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◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY 

   HANDBOOK

 

 

 カナヤマ 日本歴史辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 よ 』。

 

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メ ニュー (目次)。

■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

□ 日本史 辞典 (総合)         

□       ● 五十音順 ( あいうえお順)。

 □ 見出し語 よか

 □ 見出し語 よさ

 □ 見出し語 よた

 □ 見出し語 よま

 □ 見出し語 よら

 

 

〇 よう   雍州

             (ようしゅう)。 《旧地域名》。

          (= 山城( やましろのくに)) 。

          (≒ 現・京都府南部の相当地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国名(令制

           国)の別称)。

           YOSHU AREA.

                    (⇒ 山城)。    

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

             ■ 城州( じょうしゅう)、山州(さんしゅう)、

             雍州(ようしゅう)は、  律令制定後・古代・

             中世・近世日本・旧地域名の、旧国(令

             制国)正式名の、山城 国 (やましろ のく

             に) の 別称である。

                          ● 雍州(= 山城)は 、 畿内(きない、

              五畿)・旧広域地方に属し、 現・近畿地方の、

              現・ 京都府南部に相当する領域である。

               雍州の名称は、雅号であり、唐の首都・

              長安の所在に由来する。

 

〇 よう  瑤泉院

            (ようぜんいん、ようぜいいん)。  《人名》。

         (= 阿久里 (あぐり)

          (1669年または1674年ー

          1714年)。

            ○ 播州・赤穂藩・藩主(赤穂・浅野

          家当主)の、浅野内匠頭(長矩)(あ

             さのたくみのかみ(ながのり))の正室夫人。

            ○ 元禄赤穂事件を起こした、浅野

          内匠頭(長矩)を愛し、 赤穂浪士を

          援助した女性。

           (⇒ 元禄赤穂事件)。

             ■ 瑤泉院 (ようぜんいん、ようぜいいん、

             阿久里(あぐり) 、生没年:1669年または

             1674年ー1714年) は、 播州・赤穂藩・

             藩主(赤穂・浅野家当主)の、 浅野内匠頭

             (長矩)(あ さのたくみのかみ(ながのり))

             の正室夫人である。

              ■ 瑤泉院は、 元禄赤穂事件を起こした、

              浅野内匠頭(長矩)を愛し、 赤穂浪士を援

              助した女性である。

 

〇 よう  陽徳院。

            (ようとくいん)。  《人名》。

         (= 愛姫 めごひめ)。

         ○ 伊達政宗の正室夫人。 

                   (⇒ 愛姫)。    

            ■ 陽徳院 (ようとくいん、愛姫(めごひめ)

            は、伊達政宗(だてまさむね)の正室夫人で

            ある。 

 

〇 よう  幼名。 

            (ようみょう)。 《氏名》。

            ● 幼名 (ようみょう)とは、 幼少期の名前

            である。

            ■ 前近代日本の上層階層では、 男子は、

             幼少期の名をもっていた。

 

〇 よう  養老。 

            (ようろう)。  《和暦》。

            THE YORO ERA.

            ○ 717年ー724年 。

             ● 717年・養老元年・11月17日〜

                724年・養老 8年・ 2月 4日。 

             ● 奈良時代前期の和暦年号。

          (⇒ 西暦和暦対照表 ・

             日本語版

          (⇒ 和暦年号表・日本語版

          (⇒ 和暦ガイドブック 

             ■ 養老 (ようろう、英:THE YORO

                           ERA) とは、 和暦であり、 

             奈良時代前期の和暦年号であり、 

             717年・養老元年・11月17日から

             724年・養老 8年・2月4日までで

             ある。  

 

〇 よう  養和。

            (ようわ)。 《和暦》。

            THE YOWA ERA.

            ○ 1181年ー1182年 。

         (⇒ 和暦の二重年号存立

         (⇒ 西暦和暦対照表 ・

            日本語版

         (⇒ 和暦年号表・日本語版

         (⇒ 和暦ガイドブック 

         ■ 源平競合二重年号。

            ■ 1181年から1185年まで、日本で、

              源平競合二重年号が使用される。

            ■ 伊勢平氏政権(安徳天皇擁

            立)方の暦年号。 

            ○ 1181年ー1182年。

            ● 1181年・養和元年・7月14日〜

               1182年・養和 2年・5月27日。 

             ● 平安時代後期の和暦年号。

             ■ 養和 (ようわ、英:THE YOWA

                            ERA) とは、 和暦であり、平安時代後

             期の和暦年号であり、 1181年・養和元

             年・7月14日から1182年・養和 2年・5月

                        27日までである。  

              ● (注意) 同時期に、河内源氏・源頼朝

             政権(後鳥羽天皇 擁立)方の暦年号の、

             治承(じしょう)元年〜8年(1177〜1184

             年) も存立する。

             ■ 伊勢平氏政権(安徳天皇擁立)方の暦

             年号。 

             ● 安元(あんげん)元年〜3年  (1175

             年〜1177年) ⇒ 治承(じし ょう)元年〜

             5年 (1177年〜1181年) ⇒ 養和(よ

             うわ)元年〜2年 (1181〜1182 年)

             ⇒ 寿永(じゅえい)元年〜4年 (1182 年

             〜1185年) ⇒  暦年号編成中止。

 

#yoka

 

〇 よか  よかろう候。

            (よかろうこう)。 《大名》。

         (= 幕末に藩の有力勢力に同意す

          る藩主(大名))。

             ○ 幕末の多くの藩主(大名)。

             ○ 幕末、 謀略・暗殺が頻発し、多

          くの藩主は、謀略・暗殺を避けるた

          め、なるべく中立を保ち、また、 そ

          の時期の藩内の有力勢力によかろ

          うと同意した。

        (⇒ 幕末)。

             ■ よかろう候 (よかろうこう) とは、 幕末に

             藩の有力勢力に同意する藩主(大名)である。

             ■ 幕末の多くの藩主(大名)は、 よかろう候 

            (よかろうこう)であった。

             ■ 幕末、 謀略・暗殺が頻発し、多くの藩主は、

             謀略・暗殺を避けるため、なるべく中立を保ち、

             また、 その時期の藩内の有力勢力によかろ

             うと同意した。

 

#yosa

 

〇 よし  ヨシ。

         (仮称、実名不詳)。  《人名》。

         (NHK大河ドラマ「江(ごう)〜姫たち

          の戦国」 に、ヨシ(仮称)で登場する

          人物)。

         (= 民部卿局 (みんぶきょうのつぼね))。

        (⇒民部卿局)。

          ○ 江戸幕府・第2代将軍・徳川秀

             忠夫人・お江(おごう)の侍女、乳母。 

             ■ 民部卿局 (みんぶきょうのつぼね) は、

             江戸幕府・第2代将軍・徳川秀忠夫人・お江

             (おごう)の侍女、乳母である。

             ■ 民部卿局は、 NHK大河ドラマ「江(ごう)

             〜姫たちの戦国」 に、ヨシ(仮称)で登場する

             人物である。

 

〇 よし  孝高。 

            (よしたか)。  《人名》。

            (= 黒田孝高、小寺孝高(こでらよし

            たか)、 黒田官兵衛)。

         (⇒ 黒田 官兵衛)。

             ■ 孝高 (よしたか)は、 黒田孝高、小寺

            孝高(こでらよしたか)、 黒田官兵衛である。

 

〇 よし  吉田 兼見

             (よしだ かねみ)。  《人名》。

             (= 吉田 兼和(よしだ かねかず))。

             ■ 吉田 兼和 (よしだ かねみ、= 吉田 兼見

             (よしだ かねかず)) は、 織田信長と朝廷

             との調停役(取次役)だった公家である。

             ● 本能寺の変の当時は、吉田 兼和(吉田

             兼見)は、 吉田 兼和(よしだ かねかず)

             と名乗る。

             ● 吉田 兼和(吉田 兼見)は、 信長の重臣

             の、明智光秀と親しかった公家である。

 

〇 よし  吉田 茂

            (よしだ しげる)。 《人名》。

             YOSHIDA Shigeru.

          (生没年:1878年ー1967年)。

          ○ 日本の首相、外交官。

          ○ 日本の独立を回復させる。

             ■ 吉田 茂 (よしだ しげる、1878年ー19

             67年)は、 日本の首相、外交官であり、 

             日本の独立を回復させる。

 

〇 よし  吉田 松陰

            (よしだ しょういん)。 《人名》。

         (= 吉田 寅次郎)。

            (生没年:1830年ー1859年)。

             YOSHIDA Shoin.

             ○ 幕末の思想家、教育者 。

          ○ 行動派の兵学者。

             ○ 長州藩士。

             ■ 吉田松陰 (よしだ しょういん、= 吉

             田 寅次郎、生没年:1830ー1859年)

             は、 長州藩士で、 幕末の思想家、教

             育者であり、 行動派の兵学者であった

             ■ 吉田松陰は、 幼名は、杉 寅之助

             (すぎ とらのすけ)といい、 杉家より吉

             田家に養子後は、吉田 寅次郎 (よし

             だ とらじろう)と言った。 寅次郎は通

             称であり、 松陰は号である。

                          ● 吉田松陰は、 楫取美和子 (かと

             り みわこ、 杉 文(すぎ ふみ)、杉 美和

             (すぎ みわ)) の実兄である。

                          ● 吉田松陰は、 藩校・明倫館(はんこ

             う・めいりんかん)や私塾・松下村塾(し

             じゅく・しょうかそんじゅく)などで教え、 

             幕末、志(こころざし)をもつ者に火をつ

             けてしまった。

               特に、吉田松陰が講義を行った、私

             塾の松下村塾では、 1857年から18

             58年まで約2年間に、吉田松陰は、 

             身分を問わず、約90名の塾生を育て、

             その後、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博

             文、山県有朋などの塾生は、日本の改

             革者として歩んでいく。

 

〇 よし  吉野太夫。

            (よしの たゆう)。 《遊女》。

            ■ 初代の吉野太夫 (実名、生没年不詳)

            は、 安土桃山時代に活躍した才色兼備の

            上級遊女であった。

 

〇 よし  吉田 東洋

            (よしだ とうよう)。 《人名》。

         ○ 土佐藩の参政(藩主の補佐

          役)。

         ○ 開国派の政治家。

            ■ 吉田 東洋 (よしだ とうよう)は、 幕末、

            土佐藩の参政(藩主の補佐役)であり、 開

            国派の政治家であった。

 

〇 よし  慶喜。

            (よしのぶ)。 《人名》。

         (= 徳川 慶喜、一橋 慶喜)。

                   (⇒ 徳川慶喜)。    

            ■ 慶喜(よしのぶ)とは、 徳川 慶喜、

            一橋 慶喜である。

 

〇 よし  嘉仁 天皇

            (よしひと てんのう)。 《人名》。

          (= 大正天皇 たいしょう てんのう)。

         (天皇在位:1912ー1926年)。

         (生没年:1879年ー1926年)。

          YOSHIHITO EMPEROR

                        (:THE EMPEROR 

          YOSHIHITO).

