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◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY 

   HANDBOOK

 

 

 カナヤマ 日本歴史辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 き 』。

 

 

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メ ニュー (目次)。  

 ■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

 

 □ 日本史辞典 (総合)    

 

□       ● 五十音順 (アイウエオ順)。

 

 □ 見出し語 きさ

 □ 見出し語 きな

 □ 見出し語 きま

 □ 見出し語 きよ

 □ 見出し語 きら

 □ 見出し語 きん

 

 

 き    

                           (き)。  《朝廷の地位》。

          (= 朝廷の位階1位〜3位

          の官人(官僚))。

          (⇒ 朝廷の位階

                    朝廷)。

          ○ 貴は、公卿(= 位階3

          位以上か参議)を意味す

          る場合もある。

           ■ 貴 (き)は、 律令制の朝廷の

              位階(1位〜8位、初位(そい))を

             持つ者 の中で、1位から3位まで

             の官人(官僚)である。  

             ■ 貴は、 公卿(くぎょう、位階3位

             以上か参議)を意味する場合もある。

 

 きい  紀伊 国。 

             (きい のくに)。 《旧地域名》。

             = 紀州(きしゅう))。 

          (≒ 現・和歌山県と三重県南部

          の相当地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の、

           旧国名(令制 国)の正式名)。

              K I I PROVINCE.

                    (⇒ 紀州(きしゅう))。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

          ■ 紀伊 国。

             <南海道 (旧広域地方)。

             <五畿七道。

             ■ 紀伊 国 (きい のくに)は、 律令制

             定後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             旧国(令制国)の正式名である

             ■ 紀州 (きしゅう)は、  律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、旧国

             (令制国)の正式名の、紀伊 国 (きい の

             くに)の 別称である。

             ■ 紀伊 国(= 紀州)は、 現・近畿地方

             の、現在の和歌山県と三重県南部 に相

                           当する地域である。

             ■ 紀伊 国(= 紀州)は、 五畿七道 (ご

             きしちどう)の南海道(なんかいどう)・旧広

                           域地方に属する。

 

〇 きい  議院内閣制。

             (ぎいんないかくせい)。

                    (⇒ 帝国議会)。

             ■ 近代日本(明治、大正、昭和戦前)の、

             の議院内閣制の歩み。

               近代日本(明治、大正、昭和戦前時代)

             では、 日清戦争前は、 超然主義を唱え

             る政府と衆議院が対立したが、 日清戦争

             後は、政府と衆議院の提携が進み、貴族

             院(きぞくいん、皇族・華族構成議院)が政

             府・衆議院と対立するようになった。 その

             後、大正デモクラシー下で、政党政治が続

             き、衆議院の政治的地位は高まったが、

             枢密院(すうみついん、天皇の諮問機関)・

             官僚・軍部などの議会外政治勢力により、 

             議院内閣制は、制限された。 1932年

             (昭和7年)の5・15事件による政党内閣

             の崩壊以後、(帝国)議会の地位は低下

             した。

 

〇 きい  紀伊藩。

         (きいはん)。 《藩名》。

         (= 紀州藩)

            ■ 紀伊藩 (きいはん)は、 紀州藩(きし

            ゅうはん)とも称する。

                   (⇒ 紀州藩)。

 

〇 ぎお  衹園。 

             (ぎおん)。 《地名》。 

             (⇒ 舞妓 まいこ)。

             ■ 京都の衹園地域。

             ● 京都の衹園(ぎおん)は、京都の

             八坂神社(やさかじんじゃ)の西部の、

             四条通り(しじょうどおり)をはさんで、

             南北に広がる京都市東山区のエリア

             である。 

             ● 園地域の南部の一部は、江戸

             時代まで建仁寺(けんにんじ)の寺領

             地の一部であったが、明治時代に地

             上げされ、きり離されて、衹園の一部

             として、独立する。

             ● 園地域は、 明治時代に、街並

             みが整い、 花街(かがい)の部分地

             は、個人 の所有地ではなく、組合の所

             有地である。

             ■ 祇園の3花街。

             ● 京都の衹園地域には、 花見小路

              通(はなみこうじどおり)や白川南通

              (しらかわみなみどおり)などを中心

              に、 「衹園東」(ぎおんひがし)、「衹

              園甲部」(ぎおんこうぶ)、 「宮川町」 

              (みやがわちょう) の3花街(かがい)

              がある。

              ■ 衹園の 芸舞妓。

              ● 京都の5花街(ごががい、衹園甲

              部、衹園東、宮川町、先斗町、上七

              軒)で、  (ぎおん)地域には、 

              花見小路 通(はなみこうじどおり) や 

              白川南通(しらかわみなみどおり)な   

              を中 心に、「衹園東」(ぎおんひがし)、

              「衹園甲部」(ぎおんこうぶ)、 「宮川

              町」(みやがわちょう)の3花街(かが

              い)がある 。

              ● 衹園の 芸舞妓とは、 園の3花

              で、所属する各花街を中心に活動

              する芸舞妓である。

              ● 京都の3花街 (衹園甲部、衹園

              東、宮川町)がある衹園の芸舞妓(げ

              いまいこ)は、現在、約170人いる。

              ■ 花街。

              ● 花街(かがい、はなまち)とは、 芸

              舞妓(げい まいこ)の芸能を披露する店

              を中心に形づくられた区域であり、 料

              理屋、待合茶屋、置屋などがある。

                          ■ 京都の芸舞妓。

              ● 舞妓(まいこ)や芸妓(げいこ)を、

              まとめて、芸舞妓(げいまいこ)と呼ぶ。

              ● 京都の芸舞妓(げいまいこ)は、 

              各花街(かがい)の置屋(おきや)に所

              属し、京都で芸能を披露する。

              ● 置屋(おきや)とは、 芸舞妓(げ

              いまいこ)が所属するプロダクションの

              ような場所である。

              ● 「都をどり」 、「鴨川をどり」、「京を

              どり」、「北野をどり」、「衹園をどり」 な

              どは、 京都の芸舞妓が芸能を披露す

              る場である。

              ■ 京都の衹芸妓の歴史。

              ● 園(ぎおん)地域は、 江戸時代

              に、八坂神社(やさかじんじゃ)の門前

              町であり、 八坂神社の西楼門(にしろ

              うもん)の西部に、 四条通り(しじょう

              どおり)をはさんで、南北に、たくさん

              の、茶屋(ちゃや、喫茶店)や芝居小

              屋(しばいごや、歌舞伎座)が並んで

              いた。

              ● 園地域は、 江戸時代に、単な

              る休憩の茶屋(ちゃや、喫茶店)の水

              茶屋(みずじゃや)があるエリアから、 

              女性を置いてお酒を出し舞いを披露す

              る本茶屋(ほんじゃや)があるエリアに

              発展する。 ここに、「芸妓(ぎおん

              げいこ)」が、江戸時代前期に、誕生し、

              今日に至っている。

              ● また、京都・高台寺(京都・下河原

              町)に移り住んだ高台院(こうだいい

              ん、おね(ねね))が京都に連れてきた

              芸の達人たちが、下河原の茶屋の座

              敷にあがり、隣町の園の芸妓(げ い

              こ)は、その影響を受け、さらに、芸を

              磨く。             

 

〇 ぎお  祇園女御 

             (ぎおんのにょうご) 。 

          ○ 白河上皇の寵愛する、側室

           夫人。

          ○ 平清盛の養母。

          ○ 平清盛の伯母(おば) 。

             (平清盛の生母は不明だが「祇

          園女御の妹」(ぎおん(の)にょうごの

             いもうと)という説がある) 。

 

〇 ぎお  祇園女御の妹 

                (ぎおん(の)にょうごのいもうと)。

              ○ 平清盛の生母、

          白河 上皇の側室夫人。

          ○ 平清盛の生母は不明だが、

          平清盛の生母は「祇園女御の

          妹」であり、また、「祇園女御の

          妹」は白河上皇の側室夫人で

          あるという説がある。

 

〇 ぎお  祇園祭。 

               (ぎおんまつり)。

             ■ 祇園祭は、 疫病退散を祈って、古代

             より、京(都)で行われている祭り である。

 

〇 きが   癸亥。 

                 (きがい)《干支》。

                           《干支年》。 《干支暦》。

          (⇒ 干支(かんし)

          (⇒ 甲子(こうし) 、癸亥(きがい))。

          (⇒ 干支表示年(= 干支年)

          (⇒ 干支年・西暦年変換法

          (⇒ 干支暦

             ■ 癸亥 (きがい)は、 

             干支(かんし)の60番目の文字である。

             ■ 干支年(かんしねん)は、 

             干支(かんし)を暦として用いた年で

             ある。

             ■ 干支暦(かんしれき)は、

             60年ごとに同じ年がめぐってくる暦

             である。

             ● 干支暦は、

             1番目の甲子(こうし)の年から60番

             目の癸亥(きがい)の年までである。

 

〇 きく   菊姫

             (きくひめ)。

          (1563?〜1604年)。

          ○ 上杉景勝の正室夫人。

          ○ 武田信玄の娘。

 

 きげ  紀元後。

             (きげんご)。

             (= 西暦の紀元後1年から現在

           までの年間、英:A.D.;C.E.)。

          (= キリスト教暦・キリスト(救世

           主)以後)。

                     A.D.; C.E..

          (⇒ 西暦)。

 

 きげ  紀元前。

             (きげんぜん)。 

             (= 西暦の紀元前1年以前の過

           去の年間、英:B.C.;B.C.E.)。

          (= キリスト教暦・キリスト(救世

                     主)以前)。

          B.C.; B.C.E.

                    (⇒ 西暦)。

 

〇 きげ  紀元前後頃。 

             (きげんぜんごころ)。 

             (= 約2000年前)。

         (⇒ 西暦)。

 

〇 きげ  紀元前10世紀〜紀元前

       1世紀。

              (きげんぜんじゅっせいき〜きげんぜん

             いっせいき)。

              (= 前10世紀〜前1世紀)。

           (= 前1000年〜前1年)。

          (= 紀元前1000年〜紀元前1年)。

           (紀元前の世紀)。 《世紀》。 

          THE 10TH TO 1ST 

          CENTURY B.C.

          (⇒ 世紀 世紀・西暦

        年号対照一覧表)。

                     ○ 紀元前 1 世紀

           (= 紀元前100年〜前1年)。

                     ○ 紀元前 2 世紀

           (= 紀元前200年〜前101年)。

                     ○ 紀元前 3 世紀

           (= 紀元前300年〜前201年)。 

                     ○ 紀元前 4 世紀

           (= 紀元前400年〜前301年)。 

                     ○ 紀元前 5 世紀

           (= 紀元前500年〜前401年)。  

                     ○ 紀元前 6 世紀

           (= 紀元前600年〜前501年)。  

                     ○ 紀元前 7 世紀

           (= 紀元前700年〜前601年)。  

                     ○ 紀元前 8 世紀

           (= 紀元前800年〜前701年)。  

                     ○ 紀元前 9 世紀

           (= 紀元前900年〜前801年)。  

                     ○ 紀元前10 世紀

           (= 紀元前1000年〜前901年)。 

 

〇 きげ   紀元前 21世紀〜

              紀元前 11世紀。

              (きげんぜんにじゅういっせいき〜

              きげんぜんじゅういっせいき)。

          (= 前21世紀〜前11世紀)。 

          (= 前2100年〜前1001年)。

              (= 紀元前2100年〜紀元前

            1001年)。

          (⇒ 世紀 世紀・西暦

        年号対照一覧表)。

           (紀元前の世紀)。 《世紀》。 

          THE 21ST TO 11TH

          CENTURY B.C.

                     ○ 紀元前 11世紀

           (= 紀元前1100年〜前1001年)。 

                     ○ 紀元前 12世紀

           (= 紀元前1200年〜前1101年)。 

                     ○ 紀元前 13世紀

           (= 紀元前1300年〜前1201年)。 

                     ○ 紀元前 14世紀

           (= 紀元前1400年〜前1301年)。 

                     ○ 紀元前 15世紀

           (= 紀元前1500年〜前1401年)。 

                     ○ 紀元前 16 世紀

           (= 紀元前1600年〜前1501年)。 

                     ○ 紀元前 17世紀

           (= 紀元前1700年〜前1601年)。 

                     ○ 紀元前 18世紀

           (= 紀元前1800年〜前1701年)。 

                     ○ 紀元前 19世紀

           (= 紀元前1900年〜前1801年)。 

                     ○ 紀元前 20世紀

           (= 紀元前2000年〜前1901年)。 

                     ○ 紀元前 21世紀

           (= 紀元前2100年〜前2001年)。 

 

〇 きこ  聞得大君。

            (きこえおおきみ)。 《琉球王国》。

          (⇒ 琉球王国沖縄の歴 史)。

             ■ 聞得大君 (きこえおおきみ)

             は、 琉球王国(1429年〜1872年)

              の、琉球神道の最高神女(しんにょ)

             である。

 

#kisa

 

〇 きし  紀州。

            (きしゅう)。= 紀伊 国(きい のくに))。

         (≒ 現・和歌山県と三重県南部

          の相当地域)。

          《旧地域名》。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国名(令制

           国)の別称)。

                           KISHU AREA.

                   (⇒ 紀伊 国(きい のくに))。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

             ■ 紀州 (きしゅう)は、  律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、旧国

             (令制国)正式名の、紀伊 国 (きい のく

             に)の 別称である。

                          ■ 紀州(= 紀伊国)は、 南海道(なんか

             いどう)・旧広域地方に属し、 現・近畿地方

             の、現在の、和歌山県と三重県南部に相当

             する地域である。

 

〇 きし   紀州藩

             (きしゅうはん)。

          (= 紀伊藩 (きいはん))。

          (= 紀伊 国を領有した藩)。

          (≒ 概ね、現在の、和歌山県と

          三重県南部の相当地域を支配

          した藩)。

              ● 紀州藩は、 江戸時代初期から明治

             時代初期まで存続した、紀伊 国 (きい

             のくに、概ね、現在の、和歌山県と三重

             県南部の相当領域) を領有し(統治し、

             領地とし)、支配基盤(行政地域)とした

             藩(大名)である。

              ● 紀州藩は、 江戸時代の、徳川氏の

             御三家の1つであり、 親藩大名の藩で

             あった。

 

〇 きし   紀州派 (きしゅうは)

          (= 南紀派)。

           ○ 江戸幕府の次期14代将軍に

             紀州藩主・徳川慶福(よしとみ)(後

          の徳川家茂(いえもち))を推する人

          (者)。

                  ○ 井伊直弼(なおすけ)など 。

 

〇 きし   紀州派(南紀派)と一橋派

             の対立 (きしゅうは(なんきは)とひと

                           つばしはのたいりつ)。

          (1853〜1860年頃)。

        (⇒ 幕末日本政治・政争

         変遷一覧表)。

 

〇 きそ  木曾 義仲。

             (きそ よしなか)。

          (= 源 義仲(みなもとの よしなか)

          (1154年〜1184年)。

             (⇒ 源 義仲)。

 

〇 きぞ  貴族 (きぞく)。

          (= 朝廷の位階が五位以上の者)。

        (⇒ 朝廷)。

             ■ 貴族とは、 前近代の朝廷の律令官制

             (律令制の身分制)の、位階が、五位以上

             の者 である。

             ● 狭義では、 公家の貴族で、 主に儀

             式と文治をもって天皇家に仕(つか)える、

             前近代の朝廷の、貴族(宮廷貴族)、

             廷の上・中級家臣・臣下 である。

 

〇 きた  きた (仮称、実名不詳) 。

          (= 直江兼続の妹)。

                    (NHK大河ドラマの仮称)。

          (16〜17世紀)。

          ○ 直江兼続の妹。

 

〇 きた  北の方。

             (きたのかた)。   《 夫人》。

           (= 正室夫人)。

          (⇒ 正室夫人)。

 

〇 きた  北野大茶湯

             (きたのおおちゃのゆ)。

                          (茶会)。  《茶の湯》。

          (= 北野天満宮茶会)。

          (⇒ 茶会)。

          (⇒ 豊臣秀吉千利休)。

          (⇒ 黄金の茶室)。

             ■ 北野大茶湯 (きたのおおちゃのゆ、北

             野天満宮茶会) とは、 豊臣秀吉により、

             民衆接待のため、 1587年(天正15年)

             10月1日に、京(都)の北野天満宮で行わ

             れた大茶会 である。

             ◆ 秀吉の、茶の湯接待。

             ■ 秀吉の、天下統一前の4大茶会

                            (1584−1587年)。

                             1590年(天正18年)の天下統一(日

             本本土・全土統一統治)の前に、 豊臣秀

             吉は、天下人(天下統一者)を目指して、

             接待のため、千 利休(千 宗易)と相談して、

             1584年(天正12年)から1587年(天正

             15年)までの間、4大茶会(イベント茶会)

             を開いた。

                その4大茶会(イベント茶会)とは、(1) 

             有名茶人接待のための1584年(天正12

             年)10月の大坂城茶会、 (2) 皇族・公家

             接待のための1585年(天正13年)10月の

             禁裏(禁中)茶会、 (3) 九州征伐参加大

             名・武将接待のための1587年(天正15年)

             1月の大坂城茶会、 (4) 民衆接待のため

             の1587年(天正15年)10月の北野天満宮

             茶会(北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ) で

             ある。

             ● (4) 1587年(天正15年)・北野天満宮

             茶会 (北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ))。

                1587年(天正15年)10月の大茶会は、

             民衆の人気を得るため、民衆の好感度調査

             のため、 京(都)の北野天満宮(きたのてん

             まんぐう)で、一日、民衆を招待して行われた。

 

〇 きた  北庄城。  

                          ( きたのしょうじょう)。 《城》。

                          (⇒ 小谷城、豊臣大阪城)。

           (⇒ )。

           (⇒ 豊臣 秀吉豊臣氏)。

           (⇒ 豊臣 秀吉 ガイドブック)。

                          (⇒ 淀殿お初お江)。

                          (⇒ 柴田勝家お市)。

             ■ 北庄城 (きたのしょうじょう)は、 越前 

             (えちぜん、現・福井県北部の相当地域) に

             あった、柴田勝家の本拠地の城(本城)であ

             る。

             ● 北庄城は、 柴田勝家 (しばたかつい

             え)、 お市 (おいち、浅井長政・正室夫人、

             織田信長の妹、浅井3姉妹の生母)、 浅井 

             3姉妹 (茶々(ちゃちゃ)、初(はつ)、江(ご

             う)) が、住んでいたお城である。

             ● 1583年に、 近江国(おうみのくに、現・

             滋賀県の相当地域)で、羽柴秀吉(豊臣秀

             吉)と柴田勝家との間で賤ヶ岳の戦いが起

             こり、柴田勝家が敗(やぶ)れ、敗走し、羽

             柴秀吉により越前の北庄城まで追撃されて、

             北庄城は落城する。

             ● 1583年に、北庄城 (きたのしょうじょ

             う)は、 羽柴秀吉(豊臣秀吉)に攻められ

             て、落城した。 その際、お市と柴田勝家

             は北庄城で自害し、お市の子・浅井3姉妹 

             (茶々、初、江)は北庄城から落ち延びた。

 

〇 きた  北政所

             (きたのまんどころ)。 《尊称》。《人名》。

          (= 摂政・関白の正室夫人)。

          (= ねね(おね))。

          (生没年:1549年ー1624年)。

          (⇒ ねね(おね))。

              ■ 北政所 (きたのまんどころ)とは、 摂

              政・関白の正室夫人である。

              ■ 豊臣秀吉の正室夫人のねね(おね)

              1549年ー1624年) は、 豊臣秀吉

              の関白就任により、 北政所 (きたのま

              んどころ)と称される(呼ばれる)。                          

              ■ 豊臣秀吉の正室夫人の、北政所 (き

              たのまんどころ、1549年ー1624年) 

              は、 ね、ねね、おね、高台院(こうだいい

              ん)、ねい、吉子 等とも称する。

 

〇 きた  北畠 顕家。 

            (きたばたけ あきいえ)。

          ○ 公家・大納言・北畠親房(ちかふ

             さ)の男子。

          ○ 後醍醐天皇や南朝に最後まで

          味方した武将。

          (⇒ 建武政権建武の新

        足利尊氏後醍醐天

               

 

〇 きた  北畠 親房。 

             ( きたばたけ ちかふさ)。

          ○ 公家・大納言。

          ○ 後醍醐天皇や南朝に味方した

          公家。

          (⇒ 建武政権建武の新

        足利尊氏後醍醐天

               

 

 きた  北山殿。

             (きたやまでん、きたやまどの)。 

             《別荘》。

          (= 北山山荘(きたやまさんそう)

          後の鹿苑寺(ろくおんじ、= 金閣寺)。

          ○ 北山殿は、足利義満の別荘

          (山荘)。

           (⇒ 鹿苑寺(= 金閣寺))。

           (⇒ 金閣北山文化

         足利義満)。

        (⇒  鹿苑寺 (= 金閣寺)

         の金閣 の画像アルバム 

        No.1)。

             ■ 北山殿 (きたやまでん 、きたやまど

             の)は、足利義満の 別荘(山荘)であり、 

             足利義満死後、鹿苑寺 (ろくおんじ、通

             称・金閣寺)という禅宗寺院 になった。

                北山殿は、 金閣 (きんかく、= 舎利

             殿(しゃりでん))のある、北山殿 (きたや

             までん、北山山荘(きた やまさんそう))で

             あり、 金閣(きんかく、= 舎利殿(しゃりで

                           ん))を含む別荘(山荘)全体である。

             ■ 北山殿 (きたやまでん、北山山荘(き

             たやまさんそう))は、 足利義満 (あしか

             がよしみつ、室町幕府・第3代将軍、法名

             (戒名):鹿苑院) の別荘(山荘)であっ た。

                足利義満死後、現在ある鹿苑寺(ろ

             くおんじ、= 通称・金閣寺)という禅宗仏教

             寺院となった。

             ■ 北山殿 (きたやまでん、後の鹿苑寺

             (= 金閣寺))の金閣は、舎利殿である。

                舎利殿(しゃりでん) とは、 シャカ

             (= ブッダ)の遺骨が納められている建物

                           である。

                金閣 (北山殿(後の鹿苑寺(= 金閣

             寺))の舎利殿)は、 北山文化の代表作の

             1つである。

 

 きた   北山殿。

             (きたやまどの)。 《人名》。

          (= 足利 義満)。

           (⇒ 足利義満北山殿

              (きたやまでん))。

           (⇒ 金閣北山文化

         鹿苑寺、金閣寺)。

        (⇒  鹿苑寺 (= 金閣寺)

         の金閣 の画像アルバム 

        No.1)。

              ■ 北山殿 (きたやまどの 、人名)とは、 

              室町幕府・第3代将軍の足利 義満であり、 

              足利 義満が将軍職を譲った後、北山殿

                           (きたやまでん、= 北山山荘、後の鹿苑寺

                           (ろくおんじ、= 金閣寺) に居住していたこ

             とから、足利 義満は、北山殿とも呼ばれた。

 

 きた  北山文化

             (きたやまぶんか)。

          (⇒ 鹿苑寺・金閣 (金閣) 画像

          アルバム No.1)。

 

〇 きち  吉助 (きちすけ) 。  

             (= 竹中重門(しげかど)、幼名)。

             竹中 半兵衛(重治)の嫡男。

       (⇒ 竹中半兵衛)。

 

〇 きち  吉之助 (きちのすけ) 。

          (= 西郷 吉之助、西郷 隆盛)。

 

〇 きち  帰蝶。

             (きちょう)。 《人名》。

            (= 濃姫(のうひめ) 、お濃(おのう))。

          ○ 織田信長の正室夫人。

          ○ 美濃の戦国大名・斎藤道三

                     (利政)の娘。

        (⇒ 濃姫織田信長)。

 

〇 きっ  吉川 元春

             (きっかわ もとはる)。 《人名》。

          1530 〜1586年)。

          (⇒ 毛利輝元毛利元就)。

          (⇒ 中国大返し)。

          ○ 毛利元就(もとなり)の次男。

          吉川家の養子となる。 毛利

          輝元の叔父(おじ)。   

          ○ 室町時代後期(戦国時代)、

          安土桃山時代の武将で、毛利

          家を支えた、吉川家の当主。

 

〇 きっ  吉川 広家。

             (きっかわ ひろいえ)。 《人名》。

          ○ 吉川元春の子。

             ● 吉川 広家(きっかわ ひろいえ)は、

              吉川元春の子である。

             ● 吉川 広家は、1600年(慶長5年)の

             関ヶ原合戦では、石田方西軍に属したが、

             徳川方東軍に内通し、毛利秀元の軍の先

             鋒隊を務め、関ヶ原の南宮山に布陣する

             毛利軍本隊の進軍を阻んだ。

 

〇 きっ  吉法師。

             (きっぽうし)。 《人名》。

         (= 織田信長の幼名)。

         (⇒ 織田信長)。

 

〇 きど  木戸 孝允

             (きどたかよし)。 《人名》。

          (= 桂 小五郎)。

          (1833〜1877年) 。

          ○ 長州藩士出身。

          ○ 幕末、尊王倒幕派の志士。

          ○ 明治初期、開明的な明治新政

          府の指導者の一人。

 

〇 きど  木戸邸会議。

             (きどていかいぎ)。 《会議》。

          (= 廃藩置県・木戸邸密談)。

          (= 廃藩置県を決定した木戸邸

          密談会議)。

          (1871年(明治4年)7月9日) 。

          (⇒ 廃藩置県)。

          (⇒ 西郷隆盛)。

        (⇒ 近代日本政府)。

          ○ 日本近代化の基盤構築は、

          西郷隆盛の一言で決まった!

             ■ 廃藩置県は、 1871年(明治4年)

             の7月9日の、木戸邸会議 (きどてい

             かいぎ= 廃藩置県・木戸邸密談)で最

             終決定され、 同年7月14日に、実施

             された。

             ■ 弱肉強食の世界の中で、当時、欧

             米列強から弱小国の日本を植民地化

             させないためにも、 廃藩置県は、日

             本を中央集権化し、明治新政府(近代

             日本政府)が日本全国から租税と兵を

             集め、独自の財源と軍事力をもち、富

             国強兵を推進する基盤となる政策であ

             った。

                また、廃藩置県は、 日本の封建

             制度を廃止する主要な政策である。 

                将来武士の困窮が予想される

             藩置県ではあるが、 西郷隆盛は、当

             時、中央集権化していない、明治新政

             府(近代日本政府)が財源や軍事力で

             弱体で倒れかねない状況の中で、廃藩

             置県に賛成する。

             ■ 廃藩置県は、 1871年(明治4年)

             7月14日の廃藩クーデターであり、 

             日本全国の藩が持つ財源と軍事力を

             藩から奪い、明治新政府( 近代日本政

             府)に移す政策である。 

              ■ 木戸邸会議 (きどていかいぎ、= 廃

             藩置県・木戸邸密談)とは、 1871年

             (明治4年)7月9日に、 西郷隆盛  (さ

             いごうたかもり)、 大久保利道 (おおく

             ぼとしみち)、 木戸孝允 (きどたかよし)、

             大山 巌(おおやまいわお)、 井上馨(い

             のうえかおる)、 山縣有朋(やまがたあ

             りとも)、 西郷従道(さいごうじゅうどう)

             の7名の明治新政府( 近代日本政府)

             の指導者が東京の木戸邸に集まり、廃

             藩置県を決定した密談会議である。

                1869年(明治2年)の版籍奉還後、

             廃藩置県案は、 旧薩長藩出身の指導

             者の間で密かに進められ、 1871年

             (明治4年)7月9日の木戸邸会議(= 廃

             藩置県・木戸邸密談)で、西郷隆盛は、

             廃藩置県に対する予想される抵抗は

             私が一身に引き受ける (反乱、暴動は、

             私が叩き潰す)」という発言をし、廃藩置

             県は、最終決定された。

             ■ そして、1871年(明治4年)7月14

                         日に、 明治新政府( 近代日本政府)は、

                         在東京の知藩事(旧藩主)を、皇居に集

              めて、勅命(ちょくめい、天皇の命令)と

              いう形式で、廃藩置県を命じた。ここに、

             日本の近代化の扉(と びら)が開かれ

             た。 

                                 知藩事(旧藩主)への事前通告は、

             全くなかった。 

             ■ 明治新政府(近代日本政府) の知

             藩事(旧藩主)の反乱等の予想に反し

             て、 廃藩置県を通告され解任された、

             日本全国の知藩事(旧藩主)の抵抗は、

             少なかった。

 

#kina

 

〇 きな  畿内 

             (きない)。 《旧地域名》。

          (= 五畿(ごき))。

          (≒ 現在の京都府南部・大阪府・

          奈良県に相当する地域)。

          (= 畿内・広域地方)。

          (= 五畿七道の1つ)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の、

           旧地方名の正式名)。

             KINAI REGION.

          ■ 畿内・旧広域地方。

             前近代日本の、@ 山城 国 

           (京都府南部)、 A 摂津 国

           (大阪府西北部)、 B 河内

          国 (大阪府東部)、 C 和泉

          国 (大阪府西南部)、 D 大

          和 国 (奈良県)、 の地域。

          ■ 畿内・旧広域地方。

             前近代日本の、@ 山城 国 

           (やましろ のくに、現・京都府南部

          の相当地域)、 A 摂津 国 

           (せっつ のくに、現・大阪府北西部

          の相当地域) 、 B 河内 国 

          (かわちのくに、現・大阪府東部

          相当地域) 、 C 和泉 国 (

          ずみ のくに、現・大阪府南西部

          相当地域) 、 D 大和 国 (

          まと のくに、現・奈良県の相 当

          域)、 の地域 。

          ■ 畿内・旧広域地方。

            <五畿七道 (ごきしちどう)。

              (≒ 日本本土 (本州、四国、九州))。

            <旧大地域名。

            <旧地域名。

            <地域名。

            <日本の地名

            ■ 畿内 (きない)とは、 現在の京都府 南

            部・ 大阪府・奈良県に相当する地域である。

            ■ 日本列島の日本本土(本州、四国、九

            州本土)を区分する方法の1つとして、

            前近代日本では、 日本本土を3分割し、

            (1) 畿内(きない)とその周辺地、 

            (2) 西国(さいごく) 

            (3) 東国(とうごく) 

            の3地域があり、 

            畿内 (きない、現・京都府南部・大阪府・奈

            良県の相当地域) からみて、 

            (1) 畿内とその周辺地の相当地域の

            近畿地方、

            (2) 西国 (さいごく、畿内からみて、西方

            にある地域)の相当地域の

            中国地方、四国、九州本土、

            (3) 東国 (とうごく、畿内からみて、東方

            にある地域)の相当地域の

            中部地方、関東地方、東北地方

            の3地域がある。

                   (⇒ 西国(さいごく)、東国( とうごく))。 

                   (⇒ 五畿七道)。

         (⇒ 前近代日本の地域名)。

         (⇒ 旧地域名)。

         (⇒ 日本の地名)。

 

 きの  紀伊国屋 文左衛門 

             (きのくにやぶんざえもん)。 

             (略名:紀文)。

             ○ 実在した人物か、架空の人物か、不明で

              ある。 

             ○ 江戸時代前期の商人。 

 

 きの  木下 家定

             (きのした いえさだ)。

          (= 杉原家定)。

          (1543〜1608年)。

          ○ 「ねね(おね)」の実兄。

          ○ 戦国時代・安土桃山時代・

                     江戸時代初期の武将。

          □ 豊臣秀吉 関連年代順

                       出来事

 

〇 きの  木下 藤吉郎  

             (きのしたとうきちろう)。

          (= 豊臣秀吉)。

              (⇒ 豊臣 秀吉)。

          □ 豊臣秀吉 関連年代順

                       出来事

 

〇 きの  木下 藤吉郎秀吉

             (きのした とうきちろうひでよし)。

          (= 豊臣秀吉)。

              (⇒ 豊臣 秀吉)。

          □ 豊臣秀吉 関連年代順

                       出来事

 

〇 きの  木下 弥助

             (きのした やすけ)。

          (= 三好 吉房 みよし よしふさ

             (一路 いちろ))。

              (⇒ 三好 吉房)。 

 

〇 きび   吉備 真備

                            (きびの まきび)

             (= 下道真 備 しもつみち

                                  のまきび)。

           (693年〜775年)。

          ○ 奈良時代の学者、

            政治家。

 

〇 ぎふ  岐阜県。

             (ぎふけん)。

             (≒ 飛騨 国 と 美濃 国 の相当

          領域)。

          (現都道府県)。 《現地域名》。

             (≒ 前近代の、@ 飛騨 国 (

           だ の くに、飛州(ひしゅう)、岐阜県

              北部) と、 A 美濃 国 (みの

                     のくに、濃州(じょうしゅう、のうしゅう)

          岐阜県南部) の相当領域)。

                    GIFU PREFECTURE.

                    (⇒  飛騨 国 美濃 国)。

                      (⇒ 都道府県)。

                      (⇒ 前近代日本の地域名)。

                      (⇒ 旧国(= 令制国))。

                      (⇒ 旧地域名地域名)。

                      (⇒ 日本の地名)。

 

〇 ぎふ  岐阜城

             (ぎふじょう)。  《城》。

               (= 前の稲葉山城)。

                   (⇒ 稲葉山城)。

          ■ 戦国時代の岐阜城(前の稲葉

                  山城)の城主の変遷。

             ■ 岐阜城(ぎふじょう)は、 織田信長が天

             下取りの足がかりとした城である。

             ■ 岐阜城 (ぎふじょう、= 前の稲葉山城

             (いなばやまじょう、岐阜県岐阜市)は、 

             濃国(みののくの、現・岐阜県南部の相当

             地域)の、標高・329mの金華山(きんかざ

             ん)の山頂にあった城である。

                     ■ 戦国時代(= 室町時代後期)の、岐阜城 

             (ぎふじょう、前の稲葉山城(いなばやまじょ

             う))の城主は、次の順序で、変わっていった。

             (1) 稲葉山城城主・守護代斎藤氏(しゅごだ

              いさいとうし)。

             (2) 稲葉山城城主・長井長弘(ながいなが

              ひろ)。

             (3) 稲葉山城城主・斎藤道三(利政)(さい

              とうどうさん(としまさ))。

             (4) 稲葉山城城主・斎藤義龍(さいとうよし

              たつ)。

             (5) 稲葉山城城主・斎藤龍興(さいとう たつ

              おき)。

             (6) 岐阜城城主・織田信長(おだのぶなが)。

              ■ 1567年(永禄10年)に、織田信長は、

             美濃国(みののくの、現・岐阜県南部の相

             当地域)を平定し、 稲葉山城に入り、こ

             れを岐阜城(ぎふじょう)と改名し、天下取

             りの足がかりとする。

 

〇 きへ  喜平次。

             (きへいじ) 。

                    (= 上杉景勝 うえすぎかげかつ)。

       (⇒ 上杉景勝

 

〇 きへ  奇兵隊。 

             (きへいたい)。

          (1863−1869年)。

             (⇒ 高杉晋作)。

             ■ 長州藩の奇兵隊は、 1863年(文久

              3年)6月に、高杉晋作が創設した、農工

             商民、下級武士を合わせた、志願兵の軍

             隊である。  

                長州藩の奇兵隊は、 長州藩の約

             400種類の長州藩「諸隊」(しょたい、民

             兵軍(民間兵軍隊))部隊の1つであった。

             ● 長州藩の奇兵隊は、 元長州藩・奇

             兵隊隊長の1人で、明治政府要人の山

             県有朋(やまがたありとも)が指導し明

             治時代初期に実現した、日本の国民皆

             兵制の軍隊の先駆的軍隊であった。

              ● 奇兵隊は、 藩の正規兵ではない

             軍隊という意味である。

              ● 高杉晋作は、最初の奇兵隊隊長 で

             あり、その後、奇兵隊を退く。

 

#kima

 

 きも   肝付 尚五郎 

             (きもつき なおごろう)。

            (= 小松帯刀 こまつたてわき)。

             (⇒ 小松帯刀)。

 

 きゅ  久安。 (きゅうあん)。 

             ○ (1145〜 1151年)。

             ● 1145年・久安元年・7月22日〜

                1151年・久安 7年・1月26日。 

             ● 平安時代後期。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

 きゅ  旧国 

            (きゅうこく)。 (= 令制国)。

            (= 日本本土・約68旧国)。

            (= 令制国(りょうせいこく))。

            (= 前近代日本の、地方行

           政区分の地域名)。

            KYUKOKU PROVINCES.

               (⇒ 令制国(= 旧国))。

                   (⇒ 都道府県)。

                   (⇒ 前近代日本の地域名)。

                   (⇒ 旧地域名地域名)。

                   (⇒ 日本の地名)。

                   ■ 旧国(= 令制国)

                    (日本本土)。

            <旧・中地域名。

            <旧地域名。

            <地域名。

            <日本の地名

            ■ 旧国(= 令制国) (きゅうこく(りょう

            せいこく))は、 前近代日本の地域名

            であり、 飛鳥白鳳時代末期から江戸

            時代まで、 紀元(後)701年頃から

            1868年頃まで、 日本で使用された

            地方行政区分の地域名である。

            ■ 旧国(令制国) (きゅうこく(りょう

            せいこく)とは、 前近代日本の、地域・

            旧国名であり、 旧中地域名である。

            ■ 旧国(令制国)には、 「正式名」、

            「正式名の略称」、「正式名の別称」 

            がある。

            ● 旧国(令制国)の「正式名」。

            (実例) 武蔵 国 (むさし のくに、現・

            東京都本土、埼玉県の相当地域)。

            ● 旧国(令制国)の「正式名の略称」

            (実例) 武蔵 (むさし)。

               旧国(令制国)の「正式名の略称」

            は、原則として、旧国の正式名の「国」

            (のくに)を省いて、呼ぶ。

            ● 旧国(令制国)の「正式名の別称」。

            (実例) 武州 (ぶしゅう)。

               旧国(令制国)の「正式名の別称」

            は、原則として、旧国の正式名の先頭

            文字、または、次文字を1つとって音読

            とし、「州」を加える。

            ■ 旧国(令制国)は、 旧・中地域名

            であり、 前近代日本の、律令制定後・

            古代・中世・近世日本・旧地域名であ

            り、 日本本 土(九州本土・四国・本州)

            とその周辺の諸島の、旧地域名である。

                  前近代の、旧国(令制国)は、 蝦  

            夷地(えぞち、現・北海道地方の相当

            地域)、 琉球 (りゅうきゅう、現・沖縄

            県の相当地域)、 小笠原諸島 などを

            除く(含まない)。

            ■ 旧国(令制国)は、 中地域名であ

            り、 律令に規定された(律令制に基づ

            いて設置された)、律令制に基づく律

            令国(りつりょうこく) であり、 日本の

            地方行政区分(行政区画)であり、

            日本の地理的区分の基本単位の1つ

            であった。

            ■ 前近代の旧国令制国)は、 分立

            統合があったが、 一般的に、日本本

            土の、約68国である。

            ■ 旧国(令制国)は、 明治時代に、

            府県に変更された。

            ■ 旧国(令制国)は、 日本の律令制の

            広域地方行政区分の五 畿七道(ごきしち

            どう) に所属する。

            @ 中央の畿内 (きない、= 五畿)の山

            城 国、摂津 国、河内 国、和泉国 、大和

            国 の5カ国の旧国(令制国) と、 A 地

            方の7道 (= 東山道(とうさんどう)、北陸

            道、東海道、山陰道、山陽道、南海道(な

            んかいどう)、西海道(さいかいどう)) の

            7地方の旧国(令制国) がある。

               ■ 前近代の旧国令制国)は、 約68国

                         の旧国令制国)があり、

            東山道(とうさんどう)・ 8旧国令制国)

            東海道(とうかいどう)・15旧国令制国)

            北陸道(ほくりくどう)・  7旧国令制国)

            畿内(きない)・      5旧国令制国)

            山陰道(さんいんどう)・ 8旧国令制国)

            山陽道(さんようどう)・ 8旧国令制国)

            南海道(なんかいどう)・ 6旧国令制国)

            西海道(さいかいどう)・11旧国令制国)

            である。

            ■ 明治時代以後、 五畿七道や旧国名

            (令制国)に大きな変更が加えられた。 

               東北地方では、1868年(明治元年)

            12月に、陸奥国(むつのくに)は、陸奥(む

            つ)、陸中(りくちゅう)、陸前(りくぜん)、磐

            城(いわき)、岩代(いわしろ)に5分割され、

            出羽国(でわのくに)は、羽後(うご)、羽前

            (うぜん)に2分割された。 

               1869年(明治2年)8月には、蝦夷

            地の本土と千島列島南部を北海道とし、

            五畿七道に加え、五畿八道とした。 そし

            て、蝦夷地の本土と千島列島南部は、渡

            島(おしま)、後志(しりべし)、胆振(いぶ

            り)、日高(ひだか)、石狩(いしかり)、天

            塩(てしお)、北見(きたみ)、十勝(とかち)、

            釧路(くしろ)、根室(ねむろ)、千島(ちし

            ま)の11地区に区分された。

                        ■ (RWL) 日本の、大地域名の変遷。

             ● @ 五畿七道⇒ A 旧近現代地方

              ⇒ B 現8地方。

                      @ 五畿七道 (ごきしちどう) (紀元

             (後)701年頃ー1868年頃、飛鳥白鳳

             時代末期ー江戸時代) ⇒ 

             A 旧近現代地方 (1868年頃ー19

             89年頃、明治時代ー昭和時代) ⇒ 

             B 現8地方。

                        ■ (RWM) 日本の、中地域名の変遷。

             ● @ 国造・県主分国⇒ A 旧国(令

              制国)⇒ B 旧都道府県⇒ C 現47

             都道府県。

                     @ 国造(くにのみやつこ)・県主(あが

             たぬし)分国  (紀元(後)3世紀頃ー

             701年頃、古代日本前期) ⇒ 

             A 旧国(きゅうこく、令制国(りょうせい

             こく)) (701年頃ー1868年頃、飛鳥

             白鳳時代末期ー江戸時代) ⇒ 

             B 旧都道府県 (1868年頃ー1989

             年頃、明治時代ー昭和時代) ⇒ 

             C 現47都道府県。

 

 きゅ  久寿。

             (きゅうじゅ) 。 《和暦》。

             THE KYUJU ERA.

             ○ 1154年ー1156年。

             ● 1154年・久寿元年・10月28日〜

                1156年・久寿 3年・ 4月27日。 

             ● 平安時代後期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

              ■ 久寿 (きゅうじゅ、英: THE 

                           KYUJU ERA) とは、和暦であり、 

             平安時代後期の和暦年号であり、 

             1154年・久寿元年・10月28日から

             1156年・久寿3年・4月27日までで

             ある。  

 

〇 きゅ   九州地方 

              (きゅうしゅうちほう)。 

           (現地方)。 《現地域名》。

              KYUSHU REGION.

