 会津藩主の松平容保

             (かたもり)

             ■ 佐幕派(さばくは)は、 幕末の政治運動

             派閥であり、 幕末に、江戸幕府と協力して

              日本を統治しようとする政治運動 を行った

             人(者)である。

               ● 例えば、佐幕派には、会津藩主の松平

             容保(かたもり)がいる。

 

〇 さば  佐幕派と尊皇(王)派との

        対立。

             (さばくはとそんのうはとのたいりつ)。 

             《幕末政治運動派閥》。

            (1853年頃ー1867年頃)。

       (⇒ 幕末日本政治・政争

        変遷一覧表)。

             ■ 佐幕派と尊皇(王)派との対立 (さば

             くはとそんのうはとのたいりつ) は、1853

             年頃から1867年頃までの間に起こった幕

             末政治運動派閥の対立である。

 

〇 さば  佐幕派・公武合体派と尊

       皇(王)攘夷派・急進派と

       の対立。 

             (さばくは・こうぶがったいはとそんのうじょ

             ういは・きゅうしんはとのたいりつ)。

          《幕末政治運動派閥》。

          (1860年頃ー1864年頃)。

       (⇒ 幕末日本政治・政争

            変遷一覧表)。

             ■ 佐幕派・公武合体派と尊皇(王)攘夷派・

               急進派との対立 (さばくは・こうぶがったい

             はとそんのうじょういは・きゅうしんはとのた

             いりつ) は、 1860年頃から1864年頃ま

             での間に起こった幕末政治運動派閥の対立

             である。

 

〇 さば  佐幕派・公武合体派と尊

       皇(王)倒幕派との対立。

             (さばくは・こうぶがったいはとそんのうとう

             ばくはとのたいりつ)。

                     《幕末政治運動派閥》。

             (1864年頃ー1866年頃)。

        (⇒ 幕末日本政治・政争

             変遷一覧表)。

             ■ 佐幕派・公武合体派と尊皇(王)倒幕派

                      との対立 (さばくは・こうぶがったいはとそ

             んのうとうばくはとのたいりつ) は、1864

             年頃から1866年頃までの間に起こった幕

             末政治運動派閥の対立である。

 

〇 さば  佐幕派・公議政体派と尊

        皇(王)倒幕派との対立。

             (さばくは・こうぎせいたいはとそんのうとう

             ばくはとのたいりつ)。

                    《幕末政治運動派閥》。

          (1866年頃ー1867年頃)。

        (⇒ 幕末日本政治・政争

              変遷一覧表)。

             ■ 佐幕派・公議政体派と尊皇(王)倒幕派

             との対立 (さばくは・こうぎせいたいはとそ

             んのうとうばくはとのたいりつ) は、1866

             年頃から1867年頃までの間に起こった幕

             末政治運動派閥の対立である。

 

#sama

 

 さむ  侍。

             (さむらい)。  《身分》。

          (= 武士、武者(むしゃ))。 

             (10世紀ー19世紀)。

       (⇒ 武士

             ■ 侍 (さむらい、10世紀ー19世紀)は、

             武士、武者(むしゃ)である。

 

 さむ  侍所

             (さむらいどころ)。  《政治機関》。

             ■ 侍所 (さむらいどころ)は、 鎌倉幕府 や

             室町幕府の政治機関である。

             ● 鎌倉幕府の、侍所は、 鎌倉幕府の、御 

             家人(ごけにん、将軍家臣)の統制 や 軍

             事・警察 を担う機関であった。

             ● 室町幕府の、侍所は、室町幕府の、軍事・

             警察 や 京(都)の警備・裁判 を担う機関

             であった。

 

#sara

 

 さる   申の刻。 

             (さるのこく)。  《時刻》。

             ■ 前近代日本の、定時法と不定時法の、

              十二支表示時刻の主要時間区分。

             ● 申の刻 (さるのこく)は、前近代日本の、

              定時法と不定時法の、十二支表示時刻の

              主要時間区分である。

                    (⇒ 前近代日本の時刻・

        時法

             ■ 申の刻 ≒ 午後3時00分〜午後5時00分。

             ● 申の刻 (さるのこく)は、概ね、午後3時

              頃から午後5時頃までである。

             ■ 申の刻の正刻 (正申(しょうしん))

              ≒ 午後4時00分。 昼間・午後4時頃。

              ≒ (昼) 七(ななつ)、七つ、七ツ。 

             ● 申の刻の正刻 (しょうこく、= 正申(しょうし

              ん) )は、概ね、 昼間の午後4時頃であり、

              昼間のの七(ななつ)、七つ、七ツの時刻である。

             ○ 申一刻(申一つ時)≒

              午後3時00分〜午後3時30分。

             ○ 申二刻(申二つ時)≒

              午後3時30分〜午後4時00分。

             ○ 申三刻(申三つ時)≒

              午後4時00分〜午後4時30分。

             ○ 申四刻(申四つ時)≒

              午後4時30分〜午後5時00分。

 

〇 さわ  沢村 惣之丞

             (さわむら そうのじょう)。 《人名》。

          ○ 坂本龍馬の同志。

          ○  土佐脱藩浪士。

          ○ 土佐藩下級武士・地下浪人

             (じげろうにん )出身。

             ■ 沢村 惣之丞 (さわむら そうのじょう)

             は、  土佐藩下級武士・地下浪人(じげろう

             にん )出身 であり、 土佐脱藩浪士であり、

             坂本龍馬の同志であった。

 

 さん   山陰道 

             (さんいんどう)。 

          (旧地方名)。 《旧地域名》。

          (= 山陰道・ 旧広域地方)。

          (= 五畿七道の1つ)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の、

           旧地方名の正式名)。

             SANINDO REGION.

                    (⇒ 五畿七道)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

             ■ 山陰道 (さんいんどう、英:SANINDO 

             REGION) は、 旧地方名で、山陰道・ 旧広

             域地方であり、 五畿七道の1つである。

          ■ 山陰道・旧広域地方は、

            前近代日本の、

          @ 丹後 国 (京都府北部)、 

          A 丹波 国 (京都府中部)、  

                   B 但馬 国 兵庫県北部)、 

          C 因幡 国 (鳥取県東部)、 

          D 伯耆 国 (鳥取県西部)、 

          E 隠岐 国 (島根県隠岐諸島)、 

          F 出雲 国 (島根県本土東部)、 

          G 石見 国 (島根県本土西部)、

          の地域である

          ■ 山陰道・旧広域地方は、

           前近代日本の、

          @ 丹後 国 (たんご のくに、

          現・京都府北部の相当地域)、 

          A 丹波 国 (たんば のくに、

              現・京都府中部の相当 地域)、

          B 但馬 国 (たじま のくに、

              現・兵庫県北部 の相当地域)、 

          C 因幡 国 (いなば のくに、

          現・鳥取県東部の相当地域)、 

          D 伯耆 国 (ほうき のくに、

          現・鳥取県西部の相当地域)、   

          E 隠岐 国(おき のくに、

          現・島根県隠岐諸島の相当 地域)、 

          F 出雲 国 (いずも のくに、

          現・島根県本土東部の 相当地域)、

          G 石見 国 (いわみ のくに、

             現・島根県本土西部の 相当地域)、

          の地域である

          ■ 山陰道・旧広域地方。

            <五畿七道 (ごきしちどう)。

             (≒ 日本本土 (本州、四国、九州))。

            <旧大地域名。

            <旧地域名。

            <地域名。

            <日本の地名

 

 さん  算額。

            (さんがく)。 《和算》。

          (= 数学の問題や解答が書かれ

          た絵馬)。

       (⇒ 和算

                        ■ 算額 (さんがく)とは、 数学 (和算

             (わさん、日本の数学)) の問題や解答

             が書かれた絵馬である。

                        ■ 江戸時代に、数学ブームが起こり、神

             社や寺の絵馬の算額を使って(神社や寺

             に絵馬の算額を奉納して)、 庶民が数

             学の問題を出したり、解いたりしていた。 

 

 さん  三管領家。

            (さんかんれいけ)。  《室町幕府》。

            (= 三管領、管領家)。

       (⇒ 管領室町幕府

            ■ 三管領家(さんかんれいけ)とは、 室町

            幕府の管領(かんれい、将軍補佐職)に任じ

             られた、3氏の武家である。

            ■ 三管領家は、 室町幕府の、将軍を補

             佐する役職の管領に交代で任じられた、

                          斯波(しば)、細川(ほそかわ)、 畠山(はた

             けやま)の3氏の武家である。

 

 さん  三管四職 。

            (さんかんれいししき)。  《室町幕府》。

       (⇒ 管領侍所

           室町幕府。  

             ■ 三管四職 (さんかんれいししき)とは、

             室町幕府の管領(かんれい、将軍補佐

             職)に任じられた、斯波・細川・畠山の3氏

             の三管領家(さん かんれいけ) と、室町

             幕府の侍所 (さむらいどころ、政治機関)

             所司(しょし、長官)に任じられた、山名・

             赤松・一色・京極の4氏の四職家(ししきけ)

            である。

 

 さん  参議

            (さんぎ)。 《官職》。

             ■ 前近代日本での朝廷の官職。

          ○ 大臣、大・中納言に次ぐ重職。 

          ○ 朝廷の位階・四位(しい)以上

                  で参議に叙任された者。 

              ■ 参議 (さんぎ)は、 前近代日本での

             朝廷の官職であり、 大臣、大・中納言に

             次ぐ重職であり、 朝廷の位階・四位(しい)

                      以上で参議に叙任された者である。 

           (⇒ 朝廷の官職朝廷公卿)。

          ● 朝廷の官職。

              ■ 前近代日本の、高位の朝廷の官職

             は、 高位順に、 @ 太政大臣 (だいじょ

             うだいじん)、 A 左大臣 (さだいじん)、 

             B 右大臣 (うだいじん)、  C 内大臣 

             (ないだいじん)、 D 大納言 (だいな

             ん)、 E 中納言 (ちゅうなごん)、 F 

             参議 (さんぎ) などがある。

          ■ 明治新政府の行政官、政府

          首班。

                    ○ 明治初期の近代日本政府の

           太政官制(だじょうかんせい、1868

           〜1885年)の要職。

          (⇒ 近代日本政府)。

              ■ 参議 (さんぎ)は、 明治新政府の行政

             官、政府首班であり、 明治初期の近代日本

              政府の太政官制(だじょうかんせい、1868

              〜1885年)の要職 であった。

 

 さん   参勤交代制

              (さんきんこうたいせい)。  

             《江戸幕府の大名統制策》。

             (1635年ー1864年)。 

                     ○ 江戸時代の、江戸幕

           府の大名統制策の1つ。 

           ○ 大名(藩主)は、

                     妻子を江戸におき、原則、

          1年間江戸で、1年間地元

          の藩(大名領地)で、暮らす。

             ■ 参勤交代制 (さんきんこうたい

             せい、1635年〜1864年)は、

             江戸時代の、江戸幕府の大名統制

             策の1つである。 

             ● 大名(藩主)は、 妻子を江戸に 

                        おき、原則、1年間江戸で、1年間

              地元の藩(大名領地)で、暮らす。 

             ■ 1862年の文久の改革(幕政

             改革)で、参勤交代制は緩和され、

             隔年が3年に一度(在府100日)

             となり、妻子の帰国が許可された。 

             ● 1864年9月に、参勤交代制は

             廃止となった。

                          ● 参勤交代制は、大名が将軍に

             服属させる儀式である。 

             大名が参勤交代を行わないと、

             江戸幕府への反逆者となる。 

             ● 参勤交代制は、各大名(藩主)

             の移動や江戸駐留で各大名に多額

             の費用を使わせ、各大名の経済力

             を低下させ、幕府への反乱を起こさ

             せないことも目的としていた。

 

 さん  三献の茶。

             (さんけんのちゃ)。 《出来事》。

         (⇒ 石田三成)。

            ■ 三献の茶 (さんけんのちゃ) とは、安土桃

            山時代に、 羽柴秀吉(豊臣秀吉)が石田三成

            を臣下(家臣)にするきっかけとなった時の話

            である。

            ● 三献の茶は、 秀吉が近江国 (おうみの

            くに、 現・滋賀県の相当地域)の琵琶湖畔の

            長浜(ながはま)で城主をしていた時、領内の

            検分のため鷹(たか)狩りの帰りに訪れた近江

            国の寺で、寺に預けられていた三成は秀吉に

            3杯の茶を差出し、秀吉が三成の知恵配り・心

            配りに感動し秀吉に気に入られ、秀吉は三成を

            家臣に加えたという話である。

            ●  秀吉が訪れた近江国の寺(観音寺または

            三珠院)で、寺小姓の三成に茶を所望した際、

            三成は、秀吉が喉が渇いているであろうと思い、

            ぬるい茶で喉の渇きを癒させ後に熱い茶を十

            分味あわせるため、一杯目は、大きめの茶碗

            にぬるい茶を差出し、二杯目はやや小さな茶

            碗にやや熱めの茶を差出し、三杯目は、小さ

            な茶碗に熱めの茶を差出したという話である。

            ● 三献の茶の話は、安土桃山時代の当時の

            書物ではなく、後の江戸時代中期に書かれた

            書物「武将感状記」に記されているが、事実か

            どうかは不明である。

 

 さん  三光作戦

             (さんこうさくせん)。 《作戦》。

             (= 大掃討作戦 だいそうとうさくせん)。

             《在日・旧日本軍の華北作戦》。

                    (1940年ー1945年)。

          ○ 現代中国人の反日感情の

                    1つとなっている、日中戦争中の、

          民間人に残虐行為を行った、華

                    北での旧日本軍の中国人ゲリラ

          壊滅作戦。

             ■ 三光作戦 (さんこうさくせん 、別名:大

             掃討作戦(だいそうとうさくせん)、1940年

             ー1945年) とは、 在日・旧日本軍の華

             北作戦である。

             ● 三光作戦 は、 現代中国人の反日感情

                        の1つとなっている、日中戦争中の、民間人

             に残虐行為を行った、華北での旧日本軍の

             中国人ゲリラ壊滅作戦 である。

 

 さん  三司官。

             (さんしかん)。 《琉球王国》。

          (= 琉球王国の宰相)

                     THE 3 HEAD MINISTERS.

                    (⇒ 琉球王国

           沖縄の歴史)。

          ○ 琉球(沖縄)の士族から選ば

          れ、琉球国王の国王を補佐する

          3人制の宰相。

             ■ 三司官 (さんしかん)は、 琉球王国の

             宰相(さいしょう)であり、 琉球(りゅうきゅ

             う、沖縄)の士族から選ばれ、 琉球国王の

             国王を補佐する、3人制の宰相である。

 

 さん  讃州

             (さんしゅう)。 《旧地域名》。

          (= 讃岐 ( さぬき のくに))。

          (≒ 現・香川県の相当地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

          日本・旧地域名の、

          旧国(令制国)の別称)。

             SANUKI SANSHU AREA.

                    (⇒ 讃岐 )。    

                    (⇒ 香川県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

             ■ 讃州 (さんしゅう)は、  律令制定

             後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             旧国(令制国)正式名の、讃岐 国  (さ

             ぬき のくに) の別称である。

                          ■ 讃州(= 讃岐 )は、  南海道(なん

             かいどう)・旧広域地方に属し、現・四国

             地方の、現在の香川県に相当する地域で

             ある。

 

 さん  山州。

             (さんしゅう)。 《旧地域名》。

          (= 山城( やましろのくに))。

          (≒ 現・京都府南部の相当地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国(令制

           国)の別称)。

             YAMASHIRO SANSHU AREA.

                    (⇒ 山城)。    

                    (⇒ 京都府)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

             ■ 城州( じょうしゅう)、山州(さんしゅう)、

             雍州(ようしゅう)は、  律令制定後・古代・

             中世・近世日本・旧地域名の、旧国(令

             制国)正式名の、山城 国 (やましろ のく

             に) の 別称である。

                          ● 山州(= 山城)は 、 畿内(きない、

             五畿)・旧広域地方に属し、 現・近畿地方

             の、現・ 京都府南部に相当する地域である。

 

 さん  三州

             (さんしゅう)。 《旧地域名》。

          (= 三河 ( みかわ のくに)、参州

             (さんしゅう))。

          (≒ 現・愛知県東部の相当地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

          日本・旧地域名の、

          旧国(令制国)の別称)。

             MIKAWA SANSHU AREA.

                    (⇒ 三河 )。    

                    (⇒ 愛知県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

             ■ 三州 (さんしゅう) や参州 (さんし

             ゅう)は、  律令制定後・古代・中世・近

             世日本・旧地域名の、旧国(令制国)

             正式名の、三河 国 ( みかわ のくに、

             別名:参河 国(みかわ のくに))  の別

             称である。

                          ● 三州 (= 三河 国、参州は、 東海

             道(とうかいどう)・旧広域地方に属し、現・

             中部地方の、現在の愛知県東部に相当

             する地域である。

 

 さん  参州

             (さんしゅう)。 《旧地域名》。

          (= 三河 ( みかわ のくに)、三州

             (さんしゅう))。

          (≒ 現・愛知県東部の相当地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

          日本・旧地域名の、

          旧国(令制国)の別称)。

             MIKAWA SANSHU AREA.

                    (⇒ 三河 )。

                    (⇒ 愛知県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

             ■ 参州 (さんしゅう) や三州 (さんし

             ゅう)は、  律令制定後・古代・中世・近

             世日本・旧地域名の、旧国(令制国)

             正式名の、三河 国 ( みかわ のくに、

             別名:参河 国(みかわ のくに))  の別

             称である。

                          ● 参州 (= 三河 国、三州は、 東海

             道(とうかいどう)・旧広域地方に属し、現・

             中部地方の、現在の愛知県東部に相当

             する地域である。

 

 さん  三従の教え。

             (さんじゅうのおしえ)。 《儒教思想》。

               (⇒ 江戸幕府)。

                    ■ 三従の教え (さんじゅうのおしえ) 

             とは、 女性の一生は、 親に従い、夫に

             従い、子に従って生きるという教えであ

             る。

             ● 三従の教えは、 封建社会を守るた

             め江戸幕府が普及した儒教思想の1つ

             であった。 

             ● 男尊女卑の、女性の三従教えと良妻

             賢母は、江戸時代の封建社会を支えた。

             ●  江戸時代の女性への道徳書には、女

             性教訓書の「女大学」(おんなだいがく)

             などがある。

             ■ 安土桃山時代の日本では、比較的男

             女平等であった。 しかし、江戸時代に

             は、男尊女卑、男女不平等となり、女性

             の地位が日本史上で最も低下した。

               徳川家康は、 林羅山(はやしらざん)

             などの朱子学の儒学者を用い、朱子学

             の儒教思想を、政治統治に全面採用し

             た。

               徳川家の江戸幕府は、 幕藩体制の

             長期安定政権をつくるため、 朱子学の

             儒教思想を全面採用し、 江戸時代に、

             儒教基盤の封建制のピラミッド社会を形

             成した。

             ■ 徳川家の江戸幕府は、 忠孝などの

             儒教思想により、 大名(藩主)を徳川家

             の江戸幕府の将軍に服従させ、 大名家

             臣(藩士)を大名(藩主)に服従させ、 農

             工商民を大名家臣(藩士)の武士に服従

             させ、 大名家臣(藩士)の武士や農商工

             民の夫人を、大名家臣(藩士)の武士や

             農商工民の夫に服従させ、 江戸時代に、

             儒教基盤の封建制のピラミッド社会を形

             成し、 約260年に及ぶ、戦いのない、

             平和な、秩序のある、不平等社会を実現

             させた。

             ● 江戸時代の日本では、 三従の教え

             や良妻賢母(男性は仕事・女性は家事

             育児) などの儒教思想により、女性の

             男性服従が確立した。 しかし、明治時

             代に入り、改善が始まり、戦後、現代日

             本で、再び、男女平等となる。

 

 さん  三条 公教

             (さんじょう きんのり・きみのり)。

          《人名》。

                          (1103年ー1160年)。 

          (⇒ 平治の乱)。  

          ○ 平安時代末期の公家。

          ○ 平治の乱で、平清盛を従

                えて、戦いに参加し、勝利を

          得る。

             ■ 三条 公教  (さんじょう きんのり・

             きみのり、1103年ー1160年)は、 

             平安時代末期の公家であり、 平治の

                   乱で、平清盛を従えて、戦いに参加し、

                           勝利を得る。

 

 さん  三条 実美。

             (さんじょう さねとみ)。

          《人名》。

          (1837年ー1891年)。

           幕末 や明治 時代前期に

          活躍した公家。

             ■ 三条 実美 (さんじょう さねとみ、

             1837年ー1891年)は、 幕末や明

             治 時代前期に活躍した公家である。

 

 さん  三条西家。

             (さんじょうにしけ)。

          《公家の氏族》。

          (1339年ー1871年)。

             ■ 三条西家は、大臣家の家格をも

             つ堂上公家であり、 和歌や香道を

             家業とする。 

                三条西家は、明治時代に入り、

             伯爵家となる。

             ■ 春日局(お福) (かすがのつぼね

             (おふく)、1579年ー1643年)は、

             母方の三条実技(さねき)の曾孫(ひ

             まご)である。

               春日局(お福)の生母は、三条

             技(さねき)の娘の子である。

                本能寺の変後敗戦した明智光秀

             の腹心重臣で春日局(お福)の父・斎

             藤利三(さいとうとしみつ)の処刑後、

             春日局(お福)と母は、母方の親類の

             三条西家で匿(かくま)われ、春日局

             (お福)は、三条西家で養育された。 

             三条西実技(さねき)の孫の三条西実

             条(さねえだ、1575年ー1640年)と

             も幼少より親交が深かった。 

                江戸幕府で権勢をふるうように

             なった春日局(お福)は、江戸幕府の

             対朝廷工作で、三条西実条(さねえ

             だ)と協力するようになった。

             ■ 三条西家は、 三条西公時(さん

             じょうにしきんとき、1339年ー1383

             年)を祖(初代)とする公家である。  

                三条西家は、 室町時代前期内

             大臣・正親町実継(おおぎまちさねつ

             ぐ)の子・公時(きんとき)に始まる。

                正親町公時の屋敷があった地

             名・三条北の西朱雀(にしすざく)が

             三条西家の家名となった。 

             ■ 三条西家 (さんじょうにしけ、=

             西三条家)は、 藤原氏北家の一流・

             藤原氏北家閉院流の三条家の庶

             流・正親町三条家(おおぎまちさん

             じょけ)の分家である。  

             ■ 三条西家は、 室町時代後期か

             ら安土桃山時代にかけて、三条西 

             公保(きんやす)、実隆(さねたか)、

             実技(さねき)は、内大臣となり、 

             公条(きんえだ)や実条(さねえだ)

             は、右大臣となり、 三条西 実隆

             (さねたか)、公条(きんえだ)、実

             技(さねき)は、古典学者、歌人と

             して名高い。

             ■ 室町時代後期、安土桃山時

             代、江戸時代初期の三条西家の

             当主の変遷は、三条西家の4代・

             実隆(さねたか)、5代・公条(きん

             えだ)、6代・実技(さねき)、7代・

             公国、8代・実条(さねえだ)である。

             ■ 江戸時代前期に、三条西家に

             2つの分家が起こる。 三条西 実

             技の孫・実条(さねえだ)の子・公

             種が武者小路家(むしゃこうじけ)

             を起こし、 実技の孫・公音が押小

             路家を起こす。

 

 さん  三条坊門邸。

             (さんじょうぼうもんてい) 。

          (= 三条坊門殿

                    (足利将軍家の邸宅、政庁)。

          《室町幕府(= 足利幕府)》。

          (1336年 頃ー1443年頃)。

          □ 足利氏 画像アルバム 

             No.1

           ( 足利将軍家邸)。 

           足利将軍家)。

           (⇒ 室町幕府)。

        □ 室町幕府関連

         出来事

          (⇒ 室町御所花の御所) 。

          (⇒ 三条坊門邸)。

          (⇒ 小川御所)。

          (⇒ 足利二条城二条城)。

                        ■ 三条坊門邸 (= 三条坊門殿(さん

             じょうぼうもんどの)、三条坊門第(さ

             んじょうぼうもんてい)1336年 頃ー

             1443年頃) は、 室町幕府(= 足利

             幕府)の、足利将軍家の邸宅、政庁

             の1つである。

             ■ 三条坊門邸(= 三条坊門殿、三

             条坊門第)の跡地は、現在、京都市

             中京区にある。

             ● 二条万里小路第(にじょうまでの

              こうじてい)が、 北は二条大路(現・

                             二条通り)、南は三条坊門小路(現・

              御池(おいけ)通り)、東は万里小路

              (までのこうじ、現・柳馬場(やなぎ

              ばんば)通り)、西は高倉小路(現・

              高倉通り)に囲まれた場所に、

              足利尊氏 (あしかが たかうじ、

               将軍在任:1338年ー1358年、

               生没年: 1305年ー1358年)

                              よって建てられた。

             ● 三条坊門小路 (現・御池(おい

              け)通り)を挟んで、南側に、足利

             幕府の政務を任せていた弟の足利

             直義 (あしかが ただよし、1306

             年ー1352年)の三条坊門邸があ

             った。 この邸は、焼失し、その地は

             直義の鎮魂のために八幡宮(現・

             御所八幡宮)とし、その東隣に尊氏

             は、新たに三条坊門邸を建てた。

                      ● 二条万里小路第の跡地に、

              京都市の高倉通り (旧・高倉小

              路) と 御池通り (おいけどおり、

              旧・三条坊門小路)の交わる所に

              「足利尊氏邸・等持寺跡」の石碑

              が建っている。

             ■ 三条坊門邸(= 三条坊門殿)は、

             1336年(建武3年)頃より足利尊氏

             の弟の直義(たたよし)の邸宅であっ

             たが、1349年(貞和5年)に足利尊

             氏の子の義 詮(よしあきら)に明け

             渡たされ、 1349年(貞和5年)から

             1443年(嘉吉3年)まで、室町幕府

             (= 足利幕府)の第2代将軍・足利

              詮 (よしあきら)から室町幕府・ 第7

             代将軍の足利義勝(よしかつ)まで、

             室町幕府(= 足利幕府)の幾人かの

             将軍の邸宅、政庁となった。 

             ■ 三条坊門邸(= 三条坊門殿)は、

             1443年(嘉吉3年)の第7代将軍の

             足利義勝の死後、使われなくなった。

                         ■ 室町幕府(= 足利幕府)の、足

             利将軍家の邸宅、政庁である足利

             将軍家邸には、

             (1) 二条万里小路第 (にじょう

             までのこうじてい、

             1336年頃ー1358年頃)、 

             (2) 三条坊門邸 (= 別称:三条

             坊門殿(さんじょうぼうもんどの)、

             1336年頃ー1443年頃)、 

             (3) 室町御所 (むろまちごしょ、

             = 別称:室町殿(むろまちどの)、

             室町第(むろまちてい)、通称:

             花の御所(はなのごしょ)、

             1381年ー1559年)、 

             (4) 小川御所 (おがわのごしょ、

             = 別称:小川殿(おがわどの)、

             1471年頃ー1493年)、 

             (5) 烏丸中御門第 (からすまな

             かみかどてい、= 別名:足利二条

             城、二条御所、旧二条城、前期:

             1559年ー1565年、後期:15

             69年ー1573年)、

             などがある。  

 

 さん  三職制。 

            (さんしょくせい)。 《近代日本政府》。

           1867年から1868年までの

          日本近代政府の政体。

         (⇒ 近代日本政府)。

             ■ 三職制 (さんしょくせい)は、  1867年

             から1868年までの日本近代政府の政体

             である。

 

〇 さん  3世紀。

            (さんせいき)。 《世紀》。

          (= 201年ー300年)。

       (⇒ 世紀・ 西暦年

           号対照一覧表)。

       (⇒ 世紀)。

             ■ 3世紀 (さんせいき)とは、西暦で、

             201年から300年までの年である。

 

〇 さん  三法師。

             (さんぼうし、さんぽうし)。 《人名》。

          (= 織田秀信(ひでのぶ)、の幼名)。

          (1580年ー1605年)。

          (⇒ 織田 秀信)。

                    ○ 織田信長の嫡孫。

          ○ 織田信長の長男・嫡男の織

             信忠(のぶただ)の子。

          ○ 清洲会議で、羽柴秀吉(豊

          臣秀吉)の推薦で名目的に織田

                家の跡継ぎとなった少年。

             ■ 三法師 (さんぼうし、さんぽうし、= 織

             田秀信)は、 清洲会議で、羽柴秀吉(豊

               臣秀吉)の推薦で名目的に織田家の跡継

                         ぎとなった少年である。

             ● 三法師 (さんぼうし、さんぽうし、15

             80年ー1605年)は、 織田秀信( おだ

             ひでのぶ)、の幼名であり、 織田信長の

             嫡孫(ちゃくそん)であり、 織田信長の長

             男・嫡男の織信忠(のぶただ)の子

             ある。 

 

〇 さん  三幡。

             (さんまん) 《人名》。

             ■ 三幡 (さんまん、乙姫、生没

             年:1186 年〜1199年)は、

             源頼朝の娘である。

             ■ 三幡乙姫)は、 源頼朝と、

             北条政子との間の女子である。

             ■ 三幡乙姫)は、 

             数え年14歳で病死する。

             ■ 源頼朝は、 朝廷統制のため、

             自分の娘の入内工作(じゅだいこ

             うさく)を進めていたが、長女の大

             姫の死後、二女の三幡乙姫)の

             入内工作を進め、三幡乙姫)は、

             入内が決まり、天皇の女御(にょう

             ご)の称を与えられるが、三幡

             姫)の入内前に、1199年(建久

             10年)1月に、源頼朝が死去し、

             三幡乙姫)も同年3月に高熱を出

             し、同年6月に、数え年14歳で病

             死する。

                

〇 さん  三位

             (さんみ)。 《位階》。

          (⇒ 位階叙位)。

             ■ 近・現代日本の、職員令(20

          位階)、叙位条例(16位階)、位

          階令(16位階)の位階。

             <1869年頃〜現在、使用>。

             ● 正三位 (しょうさん)。

             ● 従三位 (じゅさん)。

           (⇒ 位階令の位階)。

           (⇒ 叙位条例の位階)。

          (⇒ 職員令の位階)。

          (⇒ 近・現代日本政府の位階)。

             (1) 三位  (さんみ)は、 近・現代日本の、

                      職員令(20位階)、叙位条例(16位階)、

             位階令(16位階)で、 正三位 (しょう さ

             ん)  と 従三位 (じゅさん の2つ

             の位階として、1869年頃から現在まで使 

             用されている。

          ■ 前近代日本の、朝廷の律令

          官制 の位階(30位階)。

             <701年頃〜1869年頃、使用>

              ● 正三位 (しょうさん)。

              ● 従三位 (じゅさん)。

          (⇒ 朝廷の律令官制の位階)。

          (⇒ 公卿)。

              (2) 三位  (さんみ)は、 前近代日本の、

             朝廷の律令官制の位階(30位階)で 、

             正三位 (しょうさん)  と 従三位 (じゅ

             さん の2つ の位階として、 701年頃か

             ら1869年頃まで使用された。

 

〇 さん  山陽道 

             (さんようどう)。 

          (旧地方名)。 《旧地域名》。

          (= 山陽道・旧広域地方)。

          (= 五畿七道の1つ)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の、

           旧地方名の正式名)。

             SANYODO REGION.