            ■ 嘉仁 天皇 (よしひと てんのう、天皇在位:

            1912年ー1926年、生没年:1879年ー1926

            年) とは、 大正天皇( たいしょう てんのう )で

            ある。

 

〇 よし  愛姫。

            (よしひめ)。 《人名》。

         (= 愛姫 めごひめ、陽徳院(ようとくいん))。

         ○ 伊達 政宗の正室夫人。

                   (⇒ 愛姫 めごひめ)。    

            ■ 愛姫(よしひめ)とは、 陽徳院(ようとくいん)、

            愛姫(めごひめ )であり、 伊達政宗(だてまさむ

            ね)の正室夫人である。 

 

 よし  好古。

            (よしふる)。  《人名》。

            (= 秋山 好古) 。

          ○ 明治・大正期の陸軍軍人。

                   (⇒ 秋山 好古)。

            ■ 好古(よしふる)とは、 秋山 好古であり、

            明治・大正期の陸軍軍人である。

 

 よし  吉宗 。

             (よしむね)。  《人名》。

          (= 徳川 吉宗)。

                    (⇒ 徳川吉宗)。

             ■ 吉宗(よしむね)とは、  徳川 吉宗であり、

             江戸幕府・第8代将軍である。

 

〇 よし  予州。

            (よしゅう)。 《旧地域名》。

          (= 伊予 国(いよ のくに)) 。

          (≒ 概ね、現・愛媛県の相当地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国(令制 国)

           の別称)。

                YOSHU AREA.

                    (⇒ 伊予)。    

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

             ■ 予州 (よしゅう)は、  律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、旧国

             (令制国)正式名の、伊予 国(いよ のくに)  

             の別称である。

                          ● 予州(= 伊予 国)は、 南海道(なんか

              いどう)・旧広域地方に属し、 現・四国地方

              の、現・愛媛県に相当する地域である。

 

〇 よし  吉原 遊郭

            (よしわら ゆうかく) 。 《遊郭》。

          (1617年ー1958年)。

          ○ 江戸(東京)の公認の遊女屋

          街。

             ■ 吉原遊郭 (よしわら ゆうかく、1617年

             ー1958年) は、 江戸(東京)の公認の遊

             女屋街であった。

 

#yota

 

 よつ  

             (よつ)  《時刻》。

             ■ 前近代日本(室町時代後期〜江戸時代)

             の「日 の出や日没を基準とする不定時法」の、

             時鐘数表示時刻の主要時間区分。

        (⇒前近代日本の時刻・

          時法

             ■ 別名 : 四つ、 四ツ。   

             ■ 午前10時00分 昼間・午前10時頃

             ≒ (朝) 四つ、四ツ。

             ≒ 巳の刻(みのこく)の正刻 (正巳(しょうし))。

             ■ 午後10時00分 夜間・午後10時頃

             ≒ (夜) 四つ、四ツ。

             ≒ 亥の刻(いのこく)の正刻 (正亥(しょうがい))。

             ○ 四つ(四ツ) ≒

             (朝) 四つ ≒ 昼間・午前10時00分〜

                      午前11時00分。

             (夜) 四つ ≒ 夜間・午後10時00分〜

                      午後11時00分。

             ○ 四つ半(四ツ半) ≒  

             (朝) 四つ半 ≒ 昼間・午前11時00分〜

                        午後0時00分。

             (夜) 四つ半 ≒ 夜間・午後11時00分〜

                                               午前0時00分。

 

 よど   淀の方 

              (よどのかた)。  《人名》。

           (= 茶々 ちゃちゃ、淀殿   

              よどどの、淀君 よどぎみ)。

               (1567年?〜1615年)。

                     □ 小谷城 画像アルバム 

             No.1

          ○ 豊臣秀頼の生母。

          ○ 豊臣秀吉の側室夫人。

          ○ 浅井三姉妹(茶々(= 淀殿)、

          初、江)の一人。

          ○ お市(織田信長の妹)と浅井

                      長政との間の娘。 

                           (⇒ 浅井三姉妹お初お江)。

                           (⇒ 浅井長政お市)。

                           (⇒ 小谷城、北庄城)。

                           (⇒ 豊臣大阪城)。

             (⇒ 織田信長)。

             (⇒ 織田信長ガイドブック)。

             (⇒ 豊臣 秀吉)。

           (⇒ 豊臣 秀吉ガイドブック)。 

             ■ 淀殿 (よどどの= 茶々(ちゃちゃ)、

             淀の方(よどのかた)、淀君(よどぎみ ))、

            生没年:1567年?〜1615年) は、豊臣

            秀吉の側室夫人であり、 豊臣秀頼の生母

            であり、 浅井三姉妹(茶々、初、江(ちち

            ゃ・はつ・ごう))の一人であり、 お市(織田

                        信長の妹)と浅井長政との間の娘である。

             ■ 淀殿(茶々)は、 1573年に浅井長政

             の小谷城(おだにじょう)で、 1583年に

             柴田勝家の北庄城(きたのしょうじょう)で、   

             1615年に豊臣秀吉の豊臣大阪城で、3

             度、落城を経験した。

             ● 1573年に、小谷城 (おだにじょう)は、 

             織田信長配下の秀吉に攻められて、落城し

             た。 その際、浅井長政は、小谷城で自害

             し、 長政の妻子のお市と浅井3姉妹 (茶

             々、初、江)は小谷城から落ち延びた。

             ● 1583年に、北庄城 (きたのしょうじょ

             う)は、 羽柴秀吉(豊臣秀吉)に攻められ

             て、落城した。 その際、お市と柴田勝家

             は北庄城で自害し、お市の子・浅井3姉妹 

             (茶々、初、江)は北庄城から落ち延びた。

             ● 1615年に、豊臣大阪城 (とよとみお

             おさかじょう)は、 徳川家康に攻められ

             て、落城した。 その際、茶々(淀殿)と豊

             臣秀頼は豊臣大阪城で自害し、江と徳川

             秀忠との間の娘の千姫(せんひめ)は豊臣

             大阪城から落ち延びた。

             ■ 浅井長政(あざいながまさ)とお市(おい

             ち、小谷方(おだにのかた)、織田信長妹)と

             の間の子の浅井3姉妹は、茶々、初、江(ち

             ちゃ・はつ・ごう)である。

                茶々(ちゃちゃ)は、 淀殿(よどどの)と

             も呼ばれ、 豊臣秀吉・側室夫人となり、 豊

             臣秀頼(ひでより)の生母となる。

                初(はつ)は、 常高院(じょうこういん)

             とも呼ばれ、 京極高次(きょうごくたかつぐ)・

             正室夫人となる。

                江(ごう)は、 江与(えよ)、崇源院(す

             うげんいん)とも呼ばれ、江戸幕府・第2代

             将軍・徳川秀忠・正室 夫人となり、 江戸幕

                            府・第3代将軍・徳川家光の生母となる。

 

 よど  淀殿(茶々) 関連出来事

       (年代順・細)

               ( よどどの(ちゃちゃ)かんれんできごと)。

             《淀殿・人物関連出来事》。

 

#yoma

 

〇 よめ  嫁姑の争い。

               (よめしゅうとめのあらそい)。 《大奥》。

             ○ 江戸城・大奥での嫁姑の争い。

            (⇒ 大奥)。

       (⇒ 大奥ガイドブック)。

             ■ 江戸城・大奥では、 江戸時代の日本

             の政治を変えた、江戸幕府の将軍の母

             (生母・義母)と夫人とのトップレディの

             姑の激烈な争いが行われた。

 

#yora

 

〇 より  寄合。

             (よりあい)。 《会議》。

           (⇒ 鎌倉将軍御家人)。

           (⇒ 北条氏得宗

           北条得宗家得宗専制

                  寄合内管領長崎氏

           御内人)。

          (⇒ 執権執権北条氏)。

              (⇒ 河内源氏鎌倉北条氏)。

              (⇒ 源氏政権北条政権

                   鎌倉幕府)。

          (⇒ 幕府将軍武家政権)。

          (⇒ 日本の政権・政府)。

             ■ 寄合

             ■ 寄合(よりあい)とは、 鎌倉

             時代中期・後期の、鎌倉幕府の、

             得宗邸内の私談である。 

             ● 寄合(よりあい)とは、 北条

             氏得宗(とくそう、鎌倉北条氏本

             家当主)の近臣グループ (近親、

             得宗外戚、親密な北条一族、

             管領、御内人、親密な各分野専

             門家等で構成)が、 寄合衆(よ

             りあいしゅう、寄合の構成員)と

             なり、 得宗邸内で行う私談(北

             条氏得宗の私的会議)である。

             ■ 得宗専制。

             ■ 得宗専制 (とくそうせんせい)  

             とは、 鎌倉幕府の政策決定のす

             べてが得宗(とくそう)に集中する

             政治体制である。

             ■ 鎌倉時代後期に、鎌倉幕府 

              では、 得宗 (とくそう、鎌倉北

             条氏本家当主)が、 得宗専制と

             いう独裁政治を行う。

             ■ 得宗専制と寄合。

             ■ 鎌倉時代後期の得宗専制で

             は、 寄合衆(よりあいしゅう、寄

             合の構成員)による、得宗邸内の

             私談である寄合(よりあい、北条

             氏得宗の私的会議)で、鎌倉幕

             府の事実上の政策を 決定する

             ようになり、 鎌倉幕府の執権、

             連署、評定衆、引付衆等の地位・

             権限は、空洞化する。

 

〇 より  与力

             (よりき)。 《役職》。

          (= 上官を補佐する武士)。

          ○ 江戸町奉行所での与力は、

          江戸幕府の江戸町奉行所の

          上級役人である。

             ■ 与力 (よりき)とは、 上官を補佐す

                         武士であ る。  

                江戸町奉行所での与力は、 江戸

             幕府の江戸町奉行所の上級役人 である。

 

〇 よろ  与六 

             (よろく)。 《人名》。

          (= 直江兼続 なおえ かねつぐ)。

          (1560年ー1619年)。

          (⇒ 直江 兼続)。

             ■ 与六 (よろく)とは、 直江兼続(なおえ

             かねつぐ、1560年ー1619年) である。

 

〇 よん  4世紀。

             (よんせいき)。 《世紀》。

          (= 301年ー400年)。

               (⇒ 世紀世紀・西暦

        年号 対照一覧表)。

             ■ 4世紀 (よんせいき)とは、 西暦の、

             紀元(後)301年から400年までである。

 

〇 よん  四文銭

            (よんもんせん)。 《貨幣》。

          ○ 江戸時代の、4文(もん)単位の

          銅・鉄貨。

          (⇒ (もん)単位定額(定位)・通

           常貨幣)。

          (⇒ 江戸時代の日本流通貨幣)。

          (⇒ 日本流通貨幣)。

             ■ 四文銭 (よんもんせん)とは、 江戸時代

             の、4文(もん)単位の 銅・鉄貨である。

              四文銭 は、 江戸時代の、江戸幕府の定

             位(定額)通常貨幣である。

                  四文銭は、江戸時代の文銭銅・鉄貨の

             1つである。

              四文銭 は、 寛永通宝四文銭銅貨・鉄貨

             文 久永宝四文銭銅貨である。 

             ● 四文銭≒現在 の約100円。

                        (4文銭1000枚小判(金)≒4分≒16

             ≒4000 文(4貫文)≒現在の約10万円)。

 