           (= 長崎県、佐賀県、福岡県、

           大分県、熊本県、宮城県、

           鹿児島県、沖縄県)。

          (⇒ 現地方名)。

           (⇒ 現8地方)。 

           (⇒ 現地域名)。

                   (⇒ 西海道琉球)。

                     (⇒ 都道府県)。

                      (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

          (⇒ 地方名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

          ■ 九州地方。

           ≒ @ 西海道( さいかいどう)・

           域地方の、長崎県対馬島(対馬

          国)、 長崎県本土、佐賀県(肥

          前 国)、 福岡県北西部・北東部・

          南部 (筑前 国、豊前 国、筑後

          国)、 大分県(豊後 国)、 熊本

          県(肥後 国)、 宮城県(日向 国)、 

          鹿児島県本土西部(薩摩 国)、

          鹿児島県本土東部・大隅諸島・

          奄美群島 (大隅 国)、

          A 琉球(りゅうきゅう)・地 方の、

          沖縄県 の地

          ■ 九州地方。

             <日本本土(本州、四国、九州) と沖縄

             <日本国

          ■ 九州地方。

             (≒ 西海道・旧広域地方 と、 琉球・旧

             地方)。

 

〇 きゅ   宮城

              (きゅうじょう)。 《都城・京》。

             (= 皇城、皇居)。

          (⇒ 都城(きょう))。

          (⇒ 古都(こと)首都)。

           □ 日本古都ガイドブック

           □ 日本古都 関連年代順

                        出来事ブック。  

          □ 飛鳥京 画像アルバム 

             No.1

          □ 藤原京  画像アルバム

             No.1 

            □ 平城京 画像アルバム 

             No.1

          □ 長岡京 画像アルバム 

             No.1

          □ 平安京 画像アルバム

             No.1 

            (⇒ 天皇天皇家朝廷 

              (⇒ 古都(こと)首都

                           (みやこ))。

              (⇒ 都城(とじょう)(きょう))。

              (⇒ 都城宮城(きゅう

             じょう)内裏(だいり))。

              (⇒ 都城飛鳥京

             藤原京平城京

                  長岡京平安京)。

              (⇒ 都城内の

                      宮城(= 皇城、皇居)

             飛鳥京と 飛鳥諸宮

           藤原京と藤原宮

                平城京平城宮

           長岡京長岡宮

            平安京平安宮大内裏

           (だいだいり))。

            (⇒ 都城内の、

                       宮城(= 皇城、皇居)内の、

            内裏(だいり)

               大極殿(だいごくでん)

            朝堂院(ちょうどういん)、

            曹司(ぞうし))。

 

          ■ 宮城(= 皇城、皇居)。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

              ■ 日本では、宮城(きゅうじょう) 

              とは、 天皇の住居(御殿)の内

             廷 と その周囲の朝廷(官庁)

             施設の外朝を合わせた皇城(皇

             居)である。

             ● 日本では、 宮城(きゅうじ

             ょう)は、 天皇の住居(御殿

             (ごてん))である内廷(ないてい) 

             と その周囲の朝廷(官庁)施設

             である外朝(がいちょう)を合わせ

             た皇城(こうじょう、おうじょう)、

             皇居)である。

              ■ 日本の宮城(皇城、皇居)

             には、 

             飛鳥京内の飛鳥諸宮、

             藤原京内の藤原宮、

             平城京内の平城宮、

             長岡京内の長岡宮、

             平安京内の平安宮(大内裏)、

             などがある。

 

             ■ 大内裏。

             (= 平安京の後期平安宮)。

             ■ 大内裏。

             ● 大内裏 (だいだいり)とは、

             平安宮別名であり、 平安京

             の宮城の平安宮であり、 平安

             時代後期からの平安宮の別称

             である。

             ● 大内裏 (だいだいり)とは、

             平安宮(へいあんきゅう)の別名

             であり、 平安京(へいあんきょ

             う)の宮城(きゅうじょう)の平安

             宮であり、 平安時代後期から

             の平安宮の別称である。

             ■ 平安京(へいあんきょう)の

             宮城(きゅうじょう、= 皇城、皇居)

             平安宮(へいあんきゅう)は、

             平安時代後期より大内裏(だい

             だいり)とも呼ばれる。

 

          ■ 宮城(= 皇城、皇居)。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

             ■ 宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居)は、古代日本の時代に、

             藤原宮、平城宮、長岡宮、平安宮

             では、 

             内裏(だいり)、

             大極殿(だいごくでん)、

             朝堂院(ちょうどういん)、

             曹司(ぞうし)、

             などで占められていた。

             ● 宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居)は、古代日本の時代では、

             藤原宮、平城宮、長岡宮、平安宮

             では、 

             内裏(だいり、=天皇の住居、天

             皇御所)、 

             大極殿 (だいごくでん、国家儀式

             等を行う建物)、 

             朝堂院 (ちょうどういん、国家政 

             務等を行う建物)、 

             曹司(ぞうし、官人が実務をとる

             中央官庁、官衛(かんが、諸官庁)) 

             などから構成されていた。

             ■ 内裏。            

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

             ■ 内裏 (だいり)とは、 

             前近代日本の、天皇の住居、居所、

             御殿(ごてん)をいう。

 

             ■ 日本の主要な宮城

             (= 皇城、皇居)。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

             ■ 日本の主要宮城。

             ● 日本の主要な宮城(きゅうじょ

              う、= 皇城、皇居)には、

             (1) 飛鳥諸宮 (あすかしょきゅ

              う、= 飛鳥京の諸宮、飛鳥地域

              の諸宮城、

              奈良県明日香(あすか)村付近、

              6世紀頃ー694年)、 

             (2) 藤原宮(ふじわらきゅう、

              = 藤原京の宮城、

              奈良県橿原市(かしはらし)付近、

              694年ー710年)、 

             (3) 平城宮 (へいじょうきゅう、

              = 平城京の宮城、

              奈良県奈良市(ならし)付近、

              710年ー740年・745年ー

              784年)、 

             (4) 長岡宮 (ながおかきゅう、

              = 長岡京の宮城、

              京都府向日市(むこうし)付近、

              784年ー794年)、 

             (5) 平安宮 (へいあんきゅう、

              = 平安京の宮城)、

              京都府京都市付近、

              本来の平安宮は平安時代末期

              まで、京都府京都市上京区(か  

              みぎょうく)付近、

              794年ー1177年頃)、 

             などがある。

 

〇 きゅ  9世紀。

             (きゅうせいき)。

          (= 801年〜900年)。

       (⇒ 世紀世紀・西 暦

        年号対照一覧表)。

 

 きゅ  旧石器時代

       (日本の旧石器時代)

                          (きゅうせっきじだい)。

                   (= 約3万5000年前ー

          約1万2000年前)。

          《日本歴史の時代区分》。 

                          THE PALEOLITHIC 

          PERIOD  OF JAPAN

           <原始時代・日本。

                     ( 原始時代・日本) 。

          (⇒ 日本歴史の時代区分)。

          (⇒ 旧石器人(古人類学辞典))。

             ■ 旧石器時代 (きゅうせっきじだい) 

             とは、 約3万5000年前から約1万

             2000年前までの期間である。

              旧石器時代は、 原始時代・日本 

             (= 旧石器時代、縄文時代、弥生時代; 

             約3万5000年前ー 紀元(後)3世紀

             頃(約1700年前)) の一時期である。

             ■ 日本の旧石器時代では、 アジア

              大陸と地続きの日本地域(日本本土、

              北海道、南西諸島)には、 

             古モンゴロイド(= 南方モンゴロイド)

              や オーストラロイド類似人類などの

              「(日本地域の)旧石器人」が、通過し

             たり、居住したりしていた。

 

〇 きゅ  旧石器人。

             (きゅうせっきじん)。 《現生人類》。

          《日本地域の旧石器人》。

             (= 日本地域の旧石器人、

             日本地域の旧石器時代人)。

          (現生人類(= 新人、ホモ・

          サピエンス種)の人類)

          (⇒ 旧石器人( 日本地域の

              旧石器人、古人類学辞典))。

          (⇒ 山下洞人港川人

          浜北人白保人)。

                    ○ 日本地域の旧石器人は、

          日本地域の旧石器時代の

          人類である。

             ■ 日本地域の旧石器人は、 旧石器

             時代日本地域通過・滞在民である。

          ○ 日本地域の旧石器人は、

          約3万5000年前から約1万

          2000年前までの間に、日本

          地域にいた人類である。

          ○ 日本地域の旧石器人は、

          「古モンゴロイド(= 南方モン

           ゴロイド)の旧石器人」  や、 

          「オーストラロイド類似人類

          の旧石器人」 などである。

          ○ 日本地域の旧石器人は、

          山下洞人、港川人、浜北人、

          その他である。

                          ■ 日本地域の旧石器人とは、 旧石

             時代 日本地域通過・滞在民であり、 

             日本の旧石器時代に、アジア大陸と

             地続きの日本地域を通過したり日本

             地域に滞在していた、古モンゴロイド

                          (= 南方モンゴロイド)、 オーストラロ 

                          イド類似人類などの人類である。

            ■ 日本地域の旧石器人

            (= 旧石器時代日本 地域通過・滞在民)。

            <現生人類(= ホモ・サピエンス種、新人)。 

            <ヒト属

            <人類(= ヒト亜族))。

            ■ 日本地域の旧石器人の人種的・

            文化的特徴 (人類学上の分類・特徴)。

              日本地域の旧石器人には、

            山下洞人、港川人、浜北人、白保人、

                        その他の人類がいる。

               ● 日本地域にいた旧石器人は、後

             縄文人とは、直接の関係はない。

                         ● 日本地域の旧石器人とは、 日本

             地域通過・滞在民であり、 日本の

             石器時代に  (約3万5000年前〜約

            1万2000年前の間に)、 丸木舟等を

            使い島から島へ移動し、アジア大陸と

             概ね地続きの日本地域(日本本土、

             南西諸島、北海道) を通過したり

            日本地域に滞在した、古モンゴロイド

            (= 南方モンゴロイド)、 オーストラロ

            イド類似人類などの人類である。  

             ● 日本地域の旧石器人は、 日本

             地域の旧石器時代の人類(旧石器

             時代人) であり、 約35000年前

             から約12000年前までの間に、

            日本地域にいた人類である。

             ● 日本地域の旧石器人は、 モン

                           ゴロイド人種の古モンゴロイド

                          (= 南方モンゴロイド)の現生人類 

                         モンゴロイド人種以外の現生人

            類(オーストラロイド類似人種など

            の人々である。

         (⇒ モンゴロイド)。

         (⇒ 古モンゴロイド

            (= 南方モンゴロイド))。

            ■ 古モンゴロイドへの進化表。

                化石類人猿(= 中新世ホミノイド)⇒ 

              人類の、猿人⇒ 原人(= ホモ・エレクト

              ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類

              ⇒ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス

              (種))⇒ モンゴロイド古モンゴロイ ド

              = 南方モンゴロイド)⇒ モンゴロイド

              モンゴロイド= 北方モンゴロイド)。

            ■ オーストラロイド類似人種への進化表。

                化石類人猿(= 中新世ホミノイド)⇒ 

              人類の、猿人⇒ 原人(= ホモ・エレクト

              ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類

              ⇒ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス

              (種))⇒ オーストラロイド類似人種

 

〇 きゅ  旧石器発掘ねつ造事件。

             (きゅうせっきはっくつねつぞうじけん)。

          《日本史》。

                 旧石器発掘ねつ造事件 (きゅう

             せっきはっくつねつぞうじけん)とは、 

             2000年11月5日に公表された事件

             であり、 「神の手」と呼ばれていた、

             日本の一人の考古学者が遺跡に事前

             に密かに石器等を埋めて、それを掘り

             す出し発見したとウソの発表る方法

             (手口)で、前期旧石器時代の石器等

             の発掘を長年行っていた事件である。 

             日本の考古学の発掘の信用を低下さ

             せる事件となる。

 

〇 きゅ   旧地域名

                (きゅうちいきめい)。 《地名》。

                 THE FORMER LOCAL PLACE 

              NAME.

                   (⇒ 地域名)。

                      (⇒ 都道府県)。

                      (⇒ 前近代日本の地域名)。

                      (⇒ 旧国(= 令制国))。

                      (⇒ 旧地域名地域名)。

                      (⇒ 日本の地名)。

             ◆ 日本の、地域名には、 広さ別に、 

             (RWL)   日本の大地域名 と、 

             (RWM)  日本の中地域名 と、 

             (RWS)  日本の小地域名  がある。

                         ■ (RWL) 日本の、大地域名の変遷。

             ● @ 五畿七道⇒ A 旧近現代地方

              ⇒ B 現8地方。

                     @ 五畿七道 (ごきしちどう) (紀元

             (後)701年頃ー1868年頃、飛鳥白鳳

             時代末期ー江戸時代) ⇒ 

             A 旧近現代地方 (1868年頃ー19

             89年頃、明治時代ー昭和時代) ⇒ 

             B 現8地方。

                         ■ (RWM) 日本の、中地域名の変遷。

             ● @ 国造・県主分国⇒ A 旧国(令

              制国)⇒ B 旧都道府県⇒ C 現47

             都道府県。

                     @ 国造(くにのみやつこ)・県主(あが

             たぬし)分国  (紀元(後)3世紀頃ー

             701年頃、古代日本前期) ⇒ 

             A 旧国(きゅうこく、令制国(りょうせい

             こく)) (701年頃ー1868年頃、飛鳥

             白鳳時代末期ー江戸時代) ⇒ 

             B 旧都道府県 (1868年頃ー1989

             年頃、明治時代ー昭和時代) ⇒ 

             C 現47都道府県。

                            ◆ 日本の、地域名には、現旧別に、

             (RTJ) 日本の現地域名  と、 

             (RTK) 日本の旧地域名 がある。

             ■ (RTJ) 日本の 、現地域名は、

             (RLJ) 現・大地域名の、現8地方の

             北海道・東北・関東・中部・近畿・中国・

             四国・九州地方 や (RMJ) 現・中地

             域名の、現47都道府県 などである。

             ■ (RTK) 日本の、旧地域名は、 

             (RLKB) 旧・大地域名(旧地方名)の、 

             五畿七道(ごきしちどう) や (RMKB)

             旧・中地域名の、旧国名 (きゅうこくめ

             い、令制国(りょうせいこく))などである。

             ■ (RTK) 日本の、旧地域名には、

             時代別に、

             (RKA) 近現代日本・旧地域名、 

             (RKB 律令制定後・古代・中世・近

             世日本・旧地域名、

             (RKC) 律令制定前・古代日本・旧地

             域名、 

             がある。  

              ■ (RKB・C) 前近代日本の地域名

              (= 前近代旧地域名) には、 

              (RKB 律令制定後・古代・中世・近世

              日本・旧地域名 と、 

              (RKC) 律令制定前・古代日本・旧地域

              がある。 

                    ■ 旧地域名。

             <地域名。

             <日本の地名

 

〇 きゅ   旧地方名。

             (きゅうちほうめい)。 

           (= 日本の旧地方名)。

          (⇒ 地方名)。

                     (⇒ 都道府県)。

                       (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                      (⇒ 旧地域名地域名)。

                      (⇒ 日本の地名)。

             ■ 地方名には、 現地方名 と 

             旧地方名がある。

                     ■ 日本の旧・中地方名。

             ■ 前近代日本の旧・中地方名は、

             五畿七道(ごきしちどう)、

             蝦夷地(えぞち)、琉球(りゅうき

                             ゅう)である。

             ● 前近代日本の旧・中地方名の、

             五畿七道(ごきしちどう)とは、 

             東山道(とうさんどう)、

             東海道(とうかいどう)、

             北陸道(ほくりくどう)、

             畿内(きない)、

             南海道(なんかいどう)、

             山陰道(さんいんどう)、

             山陽道(さんようどう)、

             西海道(さいかいどう)、

             である。

                    ■ 旧地方名。

             <旧・大地域名。

             <旧地域名。

             <地域名。

             <日本の地名

 

〇 きゅ   旧日本軍実態ガイド

         ブック 

        (昭和戦前期の

         旧日本 軍実態ガイド

        ブック)。   

 

〇 きゅ   旧暦。

             (きゅうれき)。 《暦》。

             THE OLD CALENDAR. 

             (= 太陰太陽暦)。

        (⇒ 太陰太陽暦

                  日本史辞典)。

        (⇒ 太陰暦 天文学辞典)。

            (⇒ (こよみ)陰太陽暦

                  純粋太陰暦 天文学辞典)。

           ○ 暦には、

           旧暦 と 新暦が ある。     

            ○ 日本では、旧暦は、

           太陰暦(=陰暦)

           太陰太陽暦である。

           ○ 日本では、

           旧暦の太陰太陽暦は、 

           紀元(後)690年頃から

           1872年(明治5年)まで、

                      前近代日本(古代〜江戸

             時代)で、使用された。

           ○ 日本では、新暦(現行

           西暦)は、 太陽暦のグレ

           ゴリオ暦であり、

           1873年(明治6年)から

           現在まで、 近代・現代

           日本(明治時代〜現代)

                       で、 使用されている。

              ■ 暦には、 旧暦と、新暦がある。                          

              ■ 旧暦 (きゅうれき、英:THE 

              OLD CALENDAR)は、

              日本では、太陰暦(=陰暦)

              太陰太陽暦である。

              ■ 日本では、旧暦の太陰太陽暦

              は、 紀 元(後)690年頃から

              1872年(明治5年)まで、

              前近代日本(古代〜江戸時代)で、

              使用された。

               新暦は、太陽暦

               ■ 日本では、新暦(現行西暦) は、

              太陽暦(=陽暦)のグレゴリオ暦であり、  

              1873年(明治6年)から現在まで、 

              近代・現代日本(明治時代〜現代)で、 

              使用されている。

 

#kiyo

 

〇 きょ   

               (きょう)  《皇居都市》。

           (= 天皇の住居がある都市)。

           (= 皇居都市)。

           (= 都城(とじょう))。

           (⇒ 都城(とじょう))。

           (⇒ 古都(こと)首都)。

         (⇒ 宮城

           □ 日本古都ガイドブック

           □ 日本古都 関連年代順

                        出来事ブック。  

          □ 飛鳥京 画像アルバム 

             No.1

          □ 藤原京  画像アルバム

             No.1 

            □ 平城京 画像アルバム 

             No.1

          □ 長岡京 画像アルバム 

             No.1

          □ 平安京 画像アルバム

             No.1 

            (⇒ 天皇天皇家朝廷 

              (⇒ 古都(こと)首都

                           (みやこ))。

              (⇒ 都城(とじょう)(きょう))。

              (⇒ 都城宮城(きゅう

             じょう)内裏(だいり))。

              (⇒ 都城飛鳥京

             藤原京平城京

                  長岡京平安京)。

              (⇒ 都城内の

                      宮城(= 皇城、皇居)

             飛鳥京と 飛鳥諸宮

           藤原京と藤原宮

                平城京平城宮

           長岡京長岡宮

            平安京平安宮大内裏

           (だいだいり))。

            (⇒ 都城内の、

                       宮城(= 皇城、皇居)内の、

            内裏(だいり)

               大極殿(だいごくでん)

            朝堂院(ちょうどういん)、

            曹司(ぞうし))。

 

          ■ 日本の首都と都城

             や京。

               ■ 日本の首都とは、

              日本本土を統治する全国政権・

              政府の中核都市である。

               ■ 前近代日本の都城・京 (と

              じょう・きょう)とは、 天皇の住

             居がある都市である皇居都市で

             ある。

               ■ 日本の、鎌倉時代、安土桃

              山時代、江戸時代では、日本の

             首都(政治・行政の中心地)と皇

                            居都市(都城・京)とは別になる。

 

          ■ 都城や京。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

               ■ 都城 (とじょう )とは、

                中国を始源とする都城制に基づ

               き建築された都市である。

               ■ 京 (きょう)とは、

              天子(皇帝、天皇)が居住する都

              市であり、 天子(皇帝、天皇)の

              住居(御殿、住まい)がある都市

              である。

 

          ■ 都城や京。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

               ■ 都城や京とは、 

             天子(皇帝、天皇)の住居(御殿)

             の内廷 と 宮廷(官庁、朝廷)

             施設等がある外朝を合わせた

             宮城(= 皇城、皇居)を中心とす

             る都市である。

               ● 都城(とじょう)や京(きょう)

             とは、天子(皇帝、 天皇)の住居

             (御殿(ごてん))の内廷(ないて

             い) と 宮廷(官庁、朝廷)施設

             等がある外朝(がいちょう)を合

             わせた宮城(きゅうじょう、皇城

              (こうじょう、おうじょう)、皇居)を

             中心とする都市である。

 

          ■ 都城や京。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

              ■ 日本では、 京(きょう)とは、 

              皇居のある都市であり

                            皇居都市であり、  

             天皇が住む(居住する)都市で

                            あり、

             天皇の住まいのある土地であり、 

             朝廷の所在地であり、 

             天皇の住居(= 内裏(だいり))が

             ある都市をいう。

             ■ 天皇の御所や天皇の宮殿は、

             狭義では、 天皇の住居である

             内裏(だいり)であり、

             広義では、天皇の住居の内裏と

             その周辺の朝廷(官庁)施設等

             を含む宮城 (きゅうじょう、=

             城、皇居)である。

 

          ■ 都城や京。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

              ■ 日本では、 都城や京とは、

             宮城(きゅうじょう、皇城、皇居)

             を中心とする都市である。

              ■ 日本では、 都城や京とは、

             天皇の住居(御殿)の内廷 と朝

             廷(官庁)施設の外朝を合わせ

             た、宮城(皇城、皇居)を中心と

             する都市である。

             ● 日本では、都城(とじょう)

             や京(きょう)とは、 

             天皇の住居 (御殿(ごてん))で

             ある内廷(ないてい) と 

             朝廷(官庁)施設である外朝(が

             いちょう)を合わせた

             宮城 (きゅうじょう、皇城(こうじ

             ょう、おうじょう)、皇居)を中心と

             する都市である。

              ■ 日本の都城や京には、

             飛鳥京、

             藤原京、

             平城京、

             長岡京、

             平安京

             などがある。

 

          ■ 宮城(= 皇城、皇居)。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

              ■ 日本では、宮城(きゅうじょう) 

              とは、 天皇の住居(御殿)の内

             廷 と その周囲の朝廷(官庁)

             施設の外朝を合わせた皇城(皇

             居)である。

             ● 日本では、 宮城(きゅうじ

             ょう)は、 天皇の住居(御殿

             (ごてん))である内廷(ないてい) 

             と その周囲の朝廷(官庁)施設

             である外朝(がいちょう)を合わせ

             た皇城(こうじょう・おうじょう、

             皇居)である。

              ■ 日本の宮城(= 皇城、皇居)

             には、 

             飛鳥京内の飛鳥諸宮、

             藤原京内の藤原宮、

             平城京内の平城宮、

             長岡京内の長岡宮、

             平安京内の平安宮(大内裏)、

             などがある。

 

             ■ 大内裏。

             (= 平安京の後期平安宮)。

             ■ 大内裏。

             ● 大内裏 (だいだいり)とは、

             平安宮別名であり、 平安京

             の宮城の平安宮であり、 平安

             時代後期からの平安宮の別称

             である。

             ● 大内裏 (だいだいり)とは、

             平安宮(へいあんきゅう)の別名

             であり、 平安京(へいあんきょ

             う)の宮城(きゅうじょう)の平安

             宮であり、 平安時代後期から

             の平安宮の別称である。

             ■ 平安京(へいあんきょう)の

             宮城(きゅうじょう、= 皇城、皇居)

             平安宮(へいあんきゅう)は、

             平安時代後期より大内裏(だい

             だいり)とも呼ばれる。

 

          ■ 宮城(= 皇城、皇居)。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

             ■ 宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居)は、  古代日本の時代に、

             藤原宮、平城宮、長岡宮、平安宮

             では、 

             天皇の住居(御殿)である

             内裏の内廷 

             と、 

             その周囲の朝廷(官庁)施設である

             大極殿、朝堂院、曹司等の外朝

             を合わせた皇城(皇居)である。

             ■ 宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居)は、  古代日本の時代に、

             藤原宮、平城宮、長岡宮、平安宮

             では、 

             天皇の住居(御殿(ごてん))であ

             る内裏(だいり)の内廷(ないてい) 

             と、 

             その周囲の朝廷(官庁)施設であ

             る大極殿(だいごくでん)、朝堂院

             (ちょうどういん)、曹司(ぞうし)等

             の、外朝(がいちょう)

             を合わせた皇城 (こうじょう・おう

             じょう、皇居)である。

             ■ 宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居)は、古代日本の時代に、

             藤原宮、平城宮、長岡宮、平安宮

             では、 

             内裏(だいり)、

             大極殿(だいごくでん)、

             朝堂院(ちょうどういん)、

             曹司(ぞうし)、

             などで占められていた。

             ● 宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居)は、古代日本の時代では、

             藤原宮、平城宮、長岡宮、平安宮

             では、 

             内裏(だいり、=天皇の住居、天

             皇の御殿)、 

             大極殿 (だいごくでん、国家儀式

             等を行う建物)、 

             朝堂院 (ちょうどういん、国家政 

             務等を行う建物)、 

             曹司(ぞうし、官人が実務をとる

             中央官庁、官衛(かんが、諸官庁)) 

             などから構成されていた。

             ■ 内裏。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

             ■ 内裏 (だいり)とは、 

             前近代日本の、天皇の住居、居所、

             御殿(ごてん)をいう。

 

             ■ 日本の主要な都城・京

             (= 皇居都市)。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

              ■ 主要な都城・京(= 皇居都市)

             の移動。

               飛鳥京⇒ 藤原京⇒ 

              平城京(奈良の都)⇒ 長岡京⇒ 

              平安京(京都、京の都)⇒ 東京。

             ■ 日本の主要な都城・

              (= 皇居都市)の変遷。

             ● 古代日本中期から近世日本

              までの、日本の主要な、宮城

              (きゅうじょう、= 皇城、皇居)

              があった都市 の京とその変遷は、

             (1) 飛鳥京 (あすかきょう、

              奈良県明日香(あすか)村付近、

              7世紀頃から694年まで)、 

             (2) 藤原京 (ふじわらきょう、

              奈良県橿原(かしはら)市付近、

              694年ー710年)、 

             (3) 平城京 (へいじょうきょう、

              奈良県奈良市付近、

              710年ー740年、

              745年ー784年)、 

             (4) 長岡京 (ながおかきょう、

              京都府向日(むこう)市・長岡京

              (ながおかきょう)市・京都市南

              部付近、

              784年ー794年)、

             (5) 平安京 (へいあんきょう、

              別名:京の都(きょうのみやこ)、

              京都、

              京都府京都市付近、

              794年ー1869年)、

             の順序で、概(おおむ)ね、移動

             する。

 

             ■ 日本の主要な宮城

             (= 皇城、皇居)。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

             ■ 日本の主要宮城の変遷。

             ● 日本の主要な宮城 (きゅうじ

              ょう、= 皇城、皇居)とその変遷は、

             (1) 飛鳥諸宮 (あすかしょきゅ

              う、飛鳥京の諸宮、飛鳥地域の

              諸宮城、

              奈良県明日香(あすか)村付近)、

             (2) 藤原宮 (ふじわらきゅう、

              奈良県橿原(かしはら)市付近)、

             (3) 平城宮 (へいじょうきゅう、

              奈良県奈良市付近)、 

             (4) 長岡宮 (ながおかきゅう、

              京都府向日(むこう)市付近)、 

             (5) 平安宮 (へいあんきゅう、

              京都府京都市付近) 

             の順序で、概(おおむ)ね、移動

             する。

 

             ■ 日本の主要な宮城

             (= 皇城、皇居)。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

             ■ 日本の主要宮城。

             ● 日本の主要な宮城(きゅうじょ

              う、= 皇城、皇居)には、

             (1) 飛鳥諸宮 (あすかしょきゅ

              う、= 飛鳥京の諸宮、飛鳥地域

              の諸宮城、

              奈良県明日香(あすか)村付近、

              6世紀頃ー694年)、 

             (2) 藤原宮(ふじわらきゅう、

              = 藤原京の宮城、

              奈良県橿原市(かしはらし)付近、

              694年ー710年)、 

             (3) 平城宮 (へいじょうきゅう、

              = 平城京の宮城、

              奈良県奈良市(ならし)付近、

              710年ー740年・745年ー

              784年)、 

             (4) 長岡宮 (ながおかきゅう、

              = 長岡京の宮城、

              京都府向日市(むこうし)付近、

              784年ー794年)、 

             (5) 平安宮 (へいあんきゅう、

              = 平安京の宮城)、

              京都府京都市付近、

              本来の平安宮は平安時代末期

              まで、京都府京都市上京区(か  

              みぎょうく)付近、

              794年ー1177年頃)、 

             などがある。

 

〇 きょ   恭雲院。 

             (きょううんいん)。 《人名》。

             (生没年不詳)。

              KYOUNIN.

             ■ 恭雲院 (きょううんいん、

             生没年不明)は、

             真田 信繁(幸村)の祖母であり、 

             真田 信繁(幸村)の祖父・真田

             幸隆(幸綱)(ゆきたか(ゆきつな))

             の正室夫人である。

             ■ 恭雲院は、 

             『 真田丸 (さなだまる) 』(NHK

             テレビ・2016年大河ドラマ) では、

                           「とり」という名(仮称)で登場する。

             ● 恭雲院は、  風林火山 (ふ

             うりんかざん) 』 (NHKテレビ・

             2007年大河ドラマ)では、「忍芽

             (しのめ)」という名(仮称)で登場

             する。

 

〇 きょ    共栄圏。

              (きょうえいけん)。《勢力範囲》。

               (= 大東亜共栄圏)。

           (⇒ 大東亜共栄圏)。

              ■ 大東亜共栄圏は、

              昭和・戦前時代の、旧日本軍の

              占領・支配地域である。

 

〇 ぎょ   行基

              (ぎょうき)。 《人名》。

          (668年〜749年)。

           ○ 行基は、

           奈良時代の仏僧、

           社会事業家である。

              ■ 行基 (ぎょうき、生没年:

              668年〜749年)は、

              奈良時代の仏僧、社会事業家

              である。

 

〇 きょ  恐慌。

            (きょうこう)。 (= 経済の混乱)。

            (= 景気が一気に冷え込み、経済活動全体が

            麻痺(まひ、マヒ)すること))。

            THE PANIC.

            (⇒ 世界恐慌大恐慌)。

            ■ 恐慌 (きょうこう)とは、 経済の混乱であ

            り、 景気が一気に冷え込み、経済活動全体

            が麻痺(まひ、マヒ)すること である。

            ● 日本の恐慌には、 「戦後恐慌」(1920年

            (大正9年)、第1次大戦後の恐慌)、 「金融恐

            慌」(1927年(昭和2年))、 「昭和恐慌」(19

            30年(昭和5年)) などがある。

            ● 恐慌には、 預金取り付け騒ぎ、銀行倒産

            などの金融恐慌 (きんゆうきょうこう、A FI-

            NANCIAL PANIC)、 株価暴落などの株式

            恐慌 (かぶしききょうこう、A STOCK 

            MARKET PANIC)、 その他の恐慌がある。

 

〇 ぎょ  行幸。

            (ぎょうこう)。  《天皇》。

            (= 天皇の外出)。

       (⇒ 天皇)。

            ■ 行幸 (ぎょうこう)とは、 天皇の外出であ

            り、 天皇の訪問外出であり、 天皇のお出まし、

            御幸(みゆき)である。

         

〇 きょ  京極 高次

            (きょうごく たかつぐ)。  《人名》。

            (1563年〜1609年) 。

         ○ 浅井3姉妹の1人・お初の夫。

         ○ 浅井3姉妹のいとこ。

         ○ 豊臣秀吉の 側室夫人の京極

                   龍(竜)子の兄弟。

         ○ 姉妹の京極龍(竜)子 と 正

         室夫人・お初  の協力を得て、

         びかけていた名門の京極家を隆

         盛に導く

 

〇 きょ  京極 龍子

            (きょうごく たつこ)。  《人名》。

         (= 松の丸殿 まつのまるどの、京極

         竜子)。

         (生年不詳〜1634年)。

         KYOGOKU Tatsuko.

         ○ 美人。

         ○ 豊臣 秀吉の側室夫人。

           ○ 浅井3姉妹のいとこ。

         ○ 京極高次の姉妹。

         ○ 兄弟の京極高次を助けて、

          極家を隆盛に導 く。

                   ○ 浅井三姉妹の保護者 。

            ● 京極 龍子 (きょうごく たつこ)は、 松

            の丸殿 (まつのまるどの)、京極 竜子とも

            称された。

            ● 京極 龍子 (きょうごく たつこ、生年不

            詳〜1634年、KYOGOKU Tatsuko)は、 

            京極高次の姉妹であり、 兄弟の京極高次

            を助けて、京極家を隆盛に導 く。

            ● 京極 龍子は、美人で、豊臣 秀吉の側

            室夫人となる。

            ● 京極 龍子は、浅井3姉妹のいとこ であ

            り、 浅井三姉妹の保護者であった。

 

〇 きょ  鏡新明智流。

            (きょうしんあけちりゅう)。 《剣術の流派》。

           (⇒ 幕末の江戸剣術道場)

         ○ 幕末に盛んであったの1つ。

         ○ 土佐藩士の武市半平太(たけ ち

             はんぺいた)、岡田 以蔵(おかだいぞう)

          が 幕末江戸で修行していた剣術。 

            ● 鏡新明智流 (きょうしんあけちりゅう) は、

            幕末に盛んであった剣術の流派の1つ である。

               鏡新明智流は、 土佐藩士の武市半平太

            (たけ ちはんぺいた)、岡田 以蔵(おかだい

            ぞう)が 幕末江戸で修行していた剣術である。

 

〇 きょ   京都。 

               (きょうと)。  《地名》。

             (= 京)。 

             ○ 千年の都。

           □ 日本古都ガイドブック

           □ 日本古都 関連年代順

                        出来事ブック。  

              ■ 京都は、

              約1000年間、京(都)に天皇が

                             居住していたため、「千年の都」

              (せんねんのみやこ)と言われる。

              ● 794年(延暦13年)から

              1869年(明治2年)までの間の

              約1000年間、天皇の居住地

              が京都に置かれていたため、 

              京(都)が、「千年の都」と言わ

              れる。

              ■ 京都 (きょうと)は、

              日本の首都が置かれた場所の

              1つである。

              ■ 京都には、日本の首都とし

              て、朝廷が、 平安京 (へい

              あんきょう)を置く。

              ● 平安京 (へいあんきょう)

              は、 別名は京の都(きょうのみ

              やこ)、京都といい、 京都(現・

              京都府京都市付近)に、794年

              (延暦13年)から1869年(明

              治2年)まで、皇居都市(都城・

              京)として置かれ、

              794年ー1185年の間、

              1333年ー1576年の間

              1582年ー1583年の間、

              1867年ー1869年の間、

              日本の首都(政治・行政の中核

              都市)であった。

 

〇 きょ  享徳。

            (きょうとく)。 《和暦》。

            THE KYOTOKU ERA.

            ○ (1452〜 1455年)。

            ● 1452年・享徳元年・7月25日〜

               1455年・享徳 4年・7月25日。

            ● 室町時代中期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇 きょ  享徳の乱 

            (きょうとくのらん) 。 

            (1454年−1482年)。

          ○ 京(都)の応仁の乱(おうにん

          のらん、1467−77年、応仁・文明の乱)

          より先に、  東国(とうごく、関東

          地方や東北地方)では、 永享

          の乱(えいきょうのらん、1438−39年)

          や享徳の乱(きょうとくのらん、1454

          ー82年)が起こ り、 これらの乱

          以後、東国では「戦国の世」が

                始まる。

 

〇 きょ  京都守護職。 

            (きょうとしゅごしょく)。 

            (江戸幕府の役職)。 《役職》。

         (1862〜1867年)。

         (⇒ 松平 容保

         ○ 京都所司代の上に立ち、幕末

         に置かれた、京(都)の治安を維持

         する、江戸幕府の役職。 

         ○ 会津藩主・松平容保が就任。

            ■ 京都守護職 (きょうとしゅごしょく、186

             2〜1867年)は、 京都所司代の上に立ち、

             幕末に置かれた、京(都)の治安を維持する、

             江戸幕府の役職である。

            ● 京都守護職には、会津藩主・松平容保が

             就任した。

 

〇 きょ   京都新城。 

             (きょうとしんじょう)。 《邸宅》。

             (= 京都の三本木屋敷)。 

          (1597年〜1627年)。

          (⇒ ねね

          (⇒ 木下利房

             ■ 京都新城 (きょうとしんじょう)

             は、京都の三本木屋敷であり、 

             太閤・豊臣秀吉が、関白の豊富秀

             次が政庁とした聚楽第を破却した

             後、豊臣関白家のための正式な

             邸宅として、京都御所(禁裏)東南

             に構えた城郭風邸宅である。

             ● 京都新城(= 京都の三本木屋

             敷)は、禁裏東南の地に、1597

             年(慶応2年)4月から普請が始め

             られ、5ヶ月ほどで完成し、9月に

             は秀吉と豊臣秀頼が一時的に、滞

             在する。

             ● 1599年(慶応4年)9月に、

             秀吉正室夫人のおね(ねね)(出家

             後・高台院)が、豊臣大阪城・西の

             丸を家康に渡し、豊臣大阪城から

             京都新城(= 京都の三本木屋敷)

             に移居して、それ以後、「高台院

             屋敷」(1999年ー1623年)と呼

             ばれる。

             ● 1623年(寛永元年)に、おね

             (ねね)が没すると、屋敷には、甥

             の木下利房 (きのしたとしふさ、

             おね(ねね)の兄・木下家定の次

             男、生没年:1573年ー1637年)

             が住み、その屋敷となる。

             ● 京都新城(= 京都の三本木屋

             敷)の敷地は、江戸幕府によって、

             後水野天皇の仙洞御所(せんとうご

             しょ)に選ばれ、京都新城の邸宅は

             1627年(寛永4年)に解体される。

 

〇 きょ  京都府。

             (きょうとふ)。

          (現都道府県)。 《現地域名》。

             (≒ 山城 国 と 丹波 国 と 丹

          後国 の相当地域)。

             (1868年(明治元年)ー現在)。

             (≒ 前近代の、@ 山城 国 (

           ましろ のくに、城州(じょうしゅう)、

          州(さんしゅう)、雍州(ようしゅう)、現・

          京都府南部の相当地域)、 と 

             A 丹波国(たんばのくに、丹州(た

             んしゅう、丹後国や丹波国)現・京都

          府中部の相当地域)、 と B 

             丹後国  (たんごのくに、丹州(たん

             しゅう、丹後国や丹波国)、現・京都 府

          北部の相当地域)。

                        KYOTO PREFECTURE.

