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◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY 

   HANDBOOK

 

 

 カナヤマ 日本歴史辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 は 』。

 

 

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メ ニュー (目次)。  

■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

□ 日本史 辞典 (総合)      

□    ● 五十音順 (あいうえお順)。

□ 見出し語 はか

□ 見出し語 はた

□ 見出し語 はな

□ 見出し語 はん

 

 

〇 ぱあ  パークス

             《人名》。

                     (= イギリス公使パークス)。

          (1828年〜1885年)。

             ○ パークスは、

                     幕末、明治 時代前期のイギ

          リス在日公使 (公使在任:

          1865〜83年)である。       

             ■ パークス (1828年〜1885年)

             は、 イギリス公使パークスであり、 

             幕末、明治時代前期のイギリス在日

             公使 (公使在任:1865 年〜1883

             年)である。

 

〇 はい  俳諧。

             (はいかい)。 《詩歌》。

          (= 俳諧連歌)。

                ○ 俳諧は、

          和歌、連歌から派生した

          詩歌である。

                 和歌⇒連歌⇒俳諧⇒

          俳句。

          (⇒ 詩歌和歌)。

             ■ 俳諧(はいかい)とは、 俳諧連

              歌であり、和歌、連歌から派生し

              た詩歌である。

             ■ 日本の詩歌(しか)は、 和歌(わ

              か)から連歌(れんが)へ、 連歌か

              ら俳諧(はいかい、= 俳諧連歌)へ、 

              俳諧から俳句(はいく)へと派生して

              いった。

 

〇 はい  配給制。

             (はいきゅうせい)。 

             《生活物資配布制度》。

          (⇒ 太平洋戦争)。

          (⇒ 連合国軍日本

        占領)。

                   ■ 配給制 (はいきゅうせい)は、 

             日本政府の生活物資配布制度であり、 

             戦時中、終戦・直後期、食品・日常生

             活品が不足したため、日本政府は、

             個人ごとに、食品・日常生活品を割り

             当て制にして、配布した制度である。

                   ■ 戦時中、終戦・直後期に、日本政

             府の監視・統制を逃れた、配給制以外

             の食品・日常生活品は、 闇(やみ)の

             物品となり、取締りの対象になった。 

             配給品 で満足できない人は、闇の物

             品を手に入れた。

 

〇 はい  俳句。

             (はいく)。 《詩歌》。

          ○ 俳句は、 和歌、連歌、

           俳諧(= 俳諧連歌)から

           派生した詩歌である。

                 和歌⇒連歌⇒俳諧⇒

            俳句。

           (⇒ 詩歌和歌)。

             ■ 俳句 (はいく)とは、 和歌、連

              歌、俳諧(= 俳諧連歌)から派生し

              た詩歌である。

             ■ 日本の詩歌(しか)は、 和歌(わ

              か)から連歌(れんが)へ、 連歌か

              ら俳諧(はいかい、= 俳諧連歌)へ、 

              俳諧から俳句(はいく)へと派生して

              いった。

 

〇 はい  廃藩置県

             (はいはんちけん)。 《政策》。

             (1871年(明治4年)7月

           14日)。

          (⇒ 西郷隆盛)。

          (⇒ 近代日本政府)。

          (⇒ 府県制)。

           ○ 日本近代化の基盤構築

           は、 西郷隆盛の一言で

           決まった!

             ■ 廃藩置県は、 明治新政府(近代

             日本政府)が 富国強兵の中央集権国

             家をめざし、財源と軍事力を得るため

             に行った改革である。

             ■ 廃藩置県は、 明治新政府(近代

             日本政府)が日本の江戸時代の

             制(はんたいせい)廃絶のために行っ

             た改革 である。

             ■ 廃藩置県は、 日本の封建制を

             廃止する主要な政策である。

             ● 廃藩置県は、 1871年(明治4

             年)7月14日の廃藩クーデターであ

             り、 日本全国の藩が持つ財源と軍

             事力を藩から奪い、明治新政府(近

             代日本政府)に移す政策である。 

             ● 廃藩置県は、 1871年(明治4

             年)の7月9日の、木戸邸会議(きど

             ていかいぎ、= 廃藩置県・木戸邸密

             談)で最終決定され、 同年7月14

             日に、実施された。

             ■ 日本近代化の基盤構築は、「西郷

             隆盛の一言」で決まった!

                木戸邸会議 (きどていかいぎ、

             = 廃藩置県・木戸邸密談)とは、 18

             71年(明治4年)7月9日に、西郷隆

             盛、大久保利道、木戸孝允、大山 巌

             (おおやまいわお)、井上馨(いのうえ

             かおる)、山縣有朋(やまがたありと

             も)、西郷従道(さいごうじゅうどう)

             の7名の明 治新政府(近代日本政

             府)の 指導者が東京の木戸邸に集

             まり、廃藩置県を決定した密談会議

             である。

                1869年(明治2年)の版籍奉

             還後、廃藩置県案は、旧薩長藩出身

             の指導者の間で密かに進められ、 

             1871年(明治4年)7月9日の木戸

             会議(= 廃藩置県・木戸邸密談)で、

             西郷隆盛は、 封建制を廃止する

             藩置県に対する予想される 抵抗は

             私が一身に引き受ける (反乱、暴動

             は、私が叩き潰す)」という発言をし、

             廃藩置県は、最終決定された。

             ■ そして、1871年(明治4年)7月

                        14日に、 明治新政府(近代日本政

                         府)は、在東京の 知藩事(旧藩主)

              を、皇居に集めて、廃藩置県を命

              じた。 ここに、日本の近代化の扉

                      (とびら)が開かれた。 

                               知藩事(旧藩主)への事前通告

             は、全くなかった。

             ■ 1871年(明治4年)7月の廃藩

                置県の結果、藩制は、府県制に変

             わり、当時の日本の261藩は、3府

             302県となり、その後、1871年(明

             治4年)11月に、 3府72県に再編さ

             れる。

              廃藩置県後、 近代日本政府

             (明治政府)は、 廃藩置県を土台に

             して、富国強兵を行い、 政府の財

             源を得る「地租改正」 や 政府の

             軍事力を得る「国民皆兵制」を行い、 

             財源と軍事力を得て、 日本は、強力

             な中央主権国家に生まれ変わった。

 

〇 はい  廃藩置県・木戸邸密談。

             (はいはんちけん・きどていみつだん)。

          (= 木戸邸会議)。 《会議》。

          (= 廃藩置県を決定した木戸邸

          密談会議)。

          (1871年(明治4年)7月9日)。

          ○ 日本近代化の基盤構築は、

          西郷隆盛の一言で決まった!

          (⇒ 木戸邸会議)。

          (⇒ 廃藩置県)。

          (⇒ 西郷隆盛)。

        (⇒ 近代日本政府)。

             ■ 廃藩置県は、 1871年(明治4年)

             の7月9日の、木戸邸会議 (きどてい

             かいぎ= 廃藩置県・木戸邸密談)で最

             終決定され、 同年7月14日に、実施

             された。

             ■ 弱肉強食の世界の中で、当時、欧

             米列強から弱小国の日本を植民地化

             させないためにも、 廃藩置県は、日

             本を中央集権化し、明治新政府(近代

             日本政府)が日本全国から租税と兵を

             集め、独自の財源と軍事力をもち、富

             国強兵を推進する基盤となる政策であ

             った。

                また、廃藩置県は、 日本の封建

             制度を廃止する主要な政策である。 

                将来武士の困窮が予想される

             藩置県ではあるが、 西郷隆盛は、当

             時、中央集権化していない、明治新政

             府(近代日本政府)が財源や軍事力で

             弱体で倒れかねない状況の中で、廃藩

             置県に賛成する。

             ■ 廃藩置県は、 1871年(明治4年)

             7月14日の廃藩クーデターであり、 

             日本全国の藩が持つ財源と軍事力を

             藩から奪い、明治新政府( 近代日本政

             府)に移す政策である。 

              ■ 木戸邸会議 (きどていかいぎ、= 廃

             藩置県・木戸邸密談)とは、 1871年

             (明治4年)7月9日に、 西郷隆盛  (さ

             いごうたかもり)、 大久保利道 (おおく

             ぼとしみち)、 木戸孝允 (きどたかよし)、

             大山 巌(おおやまいわお)、 井上馨(い

             のうえかおる)、 山縣有朋(やまがたあ

             りとも)、 西郷従道(さいごうじゅうどう)

             の7名の明治新政府( 近代日本政府)

             の指導者が東京の木戸邸に集まり、廃

             藩置県を決定した密談会議である。

                1869年(明治2年)の版籍奉還後、

             廃藩置県案は、 旧薩長藩出身の指導

             者の間で密かに進められ、 1871年

             (明治4年)7月9日の木戸邸会議(= 廃

             藩置県・木戸邸密談)で、西郷隆盛は、

             廃藩置県に対する予想される抵抗は

             私が一身に引き受ける (反乱、暴動は、

             私が叩き潰す)」という発言をし、廃藩置

             県が、最終決定される。

             ■ そして、1871年(明治4年)7月14

                         日に、 明治新政府( 近代日本政府)は、

                         在東京の知藩事(旧藩主)を、皇居に集

              めて、勅命(ちょくめい、天皇の命令)と

              いう形式で、廃藩置県を命じた。ここに、

             日本の近代化の扉(と びら)が開かれ

             た。 

                                 知藩事(旧藩主)への事前通告

             は、全くなかった。 

             ■ 明治新政府(近代日本政府) の知

             藩事(旧藩主)の反乱等の予想に反し

             て、 廃藩置県を通告され解任された、

             日本全国の知藩事(旧藩主)の抵抗は、

             少なかった。

 

〇 はい  廃仏毀釈。 

             (はいぶつきしゃく)。 《神仏分離》。

             ○ 明治時代初期の仏教抑圧・

          破壊運動。

             ■ 廃仏毀釈とは、明治時代初期の廃仏

             運動 であり、 明治時代初期の仏教抑圧・

             破壊運動である。

             ● 1868年(明治元年)に明治新政府

             (近代日本政府)が出した神仏判然(分離)

             令は、仏教の否定は意味していなかった

             が、 神仏判然(分離)令をきっかけに、

             明治時代初期に、日本各地で、廃仏運動

             が激化し、全国的に寺院、仏像、仏具など

             の焼却、破壊、寺領の没収などが続出した。

 

〇 はい  拝領妻子の慣習

             (はいりょうさいしのかんしゅう)。

                   《封建制・一夫多妻制下の

           慣習》。

                           (= 下賜妻子の慣習)。

          (⇒ 封建制度)。

             ■ 拝領妻子の慣習 (はいりょうさい

             しのかんしゅう)は、 前近代日本の、

             封建制(生死を共にする主従関係)、

             家父長制、身分制、一夫多妻制の社会

             での慣習である。

 

〇 はい  拝領夫人 

             (はいりょうふじん)。 

                   《封建制・一夫多妻制下の

           慣習》。

          (⇒ 封建制度)。

             ■ 拝領夫人 (はいりょうふじん)は、 

             前近代日本の、封建制(生死を共にす

             る主従関係)、家父長制、身分制、

             一夫多妻制の社会での慣習である。

 

〇 ばい  梅嶺院。

             (ばいれいいん)。 《人名》。

          (= 富子、上杉富子(うえすぎと

              みこ))。

          (1643年〜1704年)。

        (⇒ 上杉富子)。

        (⇒ 元禄赤穂事件)。

           ■ 梅嶺院 (ばいれいいん、= 富子、

             上杉富子(うえすぎ とみこ) 、1643

             年〜1704年) は、 吉良上野介(義

             央)の正室夫人である。

 

#haka

 

〇 ばく   爆死自害

             (ばくしじがい)。 《自害》。

             (= 自爆)。  

             ○ 爆死自害とは、

          火薬類などの爆薬で自害す る

           ことである。

          (⇒ 自爆(じばく))。

          (⇒ 自害(じがい))。

          (⇒ 自刃(じじん))。

             ■ 自爆 (じばく)とは、 日本の歴史

             において、 火薬類を用いて自害(じ

             がい、自殺)することである。 多くの

             尊い命(いのち)が失われた。

             ■ 自害 (じがい、= 自殺には、

             日本の歴史において、自刃(じじん)、

             自爆(じばく)などがある。 多くの尊い

             命(いのち)が失われた。

 

〇 はく   伯爵。

           (はくしゃく)。 《旧社会身分》。

        (⇒ 華族)。 

             ■ 伯爵 (はくしゃく)は、 近代日本

             (明治、大正、昭和戦前時代)の、社会

             的身分の貴族である華族(かぞく)で

             あり、 華族の公・侯・伯・子・男爵(こ

             う・こう・はく・し・だん・しゃく)の3番目

             の地位・身分である。

 

〇 はく   伯州

             (はくしゅう)。 《旧地域名》。

          (旧国(= 令制国))。

          (= 伯耆 ( ほうき のくに))。

          (≒ 概ね、現・鳥取県西部

          の相当地域)。

           HAKUSHU AREA.

          (前近代日本の、 旧国

          (= 令制国)の別称)。

                   (⇒ 伯耆 (ほうき のくに))。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

          ■ 伯州(= 伯耆 国)。

             <山陰道・旧広域地方。

             <五畿七道(ごきしちどう、日本本土)。

          (⇒ 山陰道・旧広域地方)。

                   (⇒ 五畿七道)。

                           伯州 (はくしゅう、= 伯耆 国(ほう

             きのくに))は、 現・中国地方の、 概

              ね、現在の鳥取県西部に相当する地

             域であり、  山陰道(さんいんどう)・

                旧広域地方に属し、 前近代日本の、

             旧国(= 令制国)である。

           (⇒ 鳥取県中国地方)。

                  (⇒ 都道府県)。

              ■ 伯州 (はくしゅう)は、  律令制定

             後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             旧国(令制国)の正式名の、伯耆  

             (ほうき のくに) の別称である。

 

〇 ばく   幕臣。

             (ばくしん)。  《家臣》。

          (= 幕府の家臣)。

                    (⇒ 江戸幕府)。 

             ■ 幕臣(ばくしん)とは、 幕府の

              家臣である。

                 江戸幕府の場合、幕臣(ばく

             しん)とは、江戸幕府の家臣である。 

             幕臣は、江戸幕府(徳川宗家)の家

             臣(直臣)である。

 

〇 ばく   幕政

             (ばくせい)。 《幕府》。

          (= 幕府の政治)。

        (⇒ 幕府江戸幕府

             ■ 幕政(ばくせい)とは、 幕府の

              政治である。

                 江戸幕府の場合、幕政(ばく

             せい)とは、江戸幕府の政治である。

 

 はく   白雉 。 

             (はくち、びゃくち)。  《和暦》。

             THE HAKUCHI ERA.

