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◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY 

   HANDBOOK

 

 

 カナヤマ 日本歴史辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 み 』。

 

 

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メ ニュー (目次)。  

 ■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

 □ 日本史 辞典 (総合)

 

□     ● 五十音順 ( あいうえお順)。

 

 □ 見出し語 みか

 □ 見出し語 みさ

 □ 見出し語 みな

 □ 見出し語 みなもとのよりとも

 □ 見出し語 みま

 □ 見出し語 みら

 

 

〇 みう  御内人。

            (みうちびと、みうちにん)。

                   《鎌倉時代の武士身分》。

         (= 北条得宗家・家臣)。

          ○ 御内人は、

          北条得宗家(鎌倉北条氏・

          本家)の家臣である。

          ○ 御内人は、

          北条氏得宗(鎌倉北条氏

          本家・当主)の被官(家臣)

          であり、

          北条得宗家(鎌倉北条氏・

          本家)の家臣である。

           (⇒ 鎌倉将軍御家人)。

           (⇒ 北条氏得宗

           北条得宗家得宗専制

                  寄合内管領長崎氏

           御内人)。

          (⇒ 執権執権北条氏)。

              (⇒ 河内源氏鎌倉北条氏)。

              (⇒ 源氏政権北条政権

                   鎌倉幕府)。

          (⇒ 幕府将軍武家政権)。

          (⇒ 日本の政権・政府)。

             ■ 御内人 (みうちびと)は、鎌倉

             時代の武士身分であり、 北条氏

             得宗の被官(家臣)、北条得宗家

             の家臣である。

             ■ 御内人。

             ● 御内人(みうちびと)とは、 

             得宗被官(とくそうひかん)、御内方

             (みうちかた)、得宗御内(とくそう

             みうち)ともいい、 北条氏得宗の

             家臣であり、北条得宗家の家臣で

             あり、 鎌倉幕府の北条氏得宗と

             主従関係を結んだ武士である。

             ● 御内人は、 

             北条氏得宗 (ほうじょうしとくそう、

             鎌倉時代の鎌倉北条氏(= 鎌倉幕

             府の執権北条氏)の本家の当主) 

             の家臣であり、 北条得宗家 (鎌

             倉時代の鎌倉北条氏(= 鎌倉幕府

             の執権北条氏)の本家)) の家臣、

             従者 (家人(けにん)、被官(ひか

             ん))である。

 

〇 みう  三浦按針。

            (みうらあんじん)。 《人名》。

            (= ウィリアム・アダムズ)。

          William ADAMS.

         (⇒ ウィリアム・アダムズ)。

            ■ 三浦按針 (みうらあんじん)とは、 ウィリ

            アム・アダムズ (英:William ADAMS)で

            ある。

 

〇 みえ  三重県。  

             (みえけん)。

          (現都道府県)。 《現地域名》。

          (現・47都道府県の1つ)。

                     (⇒ 都道府県)。

                     (⇒ 伊勢国、志摩国 、

        伊賀国、紀伊国東部)。

                      (⇒ 前近代日本の

             地域名)。

           (⇒ 旧国(= 令制国))。

                      (⇒ 旧地域名地域名)。

                      (⇒ 日本の地名)。

             ○ 三重県地域は、

          (1) 三重県 北部・中央中部

           (≒伊勢国)、 

          (2) 三重県中央東部

           (≒志摩国)、

          (3) 三重県中央西部 

           (≒伊賀国)、 

          (4) 三重県南部 

           (≒紀伊国東部)、

          に区分される。

                        MIE PREFECTURE.

             ○ 三重県地域は、 

              前近代日本の、(1) 伊勢 国 (現・

           重県北部・中央中部) と、 (2) 

          志摩国 (現・三重県中央東部) と、

          (3) 伊賀国 (現・三重県中央西部) 

          と、 (4) 紀伊国東部 (現・三重県

          南部)、の相当領域である。

             ○ 三重県地域は、 

              前近代日本の、(1) 伊勢 国  (

            せのくに、勢州(せいしゅう)、現・三重県

          北部・中央中部) と、  (2) 志摩

             国 (しま のくに、志州(ししゅう)、現・三

          重県中央東部) と、 (3) 伊賀国

          (いが のくに、伊州(いしゅう)、現・三重

          県中央西部) と、 (4) 紀伊 国

           きいのく に、紀州(きしゅう))東 部 (現・

          三重県南部)、 の相当領域である。

           ■ 三重県。

             <近畿地方。

             <日本本土 (本州、四国、九州)

             <日本国

             ● 三重県は、近畿地方に属する。

                    (⇒ 近畿地方)。

           ■ 三重県地域

             <東海道・旧広域地方 と 南海道・旧

              広域地方。

             <五畿七道 (ごきしちどう、日本本土)。

          (⇒ 東海道・旧広域地方)。

          (⇒ 南海道・旧広域地方)。

                   (⇒ 五畿七道)。

             ■ 三重県地域は、 

             (1) 三重県北部・中 央中部(≒伊勢国)、  

             (2) 三重県中央東部    (≒志摩国)、 

             (3) 三重県中央西部    (≒伊賀国)、

             (4) 三重県南部    (≒紀伊国東部) 、

             に区分される。

             ● (1) 三重県北部・中央中部は、   

             前近代日本の、伊勢 国 (いせのく

             に、別称:勢州(せいしゅう)) の相

             当地域である。 東海道・旧広域地

             方に属する。

             ● (2) 三重県中央東部は、 前近   

             代日本の、志摩国 (しま のくに、 別

             称:志州(ししゅう)) の相当地域であ

             る。 東海道・旧広域地方に属する。

             ● (3) 三重県中央西部は、 前近

             代日本 の、伊賀国 (いが のくに、

             別称:伊州(いしゅう)) の相当地域

             である。 東海道・旧広域地方に属

             する。

             ● (4) 三重県南部は、 前近代

             日本の、 紀伊国(きいのくに、別称:

             紀州(きしゅう))東部の相当地域で

             ある。 南海道・旧広域地方に属す

             る。

 

#mika

 

〇 みか  帝。

             (みかど)。  《天皇》。

          (= 天皇)。

                    (⇒ 天皇)。 

             ■ 帝 (みかど)とは、 天皇である。

 

 みか  三河 国。

             (みかわ のくに)。 《旧地域名》。

                     (= 参河 国)。

          (= 三州(さんしゅう)、参州(さんし

             う))。 

          (≒ 現・愛知県東部の相当領域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国名(令制

           国)の正式名)。

                    (⇒ 三州、参州)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

          ■ 三河 国。

             <東海道・旧広域地方。

             <五畿七道 (ごきしちどう、日本本土)。

          (⇒ 東海道・旧広域地方)。

                   (⇒ 五畿七道)。

             ■ 三河 国 (みかわ のくに、= 三州、参

             )は、 概(おおむ)ね、現・中部地方の、

             現在の愛知県東部 に相当する領域であ

                            る。

             ■ 三河 国(= 三州、参州)は、 約68旧

             国(令制国)の1つであり、 東海道・旧広

             域地方の1国であり、 五畿七道 (ごきし

             ちどう)の東海道(とうかいどう)・旧広域

             地方に属する。

                          ■ (RWM) 日本の、中地域名の変遷。

             ● 国造・県主分国⇒ 旧国(令制国)

              ⇒ 旧都道府県⇒ 現47都道府県。

             ■ 三河 国 ( みかわ のくに、別名:参

             河 国(みかわ のくに)) は、 律令 制

             定後・古代・中世・近世日本・旧地域名

             の、旧国(令制国)の正式名である

             ■ 三州 (さんしゅう) や参州 (さんし

             ゅう)は、  律令制定後・古代・中世・近

             世日本・旧地域名の、旧国名(令制国)

             正式名の、三河 国 ( みかわ のくに、

             別名:参河 国(みかわ のくに)) の別

             称である。

 

〇 みか  三河松平氏。

             (みかわまつだいらし)。 《氏族》。

          (= 松平氏)。

          〇 徳川氏は三河松平氏

          (= 松平氏)の一部。

          (14世紀頃ー19世紀)。

          (⇒ 徳川氏)。

              ■ 三河松平氏 (みかわまつだ

             いらし、= 松平氏)は、 

             武家の氏族であり、14世紀頃

             から19世紀まで存在した武家、

             大名、将軍家である。

                 徳川氏は、三河松平氏

             (= 松平氏)の一部である。

              ● 三河松平氏 (みかわまつ

             だいらし、= 松平氏)は、 

             武家の氏族であり、

             室町時代初期に、三河国松平郷

             (みかわのくにまつだいらごう、

             現・愛知県豊田市松平町)に興

             った小豪族であり、 松平親氏

             (まつだいらちかうじ、生没年不

             詳)を祖とする武家の一族であり、 

             14世紀頃から19世紀まで存在

             した武家、大名、将軍家である。

             ● 1566年(永禄9年)以後は、

             松平氏(= 三河松平氏)の中で、

             徳川家康の一族の一部のみの家

             即ち、徳川氏本家(徳川将軍家)

             と徳川氏御三家、徳川氏御三卿

             などの「家康の嫡流の家」が、

             徳川氏を称し、更に、その「家康

             の嫡流の家」の当主のみが徳川

             を名乗れた。

 

 みぎ  御教書 

             (みぎょうしょ、みきょうじょ) 。

             (= 「高貴な身分の者」(高位者)が

          出す公文書)。

          ○ 奉書(ほうしょ)形式 と、直書(

             きしょ、直状(じきじょう)、直札(じきさつ)

          形式 の2つがある。

             ■ 御教書 (みぎょうしょ、みきょうじょ)は、

             「高貴な身分の者」(高位者)が出す公文書

             である。

             ■ 御教書には、奉書(ほうしょ)形式 と、

             直書(じきしょ、直状(じきじょう)、直札(じき

             さつ))形式 の2つがある。

 

 みこ  皇子。

             (みこ)。 《天皇家》。

          (= 天皇の子)。

          ○ (例)、大友皇子 (おおともの

             みこ)、天智(てんじ)天皇の男子) 。

          (⇒ 天皇家

          (⇒ 皇族王、女王、

        皇子、親王、内親王)

             ■ 皇子(みこ)とは、 天皇の子であり、

             天皇の男性皇子や女性皇子(= 皇女)で

             ある。 

               一方、王(おう)とは、皇族の男子であ

             り、 女王(じょおう)とは、皇族の女子で

             ある。 

             ■ 皇子の例として、大友皇子 (おおとも

             のみこ)、天智(てんじ) 天皇の男子)など

             がある。

             ■ 前近代日本の、親王と王。

               前近代日本(奈良〜江戸時代)の、親王

             (しんのう)とは、親王宣下を受けた男性皇

             族であり、主に天皇の男性皇子や兄弟であ

             る。 

                一方、前近代日本 (飛鳥〜江戸時代)

             の、王(おう)とは、男性皇族である。 

             ● 前近代日本(奈良〜江戸時代)の、

              親王と王。

                前近代日本の奈良時代から江戸時代

             までは、大宝令の律令制以後は、親王宣

             下(しんのうせんげ)を受けた男性皇族 

             (主に天皇の男性皇子(みこ)や兄弟)を、

             親王( しんのう)と呼び、 それ以外の男性

             皇族(親王宣下がない男性皇族)で、天皇

             より5世以下の皇族男子を王(おう)と呼ぶ

             場合がある。

                〈王(おう)の例〉 天皇の孫(まご)、

             曾孫(ひまご)の男子。

               ■ 近現代日本(明治時代〜現在)の、親王。

               近現代日本では、前近代の親王宣下の

             制を廃止し、皇室典範により、近代日本(明

             治・大正・昭和戦前時代)では、天皇の子よ

             り皇玄孫に至る4世までの男性が親王(しん

             のう)であり、 現代日本(昭和戦後・平成時

             代)では、天皇の子・孫までの男性が親王で

             ある。

             ■ 前近代日本の、内親王と女王。

                前近代日本(奈良〜江戸時代)の、

             親王(ないしんのう)は、内親王宣下を受け

             た皇族であり、主に、天皇の女性皇子や姉

             妹である。 

               一方、前近代日本 (飛鳥〜江戸時代)の、

              女王(じょおう)とは、 女性皇族である。 

             ● 前近代日本の(奈良〜江戸時代)の、

             親王と女王。

                前近代日本の奈良時代から江戸時代

             までは、大宝令の律令制以後は、内親王

             宣下(ないしんのうせんげ)を受けた皇族

             女子 (主に天皇の女性皇子(みこ、皇女)

             や姉妹)を、内親王(ない しんのう)と呼び、 

             それ以外の皇族の女子(内親王宣下がな

             い皇族女子)を女王 (じょおう)と呼ぶ場合

             がある。 

                 〈女王(じょおう)の例〉 天皇の孫

             (まご)、曾孫(ひまご)の女子。

               ■ 近現代日本(明治時代〜現在)の内親王。

                 近現代日本では、前近代の内親王宣下

             の制を廃止し、皇室典範により、近代日本

             (明治・大正・昭和戦前時代)では、天皇の

             子より皇玄孫に至る4世までの女性皇族が

             内親王(ないしんのう)であり、 現代日本(昭

             和戦後・平成時代)では、天皇の子・孫までの

             女性皇族が内親王である。

 

#misa

 

〇 みし  ミシェル・ロッシュ 

          (= ミシェル・ジュール・マリー・

                     レオン・ロッシュ)。

          (⇒ ロッシュ)。  

          ○ ミシェル・ロッシュは、

          フランス公使ロッシュである。

 

〇 みず  水野 信元。

             (みずの のぶもと)。 

           (生年不詳ー1575年)。

               ○ 水野 信元は、

          徳川家康の母方の伯父(おじ)

             ■ 水野 信元 (みずの のぶもと、

             生年不詳ー1575年)は、 徳川家康

             の母方の伯父(おじ)である。

             ■ 水野 信元は、 徳川家康の生母

             の於大の方(おだいのかた)の異母兄

             である。

             ■ 水野 信元は、 1543年(天文

             12年)に、 父・水野 忠政が死去し、

             水野本家(宗家)の家督を継いで、尾

             張国知多郡東部と三河国碧海郡西

             部を領有する。

             ■ 家康は3歳で母と生き別れ。

             ● 16世紀前半(1501年〜1550

             年)の三河国(みかわのくに、愛知県

             東部の相当地域)では、尾張の戦国

             大名の織田氏の織田信秀 と 駿河・

             遠江の戦国大名の今川氏の今川義

             元は、三河国に侵入し、領土を奪い

             合い、敵対関係にあった。

             ● 水野信元の父・水野 忠政は、松

             平氏と共に、今川氏に臣従していた。

             ● 1541年(天文10年)に、於大

             の方の父・水野忠政は、政略結婚で、

             於大の方を松平広忠に嫁(とつ) が

             せる。 そして、1542年(天文11年)

             12月26日に、於大の 方は、松平広

             の 継子の、竹千代(徳川家康)を、

             松平広忠の居城・ 岡崎城で、出産す

             る。 

             ● しかし、水野氏の野忠政の 家

             督を継いだ、於大の方の 異母兄・水

             野信元(のぶもと)が織田氏に臣従し

             たため (織田氏と同盟を結んだた

             め)、 今川氏に臣従する(今川氏に

             庇護されている)松平広忠は、15

             44年(天文13年)に、 織田氏臣従

             に転向した(織田氏と同盟をむすん

             だ)水野氏出身の於大の方を離縁 し、

             於大の方は、実家の水野氏に戻る。 

             ● 松平氏の継子の徳川家康(竹千

             代)は、数え年3歳で母と生き別れと

             なる。

 

〇 みず  水野 忠邦

             (みずの ただくに)。 

           (1794年ー1851年)。

          ○ 水野 忠邦は、

          江戸後期の政治家である。

              ○ 水野 忠邦は、

          江戸幕府の第12代将軍・

                徳川家慶(いえよし)の治世の、

          幕府・老中(1834年〜18

          43年、1844年)である。

 