                   (⇒ 山城 国 丹波 国

         と 丹後国)。

                     (⇒ 都道府県)。

                      (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

             ■ 京都府の行政区分(区画)は、

             1868 年(明治元年)から現在まで、

             存在する。

          ■ 京都府。

             <近畿地方。

             <日本本土 (本州、四国、九州)

             <日本国

             ● 京都府は、 近畿地方に属する。

                   (⇒ 近畿地方)。

          ■ 京都府地域。

             (a) <山城国 (やましろのくに、旧国名

              (令制国)、京都府南部の相当地域)。 

                 <畿内 (きない、旧広域地方)

             (b) <丹波国 (たんばのくに、旧国名

              (令制国)、京都府中部の相当地域) と、 

              丹後国 (たんごのくに、旧国名(令制国)、

              京都府北部の相当地域)

                <山陰道 (さんいんど、広域地方)

             (a)(b) <五畿七道 (ごきしちどう、

             日本本土)。

          (⇒ 畿内・旧広域地方)。

          (⇒ 山陰道・旧広域地方)。

                   (⇒ 五畿七道)。

             ■ 京都府地域は、 前近代日本の、旧国

             名(令制国)の、山城国(やましろのくに) と、

             丹波国 (たんばのくに) と、 丹後国(たん

             ごのくに) に相当する地域である。

 

〇 きょ  京の公方。

            (きょうのくぼう)。 《役職》。

            ■ 京の公方 (きょう のくぼう)とは、

            室町幕府(= 足利幕府)の将軍である。

            ■ 京の公方は、 京(きょう、京都)に

            本拠地を置く室町幕府(= 足利幕府)

                           の公方(くぼう、= 将軍)という意味で

            ある。

 

〇 きょ  享保 (きょうほう)。 

            ○ (1716〜 1736年) 。

            ● 1716年・享保 元年・6月22日〜

               1736年・享保21年・4月28日。

            ● 江戸時代中期。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇 きょ  享禄 (きょうろく)。 

            ○ (1528〜32年)。

            ● 1528年・享禄元年・8月20日〜

               1532年・享禄 5年・7月29日。

             ● 室町時代後期の日本暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇 きょ  享和 (きょうわ)。 

            ○ (1801〜1804年)。

            ● 1801年・享和元年・2月 5日〜

               1804年・享和 4年・2月11日。

            ● 江戸時代後期。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表 ・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

 

〇 ぎょ  玉音放送。 

            (ぎょくおんほうそう)。 《終戦》。

            ■ 玉音放送 (ぎょくおんほうそう)と

            は、 日本(大日本帝国)が1945年(昭

            年和20)8月14日にポツダム宣言を受

            託した旨を伝えた、1945年(昭和20年)

            8月15日の裕仁天皇(昭和天皇)の放送

            である。 

            ● 玉音放送は、事実上、第2次世界大

            戦(太平洋戦争、日中戦争)で、日本が

            連合国に無条件降伏を宣言した放送で

            ある。

               正式な日本の連合国への降伏は、

            1945年(昭和20年)9月2日のミズー

            リ号上降伏文書調印で決まる。

            ● 玉音放送は、 旧日本軍の降伏、武

            装解除と無謀で悲惨な戦争の即時中止

            に貢献した。

 

〇 ぎょ  玉砕。

            (ぎょくさい)。 《戦争》。

         (= ほぼ全滅すること)。

            ■ 玉砕 (ぎょくさい)とは、 戦争時、敵

            に降伏せず、ほぼ全員死ぬ (全滅する)

            まで戦うことである。

            ● 太平洋戦争の後期に、 アジア・太平

            洋地域各地で、 戦力で劣勢となった旧日

            本軍は、 敵に降伏せず、ほぼ兵士全員

            が死ぬ(全滅する)まで戦う玉砕を多く行

            い、多くの尊い命(いのち)が失われた。 

 

〇 ぎょ  玉葉 

            (ぎょくよう)。 《史料》。(日記)。

         ○ 平安時代末期・ 鎌倉時代初

         を知る史料。 

         ○ 九条 兼実の日記で、1164

         年から1200年までにわたる。 

         (⇒ 日本史・第一級史料リスト)。

            ■ 玉葉 (ぎょくよう)とは、 平安時代末

            期・ 鎌倉時代初期を知る史料 である。

               玉葉は、九条 兼実の日記で、1164

            年から1200年までにわたる。 

 

〇 きよ  清洲会議

            (きよすかいぎ)。 《会議》。

         ○ 1582年(天正10年)6月

          27日に、清洲城で、織田氏

          の重臣が、織田信長・信忠父

          子死後の、織田氏の後継者

          や遺領配分を決定した会議。

            ■ 清洲会議には、 羽柴秀吉(はしば

            ひでよし、豊臣秀吉)、 柴田勝家(しば

            たかついえ)、 丹羽長秀(にわなが

            で)、 池田恒興(いけだ つねおき) の

            4人のみが参加した。

            ■ 清洲会議 (きよすかいぎ)は、15

            82年(天正10年)6月27日に、 尾張 

             (おわり、現・愛知県西部・相当地域)

            の、清洲城で、 織田氏の重臣が、織

                田信長・信忠父子死後の、織田氏の

            後継者や遺領配分を決定した会議で

                   ある。 

            ■ 清洲会議で、織田氏の遺領配分が

            決定し、織田氏の後継者を、織田信長

            ぶの長男・嫡男の織田信忠(のただ)の

            子で当時幼年の、三法師 (さんぼうし、

            さんぽうし、= 織田秀信)と決定した。

 

#kira

 

〇 きら  吉良上野介(義央)  

            (きらこうずけのすけ(よしなか・よしひさ))。

            《人名》。

            (1641 年ー1702年)。

         (⇒ 元禄赤穂事件)。

            ○ 江戸幕府の、高家・幕臣(旗

          本)。

            ○ 元禄赤穂事件の被害者。

            ○ 播州・赤穂藩・藩主(赤穂・浅

          野家当主)の、浅野内匠頭(長

             矩)(あさのたくみのかみ(ながのり))

          江戸城中で斬りつけられ、後に

          江戸の吉良邸で赤穂浪士に殺

          害される。

             ■ 吉良上野介(義央) (きらこうずけのす

              け(よしなか・よしひさ)、1641〜1702

             年) は、 江戸幕府の、高家で、幕臣(旗

              本)であり、 元禄赤穂事件の被害者であ

             る。

              ■ 吉良上野介(義央)は、播州・赤穂藩・

              藩主(赤穂・浅野家当主)の、浅野内匠頭

              (長矩)(あさのたくみのかみ(ながのり))

              に江戸城中で斬りつけられ、後に江戸・

              本所(ほんじょ)の吉良邸で赤 穂浪士に

             殺害される。

             ■ 元禄赤穂事件 (= 赤穂事件)は、 

             パワハラ事件であり、 浅野が老中の指

             示で接待費減額を遵守したため、接待

             費減額を望まない吉良と不和になり、

             更に、老中等の江戸幕府幕閣の前で

             上司の接待指導役の吉良上野介(義央)

             が部下の供応役の浅野内匠頭(長矩)

             に叱責・中傷したことが原因となり、 

             浅野が遺恨(いこん)をもち吉良に刃傷

             に及び、起こった事件である。

             ◆ 赤穂浪士の吉良邸討ち入り前。

             ■ 1702年(元禄15年)11月に、大石

              内蔵助(良雄)らの赤穂浪士は、 江戸

             に集結する。

                大石 内蔵助(良雄)らの赤穂浪士は、

             江戸で、吉良邸討ち入りの計画をねる(作

             戦をたてる)。 

                赤穂浪士は、本所の吉良邸内外を

             探索し、本所の吉良邸の図面も手に入れ

             る。

                吉良上野介(義央)は、江戸で、2つ

             の屋敷に居て、江戸城近くの上杉家屋敷

             に居ることも多く、江戸城から離れた本所

             の屋敷にいつ居るかが重要であった。 

             赤穂浪士は、情報を収集し、1702年(元

             禄15年)の12月14日の昼間に江戸・本

             所の屋敷で吉良が茶会を開くことがわか

             り、大石は、12月14日から15日までを

             討ち入り決行日とした。 

                吉良上野介(義央)は、 1702年

             (元禄15年)の12月14日の昼間に、

             本所の吉良邸で茶会を開き、そのまま、

             吉良は本所の吉良邸に泊まり、吉良を

             守る上杉家の家臣は、12月14日の茶

             会終了後、夜に酒を振るまわれ、就寝す

             る。

             ◆ 赤穂浪士の吉良邸討ち入り。

                             ■ 赤穂浪士の吉良邸討ち入りは、 

             1702年(元禄15年)の12月14日から

             12月15日まで行われる。

                赤穂浪士・四十七士 (あこうろうし・

             しじゅうしちし)は、 1702年(元禄15

             年)の12月14日の午後6時過ぎに、47

             士全員が江戸・堀部安兵衛(武庸)(たけ

             つね)宅に集合し、別れの杯(さかずき)を

             酌み交わす(くみかわす)。 その後、赤

             穂浪士は、吉良邸近くの堀部宅、杉野

             宅、前原宅の3つの家に分散する。 

                 1702年(元禄15年)12月15日

             の午前3時頃に、赤穂浪士は、 火消し 

             装束 (山型模様の羽織ではなく、目立た

             ない黒色装束で、白い線を装束の腕回

             りに入れ、内に鉄の鎖帷子(くさびかた

             びら)を着用) の服装で、それぞれ、3つ

             の家から出発し、 12月15日の午前3

             時半頃に、江戸・本所(ほんじょ)の吉良

             邸に到着する。 赤穂浪士は、完全武装

             し、幕府の役人に見つかったら、「火消し」

             と言うことにした。

                そして、 本所の吉良邸に到着した

             赤穂浪士47人は、 表門部隊と裏門部隊

             に分かれて、100人以上の上杉家家臣が

             守る広い吉良邸に討ち入る。 赤穂浪士

             は、乱闘・捜索の末、12月15日の午前5

             時頃に、「台所裏の物置」に隠れていた吉

             良上野介(義央)を発見し、その首を討ちと

             り、合図の笛が吹かれ、大歓声をあげる。

             赤穂浪士の誰も吉良の顔を知らないため、

             捕えた吉良の額と背中の傷を見る。暗闇

             で発見時に白髪の老人の吉良の額に槍を

             刺したため額の傷がわからず、背中の傷

             から吉良と断定し、その後、捕えた上杉

             家家臣に吉良の首を見せ本人と確認し

             た。 不意をつかれた吉良側の家臣は死

             傷者38人、完全武装した赤穂浪士は、

             負傷者2人であった。 すぐ、赤穂浪士は、 

             江戸・本所(ほんじょ)から、浅野内匠頭

             (長矩)の墓のある江戸・泉岳寺(せんが

             くじ)に向う。

             ■ 一方、1702年(元禄15年)12月に、

             吉良上野介(義央)の実子(長男)・上杉

             綱憲(うえすぎつなのり)が藩主を務める

             上杉家は、 本所の吉良邸に、100人以

             上の上杉家家臣を居合わせ、吉良上野

             介(義央)を警備し守っていた。

                1702年(元禄15年)12月15日に、

             上杉家は、 赤穂浪士の本所・吉良邸討

             ち入り(午前3時半頃〜午前5時頃)の

             知らせを聞いて、上杉家の家臣を集めて、

             本所の吉良邸に向かわせる。 

                赤穂浪士討ち入りの知らせを聞いて

             駆けつけた上杉家の応援部隊は、 12

             月15日の午前6時頃に、本所の吉良邸

             に到着する。 しかし、既に赤穂浪士討ち

             入り終了後の、約1時間後であった。

             ■ 赤穂浪士は、 吉良邸の本所(ほん

             じょ)から墓所の泉岳寺まで、約12kmを

             約3時間で、行進し、 1702年(元禄15

             年)12月15日の午前8時頃に、浅野内匠

             頭(長矩)の墓のある江戸・泉岳寺に到着

             する。 赤穂浪士は、主君の浅野内匠頭

             (長矩)の墓前に、討ちとった吉良上野介

             (義央)の首を供(そな)え、涙を流し、大声

             で泣く。

 

〇 きら  吉良 左兵衛(義周)。  

            (きら さひょうえ(よしまさ))。

            (1686 年ー1706年)。

       (⇒ 元禄赤穂事件)。

          ○ 吉良上野介(義央)の孫で、

          上野介(義央)引退後の吉良家

          の当主。

             ■ 吉良 左兵衛(義周) (きら さひょうえ

             (よしまさ)、1686年〜1706年)は、吉

             良上野介(義央)の孫で、上野介(義央)

             引退後の吉良家の当主である。

 

〇 きら  吉良邸討ち入り 

                         (きらていうちいり)。

             (1702年12月14日〜15日)。

          (⇒ 元禄赤穂事件)。

             ◆ 赤穂浪士の吉良邸討ち入り前。

             ■ 1702年(元禄15年)11月に、大石

              内蔵助(良雄)らの赤穂浪士は、 江戸

             に集結する。

                大石 内蔵助(良雄)らの赤穂浪士は、

             江戸で、吉良邸討ち入りの計画をねる(作

             戦をたてる)。 

                赤穂浪士は、本所の吉良邸内外を

             探索し、吉本所の良邸の図面も手に入れ

             る。

                吉良上野介(義央)は、江戸で、2つ

             の屋敷に居て、江戸城近くの上杉家屋敷

             に居ることも多く、江戸城から離れた本所

             の屋敷にいつ居るかが重要であった。 

             赤穂浪士は、情報を収集し、1702年(元

             禄15年)の12月14日の昼間に江戸・本

             所の屋敷で吉良が茶会を開くことがわか

             り、大石は、12月14日から15日までを

             討ち入り決行日とした。 

                吉良上野介(義央)は、 1702年

             (元禄15年)の12月14日の昼間に、

             本所の吉良邸で茶会を開き、そのまま、

             吉良は本所の吉良邸に泊まり、吉良を

             守る上杉家の家臣は、12月14日の茶

             会終了後、夜に酒を振るまわれ、就寝す

             る。

             ◆ 赤穂浪士の吉良邸討ち入り。

                             ■ 赤穂浪士の吉良邸討ち入りは、 

             1702年(元禄15年)の12月14日から

             12月15日まで行われる。

                赤穂浪士・四十七士 (あこうろうし・

             しじゅうしちし)は、 1702年(元禄15

             年)の12月14日の午後6時過ぎに、47

             士全員が江戸・堀部安兵衛(武庸)(たけ

             つね)宅に集合し、別れの杯(さかずき)を

             酌み交わす(くみかわす)。 その後、赤

             穂浪士は、吉良邸近くの堀部宅、杉野

             宅、前原宅の3つの家に分散する。 

                 1702年(元禄15年)12月15日

             の午前3時頃に、赤穂浪士は、 火消し 

             装束 (山型模様の羽織ではなく、目立た

             ない黒色装束で、白い線を装束の腕回

             りに入れ、内に鉄の鎖帷子(くさびかた

             びら)を着用) の服装で、それぞれ、3つ

             の家から出発し、 12月15日の午前3

             時半頃に、江戸・本所(ほんじょ)の吉良

             邸に到着する。 赤穂浪士は、完全武装

             し、幕府の役人に見つかったら、「火消し」

             と言うことにした。

                そして、 本所の吉良邸に到着した

             赤穂浪士47人は、 表門部隊と裏門部隊

             に分かれて、100人以上の上杉家家臣が

             守る広い吉良邸に討ち入る。 赤穂浪士

             は、乱闘・捜索の末、12月15日の午前5

             時頃に、「台所裏の物置」に隠れていた吉

             良上野介(義央)を発見し、その首を討ちと

             り、合図の笛が吹かれ、大歓声をあげる。

             赤穂浪士の誰も吉良の顔を知らないため、

             捕えた吉良の額と背中の傷を見る。暗闇

             で発見時に白髪の老人の吉良の額に槍を

             刺したため額の傷がわからず、背中の傷

             から吉良と断定し、その後、捕えた上杉

             家家臣に吉良の首を見せ本人と確認し

             た。 不意をつかれた吉良側の家臣は死

             傷者38人、完全武装した赤穂浪士は、

             負傷者2人であった。 すぐ、赤穂浪士は、 

             江戸・本所(ほんじょ)から、浅野内匠頭

             (長矩)の墓のある江戸・泉岳寺(せんが

             くじ)に向う。

             ■ 一方、1702年(元禄15年)12月に、

             吉良上野介(義央)の実子(長男)・上杉

             綱憲(うえすぎつなのり)が藩主を務める

             上杉家は、 本所の吉良邸に、100人以

             上の上杉家家臣を居合わせ、吉良上野

             介(義央)を警備し守っていた。

                1702年(元禄15年)12月15日に、

             上杉家は、 赤穂浪士の本所・吉良邸討

             ち入り(午前3時半頃〜午前5時頃)の

             知らせを聞いて、上杉家の家臣を集めて、

             本所の吉良邸に向かわせる。 

                赤穂浪士討ち入りの知らせを聞いて

             駆けつけた上杉家の応援部隊は、 12

             月15日の午前6時頃に、本所の吉良邸

             に到着する。 しかし、既に赤穂浪士討ち

             入り終了後の、約1時間後であった。

             ■ 赤穂浪士は、 吉良邸の本所(ほん

             じょ)から墓所の泉岳寺まで、約12kmを

             約3時間で、行進し、 1702年(元禄15

             年)12月15日の午前8時頃に、浅野内匠

             頭(長矩)の墓のある江戸・泉岳寺に到着

             する。 赤穂浪士は、主君の浅野内匠頭

             (長矩)の墓前に、討ちとった吉良上野介

             (義央)の首を供(そな)え、涙を流し、大声

             で泣く。

 

 きり  キリシタン大名 。 

                         (きりしたんだいみょう)。 《大名》。

          ○ 16世紀後半に、キリスト教・

          カトリックに入信した大名。

       (⇒ キリスト教)。

             ■ キリシタン大名 (きりしたんだいみょう) 

             とは、 16世紀後半に、キリスト教・ カトリ

             ックに入信した大名である。

 

 きり   キリスト教

             (きりすときょう)。 《宗教》。

          (⇒ キリスト教(世界史辞典))。

          ■ キリスト教には、主に、 

          (1) プロテスタント各派、

          (2) ギリシア正教、

          (3) カトリック、

          (4) 単性論派、 

          の宗派がある。

          ○ 戦国時代に日本にカトリッ

          クが進出し、安土桃山時代、

          江戸時代初期に、多くのカトリ

          ック信者がいたが、江戸時代

          初期の禁教令や鎖国と共に

          衰退した。

                ○ 幕末に開国と共に、ギリ

          シア正教、プロテスタント各派、

          カトリックが進出し、現在に到

                 る。

 

 きり  キリスト教暦。  

             (きりすときょう) 。 (= 西暦)。

              (⇒ 西暦)。

 

#kin

 

〇 きん  金閣

             (きんかく)。 《別荘(後・寺院)

          の楼閣建築》。 (舎利殿)。

          (= 鹿苑寺(= 金閣寺)金閣、鹿

          苑寺(= 金閣寺)舎利殿、北山

                     殿金閣、北山殿舎利殿)。

          ○ 金閣は、鹿苑寺(= 金閣寺)

          の舎利殿の通称。

          ○ 金閣は、京(都)の、鹿苑寺

          (= 金閣寺、前の北山殿(きたや

             までん)・北山山荘)の舎利殿(しゃ

             りでん)

         (⇒ 鹿苑寺(= 金閣寺)、

               北山殿、北山文化

        足利 義満)。

             ■ 金閣 (きんかく)とは、 鹿苑寺金閣

             (ろくおんじきんかく、= 金閣寺金閣)であ

             り、 鹿苑寺(ろくおんじ、= 金閣寺)の舎

             利殿(しゃりでん)であり、 鹿苑寺(= 金閣

             寺)の舎利殿の通称である。 

             ■ 鹿苑寺(= 金閣寺)の金閣は、舎利殿

             である。

                舎利殿(しゃりでん) とは、 シャカ

             (= ブッダ)の遺骨が納められている建物

             である。

                金閣 (= 鹿苑寺(= 金閣寺)舎利

             殿)は、 北山文化の代表作の1つである。

             ■ 鹿苑寺 (ろくおんじ、= 金閣寺)は、 

             北山殿 (きたやまでん、北山山荘(きた

             やまさんそう)) という足利義満 (あしか

             がよしみつ、室町幕府・第3代将軍、法

             名(戒名):鹿苑院) の別荘(山荘)であっ

             たが、 足利義満死後、現在の鹿苑寺(=

             金閣寺)という 禅宗仏教寺院となった。

 

〇 きん  金閣 (鹿苑寺・金閣) 

        画像 アルバム No.1

             (きんかく(ろくおんじ・きんかく)

              がぞうあるばむ)。

 

〇  きん  金閣寺。

             (きんかくじ)。 《仏教寺院》。

          (= 鹿苑寺(ろくおんじ)、北山殿(きた や

          までん)、北山山荘(きたやまさんそう))。

          ○ 金閣寺は、鹿苑寺の通称。 

          (⇒ 鹿苑寺、北山殿)。

          (⇒ 金閣北山文化

       足利義満)。

             ■ 金閣寺 (きんかくじ)は、 鹿苑寺(ろくお

                           んじ)の通称であり、 金閣(きんかく、= 舎利

                           殿(しゃりでん))のある、金閣寺(= 鹿苑寺)

             であり、 金閣(= 舎利殿)を含む寺院全体で

             ある。

             ■ 金閣寺 (きんかくじ、= 鹿苑寺)は、 北

             山殿 (きたやまでん、北山山荘(きた やまさ

             んそう)) という足利義満 (あしかがよしみつ、

             室町幕府・第3代将軍、法名(戒名):鹿苑院)

             の別荘(山荘)であったが、 足利義満死後、

             現在の金閣寺(= 鹿苑寺)という禅宗仏教寺

             院となった。

             ■ 金閣寺(= 鹿苑寺)の金閣は、舎利殿

             である。

                舎利殿(しゃりでん) とは、 シャカ(=

             ブッダ)の遺骨が納められている建物 であ

             る。

                金閣 (= 鹿苑寺(= 金閣寺)舎利

             殿)は、 北山文化の代表作の1つである。

 

〇 ぎん  銀閣

             (ぎんかく)。  《別荘(後・寺院)

          の楼閣建築》。 (観音殿)。

          (= 慈照寺(= 銀閣寺)銀閣、慈照

          寺(= 銀閣寺)観音殿、東山殿銀

          閣、東山殿観音殿)。

          ○ 銀閣は、慈照寺(= 銀閣寺)

          の観音殿の通称。 

          ○ 銀閣は、京(都)の、慈照寺

          (= 銀閣寺、前の東山殿(ひがしや

          までん)・東山山荘)の観音殿(かん

             のんでん)

         (⇒ 慈照寺(= 銀閣寺)、

               東山殿、東山文化

          足利 義政)。

             ■ 銀閣 (ぎんかく)とは、 慈照寺銀閣

             (じしょうじぎんかく、= 銀閣寺銀閣)であり、

             慈照寺(じしょうじ、= 銀閣寺)の観音殿(か

             んのんでん)であり、 慈照寺(= 銀閣寺)の

             観音殿の通称である。 

             ■ 慈照寺(= 銀閣寺)の 銀閣は、観音殿

             である。

                観音殿(かんのんでん) とは、 観音

             像を安置する建物 である。

                銀閣 (= 慈照寺(= 銀閣寺)観音殿)

             は、 東山文化の代表作の1つである。

             ■ 慈照寺(じしょうじ、= 銀閣寺)は、東山

             殿 (ひがしやまでん、東山山荘( ひがしや

             まさんそう)) という足利義政 (あしかがよ

             しまさ、室町幕府・第8代将軍、法名(戒名):

             慈照院) の別荘(山荘)であったが、足利義

             政死後、現在の慈照寺(= 銀閣寺)という禅

             宗仏教寺院となった。

 

〇  ぎん  銀閣寺。

             (ぎんかくじ)。  《禅宗寺院》。

          (= 慈照寺(じしょうじ)、東山殿( ひが

           しやまでん)、東山山荘(ひがしやまさん

             そう))。

          ○ 銀閣寺は、慈照寺の通称。 

          (⇒ 慈照寺、東山殿)。

          (⇒ 銀閣東山文化

        足利 義政)。

             ■ 銀閣寺 (ぎんかくじ)は、 慈照寺(じし

                           ょうじ)の通称であり、 銀閣(ぎんかく、=

                           観音殿(かんのんでん))のある、銀閣寺(=

             慈照寺)であり、 銀閣(= 観音殿)を含む

             寺院全体である。

             ■ 慈照寺(じしょうじ、= 銀閣寺)は、東山

             殿 (ひがしやまでん、東山山荘( ひがしや

             まさんそう)) という足利義政 (あしかがよ

             しまさ、室町幕府・第8代将軍、法名(戒名):

             慈照院) の別荘(山荘)であったが、足利義

             政死後、現在の慈照寺(= 銀閣寺)という禅

             宗仏教寺院となった。

             ■ 慈照寺(= 銀閣寺)の 銀閣は、観音殿

             である。

                観音殿(かんのんでん) とは、 観音

             像を安置する建物 である。

                銀閣 (= 慈照寺(= 銀閣寺)観音殿)

             は、 東山文化の代表作の1つである。

 

〇 きん   近畿地方 

              (きんきちほう)。

           (現地方)。 《現地域名》。

           (= 滋賀県、京都府、兵庫県、

           三重県、和歌山県、奈良県、

           大阪府)。

              KINKI REGION.

                   (⇒ 畿内東山道山陰道

           山陽道東海道南海道)。

           (⇒ 現地方名)。 

           (⇒ 現8地方)。 

          (⇒ 地方名)。

                     (⇒ 都道府県)。

          (⇒ 現地域名)。

                      (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

              ■ 現地方の近畿地方 (きんきちほう、

             英:KINKI REGION)とは、 滋賀県、

             京都府、兵庫県、三重県、和歌山県、

             奈良県、大阪府である。

             ■ 現地方の、近畿地方は、

          概ね、

           @ 東山道( とうさんどう)・広域

           地方の一部の、

          滋賀県(近江 国)、 

          A 山陰道( さんいんどう)・広域

           地方の一部の、

          京都府北部・中部(丹後 国、丹

          波 国)、兵庫県本土北部(但馬

           国)、

             B 山陽道( さんようどう)・広域

            地方の一部の、

           兵庫県本土南部(播磨 国)、 

          C 東海道(とう かいどう)・広域

            地方の一部の、

           三重県北部・中央中部(伊勢

           国)、三重県中央東部(志摩国)、

           三重県中央西部(伊賀 国)、 

           D 南海道(なんかいどう)・広域

            地方の一部 の、

           三重県南部(紀伊国東部)、

           和歌山県(紀伊国中部・西部)、

           兵庫県淡路島(淡路国)、

           E 畿内(きない)・広域地方の、

           京都府南部(山城 国)、

           奈良県(大和 国)、

           大阪府北西部(摂津 国)、

           大阪府東部(河内 国)、

           大阪府南西部(和泉 国)、

                  の地域である

          ■ 近畿地方。

             <日本本土(本州、四国、九州)

             <日本国

          ■ 近畿地方。

             (≒ 旧広域地方の、畿内 と、 東山道、

             山陰道、山陽道、東海道、南海道の一部)。

             <五畿七道 (ごきしちどう、日本本土)。

 

〇 きん  近現代日本政権

             (きんげんだいにほんせいけん)。

             (日本の政権・政府)。 《政権》。

          (1868年頃〜現在)。

                     ○ 近代日本政権

                         現代日本民主政権

           ○ 近代日本政府

                         現代日本民主政府

                   (⇒ 日本の政権・政府)。

 

〇 きん  近・現代日本政府の位階

             (きん・げんだいにほんせいふのいかい)。

            《位階》。

             (⇒ 位階叙位)。

             ■ 近・現代日本の、叙位条例

          (1887年制定)や位階令(1926年制

             定、1947年改正)の16位階。

             ● <1887年頃〜現在>

             ● 現在、現代日本政府より叙位される位

             階は、「故人のみ」 である。

              ■ 近・現代日本の、叙位条例(1887年制

             定)位階令(1926年制定、1947年改正)

             の16位階は、

             上位順に、正一位、 従一位、 正二位

             従二位正三位従三位正四位従四位

                         正五位従五位正六位従六位正七位

             従七位正八位従八位 である

              (⇒ 一位二位三位四位

            五位六位七位八位)。

            (⇒ 位階令の位階)。

            (⇒ 叙位条例の位階)。

             ■ 近代日本の、職員令(1869年

             制定)の20位階。

             ● <1869年頃〜1887年頃、使用>

             ■ 近代日本の、職員令(1869年制定)の

             20位階は、

             上位順に、 正一位、 従一位、 正二位

              従二位正三位従三位正四位従四位

                         正五位従五位正六位従六位正七位

              従七位正八位従八位正九位従九位

              大初位少初位 である

              (⇒ 一位二位三位四位五位

            六位七位八位九位初位)。

          (⇒ 職員令の位階)。

              ■ 近・現代日本の、叙位条例や位階令(じ

             ょいじょうれいやいかいれい)の16位階は

             1887年頃 から現在まで使用されている。

                現在、現代日本政府より叙位される位

             階は、「故人のみ」である。

                近・現代日本の、叙位条例や位階令

             16位階は、 近代日本の、職員令(1869

             年頃〜1887年頃使用、20位階)を改めて、

             叙位条例が887年に制定され、その後、

             位階令が1926年に制定され1947年に改

             正され、現在、使用されている。

             ■ 近代日本の、職員令(しょくいんれい)の

             20位階は、 1869年頃から1887年頃ま

             で使用された。

                近代日本の職員令の20位階は、前近

             代日本の、朝廷(律令官制)の位階701年

             頃〜1869年頃使用、30位階)を改めて、

             1869年に制定され、 1869年制定の職員

             から1887年制定の叙位条例 への変更ま

             使用された。

 

〇 きん  近・現代日本の叙位条例

       や位階令の位階。 

             (きん・げんだいにほんのじょいじょうれ

             いやいかいれいのいかい)。 《位階》。

         (⇒ 叙位条例の位階)。

          (⇒ 位階令の位階)。

          (⇒ 近・現代日本政府の位階

          (⇒ 位階叙位

              (⇒ 一位二位三位四位

            五位六位七位八位)。

             ■ 近・現代日本の、叙位条例

          (1887年制定)や位階令(1926年制

             定、1947年改正)の16位階。

             ● <1887年頃〜現在>

             ● 現在、現代日本政府より叙位される位

             階は、「故人のみ」 である。

              ■ 近・現代日本の、叙位条例や位階令

             16位階は、

             上位順に、正一位、 従一位、 正二位

             従二位正三位従三位正四位従四位

                         正五位従五位正六位従六位正七位

             従七位正八位従八位 である

 

〇 きん  近現代日本の日本

        流通貨幣。

                           ( きんげんだいにほんのにほんり

                           ゅうつうかへい) 。 

          《日本流通貨幣》。

             The Japanese Currencies of 

             Modern and Present-day 

             Japan.

          日本流通貨幣)。

                        ■ 近現代日本の貨幣単位は、 円、

              銭、 (えん、せん、りん)であり、

              1円=100銭 (せん)=1000

              (りん)である。

              ■ 近現代日本の、近現代政府発行

             定位(定額)通常貨幣 は、次の

             17種類である。 

                          ● 一万円紙幣。

             ● 五千円紙幣

             ● ニ千円紙幣 。 

             ● 千円紙幣。  

             ● 五百円紙幣・硬貨。

             ● 百円紙幣・硬貨。  

             ● 五十円紙幣・硬貨。

             ● 十円紙幣・硬貨。 

             ● 五円紙幣・硬貨。

              ●  一円紙幣・硬貨。 

             ● 五十銭紙幣・硬貨。

             ● ニ十銭紙幣・硬貨。

             ● 十銭紙幣・硬貨。

             ● 五銭紙幣・硬貨。

             ● 銭紙幣・硬貨。

             ● 五厘硬貨。

             ● 一厘硬貨。 

 

〇 きん  金吾。

             (きんご)。 《人名》。

          (= 小早川秀秋)。

          (⇒ 小早川秀秋

             ■ 金吾(きんご)とは、 小早川

             秀秋である。

 

〇 ぎん  銀座。 

             (ぎんざ)。  《貨幣鋳造所》。

             (= 銀貨鋳造所)。 

             THE GINZA SILVER COIN 

                        MINT.

          (⇒ 江戸時代の日本

        流通 貨幣)。

             ■ 銀座 (ぎんざ)は、 江戸幕府の

             公認銀貨民間鋳造所であり、 銀貨を

             つくっていた場所で、現在の銀 貨の造

                             幣局に相当する。

             ■ 現在の東京の銀座という地名は、

             江戸時代に銀座があった場所であっ

             たことから、命名された。

 

〇 きん  今上天皇。

             (きんじょうてんのう)。 《天皇》。

          (現在の天皇の意)。

                    (= 徳仁天皇 なるひとてんのう)。 

          (⇒ 徳仁 天皇)。

             THE PRESENT EMPEROR.

             ■ 今上天皇 (きんじょうてんのう)  

             とは、 現在の天皇の意であり、 

             2020年現在、徳仁天皇 (なるひと

             てんのう)である。

 

〇 きん  近世大名。

             (きんせいだいみょう)。 《大名》。

          ( 大名戦国大名

                  守護大名) 。

             ■ 近世大名とは、 概ね、安土桃

             山時代や江戸時代 (1573年頃

             〜1868年頃) の時期の大名で

             ある。

             ■ 大名の変遷の概略。

             ● 大名の変遷では、 室町時代前

             期・中期に、室町幕府(= 足利幕府)

             の将軍に臣従した、各地の領国支

             配者の武家、武士が、守護大名とな

             り、 室町時代後期(= 戦国時代)に、

             室町幕府の将軍や守護大名の権力

                          が低下し(弱まり)、多くの守護大名

             は没落し、代わって、実力で領国を

             支配する戦国大名が多く出現し、

             安土桃山時代に、多くの戦国大名

             が全国を統一した豊臣氏に臣従し

             て近世大名となり、 江戸時代前期

             に、江戸幕府樹立後、多くの近世大

             名は、江戸幕府(= 徳川幕府)の将

             軍に臣従して、藩主(はんしゅ)とな

             る。

 

〇 きん   近世日本

              (きんせいにほん)。

           (= 1573年頃ー1868年頃)。

           (= 安土桃山時代、江戸時代

           の日本)。

              《日本歴史の時代区分》。

             EARLY MODERN 

          JAPAN

          □ 近世日本 ガイド

          ブック

           ○ 近世日本は、

          概ね、1573年頃ー1868年

          頃である。

           ■ 安土桃山時代

           ■ 江戸時代

           (⇒ 日本歴史の時代区分)。 

 

              ■ 近世日本 (きんせいにほん、英:

              EARLY  MODERN JAPAN)とは、  

               概(おおむ)ね、安土桃山時代、江戸

              時代の日本であり、 西暦 1573年

              頃から1868年頃までの日本である。

              ■ 近世日本では、 日本地域(日本本

               土、北海道、南西諸島の日本列島)に

                は、日本土着常住民の、「本土日本人」

              「アイヌ人」「琉球人」3グループの

              近世日本人が居住する。

 

〇 きん  近世日本人

             (きんせいにほんじん)。

                    《日本常住民の日本人》。

             (日本人のルーツ)。

          (人類学上の分類・特徴)。

             THE EARLY MODERN 

             JAPANESE PEOPLE.

              ● 近世日本人 = 近世日本地域土着・常

              住民。

            ○ 「本土日本人」、「琉球人」、

           「アイヌ人」 の3グループの近世

                     日本人

                          ■  「近世日本人の本土日本人」、

                「近世日本人の琉球人」、

                「近世日本人のアイヌ人」。

              ● 近世日本人とは、 近世日本地域土着・

                           常住民であり、 近世日本の時期に、 日

              本地域に居住していた、「近世日本人の本

             土日本人」、 「近世日本人の琉球人」、 

             「近世日本人のアイヌ人」 の3グループ

                           の人類 である。

              ■ 近世日本人 (= 近世日本地域土着・常

              住民)。

             <日本人 (= 日本地域土着・常住民)。

             <モンゴロイド。

             <現生人類(= 新人、ホモ・サピエンス種))。 

             <ヒト属。

             <人類(= ヒト亜族))。

              ○ 近世日本人の 地域的・文化的特徴 

             (人類学上の分類・特徴)。

                          ○  多くの近世日本人は、「本土日本人」で

              ある。

              ■ 近世日本人とは、 近世日本の時期に

             (安土桃山時代と江戸時代に)、 日本地域

             (日本本土、北海道、南西諸島の日本列島)

             に居住していた、「近世日本人の本土日本

             人」、「近世日本人の琉球人」、「近世日本人

             のアイヌ人」の3グループの人類であり、 

                日本本土(本州、四国、九州)に居住し

             ていた「本土日本人」の近世日本人であり、 

                南西諸島に居住していた「琉球人」の

             近世日本人であり、 

                              北海道に居住していた「アイヌ人」の近

             世日本人である。

              ● 「本土日本人」は、 古・新モンゴロイド

             混血の縄文・弥生渡来・混血系の人類であ

             る。

                 「琉球人」は、 古・新モンゴロイド混血

             の縄文・弥生渡来・混血系の人類である。

                「アイヌ人」は、 古・新モンゴロイド混

             血の縄文・北アジア諸民族・混血系の人類

             である。

             ■ 近世日本人(日本常住民)への進化表。

               化石類人猿(= 中新世ホミノイド)⇒ 

             人類の、猿人⇒ 原人(= ホモ・エレクト

             ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類

             ⇒ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス

             )⇒ モンゴロイド⇒ 縄文人⇒ 

             弥生人⇒ 古代日本人⇒ 中世日本人 

             ⇒ 近世日本人⇒ 近代日本人 

             現代日本人

             ■ 日本人(日本常住民)への進化表。

               化石類人猿(= 中新世ホミノイド)⇒ 

             人類の、猿人⇒ 原人(= ホモ・エレクト 

             ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類

             ⇒ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス

             )⇒ モンゴロイド⇒ 縄文人⇒ 

             弥生人⇒ 古代日本人⇒ 本土日本人

             (= 本土人)、 「琉球人」、「アイヌ人」。

            (⇒ 日本人)。 

            (⇒ 縄文・弥生渡来・混血系)。

            (⇒ 本土日本人(= 本土人))。 

            (⇒ 琉球人)。 

            (⇒ 縄文系)。

            (⇒ アイヌ人)。 

            (⇒ 原日本人)。

          (⇒ 日本人ルーツ・ガイドブック)。

 

〇 きん  近世日本歴史 詳細年表

          (⇒ 日本史年表) 。

 

〇 きん  近代制限議会内閣制 

             (きんだいせいげんぎかいないかくせい)。

          (19〜20世紀)。

          (⇒ 日本の土地人民統治制度)。

 

〇 きん  近代制限民主政治 

             (きんだいせいげんみんしゅせいじ)。

                           (= 近代天皇親政政治

                近代天皇絶対主義政治)。

          (1867年〜1945年)。

          (⇒ 日本の政治形態)。

 

〇 きん  近代天皇親政政治。 

             (きんだいてんのうしんせいせいじ)。

                    (= 近代制限民主政治

               近代天皇絶対主義政治)。

        (⇒ 近代制限民主政治)。

          (1867年〜1945年)。

          (⇒ 日本の政治形態)。

 

〇 きん  近代日本

             (きんだいにほん)。 

          (= 1868年頃ー1945年頃)。

         = 明治時代、大正時代、

           昭和・戦前時代の日本)。

              《日本歴史の時代区分》。

             MODERN JAPAN

                    (⇒ 近代日本ガイド

        ブック)。

          ○ 近代日本は、

          概ね、1868年頃〜1945年

          頃である。

          ■ 明治時代

          ■ 大正時代

          ■ 昭和・戦前時代

          (⇒ 日本歴史の時代区分)。 

             ■ 近代諸改革。

             ● 明治新政府(近代日本政府)は、

             近代国民国家建設をめざして、近代

             諸改革を行う。

                近代政治改革、近代貨幣改革、

             近代暦・時法改革、近代氏名改革、

             近代結婚制度改革 などの近代諸

             改革である。

             ■ 近代日本 (きんだいにほん、英:

             MODERN JAPAN)とは、 明治

             時代、大正時代、昭和・戦前時代の

             日本であり、 概(おおむ)ね、18

             68年頃から1945年頃までの日本

             である。

              ■ 近代日本では、 日本地域(日本

             本土、北海道、南西諸島の日本列島)

               には、日本土着常住民の、「本土日本

             人」「アイヌ人」「琉球人」3グル

             ープの近代日本人が居住する。

 

〇 きん  近代政治改革。 

             (きんだいせいじかいかく)。   

          (⇒ 近代日本 ガイドブック)。

          (⇒ 近代日本政府)。

          ■ 近代国民国家建設の

          諸改革の基礎。

          ● (a) 富国強兵 

          (富国強兵をめざす)。

          ● (b) 封建制の廃止と

          民主制の導入 

          (封建政治から近代民主

          政治(不完全な)へ移行)。

          ● (c) 中央集権国民国

           家へ移行

          (地方分権国家(幕藩体

          制)から中央集権国家、近

          代国民国家へ移行。幕府、

          藩の民より日本国民へ)。

          ● (d) 三権分立へ移行 

          (武家独裁政治(徳川氏独

          裁政治)から近代国家の

          権分立(不完全な)へ移行。 

          国政を、行政(政府)、立法

                     (国会)、司法(裁判所)に

          分離)。

          ● (e) 法治国家へ移行

          (裁判所の設置。 近代民法、

          近代刑法の制定。 国家の

          行動を縛る憲法(国の基本

          法)を制定。

             ■ 近代政治改革 (きんだいせい

             じかいかく)は、 明治新政府(近

                代日本政府)の近代国民国家 建設

             の諸改革の基礎(基盤)である。

             ■ 明治新政府(近代日本政府)

             の近代政治改革は、主に、

             (a) 富国強兵 

               (富国強兵をめざす)、

              (b) 封建制の廃止と民主制の

               導入 

               (封建政治から近代民主政治

               (制限された)へ移行する)、

             (c) 中央集権国民国家へ移行

               (地方分権国家(幕藩体制)

               から中央集権国家、近代国

               民国家へ移行する。 幕府、

               藩の民より日本国民となる)、

             (d) 三権分立へ移行 

               (武家独裁政治(徳川氏独

               裁政治)から近代国家の

               権分立(不完全な)へ移行

               する。 国政を、行政 (政府)、

                          立法(国会)、司法(裁判所)

               に分離する)、

             (e) 法治国家へ移行

               (裁判所 を設置する。 近代民

               法、近代刑法を制定する。

               国家の行動を縛る憲法(国の

               基本法)を制定する)、

             などである。

 

〇 きん  近代貨幣改革。

                         (きんだいかへいかいかく)。 

          (⇒ 近代日本 ガイドブック)。

          (⇒ 日本流通貨幣)。

          ■ 近代国民国家建設の

          諸改革の1つ。

          ● (a) 円銭厘単位制採用

                     (両分朱文単位制から円

          銭厘単位制への移行)。

          ● (b) 中央銀行制採用

          (基軸(主軸)貨幣・中央

          銀行(日銀)発行制導入)。

             ■ 近代貨幣改革 (きんだいかへ

             いかいかく)は、 明治新政府(近

               代日本政府)の近代国民国家建設

             の諸改革の1つである。

             ■ 明治新政府(近代日本政府)の

             近代貨幣改革は、 主に、

             (a) 円銭厘単位制採用

             (両分朱文(りょうぶしゅもん)単位

             制から円銭厘(えんせんりん)単位

             制への移行を行う)、

                  (b) 中央銀行制採用 

             (基軸(主軸)貨幣(通貨)・中央銀

              行(日銀)発行制導入を行う)

             などである。

 

〇 きん  近代結婚制度改革

                         (きんだいけっこんせいどかいかく)。 

          (⇒ 近代日本 ガイドブック)。

            (⇒ 前近代日本の一夫多

           妻制、夫婦別姓)。

          ■ 近代国民国家建設の

          諸改革の1つ。

          ● (a) 入籍婚制 

          (儀式婚から入籍婚への

           移行)。

          ● (b) 一夫一妻制 

          (一夫多妻制から一夫一

          妻制への移行)。

          ● (c) 夫婦同姓制 

          (「家父長制の夫婦別姓」

          から近代夫婦同姓への

          移行)。

                    ●  (d) 自由恋愛結婚制 

          (身分・家格・家同士結婚

          から自由恋愛結婚への

          移行)。

          ● (e) 個人間結婚制 

           (家同士結婚から個人間

          結婚へ移行)。

             ■ 近代結婚制度改革 (きんだい

             けっこんせいどかいかく)は、明治

                新政府(近代日本政府)の近代国

             民国家建設の諸改革の1つである。

             ■ 明治新政府(近代日本政府)の

             近代結婚制度改革は、主に、

             (a)入籍婚制 

             (儀式婚から入籍婚への移行を行う)、 

             (b) 一夫一妻制 

             (一夫多妻制から一夫一妻制へ

             の移行を行う)、 

             (c) 夫婦同姓制 

             (「家父長制の夫婦別姓」から近

             代夫婦同姓への移行を行う)、

             (d) 自由恋愛結婚制 

             (身分・家格・家同士結婚から

             由恋愛結婚への移行を行う)、

             (e) 個人間結婚制 

              (家同士結婚から個人間結婚

             移行を行う)、

             などである。

 

〇 きん  近代氏名改革

                         (きんだいしめいかいかく)。 

          (⇒ 近代日本 ガイドブック)。

          (⇒ 前近代日本の人名)。

          ■ 近代国民国家建設の

          諸改革の1つ。

          ● (a) 戸籍氏名制。 

          ● (b) 氏名2個制。 

          ● (c) 一生一氏名制。

          ● (d) 夫婦同姓制 

          (「家父長制の夫婦別姓」

          から近代夫婦同姓への

          移行)。

             ■ 近代氏名改革(きんだいしめい

               かいかく)は、 明治新政府(近代

                日本政府)の近代国民国家建設の

             諸改革の1つである。

             ■ 明治新政府(近代日本政府)の

                近代氏名改革は、主に、

             (a) 戸籍氏名制、

             (b) 氏名2個制、

             (c) 一生一氏名制、

             (d) 夫婦同姓制 

             (「家父長制の夫婦別姓」から近代

             夫婦同姓への移行)、

             などである。

 

〇 きん  近代暦・時法改革。

                         (きんだいれき・じほうかいかく)。

          (⇒ 近代日本 ガイドブック)。

          (⇒ 前近代日本の時刻・

            時法)。

           ■ 近代国民国家建設の

           諸改革の1つ。

                     ● (a) 新暦(太陽暦)

           導入

          (旧暦(太陰太陽暦)から

           新暦(太陽暦)への移行)。

           ● (b) 1日24時間制

           定時法

          (1日12等分制・定時・不

          定時法から1日24時間制

                     定時法への移行)。

              ■ 近代暦・時法改革 (きんだい

             れき・じほうかいかく)は、 明治新

                政府(近代日本政府)の近代国民

             国家建設の諸改革の1つである。

             ■ 明治新政府(近代日本政府)

                の近代暦・時法改革は、主に、

             (a) 新暦(太陽暦)導入 

             (旧暦(太陰太陽暦)から新暦(太

             陽暦)への移行を行う)、

             (b) 1日24時間制定時法導入

             (1日12等分制・定時・不定時法

             から1日24時間制定時法への移

             行を行う)、

             などである。

 

〇 きん  近代日本政権

             (きんだいにほんせいけん)。

             (1868年頃〜1945年頃)。

          ○ 近代天皇親政政権。

          (⇒ 近現代日本政権)。

                    (⇒ 日本の政権・政府)。

 

〇 きん  近代日本政府

             (きんだいにほんせいふ)。

          (1867〜1945年)。

          (⇒ 近現代日本政権

          (⇒ 日本の政権・政府)。

 

 きん  近代日本文化

             (きんだいにほんぶんか)。

          (19世紀後半〜20世前半)。

          (⇒ 日本の文化)。

 

〇 きん  近代日本歴史年表

             (きんだいにほんれきしねんぴょう)。

                    (⇒ 日本史年表) 。

 

〇 きん  近代日本 

       (「昭和戦前期の旧日本

       軍の実態ガイド」)

 

 きん  近代日本の職員令の

       位階 

             (きんだいにほんのしょくいんれい

             のいかい)。

          (⇒ 位階叙位

          (⇒ 近・現代日本 政府

              の位階

             ■ 1869年制定の職員令から

             1887年制定の叙位条例への

             変更まで。

             ■ 近代日本の職員令の20位階

             1869年頃〜1887年頃、使用>

             ○ 上位順に、正一位、従一位、

             正二位、従二位、正三位、従三位、

             正四位、従四位、正五位、従五位、

             正六位、従六位、正七位、従七位、

             正八位、従八位、正九位、従九位、

             大初位、少初位

 

〇 きん  近代日本人

             (きんだいにほんじん)。

          (人類学上の分類・特徴)。

             (日本人のルーツ)。

                     《日本常住民の日本人》。

             THE MODERN JAPANESE 

             PEOPLE.

