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◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY 

   HANDBOOK

 

 

 カナヤマ 日本歴史辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 せ 』。

 

 

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メ ニュー (目次)。  

 

 ■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

 

 □ 日本史 辞典 (総合)  

 

□       ● 五十音順 (アイウエオ順)。

 

 □ 見出し語 せいな

 □ 見出し語 せか

 □ 見出し語 せきか

 □ 見出し語 せきき

 □ 見出し語 せさ

 □ 見出し語 せな

 □ 見出し語 せら

 

 

 

〇 せい   征夷大将軍。 

                            (せいいたいしょうぐん) 。

                     《朝廷の官職》。

           ■ 征夷大将軍は、

          朝廷が設けた官職の

          将軍の1つである。

           ■ 征夷大将軍の別称、

           略称は、将軍である。

           ■ 征夷大将軍は、

          奈良時代・平安時代初期

          は、征夷大将軍は、蝦

          (えぞ、東北地方の朝廷非

          支配勢力)を討する臨

          時の将軍であった。

           ■ 征夷大将軍は、

          鎌倉時代以後、征夷大

           将軍は、武家の棟梁(とう

          りょう、 統率者)、幕府の

          首長となる。

           ○  征夷大将軍は、

          鎌倉時代の源頼朝、

              建武期の護良親王(もり

           よししんのう、大塔宮(おお

             とうのみや))など である。

           ○ 征夷大将軍は、

          幕府の首長であり、

           幕府の鎌倉幕府、室町

           幕府、江戸幕府の各将

          軍である。

              ■ 征夷大将軍 (せいいたい

              しょうぐん、別名: 将軍))は、 

              奈良時代から江戸時代まで、朝廷

             から任命された、武官(武人)の首

              長の官職(職名)である。

             ■ 将軍の1つである、征夷大将軍

              は、 当初は、奈良時代・平安時代

             初期では、陸奥(むつ、東北地方)

              の蝦夷(えぞ)討伐のための朝 廷の

              臨時の軍統率者の官職であった。

             ● その後、征夷大将軍は、

              鎌倉時代より、武家の 棟梁(とうり

              ょう、統率者、統領、頭領)の地位、

              または、幕府の首長の地位を意味

             するようになる。 

 

〇 せい   清円院

             (せいえんいん)。 (= 華渓院)。

          《人名》。

           (戦国大名の姉妹)。 

           (1556?〜1579年)。

           ○ 清円院は、

           上杉三郎景虎の夫人で

                   あり、上杉景勝の姉妹

           である。

               ■ 清円院 (せいえんいん、華

                      渓院、1556?〜1579年)は、 

              戦国大名の上杉景勝の姉妹であ

              り、 上杉三郎景虎の夫人であっ

              た。

 

〇 せい  清音院。 

             (せいおんいん)。  《人名》。

             (生没年不詳)。

             SEIONIN.

          (⇒ 真田氏

        真田 幸村(信繁))。

          ○ 清音院は、

          真田 幸村(信繁)の兄・

          真田信幸(信之)(のぶゆき)

          の夫人である。

             ■ 清音院 (せいおんいん、生没

             年不詳)は、 

             真田 幸村(信繁)の義姉 (兄・真

             田信幸(信之)(のぶゆき)の側室

             夫人(元正室夫人)であり、

             幸村(信繁)の従姉妹(いとこ) 

             (伯父・真田信綱(のぶつな)娘) 

             である。

             ■ 清音院は、

             真田信幸(信之)(のぶゆき)の正

             室夫人であったが、 清音院の夫・

             信幸(信之)が、 政略結婚により、

             徳川氏重臣・本多忠勝の娘・小松

             姫を正室夫人としてむかえたため、

             真田氏のため、正室夫人から側室

             夫人となる。

             ■ 清音院の子は、 

             真田信幸(信之)(のぶゆき)との

             間の子(信幸(信之)長男)の、真

             田信吉(のぶよし)であり、 清音

             院の孫は、真田 信利(信直)(の

             ぶとし(のぶなお))である。

             ■ 清音院は、  真田丸 (さな

             だまる) 』 (NHKテレビ・2016年

             大河ドラマ)では、 「こう」という名

             (仮称)で登場する。

 

〇 せい   静寛院宮

              (せいかんいんのみや)。

           《人名》。

            (= 和宮 かずのみや)。  

                (⇒ 和宮 )。

            ○ 静寛院宮(= 和宮)は、

           江戸幕府の第14代将軍・

           徳川家茂(いえもち)の夫人

           である。 

 

〇 せい   世紀 

              (せいき)。 《西暦》。

              THE CENTURY.

           ○ 世紀とは、

           現行の西暦 (= 太陽暦の

           グレゴリオ暦)での、100

           年ごとの年代区分である。

                            ● 世紀 (せいき)とは、 

               現行の西暦 (= 太陽暦のグレゴ

               リオ暦)での、100年ごとの年代

                                 区分である。

 

〇 せい    世紀・西暦年号

         対照 表

               (せいき・せいれきねんごう

               たいしょうひょう)。

              《西暦》。

               THE CONTRASTIVE TABLE 

               COMPARING THE CENTURY 

               WITH THE YEARS OF THE 

               WESTERN CALENDAR.

 

〇 せい   正妻。

               (せいさい)。《女性の身分》。

               ■ 正妻は、  近現代日本の

               第一夫人であり、 前近代日

               本の正室夫人に相当する。

 

〇 せい   正室。

              (せいしつ)。 《女性の身分》。

            (⇒ 正室夫人)。

           (= 正室夫人)。

           (= 貴人の第一夫人)。

           (= 上層階層の第一夫人)。

                             ■ 正室(せいしつ)とは、 

                          正室夫人ともいい、 貴人(きじん、

              高貴な人物)の第一夫人であり、

              上層階層の第一夫人である。 

 

〇 せい   正室夫人

              (せいしつふじん)。 

            (= 正室)。

           (= 貴人の第一夫人)。

           (= 上層階層の第一

             夫人)。 

           (⇒ 前近代日本の一夫

              多妻制)。

           (⇒ 側室夫人)。

            ○ 正室夫人とは、

           貴人(高貴な人物)の第

           一夫人であり、 上層階

           層の第一夫人である。

            ○ 正室夫人は、

           前近代日本の、一夫多

           妻制の、上層階層の第

           一夫人である。  

                ○ 前近代日本では、

           医療未発達で栄養学の

           知も識乏しく、子供も大

           人も病死が多く、 家を

           存続させるため、 上層

           階層の家長等は、複数

           の夫人をもち、子を多く

                   つくり、子孫を残すこと

           が多かった。

                             ■ 正室夫人(せいしつふじん)

                         とは、 正室ともいい、 貴人(き

              じん、高貴な人物)の第一夫人

              であり、上層階層の第一夫人で

              ある。 

              ■ 正室夫人は、 

              前近代日本(古代〜江戸時代)の、

              一夫多妻制の、上層階層の第一

              夫人である。 

                            ■ 正室夫人は、

              原則として、一人である。

              但し、天皇家では、2,3人いる

              時期もある。

              ■ 正室夫人は、 

              第1番目の正室(せいしつ)がい

              なくなった場合、第二番目以後

              の正室を継室(けいしつ)という。

              ■ 前近代日本(古代〜江戸時

              代)の一夫多妻制の上層階層

              では、 正室夫人 (せいしつふ

              じん、貴人の第一夫人) と、 

              複数の側室夫人 (そくしつふじ

              ん、貴人の第二夫人) の夫人

              ちがいた。

                             ■ 正室(= 正室夫人))は、

              前近代日本の上層階層の一夫

              多妻制では、

              婚儀の順番とは関係なく、通常、

              夫人の親の身分が一番高い女

              性がなる。

 

〇 せい  勢州

             (せいしゅう)。 《旧地域名》。

          (= 伊勢 国(いせ のくに))。

          (≒ 現・三重県北部・中央

          中部の相当地域)。

          (律令制定後・古代・中世・

           近世日本・旧地域名の

           旧国名(令制国)の別称)。

           SEISHU AREA.

                    (⇒ 伊勢 国)。

                    (⇒ 三重県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

                           勢州(せいしゅう、= 伊勢 国は、 

              東海道(とうか いどう)・旧広域地

             方に属し、 現・近畿地方の、現在

              の三重県北部・中央中部に相当す

              る地域 である。

               勢州 (せいしゅう)は、  

              律令制定後・古代・中世・近世日

              本・旧地域名の、旧国(令制国)の

              正式名の、伊勢 国(いせのくに)

              別称である。

 

〇 せい   清少納言。 

             (せいしょうなごん)。 《人名》。

          (文学者)。 

             (⇒ 藤原定子枕草子)。

          ○ 清少納言は、

          平安時代中期の女流文

          学者である。   

          ○ 清少納言は、

          枕草子(まくらのそうし)の作者

          で、エッセイイストである。

               ■ 清少納言(せいしょうなごん)は、 

              平安時代中期の女流文学者であ

              り、 枕草子(まく らのそうし)の作

              者であり、エッセイイストである。

              ■ 清少納言は、 

              藤原道隆の娘・藤原定子に仕(つ

              か)えた女官 (女房(にょうぼう、

              上級侍女)であった。

               ■ 清少納言は、 

              和歌の家に生まれたが、和歌よ

              りも散文を好み、散文が得意で

              あったため、  随筆集「枕草

              子」がつくられた。

 

#seina

 

〇 せい   西南戦争。 

             (せいなんせんそう)。《戦い》。

          ○ 西南戦争は、

          1877年の、不平士族

          の反政府武力闘争の

          戦争である。

               ■ 西南戦争(せいなんせんそう)

              とは、

              1877年(明治10年)の、不平士

              族の反政府武力闘争の戦争であ

              る。

 

〇 せい   正の連鎖。 

              (せいのれんさ)。 

           (⇒ 負の連鎖)。

               ■ 正の連鎖 (せいのれんさ)は、 

              プラスがプラスを呼ぶつながりの

              現象である。

                 例えば、ある人の行う親切

              や助け合いが、他の人の親切や

              助け合いを呼び起こしていく現象

             である。

               ■ 一方、負の連鎖 (ふのれんさ)

              は、 マイナスがマイナスを呼ぶつ

              ながりの現象である。

 

〇 せい  政務居城。

          (せいむきょじょう)。 《城》。

             ■ 政務居城 (せいむきょじょう)

             とは、 政務を行うための城である。

               通常は、本城 (ほんじょう、本

             拠地の城)が、政務居城でもあるが、 

             特別に、政務居城を置く場合もある。

             ■ 豊臣秀吉の城では、

             本城の豊臣大阪城の他に、

             政務居城として、隠居前は(関白

             時)聚楽第(じょらくだい)、隠居

             後は(太閤時)、伏見城などがあ

             った。

             ■ 徳川家康の城では、

             本城の江戸城の他に、

             政務居城として、伏見城、駿府城

             などがあった。

             ■ 城には、 

             (a) 本城 (ほんじょう、本拠地

                 の城)、 

             (b) 支城 (しじょう、本城を防

                 衛するための城)、

             (c) 政務居城 (せいむきょじょ

                 う、政務を行うための城)、

             などがある。

 

〇 せい   姓名、姓。

          (せいめい、せい)。《氏名》。

          (= 一族名)。

          (⇒ 前近代日本の

          人名)。

 

〇 せい    清涼殿

             (せいりょうでん)。 《内裏》。

           (= 平安京の内裏(だいり)

           内の天皇の日常の居所)。

             (⇒ 内裏(だいり))。

           ○ 清涼殿は、

          平安京の、内裏(だいり)

          殿舎(建物)の1つで、天

          皇の日常の居所である。

           ○ 内裏とは、

          前近代日本の、天皇の住

          居、天皇御所である。

           ○ 平安京>

          平安宮(大内裏)>内裏>

                      清涼殿、紫宸殿

           (⇒ 平安京(京都)の内裏

           (だい り)内の、清涼殿

                     紫宸殿)。

             (⇒ 宮城内裏)。

             (⇒ 飛鳥京藤原京

               平城京長岡京

                      平安京)。

          (⇒ 宮城(きゅうじょう )

               大内裏(だいだいり,= 平安宮

              後期の宮城)

           (⇒ 宮城内裏(だいり)

              大極殿(だ いごくでん)朝堂

           (ちょうどういん)、曹司(ぞうし))。

           (⇒ 天皇天皇家朝廷

             ■ 清涼殿(せいりょうでん)は、 

             平安京の、内裏(だいり)の殿舎

             (建物)の1つである。

             ■ 清涼殿(せいりょうでん)は、 

             平安京(= 京都、京の都)の中の、

             平安宮(大内裏)の中の、

             内裏(だいり、天皇の住居)内の

             殿舎(建物)の1つであり、 

             天皇の日常の居所であり、、

             天皇の政務儀式等も行う建物で

             ある。

             ■ 清涼殿(せいりょうでん)は、 

             平安京(= 京都、京の都)の中の、

             平安宮(大内裏)の中の、

             内裏(だいり、天皇の住居)内の

             殿舎(建物)の1つであり、 

             ■ 清涼殿(せいりょうでん)は、 

             平安京(= 京都、京の都)内の、

             平安宮(= 大内裏)内の、

             内裏(だいり、天皇の住居)の殿舎

             (建物)の1つであり、 

             内裏の正殿の紫宸殿(ししんでん)

             の北西に隣接し、 

             天皇の日常の御座所(天皇が日常

             住んだ所)であり、 叙位(じょい)、

             除目(じもく)等の政務や四方拝、

             小朝拝等の儀式の天皇の公事(く

             じ)も行われた。

             ● 清涼殿の中にある部屋の1つに、

             「殿上間」(てんじょうのま、殿上の

             間)があった。

             ■ 紫宸殿(ししんでん)は、 

             平安京(= 京都、京の都)の、

             内裏(だいり、天皇の住居)の殿舎

             (建物)の1つであり、 平安京の

             内裏の正殿であり、 天皇の 国家

             的儀式(公的行事)を行う建物で

             ある。

             ■ 殿上人。

             ● 殿上人(てんじょうびと)には、

             内裏の殿上人 と、 

             院・東宮の殿上人 がある。

             ■ 内裏の殿上人 (だいりのてん

             じょうびと)とは、 

             天皇の常御所(つねごてん、日常

             の居所)である、内裏または里内

             裏(さとだいり)の清涼殿(せいり

             ょうでん)の、「殿上間」(てんじょ

             うのま、殿上の間)に昇殿(昇るこ

             と)を許 された者(に入ることを許

             された者)である。

             ● 内裏の殿上人 (だいりのてん

             じょうびと)は、 「内の殿上人 」

             (うちのてんじょうびと)とも言われ、 

             9世紀以降の日本の朝廷において、 

             @ 位階・ 五位以上の者の中で、

             内裏(だいり、 天皇の住居、天皇

             御所)または里内裏(さとだいり、

             天皇の仮住居、仮御所)内の、

             天皇の常御所(つねごてん、日常

             の居所)である清涼殿(せいりょう

             でん、天皇の日常の居所)の部屋

             の1つの「殿上間」(てんじょうのま、

             殿上の間)に昇殿(昇ること)を

             された者(に入ることを許された者)、

             または、

             A 六位以上の者で 蔵人(くろう

             ど、天皇秘書役)に叙任された者

             である。 

             ■ 院・東宮の殿上人(いん・とう

             ぐうのてんじょうびと)とは、 

             院(いん、上皇)・東宮(とうぐう、

             皇太子)の常御所(つねごてん)

             に昇殿(昇ること)を許された者

             (に入ることを許された者)である。

             ■ 昇殿(昇ること)を許された者

             である殿上人は、 

             天皇や院・東宮の一代限りで

             あり、 代替わりに当たっては

             昇殿許可を失い、再び昇殿す

             るには、改めて勅許(ちょっきょ、

             天皇の許可)や院・東宮の許可

             が必要であった。

              ■ 紫宸殿  (ししんでん)は、 

             平安京の内裏(だいり)の正殿

             である。 

              ■ 紫宸殿  (ししんでん)は、

             平安京(へいあんきょう、= 京都、

             京の都)内の、平安宮(へいあん

             きゅう、= 大内裏(だいだいり))

             内にある内裏の建物であり、 

             内裏の殿舎の1つであり、

             内裏の正殿であり、 天皇の国家

             的儀式(公的行事)を行う建物

             ある。

             ● 平安時代末期の大極殿(だい

             ごくでん)の消失(焼失)後、

             天皇の国家的儀式(公的行事)は、

             大極殿に代わり、紫宸殿 で行わ

             れるようになった。

             ■ 内裏 (だいり)とは、 

             天皇の住居、宮居であり、

             天皇の住む御殿、天皇御所

             であり、 

             前近代日本の天皇御所である。

              ◆ 平安京(= 京都、京の都)の

                内裏。

              ■ 平安京(= 京都、京の都)>

                平安宮(= 大内裏)> 内裏。

              ■ 京都の平安京(へいあんきょう)

              では、 

                             平安京の中に、平安宮(へいあん

              きゅう、= 大内裏(だいだいり、=

              平安京の宮城( きゅうじょう、天皇

              の宮殿)の平安宮(= 大内裏)

              あり、 平安宮(= 大内裏)の中 に、

              内裏 (だいり、天皇御所、天皇私

              邸)がある。

              ■ 平安京 (へいあんきょう、=

              京都、京の都(きょうのみやこ)) 

                              の内裏 (だいり)は、 

              平安宮 (へいあんきゅう、= 大内

              裏(だいだいり))内にあった、天皇

              の住居であり、 現在の京都市

              上京区(かみぎょうく)下立売通

              土屋町付近にあった。

                 ■ 平安宮 (へいあんきゅう)とは、

              平安京の宮城(きゅうじょう、天皇の

               宮殿)であり、 後期の平安宮

              大内裏(だいだいり)という

              ■ (5) 京都の平安京内の、

              平安宮(へいあんきゅう、=大内裏

              (だいだいり))内の、

              内裏 (だいり、天皇御所)は、

              本来の内裏の地で断続的に存

              在したが、 

              鎌倉時代中期以後、平安京の

              本来の内裏の地に内裏が再建

              されることはなくなり、 

              平安京の内裏は、京都(= 平安京)

              の各所に、 里内裏 (さとだいり、

              天皇の仮御所、平安京の本来の

              内裏の地以外の場所にある臨時

              の内裏) として、置かれた。

              ● 里内裏 (さとだいり)とは、

              天皇の仮御所であり、 平安京の

              本来の内裏の地以外の場所にあ

              る臨時の内裏(= 天皇の住居)で

              ある。

              ■ 平安京(= 京都、京の都)では、

              里内裏は、初め、平安京の本来

              の内裏の地に建つ内裏が火災

              などで使用不能となった時に、

              その他の地で、臨時に使用される

              内裏であったが、

              次第に、内裏は平安京(= 京都、京

              の都)の本来の内裏の地に再建さ

              れることが少なくなり、 鎌倉時代

              中期以後、明治2年(1869年)まで、

              平安京の本来の内裏の地に、内裏

              が再建されることはなくなくなった。

              ■ 平安京 (へいあんきょう)は、

               別名は、京都、京の都(きょうのみ

              やこ)と言い、

              平安時代から明治時代初期まで、

              794年から1869年までの間、 

              京都府・京都市付近の、天皇の

             住居(= 内裏)、天皇の宮殿(= 宮

                       城)があった都市である。 

               ■ 平安宮 (へいあんきゅう)とは、

             別名は、大内裏(だいだいり)ともい

             い、 日本の平安時代(794年〜

             1185年)の、794年から1177年

             頃まで、日本の京都市上京区(か

             みぎょうく)付近にあった、宮城(=

             天皇の宮殿 )である。

 

〇 せい   西洋式表示時刻。

             (せいようしきひょうじじこく)。

          《時刻》。

          (⇒ 時刻法)。

              ■ 西洋式表示時刻は、 

             日本で使われた時刻法(時法)の、

             時刻表示方式 

             (西洋式表示時刻、

             十二支表示時刻、

             時鐘数表示時刻)

             の3つの1つである。

              ■ 西洋式表示時刻は、 

             近現代日本で使われている

             定時法の、

             西洋式に表示する時刻である。

              ■ 西洋式表示時刻は、 

             近現代日本の1日24時間制の、

             定時法・西洋式表示時刻である。 

 

〇 せい  政略結婚。 

             (せいりゃくけっこん)。《婚儀》。

              政略結婚とは、 

             政治上の婚儀 (結婚)で、

             前近代日本(古代〜江戸時代)で、

             上層階層間で盛んに行われた婚儀

             (結婚) である。

              政略結婚では、

             前近代日本(古代〜江戸時代)で、

             幼年同士の婚儀(結婚)もあった。

 

〇 せい  青龍隊。 

             (せいりゅうたい)。《会津戦争》。

              会津藩青龍隊は、 

             会津戦争で会津藩士

              の中核部隊の1つ であった。

          (⇒会津戦争)。

 

〇 せい  西暦 

          (せいれき)。 (:欧米、西洋の暦)。

             THE WESTERN CALENDAR

          《西暦》。

                    ■ 現行の西暦は、太陽暦の

          グレゴリオ暦。

          ■ 現代世界の中心暦。

             ● 現行の西暦 (現在使用の世界標準の

             西暦) は、 太陽暦のグレゴリオ暦(= グ

             レゴリウス暦、グレゴリー暦、 紀元(後)

             1582年−現在、使用) である。

                  現行の西暦のグレゴリオ暦は、現在、

                           世界中で使われている太陽暦であり、現代

             世界の中心暦 である。

 

〇 せい  西暦和暦対照表 ・

        日本語版 

             (せいれきわれきたいしょうひょう・

                           にほんごばん)。 

          《西暦・和暦対照表》。

             THE CONTRASTIVE TABLE 

                            COMPARING THE WESTERN 

             CALENDEAR WITH THE JAPANESE 

             CALENDAR.

          ■ 日本のすべての和暦年号の

          西暦和暦の対照表・一括早見表。

 

〇 せい  西暦和暦対照表 。

             (せいれきわれきたいしょうひょう)。

          《西暦・和暦対照表》。

        (⇒ 西暦和暦対照表 ・

        日本語版

             THE CONTRASTIVE TABLE 

             COMPARING THE WESTERN 

             CALENDEAR WITH THE 

             JAPANESE CALENDAR.

 

〇 せい  西暦和暦早見表 。

             (せいれきわれきはやみひょう)。

          《西暦・和暦対照表》。

        (⇒ 西暦和暦対照表 ・

        日本語版

             THE SIMPLIFIED CHART 

             COMPARING THE WESTERN

             CALENDAR WITH THE 

             JAPANESE CALENDAR.

 

〇 せい  西暦・和暦・年号換算

        表。

             (せいれき・われき・ねんごうかん

                     さんひょう)。

          《西暦・和暦対照表》。

             THE CONVERSION TABLE 

             BETWEEN THE WESTERN 

             CALENDAR AND THE 

             JAPANESE CALENDAR.

       (⇒ 西暦和暦対照表 ・

          日本語版

       (⇒ 和暦年号表・

          日本語版

          ○ 西暦年号・和暦年号(元号)

             換算表。

 

〇 せい  清和源氏。 

             (せいわげんじ)。

          (平安時代初期〜江戸時代)。

          《日本の政治》。

             THE SEIWA CLAN.

          ○ 多くが武家源氏。

 

#seka

 

〇 せか  世界恐慌。

              (せかいきょうこう)。

             (1929年ー1933年)。

            (⇒ 恐慌、大恐慌)。

             ■ 世界恐慌 (1929年ー1933年)は、

             1929年10月のニューヨーク株式市場の

             株価暴落で始まった、世界的な大恐慌 

             である。 

             ● 世界恐慌では、 株価暴落、工業生産

             の急落、多くの企業の倒産、商業・貿易の

             不振、多くの銀行などの金融機関の閉鎖・

             倒産、失業者の増大などが、世界的な規模

             で起こった。

 

#sekika

 

〇 せき   関ヶ原の戦い  

               (せきがはらのたたかい)。 

           《合戦》。

            (= 関ヶ原合戦)。 

              THE BATTLE OF 

           SEKIGAHARA.

            ○ 関ヶ原の戦い とは、

           広義では、

           1600年(慶長5年)8月

           から9月まで、美濃国の

           関ヶ原付近で、西軍と東

           軍(徳川方)とが戦った

           戦いであり、

                      狭義では、

           1600年(慶長5年)9月

           15日に、美濃国の関ヶ

           原付近で、西軍と東軍

           (徳川方)とが戦った

           決戦である。

            ○ 関ヶ原の戦いには、

           「伝説(従来説)の関ヶ

           原の戦い」 と、 

           「史実(新説)の関ヶ原

           の戦い(= 大垣・山中の

           戦い)」 という2つの説

                       がある。

             ○ 関ヶ原の戦いは、

           「慶長5年(1600年)の

           天下分け目の戦い」の

           日本各地の戦いの1つ

           であり、

           「慶長5年(1600年)の

                       天下分け目の戦い」の

           中心的な戦いである。

          (⇒ 関ヶ原の戦い

           決戦)。

          (⇒ 関ヶ原の戦い)。

          (⇒ 新説(史実)

             関ヶ原の戦い

           大垣・山中の戦い

         大垣の戦い山中の戦い)。

                (⇒ 慶長5年の

                 下分け目の戦い)。

           □ 「史実(新説)

            関ヶ原の戦い

            (= 大垣・山中の戦い)」  

            画像アルバム No.2

           □ 「伝説(従来説)

            関ヶ原の戦い」

            画像アルバム  No.3 

            (⇒ 豊臣氏豊臣政権)。

             (⇒ 豊臣氏五大老・五奉

            五大老五奉行)。

             (⇒ 内府ちがひの条々)。

                    (⇒ 小山評定

            細川ガラシャ)。

          (⇒ 徳川家康福島正則

             池田輝政)。

          (⇒ 毛利秀元)。

          (⇒ 石田三成宇喜多秀家)。

          (⇒ 大谷吉継小早川秀秋)。

          (⇒ 美濃赤坂大垣城

                           南宮山)。

          (⇒ 山中城山玉城

              松尾山藤下の自害峯)。

          (⇒ 関ヶ原盆地桃配山

                           陣場野笹尾山)。

 

               ■ 関ヶ原の戦い

              (せきがはらのたたかい)とは、

              広義では、

               1600年(慶長(けいちょう)

               5年)8月から9月まで、

              美濃国(みののくに、現・岐阜県

              南部)の関ヶ原付近で、西軍と

              東軍(徳川方)とが戦った

                              戦い(合戦)であり、

                          狭義では、

               1600年(慶長5年) 9月15日に、

               美濃国の関ヶ原付近で、

               西軍と東軍(徳川方)とが戦った

               決戦である。

 

              ■ 関ヶ原の戦いには、 

                              「史実(新説)の関ヶ原の戦い

              (= 大垣・山中の戦い)」 

              と、

              「伝説(従来説)の関ヶ原の戦い」 

              という2つの説がある。

 

              ■ 関ヶ原の戦いは、

              1600年(慶長5年)に日本各地

              で行われた「慶長5年(1600

              年)の天下分 け目の戦い」の

                               日本各地の戦いの1つであり、

              「慶長5年 (1600年)の 天下

              分け目の戦い」の中心的な戦い

                               である。

              ■ 関ヶ原の戦いの結果、

              徳川方の東軍が勝利を得 て、

              徳川家康が政権基盤を固め、 

              その後、1603年(慶長7年)に、

              家康が将軍宣下(せんげ)を受

              け、 江戸幕府が出現する。

 

              ■ 関ヶ原の戦いは、 

              広義では、

              1600年(慶長5年)の8月26日

              頃の東軍(徳川方)の先手勢(さ

              きてぜい)の大垣(おおがき)エリ

              アの美濃赤坂付近布陣から9月

              23日の西軍の大垣城落城まで

              の間の、美濃国の関ヶ原付近の

              合戦である。

 

           ■ 共通「史実(新説)・

           伝説(従来説)」の

           関ヶ原の戦い」概要。

 

              ■ 関ヶ原の戦い 

              (史実(新説)・伝説(従来説)

              共通) では、

              (1) 1600年(慶長5年)

              8、9月の時点で、

              東軍(徳川方)の先手勢は、

              尾張国 (おわりのくに、現・愛知

              県西部の相当地域)の清州城

              (きよすじょう、清須城)を本拠地

              にし、

              西軍は、

              美濃国(み ののくに、現・岐阜県

              南部の相当地域)の大垣城(おお

              がきじょう)を本拠地にし、幾本も

              の川を挟んで対峙していた。 

              (2) 徳川方の先手勢の東軍は、

              清州城(清須城)を出て、1600

              年(慶長5年)8月23 日に西軍

              の岐阜城を落城させ、 

              徳川方の先手勢の東軍は、

              8月26日頃より、大垣エリアの

              美濃赤坂(みのあかさか)付近

              に移動し布陣して、9月14日頃

              まで西軍の大垣城を攻撃するが、

              落城せず。

              (3) 1600年(慶 長5年)9月

              14日に、

                 東方から援軍としてやって来た

              東軍(徳川方) の徳川家康は、

              徳川本隊の兵(井伊直政・

              本多忠勝・家康馬廻り衆等の

              軍)と共に、昼頃、大垣エリアの

              美濃赤坂(みのあかさか)付近

              に布陣する。  

              (4) 1600年(慶長5年)9月

              14日夜に、 西軍の大垣城に

              駐留する大部分の軍は大垣城

              を抜け出し関ヶ原盆地方面へ

              移動し、

              一方、9月14日夜に、大垣エリ

              アの美濃赤坂付近にいた東軍

              (徳川方)の多くの軍は、

              対南宮山・大垣城の西軍対処残

              留軍を残して、

              9月15日早朝に、関ヶ原盆地方

              面へ移動し、

              東西両主力軍は、9月15日の

              間に、美濃国の関ヶ原付近で

              決戦を行い、

              東西両主力軍の決戦では、東軍

              (徳川方)の主力軍が 、勝利を

              得る。

              (5) 大垣エリアの美濃赤坂付近

              に残る徳川方の東軍は、1600年

              (慶長5年)9月15日から9月23

              日まで西軍の大垣城を攻撃し、

              9月23日に西軍の大垣城を落城

              させる。

 

           ■ 「史実(新説)の関ヶ原

           の戦い」概要 。

 

              ◆ 「史実(新説)関ヶ原 の戦い」

              (= 大垣・山中の戦い)。

 

              ■ 「史実 (新説)関ヶ原の戦い

              (=大垣・山中の戦い)」では、

              西軍は、反徳川で団結し、

              集団指導体制であり、 

              西軍(奉行衆・ 毛利)の中心

              人物は、毛利輝元、宇喜多秀家、

              大谷吉継、奉行衆4人(石田三成、

              増田長盛、長束正家、前田玄以)

              である。 

                 一方、徳川方の東軍の

              中心人物は、徳川家康である。

 

              ■ 「史実(新説)関ヶ原の戦い」

              (= 大垣・山中の戦い)は、

              広義では、時期は1600年(慶

              長5年)の8月26日頃(東軍

              (徳川方)の先手勢の美濃赤坂

              付近布陣)から9月23日(西軍

              の大垣城落城)までであり、  

              戦いの場所は美濃国 (みのの

              くに、現・岐阜県南部の相当地

              域)の関ヶ原付近 (大垣(おお

              がき)付近と山中(やまなか)

              付近)であり、 美 濃国に集結

              した、東軍(徳川方)の約7万

              3000人の兵 と 西軍奉行

              衆・毛利方の約3万8000人

              の兵の東西両軍・約11万

              1000人の兵が戦う。 

                 その決戦は、

              主戦場(決戦場)の山中 (やま

              なか、美濃国山中村、関ヶ原盆

              地から西南方向・約2km)であ

              り、 

              1600年(慶長5年)9月 15日

              の午前10時頃から正午頃まで、

              東軍(徳川方)の主力軍と 西軍

              (奉行衆・毛利方)の 主力軍と

              の間で行われ た。 

                 戦いの結果、西軍(奉行衆・

              毛利方)の主力軍が総崩れとな

              り、敗走、敗北し、 東軍(徳川

              方)の主力軍が勝利を得る。

 

           ■ 「伝説(従来説)の

           関ヶ原の戦い」概要 。

 

              ◆ 「伝説(従来説)の関ヶ原の

              戦い」。 

 

              ■ 「伝説(従来説)の関ヶ原の

              戦い」では、 石田の西軍の

              中心人物は石田三成であり、

              一方、徳川方の東軍の中心人物

              は、徳川家康である。

                 「伝説(従来説)の関ヶ原の

              戦い」は、 関ヶ原の戦いが終わ

              った後、江戸時代 の長い間に

              自慢話が積み重なってできあが

              った作り話である。

 

               ■ 「伝説(従来説)関ヶ原の戦

              い」 は、

              広義では、時期は1600年(慶

              長5年)の8月26日頃(東軍

              (徳川方)の先手勢の美濃赤坂

              付近布陣)から9月23日(西軍

              の大垣城落城)までであり、 

              戦いの場所は美濃国みのの

              (くに、現・岐阜県南部の相当

              地域)の関ヶ原付近 (大垣、

              関ヶ原盆地)であり、 

              美濃国に集結した東軍(徳川

              方)の約7万人の兵  と 西軍

              (石田方)の約8万人の兵の東西

              両軍・約15万人の兵が戦う。 

                 その決戦は、

              主戦場(決戦地)の関ヶ原盆地

              であり、 

              1600年(慶長5年)9月15日

              午前8時頃 から午後2時頃まで

              東軍(徳川方)の主力軍と 西軍

              (石田方)の主力軍との間で行わ

              れた。 

                  戦いの結果、西軍(石田

              方)の主力軍が総崩れとなり、

              敗走、敗北し、 東軍(徳川方)

              の主力軍が勝利を得る。

 

 せき   関ヶ原の戦い

        (伝説(従来説)の

         関ヶ原の戦い)

           年代順関連出来事

        (詳細)

              (せきがはらのたたかい

                              でんせつ(じゅうらいせつ)の

              せきがはらのたたかい

               ねんだいじゅんかんれんできごと

              (しょうさい))。

           《戦い関連出来事》。

 

〇 せき   関ヶ原の戦い

        の決戦。  《合戦》。

              (せきがはらのたたかい

              のけっせん)。 

              ■ 決戦日: 1600年

           (慶長5年)9月15日。

              ■ 決戦場所: 

           美濃国の関ヶ原付近。

          (⇒ 関ヶ原の戦い)。

          (⇒ 新説(史実)

             関ヶ原の戦い

           大垣・山中の戦い

         大垣の戦い山中の戦い)。

                (⇒ 慶長5年の

                 下分け目の戦い)。

           □ 「史実(新説)

            関ヶ原の戦い

            (= 大垣・山中の戦い)」  

            画像アルバム No.2

           □ 「伝説(従来説)

            関ヶ原の戦い」

            画像アルバム  No.3 

          (⇒ 徳川家康福島正則

             池田輝政)。

          (⇒ 毛利秀元)。

          (⇒ 石田三成宇喜多秀家)。

          (⇒ 大谷吉継小早川秀秋)。

          (⇒ 美濃赤坂大垣城

                           南宮山)。

          (⇒ 山中城山玉城

              松尾山藤下の自害峯)。

          (⇒ 関ヶ原盆地桃配山

                           陣場野笹尾山)。

 

           ◆ 「史実(新説)・伝説

           (従来説)の関ヶ原の戦

           い」東西両軍主力

           軍の決戦の要点表。

 

           ■ 「史実(新説)の

           関ヶ原の戦い」

           東西両軍主力軍の

           決戦の要点表。

 

              ◆ 一次史料に基づく「史実(新

              説)関ヶ 原の戦い(= 大垣・山中

               の戦い)」の決戦。 

              ● 決戦場所: 

              関ヶ原盆地の西方・約2kmの

                              山中(やまなか)村。

              ● 決戦日時: 

              1600年(慶長5年)9月15日

              午前10時頃〜正午頃。 

 

              ■ 「史実(新説)関ヶ原の戦い

              (= 大垣・山中の戦い)」の決戦

              では、

              大垣エリアの美濃赤坂付近から

              移動し山中村の東側に布陣する 

              東軍(徳川方 )の主力軍 

              と、 

              大垣エリアの大垣城から移動し

              山中村の西側に布陣する西軍

              (奉行衆・毛利方)の主力軍 が、 

              1600年 (慶長5年)9月15日

              の午前10時頃から正午頃まで

              美濃国の山中(やまなか)

              戦う(決戦を行う)。

                 その戦いの結果、西軍(奉

              行衆・毛利方)の主力軍が総崩

              れとなり、敗走、敗戦し、東軍

              (徳川方) の主力軍が勝利を得

              る。

 

           ■ 「伝説(従来説)の

           関ヶ原の戦い」

           東西両軍主力軍の

           決戦の要点表。

 

              ◆ 一方、伝説(従来説の関ヶ

              原の戦い」の決戦

              ● 決戦場所: 

              関ヶ原盆地。

              ● 決戦日時: 

              1600年(慶長5年)9月15日

              午前8時頃〜午後2時頃。

 

              ■ 「伝説(従来説の関ヶ 原の

              戦い」の決戦では、 

              大垣エリアの美濃赤坂付近から

              移動し関ヶ原盆地の東側に布陣

              する東軍(徳川方)の主力軍

              と、 

              大垣エリアの大垣城から移動し

              関ヶ原盆地の西側に布陣する

              西軍(石田方)の主力軍 が、 

              1600年(慶長5年)9月15日の

              午前8時頃から午後2時頃まで

              美濃国の関ヶ原盆地で戦う (決

              戦を行う)。 

                 その戦いの結果、西軍(石

              田方)の主力軍が総崩れとなり、

              敗走、敗戦し、東軍(徳川方) の

              主力軍が勝利を得る。

              

           ◆ 「史実(新説)・伝説

           (従来説)の関ヶ原の戦

           い」の決戦日の

           東西両軍の主力軍

           行動要点表。

 

              ◆ 「史実(新説)・伝説(従来

                説)の関ヶ原の戦い」

                の決戦の当日の、

                東西両軍の主力軍の 動き。

 

           ■ 「史実(新説)の

           関ヶ原の戦い」の決戦日

           東西両軍の主力軍

           行動要点表。

 

              ◆ 「史実(新説)の関ヶ原の

               戦い」の決戦の当日の、

               東西両軍の主力軍の動き。

             

                  ■ 「史実(新説)関ヶ原の戦い

              (= 大垣・山中の戦い)」の決戦

              の当日の、東軍(徳川方)の

              主力軍 の動き

              ● 東軍(徳川方)の主力軍

               (先手勢の福島組勢と家康

               の徳川本隊) は、

              @ 東軍(徳川方)の主力軍は、

               1600年(慶長5年)9月15

               日早朝に、大垣エリアの美濃

               赤坂(みのあかさか)付近 

               (関ヶ原盆地の東方)を出発

               (1600年(慶長5年)

                9月15日早朝)⇒

              ○ 徳川家康は、

               9月15日早朝に、

               大垣エリアの美濃赤坂

               付近で、東軍(徳川方)

               を3つに分ける。

              ○ 東軍(徳川方)

               家康と徳川本隊は、

               関ヶ原盆地南西部 と

               山中村 (やまなかむら、

               関ヶ原盆地の西方・約2km)

               に向かう。

              ○ 東軍(徳川方)

               先手勢の池田組勢は、

               大垣エリアの南宮山(なんぐ

               うさん、関ヶ原盆地の東方)

               の前面に向かい、布陣する。

              ○ 東軍(徳川方)

               先手勢の福島組勢は、

               山中村 (やまなかむら、

               関ヶ原盆地の西方・約2km)

               に向かう。

              A 東軍(徳川方)の主力軍は、

               9月15日の午前10時頃から

               正午頃まで、山中村 (やま

               なかむら、関ヶ原盆地の西方・

               約2km)で、西軍(奉行衆・毛

               利方)の主力軍と交戦(決戦を

               行う)

               (9月15日の午前10時頃

               〜正午頃)⇒

              B 9月15日正午頃に、

               西軍(奉行衆・毛利方)の主力

               軍が、総崩れとなり、敗走、

               敗戦し、東軍(徳川方)の主力

               軍は、山中村で、西軍(奉行

               衆・毛利方)の主力軍に対し

               決戦で勝利を得る

               (9月15日正午頃)。

 

                  ■ 「史実(新説)関ヶ原の戦

               い(= 大垣・山中の戦い)」の

               決戦の当日の、西軍(奉行衆・

               毛利方)の主力軍の動き。

              ● 西軍(奉行衆・毛利方)

               の主力軍 (小西、石田、

               宇喜多、島津等の軍) は、

              @ 西軍(奉行衆・毛利方)

               の主力軍は、

               1600年(慶長5年)9月

               14日夜に、

               大垣エリアの大垣城 

               (おおがきじょう、関ヶ原

                                  盆地の東方)を出発

               (1600年(慶長5年)

                9月14日夜)⇒

               ○ 西軍(奉行衆・毛利方)は、

               9月14日夜に、大垣城で、 

               協議して、西軍(奉行衆・毛利

               方)を、主力軍と大垣城守備

               残留軍の2つに分ける。

               ○ 西軍(奉行衆・毛利方)の

               主力軍は、山中村 (やまなか

               むら、関ヶ原盆地の西方・約2

               km) に向かう。

               ○ 西軍(奉行衆・毛利方)の

               大垣城守備残留軍は、大垣城

               に残留し、大垣城を守備する。

              A 西軍(奉行衆・毛利方)の

               主力軍は、9月15日未明に、

               山中村 (やまなかむら、

               関ヶ原盆地の西方・約2km)

               に布陣する。

               〇 西軍(奉行衆・毛利方)の

               主力軍は、

               山中村付近の城山にある

               既存準備陣地の玉城(たまじ

               ょう)を、出撃陣地として使用

               した可能性がある。

               (9月15日未明)⇒

              B 西軍(奉行衆・毛利方)の

               主力軍は、9月15日午前10

               時頃から正午頃まで、山中村

               で、東軍(徳川方)の主力軍と

               交戦(決戦を行う) 

               (9月15日午前10時頃〜

                正午頃)⇒

              C 9月15日正午頃、山中村

               で、西軍(奉行衆・ 毛利方)の

               主力軍は、総崩れ、敗走、敗

               戦となり、東軍(徳川方)の

               主力軍がに西軍(奉行衆・ 毛

               利方)の主力軍に対し決戦で

               勝利を得る

               (9月15日正午頃)。

 

           ■ 「伝説(従来説)の

           関ヶ原の戦い」の決戦日

           東西両軍の主力軍

           行動要点表。

 