〇 みだ  御台。

             (みだい)。 

             (= 御台様 みだいさ)。

             ■ 御台 (みだい)は、 大名等の夫人

             の敬称である。

 

〇 みだ  御台所

             (みだいどころ)。

          (= 幕府の将軍の正室夫人)。

             ■ 御台所(みだいどころ)とは、 

             武家政権の首長(幕府の将軍)の正室

             夫人である。

              ■ 1180年(治承4年)10月に、源頼

             朝が鎌倉に入り、武家政権の首長(鎌

             倉武家政権首領、鎌倉殿)となり、 

             武家政権の首長(鎌倉武家政権首領、

             鎌倉殿)の正室夫人は、以後、御台所

             (みだいどころ)と呼ばれる。

 

〇 みと  水戸黄門。

             (みとこうもん)。

          (= 徳川光圀、水戸光圀)。

        (⇒ 徳川光圀 )。

 

〇 みと  水戸藩

                          (みとはん)。

          (= 常陸 国を領有した藩)。

          (≒ 概ね、現・茨城県の相当

          地域を支配した藩)。

             ■ 水戸藩 (みとはん)は、 江戸時

             代初期から明治時代初期まで存続し

             た、常陸 国 (ひたち のくに、概ね、

             現・茨城県の相当領域)を領有し(統

              治し、領地とし)、支配基盤 (行政地

             域)とした藩(大名)である。

              ■ 水戸藩は、 江戸時代の、徳川氏

             の御三家の1つであり、 親藩大名の

             藩である。

 

〇 みと  三寅。 

             (みとら)。 《人名》。

                    (藤原頼経の幼名)。

        (⇒ 藤原頼経)。

             ■ 三寅(みとら)は、

             鎌倉幕府の第4代将軍の藤原頼経

             (ふじわらのよりつね、九条頼経、

             生没年:1218年〜1256年、将軍

             在位:1226年〜1244年)の 幼名

             である。 

                藤原頼経が生まれたのが、

             寅年、寅月、寅刻だったので、幼名

             を三寅(みとら)と命名される。

                 藤原頼経(三寅)は、源頼朝

             の生母の由良御前(ゆらごぜん)

             同母姉妹・坊門姫(ぼうもんひめ)

             の曾孫(ひまご)である。

 

#mina

 

〇 みな  港川

             (みなとがわじん)。

        (⇒  港川人(古人類学辞典))。

          (⇒ 旧石器人山下洞人

                  浜北人)。

 

〇 みな  南殿

             (みなみどの)。

          (生年不詳〜1634年)。

          (⇒ 豊臣秀吉)。

          ○ 南殿(みなみどの)は、豊臣

          秀吉の側室夫人である。

          ○ 南殿は、秀吉の長浜城

           時代、秀吉との間に、1男

           1女をもうけたが、2人の子

           とも早世する。

 

〇 みな  南満州鉄道会社。 

             (みなみまんしゅうてつどうがいしゃ)。

          (= 満鉄 まんてつ

          (1906年ー1945年)。

          (⇒ 満鉄 まんてつ)。

          (⇒ 満州国)。

          (⇒ 満州事変)。

               (⇒ 和戦前期の

         旧日本軍実態

          イドブック)。

             ○ 南満州鉄道会社は、

          日本が満州(= 中国東北部)

          に設立した国策会社である。

              ■ 南満州鉄道会社 (みなみまん

             しゅうてつどうがいしゃ、= 満鉄(ま

             んてつ)、1906年ー1945年) と

             は、 日本が満州(= 中国東北部)

             に設立した国策会社である。

 

〇 みな  源氏。

             (みなもとうじ) 。

          (= 源氏 げんじ)。

        (⇒ 源氏 げんじ)。

             ■ 源氏(もいなもとうじ)とは、 

             源氏(げんじ)である。

              ■ 源(みなもと)、平(たいら)な

             の朝廷から賜(たまわ)った氏

             (名字)のみに、原則として、「の」

             を付ける。 

               例えば、源 頼朝 (みなもと の 

             よりとも)などがある。

           ■ 源頼朝の詳細な内容

          に関しては、

          □ 源頼朝ガイドブック

          □ 源頼朝 関連年代順 

             出来事ブック。     

          を参照してください。 

           □ 鎌倉幕府の詳細な内

          容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。 

 

 みな  源 実朝

             (みなもとの さねとも)。

          (生没年:

           1192年〜1219年)。

          (将軍在任:

           1203年〜1219年)。

          ○ 源 実朝は、

          源頼朝の男子である。

          ○ 源 実朝は、鎌倉幕府

          の第3代将軍(将軍在任:

          1203年〜1219年)で

          ある。

                  (⇒ 河内源氏)。

                  (⇒ 清和源氏) (⇒ 源氏)。

                  (⇒ 後鳥羽上皇)。

                  (⇒ 藤原定家(和歌の師匠))。

           ■ 源頼朝の詳細な内容

          に関しては、

          □ 源頼朝ガイドブック

          □ 源頼朝 関連年代順 

             出来事ブック。     

          を参照してください。 

           □ 鎌倉幕府の詳細な内

          容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。 

              ■ 源実朝 (みなもとのさねとも、

             生没年:1192年〜1219年 )は、

             源頼朝の男子であり、 鎌倉幕府

                          3代将軍(将軍在任:1203年〜

                          1219年)である。

                 ■ 源実朝の生母は、 源頼朝と

             北条政子との間の男子である。

             ある。 源実朝の幼名は、千幡

             (せんまん)である。 

                 ■ 源実朝は、1203年(建仁3年)

             9月15日に、征夷大将軍の宣下

             (せんげ)を 受ける。

                源実朝の将軍在任は、1203

                  年から1219年までである。

              ■ 源実朝は、 1219年(建保7年)

             1月27日に、数え年28歳で、鎌倉・

             鶴ヶ岡八幡宮で拝賀を終え退出の

             途中で、公暁(くぎょう、源頼家の男

             子)に襲われて、落命する。

 

〇 みな   源為朝。

             (みなもとの ためとも)。《人名》。

                     (= 鎮西八郎 (ちんぜいは

                ちろう))。

                (⇒ 保元の乱

                                    ほうげんのらん)。 

                   (⇒ 河内源氏)。

                   (⇒ 清和源氏) (⇒ 源氏)。

          ○ 源 為朝は、

          源為義(ためよし)の子 であり

          源 義朝(よしとも)の弟であり、

           源頼朝の叔父である 。

          ○ 源 為朝は、

          1156年の保元の乱で活

           躍し、捕縛され、伊豆大島

          へ配流される。

 

〇 みな  源 為義

             (みなもとの ためよし)。《人名》。

          (1096年〜1156年)。

                  (⇒ 河内源氏)。

                  (⇒ 清和源氏) (⇒ 源氏)。

          ○ 河内源氏の源為義は、

          源頼朝の祖父である。

          ○ 河内源氏の源為義は、

          源義朝(よしとも)の父であり、 

          源義経、源範頼、源(木曾)

          義仲の祖父である。

 

〇 みな  経基。

             (みなもとの つねもと)。

          (917?〜961年?)。

               (⇒ 清和源氏)。

                  (⇒ 河内源氏) (⇒ 源氏)。

                  (⇒ 武家武士)。 

           ○ 源 経基は、清和源氏の祖

           である

           ○ 源 経基は、清和天皇の孫

           である。          

           ○ 源 経基は、軍事貴族出身

           の武家、武士である

           ○ 源 経基は、源 頼信(河内

           源氏の祖)で、源頼朝、足利

           尊氏の祖先である          

 

〇 みな   源 範頼

             (みなもとの のりより)。

                   (⇒ 河内源氏)。

                   (⇒ 清和源氏) (⇒ 源氏)。

          ○ 源 範頼は、

           源頼朝の異母弟である。

           ■ 源頼朝の詳細な内容

          に関しては、

          □ 源頼朝ガイドブック

          □ 源頼朝 関連年代順 

             出来事ブック。     

          を参照してください。 

           □ 鎌倉幕府の詳細な内

          容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。 

              ■ 源 範頼 (みなもとの のりより、生没

             年:1150年頃〜1193年) は、

             源頼朝の異母弟である。

              ■ 源 範頼は、 源頼朝の代官となって、

             源 義経と共に、西方討伐軍を指揮し、

             源(木曽)義仲や伊勢平氏を討伐する。

              ■ 源 範頼は、 1193年(建久4年)8月

             頃、謀反の疑いをかけられて、源頼朝の

             命(めい)によって、殺害される。

 

〇 みな  源 行家

             (みなもとの ゆきいえ)。

          (= 新宮十郎 しんぐうじゅうろう)。

          (生年不詳〜1186年)。

                  (⇒ 河内源氏)。

                  (⇒ 清和源氏) (⇒ 源氏)。

                    ○ 源 行家は、

          源為義(ためよし)の子である 。

           ■ 源頼朝の詳細な内容

          に関しては、

          □ 源頼朝ガイドブック

          □ 源頼朝 関連年代順 

             出来事ブック。     

          を参照してください。 

           □ 鎌倉幕府の詳細な内

          容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。 

 

〇 みな   源 義家。

             (みなもとの よしいえ)。

          (= 八幡太郎義家)。 

        (⇒ 奥州藤原氏)。

                   (⇒ 河内源氏)。

                   (⇒ 清和源氏) (⇒ 源氏)。

          ○ 源 義家は、源頼義(よりよし)

              の子 である。

          ○ 源 義家は、河内源氏始祖・

              源頼信(より のぶ)の孫である。

          ○ 源 義家は、源頼朝、源義

           経、源(木曽)義仲、足利尊氏、

                      新田義貞の祖先である。

 

〇 みな  源 義重。

             (みなもとの よししげ)。

          (= 新田氏(にったし)の始祖)。

              (⇒ 足利氏)。

                   (⇒ 河内源氏)。

                   (⇒ 清和源氏) (⇒ 源氏)。

          ○ 源 義重は、源義家(八幡

           太郎義家)の孫である。

          ○ 源 義重は、新田義貞(にっ

               たよしさだ)の祖先 である。

 

〇 みな   源 義経

              (みなもとの よしつね)。

                   (⇒ 河内源氏)。

                   (⇒ 清和源氏) (⇒ 源氏)。

          ○ 源 義経は、

           源頼朝の異母弟である。

           ■ 源頼朝の詳細な内容

          に関しては、

          □ 源頼朝ガイドブック

          □ 源頼朝 関連年代順 

             出来事ブック。     

          を参照してください。 

           □ 鎌倉幕府の詳細な内

          容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。 

               ■ 源 義経 (みなもとの よしつね、

             生没年:1159年〜1189年) は、

             源義朝(みなもとのよしとも)の九男で、 

             源頼朝の異母弟である。

              ■ 源 義経は、源頼朝の代官となって、

             1184年(寿永3年、治承8年)1月から

             1185年(寿永4年、元暦2年)3月まで、

             源 範頼と共に、西方討伐軍を指揮し、

             源(木曽)義仲や伊勢平氏を討伐する。

              ■ 源 義経は、 1185年(元暦2年)

             10月に源頼朝に敵対したが、兵が集

             まらず、京都周辺で潜伏し、1187年

             (文治3年)2月に奥州・平泉に身を寄

             せる。 1189年(文治5年)閏4月に、

             源頼朝の圧力に屈した藤原泰衡(やす

             ひら)によって、奥州・平泉の衣川館(こ

             ろもがわのたて)で襲われ、自害する。 

 

〇 みな  源 義経 年表(簡略) 

             (みなもとのよしつねねんぴょう 

                    (かんりゃく))。 

             (⇒ 日本史年表) 。

 

〇 みな  源 義朝

             (みなもとの よしとも)。

                   (⇒ 河内源氏)。

                   (⇒ 清和源氏) (⇒ 源氏)。

          ○ 源 義朝は、

           源頼朝や源義経の父である。

          ○ 源 義朝は、源為義(ためよし)

              の長子。

          ○ 源 義朝は、保元の乱、平

           治の乱の源氏軍の指導者。

           ■ 源頼朝の詳細な内容

          に関しては、

          □ 源頼朝ガイドブック

          □ 源頼朝 関連年代順 

             出来事ブック。     

          を参照してください。 

 

〇 みな  源 義仲

             (みなもとの よしなか)。

          (= 木曾義仲 きそよしなか)。

          (1154年ー1184年)。

                   (⇒ 河内源氏)。

                   (⇒ 清和源氏) (⇒ 源氏)。

          ○ 源義仲は、

          源頼朝の従兄弟(いとこ)

          ある。

           ■ 源頼朝の詳細な内容

          に関しては、

          □ 源頼朝ガイドブック

          □ 源頼朝 関連年代順 

             出来事ブック。     

          を参照してください。 

           □ 鎌倉幕府の詳細な内

          容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。 

             ■ 源義仲(みなもとの よしなか、木

             曾義仲(きそよしなか )、生没年:11

             54年ー1184年)は、源頼朝の従兄

             弟(いとこ) であり、 征東大将軍に叙

             任される (「玉葉」より)。

 

〇 みな  源 義平。

             (みなもとのよしひら)。

                     (= 悪源太義平(あくげんたよし

           ひら)、鎌倉悪源太義平)。

           (「悪」は強い、猛々(たけだけ)

           しいの意) 。

                    (⇒ 平治の乱

                  へいじのらん)。 

                  (⇒ 河内源氏)。

                  (⇒ 清和源氏) (⇒ 源氏)。

          ○ 源 義平は、

           源義朝(よしとも)の長男

           であり、 

           源頼朝の異母兄である。

           ○  源 義平は、1159年

           の平治の乱で活躍し、翌

            年捕縛され、斬首される。 

           ■ 源頼朝の詳細な内容

          に関しては、

          □ 源頼朝ガイドブック

          □ 源頼朝 関連年代順 

             出来事ブック。     

          を参照してください。 

 

〇 みな   源 義康。

             (みなもとの よしやす)。

          (= 足利氏(あしかがし)の始祖)。

        (⇒ 足利氏)。

                   (⇒ 河内源氏)。

                   (⇒ 清和源氏) (⇒ 源氏)。

          ○ 源義家(八幡太郎義家)の孫。

          ○ 足利尊氏(あしかがたかうじ)

           祖先。

 

 みな  源 頼家

             (みなもとの よりいえ)。

          (生没年:

           1182年〜1204年)。

             (将軍在任:

           1202年1203年)。

                   (⇒ 河内源氏)。

                   (⇒ 清和源氏) (⇒ 源氏)。

           ■ 源頼朝の詳細な内容

          に関しては、

          □ 源頼朝ガイドブック

          □ 源頼朝 関連年代順 

             出来事ブック。     

          を参照してください。 

           □ 鎌倉幕府の詳細な内

          容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。 

           ○ 源 頼家は、

          源頼朝の男子である。

           ○ 源 頼家は、

          鎌倉幕府の第2代将軍

          (将軍在任:1202年〜

          1203年)である。

             ■ 源頼家 (みなもとのよりいえ、

             生没年:1182年〜1204年)は、

             源頼朝の男子であり、 鎌倉幕府

             の第2代将軍(1202年〜1203

             年)である。

             ■ 源頼家は、 源頼朝と北条政

             子との間の男子である。 

             ■ 源頼家は、1199年(建久10

             年)1月に、数え年18歳で、源頼

             朝の家督を相続し、第2代鎌倉殿

             となり、1202年(建仁2年)7月

             22日に、数え年21歳で、征夷大

             将軍に宣下(せんげ)される。  

             ■ 源頼家の将軍在任は、

             1202年(建仁2年)7月から12

             03年(建仁3年)9月までである。

             ■ 源頼家は、 

             1203年(建仁3年)9月の将軍退

             位後、伊豆国修善寺で幽閉され、

             2004年(元久元年)7月に、数え

             年23歳で、伊豆国修善寺で

             鎌倉北条氏の手勢(手兵)によっ

             暗殺される。

 

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 みな   源 頼朝

              (みなもとの よりとも)。 《人名》。

             (生没年:

           1147年ー1199年)。

             (将軍在任:

           1192年ー1199年)。

           ■ 源頼朝の詳細な内容

          に関しては、

          □ 源頼朝ガイドブック

          □ 源頼朝 関連年代順 

             出来事ブック。     

          を参照してください。 

           ■ 源頼朝の鎌倉時代

          の詳細な内容に関しては、

           □ 鎌倉幕府ガイドブック。 

            □ 鎌倉幕府 関連年代順

                       出来事ブック

          を参照してください。 

          ○ 源 頼朝は、日本で

          最初に朝廷から独立した

          武家政権を創立した武士

          である。

          ○ 源 頼朝は、

           源氏政権の創始者であり

           鎌倉幕府の創立者、初代

           将軍である。

          ○ 源 頼朝は、 

           1185年の、守護・地頭

           の設置で、朝廷から政治

                   の実権を奪う。

          ○ 源 頼朝は、 

           源義朝(よしとも)の三男 で

           ある。

          ○ 源 頼朝は、 

                 源義経の異母兄である。 

                   (⇒ 鎌倉幕府源氏政権)。

                   (⇒ 河内源氏清和源氏

           源氏)。

                   (⇒ 平清盛平氏政権)。

                       ■ 源 頼朝 (みなもとの よりと

               も、生没年:1147年ー1199

               年)は、 日本で最初に朝廷か

              ら独立した武家政権を創立した

              武士であり、 源氏政権(1185

              年頃ー1219年頃)の創始者で

              あり、 鎌倉幕府(1185年また

              は1192年ー1333年)の創立

              者、初代将軍である。

              ● 一方、平氏政権は、朝廷と融

              合した武家政権である。

                       ■ 源 頼朝は、 源義朝(みなも

              とのよしとも)の三男であり、 

              源義経( みなもとのよしつね)の

              異母兄である。

                       ■ 源 頼朝は、1185年の、守護・

               地頭の設置で、 朝廷から政治の

               実権を奪う。

                       ■ 源 頼朝は、 朝廷に組み込ま

              れないように、京(きょう、京都)か

              ら離れた鎌倉で、 朝廷から独立し

              て、 朝廷から政治の実権を奪い、

              新しい武家政権の源氏政権をつく

              る。

                一方、平清盛 (たいらのきよも

              り)は、 朝廷のある京(きょう、京

              都)で、 武士が貴族となり朝廷と

              同化することで、 朝廷から政治の

              実権を奪い、武家政権の平氏政権

              をつくる。

              ■ 源頼朝の直系子孫は、

               子6人・孫5人であり、 病死や

               政争の殺害死などで亡くなり、 

                              断絶する。

              ● 源頼朝の子たち は、 

               次の6人であり、源頼家以外は

               実子はいなかった。

              (1) 千鶴丸 (男子、せんつる

                  まる、

                  生年不詳ー1175年、

                  数え年3歳頃、殺害溺死)

              (2) 大姫  (女子、おおひめ、

                  1178年頃ー1197年、

                  数え年20歳、病死

              (3) 源頼家 (男子、みなもと

                  のよりいえ、

                  1182年ー1204年、

                  数え年23歳、暗殺死)

              (4) 貞暁  (男子、じょうぎょう、

                  1186年−1231年、

                  数え年46歳、病死)

              (5) 三幡   (女子、さんまん、

                  1186年ー1199年、

                   数え年14歳、病死

                 (6)  源実朝 (男子、みなもと

                  のさねとも、

                  1192年ー1219年、

                  数え年28歳、暗殺死)。

              ● 源 頼朝の孫たちには、

                源頼家の実子の5人がいる。

              (1) 一幡  (男子、いちまん、

                  1198年ー1203年、

                  数え年6歳、殺害死)。

              (2) 公暁  (男子、 こうぎょう、

                       くぎょう、

                  1200年ー1219年、

                  数え年20歳、殺害死)。 

              (3) 栄実  (男子、えいじつ、

                  1201年ー1214年、

                  数え年14歳、自害死)。

              (4) 禅暁  (男子、ぜんぎょう、

                  生年不詳 ー1220年、

                  数え年17〜19歳頃、

                  殺害死)。

              (5) 竹御所 (女子、たけのご

                                    しょ、

                  1202年ー1234年、

                                   数え年33歳、出産死)。

 

〇 みな   源頼朝 関連年代順 

         出来事ブック(詳細)。

               (みなもとのよりとも かんれん

                ねんだいじゅんできごとぶっく)。

               《人物関連出来事》。

 

〇 みな   源 頼朝 年表(簡略) 

               (みなもとのよりとも ねんぴょう

              (かんりゃく))。

              《人物関連年表》。

            (⇒ 日本史年表) 。

 

〇 みな   源 頼信。

                             (みなもとの よりのぶ) 。

          (= 河内源氏(かわちげんじ)の始祖)。

        (⇒ 河内源氏)。

                   (⇒ 清和源氏) (⇒ 源氏)。

          ○ 源義家(八幡太郎義家)の祖

                      父。

          ○ 源頼朝、源義経、源(木曽)義

           仲、足利尊氏、新田義貞の祖先。

 

〇 みな   源 頼政

             (みなもとの よりまさ)。 

          (1104年〜1180年)。

                   (⇒ 清和源氏) (⇒ 源氏)。

          ○ 摂津(せっつ)源氏の、 源頼

          光(よりみつ)の5代後の子孫 。

 

〇 みな   源 頼義。

              (みなもとの よりよし)。

          ○ 源義家(八幡太郎義家)の

           父。

          ○ 河内源氏始祖・源頼信(より

              のぶ)の子。

          ○ 源頼朝、源義経の祖先。

          (⇒ 奥州藤原氏)。

                   (⇒ 河内源氏)。

                   (⇒ 清和源氏) (⇒ 源氏)。

 

 みの  美濃赤坂

             (みのあかさか)。 《地名》。

          ○ 美濃赤坂は、

          「史実(新説)・伝説(従来

          説)の関ヶ原の戦い」で

          徳川方の東軍が本陣(陣

          地)を置いた場所である。

          (⇒ 関ヶ原の戦い

           決戦)。

          (⇒ 関ヶ原の戦い)。

          (⇒ 新説(史実)

             関ヶ原の戦い

           大垣・山中の戦い

         大垣の戦い山中の戦い)。

                (⇒ 慶長5年の

                 下分け目の戦い)。

           □ 「史実(新説)

            関ヶ原の戦い

            (= 大垣・山中の戦い)」  

            画像アルバム No.2

           □ 「伝説(従来説)

            関ヶ原の戦い」

            画像アルバム  No.3 

          (⇒ 徳川家康福島正則

             池田輝政)。

          (⇒ 毛利秀元)。

          (⇒ 石田三成宇喜多秀家)。

          (⇒ 大谷吉継小早川秀秋)。

          (⇒ 美濃赤坂大垣城

                           南宮山)。

          (⇒ 山中城山玉城

              松尾山藤下の自害峯)。

          (⇒ 関ヶ原盆地桃配山

                           陣場野笹尾山)。

 

             ■ 美濃赤坂 (みのあかさか)

             は、関ヶ原盆地の東方向にあり、

             美濃国の大垣エリアの美濃赤坂 

             (現在の岐阜県大垣市) にある。

             ■ 「史実(新説)・伝説(従来説)

              関ヶ原の戦い」では、 

             1600年(慶長5年)8月 26日頃

             から9月15日の早朝まで

             東軍(徳川方)の先手衆は、 

             大垣エリアの美濃赤坂付近に布

             陣する。

             ■ 「史実(新説)・伝説(従来説)

              関ヶ原の戦い」では、

             東方からやって来た、徳川家康と

             徳川本隊は、

             1600年(慶長5年)9月14日の

             昼頃から9月15日の早朝まで

             大垣エリアの美濃赤坂付近に本

             陣(陣地)を置いた。

 

           ■ 「史実(新説)・伝説

           (従来説)の関ヶ原の戦

                       い」決戦日の東軍の

           主力軍の行動要点表。

 

              ◆ 「 史実(新説)・伝説(従来説)

              の関ヶ原の戦い」の決戦での、

              東軍(徳川方)の主力軍の動き。

             

                  ■ 「史実(新説)関ヶ原の戦い

              (= 大垣・山中の戦い)」の決戦

              での、東軍(徳川方)の 主力軍

              の動き

              ● 東軍(徳川方)の主力軍

               (先手勢の福島組勢と家康

               の徳川本隊) は、

              @ 東軍(徳川方)の主力軍は、

               1600年(慶長5年)9月15

               日早朝に、大垣エリアの美濃

               赤坂(みのあかさか)付近 

               (関ヶ原盆地の東方)を出発

               (1600年(慶長5年)

                9月15日早朝)⇒

              ○ 徳川家康は、

               9月15日早朝に、

               大垣エリアの美濃赤坂

               付近で、東軍(徳川方)

               を3つに分ける。

              ○ 東軍(徳川方)

               家康と徳川本隊は、

               関ヶ原盆地南西部 と

               山中村 (やまなかむら、

               関ヶ原盆地の西方・約2km)

               に向かう。

              ○ 東軍(徳川方)

               先手勢の池田組勢は、

               大垣エリアの南宮山(なんぐ

               うさん、関ヶ原盆地の東方)

               の前面に向かい、布陣する。

              ○ 東軍(徳川方)

               先手勢の福島組勢は、

               山中村 (やまなかむら、

               関ヶ原盆地の西方・約2km)

               に向かう。

              A 東軍(徳川方)の主力軍は、

               9月15日の午前10時頃から

               正午頃まで、山中村 (やま

               なかむら、関ヶ原盆地の西方・

               約2km)で、西軍(奉行衆・毛

               利方)の主力軍と交戦(決戦を

               行う)

               (9月15日の午前10時頃

               〜正午頃)⇒

              B 9月15日正午頃に、

               西軍(奉行衆・毛利方)の主力

               軍が、総崩れとなり、敗走、

               敗戦し、東軍(徳川方)の主力

               軍は、山中村で、西軍(奉行

               衆・毛利方)の主力軍に対し

               決戦で勝利を得る

               (9月15日正午頃)。

 

              ■ 伝説(従来説の関ヶ原

              の戦い」の決戦での、東軍

              (徳川方)の主力軍の動き。

              ● 東軍(徳川方)の主力軍

               (先手勢の福島組勢と家康

               の徳川本隊) は、

              @ 東軍(徳川方)の主力軍は、

               1600年(慶長5年)9月15日

               早朝に、 大垣エリアの美濃

               赤坂(みのあかさか)付近

               (関ヶ原盆地の東方)を出発

               (1600年(慶長5年)

                9月15日早朝)⇒

              〇 東軍(徳川方)の徳川家康

               は、 1600年(慶長5年)9月

               15日早朝に、大垣エリアの

               美濃赤坂付近で、

               東軍(徳川方)を2つに分け、

               関ヶ原盆地に向かう先手勢の

               福島組勢、家康の徳川本隊の

               東軍(徳川方)の主力軍 と、 

               南宮山山麓に向かう池田組勢

               の2つに分ける。

              A  東軍(徳川方)の主力軍は、

              9月15日の朝に、関ヶ原盆地

              の東側に布陣する

              (9月15日の朝)⇒ 

              B 東軍(徳川方)の主力軍は、

              9月15日午前8時頃から午後

              2時頃まで、関ヶ原盆地で 、

               西軍(石田方)の主力軍と交戦

              (決戦を行う)

              (9月15日午前8時頃〜

               午後2時頃)⇒ 

              ○ 9月15日の朝から午前

              10時頃まで、家康は、

              桃配山 (ももくばりやま、関ヶ

              原盆地の東側)で決戦を指揮

              ○ 9月15日午前10時頃から

              午後2時頃まで、家康は、

              陣場野 (じんばの、関ヶ原盆

              地中央部)で決戦を指揮

              C 9月15日午後2時頃に、

              関ヶ原盆地で、西軍(石田方)

              の主力軍は、総崩れとなり、

              敗走、敗北し、東軍(徳川方)

              の主力軍は、西軍(石田方)

              の主力軍に対し決戦で勝利

              を得る

              (9月15日午後2時頃)。

              ○ 9月15日午後2時頃、

               陣場野で、家康は決戦勝利 。

 

           ■ 「新説(史実)

           関ヶ原の戦い」東西両

                      軍の決戦の当日の概要。

 

              ■ 一次史料に基づく「新説(史実)

              関ヶ 原の戦い(= 大垣・山中の戦

               い)」 の決戦 (決戦 場所・日時:

              山中(やまなか)村で、1600年(慶

              長5年)9月15日午前10時頃〜正

              午頃) では、 

              美濃赤坂から移動し山中村の東側

              に布陣する徳川方の東軍主力軍 

              と、 大垣城から移動し山中村の西

              に布陣する奉行衆・毛利方の西 

              軍主力軍が、 午前10時頃から正

              午頃まで美濃国の山中(やまな

              か)で戦う。 結果、東軍が勝利

              を得る。

                 美濃赤坂から移動してきた東

              の徳川家康と徳川本隊は、16

              00年(慶長5年)9月15日に、

              山中(やまなか)に向かう途中で、

              関ヶ原盆地南西部で、早朝、奉行

              衆・毛利方の西軍の大谷軍と対峙

              し(遭遇し)戦い、勝利を得る。 

              次に、家康と徳川本隊は、美濃赤

              坂から移動してきた徳川方の東軍

              の福島勢と合流し、東軍主力軍は、

              山中村の東側に布陣する。

                大垣城から移動してきた宇喜

              多秀家と宇喜多軍は、1600年

              (慶長5年)9月15日に、山中村

              の西側に布陣する。

                 大垣城から移動してきた石田

              三成と石田軍は、1600年(慶長5

              年)9月15日に、山中付近の

              の自害峯(とうげのじがいみね)に

              移動し、その後、すぐ近くの山中村

              で西軍主力軍と合流し、山中村の

              西側に布陣する。

                 美濃国の山中(やまなか)村

              で、1600年(慶長5年)9月15 日

              の午前10時頃から、美濃赤坂から

              移動し山中村の東側に布陣する東

              軍主力軍の福島勢と徳川本隊は、 

              大垣城から移動し山中村の西側に

              布陣する奉行衆・毛利方西軍主

              力軍の小西・宇喜多・石田・島津勢

              等の軍と対峙し、戦い、正午頃に、

              勝利を得る。

 

           ■ 「伝説(従来説)の関ヶ

           原の戦い」東西両軍の

                      決戦の当日の概要。

 

              ■ 一方、「従来説(伝説)の関ヶ原の

              戦い」の決戦 (決戦 場所・日時:関ヶ

              原盆地で、1600年(慶 長5年)9月

              15日午前8時頃〜午後2時頃) では、

               1600年(慶 長5年)9月15日に、

              美濃赤坂から移動し関ヶ原盆地の東

              側に布陣する徳川方の東軍主力軍

              と 大垣城から移動し関ヶ原盆地の

              西側に布陣する石田方の西軍主力 

              軍が、午前8時頃から午後2時頃ま

              美濃国の関ヶ原盆地で戦う。 

              結果、東軍が勝利を得る。

                  徳川家康と徳川本隊は、16

               00年(慶長5年)9月15 日に、

               最初は(午前8時頃)、関ヶ原盆地

               の東側の、桃配山(ももくばりやま、 

               家康最初陣地)に本陣(陣地)を置

               き、その後(午前10時頃以後)、移

               動し、関ヶ原盆地中央部の陣場野

               (じんばの、家康最終陣地)に本陣

               (陣地)を置き、徳川方の東軍 主力

               軍を指揮する。    

                 大垣城から移動してきた石田

               三成と石田軍は、1600年(慶長

               5年)9月15 日に、関ヶ原盆地の

               西側の、笹尾山(ささおやま)に本

               陣(陣地)を置き、石田方の西軍

               主力軍を指揮する。    

                  大垣城から移動してきた宇喜

               多秀家と宇喜多軍は、1600年

               (慶長5年)9月15日に、関ヶ原盆

               地の西側の天満山(てんまやま)

               に布陣する。

                 美濃国の関ヶ原盆地で、1600

               年(慶長5年)9月15日の午前8時

               頃から、関ヶ原盆地の東側に布陣

               する徳川方の東軍主力軍は、大垣

               城から移動し関ヶ原盆地の西側

               布陣する石田方西軍主力軍と

               対峙し、戦い、午後2時頃に、勝利

               を得る。

 

 みの   巳の刻。

              (みのこく)。 《時刻》。

              ■ 前近代日本の、定時法と不定時法の、

              十二支表示時刻の主要時間区分。

          (⇒前近代日本の時刻・

         時法

             ■ ≒ 午前9時00分〜午前11時00分。

             ● 巳の刻の正刻 (正巳(しょうし))

             ≒ 午前10時00分。 昼間・午前10時頃。

             ≒ (朝) 四(よつ)、四つ、四ツ。   

             ○ 巳一刻(巳一つ時)≒

              午前9時00分〜午前9時30分。

             ○ 巳二刻(巳二つ時)≒

              午前9時30分〜午前10時00分。

             ○ 巳三刻(巳三つ時)≒

              午前10時00分〜午前10時30分。

             ○ 巳四刻(巳四つ時)≒

              午前10時30分〜午前11時00分。

 

○ みの  美濃 国。 

             (みの のくに)。 《旧地域名》。

           (= 濃州(じょうしゅう、のうしゅう))。 

                   概ね、 現・岐阜県南部の

           相当地域)。

          MINO PROVINCE.