              ● 近代日本人 = 近代日本地域土着・常

              住民。

           (⇒ 日本人ルーツ・ガイドブック)。

             (⇒ 日本人)。 

             (⇒ 縄文・弥生渡来・混血系)。

             (⇒ 本土日本人(= 本土人))。 

             (⇒ 琉球人)。 

             (⇒ 縄文系)。

             (⇒ アイヌ人)。 

             (⇒ 原日本人)。

            ○ 「本土日本人」、「琉球人」、

           「アイヌ人」 の3グループの近代

                     日本人

                          ●  「近代日本人の本土日本人」

                「近代日本人の琉球人」

                「近代日本人のアイヌ人」。

              ● 近代日本人とは、 近代日本地域土着・

                           常住民であり、 近代日本の時期に、 日

              本地域に居住していた、「近代日本人の本

             土日本人」、 「近代日本人の琉球人」、 

             「近代日本人のアイヌ人」 の3グループ

                           の人類 である。

              ● 近代日本人 (= 近代日本地域土着・常

              住民)。

             <日本人 (= 日本地域土着・常住民)。

             <モンゴロイド。

             <現生人類(= 新人、ホモ・サピエンス種))。 

             <ヒト属

             <人類(= ヒト亜族))。

              ● 近代日本人の地域的・文化的特徴 

             (人類学上の分類・特徴)。

                          ●  多くの近代日本人は、「本土日本人」で

              ある。

              ● 近代日本人とは、 近代日本の時期に

             (明治時代、大正時代、昭和・戦前時代に)、

             日本地域(日本本土、北海道、南西諸島の

             日本列島)に居住していた、「近代日本人の

             本土日本人」、「近代日本人の琉球人」、「 

             日本人のアイヌ人」 の3グループの人類

                           であり、

                    日本本土(本州、四国、九州)に居住

                           し、南西諸島・北海道にも移住した「本土日

             本人」の近代日本 人であり、 

                南西諸島を中心に居住していた「琉球

                           人」の近代日本人であり、 

                北海道を中心に居住していた「アイヌ

             人」の近代日本人である。

              ● 「本土日本人」は、古・新モンゴロイド混

             血の縄文・弥生渡来・混血系の人類である。

                 「琉球人」は、古・新モンゴロイド混血

             の縄文・弥生渡来・混血系の人類である。

                「アイヌ人」は、 古・新モンゴロイド混

             血の縄文・北アジア諸民族・混血系の人類

             である。

              ● 近代日本人(日本常住民)への進化表。

               化石類人猿(= 中新世ホミノイド)⇒ 

             人類の、猿人⇒ 原人(= ホモ・エレクト

             ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類

             ⇒ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス

             (種))⇒ モンゴロイド⇒ 縄文人⇒ 

             弥生人⇒ 古代日本人⇒ 中世日本人 

             ⇒ 近世日本人⇒ 近代日本人 

             現代日本人

              ● 日本人(日本常住民)への進化表。

               化石類人猿(= 中新世ホミノイド)⇒ 

             人類の、猿人⇒ 原人(= ホモ・エレクト 

             ス類)⇒ 旧人(= 前ホモ・サピエンス類

             ⇒ 現生人類(= 新人ホモ・サピエンス

             (種))⇒ モンゴロイド⇒ 縄文人⇒ 

             弥生人⇒ 古代日本人⇒ 本土日本人

             (= 本土人)、 「琉球人」、「アイヌ人」。

 

〇 きん  公達 (きんだち)。

             (= 貴族または親王)。

          ○ 貴族や親王の尊称。

       (⇒ 朝廷)。

 

〇 きん  勤皇(勤王)の志士

              (きんのうの しし)。

            (⇒ 尊皇(王)派幕末

       の志士)。

 

〇 きん  勤皇(王)派 (きんのうのは)。

          (= 尊王(皇)派(そんのうは))。

         (⇒ 尊皇(王)派

          ○ 幕末期に、尊王(そんのう)思想

          を持って政治運動を行った者(人)。

 

 

〇 きん  勤皇(王)派(=尊皇(王)派)

            と 佐幕派 との対立 (きんのう

             のは と さばくはとのたいりつ)。

          (1853年頃〜1867年頃)。

       (⇒ 幕末日本政治・政争変

       遷一覧表)。

 

〇 きん  禁裏茶会 (禁中茶会)。

             (きんりちゃかい (きんちゅうちゃかい))。

                          (茶会)。  《茶の湯》。

          (⇒ 茶会)。

          (⇒ 豊臣秀吉千利休)。

          (⇒ 黄金の茶室)。

             ■ 禁裏茶会 (禁中茶会) (きんりちゃかい 

             (きんちゅうちゃかい)とは、 豊臣秀吉により、

             皇族・公家を接待するため、 1585年(天正

             13年)10月に、京(都)の天皇御所で行われ

             た大茶会 である。

             ◆ 秀吉の、茶の湯接待。

             ■ 秀吉の、天下統一前の4大茶会

                            (1584−1587年)。

                             1590年(天正18年)の天下統一(日

             本本土・全土統一統治)の前に、 豊臣秀

             吉は、 天下人(天下統一者)を目指して、

             接待のため、千 利休(千 宗易)と相談して、

             1584年(天正12年)から1587年(天正

             15年)までの間、4大茶会(イベント茶会)

             を開いた。

                その4大茶会(イベント茶会)とは、(1) 

             有名茶人接待のための1584年(天正12

             年)10月の大坂城茶会、 (2) 皇族・公家

             接待のための1585年(天正13年)10月の

             禁裏(禁中)茶会、 (3) 九州征伐参加大

             名・武将接待のための1587年(天正15年)

             1月の大坂城茶会、 (4) 民衆接待のため

             の1587年(天正15年)10月の北野天満宮

             茶会(北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ) で

             ある。

             ● (2) 1585年(天正13年)・禁裏(禁中)

              茶会。

                1585年(天正13年)10月の大茶会は、

             朝廷と親交を深めるための禁裏(きんり、禁

             中(きんちゅう))茶会であり、 天皇御所 (て

             んのうごしょ、天皇の住まい、= 禁裏(禁中)) 

             で、 天皇(正親町(おおぎまち)天皇)、皇子、

             公家たちを招待して行われた。 

                 黄金の茶室は、 豊臣秀吉によって、 

                天皇をもてなす禁裏(禁中)茶会のために

             つくられた。 

                 千 宗易は、 禁裏(禁中)茶会に参加

                             する僧侶身分を得るため、出家して、利休

             居士(りきゅうこじ、千利休)と改名する。

 

 

 

   ● 五十音順 (あいうえお順)。

 

 

   ■  『 現在は、過去の成果であり、

       未来は、現在の成果である。 

         (良き現在は、過去の人々の良き努力

          や活動の積み重ねの成果であり、 

          明るい良き未来は、現在の人々の、

          良き努力や活動の積み重ねによって

          形成される。)

 

 

■ 上位のWEBサイト。 

□ (KOH) カナヤマ オフィシャル   >

         ホームページ

□ (Cse)  国際理解総合サイト     >

         われら地球市民。 

□ (Ke)   百科事典。           >

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#jpdictionary(general)

 

◆ 日本史辞典

 

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#ki

 

◆ 派生見出し語サイト。

■ 「き」 基本・見出し語WEBサイト No. ja−ki 

  の、派生見出し語サイト。

 

■ No. ja− ki−3815。

● 見出し語項目 き   ( ゅ 38 / 15 う 

  付近  第1部・ゆ・ア行グループ)。

 きゅ  旧石器時代 (日本の旧石

       器時代) (き ゅうせっきじだい)

            ○ 約3万5000年前〜約1 万

          2000年前)。

 

■ No. ja− ki−4737。

● 見出し語項目 き   ( ん 47 / せ 37

   付近 第1部・ん・サ行グループ)。

〇 きん  近世日本 (きんせいにほん)

          (1573〜1868年)。

 

■ No. ja− ki−4741。

● 見出し語項目 き   ( ん 47 / だ 41

  付近  第1部・ん・タ行グループ)。

〇 きん  近代日本 (きんだいにほん)

           (1868〜1945年) 。

〇 きん  近代日本政府 (きんだいにほん

           せ い ふ) (1867〜1945年)。 

〇 きん  近代日本政権 (きんだいにほん

          せ い けん) (1868〜1945年)。

 きん  近代日本文化 (きんだいにほん

                    ぶんか)

〇 きん  近代天皇親政政治 (きんだ

             いてんのうしんせいせいじ))。

〇 きん  近代制限議会内閣制 (きん

             だいせいげんぎかいないかくせい)

 

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#theimperialcity

 

■ 京。  

    (きょう)。

 

■ 京

■ 名称 : 京 (きゅう)。

■ 別名 : 都城 (とじょう)。

■ 英語名 : 

   THE IMPERIAL CITY.

   THE IMPERIAL CAPITAL.

 

■ 《天皇》、《天皇家》、《朝廷》。

 

■ 京とは、 天皇の住居(= 内裏(だいり))、天皇

  の宮殿(= 宮城(きゅうじょう))がある都市である。

 

■ 京の移動。

  飛鳥京⇒ 藤原京⇒ 平城京(奈良の都)⇒

  長岡京⇒ 平安京(京都、京の都)⇒ 東京。

 

▲ 京(きょう)に関しては、 『「」 (きょう、= 天皇

   が居住する都市)、「宮城(きゅうじょう 、= 天皇

   宮殿)、「内裏(だいり 、= 天皇の住居)」  

   参照してください。

 

▲ 京(きょう)の移動に関しては、 「飛鳥京」 (あす

  かきょう)、「藤原京」 (ふじわらきょう)、平城京

  (へいじょうきょう)、「長岡京」 (ながおかきょう)、 

     平安京」 (へいあんきょう)を参照して ください。

 

▲ 宮城 (きゅうじょう、= 天皇の宮殿)に関して

  は、 「宮城、 内 裏」(だいり)、 「大極殿」

  (だいごくでん、国家儀式の建物)、 「朝堂 院」

  (ちょうどういん、国家政務の建物)、 「曹司 」

  (ぞうし、中央官庁の建物) などを参照してくだ

  さい。

 

▲ 内裏 (だいり、= 天皇の住居)に関しては、

   「内 裏を参照してください。

 

▲ 天皇に関しては、天皇」、「天皇家」、「朝廷

  (ちょうてい、= 天皇家の政治組織)を参照して

  ください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 41528。 

 

 

 □ 平安京 画像アルバム No.1

 

 □ 長岡京 画像アルバム No.1

 

 □ 平城京 画像アルバム No.1

 

 □ 藤原京 画像アルバム  No.1

 

 □ 飛鳥京 画像アルバム  No.1

 

 

 

 ■ 京。 

 

  ■ 京 (きょう)とは、 皇居のある土地であり、 天皇

    が住む都市であり、 朝廷の所在地であり、 天皇

    の住居(= 内裏(だいり))、天皇の宮殿(= 宮城(き

    ゅうじょう))がある都市をいう。

 

  ■ 京 (きょう)とは、 天皇の宮殿(= 宮(きゅう))

    を中心とする都市である。

 

   ■ 平安京 (へいあんきょう)は、 別名は、京都、京

    の都(きょうのみやこ) と言い、 西暦794年から

    1869年までの間、 京都市付近の、天皇の 住居、

    宮殿があった都市である。

            

 

 ■ 京(= 宮都)条の都市形態。

 

  ■ 条坊制(じょうぼうせい)とは、 中国、朝鮮半島、

    日本等で見られるの宮城都市(宮城を中心とす

    る都城(= 京)) の都市計画である。 日本で

    は、藤原京、平城京、長岡京、平安京等で採

    用された。

 

  ● 条坊制は、 南北中央に朱雀大路(すざくおお

    じ)を配し、 南北の大路(おおじ)(= 坊) と 

    東西の大路(= 条)を基盤の目状に組み合わせ

    た左右対称で方形の都市形態である。

             

 

 ■ 京(= 宮都)のメインストリートの

    朱雀大路。

  ■ 朱雀大路 すざくおおじ、しゅじゃくおおじ)は、

    日本の、都城(= 京)のメインストリートである。

 

  ■ 朱雀大路 すざくおおじ、しゅじゃくおおじ)は、 

    日本の、都城(= 京)内の大路(おおじ)であり、

    都城(= 京)の条坊制(じょうぼうせい)の都市 

      (藤原京、平城京、長岡京、平安京等) 内の宮

    城正面から南方に向う道であり、 都城(= 京)

    を南北に走る。

 

  ● 朱雀大路は、 都城(= 京)の正門・羅城門(ら

     じょうもん)に始まり、宮城の正門・朱雀門に終

     わる。

             

  ● 朱雀大路の名称は、 南方の守護神の朱雀

    ざく)に由来する。

             

 

 

 ◆ 京の移動。

  ■ 京の移動。

    飛鳥京⇒ 藤原京⇒ 平城京(奈良の都)⇒

    長岡京⇒ 平安京(京都、京の都)⇒ 東京。

 

  ■ 長岡京⇒ 平安京(= 京都、京の都)⇒ 東京。

  ■ 西暦794年に、桓武(かんむ)天皇は、長岡京か

     ら、平安京794年ー1869年、京都府京都市 付

      近、別名:京都、京の都(きょうのみやこ)) に遷

    都し、1869年(明治2年)に、睦仁天皇(むつひと

    てんのう、明治天皇 は、 東京 (とうきょう、18

    69年ー現在、東京 都、皇居は東京都 千代田区

    に移動する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

            

  ■ 藤原京⇒ 平城京(= 奈良の都)⇒ 長岡京。

  ■ 710年に、元明(げんめい)天皇(女性の天皇)は、

    藤原京 (ふじわらきょう、都:694年ー710年

    奈良県橿原(かしはら)市付近) から、平城京(へ

    いじょうきょう、都:710年〜740年・745年〜

    784年奈良県奈良市付近) に遷都し、784年  

    に、桓武(かんむ)天皇は、平城京から、 長岡京 

    (ながおかきょう、都:784年ー794年、京都府

    向日(むこう)市・長岡京市・京都市南部 付近) に

    遷都する。

 

  ■ 飛鳥京の飛鳥浄御原⇒ 藤原京 ⇒ 平城京(=

    奈良の都)。

 

  ■ 694年に、持統(じとう)天皇(女帝)は、 飛鳥京 

    の飛鳥浄御原(あすかきよみはら、都:672年ー

    694年、奈良県明日香(あすか)村付近) から、 

    藤原京(都:694年ー710年、奈良県橿原(かしは

    ら)市付近)に遷都し、710年に、元明(げんめい)  

    天皇は、藤原京から、平城京 (へいじょうきょう、

    都: 710年ー740年・745年ー784年、奈良県奈

    良市付近)に遷都する。

            

 

 ◆ 京、宮城、内裏。

  ■ 京 (きょう)とは、 皇居のある土地であり、 天

    皇が住む都市であり、 朝廷の所在地であり、 

    天皇の住居(= 内裏(だいり))、天皇の宮殿(= 宮

    城(きゅうじょう))がある都市をいう。

 

■ 京 (きょう)とは、 天皇の宮殿(= 宮(きゅう))

  を中心とする都市である。

 

■ 宮城 (きゅうじょう、= 宮(きゅう))とは、 天皇

  の宮殿をいう。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 内裏 (だいり)とは、 前近代日本の、天皇の

  住居、居所、天皇御所をいう。

 

 

■ 天皇の宮殿は、日本の歴史では、 宮城(きゅうじ

  ょう)都宮 (ときゅう)、大内裏(だいだいり)) 

  などと 呼ばれた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。            

 

■ 宮城 (きゅうじょう、= 天皇の宮殿)は、 古代日

  本の時代において、藤原宮、平城宮、長岡宮、平

  安宮では、 内裏 (だいり、=天皇の住居、天皇御

  所)、 大極殿 (だいごくでん、国家儀式等を行う 

  建物)、 朝堂院 (ちょうどういん、国家政務等を

  行う建物)、 曹司(ぞうし、官人が実務をとる中央

  官庁) などから構成されていた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

         

 

■ 古代日本中期から近世日本までの、日本の主要

  な、宮城 ( きゅうじょう、= 天皇の宮殿)を中心と

  する都市 と その変遷は、  

   (1) 飛鳥京 (あすかきょう、奈良県明日香

      村付近、6世紀頃 から694年まで)、 

   (2) 藤原京 (ふじわらきょう、奈良県橿原

      市付近、694年ー710年)、 

   (3) 平城京 (へいじょうきょう、奈良県奈

      良市付近、710年ー740年・745年

      ー784年)、 

   (4) 長岡京 (ながおかきょう、京都府向日

      市・長岡京市・京都市南部付近、784年

      ー794年)、

   (5) 平安京 (へいあんきょう、京都府京都

      市付近、794年ー1869年、別名:京都、

      京の都(きょうのみやこ)) 

   の順序で、概(おおむ)ね、移動した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 日本の主要な宮城 ( きゅうじょう、= 天皇の宮

  殿) と その変遷は、

   (1) 飛鳥宮 (あすかきゅう、飛鳥京の諸宮、

     飛鳥地域の諸宮城の総称、奈良県明日香

     (あすか)村付近)、

   (2) 藤原宮 (ふじわらきゅう、奈良県橿原

     市付近)、

   (3) 平城宮 (へいじょうきゅう、奈良県奈

     良市付近)、 

   (4) 長岡宮 (ながおかきゅう、京都府向日

     市付近)、 

   (5) 平安宮 (へいあんきゅう、京都府京都

     市付近) 

   の順序で、概(おおむ)ね、移動した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 日本の主要な宮城( きゅうじょう、= 天皇の宮殿)には、

  (1) 飛鳥宮 (あすかきゅう、飛鳥京の諸宮、飛鳥地

  域の諸宮城の総称、奈良県明日香(あすか)村付近、

  6世紀頃ー694年)、 

 

  (2) 藤原宮(ふじわらきゅう、藤原京の宮城、奈良県

   橿原市(かしはらし)付近、

   694年ー710年)、 

 

  (3) 平城宮 (へいじょうきゅう、平城京の宮城、奈良

   県奈良市(ならし)付近、

   710年ー740年・745年ー784年)、 

 

  (4) 長岡宮 (ながおかきゅう、長岡京の宮城、京都

   府向日市(むこうし)付近、

   784年ー794年)、 

 

  (5) 平安宮 (へいあんきゅう、= 平安京の宮城)、

   京都府京都市付近、本来の平安宮は平安時代末

   期まで、京都府京都市上京区(かみぎょうく)付近、

   794年ー1177年頃)、

   などがある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

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#theimperialpalace

 

■ 宮城  

     (きゅうじょう)。

 

■ 宮城

■ 名称 : 宮城 (きゅうじょう)。

■ 別名 : 皇城 (こうじょう)、皇居。

■ 英語名 : 

   THE IMPERIAL PALACE.

   THE IMPERIAL PALACE SITE.

■ 《天皇》、《天皇家》、《朝廷》。

■ 宮城とは、天皇の宮殿である。

▲ 京(きょう)に関しては、「」、「宮城、「内裏

     を 参照してください。

▲ 京(きょう)の移動に関しては、 「飛鳥京」、

  藤原京」、  平城京 」、 「長岡京」、 

     平安京」を参照して ください。

▲ 宮城 (きゅうじょう、= 天皇の宮殿)に関して

  は、 「宮城、 内 裏(だいり)」、 「大極殿

  (だいごくでん)」、 「朝 堂 院(ちょうどういん)」

  曹司(ぞうし)」 などを参照してください。

▲ 内裏 (だいり、= 天皇の住居)に関しては、

   「内 裏を参照してください。

▲ 天皇に関しては、天皇」、「天皇家」、「朝廷」を 

  参照してください。

 TKKI カナヤマ著 日本史辞典 01023。 

 

 

■ 宮城 (きゅうじょう、= 宮(きゅう))とは、 天皇の

  宮殿をいう。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 京、宮城、内裏。

■ 京 (きょう)とは、 皇居のある土地であり、 天

  皇が住む都市であり、 朝廷の所在地であり、 

  天皇の住居(= 内裏(だいり))、天皇の宮殿(= 宮

  城(きゅうじょう))がある都市をいう。

 

■ 京 (きょう)とは、 天皇の宮殿(= 宮(きゅう))

  を中心とする都市である。

 

■ 宮城 (きゅうじょう、= 宮(きゅう))とは、 天皇

  の宮殿をいう。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 内裏 (だいり)とは、 前近代日本の、天皇の

  住居、居所、天皇御所をいう。

 

 

■ 天皇の宮殿は、日本の歴史では、 宮城(きゅうじ

  ょう)都宮 (ときゅう)、大内裏(だいだいり)) 

  などと 呼ばれた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。            

 

■ 宮城 (きゅうじょう、= 天皇の宮殿)は、 古代日

  本の時代において、藤原宮、平城宮、長岡宮、平

  安宮では、 内裏 (だいり、=天皇の住居、天皇御

  所)、 大極殿 (だいごくでん、国家儀式等を行う 

  建物)、 朝堂院 (ちょうどういん、国家政務等を

  行う建物)、 曹司(ぞうし、官人が実務をとる中央

  官庁) などから構成されていた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 古代日本中期から近世日本までの、日本の主要

  な、宮城 ( きゅうじょう、= 天皇の宮殿)を中心と

  する都市 と その変遷は、  

   (1) 飛鳥京 (あすかきょう、奈良県明日香

      村付近、6世紀頃 から694年まで)、 

   (2) 藤原京 (ふじわらきょう、奈良県橿原

      市付近、694年ー710年)、 

   (3) 平城京 (へいじょうきょう、奈良県奈

      良市付近、710年ー740年・745年

      ー784年)、 

   (4) 長岡京 (ながおかきょう、京都府向日

      市・長岡京市・京都市南部付近、784年

      ー794年)、

   (5) 平安京 (へいあんきょう、京都府京都

      市付近、794年ー1869年、別名:京都、

      京の都(きょうのみやこ)) 

   の順序で、概(おおむ)ね、移動した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 日本の主要な宮城 ( きゅうじょう、= 天皇の宮

  殿) と その変遷は、

   (1) 飛鳥宮 (あすかきゅう、飛鳥京の諸宮、

     飛鳥地域の諸宮城の総称、奈良県明日香

     (あすか)村付近)、

   (2) 藤原宮 (ふじわらきゅう、奈良県橿原

     市付近)、

   (3) 平城宮 (へいじょうきゅう、奈良県奈

     良市付近)、 

   (4) 長岡宮 (ながおかきゅう、京都府向日

     市付近)、 

   (5) 平安宮 (へいあんきゅう、京都府京都

     市付近) 

   の順序で、概(おおむ)ね、移動した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 日本の主要な宮城( きゅうじょう、= 天皇の宮殿)には、

  (1) 飛鳥宮 (あすかきゅう、飛鳥京の諸宮、飛鳥地

  域の諸宮城の総称、奈良県明日香(あすか)村付近、

  6世紀頃ー694年)、 

 

  (2) 藤原宮(ふじわらきゅう、藤原京の宮城、奈良県

   橿原市(かしはらし)付近、

   694年ー710年)、 

 

  (3) 平城宮 (へいじょうきゅう、平城京の宮城、奈良

   県奈良市(ならし)付近、

   710年ー740年・745年ー784年)、 

 

  (4) 長岡宮 (ながおかきゅう、長岡京の宮城、京都

   府向日市(むこうし)付近、

   784年ー794年)、 

 

  (5) 平安宮 (へいあんきゅう、= 平安京の宮城)、

   京都府京都市付近、本来の平安宮は平安時代末

   期まで、京都府京都市上京区(かみぎょうく)付近、

   794年ー1177年頃)、

   などがある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

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#thekiyosuconference

 

■ 清洲会議 

     (きよすかいぎ)。

 

■ 清洲会議。

■ 名称 : 清洲会議 (きよすかいぎ)。

■ 時期 : 1582年(天正10年)6月27日。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 02235。

 

 

■ 柴田勝家は、 明智光秀討伐で秀吉に先を越

  され、 織田氏筆頭家老の地位を保つため、秀

  吉の勢力を抑える必要があった。

     また、山崎の戦いで勝利し明智光秀討伐

  を成し遂げた羽柴秀吉(はしばひでよし、158

  6年より豊臣秀吉に改名))ではあったが、 織

  田氏内での、秀吉の地位は安定していなかっ

  た。 戦後外交で地位を安定させる必要があっ

  た。 

     そして、清洲会議の結果、秀吉は、会議で

  も勝利を得て、織田氏内で柴田勝家と互角の

  地位を手に入れた。

     清洲会議での会議録(議事録)はないの

  で、ここでは、各種の一次的史料をもとに、清

  洲会議の内容を記載した。

      

■ 清洲会議 (きよすかいぎ)とは、 1582年(天

  正10年)6月27日に、 尾張(おわり、愛知県

  西部)の、清洲城(きよすじょう)で、 織田氏の

  重臣が、 織田信長・信忠(おだのぶなが・のぶ

  ただ)死後の、織田氏の後継者や遺領配分を決

  定した会議 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 1582年(天正10年)6月2日の「本能寺の変

   で、 織田信長と信長の嫡男(ちゃくなん)の

  田信忠(のぶただ)が明智光秀(あけちみつひ

  にで)よって攻められ自害し、 その後、明智光

  秀は、山崎の戦いで羽柴秀吉(豊臣秀吉)によ

  って攻められ敗死した。

     事件落着後、 織田氏の重臣が、 織田信

  長・信忠死後の、織田氏の継嗣(けいし)問題

  や遺領配分(領地再配分)を決定するために、 

  尾張国清洲城 (おわりのくに・きよすじょう、愛

  知県清須市にあった城) に集まり、話し合っ

  た。

 

■ 織田氏筆頭家老の柴田勝家(しばたかついえ)

  が、 織田氏の重臣に、会議への参加を呼びか

  け (川角太閤記(かわすみたいこうき)より)、 

  4人の織田氏重臣が集まった。 織田信長の織

  田氏一族の者は、 呼ばれなかった 

    清洲城に集まった織田氏の重臣は、 柴田

  勝家(しばたかついえ)、 丹羽長秀(にわなが

  ひで)、 池田恒興(いけだつねおき)、 羽柴秀

  吉(はしばひでよし、豊臣秀吉) の4人であっ

  た。 滝川一益(たきがわかずます)は、欠席し

  た。

     羽柴秀吉(豊臣秀吉)が、 会議の決定を

  自分に有利に運ぶため、 会議途中で中座す

  る。 その中座の間、羽柴秀吉に味方していた

  丹羽長秀が、 秀吉の意見を入れて後継者を

  3歳の信長の嫡孫・三法師(さんぽうし、さんぼ

  うし)にすうように、柴田勝家を説得した (川角

  太閤記より)。

     清洲会議では、織田氏一族が集まって

  田氏の後継者や遺領配分を決めたのではなく、 

  織田氏の重臣が集まって織田氏の後継者や遺

  領配分を決めた。 信長の、次男・織田信雄(の

  ぶかつ)、三男・織田信孝(のぶたか)、嫡孫・三

  法師などの信長の子や孫、信長の兄弟などの

  織田氏一族は、 その集まりの会議に参加すら

  できなかった。  

 

■ 会議後の動向。

■ 清洲会議後、織田氏の家臣団の重臣は、それ

  ぞれ、大名として領土を支配して独立し、織田

  氏の一族もそれぞれ、大名として領土を支配し

  て独立し、 織田氏の一族や家臣団は分裂し 

  織田氏の当主は、ただの名誉職になってしま

  った。

     会議後、それまで織田氏の重臣筆頭として

  最大の発言権を持っていた柴田勝家の影響力

  が低下し、 羽柴秀吉(豊臣秀吉)が、 柴田勝家

  と互角の地位を占めるようになった。 織田氏内

  部の勢力が、大きく変わった。

     1582年(天正10年)の会議後、織田氏の

  柴田勝家羽柴秀吉 (豊臣秀吉)方の対立は、

  激しくなり、 同年に信長の後継者であることを

  天下に示すため秀吉が信長の葬儀を行い、翌

  年の1583年(天正11年)の賤ヶ岳(しずがた

  け)の戦いが起こり、秀吉が勝利を得て、羽柴

  秀吉(豊臣秀吉)が、 実質上、織田氏に取って

  代わった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 織田氏の後継者。

     清洲会議で、 織田氏の後継者の当主は、

  幼年の織田信長の嫡孫(ちゃくそん)の三法師

  (さんぽうし、さんぼうし、元服(成人)後織田秀

  ) と決まり、 織田信孝(のぶたか)は、 そ

  の後見人として収まった。

     織田氏の後継者問題で、 織田信長の3男

  の織田信孝(のぶたか)(欠席)を擁立する柴田

  勝家 と、 織田信長の嫡男・織田信忠(のぶた

  だ)の子・三法師(欠席、さんぽうし、さんぼうし、

  織田秀信)を擁立 する羽柴秀吉(豊臣秀吉とが

  対立した。 

     しかし、羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、 明智光

  討伐の功労者であり、 丹羽長秀池田恒興

  が秀吉の意見を支持し、 三男で神戸具盛養子

  となり神戸氏へ養子に出ている織田信孝(のぶ

  たか)よりも三法師(織田秀信)は 、血統的な正

  統性が強いこともあり、 織田氏の後継者の当

  主に、三法師(織田秀信)が決まり、 織田信孝

  (のぶたか)は、その後見人として収まった。

     秀吉・軍師の黒田官兵衛(孝高)(くろだか

  んべい(よしたか))の献策により、羽柴秀吉(

  臣秀吉)は、幼年の三法師(織田秀信)を擁立し、

  また、2人の重臣の丹羽長秀池田恒興にも秀

  吉の根回しが行き渡っていた と言われている。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 織田氏領地の再配分。

    清洲会議で、 織田氏領地の再配分では、

   田一族の、 新当主の幼年の三法師(織田秀信

  は、 安土城と近江国(おうみのくに、滋賀県)

  坂田郡を相続し、 信長次男の織田信雄(のぶ

  つか)は、尾張国(おわりのくに、愛知県西部)を

  相続し、 信長三男の織田信孝(のぶたか)は、

  美濃国(みののくに、岐阜県南部)を相続し、信

  長四男で秀吉養子の羽柴秀勝(ひでかつ)は、

  明智光秀の旧領の丹波国(たんばのくに、京都

  府中部)を相続した。 

    清洲会議で、織田氏領地の再配分では、

   田氏家臣団の、 柴田勝家は、越前国(えちぜ

  んのくに、福井県東部) を安堵(あんど)の上、 

  勝家の希望から秀吉の領地の長浜城と北近

  江3郡(滋賀県北部)を割譲させ、 丹羽長秀

  は、若狭国(わかさのくに、福井県西部)を安

  堵の上、近江国(滋賀県)2郡を与えられ、 

  田恒興は、摂津国(せっつのくに、大阪府北西

  部)3郡を与えられ、 羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、

  山城国(やましろのくに、京都府南部)を与えら

  れ、 それぞれ、加増された。  

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

♪♪ 清洲会議が登場する興味深い、

   ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 清洲会議が登場する興味深い関

  連ドキュメンタリー。

 

■ 英雄たちの選択 『 清洲会議 秀

  吉・天下への挑戦 』 

   (NHKテレビ・2014年7月24日・本放送・

   歴史ドキュメンタリー番組)。 

● 清洲会議の詳細を述べる。

 

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#kinkakugoldenpavilion

 

■ 金閣  

    (きんかく)

 

 金閣。

■ 名称 : 金閣 (きんかく)。

■ 別名 : 鹿苑寺(= 金閣寺)金閣、 鹿苑寺(= 金

  閣寺)舎利殿、 北山殿金閣、 北山殿舎利殿。

■ (舎利殿)。 《寺院の楼閣建築》。

■ 金閣は、鹿苑寺(= 金閣寺)の舎利殿の通称。

■ 金閣は、京(都)の、鹿苑寺(= 金閣寺、前の北山

  殿(きたやまでん)・北山山荘)) の舎利殿(しゃり

  でん)

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 81039。

 

□ 鹿苑寺(= 金閣寺)の金閣 画像アル

   バム No.1

□ 金閣を描いた、興味深い関連ドキュ

   メンタリー、ドラマ、映画

     

 

■ 金閣 (きんかく)とは、 鹿苑寺金閣(ろくおん

     じきんかく、= 金閣寺金閣)であり、 鹿苑寺(ろ

  くおんじ、= 金閣寺)の舎利殿(しゃりでん)であり、

  鹿苑寺(= 金閣寺)の舎利殿の通称である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 鹿苑寺(= 金閣寺)の金閣は、舎利殿である。

     舎利殿(しゃりでん) とは、 シャカ(= ブッ

  ダ)の遺骨が納められている建物である。

      金閣 (= 鹿苑寺(= 金閣寺)舎利殿)

  は、 北山文化の代表作の1つである。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 鹿苑寺 (ろくおんじ、= 金閣寺)は、 北山殿 

  (きたやまでん、北山山荘(きたやまさんそう))

  という足利 義満 (あしかがよしみつ、室町幕府・

    第3代将軍、法名(戒名):鹿苑院) の別荘(山

  荘)であっ たが、 足利義満死後、現在の鹿苑

  寺(= 金閣寺)という 禅宗仏教寺院となった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 金閣。

■ 金閣(きんかく)は、 鹿苑寺金閣(ろくおんじき

  んかく)であり、 京(都)の、鹿苑寺(ろくおんじ、

  = 金閣寺、前の北山殿(きたやまでん、北山山

  荘)) の舎利殿(しゃりでん) である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 足利 義満は、1397年頃に、京(都)の北山 (き

  たやま)に、舎利殿(しゃりでん)金閣を建てる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 金閣(きんかく)は、 室町時代前期に、 足 利

  義満が京都の北山(きたやま)に 造営した、北

  山殿 (きたやまでん、北山山荘、後の鹿苑寺

  (ろくおんじ、金閣寺)) 内の楼閣(ろうかく)で 

  ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 北山殿(のちの鹿苑寺)の舎利殿(しゃりでん)

  金閣は、 3層から成(な)り、 中・上層に金

  箔(きんぱく)を押したので、この名がある。

     北山殿(後の鹿苑寺)は、元(もと)、西園

  寺公経の別荘の地に造られた。

     足利義満が1397年に、公家の西園寺家

  (さいおんじけ)の別荘の「北山第(きたやまだ

  い)」を譲り受け、 その後、足利義満は、新た

  に、「北山殿(きたやまでん、きたやまどの)」と

  いう別荘(山荘)を造営し、舎利殿(しゃりでん)

  金閣を追加造営した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 金閣と銀閣。

    金閣は、金閣から昼間に太陽の下(もと)で

  池を眺めるのによく、 銀閣は、銀閣から夜に

  月の下で池を眺めるのによい。

 

■ 北山殿(北山山荘、後の鹿苑寺)。

■ 足利 義満 (あしかがよしみつ、生没年:13

  58−1408年、室町幕府・3代将軍1368−

  94年)は、 京(都)の北西部の北山に、 北

  山殿(きたやまでん、北山山荘、後の鹿苑寺

  (金閣寺))を、1397年頃に、造った。 

     このことから、足利義満を北山殿(きたや

  まどの)と呼ぶこ ともある。

     北山殿(きたやまでん、北山山荘、後の鹿

  苑寺)は、足利義満の死後、鹿苑寺(ろくおんじ、

  金閣寺)という寺となって、存続した。

      足利 義満の造った北山殿(きたやまでん、

  北山山荘、後の鹿苑寺(金閣寺))には、 様々

  な建物があった。 そのうちの1つが、金閣 (き

  んかく)である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 北山殿(きたやまでん、北山山荘、後の鹿苑寺

  (金閣寺))は、 足利 義満の死後、間もなくして

  解体されたが、金閣、庭園などは、残され、鹿 苑

  寺(ろくおんじ) と名を変えて、現在に到っている。 

     北山殿(きたやまでん、北山山荘)は、足利

  義満の死後、鹿苑寺(ろくおんじ)という寺となっ

  て、存続した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 鹿苑寺 (金閣寺、前の北山殿

   と 鹿苑寺(金閣寺)の金閣。

■ 室町幕府の第3代将軍の足利義満(あしか

  がよしみつ)は、1394年に、37歳で、将軍職

  を、子の足利義持(あしかがよしもち、室町幕

  府・第4代将軍)に譲り、なおも、大御所(おお

  ごしょ)として、政治実権を持ち続ける。

     足利義満は、 1397年に、公家の西園寺

  家(さいおんじけ)の別荘の「北山第(きたやま

  だい)」を譲り受け、 その後、足利義満は、新

  たに、「北山殿(きたやまでん、きたやまどの)」

  という別荘(山荘)を造営し、三層の舎利殿(し

  ゃりでん)金閣を追加造営した。

     足利義満の死後、北山殿(きたやまでん)は、

  「鹿苑寺(ろくおんじ)」という禅宗寺院となった。

  足利義満の法名(ほうみょう、戒名)が鹿苑

  (ろくおんいん)であったので、鹿苑寺(ろくおん

  じ)と名付けられた。 

     足利義満の死後、足利義満の男子で室町

  幕府・第4代将軍の足利義持(よしもち)は、父

  の足利義満と仲が悪く嫌っていたので、 舎利

  殿(しゃりでん)の金閣を除く、北山殿(後の鹿

  苑寺)のほとんどの建物を撤去してしまった。

     その後、鹿苑寺(前の北山殿)の舎利殿(し

  ゃりでん)は、通称、金閣(きんかく)と呼ばれ、

  鹿苑寺(前の北山殿)は、通称、金閣寺と呼ば

  れるようになった。

    鹿苑寺(前の北山殿)の舎利殿(しゃりでん)

  金閣は、1950年(昭和25年)に全焼した。

  その後、金閣は、1955年(昭和30年)に復元

  された。 更に、金閣は、1987年(昭和62年)

  に、大修復が行われ、現在の優美な姿となっ

  た。

    舎利殿(しゃりでん)金閣は、1994年に、

  世界遺産に登録される。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 北山殿(北山山荘、後の鹿苑寺)

     の金閣。

■ 北山文化の例として、 鹿苑寺金閣 (ろくおん

  じきんかく)があり、 鹿苑寺金閣の特徴は、

  宗様(ぜんしゅうよう)であり、 金閣の3階は、

  中国風(漢風)、2階は、書院造(しょいんづくり)、

  1階は、寝殿造(しんでんづくり)の和漢を重ねる

  様式で建てられている。 屋根の上には、鳳凰

  (ほうおう)が飾られている。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 創建当時の建物の金閣は、 1950年(昭和2

  5年)に焼失した。 現在の建物は、 1955年

  (昭和30年)に、創建当時の建物を復元し、再

  建されたものである。

     

■ 金色(こんじき)に輝く金閣は、 舎利殿(しゃり

  でん)、即ち、釈迦(しゃか)の遺骨、仏舎利(ぶ

  っしゃり)を安置する建物 として、建造された。 

    金色(こんじき)に輝く金閣の3階の室内内

  外は、金箔(きんぱく)で覆(おお)われ、 仏舎

  利を収めた容器が置かれていた、部屋であっ

  た。 

    金閣の2、3階の内外の壁は、金色である。

  その構造は、ヒノキの上に漆黒(しっこく)の漆

  (うるし)を塗り、その上に、金箔が張られてい

  る。 漆と金の組み合わせは、金色がより一層

  美しく輝く装飾のためである。 また、漆と金の

  組み合わせは、 ヒノキの建築木材を漆で保護

  し、 更に金箔が紫外線より守り、 二重にヒノ

  キ建築木材を保護し、 屋外で日光や風雨に

  さらされる建物を長持ちさせるためでもある。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 金閣の屋根の上に置かれた鳳凰(ほうおう)は、 

  為政者が善政を行うときに現れると信じられて

  きた、伝説の鳥である。 金閣の屋根の鳳凰は、

  高さは1mで、 ランドマークのアイコン的存在

  であった。  現在、復元された鳳凰が、屋根に

  置かれている。 

     1950年に創建当時の建物が焼失したと

  き、創建当時の原物の鳳凰は、外(はず)され

  ていたため(別所に保管されていたため)、焼失

  を免(まぬが)れ、残っている。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 北山殿(後の鹿苑寺(金閣寺))の

  の 天鏡閣。

■ 北山殿 (きたやまでん、北山山荘、後の鹿苑寺

  (金閣寺)) には、 今はないが、かって、金閣の

  後方(背後)に、 天鏡閣(てんきょうかく)という

  会所(かいしょ)の建物があった。 

     会所とは、人をもてなすための場所で、日本

  で、鎌倉時代末期より、造られるようになった。 

     天鏡閣は、 現在の迎賓館(げいひんかん)

  のような建物である。 天鏡閣で、 足利 義満は、 

  天皇や貴族などを迎えたり、 日明貿易のため、

  明の使節を迎え入れたりした。 天鏡閣には、 

  足利 義満所有の沢山の唐物(からもの)の名宝

  が置かれていた。 大きな天鏡閣は、 金閣の

  方(背後、推測位置は北西)に建てられ、 空中廊

  下(渡り廊下)で金閣と結ばれていた。 

     2つの建物は、セットであった。 舎利殿(し 

  ゃりでん)の金閣 と 会所(かいしょ)の天鏡閣

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#kinkakugoldenpavilion-appearingscenes

 

♪♪ 金閣を描いた、興味深い関連ドキュ

    メンタリー、ドラマ、映画。 

 

★ 金閣が登場する、興味深い、ドキュメ

   ンタリー。

 