                    (⇒ 五畿七道)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

           ■ 山陽道・旧広域地方は、

            前近代日本の、

          @ 播磨 国 (兵庫県南部)

          A 美作 国 (岡山県北東部)、 

          B 備前 国 (岡山県南東部 )、  

          C 備中 国 (岡山県西部)、 

          D 備後 国 (広島県東部)、 

          E 安芸 国 (広島県西部)、 

          F 周防 国 (山口県東部)、 

          G 長門 国 (山口県西部) 

          の地域である 。 

           ■ 山陽道・旧広域地方は、

           前近代日本の、

          @ 播磨 国 (はりま のくに、 

          現・兵庫県南部の相当地域)

          A 美作 国 (みま さか のくに、

             現・岡山県北東部の 相当地域)、

          B 備前 国 (びぜん のくに、

          現・岡山県南東部の相 当地域)、

          C 備中 国 (びっちゅう のくに、

          現・岡山県西部の相当 地域)、

          D 備後 国 (びんご のくに、

          現・広島県東部の相当 地域)、  

          E 安芸 国 (あき のくに、

          現・広島県西部の相当地域)、 

          F 周防 国 (すおう のくに、

          現・山口県東部の相当 地域)、

          G 長門 国 (ながと のくに、

          現・山口県西部の相当地域

                     の地域 である 。 

             ■ 山陽道 (さんようどう、英:SANYODO 

             REGION) は、 旧地方名であり、 山陽道

             旧広域地方であり、 五畿七道の1つである。

          ■ 山陽道・旧広域地方。

            <五畿七道 (ごきしちどう)。

              (≒ 日本本土 (本州、四国、九州))。

            <旧大地域名。

            <旧地域名。

            <地域名。

            <日本の地名

 

 

 

   ● 五十音順 (あいうえお順)。

 

 

   ■  『 現在は、過去の成果であり、

       未来は、現在の成果である。 

         (良き現在は、過去の人々の良き努力

          や活動の積み重ねの成果であり、 

          明るい良き未来は、現在の人々の、

          良き努力や活動の積み重ねによって

          形成される。)

 

 

■ 上位のWEBサイト。 

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#jpdictionary(general)

 

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#sa

 

◆ 派生見出し語サイト。

■ 「さ」 基本・見出し語WEBサイト No. ja−sa 

  の、派生見出し語サイト。

 

 No.ja−sa−0650。

● 見出し語項目 さ   ( か 06 / も 50

  付近  第1部・か・総合グループ )。

 さか  坂本家 (さかもとけ)

 さか  坂本 乙女 (さかもと おとめ)

          (坂本龍馬の姉)。

          (1832−1879年)。

 さか  坂本 権平 (さかもと ごんぺい)

          (坂本龍馬の兄)。 

          (1814−1871年)。

 さか  坂本 龍馬 (さかもと りょうま)

          (1835〜67)。 

          (幕末の政治改革者)。

 さか  坂本龍馬 詳細年表

 さか  坂本龍馬が愛した女性達 

       (加尾 、佐那、お龍(おりょう)等)

 

■ No.ja−sa−0230 。

● 見出し語項目 さ   ( い 02 / ご 30

  付近  第1部・い・総合グループ )。

〇 さい  西郷 隆盛 

         (さいごう たかもり) 。(1827〜77)

〇 さい  西郷 隆盛 詳細年表 

         (19世紀)。

 

■ No.ja−sa−2141。

● 見出し語項目 さ   ( な 21 / だ 41

   付近  第1部・な・タ行グループ )。

 さな  真田氏

            (さなだし)。

 さな  真田 氏 関連出来事

              (年代順・詳細)

             (さなだし かんれんできごと (ねん

             だいじゅん・しょうさい))。

 さな   真田 幸村(信繁)

            (さなだ ゆきむら(のぶしげ))。

 さな   真田 幸村(信繁)の参戦

             (さなだ ゆきむら(のぶしげ)のさんせん)。

 さな   真田 幸村(信繁)の一族

             (さなだ ゆきむら(のぶしげ)のいちぞく)。

 さな   真田幸村(信繁) 簡略年表

             (さなだゆきむら(のぶしげ) かんりゃくねん

             ぴょう)。

 さな  真田 幸村(信繁) 関連

              出来事 (年代順・詳細)

            (さなだ ゆきむら(のぶしげ) かんれん

            できごと (ねんだいじゅん・しょうさい))。

 

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#saitodosan

 

■ 斎藤 道三  

     (さいとうどうさん)

 

■ 斎藤 道三。

■ 名称 : 斎藤道三 (さいとう どうさん)。

■ 別名 : 斎藤利政 (さいとうとしまさ)

   斎藤山城守(さいとうやましろのかみ)。

■ 斎藤道三(利政)の生没年。

  ● 従来説の美濃国盗り本人一代説では、

   生没年 : 1494年頃ー1556年。

  ● 新説の美濃国盗り父子二代説では、

   生没年 : 生年不明ー1556年。

■ 斎藤道三(利政)は、 室町時代後期(

  国時代)の武将である。 

■ 斎藤道三(利政)は、 美濃国 (みのの

  くに、現・岐阜県南部の相当地域)の戦国

  大名であり、 美濃国盗り(みのくにとり)

  戦国大名である。

■ 斎藤道三(利政)の美濃国盗り(みのくに

  とり)には、2つ の有力な説がある。

● 「従来説の美濃国盗り本人一代説」では、

  斎藤道三(利政)は、 本人一代で美濃国

  を平定する。 

● 「新説の美濃国盗り父子二代説」では、

  斎藤道三(利政)の父・「長井 新左衛門尉」

  (ながい しんざえもんのじょう) と 斎藤

  道三(利政)本人・「長井 規秀」(ながい の

  りひで) の父子二代で美濃国を平定する。

■ 斎藤道三(利政)の子には、 男子の

  斎藤義龍(よしたつ)、孫四 郎(まごしろう)

  や喜平次(きへいじ)、 娘の帰蝶(きちょう、

  = 濃姫(のうひめ)、織田 信長の正室夫人)

  などがいる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11538。

 

□ 斎藤道三(利政) 関連出来事

   (概要、年代順)

□ 斎藤道三(利政)関連出来事 

   (詳細、年代順)

 

 

■ 斎藤道三(利政)は、 「既成の秩序を壊す改

  革者」であり、 道三(利政)の価値観、軍事、

  戦略、政治、経済、物流、商業、民事、城・城

  下町づくりなどで、先生役として、織田信長や

  明智光秀に大きな影響を与える。

 

■ 斎藤道三(利政)(総合)。

■ 斎藤道三(利政)(さいとう どうさん(としまさ))

  は、 本人一代で(従来説の美濃国盗り本人一

  代説)、または、父子二代で(新説の美濃国盗

  り父子二代説)、 美濃国(みののくに、現・

  阜県南部の相当地域)を平定する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

             

■ 斎藤 道三(さいとう どうさん)は、 室町時代

  後期(戦国時代)の武将であり、 美濃国 (み

  ののくに、現・岐阜県南部の相当地域)の

  国大名(せんごくだいみょう)であり、 美濃国

  盗り(みのくにとり)を行った戦国大名ある。

     斎藤 道三の別名は、 斎藤 利政(さいと

  う としまさ)である。

     斎藤 道三(利政)の生没年は、「従来説

  の美濃国盗り本人一代説」では、1494年頃

  ー1556年であり、また、「新説の美濃国盗り

  父子二代説」では、生年不明ー1556年であ

  る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 斉藤道三(利政)の美濃国盗り

  の一代説と父子ニ代説という

  2つの有力な説。

  ■ 斎藤道三(利政) (さいとう どうさん(と

  しまさ))の美濃国盗り(みのくにとり、=

  濃国の平定)には、2つの有力な説がある。

  (a) 「従来説の美濃国盗り本人一代説」 と

   (b)  「新説の美濃国盗り父子二代説である。

 

  ■ (a) 「従来説の美濃国盗り本人一代説 」 

  、斎藤道三(利政)の本人一代で、美濃国

  の国主になるという説であり、 「美濃国諸

  記」 (みののくにしょきゅうき、江戸時代・

  寛永年間(1624−1645年)成立) や

  「信長公記」 という史料で記されている。

 

  ■ (b)  「新説の美濃国盗り父子二代説」

  、斎藤道三(利政)の父と斎藤道三(利政)

  の父子二代で美濃国の 国主になるという説

  であり、 「六角承禎 条書写」 (ろっかく じょ

  うていじょうしょうつし、1560年(永禄3年)

  7月付、六角承禎(義賢)(ろっかくじょうてい)

  の書状、文書(もんじょ) という史料で記され

  ている。

     六角承禎(義賢)の書状、文書 (「六角

  承禎条書写」)は、 斎藤道三(利政)の長男

  斎藤義龍、義龍の父、祖父について書か

  れた書状であり、 1560年(永禄3年)7月

  21日に近江国の守護大名の六角承禎(義

  賢)が息子の家臣たちに宛てて出した書状

  である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 斎藤道三(利政)の氏名。

  ■ 斎藤道三(利政)は、氏名を変えながら、

   着々と美濃国での地位を上げていった。

  ■ 斎藤道三(利政)の氏名は、 順に、

  (b1)  峰丸(幼名) 、⇒ 法蓮房(僧名)、⇒

  松波 庄五郎(庄九郎)、⇒ 西村 勘九郎

  正利、⇒ 長井 新左衛門尉(しんざえもん

  のじょう)、⇒ 

  (b2) 長井 規秀(のりひで)、⇒ 斎藤 利政

  (としまさ)、⇒ 斎藤 道三、 

  と変わる。

  ● (b)  「新説の美濃国盗り父子二代説では、

  (b1)は、斎藤道三(利政)の父の氏名であり、

  (b2)は、斎藤道三(利政)本人の氏名である。

 

■ 下剋上の斎藤道三(利政)

   美濃国盗り。

■ 斎藤道三(利政) (さいとう どうさん(としま

  さ))の美濃国盗り(みのくにとり、= 美濃国

  の平定)の方法は、以下の通りである。

  斎藤道三(利政)は、

  (1) 僧侶より油商人となる。

  (2) 美濃国(みののくに、現・岐阜県南部

    の相当地域)の土岐氏(ときし)の小守

    護代・長井 長弘(しょうしゅごだい・なが

    いながひろ)の家臣となる。

  (3) 土岐 頼芸(とき よりのり・よりなり・よ

    りあき)を美濃国守護として擁立するた

    め、長井 長弘と共に、現・美濃国守護

    (しゅご)の土岐 頼武(政頼)(とき より

    たけ(まさより))と対立し、勢力拡大を

    はかる。

  (4) 美濃国の小守護代・長井 長弘を殺

    害する。

  (5) 土岐 頼芸を、美濃国守護として擁立

    する。

  (6) 美濃の守護代・斎藤氏の名跡を継ぐ。

  (7) 擁立した美濃国守護・土岐頼芸を追

    し、美濃国一国をのっとる。

  ● 「従来説の美濃国盗り本人一代説」では、

   (1)から(6)までを、斎藤道三(利政)本人

   が一代で行い、美濃国一国を手に入れる。

  ● 「新説の美濃国盗り父子二代説」では、

   (1)から(3)までを、斎藤道三(利政)の父

   が行い、 (4)から(6)までを斎藤道三(利

   政)本人が行い、美濃国一国を手に入れる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 美濃国守護。 

     室町時代後期(= 戦国時代、1467

   年ー1573年)の美濃国(みののくに、

   現・岐阜県南部の相当地域)守護は、

   次の順序で、就任する。

     1551年(天文20年)に、美濃の守

   護は、退任し、その後、就任復活せず。

   1459年から1551年までの間≫

   (1) 土岐成頼(しげより)。

       (美濃守護:1459年ー1495年)。

   (2) 土岐政房(まさふさ)。

       (美濃守護:1495年ー1519年)。

   (3) 土岐頼武(よりたけ、政頼)。

       (美濃守護:1519年ー1535年)。

   (4) 土岐頼芸(よりのり)・前期。

       (美濃守護:1536年ー1546年)。

   (5) 土岐頼純(よりずみ)。

       (美濃守護:1546年ー1547年)。

   (6) 土岐頼芸(よりのり)・後期

      (美濃守護:1547年ー1551年)。

 

  ■ (A) 兄の美濃国守護の土岐 頼武(政 

   頼)(とき よりたけ(まさより)やその子の

   土岐 頼純(とき よりずみ)に対しては、美

   濃国内・国政No.2の旧守護代・斎藤氏

   がついて(味方し)、近隣国の浅倉氏が味

   方する(後援する)。

      一方、(B) 弟の土岐 頼芸(とき よ

   りのり・よりあき)に対 しては、美濃国内・

   国政No.3の 小守護代・長井 長弘 (な

   がい ながひろ)がついて(味方して)、

     近隣国の織田氏が味方する(後援 する)。

     両者は、互いに、争そい、美濃・守

   護を代々受け継ぐ土岐氏は、分裂して

   いた。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 斎藤道三(利政)と明智光秀。

   ■ 明智光秀出自美濃国・明智光綱説。

      明智光秀の出自には諸説がある

   が、 明智光秀の父が美濃国の明智

   光綱(あけちみつつな)であるならば、 

   明智光秀は、土岐明智氏(ときあけち

   し、土岐氏の分家・支流)の出身であり、 

   明智光秀は斎藤道三(利政)の家臣で

   あり、 斎藤道三(利政)の家臣で明智

   光綱の弟の明智光安 (あけちみつや

   す)は明智光秀の叔父(おじ)であり、 

   斎藤道三(利政)の 正室夫人で明智

   光綱の妹の小見の方おみのかた)

   は明智光秀の叔母(おば)であり、 

   斎藤道三(利政)と小見の方との間の

   娘の濃姫(のうひめ、帰蝶、織田信長

   の正室夫人)は明智光秀の従兄妹(い

   とこ)である。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 明智光秀の出自。

     ■ 明智光秀(あけちみつひで)の出自

    には諸説があるが、 明智光秀の父が

    美濃国の明智光綱(あけちみつつな)

    であり、明智光秀の祖父が美濃国の

    智光継(あけちみつつぐ)であるならば、 

    明智光秀は、土岐明智 氏ときあけちし、

    土岐氏の 分家・支流)の出身であり、 

    美濃国(みののくに、現・岐阜県南部

    の相当地域)の明智荘(あけちのしょう、

    現・岐阜県可児市(かにし))で生まれ

    育ち、 明智光綱の弟で明智荘の明智

    長山城(あけちながやまじょう)城主・

    明智光安 ( あけちみつやす)は明智

    光秀の叔父(おじ) であり、 明智光綱

    の妹の小見の方 (おみのかた、斎藤

    道三(利政)の正室夫人)明智光秀

    の叔母(おば)であり、 小見の方の娘

    の濃姫 (のうひめ、= 帰蝶(きちょう)、

    斎藤道三(利政)の娘、織田信の正

     室夫人)は明智光秀の従兄妹(いとこ)

    である。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 斉藤道三(利政)の美濃国盗り 。

  ■ 斎藤道三(利政)は、 美濃国(みのの

   くに、現・岐阜県南部の相当地域)の国内

   の争い、分裂、混乱を利用して、美濃国を

   のっとるため、陰謀、 殺害などの謀略(ぼ

   うりゃく)をつくして、邪魔者を排除し、美濃

   国の国主となる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 斎藤道三(利政)(または斎藤道三(利

   政)の父)は、 

   美濃国で代々守護を務める土岐氏の内紛

   を利用して、

   (A) 土岐頼武(政頼)方の、美濃国守護

   の土岐頼武(政頼)を、美濃国より、追放し、

   頼武(政頼)の子の土岐頼純を殺害し(病

   死したという説もあり)、 守護代・斎藤氏

   を追放し、 

   (B) 土岐 頼芸方の、土岐頼芸を追放し、

   小守護代・長井長弘を殺害して、美濃国

   一国をのっとり、 国主となり、支配する。  

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 日本の乱世。

  ■ 応仁の乱以後、守護大名の力が弱まり、

   下克上となる。

     守護大名の家督争い、有力守護大名

   政権主導権争い、足利将軍家の家督争い

   などによって、「応仁の乱」(1467年ー14

   77年)が起こり、 その結果、日本本土を

   支配(統治)していた室町幕府は、弱体化

   し、室町幕府の将軍の権力は衰え、諸国を

   治めていた守護大名の権力は弱まり、

   日本本土は、下克上 (げこくじょう、下剋

   上、格式に関係なく、実力によって下位の

   者が上位の者にとって代わること) となり、

   日本本土は、室町時代後期(戦国時代

   乱世(らんせ)に突入した。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 美濃国の分裂と乱世。

  ■ 室町時代後期(戦国時代に、 美濃国

   (みののくに、現・岐阜県南部の相当地域)

   を治めていたのは、守護大名土岐氏であ

   る。

      摂津源氏系美濃源氏の嫡流の土岐氏

   (土岐一族)は、美濃国を代々治める守護

   大名であり、 室町幕府(= 足利幕府)をさ

   さえる名家であった。 

      当時、室町時代後期(戦国時代)の

   1519年から1551年までの期間、美濃

   国の土岐氏では、親族間で内紛が起こり、

   美濃国は、分裂状態であった。 

     (A) 美濃・守護の土岐氏の兄の土岐

   頼武(政頼)(とき よりたけ(まさより) や 

   その子の土岐 頼純(とき よりずみ) と、 

   (B) 弟の土 岐 頼芸(とき よりのり・より

   なり・よりあき) は、 家督相続でもめて、

   内紛状態であった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 美濃国守護。 

     室町時代後期(= 戦国時代、1467

   年ー1573年)の美濃国(みののくに、

   現・岐阜県南部の相当地域)守護は、

   次の順序で、就任する。

     1551年(天文20年)に、美濃の守

   護は、退任し、その後、就任復活せず。

   1459年から1551年までの間≫

   ● 土岐成頼

     (しげより、

     美濃守護:1459年ー1495年)。

   ● 土岐 政房 

     (とき まさふさ、

     美濃守護:1495年ー1519年)

   ● 土岐 頼武(政頼) 

     (とき よりたけ(まさより)、

     美濃守護:1519年ー1535年)

   ● 土岐 頼芸 

       (とき よりのり・よりなり・よりあき・

      よりよし、

     美濃守護:1536年ー1546年、

     1547年ー1551年)

   ● 土岐 頼純 (とき よりずみ、

     美濃守護:1546年ー1547年)。

 

  ■ 室町時代後期(戦国時代に、美濃国で 

  は、土岐氏には、 (A) 土岐 頼武(政頼) や

  その子の土岐 頼純 と、(B) 土岐 頼芸が

  いた。 

     即ち、室町時代後期(戦国時代)の15

  19年から1551年までの期間に、 美濃国

  (みののくに、岐阜県南部の相当地域)では、

  美濃国守護を担う土岐氏(ときし)には、

  (A) 美濃国守護の土岐 政房 (とき よりふ

  さ、美濃守護:1495年ー1519年)の嫡流の

    長男・土岐 頼武(政頼) (とき よりたけ(まさ

  より)、美濃守護:1519年ー1535年) や 

  その子の土岐 頼純 (とき よりずみ、美濃守

  護:1546年ー1547年) と、 (B) 土岐

  政房の次男の土岐 頼芸 (とき よりのり・よ

    りなり・よりあき・よりよし、美濃守護:1536

  年ー1546年、1547年ー1551年) がい

  た。 

  ● 美濃国守護の土岐氏では、(A) 土岐

  政房の嫡流の長男・土岐頼武(政頼) や そ

  の子の土岐 頼純 と、 (B) 土岐 政房の

  次男の土岐 頼芸とが、 美濃国守護の座を

  めぐり争う。  それに伴い、美濃国の家臣団

  も分裂・対立し、近隣国も介入し、美濃国は、

    混乱し、内乱状態であった。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 斉藤道三(利政)の美濃国盗り

  の一代説と父子ニ代説という

  2つの有力な説。

  ■ 斎藤道三(利政) (さいとう どうさん(と

  しまさ))の美濃国盗り(みのくにとり、=

  濃国の平定)には、2つの有力な説がある。

  (a) 「従来説の美濃国盗り本人一代説」 と

   (b)  「新説の美濃国盗り父子二代説である。

 

  ■ (a) 「従来説の美濃国盗り本人一代説 」 

  、斎藤道三(利政)の本人一代で、美濃国

  の国主になるという説であり、 「美濃国諸

  記」 (みののくにしょきゅうき、江戸時代・

  寛永年間(1624−1645年)成立) や

  「信長公記」 という史料で記されている。

 

  ■ (b)  「新説の美濃国盗り父子二代説」

  、斎藤道三(利政)の父と斎藤道三(利政)

  の父子二代で美濃国の 国主になるという説

  であり、 「六角承禎 条書写」 (ろっかく じょ

  うていじょうしょうつし、1560年(永禄3年)

  7月付、六角承禎の書状、文書(ろっかくじ

  ょうていのしょじょう、もんじょ)) という史

  料で記されている。

     六角承禎の書状、文書 (「六角承禎

  条書写」 )は、 斎藤道三(利政)の長男の

  斎藤義龍、義龍の父、祖父について書か

  れた書状であり、 1560年(永禄3年)7月

  21日に近江国の守護大名の六角承禎が

  息子の家臣たちに宛てて出した書状であ

  る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

  

■ 斉藤道三(利政)(さいとう どうさん(としま

  さ))の美濃国盗り(みのくにとり、= 美濃国

  の平定)には、

    「従来説の美濃国盗り本人一代説」 と、 

  新説 の美濃国盗り父子二代説」 

  という2つの有 力な説がある。

  ● 「従来説の美濃国盗り本人一代説」では、

  斎藤道三(利政)(1494年頃ー1556年)

  は、本人一代で、美濃国の国主になる。

  ● 「新説の美濃国盗り父子二代説」では、

  斎藤道三(利政)の父と斎藤道三(利政)

  の父子二代で美濃国の 国主になる。

     「新説の美濃国盗り父子二代説」では、

  斎藤道三(利 政)の父・「長井新左衛門尉」

  (ながい しんざえもんのじょう)(1494年頃

  ー1533年頃) と、 子の斎藤道三(利

  政)・「長井新九郎規秀」(ながいしんくろう

  のりひで、= 左近大夫)(生年不明ー1556

  年) の父子2代で、  美濃国の国主になる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

  

■ 新説の美濃国盗り父子二代説。

  ● 父の「長井新左衛門尉」と子の「長井新

    九郎規秀」

    「六角承禎条書写」(永禄3年(1560年)

  7月付、六角承禎の文書)より、 「新説の

  美濃国盗り父子二代説」をとると、 斎藤道

  三(利政))は、 「長井新九郎規秀」 (なが

  いしんくろうのりひで、左近大夫) であり、  

  斎藤道三(利政)の父は、「長井 新左衛門

  尉」(ながい しんざえもんのじょう)である。 

  1533年(天文2年)頃に、斎藤道三(利政)

  の父・長井 新左衛門尉の死去により、斎藤

  道三(利政)・「長井新九郎規秀」は、道三

  (利政)の父・「長井 新左衛門尉の家督を

  つぐ。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 戦国時代の稲葉山城(後の岐

   阜城)の城主の変遷。

  ■ 稲葉山城 (いなばやまじょう、= 後の

   岐阜城(ぎふじょう)、岐阜県岐阜市)は、 

       美濃国(みののくの、現・岐阜県南部の

   相当地域)の、標高・329mの金華山

       (きんかざん)の山頂にあった城である。

    ● 戦国時代(= 室町時代後期)の、稲葉 

   山城(いなばやまじょう、後の岐阜城(ぎ

   ふじょう))の城主は、概ね、次の順序で、

   変わっていった。

   (1) 稲葉山城城主・守護代・斎藤氏(し

      ゅごだい・さいとうし)。

   (2) 稲葉山城城主・小守護代・長井長

      弘(しょうしゅごだい・ながいながひ

      ろ)。

   (3) 稲葉山城城主・斎藤道三(利政)

      (さいとうどうさん(としまさ))。

   (4) 稲葉山城城主・斎藤義龍(さいと

      うよしたつ)。

   (5) 稲葉山城城主・斎藤龍興(さいと

      う たつおき)。

   (6) 岐阜城城主・織田信長(おだの

      ぶなが)。

   ● 1567年(永禄10年)に、織田信

   長は、美濃国(みののくの、現・岐阜

   県南部の相当地域)を平定し、 稲葉

   山城に入り、これを岐阜城(ぎふじょう)

   と改名し、天下取りの足がかりとする。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 斎藤道三(利政)の生涯。

■ 斎藤道三(利政)は、 美濃国(みののくに、岐

  阜県南部の相当地域)の守護代の斎藤氏(さい

  とうし)の名跡(みょうせき)を継いで、 斎藤利

  政(さいとうとしまさ)と名乗り、 更に 、美濃国

  守護の土岐氏(ときし)を追い出して、 美濃国 

  一国を統一した(美濃国の国主となった)。  

  また、斎藤道三(利政)は、稲葉山城(後の岐阜

  城)を居城とした。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 斎藤道三(利政)の生涯。

■ 斎藤道三(利政)は、 下克上 (げこくじょう、

  実力によって、身分の上の者が身分の下の者

  にとって代わること) を行った、 権謀術数(け

  んぼうじゅっすう、目的のためなら手段を選ば

  ないこと) の典型的な、戦国大名である。

     斎藤道三(利政)は、 牢人 (ろうにん、

  浪人、主君を持たない武士) の子として生ま

  れ、 僧侶から、油商人を経て、 遂に戦国大

  名に成り上がった人物である。

     但し、 斎藤道三(利政)本人一代で、美

  濃国(みののくに、岐阜県南部の相当地域)

  の国主になった「従来説の美濃国盗り本人一

  代説」 と、 斎藤道 三(利政)の父と斎藤道

  三(利政)の父子2代で、美濃国の国主にな

  ったという「新説の美濃国盗り父子二代説」 

  2つの有力な説がある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 斎藤道三(利政)の氏名。

 ■ 斎藤 道三 (さいとう どうさん)の別名

  は、 斎藤 利政 (さいとう としまさ)、

  斎藤 新九郎 (さいとう しんくろう) で

  ある。  

     斎藤は一族名であり、 道三、利政、

  新九郎は個人名である。 

     道三は法名(ほうみょう)であり、

  利政は(いみな)で あり、 新九郎は

  通称ある。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 斎藤道三(利政)の氏名。

  ■ 斎藤道三(利政)は、氏名を変えながら、

   着々と美濃国での地位を上げていった。

  ■ 斎藤道三(利政)の氏名は、 順に、

  (b1)  峰丸(幼名) 、⇒ 法蓮房(僧名)、⇒

  松波 庄五郎(庄九郎)、⇒ 西村 勘九郎

  正利、⇒ 長井 新左衛門尉(しんざえもん

  のじょう)、⇒ 

  (b2) 長井 規秀(のりひで)、⇒ 斎藤 利政

  (としまさ)、⇒ 斎藤 道三、 

  と変わる。

  ● (b)  「新説の美濃国盗り父子二代説では、

  (b1)は、斎藤道三(利政)の父の氏名であり、

  (b2)は、斎藤道三(利政)本人の氏名である。

 

  ■ 斎藤道三(利政)の氏名には、 峰丸

  (幼名)、法蓮房(僧名)、 松波 庄五郎(庄

  九郎)、 西村 勘九郎正利、 長井 秀龍

  (新九郎)、 長井 新左衛門尉 (ながい

  んざえもんのじょう)、 長井 規秀 (ながい

  のりひで、 長井 新九郎規秀、藤原 規秀)、 

  斎藤 利政 (さいとうとしまさ、斎藤 新九郎

  利政、斎藤 左近大夫利政、名使用:1538

  年ー1556年)、 斎藤山城守(さいとうやま

  しろのかみ)、 斎藤 道三(さいとう どうさん、

  名使用:1554年ー1556年) などがある。

     斎藤 道三(利政)には、 美濃の蝮(マ

  ムシ)、 蝮(マムシ)の道三 というニックネ

  ームもある。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 斉藤道三(利政)の子供間の対

  立。

  ● 斎藤義龍(よしたつ) は、 斎藤道三(利

  政)の側室夫人・深芳野 が生母の子であり、

      一方、孫四郎、喜平次、帰蝶(= 濃姫)は、

  斎藤道三(利政)の 正室夫人・小見の方が

  生母の子である。

  ● 1554年(天文23年)に、斎藤道三(利

  政)の側室夫人・深芳野が生母の、斎藤義

  龍(よしたつ) が 斎藤道三(利政)(さいと

  うどうさん(としまさ)) より、美濃国の斎藤

  氏の家督(かとく)を継ぎ、 美濃国の国主

  となる。

  ● 斎藤道三(利政)の子供達は、 斎 藤義

  龍(よしたつ)  と、 孫四郎、喜平次、帰蝶

  (= 濃姫) とが対立する。

     斎藤道三(利政)の子供達は、斎藤道

  三(利政)の側室夫人・深芳野 が生母の、

  斎藤義龍(よしたつ)  と、 斎藤道三(利

  政)の正室夫人・小見の方が生母の、孫四

  郎、喜平次、帰蝶(濃姫)  とが対立する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 斎藤道三(利政)の夫人。