              ◆ 「伝説(従来説)の関ヶ原

              の戦い」の決戦の当日の、

              東西両軍の主力軍の動き。

 

              ■ 伝説(従来説の関ヶ原 の

              戦い」の決戦の当日の、東軍

              (徳川方)の主力軍の動き。

              ● 東軍(徳川方)の主力軍

               (先手勢の福島組勢と家康

               の徳川本隊) は、

              @ 東軍(徳川方)の主力軍は、

               1600年(慶長5年)9月15日

               早朝に、 大垣エリアの美濃

               赤坂(みのあかさか)付近

               (関ヶ原盆地の東方)を出発

               (1600年(慶長5年)

                9月15日早朝)⇒

              〇 東軍(徳川方)の徳川家康

               は、 1600年(慶長5年)9月

               15日早朝に、大垣エリアの

               美濃赤坂付近で、

               東軍(徳川方)を2つに分け、

               関ヶ原盆地に向かう先手勢の

               福島組勢、家康の徳川本隊の

               東軍(徳川方)の主力軍 と、 

               南宮山山麓に向かう池田組勢

               の2つに分ける。

              A  東軍(徳川方)の主力軍は、

              9月15日の朝に、関ヶ原盆地

              の東側に布陣する

              (9月15日の朝)⇒ 

              B 東軍(徳川方)の主力軍は、

              9月15日午前8時頃から午後

              2時頃まで、関ヶ原盆地で 、

               西軍(石田方)の主力軍と交戦

              (決戦を行う)

              (9月15日午前8時頃〜

               午後2時頃)⇒ 

              ○ 9月15日の朝から午前

              10時頃まで、家康は、

              桃配山 (ももくばりやま、関ヶ

              原盆地の東側)で決戦を指揮

              ○ 9月15日午前10時頃から

              午後2時頃まで、家康は、

              陣場野 (じんばの、関ヶ原盆

              地中央部)で決戦を指揮

              C 9月15日午後2時頃に、

              関ヶ原盆地で、西軍(石田方)

              の主力軍は、総崩れとなり、

              敗走、敗北し、東軍(徳川方)

              の主力軍は、西軍(石田方)

              の主力軍に対し決戦で勝利

              を得る

              (9月15日午後2時頃)。

              ○ 9月15日午後2時頃、

               陣場野で、家康は決戦勝利 。

 

                  ■ 「伝説(従来説の関ヶ原

                の戦い」の決戦の当日の、

                西軍(石田方)の主力軍

                の動き。

               ● 西軍(石田方)の主力軍は、

              @ 西軍(石田方)の主力軍は、

               1600年(慶長5年)9月14日

               夜に、大垣エリアの大垣城 

               (おおがきじょう、関ヶ原盆地

                                の東方)を出発

              (1600年(慶長5年)

               9月14日夜)⇒

               ○ 西軍(石田方) の石田三成

               は、9月14日夜に、大垣城で、 

               西軍(石田方)を、

               主力軍と大垣城守備残留軍

               の2つに分ける。

              A 西軍(石田方)の主力軍は、

               9月15日未明に、関ヶ原盆地

               の西側に布陣

               (9月15日未明)⇒

              B 西軍(石田方)の主力軍は、

               9月15日午前8時頃から

               午後2時頃まで、関ヶ原盆地

               で、東軍(徳川方)の主力軍

               と交戦(決戦を行 う)

               ○ 9月15日の朝から午前

                午後2時頃まで、西軍(石田

               方)石田三成は、

               笹尾山 (ささおやま、関ヶ原

               盆地の北西)で決戦を指揮

               (9月15日午前8時頃〜

               午後2時頃)⇒

              C 9月15日午後2時頃に、

               関ヶ原盆地で、西軍(石田方)

               の主力軍は、総崩れ、敗走、

               敗戦し、東軍(徳川方)の主

               力軍に対し決戦で敗戦する

               (9月15日午後2時頃)。

 

           ◆ 「史実(新説)・伝説

           (従来説)の関ヶ原の戦

           い」の決戦日

           東西両軍の各武将・

           各隊の行動要点表。

 

           ■ 「史実(新説)・伝説

           (従来説)の関ヶ原の戦

           い」の決戦日

           の東軍(徳川方)

           徳川家康と徳川本隊

           行動要点表。

 

              ◆ 「 史実(新説)・伝説(従来説)

               の関ヶ原の戦い」の決戦の当日

               の、東軍(徳川方)の

               徳川家康と徳川本隊の動き。

 

                  ■ 「史実(新説)関ヶ原の戦い

               (= 大垣・山中の戦い)」の

               決戦の当日の、東軍(徳川方)

               徳川家康 と徳川本隊の動き

              ● 東軍(徳川方)の主力軍の

                一部の、

                徳川家康と徳川本隊は、

              @ 徳川家康と徳川本隊は、

              1600年(慶長5年)9月

              15日早朝に、

              大垣エリアの美濃赤坂(み

              のあかさか)付近 (関ヶ原

              盆地の東方)を出発

              (1600年(慶長5年)

               9月15日早朝)⇒

              ○ 徳川家康は、

              1600年(慶長5年)9月

              15日早朝に、大垣エリアの

              美濃赤坂付近で、東軍

              (徳川方)を3つに分ける。

              ○ 東軍(徳川方)の家康と

               徳川本隊は、

               関ヶ原盆地南西部 と

               山中村 (やまなかむら、

               関ヶ原盆地の西方・約2km)

               に向かう。

              ○ 東軍(徳川方)先手勢の

               池田組勢は、

               大垣エリアの南宮山(なんぐ

               うさん、関ヶ原盆地の東方)

               の前面に向かい、布陣する。

              ○ 東軍(徳川方)先手勢の

               福島組勢は、

               山中村 (やまなかむら、

               関ヶ原盆地の西方・約2km)

               に向かう。

              A 徳川家康と徳川本隊は、

               9月15日の早朝に、

               関ヶ原盆地の南西部で、

               西軍(奉行衆・毛利方)の

               先方隊の大谷軍と対峙

               (遭遇)、交戦し、徳川方

               内通者の小早川の軍と共に

               挟み撃ちにして、壊滅させる

               (9月15日の早朝〜

                午前10時過ぎ頃)⇒

              B 徳川家康と徳川本隊は、

               9月15日の午前10時過ぎ

               頃から正午頃まで、

               山中村 (やまなかむら、

               関ヶ原盆地の西方・約2km)

               で、 西軍(奉行衆・毛利方)

               の主力軍と交戦(決戦を行う)

               (9月15日の午前10時

               過ぎ頃〜正午頃)⇒

              C 9月15日正午頃に、

               西軍(奉行衆・毛利方)

               の主力軍が、総崩れとなり、

               敗走、敗北し、

               徳川家康と徳川本隊は、

               山中村で、西軍(奉行衆・

               毛利方)の主力軍に対し

               決戦で勝利を得る

               (9月15日正午頃)。

 

              ■ 伝説(従来説の関ヶ原

               の戦い」の決戦の当日の、

               東軍(徳川方)の

                               徳川家康と徳川本隊の動き。

              ● 東軍(徳川方)の主力軍の

                一部の、

                徳川家康と徳川本隊は、

              @ 徳川家康と徳川本隊は、

              1600年(慶長5年)9月15日

              早朝に、先手勢の福島組勢

              共に、

              大垣エリアの美濃赤坂(みの

              あかさか)付近 (関ヶ原盆地

              の東方)を出発

              (1600年(慶長5年)

              9月15日早朝)⇒

              〇 東軍(徳川方)の徳川家康

               は、 1600年(慶長5年)9月

               15日早朝に、大垣エリアの

               美濃赤坂付近で、東軍(徳川

               方)を2つに分ける。

               ○ 東軍(徳川方)

               家康と徳川本隊と先手勢の

               福島組勢は、

               関ヶ原盆地の東側に

               に向かう。

               ○ 東軍(徳川方)

               先手勢の池田組勢は、

               大垣エリアの南宮山(なんぐ

               うさん、関ヶ原盆地の東方)

               の山麓に向かう。

              A  徳川家康と徳川本隊は、

              9月15日の早朝に、

              関ヶ原盆地の東側に布陣する

              (9月15日の早朝)⇒ 

              B 徳川家康と徳川本隊は、

              9月15日午前8時頃から

              午後2時頃まで、

              関ヶ原盆地で 西軍(石田方)の

              主力軍と交戦(決戦を行 う)

              (9月15日午前8時頃〜

               午後2時頃)⇒ 

              ○ 9月15日の早朝から

              午前10時頃まで、

              桃配山 (ももくばりやま、

              関ヶ原盆地の東側)で

              家康は決戦を指揮

              ○ 9月15日午前10時頃

              から午後2時頃まで、

              陣場野 (じんばの、

              関ヶ原盆地中央部)で

              家康は決戦を指揮 する。

                正午頃、家康は、松尾山

              の西軍の小早川秀秋の陣

              に問鉄砲(といてっぽう)を

              行い、西軍の小早川軍を

              東軍に味方させ、戦況を

              東軍に有利にする。

             C 9月15日午後2時頃に、

              西軍(石田方)の主力軍が

              総崩れ、敗走、敗北し、

              徳川家康と徳川本隊は、

              関ヶ原盆地で、西軍(石田方)

              の主力軍に対し決戦で勝利

              を得る

              (9月15日午後2時頃)。

              ○ 9月15日午後2時頃、

              陣場野で、家康は決戦勝利 。

 

           ■ 「史実(新説)・伝説

           (従来説)の関ヶ原の戦

           い」の決戦日

           の西軍

           石田三成と石田軍

           行動要点表。

 

              ◆ 「史実(新説)・伝説(従来説)

               の関ヶ原の戦い」の決戦の当日

               の、西軍の

               石田三成と石田軍の動き。

 

                  ■ 「史実(新説)関ヶ原の戦い

               (= 大垣・山中の戦い)」の決戦

               当日の、西軍(奉行衆・毛利方)

               の 石田三成と石田軍の動き。

              ● 西軍(奉行衆・毛利方)

               主力軍の一部の、

               石田三成と石田軍は、

              @ 石田三成と石田軍は、

               1600年(慶長5年)9月

               14日夜に、

               大垣エリアの大垣城 (おお

               がきじょう、関ヶ原盆地の

                                 東方)を出発

               (1600年(慶長5年)

                9月14日夜)⇒

               ○ 西軍(奉行衆・毛利方)は、

               9月14日夜に、大垣城で、 

               協議し、西軍(奉行衆・ 毛利

               方)を、主力軍と大垣城 守備

               残留軍の2つに分ける。

              A 石田三成と石田軍は、

               9月15日未明に、

               藤下の自害峯 (とうげの

               じがいみね、関ヶ原盆地

               南西部、山中村近く)の

               既存整備陣地に立ち寄り、

               徳川方内通者疑惑の

               小早川軍と対峙し、

               小早川軍を牽制

               (9月15日未明)⇒

              B 石田三成と石田軍は、

               9月15日早朝に、

               山中村 (やまなかむら、

               関ヶ原盆地の西方・約2km)

               に布陣する。

               〇 石田三成と石田軍は、

               山中村付近の城山にある

               既存準備陣地の玉城(たまじ

               ょう)を、出撃陣地として使用

               した可能性がある。

               (9月15日早朝)⇒

              C 石田三成と石田軍は、

               9月15日午前10時頃から

               正午頃まで、

               山中村で、東軍(徳川方)の

               主力軍と交戦(決戦を行う)

               (9月15日午前10時頃〜

                正午頃)⇒

              D 石田三成の石田軍や西軍

               (奉行衆・毛利方)の主力軍

               は、9月15日正午頃に、

               山中村で、総崩れ、敗走、

               敗北し、三成は逃走し、

               東軍(徳川方)の主力軍が、

               西軍(奉行衆・毛利方)対し

               決戦で勝利を得る。

               (9月15日正午頃)。

 

                  ■ 「伝説(従来説の関ヶ原

               の戦い」の決戦の当日の、

               西軍(石田方)

               石田三成と石田軍の動き。

               ● 西軍(石田方)の主力軍

                の一部の、

                 石田三成と石田軍は、

              @ 石田三成と石田軍は、

               1600年(慶長5年)9月

               14日夜に、

               大垣エリアの大垣城 

               (おおがきじょう、関ヶ原

                                  盆地の東方)を出発

               (1600年(慶長5年)

                9月14日夜)⇒

               ○ 石田三成は、

               9月14日夜に、大垣城で、 

               西軍(石田方)を、

               主力軍と大垣城守備残留軍

               の2つに分ける。

              A 石田三成と石田軍は、

               9月15日未明に、

               笹尾山 (ささおやま、 関ヶ原

               盆地の北西側)に 布陣

               (9月15日未明)⇒

              B  石田三成と石田軍は、

               9月15日午前8時頃から

               午後2時頃まで、

               関ヶ原盆地の笹尾山付近

               で東軍(徳川方)の主力軍と

               交戦(決戦を行 う)

               ○ 9月15日の朝から午前

                午後2時頃まで、石田三成は、

               笹尾山 (ささおやま、関ヶ原

               盆地の西側)で決戦を指揮

               (9月15日午前8時頃〜

               午後2時頃)。

              C 石田三成の石田軍や西軍

               (石田方) の主力軍は、

               9月15日午後2時頃に、

               関ヶ原盆地で、総崩れ、敗走、

               敗北し、三成は逃走し、

               東軍(徳川方)の主力軍が、

               西軍石田方)対し 決戦で

               勝利を得る。

               (9月15日午後2時頃)。

 

           ■ 「史実(新説)・伝説

           (従来説)の関ヶ原の戦

           い」の決戦日

           の西軍

           宇喜多秀家と宇喜多軍

           の行動要点表。

 

              ◆ 「史実(新説)・伝説(従来説)

              の関ヶ原の戦い」の決戦の当日

              の、西軍の宇喜多秀家と

                              宇喜多軍の動き。

 

                  ■ 「史実(新説)関ヶ原の戦い

              (= 大垣・山中の戦い)」の決戦

              での西軍(奉行衆・毛利方)の 

              宇喜多秀家と宇喜多軍の動き。

               ● 西軍(奉行衆・毛利方)

                主力軍の一部の、

                宇喜多秀家と宇喜多軍は、

              @ 宇喜多秀家と宇喜多軍は、

               1600年(慶長5年)9月

               14日夜に、

               大垣エリアの大垣城 (おお

               がきじょう、関ヶ原盆地の

                                 東方)を出発

               (1600年(慶長5年)

                9月14日夜)⇒

               ○ 西軍(奉行衆・毛利方)は、

               9月14日夜に、大垣城で、 

               協議し、西軍(奉行衆・ 毛利

               方)を、主力軍と大垣城 守備

               残留軍の2つに分ける。

              A 宇喜多秀家と宇喜多軍は、

               9月15日未明に、

               山中村 (やまなかむら、

               関ヶ原盆地の西方・約2km)

               に布陣する、

               〇 宇喜多秀家と宇喜多軍は、

               山中村付近の城山にある

               既存準備陣地の玉城(たまじ

               ょう)を、出撃陣地として使用

               した可能性がある。

               (9月15日未明)⇒

              B 宇喜多秀家と宇喜多軍は、

               9月15日午前10時頃から

               正午頃まで、

               山中村で、東軍(徳川方)の

               主力軍と交戦(決戦を行う)

               (9月15日午前10時頃〜

                正午頃)⇒

              C 宇喜多秀家の宇喜多軍や

               西軍(奉行衆・毛利方) の

               主力軍は、9月15日正午頃に、

               山中村で、総崩れ、敗走、

               敗北し、秀家は逃走し、

               東軍(徳川方)の主力軍が、

               西軍(奉行衆・毛利方)対し

               決戦で勝利を得る。

               (9月15日正午頃)。

 

                  ■ 「伝説(従来説の関ヶ原

              の戦い」の決戦の当日の、

              西軍(石田方)の、

                               宇喜多秀家と宇喜多軍の動き。

               ● 西軍(石田方)の主力軍

                の一部の、

                宇喜多秀家と宇喜多軍は、

              @ 宇喜多秀家と宇喜多軍は、

               1600年(慶長5年)9月

               14日夜に、

               大垣エリアの大垣城 

               (おおがきじょう、関ヶ原

                                  盆地の東方)を出発

               (1600年(慶長5年)

                9月14日夜)⇒

               ○ 石田三成は、

               9月14日夜に、大垣城で、 

               西軍(石田方)を、主力軍と

               大垣城守備残留軍の2つ

               に分ける。

              A 宇喜多秀家と宇喜多軍は、

               9月15日未明に、

               天満山 (てんまやま、

               関ヶ原盆地の西側)の

               南峯に布陣

               (9月15日未明)⇒

              B 宇喜多秀家と宇喜多軍は、

               9月15日午前8時頃から

               午後2時頃まで、

               関ヶ原盆地の天満山付近

               で東軍(徳川方)の主力軍と

               交戦(決戦を行 う)

               (9月15日午前8時頃〜

               午後2時頃)。

              C 9月15日午後2時頃に、

               宇喜多秀家の宇喜多軍や

               西軍石田方) の主力軍は、

               関ヶ原盆地で、総崩れ、敗走、

               敗戦し、秀家は逃走し、

               東軍(徳川方)の主力軍が、

               西軍石田方)対し 決戦で

               勝利を得る。

               (9月15日午後2時頃)。

 

           ■ 「史実(新説)・伝説

           (従来説)の関ヶ原の戦

           い」の決戦日

           大垣エリアの

           東軍(徳川方)

           先手勢の池田組勢

           の行動要点表。

 

              ◆ 「史実(新説)・伝説(従来説)

               の関ヶ原の戦い」の決戦の当日

               の、大垣エリアの東軍(徳川方)

               先手勢の池田組勢の動き

 

                 ■ 「史実(新説)関ヶ原の戦い

               (= 大垣・山中の戦い)」の

               山中村の決戦の当日の

               大垣エリアの東軍(徳川方)

               先手勢の池田組勢の動き

              ● 東軍(徳川方)の先手勢の

               池田組勢は、

              @ 東軍(徳川方)の先手勢の

               池田組勢は、

              1600年(慶長5年)9月

              15日早朝に、

              大垣エリアの美濃赤坂(み

              のあかさか)付近 (関ヶ原

              盆地の東方)を出発

              (1600年(慶長5年)

               9月15日早朝)⇒

              ○ 徳川家康は、

              1600年(慶長5年)9月

              15日早朝に、大垣エリアの

              美濃赤坂付近で、東軍

              (徳川方)を3つに分ける。

              ○ 東軍(徳川方)

               家康と徳川本隊は、

               関ヶ原盆地南西部 と

               山中村 (やまなかむら、

               関ヶ原盆地の西方・約2km)

               に向かう。

              ○ 東軍(徳川方)

               先手勢の池田組勢は、

               大垣エリアの南宮山(なんぐ

               うさん、関ヶ原盆地の東方)

               の前面に向かう。

              ○ 東軍(徳川方)

               先手勢の福島組勢は、

               山中村 (やまなかむら、

               関ヶ原盆地の西方・約2km)

               に向かう。

              A 9月15日の早朝から午後

               まで、 

               大垣エリアの南宮山 (なん

               ぐうさん、関ヶ原盆地の東方)

               の山麓で、

               西軍(奉行衆・毛利方)の南宮

               山布陣の毛利秀元の毛利勢

               の前面に、

               東軍(徳 川方)先手勢の

               池田組勢が、布陣し、

               毛利勢は、動けず、山中村の

               関ヶ原の戦いの決戦(午前10

               時〜正午頃)の援軍に行けな

               かった。

               (9月15日の早朝〜午後)⇒

              B 9月15日の午前10時頃

               から正午頃まで、

               山中村 (やまなかむら、

               関ヶ原盆地の西方・約2km)

               で、 東軍(徳川方)の主力軍

                西軍 (奉行衆・毛利方)の

               主力軍が、交戦(決戦を行う)

               (9月15日の午前10時頃

               〜正午頃)⇒

              C 9月15日正午頃に、

               山中村で、西軍(奉行衆・毛利

               方)の主力軍が総崩れ、敗走、

               敗戦し、東軍(徳川方)の 主力

               軍西軍(奉行衆・毛利 方)の

               主力軍に対し決戦で勝利を得

               る

               (9月15日正午頃)。

              D 9月15日午後に、

               西軍(奉行衆・毛利方)の南

               宮山布陣の毛利秀元の毛利

               勢は、

               山中村での西軍(奉行衆・毛

               利方)の主力軍の決戦での

               敗戦を知り、

               東軍(徳川方)と戦わず、

               戦場を離脱し、畿内に向かう。

               (9月15日午後)。

 

              ■ 伝説(従来説の関ヶ原

               の戦い」の

               関ヶ原盆地の決戦の当日の

               大垣エリアの東軍(徳川方)

               先手勢の池田組勢の動き

              ● 東軍(徳川方)の先手勢の

               池田組勢は、

              @ 東軍(徳川方)の先手勢の

               池田組勢は、

              1600年(慶長5年)9月15日

              早朝に、

              大垣エリアの美濃赤坂(みの

              あかさか)付近 (関ヶ原盆地

              の東方)を出発

              (1600年(慶長5年)

               9月15日早朝)⇒

               ○ 徳川家康は、 

               1600年(慶長5年)9月15日

               早朝に、大垣エリアの美濃赤

               坂付近で、東軍(徳川方)を

               2つに分ける。

               ○ 東軍(徳川方)

               家康と徳川本隊と先手勢の

               福島組勢は、

               関ヶ原盆地の東側に

               に向かう。

               ○ 東軍(徳川方)

               先手勢の池田組勢は、

               大垣エリアの南宮山(なんぐ

               うさん、関ヶ原盆地の東方)

               の山麓に向かう。

              A 9月15日の早朝から午後

               2時頃まで、

               大垣エリアの南宮山 (なん

               ぐうさん、関ヶ原盆地の東方)

               の山麓で、西軍(石田方)の

               南宮山布陣の毛利秀元の毛

               利勢の前面の南宮山山麓に、

               東軍(徳川方)先手勢の

               池田組勢が、広く展開し布陣し、

               更に、南宮山山麓に徳川方

               内通者の吉川広家が布陣し、

               毛利勢本隊を通さず(下山さ

               せず)、毛利勢本隊は、動けず、

               関ヶ原盆地の関ヶ原の戦いの

               決戦(9月15日午前8時〜午

               後2時頃)の援軍に行けなかっ

               た。

               (9月15日の早朝〜午後

                2時頃)⇒

              B 9月15日午前8時頃から

               午後2時頃まで、

               関ヶ原盆地で、東軍(徳川方)

               の主力軍と 西軍(石田方)

               主力軍が交戦(決戦を行う)

               (9月15日午前8時頃〜

                午後2時頃)⇒ 

              C 9月15日午後2時頃に、

               関ヶ原盆地で、西軍(石田方)

               の主力軍が総崩れ、敗走、

               敗戦し、東軍(徳川方)の 主力

               軍西軍(石田方)の主力軍

               に対し決戦で勝利を得る

               (9月15日午後2時頃)。

              D 9月15日午後に、

               西軍(石田方)の南宮山 布

               陣の毛利秀元の毛利勢は、

               関ヶ原盆地での西軍(石田方)

               の主力軍の決戦の敗戦を知り、

               東軍(徳川方)と戦わず、戦場

               を離脱し、畿内に向かう。

               (9月15日午後)。

 

           ■ 「史実(新説)・伝説

           (従来説)の関ヶ原の戦

           い」の決戦日

           関ヶ原盆地南西部の

           西軍

           大谷吉継と大谷軍

           行動要点表。

 

              ◆ 「史実(新説)・伝説(従来説)

               の関ヶ原の戦い」の決戦の当日

               の、西軍の

              大谷吉継と大谷軍の動き

 

                 ■ 「史実(新説)関ヶ原の戦い

               (= 大垣・山中の戦い)」の

               山中村の決戦の当日の

               大谷吉継と大谷軍の動き

              ● 西軍(奉行衆・毛利方)の

                大谷吉継と大谷軍は、

              @ 1600年(慶長5年)9月に、

               大谷吉継と大谷軍は、

               敦賀(つるが)より移動し、

               美濃国(みののくに、現・岐阜

               県南部)の関ヶ原盆地の西

               方向・約2kmにある山中村に

               到着し、布陣する。

              〇 大谷吉継と大谷軍は、

               山中村付近の城山にある

               既存準備陣地の玉城(たま

               じょう)に布陣した可能性が

               ある。

               (1600年(慶長5年)9月)⇒

              A 9月14日の夜に、山中村に

               布陣していた西軍(奉行衆・毛

               利方)の大谷吉継と大谷軍は、

               関ヶ原盆地の南西部に移動し

               布陣して西軍の先方隊となる。

                  それに合わせて、西軍

                (奉行衆・毛利方)の小早川

               秀秋と小早川軍も、松尾山を

               下って、松尾山山麓の小高い

               岡に移動し、布陣する。

               (9月14日の夜)⇒

              B 9月15日の早朝に、関ヶ原

               盆地の南西部に、

               徳川東軍(徳川方)の家康と

               徳川本隊がやって来たので、 

               西軍(奉行衆・毛利方)の先方

               隊の大谷軍は、 家康の徳川

               本隊と交戦し、同時に、味方の

               はずの小早川軍が大谷軍を攻

               撃し、挟み撃ちにあい、大谷軍

               は壊滅する

               (9月15日の早朝〜

                午前10時過ぎ頃)⇒

              C 9月15日の午前10時頃から

               正午頃まで、

               山中村 (やまなかむら、関ヶ原

               盆地の西方・約2km)で、

               東軍(徳川方)の主力軍と西軍

               (奉行衆・毛利方)の主力軍が、

               交戦(決戦を行う)

               (9月15日の午前10時

               頃〜正午頃)⇒

              D 9月15日正午頃に、山中村

               で、西軍(奉行衆・毛利方)の

               主力軍が総崩れ、敗走、敗戦し、

               東軍(徳川方)の主力軍西軍

               (奉行衆・毛利方)の主力軍に

               対し決戦で勝利を得る

               (9月15日正午頃)。

 

              ■ 伝説(従来説の関ヶ原

               の戦い」の

               関ヶ原盆地の決戦の当日の

               西軍の

               大谷吉継と大谷軍の動き

              ● 西軍(石田方)の

                大谷吉継と大谷軍は、

              @ 1600年(慶長5年)9月に、

               大谷吉継と大谷軍は、

               敦賀(つるが)より移動し、

               美濃国(みののくに、現・岐阜

               県南部)の関ヶ原盆地の西

               方向・約2kmにある山中村に

               到着し、布陣する。

               (1600年(慶長5年)9月)⇒

              A 9月14日の夜に、山中村に

               布陣していた西軍(石田方)

               の大谷吉継と大谷軍は、

               関ヶ原盆地の南西部に移動し

               布陣して西軍の先方隊となる。

               (9月14日の夜)⇒

              B 9月15日午前8時頃から

               正午頃まで、関ヶ原盆地で、

               東軍(徳川方)の主力軍

               西軍(石田方)の主力軍が

               交戦し(決戦を行 い) 、西軍

               (石田方)の大谷吉継と大谷

               軍も決戦に加わり、東軍(徳

               川方)の主力軍と戦う。

               (9月15日午前8時頃〜

                正午頃)⇒ 

              C 9月15日正午頃に、松尾山

               の小早川秀秋と小早川軍は、

               関ヶ原盆地に布陣する東軍

               (徳川方)の徳川家康より

               問鉄砲(といてっぽう)を受ける

               (関ヶ原盆地の東軍の家康は

               東軍の鉄砲隊を松尾山に向か

               わせ、松尾山の西軍の小早川

               秀秋の陣に東軍に味方するよ

               うに脅しの催促の鉄砲を撃ち

               込ませる)。

                  小早川秀秋は、驚いて、

               東軍(徳川方)に味方すること

               を決め、西軍(石田方)の小早

               川軍が、西軍(石田方)を裏切

               り、松尾山を下りて、関ヶ原盆

               地にいる西軍(石田方)の主

               力軍を攻める。

               (9月15日正午頃)。

              C 9月15日午前8時頃から、

               関ヶ原盆地で、東軍(徳川方)

               と 西軍(石田方)の主力軍が

               交戦していた(決戦を 行って

               いたが)が、 正午頃から、

               小早川軍が、大谷軍、その他

               の西軍(石田方)の諸隊を攻

               めてから、大谷軍は壊滅し、

               東軍(徳川方)が合戦で優勢

               となる

               (9月15日正午頃〜午後

                2時頃)⇒ 

              D 9月15日午後2時頃に、

               関ヶ原盆地で、西軍(石田方)

               の主力軍は総崩れ、敗走、

               敗戦し、東軍(徳川方)の主力

               軍西軍(石田方)の 主力軍

               に対し決戦で勝利を得る

               (9月15日午後2時頃)。

 

           ■ 「史実(新説)・伝説

           (従来説)の関ヶ原の戦

           い」の決戦日

           松尾山の

           西軍の

           小早川秀秋と小早川軍

           の行動要点表。

 

              ◆ 「史実(新説)・伝説(従来説)

               の関ヶ原の戦い」の決戦の当日

               の松尾山の西軍の

               小早川秀秋と小早川軍の動き

           

                 ■ 「史実(新説)関ヶ原の戦い

               (= 大垣・山中の戦い)」の

               山中村の決戦の当日の

               松尾山の西軍の

               小早川秀秋と小早川軍の動き

              ● 西軍(奉行衆・毛利方)の

                小早川秀秋と小早川軍は、

              @ 西軍(奉行衆・毛利方)の

               小早川秀秋は、東軍(徳川

               方)から領地加増の誘いを受

               け、既に徳川方内通者となり、

               1600年(慶長5年)9月に、

               西軍(奉行衆・毛利方)の

               小早川秀秋と小早川軍は、

               畿内(きない)より移動し、

               美濃国(みののくに、現・岐阜

               県南部)の関ヶ原盆地の南西

               方向にある松尾山(まつおや

               ま)に到着し、布陣する。

               (1600年(慶長5年)9月)⇒

              A 9月14日の夜に、山中村に

               布陣していた西軍(奉行衆・毛

               利方)の大谷吉継と大谷軍が、

               関ヶ原盆地の南西部に移動し

               たため、 それに合わせて、

               西軍(奉行衆・毛利方)の

                小早川秀秋と小早川軍は、

               松尾山を下って、松尾山山麓

               の小高い岡に移動し、布陣す

               る。

               (9月14日の夜)⇒

              B 9月15日の早朝に、関ヶ原

               盆地の南西部にやって来た

               徳川家康と徳川本隊は、

               大谷軍と遭遇し交戦し、

               小早川軍も、家康の徳川本隊

               と共に、西軍(奉行衆・毛利方)

               の先方隊の大谷軍と交戦し、

               挟み撃ちにして、大谷軍を壊

               滅させる

               (9月15日の早朝〜

                午前10時過ぎ頃)⇒

              C 9月15日の午前10時過ぎ

               頃から正午頃まで、

               小早川秀秋と小早川軍は、

               山中村 (やまなかむら、

               関ヶ原盆地の西方・約2km)

               で、西軍(奉行衆・毛利方)

               の主力軍と交戦(決戦を行う)

               (9月15日の午前10時

               過ぎ頃〜正午頃)⇒

              D 9月15日正午頃、山中村

               で、西軍(奉行衆・毛 利方)

               の主力軍は総崩れ、敗走、

               敗戦し、東軍(徳川方)の主

               力軍西軍 (奉行衆・毛利

               方)の主力軍に対し決戦で

               勝利を得る

               (9月15日正午頃)。

 

              ■ 伝説(従来説の関ヶ原

               の戦い」の

               関ヶ原盆地の決戦の当日の

               松尾山の西軍の小早川秀秋

               と小早川軍の動き

              ● 西軍(石田方)の

                小早川秀秋と小早川軍は、

              @ 西軍(石田方)の小早川秀秋

               は、 東軍(徳川方)から領地

               加増の誘いを受けたが、

               東軍(徳川方)に味方するか

               どうか決められず、

               1600年(慶長5年)9月に、

               畿内(きない)より移動し、

               美濃国(みののくに、現・岐阜

               県南部)の関ヶ原盆地の南西

               方向にある松尾山(まつおや

               ま)に到着し、布陣する。

               (1600年(慶長5年)9月)⇒

              A 関ヶ原盆地で、関ヶ原の戦い

               の決戦が9月15日午前8時頃

               から始まり、小早川秀秋は、

               正午頃まで、東軍(徳川方)

               の主力軍と西 軍(石田方)

               主力軍が交戦する(決戦を行

               う)のを松尾山 から、眺め、ど

               ちらが優勢かを見る。

               (9月15日午前8時頃〜

                正午頃)⇒ 

              B 9月15日正午頃に、

               関ヶ原盆地に布陣する東軍

               (徳川方)の徳川家康より

               問鉄砲(といてっぽう)を受ける

               (関ヶ原盆地の東軍の家康は

               東軍の鉄砲隊を松尾山に向か

               わせ、松尾山の西軍の小早川

               秀秋の陣に東軍に味方するよ

               うに脅しの催促の鉄砲を撃ち

               込ませる)。

                  小早川秀秋は、驚いて、

               東軍(徳川方)に味方すること

               を決め、西軍(石田方)の小早

               川軍が、西軍(石田方)を裏切

               り、松尾山を下りて、関ヶ原盆

               地にいる西軍(石田方)の主

               力軍を攻める。

               (9月15日正午頃)。

              C 9月15日午前8時頃から、

               関ヶ原盆地で、東軍(徳川方)

               と 西軍(石田方)の主力軍が

               交戦していた(決戦を 行って

               いたが)が、 正午頃から、

               小早川軍が、大谷軍、その他

               の西軍(石田方)の諸隊を攻

               めてから、大谷軍は壊滅し、

               東軍(徳川方)が合戦で優勢

               となる

               (9月15日正午頃〜午後

                2時頃)⇒ 

              D 9月15日午後2時頃に、

               関ヶ原盆地で、西軍(石田方)

               の主力軍は総崩れ、敗走、

               敗戦し、東軍(徳川方)の主力

               軍西軍(石田方)の 主力軍

               に対し決戦で勝利を得る

               (9月15日午後2時頃)。

 

〇 せき    関ヶ原盆地

                (せきがはらぼんち)。《地名》。

          (⇒ 関ヶ原の戦い

           決戦)。

          (⇒ 関ヶ原の戦い)。

          (⇒ 新説(史実)

             関ヶ原の戦い

           大垣・山中の戦い

         大垣の戦い山中の戦い)。

                (⇒ 慶長5年の

                 下分け目の戦い)。

           □ 「史実(新説)

            関ヶ原の戦い

            (= 大垣・山中の戦い)」  

            画像アルバム No.2

           □ 「伝説(従来説)

            関ヶ原の戦い」

            画像アルバム  No.3 

          (⇒ 徳川家康福島正則

             池田輝政)。

          (⇒ 毛利秀元)。

          (⇒ 石田三成宇喜多秀家)。

          (⇒ 大谷吉継小早川秀秋)。

          (⇒ 美濃赤坂大垣城

                           南宮山)。

          (⇒ 山中城山玉城

              松尾山藤下の自害峯)。

          (⇒ 関ヶ原盆地桃配山

                           陣場野笹尾山)。

 

             ■ 関ヶ原盆地 (せきがはらぼん

             ち)は、 前近代日本(古代〜江戸

             時代)の美濃国の関ヶ原であり、  

             現在の岐阜県関ヶ原町の中央部

             である。 

             ■ 関ヶ原盆地 (せきがはらぼん

             ち)は、 1600年(慶長5年)9月

             15日に、

             「伝説(従来説の関ヶ原の戦 い」

             では、 

             関ヶ原盆地全体で東軍(徳川方)

                            と西軍 (石田方)の戦い(決戦)

             が行われた場所であり、

             「史実(新説)関ヶ原の戦い(= 大

              垣・山中の戦い)」では、

             関ヶ原盆地の一部の関ヶ原盆地

             南西部で東軍(徳川方)と西軍

             (奉行衆・毛利方)の戦いが行わ

             れた場所である。 

 

           ◆ 「史実(新説)・伝説

           (従来説)の関ヶ原の戦

           い」東西両軍主力

           軍の決戦の要点表。

 

           ■ 「史実(新説)の

           関ヶ原の戦い」

           東西両軍主力軍の

           決戦の要点表。

 

              ◆ 一方、一次史料に基づく

              「史実(新説)関ヶ 原の戦い(=

               大垣・山中の戦い)」の決戦。 

              ● 決戦場所: 

              関ヶ原盆地の西方・約2kmの

                              山中(やまなか)村。

              ● 決戦日時: 

              1600年(慶長5 年)9月15日

              午前10時頃〜正午頃。 

 

              ■ 「史実(新説)関ヶ原の戦い

              (= 大垣・山中の戦い)」の決戦

              では、

              大垣エリアの美濃赤坂付近から

              移動し山中村の東側に布陣する 

              東軍(徳川方 )の主力軍 

              と、 

              大垣エリアの大垣城から移動し

              山中村の西側に布陣する西軍

              (奉行衆・毛利方)の主力軍 が、 

              1600年 (慶長5年)9月15日

              の午前10時頃から正午頃まで

              美濃国の山中(やまなか)

              戦う(決戦を行う)。

                 その戦いの結果、西軍(奉

              行衆・毛利方)の主力軍が総崩

              れとなり、敗走、敗戦し、東軍

              (徳川方) の主力軍が勝利を得

              る。

 

           ■ 「伝説(従来説)の

           関ヶ原の戦い」

           東西両軍主力軍の

           決戦の要点表。

 

              ◆ 伝説(従来説の関ヶ 原

              の戦い」の決戦

              ● 決戦場所: 

              関ヶ原盆地。

              ● 決戦日時: 

              1600年(慶長5年)9月15日

              午前8時頃〜午後2時頃。

 

              ■ 「伝説(従来説の関ヶ 原の

              戦い」の決戦では、 

              大垣エリアの美濃赤坂付近から

              移動し関ヶ原盆地の東側に布陣

              する東軍(徳川方)の主力軍

              と、 

              大垣エリアの大垣城から移動し

              関ヶ原盆地の西側に布陣する

              西軍(石田方)の主力軍 が、 

              1600年(慶長5年)9月15日の

              午前8時頃から午後2時頃まで

              美濃国の関ヶ原盆地で戦う (決

              戦を行う)。 

                 その戦いの結果、西軍(石

              田方)の主力軍が総崩れとなり、

              敗走、敗戦し、東軍(徳川方) の

              主力軍が勝 利を得る。

 

           ◆ 「史実(新説)・伝説

           (従来説)の関ヶ原の戦

           い」の決戦日の

           東西両軍の主力軍

           行動要点表。

 

           ■ 「史実(新説)の

           関ヶ原の戦い」の決戦日

           東西両軍の主力軍

           行動要点表。

             

                  ■ 「史実(新説)関ヶ原の戦い

              (= 大垣・山中の戦い)」の決戦

              の当日の、東軍(徳川方)の

              主力軍 の動き

              ● 東軍(徳川方)の主力軍

               (先手勢の福島組勢と家康

               の徳川本隊) は、

              @ 東軍(徳川方)の主力軍は、

               1600年(慶長5年)9月15

               日早朝に、大垣エリアの美濃

               赤坂(みのあかさか)付近 

               (関ヶ原盆地の東方)を出発

               (1600年(慶長5年)

                9月15日早朝)⇒

              ○ 徳川家康は、

               9月15日早朝に、

               大垣エリアの美濃赤坂

               付近で、東軍(徳川方)

               を3つに分ける。

              ○ 東軍(徳川方)

               家康と徳川本隊は、

               関ヶ原盆地南西部 と

               山中村 (やまなかむら、

               関ヶ原盆地の西方・約2km)

               に向かう。

              ○ 東軍(徳川方)

               先手勢の池田組勢は、

               大垣エリアの南宮山(なんぐ

               うさん、関ヶ原盆地の東方)

               の前面に向かい、布陣する。

              ○ 東軍(徳川方)

               先手勢の福島組勢は、

               山中村 (やまなかむら、

               関ヶ原盆地の西方・約2km)

               に向かう。

              A 東軍(徳川方)の主力軍は、

               9月15日の午前10時頃から

               正午頃まで、山中村 (やま

               なかむら、関ヶ原盆地の西方・

               約2km)で、西軍(奉行衆・毛

               利方)の主力軍と交戦(決戦を

               行う)

               (9月15日の午前10時頃

               〜正午頃)⇒

              B 9月15日正午頃に、

               西軍(奉行衆・毛利方)の主力

               軍が、総崩れとなり、敗走、

               敗戦し、東軍(徳川方)の主力

               軍は、山中村で、西軍(奉行

               衆・毛利方)の主力軍に対し

               決戦で勝利を得る

               (9月15日正午頃)。

 

                  ■ 「史実(新説)関ヶ原の戦

               い(= 大垣・山中の戦い)」の

               決戦 の当日の 、西軍(奉行衆・

               毛利方)の主力軍の動き。

              ● 西軍(奉行衆・毛利方)

               の主力軍 (小西、石田、

               宇喜多、島津等の軍) は、

              @ 西軍(奉行衆・毛利方)

               の主力軍は、

               1600年(慶長5年)9月

               14日夜に、

               大垣エリアの大垣城 

               (おおがきじょう、関ヶ原

                                  盆地の東方)を出発

               (1600年(慶長5年)

                9月14日夜)⇒

               ○ 西軍(奉行衆・毛利方)は、

               9月14日夜に、大垣城で、 

               西軍(奉行衆・毛利方)を、

               主力軍と大垣城守備残留軍

               の2つに分ける。

               ○ 西軍(奉行衆・毛利方)の

               主力軍は、山中村 (やまなか

               むら、関ヶ原盆地の西方・約2

               km) に向かう。

               ○ 西軍(奉行衆・毛利方)の

               大垣城守備残留軍は、大垣城

               に残留し、大垣城を守備する。

              A 西軍(奉行衆・毛利方)の

               主力軍は、9月15日未明に、

               山中村 (やまなかむら、

               関ヶ原盆地の西方・約2km)

               に布陣する。

               〇 西軍(奉行衆・毛利方)の

               主力軍は、

               山中村付近の城山にある

               既存準備陣地の玉城(たまじ

               ょう)を、出撃陣地として使用

               した可能性がある。

               (9月15日未明)⇒

              B 西軍(奉行衆・毛利方)の

               主力軍は、9月15日午前10

               時頃から正午頃まで、山中村

               で、東軍(徳川方)の主力軍と

               交戦(決戦を行う) 

               (9月15日午前10時頃〜

                正午頃)⇒

              C 山中村で、西軍(奉行衆・

               毛利方)の主力軍は、

               総崩れ、敗走、敗戦となり、

               東軍(徳川方)の主力軍

               に対し決戦で敗戦する

               (9月15日正午頃)。

 

           ■ 「伝説(従来説)の

           関ヶ原の戦い」の決戦日

           東西両軍の主力軍

           行動要点表。

 

              ■ 伝説(従来説の関ヶ原 の

              戦い」の決戦の当日の、東軍

              (徳川方)の主力軍の動き。

              ● 東軍(徳川方)の主力軍

               (先手勢の福島組勢と家康

               の徳川本隊) は、

              @ 東軍(徳川方)の主力軍は、

               1600年(慶長5年)9月15日

               早朝に、 大垣エリアの美濃

               赤坂(みのあかさか)付近

               (関ヶ原盆地の東方)を出発

               (1600年(慶長5年)

                9月15日早朝)⇒

              〇 東軍(徳川方)の徳川家康

               は、 1600年(慶長5年)9月

               15日早朝に、大垣エリアの

               美濃赤坂付近で、

               東軍(徳川方)を2つに分け、

               関ヶ原盆地に向かう先手勢の

               福島組勢、家康の徳川本隊の

               東軍(徳川方)の主力軍 と、 

               南宮山山麓に向かう池田組勢

               の2つに分ける。

              A  東軍(徳川方)の主力軍は、

              9月15日の朝に、関ヶ原盆地

              の東側に布陣する

              (9月15日の朝)⇒ 

              B 東軍(徳川方)の主力軍は、

              9月15日午前8時頃から午後

              2時頃まで、関ヶ原盆地で 、

               西軍(石田方)の主力軍と交戦

              (決戦を行う)

              (9月15日午前8時頃〜

               午後2時頃)⇒ 

              ○ 9月15日の朝から午前

              10時頃まで、家康は、

              桃配山 (ももくばりやま、関ヶ

              原盆地の東側)で決戦を指揮

              ○ 9月15日午前10時頃から

              午後2時頃まで、家康は、

              陣場野 (じんばの、関ヶ原盆

              地中央部)で決戦を指揮

              C 9月15日午後2時頃に、

              関ヶ原盆地で、西軍(石田方)

              の主力軍は、総崩れとなり、

              敗走、敗北し、東軍(徳川方)

              の主力軍は、西軍(石田方)

              の主力軍に対し決戦で勝利

              を得る

              (9月15日午後2時頃)。

              ○ 9月15日午後2時頃、

               陣場野で、家康は決戦勝利 。

 

                  ■ 「伝説(従来説の関ヶ原

                の戦い」の決戦での、

                西軍(石田方)の主力軍

                の動き。

               ● 西軍(石田方)の主力軍は、

              @ 西軍(石田方)の主力軍は、

               1600年(慶長5年)9月14日

               夜に、大垣エリアの大垣城 

               (おおがきじょう、関ヶ原盆地

                                の東方)を出発

              (1600年(慶長5年)

               9月14日夜)⇒

               ○ 西軍(石田方) の石田三成

               は、9月14日夜に、大垣城で、 

               西軍(石田方)を、

               主力軍と大垣城守備残留軍

               の2つに分ける。

              A 西軍(石田方)の主力軍は、

               9月15日未明に、関ヶ原盆地

               の西側に布陣

               (9月15日未明)⇒

              B 西軍(石田方)の主力軍は、

               9月15日午前8時頃から

               午後2時頃まで、関ヶ原盆地

               で、東軍(徳川方)の主力軍

               と交戦(決戦を行 う)

               ○ 9月15日の朝から午前

                午後2時頃まで、西軍(石田

               方)石田三成は、

               笹尾山 (ささおやま、関ヶ原

               盆地の北西)で決戦を指揮

               (9月15日午前8時頃〜

               午後2時頃)⇒

              C 9月15日午後2時頃に、

               関ヶ原盆地で、西軍(石田方)

               の主力軍は、総崩れ、敗走、

               敗戦し、東軍(徳川方)の主

               力軍に対し決戦で敗戦する

               (9月15日午後2時頃)。

 

#sekiki

 

〇 せき   関口 親永

              (せきぐち ちかなが)。《人名》。

                     ○ 関口 親永は、

          今川氏の重臣である。

                     ○ 関口 親永は、

          徳川家康(松平元康)・

          正室夫人の築山殿(瀬名

          の父である。

        (⇒ 築山殿(瀬名)、

        徳川家康、

        「井伊 直平の娘」)。

             ■ 関口親永(せきぐちちかなが)

             は、 今川 氏重臣である。

             ■ 関口親永は、 

             徳川家康(松平元康)・ 正室夫人

                            の築山殿(瀬名)の父 である。

             ■ 関口親永の娘の築山殿(つき

             やまどの、瀬名(せな))は、 

             徳川家康(松平 元康)の正室夫人

             である

                            ● 築山殿の父は、

             今川氏重臣・関口親永(せきぐち

             ちかなが)である。 

                            ● 築山殿の母は

             今川義元の伯母または妹であり、

             また別の説では、築山殿の母は

             井伊直虎(次郎法師)の大叔母

                            (おおおば)である「井伊 直平(な

             おひら)の娘」である。  

             

〇 せき  石州

             (せきしゅう)。 《旧地域名》。

          (= 石見 (いわみ のくに))。

          (≒ 現・鳥根県本土西部

          (石見地方)の相当地域)。

          (律令制定後・古代・中世・

           近世日本・旧地域名の

           旧国名(令制国)の別称)。

           SEKISHU AREA.