■ 京都国宝浪漫 『 金閣 鹿苑寺 

  荘厳な輝きの真実 』。 

   (BS11テレビ・2017年1月5日・

    本放送・ドキュメンタリー番組)。

■ 鹿苑寺(= 金閣寺)や鹿苑寺金閣を詳細に

  描き、述べる。

■ 鹿苑寺(ろくおんじ、= 金閣寺、前の北山殿

  (きたやまでん、北山山荘))の歴史を詳細に

  述べる。

■ 鹿苑寺(ろくおんじ、金閣寺)の舎利殿(しゃ

  りでん)金閣の内部を詳細に描き、述べる。

 

■ 歴史ドリームチーム 

  『 金閣の謎を解き明かせ 』。 

   (NHKテレビ・2013年(H25)7月31日・

   本放送・ドキュメンタリー番組)。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

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#kitayamaculture

 

■ 北山文化 

    (きたやまぶんか)

 

 北山文化。

■ 名称 : 北山文化 (きたやまぶんか)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61212。

 

□ 鹿苑寺(= 金閣寺)の金閣 画像アル

   バム No.1

□ 北山文化 が登場する、 興味深い、

   ドラマ、映画、ドキュメンタリー

  

 

◆ 北山文化。

■ 北山文化は、 日本の室町文化 (14世紀前

  半〜16世紀後半) の1つである。

 

■ 北山文化 (きたやまぶんか)は、 室町時代

  の、室町幕府・第3代将軍・足利 義満(あしかが

  よしみつ)の時期の、 禅宗文化の普及、 明

  の文化の普及(遣明船等がもたらす) 等の特

  徴を持つ文化である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

■ 鹿苑寺(= 金閣寺) と 鹿苑寺

  利殿(= 金閣)。

■ 金閣 (= 鹿苑寺(= 金閣寺)舎利殿)は、 

  北山文化の代表作の1つである。

     鹿苑寺(= 金閣寺)の金閣は、舎利殿である。

     舎利殿(しゃりでん) とは、 シャカ(= ブッダ)

  の遺骨が納められている建物である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 金閣 (きんかく)とは、 鹿苑寺金閣(ろくおん

     じきんかく、= 金閣寺金閣)であり、 鹿苑寺(ろ

  くおんじ、= 金閣寺)の舎利殿(しゃりでん)であり、

  鹿苑寺(= 金閣寺)の舎利殿の通称である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 鹿苑寺 (ろくおんじ、= 金閣寺)は、 北山殿 

  (きたやまでん、北山山荘(きたやまさんそう))

  という足利 義満 (あしかがよしみつ、室町幕府・

    第3代将軍、法名(戒名):鹿苑院) の別荘(山

  荘)であっ たが、 足利義満死後、現在の鹿苑

  寺(= 金閣寺)という 禅宗仏教寺院となった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 鹿苑寺(金閣寺、前の北山殿

■ 足利 義満は、 京(都)の北西部の北山に、

  北山殿 (きたやまでん、北山山荘、後の鹿苑

  寺(ろくおんじ、金閣寺)) を、1397年頃に、

  造営した。

     このことから、足利義満を北山殿(きたや

  まどの)と呼ぶこ ともある。

     北山殿 (きたやまでん、北山山荘、後の

  鹿苑寺(ろくおんじ、金閣寺))は、 足利義 満

  の死後、鹿苑寺(ろくおんじ)という寺となって、

  存続した。

     足利 義満の造った北山殿 (きたやまでん、

  北山山荘、後の鹿苑寺(ろくおんじ、金閣寺))

  には、 様々な建物があった。 そのうちの1つ

  が、金閣(き んかく)である。

 

■ 北山殿 (きたやまでん、北山山荘、後の鹿苑

  寺(ろくおんじ、金閣寺))は、 足利義満の死後、

  鹿苑寺(ろくおんじ)という寺となって、存続し、

  現在に到っている。

     北山殿 (きたやまでん、北山山荘、後の

  鹿苑寺(ろくおんじ、金閣寺))は、足利 義満

  死後、間もなくして解体されたが、 金閣、庭園

  などは、残された。    

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 鹿苑寺(金閣寺、前の北山殿

   と、 鹿苑寺(金閣寺)の金閣。

■ 室町幕府の第3代将軍の足利義満(あしか

  がよしみつ)は、1394年に、37歳で、将軍職

  を、子の足利義持(あしかがよしもち、室町幕

  府・第4代将軍)に譲り、なおも、大御所(おお

  ごしょ)として、政治実権を持ち続ける。

     足利義満は、1397年に、公家の西園寺

  家(さいおんじけ)の別荘の「北山第(きたやま

  だい)」を譲り受け、 その後、足利義満は、新

  たに、「北山殿(きたやまでん、きたやまどの)」

  という別荘(山荘)を造営し、三層の舎利殿(し

  ゃりでん)金閣を追加造営した。

     足利義満の死後、北山殿(きたやまでん)は、

  「鹿苑寺(ろくおんじ)」という禅宗寺院となった。

  足利義満の法名(ほうみょう、戒名)が鹿苑

  (ろくおんいん)であったので、鹿苑寺(ろくおん

  じ)と名付けられた。 

     足利義満の死後、足利義満の男子で室町

  幕府・第4代将軍の足利義持(よしもち)は、父

  の足利義満と仲が悪く嫌っていたので、 舎利

  殿(しゃりでん)の金閣を除く、北山殿(後の鹿

  苑寺)のほとんどの建物を撤去してしまった。

     その後、鹿苑寺(前の北山殿)の舎利殿(し

  ゃりでん)は、通称、金閣(きんかく)と呼ばれ、

  鹿苑寺(前の北山殿)は、通称、金閣寺と呼ば

  れるようになった。

    鹿苑寺(前の北山殿)の舎利殿(しゃりでん)

  金閣は、1950年(昭和25年)に全焼した。

  その後、金閣は、1955年(昭和30年)に復元

  された。 更に、金閣は、1987年(昭和62年)

  に、大修復が行われ、現在の優美な姿となっ

  た。

    舎利殿(しゃりでん)金閣は、1994年に、

  世界遺産に登録される。

 

 

■ 鹿苑寺(金閣寺、前の北山殿)の

  金閣。

■ 足利 義満は、1397年頃に、京(都)の北山

  (きたやま)に、金閣を建てる。

□ 鹿苑寺金閣 画像アルバム No.1

 

■ 金閣(きんかく)は、 室町時代前期に、 足 利

  義満が京都の北山(きたやま)に 造営した北山

  殿 (きたやまでん、北山山荘、後の鹿苑寺(ろ

  くおんじ、金閣寺)) の舎利殿(しゃりでん)であ

  る。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 金閣は、 三層から成(な)り、 中 ・上層に金箔

  (きんぱく)を押したので、この名がある。

     金閣は、もと、西園寺公経の別荘の地に造

  営された。

 

■ 北山文化の例として、 鹿苑寺金閣 (ろくお ん

  じきんかく)があり、 鹿苑寺金閣の特徴は、

  宗様(ぜんしゅうよう)であり、 金閣の3階は、

  中国風(漢風)、2階は、書院造(しょいんづくり)、

  1階は、寝殿造(しんでんづくり)の和漢を重ねる

  様式で建てられている。 屋根の上には、鳳凰

  (ほうおう)が飾られている。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 創建当時の建物の金閣は、 1950年(昭和2

  5年)に焼失した。 現在の建物は、 1955年

  (昭和30年)に、 創建当時の建物を復元し、再

  建されたものである。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 北山殿(後の鹿苑寺(金閣寺))の

  の 天鏡閣。

■ 北山殿 (きたやまでん、北山山荘、後の鹿苑寺

  (金閣寺)) には、 今はないが、かって、金閣

  後方(背後)に、 天鏡閣(てんきょうかく)という

  会所(かいしょ)の建物があった。 

     会所とは、人をもてなすための場所で、日本

  で、鎌倉時代末期より、造られるようになった。 

     天鏡閣は、 現在の迎賓館(げいひんかん)

  のような建物である。 天鏡閣で、 足利 義満は、 

  天皇や貴族などを迎えたり、 日明貿易のため、

  明の使節を迎え入れたりした。 天鏡閣には、 

  足利 義満所有の沢山の唐物(からもの)の名宝

  が置かれていた。 大きな天鏡閣は、 金閣の

  方(背後、推測位置は北西)に建てられ、 空中廊

  下(渡り廊下) で金閣と結ばれていた。 

     2つの建物は、セットであった。 舎利殿(し 

  ゃりでん)の金閣 と 会所(かいしょ)の天鏡閣

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

#kitayamaculture-appearingscenes

 

♪♪ 北山文化 が登場する、 興味深い、

    ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

★ 北山文化 が登場する、興味 深いド

   キュメンタリー。 

 

■ 京都 国宝浪漫 『 金閣 鹿苑寺 

  荘厳な輝きの真実 』。 

   (BS11テレビ・2017年1月5日・

    本放送・ドキュメンタリー番組)。

■ 鹿苑寺(= 金閣寺)や鹿苑寺金閣を詳細に

  描き、述べる。

■ 鹿苑寺(ろくおんじ、= 金閣寺、前の北山殿

  (きたやまでん、北山山荘))の歴史を詳細に

  述べる。

■ 鹿苑寺(ろくおんじ、金閣寺)の舎利殿(しゃ

  りでん)金閣の内部を詳細に描き、述べる。

 

■ 歴史ドリームチーム 

  『 金閣の謎を解き明かせ 』。 

   (NHKテレビ・2013年(H25)7月31日・

   本放送・ドキュメンタリー番組)。

 

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#ginkakupavilion

 

■ 銀閣  

    (ぎんかく)

 

 銀閣。

■ 名称 : 銀閣 (ぎんかく)。

■ 別名 : 慈照寺(= 銀閣寺)銀閣、 慈照寺

  (= 銀閣寺)観音殿、 東山殿銀閣、 東山殿

  観音殿。

■ (観音殿)。 《寺院の楼閣建築》。

■ 銀閣は、慈照寺(= 銀閣寺)の観音殿の通称。 

■ 銀閣は、京(都)の、慈照寺(= 銀閣寺、前の

  東山殿(ひがしやまでん)・東山山荘)の観音殿

  (かんのんでん)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 81035。

 

 

■ 銀閣 (ぎんかく)とは、 慈照寺銀閣(じしょうじ

   ぎんかく、= 銀閣寺銀閣)であり、 慈照寺(じしょう

   じ、= 銀閣寺)の観音殿(かんのんでん)であり、

   慈照寺(= 銀閣寺)の観音殿の通称である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 慈照寺(= 銀閣寺)の銀閣は、観音殿である。

    観音殿(かんのんでん) とは、 観音像を安置

  する建物 である。

    銀閣 (= 慈照寺(= 銀閣寺)観音殿)は、 東山

  文化の代表作の1つである。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 慈照寺(じしょうじ、= 銀閣寺)は、東山殿 (ひが

  しやまでん、東山山荘(ひがしやまさんそう))とい

  う足利 義政 (あしかがよしまさ、室町幕府・第8代

  将軍、法名(戒名):慈照院) の別荘(山荘)であっ

  たが、足利義 政死後、現在の慈照寺(= 通称・銀

  閣寺)という禅宗仏教寺院となった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 銀閣。

■ 銀閣(ぎんかく)は、 慈照寺銀閣であり、 京

  (都)の、東山山荘 (ひがしやまさんそう、後の

  慈照寺) の観音殿(かんのんでん)である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 銀閣(ぎんかく)は、 室町時代中期に、足利

  義政が京都の東山( ひがしやま)に営(いとな)

  んだ東山山荘(ひがしやまさんそう)内の楼閣

  (ろうかく) である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 足利 義政(あしかがよしまさ)は、1489年

  に、京(都)の東山(ひがしやま)に、銀閣を建

  てる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 室町文化の 、東山文化の代表的な例として、

  京(都)の、足利義政の東山山荘(慈照寺)の

  建物の銀閣(観音殿)や書院造の東求堂 (とう

  ぐどう)、 細川勝元の龍安寺(りょうあんじ)の

  庭園 (虎の子渡しといわれる石庭) などが

  ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 金閣と銀閣。

    金閣は、金閣から昼間に太陽の下(もと)で

  池を眺めるのによく、 銀閣は、銀閣から夜に

  月の下で池を眺めるのによい。

    銀閣は、銀閣から月を直接眺めたり、池に

  映る月を眺めたりして、楽しめる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 東山山荘(慈照寺)の銀閣。

  ● 銀閣(ぎんかく)とは、 慈照寺(じしょうじ)

   の銀閣である。

     東山山荘の、銀閣は、 京(都)の東山山

  荘の観音殿(かんのんでん)である。 足利 義

  死去後、 東山山荘は、慈照寺と いう寺とな

  り、 銀閣 (英: The Ginkaku Pavillion)

  は、 慈照寺の銀閣 となった。

  ● 足利 義政は、1489年に、京(都)の東

  山山荘に、観音殿(かんのんでん)、即ち、銀

  閣を建てる。

     このことから、足利 義政を東山殿と呼ぶ

  こともある。

    銀閣 は、 足利義政が建てた東山山荘

  にある、観音殿の別名 である。 

    近年(2007〜2010年)の銀閣修復時に、

  時期は未定だが銀閣二層(2階)の外壁(そと

  かべ)が白かったことが判明した。

    観音殿は、 銀閣二層(2階)の白亜の外

  壁(そとかべ)から、 「銀閣」と呼ばれたと推

  測される。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#ginkakupavilion-appearingscenes

 

♪♪ 銀閣 が登場する、 興味深い、ド

    ラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

★ 銀閣 が登場する、興味 深いドキュ

   メンタリー。 

 

■ 京都 国宝浪漫 『 銀閣寺 』。 

   (BS11テレビ・2016年12月1日・

    本放送・ドキュメンタリー番組)。

■ 慈照寺(= 銀閣寺)や慈照寺銀閣を詳細に

  描き、述べる。

 

★ 銀閣 が登場する(を描いた)、興味

   深いドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクションです。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

   また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 花の乱 (はなのらん) 』。 

   (NHKテレビ・1994年大河ドラマ)。

■ 室町時代の中期を描いたドラマであり、 

  室町時代の中期に活躍した人々 を描く。

■ 東山文化を描く。

■ 将軍夫人の日野富子(ひのとみこ)、 

  日野富子の夫の室町幕府将軍の足利

  義政(あしががよしまさ)、応仁の乱 

  などを描いたドラマ。

 

  

    ○ NHK大河ドラマ「花の乱」での、日野富子(左)

    と足利義政(右)。

 

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#kyotokunoranwar

 

■ 享徳の乱 

     (きょうとくのらん)。

 

■ 享徳の乱

■ 名称 : 享徳の乱 (きょうとくのらん)。

■ 戦争の期間 : 1454年ー1482年。

 京(都)の応仁の乱(1467ー77年)より先に、東 

  国 (とうごく、関東地方や東北地方) では、永享

  の乱や享徳の乱以後、 「戦国の世」が始まる。

 第5代鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利成氏(あ し

  かがしげうじ、生没年:1434年ー1497年) が、

  関東管領の上杉氏と対立して起こした戦い。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 享徳の乱 (きょうとくのらん、1454年ー1582年

  は、 第5代鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利成氏

  (あ しかがしげうじ、生没年:1434年ー1497年) 

  が、関東管領の上杉氏と対立して起こした戦い で

  ある。

 

■ 京(都)の応仁の乱 (おうにんのらん、1467−

  77年) より先に、  東国 (とうごく、関東地方や

  東北地方)では、 永享の乱(えいきょうのらん、

  1438−39年) や 享徳の乱(きょうとくのらん、

  1454ー82年)が起こり、 これらの乱以後、東国

  では、「戦国の世」が始まる (「戦国の世」 に突入

  する)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 享徳の乱 (きょうとくのらん、1454年ー1582年

  は、 第5代鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利成氏

  (あしかがしげうじ、生没年:1434年ー1497年) 

  が、関東管領の上杉氏と対立して起こした戦い で 

  ある。 室町幕府は、上杉氏を支援した。  

     足利成氏は、 享徳の乱 (きょうとくのらん

  1454年ー1582年 を起こす。

    1454年(享徳3年)に、鎌倉公方の足利成氏

  (しげうじ)が、関東管領の上杉憲忠(のりただ)を

  謀殺し、享徳の乱が始まる。

     享徳の乱は、 東国 (とうごく、関東8国、伊

  豆、甲斐(かい、山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・

  出羽(でわ)) の主に関東で、1454年から1582

  年まで戦われた。

    1482年(文明14年)に、都鄙(とひ)合体で、

  享徳の乱が終結する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 永享の乱 (えいきょうのらん、1438年ー1439

  年)とは、 第4代鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利

  持氏 (あしかが もちうじ、生没年:1398年−14

  39年) が、 室町幕府足利義教(よしのり)や

  関東管領の上杉憲実(のりざね)と対立して起こし

  た戦い である。

 

 

◆ 室町時代中期・後期の東国 (関東・

  伊豆・山梨・東北) の出来事。

■ 東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、山

  梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) では、 

  永享の乱や享徳の乱以後、 「戦国の世」となる。

    永享の乱 (えいきょうのらん、1438−1439

  年)で、 室町幕府・第6代将軍足利 義教(よし

  のり)は、 義教と対立する、第4代鎌倉公方の足

  利持氏(もちうじ)と戦い、勝利を得た。

     しかし、永享の乱後、義教は、 鎌倉公方が

  統治する東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐

  (かい、山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(で

  わ)) を、完全に支配しようしたが、東国の武士

  の諸勢力の反対にあい、できなかった。 また、

  義教の子を、鎌倉公方に就任させようとしたが、

  東国の武士の諸勢力の反対にあい、就任させら

  れなかった。

      統治力のある強い鎌倉公方を失い、永享の

  乱以後の1439年から、 東国 (とうごく、関東8

  国、伊豆、甲斐(かい、山梨県)、東北2国(陸奥

  (むつ)・出羽(でわ)) では、 諸勢力が入り乱 

  れ、豊臣秀吉が日本本土を統一する1590年ま

  で、「戦国の世」となった。

 

■ 第4代鎌倉公方足利持氏  (あしかがもちうじ、

  1398〜1439年) は、 室町幕府・第6代将軍

  の足利義教 (よしのり、将軍 在任1429〜1441

   や 関東管領の上杉憲実(のりざね) と対

  立し、1438年に、永享の乱 (えいきょうのらん、

  1438〜39年)を起こし、 1439年に、幕府・上

  杉軍に敗(やぶ)れて、自殺する。 

    1440年(永享12年)に、結城合戦(ゆうきか

  っせん、1440年)が起こる。 下総国 (しもうさ

  のくに、千葉 県北部相当地域)の豪族・結城氏朝

  (ゆうきうじとも)が、鎌倉公方・足利持氏の2人

  の遺子を擁(よう)し、挙兵するが、派遣された室

  町幕府軍に敗れ、 結城氏朝は敗死し、2人の遺

  子は殺される。

     その後、1449年に、 足利持氏の子の、

  利成氏 (あしかがしげうじ、生没年:1434〜9

  7年) が、 迎えられて、第5代鎌倉公方(就任:

  1449年ー1455年) となる。 

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 第5代鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利成氏(あ し

  かがしげうじ、生没年:1434〜97年) が、 14

  54年(享徳3年)に、関東管領(かんとうかんれい)

  の上杉憲忠(うえすぎのりただ)を謀殺(ぼうさつ)し、

  利成氏は、 関東管領の上杉氏と戦い、享徳の

  ( きょうとくのらん、1454〜82年) が始まる。

  室町幕府は、上杉氏を支援した。

     足利成氏(しげうじ)は、 本拠地の鎌倉を放

  棄し、 本拠地を下総国古河 (しもうさ(しもふさ)

  のくに・こが、茨城県南西部の古河) に移し、 

  河公方 (こがくぼう、1455年ー1583年、5代、

  足利成氏、政氏、高基、 晴氏、義氏) となる。

    一方、足利成氏(しげうじ)を討つべく室町幕府

  から派遣された足利政知 (あしかがまさとも、14

  35年ー1491年、足利義政の兄弟) は、 鎌倉

  に入れず、 伊豆国堀越 (いずのくにほりごえ、

  静岡県東部・伊豆半島の堀越) に本拠地を置き、 

  対峙(たいじ)し、堀越公方 (ほりごえくぼう、 就

  任:1457年ー1491年、2代) となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 享徳の乱(きょうとくのらん、1454〜1482年)

  が起こり、 古河 公方や堀越公方が成立する。

     足利成氏は、享徳の乱(きょうとくのらん)

  を起こす。 鎌倉公方の足利成氏 (あしかが

  しげうじ、1434〜97年) は、 鎌倉公方を補

  佐する役職の執事(しつじ、関東管領)の上杉

  氏と対立し、 鎌倉を保ちえず、 1455年に、 

  逃れて、 下総国古河城(しもうさのくにこがじ

  ょう) に移り、古河公方(こがくぼう) と称す。 

  1454年に、鎌倉公方の足利成氏は、 関東管

  領の上杉憲忠(うえすぎのりただ)を謀殺(ぼう

  さつ)し、 享徳の乱(きょうとくのらん)を起こし、 

  1455年に、関東管領・上杉房顕(ふさあき)が、 

  鎌倉公方の足利成氏を、 下総・古河(しもうさ・

  こが)に逐う。 成氏は、鎌倉を放棄し、古河公

  方(こがくぼう)となる(と呼ばれる)。  以後、

  古河公方 (1455〜1583年) は、 足利成

  氏(しげうじ)の子孫により、 2代・政氏、3代・

  高基、4代・晴氏、5代・義氏と続いたが、 15

  83年に古河公方の5代・足利義氏の死によっ

  て滅んだ。

     一方、享徳の乱(きょうとくのらん)が起こり、

   1457年に、 足利義政(よしまさ)の命令で、 

   足利成氏(しげうじ)を討つべく幕府から関東に

   派遣された、足利政知  (あしかがまさとも、14

   35〜91年、足利義政の兄弟) は、 鎌倉に

   入れず、 伊豆国(いずのくに)堀越に根拠地を

   置き、 堀越公方 (ほりごえくぼう、1457〜9

   1年、初代堀越公方) となる(と呼ばれる)。堀

   越公方は、1491年の足利政知(まさとも)死後、 

   政知の子の足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる、

   ?〜1491年) が、継いで2代堀越公方となる

   が、 1491年に、伊勢宗瑞(いせそうずい、北

   条早雲) に攻められ足利茶々丸は自殺し、

   越公方は、滅びる。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

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#theformerlocalplacename

 

■ 旧地域名。  

      (きゅうちいきめい)

 

■ 旧地域名。

■ 名称 : 旧地域名 ( きゅうちいきめい)。

■ 英語名 : 

   THE FORMER LOCAL PLACE 

   NAME.

 

■ 《日本の地域名》。

 

◆ 日本の、地域名には、 現旧別に、 

  (RTJ) 日本の現地域名  と、 

  (RTK) 日本の旧地域名 がある。

 

◆ 日本の、地域名には、 広さ別に、 

  (RWL)   日本の大地域名 と、 

  (RWM)  日本の中地域名 と、 

  (RWS)  日本の小地域名  がある。

 

■ 旧地域名。

  <地域名。

  <日本の地名

 

■ 前近代・旧地域名に関しては、  「前近代日本

  の地域名」を参照してください。 

■ 日本の地名の全体に関しては、 「日本の地名

  を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61912。

 

 

 ■ 日本の地域名。

  ◆ 日本の、地域名には、 広さ別に、 

  (RWL)   日本の大地域名 と、 

  (RWM)  日本の中地域名 と、 

  (RWS)  日本の小地域名  がある。

 

  ■ (RWL) 日本の、大地域名の変遷。

  ● @ 五畿七道⇒ A 旧近現代地方

    ⇒ B 現8地方。

 

     @ 五畿七道 (ごきしちどう) (紀元 (後)701

     年頃ー1868年頃、飛鳥白鳳時代末期ー江

     戸時代) ⇒ 

    A 旧近現代地方 (1868年頃ー1989年頃、

        明治時代ー昭和時代) ⇒ 

    B 現8地方。

 

  ■ (RWM) 日本の、中地域名の変遷。

  ● @ 国造・県主分国⇒ A 旧国(令制国)⇒ 

     B 旧都道府県⇒ C 現47都道府県。

             

     @ 国造(くにのみやつこ)・県主(あがたぬし)

      国 (紀元(後)3世紀頃ー701年頃、古代日

          本前期) ⇒ 

    A 旧国(きゅうこく、令制国(りょうせいこく)) 

      (701年頃ー1868年頃、飛鳥白鳳時代末期

           ー江戸時代) ⇒ 

    B 旧都道府県 (1868年頃ー1989年頃、明

      治時代ー昭和時代) ⇒ 

    C 現47都道府県。

 

 

 ■ 日本の地域名。

 

  ◆ 日本の、地域名には、 現旧別に、 

    (RTJ) 日本の現地域名  と、 

    (RTK) 日本の旧地域名 がある。

  

  ■ (RTJ) 日本の 、現地域名は、 

    (RLJ) 現・大地域名の、現8地方の

    北海道・東北・関東・中部・畿・中国・四国・

    近九州地方 や 

    (RMJ) 現・中地域名の、現47都道府県 

    などである。

 

  ■ (RTK) 日本の、旧地域名は、 

    (RLKB) 旧・大地域名(旧地方名)の、 

    五畿七道(ごきしちどう) や 

    (RMKB) 旧・中地域名の、旧国名 (きゅ

    うこくめい、令制国(りょうせいこく))

    などである。

    

    

 ■ (RTK) 日本の、旧地域名。

 

  ■ (RTK) 日本の、旧地域名には、  

    時代別に、

    (RKA) 近現代日本・旧地域名、 

    (RKB 律 令制定後・古代・中世・近世日本・

    旧地域名、

    (RKC) 律令制定前・古代日本・旧地 域名、 

    がある。  

             

  ■ (RKB・C) 前近代日本の地域名

    (= 前近代旧地域名)には、 

    (RKB 律令制定後・古代・中 世・近世日本・

    旧地域名 と、 

    (RKC) 律令制定前・古代日本・旧地域名

    がある。 

 

 

  

 

 

  

 

 

  

 

 

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#kyukokuprovinces

 

■ 旧国。  

      (きゅうこく)

 

■ 旧国。

 

■ 名称 : 旧国 ( きゅうこく)。

■ 別名 : 令制国 (りょうせいこく)、 旧国名

  (きゅうこくめい)、 律令国 (りつりょうこく)。

■ 英語名 : 

   KYUKOKU PROVINCES.

 

■ 旧・中地域名。 《日本の地域名》。

 

■ 律令制定後・古代・中世・近世日本・旧地域

  名の、 地域・旧国名。 《旧地域名》。

 

■ 前近代日本の地域名の、旧国名。

■ = 前近代日本の、地域・旧国名。

■ = 律令制の地方行政区分。

 

■ 旧国 (令制国) (日本本土)。

  <旧国名。

  <旧・中地域名。

  <旧地域名。

  <地域名。

  <日本の地名

 

■ 前近代・旧地域名に関しては、  「前近代日本

  の地域名」を参照してください。

 

■ 日本の地名の全体に関しては、 「日本の地名

  を参照してください。

 

■ 旧国 (令制国) (きゅうこく(りょうせいこく))は、 

  地域・旧国名であり、 前近代日本の、日本の地

  方行政区分(区画) である。

 

■ 旧国(令制国) (きゅうこく(りょうせいこく)とは、

  前近代日本の、地域・旧国名であり、 

  旧中地域名である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 41525。

 

 

 

  

 

 

   

 

 

   

  

 

 

 

 

 ■ 旧国 (令制国)。 

 

  ■ 旧国( きゅうこく)の別名は、 

    旧国名(きゅうこくめい)、令制国(りょうせいこく)、

    律令国(りつりょうこく) である。

 

  ■ 旧国の英語名は、 

    KYUKOKU PROVINCESである。

 

  ■ 旧国(令制国) (きゅうこく(りょうせいこく))は、 

    日本の地域名であり、 旧・中地域名である。 

 

  ■ 旧国(令制国)は、 

    旧地域名であり、 

    律令制定後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

    地域・旧国名である。 

 

  ■ 旧国(令制国)は、 

    前近代日本の地域名の、旧国名である。

 

  ■ 旧国(令制国)は、 

    前近代日本の、地域・旧国名であり、

    律令制の地方行政区分である。

 

 

 ■ 旧国(令制国)の正式名、正式名

    の略称、正式名の別称。

 

  ■ 旧国(令制国)には、 

    「正式名」、「正式名の略称」、 「正式名の別称」

    がある。

 

  ● 旧国(令制国)の「正式名」。

    (実例) 武蔵 国 (むさし のくに、現・東京都

        本土、埼玉県の相当領域)。

 

  ● 旧国(令制国)の「正式名の略称」

    (実例) 武蔵 (むさし)。

      旧国(令制国)の「正式名の略称」は、

    原則として、旧国の正式名の「国」(のく

    に) を省いて、呼ぶ。

            

  ● 旧国(令制国)の「正式名の別称」。

    (実例) 武州 (ぶしゅう)。

      旧国(令制国)の「正式名の別称」は、

    原則として、旧国の正式名の先頭文字、

    または、次文字を1つとって音読とし、

    「州」を加えて、2文字で表記する。

 

 

 ■ 旧国(令制国)の「正式名の別称」。

 

  ● 日本の、旧国(令制国)の「正式名の別称」

    には、

    旧国名単独別称、 旧国名統合別称 がある。

 

  ■ 旧国(令制国)の「正式名の別称」 (○州 など)。 

 

  ■ 旧国名(令制国)単独別称の例。

     旧国名(令制国)の前文字または後文字の

    頭文字1字+「州」 の形式が多し。

 

  ● (例) 旧国名(令制国)正式名の「陸 国」 

    (むつの くに、青森県、岩手県、宮城県、福島

    県) の、旧国名単独別称の例  : 

         『  州 (おうしゅう) 』

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 旧国名(令制国)統合別称の例。

      2つ以上の旧国名(令制国)の前文字また

   は後文字の頭文字1字+「州」 の形式が多し。

 

  ● (例) 旧国名(令制国)正式名の「陸 国」 

    (むつの くに、青森県、岩手県、宮城県、福島

    県) と、 

    出国 (でわ のくに、秋田県、山形県)

    をあわせた総称の、旧国名統合別称の例  :  

    『 奥羽 (おうう) 』。

 

  ■ 旧国名(令制国)細分別称は、原則として、ない。

    別に、独立して、小地域名として呼ばれる。

 

  ● (例) 旧国名(令制国)正式名の「陸奥 国」 

    (むつの くに、青森県、岩手県、宮城県、福島

    県) より狭い地域の小地域名の例  : 

       「陸奥 国」の一部の、福島県西部(会津若

    松地方)。

         『 会津 (あいづ) 』。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 旧国 (令制国)。 

 

  ■ 旧国(令制国)は、 

    旧・中地域名であり、 

    前近代日本の、律令 制定後・古代・中世・

    近世日本・旧地域名であり、

    日本本土(九州本土・四国・本州)とその

    周辺の諸島の、旧地域名である。

       前近代の、旧国(令制国)は、 

    蝦夷地(えぞち、現在の北海道地方の相当地域)、

    琉球(りゅうきゅう、現在の沖縄県の相当地域)、

    小笠原諸島、

    などを除く(含まない)。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 旧国(令制国)は、 

    前近代日本の地域名であり、 

    飛鳥白鳳時代末期から江戸時代まで、 

    紀元(後)701年頃から1868年頃まで、 

    日本で使用された地域名である。

 

  ■ 旧国(令制国)は、

    中地域名であり、

    律令に規定された(律令制に基づいて設置され

    た)、日本の地方行政区分(行政区画)であり、 

    日本の地理的区分の基本単位の1つであった。

 

  ■ 前近代の旧国令制国)は、

    分立統合があったが、 一般的に、日本本土の、

    約68国である。

 

  ■ 旧国(令制国)は、 

    明治時代に、府県に変更された。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 旧国 (令制国)。 

 

  ■ 旧国(= 旧国名、令制国、律令国)の行政機関を、

    国衙 (こくが、別名:国庁(こくちょう)) 

    といい、

    国衙の所在地や国衙を中心とする都市域を、

    国府(こくふ、別名:府中(ふちゅう)) という。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 旧国(= 旧国名、令制国、律令国)は、 

    日本の律令制の広域地方行政区分の五畿

    七道(ごきしちどう) に属する。

 

    @ 中央の畿内 (きない、= 五畿)の山城 国、

      津 国、河内 国、和泉国 、大和 国の

      5カ国の旧国(令制国) 

     と、  

    A 地方の7道 (= 東山道(とうさんどう)、

      北陸道東海道山陰道山陽道南海道

      (なんかいどう)、西海道(さいかいどう))

      7地方の旧国(令制国) がある。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

            

  ■ 前近代の旧国令制国)は、

    約68国の旧国令 制国)があり、

    東山道(とうさんどう)・ 8旧国令制国)

    東海道(とうかいどう)・15旧国令制国)

    北陸道(ほくりくどう)・  7旧国令制国)

    畿内(きない)・      5旧国令制国)

    山陰道(さんいんどう)・ 8旧国令制国)

    山陽道(さんようどう)・ 8旧国令制国)

    南海道(なんかいどう)・ 6旧国令制国)

    西海道(さいかいどう)・11旧国令制国)

    である。

 

  ■ 明治時代以後、 

    五畿七道や旧国名(令制国)に大きな変更が

    加えられた。 

 

  ● 1868年(明治元年)12月に、

    東北地方では、

    陸奥国(むつのくに)は、陸奥(むつ)、陸

    中(りくちゅう)、陸前(りくぜん)、磐城(いわき)、

    岩代(いわしろ)に5分割され、出羽国(でわのく

    に)は、羽後(うご)、羽前(うぜん)に2分割され

    た。 

 

  ● 1869年(明治2年)8月には、

    蝦夷地の本土と千島列島南部を北海道とし、

    五畿七道に加え、五畿八道とした。 

    そして、蝦夷地の本土と千島列島南部は、

    渡島(おしま)、後志(しりべし)、胆振(いぶり)、

    日高(ひだか)、石狩(いしかり)、天塩(てしお)、

    北見(きたみ)、十勝(とかち)、釧路(くしろ)、

    根室(ねむろ)、千島(ちしま)、

    の11地区に区分された。

 

 

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#kinairegion

 

■ 畿内 

      (きない)

 

■ 畿内 

■ 名称 : 畿内 

        (きない)。

■ 別名 : 五畿 (ごき)、 畿内・広域地方。

■ 英語名 : 

   KINAI REGION.

■ 旧・大地域名。 《日本の地域名》。

■ 律令制定後・古代・中世・近世日本・旧地域

  名の、 旧地方名の正式名。 《旧地域名》。

■ 前近代日本の、広域地方の、

  五畿七道(ごきしちどう)の1つ。

■ 畿内・旧広域地方。

  <五畿七道 (ごきしちどう)

   (≒ 日本本土 (本州、四国、九州))。

  <旧広域地方。

  <旧・大地域名。

  <旧地域名。

  <地域名。

  <日本の地名

■ 五畿七道に関しては、「五畿七道」を参照してく

  ださい。

■ 前近代・旧地域名に関しては、  「前近代日本

  の地域名」を参照してください。 

■ 日本の地名の全体に関しては、 「日本の地名

  を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61912。

 

 

■ 畿内・広域地方 ( きない・こういきちほう)は、前

  近代日本の、日本の地方行政区分(区画)である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

  

 

 

 

■ 畿内・旧広域地方。 

 

■ 畿内・旧広域地方は、 前近代日本の、

  @ 山城 国 (京都府南部)、 A 摂津 国

  (大阪府北西部)、 B 河内 国 (大阪府東部)、

  C 和泉 国 (大阪府南西部)、 D 大和 国

  (奈良県)、 の地域である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 畿内・旧広域地方は、 前近代日本の、

  @ 山城 国 (やましろ のくに、現・京都府南部

  の相当領域)、 A 摂津 国 (せっつ のくに、

  現・大阪府北西部の相当領域)、 B 河内 国 

  (かわちのくに、現・大阪府東部の相当領域)、 

  C 和泉 国 (いずみ のくに、現・大阪府南西

  部の相当領域)、 D 大和 国 (やまと のくに、

  現・奈良県の相当領域)、 の地域 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 畿内・旧広域地方。

 

■ 畿内 (きない)は、 律令制 定後・古代・中世・

  近世日本・旧地域名の、旧地方名の正式名で

  ある

             

■ 畿内・旧広域地方は、 飛鳥白鳳時代末期から

  江戸時代まで使用された、五畿七道(ごきしちど

  う)に属する広域地方の1つである。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 畿内・旧広域地方は、 現在の、京都府南部

  (山城 国(やましろ のくに))、  奈良県 (大和 国

   (やまと のくに))、 大阪府北西部・東部・南西部

  (摂津 国 (せっつ のくに)、河内 国(かわち のく

  に)、和泉 国(いずみ のくに)) の地域に相当す

  る領域である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 畿内・旧広域地方は、 山城 国  (やりしろ の

  くに、山州、城州、雍州、現・京都府南部の相当

  領域) から 和泉 国 (いずみ のくに、泉州、

  現・大阪府南西部の相当領域) までの地域で

  ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#kinkiregion

 

■ 近畿地方 

     (きんきちほう)

 

■ 近畿地方。 

■ 名称 : 近畿地方 (きんきちほう)。

■ 英語名 : KINKI REGION.

■ 現地方名。 《現地域名》。

■ 近畿地方。

  <日本本土(本州、四国、九州)。

  <日本国

■ 近畿地方に関係する、山陰道(さんいんど

  う)、山陽道(さんようどう)、東山道(とうさんど

  う)、畿内(きない)、東海道(とうかいどう)、南

  海道(なんかいどう)の広域地方に関しては、

  「山陰道」、「山陽道」、「東山道」、「畿内」、「東

  海道」、「南海道」を参照してください。

■ 前近代・旧地域名に関しては、 「前近代日本

  の地域名」を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61825。

 

 

■ 近畿地方(きんきちほう)は、 滋賀県、京都府、

  兵庫県、三重県、和歌山県、奈良県、大阪府の

  地である。

 

    

 

 

 

■ 近畿地方(きんきちほう)は、 滋賀県、 京都府

  (北部・中部・南部)、 兵庫県(本土北部・本土南

  部・淡路島)、 三重県(北部・中央部中部・中央

  部東部・中央部西部・南部)、 和歌山県、 奈良

  県、 大阪府(北西部、東部、南西部) の地域で

  ある。

 

■ 近畿地方(きんきちほう)は、 滋賀県(近江 国)、 

  京都府北部・中部(丹後 国、丹波 国)、 兵庫県

  本土北部(但馬 国)、 兵庫県本土南部(播磨

  国)、 三重県北部・中央部中部・中央部東部・中

  央部西部(伊勢 国、志摩国、伊賀 国)、 三重県

  南部(紀伊国東部)、和歌山県(紀伊国中部・西

  部)、 兵庫県淡路島(淡路国)、 京都府南部

  (山城 国)、 奈良県(大和 国)、 大阪府北西部、

  東部、南西部 (摂津 国、河内 国、和泉 国) の

    地域 である

          

■ 近畿地方(きんきちほう)は、

  @ 東山道(とうさんどう)・広 域地方の一部

  の、滋賀県 (近江 国(おうみ のくに))、 

  A 山陰道(さんいんどう)・広域地方の一部

  の、京都府北部・中部 (丹後 国(たんご のく

  に)、丹波国(たんば のくに))、 兵庫県本土

  北部 (但馬 国(たじま のくに))、 

  B 山陽道(さんようどう)・広域 地方の一部

  の、兵庫県本土南部 (播磨 国(いなば のく

  に))、 

  C 東海道 (とうかいどう)・広域地方の一部

  の、三重県北部・中央部中部・中央部東部・中央

  部西部 (伊勢 国(いせ のくに)、志摩国(しま

  のくに)、伊賀 国(いが のくに))、 

  D 南海道(なんかいどう)・広域地方の 一部

  の、三重県南部 (紀伊国(きい のくに)東部)、

  和歌山県 (紀伊国(きい のくに)中部・西部)、

  兵庫県淡路島 (淡路国(あわじ のくに))、

  E 畿内(きない)・広域地方の、 京都府南部

  (山城 国(やましろ のくに))、奈良県 (大和

  国(やまと のくに))、 大阪府北西部、東部、南

  西部 (摂津 国(せっつ のくに)、河内 国(かわ

  ち のくに)、和泉 国(いずみ のくに))、

  の地域 である

 

 

 山陰道、山陽道、東山道、畿内、東海道、南海道

  の広域地方は、 飛鳥白鳳時代末期から江戸時

  代まで使用された、律令制定後・古代・中世・近世

  日本・旧地域名の、旧地方名の、五畿七道 (ごきし

  ちどう、8地方)の広域地方の6つである。

 

 東山道。

 東山道(とうさんどう)・旧広域地方は、 現在の

  青森県、岩手県、宮城県、福島県 (陸奥 国)、 

  秋田県、山形県 (出羽 国)、 栃木県 (下野 国)、 

  群馬県 (上野 国)、 長野県 (信濃 国)、 岐阜

  県北部・南部 (飛騨 国、美濃 国)、 滋賀県  (近

  江 国) の地域に相当する領域である。

 

 東海道。

 東海道 (とうかいどう)・旧広域地方は、 現在の

  茨城県 (常陸 国)、千葉県北部・中部・南部 (下

  総 国、上総 国、安房 国)、東京都本土、埼玉県

  (武蔵 国)、 神奈川県 (相模 国)、 山梨県(甲

  斐 国)、 東京都伊豆諸島、静岡県東部・伊豆半

  島(伊豆 国)、 静岡県中部・西部 (駿河 国、遠

  江 国)、 愛知県東部・西部(三河国、尾張 国)、 

  三重県北部・中央中部・中央東部・中央西部 (伊

    勢 国、志摩 国、伊賀 国) の地域に相当する領

  域である。

 

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#kyushuregion

 

■ 九州地方 

     (きゅうしゅうちほう)

 

■ 九州地方。 

■ 名称 : 九州地方 (きゅうしゅうちほう)。

■ 英語名 : KYUSHU REGION.

■ 現地方名。 《現地域名》。

■ 九州地方。

  <日本本土(本州、四国、九州)、沖縄。

  <日本国

■ 九州地方に関係する、西海道(さいかいどう)、

  琉球(りゅうきゅう)の広域地方に関しては、

  「西海道」、「琉球」を参照してください。

■ 前近代・旧地域名に関しては、 「前近代日本

  の地域名」を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61818。

 

 

■ 九州地方 (きゅうしゅうちほう)は、 長崎県、

  佐賀県、福岡県、大分県、熊本県、宮城県、鹿

  児島県、沖縄県 の地である。

 

   

 

 

 

■ 九州地方 (きゅうしゅうちほう)は、

  @ 西海道 ( さいかいどう)・広域地方の、

  長崎県対馬島(対馬国(つしまんくに))、 長崎

  県本土、佐賀県 (肥前 国(ひぜんのくに))、

  福岡県北西部・北東部・南部 (筑前国(ちくぜ

  んのくに)、 豊前国(ぶぜんのくに)、 筑後国

  (ちくごのくに))、 大分県(豊後 国(ぶんごの

  くに))、 熊本県(肥後 国(ひごのくに)、 宮城

  県 (日向 国(ひゅうがのくに))、 鹿児島県本

  土西部 (薩摩国(さつまのくに))、 鹿児島県

  本土東部・大隅諸島・奄美群島 (大隅 国(お

  おすみのくに))、

  A 琉球(りゅうきゅう)・広域地 方の、沖縄県 

  (琉球王国(りゅうきゅうおうこく)) の地域 であ

  る

          

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#themodernjapaneserace

 

■ 近代日本人 

     (きんだいにほんじん)

 

■ 近代日本人。 

■ 名称 : 近代日本人 (きんだいにほんじん)。

■ 英語名 : THE MODERN JAPANESE 

   RACE.