             THE BYAKUCHI ERA.

             ○ 650年ー654年。

             ● 650年・白雉元年・ 2月15日〜

                654年・白雉 5年・10月10日)。 

             ● 飛鳥白鳳時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

            日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

             ■ 白雉 (はくち、びゃくち 、英:The 

             Hakuchi Era) とは、 和暦であり、 

             飛鳥白鳳時代中期の和暦年号であり、 

             650年(白雉元年)2月15日から

             654年(白雉 5年)10月10日まで 

             の期間である。 

 

 ばく   幕藩体制

             (ばくはんたいせい)。

          《政治体制》。

          ○ 幕藩体制は、

           江戸時代に、江戸幕府と藩

          (将軍と大名)が、土地と人

          民を統治する政治体制であ

          る。 

             ■ 幕藩体制 (ばくはんたいせい)

             とは、江戸時代に、江戸幕府(= 徳川

              幕府)と藩(将軍と大名)が、土地と人

             民を統治する政治体制である。 

 

〇 ばく   幕府

             (ばくふ)。 《政治組織》。

          (= 武士(武家)の政治組織)。

          (⇒ 鎌倉幕府室町幕府

             江戸幕府)。

           □ 鎌倉幕府の詳細な内容に

          関しては、「鎌倉幕府 関連年代

           順出来事を参照してください。

           □ 室町幕府の詳細について

          は、「室町幕府関連 年代順

          出来事」を参照してください。

           □ 江戸幕府の詳細に関して

           は、「江戸幕府関連 年代順

          出来事」 を参照してください。

          ○ 幕府は、朝廷より征夷大

           将軍に任じられる形態をとり

           樹立された武家政権である。

                   ○ 幕府には、鎌倉幕府、室

          町幕府、江戸幕府がある。

             ■ 幕府 (ばくふ、12世紀ー19世紀)

              とは、朝廷より征夷大将軍に任じられ

              る形態をとり樹立された武家政権であ

             る。

             ■ 幕府は、 武家(武士)の政治組織

             であり、武家政権である。 

             ■ 幕府 (ばくふ)には、 鎌倉幕府、

             室町幕府、江戸幕府 がある。

             ■ 鎌倉幕府 (かまくらばくふ、119

             2年ー1333年)は、河内源氏の源頼

             朝が鎌倉に開いた(樹立した)武家政

             権である。 

              ■ 室町幕府 (むろまちばくふ、= 足

              利幕府、1338年ー1573年)は、足利

             氏の足利尊氏が京都に開いた(樹立し

             た)武家政権である。 

              ■ 江戸幕府 (えどばくふ、= 徳川幕

              府、1603年ー1867年)とは、 徳川

             氏の徳川家康が 江戸に開いた(樹立し

             た)武家政権である。 

 

 はく    白鳳時代。 

             (はくほうじだい)。 

          《日本の時代区分》。

           672年 ー710年)。

           飛鳥白鳳時代)。 

          ( 大和時代)。

          ( 古代日本) 。

          (⇒ 日本歴史の時代区分)。

                        ■ 白鳳時代 (はくほうじだい)は、

              672年から710年までの時期で

              ある。

 

〇 はく   白鳳文化。

             (はくほうぶんか)。 《日本の文化》。

           飛鳥・白鳳文化)。 

 

〇 ばく   

             (ばくまつ)。 《日本の時代区分》。

          (総合)。

          (1853年ー1868年)。

          ○ 幕末= 江戸時代末期。

          ( 江戸時代

                    ( 近世日本) 。

                    (⇒ 日本歴史の時代区分)。

 

〇 ばく   幕末・詳細年表 

             (ばくまつ・しょ うさいねんぴょう)。

                     《日本の時代年表》。

             (⇒ 日本史年表) 。

 

〇 ばく   幕末日本政治・政争

        変遷一覧表

             (ばくまつにほんせいじ・せいそう

             へんせんいちらんひょう)。

                     《政争変遷》。

 

〇 ばく   幕末の江戸剣術道場

                   (ばくまつのえどけんじゅつどうじょう)。

             《剣術道場》。

 

〇 ばく   末の志士

             (ばくまつのしし)。 《政治集団》。

 

〇 ばく   幕末のジャンヌダルク

             (ばくまつのじゃんぬだるく)。 《人名》。

          (= 山本八重(新島八重))。

       (⇒ 新島八重

 

〇 ばく   幕命

             (ばくめい)。 《幕府》。

          (= 幕府の命令)。

        (⇒ 幕府江戸幕府

             ■ 幕命(ばくめい)とは、 幕府の命令

             である。

                江戸幕府の場合、幕命(ばくめい)

             とは、江戸幕府の命令である。

 

〇 はこ  函館戦争。

              (はこだてせんそう)。 《戦い》。

           (= 五稜郭 ごりょうかくの戦い)。

          (⇒ 戊辰戦争)。

             ■ 函館戦争 (はこだてせんそう、

             (= 五稜郭 ごりょうかくの戦い))

             は、 1868年(慶応4年)1月から

             1869年(明治2年)まで、北海道

             の箱館(旧名、現・函館)付近で、

             徳川方と新政府方が戦った戦争

             である。

             ■ 函館戦争は、 戊辰(ぼしん)戦

             争(1868年〜1869年)の戦いの

             一つで、 最後の戦いである。

 

〇 はし  羽柴石松丸秀勝 

            (はしばいしまつまるひでかつ)。

          《人名》。 

          (豊臣秀吉の子)。

           (生年不詳ー15 76年)。

          HASHIBA Ishimatsumaru 

          Hedekatsu.

           ○ 羽柴石松丸秀勝は、

          豊臣秀吉の実子の長男で

          あり、早世する。

              ■ 羽柴石松丸秀勝 (はしばいしま

                           つまるひでかつ、生年不詳ー1576年、

             英:HASHIBA  Ishimatsumaru 

             Hedekatsu)は、 

             豊臣秀吉の実子であり、 豊臣秀吉の

            実子の長男であり、早世する。

             ● 豊臣秀吉の実子の男子には、 

             @ 南殿(みなみどの)との間に、 羽柴石 

            松丸秀勝 (はしばいしまつまるひでかつ、

            生年不詳(1572年または1574年の説あ

            り)ー1576年、早世、秀吉の長浜城主時代

            の子、長男、「竹生島奉加帳」より)、 

            A 淀殿(よどどの、茶々)との間に、 豊臣

            鶴松 (とよとみつるまつ、別名:棄(すて)、

            1589年ー1591年、早世、次男) と、 

            豊臣秀頼 (とよとみひでより、1593年ー

            1615年、幼名:拾丸(ひろいまる)、三男)、

            がいた。

 

〇 はし   羽柴 小一郎。

             (はしば こいちろう)。 《人名》。

          (= 豊臣秀長、羽柴長秀)。

              (⇒ 豊臣 秀長)。

 

〇 はし   羽柴 長秀。

             (はしば ながひで)。 《人名》。

          (= 豊臣秀長、羽柴小一郎)。

              (⇒ 豊臣 秀長)。

 

〇 はし   羽柴 秀勝。

             (はしば ひでかつ)。 《人名》。

          (= 豊臣秀勝)。

              (⇒ 豊臣 秀勝)。

 

〇 はし   羽柴 秀次。

             (はしば ひでつぐ)。 《人名》。

          (= 豊臣秀次)。

              (⇒ 豊臣 秀次)。

 

〇 はし   羽柴 秀吉。

             (はしば ひでよし)。 《人名》。

          (= 豊臣秀吉、木下藤吉郎

           秀吉、木下藤吉郎)。

              (⇒ 豊臣 秀吉)。

           □ 豊臣秀吉 関連年代順

                       出来事

 

〇 はせ   長谷川 等伯。

             (はせがわ とうはく)。 《人名》。

              (⇒ 絵師 えし)。

 

〇 はせ  長谷川 平蔵

             (はせがわ へいぞう)。 《人名》。

          ○ 江戸時代に実在した、火付

           盗賊改方(ひつけとうぞくあらためか

          た)の 長官。

 

〇 はせ  支倉 常長 

             (はせくら つねなが)。 《 人名》。

             (1571年ー1622年)。

             ○ 伊達政宗の家臣。

             ○ 伊達政宗の遣欧使節(16

          13年ー20年)のリーダー。

          (⇒ 伊達 政宗)。

#hata

 

〇 はた  畠山氏。

                           ( はたけやま し)。 《武家》。

             (14世紀〜16世紀)。

                         THE HATAKEYAMA CLAN.

          ○ 武家の畠山氏。

          ○ 畠山氏は、

          足利氏の支族である。

          ○ 畠山管領家とは、

          室町幕府の管領 職に就任

          した、室町時代の畠山氏本

          家(宗家)である。

             ■ 武家の畠山氏 (しばし、14世

             紀〜16世紀)は、足利氏の支族で

             ある。

             ■ 畠山管領家 (はたけやまかん

             れいけ)とは、 室町幕府(= 足利幕

             府)の管領職に就任 した、室町時

             代の畠山氏本家(宗家) である。

 

〇 はた  畠山 政長。 

             (はたけやま まさなが)。 《 人名》。

          (1442年〜1493年)。

          (⇒ 応仁の乱)。

             ■ 畠山 政長 (はたけやま まさな

             が)は、 畠山持国の子(養子)であ

             る。

             ■ 畠山 政長は、 河内国(かわち

             のくに、現・大阪府東部の相当地域)

             の武将、守護大名である。 

             ■ 畠山 政長 と 室町幕府。

               畠山 政長は、 室町幕府(= 足利

             幕府)・管領となり、 (1) 第8代将

             軍の足利義政(よしまさ、将軍在任:

             1449〜1473年)、 (2) 第9

             代将軍の足利義尚(よしひさ、義熙

             将軍在任:1473年〜1489年)、 

             (3) 第10代将軍・第1次政権

             足利義稙(よしたね、義材、義尹、将

             軍在任:1490年〜1493年) を補

             佐した。

             ■ 畠山 政長は、 畠山 義就と畠

             山氏の家督を争う。 

               これが、応仁の乱の一因となる。

 

〇 はた  畠山 義就。 

             (はたけやま よしなり)。 《 人名》。

          (生年不詳〜1490年)。

          (⇒ 応仁の乱)。

             ■ 畠山 義就 (はたけやま よしな

             り)は、畠山持国の子(実子)である。

             ■ 畠山 義就は、 河内国(かわち

             のくに、現・大阪府東部の相当地域)

             の武将、守護大名である。 

             ■ 畠山 義就は、 畠山 政長と畠

             山氏の家督を争う。 

               これが、応仁の乱の一因となる。

 

〇 はた  旗本

             (はたもと)。 《武士の身分》。

                     ○ 旗本は、

          江戸幕府の武士の身分

          である。

          ○ 旗本は、

          江戸幕府の将軍直属の

          家臣で、1万石未満で将

             軍に謁見(えっけん)できる

          者である 。

 

〇 はち  八位

             (はちい)。 《位階》。

          (⇒ 位階叙位)。

          the 8th Court Rank of 

          the Imperial Court.

             ■ 近・現代日本の、職員令

          (20位階)、叙位条例(16位

          階)、位階令(16位階)の位

          階。

             <1869年頃〜現在、使用>。

             ● 正八位 (しょうはちい)。

             ● 従八位 (じゅはちい)。

           (⇒ 位階令の位階)。

           (⇒ 叙位条例の位階)。

          (⇒ 職員令の位階)。

          (⇒ 近・現代日本政府の位階)。

             (1) 八位 (はちい)は、 近・現代日本の、

                      職員令(20位階)、叙位条例(16位階)、

             位階令(16位階)で、 正八位 (しょうは

             ちい) と 従八位 (じゅはちい) の2つ

             の位階として、 1869年頃から現在まで

             使用されている。

          ■ 前近代日本の、朝廷の律令

          官制の位階(30位階)。

             <701年頃〜1869年頃、使用>

             ● 正八位上 (しょうはちいのじょう)。

             ● 正八位下 (しょうはちいのげ)。

             ● 従八位上 (じゅはちいのじょう)。

             ● 従八位下 (じゅはちいのげ)。

          (⇒ 朝廷の律令官制の位階)。

             (2) 八位 (はちい)は、 前近代日本の、

             朝廷の律令官制の位階(30位階)で 、

             正八位上 (しょうはちいのじょう)、 正八

             位下 (しょうはちいのげ)、 従八位上 

             (じゅはちいのじょう)、 従八位下 

             (じゅはちいのげ) の4つの位階と して、 

             701年頃 から1869年頃まで使用された。

 

〇 はち  八月十八日の政変

             (はちがつじゅうはちにちのせいへん)。

          (1863年の事件)。 《 事件》。

 

〇 はち  蜂須賀小六

             (はちすかころく)。 《人名》。

            (= 蜂須賀正勝)。

          (1526年ー1586年)。

          ○ 豊臣秀吉の側近。

          ○ 黒田官兵衛(孝高)の盟友。

 

〇 はち  八幡太郎義家。

              (はちまんたろうよしいえ)。 《 人名》。

          (= 源義家(みなもとのよしいえ))。 

          ○ 源頼朝、源義経の祖先。

        (⇒ 河内源氏、 

             奥州藤原氏)。

 

〇 はつ  初。

             (はつ)。 《 人名》。

          (= お初 (おはつ)) 。

               (⇒ お初)。

          ○ 浅井三姉妹の一人。

 

〇 はつ  白骨街道。

             (はっこつかいどう)。 《太平洋戦争》。

               (⇒ インパール作戦)。

          ○ 白骨街道とは、

          旧日本軍の、太平洋戦争中

          のインパール作戦(1944年

          3月ー7月)でのビルマ(現ミ

          ャンマー)とインド東部間との

          間の通路である。

                     ○ 白骨街道は、

          旧日本軍幹部が、食糧・弾

          薬等の物資補給を無視して

          進軍させ、 旧日本軍

          本人一般隊員(兵士 ・軍属)

          の、死者・約3万人(餓死・

          病死・戦死者)、傷病者・約

          4万人を出し、日本人一般

                   隊員を無駄死にさせて、

          日本人一般 隊員死体だ

          らけとなった、インパール作

          戦の通路である。

              ■ インパール作戦は、  太平洋戦争時

             に、旧日本軍幹部が行った無謀な作戦 の

             1つである。

             ■ 白骨街道 (はっこつかいどう)とは、 

             旧日本軍の、太平洋戦争中 のインパール

             作戦 (1944年3 〜7月) でのビルマ

             (ミャンマー)とインド東部間との間の通路

             である。

             ■ 白骨街道 は、 旧日本軍幹部が、食

             糧・弾薬等の物資補給を無視して進軍さ

             せ、 旧日本軍の日本人一般隊員(兵士 ・

             軍属)の、死者・約3万人(餓死・病死・

             死者)、傷病者・約4万人を出し、日本人

             一般隊員を無駄死にさせて、日本人一般

             隊員死体だらけとなった、インパール作

             戦の通路である。

 

