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◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY 

   HANDBOOK

 

 

 カナヤマ 日本歴史辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 ほ 』。

 

 

#jpmenu     

メ ニュー (目次)。

■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

□ 日本史 辞典 (総合)

 

□     ● 五十音順 ( あいうえお順)。

 

 □ 見出し語 ほうか

 □ 見出し語 ほうさ

 □ 見出し語 ほうじょう

 □ 見出し語 ほうま

 □ 見出し語 ほか

 □ 見出し語 ほさ

 □ 見出し語 ほた

 □ 見出し語 ほら

 

 

 ほう  保安。 

             (ほうあん)。  《和暦》。

             THE HOUAN ERA.

             ○  1120年ー1124年。

             ● 1120年・保安元年・4月10日〜

                1124年・保安 5年・4月 3日。 

             ● 平安時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

            日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

 ほう  宝永。 

             (ほうえい)。  《和暦》。

             THE HOUEI ERA.

             ○ 1704 年ー1711年。 

             ● 1704年・宝永元年・3月13日〜

                1711年・宝永 8年・4月25日。 

             ● 江戸時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

            日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

 ほう  宝永通宝十文銭銅貨

            (ほうえいつうほう じゅうもんせんどうか)。

            (= 宝永銭) 。 

          《日本流通貨幣》。

          (江戸時代流通貨幣)。

          (⇒ 十文銭(もん)単位・定位

          (定額)通常貨幣日本流通貨幣)。

          ○ 江戸時代の、江戸幕府鋳造の

             10文(もん)単位の定位(定額)通

          常貨幣。

          ○ 江戸時代の文銭銅・鉄貨の1つ。

          ● 現在貨幣価値1枚約250円。

          (宝永通宝10文銭400枚≒1両

           小 判(金)≒4分≒16朱≒現在の

           約10万円) 。

 

 ほう  保延。 

             (ほうえん)。 《和暦》。

             THE HOUEN ERA.

             ○  1135年ー1141年。

             ● 1135年・保延元年・4月27日〜

                1141年・保延 7年・7月10日。 

             ● 平安時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

            日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

             ■ 保延 (ほうえん、英:THE 

             HOUEN ERA)とは、 和暦であり、 

             平安時代後期の和暦年号であり、 

             1135年・保延元年・4月27日から

             1141年・保延 7年・7月10日まで 

             である。

                 ■ 「保延」の前後の和暦年号(元号):

              ● 長承 (ちょうしょう)

                     1132年ー1135年 。

               1132年・長承元年・8月11日〜

                1135年・長承 4年・4月27日。

 

 ほう  法皇。 

            (ほうおう)。 《天皇家》。

              (= 出家した上皇、仏門に入

          った上皇)。

       (⇒ 上皇)。

             ■ 上皇(じょうこう)とは、 前天皇

             (元天皇)であり、  法王(ほうおう)

             とは、出家した前天皇(元天皇)で

             ある。

 

#houka

 

 ほう  宝亀。 

             (ほうき)。 《和暦》。

             THE HOUKI ERA.

             ○ 770年−781年。

             ● 770年・宝亀 元年・10月1日〜

              781年・宝亀12年・ 1月1日。

             ● 奈良時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

            日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

 ほう  崩御。

             (ほうぎょ)。 《天皇家》。

         (= 天皇やその家族

                          などが死去すること)。

               (⇒ 天皇天皇 家)。

              ■ 崩御 (ほうぎょ)とは、天皇やそ

                          の家族などが死去することである。

 

 ほう  伯耆 国。

             (ほうき のくに)。  《旧地域名》。

          (= 伯州(はくしゅう))。 

          (≒ 概ね、現・鳥取県西部の

          相当地域)。

          HOKI PROVINCE.

          (律令制定後・古代・中世・近

           世日本・旧地域名の旧国名

           (令制国)の正式名)。

                   (⇒  伯州(はくしゅう))。

                    (⇒ 鳥取県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

          ■ 伯耆 国 。

             <山陰道 (旧広域地方)。

             <五畿七道(ごきしちどう、日本本土)。

          (⇒ 山陰道・旧広域地方)。

                   (⇒ 五畿七道)。

                         ■ (RWM) 日本の、中地域名の

                           変遷。

             ● 国造・県主分国⇒ 旧国(令制国)

              ⇒ 旧都道府県⇒ 現47都道府県。

              ■ 伯耆  (ほうき のくに、= 伯州

             (はくしゅう))は、 概ね、現・ 中国地

             方の、現在の鳥取県西部に相当する

              地域であり、 山陰道(さんいんどう)・

                          旧広域地方に属する。

             ■ 伯耆 (= 伯州は、 前近代日本

             の、旧国(令制国)である。

             ■ 伯耆 (= 伯州は、 五畿七道

             (ごきしちどう)の山陰道(さんいんど

                          う)・旧広域地方に属する。

             ■ 伯耆 (= 伯州は、 約68旧国

             (令制国)の1つであり、 山陰道(さん

             いんどう)・旧広域地方の1国である。

             ■ 伯州 (はくしゅう)は、  律令制定

             後・古代・中世・近世日本・旧地域名

             の、旧国(令制国)正式名の、伯耆  

             (ほうき のくに) の別称である。

             ■ 伯耆  (ほうき のくに)は、律令

             制定後・古代・中世・近世日本・旧地域

             名の、旧国(令制国)の正式名である

             ■ 旧国(令制国)(きゅうこく(りょうせ

             こいく))は、 前近代日本の、飛鳥白

             鳳時代末期から江戸時代まで、 紀元

             (後)701 年頃から1868年頃まで、 

             日本で使用された地方行政区分の地

             域名である。

 

 ほう  保元。

             (ほうげん)。  《和暦》。

             THE HOUGGEN ERA.

                          ○ 1156年−1159年。

             ● 1156年・保元 元年・ 4月27日〜

                1159年・保元 4年・ 4月20日

             ● 平安時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

                ○ 和暦年号、古代日本の平安 時代。

                ○ 保元 Y 年= Y+1155年=西暦年。

                    (久安(きゅうあん))⇒(仁平(にんぺい

          (びょう))⇒(久寿(きゅうじゅ)元年〜

          3年)⇒(保元元年〜4年)⇒(平

          治(へいじ)元年〜2年)⇒(永暦(え

             いりゃく))⇒(応保(おうほう)) 。

 

 ほう  封建制度

             (ほうけんせいど)。 《社会制度》。

                    ○ 封建制度は、主君の「従

          者への供与」と家臣の「主君

          への献身」によって、主従関

          係が結ばれてできる社会上

          制の度である。

                    ○ 日本の封建制度は、12

          世紀頃に、武士によって始

          まり、18世紀に終わる。

          (⇒ 武士武家)。

          (⇒ 武家政治武家政権)。

          (⇒ 武士道戦国武士道)。

             ■ 封建制度 (ほうけんせいど)とは、 

             主君の「従者(家来、家臣)への供与」

             と従者(家来、家臣)の「主君への献

             身」によって、主従関係が結ばれて

             できる社会上の制度である。

             ■ 封建制度 (ほうけんせいど)とは、

             主君が、従者(家来、家臣)へ富(禄

             (ろく);報酬、領地等)、名誉、権力を

             供与し、従者(家来、家臣)に献身を

             求(もと)める社会制度である。

             ■ 封建制度は、 主君の「従者(家

             来、家臣)への供与」と従者(家来、家

             臣)の「主君への献身」とによって、主

             君と従者(家来、家臣)という主従関

             係を結び成立する社会制度である。

              ■ 封建制度 (ほうけんせいど)とは、

             土地や金銭・現物の給付等をもとに

             (媒介として)主従関係が結ばれてで

             きる社会上の制度である。

 

 ほう  封建制廃止。

             (ほうけんせいはいし)。

                《社会制度》。

          ○ 封建制廃止、日本近代化

          の基盤構築は、西郷隆盛の

          一言で決まった!

                    ○ 日本の封建制度は、

          1871年(明治4年)7月に

          廃止される。

          (⇒ 木戸邸会議)。

          (⇒ 廃藩置県)。

          (⇒ 西郷隆盛)。

          (⇒ 近代日本政府)。

             ■ 封建制度を廃止する、廃藩置県

             は、 西郷隆盛の一言によって最終

             決定され、明治新政府(近代日本政

             府)によって、断行される。

             ■ 日本の封建制度は、 廃藩置県

             によって、廃止される。

                廃藩置県は、 1871年(明治

             4年)の7月9日の、木戸邸会議(き

             どていかいぎ= 廃藩置県・木戸邸

             密談)で最終決定され、 同年7月

             14日に、実施された。

 

 ほう  保元の乱

             (ほうげんのらん)。 《合戦》。

             ○ 保元の乱は、

          1156年(保元元年)に京

          (都)で行われた、朝廷の

          権力抗争の戦争である。

              ■ 保元の乱  (ほうげんのらん)は、

             1156年(保元元年)に京(きょう、

             京都)で行われた、朝廷の権力抗争

             の戦争である。

 

 ほう  法号。

            (ほうごう)。 《仏教》。

         (= 法名(ほうみょう)、戒名)。

          (⇒ 前近代日本の人名) 。

          (⇒ 法名

          ○ 仏門に入った人に授ける名。

          ○ 前近代日本で個人名として生

           前に使用された法名。

          ○ 出家時などに称した前近代の

          個人名。

          ○ 前近代日本の個人名の1つ。

 

〇 ほう    方広寺

             (ほうこうじ)。 《寺》。

                           HOKO-JI TEMPLE. 

             (1586年ー現在)。

          ○ 豊臣氏の菩提寺。

            □ 豊臣秀吉ガイドブック  

           □ 豊臣秀吉 関連年代順

             出来事ブック

                    □ 豊臣氏 画像アルバム 

                         No.1

                    □ 豊臣氏 画像アルバム 

             No.2

          (⇒ 豊国神社(とよくにじんじゃ)

           豊国廟(ほ うこくびょう)豊国社

          ( とよくにしゃ)豊国祭(ほ うこくさい)、

        高台寺(こうだいじ))。

          (⇒ 豊臣氏 画像アルバム 

             No.1)。

          (⇒ 豊臣 秀吉)。

          (⇒ 豊臣 秀吉 ガイドブック)。

             (⇒ 徳川 家康)。

           (⇒ 徳川家康ガイドブック)。 

              ■ 方広寺 (ほうこうじ)とは、 京(都)

              にある、豊臣氏の菩提寺である。

              ■ 秀吉の刀狩令(かたながりれい)は、

             1588年に出され、「方広寺の大仏造立」

             を口実に、農民等の民衆から武器を没収

             したり、民衆の武器を免許制にした法令

             である。

              ■ 方広寺には、 江戸時代に、大仏殿

             (だいぶつでん)と梵鐘(ぼんしょう)など

             があり、 1612年(慶長17年)に豊臣秀

             頼は大仏殿と梵鐘を完成した。 1614

             年(慶長19年)7月の「方広寺鐘銘事件」

             (ほうこうじしょうめいじけん)は、大坂の陣

             の口実となった。

               方広寺の、大仏殿は1798年(寛政

             10年)に雷火で焼失し、梵鐘のみが現存

             する。

              ■ 方広寺(ほうこうじ)は、 現在、京都市

             東山区大和大路正面茶屋町527−2の住

             所にある寺院である。 方広寺は、京都・

             三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)の近

             くにある。

              ■ 一方、現在、京都の茶屋町の、方広 寺

             に隣接して豊臣 秀吉を祭(まつ)る神社

             である豊国神社(とよくにじんじゃ )があり、

             京都の茶屋町の、方広寺や豊国神社か

             ら少し離れたの別の場所の京(都)の阿弥

             陀ヶ峰(あみだがみね)に、豊臣秀吉を

             った墓豊国廟(ほうこくびょう)がある。

             ◆ 豊臣氏関係寺社・墓。 

             ● 京(都)東部の、方広寺、豊国神社、豊

                    臣秀吉の墓、豊国社、豊国廟、高台寺。

             ■ 京(都)東部(京都市東山区)の茶屋町

             には、安土桃山時代の1586年(天正14

             年)より現在まで方広寺(ほうこうじ)があり、 

             方広寺大仏殿跡地に1880年(明治13年)

             から現在まで豊国神社(とよくにじんじゃ)

             がある。

               京(都)東部(京都市東山区)の阿弥陀

             ヶ峰(あみだがみね)には、1598年(慶長

             3年)より現在まで豊臣秀吉の墓があり、 

             1599年(慶長4年)より1615年(慶長20

             年)まで豊国社( とよくにしゃ)があり、 18

             98年(明治31年)から現在まで豊国廟(ほ

             うこくびょう)がある。

               京(都)東部(京都市東山区)の下河

             原町には、 1605年(慶長10年)より現在

             まで高台寺(こうだいじ)がある。

              ■ 京(都)東部にある、方広寺 (ほうこう

             じ)は、豊臣氏の菩提寺(ぼだいじ)である。 

               方広寺には、 江戸時代に、大仏殿

             (だいぶつでん)と梵鐘(ぼんしょう)などが

             あり、1612年(慶長17年)に豊臣秀頼が

             方広寺の大仏殿と梵鐘を完成した。 

               1614年(慶長19年)の「方広寺鐘銘

             事件」(ほうこうじしょうめいじけん)は、大

             坂の陣の戦いの口実となった。

                方広寺の、大仏殿は、江戸時代後

             期の、1798年(寛政10年)に雷火で焼失

             し、梵鐘のみが現存する。

                1605年(慶長10年)に、京(都)東

             部の下河原町に、豊臣 秀吉・正室夫人の、

             おね(ねね)が豊臣 秀吉の冥福を祈るため、

             高台寺(こうだいじ)を創建する。

                1598年(慶長3年)の豊臣秀吉の

             死後、京(都)東部の阿弥陀ヶ峰(あみだ

             がみね)の山腹に、壮大な 豊国社(とよ

             くにしゃ、30万坪、社領1万石) が、方広

             寺の鎮守として着工され、1599年(慶長

             4年)に完成した。 1615年(慶長20年)

             の豊臣氏滅亡前まで、 豊国社の祭礼で

             ある、秀吉の忌日(きじつ)の8月18日の

             豊国祭(ほうこくさい)は、大いに賑(にぎ)

             わった。 

               しかし、1615年(慶長20年)の豊臣

             氏滅亡後、江戸幕府の幕命により、豊国

             社(とよくにしゃ)の、社殿は破壊され、豊

             国祭(ほうこくさい)等の祭礼も停止とな

             った。 

                その後、1880年(明治13年)に、

             豊国神社(とよくにじんじゃ)が、 京(都)

             東部の茶屋町に、方広寺大仏殿跡地に、

             方広寺(ほうこうじ)に隣接して、豊国社

             ( とよくにしゃ)の後身として再興され 、 

             1898年(明治31年)に、京(都)の阿弥

             陀ヶ峰の、豊国社跡地に、豊国廟(ほうこ

             くびょう)が建てられる。

               現在、京(都) 東部(京都市東山区)

             の茶屋町の、方広寺(ほうこうじ)や豊国

             神社(とよくにじんじゃ)があり、 そこから

             少し離れた別の場所の、京(都)東部(京

             都市東山区)の阿弥陀ヶ峰(あみだがみ

             ね)の山腹に、豊臣秀吉を葬った墓 と、 

             豊国社(とよくにしゃ)跡地に建つ豊国廟

             (ほうこくびょう)があり、 京(都)東部(京

             都市東山区)の下河原町に、高台寺(こう

             だいじ)がある。

 

 ほう  方広寺鐘銘事件。

            (ほうこうじしょうめいじけん)。 《事件》。

            (1614年7月)。

            (⇒ 方広寺)。

            (⇒ 大坂の陣二条城会見)。

         (⇒ 豊臣氏 画像アルバム 

        No.1)。

            □ 豊臣秀吉ガイドブック  

           □ 豊臣秀吉 関連年代順

             出来事ブック

            ■ 1614年(慶長19年)7月に、豊臣秀頼が

            豊臣氏菩提寺の方広寺の大仏開眼供養を行

            おうとしたところ、江戸幕府(徳川家康)より、

            方広寺の大仏殿の鐘銘(しょうめい、鐘(か

            ね)の銘文(めいぶん))に問題あり(家康を呪

            っている)と言われ、延期される。 これを方広

            寺鐘銘事件(ほうこうじ ょうめいじけん)という。

            ■ 高齢の徳川家康は、 立派に成長した豊

            臣秀頼、 豊臣恩顧の大名や京(都)の民衆・

            公家・朝廷の秀頼への人気、 豊国祭の盛況

            等の豊臣氏人気などを知り、 豊臣秀頼の率

            いる豊臣氏勢力が江戸幕府の徳川氏政権に

            とって将来脅威になると考え、自分が生きてい 

            るうちに、豊臣秀頼を排除し豊臣氏を滅亡させ

            ることを決意し、 1614年(慶長19年)に、方

            広寺の鐘銘(しょうめい、鐘の銘文)の『

            康、君臣豊楽』 (こっかあんこう、くんしんほう

            らく)が家康を呪っていることを口実にして、豊臣

            秀頼に豊臣大阪城明け渡しを求めた。 

                しかし、豊臣秀頼は、豊臣大阪城明け渡

            しには応じず、豊臣氏と徳川氏との間で、大坂

            の陣(大坂の役、1614−1615年)という戦争

            が起こる。

 

 ほう  奉公衆。

            (ほうこうしゅう)。

          《武士の身分・地位》。

                (室町幕府の身分・地位)。

             (⇒ 室町幕府奉行人)。

             ■ 奉公衆 (ほうこうしゅう)とは、室町

            幕府(= 足利幕府)の将軍直属の常備

            軍の武士である。

            ■ 室町幕府の奉公衆は、 守護大名

            の軍事力に対抗するため、 室町幕府

            の第3代将軍・足利義満(よしみつ)に

            よって、 室町幕府の実務官僚の奉行

            人(ぶぎょうにん、奉行衆)と共に、設け

            られた組織である。

            ■ 奉行人 (ぶぎょうにん、奉行衆(ぶ

            ぎょうしゅう)は、 室町幕府の公務(政

            務、儀式・行事等)を執行する実務官僚

            の武士である。

 

 ほう  豊国祭

            (ほうこくさい)。 《祭礼》。

                (秀吉死後から豊臣氏滅亡前まで)。

         ○ 豊臣秀吉を祝福する祭。

            □ 豊臣秀吉ガイドブック  

           □ 豊臣秀吉 関連年代順

             出来事ブック

                   □ 豊臣氏 画像アルバム 

                        No.1

                   □ 豊臣氏 画像アルバム 

            No.2

         (⇒ 方広寺(ほうこうじ)豊国神社

          (とよくにじんじゃ)豊国廟(ほ うこくび

         ょう)豊国社( とよくにしゃ)、高台寺

         (こうだいじ))。

         (⇒ 豊臣氏 画像アルバム No.1)。

         (⇒ 豊臣 秀吉)。

         (⇒ 豊臣 秀吉 ガイドブック)。

            (⇒ 徳川 家康)。

          (⇒ 徳川家康ガイドブック)。 

             ■ 豊国祭(ほうこくさい)は、 豊臣秀吉を

            祭(まつ)る神社の、豊国 社(とよくにしゃ)

            の、豊臣秀吉を祝福する祭礼である。

             ■ 豊国祭 (ほうこくさい)は、 京(きょう、

            京都)の阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)に安

            土桃山時代、江戸時代初期にあった、

            臣秀吉を祭(まつ)る神社の、豊国 社(と

            よくにしゃ)の祭礼である。

             ■ 特に、1604年(慶長9年)の秀吉の七

            回忌の豊国祭(ほうこくさい)は、盛大で あ

            った。

            ■ 徳川家康は、 豊国祭の盛況等の豊臣

            氏の人気 や 立派に成長した豊臣秀頼な

            どを知り、 豊臣秀頼の率いる豊臣氏勢力

            が江戸幕府の徳川氏政権にとって将来脅

            威になると考えるようになり、自分が生きて

            いるうちに、豊臣氏勢力の排除を決意する。

             ■ 豊国祭(ほうこくさい)は、 1598年(慶

            長3年)の秀吉死後から、1615年(慶長20

            年)の豊臣氏滅亡前までの間に、行われた。

            ■ 京(都)の阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)

            にあった、豊国社(とよくにしゃ)は、 京(都)

            の茶屋町に現在ある、豊国神社(とよくにじ

            んじゃ)の前身である。

            ■ 豊国社(とよくにしゃ)は、  京(都)(現・

            京都市東山区)の阿弥陀ヶ峰にあった神社

            である。 豊国社は、京都・三十三間堂(さ

            んじゅうさんげんどう)の近くにあった。

            ■ 豊国社( とよくにしゃ)は、 安土桃山時

            代・江戸時代初期に、京(都)の阿弥陀ヶ峰

            (あみだがみね)の山腹にあったが、廃止と

            なり、その跡地に、現在、豊臣秀吉の廟所

            の豊国廟(ほうこくびょう)がある。

              一方、現在、京都の阿弥陀ヶ峰の豊臣秀

            吉の墓、豊国社( とよくにしゃ)跡地や豊国廟

            (ほうこくびょう)から少し離れた別の場所の、

            京都の茶屋町に、豊臣氏の菩提寺である方

            広寺(ほうこうじ)と、方広寺大仏殿跡地に建

            つ豊臣秀吉を祭(まつ)る豊国神社(とよくに

            じんじゃ)がある。

            ■ 豊国社(とよくにしゃ)は、 豊臣秀吉 

            の死後、方広寺の鎮守として着工され、15

            99年(慶長4年)に完成し、 京(都)の阿弥

            陀ヶ峰(あみだがみね)の山腹にある、壮大

            な社殿(30万坪、社領1万石)であった。

                安土桃山時代・江戸時代初期の当時

            (1598年後1615年までの間)、 豊国社

            (とよくにしゃ)の祭礼である、秀吉の忌日

            (きじつ)の8月18日の豊国祭(ほうこくさい)

            は大いに賑(にぎ)わった。

                豊国祭(ほうこくさい)が大いに賑(に

            ぎ)わったため、淀殿や豊臣秀頼は大いに

            喜び、徳川家康は警戒し、懸念した。

               1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡後

            は、江戸幕府の幕命により、阿弥陀ヶ峰

            豊国社(とよくにしゃ)の社殿は破壊され、 豊

            国祭(ほうこくさい)の祭礼も廃止となった。 

               その後、豊国社(とよくにしゃ)は、18

            80年(明治13年)に京(都)の茶屋町の場

            所に、方広寺大仏殿跡地に、方広寺に隣接

            して、豊国神社(とよくにじんじゃ)として、

            興された。 

            ◆ 豊臣氏関係寺社・墓。 

            ● 京(都)東部の、方広寺、豊国神社、豊

                   臣秀吉の墓、豊国社、豊国廟、高台寺。

            ■ 京(都)東部(京都市東山区)の茶屋町

            には、安土桃山時代の1586年(天正14

            年)より現在まで方広寺(ほうこうじ)があり、 

            方広寺大仏殿跡地に1880年(明治13年)

            から現在まで豊国神社(とよくにじんじゃ)

            がある。

               京(都)東部(京都市東山区)の阿弥陀

            ヶ峰(あみだがみね)には、1598年(慶長

            3年)より現在まで豊臣秀吉の墓があり、 

            1599年(慶長4年)より1615年(慶長20

            年)まで豊国社( とよくにしゃ)があり、 18

            98年(明治31年)から現在まで豊国廟(ほ

            うこくびょう)がある。

               京(都)東部(京都市東山区)の下河

            原町には、 1605年(慶長10年)より現在

            まで高台寺(こうだいじ)がある。

             ■ 京(都)東部にある、方広寺 (ほうこう

            じ)は、豊臣氏の菩提寺(ぼだいじ)である。 

               方広寺には、 江戸時代に、大仏殿

            (だいぶつでん)と梵鐘(ぼんしょう)などが

            あり、1612年(慶長17年)に豊臣秀頼が

            方広寺の大仏殿と梵鐘を完成した。 

               1614年(慶長19年)の「方広寺鐘銘

            事件」(ほうこうじしょうめいじけん)は、大

            坂の陣の戦いの口実となった。

                方広寺の、大仏殿は、江戸時代後

            期の、1798年(寛政10年)に雷火で焼失

            し、梵鐘のみが現存する。

                1605年(慶長10年)に、京(都)東

            部の下河原町に、豊臣 秀吉・正室夫人の、

            おね(ねね)が豊臣 秀吉の冥福を祈るため、

            高台寺(こうだいじ)を創建する。

                1598年(慶長3年)の豊臣秀吉の

            死後、京(都)東部の阿弥陀ヶ峰(あみだ

            がみね)の山腹に、壮大な 豊国社(とよ

            くにしゃ、30万坪、社領1万石) が、方広

            寺の鎮守として着工され、1599年(慶長

            4年)に完成した。 1615年(慶長20年)

            の豊臣氏滅亡前まで、 豊国社の祭礼で

            ある、秀吉の忌日(きじつ)の8月18日の

            豊国祭(ほうこくさい)は、大いに賑(にぎ)

            わった。 

               しかし、1615年(慶長20年)の豊臣

            氏滅亡後、江戸幕府の幕命により、豊国

            社(とよくにしゃ)の、社殿は破壊され、豊

            国祭(ほうこくさい)等の祭礼も停止とな

            った。 

                その後、1880年(明治13年)に、

            豊国神社(とよくにじんじゃ)が、 京(都)

            東部の茶屋町に、方広寺大仏殿跡地に、

            方広寺(ほうこうじ)に隣接して、豊国社

            ( とよくにしゃ)の後身として再興され、 

            1898年(明治31年)に、京(都)の阿弥

            陀ヶ峰の、豊国社跡地に、豊国廟(ほうこ

            くびょう)が建てられる。

               現在、京(都) 東部(京都市東山区)

            の茶屋町の、方広寺(ほうこうじ)や豊国

            神社(とよくにじんじゃ)があり、 そこから

            少し離れた別の場所の、京(都)東部(京

            都市東山区)の阿弥陀ヶ峰(あみだがみ

            ね)の山腹に、豊臣秀吉を葬った墓 と、 

            豊国社(とよくにしゃ)跡地に建つ豊国廟

            (ほうこくびょう)があり、 京(都)東部(京

            都市東山区)の下河原町に、高台寺(こう

            だいじ)がある。

 

 ほう  豊国廟

            (ほうこくびょう)。 廟所》。

         (廟所:1898年ー現在)。

         ○ 豊臣秀吉の廟所。

            □ 豊臣秀吉ガイドブック  

           □ 豊臣秀吉 関連年代順

             出来事ブック

                   □ 豊臣氏 画像アルバム 

                        No.1

                   □ 豊臣氏 画像アルバム 

            No.2

         (⇒ 方広寺(ほうこうじ)豊国神社

          (とよくにじんじゃ)豊国社(とよくにしゃ)

          豊国祭(ほ うこくさい)高台寺(こうだ

             いじ))。

         (⇒ 豊臣氏 画像アルバム No.1)。

         (⇒ 豊臣 秀吉)。

         (⇒ 豊臣 秀吉 ガイドブック)。

            ■ 豊国廟(ほうこくびょう)は、 現在、京

            都市東山区の阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)

            にある豊臣秀吉の廟所である。 

               豊国廟は、京都・三十三間堂(さんじ

            ゅうさんげんどう)の近くにある。

             ■ 京(都)の阿弥陀ヶ峰(あみだがみね) 

            の山腹にある、豊国廟(ほうこくびょう)は、

            豊臣秀吉を葬った墓(墓:1598年ー現在)

            の廟所(びょうしょ、1880年ー現在)であ

            る。 

            ● 豊国廟(ほうこくびょう)は、 現在、

            (都)の阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)の山腹

            あり、豊国廟の中に、約500段の階段を

            上がり、山の上に壮麗で立派な秀吉の墓

            がある。

            ■ 豊国廟(ほうこくびょう)は、京(都)の阿

            弥陀ヶ峰(あみだがみね)の山腹に安土桃

            山時代・江戸時代初期にあった豊国社 (と

            よくにしゃ)跡地にある、豊臣秀吉の廟所で

            ある。

              一方、現在、京都の阿弥陀ヶ峰の豊臣

            秀吉の墓、豊国社(とよくにしゃ)跡地や豊

            国廟(ほうこくびょう)から少し離れた別の

            場所の、京都の茶屋町に、豊臣氏の菩提

            寺である方広寺(ほうこうじ) と、方広寺

            に隣接して方広寺大仏殿跡地に建つ豊臣

            秀吉を祭(まつ)る豊国神社(とよくにじん

            じゃ)がある。

            ◆ 豊臣氏関係寺社・墓。 

            ● 京(都)東部の、方広寺、豊国神社、豊

                   臣秀吉の墓、豊国社、豊国廟、高台寺。

            ■ 京(都)東部(京都市東山区)の茶屋町

            には、安土桃山時代の1586年(天正14

            年)より現在まで方広寺(ほうこうじ)があり、 

            方広寺大仏殿跡地に1880年(明治13年)

            から現在まで豊国神社(とよくにじんじゃ)

            がある。

               京(都)東部(京都市東山区)の阿弥陀

            ヶ峰(あみだがみね)には、1598年(慶長

            3年)より現在まで豊臣秀吉の墓があり、 

            1599年(慶長4年)より1615年(慶長20

            年)まで豊国社( とよくにしゃ)があり、 18

            98年(明治31年)から現在まで豊国廟(ほ

            うこくびょう)がある。

               京(都)東部(京都市東山区)の下河

            原町には、 1605年(慶長10年)より現在

            まで高台寺(こうだいじ)がある。

             ■ 京(都)東部にある、方広寺 (ほうこう

            じ)は、豊臣氏の菩提寺(ぼだいじ)である。 

               方広寺には、 江戸時代に、大仏殿

            (だいぶつでん)と梵鐘(ぼんしょう)などが

            あり、1612年(慶長17年)に豊臣秀頼が

            方広寺の大仏殿と梵鐘を完成した。 

               1614年(慶長19年)の「方広寺大仏

            殿鐘銘事件」(ほうこうじだいぶつでんしょう

            めいじけん)は、大坂の陣の戦いの口実と

            なった。

                方広寺の、大仏殿は、江戸時代後

            期の、1798年(寛政10年)に雷火で焼失

            し、梵鐘のみが現存する。

                1605年(慶長10年)に、京(都)東

            部の下河原町に、豊臣 秀吉・正室夫人の、

            おね(ねね)が、豊臣 秀吉の冥福を祈るた

            め、高台寺(こうだいじ)を創建する。

                1598年(慶長3年)の豊臣秀吉の

            死後、京(都)東部の阿弥陀ヶ峰(あみだ

            がみね)の山腹に、壮大な 豊国社(とよ

            くにしゃ、30万坪、社領1万石) が、方広

            寺の鎮守として着工され、1599年(慶長

            4年)に完成した。 1615年(慶長20年)

            の豊臣氏滅亡前まで、 豊国社の祭礼で

            ある、秀吉の忌日(きじつ)の8月18日の

            豊国祭(ほうこくさい)は、大いに賑(にぎ)

            わった。 

               しかし、1615年(慶長20年)の豊臣

            氏滅亡後、江戸幕府の幕命により、豊国

            社(とよくにしゃ)の、社殿は破壊され、豊

            国祭(ほうこくさい)等の祭礼も停止とな

            った。 

                その後、1880年(明治13年)に、

            豊国神社(とよくにじんじゃ)が、 京(都)

            東部の茶屋町に、方広寺大仏殿跡地に、

            方広寺(ほうこうじ)に隣接して、豊国社

            ( とよくにしゃ)の後身として再興され 、 

            1898年(明治31年)に、京(都)の阿弥

            陀ヶ峰の、豊国社跡地に、豊国廟(ほうこ

            くびょう)が建てられる。

               現在、京(都) 東部(京都市東山区)

            の茶屋町の、方広寺(ほうこうじ)や豊国

            神社(とよくにじんじゃ)があり、 そこから

            少し離れた別の場所の、京(都)東部(京

            都市東山区)の阿弥陀ヶ峰(あみだがみ

            ね)の山腹に、豊臣秀吉を葬った墓 と、 

            豊国社(とよくにしゃ)跡地に建つ豊国廟

            (ほうこくびょう)があり、 京(都)東部(京

            都市東山区)の下河原町に、高台寺(こう

            だいじ)がある。

 

#housa

 

 ほう  宝治。 

            (ほうじ)。  《和暦》。

             THE HOJI ERA.

            ○ 1247年 ー1249年。

            ● 1247年・宝治元年・2月28日〜

               1249年・宝治 3年・3月18日。

            ● 鎌倉時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック

 

 ほう  

             (ほうしゅう)。 《旧地域名》。

          (= 豊前(ぶぜんのくに)、豊後国

             (ぶんごのくに))。

          (= 二豊(にほう)、豊国(とよのくに))。

                        HOSHU AREA.

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国名(令制

           国)の別称)。

          ■ 

          (≒ 概ね、現・福岡県北東部

          大分県の相当領域)。

                    (⇒ 豊前豊後国)。    

                    (⇒ 福岡県、大分県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

                           ■ 豊州 (ほうしゅう、= 豊前豊後国) 

              は 、西海道(さいかいどう)・旧広域地方に

              属し、 概ね、現・九州地方の、現在の福岡

              県北東部 、大分県に相当する領域である。

             ● 豊州 (ほうしゅう)は、 豊前国 (ぶ

             ぜんのくに、現・福岡県北東部 の相当領

             域 )  と 豊後国 (ぶんご のくに、現・

             大分県の相当領域 の いずれか、また

                           は 、両国を合わせて呼ぶ別称である。

             ● 豊州 (ほうしゅう)は、 律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             国名(令制国)正式名の、豊前国 (ぶ

             ぜんのくに、現・福岡県北東部 の相当領

             域 )  と 豊後国 (ぶんご のくに、現・

             大分県の相当領域 の いずれか、また

                           は 、両国を合わせて呼ぶ別称である。

             ● 二豊(にほう)、豊国(とよのくに)は、

             豊前国、豊後国の両国を合わせて呼ぶ

             別称である。

 

 ぼう  防州

             (ぼうしゅう)。 《旧地域名》。

          (= 周防 (すおうのくに)の別称、

           周州(しゅうしゅう))。

          (≒ 概ね、現・山口県東部の相

          当地域)。

                     BOSHU AREA.

          (律令制定後・古代・中世・近世

          日本・旧地域名の旧国名(令制

          国)の別称)。

                   (⇒ 周防 国)。

                    (⇒ 山口県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

                         ■ 防州 ぼうしゅう、= 周防 国、周州)は、 

             山陽道(さんようどう)・広域地方に属し、概

             ね、現・中国地方の、現在の 山口県東部に

             相当する地域である。

             ■ 防州( ぼうしゅう)や周州(しゅうしゅう)

             は、 律令制定後・古代・中世・近世日本・

             旧地域名の、旧国名(令制国)正式名の、

             周防 国 ( すおう のくに)の 別称である。

 

 ほう  砲術指南。

                          (ほうじゅつしなん)。武家の役職》。

          ○ 鉄砲、大砲などの火器の指導を

           する者。

       (⇒ 山本氏

 

 ほう  奉書

                          (ほうしょ)。  公文書》。

          ○ 上位者が上位者の従者の名義

          で上位者の趣旨を記して発給する

          公文書。

          ○ 綸旨(りんじ)、院宣(いん ぜん)、令

             (りょうじ)、 公卿(くぎょう)の御教書

          (みぎょうしょ、みきょうじょ)など 。

 

 ぼう   房州

             (ぼうしゅう)。 《旧地域名》。

          (= 安房 ( あわ のくに)の別称)。

          (≒ 概ね、現・千葉県南部の相

          当地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国名(令制

           国)の別称)。

          BOSHU AREA.

                    (⇒ 安房 )。    

                    (⇒ 千葉県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

                          ■ 房州ぼうしゅう、= 安房 国の別称

             安州)は、 東海道(とうかいどう)・旧広域

             地方に属し、 概ね、現・関東地方の、現在

             の 千葉県南部に相当する地域である。

             ■ 房州(ぼうしゅう) や 安州(あんしゅ

             う)は、 律令制定後・古代・中世・近世日

             本・旧地域名の、旧国 名(令制国)正式名

             の、安房 国 ( あわ のくに)の別称である。

 

#houjou

 

 ほう  北条 氏綱

            (ほうじょう うじつな)。 《人名》。

               (1486年ー1541年)。

             HOJO Ujitsuna.

       (⇒ 小田原北条氏)。

          ○ 相模国(さがみのくに、現・

          神奈川県の相当地域)の

          武将、戦国大名、国主(こく

                             しゅ)

          ○ 小田原北条氏の第2代

          当主。

          ○ 北条早雲の子。

               ■ 北条氏綱 (ほうじょう うじつな、1486

             〜1541年)は、 相模国(さがみの くに、

             現・神奈川県の相当地域) の武将、戦国

             大名、国主(こくしゅ)である。 

             ● 北条氏綱は、 小田原北条氏の第

             2代当主であり、 北条早雲の子である。

             ■ 小田原北条氏 (おだわらほうじょうし、

             後北条氏、北条氏)は、

             室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代

             に、相模国(さがみの くに、概ね、現・神奈

             川県の相当地域)で、 北条早雲(そううん、

             初代)、北条氏綱(うじつな、第2代)、北条

             氏康(うじやす、第3代)、北条氏政(うじま

             さ、第4代)、北条氏直(うじなお、第5代)

             の5代、約100年間続いた、戦国大名、国

             主(こくしゅ)であり、盛期に、関東地方に勢

             力を広げた。

 

 ほう  北条 氏直

                          (ほうじょう うじなお)。 《人名》。

               (1562年 −1591年)。

             HOJO Ujinao.

       (⇒ 小田原北条氏)。

          ○ 相模国(さがみのくに、現・

          神奈川県の相当地域)の

          武将、戦国大名、国主(こく

             しゅ)

          ○ 小田原北条氏の第5代

          当主。

          ○ 北条氏政の子。

               ■ 北条氏直 (ほうじょう うじなお、1562

             年〜1591年)は、 相模国(さがみの くに、

             現・神奈川県の相当地域) の武将、戦国

             大名 であり、 小田原北条氏 の第5代

             当主であり、 北条氏政の子である。

             ■ 小田原北条氏 (おだわらほうじょうし、

             後北条氏、北条氏)は、

             室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代

             に、相模国(さがみの くに、概ね、現・神奈

             川県の相当地域)で、 北条早雲(そううん、

             初代)、北条氏綱(うじつな、第2代)、北条

             氏康(うじやす、第3代)、北条氏政(うじま

             さ、第4代)、北条氏直(うじなお、第5代)

             の5代、約100年間続いた、戦国大名、国

             主(こくしゅ)であり、盛期に、関東地方に勢

             力を広げた。

 

 ほう   北条 氏政

              (ほうじょう うじまさ)。 《人名》。

                (1538年ー1590年)。

             HOJO Ujimasa.

        (⇒ 小田原北条氏)。

           ○ 相模国(さがみのくに、現・

          神奈川県の相当地域)の

          武将、戦国大名、国主

          (こくしゅ)

           ○ 小田原北条氏の第4代

          当主。

           ○ 北条氏康の子。

               ■ 北条氏政 (ほうじょう うじまさ、1538

             〜1590年)は、 相模国  (さがみの くに、

              概ね、現・神奈川県の相当地域) の武将、

             戦国大名、国主(こくしゅ)である。 

             ● 北条氏 政は、 小田原北条氏の

             第4代当主であり、 北条氏康の子である。

             ■ 小田原北条氏 (おだわらほうじょうし、

             後北条氏、北条氏)は、

             室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代

             に、相模国(さがみの くに、概ね、現・神奈

             川県の相当地域)で、 北条早雲(そううん、

             初代)、北条氏綱(うじつな、第2代)、北条

             氏康(うじやす、第3代)、北条氏政(うじま

             さ、第4代)、北条氏直(うじなお、第5代)

             の5代、約100年間続いた、戦国大名、国

             主(こくしゅ)であり、盛期に、関東地方に勢

             力を広げた。

 

 ほう  北条 氏康

            (ほうじょう うじやす)。 《人名》。

               (1515年ー1571年)。

             HOJO Ujiyasu.

       (⇒ 小田原北条氏)。

          ○ 相模国(さがみのくに、現・

          神奈川県の相当地域)の

          武将、戦国大名、国主(こく

             しゅ)

          ○ 小田原北条氏の第3代

          当主。

          ○ 北条氏綱の子。

               ■ 北条氏康 (ほうじょう うじやす、1515

             〜1571年)は、 相模国(さがみの くに、

             現・神奈川県の相当地域) の武将、戦国

             大名、国主(こくしゅ)である。 

             ● 北条氏康は、 小田原北条氏の

             第3代当主であり、 北条氏綱の子である。

             ■ 小田原北条氏 (おだわらほうじょうし、

             後北条氏、北条氏)は、

             室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代

             に、相模国(さがみの くに、概ね、現・神奈

             川県の相当地域)で、 北条早雲(そううん、

             初代)、北条氏綱(うじつな、第2代)、北条

             氏康(うじやす、第3代)、北条氏政(うじま

             さ、第4代)、北条氏直(うじなお、第5代)

             の5代、約100年間続いた、戦国大名、国

             主(こくしゅ)であり、盛期に、関東地方に勢

             力を広げた。

 

〇  ほう   北条 貞顕

                            (ほうじょう さだあき)。  《人名》。

              (= 金沢貞顕)。

                     (鎌倉幕府の執権)。

             HOJO Sadaaki.

               ○ 鎌倉幕府の鎌倉北条氏・

          第15代執権

                ○ 鎌倉北条氏分家の金沢家

            当主。   

               ○ 北条実泰の曾孫(ひまご)

           ■ 鎌倉幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。

 

〇  ほう   北条 貞時

                          (ほうじょう さだとき)。 《人名》。

                     (鎌倉幕府の執権)。

           (1271年ー1311年)。

             HOJO Sadatoki.

               ○ 鎌倉幕府の鎌倉北条氏・

          第9代執権

               ○ 得宗(とくそう鎌倉北条氏

           本家)当主。

               ○ 鎌倉幕府・第8代執権・

           北条時宗の子。

           ■ 鎌倉幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。

 

 ほう  北条氏

             (ほうじょうし、ほうじょううじ)。

             《武家の氏族》。

          (= 鎌倉北条氏、または、

            小田原北条氏)。

        (⇒ 鎌倉北条氏)。

           ■ 鎌倉幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。

           ■ 源頼朝の詳細な内容

          に関しては、

          □ 源頼朝ガイドブック

          □ 源頼朝 関連年代順 

             出来事ブック。     

          を参照してください。 

        (⇒ 小田原北条氏)。

               ■ 北条氏 (ほうじょし)は、

             平安・鎌倉時代に活躍した鎌倉北条氏

             (かまくらほうじょうし)の執権北条氏 

             をさす場合、 と

             室町・安土桃山時代に活躍した戦国大

             名の小田原北条氏 (おだわらほうじょ

             うし、後北条氏)をさす場合、

             などがある。

 

〇 ほう   北条氏得宗。 

               (ほうじょうしとくそう)。

          《氏族の当主》。

            (= 鎌倉時代の鎌倉北条

           氏(執権北条氏)の本家

           の当主)。        

           ○ 北条氏得宗とは、

           別名は得宗といい、鎌倉

          時代の鎌倉北条氏(= 鎌

           府倉幕の執権北条氏)の

           本家の当主である。

           ■ 鎌倉幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。

           (⇒ 鎌倉将軍御家人)。

           (⇒ 北条氏得宗

           北条得宗家得宗専制

                  寄合内管領長崎氏

           御内人)。

          (⇒ 執権執権北条氏)。

              (⇒ 河内源氏鎌倉北条氏)。

              (⇒ 源氏政権北条政権

                   鎌倉幕府)。

          (⇒ 幕府将軍武家政権)。

          (⇒ 日本の政権・政府)。

             ■ 北条氏得宗。

              北条氏得宗 (ほうじょうしと

             くそう、= 得宗とは、 鎌倉時代

             の鎌倉北条氏(= 鎌倉幕府の執

             権北条氏)の本家(宗家、嫡流) 

             の当主であり、 北条得宗家 

             (ほうじょうとくそうけ、= 得宗家、

             鎌倉時代の鎌倉北条氏(= 鎌倉

             幕府の執権北条氏)の本家)の

             当主である。 

             ● 北条氏得宗の権力の基盤と

             なった広大な所領を得宗領(とく

             そうりょう)といい、 得宗の直臣

             家臣を御内人(みうちびと)とい

             い、 御内人(= 得宗家臣)の筆

             頭を内管領 (ないかんれい、

                            うち(の)かんれい)という。

             ● 北条氏得宗の権力。

                北条氏得宗得宗)は、

             倉幕府で大きな政治権力をもち、 

             鎌倉時代後期の得宗専制時、

             執権(しっけん)を凌(しの)ぎ、

             鎌倉幕府の最高権力者となる。

             ● 北条氏得宗(= 得宗、鎌倉北

             条氏本家当主)は、

             北条時氏以外執権に就任。

                北条氏得宗は、若年で死去

             した北条時氏(ときうじ)を除き

             鎌倉幕府の執権(しっけん)に就

             任している。

                                  鎌倉北条氏分家出身の執

             権は、北条氏得宗の代理に過ぎ

             なかった。

             ● 広義の北条氏得宗と狭義の

             北条氏得宗。 

                北条氏得宗(= 得宗

             = 鎌倉北条氏本家当主とは、 

             広義では、北条時政(ときまさ)

             を含め鎌倉北条氏本家の当主・

             9代であり、 狭義では、北条時

             政を除く北条義時(よしとき)以

                     後の鎌倉北条氏本家の当主

             8代である。 

             ● 北条氏得宗9代一覧表

                鎌倉幕府で強権をもつ

              北条氏得宗 ( ほうじょうしとく

             そう、= 得宗、鎌倉北条氏本

             家当主、広義)は、 順に、

             (1) 北条時政(ときまさ)、

             (2) 北条義時(よしとき)、 

             (3) 北条泰時(やすとき)、

             (4) 北条時氏(ときうじ)、

             (5) 北条経時(つねとき)、

             (6) 北条時頼(ときより)、

             (7) 北条時宗(ときむね)、

             (8) 北条貞時 (さだとき)、

             (9) 北条高時(たかとき) 、

             である。

             ■ 北条時政。

             ■ 北条時政 (ほうじょうとき

             まさ)は、広義では、北条氏得宗

             (得宗)、北条得宗家の始祖

             である。

                北条時政(ときまさ)の子は、

             北条政子(まさこ)、北条義時(よ

             しとき)などである。

 

 ほう   北条政権

              (ほうじょうせいけん)。

           《日本の政権・政府》。

           (= 鎌倉北条氏政権、

           鎌倉幕府・北条執権政権)。 

                    (1219年頃−1333年頃)。 

               THE HOJO GOVERNMENT.