  ■ 斎藤道三(利政)の夫人には、深芳野

  (みよしの)、小見の方おみ のかた)など

  がいる。

 

  ■ (1) 深芳野 (みよしの)は、 

  斎藤道三(利政)の側室夫人であり、美濃

  国の土岐氏の土岐 頼芸 (とき よりのり・

  よりなり・よりあき)から拝領した(もらいう

  けた)拝領夫人であり、 斎藤 義 龍の生母

  である。

 

   ● 深芳野(みよしの)は、土岐頼芸(とき

   よりのり・よりなり)の側室夫人であった。

   しかし、深芳野は、1526年(大永6年)

   12月頃に、斉藤道三(利政)  (「美濃国

   盗り父子二代説」は、長井 新左衛門尉 

   (ながい しんざえもんのじょう)の子・長井

   規秀(ながいのりひで)) に下贈され(下

   げ渡たされ)、 斎藤道三(利政)の側室

   夫人となり、 1527年(大永7 年)6月に、

   20歳で、斉藤義龍 (さいとうよし たつ、

   幼名:豊太丸)産む (「美濃国諸旧記」)

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ (2) 小見の方おみ のかた)は、

   斉藤道三(利政)の正室夫人であり、 

    孫四郎、喜平次、帰蝶 (きちょう、= 濃姫

   の生母であり、

   明智 光秀の叔母(おば)である。

 

   ● 小見の方は、 1532年(天文元年)

   に、斉藤道三(利 政) (「美濃国盗り父子

   二代説」では、長井 新左衛門尉(ながい

   しんざえもんのじょう)の子・長井規秀(な

   がいのりひで)) に、正室夫人として嫁ぎ、 

   1535年(天文4年)に、女子(帰蝶、=

   (のうひめ))をもうけた。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 斎藤道三(利政)の子。

  ■ 斎藤道三(利政)の子には、 

  (1) 長男の斎藤 義 龍(よしたつ)

  (2) 次男の孫四郎 (まごしろう、= 龍重、

       龍元)、

  (3) 三男の喜平次 (きへいじ、= 龍定、

     龍之)

  (4) 娘の帰蝶 (きちょう、= 濃姫(の

     うひめ)、 織田信長の正室夫人) 

  などがいる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ (2) 次男の孫四郎  (まごしろう 、=

    重、龍元)、 (3) 三男の喜平次 (きへい

   じ、= 龍定、龍之)は、 斎藤道三(利政)と 

   小見 の方 (おみのかた、明智光秀の叔母

   (おば))との間の子である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ● (2) 次男の孫四郎 (まごしろう 、=

   重、龍元)、 (3) 三男の喜平次 (きへい

   じ、= 龍定、龍之)は、 生母が、小見の方

   (おみのかた)であるとする説が有力である。

  ● (3) 三男の喜平次 (きへいじ、= 龍定、

   龍之)は、一色右兵衛大輔と名乗っている

   ことから深芳野の子とする説もある。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ (4) 娘の帰蝶 (きちょう、= 濃姫(のう

   ひめ)、織田信長の正室夫人)は、斎藤道

   三(利政)と小見の方 (おみのかた、明智

   光秀の叔母(おば))との間の子である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 斎藤道三(利政)と明智光秀。

  ■ 明智光秀の出自 には諸説があるが、明

  智光秀の父が、美濃国の、明智光綱(あけ

  ちみつつな)であるならば、

      斎藤 道三(利政)の正室夫人の小見

   の方( おみのかた)は、明智光秀の叔母(お

   ば)である。

  ■ 明智光秀の出自には諸説あり、有力な説

   では、明智 光秀は、美濃国(みののくに、

   現・岐阜県南部の相当地域)の土岐明智家

   の出身である。

       明智光秀の前半生の史料は少ない。

   明智光秀の出自 には諸説があるが、

    明智光秀の父が、美濃国の、明智光綱(あ

    けちみつつな)であり、光秀の祖父が明智

    光継(あけちみつつぐ)であるならば、 

    明智光秀は、土岐明智 氏(土岐氏の支流)

    の出身であり、 美濃国の明智荘(あけち

    のしょう、現・岐阜県可児市(かにし))で

    生まれ育ち、 明智光継の子で明智荘の

    明智長山城城主・明智光安(みつやす)は、

    明智光秀の叔父(おじ)であり、  明智光継

         の娘の小見の方( おみのかた、斎藤 道三

    (利政)の正室夫人)は、明 智光秀の叔母

    (おば)であり、 小見 の方の娘の濃姫(の

    うひめ、= 帰蝶、斎藤道三(利政)の娘、

    田信の正室夫人)は、  明智光秀の従兄

    妹(いとこ)である。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 斎藤道三(利政)、土岐頼芸

   深芳野、斎藤義龍の四者関係。

  ● 土岐頼芸 (とき よりのり・よりあき)は、 

  1526年(大永6年)12月頃に、土岐頼芸

  の側室夫人で美人の深芳野(みよしの)を、  

  斎藤道三(利政) (美濃国盗り父子二代

  説では、長井新左衛門尉(ながいしんざえ

  もんのじょう)の子・長井規秀(のりひで)) 

  に下贈し(下げ渡し)、 深芳野は、斎藤道

  三(利政)の側室夫人なり、  1527年(大

  永7年)6月10日に、20歳で、斎藤 義龍

  (さいとうよしたつ、幼名:豊太丸)を産む 

  (「美濃国諸旧記」)

  ● 斎藤 義龍(よしたつ)は、 土岐頼芸の

  子か、斎藤道三(利政)の子か、どちらの子

  か、 父親が不明である。

  ● 二次史料の江戸時代編纂の「美濃国

  諸家系譜」では、 斎藤道三(利政)が深

  芳野を拝領する(もらいうける)前から、

  芳野は土岐頼芸により斎藤 義龍を懐妊し

  ていたとされ、 斎藤 義龍は、土岐頼芸の

  子(御落胤(ごらくいん)とされている。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 美濃国盗り本人一代説

■ 「従来説の美濃国盗り本人一代説」は、「美

   濃国諸旧記」(みののくにしょきゅうき、江戸

   時代・寛永年間(1624−1645年)成立)

   という史料により、 斎藤道三(利政)が、

   1人で一代で美濃国 (みののくに、岐阜県

   南部の相当地域)を平定したという説であ

   る。

     「従来説の美濃国盗り本人一代説」では、

   峰丸、法蓮房、松波庄五郎、 西村勘九郎正

   利、 長井新左衛門尉(ながい しんざえもん

   のじょう)、長井規秀(ながいのりひで)

   近大夫、斎藤利政 、斎藤道三は、 斎藤道

   三(利政)である ということになる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 美濃国盗り父子二代説

■ 「新説の美濃国盗り父子二代説」は、 「六角

  承禎書写」(ろっかくじょうていしょうつし、永禄

  3年(1560年)7月付)という史料により、 

  斎藤道三(利政)の父と斎藤道三(利政)の二

  代で、  美濃国(みののくに、岐阜県南部の

  相当地域)を平定したという説である。

     「新説の美濃国盗り父子二代説」では、

  峰丸、法蓮房、松波庄五郎、西村勘九郎正

  利、長井新左衛門尉(ながい しんざえもんの

  じょう)は、斎藤道三(利政)の父であり、 

  長井規秀(ながいのりひで)左近大夫、斎藤

  利政、斎藤道三は、 斎藤道三(利政)本人で

  あるということになる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 

#-appearingscenes

 

♪♪ 斎藤道三(利政)が登場する

  味深い、ドキュメンタリー、ドラマ、

    映画。

 

★ 斎藤道三(利政)が登場する、興味

  深い、ドキュメンタリー。

 

■ 英雄たちの選択 

  『 戦国ミステリー。 斎藤

    道三はふたりいた!? 

       〜下克上の真実〜 』 。 

    (NHKテレビの2020年3月4日・

    本放送・歴史ドキュメンタリー番組)。

 ■ 斎藤道三(利政)の、「従来説の美濃国

   盗り本人一代説」 と、 「新説の美濃

   国盗り父子二代説」を詳しく述べる。

 ■ 日本の戦国時代(室町時代後期)を 述

  べる。

 

■ にっぽん歴史鑑定 

   『 信長の才を見抜いた男 

     斎藤道三 』 。 

    (TBSテレビ・2017年9月25日・

    本放送・歴史ドキュメンタリー番組)。

 ■ 日本の戦国時代(室町時代後期)を 述

  べる。

 ■ 斎藤道三(利政)の、「従来説の美濃国

   盗り本人一代説」 と、 「新説の美濃

   国盗り父子二代説」を詳しく述べる。

 

★ 斎藤道三(利政)が登場する、興味

  深い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画 は、 フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画は、歴史的事実(史実) と 

  架空の出来事 が、混じって、描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 麒麟(きりん)がくる 』。 

   (NHKテレビ・2020年大河ドラマ)。 

   (池端俊策 作・脚本)。

 日本の戦国時代(室町時代後期)、安土

   桃山時代を描く。

 

● 斎藤 道三(利政)(さいとうどうさん(とし

  まさ))を演じる俳優名: 本木 雅弘。

 

● 斎藤 道三(利政)の側室夫人・深芳野 

   (みよしの、土岐 頼芸(とき よりのり)の

   元側室夫人)を演じる女優名: 南 果歩。 

● 斎藤 道三(利政)の男子・斎藤 義龍(さ

  いとうよしたつ)を演じる俳優名: 

  伊藤 英明。

● 斎藤 道三(利政)の正室夫人・小見の 

  方 (おみのかた、濃姫(= 帰蝶)の生

  母)を演じる女優名: 片岡 京子。 

● 斎藤 道三(利政)の娘・帰蝶(濃姫)(き

  ちょう(のうひめ)、織田信長の正室夫人) 

  を演じる女優名 : 川口 春奈。 

● 斎藤氏家臣の稲葉一鉄(良通)(いなば

  いってつ(よしみち))を演じる俳優名: 

  村田 雄浩。

 

● 美濃国守護の土岐 頼芸(とき よりのり)

  を演じる俳優名: 尾美 としのり。

● 美濃国守護の土岐政頼(頼武)(とき ま

  さより(よりたけ)) の子の土岐頼純(とき

  よりずみ)を演じる俳優名: 矢野 聖人。

 

● 明智 光秀を演じる俳優名 :  

  長谷川 博己 (はせがわひろき)。

● 明智 光秀の母・お牧(まき)の方を演じる

  女優名 : 石川 さゆり。 

● 明智 光秀の叔父・明智 光安(あけちみつ

  やす)を演じる俳優名 : 西村 まさ彦。 

● 明智 光秀の正室夫人・熙子(ひろこ)を演

  じる女優名: 木村 文乃 (きむらふみの)。 

 

● 織田 信長を演じる俳優名: 染谷 将太 

  (そめたにしょうた)。

● 織田 信長の父・織田 信秀(おだ のぶ

  ひで)を演じる俳優名 : 高橋 克典。

● 織田 信長の母・土田御前(どだごぜん)

  を演じる女優名: 檀 れい。 

● 織田 信長の弟・織田 信勝(のぶかつ)

  を演じる俳優名 : 木村了。

● 織田 信長の守役(もりやく)・平手政秀

  (ひらてまさひで)を演じる俳優名 : 

  上杉 祥三。

● 木下 藤吉郎秀吉(= 羽柴 秀吉、豊臣

  秀吉)を演じる俳優名 : 

     佐々木 蔵之介。

● 徳川家康を演じる俳優名: 風間 俊介。

● 徳川家康の父・松平広忠(まつだいら

  ひろただ)を演じる俳優名: 浅利 陽介。

 

● 室町幕府・第13代将軍・足利義輝(あ

  しかがよしてる)を演じる俳優名 : 

  向井 理。

● 室町幕府・第15代将軍・足利義昭(あ

  しかがよしあき、足利義輝の弟)を演じ

  る俳優名 : 滝藤 賢一 。

● 室町幕府幕臣の細川藤孝(幽斎)(ほそ

  かわふじたか(ゆうさい))を演じる俳優

  名 : 眞島 秀和。

● 室町幕府幕臣の三淵藤英(みつぶち

  ふじひで、細川藤孝(幽斎)の異母兄)

  を演じる俳優名 : 谷原 章介。

  

● 室町幕府管領(かんれい)の細川晴元

  (ほそかわはるもと)を演じる俳優名 : 

  国広 富之。

● 細川晴元家臣の三好長慶(みよしなが

  よし)を演じる俳優名 : 山路 和弘。

● 三好長慶家臣の松永久秀(まつながひ

  さひで)を演じる俳優名: 吉田 鋼太郎。

 

● 今川義元(いまがわよしもと)を演じる

  俳優名: 片岡 愛之助。

● 今川義元の軍師・太原雪斎(たいげん

  せっさい)を演じる俳優名: 伊吹 吾郎。

 

■ 『 明智光秀 〜神に愛され

    なかった男〜 』。 

   (フジテレビ2007年制作ドラマ)。

 日本の戦国時代(室町時代後期)、安土

   桃山時代を描く。

 

■ 『 信長 KING OF ZIPANGU 』 。  

   (NHK1992年大河ドラマ)。

■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時

  代の時代状況やその時代に活躍した人

  物を描く。

● 斎藤道三(利政)を演じた俳優名 :

     芦田 伸介。

 

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#saitodosan-thehappeningsinbrief

 

◆ 斎藤道三(利政)関連出来事 

  (概要、年代順)。

 

■ 斎藤道三(利政)の経歴

   (総合)。

■ 下剋上の、斎藤道三の

   美濃国盗り 

   (総合)。

 

 

■ 美濃国盗り本人一代説 と

   美濃国盗り父子二代説。

  ■ 斎藤道三(利政)(さいとう どうさん(としま

  さ))は、 本人一代で(従来説の美濃国盗り

  本人一代説)、または、父子二代で(新説の

  美濃国盗り父子二代説)、 美濃国(みののく

  に、現・岐阜県南部の相当地域)を平定する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 斎藤道三(利政) (さいとう どうさん(とし

  まさ))の美濃国盗り(みのくにとり、= 美濃国

  の平定)には、 2つの有力な説がある。

  ■ 従来説の美濃国盗り本人一代説とは、 

  斎藤道三(利政)の本人一代で、美濃国の国

  主になるという説であり、 「美濃国諸旧記」

  (みののくにしょきゅうき、江戸時代・寛永年

  間(1624−1645年)成立)という史料で

  記されている。

  ■ 新説の「美濃国盗り父子二代説」 とは

  斎藤道三(利政)の父と斎藤道三(利政) の

  父子二代で美濃国の 国主になるという説で

  あり、 「六角承禎書写」(ろっかくじょうてい

  しょうつし、1560年(永禄3年)7月付)とい

  う史料で記されている。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 下剋上の、斎藤道三(利政)

  美濃国盗り。

  ■ 斎藤道三(利政) (さいとう どうさん(と

  しまさ))の美濃国盗り  (みのくにとり、=

  美濃国の平定)の方法は、以下の通りであ

  る。

  ■ 斎藤道三(利政)は、

  (1) 僧侶より油商人となる。

  (2) 美濃国(みののくに、現・岐阜県南部

    の相当地域)の土岐氏(ときし)の小守

    護代・長井 長弘(しょうしゅごだい・なが

    いながひろ)の家臣となる。

  (3) 土岐 頼芸(とき よりのり・よりなり・よ

    りあき)を美濃国守護として擁立するた

    め、長井 長弘と共に、現・美濃国守護

    (しゅご)の土岐 頼武(政頼)(とき より

    たけ(まさより))と対立し、勢力拡大を

    はかる。

  (4) 美濃国の小守護代・長井 長弘を殺

    害する。

  (5) 土岐 頼芸を、美濃国守護として擁立

    する。

  (6) 美濃の守護代・斎藤氏の名跡を継ぐ。

  (7) 擁立した美濃国守護・土岐頼芸を追

    し、美濃国一国をのっとる。

   ● 「従来説の美濃国盗り本人一代説」では、

   (1)から(6)までを、斎藤道三(利政)本人

   が一代で行い、美濃国一国を手に入れる。

   ● 「新説の美濃国盗り父子二代説」では、

   (1)から(3)までを、斎藤道三(利政)の父

   が行い、 (4)から(6)までを斎藤道三(利

   政)本人が行い、美濃国一国を手に入れる。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 美濃守護・土岐氏の内紛。

  ■ 斎藤道三(利政)は、 美濃国(みのの

   くに、現・岐阜県南部の相当地域)の国内

   の争い、分裂、混乱を利用して、美濃国を

   のっとり、美濃国の国主となる。

 

  ■ 室町時代後期(戦国時代)に、美濃国で 

  は、土岐氏には、 (A) 土岐 頼武(政頼) や

  その子の土岐 頼純 と、(B) 土岐 頼芸が

  いた。 

     即ち、室町時代後期(戦国時代)の15

  19年から1551年までの期間に、 美濃国

  (みののくに、岐阜県南部の相当地域)では、

  美濃国守護を担う土岐氏(ときし)には、

  (A) 美濃国守護の土岐 政房 (とき よりふ

  さ、美濃守護:1495年ー1519年)の嫡流の

    長男・土岐 頼武(政頼) (とき よりたけ(まさ

  より)、美濃守護:1519年ー1535年) や 

  その子の土岐 頼純 (とき よりずみ、美濃守

  護:1546年ー1547年) と、 (B) 土岐

  政房の次男の土岐 頼芸 (とき よりのり・よ

    りあき・よりなり・よりよし、美濃守護:1536年

  ー1546年、1547年ー1551年) がいた。 

     美濃国守護の土岐氏では、(A) 土岐

  政房の嫡流の長男・土岐頼武(政頼) や そ

  の子の土岐 頼純 と、 (B) 土岐 政房の

  次男の土岐 頼芸とが、 美濃国守護の座を

  めぐり争う。  それに伴い、美濃国の家臣団

  も分裂・対立し、近隣国も介入し、美濃国は、

    混乱し、内乱状態であった。 

 

  ■ 室町時代後期(戦国時代)に、 美濃国

   (みののくに、現・岐阜県南部の相当地域)

   を治めていたのは、守護大名の土岐氏であ

   った。

      摂津源氏系美濃源氏の嫡流の土岐氏

   (土岐一族)は、美濃国を代々治める守護大

   名であり、 室町幕府(= 足利幕府)をささえ

   る名家であった。 

      当時、室町時代後期(戦国時代)の15

   19年から1551年までの期間、美濃国の土

   岐氏では、親族間で内紛が起こり、美濃国は、

   分裂状態であった。 

     (A) 美濃・守護の土岐氏の兄の土岐 頼

   武(政頼)やその子の土岐 頼純 と、 (B)  

   弟の土 岐 頼芸は、 家督相続でもめていた

   (内紛状態であった)。

 

  ■ 美濃国守護。 

     室町時代後期(= 戦国時代、1467

   年ー1573年)の美濃国(みののくに、

   現・岐阜県南部の相当地域)守護は、

   次の順序で、就任する。

     1551年(天文20年)に、美濃の守

   護は、退任し、その後、就任復活せず。

   1459年から1551年までの間≫

   (1) 土岐成頼(しげより)。

       (美濃守護:1459年ー1495年)。

   (2) 土岐政房(まさふさ)。

       (美濃守護:1495年ー1519年)。

   (3) 土岐頼武(よりたけ、政頼)。

       (美濃守護:1519年ー1535年)。

   (4) 土岐頼芸(よりのり)・前期。

       (美濃守護:1536年ー1546年)。

   (5) 土岐頼純(よりずみ)。

       (美濃守護:1546年ー1547年)。

   (6) 土岐頼芸(よりのり)・後期

      (美濃守護:1547年ー1551年)。

 

  ■ (A) 兄の美濃国守護の土岐 頼武(政 

   頼)(とき よりたけ(まさより)やその子の

   土岐 頼純(とき よりずみ)に対しては、美

   濃国内・国政No.2の旧守護代・斎藤氏

   がついて(味方し)、近隣国の浅倉氏が味

   方する(後援する)。

      一方、(B) 弟の土岐 頼芸(とき よ

   りのり・よりあき)に対 しては、美濃国内・

   国政No.3の 小守護代・長井 長弘 (な

   がい ながひろ)がついて(味方して)、

     近隣国の織田氏が味方する(後援 する)。

     両者は、互いに、争そい、美濃・守

   護を代々受け継ぐ土岐氏は、分裂して

   いた。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 斎藤道三(利政)の経歴

   (個別、年代順)

■ 下剋上の、斎藤道三の

   美濃国盗り 

  (個別、年代順)。

 

  ■ (1) 牢人(浪人)の松波左近将監基宗

  の子の「峰丸」 (斎藤道三(利政)の父、また

  は、斎藤道三(利政)、の幼名) は、 11歳

  の春に、京(都)妙覚寺(みょうかくじ)で得度

  を受け、「法蓮房」という名の僧侶になった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ (2) その後、「法蓮房」 (斎藤道三(利

  政)の父、または、斎藤道三(利政)) は、還

  俗(げんぞく)して、 「松波庄五郎(庄九郎)」

  (まつなみしょうごろう(しょうくろう)) と名乗

  る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ (3) 松波庄五郎(庄九郎) (斎藤道三

  (利政)の父、または、斎藤道三(利政)) は、 

  油問屋の奈良屋又兵衛の娘をめとり、 油商

  人となり、山崎屋を称した。

     松波庄五郎(庄九郎)は、法華宗(ほっけ

  しゅう)の商人ネットワークも利用し、日本各地

  で油の商売を行う。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ (4) 松波庄五郎(庄九郎) (斎藤道三

  (利政)の父、または、斎藤道三(利政)) は、 

  京(きょう、= 京都)の・妙覚寺で法 弟・学友で

  あり、美濃国(みののくに、現・岐阜県南部の

  相当地域)の常在寺の住職となった日運(日

  護房、南陽房)に頼み、 美濃国守護を代々

  務める土岐氏の小守護代(しょうしゅごだい)

  の長井長弘 (ながいながひろ、弥次郎、藤

  左衛門尉、生年不詳ー1533年)の家臣に

  なることに成功した。

     ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ (5) 松波庄五郎(庄九郎) (斎藤道三

  (利政)の父、または、斎藤道三(利政)) は、 

  長井氏家臣の西村氏の家名を継いで、西村

  勘九郎正利と称した。

     ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ (6) その後、西村勘九郎正利 (斎藤道

  三(利政)の父、または、斎藤道三(利政)) は、 

  美濃国 (みののくに、現・岐阜県南部の相当

  地域)の小守護代(しょうしゅごだい)の長井長

  弘(ながいながひろ)より、 長井姓を与えられ、

  長井 新左衛門尉 (ながい しんざえもんのじょ

  う、豊後守)と名を変える。

     ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ (7) 長井 新左衛門尉 (ながい しんざえ

  もんのじょう、斎藤道三(利政)の父、または、

  斎藤道三(利政)) は、 美濃国守護・土岐政

  房(ときまさふさ、美濃守護:1495年ー15

  19年)の次男の土 岐 頼芸(とき よりのり・よ

  りあき)の 信頼を得る。

     ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ (8) 1519年(永正16年)に、美濃国

  守護・土岐政房が死去すると、 浅倉氏の

  後援を得て(浅倉軍の美濃国派兵によって

  土岐 頼芸方を圧倒して)、 土岐政房の長

  男の、土岐頼武(政頼)(とき よりたけ(まさ

  より)、美濃守護:1519年ー1535年)が、

  1519年(永正16年)に、美濃国守護となり、

  土岐氏の家督を相続する。 

     ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ (9) 1525年(大永5年)に、美濃国・ 

  小守護代の長井長弘 と その家臣の長井

  新左衛門尉(ながい しんざえもんのじょう、

  斎藤道三(利政)の父、または、斎藤道三

  (利政)) は、 美濃国守護・土岐政房の次

  男の土岐 頼芸(とき よりのり・よりなり・よ

  りあき)を美濃国守護に就けようと、共に、

  1525年(大永5年)に、挙兵し、美濃国(み

  ののくに、現・岐阜県南部の相当地域)で、

  土岐頼武(政頼)方と戦いを開始する。

     ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

    ■ (10) 「新説の美濃国盗り父子二代説」

   では、「長井 新左衛門尉(ながい しんざえも

   んのじょう、斎藤道三(利政)の父)の子は、  

     元服(成人)して、長井 新九郎規秀(ながい

  しんくろうのりひで)と称する。

     ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ (11) 土岐 頼芸(とき よりのり・よりあき)

  は、1526年(大永6年)12月頃に、 土岐頼

  の側室夫人の美人の深芳野(みよしの)を、 

  長井 規秀 (ながい のりひで、美濃国盗り父

  子二代説では、長井 新左衛門尉(ながい し

  んざえもんのじょう)の子、斉藤道三(利政))

  に下贈し(下げ渡し)、 深芳野は、長井 規秀

  (斎藤道三(利政))の側室夫人なり、 1527

  年 (大永7年)6月10日に、20歳で、斉藤義

  (さいとう よしたつ、幼名:豊太丸)を産む。

     斉藤義龍(よしたつ)は、 土岐頼芸の

  子か、斉藤道三(利政)の子か、どちらの子か、

  父親が不明である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ (12) 1530年(享禄3年)に、美濃国・小

   守護代・長井長弘 と 長井新左衛門尉(斎

   藤道三(利政)の父、または、斎藤道三(利

   政))  は、 土岐頼武(政頼)(美濃守護:15

   19年ー1535年)を美濃国より越前国へ 一

   時追いやる。 その後、土岐頼芸は、「美濃

   太守」と呼ばれ、実質的な美濃国守護となる。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ (13) 「新説の美濃国盗り父子二代説」

   では、  1533年(天文2年)頃に、 長井

   新左衛門尉 (ながい しんざえもんのじょう、

   斎藤道 三(利政)の父)が、死去する。

 

   ● 「新説の美濃国盗り父子二代説」では、

   1533年(天文2年)に、「六角承禎 書写(永

   禄3年(1560年)7月付)」によると、 長井

   新左衛門尉 (ながい しんざえもんのじょう、

   斎藤道 三(利政)の父)が死去し、 その子

   の長井規秀 (ながいのりひで、斎藤道三

   (利政)) が、父・新左衛門尉の家督を継ぐ。    

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ (14) 1533年(天文2年、「斎藤系譜」)

  に、美濃国・小守護代の長井長弘は、 死去

  する。

      1533年(天文2年、「斎藤系譜」)に、

   長井 規秀 (ながい のりひで、斎藤道三(利

   政))が、 美濃国の小守護代・長井長弘(し

   ょうしゅごだい・ながいながひろ、生年不詳ー

   1533年)を殺害する。

 

   ● 長井 長弘の殺害の年には、

   (a) 1530年(享禄3年、「美濃国諸旧記」) 

   説 と、 (b) 1533年(天文2年、「斎藤系

   譜」)説 があるが、 (b) 1533年(天文2

   年、「斎藤系譜」)説が有力である。

   ● 「美濃国盗り父子二代説」では、

   長井長弘の殺害者には、 

   (s) 「斎藤 道三(利政)の父・殺害者説」

   = 長井 新左衛門尉(ながい しんざえもの

   のじょう)・殺害者説) と、 (t) 「斎藤 道

   三(利政)本人・殺害者説」= 長井 規秀(な

   がい のりひで)・殺害者説) とがあるが、 

   (t) 斎藤 道三(利政)本人・殺害者説(=

   井 規秀・殺害者説)が有力である。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ (15) 1533年(天文2年)頃に、土岐頼

   芸の後ろ盾の長井長弘と長井新左衛門尉が

   亡くなる。 「美濃太守」と呼ばれ実質的な美

   濃国守護となっていた土岐頼芸は、長井新

   左衛門尉の子・長井規秀(ながいのりひで、

   斎藤道三(利政))を重用し、勢力保持をはか

   る。

      一方、浅倉軍の援助で、土岐頼武(政頼)

   は、再び、美濃入国を果たすと、長井規秀(斎

   藤道三(利政))などの土岐頼芸方と対決する

   が、1535年(天文4年)に病没する。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ (16) 1535年(天文4年)より1539年

   (天文8年)まで、土岐頼武(政頼)の跡を

   継いだ頼武(政頼)の子の土岐頼純(ときよ

   りずみ)が、浅倉氏などの後援を得て、美濃

   国で、長井規秀(斎藤道三(利政))などの

   土岐頼芸方と対決する。 

       1536年(天文5年)に、 勅許により、

   土岐頼芸は、正式に、美濃国の守護 (美

   濃守護:1536年ー1546 年、1547年ー

   1551年)となる。 

      1539年(天文8年)に、土岐頼芸は、

   土岐頼純と和議を結ぶ。

      ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ (17) 1538年(天文7年)に、 長井新

  九郎規秀(斎藤道三(利政))は、 美濃国(み

  ののくに、岐阜県南部 の相当地域)の守護代・

  斎藤氏(さいとうし)の斉藤利良が病死すると、

  長井新九郎規秀は、 美濃守護の土岐頼芸の

  許しを得て、その斎藤氏の名跡(みょうせき)を

  継ぎ、斎藤新九郎利政と名乗る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ (18) 1541年(天文10年)に、土岐頼芸

  (ときよりのり ・よりあき、美濃守護:1536年ー

  1546年、1547年ー1551年)  斎藤利政

  (斎藤道三(利政))との対立抗争が始まる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ (19) 1542年(天文11年)に、斎藤利政

  (斎藤道三(利政))は、 土岐頼芸の居城の大

  桑城(おおがじょう)を攻め、土岐頼芸を美濃よ

  り尾張へ追放したが、尾張国の織田信秀の仲

  介で帰城する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ (20) 1546年(天文 15年)に、浅倉孝景、

   土岐頼純、土岐 頼芸と斎藤道三(利政)との

   和睦(わぼく)により、 土岐 頼芸が美濃国

   守護を退き、土岐頼純が美濃国守護(美濃守

   護:1546年ー1547年)となる。

    