                    (⇒ 石見 国)。    

                   (⇒ 鳥根県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

                            ■ 石州 (せきしゅう、= 石見

                            (いわみ のくに)は、 

             山陰道(さんいんどう)・旧広域

             地方に属し、 現・中国地方の、

              現在の鳥根県本土西部(石見地方)

             に相当する地域である。

               石州 (せきしゅう)は、  

             律令制定後・古代・中世・近世日本・

             旧地域名の、旧国 (令制国)の正式

             名の、石見 国 (いわみ のくに)

                             別称である。

 

〇 せき   関 孝和。 

              (せき たかかず)。 

             (= 関 新助 せき しんすけ)。

          《江戸時代の数学者》。

          ○ 関 孝和は、

          江戸時代前期の天才

          大数学者である。

          ○ 関 孝和は、

          幕末まで隆盛した、関流

          高等数学の祖である。

 

#sesa

 

〇 せっ  摂政。 

             (せっしょう)。

             (6世紀〜19世紀)。

          《日本の政治》。

                     (⇒ 朝廷の官職朝廷)。

          ○ 幼少(成人前)または

          女帝天皇を助けて、

          朝廷の政務を行う役職

 

〇 せっ   摂関家 

             (せっかんけ)。

           (= 摂政関白家、

          藤原氏摂関家、五摂家)。

          《日本の政治》。

          ○ 摂政関白に常任され

           た藤原北家。

          ○ 平安時代中頃〜

           江戸時代後期。

            ○ 10世紀中頃〜

           19世紀中頃 。

          ○ 鎌倉時代に五摂家

           (ごせっけ)に 分かれる。

 

〇 せっ  摂関政治。 

            (せっかんせいじ)。

          (10〜11世紀)。

          《日本の政治》。

          (⇒ 日本の政治形態)。

 

 せっ  摂家将軍。 

             (せっけしょうぐん)。

          (= 鎌倉幕府の摂関家出身

           の名目的な将軍)。

          《鎌倉幕府の将軍》。

          (⇒ 鎌倉幕府関連出来事)。

          (⇒ 鎌倉幕府執権政治

                   北条(氏)政権)。

             ■ 摂家将軍 (せっけしょうぐん)と

             は、 鎌倉幕府の摂関家出身の名目

             的な将軍である。

 

 せっ   雪斎。  

                          (せっさい)。 《人名》。

          (= 太原雪斎( たいげんせっさい)

          太原崇孚( たいげんすうふ))。

               (⇒ 太原雪斎)。

             ■ 雪斎(せっさい)とは、 太原雪斎(たい

                           げんせっさい)、 太原崇孚(たいげんすう

             ふ) である。

 

 せっ  摂州

             (せっしゅう)。 《旧地域名》。

          (= 摂津 国( せっつ のくに))。

                         概ね、 現・大阪府北西部

           の相当地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国名(令制

           国)の別称)。

                    (⇒ 摂津 国)。    

                   (⇒ 大阪府)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

             ■ 摂州 (せっしゅう)は、  律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、旧国

             (令制国)正式名の、摂津 国 ( せっつの

             くに)の 別称である。

                          ● 摂州(= 摂津 国は、 畿内(きない)・

             広域地方に属し、 現・近畿地方の、現在

              大阪府北西部に相当する 地域 である。

 

 せっ  摂津 国。  

             (せっつ のくに) 。 《旧地域名》。

            = 摂州(せっしゅう))。  

                         現・大阪府北西部の

            相当地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国名(令制

           国)の正式名)。

                   (⇒ 摂州)。

                   (⇒ 大阪府)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

          ■ 摂津 国。

             <畿内 (広域地方)。

             ■ 摂津 国 (せっつ のくに)は、律令制

             定後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             旧国(令制国)の正式名である

             ■ 摂州 (せっしゅう)は、  律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、旧国

             名(令制国)正式名の、摂津 国 ( せっつ

             のくに)の 別称である。

             ■ 摂津 国(= 摂州)は、 現・近畿地方

             の、現在の大阪府北西部に相当する 地

                           域である。

             ■ 摂津 国(= 摂州)は、 五畿七道 (ご

             きしちどう)の畿内(きない)・広域地方に

             属する。

 

 せっ  切腹。  

                          (せっぷく)。 《武士の自害》。

          ○ 切腹は、前近代日本の武士

          の自害の方法の1つである。

          ○ 安土桃山時代後期から、切

          腹の習慣が広まり、切腹の作法

          が定まる。

          (⇒ 自刃(じじん))。

          (⇒ 自害(じがい))。

        (⇒ 清水宗治)。

             ■ 切腹 (せっぷく)は、前近代日本の武

             士の自害の方法の1つである。

             ■ 安土桃山時代後期から、切腹の習慣が

             広まり、切腹の作法が定まる。

             ■ 自刃 (じじん)とは、 日本の歴史にお

             いて、 刀剣を用いて自害(じがい、自殺)

             することである。 多くの尊い命(いのち)が

             失われた。

             ■ 自刃には、 日本の歴史において、切

             腹(せっぷく)、その他の多くの自害の方法

             がある。

             ■ 自害 (じがい、= 自殺には、 日本の

             歴史において、自刃(じじん)、自爆(じばく)

             などがある。

 

#sena

 

 せな  瀬名。  

                          (せな)。 《人名》。

          (= 築山殿(つきやまどの)、築山御

          前(つきやまごぜん))。

             ● 瀬名(せな)とは、 築山殿(つきやまど

             の)、築山御前(つきやまごぜん)である。

               (⇒ 築山殿)。

 

〇 ぜに  銭形平次。 

                           (ぜにがたへいじ) 。

          《江戸時代の岡っ引き》。

          ○ 架空の江戸時代の岡っ引。

        (⇒ 岡っ引 おかっぴき)。 

 

#sera

 

〇 せん  千。 

             (せん)。 (= 千姫 せんひめ)。

          (徳川家康の孫娘)。 《人名》。

        (⇒ 千姫 )。

              ■ 千(せん)は、 千姫(せんひめ)、徳川

                            千(とくがわ せん)ともいい、  江戸幕府・

                             第2代将軍の徳川秀忠(ひでただ)とお江

             (おごう、お江与)との間の娘であり、徳川

             家康の孫娘である。

 

〇 せん  銭。   

          (せん)。 (= 1円の100分の1)。

          《近代日本の貨幣単位》。

          (⇒ 日本流通貨幣)。

           ○ 1円=100銭(せん)

            円=1000厘(りん)

          ○ 銭は、 明治時代〜昭和・戦

           後時代の定位(定額)通常貨幣

           単位である。 

              ■ 銭(せん)は、1円の100分の1である。

              ■ 銭(せん)は、 明治時代から昭和・戦

              後時代まで(1868年〜1989年)使用さ

             れた定位(定額)通常貨幣の単位 である。 

 

〇 ぜん  前。 

                     (ぜん)。 (= 紀元前)。

          《西暦》。

          B.C.

        (⇒ 西暦

          ○ (例) 前2世紀、前200年。

              ■ 前(ぜん)とは、 西暦の紀元前(英:

             B.C.)である。

              ■ 前(ぜん)の使用例としては、 前2世

                      紀(= 紀元前2世紀)、 前200年(= 紀元

             前200年)などがある。

 

〇 せん  銭貨。

                          (せんか)。 (= 穴銭 あなせん)。

          《日本流通貨幣》。

             ● 銭貨は、日本で使われ穴

          有円形の硬貨お金)である。

            (⇒ 日本流通貨幣)。

             ■ 銭貨(せんか)は、 穴銭(あなせ

             ん)ともいい、 日本で使われ穴有円形

                の硬貨お金) である。

             ■ 古代日本流通銭貨。

                  古代日本流通銭貨とは、 朝廷発

             行の富本銭(ふほんせん) や 皇朝銭

             (こうちょうせん、和銅開珎、その他11

             銭)、 渡来銭(とらいせん)の唐銭や宋

             銭などである。

             ■ 中世日本流通銭貨。

               中世日本流通銭貨とは、渡来銭の

             宋銭、元銭、明銭などである。

             ■ 近世日本流通銭貨。

               近世日本流通銭貨とは、渡来銭の

             明銭 (永楽通宝、他)、 江戸幕府鋳

             造・発行の文銭 (穴銭百・十・四・一文

             銭) などである。

 

〇 ぜん  禅暁。

                         (ぜんぎょう)。 《人名》。  

             ■ 禅暁 (ぜんぎょう、生没年:

             生年不詳〜1220年)は、

             源頼家の四男であり、 源頼朝の

             孫の男子である。

             ■ 禅暁は、  源頼家と、「昌寛法

             橋(しょうかんほっきょう)の娘」と

             の間の男子である。

             ■ 禅暁は、 1204年(元久元年)

             の父・源頼家暗殺事件後、出家して、

             京(都)の仁和寺(にんなじ)に入る。 

             ■ 禅暁は、 1219年(建保7年)

             の公暁の源実 朝暗殺事件で公暁と

             通じていたという口実で(嫌疑をか

             けられ)、 1220年(承久2年)4月

             に、北条義時の手勢(郎党)によっ

             て、京(都)の東山付近で討たれる。 

             数え年17〜19歳頃と推測される。

 

〇 ぜん  前近代日本社会

             (ぜんきんだいにほんしゃかい)。

           (= 古代〜江戸時代の社会)。

          《日本の社会》。

          (⇒ 日本の歴史)。

          ■ 前近代日本社会は、

          封建制(主従関係)・家父長

          制・身分制の社会である。

 

〇 ぜん  前近代日本の一夫

        妻制

             (ぜんきんだいにほんのいっぷ

                             たさいせい)。 《婚儀制度》。

           (= 古代日本〜江戸時代

           の一夫多妻制)。 

          (⇒ 前近代日本社会

                           ○ 一夫多妻制は、 

          前近代日本の婚儀(結婚)

          制度の1つである。

          ○ 前近代日本では、

          医療未発達で、栄養学の

          知識も乏しく、子供も大人

          も病死が 多く、 家を存

          続させるため、 上層階層

          の男性、特に、家長は、

          一夫多妻制を採(と)り、

                     複数の夫人をもち、子を

          多くつくり、子孫を残すこ

          とが多かった。

             ■  一夫多妻制とは、 前近代日本で、

             上層階層の男性が 、複数の夫人(妻)

             を持つ制度である。

             ■ 前近代日本の、一夫多妻制  (いっ

             ぷたさいせい)とは、 古代 日本から江

             戸時代まで存続した、婚儀(結婚)制度

             の1つである。

             ■ 前近代日本では、 医療未発達で、

             栄養学の知識も乏しく、子供も大人も

             病死が多く、 家を存続させるため、

             上層階層の男性、特に、家長は、一夫

             多妻制を採(と)り、複数の夫人をもち、

             子を多くつくり、子孫を残すことが多か

             った。

             ■ 前近代の上層階層の婚儀(結婚)で

             は、男女本人の意志は、考慮されことは

             少なかった。 婚儀(結婚)前に婚儀(結

              婚)相手の顔を見ることもなく、婚儀を結

             ぶ(結婚する)ことも多かった。

             ● 前近代日本の一夫多妻制では、男

             性は、 経済的負担 (多くの夫人や子

             の経費) や 精神的負担 (好みでない

             女性と暮らすこと) が大きかった。

             ● 封建制(主従関係)・家父長制 ・身

             分制の前近代日本では、 上層階層

             は、個人間の婚儀(結婚)は少なく、

             同士の婚 儀(結婚)が多かったため、 

             男性の、正室夫人や一部の側室夫人の、

             女性の婚儀(結婚)相手を、 主君、上司、

             家長、親が、決め ることが多かった。

 

〇 ぜん   前近代日本の時刻・

         時法 

              (ぜんきんだいにほんのじこく・

              じほう)。

              《時刻》。

           (⇒ 前近代日本社会

           ● 時刻法(時法)の、

            1日12等分制の、定時

            法と不定時法の利用。  

           ● 時刻法(時法)の、

            十二支表示時刻 と

            時鐘数表示時刻の利用。

 

〇 ぜん   前近代日本の

        女性氏名。

             (ぜんきんだいにほんのじょせい

              しめい)。

             《氏名》。

        (⇒ 前近代日本の

          人名)。

              (⇒ 前近代日本の 家父長

             制の夫婦別姓)。

                ■ 前近代日本の女性は、古文書

              (こもんじょ)では、個人名の実名

              の記載は、少ない。

              <女性氏名の記載例>

              徳川家康室 (= 徳川家康の夫人)。

              徳川家康女 (= 徳川家康の娘)。

                ■ 前近代日本の女性は、慣習

              で、通常、個人名でのみ自他呼

              称する。

                ● 前近代日本では(江戸時代

              以前では)、

              女性は、通常(日常生活では)、

              名字を使わず、名のみで自他

              呼称する。 

              (例) 斎藤美菜という女性は、

              「私は、美菜です。」

              他人からは、「お美菜」と呼ば

              れる。

                ■ 前近代日本(江戸時代以前)

              の家父長制の夫婦別姓。

             ● 前近代日本の家父長制の時

             期の女性は、 夫婦別姓であり

             (結婚しても名字を変えず)、 

             女性の父の一族名(氏・名字)を

             生涯、所持した。

              ■ 1872年(明治5年)に、日本

             は、 前近代「家父長制の夫婦別

             姓」から、近代夫婦同姓へと移る。

              ● 1872年(明治5年)1月の

              戸籍法(壬申戸籍)施行時、

              厳格な封建社会の家父長制が残

              る当時、結婚により、他家の女性

              に、名誉ある、家名(一族名)を与

              えることには、明治時代初期の

              日本社会では、非常に反対が強

              かったが、 明治新政府(近代日

              本政府)の日本近代化政策 (文

              明開化)のため、近代夫婦同姓が、

              次第に認められるようになってい

              った。

 

〇 ぜん  前近代日本の人名

             (ぜんきんだいにほんのじんめい)。

             《氏名》。

                     (古代〜江戸時代)。

               (⇒ 前近代日本社会

 

〇 ぜん   前近代日本の早婚

              

              (ぜんきんだいにほんのそう

                         こんとたさん) 。

              《婚儀・出産》。

                   (⇒ 前近代日本社会

             ■ 前近代日本では、短命 (医

               療未発達、栄養不足などで平均

             寿命が短い)のため、早婚が主

             流であった。

             ■ 前近代日本では、 短命(平

             均寿命が短い)その他の理由で、

             女性の結婚適齢期は、10代で

             あった。

             ● 医療未発達で幼児死亡率

             が高く、 子供は早世が多く、

             女性は、4人以上の子を産むこ

             とが多かった。

 

〇 ぜん   前近代日本の地域名

             (ぜんきんだいにほんのちいきめい)。

             (= 前近代日本の旧地域名)。

             (= 前近代旧地域名)。

             《旧地域名》。  《地名》。

                THE PRE-MODERN LOCAL 

             PLACE NAME S OF JAPAN.

                THE PLACE NAMES 

           OF JAPAN

          (⇒ 前近代日本社会

          (⇒ 日本の 地名

          ◆ 日本の旧地域名。

           ■ 現地方・都道府県別

           の、律令制定後・古代・

                     中世・近世日本の、

                   旧地域名一覧表。

                     ■ 五畿七道旧国名・

             蝦夷地・琉球別の、

           律令制定後・古代・中世・

          近世日本の、

          旧地域名一覧表 。

 

〇 ぜん  前近代日本の日時表示。

                     (せんきんだいにほんのにちじひょうじ)

             《年月日、時刻》。

             ● < 前近代日本の年月日  > 

              和暦(日本暦)年、和数字月日、

                           干支年、干支月日。

             ● < 前近代日本の時刻 > 

              十二支表示時刻(= 十二支呼称

              時刻)、  時鐘数表示時刻(= 数呼

              称時刻)

          ● 前近代日本の和暦年 。

          (⇒ 和暦年号一覧表

          ● 前近代日本の干支表示年。

          (⇒ 干支表示年

          ● 前近代日本の時刻。

                (⇒ 前近代日本の時

           刻・時法

 

〇 ぜん   前近代日本の 家父

        長制の夫婦別姓

              (ぜんきんだいにほんのかふち

              ょうせいのふうふべっせい)。

          《家族制度》。 《氏名》。

             (= 家父長制の夫婦別姓)。

          (古代日本〜江戸時代)。 

                     (⇒ 前近代日本社会

              ■ 前近代日本の「家父長制の

              夫婦別姓」は、 現代日本で議論

              されている「選択的夫婦別姓」

              とは全く異なる。 

                ■ 前近代日本(江戸時代以前)

              の家父長制の夫婦別姓。

             ● 前近代日本の家父長制の時

             期の女性は、 夫婦別姓であり

             (結婚しても名字を変えず)、 

             女性の父の一族名(氏・名字)を

             生涯、所持した。

               ■ 1872年(明治5年)に、日本

              は、 前近代「家父長制の夫婦別

              姓」から、近代夫婦同姓へと移る。

               ● 近代日本政府(明治政府)は、 

              日本近代化政策のため、欧米の

              家族制度に倣(なら)い、1871年

              (明治4年)4月に戸籍法を公布し、

              1872年(明治5年)1月の戸籍法

              (壬申戸籍)施行により、 前近代

              日本の「家父長制の夫婦別姓」を

              改め、夫婦を同姓とする。

               ● 1872年(明治5年)1月の

              戸籍法(壬申戸籍)施行時、

              厳格な封建社会の家父長制が残

              る当時、結婚により、他家の女性

              に、名誉ある、家名(一族名)を与

              えることには、明治時代初期の

              日本社会では、非常に反対が強

              かったが、 明治新政府(近代日

              本政府)の日本近代化政策 (文

              明開化)のため、近代夫婦同姓が、

              次第に認められるようになってい

              った。

 

〇 ぜん  前近代日本の方位

             (ぜんきんだいにほんのほうい)。

             《方位》。

          (北、北東、東、南東、南、南西、

          西、北西の方向)

 

〇 ぜん  前近代日本の朝廷(律令

        官制)の位階。 

             (ぜんきんだいにほんの ちょうてい(りつり

             ょうかんせい)のいかい)。

             《位階》。

          (⇒ 位階叙位

        律令官制朝廷

             ■ 前近代日本の、朝廷(律令官制)の30

             位階。

             ○ 上位順に、正一位、 従一位、 正二位、

             従二位、 正三位、 従三位、 正四位上、

             正四位下、従四位上、従四位下、正五位上、

             正五位下、従五位上、従五位下、正六位上、

             正六位下、従六位上、従六位下、正七位上、

             正七位下、従七位上、従七位下、正八位上、

             正八位下、従八位上、従八位下、大初位上、

             大初位下、少初位上、少初位下。

 

〇 ぜん  前九年合戦。  

             (ぜんくねんがっせん)。

             (1051年〜1062年)。

             《東北地方の合戦》。

          (⇒ 奥州藤原氏)。

 

〇 せん  戦国時代  

                            (せんごくじだい)。

                    (= 1467年ー1573年)。

                    (= 室町時代後期)。

             《日本歴史の時代区分》。

             THE WARRING STATES 

          PERIOD

              THE SENGOKU PERIOD.

                 THE LATE MUROMACHI 

              PERIOD.

           <中世日本。

          ( 戦国大名) 。  

          ( 室町時代) ( 中世日本) 。

          (⇒ 日本歴史の時代区分)。

             ■ 戦国時代 (せんごくじだい) とは、

             町時代後期であり、 1467年頃から1573

             年頃までの期間である。

             ● 戦国時代は、 中世日本(= 鎌倉時代・

             建武時代・室町時代、1192年ー1573年) 

             の一時期である。 

             ● 戦国時代とは、 日本中の武装勢力が、

             室町幕府の将軍や守護大名の命令に従わ

             ず、お互いに争い合った時代である。

                但し、戦国時代(1467年頃〜1573

             年頃)において、日本全国で、室町幕府の

             「権力」は衰えたが、室町幕府の「権威」は

             保たれた。

 

〇 せん  戦国時代 詳細年表 

             (せんごくじだい しょうさいねんぴょう) 。

             《日本歴史の時代区分》。

          (⇒ 日本史年表) 。

 

〇 せん  戦国大名 

             (せんごくだいみょう)。 

             《武士・武家》。

          ( 大名守護大名

           近世大名) 。

             ■ 戦国大名 (せんごくだいみょう) 

             とは、概ね、室町時代後期(戦国時

             代) (1467年頃〜1573年頃)の

             時期の大名であり、 自分の領地、

             領国を実力で支配した大名である。

             ■ 大名の変遷の概略。

             ● 大名の変遷では、 室町時代前

             期・中期に、室町幕府(= 足利幕府)

             の将軍に臣従した、各地の領国支

             配者の武家、武士が、守護大名とな

             り、 室町時代後期(= 戦国時代)に、

             室町幕府の将軍や守護大名の権力

                          が低下し(弱まり)、多くの守護大名

             は没落し、代わって、実力で領国を

             支配する戦国大名が多くの出現し、

             安土桃山時代に、多くの戦国大名

             が全国を統一した豊臣氏に臣従し

             て近世大名となり、 江戸時代前期

             に、江戸幕府樹立後、多くの近世大

             名は、江戸幕府(= 徳川幕府)の将

             軍に臣従して、藩主(はんしゅ)とな

             る。

 

〇 せん  戦国武士道 

             (せんごくぶしどう)。 《武士道》。

          (⇒ 武士道)。

          (⇒ 武士武家)。

          (⇒ 武家政治武家政権)。

          (⇒ 封建制度)。

             ■ 戦国 武士道 (せんごくぶしどう) 

             とは、 室町時代後期(戦国時代)、

             安土桃山時代、江戸時代初期の武士

             道である。

             ■ 戦国武士道では、 主君は、家臣

             の献身に見合った待遇を与える必要

             があった。

             ● 戦国武士道では、 主君が家臣の

             献身や能力に見合った待遇(報酬、領

             地等)を与えない場合、 家臣は主君

             の元を去ることが多かった。 また、2

             人の主君に仕(つか)え、両方の主君

             から禄(ろく)をえる両属(りょうぞく)の

             家臣も多かった。

             ■ 武士道では、 封建制度に組み込

             まれた、主君の武士は、家臣を慈(い

             つく)しみ、家臣の武士は、主君に忠

             実に仕(つか)える姿勢が求められた。

             ■ 封建制度 (ほうけんせいど)とは、

             主君が、従者(家来、家臣)へ富(禄

             (ろく);報酬、領地等)、名誉、権力を

             供与し、従者(家来、家臣)に献身を求

             (もと)める社会制度である。

 

〇 せん  戦国武将 

             (せんごくぶしょう)。 《武士・武家》。

          (⇒ 武士武家) 。

             ■ 戦国武将 (せんごくぶしょう)とは、 

             室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

             江戸時代初期に活躍した武将である。

                真田 幸村(信繁) (さなだ ゆきむら

             (のぶしげ)は、 戦国武将の一人である。

 

〇 せん  先史時代・日本。

             (せんしじだい・にほん)。

             (= 原始時代・日本) 。

             《日本歴史の時代区分》。

        (⇒ 原始時代・日本)。

 

〇 せん  泉州

             (せんしゅう)。

          (= 和泉( いずみ のくに))。

                           現・大阪府南西部)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国名(令制

           国)の別称)。

          《旧地域名》。

                    (⇒ 和泉 国)。    

                   (⇒ 大阪府)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

                           ■ 泉州(せんしゅう、= 和泉 国は、 畿内

             (きない)・旧広域地方に属し、 現・近畿地

              方の、現在の大阪府南西部に相当する地

             域である。

             ■ 泉州 (せんしゅう)は、  律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、旧国

             (令制国)正式名の、和泉 国 ( いずみ

             のくに)の 別称である。

 

〇 せん  船中八策。 

             (せんちゅうはっさく)。 《政策提言》。

          ○ 1867年6月に、坂本龍馬が

          構想し、著(あら わ)した政策提言。

 

〇 せん  千鶴丸。 

             (せんつるまる)。 《 人名》。

             ■ 千鶴丸(せんつるまる、生没年:

             生年不詳1175年) は、

             源 頼朝の男子である。

             ■ 千鶴丸は、 当時流人(流刑者)・

             源 頼朝 と、 流人・源 頼朝の監視

             役で平家(伊勢平氏)方の伊東祐親

             (いとうすけちか、伊東入道)の娘の

             八重姫(やえひめ)との間の男子で

             ある。

             ■ 千鶴丸は、 当時流人(流刑者)

             の源 頼朝の子であったため、 当時

             日本を支配していた平家(伊勢平氏)

             を恐れた、八重姫の父・伊東祐親

             (いとうすけちか)によって、1175年

             (安元元年)に、数え年3歳頃に、川

             に沈められ殺害される。

 

〇 せん  仙桃院 

             (せんとういん)。

                    (= 仙洞院、 桃(もも)、綾(あや ))。

             (上杉謙信の姉)。 《人名》。

          (1524年または1528年〜

                    1609年)。

          ○ 上杉謙信の姉。

          ○ 上杉景勝の母

 

〇 せん  千 利休。 

             (せんの りきゅう)。

          (= 千 宗易 せんの そうえき)。

             (茶人)。 《人名》。  《茶の湯》。

          (1522年〜1591年)。

                     SEN NO RIKYU, SEN NO SOEKI.

                   茶人。  堺の商人。

                  ○ 織田信長、豊臣秀吉に仕(つか)

              える。

           (⇒ 豊臣秀吉豊臣秀長

        茶会黄金の茶室)。

                     ■ 千利休(千 宗易) (せんの りきゅう(せん

               のそうえき)、生没年:1522年〜1591年)

               は、  堺の商人であり、  茶人(ちゃじん)であ

              る。

                     ● 千利休(千 宗易)は、 堺の商人であり、 

              魚問屋(さかなどんや)と貸し倉庫業を営む

              商人(商家)であったが、 商談・交渉のため

              茶の湯を習い、茶人としても知られるように

                              なる。

              ● 千利休(千 宗易)は、 織田信長 や 豊

                              臣秀吉に仕(つか)える。

              ● 千利休(千 宗易)は、 秀吉の弟・豊臣秀

              長と共に、 豊臣秀吉の天下統一事業を、裏

              で支えた。

                千利休(千 宗易)は、茶の湯を通して、日

              本各地の大名、武将たちとネットワークを築く。

                     ● 豊臣秀吉は、天下統一後(日本本土統一

              後、1590年以後)、 実質的に日本最高身分

              となり、 豊臣政権の官僚主義を推し進める。

              天下統一後、豊臣秀吉は、 豊臣政権の茶の

              湯交渉、身分否定・平等主義、侘び茶(わびち

              ゃ)などを重視する千利休と対立する。 利休

              は、追いつめられ、切腹する(自害する)。

 

〇 せん  千姫。 

             (せんひめ)。 《人名》。

                     (徳川家康の孫娘)。

              LADY SENHIME.

          ○ 徳川秀忠(ひでただ)・長女。 

          ○ 徳川家康の孫娘。

          ○ 豊臣秀頼の正室夫人。

          ○ 江戸幕府・第2代将軍・徳川秀

              忠とお江(おごう)との間の娘。

               ■ 千(せん)は、 千姫(せんひめ)、徳川

                              千(とくがわ せん)ともいい、  江戸幕府・

                              第2代将軍の徳川秀忠(ひでただ)とお江

              (おごう、お江与)との間の娘であり、徳川

              家康の孫娘である。

                          ■ 千姫 (せんひめ)は、 徳川秀忠(ひで

              ただ)の長女であり、 徳川家康の孫娘であ

              り、 豊臣秀頼の正室夫人であり、 江戸幕

              府・第2代将軍・徳川秀忠とお江(おごう)と

              の間の娘である。

 

〇 せん  千幡。 

             (せんまん)。 《人名》。

                     (源 実朝の幼名)。

           (⇒ 源 実朝)。

             ■ 千幡(せんまん)は、

             鎌倉幕府の第3代将軍の源実朝

             (みなもとのさねとも)の幼名である。

             ■ 千幡(源実朝)は、源頼朝と

             北条政子との間に産まれた男子

             の一人である。

 

 

 

   ● 五十音順 (あいうえお順)。

 

 

   ■  『 現在は、過去の成果であり、

       未来は、現在の成果である。 

         (良き現在は、過去の人々の良き努力

          や活動の積み重ねの成果であり、 

          明るい良き未来は、現在の人々の、

          良き努力や活動の積み重ねによって

          形成される。)

 

 

■ 上位のWEBサイト。 

 □ (KOH) カナヤマ オフィシャル   >

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#jpdictionary(general)

 

◆ 日本史辞典

 

● 見出し語はグリーンでマークされています

 

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#se

 

◆ 派生見出し語サイト。

■ 「せ」 基本・見出し語WEBサイト No. ja−se 

   の、派生見出し語サイト。

 

■ No.ja−se−0222。

● 見出し語項目 せ   ( い 02 / き 22

  付近  第1部・い・カ行グループ )。

〇 せい  世紀 (せいき) (西暦での、10

          0年ごとの年代区分)

〇 せい  世紀・西暦年号対照一覧 

             ( せいき・せいれきねんごうたいしょう

             いちらんひょう)

 

■ No.ja−se−0296。

● 見出し語項目 せ   ( い 02 / れ 96

  付近 第1部・い・行 ・ワ・ン・グループ)。

〇 せい  西暦和暦総括対照表 

             (せいれきわれきそうかつたいしょうひょう)。 

 

 

■ No.ja−se−5020。

● 見出し語項目 ぜ   ( ん 50 / き 20 

  付近  第1部・ん・カ行総合グループ )。

〇 ぜん  前近代日本社会

       (ぜんきんだいにほん しゃかい)。   

 

■ No.ja−se−5021。

● 見出し語項目 ぜ   ( ん 50 / き 21

  付近 第1部・ん・カ行グループ )。

〇 ぜん  前近代日本の早婚と

             多産 (ぜんきんだいにほんの

             そうこんとたさん)。   

 

■ No.ja−se−5022。

● 見出し語項目 ぜ   ( ん 50 / き 22

  付近 第1部・ん・カ行グループ )。 

〇 ぜん   前近代日本の地域名

             (ぜんきんだいにほんのちいきめい)

          (主要旧地域名・都道府県対

          照表)。

          

■ No.ja−se−5023。

● 見出し語項目 ぜ   ( ん 50 / き 23

  付近  第1部・ん・カ行グループ )。

〇 ぜん  前近代日本の一夫多妻

        (ぜんきんだいにほんのいっぷたさ

                          いせい) (古代〜江戸時代) (夫

                     が複数の夫人を持つ制度)。

 

■ No.ja−se−5024。

● 見出し語項目 ぜ   ( ん 50 / き 24

  付近  第1部・ん・カ行グループ)。

〇 ぜん  前近代日本の時刻・時法 

             (ぜんきんだいにほんのじこく・じほう)

          (古代〜江戸時代) 

          (1日12等分制)。

 

■ No.ja−se−5025。

● 見出し語項目 ぜ   ( ん 50 / き 25   

   付近  第1部・ん・カ行グループ )。

〇 ぜん  前近代日本の人名

             (ぜんきんだいにほんのじんめい)

             (古代〜江戸時代) 。

 

■ No.ja−se−5026。

● 見出し語項目 ぜ   ( ん 50 / き 26

  付近  第1部・ん・カ行グループ )。

〇 ぜん  前近代日本の夫婦別姓

             (ぜんきんだいにほんのふうふべっせい)

           (古代〜江戸時代)。

 

■ No.ja−se−5030。

● 見出し語項目 ぜ   ( ん 50 / き 30

  付近  第1部・ん・総合グループ )。

■ 派生見出し語移動案内ページ。

〇 ぜん  前近代日本の一夫多妻制

                 (ぜんきんだいにほんのいっぷたさいせい)

〇 ぜん  前近代日本の人名

             (ぜんきんだいにほんのじんめい)

〇 ぜん  前近代日本の夫婦別姓  

             (ぜんきんだいにほんのふうふべっせい) 。

 

■ No.ja−se−5035。

● 見出し語項目 せ   ( ん 50 / ご 35

  付近 第1部・ん・総合グループ )。

〇 せん  戦国時代 (せんごくじだい) (= 室

          町時代後期) (1467〜1573年)

                     室町時代) ( 中世日本) 。  

          (⇒ 日本歴史の時代区分)。

〇 せん  戦国時代 詳細年表

〇 せん  戦国大名 (せんごくだいみょう)

 

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#thesekigaharabasin

 

◆ 関ヶ原盆地。  

     (せきがはらぼんち)。

 

■ 関ヶ原盆地。 

■ 名称 : 関ヶ原盆地 

        (せきがはらぼんち)。

■ 英語名 : 

     The Sekigaha Basin [béisn].

  THE SEKIGAHARA BASIN.