           □ 北条政権の詳細な内

          容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。

           ■ 源頼朝の詳細な内容

          に関しては、

          □ 源頼朝ガイドブック

          □ 源頼朝 関連年代順 

             出来事ブック。     

          を参照してください。 

          (⇒ 鎌倉幕府) 。

          (⇒ 源氏政権武家政権)。

          (⇒ 日本の政権・政府)。

           (⇒ 北条氏得宗

           北条得宗家得宗専制

                  寄合内管領長崎氏

           御内人)。

           ○ 北条政権は、

          1219年の源実朝(みなもと

              のさねとも)死去後・北条 政子

           聴政から1333年の鎌倉

           幕府滅亡までである。

           ○ 北条政権は、

          鎌倉北条氏が鎌倉幕府の

          最高指導者として、執権政

          治を行った時期であり、

           1219年の源実朝死去後

          の北条政子聴政・第2代執

          権・北条義時の執権政治

          開始から、北条泰時、

          経時、時頼、長時、正村、

          時宗、貞時、師時、宗宣、

          熙時、基時、高時、貞顕、

          第16代執権・北条守時 の

          1333年の執権政治終了

          の時期 までである。

 

 ほう   北条 早雲

              (ほうじょう そううん)。 《人名》。

           (= 伊勢新九郎長氏いせ し

              んくろうながうじ) 、早雲庵宗瑞

              (そううんあんそうずい、出家後))。

                (1432〜1519年)。

              HOJO Soun.

        (⇒ 小田原北条氏)。

          ○ 相模国(さがみのくに、現・

          神奈川県の相当地域)の

          武将、戦国大名、国主(こ

                             くしゅ)

          ○ 小田原北条氏の初代

          当主。

          ○ 伊豆国、相模国を領国

          とする。

          ○ 室町幕府の官僚出身。

          ○ 室町幕府の政所執事・

          伊勢氏の一族。

               ■ 北条 早雲 (ほうじょう そううん、伊勢新

             九郎長氏、1432〜1519年)は、 相模国

             (さがみのくに、 概ね、現・神奈川県の相当

             地域) の武将、戦国大名、国主(こくしゅ)で

             ある。 

               ● 北条 早雲は、 伊勢新九郎長氏(いせ し

             んくろうながうじ) 、 早雲庵宗瑞(そううんあ

             んそうずい、出家後) と称した。

             ● 北条 早雲は、 小田原北条氏の

             初代当主であり、 伊豆国 (いずのくに、現・

             静岡県伊豆半島の相当地域) や 相模国を

             領国とした。

             ● 北条 早雲は、 室町幕府の官僚出身で

             あり、 室町幕府の政所執事・伊勢氏の一

             族である。

             ■ 小田原北条氏 (おだわらほうじょうし、

             後北条氏、北条氏)は、

             室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代

             に、相模国(さがみの くに、概ね、現・神奈

             川県の相当地域)で、 北条早雲(そううん、

             初代)、北条氏綱(うじつな、第2代)、北条

             氏康(うじやす、第3代)、北条氏政(うじま

             さ、第4代)、北条氏直(うじなお、第5代)

             の5代、約100年間続いた、戦国大名、国

             主(こくしゅ)であり、盛期に、関東地方に勢

             力を広げた。

 

〇  ほう  北条 高時

                         (ほうじょう たかとき)。 《人名》。 

                    (鎌倉幕府の執権)。

             HOJO Takatoki.

               ○ 鎌倉幕府の鎌倉北条

           氏・第14代執権

               ○ 得宗(とくそう鎌倉北

           条氏本家)当主。 

               ○ 第9代執権・北条貞時

           の子。

           ■ 鎌倉幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。

 

〇  ほう   北条 経時 

                          (ほうじょう つねとき)。  《人名》。

                    (鎌倉幕府の執権)。

             HOJO Tsunetoki.

               ○ 鎌倉幕府の鎌倉北条

           氏・第4代執権

               ○ 得宗(とくそう鎌倉北

           条氏本家)当主。

               ○ 第3代執権・北条泰時

           の孫。

           ■ 鎌倉幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。

 

〇  ほう   北条 登子

              (ほうじょう なり《人名》。

           (= 赤橋 登子)。

                     (室町幕府の将軍夫人)。 

             HOJO Toko.

               ○ 室町幕府・初代将軍・

          足利尊氏の正室夫人。

               ○ 室  町幕府・第2代将軍・

          足利義詮(よしあきら)の生母 。

           ■ 鎌倉幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。

          (⇒ 足利 尊氏)。

          (⇒ 北条 守時)。

             ■ 北条 登子 (ほうじょう とうこ、

              =赤橋登子) は、 室町幕府・初代

             将軍・足利尊氏(たかうじ)の正室

                            夫人 である。

             ● 北条(赤橋) 登子は、 

             室町幕府・第2代将軍・足利 義詮

             (よしあきら)の生母であ る。

             ● 北条(赤橋) 登子は、 

             鎌倉幕府の最後の執権(鎌倉北

             条氏・第16代執権)・北条(赤橋)

                            守時の妹である。

 

〇  ほう  北条 時政

            (ほうじょう ときまさ)。 《人名》。

                   (鎌倉幕府の執権)。

         (1138年ー1215年)。

                    ○ 鎌倉幕府の鎌倉北条

          氏・初代執権(しっけん)

          ○ 源頼朝の正室夫人・

          北条政子の父。

           ■ 鎌倉幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。

           ■ 源頼朝の詳細な内容

          に関しては、

          □ 源頼朝ガイドブック

          □ 源頼朝 関連年代順 

             出来事ブック。     

          を参照してください。 

 

〇  ほう   北条 時宗 

             (ほうじょう ときむね)。 《人名》。

                    (鎌倉幕府の執権)。

          (1251年ー1284年)。

               ○ 鎌倉幕府の鎌倉北条

          氏・第8代執権(しっけん)。

               ○ 得宗(とくそう、 鎌倉北

          条氏本家)当主。

          ○ 蒙古来襲(元寇)を阻

          止した政治家。

           ■ 鎌倉幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。

 

〇  ほう   北条 時頼

              (ほうじょう ときより)。 《人名》。

                    (鎌倉幕府の執権)。

               ○ 鎌倉幕府の鎌倉北条

          氏・第5代執権

               ○ 得宗(とくそう、 鎌倉北

          条氏本家)当主。

               ○ 第3代執権・北条泰時

                     の孫。

           ■ 鎌倉幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。

 

〇 ほう    北条得宗家。 

                (ほうじょうとくそうけ)。 《氏族名》。

           ○ 北条得宗家とは、

           別名は得宗家といい、

           鎌倉時代の鎌倉北条氏

           (= 鎌倉幕府の執権

              北条氏)の本家である。

           ■ 鎌倉幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。

           (⇒ 鎌倉将軍御家人)。

           (⇒ 得宗得宗家寄合

                   内管領長崎氏御内人

            得宗専制)。

          (⇒ 執権執権北条氏)。

          (⇒ 河内源氏鎌倉北条氏)。

               (⇒ 源氏政権北条政権

                   鎌倉幕府)。

          (⇒ 幕府将軍武家政権)。

          (⇒ 日本の政権・政府)。

             ■ 北条得宗家。 

             ● 北条得宗家(ほうじょうとくそう

             け、得宗家)とは、 鎌倉時代の鎌

             倉北条氏(= 鎌倉幕府の執権北条

             氏)の本家(宗家、嫡流、惣領家)

             である。 

             ■ 広義の北条得宗家と狭義の

             北条得宗家。 

                北条得宗家 ( ほうじょうとく

             そう け、得宗家 、鎌倉北条氏本

             とは、 広義では、北 条時政

             (ときまさ)の北条氏本家を含め

             た鎌倉北条氏本家(9代)であり、 

             狭義では、北条時政の北条氏本

             家を除く北条義時(よしとき)以

                     後の鎌倉北条氏本家(8代)で

             ある。 

             ■ 北条時政。

             ■ 北条時政 (ほうじょうときま

             さ)は、広義では、北条氏得宗、

             北条氏得宗家の始祖である。

                北条時政(ときまさ)の子は、

             北条政子(まさこ)、北条義時(よ

             しとき)などである。

 

〇  ほう   北条 長時

              (ほうじょう ながとき)。  《人名》。

                     (鎌倉幕府の執権)。

                ○ 鎌倉幕府の鎌倉北条氏・

           第6代執権

                ○ 鎌倉北条氏分家当主。

                ○ 北条重時の子、北条義時

            の孫。

           ■ 鎌倉幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。

 

〇  ほう   北条 熙時

                          (ほうじょう ひろとき)。  《人名》。

                     (鎌倉幕府の執権)。

                ○ 鎌倉幕府の鎌倉北条

            氏・第12代執権

                ○ 鎌倉北条氏分家当主。

                ○ 第7代執権・北条政村

            の曾孫(ひまご)。

           ■ 鎌倉幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。

 

〇  ほう   北条 政子

             (ほうじょう まさこ)。  《人名》。

                     (= 尼将軍)。  賢妻。

                     (鎌倉幕府・将軍の夫人)。 

           (1157年〜1225年)。

           ■ 源頼朝の詳細な内容

          に関しては、

          □ 源頼朝ガイドブック

          □ 源頼朝 関連年代順 

             出来事ブック。     

          を参照してください。 

           ■ 鎌倉幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。

           ○ 北条政子は、

          日本の歴史を変えた才女

          である。

           ○ 北条政子は、

          源頼朝の正室夫人である。

           ○ 北条政子は、

                     源 頼朝死後、源 頼朝が

           創設した、朝廷から独立

          した武士政権の鎌倉幕府

                     を支え、基礎を築く。

           ○ 承久の乱では、将軍

          代理の北条政子は、東国

          武士たちを前に、安達景

          盛に声 明文を代読させ、

          「右大将の源頼朝が創

          設した鎌倉幕府によって

          武士の身分・生活水準

          が上がり、右大将の源

          頼朝の御恩は山よりも

          高く、海よりも深い。 

          今回、鎌倉幕府打倒を

          言(ざんげん)し た上皇の陪

          臣どもを討取るために立

          ち上がれ!  しかし、上

          皇方に味方したい者は、

          そうするがよい」などと述

          べる(『吾妻鏡』より)。

                ○ 北条政子は、

          鎌倉幕府第3代将軍・源  

          実朝死後、将軍不在位

          時期及び幕府第4代将

          軍・藤原頼経幼少時期

          には、将軍代行(尼将軍)

          を務める。

               ○ 北条政子は、

                鎌倉北条氏の祖で鎌倉

          幕府の初代執権・北条時

           政の子(娘)であり、

          鎌倉幕府の第2代執権・

          北条義時の姉である

 

〇  ほう   北条 政村

              (ほうじょう まさむら)。  《人名》。

                     (鎌倉幕府の執権)。

                ○ 鎌倉幕府の鎌倉北条氏・

           第7代執権

                ○ 鎌倉北条氏分家当主。

                ○ 北条義時の子。

           ■ 鎌倉幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。

 

〇  ほう   北条 宗宣

              (ほうじょう むねのり) 。  《人名》。

             (= 大仏(おさらぎ)宗宣)。

                     (鎌倉幕府の執権)。

               ○ 鎌倉幕府の鎌倉北条氏・

            第11代執権

               ○ 鎌倉北条氏分家当主。

               ○ 北条時房の曾孫(ひまご)

           ■ 鎌倉幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。

 

〇  ほう   北条 基時

              (ほうじょう もととき)。  《人名》。

                     (鎌倉幕府の執権)。

               ○ 鎌倉幕府の鎌倉北条氏・

            第13代執権

               ○ 鎌倉北条氏分家当主。

               ○ 北条重時の曾孫(ひまご)

           ■ 鎌倉幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。

 

〇  ほう   北条 守時

                           (ほうじょう もりとき)。  《人名》。

             (= 赤橋守時)。 

                    (鎌倉幕府の執権)。

          (1295年ー1333年)。

           ■ 鎌倉幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。

               ○ 北条守時は、

          足利尊氏(たかうじ)の正室

          夫人・登子(とうこ)の兄 で

          ある。

               ○ 北条守時は、

          鎌倉幕府の鎌倉北条氏・

          第16代執権である

               ○ 北条守時は、

          鎌倉北条氏分家・赤橋家

          当主である。

               ○ 北条守時は、

          第6代執権・北条長時の

          曾孫(ひまご)である。

             ■ 北条守時 (ほうじょう もりと

             、1295年 ー1333年)は、赤橋

             と守時 (あかはし もりき)とも称す

             る。

             ■ 北条守時は、 足利尊氏(たか

             うじ)の正室夫人・登子(とうこ)の

             兄であり、 鎌倉幕府の 鎌倉北条

             氏・第16代執権であり、 鎌倉北条

             氏分家・赤橋家の当主 であり、 

             第6代執権・北条長時の曾孫(ひま

             ご) である。

 

〇  ほう   北条 師時

                          (ほうじょう もろとき)。 《人名》。

                     (鎌倉幕府の執権)。 

               ○ 鎌倉幕府の鎌倉北条

            氏・第10代執権

               ○ 得宗(とくそう鎌倉北

            条氏本家)当主。

               ○ 第5代執権・北条時頼

          の孫、北条時宗の弟・北条

                     宗政の子。

           ■ 鎌倉幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。

 

〇  ほう   北条 泰時

              (ほうじょう やすとき)。 《人名》。

                     (鎌倉幕府の執権)。

               ○ 北条泰時は、

          鎌倉幕府の第3代執権

          である。

               ○ 北条泰時は、

          得宗(とくそう鎌倉北条

          氏本家の当主)である。 

               ○ 北条泰時は、

               第2代執権・北条義時の

          子である。

           ■ 鎌倉幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。

                         

〇  ほう   北条 義時

              (ほうじょう よしとき)。 《人名》。

                     (鎌倉幕府の執権)。

           ■ 鎌倉幕府の詳細な内

           容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。

           ■ 源頼朝の詳細な内容

          に関しては、

          □ 源頼朝ガイドブック

          □ 源頼朝 関連年代順 

             出来事ブック。     

          を参照してください。 

               ○ 北条義時は、

          鎌倉幕府の第2代執権

          である。

               ○ 北条義時は、

          源頼朝夫人の北条政子

          の弟である。

               ○ 北条義時は、

          得宗(とくそう鎌倉北条

          氏本家の当主)である。 

          法名(ほうみょう)は、徳宗

          (とくそう)である。

               ○ 北条義時は、

          初代執権・北条時政の

          子である。

 

#houta

 

〇  ほう  奉天。

            (ほうてん)。 《旧都市名》。

          (= 瀋陽(しんよう、シェンヤン)。

          ○ 瀋陽(しんよう、シェンヤン)の旧名。

             ■ 奉天(ほうてん)は、 瀋陽(しんよう、シ

             ェンヤン)の旧名である。

             ● 奉天(ほうてん、瀋陽)は、 満州(= 中

             国東北部)の遼寧(りょうねい、リャオニン)

             省の都市である。

             ● 奉天(ほうてん、瀋陽)は、 日露戦争の

             1905年の陸戦の激戦地 であった。

 

〇  ほう  宝徳。

            (ほうとく)。 《和暦》。

             THE HOTOKU ERA.

             ○ 1449年ー1452年。

                ● 1449年・宝徳元年・7月28日〜

                1452年・宝徳 4年・7月25日。 

                ● 室町時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

#houma

 

〇  ほう  法名

             (ほうみょう)。

          (= 法号(ほうごう)、戒名)。

          《出家後の人名》。

          ○ 仏門に入った人に授(さず)

          る名。

          ○ 前近代日本の個人名の1つ。

          ○ 前近代日本では個人名として

           生前に使用された。

          ○ 出家後に称した前近代の個人

          名。

              (⇒ 個人名(いみな)、通称

           法名) 。

              (⇒ 一族名)。

              (⇒ 氏名(一族名+個人名))。

             (⇒ 前近代日本の人名) 。

             ■ 法名  (ほうみょう)とは、 法号

             (ほうごう)、戒名(かいみょう)である。

             ● 法名とは、 仏門に入った人に授

                       (さず)ける名である。

             ● 法名は、 前近代日本では、個人

             名の1つであった。

                法名は、 個人名として生前に

              使用され、出家後に称した前近代日

             本の個人名でもある。

             ■ 前近代日本の一般の人々は、

             人生の岐路に立った時、出家する

             (仏門に入る)ことがよくあった。 

             そして、生前、その出家後に、法名

             を名乗ることがよくあった。

             ■ 前近代日本の人物氏名には、 

             一族名(氏族名、家名) と 個人名

             がある。

             ■ 前近代の個人名。

             ● 前近代日本の人物氏名の個人

             には、 (a) 諱(いみな、正式名) 

             (b) 通称(仮名(けみょう))、 (c)

             法名(戒名、出家名)、 (d) 諡(お

             くりな、諡号(しごう)、貴人死後の

             贈り名)、 (e) 字 (あざな、学者・

             文人の別名)、 (f) 名跡(みょうせ

             き、商家当主継承名、家元・芸名等

             のブランド継承名)、 (g) 号(ごう)、 

             などがある。

 

〇  ぼう  坊門姫。

            (ぼうもんひめ)。 《人名》。

            ■ 坊門姫 (ぼうもんひめ、生年不詳〜

            1190年)は、 

            源義朝(みなもとのよしとも)の娘であり、

            源頼朝の同母姉妹である。

            ■ 坊門姫は、 平治の乱で源義朝死去

            後、 源義朝に仕えていた後藤実基(ご

            とうさねもと)によって密かに匿(かくま)

            われて育てられる。 

               後に、坊門姫は、貴族の一条能保

            (いちじょうよしやす)の夫人となる。

                一条能保は、源頼朝の重要な京

            (都)との接点となり、 一条能保は、京

            (都)における鎌倉政権の出先機関とし

            て重用された。

            ■ 坊門姫の曾孫(ひまご)が、鎌倉幕府

            の第4代将軍となった藤原頼経(ふじわら

            のよりつね)である。

 

〇  ほう  宝暦

            (ほうれき、ほうりゃく) 。 《和暦》。

            THE HOREKI ERA.

         ○ 1751 年ー1764年。

            ● 1751年・宝暦 元年・10月27日〜

               1764年・宝暦14年・ 6月 2日。 

            ● 江戸時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

#hoka

 

 ほく  北辰一刀流。

            (ほくしんいっとうりゅう)。

         《剣術の流派》。

         (⇒ 幕末の江戸剣術道場)

            ○ 幕末に盛んであった剣術の流派

          の1つ。

         ○ 坂本龍馬が江戸で修行していた

          剣術。 

         ○ 新選組の山南敬助(やまなみけいす

             け)、 藤堂平助(とうどうへいすけ)、伊東

          甲子太郎(いとうかしたろう)も幕末 に修

          行していた剣術。

 

 ほく  北信越地方

            (ほくしんえつちほう 《現地域名》。 

          (= 北陸信越地方(ほくりくしんえつち

             ほう))。

          (= 富山県、石川県、福井県、

            長野県、新潟県)。

          (= 富山県・石川県・福井県の

           陸3県(北陸道・ 旧広域地方

           一部) と 長野県(濃国)  と

                     新潟県(後国、佐渡国) を合

          わせた地域)。

          (= 前近代日本の、北陸道・旧広

          域地方の一部の、越中国、能登

          国、加賀国、越前国、若狭国の

          相当地域 と、 信濃国、越後国

          佐渡国の相当地域)。

             ■ 現地域名の、北陸信越地方 (ほくりくし

                      んえつちほう、= 北信越地方(ほくしんえつ)

             は、 富山県・石川県・福井県の北陸3県

             (北陸道・ 旧広域地方の一部) と、 長野

                        県(濃 国) と、 新潟県(後国、佐渡国

             を合わせた地域である。 

             ● 現地域名の、北陸信越地方(= 北信越

             地方)は、 前近代日本の、北陸道・ 旧広

             域地方の一部の、越中国(えっちゅうのく

             に)、能登国(のとのくに)、加賀国(かがの

              くに)、越前国(えちぜんのくに)、若狭国(わ

             かさのくに)の相当地域 と、 信 濃国(しな

             ののくに)、越後国(えちごのくに)佐渡国

             (さどのくに)の相当地域である。

             ■ 信越地方 (しんえつちほう )とは、 長野

             県(濃国) 、新潟県(後国、佐渡国)の地

             域である。

             ● 上信越地方 ( じょうしんえつちほう)と

              は、 群馬県野国) 、長野県(濃国)、

             新潟県(後国、佐渡国)の地域 である。

             ● 甲信越地方 (こうしんえつちほう )とは、

             山梨県(斐国) 、長野県(濃国)、新潟

              県(後国、佐渡国)の地域 である。

             ● 北陸地方 (ほくりくちほう )とは、 新潟

             県・富山県・石川県・福井県の北陸4県、ま

             たは、富山県・石川県・福井県の北陸3県 

             (北陸道・ 旧広域地方) である。

              北信越地方(ほくしんえつちほ う)とは、

             北陸信越地方 (ほくりくしんえつちほう)

                あり、 富山県・石川県・福井県の北陸3県

                (北陸道・ 旧広域地方の一部)、長野県(

                          濃国)、新潟県(後国 、佐渡国)を合わせた

             地域である。

 

 ほく  北朝。

            (ほくちょう)。 《朝廷》。

         (南北朝の朝廷の1つ)。

            □ 京(都)を本拠地とした、持明院

          統の光厳(こうごん)光明(こうみょう)

          皇系統の天皇家の朝廷。

          (⇒ 皇統の分立

          (⇒ 南北朝時代

             ■ 1336年〜1392年、朝廷は、大覚寺統

             の 天皇家の南朝と持明院統の天皇家の北

             朝に分裂し、対立した。

          □ 1336年〜1392年、朝廷が大

          覚寺統の南朝と持明院統の北朝に

          分裂し対立した。

 

 ほく  北面の武士

             (ほくめんのぶし)。 《上皇の軍事組織》。

                   (= 上皇(= 院)の警備隊員)。

 

 ほく   北陸道 

             (ほくりくどう)。 《旧地域名》。

          (= 北陸道・旧広域地方)。

          (= 五畿七道の1つ)。

          HOKURIKUDO REGION.

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の、

           旧地方名の正式名)。

           ■ 北陸道・旧広域地方とは、

            前近代日本の、@ 佐渡 国

          (新潟県佐渡島)、 A 越後国

             (新潟県本土)、  B 越中 国

          (富山県)、 C 能登 国(石川

                     県北部 )、 D 加賀 国(石川県

          南部)、 E 越前 国(福井県北

          部)、 F 若狭国(福井県南部

          の地域 である

           ■ 北陸道・旧広域地方は、

           前近代日本の、@ 佐渡 国

          (さ どのくに、現・新潟県佐渡島

          相当地域)、 A 越後国 (えち

          ご のくに、現・新潟県本土の相当

             地域)、  B 越中 国 (えっちゅう

          のくに、現・富山県の相当 地域)、 

          C 能登 国(のとのくに、現・石川

          県北部の相当地域)、 D 加

                     賀 国(かが のくに、現・石川県南

          の相当 地域)、 E 越前 国

          (えちぜん のくに、現・福井県北部

          の相当地域)、 F 若狭国(

          かさ のくに、現・福井県南部の相

          当地域) の地域である

                    (⇒ 五畿七道)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

          ■ 北陸道・旧広域地方。

            <五畿七道 (ごきしちどう)。

              (≒ 日本本土 (本州、四国、九州))。

            <旧・大地域名。

            <旧地域名。

            <地域名。

            <日本の地名

             ■ 旧地域名の、北陸道(ほくりくどう)は、

             概ね、現地域名の、北陸地方 (ほくりくち

             ほう)の相当地域であり、 新潟県、富山県・

             石川県・福井県の北陸4県の相当地域であ

             る。 

             ● 旧地域名の、北陸道(ほくりくどう)は、

             近代日本の、北陸道・旧広域地方であり、佐 

             渡国 (さどのくに、現・新潟県佐渡島の相当

             地域)、 越後国 (えちごのくに、現・新潟県

             本土の相当地域)、 越中国 (えっちゅうの

             くに、現・富山県の相当 地域)、 能登国(の

             とのくに、現・石川県北部の相当 地域)、 

             加賀国 (かがのくに、現・石川県南部の相

              当地域)、  越前国 (えちぜんのくに、現・

             福井県北部の相当地域)、 若狭国(わかさ

             のくに、現・ 福井県南部の相当地域)である。

 

 ほく  北陸地方。

             (ほくりくちほう)。 《現地域名》。

          (= 新潟県・富山県・石川県・福

          井県の北陸4県 、または、富山

          県・石川県・福井県の北陸3県

          の地域 (北陸道・旧広 域地方))。

          (= 前近代日本の、北陸道・旧広

          域地方で、新潟県(佐渡国、越

          後国)、富山県(越中国)、石川

          県(能登国、加賀国)、福井県

          (越前国、若狭国)の相当地域)。

             ■ 現地域名の、北陸地方 (ほくりくちほ

             う)は、 新潟県 ・富山県・石川県・福井県

             の北陸4県 、または、富山県・石川県・福

             井県の北陸3県の地域である。 

             ● 現地域名の、北陸地方は、 前近代日

             本の、北陸道・旧広域地方の相当地域であ

             り、 新潟県(越後国(えちごのくに)、佐渡

             国(さどのくに))、 富山県(越中国(えっち

             ゅうのくに))、 石川県(能登国(のとのく

             に)、加賀国(かがのくに))、 福井県(越

             前国(えちぜんのくに)、若狭国(わかさの

                           くに)) の相当地域である。

             ■ 信越地方 (しんえつちほう )とは、 長野

             県(濃国) 、新潟県(後国、佐渡国)の地

             域である。

             ● 上信越地方 ( じょうしんえつちほう)と

              は、 群馬県野国) 、長野県(濃国)、

             新潟県(後国、佐渡国)の地域 である。

             ● 甲信越地方 (こうしんえつちほう )とは、

             山梨県(斐国) 、長野県(濃国)、新潟

              県(後国、佐渡国)の地域 である。

             ● 北陸地方 (ほくりくちほう )とは、 新潟

             県・富山県・石川県・福井県の北陸4県、ま

             たは、富山県・石川県・福井県の北陸3県 

             (北陸道・ 旧広域地方) である。

              北信越地方(ほくしんえつちほ う)とは、

             北陸信越地方 (ほくりくしんえつちほう)

                あり、 富山県・石川県・福井県の北陸3県

                (北陸道・ 旧広域地方の一部)、長野県(

                          濃国)、新潟県(後国 、佐渡国)を合わせた

             地域である。

 

#hosa

 

〇 ぼさ  菩薩像。

             (ぼさつぞう)。 《仏教の仏像》。

        (⇒ 仏 像仏教)。

 

〇 ほし  保科 正之 

             (ほしな まさゆき)。 《人名》。

           (= 幼名:幸松(こうまつ))。

          (1611年ー1672年)。

          ○ 保科 正之は、 

          江戸幕府・第2代将軍・

          徳川秀忠の四男である。

          ○ 保科 正之は、

          徳川分家の会津松平家

          の初代当主である。

          ○ 保科 正之は、

          会津藩祖、松平・会津藩

          初代藩主である。

                     ■ 保科 正之 (ほしな まさゆき、

             保科 幸松(幼名:幸松(こうまつ) )、

             1611年ー1672年)は、 江戸幕

             府・第2代将軍・徳川秀忠の四男

             あり、 秀忠の側室夫人のお静(お

             しず、お志津、浄光院)の子である。

                        ● 保科 正之は、 徳川分家の会

             津松平家の初代当主 であり、会津

             藩祖、松平・会津藩初代藩主である。

          ○ 会津藩の藩主・藩士は、

          代々、幕末まで、徳川宗家

          (江戸幕府)に忠誠を誓う。

                        ■ 会津藩祖・保科正之の意向で

             会津藩の藩主・藩士は、代々、幕

             末まで、徳川宗家(江戸幕府)に忠

             誠を誓い、徳川分家の会津松平家

             の会津藩は、幕末、徳川宗家(徳川

              本家、江戸幕府)と命運を共にし、

              京都守護職を引き受け、また、会津

              戦争を起こす。

             ■ 江戸幕府・第2代将軍の徳川

             秀忠の実子の男子には、 

              @ 侍女 (秀忠側室夫人、名不詳)

             との間に、 長男の、長丸 (ちょう

             まる;早世)、 

             A お江 (おごう、秀忠正室夫人)

             との間に二人の男子、 次男の徳川

             家光(とくがわいえみつ、幼名:竹千

             代(たけちよ)) と 三男の徳川忠長 

             (とくがわただなが、幼名:国松(くに

             まつ))、 

             B お静 (おしず、お志津、浄光院;

             侍女、秀忠側室夫人)との間に、 

             四男の保科正之 (ほしなまさゆき)

             幼名:幸松(こうまつ、ゆきまつ)) が

             いた。 

 

〇 ぼし  戊辰戦争

             (ぼしんせんそう)。 《国内戦争》。

             (1868年ー1869年)。

 

〇 ほそ  細川 勝元 

             (ほそかわ かつもと)。 《人名》。

             (1430年ー1473年)。

             (⇒ 応仁の乱)。

          ○ 細川 勝元は、 室町幕府

          の有力守護大名、管領である。

          ○ 細川 勝元は、 応仁の乱

          (1467年〜1477年)の、 

          東軍の指導者である。

                     ■ 細川 勝元 (ほそかわ かつもと、

             1430年ー1473年)は、 細川京兆

             家(= 細川本宗家、細川管領家)の

             当主であり、 室町幕府(= 足利幕府)

             の有力守護大名であり、 管領(かん

             れい)であった。

             ■ 細川 勝元 と 室町幕府。

                細川 勝元は、室町幕府(= 足利

             幕府)の管領となり、 第8代将軍の

             足利義政 (よしまさ、将軍在任:14

             49〜1473年) を補佐した。

             ■ 細川 勝元 は、 応仁の乱(146

             7年〜1477年)では、東軍の指導者

             となる。

 

〇 ほそ  細川 ガラシャ

             (ほそかわ がらしゃ)。 《人名》。

                     (= 明智 玉(珠)(あけちたま))。 

          (1563年ー1600年)。

          ○ 明智光秀の娘。 美人。

          ○ 細川忠興(ただおき )の寵愛

          する正室夫人。

             (⇒ 細川 忠興明智

          光秀)。

                     ■ 細川ガラシャ (ほそかわ がらしゃ、

             = 明智 玉(珠)(あけち たま)、1563年

             ー1600年) は、 明智光秀の娘であり、 

             当時の美人であり、 細川 忠興(ほそか

             わただおき)の寵愛する正室夫人であっ

             た。

                     ● ガラシャは、クリスチャン・ネーム

              (= キリスト教の洗礼名)の個人名で

              ある。

                     ● (注意) 前近代日本では、家父長

             制の夫婦別姓であり、 女性は、婚儀

             (結婚)の有無に関係なく、父の氏(一

             族名)を生涯所持したので、 当時、

             智 玉(珠)は、細川忠興と婚儀(結婚)

             後、細川 玉(珠)、細川ガラシャとは称

             さなかった。

                細川ガラシャは、後世の人に呼ば

             れた氏名である。

             ● (注意) 前近代日本では、女性は、

             慣習で、通常、名(個人名)のみを称し

             た。  当時、明智玉(珠)は、玉(珠)、

             ガラシャとい う個人名で自他呼称して

             いた。

 

〇 ほそ  細川氏

                           (ほそかわし)。 《武家》。

             (14世紀〜19世紀)。

                         THE HOSOKAWA CLAN.

          ○ 武家の細川氏。

          ○ 細川氏は、

          足利氏の支族である。

          ○ 細川管領家(= 細川京

          兆家)とは、室町幕府の

          領職に就任した、室町時代

          (の細川氏本家 宗家)であ

          る。

          (⇒ 細川勝元細川政元

              細川高国細川晴元)。

          (⇒ 細川 藤孝細川 忠興)。

             ■ 武家の細川氏 (ほそかわし、14

             世紀〜19世紀)は、足利氏の支族で

             ある。

             ■ 細川管領家 (ほそかわかんれい

             け、細川京兆家、細川本宗家) とは、 

             室町幕府(= 足利幕府)の管領職に就

             任 した、室町時代の細川氏本家(宗

             家)である。

             ● 室町時代後期(戦国時代)の細川

             京兆家(= 細川管領家、細川本宗家)

             の実力者は、順に、

             (1) 細川勝元(かつもと)、

             (2) 細川政元(まさもと)、

             (3) 細川高国(たかくに)、

             (4) 細川晴元(はるもと)、

             である。

             ■ 細川氏の庶流の和泉上守護

             家(= 細川刑部家)には、細川 藤

             孝(幽斎)、細川 忠興などがいる。

             ■ 室町時代後期(= 戦国時代、

             1467年ー1573年)の、細川氏 

             は、 室町幕府(= 足利幕府)

             第8代将軍の足利義政(よしまさ)、 

             第9代将軍の足利義尚(よしひさ)、 

             第10代将軍・前期足利義稙(よ

             したね)、 第11代将軍の足利義

             澄(よしずみ)、 第10代将軍・後

             期足利義稙、 12代将軍の

             足利義晴(よしはる)、 第13代

             軍の足利義輝(よしてる) と協力、

             和睦したり、対立したりする。

             ◆ (4)(5)(6) 細川氏の

              畿内付近地域支配政権 

              (1493年ー1549年)。

             ■ 細川氏 (ほそかわし)は、 

             1493年(明応2年)から1549

             年(天文18年)まで、実質上、

             内付近地域の支配者となる。 

             ● 1493年(明応2年)4月に、

             細川政元は、日野富子と共に、明

             応の政変を起こし、将軍の足利

             稙(よしたね、義材、義尹)の廃立

             を宣言し次期将軍に は足利義澄

             (よしずみ)を擁立して、足利義稙

             (義材、義尹)に代わって、細川政

             元が、実質上、畿内付近地域の支

             配者となる。

                1493年(明応2年)以後、

             川氏の勢力台頭で、足利氏将軍は

             畿内付近地域の支配権を失う。

             ● 1549年(天文18年)6月に、

             江口の戦いで、細川晴元の重臣

             の三好長慶の軍は、細川晴元の

             軍に勝ち、細川晴元は近江(おう

             み)に退却し、細川晴元に代わっ

             て、細川晴元の重臣の三好長慶

             (みよしながよし)が、事実上、畿

             内付近地域の支配者となる。 

                1549年(天文18年)以後、

             細川氏重臣の三好氏の台頭で、

             細川氏は、勢力を弱め、畿内付

             近地域の支配権を失う。 

             ■ 室町時代後期 (= 戦国時代、

             1467年ー1573年)の畿内付近

             地域の実質支配者

             ● 室町時代後期 (= 戦国時代、

             1467年ー1573年)に、室町幕

             府(= 足利幕府)の足利氏将軍の

             権威は保たれたが、足利氏将軍

             の権力は低下する。

             ● 応仁の乱(1467年ー1477

             年)後、足利氏将軍の支配地は、

             畿内付近地域のみとなり、その後、

             足利氏将軍に代わって、細川氏、

             三好氏、織田氏の勢力が、畿内付

             近地域を支配する。 

                つまり、室町幕府の8代義政、

             9代義尚、10代義稙・前期の時期

             は、足利氏将軍が畿内付近地域を

             支配し、 室町幕府の11代義澄、

             10代義稙・後期、12代義晴、13

             代義輝、14代義栄、15代義昭の

             時期は、順に、細川政元、細川高

             国、細川晴元、三好長慶、三好三

             人衆・松永久秀、織田信長が、

             内付近地域を支配する。

             ■ 室町時代後期(= 戦国時代)の、

             京(きょう、京都)や京周辺の畿内

             付近地域の実質支配者は、順に、

             (1) 足利義政の畿内付近地域

                 支配政権

                (1467年〜1486年 、

                 1489年〜1490年)、

             (2) 足利義尚(義熙) の畿内付

                 近地域支配政権

                (1486年〜1489年)、

             (3) 足利義稙(義材、義尹) の

                 畿内付近地域支配政権

                (1490年〜1493年) 、

             (4) 細川政元の畿内付近地域

                 支配政権

                (1493年〜1507年)、

             (5) 細川高国畿内付近地域

                 支配政権

                (1508年〜1531年) 、

             (6) 細川晴元 の畿内付近地域

                 支配政権

                (1531年〜1549年)、

             (7) 三好長慶の畿内付近地域

                 支配政権

                (1549年〜1564年)、

             (8) 三好三人衆・松永久秀の

                 畿内付近地域支配政権 

                (1564年〜1568年)、

             (9) 織田信長の畿内付近地域

                 支配政権

                (1568年 〜1573年) 、

             となる。

 

〇 ほそ  細川 高国

                           (ほそかわ たかくに)。 《人名》。

             (1484年ー1531年)。

          HOSOKAWA Takakuni.

             ■ 細川 高国 と 室町幕府。

               細川 高国は、室町幕府の管領と

             なり、 室町幕府(= 足利幕府)の、

              (1) 第10代将軍・第2次政権(15

             08年〜1521年)の足利義稙 (よ

             したね、=義尹 (よしただ)、義材 (よ  

             しき))、 (2) 第12代将軍の足利

             義晴(よしはる)を補佐した。

             ■ 細川 高国 (ほそかわ たかく

             に、1484年ー1531年)は、 細川

             政春の子であり、 細川京兆家(=

             細川本宗家、細川管領家)の当主

             であり、 室町幕府(= 足利幕府)の

             管領(かんれい)であり、 山城国、

             摂津国、丹波国、讃岐国、土佐国

             の守護である。

             ■ 細川 高国は、 室町幕府(=

             足利幕府)11代将軍の足利

             義澄(よしずみ)、 第10代将軍

             後期足利義稙(よしたね)、 第

             12代将軍の足利義晴(よしはる)

             と協力、和睦したり、対立したりす

             る。

             ◆ (5) 細川 高国の畿内付近

                地域支配政権

                (1508年〜1531年)。

             ■ 細川 高国 (ほそかわ たかく

             に、1484年ー1531年)は、15

             08年(永正5年)から1531年(享

             禄4年)まで、実質上、畿内付近地

             域の支配者となる。

             ● 1507年(永正4年)6月に、

             細川政元は暗殺される。 

                1508年(永正5年)に、細川 

             高国は、大内軍勢を後ろ盾にして、

             細川澄元、三好之長を京(きょう、

             京都)から追い出し、足利義稙(義

             材、義尹)を上洛させて、細川政元

             に代わって、細川高国が、実質上、

             畿内付近地域の支配者となる。

             ● 1531年(享禄4年)に、 細川

             晴元の軍が細川高国の軍に勝ち

             (大物崩れ)、高国が自害する。

             細川高国に代わって、細川晴元が

             実質上、畿内付近地域の支配者と

             なる。 

             ■ 室町時代後期 (= 戦国時代、

             1467年ー1573年)の畿内付近

             地域の実質支配者

             ● 室町時代後期 (= 戦国時代、

             1467年ー1573年)に、室町幕

             府(= 足利幕府)の足利氏将軍の

             権威は保たれたが、足利氏将軍

             の権力は低下する。

             ● 応仁の乱(1467年ー1477

             年)後、足利氏将軍の支配地は、

             畿内付近地域のみとなり、その後、

             足利氏将軍に代わって、細川氏、

             三好氏、織田氏の勢力が、畿内付

             近地域を支配する。 

                つまり、室町幕府の8代義政、

             9代義尚、10代義稙・前期の時期

             は、足利氏将軍が畿内付近地域を

             支配し、 室町幕府の11代義澄、

             10代義稙・後期、12代義晴、13

             代義輝、14代義栄、15代義昭の

             時期は、順に、細川政元、細川高

             国、細川晴元、三好長慶、三好三

             人衆・松永久秀、織田信長が、

             内付近地域を支配する。

             ■ 室町時代後期(= 戦国時代)の、

             京(きょう、京都)や京周辺の畿内

             付近地域の実質支配者は、順に、

             (1) 足利義政の畿内付近地域

                 支配政権

                (1467年〜1486年 、

                 1489年〜1490年)、

             (2) 足利義尚(義熙) の畿内付

                 近地域支配政権

                (1486年〜1489年)、

             (3) 足利義稙(義材、義尹) の

                 畿内付近地域支配政権

                (1490年〜1493年) 、

             (4) 細川政元の畿内付近地域

                 支配政権

                (1493年〜1507年)、

             (5) 細川高国畿内付近地域

                 支配政権

                (1508年〜1531年) 、

             (6) 細川晴元 の畿内付近地域

                 支配政権

                (1531年〜1549年)、

             (7) 三好長慶の畿内付近地域

                 支配政権

                (1549年〜1564年)、

             (8) 三好三人衆・松永久秀の

                 畿内付近地域支配政権 

                (1564年〜1568年)、

             (9) 織田信長の畿内付近地域

                 支配政権

                (1568年 〜1573年) 、

             となる。

 

〇 ほそ  細川 忠興 

                          (ほそかわ ただおき)。 《人名》。

             (1563年ー1645年)。

          HOSOKAWA Tadaoki.