〇 はっ   八州廻り。

             (はっしゅうまわり)。 《役職》。

          (= 関東取締出役)。

                (⇒ 関東取締出役)。

 

〇 はっ   8世紀。

             (はっせいき)。 《世紀》。

          (= 701年〜800年)。

        (⇒ 世紀・西暦年 号

           対照一覧表)。

        (⇒ 世紀)。

 

〇 はっ  服部半蔵

             (はっとりはんぞう)。 《人名》。

          (戦国時代〜江戸時代)。

             ○ 代々「半蔵」を通称の名乗り

                     とした服部半蔵家の歴代の当主

          達。

 

〇 はっ  服部半蔵 正成  

             (はっとりはんぞう  まさなり・ まさしげ)。

             《人名》。

             ○ 2代目服部半蔵。

             ○ 戦国、安土桃山時代の戦

          国武将。  鬼半蔵と呼ばれる。

             ○ 徳川家の忍者の統率者。

 

〇 はつ  初音

             (はつね) 。 《人名》。

          (仮称、架空の人物、忍者、真田

          幸村の妹)。 

          (天地人(NHK大河ドラマ)の登場人

          物)。

          (⇒ 真田幸村)。

 

〇 はつ  初姫。 

             (はつひめ)。 《人名》。

             (= 江戸幕府・第2代将軍・徳川

          秀忠の四女)。

          ○ 秀忠とお江との間の娘。

             (⇒ お江(おごう)徳川秀忠

 

〇 ばて  バテレン追放令。

             (ばてれんついほうれい)。 《 追放令》。

       (⇒ キリスト教)。

             ■ バテレン追放令は、1587年に、豊臣秀

             吉が発した法令である。 

             ■ バテレン追放令は、 既存のキリスト教・

             カトリック教徒の信仰の自由を認めたが、キ

             リスト教の布教を禁じ、宣教師を追放する法

             令であった。 しかし、貿易を奨励していたの

             で、実際には、宣教師は追放されなかった。

 

#hana

 

〇 はな  花の御所

             (はなのごしょ) 。 (= 室町御所、

           室町殿、室町第

                     《足利将軍家の邸宅、政庁》。

          《室町幕府(= 足利幕府)》。

           (1378年ー1559年)。

           ( 室町御所)。 

           ( 足利将軍家邸)。 

          (⇒ 三条坊門邸)。

          (⇒ 小川御所)。

          (⇒ 足利二条城二条城)。

          ( 足利将軍家室町幕府)。

                        ■ 花の御所 (はなのごしょ、= 室町

             御所(むろまちごしょ)、室町殿(むろ

             まちどの)、室町第(むろまちてい))

              は、 室町幕府(= 足利幕府)の、足

             利将軍家の邸宅、政庁の1つである。

                         ■ 室町幕府(= 足利幕府)の、足利

             将軍家の邸宅、政庁である足利将軍

             家邸には、  室町御所(むろまちごし

             ょ、= 花の御所、室町殿、室町第)、 

             三条坊門邸(= 三条坊門殿(さんじょ

             うぼうもんどの))、 小川御所(おが

             わのごしょ、= 小川殿(おがわどの))、

             足利二条城(あしかがにじょうじょう)

             などがある。                   

                        ■ 「花の御所」 (室町御所、室町殿、

             室町第)は、、1378年(永和4年)から

             1559年まで、 室町幕府(= 足利

             幕府)の第3代将軍・足利義満 (あしか

             がよしみつ)から室町幕府・第13代将

             軍の足利義輝(あしかがよしてる)まで、

             室町幕府(= 足利幕府)の多くの将軍

             の邸宅、政庁となった。 

                         ■ 花の御所 (はなのごしょ1378年

             1559年)は、  室町殿(むろまちどの)、

              室町 第(むろまちてい)、室町御所 (む

              ろまちごしょ)とも呼ばれ、 1381年

              (永徳元年)に、 室町幕府・第3代将

              軍の足利義満(あしかがよしみつ)が京

              (都)北小路室町東に造営した、足利将

              軍家の邸宅、政庁である。

              ■ 花の御所は、 室町小路(現・室町

              通)に面して正門が設けられたことか

              ら、室町殿、室町第、室町御所と呼ばれ

              た。

                 そして、足利幕府の足利将軍家の

              邸宅、政庁が花の御所(室町御所、室

              町殿、室町第)にあったことから、足利

              幕府を室町幕府という名称でも呼ぶよ

              うになり、 また、足利幕府の将軍や足

              将軍家を室町殿ともよ呼ぶようにな

              る。

              ■ 「花の御所」(室町御所、室町殿、

              室町第)は、1476年(文明8年)に応

              仁の乱の戦火で焼失した。 しかし、

              その後も、何度か小規模なものの再

              建が繰り返えされた。 そして、「花の

              御所」(室町御所、室町殿、室町第)

              は、 室町幕府・第13代将軍の足利

              義輝(あしかがよしてる)が、1559年

              に、別の場所に、二条御所を造営し、

              移転したため、廃止となった。

             ■ 「花の御所」 (室町御所、室町殿、

             室町第)の跡地は、現在の京都市上京

             区(かみぎょうく)にあり、京都御所のあ

             る京都御苑(きょうとぎょえん)の北西

             にあり、 烏丸今出川(からすまいまで

             がわ)交差点の北西方向に位置し、 

             東側・烏丸通 (からすまどおり)、南側・

             今出川通(いまで がわどおり、旧・北小

             路)、西側・室町通(むろまちどお り)、

             北側・上立売通(かみだち うりどおり)

             に囲まれた、東西約110m、南北約

             220mの地域である。

 

〇 はな  華姫。

             (はなひめ) (仮称、実名不詳) 。 

          《人名》。

                     (「天地人」(NHK大河ドラマ)での名称 )。

           (= 清円院 、華渓院)。

           ○ 上杉景勝の姉妹。

           (⇒ 清円院

 

 ばぶ  バブル経済の崩壊。 

             (ばぶるけいざいのほうかい)。

             《戦後日本経済》。

          (1991年頃)。 

 

 はま  浜北人。

             (はまきたじん)。 《旧石器人》。

          (⇒ 浜北人 (古人類学辞典))。

          (⇒ 旧石器人山下洞人

             港川人)。

 

〇 はや  林 通勝 

             (はやし みちかつ)。  《人名》。

             (= 林 秀貞 (はやし ひでさだ))。

             (生年不詳ー1580年?)。

             ○ 織田氏の重臣。

           (⇒ 織田信長)。

             ■ 林 通勝 (はやし みちかつ、= 林 秀貞

             (はやし ひでさだ)、生年不詳ー1580年?)

             は、織田氏の重臣である。 

             ● 林 通勝(= 林 秀貞)は、 織田氏重臣

              の佐久間信盛(さくまのぶもり)の追放と

              同様に、 織田信長の1580年代の人事・

              領地変革で、1580年(天正8年)8月に、

                            織田氏(織田軍団)より追放される。

             ● 1580年代の信長の人事・領地変革

              は、明智光秀の謀反(むほん)に影響を与

                       える。

 

〇 はり   ハリー・パークス。

                      《人名》。

               (= パークス、イギリス公使パ ー

          クス)。

          (⇒ パークス

 

 はり   播磨 国。 

             (はりま のくに)。 《旧地域名》。

             = 播州(ばんしゅう))。 

          (≒ 現・兵庫県本土南部の相当

          地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国名(令制

           国)の正式名)。

                   (⇒ 前近代日本の地域名)。

          ■ 播磨 国。

             <山陽道 (広域地方)。

             ■ 播磨 国 (はりま のくに)は、 律令制

             定後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             旧国名(令制国)の正式名である

             ■ 播州 (ばんしゅう)は、 律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、旧国

             名(令制国)正式名の、播磨 国 ( はりま

             のくに)の別称である。

             ■ 播磨 国(= 播州)は、 現・ 近畿地方

             の、現在の 兵庫県南部 に相当する地域

             である。

             ■ 播磨 国(= 播州)は、 五畿七道 (ご

             きしちどう)の山陽道(さんようどう)・旧広

                           域地方に属する。

 

#han

 

 はん  藩。

             (はん)。  《大名の領国、領地》。

          (= 藩主の領国)。

                ■ 藩とは、 藩主の領国であり、 藩主 

             (= 江戸時代の大名、江戸幕府の将軍と

             主従関係を結ん だ大名) が治める領地 

             である。         

    

 ばん  万国対峙。

              (ばんこくたいじ)。 《政治目標》。

                           ○ 万国対峙は、

           明治維新の目標の1つで

           ある。

        (⇒ 明治維新)。

             ■ 万国対峙 (ばんこくたいじ)は、 

             明治維新の目標の1つであった。

             ■ 万国対峙 (ばんこくたいじ) とは、 

             日本を世界各国と対等にわたりあえる 国

             (近代国家)にすることである。

                また、万国対峙とは、欧米列強に 対

             抗するため、日本を生まれ変わらせるこ と

             である。

 

 はん  藩士。

          (はんし)。  《大名の家臣》。

          (= 藩主の家臣)。

                    (⇒ 藩と藩主)。

             ■ 藩士 (はんし) とは、 藩主の家臣あり、

             江戸時代の大名(= 藩)の家臣である。

 

 はん  藩主。

             (はんしゅ)。 《大名》。

                     (= 江戸幕府の将軍の臣下の

          大名)。

          (⇒ 藩と藩主)。

                     ○ 江戸幕府の将軍と主従関

          係を結んだ大名。

             ■ 藩主 (はんしゅ)とは、 江戸幕府の

             将軍の臣下の大名であり、 江戸幕府の

             将軍と主従関係を結んだ大名 である。

 

○ ばん  播州

             (ばんしゅう)。 《旧地域名》。

          (= 播磨 (はりまのくに))。

          (≒ 現・兵庫県本土南部の相当

          地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国(令制国)

           の別称)。

          BANSHU AREA.

                    (⇒ 播磨 国)。    

                    (⇒ 前近代日本の

                 地域名)。

                          ■ 播州 (ばんしゅう= 播磨国(はりまの

             くに))は、山陽道(さんようどう)・旧広域

             地方に属し、 現・近畿地方の、現在の、

             兵庫県本土南部に相当する地域 である。

             ■ 播州 (ばんしゅう)は、 律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、旧国

             名(令制国)正式名の、播磨 国 (はりま

             の 別称である。

 

 はん  藩邸

             (はんてい)。 《建物》。

             (= 藩(大名)の江戸での邸宅)。

             ○ 江戸時代の、各藩(藩主)(大

          名)の、江戸での邸宅。

          ○ 公邸の上屋敷、 私邸の中屋

          敷、下屋敷 があった。

                           ● 藩邸 (はんてい) とは、 江戸時代の、

             各藩(藩主)(大名)の、江戸での邸宅 であ

             る。

                           ● 江戸時代の、大名(藩)の江戸での邸宅

             である藩邸には、 公邸の上屋敷、 私邸の

             中屋敷、下屋敷 があった。

 

○ ばん  坂東。 

             (ばんどう)。 《旧地域名》。

          ( 関東地方)。

        (⇒ 前近代日本の地域名)。

 

 はん  藩と藩主

                        (はんとはんしゅ)。 《江戸時代》。

          (= 江戸幕府の将軍の臣下

          の大名とその当主)。 

                ■ 藩とは、 藩主の領国であり、 藩主 

             (= 江戸時代の大名、江戸幕府の将軍と主

             従関係を結ん だ大名) が治める領地 で

             ある。              

                ● 藩主とは、 江戸時代の大名であり、

             江戸幕府の将軍と主従関係を結ん だ大名

             である。

 

 ばん  番町皿屋敷のお菊

              (ばんちょうさらやしきのおきく)。

             《武家の侍女》。

             ○ 架空の江戸時代 の怪談の、

          江戸の武家奉公女性。 

          ○ 戦国時代の播州の武家の

          侍女。 

 

〇 はん  半時。

             (はんとき)。 《時刻》。

           (= 約1時間)。

       (⇒ 前近代日本の時刻・

                  時法)。

          ● 一時 (いっときひととき、約2時

           間) の約半分。

          ● 前近代日本で使われた、1日

          12等分制の時間区分

 

〇  はん  藩閥政治。 

                           (はんばつせいじ)。  《政治形態》。

        (⇒ 近代日本政府)。

             ● 藩閥政治 (はんばつせいじ) とは、

              明治時代、大正時代前期に、政界の指導

             部、官界の上級職の多くを薩長土肥(現在の

             鹿児島県、山口県、高知県、佐賀県の相当

             地域)出身者で占め行った政治である。

 

〇  はん  半兵衛。 

                           (はんべい)。  《人名》。

          (= 竹中半兵衛、竹中重治(しげ

             はる))。

          (⇒ 竹中半兵衛)。

 

 

 

   ● 五十音順 (あいうえお順)。

 

 

   ■  『 現在は、過去の成果であり、

       未来は、現在の成果である。 

         (過去の良き積み重ねが良き現在を

          つくり、 現在の良き行為が、明るい

          良き未来をつくる。)

         (良き現在は、過去の人々の良き努力

          や活動の積み重ねの成果であり、 

          明るい良き未来は、現在の人々の、

          良き努力や活動の積み重ねによって

          形成される。)

 

 

 

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#jpdictionary(general)

 

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#ha

 

◆ 派生見出し語サイト。

■ 「は」 基本・見出し語WEBサイト No. ja−ha  

  の、派生見出し語サイト。

 

 No.ja−ha−0870。

● 見出し語項目 ば   ( く 07 / ま 70

  付近  第1部・く・マ行総合グループ )。

〇 ばく    (ばくまつ )(総合)。

〇 ばく   幕末・ 詳細年表 

             (ばくまつ・かんりゃくねんぴょう) 。

〇 ばく   幕末の志士 (ばくまつのしし)

〇 ばく   幕末の江戸剣術道場

             (ばくまつ のえどけんじゅつどうじょう)。

 

■ No.ja−ha−1830。

● 見出し語項目 は   ( っ 18 / と 30

  付近  第1部・つ・総合グループ )。

〇 はっ  服部半蔵 (はっとりはんぞう) 。 

          (代々「半蔵」を通称の名乗り

          とした服部半蔵家の歴代の当

          主達) (戦国時代〜江戸時代)。

〇 はっ  服部半蔵正成 (はっとりは

             んぞう まさなり・まさしげ) (2代目

             服部半蔵、戦国、安土桃山時

                     代の戦国武将)。

 

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#theestablishmentofprefectures

 

■ 廃藩置県 

     (はいはんちけん)。

 

■ 廃藩置県。 

■ 名称 : 廃藩置県 (はいはんちけん)。

● 英名: The Establishment of 

       Prefectual System.