 

 

   ● 五十音順 (あいうえお順)。

 

 

   ■  『 現在は、過去の成果であり、

       未来は、現在の成果である。 

         (良き現在は、過去の人々の良き努力

          や活動の積み重ねの成果であり、 

          明るい良き未来は、現在の人々の、

          良き努力や活動の積み重ねによって

          形成される。)

 

 

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#jpdictionary(general)

 

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#yo

 

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■ 「よ」 基本・見出し語WEBサイト No. ja−yo  

  の、派生見出し語サイト

 

 No.ja−yo−2050。

● 見出し語項目 よ   ( ど 20 / ど 50

  付近  第1部・と・総合グループ )。

 よど  淀殿 (よどどの)  (1567 ?〜

                    1615) (= 浅井三姉妹の一人)。

 よど  淀殿(茶々) 関連出来事

         (年代順 、詳細)

 

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#yoshidashoin

 

■ 吉田松陰  

     (よしだしょういん)。

 

■ 吉田松陰。

■ 名称 : 吉田 松陰 (よしだ しょういん)。

■ 別名 : 吉田 寅次郎。

■ 生没年 : 1830〜1859年。

■ 幕末の思想家、教育者、志士。

■ 行動派の天才兵学者。

■ 長州藩藩士。

■ 杉 文 (すぎふみ、杉 美和、楫取 美和子(か

  とり みわこ)) の実兄。

■ 1857年から1858までの期間に、松下村

  塾(しょうかそんじゅく) で講義を行い、 多くの

  日本近代国家のリーダーの人材を育成した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61712。

 

 

■ 吉田 松陰。

■ 吉田 松陰 (よしだ しょういん、別名:吉田 寅

  次郎、生没年:1830〜1859年) は、 幕末

  の思想家、教育者、志士であり、 行動派の

  才兵学者であり、 長州藩藩士  である。

 

■ 吉田松陰は、 幼名は、杉 寅之助(すぎ とらの

  すけ)といい、 杉家より吉田家に養子後は、吉

  田寅次郎 (よしだ とらじろう)と言った。

     寅次郎は通称であり、 松陰は号である。

 

■ 吉田松陰は、 楫取 美和子  (かとり みわこ

    杉 文(すぎ ふみ)、杉 美和(すぎ みわ)) の

   実兄である。

             

■ 吉田松陰は、 1857年から1858までの期

  間に、松下村塾(しょうかそんじゅく) で講義を行

  い、 多くの日本近代国家のリーダーの人材を育

  成した。

 

■ 吉田松陰は、 藩校・明倫館(はんこう・めいり

  んかん)や私塾・松下村塾(しじゅく・しょうかそ

  んじゅく)などで教え、 幕末、志(こころざし)を

  もつ者に火をつけてしまった。

     特に、吉田松陰が講義を行った、私塾の

  松下村塾では、 1857年から1858年まで

  の約2年間に、吉田松陰は、 身分を問わず、

  約90名の塾生を育て、 その後、久坂玄瑞、

  高杉晋作、伊藤博文、山県有朋などの松下村

  塾・塾生は、日本の改革者として歩んでいく。

 

 

■ 吉田 松陰。

■ 吉田 松陰は、 長州藩藩士で、幕末の兵学

  者、思想家、教育者であり、 幕末志士であ

  った。

■ 吉田 松陰 (よしだ しょういん、別名:吉田

  寅次郎、生没年:1830〜1859年) は、

  1857年から1858までの期間に、松下

  村塾(しょうかそんじゅく) で講義を行い、多

  くの日本近代国家のリーダーの人材を育成

  した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 吉田 松陰は、 佐久間象山 (さくましょうざ

  ん)に学び、 1854年にペリー来航に当たり、

  下田から海外渡航を企てて失敗し逮捕され、

  長州藩の野山獄に幽囚(投獄)され、1855

  年に出獄した。

    その後、吉田 松陰は、1857〜58年に、

  郷里の萩 (はぎ、長門国(山口県)萩)の松下

  村塾で講義を行い、塾生(門下生)から多くの

  幕末志士を生む。 1858年に、老中暗殺を

  企て、再び、長州藩の野山獄(のやまごう)に

  幽囚(投獄)され、 1859年に、安政の大 獄

  で、江戸に送られ、刑死した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 安政の大獄で、 江戸幕府大老・井伊直弼

  (いいなおすけ)の命(めい、命令)で、1859

  年に、吉田 松陰は、処刑される。

 

 

■ 吉田 松陰 (よしだ しょういん)は、長州藩

  藩士で、兵学者であり、 長州藩の兵学師範

  であり、 行動派の学者であった。

 

■ 吉田 松陰 (よしだ しょういん) は、 幕末

  の思想家、教育者、志士 で、 1857年〜

  58年 に、萩の松下村塾(しょうかそんじゅく)

  で、 時事問題、尊攘(そんじょう 、尊皇攘夷)

  思想などを教えた。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■  吉田 松陰 (よしだしょういん、杉 寅之助(す

  ぎ とらのすけ、幼名)、吉田家に養子後・吉田

    寅次郎(よしだ とらじろう、通称は寅次郎、

  (いみな)は矩方(のりかた)、(ごう)は松陰、

  生没年:1830−59年) は、 長州藩士・杉

  百合之助(すぎ ゆりのすけ、常道(つねみち)、

  1804−65年)) の次男である。

 

■ 1834年に、 吉田 松陰 (杉 寅次郎(矩方)、

  生没年:1830〜1859年) は、 叔父(お

  じ)の兵学師範の吉田大助の養子となり、 以

  後、吉田寅次郎と称 す。

     1835年に、吉田大助が死去したため、 

  吉田 松陰は、別の叔父の玉木文之進の運営

  する松下村塾で指導を受けた。

 玉木文之進(たまき ぶんのしん)は、 甥(お

  い)の吉田松陰(よしだしょういん)を少年期に

  教育し、兵学者にするために尽力(じんりょく)

  する。

    玉木 文之進の甥(おい、実兄の子吉田

  松陰は、 1834年に、 幼少期に吉田家の兵

  学者の吉田大助(吉田賢良、吉田松陰の叔父)

  の養子となったが、 間もなく、1835年に吉田

  大助が亡くなり、 亡き兵学者の吉田大助に代

  わって、 吉田松陰の叔父で兵学者の玉木 文

  之進が、 少年期の吉田松陰を、立派な兵学

  者にするため、教育した。

 

■ 楫取 美和子 (かとり みわこ、旧姓・杉 文(す

  ぎ ふみ)、1843−1921年)  は、 幕末の

  思想家・ 吉田 松陰 の妹 である。

    楫取 美和子の別名は、 文(ふみ)である。

    楫取 美和子(杉 文)は、 長州藩士・杉 百

   合之助の四女である。

     

 

■ 松下村塾。

■ 松下村塾は、 萩(はぎ、山口県・萩)にあり、

  1857年から1858年 までの期間に、吉田

  松陰が講義を行った、私塾である。

■ 吉田 松陰の叔父・玉木文之進 (生没年:

  1810〜1876年) が、 私塾の松下村塾

  (1842年〜1858年、1869年〜1876年)

  を1842年に、開設し、1876年まで運営し

  た。 

 

■ 松下村塾 (しょうかそんじゅく)は、  長州

  藩の長門国(ながとのくに)の萩(はぎ、山口

  県萩)にあった私塾であり、 幕末に、1857

  年から1858年までの期間に、吉田 松陰が

  講義をした、私塾 である。

     吉田 松陰が、1857年から1858年 ま

  での期間に、叔父・玉木文之進が開いてい

  た松下村塾で、講義を行った。 一旦、1858

  年11月に閉鎖された。

     吉田 松陰は、塾生(門下生)に、時事問

  題、尊攘(そんじょう、尊皇攘夷)思想などを教

  え、 多くの明治維新の志士を出した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 玉木文之進 (たまき ぶんのしん)は、吉田

  松陰の叔父(おじ)である。              

● 1857年から1858年まで、吉田松陰は、叔

  父・玉木 文之進が開いていた松下村塾で講

  義を行い、多くの人材を育てる。

● 玉木 文之進は、 松下村塾(しょうかそんじ

  ゅく、1842年〜1858年、1869年〜18

  76年) の開設者である。

● 玉木 文之進は、1842年に、私塾の松下

  村塾を開設する。 

    玉木 文之進は、 松下村塾を1858年に

  一旦閉鎖するが、1869年(明治2年)に再

  開し、1876年(明治9年)まで続けた。

 

 

■ 吉田 松陰は、 藩校・明倫館で講義を行い、

  後に、私塾・松下村塾で講義を行った。

● 桂小五郎 (かつらこごろう、木戸孝允(きど

  たかよし)、明治新政府首脳の1人) は、長

  州藩の藩校・明倫館で、1849年に、吉田 松

  陰の教え(兵学など)を受ける。

● 秀才の久坂玄瑞 (くさかげんずい)、 高杉

  晋作 (たかすぎしんさく)、 伊藤博文 (い

  とうひろぶみ)、 山県有朋 (やまがたありと

  も)、品川弥二郎 などは、1857年から185

  8年までの期間に、 松下村塾の門下生(塾

  生)として、 吉田 松陰の教えを受けた。

 吉田 松陰は、 教授の期間は短かかったが、 

  多くの近代日本のリーダーの人材を育成した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 吉田 松陰の教えを受けた人物には、 桂小

  五郎 (木戸孝允、明治新政 府首脳の1人)、

  秀才の久坂玄瑞、 高杉晋作 (幕末の長州

  藩のリーダーの1人)、 伊藤博文、山県有朋 

  (明治期の首脳、内閣総理大臣)、 品川弥

  二郎 (しながわやじろう、明治期の内務大臣) 

  などがいた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 吉田 松陰(杉 寅之助(幼名)、吉

  田寅次郎)の一族。

 