             ■ 細川 忠興 (ほそかわ ただおき、

             1563年ー1645年)は、 安土桃山

             時代江戸時 代初期の武将、大名で

             ある。

             ● 細川 忠興は、 織田氏、羽柴氏

             (豊臣氏)、徳川氏に仕える。

             ● 細川 忠興は、 細川ガラシャ

             (= 明智玉(珠)) の夫である。

             ● 細川 忠興は、 細川氏の庶流

             和泉上 守護家(= 細川刑部家)の、

             細川 藤孝(幽斎)(ふじたか(ゆうさ

             い))の子である。

             ● 細川 忠興は、 江戸時代初期に、

             豊前国小倉・39万9000石を領す。

 

〇 ほそ  細川 晴元。

             (ほそかわ はるもと)。 《人名》。

             (1514年−1563年)。

             ■ 細川 晴元 (ほそかわ はるも

             と、生没年:1514年−1563年)

             は、 細川京兆家(= 細川本宗家、

             細川管領家)の当主であり、 室町

             幕府の管領(かんれい)であり、 

             山城国、摂津国、丹波国の守護で

             ある。

             ■ 細川 晴元は、 第12代将軍・

             義晴(よしはる)、 第13代将軍・

             義輝(よしてる)、 細川 晴元の重

             臣の三好長慶(みよしながよし)と

             協力、和睦したり、対立したりする。

             ■ 1563年(永禄6年)の、細川

             晴元の死後、子の細川 昭元は、

             細川京兆家(= 細川氏本家)を継

             ぐが、管領に任命されず、細川京

             兆家のかっての勢力は取り戻せ

             なかった。 

                細川晴元の後継者の細川昭

             元は、後に、織田信長に仕(つか)

             える。

             ◆ (6) 細川晴元 の畿内付近

                地域支配政権

                (1531年〜1549年)、

             ■ 細川 晴元 (ほそかわ はるも

             と、生没年:1514年−1563年)

             は、 1531年(享禄4年)から15

             49年(天文18年)まで、実質上、

             畿内付近地域の支配者となる。

             ● 1531年(享禄4年)に、 細川

             晴元の軍が細川高国の軍に勝ち

             (大物崩れ)、高国が自害する。

             細川高国に代わって、細川晴元が

             実質上、畿内付近地域の支配者と

             なる。 

             ● 1549年(天文18年)6月に、

             江口の戦いで、細川晴元の重臣

             の三好長慶の軍は、細川晴元の

             軍に勝ち、細川晴元は近江(おう

             み)に退却し、細川晴元に代わっ

             て、細川晴元の重臣の三好長慶

             (みよしながよし)が、事実上、畿

             内付近地域の支配者となる。 

                1549年(天文18年)以後、

             細川氏重臣の三好氏の台頭で、

             細川氏は、勢力を弱め、畿内付

             近地域の支配権を失う。 

             ■ 室町時代後期 (= 戦国時代、

             1467年ー1573年)の畿内付近

             地域の実質支配者

             ● 室町時代後期 (= 戦国時代、

             1467年ー1573年)に、室町幕

             府(= 足利幕府)の足利氏将軍の

             権威は保たれたが、足利氏将軍

             の権力は低下する。

             ● 応仁の乱(1467年ー1477

             年)後、足利氏将軍の支配地は、

             畿内付近地域のみとなり、その後、

             足利氏将軍に代わって、細川氏、

             三好氏、織田氏の勢力が、畿内付

             近地域を支配する。 

                つまり、室町幕府の8代義政、

             9代義尚、10代義稙・前期の時期

             は、足利氏将軍が畿内付近地域を

             支配し、 室町幕府の11代義澄、

             10代義稙・後期、12代義晴、13

             代義輝、14代義栄、15代義昭の

             時期は、順に、細川政元、細川高

             国、細川晴元、三好長慶、三好三

             人衆・松永久秀、織田信長が、

             内付近地域を支配する。

             ■ 室町時代後期(= 戦国時代)の、

             京(きょう、京都)や京周辺の畿内

             付近地域の実質支配者は、順に、

             (1) 足利義政の畿内付近地域

                 支配政権

                (1467年〜1486年 、

                 1489年〜1490年)、

             (2) 足利義尚(義熙) の畿内付

                 近地域支配政権

                (1486年〜1489年)、

             (3) 足利義稙(義材、義尹) の

                 畿内付近地域支配政権

                (1490年〜1493年) 、

             (4) 細川政元の畿内付近地域

                 支配政権

                (1493年〜1507年)、

             (5) 細川高国畿内付近地域

                 支配政権

                (1508年〜1531年) 、

             (6) 細川晴元 の畿内付近地域

                 支配政権

                (1531年〜1549年)、

             (7) 三好長慶の畿内付近地域

                 支配政権

                (1549年〜1564年)、

             (8) 三好三人衆・松永久秀の

                 畿内付近地域支配政権 

                (1564年〜1568年)、

             (9) 織田信長の畿内付近地域

                 支配政権

                (1568年 〜1573年) 、

             となる。

 

〇 ほそ  細川 藤孝 

                          (ほそかわ ふじたか)。 《人名》。

             (= 細川 幽斎(ゆうさい))。

          (1534年ー1610年)。

          HOSOKAWA Fujitaka.

          (⇒ 細川氏

          (⇒ 細川 忠興

             ■ 細川 藤孝 (ほそかわ ふじたか、

             = 細川 幽斎(ゆうさい)、1534年ー16

             10年は、 室町時代後期(戦国時代)、

             安土桃山時代、江戸時代初期に活躍し

             た武将である。

             ● 細川 藤孝(幽斎)は、 足利氏、織

             田氏、豊臣氏(羽柴氏)、徳川氏に仕

             (つか)える。

             ● 細川 藤孝(幽斎)は、 細川 忠興

             (ただおき)の父である。

             ● 細川 藤孝(幽斎)は、 三淵晴員

             の次男であり、 和泉上 守護家(= 細

             川刑部家)・細川元常(三淵晴員の兄)

             の養子となり、 細川氏の庶流の和泉

             上守護家(= 細川刑部家)の当主とな

             る

                             ■ 足利義昭随行織田信長上洛出兵

             で、 1566年(永禄9年)8月の第1次

             信長上洛出兵(失敗)の仲介役は、

             足利義昭家臣の細川 藤孝(幽斎) であ

             り、 1568年(永禄11年)11月の第2

             次信長上洛出兵(成功)の仲介役は、

             足利義昭家臣の明智光秀と細川 藤孝

             (幽斎) である。

 

〇 ほそ  細川 政元。

                          (ほそかわ まさもと)。 《人名》。

          HOSOKAWA Masamoto.

          (1466年ー1507年)。

             ■ 細川 政元 (ほそかわ まさもと、

             生没年:1466年ー1507年)は、 

             細川勝元の子であり、 細川京兆家

             (= 細川本宗家、細川管領家)の当

             主であり、 室町幕府(= 足利幕府)

             の管領 (かんれい)であり、 丹波

             国、摂津国、土佐国の守護である。

             ■ 細川政元は、 第8代将軍の

             利義政(よしまさ)、 第9代将軍の

             足利義尚(よしひさ)10代将軍

             前期足利義稙(よしたね) 第11

             将軍の足利義澄(よしずみ) と協

             力、和睦したり、対立したりする。

             ■ 細川政元 と 室町幕府。

               細川 政元は、室町幕府の管領と

             なり、 (1) 第9代将軍の足利義尚

             (よしひさ、義熙、将軍在任:1473年

             〜1489年)、 (2) 第11代将軍の

             足利義澄(よしずみ、将軍在任:14

             94年ー1508年)  を補佐した。

             ■ 細川 政元は、 1507年(永正4

             年)に暗殺され、 細川京兆家(= 細

             川本宗家、細川管領家)の家督をめ

             ぐる争いが起こる (永正の錯乱)。

             ◆ (4) 細川 政元の畿内付近

                地域支配政権

                (1493年〜1507年)、

             ■ 細川 政元 (ほそかわ まさもと、

             生没年:1466年ー1507年)は、 

             1493年(明応2年)から1507年

             (永正4年)まで、実質上、畿内付近

             地域の支配者となる。 

             ● 1493年(明応2年)4月に、

             細川政元は、日野富子と共に、明

             応の政変を起こし、将軍の足利

             稙(よしたね、義材、義尹)の廃立

             を宣言し、次期将軍に は足利義澄

             (よしずみ)を擁立して、足利義稙

             (義材、義尹)に代わって、細川政

             元が、実質上、畿内付近地域の支

             配者となる。

                1493年(明応2年)以後、

             川氏の勢力台頭で、足利氏将軍は

             畿内付近地域の支配権を失う。

             ● 1507年(永正4年)6月に、

             細川政元は暗殺される。 

                1508年(永正5年)に、細川 

             高国は、大内軍勢を後ろ盾にして、

             細川澄元、三好之長を京(きょう、

             京都)から追い出し、足利義稙(義

             材、義尹)を上洛させて、細川政元

             に代わって、細川高国が、実質上、

             畿内付近地域の支配者となる。

             ■ 室町時代後期 (= 戦国時代、

             1467年ー1573年)の畿内付近

             地域の実質支配者

             ● 室町時代後期 (= 戦国時代、

             1467年ー1573年)に、室町幕

             府(= 足利幕府)の足利氏将軍の

             権威は保たれたが、足利氏将軍

             の権力は低下する。

             ● 応仁の乱(1467年ー1477

             年)後、足利氏将軍の支配地は、

             畿内付近地域のみとなり、その後、

             足利氏将軍に代わって、細川氏、

             三好氏、織田氏の勢力が、畿内付

             近地域を支配する。 

                つまり、室町幕府の8代義政、

             9代義尚、10代義稙・前期の時期

             は、足利氏将軍が畿内付近地域を

             支配し、 室町幕府の11代義澄、

             10代義稙・後期、12代義晴、13

             代義輝、14代義栄、15代義昭の

             時期は、順に、細川政元、細川高

             国、細川晴元、三好長慶、三好三

             人衆・松永久秀、織田信長が、

             内付近地域を支配する。

             ■ 室町時代後期(= 戦国時代)の、

             京(きょう、京都)や京周辺の畿内

             付近地域の実質支配者は、順に、

             (1) 足利義政の畿内付近地域

                 支配政権

                (1467年〜1486年 、

                 1489年〜1490年)、

             (2) 足利義尚(義熙) の畿内付

                 近地域支配政権

                (1486年〜1489年)、

             (3) 足利義稙(義材、義尹) の

                 畿内付近地域支配政権

                (1490年〜1493年) 、

             (4) 細川政元の畿内付近地域

                 支配政権

                (1493年〜1507年)、

             (5) 細川高国畿内付近地域

                 支配政権

                (1508年〜1531年) 、

             (6) 細川晴元 の畿内付近地域

                 支配政権

                (1531年〜1549年)、

             (7) 三好長慶の畿内付近地域

                 支配政権

                (1549年〜1564年)、

             (8) 三好三人衆・松永久秀の

                 畿内付近地域支配政権 

                (1564年〜1568年)、

             (9) 織田信長の畿内付近地域

                 支配政権

                (1568年 〜1573年) 、

             となる。

 

#hota

 

〇  ほっ  北海道地方

             (ほっかいどうちほう)。 《現地域名》。

          (現地方)。

          (= 北海道本島 と 北方四島)。

             HOKKAIDO REGION.

          ■ 北海道地方。

          ○ 北海道本島 (≒ 前近代日本

             の、十州島(じゅっしゅうとう)、蝦夷地

              (えぞち)本土蝦夷ヶ島(えぞがしま)

             本土の相当地域)。

          ○ 北方四島 (=前近代日本の、

          千島(ちしま)南部の相当地域)。

         (⇒ 現8地方)。 

         (⇒ 現地方名)。

         (⇒ 現地域名)。

                  (⇒ 蝦夷地)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

           ■ 北海道地方。

             <日本国

          ■ 北海道地方。

             (≒ 北海道本島千島列島南部(南千島))。

             <蝦夷地 (えぞち、北海道本島 と 千島 (ち

             しま)列島(= クリル諸島) と 樺太(からふと、

             = サハリン))。

             ■ 北海道地方(ほっかいどうちほう)は、 

             代日本 の、現大地域名の現地方名である。

             ■ 北海道地方は、北海道本島 と 北方

             四島である。

             ■ 北海道本島は、前近代日本の、旧地域

             名の、概ね、十州島(じゅっしゅうとう)、蝦

             夷地(えぞち)本土、蝦夷ヶ島(えぞがしま)

              本土に相当する 地域である。

             ■ 北方四島は、 前近代日本の、千 島(ち

             しま)南部の相当地域である。

 

〇  ほっ   北海道。

              (ほっかいどう)。

           (現都道府県)。 《現地域名》。

           ○ 北海道は、現・47

           都道府県の1つである。

                          HOKKAIDO.

             ○ 北海道の地域は、

            概ね、前近代日本の、蝦夷

              地(えぞち)、蝦夷ヶ島(えぞが

              しま)、北州(ほくしゅう)、蝦夷国

           (えぞのくに)の相当地域であ

           る。

                     (⇒ 北海道の歴史)。

                     (⇒ 蝦夷地)。

                     (⇒ 蝦夷ヶ島)。

          (⇒ 地方名)。                   

                     (⇒ 都道府県)。

                     (⇒ 現地域名)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

           ■ 北海道の地域

             <北海道地方

             <日本国

             ● 北海道 (ほっかいどう、英:

              HOKKAIDO  PREFECTURE)

              は、北海道地方に属する。

                      (⇒ 北海道地方)。

           ■ 北海道の地域

              (= 北海道本島やその付属

              小島群 と 千島列島南部)。

             < 蝦夷地 (えぞち、北海道本島

             やその付属小島群 と、 千島列島

             (ちしまれっとう、= クリル諸島) と、

             サハリン(= 樺太(からふと)))。 

             ■ 北海道の地域は、 北海道地

             方に属 し、 北海道本島その周

             辺地域であり、 北海道本島やそ

             の付属小島群と千島列島南部

             ある。

             ● 北海道は、宗谷(そうや)から

             渡島(おしま)までの地域である。

             ■ 北海道 (ほっかいどう)は、 

              広義では、北海道本島やその付

             属小島群と千島列島南部であり、

             狭義では、北海道本島やその付

             属小島群のみである。 

             ■ 現在の北海道の地域は、  

             前近代日本(古代〜江戸時代)

             の、旧名の蝦夷地 (えぞち、北

             海道本島やその付属小島群 と 

             サハリン(= 樺太(からふと)) と 

             千島列島(ちしまれっとう、クリル

             諸島の相当地域) から、

             サハリンと千島列島北部を除い

             た地域である。

             ■ 北海道(ほっかいどう)は、

             1869年(明治2年)からの新名で 

             あり、旧名は、 蝦夷地(えぞち)、

             蝦夷ヶ島(えぞがしま)、北州(ほく

             しゅう)、蝦夷国(えぞのくに)など

             である

             ■ 明治新政府(近代日本政府)は、

             1869年(明治2年)に、 西蝦 夷地

             の北海道本島西部 や 東蝦夷地

             の北海道本島東部と千島列島を、

             まとめて、「北海道(ほっかいど う)」

             と改名し、また、北蝦夷地のサハリ

             ンを「樺太」(からふと)と改名した。

             ■ 蝦夷地 (えぞち、= 蝦夷ヶ島、

             北州、蝦夷国)は、 北海道本島と

             その周辺地域であり、 広義では、

             現在の、北海道本島やその付属

             小島群、サハリン(樺太)、千島列

             島(クリル諸島)の相当地域であり、

              狭義では、現在の北海道本島や

             その付属小島群のみの相当地域

             である。

             ■ 北海道本島は、前近代日本の、

             旧地域名の、概ね、十州島(じゅっ

             しゅうとう)、蝦夷地(えぞち)本土、

             蝦夷ヶ島(えぞがしま)本土に相当

             する 地域である。

             ■ 蝦夷地 (えぞち)の別称には、 

             蝦夷ヶ島(えぞがしま)、北州(ほくし

             ゅう)、蝦夷国(えぞのくに)などがあ

             る。

 

〇  ほっ   北海道地方。

              (ほっかいどうちほう)。

           (現地方)。 《現地域名》。

           (= 北海道、北方四島)。

              HOKKAIDO REGION.

           ○ 北海道地方は、

           現8地方の1つである。

             ○ 北海道地方は、

            概ね、前近代日本の、蝦夷

              地(えぞち)、蝦夷ヶ島(えぞが

              しま)、北州(ほくしゅう)、蝦夷国

           (えぞのくに)の相当地域であ

           る。

                     (⇒ 北海道の歴史)。

                     (⇒ 蝦夷地)。

                     (⇒ 蝦夷ヶ島)。

           (⇒ 現地方名)。 

           (⇒ 現8地方)。 

          (⇒ 地方名)。

                     (⇒ 都道府県)。

          (⇒ 現地域名)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

           ■ 北海道地方

             <日本国

                      (⇒ 北海道地方)。

           ■ 北海道地方

              (= 北海道本島やその付属

              小島群 と 千島列島南部)。

             < 蝦夷地 (えぞち、北海道本島

             やその付属小島群 と、 千島列島

             (ちしまれっとう、= クリル諸島) と、

             サハリン(= 樺太(からふと)))。 

             ■ 北海道地方は、 

             北海道本島その周辺地域であり、 

             北海道本島やその付属小島群と

             千島列島南部である。

             ■ 北海道 (ほっかいどう)は、 

              広義では、北海道本島やその付

             属小島群と千島列島南部であり、

             狭義では、北海道本島やその付

             属小島群のみである。 

             ■ 現在の北海道地方は、  

             前近代日本(古代〜江戸時代)

             の、旧名の蝦夷地 (えぞち、北

             海道本島やその付属小島群 と 

             サハリン(= 樺太(からふと)) と 

             千島列島(ちしまれっとう、クリル

             諸島の相当地域) から、

             サハリンと千島列島北部を除い

             た地域である。

             ■ 北海道(ほっかいどう)は、

             1869年(明治2年)からの新名で 

             あり、旧名は、 蝦夷地(えぞち)、

             蝦夷ヶ島(えぞがしま)、北州(ほく

             しゅう)、蝦夷国(えぞのくに)など

             である

             ■ 明治新政府(近代日本政府)は、

             1869年(明治2年)に、 西蝦夷地

             の北海道本島西部 や 東蝦夷地

             の北海道本島東部と千島列島を、

             まとめて、「北海道(ほっかいど う)」

             と改名し、また、北蝦夷地のサハリ

             ンを「樺太」(からふと)と改名した。

             ■ 蝦夷地 (えぞち、= 蝦夷ヶ島、

             北州、蝦夷国)は、 北海道本島と

             その周辺地域であり、 広義では、

             現在の、北海道本島やその付属

             小島群、サハリン(樺太)、千島列

             島(クリル諸島)の相当地域であり、

              狭義では、現在の北海道本島や

             その付属小島群のみの相当地域

             である。

             ■ 北海道本島は、前近代日本の、

             旧地域名の、概ね、十州島(じゅっ

             しゅうとう)、蝦夷地(えぞち)本土、

             蝦夷ヶ島(えぞがしま)本土に相当

             する 地域である。

             ■ 蝦夷地 (えぞち)の別称には、 

             蝦夷ヶ島(えぞがしま)、北州(ほくし

             ゅう)、蝦夷国(えぞのくに)などがあ

             る。

 

〇  ほっ  北海道の歴史 

             (ほっかいどうのれきし)。

             《日本の地域史》。

          ○ 北海道関連出来事。

            (年代順・詳細)。

 

〇  ほっ  堀田興重(作兵衛)の妹

          (実名不詳)。

             (ほったおきしげ(さくべい)のいもうと)。  

             《人名》。

             (生年不詳ー1615年)。

                     HOTTA Okishige’S YOUNGER

             SISTER. 

                    ○ 真田 幸村(信繁)の側室夫人。

          (⇒ 真田氏

        真田 幸村(信繁))。

                         ■ 堀田興重(作兵衛)の妹 (実名不詳、ほ

                          ったおきしげ(さくべい)のいもうと、生年不

             詳ー1615年) は、 真田 信繁(幸村)の側 

                          室夫人であり、 堀田興重(作兵衛)の妹で

             ある。

             ● 真田 幸村(信繁) と、 真田 幸村(信

             繁)・側室夫人・堀田興重の妹との間には、 

             娘の、菊(きく) などの子がいた。

             ● 堀田興重の妹は、  真田丸 (さなだ

             まる) 』 (NHKテレビ・2016年大河ドラ

             マ) では、「梅(うめ)」という名(仮称)で登

             場する。

 

〇  ほっ  堀田正睦 

             (ほったまさよし)。 《人名》。

          (1810〜1864年)。

                    HOTTA Masayoshi.

           ○ 江戸幕府・老中。

 

〇  ぽつ  ポツダム宣言

             (ぽつだむせんげん)。 《国際勧告》。

           (= 日本に対する降伏勧告)。

          (1945年7月26日)。

                     THE POTSDAM (POZDAM) 

              PROCLAMATION.

           ○ ポツダム会談で発せられた

          対日共同宣言。

           ○ 第2次大戦中の、日本に降

          伏を求めた、連合国の対日共同

          宣言。  

                     (⇒ 太平洋戦争)。

                     (⇒ 第2次世界大戦)。

              ■ ポツダム宣言 (ぽつだむせんげん、

             英:THE POTSDAM (POZDAM) 

             PROCLAMATION) は、  日本に対す

             る降伏勧告であり、 ポツダム会談で発

             せられた対日共同宣言であり、 1945年

             7月26日に、第2次大戦中の日本に降伏

             を求めた、連合国の対日共同宣言 (米・

             英・中3国による) である。  

              ■ ポツダム宣言は、実質的に、日本の

             無条件降伏  (英:UNCONDITONAL 

             SURRENDER)、 武装解除 (英:DIS-

             ARMED)、 連合国軍日本占領 (英:

             OCCUPIED) を意味した。

              ■ 日本は、 1945年(昭和20年)8月

             14日にポツダム宣言の受諾を決定し、連

             合国に通告し、 1945年8月15日にポ

             ツダム宣言の受諾を広く国民に伝える戦

             争終結の詔書(しょうしょ)を放送し(= 玉

             音(ぎょくおん)放送を流し)、事実上終戦

             となり、 1945年9月2日に、ミズーリ号

             上で降伏文書に調印し、正式に戦争(太

             平洋戦争、第2次世界大戦)は、終結した。

 

〇 ほっ  北方モンゴロイド

             (ほっぽうもんごろいど)。

                         (= 新モンゴロイド、弥生渡来系)。    

          (人類学上の分類・特徴)。

          《モンゴロイド》。

                THE NORTHERN MONGOLOID.

          (⇒ 新モンゴロイド (古人類

        学辞典))。

          (⇒ モンゴロイド (古人類学辞典))。

           (⇒ 日本人)。 

          (⇒ 日本人ルーツ・ガイドブック)。

             ■ 北方モンゴロイド (ほっぽうもんごろい

             ど、=新モンゴロイド、弥生渡来系、英:

             THE NORTHERN MONGOLOID) 

             は、 約2万年前に、アジア東部地域 の北

             方部(シベリア東部)で、現生人類の、古モ

             ンゴロイド(= 南方モンゴロイド)の、容姿・

             外見(体色・体型)が変化し、古モンゴロイ

             ド(= 南方モンゴロイド)から進化して出現

             た人類 である。

             ● 北方モンゴロイド (=新モンゴロイド、

             弥生渡来系)は、 現生人類(= 新人、ホモ・

             サピエンス種)の 人種分類グループの

             モンゴロイド (古モンゴロイドと新モンゴロ

             イドの2種) の1つである

             ● 北方モンゴロイド (=新モンゴロイド、弥

             生渡来系) は、 日本の、「渡来系弥生人」、

             「弥生渡来系古代日本人」などの、「弥生渡

                          来系」の人々である。

 

 ほと  仏。

                          (ほとけ)。  《仏教》。 《人名》。

          (仏教の教祖)。

          (= シッダールタ、ブッダ

          (仏陀)、シャカ(釈迦))。

          (生没年: 紀元前563年頃〜

          前483年頃) (諸説あり)。

             GAUTAMA SIDDHARTHA。

                   (⇒ シッダールタ)。

                    (⇒ 仏教)。

                    (⇒ 教祖宗教)。

             ○ 別名: シッダールタ、 ガウタマ・シッ

             ダールタ、 ゴータマ・シッダールタ、 シ

             ャカムニ(釈迦牟尼)、 釈迦牟尼(しゃか

             むに)、 シャカ(釈迦)、 釈迦(しゃか)、 

             釈尊 (しゃくそん)、 お釈迦様(おしゃか

             さま)、  ブッダ(仏陀)、 仏陀(ぶっだ)、 

             仏(ほとけ)、 仏様(ほとけさま)、 御仏

             (みほとけ))。

              ■ 仏 (ほとけ)とは、 仏教の信仰の対

             象となるすぐれた存在であり、 仏陀(ぶ

             っだ)、または、仏像 である。

              ■ ガウタマ・シッダールタは、仏教教  

              祖(きょうそ、開祖、創始者) である。

              ■ 教祖とは、 その宗教、宗派をひらい

              た人である。

              ■ 宗教には、 教祖(きょうそ)、 教義

              (教え)、 教典(きょうてん)、 宗教内グ

              ループ(宗教内分派) などがある。

 

○ ほね   『 骨は語る 徳川将

         軍・大名家の人びと 』

               (ほねはかたる とくがわしょうぐん・

               だいみょうけのひとびと)。 

              《 第一級史料》。

           (江戸時代の徳川将軍家

            を知る史料)。

         (⇒ 増上寺徳川

            将軍墓とその

            遺品・遺体)。

         (⇒ 日本史・第一級

           史料)。

         (⇒ 徳川将軍家

           江戸幕府)。

            (⇒ 江戸時代)。

              ■ 『 骨は語る 徳川将軍・大名

              家の人びと 』(鈴木尚(すずきひ

              さし)編)(東京大学出版会・19

              85年出版)。

              ■ 『 骨は語る 徳川将軍・大名

              家の人びと 』は、 鈴木尚(すず

              きひさし)の著作で1985年(昭和

              60年)に東京大学出版会から出

              版(刊行)される。

              ■ 『 骨は語る 徳川将軍・大名

              家の人びと 』 は、 江戸時代、

              徳川将軍家、江戸幕府を知る史料

              である。 

              ■ 『 骨は語る 徳川将軍・大名

              家の人びと 』 は、 鈴木尚氏(す

              ずきひさし、生没年:1912年ー

              2004年、医学博士、東京大学教

              授、古人類学者) 自身が、 調査

              に関わった、芝・増上寺の徳川将

              軍家、他の大名家の、墓所の改装

              に伴う発掘調査をまとめ、一般向け

              に著作した書籍で、東京大学出版

              会から1985年に出版された。

              ■ 『 骨は語る 徳川将軍・大名家

              の人びと 』 (ほねはかたる とくが

              わしょうぐん・だいみょうけのひとび

              と) は、 長年人骨の研究を専門に

              行ってきた、鈴木尚氏 (すずきひさ

              し、生没年:1912年ー2004年、

              医学博士、東京大学教授、古人類

              学者) 自身が、 調査に関わった、

              芝・増上寺の徳川将軍家、他の大名

              家の、墓所の改装に伴う発掘調査を

              まとめ、一般向けに著作した書籍で、

              1985年に東京大学出版会から出

              版された。

                 ■ 『 増上寺徳川将軍墓とその

              遺品・遺体 』 (ぞうじょうじとくがわ

              しょうぐんぼとそのいひん・いたい) 

              は、 1958年から1560年にわた

              る、東京・芝・増上寺(しば・ぞうじ

              ょうじ)の徳川将軍家墓所の改装に

              伴う発掘調査をまとめた報告論文集

              であり、 鈴木尚、矢島恭介、山辺

              知行の共編で、1967年に、東京

              大学出版会から刊行された。

 

#hora

 

〇 ほり  堀内殿。 

                          (ほりうちどの)。 《人名》。

              (= 覚山尼(かくさんに)、松岡殿)。

          (生没年:1252年ー1306年)。

                 HORIUCHIDONO.

           ○ 鎌倉幕府・ 第8代執権・北条

                     時宗の正室夫人。 

           ○ 鎌倉幕府・第9代執権・北条

          貞時の生母。

           ○ 鎌倉・東慶寺(とうけいじ)を 創

          建する。

          (⇒ 北条時宗)。

              ■ 堀内殿 (ほりうちどの、= 覚山尼(か

              くさんに、出家後)、松岡殿、生没年:12

              52年ー1306年)は、 鎌倉幕府・第8代

                              執権・北条時宗の正室夫人であり、 鎌倉

              幕府・第9 代執権・北条貞時の生母であ

              る。

              ● 堀内殿(覚山尼)は、鎌倉に、東慶寺

              (とうけいじ、尼寺)を創建する。

 

〇 ほり  堀河天皇。 

                          (ほりかわてんのう)。 《人名》。

          (天皇)。 

                    (= 善仁(たるひと)親王)。  

                 THE EMPEROR HORIKAWA.

       (⇒ 白河上皇)。

                        ● 天皇在位、1086年〜1107

           年。

                    ● 生没年:1079年〜1107年。

             ○ 白河(しらかわ)天皇(上皇)の皇

           子(みこ))。

          ○ 鳥羽(とば)天皇(上皇)の父 。

 

〇 ほり  堀河局。

                          (ほりかわのつぼね) 。 《人名》。

                 HORIKAWANO NO TSUBONE.

          (⇒ 藤原 璋子)。

          ○ 鳥羽上皇の正室夫人(中宮)

          の藤原 璋子(ふじわ らのしょうし・た

                     まこ、待賢門院 たいけんもんいん)、

          の女房 (にょうぼう、貴族の高位

          侍女)。

          ○ 女流歌人(かじん )。

 

〇 ほり  堀越公方

                          (ほりごえくぼう、ほりこしくぼう)。

             《室町幕府の役職》。

             (室町幕府の東国統治地方長官)。

                 HORIGOEKUBO GOVERNOR.

             ○ 1457年ー1493年頃、2代 。

          (⇒ 室町幕府足利将軍)。

          (⇒ 関東公方

           関東公方足利氏鎌倉府

           鎌倉公方古河公方)。

          (⇒ 堀越公方)。

          (⇒ 関東管領

           関東管領上杉氏

           山内上杉 氏扇谷上杉 氏)。

            ■ 堀越公方 (ほりごえくぼう)とは、 室

            町幕府の役職であり、 室町幕府の東国

            統治地方長官であり、 東国 (とうごく)

            の関東8国、伊豆、甲斐(かい、現・山梨

            県)を統治する室町幕府の役職であり、  

            伊豆堀越 (いずほりごえ、静岡県伊豆

            の国市)を本拠地とし、 1457年から

            1493年頃まで、2代存続する。

             ■ 1547年(長禄元年)に、室町幕府・

            第8代将軍の足利義政は、 対立する古

            河公方・足利成氏(しげうじ)への対抗

            策として、足利義政の異母兄の足利政

            知(まさとも)を鎌倉公方とし、 翌年

            1548年足利政知を、京都から鎌倉

            公方として送った。 しかし、足利政知は、

            鎌倉に入ることができず、 手前の伊豆

            堀越(いずほりごえ、静岡県伊豆の国市)

            に留まることになり、そこに堀越御所を

            建設し、堀越公方(ほりごえくぼう)と称

            された。 

               関東方の諸将は、初代鎌倉公方・足

            利基氏(もとうじ)以来の血筋である古河

            公方・足利成氏(しげうじ)への忠誠心が

            厚く、 堀越公方・足利政知(まさとも)は、

            関東の勢力の協力・支持を得ることができ

            なかった。

             ■ 堀越公方は、 1455年に鎌倉府が

             解体し、 鎌倉公方(1349〜1455年、

             5代)に代わり成立した 、2つの公方 (く

            ぼう、古河公方(こがくぼう)、堀越 公方

            (ほりごえくぼう))の1つである。

              ■ 1455年に鎌倉府が解体し、鎌倉公

             方(1349〜1455年、5代)に代わり、東

             国に、2つの公方(く ぼう、古河公方、堀

             越公方)が成立したが、 堀越公方(ほり

             ごえくぼう、1457年ー1493年頃、2代)

             は、東国の10国全体を統治できず、事実

             上、 伊豆1国のみの短期統治 (1482年

             ー1493年頃)で終わった。

            ■ 堀越公方(ほりごえくぼう)は、 室町

            幕府の東国統治地方長官であり、 2代

            (足利政知(まさとも)、足利茶々丸(ちゃ

            ちゃまる)) の堀越公方が就任した。

                しかし、事実上、堀越公方(ほりご

             えくぼう、1457年ー149 3年頃、2代)

             は、東国の10国全体を統治できず、

             伊豆1国のみの短期統治(1482年ー

             1493年頃)で終わった。

              ■ 足利 政知(あしかが まさとも)は、 

             室町幕府(= 足利幕府)・第6代将軍

             の足利義教(よしのり)の4人の活躍

             する子の、(1) 足利義勝(よしかつ、

             7代将軍)、 (2) 足利政知(まさと

             も、堀越公方、11代将軍・義澄(よし

             ずみ)の父)、 (3) 足利義政(よし

             まさ、8代将軍)、 (4) 足利義視

             (よしみ、応仁の乱中の西幕府・公

             方(将軍)、10代将軍・義稙(よした

             ね)の父) の一人である。

             ■ 堀越公方は、 伊豆国堀越(いずのく

             にほりごえ、静岡県東部の堀越)を本拠

             地とした。

             ○ 初代堀越公方: 足利政知(まさとも)

             (堀越公方在職:1457年ー1491年)。

             ○ 2代堀越公方: 足利茶々丸(ちゃち

              ゃまる)

             (堀越公方在職:1491ー1493年頃)。

               ■ 関東公方(かんとうくぼう)とは、 室町

             幕府の東国統治地方長官であり、 鎌倉

             公方 (かまくらくぼう、1349年ー1455

             年、5代) と その後身の古河公方 (こ

             がくぼう、1455年ー1583年、5代) で

             ある。

                 1455年に鎌倉府が解体し、鎌倉公

              方(1349〜1455年、5代)に代わり、東

             国に、2つの公方(く ぼう、古河公方、堀

             越公方)が成立したが、 堀越公方(ほり

             ごえくぼう、1457年ー1493年頃、2代)

             は、東国 の10国全体を統治できず、事実

             上、 伊豆1国のみの短期統治(1482年

             ー1493年頃)で終わったため、 関東公

             方(かんとうくぼう)とは言わない。

             ■ 日本の室町時代に、 室町幕府の

             国統治地方長官である関東公方(かんと

             うくぼう、鎌倉公方、古河公方) と 関東

             公方の補佐役の関東管領(かんとうかん

             れい)が、 日本の東国(とうごく、関東・

             東北・中部地方)の中の関東8国、伊豆、

             甲斐(かい、現・山梨県))を統治する。 

                ● 関東管領職や東国の各国守護職の

             任免権は、 室町幕府の将軍にあり、関

             東公方(鎌倉公方、古河公方))にはなか

             った。

             ● 関東公方(鎌倉公方、古河公方)

             関東管領は、対立するようになった。

 

〇 ほり  堀部 ほり

                          (ほりべ ほり)。  《人名》。

                 HORIBE Hori.

       (⇒ 堀部安兵衛(武庸))。

       (⇒ 元禄赤穂事件)。

          ○ 堀部安兵衛(武庸)の夫人。

          ○ 赤穂浅野家の赤穂藩家臣

          の堀部弥兵衛(金丸)(ほりべや

             へえ(かなまる))の娘。

          ○ 堀部安兵衛(武庸)(やすべえ

          (たけつね))が養子に入った堀部

          家の娘。

             ■ 堀部 ほり (ほりべ ほり) は、堀部安

             兵衛(武庸)の夫人である。

             ■ 堀部 ほり (ほりべ ほり) は、

             赤穂浅野家の赤穂藩家臣の堀部弥兵衛

             (金丸)(ほりべや へえ(かなまる))の娘

             である。

             ■ 堀部 ほり は、堀部安兵衛(武庸)

             (やすべえ(たけつね))が養子に入った

             堀部家の娘である。

 

〇 ほり  堀部 安兵衛(武庸)

             (ほりべ やすべえ(たけつね)、

             ほりべ やすびょうえ(たけつね))。

             (= 中山安兵衛)。 《人名》。

          (1670年ー1703年)。

                 HORIBE Yasubei (Taketsune).

          (⇒ 元禄赤穂事件)。

          (⇒ 円山会議)。

           ○ 堀部 安兵衛(武庸)は、

          赤穂浪士・四十七士の1人

          である。

           ○ 堀部 安兵衛(武庸)は、

          高田馬場の決闘で活躍し、

          その後、赤穂藩家臣となり、 

          廃藩後、元禄赤穂事件の「仇

          討ち優先派」の中心人物とな

          る。

             ■ 堀部 安兵衛(武庸) (ほりべ やすべ

             え(たけつね)、= 中山安兵衛、1670年ー

             1703年) は、赤穂浪士・四十七士の1人

             である。

             ■ 堀部 安兵衛(武庸)(= 中山安兵衛)

             は、 高田馬場の決闘で活躍し、その後、

             赤穂浅野家の赤穂藩家臣となり、 廃藩

             後、元禄赤穂事件= 赤穂事件)の「仇討

             ち優先派」の中心人物 となる。

             ■ 1701年(元禄14年)3月の赤穂藩

             のとりつぶし後、赤穂浅野家の赤穂藩の

             旧臣は、 大石 内蔵助(良雄)が率いる

             「お家再興派」 と、 堀部安兵衛(武庸)

             が率いる「仇討優先派」 に分かれる。

             しかし、その後、赤穂浅野家のお家再興

             の望みがなくなり、 1702年(元禄15

             年)7月28日の円山(まるやま)会議後、

             大石内蔵助(良雄)は、仇討に踏み切る。

 

〇 ほん  品位。

             (ほんい)。 《位階》。

             ■ 品位。

             ● 品位 (ほんい)とは、 日本の

             律令制で定められた位階で、 天皇

             の子の親王(しんのう、男子)、内親

             王(ないしんの、女子)に対して与え

             られる位(くらい、位階)である。 

                品位は、奈良時代から江戸時

             代まで、朝廷から授(さず)けられ

             (叙位され)、一品(いっぽん)から

             四品まで、4位階があった。 

                (例)、一品親王(いっぽんしん

             のう)。

                また、品位を叙位されない無品

             (むほん、むぼん)の、親王・内親王

             もいた。

             ■ 位階。

             ● 日本の律令制で定められた位階

             (いかい)では、 皇族(皇親)の親王・

             内親王には「品」(ほん)が、 臣下に

             は「位」(い)が、 朝廷より授(さず)

             けられた。

             ■ 天皇の子の名称。

             ●  前近代日本では、 天皇の、男

             子の皇子(みこ)を王子(おうじ、呼称

              「...王(おう)」)といい、 天皇の

              女子の皇女(こうじょ)を王女(おう

              じょ、呼称「...女王(じょおう)」)と

              いう。

 

〇 ほん  本願寺。

             (ほんがんじ)。 (= 一向宗)。

             HONGANJI DENOMINATION.

           (⇒ 一向宗)。

 

〇 ほん  本寿院

             (ほんじゅいん)。 《人名》。

             HONJUIN.

          ○ 江戸幕府・第13代将軍・

          徳川家定(いえさだ)の生母 。

 

〇 ほん  本城。

          (ほんじょう)。 《 城》。

             ■ 本城 (ほんじょうとは、 

             本拠地の城である。

             ■ 城には、 

             (a) 本城 (ほんじょう、本拠地

                 の城)、 

             (b) 支城 (しじょう、本城を防

                 衛するための城)、

             (c) 政務居城 (せいむきょじょ

                 う、政務を行うための城)、

             などがある。

 

〇 ほん  本多忠勝。

             (ほんだ ただかつ)。 《人名》。

          (1548−1610年)。

          HONDA Tadakatsu.

                   ○ 徳川氏重臣。

        (⇒ 徳川家康)。 

              ■ 本多 忠勝 (ほんだ ただかつ、1548−

              1610年)は、徳川 氏重臣で、徳川家康の

              重臣 である。

              ● 本多 忠勝は、 娘の小松姫(こまつひめ)

              を、真田 信幸(信之) (さなだのぶゆき、真

              田 幸村(信繁)の兄) に嫁がせ、 真田氏

              と縁を結ぶ。

              ● 本多 忠勝は、徳川 家康に従って50余度

              の合戦に出陣し、 徳川 政権創業の功臣であ

              る。

 

〇 ほん  本多 正純

             (ほんだ まさずみ)。 《人名》。

          (1565〜1637年)。

          HONDA Masazumi.

           ○ 徳川氏重臣。 徳川家康、

                 徳川秀忠の重臣。

           ○ 本多正信の子。

              ■ 本多正純 (ほんだまさずみ)は、徳川

              氏重臣で、徳川家康、徳川秀忠の重臣 で

              ある。

              ● 本多正純は、 本多正信の子である。

 

〇 ほん  本多 正信

             (ほんだ まさのぶ)。 《人名》。

          (1538〜1616年)。

          HONDA Masanobu.

           ○ 徳川氏重臣。 徳川家康

          の側近、重臣。 

           ○ 本多正純の父。

              ■ 本多正信 (ほんだまさのぶ)は、徳川

              氏重臣で、徳川家康の側近、重臣である。

              ● 本多正信は、 本多正純の父である。

 

〇 ほん  本多 正信・正純 父子。

             (ほんだ まさのぶ・まさずみ ふし)。

          《人名》。

          HONDA Masanobu AND

          Masazumi, FATHER AND 

          SON.

        (⇒ 本多正信本多

        正純)。

 

〇 ほん  本土空襲。

             (ほんどくうしゅう)。 《戦い》。

                            THE AIR RAID ON THE MAINLAN 

             OF JAPAN.

           (= 日本本土空襲)。

           (= 太平洋戦争中の、日本本土へ

                      の米軍機の爆撃による空襲)。

             (⇒ 太平洋戦争)。

             (⇒ 東京大空襲

          原爆被害)。

             ■ 本土空襲 (ほんどくうしゅう)とは、 

                         太平洋戦争中の、日本本土への米軍機

              の爆撃による空襲である。

             ■ 本土空襲は、 太平洋戦争(1941年

             〜1945年)中に、 1944年(昭和19年)

             11月から、1945年(昭和20年)8月 まで、 

             アメリカ合衆国の、 B-29爆撃機などの爆

             撃機が、マリアナ諸島などから出 撃し、

             本本土に行った、精密爆撃や無差別爆撃

             をいう。 

               日本本土空襲で、日本本土の約66箇

             所が爆撃され、約40万人の死者を出し、

             日本本土の多くの主要都市は、焦土と化

             し、たくさんの犠牲者・死傷者を出した。

             ● アメリカ陸軍航空軍は、  ヘンリー・ア

              ーノルド司令官の指揮のもと、 太平洋戦

             争(1941年〜1945年)中に、 1944年

             (昭和19年)11月から、1945年(昭和2

             0年) 8月まで、日本本土への米軍機の爆

             撃 による空爆をを行った。 

             ● 太平洋戦争当時、 米航空軍は、米陸

             軍に属し 米陸軍の下部組織で、米陸海軍

             の下請け的存在であった。 その状況を打

             開するため、米陸軍航空軍の、アーノルド

             司令官は、米軍内で航空戦力を認めさせ

             るために、航空戦力のみによる爆撃で日本

             に大打撃を与え、日本を降伏させ、戦争を

             終わらせようとした。 そして、その航空軍

             の大戦果により、米軍内で、航空軍を独立

             した空軍 (英:The US Air Force)へ

             と昇格させようとした。 

                そして、戦中の大戦果により、戦後の

             1947年に、米陸軍航空軍は米空軍として

             設立され、米航空軍独立の目標は、達成さ

             れた。

             ● 精密爆撃(1944年11月ー3月)、その

             後、無差別爆撃(1944年3月ー8月)の日

             本本土空襲を行う。

                米陸軍航空軍の、アーノルド司令官

             は、1944年(昭和19年)11月から、19

             45年(昭和20年)3月まで、日本本土の

             軍事施設への精密爆撃を行ったが、大き

             な戦果をあげられなかった。 旧日本軍の

             戦闘機が攻撃できない、高度約1万メート

             ル(約3万3000フィート)からのB-29爆

             撃機による爆撃のため、高度約1万mにあ

             る日本本土上のジェット気流による揺れが

             ひどく、また、眼下に雲が多く視界不明瞭

             なため、日本本土の軍事施設への精密爆

             撃が思うようにできず、よい戦果をあげら

             れなかった。

                よい戦果をあげられない米航空軍へ

             の米軍内での批判が増し、また、1945年

             (昭和20年)11月1日に米軍の日本本土

             上陸が予定されていたため、米大統領の

             了解のもと、米航空軍のアーノルド司令官

             は、人道上問題があり、民間人を戦禍に

             巻き込む、無差別爆撃を、1945年(昭和

             20年)3月に、決意した。 その初期の無

             差別爆撃の空爆が、1945年(昭和20年)

             3月10日の東京大空襲である。

                アーノルド司令官指揮下の米航空軍

              のカーチス・ルメイ将軍は、1945年(昭和

             20年) 3月から、1945年(昭和20年)8

             月まで、日本 国民の戦意を喪失させるた

             め、木造人家などの建物を焼き払う焼夷

             弾(しょういだん、英:Incendiary bomb

             (s))などを爆弾投下し、 B-29爆撃機に

             よる無差別爆撃を、日本本土の、大都市

             や中小都市で行った。 アメリカは、戦争を

             早く終わらせたいため、軍事工場のない

             中小都市にも無差別爆撃を行った。

                アメリカの無差別爆撃は、日本の一

             般市民を攻撃し、戦意を喪失させ、日本

             政府に降伏を促させ、太平洋戦争を早く

             終わらせるためである。

             ● また、米大統領の指示で、アーノルド

             司令官指揮下の米航空軍のルメイ将軍は、

             1945年(昭和20年)8月に、-29爆撃

             機により、広島と長崎に原爆を投下した。

 

〇 ほん  本土日本人 

             (ほんどにほんじん)。 (= 本土人)。

             (= 日本本土常住民)。

          (人類学上の分類・特徴)。

             (日本人のルーツ)。

                    《日本常住民の日本人》。

             THE MAINLAND JAPANESE 

             PEOPLE.

