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◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY 

   HANDBOOK

 

 

 カナヤマ 日本歴史辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 や 』。

 

 

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メ ニュー (目次)。

 ■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

 □ 日本史 辞典 (総合)

 

□      ● 五十音順 ( あいうえお順)。

 

 □ 見出し語 やさ

 □ 見出し語 やな

 □ 見出し語 やま

 □ 見出し語 やよ

 

 

 

〇 やえ  八重姫。

             (やえひめ)。 《人名》。

             ■ 八重姫 (やえひめ、生没年

             不詳、平安時代末期・鎌倉時代

             初期)は、源 頼朝の夫人である。 

             八重(やえ)ともいう。  

             ■ 八重姫は、 源 頼朝との間

             に、千鶴丸 ( せんつるまる)と  

             いう男子をもうける(得る)。

             ■ 八重姫は、 1160年(永暦

             元年) から1175年(安元元年)

             までの約15年の間、流人(流刑

             者)の源頼朝の監視役 であった、

             伊東祐親(いとうすけちか、伊東

             入道)の娘(三女)である。

             ■ 源 頼朝は、八重姫の父の

             伊東祐親が大番役で京(都)に

             上洛している間に、八重姫 と通

             じ、千鶴丸という男子をもうける。

             ■ 八重姫は、 フィクションの

             「平家物語」、「源平盛衰記」、

             「曽我物語」や二次史料の「源平

             闘じょう録」(室町時代初期・千

             葉氏関係者編纂)には名は記さ

             れず「(親の)伊東祐親の娘」と

             いう言い方等で) 登場する。 

               八重姫は、同時代の一次史料

             や鎌倉時代後期北条氏編纂の

             二次史料の『吾妻鏡』(あづまか

             がみ)には、記されていない。

                また、八重姫という名は、

             室町時代後期から江戸時代に

             かけて生まれた名称である。

             ■ 八重姫は、二次史料の『源

             平闘靜録』(げんぺいとうじょう

             ろく、室町時代初期・千葉氏関

             係者編纂)では、子をなくした後、

             源頼朝の計らいで、千葉常胤の

             子の相馬師常(そうまもろつね、

             相馬氏初代当主)と結ばれたと

             する。

             ■ 八重姫は、 フィクションの

             NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」

             では、北条義時の最初の夫人

             (阿波局)となり、北条泰時の生

             母となる。

 

〇 やえ  弥右衛門。

             (やえもん)。 《人名》。

           (= 豊臣秀吉の実父)。

          (豊臣家一族)。 

          Yaemon.

          ○ 豊臣秀吉の生母・

          なか(大政所 おおまん

          どころ)の1番目の夫。

                (⇒ 大政所

        豊臣秀吉)。  

 

〇 やぎ  柳生 十兵衛

             (やぎゅう じゅうべい)。 《人名》。

             (= 柳生 三 厳 みつよし) 。

          (1607年ー1650年)。

          (柳生家一族)。 

                 YAGYU Jubei.

          ○ 柳生十兵衛(三厳)は、

          江戸時代前期の剣豪で、

           柳生宗矩(むねのり)の長男

          である。

          ○ 柳生十兵衛(三厳)は、

          柳生宗矩死去後、柳生家

          本家当主(当主:1646年

          〜1650年)となる。

 

〇 やぎ  柳生新陰流。

             (やぎゅうしんかげりゅう)。

          《剣術の流派》。

        (⇒ 柳生 石舟斎)。

 

〇 やぎ  柳生 石舟斎

             (やぎゅう せきしゅうさい)。 《人名》。

             (= 柳生 宗厳 むねよし)。

          (1527年〜1606年)。

          《剣豪》。

          ○ 柳生石舟斎(宗厳)は、

          剣豪で、 新陰流継承者で、

          柳生新陰流の創始者である。

          ○ 柳生石舟斎(宗厳)は、

          柳生宗矩の父であり、柳生

          十兵衛の祖父である。

 

〇 やぎ  柳生 兵庫助

             (やぎゅう ひょうごのすけ)。 《人名》。

             (= 柳生 利厳 としとし)。

          (1579年ー1650年)。

          (剣豪)。

          ○ 柳生兵庫助(利厳)は、

          剣豪で、尾張柳生家の初代

          当主である。

          ○ 柳生兵庫助(利厳)は、

          剣豪で、尾張徳川家の兵法

          指南役(剣術師範)となる。

                     ○ 柳生兵庫助(利厳)は、

          柳生十兵衛(三厳)の従兄弟

             (いとこ)) である。

          ○ 柳生兵庫助(利厳)は、

          柳生宗矩の兄・柳生厳勝(と

               しかつ)の次男である。

 

〇 やぎ  柳生 宗矩

             (やぎゅう むねのり)。 《人名》。

          (= 柳生 但馬守 たじまのかみ)。

          (1571年ー1646年)。 

          (剣術家、政治家)。

          ○ 柳生但馬守(宗矩)は、

          太平を築き、日本の歴史を

          変えた政治家、剣術家であ

          る。

                     ○ 柳生但馬守(宗矩)は、

          江戸幕府・惣目付(そうめつけ、

          大監察(後の大目付))とな

          る。

          ○ 柳生但馬守(宗矩)は、

          江戸幕府の3代将軍・徳川

          家光の教育係、相談役であ

          った。

          ○ 柳生但馬守(宗矩)は、

          柳生十兵衛三厳(みつよし )

          父である。

          ○ 柳生但馬守(宗矩)は、

          剣術家、徳川将軍家の兵法

          指南役(ひょうほうしなんやく

          剣術師範))であった。

          ○ 柳生但馬守(宗矩)は、

          柳生家本家当主であった。

 

 やく   約。  

             (やく)。 《言葉》。

          (= およそ、頃)。

          ABOUT ; 

        c.,ca.:circaの省略名).

 

 やご  屋号

             (やごう)。 《氏名》。

          (= 前近代日本の、商号等の屋

           号を使用した一族名)。

          ○ 前近代日本の一族名の1つ。

          (⇒ 前近代日本の人名

 

#yasa

 

 やし  野州  

             (やしゅう)。 《旧地域名》。

          (= 下野(しもつけのくに)) 。

          (≒ 現・栃木県)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国(令制

           国)の別称)。

                    (⇒下野)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

             ■ 野州 (やしゅう)は、  律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、旧国

             (令制国)正式名の、下野 国 (しもつ

             け のくに)の 別称である。

                          ● 野州(= 下野)は、 東山道(とうさん

             どう)・旧広域地方に属し、 現・関東地方

             の、現・栃木県に相当する 地域である。

 

 やす  弥助。

             (やすけ)。 《人名》。

          (= 木下弥助、三好吉房 (みよしよ

          しふさ、一路(いちろ)) 。

          (豊臣氏一族)。

        (⇒ 三好 吉房 みよし よしふさ)。

          ○ 豊臣秀吉の姉・とも(日秀)の

           夫。

          ○ 豊臣秀次、豊臣秀勝の、実父。 

             ■ 弥助 (やすけ、木下弥助、三好吉房 (み

             よしよしふさ、一路(いちろ)は、 豊臣秀吉の

             姉・とも(日秀)の夫であり、豊臣秀次、豊臣秀

             勝の、実父である。

 

 やす  弥助 (黒人侍)

             (やすけ (こくじんさむらい))。 《人名》。

          ○ 織田信長の黒人家臣。

          (⇒ 織田 信長)。

          (⇒ 本能寺の変)。 

             ■ 黒人侍 (こくじんさむらい)の弥助 (やす

             け、生没年:不明) は、 安土桃山時代の、ア

                フリカ南部・モザンビーク出身の黒人侍であり、 

             織田信長の黒人家臣、側近(近習)である。

 

 やそ  耶蘇教。

             (やそきょう)。 《キリスト教》。

          (= キリスト教)。

           ○ 近世・近代日本のキリスト教

          の呼び名。

          (⇒ キリスト教)。

 

 やつ  八 。

             (やつ)。 《時刻》。

             ■ 前近代日本(室町時代後期〜江戸時代)

             の「日の出や日没を基準とする不定時法」の、

             時鐘数表示時刻の主要時間区分。

        (⇒ 前近代日本の時刻・

        時法

             ■ 別名 : 八つ、 八ツ。

             ■ 午前2時00分 夜間・午前2時頃 

             ≒ (暁) 八つ、八ツ。

             ≒ 丑の刻(うしのこく)の正刻

                               (正丑(しょうちゅう))。

             ■ 午後2時00分 昼間・午後2時頃 

             ≒ (昼) 八つ、八ツ。

             ≒ 未の刻(ひつじのこく)の正刻

                (正未(しょうび))。

             ○ 八つ(八ツ) ≒

             (暁) 八つ ≒

               夜間・午前2時00分〜午前3時00分。

             (昼) 八つ ≒

               昼間・午後2時00分〜午後3時00分。

             ○ 八つ半(八ツ半) ≒  

             (暁) 八つ半 ≒

               夜間・午前3時00分〜午前4時00分。

             (昼) 八つ半 ≒

               昼間・午後3時00分〜午後4時00分。

 

 やと   野盗

             (やとう)。 《盗賊》。

           ○ 前近代日本の、山野にひそん

          でいる盗賊。

        (⇒ 野武士)。

        (⇒ 落ち武者狩り)。

             ● 野盗 (やとう) とは、 前近代日本の、

              山野にひそんでいる盗賊である。 

             ■ 前近代日本では、 日本各地で、戦時

             逃亡者や戦力が弱まった 敗残兵の落ち武

             者は、 敵兵の他に、 野盗 (やとう、山

             野にひそんでいる盗賊)、 落ち武者狩り 

             (おちむしゃがり、落ち武者を襲う農民など

             の土民の物とり)、 野武士 (のぶし、領

             主(主君)を持たない武士や武装した土民

             (どみん、土着の住民)) などに襲われる

             ことが多かった。

 

#yana

 

 やな  柳沢 吉保。

             (やなぎさわ よしやす)。 《人名》。

           (徳川綱吉の家臣)。

          (⇒ 徳川 綱吉)。

           ○ 江戸幕府・第5代将軍・徳川

          綱吉の側用人(そばようにん)の1人。

           ○ 徳川綱吉の悪評引受役。

 

 やへ  弥兵衛。

             (やへい)。 《人名》。

          (= 浅野弥兵衛、浅野長政(長

          吉ながよし))。

          (豊臣家一族)。

          (⇒ 浅野 長政)。

          ○ 豊臣秀吉の正室夫人・おね

                     (ねね)の妹・ややの夫。

 

#yama

 

〇 やま  山内一豊の妻・千代 。

             (やまうちかづとよのつま・ちよ)。

             《人名》。

          (= 千代、見性院)。 

                    (⇒ 千代)。 

          (政治戦略家)。

          (1557年ー1617年)。 

          ○ 千代は、

          夫に対する内助の功で、

          日本一(ひのもといち)の妻と

          言われた女性である。

             ■ 千代(ちよ、生没年:1557年

             ー1617年)は、 政治戦略家で

             あり、 山内一豊(やまうちかづ

             とよ)の正室夫人であり、 夫を

             支え、戦国 時代・安土桃山時代、

             江戸時代初期に活躍した女性

             である。

              ■ 千代(ちよ)は、 凡庸(ぼん

             よう)な夫の山内一豊(やまうち

             かづとよ)を助け、夫を土佐国

             (とさのくに、現・高知県)一国

             の大名にまで出世させた、敏腕

             女性である。 

 

〇 やま  山内 容堂 

             (やまうち ようどう)。 《人名》。

          (= 山内豊信 とよしげ)。

          (1827年ー1872年)。 

          (土佐の大名)。

          ○ 幕末の土佐藩・藩主。

             ■ 山内 容堂  (やまうち ようどう、山

             内豊信 とよしげ、1827年ー1872

             年)は、幕末の土佐藩・藩主である。

                山内 容堂は、第15代土佐藩主、

                        隠居後も幕末の土佐藩(現・高知県

          相当域を支配した藩)の 実権を握る。

 

 やま  山県 有朋。

             (やまがた ありとも)。 《人名》。

          (政治家)。

       (⇒ 長州藩

        近代日本 政府)。

             ■ 山県有朋 (やまがた ありとも)は、

             長州藩藩士出身であり、 明治政府

             (近代日本政府)の内閣総理大臣を務

             める。 

             ● 山県有朋は、幕末、長州藩の奇兵隊

             隊長であり、明治時代初期に、 近代日本

             政府で国民皆兵制を主導する。

 

 やま   山形県。

              (やまがたけん)。 

            (現都道府県)。 《現地域名》。

           ○ 山形県は、現・47

           都道府県の1つである。

                              YAMAGATA 

                       PREFECTURE.

             ○ 山形県の地域は、

            前近代の出羽国(羽州)の

           南部の相当地域である。

             ○ 山形県の地域は、

            概ね前近代日本の、出羽

              国(でわのくに、羽州(うしゅう)、

           現・秋田県・山形県の相当地域

           の南部の相当地域である。

                   (⇒ 出羽国)。

                      (⇒ 都道府県)。

                      (⇒ 前近代日本の地域名)。

                      (⇒ 旧国(= 令制国))。

                      (⇒ 旧地域名地域名)。

                      (⇒ 日本の地名)。

          ■ 山形県の地域

             <東北地方。

             <日本本土(本州、四国、九州)

             <日本国

             ● 山形県 (やまがたけん、英:

              YAMAGATA  PREFECTURE)

              は、東北地方に属する。

                    (⇒ 東北地方)。

          ■ 山形県地域

                (出羽 国の南部)。

             <出羽国(でわのくに、羽州(うしゅ

              う)、 現・秋田県・山形県の相当

              地域)。

             <東山道(とうさんどう )・旧広域地方

             <五畿七道(ごきしちどう、日本本土)。

          (⇒ 東山道・旧広域地方)。

                   (⇒ 五畿七道)。

             ■ 山形県(やまがたけん)地域

             は、  概ね、前近代日本(古代〜

             江戸時代)の、出羽 国(でわのくに、

             羽州(うしゅう)、現・秋田県・山形

             県の相当地域)の南部に相当する

             地域である。

             ■ 山形県の地域は、概ね、 前近

             代日本(古代〜江戸時代)の、旧

             国名(令制国)の、出羽 国(でわ

             のくに)の南部に相当する地域で

             ある。

 

 やま  山口県。

             (やまぐちけん)。 《現地域名》。

             (≒ 前近代の、周防 国(すおう

           のくに、周州(しゅうしゅう)、防州

             ( ぼうしゅう)、山口県東部) と、 

          長門 国 (ながと のくに、長州

             ( ちょうしゅう)、山口県西部)  

          の相当地域)。

          (現都道府県)。

                        YAMAGUCHI PREFECTURE.

                   (⇒ 周防 国、長門 国)。

                      (⇒ 都道府県)。

                      (⇒ 前近代日本の地域名)。

                      (⇒ 旧国(= 令制国))。

                      (⇒ 旧地域名地域名)。

                      (⇒ 日本の地名)。

 

 やま  山崎の戦い。

             (やまざきのたたかい)。 《合戦》。

             ■ 山崎の戦い (やま ざきのたたか

             い)は、 1582年(天正10年)6月に、

             京(きょう、京都)付近の山崎で、本能

             寺の変(ほんのうじのへん)後、 織

             田信長の重臣の羽柴秀吉(はしばひ

             でよし、豊臣秀吉)の軍 と、 織田

             信長の重臣で反逆し信長を殺害した

             明智光秀の軍が戦った合戦である。 

             明智光秀主力軍は敗退する。

                羽柴秀吉(豊臣秀吉)軍が戦い

             に勝ち、明智光秀軍が戦いに敗れた。

             ■ 秀吉による、明智光秀主力軍の

             敗退と明智光秀の本拠地の坂本城

             (さかもとじょう)の落城により、 羽柴

             秀吉(豊臣秀吉)は、旧織田軍団の中

             で優位に立つ。

 

 やま  山下洞人。

             (やましたどうじん)。 《現生人類》。

             (日本地域の旧石器人)。

          (⇒ 山下洞人(古人類学辞典))。

          (⇒ 旧石器人港川人浜北人)。

 

 やま  山城 国。 

             (やましろ のくに)。 《旧地域名》。

             = 城州(じょうしゅう)、山州(さんし

             ゅう)、雍州(ようしゅう))。 

          (≒ 現・京都府南部の相当地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国(令制 国)

           の正式名)。

          YAMASHIRO PROVINCE.

                   (⇒城州、山州 、雍州)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

          ■ 山城 国。

             <畿内(きない) (旧広域地方)。

             ■ 山城 国 (やましろ のくに)は、律令

             制定後・古代・中世・近世日本・旧地域

             名の、旧国(令制国)の正式名である

                7世紀には、794年まで、山背国

             (やましろのくに)と呼ばれていた。

             ■ 城州( じょうしゅう)、山州(さんしゅう)、

             雍州(ようしゅう)は、  律令制定後・古代・

             中世・近世日本・旧地域名の、旧国(令

             制国)正式名の、山城 国 (やましろ のく

             に) の 別称である。

               雍州の名称は、 雅号であり、唐の首都・

              長安の所在に由来する。

             ■ 山城 国(= 城州山州雍州)は、現・

             近畿地方の、現在の京都府南部  に相当

             する地域である。

             ■ 山城 国(= 城州山州雍州)は、

             畿七道の畿内(きない、五畿)・旧広域地方

                           に属する。

 

〇 やま  邪馬台国

             (やまたいこく)。 《小国家》。

 

〇 やま  大和時代 

             (やまとじだい)。

                   《日本歴史の時代区分》。

          (= 紀元(後)3世紀頃ー

            710年)。 

                    (= 古墳時代(狭義) と、 

            飛鳥・白鳳時代)。

           THE YAMATO PERIOD

           <古代日本。 

           ( 古墳時代飛鳥白鳳時代) 。

           ( 古代日本) 。

          (⇒ 日本歴史の時代区分)。

              ■ 大和時代 (やまとじだい)とは、 

             紀元(後)3世紀頃から710年まで

                            の期間である。

              ● 大和時代は、 

             古墳時代(狭義)(紀元(後)3世紀頃

                            ー592年) と、 飛鳥・白鳳時代

             (592年ー710年) である。

             ● 大和時代は、 

             古代日本 (= 古墳時代、飛鳥・

                            白鳳時代、奈良時代、平安時代 ; 

             紀元(後)3世紀頃ー1192年)の

             一時期 である。

 

〇 やま  ヤマト政権

             (やまとせいけん)。

          《日本の政権・政府》。

          (= 豪族連合政権)。

          (4世紀後半頃〜701年頃)。

          (⇒ 日本の政権・政府)。

 

〇 やま  ヤマト政権の

               日本統一

             (やまとせいけんのにほんとういつ) 。

          《日本の政権・政府》。

             (4世紀後半) 。

 

 やま  大和大納言。

             (やまとだいなごん)。

                    《豊臣家一族》。

          (= 豊臣秀長、羽柴長秀、

          木下小一郎)。

          ○ 豊臣秀吉の弟。

          (⇒ 豊臣秀長 )

 

 やま   大和 国。 

             (やまとのくに)。 《旧地域名》。

          (= 和州(わしゅう))。 

          (≒ 現・奈良県の相当地域)。

          (律令制定後・前近代日本・

           旧地域名の

           旧国(令制国)の正式名)。

          YAMATO PROVINCE.