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 41637。

 

 

           ■ 「史実(新説)の関ヶ

           原の戦い」の決戦日

           東西両軍の概要表。

 

              ◆ 一次史料に基づく「史実(新

              説)関ヶ 原の戦い(= 大垣・山中

               の戦い)」の決戦。 

 

              ■ 徳川家康は、西方から西軍

              (奉行衆・毛利方)の援軍が来

              る前に、一刻も早く、美濃国の

              関ヶ原付近にいる西軍の主力

              軍を打倒したいと考えていた。

                 家康は、山中村に近い関ヶ

              原盆地の南方の松尾山に駐留

              する徳川方内通者の小早川秀

              秋の軍の情報によって、西軍

              (奉行衆・毛利方) の動向をつか

              んでいた。

 

              (1) 1600年(慶長5年)9月

              15日に、

              東軍(徳川方)先手勢・約4万

              人の兵は、引き続き、西軍(奉行

              衆・毛利方の 主力軍・約2万 

              3500人の兵が駐留する大垣城

              を攻撃する予定であり、 

              東軍(徳川方)の徳川家康との

              徳川本隊・約3万2000人の兵

              は、西軍(奉行衆・毛利方

              主力軍・約2万3500人の兵が 

              駐留する大垣城を孤立させる

              ため、、大垣城後詰軍の南宮山

              布陣の西軍(奉行衆・毛利方

              毛利秀元の毛利勢・約1万5000

              人の兵を攻撃し、打倒する予定

              であった。

              

              (2) しかし、9月14日夜に、

              大垣城駐留する西 軍(奉行

              衆・毛利方の 主力軍・約2万

              3500人の兵のうち、大垣城

              守備残留兵・約3500人の兵

              除き、主力軍の約2万人の兵

              が関ヶ原盆地、山中村方面に

              移動したため、              

                 家康は、大垣エリアの美濃

              赤坂付近に布陣する東軍(徳川

              方)の約7万2000人の兵の大

              軍を、2つの部隊に大きく分け、

                 1600年(慶長5年)9月

              15日の早朝に、徳川本隊・約

              3万2000人の兵と先手勢・約

              4万人の兵の内の福島勢・約

              1万9000人の兵から構成する

              東軍(徳川方)の主力軍・約5万

              1000人の兵は、関ヶ原盆地、

              山中村方面に向かい、

              南宮山布陣の西軍(奉行 衆・

              毛利方の毛利秀元の毛利勢 ・

              約1万5000人の兵に対して    

              は、 東軍(徳 川方)の先手勢・

              約4万人の兵の内の池田勢・

              約2万1000人の兵が、9月

              15日の早朝に、大垣エリアの

              南宮山の前面に布陣し、大垣

              エリアに残留する。

              

              (3) 関ヶ原南西部に布陣する

              西軍(奉行衆・毛利方の 先方

              の大谷勢・約1200人の兵

              に対しては、徳川家康と徳川本

              ・約3万2000人の兵が、

              関ヶ原南西部に向かい、1600

              年(慶長5年)9月15日の 早朝

              に、西軍の先方隊の大谷勢と合

              戦を開始し、9月15日の午後

              10時過ぎ頃、大谷勢が壊滅後、

              すぐ近くの山中村へ向かい、

              9月15日の午前10時過ぎ頃に、

              東軍(徳川方)の先手勢 の福島

              勢・約1万9000人の兵と山中

              村の東側で合流し、山中村で、

              正午頃まで、西軍(奉行 衆・毛利

              の 主力軍・約2万人の兵と戦

              う。

 

              (4) 山中村西側に布陣する西

              軍(奉行衆・毛利方の 主力軍・

              約2万人の兵に対しては、東軍

              (徳川方)の先手勢の福島勢・

              約1万9000人の兵が、向かい、

              1600年(慶長5年)9月15日の

              朝に、山中村東側 で、西軍(

              行衆・毛利方の 主力軍・約2万

              人の兵と対峙し、午前10時頃か

              ら正午頃まで、西軍(奉行衆・毛

              利方の 主力軍・約2万人の兵と

              戦う。

              

           ■ 「史実(新説)の関ヶ

           原の戦い」の決戦日

           東西両軍の概要表。

 

              ◆ 「史実(新説)関ヶ原の戦い

              (= 大垣・山中の戦い)」の決戦。

 

              ■ (1) 「史実(新説)関ヶ原

              の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

              の決戦。

              ■ 西軍(奉行衆・毛利方)は、

              東軍(徳 川方)の畿内の豊臣

              大阪城方面への進軍の経路と

              なる中山道沿いの山中村を目

              指して移動し、1600年(慶長

              5年)9月14日の夜に大垣エ

              リアの大垣城から移動してきた

              西軍(奉行衆・毛利方)の小西、

              石田、宇喜多、島津、 亀井の  

              主力軍は、 9月15日の 未明

              に山中村に移動してきて、

              9月15日の早朝に、山中村の

              西側に布陣する。

                 西軍(奉行衆・毛利方)は、

              次のように考えていた。

              東軍(徳川方)の主力軍の全部・

              約7万2000人の兵の大軍が、 

              大垣エリアの美濃赤坂付近から

              西進し関ヶ原盆地に入って来た

              ら、関ヶ原盆地の東方の南宮山

              の西軍(奉行衆・毛利方)布陣の

              毛利勢・約1万5000人 と、 

              関ヶ原盆地の西方の山中村布

              陣の西軍(奉行衆・毛利方)の

              主力軍・約2万人で、挟み撃ちに

              しようと考えていた。 

                 しかし、西軍(奉行衆・毛利

              方)の南宮山の毛利勢は、動け

              なかった。 東軍(徳川方)の

              池田勢・約2万1000人の兵が、

              9月15日の早朝に、大垣 エリア

              南宮山の前面に布陣していた

              からである。

                  その結果、山中村の西軍

              (奉行衆・毛利方)の主力軍・約

              2万人の兵は、 近江国の大津

              城陥落前であり大津城攻撃に回

              ってしまった西軍(奉行衆・毛利

              方)の毛利元康・立花宗茂等の

              西方から援軍を得られずに、

              兵力数劣勢で、 関ヶ原盆地・

              山中村に向かった東軍(徳川方)

              の主力軍・約5万1000人の兵

              と野戦で戦うこととなってしまっ

              た。

              

              ■ (2) 「史実(新説)関ヶ原

              の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

              の決戦。

              ■ 豊臣大阪城方面に通じる

              中山道を守備するため、敦賀

              (つるが)から中山道沿いの

              重要拠点の山中村に移動し、

              以前より山中村に布陣してい

              た西軍(奉行衆・毛利方)の

              大谷吉継(おおたによしつぐ)

              と大谷軍・約1200人の兵は、

              西軍(奉行衆・毛利方)の主力

              軍が大垣エリアの大垣城から

              9月14日夜に出て、9月15日

              の未明に 山中村に移動して来

              る前に、

              1600年(慶長5年)9月14日

              夜に、山中村から関ヶ原盆地

              の南西部に移り、布陣し、西軍

              (奉行衆・毛利方)の先方隊と

              なる。

              

              ■ 西軍(奉行衆・毛利方)の

              小早川秀秋と小早川軍は、 

              豊臣大阪城方面に通じる中山

              道を守備するため、畿内から

              来て中山道沿いの重要拠点の

              松尾山に移動し、以前より松尾

              山に布陣していた。

                 西軍(奉行衆・毛利方)の

              小早川秀秋と小早川軍・約

              8000人の兵は、 

              1600年(慶長5年)9月14日

              夜に、西軍(奉行衆・毛利方)の

              大谷軍・約1200人の兵が

              山中村から関ヶ原盆地南西部

              に移動してきたので、

              それに合わせて、9月14日夜に、

              松尾山の山を降りて山麓の小高

              い岡に移動する。

 

              ■ (3) 「史実(新説)関ヶ原

              の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

              の決戦。

              ■ 1600年(慶長5年)9月14

              日の夜に大垣エリアの大垣城

              から移動してきた石田三成と

              石田軍は、

              9月15日の未明に、山中(やま

              なか)に向かう途中で、

              山中村に近い下の自害峯

              (と うげのじがいみね)の既存

              整備陣地に立ち寄り、

              西軍(奉行衆・毛利方)を裏切る

              かもしれない、徳川方内通者疑

              惑の松尾山山麓の小早川秀秋

              の軍と対峙し、小早川軍を牽制

              する。

                 その後、石田三成と石田軍

              は、すぐ近くの山中村で、9月15

              日の早朝に、西軍(奉行衆・毛利

              方)の主力軍と合流し、山中村

              の西側に布陣する。

 

              ■ (4) 「史実(新説)関ヶ原

              の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

              の決戦。

              ■ 1600年(慶長5年)9月15

              日の早朝に大垣エリアの美濃

              赤坂付近から移動してきた東軍

              (徳川方)の 徳川家康と徳川本

              隊は、山中(やまなか)に向か

              う途中で、 9月15日の 早朝に、

              関ヶ原盆地南西部で、西軍(奉

              行衆・毛利方)の先方隊の大谷

              軍と対峙し(遭遇し)、徳川方内

              通者の小早川秀秋の軍と共に、

              西軍(奉行衆・毛利方)の先方隊

              の大谷軍を挟み撃ちにして、

              大谷軍を壊滅(かいめつ)させ、

              戦いで勝利を得る。 

                 その後、9月15日の午前

              10時過ぎ頃に、東軍(徳川方)

              の家康と徳川本隊は、 山中村

              の東側で戦う東軍(徳川方)

              先手勢の福島勢と合流し、 

              東軍(徳川方)の徳川本隊は、

              山中村の東側で戦う。

 

              ■ (5) 「史実(新説)関ヶ原

              の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

              の決戦。

              ■ 美濃国の関ヶ原盆地の西方・

              約2kmの山中(やまなか)村で、

              1600年(慶長5年)9月 15日の

              午前10時頃に、

              大垣エリアの美濃赤坂付近から

              移動し山中村の東側に布陣する

              東軍(徳川方)の福島勢と徳川

              本隊の主力軍・約5万1000人

              の兵は、 

              大垣エリアの大垣城から移動し

              山中村の西側に布陣する西軍

              (奉行衆・毛利方)主力軍

              小西、宇喜多、石田 、島津、

              亀井の軍・約2万人の兵と対峙

              し、 午前10時頃から正午頃

              まで、西軍(奉行衆・毛利方)

              と戦う。

                 正午頃、兵数で劣勢で野戦

              で戦う、西軍(奉行衆・毛利方)

              主力軍は、総崩 れとなり、敗走、

              敗戦し、その結果、東軍(徳川方)

              の主力軍が、勝利を収める。

 

 

 

 

 

 

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#sekigaharawar

 

◆ 関ヶ原の戦い。  

     (せきがはらのたたかい)。

 

■ 関ヶ原の戦い。 

■ 名称 : 関ヶ原の戦い 

        (せきがはらのたたかい)。

■ 英語名 : 

     THE BATTLE OF SEKIGAHARA.

   THE SEKIGAHARA WAR.

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 41635。

 

 

 □ 「 伝説(従来説)関ヶ原の戦い」

    画像アル バム No.3 

 

 □ 「 史実 (新説)関ヶ原の戦い

    (= 大垣・山中の戦い)」画像

    アルバム No.2

 

 

 □ 伝説(従来説)の関ヶ原の

    戦い」 (総合1)

 

 □ 伝説(従来説)の関ヶ原の

    戦い」 (総合2)

 

 □ 「史実(新説)関ヶ原の戦い

    (= 大垣・山中の戦い)」

 

 

 □ 伝説(従来説)の関ヶ原の

    戦い」の時系列表

 

 □ 「伝説(従来説)の関ヶ原の戦い」

    関連出来事(年代順・詳細)

 

 □ 「伝説(従来説)と史実(新説)

    の関ヶ原の戦い」関連ドキュメ

      タリー、ドラマ、映画

 

 

  ■ 「史実(新説)関ヶ原の戦い」

    (= 大垣・山中の戦い)の布陣図。

 

  

 

 

 

 

 ■ 「史実(新説)関ヶ原の戦い」

      (= 大垣・山 中の戦い)の決戦。

 

  ■ 一次史料に基づく「新説(史実)関ヶ原の

  戦い(= 大垣・山中の戦い)(1600年(慶

  長5年)8月26日頃ー9月23日)では、 

  もし奉行衆・毛利方西軍の南宮山布陣

  の大垣城後詰軍の毛利勢が 9月15日

  以後に予想される徳川方の東軍から攻

  撃を受け敗 北すると、 奉行衆・毛利方

  の西軍が駐留する大垣城が孤立し非常 

  に不利と なるので、 大垣城に駐留して

  いた奉行衆・毛利方の西軍の小西・宇

  喜多・石田・島津勢等の軍は、1600年

  (慶長5年)9月15日以後に予想される

  東軍の徳川方による南宮山布陣の奉行

  衆・毛利方の西軍の毛利勢への攻撃に

  備えて(の後詰として)、奉行衆・毛利方

  の西軍の小 西・宇喜多・石 田・島津勢

  等の西軍主力軍・約2万人の兵は、

  1600年(慶長5年)9月14日の日没後、

  大垣城を出て、関ヶ原盆地・山中(やま

  なか)方面へ向う。 

     一方、9月14日の日没後、その西

  軍主力軍を追って徳川方の福島勢と家

  康の徳川本隊の東軍主力軍・約5万10

  00人の兵は大垣付近から関ヶ原盆地・

  山中(やまなか)方面へ向う。 

     奉行衆・毛利方の西軍主力軍は

  9月15日の午前4時頃、山中(やまな

  か)付近に布陣する。 

     その後、西軍主力軍を追って移動

  してきた徳川方の東軍主力軍・約5万

  1000人の兵と奉行衆・毛利方の西軍

  主力軍・約3万人の兵とが、1600年

  (慶長5年)9月15日の午前10時頃か 

  ら正午頃まで、関ヶ原盆地の南西方向・

  約2kmにある、山中(やまなか)村

  決 戦を行い、徳川方の東軍主力軍が

  勝利を得、奉行衆・毛利方の西軍主力

  軍が敗北する。

 

 

 ◆ 「関ヶ原の戦い」の新説(史実)と

    従来説(伝説)。

  ■ 関ヶ原の戦いには、 史実の「新説関ヶ原の

  戦い(= 大垣・山中(おおがき・やまなか)の

  戦い」  と、 「従来説(伝説)関ヶ原の戦い」 

  という2つの有力な説がある。

 

  ■ 「新説(史実)関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の

  戦い」は、 関ヶ原の戦い直後の一次史料

  (いちじしりょう、同時代日記・手紙など)に

  基づく、史実の関ヶ原の戦いである。 

      「新説(史実)関ヶ原の戦い(= 大垣・

  山中の戦い)」は、 『 歴史群像・2017

  年10月号掲載の「通説打破!関ヶ原合戦

  の真実」(白峰旬教授著) 』、その他の多く

  の一次史料も、参考資料・データとして、利

  用している。

 

  ■ 「従来説(伝説)関ヶ原の戦い」は、後世の創

  作である。 

      「従来説(伝説)関ヶ原の戦い」は、江戸

  時代に自慢話が重なってつくられた後世の創

  作の関ヶ 原の戦いである

 

 

 ◆ 従来説(伝説)・新説(史実)共通

    の「関ヶ原の戦い」。

  ■ 関ヶ原の戦い(大垣・山中の戦い)は、1600

  年(慶長5年)に日本各地で行われた、「慶長

  5年(1600年)の天下分 け目の戦い」の1つ

  であり、 「慶長5年(1600年)の天下分 け目

  の戦い」の中心的な合戦であった。 そして、

  関ヶ原の戦いの結果、徳川方の東軍が勝利

  を得、徳川家康が政権基盤を固め、その

  後、1603年(慶長7年)に、家康が将軍宣下

  (せんげ)を受け、 江戸幕府が出現した。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 関ヶ原の戦いは、 広義では、1600年(慶

  長5年)の8月26日頃(東軍の美濃赤坂布

  陣)から9月23日(西軍の大垣城落城)まで

  の間、美濃国での戦いである。

 

  (1) 1600年(慶長5年)8、9月の時点で、

  徳川方の東軍は、尾張国(おわりのくに、現・

  愛知県 西部の相当地域)の清須城(きよす

  じょう、清州城)を本拠地にし、 西軍は、美

  濃国(み ののくに、現・岐阜県南部の相当

  地域)の大垣城(おおがきじょう)を本拠地に

  し、幾本もの川を挟んで対峙していた。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  (2) 徳川方の東軍は、清須城を出て、16

  00年(慶長5年)8月23日に西軍の岐阜

  城を落城させ、 徳川方の東軍は、8月26

  日頃より、大垣付近の美濃赤坂(みのあか

  さか)に移動し布陣して、9月14日まで西軍

  の大垣城を攻撃する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

              

  (3) 1600年(慶長5年)9月14日夜に、

   西軍の大垣城にいた大部分の軍は大垣

   城を抜け出し関ヶ原盆地方面へ移動し、

   また、9月14日夜に、大垣付近の美濃赤

   坂にいた東軍の多くの軍は関ヶ原盆地方

   面へ移動し、9月15日に、東西両主力軍

   は、美濃国の平野で決戦を行った。

      東西両主力軍の決戦では、徳川方の

   東軍主力軍が勝利を得る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  (4) 大垣付近の美濃赤坂にいる徳川方の

   東軍は、1600年(慶長5年)9月15日か

   ら9月23日まで西軍の大垣城を攻撃し、

   9月23日に西軍の大垣城を落城させる。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ◆ 従来説(伝説)・新説(史実)共通

    の「関ヶ原の戦い」。

  ■ 京極高次 (き ょうごくたかつぐ)は、東軍

  の徳川方に味 方し、大津城(おおつじょう)

  に籠城(ろうじょう)して (大津城攻防戦)、

  美濃国方面(大垣・関ヶ原盆地・山中方面)

  に向かう西軍の軍隊の一部を、 大津(おお

  つ)でくい止めた。 結果的に、美濃国で戦

  う西軍の勢力の一部が削(そ)がれた。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 関ヶ原の戦いでは、 戦い後、西軍の石田

   三成小西行長安国寺 恵瓊(あんこくじ

   えけい)は処刑され(斬首され)、 その他

   の 多くの西軍の諸将は、 改易(かいえき、

   領地没収)、減封(げんぽう、領地削減・

   縮小)等の処分を受け、 関ヶ原の戦いは、

   本来は、豊臣家の家臣団の戦いではあっ

   たが、徳川方の東軍の勝利により、事実上、

   徳川政権の基礎的基盤ができ、結果的に、

   「天 下分け目の戦 いとなり、その後、多く

   の西軍の諸将の改易・減封処、多くの東軍

   の諸将の加増、家康の将軍職就任などの

   徳川家康の政権基盤強化により、1603年

   (慶長8年)に江戸幕府が成立した。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ◆ 「従来説(伝説)関ヶ原の戦い」

      (総合)。

 

  ■ 「従来説(伝説)関ヶ原の戦い」は、広義

   では、 時期は1600年(慶長5年)の8月

   26日頃(東軍の美濃赤坂布陣)から9月

   23日(西軍の大垣城落城)までであり、戦

   いの場所は美濃国(みののくに、現・岐阜

   県南部の相当地域)の関ヶ原盆地と 関ヶ

   原盆地の周辺地域であり、 美濃国に集

   結した、 徳川方の東軍・約7万人の兵と

   石田方の西軍・約8万人の兵の東西両軍・

   約15万人の兵が戦う。 

      その決戦は、主戦場(決戦地)の関ヶ

   原盆地であり、 1600年(慶長5年)9月

   15日の午前8時頃 から午後2時頃まで

   徳川方 の東軍主力軍と石田方の西軍主

   力軍との間で行われ た。 

      戦いの結果、徳川方の東軍主力軍が

   勝利を得る。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ◆ 「従来説(伝説)関ヶ原の戦い」

      (総合)。

 

  ■ 「従来説(伝説)関ヶ原の戦い」は、

  「日本戦史」(明治26年の旧日本陸軍参謀

  本部著作)の資料に基づく、関ヶ原の戦い

  であり、創作が多く、信憑性(しんぴょうせい)

    がない。

 (⇒ 関ヶ原の戦い)。

 

  ■ 「従来説(伝説)関ヶ原の戦い」は、徳川方の

  東軍と石田方の西軍との豊臣氏家臣間の内

  部抗争であり、 徳川方の西軍が勝利を得る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11239。

 

  ■ 全体の戦いの中心人物 : 

    全体の戦いの石田方の西軍の中心人物は、 

  石田三成である。

    一方、全体の戦いの徳川方の東軍の中心

  人物は、徳川家康である。

 

  ■ 全体の戦いの人数 : 約16万人。

    徳川方の東軍・約7万4000人 と、 

    石田方の西軍・約8万2000人の戦い。 

    攻城戦ではなく、野戦である。

 

  ■ 全体の戦いの時期 : (広義) 

   1600年(慶長5年)8月26日頃〜9月23日。 

 

  ■ 全体の戦いの場所 : 

   美濃国 (みののくに、現・岐阜県南部

   の相当地域)の、

   関ヶ原盆地と関ヶ原盆地の周辺。

 

  ■ 決戦の時期 :

   1600年(慶長5年)9月15日

   午前8時頃〜午後2時頃。

 

  ■ 決戦の場所 :

   関ヶ原盆地。

 

 

 ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」

    の決戦。

 

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」の決戦

   (決戦場所・日時:関ヶ原盆地で、1600年

   (慶 長5年)9月15日午前8時頃〜午後2

   時頃) では、

   1600年(慶 長5年)9月15日に、美濃赤

   坂から移動し関ヶ原盆地の東側に布陣す

   る徳川方の東軍主力軍 と 大垣城から移

   動し関ヶ原盆地の西側に布陣する石田方

   の西軍主力軍が、午前8時頃から午後2時

   頃まで美濃国の関ヶ原盆地で戦う。 

   結果、東軍が勝利を得る。

      徳川家康と徳川本隊は、1600年(慶

   長5年)9月15日に、最初は(午前8時頃)、

   関ヶ原盆地の東側の、桃配山(ももくばりや

   ま、家康最初陣地)に本陣(陣地)を置き、

   の後(午前10時頃以後)、移動し、関ヶ原盆

   地中央部の陣場野(じんばの、家康最終陣

   地)に本陣(陣地)を置き、徳川方の東軍 主

   力軍を指揮する。    

      大垣城から移動してきた石田三成と石

   田軍は、1600年(慶長5年)9月15 日に、

   関ヶ原盆地の西側の、笹尾山(ささおやま)

   に本陣(陣地)を置き、石田方の西軍主力軍

   を指揮する。    

       大垣城から移動してきた宇喜多秀家と

    宇喜多軍は、1600年(慶長5年)9月15 日

   に、関ヶ原盆地の西側の天満山(てんま や

   ま)に布陣する。

       美濃国の関ヶ原盆地で、1600年(慶長

   5年)9月15日の午前8時頃から、関ヶ原盆地

   の東側に布陣する徳川方の東軍主力軍は、

   大垣城から移動し関ヶ原盆地の西側に布陣す

   る石田方西軍主力軍と対峙し、戦い、午後

   2時頃に、勝利を得る。

 

 

           ■ 「伝説(従来説)の

           関ヶ原の戦い」の決戦日

           東西両軍の概要 。

 

              ◆ 「伝説(従来説の関ヶ原の

                 戦い」の決戦。

 

              ■ (1) 「伝説(従来説

                 関ヶ 原の戦い」の決戦。

              ■ 1600年(慶長5年)9月15

              日の早朝に大垣エリアの美濃赤

              坂付近から移動してきた徳川家

              康と東軍(徳川方)の主力軍は、

              関ヶ原盆地の東側に布陣し、

              最初は、家康は、朝から、関ヶ原

              盆地の東側の、桃配山(ももくば 

              りやま、家康最初陣地)に本陣

              (陣地)を置き、

              その後(午前10時頃以後)、家

              康は、移動し、関ヶ原盆地中央

              部の陣場野(じんばの、家康最

              終陣地)に本陣 (陣地)を置き、

              東軍(徳川方)の主力軍を指揮

              する。    

 

              ■ (2) 「伝説(従来説

                 関ヶ原の戦い」の決戦。

              ■ 1600年(慶長5年)9月14日

              の夜に大垣エリアの大垣城から

              移動してきた石田 三成と石田軍

              は、

              9月15日の未明に、

              関ヶ原盆地の西側の、笹尾山(さ

              さおやま)に本陣(陣地)を置き、

              石田 三成が、西軍(石田方) の

              主力軍を指揮する。    

                  

              ■ (3) 「伝説(従来説

                 関ヶ 原の戦い」の決戦。

              ■ 1600年(慶長5年)9月1 4

              日の夜に大垣エリアの大垣城か

              ら移動してきた宇喜多秀家と宇

              喜多軍は、9月15日の早朝に、

              関ヶ原盆地の西側の天満山(て

              んまやま)南峯に布陣する。

 

              ■ (4) 「伝説(従来説

                 関ヶ原の戦い」の決戦。

              ■ 美濃国の関ヶ原盆地で、

              1600年(慶長5年)9月15日

              の午前8時頃に、

              大垣エリアの美濃赤坂付近から

              移動し関ヶ原盆地の東側に布陣

              する東軍(徳川方)の主力軍は、

              大垣エリアの大垣城から移動し

              関ヶ原盆地の西側に 布陣する

              西軍(石田方)の主力軍と対峙し、

              午前8時頃から午後2時頃まで

              戦い、午後2時頃に、西軍(石田

              方)の主力軍は総崩れとなり、

              敗走、敗戦し、東軍(徳川方)の

              主力軍が勝利を得る。

 

 

 ◆ 「新説(史実)関ヶ原の戦い」

    (= 大垣・山中の戦い) (総合)。

 

  ■ 「新説(史実)関ヶ原 の戦い」(= 大垣・山

   中の戦い)は、広義では、時期は1600

   年(慶長5年)の 8月26日頃(東軍の美

   濃赤坂布陣)から9月23日(西軍の大垣

   城落城)までであり、 戦いの場所は

   濃国(みののくに、現・岐阜県南部の相当

   地域)の大垣(おおがき)付近や山中(や

   まなか)付 近であり、 美濃国に集 結し

   た、徳川方の東軍・約7万3000人の兵

   と奉行衆・毛利方の西軍・約5万4000人

   の兵の東西両軍・約12万7000人の兵

   が戦う。 

       その決戦は、主戦場(決戦場)の

   山中(やまなか、美濃国山中村)であり、

   (1600年慶長5年)9月15日の午前10

   時頃から正午頃まで、徳川方の東軍主力

   軍と奉行衆・毛利方の西軍主力軍との間

   で行われ た。

      戦いの結果、徳川方の東軍主力軍

   が勝利を得る。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ◆ 「新説(史実)関ヶ原の戦い」

   (= 大垣・山中の戦い) (総合)。

 

  ■ 「新説(史実)関ヶ原 の戦い」(= 大垣・山中

  の戦い)は、関ヶ原の戦い直後の一次史料

  (同時代日記・手紙など)に基づく、大垣・山

  中(おおがき・やまなか)の戦いであり、 

  史実の関ヶ原の戦いである。

 (⇒ 新説(史実)関ヶ原

           の戦い)。

 (⇒ 大垣・山中の戦い)。

 

  ■ 「新説(史実)関ヶ原 の戦い」(= 大垣・山中

  の戦い)は、徳川方の東軍 と、奉行衆・毛

  利方の西軍 との豊臣氏家臣間の内部抗争

  であり、 徳川方の東軍が勝利を得る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 41617。

 

  ■ 全体の戦いの中心人物 : 

     全体の戦いの奉行衆・毛利の西軍の

  中心人物は、大谷吉継奉行衆・4人(増田

  長盛長束正家前田玄以石田三成)、

  宇喜多秀家毛利輝元であり、西軍は、

  反徳川で団結し、集団指導体制である。 

     一方、全体の戦いの徳川方の東軍の

  中心人物は、徳川家康である。

 

  ■ 全体の戦いの人数 : 

   徳川方の東軍・約7万3000人 と、 

   奉行衆・毛利方の西軍・約4万4000人の戦い。 

 

  ■ 全体の戦いの時期 : (広義)

   1600年(慶長5年)8月26日頃〜9月23日。 

 

  ■ 全体の戦いの場所 : 

   美濃国 (みののくに、現・岐阜県南部

   の相当地域)の、

   大垣(おおがき)付近と山中(やまなか)付近。

 

  ■ 決戦の時期 :

   1600年(慶長5年)9月15日

   午前10時頃〜正午頃。

 

  ■ 決戦の場所 :

   山中 (やまなか、美濃国山中村)。

 

  ■ 決戦での参加人数 :

   徳川方の東軍・約5万1000人 と、 

   奉行衆・毛利方の西軍・約2万人の戦い。 

 

  ■ 「新説(史実)関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の

    戦い)」の、大垣の戦い と 山中の戦い。

 

  ● 大垣の戦い。 徳川方の勝利。

  時期 : 1600年(慶長5年) 8月26日頃

        から9月23日まで。

  場所 : 美濃国の大垣付近 

        (美濃赤坂(みのあかさか)、大垣城

        (おおがきじょう)、南宮山(なんぐう

        さん)などの地域)。

  ● 山中の戦い。 徳川方の勝利。

  時期 : 1600年(慶長5年)9月15日

        の夜明けから正午頃まで。

  場所 : 美濃国の山中(やまなか)付近  

        (関ヶ原盆地南西部、山中(やまなか)

        藤下(とうげ)、松尾山(まつおやま)

        山麓などの地域) 。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 「新説(史実)関ヶ原の戦い

    (= 大垣・山中の戦い)」の決戦。

 

   ■ 一次史料に基づく「新説(史実)関ヶ 原の戦い

   (= 大垣・山中の戦い)」 の決戦 (決戦場所・

   日時:山中(やまなか)村で、1600年(慶長5

   年) 9月15日午前10時頃〜正午頃) では、 

   美濃赤坂から移動し山中村の東側に布陣す

   る徳川方の東軍主力軍 と、 大垣城から移

   動し山中村の西側に布陣する奉行衆・毛利方

   の西軍主力軍が、 午前10時頃から正午頃

   まで美濃国の山中(やまなか)で戦う。

   結果、東軍が勝利を得る。

      美濃赤坂から移動してきた東軍の徳川

   家康と徳川本隊は、1600年(慶長5年)9月

   15日に、山中(やまなか)に向かう途中で、

   関ヶ原盆地南西部で、早朝、奉行衆・毛利方

   の西軍の大谷軍と対峙し(遭遇し)戦い、勝

   利を得る。 

       次に、家康と徳川本隊は、美濃赤坂か

   ら移動してきた徳川方の東軍福島勢と合

   流し、東軍主力軍は、山中村の東側に布陣

   する。

       大垣城から移動してきた宇喜多秀家と

   宇喜多軍は、1600年(慶長5年)9月15 日

   に、山中村の西側に布陣する。

       大垣城から移動してきた石田成三と石

   田軍は、1600年(慶長5年)9月15 日に、

   山中付近の下 の自害峯(とうげのじがいみ

   ね)に移動し、その後、すぐ近くの山中村で西

   軍主力軍と合流し、山中村の西側に布陣する。

      美濃国の山中(やまなか)村で、1600年

   (慶長5年)9月15日の午前10時頃から、美

   濃赤坂から移動し山中村の東側に布陣する

   東軍主力軍の福島勢と徳川本隊は、大垣城

   から移動し山中村の西側に布陣する奉行衆・

   毛利方西軍主力軍の小西・宇喜多・石田・

   島津勢等の軍と対峙し、戦い、正午頃に、

   勝利 を得る。

 

 

#sekigaharawar-general1

 

 

 「従来説(伝説) の

    関ヶ原の戦い」。

 

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」は、 「日本

  戦史」(明治26年の旧日本陸軍参謀本部著作)

  の資料に基づく、後世に編集された、関ヶ原の

  戦いである。

  (注意) 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」は、

  後世につくられ、創作が多く、信憑性(しんぴょ

  うせい)がない。 「物語の関ヶ原の戦い」で

  ある。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、 石田

   方の西軍の中心人物は、 石田三成である。

   一方、徳川方の東軍の中心人物は、徳川家康

   である。

 

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」は、 徳川方の

  東軍と石田方の西軍との豊臣氏家臣間の内部抗

  争である。  結果は、徳川方の東軍が、勝利を

  得る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」は、広義では、 

   1600年(慶長5年)8月26日頃から9月15日

   まで、美濃国 (みののくに、現・岐阜県南部の

   相当地域、現在の岐阜県南部に当たる地域)

   の関ヶ原盆地と関ヶ原盆地の周辺地域で 、 

   徳川方の東軍と石田方の西軍との間で行われ

   た戦いである。 結果は、徳川方の東軍が勝利

   を得る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」の決戦は、

   1600年(慶長5年)9月15日 の午前8時頃

   から午後2時頃までの約6時間の間、美濃国

   の 主戦場(決戦地)の関ヶ原盆地で、徳川方

   の東軍と石田方の西軍との間で行われた合

   戦である。 徳川方の 東軍は、苦戦をして、

   勝利を得る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」は、 広義で

   は、時期は1600年(慶長5年)の(東軍の美濃

   赤坂布陣の)8月26日頃から9月15日まであ

   り、場所は(戦場は)美 濃国 (みののくに、現・

   岐阜県南部の相当地域)の、関ヶ原盆地と関ヶ

   原盆地の周辺地域であり、 美濃国に集結した

   徳川方の東軍・約7万人、石田方の西軍・約8万

   人の東西両軍・約15万人が戦う。 その決戦は、

   主戦場(決戦地)の関ヶ原盆地であり、1600年

   (慶長5年)9月15日の午前8 時頃から午後2時

   頃まで、徳川方の東軍と石田方の西軍との間で

   合戦が行われた。 戦いの結果、徳川方の東軍

   が勝利を得る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 石田三成。

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」 では、

    西軍の首謀者は石田三成であり、 

    小早川秀秋は、西 軍に属し、東軍に寝返り、

    裏切り者となった。

 

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、石田三成

  は、 豊臣秀吉の死後、徳川家康に対抗し、徳川

  家康を豊臣政権から除こうとして、 慶長5年(16

  00年)の天下分け目の戦い (関ヶ原の戦い(大

  垣・山中の戦い)、他の戦い) を起こし、天下分

  け目の戦いで西軍 の実質的指導者となり、石田

  方の西軍を主導し、敗れて、処刑される(斬首さ

  れる)。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#sekigaharawar-thenewtheory

 

 「新説(史実)関ヶ原の戦い 

   (= 大垣・山中の戦い)」。 

 

 

 

  ■ 「新説関ヶ原の戦い」(= 大垣・山中

    の戦い)の布陣図。

  

 

 

 

 ■ 「新説(史実)関ヶ原の戦い」

    (= 大垣・山中の戦い) (総合)。

 

  ■ 「新説(史実)関ヶ原 の戦い」(= 大垣・山

   中の戦い)は、広義では、時期は1600

   年(慶長5年)の 8月26日頃(東軍の美

   濃赤坂布陣)から9月23日(西軍の大垣

   城落城)までであり、 戦いの場所は

   濃国(みののくに、現・岐阜県南部の相当

   地域)の大垣(おおがき)付近や山中(や

   まなか)付近であり、 美濃国に集 結し

   た、徳川方の東軍・約7万3000人の兵

   と奉行衆・毛利方の西軍・約5万4000人

   の兵の東西両軍・約12万7000人の兵

   が戦う。 

      その決戦は、主戦場(決戦場)の

   山中(やまなか、美濃国山中村)であり、

   (1600年慶長5年)9月15日の午前10

   時頃から正午頃まで、徳川方の東軍主力

   軍と奉行衆・毛利方の西軍主力軍との間

   で行われ た。

      戦いの結果、徳川方の東軍主力軍

   が戦いを有利にすすめ、勝利を得る。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 「新説(史実)関ヶ原の戦い」

   (= 大垣・山中の戦い) (総合)。

 

  ■ 「新説(史実)関ヶ原 の戦い」(= 大垣・山中

  の戦い)は、関ヶ原の戦い直後の一次史料

  (同時代日記・手紙など)に基づく、大垣・山

  中(おおがき・やまなか)の戦いであり、 

  史実の関ヶ原の戦いである。

 (⇒ 新説(史実)関ヶ原

           の戦い)。

 (⇒ 大垣・山中の戦い)。

 

  ■ 「新説(史実)関ヶ原 の戦い」(= 大垣・山中

  の戦い)は、徳川方の東軍 と、奉行衆・毛

  利方の西軍 との豊臣氏家臣間の内部抗争

  であり、 結果は、徳川方の東軍が勝利を得る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11238。

 

  ■ 全体の戦いの中心人物 : 

  ● 全体の戦いの奉行衆・毛利の西軍の

  中心人物は、大谷吉継奉行衆・4人(増田

  長盛長束正家前田玄以石田三成)、

  宇喜多秀家毛利輝元であり、西軍は、

  反徳川で団結し、集団指導体制である。 

     一方、全体の戦いの徳川方の東軍の

  中心人物は、徳川家康である。

 

  ■ 全体の戦いの人数 : 

   徳川方の東軍・約7万3000人 と、 

   奉行衆・毛利方の西軍・約4万4000人の戦い。 

 

  ■ 全体の戦いの時期 : (広義)

   1600年(慶長5年)8月26日頃〜9月23日。 

 

  ■ 全体の戦いの場所 : 

   美濃国 (みののくに、現・岐阜県南部

   の相当地域)の、

   大垣(おおがき)付近と山中(やまなか)付近。

 

  ■ 決戦の時期 :

   1600年(慶長5年)9月15日

   午前10時頃〜正午頃。

 

  ■ 決戦の場所 :

   山中 (やまなか、美濃国山中村)。

 

  ■ 決戦での参加人数 :

   徳川方の東軍・約5万1000人 と、 

   奉行衆・毛利方の西軍・約2万人の戦い。 

 

  ■ 「新説(史実)関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の

   戦い)」の、大垣の戦い と 山中の戦い。

 

  ● 大垣の戦い。 徳川方の勝利。

  時期 : 1600年(慶長5年) 8月26日頃

        から9月23日まで。

  場所 : 美濃国の大垣付近 

        (美濃赤坂(みのあかさか)、大垣城

        (おおがきじょう)、南宮山(なんぐう

        さん)などの地域)。

 

  ● 山中の戦い。 徳川方の勝利。

  時期 : 1600年(慶長5年)9月15日

        の夜明けから正午頃まで。

  場所 : 美濃国の山中(やまなか)付近  

        (関ヶ原盆地南西部、山中(やまなか)

        藤下(とうげ)、松尾山(まつおやま)

        山麓などの地域) 。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ◆ 「新説(史実)関ヶ原の戦い 

    (= 大垣・山中の戦い)」。 

 

  ■ 「新説関ヶ原の戦い (= 大垣・山中の戦い(お

   おがき・やまなかのたたかい)、 慶長庚子の

   大乱(けいちょうこうしのたい らん)」 は、江戸

   時代初期の戦い直後の一次史料(同時代手

   紙・日記など)に基づく 「史実の関ヶ原の戦

   い」である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」には、

  「大垣(おおがき) の戦い」 と 「山中(やまなか)

  の戦い」 の2つの合戦がある。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 徳川家康は、 自身の書状で、関ヶ原の戦いの

  主戦場(決戦地)は、 「濃州山中」 (のうしゅう

  やまなか、美濃国の山中村)) と述べている 

  (「慶長五年九月十五日付伊達政宗宛徳川家康

  書状」より)。

 

  ■ 奉行衆 4人とは、 五奉行の中の 4人であり、

   増田長盛 (ましたながもり)、 長束正家(なつ 

   かまさいえ)、 前田玄以 (まえだげんい)、

   石田三成 (いしだみつなり) である。

 

 

 ◆ 「新説の関ヶ原の戦い (= 大垣・山

    中の戦い)」。 

 

  ■ 「大垣・山中の戦い」は、 新説の関ヶ原合戦の

  別名であり、 関ヶ原の戦い直後の一次史料

  (同時代日記・手紙など)に基づき、広義では、

  1600年(慶長5年)8月26日頃から9月23日まで、

  奉行衆(ぶぎょうしゅう)・毛利方の西軍と徳川方

  の東軍との間で行われた合戦である。  結果は、

  徳川方の東軍が勝利を得る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 「大垣・山中の戦い(= 新説の関ヶ原の戦い)

   では、大垣城(おおがきじょう)を攻め落とす

   ことが 「天下之勝負」(天下分け目の戦いの

   勝敗を決めること)であり、 徳川方の東軍

   有利に戦いをすすめ、勝利を得た。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」は、

   1600年(慶長5年)8月26日頃から9月 23日

   まで、 美濃国 (みののくに、概ね、現・岐阜

   県南部の相当地域) の大垣(おおがき)付近

   や山中(やまなか)付近での、徳川方の東軍

   と奉行衆・毛利方の西軍が戦 った合戦である。

     「大垣・山中の戦い (= 新説の関ヶ原の戦

   い)」には、 「大垣の戦い」 と、 「山中の戦い」 

   の2つの合戦がある。 

      大垣の戦いは、1600年(慶長5年)8月

   26日頃から9月23日まで戦いであり、 最初に、

   東軍(徳 川方)の徳川方先手勢の福島勢・池田

   勢の豊臣恩顧の大名の軍 と、 西軍(奉行衆・

   毛利方)の大垣城籠城衆(駐留軍) との間で

   の大垣城の攻防戦であり、 次に、東軍(徳 川

   方)の徳川本隊や徳川方先手勢のの福島勢・

   池田勢の軍 と、 西軍(奉行衆・毛利方)の南

   宮山(なんぐうさん)東側で布陣する大垣城後詰

   軍の毛利勢や大垣城籠城衆(駐留軍)との対峙

   である。  戦いの結果、徳川方の東軍が勝利を

   得、奉行衆・毛利方の西軍が敗北する。

       山中の戦いは、 1600年(慶長5年)9月

   15日の夜明けから 正午頃までの間の戦いであ

   り、 最初に、関ヶ原盆地南西部で、東軍(徳川

   方)の徳川本隊・小早川軍等の軍 と、 西軍(奉

   行衆・毛利方)の大 谷軍との合戦であり、 次に、

   関が原盆地の南西 方向・約2kmにある山中(や

   まなか)で、東軍(徳川方)の徳川方先手勢の福

   島勢や徳川本隊 と、 西軍(奉行衆・毛利方)

   小西・宇喜多・石田・ 島津勢等の軍との間で行わ

   れた合戦である。 戦いの結果、徳川方の東軍が

   勝利を得、奉行衆・毛利方の西軍が敗北する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ◆ 「新説関ヶ原の戦い (= 大垣・山

    中の戦い)」。 

 

 ■ 徳川家康の動き。

 

   ■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

   では、 東方からやって来た、徳川方の東軍の徳

   川家康は、徳川本隊と共に、1600年(慶長5年)

   9月14日に、(関ヶ原盆地の桃配山の北東にあ

   る)美濃赤坂(みのあかさか)という場所で布陣し、

   西軍(奉行衆・毛利方)の、南宮山(なんぐうさん)

   に布陣するの毛利勢や大垣城籠城衆(駐留軍)

   の軍と対峙し、 その後、9月15日に、東 軍(徳

   川方)の徳川家康と徳川本隊は、 関ヶ原 南西

   部に移動して、布陣する奉行衆・毛利方の西軍

   の大谷軍と対峙し戦い勝利を得、次に、山中

   (やまなか)に移動して、奉行衆・毛利方の西軍

   の小西・宇喜多・石田・ 島津勢等の軍と対峙し

   戦い、勝利を得る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 石田三成の動き。

 

   ■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

   では、 奉行衆・毛利方の西軍の石田三成は、

   1600年(慶長5年)8月10日から9月14日

   まで、大垣城で籠城し、東軍(徳川方)と戦い、

   9月14日の日没後、大垣城を出て、関ヶ原盆地・

   山中(やまなか)方面へ向い、 その後、石田三

   成は、1600年(慶長5年)9月15日の午前4時

   頃に、山中(やまなか)近くの、(関ヶ原の笹尾山

   から南3kmの)藤下 (とうげ)の(以前から整備

   していた)自害峯(じがいみね)という場所に立ち

   寄り、 大垣付近から来る徳川方の東軍や裏切

   るかもしれない奉行衆・毛利方の西軍の松尾山

   山麓に布陣する小早川秀秋の軍と対峙し、 そ

   の後、早朝、すぐ近くの山中(やまなか)に移動し

   て西軍主力軍と合流し、 石田三成は、山中(や

   まなか)で、午前10時頃から正午頃まで、大垣

   付近から来た徳川方の先手勢の福島勢や徳川

   本隊の東軍主力軍のと戦い、敗北する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ◆ 「新説(史実)関ヶ原の戦い(= 大

    垣・山中の戦い)」の大垣の戦い 

 

 ■ 大垣の戦い。

 

  ■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」の

   1つの、「大垣の戦い」では、  

      第1段階として、大垣城の攻防戦で、

   1600年(慶長5年)8月26 日頃から 9月14

   日まで、 東軍(徳川方)の徳川方の先手勢

   の福島勢や池田勢の豊臣恩顧大名の軍・約

   4万人の兵は、 美濃赤坂(みのあかさか)付

   近に布陣し、西軍(奉行衆・毛利方)の拠点の

   大垣城(おおがきじょう)の大垣城籠城衆(駐

   留軍・約3万3500人の兵を攻め、大垣城の

   攻防戦を行うが、大垣城は落城せず。 一方、

   1600年(慶長 5年)9月7日に、南宮山(な

   んぐうさん)に、西軍(奉行衆・毛利方)の大垣

   城 ・後詰軍の毛利勢・約1万5000人の兵

   が布陣する。

      第2段階として、奉行衆 ・毛利方の西軍

   大垣城・後詰軍の毛利勢(約1万 5000人)

   を降参させ大垣城を孤立させるため、1600

   年(慶長5年)9月 14日の昼間に、東方から

   来た東軍(徳川方)の徳川家康は、徳川本隊・  

   約3万2000人の兵(井伊直政・本多忠勝・

   家康馬廻り衆等の軍)と 共に、美濃赤坂(み

   のあかさか)に布陣する。 1600年(慶長5

   年)9月14日の昼間に、 東軍(徳川方)の

   川 家康と徳川本隊・約3万2000人の 兵と

   徳川方先手勢の福島勢・池田勢・約4万人の

   兵は、 奉行衆・毛利方の西軍の南宮山の

   大垣城後詰軍の毛利勢・約1万 5000人の兵

   や大垣城籠城衆(駐留軍・約3万3500人の

   兵と対峙する。 9月15日以後、徳川方の東

   軍は、 西軍(奉行衆 ・毛利方)の南宮山の

   毛利勢や大垣城籠城衆(駐留軍)を総攻撃

   する予定であった。 

      しかし、9月14日の昼間、奉行衆・毛利

  方の西軍の南宮山布陣の毛利勢の軍 ・約1万

  5000人の兵を率いる毛利秀元は、 大垣付

  近にいる徳川方の東軍の大軍・計約7万200

  0人の兵に恐れをなし戦わず、即ち、野戦に

  強い強力な徳川方の東軍の大軍を見て、勝ち

  目がないとみて、西方からの西軍の援軍の到

  着を待ち、戦いを避ける。 奉行衆 ・毛利方の

  西軍の毛利軍の先鋒隊の吉川勢が徳川方の

  東軍に合戦回避を通知する。

      一方、第3段階として、9月15日以後に

   予想される東軍 (徳川方)による西軍(奉行衆

   ・毛利方)の南 宮山の毛利勢攻撃に備えて、

   9月14日の日没後、奉行衆・毛利方の西軍

   大垣城籠城 衆(駐留軍)の小西・宇喜多・

   石田・島津勢等の軍・約3万人の兵は、 

   大垣城残留勢・約3500人の兵を残して、 

   大垣城を出て関ヶ原盆地・山中(やまなか)