   (1) 浅倉孝景、土岐頼純、土岐 頼芸と斎藤

   道三(利政)との和睦(わぼく)により、15 46

   年(天文 15年)に、美濃国守護の土岐 頼芸

   (とき よりのり・よりあき)が美濃国守護を退き、 

   土岐 頼政(政頼)(とき よりまさ(まさより))の

   子の土岐 頼純(とき よりずみ)が美濃国守護 

   (美濃守護:1546年ー1547年)就任する。 

      越前国・国主の浅倉孝景は、土岐頼純

   (とき よりずみ)を後援していた。

 

   (2) 15 46年(天文15年)に、斎藤道三(利

   政)は、 倉氏との和睦の証(人質)として、

   倉氏が後援する、美濃国守護の土岐 頼純

   (とき よりずみ)に、斎藤道三(利政)の娘の

   帰蝶(きちょう、= 濃姫(のうひめ))を、正室夫

   人として、嫁がせる。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ (21) 1547年(天文16年)9月に、

  張国 (おわりのくに、現・愛知県西部の相当

  地域) の織田 信秀( おだのぶひで)は、西

  方の隣国の美濃国 (みののくに、現・岐阜

  県南部の相当 地域) へ 侵攻し、美濃の稲

  葉山城攻めを仕掛け(加納口の戦い)、美濃

  国の斎藤利政(斎藤道三(利政))に敗戦し、

  大打撃を受ける。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ (22) 1547年(天文16年)に、美濃国

   守護の土岐 頼純(とき よりずみ、美濃守護:

   1546年ー1547年)が、 死去する (8月

   (大桑城(おおがじょう)で討ち死)または11

   月(病死))。

 

   ● 1547年(天文16年)に、土岐 頼純の

   正室夫人の帰蝶(きちょう、= 濃姫)は、夫の

   死によって、実家の斎藤道三(利政)の元へ

   戻る。

 

  ■ (23) 1547年(天文16年)の加納口の

  戦い後、尾張国の織田信秀は、東方の隣国の

  遠江・駿河の今川氏とも戦っていたため、 両

  方面で敵をもつことを望まず、美濃国の斎藤

  利政(斎藤道三(利政))との和睦を望む。

      1548年(天文17年)に、織田信秀と

  長く戦っていた美濃国の斎藤利政(斎藤道三

  (利政))は、 尾張国の織田信秀と和睦し、和

  睦(同盟)の証(あかし)として、斎藤利政(斎

  藤道三(利政))の娘の帰蝶(きちょう、濃姫

  を織田信秀の嫡子の織田信長に嫁(とつ)が

  せる。

 

  ■ (24) その後、斎藤利政(斎藤道三(利

  政))は、織田氏の後援を受けて、道三(利政)

  反逆していた美濃の勢力を滅ぼし、1552

  年(天文21年)に、 土岐氏の美濃国守護・

  土岐頼芸(ときよりのり)を守護より退任させ、

  斎藤利政(斎藤道三(利政))は、 1552年

  (天文21年)に、美濃の揖斐北方城より尾

  張へ追放して、美濃国より追放し、美濃国

  の国主となった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

  

  ■ (25) 1554年(天文23年)に、美濃国

  の国主で稲葉山城主であった、斎藤利政

  (斎藤道三(利政))は、美濃斎藤氏の家督を、

  長子の斎藤義龍 (よしたつ)に譲(ゆず)り、

  剃髪(ていはつ)して「道三」と称し、鷺山城

  (さぎやまじょう)に隠居した。

     しかし、斎藤道三(斎藤道三(利政))は、

  長子の斎藤 義龍(よしたつ)を忌み嫌い、次

  第に、義龍の弟の孫四郎(まごしろう)や喜平

  次(きへいじ)らを寵愛するようになる。 

     更に、斎藤道三(斎藤道三(利政))は、 

  斎藤 義龍を廃嫡(はいちゃく)して道三(利政)

  の夫人の「小見の方」 (おみのかた)の子の

  孫四郎を嫡子にし美濃斎藤氏の家督を継が

  せ美濃国の国主にしようと考え、また、喜平

  次には、名門の一色氏を名乗らせたことから、 

  斎藤道三(斎藤道三(利政))と子の義龍

  不 和は顕在化し、両者の関係は、最悪の事

  態を迎えた。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ (26) 1555年(弘治元年)11月に、

  藤道三(斎藤道三(利政))の子 の斎藤 義龍

  (よしたつ)は、 孫四 郎(まごしろう)や喜平次

  (きへいじ)の弟達を殺害する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ (27) 斎藤道三(斎藤道三(利政))は、 

  その男子の斎藤 義龍 (さいとうよしたつ)

  争って、敗死する。  

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  @ 1556年(弘治2年)の春に、斎藤道三

  (斎藤道三(利政)) と 斎藤道三(斎藤道三

  (利政))の子の斎藤義龍の両者は争う事態と

  なり、戦いを決意し、挙兵する。 美濃国盗(く

  にと)りの経緯から、斎藤道三(斎藤道三(利

  政))に味方しようとする美濃国の旧土岐氏家

  臣団は、少なかった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  A 1556年(弘治2年)4月に、約17000

  人の兵を率いる斎藤義龍(よしたつ)に対し、

  約2000人の兵を率いる斎藤道三(斎藤道

  三(利政))が、 長良川(ながらがわ)河畔で

  戦い(長良川の戦い)、 斎藤道三(斎藤道三

  (利政))の帰蝶(きちょう、= 濃姫)の娘婿(む

  すめむこ)の織田 信長が派兵した援軍は間

  に合わず、斎藤道三(斎藤道三(利政))は、

  戦死した。 斎藤道三(斎藤道三(利政))は

  享年63歳であった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  B 明智光秀は、1556年(弘治2年)の長

  良川の戦い時、斎藤道三(利政)に味方し、

  居城の明智城を攻められ敗戦して、脱出し、

  美濃国から追われて、浪人となり、諸国を

  巡る。 その後、明智光秀は、約10年間、

  越前国の浅倉氏の浅倉義景の家臣となる。

  それから、足利 義昭の家臣となり、更に、

  織田 信長の家臣となる。.

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 

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◆ 斎藤道三(利政)関連出来事 

  (詳細、年代順)。

 

■ 1494年(明応3年)頃。

   ■ 1494年(明応3年)頃に、斎藤道三(利政)

    (または斎藤道三(利政)の父)が誕生する。

 

   ● 斎藤道三(利政)(または斎藤道三(利政)

    の父))の生年については、1504年(永正元

    年)という説もある。

 

   ● (a1) 「美濃国盗り本人一代説」では

   斎藤道三 (利政)が、 1494年(明応3年)

   頃に、山城国(やましろのくに、京都府南

   部の相当地域)の地侍(じざむらい)の子

   として生まれる。

     (a2) 「美濃国盗り父子二代説」では

   斎藤道三 (利政)の父が、 1494年(明応3

   年)頃に、山城国(やましろのくに、京都府

   南部の相当地域)の地侍(じざむらい)の子

   として生まれる。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1505年頃〜151925年頃。

   ■ (1) 斎藤道三(利政) (または斎藤道

    三(利政)の父)は、11歳で、僧侶となる。

 

   ●  (a1) 「美濃国盗り本人一代説」では、

   斎藤道三 (利政)が、 11歳で出家して、京

   (きょう、= 京都)の妙覚寺(みょうかくじ)で修

   業する。 そこで、軍略書を読み、兵法を学ぶ。

      (a2) 「美濃国盗り父子二代説」では

   斎藤道三 (利政)の父が、 11歳で出家して、

   京(きょう、= 京都)の妙覚寺(みょうかくじ)で

   修業する。 そこで、軍略書を読み、兵法を学

   ぶ。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ (2) 斎藤道三(利政) (または斎藤道三

    (利政)の父)は、還俗(げんぞく)する。

 

       (a1) 「美濃国盗り本人一代説」では

   斎藤道三 (利政)が、 武士として名をあげた

   いと還俗(げんぞく)する。

       (a2) 「美濃国盗り父子二代説」では

   斎藤道三 (利政)の父が、 武士として名をあ

   げたいと還俗(げんぞく)する。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ (3) 斎藤道三(利政)(または斎藤道三

    (利政)の父))は、油商人となる。

       斎藤道三(利政)(または斎藤道三

    (利政)の父))は、法華宗(ほっけしゅう)

    の商人ネットワークも利用し、日本各地で

    油の商売を行う。

 

      (a1) 「美濃国盗り本人一代説」では

   斎藤道三 (利政)が、 まず、油商人の入り婿

   となり、庄五郎(しょうごろう)と名乗る。

       (a2) 「美濃国盗り父子二代説」では

   斎藤道三 (利政)の父が、 まず、油商人の

   入り婿となり、庄五郎(しょうごろう)と名乗る。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ (4) 斎藤道三(利政) (または斎藤道三

    (利政)の父)は、 美濃国(みののくに、現・

    岐阜県南部の相当地域)の小守護代・長井

    長弘(しょうしゅごだい・ながいながひろ)の

    家臣となる。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   (4−1) (a1) 「美濃国盗り本人一代説」では

   斎藤道三(利政)が、 油の行商人として、全国

   を渡り歩き、活躍の舞台を探す。 そんな中で、

   京(都)に近い美濃国 (みののくに、現・岐阜県

   南部の相当地域)でチャンスが訪れる。

       (a2) 「美濃国盗り父子二代説」では

   斎藤道三 (利政)の父が、 油の行商人として、

   全国を渡り歩き、活躍の舞台を探す。 そんな

   中で、京(都)に近い美濃国 (みののくに、現・

   岐阜県南部の相当地域)でチャンスが訪れる。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  (4−2) (a1) 「美濃国盗り本人一代説」では

   斎藤道三(利政)の、 ひしゃくから油を落とし

   一文銭の穴に通す油売りの技術が、美濃国の

   長井氏の家臣の目に留まり、武芸の稽古(けい

   こ)を勧められる。

       (a2) 「美濃国盗り父子二代説」では

   斎藤道三 (利政)の父の、 ひしゃくから油を

   落とし一文銭の穴に通す油売りの技術が、美

   濃国の長井氏の家臣の目に留まり、武芸の

   稽古(けいこ)を勧められる。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   (4−3) (a1) 「美濃国盗り本人一代説」では

   斎藤道三(利政)は、 長槍の稽古(けいこ)を

   し、長槍の名人となる。

       (a2) 「美濃国盗り父子二代説」では

   (斎藤道三 利政)の父は、 長槍の稽古(けい

   こ)をし、長槍の名人となる。   

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   (4−4) (a1) 「美濃国盗り本人一代説」では

   斎藤道三 (利政)は、 武芸も得意で(長槍の

   名人となり)、弁舌に優(すぐ)れていたので、

   美濃国土岐氏一族の土岐 頼芸(とき よりの

   り・よりあき)の重臣で美濃国の小守護代・

   長井長弘(しょうしゅごだい・ながいながひろ)

   の家臣となる。

       (a2) 「美濃国盗り父子二代説」では

   斎藤道三 (利政)の父は、 武芸も得意で(長

   槍の名人となり)、弁舌に優(すぐ)れていた

   ので、 美濃国土岐氏一族の土岐 頼芸(とき

   よりのり・よりなり・よりあき)の重臣で美濃国

   の小守護代・長井長弘(しょうしゅごだい・な

   がいながひろ)の家臣となる。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ (5) 斎藤道三(利政)(または斎藤道三

    (利政)の父))は、 美濃国の 土岐氏一族

    の土岐 頼芸(とき よりのり・よりなり・より

    あき)の直臣(じきしん)となる。

         斎藤道三(利政)(または斎藤道三

    (利政)の父))は、 出世のため、美濃国の

    良質の和紙産地(岐阜県美濃市一帯)を

    有し、紙の流通を支配し、多額の利益を得て、

    経済的基盤とする。

 

    ●  (a1) 「美濃国盗り本人一代説」では

   斎藤道三(利政)は、 更に、美濃国の 土岐氏

   一族の土岐 頼芸(とき よりのり・よりあき)の直

   臣(じきしん)となる。

       (a2) 「美濃国盗り父子二代説」では

   斎藤道三 (利政)の父は、 更に、美濃国の 土

   岐氏一族の土岐 頼芸(とき よりのり・よりあき)

   の直臣(じきしん)となる。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1519年(永正16年)。

   ■ (1) 1519年(永正16年)に、美濃国

   守護・土岐政房が死去すると、 浅倉氏の

   後援を得て(浅倉軍の美濃国派兵によって

   土岐 頼芸方を圧倒して)、 土岐政房の長

   男の、土岐頼武(政頼)(とき よりたけ(まさ

   より)、美濃守護:1519年ー1535年)が、

   1519年(永正16年)に、美濃国守護となり、

   土岐氏の家督を相続する。 

 

   ■ (2) 1519年(永正16年)より、 美濃

   国守護の土岐頼武(政頼)(美濃守護:15

   19年ー1535年) は、 弟の土岐頼芸(とき

   よりのり・よりなり・よりあき)と対立する。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1525年(大永5年)。

   ■ (1) 1525年(大永5年)に、美濃国・小守

    護代の長井長弘 と 斎藤道三(利政)(また

    は斎藤道三(利政)の父))は、 弟の土岐頼

    芸を擁立して、美濃国守護・土岐頼武(政頼)

    (美濃守護:1519年ー1535年)とその重臣

    の守護代・斎藤氏との戦いを開始する。

 

   (a1) 「美濃国盗り本人一代説」では 

   美濃国小守護代の長井長弘(ながいながひ

   ろ) と 斎藤道三(利政)は、1525年(大

   永5年)に、土岐頼武(政頼)(ときよりたけ

   (まさより))の弟の土岐頼芸(とき よりのり・

   よりあき)を擁立して(そそのかして)、 美濃

   国守護・土岐頼武(政頼)とその重臣の守護

   代・斎藤家との戦いを開始する。

      (a2) 「美濃国盗り父子二代説」では 

   美濃国小守護代の長井長弘(ながいながひ

   ろ) と 斎藤道三(利政)の父・長井 新左衛

   門尉(ながい しんざえもんのじょう)は、15

   25年(大永5年)に、土岐頼武(政頼)(とき

   よりたけ(まさより))の弟の土岐 頼芸(とき

   よりのり・よりあき)を擁立して(そそのかし

   て)、 美濃国守護・土岐頼武(政頼) とそ

   の重臣の守護代・斎藤家との戦いを開始す

   る。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ (2) 1525年(大永5年)に、美濃国・

   小守護代の長井長弘は、美濃国・守護代の

   斎藤氏の城・稲葉山城を攻め取る。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1526年(大永6年)。

   ■ 1526年(大永6年)12月頃に、斉藤道

    三(利政)は、拝領夫人で側室夫人の深芳

    野(みよしの)を得る。

 

   ●  (a1) 「美濃国盗り本人一代説」では

   土岐 頼芸(とき よりのり・よりなり)は、1526

   年(大永6年) 12月頃に、 土岐頼芸の側室

   夫人の深芳野(みよしの)を斉藤道三 (利 

   政)に下贈し(下げ渡し)、 深芳野は、斉藤

   道三(利政)の夫人となり、1527年(大永7

   年)6月に、20歳で、斉藤義龍 (さいとうよ

   したつ、幼名:豊太丸)産む。

       (a2) 「美濃国盗り父子二代説」では

   土岐 頼芸(とき よりのり・よりあき)は、1526

   年(大永6年)12月頃に、土岐頼芸の側室夫

   人の深芳野(みよしの)を 斉藤道三(利政)

   (= 長井 新左衛門尉(ながい しんざえもんの

   じょう)の子) )下贈し(下げ渡し)、深芳野は、

   斉藤道三(利政)の側室夫人となり、1527年

   (大永7年)6月に、20歳で、斉藤義龍 (さい

   とうよしたつ、幼名:豊太丸)産む。 

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1527年(大永7年)。

   ■ 1527年(大永7年)6月に、土岐頼芸か

   ら拝領した斉藤 道三(利政)の側室夫人の

   深芳野(みよしの)は、 斉藤義龍を産む。

 

   ● 1526年(大永6年)12月頃に、土岐頼

   芸から拝領した斉藤 道三(利政)の側室夫

   人の深芳野は、1527年(大永7年)6月に、

   20歳で、斉藤義龍 (さいとうよしたつ、幼

   名:豊太丸)産む。

   ● 斎藤 義龍(よしたつ)は、土岐頼芸の子

   か、斎藤道三(利政)の子か、どちらの子か、

   父親が不明である。

 

■ 1530年( 享禄3年)。

   ■ 1530年(享禄3年)に、斎藤道三(利

   政)は、 美濃 国守護 の土岐頼武(政頼)を

   (ときよりたけ(まさより))を美濃国より越前

   国へ一時追いやる。 

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ●  (a1) 「美濃国盗り本人一代説」では

      斉藤道三(利政)は、 1530年( 享禄3年)

   に、斎藤道三(利政)は、 美濃 国守護 の

   土岐頼武(政頼)を(ときよりたけ(まさより))

   美濃国より越前国へ一時追いやる。 

       (a2) 「美濃国盗り父子二代説」では

   斉藤道三(利政) (長井 新左衛門尉(な

   がい しんざえもんのじょう))は、 1530年

   ( 享禄3年)に、斎藤道三(利政)は、 美濃

   国守護の土岐頼武(政頼)を(ときよりたけ

   (まさより))を美濃国より越前国へ一時追い

   やる。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1532年(天文元年)。

   ■ 1532年(天文元年)に、斉藤道三(利政)

    は、 明智光継の娘で正室夫人の小見の方

    (おみのかた)を得る。

       1535年(天文4年)に、小見の方は、

   斉藤道三(利政)との間に、女子 の帰蝶(きち

   ょう、= 濃姫(のうひめ))をもうける。

 

   ●  (a1) 「美濃国盗り本人一代説」では

      斉藤道三(利政)は、1532年(天文元年)に、

   正室夫人として、明智光継の娘と 婚儀を結

      ぶ。 小見の方と呼ばれる。

       (a2) 「美濃国盗り父子二代説」では

   斉藤道三(利政) (長井 新左衛門尉(な

   がい しんざえもんのじょう)の子・長井規秀)

   は、1532年(天文元年)に、正室夫人として、

   明智光継の娘と婚儀を結ぶ。 小見の方 と

   呼ばれる。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1533年(天文2年)頃

   ■ 「美濃国盗り父子二代説」では1533年

   (天文2年)頃に、斎藤道三(利政)の父・ 長

   新左衛門尉(ながい しんざえもんのじょう)

   が死去する。

 

■ 1533年(天文2年)。

   ■ (1) 1533年(天文2年、「斎藤系譜」)に、

   斎藤道三(利政)は、 美濃国の小守護代・

   井長弘 (しょうしゅごだい・ながいながひろ)を

   殺害する。

 

   ● 長井 長弘の殺害の年には、

   (a) 1530年(享禄3年、「美濃国諸旧記」) 

   説 と、 (b) 1533年(天文2年、「斎藤系

   譜」)説 があるが、 (b) 1533年(天文2

   年、「斎藤系譜」)説が有力である。

   ● 「美濃国盗り父子二代説」では、

   長井長弘の殺害者には、 

   (s) 「斎藤 道三(利政)の父・殺害者説」

   = 長井 新左衛門尉(ながい しんざえもの

   のじょう)・殺害者説) ) と、 (t) 「斎藤 道

   三(利政)本人・殺害者説」= 長井 規秀(な

   がい のりひで)・殺害者説) ) とがあるが、 

   (t) 斎藤 道三(利政)本人・殺害者説(=

   井 規秀・殺害者説)が有力である。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ● (a1) 「美濃国盗り本人一代説」では

   斎藤道三(利政)は、 1533年(天文2年 、

   「斎藤系譜」)に、 斎藤道三(利政)を引き

   立ててくれた 恩人の、小守護代の長井長弘

   (ながいながひろ)を殺害する。

       (a2) 「美濃国盗り父子二代説」では

   斎藤道三(利政)= 長井 規秀(ながい のり

   ひで))は、1533年(天文2年、「斎藤系譜」)

   に、斎藤道三(利 政)の父や斎藤道三(利政)

   を引き立ててくれた恩人の、小守護代の長井

   長弘(ながいなが ひろ)を殺害する。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ (2) 1533年(天文2年)に、 斎藤道

   三(利政)は、 小守護代の長井長弘の居

   城の稲葉山城(いなばやまじょう 、現・岐阜

   城)を手に入れる。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ● (a1) 「美濃国盗り本人一代説」では

   斎藤道三(利政)は、 1533年(天文2年 、

   「斎藤系譜」)に、 斎藤道三(利政)を引き

   立ててくれた 恩人の、小守護代の長井長弘

   (ながいながひろ)の居城稲葉山城(い な

   ばやまじょう 、現・岐阜城)を手に入れる

       (a2) 「美濃国盗り父子二代説」では

   斎藤道三(利政)= 長井 規秀(ながい のり

   ひで))は、1533年(天文2年、 「斎藤系譜」)

   に、斎藤道三(利 政)の父や斎藤道三(利政)

   を引き立ててくれた恩人の、小守護代の長井

   長弘(ながいなが ひろ)の居城稲葉山城

   (い なばやまじょう 、現・岐阜城)を手に入れ

   

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1535年(天文4年)頃。

   ■ 1535年(天文4年)頃に、 土岐 頼武

    (政頼) (とき よりたけ(まさより)、美濃

    守護:1519年ー1535年)が病没する。

     

■ 1535年(天文4年)。

   ■ 1535年(天文4年)に、斎藤道三(利政)

   の娘・帰蝶(=濃姫)が生まれる。

 

   ● 1535年(天文4年)に、斎藤道三(利政)・

   正室夫人の小見の方は、斎藤道三(利政)

   の間に、女子の帰蝶(きちょう、= 濃姫(のう

   ひめ))をもうける  (「美濃国諸旧記」)

 

■ 1536年(天文5年) 。

   ■ 1536年(天文5年)に、斎藤道三(利政)

   は、土岐頼芸を擁立し、美濃国守護に就任さ

   せる。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ● 1536年(天文5年)に、 斎藤道三(利

   政)は、 土岐 頼芸 (とき よりのり・よりあ

   き)を擁立し、美濃国守護(美濃守護:1536

   年ー1546年)に就任させる。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ● 1536年(天文 5年)に、斎藤道三(利政)

    は、実質的に、美濃国で国政No.2の統治

    者となる。

 

■ 1538年(天文7年)。

   ■ 1538年(天文7年)に、斎藤道三(利政)  

   は、美濃 国の守護代・斎藤氏の名跡を継ぐ。

 

   ● 1538年(天文7年)に、斎藤道三(利政)

   は、 美濃守護の土岐頼芸の許しを得て、

   美濃 国の守護代・斎藤氏の名跡を継ぎ、斎藤 

   利政と名乗る。   

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1546年(天文15年)。

   ■ 15 46年(天文 15年)に、浅倉孝景、土

   岐頼純、土岐 頼芸と斎藤道三(利政)との

   睦(わぼく)により、 土岐 頼芸が美濃国守護

   を退き、土岐頼純が美濃国守護(美濃守護:

   1546年ー1547年)となる。

    

   (1) 浅倉孝景、土岐頼純、土岐 頼芸と斎藤

   道三(利政)との和睦(わぼく)により、15 46

   年(天文 15年)に、美濃国守護の土岐 頼芸

   (とき よりのり・よりあき)が美濃国守護を退き、 

   土岐 頼政(政頼)(とき よりまさ(まさより))の

   子の土岐 頼純(とき よりずみ)が美濃国守護 

   (美濃守護:1546年ー1547年)就任する。 

      越前国・国主の浅倉孝景は、土岐頼純

   (とき よりずみ)を後援していた。

 

   (2) 15 46年(天文15年)に、斎藤道三(利

   政)は、 倉氏との和睦の証(人質)として、

   倉氏が後援する、美濃国守護の土岐 頼純

   (とき よりずみ)に、斎藤道三(利政)の娘の

   帰蝶(きちょう、= 濃姫(のうひめ))を、正室夫

   人として、嫁がせる。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1547年(天文16年)。

   ■ 1547年(天文16年)9月に、斎藤道三

   (利政)は、 美濃に攻めてきた織田信秀(お

   だのぶひで、織田信長の父)を奇襲攻撃で撃 

   退し、勝利を得る (加納口の戦い)。

 

■ 1547年(天文16年)。

   ■ 1547年(天文16年)に、美濃国守護の

   土岐 頼純(とき よりずみ、美濃守護:1546

   年ー1547年)が、 死去する (8月(大桑城

   (おおがじょう)で討ち死)または11月(病死)。

 

   ● 1547年(天文16年)に、土岐 頼純の

   正室夫人の帰蝶(きちょう、= 濃姫)は、夫の

   死によって、実家の斎藤道三(利政)の元へ

   戻る。

 

■ 1547年(天文16年)。

    ■ 1547年(天文16年)に、斎藤道三(利

    政)は、土岐 頼芸を再び、美濃国守護として

    擁立する。

 

   ■ 1547年(天文16年)に、美濃国守護の

   土岐 頼純(とき よりずみ、美濃守護:15 46

   年ー1547年))が死去し、1547年(天文

   16年)に、斎藤道三(利政)は、 土岐 頼芸

   (とき よりのり、よりあき)を美濃国守護(美

   濃守護:1547年ー1551年)として、再び

   擁立する。 

 

■ 1548年(天文17年)。

   ■ 1548年(天文17年)に、美濃国の斎

   藤道三(利政)は、 尾張国の織田信秀と

   和睦し、尾張国の織田氏と同盟を結ぶ。

 

   ● 1548年(天文17年)に、斎藤道三(利

   政)は、 織田氏との 和睦、同盟 の証(人質)

   として、娘の帰蝶(きちょう、= 濃姫)を織田

   信秀の嫡男の織田 信長に、正室夫人とし

   て、嫁が せる。

 

   ● 明智光秀の出自(諸説あり)が明智光継

   の孫(明智光継の子・明智光綱(みつつな)

   の子)であれば、 小見の方は、明智光秀

   の叔母(おば)であり、 濃姫(のうひめ、=

   帰蝶))は、 明智光秀の従兄妹(いとこ)で

   ある。

   ● 濃姫= 帰蝶)の生母は、 斎藤道三

   (利政)の正室夫人の小見の方おみの

   かた)であり、 小見の方は、土岐明智氏

   (ときあけちし、土岐氏の支流)の明智光

   継の娘である。 

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1548年(天文17年)。

    ■ 1548年(天文17年)に、美濃国守護

    の土岐氏を強力に援助していた越前国の

    朝倉孝景(あさくらたかかげ)が急死する。

 

■ 1551年(天文20年)。

    ■ 1548年(天文17年)に、 美濃国守

    護の土岐氏を強力に援助していた越前国

    の朝倉孝景(あさくらたかかげ)が急死し、

    また、土岐氏を援助していた織田氏とは

    同盟を結び、 2つの援助先を失った美濃

    国守護の土岐氏を排除しやすくなった。

      1551年(天文20年)に、斎藤道三(利

    政)は、 擁立した美濃国守護の土岐 頼芸 

    (とき よりのり・よりなり・よりあき、美濃守

    護:1547年ー1551年)を守護より退任さ

    せ、1552年(天文21年)に、美濃国より追

    放し、美濃国一国をのっとり、美濃の国主と

    なる。 

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   (1) 1551年(天文20年)に、尾張国有力者

   の織田信秀が死去し、 織田信秀の子の織田

   信長が、尾張国の織田信秀の家督を継ぐ。

      尾張国有力者の織田信秀は、 土岐 頼

    芸(とき よりのり・よりなり・よりあき)を後援し

   ていた。

 

   (2) (a1) 「美濃国盗り本人一代説」では

   1151年(天文20年)に、斎藤道三(利政)

   は、 主君で長年斎藤道三(利政)を引き立

   ててくれた恩人の、土岐 頼芸 (とき よりの

   り・よりあき、美濃守護:1536年ー1546年、

   1547年ー1551年) を守護より退任させ、

   1552年(天文21年)に、美濃国より追放し、

   美濃国一国をのっとり、美濃の国主となる。 

       (a2) 「美濃国盗り父子二代説」では

   1551年(天文20年)に、斎藤道三(利政)

   は、 主君で長年斎藤道三(利政)の父 や

   斎藤道三(利政)を引き立ててくれた恩人の

   土岐 頼芸(とき よりのり・よりあき、美濃守

   護:1536年ー1546年、1547年ー1551

   年)を守護より退任させ、1552年(天文21

   年)に、美濃国より追放し、美濃国一国をの

   っとり、美濃の国主となる。 

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1553年(天文22年)。

   ■ 1553年(天文22年)4月に、斎藤道三(利

   政)は、 織田信長と会見する。 初対面(はつ

   たいめん)であった。

       60歳の斎藤道三(利政)は、 20歳の

   織田信長と会見する。

 

    ■ (1) 1553年(天文22年)に (異説では、

    1549年(天文18年)に)、 当時、美濃国と

    尾張国の境界付近にあった、正徳寺 (しょうと

    くじ、現・名古屋市天白区の聖徳寺)という寺

    で、 美濃国国主・斎藤道三(利政)(さいとう

    どうさん(としまさ)) と 尾張国の織田信長

    が会見した。 

 

    ■ (2) 織田信長との会見で、斎藤道三

    (利政)は、織田信秀の跡を継いだ織田信長

    が、本当に噂どうりの「うつけ」なら、織田信

    長の領土を乗っ取ろうと考えていた。

       会見前に、斎藤道三(利政)は、隠れて、

    織田信長の行列を見て、革新的な6m長槍

    隊500人や鉄砲隊500人がいるのを見て、

    驚く。

       会見以後の、斎藤道三(利政)は、信長

    帰 蝶(きちょう、濃姫)の娘婿であり、 戦

    略家で「既成の秩序を壊す改革者」として、

    同盟者として、織田信長に好意をもつように

    なる。

 

■ 1554年(天文23年)。

    ■ 1554年(天文23年)に、織田信長は、

    今川義元と戦うことになり、本拠地の那古野

    城(なごやじょう)を出て、今川義元の軍と戦

    うことを決意し、斎藤道三(利政)に援軍を求

    める。

       斎藤道三(利政)は、安藤守就(あんど

    うもりなり)の率いる美濃軍・約1000人の兵

    を、尾張に派兵する。 織田信長は、信長の

    本拠地の那古屋城(なごやじょう)の近くに

    美濃軍を駐屯させ、領地の留守をまかせ、 

    斎藤道三(利政)を信頼していることを示した。

       織田信長は、今川義元軍との戦いで

    1日で撃退し勝利を得て、 斎藤道三(利政)