                   (⇒ 和州(わしゅう))。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

          ■ 大和 国。

             <畿内 (旧広域地方)。

             ■ 大和 国 (やまと のくに)は、 律令

             制定後・前近代旧地域名の、旧国(令

             制国)の正式名である

             ■ 和州 (わしゅう)は 、 律令制定後・

             前近代旧地域名の、旧国名(令制 国)正

             式名の、大和 国 ( やまと のくに) の別

             称である。

             ■ 大和 国(= 和州)は、 現・近畿地方

             の、現在の 奈良県 に相当する地域であ

                           る。

             ■ 大和 国(= 和州)は、 五畿七道の

             畿内(きない、五畿)の旧広域地方に属す

             る。

 

〇 やま   山中

               (やまなか)。  《地名》。

              ■ 山中 (やまなか)は、

              前近代日本の、美濃国の山中

              (やまなか)村であり、

              現在の岐阜県関ヶ原町山中地区

              である。

                (⇒ 山中の戦い)。

          (⇒ 関ヶ原の戦い

           決戦)。

          (⇒ 関ヶ原の戦い)。

          (⇒ 新説(史実)

             関ヶ原の戦い

           大垣・山中の戦い

         大垣の戦い山中の戦い)。

                (⇒ 慶長5年の

                 下分け目の戦い)。

           □ 「史実(新説)

            関ヶ原の戦い

            (= 大垣・山中の戦い)」  

            画像アルバム No.2

           □ 「伝説(従来説)

            関ヶ原の戦い」

            画像アルバム  No.3 

          (⇒ 徳川家康福島正則

             池田輝政)。

          (⇒ 毛利秀元)。

          (⇒ 石田三成宇喜多秀家)。

          (⇒ 大谷吉継小早川秀秋)。

          (⇒ 美濃赤坂大垣城

                           南宮山)。

          (⇒ 山中城山玉城

              松尾山藤下の自害峯)。

          (⇒ 関ヶ原盆地桃配山

                           陣場野笹尾山)。

 

              ■ 山中 (やまなか)は、  前

              近代日本(古代〜江戸時代)の

              美濃国の山中村であり、 関ヶ原

              盆地の南西方向・約2kmにあり、 

              現在の岐阜県・関ヶ原町山中地

              区であり、 北の天満山(てんま

              やま)と南の松尾山(まつおやま)

              の間にある地域である。

 

              ■ 「史実(新説)関ヶ原の戦い

              (= 大垣・山中の戦い)」では、 

              美濃国の山中村(やまなかむら) 

              で、1600年(慶長5年)9月15日

              の午前10時頃から正午頃まで、 

              東軍(徳川方)と西軍(奉行衆・

              毛利方)との間で、決戦が行われ

              た場所である。

 

                           ■ 玉城。 

              ● 史実(新説)関ケ原の戦い

              (大垣・山中の戦い)の決戦の

              山中の戦いでは、

              西軍(奉行衆・毛利方)は、

             玉城(たまじょう)を使用したが、

             玉城から西軍が出撃して戦った

             か、または、玉城を使用しなか

              ったか、どちらかの可能性が

             高い。

             ■ 西軍は玉城で籠城せず。

             ● 山中村付近には、 関ヶ原

              の戦い時、城山(しろやま)に

              西軍(奉行衆・毛利方)が築い

              た既成準備陣地の、陣城(じん

              じろ、陣地の城)の玉城(たまじ

              ょう)があった。

                 しかし、玉城には、十分な

              兵糧(ひょうりょう)と水(井戸、

              湧き水)がなく、 西軍(奉行

              衆・毛利方)の約2万人の兵が

              籠城するには、不十分であり、

              1600年(慶長5年)9月15日

              午前10時頃〜正午頃の山中

              村での関ヶ原の戦いの決戦時

              には、

                               西軍(奉行衆・毛利方)は、玉

              城を使用したが、織田秀信の

              岐阜城出撃のように、玉城

              から西軍が出撃して戦ったか、

              または、玉城を使用しなかった

                              か、どちらかの可能性が高い。

 

           ■ 「史実(新説)・伝説

           (従来説)の関ヶ原の戦

           い」の決戦日

           東西両軍の要点表。

 

              ◆ 一次史料に基づく「史実(新

              説)関ヶ 原の戦い(= 大垣・山中

              の戦い)」の決戦。 

              ● 決戦場所: 

              関ヶ原盆地の西方・約2kmの

                              山中(やまなか)村。

              ● 決戦日時: 

              1600年(慶長5 年)9月15日

              午前10時頃〜正午頃。 

 

              ■ 「史実(新説)関ヶ原の戦い

              (= 大垣・山中の戦い)」の決戦

              では、

              大垣エリアの美濃赤坂付近から

              移動し山中村の東側に布陣する 

              東軍(徳川方 )の主力軍 

              と、 

              大垣エリアの大垣城から移動し

              山中村の西側に布陣する西軍

              (奉行衆・毛利方)の主力軍 が、 

              1600年 (慶長5年)9月15日

              の午前10時頃から正午頃まで

              美濃国の山中(やまなか)

              戦う(決戦を行う)。

                 その戦いの結果、西軍(奉

              行衆・毛利方)の主力軍が総崩

              れとなり、敗走、敗戦し、東軍

              (徳川方) の主力軍が勝利を得

              る。

 

              ◆ 一方、伝説(従来説

              関ヶ原の戦い」の決戦

              ● 決戦場所: 

              関ヶ原盆地。

              ● 決戦日時: 

              1600年(慶長5年)9月15日

              午前8時頃〜午後2時頃。

 

              ■ 「伝説(従来説の関ヶ 原の

              戦い」の決戦では、 

              大垣エリアの美濃赤坂付近から

              移動し関ヶ原盆地の東側に布陣

              する東軍(徳川方)の主力軍

              と、 

              大垣エリアの大垣城から移動し

              関ヶ原盆地の西側に布陣する

              西軍(石田方)の主力軍 が、 

              1600年(慶長5年)9月15日の

              午前8時頃から午後2時頃まで

              美濃国の関ヶ原盆地で戦う (決

              戦を行う)。 

                 その戦いの結果、西軍(石

              田方)の主力軍が総崩れとなり、

              敗走、敗戦し、東軍(徳川方) の

              主力軍が勝 利を得る。

 

           ■ 「史実(新説)・伝説

           (従来説)の関ヶ原の戦

           い」の決戦日

           東西両軍の

           主力軍の行動要点表。

 

              ◆ 「史実(新説)・伝説(従来

                説)の関ヶ原の戦い」の決戦

                での、東西両軍の主力軍の

                動き。

 

              ◆ 「史実(新説)の関ヶ原の

               戦い」の決戦での、

               東西両軍の主力軍の動き。

             

                  ■ 「史実(新説)関ヶ原の戦い

              (= 大垣・山中の戦い)」の決戦

              での、東軍(徳川方)の 主力軍

              の動き

              ● 東軍(徳川方)の主力軍

               (先手勢の福島組勢と家康

               の徳川本隊) は、

              @ 東軍(徳川方)の主力軍は、

               1600年(慶長5年)9月15

               日早朝に、大垣エリアの美濃

               赤坂(みのあかさか)付近 

               (関ヶ原盆地の東方)を出発

               (1600年(慶長5年)

                9月15日早朝)⇒

              ○ 徳川家康は、

               9月15日早朝に、

               大垣エリアの美濃赤坂

               付近で、東軍(徳川方)

               を3つに分ける。

              ○ 東軍(徳川方)

               家康と徳川本隊は、

               関ヶ原盆地南西部 と

               山中村 (やまなかむら、

               関ヶ原盆地の西方・約2km)

               に向かう。

              ○ 東軍(徳川方)

               先手勢の池田組勢は、

               大垣エリアの南宮山(なんぐ

               うさん、関ヶ原盆地の東方)

               の前面に向かい、布陣する。

              ○ 東軍(徳川方)

               先手勢の福島組勢は、

               山中村 (やまなかむら、

               関ヶ原盆地の西方・約2km)

               に向かう。

              A 東軍(徳川方)の主力軍は、

               9月15日の午前10時頃から

               正午頃まで、山中村 (やま

               なかむら、関ヶ原盆地の西方・

               約2km)で、西軍(奉行衆・毛

               利方)の主力軍と交戦(決戦を

               行う)

               (9月15日の午前10時頃

               〜正午頃)⇒

              B 9月15日正午頃に、

               西軍(奉行衆・毛利方)の主力

               軍が、総崩れとなり、敗走、

               敗戦し、東軍(徳川方)の主力

               軍は、山中村で、西軍(奉行

               衆・毛利方)の主力軍に対し

               決戦で勝利を得る

               (9月15日正午頃)。

 

                  ■ 「史実(新説)関ヶ原の戦

               い(= 大垣・山中の戦い)」の

               決戦での 、西軍(奉行衆・毛

               利方)の主力軍の動き。

              ● 西軍(奉行衆・毛利方)

               の主力軍 (小西、石田、

               宇喜多、島津等の軍) は、

              @ 西軍(奉行衆・毛利方)

               の主力軍は、

               1600年(慶長5年)9月

               14日夜に、

               大垣エリアの大垣城 

               (おおがきじょう、関ヶ原

                                  盆地の東方)を出発

               (1600年(慶長5年)

                9月14日夜)⇒

               ○ 西軍(奉行衆・毛利方)は、

               9月14日夜に、大垣城で、 

               西軍(奉行衆・毛利方)を、

               主力軍と大垣城守備残留軍

               の2つに分ける。

               ○ 西軍(奉行衆・毛利方)の

               主力軍は、山中村 (やまなか

               むら、関ヶ原盆地の西方・約2

               km) に向かう。

               ○ 西軍(奉行衆・毛利方)の

               大垣城守備残留軍は、大垣城

               に残留し、大垣城を守備する。

              A 西軍(奉行衆・毛利方)の

               主力軍は、9月15日未明に、

               山中村 (やまなかむら、

               関ヶ原盆地の西方・約2km)

               に布陣する。

               〇 西軍(奉行衆・毛利方)の

               主力軍は、

               山中村付近の城山にある

               既存準備陣地の玉城(たまじ

               ょう)を、出撃陣地として使用

               した可能性がある。

               (9月15日未明)⇒

              B 西軍(奉行衆・毛利方)の

               主力軍は、9月15日午前10

               時頃から正午頃まで、山中村

               で、東軍(徳川方)の主力軍と

               交戦(決戦を行う) 

               (9月15日午前10時頃〜

                正午頃)⇒

              C 山中村で、西軍(奉行衆・

               毛利方)の主力軍は、

               総崩れ、敗走、敗戦となり、

               東軍(徳川方)の主力軍

               に対し決戦で敗戦する

               (9月15日正午頃)。

 

              ◆ 「伝説(従来説)の関ヶ原

              の戦い」の決戦での、

              東西両軍の主力軍の動き。

 

              ■ 伝説(従来説の関ヶ原

              の戦い」の決戦での、東軍

              (徳川方)の主力軍の動き。

              ● 東軍(徳川方)の主力軍

               (先手勢の福島組勢と家康

               の徳川本隊) は、

              @ 東軍(徳川方)の主力軍は、

               1600年(慶長5年)9月15日

               早朝に、 大垣エリアの美濃

               赤坂(みのあかさか)付近

               (関ヶ原盆地の東方)を出発

               (1600年(慶長5年)

                9月15日早朝)⇒

              〇 東軍(徳川方)の徳川家康

               は、 1600年(慶長5年)9月

               15日早朝に、大垣エリアの

               美濃赤坂付近で、

               東軍(徳川方)を2つに分け、

               関ヶ原盆地に向かう先手勢の

               福島組勢、家康の徳川本隊の

               東軍(徳川方)の主力軍 と、 

               南宮山山麓に向かう池田組勢

               の2つに分ける。

              A  東軍(徳川方)の主力軍は、

              9月15日の朝に、関ヶ原盆地

              の東側に布陣する

              (9月15日の朝)⇒ 

              B 東軍(徳川方)の主力軍は、

              9月15日午前8時頃から午後

              2時頃まで、関ヶ原盆地で 、

               西軍(石田方)の主力軍と交戦

              (決戦を行う)

              (9月15日午前8時頃〜

               午後2時頃)⇒ 

              ○ 9月15日の朝から午前

              10時頃まで、家康は、

              桃配山 (ももくばりやま、関ヶ

              原盆地の東側)で決戦を指揮

              ○ 9月15日午前10時頃から

              午後2時頃まで、家康は、

              陣場野 (じんばの、関ヶ原盆

              地中央部)で決戦を指揮

              C 9月15日午後2時頃に、

              関ヶ原盆地で、西軍(石田方)

              の主力軍は、総崩れとなり、

              敗走、敗北し、東軍(徳川方)

              の主力軍は、西軍(石田方)

              の主力軍に対し決戦で勝利

              を得る

              (9月15日午後2時頃)。

              ○ 9月15日午後2時頃、

               陣場野で、家康は決戦勝利 。

 

                  ■ 「伝説(従来説の関ヶ原

                の戦い」の決戦での、

                西軍(石田方)の主力軍

                の動き。

               ● 西軍(石田方)の主力軍は、

              @ 西軍(石田方)の主力軍は、

               1600年(慶長5年)9月14日

               夜に、大垣エリアの大垣城 

               (おおがきじょう、関ヶ原盆地

                                の東方)を出発

              (1600年(慶長5年)

               9月14日夜)⇒

               ○ 西軍(石田方) の石田三成

               は、9月14日夜に、大垣城で、 

               西軍(石田方)を、

               主力軍と大垣城守備残留軍

               の2つに分ける。

              A 西軍(石田方)の主力軍は、

               9月15日未明に、関ヶ原盆地

               の西側に布陣

               (9月15日未明)⇒

              B 西軍(石田方)の主力軍は、

               9月15日午前8時頃から

               午後2時頃まで、関ヶ原盆地

               で、東軍(徳川方)の主力軍

               と交戦(決戦を行 う)

               (9月15日午前8時頃〜

               午後2時頃)⇒

              C 9月15日午後2時頃に、

               関ヶ原盆地で、西軍(石田方)

               の主力軍は、総崩れ、敗走、

               敗戦し、東軍(徳川方)の主

               力軍に対し決戦で敗戦する

               (9月15日午後2時頃)。

 

〇 やま   山中の戦い

               (やまなかのたたかい)。

              《戦い》。

             (= 山中合戦)。

             (= 「史実(新説)関ヶ原

          の戦い」の山中の戦い)。

             (= 「史実(新説)関ヶ原の

          戦い(= 大垣・山中の戦

          い)」で、関ヶ原の決戦)。

           ○ 「新説関ヶ原の戦い

          (= 大垣・山中の戦い)」

          では、

          山中の戦いは、

          1600年(慶長5年)9月

          15日の、美濃国の山中

          (やまな か)付近(山中村、

          関ヶ原盆地南西部)での

          戦いであり、 関ヶ原の

          戦いの決戦である。

             THE BATTLE OF 

          YAMANAKA.

          (⇒ 関ヶ原の戦い

           決戦)。

          (⇒ 関ヶ原の戦い)。

          (⇒ 新説(史実)

             関ヶ原の戦い

           大垣・山中の戦い

         大垣の戦い山中の戦い)。

                (⇒ 慶長5年の

                 下分け目の戦い)。

           □ 「史実(新説)

            関ヶ原の戦い

            (= 大垣・山中の戦い)」  

            画像アルバム No.2

           □ 「伝説(従来説)

            関ヶ原の戦い」

            画像アルバム  No.3 

          (⇒ 徳川家康福島正則

             池田輝政)。

          (⇒ 毛利秀元)。

          (⇒ 石田三成宇喜多秀家)。

          (⇒ 大谷吉継小早川秀秋)。

          (⇒ 美濃赤坂大垣城

                           南宮山)。

          (⇒ 山中城山玉城

              松尾山藤下の自害峯)。

          (⇒ 関ヶ原盆地桃配山

                           陣場野笹尾山)。

 

            ○ 「山中の戦い」は、

           「史実(新説)関ヶ原の

           戦い(= 大垣・山中の

           戦い)」の2つの合戦

           (= 大垣・山中の戦い)

           の1つである。

            ○ 「山中の戦い」は、

           「史実(新説)関ヶ原の

           戦い(= 大垣・山中の

           戦い)」で、

           「慶長5年(1600年)の

           天下分け目の戦い」の

           中心的な戦いの「関ヶ原

           の戦い」の決戦である。

            ○ 「山中の戦い」は、

           「史実(新説)関ヶ原の

           戦い(= 大垣・山中の

           戦い)」で、

           美濃国の山中(やまなか)

           付近(山中村と関ヶ原

           盆地南西部)で、1600

           年(慶長5年)9月15日

           に、 東軍(徳川方)の主

              力軍と西軍(奉行衆・毛

                        利方)の主力軍が戦っ

                        た合戦であり、 関ヶ原

           の戦いの決戦である。 

           合戦 (決戦)の結果、

           東軍(徳川方)主力軍

           が勝利を得る。

 

              ■ 「山中の戦い(やまなかのた

              たかい)」とは、 

              「史実(新説)関ヶ原の戦い(= 大

              垣・山中の戦い)」の2つの合戦

              (= 大垣の戦いと山中の戦い)の

              1つである。

              ■ 「山中の戦い」は、

              「史実(新説)関ヶ原の戦い

              (= 大垣・山中の戦い)」で、

              「慶長5年(1600年)の天下分

              け目の戦い」の中心的な戦いの

              「関ヶ原の戦い」の決戦である。

              ■ 「山中の戦い」は、

              「史実(新説)関ヶ原の戦い

              (= 大垣・山中の戦い)」で、

              美濃国の山中(やまなか)付近

              (関ヶ原盆地南西部と山中村)で、

              1600年(慶長5年)9月15日

              の早朝(夜明け)から正午頃まで、 

               東軍(徳川方)の主力軍と西軍

              (奉行衆・毛利方)の主力軍との

              間で行われた合戦であり、 

              関ヶ原の戦いの決戦である。 

              合戦 (決戦)の結果、東軍(徳

              川方)主力軍が勝利を得る。

              

                           ■ 玉城 (たまじょう)は、 

              史実(新説)関ケ原の戦い(大垣・

              山中の戦い)の決戦の山中の戦

              いでは、

              西軍(奉行衆・毛利方)は、

              玉城を出撃陣地として使用した

              か(玉城から西軍が出撃して戦

             ったか)または、玉城を使用しな

              かったか、どちらかの可能性が

             高い。

             ■ 西軍は玉城で籠城せず。

             ● 山中村付近には、 関ヶ原

              の戦い時、城山(しろやま)に

              西軍(奉行衆・毛利方)が築い

              た既成準備陣地の、陣城(じん

              じろ、陣地の城)の玉城(たまじ

              ょう)があった。

                しかし、玉城には、十分な

              兵糧(ひょうりょう)と水(井戸、

              湧き水)がなく、 西軍(奉行

              衆・毛利方)の約2万人の兵が

              籠城するには、不十分であり、

              1600年(慶長5年)9月15日

              午前10時頃〜正午頃の山中

              村での関ヶ原の戦いの決戦時

              には、西軍(奉行衆・毛利方)は、

                               玉城を使用したが、織田秀信

              の岐阜城出撃のように、玉城

              から西軍が出撃して戦ったか、

              または、玉城を使用しなかった

                              か、どちらかの可能性が高い。

 

           ■ 「史実(新説)の

           関ヶ原の戦い」の決戦日

           東西両軍の要点表。

 

              ◆ 一次史料に基づく「史実(新

              説)関ヶ 原の戦い(= 大垣・山中

               の戦い)」の決戦。 

              ● 決戦場所: 

              関ヶ原盆地の西方・約2kmの

                              山中(やまなか)村。

              ● 決戦日時: 

              1600年(慶長5 年)9月15日

              午前10時頃〜正午頃。 

 

              ■ 「史実(新説)関ヶ原の戦い

              (= 大垣・山中の戦い)」の決戦

              では、

              大垣エリアの美濃赤坂付近から

              移動し山中村の東側に布陣する 

              東軍(徳川方 )の主力軍 

              と、 

              大垣エリアの大垣城から移動し

              山中村の西側に布陣する西軍

              (奉行衆・毛利方)の主力軍 が、 

              1600年 (慶長5年)9月15日

              の午前10時頃から正午頃まで

              美濃国の山中(やまなか)

              戦う(決戦を行う)。

                 その戦いの結果、西軍(奉

              行衆・毛利方)の主力軍が総崩

              れとなり、敗走、敗戦し、東軍

              (徳川方) の主力軍が勝利を得

              る。

 

           ■ 「伝説(従来説)の

           関ヶ原の戦い」の決戦日

           東西両軍の要点表。

 