          (律令制定後・古代・中世・近

           世日本・旧地域名の旧国(令

           制国)の正式名)。

                   (⇒ 濃州(じょうしゅう))。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

          ■ 美濃 国。

             <東山道 (旧広域地方)。

             <五畿七道(ごきしちどう、日本本土)。

          (⇒ 東山道・旧広域地方)。

                   (⇒ 五畿七道)。

                         ■ (RWM) 日本の、中地域名の

             変遷。

             ● 国造・県主分国⇒ 旧国(令制国)

              ⇒ 旧都道府県⇒ 現47都道府県。

             ■ 美濃 国(みの のくに、= 濃州(じ

             ょうしゅう、のうしゅう))は、 現・ 中部

             地方の、概ね、現在の岐阜県南部 に

                          相当する地域であり、 東山道(とうさ

             んどう)・旧広域地方に属する。

           (⇒ 中部地方)。

                   (⇒ 都道府県)。

             ■ 美濃 国(= 濃州)は、  前近代

             日本の、旧国(令制国)である。

             ■ 美濃 国(= 濃州)は、 五畿七

             道(ごきしちどう)の東山道(とうさ

                          んどう)・旧広域地方に属する。

             ■ 美濃 国(= 濃州)は、  約68

             旧国(令制国)の1つであり、 

                          東山道(と うさんどう)・旧広域地

             方の1国である。

             ■ 濃州 (じょうしゅう、のうしゅう)

             は、  律令制定後・古代・中世・近

             世日本・旧地域名の、旧国 (令制

             国)正式名の、美濃 国 (みの の

             くに)の 別称である。

             ■ 美濃 国 (みの のくに)は、 

             令制定後・古代・中世・近世日本・旧

             地域名の、旧国(令制国)の正式名

             である

             ■ 旧国(令制国)(きゅうこく(りょうせ

             いこく))は、 前近代日本の、飛鳥白

             鳳時代末期から江戸時代まで、 紀元

             (後)701 年頃から1868年頃まで、 

             日本で使用された地方行政区分の地

             域名である。

 

○ みの  美濃の蝮 

             (みののまむし)。

           (= 斎藤道三(利政))。

        (⇒ 斎藤道三)。

 

○ みぶ  壬生浪士組(隊)

             (みぶろうしぐみ(たい))。

          (= 新選組(1863年〜1869

          年)の前身)。

          (⇒ 新選組)。

          ● 壬生浪士組(隊)は、

           1863年3月〜9月存在する。 

          ● 壬生浪士組(隊)は、

           新選組の改称前の名称であ

           る。

                      ■ 壬生浪士組(隊) (みぶろうしぐみ

              (たい))は、 新選組(1863年〜18

              69年)の前身であり、1863年3月

              から9月まで存在する。 

 

#mima

 

○ みま  美作 国。

             (みまさか のくに)。

          (= 作州(さくしゅう))。 

          (≒ 現・岡山県北東部の相

          当地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近

           世日本・旧地域名の旧国名

           (令制国)の正式名)。

           《旧地域名》。

                    (⇒ 前近代日本の

         地域名)。

          ■ 美作 国。

             <山陽道 (広域地方)。

             ■ 美作 国 ( みまさか のくに)は、

             令制定後・古代・中世・近世日本・旧地

             域名の、旧国名(令制国)の正式名で

             ある

             ■ 作州 (さくしゅう)は、  律令制定

             後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             旧国名(令制国)正式名の、美作 国  

             (みまさか のくに) の別称である。

             ● 備州 (びしゅう)  や 三備 (さん

             び)は、 吉備国 (きびのくに、C 美

             作 国、 B 備前 国、 A 備中 国、 

             @ 備後 国) (C 岡山県北東部、 

             B 岡山県南東部、 A 岡山県西部、 

             @ 広島県東部) を指す名称でもある。 

                    C 美作 国は、 B 備前 国より

             分立された。

             ■ 美作 国(= 作州)は、 現・ 中国地

             方の、現在の岡山県北東部 に相当す

             る地域である。

             ■ 美作 国(= 作州)は、 五畿七道

             (ごきしちどう)の山陽道( さんようどう)・

                            旧広域地方に属する。

 

 みや  宮城県。

             (みやぎけん)。

           (現・都道府県)。《現地域名》。 

                            MIYAGI PREFECTURE.

           ○ 宮城県は、

           現・47都道府県の1つで

           ある。

             ○ 宮城県の地域は、

           前近代の陸奥国(奥州、陸

           州)の中南部の相当地域

           である。

             ○ 宮城県の地域は、

            概ね前近代日本の、

              陸奥国(むつのくに、奥州(おう

               しゅう)、陸州(りくしゅう、ろくしゅ

           う)、現・青森県・岩手県・宮城県・

                      福島県の相当地域) の中南部

           の相当地域である。

                     (⇒ 都道府県)。

                     (⇒ 陸奥国)。

                    (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                      (⇒ 旧地域名地域名)。

                      (⇒ 日本の地名)。

          ■ 宮城県の地域。

             <東北地方。

             <日本本土(本州、四国、九州)

             <日本国

             ● 宮城県 (みやぎけん、英:

             MIYAGI PREFECTURE)は、

             東北地方に属する。

                      (⇒ 東北地方)。

          ■ 宮城県の地域

            (陸奥国の中南部)。

             <陸奥国 (むつのくに、旧国(令制

               国)、現・青森県、岩手県、宮城県、

              福島県の相当地域)。

             <東山道(とうさんどう)・旧広域地方

             <五畿七道(ごきしちどう、日本本土)。

          (⇒ 東山道・旧広域地方)。

                   (⇒ 五畿七道)。

             ■ 宮城県(みやぎけん)の地域は、 

             概ね前近代日本(古代〜江戸時代)

              の、陸奥国 (むつのくに、奥州(お

             うしゅう)、陸州(りくしゅう、ろくしゅう)、

             現・青森県・岩手県・宮城県・福島県

             の相当地域) の中南部に相当する

             地域である。

             ■ 宮城県の地域は、概ね、前近代

             日本(古代〜江戸時代)の、旧国(令

             制国)の、陸奥国(むつのくに)の中

             南部に相当する地域である。

 

 みや   都。

              (みやこ)。

              (⇒ 首都古都(こと))。

              (⇒ 都城(とじょう)

             (きょう))。

              ■ 都 (みやこ)とは、

                宮処(みやどころ)から転じた言葉

                             から宮(天皇の住居)がある処(所)

              である皇居都市(都城・京)という

              意味があり、

               また、 

              「首都」、「州都」、「県都」、「東京

              都」などの政治・行政の中核都市

              という意味もあり、

              また、

              「花の都・パリ」などの何かを特徴

              とする都市という意味もある。

             

 みや  宮崎県。

              (みやざきけん)。

              (≒ 日向 国の相当領域)。

           (現都道府県)。 《現地域名》。

                        MIYAZAKI PREFECTURE.

          ■ 宮崎県。

              (≒ 前近代の、@ 日向 国 

           (ひゅうが のくに、(にっしゅう)、

             (こうしゅう)、宮崎県)の相

          当地域)。

                     (⇒ 九州地方)。

                     (⇒ 西海道・広域地方、

              五畿七道)。

                     (⇒ 都道府県)。

                     (⇒ 陸奥国)。

                    (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                      (⇒ 旧地域名地域名)。

                      (⇒ 日本の地名)。

 

 みや  宮将軍。

             (みやしょうぐん)。

          (= 鎌倉幕府の親王出身の

          名目的な将軍)。

           《鎌倉幕府の将軍》。

          (⇒ 鎌倉幕府関連出来事)。

          (⇒ 鎌倉幕府執権政治

                   北条(氏)政権)。

             ■ 宮将軍 (みやしょうぐん)とは、

             鎌倉幕府の親王出身の名目的な

             将軍である。

 

 みや  宮本 武蔵

                            (みやもと むさし) 。

          ○ 江戸時代前期の剣豪。

 

 みょ   明王像。

             (みょうおうぞう)。

             ○ (例 ) 不動明王像 。

          (⇒ 仏 像仏教)。

 

 みょ   名字

             (みょうじ) 。

          (= 前近代の、名字の家名

           という一族名)。

          (⇒ 前近代日本の人名) 。

          ○ 前近代の一族名の1つ。

 

 みょ   妙寿尼。

             (みょうじゅに、仮称)。

             (= 遍照院(法名))。

             (NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では、力

                           (りき、仮称))。

         (⇒ 櫛橋伊定(左京亮)

        櫛橋光)。

              ○ 櫛橋 伊定(左京亮)の長女。

              ○ 櫛橋光(くしはしてる、黒田官兵衛・

              正室夫人)の姉。

              ○ 播磨・上月城主の上月 景貞(こうづ

              きかげさだ)の夫人。

 

 みょ   妙椿尼

          (みょうちんに、仮称)。

              (NHK大河ドラマ「天地人」での仮称)。

          (⇒ お万おまん(仮称))。

              ○ 直江実綱(景綱)の正室夫人

          (お船の方の生母、実名不詳)の

          落飾後の名。

 

 みよ  三次浅野家。

             (みよしあさまけ)。

                          (= 三次藩)。

          ○ 三次浅野家は、浅野 内

          匠頭(長矩)の夫人・瑤泉院

          の実家である。 

        (⇒ 元禄赤穂事件)。

                          ■ 三次浅野家 (みよしあさまけ)は、

             浅野 内匠頭(長矩)(あさの たくみの

             かみ(ながのり))の夫人・瑤泉院(よ

             うぜんいん)の実家である。

                          ■ 三次(みよし)浅野家当主(三次藩

             主)の、浅野 長澄 (あさの ながずみ、

             藩主就任:1691〜1718年、生没年:

             1671〜1718年)は、 浅野 内匠頭

             (長矩)の正室夫人・阿久里(あぐり、

             瑤泉院(ようぜんいん))の、父である。

                          ■ 三次浅野家当主(三次藩主)の、

             浅野長 澄は、 赤穂藩改易 (かいえ

             き、領地没収)後、 阿久里(瑤泉院)

             を引き取る。  

                          ■ 三次浅野家当主(三次藩主)の、

             浅野長澄は、 広島・浅野本家当主

                 (広島藩主)の浅野綱長(つななが)

             の弟である。

 

〇 みよ   三好三人衆

             (みよしさんにんしゅう)。 《人名》。

             (= 三好長逸(みおしながやす)

          三好宗(みよしそうい)、岩成

          友通(いわなりともみち)の3人)。 

             ■ 三好三人衆 (みよしさんにんし

             ゅう)とは、 三好長逸(みおしながや

             す)、三好宗(みよしそうい)、岩成

              友通(いわなりともみち)の3人の三

             好氏の一族・重臣である。 

             ■ 三好三人衆は、 1564年(永禄

             7年)の三好氏当主の三好長慶(みよ

             しながよし)の死後、三好氏当主の

             継者の三好義継が若年のため、三好

             義継(三好長慶の甥、長慶の養嗣子)

             の後見役として、三好三人衆や松永

             久秀が台頭する。

             ■ 三好三人衆は、 1568年(永

             禄11年)に、織田信長の上洛(じょ

             うらく)に反発し、抵抗するが、敗退

             し、畿内(きない)付近から駆逐され、

             1573年(天正元年)に、織田信長

             軍に敵対するが、敗れて壊滅する。

             ■ 三好三人衆は、 室町幕府(=

             足利幕府)の第13代将軍・足利義

             輝(よしてる)と対立する。

                三好三人衆は、 松永久秀(ま

             つながひさひで)るもと)と協力、和

             睦したり、対立したりする。

                三好三人衆は、 第14代将軍・

             足利義栄(よしひで)と協力する。 

                三好三人衆は、 織田信長と

             対立したり、和睦したりする。

             ◆ (8) 三好三人衆・松永久秀

                 畿内付近地域支配政権 

                (1564年〜1568年)。

             ■ 三好三人衆 (みよしさんにんし

             ゅう)と松永久秀が、1564年(永禄7

             年)から1568年(永禄11年)まで、

             実質上、畿内付近地域の支配者とな

             る。

             ● 1564年(永禄7年)7月に、三好

             長慶が病死する。 三好長慶に代わ

             って、三好三人衆と松永久秀が、実

             質上、畿内付近地域の支配者となる。

             ● 1568年(永禄11年)に、足利義

             昭・織田信長の軍が上洛し、三好三

             人衆は、義昭・信長の軍により敗走し、

             松永久秀は足利義昭・織田信長に臣

             従する。 三好三人衆と松永久秀に

             代わって、織田信長が実質上、畿内

             付近地域の支配者となる。

             ■ 室町時代後期 (= 戦国時代、

             1467年ー1573年)の畿内付近

             地域の実質支配者

             ● 室町時代後期 (= 戦国時代、

             1467年ー1573年)に、室町幕

             府(= 足利幕府)の足利氏将軍の

             権威は保たれたが、足利氏将軍

             の権力は低下する。

             ● 応仁の乱(1467年ー1477

             年)後、足利氏将軍の支配地は、

             畿内付近地域のみとなり、その後、

             足利氏将軍に代わって、細川氏、

             三好氏、織田氏の勢力が、畿内付

             近地域を支配する。 

                つまり、室町幕府の8代義政、

             9代義尚、10代義稙・前期の時期

             は、足利氏将軍が畿内付近地域を

             支配し、 室町幕府の11代義澄、

             10代義稙・後期、12代義晴、13

             代義輝、14代義栄、15代義昭の

             時期は、順に、細川政元、細川高

             国、細川晴元、三好長慶、三好三

             人衆・松永久秀、織田信長が、

             内付近地域を支配する。

             ■ 室町時代後期(= 戦国時代)の、

             京(きょう、京都)や京周辺の畿内

             付近地域の実質支配者は、順に、

             (1) 足利義政の畿内付近地域

                 支配政権

                (1467年〜1486年 、

                 1489年〜1490年)、

             (2) 足利義尚(義熙) の畿内付

                 近地域支配政権

                (1486年〜1489年)、

             (3) 足利義稙(義材、義尹) の

                 畿内付近地域支配政権

                (1490年〜1493年) 、

             (4) 細川政元の畿内付近地域

                 支配政権

                (1493年〜1507年)、

             (5) 細川高国畿内付近地域

                 支配政権

                (1508年〜1531年) 、

             (6) 細川晴元 の畿内付近地域

                 支配政権

                (1531年〜1549年)、

             (7) 三好長慶の畿内付近地域

                 支配政権

                (1549年〜1564年)、

             (8) 三好三人衆・松永久秀の

                 畿内付近地域支配政権 

                (1564年〜1568年)、

             (9) 織田信長の畿内付近地域

                 支配政権

                (1568年 〜1573年) 、

             となる。

 