■ 吉田 松陰(杉 寅之助(幼名)、吉

  田寅次郎)の実家の杉家の家族。

■ 杉家の家族。

    杉家の当主の、杉 百合之助(常道) (すぎ

  ゆりのすけ(つねみち)、1804−65年) の家

  族は、 

  夫人・児玉 瀧 (こだま たき、滝、1807−90

      年)、 

  長男・梅太郎 (うめたろう、民治(たみじ)、

      梅太郎(修道 )、1828−1910年、杉家

       を継ぐ)、 

  次男・寅之助 (とらのすけ、吉田松陰、1830

      −59年、吉田家・第8代当主)、 

  三男・敏三郎 (としさぶろう、1845−76年)、 

  長女・芳子 (よしこ、千代、1832−1924年)、 

  次女・寿 (ひさ楫取 久子(かとり ひさこ、杉

      寿(すぎ ひさ)、1839−81年)、 

  三女・艶 (つや、早世、1841−43年)、 

  四女 (ふみ、楫取美和子(かとりみわこ、杉

      文(すぎ ふみ)、1843−1921年、久坂

      玄瑞夫人、楫取 素彦(かとりもとひこ)夫

      人、二人の夫との間に子はなかった)、

  長男・梅太郎の夫人・豊子 (とよこ)、

  長男・梅太郎の娘・滝子 (たきこ、 梅太郎

      (民治、修道)と夫人・豊子との間の娘)、

  長男・梅太郎の孫・杉 道助 (すぎ みちすけ、

      1884−1964年、杉 梅太郎(民治、修

      道)の娘・滝子の子、杉家を継ぐ)、

  である。 

 

■ 吉田 松陰(杉 寅之助(幼名)、吉田

  寅次郎)の実家の杉家の親戚(親類)。

■ 杉家の親戚(親類)。

    杉家の当主の、杉 百合之助(常道) (すぎ

  ゆりのすけ(つねみち)、1804−65年) の親

  戚には、 次のような人々がいた。

 杉家(すぎけ)の当主は、 杉 百合之助(常道) 

  (すぎ ゆりのすけ(つねみち)、1804−65年)

  である。

● 吉田松陰 (杉 寅之助(幼名)、吉田家養子

  後・吉田寅次郎、1830−59年) は、 杉 百

  合之助(常道)次男 ・寅之助(とらのすけ)で

  あり、 吉田家に養子に入り、吉田家の第8代

  当主である。

 

● 吉田 大助 (よしだ たいすけ)は、 杉 百合

  之助(常道)の弟であり、 吉田松陰の養子先

  の吉田家の第7代当主である。

 

● 玉木 文之進 (たまき ぶんのしん)は、 杉

  百合之助(常道)の弟であり、 玉木家・第7代

  当主である。

  

●  梅太郎 (すぎ うめたろう、杉 民治(みん

  じ)、杉 修道、1828−1910年) は、 

  百合之助(常道)の長男 であり、 杉家を継ぐ。 

● 吉田 小太郎は、 杉 梅太郎(民治、杉 修道)

  の子(夫人・豊子との間の子) であり、 吉田家

  の第9代当主である。

● 吉田 道子は、 杉 梅太郎(民治、杉 修道)

  の子(夫人・豊子との間の子) であり、 吉田家

  の第10代当主である。

 

● 杉 文 (すぎ ふみ、(ふみ)、楫取美和子

  (かとりみわこ)、1843−1921年) は、 

  百合之助(常道)四女 であり、 久坂玄瑞

  人、楫取 素彦(かとりもとひこ)夫人であり、 

  二人の夫との間に子はなかった。

  久坂玄瑞 (くさか げんずい )は、 杉 文(す

  ぎ ふみ、楫取 美和子(かとりみわこ)の第1番

  目の夫である。

● 久坂秀次郎 (くさか ひでじろう)は、 久坂玄

  と京都妻との間の男子であり、 久坂家を継

    ぐ。

 

● 杉 寿 (すぎ ひさ、寿(ひさ)、楫取 久子(かと

  り ひさこ、1839−81年 は、 杉 百合之助

  (常道)次女 である。

● 楫取 素彦 (かとり もとひこ、小田村伊之助

  (1829−1912年) は、 楫取 久子(かとり

  ひ さこ、杉 寿(すぎ ひさ))の夫であり、 楫取

  美和子(かとりみわこ、杉 文(すぎ ふみ)の第

  2番目の夫である。

● 小田村希家は、 楫取 素彦(かとりもとひこ)

  の長男 (杉 寿(すぎ ひさ)との間の子) であ

  り、 小田村家を継ぐ 。

● 楫取 道明は、 楫取 素彦(かとりもとひこ)の

  次男 (杉 寿(すぎ ひさ)との間の子) であり、 

  楫取家を継ぐ。

● 楫取 三郎は、 楫取 道明の子であり、 楫取

  家を継ぐ。

 

● 杉 芳子 (すぎ よしこ、千代、1832−1924

  年) は、  百合之助(常道)の長女である。

● 児玉 祐之は、 杉 芳子(千代)の夫 である。

● 吉田 庫三は、 児玉 祐之の子 (杉 芳子(千

     代)と の間の子) であり、 吉田家・第11代当

   主である。

 

 

♪♪ 吉田 松陰 が登場する興味深

  い、ドキュメタンリー、ドラマ、 映画。

 

★ 吉田 松陰 が登場する興味深い、

  ドキュメタンリー。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 先生、そり

  ゃムチャです! 〜吉田松陰 人生

  体当たり〜 』  

    (NHK テレビ・2010年(H22年)4月・

   本放送のドキュメンタリー番組)。

 

★ 吉田 松陰 が登場する興味深い、

  ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

   実) と 架空の出来事 が 混じって描かれ

   ています。 また、 現代風にアレンジしてあ

   ります。

 

■ 『 花燃ゆ (はなもゆ) 』 。 

   (NHKテレビの2015年大河ドラマ)。

■ 日本の明治維新、幕末、明治時代の時代

  状況やその時代に活躍した人々を描く。

■ 吉田松陰の妹・文(ふみ)の生涯を描く。

 

● 吉田 松陰を演じる俳優 :   

   伊勢谷 友介 (いせや ゆうすけ)。

       吉田 松陰 (よしだ しょういん、杉 寅之

  助(すぎ とらのすけ)、吉田 寅次郎(よし

  だとらじろう)) は、文(ふみ)の実兄である。 

 

● 玉木 文之進演じる俳優 :   

   奥田 瑛二 (おくだ えいじ)。

       玉木 文之進 (たまき ぶんのしん)は、

     杉文(すぎふみ)や吉田 松陰 (よしだ し

   ょういん)の叔父(おじ)である。

● 文を演じる女優 : 

     井上 真央 (いのうえ まお)。

         文 (ふみ、杉 文(すぎ ふみ)、杉 美和

  (すぎ みわ)、楫取 美和子(かとりみわこ)) 

  は、 吉田松陰の妹である。

● 久坂玄瑞を演じる俳優 :  

  東出 昌大 (ひがしで まさひろ)

     久坂玄瑞 (くさかげんずい)は、文(ふ

  み)の1番目の夫である。 

● 楫取 素彦を演じる俳優 : 

  大沢 たかお (おおさわ たかお)。

     楫取 素彦 (かとり もとひこ、小田村

  伊之助(おだむら いのすけ)) は、 文(ふ

  み)の2番目の夫である。 

● 寿を演 じる女優 : 

  優香 (ゆうか)。

     寿  (ひさ、杉 寿(すぎ ひさ)、楫取 久

  子(かとり ひさこ))は、文(ふみ)の実姉で

  ある。 

● 杉 梅太郎を演じる俳優 : 

  原田 泰造 (はらだ たいぞう)。

     杉 梅太郎  (すぎうめたろう、杉 民治

  (みんじ)、杉 修道)は、文(ふみ)の実兄で

  ある。 

● 杉 百合之助を演じる俳優 : 

  長塚 京三 (ながつか きょうぞう)。

     杉 百合之助 (すぎ ゆりのすけ)は、

  文(ふみ)、吉田松陰(よしだしょういん)、寿

  (ひさ)の実父である。 

● 滝を演じる女優 : 

  檀 ふみ (だん ふみ)。

     滝 (たき、児玉 滝(こだま たき)、杉

  滝(すぎ たき))は、 杉 百合之助(すぎ ゆ

  りのすけ)夫人で、文(ふみ)、吉田 松陰

  (よしだしょういん)、寿(ひさ )の実母である。 

 

■ 『 八重の桜 (やえのさくら)  

    (日本のNHK2013年大河ドラマ)。

● 日本の幕末、明治時代の時代状況やその

     時代に活躍した人々を描く。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 

   (日本のNHK2010年大河ドラマ)。

■ 日本の幕末の時代状況やその時代に活躍

   した人々を描く。

● 吉田松陰を演じた俳優 : 生瀬 勝久。

 

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#yoshidakanemi

 

■ 吉田 兼見 

     (よしだ かねみ)。

 

 吉田 兼見

■ 名称 : 吉田 兼見 (よしだ かねみ)。 

■ 別称 : 吉田 兼和 (よしだ かねかず)。

■ 織田信長と朝廷との調停役(取次役)だった

  公家。

 

□ 吉田 兼見(兼和)関連ドキュメン

  タリー、ドラマ、 映画。 

 

 

■ 本能寺の変で、なぜ明智光秀は織田信長を

  討ったのか、動機は謎である。 黒幕がいた

  のかいなかったのかは不明であり、もし謀反

  をそそのかした黒幕がいたのなら誰なのか、

  不明である。

 

■ 吉田 兼和(吉田 兼見)は、 朝廷に仕える

  公家であり、 明智光秀の友人であった。

    朝廷は、 1582年(天正10年)の本能寺

  の変直前の状況では、反信長の意向であり、

  朝廷は、天下統一で、織田信長の権力が増す

  ことを脅威と感じていた。

 

■ 吉田 兼見 (よしだ かねみ)は、 織田信長

  と朝廷との調停役(取次役)だった公家であっ

  た。 

     吉田 兼見は、 1582年(天正10年)の

  本能寺の変・前後の当時は、吉田 兼和(よし

  だ かねかず)と名乗っていた。

 

■ 吉田 兼和(吉田 兼見)は、 公家、神官であ

  り、 朝廷に仕(つか)える公家であり、 織田

  信長と朝廷との調停役(取次役)だった公家で

  あり、 信長と朝廷との交渉では中心的な役

  割を果たした。

             

■ 吉田 兼和(吉田 兼見)は、 織田信長の重臣

  の明智光秀の友人であり、 光秀と親しかった 

  公家 である。

 

■ 吉田 兼和(吉田 兼見)は、 1582年(天正

  10年)6月2日の本能寺の変・直後からの自

  らの行動を詳しく日記に記録している。

    但し、本能寺の変・前後の、1582年(天正

  10年)1月1日〜6月12日の日記の部分は、

  同じ日付の部分が2冊にわたり、記載されてい

  る。  日記を破棄せず、紙切れ(日記帳の余

  白なし)であり、証拠の隠滅とは言えない。

     日記の旧1冊は、1581年(天正9年)1月

  1日〜9月17日、1582年(天正10年)1月1

  日〜6月12日(紙切れ)の記載 である。 日

  記の新1冊は、1582年(天正10年)1月1日

  より記載されている。 

     吉田 兼和(吉田 兼見)の日記の、1582

  年(天正10年)1月1日〜6月12日の日付の

  部分が、2つの日記に、ダブって記載されてい

  る。 但し、内容が多少異なっている。

 