■ 近代日本人 = 近代日本地域土着・常住民。

■ 近代日本人の人種的・文化的特徴 (人類学

  上の分類・特徴)。

■ 本土日本人」、「琉球人」、「アイヌ人」の3グ

  ループの近代日本人

■ 近代日本人 (= 近代日本 地域土着・常住民)。

  <日本人 (= 日本地域土着・常住民)。

  <モンゴロイド

  <現生人類(= 新人ホモ・サピエンス種)。 

  ヒト属

  <人類(= ヒト亜族))。

■ 日本人のルーツ(起源)の詳細に関しては、

  日本史辞典の「日本人」、「原日本人」や「日本

  人ルーツ・ガイドブック」を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61214。

 

□ 近代日本人(人種)の学術分類表  

 

 

■ 近代日本人の人種的・文化的特徴 

  (人類学上の分類・特徴)。

■ 日本人の人種的・文化的特徴 (人類学上の

  分類・特徴)。

 

 近代日本人。

 近代日本人の3グループ

■ 近代日本人とは、 近代日本 地域土着・常住民で

  あり、 近代日本の時期に(明治時代、大正時代、

  昭和・戦前時代に)、 日本本土に居住し南西諸

  島・北海道にも移住した「本土日本人」、 南西諸

  島を中心に居住していた「琉球人」、 北海道を中

  心に居住していた「アイヌ人」の3グループの人々

  である。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 近代日本の時期に(明治時代、大正時代、昭

  和・戦前時代に)、 日本地域(日本本土、北海

    道、南西諸島の日本列島)には、 

          日本本土には、 「本土日本人」の近代日本

  が主に居住し、 

          北海道には、 「アイヌ人」の近代日本人 

  と 「本土日本人」の近代日本人が主に居住し、

     南西諸島には、 「琉球人」の近代日本人 

   「本土日本人」の近代日本人が主に居住して

  いた。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 「本土日本人」は、 古・新モンゴロイド混血(= 南

  方・北方モンゴロイド混血)の縄文・弥生渡来・混

  血系の人類である。

     「アイヌ人」は、 古・新モンゴロイド混血(= 南

  方・北方モンゴロイド混血)の縄文・北アジア諸民

  族・混血系の人類である。

        「琉球人」は、  古・新モンゴロイド混血(= 南

  方・北方モンゴロイド混血)の縄文・弥生渡来・混血

  系の人類である。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 ■ 多くの近代日本人は、 「本土日本人」である。

 

                        

 近代日本人。

 近代日本人の3グループ

■ 近代日本人には、 「 近代日本人の本土日本人」、

  「近代日本人の琉球人」、 「近代日本人のアイヌ

  人」 の3グループがいた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 近代日本では、 日本地域(日本本土、北海道、南

    西諸島の日本列島)には、 「本土日本人」「アイヌ

  人」「琉球人」3グループの近代日本人が居住す

  る。

 

■ 近代日本人は、 現生人類(= 新人、ホモ・サ

  ピエンス)のモンゴロイドの、日本人(人種)の、

  近代日本「本土日本人」、「琉球人」、「アイヌ

  人」の人類である。 

 

■ ここでいう近代日本人とは、 1868年頃から

  1945年頃まで (明治時代、大正時代、昭和・

  戦前時代に)、 日本地域(日本本土、南西諸

  島、北海道)に居住していた日本人(人種)で

  あり、 「本土日本人」、「琉球人」、「アイヌ人」

  の3グループの近代日本人である。

      近代日本人(人種)の英語名は、 THE 

  MODERN JAPANESE RACE である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

             

■ 近代日本では、 日本地域日本地域(日本本

  土、南西諸島、北海道)には、 人種的・ 文化

  的特徴上、 縄文・弥生渡来・混血系の「本土

  本人(= 本土人)(日本本土中心居住、北

  海道・南西諸島移住)、 「琉球人」(南西諸島

  中心居住) と、  縄文・北アジア諸民族・混血

  系の「アイヌ人」(北海 道中心居住) が居住し

  ていた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

            

■ 近代日本では、 日本地域(日本本土、北海道、南

    西諸島の日本列島)には、 

          日本本土には、 古・新モンゴロイド混血(= 南

    方・北方モンゴロイド混血)の縄文・弥生渡来・混血

    系の「本土日本人」の近代日本人が居住し、 

          北海道には、古・新モンゴロイド混血(= 南方・

    北方モンゴロイド混血)の縄文・北アジア諸民族・混

    血系の「アイヌ人」の近代日本人 と 古・新モンゴ

    ロイド混血(= 南方・北方モンゴロイド混血)の縄文・

    弥生渡来・混血系の「本土日本人」の近代日本人

    居住し、

     南西諸島には、古・新モンゴロイド混血(= 南方・

    北方モンゴロイド混血)の縄文・弥生渡来・混血系の

     「琉球人」の近代日本人 と 古・新モンゴロイド混

     血(= 南方・北方モンゴロイド混血)の縄文・弥生渡

  来・混血系の「本土日本人」の近代日本人が居住し

     ていた。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 日本人の形成。

     主に、縄文人とその子孫の「縄文系」の人々 

  と、 渡来系弥生人とその子孫 の「弥生渡来系」の

  人々が、 日本本土(九州本土、四国、本州)で、

  古代日本後期(奈良・平安時代)に、混血して、本

  土日本人の日本人を形成する。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 進化表。

■ 近代日本人(人種)への進化表。

  猿人⇒ 

  原人(= ホモ・エレクトス類)⇒

  旧人(= 前ホモ・サピエンス類)⇒ 

  現生人類(= 新人ホモ・サピエンス種)⇒ 

  モンゴロイド⇒ 

  縄文人⇒ 

  弥生人⇒ 

  古代日本人⇒ 

  中世日本人⇒ 

  近世日本人⇒ 

  近代日本人

  現代日本人

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

■ 日本人(人種)への進化表。

  猿人⇒ 

  原人(= ホモ・エレクトス類)⇒

  旧人(= 前ホモ・サピエンス類)⇒ 

  現生人類(= 新人ホモ・サピエンス種)⇒ 

  モンゴロイド⇒ 

  縄文人⇒ 

  弥生人⇒ 

  古代日本人⇒ 

  「本土日本人」(= 本土人)、「琉球人」、

  「アイヌ人」。

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

■ モンゴロイドへの進化表。

  猿人⇒ 

  原人(= ホモ・エレクトス類)⇒

  旧人(= 前ホモ・サピエンス類)⇒ 

  現生人類(= 新人ホモ・サピエンス種)⇒ 

  古モンゴロイ = 南方モンゴロイド)⇒

    モンゴロイド= 北方モンゴロイド)。

● TKKI カナヤマ著 古人類学辞典。

 

 

#themodernjapaneserace-theclassificationtable

 

■ 近代日本人の学術分類表 。  

    (詳細上位分類、上位所属の分類、日本語名・

    学名・英語名対照)。

○ THE SCIENTIFIC CLASSIFICATION 

  TABLE OF THE MODERN JAPANESE 

  RACE.

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典  51011。

 

■ 近代日本人

    (英語名: THE MODERN JAPANESE 

    RACE)。

 

■ 地球生物            LIFE ON EARTH。

⇒ 真核生物。        (ドメイン: 真核生物域 

                   Domain Eukaryota) 

                   (英名: EUKARYOTE(S))。

⇒ 動物。           ( 界 : 動物界    

                   Kingdom Animalia) 

                                   (英名:ANIMAL (S))。

⇒ 脊索(せきさく)動物。 ( 門 : 脊索動物門   

                      Phylum Chordata) 

                    (英名:CHORDATE (S))

⇒ 脊椎(せきつい)動物。 (亜門 : 脊椎動物亜門 

                       Subphylum Vertebrata) 

                    (英名:VERTEBRATE(S))

                  ● TKKI カナヤマ著 日本史

                  辞典。

⇒ 有顎(ゆうがく)動物   (下門 : 有顎動物下門 

  (顎口類、有顎類)。      Infraphylum

                    Gnathostomata) 

                    (英名: VERTEBRATE (S)

                    WITH JAW)。

⇒ 四肢(しし)動物。    (上 : 四肢動物上綱 

                    Superclass Tetrapoda ) 

                   (英名:TETRAPOD (S))  

⇒ 有羊膜類。         (ランク(階級)なし   

  (ゆうようまくるい)      Amniota) 

                   (英名:AMNIOTE (S))。   

⇒ 哺乳類。         (  綱  : 哺乳   

                    Class Mammalia) 

                  (英名:MAMMAL(S))。

⇒ 獣類。           (亜綱  : 亜綱    

                  Subclass Theria) 

                  (英名:THERIAN(S))。

⇒ 真獣類 (正獣類)  綱  : 真獣下(正獣下)  

  (有胎盤類、有胎盤     Infraclass Eutheria)         

  哺(ほ)乳類)。       (英名:EUTHERIAN(S)) 

                   (英名:PLACENTAL 

                  MAMMAL(S)) 。

                      ● TKKI カナヤマ著 日本史

                  辞典。

⇒ 霊長類。          目  : 霊長目(サル目)    

                     Order Primates) 

                    (英名:PRIMATE(S))。

 

⇒ 直鼻猿類 (新分類法)。亜目 : 直鼻猿亜目    

                   Suborder Haplorrhini) 

                   (英名:HAPLORRHINE(S))。

   真猿類   (新分類法)。下目 : 真猿下目 

                     Infraorder Simiiformes) 

                    (英名: SIMIAN(S))。

   狭鼻猿類 (新分類法)。小目 : 狭鼻小目 

                    Parvorder Catarrhini  ) 

                    (英名: CATARRHINE(S))。

 または、

   真猿類   (旧分類法)。亜目 : 真猿亜目  

                    Suborder Simiiformes) 

                    (英名: SIMIAN(S))。

    狭鼻猿類 (旧分類法) 。(下目 : 狭鼻下目  

                   Infraorder Catarrhini) 

                   (英名: CATARRHINE(S))。

⇒ ホミノイド           (上科 : ヒト上科   

  (類人猿と人類)。       Superfamily Hominoidea) 

                    (英名: HOMINOID(S))。

⇒ 大型類人猿と人類    ( 科 : ヒト科     

 (オランウータン、ゴリラ、   Family Hominidae)      

 チンパンジーと人類)。    英名: NONHUMAN GREAT  

                    APE(S) AND HUMAN(S))。

                    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

⇒ ゴリラとチンパンジ   亜科 : ヒト亜科   

  ーと人類。          Subfamily Homininae)   

                   (英名:  HOMININE(S))。

⇒ チンパンジーと人類。 ( 族 :  ヒト族      

                   Tribe Hominini) 

                  (英名 :HOMININ(S))。

⇒ 人類。                  (亜族 : ヒト亜族    

                   Subtribe Hominina) 

                  (英名: HUMAN(S))。       

⇒ ヒト属(= ホモ属)    ( 属  : ヒト属(= ホモ属)         

  の人類。           Genus Homo) 

                  (英名: HUMAN(S) OF   

                  THE GENUS HOMO)。       

⇒ ホモ・サピエンス       ( 種   ホモ・サピエンス種    

 (= 現生人類、新人)。    Species Homo sapiens) 

                   (英名: HOMO SAPIENS,

                  EXTANT HUMAN  SPECIES)。

⇒ ホモ・サピエンス     ( 亜種   ホモ・サピエンス・サピ

  サピエンス。         エンス亜種    

                  Subspecies Homo 

                  sapiens sapiens 

                   (英名: HOMO SAPIENS  

                  SAPIENS)。

⇒ モンゴロイド        (グループ:  モンゴロイド・グループ

  (= アジア人種)。      Group Mongoloid)。

○ 「古モンゴロイド」     (英名: MONGOLOID(S))。  

 と 「新モンゴロイド」。    ○ モンゴロイドは、容姿・外見

                   (体色・体型) による、人種分類

                  グループの1つである。

                  ○ モンゴロイドは、 古モンゴロ

                  イド(= 南方モンゴロイド) と、 

                  新モンゴロイド(= 北方モンゴロ

                  イド)の2種類に分かれる。

                    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

⇒ 縄文人。         (グループ : 縄文人グループ

                  Group Jomonjin Race)。

                   (英語名: THE JOMONJIN 

                  RACE)。

                  ○ 「縄文人」は、 古モンゴロイ

                  ド(= 南方モンゴロイド)の日本先

                  住民であ り、 原日本人の1グ

                  ループであり、 「縄文系」の人

                  々である。

⇒ 弥生人。          (グループ : 弥生人グループ

○ 「縄文系(在来系)     Group  Yayoijin Race)。

 弥生人」  と          (英語名: THE YAYOIJIN

 「渡来系弥生人」。     RACE)。

                  ○ 弥生人とは、「縄文系(在来

                  系)弥生人」 と 「渡来系弥生人」

                  である。

                  ○ 弥生人は、縄文時代(約1万

                  2000年前〜約2400年前)か

                  ら日本の先住民の古モンゴロイ

                  ド(= 南方モンゴロイド)の「縄文

                  系(在来系)弥生人」  と、 弥生

                  時代(約2400年前〜約1700

                  年前)にアジア大陸からの移住

                                   民の新モンゴロイド(= 北方モン

                  ゴロイド)の「渡来系弥生人」であ

                  る。

                               ○ 「渡来系弥生人」は、 原日本

                  人の1 グループであり、 「弥生渡

                  来系」の人々である。

                   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

⇒ 日本人。         (グループ : 日本人グループ

○ 「古代日本人」      Group Japanese  Race)。

 → 「本土日本人」、     ( 英語名: THE JAPANESE

 「琉球人」、「アイヌ人」。  RACE)。

○ 「古代日本人」      ○ 日本人は、古代日本で形成

 → 「中世日本人」     された。 

 → 「近世日本人」     ○ 日本人は、 古・新モンゴロイ

 → 「近代日本人」     ド混血の、「縄文・弥生渡来・混血

 → 「現代日本人」。    系」の、「本土日本人」や「琉球人」 

                  と、 古モンゴロイドの、縄文系の、

                  「アイヌ人」 の3種類の人類に分

                  かれる。

                  ○ 現在のほとんどの日本人は、 

                  「本土日本人」である。

                  ○ 「本土日本人」は、  「縄文人」

                  とその子孫の「縄文系」 と、 「渡

                  来系弥生人」とその子孫の「弥生

                  渡来系」 との混血の人類である。

                  ○ 「本土日本人」は、 古・新 (南

                  方・北方)モンゴロイド混血の、「

                  文・弥生渡来・混血系」であり、古 

                  代日本後期に形成された。

                  ○ 古代日本で形成された日本

                  人は、時代と共に、「古代日本人」

                  から、「中世日本人」、「近世日本

                  人」、「近代日本人」、「現代日本

                   人」へと少しずつ、平均身長が伸

                  びるなど、容姿・外見(体型・体色)

                  を変化させていった。

                    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#theearlymodernjapaneserace

 

■ 近世日本人 

     (きんせいにほんじん)

 

■ 近世日本人。 

■ 名称 : 近世日本人 (きんせいにほんじん)。

■ 英語名 : THE EARLY MODERN 

   JAPANESE RACE.

■ 近世日本人 = 近世日本地域土着・常住民。

■ 近世日本人の人種的・文化的特徴 (人類学

  上の分類・特徴)。

■ 本土日本人」、「琉球人」、「アイヌ人」 の3グ

  ループの近世日本人

■ 近世日本人  (= 近世日本地域土着・常住民)。

  <日本人 (= 日本地域土着・常住民)。

  <モンゴロイド

  <現生人類(= 新人ホモ・サピエンス(種)。 

  ヒト属

  <人類(= ヒト亜族))。

■ 日本人のルーツ(起源)の詳細に関しては、

  日本史辞典の「日本人」、「原日本人」や「

  本人ルーツ・ガイドブック」を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51018。

 

□ 近世日本人(人種)の学術分類表  

 

 

■ 近世日本人の人種的・文化的特徴 

  (人類学上の分類・特徴)。

■ 日本人の人種的・文化的特徴 (人類学上の

  分類・特徴)。

             

 近世日本人。

 近世日本人の3グループ

■ 近世日本人とは、 近世日本 地域土着・常住民

  であり、 近世日本の時期に(安土桃山時代と

  江戸時代に)、 日本本土に居住していた「本土

  日本人」、 南西諸島に居住していた「琉球人」、 

  北海道に居住していた「アイヌ人」 の3グループ

  の人々である。

 

■ 近世日本の時期に(安土桃山時代と江戸時代

  に)、 日本地域(日本本土、北海道、南西諸島

  の日本列島)には、 

     日本本土には、 「本土日本人」の近世日本

  人が主に居住し、 

     北海道には、 「アイヌ人」の近世日本人

  主に居住し、 

     南西諸島には、 「琉球人」の近世日本人

  主に居住していた。

 

■ 「本土日本人」は、 古・新モンゴロイド混血(= 南

  方・北方モンゴロイド混血)の縄文・弥生渡来・混

  血系の人類である。

     「アイヌ人」は、 古・新モンゴロイド混血(= 南

  方・北方モンゴロイド混血)の縄文・北アジア諸民

  族・混血系の人類である。

        「琉球人」は、  古・新モンゴロイド混血(= 南

  方・北方モンゴロイド混血)の縄文・弥生渡来・混

  血系の人類である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 多くの近世日本人は、「本土日本人」である。

 

 

 近世日本人。

 近世日本人の3グループ

■ 近世日本人には、 「近世日本の本土日本人」、

  「近世日本の琉球人」、 「近世日本のアイヌ

  人」 の3グループがいた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 近世日本では、 日本地域(日本本土、北海道、

    南西諸島の日本列島)には、 「本土日本人」

  「アイヌ人」「琉球人」3グループの近世日本

  人が居住する。

 

■ 近世日本人は、 現生人類(= 新人、ホモ・サピ

  エンス)のモンゴロイドの、日本人(人種)の、

  世日本「本土日本人」、「琉球人」、「アイヌ人」

  の人類である。 

 

■ ここでいう近世日本人とは、 1573年頃から

  1868年頃まで (安土桃山時代と江戸時代

  に)、 日本地域(日本本土、南西諸島、北海

  道)に居住していた日本人(人種)であり、 「本

  土日本人」、「琉球人」、「アイヌ人」 の3グルー

  プの近世日本人である。

      近世日本人(人種)の英語名は、 THE 

  EARLY MODERN JAPANESE RACE 

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

             

■ 近世日本では、 日本地域(日本本土、南西

  諸島、北海道)には、 人種的・ 文化的特徴

  上、 縄文・弥生渡来・混血系の「本土日本人

  (= 本土人)(日本本土居住)、 「琉球人」 (南

  西諸島居住) と、 縄文・北アジア諸民族・混

  血系の「アイヌ人」(北海道居住) が 居住して

  いた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 近世日本では、 日本地域(日本本土、北海道、

  南西諸島の日本列島)には、 

     日本本土には、 古・新モンゴロイド混血(= 南

  方・北方モンゴロイド混血)の縄 文・弥生渡来・混

    血系の「本土日本人」の近世日本人が主に居住し、 

     北海道には、 古・新モンゴロイド混血(= 南方・

  北方モンゴロイド混血)の縄文・北アジア諸民族・混

    血系の「アイヌ人」の近世日本人が主に居住し、 

     南西諸島には、 古・新モンゴロイド混血(= 南

  方・北方モンゴロイド混血)の縄文・弥生渡来・混血

  系の「琉球人」の近世日本人が主に居住していた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 日本人の形成。

     主に、縄文人とその子孫の「縄文系」の人々 

  と、 渡来系弥生人とその子孫 の「弥生渡来系」の

  人々が、 日本本土(九州本土、四国、本州)で、

  古代日本後期(奈良・平安時代)に、混血して、本

  土日本人の日本人を形成する。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 進化表。

■ 近世日本人(人種)への進化表。

  猿人⇒ 

  原人(= ホモ・エレクトス類)⇒

  旧人(= 前ホモ・サピエンス類)⇒ 

  現生人類(= 新人ホモ・サピエンス種)⇒ 

  モンゴロイド⇒ 

  縄文人⇒ 

  弥生人⇒ 

  古代日本人⇒ 

  中世日本人⇒ 

  近世日本人⇒ 

  近代日本人

  現代日本人

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

■ 日本人(人種)への進化表。

  猿人⇒ 

  原人(= ホモ・エレクトス類)⇒

  旧人(= 前ホモ・サピエンス類)⇒ 

  現生人類(= 新人ホモ・サピエンス種)⇒ 

  モンゴロイド⇒ 

  縄文人⇒ 

  弥生人⇒ 

  古代日本人⇒ 

  「本土日本人」(= 本土人)、「琉球人」、

  「アイヌ人」。

● TKKI カナヤマ著 電子書籍。

 

■ モンゴロイドへの進化表。

  猿人⇒ 

  原人(= ホモ・エレクトス類)⇒

  旧人(= 前ホモ・サピエンス類)⇒ 

  現生人類(= 新人ホモ・サピエンス種)⇒ 

  古モンゴロイ = 南方モンゴロイド)⇒

    モンゴロイド= 北方モンゴロイド)。

● TKKI カナヤマ著 古人類学辞典。

 

 

#theearlymodernjapaneserace-theclassificationtable

 

■ 近世日本人の学術分類表 。  

    (詳細上位分類、上位所属の分類、日本語名・

    学名・英語名対照)。

○ THE SCIENTIFIC CLASSIFICATION 

  TABLE OF THE EARLY MODERN 

  JAPANESE RACE.

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典  51011。

 

■ 近世日本人

    (英語名: THE EARLY MODERN  

    JAPANESE RACE)。

 

■ 地球生物            LIFE ON EARTH。

⇒ 真核生物。        (ドメイン: 真核生物域 

                   Domain Eukaryota) 

                   (英名: EUKARYOTE(S))。

⇒ 動物。           ( 界 : 動物界    

                   Kingdom Animalia) 

                                   (英名:ANIMAL (S))。

⇒ 脊索(せきさく)動物。 ( 門 : 脊索動物門   

                      Phylum Chordata) 

                    (英名:CHORDATE (S))

⇒ 脊椎(せきつい)動物。 (亜門 : 脊椎動物亜門 

                       Subphylum Vertebrata) 

                    (英名:VERTEBRATE(S))

                  ● TKKI カナヤマ著 日本史

                  辞典。

⇒ 有顎(ゆうがく)動物   (下門 : 有顎動物下門 

  (顎口類、有顎類)。      Infraphylum

                    Gnathostomata) 

                    (英名: VERTEBRATE (S)

                    WITH JAW)。

⇒ 四肢(しし)動物。    (上 : 四肢動物上綱 

                    Superclass Tetrapoda ) 

                   (英名:TETRAPOD (S))  

⇒ 有羊膜類。         (ランク(階級)なし   

  (ゆうようまくるい)      Amniota) 

                   (英名:AMNIOTE (S))。   

⇒ 哺乳類。         (  綱  : 哺乳   

                    Class Mammalia) 

                  (英名:MAMMAL(S))。

⇒ 獣類。           (亜綱  : 亜綱    

                  Subclass Theria) 

                  (英名:THERIAN(S))。

⇒ 真獣類 (正獣類)  綱  : 真獣下(正獣下)  

  (有胎盤類、有胎盤     Infraclass Eutheria)         

  哺(ほ)乳類)。       (英名:EUTHERIAN(S)) 

                   (英名:PLACENTAL 

                  MAMMAL(S)) 。

                      ● TKKI カナヤマ著 日本史

                  辞典。

⇒ 霊長類。          目  : 霊長目(サル目)    

                     Order Primates) 

                    (英名:PRIMATE(S))。

 

⇒ 直鼻猿類 (新分類法)。亜目 : 直鼻猿亜目    

                   Suborder Haplorrhini) 

                   (英名:HAPLORRHINE(S))。

   真猿類   (新分類法)。下目 : 真猿下目 

                     Infraorder Simiiformes) 

                    (英名: SIMIAN(S))。

   狭鼻猿類 (新分類法)。小目 : 狭鼻小目 

                    Parvorder Catarrhini  ) 

                    (英名: CATARRHINE(S))。

 または、

   真猿類   (旧分類法)。亜目 : 真猿亜目  

                    Suborder Simiiformes) 

                    (英名: SIMIAN(S))。

    狭鼻猿類 (旧分類法) 。(下目 : 狭鼻下目  

                   Infraorder Catarrhini) 

                   (英名: CATARRHINE(S))。

⇒ ホミノイド           (上科 : ヒト上科   

  (類人猿と人類)。       Superfamily Hominoidea) 

                    (英名: HOMINOID(S))。

⇒ 大型類人猿と人類    ( 科 : ヒト科     

 (オランウータン、ゴリラ、   Family Hominidae)      

 チンパンジーと人類)。    英名: NONHUMAN GREAT  

                    APE(S) AND HUMAN(S))。

                    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

⇒ ゴリラとチンパンジ   亜科 : ヒト亜科   

  ーと人類。          Subfamily Homininae)   

                   (英名:  HOMININE(S))。

⇒ チンパンジーと人類。 ( 族 :  ヒト族      

                   Tribe Hominini) 

                  (英名 :HOMININ(S))。

⇒ 人類。                  (亜族 : ヒト亜族    

                   Subtribe Hominina) 

                  (英名: HUMAN(S))。       

⇒ ヒト属(= ホモ属)    ( 属  : ヒト属(= ホモ属)         

  の人類。           Genus Homo) 

                  (英名: HUMAN(S) OF   

                  THE GENUS HOMO)。       

⇒ ホモ・サピエンス       ( 種   ホモ・サピエンス種    

 (= 現生人類、新人)。    Species Homo sapiens) 

                   (英名: HOMO SAPIENS,

                  EXTANT HUMAN  SPECIES)。

⇒ ホモ・サピエンス     ( 亜種   ホモ・サピエンス・サピ

  サピエンス。         エンス亜種    

                  Subspecies Homo 

                  sapiens sapiens 

                   (英名: HOMO SAPIENS  

                  SAPIENS)。

⇒ モンゴロイド        (グループ:  モンゴロイド・グループ

  (= アジア人種)。      Group Mongoloid)。

○ 「古モンゴロイド」     (英名: MONGOLOID(S))。  

 と 「新モンゴロイド」。    ○ モンゴロイドは、容姿・外見

                   (体色・体型) による、人種分類

                  グループの1つである。

                  ○ モンゴロイドは、 古モンゴロ

                  イド(= 南方モンゴロイド) と、 

                  新モンゴロイド(= 北方モンゴロ

                  イド)の2種類に分かれる。

                    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

⇒ 縄文人。         (グループ : 縄文人グループ

                  Group Jomonjin Race)。

                   (英語名: THE JOMONJIN 

                  RACE)。

                  ○ 「縄文人」は、 古モンゴロイ

                  ド(= 南方モンゴロイド)の日本先

                  住民であ り、 原日本人の1グ

                  ループであり、 「縄文系」の人

                  々である。

⇒ 弥生人。          (グループ : 弥生人グループ

○ 「縄文系(在来系)     Group  Yayoijin Race)。

 弥生人」  と          (英語名: THE YAYOIJIN

 「渡来系弥生人」。     RACE)。

                  ○ 弥生人とは、「縄文系(在来

                  系)弥生人」 と 「渡来系弥生人」

                  である。

                  ○ 弥生人は、縄文時代(約1万

                  2000年前〜約2400年前)か

                  ら日本の先住民の古モンゴロイ

                  ド(= 南方モンゴロイド)の「縄文

                  系(在来系)弥生人」  と、 弥生

                  時代(約2400年前〜約1700

                  年前)にアジア大陸からの移住

                                   民の新モンゴロイド(= 北方モン

                  ゴロイド)の「渡来系弥生人」であ

                  る。

                               ○ 「渡来系弥生人」は、 原日本

                  人の1 グループであり、 「弥生渡

                  来系」の人々である。

                   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

⇒ 日本人。         (グループ : 日本人グループ

○ 「古代日本人」      Group Japanese  Race)。

 → 「本土日本人」、     ( 英語名: THE JAPANESE

 「琉球人」、「アイヌ人」。  RACE)。

○ 「古代日本人」      ○ 日本人は、古代日本で形成

 → 「中世日本人」     された。 

 → 「近世日本人」     ○ 日本人は、 古・新モンゴロイ

 → 「近代日本人」     ド混血の、「縄文・弥生渡来・混血

 → 「現代日本人」。    系」の、「本土日本人」や「琉球人」 

                  と、 古モンゴロイドの、縄文系の、

                  「アイヌ人」 の3種類の人類に分

                  かれる。

                  ○ 現在のほとんどの日本人は、 

                  「本土日本人」である。

                  ○ 「本土日本人」は、  「縄文人」

                  とその子孫の「縄文系」 と、 「渡

                  来系弥生人」とその子孫の「弥生

                  渡来系」 との混血の人類である。

                  ○ 「本土日本人」は、 古・新 (南

                  方・北方)モンゴロイド混血の、「

                  文・弥生渡来・混血系」であり、古 

                  代日本後期に形成された。

                  ○ 古代日本で形成された日本

                  人は、時代と共に、「古代日本人」

                  から、「中世日本人」、「近世日本

                  人」、「近代日本人」、「現代日本

                   人」へと少しずつ、平均身長が伸

                  びるなど、容姿・外見(体型・体色)

                  を変化させていった。

                    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#theikarankofthemodernandpresentdaygov.

 

■ 近・現代日本政府 

   の位階 

      (きん・げんだいにほんせいふ

      のいかい)。

 

■ 近・現代日本政府の位階

■ 名称 : 近・現代日本政府の位階 

   (きん・げんだいにほんせいふのいかい)。

● 英名 : The Ikai Rank of the 

  Modern and Presnt-day Government。 

■ 近・現代日本の、近・現代日本政府の位階。

● 現在、現代日本政府より叙位される位階は、

  「故人のみ」 である。

■ 前近代日本の、朝廷の位階に関しては、日本

    史辞典の朝廷の位階」を参照してください。

■ 位階や叙位の全体 (古代日本から現代日本

  (現在)まで) に関しては、日本史辞典の「

  」、「叙位」を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51713。

 

□ 近・現代の叙位条例や位階令

   の位階

   (1887年頃〜現在)。 

□ 近代の職員令の位階

   (1869年頃〜1887年頃)。 

 

 

■ 位階は、 近・現代日本では栄典の位を示し、

  前近代日本では、官職の序列を示す。

 

■ 現在、現代日本政府より叙位される位階は、

  「故人のみ」 である。

 

 

#theikarankofthemodernandpresentdaygov.(a)

 

◆ 近・現代日本政府の、叙位条例

  (1887年制定)や位階令(1926年制

   定、1947年改正) の位階。

■ <1887年頃〜現在> 16位階。

■ 近・現代日本政府の位階の、「一位〜八位

  8グループの、16位階。 

● 近・現代の叙位条例や位階令の位階には、

  一位から八位までの8段階があり、正(しょう)・

  従(じゅ)をつけて、16位階がある。

 

■ 近・現代の叙位条例や位階令の16位階 

  (上位順に、 正一位、 従一位、 正二位、

  従二位、正三位、従三位、正四位、従四位、

  正五位、従五位、正六位、従六位、正七位、

  従七位、正八位、従八位)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 一位 (いちい)。  

       (英: The 1st Ikai Rank)。

  ● 正一位 (しょういちい)。

       (英: The Ordinary 1st Ikai Rank)。

  ● 従一位 (じゅいちい)。

       (英: The Subordinate 1st Ikai 

       Rank)。

       ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 ■ 二位 (にい)。  

  ● 正二位 (しょうにい)。

  ● 従二位 (じゅにい)。

 ■ 三位 (さんみ)。  

  ● 正三位 (しょうさんみ)。

  ● 従三位 (じゅさんみ)。

 ■ 四位 (しい)。  

  ● 正四位 (しょうしい)。

  ● 従四位 (じゅしい)。

 ■ 五位 (ごい)。  

  ● 正五位 (しょうごい)。

  ● 従五位 (じゅごい)。

 ■ 六位 (ろくい)。  

  ● 正六位 (しょうろくい)。

  ● 従六位 (じゅろくい)。

 ■ 七位 (しちい)。  

  ● 正七位 (しょうしちい)。

  ● 従七位 (じゅしちい)。

 ■ 八位 (はちい)。  

  ● 正八位 (しょうはちい)。

  ● 従八位 (じゅはちい)。

     ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 近・現代日本政府の、叙位条例

  や位階令の位階。

   <1887年頃〜現在> 

   一位から八位までの16位階。

 

■ 近・現代日本政府の、叙位条例(1887年

  制定)や位階令(1926年制定、1947年改

  正)の位階 は、 一位から八位までの、16

  位階 であり、 1887年頃 から現在まで、

  使用されている。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 叙位条例や位階令の位階。 

   <1887年頃〜現在>

 ● 叙位条例や位階令の位階は、 近・現代日

  本政府の位階の「一位〜八位」の8グループ

  の位階である。

 ● 叙位条例 や位階令の位階は、 正一位(し

  ょういちい)から従八位(じゅはちい)までの

  近・現代日本政府の16位階 である。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#theikarankofthemodernandpresentdaygov.(b)

 

◆ 近代日本政府の、太政官制の

  職員令(1869年制定)位階。

■ 1869年頃〜1887年頃> 20位階。

■ 近代日本政府の位階の、「一位〜 八位、

  九位、初位(そい)」 の10グループの、20

  位階。 

● 近代の職員令の位階には、 一位から八位ま

  で、九位、初位(そい)までの10段階があり、

  正(しょう)・従(じゅ)をつけて、20位階がある。

 

■ 近代の職員令の20位階 

  (上位順に、 正一位、 従一位、 正二位、

  従二位、正三位、従三位、正四位、従四位、

  正五位、従五位、正六位、従六位、正七位、

  従七位、正八位、従八位、正九位、従九位、

  大初位、少初位)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 一位 (いちい)。  

      (英: The 1st Ikai Rank)。

  ● 正一位 (しょういちい)。

      (英: The Ordinary 1st Ikai Rank)。

  ● 従一位 (じゅいちい)。

      (英: The Subordinate 1st Ikai 

      Rank)。

       ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 ■ 二位 (にい)。  

  ● 正二位 (しょうにい)。

  ● 従二位 (じゅにい)。

 ■ 三位 (さんみ)。  

  ● 正三位 (しょうさんみ)。

  ● 従三位 (じゅさんみ)。

 ■ 四位 (しい)。  

  ● 正四位 (しょうしい)。

      (英: The Ordinary 4th Ikai Rank)。

  ● 従四位 (じゅしい)。

      (英: The Subordinate 4th Ikai 

       Rank)。

      ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 ■ 五位 (ごい)。  

  ● 正五位 (しょうごい)。

  ● 従五位 (じゅごい)。

 ■ 六位 (ろくい)。  

  ● 正六位 (しょうろくい)。

  ● 従六位 (じゅろくい)。

 ■ 七位 (しちい)。  

  ● 正七位 (しょうしちい)。

  ● 従七位 (じゅしちい)。

 ■ 八位 (はちい)。  

  ● 正八位 (しょうはちい)。

  ● 従八位 (じゅはちい)。

 ■ 九位 (くい)。  

  ● 正九位 (しょうくい)。

  ● 従九位 (じゅくい)。

       

 ■ 初位 (そい、しょい)。  

       (英: The Lowest Ikai Rank)。 

  ● 大初位 (だいそい、だいしょい)。

       (英: The Ordinary Lowest Ikai 

       Rank)。

  ● 少初位 (しょうそい、しょうしょい)。

       (英: The Subordinate Lowest

        Ikai Rank )。

      ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 近代日本政府の、太政官制の、

  職員令の位階。

  1869年頃〜1887年頃> 

  一位から九位、初位までの20位階。

 

■ 近代日本政府の、太政官制の職員令

  (1869年制定)の位階  は、 一位から九

  位、初位までの、20位階であり、1869年

  頃から1887年頃まで、使用された。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 職員令の位階。 

  1869年頃〜1887年頃>

 ● 職員令(1869年制定)の位階は、近代

  日本政府の位階の「一位〜九位、初位」の

  10グループの位階である。

 ● 職員令(1869年制定)の位階は、 正一

  位(しょういちい)から少初位(しょうそい、し

  ょうしょい)までの、近代日本政府(明治政

  府)の20位階 である。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#kikkawamotoharu

 

■ 吉川 元春 

     (きっかわ もとはる)。

 

■ 吉川 元春。 

■ 名称 : 吉川 元春 (きっかわ もとはる)。

■ 生没年 : 1530 〜1586年。

■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代の

  武将で、毛利家を支えた、吉川家の当主。

■ 毛利元就(もとなり)の次男。 吉川家の養子

  となる。 毛利輝元の叔父(おじ)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51336。

 

 

■ 吉川 元春 (きっかわ もとはる、生没年:1 53

  0 〜1586年)は、 室町時代後期(戦国時代)、

  安土桃山時代の武将で、 毛利家を支えた、吉

  川家の当主 であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。  

 

■ 吉川 元春は、 毛利元就の次男で、毛利家の

  重臣である。

 

■ 吉川 元春は、 毛利元就(もうりもとなり)の次

  男で、 吉川家の養子となる。 

     吉川 元春は、 毛利輝元(もうりてるもと)

  の叔父(おじ)である。

     毛利元就(もとなり)の長男は毛利隆元(た

  かもと)、 元就の次男は吉川元春、 元就の三

  男は小早川 隆景(こばやかわたかかげ)であり、

  毛利輝元は、毛利隆元の嫡男で、毛利元就の孫

  である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。  

 

■ 1582年の備中高松城の戦いでは、吉川元春

  は、 小早川 隆景と共に、 羽柴秀吉(豊臣秀

  )方の軍と戦う、毛利輝元方の軍・約3万人を

  率いていた。

    備中高松城の戦いは膠着(こうちゃく)状態

  になり、毛利方は、和睦し、 その後、秀吉の織

  田軍撤退の中国大返し時に追撃しなかった。 

    「川角太閤記」では、織田軍撤退の中国大

  返し時、吉川元春は追撃を主張したが、小早

  川隆景に静止されたと記述されている。 また、

  「吉川家文書」では、両名が、追撃は無謀であ

  り、失敗すれば、毛利は滅びると懸念し追撃し

  なかったと記述されている。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。  

 

■ 吉川元春、小早川 隆景及び毛利氏は、15

  83年(天正11年)の賤ヶ岳(しずがたけ)の

  戦いの後、 羽柴秀吉(豊臣秀吉)に従属し

  た。

 

■ 1582年(天正10年)末に、吉川 元春は、 

  吉川氏の家督を、元春の嫡男の吉川元長

  に譲って、隠居した。

    1586年(天正14年)に、吉川 元春は、 

  病死する。 享年57歳であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。  

 

 

♪♪ 吉川 元春 が登場する興味深

    い、 ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 吉川 元春が登場する、興味深い

  関連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

  実) と 架空の出来事 が混じって描かれ

  ています。 また、 現代風にアレンジしてあ

    ります。

 

■ 『 軍師 官兵衛 (ぐんし かんべえ) 

   (NHK2014年大河ドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

● 吉川元春(きっかわもとはる)を演じた 

  俳優名: 吉見 一豊(よしみ かずとよ)。

 

● 小早川 隆景(こばやかわたかかげ)を演じ

  た俳優名 : 鶴見 辰吾(つるみ しんご)。

● 毛利輝元 (もうりてるもと)を演じた俳優名 

  : 三浦 孝太(みうら こうた)。

 

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#theraidtomr.kira'sresidence

 

■ 吉良邸討ち入り 

     (きらていうちいり)。

 

■ 吉良邸討ち入り。

■ 名称 : 吉良邸討ち入り (きらていうちいり)。

■ 英語名 : THE RAID TO MR.KIRA’S

  RESIDENCE。

 

 

■ 吉良邸討ち入り (きらていうちいり) とは、赤

  穂浪士が、 1702年(元禄15年)12月14

  15日に、 吉良上野介(義央) (きらこうずけ

    のすけ(よしなか・よしひさ)) を討つ目的で、吉

  良邸に討ち入った出来事である。

 

■ 吉良邸討ち入り は、 元禄赤穂事件(1701

  年3月の浅野刃傷〜1703年2月の旧臣切腹)

  の中の1つの出来事であり、 1702年(元禄

  15年)12月14日〜15日に、起こった。

 

 

◆ 吉良邸討ち入り (1702年12月)。

■ (1) 吉良邸討ち入り前。

■ 円山会議。

    円山会議 (まるやまかいぎ) は、 お家(赤

  穂・浅野家)再興の望みが絶(た)たれ、 吉良邸

  討ち入り(きらていうちいり)を決定した会議 で

  ある。

    1702年(元禄15年)7月28日に、大石内蔵

  助(良雄)は、  「仇討ち優先派」(江戸急進派)の

  堀部安兵衛(武庸) (ほりべやすべえ(たけつね)

  を招いて、 盟約の同志が集まり、 京(都)の円

  山(まるやま、京都市東山区円山町)で、 同志と

  の会議を開き、 円山会議 (まるやまかいぎ)で、 

  江戸・本所(えど・ほんじょ)の吉良屋敷への討ち

  入りを決定した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 大石内蔵助(良雄)は、 第2次大石東下(あず

  まくだ)りとして、 1702年(元禄15年)11月

  5日に、江戸に入る。 

     大石は、 吉良邸討ち入りまで、 江戸の旅

  館で、 江戸潜伏生活を送る。 

    大石は、 東下りや江戸潜伏時に、名を偽り、

  「垣見五郎兵衛」(かきみごろべえ)と称していた

  という説がある。

  

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 盟約を結んだ赤穂浪士同志全員の江戸潜伏時、 

  1702年(元禄15年)11月から12月まで、

  大石ら赤穂・浅野家旧臣は、 吉良上野介(義

  央)が本所吉良屋敷にいる確実な在邸日を探り、

  討ち入り日を決定した。

     江戸で、 大石内蔵助(良雄)は、 赤穂・浅

  野家旧臣の同志に、 本所吉良屋敷を探らせ、

  吉良邸絵図面を入手し、 吉良上野介(義央)が

  本所吉良屋敷にいる確実な在邸日を探り、討ち

  入り日を決定した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 吉良邸討ち入り直前に、 「仇討ち優先派」(江

  戸急進派)の堀部安兵衛(武庸) (ほりべやす

  べえ(たけつね) は、 儒学者の細井広沢に、 

  自ら編集しておいた「堀部武庸筆記」(ほりべた

  けつねひっき)を託した。

     堀部安兵衛(武庸)は、 赤穂浪士関係の

  書類を自らまとめて編集して、 江戸・堀内道場

  同門の親友で儒学者の細井広沢に託した、元

  禄赤穂事件の出来事を記した「堀部武庸筆記」

  (ほりべたけつねひっき)を残し、 元禄赤穂事

  を知る、一次的史料となっている (岩波書店

  「近世武家思想」に収録)。

 