 みよ  三好氏。

             (みよしし)。 《武家》。

                           ■ 三好氏 (みよしし)は、四国及び

             畿内付近に勢力をもった武家である。

             ■ 三好氏は、最初、細川京兆家(= 細

             川管領家、細川本宗家)の家臣であっ

             たが、独立する。

 

 みよ  三吉 慎蔵

             (みよし しんぞう)。

          ○ 三吉 慎蔵は、坂本龍馬

          の警護役であり、 寺田屋事

          件で、寺田屋幕吏襲撃時、

          龍馬と共に防戦する。

                           ■ 三吉 慎蔵 (みよし しんぞう)は、

             坂本龍馬の警護役であり、寺田屋事

             件で、寺田屋幕吏襲撃時、龍馬と共

             に防戦する。

                           ■ 三吉 慎蔵は、 長府藩(ちょうふ

              はん、長州藩支藩)の藩士である。

                           ■ 三吉 慎蔵は、 坂本龍馬の友人

              となり、 龍馬暗殺後、龍馬夫人・お

              龍 (おりょう)の面倒をみ、お龍を土

              佐へ送り届ける。

 

〇 みよ   三好 長慶。

             (みよし ながよし)。 《人名》。

             (1522年−1564年)。

             ■ 三好 長慶 (みよし ながよし、

             生没年:1522年−1564年)は、 

             室町幕府・管領の細川晴元の重臣

             の一人である。 

             ■ 三好長慶は、 畿内で、次第に、

             主君の細川晴元よりも大きな勢力を

             もつようになり、16世紀中頃、畿内

             付近地域の支配者となる。

             ■ 三好長慶は、 第12代将軍・義

             晴(よしはる)、 第13代将軍・義輝

             (よしてる)、 主君の細川晴元(は

             るもと) と協力、和睦したり、対立し

             たりする。

             ■ 三好長慶の後継者は、 三好義

             継(養子)である。 後に、三好義継

             (養子)も、織田信長と対立して、滅

             ぼされる。

             ■ 松永久秀は、 三好長慶の重臣

             の一人である。 

             ◆ (7) 三好長慶の畿内付近

                地域支配政権

                (1549年ー1564年)。

             ■ 三好 長慶 (みよし ながよし、

             生没年:1522年−1564年)は、

             1549年(天文18年)から1564

             年(永禄7年)まで、実質上、畿内

             付近地域の支配者となる。 

             ● 1549年(天文18年)6月に、

             江口の戦いで、細川晴元の重臣

             の三好長慶の軍は、細川晴元の

             軍に勝ち、細川晴元は近江(おう

             み)に退却し、細川晴元に代わっ

             て、細川晴元の重臣の三好長慶

             (みよしながよし)が、事実上、畿

             内付近地域の支配者となる。 

                1549年(天文18年)以後、

             細川氏重臣の三好氏の台頭で、

             細川氏は、勢力を弱め、畿内付

             近地域の支配権を失う。 

             ● 1564年(永禄7年)7月に、

             三好長慶が病死する。 三好長

             慶に代わって、三好三人衆と松

             永久秀が、実質上、畿内付近地

             域の支配者となる。

             ■ 室町時代後期 (= 戦国時代、

             1467年ー1573年)の畿内付近

             地域の実質支配者

             ● 室町時代後期 (= 戦国時代、

             1467年ー1573年)に、室町幕

             府(= 足利幕府)の足利氏将軍の

             権威は保たれたが、足利氏将軍

             の権力は低下する。

             ● 応仁の乱(1467年ー1477

             年)後、足利氏将軍の支配地は、

             畿内付近地域のみとなり、その後、

             足利氏将軍に代わって、細川氏、

             三好氏、織田氏の勢力が、畿内付

             近地域を支配する。 

                つまり、室町幕府の8代義政、

             9代義尚、10代義稙・前期の時期

             は、足利氏将軍が畿内付近地域を

             支配し、 室町幕府の11代義澄、

             10代義稙・後期、12代義晴、13

             代義輝、14代義栄、15代義昭の

             時期は、順に、細川政元、細川高

             国、細川晴元、三好長慶、三好三

             人衆・松永久秀、織田信長が、

             内付近地域を支配する。

             ■ 室町時代後期(= 戦国時代)の、

             京(きょう、京都)や京周辺の畿内

             付近地域の実質支配者は、順に、

             (1) 足利義政の畿内付近地域

                 支配政権

                (1467年〜1486年 、

                 1489年〜1490年)、

             (2) 足利義尚(義熙) の畿内付

                 近地域支配政権

                (1486年〜1489年)、

             (3) 足利義稙(義材、義尹) の

                 畿内付近地域支配政権

                (1490年〜1493年) 、

             (4) 細川政元の畿内付近地域

                 支配政権

                (1493年〜1507年)、

             (5) 細川高国畿内付近地域

                 支配政権

                (1508年〜1531年) 、

             (6) 細川晴元 の畿内付近地域

                 支配政権

                (1531年〜1549年)、

             (7) 三好長慶の畿内付近地域

                 支配政権

                (1549年〜1564年)、

             (8) 三好三人衆・松永久秀の

                 畿内付近地域支配政権 

                (1564年〜1568年)、

             (9) 織田信長の畿内付近地域

                 支配政権

                (1568年 〜1573年) 、

             となる。

 

〇 みよ   三好 義継。

              (みよし よしつぐ)。 《人名》。

           ○ 三好 義継は、

                       三好長慶の甥で、長慶の

                       養子で、長慶死後、三好

                       氏を継ぐ。

              ■ 三好 義継 (みよし よしつぐ、

              1549年ー1573年)は、 三好長

              慶の実弟・十河一存の男子で、三

              好長慶の甥(おい)であり、 三好

              長慶の実子死後、1563年(永禄

              6年)に 三好長慶の養子となる。

              ■ 三好 長慶 (みよし ながよし、

              生没年:1522年−1564年)は、

              室町幕府・管領の細川晴元の重臣

              であったが、細川晴元の勢力を排

              除し、1549年(天文18年)から

              1564年(永禄7年)まで、実質上、

              畿内付近地域の支配者となる。 

              ■ (1) 1564年(永禄7年)7月

              に、三好長慶が死去すると、後見

              役の三好三人衆の支持を受けて、

              三好 義継が三好氏の家督を継ぎ、

              三好氏の当主となる。 

                 義継の家督相続時、重臣の

              松永久秀と三好三人衆が三好氏

              の勢力を支えていた。

              ■ (2) 永禄の変 

                         (足利義輝殺害事件)。

              ■ 永禄の変前(足利義輝殺害

              前)、 三好長慶・畿内付近支配

              時に三好勢の傀儡であった将軍・

              足利義輝が、長慶死後、三好勢

              に従わず、畿内付近地域を直接

              支配しようと試みたため、 三好

              勢は、義輝に圧力をかけ、義輝を

              三好勢に従わせようとする。

              ● 1565年(永禄8年)5月に、

              三好 義継は、 三好三人衆や松

              永久通(松永久秀の息子)を伴い

              約1万人の兵の三好軍を率いて、 

              京(きょう、京都)へ上洛し、5月

              19日に、京(京都)の二条御所 

              (前期・足利二条城、前期・烏丸

              中御門第) を襲撃し、 足利幕

              府・第13代将軍の足利義輝(よ

              してる)を殺害する。 

              ● 足利義輝は、上洛した三好軍

              を警戒していなかった。 

              ● 三好軍は、御所前に突然現

              れ、御所巻(ごしょまき)を行い、

              足利義輝に、畿内付近将軍直接

              支配を試みず三好勢に従うこと

              や三好勢に逆らう側近や妻妾の

              処刑という要求を申し入れる。

              しかし、その要求が拒否されたの

              で、三好勢は、御所にいる義輝を

              襲撃し、殺害する。

               ● 御所巻(ごしょまき)とは、

               請願者の抑圧者が御所 (ごしょ、

               被抑圧者(圧力を受ける者)がい

              る邸宅)の周りを大軍で取り囲み、

              攻める構えを見せ、圧力をかけ、

              御所にいる被抑圧者に要求を申

              し入れ、要求を通そうとすること

              である。

              ● 松永久秀は、大和国(やまと

              のくに、現・奈良県)におり、義輝

              殺害に直接関与してはいない。

              ■ (3) 足利義輝の殺害後、三

              好三人衆と松永久秀は不仲となる。

              ■ (4) 1565年(永禄8年)11

              月に、三好義継は、三好三人衆に

              擁立されて、松永久秀と敵対する。

              ■ (5) その後、三好義継は、三

              好三人衆に冷遇され、1567年(永

              禄10年)2月に、義継は、三好三

              人衆から脱出し、松永久秀と手を

              結ぶ。

              ■ (6) 1568年(永禄11年)の

              足利義昭擁立・織田信長上洛時

              及びその後も、三好義継は松永久

              秀と共に、信長に協力し、信長の

              家臣となり、三好三人衆や反信長

              勢力と戦う。

              ■ (7) 1571年(元亀2年)頃よ

              り、三好義継は、松永久秀と手を

              組んで、信長に反逆し、信長勢力

              と戦う。 1572年(元亀3年)には、

              義継は、久秀と共に、反信長の三

              好三人衆とも組んで、信長に敵対

              する。

              ■ (8) 1573年(天正元年)11

              月に、領国・河内北部の若江城を

              信長軍に攻められ、落城し、妻子と

              共に自害する。 1573年(天正元

              年)12月末には、松永久秀も、大

              和国の多聞山城を信長軍に攻めら

              れて、信長に降伏する。

 

〇 みよ   深芳野

             (みよしの)。 《人名》。

             (生没年不詳)。 

          ○ 深芳野は、室町時代後

                      期(戦国時代)の美濃国の

                      美人の女性である

          ○ 深芳野は、斎藤 義龍

              (よしたつ)の生母である

          ○ 深芳野は、斎藤 道三

                      (利政)(さいとう どうさん(とし

                      まさ)が美濃守護の土岐

           頼芸から拝領した(もらい

           うけた)側室夫人である

                      ■ 深芳野 (みよしの、生没年不

              詳)は、 室町時代後期(戦国時

              代)の美濃国の美人の女性である

                      ■ 深芳野は、 美人で 、美濃守護

              の土岐 頼芸(とき よりのり)が寵 愛

              した側室夫人である

                      ■ 深芳野は、 斎藤 道三(利政)

              の子の、斎藤 義龍(さいとうよした

              つ)の生母である

                      ■ 深芳野は、 斎藤 道三(利政)

                         (さいとう どうさん(としまさ))が

              美濃守護の土岐 頼芸から拝領

              した(もらいうけた)側室夫人であ

              る

                      ■ 深芳野は、 2020年NHK大

              河ドラマ「麒麟がくる」で、登場す

                         る。

 

〇 みよ  三好 吉房

             (みよし よしふさ)。 《人名》。

          (= 木下 弥助 (きのした やすけ)

                   三好一路 いちろ) 。

          ○ 三好吉房は、豊臣秀吉の

           姉・とも(日秀)の夫である。

          ○ 三好吉房は、豊臣秀次や

                      豊臣秀勝の実父である。

 

#mira

 

〇 みわ  美和。 

             (みわ)。 《人名》。

             (= 文(ふみ)、杉 文(すぎ ふみ)、

             杉 美和(すぎ みわ)、楫取 美和

             (かとり みわこ))。

          (1843−1921年)。

          (⇒ 楫取 美和子)。

          (⇒ 吉田 松陰)。

          (⇒ 久坂 玄瑞)。

          (⇒ 楫取 素彦)。

                      ○ 美和は、幕末の思想家・

          吉田松陰の妹である。

                      ○ 美和は、長州藩士・杉家

          当主の杉 百合之助(常道) 

          (すぎゆりのすけ(つねみち))

          四女である。

              ■ 美和 (楫取 美和子 、杉 文、杉 美

             和)は、184 3年の誕生より 杉 文(すぎ

             ふみ)と称し、1865年頃より 杉 美和

             (すぎ みわ)と称し、1883年から楫取

              美和子(かとりみわこ)と称す。 

                       ■ 美和 (楫取 美和子、杉 文、杉 美

             和)は、 幕末の思想家・吉田松陰 (よ

             しだしょういん、杉 寅之助(すぎ とらの

             すけ、幼名)、吉田家に養子後・吉田寅

             次郎(よしだとらじろう)) の妹 である。

                      ■ 美和 (楫取 美和子、杉 文、杉 美

              和)は、 明治維新を描く2015年NHK

              大河ドラマ「花燃ゆ(はなもゆ)」の主人

                             公(ヒロイン)である。

             ■ 美和 (楫取 美和子、杉 文、杉 美

              和)は、 幕末期、1番目の夫・久坂玄

              瑞(くさかげんずい)の夫人である。

              久坂玄瑞は、禁門の変(きんもんの

              へん)で戦死する。

                 美和は、 明治期、2番目の夫・楫

              取素彦(かとりもとひこ)の夫人である。

             ■ 楫取 素彦 (かとり もとひこ、旧名・

             小田村伊之助 (おだむら いのすけ))

             は、亡き姉の夫であり、 群馬県令(ぐ

             んまけんれい、任期1876−84年、現・

             群馬県知事に相当する職名)であり、 

                           1884年から、元老院議官、裁判官、

             貴族院議員、宮中顧問官、内親王養育

             主任などを歴任する。 

                楫取 素彦は、1887年には、華族

             (かぞく)の男爵(だんしゃく)となる。

 

〇 みん  民部卿局

             (みんぶきょうのつぼね)。 《人名》。

          ○ 民部卿局は、お江(おごう)

          の侍女、乳母である。

             ■ 民部卿局 (みんぶきょうのつぼね )

             は、 お江 (おごう 、浅井3姉妹の一人、

             江戸幕府・第2代将軍・徳川秀忠の正

             室夫人) の侍女(じじょ)、乳母(うば)

             である。

             ■ 民部卿局は、 NHK大河ドラマ「江

             (ごう)〜姫たちの 戦国」では、「ヨシ」

             (仮称)で登場する人物である。

             

 

 

   ● 五十音順 (あいうえお順)。

 

 

   ■  『 現在は、過去の成果であり、

       未来は、現在の成果である。 

         (良き現在は、過去の人々の良き努力

          や活動の積み重ねの成果であり、 

          明るい良き未来は、現在の人々の、

          良き努力や活動の積み重ねによって

          形成される。)

 

 

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#jpdictionary(general)

 

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#mi

 

◆ 派生見出し語サイト。

■ 「み」 基本・見出し語WEBサイト No. ja−mi 

   の、派生見出し語サイト

 

 No. ja−mi−2176。

● 見出し語項目 み   ( な 21 / も 76

  付近  第1部・な・マ行グループ )。

 みな  源 頼朝

             (みなもとの よりとも)。

          (源義朝の三男) (源義経

          の異母兄)(鎌倉幕府創始者)。

〇 みな  源 頼朝 関連年代順

        出来事(詳細) 

             (みなもとのよりとも かんれんねん

                          だいじゅんできごと(しょうさい))。

〇 みな  源 頼朝 年表 (簡略) 

             (みなもとのよりとも ねんぴょう

             (かんりゃく))。

 

■ No. ja−mi−2177。

● 見出し語項目 み   ( な 21 / も 77

  付近  第1部・な・マ行グループ )。

 みな  源 頼家 (みなもとの よりいえ)

          (1182〜1204年) (源頼朝

          の長子) (鎌倉幕府2代将軍

          (在任1202〜03年)。

 みな  源 実朝 (みなもとの さねとも)

          (1192〜1219年) (源頼朝

          の次子) (鎌倉幕府3代将軍

          (在任1203〜19年)。

 