    は、安藤守就から戦況を聞き、 織田信長を

    同盟者として、より一層信頼するようになる。

    

■ 1554年(天文23年)。

   ■ 1554年(天文23年)に、斎藤道三(利

   政)は、 美濃 国の土岐氏勢力に人気のあ

   った、道三(利政)の長男・斎藤義龍(さいと

   うよしたつ)に、美濃国の国主・斎藤氏の家

   督を譲り、隠居する。

  

   ● 1554年(天文23年)に、美濃国の国主

   の斎藤道三(利政)は、 約2年前に美濃国

   の国主になったばかりだが、 道三(利政)

   の長男・斎藤義龍(さいとうよしたつ)に美

   濃国の国主・斎藤氏の家督を譲り、隠居す

   る。

      当時、美濃国国内は乱世で疲弊し、ま

   た、美濃国の土岐氏勢力をなだめるために

   も、斎藤道三(利政)は、美濃 国の土岐氏勢

   力に人気のあった道三(利政)の長男・斎藤

   義龍に美濃国の国主・斎藤氏の家督を譲

   った。

      斎藤義龍の生母の深芳野(みよしの)

   は、土岐 頼芸(ときよりのり・よりあき)から

   拝領した(もらいうけた)道三(利政)の拝領

   夫人であり、 深芳野は美濃国守護の土岐

   頼芸の寵愛する側室夫人であったが斎藤

   道三(利政)が拝領した(もらいうけた)夫人

   であったので、斎藤義龍は、美濃 国の土岐

   氏勢力に人気があった。

      1554年(天文23年)に、斎藤道三(利

   政)は、 美濃 国の稲葉山城(いなばやまじ

   ょう)」を離れて、 美濃 国の鷺山城(さぎや

   まじょう)に移る。

 

■ 1555年(弘治元年)

   ■ 1555年(弘治元年)11月に、、斎藤道三

   (利政)の子 の斎藤 義龍(よしたつ)は、 

   孫四郎(まごしろう)や喜平次(きへいじ)の

   弟達を殺害する。

   ● 1555年(天文24年)に、斎藤義龍は、病

   を装い、見舞いに来た異母弟の2人を殺害す

   る。

    

   ■ (1) 1554年(天文23年)に、美濃国の

   国主で稲葉山城主であった、斎藤道三(利政)

   は、美濃斎藤氏の家督を、長子の斎藤義龍

   (よしたつ)に譲(ゆず)り、剃髪(ていはつ)

   して「道三」と称し、鷺山城(さぎやまじょう)

   に隠居した。

 

   ■ (2) しかし、 斎藤道三(利政、秀龍)は、

   長子の斎藤 義龍(よしたつ)を忌み嫌い、次

   第に、義龍の弟の孫四郎(まごしろう)や喜平

   次(きへいじ)らを寵愛するようになる。 

 

   ■ (3) 更に、斎藤道三(利政)は、 斎藤

   義龍を廃嫡(はいちゃく)して道三(利政)の

   夫人の「小見の方」 (おみのかた)の子の孫

   四郎を嫡子にし美濃斎藤氏の家督を継がせ

   美濃国の国主にしようと考え、また、喜平次

   には、名門の一色氏を名乗らせたことから、 

   道三(利政)と子の義龍の不和は顕在化し、 

   両者の関係は、最悪の事態を迎えた。

 

   ■ (4) 1555年(弘治元年)11月に、

   道三(利政)の子 の斎藤 義龍(よしたつ)は、 

   孫四郎(まごしろう)や喜平次(きへいじ)の

   弟達を殺害する。

 

■ 1556年(弘治2年)。

   ■ 長良川(ながらがわ)の戦い。

     1556年(弘治2年)に、斎藤道三(利 

   政)は、 道三(利政)の長男・斎藤義龍

   (さいとうよしたつ)と戦い(争って)、討ち

   死にする(敗死する)

  

   ■ (1) 斎藤道三(利政)は、美濃国の

   国主・斎藤氏の家督を次男・孫四郎に譲

   ろうと考えるようになり、また、娘婿の織

   田信長にも肩入れしていたため、 斎藤

   義龍は、斎藤道三(利政)により排除され、

   美濃国の国主・斎藤氏の家督を奪われる

   と思い、異母弟の2人を殺害する。

 

   ■ (2) 次男・孫四郎・三男・喜平次を殺

   害されて、斎藤義龍の謀反を知って、怒っ

   た斎藤道三(利政)は、 道三(利政)の長

   男・斎藤義龍に対し挙兵する。

   ● 1556年(弘治2年)の春に、斎藤道

   三(利政) と 斎藤道三(利政)の子の斎

   藤義龍の両者は争う事態となり、斎藤道

   三(利政)は、戦いを決意し、挙兵する。 

   斎藤道三(利政)の美濃国盗り(みのく

   とり)の諸理由から、斎藤道三(利政)に

   味方しようとする美濃国の旧土岐氏家臣

   団は、少なかった。 

      美濃の国人(=国衆)は、斎藤道三

   (利政)を嫌い、斎藤義龍に味方する者

      が多かった。

 

   ■ (3) 1556年(弘治2年)4月に、

   斎藤道三(利政)の軍は、約2000人で

   あり、斎藤義龍の軍は、約17000人で

   あり、 長良川(ながらがわ)の戦いで、 

   斎藤道三(利政)は、 道三(利政)の長

   男・斎藤義龍の軍と戦い、討ち死にする。

   道三(利政)は享年63歳であった。

   ● 1556年(弘治2年)4月に、 約17

   000人の兵を率いる斎藤義龍(よした

   つ)に対し、約2000人の兵を率いる斎

   藤道三(利政)が、 長良川(ながらがわ)

   河畔で戦い (長良川の戦い)、一方、

   道三(利政)の帰蝶(= 濃姫)の 娘婿(む

   すめむこ)の織田 信長の援軍は間に合

   わず、斎藤道三(利政)は、戦死した。

   ● 斎藤道三(利政)から援軍の要請を

   受けた織田信長は、 救援に向うが、

   藤義龍の別動隊に行く手をはばまれ、

   苦戦し、交戦中に斎藤道三(利政)の討

   死の報を受け、 結局、斎藤道三(利政)

   を助けられなかった。

   ● 死ぬ直前に(戦の前日に)、斎藤道

   三(利政)は、織田信長に美濃国を譲る

   という遺言状を書き残す。

  

   ■ (4) 長良川の戦い (なからがわ

   のたたかい)は、1556年(弘治2年)に、

   美濃国の長良川付近で、斎藤義龍方と

   斎藤道三方とが戦った合戦である。

   斎藤道三方が敗北し、斎藤道三は敗

   死する。 明智光秀は、長良川の戦い

   時、斎藤道三方で戦い、敗れ、その後、

   放浪の生活を送る。

    明智光秀は、1556年(弘治2年)

   の長良川の戦い時、斎藤道三(利政)に

   味方し、居城の明智城を攻められ敗戦

   して、脱出し、美濃国から追わ れて、浪

   人となり、諸国を巡る。 その後、明智

   光秀は、約10年間、越前国の浅倉氏

   浅倉義景の家臣となる。 それから

   足利 義昭の家臣となり、更に、織田 信

   の家臣とな る。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1567年(永禄10年)。

   ■ 1567年(永禄10年)に、織田信長が、

   美濃国を平定する。

 

   ■ (1) 織田信長は、 織田信長に美濃

   国を譲るという斎藤道三(利政)の遺言状

   を大義名分として、 美濃国(みののくに、

   現・岐阜県南部の相当地域)を攻略してい

   く。

  

   ■ (2) 1567年(永禄10年)に、織田信

   長が、美濃国を平定する。 

       織田信長は、 美濃国・斎藤氏の本

   城・稲葉山城(いなばやまじょう)を攻め落

   とし入城し、稲葉山城を改名して、岐阜城

   (ぎふじょう)とする。

       織田信長は、美濃国平定後、書状に

   「天下布武」の印を使用する。

   

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#saitoyoshitatsu

 

■ 斎藤 義龍  

     (さいとう よしたつ)

 

■ 斎藤 義龍。

■ 名称 : 斎藤 義龍 (さいとう よしたつ)。

■ 生没年 : 1527年〜1561年。

■ 斎藤 義龍は、室町時代後期(戦国時代)の武

  将である。

■ 斎藤 義龍は、美濃国(みののくに、岐阜県南

  部)の戦国大名である。

■ 斎藤 義龍は、斎藤道三(利政)(どうさん (とし

  まさ))の子である。

    斎藤 義龍は、斎藤道三(利政)の実子では

  ないという説もある。

■ 斎藤 義龍は、斎藤道三(利政)と争い、道三

  (利政)を敗死させる。

■ 斎藤 義龍の子には、斎藤龍興 (さいとうた

  つおき)がいた

■ 大勢の臣下の中に、竹中重元(たけなかしげ

  もと、竹中半兵衛の父)、 竹中 半兵衛(重治)

  (たけなかはんべい(しげはる))、 西美濃三

  人衆)の1人・安藤(安東)守就(あん どうもりな

  り) がいた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典  11325。

 

 

■ 斎藤 義龍(総合)。

■ 斎藤 義龍 (さいとう よしたつ、生没年:152

  7〜1561年)は、 室町時代後期(戦国時 代)

  の武将であり、 美濃国(みののくに、岐阜県

  南部の相当地域)の戦国大名で、国主であっ

  た。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 斎藤 義龍の父親。

■ 斎藤 義龍は、 斎藤道三(利政)(さいとう ど

  うさん(としまさ))の子である。

 

■ 斎藤 義龍は、 斎藤道三 (利政)の実子では

  ないという説もある。

● 土岐頼芸(ときよりのり・よりあき)は、1526

  年(大永6年)12月に、 深芳野(みよしの)を、

  斎藤道三(利政) (「 新説の美濃国盗り父子

  二代説」では、長井 新左衛門尉(ながい しん

  ざえもんのじょう)の子・長井規秀(ながいのり

  ひで)) に下贈し(下げ渡し)、 深芳野は、

  斉藤道三(利政)の側室夫人となり、 1527

  年(大永7年)6月に、20歳で、豊太丸(後の

  斎藤義龍( さいとうよしたつ))を産む (「美

  濃国諸旧記」)

     斎藤義龍は、土岐頼芸の子か、斎藤道三

  (利政)の子か、どちらの子か、父親が不明で

  ある。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 斎藤 義龍の子供。

■ 斎藤 義龍の子には、 斎藤龍興 (さいとう た

  つおき) がいた

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 斎藤 義龍の家臣。

■ 美濃斎藤氏は、 斎藤 義龍の代から、尾張国

  の織田 信長の美濃への侵攻 や 家臣の流出

  起こる。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 斎藤 義龍の大勢の臣下の中に、 竹中重元

  (たけなかしげもと、竹中半兵衛の父)、 竹中

  半兵衛(重治) (たけなかはんべい(しげはる))、 

  西美濃三人衆)の1人・安藤(安東)守就(あん

  どうもりなり) がいた。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 斎藤 義龍と斎藤道三(利政)の

  戦い。

■ 斎藤 義龍は、 斎藤道三(利政)と争い、斎

  藤道三(利政)を敗死させる。

 

■ 斎藤 義龍は、 1527年(大永7年)に、父・

  斎藤道三(利政) と 母・深芳野 との間に産

  まれた、斎藤道三(利政)の男子で、斎藤道

  三(利政)の、長子である。

     1554年(天文23年)に、斎藤道三(利

  政)は、 斎藤 義龍に美濃斎藤氏の家督

  譲り、隠居したため、 斎藤 義龍は、美濃斎

  藤氏の家督を継いで、美濃国の国主となり、

  稲葉山城主となった。

     しかし、 父・斎藤道三(利政)が、斎藤

  義龍を忌み嫌い、 次第に、弟の孫四郎(まご

  しろう)や喜平次(きへいじ)らを寵愛するよう

  になる。 

     更に、父・斎藤道三(利政)が、斎藤義龍

  を廃嫡(はいちゃく)して道三(利政)の正室夫

  人の「小見の方」の子の孫四郎を嫡子にし美

  濃斎藤氏の家督を継がせ美濃国の国主にし

  ようと考え、 また、喜平次には、名門の一色

  氏を名乗らせたことから、 父・道三と子・義龍

  の不和は顕在化し、両者の関係は、最悪の事

  態を迎えた。

    1555年(弘治元年)11月に、斎藤 義龍は、

  孫四郎(まごしろう)や喜平次(きへいじ)の弟

  達を殺害し、父・斎藤道三(利政) と敵対する。

     1556年(弘治2年)に、斎藤道三(利政)

  は、挙兵するが、国盗り(くにとり)の経緯から、

  父・斎藤道三(利 政)に味方しようとする美濃国

  の旧土岐家家臣団は少なかった。

     1556年(弘治2年)4月に、約17 000

  の兵を率いる義龍に対し、 約2000人の兵を

  率いる道三が、 長良川(ながらがわ)河畔で戦

  い(長良川の戦い)、 道三の濃姫の娘婿(む

  すめむこ)の織田 信長が派兵した援軍は間に 

  合わず、道三は、戦死した。 享年63歳であっ

  た。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 斉藤道三(利政)の子供間の対

  立。

  ● 斎藤義龍(よしたつ) は、 斎藤道三(利

  政)の側室夫人・深芳野 が生母の子であり、

      一方、孫四郎、喜平次、帰蝶(= 濃姫)は、

  斎藤道三(利政)の 正室夫人・小見の方が

  生母の子である。

  ● 1554年(天文23年)に、斎藤道三(利

  政)の側室夫人・深芳野が生母の、斎藤義

  龍(よしたつ) が 斎藤道三(利政)(さいと

  うどうさん(としまさ)) より、美濃国の斎藤

  氏の家督(かとく)を継ぎ、 美濃国の国主

  となる。

  ● 斎藤道三(利政)の子供達は、 斎 藤義

  龍(よしたつ)  と、 孫四郎、喜平次、帰蝶

  (= 濃姫) とが対立する。

     斎藤道三(利政)の子供達は、斎藤道

  三(利政)の側室夫人・深芳野 が生母の、

  斎藤義龍(よしたつ)  と、 斎藤道三(利

  政)の正室夫人・小見の方が生母の、孫四

  郎、喜平次、帰蝶(濃姫)  とが対立する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 斎藤道三(利政)の夫人。

■ 斎藤道三(利政)の夫人には、 深芳野(み

  よしの)、 小見の方おみ のかた) などが

  いる。

 

  ● 深芳野 (みよしの)は、 

  斎藤道三(利政)の側室夫人であり、

  美濃国の土岐氏の土岐 頼芸 (とき よりの

  り・よりなり・よりあき)から拝領した(もらい

  うけた)拝領夫人であり、 

  斎藤 義 龍の生母である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ● 小見の方(おみ のかた)は、

  斉藤道三(利政)の正室夫人であり、 

  孫四郎、喜平次、帰蝶 (きちょう、= 濃姫

  の生母であり、

  明智 光秀の叔母(おば)である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 斎藤道三(利政)の子。

■ 斎藤道三(利政)の子には、 

  (1) 長男の斎藤 義 龍(よしたつ)

  (2) 次男の孫四郎  (まごしろう 、= 龍重、

     龍元)、

  (3) 三男の喜平次 (きへいじ、= 龍定、

     龍之)

  (4) 娘の帰蝶 (きちょう、= 濃姫(のうひ

     め)、織田信長の正室夫人) 

  などがいた。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ (1) 長男の斎藤  義龍(よしたつ)は

   斎藤道三(利政) と 深芳野(みよしの)

   との間の子である。

  ● 斎藤 義龍(よしたつ)は、 土岐頼芸の

  子か、斎藤 道三(利政)の子か、どちらの子

   か、父親が不明である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ (2) 次男の孫四郎  (まごしろう 、= 龍重、

    龍元)、 (3) 三男の喜平次 (きへいじ、=

   龍定、龍之)は、 

   斎藤道三(利政) と 小見の方 (おみの

   かた、明智光秀の叔母(おば))  との間の

   子である。

 

  ● (2) 次男の孫四郎 (まごしろう 、= 龍重、

   龍元)、 (3) 三男の喜平次 (きへいじ、=

   龍定、龍之) は、 生母が、小見の方(おみ

   のかた)であるとする説が有力である。

  ● (3) 三男の喜平次 (きへいじ、= 龍定、

  龍之)は、一色右兵衛大輔と名乗っているこ

  とから深芳野の子とする説もある。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ (4) 斎藤道三(利政)の娘の帰蝶 (きち

   ょう、= 濃姫(のうひ め)、織田信長の正室

   夫人) は、 

   斎藤道三(利政) と 小見の方 (おみの

   かた、明智光秀の叔母(おば))との間の子

   である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#-appearingscenes

 

♪♪ 斎藤義龍が登場する興 味深い、

    ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 斎藤義龍が登場する、興味深い、

   ドキュメンタリー。

 

■ 英雄たちの選択 

  『 戦国ミステリー。 斎藤

    道三はふたりいた!? 

       〜下克上の真実〜 』 。 

    (NHKテレビの2020年3月4日・

    本放送・歴史ドキュメンタリー番組)。

 ■ 斎藤 義龍を述べる。

 ■ 日本の戦国時代(室町時代後期)を 述

  べる。

 ■ 斎藤道三(利政)の、「従来説の美濃国

   盗り本人一代説」 と、 「新説の美濃

   国盗り父子二代説」を詳しく述べる。

 

■ にっぽん歴史鑑定 『 信長の才

   を見抜いた男 斎藤道三 』 。 

    (TBSテレビ・2017年9月25日・

    本放送・歴史ドキュメンタリー番組)。

 ■ 斎藤 義龍を述べる。

 ■ 日本の戦国時代(室町時代後期)を 述

  べる。

 ■ 斎藤道三(利政)の、「従来説の美濃国

   盗り本人一代説」 と、 「新説の美濃国

   盗り父子二代説」を詳しく述べる。

 

★ 斎藤義龍が登場する、興味深い、

  ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画 は、 フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画は、歴史的事実(史実) と 

  架空の出来事 が、混じって、描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 麒麟(きりん)がくる 』。 

   (NHKテレビ・2020年大河ドラマ)。 

   (池端俊策 作・脚本)。

 日本の戦国時代(室町時代後期)、安土

   桃山時代を描く。

 

● 斎藤 道三(利政)の男子・斎藤 義龍(さ

  いとうよしたつ)を演じる俳優名: 

  伊藤 英明。

 

● 斎藤 道三(利政)(さいとうどうさん(とし

  まさ))を演じる俳優名: 本木 雅弘。

● 斎藤 道三(利政)の側室夫人・深芳野 

   (みよしの、土岐 頼芸(とき よりのり)の

   元側室夫人)を演じる女優名: 南 果歩。 

● 斎藤 道三(利政)の娘・帰蝶(濃姫)(き

  ちょう(のうひめ)、織田信長の正室夫人) 

  を演じる女優名 : 川口 春奈。 

● 斎藤氏家臣の稲葉一鉄(良通)(いなば

  いってつ(よしみち))を演じる俳優名: 

  村田 雄浩。

 

● 美濃国守護の土岐 頼芸(とき よりのり)

  を演じる俳優名: 尾美 としのり。

 

● 明智 光秀を演じる俳優名 :  

  長谷川 博己 (はせがわひろき)。

● 明智 光秀の母・お牧(まき)の方を演じる

  女優名 : 石川 さゆり。 

● 明智 光秀の叔父・明智 光安(あけちみつ

  やす)を演じる俳優名 : 西村 まさ彦。 

● 明智 光秀の正室夫人・熙子(ひろこ)を演

  じる女優名: 木村 文乃 (きむらふみの)。 

 

● 織田 信長を演じる俳優名: 染谷 将太 

  (そめたにしょうた)。

● 織田 信長の父・織田 信秀(おだ のぶ

  ひで)を演じる俳優名 : 高橋 克典。

● 織田 信長の母・土田御前(どだごぜん)

  を演じる女優名: 檀 れい。 

● 織田 信長の弟・織田 信勝(のぶかつ)

  を演じる俳優名 : 木村了。

● 織田 信長の守役(もりやく)・平手政秀

  (ひらてまさひで)を演じる俳優名 : 

  上杉 祥三。

● 木下 藤吉郎秀吉(= 羽柴 秀吉、豊臣

  秀吉)を演じる俳優名 : 

     佐々木 蔵之介。

● 徳川家康を演じる俳優名: 風間 俊介。

● 徳川家康の父・松平広忠(まつだいら

  ひろただ)を演じる俳優名: 浅利 陽介。

 

● 室町幕府・第13代将軍・足利義輝(あ

  しかがよしてる)を演じる俳優名 : 

  向井 理。

● 室町幕府・第15代将軍・足利義昭(あ

  しかがよしあき、足利義輝の弟)を演じ

  る俳優名 : 滝藤 賢一 。

● 室町幕府幕臣の細川藤孝(幽斎)(ほそ

  かわふじたか(ゆうさい))を演じる俳優

  名 : 眞島 秀和。

● 室町幕府幕臣の三淵藤英(みつぶち

  ふじひで、細川藤孝(幽斎)の異母兄)

  を演じる俳優名 : 谷原 章介。

  

● 室町幕府管領(かんれい)の細川晴元

  (ほそかわはるもと)を演じる俳優名 : 

  国広 富之。

● 細川晴元家臣の三好長慶(みよしなが

  よし)を演じる俳優名 : 山路 和弘。

● 三好長慶家臣の松永久秀(まつながひ

  さひで)を演じる俳優名: 吉田 鋼太郎。

 

● 今川義元(いまがわよしもと)を演じる

  俳優名: 片岡 愛之助。

● 今川義元の軍師・太原雪斎(たいげん

  せっさい)を演じる俳優名: 伊吹 吾郎。

 

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#saitotatsuoki

 

■ 斎藤龍興  

     (さいとうたつおき)

 

■ 斎藤龍興。

■ 名称 : 斎藤龍興 (さいとう たつおき)。

■ 生没年 : 1548〜1573年。

■ 室町時代後期(戦国時代)の武将。

■ 美濃国(みののくに、岐阜県南部)の戦国大名

■ 斎藤義龍(さいとうよしたつ)の子

■ 大勢の臣下の中に、 斎藤飛騨守、 竹中 半

  兵衛(重治)(たけなかはんべい(しげはる))、 

  西美濃三人衆)の1人・安藤(安東)守就(あん

  どうもりなり) がいた。

 

 

■ 斎藤龍興 (さいとう たつおき、生没年:1548

  〜1573年) は、 室町時代後期(戦国時代)

  の武将で、 美濃国(みののくに、岐阜県南部)

  の戦国大名 であった。

 

■ 斎藤龍興の大勢の臣下の中に、 斎藤飛騨守、 

  竹中 半兵衛(重治)(たけなかはんべい(しげ 

  はる))、 西美濃三人衆(にしみのさんにんし

  ゅう)の1人・安藤(安東)守就(あんどうもりな

  り) がいた。

 

■ 斎藤龍興は、 斎藤義龍(さいとうよしたつ)の

  子 である。

    1561年(永禄4年)に、斎藤龍興は、 父・

  斎藤義龍(さいとうよしたつ)の死により、14

  で、美濃斎藤氏の家督(かとく)を継ぐ。

     美濃斎藤氏では、 父・斎藤義龍の代から

  続く、尾張国の織田信長の美濃への侵攻 や 

  家臣の流出があり、 斎藤龍興も、若年で凡庸

  (ぼんよう)なため評判の悪い斎藤飛騨守を重

  用(ちょうよう)し、家臣の信望を得られず、 美

  濃斎藤氏は、弱体化していった

 

■ 1564年(永禄7年)に、 竹中 半兵衛(重治)

  (たけなかはんべい(しげはる)) と、 その舅で

  ある西美濃三人衆(にしみのさんにんしゅう)の

  1人・安藤(安東)守就(あんどうもりなり) によ

  って、 斎藤龍興の居城の稲葉山城(いなばや

  まじょう)が占拠され、 重用した斎藤飛騨守が

  殺害され、 斎藤龍興は、逃亡し、他の城に移っ

  たが、 後に、稲葉山城は返還され、斎藤龍興

  は、美濃の領主として復帰した。 

     この事件により美濃斎藤氏の衰退が表面

  化する。

 

■ その後、美濃の有力領主が、織田信長の軍に

  敗れたり討たれたり、織田信長に通じたりして、 

  1567年(永禄10年)には、西美濃三人衆の

  安藤守就、稲葉良通、氏家直元が、 織田 信

  に内応したため、遂に、織田信長によって美

  濃斎藤氏の本拠地の稲葉山城が落とされ、斎

  藤龍興は、20歳で、北伊勢の長島へと亡命す

  る。 ここに、美濃斎藤氏は滅亡した。

     以後、斎藤龍興は、再び、戦国大名として、

  美濃に返り咲くことはなかった。

 

 

#-appearingscenes

 

♪♪ 斎藤龍興 が登場する興味深い、

  ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 斎藤龍興が登場する、興味深い関

  連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

  歴史のドラマや映画は、史実(歴史上の事実) 

  と架空の出来事が、 混じって、描かれてい

  ます。 また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 戦国疾風伝 (せんごくしっぷうで

   ん) 二人の軍師〜秀吉に天 下

   を獲らせた男たち 』 

    (日本の2011年テレビ東京・放映テレ

    ビドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

 

■ 『 軍師 官兵衛 』。 

   (NHK2014年大河ドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

● 斎藤龍興を演じた俳優名 : 斉藤 悠。

 

● 織田信長を演じた俳優名 : 江口洋介

  (えぐち・ようすけ)。

● 黒田 官兵衛を演じる俳優名: 岡田 准一。

 

 

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#sacchodome

 

■ 薩長同盟 

       (さっちょうどうめい)。

 

■ 薩長同盟。

■ 名称 : 薩長同盟 (さっちょうどうめい)。

● 別名 : 薩長連合(さちょうれんごう)

■ 同盟(密約)締結年月 : 

            1866年(慶応2年)1月。

■ 同盟時期 : 幕末の1866年から明治初期

  の1869年まで。

■ 幕末、薩摩藩と長州藩との間に結ばれた反

  幕府の政治・軍事同盟(密約)

■ 薩長同盟の正式な合意文書はない。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 92119。

 

 

■ 薩長同盟  (さっちょうどうめい、= 薩長連合)は、

  幕末の、1866年(慶応2年)1月に、薩摩藩と長州

  藩との間に結ばれた反幕府の政治・軍事同盟(密

  約)である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 薩長同盟の正式な合意文書はない。

     1866年(慶応2年)1月に、薩摩藩の小松・

  西郷と長州藩の桂との間で、薩長同盟の正式の

  合意文書は交わされなかった。

          薩摩藩の小松や西郷が、薩長同盟の正式な

  合意文書の作成を望まなかったためである。

     後日、不安になった長州藩の桂は、合意の

  内容を覚書に書き、坂本龍馬に確認を求め、坂

  本龍馬は長州藩の桂の覚書に赤字で確認の裏

  書きをした。 この長州藩の桂の覚書が今日、残

  っている。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 薩長同盟  (さっちょうどうめい、= 薩長連合)は、

  幕末の、1866年(慶応2年)1月に、薩摩藩と長州

  藩との間に結ばれた反幕府の政治・軍事同盟(密

  約)である。 

    別名は、 薩長連合(さちょうれんごう)ともいう。

    薩摩藩の一藩では、 江戸幕府勢力に対抗で

  きず、長州藩の一藩でも、江戸幕府勢力に対抗で

  きず、雄藩の薩長両藩が連合することで、 江戸幕

  府勢力に対抗することとした。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 薩長同盟の交渉・締結。

     薩長同盟の交渉・締結場所は、 京(都)で行

  われ、 目立つ京(都)の薩摩藩邸を避けて、 京

  (都)の小松帯刀(こまつたてわき)の私邸で行わ

  れた。

     京(都)の小松帯刀の私邸は、京(都)で小松

  帯刀が借り受けていた「御花畑屋敷」(おななばた

  けやしき)であり、 「御花畑屋敷」に、薩摩藩の小

  松帯刀や西郷隆盛 (さいごうたかもり) と、 長

  州藩の桂小五郎 (かつらこごろう、= 木戸孝允

  (きどたかよし)) が集まって行われた。

     交渉の第1段階では、 薩摩藩の小松帯刀

  や西郷隆盛は、 薩摩藩国父(こくふ)の島津久

  光(しまづひさみつ)の意向を反映して、1865

  年9月に勅許(予定)された第2次長州征伐の

  実行を中止させるために、 長州藩に江戸幕府

  の処分を受け入れるように迫った。 即ち、長州

  藩は江戸幕府の主張する長州藩主親子の隠退

  や10万石の削減などの処分を受け入れて恭順

  (きょうじゅん)するように、薩摩藩の西郷や小

  松は要求した。 一方、長州藩の桂は、第1次

  長州征伐(1864年7−12月)の恭順での3家

  老の切腹で十分であると断固主張し、交渉は

  中断した。

     その後、 坂本龍馬が交渉の再開を求め、

  交渉の第2段階では、 薩摩藩の小松や西郷は、

  薩摩藩国父(こくふ)の島津久光(しまづひさみ

  つ)の意向を超えて(久光の許容範囲を超えて)、 

  長州藩の幕府への恭順は3家老の切腹で十分

  であると認め、 更に、「決戦」条項を含む長州

  藩の要求する項目を受け入れ、 長州藩の桂と

  6カ条から成る反幕府の政治・軍事同盟(密約)

  に合意した。

     但し、薩摩藩の小松・西郷と長州藩の桂と

  の間で、薩長同盟の正式な合意文書は交わさ

  れなかった。

     後日、不安になった長州藩の桂は、合意の

  内容を覚書に書き、坂本龍馬に確認を求め、坂

  本龍馬は長州藩の桂の覚書に赤字で確認の裏

  書きをした。 この長州藩の桂の覚書が今日、残

  っている。

     長州藩は、 薩摩藩の軍事援助や薩長同盟

  (1866年1月)を得て、  江戸幕府の第2次長州

  征討の実行(1866年6−8月)に対し、幕府の大

  軍と戦い、勝利を得た。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 薩長同盟は、 1866年(慶応2年)1月21日頃に、