             (= 古代日本後期に、日本本土で形成され

             た、古・新モンゴロイド混血の「縄文・弥生

             渡来・混血系の日本人の人類)。

             ■ 現在のほとんどの日本人。

             ○ 日本本土原住の「縄文・弥生

          渡来・混血系」の人々。

             ■ 本土日本人 (= 日本本土土着・常住民)。

             <日本人(= 日本地域土着・常住民)。  

             <モンゴロイド。

             <現生人類(= 新人、ホモ・サピエンス種)。 

             <ヒト属。

             <人類(= ヒト亜族) 。

             ● 日本人の人類学上の分類・特徴。

             ■ 現在のほとんどの日本人は、 「本土

             日本人」 である。

             ■ 本土日本人は、 「縄文系」の人々と「弥

             生渡来系」の人々との混血の人類である。

             ● 本土日本人は、 現存日本人 (人類学

             上の分類の、「本土日本人」、「琉球人」、

             「アイヌ人」) の1グループである。 

             ● 本土日本人は、 古代日本後期(奈良・

             平安時代)に、 日本本土(九州、四国、本

             州)で、 縄文系古モンゴロイドの人々 と 

             弥生渡来系新モンゴロイドの人々 とが混

             血して形成される。

             ● 本土日本人は、 現生人類(= 新人、ホ

             モ・サピエンス種)のモンゴロイドの、日本人

             (= 日本地域土着・常住民)の、日本本土原

             住の「縄文・弥生渡来・混血系」(古・新モン

             ゴロイド混血)の人々(人類) である。 

             ● 本土日本人は、 弥生時代以来、日本

             本土で、約1500年をかけて縄文系と弥生

             渡来系の人々が混血して成立した、現生人

             類である。

                 ■  本土日本人の形成。

                主に、縄文人とその子孫の「縄文系」

              の人類 と、 渡来系弥生人とその子孫の

              「弥生渡来系」の人類 が、本土日本人を

             形成する。 

             ■ 日本人の「本土日本人」の形成。

             ● 現在のほとんどの日本人は、 「本土

             日本人」であり、 古・新モンゴロイド混血

             の、「縄文系(在来系)」と「弥生渡来系」の

             混血の人類の「本土日本人」 である。

                主に、縄文人とその子孫の「 縄文系

             (在来系)」の人々 と、 渡来系弥生人 と

             その子孫 の「弥生渡来系」の人々が、 日

             本本土(九州本土、四国、本州)で、 古代

             日本後期(奈良・平安時代)に、混血して、

             本土日本人日本人を形成する。

              ● 農耕主体・鉄器製造・使用などの当時

             の高度先進技術をもつ、シベリア東部原住

             でアジア大陸からやってきた、渡来系弥生

             人の子孫が中心となって、 古代に、日本

             本土地域で、日本統一国家を形成する。

              ● アジア大陸から、約12000年前から

             縄文時代に、先に日本地域へ移動してき

             た、古モンゴロイド (= 南方モンゴロイド 、

              約4万年前・アジア南東部で出現) の 

             類は、 日本地域 (日本本土、南西諸島、

             北海道)で縄文人とその子孫の「縄文系」

             の人類となる。 

                アジア大陸から、 約2400年前から

             弥生時代前期に、後から日本本土へ移動

             してきた、新モンゴロイド (= 北方モンゴ

             ロイド、約2万年前 ・シベリア東部で出現)

             の人類は、 日本本土で、 渡来系弥生人

             とその子孫の「弥生渡来系」の人類となる。

                そして、古代日本後 期(奈良・平安時

             代)に、 古モンゴロイドの「縄文系 (在来

             系)」 と  新モンゴロイドの「弥生渡来系」 

             の人々が、 日本本土で混血して、 「本土

             日本人」(= 本土人) (現在のほとんどの

             日本人) となる。

               古代日本後期に、日本本土(本州、四

             国、九州本土)では、「縄文・弥生渡来・混

             血系」の古代日本人が大多数を占め、「本

             土日本人」が形成された。 

                更に、近・現代日本の時期に(明治時

             代以後)、北海道や南西諸島へも「本土日

             本人」が移住・拡散した。

                本土日本人は、 「本土日本人」、

             「琉球人」、「アイヌ人」の分類 の1グル

             ープである。 

             ■ 本土日本人 (= 日本本土土着・常住

             民) への進化表。

               化石類人猿(= 中新世ホミノイド)⇒ 

             人類の、猿人⇒ 原人(= ホモ・エレクト 

             ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類

             ⇒ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス

             (種))⇒ モンゴロイド⇒ 縄文人⇒ 

             弥生人⇒ 古代日本人⇒ 本土日本人

             (= 本土人)、 「琉球人」、「アイヌ人」。

             ■ 現代日本人(日本常住民)への進化表。

               化石類人猿(= 中新世ホミノイド)⇒ 

             人類の、猿人⇒ 原人(= ホモ・エレクト

             ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類

             ⇒ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス

             )⇒ モンゴロイド⇒ 縄文人⇒ 

             弥生人⇒ 古代日本人⇒ 中世日本人 

             ⇒ 近世日本人⇒ 近代日本人 

             現代日本人

            (⇒ 縄文・弥生渡来・混血系)。

            (⇒ 古代日本人)。            

            (⇒ 原日本人)。

            (⇒ 日本人)。            

          (⇒ 日本人ルーツ・ガイドブック)。

 

〇 ほん  本能寺の変 

             (ほんのうじのへん)。

          《日本・安土桃山時代の事件》。

          (1582年6月)。

             HONNOJI INCIDENT.

          ○ 明智光秀謀反による、織田

          信長・信忠父子殺害事件。

              ■ 本能寺の変 (ほんのうじのへん)は、 

             明智光秀謀反による、織田信長・信忠父

             子殺害事件であり、 1582年(天正10

             年)6月2日未明に起こった事件である。

              ■ 織田信長は、 超実力主義の家臣登

             用と家臣の使い捨てで、日本最強の軍

             団をつくり、一大勢力を築く。

              ■ 信長の家臣は、 息をつく暇もなく働

             き、過去の功績があっても、現在や未来

             の実績を信長から強く求めらる。 

             ■ 有力な説の1つでは、 信長は、15

             80年代より、 織田氏の天下統一事業

             では重臣重視から一族重視へと方針を

             転換した。 

                信長の重臣の1人の明智光秀は、 

             老齢になり仕事がきつくなり、跡継ぎ男子

             は実力がなく引退できず、 明智家はい

             ずれ信長にリストラされ今まで苦労して

             得た領地や家臣を失うと考え(使い

             捨てにされると考え)、 謀反(むほん)を

             起こし、京(都)・本能寺で信長を殺害す

             る(自害させる)。

 

 

 

   ● 五十音順 (あいうえお順)。

 

 

   ■  『 現在は、過去の成果であり、

       未来は、現在の成果である。 

         (良き現在は、過去の人々の良き努力

          や活動の積み重ねの成果であり、 

          明るい良き未来は、現在の人々の、

          良き努力や活動の積み重ねによって

          形成される。)

 

 

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◆ カナヤマ 日本歴史辞典 

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#jpdictionary(general)

 

◆ 日本史辞典

 

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#ho

 

◆ 派生見出し語サイト。

■ 「ほ」 基本・見出し語WEBサイト No. ja−ho 

  の、派生見出し語サイト。

 

■ 派生見出し語移動案内

   ページ。

■ 《旧HP》。

■ No. ja−ho−0331。

● 見出し語項目 ほ   ( う 03 / じ 31

  付近   第1部・う・サ行グループ )。

 《内容》 鎌倉北条氏。

 ほう  北条氏(鎌倉北条氏)

             (ほうじょうし(かまくらほうじょうし))。

          (= 伊豆・平氏の北条氏)。 

■ 《新HP》。

■ No.ja−ka−3126。

● 見出し語項目 か   ( ま 31  / く 26 

   付近  第1部・ま・カ行グループ)。

 かま  鎌倉北条氏 

             (かまくらほうじょうし)。

 

■ 《現行HP》。

■ No. ja−ho−0332。

● 見出し語項目 ほ   ( う 03 / じ 32

   付近   第1部・う・サ行グループ )。

 ほう  《内容》 北条(氏)政権

 ほう  北条政権 (ほうじょうせいけん)

          (= 鎌倉幕府・北条執権政権)。 

 

■ 《現行HP》。

■ No. ja−ho−0333。

● 見出し語項目 ほ   ( う 03 / じ 33

   付近   第1部・う・サ行グループ )。

 《内容》 鎌倉北条氏の執権16代。

 ほう  北条氏の執権、

       鎌倉幕府の執権(しっけん)

〇  ほう  北条 時政 (ほうじょう ときまさ) 

                    ○ 鎌倉幕府の北条氏・初代執権

〇  ほう  北条 義時 (ほうじょう よしとき)。

               ○ 鎌倉幕府の北条氏・第2代執権

〇  ほう  北条 泰時 (ほうじょう やすとき) 。 

               ○ 鎌倉幕府の北条氏・第3代執権

〇  ほう  北条 経時 (ほうじょう つねとき)。

               ○ 鎌倉幕府の北条氏・第4代執権

〇  ほう  北条 時頼 (ほうじょう ときより) 。 

               ○ 鎌倉幕府の北条氏・第5代執権

〇  ほう  北条 長時 (ほうじょう ながとき)。

               ○ 鎌倉幕府の北条氏・第6代執権

〇  ほう  北条 政村 (ほうじょう まさむら) 。 

               ○ 鎌倉幕府の北条氏・第7代執権

〇  ほう  北条 時宗 (ほうじょう ときむね)

               ○ 鎌倉幕府・北条氏・第8代執権

〇  ほう  北条 貞時 (ほうじょう さだとき) 。 

               ○ 鎌倉幕府の北条氏・第9代執権

〇  ほう  北条 師時 (ほうじょう もろとき)。

               ○ 鎌倉幕府の北条氏・第10代執権

〇  ほう  北条 宗宣 (ほうじょう むねのり) 

            (= 大仏(おさらぎ)宗宣)。

               ○ 鎌倉幕府の北条氏・第11代執権

〇  ほう  北条 熙時 (ほうじょう ひろとき) 

               ○ 鎌倉幕府の北条氏・第12代執権

〇  ほう  北条 基時 (ほうじょう もととき) 。 

               ○ 鎌倉幕府の北条氏・第13代執権

〇  ほう  北条 高時 (ほうじょう たかとき) 。 

               ○ 鎌倉幕府の北条氏・第14代執権

〇  ほう  北条 貞顕 (ほうじょう さだあき) 

            (= 金沢貞顕)。

               ○ 鎌倉幕府の北条氏・第15代執権

〇  ほう  北条 守時 (ほうじょう もりとき

            (= 赤橋守時)。 

               ○ 鎌倉幕府の北条氏・第16代執権

 

■ 《現行HP》。

■ No. ja−ho−0334。

● 見出し語項目 ほ   ( う 03 / じ 3 4

   付近   第1部・う・サ行グループ )。

 ほう  《内容》 北条氏の執権

       以外の人々

〇  ほう  北条 政子 (ほうじょう まさこ)。

 

■ 派生見出し語移動案内

     ページ。

■ 《旧HP》。

■ No. ja−ho−0335。

● 見出し語項目 ほ   ( う 03 / じ 3 5

   付近   第1部・う・サ行グループ )。

 

 ほう  北条政権 (ほうじょうせいけん)

〇  ほう  北条 政子 (ほうじょう まさこ)

〇  ほう  北条 時政 (ほうじょう ときまさ)

〇  ほう  北条 時宗 (ほうじょう ときむね)

 

 

■ 《現行HP》。

■ No. ja−ho−0336。

● 見出し語項目 ほ   ( う 03 / じ 3 6

   付近   第1部・う・サ行グループ )。

《内容》 小田原北条氏(= 後北条氏)

      5代・各当主。

 ほう  北条 早雲 (ほうじょう そううん)

 ほう  北条 氏綱 (ほうじょう うじつな)

 ほう  北条 氏康 (ほうじょう うじやす)

 ほう  北条 氏政 (ほうじょう うじまさ)

 ほう  北条 氏直 (ほうじょう うじなお)

 

■ 派生見出し語移動案内

     ページ。

■ 《旧HP》。

 ほう  北条氏(小田原北条氏、

       後北条氏) (ほうじょう し)

■ 《新HP》。

 No. ja−o−1697。

● 見出し語項目 お   ( だ 16 / わ 97 

  付近  第1部・た・ラ行ワングループ  )。

 ほう  小田原北条氏

       (= 後北条氏)

              (おだわらほうじょうし)。

 

 

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#thehosokawaclan

 

■ 細川氏  

       (ほそかわし)。

 

■ 細川氏。

■ 名称 : 細川氏 (ほそかわし)。

■ 14世紀〜19世紀。

■ 武家の細川氏。

■ 武家の細川氏は、足利氏の支族 である。

■ 細川氏本家の細川京兆家は、室町時代に、

  室町幕府の三管領の1つ・細川管領家 と

  なる。

■ 細川氏庶流の和泉上守護家(= 細川刑部

  家)は、安土桃山時代に大名になり、江戸

  時代に、54万石・肥後熊本藩主の大名と

  なる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11419。

 

 

■ 細川氏。

■ 武家の細川氏 (ほそかわし、14世紀〜19

  世紀)は、 足利氏の支族である。

 

■ 細川管領家 (ほそかわかんれいけ、細川京兆

  家、細川本宗家) とは、 室町幕府(= 足利幕

  府)の管領職に就任 した、室町時代の細川

  本家(宗家)である。

 

■ 室町時代後期(戦国時代)の細川京兆家

    (= 細川管領家、細川本宗家)

    の実力者は、順に、

    (1) 細川勝元(かつもと)、

    (2) 細川政元(まさもと)、

    (3) 細川高国(たかくに)、

    (4) 細川晴元(はるもと)、

    である。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 細川氏の庶流の和泉上守護家(= 細川刑部

  家)には、 細川 藤孝(幽斎)、細川 忠興など

  がいる。

 

 

■ 細川氏。

■ 細川氏は、 室町時代前期に、足利尊氏に従

  って、功をたて、 有力守護大名となり、 その

  後、 室町幕府の三管領の1つ・細川管領家

  (管領・細川氏)となる。  

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 細川氏本宗家(= 細川京兆家、細川管領家)

  は、室町時代に、 室町幕府の三管領の1つ・

  細川管領家(ほそかわかんれいけ)となる。

 

■ 室町時代後期(= 戦国時代)の室町幕府を支

  える大名の細川管領家

     応仁の乱後、室町幕府の守護大名在京

  制が崩壊した中で、細川氏のみが、室町時代

  後期(= 戦国時代)に畿内付近に残った守護

  大名であり、 室町時代後期(= 戦国時代)

  室町幕府を支える大名となる。

 

■ 細川氏庶流の和泉上守護家(= 細川刑部家)

  は、安土桃山時代に大名になり、江戸時代に、

  54万石・肥後熊本藩主の大名となる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 細川管領家(= 細川氏本 宗家、

   細川京兆家)。

■  細川管領家(管領・細川氏)では、 管領

  細川頼之 (よりゆき、1329〜92年・将軍・

  足利義満補佐)、 管領・細川勝元 (かつも

  と、1430〜73年・将軍・足利義政補佐)、 

  管領・細川政元 (まさもと、1466〜15

  07年、勝元の子、将軍・足利義澄補佐)、 

  管領・細川高国(たかくに 、将軍・足利義稙

  (義材、義尹)後期・補佐、将軍・足利義晴

  補佐)、 管領・細川晴元(はるもと、将軍・

  足利義 晴足利義 輝補佐) などがいた。

    しかし、 室町時代後期(戦国時代)に、

  室町幕府・管領の細川晴元(ほそかわは

  るもと、生没年:1514〜63年)のとき、

  1549年(天文18年)6月に、 重臣の三

  好長慶に京都を追放され、 細川管領家

  (= 細川京兆家)は衰退する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ (4)(5)(6) 細川氏の

    畿内付近地域支配政権 

    (1493年ー1549年)。

 

■ 室町時代後期(= 戦国時代

    1467年ー1573年)の畿内

    付近地域の実質支配者。

 

  ● 室町時代後期(= 戦国時代、14

    67年ー1573年)に、室町幕府

    (= 足利幕府)の足利氏将軍の権

    威は保たれたが、足利氏将軍の

    権力は低下する。

 

  ● 応仁の乱(1467年ー1477年)

    後、足利氏将軍の支配地は、畿内

    付近地域のみとなり、その後、足利

    氏将軍に代わって、細川氏、三好

    氏、織田氏の勢力が、畿内付近地

    域を支配する。 

       つまり、室町幕府の8代義政、

    9代義尚、10代義稙・前期の時期

    は、足利氏将軍が畿内付近地域を

    支配し、 室町幕府の11代義澄、

    10代義稙・後期、12代義晴、13

    代義輝、14代義栄、15代義昭の

    時期は、順に、細川政元、細川高

    国、細川晴元、三好長慶、三好三

    人衆・松永久秀、織田信長が、

    内付近地域を支配する。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 室町時代後期(= 戦国時代

   1467年ー1573年)の畿内

   付近地域の実質支配者。

  ■ 室町時代後期(= 戦国時代)の、

   京(きょう、京都)や京周辺の畿内

   付近地域の実質支配者は、 順に、

  (1) 足利義政の畿内付近地域

      支配政権

      (1467年〜1486年、

      1489年〜1490年)、

  (2) 足利義尚(義熙) の畿内付

      近地域支配政権

      (1486年〜1489年)、

  (3) 足利義稙(義材、義尹)の

      畿内付近地域支配政権

      1490年〜1493年) 、

  (4) 細川政元の畿内付近地域

      支配政権

      (1493年〜1507年)、

  (5) 細川高国の畿内付近地域

      支配政権

      (1508年〜1531年) 、

  (6) 細川晴元の畿内付近地域

      支配政権

      (1531年〜1549年)、

  (7) 三好長慶の畿内付近地域

      支配政権

      (1549年ー1564年)、

  (8) 三好三人衆・松永久秀の

      畿内付近地域支配政権 

      (1564年ー1568年)、

  (9) 織田信長の畿内付近地域

      支配政権

      (1568年ー1573年) 、

  となる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 細川氏の庶流。

■ 管領・細川氏の庶流(分家、支族)の、細川

  藤孝(ほそかわふじたか、幽斎(ゆうさい)、

  1534〜1610年)やその子・細川忠興(ほそ

  かわただおき、1563〜1645年)は、 武将

  で、 安土桃山時代に、大名となり、 江戸時

  代初期に、細川忠興の子・細川忠利は、 54

  万石・肥後国熊本藩主となる。 その後、武家

  の細川氏は、江 戸時代末、明治時代初期まで、

  続いた。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 細川 忠興は、 細川ガラシア (細川がラシ

  ャ、明智玉(珠)(あけちたま))の夫である。

     しかし、細川 忠興は、 1600年の 慶長

  天下分け目の戦いの時に、西軍の人質

  になるのを拒んで、細川ガラシャが大阪屋敷

  で自害し、 寵愛していた細川ガラシアを失う。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 細川 忠興 と 玉(珠)(たま、細川ガラシ

  )との間に、3男2女が生まれる。 その1人

  が、 細川忠興三男で、江戸時代に、肥後熊

  本藩の初代藩主(熊本藩細川家)となった細

  川忠利(ただとし)である。 

    一方、 細川忠興四男で、異母弟・細川立

  孝は、江戸時代に、 支藩の宇土藩初代藩主

  (宇土藩細川家)となった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 肥後熊本藩の、熊本藩細川家(嫡流家、熊

  本藩主家)の藩主は、 7代藩主まで続いた。 

     しかし、熊本藩8代藩主は、宇土藩細川

  家より養子に入った、細川斉茲となり、 それ

  以後の藩主は、 宇土藩細川家の細川斉茲

  の子孫となり、 細川ガラシャの血をひく細川

  忠利の男子直系子孫ではない。

     江戸時代後期以後の細川家の人々は、

  細川ガラシャの血をひかない、宇土藩細川家

  の細川斉茲の子孫である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 細川氏が登場する、興味深い関

    連ドラマ、映画、ドキュメンタリー。 

 

★ 細川氏が登場する、興味深い、関

   連ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が混じって描かれています。 

  また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 麒麟(きりん)がくる 』。 

   (NHKテレビ・2020年大河ドラマ)。 

   (池端俊策 作・脚本)。

 

 室町幕府の管領の細川晴元を描く。

 室町幕府幕臣、その後、織田信長家臣

  の細川藤孝(幽斎)を描く。

 日本の戦国時代(室町時代後期)、 安土

   桃山時代を描く。

 

● 室町幕府管領(かんれい)の細川晴元

  (ほそかわはるもと)を演じる俳優名 : 

  国広 富之。

● 室町幕府幕臣、後、織田信長家臣の

  細川藤孝(幽斎)(ほそかわふじたか

  (ゆうさい))を演じる俳優名 : 

  眞島 秀和。

 

● 室町幕府・第13代将軍・足利義輝(あ

  しかがよしてる)を演じる俳優名 : 

  向井 理。

● 室町幕府・第15代将軍・足利義昭(あ

  しかがよしあき、足利義輝の弟)を演じ

  る俳優名 : 滝藤 賢一 。

● 室町幕府幕臣の三淵藤英(みつぶち

  ふじひで、細川藤孝(幽斎)の異母兄)

  を演じる俳優名 : 谷原 章介。

  

● 細川晴元家臣の三好長慶(みよしなが

  よし)を演じる俳優名 : 山路 和弘。

● 三好長慶家臣の松永久秀(まつながひ

  さひで)を演じる俳優名: 吉田 鋼太郎。

 

 

■ 『 塚原卜伝 (つかはらぼくでん) 』 。 

   (NHKテレビ・2011年時代劇

   スペシャルドラマ)。  

 

■ 室町幕府の管領の細川高国が登場する。

■ 室町幕府の10代将軍・足利義稙(よした

  ね、足利義尹(よしただ))、 管領代の

  内義興、管領の細川高国が登場する。

■ 室町時代後期(戦国時代)を描いたドラマ

   で、当時活躍した人物、当時の時代状況

   を描く

■ 塚原卜伝の生涯を描いたドラマである。

■ 塚原卜伝が、武者修行の旅に出て、日本

   各地の剣術家と試合をし、己の剣術に磨

     きをかけるストーリーが展開する。

 

● 塚原卜伝を演じた俳優名 : 堺 雅人。

 

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#thehosokawaclan-thehappenings

 

◆ 細川氏関連出来事 

  (年代順、詳細)。

 

 

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#hosokawakatsumoto

 

■ 細川 勝元  

       (ほそかわ かつもと)。

 

■ 細川 勝元。

■ 名称 : 細川 勝元 (ほそかわ かつもと)。

■ 生没年 : 1430年〜1473年。

■ 細川 勝元は、

  山名持豊(宗全)と室町 幕府の政治の主導権を

  争い、 応仁の乱では、東軍の指導者となる

■ 細川 勝元は、

  管領として、室町 幕府の第8代将軍・足利義政

  (よしまさ)を補佐する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11433。

 

 

■ 有力守護大名細川 勝元は、  室町幕府

  政治の主導権をめぐり、 有力守護大名の山

  名持豊(宗全) (やまな もちとよ(そうぜん) 

  と対立し 争い、 応仁の乱 (おうにんのらん、

  1467年〜1477年)では、東軍の指導者と

  なる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 細川 勝元 (ほそかわ かつもと、生没年:

  1430年〜1473年)は、 管領・細川氏嫡流

  の出身で、 室町時代中期 に、室町幕府

  (かんれい)となり 室町 幕府の第8代

  軍・足利義政(よしまさ)を補佐 する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 細川 勝元が登場する、興味深い

    関連ドラマ、映画、ドキュメンタリー。 

 

★ 細川 勝元が登場する、興味深い、

   ドキュメンタリー。

 

■ BS歴史館 

  『 シリーズ日本の転換点@ 

    京都炎上! 応仁の乱〜 そのとき

   ‘‘日本人’’が生まれた〜』。

    (NHKテレビの2013年10月10日・

    本放送テレビ・ドキュメンタリー番組)。

  ■ 応仁の乱を述べる。

  ■ 応仁の乱の原因、切っ掛け、内容、結果

    や応仁の乱のその後の影響を述べる。

 

■ その時歴史が動いた 

  『 応仁の乱、天下を滅ぼす 

    〜終わりなき‘‘ 戦いの

    連鎖 ’’〜 』。 

   (NHKテレビの2008年(H20)7月・

    本放送テレビ・ドキュメンタリー番組、 

    第332回)。

  ■ 応仁の乱を述べる。

 

 

★ 細川 勝元が登場する、興味深い、

     関連ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクションです。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の

   事実) と 架空の出来事が 混じって描

   かれています。 また、現代風にアレンジ

   してあります。

 

■ 『 花の乱 (はなのらん) 』 。 

   (NHKテレビの1994年大河ドラマ)。

  ■ 応仁の乱を描く。

  ■ 室町時代の中期の、社会状況や

    人物の活躍を描いたドラマ。

  ■ 室町時代の中期を描いたドラマで、 

  室町時代の中期に活躍した人々  や、 

  将軍の夫人の日野富子(ひのとみこ)、 

  富子の夫の室町幕府将軍の足利義政

  (よしまさ)、応仁の乱などを描いたドラ

  マ。

 

  

  ○ 大河ドラマ「花の乱」での、足利義政(右)

   と日野富子(左)。

    ○ 大河ドラマ「花の乱」のPRフォト。

 

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#hosokawatakakuni

 

■ 細川 高国  

       (ほそかわ たかくに)。

 

■ 細川 高国。

■ 名称 : 細川 高国 (ほそかわ たかくに)。

■ 別名 : 出家名:道永 (どうえい)。

■ 生没年 : 1484年〜1531年。

■ 細川 高国は、 

  1508年から1531年まで、畿内付近を支

  配する勢力をもった大名である。

■ 細川 高国は、 

  室町時代後期(戦国時代)の、室町幕府

  管領である。

■ 細川 高国は、 

  管領・細川氏の庶流の出身である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11436。

 

 

■ 細川 高国。

■ 細川 高国は、 

  室町幕府の、第10代将軍・第2次政権(15

  08年〜1521年)の足利 義稙 (よしたね 、

  義材、義尹、将軍在任:1508年〜1521年)、

  第12代将軍の足利 義晴 (よしはる、将軍

    在任:1521 年〜1546年) を補佐する。

 

● 細川 高国 (ほそかわ たかくに、生没年:14

  84〜1531年) は、 管領・細川氏の庶流 の

  出身であり、 室町時代後期(戦国時代)の、

  室町幕 府管領(かんれい)として、 第10代

  将軍・第2次政権(将軍在任:1508年〜15

  21年)の足利義稙(よしたね 、義材(よしき)、

  義尹(よしただ))、 第12代将軍の足 利義晴

  (よしはる、将軍在任:1521 年〜1546年)を

  補佐した。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 細川 高国。

■ 細川 高国は、 管領・細川氏の庶流 の出身

  で、管領・細川氏嫡流の細川政元の養子と

  なる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ (5) 細川高国の畿内付近

    地域支配政権

    (1508年〜1531年)

 

■ 細川 高国 (ほそかわ たかく

   に、1484年ー1531年)は、15

   08年(永正5年)から1531年(享

   禄4年)まで、実質上、畿内付近地

   域の支配者となる。

 

  ● 1507年(永正4年)6月に、

   細川政元は暗殺される。 

       1508年(永正5年)に、細川 

   高国は、大内軍勢を後ろ盾にして、

   細川澄元、三好之長を京(きょう、

   京都)から追い出し、足利義稙(義

   材、義尹)を上洛させて、細川政元

   に代わって、細川高国が、実質上、

   畿内付近地域の支配者となる。

 

   ● 1531年(享禄4年)に、 細川

    晴元の軍が細川高国の軍に勝ち

    (大物崩れ)、高国が自害する。

    細川高国に代わって、細川晴元が

    実質上、畿内付近地域の支配者と

    なる。 

 

■ 室町時代後期(= 戦国時代

    1467年ー1573年)の畿内

    付近地域の実質支配者。

  ● 室町時代後期(= 戦国時代、14

    67年ー1573年)に、室町幕府

    (= 足利幕府)の足利氏将軍の権

    威は保たれたが、足利氏将軍の

    権力は低下する。

  ● 応仁の乱(1467年ー1477年)

    後、足利氏将軍の支配地は、畿内

    付近地域のみとなり、その後、足利

    氏将軍に代わって、細川氏、三好

    氏、織田氏の勢力が、畿内付近地

    域を支配する。 

       つまり、室町幕府の8代義政、

    9代義尚、10代義稙・前期の時期

    は、足利氏将軍が畿内付近地域を

    支配し、 室町幕府の11代義澄、

    10代義稙・後期、12代義晴、13

    代義輝、14代義栄、15代義昭の

    時期は、順に、細川政元、細川高

    国、細川晴元、三好長慶、三好三

    人衆・松永久秀、織田信長が、

    内付近地域を支配する。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 室町時代後期(= 戦国時代

   1467年ー1573年)の畿内

   付近地域の実質支配者。

  ■ 室町時代後期(= 戦国時代)の、

   京(きょう、京都)や京周辺の畿内

   付近地域の実質支配者は、 順に、

  (1) 足利義政の畿内付近地域

      支配政権

      (1467年〜1486年、

      1489年〜1490年)、

  (2) 足利義尚(義熙) の畿内付

      近地域支配政権

      (1486年〜1489年)、

  (3) 足利義稙(義材、義尹)の

      畿内付近地域支配政権

      1490年〜1493年) 、

  (4) 細川政元の畿内付近地域

      支配政権

      (1493年〜1507年)、

  (5) 細川高国の畿内付近地域

      支配政権

      (1508年〜1531年) 、

  (6) 細川晴元の畿内付近地域

      支配政権

      (1531年〜1549年)、

  (7) 三好長慶の畿内付近地域

      支配政権

      (1549年ー1564年)、

  (8) 三好三人衆・松永久秀の

      畿内付近地域支配政権 

      (1564年ー1568年)、

  (9) 織田信長の畿内付近地域

      支配政権

      (1568年ー1573年) 、

  となる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 細川 高国が登場する、興味深い

  関連ドラマ、映画、ドキュメンタリー。 

 

★ 細川 高国が登場する、興味深い

   関連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

   歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

   と架空の出来事が 混じって描かれています。  

   また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 塚原卜伝 (つかはらぼくでん) 』 。 

   (NHKテレビの2011年時代劇

    スペシャルドラマ)。  

 

■ 室町時代後期(戦国時代)を描いたドラ

   マで、当時活躍した人物、当時の時代状

  況を描く

■ 室町幕府の第10代将軍・第2次政権の

  足利義稙(よしたね、義材(よしき)、義尹

  (よしただ))、 管領代の大内義興、管領

  の細川高国が登場する。

■ 塚原卜伝の生涯を描いたドラマである。

 

● 塚原卜伝を演じた俳優名 : 堺 雅人。

 

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#hosokawafujitaka(yusai)

 

■ 細川 藤孝(幽斎) 

       (ほそかわ ふじたか(ゆうさい))

 

■ 細川 藤孝(幽斎)

■ 名称 : 細川 藤孝(幽斎) 

   (ほそかわ ふじたか(ゆうさい))。

■ 生没年 : 1534〜1610年

 

 

■ 細川 藤孝(幽斎) (ほそか わふじたか(ゆうさ

  い)、 生没年:1534〜1610年) は、 管領

  細川氏の支族 であり、 室町時代後期(戦国時

  代)、安土桃山時代、江戸時代初期の武将 で

   ある。

    細川藤孝の号は、幽斎(ゆうさい)である。

 

■ 細川藤孝(幽斎)の子は、 細川忠興(ほそかわ

  ただおき、1563〜1645年)である。

 

■ 細川藤孝(幽斎)は、 武家故実に通じ、歌人(か

  じん)でもあった。

 

■ 細川藤孝(幽斎)は、 初め、室町幕府第13代

  将軍の足利 義輝に仕(つか)えていた。

    その死後、足利義昭の側近として、足利 義輝

  の弟の足利義昭の将軍擁立に尽力(じんりょく)

  する。 足利義昭の第15代将軍就任後、 織田

  信長に従い家臣となり、丹後宮津(たんごみやづ)

  11万石の大名となる。 

     その後、羽柴秀吉(豊臣秀吉)、徳川家康

  仕え重用(ちょうよう)され、 近世大名・肥後細川

  氏の祖となった。

 

■ 細川藤孝(幽斎)は、 足利氏、織田氏、羽柴氏

  (豊臣氏)、徳川氏に仕(つか)えた。

     細川藤孝(幽斎)は、 足利 義輝足利義昭

  織田信長、 羽柴秀吉(豊臣秀吉)、徳川家康など

  に仕えた。

     細川藤孝(幽斎)は、徳川家康に重用(ちょ

  うよう)された。

 

 

♪♪ 細川藤孝(幽斎)が登場する

  興味深い、ドキュメンタリー、ドラ

    マ、映画。

 

★ 細川藤孝(幽斎) が登場 する、

  興味深い関連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が 混じって描かれていま

  す。 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 軍師 官兵衛 』 

   (NHK2014年大河ドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

● 細川藤孝(幽斎)を演じ た俳優 : 

  長谷川 公彦 (はせがわ きみひこ)。

 

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#hosokawatadaoki

 

■ 細川 忠興  

       (ほそかわ ただおき)。

 

■ 細川 忠興。

■ 名称 : 細川 忠興 (ほそかわ ただおき)。

■ 生没年 : 1563年ー1645年。

■ 安土桃山時江戸時代初期の武将、大名。

■ 織田氏、羽柴氏(豊臣氏) 、徳川氏に仕える。

■ 細川氏の庶流の和泉上 守護家(= 細川刑

     部家)の、細川 藤孝(幽斎)(ふじたか(ゆ

  うさい))の子。

■ 細川ガラ シャ (明智玉(珠))の夫。

■ 江戸時代初期に、豊前国小倉39万9000石

  を領す。

■ 父・細川 藤孝(幽斎)と同じく、教養人。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11417。

 

□ 関ヶ原 画像アルバム  No.1

 

 

■ 細川 忠興 (ほそかわ ただおき、生没年:

  1563年ー1645年) は、 安土桃山時

  江戸時代初期の武将、大名である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 細川 忠興は、 織田氏、  羽柴氏(豊臣氏) 、

  徳川氏 に仕 (つか)える。

 

■ 細川 忠興は、 細川氏の庶流の和泉上 守

    護家(= 細川刑 部家)の、細川 藤孝(幽斎)

   (ふじたか(ゆうさい))の子である。

 

■ 細川 忠興は、 父・細川 藤孝(幽斎)と同じ

  く、教養人で、茶道(利休七哲の1人)、和歌、

  能楽、絵画、朱子学、古典、有職(ゆうそく)

  などに通じていた。

 

■ 細川 忠興は、 細川ガラ シャ (明智玉(珠)

  (あけちたま))の夫 である。

     しかし、細川 忠興は、1600年の天下

  分け目の戦いの時に、 細川ガラ シャが大阪

  屋敷で自害し、 寵愛していた細川ガラシャ

  を失う。

    細川 忠興 と 玉(珠)(たま、細川ガラ シ

  )との間に、3男2女が生まれる。 その1人

  が、 細川忠興三男で、江戸時代に、肥後熊

  本藩の初代藩主(熊本藩細川家)となった細

  川忠利(ただとし)である。 

    一方、 細川忠興四男で、異母弟・細川立

  孝は、江戸時代に、 支藩の宇土藩初代藩主

  (宇土藩細川家)となった。

    肥後熊本藩の、熊本藩細川家(嫡流家、熊

  本藩主家)の藩主は、 7代藩主まで続いた。 

  しかし、熊本藩8代藩主は、宇土藩細川家より

  養子に入った、細川斉茲となり、 それ以後の

  藩主は、 宇土藩細川家の細川斉茲の子孫と

  なり、 細川ガラシャの血をひく細川忠利の男

  子直系子孫ではない。

    江戸時代後期以後の細川家の人々は、細

  川ガラシャの血をひかない、宇土藩細川家の

  細川斉茲の子孫である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 細川 忠興は、1582年(天正10年)から16

  20年(元和6年)まで、 細川家の当主であっ

  た。

     細川 忠興は、 1582年(天正10年)に、

  父・細川 藤孝(幽斎)(ふじたか(ゆうさい))が

  隠居し、 細川家の家督を相続し、 1620年

  (元和6年)に、隠居し、 家督を子の三男の細

  川忠利(ただとし)に譲った。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 細川 忠興は、1602年に、功により、徳川家康

  より、 加増・転封し、豊前国(ぶぜんのくに、福

  岡県東部・大分県北部)・小倉(こくら)・39万

  9000石を与えられ、 江戸時代初期に、 豊前

  国小倉39万9000石を領す。

    1600年9月15日に、関が原の戦いで、細

  川忠興は、 黒田長政らと共に、 石田三成の本

  と激闘し、成果をあげた。 1602年(慶長7

  年)に、徳川家康から、戦後の論功行賞(ろんこ

  うこうしょう)で、 丹後(たんご)12万石から、豊

  前国(ぶぜんのくに、福岡県東部・大分県北部)・

  小倉(こくら)・39万9000石に国替えし、加増・

  転封となり、小倉藩藩主となった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 細川 忠興の子・細川忠利(ただとし)が当主の

  とき、1932年に、小倉藩・39万9000石から

  肥後国・熊本藩54万石に加増・転封され、 細川

  氏は、  54万石・肥後国熊本藩主となる。 その

  後、武家 の細川氏は、 江戸時代末まで、続いた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 細川 忠興 が登場する、興味深い関

    連ドラマ、映画、ドキュメンタリー。 

 

★ 細川 忠興 が登場する、興味深い 関

  連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画 は、史実(歴史上の事実) 

  と架空の出来事 が 混じって描かれています。  

  また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 真田丸 (さなだまる) 』 。  

   (NHKテレビ・2016年大河ドラマ)。

 日本の安土桃山時代や江戸時代初期の時

  代を描く。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』 。 

   (日本の2011年 NHK大河ドラマ) 

 日本の安土桃山時代や江戸時代初期の時

  代を描く。

 

● 細川 忠興を演じた俳優 : 内倉憲二。

● 細川ガラシャ(明智 玉)を演じた女優 : 

   ミムラ。

 

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#hosakawagratia

 

■ 細川 ガラシャ 

     (ほそかわ がらしゃ)。

 

■ 細川 ガラシャ。

■ 名称 : 細川 ガラシャ (ほそかわ がらしゃ)。 

■ 生没年 : 1563年ー1600年。 

■ 別名 : 玉(珠)(たま)、 お玉の方、 明智 玉

  (あけち たま)、 明智 珠(あけち たま)、  細川

  ガラシア など。

■ 明智 光秀 (あけち みつひで) の娘 (三女)。

■ 桃山・江戸初期の武将、細川 忠興 (ほそかわ 

  ただおき)の、寵愛する正室夫人

■ 美人。 美貌の持ち主であった と言われてい

    る。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 81339。

 

□ 細川ガラシャが登場する、 興味深い

     関 連ドラマ、映画 、ドキュメンタリー。 

 

 

■ 細川ガラシャ。

■ 1600年の天下分け目の戦いで、  石田方の人質

   になることを拒み、自害した。

■ 細川 ガラシャの辞世の句は、 

  『 ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ

   人も人なれ 』 。

● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

 

■ 細川ガラシャ (= 明智 玉(珠)(あけち たま)、15

  63年ー1600年) は、  明智 光秀(あけち みつ

  ひで) の娘(三女)であり、 当時の美人であり、

  細川 忠興(ほそかわただおき)の寵愛する正室夫人

  であった。

● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

 

 

■ 細川ガラシャ。

■ 細川 ガラシャは、 日本の歴史の中の華(はな)の

  ひとつである。

 

■ 細川 ガラシャは、 細川 忠興 (ほそかわ ただお

  き)の寵愛する正室夫人で、 美貌の持ち主であった 

  と言われている。

● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

 

■ 明智 光秀の討ち死後、 玉 (たま、細川 ガラシャ)

  が逆臣(ぎゃくしん)の娘となっても、玉(細川 ガラシ

  ャ)を溺愛する、細川 忠興は、 玉 (細川 ガラシャ)

  を離縁せず、保護した。

 

■ 玉 (たま、細川 ガラシャ)は、 父の明智 光秀の討

  ち死後、 苦難の中で、キリスト教のカトリックに入信

  し、 ガラシャ (Gratia、ラテ ン語で恩寵(おんちょう)・

  神の恵みという意味)  という洗礼名(クリスチャンネー

  ム)を受けて、 熱心なカトリック信者 となった。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

■ 細川ガラシャの氏名。

■ 細川 ガラシャ (ほそかわ がらしあ、生没年:

  1563年ー1600年)は、 明智 光秀 (あけちみ 

  つひで) の娘 (三女) である。

 

■ ガラシャは、クリスチャン・ネームの個人名である。

● 細川 ガラシャの、ガラシャは、 キリスト教

  のカトリック(= ロ ーマ・カトリック教会)の洗礼

  名(クリスチャン・ネム) である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 細川 ガラシャ (ほそかわ がらしゃ、生没年:15

  63年ー1600年)は、  明智 玉 (あけち たま)で、

  明智 珠 (あけち たま) ともいう。

● 通常、本人は、 玉 (たま)、 珠(たま)、 ガラシャ

  (Gratia) と称した。

● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

 

■ 細川ガラシャの正式名は、 お玉の方(おたまのか

  た)、 お珠の方(おたまのかた)、 明智 玉 (あけち

  たま)、 明智 珠 (あけちたま) である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

 

■ (注意) 前近代日本では、 家父長制の夫婦別姓で、  

  女性は、父の氏(名字 、一族名)を一生持ち、 婚儀

  を結んでも(結婚しても)、 夫の氏(名字、一族名)を

  名乗らなかった。 

● 前近代日本では、家父長制の夫婦別姓であり、 女

  性は、婚儀(結婚)の有無に関係なく、 父の氏(一族

  名)を生涯所持したので、 当時、明智 玉(珠)は、細

  川忠興と婚儀(結婚)後、細川 玉(珠)、細川ガラシャ

  とは称さなかった。

    細川ガラシャは、後世の人に呼ばれた氏名である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

 

■ (注意) 前近代日本では、女性は、慣習で、通常、

  個人名のみで自他呼称した。

● 前近代日本では、女性は、婚儀(結婚)の有無に

  関係なく、父の氏(一族名)を生涯所持したが、通常、

  名(個人名)のみを称し、当時、明智 玉(珠)は、玉

  (珠)、ガラシャという個人名で自他呼称していた。

● 細川 ガラシャは、通常は、個人名だけで、玉 (た

  ま)、珠(たま)、ガラシャ と自称した。

     細川ガラシャは、他人から、 お玉の方、お珠の

   方、 ガラシア様 などと呼ばれた。

● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

  

■ (注意) 前近代日本の人名

 前近代日本では、改名自由。 上層者は、複数自己

   名所持。

 前近代日本では、父系一族名中心。

 

 

■ ガラシャの壮絶な死。

■ 1600年の天下分け目の戦いで、  石田方の人質

   になることを拒み、自害し、爆死した。

■ 細川 ガラシャ (明智 玉) は、1600年に、 人

  質として大阪城に移れという石田方からの度重な

  る要請があった時、 自分が石田方の人質になれ

  ば徳川方につく決意をしていた夫の細川忠興が窮

  地に陥ると考え、 人質として大阪城に移れという

  石田方からの要請を拒んで(拒否して)、 大阪の

  細川屋敷で、 自害(自殺)した (側近の家臣・小

  笠原秀清に頼み自分を殺害させた、 カトリックで

  は自殺は大罪であり、天国へ行けないため)。 

     家臣の小笠原秀清 は、 細川 ガラシャの死

  体が残らぬように、 細川屋敷に大量の火薬を用

  意し、点火して、 自らは自刃(じじん、自害)した。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 細川 ガラシャは、享年、38歳であった。 死に際

  し、辞世の句として、 『 ちりぬべき 時知りてこそ 

  世の中の 花も花なれ 人も人なれ 』 と詠(よ)ん

  だ と伝えられている。

● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

 

■ 家康方と争っていた石田方は、 大阪周辺にい

  る家康方の大名の妻子を、強引に人質に取った

  が、 細川 ガラシャ自害事件や一部の大名の妻

  子の逃亡などにより、 家康方の大名には、逆効

  果になってしまった。

     一方、上杉軍討伐のため家康と共に出陣し

  ていた、細川 忠興 (ほそかわただおき)をはじめ

  とする豊臣恩顧の大名たちは、 石田方か家康

  方かどちらかに味方するか迷っていたが、大阪

  周辺にいる自分たちの妻子に対する石田方の強

  引な(卑怯(ひきょう)な)扱い(行い)に非常に怒

  (いか)った。 このことが、 その豊臣恩顧の大

  名たちが家康方に味方する一因となった。 そし

  て、 家康方は、味方が増え、 1600年の天下

  分け目の戦い関が原の戦い、その他の戦い)で、 

  有利となった。

● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

 

 