■ 時期 : 1871年(明治4年)7月14日。 

■ 廃藩置県は、 明治新政府(近代日本政府

  が  富国強兵の中央集権国家をめざし、財

  源と軍事力を得るために行った改革である。

■ 廃藩置県は、 明治新政府(近代日本政府

  が日本の江戸時代の体制(はんたいせい)

  廃絶のために行った改革である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11638。

 

□ 封建制度の廃止

□ 廃藩置県が登場する、興味深い、

   ドキュメンタリー、ドラマ、映画

 

 

■ 日本近代化の基盤構築は、

  西郷隆盛の一言で決まった!

 

■ 廃藩置県は、 1871年(明治4年)

   7月14日の廃藩クーデターであり、 

   日本全国の藩が持つ財源と軍事力を

   藩から奪い、明治新政府( 近代日本政

   府)に移す政策である。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 廃藩置県は、 1871年(明治4年)の7月

  9日の、木戸邸会議 (きどていかいぎ=

  廃藩置県・木戸邸密談)で最終決定され、 

  同年7月14日に、実施された。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 弱肉強食の世界の中で、当時、欧米列

  強から弱小国の日本を植民地化させな

  いためにも、 廃藩置県は、日本を中

  央集権化し、明治新政府(近代日本政

  府)が日本全国から租税と兵を集め、

  独自の財源と軍事力をもち、富国強兵

  を推進する基盤となる政策であった。

     また、廃藩置県は、 日本の封建

  制度を廃止する主要な政策である。 

      将来武士の困窮が予想される

  藩置県ではあるが、 西郷隆盛は、当

  時、中央集権化していない、明治新政

  府(近代日本政府)が財源や軍事力で

  弱体で倒れかねない状況の中で、廃藩

  置県に賛成する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 木戸邸会議 (きどていかいぎ、= 廃

   藩置県・木戸邸密談)とは、 1871年

   (明治4年)7月9日に、 西郷隆盛 (さ

   いごうたかもり)、 大久保利道(おおく

   ぼとしみち)、 木戸孝允(きどたかよし)、

   大山 巌(おおやまいわお)、 井上馨(い

   のうえかおる)、 山縣有朋(やまがたあ

   りとも)、 西郷従道(さいごうじゅうどう)

   の7名の明治新政府( 近代日本政府)

   の指導者が東京の木戸邸に集まり、廃

   藩置県を決定した密談会議である。

      1869年(明治2年)の版籍奉還後、

   廃藩置県案は、 旧薩長藩出身の指導

   者の間で密かに進められ、 1871年

   (明治4年)7月9日の木戸邸会議(= 廃

   藩置県・木戸邸密談)で、西郷隆盛は、

   廃藩置県に対する予想される抵抗は

   私が一身に引き受ける (反乱、暴動は、

   私が叩き潰す)」という発言をし、廃藩置

   県は、最終決定された。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ そして、1871年(明治4年)7月14

   日に、 明治新政府( 近代日本政府)は、

   在東京の知藩事(旧藩主)を、皇居に集

  めて、勅命(ちょくめい、天皇の命令)と

  いう形式で、廃藩置県を命じた。ここに、

  日本の近代化の扉(と びら)が開かれた。

          知藩事(旧藩主)への事前通告は、

  全くなかった。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 明治新政府(近代日本政府) の知藩事

  (旧藩主)の反乱等の予想に反して、廃

  藩置県を通告され解任された、日本全国

  の知藩事(旧藩主)の抵抗は、少なかっ

  た。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 廃藩置県 <明治維新のハイライト>。

■ 廃藩置県は、 明治新政府(近代日本政府)が  

  富国強兵の中央集権国家をめざし、財源と軍事

  力を得るために行った改革である。

■ 廃藩置県は、 明治新政府(近代日本政府)が 

  日本の江戸時代の体制(はんたいせい)廃絶

  のために行った改革である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 廃藩置県は、 日本の封建制を廃止する主要

   な政策である。

● 廃藩置県は、 1871年(明治4年)7月14日の

   廃藩クーデターであり、 日本全国の藩が持つ

   財源(徴税権)と兵力(軍事力)を藩から奪い取

  り、明治新政府(近代日本政府)に移す政策で

  あった。 

● 廃藩置県は、 1871年(明治4年)の7月9日

  の、木戸邸会議 (きどていかいぎ= 廃藩置県・

  木戸邸密談)で最終決定され、同年7月14日に、

  実施された。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 廃藩置県前の新政府。

■ 廃藩置県前の明治新政府(近代日本政府)。

■ 1871年(明治4年)の時点で、 明治新政

  府(近代日本政府)は、 経済力と軍事力が

  弱く、独自の財源と兵力が乏しく、日本全国

  から租税と兵を集める権限をもっておらず、

  倒れる可能性もあり、 明治新政府(近代日

  本政府)の官僚は、危機感を持っていた。

     1871年(明治4年)の時点で、明治

  政府(近代日本政府)の税収は、1868年

  (慶応4年、明治元年)以後、降伏し召しあ

  げた旧徳川幕府・徳川氏領と敗戦藩領の

  領地からの税収しかなく、また、新政府の

  軍は、薩長土肥等の藩の寄せ集めの兵で

  しかなかった。

     明治新政府(近代日本政府)は、なるべ

  く早く廃藩を行い、日本を中央集権化し、地

  租改正と徴兵制で日本全国から租税と兵を

  集め、強力な独自の財源と兵力をもち、富

  国強兵を推進する必要があった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 廃藩置県の準備。

■ 明治新政府(近代日本政府)は、 最初に、

  版籍奉還(はんせきほうかん)を行い、次に、

  廃藩置県を行うという2段階で、日本の中央

  集権化を計画し、日本全国から租税と兵を集

  めようとした。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 版籍奉還 (はんせきほうかん)。

     明治新政府(近代日本政府)は、1869年

  (明治2年)に、 勅命(天皇の命令)という形

  式で、 日本全国の藩主を、天皇が任命する、

  知藩事とし、公家と同等の「華族」とした。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 廃藩置県の反乱対策。

■ 明治新政府(近代日本政府)は、 1871年

  (明治4年)2月に、  廃藩置県に伴う武士の

  反乱に備え、  鹿児島藩、山口藩、高知藩(旧

  薩摩 藩、旧長州藩、 旧土佐藩の3藩から御

  親兵(ごしんぺい)を徴集した。 御親兵、そ

  の中でも特に、西郷隆盛率いる強力な歩兵・

  砲兵隊が全国に睨(にら)みをきかせ、 廃藩

  置県に伴う武士の反乱を抑え、 1871年(明

  治4年)7月に、廃藩置県の改革を実行した。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 廃藩置県の密談。

   ■ 日本近代化の基盤構築は、「西郷隆盛の

     一言」で決まった!!

 

   ■ 木戸邸会議 (きどていかいぎ、= 廃藩

   置県・木戸邸密談)とは、 1871年(明治4

   年)7月9日に、 西郷隆盛、大久保利道、木

   戸孝允、大山 巌(おおやまいわお)、井上馨

   (いのうえかおる)、山縣有朋(やまがたありと

   も)、西郷従道(さいごうじゅうどう)の7名の

   治新政府近代日本政府の指導者が東京

   の木戸邸に集まり、廃藩置県を決定した密談

   会議である。

      1869年(明治2年)の版籍奉還後、廃藩

   置県案は、旧薩長藩出身の指導者の間で密

   かに進められ、 1871年(明治4年)7月9日

   の木戸邸会議(= 廃藩置県・木戸邸密談)で、

   西郷隆盛は、封建制を廃止する、廃藩置県に

   対する予想される抵抗は、私が一身に引き 

   受ける(反乱、暴動は、私が叩き潰す)」という

   発言をし、廃藩置県は、最終決定された。  

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 廃藩置県の通告。

■ そして、 1871年(明治4年)7月14日に、

   明治新政府近代日本政府は、  勅命(天

  皇の命令)という形式で、 在東京の知藩事

  (旧藩主、藩知事)を、皇居に集めて、知藩

  事を解任し、廃藩置県を命じた。 

     ここに、日本の近代化の扉(と びら)が

  開かれた。 

              知藩事(旧藩主)への事前通告は、全

  くなかった。 

      明治新政府(近代日本政府)の予想に

   反し、知藩事(旧藩主)の抵抗は少なかった。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 知藩事(旧藩主)に通告した廃藩置県の内容

  の概要は、次のようなものであった。

     藩の借金はそのまま、明治新政府(近代

  日本政府)が肩代わりし引き受け、 藩主や藩

  士の秩禄は、明治新政府(近代日本政府)が

  引き続き支払い、 藩はなくなり、県がおかれ、

  藩主に代わり中央政府から送られた県令(県

  知事)・府知事が各府・県を統治し、 藩主と

  藩士の関係を断ち切るため知藩事(旧藩主)

  は、公家と同等の華族として、東京居住を命じ

  られ(命令され)、 藩主と藩士の主従関係は

  なくなる というものであった。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 廃藩置県の結果。

■ 1871年(明治4年)7月の廃藩置県の結果、

   藩制は、府県制に変わり、当時の日本の261

  藩は、3府302県となり、 その後、1871年

  (明治4年)11月に、3府72県に再編された。  

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

             

 廃藩置県後、 明治新政府(近代日本政府)は、 

   廃藩置県を土台にして、富国強兵を行い、

   政府の財源を得る「地租改正」 や 政府の

   軍事力を得る「国民皆兵制」を行い、 財源と

   軍事力を得て、日本は、強力な中央主権国家

   に生まれ変わった。  

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 将来の秩禄処分の布石となった廃藩置県。

      廃藩置県は、1876年(明治9年)の秩

   禄処分(ちつろくしょぶん)の布石となった。

       秩禄処分(ちつろくしょぶん)とは、

   1873年(明治6年)から1876年(明治9

   年)までの間、明治新政府(近 代日本政府

   が行った華・士族の給禄の廃止と公債公布

   の措置である。

      1871年(明治4年)の廃藩置県後、 全

   国の旧藩士の秩禄(ちつろく、家禄と賞典禄)

   を、明治新政府(近代日本政府)が肩代わり

   し、支給していた(支払っていた)。

      しかし、明治新政府(近代日本政府)は、

   政府の財政負担を減らすため、全国約200

   万人にのぼるともいわれる旧藩士の武士を、

   大量解雇する必要があった。 

      そして、1876年(明治9年)に、明治

   新政府(近代日本政府)は、旧藩士の武士

   の秩禄処分を行った。 全国の旧藩士の武

   士に支給を停止し、藩士の武士に退職金に

   相当する金禄公債を渡す。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 廃藩置県 <明治維新のハイライト>。

■ 廃藩置県 (はいはんちけん)は、 日本の

  「封建制」を廃止する政策であった。

 

■ 明治4年(1871年)7月に行った、廃藩置県

  は、 廃藩クーデターであり、 日本全国の藩

  が持つ財源と軍事力を、全国の藩から奪い、 

  明治新政府(近代日本政府)に移す政策であっ

  た。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

             

■ 廃藩置県の結果、当時の日本全国の261藩

  は、 3府72県に再編された。

 

■ 廃藩置県後、明治新政府(近代日本政府)は、 

  廃藩置県を土台にして、 政府の財源を得る

  「地租改正」(1873年) や 政府の軍事力を

  得る「徴兵制(国民皆兵制)」(1873年)を行

  い、 財源と軍事力を得て、強力な中央主権国

  家に生まれ変わった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 廃藩置県。

■ 廃藩置県 (はいはんちけん)とは、 1871年

  (明治4年)7月に、明治新政府(近代日本政府

  が、 日本の江戸時代の藩体制(はんたいせい)

  廃絶のために行った改革である。 藩を廃止し、

  府県を置いた。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1869年(明治2年)の版籍奉還(はんせきほう

  かん)後も、 藩体制の実質は存続したので、 

  木戸孝允(きどたかよし、桂小五郎)、 大久保

  利通(おおくぼとしみち)らの主唱で、  261

  を廃して、 府県制を施行した。

    これにより、日本の中央集権の政治体制が、

  成立した。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

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◆ 封建制度の廃止。

 

■ 封建制廃止、日本近代化の基盤

   構築は、「西郷隆盛の一言」で決

   まった!

 

■ 1000年以上も続く日本の封建制度を崩壊

  させ、日本の近代化を導いた、西郷隆盛

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 日本の封建制度を崩壊させ、 日

  本を近代化させた、 1871年(明

  治4年)7月の廃藩置県。

 

● 封建制の地方分権の藩体制から、近代国家

  の中央集権の府県制へ移す、廃藩置県(は

  いはんちけん)。

 

● 「秩禄処分」の布石となった廃藩置県。

    廃藩置県後も、 明治新政府(近代日本政

  府)は、 全国の藩主・藩士の秩禄を保障し、

  支払っていたが、 巨額の財政負担となり、

  1876年(明治9年)には、 全国約200万人

  にのぼるとも言われる藩士を、事実上大量解

  雇する「秩禄処分」を行った。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

● 廃藩置県の実行は、「西郷隆盛の

  一言」で決まった!