  京(都)の薩摩藩邸近くの、近衛家別邸の小松帯

  刀私邸で締結された。 

     小松帯刀私邸は、 薩摩藩家老・小松帯刀

  (こまつたてわき)が京(都)に滞在する時、近衛

  家から提供を受け使用していた、私邸であった。

     桂小五郎 (かつらこごろう、木戸孝允(きどた

  かよし))は、 京(都)の二本松の薩摩藩の公邸

  の薩摩藩邸(現・同志社大敷地の一部) に到着

  後、 秘密協定であるため、その滞在を知られな

  いため、人の出入りの多い薩摩藩邸を避け、すぐ

  に、 薩摩藩邸より3、400mほど離れた、目立た

  ない室町頭(むろまちかしら)の小松帯刀私邸に

  移り、薩摩藩実力者の小松や西郷と、薩長同盟の

  協定交渉を何度も行う。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 薩長同盟は、 坂本龍馬が立ち会って(保証人と

  なって)、 薩摩藩代表の西郷吉之助(さいごうき

  ちのすけ、西郷隆盛(さいごうたかもり)) と 長州

  藩代表の桂小五郎(かつらこごろう、木戸孝允(き

  どたかよし)) との間で、締結された、6か条の、

  秘密政治・軍事同盟であった。

     薩長同盟は、 協定締結当時、秘密協定であっ

  たため、秘密協定の約束事を守らせ、実際に実行

  させることを保証する保証人が必要であった。

     薩摩藩と長州藩の両藩に信頼の厚かった、坂

  本龍馬が、その保証人としての役割を果たした。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 薩長同盟は、 江戸幕府勢力に対抗して、薩 長両

  藩は相互援助を約した同盟である。

     薩長同盟では、薩摩藩は、長州藩を軍事的に

  援助し、 朝廷での長州藩の復権を助けることも密

  約した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 薩長同盟は、 薩摩藩代表の西郷吉之助(隆盛) 

  と 長州藩代表の桂小五郎(木戸孝允)の他に、 

  薩摩藩家老の小松帯刀(こまつたてわき)、尊皇

  (王)倒 幕派の、土佐藩出身の坂本龍馬(さかも

  とりょうま)や中岡慎太郎(なかおかしんたろう)ら 

  が、尽力(じんりょく)して、「薩長同 盟」を実現さ

  せた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 薩長同盟は、 江戸幕府勢力に対抗するために、  雄

  雄藩(ゆうはん)の薩摩藩と長州藩との間で結ば

  れた政治・軍事同盟である。  

      薩長同盟は、幕末、反幕府連合の中核と

  なる。

 

■ 犬猿の仲の薩摩藩と長州藩を、土佐藩出身の

  坂本龍馬や 中岡慎太郎らが仲介して、薩長同

  盟を成立させた。

 

■ 薩長同盟で、江戸幕府勢力に対抗して、薩長

  両藩は 相互援助を約した。

     江戸幕府勢力に対抗して、薩長両藩の相互

  援助を約した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 京(都)の薩摩藩邸近くの、小松帯刀私邸で、薩長

  同盟の 密約が為(な)された。

 

■ 薩摩藩の西郷隆盛 と 長州藩の桂小五郎(木戸

  孝允)が何度も交渉を重ねて、折衝(せっしょう)し

  て、 武力倒幕の同盟が、成立した。

 

■ 薩長同盟成立以後は、日本では、武力討幕派の勢

  力が台頭する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 薩長同盟は、 幕末、薩摩藩と長州藩との間の密

  約の、反幕府政治・軍事同盟である。

 

■ 坂本龍馬らは、 雄藩連合を目指し、幕末、 雄

  藩の薩摩藩と長州藩とを結びつけて、 幕府勢力

  に対抗する勢力とし、 旧幕府より新政府への政

  権移行を画策(かくさく)した。  

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 薩長同盟 (さっちょうどうめい)とは、 幕末の

  1866年1月に、幕府勢力に対抗するために、

  薩摩藩(さ つまはん)と長州藩(ちょうしゅうはん)

  との間で結ばれた政治・軍事同盟であり、 江戸

  幕府に対抗して、薩長両藩は、相互援助を約した。

 

■ 薩長同盟 (さっちょうどうめい)は、 別名は、薩

  長連合(さちょうれんごう) とも言う。

 

■ 薩長同盟は、 犬猿の仲の薩摩藩と長州藩を、 

  土佐脱藩浪士の坂本龍馬(さかもとりょうま)らが

  仲介して成立した同盟である。

 

■ 薩長同盟は、 1863年の八月十八日の政変以

  来反目していた薩摩藩と長州藩が、 土佐藩出

  身の坂本龍馬らの仲介により、 何度も交渉を重

  ねて成立した、武力倒幕の同盟である。

● 薩摩藩の 西郷吉之助(隆盛)ら と 長州藩の

  桂小五郎(木戸孝允)ら が 折衝(せっしょう)

  して、同盟が成立した。

 

● 薩摩藩の一藩では、 江戸幕府勢力に対抗できず、

  長州藩の一藩でも、江戸幕府勢力に対抗できず、薩

  長両藩が連合することで、 江戸幕府勢力に対抗し、

  倒幕を行うこととした。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 第2次長州征伐実施 (ちょうしゅうせいばつ、186

  6年6−8月)の前頃から、 公武合体派であった薩

  摩藩では、 西郷吉之助(隆盛)尊王討幕派が、

  藩論を動かすようになった。

 

■ 薩長同盟交渉は、  坂本龍馬らが仲介し、1度目

  の薩長交渉は、失敗し、2度目の薩長交渉で、や

  っと成立した。

 

● 1度目の薩長同盟交渉では、 坂本龍馬らの周旋

  (しゅうせん)で、 薩摩の西郷吉之助(隆盛)は、 

  長州の桂小五郎(木戸孝允)に会うため鹿児島を出

  て、長州に向かったが、途中、長州によらず京(都)

  へ向かい、 同盟は暗礁に乗り上げた。 

     薩摩藩の勅許阻止工作がうまくいかず、第2次

  長州征伐の勅許がおりそうなため、 急ぎ、西郷吉

  之助(隆盛)は、  第2次長州征伐の勅許(ちょっきょ、

  天皇の許可)が下るのを阻止するため、 長州には

  寄らず京(都)へ向かった。 西郷吉之助(隆盛)

  会談の席に現れず、 待っていた、桂小五郎(木戸孝

  允)は、違約され、激怒する。

 

● 2度目の薩長同盟交渉では、 坂本龍馬らの周旋

  で、一度目の交渉の違約での信頼を取り戻すため、 

  薩摩藩が長州藩へ正使を送ること、そして、長州藩

  の武器購入のための薩摩藩の名義貸しなどの条件

  で、 交渉が再開し、 薩長の西郷吉之助(隆盛)と

  桂小五郎(木戸孝允)との間で何度も協議の末、や

  っとまとまった。

● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

 

■ 1866年1月の薩長同盟成立以後は、 日本では、

  薩長同盟を中心にして、武力討幕派の勢力が台頭

  (たいとう)する。

 

 

♪♪ 薩長同盟 が登場する興味深い、ド

    ラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

★ 薩長同盟 が登場する興味深い、ドキ

   ュメンタリー。

 

■ 片岡愛之助の解明!歴史捜査 

   『 坂本龍馬の巡るミステリー。 

    薩長同盟150年目の真実。 』。 

    (日テレ・テレビの2016年8月28日放映

    ドキュメンタリー)。

 

★ 薩長同盟 が登場する興味深い、ド

   ラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。  

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

  また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 西郷(せご)どん 』 。 

   (NHKテレビ・2018年(H30年)

   大河ドラマ)。

■ 薩長同盟を描く。

■ 日本の幕末、明治時代初期、明治維新

  の時代状況やその時代に活躍した人々

  を描く。

■ 西郷隆盛の生涯と活躍を描く。

       西郷隆盛(さいごうたかもり、西郷吉

  之助(さいごうきちのすけ))は、幕末 、

  摩薩藩士で、 明治初期、明治政府(近

  代日本政府)の指導者の1人であった。

 

● 西郷隆盛(西郷吉之助)を演じる俳優 :   

   鈴木 亮平 (すずき りょうへい)。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 。 

   (NHKテレビ・2010年大河 ドラマ)。

■ 薩長同盟を描く。

 

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#satsumahan

 

■ 薩摩藩 

      (さつまはん)。

 

■ 薩摩藩。

■ 名称 : 薩摩藩 (さつまはん)。

 存続時期 : 江戸時代初期〜明治時代初期。

 薩摩藩は、鹿児島県、宮崎県南西部に相当

  する地域に存在したである。

■ 薩摩藩は、島津氏を藩主とした藩である。

■ 薩摩藩は、幕末に、長州藩と共に、倒幕運動

  の中心勢力となる。

■ 薩摩藩の、初代藩主は、

  島津家久(しまづいえひさ)

  (藩主在任: 1602年〜1638年) である

■ 幕末、明治初期では、薩摩藩の藩主は、 

● 第10代藩主・島津斉興(しまづなりおき) 

  (藩主在任: 1809年〜1851年)である

● 第11代藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)

  (藩主在任: 1851年〜1858年)である

● 第12代藩主・島津忠義(しまづただよし、

  島津茂久(もちひさ)) 

  (藩主在任: 1858年〜1871年)である

  但し、1858年から1871年までの間、薩摩

  藩の実権は、島津忠義(茂久)の父の

  久光(しまづひさみつ)が握っていた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11316。

 

 

■ 薩摩藩 (さつまはん)とは、 鹿児島県に相

  当する地域に、 江戸時代初期から明治時代

  初期まで存在した藩である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 薩摩藩は、 島津(しまづ)氏(家)当主が代々、 

  藩主を務(つと)めた藩である。

 

■ 薩摩藩は、江戸時代に、 外様大名の島津氏

  を藩主とする藩であり、 薩摩国(さつまのくに)

  と大隅国(おおすみのくに)の2ヶ国 (鹿児島

  県の相当地域)、 日向国(ひゅうがのくに)の

  一部(宮崎県南西部の相当地域)、 奄美諸島

  (あまみしょとう)を領有した(領国とした)藩で

  あり、 また、琉球王国(りゅうきゅうおうこく)を

  を服属させ、琉球王国を通じて琉球国(りゅうき

  ゅうこく、沖縄県の相当地域)の間接支配を行

  った藩である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 薩摩藩は、 幕末に、長州藩と共に、倒幕運動

  の中心勢力となる。 明治期に、薩摩藩出身者

  は、明治新政府(近代日本政府)では、「長州閥」

  と共に、 「第1次大戦までの日本の政治を支

  配した藩閥政治」の政治勢力の「薩摩閥」を形

  成し、 薩摩藩出身者の中から多くの有力政治

  家を出した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 幕末、明治期に、日本の政治で活躍した薩摩藩

  出身者は、 

  西郷隆盛 (さいごうたかもり)、

  大久保利通 (おおくぼとしみち)、 

  小松帯刀 (こまつたてわき)、 

  島津久光 (しまづひさみつ)、 

  篤姫(あつひめ、天璋院)、

  寺島宗則(てらしまむねのり)、 

  黒田清隆(くろだきよたか)、 

  松方正義(まつかたまさよし) 

  などである。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

● 幕末、明治期に、日本の政治で活躍した薩摩藩

   出身者は、 

  西郷隆盛 さいごうたかもり、

  幕末、倒幕派指導者、明治期、新政府首脳)、 

  大久保利 (おおくぼとしみち、

  幕末、倒幕派指導者、明治期、新政府首脳)、 

  小松帯 (こまつたてわき、

  幕末、倒幕派指導者)、 

  島津久光 (しまづひさみつ、

  幕末、公武合体派)、 

  篤姫 (あつひめ、

  天璋院、幕末、幕府実力者)、 

  寺島宗則(てらしまむねのり、

  明治期、外務大輔(たいふ)等政府高官)、 

  黒田清隆 (くろだきよたか、

  明治期、内閣総理大臣)、 

  松方正義(まつかたまさよし、

  財政家、内閣総理大臣) 

  などである。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 薩摩藩初代藩主は、

  島津家久(しまづいえひさ)

  (藩主在任、1602年〜1638年)である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 幕末、明治初期の薩摩藩の藩主 。

● 第10代藩主は、 島津斉興 (しまづなりおき)で、

  藩主在任は、1809年〜1851年 で、 

  生没年は、1791〜1859年である。

● 第11代藩主は、 島津斉彬(しまづなりあきら)で、 

  藩主在任は、1851年〜1858年 で、 

  生没年は、1809〜1858年である。 

  1851年に、島津斉興の隠居により、藩主となる。

● 第12代藩主は、 島津忠義(しまづただよし)で、 

  藩主在任は、1858年〜 1871年) である。 

  1858年に、島津斉彬の死去により、藩主となる。

  島津斉彬の遺言により、異母弟・島津久光の長男・

  島津忠義が藩主となる。

     但し、1858年から1871年までの間、薩摩

  藩の実権は、島津忠義の父の島津久光 (しまづ

  ひさみつ、1817〜1887年)が握っていた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#saikaidoregion

 

■ 西海道  

      (さいかいどう)

    (= 西海道・旧広域地方)。

 

■ 西海道

■ 名称 : 西海道 

        (さいかいどう)。

■ 別名 : 西海道・旧広域地方。

■ 英語名 : 

   SAIKAIDO REGION.

■ 旧・大地域名。 《日本の地域名》。

■ 前近代日本の広域地方の、

  五畿七道(ごきしちどう)の1つ。

■ 律令制定後・古代・中世・近世日本・旧地域

  名の、 旧地方名の正式名。 《旧地域名》。

■ 西海・旧広域地方

  <五畿七道 (ごきしちどう)。

   (≒ 日本本土 (本州、四国、九州))。

  <旧広域地方。

  <旧・大地域名。

  <旧地域名。

  <地域名。

  <日本の地名

■ 五畿七道に関しては、「五畿七道」を参照してく

  ださい。

■ 前近代・旧地域名に関しては、  「前近代日本

  の地域名」を参照してください。 

■ 日本の地名の全体に関しては、 「日本の地名

  を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11315。

 

 

■ 西海・広域地方 ( さいかいどう・こういきちほ

  う)は、 前近代日本の、日本の地方行政区分

  (区画)である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

  

 

 

 

 

■ 西海・旧広域地方。 

 

■ 西海道・旧広域地方は、 前近代日本の、

  @ 対馬 国 (長崎県対馬島)、 A 壱岐 国

  (長崎県壱岐島)、 B 肥前 国・西部 (長崎

  県本土)、 C 肥前国・東部 (佐賀県)、 D

  筑前国 (福岡県北西部)、 E 筑後国 (福

  岡県南部)、 F 豊前国 (福岡県北東部)、 

  G 豊後 国 (大分県)、 H 肥後国 (熊本

  県)、 I 日向 国 (宮崎県)、 J 薩摩 国

  (鹿児島県本土西部)、 K 大隅 国 (鹿児島

  県本土東部、大隅諸島・奄美群島)、 の地域

    である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 西海道・旧広域地方は、 前近代日本の、

  @ 対馬 国 (つしま のくに、現・長崎県対馬島

  の相当領域)、 A 壱岐 国 (いき のくに、現・

  長崎県壱岐島の相当領域)、 B 肥前 国(ひ

  ぜん のくに)・西部 (現・長崎県本土の相当領

  域)、 C 肥前 国・東部 (現・佐賀県の相当領

    )、 D 筑前 国 (ちくぜん のくに、現・福岡

  県北西部の相当領域)、 E 筑後国 (ちくご の

  くに、現・福岡県南部の相当領域)、 F 豊前国 

  (ふぜん のくに、現・福岡県北東部の相当領域)、 

  G 豊後 国 (ぶんご のくに、現・大分県の相当

  領域)、 H 肥後 国 (ひご のくに、現・熊本県

  の相当領域)、 I 日向 国 (ひゅうが のくに、

  現・宮崎県の相当領域)、 J 薩摩 国 (さつま

  のくに、現・鹿児島県本土西部の相当領域)、 

  K 大隅 国 (おおすみ のくに、現在の鹿児島県

  本土東部、大隅諸島・奄美群島の相当領域) 、 の

  地域である

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 西海道・旧広域地方。

 

■ 西海道・旧広域地方は、 対馬 国(つしま のくに、

  対州、現・長崎県対馬島の相当領域) から 大隅

  国 (おおすみ のくに、隅州、鹿児島県本土東部、 

  奄美群島の相当領域) までの地域で ある。                 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 西海道 (さいかいどう)は、 律令 制定後・古代・

  中世・近世日本・旧地域名の、旧地方名の正式名

  である

 

■ 西海道・旧広域地方は、 飛鳥白鳳時代末期から

  江戸時代まで使用された、五畿七道(ごきしちどう)

  に属する、広域地方の1つである。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 西海道・旧広域地方は、 現在の、 長崎県対馬島

  (対馬 国(つしま のくに))、 長崎県壱岐島 (壱岐

  国(いき のくに))、 長崎県本土、佐賀県 (肥前 国

  (ひぜんのくに))、 福岡県 (筑前 国(ちくぜん のく

  に)、筑後 国(ちくご のくに)、 豊前 国(ぶぜん の

  くに))、  大分県 (豊後 国(ぶんご のくに))、 熊

  本県 (肥後 国(ひご のくに))、 宮崎県 (日向 国

  (ひゅうが のくに))、 鹿児島県本土西部 (薩摩 国

  (さつま  のくに))、 鹿児島県本土東部、大隅諸島・

  奄美群島 (大隅国(おおすみ のくに)) の地域に 相

  当する領域である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#sanyodoregion

 

■ 山陽道  

      (さんようどう)

    (= 山陽道・広域地方)。

 

■ 山陽道 (= 山陽道・広域地方)。

■ 名称 : 山陽道 

        (さんようどう)。

■ 別名 : 山陽道・広域地方。

■ 英語名 : 

   SANYODO REGION.

■ 旧・大地域名。 《日本の地域名》。

■ 律令制定後・古代・中世・近世日本・旧地域

  名の、 旧地方名の正式名。 《旧地域名》。

■ 前近代日本の、広域地方の、

  五畿七道(ごきしちどう)の1つ。

■ 山陽道・旧広域地方。

  <五畿七道 (ごきしちどう)

   (≒ 日本本土 (本州、四国、九州))。

  <旧広域地方。

  <旧・大地域名。

  <旧地域名。

  <地域名。

  <日本の地名

■ 五畿七道に関しては、「五畿七道」を参照してく

  ださい。

■ 前近代・旧地域名に関しては、  「前近代日本

  の地域名」を参照してください。 

■ 日本の地名の全体に関しては、 「日本の地名

  を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61912。

 

 

■ 山陽道・広域地方 ( さんようどう・こういきちほ

  う)は、 前近代日本の、日本の地方行政区分

  (区画)である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

    

 

 

 

 

■ 山陽道・旧広域地方。 

 

■ 山陽道・旧広域地方は、 前近代日本の、

  @ 播磨 国 (兵庫県南部)、 A 美作 国 

  (岡山県北東部)、 B 備前 国 (岡山県南

  東部)、 C 備中 国 (岡山県西部)、 D 

  備後 国 (広島県東部)、 E 安芸 国 (広

  島県西部)、 F 周防 国 (山口県東部)、 

  G 長門 国 (山口県西部) の地域 である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 山陽道・旧広域地方は、 前近代日本の、

  @ 播磨 国 (はりま のくに、現・兵庫県南部の 

  相当領域)、 A 美作 国 (みまさか のくに、現・

  岡山県北東部の相当領域)、 B 備前 国 (び

  ぜん のくに、現・岡山県南東部の相当領域)、 

  C 備中 国 (びっちゅう のくに、現・岡山県西

  部の相当領域)、 D 備後 国 (びんご のくに、

  現・広島県東部の相当領域)、 E 安芸 国 (あ

  き のくに、すおう のくに、現・山口県東部の相当

  領域)、 G 長門 国 (ながと のくに、現・山口

  県西部の相当領域 の地域 である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 山陽道・旧広域地方。

 

■ 山陽道 (さんようどう)は、 律令 制定後・古代・

  中世・近世日本・旧地域名の、旧地方名の正式

  名である

 

■ 山陽道・旧広域地方は、飛鳥白鳳時代末期か

  ら江戸時代まで使用された、五畿七道(ごきし

  ちどう)に属する広域地方の1つである。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 山陽道・旧広域地方は、 現在の、兵庫県南部

  (播磨 国(はりま のくに))、  岡山県北東部・南

  東部・西部 (美作 国(みまさか のくに)、備前

  国(びぜん のくに)、備中 国(びっちゅう のくに))、

  広島県東部・西部 (備後 国(びんご のくに)、安

  芸 国 (あき のくに))、 山口県東部・西部 (周

  防 国 (すおう のくに)、 長門 国(ながと のく

  に)) の地域に相当する領域である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 山陽道・旧広域地方は、 播磨国 (はりまのくに、

  播州、現・兵庫県南部の相当領域) から 長門

     国 (ながと のくに、長州、現・山口県西部の相

  当領域) までの地域である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#sanindoregion

 

■ 山陰道  

      (さんいんどう)

    (= 山陰道・広域地方)。

 

■ 山陰道 (= 山陰道・広域地方)。

■ 名称 : 山陰道 

        (さんいんどう)。

■ 別名 : 山陰道・広域地方。

■ 英語名 : 

   SANINDO REGION.

■ 旧・大地域名。 《日本の地域名》。

■ 律令制定後・古代・中世・近世日本・旧地域

  名の、 旧地方名の正式名。 《旧地域名》。

■ 前近代日本の、広域地方の、

  五畿七道(ごきしちどう)の1つ。

■ 山陰道・旧広域地方。

  <五畿七道 (ごきしちどう)

   (≒ 日本本土 (本州、四国、九州))。

  <旧広域地方。

  <旧・大地域名。

  <旧地域名。

  <地域名。

  <日本の地名

■ 五畿七道に関しては、「五畿七道」を参照してく

  ださい。

■ 前近代・旧地域名に関しては、  「前近代日本

  の地域名」を参照してください。 

■ 日本の地名の全体に関しては、 「日本の地名

  を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61915。

 

 

■ 山陰道・広域地方 ( さんいんどう・こういきちほ

  う)は、 前近代日本の、日本の地方行政区分

  (区画)である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 

 

 

 

 

■ 山陰道・旧広域地方。 

 

■ 山陰道・旧広域地方は、 前近代日本の、

  @ 丹後 国 (京都府北部)、 A 丹波 国

  京都府中部)、 B 但馬 国 (兵庫県北部)、 

  C 因幡 国 (鳥取県東部)、 D 伯耆 国

  (鳥取県西部)、 E 隠岐 国 (島根県隠岐

  諸島)、 F 出雲 国 (島根県本土東部)、 

  G 石見 国 (島根県本土西部)の地域であ

  る

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 山陰道・旧広域地方は、 前近代日本の、

  @ 丹後 国  (たんご のくに、現・京都府北部

  相当領域)、 A 丹波 国 (たんば のくに、現・京

  都府中部の相当領域)、  B 但馬 国 (たじま の

  くに、現・兵庫県北部の相当領域)、 C 因幡 国 

  (いなば のくに、現・鳥取県東部の相当領域)、 

  D 伯耆 国 (ほうき のくに、現・鳥取県西部の相

  当領域)、  E 隠岐 国 (おき のくに、現・島根県

  隠岐諸島の相当領域)、 F 出雲 国 (いずも の

  くに、現・島根県本土東部の相当領域)、 G 石見

   国 (いわみ のくに、現・島根県本土西部の相当

  領域) の地域である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 山陰道・旧広域地方。

 

■ 山陰道 (さんいんどう)は、律令制 定後・古代・

  中世・近世日本・旧地域名の、旧地方名の正式

  名である

             

■ 山陰道・旧広域地方は、 飛鳥白鳳時代末期か

  ら江戸時代まで使用された、五畿七道(ごきしち

  どう)に属する、広域地方の1つである。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 山陰道・広域地方は、 現在の京都府北部

  (丹後国(たんご のくに))、 京都府中部 (丹波

  国 (たんば のくに))、 兵庫県北部 (但馬 国

  (たじま のくに))、 鳥取県東部・西部 (因幡 国

  (いなば のくに)、伯耆国(ほうき のくに))、 島

  根県隠岐島・本土東部・本土西部  (隠岐 国(お

  き のくに)、出雲 国(いずも のくに)、石見 国(い

  わみのくに)) の地域に相当する領域である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 山陰道・旧広域地方は、 丹波 国(たんば のく

  に、現・京都府中部の相当領域) から 石見 国

  (いわみ のくに、現・島根県本土西部の相当領

  域) までの地域である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#sadaijin

 

■ 左大臣  

     (さだいじん)

 

■ 左大臣。

■ 名称 : 左大臣 (さだいじん)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51912。

 

 

■ 左大臣 (さだいじん)は、 前近代日本の、

  朝廷の官職(ちょうていのかんしょく) である。 

            

 朝廷の官職。

■ 朝廷の官職 (ちょうていのかんしょく) は、 

  朝廷の官位 (= 「朝廷の位階」と「朝廷の官

  職」) の1つであり、 前近代日本(古代から

  江戸時代までの日本)の、朝廷での身分・地

  位の1つである。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

                  

 朝廷の官職。

 前近代日本の 、高位の朝廷の官職には、 

  高位順に、 @ 太政大臣 (だいじょうだ

  いじん)、 A 左大臣 (さだいじん)、 

  B 右大臣 (うだいじん)、  C 内大臣 

  (ないだいじん)、 D 大納言 (だいな

  ごん)、 E 中納言 (ちゅうなごん)、  

  F 参議 (さんぎ) などがある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 官位相当制

■ 官位相当制 (かんいそうとうせい)とは、

  前近代日本の、朝廷での、位階に対応した

  官職に就くことを原則とする制度である。

■ ( )は、原則として朝廷の官職に相当する

  朝廷の位階の位階で ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 前近代日本の、高位の朝廷の官職には、 

  高位順に、次のような官職があった。

● 第1位 太政大臣   (従一位  (以上))。  

  (だいじょうだいじん)  (じゅいちい)

   臨時の官職 (常設でない官職)。

● 第2位 左大臣     (正二位 (以上 ))。  

  (さだいじん)       (しょうにい)

● 第3位 右大臣     (正二位 (以上))。

  (うだいじん)

● 第4位 内大臣     (従二位 (以上 ))。

  (ないだいじん)          (じゅにい)

● 第5位 大納言     (正三位 (以上 ))。

  (だいなごん)      (しょうさん

● 第6位 中納言     (従三位 (以上 ))。  

  (ちゅうなごん)     (じゅさん

● 第7位 参議       (四位   (以上))。 

  (さんぎ)         (しい)

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 公卿。

● 公卿(くぎょう)とは、前近代日本の、朝廷の、

  位階三位(さんみ)以上の者や位階・四位(し

  い)以上で参議の官職に叙任(じょにん)された

  者である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#sakumanobumori

 

■ 佐久間 信盛  

     (さくま のぶもり)

 

■ 佐久間 信盛。

■ 名称 : 佐久間 信盛 (さくま のぶもり)。

■ 生没年 : 1528年?〜1582年。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51912。

 

 

■ 佐久間 信盛 (さくま のぶもり、1528年?〜

  1582年)は、 織田氏の 重臣である。

 

■ 佐久間 信盛は、 織田氏重臣の林通勝の追放

  と同様に、 織田信長の1580年代の人事・領

  地変革で、 1580年(天正8年)8月に、織田氏

  (織田軍団)より追放される。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 織田信長は、 農民の秀吉のように身分を全く

  問わない超実力主義の家臣登用 と、 家臣の

  使い捨てで、日本最強の軍団をつくり、 一大勢

  力を築く。

■ 織田信長の家臣は、 息をつく暇もなく働き、 

  過去の功績があっても、 現在や未来の成果を

  信長から常に求めらる。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1580年代の織田信長の人事・領地変革は、 

  林 通勝(林 秀貞)や佐久間信盛の追放を生じ

  させ、明智光秀の謀反(むほん)に影響を与え

    る。

     明智光秀の謀反の有力な説の1つとしては、

  織田信長の重臣の1人の明智光秀は、老齢に

  なるが、跡継ぎの男子は大きな成果をあげる実

  力がなく、引退できず、 重臣の林通勝(林秀貞)

  や佐久 間信盛のように、 明智家が信長にリス

  トラされると予期し(使い捨てにされると予期し)、

    今まで築いた領地や家臣団などを奪われるのを

  恐れ、1582年(天正10年)6月に、 謀反(む

  ほん、本能寺の変)を起こし、 京・本能寺で信

  長を殺害する(自害させる)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 佐久間 信盛 が登場する興味深

  い、ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 佐久間 信盛 が登場 する、興味深

  い関連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が 混じって描かれていま

  す。 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 軍師 官兵衛 (ぐんしかんべえ)  

   (NHK2014年大河ドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

● 佐久間 信盛を演じた俳優 : 立川 三貴

  (たちかわ みつたか)。

 

■ 『 信長 KING OF ZIPANGU 』 

   (NHK1992年大河ドラマ)。

■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代の

  時代状況やその時代に活躍した人物を描く。

● 佐久間 信盛を演じた俳優 : 田中 健。

 

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#thesamuraidokoroorganization

 

■ 侍所  

     (さむらいどころ)

 

■ 侍所。

■ 名称 : 侍所 (さむらいどころ)。

■ 鎌倉幕府室町幕府の政治機関。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 42334。

 

 

■ 侍所 (さむらいどころ) は、 鎌倉幕府室町

  幕府の政治機関 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 侍所 は、鎌倉時代では、 鎌倉幕府の、御家

  人(将軍家臣)の統制 や 軍事・警察 を担う

  機関 である。

 

■ 侍所 は、 室町時代では、 室町幕府軍事・

  警察 や 京(都)の警備・裁判 を担う機関 で

  ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 侍所 は、 平安時代の公家(くげ)の家にも、

  あった。

 

■ 侍所 は、鎌倉時代に、 鎌倉幕府では、鎌倉

  幕府の、御家人(将軍家臣)の統制 や 軍事・

  警察 を担う機関 である。

    鎌倉幕府の、侍所は、1180年に、源 頼

  が、 鎌倉に設(もう)け、 源 頼朝は、 和田義

  盛(わだよしもり)を、初代別当(べっとう、長官)