■ 細川ガラシャの子孫。

    細川 忠興 と 玉(珠)(たま、細川ガラ シ

  )との間に、3男2女が生まれる。 その1人

  が、 細川忠興三男で、江戸時代に、肥後熊

  本藩の初代藩主(熊本藩細川家)となった細

  川忠利(ただとし)である。 

    一方、 細川忠興四男で、異母弟・細川立

  孝は、江戸時代に、 支藩の宇土藩初代藩主

  (宇土藩細川家)となった。

    肥後熊本藩の、熊本藩細川家(嫡流家、熊

  本藩主家)の藩主は、 7代藩主まで続いた。 

  しかし、熊本藩8代藩主は、宇土藩細川家より

  養子に入った、細川斉茲となり、 それ以後の

  藩主は、 宇土藩細川家の細川斉茲の子孫と

  なり、 細川 ガラシャの血をひく細川忠利の男

  子直系子孫ではない。

    江戸時代後期以後の細川家の人々は、細

  川ガラシアの血をひかない、宇土藩細川家の

  細川斉茲の子孫 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

■ 細川ガラシャをモデルにした戯曲。

■ カトリックの神父によって、 ヨーロッパに、細川

  ガラシャの事件が伝えられ、 その内容を変えて、 

  細川 ガラシャをモデルにした戯曲(ぎきょく)の

  「気丈な貴婦人」(グラーシャ)が、 作られた。 

     その戯曲の内容は、 ヨーロッパ人には日本

  の武士道や武家社会の礼法が理解されないため、 

  その内容を変えて、 細川 ガラシャの死は殉教死

  と考えられ、 夫である野蛮な君主の非道に耐え

  ながらも信仰を貫(つらぬ)き、 最後は命を落とし

  て暴君を改心させるという内容であった。

● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

 

■ そして、 「気丈な貴婦人」(グラーシャ)のオペラの

  初演が、1698年に、 ヨーロッパの、カトリックの

  イエスズ会の劇場で、発表された。

     その後、 「気丈な貴婦人」(グラーシャ)は、ヨ

  ローッパに広まっていき、 オーストリア帝国女帝

  「マリア・テレジア」、 マリー・アントワネット、 エリザ

  ベート(オーストリア王妃、絶世の美人) 等の多くの

  ヨーロッパの貴婦人に感銘を与えた。

 

 

#hosokawagratia-appearingscenes

 

♪♪ 細川ガラシャが登場する、興味深い

        関連ドラマ、映画、ドキュメンタリー。 

 

★ 細川ガラシャが登場する、興味深い関 

     連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

   歴史のドラマ、映画 は、史実(歴史上の事実) 

   と架空の出来事 が 混じって描かれています。  

   また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 真田丸 (さなだまる) 』 。  

   (NHKテレビ・2016年大河ドラマ)。

 安土桃山時代や江戸時代初期の時代を描く。

● ドラマで「玉(たま)」 (細川ガラシャ、細川

  忠興・正室夫人) を演じる女優名 :

  橋本 マナミ (はしもと まなみ)。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』 。 

   (NHKテレビ・2011年大河ドラマ) 

● 細川ガラシャ(明智 玉)を演じた女優 : 

     ミムラ。

 

■ 『 功名が辻 』。 

   (NHKテレビ・2006年大河ドラマ)。

● 細川ガラシャを演じた女優 : 長谷川京子。

 

■ 『 利家とまつ〜加賀百万石物語〜 』。 

   (NHKテレビ・2002年大河ドラマ)。

● 細川ガラシャを演じた女優 : 中西夏奈子。

 

■ 『 信長 KING OF ZIPANGU 』。 

   (NHKテレビ・1992年大河ドラマ)。

● 細川ガラシャを演じた女優 : 今村恵子。

 

■ 『 国盗り物語 』。 

   (テレビ東京・2005年制作・テレビ・

   新春ワイド時代劇ドラマ)。

● 細川ガラシャを演じた女優 : 石川梨華。

 

■ 『 明智光秀 〜神に愛されなかっ

     た男〜 』。 

       (フジテレビ・2007年制作・テレビドラマ)。

● 細川ガラシャを演じた女優 : 佐々木麻緒。

 

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#thefeudalsystem

 

■ 封建制度 

     (ほうけんせいど)。

 

■ 封建制度。

■ 名称 : 封建制度 (ほうけんせいど)。 

● 英名 : feudalism,

        the feudal system。

■ 時期 : 日本では、

  古代の大和時代(古墳・飛鳥白鳳時

  代)より、 近世の江戸時代まで。 

■ 封建制度は、 主君の「従者への供与」と家

  臣の「主君への献身」によって、主君と家臣

  という主従関係が結ばれてできる社会上の

  制度である。

■ 封建制度は、 土地や金銭現物の給付等を

   もとに主従関係が結ばれてできる、社会 上

   の制度である

■ 関連事項。

  (⇒ 武士武家武家政治武家政権

    武士道戦国武士道)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11435。

 

 封建制度 (総合)

 封建制度の崩壊

 封建制度の崩壊関連のドキュ

   メンタリー、映画、ドラマ

 

 

■ 封建制度。

  ■ 封建制度 (ほうけんせいど)とは、主君

    の「従者(家来、家臣)への供与」と従者

    (家来、家臣)の「主君への献身」によって、

    主従関係が結ばれてできる社会上の制度

    である。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 封建制度 (ほうけんせいど)とは、主君が、

    従者(家来、家臣)へ富(禄(ろく);報酬、領

    地等)、名誉、権力を供与し、従者(家来、家

    臣)に献身を求(もと)める社会制度である。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 封建制度。

   ■ 封建制度 (ほうけんせいど)とは、主君

    の「従者(家来、家臣)への供与」と従者(家

    来、家臣)の「主君への献身」とによって、

    主君と従者(家来、家臣)という主従関係を

    結び成立する社会制度である。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 封建制度 (ほうけんせいど)とは、土地や

     金銭・現物の給付等をもとに(媒介として)

     主従関係が結ばれてできる社会上の制度

     である。

     ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#thefeudalsystem-abolishing

 

◆ 封建制度の廃止。

■ 日本の近代化は、「西郷隆盛の

  一言」で決まった。

● 約1000年以上も続く日本の封建制度を崩

  壊させ、日本の近代化を導いた、西郷隆盛

 

■ 日本の封建制度を崩壊させ、日本

  を近代化させた、1871年(明治4

  年)7月の廃藩置県。

 

  ■ 廃藩置県は、 日本の封建制度を廃止する

   主要な政策である。 

 

  ■ 廃藩置県(はいはんちけん)により、 日本

  は、封建制の地方分権の藩体制から、近代国

  家の中央集権の府県制に移る。

 

 

■ 廃藩置県。

■ 廃藩置県は、 1871年(明治4年)の7月

  9日の、木戸邸会議 (きどていかいぎ=

  廃藩置県・木戸邸密談)で最終決定され、 

  同年7月14日に、実施された。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 弱肉強食の世界の中で、当時、欧米列

  強から弱小国の日本を植民地化させな

  いためにも、 廃藩置県は、日本を中

  央集権化し、明治新政府(近代日本政

  府)が日本全国から租税と兵を集め、

  独自の財源と軍事力をもち、富国強兵

  を推進する基盤となる政策であった。

     また、廃藩置県は、 日本の封建

  制度を廃止する主要な政策である。 

      将来武士の困窮が予想される

  藩置県ではあるが、 西郷隆盛は、当

  時、中央集権化していない、明治新政

  府(近代日本政府)が財源や軍事力で

  弱体で倒れかねない状況の中で、廃藩

  置県に賛成する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 廃藩置県の実行は、「西郷隆盛の

   一言」で決まった!

   ■ を無くし、幕藩体制の藩(大名)に属し

   ていた日本のすべての土地、人民を、近代

      日本国家の中央政府に属させる廃藩置県

   の実行をめざす、明治新政府(近代日本政

   府)の首脳は、 天と地がひっくり かえってし

   まう、廃藩置県によって、 全国の藩主や藩

   士である武士の抵抗、大反乱、大暴動を非

   常に恐(おそ)れていた。 

      廃藩置県によって、封建制を廃止し日本

   を近代化することができるとわかっていても、 

   明治新政府(近代日本政府)のほとんどの首

   脳が皆ビクビクして、とても怖くて実行できな

   かった。

      まだ、徴兵制は実施されおらず(後の18

   73年3月、徴兵令発布)、 明治新政府(近代

   日本政府)は、1871年(明治4年)2月に、鹿

   児島藩、山口藩、高知藩(旧薩摩 藩、旧長州

   、 旧土佐藩)の兵を、 御親兵(ごしんんぺ

   い、1872年に近衛兵に改称)として徴集し

   (約8000人)、 明治新政府(近代日本政府)

   への反乱に備えた。 

       御親兵の中心となった部隊が、当時の

   西郷隆盛の率いる歩兵・砲兵部隊で、 戊辰戦

   争を勝ち抜き、 当時の日本でも有数の強力な

   軍隊 (精鋭部隊・御親兵5000人) であった。

      しかし、1871年(明治4年)6月時点で、

   明治新政府近代日本政府)は、 大久保・西郷

   派と木戸派に分裂し、混乱し、廃藩置県どころ

   か政府の政務は停滞し、新政府分裂の危機に

   至っていた。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 廃藩置県を議論する政府の会議は、18

   71年(明治4年)7月6日に、  維新の三傑

   の木戸孝允(きどたかよし)、大久保 利通(お

   おくぼとしみち)、西郷隆盛(さいごうたかもり)

   や 大山、井上、山縣(やまがた)、西郷従道

   (つぐみち)の7名が、 木戸邸で、密かに集

   まり、行われた。 

      当時、明治時代初期、士族の反乱を抑

   えられる実力者は、明治新政府(近代日本政

   府)では、西郷隆盛しかいなかった。

      会議の参加者は西郷隆盛を除き、皆ビ

   クビクして、弱気の重い空気に包まれていた。

   西郷の発言の番が来て、西郷隆盛は、(廃藩

   置県によって起こる)「反乱、暴動は、私が叩

   き潰す。 私が一身に引き受ける。」 という

   発言をし、 明治新政府(近代日本政府)

   首脳は、勇気づけられ、皆笑顔(えがお)を見

   せ、廃藩置県の実行を決定した。 

      西郷隆盛の言葉は、「この上各藩にて

   異論等起こり候はば、兵力をもって、うち潰し

   ますのほかありませぬ」 であった。

      そして、1871年(明治4年)7月14日に、 

   明治新政府(近代日本政府)は、在東京の

   知藩事(旧藩主)を、東京の皇居に集めて、

   勅命(ちょくめい、天皇の命令)という形式で、

   廃藩置県を命じた。 ここに、日本の近代化

   の扉(とびら)が開かれた。 

      廃藩置県後、明治新政府は、富国強兵

   のための、全国の軍事、租税の権利を手に

   入れ、 徴兵制実施(1872年11月の徴兵

   告諭、1873年3月の徴兵制公布、国民皆

   兵制) と 租税の徴収を行うことができた。 

      廃藩置県により、日本は、当時の弱肉

   強食の世界情勢の中で、 国内外に対する

   軍事力を手に入れ、財政基盤を持つことが

   でき、 近代国家として、日本は、世界へ羽

   ばたくこととなった。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#thefeudalsystem-general

 

■ 封建制度 (総合)。

 

■ 封建制度。

■ 封建制度 (ほうけんせいど)とは、 土地や

  金銭現物の給付等がもとになって、主君と臣

  下の主従関係が結ばれてできた社会上の制

  度である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 封建制度。

■ 封建制度の例としては、 江戸時代の幕藩体

  制は、「幕府の将軍」が、大名(「藩の藩主」 )

  と主従関係を結び、 「幕府の将軍」が、主君

  となり、大名(「藩の藩主」)が、臣下となり、 

  幕府と藩が土地と人民を統治する政治体制で

  ある。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 封建制度。

■ 封建制度 (ほうけんせいど) とは、 土地や金

   銭現物の給付等をもとに主従関係が結ばれて

   できた社会上の制度である。

 

■ 封建制度は、英名は、feudalism,the feudal 

   system である。

 

■ 封建制度は、 時期は、日本では、古代の大和時

  代(古墳・飛鳥白 鳳時代)より、 近世の江戸時代

  まで、 日本の古代より、近世まで(江戸時代まで)、

  多くみられ、 武士社会(武家社会)が、典型的な例

  である。

 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

■ 封建制度。

■ 封建制度 は、 主君(しゅくん) と 臣下  (従者)

 の主従関係によって成り立つ。

 

● 上意 (じょうい) は、  主君のおぼしめし・命令で、 

 上位の者の意向・命令 である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

● 主君(しゅくん)への尊称 には、 御屋形様(おやか

 たさま)、殿(との)などがあり、貴人をさす尊称である。

 

● 御上(おかみ)は、 天皇、朝廷、政府、役所、

  主君、主人 をさす尊称である。

 

● 大殿(おおとの) は、 貴人をさす尊称で、主君の

 父、隠居した前主君、当主の父、世子に対する当主、

 への敬称である。

 

 臣下は、 家臣、 従者、 家人(けにん)、 御家人

 (ごけにん)、 家来(けらい)、 家の子(いえのこ) な

 どと呼ばれた。

 

● 御曹司 (おんぞうし) は、 名門の子息 である

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

■ 封建制度。

 拝領妻子の慣習 (はいりょうさいしのかん

  しゅう)。

  ● 封建制度下の前近代日本の、一夫多妻

  の上層階層での慣習として、拝領妻子の

  慣習 (はいりょうさいしのかんしゅう)がある。

 

  ■ 前近代日本の上層階層では、上層階層

  の者は、一夫多妻制で、 多くの夫人や子供

  をもうける。 上層階層の、主君は、主従(君

  臣)関係を強めるため、家臣(臣下)に、主君

  の夫人(側室夫人)や子(非嫡子)を、下げ渡

  す慣習があった。

 

  ■ 前近代日本では、封建制度下で、主従

  (君臣)関係を強めるため、従者(家臣)が

  主人(主君)の妻子をもらい受ける慣習があ

  った。

 

 

#thefeudalsystem-appearingscenes

 

♪♪ 封建制度崩壊が登場する、興味

        深い、ドキュメンタリー、ドラマ、

    映画。

 

★ 封建制度崩壊が登場する、興味深

   い、ドキュメンタリー。

 

■ 英雄たちの選択 

  『 ‘‘県’’誕生! 奇跡の無血

    革命 〜大久保利通・廃藩

    置県の舞台裏〜 』。  

    (NHKテレビ・2018年11月1日・

     本放送・歴史ドキュメンタリー番組)。

 ■ 封建制度の崩壊を述べる。

 ■ 版籍奉還、廃藩置県を詳細に述べる。

 ■ 明治時代初期、明治維新を述べる。

 

■ BS歴史館 

  『 今いてほしい!? 日本を

    変えたリーダー 西郷隆盛 』。 

   (NHK2012年(H24)4月本放送テレビ・ド

   キュメンタリー番組)。

 ■ 封建制度崩壊を述べる。

 ■ 廃藩置県をを述べる。

 

■ その時歴史が動いた 

  『 さらば殿様〜廃藩置県。

    激動の内幕〜 』 

   (NHK テレビ・2006年(H18)

    3月・本放送ドキュメンタリー

    番組、第246回)。

 ■ 封建制度崩壊を述べる。

 ■ 廃藩置県をを述べる。

 ■ 西郷 隆盛、 大久保 利通(としみち)、 

  木戸 孝允(たかよし)、 島津久光(ひさ

  みつ) が登場する。

 

■ 英雄たちの選択 

  『 専制か民主か?〜大久保

    利通 近代化への苦闘 』。  

    (NHKテレビ・2015年5月21日・

     本放送・ドキュメンタリー番組)。

 ■ 明治時代初期、明治維新を述べる。

 ■ 大久保利通の後半生の活躍を

   述べる。

 

 

★ 廃藩置県が登場する、興味深い、

   ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

   歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実)

   と 架空の出来事が、混じって、描かれてい

   ます。 また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 西郷(せご)どん 』。 

   (NHKテレビ・2018年(H30年)

   大河ドラマ)。

 ■ 封建制度崩壊を描く。 

 ■ 廃藩置県を描く。

 ■ 日本の明治維新、幕末、明治時代初期

   の時代状況やその時代に活躍した人々

   を描く。

 

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#boshinwar

 

■ 戊辰戦争 

      (ぼしんせんそう)。

 

■ 戊辰戦争。

■ 名称 : 戊辰戦争 (ぼしんせんそう)。

■ 時期 : 1868年1月ー1869年5月。

■ 明治新政府(近代日本政府)に味方する勢力

  の明治新政府軍 と 旧幕府に味方する勢力

  の旧幕府軍が戦った戦争。

● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典 81034。

 

 

■ 戊辰戦争 (ぼしんせんそう)は、1868年1月

     から 1869年5月まで、 明治新政府(近代日

  本政府)に味 方する勢力の明治新政府軍 と、

  旧幕府に味方する勢力の旧幕府軍が、戦った

  戦争である。

      戊辰戦争は、 旧幕府軍と新政府軍との

  間で、 1868年(慶応4年)1月3日の鳥羽・伏

  見(とばふしみ)の戦いで始まり、 1869年(明

  治2年)5月18日の箱館戦争(はこだてせんそう、

  五稜郭(ごりょうかく)の戦い)の旧幕府軍の降

  伏で終わり、 明治新政府軍 (新政府方、明治

  新政府側の軍、明治新政府側勢力)が勝ち、 

  旧幕府軍 (徳川方、旧幕府側の軍 旧幕府側

  勢力) は、平定され て、敗北した。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 戊辰戦争中、 江戸城無血開城、 江戸の彰義

  隊(しょうぎたい)の鎮圧、 会津(あいづ)戦争、 

  箱館戦争 (= 五稜郭(ごりょうかく)の戦い) な

  どがあった。

 

■ 戊辰戦争は、 明治新政府勢力と旧幕府勢力

  の二大勢力の全面戦争とはならず、 明治新政

  府勢力 と 旧幕府勢力の一部の抵抗勢力との

  戦いとなり、 部分戦争となった。

     開戦前の予想に反し、戊辰戦争は、 初期

  より、 官軍の明治新政府軍が、 旧将軍・徳川

  慶喜の命(令)に従わず逆らう抵抗勢力 の旧幕府

  勢力の一部の賊軍の旧幕府軍を、排除する戦争

  になってしまった。

 

■ 大政奉還した旧幕府の徳川宗家は、 全国に

  400万石を有し、徳川宗家の旗本の領地を入

  れると700万石もあり、 薩長土肥の雄藩連合

  でも、総合的な軍事力、経済力で、かなう相手

  ではなかった。

     しかし、当時の全国の下級武士、農工商

  民の多くは、今までの徳川独裁体制、幕藩体

  制を望まず、「御維新」(ごいっしん)の新しい

  政治体制を望み、明治新政府軍や明治新政

  府(近代日本政府)に協力した。

 

■ 旧幕府軍勢力を率(ひき)いるリーダーの徳

  川慶喜(よしのぶ)は、水戸藩出身で、尊皇

  思想を重んじ、錦の御旗(にしきのみはた)を

  掲(かか)げる官軍即ち朝廷の軍隊とは戦い

  たくなかった。

     1868年1月の京都付近の、戊辰戦争

  の初戦の鳥羽・伏見の戦いで、旧将軍の徳川

  慶喜は、 官軍となった明治新政府軍と戦い、

  敗北すると、 旧幕府軍にまだ強大な軍事力

  があるにもかかわらず、戦意を失い、江戸に

  逃げ帰り、和睦を望み、江戸で謹慎してしまう。 

     強大な旧幕府勢力は、徳川慶喜の意向

  に従う勢力 と 徳川慶喜の意向に従わず明

  治新政府との和睦を望まない抵抗勢力に分

  かれ、 ここに、強大な旧幕府勢力は分裂して

  しまう。

     明治新政府軍は、 徳川慶喜の意向に従

  わず明治新政府との和睦を望まない抵抗勢力

  の旧幕府勢力の一部の旧幕府軍とのみ戦えば

  よくなり、 全面戦争ではなく、部分戦争となり、 

  明治新政府軍は、 旧幕府軍に一方的な勝利

  を得、圧勝して、戊辰戦争は終わった。

 

■ 幕末から明治時代前期まで、欧米列強は、日

  本を植民地にし、搾取(さくしゅ)しようと狙って

  いた。

    当時の弱肉強食の世界で、 欧米列強の

  アジア・アフリカなどの植民地化の手段の1つ

  は、 現地の部族同士を戦わせて、現地人の

  軍事力が弱まった時に、占領し、植民地にする

  ことであった。

    イギリス、フランス、アメリカ、ロシアなど欧

  米列強は、内戦で日本の二大勢力が前面衝突

  し、日本の軍事力が弱まった時に、日本を占領し、

  日本を植民地にしようと狙っていた。

     しかし、戊辰戦争は、二大勢力の全面衝

  突の全面戦争とはならず、 官軍の明治新政府

  軍が、一部の抵抗勢力の賊軍の旧幕府軍と戦

  う、部分戦争となり、 明治新政府軍は、強力な

  軍事力を保持したまま、 旧幕府勢力の一部の

  抵抗勢力に、圧勝し、終わったため、 軍事弱

  体化した日本を植民地にしようと狙っていた、欧

  米列強の思惑ははずれ、欧米列強は、失意す

  る

 

 

■ 戊辰戦争での新選組の参戦と活躍。

■ 1868年(慶応4年)に、 鳥羽伏見の戦い(186

  8年1月3日)、 淀千両松の戦い(1868年1月5

  日)、 橋本の戦い(1868年1月6日)、 甲斐勝

  沼の戦い(1868年3月6日)、 下総流山(しもう

  さながれやま)の戦い(1868年4月2〜3日)、 

  宇都宮城の戦い(1868年4〜5月)、 白河口(し

  らかわぐち)の戦い(1868年6〜7月)、 母成峠

  (おなりとうげ)の戦い(1868年8月21日、会津

  戦争の1つ) で、 新選組(しんせんぐみ)は、

  明治新政府(近代日本政府)軍と戦って、 敗れる。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 下総流山(しもうさながれやま)の戦い(1868年

  (慶応4年)4月2〜3日)で、 新選組の組長の

  近藤勇は、 4月3日に投降し、 1868年4月25

  日に、板橋刑場 (東京都板橋区付近)で、斬首さ

  れる。

● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

 

■ 1868年9月に、「明治」改元となる (明治元年

  となる)。

 

■ 1869年の蝦夷地(えぞち、北海道)の戦い (箱

  館戦争(五稜郭(ごりょうかく)の戦い)や緒戦)

  では、 北海道本島の、二股口(ふたまたぐち)の

  戦い(1869年4月)、 箱館(函館の旧名)の弁天

  台場(べんてんだいば)の戦い(1869年5月)で、 

  新選組は、 明治新政府軍と戦う。 

     相馬主計の率いる弁天台場を守備する新選

  組は、箱館の弁天台場で、1869年(明治2年)5

  月14日に新政府軍(官軍)に降伏し、 旧幕府軍

  も1869年(明治2年)5月18日に降伏し、 ここ

  に、新選組は、四散し、消滅する。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

● 土方歳三 (ひじかたとしぞう)は、 箱館戦争で、

  1869年(明治2年)5月11日に、 箱館(函館の旧

  名)の一本木関門付近を守備していて、 銃弾にあ

  たり、戦場で、戦死した。 

 

 

♪♪ 戊辰戦争 が登場する、興味深い、

    ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 戊辰戦争 が登場する、興味深い関

  連ドキュメンタリー。 

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 ずっと気張っ

  ていたかった〜新選組 土方歳三の

  生きる道〜』。 

   (NHKテレビ・2012年 (H24年)5月9日・

  本放送・テレビ・ドキュメンタリー番組)。

 

★ 戊辰戦争 が登場する、興味深い関

   連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画 は、フィクション です。 

   歴史のドラマや映画は、 史実(歴史上の事実) 

    と 架空の出来事が、混じって、描かれています。 

    また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 西郷(せご)どん 』。 

   (NHKテレビ・2018年(H30年)大河ドラマ)。

■ 日本の明治維新、幕末、明治時代初期の時代

  状況やその時代に活躍した人々を描く。

 

■ 『 新選組血風録 (しんせんぐみけっ

     ぷうろく) 』 。 

    (NHKテレビ・2011年NHKスペシャル

    ドラマ)。

 

■ 『 新選組 (しんせんぐみ) 』 。 

   (NHKテレビ・2004年NHK大河 ドラマ)。

 

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#thehistoryofhokkaido

 

■ 北海道の歴史 

      (ほっかいどうのれきし)。

 

■ 北海道の歴史。

■ 名称 : 北海道の歴史 (ほっかいどうのれきし)。

■ 北海道の新名 : 北海道 (1869年(明治2年)

  〜現在)。

■ 北海道の旧名 : 蝦夷地(えぞち)、蝦夷ヶ島(え

  ぞがしま)、北州(ほくしゅう)、蝦夷国(えぞのくに)

  など。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 81039。

 

□ 北海道の歴史を描いた、興味深い

   関連ドキュメンタリー、ドラマ、映画。 

    

 

■ 北海道(ほっかいどう)は、1869年(明治2年)

  からの新名であり、 旧名は、 蝦夷地(えぞち)、

  蝦夷ヶ島(えぞがしま)、北州(ほくしゅう)、蝦夷

  国(えぞのくに)などである

 

■ 北海道本島は、前近代日本の、旧地域名の、

  概ね、十州島(じゅっしゅうとう)、蝦夷地(えぞ

  ち)本土、蝦夷ヶ島(えぞがしま)本土に相当す

  る 地域である。

 

■ 蝦夷地 (えぞち、= 蝦夷ヶ島、北州、蝦夷国)

  は、 狭義では、北海道本島のみであり、広義で

  は、北海道本島とその周辺地域である。

 

■ 蝦夷地(えぞち)の別称には、 蝦夷ヶ島(えぞ

  がしま)、北州(ほくしゅう)、蝦夷国(えぞのくに)

  などがある。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 北海道関連出来事。

   (年代順・北海道の歴史)。

■ 縄文時代 (約12000年前〜約2300年前)に、

  日本地域(北海道、日本本土、南西諸島)に、

  古モンゴロイド縄文人が、縄文文化も つ。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 蝦夷地 (えぞち、北海道)では、 紀元前4〜3

  世紀頃(約2300年前)から紀元(後)8世紀頃ま

  で、 弥生時代から古代日本の奈良時代まで、 

  縄文系蝦夷人(えぞじん 、蝦夷ヶ島人)は、「続

  縄文文化」 をもつ

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 蝦夷地 (北海道)では、 奈良時代から鎌倉時

  代まで、 縄文系蝦夷人(蝦夷ヶ 島人)が、擦文

  (さつもん)文化(7〜13世紀頃) や オホーツ

  ク文化(9〜13世紀頃)をもつ

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 13世紀頃、 縄文・北アジア諸民 族・混血系

  蝦夷人(蝦夷ヶ島人)が、アイヌ文化を形成し、

  アイヌ人が出 現する。

     鎌倉時代から江戸時代まで、縄文・北アジ

  ア諸民族・混血系アイヌ人は、アイヌ文化をもち、

  保持する。 

     一方、鎌倉時代から江戸時代前期・中期

  まで、 和人(わじん、本土日本人)が、移住を

  始め、徐々に、蝦夷地(北海道)の支配を広げ

  ていった。 

     江戸時代後期には(1807年から)、 少

  数の和人(= 本土日本人)が、蝦夷地全土(北

  海道全土)と大多数のアイヌ人を支配する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1219年頃、鎌倉幕府の執権(しっけん)・北条

  義時(よしとき)が、安藤(安東)氏(あんどうし)

  を、蝦夷管領(えぞかんれい)に任命する。 

     13世紀頃、 安東氏支配下の和人(わじん、

  本土日本人)が、蝦夷地(えぞち、北海道)の道

  南に移住を開始する。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 室町時代(1333〜1573年)前期に、 蝦夷地

  (北海道)の渡島(おしま)半島南端に、和人は、 

  アイヌ蜂起に備えた小規模城砦(じょうさい)の、

  道南十二館(どうなんじゅうにたて)を建設する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 1457年に、 蠣崎氏(かきざきし)の客将の

  武田信広が、 蝦夷地(えぞち、北海道)のコシ

  ャマインの蜂起を平定し、 鎮圧した蠣崎氏が、

  道南の和人居住地の支配者に成長した。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 1593年に、蠣崎氏(かきざきし)は、  豊臣秀

  吉に蝦夷地(北海道)の所領を安堵(あんど)さ 

  れる(蝦夷ヶ島主に認定される)。 

 

■ 1599年に、蠣崎氏(かきざきし)は、松前氏

  (まつまえし)と改姓する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1604年に、江戸時代に、松前氏は、 徳川家

  康に蝦夷地(北海道)の所領を安堵(あんど)さ

  れ、  藩(大名)となる。 

 

■ 1604年から1807年まで、 松前氏は、 

  前藩・藩主(大名)となり、 蝦夷地(北海道)の

  一部を支配した。

 

■ 17世紀前半に、蝦夷地(北海道)にある、松前

   で、商場知行制(あきないばちぎょうせい)が

   成立する。

     商場知行制は、 蝦夷地(北海道)の、特定

  の地域におけるアイヌ人との交易権を家臣に知

  行として与える制度である。 

     この制度は、不等価交換や自由貿易の制限

  などで、アイヌの人々には不利なものであった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 18世紀前半に、蝦夷地(北海道)に、場所請負

  制度(ばしょうけおいせいど)が成立する。

     場所請負制度は、商場(あきないば、場所)

  での交易を内地(日本本土)商人に請け負わせ

  る制度である。 

     場所請負制度というこの制度は、アイヌの

  人々を苦しめた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 18世紀に、北海道本島、千島列島(クリル諸島)、

  樺太(サハリン)の各地の一部が、松前藩の支配

  下に入る。

     北太平洋の地域は、ロシアの南下政策により、

  日本の国防上、重要な地であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1799年(寛政11年)に、江戸幕府は、東蝦夷

  地(北海道本島東部と千島列島)を、幕府直轄

  領とする。 

     松前藩は、その他の蝦夷地(北海道)の

  西蝦夷地(北海道本島西部)や北蝦夷地(樺太)

  を支配する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1807年(文化4年)に、 江戸幕府は、西蝦夷

  地(北海道本島西部や樺太)も、幕府直轄領とす

  る。

    1807年(文化4年)から1821年(文政4年)

  までは、 江戸幕府が、ロシアへの防備上、蝦夷

  地全土(北海道全土)を、幕府直轄領(= 天領)

  とし、 蝦夷地の支配と北辺警備に当たった。 

  幕府の松前奉行の下(もと)に、東北諸藩を警備

  に当たらせる。 

     松前藩の蝦夷地(北海道)の直接支配は、

  一時、終わ る。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1809年に、 間宮林蔵は、29歳の時、南北約

  1000kmの樺太(サハリン)がアジア大陸の地

  続きの半島でなく、島であることを発見し、間宮

  海峡を発見し、 江戸幕府は、樺太(サハリン)を、

  西蝦夷地(北海道本島西部や樺太)から分離し、

  北蝦夷地(きたえぞち)と呼称した。 西蝦夷地は

  北海道本島西部のみとなった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 1821年(文政4年)に、江戸幕府は、松前藩に、

  蝦夷地の大半を返す。 

    1821年(文政4年)から、蝦夷地(北海道)の

  大半は、松前藩に返還される。 松前藩が、蝦夷

  地(北海道)の大半を支配する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 1821年(文政4年)から1855年(安政2年)まで、

  松前藩が、蝦夷地(北海道) の大半を、直接支配

  する。

 

 1854年(安政元年)に、江戸幕府は、ロシアと

  日露和親条約を締結する。 蝦夷地(北海道)の

  日露国境が画定する。

    日露和親条約により、 千島列島(クリル列

  島)は、北千島をロシア領、南千島を日本領とす

  ることが決まり、 北蝦夷地の樺太(サハリン)は、

  日露両国で国境を定めない ことが決まった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 1855年(安政2年)から、再び、ほとんどの蝦夷

  地(北海道)は、江戸幕府の幕府直轄領となる。 

      北海道本島の渡島(おしま)半島の一部を

  除き、松前藩の蝦夷地(北海道)の直接支配は、

  終わる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1867年(慶応3年)に、日露間の仮条約により、 

  北蝦夷地の樺太(サハリン)は、 日露両国の雑

  居地とすることが決まった。

 

■ 1868年(慶応4年)に、蝦夷地(北海道)の旧幕

  府直轄領は、明治新政府 (近代日本政府)の支

  配地となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1868年(明治元年)に、旧幕府勢力は、蝦夷地

  本土(北海道本島)に上陸し、明治新政府軍に勝

  ち、蝦夷地 本土(北海道本島)を占領する。

     旧幕府勢力は、 旧幕府がロシアに備える

  ために建設した新式城塞の、箱館(函館の旧名)

  の五稜郭(ごりょうかく)を、明治新政府 (近代日

  本政府)より奪い、ここに本拠を置く。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1868年(明治元年)に、蝦夷地(北海道)の箱

  館(函館の旧名)で、 旧幕府海軍を率いる、

  本武揚(えのもとたけあき)が入 れ札(いれふだ、

  選挙)で総裁(そうさい、指導者)に選ばれ、 蝦

  夷地(北海道)で、旧幕府勢力が中心となって、

  蝦夷共和国(えぞきょうわこく、1868年−1869

  年)が樹立される。

     蝦夷共和国の榎本武揚は 、蝦夷地(北海

  道)の農業立国貿易立国をめざす。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1869年(明治2年)に、 独立国を許さない明

  治新政府軍 と 旧幕府勢力の蝦夷共和国軍

  との間で、戦い(箱館(函館)戦争や緒戦)が起

  こり、 蝦夷共和国の榎本武揚総裁は、降伏し、

  投獄され、蝦夷共和国(えぞきょうわこく、18

  68年−1869年)が倒れる

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1869年(明治2年)に、明治新政府(近代日本

  政府)は、西蝦 夷地の北海道本島西部や東蝦

  夷地の北海道本島東部と千島列島を、まとめて、

  「北海道(ほっかいどう)」と改名し、また、北蝦

  夷地の樺太(サハリン)を「樺太」(からふと)と

  改名した。

     伊勢国(いせのくに、現・三重県の相当地

  域)出身で北海道探査を行った松浦武四郎

  (まつうらたけしろう、1818年ー1888年)は、

  明治新政府(近代日本政府)から、開拓判官に

    任じられ、1869年(明治2年)に、「北海道」の

  名付け親となった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1869年(明治2年)に、 明治新政府(近代日

  本政府)は、 東京に、開拓使(かいたくし)を設

  置する。  開拓使(1869〜1882年)による

  北海道の統治が、始まる。

     本土日本人(= 和人)による、北海道の開

   拓と移住が、本格的に始まる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1869年(明治2年)に、 ロシア軍が、樺太(サ

  ハリン)南部に上陸し、軍事基地を設けた。

      当時、樺太(サハリン)では、国境を定め

  ない、日ロ両国の雑居地で、 樺太(サハリン)

  北部は、ロシアの勢力範囲であり、樺太(サハリ

  ン)南部は、日本の勢力範囲となっていた。 し

  かし、ロシアは、樺太(サハリン)南部に軍をす

  すめ、樺太(サハリン)全部をロシア領にしよう

  としていた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1871年(明治4年)に、明治新政府(近代日本

  政府)は、 開拓使(かいたくし)を、北海道の札

  幌(さっぽろ)に移管する。 

 

■ 1871年(明治4年)に、明治新政府(近代日本

  政府)は、戸籍法を公布し、アイヌ人を平民に編

  入する。 アイヌ人の入墨(いれずみ)などの伝

  統習俗を禁止する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1872年(明治5年)に、榎本武揚は、大久保利

  通の計らいにより、明治新政府の反乱分子とし

  ての投獄生活(1869年ー1872年)を脱する。

     その後、榎本武揚は、テクノクラート(専門

  知識のある官僚)として、明治新政府(近代日

  本政府)の外交を担う。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1874年(明治7年)に、明治新政府(近代日本

  政府)は、 屯田兵(とんでんへい)条例を制定す

  る。 屯田兵制(1874〜1904年)が始まる。

     1874年から1904年の屯田兵制廃止まで、

  北海道の屯田兵村数は、37ヶ所、戸数は7337

  戸、家族を含めた総人数は、約3万9000人に及

  んだ。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1875年(明治8年)に、「樺太・千島交換条約」が

  結ばれる。 これにより、日本の北の国境が画定

  し、日本は、主権国家として、世界にはばたくこと

  となる。

     当時、千島列島(クリル列島)では、日米和

  親条約により、北千島は、ロシア領、南千島は、

  日本領となっていた。 

     また、当時、樺太(サハリン)では、国境を定

  めない、日ロ両国の雑居地で、 樺太(サハリン)

  北部は、ロシアの勢力範囲であり、樺太(サハリ

  ン)南部は、日本の勢力範囲となっていた。 しか

  し、ロシアは、樺太(サハリン)南部に軍をすすめ、

  樺太(サハリン)全土をロシア領にしようと樺太(サ

  ハリン)全土の支配をめざしていた。

     日本の特命全権公使・榎本武揚とロシア外務

  省との外交交渉で、樺太(サハリン)では、日本の

  勢力範囲の樺太(サハリン)南部をロシアに譲り、

  千島列島(クリル列島)では、ロシア領の北千島を

  ロシアより譲り受けることが決まり、 187 5年(明

  治8年)に、日ロ間で、「樺太・千島交換条約」が結

  ばれた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1876年(明治9年)に、札幌農学校(さっぽろの

  うがっこう、後の北海道大学)が、 北海道に開校

  する。

 

■ 1877年(明治10年)に、明治新政府(近代日本

  政府)は、北海道地券発行条例を発布し、アイヌ

  人居住地は、官有地となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1882年(明治15年)に、明治政府(近代日本政

  府)は、 開拓使(かいたくし)を廃止し、 北海道

  に、3県を置く。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1886年(明治19年)に、明治政府(近代日本政

  府)は、「北海道庁」を設置する。 3県を廃止する。

 

■ 1899年(明治32年)に、北海道旧土人保護法

  (1899年〜1997年)が制定される。 13条が

  あり、アイヌ人に対する同化政策の法律であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1904年(明治37年)に、明治政府(近代日本政

  府)は、屯田兵(とんでんへい)制度を廃止する。

 

■ 1905年(明治38年)に、 日露戦争の終結時の

  ポーツマス条約により、ロシア領であった樺太(サ

  ハリン)の南部を、ロシアが譲り、日本領とするこ

  とが決まる。

     以後、樺太(サハリン)南部の南樺太(みなみ

  からふろ)は、 190 5年(明治38年)から1945

  年(昭和20年)まで、日本領であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1945年(昭和20年)に、 ロシアは、日本領の

  南樺太(サハリン南部)と南千島を占領し、 アメ

  リカ合衆国は、日本領の北千島を占領する。

     その後、日本は、南樺太(サハリン南部)と

  北千島を放棄し、南千島の北方四島の返還を要

  求している。

     1945年(昭和20年)以後、南千島の北方

  四島は、ロシアの実効支配下に置かれている。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1950年(昭和25年)に、北海道開発庁が設置さ

  れる。

 

■ 1997年(平成9年)に、「アイヌ文化振興法」が成

  立し、 北海道旧土人保護法は廃止される。 アイ

  ヌ文化の振興などを目的とした法律である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

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♪♪ 北海道の歴史 を描いた、興味深い

    関連ドキュメンタリー、ドラマ、映画。 

 

★ 北海道の歴史 が登場する、興味深い、

   ドキュメンタリー。

 

■ 『 発掘!明治維新秘話 

    嵐に消えた北海道‘‘独立国’’ 』。 

   (テレビ朝日・テレビ・2017年3月14日・

    本放送・歴史ドキュメンタリー番組)。

 ■ 蝦夷共和国(えぞきょうわこく)を詳細に述べる。

 ■ 榎本武揚(えのもとたけあき)の生涯を述べる。

 ■ 箱館(函館)戦争を述べる。

 ■ 幕末・明治時代初期の江戸幕府艦隊を述べる。

 

■ 英雄たちの選択 『 明治外交秘話

   北の国境を画定せよ 

   〜榎本武揚 驚異の対ロシア戦略〜 』。 

   (NHKテレビ・2017年5月11日・

    本放送・歴史ドキュメンタリー番組)。

 ■ 榎本武揚(えのもとたけあき)の外交の

   活躍を述べる。

 ■ 1875年(明治8年)の「樺太・千島

   交換条約」を述べる。

 

■ 英雄たちの選択 『 北の大地と

   民を守れ! 松浦武四郎・北海道

   の名付け親 』。 

   (NHKテレビ・2017年9月14日・

    本放送・歴史ドキュメンタリー番組)。

 ■ 松浦武四郎(まつうらたけしろう)の、約13

   年の蝦夷地(えぞち、北海道)の調査やそ

   の調査を記した出版書物について述べる。

 

■ 『 遥かなるサハリン紀行 

    間宮林蔵が歩いた最後の秘境

    〜1000キロの真実 』。 

   (TBSテレビ・2014年12月31日・

    本放送・ドキュメンタリー番組)。

 ■ 南北約1000kmのサハリン(樺太)

   の旅行を描く。

 ■ 間宮林蔵の間宮海峡発見を述べる。

 ■ 間宮林蔵の生涯やサハリン(樺太)探検・

   調査を述べる。

 

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#hokojitemple

 

■ 方広寺  

     (ほうこうじ)。

 

■ 方広寺

■ 名称 : 方広寺 (ほうこうじ)。

■ 英語名 :  HOKO-JI TEMPLE.