              ◆ 一方、伝説(従来説

              関ヶ原の戦い」の決戦

              ● 決戦場所: 

              関ヶ原盆地。

              ● 決戦日時: 

              1600年(慶長5年)9月15日

              午前8時頃〜午後2時頃。

 

              ■ 「伝説(従来説の関ヶ 原の

              戦い」の決戦では、 

              大垣エリアの美濃赤坂付近から

              移動し関ヶ原盆地の東側に布陣

              する東軍(徳川方)の主力軍

              と、 

              大垣エリアの大垣城から移動し

              関ヶ原盆地の西側に布陣する

              西軍(石田方)の主力軍 が、 

              1600年(慶長5年)9月15日の

              午前8時頃から午後2時頃まで

              美濃国の関ヶ原盆地で戦う (決

              戦を行う)。 

                 その戦いの結果、西軍(石

              田方)の主力軍が総崩れとなり、

              敗走、敗戦し、東軍(徳川方) の

              主力軍が勝 利を得る。

 

           ■ 「史実(新説)・伝説

           (従来説)の関ヶ原の戦

           い」の決戦日

           東西両軍の主力軍

           の行動要点表。

 

              ◆ 「史実(新説)・伝説(従来

                説)の関ヶ原の戦い」の決戦

                での、東西両軍の主力軍の

                動き。

 

              ◆ 「史実(新説)の関ヶ原の

               戦い」の決戦での、

               東西両軍の主力軍の動き。

             

                  ■ 「史実(新説)関ヶ原の戦い

              (= 大垣・山中の戦い)」の決戦

              での、東軍(徳川方)の 主力軍

              の動き

              ● 東軍(徳川方)の主力軍

               (先手勢の福島組勢と家康

               の徳川本隊) は、

              @ 東軍(徳川方)の主力軍は、

               1600年(慶長5年)9月15

               日早朝に、大垣エリアの美濃

               赤坂(みのあかさか)付近 

               (関ヶ原盆地の東方)を出発

               (1600年(慶長5年)

                9月15日早朝)⇒

              ○ 徳川家康は、

               9月15日早朝に、

               大垣エリアの美濃赤坂

               付近で、東軍(徳川方)

               を3つに分ける。

              ○ 東軍(徳川方)

               家康と徳川本隊は、

               関ヶ原盆地南西部 と

               山中村 (やまなかむら、

               関ヶ原盆地の西方・約2km)

               に向かう。

              ○ 東軍(徳川方)

               先手勢の池田組勢は、

               大垣エリアの南宮山(なんぐ

               うさん、関ヶ原盆地の東方)

               の前面に向かい、布陣する。

              ○ 東軍(徳川方)

               先手勢の福島組勢は、

               山中村 (やまなかむら、

               関ヶ原盆地の西方・約2km)

               に向かう。

              A 東軍(徳川方)の主力軍は、

               9月15日の午前10時頃から

               正午頃まで、山中村 (やま

               なかむら、関ヶ原盆地の西方・

               約2km)で、西軍(奉行衆・毛

               利方)の主力軍と交戦(決戦を

               行う)

               (9月15日の午前10時頃

               〜正午頃)⇒

              B 9月15日正午頃に、

               西軍(奉行衆・毛利方)の主力

               軍が、総崩れとなり、敗走、

               敗戦し、東軍(徳川方)の主力

               軍は、山中村で、西軍(奉行

               衆・毛利方)の主力軍に対し

               決戦で勝利を得る

               (9月15日正午頃)。

 

                  ■ 「史実(新説)関ヶ原の戦

               い(= 大垣・山中の戦い)」の

               決戦での 、西軍(奉行衆・毛

               利方)の主力軍の動き。

              ● 西軍(奉行衆・毛利方)

               の主力軍 (小西、石田、

               宇喜多、島津等の軍) は、

              @ 西軍(奉行衆・毛利方)

               の主力軍は、

               1600年(慶長5年)9月

               14日夜に、

               大垣エリアの大垣城 

               (おおがきじょう、関ヶ原

                                  盆地の東方)を出発

               (1600年(慶長5年)

                9月14日夜)⇒

               ○ 西軍(奉行衆・毛利方)は、

               9月14日夜に、大垣城で、 

               西軍(奉行衆・毛利方)を、

               主力軍と大垣城守備残留軍

               の2つに分ける。

               ○ 西軍(奉行衆・毛利方)の

               主力軍は、山中村 (やまなか

               むら、関ヶ原盆地の西方・約2

               km) に向かう。

               ○ 西軍(奉行衆・毛利方)の

               大垣城守備残留軍は、大垣城

               に残留し、大垣城を守備する。

              A 西軍(奉行衆・毛利方)の

               主力軍は、9月15日未明に、

               山中村 (やまなかむら、

               関ヶ原盆地の西方・約2km)

               に布陣する。

               〇 西軍(奉行衆・毛利方)の

               主力軍は、

               山中村付近の城山にある

               既存準備陣地の玉城(たまじ

               ょう)を、出撃陣地として使用

               した可能性がある。

               (9月15日未明)⇒

              B 西軍(奉行衆・毛利方)の

               主力軍は、9月15日午前10

               時頃から正午頃まで、山中村

               で、東軍(徳川方)の主力軍と

               交戦(決戦を行う) 

               (9月15日午前10時頃〜

                正午頃)⇒

              C 山中村で、西軍(奉行衆・

               毛利方)の主力軍は、

               総崩れ、敗走、敗戦となり、

               東軍(徳川方)の主力軍

               に対し決戦で敗戦する

               (9月15日正午頃)。

 

              ◆ 「伝説(従来説)の関ヶ原

              の戦い」の決戦での、

              東西両軍の主力軍の動き。

 

              ■ 伝説(従来説の関ヶ原

              の戦い」の決戦での、東軍

              (徳川方)の主力軍の動き。

              ● 東軍(徳川方)の主力軍

               (先手勢の福島組勢と家康

               の徳川本隊) は、

              @ 東軍(徳川方)の主力軍は、

               1600年(慶長5年)9月15日

               早朝に、 大垣エリアの美濃

               赤坂(みのあかさか)付近

               (関ヶ原盆地の東方)を出発

               (1600年(慶長5年)

                9月15日早朝)⇒

              〇 徳川家康は、 

               1600年(慶長5年)9月15日

               早朝に、大垣エリアの美濃赤

               坂付近で、

               東軍(徳川方)を2つに分け、

               関ヶ原盆地に向かう先手勢の

               福島組勢、家康の徳川本隊の

               東軍(徳川方)の主力軍 と、 

               南宮山山麓に向かう池田組勢

               の2つに分ける。

              A  東軍(徳川方)の主力軍は、

              9月15日の朝に、関ヶ原盆地

              の東側に布陣する

              (9月15日の朝)⇒ 

              B 東軍(徳川方)の主力軍は、

              9月15日午前8時頃から午後

              2時頃まで、関ヶ原盆地で 、

               西軍(石田方)の主力軍と交戦

              (決戦を行う)

              (9月15日午前8時頃〜

               午後2時頃)⇒ 

              ○ 9月15日の朝から午前

              10時頃まで、家康は、

              桃配山 (ももくばりやま、関ヶ

              原盆地の東側)で決戦を指揮

              ○ 9月15日午前10時頃から

              午後2時頃まで、家康は、

              陣場野 (じんばの、関ヶ原盆

              地中央部)で決戦を指揮

              C 9月15日午後2時頃に、

              関ヶ原盆地で、西軍(石田方)

              の主力軍は、総崩れとなり、

              敗走、敗北し、東軍(徳川方)

              の主力軍は、西軍(石田方)

              の主力軍に対し決戦で勝利

              を得る

              (9月15日午後2時頃)。

              ○ 9月15日午後2時頃、

               陣場野で、家康は決戦勝利 。

 

                  ■ 「伝説(従来説の関ヶ原

                の戦い」の決戦での、

                西軍(石田方)の主力軍

                の動き。

               ● 西軍(石田方)の主力軍は、

              @ 西軍(石田方)の主力軍は、

               1600年(慶長5年)9月14日

               夜に、大垣エリアの大垣城 

               (おおがきじょう、関ヶ原盆地

                                の東方)を出発

              (1600年(慶長5年)

               9月14日夜)⇒

               ○ 西軍(石田方) の石田三成

               は、9月14日夜に、大垣城で、 

               西軍(石田方)を、

               主力軍と大垣城守備残留軍

               の2つに分ける。

              A 西軍(石田方)の主力軍は、

               9月15日未明に、関ヶ原盆地

               の西側に布陣

               (9月15日未明)⇒

              B 西軍(石田方)の主力軍は、

               9月15日午前8時頃から

               午後2時頃まで、関ヶ原盆地

               で、東軍(徳川方)の主力軍

               と交戦(決戦を行う)

               ○ 9月15日の朝から午前

                午後2時頃まで、西軍(石田

               方)石田三成は、

               笹尾山 (ささおやま、関ヶ原

               盆地の北西)で決戦を指揮

               (9月15日午前8時頃〜

               午後2時頃)⇒

              C 9月15日午後2時頃に、

               関ヶ原盆地で、西軍(石田方)

               の主力軍は、総崩れ、敗走、

               敗戦し、東軍(徳川方)の主

               力軍に対し決戦で敗戦する

               (9月15日午後2時頃)。

 

〇 やま  山中 鹿介

              (やまなか しかのすけ)。 《人名》。

             (= 山中 幸盛 (やまなか ゆきもり))。

             (1545年ー1578年)。

          (戦国武将)。 

             ■ 山中 鹿介 (やまなか しかのすけ、

             山中幸盛(ゆきもり)、1545年ー1578

             年)は、 優れた武勇の持ち主で、「山陰

             の麒麟児」(さんいんのきりんじ) と言わ

             れる。 

               山中 鹿介(幸盛)が月に七難八苦を

             祈った話は、有名である。

             ● 山中 鹿介(幸盛)は、 出雲国 (い

             ずものくに、現・島根県東部 の相当地域)

             出身の武将であった。

              山中 鹿介(幸盛)は、 出雲国を本

             拠地とする尼子氏(あまごし)の忠臣であ

             った。

             ● 山中 鹿介(幸盛)は、 毛利氏に滅ば

              された尼子家再興に尽力(じんりょく)し

             た武将であった。 しかし、尼子家再興は

             実現しなかった。

             ● 山中 鹿介(幸盛)は、 播磨国 (はり

             まのくに、現・兵庫県南部の相当領域) の

             西部の上月城(こうづきじょう)陥落時、生

             け捕りとなり、毛利輝元の下(もと)へ護送

             途中、謀殺される。

 

〇 やま   山梨県。

              (やまなしけん)。

          (現都道府県)。 《現地域名》。

             (≒ 前近代日本の、甲斐 国 

             かい  のくに、甲州(こうしゅう)

           山梨県) の相当地域)。

                   YAMANASHI PREFECTURE.

                    (⇒ 甲州)。

                      (⇒ 都道府県)。

                      (⇒ 前近代日本の地域名)。

                      (⇒ 旧国(= 令制国))。

                      (⇒ 旧地域名地域名)。

                      (⇒ 日本の地名)。

 

〇 やま  山名 持豊(宗全)。

             (やまな もちとよ(そうぜん))。

           (守護大名)。 《人名》。 

              YAMANA Mochitoyo (Sozen).

             (⇒ 応仁の乱)。

             ■ 有力守護大名の山名持豊(宗全)は、

             室町幕府の政治の主導権をめぐり、有力

             守護大名の細川勝元(ほそかわかつもと) 

             と対立し、 応仁の乱では、西軍の指導

             者となる。

 

〇 やま  山内上杉氏。 

             (やまのうちうえすぎし)。 

             (関東管領上杉氏)。

               《武家の氏族》。

          (⇒ 室町幕府足利将軍)。

          (⇒ 関東公方

           関東公方足利氏鎌倉府

           鎌倉公方古河公方)。

          (⇒ 堀越公方)。

          (⇒ 関東管領

           関東管領上杉氏

           山内上杉 氏扇谷上杉 氏)。

             ■ 山内上杉氏 (やまのうちうえす

             ぎし)の始祖は、足利尊氏の生母・

             上杉清子(うえすぎきよこ)の兄弟・

             上杉憲房(のりふさ)の子・上杉憲顕

             (のりあき)である。

                ■ 関東管領上杉氏 (かんとうかん

             れいうえすぎし)は、 関東管領職を

             代々世襲した、武家の上杉氏の一

                        族である。

             ■ 関東管領は、 関東管領上杉氏

             諸家が世襲し、 室町時代に関東地

             方に割拠した関東管領上杉氏諸家

             の中では、 山内上 杉家 と 扇谷

             上杉家が有力で、対立し、争った。

             ● 扇谷上杉氏 (おうぎがやつうえ

             すぎし)、の始祖は、足利尊氏の生

             母・上杉清子の兄弟・上杉重顕であ

             る。

                ■ 関東管領は、 室町幕府(= 足利

             幕府)の、東国(とうごく )の関東8国、

             伊豆、甲斐(かい、現・山梨県)を統治

             する役職である。

             ■ 日本の室町時代に、 室町幕府

             東 国統治地方長官である関東公

             方(かんとうくぼう、鎌倉公方、古河

             公方) と 関東公方の補佐役の関

             東管領(かんとうかんれい)が、日本

             の東国(とうごく、関東・東北・中部地

             方)の中の関東8国、伊豆、甲斐(か

             い、現・山梨県))を統治する。 

                  関東管領 職や東国の各国守護

             職の任免権は、 室町幕府の足利

             将軍にあり、 関東公方(鎌倉公方、

             古河公方))にはなか った。

                関東公方(鎌倉公方、古河公方)

             関東管領は、対立するようにな る。

 

〇 やま  山手殿。 

             (やまのてどの)。 《人名》。

             (= 山之手殿)。

          Yamanotedono.

             (1549年?−1613年)。

             ■ 山手殿 (やまのてどの、山之手殿、

             1549年?−1613年)は、 真田 幸村

             (信繁)の生母であり、 真田 幸村(信繁)

             の父・真田 昌幸(まさゆき)の正室夫人 

             である。

             ● 山手殿は、  真田丸 (さなだまる)

             (NHKテレビ・2016年大河ドラマ)では、

             「薫(かおる)」という名(仮称)で登場する。

 

〇 やま  山本 覚馬。

             (やまもと かくま)。 《人名》。

          (= 新島(山本)八重の兄)。

          (新島(山本)八重の一族)。  

          ○ 学者、政治家。 

                     (⇒ 山本氏新島八重)。

 

〇 やま  山本 勘助

             (やまもと かんすけ)。 《人名》。

              (= 山本菅介 やまもと かんすけ)。

          (1500年?〜1561年)。 

          (武田軍の武将)。 

          ○ 武田信玄の家臣、伝令将校。

                     ○ フィクションの甲陽軍鑑では、

          武田信玄の、武田軍の伝説的軍

                     師。

 

〇 やま  山本 権八。

             (やまもと ごんぱち)。 《人名》。

          (= 新島(山本)八重の父)。

          (新島(山本)八重の一族)。  

          ○ 砲術師範、会津藩士。 

                    (⇒ 山本氏新島八重)。

 

〇 やま  山本 三郎。

             (やまもと さぶろう)。 《人名》。

          (= 新島(山本)八重の弟)。

          (新島(山本)八重の一族)。 

                    (⇒ 山本氏新島八重)。

 

〇 やま  山本氏

             (やまもとし)。 《武家の氏族》。

          (= 山本家)。

           (新島(山本)八重の一族)。 

          ○ 会津藩代々砲術指南役

          (砲術師範係)の山本家。

 

〇 やま  山本 八重。

             (やまもと やえ)。 《人名》。

                     (= 新島八重)。

          ○ 幕末のジャンヌ・ダルク。

        (⇒ 新島八重山本氏)。

 

 やや  やや (彌々)

          (= 長生院) 。 《人名》。 

           (豊臣家の一族)。

          ○ 豊臣秀吉・正室夫人「おね

           (ねね)」の妹。

          ○ 浅野長政の正室夫人。

          ○ 戦国時代・安土桃山時代・

                      江戸時代初期の女性。

 

#yayo

 

 やよ  弥生時代 

             (やよいじだい)。

                     (= 紀元前4世紀頃

            紀元(後)3世紀頃)。

                     《日本歴史の時代区分》。

               THE YAYOI PERIOD

           <原始時代・日本。

                     ( 原始時代・日本) 。

          (⇒ 日本歴史の時代区分)。

          (⇒ 弥生人)。

             ■ 弥生時代 (やよいじだい)とは、

             紀元前4世紀頃(約2400年前)から

             紀元(後)3世紀頃(約1700年前)ま

             での期間である。

             ■ 弥生時代は、 原始時代・日本 

             (= 旧石器時代、縄文時代、弥生時代; 

             約3万5000年前ー紀元(後)3世紀頃

             (約1700年前)) の一時期である。

 

 やよ  弥生人 

             (やよいじん)。

                    《日本常住民の日本人》。

          (人類学上の分類・特徴)。

             (日本人のルーツ)。

             THE YAYOIJIN PEOPLE.