■ 吉田 兼和(吉田 兼見)の日記・「 兼見卿記 」

  (かねみきょうき)によると、次のように書かれ

  ている。 

      本能寺の変・直後の1582年(天正10

  年)6月2日の午後に、 安土城攻撃の明智光

  秀の京(都)出発前に、 吉田 兼和(吉田

  見)は、 京(都)の東の玄関口・粟田口(あわ

  たぐち)に向かい、そこで光秀と面会した。

     1582年(天正10年)6月7日に、天主

  閣が焼失した、安土城で、 吉田 兼和(吉田

  兼見)は、 朝廷の使者として、 明智光秀と

  会い、 光秀は、吉田 兼和(兼見)に、謀反の

  事を話した。

     1582年(天正10年)6月9日に、明智

  光秀が吉田 兼和(吉田 兼見)の自宅を訪れ、

  吉田 兼和(吉田兼見)は、明智光秀より、

  50枚を受け取った。

     

■ 1582年(天正10年)6月13日に、明智光

  秀は、 山崎の戦いで敗北し、 6月14日に

  命を落とす。

 

■ 「 兼見卿記 」 (かねみきょうき)は、 安土桃

  山時代を知る史料  である。

     「 兼見卿記 」は、織田信長本能寺の

  の出来事を知る史料  である。

     「 兼見卿記 」は、 織田信長と朝廷との

  調停役(取次役)だった公家、神官で、明智光

  の友人の公家、吉田兼見(兼和) (よし

  だかねみ(かねかず)) の日記 である。

 

 

#yoshidakanemi-appearingscenes

 

♪♪ 吉田 兼見(兼和)が登場する、

  興味深い、ドキュメンタリー、ドラマ、

  映画。 

★ 吉田 兼見(兼和)が登場する、 興

  味深い、ドキュメンタリー。 

 

■ 歴史秘話ヒストリア『 本能寺の変

  犯人はオマエだ。 ヒストリア探偵

    VS.戦国最大の未解決事件 』 

   (NHK制作・2014年7月9日・本放送

   ドキュメンタリー)。

■ 本能寺の変の前後の、足利義昭、カトリッ

  ク・イエスズ会、吉田兼和(兼見)の行動を

  述べる。

 

★ 吉田 兼見(兼和)が登場する、興

  味深い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画 は、 史実(歴史上の

  事実) と 架空の出来事 が 混じって描か

  れています。 また、 現代風にアレンジして

  あります。

 

■ 『 軍師官兵衛 (ぐんしかんべえ)  

   (日本の2014年NHK制作大河ドラマ)。

● 吉田兼和(兼見)を演じた俳優: 堀内 正美。

 

● 明智光秀を演じた俳優: 春風亭 小朝。

● 織田信長を演じた俳優: 江口 洋介。

 

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#yozenin(aguri)

 

■ 瑤泉院  

    (ようぜんいん)。

 

 瑤泉院

■ 名称 : 瑤泉院 

                (ようぜんいん、ようぜいいん)。

■ 別名 : 阿久里(あぐり)、 浅野 阿久里

 生没年 : 1669または1674〜1714年。

■ 播州・赤穂藩・藩主(赤穂・浅野家当主)の、

  浅野 内匠頭(長矩) (あさのたくみのかみ

  (ながのり))の正室夫人

■ 元禄赤穂事件を起こした、浅野内匠頭(長矩)

  を愛し、 赤穂浪士を援助した女性。

 

□ 元禄赤穂事件 (全体)

□ 瑤泉院(阿久里 )が登場する、興味

   深い、ドキュメンタリー、ドラマ、 映

   。 

 

 

■ 瑤泉院 (ようぜんいん、阿久里、生没年:16

  69または1674〜1714年)は、 播州・赤穂

  藩・藩主(赤穂・浅野家当主)の、 浅野内 匠頭

  (長矩) (あさ のたくみのかみ(ながのり))の

  室夫人 であった。

 

■ 瑤泉院(阿久里)は、 三次(みよし)浅野家 ・三

  次藩主の、浅野 長澄 (あさの ながずみ、藩主

  就任:1691〜1718年、生没年:1671〜17

  18年) の娘である。

     浅野 長澄は、 広島・浅野本家・広島藩主

  の浅野綱長(つななが)の弟 である。

 

■ 瑤泉院の氏名。

● 瑤泉院 の別名は、阿久里 (あぐり)  である。

● 浅野内匠頭(長矩) (あさのたくみのかみ(な

  がのり)、1665〜1701年)の正室夫人の、瑤

  泉院 (ようぜんいん、落飾(出家)後の名、生没

  年:1669または1674〜1714年) は、  初

  め、 尚姫と言い、 後に、栗姫、阿久里(あぐり、

  阿久理、阿久利) と改名する。 

■ 瑤泉院(阿久里)の、一族名(氏・名字)は、  浅

  野(あさの、父の氏(名字))で、 個人名は、

  久里(あぐり)、瑤泉院(ようぜんいん) であり、 

  阿久里は、実名で、 瑤泉院は、法名(ほうみょ

  う) である。

 前近代日本では 、上層階層の女性は、 夫の

  死去などの人生の転機を迎えたときに、法名

  得て、仏門に入る慣習があった。 

 (注意) 前近代日本では 、日本の女性は、

  の氏(名字、浅野)を持っていたが、 通常、慣習

  で、個人名(阿久里瑤泉院)のみで自他呼称し

  た。

 

■ 瑤泉院 は、 元禄赤穂事件を起こした、浅野

  内 匠頭(長矩)を愛し、 赤穂浪士を援助した女

  性 である。

 

 

■ 瑤泉院 (阿久里)。

■ 阿久里 (あぐり、落飾(出家)後の名・瑤泉院

  (ようぜんいん)、生没年:1669または1674

  〜1714年) は、 浅野内 匠頭(長矩) (あさ

  のたくみのかみ(ながのり)、1665〜1701年)、

  の正室夫人 である。

     阿久里(あぐり、瑤泉院)は、 実家は、三次

  浅野家 (みよしあさのけ、三次藩、5万石、163

  2〜1720年) で、 1683年(天和3年)に、浅

  野内匠頭(長矩)と婚儀を結び(結婚し)、 その

  後、子に恵まれず、 1695年(元禄8年)12月

  に、 浅野内匠頭(長矩)は、 実弟の浅野大学

  (長広) (あさのだいがく(ながひろ)、1670〜

  1734年) を、 赤穂藩(赤穂・浅野家)の養嗣

  子(ようしし)とした。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 浅野内 匠頭(長矩)(あさのたくみのかみ(なが

  のり))の正室夫人の、阿久里(あぐり、瑤泉院、

  生没年:1669または1674〜1714年) は、

  1701年(元禄14年)3月14日に、  夫の浅野

  内匠頭(長矩)が、江戸城中で吉良上野介(義

  央)に刃傷(にんじょう)に及び、 殿中抜刀の罪

  により、即日切腹した後、 同年3月16日に、赤

  坂・今井町にある、実家の三次浅野家(みよし

  あさのけ)の下屋敷(しもやしき、別邸)に引き取

  られた。 

     その後、阿久里(あぐり、瑤泉院)は、落飾

  (らくしょく、出家)して、 瑤泉院(ようぜんいん)

  と名乗り、夫の菩提(ぼだい)を弔(とむら)った。

 

■ 瑤泉院(ようぜいいん、阿久里)は、  赤穂・浅

  野家(赤穂藩)改易(かいえき、取り潰し)後、17

  01年10〜12月の第1次大石東下り時、 赤穂

  藩元家老・大石内蔵助(良雄)(おおいしくらのす

  け(よしたか・よしお))に一度だけ、会っている。 

    討ち入りからだいぶ前の1701年(元禄14

  年)11月に、大石第1次東下り時、大石内蔵助

  (良雄)は、 瑤泉院(ようぜんいん、阿久里)に

  拝謁(はいえつ)し、 赤穂・浅野家(赤穂藩)の

  再興や吉良邸討ち入りの運動資金として、 瑤

  泉院(阿久里)拠出の資金を受け取った。

     瑤泉院(阿久里)拠出の資金は、 婚儀(結

  婚)時の持参金、 または、 瑤泉院(阿久里)は

  三次藩(みよしはん、三次浅野家)領に知行10

  00石を持っていたが、実家の三次藩(三次浅野

  家)領からの収益金 と言われている。

 

■ 吉良邸討ち入り直前に、大石内蔵助(良雄)は、

  瑤泉院(ようぜんいん、阿久里)から受領した活

  動資金の会計決算書「預置候金銀請払帳」を、

  瑤泉院(阿久里)の用人・落合与左衛門(勝信)

  (おちあいよざえもん(かつのぶ)、生没年不明) 

  に提出している。 

     瑤泉院に対して大石内蔵助(良雄)が作成

  した会計決算書 「預置候金銀請払帳」 (あず

  かりおきそうろうきんぎんうけはらいちょう、箱根

  神社所蔵) は、 お家(赤穂・浅野家)再興、及

  び、吉良邸討ち入りのための活動資金として、

  大石が瑤泉院から受領した資金・約691両(現

  在の約1億3000万円相当) に対する、1702

  年(元禄15年)11月付の会計決算書(収支報

  告書) である。

     瑤泉院(阿久里は、  討ち入り直前には、

  大石内蔵助(良雄)とは会っていない。 忠臣蔵

  の南部坂の雪の別れは、 残念ながら、創作(フ

  ィクション)で、事実ではない。

     大石内蔵助(良雄)の会計決算書「預置候

  金銀請払帳」、 瑤泉院(阿久里)の用人・落合

  与左衛門(勝信)の日記「江赤見聞記」 は、

  在、 貴重な元禄赤穂事件の一次的史料となっ

  ている。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 浅野内匠頭(長矩)(あさのたくみのかみ(ながの

  り))の正室夫人の、瑤泉院(ようぜんいん 、阿久

  里) は、  討ち入り後、吉良を討ち取り 幕命で

  切腹した、赤穂浪士の残された家族の世話をし、 

  赤穂浪士の遺児の赦免(しゃめん)に尽力(じんり

  ょく)する。

      そして、瑤泉院(阿久里は、 江戸の高輪・

  泉岳寺(たかなわ・せんがくじ) の、浅野内匠頭

  (長矩)と赤穂浪士の墓を守り、 1714年(正徳

  4年)に、実家の三次浅野家(みよしあさのけ)の

  下屋敷(しもやしき、別邸)で死去し、 死去後、

  高輪・泉岳寺に葬られ、 夫の浅野内匠頭(長矩)

  の墓の横にある墓で永眠する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#yozenin(aguri)-thegenrokuakoincident

 

■ 元禄赤穂事件。

■ 元禄赤穂事件 (げんろくあこうじけん)は、 赤

  穂事件、赤穂浪士討ち入り(あこうろうしうちいり)

  事件とも言う。 

     元禄赤穂事件をモデル(題材)にした創作

  (フィクション)の物語 「忠臣蔵(ちゅうしんぐら)」

  は、有名である。

● TKKI カナヤマ著 日本歴史の驚異の出来事。

 