   方面に転進(移動)する。 その西軍主力軍

   を追って、徳川方の東軍主力軍 ・約五万

   1000人の兵が大垣付近より関ヶ原分地・

   山中方面へ移動する。

      その後、第4段階として、1600年(慶

   長5年)9月15日の午前中に奉行衆・毛利

   方の西軍の南宮山布陣の約1万 5000人の

   兵を率いる毛利秀元は、 徳川方の東軍主

   力軍が大垣付近より関ヶ原分地・山中方面

   へ移動したことを知り、東軍主力軍を追撃し、

   山中(やまなか)付近にいる西軍主力軍と

   共に挟み撃ちにしようとしたが、大垣付近

   に残る徳川方の東軍の池田勢と対峙し動け

   なかった。

      一方、第5段階として、1600年(慶長 

   5年)9月15日 の午前中の午前10時頃から

   正午頃までの山中(やまなか)の戦いでの

   西軍主力軍の敗北を知り、 9月15日に、

   奉行衆・毛利方の西軍の南宮山の毛利勢

   は、戦場を離脱し 西方に向い、徳川方の

   東軍に追撃される。

      また、第6段階として、9月15日の山中

   (やまなか)の戦いで奉行衆・毛利方の西軍

   主力軍が敗北し東西両 軍の戦いの趨勢(す

   うせい)が決した後も、 奉行衆・毛利方の

   西軍福原・ 垣見・熊谷・秋月・相良の

   大垣城残留勢・約3500人の兵は、戦いを

   続け、寝返りも出て、最後に、 1600年(慶

   長5年)9月23日に、徳川方の東軍に降伏

   し、開城する。

       新説(史実)関ヶ原の戦い(= 大垣・山

   中の戦い)」の「大垣の戦い」で、戦いの結果、

   徳川方の東軍は勝利を 得、奉行衆・毛利方

   の西軍は敗北する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ◆ 「新説(史実)関ヶ原の戦い(= 大

    垣・山中の戦い)」の山中の戦い。 

 

 ■ 山中の戦い。

  

  ■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」の

   1つの、「山中の戦い」では、  第1段階として、

   1600年(慶長5年) 9月15日の夜明けに関 ヶ

   原盆地南西部で、東軍(徳川方)の徳川本隊

   3万2000人)や小早川軍(約8000人)の軍

   と、 西軍(奉行衆・毛利方)の先方隊の大谷軍

   (約1200人) との間で合戦が行われ、 西軍

   (奉行衆・毛利方)の大谷軍が全滅した。

      第2段階として、関が原盆地の南西 方向・

   約2kmにある主戦場の山中(やまなか) で、 

   1600年(慶長5年) 9月15日の午前10時頃

   から正午頃までの間、 東軍(徳川方)の徳川

   方先手勢の福島勢(約1万9000人)や徳川本

   隊(約3万2000人)等の軍 と、 西軍(奉行衆

   ・毛利方)の小西・宇喜多・石田・ 島津勢等の軍

   (約3万人)との間で合戦が行われ、 西軍(奉

   行衆・毛利方)が総崩れとなり敗走し、敗北し、

   徳川方の東軍が勝利を得た。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#sekigaharawar-general2

 

 「従来説(伝説)の関ヶ原

    の戦い」。

 

  ● 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」は、 1600年

  (慶長5年)の、天下 分け目の戦いの1つである。

 

 

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」は、 広義では、

   1600年(慶長5年)8月26日頃9月15日まで、 

   美濃国(みののくに、現・岐阜県南部の相当地

   域)で、 徳川方の東軍と石田方の西軍とが戦

   った合戦である。 東軍の首謀者は徳川家康で

   あり、 西軍の首謀者は石田三成である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」の決戦では、

     石田方の西軍の小早秋川秀寝返りにより、 

   徳川方の東軍が有利となり、勝利を得た。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、 小早川

   は、西軍の石田方に属し、 東軍の徳川方に

  寝返り、裏切り者となった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ● 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」の決戦は、16

   00年(慶長5年)9月15日 の前半は(午前中は)、

   石田方の西軍が優勢であったが、 後半には(午

   後には)、正午頃の徳川家康の問鉄砲(といてっ

   ぽう、裏切りの決断を催促する威嚇射撃) で、 

   松尾山頂上に陣をおく、石田方の西軍の小早川

   秀秋(こばやかわひであき)が徳川方東軍へ寝返

   り、石田方の西軍を攻めた後は、 石田方西軍は、

   劣勢となり、最終的に、徳川方の東軍に敗北した。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ● 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、 石田方

   西軍の石 田三成は、 関ヶ原盆地の北西部の笹

   尾山(ささおやま)に本陣を置き、石田方の西軍の

   指揮をとり、 石田方の西軍の小早川秀秋(こばや

   かわひであき)は、関ヶ原南西方向にある松 尾

   山(まつおやま)に本陣を置き、 徳川方東軍の徳

   川家康は、最初は、関ヶ原 盆地の北東方向にあ

   る桃配山(ももくばりやま)に本陣を置き徳川方 の

   東 軍の指揮をとり、その後、移動して、関ヶ原盆地

   中央部の陣場野(じんばの)に本陣を置き徳川方

   の東軍の指揮をとった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ◆ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」。

 

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」は、 石田方西軍

  と徳川方東軍との豊臣氏家臣間の内部抗争であり、 

  広義では、1600年(慶長5年)8月26日頃から9月

  15日まで、美濃国(みののくに)に、徳川方の東軍・

  約7万人 と、 石田方の西軍・約8万人が集結して、

  争った戦いである。 戦いの結果、徳川方の東軍が

  勝利を得る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 関ヶ原盆地は、 東西・約4km、南北・約2km

    の広さのある、盆地である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」の決戦では、

   石田方西軍の小早川秀秋寝返りにより、徳川方

   東軍が 有利となり、勝利を得た。

 

  ● 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」の決戦では、

   1600年(慶長5年)9月15日の 前半は(午前中は)、

   石田方西軍が優勢であったが、 後半には(午後

   には)、 正午頃の徳川家康の問鉄砲(といてっぽ

   う、裏切りを催促する家康の鉄砲威嚇射撃)で、 

   松尾山に陣をおく、石田方西軍の小早川秀秋(こ

   ばやかわひであき)が徳川方東軍へ寝返り、石田

   方西軍を攻めた後は、 石田方西軍は、劣勢とな

   り、最終的に、徳川方の東軍に敗北した。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、 決戦当日

   までに徳川秀忠が率いる徳川主力攻撃部隊が関

   ヶ原盆地に到着せず、 徳川方東軍の徳川家康

   は、徳川本隊(徳川旗本防衛部隊等)と内心信頼

   できない多数の反石田の豊臣恩顧の諸大名の混

   成軍によって関ヶ原で石田方西軍と戦わねばなら

   ず、冷や汗をかき、なんとかぎりぎりで勝利を得た。 

      石田方西軍の小早川秀秋の寝返りがなけれ

   ば、徳川方東軍が負ける可能性もあった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、 石田方西

   軍石田三成は、  関ヶ原盆地北西部の笹尾山(さ

   さおやま)に本陣を置き、美濃在留石田西軍の指

   揮をとり、 石田方西軍の小早川秀秋(こばやかわ

   ひであき)は、 関ヶ原盆地の南西方向の松尾山

   (まつおやま)に本陣を置き、 徳川方東軍の徳川

   家康は、 最初は、関ヶ原 盆地の北東方向の桃配

   山(ももくばりやま)に本陣を置き 美濃在留徳川方

   東軍の指揮をとり、 その後、関ヶ原盆地中央部

   の陣場野(じんばの)に本陣を置き、美濃在留徳川

   方東軍の指揮をとった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 関ヶ原盆地は、 美濃国(みののくに、現・岐阜県

  南部の相当地域)の平野にある。

     関ヶ原盆地は、 東西・約4km、南北・約2km

  の広さのある、盆地である。

 

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、 1600年

   に(慶長5年)9月15日に、美濃の関ヶ原 盆地で、

   徳川方東軍と石田方西軍が、決戦を行い、徳川

   方東軍が勝利を得た。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」は、 1600年

   に日本各地で行われた、「天下分け目の戦い」  

   (徳川方と石田方の戦い;関が原の戦い、その

   他の戦い) の1つである。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ◆ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」。

 

 ■ 東軍、西軍の諸将の本陣(陣地)。

 

  ■ 徳川家康の本陣(陣地)ー桃配山と陣場野。

  ● 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」の決戦では、

   1600年(慶長5年)9月15日に、 徳川家

   康は、 関ヶ原 盆地の北東方向にある桃配

   山 (ももくばりやま、家康最初陣地) や 

   関ヶ原盆地の中央部の陣場野(じんばの、

   家康最終陣地) に本陣(陣地)を置 く。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ● 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」の決戦では、

   1600年(慶長5年)9月15日に、 徳川家康

   は、 最初に(午前8時頃)、関ヶ原盆地の北

   東方向にある 桃配山 (ももくばりやま、家康

   最初陣地) に本陣(陣地)を置き、 その後

   (午前10時頃以後)、関ヶ原盆地の中央部の

   野陣場 (じんばの、家康最終陣地) に本陣

   (陣地)を置 く。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 石田三成の本陣(陣地)ー笹尾山

  ● 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」の決戦では、

  1600年(慶長5年)9月15日に、石田三成 (い

  しだみつなり)は、 関ヶ原盆地の北西部の、笹

  尾山(ささおやま)に、本陣(陣地)を置く。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ● 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」の決戦では、

   1600年(慶長5年)9月15日に、石田三成は、 

   午前8時頃午後2時頃まで、関ヶ原盆地の北

   西部の、笹尾山(ささおやま) に本陣(陣地)

   を置く。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 小早川秀秋の本陣(陣地)ー松尾山

  ● 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」では、1600年

   (慶長5年)9月14日から9月15日まで、小早川

   秀秋(こばやかわひであき)は、 関ヶ原盆地の

   南西方向にある松尾山(まつおやま)の頂上に、

   本陣(陣地)を置く。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ◆ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」。

 

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」とは、 安土桃

   山時代(1573−1603年) の、1600年(慶長

   5年)8月26日頃より9月15日まで、徳川 家

   主導の 、徳川氏家臣・豊臣氏家臣

   合軍の東軍 と、 石田三成主導の 、豊臣氏家

   臣団の西軍の、東西両軍合わせて、 約15万

   人の兵士が、 美濃国 (みののくに、現在の

   岐阜県南部相当地域) の関が原 盆地や関が原

   盆地の周辺地域で、争った合戦である。戦いの

   結果、徳川方の東軍が勝利を得る。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」の決戦では、

  1600年(慶長5年)9月15日の午前中は戦場で

  石田方西軍が優勢であったが、 石田方西軍の

  毛利軍が動かず(戦いを静観し)、石田方西軍

  の小早川秀秋が裏切り(内通し) 徳川方東軍に

  寝返り石田方西軍を攻撃して、 午後は戦場で

  石田方西軍が劣勢となり、石田方西軍が敗北し

  た。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 

#sekigaharawar-timeline

 

 「従来説(伝説) の

   関ヶ原の戦い」。

 

 ■ 「関ヶ原の戦い」前の状況、動向 

   (時系列表)。

 ● 1598年(慶長 3年)に、 

  (1)  8月18日  ○ 豊臣秀吉が死去する。

 ● 1599年(慶長 4年)に、 

  (1) 3月1 0日 ○ 石田三成が、近江国の

                 佐和山城で蟄居(ちっきょ)する。

 

 ● 1600年(慶長 5年)に、 

  (1)   6月18日 ○ 徳川家康が、伏見城を発ち、会津

                 遠征に向かう(を開始する)。

  (2)   7月11日 ○ 石田三成が、近江国の佐和山城で、

                 大谷吉継に家康討伐を打ち明ける。

  (3)   7月12日 ○ 石田三成が、近江国の佐和山城で、

                謀議(ぼうぎ)を行う。

  (4)   7月17日 ○ 毛利輝元が、豊臣大阪城に入る。

               ○ 「内府ちがひの条々」(ないふちが

                 いのじょうじょう、13か条)が、長束

                 正家・増田長盛・前田玄以の三奉行

                 名で、公布される。  その後、それ

                 が、全国の大名に送付される(出

                 回る)。

               ○ 石田三成や石田方西軍が挙兵する。

               ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

  (5)   7月19日 ○ 石田方西軍が、徳川方の伏見城

                 を攻撃する。

  (6)   7月25日 ○ 小山評定(おやまひょうじょう)。 

                    下野国の小山で、徳川家康が、

                 会津遠征の諸将を集め軍議を開き、

                 石田方の西軍を討つための西上を

                 決定する。

  (7)   8月 5日 ○ 徳川家康が、江戸城に戻る。

  (8)   8月10日 ○ 石田三成が、美濃国の大垣城(おお

                 がきじょう)に入る。

  (9)   8月23日 ○ 福島正則はじめ徳川方東軍の諸将

                 が、石田方西軍の拠点の1つの岐阜

                 城を攻撃し、1日で落城させる。

  (10)  8月26日 ○ 徳川方東軍が、美濃赤坂に集結す

                 る。

  (11)  9月 1日 ○ 徳川家康が、江戸城を出発し、上方

                 (かみがた)に向う。

  (12)  9月 3日 ○ 石田方西軍の大谷吉継が、山中村

                 宮上に布陣する。

  (13)  9月11日 ○ 徳川家康が、尾張の清州城に到着す

                 る。

                          ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

  (14)  9月13日 ○ 徳川家康が、尾張の清州城を出発する。

  (15)  9月14日 ○ 徳川家康が、13日に清州城を出た後、

                 14日の正午頃、美濃赤坂に到着する。

               ○ 島左近の率いる石田方西軍が、抗瀬

                 川の戦いで勝利する。

               ○ 石田方西軍の小早川秀秋が、14日に

                 松尾山の陣地の石田方西軍の軍勢を

                 押しのけて、松尾山に到着し、勝手に

                 占領し、松尾山に布陣する。

                   松尾山の陣地は、石田三成が石田

                 方西軍の毛利輝元のために用意した

                 陣地であった。

               ○ 石田三成や石田方西軍が、14日夜、

                 大垣城を出陣する。

               ○ 徳川家康や徳川方東軍が、14日夜、

                 美濃赤坂付近から出陣する。

 

 

 ◆ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」。

 

 ■ 「関ヶ原の戦い」の当日の状況、動向 

    (時系列表)。

 

  ● 1600年(慶長 5年)9月15日に、美濃国の関ヶ原盆地で。

  (1) 午前 5時頃 ○ 石田方西軍の全軍が、関ヶ原に布陣

                 完了。

  (2) 午前 6時頃 ○ 徳川方東軍の全軍が、関ヶ原に布陣

                 完了。

  (3) 午前 8時頃 ○ 霧が晴れて、徳川方東軍と石田方西

                 軍の両軍の戦闘開始。

                   徳川家康は、桃配山(ももくばり

                 やま)に布陣し、石田三成は、笹尾

                 山(ささおやま)に布陣し、石田方西

                 軍の小早川秀秋は、前日に、松尾山

                 (まつおやま)に布陣する。

                             ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

  (4) 午前10時頃 ○ 徳川家康が、本陣(陣地)を桃配 山

                 より陣場野(じんばの)に移す。

  (5) 正午頃     ○ 石田方西軍の小早川秀秋が、家康

                 の問鉄砲(といてっぽう)により、石田

                 方西軍を裏切り、松尾山より下山し、

                 石田方西軍の大谷隊を攻撃する。

  (6) 午後 1時頃 ○ 石田方西軍の脇坂(わきさか)ら4隊

                 も石田方西軍を裏切り、石田方西軍

                 を攻撃する。

  (7) 午後 2時頃 ○ 石田方西軍が総崩れとなり、敗走する。 

                            石田方西軍の石田三成隊が壊滅す

                 る。

               ○ 石田方西軍の島津隊が、敵中突破

                 を敢行する。   

               ○ 戦いの結果、徳川方の東軍が勝利を

                 得、石田方の西軍が敗北する。

                                ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

  (8) 午後 5時頃 ○ 徳川家康が、関ヶ原の陣場野(じんば

                 の)で、石田方西軍将士の首実検をし、

                 徳川方東軍の諸将を引見する。   

 

 

 ◆ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」。

 

 ■ 「関ヶ原の戦い」後の状況、動向 

   (時系列表)。

 

  ● 1600年(慶長 5年)に、 

  (1)  9月17日 ○ 徳川方東軍が、石田三成の近江国の

                 佐和山城を攻めて、落城させる。

  (2)  9月19日 ○ 徳川家康が、草津に入る。

              ○ 石田方西軍の小西行長が、息吹山山

                中で捕えられる。

  (3)  9月21日 ○ 石田三成が、古橋村 (現・滋賀県木

                之本町の相当地域)で徳川方東軍に

                捕えられる。

                             ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

  (4)  9月23日 ○ 石田方西軍の大垣城残留勢が、徳川

                方東軍に降伏し、大垣城が開城される。

              ○ 石田方西軍の安国寺 恵瓊(あんこく

                 じ えけい)が、京(都)で捕えられる。

  (5) 10月 1日 ○ 徳川家康は、石田方西軍の、石田三

                成、小西行長、安国寺 恵瓊の3人を、

                京(都)六条河原で処刑する。

 

 ● 1603年(慶長 8年)に、 

  (1)  2月12日 ○ 徳川家康は、 征夷大将軍となり、

                江戸幕府を開く。

 

 

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♪♪ 関ヶ原の戦いを描いた、

    興味深い関連ドキュメ

    ンタリー、ドラマ、映画。 

 

 ★ 関ヶ原の戦いが登場する、興味深

    い、ドキュメンタリー。

 

 ■ 諸説あり!関ヶ原の戦い

    スペシャル

   『 関ヶ原の戦いの真実 』 (2)。 

   (TBSテレビ・2018年1月6日・本放送・

    歴史ドキュメンタリー番組)。

 

  ■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦

    い)」 と 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」

    の2つの有力な説を詳細に述べる。

 

 

 ■ 諸説あり!

   『 関ヶ原の戦いの真実 』 (1)。 

   (TBSテレビ・2017年9月2日・本放送・

    歴史ドキュメンタリー番組)。

 

  ■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦

  い)」 と 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」

  の2つの有力な説を詳細に述べる。

 

 

 ■ 片岡愛之助の解明!歴史捜査  『

  『 石田三成・大谷吉継の勝算と

   徳川家康の誤算。 関ヶ原の戦

   いの勝敗を左右した謎のキーマ

   ンを追え! 』。 

   (日テレ・テレビ・2016年11月24日・

    本放送・歴史ドキュメンタリー番組)。

 

  ■ 「伝説従来説の関ヶ原の戦い」

     の詳細を述べる。

 

 

 ■ 英雄たちの選択 スペシャル

  『 両雄対決!石田三成 vs.

    徳川家康 選択の攻防が

    生んだ関ヶ原 』。

    (NHKテレビ・2014年7月31日・

     本放送・ドキュメンタリー番組)。

 

  ■ 「伝説従来説の関ヶ原の戦い」

     詳細に述べる。

 

 

 ■ 英雄たちの選択  

    『 徳川家康関ヶ原への

     ジレンマ 』。

     (NHKテレビ・2013年5月30日・

     本放送・ドキュメンタリー番組)。

 

  ■ 伝説従来説関が原の戦いで

    の徳川家康を述べる。

 

 

 ■ 名将の采配 『 徳川家康〜

    気迫が勝負を決めた謀略戦

    〜関ヶ原の戦い 』。

   (NHKテレビ・2010年7月19日・

    本放送・ドキュメンタリー番組)。

 

  ■ 伝説従来説関が原の戦いを

     詳細に述べる。

 

 

 ★ 関ヶ原の戦いを描いた、興味深い

    関連ドラマ、映画。 

 

  ● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

    歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

    と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

    また、 現代風にアレンジしてあります。

 

 ■ 『 軍師 官兵衛 (ぐんし かんべい) 』 。 

     (NHKテレビの2014年大河ドラマ)。 

 

  ■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

    江戸時代初期を描いたドラマ。

 

  ■ 1600年の天下分け目の戦いの、九州の戦い

    と従来説(伝説)関ヶ原の戦いを描く。

 

  ■ (E) 『 軍師 官兵衛 』 第47回「如水謀(は

     か)る」・2014年11月23日・本放送・NHKテ

     レビ・大河ドラマ。

    (E) 『 軍師 官兵衛 』 第48回「天下動乱」・

     2014年11月30日・本放送・NHKテレビ・

     大河ドラマ。

    (E) 『 軍師 官兵衛 』 第49回「 如水最後

     の勝負」・2014年12月7日・本放送・NHK

     テレビ・大河ドラマ。  

    (E) 『 軍師 官兵衛 』 第50回「 乱世ここに

     終わる」(最終回)・2014年12月21日・

     本放送・NHKテレビ・大河ドラマ。  

 

 

 ■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』。 

     (NHKテレビの2011年大河ドラマ) 

 

  ■ (E) 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』

    第35回「幻の関ヶ原」・2011年9月11

    日・本放送・NHKテレビ・大河ドラマ。

 

  ■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

    江戸時代初期を描く。

 

  ■ 従来説(伝説)関ヶ原の戦いを描く。

 

 

 ■ 『 ウオリアーズ I、II、III 』。  

     (2008年イギリス映画、 BBC&

     ドキュメンタリーチャンネル共同制作)。

 

  ■ 『 ウオリアーズ I 』 (ウオリアーズ・

     歴史を動かした男たち・第1章)。

     「徳川家康 − 決戦!関ヶ原。  

      コルテス −アステカの最後。」

 

  ■ 従来説(伝説)関ヶ原の戦いを描く。

 

 

 ■ 『 戦国自衛隊 関が原の戦い 

     (せんごくじえいたい せきがはら

      のたたかい) 』 。 

     (日本テレビ・2006年制作テレビ

     ドラマ)。

 

  ■ 従来説(伝説)関ヶ原の戦いを描く。

  ● 反町隆史(伊庭明義隊長役)、 渡部篤

  郎(嶋村拓也隊長役)、佐藤江梨子(深

  見萌・伊庭隊員役)、 辺見えみり(直井

  瑤子・嶋村隊員役)、 藤原竜也(小早

  川秀秋役)、 津川雅彦(徳川家康役)、 

  竹中直人 (石田三成役)、 松方弘樹

  (島左近役)、 秋吉久美子(淀君(淀の

  方)役)、 荻野目慶子(阿茶局役)、 

  長門裕之(本田正信役)、 古手川祐子

  (高台院(ねね)役)、 六平直政(大谷

  吉継役)、 河原さぶ(島津義弘役)、 

  松澤一之(毛利輝元役)、 大沢樹生(宇

  喜多秀家役) など出演。

 

 

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#sekigaharawar-thehappenings

 

◆ 関ヶ原の戦い(従来説(伝説)

   の関ヶ原の戦い)関連出来事

  (年代順・詳細)。

 

 

 ◆ 「従来説(伝説)の関ヶ原の戦い」。

 

    ■ ここでは、「従来説(伝説)の関ヶ原の

      戦い」を述べ、 一次史料に基づく史実の

           「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)

      と異なる箇所は、その「新説関ヶ原の戦い」

      も追加併記した。

 

     「伝説(従来説)の関ヶ原の戦い」は、

    後世の創作であり、信憑性(しんぴょうせ

    い)がない。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)の、「関ヶ原の

    戦い」の決戦前の状況、動向。

 

 ■ 1598年(慶長3年)。

 

  ■ 1598年(慶長 3年)8月18日に、豊臣秀吉

    が死去する。 

 

 

 ■ 1599年(慶長4年)。

 

  ■ 1599年(慶長4年)3月1 0日に石田三成が、

   近江国の佐和山城で蟄居(ちっきょ)する。

                

 

 ■ 1600年(慶長5年)。

 

  ■ 1600年(慶長5年)に、徳川家康は、 

  会津・上杉討伐 以前に、反徳川勢力の石田方

  との戦いに備えて、 多くの大名に、徳川氏の

  味方になるように、多くの手紙を書く。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

  ◆ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」。

  ■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

  では、 1600年(慶長5年)に、徳川家康は、 

  会津・上杉討伐 以前に、反徳川勢力の奉行衆

  毛利方との戦いに備えて、 多くの大名に、

  徳川氏の味方になるように、多くの手紙を書く。

  

 

 ■ 1600年(慶長5年)6月。

 

  ■ 1600年(慶長5年)6月18日に、  徳川家康

   が、伏見城を発ち、会津遠征に向かう(を開始

   する)。

 

  ● 1600年(慶長5年)6月に、豊臣家五大老

   1人・徳川家康は、 会津・上杉討伐を実施する。 

      石田方と反目する多くの豊臣恩顧(おん

   こ)の大名が家康に付き従って、会津・上杉討

   伐の軍に加わって、大阪城から出陣した。

 

 

  ◆ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」。

  ■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」で

   は、 1600年(慶長5年)6月に、豊臣家

   大老の1人・徳川家康は、 会津・上杉討伐を

   実施する。 

      奉行衆・毛利方と反目する多くの豊臣恩

   顧(おんこ)の大名が家康に付き従って、会津・

   上杉討伐の軍に加わって、大阪 城から出陣し

   た。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)7月。

 

  ■ 1600年(慶長5年)7月11日 頃に、石田三成

  (いしだみつなり)が、 近江国の佐和山城(さわ

  やまじょう)で、来訪した大谷吉継(おおたによ

  しつぐ)に、徳川家康討伐を打ち明け、説得して、

  大谷吉継は、石田方に加わる。

 

  ● 1600年(慶長5年)7月12日頃以降、石田方

  の石田三成が、近江国の佐和山城で、大谷吉

  と 計略をめぐらす。

 

 

  ◆ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」。

  ■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」で

  は、 1600年(慶長5年)7月11日頃に、奉行

  ・ 毛利大谷吉継(おおたによしつぐ))が、 

  近江国の佐和山城(さわやまじょう)を来訪し、 

  徳川家康討伐を打ち明け、石田三成を説得して、

  石田三成は、奉行衆・毛利に加わる。

 

  ● 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

  では、 1600年(慶長5年)7月12日頃以降、 

  奉行衆・毛利大谷吉継が、 近江国の佐

  和山城で、石田三成計略をめぐらす。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)7月17日。

 

  ■ 1600年(慶長5年)7月17日に、  石田方の

  毛利輝元( もうりてるもと)が、豊臣大阪城に入

  る。

 

  ■ 1600年(慶長5年)7月17日に、「内府ちがひの

  条々」(ないふちがいのじょうじょう、13か条)が、

  石田方の長束正家・増田長盛・前田玄以三奉行

  名で、公布される。  

     その後、それが、全国の大名に送付される

  (出回る)。

     徳川家康は、この時点から、公儀上、豊臣氏

  の敵となる。

 

  ■ 1600年(慶長5年)7月17日に、 石田三成や

  石田方の西軍が、徳川方の東軍に対して、挙兵

  する。

 

  ■ 石田方の西軍の中心人物は、石田三成である。

  一方、徳川方の東軍の中心人物は、徳川家康

  である。

 

 

  ◆ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」。

  ■ 「新説の関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

  では、 1600年(慶長5年)7月17日に、奉行

  ・毛利毛利輝元( もうりてるもと)が、

  豊臣大阪城に入る。

 

  ■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」で

  は、 1600年(慶長5年)7月17日に、「内府ち

  がひの条々」(ないふちがいのじょうじょう、13

  か条)が、 奉行衆・毛利の 長束正家・増田

  長盛・前田玄以三奉行名で、公布される。  

     その後、それが、全国の大名に送付され

  る(出回る)。

     徳川家康は、この時点から、公儀上、豊臣

  氏の敵となる。

 

  ■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」で

  は、 1600年(慶長5年)7月17日に、奉行衆

  毛利の西軍が、徳川方の東軍に対して、挙

  兵する。

 

  ■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」で

  は、 奉行衆・ 毛利の西軍の中心人物は、 

  奉行衆3人(増田長盛、長束正家、前田玄以)

   毛利輝元である。 一方、徳川方の東軍の中心

  人物は、徳川家康である。

      奉行衆3人とは、 五奉行の中の3人で

   あり、増田長盛 (ましたながもり)、 長束正 

   家(なつかまさいえ)、 前田玄以 (まえだげ

   んい) である。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)7月19日。

 

  ■ 1600年(慶長5年)7月19日に、石田方の西

   軍が、 徳川方の東軍の伏見城を攻撃する。

 

 

  ◆ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」。

  ■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」で

  は、 1600年(慶長5年)7月19日に、奉行衆

  毛利の西軍が、徳川方の東軍の伏見城を攻

  撃する。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)7月25日。

 

  ■ 1600年(慶長5年)7月25日 に、徳川方東軍

  にて、小山評定(おやまひょうじょう)が開かれ

  る。 

 

  ● 1600年(慶長5年)7月25日に、下野国  (し

  もつけのくに、現・栃木県の相当地域)の小山

  (おやま)で、 徳川家康が、会津遠征の諸将

  を集め軍議を開き、石田方西軍を討つための

  西上を決定する。

 

  ● 1600年7月に、会津・上杉領手前の下野国 (し

  もつけ、現・栃木県相当地域)の小山(おやま)で、 

  大阪での石田三成の石田方西軍 の挙兵 を知り、 

  徳川家康は、小山評定(おやまひょうじょう)を開

  き、会津・上杉討伐を中止し、 石田三成に反感

  をもつ、家康に付き従った豊臣恩顧(おんこ)の

  大名の家康への味方を再確認して、徳川方東軍

  を結成し、 軍を返して、上方(かみがた、関西)

  へ向かうこととなった。

 

  ■ 小山評定後、 徳川家康は、徳川氏の軍を、旗

  本防衛部隊と主力攻撃部隊の二手に分け、 先

  に、徳川秀忠の率いる徳川氏主力攻撃部隊(精

  鋭部隊)・約3万8000人を石田方の北方の 上

  杉氏に備えながら、東山道(とうさんどう、中 山

  道(なかせんどう))経由で、 徳川氏領地の関

  東地方の脅威となる石田方の真田氏討伐に向

  わせた。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)8月5日。

 

  ■ 1600年(慶長5年)8月5日に、徳川家康が、

  江戸城に戻る。

 

  ● 1600年(慶長5年)8月5日に、徳川家康は、

  徳川氏旗本防衛部隊と共に、一旦、江戸城に

  戻った。

 

  ● 1600年(慶長5年)8月5日に、江戸に戻った

   徳川家康は、 先に西上している家康に付き

   従った徳川方東軍の豊臣恩顧(おんこ)の諸

   将・大名の動向を注視していた。

      というのも、小山評定(おやまひょうじょう)

   の時点で、石田方西軍の「内府ちがひの条々」

   や石田方西軍が集めた約10万人の大軍勢の

   規模を、徳川家 康や家康に付き従った徳川方

   東軍の豊臣恩顧の諸将・大名は、詳しく知ら

   なかった。

      徳川家康に付き従った徳川方東軍の

   臣恩顧の諸将・大名が家康に味方すると約束

   した、小山評定後、徳川方東軍の豊臣恩顧  

   の諸将・大名が、家康を批判する「内府ちが

   ひの条々」  や 石田方西軍が約10万人も

   の兵を集めたことを知り、徳川方東軍の豊臣

   恩顧の諸将・大名が家康を裏切るのではな

   いかと徳川家康は、恐れていたためである。

      小山評定後、 石田方西軍の豊臣氏三

   奉行の名で公布され た「内府 ちがひの条

   々」(ないふちがいのじょうじょう)が、 徳川

   方東軍の豊臣恩顧の諸将・大名に詳しく伝

   わり、 徳川家康に正当性がないと主張する

   のではないかと家康は案じていた。 徳川家

   康は、小山評定で味方となった徳川方東軍

   の豊臣恩顧の諸将大名の裏切りを恐れるよ

   うになった。

 

  ● 徳川家康は、家康に付き従った徳川方東軍の

   豊臣恩顧の諸将・大名が西上して石田方 西軍

   と実際に本当に戦うのか疑い、これを見極め

   るため、 先に、家康に付き従った徳川方東軍

   の豊臣恩顧の諸将・大名の軍を西方に向かわ

   せ、 徳川家康は、江戸城に約1ヶ月 ほど留ま

   り、情勢をみながら、100通以上の書状を全国

   の諸大名に送った。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)8月10日。

 

  ■ 1600年(慶長5年)8月10日に 、石田三成と

   石田方西軍が、 美濃国(みののくに、現・ 岐阜

   県南部の相当地域)の大垣城(おおがきじょう)

   に入る。

 

  ● 石田三成は、 徳川方東軍との長期戦に備え、

   徳川方東軍を美濃国 (みののくに、現・岐阜

   県南部の相当地域) で待ち構え、 大垣城(お

   おがきじょう)を石田方西軍の美濃 国の本拠

   地とし、 佐和山城・豊臣大阪城方面へ行く東

   山道(中山道)を守る拠点として、 南宮山(な

   んぐうさん)に、石田方西軍の毛利秀元の軍を

   布陣させ、 更に、松尾山(まつおやま)に、

   田方西軍の毛利輝元の軍を布陣させる予定

   であった。 しかし、石田方西軍の毛利輝元は、

   豊臣大坂城を動かなかった。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)8月。

 

  ■ 1600年(慶長5年)8月に、徳川家康と小山(お

   やま)で分かれ西上した福島正則(ふくしままさ

   のり)はじめ徳川方東軍の豊臣恩顧の諸将・大

   名は、 尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部

   の相当地域)の福島正則の居城・清須城(きよ

   すじょう)に集結し、徳川家康の出陣を待ちわ

   びていた。

      江戸城にいる徳川家康は、尾張にいる徳

   川方東軍の豊臣恩顧の諸将・大名に、美濃(み

   の、現・岐阜県南部)の石田方西軍を攻撃する

   ように促す。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)8月23日。

 

  ■ 1600年(慶長5年)8月23日に 、福島正則は

   じめ徳川方東軍の豊臣恩顧の諸将・大名が、 

   石田方西軍の美濃の拠点の1つの岐阜城(ぎ

   ふじょう)を攻撃し、1日で落城させる。

                 

 

 ■ 1600年(慶長5年)8月26日。

 

  ■ 1600年(慶長5年)8月26日に、福島正則は

   じめ徳川方東軍の豊臣恩顧の諸将・大名が、 

   石田方西軍の美濃の本拠地・大垣城に近い、

   美濃赤坂(みのあかさか)付近に集結する。

      その後、徳川方東軍の豊臣恩顧の諸将・

   大名は、 石 田方西軍の美濃の本拠地の

   大垣城の駐留軍を攻撃し、大垣城攻防戦を

   行っていたが、 9月7日に大垣城の西方の

   南宮山(なんぐうさん)に、石田方西軍の毛

   利秀元(もうりひでもと)が率いる毛利勢が

   布陣する。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)9月1日。

  ■ 1600年(慶長5年)9月1日に、徳川家康が、江

  戸城を出発し、上方(かみがた)に向う。

 

  ● 石田方西軍の拠点の1つの岐阜城攻略などで、

  西上した豊臣恩顧の徳川方東軍の諸将が石田

  方の西軍と実際に戦う気があり自分を裏切らな

  いと知ると、 徳川家康は、慌てて、徳川氏旗本

  防衛部隊・約3万人と共に、江戸城を出発し、 

  一方、真田氏討伐に向った徳川氏主力攻撃部

  隊に、東山 道(中山道)経由で上方(かみがた)

  へ向うように伝令を送った。

 

  ● 美濃国 (みののくに、現・岐阜県南部の相当地

  域)で、豊臣恩顧の徳川方東軍の諸将 は、 岐阜

  城攻略・落城後、 石田方の西軍の美濃の本拠

  地の大垣城(おおがきじょう)に近い美濃赤坂(み

  のあかさか)付近に布陣し総大将の家康の到着

  を待たず、石田方西軍と決戦を始める勢いを 知

  り、家康は、慌てて、1600年(慶長5年)9月1日

  に、徳川家康 の率いる徳川氏旗本防衛部隊・約

  3万人と共に、江戸城を 出発し、東海道を通り、

  尾張・美濃へ向かった。 

     家康の江戸城出陣時、 家康は、真田氏討

  伐に向かった秀忠の徳川氏主力攻撃部隊・約3

  万8000人に、「真田氏 討伐をやめ、一刻も早く

  東山道(中山道)経由で尾張・美濃に向かい二手

  に分かれた徳川氏の軍は尾張・美濃あたりで

  合流する」という家康の伝達の使者を送った。 

  しかし、使者は、利根川の洪水に阻まれて、伝達

  が遅れた。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)9月3日。

  ■ 1600年(慶長5年)9月3日に、石田方の西軍

  の大谷吉継が、山中村宮上に布陣する。

 

 

  ◆ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」。

  ● 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」で

  は、 1600年(慶長5年)9月14日夜に、西軍

  (奉行衆・毛利方)の大谷吉継が、関ヶ原盆地

  南西部にに布陣する。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)9月11日。

  ■ 1600年(慶長5年)9月11日に、  徳川方東軍

   の、徳川家康が、尾張の清州城に到着する。

   

  ● 徳川家康は、1600年9月11日に、尾張の清州

  城に到着しだが、そこで、徳川家康は、徳川秀忠

  の 率いる徳川氏主力攻撃部隊・約3万8000人を

  待ったが、なかなか来なかった。 

     というのも、「真田氏討伐をやめ、一刻も早く

  東山道(中山道)経由で尾張・美濃に向かい二手

  に分かれた徳川氏の軍は尾張・美濃あたりで合

  流する」という家康の伝達の使者が、秀忠の徳川

  氏主力攻撃隊に着くのが遅れ、秀忠の徳川氏主

  力攻撃隊は、使者の伝達を知るや、真田城攻撃

  を中止して急いで尾張・美濃に向い、遅れていた

  ためである。

      既に、豊臣恩顧の徳川方東軍の諸将は、 

  美濃赤坂付近で、 石田三成のいる石田方の

  西軍の大垣城の駐留軍と対峙(たいじ)していた。 

     もし、秀忠の徳川氏主力攻撃部隊・約3万

  8000人を待っているうちに、石田三成豊臣秀

  を出馬させれば、 家康に付 き従った豊臣恩

  顧の徳川方東軍の諸将の裏切りが多く出て、軍

  事力で不利になることを、徳川家康は、非常に

  恐れた。

     また、徳川家康は、 石田方の西軍の毛利

  輝元が豊臣大坂城から出て美濃に出陣する前に、 

  また、美濃にいる石田方の西軍に更に上方から

  戦いの天才・立花宗茂(たちばなむねしげ)など

  の援軍が加わる前に (上方の大津城で徳川方の

  京極高次が石田方西軍の一部を引き寄せて戦っ

  ているが落城しそうで大津城落城後その 石田

  方の西軍の援軍が美濃に到着する前に)、 美濃

  で、石田三成の石田方西と戦って決定的な勝

  利を得る必要に迫られた。 

     しかし、徳川 氏主力攻撃部隊を待たず、家

  康に付き従った豊臣恩顧の諸将中心の徳川方東

  軍が、 石田方西軍と戦って勝てば、戦後処理で、 

  家康に付き従った豊臣恩顧の徳川方 の東軍の

  諸将の多くに領地などの恩賞を与えねばならず、

  戦後処理を考えれば、徳川氏にとって不完全な勝

  利となる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)9月13日。

  ■ 1600年(慶長5年)9月13日に、徳川方東軍の

   徳川家康が、尾張の清州城を出発する。

 

  ● 徳川方東軍の、徳川家康は、 徳川氏旗本防衛

  部隊・約3万人 と 徳川方東軍の 家康に付き従

  った豊臣恩顧の諸将大名・約4万人の計・約7万

  人の徳川方東軍で、 美濃国(みののくに、現・

  岐阜県南部の相当地域)で、 約8万人の石田

  方西軍と決戦をする決意を固めた。 

      1600年9月13日に、徳川方東軍の、

  川家康は、徳川 秀忠の率いる徳川氏主力攻撃

  部隊・約3万8000人を待たず、尾張の清州城

  を出て、 9月14日の正午頃に、徳川方東軍の

  集結する、美濃赤坂付近に到着する。

 

 

 ◆ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中

    の戦い)」。

  ■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」で

  は、 1600年(慶長5年)9月13日に、徳川家

  康が、 尾張の清州城を出発する。

 

  ■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」で

  は、 徳川家康は、 徳川本隊  (約3万2000

  人、徳川家康、井伊直政、本多忠勝、家康馬廻

  り衆等の軍) と  東軍(徳川方)の徳川方先手

  勢の豊臣恩顧大名の福島勢・池田勢の軍(計約

  4万人)の総計・約7万2000人の東軍(徳川方)

  で、 美濃国(みののくに、現・岐阜県南部の相

  当地域)で、 約5万4000人の西軍(奉行衆・毛

  利方)と決戦をする決意を固めた。 

      1600年9月13日に、徳川家康は、徳川

  秀忠の率いる徳川氏別動隊(主力攻撃部隊)・

  約3万8000人を待たず、尾張の清州城を出て、 

  9月14日の正午頃に、徳川方の東軍の集結す

  る、美濃赤坂付近に到着する。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)9月14日。

  ■ 1600年(慶長5年)9月14日に、石田方西軍

  の小早川秀秋が、松尾山の陣地の石田方西

  軍の軍勢を押しのけて、松尾山に到着し、勝手

  に松尾山を占領し、松尾山山頂に布陣する。

     松尾山の陣地は、石田方西軍が、石田

  方西軍の毛利輝元のために用意した陣地であ

  った。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ◆ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中

    の戦い)」。

  ■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

  では、 1600年(慶長5年)9月14日に、西軍

  (奉行衆・毛利方)の小早川秀秋が、松尾山の

  陣地の西軍(奉行衆・毛利方)を押しのけて、

  松尾山に到着し、勝手に松尾山を占領し、松尾

  山山麓に布陣する。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)9月14日昼間。

  ■ 1600年(慶長5年)9月14日に、徳川方東軍

   の徳川家康が、9月13日に清州城を出た後、

   9月14日の正午頃、美濃赤坂付近に到着す

   る。

 