          (= 弥生時代の日本地域土着・

                     常住民)。 

           ○ 「縄文系(在来系)弥生人」

          と、 「渡来系弥生人」 と、 

           「縄文・弥生渡来・混血系弥生

          人」 の3グループの弥生人。

          ○ 弥生時代前期に、新モンゴロ

          イドの「弥生渡来系」の人々が

                     ジア大陸より日本地域に移住す

          る。

              ■ 弥生人 (やよいじん、英:THE 

             YAYOIJIN PEOPLE) とは、 弥生時

                            代の日本地域土着・常住民 である。 

                           ●  弥生人には、 「縄文系(在来系)」の

             弥生人、 「弥生渡来系」の弥生人(= 渡

             来系弥生人)、 「縄文・弥生渡来・混血

             系」の弥生人がいた。

                           ● 弥生人とは、 弥生時代日本地域土

             着・常住民であり、 日本の弥生時代に、

             日本地域に居住していた、「縄文系(在

             来系)」の弥生人、 「弥生渡来系」の弥

             生人(= 渡来系弥生人)、 「縄文・弥生

             渡来・混血系」の弥生人の3グループの

             人々(人類)である。

              ■ 弥生人(= 弥生時代日本地域土着・

              常住民)。 

             <モンゴロイド。

             <現生人類(= 新人、ホモ・サピエンス種)。 

             <ヒト属。

             <人類(= ヒト亜族))。

             ○ 弥生人の 地域的・文化的特徴 

             (人類学上の分類・特徴)。                     

              ● 弥生人は、 日本の弥生時代の時期

             に (紀元前4世紀頃(約2400年前)から

             紀元(後)3世紀頃(約1700年前)までの

             間に)、 日本地域(日本本土、北海道、

             南西諸島の日本列島)に居住していた、

             「縄文系(在来系)」の弥生人、 「弥生渡

             来系」の弥生人(= 渡来系弥生人)、 「縄

             文・弥生渡来・混血系」の弥生人の3グル

             ープの人々(人類)である。

                日本本土(本州、四国、九州)に居住

             していた「縄文系(在来系)」、「弥生渡来

             系」、「縄文・弥生渡来・混血系」の弥生人

             であり、 

                南西諸島に居住していた「縄文系

             (在来系)」の弥生人であり、 

                北海道に居住していた「縄文系(在

             来系)」の弥生人 である。 

                          ● 「縄文系(在来系)」の弥生人は、 古

             モンゴロイド(= 南方モンゴロイド)の人

             類である。

                「弥生渡来系」の弥生人 (=「渡来

             系弥生人」)は、 新モンゴロイド(= 北方

             モンゴロイド)の人類である。

                「縄文・弥生渡来・混血系」の弥生

             人は、 古モンゴロイド(= 南方モンゴロ

             イド)の「縄文系」の人々と新モンゴロイ

             ド(= 北方モンゴロイド)の「弥生渡来系」

             の人々が混血した、古・新モンゴロイド

             混血の人類である。             

             ● 「渡来系弥生人」(= 「弥生渡来系」の

             弥生人)は、 シベリア東部で約2万年前

             に進化・出現した新モンゴロイド(= 北方

             モンゴロイド)の「弥生渡来系」の人々で

             あり、 約6000年前 (紀元前4000年

             頃)に原住地のシベリア東部からアジア

             大陸を南下し、 モンゴル地域、満州地

             域(中国東北部)、中国本土地域に広が

             り定住し、 水稲農耕(すいとうのうこう)

             技術(水田稲作技術)を得て、 水稲農

             耕技術を携(たずさ)えて、朝鮮半島その 

             他の地を経由して、 約2400年前(紀元  

             前4世紀頃)から弥生時代前期にかけて、

             農耕地を求めて、 日本地域の日本本土

             (本州、四国、九州)(初め九州本土)に到

             着し(渡来し)、定住した人々であり、主に

             農耕生活を行っていた。

             ● 約6000年前(紀元前4000年頃)か

             ら約700年前(紀元(後)13世紀頃)まで

             の間に、 モンゴル地域、満州(中国東北

             部)、中国本土、朝鮮半島、北アジア、日

             本地域では、 古モンゴロイドの人々 (日

             本では縄文系の人々) と 新モンゴロイド

             (日本では弥生渡来系の人々) の人々は、

             初めは、対立し、別々に居住していたが、

             両者は徐々に混血していき、 モンゴル民

             族、満州民族、漢民族、朝鮮民族、北アジ

             ア諸民族、本土日本人、琉球人、アイヌ人

             などとなっていった。

             ■ 弥生人(日本常住民)への進化表。

               化石類人猿(= 中新世ホミノイド)⇒ 

             人類の、猿人⇒ 原人(= ホモ・エレクト 

             ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類

             ⇒ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス

             (種))⇒ モンゴロイド⇒ 縄文人⇒ 

             弥生人⇒ 古代日本人⇒ 本土日本人

             (= 本土人)、 「琉球人」、「アイヌ人」。

             ■ 現代日本人(日本常住民)への進化表。

               化石類人猿(= 中新世ホミノイド)⇒ 

             人類の、猿人⇒ 原人(= ホモ・エレクト

             ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類

             ⇒ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス

             (種))⇒ モンゴロイド⇒ 縄文人⇒ 

             弥生人⇒ 古代日本人⇒ 中世日本人 

             ⇒ 近世日本人⇒ 近代日本人 

             現代日本人

             ■ モンゴロイドへの進化表。

                化石類人猿(= 中新世ホミノイド)⇒ 

              人類の、猿人⇒ 原人(= ホモ・エレクト

              ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類

              ⇒ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス

              (種))⇒ モンゴロイド古モンゴロイ ド

              = 南方モンゴロイド)⇒ モンゴロイド

              モンゴロイド= 北方モンゴロイド)。

           (⇒ 古モンゴロイド

                  (= 南方モンゴロイド))。

             (⇒ 縄文人縄文系(在来系))。 

          (⇒ モンゴロイド

           = 北方モンゴロイド))。

            (⇒ 渡来系弥生人弥生渡来系)。

            (⇒ 縄文・弥生渡来・混血系)。

            (⇒ 原日本人)。

            (⇒ 日本人)。            

          (⇒ 日本人ルーツ・ガイドブック)。

 

 やよ  弥生文化 

            (やよいぶんか)。

             THE YAYOI CULTURE.

          《日本の文化》。

          (⇒ 日本の文化)。

            ○ 弥生文化は、

          紀元前4世紀頃(約2400年

          前)から紀元(後)3世紀頃(約

          1700年前)までの時代の文

          化である。

              ■ 弥生文化とは、 日本の弥生時代

             の時期に (紀元前4世紀頃(約240

             0年前)から紀元後3世紀頃(約1700

             年前)までの間に)、 日本地域(日本

             本土、北海道、南西諸島の日本列島)

             に居住していた、「縄文系(在来系)」の

             弥生人、「弥生渡来系」の弥生人、「縄

             文・弥生渡来・混血系」の弥生人の3グ

             ループの人類、即ち、弥生人が築き上

             げた文化である。

 

 やよ   弥生渡来系 

             (やよいとらいけい)。

                     《日本常住民の日本人》。

           (人類学上の分類・特徴)。

             (日本人のルーツ)。

             THE YOYOI TORAIKEI PEOPLE.

          (= 渡来系弥生人とその子孫)。 

          (= モンゴロイド(= 北方モンゴ

          ロイド)の日本地域土着・常住民)。 

             (= 新モンゴロイドの、 「渡来系弥生人」、

             と、 「弥生渡来系古代日本人」 の人類)。

             ■ 「弥生渡来系」 (やよいとらいけい)

             とは、 日本の弥生時代の渡来系弥生人

             とその子孫である。

             ● 「弥生渡来系」 (やよいとらいけい、英:

             THE YOYOI TORAIKEI PEOPLE) 

             の人々は、 日本の弥生時代の渡来系

             弥生人とその子孫であり、 新モンゴロイド

             (= 北方モンゴロイド)の日本地域土着・常

             住民 である。

             ● 弥生渡来系の人々は、 日本の弥生時

             代での「渡来系弥生人」であり、 古代日本

             (古墳〜平安時代)での、「弥生渡来系古代

             日本人」、 「縄文・弥生渡来・混血系古代

             日本人」である。

             ● 弥生渡来系の人々は、 中世日本から

             現代日本まで(鎌倉時代から平成時代まで)

             の、縄文・弥生渡来・混血系の、「本土日本

             人」や「琉球人」である。

             ● 弥生渡来系の人々は、 シベリア東部

             で約2万年前に進化・出現した新モンゴロ

             イド(= 北方モンゴロイド)の「弥生渡来系」

             の人々であり、 約6000年前 (紀元前

             4000年頃)に原住地のシベリア東部か

             らアジア大陸を南下し、 モンゴル地域、

             満州地域(中国東北部)、中国本土地域

             に広がり定住し、 水稲農耕(すいとうの

             うこう)技術(水田稲作技術)を得て、 水

             稲農耕技術を携(たずさ)えて、朝鮮半島 

             その他の地を経由して、 約2400年前  

             (紀元前4世紀頃)から弥生時代前期に

             かけて、農耕地を求めて、  日本地域の

             日本本土(本州、四国、九州)(初め九州

             本土)に到着し(渡来し)、定住した人々で

             あり、主に農耕生活を行っていた。

                この人々が、 新モンゴロイド(= 北方

             モンゴロイド)の、弥生渡来系の「渡来系弥

             生人」である。 

             ● 弥生時代前期にアジア大陸から日本

             本土の九州に大挙してやって来た、農耕

             主体の、弥生渡来系 新モンゴロイド(= 北

             方モンゴロイド)の人々は、 弥生時代とそ

             の後の古代日本(古墳、飛鳥白鳳、奈良、

             平安時代)の時期に、徐々に、九州から、

             日本本土(九州、四国、本州)を北上・東

             進し、また、南西諸島へ南下する。

                そして、古代日本後期(奈良・平安時

             代)には、 農耕を行うため、 九州、四国、

             本州に住む弥生渡来系・新モンゴロイド

             (= 北方モンゴロイド)の人々が、北上し、

             東北地方にも進出し、 行く先々の現地の

             縄文系古モンゴロイド(= 南方モンゴロイド)

             の人々とも一緒に住み、混血し、「本土日本

             人」を形成する。

                一方、九州に住む弥生渡来系 新モン

             ゴロイド(= 北方モンゴロイド)の人々は、古

             代日本後期(奈良・平安時代)には、 農耕

             を行うため、 南下し、 南西諸島にも進出

             し、 行く先々の現地の縄文系・古モンゴロ

             イド(= 南方モンゴロイド)の人々と一緒に住

             み、混血し、「琉球人」を形成する。 

             ● 約6000年前(紀元前4000年頃)か

             ら約700年前(紀元(後)13世紀頃)まで

             の間に、 モンゴル地域、満州地域(中国

             東北部)、中国本土地域、朝鮮半島、北ア

             ジア、日本地域では、 古モンゴロイドの人

             々 (日本では縄文系の人々) と、 新モ

             ンゴロイドの人々 (日本では弥生渡来系

             の人々) は、 初めは、対立し、別々に居

             住していたが、 両者は徐々に混血してい

             き、 モンゴル民族、満州民族、漢民族、朝

             鮮民族、北アジア諸民族、本土日本人、琉

             球人、アイヌ人 などとなっていった。

              ■ 日本人(日本常住民)への進化表。

               化石類人猿(= 中新世ホミノイド)⇒ 

             人類の、猿人⇒ 原人(= ホモ・エレクト 

             ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類

             ⇒ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス

             (種))⇒ モンゴロイド⇒ 縄文人⇒ 

             弥生人⇒ 古代日本人⇒ 本土日本人

             (= 本土人)、 「琉球人」、「アイヌ人」。

              ■ 現代日本人(日本常住民)への進化表。

               化石類人猿(= 中新世ホミノイド)⇒ 

             人類の、猿人⇒ 原人(= ホモ・エレクト

             ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類

             ⇒ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス

             )⇒ モンゴロイド⇒ 縄文人⇒ 

             弥生人⇒ 古代日本人⇒ 中世日本人 

             ⇒ 近世日本人⇒ 近代日本人 

             現代日本人

              ■ モンゴロイドへの進化表。

                化石類人猿(= 中新世ホミノイド)⇒ 

              人類の、猿人⇒ 原人(= ホモ・エレクト

              ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類

              ⇒ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス

              (種))⇒ モンゴロイド古モンゴロイ ド

              = 南方モンゴロイド)⇒ モンゴロイド

              モンゴロイド= 北方モンゴロイド)。

           (⇒ 渡来系弥生人)。

          (⇒ モンゴロイド)。

           (⇒ 原日本人)。

          (⇒ 日本人)。            

          (⇒ 日本人ルーツ・ガイドブック)。

 

 やよ   弥生渡来系古代日本人。 

             (やよいとらいけい こだいにほんじん)。

                    《日本常住民の日本人》。

          (人類学上の分類・特徴)。

             (日本人のルーツ)。

             THE YOYOITORAIKEI ANCIENT 

             JAPANESE PEOPLE.

              ■ 弥生渡来系古代日本人は、 古代日本

              の時期に、日本地域に居住していた、 新

              モンゴロイドの弥生渡来系の人々 である。

           (⇒ 弥生渡来系)。

           (⇒ 古代日本人)。                        

            (⇒ 渡来系弥生人)。

            (⇒ 原日本人)。

          (⇒ 日本人)。            

          (⇒ 日本人ルーツ・ガイドブック)。

          (⇒ モンゴロイド)。

 

〇 やよ  弥生渡来・縄文・混血系。 

             (やよいとらい・じょうもんこんけつけい)。

                    《日本常住民の日本人》。

          (= 縄文・弥生渡来・混血系)。

          (人類学上の分類・特徴)。

             (日本人のルーツ)。

            (⇒ 縄文・弥生渡来・

          混 血系)。

             THE JOMONKEI-YAYOITORAIKEI 

             MIXED RACIAL PEOPLE.

             ■ 日本の、縄文・弥生渡来・混血系の人々

             は、 古モンゴロイド(= 南方モンゴロイド)の、

             縄文人とその子孫の、縄文系の人々 と、 

             新モンゴロイド(= 北方モンゴロイド)の、渡

             来系弥生人とその子孫の、弥生渡来系の人

                         々が混血して形成された人類 である。

             ● 日本の、縄文・弥生渡来・混血系の人々

             は、 弥生時代では「縄文・弥生渡来・混血

             系弥生人」であり、 古代日本では「縄文・

             弥生渡来・混血系古代日本人」であり、 中

             世日本から現代日本までの時期では「本土

             日本人、琉球人」である。

          (⇒ 古モンゴロイド)。

            (⇒ 縄文人縄文系)。

          (⇒ モンゴロイド)。

            (⇒ 渡来系弥生人弥生渡来系)。 

            (⇒ 原日本人)。

          (⇒ 日本人)。

          (⇒ 日本人ルーツ・ガイドブック)。

 

 やよ   弥生渡来・縄文・混血系 

             弥生人。

             (やよいとらい・じょうもん・こ んけつけい

             やよいじん)。

                    《日本常住民の日本人》。

            (= 縄文・弥生渡来・混血系弥生人)。

          (人類学上の分類・特徴)。

             (日本人のルーツ)。

            (⇒ 縄文・弥生渡来・混

        血系弥生人)。

             THE JOMONKEI-YAYOITORAIKEI 

             MIXED RACIAL YAYOI PEOPLE.

 

 やよ   弥生渡来・縄文・混血系

       古代日本人。

            (やよいとらい・じょう もん・こんけつけい

             こだいにほんじん)。

                    《日本常住民の日本人》。

            (= 縄文・弥生渡来・混 血系古代

                    日本人)。

          (人類学上の分類・特徴)。

             (日本人のルーツ)。

            (⇒ 縄文・弥生渡来・混

        血系古代日本人)。

             THE JOMONKEI-YAYOITORAIKEI 

             MIXED RACIAL ANCIENT 

             JAPANESE PEOPLE.

 

 

 

   ● 五十音順 (あいうえお順)。

 

 

   ■  『 現在は、過去の成果であり、

       未来は、現在の成果である。 

         (過去の良き積み重ねが良き現在を

          つくり、 現在の良き行為が、明るい

          良き未来をつくる。)

         (良き現在は、過去の人々の良き努力

          や活動の積み重ねの成果であり、 

          明るい良き未来は、現在の人々の、

          良き努力や活動の積み重ねによって

          形成される。)

 

 

■ 上位のWEBサイト。 

 □ (KOH) カナヤマ オフィシャル   >

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#jpdictionary(general)

 

◆ 日本史辞典

 

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#ya

 

◆ 派生見出し語サイト。

■ 「や」 基本・見出し語WEBサイト No. ja−ya  

  の、派生見出し語サイト

 

■ No. ja−ya−0770。

● 見出し語項目 や   ( ぎ 07  / ゅ 70

   付近  第1部・き・総合グループ )。

〇 やぎ  柳生 十兵衛 (やぎゅう じゅうべい)

       (= 柳生 三厳 みつよし) (剣豪)

〇 やぎ  柳生 石舟斎 (やぎゅう せきしゅうさい) 

       (= 柳生 宗厳 むねよし)(剣豪)

〇 やぎ  柳生 兵庫助 (やぎゅう ひょうごのすけ)

             (= 柳生 利厳 としとし、としよし)(剣豪)

〇 やぎ  柳生 宗矩 (やぎゅう むねのり) 

                    (剣術家) (江戸幕府・大目付)               

 

 No. ja−ya−3149。

● 見出し語項目 や   ( ま 31  / と 49

  付近  第1部・ま・タ行グループ )。

〇 やま  大和時代 (やまとじだい)

                     (= 古墳・飛鳥白鳳時代)

                ○ 約3世紀〜710年。

〇 やま  ヤマト政権 (やまとせいけん) 

          (= 豪族連合政権) (約5世紀

          〜701年頃)。

〇 やま  ヤマト政権の日本統一 

             (やまとせいけんのにほんとういつ)

             (4世紀後半) 。

 

 No. ja−ya−3170。

● 見出し語項目 や  の〜も ( ま 31  /の〜も 

   70 付近  第1部・ま・総合グループ )。

〇 やま  山内 容堂 (やまのうち ようどう)

                     (= 山内豊信 とよしげ

          (幕末の土佐藩主)。

〇 やま  山本 勘助 (やまもと かんすけ) 

                    (武田信玄の家臣、伝説的軍師)

 

 No. ja−ya−4012。

● 見出し語項目 や   ( よ 40  / い 12

  付近  第1部・よ・ア行グループ )。

 やよ  弥生時代 (やよいじだい) 。

           (紀元前4世紀頃 〜紀元3

          世紀頃)。

 やよ  弥生人 (やよいじん)。

 やよ  弥生文化 (やよいぶんか) 。

            (紀元前 4世紀頃〜紀元3

          世紀頃) 。

 

 

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#yamanaka

 

◆ 山中。

      (やまなか)。

        (

■ 山中。

 

■ 名称 : 山中 (やまなか)。

 

■ 山中は、

  前近代日本の、美濃国の山中(やまなか)村であり、

  現在の岐阜県関ヶ原町山中地区である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 41639。

 

 

           ■ 「史実(新説)の関ヶ

           原の戦い」の決戦日

           東西両軍の概要表。

              

              ■ 一次史料に基づく「新説(史実)

              関ヶ 原の戦い(= 大垣・山中の戦

               い)」 の決戦 (決戦 場所・日時:

              山中(やまなか)村で、1600年(慶

              長5年)9月15日午前10時頃〜正

              午頃) では、 

              美濃赤坂から移動し山中村の東側

              に布陣する徳川方の東軍主力軍 

              と、 大垣城から移動し山中村の西

              に布陣する奉行衆・毛利方の西 

              軍主力軍が、 午前10時頃から正

              午頃まで美濃国の山中(やまな

              か)で戦う。 結果、東軍が勝利

              を得る。

                 美濃赤坂から移動してきた東

              の徳川家康と徳川本隊は、16

              00年(慶長5年)9月15日に、

              山中(やまなか)に向かう途中で、

              関ヶ原盆地南西部で、早朝、奉行

              衆・毛利方の西軍の大谷軍と対峙

              し(遭遇し)戦い、勝利を得る。 

              次に、家康と徳川本隊は、美濃赤

              坂から移動してきた徳川方の東軍

              の福島勢と合流し、東軍主力軍は、

              山中村の東側に布陣する。

                大垣城から移動してきた宇喜

              多秀家と宇喜多軍は、1600年

              (慶長5年)9月15日に、山中村

              の西側に布陣する。

                 大垣城から移動してきた石田

              三成と石田軍は、1600年(慶長5

              年)9月15日に、山中付近の

              の自害峯(とうげのじがいみね)に

              移動し、その後、すぐ近くの山中村

              で西軍主力軍と合流し、山中村の

              西側に布陣する。

                 美濃国の山中(やまなか)村

              で、 1600年(慶長5年)9月15 日

              の午前10時頃から、美濃赤坂から

              移動し山中村の東側に布陣する東

              軍主力軍の福島勢と徳川本隊は、 

              大垣城から移動し山中村の西側に

              布陣する奉行衆・毛利方西軍主

              力軍の小西・宇喜多・石田・島津勢

              等の軍と対峙し、戦い、正午頃に、

              勝利を得る。

 

           ■ 「伝説(従来説)の

           関ヶ原の戦い」の決戦日

           東西両軍の概要表。

 

              ■ 一方、「従来説(伝説)の関ヶ原の

              戦い」の決戦 (決戦場所・日時:関ヶ

              原盆地で、1600年(慶 長5年)9月

              15日午前8時頃〜午後2時頃) では、

               1600年(慶 長5年)9月15日に、

              美濃赤坂から移動し関ヶ原盆地の東

              側に布陣する徳川方の東軍主力軍

              と 大垣城から移動し関ヶ原盆地の

              西側に布陣する石田方の西軍主力 

              軍が、午前8時頃から午後2時頃ま

              美濃国の関ヶ原盆地で戦う。 

              結果、東軍が勝利を得る。

                  徳川家康と徳川本隊は、16

               00年(慶長5年)9月15 日に、

               最初は(午前8時頃)、関ヶ原盆地

               の東側の、桃配山(ももくばりやま、 

               家康最初陣地)に本陣(陣地)を置

               き、その後(午前10時頃以後)、移

               動し、関ヶ原盆地中央部の陣場野

               (じんばの、家康最終陣地)に本陣

               (陣地)を置き、徳川方の東軍 主力

               軍を指揮する。    

                 大垣城から移動してきた石田

               三成と石田軍は、1600年(慶長

               5年)9月15 日に、関ヶ原盆地の

               西側の、笹尾山(ささおやま)に本

               陣(陣地)を置き、石田方の西軍

               主力軍を指揮する。    

                  大垣城から移動してきた宇喜

               多秀家と宇喜多軍は、1600年

               (慶長5年)9月15日に、関ヶ原盆

               地の西側の天満山(てんまやま)