■ 元禄赤穂事件・赤穂浪士の討ち入りの概要。

     1701年(元禄14年)3月に、 江戸城内で、

  赤穂藩(あこうはん、赤穂・浅野家)・藩主浅野

    内匠頭(長矩) (あさのたくみのかみ(ながのり)) 

  が、 高家(こうけ、江戸幕府の儀式 指導係)・筆

  頭の、吉良上野 介(義央) (きらこうずけのすけ

  (よしなか・よしひさ)) に斬(き)りつけ、 浅野

  内匠頭(長矩) は、 即日切腹(せっぷく)し、 赤

  穂藩(赤穂・浅野家)は、即日 改易(かいえき、

  没収)と 決まり、赤穂藩(赤穂・浅野家)の元家

  老・大石内蔵助(良雄) (おおいしくらのすけ(よし

  たか・よしお))は、 お家再興(おいえさいこう、赤

  穂・浅野家再興) を願い出るが許されず、 17

  02年(元禄15年)12月に、 大石内蔵助(良雄) 

  ら赤穂藩(赤穂・浅野家)の旧家臣47人 が、 吉

  良邸(きらてい)に討ち入り、 吉良上野介(義央)

  を殺害し、 1703年(元禄16年)2月に、 赤穂

  (赤穂・浅野家)の旧臣46人 (他の1人は、 討

  ち入り後、立ち去る) が、切腹する。

● TKKI カナヤマ著 日本歴史の驚異の出来事。

 

 

#yozenin(aguri)-appearingscenes

 

♪♪ 瑤泉院(ようぜんいん)が登場する、

  興味深い、ドキュメンタリー、ドラマ、

  映画。 

 

★ 瑤泉院(ようぜんいん)が登場 する、面

  白く、興味深い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画 は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事 が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 忠臣蔵 瑤泉院の陰謀 (ちゅう

     しんぐら ようぜいんのいんぼう)  

   (日本の2007年制作テレビ東京・テレビ

   ドラマ)。

● 瑤泉院(阿久利)を演じた女優 : 稲森 いずみ。

 

● 浅野内匠頭を演じた俳優 : 高嶋 政伸。

● 大石内蔵助を演じた俳優 : 北大路 欣也。

● お喜世(左京の局)を演じた女優 : 吹石 一恵。

● 堀部安兵衛を演じた俳優 : 山田 純大。

 

■ 『 忠臣蔵 その義 その愛 (ちゅう

      しんぐら そのぎ そのあい) 』  

   (2012年1月2日・本放送・テレビ東京・テ

   レビドラマ)。

● 瑤泉院(あぐり)を演じた女優 : 田中美里 

  (たなか みさと)。

 

● 浅野内匠頭を演じた俳優 : 市川 染五郎。

● 吉良上野介を演じた俳優 : 柄本 明。

● 大石内蔵助を演じた俳優 : 舘 ひろし。

● 堀部安兵衛を演じた俳優 : 内野 聖陽 

  (うちの せいよう)。

 

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#4moncoins

 

■ 四文銭 

    (よんもんせん)

 

 四文銭

■ 名称 : 四文銭 (よんもんせん)。

 四文(もん)単位の定額(定位)・通常貨幣

■ 文銭(もんせん、文単位の非貴金属貨幣)。

■ 江戸幕府が鋳造・発行した、江戸時代の四文単位

  定額(定位)・通常貨幣。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 江戸時代に、四文単位貨幣では、 「寛永通宝四文

 銭銅貨・鉄貨」、 「文久永宝四文銭銅貨」、が流通し、

 使用された。

 江戸時代に、文単位貨幣では、 文銭(文単位の

 非貴金属貨幣)が鋳造され、 額面では、  一文銭

 (1種)、四文銭(2種)、十文銭(1種)、百文銭(1

 種) の4種類の貨幣が、 流通し、使用された。

 一両小判(金) ≒ 4分 ≒ 16朱 ≒ 4000文 

  (4貫文) ≒ 現在の約10万円。

■ 江戸時代の貨幣の詳細については、「日本流通

  貨幣を参照してください。

 

 

■ 四文銭 

   四文銭(よんもんせん)は、 4文単位の貨幣で、

 現在の貨幣価値は約100円 であり、 寛永通宝(か

 んえいつうほう)四文銭銅貨・鉄貨 と 文久永宝(ぶ

 んきゅうえいほう)四文銭銅貨 の2種があり、 およそ

 寛永通宝四文銭または文久永宝1000枚と1両小判

 (金)とが交換された。 寛永通宝四文銭 は、 江戸中

 期から幕末まで鋳造された。 文久永宝四文銭銅貨は、 

 4文通用の銅貨で、 幕末の文久期の短期間にのみ

 鋳造された。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 寛永通宝四文銭銅貨・鉄貨 (寛永四文銭)。

  寛永通宝四文銭銅貨・鉄貨(寛永四文銭)は、四文

 銭(よんもんせん)で、 4文単位の貨幣で、 現在 の

 貨幣価値は約100円 であり、 およそ寛永通宝四文

 銭1000枚と1両小判(金)とが交換された。 寛永

 通宝(寛永銭)四文銭銅貨・鉄貨は、 背に波型を入

 れて、4文通用の銅貨・鉄貨とし、 細分すると10数

 種あり、江戸中期から幕末まで鋳造された。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 文久永宝四文銭銅貨 (文久銭)。

  文久永宝四文銭銅貨(文久銭)は、 四文銭(よん

 もんせん)で、 4文単位の貨幣で、現在 の貨幣価

 は約100円であり、  およそ文久永宝1000枚と

 1両小判(金)とが交換された。  文久永宝四文 銭

 銅貨は、4文通用の銅貨で、 幕末の文久期の短期

 にのみ鋳造された。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 江戸時代の貨幣。

■ 江戸時代の両・分・朱・文の定額(定位)・通常貨幣。

■ 江戸時代(1603年〜1868年)に、 江戸幕府に

 より鋳造(発行)され、 全国に流通し、 使用された

 定額(定位)・通常貨幣 は、 5両判金(1種)、 

 一両小判(金)(11種)、  二分金(3種)、  分金

 11種)、 分銀(2種)、 二朱金(3種)、 一朱金

 (1種)、  二朱銀(3種)、  一朱銀(1種)、 百文銭

 (1種)、  十文銭(1種)、 四文銭(2種)、 一文銭

 (1種) などである。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 文単位定額(定位)・通常貨幣 。

 文単位定額(定位)・通常貨幣 は、額面別に、次の

 4種類がある。 一文銭、 四文銭 、 十文銭、 百文

 銭 の4種類である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 江戸時代に、文単位貨幣では、 文銭(文単位の

 非貴金属貨幣)が鋳造され、 文銭額面別に、

 一文銭(1種)、四文銭(2種)、十文銭(1種)、百文

 (1種) の4種類の貨幣が 、流通し、使用された。

 

 文単位定額(定位)・通常貨幣 。

 文単位定額(定位)・通常貨幣 は、貨幣グループ別

 に、次の5種類がある。 寛永通宝一文銭銅貨・鉄貨、 

 寛永通宝四文銭銅貨・鉄貨、 文久永宝四文銭銅貨、

 宝永通宝十文銭銅貨、 天保通宝百文銭銅貨 の

 種類である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 江戸時代に、文単位貨幣では、 文銭(文単位の

 非貴金属貨)が鋳造され、 文銭貨幣グループ

 別に、 寛永通宝一文銭銅貨・鉄貨、 寛永通宝四

 文銭銅貨・鉄貨、 文久永宝四文銭銅貨、 宝永通

 宝十文銭銅貨、 天保通宝百文銭銅貨 の5種類の

 貨幣が流通し、使用された。

 

 

■ 小判。

■ 1両小判(金)は、江戸時代の基軸貨幣で、 江戸

 時代の各時期で価値は変動したが、 現在の 貨幣

 価値で約 10万円 であった。

   江戸時代に、 1両小判(金)は、およそ4分、1両

 小判 (金)は、およそ16朱 1両小判(金)は、およ

 そ4000文 (4貫文) と交換された。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#yoshidashigeru

 

■ 吉田 茂  

     (よしだ しげる)。

 

■ 吉田 茂。 

■ 名称 : 吉田 茂 (よしだ しげる)。

■ 生没年 1878年〜1967年。 

■ 吉田 茂は、

   昭和時代の外交官、政治家である。

■ 吉田 茂は、

  戦後の日本新政府(= 現代日本政府、国民

     主権政府)の、外相(外務大臣)、首相(総理

     大臣)である。

■ 吉田 茂は、

   サンフランシスコ平和条約を成立させ(19

   51年に締結し、1952年に発効させ)、

   敗戦後、連合国軍占領下にあった日本の

   主権を回復させ、日本の独立を達成させる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11518。

 

□ マッカーサー将軍 画像 NO.1  

 

 

■ 吉田 茂 (よしだ しげる、生没年:1878年〜

  1967年)は、 日本の昭和時代の外交官、政

  治家である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 吉田 茂は、 戦後の日本新政府(= 現代日本

  政府、国民主権政府)の、外相(外務大臣)、 首

  相 (総理大臣、1948年〜1954年) を務(つ

  と)める。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 吉田 茂は、 戦前、親英米派の外交官として、

   旧日本軍の軍部と対立する。

 

■ 吉田 茂は、 戦後、外相、首相となり、親米

  政策を推進し、連合国軍占領下の日本の主

  権・独立の早期回復・達成に努め、 1951年

  に、サンフランシスコ平和条約に全権として

  調印し、 1952年に条約を発効させ、遂に、

  吉田 茂は、日本の主権を回復させ、日本の

  独立を達成させる。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 白洲 次郎は、 吉田茂と共に、サンフランシ

   スコ平和条約の締結に尽力する(1950 年

   〜1951年)。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 吉田 茂が登場する、興味深い、

    ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 吉田茂が登場する、興味深い、ドキ

   ュメンタリー。

 

■ その時歴史が動いた 

  『 シリーズ 日本独立 その光と影 

   〜吉田茂とサンフランシスコ講和

   条約〜 <後編> 』。 

   (NHKテレビ・2006年(H18)9月・

    本放送テレビ・ドキュメンタリー番組、 

     第262回)。

 ■ 吉田茂を描く。

 

★ 吉田 茂が登場する、興味深い、ドラ

   マ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクションです。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事が混じって描かれています。 

   また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 白洲次郎 (しらすじろう) 』 。 

   (NHKテレビの2009年ドラマ・

    スペ シャル)。

 ■ 吉田茂が登場する。

 

 ● 吉田茂を演じた俳優 : 原田 芳雄。

 ● 白洲次郎を演じた俳優 : 伊勢谷 友介。

 

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#yoshidatoyo

 

■ 吉田 東洋  

     (よしだ とうよう)。

 

■ 吉田 東洋。

■ 名称 : 吉田東洋 (よしだとうよう)

■ 土佐藩・参政(藩主の補佐役)。

■ 土佐藩の実権を握る、15代土佐藩主・山内

  容堂の信任を得て、  土佐藩の藩政改革を推

  進する。

■ 開国派の政治家。

■ 土佐勤王党の 一味(志士達)に暗殺される。

 