■ 《寺》。

■ 存在期間 : 安土桃山時代ー現在。

■ 豊臣氏の菩提寺。

■ 豊臣秀吉、徳川家康に関しては、「豊臣 秀吉」、豊臣 秀

  ガイドブック」、「徳川 家康」、「徳川家康ガイドブック」を

  参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 72139。

 

□ 豊臣氏 画像アルバム No.1

    方広寺の銘文入り梵鐘)。

 

 

■ 方広寺。

■ 方広寺(ほうこうじ)は、 京(都)にある、豊臣氏の菩提寺

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

            

■ 方広寺(ほうこうじ)は、 現在、京都市東山区大和大路正

  面茶屋町527−2の住所にある寺院である。

    方広寺は、京都・三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)

  の近くにある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)。

  (1614年7月)

■ 1614年(慶長19年)7月に、豊臣秀頼が 豊臣氏菩提

  寺の方広寺の大仏開眼供養を行おうとしたところ、江

  戸幕府(徳川家康)より、 方広寺の大仏殿の鐘銘(し

  ょうめい、鐘(かね)の銘文(めいぶん))に問題あり(家

  康を呪っている)と言われ、延期される。 これを方広

  寺鐘銘事件(ほうこうじょうめいじけん)という。

 

■ 高齢の徳川家康は、 立派に成長した豊臣秀頼、 豊

  臣恩顧の大名や京(都)の民衆・公家・朝廷の秀頼への

  人気、 豊国祭(ほうこくさい)の盛況等の豊臣氏人気な

  どを知り、 豊臣秀頼の率いる豊臣氏勢力が江戸幕府の

  徳川氏政権にとって将来脅威になると考え、自分が生き

  ているうちに、豊臣秀頼を排除し豊臣氏を滅亡させること

  を決意し、 1614年(慶長19年)に、方広寺の鐘銘(しょ

  うめい、鐘の銘文)の『康、君臣豊楽』 (こっかあ

  んこう、くんしんほうらく)が家康を呪っていることを口実に

  して、豊臣秀頼に豊臣大阪城明け渡しを求めた。 

     しかし、豊臣秀頼は、豊臣大阪城明け渡しには応じず、

  豊臣氏と徳川氏との間で、大坂の陣(大坂の役、1614−

  1615年)という戦争が起こる。

                      

 

■ 方広寺。

■ 方広寺には、 江戸時代に、大仏殿(だいぶつでん)と梵鐘

  (ぼんしょう)などがあり、 1612年(慶長17年)に豊臣秀頼

  が大仏殿とその梵鐘を完成した。 1614年(慶長19年)の

  「方広寺鐘銘事件」は、大坂の陣の口実となった。

      方広寺の、大仏殿は1798年(寛政10年)に雷火で

  焼失し、梵鐘のみが現存する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 方広寺(ほうこうじ)は、 京(都)にある、豊臣氏の菩提寺

  である。

     一方、現在、京(都)の茶屋町の、方広寺に隣接して

  臣秀吉を祭(まつ)る神社である豊国神社(とよくにじんじゃ )

  があり、京(都)の茶屋町の、方広寺や豊国神社から少し離

  れたの別の場所の京(都)の阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)に、

  豊臣秀吉を葬った墓豊国廟(ほうこくびょう)がある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 豊臣氏関係寺社・墓。 

■ 京(都)東部の方広寺、豊国神社、豊臣

   秀吉の墓、豊国社、豊国廟、高台寺。

■ 京(都)東部(京都市東山区)の茶屋町には、 安土桃山

  時代の1586年(天正14年)より現在まで方広寺(ほうこ

  うじ)があり、 方広寺大仏殿跡地に1880年(明治13年)

  から現在まで豊国神社(とよくにじんじゃ)がある。

     京(都)東部(京都市東山区)の阿弥陀ヶ峰(あみだが

  みね)には、 1598年(慶長3年)より現在まで豊臣秀吉

  の墓があり、 1599年(慶長4年)より1615年(慶長20

  年)まで豊国社(とよくにしゃ)があり、 1898年(明治31

  年)から現在まで豊国廟(ほうこくびょう)がある。

     京(都)東部(京都市東山区)の下河原町には、 16

  05年(慶長10年)より現在まで高台寺(こうだいじ)があ

  る。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 豊国社。 

    豊国社(とよくにしゃ)は、豊臣秀吉の死後、方広寺の鎮 

  守として着工され、1599年(慶長4年)に完成し、 京(都)

  の阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)の山腹にある、壮大な社殿

  (30万坪、社領1万石) であった。

     安土桃山時代・江戸時代初期の当時(1598年後16

  15年までの間)、 豊国社(とよくにしゃ)の祭礼である、秀

  吉の忌日(きじつ)の8月18日の豊国祭(ほうこくさい)は大

  いに賑(にぎ)わった。

     豊国祭(ほうこくさい)が大いに賑(にぎ)わったため、

  淀殿や豊臣秀頼は大いに喜び、徳川家康は警戒し、懸念

  した。

      1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡後は、江戸幕

  府の幕命により、阿弥陀ヶ峰の豊国社(とよくにしゃ)の

  殿は破壊され、豊国祭(ほうこくさい)の祭礼も廃止となっ

  た。 

      その後、豊国社(とよくにしゃ)は、1880年(明治

  13年)に京(都)の茶屋町の場所に、方広寺大仏殿跡地

  に、方広寺に隣接して、豊国神社(とよくにじんじゃ)として、

  再興された。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 天下統一を果たした豊臣秀吉は、1598年(慶長3年)8月

  18日に、京(都)の伏見城で63歳の生涯を閉じ、 秀吉の

  遺骸は、遺命により、京(都)の阿弥陀ヶ峰(あ みだがみね)

  に豊臣秀吉の墓をつくり、葬られた。

     秀吉の死後、1589年(慶長4年)4月18日に、秀吉は、

  御陽成天皇(ごようぜいてんのう)より、正一位豊国大明神

  (しょういちい・とよくにだいみょうじん)の神位・社号を賜り、

  その後、京(都)の阿弥陀ヶ峰の山腹に、墓や豊国社(とよく

  にしゃ)の社殿(30万坪、社領1万石)が創建された。 以後、

  毎年、盛大な豊国祭等の祭礼が行われた。 

      しかし、1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡後、江戸

  幕府の幕命により、社殿は破壊され、豊国祭(ほうこくさい)

  等の祭礼も取り止めとなった。 以後、墓参する人も少なくな

  った。

     現在の、秀吉の墓と廟所(びょうしょ、墓所)は、1898 

  年(明治31年)に、秀吉死去300年の豊太閤三百年祭に際

  し、全国からの募金により、 豊国社(とよくにしゃ)跡地に豊

  国廟(ほうこくびょう)が建てられ、 古くからあった秀吉の墓

  も壮麗で巨大な墓に建て変えられた。

 

■ 京(都)東部にある、方広寺 (ほうこうじ)は、 豊臣氏

  菩提寺(ぼだいじ)である。 

     方広寺には、 江戸時代に、大仏殿(だいぶつでん)

  と梵鐘(ぼんしょう)などがあり、 1612年(慶長17年)に

  豊臣秀頼大仏殿と梵鐘を完成した。 

     1614年(慶長19年)の「方広寺大仏殿鐘銘事件」(ほ

  うこうじだいぶつでんしょうめいじ けん)は、 大坂の陣

  戦いの口実となった。

      方広寺の、大仏殿は、江戸時代後期の、1798年

  (寛政10年)に雷火で焼失し、梵鐘のみが現存する。

      1605年(慶長10年)に、京(都 )東部の下河原町

   に、豊臣秀吉・正室夫人の、おね(ねね)が豊臣秀吉の

   冥福を祈るため、高台寺(こうだいじ)を創建する。

      1598年(慶長3年)の豊臣秀吉の死後、京(都)

  東部阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)の山腹に、壮大な

  国社(とよくにしゃ、30万坪、社領1万石)が、 方広寺

  の鎮守として着工され、1599年(慶長4年)に完成した。 

  1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡前まで、 豊国社

  (とよくにしゃ)の祭礼である、秀吉の忌日(きじつ)の8月

  18日の豊国祭(ほうこくさい)は、大いに賑(にぎ)わった。 

      しかし、1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡後、

  戸幕府の幕命により、豊国社( とよくにしゃ)の、社殿は

  破壊され、豊国祭(ほうこくさい)等の、祭礼も停止となっ

  た。 

      その後、1880年(明治13年)に、豊国神社(とよ

  くにじんじゃ)が、 京(都)東部の茶屋町に、方広寺大仏

  殿跡地に、方広寺(ほうこうじ)に隣接して、豊国社(とよ

  くにしゃ)の後身として再興され 、 1898年(明治31年)

  に、京(都)の阿弥陀ヶ峰の、豊国社跡地に、豊国廟(ほ

  うこくびょう)が建てられる。

     現在、京(都)東部(京都市東山区)の茶屋町に、方

  広寺(ほうこうじ)や方広寺大仏殿跡地に建つ豊国神社

  (とよくにじんじゃ)があり、 そこから少し離れた別の場

  所の、京(都)東部(京都市東山区)の阿弥陀ヶ峰(あみ

  だがみね)の山腹に、豊臣秀吉を葬った墓 と、  豊国社

  (とよくにしゃ)跡地に建つ豊国廟(ほうこくびょう)があり、 

  京(都)東部(京都市東山区)の下河原町に、高台寺(こ

  うだいじ)がある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ。 

□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

#hokokusai

 

■ 豊国祭  

     (ほうこくさい)。

 

■ 豊国祭

■ 名称 : 豊国祭 (ほうこくさい)。

■ 《祭礼》。

■ 秀吉死後から、豊臣氏滅亡前までの間。

■ 豊臣秀吉を祀(まつ)る神社の、豊国 社(とよくにしゃ)の

   豊臣秀吉を祝福する祭礼。

■ 豊臣秀吉、徳川家康に関しては、「豊臣 秀吉」、豊臣 秀

  ガイドブック」、「徳川 家康」、「徳川家康ガイドブック」を

  参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

□ 豊臣氏 画像アルバム No.1

 

 

■ 豊国祭。

■ 豊国祭(ほうこくさい)は、 豊臣秀吉を祭(まつ)る神社の、

  豊国 社(とよくにしゃ)の豊臣秀吉を祝福する祭礼である。

 

■ 豊国祭(ほうこくさい)は、 京(都)の阿弥陀ヶ峰(あみだが

  みね)に安土桃山時代・江戸時代初期にあった、豊臣秀吉を

  祭(まつ)る神社の、豊 国 社(とよくにしゃ)の祭礼 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 豊国祭(ほうこくさい)は、 1598年(慶長3年)の秀吉死後

  から、1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡前までの間に、行

  われた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 特に、1604年(慶長9年)の秀吉の七回忌の豊国祭(ほう

  こくさい)は、盛大であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 豊国社(とよくにしゃ)は、 京(都)の阿弥陀ヶ峰(あみだが

  みね)に安土桃山時代・江戸時代初期にあった、 豊臣秀吉

  を祭(まつ)る神社であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 豊国社(とよくにしゃは、 (現・京都市東山区の)阿弥陀

  ヶ峰にあった豊臣秀吉を祭(まつ)る神社である。 

      豊国社は、京都・三十三間堂(さんじゅうさんげん

  どう)の近くにあった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 京(都)の阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)にあった、豊国社

  (とよくにしゃは、 京(都)の茶屋町に現在ある、豊国

  神社(と よくにじんじゃ)の前身である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 豊国社(とよくにしゃ)は、安土桃山時代・江戸時代初期

  に、京(都)の阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)の山腹にあっ

  たが、廃止となり、その跡地に、現在、豊臣秀吉の廟所の

  豊国廟(ほうこくびょう)がある。

     一方、現在、京(都)の阿弥陀ヶ峰豊臣秀吉の墓、

  豊国社(とよくにしゃ)跡地や豊国廟(ほうこくびょう)から少

  し離れた別の場所の、京(都)の茶屋町に、豊臣氏の菩提

  寺である方広寺(ほうこうじ) と、方広寺と隣接して方広寺

  大仏殿跡地に建つ豊臣秀吉を祭(まつ)る豊国神社(とよ

  くにじんじゃ)がある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 豊臣氏関係寺社・墓。 

■ 京(都)東部の方広寺、豊国神社、豊臣

   秀吉の墓、豊国社、豊国廟、高台寺。

■ 京(都)東部(京都市東山区)の茶屋町には、 安土桃山

  時代の1586年(天正14年)より現在まで方広寺(ほうこ

  うじ)があり、 方広寺大仏殿跡地に1880年(明治13年)

  から現在まで豊国神社(とよくにじんじゃ)がある。

     京(都)東部(京都市東山区)の阿弥陀ヶ峰(あみだが

  みね)には、 1598年(慶長3年)より現在まで豊臣秀吉

  の墓があり、 1599年(慶長4年)より1615年(慶長20

  年)まで豊国社(とよくにしゃ)があり、 1898年(明治31

  年)から現在まで豊国廟(ほうこくびょう)がある。

     京(都)東部(京都市東山区)の下河原町には、 16

  05年(慶長10年)より現在まで高台寺(こうだいじ)があ

  る。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 豊国社。 

    豊国社(とよくにしゃ)は、豊臣秀吉の死後、方広寺の鎮 

  守として着工され、1599年(慶長4年)に完成し、 京(都)

  の阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)の山腹にある、壮大な社殿

  (30万坪、社領1万石) であった。

     安土桃山時代・江戸時代初期の当時(1598年後16

  15年までの間)、 豊国社(とよくにしゃ)の祭礼である、秀

  吉の忌日(きじつ)の8月18日の豊国祭(ほうこくさい)は大

  いに賑(にぎ)わった。

     豊国祭(ほうこくさい)が大いに賑(にぎ)わったため、

  淀殿や豊臣秀頼は大いに喜び、徳川家康は警戒し、懸念

  した。

      1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡後は、江戸幕

  府の幕命により、阿弥陀ヶ峰の豊国社(とよくにしゃ)の

  殿は破壊され、豊国祭(ほうこくさい)の祭礼も廃止となっ

  た。 

      その後、豊国社(とよくにしゃ)は、1880年(明治

  13年)に京(都)の茶屋町の場所に、方広寺大仏殿跡地

  に、方広寺に隣接して、豊国神社(とよくにじんじゃ)として、

  再興された。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 天下統一を果たした豊臣秀吉は、1598年(慶長3年)8月

  18日に、京(都)の伏見城で63歳の生涯を閉じ、 秀吉の

  遺骸は、遺命により、京(都)の阿弥陀ヶ峰(あ みだがみね)

  に豊臣秀吉の墓をつくり、葬られた。

     秀吉の死後、1589年(慶長4年)4月18日に、秀吉は、

  御陽成天皇(ごようぜいてんのう)より、正一位豊国大明神

  (しょういちい・とよくにだいみょうじん)の神位・社号を賜り、

  その後、京(都)の阿弥陀ヶ峰の山腹に、墓や豊国社(とよく

  にしゃ)の社殿(30万坪、社領1万石)が創建された。 以後、

  毎年、盛大な豊国祭等の祭礼が行われた。 

      しかし、1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡後、江戸

  幕府の幕命により、社殿は破壊され、豊国祭(ほうこくさい)

  等の祭礼も取り止めとなった。 以後、墓参する人も少なくな

  った。

     現在の、秀吉の墓と廟所(びょうしょ、墓所)は、1898 

  年(明治31年)に、秀吉死去300年の豊太閤三百年祭に際

  し、全国からの募金により、 豊国社(とよくにしゃ)跡地に豊

  国廟(ほうこくびょう)が建てられ、 古くからあった秀吉の墓

  も壮麗で巨大な墓に建て変えられた。

 

■ 京(都)東部にある、方広寺 (ほうこうじ)は、 豊臣氏

  菩提寺(ぼだいじ)である。 

     方広寺には、 江戸時代に、大仏殿(だいぶつでん)

  と梵鐘(ぼんしょう)などがあり、 1612年(慶長17年)に

  豊臣秀頼大仏殿と梵鐘を完成した。 

     1614年(慶長19年)の「方広寺鐘銘事件」(ほうこう

  じしょうめいじけん)は、 大坂の陣の戦いの口実となった。

      方広寺の、大仏殿は、江戸時代後期の、1798年

  (寛政10年)に雷火で焼失し、梵鐘のみが現存する。

      1605年(慶長10年)に、京(都東部)の下河原町

   に、豊臣秀吉・正室夫人の、おね(ねね)が豊臣秀吉の

   冥福を祈るため、高台寺(こうだいじ)を創建する。

      1598年(慶長3年)の豊臣秀吉の死後、京(都)

  東部阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)の山腹に、壮大な

  国社(とよくにしゃ、30万坪、社領1万石)が、 方広寺

  の鎮守として着工され、1599年(慶長4年)に完成した。 

  1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡前まで、 豊国社

  (とよくにしゃ)の祭礼である、秀吉の忌日(きじつ)の8月

  18日の豊国祭(ほうこくさい)は、大いに賑(にぎ)わった。 

      しかし、1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡後、

  戸幕府の幕命により、豊国社( とよくにしゃ)の、社殿は

  破壊され、豊国祭(ほうこくさい)等の、祭礼も停止となっ

  た。 

      その後、1880年(明治13年)に、豊国神社(とよ

  くにじんじゃ)が、 京(都)東部の茶屋町に、方広寺大仏

  殿跡地に、方広寺(ほうこうじ)に隣接して、豊国社(とよ

  くにしゃ)の後身として再興され 、 1898年(明治31年)

  に、京(都)の阿弥陀ヶ峰の、豊国社跡地に、豊国廟(ほ

  うこくびょう)が建てられる。

     現在、京(都)東部(京都市東山区)の茶屋町に、方

  広寺(ほうこうじ)や方広寺大仏殿跡地に建つ豊国神社

  (とよくにじんじゃ)があり、 そこから少し離れた別の場

  所の、京(都)東部(京都市東山区)の阿弥陀ヶ峰(あみ

  だがみね)の山腹に、豊臣秀吉を葬った墓 と、  豊国社

  (とよくにしゃ)跡地に建つ豊国廟(ほうこくびょう)があり、 

  京(都)東部(京都市東山区)の下河原町に、高台寺(こ

  うだいじ)がある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 豊国祭 が登場する、興味深い、ドキ

    ュメンタリー、ドラマ、映画。

 

 豊国祭 が登場する、興味深い、ドラマ、

   映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

     歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

     と架空の出来事が 混じって描か れています。 

      また、 現代風にアレンジし てあります。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』。 

    (NHKテレビ・2011年大河ドラマ) 

■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描く。

■ (E) 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』

    第38回「最強の乳母」・2011年10月

    2日・本放送・NHKテレビ・大河ドラマ。

○ 豊国社(とよくにしゃ)の、豊国祭(ほうこく

  さい)を描く。

    1604年(慶長9年)の秀吉の七回忌の

  盛大な豊国祭(ほう こくさい)を描く。

 

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□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

#hokokubyo

 

■ 豊国廟  

     (ほうこくびょう)。

 

■ 豊国廟

■ 名称 : 豊国廟 (ほうこくびょう)。

■ 《廟所》。

■ 存在期間 : 1898年(明治31年)ー現在。

■ 豊臣秀吉の廟所。

■ 豊臣秀吉、徳川家康に関しては、「豊臣 秀吉」、豊臣 秀

  ガイドブック」、「徳川 家康」、「徳川家康ガイドブック」を

  参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 72134。

 

□ 豊臣氏 画像アルバム No.1

    (豊国廟)。

 

■ 豊国廟。

■ 豊国廟(ほうこくびょう)は、 現在、京都市東山区の阿弥

  陀ヶ峰(あみだがみね)にある豊臣秀吉の廟所である。 

     豊国廟は、京都・三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)

  の近くにある。

 

■ 京(都)の阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)の山腹にある、豊国

  ) (ほうこくびょう)は、  豊臣秀吉を葬った墓 (墓:15

  98年ー現在)の、廟所(びょうしょ、1880年ー現在)であ

  る。 

            

■ 豊国廟(ほうこくびょう)は、 現在、京 (都)の阿弥陀ヶ峰

  (あみだがみね)の山腹にあり、豊国廟の中に、約500段

  の階段を上がり、山の上に壮麗で立派な秀吉の墓がある。

 

■ 豊国廟(ほうこくびょう)は、 京(都)の阿弥陀ヶ峰(あみだ

  がみね)の山腹に安土桃山時代・江戸時代初期にあった、

  豊国社(とよくにしゃ)跡地にある、豊臣秀吉の廟所である。

     一方、現在、京(都)の阿弥陀ヶ峰の豊臣秀吉の墓、

  豊国社(とよくにしゃ)跡地や豊国廟(ほうこくびょう)から少

  し離れた別の場所の、京(都)の茶屋町に、豊臣氏の菩提

  寺である方広寺(ほうこうじ) と、方広寺に隣接して方広寺

  大仏殿跡地に建つ豊臣秀吉を祭(まつ)る豊国神社(とよく

  にじんじゃ)がある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

            

 

◆ 豊臣氏関係寺社・墓。 

■ 京(都)東部の方広寺、豊国神社、豊臣

   秀吉の墓、豊国社、豊国廟、高台寺。

■ 京(都)東部(京都市東山区)の茶屋町には、 安土桃山

  時代の1586年(天正14年)より現在まで方広寺(ほうこ

  うじ)があり、 方広寺大仏殿跡地に1880年(明治13年)

  から現在まで豊国神社(とよくにじんじゃ)がある。

     京(都)東部(京都市東山区)の阿弥陀ヶ峰(あみだが

  みね)には、 1598年(慶長3年)より現在まで豊臣秀吉

  の墓があり、 1599年(慶長4年)より1615年(慶長20

  年)まで豊国社(とよくにしゃ)があり、 1898年(明治31

  年)から現在まで豊国廟(ほうこくびょう)がある。

     京(都)東部(京都市東山区)の下河原町には、 16

  05年(慶長10年)より現在まで高台寺(こうだいじ)があ

  る。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 豊国社。 

    豊国社(とよくにしゃ)は、豊臣秀吉の死後、方広寺の鎮 

  守として着工され、1599年(慶長4年)に完成し、 京(都)

  の阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)の山腹にある、壮大な社殿

  (30万坪、社領1万石) であった。

     安土桃山時代・江戸時代初期の当時(1598年後16

  15年までの間)、 豊国社(とよくにしゃ)の祭礼である、秀

  吉の忌日(きじつ)の8月18日の豊国祭(ほうこくさい)は大

  いに賑(にぎ)わった。

     豊国祭(ほうこくさい)が大いに賑(にぎ)わったため、

  淀殿や豊臣秀頼は大いに喜び、徳川家康は警戒し、懸念

  した。

      1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡後は、江戸幕

  府の幕命により、阿弥陀ヶ峰の豊国社(とよくにしゃ)の

  殿は破壊され、豊国祭(ほうこくさい)の祭礼も廃止となっ

  た。 

      その後、豊国社(とよくにしゃ)は、1880年(明治

  13年)に京(都)の茶屋町の場所に、方広寺大仏殿跡地

  に、方広寺に隣接して、豊国神社(とよくにじんじゃ)として、

  再興された。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 天下統一を果たした豊臣秀吉は、1598年(慶長3年)8月

  18日に、京(都)の伏見城で63歳の生涯を閉じ、 秀吉の

  遺骸は、遺命により、京(都)の阿弥陀ヶ峰(あ みだがみね)

  に豊臣秀吉の墓をつくり、葬られた。

     秀吉の死後、1589年(慶長4年)4月18日に、秀吉は、

  御陽成天皇(ごようぜいてんのう)より、正一位豊国大明神

  (しょういちい・とよくにだいみょうじん)の神位・社号を賜り、

  その後、京(都)の阿弥陀ヶ峰の山腹に、墓や豊国社(とよく

  にしゃ)の社殿(30万坪、社領1万石)が創建された。 以後、

  毎年、盛大な豊国祭等の祭礼が行われた。 

      しかし、1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡後、江戸

  幕府の幕命により、社殿は破壊され、豊国祭(ほうこくさい)

  等の祭礼も取り止めとなった。 以後、墓参する人も少なくな

  った。

     現在の、秀吉の墓と廟所(びょうしょ、墓所)は、1898 

  年(明治31年)に、秀吉死去300年の豊太閤三百年祭に際

  し、全国からの募金により、 豊国社(とよくにしゃ)跡地に豊

  国廟(ほうこくびょう)が建てられ、 古くからあった秀吉の墓

  も壮麗で巨大な墓に建て変えられた。

 

■ 京(都)東部にある、方広寺 (ほうこうじ)は、 豊臣氏

  菩提寺(ぼだいじ)である。 

     方広寺には、 江戸時代に、大仏殿(だいぶつでん)

  と梵鐘(ぼんしょう)などがあり、 1612年(慶長17年)に

  豊臣秀頼大仏殿と梵鐘を完成した。 

     1614年(慶長19年)の「方広寺鐘銘事件」(ほうこう

  じしょうめいじけん)は、 大坂の陣の戦いの口実となった。

      方広寺の、大仏殿は、江戸時代後期の、1798年

  (寛政10年)に雷火で焼失し、梵鐘のみが現存する。

      1605年(慶長10年)に、京(都東部)の下河原町

   に、豊臣秀吉・正室夫人の、おね(ねね)が豊臣秀吉の

   冥福を祈るため、高台寺(こうだいじ)を創建する。

      1598年(慶長3年)の豊臣秀吉の死後、京(都)

  東部阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)の山腹に、壮大な

  国社(とよくにしゃ、30万坪、社領1万石)が、 方広寺

  の鎮守として着工され、1599年(慶長4年)に完成した。 

  1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡前まで、 豊国社

  (とよくにしゃ)の祭礼である、秀吉の忌日(きじつ)の8月

  18日の豊国祭(ほうこくさい)は、大いに賑(にぎ)わった。 

      しかし、1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡後、

  戸幕府の幕命により、豊国社( とよくにしゃ)の、社殿は

  破壊され、豊国祭(ほうこくさい)等の、祭礼も停止となっ

  た。 

      その後、1880年(明治13年)に、豊国神社(とよ

  くにじんじゃ)が、 京(都)東部の茶屋町に、方広寺大仏

  殿跡地に、方広寺(ほうこうじ)に隣接して、豊国社(とよ

  くにしゃ)の後身として再興され 、 1898年(明治31年)

  に、京(都)の阿弥陀ヶ峰の、豊国社跡地に、豊国廟(ほ

  うこくびょう)が建てられる。

     現在、京(都)東部(京都市東山区)の茶屋町に、方

  広寺(ほうこうじ)や方広寺大仏殿跡地に建つ豊国神社

  (とよくにじんじゃ)があり、 そこから少し離れた別の場

  所の、京(都)東部(京都市東山区)の阿弥陀ヶ峰(あみ

  だがみね)の山腹に、豊臣秀吉を葬った墓 と、  豊国社

  (とよくにしゃ)跡地に建つ豊国廟(ほうこくびょう)があり、 

  京(都)東部(京都市東山区)の下河原町に、高台寺(こ

  うだいじ)がある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#-appearingscenes

 

♪♪ 豊国廟 を描いた、興味深い関連

    ドキュメンタリー、ドラマ、映画。 

 

★ 豊国廟 を描いた、興味深い関連ド

  ラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

   また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 軍師 官兵衛 (ぐんし かんべい) 』 。 

   (NHKテレビ・2014年大河ドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

 (E) 『 軍師 官兵衛 』 第 45回「秀吉の

   最後」・2014年11月9日・本放送・NHKテ

   レビ・大河ドラマ。

  (E) 『 軍師 官兵衛 』 第 46回「家康動

   く」・2014年11月16日・本放送・NHKテレ

   ビ・大河ドラマ。  

○ 秀吉の死去を描く。

 

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#hokurikudoregion

 

■ 北陸道  

      (ほくりくどう)

    (= 北陸道・広域地方)。

 

■ 北陸道 (= 北陸道・広域地方)。

■ 名称 : 北陸道 

        (ほくりくどう)。

■ 別名 : 北陸道・広域地方。

■ 英語名 : 

   HOKURIKUDO REGION.

■ 旧・大地域名。 《日本の地域名》。

■ 律令制定後・古代・中世・近世日本・旧地域

  名の、 旧地方名の正式名。 《旧地域名》。

■ 前近代日本の、広域地方の、

  五畿七道(ごきしちどう)の1つ。

■ 北陸・旧広域地方。

  <五畿七道 (ごきしちどう) 

    (≒ 日本本土 (本州、四国、九州))。

  <旧・広域地方。

  <旧・大地域名。

  <旧地域名。

  <地域名。

  <日本の地名

■ 五畿七道に関しては、 「五畿七道」を参照し て

  ください。

■ 前近代・旧地域名に関しては、  「前近代日本

  の地域名」を参照してください。 

■ 日本の地名の全体に関しては、 「日本の地名

  を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61024。

 

 

■ 北陸・広域地方 ( ほくりくどう・こういきちほ

  う)は、 前近代日本の、日本の地方行政区分

  (区画)である。

 

■ 北陸道・旧広域地方。 

 

■ 北陸道・旧広域地方は、 前近代日本の、

  @ 佐渡 国 (新潟県佐渡島)、 A 越後国

  (新潟県本土)、  B 越中 国 (富山県)、 

  C 能登 国(石川県北部 )、 D 加賀 国

  (石川県南部)、 E 越前 国(福井県北部)、

  F 若狭国(福井県南部) の地域 である

          

■ 北陸道・旧広域地方は、 前近代日本の、

  @ 佐渡 国  (さ どのくに、現・新潟県佐渡島

  相当 領域)、 A 越後国 (えちご のくに、現・

  新潟県本土の相当領域)、  B 越中 国 (えっ

  ちゅう のくに、現・富山県の相当 領域)、 

  C 能登 国(のとのくに、現・石川県北部の相当

  領域)、 D 加賀 国(かが のくに、現・石川県南

  の相当 領域)、 E 越前 国 (えちぜん のく

  に、現・福井県北部の相当領域)、 F 若狭国

  (わかさ のくに、現・福井県南部の相当領域) の

  地域 である

 

 

■ 北陸道・旧広域地方。

 

 北陸道・旧広域地方は、 佐渡 国(さどの くに、

  佐州、渡州、現・新潟県佐渡島の相当領域) か

  ら 若狭 国 (わかさ のくに、現・福井県南部の

  相当領域) までの地域である。

 

■ 北陸道 (ほくりくどう)は、 律令 制定後・古代・

  中世・近世日本・旧地域名の、旧地方名の正式

  名である

 

■ 北陸道・旧広域地方は、 飛鳥白鳳時代末期か

  ら 江戸時代まで(701年頃から1868年頃まで)

  使用された、五畿七道(ごきしちどう)に属する広

  域地方の1つである。

 

 北陸道広域地方は、 現在の、 新潟県佐渡

  島 (佐渡 国(さどの くに))、 新潟県本土 (越

  後国(えちご のくに))、 富山県 (越中 国(えっ

  ちゅう のくに))、 石川県 (能登 国(のと のくに)

  と加賀 国(かが のくに))、 福井県 (越前 国(え

  ちぜん のくに)、 若狭 国(わかさ のくに)) の

  地域に 概ね相当する領域である。

 

 

  

 

 

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#thehokkaidoregion

 

■ 北海道地方 

      (ほっかいどうちほう)

 

■ 北海道地方。 

■ 名称 : 北海道地方 (ほっかいどうちほう)。

■ 英語名 : HOKKAIDO REGION.

■ 現地方名。 《現地域名》。

■ 北海道地方。

  <日本国

■ 北海道地方に関係する、蝦夷地(えぞち)に関

  しては、「蝦夷地」を参照してください。

■ 前近代・旧地域名に関しては、 「前近代日本の

  地域名」を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 81032。

 

 

■ 北海道地方 (ほっかいどうちほう)は、 現地域

  名の現地方名であり、 北海道本島 と 北方四

  島 である。

■ 北海道地方は、 北海道本島 (≒、蝦夷地(え

  ぞち)本土、十州島(じゅうしゅうとう))  と 北方

  四島 (=千島(ちしま)南部) から成る。

 

■ 北海道地方 (ほっかいどうちほう)は、 前近代

  日本の、旧地方名の、 樺太(サハリン)、千島(ク

  リル)列島北部を除く、蝦夷地 (えぞち)の地域

  概ね相当する地域である。

             

■ 北海道(ほっかいどう)は、1869年(明治2年)

  からの新名であり、 旧名は、 蝦夷地(えぞち)、

  蝦夷ヶ島(えぞがしま)、北州(ほくしゅう)、蝦夷

  国(えぞのくに)などである

■ 北海道本島は、前近代日本の、旧地域名の、

  概ね、十州島(じゅっしゅうとう)、蝦夷地(えぞ

  ち)本土、蝦夷ヶ島(えぞがしま)本土に相当す

  る 地域である。

 

■ 蝦夷地。

■ 蝦夷地 (えぞち、= 蝦夷ヶ島、北州、蝦夷国)

  は、 狭義では、北海道本島のみであり、広義で

  は、北海道本島とその周辺地域である。

■ 蝦夷地(えぞち)の別称には、 蝦夷ヶ島(えぞ

  がしま)、北州(ほくしゅう)、蝦夷国(えぞのくに)

  などがある。 

■ 前近代・旧地方名の、「蝦夷地」 (えぞち)は、 

  北海道本島、 樺太(からふと、サハリン)、 千島

  列島 (ちしまれっとう、クリル諸島)北部・南部 

  概ね相当する地域である。

■ 前近代・旧中地域名の、十州島( じゅうしゅうとう)

  は、北海道本島に相当する地域である。

 

 

    

 

 

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#hoshinamasayuki

 

■ 保科 正之  

     (ほしな まさゆき)。

 

■ 保科 正之。

■ 名称 : 保科正之 (ほしな まさゆき)。 

●   別名 : 幼名:幸松 (こうまつ、ゆきまつ)。

■ 生没年 : 1611年〜1672年。

■ 江戸幕府・第3代将軍・徳川家光の異母弟。

■ 江戸時代前期の政治家、大名。

■ 会津藩23万石の藩祖(初代藩主)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61815。

 

 

■ 保科正之は、 江戸時代初期に、幕政に参与し、

  江戸幕府の幕藩体制の基礎を固めるのに貢献

  する。

     保科正之は、 第3代将軍・徳川家光の遺

  言により、1651年以降、第4代将軍・徳川家

  綱(いえつな)を補佐し、幕政をみて、 社倉(し

  ゃそう)の設置、倹約、殖産興業、開墾の奨励な

  どを実施し、名君とうたわれた。

 

■ 保科正之 (ほしな まさゆき、生没年:1611年

  〜1672年) は、 江戸時代の大名である。 

     別名は、 幸松、 保科 幸松 である。

 

■ 保科正之 は、 会津藩の初代藩主(会津藩祖) 

  (藩主1643〜69年)で、 会津松平家の初代

  当主(当主1643〜69年) である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 保科正之 は、 江戸幕府3代将軍徳川家光

  腹違いの弟である。

    保科正之の父 は、 江戸幕府2代将軍・

  川秀忠(ひでただ)  である。

    保科正之の母 は、 お静 (おしず、お志津、

  浄光院) である。

 

■ 1643年に、保科正之 (ほしなまさゆき、2代

  将軍徳川秀忠の子)が、 江戸幕府により、 会

  津藩主に封(ほう)じられる。 正之は、会津松

  平家の初代当主、 会津藩の初代藩主(藩祖) 

  となる。

 

■ 会津藩 は、 江戸時代、 東北地方の陸奥国

 (むつのくの)会津地方(福島県西部)を領した藩

 で、 23万石 、城下町は会津若松 であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 会津藩の藩主・藩士は、代々、幕末まで、徳

  川宗家(江戸幕府)に忠誠を誓う。

○ 会津藩祖・保科正之の意向で会津藩の藩主・

  藩士は、代々、幕末まで、徳川宗家(江戸幕府)

  に忠誠を誓い、徳川分家の会津松平家の会津

  藩は、幕末、徳川宗家(徳川本家、江戸幕府)

  と命運を共にし、京都守護職を引き受け、また、

  会津戦争を起こす。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 幕末、 会津藩は、 藩主・藩士とも、江戸幕府

  (徳川宗家(本家))に忠誠を尽くした。

● 幕末の会津藩主・藩士は、 江戸幕府(徳川宗

  家(本家)) と運命を共にすると述べている。  

  なぜであろうか。

     というのも、 会津藩・松平家が、徳川宗家

  (本家)直系の分家であり、 会津藩の家訓は、

  江戸幕府(徳川宗家(本家)))に忠誠を尽くすこ

  とを旨としていたからである。

● 会津藩の家訓 (1668年に定めた「会津家訓

  (あいづかきん)十五箇条」) は、 会津藩23

  万石を領させ「徳川宗家を頼む」と言い残し16

  51年に死去した江戸幕府(徳川宗家(本家))

  第3代将軍 ・徳川家光の遺言に感銘して、 会

  津藩・初代藩主・保科正之(ほし なまさゆき)が、

  1668年に、定めたものである。

● それ以後、幕末まで、 会津藩主・藩士 は、機

  会あるごとに、この「会津家訓十五箇条」を唱え、 

  江戸幕府(徳川宗家)に忠誠を尽くすことを旨 (む

  ね)としていた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 幕末、 会津藩の第9代藩主、 松平容保 (まつ

  だいらかたもり、高須藩・松平家から養子に入る) 

  は、 会津藩士を指揮し、 江戸幕府(徳川宗家)

  の、京都守護職として活躍し、  佐幕派の中心

  的存在として戊辰(ぼしん)戦争を戦った。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 会津松平氏の起こりは、 徳川宗家の江戸幕府・

  第2代将軍・徳川秀忠(ひでただ)が、 江戸城大

  奥で、一人の女性・お静 (おしず、お志津( おし

  づ)、浄光院(じょうこういん)) を愛したことから、

  始まった。 

     将軍・徳川秀忠には、 正室夫人・お江 (お

  ごう、お江与(おえよ))がいて、 お江との間には、

  徳川家光と徳川忠長の2人の男子がいた。  将

  軍・徳川秀忠は、恐妻家、愛妻家で あり、 お江を

  恐れて、ずっと、 他の夫人(側室夫人)を持たな

  かった。  

     しかし、あるとき、徳川秀忠は、 気が緩み、

  身の回りの世話をする侍女(じじょ)の、美人のお

  静(お志津)を見初(みそ)め、手を付けてしまった。 

  そして、お静(お志津)は、懐妊(妊娠)した。

     将軍・徳川秀忠は、 側室を許さず嫉妬深い、

  正室夫人のお江の怒りを恐れて、 城外で子を産

  ませ、1611年、お志津は男子を生み、 見性院

  (けんしょういん、穴山梅雪(信君)・正室夫人)の

  元にお静(お志津)を預けた。 その男子が、幸松 

  (こうまつ)、後の保科正之(ほしなまさゆき)であ

  る。 

      幸松(保科正之)は、見性院の元に預けられ

  育ち、 その後、1617年、幸松(保科正之)は、保

  科家に預けられた (名目上、保科正光の子とされ、

  養育された)。  

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

★ お静(お志津、浄光院)が登場する、興味深い、ド

   ラマ、映画。

■ 『 大奥・第一章 』 (日本の2004・2005年制

   作フジテレビ・テレビドラマ)。   

● 幸松(保科正之)の生母のお静(お志津)を演じた

    女優名 : 雛形(ひながた)あきこ。  

 

■ 秀忠正室夫人・お江の死後、 保科正之は、 16

  29年、18歳で、初めて、父・秀忠と面会する。 

    保科正之は、 江戸幕府・第3代将軍家光の腹

  違いの弟である。

    その後、 保科正之(ほしなまさゆき) は、江戸

  幕府・第3代将軍・徳川家光を補佐し、幕政に貢献

  し、幕府より、1643年に、会津藩23万石を与えら

  れ、 会津藩主 (初代、会津藩祖)、 会津松平家

  当主(初代)) となった。

    その後、 幕末まで(最後の会津藩主・松平容

  保の代まで)、 会津藩主・藩士は、代々、江戸幕

  府(徳川宗家) に忠誠を尽くした。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠の実

  子。

     徳川秀忠の実子は、 長丸  (ちょうまる・幼名、

  長男、早世)、 徳川家光 (とくがわいえみつ、 幼

  名:竹千代(たけちよ)、次男)、 徳川忠長 (とく

  がわただなが、幼名:国松(くにまつ)、三男)、 

  保科正之 (ほしなまさゆき、幼名:幸松(こうまつ、

  ゆきまつ)、四男)、 千姫 (せんひめ、長女)、 

  珠姫 (たまひめ、次女)、 勝姫 (かつひめ、三

  女)、 初姫(はつひめ、四女)、 和子 (まさこ、

  かずこ、徳川和子(とくがわまさこ・かずこ)、五女) 

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 保科正之 が登場する、興味深い、

   ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

 保科正之 が登場する、興味深 い関

   連ドキュメンタリー。 

 

■ にっぽん!歴史鑑定 『 徳川家光 

   と 弟 保科正之 の絆 』。 

    (TBSテレビ・2018年1月22日・

    本放送・歴史ドキュメンタリー番組)。

● 保科正之(ほしなまさゆき)を詳細に述べる。

 

 

 保科正之 が登場する、興味深 い関

   連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

    歴史のドラマ、映画 は、史実(歴史上の事

    実) と 架空の出来事 が 混じって描か

     れています。 また、 現代風にアレンジし

     てあります。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』 

   (NHKテレビの2011年大河ドラマ) 

● 後に会津藩初代藩主となる、幼少の保科

    幸松(保科正之)を演じた俳優名 : 

     小林 海人。

● 江(ごう)を演じた女優名 : 上野 樹里 

  (うえの じゅり)。

● ドラマでは、 史実とは異なり、お江 (お

  ごう、徳川秀忠正室夫人)が、 お志津(お

  しづ、お静、浄光院、徳川秀忠側室夫人)

  が出産した、徳川秀忠の子・幸松(こうま

  つ、保科正之)と会っている (ドラマの第

  46回の最終回で)。

 

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#thepotsdamproclamation

 

■ ポツダム宣言  

     (ぽつだむせんげん)。

 

■ ポツダム宣言。

■ 名称 : ポツダム宣言 (ぽつだむせんげん)。

■ 英語名 : THE POTSDAM (POZDAM) 

  PROCLAMATION.