               に布陣する。

                 美濃国の関ヶ原盆地で、1600

               年(慶長5年)9月15日の午前8時

               頃から、関ヶ原盆地の東側に布陣

               する徳川方の東軍主力軍は、大垣

               城から移動し関ヶ原盆地の西側

               布陣する石田方西軍主力軍と

               対峙し、戦い、午後2時頃に、勝利

               を得る。

 

 

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#theyamanakabattle

 

■ 山中の戦い。

      ( やまなかのたたかい)。

      (= 新説関ヶ原の戦い

        の山中の戦い)。

        (

■ 山中の戦い

    (= 新説関ヶ原の戦い

        の山中の戦い)。

■ 名称 : 山中の戦い 

        (やまなかのたたかい)。

■ 別名 : 山中合戦。

■ 《戦い》。

■ 山中の戦いは、

   新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」の

   山中の戦いである。

■ 山中の戦いは、

  1600年(慶長5年)9月15日の、

   美濃国の山中(やまなか)村付近での戦い

  である。

■ (⇒ 大垣・山中の戦い)。

   (⇒ 関ヶ原の戦い)。

   (⇒ 天下分け目の戦い)。

  (⇒ 五奉行五大 老、豊臣氏五大老・五奉行

     内府ちがひの条々、豊臣政権豊臣氏)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 41638。

 

 

 □ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中

    の戦い)」

    画像アルバム No.2

 

 □ 「従来説 (伝説) ・関ヶ原の戦い」

    画像アル バム No.3 

 

 

 ■ 山中の戦い。

 

  ■ 「山中の戦い( やまなかのたたかい)」とは、 

   新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)の

   合戦の1つであり、 美濃国の山中(やまな

   か)付近 (関ヶ原盆地西部と山中)で、

   1600年(慶長5年)9月15日の夜明けから

   正午頃まで、 東軍の徳川方 と西軍の奉

   行衆 ・毛利方との間で行われた合戦であ る。 

   戦いの結果、徳川方の東軍が勝利を 得る。

 

  ■ 山中(やまなか)付近で、1600年(慶長5年)

  9月15日の早朝から正午頃まで、東軍(徳川

  方) と 西軍(奉行衆・毛利方)が争った戦い。

  戦いの結果、徳川方の東軍が勝利を得る。

 

  ■ 山中の戦い。 徳川方の勝利。

  時期 : 1600年(慶長5年)9月15日の夜明け

        から正午頃まで。

  場所 : 美濃国の山中(やまなか)付近  (関ヶ

        原盆地南西部、山中、藤下(とうげ)、

        松尾山(まつおやま)山麓などの地域) 。

 

 

 ■ 「新説関ヶ原の戦い」(= 大垣・

    山中の戦い)の布陣図。

 

  

 

 

 

 ■ 「大垣・山中の戦い」

      (= 新説関ヶ 原の戦い)の決戦。

 

  ■ 一次史料に基づく「大垣・山中の戦い(= 新説

  の関ヶ原の戦い)」(1600年(慶長5年)8月

  26日頃ー9月15日)では、もし西軍 の奉行衆・

  毛利方南宮山布陣の 大垣城後詰軍の毛利

  勢が 9月15日に予想される東軍の徳川方か

  ら攻撃を受け敗北すると西軍 の奉行衆・毛利

  方が駐留する大垣城が孤立し非常に不利と

  なるので、 大垣 城に駐留していた西軍の奉

  行衆・毛利方の小西・宇喜多・石 田・島津勢

  等の軍は、1600年(慶長5年)9月15日に

  予想される東軍の徳川方による南宮山の西

  軍の奉行衆・毛利方の毛利勢への攻撃に備

  えて(の後詰として)、西軍の奉行衆・毛利方

  小 西・宇喜多・石 田・島津勢等の西軍主力

  軍・約3万人の兵は、1600年(慶長5年)9月

  14日の日没後、大垣城を出て、関ヶ原盆地・

  山中(やまなか)方面へ向い、 14日の日没

  後、その西軍主力軍を追って徳川方の福島

  勢と家康の徳川本隊の東軍主力軍・約5万

  1000人の兵は大垣付近から関ヶ原盆地・

  山中(やまなか)方面へ向い、 奉行衆・毛利

  方の西軍主力軍は9月15 日の午前4時頃、

  山中(やまなか)付近に布陣し、 その後、

  西軍主力軍を追って移動してきた徳川方の

  東軍主力軍・約5万1000人の兵と奉行衆・

  毛利方の西軍主力軍・約3万人の兵とが、

  1600年(慶長5年)9月15日の午前10時

  頃から正午頃まで、 関ヶ原盆地の南西方

  向・約2kmにある、山中 (やまなか)村で決

  戦を行い、徳川方の東軍主力軍が勝利を得、

  奉行衆・毛利方の西軍主力軍が敗北する。

 

 

 

 ■  山中の戦い。

 

  ■ 「山中の戦い( やまなかのたたかい)」は、「大垣・ 

   山中の戦い(= 新説関ヶ原の戦い)」の1つであ

   り、 関ヶ原の戦い直後の一次史料(同時代手

   紙・日記など)に 基づく

      「新説関ヶ原の戦い」の山中の戦いでは、 

  『 歴史群像・2017年10月号掲載の「通説打破!

  関ヶ原合戦の真実」 』(白峰旬教授著)その他の

  多くの一次史料も、参考資料・データとして、利用し

  るてい。

 

  ■ 1600年(慶長5年)9月に、美濃赤坂(みのあ

   かさか)エリアには、既に、東軍の徳川方の先手勢

   (豊臣恩顧の大名)約4万人の兵がいた。

      1600年(慶長5年)9月14日に、徳川家康の

   率いる東軍の徳川本隊・約3万2000人の兵が美

   濃赤坂エリアに到着した。

      1600年(慶長5年)9月14日に、南宮山(なん

   ぐうさん)に布陣し、約1万3000人の兵を率いる毛

   利秀元(もうりひでもと)は、美濃赤坂エリアにいる、

   徳川方の先手勢・約4万人(福島勢・約1万9000

   人と池田勢・約2万1000人)と徳川本隊・約3万

   2000人の東軍の計約7万2000人の兵を、南宮

   山から見た。 そして、西軍の毛利秀元は、南宮山

   の陣より、野戦に強い、東軍の徳川方の大軍を見て、

   東軍の徳川方と戦うのを躊躇(ちゅうちょ)した。

      更に、1600年(慶長5年)9月15日も、西軍の

   毛利秀元は、 東軍の徳川方と戦うのを躊躇(ちゅう

   ちょ)した。

             大垣城(おおがきじょう)を出た奉行衆・ 毛利

   の西軍の主力軍・約3万人の兵は、 南宮山布陣の

   毛利軍の後詰(ごずめ)として、西方の山中(やまな

   か)に布陣し、東方の南宮山布陣の西軍の毛利秀元

   の約1万3000人の兵と協力し、関ヶ原盆地や山中

   に出てきた東軍の徳川方の主力軍・約51,000人

   の兵 (徳川本隊・約3万2000人と福島勢・約1万

   9000人)を挟み撃ちにしようと考えていた。

      しかし、1600年(慶長5年)9月15日に、東方

   南宮山布陣の西軍の毛利秀元は、動かず、戦い

   を静観した。 このため、奉行衆・ 毛利の西軍の

   主力軍・約3万人の兵は、山中で、一方的に攻めら

   れ、総崩れとなり、その結果、奉行衆・ 毛利の西

   軍は、新説関ヶ原の戦いの決戦の「山中の戦い」で、

   敗北した。

 

 

 ■  関ヶ原の戦い。

 

  ■ 関ヶ原の戦いには、 「従来説(伝説)の関ヶ原の

  戦い」 と、 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の

  戦い)」 という2つの有力な説がある。

 

  ■ 「新説関ヶ原の戦い」(= 大垣・山中 の戦い)は、

   時期は1600年(慶長5年)の(東軍の美濃赤

   坂布陣の)8月26日頃から9月15日まであり、

   場所は美濃国の大垣付近や山中付近であり、 

   美濃国に結集した、東軍・約7万3000人、西

   軍・約5万4000人の東西両軍・約12万7000

   人が戦い、 その決戦は、主戦場の山中であ

   り、1600年(慶長5年)9月15日の午前10時

   頃から正午頃まで、徳川方の東軍と奉行 衆・

   毛利方の西軍との間で行われ た。 戦いの結

   果、徳川方の東軍が勝利を得る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」は、 広義で

   は、時期は1600年(慶長5年)の(東軍の美濃

   赤坂布陣の)8月26日頃から9月15日まであ

   り、場所は美濃国の関ヶ原盆地と関ヶ原盆地の

   周辺地域であり、 美濃国に集結した、東軍・約

   7万人、西軍・約8万人の東西両軍・約15万人

   が戦い、 その決戦は、主戦場の関ヶ原盆地で

   あり、 1600年(慶長5年)9月15日の午前8

   時頃から午後2時頃まで、 徳川方の東軍と石

   田方の西軍との間で行われた。 戦いの結 果、

   徳川方の東軍が勝利を得る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 新説関ヶ原の戦い 

    (= 大垣・山中の戦い)

 

  ■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」に

    は、「大垣の戦い」 と、 「山中の戦い」 の2つ

    の戦いがある。 

 

 

 ◆ 山中の戦い。

 

  ■ 山中の戦いの時期 : 1600年(慶長5年)9月

  15日の夜明け〜正午頃。

  山中の戦いの場所 : 美濃国の山中(やまなか)

  付近 (関ヶ原盆地西部、山中の付近) 。

 

  ● (S) 「山中の戦いの西軍(奉行衆方)参加軍」は、

  @ 関ヶ原盆地西部布陣の先方隊の大谷軍

     (約1200人)、

  B 山中(やまなか)付近に布陣し、山中に移動

     して戦った小西・宇喜多・石 田・島津勢等の軍

     (約2万人)

  の計約2万1200人である。

 

  ● (T) 「山中の戦いの東軍(徳川方)参加軍」は、

  @ 関ヶ原盆地西部、次に山中(やまなか) に

     移動して戦った東軍(徳川方)の徳川本隊

    (約3万2000人、徳川家康、井伊直政、

     本多忠勝、家康馬廻り衆等の軍

  A 松尾山山麓に布陣し、西軍から東軍に寝返り、

     関ヶ原盆地南西部に移動し戦った小早川軍

    (約8000人)、

  B 山中(やまなか)に移動して戦った東軍(徳川

         方)の徳川方先手勢の福島勢の軍(約1万

    9000人、福島・黒田・細川・藤堂・筒井・田中・

    加藤嘉明・京極高知等の軍)

  の計約5万9000人である。

 

 

  ● 〈第1段階〉 

  1600年(慶長5年)9月15日の夜明け、 

  美濃国の関ヶ原盆地 西部で、

  (S) 西軍(奉行衆・毛利方)の先方隊の大谷軍

     (約1200人)

  と、 

  (T) 東軍(徳川方)の徳川本隊(約3万2000

     人) や この時東軍に寝返った西軍(奉行

     衆・毛利方)の小早川軍(約8000人)

  とが対峙し、戦う。 

     結果、 西軍(奉行衆・毛利方)の大谷軍は

  全滅し、 東軍(徳川方)は勝利を得る。

 

 

  ● 〈第2段階〉 

  1600年(慶長5年)9月15日の午前10時頃 から

  正午頃まで、 

  美濃国の山中(やまなか)で、

  (S) 西軍(奉行衆・毛利方)の小西・宇喜多・石田・

      島津勢等の軍(約3万人)

  と、 

  (T) 東軍(徳川方)の徳川方先手勢の福島勢の

     軍(約1万9000人)や徳川本隊(約3万2000

     人)

  とが対峙し、戦う。 

     結果、 西軍(奉行衆・毛利方)は、総崩れとな

  り敗走し、敗北し、徳川方の東軍が勝利を得る。

 

 

 ■  山中の戦い。

 

  ■ 山中の戦い (やまなかのたたかい、山中合戦)

  は、 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

  の山中の戦いであり、 1600年(慶長5年)9月

  15日に、美濃国(みののくに)の山中(やまなか)

  付近で行われた戦いである。 戦いの結果、徳川

  方の東軍が勝利を得る。

                 

  ■ 山中の戦いは、 山中(やまなか)付近で、 

  1600年(慶長5年)9月15日の早朝から正午頃ま

  で、 東軍(徳川方) と 西軍(奉行衆・毛利方)

  が争った戦いである。

 

  ■ 「山中の戦い」 (やまなかのたたかい)は、

   1600年(慶長5年)の、天下分け目の戦いの「新

  説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い、大垣

  の戦いと山中の戦い)」の1つである。

 

  ■ 「山中の戦い」 (やまなかのたたかい)は、 

  美濃国の山中(やまなか)付近 (関ヶ原盆地

  南西部と山中) で、 1600年(慶長5年)9月

  15日 の夜明けから正午頃まで、 東軍(徳川

  方)と西軍(奉行衆・毛利方) との間で争われ

  た合戦であ る。 戦いの結果、徳川方の東軍

  が勝利を得る。

              

 

 ■  山中の戦い。

 

  ■ 西軍(奉行衆・毛利方)の主力軍の小西・ 宇

  喜多・石田・島津勢等の軍は、 西軍(奉行衆・

  毛利方)南宮山(なんぐうさん)布陣の毛利

  勢の後詰部隊(後援部隊)として、 1600年

  (慶長5年)9月14日夜に 、大垣付近の大垣

  城から出て、 南宮山の西方の山中(やまな

  か)付近に9月15日未明に移動した。

      1600年(慶長5年)9月15日 以後に

   東軍(徳川方)の主力軍は大垣付近の南宮山

   布陣の毛利勢を攻めるとばかり、西軍(奉行衆・

   毛利方)の小西・ 宇喜多・石田・島津勢等の

   軍は思っていたため、 東軍(徳川方)の主力 

   軍の徳川方先手勢の福島勢や徳川本隊が関

   ヶ原盆地・山中方面に移動してくるとは西軍(奉

   行衆・毛利方)の小西・ 宇喜多・石田・島津 勢

   等の軍(約3万人)は、考えておらず、想定外

   あり、 西軍(奉行衆・毛利方)の小西・ 宇喜多・

   石田・島津勢等の軍(約3万人)は、 追いかけ

   てきた東軍(徳川方)の主力軍と山中(やまなか)

   で、直接遭遇して、慌(あわ)てふためき、劣勢と

   なり、午前10時頃から正午頃まで、東軍(徳川

   の方)福島勢や徳川本隊(計約5万1000人)と

   戦い、総崩れとなり敗走し、敗北し、徳川方の

   軍が勝利を得る。

   

  ■ 大谷軍。

    1600年(慶長5年)9月15日の「山中の戦

  い」で、 西軍(奉行衆・毛利方)の大谷軍は、 

  既に関ヶ原盆地南西部に布陣していた。

      大谷軍(約1200人)は、 大谷吉継が

   北陸方面から移動し、1600年9月14日夜

   に、大垣城後詰部隊として関ヶ原盆地南西

   部に布陣した軍である。

 

  ■ 小早川軍。

     小早川秀秋は、 西軍(奉行衆・毛利方)に

   属してはいたが、 初めっから徳川方の東軍に

   内通していたため、 関ヶ原盆地・山中方面に

   移動する西軍(奉行衆・毛利方)の動向を徳川

   方の東軍に知らせていたので、 東軍(徳川方)

   は、山中の戦いを有利に進めることができた。

     1600年(慶長5年)9月15日の「山中の戦

   い」で、 西軍(奉行衆・毛利方)の小早川軍は、

   既に松尾山山麓に布陣し、そこから関ヶ原盆地

   南西部へ出撃した。

       西軍(奉行衆・毛利方)の小早川軍(約80

   00人)は、 小早川秀秋(こばやかわひであき)

   が1600年9月に松尾山山麓に布陣した軍であ

   る。

   

       西軍(奉行衆・毛利方)の小早川軍(約80

   00人)は、1600年(慶長5年)9月15日の夜

   明けに、東軍(徳川方)に 寝返り、関ヶ原盆地南

   西部にいた西軍(奉行衆・毛利方)の大谷軍を攻 

   撃し、大垣付近から移動して来た徳川本隊と挟み

   撃ちにし、大谷軍を全滅させる。

 

 

 ■  山中の戦い。

 

  ■  山中の戦いは、 1600年(慶長5年) 9月15

   日の夜明けから 正午頃までの間、 山中(やま

   なか)付近の関が原盆地南西部や山中で、 

   東軍(徳川方) と 西軍(奉行衆・毛利方) と

   が争った合戦である。 戦いの結果、徳川方の

   東軍が勝利を得る。

 

  ■ 山中の戦いでは、 最初に、関ヶ原盆地南西部で、 

   1600年(慶長5年)9月15 日の夜明けに、 

   大垣付近から移動してきた東軍(徳川方)の徳川

   本隊 や 既に松尾山山麓に布陣する 西から

   東軍に寝返った小早川軍 と、 既に関ヶ原盆地

   南西に布陣する西軍(奉行衆・毛利方)の大谷

   軍 との間で合戦が 行われ、 結果は、大谷軍が

   全滅する。

      次に、 山中の戦いでは、関が原盆地の南西

   方向・ 約2kmにある山中(やまなか)で、1600年

    (慶長5年)9月15日の午前10時頃から正午頃

    まで、 大垣付近から移動してきた東軍(徳川方)

    の徳川方先手勢の福島勢や徳川本隊 と、 大

    垣付近の大垣城から移動して来た西軍(奉行衆・

    毛利方)の小 西・宇喜多・石田・島津勢等の軍 

    との間で合戦が行われ、結果は、西軍(奉行衆・

    毛利方)の  小西・宇喜多・石田・島津勢等の軍

    は、総崩れとなり敗走し、敗北し、徳川方の東軍

    が勝利を得る。

              

  ■ 山中の戦いでは、 最初に、関ヶ原盆地南西部 

   で、 1600年(慶長5年)9月15 日の夜明け

   に、 大垣 の美濃赤坂付近から移動してきた

   東軍(徳川方)の徳川本隊 (約3万2000人、

   徳川家康、井伊直政、本多忠勝、家康馬廻り衆

   等の軍) や 既に松尾山山麓に布陣し西

   ら東軍に寝 返った小早川軍 (約8000人、小

   早川秀秋が1600年9月14日に松尾山山麓に

   布陣した軍) と、 既に関ヶ原 盆地南西部

   布陣する西軍(奉行衆・毛利方)の大谷軍  (約

   1200人、大谷吉継が1600年9月 14日夜、

   大垣城後詰部隊として北陸方面から移動し関ヶ

   原盆地南西部に布陣した軍) との間で合戦が

   行われる。 結果は、大谷軍が全滅する。

      次に、 山中の戦いでは、関が原盆地の

   西方向・ 約2kmにある山中(やまなか)で、  

   1600年(慶長5年)9月15 日の午前10時頃

   から正午頃まで、 大 垣付近から移動してきた

   東軍(徳川方)の徳川方先手勢の福島勢 (

   1万9000人、福島・黒田・ 細川・藤堂・筒井・

   田中・加藤嘉明・京極高知等) や 徳川本隊 

   (約3万2000人、徳川家康、井伊直政、本多

   忠勝、家康馬廻り衆等の軍) の計5万1000人

   の軍 と、 大垣付近の大垣城から移動して来た

   西軍(奉行衆・毛利方)の小西・宇喜多・石田・島

   津勢等の約3万人の軍 との間で合戦が 行われ

   る。  結果は、西軍(奉行衆・毛利方)の小西・

    宇喜多・石田・島津勢等の軍は、総崩れ となり

   敗走し、敗北し、徳川方の東軍が勝利を得る。

 

 

 ■  山中の戦い。

 