 

■ を無くし、幕藩体制の藩(大名)に属して いた

  日本全国のすべての土地、人民を、近代日本国

  家の政府に属させる廃藩置県の実行をめざす

  明治新政府 (近代日本政府)の首脳は、  天と

  地がひっくりかえってしまう、廃藩置県によって、 

  全国の藩主や藩士の抵抗、大反乱、大暴動を非

  常に恐(おそ)れていた。 

     廃藩置県によって、封建制を廃止し日本を

  近代化することができるとわかっていても、 明

  治新政府(近代日本政府)のほとんどの首脳が

  皆ビクビクして、 とても怖くて実行できなかった。

 

  ● まだ、徴兵制は実施されおらず(後の1873

  年3月、徴兵令発布)、 明治新政府近代日本

  政府は、 1871年(明治4年)2月に、鹿児島

  藩、山口藩、高知藩(旧薩摩 藩長州藩土佐

  )の兵を、 御親兵  (ごしんんぺい、1872年

  に近衛兵に改称) として徴集し(約8000人)、 

  明治新政府(近代日本政府)への反乱に備えた。 

    御親兵の中心となった部隊が、当時の西郷

  隆盛の率いる歩兵・砲兵部隊で あり、戊辰戦争

  を勝ち抜き、当時日本でも有数の強力な軍隊

  (精鋭部隊・御親兵約5000人) であった。

 

  ● しかし、1871年(明治4年)6月時点で、

  明治新政府近代日本政府)は、  大久保・西郷

  派と木戸派に分裂し、混乱し、廃藩置県どころ

  か政府の政務は停滞し、新政府分裂の危機に

  至っていた。

      当時、明治時代初期、士族の反乱を抑

   えられる実力者は、明治新政府(近代日本政

   府)では、西郷隆盛しかいなかった。

     廃藩置県を議論する政府の会議は、1871

  年(明治4年)7月9日に、  木戸孝允(きどたか

  よし)、大久保 利通(おおくぼとしみち)、西郷隆

  (せいごうたかもり)、 大山、井上、山縣(やま

  がた)、西郷従道(つぐみち)の7名が、 木戸邸

  で、密かに集まり、行われ、 参加者は西郷隆盛

  を除き、 皆ビクビクして、弱気の重い空気に包

  まれていた。 西郷の発言の番が来て、西郷隆

  盛は、 封建制を廃止する廃藩置県に対する

  「予想される抵抗は、私が一身に引き受ける 

  (反乱、暴動は、私が叩き潰す)」 という発言を

  し、 明治新 政府近代日本政府の首脳は、

  勇気づけられて、廃藩置県の実行を 最終決定

  した。 

      西郷隆盛の言葉は、「この上各藩にて

   異論等起こり候はば、兵力をもって、うち潰し

   ますのほかありませぬ」 であった。

     そして、1871年(明治4年)7月14日に、 

  明治新政府(近代日本政府)は、在東京の知

  藩事(旧藩主)を、 東京の皇居に集めて、勅

  命(ちょくめい、天皇の命令)という形式で、

  廃藩置県を命じた。 ここに、日本の近代化

  扉(とびら)が 開かれた。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 廃藩置県後、 明治新政府 (近代日本政府)は、 

  廃藩置県を土台にして、 富国強兵のための、

  全国の軍事、租税の徴集の権利を手に入れ、 

  政府の財源を得る「地租改正」(1873年) や 

  政府の軍事力を得る「徴兵制(国民皆兵制)」

  (1873年)を行い、 財源と軍事力を得て、日

  本は、強力な中央主権国家に生まれ変わった。

      廃藩置県により、日本は、 当時の弱肉強

  食の世界情勢の中で、 国内外に対する軍事

  力を手に入れ、 国内の財政基盤を持つことが

  でき、 近代国家として、 世界へ羽ばたくことと

  なった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#theestablishmentofprefectures-appearingscenes

 

♪♪ 廃藩置県が登場する、興味深い、

     ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

 廃藩置県が登場する、興味深い、

   ドキュメンタリー。

 

■ 英雄たちの選択 

  『 ‘‘県’’誕生! 奇跡の無血

    革命 〜大久保利通・廃藩

    置県の舞台裏〜 』。  

    (NHKテレビ・2018年11月1日・

     本放送・歴史ドキュメンタリー番組)。

  ■ 版籍奉還、廃藩置県を詳細に述べる。

  ■ 封建制度の崩壊を述べる。

  ■ 明治時代初期、明治維新を述べる。

 

■ BS歴史館 

  『 今いてほしい!? 日本を

    変えたリーダー 西郷隆盛 』。 

   (NHK2012年(H24)4月本放送テレビ・ド

   キュメンタリー番組)。

  ■ 廃藩置県をを述べる。

  ■ 封建制度崩壊を述べる。

 

■ その時歴史が動いた 

  『 さらば殿様〜廃藩置県。

    激動の内幕〜 』 

   (NHK テレビ・2006年(H18)

    3月・本放送ドキュメンタリー

    番組、第246回)。

  ■ 廃藩置県をを述べる。

  ■ 封建制度崩壊を述べる。

  ■ 西郷 隆盛、 大久保 利通(としみち)、 

  木戸 孝允(たかよし)、 島津久光(ひさ

  みつ) などが登場する。

 

■ 英雄たちの選択 

  『 専制か民主か?〜大久保

    利通 近代化への苦闘 』。  

    (NHKテレビ・2015年5月21日・

     本放送・ドキュメンタリー番組)。

  ■ 明治時代初期、明治維新を述べる。

  ■ 大久保利通の後半生の活躍を述べる。

 

 

★ 廃藩置県が登場する、興味深い、

   ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

   歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実)

   と 架空の出来事が、混じって、描かれてい

   ます。 また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 西郷(せご)どん 』。 

   (NHKテレビの2018年(H30年)

   大河ドラマ)。

 ■ 廃藩置県を描く。

 ■ 封建制度崩壊を描く。

 ■ 日本の明治維新、幕末、明治時代初期

   の時代状況やその時代に活躍した人々

   を描く。

 

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#suicideinanexplosion

 

■ 爆死自害 

     (ばくしじがい) 

 

■ 爆死自害。

■ 名称 : 爆死自害 (ばくしじがい)。

● 別名 : 自爆 (じばく)。

● 英語名: Suicide in an explosion.

■ 火薬類などの爆薬で自害すること。

        多くの尊い命(いのち)が失われた。

■ (例) 松永久秀、 細川ガラシア、 お市、  大塩

  平八郎の爆死、 太平洋・日中戦争中の手榴弾

  (てりゅうだん)自爆。

 

 

■ 爆死自害 (ばくしじがい= 自爆)とは、  火薬類

  などの爆薬で自害し死亡することである。 多くの

  尊い命(いのち)が失われた。

 

■ 爆死自害(= 自爆)が多かった時期。

  (1) 室町時代後期(戦国時代)〜江戸時代

   の爆死自害

      前近代日本では、爆死自害(= 自爆)は、 

   火薬類などの爆薬が輸入または製造できる、

   室町時代後期(戦国時代)から江戸時代まで

   行われ、死体消滅のため、死体がさらしもの

   にされることを避けるため(恐れて)、そ

   の理由で、人が、大量の火薬類の爆薬を使

   って爆死自害する(= 自爆する)。

 

  ● 火薬が日本で本格的に使用されるよう

   になった戦国時代(室町時代後期)以後から

   江戸時代まで、大量の黒色火薬を使った爆

   死自害(= 自爆)が発生した。

      戦国時代(室町時代後期)から江戸時代

   まで行われ、死体消 滅のため、大量の爆薬

   を使って、爆死自害する(= 自爆する)。 

     当時、敵や反抗者の死体を見せしめのた

   め公衆の面前にさら す(見せる)慣習があっ

   たため 、死体をさらしものになるのをふせぐ

   ため、爆薬で肉片を散乱させて、死体を消滅

   させる必要があった。 

      実例として、松永久秀、細川ガラ シャ

   、大塩平八郎などの爆死自害がある。

 

 (2) 太平洋・日中戦争中の爆死自害。

      太平洋・日中戦争中に行われ、 捕虜にな

   ることを恥として拒み、手榴弾(てり ゅうだん)

   等を使って戦場で、日本人の兵士 や民間人が

   爆死自害する(= 自爆する)。

 

 

 自害。

■ 自害 (じがい、= 自殺には、 日本の歴史にお

  いて、自刃(じじん)、自爆(じばく)などがある。

  多くの尊い命(いのち)が失われた。

 

■ 自刃 (じじん)とは、 日本の歴史において、

  刀剣を用いて自害(じがい、自殺)することであ

  る。

■ 自爆 (じばく)とは、 日本の歴史において、

  火薬類を用いて自害(じがい、自殺)することで

  ある。

 

 爆死自害 。

(1) 室町時代後期(戦国時代)〜江戸

   時代の爆死自害

 爆死自害(= 自爆)は、 室町時代後期(戦国

  時代)から江戸時代まで時期に、多かった。

    爆死自害(= 自爆)は、 室町時代後期(戦

  国時代)から江戸時代まで行われた、爆薬を

  使っての自害または自害後の死体消滅の方

  法で、 大量の火薬を使い爆発させると肉片が

  散乱し死体が残らないため、 死体を敵に渡さ

  ないために、よく行われた。

    前近代日本では、戦いの勝者は、見せし

  めとして、敗者の敵の死体(の首)をさらす

  慣習があったため、 死体を敵に渡したくな

  い場合には、 家臣が主君の死体を土中に

  埋めたり、 爆死させ、死体が残らないようし

  たりする方法 などがとられた。

 

 爆死の死体消滅の例としては、 松永久秀、

  細川ガラシャ、お市の爆死自害 などがある。

 

■ 松永久秀の爆死自害。

● 松永久秀(まつながひさひで)は、 愛用の茶

  釜とともに、火薬に火をかけて、爆死する(= 自

  爆する)

 

■ 細川ガラシャの爆死自害。

● 細川ガラシャ(ほそかわがらしゃ、= 明智玉) 

  は、家臣の小笠原少斎に自分を刺殺させ、そ

  れから、爆死する。 少斎が、ガラシアの遺体

  が残らぬように、屋敷に仕掛けた火薬に火を 

  かけて、その後、少斎は、自刃(じじん)する。

 

■ お市の爆死自害。

● お市 (おいち、織田信長の妹、お江(おご

  う)の生母)は、 北庄城(きたのしょうじょう)

  で、夫の柴田勝家と共に自害したあとに、 家

  臣が火薬箱に火をかけて、 柴田勝家と共に

  爆死する。

 

■ 大塩平八郎の爆死自害 。

 大塩平八郎は、不正・不公平是正の乱後に、

  江戸幕府の役人に捕まる直前に、大阪で、爆

  死自害する。

 

 

(2) 太平洋・日中戦争中の爆死自害。

 爆死自害(= 自爆)は、 昭和戦前期にも多

  かった。 

     太平洋・日中戦争中、捕虜等を恥とし拒 

  み、手榴弾(てりゅうだん)を使って自害する

  ことがよくあった。

    戦前、軍人勅諭など軍国主義教育では、

  敵の捕虜になることを恥(はじ)と考え、 旧

  日本軍幹部は、 日本人の一般兵士や民間

  人に、敵の捕虜になる前に自害を強要した。 

  そのため、太平洋・日中戦争中戦場で、敵

  の捕虜になりそうな時は、 自害する人が増

  加した。 

 

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#thedaimyo'sresidencesinedo

 

■ 藩邸 

     (はんてい) 

 

■ 藩邸。

■ 名称 : 藩邸 (はんてい)。

■ 《建物》。

■ =藩(大名)の江戸での邸宅。

■ =江戸時代の、各藩(藩主)(大名)の、江戸での

   邸宅。

■ 公邸の上屋敷、 私邸の中屋敷、下屋敷 があっ

  た。

          

 

■ 藩邸。

■ 藩邸 (はんてい) とは、 江戸時代の、各藩(藩

  主)(大名)の、江戸での邸宅 である。

             

■  江戸時代の、大名(藩)の江戸での邸宅である

  藩邸には、 公邸の上屋敷、 私邸の中屋敷、下

  屋敷 があった。

 

■ 上屋敷 (かみやしき) とは、 藩邸の1つで、 

  江戸時代の、で、 江戸時代の、各藩(藩主)(大

  名)の江戸での公邸、本邸、本宅、政務場所 で

  ある。

 

■ 中屋敷 (なかやしき) や 下屋敷 (しもやしき)

  とは、 藩邸の1つで、 江戸時代の、各藩(藩主)

  (大名)の、江戸での私邸、別邸、別宅 である。

 

 

■ 藩邸。

■ 藩邸 (はんてい)は、 江戸時代の、江戸 (東京)

  での各大名(藩主)の邸宅で、 江戸城の周辺に、

  おかれた。 

 

■ 藩邸 には、 上屋敷(かみやしき)、 中屋

  敷(なかやしき)、 下屋敷(しもやしき) な

  どの区別があった。

    上屋敷は、 江戸時代の、江戸での大名

  藩主の本邸、公邸、本宅で、政務を行う政

  務場所である。

    中屋敷は、 江戸時代の、江戸での藩主

  (大名)の別邸、別宅であり、くつろぐ私邸で

  ある。

    下屋敷は、 江戸時代の、江戸での藩主

  (大名)の別邸、別宅であり、くつろぐ私邸で

  ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 江戸時代、江戸幕府による参勤交代制で、

  藩主 (大名将軍の家臣で1万石以上の

  武士、約300藩主)は、 人質として妻子を

  江戸に残し、原則として、江戸で1年間、藩

  の地元で1年間、暮らした。  

    藩邸は、大名(藩主)の江戸での邸宅と

  して、江戸城周辺に建てられ、 人質として

  大名(藩主)の妻子は、藩邸で暮らし、大名

  (藩主)は、江戸にいる間、藩邸で暮らした。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 大名(藩主)は、 藩の威信を示すため、江

  戸の藩邸や地元の藩で、大名庭園を造った。

  

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#hayashimichikatsu

 

■ 林 通勝  

     (はやし みちかつ)

 

■ 林 通勝。

■ 名称 : 林 通勝 (はやし みちかつ)。

■ 別名 : 林 秀貞 (はやし ひでさだ)。

■ 生没年 : 生年不詳〜1580年?。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51912。

 

 

■ 林 通勝 (はやし みちかつ、生年不詳〜15

  80年?) は、 織田氏の 重臣である。

    林 通勝の別名は、林 秀貞 (はやし ひで

  さだ) である。

 

■ 林 通勝(秀貞)は、 織田氏重臣の佐久間信

  の追放と同様に、 織田信長の1580年代

  の人事・領地変革で、 1580年(天正8年)8

  月に、織田氏(織田軍団)より追放される。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 織田信長は、 農民の秀吉のように身分を全く

  問わない超実力主義の家臣登用 と、 家臣の

  使い捨てで、日本最強の軍団をつくり、 一大勢

  力を築く。

■ 織田信長の家臣は、 息をつく暇もなく働き、 

  過去の功績があっても、 現在や未来の成果を

  信長から常に求めらる。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1580年代の織田信長の人事・領地変革は、 

  林 通勝(林 秀貞)や佐久間信盛の追放を生じ

  させ、明智光秀の謀反(むほん)に影響を与え

    る。

     明智光秀の謀反の有力な説の1つとしては、

  織田信長の重臣の1人の明智光秀は、老齢に

  なるが、跡継ぎの男子は大きな成果をあげる実

  力がなく、引退できず、 重臣の林通勝(林秀貞)

  や佐久 間信盛のように、 明智家が信長にリス

  トラされると予期し(使い捨てにされると予期し)、

    今まで築いた領地や家臣団などを奪われるのを

  恐れ、1582年(天正10年)6月に、 謀反(む

  ほん、本能寺の変)を起こし、 京・本能寺で信

  長を殺害する(自害させる)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 

♪♪ 林通勝 が登場する興味深い、

  ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 林通勝 が登場 する、興味深い関

  連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が 混じって描かれていま

  す。 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 信長 KING OF ZIPANGU 』 

   (NHK1992年大河ドラマ)。

■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代の

  時代状況やその時代に活躍した人物を描く。

● 佐久間 信盛を演じた俳優 : 田中 健。

 