  ■ 1600年(慶長5年)9月14日に、徳川家康は、 

  徳川方東軍に内通し毛利秀元軍の先鋒隊で南

  宮山の下山道を押さえる、石田方の西軍の吉

  川広家に、 石田方の西軍の毛利秀元の南宮

  山下山・徳川方東軍攻撃を阻(はば)み、毛利

  秀元を戦いで静観させるように要請した。 

      徳川家康は、事前に、黒田長政の仲介

  で、南宮山(なんぐうさん)に布陣する石田方

  の西軍の吉川広家(きっかわひろいえ、1561

  −1625年)を調略し、吉川広家に毛利氏本家

  領国安堵の徳川氏の起請文(きしょうもん)を

  渡し、内通させていた。

 

 

 ◆ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山

    中の戦い)」。

  ■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

  では、 9月14日の昼間、西軍(奉行 衆・毛

  利方)の南宮山 東側布陣の毛利勢 (約1万

  3000人)は、大垣付近にいる 東軍(家康方)

  合計・約7万2000人の大軍に恐れをなして

  戦わず。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)9月14日昼間。

  ■ 1600年(慶長5年)9月14日に、島左近の率

  いる 石田方西軍が、抗瀬川の戦いで徳川方

  東軍に勝利する。

       徳川方東軍の中の徳川本隊と石田方

   西軍の大垣垣城籠城勢(駐留軍)の中の石田

   隊が 抗瀬川付近で戦い、石田方西軍の島左

   近の率いる石田隊が勝つ。

 

 

  ◆ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」。

  ■ 「新説の関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

  では、1600年(慶長5年)9月14日に、

  美濃赤坂付近に集結した西軍(奉行衆・毛利

  方)の徳川本隊(約3万2000人)や徳川方先

  手勢(約4万人) と、 大垣城籠城勢(約3万

  3500人)や南宮山の毛利勢(約1万3000人)

  との間で、小競り合いがあった。 

     しかし、その一部が、抗瀬川の戦いであ

  ったかどうかは不明である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

  

   

 ■ 1600年(慶長5年)9月14日の夜。

 

  ■ 1600年(慶長5年)9月14日夜に、徳川家康 と

   徳川方の東軍は、美濃赤坂付近から出陣し、

   関ヶ原盆地方面に移動する。

 

  ■ 1600年(慶長5年)9月14日 夜に、石田三成

  や石田方の西軍の大垣城の駐留軍が、大垣城

  から出陣する。

 

  ■ 1600年(慶長5年)9月14日 夜に徳川方東軍

  の主力軍が、西方の関ヶ原方面に移動したのを

  石田方西軍は知り、9月14日 夜に、石田方西軍

  の主力軍は、大垣城を出て、徳川方東軍の主力

  軍を追って、西方の関ヶ原方面に移動する。

 

  ■ 徳川家康は、 徳川方の東軍が大垣城に駐留

  する石田方の西軍を無視して佐和山城攻めのた

  め、佐和山城・豊臣大坂城方面に向かう動きを

  見せれば、 慌てて石田方 の西軍が大垣城から

  出てきて 美濃で家康の得意な野戦で戦えると考

  え、 家康は、1600年(慶長5年)9月14日の夜

  に、徳川方東軍に出撃を命じ、 徳川方東軍

  主力軍を佐和山城・豊臣大坂城方面へ向かわせ

  た。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 長期戦を考え、大垣城に駐留していた、石田三

  成は、 1600年(慶長5年)9月14日の正午頃

  に大垣城より北方4kmの美濃赤坂付近に家康

  が到着し、更に徳川方の東軍が上方の佐和山

  城・豊臣大坂城方面に向かう動きを見せたので、 

  また、裏切りそうな石 田方西軍の小早川秀秋が

  9月14日に松尾山の陣地の石田方の西軍の

  軍勢を押しのけて、松尾山に到着し、勝手に占

  領し、松尾山に布陣したので、 三成は、佐和

  山城・豊臣大坂城方面へ向う徳川方の東軍を

  阻止するため、また、佐和山城・豊臣大坂城方

  面へ向う東山道(中山道)を守る拠点の松尾山

  が失われると考え、小早川の謀反を抑えるため、 

  三成は、9月14日の夜に、慌(あわ)てて、大垣

  城を出て、関ヶ原の西部に、石田方の西軍を集

  結させ、鶴翼の陣(かくよくのじん)で布陣する。

 

 

 ◆ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中

     の戦い)」。

 

  ■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

   では、1600年(慶長5年)9月14日 夜に、東

   軍(徳川方)の徳川家康と徳川本隊 (約3万

   2000人) や 徳川方先手勢の福島勢の軍 

   (約1万9000人)は、 大垣付近の美濃赤坂

   から出陣し、関ヶ原盆地・山中方面に移動

   る。

 

  ■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

   では、 1600年(慶長5年)9月14日 夜に、

   西軍(奉行衆・毛利方) の小西・宇喜多・石田・

   島津勢等の軍(約3万人)は、大垣付近の大

   垣城を出て、 関ヶ原盆地・山中方面に移動

   する。

 

  ■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」

   では、 1600年(慶長5年)9月14日 夜に奉

   行衆・毛利方西軍の主力軍が西方の関ヶ原

   山中方面に移動したのを徳川方東軍は知り、

   徳川方東軍の主力軍は、奉行衆・毛利方西

   軍の主力軍を追って、西方の関ヶ原・山中

   面に移動する。

 

  ■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」で

   は、 9月15日以降に予想される南宮山の

   毛利勢への東軍(徳川方)の攻撃に備えて、

   南宮山の毛利勢後詰軍(後援軍)として西軍

   (奉行衆・毛利方)の大垣城の大部分の軍は

   9月14日の夜に関ヶ原盆地・山中方面に移動

   したのを東軍(徳川方)は知り、 9月14日夜

   に、 東軍(徳川方)の主力軍は、 西軍(奉行

   衆・毛利方)の主力軍を追って、関ヶ原盆地・

   山中方面に移動する。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)の、「関ヶ原の

     戦い」の決戦時の状況、動向。

 

 ■ 1600年(慶長5年)9月1 5日朝。

  ■ 石田方西軍の主力軍や徳川方東軍の主力軍は、

  1600年(慶長5年)9月1 5日の朝に、関ヶ原盆

  地に到着する。

 

  ■ 1600年(慶長5年)9月15日午前5時頃、美

  濃国(みののくに、現・岐阜県南部の相当地域) 

  の関ヶ原盆地、 石田方の西軍の全軍が、

  関ヶ原盆地の西部での布陣を完了する。

 

  ■ 1600年(慶長5年)9月15日午前6時頃、

  濃国の関ヶ原盆地で、徳川方東軍 の全軍が、

  関ヶ原盆地の東部での布陣を完了する。

 

  ■ 石田方の西軍は、大垣城から出て、1600年

   (慶長5年)9月15日午前5時頃までに、美濃

   国(みののくに)の関 ヶ原盆地の西部に全軍

   到着し、 石田三成は、裏切りそうな松尾山の

   石田方西軍の小早川秀秋を監視しながら、関

   ヶ原盆地の西部に石田方 の西軍を配置し、集

   結させた。 

      一方、 佐和山城・豊臣大坂城方面へ向

   おうとしていた、徳川方東軍も、9月15日午前

   6時頃までに、美濃の関ヶ原の東部に全軍到

   着し、 徳川家康は、関ヶ原の東部に徳川方の

   東軍を配置し、集結させた。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ◆ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中

    の戦い)」。

 

  ■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」で

  は、 東軍(徳川方)や西軍(奉行衆・毛利方)

  は、 1600年(慶長5年)9月15日の朝に、関

  ヶ原盆地南西部や山中(やまなか)に到着する。

 

  ● 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」で

   は、 山中の戦いでは、最初に、 決戦前に、関

   ヶ原盆地南西部で、16 00年(慶長5年)9月

   15日の夜明けに、大垣付近から移動してきた

   東軍(徳川方)の徳川本隊 や 既に松尾山山

   麓に布陣する西軍から東軍に 寝返った小早

   川軍 と、 既に関ヶ原盆地南西部に布陣 する

   西軍(奉行衆・毛利方)の大谷軍 との間で合

   戦が行われる。 結果は、大谷軍が全滅する。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)9月15日昼間

    の「関ヶ原の戦い」の決戦。

 

  ■ 関ヶ原の戦いの決戦は、主戦場の関ヶ原盆地

  であり、 1600年(慶長5年)9月15日の午前

  8時頃から午後2時頃まで、 徳川方東軍と石

  田方西軍との間で行われ た。 戦いの結 果、

  徳川方の東軍が勝利を得る。

 

  ■ 1600年(慶長5年)9月15日午前8時頃、美濃国

  の関ヶ原で、  徳川方東軍と石田方西軍の両軍が、

  戦闘を開始する。

      徳川方の東軍を率いる徳川家康は、桃配山

  (ももくばりやま、関ヶ原の家康の第1陣地)に布陣

  し、 石田方西軍を率いる石田三成は、笹尾山(さ

  さおやま)に布陣し、 石田方の西軍の小早川秀秋

  (こばやかわひであき)は、松尾山(まつおやま)に

  布陣する。

                 

  ■ 1600年(慶長5年)9月15日午前10時頃、美濃

  国の関ヶ原で、徳川方 の東軍を率いる徳川家康が、

  本陣(陣地)を桃配山より陣場野(じんばの)に移す。

                 

  ■ 1600年(慶長5年)9月15日正午頃、美濃国の関 

  ヶ原で、石田方の西軍の小早川秀秋が、徳川家康

  の問鉄砲(といてっぽう)により、石田方の西軍を裏

  切り、松尾山より下山し、石田方の西軍の大谷隊を

  攻撃する。

 

  ■ 1600年(慶長5年)9月15日午後1時頃、美濃国

  の関ヶ原で、 石田方 の西軍の脇坂(わきさか)ら

  4隊も石田方西軍を裏切り、石田方の西軍を攻撃

  する。

                 

  ■ 1600年(慶長5年)9月15日午後2時頃、美濃国

  の関ヶ原で、 石田方 の西軍は、総崩れとなり、敗

  走し、敗戦する。

     石田方の西軍の石田三成隊が壊滅する。

      徳川方の東軍が石田方の西軍に勝利を得る。                      

 

  ■ 1600年(慶長5年)9月15日午後2時頃、美濃

  国の関ヶ原で、 石田方 の西軍の島津隊が、

  敵中突破を敢行する。   

 

  ■ 1600年(慶長5年)9月15日午後5時頃、 美

  濃国の関ヶ原で、 徳川方 の東軍を率いる徳川

  家康が、陣場野(じんばの、関ヶ原の家康の第

  2陣地)で、石田方西軍将士の首実検をし、徳

  川方東軍の諸将を引見する。   

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 1600年(慶長5年)9月15日に、美濃国 (みの

  のくに、現・岐阜県南部の相当地域)の関が原で、 

  徳川方の東軍と石田方 の西軍 が 対峙(たいじ)

  し、「関が原の戦い」が始まった。 

      9月15日の当日の午前8時頃開戦し、 

  当日の午前中は、石田方西軍が優勢であった。 

  石田方の西軍の中 で、馬坊柵、大筒(おおづつ、

  大砲)、脱走兵の出ない強いきずなの家臣団を

  もつ、石田三成隊は、善戦した。

      しかし、9月15日の当日の午後は、 戦

  争中の石田方西軍の毛利軍の静観 や 正午

  頃の石田方西軍の早川秀秋の裏切り (寝返

  り)で、 徳川方の東軍が優勢となり、 午後 2時

  頃には、最終的に、徳川方の東軍が決定 的な勝

  利を得て、 戦いは当日1日で決着がついた。

     石田方の西軍の小早川秀秋は、黒田長政の

  仲介で、家康と内通し、徳川方の東軍に寝返るこ

  とを約束していたが、 石田三成から「豊臣秀頼

  が15歳になるまで小早川殿を関白職に就かせ

  る」という条件も受けていたので、東西両軍のど

  ちらを攻めるべきか迷っていた。 石田方西軍の

  小早川秀秋は、関ヶ原が一望できる松尾山で、

  初めは戦いを静観し、途中で戦いが優勢になっ

  た方に味方し、劣勢な方を攻撃し、勝者となろう

  と考えていたと推測される。 しかし、当日の正

  午頃、業を煮やし怒った家康から突然、問鉄砲

  (といてっぽう、攻撃催促の鉄砲)が松尾山の

  本陣に撃ち込まれ、小早川秀秋は、動転し、

  徳川方の東軍に味方する、秀秋の重臣の稲葉

  正成(いなばまさなり、お福(春日局)の夫) な

  どに促されて、小早川秀秋は、 東軍の家康方

  に味方することを決断し、松尾山を下りて、

  石田方の西軍を攻め出し、 徳川方東軍は、

  優勢となり、戦いで勝利を得た。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ◆ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中

    の戦い)」。

 

  ■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」では、

   関ヶ原の戦いの決戦は、主戦場は山中であり、 

   1600年(慶長5年)9月15日の午前10時頃

   から正午頃まで、 徳川方の東軍と奉行衆・毛

   利方の西軍との間で行われ た。 戦いの結果、

   徳川方の東軍が勝利を得る。

 

  ■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」で、

   関ヶ原の戦いの決戦では、 関が原盆地の

   西方向・約2kmにある山中(やまなか)で

   午前10時頃から正午頃まで、 大垣 付近か

   ら移動してきた東軍(徳川方)の徳川方先手勢 

   の福島勢 や 徳川本隊 と、 大垣付近の大

   垣城から移動して来た西軍(奉行衆・毛利方)

   の小西・宇喜多・石田・島津勢等の軍 とが戦

   った。 結果は、西軍(奉行衆・毛利方)の小西・

   宇喜多・石田・島津勢等の軍は、総崩れとなり

   敗走し、敗北し、徳川方の東軍が勝利を得る。

 

  ■ 「新説関ヶ原の戦い(= 大垣・山中の戦い)」で、

   関ヶ原の戦いの決戦では、 関が原盆地の

   西方向・約2kmにある山中(やまなか)で

   午前10時頃から正午頃まで、 大垣付近から

   移動してきた東軍(徳川方)の徳川方先手勢

   の福島勢 (約1万9000人、福島・黒田・細川・

   藤堂・筒井・田中・加藤嘉明・京極高知等) や 

   徳川本隊 (約3万2000人、徳川家康、井伊

   直政、本多忠勝、家康馬廻り衆等の軍) の

   計5万1000人の兵の軍 と、 大垣付近の大

   垣城から移動して来た西軍(奉行衆・毛利方)

   の小西・宇喜多・石田・島津勢等の約3万人 の

   兵の 軍とが争った戦いである。 

      結果は、西軍(奉行衆・毛利方)の小西・

   宇喜多・石田・島津勢等の軍は、総崩れとなり

   敗走し、敗北し、徳川方の東軍が勝利を得る。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)の、「関ヶ原の戦

   い」の決戦後の状況、動向。

 

 ■ 1600年(慶長5年)9月17日。

  ■ 1600年(慶長5年)9月17日に、徳川方東軍

   が、 石田方西軍の近江国の石田三成の佐和

   山城を攻めて、落城させる。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)9月19日。

  ■ 1600年(慶長5年)9月19日に、徳川方東軍

  の、徳川家康が、草津に入る。

 

  ■ 1600年(慶長5年)9月19日に、石田方西軍

  の小西行長が、息吹山山中で捕えられる。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)9月21日。

  ■ 1600年(慶長5年)9月21日に、石田方西軍

  の石田三成が、 古橋村 (現・滋賀県木之本町

  の相当地域)で、徳川方東軍に捕えられる。

                

 

 ■ 1600年(慶長5年)9月 23日。

  ■ 1600年(慶長5年)9月23日に、石田方西軍

   の大垣城の残留軍が降伏し、大垣城が開城さ

   れる。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)9月 23日。

  ■ 1600年(慶長5年)9月23日に、 石田方西軍

  安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)が、京(都)

  で捕えられる。

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)10月1日。

  ■ 1600年(慶長5年)10月1日に、徳川方東軍

   の徳川家康は、 石田方 西軍の、石田三成、

   小西行長、安国寺 恵瓊(あんこくじえけい)を、

    京(都)六条河原で処刑する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。                

 

 

 ■ 1600年(慶長5年)。

  ■ 戦後処理で、徳川方東軍の徳川家康は、石田

   方西軍の大名・武将から没収した領地の約80

   %を、戦いの勝利の恩賞として、 徳川方東軍

   の、家康に付き従った豊臣恩顧の大名(外様大

   名)・武将に与えねばならなかった。

 

 

 ■ 1603年(慶長8年)。

  ■ 1603年(慶長8年)2月12日に、  徳川家康は、 

  征夷大将軍となり、 江戸幕府を開く。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

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#sennorikyu

 

■ 千 利休  

     (せんの りきゅう)。

 

 千 利休。

■ 名称 : 千 利休 (せんの りきゅう)。

■ 別名 : 千 宗易 (せんの そうえき)。

■ 英語名 : SEN NO RIKYU, 

  SEN NO SOEKI.

■ 生没年 : 1522年〜1591年。 

■ (茶人)。 《人名》。  《茶の湯》。

■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代堺(さかい)

   の商人、茶人(ちゃじん)。

■ 織田信長豊臣秀吉に仕(つか)える。

■ 千家流茶道(さどう、ちゃどう)の開祖。 

■ 草庵風茶室(そうあんふうちゃしつ)様式を完成し、侘茶

  (わびちゃ、草庵の茶)の完成者。

■ 「豊臣秀吉」、「茶会」、「黄金の茶室」も参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 71832。

 

          

■   千利休(千 宗易) (せんのりきゅう (せんのそうえき)、

  生没年:1522年〜1591年) は、  堺の商人であり、

   茶人(ちゃじん) であった。

 

■ 千利休(千 宗易)は、 織田信長 や 豊臣秀吉に仕(つ

  か)える。

■ 千利休(千 宗易)は、 室町時代後期(戦国時代)、安土

  桃山時代の、 茶人、堺(さかい)の商人であり、 織田信

  (おだのぶなが) 、豊臣秀吉(とよとみひでよし) に仕

  (つか)える。

● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

              

■  千利休(千 宗易)は、 堺の商人 であり、 魚問屋(さ

  かなどんや)と貸し倉庫業を営む商人(商家)であった

  が、 商談・交渉のため茶の湯を習い、茶人としても知ら

  れるようになる。 

      千利休(千 宗易)は、下層商人から這(は)いあが

  った苦労人であった。 

      秀吉の天下統一前は、千利休(千 宗易)は、下層

  の農民から這(は)いあがった同じ苦労人の豊臣秀吉と

  相性がとてもよかった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 千利休(千 宗易)は、 秀吉の弟・豊臣秀長と共に、 豊

  臣秀吉の天下統一事業を、裏で支えた。

     千利休(千 宗易)は、 茶の湯を通して日本各地の

  大名、武将たちとネットワークを築く。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

                             

 豊臣秀吉は、 天下統一後(日本本土統一後、1590年

  以後)、実質的に日本最高身分 となり、 豊臣政権の官

  僚主義を推し進める。

     1590年の天下統一後、豊臣秀吉は、 豊臣政権の

  茶の湯交渉、身分否定・平等主義、侘び茶(わびちゃ)な

  どを重視する千利休(千 宗易)と対立する。  また、15

  91年に千利休(千 宗易)を支えた秀吉・弟の豊臣秀長

  病死で失う。 利休は、 追いつめられ、切腹する(自害す

  る)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 千利休(千 宗易)は、 幼名は、田中与四郎(たなかよ

  しろう)であり、 法名(ほうみょう)は、利休宗易(りきゅ

  うそうえき)である。 

     千利休(千 宗易)は、 諱(いみな) は、宗易(そう

  えき)であり、字(あざな)は、利休(りきゅう)である。

     1585年(天正13年)の禁裏(禁中)茶会 (きんり

  (きんちゅう)ちゃかい) 時に、 正親町(おおぎまち)

  天皇より利休居士(りきゅうこじ)の号も与えられる。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 千利休(千 宗易)は、 千家流茶道(さどう)の開祖であ

  り、 草庵風茶室(そうあんふうちゃしつ)様式を完成し、 

  侘茶(わびちゃ、草庵の茶)の完成者 である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 千利休(千 宗易)は、 茶の湯(茶道)を、最初、北向道

  陳 (きたむきどうちん、生没年:1504〜1562年)、

  次に、武野紹鷗(たけのじょうおう、生没年:1502〜

  1555年) に学ぶ。

 

■ 千利休(千 宗易) (せんのりきゅう(せんのそうえき)、生

  没年:1522〜91年)は、 今井 宗久 (いまいそうきゅう、

  生没年:1520〜1593年)、 津田宗及 (つだそう ぎゅう、

  生没年:生年不詳〜1591年)と共に、 茶道の三宗匠(さ

  んそうしょう、天下三宗匠(てんかさんそうしょう)) の1人

  である。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 黄金の茶室。

    黄金の茶室は、 朝廷と親交を深める ため、1585年

  (天正13年)10月の禁裏(禁中)茶会 (きんり(きんちゅ

  う)ちゃかい) のために、 天皇御所 (てんのうごしょ、

  天皇の住まい、= 禁裏(禁中)) での大茶会で天皇を接

  待するため、また、天皇(正親町(おおぎまち)天皇)、皇

  子、公家たちを驚かすため、 千利休(千 宗易)と相談し

  て、豊臣秀吉が造らせた茶室 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 秀吉の、茶の湯接待。

■ 秀吉の、天下統一前の4大茶会。

■ 秀吉の、天下統一前の4大茶会(1584−1587年)。

     1590年(天正18年)の天下統一(日本本土・全土

  統一統治)の前に、 豊臣 秀吉は、天下人(天下統一

  者)を目指して、接待のため、 千 利休(千 宗易)と相

  談して、1584年(天正12年)から1587年(天正15年)

  までの間、4大茶会(イベント茶会) を開いた。

     その4大茶会(イベント茶会)とは、(1) 有名茶人

  接待のための1584年(天正12年)10月の大坂城茶会、

  (2) 皇族・公家接待のための1585年(天正13年)10

  月の禁裏(禁中)茶会、 (3) 九州征伐参加大名・武将

  接待のための1587年(天正15年)1月の大坂城茶会、

  (4) 民衆接待のための1587年(天正15年)10月の

  北野天満宮茶会(北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ) で

  ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

              

■ (1) 1584年(天正12年)・大坂城茶会。

    1584年(天正12年)10月の大茶会(だいちゃかい)

   は、 日本各地の大名や武将と親交のある茶人との親

   交を深め、茶人が知る日本各地の情報を得るため、

   有名茶人(ちゃじん)29人を大坂城の表御殿(おもてご

   ての)の大広間に招待して行われた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ (2) 1585年(天正13年)・禁裏(禁中)茶会。

      1585年(天正13年)10月の大茶会は、朝廷と

  親交を深めるための禁裏(禁中)茶会 (きんり(きんち

  ゅう)ちゃかい) であり、 天皇御所 (て んのうごしょ、

  天皇の住まい、= 禁裏(禁中)) で、 天皇(正親町(お

  おぎまち)天皇)、皇子、公家たちを招待して行われた。 

      黄金の茶室は、 豊臣秀吉によって、天皇をもて

     なす禁裏(禁中)茶会 (きんり(きんちゅう)ちゃかい) 

  のためにつくられた。 

      千 利休(千 宗易)は、 禁裏(禁中)茶会に参加

    する僧侶身分を得るため、 正親町(おおぎまち)天皇よ

  り利休居士(りきゅうこじ)の号を与えられる。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ (3) 1587年(天正15年)・大坂城茶会。

     1587年(天正15年)1月の大茶会は、九州征伐

  前に、九州大半占領の強敵の島津氏に必ず勝つため

  九州征伐豊臣軍を団結させるため、 共同飲食で秀吉

  の臣下の大名や武将の結束を図るため、臣従した大

  名や武将たちを大坂城に招待して、決起集会として、

  行われた。 秀吉臣従下の多くの大名は、お互いかっ

  て敵同士であったこともあるので。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

             

■ (4) 1587年(天正15年)・北野天満宮茶会 (北野

   大茶湯(きたのおおちゃのゆ)。

       1587年(天正15年)10月の大茶会は、民衆の

   人気を得るため、民衆の好感度調査のため、 京(都)

   の北野天満宮(きたのてんまんぐう)で、一日、民衆を

   招待して行われた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 千利休 が登場する、興味深いドキ

      ュメンタリードラマ、映画。

 

 千利休 が登場する、興味 深いドキュ

   メンタリー。

 

■ 高島礼子・日本の古都∇戦国歴史

   ミステリーSP 『 歴史ミステリー 

   豊臣秀吉 天下取りに隠された

   四大茶会の謎 』 (前編と後編)。

    (TBSテレビ・2016年7月 15日・本放送

   ドキュメンタリー番組)。 

■ 1590年の天下統一前に、秀吉が、千利休

   と相談して、もよおした4大茶会 (@158

   4年10月大坂城茶会、A1585年10月禁

  裏(禁中)茶会、B1587年1月大坂城茶会

   C1587年10月北野天満宮茶会) の詳

  細に述べる。

● 前篇で、@1584年10月大坂城茶会、A

  1585年10月禁裏(禁中)茶会の大茶会の

  詳細を述べる。

● 後編で、B1587年1月大坂城茶会、 C

  1587年10月北野天満宮茶会の大茶会の

  詳細を述べる。

 

■ 先人たちの底力 知恵泉(ちえいず)

  『 戦国のプロデューサー 千利休 』

   (前編と後編)。

    (NHKテレビ・2014年8月・本放送ドキ

    ュメンタリー番組)。 

● 千利休を詳細に述べる。

 

■ BS歴史館 『 千利休 天下統一

  の陰で  』 。 

    (NHKテレビ・2013年5月9日・本放送

   ドキュメンタリー番組)。 

● 織田信長、豊臣秀吉、豊臣秀長 と 千利

  休との関係を述べている。

 

★ 千利休 が登場する、興味深いドラマ、

   映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 真田丸 (さなだまる) 』 。  

   (NHKテレビ・2016年大河ドラマ)。

 安土桃山時代や江戸時代初期の時代を描く。

● 千利休(千宗易) (せんのりきゅう(せんの

  そうえき)) を演じた俳優名 : 

  桂 文枝 (かつら ぶんし)。

 

■ 『 軍師 官兵衛 』。 

   (NHKテレビ・2014年大河ドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

 

● 千利休(千宗易) (せんのりきゅう(せんの

  そうえき)) を演じた俳優名 : 

  伊武 雅刀 (いぶ まさとう)。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』 。 

   (NHKテレビ・2011年大河ドラマ) 

 安土桃山時代、江戸時代初期を描いた

  ドラマ。

● 千利休を演じる俳優名 : 石坂 浩二。

 

■ 『 天地人 (てんちじん) 』 。  

   (NHKテレビ・2009年大河ドラマ)。

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃

   山時代を描いたドラマ。

 

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#thewesterncalendar

 

■ 西暦  

     (せいれき)。

 

■ 西暦。

■ 名称 : 西暦 (せいれき)。

● 英名: THE WESTERN CALENDAR, 

  THE CHRISTIAN CALENDAR。

■ 欧米、西洋の暦。

■ 現代世界の中心暦。

■ 現行の西暦は、太陽暦のグレゴリオ暦 (紀元

  (後)1582年−現在、使用

 

□ 西暦の実例

□ 太陽暦のグレゴリオ暦

 西暦と和暦 との併用

 

 

■ 現在の、西暦は、 太陽暦グレゴリオ暦

  (グレゴリウス暦) である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 西暦。

■ 西暦 (せいれき) とは、 イエス・キリスト生

  誕と伝えられる年を基点として年代を数える暦 

  である。

 西暦 は、 本来、キリスト教暦で、 イエス・キ

  リストが誕生したと伝えられる年を、 基準にし

  て1年とし、 それ以後を「紀元(後)」、 それ以

  前を「紀元前」 としている。

    但し、イエス・キリストは、 史実では、紀元

   前4年頃に、誕生している。

 「紀元(後)」は、 西暦の、紀元(後)1年から

  後の年である。

● 「紀元前」  は、 西暦の、紀元前1年より前

  の年である。

● TKKI カナヤマ 著 電子書籍。

 

■ 西暦の、世紀。

■ 世紀 (せいき) とは、 イエス・キリスト生誕

  と伝えられる年を基点として、 西暦の、100

  年を単位とする年代の数え方 である。

■ 世紀 は、 西暦での、100年ごとの年代区 

  分 である。

■ 世紀 は、 西暦の100年という期間(時間)

  を表す単位 である。

■ 世紀 は、 1年 〜 100年 の 100年間 

  を意味する。

● TKKI カナヤマ 著 電子書籍。

 

■ 世紀の詳細 については、 当日本史辞典の

  『 世紀 』  の項目を参照して下さい。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

#thewesterncalendar-examples

 

◆ 西暦の実例。

 

■ 西暦の基本実例。

 紀元後。

● 紀元後の1世紀。

   (実例) (紀元後)1世紀         : 1年〜100年。

   (実例) (紀元後)2世紀         : 101年〜200年。

   (実例) (紀元後)21世紀        : 2001年〜2100年。

● 紀元後の世紀の前半。

   (実例) (紀元後)1世紀前半       : 1年〜50年。

   (実例) (紀元後)2世紀前半       : 101年〜150年。

   (実例) (紀元後)21世紀前半      : 2001年〜2050年。

● 紀元後の世紀の後半。

   (実例) (紀元後)1世紀後半       : 51年〜100年。

   (実例) (紀元後)2世紀後半       : 151年〜200年。

   (実例) (紀元後)21世紀後半      : 2051年〜2100年。

● 紀元後の世紀の初頭(初め)。 

   (実例) (紀元後)1世紀初頭(初め)  : 1年〜10年頃。

   (実例) (紀元後)2世紀初頭(初め)  : 101年〜110年頃。

   (実例) (紀元後)21世紀初頭(初め) : 2001年〜2010年頃。

● 紀元後の世紀の半ば(中頃)。 

   (実例) (紀元後)1世紀半ば(中頃)  : 40年頃〜60年頃。

   (実例) (紀元後)2世紀半ば(中頃)  : 140年頃〜160年頃。

   (実例) (紀元後)21世紀半ば(中頃) : 2040年頃〜2060年頃。

● 紀元後の世紀の世紀末。

   (実例) (紀元後)1世紀末         : 90年頃〜100年。

   (実例) (紀元後)2世紀末         : 190年頃〜200年。

   (実例) (紀元後)21世紀末        : 2090年頃〜2100年。

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

 紀元前。

● 紀元前の1世紀。

   (実例) 紀元前1世紀            : 前100年〜前1年。

   (実例) 紀元前2世紀           : 前200年〜前101年。

● 紀元前の世紀の前半。

   (実例) 紀元前1世紀前半          : 前100年〜前51年。

   (実例) 紀元前2世紀前半          : 前200年〜前151年。

● 紀元前の世紀の後半。

   (実例) 紀元前1世紀後半           : 前50年〜前1年。

   (実例) 紀元前2世紀後半           : 前150年〜前101年。

● 紀元前の世紀の初頭(初め)。 

   (実例) 紀元前1世紀初頭(初め)     : 前100年〜前90年頃。

   (実例) 紀元前2世紀初頭(初め)     : 前200年〜前190年頃。

● 紀元前の世紀の半ば(中頃)。 

   (実例) 紀元前1世紀半ば(中頃)     :   前60年頃〜前40年頃。

   (実例) 紀元前2世紀半ば(中頃)     :   前160年頃〜前140年頃。

● 紀元前の世紀の世紀末。

   (実例) 紀元前1世紀末            : 前10年頃〜前1年。

   (実例) 紀元前2世紀末            : 前110年頃〜前101年。

● 紀元前の千年紀。

   (実例) 紀元前1千年紀            : 前1000年〜前1年。

   (実例) 紀元前2千年紀            : 前2000年〜前1001年。

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

 

■ 西暦の詳細実例。

 

● 西暦の、年代間記載 : 過去から現在へ

  《実例》

 ・ 2001年 〜2100年  (紀元後21世紀)。

 ・ 前200年〜前101年 (紀元前2世紀)。 

● 西暦の、紀元(後) 2015年 (英:2015 

  A.D.) は、 2015年 である。

● 西暦の、紀元前115年 (省略名:前115年)

  (英:115 B.C.)は、 紀元前115年 であ

  る。

● 西暦の、紀元(後) 2000年のころ (省略名:

  C.2000) (英:About 2000,C.2000 

  (C.:〜の頃、Circa)) は、 約2000年、

  2000年頃 である。

● 21世紀 (省略名:21C) (英:The 21st 

  Century) は、 西暦の、紀元(後)2001年

  から2100年までの期間 である。

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

● 20世紀 (省略名:20C) (英:The 20th 

  Century) は、 西暦の、紀元(後)1901年

  から2000年までの期間 である。

● 21世紀前半 (省略名:21C前半) は、西

  暦の、紀元(後)2001年から2050年までの 

  期間である。

● 21世紀後半 (省略名:21C後半) は、西

  暦の、紀元(後)2051年から2100年までの 

  期間 である。

● 21世紀初頭(初め) (省略名:21C初頭

  (初め)は、 西暦の、紀元(後)2001年か

  ら2010年頃までの期間 である。

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

● 21世紀半ば(中頃) (省略名:21C中頃) 

  は、西暦の、紀元(後)2050年から前後20

  年間位の期間で、 2040年頃から2060年

  頃までの期間である。

● 21世紀末 (省略名:21C末) は、 西暦

  の、紀元(後)2090年頃から2100年まで

  の期間 である。

● 2世紀 (省略名:2C) は、 西暦の、紀元

  (後)101年から200年までの期間 である。

● 1世紀 (省略名:1C) は、 西暦の、紀元

  (後)1年から100年までの期間 である。

● 紀元前後頃は、 現在から約2000年前頃

  で ある。

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

● 紀元前1世紀 (省略名:前1世紀、前1C) 

  は、 西暦の、紀元前100年から前1年まで 

  の期間である。

● 紀元前2世紀 (省略名:前2世紀、前2C) 

  は、 西暦の、紀元前200年から前101年

  までの期間 である。

● 紀元前12世紀 (省略名:前12世紀、前

  12C) は、 西暦の、紀元前1200年から

  前1101年までの期間 である。

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

● 前1千年紀は、 西暦の、紀元前1000年

  から紀元前1年までの期間 である。

● 前2千年紀は、 西暦の、紀元前2000年

  から紀元前1001年までの期間 である。

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

 

◆ 各時代、各世紀の詳細区分。

■ 1時代、1世紀を2区分する。

■ 1時代を2区分する。

   (例) 日本の奈良時代 (西暦710年〜794年)。

   1つの時代 (例、奈良時代・84年間) を2等分して、

   2等分のおよその期間で (例、奈良時代の42年間

   ずつで)、 前期(前半)、後期(後半) に分ける。

■ 1世紀を2区分する。

   (例) 20世紀 (西暦1901年〜2000年)。

   1つの世紀 (例、20世紀) を2等分して、

   2等分のおよその期間で (例、20世紀の49年間

   ずつで)、 前期(前半)、後期(後半)に分ける。

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

(A).前期 (前半、前半期)。 

    (英: IN (DURING) THE FIRST HALF 

    OF THE PERIOD ; IN THE FORMER 

    PART (HALF) OF THE PERIOD)。

■ (例) 奈良時代前期 (前半、前半期)。  

   (西暦710年〜752年)。

    (英: E.G. IN THE FIRST HALF OF 

   THE NARA PERIOD)。

■ (例) 20世紀前期 (前半、前半期)。   

     (西暦1901年〜1950年)。

   (英: E.G. IN THE FIRST HALF OF 

     THE 20TH CENTURY)。

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

(B).後期 (後半、後半期)。 

    (英: IN (DURING) THE SECOND HALF 

    OF THE PERIOD ; IN THE LATTER 

    PART (HALF) OF THE PERIOD)。

■ (例) 奈良時代後期 (奈良時代後半、後半期)。

   (西暦752年〜794年)。

    (英: E.G. IN THE SECOND HALF OF 

   THE NARA PERIOD)。

■ (例) 20世紀後期 (20世紀後半、後半期)。

     (西暦1951年〜2000年)。

   (英: E.G. IN THE SECOND HALF OF 

     THE 20TH CENTURY)。

 

 

■ 1時代、1世紀を3区分する。

■ 1時代を3区分する。

   (例) 日本の奈良時代 (西暦710年〜794年)。

   1つの時代 (例、奈良時代・84年間) を3等分して、

   3等分のおよその期間で (例、奈良時代の28年間

   ずつで)、 前期、中期、後期に分ける。

■ 1世紀を3区分する。

   (例) 20世紀 (西暦1901年〜2000年)。

   1つの世紀 (例、20世紀) を3等分して、

   3等分のおよその期間で (例、20世紀の33年間

   ずつで)、 前期、中期、後期に分ける。

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

(A).前期 (初期、初め)。 

     (英:IN (DURING) THE EARLY PART OF 

     THE PERIOD)。 

■ (例) 奈良時代前期 (西暦710年〜738年)。

   (英: E.G. IN THE EARLY NARA PERIOD)。

■ (例) 20世紀前期 (西暦1901年〜1934年)。

   (英: E.G. IN THE EARLY 20TH CENTURY)。

 

(B).中期 (半ば、中頃)。 

    (英:IN (DURING) THE MIDDLE OF 

    THE PERIOD ; IN THE MID-PERIOD)。 

■ (例) 奈良時代中期 (西暦738年〜766年)。

   (英: E.G. IN THE MID-NARA PERIOD)。

■ (例) 20世紀中期 (西暦1934年〜1967年)。

   (英: E.G. IN THE MID-20TH CENTURY)。

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

(C).後期 (終り、終り頃)。 

    (英:IN (DURING) THE LATE PART OF 

    THE PERIOD)。

■ (例) 奈良時代後期 (西暦766年〜794年)。

   (英: E.G. IN THE LATE NARA PERIOD)。

■ (例) 20世紀後期 (西暦1967年〜2000年)。

   (英: E.G. IN THE LATE 20TH CENTURY)。

 

 

#thewesterncalendar-thegregoriancal.

 

◆ 太陽暦のグレゴリオ暦。

■ 太陽暦には数種類あるが、 現在の西暦は、 

  太陽暦のグレゴリオ暦(グレゴリウス暦) で

  ある。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 日本は、1873年(明治6年)1月1日から、現

  在の新暦である太陽暦(太陽暦のグレゴリオ暦

  現在の西暦) を採用した。 それより前は、日

  本では、旧暦である太陰太陽暦 を使用してい

  た。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 明治新政府 (近代日本政府) は、 現在の西 

  洋暦 (太陽暦の1つのグレゴリオ暦(グレゴリウ

  ス暦) を採用した。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 明治新政府 (近代日本政府) は、 1872年

  (明治5年)に、太陽暦 (太陽暦のグレゴリオ暦

  現在の西洋暦)を採用し、 明治5年(1872年)

  12月2日の翌日 (明治5年(1872年)12月3

  日) を、 明治6年(1873年)1月1日 とした。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 明治新政府 (近代日本政府) は、 従来の旧

  暦 (太陰太陽暦、太 陰太陽暦の天保暦) をや

  めて、 1872年(明治5年)に、新暦 (太陽暦

  太陽暦のグレゴリオ暦、現在の西洋暦) を採用

  した。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 太陽暦 とは、 月とは無関係に太陽の運行

  による季節の変化で定めた暦 である。

■ 太陽暦は、地球が太陽の周りをまわる周期

  (太陽年)のみを基にして作られた暦法 であ

  る。

■ 太陽暦では、 地球が太陽の周りを1回転

  (=公転)した時間が1年となる。

     公転周期は、正確には、平均回帰年約 

  365.2422日 である。

● TKKI カナヤマ 著 電子書籍。

 

 

◆ 現行西暦(=太陽暦のグレゴリオ暦)

■ うるう年。

■ 現行の西暦 (現在使用の世界標準の西暦)

  は、 太陽暦グレゴリオ暦 (= グレゴリウス

  暦、グレゴリー暦) で あり、 太陽の公転を基

  に、1年を365.2425日としている。  

     グレゴリオ暦では、 実際の太陽年1年

  (約365.2422日)とのずれを調整するため、

  約4年に1回、 うるう年(閏年)を設け 

  (夏季オリンピックが開かれる西暦年がうる

  う年となること多し)、 約4年に1回だけ、通

  常年(1年は365日、2月は28日)を変更し

  て、 2月を1日増やし2月29日を設け、1年

  を366日としている。

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

■ 現行の西暦 (現在使用の世界標準の西暦)

  のグレゴリオ暦の「うるう年の決まり」 では、  

  @ 西暦年が4で割り切れる年(= 割り算で割

    り切れて余りが出ない年)をうるうとする。

  A @の該当年でも、西暦年が100で割り切

    れる年は、うるうとしない。

  B Aの該当年でも、西暦年が400で割り切

    れる年は、うるうとする。 

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

■ 現行の西暦のうるう年の実例。

● 《実例 A》 通常年の、2015年や2017年。

     西暦2015年、2017年は、うるう年で

  はない通常年である。 

     2015年、2017年は、 4で割り切れ

  ない(= 割り算で割り切れず余りが出る)西

  暦年なので、 うるう年ではない通常年であ

  る。 

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

● 《実例 B》 うるうの、2012年、 2016年。

     西暦2012年、2016年は、うるう

  ある。 

     2012年、2016年は、 4で割り切れ

  (= 割り算で割り切れて余りが出ないで)、

  100で割り切れない西暦年なので、うるう

  である。 

● 《実例 C》 通常年の、1900年や2100年。

     西暦1900年、2100年は、うるう

  はない。 

     1900年、2100年は、 4で割り切れ、 

  100で割り切れ、400で割り切れない西暦

  年なので、うるう年ではない。 

● 《実例 D》 うるうの、2000年。

     西暦2000年は、うるう年である。 

     2000年は、 4で割り切れ、100で割

  り切れ、400で割り切れる西暦年なので、う

  るう年である。

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

■ グレゴリオ暦の1年 と 実際の1太

  陽年。

■ 現行西暦のグレゴリオ暦では、 1年を365.