  ■ 「大垣・山中の戦い(= 新説関ヶ原の戦い)」の

   1つの、「山中の戦い」で は、 第1段階として、

   1600年(慶長5年) 9月15日の夜明けに

   関が原盆地南西部で、 東軍(徳川方)の徳川

   本隊約3万2000人)や西から東軍に寝返

   った小早川軍(約 8000人)等の軍 と、 西軍

   (奉行衆・毛利方)の先方隊の大谷軍(約1200

   人)との間で合戦が行われ 西軍(奉行衆・毛

   利方)の大谷軍が全滅した。

        第2段階として、「山中の戦い」では、

   関が原 盆地の南西方向・約2kmにある主戦場

   の山中(やまなか)で、 1600年(慶長5年) 9月

   15日の午前10時頃から正午頃までの間、 

   東軍(徳川方)の徳 川方先手勢の福島勢(約1万

   9000人)、徳川本隊(約3万2000人)等の計・

   約5万1000人の軍 と、 西軍(奉行衆方)の小

   西・宇喜多・石田・ 島津勢等の約3万人の軍との

   間で合戦が行われた。 西軍(奉行衆・毛利方)が

   総崩れとなり敗走し敗北し、 徳川方の東軍が

   勝利を得た。

      山中にいた西軍(奉行衆・毛利方)の亀井

   軍は、東軍(徳川方)に寝返る。

      山中にいた西軍(奉行衆・毛利方)の島津

    勢(島津義弘・島津豊久の軍)は、山中(やま

    なか)の東側にいた徳川方の東軍(徳川方)

    の中を「敵中突破」し、逃走し、大垣城に向っ

    て脱出し、追撃され、途中で大垣城も危ない

    と知るや伊勢街道を通り、南下し、大阪に向

    い、大阪湾で船に乗り、薩摩に帰国する。

    敗走途中、東軍(徳川方)の追撃で島津勢

    の多くの兵が勇敢に戦い戦死し、島津義弘

    (しまづよしひろ)の甥・島津豊久(しまづと

    よひさ)も戦死し、結局、敗走途中、東軍(徳

    川方)の追撃や落ち武者狩りで、約1500人

    いた島津勢の兵のうち無事帰国できたのは

    島津義弘と約70人の島津氏家臣であった。

 

 

 ■ 関ヶ 原の戦いの決戦。

 

              ■ 一次史料に基づく「新説(史実)

              関ヶ 原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

               の決戦 (決戦場所・日時:山中村で、

              1600年(慶 長5年)9月15日午前

              10時頃〜正午頃) では、 

              1600年(慶長5年)9月15日に、

              濃赤坂から移動してきた東軍の徳川

              家康と徳川本隊は、山中(やまなか)

              村に向かう途中で、関ヶ原盆地南西

              部で、早朝、奉行衆・毛利方の西軍

              の大谷軍と対峙し(遭遇し)戦い、勝

              利を得る。 次に、家康と徳川本隊は、

              美濃赤坂から移動してきた徳川方の

              東軍福島勢と合流し、美濃国の山

              中(やまなか)村で、午前10時頃から、

              東軍主力軍は、 大垣城から移動し

              山中村に布陣する奉行衆・毛利方

              小西・宇喜多・石田・島津勢等の西

              軍主力軍と対峙し戦い、正午頃に、

              勝利を得る。

 

              ■ 一方、「従来説(伝説)の関ヶ原の

              戦い」の決戦 (決戦 場所・日時:関ヶ

              原盆地で、1600年(慶 長5年)9月

              15日午前8時頃〜午後2時頃) では、

               1600年(慶 長5年)9月15日に、

              美濃赤坂から移動し関ヶ原盆地の東

              側に布陣する徳川方の東軍主力軍

              と 大垣城から移動し関ヶ原盆地西

              側に布陣する石田方の西軍主力軍 

              が、午前8時頃から美濃国の関ヶ

              原盆地で戦う。 

                 陣場野に布陣する東軍(徳川方)

              の徳川家康は、正午頃、西軍(奉行衆 ・

               毛利方)松尾山に布陣する小早川

              秀秋軍に問鉄砲 (といてっぽう)を行い、

              東軍(徳川方)に寝返らせ、戦局を好

              転させ、徳川方の東軍 主力軍は、関ヶ

              原盆地で、午後2時頃に、勝利を得る。

 

 ■ 関ヶ 原の戦い。
 

              ■ 関ヶ原の戦いには、「新説(史実)

              関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」 

              と、「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」

              という2つの有力な説がある。

               「新説(史実)関ヶ原の戦い(= 大

               垣・山中の戦い)」には、 「大垣の  

               戦い」 と、「山中の戦い」 の2つの

              戦いがある。 

 

              ■ 「山中の戦い(やまなかのたたか

              い)」は、 「慶長5年(1600年)の天

              下 分け目の戦い 」の中心的な戦いの

               「新説(史実)関ヶ原合戦」 (= 大垣・

              山中の戦い、大垣の戦いと山中の戦

              い) の1つである。

              ■ 「山中の戦い( やまなかのたたか 

              い)」は、 「新説(史実)関ヶ原の戦い

              (= 大垣・山中の戦い)」の1つであり、

              関ヶ原の戦い直後の一次史料(同時

              代手紙・日記など)に 基づく

 

              ■ 「新説 (史実)関ヶ原の戦い(=

              大垣・山中の戦い)」では、 奉行衆

              毛利の西軍の中心人物は、 大谷

              吉継、奉行衆・4人(増田長盛、長

              束正家、前田玄以、石田三成)、宇

              喜多秀家、毛利輝元であり、 西軍

              は、反徳川で団結し、集団指導体制

              である。 

                 一方、徳川方の東軍の中心人

              物は、徳川家康である。

 

              ■ 「山中の戦い(やまなかのたたか  

              い)」は、慶長5年(1600年)の天下

              分け目の戦いの中心的な戦いの

               「新説関ヶ原の戦い」(= 大垣・山中

              の戦い、大垣の戦いと山中の戦い) 

              の1つである。

 

              ■ 「新説(史実)関ヶ原 の戦い」

              (= 大垣・山中の戦い)は、広義で

              は、時期は1600年(慶長5年)

              8月26日頃(東軍の美濃赤坂布

              陣)から9月23日(西軍の大垣

              城落城)までであり、 戦いの場所

              美濃国の大垣(おおがき)付近

              や山中(やまなか)付 近であり、

              濃国に集結した、徳川方の東軍・

              約7万3000人の兵と奉行衆・毛

              利方の西軍・約5万4000人の兵

              の東西両軍・約12万7000人の

              兵が戦う。 

                 その決戦は、主戦場(決戦場)

              の山中(やまなか、美濃国山中村)

              であり、 1600年(慶長5年)9月

              15日の午前10時頃から正午頃

              まで、徳川方の東軍主力軍と奉行

              衆・毛利方の西軍主力軍との間で

              行われ た。 戦いの結果、徳川方

              東軍主力軍が勝利を得る。

 

 ◆  山中の戦い。

 

              ●  山中の戦いは、 1600年(慶長5

               年) 9月15 日の夜明けから 正午頃

               での間、 山中(やまなか)付近の関が

              原盆地南西部や山中で、 東軍(徳川

              方) と 西軍(奉行衆・毛利方) とが争

              った戦いである。 戦いの結果、徳川方

                               東軍が勝利を得る。

 

              ● 最初に、山中の戦いでは、関ヶ原盆地

              南西部で、16 00年(慶長5年)9月15日 

              の夜明けに、大垣付近から移動してきた

              東軍(徳川方)の徳川本隊 や  既に松

              尾山山麓に布陣する西軍から東軍に   

              寝返った小早川軍 と、 既に関ヶ原盆地

              南西部に布陣 する西軍(奉行衆・毛利方)

              大谷軍 との間で合戦が行われる。

              結果は、大谷軍が全滅する。

                 次に、 山中の戦いでは、関が原盆地

              南西方向・ 約2kmにある山中(やまな

              か)で、 1600年(慶長5年)9月15日の

              午前10時頃から正午頃まで、 大垣 付

              近から移動してきた東軍(徳川方)の徳川

              方先手勢の福島勢 や 徳川本隊 と、

              大垣付近の大垣城から移動して来た西

              軍(奉行衆・毛利方)の小西・宇喜多・

              田・島津勢等の軍 との間で合戦が行

              われる。 結 果は、 西軍(奉行衆・毛利

              方) の小西・宇喜多・石田・島津勢等の軍

              は、 総崩れとなり敗走し、敗北し、徳川方

              東軍が勝利を得る。

 

              ● 最初に、山中の戦いでは、関ヶ原盆地

              南西部で、16 00年(慶長5年)9月15日

              の夜明けに、大垣の美濃赤坂付近から

              移動してきた東軍(徳川方)の徳川本隊 

              (約3万2000人、徳川家康、井伊直政、

              本多忠勝、家康馬廻り衆等の軍) や 

              既に松尾山山麓に布陣し西軍から東軍に

              寝 返った小早川軍 (約8000人、小早

              川 秀秋が1600年9月14日に松尾山

              山麓 に布陣した軍) と、 既に関ヶ原

              盆地南西部に布陣する西軍(奉行衆・毛 

              利方)の大谷軍  (約1200人、大谷吉

              継が1600年9月 14日夜、大垣城後詰

              部隊として北陸方面 から移動し関ヶ原

              盆地南西部に布陣した軍) との間で合

              戦が行われた。 結果は、大谷軍が全滅

              する。

                  次に、 山中の戦いでは、関が原盆

              地の南西方向・ 約2kmにある山中(や

              まなか)で午前 10時頃から正午頃まで、 

              大垣 付近から移動してきた東軍(徳川

              方)の徳川方先手勢の福島勢 (約1万

              9000人、福島・黒田・細川・藤堂・筒井・

              田中・加藤嘉明・京極高知等) や 徳川

              本隊 (約3万2000人、徳川家康、井伊

              直政、本多忠勝、家康馬廻り衆等の軍) 

              の計5万1000人の軍 と、 大垣付近

              の大垣城から移動して来た西軍(奉行衆・

              毛利方)の小西・宇喜多・石田・島津勢等 

              の約3万人の軍 と の間で合戦が行われ

              た。 結果は、西軍(奉行衆・毛利方)

              小西・ 宇喜多・石田・島津勢等の軍は、

              総崩れとなり敗走し、敗北し、徳川方の

              東軍が勝利を得る。

 

               ■ 「山中の戦い」

                  「大垣・山中の戦い(= 新説関ヶ原

               の戦い)」 の1つの、「山中の戦い」

               は、  第1段階として、1600年(慶長

               5年) 9月15日の夜明けに関が原 盆

               地南西部で、東軍(徳川方)の徳川本

               隊約3 万2000人)や西軍から東軍に

               寝返った小早川軍(約8000人)等の軍 

               と、 西軍(奉行衆・毛利方)の先方隊の

               大谷軍(約1200人)との間で合戦が行

               われ西軍(奉行 衆・毛利方)の大谷軍

               が全滅した。

                   第2段階として、関が原 盆地の

               南西 方向・約2kmにある主戦場の山

               中(やまなか)で、 1600年(慶長5

               年) 9月15日の午前10時頃から正

                午頃までの間、 東軍(徳川方)の徳

               川方先手勢の福島勢(約1万9000

               人)、徳川本隊(約3万2000人)等の

               計約5万1000人の軍 と、 西軍(奉

               行衆方)の小西・宇喜多・石田・島津

               勢等の約3万人の軍 との間で合戦が

               行われ、 西軍(奉行衆・毛利方)が総

               崩れとなり敗走し敗北し、徳川方の

               軍が勝利を得る。

 

 

#-appearingscenes

 

♪♪ 「(新説関ヶ原の戦いの)山中の

    戦い」を描いた、興味深い関連

    ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

     

 ★ 「(新説関ヶ原の戦いの)山中の

    戦い)」が登場する、興味深い、

    ドキュメンタリー。

 

 ■ 諸説あり!関ヶ原の戦い

    スペシャル

    『 関ヶ原の戦いの真実 』 (2)。 

    (TBSテレビ・2018年1月6日・本放送・

     歴史ドキュメンタリー番組)。

 

  ■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

    と、 「従来説(通説)の関ヶ原の戦い」の

    2つの有力な説を詳細に述べる。

 

 

 ■ 諸説あり!

    『 関ヶ原の戦いの真実 』 (1)。 

     (TBSテレビ・2017年9月2日・本放送・

      歴史ドキュメンタリー番組)。

 

  ■ 「大垣・山中の戦い(= 新説の関ヶ原の戦

    い)」 と、 「従来説(通説)の関ヶ原の戦い」

    の2つの有力な説を詳細に述べる。

 

 

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#yasuke,theblacksamurai

 

■  弥助 (黒人侍)。

       (やすけ (こくじんさむらい)。

 

■ 弥助 (黒人侍)

■ 名称 : 弥助 (黒人侍) 

        (やすけ (こくじんさむらい))。

   本名不明、信長が弥助(やすけ)と命名する。

■ 生没年 : 不明。

■ アフリカ南部・モザンビーク出身の織田信長の

   黒人家臣。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 黒人侍 (こくじんさむらい)の弥助 (やすけ、生

  没年:不明) は、 安土桃山時代の、アフリカ南

     部・モザンビーク出身の黒人侍であり、 織田信

  長の黒人家臣、側近(近習)である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 黒人侍の弥助は、 織田信長の近習 (きんじゅう、

  主君のそば近くに仕える家来)であった。

     黒人侍の弥助は、 本名は不明で、信長が

  弥助(やすけ)と命名する。

 

■ 黒人侍の弥助の経歴。

     黒人侍の弥助は、 モザンビーク出身で、

  奴隷貿易の拠点・インドのゴアに奴隷として連

  れてこられ、 そこで、キリスト教・カトリックの

  宣教師・アレッサンドロ・ヴァリニャーノ (英:

  Alessandro VALIGNANO)の従者となり、

  ヴァリニャーノの荷物運び・護衛役として、ヴァ

  リニャーノに連れられて、来日した。

      カトリックの宣教師・ヴァリニャーノは、15

  79年(天正7年)7月の来日から、荷物運び・護

  衛係の弥助と日本各地を回り、 ヴァリニャーノ

  の従者の弥助は、日本語を覚え、生活習慣に慣

  れていった。 

      ヴァリニャーノは、 1581年(天正9年)2

  月の帰国時に、カトリックの布教活動の庇護を願

  い、信長に会うため、弥助を連れて京(都)の南

  蛮寺に滞在した。 そのとき、南蛮寺に近い本能

  寺に滞在していた織田信長は、黒人従者の噂を

  聞きつけ、弥助は、信長と面識のある宣教師の

  オルガンティーノに連れられて、信長と会見し、

  信長は弥助を大変気に入った。 その後、ヴァリ

  ニャーノは、信長と の会見時、弥助を手放す(献

  上する)と言明し、織田信長は、弥助を自分の家

  臣とした。 

      弥助は、 織田信長の道具持ち・護衛係

  として、織田信長の側近の家臣となった。

     弥助は、 珍しい黒人であり、身長190cm

  の大柄で、日本語を話し世界の情勢を信長に話

  すなどにより、 織田信長は、 大変気に入り、

  鎧(よろい)、刀を与え、安土城の城下町に館を

  与え、自分の家臣とした。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 本能寺の変時の黒人侍の弥助。

     1582年(天正10年)に、中国地方方面織

  田軍の秀吉より毛利氏攻め援軍の要請があり、

  織田信長は、 明智光秀に中国の毛利氏攻め

  援軍を命じ、 京(都)経由で自らも毛利討伐に

  赴(おもむ)くため、1582年(天正10年)5月29

  日に、弥助を含む僅か約150人を連れて、安土

  城を出発し、5月29日に、京(都)の本能寺に到

  着する。

     6月1日の昼間に、織田信長は、 京(都)

  の本能寺で茶会を開き、公家たちに、自慢の高

  価な珍品の茶器を見せ、6月1日の夜は、近くの

  妙覚寺(みょうかくじ)に滞在する嫡子の織田信

  忠(のぶただ)も呼び寄せ、本能寺で午後6時頃

  から深夜まで酒宴を開き、酒宴後、信忠は、妙

  覚寺に戻り、深夜、信長は、眠りにつく。

     1582年(天正10年)6月2日明け方の午

  前4時頃、明智光秀が、京(都)の本能寺にいた

  織田信長や家臣の弥助を襲う。

     信長は、本能寺で自害し、弥助は、このこ

  とを織田信忠に伝えるため、明智軍の中を突破

  し、走り去り、 妙覚寺より堅固な場所と考え信

  忠が移った二条御所(にじょうごしょ)の信忠の

  元へ赴(おもむ)く。

     弥助は、二条御所で明智軍の兵士と戦い、

  約1時間の奮戦で主君嫡男の織田信忠の討ち

  死に後、観念して、降参し、明智軍に捕えられ、 

  明智光秀のもとに連れて行かれる。

     明智光秀は、 外国人でイエスズ会・カト

  リック宣教師の元従者であった弥助に会い、 

  カトリック・イエスズ会との関係悪化を恐れ、信

  長家臣の弥助を殺さず、釈放し、 イエスズ会・

  カトリックの拠点の京(都)の南蛮寺(なんばん

  じ)に弥助を送り届ける。

      その後の弥助の消息は、不明である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#yasuke,theblacksamurai-appearingscenes

 

♪♪ 黒人侍・弥助が登場する興味深い、

     ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 黒人侍・弥助が登場する、興味深い

   関連ドラマ、映画。 

 

■ にっぽん!歴史鑑定 

   『 黒人侍と本能寺の変 』。 

   (TBSテレビ・2017年8月7日・本放送・

       歴史ドキュメンタリー番組)。 

 弥助の詳細を述べる。

 本能寺の変を述べる。

 

★ 黒人侍・弥助が登場する、興味深

   い関連ドラマ、映画。 

    

★ 黒人侍・弥助が登場する、興味深

   い関連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

   実) と 架空の出来事 が混じって描かれ

   ています。 また、 現代風にアレンジしてあ

     ります。

 

■ 『 軍師 官兵衛 』。 

   (NHKテレビ・2014年大河ドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

   江戸時代初期を描いたドラマ。

 

 

#theyayoitoraikeipeople

 

■  弥生渡来系 

        ( やよいとらいけい)。

 

■ 弥生渡来系

■ 名称 : 弥生渡来系 (やよいとらいけい)。

■ 英語名 : THE YAYOI-TORAIKEI

  PEOPLE.