  とし、 梶原景時(かじわらかげとき)を、初代の、

  別当を補佐する所司(しょし、次官)として、 御

  家人(ごけにん、将軍家臣)の統制 や 軍事・

  警察 に当たらせた。

     後に、北条氏が、 侍所 の別当を世襲した。

     後に、北条氏の家宰(かさい)・長崎氏 が、

  鎌倉幕府 の、侍所の所司(しょし、次官)を世襲し

  た。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 侍所 は、 室町幕府では、 室町幕府の

  事・警察 や 京(都)の警備・裁判 を担う機 

  関であった。 侍所の所司(しょし、長官)には、

  山名(やまな)、赤松(あかまつ)、一色(いっし

  き)、京極(きょうごく)の4氏の四職家(ししき

  け)が、交代で、任じられて、権勢をふるった。 

  室町幕府では、 侍所の所司(長官)は、管領

  (かんれい)に次ぐ重職であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#the3rdrank

 

■ 三位  

     (さんみ)

 

■ 三位。

■ 名称 : 三位 (さん)。

■ 位階のグループ。

■ 使用期間(叙位期間) : 

  古代日本の飛鳥白鳳時代から現代日本の

  現在まで。 

  (西暦紀元後)701年頃から現在まで。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

■ 朝廷(律令官制)、職員令、叙位条例、位階

  令の位階 (701年頃〜現在、叙位使用)。

 正三位 (しょうさん) と 従三位 (じゅさ

  ん) の2つの位階

 

 前近代の朝廷(律令官制)の位階

 位階

 叙位

 

 

■ 三位。

■ 三位 (さん)とは、 正三位 (しょうさん

  ) と 従三位 (じゅさん) の2つの

   である。

 

■ 三位 (さん)は、 古代日本の飛鳥白鳳

  時代から現代日本の現在までの期間の

  に使用されている位階 で、 (西暦紀元

  後)701年頃から現在までの期間の叙位に、

  使用されている。  

     現在は、1947年の改正位階令により、

  功績のあった、故人(死亡者)へのみ、叙位

  が行われている。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

■ 三位。

■ 律令官制の位階。 

   <701年頃〜1869年頃>

 ● 朝廷の位階の「一位〜八位、初位」の9

   グループの3番目グループの位階(いかい)。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 ● 正一位(しょういちい)から少初位下(しょ

   うそいのげ)までの朝廷の30位階の、

   5番目の正三位 (しょうさんみ) 、

   6番目の従三位 (じゅさんみ)、

   の2つの位階。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 職員令(1869年制定)の位階。

   <1869年頃〜1887年頃>

 ● 近代日本政府の位階の「一位〜九位、初

   位」の10グループの 3番目グループの位階。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 ● 正一位(しょういちい)から少初位(しょうそ

   い、しょうしょい)までの近代日本政府の20

   位階の 、

   5番目の正三位 (しょうさんみ) 、

   6番目の従三位 (じゅさんみ)、

   の2つの位階。

 

■ 叙位条例(1887年制定)、位階令

  (1926年制定、1947年改正)

  位階。

   <1887年頃〜現在>

 ● 近・現代日本政府の位階の「一位〜八位

   8グループの 3番目グループの位階。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 ● 正一位(しょういちい)から従八位(じゅはち

   い)までの近・現代日本政府 の16位階の、

   5番目の正三位 (しょうさんみ) 、

   6番目の従三位 (じゅさんみ)、

   の2つの位階。

 

 

■ 三位。

◆ 律令官制の位階。 

  <701年頃〜1869年頃>

 ● 三位は、 朝廷の位階の「一位〜八位、初

  位」の 9グループのうちの上から3番目のグ

  ループの位階である。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 ● 三位は、 正一位(しょういちい)から少初

   位下(しょうそいのげ)までの朝廷の30位階

   (いかい)の、

   5番目の正三位 (しょうさん) 、

   6番目の従三位 (じゅさん)、

   の2つの位階である。

 

◆ 職員令(1869年制定)の位階。

   <1869年頃〜1887年頃>

 ● 三位は、 近代日本政府の位階の「一位〜

   九位、初位」の10グループの うちの上から

   3番目のグループの位階である。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 ● 三位は、 正一位(しょういちい)から少初位

   (しょうそい、しょうしょい)までの近代日本政

   府の20位階の 、

   5番目の正三位 (しょうさんみ) 、

   6番目の従三位 (じゅさんみ)、

   の2つの位階である。

 

■ 叙位条例(1887年制定)、位階令

  (1926年制定、1947年改正)の位階。

   <1887年頃〜現在>

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 ● 三位は、 近・現代日本政府の位階の「一

   位〜八位」の8グループのうちの上から3

   番目のグループの位階である。

 ● 三位は、 正一位(しょういちい)から従八

   位(じゅはちい)までの近・現代日本政府の

   16位階の、

   5番目の正三位 (しょうさんみ) 、

   6番目の従三位 (じゅさんみ)、

   の2つの位階である。

 

 

#the3thrank-premoderncourt

 

◆ 律令官制の位階。 

■ 従三位。

● 前近代日本の朝廷で、参議(さんぎ)を除き、

 公卿になるための最低条件の位階。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 従三位は、 参議(さんぎ)を除き、 公卿

  (くぎょう) になるための、 朝廷の最低条件

  の位階 である。

     公卿(くぎょう)は、 朝廷の位階・三位

  以上の者で天皇より公卿の官職に叙任され

  た者、または、朝廷の位階・四位以上の者で

  天皇より公卿の参議に叙任された者である。

 

■ 従三位。

■ 従三位 (じゅさんみ)は、 朝 廷の位階、  従

  正一位(しょういちい)から少初位下(しょう

  そいのげ)までの朝 廷の30位階(いかい)

  の上位6番目の位階 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 公卿(くぎょう)は、位階・三位以上の者で公

  卿の官職に叙任された者、または、位階・四

    位以上の者で公卿の官職の参議に叙任され

    た者 である。

 

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#sakumashozan

 

■ 佐久間 象山 

       (さくま しょうざん)。

 

■ 佐久間 象山

■ 名称 : 佐久間 象山 (さくま しょうざん・

  ぞうざん)。

■ 生没年 : 1811年〜1864年。

■ 江戸時代・幕末に活躍した蘭学者。

 

 

■ 佐久間 象山 (さくま しょうざん・ぞうざん)

  は、 江戸時代・幕末に活躍した蘭学者(ら

  んがくしゃ、洋学者) である。 生没年は

  1811年〜1864年である。 蘭学者は、

  洋学者(西洋諸学問研究者)で、 オランダ

  語により西洋諸学問の研究者 である。

 

■ 佐久間 象山は、信濃国(しなののくに、現

  在の長野県)の真田氏・松代藩(まつしろは

  ん)の藩士で、 江戸に兵学・砲術の塾を開

  き、東西学術融合の立場で門人(もんじん)

  を育成した。 佐久間 象山の門人の一人に、

  吉田松陰(よしだしょういん) がいる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 佐久間 象山は、 門人の吉田松陰にアメリ

  カ密航を勧めて江戸幕府に処罰される。

     後に、 幕命(ばくめい、幕府の命令)に

  より京(都)へ赴(おもむ)き、 開国論を主張

  して、攘夷(じょうい)論者に暗殺された。

    

 

#sakumashozan-appearingscenes

 

♪♪ 佐久間 象山 が登場する、面白

  く、興味深い、ドラマ、映画、ドキュメ

  ンタリー 。

 

★ 佐久間 象山 が登場する、面白く、

  興味深い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事 が 混じって描かれていま

  す。 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 八重の桜 (やえのさくら)  

   (NHK2013年大河ドラマ)。

● 日本の幕末、明治時代を描いた、ドラマ。

 

● 新島(山本)八重を演じる女優 : 

  綾瀬 はるか (あやせ はるか)。

 

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#sakanouenotamuramaro

 

■ 坂上田村麻呂 

       (さかのうえのたむらまろ)。

 

■ 坂上田村麻呂

■ 名称 : 坂上田村麻呂 

  (さかのうえのたむらまろ)。

■ 生没年 : 758〜811年。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ 奈良時代末期、平安時代初期に活躍した

  武将、武官。

 

 

■ 坂上田村麻呂 (さかのうえのたむらまろ)

   は、 生没年は758〜811年で、奈良時代

  末期、平安時代初期に活躍した武将、武官

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 坂上田村麻呂は、 東漢氏(やまとのあやうじ)

  出身で、 紀元(後)791年以来、蝦夷討伐に

  功績があり、 801年に、「征夷大将軍」 (せ

  いいたいしょうぐん、蝦夷(えぞ、東北地方)征

  伐の統率者) となる。

     坂上田村麻呂は、胆沢(いさわ)、志波(し

  わ)の2城を築(きず)き、 鎮守府(ちんじゅふ)

  を多賀城(たがじょう)から胆沢城(いさわじょう)

  に進め、 蝦夷経略(えぞけいりゃく)を発展さ

  せた。

     坂上田村麻呂は、 810年の薬子の乱

  (くすこのらん)の鎮圧にも功績をあげ、 大

  納言(だいなごん)となる。

    坂上田村麻呂は、 京(都)東山(ひがしや

  ま)の清水寺(きよみずでた)の創建者と言わ

  れている。

 

■ 坂上田村麻呂は、 桓武天皇の命令で、朝

  廷軍を率いて蝦夷(えぞ 、東北地方)討伐を

  行い、 征夷大将軍に任じられ、 蝦夷軍(東

  北軍)の阿弖流為(あてるい)らと戦い 勝ち、 

  蝦夷(東北地方)を征服し、 蝦夷(東北地方)

  経略に功績を残す。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。         

                   

■ 坂上田村麻呂は、 桓武天皇の二大事業

  (遷都と蝦夷討伐)で、 蝦夷(えぞ、東北地

  方)討伐で武将として活躍し、蝦夷地(東北

  地方)経略に功績を残した。

    桓武天皇は、 蝦夷(東北地方)を討ち、

  蝦夷(東北地方)を律令体制の中に組み入

  れる(朝廷の支配下に入れる)ことを強く望

  む。

 

■ 789年に、 征東大使・紀古佐美(きのこさ

  み)の率いる朝廷軍が、蝦夷(えぞ、東北地

  方)の阿弖流為(あてるい)らの率いる蝦夷

  軍と戦い、大敗する。

    坂上田村麻呂 は、京(都)の中央の近

  衛府(このえふ)の武官であったが、 桓武

  天皇の命令で、 征東副使として791年よ

  り、朝廷軍を率いて、蝦夷(東北地方)討伐

  を行い、活躍し、 797年には征夷大将軍

  に任じられ、 801年に、蝦夷(東北地方)

  の阿弖流為(あてるい)、母礼(もれ)らの

  率いる蝦夷軍と戦い勝ち、 蝦夷(東北地

  方)の中部を征服した。

    坂上田村麻呂 は、 802年に胆沢城

  (いさわじょう)を築(きず)き、鎮守府(ちん

  じゅふ)を多賀城(たがじょう)から胆沢城に

  移転する。 

    また、 802年に、阿弖流為(あてるい)、

  母礼(もれ)が投降(降伏)し、 坂上田村麻

  呂は、802年に投降(降伏)した蝦夷軍の

  リーダーの阿弖流為(あてるい)、母礼(も

  れ)を伴い、入京した。 坂上田村麻呂は、

  彼らの助命を嘆願(たんがん)したが、 京

  (都)の貴族に反対され、二人を処刑した。

    坂上田村麻呂 は、803年には志波城

  (しわじょう)を築く(築造する)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 坂上田村麻呂 は、 798年(延暦17年)

  に、京(都)の清水寺(きよみずでら)を建立

  したと伝えられている。

 

■ 坂上田村麻呂の墓所は、 京都市山科区の

  西野山古墳と推定される。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

★ 坂上田村麻呂 が登場する、面

    白く、興味深い関連ドラマ、映画 。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画 は、史実(歴史上の事

  実) と 架空の出来事 が 混じって描かれ

  ています。 また、 現代風にアレンジしてあ

  ります。

 

■ 『 火怨・北の英雄 アテルイ伝 』 

   (日本の2013年 NHKスペシャルドラマ) 

     (歴史ドラマ、全4回) 

■ 奈良時代末期、平安時代初期を描いた歴史

  ドラマ。

● 坂上田村麻呂を演じた俳優 : 高嶋 政宏。

● 桓武天皇を演じた俳優 : 近藤 正臣。 

● 蝦夷(東北地方)軍のリーダーの一人、アテ

  ルイ (阿弓流為)を演じた俳優 : 

   大沢 たかお。

● 蝦夷(東北地方)軍のリーダーの一人、モレ

  (母礼)を演じた俳優 : 北村 一輝。

 

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#thesankinkotaisystem

 

■ 参勤交代制。 

       (さんきんこうたいせい)。

 

■ 参勤交代制

■ 名称 : 参勤交代制 (さんきんこうたい

  せい)

■ 実施期間 : 1635年(寛永12年 )から

  1864(元治元年)まで。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51221。

 

 

 ■ 参勤交代制

  ■ 参勤交代制 は、 江戸時代の、江戸幕府の大

    名統制策の1つで、 1635年(寛永12年 )から

    1864(元治元年)まで実施され、 大名藩主

    等は、  原則として、妻子を江戸に置き、1年間

    江戸で、1年間地元の藩の大名領地で、暮らす。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 参勤交代制

 

  ■ 1635年(寛永12年 )に、 江戸幕府の第3代

    将軍徳川家光のとき、  武家諸法度(ぶけし

    ょはっと)で制度化される。 

       江戸幕府の命令で、 大名藩主) 等は、

    原則として、1年おきに江戸在府と在国を繰り

    返した。 関東の諸大名は、 半年交代であっ

    た。 1864年(元治元年)に実施されなくなる。

 

  ■ 参勤交代制は、 

    大名(藩主)等の大名行列や在府の出費は大きく、 

    大名(藩主)等の妻子を江戸に人質化する点で効

    果の大きい、江戸幕府の大名統制策であった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 参勤交代制

 

  ■ 江戸時代、江戸幕府による参勤交代制 で、

    大名  (藩主将軍の家臣で1万石以上の 武

    士、約300藩主(大名)) は、 人質として妻

    子を江戸に残し、 原則として、 江戸で1年

    間、 地元の藩の大名領で1年間、暮らし

    た。  

      藩邸 (はんてい)は、 大名(藩主) 等の

    江戸での邸宅として、江戸城周辺に建てられ、

    大名(藩主)等の妻子は、 藩邸で暮らし、 

    大名(藩主)は、 江戸にいる間、 藩邸で暮ら

    す。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 参勤交代制

 

  ■ 大名藩主)等の後継者の嫡子は、  

    江戸で育つことになり、 大名(藩主)等の跡

    を継いだのち、 地元の藩に向かうこととな

    った。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ● 各大名(各藩主)等の後継者の嫡子は、 

    地元の大名(藩)等の領を知らないで、  

    江戸で育つこととなった。 

 

  ■ 各大名(各藩主)は、

    重臣の家老も、 江戸家老(えどがろう) と 

    国家老(くにがろう) の2人の重臣をもった。

       江戸時代の参勤交代制の時期に、

    各大名(各藩)等には、 江戸勤めの江戸家

    老 と 地元の大名(藩)等の領勤め

    国家老(くにがろう)がいた。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ● 江戸家老 (えどがろう)は、 

    江戸時代の参勤交代制の時期の、各大名(各

    藩)等の江戸勤めの重役である。

 

  ● 国家老 (くにがろう)は、 

    江戸時代の参勤交代制の時期の、各大名(各

    藩)等の地元の大名(藩)等の領勤 め

    重役である。

 

 

♪♪ 参勤交代制が登場する、興味深 い、

    ドキュメンタリー、ドラマ、映画。 

 

 ★ 参勤交代制が登場する、 興味深い、

    ドラマ、映画。

 

  ● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

    歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

    実) と 架空の出来事が 混じって描かれ

    ています。 また、現代風にアレンジしてあり

    ます。

 

 ■ 『 超高速!参勤交代 』。

     (2014年制作日本映画)。

     (原作:土橋章宏の小説

          「超高速!参勤交代」)。

     (脚本:土橋章宏(どばしあきひろ))。

 

  ■ 江戸時代の人物、風習、建物、社会状況

    などを描く。

 

  ■ 江戸時代の参勤交代を描く。

 

  ● 「内藤政醇」(ないとうまさあつ)を演じた俳

    優名 : 佐々木 蔵之介 (ささき くらの

    すけ)。

    〇 「内藤政醇」は、 陸奥国磐城(むつの

    くに・いわき、福島県いわき市)の1万5000

    石の小藩の湯長谷藩(ゆながやはん)の第

    4代藩主である。 歴史上実在した人物で

    ある。

 

  ● 「相馬兼嗣」(そうまかねつぐ)を演じた

    俳優名 : 西村 雅彦。

    〇 「相馬兼嗣」は、 湯長谷藩(ゆながや

    はん)の家老で、藩随一の知恵者である。

 

  ● 「お咲」(おさき)を演じた女優名 : 

    深田 恭子。

    〇 「お咲」は、 幼いころ口減らしのため

    親から売られ、牛久の旅籠(はたご)「鶴屋」

    の飯盛女(めしもりおんな、遊女)となり、

    藩主の内藤政醇(ないとうまさあつ)に見初

    (みそ)められ、政醇の側室夫人となる。

    

  ● 「松平信祝」(まつだいらのぶとき)を演

    じた俳優名 : 陣内 孝則。

    〇 「松平信祝」は、 江戸幕府の老中で、

    湯長谷藩(ゆながやはん)の乗っ取りを図る。

 

  ● 「徳川吉宗」(とくがわよしむね)を演

    じた俳優名 : 市川 猿之助。

    〇 「徳川吉宗」は、 江戸幕府の第8代

    将軍で、老中の松平信祝の不正を見抜くた

    め、湯長谷藩主の内藤政醇に急ぎの参勤

    を命ずる。

 

 

 ■ 『 超高速!参勤交代 

       リターンズ 』。

     (2016年制作日本映画)。

     (原作:土橋章宏の小説

          「超高速!参勤交代」)。

     (脚本:土橋章宏(どばしあきひろ))。

 

  ■ 江戸時代の人物、風習、建物、社会状況

    などを描く。

 

  ■ 江戸時代の参勤交代を描く。

 

  ● 「内藤政醇」(ないとうまさあつ)を演じた俳

    優名 : 佐々木 蔵之介 (ささき くらの

    すけ)。

    〇 「内藤政醇」は、 陸奥国磐城(むつの

    くに・いわき、福島県いわき市)の1万5000

    石の小藩の湯長谷藩(ゆながやはん)の第

    4代藩主である。 歴史上実在した人物で

    ある。

 

  ● 「相馬兼嗣」(そうまかねつぐ)を演じた

    俳優名 : 西村 雅彦。

    〇 「相馬兼嗣」は、 湯長谷藩(ゆながや

    はん)の家老で、藩随一の知恵者である。

 

  ● 「お咲」(おさき)を演じた女優名 : 

    深田 恭子。

    〇 「お咲」は、 幼いころ口減らしのため

    親から売られ、牛久の旅籠(はたご)「鶴屋」

    の飯盛女(めしもりおんな、遊女)となり、

    藩主の内藤政醇(ないとうまさあつ)に見初

    (みそ)められ、政醇の側室夫人となる。

    

  ● 「松平信祝」(まつだいらのぶとき)を演

    じた俳優名 : 陣内 孝則。

    〇 「松平信祝」は、 江戸幕府の老中で、

    湯長谷藩(ゆながやはん)の乗っ取りを図る。

 

  ● 「大岡忠相」(おおおかただすけ)を演じた

    俳優名 : 古田 新太 (ふるた あらた)。

    〇 「大岡忠相」は、 江戸幕府の第8代将

    軍の徳川吉宗が信頼する側近で、南町奉行

    であり、松平信祝の不正や湯長谷藩(ゆなが

    やはん)の乗っ取りを捜査し、信祝の捕縛に

    向かう。

 

 

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#sangi

 

■ 参議 

       (さんぎ)。

 

■ 参議

■ 名称 : 参議 (さんぎ)

◆ 明治時代前期では、 明治新政府(近代日

  本政府)の行政官 、政府首班で、要職。

◆ 前近代日本では、 朝廷の官職で、朝廷

  位階・四位以上で参議に叙任された者。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51912。

 

 

◆ 明治時代前期の、明治新政府

  の参議。

■ 参議 (さんぎ) は、 明治新政府(近代日

  本政府)の行政官で、 明治時代前期の

  治新政府(近代日本政府)の太政官制( だ

  じょうかんせい、1868〜1885年)での要

  職である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 前近代日本の、朝廷の官職の

  参議。

■ 参議 (さんぎ)は、 前近代日本の、朝廷の

  官職(ちょうていのかんしょく) である。 

            

■ 参議(さんぎ) は、 前近代日本朝廷の官

  で、 大臣、大・中納言に次ぐ重職である。

    参議 は、 朝廷の位階・四位以上で参議

  に叙任された者 である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

                  

 朝廷の官職。

■ 朝廷の官職 (ちょうていのかんしょく) は、 

  朝廷の官位 (= 「朝廷の位階」と「朝廷の官

  職」) の1つであり、 前近代日本(古代から

  江戸時代までの日本)の、朝廷での身分・地

  位の1つである。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

                  

 朝廷の官職。

 前近代日本の 、高位の朝廷の官職には、 

  高位順に、 @ 太政大臣 (だいじょうだ

  いじん)、 A 左大臣 (さだいじん)、 

  B 右大臣 (うだいじん)、  C 内大臣 

  (ないだいじん)、 D 大納言 (だいな

  ごん)、 E 中納言 (ちゅうなごん)、  

  F 参議 (さんぎ) などがある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 官位相当制

■ 官位相当制 (かんいそうとうせい)とは、

  前近代日本の、朝廷での、位階に対応した

  官職に就くことを原則とする制度である。

■ ( )は、原則として朝廷の官職に相当する

  朝廷の位階の位階で ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 前近代日本の、高位の朝廷の官職には、 

  高位順に、次のような官職があった。

● 第1位 太政大臣   (従一位  (以上))。  

  (だいじょうだいじん)  (じゅいちい)

   臨時の官職 (常設でない官職)。

● 第2位 左大臣     (正二位 (以上 ))。  

  (さだいじん)       (しょうにい)

● 第3位 右大臣     (正二位 (以上))。

  (うだいじん)

● 第4位 内大臣     (従二位 (以上 ))。

  (ないだいじん)          (じゅにい)

● 第5位 大納言     (正三位 (以上 ))。

  (だいなごん)      (しょうさん

● 第6位 中納言     (従三位 (以上 ))。  

  (ちゅうなごん)     (じゅさん

● 第7位 参議       (四位   (以上))。 

  (さんぎ)         (しい)

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 公卿。

● 公卿(くぎょう)とは、  前近代日本の、朝廷の、

  位階三位(さんみ)以上の者や位階・四位(し

  い)以上で参議の官職に叙任(じょにん)された

  者である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#sanjokiminori

 

■ 三条公教 

       (さんじょ きんのり)

 

■ 三条公教

■ 生没年 : 1103年〜1160年。

■ 名称 : 三条公教 (さんじょう きんのり・きみのり)

 

 

■ 三条公教 (さんじょう きんのり・きみのり) は、 生没

  年は 1103年〜1160年で、 平安時代末期の公家

  (くげ、朝廷貴族) で、 1157年に、正二位・内大臣

  (ないだいじん、朝廷の位階朝廷の官職) となる。

    三条公教は、 平治の乱(へいじのらん)で、平清盛

    を従えて、戦いに参加し、勝利を得る。

 

■ 三条公教は、 藤原北家閑院家流・三条家の当主で、

  太政大臣・三条実行の子 である。 

    三条公教は、 若くして、鳥羽(とば)天皇の侍従(じ

  じゅう)となり、 その後、 質実・勤勉であり、 鳥羽上

  皇の寵愛する、従兄弟(いとこ)の原得子(ふじわら

  のとくし・なりこ、美福門院)との関係も深いことから、 

  鳥羽上皇院政政治では、 院庁(いんのちょう、上皇

  の事務機関、政務機関)では、 執事別当として行政・

  裁判の中枢を担(にな)った。  

    三条公教は、 1155年の近衛(このえ)天皇急死

  時、鳥羽法皇、関白・藤原忠通(ただみち)等と秘密裏

  に会議を開き、 次期天皇に、雅仁親王(まさひとしん

  のう)を、後白河(ごしらかわ)天皇として、即位させる

  決定をした。

    三条公教は、 1156年(保元元年)に、 鳥羽法

  皇の崩御(ほうぎょ、死去)直後に、保元の乱(ほうげ

  んのらん、1156年7月)が起こると、 藤原忠通

  西(しんぜい、藤原通憲)と共に、後白河天皇の傍(そ

  ば)に近侍した。 そして、保元の乱では、後白河天皇

  方が勝利を得る。

    三条公教は、 保元の乱後、延期されていた鳥羽

 法皇の葬儀を執(と)り行い、 また、信西(藤原通憲

 の勧(すす)める記録所再設置(復興、1156年10月)

 に賛同し、その長官に就任する。

 

■ 1159年(平治元年)12月に勃発した、平治の乱で

  は、 三条公教 (さんじょう きんのり・きみのり) は、

  信西(しんぜい、藤原通憲)と共に、 藤原 信頼(ふ

  じわらののぶより)に対抗し、 平清盛と密(ひそ)か

  に結んで、 二条天皇を、藤原信頼が占拠していた内

  裏(だいり)から脱出させ、平清盛の六波羅(ろくはら)

  邸に保護する工作を行った。 この動向を見て、朝廷

  の公卿(くぎょう)たちも、 三条公教方を支持すること

  になり、 平治の乱で、信西(藤原通憲)・三条公教方

  が、勝利を決定付けた。

     三条公教は、平治の乱(1159年12月)の翌年・

  1160年の7月に、享年58歳で、 急死する。

 

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#sadako

 

■ 完子 

       (さだこ)

 

■ 完子

■ 生没年 : 1592年(文禄元年)〜1658年(万治元年)。

■ 名称 : 完子 (さだこ)

● 豊臣(羽柴) 完子 (とよとみ(はしば) さだこ)。

● 初名は、不明。 完子 (さだこ)は、1608年より名乗る。

■ お江(おごう) と お江の2番目の夫・豊臣秀勝(ひでかつ)との

 間の娘。

■ 豊臣氏の血筋 で、 その子孫は、豊臣氏の血筋を受け継いだ。

■ 九条忠栄(幸家)の正室夫人。

■ 徳川家光の異父姉。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 父は、 豊臣秀勝 (豊臣 秀吉の姉・とも(日秀)の次男)。

 母は、 お江 (おごう、小督(おごう)、お江与(おえよ)、崇源院

 (すうげんいん))。

 子は、 九条忠栄(幸家)との間に、 四男三女 がいた。

 

 

■ 完子(さだこ)の誕生前に、完子の父・豊臣秀勝は、死去し、秀勝

 死後、完子は、 伯母の淀殿(お茶々)に養育され、後に、公家の九

 条忠栄(幸家)に嫁いだ。

● 完子の誕生前に、父の豊臣秀勝が文禄の役出陣中に病死し、15

 92年(文禄元年)に、 母のお江は、 姉の淀殿(お茶々)のもとで完

 子を産んだ。 そして、1595年(文禄4年)に、 お江が豊臣秀吉

 命(めい)で徳川秀忠と再々婚したことで、 完子は伯母の淀殿(お茶

 々)に引き取られ養われた。 その後、完子は公家の九条忠栄(幸家)

 に嫁いだ。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

● 1608年(慶長13年)に、夫の九条忠栄(幸家)が関白に就任し、

 完子が北政所となり、従三位と完子の諱(いみな)を朝廷より賜(たま

 わ)る。

 

■ 完子の生母が2代将軍・徳川秀忠の正室夫人・お江ということから、 

 完子の夫の公家の九条忠栄(幸家) は、 武家と公家の貴重な仲介

 役となった。

 

 

■ 完子 (さだこ、 生没年 1592年(文禄元年)〜1658年(万治

 元年)) は、 九条忠栄(幸家)の正室夫人 である。

 

■ 完子 (さだこ) は、 正式名は、豊臣(羽柴) 完子 (とよとみ

 (はしば) さだこ) で、 初名は不明で、1608年より 完子 (さだ

 と名乗る。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 完子 (さだこ) は、 お江(おごう)とお江の2番目の夫・豊臣秀

 勝(ひでかつ)との間の娘 である。 完子 は、 徳川家光の異父

 姉 である。 完子の父 は、 豊臣秀勝 (豊臣 秀吉の姉・とも(日

 秀)の次男)である。 完子の母 は、 お江 (おごう、小督(おごう)、

 お江与(おえよ)、崇源院(すうげんいん)) である。  完子の子は、

 九条忠栄(幸家)との間に、 四男三女 がいた。

  完子 は、 豊臣氏の血筋 で、 その子孫は、豊臣氏の血筋を

 受け継いだ。

 

 

★ 完子(さだこ) が登場する、面白

    く、興味深い関連ドラマ、映画 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画 は、史実(歴史上の事

  実) と 架空の出来事 が 混じって描かれ

  ています。 また、 現代風にアレンジしてあ

  ります。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』 

   (日本の2011年 NHK大河ドラマ) 

 

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#sagikazunari

 

■ 佐治 一成 

    (さじ かずなり)。

 

■ 佐治 一成

■ 生没年 : 1569年(永禄12年)?〜1634年(寛永11年)。

■ 名称 : 佐治 一成 (さじ かずなり)。 

 別名: 佐治 与九郎(よくろう)。

■ 安土桃山時代江戸 時代初期の武将。

■ 浅井3姉妹の1人の、お江(おごう)の1番目の夫。 

■ 尾張・大野城主 (おわり・おおのじょうしゅ)。

■ 羽柴秀吉(豊臣秀吉)の仲介で、 お江と婚儀を結ぶ。 その後、

 秀吉と敵対したため、 秀吉により、 お江と離縁さられ、領地を

 没収され、追放される。

■ 佐治氏は、代々、尾張の知多半島の豪族で、佐治水軍を率いて

 いた。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 父 : 佐治信方。

■ 母 : 織田信長の妹の、お犬の方。

■ 夫人 : 1番目の正室(夫人)は、 浅井3姉妹の1人の、お江

 (おごう)、 2番目の正室(継室)(夫人)は、 信長の娘の、於振。

■ 子 : お江との間には、子はなかった。 於振との間に、嫡男の

 佐治為成がいた。

 