■ 時期 : 1945年(昭和20年)7月26日。

■ 第2次大戦中の、日本に降伏を求める、連合国

  の対日共同宣言。  

● TKKI カナヤマ著 電子書籍 61925。

 

 

■ 1945年(昭和20年)6月の沖縄戦の敗戦後、

  1945年(昭和20年)7月時点で、日本 本土では、

  戦う飛行機も戦艦も 武器弾薬も食料もほとんどな

  くなり主要都市は米軍機爆撃で焦土と化し、 裕

  仁天皇(昭和天皇)は本土決戦前の降伏を望み、

  1945年(昭和20年)7月から、日本政府は、

    皇家存続(天皇制存続)という条件なら、本土決

  戦前に、降伏をしてもよい旨を、ソ連 (ロシア)や

  他のルートを通じて、連合国側に伝えたが、無視

  される。

     アメリカ合衆国のトルーマン大統領は、 

  時中のアメリカ国民の反日強硬派や反日の世論

  の反発を考慮して、また、アメリカの力をソ連そ

  の他の世界の諸国に誇示(こじ)するため、そし

  て、実験として原爆の威力を知るため、日本降

  伏前の原爆投下を望み(ポツダム宣言に天皇家

  存続 の文言を挿入し、日本がすぐ降伏してしま

  うと原爆威力人体実験のチャンスを失うため)、 

  1945年(昭和20年)7月26日の日本への降

  伏勧告のポツダム宣言には、降伏条件に天皇

  家存続(天皇制存続)の文言を挿入しなかった。 

     日本政府は、ポツダム宣言の降伏条件に、

  天皇家存続(天皇制存続)の文言がなかったた

  め、すぐに、受諾(じゅたく)しなかった。

     1945年(昭和20年)8月上旬に、 アメリ

  カ合衆国のトルーマン大統領は、 アメリカの

  力をソ連その他の世界の諸国に誇示するため、

  また、実験として原爆の威力を知るため、 広

  島や長崎に原爆を投下する。

 

            

■ ポツダム宣言。

■ ポツダム宣言 (英:THE POZDAM (POTS-

    DAM) PROCLAMATION) は、 日本に対す

    る降伏勧告であり、 ポツダム会談で発せられた

  対日共同宣言であり、 1945年7月26日に、第

    2次大戦中の日本に降伏を求め た、連合国の対

    日共同宣言 (米・英・中3国による) である。  

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

■ 日本は、1945年(昭和20年)8月14日にポ

    ツダム宣言の受諾を決定し、連合国に通告し、 

  1945年8月15日にポツダム宣言の受諾を広

  く国民に伝える戦争終結の詔書(しょうしょ、天

  皇の意思表示の公文書) を放送し (= 玉音

  (ぎょくおん)放送を流し)、 事実上終戦となり、 

  1945年9月2日に、ミズーリ号上で 降伏文書

  に調印し、正式に戦争 (太平洋戦争、第2次世

  界大戦)は、 終結した。

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

■ ポツダム宣言 (ぽつだむせんげん) は、 第

   2次世界大戦中、 連合国の米、英、ソ連(ロシア)

  の首脳によるポツダム会談(1945年7月17日

  −8月2日)で決定され、 中国の同意を得て、

  1945年(昭和20年)7月26日に発表された、

  日本に降伏(こうふく)を求める、対日共同宣言 

  である。  

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

■ ポツダム宣言は、 第2次世界大戦(1939〜

  45年)中、 枢軸国(すうじくこく)のドイツ降伏

  (1945年5月)後、 1945年7〜8月に、 アメ

  リカ大統領・トルーマン、 イギリス首相・チャー

  チル(のちアトリー)、 ソ連(ロシア)第一書記・

  スターリン の連合国(れんごうこく)の首脳が、

  ベルリン郊外のポツダム  (英:POZDAM, 

  POTSDAM) で会談したとき、  1945年7月

  に発表した、対日戦争終結条件と戦後処理方針

  を述べ、日本の降伏を求めた、対日共同宣言で

  ある。  

● TKKI カナヤマ 著 電子書籍。

 

■ ポツダム宣言は、 日本の戦争降伏(終結)条件

  と降伏後の戦後処理の基本方針を述べた、連合

  国の対日共同宣言である。 

     連合国の米、英、ソ連(ロシア)の首脳が、

  (1) 日本の無条件降伏、 

  (2) 日本の武装解除と軍国主義の絶滅(駆逐)、 

  (3) 連合国(連合国軍)による日本占領、管理。

  (4) 日本領土の制限 (カイロ宣言に基づく領

     土制限)、

  (5) 日本の戦争犯罪人の処罰、

  (6) 民主主義の実現 (民主化の促進)、

  (7) 日本の再軍備の禁止、

  (8) 軍需産業の禁止、

  などの条件を決定し、中国の同意を得て、1945

  年7月26日に、米・英・中3国により発表された、

  ポツダム宣言は、 第2次大戦中の日本に降伏を

  求める、連合国の対日共同宣言であり、 日本に

  ポツダム宣言の受諾(じゅだく)を求めた。

 

■ ポツダム宣言は、 日本の無条件降伏と日本の

  降伏後の戦後処理の基本方針を述べた、対日共

  同宣言である。 

     連合国は、 ポツダム宣言の受諾(じゅだく)

  が、降伏の最後の機会であることを日本へ通告し

  た。

     しかし、日本は、初め、ポツダム宣言を無視

  したが、 ソ連(ロシア)参戦や原爆投下などの戦

  局の悪化により、 遂(つい)に、1945年(昭和

  20年)8月14日に、ポツダム宣言を受諾し、

  伏した。

     日本は、翌日の、1945年(昭和20年)8月

  15日に、ポツダム宣言の受諾を国内に公表した。

      その後、ポツダム宣言は、戦後日本の民主化

  の基本方針となった。

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

 

■ ポツダム会談。

■ ポツダム会談は、 第2次世界大戦(1939〜

  45年)中、 枢軸国(すうじくこく)のドイツ降伏

  (1945年5月)後、 1945年(昭和20年)7

  月17日から8月2日まで、 アメリカ大統領・ト

  ルーマン、 イギリス首相・チャーチル(のちア

  トリー)、 ソ連(ロシア)第一書記・スターリン 

  の連合国(れんごうこく)の米・英・ソ連(ロシア)

  の3国の首脳が、 ベルリン郊外のポツダム 

  (英:POZDAM, POTSDAM) で行った会

  談 である。  

     ポツダム会談では、 ドイツの戦後処理

  針 日本に対する降伏勧告(ポツダム宣言)、

  日本の降伏後の戦後処理方針 などが決定さ

  れた。

 

■ ポツダム会談 (1945年7−8月) では、 ソ連

  (ロシア)が、 対日参戦する、即ち、対日宣戦を

  して参戦する (日ソ中立条約を破棄して日本と

  戦う) ことも決定した (ヤルタ会談の秘密協定

  に基づき)。

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

 

■ ポツダム宣言の受諾(日本の無条

  件降伏)。

■ ポツダム宣言の受諾は、 日本の無条件降伏

  ではあった。 天皇と皇室は、存続が認められ

  るか不明であった。

     1945年(昭和20年)8月13日頃、 

  外日本公使からの緊急電報が日本に届き、

  木貫太郎(かんたろう)首相(首相在任:1945

  年4月〜8月) や、 裕仁(ひろひと)天皇(昭

  和天皇) に伝えられた。

     その緊急電報の内容は、対日回答文の

  作成過程の連合国側の内部情報であり、 そ

  こには、日本が人民(国民)主権に基づく西洋

  流の立憲君主制をとるべきであると記されて

  いた。

     鈴木貫太郎首相や裕仁天皇(昭和天皇)

  は、 連合国側の内部情報から、無条件降伏

  後も、天皇と皇室は、存続が認められると解

  釈した。

     1945年(昭和20年)8月14日の御前会

  議(ごぜんかいぎ)で、 鈴木貫太郎首相の主

  導で、 内閣閣僚や最高戦争指導会議メンバー

  を集め、 裕仁天皇(昭和天皇)が、 聖断(せ

  いだん、天皇自らが下す決断)により、 ポツダ

  ム宣言の受諾(日本の無条件降伏)を、最終決

  定した。

 

 

#-appearingscenes

 

♪♪ ポツダム宣言 が登場する、興味

  深い、ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ ポツダム宣言 が登場する、興味深

  い、ドキュメンタリー。

 

■ BS1スペシャル 『 ヒロシマ 

  世界を変えたあの日 』。 

   (イギリスChannel 5・フランスBrook 

   Lapping ARTE France・日本・NHK・

   2015年国際共同制作ドキュメンタリー)。

   (NHKテレビ・2015年8月16日・

   本放送・ドキュメンタリー番組)。

■ 太平洋戦争の戦争終結、ポツダム宣言

  の受諾、原爆投下について詳細に述べ

  ている。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 天皇のそ

  ばにいた男 鈴木貫太郎 太平洋

  戦争最後の首相 』 

   (NHKテレビ・2015年3月4日・本放送・

   ドキュメンタリー番組)。

■ 太平洋戦争の戦争終結、ポツダム宣言

  の受諾について詳細に述べている。

■ 太平洋戦争の戦争終結時の鈴木貫太郎

  首相や裕仁天皇(昭和天皇)の言動を述

  べている。

 

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#horibeyasubei(takekune)

 

■ 堀部 安兵衛(武庸) 

       (ほりべ やすべえ(たけつね))

 

■ 堀部 安兵衛(武庸)

■ 名称 : 堀部 安兵衛(武庸) 

                (ほりべ やすべえ(たけつね))

■ 別名 : 中山 安兵衛。

■ 生没年 : 1670〜1703年

■ 赤穂四十七士の1人。

 

 

■ 堀部 安兵衛(武庸) (ほりべ やすべえ(たけ

  つね)、生没年:1670〜1703年) は、赤

  穂四十七士の1人で、 高田馬場の決闘で活

  躍し、その後、赤穂藩家臣となり、 元禄赤穂

  事件「仇討ち優先派」の中心人物 となる。

 

■ 堀部 安兵衛(武庸)の氏名。

     堀部(ほりべ)は、一族名で、 安兵衛(や

  すべえ)や武庸(たけつね)は、個人名で、 安

  兵衛(やすべえ)は通称で、 武庸(たけつね)

  は(いみな) である。

     堀部 安兵衛(武庸)の別名は、 中山 安

  兵衛 (なかやまやすべえ) である (堀部

  に養子に入る前の氏名)。

 

■ 堀部 安兵衛(武庸)は、 越後(えちご、新潟

  県)の、新発田(しばた)藩の藩士・実父・中山

  弥次衛門の子であったが、浪人となる。 

     中山安兵衛(堀部 安兵衛(武庸))は、江

  戸に出て、 知人・菅野六左衛門を助けた高田

  馬場(たかだのばば)の決闘で活躍し勇名をあ

  げ、 赤穂・浅野家(赤穂藩)の家臣・堀部弥兵

  衛(金丸) (ほりべやへい(かなまる)) の養

  子となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 知人・菅野六左衛門を助けた高田馬場(たか

  だのばば)の決闘で活躍し勇名をあげ、 その

  後、赤穂藩家臣となった、堀部安兵衛(武庸) 

  (ほりべやすべえ(たけつね)、1670〜1703

  年) は、 吉良 (きら)への仇討(あだう)ちを

  主張する、「仇討ち優先派」(江戸急進派)の中

  心人物であった。 

     堀部安兵衛(武庸)の夫人は、 堀部 ほり

  (ほりべ ほり)であり、 堀部弥兵衛(金丸)(ほ

  りべやへえ(かなまる)) の娘 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 赤穂・浅野家旧臣の意見は、 赤穂勤め旧臣

  が多い「お家再興優先派」 と 江戸勤め旧臣

  が多い「仇討ち優先派」の2つに分かれ始 めた。

  「仇討ち優先派」は、 江戸急進派とも呼ばれ

  た。 この2派が、 1701年(元禄14年)4月

  の赤穂城開城から1702年(元禄15年)7月

  の赤穂・浅野家再興不能 (浅野大学(長広)

  の広島・浅野本家(広島藩)永預かり)まで、対

  立した。

     「お家再興優先派」は、 お家(赤穂・浅野

  家)再興を果(は)たせば、浅野内匠頭(長矩)

  の敵討(かたきう)ちの吉良邸討ち入りを行わず、

  お家再興が果たせない時のみ吉良邸討ち入り

  を行いたいグループであり、 一方、「仇討ち優

  先派」は、 お家(赤穂浅野家)再興の有無とは

  関係なく、亡き主君・浅野内匠頭(長矩)の敵討

  (かたきう)ちの吉良邸討ち入りを行いたいグル

  ープである。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 円山会議。

    円山会議 (まるやまかいぎ) は、 お家(赤

  穂・浅野家)再興の望みが絶(た)たれ、 吉良邸

  討ち入り(きらていうちいり)を決定した会議 で

  ある。

    1702年(元禄15年)7月28日に、大石内蔵

  助(良雄)は、  「仇討ち優先派」(江戸急進派)の

  堀部安兵衛(武庸) (ほりべやすべえ(たけつね)

  を招いて、 盟約の同志が集まり、 京(都)の円

  山(まるやま、京都市東山区円山町)で、 同志と

  の会議を開き、 円山会議 (まるやまかいぎ)で、 

  江戸・本所(えど・ほんじょ)の吉良屋敷への討ち

  入りを決定した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 吉良邸討ち入り直前に、 「仇討ち優先派」(江

  戸急進派)の堀部安兵衛(武庸) (ほりべやす

  べえ(たけつね) は、 儒学者の細井広沢に、 

  自ら編集しておいた「堀部武庸筆記」(ほりべた

  けつねひっき)を託した。

     堀部安兵衛(武庸)は、 赤穂浪士関係の

  書類を自らまとめて編集して、 江戸・堀内道場

  同門の親友で儒学者の細井広沢に託した、元

  禄赤穂事件の出来事を記した「堀部武庸筆記」

  (ほりべたけつねひっき)を残し、 元禄赤穂事

  を知る、一次的史料となっている (岩波書店

  「近世武家思想」に収録)。

 

■ 吉良邸討ち入り時、 高田馬場の決闘で活躍

  し赤穂藩家臣となった、堀部安兵衛(武庸)(ほ

  りべやすべえ(たけつね)、1670〜1703年)

  は、赤穂浪士の四十七士の中で一番の剣客で、 

  大太刀を持って、奮戦したと言われている。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 吉良邸討ち入り時、 吉良邸にいた吉良家臣

  の人数は不明であるが、 赤穂浪士は、完全

  武装し、 高田馬場で斬り合った堀部安兵衛

  (武庸)以外、人を斬(き)った実戦経験がない

  ため、 攻撃して来ない吉良家臣はかまわず

  吉良上野介(義央)のみを狙い、 3人1組の

  グループとなり、 吉良邸内で攻撃してくる1人

  の吉良家臣の前後を3人のグループで取り囲

  み戦い、攻撃してくる吉良家臣を斬り倒してい

  ったという説がある。

     結果的に、討ち入った赤穂浪士は、負傷

  者は出たが、1人も死なず 、吉良上野介(義央)

  を殺害し、首級をとることができた。

 

■ 1702年(元禄15年)12月14〜15日の吉良

  邸討ち入り後、 堀部安兵衛(武庸)をはじめ討

  ち入りした赤穂浪士46人 (1人は、討ち入り後

  立ち去る) は、 幕府により、大名家の屋敷に

  預けられ、 1703年(元禄16年)2月4日に、

  堀部安兵衛(武庸)は、 幕命(ばくめい、 江戸

  幕府の命令)により、 討ち入りした赤穂 浪士の

  1人として、切腹し、 その後、江戸の高輪・泉岳

  寺(たかなわ・せんがくじ)に葬られた。

 

 

♪♪ 堀部安兵衛(武庸) が登場する、

  興味深い、ドキュメンタリー、ドラマ、

  映画。 

 

★ 堀部安兵衛(武庸) が登場 する、

  面白く、興味深い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 忠臣蔵 瑤泉院の陰謀 (ちゅう

     しんぐら ようぜいんのいんぼう)  

   (日本の2007年制作テレビ東京・テレビ

   ドラマ)。

● 堀部安兵衛を演じた俳優 : 山田純大。

 

● 大石内蔵助を演じた俳優 : 北大路欣也。

● 浅野内匠頭を演じた俳優 : 高嶋政伸。

● 瑤泉院(阿久利)を演じた女優 : 稲森いずみ。

● お喜世(左京の局)を演じた女優 : 吹石一恵。

 

■ 『 忠臣蔵 その義 その愛 (ちゅう

      しんぐら そのぎ そのあい) 』  

   (2012年1月2日・本放送・テレビ東京・テ

   レビドラマ)。

● 堀部安兵衛を演じた俳優 : 内野 聖陽。

 

● 大石内蔵助を演じた俳優 : 舘 ひろし。

● 浅野内匠頭を演じた俳優 : 市川染五郎。

● 吉良上野介を演じた俳優 : 柄本 明。

● 瑤泉院(あぐり)を演じた女優 : 田中美里。

 

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#horikoshikubo

 

■ 堀越公方 

       (ほりこしくぼう)。

 

■ 堀越公方。

■ 名称 : 堀越公方 (ほりごえくぼう) 。

■ 1457〜1491年、2代。

■ 室町幕府の、東国 (とうごく、関東8国、伊豆、

  甲斐(かい、山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・

  出羽(でわ)) の政務を統轄する 役職。

    2代(足利政知、茶々丸)の堀越公方が就

  任した。

■ 伊豆国堀越(いずのくにほりごえ、静岡県東

  部の堀越)を本拠地とした。

■ 鎌倉公方(1349〜1455年、5代)に代わり

  成立した 、2つの公方 (くぼう、古河公方

  越公方)の1つ。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

■ 堀越公方。

    堀越公方 (ほりごえくぼう、1457〜91年、2

  代) は、 古河公方 (こがくぼう)関東管領

  (かんとうかんれい)と並んで、 室町幕府の 、

  東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、山

  梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) の

  政務を統轄する 役職 である。

    堀越公方は、 足利政知 (あしかがまさとも、

  1435〜91年、足利義政の兄弟)により成立し、

  その子が、継いだ。 2代(足利政知、茶々丸)の

  堀越公方が就任した。

    堀越公方は、 伊豆国堀越 (いずのくにほり

  ごえ、静岡県東部の堀越)を本拠地とした。

    堀越公方は、 鎌倉公方(1349〜1455年、

  五代)に代わり成立した 、2つの公方(くぼう、古河

  公方、堀越公方)の1つ である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

■ 古河公方 と 堀越公方。

● 古河公方 (こがくぼう、1455〜1583年、5

  代、足利成氏、政氏、高基、晴氏、義氏) と、 

  堀越公方 (ほりごえくぼう、1457〜91年、2

  代、足利政知、茶々丸)。

     鎌倉公方 (かまくらくぼう、5代)は、 13

  49年から1455年まで続いた。 その後、鎌倉

  公方は、 古河公方(こがくぼう、1455〜158

  3年、5代) と、 堀越公方(ほりごえくぼう、14

  57〜91年、2代) に代わった。

     古河公方や堀越公方 は、 室町幕府の 、

  東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、

  山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) 

  の政務を統轄する 役職 である。

     享徳の乱(きょうとくのらん)が起こり、古河

  公方や堀越公方が成立する。

     足利成氏は、享徳の乱(きょうとくのらん)

  を起こす。 鎌倉公方の足利成氏 (あしかが

  しげうじ、1434〜97年) は、 鎌倉公方を補

  佐する役職の執事(しつじ、関東管領)の上杉

  氏と対立し、 鎌倉を保ちえず、 1455年に、 

  逃れて、 下総国古河城(しもうさのくにこがじ

  ょう) に移り、古河公方(こがくぼう) と称す。 

  1454年に、鎌倉公方の足利成氏は、 関東管

  領の上杉憲忠(うえすぎのりただ)を謀殺(ぼう

  さつ)し、 享徳の乱(きょうとくのらん)を起こし、 

  1455年に、関東管領・上杉房顕(ふさあき)が、 

  鎌倉公方の足利成氏を、 下総・古河(しもうさ・

  こが)に逐う。 成氏は、鎌倉を放棄し、古河公

  方(こがくぼう)となる(と呼ばれる)。  以後、

  古河公方 (1455〜1583年) は、 足利成

  氏(しげうじ)の子孫により、 2代・政氏、3代・

  高基、4代・晴氏、5代・義氏と続いたが、 15

  83年に古河公方の5代・足利義氏の死によっ

  て滅んだ。

     一方、享徳の乱(きょうとくのらん)が起こり、

   1457年に、 足利義政(よしまさ)の命令で、 

   足利成氏(しげうじ)を討つべく幕府から関東に

   派遣された、足利政知  (あしかがまさとも、14

   35〜91年、足利義政の兄弟) は、 鎌倉に

   入れず、 伊豆国(いずのくに)堀越に根拠地を

   置き、 堀越公方 (ほりごえくぼう、1457〜9

   1年、初代堀越公方) となる(と呼ばれる)。堀

   越公方は、1491年の足利政知(まさとも)死後、 

   政知の子の足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる、

   ?〜1491年) が、継いで2代堀越公方となる

   が、 1491年に、伊勢宗瑞(いせそうずい、北

   条早雲) に攻められ足利茶々丸は自殺し、

   越公方は、滅びる。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

◆ 室町時代中期・後期の東国 (関東・

  伊豆・山梨・東北) の出来事。

■ 東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、山

  梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) では、 

  永享の乱や享徳の乱以後、 「戦国の世」となる。

    永享の乱 (えいきょうのらん、1438−1439

  年)で、 室町幕府・第6代将軍足利 義教(よし

  のり)は、 義教と対立する、第4代鎌倉公方の足

  利持氏(もちうじ)と戦い、勝利を得た。

     しかし、永享の乱後、義教は、 鎌倉公方が

  統治する東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐

  (かい、山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(で

  わ)) を、完全に支配しようしたが、東国の武士

  の諸勢力の反対にあい、できなかった。 また、

  義教の子を、鎌倉公方に就任させようとしたが、

  東国の武士の諸勢力の反対にあい、就任させら

  れなかった。

      統治力のある強い鎌倉公方を失い、永享の

  乱以後の1439年から、 東国 (とうごく、関東8

  国、伊豆、甲斐(かい、山梨県)、東北2国(陸奥

  (むつ)・出羽(でわ)) では、 諸勢力が入り乱 

  れ、豊臣秀吉が日本本土を統一する1590年ま

  で、「戦国の世」となった。

 

■ 第4代鎌倉公方足利持氏  (あしかがもちうじ、

  1398〜1439年) は、 室町幕府・第6代将軍

  の足利義教 (よしのり、将軍 在任1429〜1441

   や 関東管領の上杉憲実(のりざね) と対

  立し、1438年に、永享の乱 (えいきょうのらん、

  1438〜39年)を起こし、 1439年に、幕府・上

  杉軍に敗(やぶ)れて、自殺する。 

    1440年(永享12年)に、結城合戦(ゆうきか

  っせん、1440年)が起こる。 下総国 (しもうさ

  のくに、千葉 県北部相当地域)の豪族・結城氏朝

  (ゆうきうじとも)が、鎌倉公方・足利持氏の2人

  の遺子を擁(よう)し、挙兵するが、派遣された室

  町幕府軍に敗れ、 結城氏朝は敗死し、2人の遺

  子は殺される。

     その後、1449年に、 足利持氏の子の、

  利成氏 (あしかがしげうじ、生没年:1434〜9

  7年) が、 迎えられて、第5代鎌倉公方(就任:

  1449年ー1455年) となる。 

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 第5代鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利成氏(あ し

  かがしげうじ、生没年:1434〜97年) が、 14

  54年(享徳3年)に、関東管領(かんとうかんれい)

  の上杉憲忠(うえすぎのりただ)を謀殺(ぼうさつ)し、

  利成氏は、 関東管領の上杉氏と戦い、享徳の

  ( きょうとくのらん、1454〜82年) が始まる。

  室町幕府は、上杉氏を支援した。

     足利成氏(しげうじ)は、 本拠地の鎌倉を放

  棄し、 本拠地を下総国古河 (しもうさ(しもふさ)

  のくに・こが、茨城県南西部の古河) に移し、 

  河公方 (こがくぼう、1455年ー1583年、5代、

  足利成氏、政氏、高基、 晴氏、義氏) となる。

    一方、足利成氏(しげうじ)を討つべく室町幕府

  から派遣された足利政知 (あしかがまさとも、14

  35年ー1491年、足利義政の兄弟) は、 鎌倉

  に入れず、 伊豆国堀越 (いずのくにほりごえ、

  静岡県東部・伊豆半島の堀越) に本拠地を置き、 

  対峙(たいじ)し、堀越公方 (ほりごえくぼう、 就

  任:1457年ー1491年、2代) となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 享徳の乱(きょうとくのらん、1454〜1482年)

  が起こり、 古河 公方や堀越公方が成立する。

     足利成氏は、享徳の乱(きょうとくのらん)

  を起こす。 鎌倉公方の足利成氏 (あしかが

  しげうじ、1434〜97年) は、 鎌倉公方を補

  佐する役職の執事(しつじ、関東管領)の上杉

  氏と対立し、 鎌倉を保ちえず、 1455年に、 

  逃れて、 下総国古河城(しもうさのくにこがじ

  ょう) に移り、古河公方(こがくぼう) と称す。 

  1454年に、鎌倉公方の足利成氏は、 関東管

  領の上杉憲忠(うえすぎのりただ)を謀殺(ぼう

  さつ)し、 享徳の乱(きょうとくのらん)を起こし、 

  1455年に、関東管領・上杉房顕(ふさあき)が、 

  鎌倉公方の足利成氏を、 下総・古河(しもうさ・

  こが)に逐う。 成氏は、鎌倉を放棄し、古河公

  方(こがくぼう)となる(と呼ばれる)。  以後、

  古河公方 (1455〜1583年) は、 足利成

  氏(しげうじ)の子孫により、 2代・政氏、3代・

  高基、4代・晴氏、5代・義氏と続いたが、 15

  83年に古河公方の5代・足利義氏の死によっ

  て滅んだ。

     一方、享徳の乱(きょうとくのらん)が起こり、

   1457年に、 足利義政(よしまさ)の命令で、 

   足利成氏(しげうじ)を討つべく幕府から関東に

   派遣された、足利政知  (あしかがまさとも、14

   35〜91年、足利義政の兄弟) は、 鎌倉に

   入れず、 伊豆国(いずのくに)堀越に根拠地を

   置き、 堀越公方 (ほりごえくぼう、1457〜9

   1年、初代堀越公方) となる(と呼ばれる)。堀

   越公方は、1491年の足利政知(まさとも)死後、 

   政知の子の足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる、

   ?〜1491年) が、継いで2代堀越公方となる

   が、 1491年に、伊勢宗瑞(いせそうずい、北

   条早雲) に攻められ足利茶々丸は自殺し、

   越公方は、滅びる。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

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#themainlandjapanesepeople

 

■ 本土日本人 

      (ほんどにほんじん)。

 

■ 本土日本人。

■ 名称 : 本土日本人 (ほんどにほんじん)。

■ 別称 : 本土人。

■ 英語名 : 

  he  Mainland Japanese People。

■ 現在のほとんどの日本人。

■ 存在時期と居住地 : 

  古代日本後期〜 現代日本 (奈良・平安時代

  〜平成時代)に、日本本土で居住する人々。

■ 日本本土原住の「縄文・弥生渡来・混血系」の

  人々。

■ 本土日本人。

  <日本人(日本常住民)。

  <モンゴロイド。

  <現生人類(= 新人、ホモ・サピエンス種)。 

■ 古代日本人の詳細に関しては、「古代日本人

  を参照してください。

■ 日本人(人種)のルーツ(起源)の詳細に関して

  は、日本史辞典の「日本人」、「原日本人」や 「

  本人ルーツ・ガイドブック」を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典 51019。

 

□ 本土日本人の学術分類表  

 

             

■ 現在のほとんどの日本人は、 「本土日本人」

  である。

 

■ 本土日本人は、 「縄文系」の人々と「弥生渡

  来系」の人々との混血の人類である。

             

■ 本土日本人は、 現存日本人 (人類学上の分

  類の、「本土日本人」、「琉球人」、「アイヌ人」)

  の1グループである。 

    本土日本人の別名は、 本土人である

        本土日本人の英語名は、THE MAINLAND 

  JAPANESE PEOPLE である。

             ○ 本土日本人(人種)への進化表。

               化石類人猿(= 中新世ホミノイド)⇒ 

             猿人⇒ 原人(= ホモ・エレクトス類)⇒ 

             旧人(= 前ホモ・サピエンス類)⇒ 現生

             人類(= 新人ホモ・サピエンス)⇒ モン

             ゴロイド⇒ 縄文人⇒ 弥生人⇒ 古代

             日本人⇒ 本土日本人」(= 本土人)

             「琉球人」、「アイヌ人」。

             ○ 現代日本人(人種)への進化表。

               化石類人猿(= 中新世ホミノイド)⇒ 

             猿 人⇒ 原人(= ホモ・エレクトス類)⇒ 

             旧人(= 前ホモ・サピエンス類)⇒ 現生

             人類(= 新人ホモ・サピエンス)⇒ モン

             ゴロイド⇒ ⇒ 弥生人⇒ 古代 

             日本人⇒ 中世日本人⇒ 近世日本人⇒ 

             近代日本人 現代日本人

 

 

■ 本土日本人は、 古代日本後期(奈良・平 安時

  代)に、日本本土で、 形成された。

              

■ 本土日本人は、 弥生時代 (約2400年前〜

  約1700年前) 以来、日本本土で、約1600年

  間をかけて、 「縄文系」の人々と「弥生渡来系

  の人々が混血して成立した人類である。

 

■ 本土日本人は、 現生人類(= ホモ・サピ

  エンスモンゴロイドの、日本本土原住の「

  文・弥生渡来・混血系」(古・新モンゴロイド混血)

  の日本人(人種) である。 

                

■ 本土日本人は、 古代日本後期(奈良・平 安時

  代)に、 日本地域 (日本本土、南西諸島、北海

  道)の、日本本土で、 古モンゴロイド(= 南方モ

  ンゴロイド)の縄文系の人々 と 新モンゴロイド

  (= 北方モンゴロイド)の弥生渡来系の人々 と

  が混血して形成された。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 存在時期と居住地。 

    本土日本人は、 古代日本後期から現代日本 

  まで(奈良・平安時代 〜平成時代)に、 日本本

  土を原住地とし、 明治時代以後、日本本土、北

  海道、南西諸島居住する人々 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 本土日本人 (ほんどにほんじん)は、 別名で、

  本土人とも言い、 日本本土原住の、縄文・弥生

  渡来・混血系(古・新モンゴロイド混血)の現生人

  (= 新人ホモ・サピエンス である。 

     本土日本人の英語名は、 The Mainland 

  Japanese People である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 農耕主体の、新モンゴロイドの人々が、弥生時

  前期に 、 アジア大陸から、朝鮮半島その他

  の地を経て、 日本本土の九州に大勢やって来

  て、「渡来系弥生人」となった。

     「渡来系弥生人」とその子孫の弥生渡来系

  の人々は、 弥生時代とその後の古代日本(古

  墳、飛鳥白鳳、奈良、平安時代)の時期に、 日

  本本土(九州、四国、本州)を北上し、 日本本

  土に以前から住む、古モンゴロイド縄文人とそ

  の子孫の縄文系の人々と徐々に混血していった。

     そして、古代日本後期(奈良・平安時代)には、 

  農耕を行うため、 本州に住む弥生渡来系新モン

  ゴロイドの人々が、北上し、東北地方に進出し、一

  方、九州に住む弥生渡来系新モンゴロイドの人々

  は、農耕を行うため、 南下し、南西諸島に進出し、 

  それぞれ、現地の縄文系古モンゴロイドの人々と

  一緒に住み、混血する。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 本土日本人は、 古代日本後期(奈良・平安時

  代)に、 日本地域の、日本本土で、 縄文系

  モンゴロイドの人々 と 弥生渡来系新モンゴロ

  イドの人々 とが混血して形成される。

     本土日本人は、 中世日本(鎌倉〜室町時

  代)以後、 日本本土(九州、四国、本州)を原住

  とする、「縄文・弥生渡来・混血系」(古・新モン

  ゴロイド混血) の現生人類(= 新人、ホモ・サピ

  エンス) である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

◆ 本土日本人。

■ 古代日本後期に、日本本土で、 主に、縄文系 

  と 弥生渡来系が混血して、 「本土日本人」が、

  形成された。

■ 古代日本紀元(後)3世紀頃から1192年 ま

  での間、 日本本土 には、 古モンゴロイドの(旧

  土着系)縄文人の縄文系(在来系)弥生人子孫 

  の「縄文系古代日本人古代日本人」 と、 新モ

  ンゴロイドの渡来人の渡来系弥生人子孫の「弥

  生渡来系古代日本人」 と、 弥生時代以後に

  両者が混血した「縄文・弥生渡来混血系古代日

  本人」の3グループが、主に、一緒に暮らしてい

  た(居住していた)。 

    その他に、日本本土には、多数ではないが、

  古代日本前期に、大陸より移住した古・新モンゴ

  ロイド混血の大陸人の古代大陸系の「古代移住

  大陸系古代日本人」(中国系、朝鮮半島系など)

  も一緒に暮らしていた(居住していた)。 

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

 原日本人。

■ 原日本人 (げんにほんじん) とは、 古モンゴロ

  イドの「縄文人」 と 新モンゴロイドの「渡来系

  生人」 である。

    原日本人は、 中世日本 (鎌倉〜室町時代、

  1192〜1573年)より、 「本土日本人」、 「

  球人」、 「アイヌ人」 となる。

 

 

 日本人の形成過程簡略表。

■ 日本人のルーツ(起源)の詳細に関しては、

  当辞典の「日本人」 及び、  「日本人ルーツ・

  ガイドブック」を参照してください。

 

(1) 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス種)  ⇒

(2) モンゴロイド ⇒

(3) 古モンゴロイド と 新モンゴロイド ⇒

(4) 原日本人の、 縄文系の古モンゴロイドの

   「縄文人」 と  弥生渡来系の新モンゴロイド

   の「渡来系弥生人」 ⇒

(5) 中世日本以後、 縄文・弥生渡来・混血系の

   「本土日本人」(= 本土人)、「琉球人」 と 縄

   文系の「アイヌ人」 ⇒

(6) 現在の日本人。

      現在のほとんどの日本人が、縄文・弥生渡

   来・混血系の「本土日本人(= 本土人)である。

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

 

■ 日本人(日本常住民)への進化表。

 ○ 化石類人猿(= 中新世ホミノイド) 

    (人類と類人猿の共通祖先)。

 ⇒ ○ 人類の、猿人 (直立二足歩行)。 

 ⇒ ○ 原人(= ホモ・エレクトス類) (肉食主食)。

 ⇒ ○ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類)。 

 ⇒ ○ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス 種

      (アフリカで出現)。 

 ⇒ ○ モンゴロイド (アジアで容姿が変化)。 

 ⇒ ○ 縄文人。  

 ⇒ ○ 弥生人。 

 ⇒ ○ 古代日本人 (縄文・弥生渡来・混血系

      の本土日本人の形成)。  

 ⇒ ○ 「本土日本人」(= 本土人)、「琉球人」、

       「アイヌ人」。

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

■ 現代日本人(日本常住民)への進化表。

 ○ 化石類人猿(= 中新世ホミノイド) 

    (人類と類人猿の共通祖先)。

 ⇒ ○ 人類の、猿人 (直立二足歩行)。 

 ⇒ ○ 原人(= ホモ・エレクトス類) (肉食主食)。

 ⇒ ○ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類)。 

 ⇒ ○ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス 種

      (アフリカで出現)。 

 ⇒ ○ モンゴロイド (アジアで容姿が変化)。 

 ⇒ ○ 縄文人。  

 ⇒ ○ 弥生人。 

 ⇒ ○ 古代日本人 (縄文・弥生渡来・混血系の

      本土日本人の形成)。  

 ⇒ ○ 中世日本人。 

 ⇒ ○ 近世日本人。 

 ⇒ ○ 近代日本人

 ⇒ ○ 現代日本人

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

■ モンゴロイドへの進化表。

 ○ 化石類人猿(= 中新世ホミノイド) 

    (人類と類人猿の共通祖先)。

 ⇒ ○ 人類の、猿人 (直立二足歩行)。 

 ⇒ ○ 原人(= ホモ・エレクトス類) (肉食主食)。

 ⇒ ○ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類)。 

 ⇒ ○ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス 種

      (アフリカで出現)。 

 ⇒ ○ モンゴロイド (アジアで容姿が変化)。 

  → ○ 古モンゴロイ = 南方モンゴロイド)

      (約4万年前に、アジア南東部で出現)。

  → ○ モンゴロイド= 北方モンゴロイド)

      (約2万年前に、シベリア東部(北アジ

      ア東部)で出現)。

● TKKI カナヤマ著 古人類学辞典。

 

 

#themainlandjapanesepeople-theclassificationtable

 

■ 本土日本人の学術分類表 。  

    (詳細上位分類、上位所属の分類、日本語名・

    学名・英語名対照)。

○ THE SCIENTIFIC CLASSIFICATION 

  TABLE OF THE MAINLAND 

  JAPANESE PEOPLE.

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典  51014。

 

■ 本土日本人

      (英語名: THE MAINLAND JAPANESE 

    PEOPLE)。

 

■ 地球生物            LIFE ON EARTH。

⇒ 真核生物。        (ドメイン: 真核生物域 

                   Domain Eukaryota) 

                   (英名: EUKARYOTE(S))。

⇒ 動物。           ( 界 : 動物界    

                   Kingdom Animalia) 

                                   (英名:ANIMAL (S))。

⇒ 脊索(せきさく)動物。 ( 門 : 脊索動物門   

                      Phylum Chordata) 

                    (英名:CHORDATE (S))

⇒ 脊椎(せきつい)動物。 (亜門 : 脊椎動物亜門 

                       Subphylum Vertebrata) 

                    (英名:VERTEBRATE(S))

                  ● TKKI カナヤマ著 日本史

                  辞典。

⇒ 有顎(ゆうがく)動物   (下門 : 有顎動物下門 

  (顎口類、有顎類)。      Infraphylum

                    Gnathostomata) 

                    (英名: VERTEBRATE (S)

                    WITH JAW)。

⇒ 四肢(しし)動物。    (上 : 四肢動物上綱 

                    Superclass Tetrapoda ) 

                   (英名:TETRAPOD (S))  

⇒ 有羊膜類。         (ランク(階級)なし   

  (ゆうようまくるい)      Amniota) 

                   (英名:AMNIOTE (S))。   

⇒ 哺乳類。         (  綱  : 哺乳   

                    Class Mammalia) 

                  (英名:MAMMAL(S))。

⇒ 獣類。           (亜綱  : 亜綱    

                  Subclass Theria) 

                  (英名:THERIAN(S))。

⇒ 真獣類 (正獣類)  綱  : 真獣下(正獣下)  

  (有胎盤類、有胎盤     Infraclass Eutheria)         

  哺(ほ)乳類)。       (英名:EUTHERIAN(S)) 

                   (英名:PLACENTAL 

                  MAMMAL(S)) 。

                      ● TKKI カナヤマ著 日本史

                  辞典。

⇒ 霊長類。          目  : 霊長目(サル目)    

                     Order Primates) 

                    (英名:PRIMATE(S))。

 

⇒ 直鼻猿類 (新分類法)。亜目 : 直鼻猿亜目    

                   Suborder Haplorrhini) 

                   (英名:HAPLORRHINE(S))。

   真猿類   (新分類法)。下目 : 真猿下目 

                     Infraorder Simiiformes) 

                    (英名: SIMIAN(S))。

   狭鼻猿類 (新分類法)。小目 : 狭鼻小目 

                    Parvorder Catarrhini  ) 

                    (英名: CATARRHINE(S))。

 または、

   真猿類   (旧分類法)。亜目 : 真猿亜目  

                    Suborder Simiiformes) 

                    (英名: SIMIAN(S))。

    狭鼻猿類 (旧分類法) 。(下目 : 狭鼻下目  

                   Infraorder Catarrhini) 

                   (英名: CATARRHINE(S))。

⇒ ホミノイド           (上科 : ヒト上科   

  (類人猿と人類)。       Superfamily Hominoidea) 

                    (英名: HOMINOID(S))。

⇒ 大型類人猿と人類    ( 科 : ヒト科     

 (オランウータン、ゴリラ、   Family Hominidae)      

 チンパンジーと人類)。    英名: NONHUMAN GREAT  

                    APE(S) AND HUMAN(S))。

                    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

⇒ ゴリラとチンパンジ   亜科 : ヒト亜科   

  ーと人類。          Subfamily Homininae)   

                   (英名:  HOMININE(S))。

⇒ チンパンジーと人類。 ( 族 :  ヒト族      

                   Tribe Hominini) 

                  (英名 :HOMININ(S))。

⇒ 人類。                  (亜族 : ヒト亜族    

                   Subtribe Hominina) 

                  (英名: HUMAN(S))。       

⇒ ヒト属(= ホモ属)    ( 属  : ヒト属(= ホモ属)         

  の人類。           Genus Homo) 

                  (英名: HUMAN(S) OF   

                  THE GENUS HOMO)。       

⇒ ホモ・サピエンス       ( 種   ホモ・サピエンス種    

 (= 現生人類、新人)。    Species Homo sapiens) 

                   (英名: HOMO SAPIENS,

                  EXTANT HUMAN  SPECIES)。

⇒ ホモ・サピエンス     ( 亜種   ホモ・サピエンス・サピ

  サピエンス。         エンス亜種    

                  Subspecies Homo 

                  sapiens sapiens 

                   (英名: HOMO SAPIENS  

                  SAPIENS)。

⇒ モンゴロイド        (グループ:  モンゴロイド・グループ

  (= アジア人種)。      Group Mongoloid)。

○ 「古モンゴロイド」     (英名: MONGOLOID(S))。  

 と 「新モンゴロイド」。    ○ モンゴロイドは、容姿・外見

                   (体色・体型) による、人種分類

                  グループの1つである。

                  ○ モンゴロイドは、 古モンゴロ

                  イド(= 南方モンゴロイド、英:

                  SOUTHERN MONGOLOID

                  (S)) と、 新モンゴロイド(= 北

                  方モンゴロイド、英:NORTHERN

                  MONGOLOID(S)) の2種類

                  に分かれる。

                    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

⇒ 縄文人。         (グループ : 縄文人グループ

                  Group Jomonjin people)。

                   (英語名: THE JOMONJIN 

                  PEOPLE)。

                  ○ 「縄文人」は、 古モンゴロイ

                  ド(= 南方モンゴロイド)の日本先

                  住民であ り、 原日本人 (英:

                  THE PROTO-JAPANESE 

                  RACE) の1グループであり、「縄

                  文系」  (英:THE JOMONKEI  

                  PEOPLE) の人々である。

⇒ 弥生人。          (グループ : 弥生人グループ

○ 「縄文系(在来系)     Group Yayoijin  people)。

 弥生人」  と          (英語名: THE YAYOIJIN

 「渡来系弥生人」。     PEOPLE)。

                  ○ 弥生人とは、「縄文系(在来

                  系)弥生人」 と 「渡来系弥生人」

                  である。

                  ○ 弥生人は、縄文時代(約1万

                  2000年前〜約2400年前)か

                  ら日本の先住民の古モンゴロイ

                  ド(= 南方モンゴロイド)の「縄文

                  系(在来系)弥生人」  と、 弥生

                  時代(約2400年前〜約1700

                  年前)にアジア大陸からの移住

                                    民の新モンゴロイド(= 北方モン

                  ゴロイド)の「渡来系弥生人」であ

                  る。

                                ○ 「渡来系弥生人」は、 原日本

                  人の1 グループであり、 「弥生

                  渡来系」 (英:THE YAYOI-

                  TORAIKEI PEOPLE) の人

                  々である。

                   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

⇒ 日本人。         (グループ : 日本人グループ

○ 「古代日本人」      Group Japanese  people)。

 → 「本土日本人」、     ( 英語名: THE JAPANESE

 「琉球人」、「アイヌ人」。  PEOPLE)。

○ 「古代日本人」      ○ 日本人は、  古代日本で形成さ

 → 「中世日本人」     れた。 

 → 「近世日本人」     ○ 日本人は、 古・新モンゴロイ ド

 → 「近代日本人」     混血の、「縄文・弥生渡来・混血系」

 → 「現代日本人」。    の、「本土日本人」や「琉球人」  と、 

                  古・新モンゴロイド混血の、「縄文・

                  北アジア諸民族・混血系」の、「アイ

                  ヌ人」の3種類の人類に分かれる。

                  ○ 日本人は、 古・新モンゴロイ ド

                  混血の、「縄文・弥生渡来・混血系」

                  の、「本土日本人」や「琉球人」 (英:

                  THE MAINLAND JAPANESE

                  PEOPLE, THE RYUKYU JA-

                                      PANESE PEOPLE) と、 古モ

                  ンゴロイドの、縄文系の、 「アイヌ人」

                  (英:THE AINU JAPANESE 

                  PEOPLE) の3種類の人類に分か

                  れる。

                  ○ 現在のほとんどの日本人は、 

                  「本土日本人」である。

                  ○ 「本土日本人」は、 古代日本

                  後期に形成された。

                  ○ 「本土日本人」は、  「縄文人」

                  とその子孫の「縄文系」 と、 「渡

                  来系弥生人」とその子孫の「弥生

                  渡来系」 との混血の人類である。

                  ○ 「本土日本人」は、 古・新 (南

                  方・北方)モンゴロイド混血の、「

                  文・弥生渡来・混血系」 (英:THE 

                  JOMONKEI-YAYOITORAIKEI 

                  MIXED RACIAL PEOPLE) の

                  人々である。 

                  ○ 古代日本で形成された日本 人

                  は、時代と共に、「古代日本人」 か

                  ら、 「中世日本人」、「近世日本人」、

                  「近代日本人」、「現代日本人」へと  

                  少しずつ、 平均身長が伸びるなど、 

                  容姿・外見(体型・体色)を変化させ

                  ていった。

                    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

                  ○ 古代日本で形成された日本 人

                  は、 時代と共に、「古代日本人」(英:

                  THE ANCIENT JAPANESE 

                  PEOPLE) から、 「中世日本人」、

                  「近世日本人」、「近代日本人」、

                  「現代日本人」 (英:THE ME-

                  DIEVAL JAPANESE PEO-

                  PLE, THE EARLY MODERN 

                  JAPANESE PEOPLE, THE 

                  MODERN JAPANESE PEOPLE

                   THE PRESENT-DAY JAPAN-

                                       ESE PEOPLE へと少しずつ、 

                  平均身長が伸びるなど、 容姿・外見

                  (体型・体色)を変化させていった。

                   

 

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#buddhistnames

 

■ 法名 

      (ほうみょう)。

 

■ 法名。

■ 時期 : 古代日本 〜 近世日本の時期頃 (大

  和時代(古墳・飛鳥白鳳時代) 〜 江戸時代頃)。

■ 名称 : 法名(ほうみょう)。

■ 別名 : 法号(ほうごう)、 戒名(かいみょう)。

■ 英名 : Buddhist Name(s)。

■ 仏門に入った人に授ける名。 仏門に入った人

  の名。

■ 前近代日本で個人名として生前に使用された

  名。

 出家時などに称した前近代の個人名。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 前近代日本の、個人名の1つ。

 

 

■ 法名(ほうみょう)は、 前近代日本では、個人 

  名の1つで、 出家時などに称し、 前近代日本

  で、生前に個人名として、使用された。

     法名(ほうみょう) は、 仏門に入った人の

  名である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 前近代日本では、 僧侶や出家した者は、 在

  家の個人名(「名(な)」)の俗名(ぞくみょう)の、

  「諱(いみな)の実名」や通称名等をやめて、法

  名(ほうみょう)を、 個人名(「名な)」)として、 

  生前に、 名乗った。 

     漢字二字でつけることが多かった。

 

■ 前近代日本では、 出家するということは、 俗

  世との縁を絶つことを意味したので、 世俗の氏

  名(姓名)の俗名(ぞくみょう)を捨て、 仏門の

  戒律を守る者の名という意味の法名(ほうみょう)

  をつけた。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 現在一般的に使われている、上杉謙信や武田

  信玄のように、 世俗の一族名(「氏(うじ)」)の

  「名字の家名」の武田、上杉の下に、 法名(ほ

  うみょう) の信玄、謙信 をつけて呼称するのは、 

  本来は、おかしなことである。

 

■ 武田信玄 は、 1559年(永禄2年)に、 出家

  して(入道して)、 徳栄軒信玄 と称した。 上杉

  謙信 は、1570年、出家して(入道して)、不識

  庵(不識院)謙信 と称した。 

 〇 「 徳栄軒信玄 」 より 信玄をとり、武田信玄

  と呼ばれる。

 〇 「 不識庵(不識院)謙信 」 より 謙信をとり、

  上杉謙信と呼ばれる。 

 ● 俗名(ぞくみょう)と法名(ほうみょう)は、本来、

  一緒に使ってはいけないが、 武田信玄や上杉

  謙信のように、俗名の一族名と法名の個人名の

  組み合わせが、今日、一般世間で使われ、その

  まま定着してしまった。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 禅僧は、法名(ほうみょう)の上に、更に法名を

  付けることもあった。

    例えば、 一休さんの、一休 宗純(いっきゅう

  そうじゅん) は、 一休も 宗純も、2つとも法名

  である。

 

■ 日本では、前近代と現代の氏名を比較すると、 

  前近代の一族名(「氏(うじ)」)には、 氏姓 (し

  せい)、 名字 (みょうじ)、 屋号 (やごう) 等

  があり、また、 前近代の個人名(「名(な)」)に

  は、  (いみな、実名)、 通称 (つうしょう、あ

  だ名)、  (ごう)、 律令官名 (りつりょうかん

  めい)、 法名 (ほうみょう) 等があった。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 前近代日本の人名。

■ 前近代日本の上層階層の日本人成人男性 

  は、 現代日本人の名字と名のワンパターン

  構成の氏名ではなく、 「複数パターン(組合

  せ)構成の氏名」 を持っていた。

 @ 「 名字(みょうじ) + 通称(つうしょう)」。  

   A 「 名字 + 律令官名(りつりょうかんめい) 」 。 

   B 「 氏姓(しせい)の氏族名・姓(かばね) + 

     諱(いみな)の実名 」。 

   C 「 名字 + 諱(いみな)の実名 」。 

   D 「 名字 + 号(ごう) 」。

     E 「 名字  法名(ほうみょう 」

      (後世の呼び名)。

   F 「 屋号(やごう) + 通称 」。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ (例) 戦国大名の織田 信長 (おだ のぶなが) 

   の場合。 

  @「 織田 三郎 」(おだ さぶろう)、 

  A「 織田 弾正忠  」(おだ だんじょうのちゅう)、

  B「 平 朝臣 信長 」(たいらの あそん のぶ

    なが)、 

  C「 織田 信長 」(おだ のぶなが) 

   等の氏名を持っていた。 

 現在の正式名の C 「 名字+諱(いみな)の

  実名 」パターンの 呼び方、 C 「 織田 信長 」

  と呼ばれるケース は、 当時は、少なかった。

■ (例) 越前藩主の松平 慶永 (まつだいら よ

  しなが) の場合。 

   D「  松平 春嶽 」(まつだいら しゅんがく) 

  等の氏名を持っていた。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ (例) 戦国大名の上杉 謙信 (うえすぎ けん