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#thefeudalcustombestowingchildrenandwives

 

■ 拝領妻子の慣習 

     (はいりょうさいしのかんしゅう)

 

■ 拝領妻子の慣習。 

■ 名称 : 拝領妻子の慣習 

        (はいりょうさいしのかんしゅう)。

■ 前近代の封建制(生死を共にする主従関係)、

  家父長制、身分制、一夫多妻制の社会での慣

  習。

             

 

 拝領妻子の慣習 (はいりょうさいしのかん

  しゅう)。

  ● 封建制度下の前近代日本の、一夫多妻

  の上層階層での慣習として、拝領妻子の

  慣習 (はいりょうさいしのかんしゅう)がある。

 

  ■ 前近代日本の上層階層では、上層階層

  の者は、一夫多妻制で、 多くの夫人や子供

  をもうける。 上層階層の、主君は、主従(君

  臣)関係を強めるため、家臣(臣下)に、主君

  の夫人(側室夫人)や子(非嫡子)を、下げ渡

  す慣習があった。

 

  ■ 前近代日本では、封建制度下で、主従

  (君臣)関係を強めるため、従者(家臣)が

  主人(主君)の妻子をもらい受ける慣習があ

  った。

 

■ 拝領妻子の慣習 (はいりょうさいしのかんし

  ゅう) は、 前近代日本の、封建制(生死を共

  にする主従関係)、家父長制、身分制、一夫多

  妻制の社会の、上層階層において、 生死を

  共にする君臣関係を強めるため、 主君が、自

  分の夫人または子供を、 家臣に下げ渡す(与

  える)ことである。

 

■ 前近代日本の、封建社会で、主君(主人)と

  家臣(従者)の関係は、 生死を共にするもの

  で、運命共同体であった。 主従関係を強め

  るための方法の1つとして、 主君が、 主君

  側室夫人の子 、または、主君の側室夫人

  (主君が手をつけた女性) などの妻子を、従

  者(家臣)に与える(下げ渡す)慣習があった。 

 

■ 拝領妻子の慣習は、 家臣が主君より主君の

  妻子をもらいうける慣習であり、 前近代の封

  建制、家父長制、身分制の社会の、前近代日

  本の、一夫多妻制の上層階層で の慣習の1つ 

  である。

     その逆の慣習には、 家臣が主君に家臣

  の妻子を献上する、献上妻子の慣習がある。

     

 

■ 前近代日本では、 主従(君臣、主君と従者)

  は、 生死を共にする関係であった。

 

■ 前近代日本で、 封建制(生死を共にする主

  従関係)、家父長制、身分制、一夫多妻制の

  封建制社会で、 生死を共にする主従(君臣)

  関係を強めるため、 家臣(従者)が主君(主

  人)の妻子をもらい受ける慣習があった。

 

■ 拝領妻子の慣習は、 前近代日本の、封建制

  度下で、 生死を共にする主従(君臣)関係を

  強めるため、 家臣(従者)が、 主君(主人)の

  妻子をもらい受ける慣習 である。

 

 

 拝領妻子の慣習 は、 前近代日本の、封建

  制(生死を共にする主従関係)、家父長制、

  身分制の社会の、前近代日本の、一夫多 妻

  の上層階層での慣習であり、 前近代日

  本では、封建制度下で、 主従(君臣)関係を

  強めるため、従者(家臣)が主人(主君)の妻子

  をもらい受ける慣習 があった。

    また、 拝領妻子の慣習 とは、 前近代日

  本で、封建制度下で、主従(君臣)関係を強め

  るため、主君(主人)が、家臣(従者)に、 主君

  (主人)の妻子を下げ渡す慣習 である。

 

 前近代日本では、 封建制度下で、 主従(君

  臣)関係を強めるため、従者(家臣)が主君(主

  人)の妻(側室夫人)、または、子(非嫡子)な

  どの妻子をもらい受ける慣習 があった。

 

 

■ 拝領夫人。

■ 拝領夫人 ( はいりょうふじん)は、前近代日

  本の、封建制(生死を共にする主従関係)、家

  父長制、身分制、一夫多妻制の社会の、上層

  階層において、 生死を共にする君臣関係を

  強めるため、 主君が家臣に下げ渡した(与え

  た)主君の夫人 である。

 

■ 拝領夫人は、 献上夫人と並び、前近代封 建

  制の君主の御落胤(ごらくいん、隠し子)の供

  給源の1つとなっている。

 

■ 拝領夫人

    前近代日本の封建制社会では、 主君から

  拝領した(もらい受けた)側室夫人などの夫人

  が、 (女性の)おなかも大きくなく妊娠初期と

  いう可能性もあり、 家臣がその夫人と婚儀を

  結び(結婚し)、 その後間もなく生まれた子供

  は、 主君の血をひく子供なのか、 家臣の血

  をひく子供なのか、 わからなくなる場合もあっ

  た。 

 

● 実例。

     斎藤道三(利政)の夫人には、  斎藤道三の

  主君の、美濃国守護・土岐頼芸(ときよりなり)か

  ら拝領した(もらいうけた)拝領夫人深 芳野 (み

  よしの、土岐頼芸の側室 夫人斎藤義 龍の生母) 

  がいた。 

 

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#thefeudalbestowedwives

 

■ 拝領夫人  

     (はいりょうふじん)

 

■ 拝領夫人。 

■ 名称 : 拝領夫人 (はいりょうふじん)。

■ 前近代の封建制(生死を共にする主従関係)、

  家父長制、身分制、一夫多妻制の社会での

  慣習。

 

 

■ 拝領夫人 (はいりょうふじん)は、 前近代日

  本の、封建制(生死を共にする主従関係)、家

  父長制、身分制、一夫多妻制の社会の、上層

  階層において、 生死を共にする君臣関係を

  強めるため、 主君が家臣に下げ渡した主君

  の夫人 である。

 

■ 拝領妻子の慣習 (はいりょうさいしのかんし

  ゅう) は、 前近代日本の 、封建制(生死を共

  にする主従関係)、家父長制、身分制、一夫

  多妻制の社会の、上層階層において、 生死

  を共にする君臣関係を強めるため、 主君が、

  自分の夫人または子供を、 家臣に下げ渡す

  (与える)ことである。

 

■ 拝領夫人は、 献上夫人と並び、前近代封 建

  制の君主の御落胤(ごらくいん、隠し子)の供

  給源の1つとなっている。

             

◆ 前近代封建制の主従関係での、

  父親不明の子供。

 

■ 拝領夫人

    前近代日本の封建制社会では、 主君か

  ら拝領した(もらい受けた)側室夫人などの夫

  人が、 (女性の)おなかも大きくなく妊娠初期

  という可能性もあり、 家臣がその夫人と婚儀

  を結び(結婚し)、 その後間もなく生まれた子

  供は、 主君の血をひく子供なのか、 家臣の

  血をひく子供なのか、 わからなくなる場合も

  あった。 

 

● 実例。

     斎藤道三(利政)の夫人には、  斎藤道三の

  主君の、美濃国守護・土岐頼芸(ときよりなり)か

  ら拝領した(もらいうけた)拝領夫人深 芳野 (み

  よしの、土岐頼芸の側室 夫人斎藤義 龍の生母) 

  がいた。 

 

■ 現代社会ではDNA鑑定という方法もあるが、

  その当時は、 推定するしかなかった。

 

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#hachisukakoroku

 

■ 蜂須賀小六 

     (はちすかころく)。

 

■ 蜂須賀小六。

■ 名称 : 蜂須賀 小六 (はちすか ころく)

■ 別名 : 蜂須賀 正勝 (はちすか まさかつ)

■ 生没年 : 1526〜1586年。

■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時

  の武将。

■ 織田信長豊臣 秀吉に仕(つか)えた武将。

■ 豊臣秀吉の側近。

■ 黒田官兵衛(孝高)の盟友。

■ 子には、 嫡男の蜂須賀家政、 娘の「いと」(

  田長政の1番目の正室夫人) がいた。

 

 

■ 蜂須賀 小六 (はちすか ころく、生没年:1526

  〜1586年 は、 室町時代後期(戦国時代)、

  安土桃山時の、尾張国(おわりのくに、愛知県

  西部)出身の武将 であった。

    蜂須賀 小六の別名は、 蜂須賀 正勝 (はち

  すか まさかつ) である

 

■ 蜂須賀 小六(正勝)は、 織田信長豊臣秀吉

  に仕(つか)えた武将 である。

 

■ 蜂須賀 小六の氏名。

    蜂須賀 小六(正勝) (はちすか ころく(まさ

  かつ)) の一族名は、蜂須賀であり、 個人名

  は、 小六、 正勝 である。

    蜂須賀 小六(正勝)の個人名の、 通称(つ

  うしょう、字(あざな))は、小六(ころく) であり、 

  (いみな、実名、公式名)は、 正勝(まさかつ) 

  である。

 

■ 蜂須賀 小六(正勝)は、 豊臣 秀吉の側近で、

  黒田官兵衛(孝高)の盟友 であった。

 

■ 蜂須賀 小六(正勝)の子には、 嫡男の蜂須賀

  家政、 娘のいと (黒田長政の1番目の正室夫

  人) がいた。

 

■ 蜂須賀 小六 (はちすか ころく) の別名 は、 

  蜂須賀 正勝 (はちすか まさかつ) である。  

     蜂須賀は、一族名で、 小六や正勝は、個

  人名で、小六は、通称で、正勝(いみな)

  ある。 

     前近代日本では、上層階層の男性は、2種

  類以上の個人名を持ち、日常では「通称」を使

  用し公式の場合のみ「諱(いみな)」を使用した。 

 

■ 蜂須賀 小六(正勝)は、 尾張国 (おわりのくに、

  愛知県西部) の国人領主であった。

    蜂須賀 小六(正勝)は、蜂須賀正利(まさとし)

  の長男として蜂須賀城で産まれ、 尾張国蜂須賀

  郷に住み、 父の死後、母の故郷の尾張国宮後村

  に移る。

    蜂須賀 小六(正勝)は、 若年期は、川並衆を

  率いて木曽川の水運業を行い、利益を得ていた。

    蜂須賀 小六(正勝)は、 独立勢力として、幾

  つかの武将に仕(つか)えた後、 織田信長配下

  の木下藤吉郎(豊臣秀吉)の与力となる。

 

■ 一説には、 木下藤吉郎(豊臣秀吉)は、 蜂須

  賀 小六(正勝)と知り合い、 その後、蜂須賀小

  六(正勝)と縁のあった生駒氏の信長・側室夫人

  の吉乃の推薦によ って、 織田信長に仕(つか)

  えることになったという説がある (織田家雑録)。

 

■ 1585年に、 蜂須賀 小六(正勝)は、 羽柴秀

  吉(豊臣秀吉)から、阿波一国を与えられるが、 

  秀吉の側近として仕(つか)えることを望み、 

  波一国は、蜂 須賀 小六(正勝)の嫡男の蜂須賀

  家政に譲り渡された。

 

■ 1586年に、 蜂須賀 小六(正勝)は、 蜂須賀

  家の領国となった阿波に入国することなく、 大

  阪城外の邸宅にて死去した。 享年61歳であっ

  た。

    

 

♪♪ 蜂須賀 小六(正勝) が登場す

  興味深い、ドキュメンタリー、

  ドラマ、映画。

 

★ 蜂須賀 小六(正勝)が登場する、

  興味深い関連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

  実) と 架空の出来事 が混じって描かれ

  ています。 また、 現代風にアレンジしてあ

    ります。

 

■ 『 軍師 官兵衛 』 

   (NHK2014年大河ドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

● 蜂須賀 小六(正勝)を演じた俳優名 :

  ピエール瀧 (ぴえーるたき)。

 

● 黒田 官兵衛を演じる俳優名: 岡田 准一。

 

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#the8thrank

 

■ 八位  

     (はちい)

 

■ 八位。

■ 名称 : 八位 (はちい)。

■ 位階のグループ。

■ 使用期間(叙位期間) : 

● 古代日本の飛鳥白鳳時代から現代日本の

  現在まで。 

● (西暦紀元後)701年頃から現在まで。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

■ 朝廷(律令官制)、職員令、叙位条例、位階

  令の位階 (701年頃〜現在、叙位に使用)。

● 正八位 (しょうはちい)  と 従八位 

  (じゅはちい) の2つの位階

■ 前近代日本の朝廷(律令官制)の位階。

● 正八位

  ○ 正八位上 (しょうはちいのじょう)。

  ○ 正八位下 (しょうはちいのげ)。

● 従八位

  ○ 従八位上 (じゅはちいのじょう)。

  ○ 従八位下 (じゅはちいのげ)。

 

 位階

 叙位

 

 

■ 八位。

■ 八位 (はちい) とは、 正八位 (しょうは

  ちい) と 従八位 (じゅはちい) の2つの

  位階 である。

    更に、前近代日本の朝廷(律令官制)の

  位階では、八位には、 正・従(しょう・じゅ)

  八位の2つの位階に上下を付けて、次のよ

  うな4つの位階があった。

  ● 正八位

  ○ 正八位上 (しょうはちいのじょう)。

  ○ 正八位下 (しょうはちいのげ)。

  ● 従八位

  ○ 従八位上 (じゅはちいのじょう)。

  ○ 従八位下 (じゅはちいのげ)。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 八位 (はちい)は、 古代日本の飛鳥白鳳

  時代から現代日本の現在までの期間の

  に使用されている位階 で、 (西暦紀元

  後)701年頃から現在までの期間の叙位に、

  使用されている。  

     現在は、1947年の改正位階令により、

  功績のあった、故人(死亡者)へのみ、叙位

  が行われている。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 八位。

■ 律令官制の位階。 

   <701年頃〜1869年頃>

 ● 朝廷の位階の「一位〜八位、初位」の

   9グループの 8番目のグループの位階。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 ● 朝廷の30位階(いかい)の、

   23番目の正八位上 (しょうはちいのじょう)、

   24番目の正八位下 (しょうはちいのげ)、

   25番目の従八位上 (じゅはちいのじょう)、

   26番目の従八位下 (じゅはちいのげ)、

   の4つの位階である。

 

■ 職員令(1869年制定)の位階。

    <1869年頃〜1887年頃>

 ● 近代日本政府の位階の「一位〜九位、

   初位」の10グループの8番目のグループ

   の位階。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。 

 ● 近代日本政府の20位階の、

   15番目の正八位 (しょうはちい)、

   16番目の従八位 (じゅはちい)、

   の2つの位階である。

 

■ 叙位条例(1887年制定)、位階令

  (1926年制定、1947年改正)