■ 吉良邸討ち入り直前に、大石内蔵助(良雄)は、

  瑤泉院(ようぜんいん、阿久里)から受領した活

  動資金の会計決算書「預置候金銀請払帳」を、

  瑤泉院(阿久里)の用人・落合 与左衛門(勝信)

  (おちあいよざえもん(かつのぶ)、生没年不明) 

  に提出している。 

     瑤泉院に対して大石内蔵助(良雄)が作成

  した会計決算書 「預置候金銀請払帳」 (あず

  かりおきそうろうきんぎんうけはらいちょう、箱根

  神社所蔵) は、 お家(赤穂・浅野家)再興、及

  び、吉良邸討ち入りのための活動資金として、

  大石が瑤泉院から受領した資金・約691両(現

  在の約1億3000万円相当) に対する、1702

  年(元禄15年)11月付の会計決算書(収支報

  告書) である。

     瑤泉院(阿久里は、  討ち入り直前には、

  大石内蔵助(良雄)とは会っていない。 忠臣蔵

  の南部坂の雪の別れは、 残念ながら、創作(フ

  ィクション)で、事実ではない。

     大石内蔵助(良雄)の会計決算書「預置候

  金銀請払帳」、 瑤泉院(阿久里)の用人・落合

  与左衛門(勝信)の日記「江赤見聞記」 は、

  在、 貴重な元禄赤穂事件の一次的史料となっ

  ている。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ (2) 吉良邸討ち入り (1702年12月)。

■ 吉良邸討ち入り(1702年12月14〜15日)。

    吉良邸討ち入り前までに、 盟約した同志で

  脱落者が出て、結局、47人となった。

     江戸時代の、1702年(元禄15年)12月

  14日の午後に、 赤穂浪士は、 江戸の両国橋

  西の米沢町にあった堀部弥兵衛(金丸)(ほりべ

  やへい(かなまる))の借家に集まる。 その後、

  3箇所の集合場所に分かれた。 

     その後、それぞれの集合場所から、本所吉

  良屋敷裏門近くの前原伊助(宗房)(まえばらい

  すけ(むねふさ))の借店に集まる。

     本所吉良屋敷は、 広く、敷地2550坪で、

  約170の部屋 があった。

     1702年(元禄15年)12月15日未明・午

  前4時頃に、赤穂浪士は、表門隊と裏門隊の二

  手に別れて、吉良邸を襲撃した。 

     江戸時代当時は、武家では現代と同様に

  午前0時が1日の始まりであるが、庶民では、日

  の出が1日の始まりとされた。 そのため、武家

  の時法では、赤穂浪士の吉良邸討ち入りの襲

  撃は、1702年(元禄15年)の、12月15日未

  明となり、 庶民の時法では、吉良邸討ち入りの

  襲撃は、12月14日深夜となる。

 

■ 江戸時代の、1702年(元禄15年)12月15

  日未明・午前4時頃に、 江戸(東京)で、 赤穂

  (あこう)藩元家老、 大石内蔵助(良雄) (お

  おいしくらのすけ(よしたか・よしお)、1659〜

  1703年)の率いる赤穂浪士47人は、 江戸の

  吉良邸へ討ち入り、 約2時間の激闘の末、 主

  君の仇(かたき)の、吉良上野介(義央) (きら

  こうずけのすけ(よしなか・よしひさ))、1641〜

  1702年) を討ち取り、 その本懐(ほんかい)

  を遂げた。

 

■ 実際の赤穂浪士の服装は、山形模様ではなく、

  火事装束(かじしょうぞく)に似せた黒装束(くろ

  しょうぞく)でまとめ、 頭に頭巾(ずきん)を着け

  兜(かぶと)をかぶり、 黒小袖(くろこそで)の下

  に、鎖帷子(くさりからびら)を着込んで、 完全

  武装した服装であった。 ばらばらに羽織(はお

  り)などを着用する者もいた。 合図の笛(ふえ)

  と鐘(かね)は、用意したが、実際に、太鼓は持

  っていなかった。

     山形模様の服装は、 創作(フィクション)

  の「仮名手本忠臣蔵」や先行作の物語で採用さ

  れ、広く認知されるようになったものである。

 

■ 吉良邸討ち入り時、 (吉良上野介(義央)の実

  子・上杉綱憲が養子に入って米沢藩主となった) 

  上杉家米沢藩の動き。

● 米沢転居前の吉良の茶会。

    上杉家当主・第4代米沢藩主の、上杉綱憲 

  (うえすぎつなのり、1663〜1704年) は、実

  父の吉良上野介(義央)を、 江戸は赤穂の浪

  人が多くいて危険なので、米沢 (よねざわ、山

  形県東南部) に転居するように勧めていた。

     赤穂浪士の吉良邸襲撃の前日の1702年

  (元禄15年)12月14日の茶会は、 吉良の江

  戸での別れの茶会であったと言われている。

     米沢藩(よねざわはん、山形県東南部)は、

  上杉氏を当主とする、当時15万石の大名 で

  あった。

 

● 上杉家の救援の遅滞と幕命による救援中止。

     吉良邸討ち入り時、 赤穂浪士は、 上杉家

  からの 援軍 と 引き揚げ時の追撃 を警戒し

  ていた。

     実際に、上杉家では、上杉家米沢藩邸に赤

  穂浪士の吉良邸討ち入りの報が入ると、 米沢

  藩邸は、 赤穂浪士に対抗できるだけの人数を

  集めていた。 

     そうしているうちに、吉良上野介(義央)

  ち取られ赤穂浪士が吉良邸を引き揚げたという

  報告が上杉家米沢藩邸に入った。 

     やがて、江戸幕府の幕閣から、上杉家米沢

  藩に、 赤穂浪士の処分は幕府が行うので手出

  しをしないように命じられる。 上杉家・米沢藩は、

  幕命(ばくめい、幕府の命令)に従う他なかった。 

     赤穂浪士の吉良邸討ち入りを知った上杉家・

  米沢藩主・上杉 綱憲 (うえすぎ つなのり、生没

  年:1663〜1704年)がいきり立ち、実父の

  上野介(義央)援軍に出馬しようとするとこ

  ろを、上杉家縁戚の高家・畠山義寧が、とめた。  

     上杉家・米沢藩主・上杉綱憲 の行動制止は、

  江戸幕府・老中から出兵差し止め命令を上杉綱

  憲に伝えるべく上杉家米沢藩邸に赴(おもむ)い

  た、上杉家縁戚の高家・畠山義寧であった。

      フィクション(創作)の忠臣蔵での上杉綱憲

  の行動制止は、 家老の千坂高房(既に1700

  年に死去)、または、色部安長(父喪中で藩邸に

  出仕していない) となっていることが多い。

     

■ 吉良邸討ち入り時、 大石内蔵助(良雄) は、

  赤穂浪士を、表門隊(おもてもんたい、23人)

  と裏門隊(うらもんたい、24人)の二手に分け

  て、 大石内蔵助(良雄)は、吉良邸の表門で

  指揮をとり、 大石内蔵助(良雄)の子、大石主

  税(良金)(おおいしちから(よしかね)、1688

  〜1703年)は、 吉良邸の裏門で指揮をとっ

  た。

    大石主税(良金)は、 大石内蔵助(良雄)と

  大石・正室夫人の石束(いしづか)りく(香林院

  (こうりんいん)、1669〜1736年)との間の子

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 吉良邸討ち入り時、 吉良邸にいた吉良家臣

  の人数は不明であるが、 赤穂浪士は、完全

  武装し、 高田馬場で斬り合った堀部安兵衛

  (武庸)以外、人を斬(き)った実戦経験がない

  ため、 攻撃して来ない吉良家臣はかまわず

  吉良上野介(義央)のみを狙い、 3人1組の

  グループとなり、 吉良邸内で攻撃してくる1人

  の吉良家臣の前後を3人のグループで取り囲

  み戦い、攻撃してくる吉良家臣を斬り倒してい

  ったという説がある。

     結果的に、討ち入った赤穂浪士は、負傷

  者は出たが、1人も死なず 、吉良上野介(義央)

  を殺害し、首級をとることができた。

 

■ 吉良邸討ち入り時、 高田馬場の決闘で活躍

  し赤穂藩家臣となった、堀部安兵衛(武庸)(ほ

  りべやすべえ(たけつね)、1670〜1703年)

  は、赤穂浪士の四十七士の中で一番の剣客で、 

  大太刀を持って、奮戦したと言われている。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 吉良邸討ち入り時、 吉良上野介(義央)の隠

  居後吉良家当主となった、吉良左兵衛(義周)

  (きらさひょうえ(よしまさ)、1686〜1706年)

  は、自ら武器をとり、応戦したが、面と背中を斬

  (き)られ、気絶し、捨て置かれ、斬首(ざんしゅ)

  されることはなかった。

 

■ (3) 吉良邸討ち入り後。

■ 吉良上野 介(義央)を殺害後、 赤穂浪士一行

  は、 江戸市中を行進し、 主君の浅野内匠頭

  (長矩)の墓がある江戸の高輪・泉岳寺へ行き、 

  主君の墓前に、 吉良上野介(義央)の首級を

  供え、仇討ちを報告した。

    大石内蔵助(良雄)は、 赤穂浪士2名を江戸

  幕府の大目付・仙石久尚の邸宅に送り、口上書

  を提出し、幕府の裁定に委ねた。 そして、赤穂

  浪士一行は、  派遣された幕府の役人の誘導で、

  大目付・仙石久尚の屋敷に移動した。 その後、

  討ち入り赤穂浪士は、幕府により、4つの大名家

  の屋敷に分けて預けられた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#kirakozukenosuke(yoshinaka)

 

■ 吉良上野介(義央) 

     (きらこうずけのすけ(よしなか))。

 

■ 吉良上野介(義央)。

■ 名称 : 吉良上野介(義央) (きらこうずけの

     すけ(よしなか・よしひさ))。

■ 生没年 : 1641〜1702年。

■ 江戸幕府の、高家・幕臣。

■ 元禄赤穂事件の被害者。

■ 播州・赤穂藩・藩主(赤穂・浅野家当主)の、

  野内匠頭(長矩) (あさのたくみのかみ(ながの

  り))に江戸城中で斬りつけられ、後に吉良邸で

  赤穂浪士に殺害される。

            

□ 元禄赤穂事件 (全体)

□ 吉良上野介(義央)が登場する、興

     味深い、ドキュメンタリー、ドラマ、

   。 

 

 

■ 吉良上野介(義央) (きらこうずけのすけ(よし

   なか・よしひさ)、生没年:1641〜1702年)

  は、 江戸幕府の、高家(こうけ、江戸幕府の儀

  式指導係)の幕臣 で、 元禄赤穂事件の被害

  者 である。

 

■ 吉良 上野介(義央)の氏名。

     吉良(きら)は、一族名で、 上野介こうず

  けのすけ)や義央よしなか・よしひさ)は、個人

  名で、 上野介は武官名(ぶかんめい)で、  義

  央(いみな) である。

 

■ 吉良上野介(義央)は、 播州・赤穂藩・藩主(赤

  穂・浅野家当主)の、浅野内匠頭(長矩) (あさ

  のたくみのかみ(ながのり)) に江戸城中で斬り

  つけられ、 後に吉良邸で赤穂浪士により殺害さ

  れる。

 

 

■ 吉良上野介(義央)。

■ 江戸幕府第5代将軍の、徳川 綱吉 (とくがわ

  なよし 、将軍就任:1680〜1709年、生没 

  年:1646〜1709年) は、比較的朝廷への

  慣例を重視し、 毎年、朝廷へ年賀の使者を参

  内(さんだい)させると同時に、 朝廷からの返

  礼として、勅使・院使(ちくし・いんし)の江戸下

  向(げこう)が毎年行われた。

     江戸に下向する勅使・院使の接待として、

  江戸幕府は、 饗応役(きょうおうやく)を設置し、

  中小大名にその役目を命じた。

 

■ 1701年(元禄14年)1月に、 江戸幕府

  軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)の、朝廷の東山

  天皇、霊元上皇への「年賀の挨拶」(ねんがのあ

  いさつ)として、高家 (こうけ、江戸幕府の儀式指

  導係)・筆頭の吉良上野介(義央) (きらこうずけ

  のすけ(よしなか・よしひさ)、1641〜1702年)  

  が、京(都)の朝廷に遣(つか)わされた。 その返

  礼に、東山天皇の勅使 (ちょくし、朝廷の天皇の

  使者) と、 霊元上皇の院使 (いんし、朝廷の上

  皇の使者) が、 江戸に下向(げこう)することと

  なった。

 

■ 1701年(元禄14年)2月4日に、 江戸幕府は、

   勅使饗応役  (ちょくしきょうおうやく、朝廷の天

     皇の使者の接待役) として、 赤穂藩 (あこう

  はん、赤穂・浅野家)・藩主浅野内匠頭(長矩) 

  (あさのたくみのかみ(ながのり)、1665 〜17

  01年) を任(にん)じ、 院使饗応役 (いんしき

  ょうおうやく、朝廷の上皇の使者の接待役) とし

  て、 伊予吉田藩(いよよしだはん、伊予(愛媛県)

  の宇和島藩の支藩)の、藩主・伊達宗治 (だて

  むねはる、律令官名:左京亮(さきょうのすけ)、後

  に伊達村豊(むらとよ)、16182〜737年)を任

  じ、指南役(しなんやく)に、 高家(こうけ、江戸

  幕府の儀式指導係)・筆頭の、吉良上野介(義央)

  (きらこうずけのすけ(よしなか・よしひさ)、1641

  〜1702年) を指名した。

     浅野内匠頭(長矩)は、 1683年(天和3

  年)に、一度、勅使饗応役に命ぜられており、吉

  良上野介(義央)の指南のもと、 勅使饗応役を

  務(つと)め上げていた。

 

■ 1701年(元禄14年)1月に京(都)の朝廷に

  遣(つか)わされていた、吉良上野介(義央)が、

  1701年(元禄14年)2月29日に、 京(都)よ

  り、江戸に戻ってきた。

 

■ 勅使・院使一行  (ちょくし・いんしいっこう)は、 

  1701年(元禄14年)3月11日から15日まで

  江戸に滞在する予定で、 3月12日に、江戸城

  で、将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)に 「勅

  宣」 (ちょくせん、勅命の宣旨(せんじ)、みこと

  のり)、 「院宣」(いんぜん) の伝奏(で んそう)

  を行い、 3月13日に、江戸城で猿楽能を観賞 

  し、 3月14日に、江戸城で、将軍・徳川綱吉

  り「奉答の儀」(ほうとうのぎ)を受け、 3 月15

  日に、芝・増上寺(しば・ぞうじょうじ)に参拝し、

  帰京(ききょう)する(京(都)に帰る)予定になっ

  ていた

 

■ 京(都)より江戸に下向した勅使・院使一行 は、 

  1701年(元禄14年)3月11日に、 江戸に到

  着し、 伝奏屋敷(でんそうやひき)に滞在した。

     勅使・院使一行は、 1701年(元禄14年)

  3月12日に、 伝奏屋敷から、江戸城に登城し、 

  江戸城・本丸御殿 (えどじょう・ほんまるごてん、

  現在の皇居東御苑(こうきょひがしぎょえん))

  ある、白書院 (しろしょいん) にて、 将軍・

  川綱吉(つなよし) に「勅宣」 、「院宣」の伝奏

  行った。

     勅使・院使一行は、 1701年(元禄14年)

  3月14日に、 江戸城・本丸御殿・白書院にて、

  「勅宣」、「院宣」に対して返事を奏上(そうじょう)

  するという「奉答の儀」が執(と)り行われ予定で

  あり、 勅使・院使一行は、江戸城に登城し、 将

  軍・徳川 綱吉から、「奉答の儀」を受ける予定で

  あった。

     ところが、1701年(元禄14年)3月14日の

  巳の刻(みのこく、午前9時すぎ)に、 江戸城・本

  丸御殿で、 「奉答の儀」が行われる白書院へ と

  つながる松之廊下(まつのろうか)において、 赤

  穂藩主浅野内 匠頭(長矩) が、 高家・筆頭の

  吉良上野介(義央)に斬(き)りかかった。

 

■ 勅使(ちょくし、朝廷の天皇の使者)の江戸下向

  時の接待役の赤穂藩(あこうはん)藩主・浅野

  匠頭(長矩)(あさのたくみのかみ(ながのり))に、 

  吉良上野介(義央) (きらこうずけのすけ(よしな

  ・よしひさ))が、典礼を指導した。 

     しかし、 短慮な性格で 吉良上野介(義央)

  と接待費減額の件でもめていた、赤穂藩主の浅

  野内匠頭(長矩)は、 1701年(元禄14年)3月

  14日に、 江戸城中で、幕府の高官で幕府の儀

  式典礼をつかさどる高家(こうけ)筆頭・吉良上野

  介(義央)に、殿中 (でんちゅう、江戸城中)で、斬

  (き)りかかった。  吉良は、軽傷で、助かった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 江戸城の本丸御殿(ほんまるごてん)の表(お

  もて)には、 障壁画に松を描いた「松之廊下」

  (まつのろうか) があった。 

    「松之廊下」は、 江戸城で一番長い廊下で、

  全長約55mもあり、 刃傷(にんじょう)事件が

  起こった場所である。 「松之廊下」は、 徳川

  綱吉(つなよし)の 治世に、 1701年(元禄

  14年)3月14日に、 赤穂藩主(あこうはんしゅ)

  の、浅野内 匠頭(長矩) (あさのたくみのかみ

  (ながのり)、1665〜1701年が、 高家筆

  頭 (こうけひっとう、江戸幕府の儀式指導係筆

  頭) の、吉良上野介(義央) (きらこうずけの

  すけ(よしなか・よしひさ)) を斬(き)りつけた場

  所で、 元禄赤穂事件 (げんろくあこうじけん、

  赤穂事件、1701〜1703年) が発生した場所

  である。 

     浅野内匠頭(長矩 )は、 たまたま、勅使(ち

  ょくし、朝廷の 天皇の使者)の接待係になり、 

  傷(にんじょう)の動機では、 浅野内匠頭(長矩 )

  は、 江戸幕府の老中から、従来(例年)の接待

  費を1200両から700両に減額するように言わ

  れそれに従うと、 高家(儀式指導係)の吉良

  野介(義央)から接 待費を従来(例年)の接待費と

  同じとし接待費を減らさないように言われ、 板ば

  さみとなり、 吉良上野介(義央)と不和 になった。 

     そして、1701年(元禄14年)3月14日に、

  薄暗い松之廊下(まつのろうか)で、 吉良上野介

  (義央)旗本の梶川頼照(かじかわよりてる)が

  儀式の段取りについて立ち話をしていた時、 短

  慮な性格で吉良上野介(義央)と接待費減額の件

  でもめていた浅野内匠頭(長矩 )は、 吉良上野

  (義央)に 小刀(短刀、約30cm)で4回斬(き)

  りつけ、 最初は、約1.5mの距離で、吉良の背

  後(後姿)に斬りかかり、 その後、振り向いた吉

  良に斬りつけ、 更に、しつこく追いかけ2回斬り

  つけて、 その後、 梶川頼照、伊達宗治(村豊)、

  その他近くにいた者に取り押さえられた という説

  がある (梶川氏日記より)。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 江戸幕府第5代将軍の、徳川 綱吉(とくがわ

  つなよし) は、 1701年(元禄14年)3月14

  日の事件の起こった当日に、 柳沢吉保(やなぎ

  さわよしやす)を通じて、 その知らせを聞いて、 

  朝廷との儀式を台無しにされたとして激怒(げき

  ど)し、 当日、浅野内 匠頭(長矩)の即日切腹 

  と 赤穂・浅野家(赤穂藩)の改易(かいえき、領

  地没収)を命(めい)じた。

     浅野内匠頭(長矩)の切腹は、 殿中抜刀

  (でんちゅうばっとう、禁じられている江戸城中で

  刀を抜いた罪) 及び、 傷害・殺人未遂の罪に

  よるものであった。

     吉良上野介(義央)のお咎(とが)め無しは、

   浅野内匠頭(長矩)の殿中抜刀に吉良が手向

   かいしなかったことが殊勝(しゅしょう)であると

   されたためであった。

     慎重な取調べをせず、大名が事件当日に即

  日切腹することは異例のことで、 将軍・徳川 綱

  が異例ともいえる決定を下したのは、 勅使(ち

  くし、朝廷の 天皇の使者)に対し、 自らの天皇へ

  忠誠 心をアピールし、綱吉の生母・桂 昌院(け

  いしょういん)最大の念願である、従一位(じゅい

  ちい)叙任の位階(いかい)を取り消されないよう

  にするためだったと言われている。

      将軍・徳川綱吉は、 喧嘩両成敗(けんかり

  ょうせいばい)を無視し、 慎重な取調べをせず、 

  江戸幕府の 綱吉の命(命令)で、 吉良上野介

  (義央)はお咎(とが)めなしとし(罪なしとし)、

  野内匠頭(長矩) は即日切腹となり、 即日、赤

  穂藩(赤穂・浅野家)は、改易(かいえき、領地没

  収) と決定された。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 刃傷(にんじょう)の事件後、 江戸幕府は、す

  ぐさま、勅使饗応役を戸田忠真へと交代し、「奉

  答の義」は、白書院から黒書院へと移された。

  

■ 1701年(元禄14年)3月に、江戸城中で、赤

  穂藩主の浅野内 匠頭(長矩) に斬りつけられ、

  軽傷を負わされた、吉良上野介(義央) (きら

  こうずけのすけ(よしなか・よしひさ)) は、 17

  01年(元禄14年)12月に、事件の影響で、 吉

  良家の家督を実の孫で養子の吉良左兵衛(義周)

  (きらさひょうえ(よしまさ)、1686〜1706年) 

  に譲り、 隠居した。 その後、 翌年の1702年

  (元禄15年)12月に、 赤穂四十七士の吉良邸

  討ち入りで、殺害された。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 江戸時代の、1702年(元禄15年)12月14

  日に、 江戸(東京)で、 赤穂(あこう)藩元家

  老・大石内蔵助(良雄) (おおいしくらのすけ

  (よしたか・よしお)、1659〜1703年)の率い

  る赤穂浪士47人は、 江戸(東京)の吉良邸へ

  討ち入り、 約2時間の激闘の末、 主君の仇

  (かたき)の、吉良 上野介義央 (きらこうずけ

  のすけ(よしなか・よしひさ))、1641〜1702

  年) を討ち取り、その本懐(ほんかい)を遂げ

  た。

 

■ 吉良邸討ち入り時、 吉良上野介(義央)の隠

  居後吉良家当主となった、吉良左兵衛(義周)

  (きらさひょうえ(よしまさ)、1686〜1706年)

  は、自ら武器をとり、応戦したが、面と背中を斬

  (き)られ、気絶し、捨て置かれ、斬首(ざんしゅ)

  されることはなかった。

 

■ 1703年(元禄16年)2月4日に、幕命(ばくめ

  い、幕府の命令)により、 討ち入りした赤穂浪

  士46人は、 切腹した。

    一方、1703年(元禄16年)2月に、 江戸

  幕府は、 吉良上野介(義央)の孫で吉良上野介

  (義央)引退後の吉良家の当主の、吉良左兵衛

  (義周)(きらさひょうえ(よしまさ)、1686〜170

  6年) の改易(かいえき、領地没収)と信州配流

  (はいる)の処分を決めた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#kirakozukenosuke(yoshinaka)-thegenrokuakoincident

 

■ 元禄赤穂事件。

■ 元禄赤穂事件 (げんろくあこうじけん)は、 赤

  穂事件、赤穂浪士討ち入り(あこうろうしうちいり)

  事件とも言う。 

     元禄赤穂事件をモデル(題材)にした創作

  (フィクション)の物語 「忠臣蔵(ちゅうしんぐら)」

  は、有名である。

● TKKI カナヤマ著 日本歴史の驚異の出来事。

 

■ 元禄赤穂事件・赤穂浪士の討ち入りの概要。

     1701年(元禄14年)3月に、 江戸城内で、

  赤穂藩(あこうはん、赤穂・浅野家)・藩主浅野

  内匠頭(長矩) (あさのたくみのかみ(ながのり)) 

  が、 高家(こうけ、江戸幕府の儀式 指導係)・筆

  頭の、吉良上野 介(義央) (きらこうずけのすけ

  (よしなか・よしひさ)) に斬(き)りつけ、 浅野

  内匠頭(長矩) は、 即日切腹(せっぷく)し、 赤

  穂藩(赤穂・浅野家)は、即日 改易(かいえき、

  没収)と 決まり、 赤穂藩(赤穂・浅野家)の元家

  老・大石内蔵助(良雄) (おおいしくらのすけ(よし

  たか・よしお))は、 お家再興(おいえさいこう、赤

  穂・浅野家再興) を願い出るが許されず、 17

  02年(元禄15年)12月に、 大石内蔵助(良雄) 

  ら赤穂藩(赤穂・浅野家)の旧家臣47人 が、 吉

  良邸(きらてい)に討ち入り、 吉良上野介(義央)

  を殺害し、 1703年(元禄16年)2月に、 赤穂

  (赤穂・浅野家)の旧臣46人 (他の1人は、 討

  ち入り後、立ち去る) が、切腹する。

● TKKI カナヤマ著 日本歴史の驚異の出来事。

 

 

#kirakozukenosuke(yoshinaka)-appearingscenes

 

♪♪ 吉良上野介(義央)が登場する、

  興味深い、ドキュメンタリー、ドラマ、

  映画。 

 

★ 吉良上野介(義央)が登場す る、興

  味深い関連ドキュメンタリー。 

 

■ ザ・プレミアム 『 よみがえる江戸

   城 』 

    (NHK・2014年1月4日本放送・ドキュメンタ

   リー)。

■ 元禄赤穂事件(1701〜1703年)の、江戸城

  の松之廊下の浅野内匠頭(長矩 )の刃傷(にん

  じょう)について述べる。

■ 江戸城の詳細について述べる。

■ 江戸城の本丸御殿を、 江戸時代に製作され

  た建築図面、下絵等に基づいて、 CG(コンピ

  ュータ・グラフィックス)で、再現した。

■ 江戸幕府の将軍の一日の生活を述べる。

 

 

★ 吉良上野介(義央) が登場する、

  面白く、興味深い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 忠臣蔵 瑤泉院の陰謀 (ちゅう

     しんぐら ようぜんいんのいんぼう)  

   (日本の2007年制作テレビ東京・テレビ

   ドラマ)。

● 吉良上野介を演じた俳優 : 江守 徹。

 

● 浅野内匠頭を演じた俳優 : 高嶋政伸。

● 大石内蔵助を演じた俳優 : 北大路欣也。

● 瑤泉院(阿久利)を演じた女優 : 稲森いずみ。

● お喜世(左京の局)を演じた女優 : 吹石一恵。

● 堀部安兵衛を演じた俳優 : 山田純大。

 

■ 『 忠臣蔵 その義 その愛 (ちゅう

      しんぐら そのぎ そのあい) 』  

   (2012年1月2日・本放送・テレビ東京・テ

   レビドラマ)。

● 吉良上野介を演じた俳優 : 柄本 明。

 

● 浅野内匠頭を演じた俳優 : 市川染五郎。

● 大石内蔵助を演じた俳優 : 舘 ひろし。

● 瑤泉院(あぐり)を演じた女優 : 田中美里。

● 堀部安兵衛を演じた俳優 : 内野 聖陽。

 

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#christianity

 

■ キリスト教  

    (きりすときょう)

 

 キリスト教。

■ 名称 : キリスト教 (きりすときょう)。

■ キリスト教の宗派には、主に、ギリシア正教、 

  ローマ・カトリック、 プロテスタント各派、 キリ

  スト単性論諸派 (初期キリスト教各派) の4

  つのグループがある。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

■ プロテスタント各派とローマ・カトリックは、教

  義、規範の差が大きく、昔も今も対立している。

■ キリスト教の詳細に関しては、世界史辞典の

  キリスト教を参照してください。

 

 

■ キリスト教 (きりすときょう) には、 主に、ギ

  リシア正教、 ローマ・カトリック、 プロテスタ

  ント各派、 キリスト単性論諸派 (初期キリス

  ト教各派) の4つのグループの宗派がある。

     プロテスタント各派 と ローマ・カトリック

  は、教義、規範の差が大きく、昔も今も対立し

  ている。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ キリスト教は、 近世日本や近代日本では、耶

  蘇教(やそきょう) とも呼ばれていた。

 

 カトリック とは、 ローマ・カトリック教会 で、 

  キリスト教の一派である。

    カトリックは、 戦国時代、安土桃山時代、

  江戸時代初期に、  日本に多くのカトリック教徒

  がいたが、 江戸時代初期の江戸幕府の禁教

  令と鎖国で、衰退した。

    カトリックは、 ローマ法王(カトリックの教皇)

  を頂点(最高指導者)とするキリスト教の宗派の

  1つである。

     戦国時代、安土桃山時代の、有名なカトリック

  の信者には、 細川ガラシャ(= 明智玉)、 カトリ

  クのキリシタン大名には、 高山右近たかやま

  うこん)などがいる。

 

■ 戦国時代〜江戸時代初期。

     戦国時代(室町時代後期)に、 1549年

  のザビエルの来日以後、日本にカトリックが進出

  し、 宣教師の努力や貿易の利益を求める戦国

  大名の保護により、 安土桃山時代、江戸時代

  初期に、日本に、多くのカトリック信者が現れた

  が、 カトリックは、江戸時代初期の禁教令や

  と共に衰退した。

    安土桃山時代前期には、 貿易の利益を求

  めた、カトリックのキリシタン大名も多く出現し、 

  一部のキリシタン大名は、 日本伝道の援助を

  乞うため、 天正遣欧使節(てんしょうけんおう

  しせつ、1582〜90年)を、 ヨーロッパに派遣

  し、 カトリック の教皇やカトリック教国のスペイ

  ン国王に謁見(えっけん)し、 大歓迎を受けた。

     しかし、 カトリックは、 1587年の豊 臣

  秀吉のバテレン追放令以後、弾圧され、 江戸

  幕府の、 1613年のカトリックの禁教令 や 16

  16年の鎖国完成で、 衰退した。

    1613年の江戸幕府のカトリックの禁教令

  以後もカトリックの信仰を保った日本人信者は、 

  隠れキリシタン(かくれきりしたん)と呼ばれた。

    スペインやポルトガルは、 世界各地で、植

  民地獲得とカトリックの布教を同時に進め、世

  界各地に多数の宣教師を送り込んだ。 フラン

  シスコ・ザビエル、ルイス・フロイスも、 日本

  やって来た、カトリックの宣教師である。

    貿易の拡大やカトリックの布教などを通じ

  て、 スペインやポルトガルは、 日本を植民

  地化しようと企(くわだ)てたが、 江戸幕府

  鎖国と カトリックの禁教令で失敗に終わった。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 幕末(江戸時代末期)に、開国と共に、ギリシ

  ア正教、プロテスタント各派、ローマ・カトリック

  が進出し、現在に到る。

     幕末の開国から、 ギリシア正教、 プロテ

  スタント各派、 ローマ・カトリックが、 日本各

  地に、教会や学校などを建てる。

    例として、 ギリシア正教(東方正教会、ハ

  リストス正教会、ロシア正教会その他各教会)

  では、 神田のニコライ堂の建設(1891年)、 

  カトリックでは、 長崎の大浦天主堂(おおうら

  てんしゅどう)の建設(1865年)、 プロテス

  タント各派では、 ピューリタン系「会衆派」 

  (米でアーモスト大学、ハーバード大学、イェ

  −ル大学、オベリン大学などを設立した宗派

  で外国伝道団体・アメリカン・ボードを持つ)、

  のアーモスト大学出身の新島襄(にいじまじ

  ょう)の同志社英学校の創設(1875年) な

  どがある。

 

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#kinokuniyabunzaemon

 

■ 紀伊国屋 文左衛門 

       (きのくにや ぶんざえもん)。

 

■ 紀伊国屋 文左衛門

■ 名称 : 紀伊国屋 文左衛門 (きのくにや

    ぶんざえもん)

● 略名 : 紀文。

■ 実在した人物か、架空の人物か、不明。

■ 江戸時代前期の商人。

 

 

■ 紀伊国屋 文左衛門 は、 実在した人物か、

  架空の人物か、 不明である。 

    実在した人物の説を採ると、 紀伊国屋 文

  左衛門 は、江戸時代前期の商人で、元禄貨

  幣改鋳期後の元禄バブル経済期の公共事業

  で材木の需要が高まり、 幕府御用材木商とし

  て、 巨万の富を得たと言われている。 また、

  商人として名を高める宣伝効果を狙って、 江

  戸の吉原で、豪遊し、小判をばら撒(ま)いたり

  したと言われている。 元禄バブル経済期が終

  わった後は、不景気となり、 江戸の富岡付近

  で今まで貯めた財で、裕福に暮らしたとも言わ

  れている。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#gyokuyo

 

■ 玉葉 

       (ぎょくよう)。

 

■ 玉葉

■ 名称 : 玉葉 (ぎょくよう)

■ 著者 : 九条兼実 (くじょうかねざね)。 

■ 平安時代末期・鎌倉時代初期に成立。 

■ 平安時代末期・鎌倉時代初期を知る一次

  的史料。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 玉葉 は、 平安時代末期・鎌倉時代初期

  を知る一次的史料である。

■ 玉葉 (ぎょくよう) は、著者は九条兼実 

  (くじょうかねざね)で、 平安時代末期・鎌

  倉時代初期に成立した。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 「玉葉」 (ぎょくよう) は、九条兼実の日

  記で、 1164年から1200年までにわたり、

  武家政権成立時の社会情勢や政治過程を

  知る史料で、66巻である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#courtnobles

 

■ 貴族  

      (きぞく)。

 

■ 貴族

■ 名称 : 貴族 (きぞく)。

■ 朝廷の位階五位以上の者。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51642。

 

 

■ 貴族 (きぞく) とは、 朝廷の位階五位以

  上の者であり、 朝廷の律令官制(律令制の身

  分制)の、位階五位(ごい)以上の者である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 朝廷律令官制 (律令制の身分制、律令制

  の官僚制) では、 朝廷(ちょうてい、=天皇

    家の政治組織)の位階が五位以上の身分 ・地

    位の者を、貴族という。

 

 

■ 狭義の貴族。

■ 狭義では、 公家の貴族で、 主に儀式と文治

  をもって天皇家に仕(つか)える、前近代の朝

  廷の、 貴族(宮廷貴族)、朝廷の上 ・中級家臣・

  臣下 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 狭義の、貴族(きぞく)とは、 天皇家の上・中

  級家臣で、 天皇家に直接、仕(つか)える上

  ・中級家臣・臣下 である。

■ 狭義の、貴族は、 天皇家の宮廷貴族である。

 

 

■ 律令官制導入時。

■ 律令制成立前の有力豪族が、 律令制成立後、

  朝廷 (=天皇家の政治組織) の貴族 となった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#gionnyogo

 

■ 祇園女御  

       (ぎおんのにょうご)  

 

■ 祇園女御

■ 生没年不詳。

■ 名称 : 祇園女御 (ぎおんのにょうご)。

■ 白河上皇(しらかわじょうこう)の寵愛する、側室・夫人

  (そくしつ・ふじん)。

■ 平清盛(たいらのきよもり)の養母。

 平清盛は、祇園女御の猶子(ゆうし、養子)。

 平清盛の2人の育ての母親(祇園女御と藤原宗子)の

 一人。

■ 平清盛の伯母(おば)(?)。

● 平清盛の生母は不明であるが、祇園女御の妹が、

 清盛の生母という説がある。

 

 

■ 平 清盛(たいらのきよもり)の生母は、不明であるが、

 平清盛の生母は、「祇園女御の妹」(ぎおんのにょうご

 のいもうと) であり、 また、「祇園女御の妹」は、白河上

 皇(しらかわじょうこう)の側室夫人であった という説が

 ある。

 

■ NHK大河ドラマ「平清盛」では、 平清盛の生母の「舞

 子(まいこ)」 (仮称・実名不詳)は、 白河上皇の側室夫

 人で、 祇園女御の妹ではなく、 祇園女御(ぎおん(の)

 にょうご)と親しい同郷・同職(同じ白拍子出身)の女性

 という設定になっていて、 平清盛は、 白河上皇と、祇

 園女御(ぎおん(の)にょうご)と親しい同郷・同職(同じ

 白拍子出身)の女性の「舞子」と、の間で生まれた子とな

 っている。

  また、NHK大河ドラマ「平清盛」では、 平清盛の生母

 の「舞子(まいこ)」 は、白河上皇の命(命令)により出産

 後間もなく、殺害される。

 

■ 祇園女御 (ぎおんのにょうご、生没年不詳) は、

 白河上皇(しらかわじょうこう)の寵愛する、側室・夫人

 であった。 

■ 祇園女御は、 京(都)の祇園(ぎおん)に住んでいた

 ので、その名がある。

 

■ 祇園女御(ぎおんのにょうご)  は、 平清盛の養母

 であった。 平清盛は、祇園女御の猶子(ゆうし、養子)で

 あった。  

   祇園女御は、平清盛の2人の育ての母親(祇園女御と

 藤原宗子)の一人 であった。

● 祇園女御 は、 平 清盛 や 藤原璋子(ふじわらのし

 ょうし・たまこ) の養母であった。 

    藤原璋子は、後に、 待賢門院(たいけんもんいん)

 とも呼ばれ、 鳥羽上皇(とばじょうこう)の正室夫人とな

 り、 崇徳(すとく)天皇と後白河(ごしらかわ)天皇の生母

 となる。

 

■ 祇園女御(ぎおんのにょうご)  は、 平清盛の伯母

 でもあった。

● 平 清盛(たいらのきよもり)の生母は、 祇園女御の妹

 (ぎおん(の)にょうごのいもうと)という説があり、 この説

 と採れば、祇園女(ぎおん(の)にょうご)は、 平清盛の

 伯母(おば) でもあったことになる。

    平 清盛の生母は、 祇園女御の妹であり、 1120年

 (保安元年)に、平 清盛が3歳のとき、祇園女御の妹が死

 去したので、 平 清盛は、祇園女御の猶子(ゆうし、養子)

 として養育されたとする説がある。

 

■ 祇園女御 (ぎおんのにょうご) は、生没年不詳で、

  白河上皇(しらかわじょうこう)の寵愛する、側室・夫人

  (そくしつ・ふじん) であった。

     祇園女御は、平清盛(たいらのきよもり)の養母で、 

  平清盛は、祇園女御の猶子(ゆうし、養子)であった。

     平清盛の生母は不明であるが、祇園女御の妹が、

  平 清盛の生母という説がある。 この説をとると、祇園

  女御は、平清盛の伯母(おば)でもあった。

 

 

♪♪ 祇園女御 が登場する、面白く、興

 深い、ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

 祇園女御 が登場する、面白く、興味深

 い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画 は、フィクションです。 歴史

 のドラマ、映画 は、歴史的事実(史実) と 架空の出

 来事が、混じって、描かれています。 また、 現代風に

 アレンジしてあります。

 

■ 『 平清盛 (たいらのきよもり) 』 

 (日本の2012年 NHK大河ドラマ) 

● 平安時代末期を描いたドラマで、平安時代末期に

 活躍した人物、当時の時代状況、平清盛の生涯など

 を描く

● 大河ドラマの初頭部に登場する。

● 祇園女御を演じた女優名 : 松田 聖子。

 

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#gionnyogonoimoto

 

■ 祇園女御の妹  

       (ぎおん(の)にょうごのいもうと)  

 

■ 祇園女御の妹

■ 名称 : 祇園女御の妹 (ぎおん(の)にょうごのいも

 うと)。

■ 生没年不詳。

■ 平 清盛の生母 (?)。

 

■ 平 清盛(たいらのきよもり)の生母 は、不明であるが、

 平清盛の生母は、「祇園女御(ぎおん(の)にょうご)の妹」

 であり、 また、「祇園女御の妹」は、白河上皇(しらかわ

 じょうこう)の側室・夫人であった という説がある。

 

■ NHK大河ドラマ「平清盛」では、 平清盛の生母の「舞

 子(まいこ)」 (仮称・実名不詳)は、 白河上皇の側室夫

 人で、 祇園女御の妹ではなく、 祇園女御(ぎおん(の)

 にょうご)と親しい同郷・同職(同じ白拍子出身)の女性

 という設定になっていて、 平清盛は、 白河上皇と、祇

 園女御(ぎおん(の)にょうご)と親しい同郷・同職(同じ

 白拍子出身)の女性の「舞子」と、の間で生まれた子とな

 っている。

 

   

 

 

■ 平 清盛の生母は、不明であるが、 平清盛の生母 は、

 祇園女御(ぎおん(の)にょうご)の妹」であり、 「祇園女

 御(ぎおん(の)にょうご)の妹」は、 白河上皇側室・夫

 であった という説がある。 

 

■ NHK大河ドラマ「平清盛」では、 平清盛の生母の「舞

 子(まいこ)」 (仮称・実名不詳)は、 白河上皇の側室夫

 人で、 祇園女御の妹ではなく、 祇園女御(ぎおん(の)

 にょうご)と親しい同郷・同職(同じ白拍子出身)の女性

 という設定になっていて、 平清盛は、 白河上皇と、祇

 園女御(ぎおん(の)にょうご)と親しい同郷・同職(同じ

 白拍子出身)の女性の「舞子」と、の間で生まれた子とな

 っている。

 

 

♪♪ 平清盛の生母 が登場する、興味

  深い、ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

 平清盛の生母 が登場する、興味深

  い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画 は、フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画 は、歴史的事実(史実) 

  と 架空の出来事が、混じって、描かれてい

  ます。 また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 平清盛 (たいらのきよもり) 』 

   (日本の2012年 NHK大河ドラマ) 

● 平清盛の生母の「舞子 (まいこ、仮称・

  実名不詳)」(平清盛生母)を演じた女優名 :

  吹石 一恵。

 

■ 『 義経 (よしつね) 』 

   (NHK2005年大河ドラマ)。

● 平清盛の生母の「鶴羽 (つるは、仮称・

  実名不詳)」を演じた女優名: 堀越美穂。

● 平 清盛  を演じた俳優名 : 渡 哲也 

  (わたり てつや)。

 

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#kyogokutakatsugu

 

■ 京極 高次 

    (きょうごく たかつぐ)

 

■ 京極 高次。  

■ 生没年 :  1563年(永禄6年)〜1609(慶長14年)。

 名称 : 京極 高次 (きょうごく たかつぐ)。

● 幼名(ようみょう) :  小法師。

 浅井3姉妹 (茶々(ちゃちゃ)、淀殿)、(はつ)、

 (ごう)) のいとこ。  

■ 没落した名門・京極氏に生まれる。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 姉妹の京極 龍(竜)子や正室・夫人のお初の協力を得