  2425日 とする。 

■ 現在の科学データからの、実際の1太陽年は、 

  365.2422日(太陽日)である。

    実際に、地球が、太陽の周りを1周するの

  に、365.2422日かかる。

■ 1年を365.2425日としている現行西暦の

  グレゴリオ暦では、 1年が365.2422

  実際の太陽年に比べて、400年で、0.12日 、

  つまり、約3時間のずれですむようにしている。

     現行西暦のグレゴリオ暦では、400年の

  長さは、146097日である。 一方、実際の太

  陽年では、400年の長さは、146096.88日 

  である。

● TKKI カナヤマ 著 電子書籍。

 

 

◆ 当辞典の年代の日付(年月日)。

■ 当辞典に記載されている年代の日付(年月日) 

  は、 一般の歴史の書籍・本で使用されている

  のと同様に、 1872年(明治5年)以前は太陰

  太陽暦 (旧暦、太陰暦)を用い、 1873年(明

  治6年)以後は太陽暦 (新暦、太陽暦のグレゴ

  リオ暦、現行の西洋暦)を用いた。 また、当辞

  典では、西暦を先に、その後ろの( )内に、和

  暦(日本の暦)を記載している。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

#thewesterncalendar-usagewiththeja.cal.

 

◆ 西暦と和暦との併用。

■ (例) 西暦 2015年

  = キリスト教暦・救世主キリスト出現(誕生)

   以後2015年目。

■ (例) 西暦 21世紀。

  = キリスト教暦・救世主キリスト出現(誕生)

  以後第21番目の世紀(百年間、2001〜

  2100年)。

 

■ 現在、過去、未来の日本の年号を、 西暦

  (= キリスト教暦)の年号や世紀のみで、統

  一することはできない。

    西暦は、過去5000年、現在、未来を述

  べるのには非常に便利な暦であり、 世界標

  準の暦であり、 世界の多くの国々で日常生

  活で頻繁に利用されている。

    しかし、西暦は、 キリスト教暦であり、キ

  リスト教を信じていない、キリスト教徒以外の

  人々が、本来、使うべき暦 ではない。

    西暦 2015年 は、 「キリスト教暦・救世

  主キリスト出現(生誕)以後2015年目」 と

  言う意味であり、 西暦 21世紀は、 「キリ

  スト教暦・救世主キリスト出現(生誕)以後第

  21番目の世紀(百年間、2001〜2100年)

  という意味」であり、紀元前(B.C.,Before 

  Christ) は、 「キリスト教暦・救世主キリス

  ト出現(生誕)以前」 という意味であり、 紀

  元後 (A.D.Anno Domini(ラテン語、In 

  the year of our Lord、我らの主・救世 

  主の年) は、「キリスト教暦・救世主キリスト

  出現(生誕)以後」 という意味である。

    西暦(= キリスト教暦)が非常に便利な暦

  であり世界標準の暦であるからといって、 西

  暦(= キリスト教暦)だけで、 過去、現在、未

  来を語る(述べたり、記載したりする)こと は、 

  世界各地の、キリスト教徒以外の人々にはで

  きないことである。 

    キリスト教徒が多数を占めない、世界各国・

  各地域 や キリスト教徒でない世界各地の人

  々は、 正式な場、公式文書では、それぞれの

  独自の暦の年号を使っている。 

    キリスト教徒が多数を占めない、日本でも、

  正式な場、公式文書では、和暦(日本の暦)を

  使っている。 キリスト教徒ではない、日本の

  人々は、 西暦と 和暦(日本の暦)を併用して、 

  現在、過去、未来を語 っている (述べたり、記

  載したりしている)。

● TKKI カナヤマ 著 電子書籍。

  

■ 西暦。

■ 西暦とは、 キリスト教暦であり、 イエス・キ

  リストが誕生したとされる年を、基準にして

  (1年として)、 それ以後を「紀元(後)」、それ

  以前を「紀元前」、 としている。 

    但し、 史実のイエス・キリスト (生没年:

  紀元前4年頃〜紀元後30年頃) は、紀元

  前4年頃に、誕生した。

● 「紀元(後)」とは、 「キリスト (=救世主) 誕

  生以後」 を意味する。

     「紀元(後)」は、英語では、A.D.、A.D.

  は ラテン語の Anno Domini の略で、英

  語で IN THE YEAR OF OUR LORD 

  (我々の主の年にて、キリスト(=救世主)誕生

  以後の年にて))であり、 「キリスト (=救世主)

  誕生以後」 を意味する。

● 「紀元前」とは、 「キリスト (=救世主) 誕生

  以前」 を意味する。 

     「紀元前」は、英語では、B.C.、Before 

  Christ であり、 「キリスト (=救世主) 誕生

  以前」 を意味する。 

● TKKI カナヤマ 著 電子書籍。

 

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#seiitaishogun

 

■ 征夷大将軍 

    (せいいたいしょうぐん)。 

 

■ 征夷大将軍。

■ 名称 : 

   征夷大将軍 (せいいたいしょうぐん)。

■ 征夷大将軍(別名:征夷将軍)の存在時期 :

   720年〜1867年。

■ 朝廷が設けた将軍の1つに、征夷大将軍(せ

  いいたいしょうぐん、別名:征夷将軍)がある。

■ 征夷大将軍は、 

  奈良時代・平安時代初期では、 (えぞ、

  東北地方)伐の統率者(将軍) であり、 

  鎌倉時代から江戸時代まで では、 武家(武

  士)の統率者(将軍)である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11715。

 

 

■ 征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)は、朝廷

  が設けた将軍(軍の統率者)の1つである。

 

■ 将軍(しょうぐん) とは、 軍の統率者であり、

  朝廷の武官(武人)の首長である。

     朝廷が設けた将軍の1つに、征夷大将軍

  (せいいたいしょうぐん、征夷将軍)がある。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

◆ 将軍。

■ 武官(武人)の首長の官職(職名)。

■ 古代日本では、将軍とは、 朝廷の征討、儀衛、

  行幸時の臨時の武官(武人)の首長である軍務

  官職であった。 

     古代日本で、将軍の1つに、征夷将軍(別

  名、征夷大将軍) があった。

 

◆ 将軍(征夷大将軍)。

■ 征夷大将軍の別称、略称の将軍。

○ 武家の棟梁(とうりょう、統率者、統領、

  頭領)である将軍。

  ■ 征夷大将軍とは、 鎌倉時代より、武家

  の棟梁 (とうりょう、統率者、統領、頭領)で

  ある。 

 

  ■ 征夷大将軍は、  奈良時代・平安時代

  前期を過ぎた後では、 鎌倉幕府の各将軍、

  建武期の護良親王 (もりよししんのう、大塔

  宮(おおとうのみや))、 室町幕府や江戸幕

  府の各将軍である。

         

  ■ 平安時代末期の源(木曾)義仲は、征夷

   大将軍ではなく、征東大将軍に叙任(任官) 

   される (「山槐記」、「玉葉」より)。

     平安時代末期の1184年に京(都)に入

   った源義仲(みなもとのよしなか、木曽義仲)

   が、その後、征東大将軍の宣下(せんげ)を

   受ける。

      二次資料の「吾妻鏡」などの従来説では、

   源(木曾)義仲は、征夷大将軍叙任(任官)

   されたとなっているが、「山槐記」(建久3年

   (1192年)の一次資料では、義仲は、征東

   大将軍に叙任(任官)されたとあり、「玉葉」

   と記述が一致し、近年は、この説が有力とな

   っている。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 幕府の首長である将軍。

     鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府、

  の将軍など。

■ 征夷大将軍は、 幕府の首長であり、 鎌倉幕

  府、室町幕府、江戸幕府、の各将軍などである。

 

◆ 将軍(征夷大将軍)。

■ 征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)は、 奈良

  時代から江戸時代まで、朝廷から任命された、

  武官(武人)の首長の官職(職名 )である。

     将軍の1つ、征夷将軍(征夷大将軍)は、

  当初は、陸奥(むつ、東北地方)の蝦夷(えぞ)

  討伐のための朝廷の臨時の官職であった。

     その後、征夷大将軍は、 鎌倉時代より、

  武家の棟梁(とうりょう、統率者、統領、頭領)の

  地位、または、幕府の首長の地位を意味するよ

  うになる。            

            

◆ 将軍(征夷大将軍)。

    征夷大将軍 (せいいたいしょうぐん、別

  :征夷将軍) は、 奈良時代・平安時代初期

  では、 蝦夷(えぞ、東北地方)征伐の軍事統

  率者という意味であり、 臨時の朝廷東北派

  遣軍総大将の武官の官職名であった。 

     征夷大将軍は、 鎌倉時代から江戸 時

  代までは、 武士の統率者(統領、棟梁(と

  うりょう))という意味であり、 武士の首長の

  称号で、 武家政権の首長(幕府の長)の

  職名であり、 武士で天下の権力を握(にぎ)

  る者であり、 朝廷から任ぜられ、武力を握り、

  政治の実権をもっていた、軍の統率者である。

 

■ 将軍(征夷大将軍)は、 初め、奈良時代・平

  安時代初期では、 朝廷の蝦夷(えぞ、東北地

  方)討伐の臨時の役職であり、 鎌倉時代

  以後、武家政権の首長の職名となり、 江戸時

  代末に廃止となった。

 

■ 将軍への尊称には、 上様(うえさま) などが 

  あり、 高貴の人の尊称である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

◆ 将軍(征夷大将軍)。

■ 奈良時代、平安時代初期に、 征夷将軍(別名、

  征夷大将軍)は、 720年、多治比県守(たじひ

  あがたもり)、 794年、大伴弟麻呂(おおともの

  おとまろ)、 801年、坂上田村麻呂(さかのう

  えのたむらまろ) などが、征夷将軍(別名、征

  夷大将軍)に就任した。 鎮圧が一応終わっ

  た811年以後、廃止された。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 鎌倉時代に、 将軍(征夷大将軍)は、 鎌倉

  幕府の、源頼朝(みなもと のよりとも)をはじめ

  源氏将軍(3代)、その後、摂家将軍、宮将軍

  が、就任した。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 建武時代に、 将軍(征夷大将軍)は、 後醍

  醐天皇の皇子(みこ)の、護良親王(もりよしし

  んのう、大塔宮(おうとうのみや))が、将軍(征

  夷大将軍) に就任した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 室町時代に、 将軍(征夷大将軍)は、 室町

  幕府の、足利氏が 、歴代将軍(征夷大将軍)に

  就任した。

 

 江戸時代に、 将軍(征夷大将軍)は、 江戸

  幕府の、徳川氏が 、歴代将軍(征夷大将軍)

  に就任した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 江戸時代末期の1867年 (慶応3年)12月

  に、王政復古の大号令(おうせいふっこのだ

  いごうれい)の発布で、 将軍(征夷大将軍)

  は、廃止された。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 将軍(征夷大将軍)。

■  征夷大将軍 (せいいたいしょうぐん) は、

  平安時代初期では、 蝦夷(えぞ、東北地方)

  征伐の統率者という意味であり、 臨時の朝

  廷東北派遣軍総大将の官職名であり、 鎌倉

  時代から江戸時代までは、 武士の統率者

  (統領、棟梁(とうりょう))という意味であり、

  武士の首長の称号で、 武家政権の首長(幕

  府の長)の官職名であり、 武士で天下の権

  力を握(にぎ)る者であり、 朝廷から任ぜら

  れ、武力を握り、政治の実権をもっていた、軍

  の統率者である。

    鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府の「将軍」

  とは、 征夷大将軍である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 将軍(征夷大将軍)は、 初め、奈良時代、平安

  時代初期では、朝廷の蝦夷(えぞ、東北地方)討

  伐の臨時の役職であり、 鎌倉時代以後、

  武家政権の首長の職名となり、 江戸時代末期

  に廃止となった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 征夷大将軍。

■ 征夷大将軍は、 初め、奈良時代、平安時代初

  期に、 蝦夷(えぞ、東北地方)征伐 (東北地方

  攻略)のために置かれた、朝廷の臨時の役職(官

  職)であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ その後、 征夷大将軍は、 鎌倉時代に、武家 

  政権の首長の職名となった。

    源頼朝が、鎌倉時代の1192年(建久3年)

  に、征夷大 将軍の宣下(せんげ)を受け、 「武士

  で天下の権力を握る者」の意となり、 それ以後、

  武家政権の首長の職名 となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1192年(建久3年)に、 源頼朝(みなもとの

  よりとも)が、天下の権力を握って、 将軍宣下

  (しょうぐんせんげ、征夷大将軍の宣下)を受け、 

  将軍(征夷大将軍)に任命され、 「武士で天下

  の権力を握る者」の意となり、 鎌倉幕府を開 く。

    それ以後、 将軍(征夷大将軍)は、 鎌倉時

  代に、鎌倉幕府の、源氏将軍、摂家将軍、宮将

  軍が就任し、 建武時代に、護良親王(もりよし・

  もりなが しんのう、大塔宮)が、将軍(征夷大将

  軍)となり、 室町時代に、 室町幕府の、足利

  氏が歴代将軍に就任し、 江戸時代に、江戸幕

  の、徳川氏が歴代将軍に就任した。

● なお、江戸幕府の将軍は、 朝廷より、 「征夷

  大将軍」の他に、「源氏長者」(げんじちょうじゃ)

  の称号も得て、 武士の首長としての立場を強化

  した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1867年(慶応3年)12月に、朝廷の御前会議

  の、王政復古の大号令(おうせいふっこのだいご

  うれい)の発布で、 幕府、征夷大将軍、摂政・関

  白などは、廃止された。

    

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#seishonagon

 

■ 清少納言 

    (せいしょうなごん)。 

 

■ 清少納言。

■ 名称 : 清少納言 (せいしょうなごん)。

   実名不明。

■ 生没年不詳。 

■ 平安中期の女流文学者。

■ 随筆集枕草子」(まくらのそうし)の作者。

■ 学者の家系・清原氏の、清原元輔の娘

■ 藤原道隆の娘・藤原定子(ふじわらのていし)

  に仕(つか)えた女官(女房(にょうぼう、上級

  侍女))。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51514。

 

 

■ 日本の平安時代中期に、煌(きら)びやかな宮

  廷文化を花開かせた、平安文化の担(にな)い

  手は、 清少納言(せいしょうなごん)、紫式部

  むらさきしきぶ)、和泉式部(いずみしきぶ)

  どの、宮中の女性であった。

 

■ 清少納言は、 紫式部と並ぶ、平安時代中期の

  女流文学者である。

 

■ 清少納言は、平安時代中期の三才女の1人であ

  る。

     清少納言は、平安時代中期の、小説家の

  式部、  エッセイイストの清少納言、 歌人(かじ

  ん)の和泉式部 の三才女の1人 である。

 

■ 清少納言 (せいしょうなごん、実名・生没年不

  明) は、 枕草子(まくらのそうし)の作者 で、 

  藤原道隆の娘・藤原定子(ふじわらの ていし)に

  仕(つか)えた女官 (女房(にょうぼう、上級侍

  女)) である。

    清少納言は、 清原元輔の娘であり、 学者

  の家系・清原氏に生まれ、 和漢の学に通じた。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 清少納言の作品には、 随筆集の「枕草子」(ま

  くらのそうし) や 「清少納言集」 などがある。

 

■ 清少納言は、 一条天皇(いちじょうてんのう)の

  正室夫人(中宮)の藤原定子(ふじわらのていし)

  に仕(つか)えた。

     清少納言は、 紀元(後)993年頃から100

  0年頃まで宮中で、 摂関家(せっかんけ)の藤原

  道隆の娘・定子 (ていし)の女房 ( にょうぼう、側

  仕えの上級女官))として仕えた

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 摂関家(せっかんけ)の藤原道隆の娘で一条天

  ・正室夫人の藤原定子(ふじわらのていし)に

  は、 清少納言(せいしょうなごん)が仕えた。

     清少納言や他の女房(にょうぼう、側近の

  上級女官)は、 宮中で文化サロンを形成し、宮

  中で文化宣伝活動を行い、 一条天皇は、定子

  のもとに頻繁に通い、 一条天皇と定子は、親密

  な関係となり、皇子(みこ)をもうけた。 

     しかし、定子が死去し、 清少納言は、宮中

  を去った。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 平安時代中期に、清少納言 (せいしょうなごん、

  生没年不詳、実名不明)は、 和歌の名門の清原

  家の娘で、父より英才教育を受け、和歌や漢文に

  通じ、文学の素養にあふれる女性に成長し、 京

  (都)から遠い地の周防国(すおうのくに、山口県)

  で育ち、暮らしていたが、 28歳頃、京(都)の宮

  中の宮仕えの誘いを受け、憧(あこが)れて、宮

  中に入る。 

    清少納言は、 宮中生活で、初めは、慣れず

  大変苦労したが、 慣れると、才能がありセンス

  のよい名物女房(女官)と評判になり、 評判を

  聞きつけて清少納言のもとにやって来た貴公子

  の貴族たちと甘い恋を楽しむ幸福な夢のような

  宮中生活の日々が続いた。 この頃に清少納言

  がつくった次のような恋の歌の和歌が百人一首

  に選ばれている。 「夜(よ)をこめて 鳥の空音

  (そらね)は はかるとも よに逢坂(おうさか)の 

  関(せき)は許さじ」 (男性が甘い言葉で私を誘

  っても、私はそう簡単には会いません)。

     清少納言は、藤原定子(ふじわらのていし)

  のもとで宮仕えをしていたが、一時期、定子のも

  とを離れ、実家に引きこもっていたことがあった。 

  この時期が、「枕草子」の書き始めの時期と言わ

  れている。

     993年頃から清少納言は、宮中で、宮仕え

  をし、定子の文化サロンの一員となっていたが、

  995年に、関白であった定子の父・藤原道隆が

  死去し、その後、ライバルの藤原道長が、陰謀

  を画策し、藤原道隆一族を没落させようと政治

  工作を行っていた。 定子は、父・道隆の死去、

  兄弟の失脚で、父や兄弟の後ろ盾を失い、更に、

  実家の藤原道隆一族の豪華な屋敷が原因不明

  の火事で焼失してしまった。

     清少納言と恋仲になった貴族が藤原道長

  の側近であったため、清少納言は、政敵の道

  長のスパイと定子方の同僚から疑われ耐え切

  れず、これ以上いると定子に迷惑がかかると考

  え、 一時期、定子のもとを離れ、清少納言は

  実家に引きこもった。 一方、 没落し始めた、

  定子は、宮中で孤立していき、女房(女官)たち

  も定子のもとを次々に去っていき、定子の文化

  サロンは輝きを失い、 その時期に定子が

  章書きが好きな清少納言のために当時は非常

  に貴重な紙をプレゼントとして送った。 清少

  納言は、非常に喜び、 藤原定子と過ごした楽

  しい日々を紙に書きしるし、定子に送った。 

  落し始めた定子に向けて定子を励ます文章の

  内容であった。 定子から、定子のもとに戻 る

  ように言われ、 清少納言は、宮中の定子のも

  とに戻り、定子を支えた。 この頃、清少納言は

  定子の健康と安産祈願のため、寺社もよく訪問

  した。

     しかし、1000年に定子は、難産で死去し

  (お産で、24歳で死去し)、  定子を失った、清

  少納言は、ほどなく、1000年頃に、宮中を去

  った。

     その後、清少納言は、 宮中を去ったのち、

  藤原定子との楽しい日々を思い出しながら、

  かって定子のために書き始めた文章を1つの

  作品として、「枕草子」として、完成させた。

     「枕草子」は、 たった1人の姫君の定子に

  捧げられた作品であり、 清少納言にとって

  子との美しい思い出が詰まった宝箱であった。

     その後、 「枕草子」は、 平安貴族に読ま

  れ、 平安時代中期や後期の平安貴族の愛読

  書の1つ となった。

 

■  平安時代中期の、一条(いちじょう)天皇(在

  位986〜1011年、生没年・980〜1011年) 

  の時期に、 一条天皇の正室夫人として、 藤

  原定子(ふじわらのていし、977〜1000年) 

  と 藤原彰子(ふじわらのしょうし、988〜10

  74年) がいた。 

     藤原道隆の娘の定子(ていし)は、990年

  に入内(じゅだい)し、清少納言が仕えた。 清

  少納言は、993年頃から1000年頃まで宮中

  の後宮で宮仕えをした。 995年に関白であっ

  た定子の父・藤原道隆が死去し、 996年に、

  定子の兄・伊周(これちか)や弟・隆家(たかい

  え)も道長に失脚させられ(長徳の変)、 定子

  は、有力な後ろ盾を失った。 しかし、一条天皇

  は、 定子を寵愛し、999年に、定子は、一条

  天皇の第一皇子・敦康(あつやす)親王を出産

  し、一条天皇は喜んだが、 定子は、1000年

  に死去した  (一条天皇の第二皇女出産時)。 

    清少納言は、1000年頃に、宮中を去った。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

◆ 清少納言 と 藤原氏の摂

  関政治。

■ 清少納言は、 日本政治の実権獲得を望む摂関

  (せっかんけ)の藤 原道隆一族の計略に関(か

  か)わっていた。

    平安時代中期の当時、 日本政治の実権獲得

  をめぐり、 藤原氏の近親同士の、 兄・藤原道隆

  (ふじわらのみちたか) と 弟・藤原道長(ふじ わ

  らのみちなが、生没年:966〜1027年) の権

  力闘争があった。 

     文学青年の、一条天皇(いちじょうてんのう)

  の正室夫人には、 藤原道隆の娘・定子(ていし、

  藤原定子(ふじわらのていし、夫人期間:990年

  〜1000年)) と、藤原道 長の娘・彰子(しょうし、

  藤原彰子(ふじわらのしょうし、夫人期間:999年

  〜1011年) がいた。

     清少納言 (せいしょうなごん) は、 紀元

  (後) 993年頃から1000年頃まで、 朝廷の、

  宮中で、 藤原道隆の娘・定子(ていし) の女房 

  (にょうぼう、側仕えの上級女官)) として仕えた。 

     一方、 紫式部(むらさきしきぶ)は、 紀元

  (後)1005年頃から1012年頃まで、 朝廷の、

  宮中で、 藤原道長の娘・彰子(しょうし)の女房 

  (にょうぼう、側仕えの上級女官)) として仕えた。 

      藤原道隆の娘で天皇・正室夫人の定子(て

  いし)には、 993年頃より、清少納言(せいしょ

  うなごん)が仕(つか)えた。 清少納言や他の女

  房(にょうぼう、側近の上級女官)は、 宮中で、 

  文化サロンを形成し、 随筆(後の枕草子)、

  、その他様々な手段を使い、 後宮で文化宣

  伝活動を行い、 文学青年の、一条天皇は、

  子のもとに頻繁に通い、 一条天皇と定子は、親

  密な関係となり、 999年に定子は、敦康親王

  (あつやすしんのう)という皇子(みこ)をもうけた。 

     しかし、995年に、関白であった定子の父・

  藤原道隆が死去し、996年に、定子の兄弟も藤

  原道長に失脚させられた(長徳の変)。 1000

  年に定子も死去し、 清少納言は、 1000年頃

  に、宮中を去った(宮中から身を引いた)。

    定子死後、定子を愛し忘れられない一条天

  皇は、 藤原道隆の娘・定子(ていし)の生んだ

  皇子(みこ)の敦康親王(あつやすしんのう)を、 

  皇太子(東宮(とうぐう)、次期天皇)にしたいと

  考えていた。 しかし、藤原道長の計略により、 

  藤原道長の娘・彰子(しょうし)の生んだ皇子が、 

  皇太子(東宮、次期天皇) となった。

     藤原道長は、 自分の娘・彰子が生んだ子

  を、皇太子(東宮、次期天皇)にするため、 

  学青年の、一条天皇の気持ちを彰子(しょうし、

  藤原彰子)に向けさせ、 自分の娘・彰子にも

  皇子をもうけてもらうため、 藤原道長の娘で

  一条天皇・正室夫人の彰子には、1005年頃

  から、紫式部 (むらさきしきぶ)を仕(つか)え

  させた。 

     紫式部和泉式部、他の女房(にょうぼう、

  側近の上級女官)は、 宮中で文化サロンを形

  成し、 物語(後の源氏物語)、和歌、その他様

  々な手段を使い、 宮中で文化宣伝活動を行

  い、 文学青年の、一条天皇は、 彰子の元に

  頻繁に通い、 一条天皇と彰子は、 親密な関係 

  となり、 彰子は、1008年に、敦 成親王(あつ

  ひらしんのう)という皇子(みこ)をもうけた。 

    敦成親王(あつひらしんのう)は、1011年

  に、皇太子となった。 敦成親王は、 三条天

  皇 (天皇在位、1011〜16年、冷泉天皇と

  道長の妹・超子(ちょうし)との皇子) の皇太

  子 (東宮、次期天皇予定者) となった。 

     その後、敦成親王は、1016年に天皇に

  即位して、後一条(ごいちじょう)天皇 となっ

  た。 藤原道長は、 天皇の外戚(生母の父)

  となり、内覧(ないらん)となって、 日本の政

  治の実権を握(にぎ)った。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 清少納言、「枕草子」、藤原定子

  藤原氏の摂関政治。

■ 平安時代中期の、一条天皇 (いちじょうてん

  のう、天皇在位:986〜1011年、生没年:98

  0〜1011年) の時期に、一条天皇の正室夫

  として、 藤原定子 (ふじわらのていし、97

  7〜1000年) と 藤原彰子 (ふじわらのしょ

  うし、988〜1074年) がいた。 

     藤原道隆の娘の定子(ていし)は、 990

  年に入内(じゅだい)し、 清少納言 (せいしょ

  うなごん) が仕えた。 清少納言は、 993年

  頃から1000年頃まで宮中で宮仕えをした。 

     995年に関白であった定子の父・藤原道

  隆が死去し、 996年に、定子の兄・伊周(これ

  ちか)や弟・隆家(たかいえ)も藤原道長に失脚

  させられ(長徳の変)、 定子は、有力な後ろ盾

  を失った。 しかし、一条天皇は、 定子を寵愛

  し、 999年に、定子は、一条天皇の第一皇子・

  敦康(あつやす)親王を出産し、一条天皇は喜

  んだが、 定子は、 1000年に死去した  (

  条天皇の第二皇女出産時)。 清少納言は、

  ほどなく、1000年頃に、宮中を去った。

    藤原道長の娘の彰子(しょうし)は、999年

  に入内(じゅだい)した。 その後、彰子は、しば

  らく、一条天皇の子をなかなか懐妊(かいにん)

  しなかった。 1002年より、一条天皇の政治的 

  配慮により、 彰子は、亡くなった定子の敦康

  (あつやすしんのう)を養育していた。  

     藤原道長は、焦(あせ)り、 紫式部の 宮中

  への出仕を望み、 1005年頃より、紫式部は 、

  宮中にいる、彰子(しょうし)に仕えた。 

     藤原道長の娘の藤原彰子(ふじわらのしょ

  うし) は、 999年に入内 (じゅだい、天皇の

  室夫人として宮中の天皇の後宮に入ること) し

  たが、 一条天皇 (いちじょうてんのう、在位9

  86〜1011年) の御渡りが少なく (彰子のも

  とに来ることが少なく)、 藤原道長は、 一条

  天皇に、藤原道長の娘の彰子にもっと関心をも

  ってもらい、 彰子のもとに頻繁に来てもらうこ

  とを望む。 そこで、藤原道長が目をつけたのが、

  教養があり文才にとんだ紫式部であった。 

     藤原道長の要請で、 紫式部は、1005年

  頃、藤原道長の娘の彰子(しょうし)の女房(にょ

  うぼう、側仕えの上級女官) 兼家庭教師として

  仕え、 その後、1012年頃まで彰子に仕えた。 

     平安時代の当時は、現在と違い、娯楽が少

  なく、物語などは、現在の人気のテレビ、映画、

  ゲームほどの人気があった。

     彰子・女房の紫式部の、教養や 物語(後の

  「源氏物語」 )は、 一条天皇の興味をそそり、一 

  条天皇は、 紫式部の物語、詩歌などを聞きに、

  彰子のもと(居室)に前より多く通うようになった

  と推測される。 

     そして、一条天皇は、藤原道長の娘の藤原

  彰子と親密になり、 彰子は、 1008年に敦成

  親王 (あつひらしんのう、後の後一条(ごいちじ

  ょう)天皇) を生み、 1009年に敦良親王 (あ

  つながしんのう、後の後朱雀(ごすざく)天皇)を

  生み、 一条天皇の、二人の皇子を生んだ。 

     その後、 1011年に敦成親王  (あつひら

  しんのう)は、 立太子となり  (東宮(皇太子)に

  なり)、 1016年に天皇 (後一条(ごいちじょう)

  天皇) になった。 

     これにより、 藤原道長は、 天皇と外戚関

  係ができ、 内覧となって朝廷の実権を掌握し、

  日本の政治の実権を握り、摂関政治を行い、栄

  華を極めた。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

♪♪ 清少納言 が登場する、興味深い

    関連ドキュメンタリー、ドラマ、映画。 

 

★ 清少納言 が登場する、興味深い関

    連ドキュメンタリー。 

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 「春はあけ

  ぼの」の秘密〜清少納言 悲しき愛

  の物語〜 』 

    (NHK・2014年4月2日・本放送・ドキュメン

   タリー番組)。

● 清少納言の生涯や清少納言の著書「枕草子」

  などについて述べる。

 

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#sekitakakazu

 

■ 関 孝和。 

    (せき たかかず)。 

 

■ 関 孝和。

■ 名称 : 関 孝和 (せき たかかず)。

■ 別名 : 関 新助 (せき しんすけ)。

■ 江戸時代前期の天才大数学者で、幕末まで

  隆盛した、関流(せきりゅう)高等数学の祖。

■ 和算家(わさんか、日本式数学の専門家)で、 

  江戸時代前期の高等数学の確立者。

■ 世界水準の和算を創り出した数学者。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 41916。

 

 

 ■ 関 孝和。

 

  ■ 関 孝和 (せき たかかず)は、別名は、関 新

    助(せき しんすけ)で、 江戸時代前期の、徳川

    綱豊(つなとよ、後の6代将軍・徳川家宣(いえの

    ぶ)、江戸にいて領国経営を行う)の甲府藩の藩

    士で、 勘定方(かんじょうがた、財務・経理部)

    の役人で、 藩の会計を担当し、御賄頭(おんま

    かないがしら、経理部係長)・二百俵・十人扶持

    (にひゃっぴょう・じゅうにんぶち) であった。 そ

    ろばんを使い、高い計算能力をもつ。 江戸の天

    龍寺前(てんりゅうじまえ、東京の新宿駅付近)に

    住んでいた。 

 

 

 ■ 関 孝和。

 

  ■ 関 孝和は、 数学の研究を重ね、 弟子をと

    り、仕事の合い間に、 傍書法(ぼうしょほう)を

    考案し、 未知数が2つ以上の数 式を解く和算

    (わさん)の方程式などをつくり、 日本で、世界

    にひけをとらない、高等数学を確立する。 

      関 孝和は、当時の世界水準の和算を創り

    出した数学者である。

 

 

 ■ 関 孝和。

 

  ■ 関 孝和は、 江戸時代前期の天才大数学者で、

    幕末まで隆盛した、関流高等数学の祖 である。

      関 孝和は、 和算家(わさんか、日本式数学

    の専門家)で、 江戸時代前期の高等数学の確

    立者である。 行列式を発見し、当時の世界的

    に先端の数学を行った。 関 孝和は、 算聖(さ

    んせい、天才大数学者) と言われる。

      関 孝和は、 当時しては画期的な計算方法

    の、傍書法(ぼうしょほう)で、 数学の問題を解

    いた。 傍書法は、 記号を使った数式で、数学

    の問題を解く方法である。 傍書法で、 どんな

    問題でも解ける普遍的な方法を生み出す。

      関 孝和の傍書法より前は、記号(例、+、−、

    X、÷)がなく、数学の問題や解答は、記号を使

    わず、すべて文章で書かれていた。 関 孝和

    傍書法では、 関 孝和は、数学の問題をシンプ

    ルな数式に置き換え、そして、記号を使って高度

    な方程式を解いた。 

 

 

 ■ 関 孝和。

 

  ■ 関 孝和の唯一の著書には、数学書「発微算

    法」(はつびさんぽう)がある。 そこには、遺題

    (いだい、挑戦状の数学の出題)とそれを解く方

    程式が記載されている。 また、関 孝和の弟子

    も、関流(せきりゅう)高等数学の書物を出した。

      関 孝和は、弟子達と共に、組織で研究し、

    関流高等数学を広めていった。

 

 

  ■ 関 孝和。

 

  ■ 江戸時代に数学ブームの火付け役となった、

    算術書・実用数学書の、「塵劫記」(じんこうき)。

      江戸時代に、日本では、数の数え方、そろ

    ばんの使い方、土地の面積の求め方などの算

    術書、実用数学書の江戸時代の大ベストセラ

    ー「塵劫記」(じんこうき)が、大人気となり、 更

    に、 塵劫記の付録の遺題継承システム (著

    者や読者の遺題(いだい、挑戦状の数学の

    題)と読者の解答)により、 江戸時代に、数学

    の一大ブームが起きる。

      江戸時代の数学ブームで、 神社や寺の絵

    馬(えま)の算額 (さんがく、数学の問題や解

    答が書かれた絵馬) を使って (神社や寺に

    絵馬の算額を奉納して)、庶民が問題を出した

    り解いたりし、 遊歴算家 (ゆうれきさんか、出

    張数学教師)が、 村や町を訪れ、農民や町人

    に数学を教えたりするようになった。 また、都市

    には、算数塾もできた。

      江戸時代に、和算文化が起こり、 より高度

    な数学の要求が、日本中で高まった。 

      そのような一大数学ブームの中で、関 孝和

    (せき たかかず)は、 脚光をあびるようになっ

      た。

 

 

 ■ 関 孝和。

 

  ■ 関 孝和は、 江戸時代に、日本の科学技術立

    国の基礎をつくる。

      関 孝和の弟子達は、関 孝和の数学を広め、

    関流高等数学となり、 関流高等数学を江戸時

    代の多くの日本人技術者・科学者が学び、 高

    度な数学レベルを保ち、 関流高等数学は、江

    戸時代の幕末 まで、日本の高等数学の一角を

    なし、 日本人の数学レベルを高度に引き上げ

    る。 

       そして、関流高等数学は、 和算(わさん)

    から洋算(ようさん)に移る明治時代の日本の

    洋算導入 や、 明治時代の日本の欧米の科

    学技術の導入を容易にした。 

    

 

#-appearingscenes

 

♪♪ 関 孝和が登場する、興味深い、

     ドキュメンタリー、ドラマ、 映画。

 

 ★ 関 孝和が登場する、興味深い、

    ドキュメンタリー。

 

 ■ BS歴史館 

   『 シリーズ 江戸のスーパー

     日本人 

    @ 関 孝和 世界水準の

     ‘‘和算’’を創り出した男 』。  

      (NHKテレビの2013年6月20日・本放送 ・

      ドキュメンタリー番組)。

 

  ■ 江戸時代の、関 孝和 と その弟子達の業績 

    を述べる。

 

  ■ 江戸時代の和算ブームについて述べている。

 

 

 ★ 関 孝和が登場する、興味深い、

    ドラマ、映画。

 

 ■ 『 天地明察 ( てんちめいさつ) 』。

     (2012年制作日本映画)。

     (原作:冲方丁(うぶかたとう)の時代小説

          「天地明察」)。

     (脚本:加藤正人、滝田洋三郎)。

 

  ■ 江戸時代の人物、風習、建物、社会状況

    などを描く。

 

  ■ 江戸時代前期に、関孝和の、算術(数学)

    を高度に高める姿を描く。

 

  ■ 江戸時代前期の改暦を成功させ、太陰太

    陽暦の日本初の国産暦の貞享暦(じょうき

    ょうれき、1685年ー1754年)を作り上げ

    た天文暦学者の安井算哲(後の渋川春海、

    生没年:1639年ー1715年)の姿を描く。

 

  ● 算術の天才で安井算哲の友人の「関孝

    和」(せきたかかず)を演じた俳優名 : 

    市川 猿之助。

 

  ● 江戸幕府碁方の囲碁名人、天文ファン、

    算術ファンで改暦を行い天文暦学者とな

     った「安井算哲」を演じた俳優名 : 

    岡田 准一。

 

  ● 安井算哲の恋人、後に夫人となる「村瀬

    えん」を演じた女優名 : 宮崎あおい。

    

 

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#premoderndirectionwords

 

■ 前近代日本の方位 

    (ぜんきんだいにほんのほうい)。 

 

■ 前近代日本の方位。

■ 名称 : 前近代日本の方位 (ぜんきんだい

  にほんのほうい)。

 

■ 前近代日本の方位では、 十二支(じゅうにし)

  の、 子(ね)、丑(うし)、寅(とら)、卯(う)、辰

  (たつ)、巳(み)、午(うま)、未(ひつじ)、申(さ

  る)、酉(とり)、戌(いぬ)、亥(い)を使って、方

  位を表示した。

 

◆ 北、北東、東、南東、南、南西、西、北西

 ■ 子 (ね)  の方角 : 北の方向。

 ■ 丑寅、艮 (うしとら) の方角   : 北東の方向。

 ■ 卯 (う)   の方角 : 東の方向。

 ■ 辰巳、巽 (たつみ) の方角   : 南東の方向。

 ■ 午 (うま) の方角 : 南の方向。

 ■ 未申、坤 (ひつじさる) の方角 : 南西の方向。

 ■ 酉 (とり) の方角 : 西の方向。

 ■ 戌亥、乾 (いぬい) の方角   : 北西の方向。

 

 

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#seinanwar

 

■ 西南戦争 

    (せいなんせんそう)。 

 

■ 西南戦争。

■ 時期 : 1877年 (明治10年)。

■ 名称 : 西南戦争 (せいなんせんそう)。

■ 明治新政府(近代日本政府)に対する最大

  の反動的士族反乱。

 

 

 西南戦争により、日本の近代国家の基礎が

  確立した。

    西郷隆盛が反政府武力打倒勢力を結集し

  敗北してくれたおかげで、 明治新政府(近代

  日本政府)は、 政府に不満をもつ、反政府武

  力打倒勢力を一掃した。

    明治新政府(近代日本政府)は、武力で

  倒されることはなくなり、 ここに、日本の近代

  国家の基礎が確立した。

 

 西南戦争(せいなんせんそう) とは、明治新

 政府(近代日本政府)に対する最大の反動的士

 族反乱で、 1877年(明治10年)の、不平士

 族の反政府武力闘争の戦争 である。

   西南戦争後、反政府運動の中心は、自由民

 権運動に移った。

   1877年の西南戦争の時、佐野常民(さの

  つねたみ、1822〜1902年)らは、博愛社を

  組織し、両軍の傷病者の救済・治療などに当

  たる。 その後、博愛社は、社名を、日本赤十

  字社(にほんせきじゅうじしゃ)に改め、社会事

  業団体となり、佐野常民が初代社長を務(つ

  と)める。

 

■ 幕末の江戸幕府打倒と明治新政府樹立は、

 全国の多くの下級武士の意志によって成し遂

 げられた。  幕藩体制、徳川独裁体制では、

 全国の下級武士は、身分制度に縛られ、実力

 で上級武士にはなれず、実力で出世できなか

 ったため、全国の多くの不満をもつ下級武士が

 反乱を起こしたためである。 しかし、それは、

 武士の封建制度の中での改革であった。 全

 国の多くの下級武士は、 武士の封建制度

 廃止までは望んでいなかった。

   しかし、明治新政府(近代日本政府)の首脳

 は、 近代国家を樹立するために、武士の封建

 制度の廃止を画策し、 全国の多くの下級武士

 と、明治新政府(近代日本政府)は、対立して、

 日本全国の各所で、下級武士による、武士の

 封建制度の維持を求める武力反乱が起こった。

 その武力反乱の最大で最後の反政府反乱が、

 西南戦争 である。

 

■ 1973年(明治6年)に、西郷隆盛は、 征

 韓論(せいかんろん)を唱(とな)えて、政府を

 辞職し、 故郷の鹿児島に帰り、 私学校をお

 こす。

    1877年(明治10年)に、 西郷隆盛は、

 不平士族に擁立されて、 西南戦争を起こして、 

 敗(やぶ)れて、 鹿児島の城山で、自害(自殺)

 する。

● 西郷隆盛の遺体の確認は、体の各所を調べ、

 医師の判定によった。 現場では誰も西郷の本

 当の顔を知らず (写真嫌いで本人の写真は無

 く、現在ある写真は想像写真)。 

 

■ 西郷隆盛が鹿児島に開いた、私学校は、 不

 平士族(ふへいしぞく、明治政府の改革に不平

 をもつ元武士) の党派的中心となり、 鹿児島

 県県政をも支配し、鹿児島県は、独立国の観

 (かん)をなし、 日本の反政府の拠点となる。

   明治政府(近代日本政府)の内務卿の大久

 保利通(おおくぼとしみち、鹿児島県・薩摩藩士

 出身、西郷隆盛の盟友)は、 1875年(明治

 8年)の大阪会議で、体制を整備し、西郷の孤立

 化を図(はか)る。

   大阪会議は、伊藤博文(ひろぶみ)、井上馨

 (かおる)の仲介で実現し、政府の分裂や政局の

 行き詰まりを打開するめ開催され、立憲体制へ

 の漸次(ぜんじ)的移行ということで、 大久保利

 としみち)と木戸孝(たかよし)・板垣退助

 との間に妥協が成立し、木戸・板垣が政府の参

 議(さんぎ)に復帰する。  

   1877年(明治10年)に、西郷隆盛は、不平

 士族に擁立されて、挙兵し、約3万人の軍をもっ

 て、上京を企(くわだ)てたが、 熊本城攻略に失

 敗し、その後、鹿児島県へ退却し、城山で自害し

 た。

 

■ 不平士族の最大の武力反乱を鎮

  圧(ちんあつ)し、明治新政府(近代日

  本政府)の基盤が確立する。

■ 明治維新 は、士族による革命 であった。

● 明治政府に反乱(西南戦争)を起こした、西

  郷隆盛は、 明治政府(近代日本政府)の基

  盤の確立の恩人、功労者!?