 

■ 吉田東洋 (よしだとうよう)は、 土佐藩・参

  政(藩主の補佐役) であった。

     土佐藩の実権を握る、15代土佐藩主・

  山内容堂の信任を得て、  土佐藩の藩政改

  革を推進する。

 

■ 吉田東洋は、 開国派の政治家で、 土佐

  勤王党の 一味(志士達)に暗殺される。

■ 吉田東洋は、開国派であったため、 尊王攘

  夷派の武市半平太(たけちはんぺいた)の率

  い土佐勤王党の反発を受け、 吉田東 洋は、 

  武市半平太の指示で、土佐勤王党の志士達

  に暗殺される。

 

 

♪♪ 吉田東洋 が登場する興味深い、

     ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

★ 吉田東洋 が登場する興味深い、

   ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の

   事実) と 架空の出来事 が 混じって

   描かれています。 また、 現代風にアレ

   ンジしてあります。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 。 

   (日本の2010年NHK大河ドラマ)。

● 吉田東洋を演じた俳優 : 田中 泯 

  (たなか みん)。

 

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#yoshihitotenno

 

■ 嘉仁天皇  

     (よしひと てんのう)。

    (= 大正天皇)

 

■ 嘉仁天皇

■ 名称 : 嘉仁天皇 (よしひと てんのう)。   

● 別名 : 大正天皇 (たいしょうてんのう、

   崩御後(死後)の称号、贈名に相当する)。

     贈名(おくりな、諡)とは、人の死後に

  贈る称号である。

■ 英語名 : 

  THE EMPEROR YOSHIHITO.

■ 嘉仁天皇(= 大正天皇)の在位 : 

  1912年(大正元年)〜1926年(大正15年)。

■ 嘉仁天皇(= 大正天皇)の生没年 : 

  1879年(明治12年)〜1926年(大正15年)。 

■ 嘉仁天皇(= 大正天皇)の父は、

     睦仁(むつひと)天皇(= 明治天皇)である。

■ 嘉仁天皇(= 大正天皇)の継子は、

  裕仁(ひろひと)天皇(= 昭和天皇)である。  

■ 敬称は省略させていただきます。

 

□ 嘉仁(よしひと)天皇(= 大正天皇)

   画像 N o.1

 

 

■ 嘉仁天皇(= 大正天皇)。

■ 嘉仁(よしひと)天皇(= 大正天皇)の天皇在位

  は、 1912年(大正元年)から1926年(大正

    15年)までである。 

 

■ 嘉仁(よしひと)天皇(= 大正天皇)の生没年は、 

  1879年(明治12年)から1926年(大正15年)

  までである。 

 

■ 嘉仁天皇(= 大正天皇)の氏名。

■ 嘉仁 天皇 (よしひと てんのう、生没年:1879

  年〜1926年、天皇在位:1912年〜1926年)

  は、 別名は、大正天皇 (たいしょうてんのう、

  崩御後(死後)の称号、贈名に相当) である。  

     贈名(おくりな、諡)とは、人の死後に贈る

    称号である。 

 

● 嘉仁(よしひと)天皇(= 大正天皇)の

  天皇即位前の名は、 明宮嘉仁親王 (はるの

  みやよしひとしんのう)である。

 

● 嘉仁(よしひと)天皇(= 大正天皇)の

  諱 (いみな、個人名の実名)は、 嘉仁(よし

    ひと)である。 

 

● 嘉仁(よしひと)天皇(= 大正天皇)の

  御称号(ごしょうごう、幼少時の皇族の名称)

  は、 明宮 (はるのみや)である。

 

 

◆ 嘉仁天皇(= 大正天皇)の家族。

 

■ 嘉仁天皇(= 大正天皇)の父。

■ 嘉仁(よしひと)天皇(= 大正天皇)の父は、 

     睦仁(むつひと)天皇(= 明治天皇)である。

 

● 嘉仁(よしひと)天皇(大正天皇)は、 睦仁

   (むつひと)天皇(= 明治天皇)の第3皇子(だ

  いさんみこ、三男)である。

 

■ 嘉仁天皇(= 大正天皇)の継子。

■ 嘉仁(よしひと)天皇(= 大正天皇)の継子は、 

   裕仁(ひろひと)天皇(= 昭和天皇)である。 

 

● 嘉仁(よしひと)天皇(= 大正天皇)の第一皇

    子(だいいちみこ、長男)が、 裕仁(ひろひと)

  天皇(= 昭和天皇)である。 

 

■ 嘉仁天皇(= 大正天皇)の母。

■ 嘉仁(よしひと)天皇(= 大正天皇)の生母は、

  柳原 愛子 (やなぎはら なるこ、生没年:18

     59年−1943年)で、 睦仁(むつひと)天皇

  (= 明治天皇)の側室夫人であり、 典侍 (て

  んじ、天皇の後宮の高級女官)である。 

 

■ 古来の皇室は、 皇統(こうとう、天皇の血

  統)を絶やさぬために、伝統的に、一夫多妻

  制である。 

      古代日本から近代日本までに即位した

  男性天皇の正妃(正室夫人)は、過保護・運

  動不足で子を生む体力が弱く、また、愛情と

  は無関係に選ばれることが多いため、 古代

  日本から近世日本までに即位した天皇の多

  くは、側室夫人の皇子(みこ)である。

      嘉仁(よしひと)天皇(= 大正天皇)以

   後は、現在まで、天皇は、側室夫人を持って

   いない。

 

■ 嘉仁天皇(= 大正天皇)の夫人。

■ 嘉仁(よしひと)天皇(= 大正天皇)の夫人は、 

  貞明皇后 (ていめいこうごう、旧名・九条節子

  (くじょうさだこ))である。 

 

■ 嘉仁(よしひと)天皇(= 大正天皇)以後は、天

  皇は、 現在まで、側室夫人を持たなくなる。

 

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#yoriki

 

■ 与力 

     (よりき) (江戸町奉行所の与力)

 

■ 与力

■ 期間 : 鎌倉時代から江戸時代まで。

■ 名称 : 与力 (よりき)。

■ 上官を補佐する武士。

■ 江戸町奉行所の与力。

  江戸幕府の、江戸町奉行所の 上級役人。

 

■ 江戸町奉行所の与力 (よりき) は、 江戸時代に、江戸幕府の、

 江戸(東京)の、江戸町奉行所の 上級役人 であった。

 

■ 江戸町奉行所の与力は、 江戸町奉行配下の町方与力 で、 江

 戸町奉行を補佐し、 江戸市中の行政、司法、警察の任に当たった。 

● 江戸町奉行所の与力は、 馬上が許されたが、 将軍に謁見(えっ

 けん)することや江戸城に登城することは許されなかった。 役宅とし

 て300坪程度の屋敷が与えられた。 

  与力 には、 町奉行所に所属する官吏としての通常の与力 と 

 町奉行直属の個人的な家臣である内与力 の2種類があった。

 

■ 江戸町奉行配下の与力(よりき)と同心(どうしん)の多くは、江戸の

 八丁堀に屋敷(現在の警察官舎)を拝領していた。 与力の屋敷 は、

 約300坪程度、 同心の屋敷は約100坪程度の規模であった。

 

■ 江戸町奉行所 の与力や同心 は、 江戸町奉行の部下にあたる

 が、 徳川将軍家の家臣であり、 世襲制で、 江戸町奉行所に勤め

 ていた。

● 江戸町奉行 は、 あくまで、老中所轄の旗本に過ぎず、そのため、

 与力や同心たち とは、 直接の主従関係はなかった。

● フィクションの映画、ドラマでは、よく、南・北奉行所は互いにライバ

 ル関係にあり仲が悪かったように描写されているが、 むしろ、南・北

 奉行所の与力や同心は、 江戸町奉行所という1つの組織の一員とい

 う意識が強く、 実際にはそうではなかった。 それよりも、 実際は、 

 江戸町奉行 と 与力や同心 との信頼関係が薄かったため、 問題

 があった。

 

◆ 一般的な「与力」。

■ 鎌倉時代は、与力や寄騎は、単に、加勢する人を意味した。 その後、

 大名または有力武将に従う武士のことを意味することが多くなった。 

  そして、後、 江戸幕府では、 与力 は、配属の同心を従え、上官の

 補佐に当たる武士の役職となった。

 

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#yoroku

 

■ 与六 

     (よろく) 

     (= 直江 兼続) 。

     (= 樋口 与六)。

 

■ 与六。

■ 与六 (よろく、 樋口 与六(ひぐち よろく)) に

  関しては、日本史 辞典 の見出し語 「な」 の ペー

   の 『 直江 兼続 ( なおえ かねつぐ) 』 を

  参照して下さい。

● 与六 (樋口与六)は、 直江 兼続の幼名 である。

 

♪♪ 与六 (よろく) が登場する、興味深い、映画。

■ 『 天地人 (てんちじん) 』  

  (日本のNHK2009年大河ドラマ)。

● 与六 (よろく) 即ち 直江 兼続 (なおえ かねつ

  ぐ) の幼少時代 を演じた俳優名 : 加藤清史郎。

 

● 与六 (よろく、樋口与六、幼名) 、 樋口 兼続 

  (かねつぐ、元 服(成人)後、初めの名) 、 直江

  兼続 (1581年〜、直江家を相続 後の名)、 

  直江 重光 (1608年〜の名) と 同一の人物 で

   ある。

 

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#yoshiwarayukaku

 

  吉原 遊郭  

      (よしわら ゆうかく)。

 

 吉原 遊郭。

■ 名称 : 吉原 遊郭 (よしわら ゆうかく)、 

  吉原 遊廓。

■ 時期 : 1617年(元和3年)〜1958年

  (昭和33年)。

■ 江戸(東京)の公認(公許)の遊女屋街、女

  郎屋街。 必要悪の水商売の遊郭。

■ 江戸時代から1958年(昭和33年)まで、

  日本一の歓楽街として栄えた。

■ 元吉原(旧吉原) と 新吉原 があった。

 

 

■ 吉原遊郭 (よしわらゆうかく)とは、 江戸

  (東京)に 1617年(元和3年)から1958年

  (昭和33年)まで、存在した、公認(公許)の

  遊女屋街、女郎屋街 である。

     吉原遊郭は、 現在の台東区千束(たい

  とうくせんぞく)3・4丁目にあった遊郭である。

  吉原遊郭は、 浅草 (あさくさ)の浅草寺(せん

  そうじ)から北方800mの位置にあった。 

  東京スカイツリーの北西、JR上野駅の北東の

  位置にある。

    現在、吉原地域で、毎年4月 頃に、花魁(お

  いらん)祭りが開かれて、人気を得ている。

 