 て、京極家を隆盛に導く。

■ 豊臣秀吉のお気に入りの側室・夫人の、京極 龍(竜)

  (きょごくたつこ)の兄弟 (弟または兄)。 

■ 正室・夫人は、 お初 (おはつ)。

■ 父 は、 京極 高吉 (きょうごく たかよし、1508〜81

 年)。

■ 母 は、 浅井久政の娘の京極マリア。

■ 兄弟姉妹 は、 京極高知(たかとも、弟)、京極龍(竜)

  子(たつこ、姉妹)。

■ 子 は、 京極忠高 (長男、山田氏の側室・夫人の子)、 

 安毛 高政 (次男、小倉氏の側室・夫人の子)。

 

 

■ 京極 高次 は、 姉妹の京極 龍(竜)子や正室・夫人の

 お初の協力を得て、京極家を隆盛に導く。

 

■ 京極 高次 は、 没落した名門・京極氏に生まれる。

■ 京極氏 は、 近江で臣下の浅井氏の下剋上(げこくじょ

 う)を受け、没落した。 

 

 1582年(天正10年)に、京極 高次 は、 本能寺の変 

 で、 姉妹の京極龍(竜)子(たつこ)の夫の若狭の武田元

 明と共に、明智光秀に味方して、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の

 軍に敗れた。 姉妹の京極龍(竜)子は、 捕らえられ た後、

 秀吉の寵愛(ちょうあい)を受け、 羽柴秀吉(豊臣秀吉)の

 側室・夫人 となる。

   京極 高次 は、 秀吉の側室・夫人となった姉妹の京極

 龍(竜)子の嘆願などにより許され、 秀吉に仕(つか)える

 ことになった。

 

■ 京極 高次 は、 1584年(天正12年)には、近江高島

 郡2,500石を、 羽柴秀吉(豊臣秀吉)から与えられる。

 

■ 京極 高次 は、 1587年(天正15年)に、 いとこのお

 初と婚儀を結んだ (お初をを正室・夫人とした)。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 京極 高次 は、 1595年(文禄4年)には、近江・大津

 城6万石の領主 となった。

 

■ 1600年の天下分け目の戦いでは、 京極 高次 は、居

 城の大 津城に、正室・夫人のお初(常高院)と共に、 籠城

 (ろうじょう)して(城にたてこもって)、 1万人を超える西軍

 を引き付けて、関ヶ原の主戦場へ向かわせなかった。

   京極 高次 は、 戦い後、その戦功により、若狭(わか

 さ)一国8万5,000石を、徳川家康より与えられ、 京極氏

 の再興を果たした。

 

 

 京極 高次 (きょうごく たかつぐ) は、生没年は  156

 3年(永禄6年)〜1609(慶長14年) で、 幼名(ようみ

 ょう)は、 小法師 と称した。

 京極 高次 は、 浅井3姉妹 (茶々(ちゃちゃ)、初(は

 つ)、江(ごう)) のいとこ である。  

■ 京極 高次 は、 姉妹の京極 龍(竜)子や夫人のお初の

 助けを得て、京極家を隆盛に導く。

 

◆ 京極 高次の家族・親族。

■ 京極 高次の姉妹 (姉または妹) は、 豊臣秀吉のお

  気に入りの側室・夫人の、京極龍(竜)子 (きょごく たつ

 こ) である。 

■ 京極 高次の夫人 は、 お初 (おはつ) である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 京極 高次の、父 は、京極高吉 (きょうごく たかよし、

 1508〜81年) である。

■ 京極 高次の、母 は、  浅井久政の娘の京極マリア 

 である。

■ 京極 高次の、兄弟姉妹 は、 京極高知(たかとも、弟)、 

 京極龍(竜)子(たつこ、姉妹) である。

■ 京極 高次の、子 は、 京極忠高 (長男、山田氏の側

 室・夫人の子)、 安毛高政 (次男、小倉氏の側室 ・夫人

 の子) である。

 

 

♪♪ 京極 高次 が登場する、面白く、興味

 深い、ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

 京極 高次 が登場する、面 白く、興味深

 い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画 は、フィクションです。 歴史の

 ドラマ、映画 は、歴史的事実(史実) と 架空の出来

 事 が、 混じって、描かれています。 また、 現代風に

 アレンジしたあります。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』 (日本の

 2011年 NHK大河ドラマ) 

● 京極 高次を演じた俳優名 : 斎藤 工 (さいとう た

 くみ)。

● 京極 高次の姉妹の京極 龍(竜)子(たつこ、松の丸

 殿)を演じた女優名 : 鈴木 砂羽 (すずき さわ)。

● 京極 高次の夫人のお初(おはつ)を演じた女優名 : 

 水川 あさみ (みずかわ あさみ)。

 

■ 『 茶々 天涯の貴妃 (ちゃちゃ てんがいの

 おんな) 』 (日本の2007年製作・東映映画)。 

 

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#kyogokutatsuko

 

■ 京極 龍子 

    (きょうごく たつこ) (京極竜子)。

 

■ 京極 龍子。  

■ 生没年 :  生年不詳〜1634年(寛永11年)。

 名称 : 京極 龍子 (きょうごく たつこ)。 

  別名 : 京極 竜子 (きょうごく たつこ)。

● 別名 :  松の丸殿  (まつのまるどの)。

(注意) 前近代日本では、夫婦別姓  (前近代日本の人名

 浅井3姉妹 (あざいさんしまい、 茶々(ちゃちゃ、淀殿)、(は

 つ)、(ごう))  の従姉妹 (いとこ)。  

■ 豊臣秀吉の側室・夫人。 秀吉のお気に入りの夫人であった。

■ 京極 高次 (きょごく たかつぐ)の姉妹 (姉 または 妹)。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 安土桃山時代の、美女として、有名。

■ 京極 高次を助け、京極家を隆盛に導く。

■ 1番目の夫 は、 武田元明 (元明の正室・夫人)。死別(戦死)。

■ 2番目の夫 は、 豊臣秀吉 (秀吉の側室・夫人)

■ 父 は、 京極 高吉 (きょうごく たかよし、1508〜81年)。

■ 母 は、 浅井久政の娘の京極マリア。

■ 兄弟姉妹は、 京極高次(たかつぐ、兄弟)、 京極高知(たかとも、

 兄弟)。

■ 子 は、 1番目の夫の武田元明との間に、二男一女をもうける。

 2番目の夫の豊臣秀吉との間に、子はなし。

■ 浅井三姉妹の保護者の1人

 

 

■ 京極龍(竜)子 は、 京極 高次を助けて、 没落した京極家を隆

 盛に導いた。

 

■ 京極氏 は、 近江(おうみ、現在の滋賀県)の大名で、 臣下の

 浅井氏の下剋上(げこくじょう)を受け、没落した。 

 

 1582年(天正10年)に、 兄弟の京極 高次は、 本能寺の変で、

 京極龍(竜)子の夫の若狭の武田元明と共に、 明智光秀に味方 し

 て、 羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍に敗れた。 京極龍子(竜子)は、

 らえられた後、 秀吉の寵愛を受け、 羽柴秀吉(豊臣秀吉)の側室・

 夫人 となる。

   兄弟の京極 高次は、 秀吉の側室・夫人となった京極龍(竜 )子

 の嘆願などにより許され、 秀吉に仕 (つか)えることになった。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 兄弟の京極 高次 は、 1584年(天正12年)には、 近江高島

 郡2,500石を、 秀吉から与えられる。

 

■ 兄弟の京極 高次 は、 1587年(天正15年)に、 いとこのお初

 (おはつ、常高院)と婚儀を結んだ (お初を正室・夫人とした)。

 

■ 兄弟の京極 高次 は、 1595年(文禄4年)には、 近江・大津城

 6万石の領主 となった。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 1600年の天下分け目の戦いでは、兄弟の京極 高次 は、居城の

 大津城に、 夫人のお初(常高院)と共に、 籠城(ろうじょう)して(城

 にたてこもって)、 1万を超える西軍を引き付けて、 関ヶ原の主戦場

 へ向かわせなかった。

   兄弟の京極 高次 は、 戦い後、その戦功により、若狭(わかさ)

 一国8万5,000石を、徳川家康より与えられ、 京極氏の再興を果

 たした。

 

 

 京極龍(竜)子 (きょうごくたつこ、 生没年: 生年不詳〜1634

 年(寛永11年)) は、 別名は、  松の丸殿 (まつのまるどの) と

 呼ばれた。

 

 京極龍(竜)子 (きょうごくたつこ) は、 浅井3姉妹 ( あざいさん

 しまい、 茶々(ちゃちゃ、淀殿)、(はつ)、(ごう))  の従姉妹 

 (いとこ) である。  

 

■ 京極龍(竜)子 は、 浅井三姉妹の保護者の1人 である。 

● 京極龍(竜)子 は、 浅井三姉妹の叔父(おじ)の織田 長益(な

 がます、有楽斎(うらくさい))と共に、 1583年の北庄城(きたのしょ

 じょう)落城後、 いとこの浅井三姉妹(茶々、初、江)を保護し、三姉 

 妹各自が独立するまでの間、世話をしている。

 

 京極龍(竜)子 は、 豊臣秀吉の側室・夫人 である。 秀吉の お

 気に入りの夫人 であった。

 

■ 京極龍(竜)子 は、 京極 高次 (きょごく たかつぐ、1563−16

 09年)の姉妹 (姉または妹) である。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 京極龍(竜)子 は、 安土桃山時代の、美女として、有名である。

 

■ 京極龍(竜)子の、1番目の夫 は、 武田元明 (元明の正室・

 夫人)で、 京極龍(竜)子 は、 武田元明との間に、二男一女をもう

 ける。 しかし、  武田元明は、1982年に 戦死し、京極龍(竜 )子

 は、夫と死別した。 

 

 武田元明 は、 本能寺の変で、 京極 高次と共に、明智光秀

 に味方して、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍に討たれた。 武田元明の

 正室・夫人の京極龍(竜)子 は、 捕らえられた後、 秀吉の寵愛

 を受け、 羽柴秀吉(豊臣秀吉)の側室・夫人 となる。

 

■ 京極龍子(竜子)の、2番目の夫 は、 豊臣秀吉  であり、 京極

 龍子(竜子)は、 秀吉の側室・夫人 である。  2番目の夫の豊臣

 秀吉との間には、子はなかった。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 京極龍(竜)子の、兄弟姉妹 は、 京極高次(たかつぐ 、兄弟)、

 京極高知(たかとも、兄弟) である。

■ 京極龍(竜)子の、父 は、京極高吉 (きょうごく たかよし、15

 08〜81年) である。

■ 京極龍(竜)子の、母 は、  浅井久政の娘の京極マリア である。

 

 

♪♪ 京極龍(竜)子 が登場する、面白く、興味深い、

 ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

 京極龍(竜)子 が登場する、面白く、興味深い、ド

 ラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画 は、フィクションです。 歴史のドラマ、映画 

 は、歴史的事実(史実) と 架空の出来事 が、 混じって、描かれ

 ています。 また、 現代風にアレンジしたあります。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』 (日本の2011年

 NHK大河ドラマ) 

● 京極 龍子(たつこ、松の丸殿)を演じた女優名 : 鈴木 砂羽

 (すずき さわ)。

● 京極 龍子の兄弟の京極 高次を演じた俳優名 : 斎藤 工

  (さいとう たくみ)。

● 兄弟の京極 高次の夫人のお初(おはつ)を演じた女優名 : 

 水川 あさみ (みずかわ あさみ)。

 

■ 『 寧々〜おんな太閤記 (ねね〜おんなたいこうき) 』 

 (日本の2009年制作・テレビ東京・テレビドラマ)。 

 

■ 『 茶々 天涯の貴妃 (ちゃちゃ てんがいのおんな) 』 

 (日本の2007年製作・東映映画)。 

● 京極 龍子(竜子)を演じた女優名 : 魏 涼子 (ぎ りょうこ)。

 

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#kinoshitaiesada

 

 木下 家定 

      ( きのした いえさだ)

 

■ 木下 家定。

■ 生没年 : 1543(天文12年) 〜1608年(慶長13年)。 

■ 名称 : 木下 家定 (きのした いえさだ)。

  別名 : 杉原 家定 (すぎはら いえさだ)。

■ 「ねね(おね)」の実兄。

■ 戦国・安土桃山期・江戸初期の武将。

■ 父 は、 杉原 定利 (すぎはら さだとし) である。 

● 木下(杉原) 家定 は、 杉原定利の長男 である。

■ 兄弟姉妹 は、「ねね(おね)」、「やや(彌々長生院)」。

■ 子 は、 8人の男子がいた。 

● 木下(杉原) 家定の、次男の木下利房(としふさ) が、 木下家

 の家督を継ぎ、木下家は、幕末まで続いた。

● 木下(杉原) 家定の、の5男 が、 小早川家の養子となった、

 小早川秀秋 である。

 

 

■ 木下 家定(きのした いえさだ) は、生没年は、1543(天文12

 年)〜1608年(慶長13年) である。

■ 木下 家定(きのした いえさだ) は、 別名は、 杉原 家定 (す

 ぎはら いえさだ) である。

● 木下 家定 は、 初めは、杉原氏であったが、後に、木下氏と改

 称する。

 

■ 木下(杉原) 家定 は、 「ねね(おね)」の 実兄 である。

 

■ 木下(杉原) 家定 は、 戦国・安土桃山期・江戸初期の武将 で

 ある。

■ 木下(杉原) 家定の、兄弟姉妹 は、「ねね(おね)」、「やや(彌々

 長生院)」 である。

 

■ 杉原家利 (すぎはら いえとし) には、 養子の男子 と 実子

 の1男2女 がいた。 家利の養子の男子が、杉原 定利で、 家利

 の実子の1男2女は、 杉原家次 と 長曲  と 朝日 である。

 

■ 杉原 定利 (すぎはら さだとし) は、 杉原家利の養子で、 杉

 原家利の実娘の朝日の婿養子 である。

 

■ 木下(杉原) 家定の、実父 は、 杉原 定利 (すぎはら さだと

 し) である。 

● 杉原 定利 (すぎはら さだとし) には、 杉原(木下)家定、「ね

 ね(おね)」、「やや(彌々長生院)」 という3人の実子 がいた。

● 木下(杉原) 家定 は、 杉原定利の長男である。

 

■ 杉原(木下)家定、 「ねね(おね)」、「やや(長生院)」 は、 杉原

  定利 (すぎはらさだとし) と 朝日(あさひ) との間の、子である。

■ 杉原 定利 は、 杉原(木下)家定、「ねね(おね)」、「やや(長生

 院)」 の実父 である。

● 「ねね(おね)」、「やや(彌々長生院)」 は、 杉原 定利の娘 で

 あり、 浅野長勝(又右衛門)の養女 となる。

● 「やや(彌々長生院)」 は、 杉原 定利の娘ではなく、 浅野長

 (又右衛門)の実娘 という説 もある。

 

■ 木下(杉原) 家定には、 8人の男子がいた。 

● 木下(杉原) 家定の、次男の木下利房(としふさ)が、 木下家の

 家督を継ぎ、 木下家は、幕末まで続いた。

● 木下(杉原) 家定の、の5男 が、 小早川家の養子となった、小

 早川秀秋である。

 

■ 木下(杉原) 家定 は、 古くから豊臣秀吉に仕え重用され、 秀

 吉により、 播磨姫路城主に任じられる。

 

■ 木下(杉原) 家定 は、1600年(慶長5年)の天下分け目の戦い

 では、 東軍、西軍のどちらにも属さず、中立を保ち、 戦後、徳川

 家康より、 備中足守(びっちゅうあしもり)2万5000石の所領を与

 えられた。

 

■ 木下(杉原) 家定 は、 秀吉に、木下姓を与えた人物と言われ

 ている。

 

 

♪♪  木下(杉原) 家定 が登場する、面白く、興味深い

 関連ドラマ、映画、ドキュメンタリー。 

 

★ 木下(杉原) 家定 が登場する、面白く、 興味深い

 関連ドラマ、映画 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 歴史のドラマ、映画 は、

 史実(歴史上の事実) と 架空の出来事 が 混じって描かれています。 

 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 江(ごう〜姫たちの戦国〜 』 (日本の2011年 NHK大

 河ドラマ) 

 

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#thekishuhandomain

 

■ 紀州藩 

      (きしゅうはん)。

 

■ 紀州藩。

■ 名称 : 紀州藩 (きしゅうはん)。

■ 別名 : 紀伊藩 (きいはん)。

 存続時期 : 江戸時代初期〜明治時代初期。

 紀伊 国 (きいのくに、概ね、現在の、和歌山

  県と三重県南部の相当領域) を領有した藩。

■ 1619年成立。 

■ 藩祖(初代藩主)は、 徳川家康の男子の、

  徳川頼宣(よりのぶ)。

■ 56万石の藩。

■ 徳川御三家の1つ。 親藩。

 

 

■ 紀州藩は、 親藩 (徳川家康の男子が始祖とな

  ている藩) である。

 

■ 紀伊藩 (きいはん)とは、 和歌山県に、 江戸

  時代初期から明治時代初期まで存在した、藩 で

  ある。

 

■ 紀州藩は、 徳川御三家の1つの紀州徳川

  (家)の当主が、代々、藩主を務(つと)めた藩 

  である。

 

■ 紀州藩は、 1619年に成立し、 藩祖(初代藩

  主)は、徳川家康の男子、徳川頼宣(よりのぶ)で

  あり、 56万石の藩 である。

 

■ 藩 (はん)とは、 大名の領地とその支配機構 

  である。

 

■ 紀州藩 (きしゅうはん)の別名は、 紀伊藩 (き

  いはん)である。

 

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#kishuha

 

■ 紀州派 

     (きしゅうは)。

 

■ 紀州派。

■ 時期 : 1853年〜1858年。

■ 名称 : 紀州派 (きしゅうは)。 

     別名 南紀派 (なんきは)。

■ 江戸幕府の次期14代将軍に徳川慶福(よしとみ)

 (徳川家茂)を推する 人(者)。

■ 一橋派 と対立した。

■ 井伊直弼(なおすけ) など。 

 

 

■ 将軍継嗣(けいし)問題での対立。

   江戸幕府の第13代将軍になった徳川家定(とくがわいえさだ、将軍在

 任1853〜58年) が、 病弱であったため、 将軍就任後、 江戸幕府

 の次期14代将軍の後継者問題が、起こった。

 

■ 幕府側内部(幕臣内や親藩内等)で、 将軍継嗣(けいし)問題で対立

 が起こった。 

● 江戸幕府の第13代将軍・徳川家定の後嗣(こうし)を決めるに際し、 

 次期14代将軍を、徳川慶福(よしとみ)に推するか、一橋慶喜(よしのぶ)

 に推するかで、対立した。

● 井伊直弼(なおすけ)などが、 徳川慶福(よしとみ)を次期14代将軍に

 推した(紀州派)。 

● 一方、 阿部正弘(あばまさひろ、老中首座、老中首座在任1845〜5

 5年)、 堀田正睦(ほったまさよし、老中首座、老中首座在任1855〜5

 8年)、 徳川斉昭(前水戸藩主、一橋慶喜の父)など は、 一橋慶喜

 (よしのぶ)を次期14代将軍に推した(一橋派)。

 

■ また、島津斉彬(しまづなりあきら、薩摩藩主)、 松平慶永(まつだい

 らよしなが、越前藩主)、 山内豊信(やまのうちとよしげ、土佐藩主) ら

 雄藩大名は、 一橋慶喜(よしのぶ)を次期14代将軍に推し (一橋派と

 なり)、 幕政改革と雄藩連合による日本政治をめざした。

 

■ 幕末、実質的に、 雄藩連合による政治をめざし一橋慶喜(よしのぶ)を

 次期14代将軍に推する島津斉彬などの一橋派 と 従来と同じ幕府独裁

 の政治をめざし徳川慶福(よしとみ)を次期14代将軍に推する、井伊直弼

 などの紀伊派(きしゅうは、南紀派) が、 対立した。

 

■ 紀州派(南紀派)が、一橋派に対し、勝利をおさめ、1858年に、 紀州

 派の井伊直弼が、江戸幕府の大老 (大老在任1858〜60年)に就任し、

 徳川慶福(よしとみ) が、 徳川家茂(とくがわいえもち、将軍在任1858

 〜66年)) と改名して、 江戸幕府の第14代将軍に就任した。

 

■ その後、一橋派の人々は、 幕府大老・井伊直弼により、徹底的に、弾

 圧された (安政の大獄、1858〜1859年)。

● 幕府大老・井伊直弼により、 老中首座の堀田正睦は、老中解任され隠

 居謹慎(藩主解任され、謹慎)、 一橋慶喜は謹慎、 徳川斉昭は、永蟄居

 (えいちっきょ)、 越前藩主の松平慶永(よしなが)や土佐藩主の山内豊信

 (とよしげ) は、 隠居謹慎(藩主を解任されて、謹慎) となる (薩摩藩主

 の島津斉彬(なりあきら) は、処分を受ける前に、1858年に急死してい

 る)。

 

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#kibinomakibi

 

■ 吉備真備  

       (きびのまきび)。

 

■ 吉備真備。

■ 生没年 : 693〜775年。

■ 名称 : 吉備真備 (きびのまきび)。

 別名 : 下道真備 (しもつみちのまきび)。

 奈良時代の政治家、学者。

 

 

■ 吉備真備 (きびのまきび、生没年 693〜775年) は、

 奈良時代の政治家、学者 である。

 

■ 吉備真備 は、別名で、下道真備 (しもつみちのまき び)

  とも言う。

 

■ 吉備真備 は、 717年から遣唐使に加わり、留学生とし

 て勉学後、 唐滞在約17年後に、日本へ帰国する。 

  吉備真備 は、 帰国後、玄ム(げんぼう)と共に、 橘諸兄

  (たちばなのもろえ) (橘諸兄政権737〜75 6年)  に重用

 (ちょうよう)され、 その下で活躍する。 

   752年遣唐副使として 再度、唐に渡る。 756年に唐よ

 り帰国後、大宰府(だざいふ)の大宰大弐となり、 対新羅(し

 らぎ)に備え、 怡土城 (いとじょう、筑前国(ちくぜんのくに、

 福岡県)の山城) を築く (768年に完成)。 

 

■ 吉備真備 は、 764年の恵美押勝 (えみのおしかつ、

 藤原仲麻呂)の乱に鎮定策を献じた。 藤原仲麻呂落後、

 功により、 称徳(しょうとく)天皇 (在任764〜770年、

  謙 天皇が再即位) の信任を得て、 右大臣となる。

 

 

♪♪ 吉備真備 が登場する、面白く、興味深い、ドラ

 マ、映画、ドキュメンタリー。

 

★ 吉備真備 が登場する、面白く、興味深い、ドキュ

 メンタリー。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 奈良の魔法使い 〜日

 本を救った遣唐使・吉備真備(きびのまきび)〜 』 

 (日本のNHK2010年(H22)5月本放送のドキュメンタリー番組)。

● 遣唐使や奈良時代の吉備真備の活躍を描いている。

 

★ 吉備真備 が登場する、面白く、興味深い、ドラマ、

 映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 歴史のドラマ、映画

 は、史実(歴史上の事実) と 架空の出来事 が 混じって描かれ

 ています。  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 大仏開眼 (だいぶつかいげん) 』 (日本の2010年

  4月NHK古代史ドラマスペシャル)。

■ 吉備真備を演じた俳優 : 吉岡 秀隆 (よしおか ひでたか)。

 

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#gyoki

 

■ 行基  

       (ぎょうき)。

 

■ 行基。

■ 名称 : 行基 (ぎょうき)。

■ 生没年 : 668年〜749年。

■ 奈良時代の仏僧、社会事業家。

■ 聖武(しょうむ)天皇に協力を請われて、東大寺大仏の造立の

 中心人物となる。

 

 

■ 行基 (ぎょうき、生没年 668〜749年) は、 奈良時代の

 仏僧で、 社会事業家 であった。

■ 行基 は、 東大寺大仏の建立(こんりゅう)で、 聖武(しょう

 む)天皇に協力を請(こ)われて、中心的な役割を果 (は)たした。

 

■ 行基 は、弟子(でし)を率いて、 一般民衆のために、 多くの

 交通(橋、道路など)、灌漑(かんがい)施設を造るなどの社会事

 業を行った。

 

■ 行基 は、 初めは、僧尼令違反(717年)のかどで律令政府

 から弾圧を受けたが、次第に、政府に重用され、 薬師寺に入り、

 大仏造営に協力し、 功により745年に日本最初の大僧正となっ

 た。

 

 

♪♪ 行基 が登場する、面白く、興味深い、ドラマ、

 映画、ドキュメンタリー。

 

★ 行基 が登場する、面白く、興味深い、ドラマ、映

 画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 歴史のドラマ、映

 画 は、 史実(歴史上の事実) と 架空の出来事 が 混じって

 描かれています。 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 大仏開眼 (だいぶつかいげん) 』 (日本の2010年

 NHK古代史ドラマスペシャル)。

■ 行基(ぎょうき)を演じた俳優 : 笈田 ヨシ (おいだ よし)。

 

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#kinnoha

 

■ 勤皇(王)派  

     (きんのうは)。

 

■ 勤皇(王)派。

■ 名称 : 勤皇派 (きんのうは)、勤王派 (きんのうは)。 

 別名 : 尊皇派 (そんのうは)、 尊王派 (そんのうは)。

■ 幕末期に、 尊皇(王)(そんのう)思想を持って、政治

 運動を行った者(人)。

■ 幕末に、京都朝廷のために働いた者(人)。

■ 尊皇(王)運動 (幕末に、朝廷を助け、天皇中心の政

 治をめざす政治運動、天皇親政復活の政治運動)を行っ

 た者(人)。

■ 佐幕派 と対立した。

■ 幕末、尊皇(王)派の一部は、倒幕派へ動いて行った。

■ 尊皇(王)攘夷派の人物の例 : 土佐藩藩士の、

 武市半平太 (たけちはん ぺいた)。

■ 尊皇(王)倒幕派の人物の例 : 薩摩藩士の、西郷 

 隆盛(さいごうたかもり)、 長州藩士の桂小五郎(かつ

 らこごろう、木戸孝允)、  土佐藩士の板垣退助(いた

 がきたいすけ)。

■ 勤皇(王)派の詳細に関しては、「尊皇(王)派」を

 参照してください。

 

 

■ 勤皇(王)派 (きんのうは) は、 勤皇派 (きん

 のうは) または 勤王派 (きんのうは) で、 別名

 は、 尊皇派 (そんのうは) または 尊王派 (そん

 のうは) とも言われる。

■ 尊皇(王)派 は、幕末期に、尊皇(王)(そんのう)

 思想を持って、政治運動を行った者(人) である。

■ 尊皇(王)派 には、 幕末に、京都朝廷のために

 働いた者(人) もいた。

■ 尊皇(王)派 は、 尊皇(王)運動 (幕末に、朝

 廷を助け、天皇中心の政治をめざす政治運動で、 

 天皇親政復活の政治運動)を行った者(人) である。

■ 尊皇(王)派 は、 佐幕派 と対立した。

■ 幕末、尊皇(王)派の一部は、倒幕派へ動いてい

 った。

■ 尊皇(王)攘夷派の人物には、 土佐藩藩士の、

 武市半平太 (たけちはんぺいた) などがいた。

■ 尊皇(王)倒幕派の人物には、 薩摩藩士の、西

 郷隆盛 ( さいごうたかもり) 長州藩士の桂小五

 郎(かつらこごろう、木戸孝允)、  土佐藩士の板

 垣退助(いたがきたいすけ) などがいた。

 

■ 幕末(江戸時代末期)に、 佐幕派 と 倒幕派 

 が、 日本国内で、 激しく対立した。 倒幕派の多

 くの人々は、 思想を掲(かか)げて、倒

 幕運動 を行い、 尊皇(王)倒幕派とも呼ばれた。 

 

 

♪♪ 勤王(皇)派 が登場する、面白く、興

 味深い、ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

★ 勤王(皇)派 が登場する、面白く、興味

 深い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

 歴史のドラマ、映画  は、史実(歴史上の事実) と 

 架空の出来事 が 混じって描かれています。 また、 

 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 

  (日本の2010年NHK大河ドラマ)。

 

■ 『 篤姫 (あつひめ) 』 

  (日本の2008年NHK大河ドラマ)。

 

■ 『 坂本竜馬 』 

  (日本の1989年TBS・ドラマ)。

 

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#ladykikuhime

 

■ 菊姫  

     (きくひめ) (上杉景勝の正室)。

 

■ 菊姫

■ 生没年 : 1563年(永禄6年)? 〜 1604年(慶長9年)。

■ 名称 : 菊姫 (きくひめ)。 

■ 上杉 景勝 (うえすぎ かげかつ)の正室(夫人)。

■ 武田信玄の娘 (五女または六女)。

■ 武田勝頼の異母姉妹。

■ 上杉と武田の両家の同盟の証として、上杉景勝に嫁ぐ。

■ 才色兼備の賢夫人で、 42才で病死。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

□ 菊姫 が登場する、面白く、興味深い

  ドキュメンタリー、ドラマ、映画

 

 

■ 菊姫 (きくひめ) は、 生没年は 1563年(永禄6年)? −16

 04年(慶長9年) で、  上杉景勝(うえすぎ かげかつ)の正室(夫人)

 である。

 

■ 菊姫 (きくひめ) は、 武田信玄の娘(五女または六女)で、 武

 田勝頼の異母姉妹 である。

 

■ 上杉景勝 (うえすぎかげかつ) は、 菊姫の夫 で、 

  直江 兼続 (なおえ かねつぐ) は、 菊姫の夫 の上

  杉景勝の側近の家臣 である。

 

■ 1578年6月に甲越同盟が成立した。 菊姫 (きくひめ) は、15 

 78年年12月に、 上杉と武田の両家の甲越同盟の証として、上杉景

  勝(うえすぎ かげかつ) に嫁ぎ、 上杉景勝の正室(夫人) となる。

 

■ 菊姫 (きくひめ) は、 上杉家では、才色兼備の賢夫人として敬

 (うやま)われ、 42才で病死した。

 

 

#ladykikuhime-appearingscenes

 

◆ 菊姫 が登場する、面白く、興味 深い、ドキュメン

 タリー、ドラマ、映画。

 

♪♪ 菊姫 (上杉景勝の正室 が登場する、面白く、

 興味深い、ドラマ、映画。

 

 『 天地人 (てんちじん) 』 NHK2009年大河ドラマ 

● 菊姫 を演じる俳優名 : 比嘉 愛未。

 

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#kitanomandokoro

 

■ 北政所  

    (きたのまんどころ)。

 

■ 北政所。

■ 名称 : 北政所 (きたのまんどころ)。

■ 関白の正室夫人。

■ 関白・豊臣秀吉の正室夫人のねね(おね、高台院)。

  (夫の秀吉が関白となり、1585年〜)。

■ 豊臣秀吉・正室夫人の北政所については、 『 ねね

 (秀吉正室) 』 を参照して下さい。                 

 

■ 北政所 (きたのまんどころ) とは、 関白(かんぱく)

 の正室夫人 である。

 

■ 関白・豊臣秀吉の正室夫人のねね(おね)は、1585

 年に、夫の秀吉が関白となり、それ以後、 北政所と呼

 ばれる。

 

 秀吉正室夫人の北政所   、 ねね 《寧々》、おね 

 《祢(ね)、寧(ね)より》)、 ねい  《寧(ねい)、寧子、

 子為(ねい)より》 と称し、 北政所 (きたのまんどこ

 ろ、夫の秀吉が関白となり、本人は従三位に叙せられ、

 1585年〜) と呼ばれ、 その後、 豊臣吉子 (従一

 位を授かって、1588年〜)  を授かる。 その後、 落

 飾後(1598年〜)、 高台院 (こうだいいん、高 台院

 湖月尼) と呼ばれる。

 

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#kita

 

■ きた (仮称)  

       (直江兼続の妹)。

 

■ きた (仮称)。

■ 生没年 : 不詳  (16〜17世紀頃)。

■ 名前 : きた (仮称、実名不詳)。 

■ 直江 兼続 (なおえ かねつぐ)の 妹。  

    直江兼続の父・樋口兼豊の長女。

■ きたの父 は、 樋口兼豊 (ひぐち かねとよ、 樋口 惣右衛門)。

■ きたの母 は、 お藤 (おふじ)。

■ きた (仮称、実名不詳、長女) の兄弟 は、  

 直江兼続 (樋口兼続、 樋口与六、 長男、兄) と 大国実頼 

 (樋口与七、 次男、兄) と 樋口秀兼 (三男) と 次女(実名不詳) 

 と 三女(実名不詳)。

■ 信濃(長野県)の、須田 満胤 (すだ みつたね)に嫁ぐ。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

■ きた は、 直江兼続 の 妹 である。

■ きたの父 は、 樋口兼豊 (ひぐち かねとよ、 樋口 惣右衛門)で、

 きたの母 は、 お藤 (おふじ) で、 きた (長女) の兄弟 は、  

 直江兼続 (樋口兼続、 樋口与六、 長男、兄) と 大国実頼 

 (樋口与七、 次男、兄) と 樋口秀兼 (三男) と 次女(実名不詳)

 と 三女(実名不詳) である。

■ きた は、 信濃(長野県)の、須田 満胤 (すだ みつたね)に嫁ぐ。

 

■ 直江兼続 (きたの兄)、 樋口兼豊(= 樋口 惣右衛門、きたの父)、 

 お藤 (きたの母)、 樋口与七 (きたの兄弟) に関しては、 当日本

 史辞典の 『 直江兼続 (なおえかねつぐ)、 樋口兼豊(ひぐち かね

 七とよ)、 お藤 (おふじ)、 樋口与七 (ひぐち よしち) 』 を参照し

 て下さい。

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。                

 

 

♪♪ きた (仮称、直江兼続の妹 が登場する、興味

 深い、ドラマ、映画。

 

■ 『 天地人 (てんちじん) 』  (NHK2009年大河ドラマ)

● きた を演じる俳優名 : 江波戸 ミロ。

 

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#kichinosuke

 

■ 吉之助   

     (きちのすけ) (西郷 隆盛)

 

■ 吉之助。

■ 吉之助 (きちのすけ) については、 『 西郷 隆盛 

 (さいごう たかもり) 』  を参照して下さい。

□ 日本史 辞典 の見出し語 「さ」 の ページへ 。                 

● 吉之助 は、 西郷 隆盛、 西郷 吉之助 と 同一の人物 

 です。

 

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□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。                

 

 

#kidotakayoshi

 

■ 木戸 孝允  

     (きど たかよし) (= 桂 小五郎)

 

■ 木戸 孝允。

■ 名称 : 木戸 孝允 (きど たかよし)。

● 別名 : 桂小五郎 (かつら こごろう)。

■ 生没年 1833年(天保 4年)〜1877

     (明治10年)。

■ 明治新政府 (近代日本政府) の指導者

    (実力者)の一人。

● 明治初期、 明治新政府 (近代日本政府、

  1867〜1945年) の 実権を握った権力

  者の一人

■ 幕末・明治初期の政治家。 比較的開明な

  政治家であった。

■ 長州藩藩士出身。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51533。

 

□ 木戸孝允(桂小五郎) 画像 No.1

□ 木戸 孝允 が登場する、興味深い、

    ドキュメンタリー、ドラマ、映画

 

 

■ 木戸 孝允 きど たかよし、生没年:1833〜

  1877年)は、幕末、明治時代初期の政治家で、 

  長州藩士出身で、 明治新政府(近代日本政府)

  のリーダーの一人で、 幕末に、長州藩を代表し

  薩長同盟を結び、 明治新政府では、 日本の

  近代化を推進した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 木戸 孝允は、 幕末、藩校・明倫館(めいりん

  かん)で吉田松陰に兵学を学び、 その後江戸

  に遊学し、帰国後、長州藩の中核で活躍し、薩

  長同盟を締結し、倒幕に成功し、明治 政府(

    代日本政府)を樹立し、 明治時代初期に、新

  政府の指導者として、西郷隆盛、大久保利通と

  共に、版籍奉還・廃藩置県などを推進し、中央

  集権国家の樹立に尽力した。

 

■ 木戸 孝允 (きど たかよし 、生没年:1833

  (天保4年)〜1877(明治10年) は、 幕末・

  明治初期の政治家であり、 長州藩藩士 出身で、 

  比較的開明な政治家であった。

    木戸 孝允の別名は、桂小五郎 (かつらこご 

  ろう)である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 木戸 孝允は、 明治新政府 (近代日本政府) 

   の指導者(実力者)の一人 であった。

     木戸 孝允は、 明治初期、 明治新政府

  (近代日本政府、近代天皇親政政権・政府、 

  近代天皇絶対主義政権・政府、1867〜19

  45年) の 実権を握った権力者の一人 であ

  った

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 木戸 孝允は、 藩校・明倫館で学び、薩長同

  盟を推進し、 王政復古後、 明治新政府(

  代日本政府)の首脳として、 封建制(封建制

  )の漸進(ぜんしん)的廃止を図(はか)り、  

  版籍奉還、廃藩置県を断行し、 1871年、岩

  倉遣欧使節に同行し、 帰国後、内治優先を

  説いて、西郷 隆盛らの征韓論に反対し、また、

  後に大久保利通の台湾出兵に反対し一時政

  府を去り、1875年の大阪会議後、政府の参

  議に復帰した。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

● 桂小五郎 (かつらこごろう、木戸孝允(きど

  たかよし))は、藩校明倫館で、幕末に、1849

  年に、吉田 松陰の教え(兵学など)を受ける。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#kidotakayoshi-appearingscenes

 

♪♪ 木戸 孝允 が登場する、面白く、

  興味深い、ドキュ メンタリー、ドラマ、

   映画。

 

◆ 木戸 孝允 が登場する、面白く、興

   味深い、ドキュメンタリー。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 逃げちゃだ

  めだ〜逃亡者・桂小五郎 明治をひ

  らく〜 』 

   (NHK20 10年(H22)10月6日本放送テ

   レビ・ドキュメンタリー番組)。

 

■ その時歴史が動いた 『 さらば殿

  様〜廃藩置県激動の内幕〜』 

   (NHK2006年(H18)3月・本放送テレビ・

   ドキュメンタリー番組)。

● 大久保利通(おおくぼ としみち)、西郷 隆盛、

  木戸孝允、島津久光 などが登場する。

 

■ その時歴史が動いた 『 岩倉使節

  団 世界一周の旅 〜明治日本・西

  洋と出会う〜 』 

   (NHK2009年 (H21)1月・本放送テレビ・

   ドキュメンタリー番組、 第348回)。

 

 

★ 木戸 孝允 が登場する、面白く、興

  味深い、ドラマ、映画、ドキュメンタ

    リー。

 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

   実) と 架空の出来事 が 混じって描かれ

   ています。 また、 現代風にアレンジしてあ

   ります。

 

■ 『 花燃ゆ (はなもゆ) 』 

   (日本のNHK2015年大河ドラマ)。

■ 日本の明治維新、幕末、明治時代の時代

  状況やその時代に活躍した人々を描く。

■ 吉田松陰の妹・文(ふみ)の生涯を描く。

 

● 木戸孝允(桂小五郎)を演じる俳優 :   

   東山 紀之 (ひがしやま のりゆき)。

      木戸 孝允 (きど たかよし、桂 小五郎

  (かつら こごろう))は、  藩校明倫館の教

  授の吉田松陰から兵学などを学ぶ

 

■ 『 八重の桜 (やえのさくら)  

    (日本のNHK2013年大河ドラマ)。

● 日本の幕末、明治時代の時代状況やその

     時代に活躍した人々を描く。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 

   (日本のNHK2010年大河ドラマ)。

■ 日本の幕末の時代状況やその時代に活躍

  した人々を描く。

 

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#kimotsukinaogoro

 

■ 肝付 尚五郎  

     (きもつき なおごろう)。

 

■ 肝付 尚五郎。

■ 肝付 尚五郎 (きもつき なおごろう) については、 『 小松 帯刀 

 (こまつ たてわき) 』  を参照して下さい。                 

● 肝付 尚五郎 (きもつき なおごろう) 、 小松 帯刀 (こまつ

 たてわき) 小松 尚五郎 尚五郎 (なおごろう) と 同一の人物 

 である。

 

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#kingendainihonseiken

 

■ 近現代日本政権 

 

■ 近現代日本政権。

■ 名称 : 近現代日本政権 (きんげんだいにほんせいけん)。

■ 存続時期 : 1868年頃〜現在。

● 近代日本政権 1868年頃〜1945年頃 

  (近代日本の明治・大正・昭和戦前時代の政権)。 

● 現代日本民主政権 1945年頃〜現在 

  (現代日本の昭和戦後時代 、平成時代の政権)。 

■ 近代日本政権   

● 近代日本政権は、 1868年(慶応4年)の江戸城

 無血開城(徳川政権の実質的消滅)から、1945年の

 第2次世界大戦(太平洋戦争)の終戦までの政権。

■ 近代日本政権 は、 近代天皇親政政権、 近代天

 皇絶対主義政権。

■ 現代日本民主政権

● 現代日本民主政権 は、 1945年の第2次世界大

 戦(太平洋戦争)の終戦から現在までの政権。

■ 現代日本民主政権 は、 国民主権の民主主義政権。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

◆ 近現代の和暦と西暦との対照表。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 慶応  けいおう  慶応元年・1865年・ 4月 7日 

  〜 慶応 4年・1868年・ 9月 8日。  

  近世・江戸時代の幕末。      

■ 明治  めいじ   明治元年・1868年・ 9月 8日 

  〜 明治45年・1912年・ 7月30日。  

  近代・明治時代。

■ 大正  たいしょう 大正元年・1912年・ 7月30日 

  〜 大正15年・1926年・12月25日。  

  近代・大正時代。 

■ 昭和  しょうわ  昭和元年・1926年・12月25日 

   〜 昭和64・1989年・ 1月 8日。 

  近代の昭和戦前期と現代・昭和・戦後期。

■ 平成  へいせい 平成元年・1989年・ 1月 8日 

  〜 現在。   

  現代・平成時代。

                                      

 

 

■ 近代日本政権 (きんだいにほんせいけん)

  とは、 近代天皇親政政権(きんだいてんの

  うしんせいせいけん)で、 近代天皇絶対主

  義政権 である。

■ 近代日本政権 とは、 近代天皇親政政治

  近代天皇絶対主義政治の、政権 である。

■ 近代日本政権 は、 1868年頃から1945

  年頃まで存続した、 近代日本の明治・大正・

  昭和戦前時代の政権 である。 

■ 近代天皇親政政権 とは、 近代天皇親政

  政治を行った政権 で、 近代日本の、天皇

  絶対主義政権で、 明治・大正・昭和戦前時

  代の政権 (存在1868年頃〜1945年頃)

  である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 現代日本民主政権 (げんだいにほんみん

  しゅせいけん) は、国民主権の民主主義政

  権 である。

■ 現代日本民主政権 は、 1945年(昭和

  20年)頃から現在まである政権で、 現代

  日本の昭和戦後時代、平成時代の政権 で

  ある

■ 現代日本民主政権は、 現代国民主権政治

  の、政権 である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

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『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』

 

 

以  上