■ No. ja−mi−2178。

● 見出し語項目 み   ( な 21 / も 78

  付近  第1部・な・マ行グループ )。

〇 みな  源 義経 (みなもとの よしつね)

          (源頼朝の異母弟) (戦いの

          天才)。

 

■ No. ja−mi−2179。

● 見出し語項目 み   ( な 21 / も 79

  付近  第1部・な・マ行グループ )。

〇 みな  源 為義 (みなもとの ためよし)

          (1096〜1156年) (源義朝

          の父、源頼朝・源義経の祖父)。

〇 みな  源 行家 (みなもとの ゆきいえ)。 

          (= 新宮十郎しんぐうじゅうろう) 

          (生年不詳〜1186年) 

          (源為義(ためよし)の子)。

〇 みな  源 義朝 (みなもとの よしとも)。

           (源頼朝 や源義経の父)

          (源為義(ためよし)の長子)。

〇 みな  源 義仲 (みなもとの よしなか)。 

          (= 木曽義仲 きそよしなか) (11

          54年〜1184年) (源頼朝の

          従弟(いとこ))。

 

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#miyoshisanninshu

 

■ 三好三人衆 

     (みよしさんにんしゅう) 。

 

■ 三好三人衆。

■ 名称 : 三好三人衆

        (みよしさんにんしゅう)

■ 三好三人衆とは、

   三好長逸(みおしながやす)、

   三好宗(みよしそうい) 、

   岩成友通(いわなりともみち)、

   の3人である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11537。

 

 

■ 三好三人衆。

■ (8) 三好三人衆・松永久秀・

      畿内付近地域支配政権 

      (1564年ー1568年)。

 ● 三好三人衆 (みよしさんにんしゅう)

   と松永久秀が、1564年(永禄7年)

   ら1568年(永禄11年)まで、実質上、

   畿内付近地域の支配者となる。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 ● 1564年(永禄7年)7月に、 三好長

   慶が病死する。 三好長慶に代わって、

   三好三人衆と松永久秀が、実質上、

   畿内付近地域の支配者となる。

 ● 1568年(永禄11年)に、 足利義昭・

   織田信長の軍が上洛し、三好三人衆は、

   義昭・信長の軍により敗走し、松永久秀

   は足利義昭・織田信長に臣従する。 

   三好三人衆と松永久秀に代わって、織

   田信長が実質上、畿内付近地域の支配

   者となる。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   

■ 三好三人衆。

■ 三好三人衆 (みよしさんにんし

   ゅう)とは、 三好長逸(みおしながや

   す)、三好宗(みよしそうい)、岩成

   友通(いわなりともみち)の3人の三

   好氏の一族・重臣である。 

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 三好三人衆。

■ 三好三人衆は、 1564年(永禄7年)

   の三好氏当主の三好長慶(みよしな

   がよし)の死後、 三好氏当主の

   継者の三好義継が若年のため、三好

   義継(三好長慶の甥、長慶の養嗣子)

   の後見役として、三好三人衆や松永

   久秀が台頭する。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 三好三人衆。

■ 三好三人衆は、 1568年(永禄11

   年)に、 織田信長の上洛(じょうら

   く)に反発し、抵抗するが、敗退し、

   畿内(きない)付近から駆逐され、

   1573年(天正元年)に、織田信長

   軍に敵対するが、敗れて壊滅する。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 三好三人衆。

■ 1564年から1577年までの間の三好

   義継、松永久秀、三好三人衆の動き。

 

  @ 1564年(永禄7年)の三好長慶の

    死後、 三好長慶に代わって、機内

    付近地域の三好氏の勢力は、三好義

    継(三好長慶の甥、長慶の養嗣子)を

    擁立して、三好三人衆と松永久秀が、

    事実上、畿内付近地域の支配者となる。

             

  A 1565年(永禄8年)に、 三好三人衆

    は、 三好義継、松永久通(松永久秀の

    息子)と共に、三好長慶の死を好機とみ

    て畿内付近の将軍親政を行おうとした、

    室町幕府・第13代将軍の足利義輝(よ

    してる)を殺害する (永禄の変)。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  B 1565年(永禄8年)の足利義輝殺

     害後、三好義継を担ぐ三好三人衆は、

     松永久秀と対立する。 

 

  C 1567年(永禄10年)から、三 好三

     人衆は、 三好三人衆から出奔し松

     永久秀を頼った三好義継 や 松永

     久秀 と対立する。

 

  D 1568年(永禄11年)に、 三好義継

     や 松永久秀は、 織田信長に味方

     し、 足利義昭の上洛を助け、三好

     三人衆と対立し、 三好三人衆は、

     9月に畿内付近地域から駆逐され、

     三好義継や松永久秀は、将軍となっ

     た足利義昭の幕臣となる。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  E 1570年(元亀元年)12月に、 松永

     久秀は、信長と三好三人衆との和睦

     交渉をまとめる。

 

  F 1572年(元亀3年)に、 松永久秀は、

     三好義継や三好三人衆と組んで、織

     田信長に敵対する。

 

  G 1573年(天正元年)に、 三好三人

     衆は、織田信長軍に敗れて壊滅し、

     11月に三好義継が敗死し、12月末

     に松永久秀は、信長軍に多聞山城を

     包囲されて降伏し、信長に服属する。

 

  H 1577年(天正5年)に、 松永久秀は、

     信貴山城にたてこもり、織田信長と対

     決姿勢を見せ、敵対し、信長軍に攻め

     られて自害する。

     ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ (8) 三好三人衆・松永久秀

     畿内付近地域支配政権 

     (1564年ー1568年)。

 

■ 三好三人衆 (みよしさんにんしゅう)と

   松永久秀が、1564年(永禄7年)から

   1568年(永禄11年)まで、実質上、

   内付近地域の支配者となる。

             

  ● 1564年(永禄7年)7月に、三好長

    慶が病死する。 三好長慶に代わっ

    て、三好三人衆と松永久秀が、実質

    上、畿内付近地域の支配者となる。

 

  ● 1568年(永禄11年)に、 足利義

    昭・織田信長の軍が上洛し、三好三

    人衆は、義昭・信長の軍により敗走

    し、松永久秀は足利義昭・織田信長

    に臣従する。 三好三人衆と松永久

    秀に代わって、織田信長が実質上、

    畿内付近地域の支配者となる。

 

■ 室町時代後期(= 戦国時代

    1467年ー1573年)の畿内

    付近地域の実質支配者。

  ● 室町時代後期(= 戦国時代、14

    67年ー1573年)に、室町幕府

    (= 足利幕府)の足利氏将軍の権

    威は保たれたが、足利氏将軍の

    権力は低下する。

  ● 応仁の乱(1467年ー1477年)

    後、足利氏将軍の支配地は、畿内

    付近地域のみとなり、その後、足利

    氏将軍に代わって、細川氏、三好

    氏、織田氏の勢力が、畿内付近地

    域を支配する。 

       つまり、室町幕府の8代義政、

    9代義尚、10代義稙・前期の時期

    は、足利氏将軍が畿内付近地域を

    支配し、 室町幕府の11代義澄、

    10代義稙・後期、12代義晴、13

    代義輝、14代義栄、15代義昭の

    時期は、順に、細川政元、細川高

    国、細川晴元、三好長慶、三好三

    人衆・松永久秀、織田信長が、

    内付近地域を支配する。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 室町時代後期(= 戦国時代

   1467年ー1573年)の畿内

   付近地域の実質支配者。

  ■ 室町時代後期(= 戦国時代)の、

   京(きょう、京都)や京周辺の畿内

   付近地域の実質支配者は、 順に、

  (1) 足利義政の畿内付近地域

      支配政権

      (1467年〜1486年、

      1489年〜1490年)、

  (2) 足利義尚(義熙) の畿内付

      近地域支配政権

      (1486年〜1489年)、

  (3) 足利義稙(義材、義尹)の

      畿内付近地域支配政権

      1490年〜1493年) 、

  (4) 細川政元の畿内付近地域

      支配政権

      (1493年〜1507年)、

  (5) 細川高国の畿内付近地域

      支配政権

      (1508年〜1531年) 、

  (6) 細川晴元の畿内付近地域

      支配政権

      (1531年〜1549年)、

  (7) 三好長慶の畿内付近地域

      支配政権

      (1549年ー1564年)、

  (8) 三好三人衆・松永久秀の

      畿内付近地域支配政権 

      (1564年ー1568年)、

  (9) 織田信長の畿内付近地域

      支配政権

      (1568年ー1573年) 、

  となる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#-appearingscenes

 

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#miyoshino

 

■ 深芳野 

     (みよしの) 。

 

■ 深芳野。

■ 名称 : 深芳野 (みよしの)

■ 生没年不詳。 

  深芳野は、室町時代後期(戦国時代)の

  女性である

■ 深芳野は、  美濃の美人である

■ 深芳野は、美濃国守護の土岐 頼芸(とき

     よりのり・よりなり・よりあき)が 寵愛した

     側室夫人である。

■ 深芳野は、斎藤道三(利政)(さいとう どう

  さん(としまさ)が土岐 頼芸より拝領した(も

  らいうけた)側室夫人である。

  (⇒ 拝領夫人)。

■ 深芳野は、斎藤 義龍( さいとう よしたつ)

  の生母である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 深芳野の出自。

■ 深芳野 (みよしの)は、 稲葉道則(いな

  ばみちのり)の娘で稲葉一鉄(良通)の姉

  であるとも、 また、一色左京大夫義清の

  娘で母は一色義遠の娘である(「美濃国諸

  旧記」)ともいわれている。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 深芳野。

■ 深芳野 (みよしの)は、 美濃国守護の

  土岐頼芸(とき より のり・よりなり・よりあ

    き)の側室 夫人であった。

     深芳野は、 美濃の美人であり、土岐

  頼芸に寵愛(ちょうあい)された。 

     その後、土岐 頼芸は、深芳野を斎藤

  道三(利政)(さいとう どうさん(としまさ))

  に下贈し(下げ渡し)、 深芳野は、 斎藤

  道三(利政)の側室夫人となり、 斎藤 義

  (さいとう よしたつ)を産む。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 深芳野、土岐頼芸、斎藤道三

   (利政)、斎藤義龍の四者関係。

  ● 土岐頼芸 (とき より のり・よりなり・より

  あき)は、  1526年(大永6年)12月頃に、

  土岐頼芸の側室夫人で美人の深芳野(み  

  よしの)を、斎藤道三(利政) (美濃国盗り

  父子二代説では、長井新左衛門尉(ながい

  しんざえもんのじょう)の子・長井規秀(な

  がいのりひで)) に下贈し(下げ渡し)、 

  深芳野は、斎藤道三(利政)の側室夫人なり、 

  1527年(大永7年)6月に、20歳で、斎藤

  義龍(さいとうよしたつ、幼名:豊太丸)

  産む (「美濃国諸旧記」)

  ● 斎藤 義龍(よしたつ)は、 土岐頼芸の

  子か、斎藤道三(利政)の子か、どちらの子

  か、 父親が不明である。

  ● 二次史料の江戸時代編纂の「美濃国諸

  家系譜」では、斎藤道三(利政)が深芳野を

  拝領する(もらいうける)前から、土岐 頼芸

  によって懐妊していたとされ、斎藤 義龍は、

  土岐 頼芸の子(御落胤(ごらくいん)とされ

  ている。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 深芳野と土岐頼芸と斎藤道三

  (利政)。

■ 深芳野 (みよしの)は、 拝領夫人である。 

     深芳野は、斎藤 道三(利政) (さいとう

  どうさん(としまさ))が土岐頼芸(ときよりのり・

  よりなり・よりあき)から拝領した(もらいうけ

  た)側室夫人である。

     斎藤道三(利政)は、 戦国大名であり、

  美濃守護の土岐頼芸を追放して、美濃国(み

  ののくに、現・岐阜県南部 の相当地域)の国

  主(こくしゅ)になった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 深芳野と斎藤義龍。

■ 深芳野は、 斎藤義龍( さいとうよしたつ)の

  生母である。

    斎藤義龍は、 斎藤道三(利政)(さいとう

  どうさん(としまさ))より、美濃・斎藤氏の家督

  (かとく)を継ぎ、 美濃国の国主となる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 斉藤道三(利政)の子供間の対

  立。

  ● 斎藤義龍(よしたつ) は、 斎藤道三(利

  政)の側室夫人・深芳野 が生母の子であり、

      一方、孫四郎、喜平次、帰蝶(= 濃姫)は、

  斎藤道三(利政)の 正室夫人・小見の方が

  生母の子である。

  ● 1554年(天文23年)に、斎藤道三(利

  政)の側室夫人・深芳野が生母の、斎藤義

  龍(よしたつ) が 斎藤道三(利政)(さいと

  うどうさん(としまさ)) より、美濃国の斎藤

  氏の家督(かとく)を継ぎ、 美濃国の国主

  となる。

  ● 斎藤道三(利政)の子供達は、 斎 藤義

  龍(よしたつ)  と、 孫四郎、喜平次、帰蝶

  (= 濃姫) とが対立する。

     斎藤道三(利政)の子供達は、斎藤道

  三(利政)の側室夫人・深芳野 が生母の、

  斎藤義龍(よしたつ)  と、 斎藤道三(利

  政)の正室夫人・小見の方が生母の、孫四

  郎、喜平次、帰蝶(濃姫)  とが対立する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 斎藤道三(利政)の夫人。

■ 斎藤道三(利政)の夫人には、 深芳野(み

  よしの)、 小見の方おみ のかた) などが

  いる。

 

  ● 深芳野 (みよしの)は、 

  斎藤道三(利政)の側室夫人であり、

  美濃国の土岐氏の土岐 頼芸 (とき よりの

  り・よりなり・よりあき)から拝領した(もらい

  うけた)拝領夫人であり、 

  斎藤 義 龍の生母である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ● 小見の方(おみ のかた)は、

  土岐明智氏出身で、

  斉藤道三(利政)の正室夫人であり、 

  孫四郎、喜平次、帰蝶 (きちょう、= 濃姫

  の生母であり、

  明智 光秀の叔母(おば)である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 斎藤道三(利政)の子。

■ 斎藤道三(利政)の子には、 

  (1) 長男の斎藤 義 龍(よしたつ)

  (2) 次男の孫四郎  (まごしろう 、= 龍重、

     龍元)、

  (3) 三男の喜平次 (きへいじ、= 龍定、

     龍之)

  (4) 娘の帰蝶 (きちょう、= 濃姫(のうひ

     め)、織田信長の正室夫人) 

  などがいた。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ (1) 長男の斎藤  義龍(よしたつ)は

   斎藤道三(利政) と 深芳野(みよしの)

   との間の子である。

  ● 斎藤 義龍(よしたつ)は、 土岐頼芸の子か、

  斎藤 道三(利政)の子か、どちらの子 か、父

   親が不明である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ (2) 次男の孫四郎  (まごしろう 、= 龍重、

    龍元)、 (3) 三男の喜平次 (きへいじ、=

   龍定、龍之)は、 

   斎藤道三(利政) と 小見の方 (おみの

   かた、明智光秀の叔母(おば))  との間の

   子である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ● (2) 次男の孫四郎 (まごしろう 、= 龍重、

   龍元)、 (3) 三男の喜平次 (きへいじ、=

   龍定、龍之) は、 生母が、小見の方(おみ

   のかた)であるとする説が有力である。

  ● (3) 三男の喜平次 (きへいじ、= 龍定、

  龍之)は、一色右兵衛大輔と名乗っているこ

  とから深芳野の子とする説もある。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ (4) 斎藤道三(利政)の娘の帰蝶 (きち

   ょう、= 濃姫(のうひ め)、織田信長の正室

   夫人) は、 

   斎藤道三(利政)  と 小見の方 (おみの

   かた、明智光の叔母(おば))との間の子

   である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#-appearingscenes

 

♪♪ 深芳野が登場する、興味深い関

    連ドラマ、映画、ドキュメンタリー。 

 