■ 遊郭は、16世紀の安土桃山時代から1958

  年(昭和33年)の売春防止法が完全施行され

  るまで、日本では、 大阪、京都、長崎、江戸

  (東京)などの大都市に、大規模な遊郭が存在 

  し、地方都市にも、小さな遊郭は数多く存在し

  た。 それらの中で、吉原遊郭は、最大級の規

  模を誇っていた。 最盛期には、敷地面積2万

  坪あまりで、 数千人の遊女がいた。

    江戸時代の吉原遊郭は、テーマパークと

  いう側面ももっていた。 江戸時代の吉原遊郭

  の遊女は、 江戸のファッションリーダーという

  側面ももっていた。 吉原遊郭の、花魁(おいら

  ん、大夫(たゆう))の、勝山(かつやま)という

  女性は、 江戸のファッションリーダーとして有

  名である。

 

● 吉原遊郭前には、 吉原大門(よしわらおお

  もん)があり、 くの字の道路があり、 くの字

  の道路の前には「見返り柳」(みかえりやなぎ)

  という木がある。

    「見返り柳」は、 吉原遊郭で遊んで帰る

  男性客が、見返り柳の木付近で、名残惜(な

  ごりお)しげに、吉原遊郭を見つめ返したこと

  から付けられた名称である。

 

● 吉原遊郭に、 前借金での約8〜10年の年

  季奉公という方式で、 日本全国から女性が

  集められた。 遊女になった女性たちは、年

  季奉公中に、 病気等(梅毒などの性病、堕

  胎後感染症、その他)で死去する女性も多か

  った。 

     年季奉公終了後は、開放された遊女た

  ちは、故郷に戻ったが、 歓迎されず、再度、

  日本各地の歓楽街で働くことも多かった。

  

■ 吉原遊郭は、 江戸幕府や近代日本政府

  によって公認された遊郭 であった。 

     吉原遊郭は、 初めは、江戸の日本橋

  人形町近くにあり (元吉原と呼ばれた)、 

  その後、 江戸の浅草の日本堤付近へ移転

  した (新吉原と呼ばれた)。

● 江戸幕府は、 1617年(元和3年)に、 江

  戸の日本橋人形町付近に、遊郭 (元吉原、

  吉原遊郭) を設けた。

    その後、 江戸幕府の命(めい、命令)に

  より、 江戸・日本橋の遊郭 (元吉原、吉原

  遊郭)は、1657年(明暦3年)に、 浅草

  裏の日本堤付近 (新吉原、吉原遊郭、台東

  区千束付近) へと移転した。

 

■ 投げ捨て寺 (投捨寺、なげすてでら、通称)。

    投げ捨て寺とは、 前近代日本の江戸時

  代に、江戸・吉原の近くにあったお寺である。 

     投げ捨て寺は、 前借金年季奉公中死去

  した、吉原遊郭の、用済みとなった遊女の死

  体投げ捨て場となったお寺 である。

    江戸時代当時、 そのお寺に、 用済みと

  なった (前借金での年季奉公中に病気(梅

  毒などの性病、堕胎後感染症、他)、その他

  の原因で死去した)、 吉原の遊女の死体が、

  よく投げ捨てられた。

 

■ 明治期以降は、政界、財界の社交場所は、

  東京の中心地に近い芸者町(花街)に移っ

  てゆき、 次第に、吉原遊郭は、 縮小して

  いった。 一方、 明治期以降の吉原遊郭

  では、 次第に、主に、貧農層、特に東北地

  方から、身売りされた貧農出身者の少女達

  が遊女になった。

■ 吉原遊郭は、 1958年(昭和33年)の売春

  防止法の完全施行により、その歴史に幕を

  下ろした (消滅した)。

 

■ 遊廓 (遊里、傾城町) の歴史。

■ 近世になると、遊女屋 (ゆうじょや、売春

  婦宿) は、都市の一か所に集められ、「遊

  郭」 (ゆうかく、遊女屋街) ができた。 

■ 江戸幕府は、 江戸初期に、一定地域に、

  遊女屋を集めて、これを統制した。

 

● 遊廓では、 最高位の遊女 は、 「太夫」 

  (たゆう) と言われ、 江戸の吉原遊郭では、

  一時期、「花魁」 (おいらん) と言われた。

 

● 安土桃山時代に、豊臣秀吉の治世の15

  84年(天正13年)に、 大阪の道頓堀川北

  岸に最初の遊郭がつくられた。 また、158

  9年(天正17年)に、 京(都)柳町に遊郭が

  つくられた。 江戸時代に、江戸幕府は、16

  17年(元和3年)に、江戸の日本橋人形町

  付近に、遊郭 (元吉原、吉原遊郭) を設け

  た。

● 17世紀に、大阪の遊郭は、新町(新町遊

  郭)へ移転し、 京(都)柳町の遊郭は、朱

  雀野(島原遊郭)へ移転し、 江戸・日本橋

  の遊郭(元吉原、吉原遊郭)も、 1657年

  (明暦3年)に、浅草日本堤付近 (新吉原、

  吉原遊郭) へ移転した。

 

■ 1873年(明治6年)に芸娼妓解放令が出

  され、 娼婦が自由意志で営業するという

  建前になったが、前借金に縛られた境遇と

  いう実態は変わらず、 1946年(昭和21

  年)にはGHQの指令により、 遊郭は廃止

  され、「赤線」に看板を変えたが、1958年

  (昭和33年)の売春防止法の完全施行によ

  り、赤線も消滅し、 実質的に、日本全国の

  遊郭は、消滅した。

 

 

♪♪ 吉原 遊郭 が登場する、興味深い、

        ド キュメンタリー、ドラマ、映画。

 

 吉原 遊郭 が登場する、興味深い、ド

     キ ュメンタリー。

 

■ TOKYOディープ! 

  『 江戸の華 吉原 ふたたび』。 

   (NHKテレビ・2017年5月22日・本放送

   ドキュメンタリー番組)。

● 吉原遊郭を詳細に述べる。

 

■ にっぽん!歴史鑑定 

   『 吉原の花魁 (よしわらのおいらん) 』。 

   TBSテレビ・201 6年3月7日・本放送・BS-

    TBSドキュメンタリー番組)。

● 江戸時代の吉原遊郭の光と影を詳しく述べる。

● 江戸時代の遊女を述べる。

 

■ 謎解き!江戸のススメ 

  『 吉原の女 』。 

   (TBSテレビ・2012年10月15日・本放送・

   BS-TBSドキュメンタリー番組)。

● 江戸時代の吉原遊郭を詳しく述べる。

 

■ ぶらタモリ 『 吉原 』。 

   (NHKテレビ・各地訪問NHKドキュメンタリ

   ー番組)。

● 吉原遊郭を述べる。

 

 

 吉原 遊郭 が登場する、興味深い、ドラ

   マ、映画。

 

■ 『 吉原裏同心 (よしわらうらどうしん) 』 。

   (NHKテレビ・2014年スペシャルドラマ)。

● 江戸時代の吉原遊郭が登場する。

 

■ 『 陽だまりの樹 (ひだまりのき) 』 。 

   (NHKテレビ・スペシャルドラマ)。

   (全12話)。

● (1)〜(3)話、 幕末の吉原遊郭が登場する。

 

■ 『 陽炎の辻・居眠り磐音・江戸双紙

   (かげろうのつじ・いねむりいわね・えどぞうし) 』 。

     NHKテレビ・NHKスペシャルBSドラマ、

     全計11回)。

■ 第9回  「 夢まぼろし 」。

■ 第10回 「 とわの契(ちぎ)り 」。

■ 第11回(最終回) 「 いつの日か 」 。

● 日本の江戸時代を描いた、ドラマ。

● 江戸時代の吉原遊郭が登場する。

 

■ 『 さくらん 』。  

   (日本映画)。 

 近世(江戸時代)の吉原遊郭。

● 花魁(おいらん)役で、土屋アンナが主演。

 

■ 『 吉原炎上 』。 

   (日本映画)。 

 近代(明治期以後)の吉原遊郭。

 

■ 『 JIN−仁 (じん) 』 。 

    (TBSテレビ・2009年(前編)・2011年

   (後編)・TBS時代劇テレビドラマ)。

 2009年(前編)でのみ、 近世(江戸時代・

  幕末)の吉原遊郭が登場する。  

 花魁(おいらん、上級遊女)の野風(のかぜ)

  を演じた女優 : 中谷美紀。

 元花魁(おいらん、上級遊女)で性病の梅毒

  で苦しんで死んだ、夕霧(ゆうぎり)を演じた

  女優 : 高岡早紀。

 

■ 江戸時代・幕末の1862〜68年の人々や

  社会事情を描いたドラマ。 

  前編(第1期)11話、後編(第2期)11話。

 現代の医者が、江戸時代の幕末へタイムス

  リップして、幕末の日本で活躍する時代劇ド

  ラマ。 現代の医者と幕末の武士の娘を中

  心に、ドラマが展開する。 フィクションでは

  あるが、ドラマの医療指導・監修もなされ、

  前近代日本の医療未発達の事情を知ること

  ができる。

● 江戸時代にタイムスリップした、現代の医者

  の南方 仁 (みなかた じん): 大沢たかお。

● タイムスリップした現代の医者の医療を助け

  る、幕末の武士の娘、橘 咲 (たちばなさき) 

  : 綾瀬 はるか。

● ドラマ「JIN−仁」は、 現代日本の脳外科

  医・南方 仁 (みなかたじん、写真の左、大

  沢たかお) が、 幕末の日本へタイムスリ

  ップしてしまい起こる、色々な出来事を描く、

  歴史SF作品 である。

● ドラマ「JIN−仁」 は、 タイムスリップした

  医師・南方 仁 と その医師を助け看護師

  の役をかってでる幕末に生きた武士の娘・  

  橘咲(たちばなさき、写真の右、綾瀬はるか)

  をはじめ、 坂本龍馬(さかもとりょうま)、勝

  海舟(かつかいしゅう)、 久坂 玄瑞(くさか

  げんずい) などが登場する、歴史スペク

  クル。

● ドラマ「JIN−仁」の2009年放映・前編ドラ

  マで、緒方洪庵(おがたこうあ ん)、 新門辰

  五郎(しんもんたつごろう)、 吉原 遊郭(よ

  しわらゆうかく) などが登場する。

● ドラマ「JIN−仁」の2011年放映・後編ドラ

  マで、 西郷隆盛(さいごうたかもり) 、和宮

  (かずのみや) などが登場する。

 

  

  ○ ドラマ「JIN−仁」のPRフォト。 

  ○ 上記のPRフォトは、 ドラマ「JIN−仁」の

  第1話で、 江戸時代末期(幕末)の、江戸の

  旗本屋敷で、 負傷した武士(旗本)の橘恭太

  郎(たちばな きょうたろう)を診(み)ている、

  医師・南方仁 (みなかたじん、フォト左、大沢

  たかお) と、心配そうに見つめる、その負傷

  した武士の母・橘 栄(たちばな えい)(麻生

  祐未(あそうゆみ)、フォト中央) と その武士

  の妹・橘 咲 (たちばな さき、フォト右、綾瀬

  はるか) を描いた、ドラマのワン・シーン。

 

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『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』

 

 

以  上。