● 雨降って、地(じ)固まる。

● 反明治政府(反近代日本政府)の武力打倒

  派の不平士族 を、「一身に引き受けてくれ

  た」、西郷隆盛。

● 明治政府(近代日本政府)に反乱(西南戦

  争)を起こした、 西郷隆盛は、 明治新政府

  (近代日本政府)にとって、西南戦争で 明治

  新政府を武力で倒そうとする過激な不平士

  族をまとめて集め抹殺させる機会を与えてく

  れ、 西南戦争の敗北で、 それ以後、不平

  士族に武力蜂起(ほうき)を諦(あきら)めさ

  せてくれた人物 である。 

    西南戦争の敗北後、 不平士族は、武力

  による新政府倒を諦(あきら)め、 自由民

  権運動など言論により、明治新政府に改革を

  要求していく(対抗していく)。

● 1877年(明治10年)に、 西南戦争では、 

  明治新政府(近代日本政府)に対し、約1万

  2000人の薩摩の武士(士族)が蜂起(ほう

  き)し、 その軍に、九州各地を中心に全国

  から 約1万8000人の武士(士族)が加わ

  り、 計約3万人の武士(士族)が、 反乱を

  起こしたが、 明治新政府(近代日本政府)

  の政府軍により鎮圧(ちんあつ)された。

● 反乱鎮圧の政府軍は、 皮肉にも、西郷隆

  盛が政府在職中、西郷隆盛が決めた1873

  年(明治6年)の徴兵令によって全国から集

  められた、平民、士族の軍隊であった。

● 西南戦争での明治政府側の勝利により、 明

  治新政府(近代日本政府)の基盤 は、ここに、 

  確立した。  

    西南戦争後(1877年以後)、不平士族は、 

  武力ではなく、言論により、 明治新政府(

  代日本政府)の政策を変えようとする。 そし

  て、自由民権運動が本格的に行われる。

 

 

♪♪ 西南戦争 が登場する、 興味深い、 ドキ

    ュメンタリー、ドラマ、 映画。

 

★ 西南戦争 が登場する、 興味深い、ドキュ

  メンタリー。

■ 歴史秘話ヒストリア 『 のんびり

  犬と暮らしたい〜上野のシンボル

  西郷さん 西南戦争への道〜 』。  

    (2012年(平成24年)9月5日・本放送

   NHKテレビ・ドキュメンタリー番組)。

 

★ 西南戦争 が登場する、興味 深い、ドラマ、

   映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実)

  と 架空の出来事が、混じって、描かれています。

  また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 西郷(せご)どん 』。 

   (NHKテレビ・2018年(H30年)大河ドラマ)。

■ 日本の明治維新、幕末、明治時代初期の時代

  状況やその時代に活躍した人々を描く。

 

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#regents

 

■ 摂政 

    (せっしょう)。 

 

■ 摂政。

■ 時期 : 6世紀の飛鳥白鳳時代前期〜19世紀の江

  戸時代後期。

■ 名称 : 摂政 (せっしょう)。

● 英名 : Regent(s)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ 幼少(成人前)または女帝の天皇を助けて、朝廷の

  政務を行う役職。

 

 

■ 最初の摂政は、 女帝・推古(すいこ)天皇の摂政と

 して593年に就任した、厩戸皇子(うまやどのみこ、聖

 徳太子) である。

■ 天皇家以外の人臣の最初の摂政は、幼少の(成人

 前の)清和天皇の摂政として、866年(貞観(じょうが

 ん)8年)に就任した、藤原良房(ふじわらのよしふさ) 

 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 摂政 (せっしょう) は、朝廷の役職で、 幼少(成

 人前)または女帝の天皇を助けて、朝廷の政務を行う

 役職 である。

 

■ 摂政 は、 役職は6世紀の飛鳥白鳳時代前期か

 ら19世紀の江戸時代後期までの時期に存続した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 飛鳥白鳳時代では、 厩戸皇子(うまやどのみこ、

 聖徳太子)のように、 女帝(女性の天皇)統治時、

 男子の皇子が摂政となり、女帝を補佐して、朝廷の

 政務を行うことが多かった。

 

■ 藤原氏の、藤原北家(ふじわらほっけ)の摂関家

 (せっかんけ)が、 10世紀中頃より、19世紀後半

 の1867年の王政復古の大号令の年まで、 摂政の

 職を、ほとんど独占した。

 

■ 藤原北家の摂関家 は、 鎌倉時代に、近衛(この

 え)、九条(くじょう)、二条(にじょう)、一条(いちじょ

 う)、鷹司 (たかつかさ)の5摂家(せっけ、摂関家)に

 分かれた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#politicalmarriages

 

■ 政略結婚 

    (せいりゃくけっこん)。 

 

■ 政略結婚。

■ 名称 : 政略結婚 (せいりゃくけっこん)。

■ 政治上の婚儀で、 前近代日本で、上層階層

  間で盛んに行われた政治上の婚儀。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ 政略結婚に関しては、「前近代日本の早婚と

  多産」も 参照してください。

 

 

■ 政略結婚 (せいりゃくけっこん) は、前近代

  日本の政治上の婚儀であり、 上層階層間で

   盛んに行われた政治上の婚儀 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 前近代日本の政略結婚は、 結婚相手が原

  則として愛し合って結婚する現代の結婚 と

  は、まったく異なる。

 

■ 婚儀の相手は、低年齢でも行われ、 花嫁と

  花婿は、婚儀前に会うこともないことが多かっ

  た。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 室町時代後期の戦国時代から江戸時代初期ま

  で、 武家の封建領主では、 婚儀の相手は、政

  治上の同盟関係の証(あかし)、保障として、 人

  質を兼ねて、婚儀の相手にではなく、婚家に嫁ぐ

  ことが多かった。 実家と婚家が、友好関係であ

  る場合は、婚儀を継続するが、 敵対同士となっ

  た場合は、 花嫁は、実家に帰されたり、離縁と

  なったりすることも多かった。

 

■ 例えば、 お市(おいち)と浅井長政(あざいなが

  まさ)の婚儀、 千姫(せんひめ)と豊臣秀頼(とよ

  とみひでより)の婚儀、 などが、 前近代日本

  政略結婚 である。

 

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#senchuhassaku

 

■ 船中八策 

    (せんちゅうはっさく)。 

 

■ 船中八策。

■ 時期 : 1867年(慶応3年)6月。

■ 名称 : 船中八策 (せんちゅうはっさく)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ 坂本龍馬が構想し、著(あらわ)した政策提言。

 

 

■ 船中八策 (せんちゅうはっさく) とは、1867年(慶応

 3年)6月に、坂本龍馬が構想し、著(あらわ)した政策提

 言 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 坂本龍馬 は、 幕末の1867年(慶応3年)6月に、土

 佐藩船の夕顔丸(ゆうがおまる)で京(都)へ向かう途中、 

 その船の中で、新国家の基本理念を構想し、「船中八策」

 を著した。 龍馬 は、 最初に、船に同乗の、藤象二郎

 に示した。

● 「船中八策」には、 大政奉還、議会の設置、人材の登

 用、対等な国交の樹立、憲法の制定、軍備の強化、近衛

 兵の創設、貨幣制度改革などの画期的な政策が、うたわ

 れていた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 坂本龍馬が構想した「船中八策」 は、 龍馬の死後、 

 明治新政府(近代日本政府)の基本方針の土台 となり、 

 基本政策として生かされる。

 

 「船中八策」 は、次のような内容である (原本は現在

  残っていない)。

(第1策) 〈大政奉還〉  政権を朝廷に返上する。

(第2策) 〈議会の設置〉 上下院の議会を設け、議員の討

       論で全てを決定する。

(第3策) 〈人材の登用〉 あらゆる層から有能な人材を集

       める。

(第4策) 〈対等な国交の樹立〉 広く国交を開き、適正な

       条約を締結する。

(第5策) 〈憲法の制定〉 新しい法典を制定する。

(第6策) 〈軍事力の増強〉 海軍を拡張する。

(第7策) 〈軍事力の増強〉 御親兵(ごしんぺい、近衛兵)

       を設置する。

(第8策) 〈貨幣制度改革〉 金銀の交換率を外国と均一

       化する。

 

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#seishitsu

 

■ 正室夫人 

    (せいしつふじん)。 

   

■ 正室夫人。

■ 時期 : 古代 〜 明治時代。

■ 名称 : 正室夫人 (せいしつふじん)、 

● 別名 : 正室 (せいしつ)。

■ 上層階層の、一夫多妻制の、第一夫人。

● 前近代日本では、上層階級は、一夫多妻制で

  あった。

 一夫多妻制の詳細は、 前近代日本の一夫多

  妻制を参照して下さい。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。 

 

◆ 前近代日本の、一夫多妻制。

■ 一夫多妻制の正室夫人 (第一夫人)は、原

  則、1人で、 一夫多妻制の側室夫人 (第二

  夫人) は、 1人以上である。

 

■ 前近代日本では、上層階級は、一夫多妻制で

  あった。

        前近代日本は、 封建制 (主従関係)・家父

  長制・身分制社会であり、 「家」中心の婚儀

  (結婚)であり、 「家」 と「家」との婚儀(結婚)

  が中心であり、 上層階級の男性は、 出世、

  家名を高めること、家名(名家)を存続させる

  ことを主眼に、 女性と婚儀を結んだ(結婚し

  た)。 愛情は、2次的問題であった。 

     前近代日本の上層階級の婚儀(結婚)は、

  現代日本の愛情中心の個人間の結婚とはか

  なり異なる。

     前近代日本の上層階級の、正室夫人は、

  身分、家格、男性の出世などを考慮し、 夫の

  主君、上司、家長、親などが決め、 夫の意向

  とは関係なく、 夫と婚儀を結んだ(結婚した)

  女性である。 夫に とって、愛情とは関係なく、

  押し付けられた夫人であり、「家」のお飾りとい

  う存在であった場合が多い。 

     前近代日本の上層階級の、側室夫人は、

  夫の主君、上司、家長、親などが決め婚儀を結

  んだ(結婚した)側室夫人 と、 夫の本人が選

  んで婚儀を結んだ(結婚した)側室夫人がいた。 

     側室夫人の中には、 夫の本人が愛情中

  心で選んで婚儀を結んだ(結婚した)側室夫人

  もいた。 その側室夫人が現代の「妻」に近い

  存在であった。

 

■ 前近代日本では、上層階級は、一夫多妻制で

  あった。

    医療未発達、医学や栄養学の知識少なく、

  不衛生な、前近代日本では、 女性が子供を生

  んでも生んでも次から次へと死んでいった

  幼児死亡率が非常に高かった

■ 前近代日本の上層階層の男性は、 自分の血

  統の後継ぎを確保するために、 複数の夫人を

  持つことが多かった。 前近代日本では、 医療

  未発達等で、元服(げんぷく、成人)前に、 多数

  の子供が病死するため、 複数の夫人をもって、 

  沢山の子を産ませ、 家(名家)を存続させ、一

  族を形成した。

 

 

◆ 前近代日本の、正室夫人と側室夫人。

■ 前近代日本の一夫多妻制の正室夫人 (第一夫

  人) は、 原則として、1人で ある。

     天皇家は、例外で、複数の正室夫人がいた。

     一方、一夫多妻制 の側室夫人 (第二夫人、

  側室) は、1人以上である。  

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 正室夫人 (せいしつふじん) とは、正室(せい

  しつ)とも呼ばれ、 古代から明治時代までの

  近代日本の一夫多妻制の時期の、 上層階層 の、

  一夫多妻制の第一夫人 である。

 詳細は、 前近代日本の一夫多妻制を参照し て

  下さい。  

 

■ 側室夫人 (そくしつふじん) とは、 側室(そく

  しつ)とも呼ばれ、 古代から明治時代までの

  近代日本の一夫多妻制の時期の、 上層階層の、

  一夫多妻制の第二夫人 である。

 詳細は、 前近代日本の一夫多妻制を参照し て

  下さい。  

 

 

◆ 前近代日本の、正室夫人。

■ 前近代日本では、上層階級は、一夫多妻制で

  あった。

● 前近代日本の上層階級では、 正室夫人は、

  原則、1人である。 

     しかし、天皇家では、例外的に、慣習で複

  数の正室夫人(皇后、中宮、女御)がいた。 

● 正室夫人 (せいしつふじん、正室)とは、 前

  近代日本の、上層階層の、第一夫人であり、

  古代から明治時代までの時期の、一夫多妻制

  の第一夫人 である。 

● 先妻の正室夫人が亡くなり、 後妻が正室夫

  人となった場合、 後妻の正室夫人を、継室(け

  いしつ) と呼ぶ。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 前近代日本の、将軍の夫人。

     鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府の将軍の

   夫人。

■ 幕府将軍の正室夫人は、 御台(みだい)、

  御台様(みだいさま) や 御台所 (みだいど

  ろ) と呼ばれた。

● 例えば、 北条政子(ほうじょうまさこ)は、 鎌

  倉幕府の初代将軍・源頼朝(みなもとのよりと

  も)の御台であり、 室町幕府の第8代将軍・足

  利義政 (あしかがよしまさ)の御台は、 日野

  富子(ひのとみこ)であり、  お江(おごう) は、江

  戸幕府・第2代将軍・徳川秀忠 (ひでただ)の御

  台所 であった。 篤姫(あつひめ)は、江戸幕

  府・第13代将軍・徳川家定(いえさだ)の御台所 

  であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 江戸幕府将軍の多くは、 側室夫人の子で

  ある。

    江戸幕府は、 江戸幕府の権威を高めるた

  め、 将軍の多くの正室夫人(御台所)を皇族・

  公家出身の女性にはしたが、 公家・皇族出身

  の将軍・正室夫人(御台所)が、子供を産むこと

  を望まず、 大奥で、避妊薬を飲ませ、 子供を

  産ませないようにした。 公家・皇族の血をひく

  子が将軍になると、 公家や皇族が、 武家の

  江戸幕府の政治に口をはさむため。

 

 

◆ 前近代日本の、天皇の夫人。

■ 前近代日本の天皇の正室夫人は、 複数であり、 

  皇后(こうごう)、  中宮(ちゅうぐう)、 女御(にょ

  うご) などである。 一方、天皇家の 側室夫人

  は、複数で、 典侍(てんじ) などである。

 

■ 前近代日本の、天皇の正室夫人。

 天皇家では、慣習で複数の正室夫人(皇后、中

  宮、女御)がいた。 

     后妃(皇后、中宮、女御)の地位を退いた女

  院(にょいん)も、事実上の正室夫人である。

● 皇后、中宮、女御。

     天皇正室夫人は、 複数いて、 身分の

  違いにより、上位順に、 皇后(こうごう)、  中

  宮(ちゅうぐう)、 女御(にょうご) などと呼ば

  れた。

    例えば、 光明子 (こうみょうし)は、聖武天

  (しょうむてんのう)の皇后 であった。 徳川

  和子 (とくがわ まさこ・かずこ) は、後水尾天 

   (ごみずのおてんのう) の中宮であった。

● 入内(じゅだい)とは、 天皇の正室夫人となる

  べき人が、正式に内裏(だいり、天皇御所(天皇

  が住む御所)) に入ること である。

    入内(じゅだい)は、 天皇の正室夫人 (皇

  后、中宮、女御のいずれか) となることである。 

● 10世紀の後半から、 天皇は、 複数の后(き

  さき、正室夫人) を持つようになった。 

     10世紀の後半に、藤原氏の権力闘争で、

  一条天皇(いちじょうてんのう) が、 藤原道隆

  の娘の定子  (ていし、清少納言仕える藤原

  定子) と、 藤原道長の娘の彰子 (しょうし、

  式部が仕える藤原彰子) の2人の后(きさき、

  正室夫人) をもつ事例ができたため。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 前近代日本の、天皇家の側室夫人。

 典侍。

   天皇家の側室夫人には、 典侍(てんじ 、高

  級女官)と呼ばれる側室夫人がいた。  

    例として、 和宮の生母は、典侍の橋本経子

  観行院(かんぎょういん))  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 前近代日本の天皇の多くは、側室夫人の子で

  ある。

     天皇家が、断絶せず(血筋を絶やさず)、

  存続できたのは、 側室夫人がいたおかげで

  ある。

     医療未発達、医学や栄養学の知識少なく、

  不衛生な、前近代日本では、 女性が子供を生

  んでも生んでも、次から次へと死んでいった。

  幼児死亡率が非常に高かった。

     天皇の正室夫人は、 身分が高く、運動不

  足で、ひ弱で、難産が多く、子を産めない体であ

  る場合もあり、 丈夫な子を産まないことが多か

  った。 また、子を産んでも数が少なく、ひ弱で、

  幼児死亡率が非常に高かった前近代 日本では、

  ほとんどが亡(な)くなった。

     朝廷では、 身分の高くない、複数の宮廷女

  性を、天皇の側室夫人とし、丈夫な子を、沢山産

  ませた。 それらの側室夫人を 典侍(てんじ)な

  どの高級女官 とした。 

    

◆ 前近代日本の、女院。

■ 女院(にょいん)とは、 天皇家の女性への尊称

  の1つであり、 朝廷より院(上皇、元天皇)に準ず

  る待遇を受けた女性 である。

    女院は、 天皇家の、后妃(皇后、中宮、女御)、

  天皇生母、内親王(ないしんのう、天皇の娘)、准母

  (じゅんぼ、天皇の義母)等の中で、女院の尊称を

  贈られた女性(女院を宣下(せんげ)された女性)で

  ある。 

     前近代日本では、 皇后の地位をあけるため、

  皇后の女性が、女院にされることがよくあった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 女院称号(女院号)の形式は、 ○○院、または○

  ○門院 と呼ばれた。

   門院(もんいん)は、 女院称号の1つである。 

● (例) 八条院、待賢門院、美福門院、建礼門院。

● 例えば、 八条院 (はちじょういん、鳥羽上皇の娘、

 ワ子内親王、1137〜1211年)、 待賢門院 (たい

 けんもんいん、藤原璋子(ふじわらのたまこ・しょうし)、

 崇徳上皇(天皇)後白河上皇(天皇)の生母、1101

 〜45年)、 美福門院(びふくもんいん、藤原得子(ふ

 じわらのなりこ・とくし)、近衛天皇、八条院の生母、

 1117〜60年)、 建礼門院(けんれいもんいん、

 徳子(たいらのとくこ)、安徳天皇の生母、平清盛の娘) 

 などである。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#senhime

 

■ 千姫 

       (せんひめ)  

 

■ 千姫

■ 名称 : 千姫 (せんひめ)

■ 生没年 : 1597〜1666年

■ 豊臣秀頼正室夫人

■ 大阪夏の陣(大阪の陣)の時、大阪城を脱出

  し、 徳川秀忠の もとに落ちのびた。

 徳川秀忠の長女。 

■ 江戸幕府・第2代将軍・徳川秀忠(ひでただ)

  と正室夫人・お江(おごう)との間の娘。

■ 1番目の夫は、豊臣秀頼 (ひでより)。

■ 2番目の夫は、本多 忠刻 (ほんだ ただとき)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61519。

 

 

■ 1597年(慶長2年)に誕生した、江(おごう)

  の女子である、千姫 (せんひめ、徳川秀忠長女、

  1597−1666年) は、 1603年(慶長8年)

  に、 豊臣秀頼のもとに嫁ぐ。 

    1615年に豊臣秀頼と死別する。 豊臣家滅

  亡後は、1616年(元和(げんな)2年)に、播磨・

  姫路新田藩主・本多 忠刻  (ほんだ ただとき)の

  もとに嫁ぐ。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1615年の大阪夏の陣(大阪の陣)の折、大阪城

  落城前、 大野治(おおのはるなが)の計らいで、 

  淀の方豊臣秀頼命乞いのため、 千姫は、大

  阪城を脱出し、逃げる途中で、 千姫は徳川方の

  坂崎出羽守直盛(さかざきでわのかみなおもり)の

  陣に到着し、坂崎が徳川秀忠のもとに千姫を送り

  届ける。 しかし、淀の方豊臣秀頼の命乞いの、

  千姫の願いは、 叶(かな)えられなかった。

    その後、1616年に、坂崎事件が起こる。 理

  由は不明だが (千姫の婚儀の仲介で面目を失っ

  たという説がある)、 戦国大名の坂崎直盛が、

  千姫と本多 忠刻 (ほんだただとき)の婚儀に反対

  して千姫奪還計画を立て、幕府に露見し、屋敷に

  たてこもった。 坂崎直盛の友人の柳生宗矩は、

  丸腰で屋敷に入り、 坂崎直盛を説得し、自害さ

  せる。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 千姫 (せんひめ、1597−1666年は、 江戸

  幕府・第2代将軍徳川秀忠(ひでただ)長女で

  あり、 徳川秀忠とお江(おごう)との間の娘 であ

  る。

     前近代日本では、政略結婚では、10歳未満

  の幼年で、婚儀を結ぶ(結婚する)こともあった。 

     千姫も、政略結婚で、7歳位で、豊臣秀頼と

  婚儀を結ぶ(結婚する)。

     千姫は、 大阪城主・豊臣秀頼の正室夫人 

  となる。 1615年の大阪夏の陣の時、千姫は、 

  大阪城を脱出し、 父・徳川秀忠のもとへ落ちのび

  た。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠の子。

    徳川秀忠の実子は、  長丸(ちょうまる、長男、

  早世)、 徳川家光(とくがわいえみつ、次男)、 

  徳川忠長(とくがわただなが、三男)、 保科正之

  (ほしなまさゆき、四男)、 千姫(せんひめ、長女)、 

  珠姫(たまひめ、次女)、 勝姫(かつひめ、三女)、 

  初姫(はつひめ、四女)、 和子(まさこ、かずこ、

  徳川和子五女) である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

★ 千姫 が登場する、興味深い関連ドラマ、

   映画 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画 は、史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』 

   (日本のNHK2011年大河ドラマ)。 

 

■ 『 寧々〜おんな太閤記 (ねね〜

    おんなたいこうき) 

   (日本のテレビ東京・2009年制作

   テレビドラマ)。 

 

■ 『 茶々 天涯の貴妃 (ちゃちゃ 

    てんがいのおんな) 』 

   (日本の東映・2007年制作映画)。 

 

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#seienin

 

■ 清円院 

       (せいえんいん) (華渓院)  

 

■ 清円院

■ 生没年 : 1556年(弘治2年)?〜1579年(天正7

 年)。

■ 名称 : 清円院 (せいえんいん)

● 別名は、華渓院 とも呼ばれる。

● 実名不詳 (実名は伝わっていない)。

 華姫 (はなひめ、仮称、実名不詳)  (NHK大河ドラ

 マ「天地人」では)。 

■ 上杉景勝 (うえすぎかげかつ)の姉妹。 上杉謙信

 姪(めい)。

■ 戦国時代(室町時代後期)、安土桃山時代の武将の、

 上杉景虎 (上杉三郎景虎)の正室・夫人。

■ 長尾政景の娘。 仙桃院 (せんとういん)の娘。

■ 清円院の夫 は、 上杉景虎 (うえすぎかげとら、上

 杉三郎景虎)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ 清円院の父 は、 長尾政景 (ながおまさかげ)

■ 清円院の母 は、 仙桃院 (せんとういん、上杉謙信

 の姉)。

■ 清円院の兄弟姉妹 は、 上杉景勝(兄) と 妹 (上

 条政繁室 (上条政繁の夫人))。

 

 

■ 清円院 (華渓院 は、 上杉謙信急死後 の上杉景虎

 と上杉景勝が家督継承を争う御館の乱 (おたてのらん、

 1578〜80年) では、 夫の上杉景虎 と 兄の上杉景

 勝が争い、苦しい立場に立たされる。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 清円院 (せいえんいん) は、 実名は伝わっておら

 ず、 法名の「 華渓正春大弾定尼 」 から、 俗に 華

 渓院 とも呼ばれる。

 

■ 清円院 (華渓院 は、 戦国、安土桃山時代の武将

 の、上杉景虎 (上杉三郎景虎)の、 正室(妻) で、 上

 杉景勝の姉妹であり、 長尾政景の娘、 仙桃院の娘 で、

 ある。

 

■ 清円院 (華渓院の父 は、 長尾政景で、 清円院の

 母 は、 仙桃院 (せんとういん、桃(もも)、綾(あや))で

 あり、 清円院の兄弟姉妹 は、 兄の上杉景勝 (うえす

 ぎ かげかつ) と 妹 (上条政繁室 (上条政繁の夫人)) 

 がいる。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 上杉景虎 (清円院夫)、 上杉景勝 (清円院兄   

 弟)、 仙桃院(清円院母)、 長尾政景 (清円院父) 

  てに関しは、 当日本史辞典の 『 上杉景虎 (うえすぎ 

 かげとら)、上杉景勝 (うえすぎかげかつ)、 仙桃院 

 (せんとういん)、 長尾政景 (ながおまさかげ) 』 を参

 照して下さい。

 

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♪♪ 清円院 (華渓院 が登場する、興味

 深い、ドラマ、映画、ドキュメンタりー。

 

■ 『 天地人 (てんちじん)  

 (NHK2009年大河ドラマ) 

● 清円院 (華姫(はなひめ、仮称) ) を演じた俳優名 : 

 相武 紗季  (あいぶ さき)。

 

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#seiwagenji

 

 清和源氏  

       (せいわげんじ)。

 

 清和源氏。

 名称 : 清和源氏 (せいわげんじ)。 

● 正式名 : 源 朝臣(みなもとの あそん)。

● 氏族名は、源(みなもと)。 姓(かばね)は、朝臣(あそ

 ん)。

■ 多くが武家源氏。 

■ 皇族賜姓 (こうぞくしせい)。 賜姓源氏 (しせいげん

 じ)。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 清和源氏の武家源氏 

 河内(かわち)源氏の、 源 頼信(みなもとの よりのぶ)、

 源 義家(よしいえ)、 源 頼朝(よりとも)、源 義仲(よしな

 か、木曽義仲)、源 義経(よしつね)、利(あしかが)氏

 源 義康(よしやす)とその子孫の足利 尊氏(たかうじ)、 

 新田(にった)氏の源 義重(よししげ)とその子孫の新田義

 貞(よしさだ)。 

 摂津(せっつ)源氏の源 頼光(みなもとの よりみつ) 。

● 甲斐(かい)源氏の源 義光(みなもとの よしみつ)とそ

 の子孫の武田信玄。

 

 

 清和源氏 (せいわげんじ) は、 皇族賜姓の賜姓源

 氏 で、一族名の 正式名は、源朝臣(みなもとのあそん) 

 で、 一族名の氏族名は、源(みなもと)、一族名の姓(か

 ばね)は、朝臣(あそん) である。

 

■ 皇族賜姓 (こうぞくしせい) とは、 皇族が天皇より

 賜(たまわ)る氏(氏族名)で、 源氏の他に、平氏、在原

 (ありはら)氏 などがある。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 清和源氏 (せいわげんじ)  は、 皇族賜姓 (こうぞ

 くしせい) で、 武家源氏の1つ である。

 清和源氏 (せいわげんじ) は、 賜姓源氏 で、一族

 名の正式名は、源朝臣(みなもとのあそん) で、 一族名

 の氏族名は、源(みなもと)、 一族名の姓(かばね)は、

 朝臣(あそん) である。

 

■ 清和源氏は、平安時代前期に、 皇族賜姓により誕生

 し、後に、 桓武平氏と並び、 武士の首長、棟梁(とうり

 ょう)となった家 である。

■ 清和源氏の武家源氏には、 河内(かわち)源氏の、 

 源 頼信(みなもとの よりのぶ)、  源 義家(よしいえ)、

 頼朝(よりとも)、  源 義仲(よしなか、木曽義仲)、 源 義

 (よしつね)、  利(あしかが)氏の源 義康(よしや す)

 とその子孫の足利 尊氏(たかうじ)、 新田(にった)氏の

 源 義重(よししげ)とその子孫の新田義貞(よしさだ)、 摂

 津(せっつ)源氏の源 頼光(よりみつ)、 甲斐(かい)源氏

 の源 義光(よしみつ) とその子孫の武田信玄 などがいる。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 清和源氏は、 清和(せいわ)天皇の孫の源経基(みな

 もとのつねもと) に始まる。

● 源経王は、 臣籍降下し、 天皇より源氏 (げんじ、み

 なもとうじ)の氏(氏族名)を賜(たまわ)り、 源経基 (み

 なもとのつねもと) と称す。

 

■ 清和(せいわ)天皇の皇子は、貞純親王(さだずみしん

 のう)で、 貞純親王の子は、 源経王(源経基、みなもと

 のつねもと)で、 源経基の子は、 源満仲(みなもとのみ

 つなか) である。

 

■ 源満仲の子である源頼信(みなもとのよりのぶ)は、河

 内源氏(かわちげんじ)の祖 となる。 

■ 源満仲のもう一人の子である源頼光(みなもとのより

 みつ)は、 摂津源氏(せっつげんじ)の祖となる。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 河内源氏(かわちげんじ) は、  摂津源氏をしのいで、

 源氏武士団の主流となる。

■ 河内源氏(かわちげんじ)の 祖の源頼信(みなもとの

 よりのぶ)の子は、源頼義(みなもとのよりよし) である。

 

 源頼義の子が、源義家(みなもとのよしいえ) である。

■ 源頼義のもう一人の子が、 源義光(みなもとのよしみ

 つ)で、 甲斐源氏の祖 である。

 

■ 源義家の子が、源義親(みなもとのよしちか)で、 源

 義親の子が、源為義(みなもとのためよし) である。

 源為義の子が、源義朝(みなもとのよしとも)で、 

 義朝の子が、 源頼朝(みなもとのよりとも、鎌倉幕府初

 代将軍) で、 源義朝のもう一人の子が、源義経(みな

 もとのよしつね) である。

● 源為義のもう一人の子が、源義賢(みなもとのよしか

 た)で、 源義賢の子が、 源義仲(みなもとのよしなか、

 木曽義仲) である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 源義家のもう一人の子が、源義国(みなもとのよしくに)

 で、 源義国の子が、源義康(みなもとのよしやす)で、足

 利氏の祖であり、 源義国のもう一人の子が、源義重(み

 なもとのよししげ)で、新田氏の祖である。

 

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#seikaninnomiya

 

■ 静寛院宮  

     (せいかんいんのみや)。

 

■ 静寛院宮。

■ 静寛院宮 (せいかんいんのみや、 和宮の落飾後の

 名) については、『 和宮 (かずのみや) 』 の項目 を

 参照して下さい。

 

● 静寛院宮 (和宮の落飾後の名) 、 和宮皇女和

 、 和宮親子内親王 (かずのみやちかこないしんのう)、  

 静寛院 と同一人物です。

 

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#sekkanke

 

■ 摂関家  

     (せっかんけ)。

 

■ 摂関家。 

■ 存続期間 : 平安時代中期〜江戸時代後期。 

  10世紀中頃〜19世紀中頃。

■ 名称 : 摂関家 (せっかんけ)。 

 別名 : 摂家(せっけ)。

 摂政関白に常任された藤原北家

 摂政関白家 (せつしょうかんぱくけ)。

 藤原氏摂関家。

■ 五摂家(ごせっけ)

○ 鎌倉時代に五摂家(ごせっけ)に分かれる。

 

 

■ 摂関家 は、摂政・関白に常任された藤原北家 で

 ある。

■ 摂関家 とは、 朝廷の摂政・関白に任じられる家

 柄 である。 

■ 摂関家 は、 鎌倉時代に、 近衛、九条、二条、

 一条、鷹司の5摂家(せっけ、摂関家) に分かれた。

 

■ 摂関家(せっかんけ)の政所(まんどころ)の長官

 を、別当(べっとう) と呼んだ。

 

 

 平安時代中期から江戸時代後期まで、 藤原氏の

 藤原北家の摂関家が、 朝廷の摂政・関白を、ほとん

 ど、独占した。 

 

 平安時代中期に、 藤原氏の藤原北家は、 朝廷

 の摂関家となり、 更に摂関政治を行い隆盛を極め、

 その後衰えはしたが、 江戸時代後期まで、摂関家

 は存続した。

 

■ 平安時代中期に、藤原氏の藤原北家が、 摂関家

 となり、 平安時代中期に、 藤原北家が摂関家とな

 り、 それ以後、藤原北家が朝廷の摂関(摂政・関白)

 をほぼ独占した。 鎌倉時代に入って、藤原北家の

 摂関家は、 近衛、九条、二条、一条、鷹司 の5摂

 家(せっけ、摂関家)に分かれた。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 平安時代中期に、藤原氏藤原北家 が 摂関家

  となる。

 平安時代中期から江戸時代後期まで、 藤原氏の

 藤原北家の摂関家が、 朝廷の摂政・関白を、ほとん

 ど、独占した。 

 藤原氏の藤原北家の摂関家 は、 鎌倉時代に、

 近衛、九条、二条、一条、鷹司の5摂家(せっけ、摂

 関家) に分かれた。

 

■ 摂関家 とは、 朝廷の摂政・関白(せっしょう・かん

 ぱく)に任じられる家柄である。 摂政・関白に任命さ

 れる家格をもつ家柄である。

■ 摂関家 (せっかんけ) とは、 平安時代中期から

 江戸時代後期までの続いた、 朝廷の摂政・関白に任

 じられる家柄 で、 藤原氏の藤原北家 である。

■ 摂関家 、 藤原氏の藤原北家 で、 鎌倉時代

 に 藤原氏の藤原北家 は 近衛、九条、二条、一条、

 鷹司の5摂家  (せっけ、摂関家)に分かれた。

 

■ 五摂家 (ごせっけ)

   鎌倉時代以来の摂政関白の家柄(いえがら)。

 藤原北家(北家藤原氏)から出た、近衛、九条、鷹司、

 二条、一条の5家をいう。

   平安時代中期に成立した摂関家 (藤原北家(北

 家藤原氏)の) は、 鎌倉時代に、5家に分かれた。

    藤原北家(北家藤原氏)の摂関家は、 1186年

 に源頼朝が九条兼実(くじょうかねざね)を朝廷の摂

 政に就けて近衛家と九条家に分かれ、 更に、鎌倉

 時代中期に、近衛家から鷹司家が分かれ、九条家か

 ら二条家、一条家が分かれ、 それ以後、江戸時代末

 期まで、5家が存続し、朝廷の摂政・関白をほぼ独占

 した。

 

■ 10世紀後半 (969年安和(あんな)の変)より、 

 摂政や関白は、 朝廷の常任の官となり (摂関常

 置されて本格化し)、 藤原氏の藤原北家が、摂関・

 関白をほぼ独占し、摂関家となる。

   更に、11世紀前半に、 藤原北家の摂関家の

 原道長(生没年966〜1027年)が摂関政治を行

 い隆盛を極めたが、 その後、藤原氏の藤原北家

 の摂政や関白は、 11世紀後半(1086年、院政

 政治開始)より 政治権力(日本の政治を支配する

 実権)は衰えたが、 藤原氏の藤原北家の摂関家 

 (藤原北家の藤原道長(みちなが)の子孫の御堂

 流) が、江戸時代後期まで、存続した。 

 

■ 摂関家の摂関政治の最盛期は、 11世紀の藤原

  道長・頼道(みちなが、よりみち)の時で、 藤原北

 家の藤原道長・頼道は、 広大な荘園を経済的基盤

 とし、 天皇の外戚となって、政治的地位を確保した。

 

■ 摂政・関白

 摂政 (せっしょう) は、 幼少(成人前)または女

 帝の天皇を補佐して、朝廷の政務を行う役職である。

 関白 (かんぱく) は、 成人の天皇を補佐して、

 朝廷の政務を行う役職 である。

● 最初の摂政の就任は、 593年の、厩戸王(うま

 やとおう、聖徳太)で、  最初の関白の就任 は、

 884 年の、藤原 基経(もとつね) であった。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

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#sekkanseiji

 

■ 摂関政治  

     (せっかんせいじ)。

 

■ 摂関政治。 

■ 時期 平安時代中期 (10世紀後半〜11世紀後

 半)。 

■ 名前 : 摂関政治 (せっかんせいじ)。

■ 平安時代中期の「荘園制」を基盤にした政治形態。

■ 朝廷の摂政・関白が、日本の政治を支配する政治

 形態。

 

 

■ (S3) 摂関政治 とは、朝廷の摂政・関白が、 日

 本の政治を支配する政治形態 で、 朝廷の摂政・関

 白(せっしょう・かんぱく)が、  朝廷の実権を握り、更

 に、日本の政治の実権を握り、 日本の政治を支配す

 る政治形態 である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 摂関政治では、天皇の臣下の摂政・関白が、朝廷の

 実権を握り、更に、日本の政治の実権を握り、 摂政は

 天皇幼少時、 関白は天皇成人後に、 天皇に代わっ

 て、 日本の国政を統治した。

 摂政 (せっしょう) は、 幼少(成人前)または女帝

 天皇を補佐して、朝廷の政務を行う役職 である。

 関白 (かんぱく) は、 成人の天皇を補佐して、朝

 廷の政務を行う役職 である。

● 最初の摂政の就任は、 593年、厩戸王(うまやとお

 う、聖徳太子) で、最初の関白の就任は、 884年の

 藤原 基経(ふじわらのもとつね) である。 

 

■ (S2) ⇒ (S3) 

   (S2) 律令政治 (7〜10世紀)は、 大土地私有

 の発生と農民の過重な負担に対する抵抗により、 10

 世紀頃に急速に崩壊し、 (S2) 律令政治 (7〜10

 世紀)は、 10世紀後半に、「荘園制」を基礎とする 

 (S3) 摂関政治 (10〜11世紀) に移行する(へ変

 わる)。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ (S3) 摂関政治 は、 朝廷の実権を握る、摂政・関

 白などの貴族が、日本の政治の実権を握り、日本の政

 治を支配する政治形態で、 10世紀後半から11世紀

 後半まで、権力をふるった。 しかし、 11世紀末より、 

 「院政政治」 にとって代わられた。

 

■ 日本では、 律令政治 (8世紀前前半〜10世紀後半) 

 が、衰えて、 摂関政治 (10世紀後半〜11世紀後半) 

 が、 始まる。

 

■ 摂関政治の最盛期は、 11世紀の藤原道長・頼道(み

 ちなが、よりみち)の時で、 摂関家の藤原道長・頼道は、

 広大な荘園を経済的基盤とし、天皇の外戚となって、政

 治的地位を確保した。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

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■ 10世紀後半 (969年安和(あんな)の変) より、 摂

 政や関白は、朝廷の常任の官となり (摂関常置されて本

 格化し)、 藤原北家が、摂関家となり、 摂政や関白は、

 11世紀後半(1086年院政開始)より  権力(日本を支

 配する実権) は衰えたが、  藤原北家の摂関家は、 江

 戸後期まで、存続した。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ (S3) ⇒ (S4) 摂政・関白に代わって、上皇が、日

 本の政治の実権を握ったため、 (S3) 摂関政治 (10

 〜11世紀) は、 (S4) 院政政治 (11〜12世紀)に

 移行する(へ変わる)。  

 

■ (S) 日本の政治形態。

 (S1d) 小国首長政治 (前1世紀〜紀元後5世紀)

 (S1g) 豪族連合政治 (5〜7世紀) ⇒ (S2) 律令

 政治 (7〜10世紀) ⇒ (S3) 摂関政治 (10〜11

 世紀) ⇒ (S4) 院政政治 (11〜12世紀) ⇒(S5)

 武家政治 (12〜19世紀) ⇒ (S6) 近代天皇親政

 政治 (近代天皇絶対主義政治) (19〜20世紀) ⇒

 (S7) 現代国民主権政治 (現代主権在民政治) (20

 〜21世紀の現在)。

● 上記項目の詳細に関しては、 当日本語辞典の各項

 目を参照して下さい。

 

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#sentoin

 

■ 仙桃院   

     (せんとういん)

    (仙洞院、桃、綾)。

 

■ 仙桃院。

■ 生没年 1524又は1528〜1609年。

■ 名前 : 仙桃院 (せんとういん)。 

  桃(もも)、 綾(あや)、 正式名 : 仙洞院。

● 桃(もも)、綾(あや)、 落飾後、 仙桃院

  (せんとういん)、仙洞院。 

■ 上杉謙信の実姉。

■ 越後の守護代・長尾為景の娘。

■ 越後・坂戸城主・長尾政景 の 正室(妻)。 

■ 上杉景勝の母(生母)。

 

■ 仙桃院 (せんとういん、生没年:1524または

  1528〜1609年) は、 桃(もも)、 綾(あや) 

  と言い、 落飾後(出家して)、 仙桃院 (せんと

  ういん)、 仙洞院 (正式名) と称した。

 

■ 桃 (仙桃院) は、 越後の守護代・長尾為景

  の娘で、 上杉謙信の姉で、 越後・坂戸城主・

  長尾政景 の 正室(妻)で、 上杉景勝の母(生

  母) である。

 

■ 桃 (仙桃院、上杉謙信の実姉) の父 は、 

    越後の守護代・長尾為景で、 桃 (仙桃院)の

  兄弟 は、 上杉謙信 (弟)がいて、 桃 (仙

  桃院)の夫 は、 長尾政景 である。

 

■ 桃 (仙桃院、上杉謙信の実姉) の子供 は、 

  二男二女で、 長男の長尾義景が10歳で早世

  し、 次男が、上杉景勝、 長女が、上杉景虎・

  室(妻)の華姫 (仮称)、 次女が 上条政繁・

  室(妻) である。

 

■ 桃 (仙桃院、上杉謙信の実姉) と 越後・坂

  戸城主・長尾政景 (上田・長尾氏・当主) との

  間に生まれた男子 が、 上杉謙信の家督を継

  ぐ、上杉景勝 である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

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■ 越後・坂戸城主・長尾政景 (上田長尾氏・当主) 

  の 家臣・樋口惣右衛門の嫡子 が、 直江兼続 

  (樋口兼続、与六) である。

 

● 上杉 謙信 (仙桃院の弟)、 長尾 政景 (仙桃

  院の夫)、 上杉 景勝(仙桃院の次男)、 華姫 

  (仙桃院の長女)、 直江兼続 (上杉景勝の家臣) 

  に関しては、当日本史辞典の 『 上杉 謙信 (う

  えすぎ けんしん)、 長尾 政景 (ながお まさかげ)、 

  上杉 景勝 (うえすぎ かげかつ)、 華姫 (はなひ

  め)、 直江兼続 (なおえ かねつぐ) 』 を参照し

  て下さい。

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♪♪ 仙桃院(せんとういん)が登場する、

  興味深い、ドラマ、映画。

 

■ 『 天地人 (てんちじん) 』  

   (日本のNHK2009年大河ドラマ)。

● 仙桃院(桃)を演じた俳優名 : 高島 礼子 

  (たかしま れいこ)。

● 仙桃院(桃)の後半生を描いているドラマ。

 

■ 『 風林火山 (ふうりんかざん) 』  

   (日本のNHK2007年大河ドラマ)。

● 仙桃院(桃)を演じた俳優名 : 西田 尚美。

● 仙桃院(桃)の前半生を描いているドラマ。

 

 

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 『 あなたのハートには 

    何が残りましたか? 』。

 

 

 

以  上。