 

■ 佐治氏は、代々、尾張の知多半島の豪族で、 伊勢湾海上交通を

 掌握する佐治水軍を率いていた。 そのため、尾張の織田信長にと

 って、重要視された。

 

■ 佐治一成 の父 は、 佐治信方で、 母は、 織田信長の妹の、

 お犬の方 である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 佐治一成 (さじ かずなり) は、 生没年は、 1569年(永禄12

 年)?〜1634年(寛永11年)で、 安土桃山期、 江戸初期の武将

 である。

■ 佐治一成 は、 浅井3姉妹の1人の、お江(おごう)の1番目の夫

 で、 お江と離縁させられる。

 

■ 佐治一成(さじ かずなり) は、 羽柴秀吉(豊臣秀吉)の仲介で、

 浅井3姉妹の1人のお江(おごう) と婚儀を結ぶ

   しかし、後に、 秀吉と敵対したため、 秀吉により、夫人のお江

 (おごう)と離縁させられ、所領を没収され、追放された。

● 佐治一成は、 羽柴秀吉(豊臣秀吉)に従わず、 織田信雄・徳川

 家康に味方して、 小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦いでは、 家

 康方につき、 秀吉の怒りを買い、 秀吉により、夫人のお江(おごう)

 と離縁させられ、 所領を没収され、追放された。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ その後、佐治一成は、 母の兄である織田信包 (のぶかね)の領

 する伊勢へ逃れ、 信包の家中に入り、 後、 信長の娘の於振を正

 室(夫人)とし、 於振との間に嫡男の佐治為成を得る。

 

■ 佐治一成は、 1634年(寛永11年)に、 京(都)にて死去する。

 

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#sakoku

 

■ 鎖国

     (さこく)。

 

■ 鎖国。

■ 名称 : 鎖国 (さこく)。

■ 時期 : 江戸時代初期の鎖国完成の1639

  年から江戸時代末期の 完全開国の1858年

  まで。

 

 

■ 鎖国(さこく)とは、 日本の江戸幕府による

  対外関係の統制・制限 である。 

    鎖国 は、 外国との交流を制限すること

  で、 江戸幕府の鎖国政策をさす。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 江戸幕府は、 封建制度の幕藩体制を維持

  するため、 江戸初期より幕末まで、鎖国政

  策を採った。 

     江戸時代の鎖国期は、ポルトガル船の

  来航禁止の鎖国完成の1639年から 日米

  修好通商条約調印 の完全開国の1858年ま

  で である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 日本全国を支配する、江戸幕府 は、 鎖国

  期に、 日本国内の各地の人々が 朝鮮、中

  国、オランダ以外の海外諸国と交流すること

  を認めなかった。 また、 江戸幕府は、 鎖

  国期に、貿易を独占し、統制した。 

    江戸幕府により、 貿易の窓口は、 長崎

  (対オランダ、中国貿易)に限られた。 

    しかし、 薩 摩藩(琉球経由の対中国貿易)、 

  対馬藩(対朝鮮貿易)、 蝦夷地(対アイヌ交

  易) などの対外交易も行われていた。 

 

 鎖国は、 1630年代から行われ、 1858

  年の完全開国まで、行われた。 鎖国中は、

  交易(貿易)は、制限され、外国との交易は、

  長崎港1つのみで、 オランダ・中国船のみ

  の長崎入港が許され、 江戸幕府は、オラン

  ダ・中国との長崎貿易で、貿易を独占し、利

  益を得ていた。

    しかし、19世紀に入ると、欧米列強が、日

  本との交易(貿易)を強く求めるようになる。

 

 江戸幕府の非公認の貿易は、密貿易(抜荷

  と呼ばれ、 発覚(はっかく)すれば、 江戸幕

  府により、厳罰に処せられた。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 但し、 「鎖国」という表現は、 明治時代以後

  に言われた表記で、 江戸時代の文献に は見

  当たらない。 

 

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#sawamurasonojo

 

■ 沢村 惣之丞 

     (さわむら そうのじょう)。

 

■ 沢村 惣之丞。  

■ 沢村 惣之丞 (さわむら そうのじょう)。  

■ 土佐藩地下浪人(じげろうにん)。  

■ 土佐勤王党に加わる。

■ 土佐藩脱藩浪士。

■ 尊皇(王)攘夷派 その後、 開国派

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 坂本龍馬の同志。  

■ 海軍塾亀山社中海援隊 に加わる。

 

 

■ 沢村惣之丞 (さわむらそうのじょう) は、

 土佐藩の地下浪人で、土佐勤王党に加わる。

 

■ 沢村惣之丞 は、 坂本龍馬の同志で、 

  勝海舟が設立した 、海軍塾、神戸海軍操練

  で学び、 坂本龍馬が設立した亀山社中、

  海援隊に加わる。 長崎の亀山社中、海援

  隊で、 外国人の応接掛を務め、活躍する。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

♪♪ 沢村惣之丞 が登場する、面白

  く、興味深い関連ドラマ、映画、ド

  キュメンタリー。 

 

★ 沢村惣之丞 が登場する、面白く、

  興味深い関連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画 は、フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画 は、 史実(歴史上の事

  実) と 架空の出来事 が、混じって、描か

  れています。 また、現代風にアレンジしてあ

  ります。

 

 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』  

  (NHK2010年大河ドラマ)。

● 沢村惣之丞を演じた俳優名 : 要 潤  

  (かなめ じゅん)。

 

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#saitaniya

 

■ 才谷屋 

       (さいたにや) 。

 

■ 才谷屋。

■ 名称 : 才谷屋 (さいたにや)。

■ 江戸時代の土佐(とさ、高知県)の豪商(ごうしょう)。

  

■ 坂本龍馬の(属する分家の)郷士・坂本家の、本家。

■ 高知で、 質屋、酒屋、諸品売買業(呉服等)を扱

  う豪商。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 才谷屋 (さいたにや) とは、 江戸時代の土佐(と

  さ、高知県)で、質屋、 酒屋、諸品売買業(呉服等)

  を扱う豪商(ごうしょう) であった。

■ 才谷屋 (さいたにや) は、 坂本龍馬の(属する分

  家の)郷士・坂本家(土佐藩郷士の坂本家)の、 

  家  である。

 

 

 才谷屋と坂本龍馬の属する

  坂本家との関係。

■ 名称 : 坂本家 (さかもとけ)。 

  別名 : 郷士坂本家 (ごうしさかもとけ)。

■ 郷士・坂本家(ごうし・さかもとけ) は、 土佐 

  (とさ、現在の四国・高知県) の 豪商・才谷屋

  (さいたにや)の分家 であった。

■ 土佐藩郷士の郷士坂本家 (1770年頃〜18

  71年)の変遷。

● 土佐の豪商・才谷屋の本家 

 ⇒ 郷士坂本家の 初代・坂本直海 (= 坂本龍馬の母方の曾祖父)、

   1770年、才谷屋 から分家し、翌年、土佐藩の郷士となる。 

 ⇒ 郷士坂本家の第2代・坂本 直澄 (= 坂本龍馬の母方の祖父)。 

 ⇒ 郷士坂本家の第3代・坂本 八平(はちへい)

   (= 坂本 直足 (なおたり)、婿養子、坂本龍馬の父)。

 ⇒ 郷士坂本家の第4代・坂本 権平(ごんぺい)

   (= 坂本 直方、坂本龍馬の兄)。

 ⇒ 郷士坂本家の第5代・坂本 直寛 (なおひろ)

   (= 坂本南海男、坂本龍馬の甥)。

 ⇒ 明治期を迎え、1871年、廃藩置県で土佐藩が消滅、 土佐藩の郷士

  身分が消滅し、 その後、士族・坂本家となる。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 郷士・坂本家(ごうし・さかもとけ) は、土佐 (とさ、現在の四国・高知

 県) の 豪商・才谷屋 (さいたにや、高知市上町3丁目付近) の分家で

 あった。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 1666年(寛文6年)に、 ハ兵衛守之は、長岡郡才谷村から出て、 高

 知城下で質屋を開業した (屋号は才谷屋)。 その後、 酒屋、 諸品売買

 業(呉服等)へと商(あきな)いを拡大し、城下屈指の豪商 となる。

 

■ 1730年(享保15年)頃、 商家・才谷屋は、 本町筋の年寄役(としよ

 りやく)となり、 藩主に拝謁(はいえつ)を許されるにいたった。

 

■ 商家・才谷屋は、もともと、大浜姓を名乗っていたが、 後に、坂本姓に

 改姓する。 いつごろかは不明であるが、 才谷屋の直益が、1767年(明

 和4年)の建墓時には、坂本姓を刻んでいる。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 1770年(明和7年)に、 直益の長男・直海が、 分家し、 1771年に、 

 商家・才谷屋の6代目の直益は、 郷士(ごうし)の株を買い、  長男・直海

 を、 郷士・坂本家(ごうしさかもとけ)の初代とし、 坂本直海として、 名字

 帯刀をなさせた (公認の名字を名乗り、二本差しの帯刀をする身分にさせ

 た)。 

  一方、 直益は、 次男・直清には、 商家・才谷屋 を継(つ)がせた。 

 坂本龍馬は、 坂本直海の曾孫(ひまご) である。

 

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#sanjosanetomi

 

■ 三条実美 

       (さんじょうさねとみ)。

 

■ 三条実美。

■ 名称: 三条実美 (さんじょうさねとみ)。

■ 生没年 : 1837〜1891年。

■ 幕末・明治期の公卿(くぎょう、公家)、政治家。

■ 幕末、 尊皇(王)攘夷派・急進派、  後に、尊皇(王)討幕派

■ 明治期に、明治新政府の首脳として、 薩摩、長州など藩閥

  の対立調和に努(つと)める。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 72115。

 

 

■ 三条実美 (さんじょうさねとみ、生没年 1837〜1891年)

  幕は、 末・明治期の公卿(くぎょう、公家)、政治家である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 三条実美は、 幕末、  尊皇(王)攘夷派・急進派の公家であ

  り、 のち、 尊皇(王)討幕派 となる。

■ 三条実美は、 1862年(文久2年)に、勅使の一人として、  

  江戸へ向い、 将軍上洛、 攘夷決行を求めた。

■ 三条実美は、 1863年(文久3年)の八月十八日の政変で

  朝廷を追われ、 長州へ逃れた(7卿落ち)。 その後、朝廷

  に復帰し、1867年12月の王政復古の明治新政府(近代日

  本政府) では、議定となる。 

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 三条実美 は、 明治期には、  明治新政府(近代日本政府)

  の首脳となり、 右大臣や太政大臣(太政官制で)となり、 内

  大臣(内閣制で)を務(つと)め、 岩倉具視と共に、薩摩 、長

  州など藩閥の対立調和に努(つと)めた。

 

 

♪♪ 三条実美 が登場する興味深い、ドラマ、映

    画、ドキュメンタリー。

 

★ 三条実美 が登場する興味深い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 歴史のドラマ、

   映画 は、 史実(歴史上の事実) と 架空の出来事 が 

   混じって描かれています。 また、 現代風にアレンジしてあ

   ります。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 。

   (日本の2010年NHK大河ドラマ)。

● 三条実美(さんじょうさねとみ)を演じた俳優 : 

   池内 万作 (いけうち まんさく)。

 

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#zaibatukaitai

 

■ 財閥解体 

      ( ざいばつかいたい)。

 

■ 財閥解体。 

■ 時期 : 1945年〜1947年。 

■ 名称 : 財閥解体 (ざいばつかいたい)。

■ 財閥解体は、1945年〜47年に、日本で、敗戦後、占領軍により

 行われた、経済民主化政策の基本的措置の1つ。

■ 財閥解体の結果、 財閥の持ち株会社及び財閥家族の持ち株は

 処分され、 財閥の大企業は、解体された。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

□ マッカーサー将軍 画像 NO.1

 

 

■ 財閥解体 (ざいばつかいたい) は、1945年から1947年まで、

 日本で、 敗戦後、占領軍により行われた、経済民主化政策の基本

 的措置の1つ である。

 

■ 財閥解体の結果、 財閥の持ち株会社及び財閥家族の持ち株 

 は、 処分され、 日本の財閥の大企業は、解体された。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 占領軍による、経済民主化政策に関しては、 当日本史辞典の

 『 連合 国軍日本占領、  農地改革(のうちかいかく) 』 も参照

 して下さい。

 

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#satomishi

 

■ 里見氏 

     (さとみし)。

 

■ 里見氏。

■ 名称 : 里見氏 (さとみし)。

■ 存在時期 : 平安時代から江戸時代初期

  まで。

■ 武家、 室町期・安土桃山期・江戸初期に

  房総地方を領した大名(家)。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 家系は、源 義重(みなもとのよししげ、新

  田義重) を祖とする新田家の庶宗家。

■ フィクションの物語 「南総里見八犬伝」の

  モデルになった大名家。

 

 

■ 安房里見氏 は、 フィクションの物語 「南

  総里見八犬伝」のモデルになった大名家で

  ある。

● フィクションの物語、滝沢馬琴の「南総里見

  八犬伝」 は、 この安房・里見(あわ・さとみ)

  氏の初期を舞台に、 安房・里見氏の家臣達

  が活躍する物語 である。

     「南総里見八犬伝」(なんそうさとみはっ

  けんでん)は、 江戸時代後期に、 滝沢

  琴(たきざわばきん)が著作した読本(よみほ

  ん)である。 南総里見八犬伝は、 1814〜

  1841年に刊行され、 98巻106冊の物語

  である。

     南総里見八犬伝は、 千葉県南部、房

  総半島南部を室町時代に領した、安房・里見

  氏が、里見氏の家臣となった8人の豪傑(ご

  うけつ)である8犬士の奮闘 で、 安房国(あ

  わのくに、千葉県南部)を再興し、繁栄させる

  物語である。

     滝沢馬琴が、晩年に精力を注(そそ)い

  だ長編小説で、 武士道精神を高調し、 勧善

  懲悪(かんぜんちょうあく)を鼓吹(こすい)す

  る物語で、 日本の通俗文学の代表作の1つ

  である。    

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 里見氏 (さとみし)は、 武家で、 室町期・

  安土桃山期・江戸初期に、 房総地方を領し

  た大名(家) である。

     里見氏(さとみし)は、 家系は、源義重

  (みなもとのよししげ、新田義重) を祖とす

  る新田家の庶宗家で、 平安時代から江戸

  時代まで存在し、 その一族は、室町時代に

  は、房総地方を領した戦国大名となる。

 

■ 里見氏は、 新田義重(= 源義重)の庶長子

  の新田義俊(里見太郎) を初代とし、 別名

  「大新田」氏ともいう。

     里見の名は、 新田義俊(里見太郎)が、 

  上野国(こうずけのくに)碓氷郡里見郷 (現

  在の群馬県高崎市里見) に移り、その名を

  苗字としたことに発する。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ その後 、室町時代に、 新田義俊(里見太

  郎)の子孫の、里見義実が、 安房国(あわ

  のくに、千葉県南部)に移って、土地の領主

  の安西氏を追放して、 安房の領主となった。

  これが、 安房・里見氏の祖とされている。  

● だが、 安房里見氏の初代・里見義実、 二

  代・里見成義を、 架空の人物とする説もあ

  る。 安房里見氏の出自(しゅつじ)は、 不

  明な点も残っている。

● 安房里見氏 は、 里見義実から里見忠義

  まで9代続き、栄えた。

 

■ 1614年(慶長19年)に、 安房里見家の

  宗家の里見忠義 が、 舅(しゅうと)である

  大久保忠隣失脚に連座して、 安房を没収

  され、伯耆(ほうき)倉吉3万石に転封となっ

  た (実際は配流(はいる)と同じ扱いであっ

  た)。  そして、1622年(元和8年)に、里

  見忠義が病死すると、 跡継ぎがいないと

  して、改易(かいえき)された。 ここに、安房

  里見氏 は、消滅する。

    安房里見家の宗家の、里見忠義は、 跡

  継ぎがいないという理由で、江戸幕府により

  改易されたが、 実際には、 里見忠義には

  側室夫人に3人の男子がいたと言われてお

  り、 その男子の一人である里見利輝の子孫

  は、他家に仕えた (越前鯖江(さばえ)藩・

  間部氏に仕えた)。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

★ 安房・里見氏 を描いた、面白く、

  興味深い、ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事 が 混じって描かれていま

  す。 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 里見八犬伝 (さとみはっけんでん) 』 

   (2006年TBSテレビドラマ)。 

■ 室町時代後期(戦国時代)の関東の時代状況

  を描いたドラマ。

■ 古河公方(こがくぼう)と関東管領との対立も

  描く。

■ 室町時代後期(戦国時代)の関東地方の状況

  がとてもよく描かれていて、必見の価値あり。

 

● 綾瀬はるか、仲間、菅野をはじめ多数の美人

  女優が出演し、滝沢など有名な男優多数

  演している戦国時代ドラマ。

 

● 当時の関東の2大軍事勢力の 古河公方(こ

  がくぼう) と、 関東管領(かんとうかんれい)

  ・扇谷上杉氏(おうぎがやつうえすぎし) と

  が対立する中で、 小国の安房(あわ、千葉県

  南部)の里見氏(さとみし)が、 生き残りをか

  けて戦う。

● ドラマの物語では、 結城(ゆうき)合戦の名

  将・里見氏が、 安房(あわ、千葉県南部、房

  総半島南部)の民にこわれて、 安房を占領・

  支配した時、 安房の悪政の前領主と夫人を

  殺害した。 前領主夫人は、それを恨(うら)み、

  悪霊(あくりょう)となり、 里見氏の長女の姫

  に、 呪(のろ)いをかけた8匹の犬の子をは

  らませる。 しかし、 里見氏長女の姫は、

  産前に、 そのことを知り、自害する。 姫が

  自害したとき、 8匹の犬の子は、逆に、悪霊

  に敵対する正義の子となり、  姫の腹から出

  て、 8つの玉となり、 天空に昇り、関東の各

  地に、 正義の剣士を求めて、 散っていった。

    その後、 関東各地に散った8つの玉 は、

  それぞれの主(あるじ)を見つけ、 その剣士に

  宿り、 八人の剣士が、 悪霊、古河公方(こが

  くぼう)、扇谷上杉氏(おおぎがやつうえすぎし)

  から、 安房の里見氏を守り、 安房 の里見氏

  と安房の民を繁栄に導く。

 

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#sassasukesaburo

 

■ 佐々 介三郎 

       (さっさ すけさぶろう)

 (= 助さん すけさん) (佐々木助三郎) 。

 

■ 佐々 介三郎。

■ 生没年 1640年(寛永17年)〜1698年(元禄11年)。

■ 名称 : 佐々 介三郎 (さっさ すけさぶろう)。 

● 別名 : 佐々 宗淳 (さっさ むねあつ)。

● フィクションの物語「水戸黄門」では 助さん(すけさん、佐々木助

 三郎)。

■ 江戸時代初期に活躍した儒学者。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 徳川光圀(水戸黄門)の助手で、大日本史の編集協力者。

■ 物語「水戸黄門」に登場する助さん(すけさん、佐々木助三郎)

 のモデル。

■ フィクションの世界では、 諸国漫遊の水戸黄門のお供の武士。

● フィクションの水戸黄門のお供役の 助さん(すけさん、佐々木助

 三郎)のモデル。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

□ 佐々 介三郎 (助さん) が登場する、興味

   深い、 関連ドキュメンタリー、ドラマ、映画

 

 

■ 佐々 介三郎 (さっさ すけさぶろう)は、 生没年は 1640年(寛

 永17年)〜1698年(元禄11年)で、 別名は、 佐々 宗淳 (さっさ

 むねあつ) である。

■ 佐々 介三郎は、 フィクションの物語「水戸黄門」では、 助さん(す

 けさん、佐々木助三郎) である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 佐々 介三郎は、 江戸時代初期に活躍した儒学者 であった。

■ 佐々 介三郎は、 徳川光圀(水戸黄門)の助手で、 大日本史の

 編集の協力者 であった。

■ 佐々 介三郎は、 物語「水戸黄門」に登場する助さん(すけさん、

 佐々木助三郎) のモデルである。

■ フィクションの世界では、佐々 介三郎は、 諸国漫遊の水戸黄門

 のお供役の武士の 助さん(すけさん、佐々木助三郎) である。

 

 

■ 徳川光圀(水戸黄門) は、 佐々介三郎 (さっさすけさぶろう、儒

 学者、 ドラマ・映画の「水戸黄門」の助さん(すけさん、佐々木助三

 郎)のモデル)) や 安積覚兵衛 (あさかかくべい、儒学者、 ドラマ

 ・映画の「水戸黄門」の格さん(かくさん、渥美格之進)のモデル)) な

 どの協力を得て、 チームワークで、 大日本史の編纂を行った。

● 諸国漫遊の旅をした(日本中各地を旅した)のは、 助さん(すけさ

 ん、佐々介三郎) のみであり、 一方、 水戸黄門 (徳川光圀) は、

 水戸領内をぶらり散歩する程度であった。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 佐々介三郎 (助さん) や 安積覚兵衛 (格さん) は、 歴史書

 「大日本史」の編集に携わった人物 である。

  佐々介三郎(助さん)が集めた史料を、 安積覚兵衛(格さん)がま

 とめた。 

● 徳川 光圀(水戸黄門)存命中に、 光圀の指示で、 佐々介三郎 

 (さっさすけさぶろう、儒学者、 ドラマ・映画の「水戸黄門」の助さん

 (すけさん、佐々木助三郎)のモデル)) 、 日本中各地を旅し

 「大日本史」編纂の史料を集め、 水戸にいた安積覚兵衛 (あさか

 かくべい、儒学者、 ドラマ・映画の「水戸黄門」の格さん(かくさん、

 渥美格之進)のモデル) 、 水戸で、 佐々介三郎 (助さん)が

 旅先より送ってきたり、持ち帰ったりした、その史料 をまとめた

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

#sassasukesaburoappearingscenes

 

♪♪ 佐々 介三郎 (佐々 宗淳、 助さ

  ん、佐々木助三郎) が登場する、

  面白く、興味深い、ドキュメンタリー、

  ドラマ、映画。

 

★ 佐々 介三郎 (さっさ すけさぶろう、 

  佐々 宗淳 (さっさ むねあつ)、助さ

  ん) が登場する、面白く、興味深い

  ドキュメンタリー。 

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 マニアの殿

  の大偉業・水戸黄門‘‘大日本史’’

  奮闘記 』 

  (NHK2009年5月放映ドキュメンタリー)。

 

★ フィクションの物語 「水戸黄門(水

  戸光圀、徳川光圀)の諸国漫遊記」 

  の 助さん (すけさん、 佐々木助三

  郎、佐々 介三郎) が 登場する、

  面白く、興味深い関連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実)

  と 架空の出来事が混じって描かれています。 

  また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 水戸黄門 』 

   (TBSテレビ・連続テレビドラマ)。

 

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#sabakuha

 

■ 佐幕派 

     (さばくは)。

 

■ 佐幕派。

■ 名称 : 佐幕派 (さばくは)。 

■ 幕末に、 江戸幕府と協力して日本を統治しようとする政治運動を行う

 者(人)。

■ 佐幕運動 (幕末に、幕府と協力して日本統治をしようとする政治運動)

 を行う者(人)。

■ 勤王(皇)派、 倒幕派 と対立した。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 佐幕派の人物の例 : 会津藩主の松平容保 (まつだいら かたもり、藩

 主1852〜68年、京都守護職1862〜67年)、 桑名藩主の松平 定敬

 (さだあき、藩主1859〜68年、京都所司代1864〜67年、松平容保の

 実弟)、 新撰組(1863〜69年)の  近藤勇 (こんどういさみ)、 土方歳

 三 (ひじかたとしぞう)。

 

 

■ 佐幕派 は、 幕末に、江戸幕府と協力して日本を統治しようとする政治

 運動を行った人(者) である。

 

■ 佐幕派 は、 佐幕運動 (幕末の、幕府と協力して日本を統治しようと

 する政治運動) を行った人(者) である。 佐幕派の人物には、 会津藩

  主の松平容保 (まつだいら かたもり、藩主1852〜68年)、桑名藩主の

  松平 定敬 (さだあき、藩主1859〜68年)、 新選組 (しんせんぐみ、

 1863〜69年)の近藤 勇 (こんどう いさみ)、 土方歳三 (ひじかたとし

  ぞう) などがいる。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 幕末(江戸時代末期)に、 佐幕派 と 倒幕派  が、 日本国内で、激

 しく対立した。 倒幕派の多くの人(者)は、 尊王思想を掲(かか)げて、倒

 幕運動 を行い、 尊王倒幕派とも呼ばれた。 

 

 

♪♪ 佐幕派 が登場する興味深い、ドラマ、映

    画、ドキュメンタリー。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 歴史の

  ドラマ、映画 は、 史実(歴史上の事実) と 架空の

  出来事 が 混じって描かれています。 また、 現代

  風にアレンジしてあります。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 。 

   (NHKテレビ・2010年大河ドラマ)。

 

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#sankosakusen

 

■ 三光作戦  

     (さんこうさくせん)  (大掃討作戦)

  

■ 三光作戦。

■ 時期 : 1940年〜1945年に、 中国の華北で。

■ 名称 : 三光作戦 (さんこうさくせん)。 

 別名 : 大掃討作戦(だいそうとうさくせん)。

■ 三光 とは、「殺す」、「焼く」、「奪う」 という意味である。

■ 日中戦争太平洋戦争中の、中国の華北での、旧日本軍の対中国人

 ゲリラ壊滅作戦。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 現代中国人の反日感情の1つとなっている、 中国人が震えあがる、

 日中戦争中の、華北での旧日本軍の日本人兵士の中国人民間人への殺

 りく、暴行、略奪等 の残虐行為を行った作戦 。

■ 昭和戦前期の旧日本軍の詳細については、 「 旧日本軍の実態 ガイド

 (要覧) 」 を参照して下さい。

 

 

■ ゲリラ壊滅作戦では、 敵のゲリラ兵(女性、子供、老人も戦う)と一般

 民間人(非戦闘員)との区別がつかず、 ゲリラ掃討作戦の兵士は、 困

 難を極(きわ)め、 泥沼(どろぬま)の戦い となる。 戦時国際法が守ら

 れないことが多い。

● ベトナム戦争(1965〜75年)でも、 アメリカ軍の対ベトナム人(ベトコ

 ン)ゲリラ壊滅作戦で、 アメリカ兵によるベトナム人民間人への残虐行為

 を行った例がある。 敵のゲリラ兵と一般民間人との区別がつかず、民間

 人の服装をした女性兵士、子供兵士、老人兵士もいて、 作戦が困難を極

 (きわ)めた。  一般民間人(非戦闘員)への残虐行為を行ったことが 確

 実に判明した米兵は、 米軍軍法会議で有罪となっている。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 三光作戦 (さんこうさくせん) とは、1940〜45年に、 中国の華北で

 行われた、旧日本軍の 「大掃討作戦」(だいそうとうさくせん) である。

■ 三光作戦  は、 日中戦争、太平洋戦争中の、中国の華北での、旧日

 本軍の中国人ゲリラ壊滅作戦 である。

■ 三光 とは、「殺す」、「焼く」、「奪う」 という意味である。 殺光、焼光、

 搶光 (殺し尽(つく)す、焼き尽くす、奪い尽くす) という意味である。

■ 三光作戦  は、 現代中国人の反日感情の1つとなっていて、中国人が

 震えあがる、日中戦争中の、華北での旧日本軍の日本人兵士の中国人民

 間人への殺りく、暴行、 略奪等 の残虐行為を行った作戦 である。

 

◆ 現代中国人が震(ふる)えあがる 「三光作戦」 (大掃

 討作戦)。

■ 旧日本軍 は、 「大掃討作戦」中、 華北のゲリラ根拠地の村や町 を

 次々と襲い、 中国人ゲリラとは無関係の中国人民間人への大規模な殺

 りく、暴行、略奪、強姦 等を行った。 

● 旧日本軍 は、 華北のゲリラ根拠地(主に共産党軍の根拠地)の村や

 町を次々と襲い、 ゲリラ兵と一般民間人との見分けがつかないため、日

 本人兵士 は、 ゲリラ兵と疑わしい中国人民間人を、見つけ次第(しだ

 い)殺害または暴行したり、 ゲリラの拠点と疑われる家々を焼き払い、同 

 時に、 無関係の多くの民間人の家々の金品、食物、家財等を奪(うば)

 ったり、 無関係の多くの民間人中国人女性を強姦したりした。 日本軍

 幹部の命令で、 多くの一般の日本人兵士が、  「殺す」、「焼く」、「奪う」 

 等の残虐行為を繰り返す、 三光作戦を行った。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 旧日本軍 は、 広大な中国の大地で、 補給物資が少ない中で戦い、

 主に、点(都市)と線(鉄道)を占領したに過ぎず、 どこの村や町から、中

 国兵 (国民党軍と共産党人民軍の両方) が襲(おそ)ってくるかわから 

 ず、 旧日本軍の一般の日本人兵士 は、敵兵がいつどこから襲ってくる

 かわからない緊張した状況の中で、 勇気をもって、 ゲリラ掃討作戦であ

 る、三光作戦を遂行した。 

● 旧日本軍の幹部 は 物資補給を軽視し、 一般の日本兵は、食糧、物

 品などの補給物資が十分確保できないまま戦い、 「現地調達」(略奪)を

 余儀(よぎ)なくさせられた。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 日中戦争中の日本人兵士の中国人民間人への残虐行為を忘れないた

 めに、 現代中国では、 「三光作戦」(大掃討作戦)のことが、 学校で教

 えられており、 「三光作戦」 は、中国では、 老若男女(ろうにゃくだんじ

 ょ)を問わず、誰でも知っていて、有名である。

 

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 『 あなたのハートには 

    何が残りましたか? 』。

 

 

以  上。