  位階。

    <1887年頃〜現在>

 ● 近・現代日本政府の位階の「一位〜八位

   8グループの 8番目のグループの位階。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。 

 ● 近・現代日本政府の16位階の 、

   15番目の正八位 (しょうはちい)、

   16番目の従八位 (じゅはちい)、

   の2つの位階である。

 

 

■ 八位。

■ 律令官制の位階。 

  <701年頃〜1869年頃>

 ● 八位は、 朝廷の位階の「一位〜八位、初

   位」の9グループのうちの、上から 8番目の

   グループの位階である。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。 

 ● 八位は、 正一位(しょういちい)から少初

   位下(しょうそいのげ)までの朝廷の30位

   階(いかい)の、

   23番目の正八位上 (しょうはちいのじょう)、

   24番目の正八位下 (しょうはちいのげ)、

   25番目の従八位上 (じゅはちいのじょう)、

   26番目の従八位下 (じゅはちいのげ)、

   の4つの位階である。

 

■ 職員令(1869年制定)の位階。

  <1869年頃〜1887年頃>

 ● 八位は、 近代日本政府の位階の「一位〜

   九位、初位」の10グループのうちの上から

   8番目のグループの位階である。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。 

 ● 八位は、 正一位(しょういちい)から少初

   位(しょうそい、しょうしょい)までの近代日

   本政府の20位階の、

   15番目の正八位 (しょうはちい)、

   16番目の従八位 (じゅはちい)、

   の2つの位階である。

 

■ 叙位条例(1887年制定)、位階令

  (1926年制定、1947年改正)の位階。

  <1887年頃〜現在>

 ● 八位は、 近・現代日本政府の位階の「一

   位〜八位」の8グループの うちの上から8

   番目のグループの位階である。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。 

 ● 八位は、 正一位(しょういちい)から従八

   位(じゅはちい)までの近・現代日本政府の

   16位階の、

   15番目の正八位 (しょうはちい)、

   16番目の従八位 (じゅはちい)、

   の2つの位階である。

 

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#hasekuratsunenaga

 

■ 支倉常長 

     (はせくらつねなが) 

 

■ 支倉常長。

■ 名称 : 支倉常長 (はせくらつねなが)。

■ 生没年 : 1571〜1622年。

■ 伊達 政宗(だて まさむね)の家臣。

■ 伊達政宗の遣欧使節(1613〜20年)

  のリーダー。

 

 

■ 支倉 常長 (はせくら つねなが、1571〜

   1622年) は、 伊達 政宗(だて まさむね)

    の家臣で、 伊達政宗の遣欧使節 (けんお

  うしせつ、1613〜20年) のリーダーであ

  った。

    支倉 常長は、 スペインへ行き、ソテロと

  共に、 仙台藩とスペインとの交易(貿易)を

  要請したが、成功しなかった。 

 

■ 伊達 政宗は、 利益を得られる、スペインと

  の交易(貿易)を求めて、 1613年に、家臣

  の支倉 常長 (はせくら つねなが) 一行を、

  スペインへ派遣する。 スペインは、 仙台藩

  との交易(貿易)を拒絶し、失敗に終わり、

  倉 常長一行は、 失意のうちに1620年に、

  仙台藩に帰国し伊達政宗にその旨を報告し

  た。

  

■ 支倉 常長一行は、 1613年に日本を出て、

  メキシコを経由して、スペインへ行き、 ソテロ

  と共に、スペイン国王・フェリペ3世と謁見(え

  っけん)したが、 交易(貿易)の交渉は行き詰

  まる。 

    支倉 常長一行は、 スペイン国王との仲介

  を求めて、 イタリアへ行き、ローマ教皇と謁

  見(えっけん)したがうまくいかず、 スペイン

  へ戻り、再交渉したが、打開できず、帰国を求

  めらる。 

    スペインで粘(ねば)った末、スペイン国王

  からスペイン領フィリピンのマニアで返事を待

  ように言われ、 支倉 常長一行は、スペインを

  去り、 メキシコを経由して、フィリピン・マニア

  に行き、滞在し待ったが、返事は来なかった。

    支倉 常長一行は、 ソテロをマニラに残し、 

  失意のうちに、1620年に、日本の仙台藩に

  帰国した。

 

 1639年頃に、江戸幕府の鎖国は、 完成し、 

  それ以後、海外との交易(貿易)は、 スペイン

  を除き、 事実上、オランダ、中国、朝鮮などの

  少数の国のみとなり、 江戸幕府が、 海外の

  少数の国との交易(貿易)を独占し、利益を得

  た。

 

 

♪♪ 支倉 常長 が登場する、面白く、

  興味深い関連ドラマ、映画、ドキュメ

  ンタリー。 

 

★ 支倉 常長 が 登場する、面白く、

  興味深い関連ドキュメンタリー。 

 

■ 四百年の旅、はるか 『 伊達政

   宗の夢を託された男、 支倉常長 』 

  (BS日テレの2013年11月16日・本放送)。

 

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#parkes

 

■ パークス 

     (ぱーくす) 

     (イギリス公使 パークス)。 

 

■ パークス。

■ 生没年 : 1828年〜1885年。

■ 名称 : パークス。 ハリー・パークス。

● 英名 : Harry Smith PARKES 

● 別名 : イギリス公使 パークス。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

■ イギリスの外交官。

■ 幕末、明治前期のイギリス在日公使 

  (公使在任、1865〜83年)。 

 

 

■ 幕末に、 イギリス公使パークスは、討幕をすすめる薩摩藩・長州

 藩を支持し、 天皇を中心とする雄藩連合政権の実現を期待し、 一

 方、 フランス公使ロッシュ は、 江戸幕府を支持し、 従来の江戸

 幕府の独裁政権の実現を期待した。 幕末に、両者とも、日本におけ

 る自国の有利な立場を確立しようとした。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 幕末に、 パークスは、 1865年(慶応元年)5月に、オールコッ

 ク在日公使(在任、1859〜65年)の後任として、  駐日全権公使に

 就任した。

 

■ 幕末、 イギリス公使パークス は、 薩摩藩・長州藩が、外国との

 通商を強く望んでいることを知り、 また、 開国政策が進まない江戸

 幕府に対する不信感を募らせた。 また、 幕末、 ライバル関係にあ

 る、フランス公使ロッシュが、 江戸幕府を支持し、江戸幕府の独裁

 政権を支援し、自国の有利な立場を確立しようとしていたため、幕末、

 フランスの対日外交政策に対抗して、 イギリス公使パークス は、

 ーネスト・サトウの助言もあり、 討幕をすすめる薩摩藩・長州藩に接

 近し、両藩を支持し、 天皇を中心とする雄藩連合政権の実現を支援

 し、 幕末、日本での自国の有利な立場を確立しようとした。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ イギリス公使パークス は、 1868年に始まった戊辰戦争(1868

 〜69年)では、 局外中立を保ち、 江戸城開城を斡旋し、 他の列

 強諸国が日本に介入することを防止する役目も果たした。 

 

■ イギリス公使パークス は、 明治新政府(近代日本政府)を最初に

 承認し、明治新政府が対外的難局に直面すると支援し、 日本でのイ

 ギリスの有利な政治的立場を強固なものにした。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ イギリス公使パークス は、明治時代前期に、日本に対して西洋文

 明の導入を推進するなど、 日本の近代化と日英交流に貢献した。

 

■ パークス は、 イギリスの外交官 で、 別名は、 イギリス公使パ

 ークス である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 イギリス公使パークス は、 江戸時代の幕末 、明治時代前期の、

 イギリス在日公使 (公使在任、1865〜83年) であった。

 

 

♪♪ イギリス公使パークス が登場する、

     興味深いドキュメンタリー、ドラマ、

     映画。

 

★ イギリス公使パークス が登場する、興

    味深いドラマ、映画。

 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。

      歴史のドラマ、映画は、  史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事が 混じって描かれています。

   また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』。   

   (NHKテレビ・2010年大河ドラマ)。

 

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#hantohanshu

 

■ 藩と藩主 

      (はんとはんしゅ)。

 

■ 藩と藩主。

■ 時期 : 江戸時代。

■ 名称 : 藩と藩主 (はんとはんしゅ)。

■ 藩とは、江戸幕府の将軍(徳川宗家当主)の臣下の大名。

■ 藩主とは、江戸時代に、江戸幕府の将軍と主従関係を結んだ大名。

■ 藩とは、大名の領地とその支配機構である。

 藩主は、藩の当主である。

■ 藩は、親藩(しんぱん)大名、譜代(ふだい)大名、外様(とざま)大名に

 分かれる。

 

 

■ 藩 (はん) とは、 江戸時代に、 江戸幕府の将軍(徳川宗家当主)の

 臣下であった大名である。 藩とは、大名の領地とその支配機構である。

■ 藩主 は、 江戸時代に、 江戸幕府の将軍(徳川宗家当主)と主従関

 係を結んだ大名 である。

■ 藩 (はん) は、 1600年の天下分け目の戦い(関ヶ原の戦い、その

 他)で徳川方が勝利を得て、 徳川家が日本の政治の実権を握り、 日本

 政治の実権を握る江戸幕府の将軍(徳川宗家当主)と主従関係を結んだ

 大名 (領地1万石以上の臣下) である。

 

■ 藩 は、 親藩(しんぱん)大名、 譜代(ふだい)大名、 外様(とざま)

 大名 に分かれる。

● 親藩(しんぱん)大名 とは、 徳川氏(家)の分家である、 徳川御三家

 (徳川家一門)の大名でる。 尾張藩おわりはん、愛知県)、紀伊藩きい

 はん、和歌山県)、水戸藩(みとはん、茨城県)の三藩など である。

 

● 譜代(ふだい)大名 とは、 天下分け目の戦い(関ヶ原の戦い、その他)

 以前から代々徳川氏(家)の臣下であり、1万石以上になった武家 である。

 例えば、 彦根藩(ひこねはん)。

● 外様(とざま)大名 とは、  徳川氏(家)の代々の臣下ではなく、 天下

 分け目の戦い(関ヶ原の戦い、その他)頃より、 徳川氏(家)の臣下となっ

 (徳川氏(家)に従った)大名 である。 

   例えば、 薩摩藩(さつまはん、鹿児島県)、 長州藩(ちょうしゅうはん、

 山口県)、 土佐藩(とさはん、高知県)、 肥前藩(ひぜんはん、佐賀県)。

 

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#bakuhantaisei

 

■ 幕藩体制 

      (ばくはんたいせい)。

 

■ 幕藩体制。

■ 時期 : 江戸時代。

■ 名称 : 幕藩体制 (ばくはんたいせい)。

■ 幕府と藩が日本を支配する政治社会体制。 

■ 幕府と藩(将軍と大名) が、 日本の土地と人民を統治する政治体制。

 江戸幕府の将軍が全国を支配し、将軍の臣下の藩主が、将軍より安堵

 (あんど)された各地域を支配する、政治体制。

 

 

■ 藩とは、大名の領地とその支配機構である。

■ 地方分権体制の政治体制であった。 

 一方、明治時代以降の日本は、中央集権体制となる。

■ 藩 は、親藩(しんぱん)大名、譜代(ふだい)大名、外様(とざま)大名に

 分かれる。

■ 江戸幕府の幕藩体制の下(もと)で、 厳しい社会身分制度が築かれた。

■ 藩とは、大名の領地とその支配機構である。

 

■ 幕藩体制 (ばくはんたいせい) とは、 幕府と藩が日本を支配する政治

 社会体制 で、 幕府と藩(将軍と大名) が、 日本の土地と人民を統治す

 る政治体制 である。 藩とは、大名の領地とその支配機構である。

■ 幕藩体制 は、 江戸時代に、江戸幕府の将軍が全国を支配し、将軍の

 臣下の藩主が、将軍より安堵(あんど)された各地域を支配する、政治体制

 である。 

■ 幕藩体制 は、地方分権体制の政治体制であった。  一方、明治時代

 以降の日本は、中央集権体制となる。

■ 幕藩体制下の、藩 は、親藩(しんぱん)大名、譜代(ふだい)大名 外様

 (とざま)大名に分かれる。

■ 江戸時代は、 江戸幕府の幕藩体制の下(もと)で、 厳しい社会身分制

 度が築かれた。

 

 

■ 江戸時代初期に、日本の土地 は、幕府直轄領、 藩領、 などに分けら

 れた。

■ 藩主 (はんしゅ) とは、 江戸時代に、 江戸幕府の将軍(徳川宗家当

 主)の臣下であった大名 である。

■ 藩主 は、 江戸時代に、 江戸幕府の将軍(徳川宗家当主)と主従関係

 を結んだ大名 である。

● 1600年の天下分け目の戦い(関ヶ原の戦い、その他)で徳川方が勝利

 を得て、 徳川家が日本の政治の実権を握り、 日本政治の実権を握る江

 戸幕府の将軍(徳川宗家当主)と主従関係を結んだ大名 (領地1万石以上

 の臣下) が 藩主 である。

 

■ 藩 は、 親藩(しんぱん)大名、 譜代(ふだい)大名、 外様(とざま)大

 名 に分かれる。

● 親藩(しんぱん)大名 は、 徳川氏(家)の分家である、徳川御三家 (徳

 川家一門)の大名である。  尾張藩、紀伊藩、水戸藩 の三藩などである。

● 譜代(ふだい)大名 は、 天下分け目の戦い(関ヶ原の戦い、その他)

 前から徳川氏(家)の臣下であった(徳川氏(家)に従っていた)大名 である。

 例えば、彦根藩。

● 外様(とざま)大名 は、 天下分け目の戦い(関ヶ原の戦い、その他)以

 後、 徳川氏(家)の臣下となった(徳川氏(家)に従った)大名 である。 

 例えば、薩摩藩、長州藩。

 

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#bakufu

 

幕府 

      (ばくふ)。

 

幕府。

 名称 : 幕府 (ばくふ)。

■ 武士(武家)の政治組織。

■ 将軍家の政治組織。

■ 朝廷より征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)

  に任じられる形態をとり樹立される武家政権

 鎌倉幕府、  室町幕府、  江戸幕府 という3

  つの幕府が、日本で樹立された。

 

 

 幕府 (ばくふ) とは、武士(武家)の政治組

  織である。 幕府は、将軍を頂点とする、武士

  (武家)の政治組織である。

 

 幕府は、将軍家の政治組織で、 朝廷より征

  夷大将軍 (せいいたいしょうぐん)に任じられ

  る形態をとり樹立される武家政権 である。

 

 幕府 は、 中世日本近世日本 における武

 家の政庁及(およ)びその権力組織 である。 中

  国では、 出征中の将軍の幕営を意味した。

 