  しん) の場合。 

 法名(ほうみょう)の 「不識庵(不識院)謙信」 

  より 謙信をとって、 E上杉 謙信 」 (うえ

  すぎ けんしん) と後世の人に呼ばれた。 

 当時は、俗世の名字と法名(ほうみょうを一緒

  に呼ぶことはなかった。

    本人は、当時は、「 不識庵(不識院)謙信 」

  と称していた。

■ (例) 豪商の茶屋 四郎次郎 (ちゃや しろうじ

  ろう) の場合。 

  F「 茶屋  四郎次郎 」(ちゃや しろうじろう) 

  等の氏名を持っていた。

 

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#hosho

 

■ 奉書 

      (ほうしょ)。

 

■ 奉書。

■ 名称 : 奉書 (ほうしょ)。

■ 「高貴な身分の者」(高位者)が高位者の従者の名義

 で高位者の趣旨を記して発給する公文書。

■ 上意下達書で、 「高貴な身分の者」(高位者)の意、

 命令を下達(下知)する(伝える)ときに出す文書で、 高

 位者の従者が高位者の仰(おお)せを奉じて出す文書で

 ある。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 「天皇の綸旨(りんじ)」、 「上皇の院宣(いんぜん)」、 

 「皇太子、三后、親王、内親王、宮門跡、女院、准三后

 等の令旨(りょうじ)」、 「公卿(くぎょう)の御教書( みぎ

 ょうしょ、みきょうじょ)」 など。

 

 

■ 奉書(ほうしょ)は、 「高貴な身分の者」 (高位者)が

 高位者の従者の名義で高位者の趣旨を記して発給す

 る公文書で、 「高貴な身分の者」(高位者)が、 

 意志・命令などの趣旨(しゅし)を、 家臣などの従者 に、

 口頭などで伝え、貴な身分の者」(高位者)の従者が

 差出人となり従者の名義で、  「高貴な身分の者」 (高

 位者)の趣旨(しゅし)を記した文書を作成させ、 特定

 者に対し差し出し発給する公文書 である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 奉書 (ほうしょ)は、 古文書(こもんじょ)様式の1つ

 で、 上意下達書で、 高位者の意、命令を下達(下知)

 る(伝える)ときに出す文書で、  高位者の従者が高

 位者の仰(おお)せを奉じて出す文書 である。 貴人、

 高位者の仰(おお)せの文書で、貴人、上位者の仰(お

 お)せを奉(ほう)じた文書 である。 書状の特殊様式で

 ある。

      奉書(ほうしょ)には、 綸旨(りんじ)、 院宣(いん

 ぜん)、 令旨(りょうじ)、 公卿(くぎょう)の御教書(み

 ぎょうしょ、みきょうじょ) などがある。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

■ 奉書には、 「天皇の綸旨(りんじ)」、 「上皇の院宣

 (いんぜん)」、 「皇太子、三后、親王 、内親王、宮門跡、

 女院、准三后等の令旨(りょうじ)」、 「公卿(くぎょう)の

 御教書( みぎょうしょ、みきょうじょ)」 などがある。

 

■ 綸旨(りんじ) は、 天皇の命令を下達する(伝える)

 ときに出す文書 である。

 

■ 院宣(いんぜん) は、 上皇(じょうこう、= 院)の命

 令を下達する(伝える)ときに出す文書 である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 令旨(りょうじ) は、 皇太子、三后(さんごう、皇后、

 皇太后、太皇太后)、親王(しんのう)、 内親王(ないし

 んのう)、宮門跡(もんぜき)、女院(にょいん)、准三后

 等の命令を下達する(伝える)と出す文書である。

 

■ 公卿の御教書(みぎょうしょ、みきょうじょ) は、 

 (くぎょう) の命令を下達する(伝える)ときに出す文

 書 である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

◆ 御教書。

■ 御教書 (みぎょうしょ、みきょうじょ)は、 広義では、 

 「高貴な身分の者」(高位者)が出す公文書で、 奉書

 (ほうしょ)形式 と、 直書(じきしょ、直状(じきじょう)、

 直札(じきさつ))形式 の2つがある。

   奉書(ほうしょ)は、 高位者が高位者の従者の名義

 で高位者の趣旨を記して発給する公文書 である。

   直書(じきしょ、直状、直札)は、 「高貴な身分の者」

 (高位者)が直(じか)に高位者の名義で高位者の趣旨を

 記して発給する公文 書 である。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 御教書 (みぎょうしょ、みきょうじょ)は、 狭義では、 

 公卿(くぎょう)の御教書で、 公卿(くぎょう)の出す奉書

 (ほうしょ)形式の公文書 を意味する。

 

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#hoeitsuho10monsencoppercoins

 

■ 宝永通宝十文銭銅貨 

     (ほうえいつうほうじゅうもんせんどうか)。

 

■ 宝永通宝十文銭銅貨

■ 名称 : 宝永通宝十文銭銅貨 ( ほうえいつうほう

  じゅうもんせんどうか)。

■ 別名:  宝永銭。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 十文銭で、  (もん)単位定額(定位)・通常 貨幣

 日本流通貨幣

 

 

■ 宝永通宝十文銭銅貨 (ほうえいつうほう じゅうもん

 せんどうか)は、 別名は 宝永銭 である。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 宝永通宝十文銭銅貨 は、江戸時代の10文(もん)

 単位の定額(定位)・通常貨幣で、 現在貨幣価値

 250円で、 宝永通宝10文400枚≒1両小判(金)

 ≒現在の約10万円 である。

   宝永通宝十文銭銅貨 は、 江戸時代の十文銭で、

 (もん)単位定額(定位)・通常 貨幣で、 日本流通貨幣 

 である。

 

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#hokumenobushigarrisonguards

 

■ 北面の武士 

      (ほくめののぶし)。

 

■ 北面の武士。

■ 名称 : 北面の武士 (ほくめんのぶし)。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 上皇(院)の警備隊員。

■ 院庁の職員(院司(いんし)の1つ。

 

 

■ 北面の武士 (ほくめんのぶし) とは、  上皇

 (= 院)の警護にあたった武士で、上皇(院)の警備

 隊員 である。 北面の武士は、 院庁の職員(院司

 (いんし)の1つ である。

   上皇(院)の御所(ごしょ)の北面(きたおもて)に

 あって院中を警護したので、その名がある。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 北面の武士は、 平安時代後期に設けられた朝

 廷の役職 である。 

   北面の武士は、1095年に、初めて、白河上皇

 によって設けられた。 その後、院政の上皇が、北

 面の武士を置くようになった。  武士の中央政界

 進出の重要な契機となった。  

 

 平忠盛(たいらのただもり、平清盛の父)、平 清

 (たいらのきよもり)も、 北面の武士となり、中

 央政界に進出した。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 歌人(かじん)で有名な、佐藤義清 (さとうのりき

 よ、出家(しゅっけ)して西行(さいぎょう)と名乗る) 

 も、 鳥羽上皇の院政時の北面の武士 であった。

          

 

♪♪ 北面の武士 が登場する、興味深い

    関連ドラマ、映画、ドキュメンタリー。 

 

★  北面の武士 が登場する、興味深い、

   関連ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

 歴史のドラマ、映画 は、 史実(歴史上の事実) 

 と 架空の出来事 が 混じって描かれています。 

 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 平清盛 (たいらのきよもり) 』 。 

   (NHKテレビ・2012年大河ドラマ)。

● 平安時代末期を描いたドラマで、 平安時代末

 期に活躍した人物、当時の時代状況、平清盛の生

  などを描く

● 北面の武士が、大河ドラマの前半部に登場する。

● 北面の武士の佐藤義清を演じた俳優名 : 

   藤木直人。

 

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#hougennoranwar

 

■ 保元の乱 

     (ほうげんのらん)。

 

■ 保元の乱。

■ 名称 : 保元の乱 (ほうげんのらん)。

 1156年(保元元年)に京(都)で行われた、朝廷

 権力抗争の戦争。

■ 2つの勢力が対立して、戦争が起こる。

  崇徳上皇方と後白河天皇方が対立して、保元の

 乱という戦争が起こる。

 1156年(保元元年)に京(都)で行われた、上皇と

 天皇間の対立、関白と左大臣間の対立 などから起こ

 った朝廷の権力抗争の戦争 であった。

 天皇家、藤原氏・摂関家の対立に、平家と源氏が巻

 き込まれ、武力闘争に発展した。

 

□ 平安 後期・ 鎌倉前期日本政治

   実権者変遷一覧表

 

 

■ 保元の乱 (ほうげんのらん)は、1156年(保元元

  年)に京(都)で行われた、朝廷の権力抗争の戦争

    である。

             

 

■ 保元(ほうげん)の乱や平治の乱は、 朝廷内の権力

 闘争で、武士がこれらの戦争に巻き込まれ、 武士の武

 力で勝利を得た紛争であった。 これらの戦争により、

 武士の実力が朝廷に認められ、後に、武士が政治の実

 権を握る機会が与えられる。

 

■ 保元の乱 (ほうげんのらん) とは、1156年(保元

 (ほうげん)元年)に京(都)で行われた、朝廷の権力抗

 争の戦争 で、 上皇と天皇間、関白と左大臣間などの

 権力抗争の紛争 であった。

● 2つの勢力が対立した。 即ち、 後白河天皇方の

 後白河天皇、信西(藤原通憲)、原忠通、美福門院

 藤原得子) と、 崇徳上皇方の、崇徳上皇藤原頼

 原忠実が対立し、 保元の乱という朝廷の権力

 抗争が起こる。

 

■ 保元の乱は、 天皇家の、崇徳上皇と後白河天皇

 の権力闘争、 摂関家の、藤原頼長と藤原忠通の権

 力闘争 に武士が動員され( 巻き込まれ)、戦った戦

 争である。

   皇族、貴族は、武器など持って戦わないので、源

 平同士の代理戦争となった。

 

■ 皇位継承問題などで、 崇徳上皇方と後白河天皇

 方に分かれ、 双方が、武士を動員して激突し、 

 清盛源義朝が支援した後白河天皇方が勝利を得て、 

 崇徳上皇方は、敗北する。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 1156年(保元元年)に、 鳥羽法皇(とばほうおう)

 が54歳で死去すると、天皇家では、鳥羽上皇の皇子

 (みこ)の中で、兄の崇徳上皇(すとくじょうこう) と弟

 後白河天皇(ごしらかわてんのう) とが対立し、 ま

 た、 藤原氏摂関家(せっかんけ)では、兄の関白・

 藤原忠通(ふじわらのただみち) と 弟の左大臣・

 原頼長 (ふじわらのよりなが)  が対立した。 

    この対立に、源平の武士がそれぞれの側につき

 (味方して)、 後白河天皇・藤原忠通側 (方)に、平清

 (たいらのきよもり) と 源義朝(みなもとのよしとも) 

 と 源頼政(みなもとのよりまさ ) が味方し、 崇徳上

 皇・藤原頼長側 (方)に、 平 忠正(たいらのただまさ、

 平清盛の叔父) と  源為義 (みなもとのためよし、

 源義朝の父)、 源為朝(みなもとのためとも、源

 の弟 、鎮西八郎(ちんぜいはちろう)) が味方し、保

 元の乱が、1156年7月に 起きる。 

 

■ 保元の乱は、 1156年7月に始まり同月に終わり、 

 後白河天皇藤原忠通側 (方)が、平清盛源義朝

 活躍で、勝利を得る。 

   1156年7月10日に、高松殿(たかまつどの)に 集

 結した後白河天皇・藤原忠通側(方) は、 源義朝の提

 案で、 崇徳上皇藤原頼長(方)の 集結する白河北

 殿(しらかわきたどの)を、1156年7月11日未明に、

 急襲する。 後白河天皇方は、鴨川(かもがわ)を挟(は

 さ)んでの攻防戦を経て、白河北殿を襲い、制圧した。

   7月14日に、藤原頼長は、乱の中で、矢傷がもとで

 死去する。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 藤原頼長(ふじわらのよりなが)は、  近衛天皇急

 死後、1155年7月24日の後白河天皇即位時、 後

 白河天皇方の藤原忠通(ふじわらのだだみち、藤原

 頼長の兄)、信西(しんぜい、藤原通憲の策謀によ

 り、 「内覧」(ないらん、1151〜55年)を解(停止)

 され、事実上、失脚した。 その後、復権を試みる。

   1156年7月2日の鳥羽法皇の崩御(ほうぎょ、死

 去)後、 後白河天皇方の信西(藤原通憲)、藤原忠

 は、すぐに兵を集め始め、  藤原 忠実(ふじわらの

 だだざね)、藤原頼長の父子を謀反人(むほんにん)

 としたため、 慌(あわ)てて、藤原 頼長は、 崇徳上

 を味方につけ、 自分の雇っていた武士の摂関家

 の私兵集団を、京(都)の白河北殿(しらかわきたど

 の)に集結させ、崇徳天皇方として、 保元の乱を起

 こす。  

   崇徳(すとく)上皇は、崇徳院政を望み、後白河天

 皇を退(しりぞ)けて、自分の皇子・重仁親王(しげひ

 としんのう)を皇位に就け、その父・上皇として、朝廷

 の実権を握ることを望む。

 

■ 藤原 頼長は、 白河北殿での軍議で、崇徳天皇

 方の武士・源為朝(みなもとのためとも)による後白

 河天皇方の本拠地・高松殿(たかまつどの)への

 「夜討ち」の進言を退(しりぞ)けてしまう。 しかし、

 逆に、崇徳天皇方の本拠地・白河北殿は、 1156

 年7月11日未明に、 後白河天皇方の武士(源義

 平清盛ら)による夜討ちを受けて、結局、崇徳

 天皇方の本拠地白河北殿は炎上し、 崇徳天皇

 方の武士(源為義源為朝 、平忠正ら)は、 総崩

 (そうくず)れとなる。 崇徳天皇や藤原 頼長、白

 河北殿より逃走する。 

   藤原 頼長 は、1156年7月11日に、合戦の

 中で、矢を受け負傷し、 その後、奈良に向かい、

 宇治より奈良に逃れていた、頼長を寵愛する父・

 藤原忠実のもとへ行くが、 父・藤原忠実が 敗北

 した頼長との対面を拒み、藤原頼長は、その後、

 失意のうちに、1156年7月14日に、奈良で、死

 去する。

   摂関家の総帥で膨大な所領を有する、藤原忠

 は、保元の乱とは無関係であることを主張する

 ため、敗北した次男の藤原 頼長を見捨てた。 保

 元の乱後、摂関家領荘園は、 藤原忠実から後白

 河天皇方の長男の藤原忠通に譲渡する手続きを

 取ることで没収を辛(かろ)うじて免れることができ

 た。

 ● 藤原 頼長が、後白河天皇方の本拠地・高松殿

 (たかまつどの)への「夜討ち」の進言を 退(しりぞ)

 け、先制攻撃をしなかった理由は、不明であるが、

 天皇家の権力抗争に、夜討ちはふさわしくないと考

 えたという説、 大和の僧兵集団を待って合流して

 戦いを挑もうとしたという説、 などがある。

 

■ 保元の乱後、

   崇徳(すとく)上皇は、1156年7月に、隠岐(おき)

 へ配流(はいる)となる。

   源 為義(源義朝の父) は、1156年7月に、降伏し

 て、斬首(ざんしゅ)される。

   平 忠正(平清盛の叔父) は、1156年7月に、降

 伏して、斬首(ざんしゅ)される。

     後白河天皇の命(めい)で、源義朝は、父の源 為義

 を斬首し、平清盛は、叔父の平 忠正を斬首した。

   源為朝(源義朝の弟、鎮西八郎)は、逃亡し、近江

 (おうみ、滋賀県)に隠れるが、1156年8月に捕縛さ

 れ、伊豆大島へ 配流(はいる)となる。

 

■ 平安時代後期の、政権

  (日本の政治の実権)の

    変遷。

 

■ (1) 白河上皇・院政政治

      (政権)期

   (1086〜1129年)。

 1086年に、白河上皇が、日本の政治の実

  権を握り、院政政治を始める。

● 白河天皇は、 皇位を堀河天皇に譲り、

  上皇となる。 白河上皇(天皇)は、自らの

  天皇親政政治をより強固にするため、院政

  政治 (院政により、日本の政治の実権を

  握(にぎ)り、日本を支配する政治) を行う。

 

■ (2) 鳥羽上皇・院政政治

      (政権)期

   (1129〜1156年)。

 1129年に、鳥羽上皇が、日本の政治の実

  権を握り、院政政治を始める。

● 白河上皇(法皇)が死去し、鳥羽上皇が、

  引き続き、院政政治を行う。

 

■ (3) 後白河天皇・親政政治(政権)期

  (1156〜1158年)。

 1156年に、後白河天皇が、日本の政治の

  実権を握り、天皇親政政治を始める。

● 1156年に鳥羽上皇が死去し、保元の乱

  が起こり、後白河天皇は、保元の乱に勝利

  して反対勢力を退け、天皇親政政治を始め

  る。

 

■ (4) 後白河上皇・二条天皇・

      二頭政治(政権)期 

  (1158〜1161年)。

● 1158年に、後白河上皇と二条天皇が、日

  本の政治の実権を握り、二頭政治を始める。

 1158年に、後白河天皇は、皇位を二条

  天皇に譲り、上皇となる。

    二条天皇は、即位後、天皇親政を望み、

  後白河上皇と対立し、後白河上皇と二条

  天皇は、互いに政治権限の一部を保持す

  る。

 

■ (5) 二条天皇・親政政治

       (政権)期

    (1161〜1165年)。

 1161年に、二条天皇が、日本の政治の

  実権を握り、天皇親政政治を始める。

● 1161年9月に、二条天皇は、後白河上

  の政治介入を停止し、実権を掌握(し ょ

  うあく)する。

 

■ (6) 伊勢平氏・武家政治

      (政権)期

    (1165〜1180年)。

● 1165年に、伊勢平氏が、日本の政治の

  実権を握り、武家政治を始める。

● 1165年に、二条天皇が死去する。

   二条天皇を軍事面(武力面)で支えていた

  伊勢平氏の平清盛が、独立して、日本の政

  治の実権を握り、武家政治を始める。

 

■ (7) 伊勢平氏・河内源氏・武家

       (二頭政治政権)期 

   (1180〜1185年)。

 1180年に、伊勢平氏と河内源氏が、日本

  の政治の実権を握り、武家二頭政治を始め

  る。

● 1180年の10月に、  富士川の戦いで、

  平氏軍は兵力差を知り撤退し、源 頼朝が、

  平氏軍に対し富士川の戦いで勝利を得る。 

    以後、源 頼朝は、西上(せいじょう)せず、

  東国の安定確保に専念する。

 

■ (8) 河内源氏・武家政治

      (政権)期

   (1185〜1219年)。

● 1185年に、河内源氏が、武家政治を始

  める。 河内源氏3代(源頼朝、源頼家、源

  実朝)まで続く。

● 1185年の3月に、壇ノ浦(だんのうら)の

  戦いが源平間で起こり、源義経が活躍し、

  源氏軍が勝利し、伊勢平氏が滅亡する。

 

 

◆ 平安時代後期・鎌倉時代前期の

   歴代天皇一覧。

■ 日本の平安時代後期・鎌倉時代前期の

  天皇の皇位継承順は、 

  白河(しらかわ)天皇 ⇒

  堀河(ほりかわ)天皇 ⇒ 

  鳥羽(とば)天皇 ⇒ 

  崇徳(すとく)天皇 ⇒ 

  近衛(このえ)天皇 ⇒ 

  後白河(ごしらかわ)天皇 ⇒ 

  二条(にじょう)天皇 ⇒ 

  六条(ろくじょう)天皇 ⇒ 

  高倉(たかくら)天皇 ⇒ 

  安徳(あんとく)天皇 ⇒ 

  後鳥羽(ごとば)天皇 ⇒ 

  土御門(つちみかど)天皇 ⇒ 

  順徳(じゅんとく)天皇 ⇒ 

  仲恭(ちゅうきょう)天皇 ⇒ 

  後堀河(ごほりかわ)天皇 ⇒ 

  四条(しじょう)天皇 ⇒ 

  後嵯峨(ごさが)天皇 

  の順である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

◆ 平安時代後期の歴代天皇一覧。

■ 天皇の皇位継承順は、次の通りである。

@ 白河(しらかわ)天皇    (貞仁(さだひと)親王) ⇒

  (天皇在位、1072年〜1086年)

A 堀河(ほりかわ)天皇    (善仁(たるひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1086年〜1107年)

B 鳥羽(とば)天皇       (宗仁(むねひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1107年〜1123年)

  ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

C 崇徳(すとく)天皇      (顕仁(あきひと)親王)  ⇒

  (天皇在位、1123年〜1141年)

D 近衛(このえ)天皇     (体仁(なりひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1141年〜1155年)

E 後白河(ごしらかわ)天皇 (雅仁(まさひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1155年〜1158年)

F 二条(にじょう)天皇     (守仁(もりひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1158年〜1165年)

G 六条(ろくじょう)天皇    (順仁(のぶひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1165年〜1168年)

  ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

H 高倉(たかくら)天皇    (憲仁(のりひと)親王)  ⇒ 

  (天皇在位、1168年〜1180年)

I 安徳(あんとく)天皇      (言仁(ときひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1180年〜1185年)

J 後鳥羽(ごとば)天皇    (尊成(たかひら)親王)

  (天皇在位、1183年〜1198年)

 

 

♪♪ 保元の乱 が登場する、興味深い

    関連ドラマ、映画、ドキュメンタリー。 

 

★ 保元の乱 が登場する、興味深い関

   連ドキュメンタリー。 

 

■ にっぽん!歴史鑑定 

  『 源平を操った後白河法皇 』。

   (TBSテレビ・ 2017年11月27日・

   本放送・歴史ドキュメンタリー番組)。

■ 平安時代後期の政治状況、時代状況や活

   躍した人々を詳細に述べる

■ 後白河上皇(天皇、法王)を詳細に述べる

 

■ 歴史秘話ヒストリア 

  『 ‘‘ 悪の華 ’’は平安京の夜

    に開く 藤原頼長 』。 

  (NHKテレビ・歴史ドキュメンタリー番組)。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 

  『 私たち、草食系武士です。 

    〜新・平家家族物語〜 』。

   (NHKテレビ・ 2009年(平成21年)

   12月16日・本放送・歴史ドキュメン

   タリー番組、第27回)。

 

 

★ 保元の乱 が登場する、興味深い、

   関連ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事が 混じって描かれています。

   また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 平清盛 (たいらのきよもり) 』 。 

   (NHKテレビ・2012年大河ドラマ)。

● 平安時代末期を描いたドラマで、 平安時代末

 期に活躍した人物、当時の時代状況、平清盛の

 生涯 などを描く

● 大河ドラマの中間部に登場する。

● 源 義朝(みなもとのよしとも)  を演じた俳優名 : 

 玉木 宏。

● 平 清盛(たいらのきよもり)  を演じた俳優名 : 

 松山 ケンイチ。

● 由良御前(ゆらごぜん、源 義朝の正室夫人)を演

  じる女優名 : 田中 麗奈。

● 常盤御前(ときわごぜん 、源 義朝の側室夫人)

  演じる女優名 : 武井 桜。

 

■ 『 義経 (よしつね) 』 。 

    (NHKテレビ・2005年大河ドラマ)。

● 古代日本の平安時代末期を描いたドラマで、 源 義 

 経(みなもとのよしつね)の生涯 や、 平安時代末期の

 色々な武士の活躍を描いたドラマ です。

● 源 義朝(みなもとのよしとも)  を演じた俳優名 : 

  加藤 雅也。

● 平 清盛(たいらのきよもり)   を演じた俳優名 : 

  渡 哲也。

● 常盤御前(ときわごぜん、源 義朝 の側室夫人)

  演じた女優名 : 稲森 いずみ。

 

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#hondamasanobu

 

■ 本多 正信 

     (ほんだ まさのぶ)。

 

■ 本多 正信。

■ 生没年 : 1538年〜1616年。

■ 名称 : 本多 正信 (ほんだ まさのぶ)。

■ 徳川 氏重臣。

■ 本多 正信は、徳川氏の重臣で、 徳川家康の近臣

   参謀であり、 戦国時代(室町時代後期)、安土桃

   山時代、江戸時代初期の武将であった。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 本多 正信の子は、 本多 正純 (まさずみ、1565

   ー1637年)で、 同じく、徳川家康の近臣、参謀 

  であった。

 

□ 本多正信 が登場する、興味深い、 ドキ

   ュメンタリー、ドラマ、映画

 

 

■ 本多 正信 (ほんだ まさのぶ、生没年:1538年ー16

  16年) は、 徳川 氏の重臣である。 

 

■ 本多 正信は、 徳川家康の近臣、参謀であり、 室町

  時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、江戸時代初期

  の武将 であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 本多 正信は、 徳川家康の信任厚く、 徳川家康に近

  侍して、 江戸幕府の初期幕政に権勢をふるった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 本多 正信の子は、 本多 正純 (まさずみ)であり、同

   じく、 徳川家の重臣であり、 徳川家康の近臣、参謀

   であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#hondamasanobu-appearingscenes

 

♪♪ 本多正信(ほんだまさのぶ) が登場する、 興

        味深い、ドキメュンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 本多正信が登場する、 興味深い、ドラマ、

    映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

    歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事 が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 真田丸 (さなだまる) 』 。  

   (NHKテレビ・2016年大河ドラマ)。

 日本の安土桃山時代や江戸時代初期を描く。

● ドラマで「本多正信」 (ほんだまさのぶ、

  徳川家康の重臣) を演じた俳優名 : 

  近藤 正臣   (こんどう まさおみ)

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』 。 

   (NHKテレビ・2011年 大河ドラマ) 

■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土

  桃山時代、江戸時代初期を描いたドラマ。

● 本多正信を演じた俳優 : 草刈 正雄 。

 

■ 『 天地人 (てんちじん) 』。  

   (NHKテレビ・2009年大河ドラマ)。

■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土

  桃山時代、江戸時代初期を描いたドラマ。

● 本多正信、本多正純、 登場 。

 

■ 『 功名が辻 (こうみょうがつじ) 』。  

   (NHKテレビ・2006年大河ドラマ)。

■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土

  桃山時代、江戸時代初期を描いたドラマ。

 

■ 『 大奥・第一章 (おおおく だい

     いっしょう) 』。 

   (フジテレビ・2004・2005年制作テレビドラマ)。

■ 日本の安土桃山時代、江戸時代初期を描い

  たドラマ。

 

■ 『 利家とまつ〜加賀百万石物語〜 』。  

   (NHKテレビ・2002年大河ドラマ)。

■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土

  桃山時代、江戸時代初期を描いたドラマ。

 

■ 『 信長 KING OF ZIPANGU 』。  

   (NHKテレビ・1992年大河ドラマ)。

■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土桃山

  時代を描いたドラマ。

● 織田 信長生涯を描き、 信長が、尾張を

  統一し、日本の中央部を征服し、 安土城を

  建て、 活躍する場面を描いたテレビドラマ。

 

■ 『 梟の城 (ふくろうのしろ) 』。 

    (英語題名: ‘‘ OWLS’ CASTLE ’’)。 

    (日本の1999年映画)。

■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土桃山

  時代を描いたドラマ。

■ 絢爛豪華(けんらんごうか)な 安土桃山時代

  を描いた映画 である。

● 中井喜一、鶴田真由、葉月里緒菜、上川隆也 

  などが出演する。

● 伊賀忍者(中井喜一)の活躍、 豊臣秀吉の

  政治を描いた映画 である。

● 司馬遼太郎原作の「梟の城」 を映画化した作

  品。 

 

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#hondamasazumi

 

■ 本多 正純 

     (ほんだ まさずみ)。

 

■ 本多 正純。

■ 生没年 : 1565年〜1637年。

■ 名称 : 本多 正純 (ほんだ まさずみ)。

■ 徳川 氏重臣。

■ 本多 正純は、 徳川氏の重臣で、 本多 正信の子で、 

  徳川家康徳川秀忠の近臣で、 安土桃山時代、江戸

  時代初期の武将であった。

● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

■ 父は、 徳川家康の近臣本多 正信 (まさのぶ)

  (1538〜1616年) でであった。

 

□ 本多正純 が登場する、 興味深い、ドキ

   ュメンタリー、ドラマ、映画

 

 

■ 本多 正純 (ほんだ まさずみ、生没年:1565年〜16

  37年) は、 徳川 氏の重臣 である。

 

■ 本多 正純の父は、 徳川家康の近臣の、本多 正信 

  (ほんだまさのぶ、1538〜1616年) であった。

 

■ 本多 正純 (ほんだ まさずみ) は、 徳川家の重臣で、 

  本多 正信の子で、 徳川家康徳川秀忠の近臣であり、 

  安土桃山時代、江戸時代初期の 武将 であった。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 本多 正純は、 徳川氏の重臣で、 徳川家康の信任厚

  く、徳川家康に近侍し、 家康死後は、徳川秀忠に近侍

  して、 江戸幕府の初期幕政に権勢をふるった。 

     本多 正純は、家康死後、1619年(元和5年)に、

  宇都宮15万5000石を領した。 

     しかし、本多 正純は、1622年に、突然改易され、

  失脚した。 失脚の理由は不詳である。

 

 

#hondamasazumi-appearingscenes

 

♪♪ 本多正純 が登場する、 興味深い、ドキ

    メュンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 本多正純が登場する、 興味深い、ドラマ、

    映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

    歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 真田丸 (さなだまる) 』 。  

   (NHKテレビ・2016年大河ドラマ)。

 日本の安土桃山時代や江戸時代初期を描く。

● ドラマで「本多正純」 (ほんだまさずみ、

  徳川家康の重臣) を演じた俳優名 : 

  伊東 孝明   (いとう たかあき)

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』 。 

   (NHKテレビ・2011年 大河ドラマ) 

■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土

  桃山時代、江戸時代初期を描いたドラマ。

 

■ 『 天地人 (てんちじん) 』。  

   (NHKテレビ・2009年大河ドラマ)。

■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土

  桃山時代、江戸時代初期を描いたドラマ。

● 本多正信、本多正純、 登場 。

 

■ 『 功名が辻 (こうみょうがつじ) 』。  

   (NHKテレビ・2006年大河ドラマ)。

■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土

  桃山時代、江戸時代初期を描いたドラマ。

 

■ 『 大奥・第一章 (おおおく だい

     いっしょう) 』。 

   (フジテレビ・2004・2005年制作テレビドラマ)。

■ 日本の安土桃山時代、江戸時代初期を描い

  たドラマ。

 

■ 『 利家とまつ〜加賀百万石物語〜 』。  

   (NHKテレビ・2002年大河ドラマ)。

■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土

  桃山時代、江戸時代初期を描いたドラマ。

 

■ 『 天下騒乱〜徳川三代の陰謀 (てん

      かさそうらん とくがわさんだいのいんぼう) 』。

    (テレビ東京・2006年制作・テレビドラマ)。 

■ 日本の江戸時代初期を描いたドラマ。

● 本多正純 登場 。

 

■ 『 大奥・第一章 (おおおく・だいいっしょう) 』 。

    (フジテレビ・2004・2005年制作テレビドラマ)。

■ 日本の安土桃山時代、江戸時代初期を描いたドラマ。

● 本多正純 登場 。

 

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#hottamasayoshi

 

■ 堀田 正睦  

     (ほった まさよし)。

 

■ 堀田 正睦。

■ 生没年 : 1810 年〜1864年。

■ 名前 : 堀田 正睦 (ほった まさよし)。

■ 幕末の政治家。 江戸幕府・老中首座 (1855

   1858年)。

■ 下総国(しもうさのくに)佐倉藩主。  

  阿部正弘(あべまさひろ)に代わって、1855〜

  58年、 江戸幕府の老中首座 になる。

■ 幕末 (江戸時代末期)に関しては、 当日本史

  辞典の 『 幕末(ばくまつ)、 幕末年表(ばくまつ

  ねんぴょう) 』 を参照して下さい。

 

 

■ 堀田 正睦 (ほった まさよし、生没年1810

  〜64年) は、幕末の政治家 で、 江戸幕府

  の老中首座 (1855〜58年) であった。

■ 堀田 正睦 は、 下総国(しもうさのくに)佐倉

  藩主で、 阿部正弘(あべまさひろ)に代わって、 

  1855〜58年に、 江戸幕府の老中首座 とな

  る。

 

■ 堀田 正睦は、安政(1854〜60)年間に、将

  軍を助け、内外多事の幕政を担当する。  海

  外情勢に通じる譜代大名 である。 開国論者

  であった。

    堀田 正睦は、ハリスと日米修好通商条約

  を交渉し、 尊皇攘夷派を抑えるため、1858

  年、条約勅許を得るため京都へ出向いたが、

  勅許を得られず、失敗する。

 

■ 堀田 正睦は、 一橋派 (次期14代将軍に

  橋慶喜(= 徳川慶喜を支持する) に傾いたた

  め、 1858年に、 井伊直弼(いいなおすけ)

  大老に就任後、罷免(ひめん)される。

 

 

♪♪ 堀田 正睦 が登場する、興味深い、

  ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

 堀田 正睦(まさよし) が登場する、興

  味深い、ドラマ、映画。

 

■ 『 篤姫 (あつひめ) 』  

 (NHK2008年大河ドラマ)。

●  堀田 正睦を演じた俳優名 : 辰巳 琢朗。

 

■ 『 大奥・幕末の女たち 』 

   (日本の2003、2004年製作フジテレビ

   テレビドラマ)。

●  堀田 正睦を演じた俳優名 : 鶴田 忍。

 

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#honjuin

 

■ 本寿院  

     (ほんじゅいん)  (お美津)

 

■ 本寿院 (お美津)。 

● 生没年 1807(文化4年)〜1885年(明治18年)。

● 名前 : 本寿院 (ほんじゅいん)。 お美津の方、 お美津、 堅子。

● 江戸幕府第13代将軍・徳川家定(いえさだ)の生母。  

● 江戸幕府第12代将軍・徳川家慶(いえよし)の側室・夫人 「お美津、

  堅子」。

 

 

■ お美津の方 (本寿院) の 実父 は、幕臣・跡部正賢。

  お美津 (本寿院) は、1822年(文政5年)に、江戸城・西の丸大奥に

 出仕し、1823年、徳川家慶(いえよし)に見初められ(のお手付きとなり)、

 御中臈(おちゅうろう)となりました。 お美津 (本寿院) は、1824年(文

 政7年)、西の丸大奥にて、政之助(まさのすけ)、後の13代将軍・家定)

 を出産します。 「お部屋さま」と呼ばれるようになりました。 

  お美津 (本寿院) は、政之助の事は、 全て乳母(うば)の歌橋(うた

 はし)にまかせていました。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

● 徳川家慶(いえよし)が、 江戸幕府第12代将軍となり、 その後、お美津

 (本寿院)の子、政之助 (後の徳川家定) が、将軍家継嗣(けいし)となり、

 お美津(本寿院)は、 次期将軍生母 となりました。

 

● 1853年(嘉永(かえい)6年)、 徳川家慶(いえよし)が、 死去し、お美 

 津(本寿院) は、 落飾して、 本寿院と号しました。

● 徳川家定 (政之助) が、13代将軍となり、 将軍生母として、 本丸大

 奥に居を構えました。 お美津(本寿院)の代わりに家定を育て上げた乳母

 (うば)の歌橋(うたはし)も、 本丸大奥で、大きな権力を持ちました。

 

■ 本寿院 (お美津) は、 大の、水戸 (徳川斉昭) 嫌い、 南紀派。

● 本寿院 (お美津) は、 自分の息子の家定に子ができないと考え、

 紀州藩主・徳川慶福 (よしとみ、後の家茂(いえもち)) を、家定の後継者

 (次期14代将軍) にと強く願いました。

 

● 家定は、 病弱であり、 幕府重役は、家定には子を作る能力はないと

 見切りをつけたため、 次期将軍の跡目争いが勃発しました。

  その候補に、前水戸藩主の徳川斉昭(なりあき)の息子(7男)の一橋家当

 主の一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ) と 11代将軍徳川家斉(いえなり)の

 孫の紀州藩主・徳川慶福(よしとみ、後の家茂(いえもち)) が挙がりました。 

  一橋慶喜を次期14代将軍に支持する人々は、一橋派、 徳川慶福(後の

 家茂)を次期14代将軍に支持する人々は、 南紀派 と呼ばれました。

 

● 水戸(徳川斉昭)嫌いの本寿院(お美津)や大奥 は、慶福を次期将軍に支

 持する南紀派にまわりました。 一橋派の老中・阿部正弘(まさひろ)、薩摩藩

 主・島津斉彬(なりあきら)により、 そんな大奥を、一橋派にするために、 篤

 姫 (敬子) が、将軍・家定の正室として入りましたが、 それは実現できませ

 んでした。

 

■ 1858年(安政5年) 7月に、家定が死去し、 14代将

 軍に本寿院(お美津)や大奥が支持した、慶福改め徳川家

 茂(いえもち)が迎えられました。 その後も、 本寿院 は、 

 江戸城の大奥に残り、 暮した。

 

■ 本寿院は、 1868年(慶応4年)4月11日、 江戸城無

  血開城により、 天璋院・篤姫(てんしょういん・あつひめ)

  と共に、 東京の一橋邸に移り住んだ。

 

■ 本寿院は、 1885年(明治18年)、東京の一橋邸にて

  死去。 享年 79歳。 本寿院の墓地 は、 東京(東京都

 台東区)の、谷中(やなか)墓地にある。

 

 

♪♪ 本寿院 が登場する、興味深い、ドラマ、映

 画、ドキュメンタリー。

 

★ 本寿院 (ほんじゅいん、お美津の方) が登場

 する、興味深い、ドラマ、映画。

 

■ 『 篤姫 (あつひめ) 』  (NHK2008年大河ドラマ)。 

● 本寿院を演じた女優名 : 高畑 淳子(じゅんこ)。

 

■ 『 大奥・幕末の女たち 』 

 (日本の2003、2004年製作フジテレビテレビドラマ)。

● 本寿院を演じた女優名 : 佳那晃子。

 

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#honnojinohen

 

■ 本能寺の変  

     ( ほんのうじのへん)。

 

■ 本能寺の変。 

■ 時期 : 1582年(天正10年) 6月 2日。 

■ 名称 : 本能寺の変 (ほんのうじのへん)。

■ 明智光秀(あけちみつひで)が 織田信長

  (おだのぶなが)を滅ぼした事件。  

  光秀が謀反(むほん)を起こした理由は、不明

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 本能寺の変 (ほんのうじのへん) は、15

  82年(天正10年)に、 明智光秀(あけちみ

  つひで)が  織田信長(おだのぶなが)を滅

  ぼした事件  である。 

● 光秀が謀反(むほん)を起こした理由は、不

  明である。 定説がなく、 色々な説がある。 

     発作行動説、 将来悲観(追放回避)・保

  身説、 信長への遺恨説、 天下統一の野望

  説、 朝廷・義昭黒幕説、 その他の説がある。

 

 

■ 1582年5月29日に、 織田信長は、 油断し

  て、100名ほどの近習(きんじゅう)の者だけを

  伴い、(京)都の本能寺へ入った。 

    そこに、 6月2日に、 羽柴(豊臣)秀吉への

  援軍を命(めい)じたはずの智軍1万3,000

  の兵が、押し寄せてきた。 

 

■ 本能寺の変 とは、 安土桃山時代、 1582年

  6月2日に、 京(都)の、本能寺に滞在の、織田

  信長 や、 妙覚寺に滞在し二条御所に移った、

  信長嫡子の織田信忠(のぶただ)を、 明智光秀 

  が、包囲し、急襲し、 彼らを、自害させた事件で

  ある。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 信長嫡子の織田信忠(おだのぶただ)は、 明

  智光秀謀反の知らせを受け、 父・信長がいる

  本能寺に救援に向かおうとしたが、 側近に逃

  げるように諭(さと)される。 また、織田信忠は、

  逃亡をあきらめてしまい (実際には明智光秀

  軍の包囲は十分ではなく、逃げられる可能性

  はあったが)、 織田信忠は、 守りに向かない

  妙覚寺を離れ、 二条御所(二条新造御所)に

  移った。 そこで、 明智軍と応戦し、自刃(じじ

  ん)した。

 

 本能寺の変で、 本能寺で、織田信長は、 明

  智光秀の反乱を知り、 「是非(ぜひ)に及ばず」

  (しかたがない)と言い、 応戦したが、 その後、 

  家臣に寺に火を付けさせ、 奥にこもり、自刃

  (じじん、自害)したと伝えられている。 享年

  49歳であった。

● 信長の側近の、森 蘭丸 (もり らんまる、森

  成利(なりとし))、森 坊丸  (ぼうまる、森 長

  隆(ながたか))、 森 力丸  (りきまる 、森 長

  氏(ながうじ))  の3兄弟は、 信長を守って

  明智光秀軍に討ちとられた(討ち死にした)。 

 

■ 弥助 (やすけ、アフリカ南部・モザンビーク

  出身の信長の黒人家来) は、 信長嫡子の

  織田信忠一行と共に二条御所にいて戦ったが、

  明智光秀軍に捕らえられた。 しかし、放免され、 

  その後行方不明である。

 

 織田 信長の遺骸(いがい) は、 明智光秀

  が捜索したが、 本能寺では、見つからなかっ

  た。

● 建物が焼け落ちた沢山の残骸の中で、焼けた

  信長の遺骸を特定し、見つけだすのは、困難で

  あったと推測される。

● 城塞機能をもつ本能寺では、 火薬が備蓄さ

  れていて、信長の遺体が爆破で散乱してしま

  ったという爆死説もある。

    2007年の本能寺の発掘調査では、城塞機

  能も持っていた寺であることが判明、但し、堅固

  なものではなかった。

 織田家の保護を受けていた、京(都)の、阿弥

  陀寺(あみだじ)の僧・清玉上人が、本能寺の

  変の時、現場へ駆け付け、 現場付近で遺体を

  焼き、その遺骨を持ち帰り、寺に葬った という

  説もある。

 

■ その後、 明智光秀 (あけちみつひで) は、 

  羽柴(豊臣)秀吉の素早い行軍(中国大返し)

  と巧みな工作により、 また、光秀に味方する

  武将、大名も少なく、劣勢となり、 山崎の戦

  いで敗北し、 逃走中、殺害された。

 

 

♪♪ 本能寺の変が登場する興味深

    い、ドキュメタンリー、ドラマ、映画。

 

★ 本能寺の変が登場する興味深い、

   ドキュメタンリー。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 女中は見

  た!!〜本能寺の変・信長最後の

  3日間〜 』  

   (NHK2010年(H22 年)4月7日本放送)。

 

★ 本能寺の変が登場する興味深い、

      ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事 が混じって描かれています。 

  また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』 

 (日本の2011年 NHK大河ドラマ) 

● 織田 信長を演じた俳優名 : 豊川 悦司 

  (とよかわ えつし)。

● 信長・長男の織田 信忠(のぶただ)を演じ

  た俳優名 : 谷田 歩 (たにだ あゆみ)。

● 森 蘭丸(もり らんまる)を演じた俳優名 : 

  瀬戸 康史 (せと こうじ)。

● 明智 光秀(あけちみつひで)を演じた俳優

  名 : 市村 正親 (いちむら まさちか)。

● 斎藤 利三(さいとう としみつ) を演じた俳

  優名 : 神尾 佑 (かみお ゆう)。

 

■ 『 敵は本能寺にあり (てきはほんの

   うじにあり) 』 

   (日本の2007年制作・テレビ朝日・テレビド

    ラマ)。 

   (2007年12月16日放送・テレビ朝日・時代

   劇スペシャル)。 

   (テレビ朝日・2006年放送の「信長の棺」の

   完結編)。

● 織田 信長を演じた俳優名 : 玉木 宏 (たま 

  きひろし)。

● 森 蘭丸を演じた俳優名 : 本田 大善。

● 明智 光秀を演じた俳優名 : 中村 梅雀 

  (なかむら ばいじゃく)。

● 斎藤 利三(さいとう としみつ) を演じた俳優

  名 : 田宮 五郎 (たみや ごろう)。

● 明智 左馬助(さまのすけ)を演じた俳優名 : 

  市川 染五郎 (7代目) (いちかわ そもめ

  ごろう)。

● 近衛 前久(このえ さきひさ)を演じた俳優 

  名 : 柄本 明(えもと あきら)。

● 清玉上人(せいぎょくしょうにん)を演じた俳

  優名 : 岸部 一徳  (きしべ いっとく)。

● 羽柴(豊臣)秀吉を演じた俳優名: 竹中 直

  人 (たけなか なおと)。

● 徳川家康を演じた俳優名 : 椎名 桔平 

  (しいな きっぺい)。

● 狩野 永徳を演じた俳優名 : 藤田 まこと。

 

■ 『 天地人 (てんちじん) 』  

   (日本のNHK2009年大河ドラマ)。

 

■ 『 寧々〜おんな太閤記 (ねね〜お

    んなたいこうき) 』 

   (日本の2009年制作・テレビ東京・テレビ

   ドラマ)。 

 

■ 『 功名が辻 (こうみょうがつじ) 』 

   (NHK2006年大河ドラマ)。

 

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『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』

 

 

以  上