★ 深芳野が登場する興味深い、ドキ

   ュメタンリー。

 

■ にっぽん歴史鑑定 『 信長の才

   を見抜いた男 斎藤道三 』 。 

    (TBSテレビ・2017年9月25日・

    本放送・歴史ドキュメンタリー番組)。

 ■ 斎藤道三(利政)の、「従来説の美濃国

   盗り本人一代説」 と、 「新説の美濃国

   盗り父子二代説」を詳しく述べる。

 

 

★ 深芳野が登場する、興味深い関連

   ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

  歴史のドラマや映画は、史実(歴史上の事実) 

  と架空の出来事が、 混じって、描かれてい

  ます。 また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 麒麟(きりん)がくる 』。 

   (NHKテレビ・2020年大河ドラマ)。 

   (池端俊策 作・脚本)。

● 第3回「美濃の国」で登場する。

 

 日本の戦国時代(室町時代後期)、安土

   桃山時代を描く。

 

● 深芳野 (みよしの、斎藤 道三(利政)

   の側室夫人・土岐 頼芸(とき よりのり)

   の元側室夫人)を演じる女優名 : 

   南 果歩。 

 

● 斎藤 道三(利政)(さいとうどうさん(とし

  まさ))を演じる俳優名: 本木 雅弘。

● 斎藤 道三(利政)の男子・斎藤 義龍(さ

  いとうよしたつ)を演じる俳優名: 

  伊藤 英明。

● 斎藤 道三(利政)の正室夫人・小見の 

  方 (おみのかた、濃姫(= 帰蝶)の生

  母)を演じる女優名: 片岡 京子。 

● 斎藤 道三(利政)の娘・帰蝶(濃姫)(き

  ちょう(のうひめ)、織田信長の正室夫人) 

  を演じる女優名 : 川口 春奈。 

● 斎藤氏家臣の稲葉一鉄(良通)(いなば

  いってつ(よしみち))を演じる俳優名: 

  村田 雄浩。

 

● 美濃国守護の土岐 頼芸(とき よりのり)

  を演じる俳優名: 尾美 としのり。

● 美濃国守護の土岐政頼(頼武)(とき ま

  さより(よりたけ))の子の土岐頼純(とき

  よりずみ)を演じる俳優名: 矢野 聖人。

 

● 明智 光秀を演じる俳優名 :  

  長谷川 博己 (はせがわひろき)。

● 明智 光秀の母・お牧(まき)の方を演じ

  る女優名 : 石川 さゆり。 

● 明智 光秀の叔父・明智 光安(あけちみ

  つやす)を演じる俳優名 : 西村 まさ彦。 

● 明智 光秀の正室夫人・熙子(ひろこ)を

  演じる女優名: 

    木村 文乃 (きむらふみの)。 

 

● 織田 信長を演じる俳優名: 染谷 将太 

  (そめたにしょうた)。

● 織田 信長の父・織田 信秀(おだ のぶひ

  で)を演じる俳優名 : 高橋 克典。

 

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#minamidono

 

■ 南殿  

    み なみどの

 

■ 南殿。

■ 名称 : 南殿 (みなみどの)

■ 生没年 : 生年不詳〜1634年。 

■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代の

  女性。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 南殿 (みなみどの、生没年:生年不詳〜16

  34年)は、 羽柴秀吉(豊臣秀吉)の側室夫人

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 南殿は、 秀吉の長浜城時代、秀吉との 間

  に、1男1女をもうけたが、2人の子とも早世し

  た。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 南殿は、 羽柴秀吉(豊臣秀吉)の長男・

  松丸(羽柴秀勝)を産んだ。 

     しかし、石松丸(羽柴秀勝)は、6歳で早

  世(夭折(ようせつ)した。

     他に、南殿は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)と

  の間に女子ももうけたが、早世した。

     南殿は、二人の子に先立たれ、結局、

  竹生島(ちくぶじま、琵琶湖北部の島)の宝

  巌寺で出家した。  1634年(寛永11年)

  に死去する。

     南殿は、竹生島の文書の奉加帳など

  で存在が確認できる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 南殿 が登場する興味深い、ド

   キュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 南殿が登場 する、興味深い関連

  ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

  実) と 架空の出来事 が混じって描かれ

  ています。 また、 現代風にアレンジしてあ

    ります。

 

■ 『 軍師 官兵衛 (ぐんし かんべえ) 

   (NHK2014年大河ドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

● 南殿を演じた俳優名 : 辻本 瑞貴 

  (つじもと みずき)。

 

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#migyoshoofficialdocuments

 

■ 御教書 

    み ぎょうしょ

 

■ 御教書。

■ 名称 : 御教書 ( みぎょうしょ、みきょうじょ)

 

■ 御教書 (みぎょうしょ、みきょうじょ)は、 広義では、 

 「高貴な身分の者」(高位者)が出す公文書で、 奉書

 (ほうしょ)形式 と、 直書(じきしょ、直状(じきじょう)、

 直札(じきさつ))形式の2つがある。 御教書の種類は、

 多種にのぼる。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 御教書 ( みぎょうしょ、みきょうじょ)は、 狭義では、 

 公卿(くぎょう)の御教書で、 公卿(くぎょう)の出す奉書

 (ほうしょ)形式の公文書 を意味する。

 

◆ 御教書。

■ 奉書形式の公文書 と 直書形式の公文書

■ 御教書(みぎょうしょ、みきょうじょ)は、 「高貴な身分

 の者」(高位者)が出す公文書で、奉書(ほうしょ)形式 

 と、 直書(じきしょ、直状(じきじょう)、直札(じきさつ))

 形式 の2つがある。

   奉書(ほうしょ)は、 高位者が高位者の従者の名義

 で高位者の趣旨を記して発給する公文書で、 「高貴な

 身分の者」(高位者)が、 その意志・命令などの趣旨

 (しゅし)を、 家臣などの従者に、 口頭などで伝え、

 貴な身分の者」(高位者)の従者が差出人となり従者の

 名義で、 「高貴な身分の者」(高位者)の趣旨(しゅし)を

 記した文書を作成させ、  特定者に対し差し出し発給する

 公文書 である。

   直書(じきしょ、直状、直札)は、 高 貴な身分の者」

 (高位者)が直(じか)に高位者の名義で高位者の趣旨を

 記して発給する公文 書で、 「高貴な身分の者」(高位者)

 が、その意志・命令などの趣旨(しゅし)を、 家臣などの

 従者に、 口頭などで伝え、 「高貴な身分の者」 (高位者)

 が、差出人となり「高貴な身分の者」 (高位者)の名義で、 

 「高貴な身分の者」(高位者)の趣旨(しゅし)を記した文書

 を作成させ、 「高貴な身分の者」(高位者)の本人が署判

 ・署名し、 特定者に対し差し出し発給する公文書 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 天皇家公家は、平安時代中期以後、多くは、奉書(ほ

 うしょ)形式で、 綸旨(りんじ)、院宣(いんぜん)、令旨(り

 ょうじ)、公卿(くぎょう)の御教書(みぎょうしょ、みきょうじ

 ょ) など奉書形式の、公文書を出した。 一方、武家 は、

 多くは、直書(じきしょ、直状、直札)形式で、 公文書を出し

 た。

 

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#minamotonoyorimasa

 

■ 源 頼政 

    みなもとの よりまさ

 

■ 源 頼政。

■ 生没年 : 1104〜1180年。

■ 名称 : 源 頼政 (みなもとの よりまさ)

■ 平安時代末期の源氏の武将。

■ 清和源氏で摂津(せっつ)源氏の、源頼光(みなもと

 のよりみつ、948〜1021年)の4代後の子孫である。

 

 

■ 源 頼政は、 1156年の保元の乱や1159年の平

 治の乱で、平清盛側に参加し、源氏衰退の中で、一人、

 中央政界にあり、従三位(じゅさんみ)となり、出家して、

 従三位入道と称された。

   源 頼政は、 1180年に、以仁王の令旨(もちひと

 おうのりょうじ)を奉(ほう)じて、平氏追討を図(はか)

 り、源氏挙兵(きょへい)の先駆(せんく)をなし、宇治

 (うじ)で敗(やぶ)れ、自害した。

 

■ 源 頼政 (みなもとの よりまさ)は、 生没年は、11

 04〜1180年で、 平安時代末期の源氏の武将  で

 ある。

   源 頼政は、 清和源氏で摂津(せっつ)源氏の、源

 頼光(よりみつ、948〜1021年)の4代後の子孫 で

 ある。

 

 

♪♪ 源 頼政 が登場する、興味深い

    関連ドラマ、映画、ドキュメンタ

    リー。 

 

★ 源 頼政 が 登場する、興味深い

   関連ドキュメンタリー。 

 

■ 歴史秘話ヒストリア 

  『 私たち、草食系武士です。 

  〜新・平家家族物語〜 』。 

  (NHKテレビ・2009年(平成21年)

  12月16日・本放送ドキュメンタリー

  番組、第27回)。

 

★ 源 頼政 が登場する、興味深 い、

   関連ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクションです。 

   歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事が 混じって描かれていま

   す。 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 平清盛 (たいらのきよもり) 』 。 

   (NHKテレビ・2012年大河ドラマ)。

■ 平安時代末期を描いたドラマで、 

  平清盛の生涯や当時活躍した人

  物や当時の時代状況を描く

 

■ 『 義経 (よしつね) 』 。 

   (NHKテレビ・2005年大河ドラマ)。

■ 古代日本の平安時代末期を描い

  たドラマで、 源 義経(みなもとの

  よしつね)の生涯 や、 平安時代

  末期の色々な武士の活躍を描いた

  ドラマである。

 

● 源 頼政を演じた俳優名 : 

  丹波哲郎。

 

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#minbukyonotubone

 

■ 民部卿局 

    みんぶきょうのつぼね

 

■ 民部卿局。

■ 生没年不詳 (16世紀後半〜17世紀前半)。

■ 名称 : 民部卿局 (みんぶきょうのつぼね)。 実名

 不詳。

● 2011年NHK大河ドラマ「江(ごう)〜姫たちの戦国」で

 は、 「ヨシ」(仮称)として登場する人物。

■ お江(おごう)の側近。

■ お江(おごう)の侍女(じじょ)で、乳母(うば、めのと)。

 「お江」 (おごう、小督、お江与、崇源院) は、 江戸幕

 府2代将軍・徳川秀忠の正室夫人で、3代将軍・徳川家光

  の生母。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 民部卿局 (みんぶきょうのつぼね、生没年不詳) は、

 実名不詳で、 お江(おごう)の側近で、 民部卿局と呼

  ばれた。

   民部卿局 は、 2011年NHK大河ドラマ「江(ごう)〜

 姫たちの戦国」では、「ヨシ」 (仮称)として登場する人物

 である。

 

■ 民部卿局 は、 浅野家の侍女(じじょ)で、 お江(おご

  う)の乳母 (うば、めのと) となった女性である。 浅野家

  滅亡(1573年)後も、お江の侍女として仕え、 お江の生

  涯にわたり、お江の側近として重要な役割を果たした。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 「お江」 (おごう、小督、お江与、崇源院) は、 近江

 (おうみ、現在の滋賀県)の戦国大名・浅野長政(あざいな

 がまさ)とお市(おいち、織田信長の妹)の間の娘(浅井長

 政三女)で、 江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の正室夫人で、 

 3代将軍・徳川家光の生母 である。

 

 

♪♪ 民部卿局が登場する、興味深い、

    ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

★ 民部卿局が登場する、興味深い、

   ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

   歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事 が 混じって描かれています。 

   また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』 

 (日本の2011年 NHK大河ドラマ) 

● ヨシ (仮称、民部卿局) を演じた女優名 : 

  宮地 雅子 。

● 「お江」 (おごう、小督、お江与、崇源院)を演じた

  女優名 :  上野 樹里 (うえの じゅり) 。

 

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#midaidokoro

 

■ 御台所 

    (みだいどころ)

 

■ 御台所。

■ 時期 : 鎌倉時代から江戸時代まで。

■ 名称 : 御台所 (みだいどころ)。 

■ 幕府将軍正室・夫人

■ 江戸時代には、尊称として、御台様 (みだいさま)。

 

 

■ 御台所 (みだいどころ) とは、 幕府の将軍の正室夫人

 である。

 江戸時代に、 尊称として、御台様 (みだいさま) とも呼

 ばれた。 

   御台所の例として、 鎌倉時代初期に、北条政子が、最

 初の将軍の御台所で、 鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝(み

 なもとのよりとも)の御台所であった。 室町時代中期に、

 日野富子が、室町幕府の8代将軍・足利義政(あしかがよ

 しまさ)の御台所であった。 江戸時代初期に、お江(おご

 う)が、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)の

 御台所であった。 江戸時代末期に、 篤姫(あつひめ)が、 

 江戸幕府13代将軍・徳川家定(いえさだ)の御台所であっ

 た。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 江戸幕府 は、 江戸幕府の将軍の権威を高め  

 るため、宮家または公家から、 御台所(将軍の正

 室・夫人)を受け入れることが多かった。

 

◆ 江戸幕府(徳川宗家)の御台所 

   (みだいどころ、将軍正室・夫人)。

● 江戸幕府の御台所を、すべて、下記に表記

  した。

■ 江戸幕府   初代将軍・徳川 家康(いえやす) 

    (将軍在任1603〜05年)の御台所 :

  築山御前(ちくやまごぜん) 次に、朝日

  (あさひひ め) (家康将軍在職時、2人

  とも、既に、死去)。

  ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 江戸幕府  第2代将軍・徳川 秀忠(ひでただ) 

    (将軍在任1605〜23年) の御台所 :  

  小姫、次に、浅井達子(= お江(おごう))。 

■ 江戸幕府  第3代将軍・徳川 家光(いえみつ) 

  (将軍在任1623〜51年) の御台所 :  

  鷹司孝子 (たかつかさたかこ)。

■ 江戸幕府  第4代将軍・徳川 家綱(いえつな) 

  (将軍在任1651〜80年)  の御台所 : 

  顕子女王 (あきこじょおう)。

■ 江戸幕府  第5代将軍・徳川 綱吉(つなよし) 

  (将軍在任1680〜1709年) の御台所 : 

  鷹司信子 (たかつかさのぶこ)。 

  ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 江戸幕府  第6代将軍・徳川 家宣(いえのぶ) 

  (将軍在任1709〜12年) の御台所 : 

  近衛熙子 (このえひろこ、天英院)。

■ 江戸幕府  第7代将軍・徳川 家継(いえつぐ) 

  (将軍在任1713〜16年) の御台所 : 

  吉子内親王。

■ 江戸幕府  第8代将軍・徳川 吉宗(よしむね) 

  (将軍在任1716〜45年) の御台所 : 

  理子女王。

■ 江戸幕府  第9代将軍・徳川 家重(いえしげ) 

  (将軍在任1745〜60年) の御台所 : 

  増子女王。

■ 江戸幕府 第10代将軍・徳川 家治(いえはる) 

  (将軍在任1760〜86年) の御台所 :

    倫子女王。

■ 江戸幕府 第11代将軍・徳川 家斉(いえなり) 

  (将軍在任1787〜1837年)の御台所 : 

    近衛寔子。 

  ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 江戸幕府 第12代将軍・徳川 家慶(いえよし) 

  (将軍在任1837〜53年) の御台所 : 

    喬子女王。 

■ 江戸幕府 第13代将軍・徳川 家定(いえさだ) 

  (将軍在任1853〜58年)  の御台所 : 

  鷹司任子、次に、一条秀子、次に、近衛

  敬子(このえすみこ、篤姫(あつひめ))。 

■ 江戸幕府 第14代将軍・徳川 家茂(いえもち) 

  (将軍在任1858〜66年)  の御台所 : 

  親子内親王 (ちかこないしんのう、和宮

  (かずのみや))。 

■ 江戸幕府 第15代将軍・徳川 慶喜(よしのぶ) 