 鎌倉幕府 (かまくらばくふ、1192〜1333年)、 

 室町幕府 (むろまちばくふ、1338〜1573年)、 

 江戸幕府 (えどばくふ、1603〜1867年) とい

 う3つの幕府 が、 日本で樹立された。

 

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#hasegawaheizo

 

■ 長谷川 平蔵 

     (はせがわ へいぞう) (長谷川 宣以)

 

■ 長谷川平蔵 

■ 生没年 : 1746年(延享3年)〜1795年(寛政7年)。

■ 名称 : 長谷川平蔵 (はせがわへいぞう)。

● 正式名は、長谷川 平蔵 宣以 (はせがわ へいぞう のぶため)。

● 1773年(28歳の時)の家督相続後は、長谷川氏の当主が代々受け

 継ぐ名である平蔵(へいぞう)を通称とした。

■ 江戸幕府の旗本で、 江戸時代後期に、幕府の、火付盗賊改方(ひ

 つけとうぞくあらためかた、江戸時代の江戸幕府の凶悪犯取締・機動部

 隊)の長官。

■ フィクションの世界では、「鬼平犯科帳」で、 鬼の平蔵、長谷川平蔵

 は、 江戸後期に、火付盗賊改方の長官として、犯罪者を捕らえて、大活

 躍する。

 

□ 長谷川平蔵 が登場する、面白く、興味深い、ドキュ

  メンタリー、ドラマ、映画

 

 

■ 長谷川平蔵 (はせがわへいぞう) は、江戸幕府の旗本で、江戸時代

 後期の、 幕府の、火付盗賊改方 (ひつけとうぞくあらためかた、江戸時

 代の江戸幕府の凶悪犯取締・機動部隊) の長官であった。

 

■ フィクションの世界では、「鬼平犯科帳」で、長谷川平蔵は、 江戸時

 代、火付盗賊改方の長官として、犯罪者を捕らえて、大活躍する。

● 「鬼平犯科帳」 は、池波正太郎の時代小説で、火付盗賊改方の長官

 の、鬼の平蔵、長谷川平蔵を主人公とする捕物帳 である。 

● 「鬼平犯科帳」 は、江戸に実在した、火付盗賊改方(ひつけとうぞく

 あらためかた)長官の長谷川平蔵、鬼の平蔵 が活躍するフィクションの

 時代劇である。

 

■ 長谷川平蔵 は、1787年(天明7年)から1795年(寛政7年)まで、

 火付盗賊改方の長官 (火付盗賊改方の長である、火付盗賊改方役)

 であった。

 

■ 天明年間に、大飢饉(だいききん)による農作物の不作やインフレが、

 起き、 日本各地で打ち壊しが頻発し、世情は不穏であった。

  1786年(天明6年)に、田沼意次(たぬまおきつぐ)が失脚し、1787

 年(天明7年)に、松平定信(まつだいらさだのぶ)が幕府の老中に就任し、

 寛政の改革が始まったが、経済不安から犯罪も増加し、凶悪化していた。

 このような情況で、長谷川平蔵 は、1787年(天明7年)10月に、火付

 盗賊改方の長官(42歳の時)となった。

 

■ 火付盗賊改方役の、長谷川平蔵 は、1789年(寛政元年)に、関八

 州を荒らしまわっていた大盗賊団の神道(真刀、神稲)徳次郎一味を、

 一網打尽にし、1791年(寛政3年)に、江戸市中で強盗・婦女暴行を繰

 り返していた凶悪盗賊団の首領・葵小僧を逮捕した。

 

■ 長谷川平蔵 は、とても有能であったが、幕閣(特に松平定信)や同

 僚からはあまり信頼されていなかったようで、 出世はままならなかった。

■ 長谷川平蔵 は、的確で人情味溢(あふ)れる仕事振りで、庶民から

 は、「本所の平蔵様」、「今大岡」 と呼ばれ、人気があった。

 

■ 長谷川平蔵 は、寛政の改革で、 人足寄場(にんそくよせば、犯罪者

 の更生施設)の建設を立案し、 石川島人足寄場の設立などで、功績を

 あげた。

 

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#hasegawaheizo-appearingscenes

 

■ 長谷川平蔵 が登場する、面白く、興味深い、ドキュ

 メンタリー、ドラマ、映画。

 

♪♪ 長谷川平蔵 が登場する、面白く、興味深い関連

 ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画 は、フィクションであり、 史実(歴史上の事実) 

 と 架空の出来事 が、 混じって、描かれています。 また、現代風にア

 レンジしてあります。

 

■ 『 鬼平犯科帳 (おにへいはんかちょう) 』 

 (フジテレビ1989年〜1995年第1〜第6シリーズ、1997年〜199

 8年、第7〜第8シリーズ、2001年、第9シリーズ・テレビドラマ)

● 長谷川平蔵を演じた俳優名 : 二代目 中村 吉右衛門 (にだいめ

  なかむら きちえもん)。

 

 『 鬼平犯科帳 (おにへいはんかちょう) スペシャル 』 

 (フジテレビ2005年、2006年、2007年、2008年、年1回テレビド

  ラマ)

● 長谷川平蔵を演じた俳優名 : 二代目 中村 吉右衛門  (にだいめ 

 なかむら きちえもん)。

 

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#hatamoto

 

■ 旗本 

     (はたもと)。

 

 旗本。

■ 名称 : 旗本 (はたもと)。

■ 江戸時代の武士の身分。

■ 江戸幕府の将軍直属の家臣で、 1万石未満で将軍に謁見

 (えっけん)できる者。

 

 

■ 旗本 (はたもと) とは、 江戸時代の、江戸幕府の武士の身分 

 で、 江戸幕府の将軍直属の家臣 で、 1万石未満で将軍に謁見

 (えっけん)できる者 をいう。

 

■ 旗本 は、もとは、軍中で大将のいる本陣の武士 を意味したが、

 江戸時代に、江戸幕府の職制 では、 徳川将軍家直参(じきさん、

 直属の家臣)で、 知行高(ちぎょうだか)1万石(ごく)未満の武士

 のうち、御目見(おめみえ、将軍に謁見できる)以上の者 である。

 

■ 江戸時代、 江戸幕府の将軍直属の家臣 (= 直参(じきさん)) 

 には、 江戸幕府により1万石未満の知行(ちぎょう、俸禄(ほうろく)

 ・領地)・扶持米(ふ ちまい)を与えられた者である、 江戸幕府の

 旗本、約5000人 と 江戸幕府の御家人、約17000人 がいて、 

  江戸幕府の諸職に就任(しゅうにん)した。

● 江戸幕府の旗本 は、 江戸幕府の御家人(ごけにん) ともに、

 江戸幕府の常備軍 であった。

● 江戸幕府の御家人 は、 知行地は与えられず、 将軍には謁

 見ができない身分 であった。

 

■ 江戸時代に、 江戸幕府直属の軍事力 は、 旗本約5000人、 

 旗本の家臣、約58000人、 御家人、約17000人で、 計、約8

 万人程(ほど) であった。 

 

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#hachigatsujuhachinichinoseihen

 

■ 八月十八日の政変 

       (はちがつじゅうはちにちのせいへん)。  

 

■ 八月十八日の政変。  

■ 名称 : 八月十八日の政変 (はちがつじゅうはちに

  ちのせいへん)。  

■ 1863年の8月18日に、京(都)で起こった政変。

 

 

■ 八月十八日の政変 (はちがつじゅうはちにちのせい

 へん) とは、幕末の、1863年の8月18日に、 佐幕

 派の会津藩(あいづはん)と、 公武合体派の薩摩藩(さ

 つまはん)の藩兵(はんぺい)ら が、尊王攘夷派・急進

 派で倒幕派の、公家や長州藩の藩兵を、 朝廷や京都か

 ら追放した(追い出した)事件 である。

 

■ 1863年、長州藩を中心にして尊王攘夷派・急進派が、 

 朝廷を動かし、討幕計画を進めていたので、 同年8月

 18日に、 公武合体派の薩摩藩は、 佐幕派の会津藩と

 画策(かくさく)して、 尊王攘夷派・急進派で倒幕派の公

 家や長州藩の藩兵を、 朝廷や京都から追放した(追い

 出した)。 これにより、尊王攘夷倒幕運動は、 一時挫折

 した。

 

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#hatsune

 

■ 初音 

     (はつね)。

 (天地人(NHK大河ドラマ)の登場人物)。

 

■ 初音 (仮称、架空の人物)。  

■ 名称 : 初音 (はつね、 仮称、架空の人物)。 

■ NHK2009年大河ドラマ 『 天地人 (てんちじん) 』 に登場する

 女性。

● ドラマでは、 安土桃山時代、江戸時代初期の武将の、真田幸村の 

 妹で、 忍者として、 登場する。

 

★ 初音 (はつね、仮称、架空の人物) が登場する、

 興味深い、ドラマ。

■ NHK2009年大河ドラマ 『 天地人 (てんちじん) 』

● 初音 を演じた俳優名 : 長澤 まさみ (ながさわ まさみ)。

 

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#baburukeizainohokai

 

■ バブル経済の崩壊 

     (ばぶるけいざいのほうかい)。

 

■ バブル経済の崩壊。 

■ 時期 : 1991年 (平成3年)。 

■ 名称 : バブル経済の崩壊 (ばぶるけいざい

  のほうかい)。

■ バブル経済とは、 仮需要経済で、 1985年

  (昭和60年)から1991年(平成3年)までの

  6年間のバブル(仮需要)の膨らんだ時期の、

  日本経済 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 1985年のプラザ合意で、円高ドル安となり、 

  1985年より、 日本政府は、 輸出(外需)主

  導の経済から内需指導の経済に切り替え、

  日本銀行は、低金利政策をとる。 

    多くの日本企業は、 稼いだ利益を 設備投

  資に回さず手元に置き、 企業の多くが資金を借

  りないため銀行などの金融機関に資金がだぶつ

  き、 日本全体では金余りとなる。 

     多くの日本企業は、利益の一部を土地、株、

  各種資産性証券・物品 (例 ゴルフ会員権、絵画、

  骨董品等) を購入し始め、 土地、株、各種資産

  性証券・物品 の値段が上昇し始める。 

     更に、多くの日本企業が、 銀行等金融機関

  から、そのだぶついた低金利の資金をを借りて、 

  上昇し始めた、土地購入、株購入、各種資産性証

  券・物品の購入へと走る。  

     土地、株、各種資産性証券・物品の値段が、

  実需でなく、仮需要で、急激に大幅に上昇し、 バ

  ブル経済 (仮需要経済) となる。 

  (例) 土地ころがし。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 1991年に、日本政府は、バブル経済 (仮需要

  経済)を抑えるため、 各種引き締め政策を打ち

  出し、 日本銀行も金利を上昇させる。  

    すると、 土地、 株、各種資産性証券・物品 

  の値段が 1991年より、 急激に大幅に下がり

  はじめる。  多くの日本企業が、 銀行など金融

  機関からの借金で買った、土地、 株、各種資産

  性証券・物品をたとえ売却しても大幅赤字となり、 

  多くの日本企業が、銀行等金融機関から借りた資

  金を返せなくなり、借入金利も払えず、 融資がこ

  げつき、 銀行等金融機関は、 莫大な不良債権

  をかかえてしまった。

 

■ 1991年のバブル経済崩壊後、 日本政府や銀

  行等金融機関は、 金融機関のかかえる莫大な

  不良債権の処理に非常に苦労した。

 

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#banchosarayashikinookiku

 

 番町皿屋敷のお菊 

       (ばんちょうさらやしきのおきく)。 

 

■ 番町皿屋敷のお菊。

■ 名称 : 番町皿屋敷のお菊 (ばんちょうさらやしきのおきく)。

■ 架空の、江戸時代の怪談の江戸の武家奉公女性。

■ 伝説の、戦国時代(室町時代後期)の播州(ばんしゅう、兵庫県)

 の武家の侍女。

 

■ 番町皿屋敷のお菊 (ばんちょうさらやしきのおきく) は、フィ

 クションの江戸時代の怪談の江戸の武家奉公女性であり、 一方、

 伝説の、戦国時代(室町時代後期)の播州(ばんしゅう、兵庫県)

 の武家の侍女 であった。 

 

■ フィクションでは、 江戸(東京)の番町(ばんちょう、ばんまち)

 にある、青山主膳の邸宅で、 主人の青山主膳に奉公する「お菊」 

 が、家宝の皿を割ってしまい (または、誰かに割られてしまい)、

 主人に責め立てられ、 殺されて井戸に投げ込まれた (または、

 自ら井戸へ飛び込んだ) というストーリーである。

● 番町(ばんちょう、ばんまち) は、東京の、牛込御門内番町 (現

 在の千代田区飯田橋付近) か、千代田区一番町〜六番町と言わ

 れている。

 

■ 上記のフィクションは、 戦国時代(室町時代後期)の播州(ばんし

 ゅう、兵庫県)の、姫路城にまつわる「播州皿屋敷実録」という伝説

 に基いている。

■ 戦国時代(室町時代後期)の永正(えいしょう、1504〜21年)

 年間に、 姫路城 (現在の姫路城ができる前の旧姫路城、 守護

 赤松氏の属城) の第9代城主・小寺則職の時、 小寺則職の家臣

 の青山鉄山が主家乗っ取りを企(くわだ)ていたが、小寺則職の忠

 臣の衣笠元信(きぬがさもとのぶ)がこれを察知し、 お菊という女

 性を、青山鉄山の家へ、女中として送り込み、 青山鉄山の計略を

 探らせた。 そして、青山鉄山が、主君の小寺則職を花見の席で毒

 殺しようとしていることを突き止め、 衣笠元信は、城主・小寺則職

 を救出した。

● 乗っ取りに失敗した青山鉄山は、家中に、密告者がいたとにらみ、

 家来の町坪弾四郎に調査するように命じた。 町坪弾四郎は、密告

 者がお菊であったことを突き止めた。 町坪弾四郎は、お菊のこと

 が好きだったので、言い寄ったがお菊は拒否したので、立腹して、

 青山鉄山の10枚揃えの家宝の皿の一枚をわざと隠して、無くなっ

 たと因縁をつけ、責め殺し、 古井戸に死体を捨てた。 それ以来、

 その井戸から、夜な夜なお菊が皿を数える声が聞こえたという。

● やがて、衣笠元信達の小寺の家臣によって、青山鉄山一味は討

 たれ、 姫路城は、無事、小寺則職の元に返った。

  姫路城主・小寺則職は、お菊のことを聞き、その死を哀れみ、十

 二所神社の中にお菊を「お菊大明神」として祀(まつ)ったと言い伝

 えられている。

● 姫路城主・小寺則職とその家臣・青山鉄山との対立という史実を

 元に脚色されたものと考えられる。

 姫路城には、「お菊井戸」が、現存する。

 

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『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』

 

 

以  上