 日本常住民。

 日本人のルーツに関しては、「日本人(日本人の

  ルーツ)、「日本人」、「日本人ルーツ・ガイドブック

  も参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51825。

 

□ 弥生渡来系の学術分類表  

□ 弥生渡来系が登場する興味深 い、

   ドキュメンタリー、ドラマ、映画

 

 

■ 弥生渡来系 (やよいとらいけい)は、 渡来系

  弥生人とその子孫であり、 モンゴロイド、北

  方モンゴロイド である。

 

■ 弥生渡来系の人々は、 日本の弥生時代の

  「渡来系弥生人」とその子孫 である。

     日本の弥生時代では、 弥生渡来系の人

  々は、 「渡来系弥生人」 である。

     古代日本(古墳〜平安時代)では、 弥生

  渡来系の人々は、 「弥生渡来系古代日本人」、 

  「縄文・弥生渡来・混血系古代日本人」 である。

     中世日本から現代日本(鎌倉〜平成時代)

  までの時期では、 弥生渡来系の人々は、 

  文・弥生渡来・混血系の、「本土日本人」や「琉

  球人」 である。

 

■ 弥生渡来系の人々は、 新モンゴロイド(= 北

  方モンゴロイド)の人々で、 約6000年前に

  シベリア東部からアジア大陸を南下し、 モン

  ゴル、満州(中国東北部)、中国本土に広がり、 

  中国本土で水田稲作の技術を得て、 水田稲

  作の技術を携えて、朝鮮半島を経由して、 約

  2400年前から弥生時代前期に、 農耕地を

  求めて、 日本地域の日本本土(初め九州本

  土)に到着し(渡来し)、 定住した住民で、 主

  に、農耕生活を行っていた。

     この人々が、 弥生渡来系・新モンゴロイ

  ド(= 北方モンゴロイド)の「渡来系弥生人」で

  ある。 

             

■ 弥生時代前期に、 西日本で、 海外から来た

  農耕主体の弥生渡来系の人々 と 日本土着の

  狩猟・採集主体の縄文系の人々とは、対立し、

  戦い、 西日本では、弥生渡来系の人々は、縄

  文系の人々と戦って勝ち、農地を広げ、 九州か

  ら濃尾平野 (のうびへいや、本土の岐阜県南

  部・愛知県西部) まで北上し進出したが、 日

  中本央山地の高山地域に阻止される。 高山地

  域は、 農耕が難しく、また、狩猟・採集主体の

  縄文系の人々が多数居住していたため。  

     弥生時代の中頃では、 西日本では、弥生

  渡来系の人々が多数を占め、 東日本では、縄

  文系の人々が占めた。

     弥生時代後期には、 東日本の縄文系の

  人々は、 弥生渡来系の人々から、水田稲作の

  技術を学び、 東日本でも、水田稲作が普及し、

  縄文系と弥生渡来系の人々は、 東日本と西日

  本を往来し、 戦いを避け、交流するようになっ

  た。

 

■ 弥生渡来系の人々は、 弥生時代前期にア

  ジア大陸から日本本土の九州に大挙してやっ

  て来た、農耕主体の、弥生渡来系・新モンゴロ

  イド(= 北方モンゴロイド)の人々である。

     弥生渡来系の人々は、 弥生時代とその

  後の古代日本(古墳、飛鳥白鳳、奈良、平安時

  代)の時期に、徐々に、九州から、日本本土(九

  州、四国、本州)を北上し、また、南西諸島へ南

  下した。

     そして、弥生渡来系・新モンゴロイド(= 北

  方モンゴロイド)の人々は、 古代日本後期(奈

  良・平安時代)には、 農耕を行うため、 九州、

  四国、本州に住むの人々が、北上し、東北地方

  にも進出し、 行く先々の現地の縄文系古モン

  ゴロイド(= 南方モンゴロイド)の人々と一緒に住

  み、混血し、「本土日本人」を形成する。

     一方、九州に住む弥生渡来系・新モンゴロ

  イド(= 北方モンゴロイド)の人々は、 古代日本

  後期(奈良・平安時代)には、 農耕を行うため、 

  南下し、 南西諸島にも進出し、 行く先々の現

  地の縄文系・古モンゴロイド(= 南方モンゴロイド)

  の人々と一緒に住み、混血し、「琉球人」を形成

  する。 

 

 

◆ 進化表。

■ 日本人(日本常住民)への進化表。

  猿人⇒ 

  原人(= ホモ・エレクトス類)⇒

  旧人(= 前ホモ・サピエンス類)⇒ 

  現生人類(= 新人ホモ・サピエンス)⇒ 

  モンゴロイド⇒ 

  縄文人⇒ 

  弥生人⇒ 

  古代日本人⇒ 

  「本土日本人」(= 本土人)、「琉球人」、

  「アイヌ人」。

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

■ 現代日本人(日本常住民)への進化表。

  猿人⇒ 

  原人(= ホモ・エレクトス類)⇒

  旧人(= 前ホモ・サピエンス類)⇒ 

  現生人類(= 新人ホモ・サピエンス)⇒ 

  モンゴロイド⇒ 

  縄文人⇒ 

  弥生人⇒ 

  古代日本人⇒ 

  中世日本人⇒ 

  近世日本人⇒ 

  近代日本人

  現代日本人

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

■ モンゴロイドへの進化表。

  猿人⇒ 

  原人(= ホモ・エレクトス類)⇒

  旧人(= 前ホモ・サピエンス類)⇒ 

  現生人類(= 新人ホモ・サピエンス)⇒ 

  古モンゴロイ = 南方モンゴロイド)⇒

    モンゴロイド= 北方モンゴロイド)。

● TKKI カナヤマ著 古人類学辞典。

 

 

#theyayoitoraikeipeople-theclassificationtable

 

■ 弥生渡来の学術分類表 。  

    (詳細上位分類、上位所属の分類、日本

     語名・学名・英語名対照)。

○ THE SCIENTIFIC CLASSIFICATION 

   TABLE OF THE YAYOI TORAIKEI 

     PEOPLE.

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典  71526。

 

■ 弥生渡来系の人々(人類)。

     (英語名: THE YAYOI TORAIKEI PEOPLE)。

 

■ 地球生物            LIFE ON EARTH。

⇒ 真核生物。        (ドメイン: 真核生物域 

                   Domain Eukaryota) 

                   (英名: EUKARYOTE(S))。

⇒ 動物。           ( 界 : 動物界    

                   Kingdom Animalia) 

                                   (英名:ANIMAL (S))。

⇒ 脊索(せきさく)動物。 ( 門 : 脊索動物門   

                      Phylum Chordata) 

                    (英名:CHORDATE (S))

⇒ 脊椎(せきつい)動物。 (亜門 : 脊椎動物亜門 

                       Subphylum Vertebrata) 

                    (英名:VERTEBRATE(S))

                  ● TKKI カナヤマ著 日本史

                  辞典。

⇒ 有顎(ゆうがく)動物   (下門 : 有顎動物下門 

  (顎口類、有顎類)。      Infraphylum

                    Gnathostomata) 

                    (英名: VERTEBRATE (S)

                    WITH JAW)。

⇒ 四肢(しし)動物。    (上 : 四肢動物上綱 

                    Superclass Tetrapoda ) 

                   (英名:TETRAPOD (S))  

⇒ 有羊膜類。         (ランク(階級)なし   

  (ゆうようまくるい)      Amniota) 

                   (英名:AMNIOTE (S))。   

⇒ 哺乳類。         (  綱  : 哺乳   

                    Class Mammalia) 

                  (英名:MAMMAL(S))。

⇒ 獣類。           (亜綱  : 亜綱    

                  Subclass Theria) 

                  (英名:THERIAN(S))。

⇒ 真獣類 (正獣類)  綱  : 真獣下(正獣下)  

  (有胎盤類、有胎盤     Infraclass Eutheria)         

  哺(ほ)乳類)。       (英名:EUTHERIAN(S)) 

                   (英名:PLACENTAL 

                  MAMMAL(S)) 。

                      ● TKKI カナヤマ著 日本史

                  辞典。

⇒ 霊長類。          目  : 霊長目(サル目)    

                     Order Primates) 

                    (英名:PRIMATE(S))。

 

⇒ 直鼻猿類 (新分類法)。亜目 : 直鼻猿亜目    

                   Suborder Haplorrhini) 

                   (英名:HAPLORRHINE(S))。

   真猿類   (新分類法)。下目 : 真猿下目 

                     Infraorder Simiiformes) 

                    (英名: SIMIAN(S))。

   狭鼻猿類 (新分類法)。小目 : 狭鼻小目 

                    Parvorder Catarrhini  ) 

                    (英名: CATARRHINE(S))。

 または、

   真猿類   (旧分類法)。亜目 : 真猿亜目  

                    Suborder Simiiformes) 

                    (英名: SIMIAN(S))。

    狭鼻猿類 (旧分類法) 。(下目 : 狭鼻下目  

                   Infraorder Catarrhini) 

                   (英名: CATARRHINE(S))。

⇒ ホミノイド           (上科 : ヒト上科   

  (類人猿と人類)。       Superfamily Hominoidea) 

                    (英名: HOMINOID(S))。

⇒ 大型類人猿と人類    ( 科 : ヒト科     

 (オランウータン、ゴリラ、   Family Hominidae)      

 チンパンジーと人類)。    英名: NONHUMAN GREAT  

                    APE(S) AND HUMAN(S))。

                    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

⇒ ゴリラとチンパンジ   亜科 : ヒト亜科   

  ーと人類。          Subfamily Homininae)   

                   (英名:  HOMININE(S))。

⇒ チンパンジーと人類。 ( 族 :  ヒト族      

                   Tribe Hominini) 

                  (英名 :HOMININ(S))。

⇒ 人類。                  (亜族 : ヒト亜族    

                   Subtribe Hominina) 

                  (英名: HUMAN(S))。       

⇒ ヒト属(= ホモ属)    ( 属  : ヒト属(= ホモ属)         

  の人類。           Genus Homo) 

                  (英名: HUMAN(S) OF   

                  THE GENUS HOMO)。       

⇒ ホモ・サピエンス       ( 種   ホモ・サピエンス種    

 (= 現生人類、新人)。    Species Homo sapiens) 

                   (英名: HOMO SAPIENS,

                  EXTANT HUMAN  SPECIES)。

⇒ ホモ・サピエンス     ( 亜種   ホモ・サピエンス・サピ

  サピエンス。         エンス亜種    

                  Subspecies Homo 

                  sapiens sapiens 

                   (英名: HOMO SAPIENS  

                  SAPIENS)。

⇒ モンゴロイド        (グループ:  モンゴロイド・グループ

  (= アジア人種)。      Group Mongoloid)。

○ 「古モンゴロイド」     (英名: MONGOLOID(S))。  

 と 「新モンゴロイド」。    ○ モンゴロイドは、容姿・外見

                   (体色・体型) による、人種分類

                  グループの1つである。

                  ○ モンゴロイドは、 古モンゴロ

                  イド(= 南方モンゴロイド、英:

                  SOUTHERN MONGOLOID

                  (S)) と、 新モンゴロイド(= 北

                  方モンゴロイド、英:NORTHERN

                  MONGOLOID(S)) の2種類

                  に分かれる。

                    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

⇒ 縄文人。          (グループ : 縄文人グループ

                  Group Jomonjin People)。

                   (英語名: THE JOMONJIN 

                  PEOPLE)。

                  ○ 「縄文人」は、 古モンゴロイ

                  ド(= 南方モンゴロイド)の日本先

                  住民であ り、 原日本人 (英:

                  THE PROTO-JAPANESE 

                  PEOPLE、縄文人と渡来系弥生人) 

                  の1グループであり、「縄文系」 (英:

                  THE JOMONKEI  PEOPLE) 

                  の人々(人類)である。

⇒ 弥生人。           (グループ : 弥生人グループ

○ 「縄文系(在来系)    Group  Yayoijin People)。

 弥生人」  と          (英語名: THE YAYOIJIN

 「渡来系弥生人」。     PEOPLE)。

                  ○ 弥生人とは、 「縄文系(在来

                  系)弥生人」 と 「渡来系弥生人」

                  である。

                  ○ 弥生人は、縄文時代(約1万

                  2000年前〜約2400年前)から

                  日本の先住民の古モンゴロイ ド

                  (= 南方モンゴロイド)の「縄文 系

                  (在来系)弥生人」  と、 弥生時

                  代(約2400年前〜約1700年

                  前)にアジア大陸からの移住民の

                                    新モンゴロイド(= 北方モンゴロイ

                  ド)の「渡来系弥生人」  である。

                                ○ 「渡来系弥生人」は、原日本人

                  の1グループであり、 「弥生渡来

                  系」(英:THE YAYOI TORAIKEI

                  PEOPLE) の人 々(人類)である。

                   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

⇒ 日本人。          (グループ : 日本人 (= 日本常住民、

○ 「古代日本人」      日本地域土着・常住民) グループ

 → 「本土日本人」、          Group Japanese Native 

 「琉球人」、「アイヌ人」。  (Indigenous) People)。

○ 「古代日本人」       (英語名:THE JAPANESE

 → 「中世日本人」     NATIVE (INDIGENOUS) 

 → 「近世日本人」     PEOPLE)。

 → 「近代日本人」     ○ 日本人(= 日本常住民)は、古代

 → 「現代日本人」。    日本で形成された。 

                  ○ 日本人(= 日本常住民)は、 

                  古・新モンゴロイ ド混血の、「縄文・

                  弥生渡来・混血系」の、「本土日本

                  人」や「琉球人」  と、 古・新モンゴ

                  ロイド混血の、「縄文・ 北アジア諸民

                  族・混血系」の、「アイ ヌ人」の3種類

                  の人類に分かれる。

                  ○ 現在のほとんどの日本人は、

                  「本土 日本人」である。

                  ○ 「本土日本人」は、 古代日本

                  後期に形成された。

                  ○ 「本土日本人」は、  「縄文人」

                  とその子孫の「縄文系」 と、 「渡

                  来系弥生人」とその子孫の「弥生

                  渡来系」 との混血の人類である。

                  ○ 「本土日本人」は、 古・新 (南

                  方・北方)モンゴロイド混血の、「

                  文・弥生渡来・混血系」 (英:THE 

                  JOMONKEI-YAYOITORAIKEI 

                  MIXED RACIAL PEOPLE) の

                  人々(人類)である。 

                  ○ 日本人(= 日本常住民)は、 

                  古・新モンゴロイ ド混血の、「縄文・

                  弥生渡来・混血系」の、「本土日本

                  人」や「琉球人」 (英:THE MAIN-

                  LAND JAPANESEPEOPLE, 

                                      THE RYUKYU JAPANESE 

                                       PEOPLE) と、 古 ・新モンゴロイ

                  ド混血の、「縄文・ 北アジア諸民族・

                  混血系」の、 「アイヌ人」 (英:THE 

                  AINU JAPANESE  PEOPLE) 

                  の3種類の人類に分かれる。

                  ○ 古代日本で形成された日本 人

                  (= 日本常住民)は、 時代と共に、

                  「古代日本人」から、 「中世日本人」、

                  「近世日本人」、「近代日本人」、

                  「現代日本人」へと   少しずつ、

                  均身長が伸びるなど、容姿・外見

                  (体型・体色)を変化させていった。

                    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

                  ○ 古代日本で形成された日本 人

                  (= 日本常住民)は、 時代と共に、

                  「古代日本人」(英:THE ANCIENT   

                  JAPANESEPEOPLE) から、 

                  「中世日本人」、「近世日本人」、「近代

                  日本人」、「現代日本人」 (英:THE 

                  MEDIEVAL JAPANESE 

                  PEOPLE,  THE EARLY MO-

                  DERN JAPANESE PEOPLE, 

                  THE MODERN JAPANESE 

                   PEOPLE,  THE PRESENT-DAY 

                                     JAPANESE PEOPLE へと少しず

                  つ、平 均身長が伸びるなど、 容姿・外

                  見(体型・体色)を変化させていった。

                   

 

 

#theyayoitoraikeipeople-appearingscenes

 

♪♪ 弥生渡来系 が登場する興味深

  い、ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 弥生渡来系 が登場する、興味深

  い関連ドキュメンタリー。 

 

■ サイエンスZERO 

   日本人のルーツ発見!〜

   ‘‘核DNA’’が解き明かす

   縄文人〜 』。

   (NHKテレビ・2016年4月 3日・本放送・

    科学ドキュメンタリー番組)。

● 日本人のルーツ(起源)を詳しく述べる。

● 縄文人(= 古モンゴロイド)や渡来系弥生人

  (= 新モンゴロイド)の人々を述べる。

● 発掘した、縄文人の核DNA分析により、現生 

  人類(= 新人、ホモ・サピエンス)の起源・移動

  ルートや日本人の起源を知る。

 

■ 『 教科書が変わる!? 日本人

    のルーツをさぐる旅 』。

   (NHKテレビ・2015年12月27日・本放送・

    科学ドキュメンタリー番組)。

● 日本の原始時代を生きた、旧石器人や縄文人

   を述べる。

● 縄文人を詳しく述べる。 縄文人の遺跡発掘や

   ミトコンドリアDNAにより、現代日本人のルーツ

  (起源)の1グループである、縄文人の起源、生

     活、移動ルートなどを知る。

 

■ サイエンスZERO 

   日本人の起源に迫る 』。

   (NHKテレビ・2007年12月2日・本放送・

    科学ドキュメンタリー番組)。

● ミトコンドリアDNAにより、現生人類(= 新人、

  ホモ・サピエンス)の起源・移動ルートや日本

  人の起源を知る。

 

■ サイエンスZERO 

   シリーズ ヒトの謎に迫る 』。

● 第1集 「1.DNAが解き明かす!

   人類の旅」

   (NHKテレビ・2008年10月10日・本放

    送・科学ドキュメンタリー番組)。

● ミトコンドリアDNA、Y染色体、言語等により、

  現生人類(= 新人、ホモ・サピエンス)の起源・

  移動ルートや日本人の起源を知る。

● 現生人類(= 新人、ホモ・サピエンス)の、出

  アフリカと世界への拡散と移住を知る。

 

■ サイエンスZERO 『 特報!

  旧石器時代の人骨 大量発掘 』。 

    (NHKテレビ・2013年11月17日・本放送

     テレビ・科学ドキュメンタリー番組)。

● 日本の旧石器人 (約35000年前〜約12

  000年前に日本地域にいた人類) について

  述べる。

● 港川人や旧石器人全体について述べる。

● 沖縄県・石垣島(いしがきじま)の白保竿根

  田原洞穴遺跡(しらほさおねたばるどうけつ

  いせき)で、2009年より発掘が開始され、旧

  石器人の人骨が大量に発見され、ほぼ原形

  をとどめる旧石器人の頭骨の骨を得られる可

  能性もあることについて述べる。 

 

■ 『 日本人 はるかな旅 』。 

   (NHKテレビ・2001年制作ドキュメンタ

    リー番組)。 

   「第五集 そして‘‘日本人’’が

   生まれた」。

 弥生時代前期に、水田稲作を行う、農耕主

  体の新モンゴロ イド(= 北方モンゴロイド)の

  人々が、アジア大陸より日本地域(初め九州

  本土)に渡来し、日本の「渡来系弥生人」(弥

  生渡来系の人々)となり、 狩猟・採集主体

  の日本の先住民の古モンゴロ イド(= 南方モ

  ンゴロイド)の「縄文系弥生人」と対立しなが

  ら、日本本土を北上・東進した。 

     その後、弥生時代後期には、「渡来系弥

  生人」と「縄文系弥生人」は、協力し、水田稲

  作を行うようになった。

 

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#yamanakashikanosuke

 

■  山中鹿介  

       (やまなかしかのすけ)。

 

■ 山中 鹿介

■ 名称 : 山中 鹿介 (やまなか しかのすけ)。

■ 別名 : 山中 幸盛 (やまなか ゆきもり)、

   山中鹿之助 (やまなか しかのすけ)。

■ 生没年 : 1545〜1578年。

 

 

■ 山中 鹿介 (やまなか しかのすけ、生没年: 

  1545〜1578年) は、 出雲国(いずものく

  に、島根県東部) 出身の、 室町時代後期

  (戦国時代)、安土桃山時代の、 武将である。

 

■ 山中 鹿介 (やまなか しかのすけ)の別名は、 

  山中 幸盛 (やまなか ゆきもり)、 山中鹿之 

   (やまな か しかのすけ) である。

     山中は、一族名で、  鹿介、幸盛、鹿之助

  は、個人名で、 鹿介は、通称 で 、 幸盛は

  (いみな)で、 鹿之助は、 江戸時代に創(つ

  く)られた俗称 である。 

     「山中鹿之助」の名称は、江戸時代に創

  (つく)られた氏名で、講談などで使用された俗

  称 である。 

 

■ 山中 鹿介(幸盛)は、 「山中鹿之助」の名称

  で、 江戸時代に、講談などで、 衰亡した主

  家に忠誠を尽くして戦い続ける、悲運の英雄、

  忠義の武将 として描かれた。

 

■ 山中 鹿介(幸盛)は、 優れた武勇の持ち主で

  あり、 「山陰の麒麟児」(さんいんのきりんじ)と

  言われる。 

     山中 鹿介(幸盛)が、月に七難八苦を祈っ

  た話は、有名 である。

     山中 鹿介(幸盛)が、 尼子家再興(あまご

  けさいこう)のため、 「願わくば、我に七難八苦

  を与えたまえ」 と三日月(みかづき)に祈った逸

  話(いつわ)は有名である。

 

■ 山中 鹿介(幸盛)は、 出雲国を本拠地とする

  尼子氏(あまごし)の忠臣 であった。

 

■ 尼子 勝久 (あま ご かつひさ)は、 尼子氏滅

  亡後の尼子氏重臣で、 忠臣・山中 鹿介(幸盛)

  (やまなか しかのすけ(ゆきもり)) と共に、尼子

  家再興に尽力(じんりょく)する。

          

■ 山中 鹿介(幸盛)は、 毛利氏に滅ばされた尼

  子家再興に尽力(じんりょく)した武将 である。 

  しかし、山中 鹿介(幸盛)による、尼子家再興は

  実現しなかった。

 

 

■ 山中 鹿介(幸盛)の尼子氏再興行動。 

■ 毛利軍は、 尼子氏(あまごし)の居城・月山富

  田城を攻め、 1565年(永禄9年)11月に、尼

  子氏当主・尼子義久(あまごよしひさ)は、毛利軍

  に降伏し、城を明け渡す。 ここに、戦国大名・尼

  子氏は、一時的に滅びた。

     尼子氏家臣の山中 鹿介(幸盛)は、これ以

  後、尼子家を再興するために尽力(じんりょく)す

  る。

 

■ 織田信長の命令を受けて、羽柴秀吉(豊臣秀

  )が、 播磨国(はりまのくに、兵庫県南部)

  進軍を開始すると、 尼子勝久(あまごかつひさ)

  ・山中 鹿介(幸盛)ら尼子家家臣の率いる尼子

  再興軍も、その攻撃に参加することになった。

     西播磨(播磨西部)の毛利方の拠点の上月

  城(こうづきじょう)を攻略し、占領すると、尼子勝

  久・山中 鹿介(幸盛)ら尼子家家臣は、そこを拠

  点に、 毛利氏勢力と対峙した。

    ところが、1578年(天正6年)2月に、織田

  信長に味方していた東播磨(播磨東部)の三木

  城の別所長春(べっしょながはる)が、信長に反

  旗を翻(ひるがえ)す事件が発生し、 毛利軍は、

  これを好機ととらえ、播磨に攻め込み、1578

  年4月に、上月城(こうづきじょう)を包囲した。

    その結果、上月城は孤立無援となり、1578

  年7月に、尼子勝久・山中 鹿介(幸盛)ら尼子家

  家臣は、毛利軍に降伏した。 降伏の条件として、

  尼子勝久は切腹を命じられ、山中 鹿介(幸盛)

  は生け捕りとなった。

 

■ 山中 鹿介(幸盛)は、 1578年7月に、播磨国

  (はりまのくに、兵庫県南部)の西部の上月城(こ

  うづきじょう)陥落時、生け捕りとなり、 毛利輝元

  (もうりてるもと)の下(もと)へ護送途中、謀殺され

  る。

    ここに、山中 鹿介(幸盛)の死をもって、尼子

  氏再興は、絶(た)たれることとなった。

 

 

♪♪ 山中 鹿介(幸盛)が登場する興味

     深い、ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

    

★ 山中 鹿介(幸盛)が登場する、興味深

   い関連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

   実) と 架空の出来事 が混じって描かれ

   ています。 また、 現代風にアレンジしてあ

     ります。

 

■ 『 軍師 官兵衛 』。 

   (NHKテレビ・2014年大河ドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

 

● 山中 鹿介 (やまなか しかのすけ、尼子家

  の旧家臣で尼子家再興をめざした) を演じ

  た俳優名 : 

  別所 哲也 (べっしょ てつや)。

 

● 尼子勝久を演じた俳優名: 須田。

● 豊臣 秀吉 (とよとみ ひでよし、羽柴(はし

    ば)秀吉、木下藤吉郎)  を演じた俳優名 :

  竹中 直人 (たけなか なおと)。

● 黒田 官兵衛 (くろだ かんべえ、豊臣秀吉

  の軍師) を演じた俳優名 :

  岡田 准一 (おかだ じゅんいち)。

 

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#yamataikoku

 

■ 邪馬台国 

       (やまたいこく)。

 

■ 邪馬台国。

■ 名称 : 邪馬台国 (やまたいこく)。

 

 

■ 邪馬台国 (やまたいこく)は、 (紀元後)3世

  紀前期・中期に、日本にあった小国家連合(地

  方統一政権、広域政治連合) である。

     ヤマト王権(大和朝廷)と邪馬台国との関

  係は不明である。

     古代日本初期まで、日本では、文字はほ

  とんど使われず、書物はつくられず、当時を知

  るには、 中国の歴史書等が、頼りである。

  

 魏志」倭人伝は、 中国の正史「三国志」(さ

  んごくし)の「魏書」東夷伝倭人の条 である。

     正史「三国志」は、紀元(後)3世紀に、中

  国の西晋の陳寿(ちんじゅ)によって編纂(へん

  さん)された。

 

■ 邪馬台国の位置は、不明で、 近畿説(畿内説

  (きないせつ)) と 九州説の、2つの有力な説

  がある。

    「魏志」倭人伝の邪馬台国の所在地の記載

  では、 朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)より

  日本の邪馬台国への道程を示しているが、 そ

  のまま文字通り解釈すると、 九州南方海上に

  邪馬台国が存在することになってしまい、曖昧

  (あいまい)な記述である。 そこで、方位を東

  に修正することにより近畿説が成立し、 里程

  を短縮することにより九州説が成立した。

    近畿説は、邪馬台国は近畿地方の大和(や

  まと、奈良県)にあったという説で、 九州説は、

  邪馬台国は九州北部にあったという説である。 

  いずれによるかによって、 ヤマト王権(大和朝

  廷)の国内統一の年代が大きく変わってくる。

     近畿説をとると、3世紀前半に、既に、近畿

  に、小国家連合(地方統一政権、広域政治連合)

  があり、 後に成立するヤマト政権(ヤマト小国

  家連合)につながり、 ヤマト王権(大和朝廷)に

  よる全国統一が、早まることになる。  また、九

  州説をとると、北九州に、小国家連合(地方統一

  政権、広域政治連合)があり、 ヤマト政権(ヤマ

  ト小国家連合)は、別に、新たに、東方で形成さ

  れたことになり、 ヤマト王権(大和朝廷)による

  全国統一は、 かなり遅れることになる。

 

■ 邪馬台国(やまたいこく)は、 魏志」倭人伝

  (ぎしわじんでん)に記載されている小国家連合 

  (地方統一政権、広域政治連合) である。 

    「魏志」倭人伝によると、 倭国(わこく、日本)

  で2世紀終わり頃の争乱のあと、小国の諸国は、

  卑弥呼 (ひみこ、生年不詳〜247年頃)を

  王として擁立し、 約30の小国を 連合(統属)す

  る、邪 馬台国を成立させた。 

 

■ 邪馬台国の、卑弥呼は、  宗女(そうじょ)で、

  巫女(みこ)として神の意志を聞き、その宗教的

  権威を背景に、政治を行った。 シャーマニズム

  的な呪術的巫女(みこ)政治を行う。

    卑弥呼は、古代のシャーマンで、 神からお

  告げを聞き、人々に神のお告げを伝える役割を

  担った女性 である。 卑弥呼の話は人々の心

  や気持ちを強くつかんだ。

 

■ 邪馬台国の卑弥呼は、 (紀元後)239年以

  後、しばしば、 中国の魏(ぎ)に使者を派遣し、

  通交し、魏より、親魏倭王(しんぎわおう)の称

  号と多数の銅鏡(どうきょう)を贈られた。 当時、

  中国では、魏(ぎ)、蜀(しょく)、呉(ご)の三国

  が覇権を争う三国時代で、 魏(紀元後220〜

  265年)は、 呉との対抗上有利との判断から、

  倭(わ、日本)の女王・卑弥を優遇した。

    邪馬台国の卑弥呼は、晩年、 日本にある、

  男王の支配する狗奴国(くなのくに)と争った

  (対立した)。

 

■  邪馬台国は、 卑弥呼の死後、男王が立った

  が内乱が起こり統治できず、 宗女の壱与(い

  よ、壹与)が、女王として立ち(擁立され)、国が

  治まった。

    邪馬台国の女王(壱与か)は、 266年に、

  中国の西晋(紀元後265〜316年)の洛陽に

  使者を送った。

 

 

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#theyamamotoclan

 

■ 山本氏 

       (やまもとし)。

 

■ 山本氏。

■ 名称 : 山本氏 (やまもとし)。

● 別名 : 山本家 (やまもとけ)。

■ 代々会津藩砲術指南役(砲術師範役)の

  山本家。

■ 山本権八、山本覚馬、山本三郎、山本八重  

  (新島八重)など。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 山本氏 (やまもとし、別名、山本家)は、

  々会津藩砲術指南役(砲術師範役)で、 当

  主の山本権八、その子の山本覚馬、山本三

  郎は、会津藩士で、 山本八重(新島八重は、

  会津藩士・山本権八の娘である。 

    会津藩(あいづはん)は、東北地方の福島

  県西部にある藩である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 山本家は、代々会津藩で砲術を担(にな)う

  家柄であった。 山本権八(やまもとごんぱ

  ち)で、 山本家の当主で、 会津藩士で会津

  の砲術指南役(砲術師範)であった。 

     山本権八は、 幕末のジャンヌ・ダルク

  と呼ばれる山本八重(新島八重)(やまもとや

  え(にいじま やえ))の父 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 山本権八の子には、 山本覚馬(やまもとか

  くま)、 山本三郎(やまもとさぶろう)、 山本

  八重(新島八重 がいた。 3人とも、仲のよ

  い兄弟姉妹であった。

 

■ 山本覚馬 (やまもとかくま、新島(山本)八

  重の兄)には、 川崎尚之助(かわさきしょう

  のすけ)という蘭学仲間がいた。 

     川崎尚之助は、但馬出石藩(たじまい

  ずしはん)の他藩出身者で、 会津藩で蘭

  学(らんがく、洋学(西洋諸学問))を教えて

  いた (会津藩校・日新館で)

     山本(新島)八重は、兄・山本覚馬の紹

  介で他藩出身者の川崎尚之助と知り合い、

  尚之助と婚儀 を結んだ(結婚した)が、18

  68年の会津戦争後に、離縁(離婚) となる。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 山本覚馬 ( 山本(新島)八重の兄)と、 山

  本三郎(山本(新島)八重の弟)は、 1868

  年(慶応4年)の鳥羽伏見の戦い等の京都・

  大阪の戦いで、旧幕府軍に味方し新政府軍

  と戦い、 山本覚馬は捕虜となり、 山本三郎

  は戦死する。 

    会津(あいづ、福島県西部)にいた山本

  (新島)八重の元へは、 兄弟2人とも戦死し

  たと伝えられた。 後に、八重は、兄が生きて

  いて、京都に住んでいることを知った。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 明治期に入ると、 山本覚馬 (山本(新島)

  八重の兄) は、 京都で、 京都府顧問とし

  て活躍した。 また、 山本覚馬の友人には、

  新島襄(にいじまじょう)がいた。

    山本(新島)八重は、 会津戦争(1868

  年)後、 会津(あいづ、福島県西部)から、 

  生存が確認された兄・山本覚馬を頼って、 

  兄・山本覚馬(かくま)のいる京都に出て(移

  住して)、 京都で、 兄・山本覚馬の友人の

  新島襄知り合い、結婚する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#yaya

 

■ やや (彌々) 

      

■ やや (彌々)。

■ 名称 : やや (彌々

■ 別名 : 長生院

■ 戦国・安土桃山期・江戸初期の女性。

■ 「ねね(おね)」の妹。

■ 浅野長政 (あさの ながまさ) の正室夫人。

■ やや(彌々、長生院)と浅野長政 との間の子

  で浅野長政・三男の浅野長重の曾孫が、

  禄赤穂事件で有名な 赤穂藩主の浅野長矩

  (ながのり、内匠頭)である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51617。

 

 

■ 「やや(彌々、長生院)」 は、 「ねね(おね)

  の妹 である。

     「やや(彌々、長生院)」 は、 戦国・安土

  桃山期・江戸初期の女性である。

      「やや(彌々)」は、別名は、長生院である

     「やや(彌々、長生院)」は浅野長政 (あ

  さの ながまさ) の正室夫人 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ やや(彌々、長生院) の、養父は、浅野又右衛 

  門(長勝)である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ やや(彌々、長生院) の、実父は、 杉原 定利 

  (すぎはら さだとし) である。 

■ やや(彌々、長生院) の、兄弟姉妹は、 「ねね

  (おね)」、 木下(杉原) 家定 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ やや(彌々、長生院) と浅野長政との間の子に

  は、 3人の男子がいて、 浅野長政・長男の浅

  野幸長、 浅野長政・次男の浅野長晟、 浅野

  長政・3男の浅野長重 がいた。

● やや(彌々、長生院) と浅野長政との間の子で

  浅野長政三男の浅野長重の曾孫が、 元禄赤

  穂事件で有名な 赤穂藩主の浅野長矩(なが の

  り、内匠頭) である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 木下(杉原) 家定、 「ねね(おね)」、 「やや

  彌々、長生院)」 は、 杉原 定利 (すぎはら

  さだとし) と 朝日(あさひ) との間の、子で

  ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 杉原 定利は、 木下(杉原)家定、「ねね(お

  ね)」、「やや(彌々、長生院)」 の実父である。

● 「ねね(おね)」、「やや(彌々、長生院)」 は、 

  杉原 定利の娘 であり、 浅野又右衛門(長

  勝)の養女 となる。

● 「やや(彌々、長生院)」は、 杉原 定利の娘

  ではなく、 浅野又右衛門(長勝)の実娘 とい

  う説 もある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 浅野家。

■ 「やや(彌々、長生院)」浅野長政との間に

  は、3人の男子がいた。 浅野長政・長男の浅

  野幸長、 浅野長政・次男の浅野長晟、 浅野

  長政・男の浅野長重 がいた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 浅野長政の次男の浅野長晟 は、 1619年

  (元和5年)に、安芸国広島藩に、加増転封と

  なる (広島浅野氏)。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 浅野長政の男の浅野長重  は、 長重の子

  の長直の代に、播磨国・赤穂藩に転封となる 

  (赤穂浅野氏)。  長直の子は、長友で、長友

  の子が、赤穂藩主の浅野長矩(なが のり、内匠

  頭) である。

● やや(彌々、長生院) と浅野長政との間の子

  で浅野長政三男の浅野長重の曾孫が、元禄

  赤穂事件で有名な 赤穂藩主の浅野長矩(なが

  のり、内匠頭)である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪  やや(彌々) が登場する、興味

  深い 関連ドラマ、映画、ドキュメン

  タリー。 

 

★ やや(彌々) が登場する、興味深

  い関連ドラマ、映画 。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画 は、史実(歴史上の事

  実) と 架空の出来事 が 混じって描かれ

  ています。 また、 現代風にアレンジしてあ

  ります。

 

■ 『 寧々〜おんな太閤記 (ねね 

    おんなたいこうき) 』

   (日本の2009年テレビ東京・制作テレビ

   ドラマ)。 

● やや(彌々)を演じた俳優名 : 星野 真理 。

● ねね(寧々、おね)を演じた俳優名 : 

  仲間由紀恵。

 

■ 『 江(ごう〜姫たちの戦国〜 』 

   (日本の2011年 NHK大河ドラマ)。 

 

■ 『 天地人 (てんちじん) 』 

   (日本のNHK2009年大河 ドラマ)。

 

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#yago

 

■ 屋号 

      (やごう)。

 

■ 屋号。

■ 名称 : (前近代日本の) 屋号 (やごう)。

■ 時期 : 古代日本 〜 近世日本の時期頃 

   (大和時代(古墳・飛鳥白鳳時代)〜 江戸時

  代頃)。

 前近代の、商号等の屋号を使用した一族名。

 前近代日本の、一族名の1つ。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 商号等の屋号 (やごう) は、 前近代日本

  では、 一族名の1つで、 前近代の一族名

  として、使用された。

 

■ 一族名 (氏(うじ)、姓(せい)) には、 氏姓

  (しせい)、 名字(みょうじ)、屋号(やごう) 等

  があり、  「氏姓(しせい、姓氏)の氏族名(しぞ

  くめい)と姓(かばね)」 であり、 「名字(みょ

  うじ)の家名(かめい)」、 「商号等の屋号(や

  ごう)」 である。

 

■ 町人には、 「屋号」を、一族名(「氏(うじ)」)と

  して使う例も見られる。

■ 例えば、 茶屋 四郎次郎 (ちゃやしろうじろう) 

  や 紀伊国屋 文左衛門(きのくにや ぶんざえも

  ん) で、 屋号の、茶屋 や 紀伊国屋 は、

  一族名(「氏(うじ)」)として用いられた。  また、 

  四郎次郎や文左衛門 は、個人名(「名(な)」)

  の通称 である。

 

■ 紀伊国屋 文左衛門 は、 実在した人物か、

  架空の人物か、 不明である。 

    実在した人物の説を採ると、 紀伊国屋 文

  左衛門 は、江戸時代前期の商人で、元禄貨

  幣改鋳期後の元禄バブル経済期の公共事業

  で材木の需要が高まり、 幕府御用材木商とし

  て、 巨万の富を得たと言われている。 また、

  商人として名を高める宣伝効果を狙って、 江

  戸の吉原で、豪遊し、小判をばら撒(ま)いたり

  したと言われている。 元禄バブル経済期が終

  わった後は、不景気となり、 江戸の富岡付近

  で今まで貯めた財で、裕福に暮らしたとも言わ

  れている。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 日本では、前近代と現代の氏名を比較すると、 

  前近代の一族名(「氏(うじ)」)には、 氏姓 (し

  せい)、 名字 (みょうじ)、 屋号 (やごう) 等

  があり、 また、 前近代の個人名(「名(な)」)

  には、  (いみな、実名)、 通称 (あだ名)、 

   (ごう)、  律令官名 (りつりょうかんめい)、 

  法名 (ほうみょう) 等があった。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 前近代日本の人名。

■ 前近代日本の上層階層の日本人成人男性 

  は、 現代日本人の名字と名のワンパターン

  構成の氏名ではなく、 「複数パターン(組合

  せ)構成の氏名」 を持っていた。

 一族名 (氏(うじ)) + 個人名 (名(な)) 

  の組み合わせ。

 @ 「 名字(みょうじ) + 通称(つうしょう)」。  

   A 「 名字 + 律令官名(りつりょうかんめい) 」 。 

   B 「 氏姓(しせい)の氏族名・姓(かばね) + 

     諱(いみな)の実名 」。 

   C 「 名字 + 諱(いみな)の実名 」。 

   D 「 名字 + 号(ごう) 」。

     E 「 名字 + 法名(ほうみょう) 」(後世の呼び名)。

   F 「 屋号(やごう)  通称 」。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ (例) 戦国大名の織田 信長 (おだ のぶなが) 

   の場合。 

  @ 「 織田 三郎 」(おだ さぶろう)、 

  A 「 織田 弾正忠  」(おだ だんじょうのちゅう)、

  B 「 平 朝臣 信長 」(たいらの あそん のぶ

    なが)、 

  C 「 織田 信長 」(おだ のぶなが) 

   等の氏名を持っていた。 

 現在の正式名の C 「 名字+諱(いみな)の

  実名 」パターンの 呼び方、 C 「 織田 信長 」

  と呼ばれるケース は、 当時は、少なかった。

■ (例) 越前藩主の松平 慶永 (まつだいら よ

  しなが) の場合。 

   D 「  松平 春嶽 」(まつだいら しゅんがく) 

  等の氏名を持っていた。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ (例) 戦国大名の上杉 謙信 (うえすぎ けん

  しん) の場合。 

 法名 「不識庵(不識院)謙信」 より 謙信をと

  って、 E 「 上杉 謙信 」 (うえすぎ けん

  しん) と後世の人に呼ばれた。 

 当時は、俗世の名字と法名(ほうみょう)を一緒

  に呼ぶことはなかった。

    本人は、当時は、「 不識庵(不識院)謙信 」

  と称していた。

■ (例) 豪商の茶屋 四郎次郎 (ちゃや しろうじ

  ろう) の場合。 

  F 「 茶屋  四郎次郎 」(ちゃや しろうじろう) 

  等の氏名を持っていた。

 

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『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』

 

 

以  上