  (将軍在任1866〜67年)  の御台所 : 

  一条美賀子。 

 

 

♪♪ 御台所が登場する、興味深い、

    ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

★ 御台所が登場する、興味深い、

   ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) と 

  架空の歴史出来事が 混じって描かれてい

  ます。 また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』 

   (日本の2011年 NHK大河ドラマ) 

● 2代将軍・徳川秀忠の御台所の「お江」 

  (おごう、小督、お江与、崇源院)を演じ た

  女優名 : 上野 樹里 (うえの じゅり) 。

 

■ 『 天下騒乱〜徳川三代の陰謀 

  (てんかそうらん とくがわさんだいのいん

   ぼう) 』 

   (日本の2006年製作テレビ東京・テレビ

   ドラマ)。 

● 2代将軍・徳川秀忠の御台所の「お江」 

  (おごう、小督、お江与、崇源院)を演じた

  女優名 : かたせ 梨乃 (かたせ りの)。

 

■ 『 大奥・第一章 (おおおく だいい

    っしょう) 』 

    (日本の2004・2005年製作フジテレ

    ビ・テレビドラマ)。

● 初代将軍家康、2代将軍秀忠、3代将軍家

  光の時代 と その時代の大奥を描いたドラ

  マ。 松下由樹、高島礼子、瀬戸朝香 出演。

● 2代将軍・徳川秀忠の御台所の「お江」 

  (おごう、小督、お江与、崇源院)を演じた女

  優名 : 高島 礼子。

● 3代将軍・徳川家光の御台所の「孝子」を

  演じた女優 : 木村 多江。

 

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#miyoshiyosifusa

 

■ 三好 吉房 

       (みよし よしふさ) 。

 

■ 三好 吉房

■ 生没年 : 1522年(大永2年)〜1600年

  (慶長5年)

■ 名称 : 三好 吉房 (みよし よしふさ)。

● 最初は木下 弥助(きのした やすけ)、 

  後に、三好 吉房と称す。 号は一路(いちろ)

  で、 三好一路とも称す。

■ 豊臣秀吉の姉・日秀(にっしゅう)の夫。

■ 豊臣家の家臣で、安土桃山時代の武将。

■ 豊臣 秀次(関白)や豊臣 秀勝の実父。

■ 夫人は、 豊臣秀吉の姉・日秀(にっしゅう)。

■ 子は、豊臣秀吉の姉・日秀との間に、男子

  3人 (秀次(ひでつぐ、1568−95年)、 

  秀勝(ひでかつ 、1569−92年)、 秀保

  (ひでやす、1579−95年)。

 

 

■ 三好 吉房 (みよし よしふさ) は、 豊臣秀吉の姉・日秀の夫

 である。

■ 三好 吉房 は、 豊臣家の家臣で、 安土桃山時代の武将 で

 ある。

■ 三好 吉房 (みよし よしふさ)  は、 生没年は、1522年〜

 1600年 である。

■ 三好 吉房 (みよし よしふさ) は、  最初は、木下 弥助(きのし

 た やすけ) と称し、後に、三好 吉房と称した。 号は一路(いちろ)

 で、 三好一路とも称す。

■ 三好 吉房 は、 豊臣秀次(関白)や豊臣秀勝の実父 である。

■ 三好 吉房 の夫人は、 豊臣秀吉の姉・日秀(にっしゅう、(「とも」) 

 である。

■ 三好 吉房の子は、 日秀 (「とも」)との間に、  男子3人がいて、

 長男の豊臣秀次(ひでつぐ、1568−95年)、 次男の豊臣秀勝(ひで

 かつ、1569−92年)、 三男の豊臣秀保(ひでやす 、1579−95年)

 がいた。

 

■ 三好 吉房 (1522年〜1600年) は、 尾張国の農夫と言われ、 

 通称は、弥助で、 豊臣秀吉の縁者のため木下姓を与えられ、 木

 下弥助と称し、その後、 三好姓を与えられ、三好 吉房(みよし よし

 ふさ、号は一路(いちろ)) と称した。

● 三好吉房 (木下弥助) は、尾張犬山城主になったが、 息子の豊

 臣秀次が、1595年(文禄4年)に切腹し自害した際、 連座して、改

 易(かいえき)され、 讃岐国(さぬきのくに、現在の香川県)に流罪と

 なる。

 

 

♪♪ 三好 吉房 が登場する、面白く、

  興味深いドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画 は、史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事 が 混じって描かれていま

  す。 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』 

   (日本の2011年NHK大河 ドラマ) 

 

■ 『 寧々〜おんな太閤記 (ねね 

    おんなたいこうき) 』 

   (日本の2009年製作テレビ東京・テレビ

   ドラマ)。 

● 三好吉房 (木下弥助)を演じた 俳優名 : 

  吉見 一豊。

● 豊臣 秀吉を演じた俳優名 : 市川 亀治郎。

 

■ 『 功名が辻 (こうみょうがつじ) 』 

   (日本のNHK2006年 大河ドラマ)。

 

■ 『 利家とまつ〜加賀百万石物

   語〜 』 

   (NHK2002年大河ドラマ)。

 

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#myoji

 

■ 名字 

      (みょうじ)。

 

■ 名字。

■ 名称 : (前近代日本の) 名字 (みょうじ)。

■ 時期 : 古代日本 〜 近世日本の時期頃 

  (大和時代〜江戸時代頃)。

 前近代の、名字の家名という一族名。

 前近代日本の、一族名の1つ。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

■ 名字 (みょうじ) は、 前近代日本では、 一族名の1つで、 名字の家名

 という一族名 である。

 

■ 一族名 (氏(うじ)、姓(せい)) には、 氏姓(しせい)、 名字(みょうじ)、

 屋号(やごう) 等があり、  「氏姓(しせい、姓氏)の氏族名(しぞくめい)と姓

 (かばね)」 であり、 「名字(みょうじ)の家名(かめい)」  、「商号等の屋号

 (やごう)」 である。

 

■ 前近代の日本の一般庶民の一族名 (「氏(うじ)、(姓(せい))

■ 古代中期から中世初期の奈良時代から鎌倉時代まで、 百姓身分等の

 一般庶民は、 氏集団に属し、氏族名を持っていた (一族名(「氏(うじ)」)

 の「氏姓(しせい)の氏族名」をもっていた)。  

   古代の律令国家の時代  (奈良時代、平安時代初期)には、一般庶民は、

 どの氏族組織の一員であるかを示す、 戸籍に登録した、氏集団である、律

 令戸籍の氏族名を持っていた。 律令制崩壊後、 平安中期から鎌倉期頃ま

 では、 一般庶民は、貴族・大寺院などの寄人(よりうど)から与えられた氏の

 実利的氏集団 (例、秦氏、清原氏) に属し、 その氏集団の氏族名を持つ

 ようになった。

 

■ 中世中期の鎌倉時代末以後、 百姓身分等の一般庶民 は、婚姻関係を

 基礎にした継続的な家組織をもつようになり、 氏集団への依存度が減少し、

 氏族名 (一族名(「氏(うじ)」)の「氏姓(しせい)の氏族名」) を名乗る習慣

 が減少していき、 代わりに、 独立的家名としての、私称の、名字 (みょう

 じ)」 (一族名(「氏(うじ))」)の「名字の家名」) を、名乗ることが一般的に

 なった。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 前近代の日本では、百姓身分等の一般庶民は、 村や町の自治的領域

 内では、 個々の「家」に属しており、 当然ながら、  私称の、名字 (一族

 名(「氏(うじ))」)の「名字の家名」) を持っていた。

  しかし、江戸時代では、公式な場で、「 名字 」を名乗ることは、 武士や

 公家などに限られた。

 

 

■ 前近代の上層日本人男性 は、  次のような形式で、 名字を称した。

■ 西郷隆盛の場合。

 西郷隆盛の名字 は、 「西郷」 (さいごう) であり、 「 名字+通称 」

 の、西郷 吉之助 (きちのすけ)、 「 名字+諱(いみな)の実名 」の、西

 郷 隆永 (たかなが)、 「 名字+号(ごう) 」の、西郷 南洲 (なんしゅう)

 等という形式で、 称した。

 

■ 織田信長の場合。

 織田信長のの名字 は、 「織田」 (おだ) であり、 「 名字+通称 」

 の、織田 三郎(おだ さぶろう)、  「 名字+律令官名(りつりょうかんめ

 い) 」の、織田 弾正忠(おだ だんじょうのちゅう)、 「 名字+諱(いみ

 な)の実名 」の、織田 信長 (おだ のぶなが) 等という形式で、称した。

 

● 前近代では、 現在の正式名の「 名字+諱(いみな)の実名 」パターン

 の 呼び方、 西郷 隆永 」、「 織田 信長 」と呼ばれるケース  は、当

 時は、少なかった。

 

 

■ 前近代の一般の日本人男性 は、 前近代の厳格な身分制社会では、 

 「 通称 」、 私称の「 名字 」 のみ所持。 

● 持っている私称の一族名の「名字」は、日常、使わず、 

● 個人名の「通称」だけで、自称したり、呼ばれたりした。 

(例、 漁民のジョン万次郎の場合、万次郎」 と自称したり、呼ばれたりした)。

■ 前近代の上層の日本人女性 は、  前近代の厳格な父系社会では、 

 「 通称 」、 公称の「 名字 」 を所持、 

 別に、高い身分の上層の女性は、公式の場のみで使用する、「 氏姓の氏

 族名・姓(かばね)+諱(いみな)の実名 」 を所持。 

● 持っている公称の(自分の父方の)一族名の「名字」は、 日常、使わず、

● 個人名の「通称」だけで、自称したり、呼ばれたりした。

(例、 山内一豊の妻の千代の場合、千代」と自称したり、呼ばれたりした)。  

■ 前近代の一般の女性の氏名は、 前近代の厳格な身分制社会・父系社

 会では、 「 通称 」、 私称の「 名字 」 のみ所持。 

● 持っている私称の(自分の父方の)一族名の「名字」は、日常、使わず、

● 個人名の「通称」だけで、自称したり、呼ばれたりした。 

 

 

■ 前近代の一般の日本人男性 は、 前近代の厳格な身分制社会では、 

 持っている私称の一族名の「名字」は、日常、使わず、 個人名の「通称」

 だけで、自称したり、呼ばれたりした (例、  漁民のジョン万次郎の場合、

 幕末、「万次郎」 と自称したり、呼ばれたりした)。

 

■ 前近代の上層の日本人女性 は、  前近代の厳格な父系社会では、 

 持っている公称の(自分の父方の)一族名の「名字」は、 日常、使わず、

 個人名の「通称」だけで、自称したり、呼ばれたりした (例、 山内一豊の

 妻の千代の場合、  「千代」と自称したり、呼ばれたりした)。  

   また、 「父親名+娘」または「夫名(おっとめい)+夫人」 等という言い

 方で、自称したり、呼ばれたりもした (千代の場合、 「若宮 喜助友興の

 娘」、「山内一豊の夫人(妻)」と自称したり、呼ばれたりもした)。

   別に、高い身分の上層の女性は、公式の場のみで使用する、「 氏姓の

 氏族名・姓(かばね)+諱(いみな)の実名 」 を所持した。 

 

● 文献では、 日本人女性 は、 「 父親名+娘 」 (例、山内一豊の妻

 の千代の場合、「若宮 喜助友興 女」 (若宮 喜助友興の娘))、 「夫名(お

 っとめい)+夫人」 (例、千代の場合、「山内一豊室 」 (山内一豊の夫人))

 等と記載されていることが多い。

 

■ 前近代の一般の女性の氏名は、 前近代の厳格な身分制社会・父系社

 会では、 持っている私称の(自分の父方の)一族名の「名字」は、日常、

 使わず、個人名の「通称」だけで、自称したり、呼ばれたりした。 

   また、「父親名+娘」または「夫名(おっとめい)+夫人」 等という言い方

 で、自称したり、呼ばれたりもした。

 

 

■ 日本では、前近代と現代の氏名を比較すると、 

  前近代の一族名(「氏(うじ)」)には、 氏姓 (し

  せい)、 名字 (みょうじ)、 屋号 (やごう) 等

  があり、 また、 前近代の個人名(「名(な)」)

  には、  (いみな、 実名、公式名)、 通称 (あ

  だ名)、  (ごう)、  律令官名 (りつりょうか

  んめい)、 法名 (ほうみょう)  等があった。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 前近代日本の人名。

■ 前近代日本の上層階層の日本人成人男性 

  は、 現代日本人の名字と名のワンパターン

  構成の氏名ではなく、 「複数パターン(組合

  せ)構成の氏名」 を持っていた。

 一族名 (氏(うじ)) + 個人名 (名(な)) 

  の組み合わせ。

 @ 「 名字(みょうじ)  通称(つうしょう)」。  

   A 「 名字  律令官名(りつりょうかんめい) 」 。 

   B 「 氏姓(しせい)の氏族名・姓(かばね) + 

     諱(いみな)の実名 」。 

   C 「 名字  (いみな)の実名 」。 

   D 「 名字  (ごう) 」。

     E 「 名字  法名(ほうみょう) 」(後世の呼び名)。

   F 「 屋号(やごう) + 通称 」。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ (例) 戦国大名の織田 信長 (おだ のぶなが) 

   の場合。 

  @ 「 織田 三郎 」(おだ さぶろう)、 

  A 「 織田 弾正忠  」(おだ だんじょうのちゅう)、

  B 「 平 朝臣 信長 」(たいらの あそん のぶ

    なが)、 

  C 「  織田 信長 」(おだ のぶなが) 

   等の氏名を持っていた。 

 現在の正式名の C 「 名字+諱(いみな)の

  実名 」パターンの 呼び方、 C 「 織田 信長 」

  と呼ばれるケース は、 当時は、少なかった。

■ (例) 越前藩主の松平 慶永 (まつだいら よ

  しなが) の場合。 

   D 松平 春嶽 」(まつだいら しゅんがく) 

  等の氏名を持っていた。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ (例) 戦国大名の上杉 謙信 (うえすぎ けん

  しん) の場合。 

 法名 「不識庵(不識院)謙信」 より 謙信をと

  って、 E 「 上杉 謙信 」 (うえすぎ けん

  しん) と後世の人に呼ばれた。 

 当時は、俗世の名字と法名(ほうみょう)を一緒

  に呼ぶことはなかった。

    本人は、当時は、「 不識庵(不識院)謙信 」

  と称していた。

■ (例) 豪商の茶屋 四郎次郎 (ちゃや しろうじ

  ろう) の場合。 

  F 「 茶屋  四郎次郎 」(ちゃや しろうじろう) 

  等の氏名を持っていた。

 

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#mitohan

 

■ 水戸藩 

      (みとはん)。

 

■ 水戸藩。

 存続時期 : 江戸時代初期〜明治時代初期。

■ 名称 : 水戸藩 (みとはん)。

 茨城県。

■ 1609年成立。 

■ 藩祖(初代藩主)は、徳川家康の男子、徳川頼

  房(よりふさ)。

■ 25万石の藩。

■ 徳川御三家の1つ。 親藩。

 

 

■ 藩 (はん) とは、大名の領地とその支配機構 

  である。

 

■ 水戸藩 (みとはん) とは、 茨城県に、 江戸

  時代初期から明治時代初期まで存在した、藩 

  である。

 

■ 水戸藩 は、 親藩 (徳川家康の男子が始祖

  となている藩) である。

 

■ 水戸藩は、 徳川御三家の1つの水戸徳川氏

  (家)の当主が、代々、藩主を務(つと)めた藩 

  である。

 

■ 水戸藩は、 1609年に成立し、 藩祖(はんそ、

  初代藩主)は、 徳川家康の男子、徳川頼房(よ

  りふさ)で、  25万石の藩 である。

 

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#mizunotadakuni

 

■ 水野 忠邦  

    (みずの ただくに)。

 

■ 水野 忠邦。 

■ 生没年 : 1794〜1851年。 

■ 名称 : 水野 忠邦 (みずの ただくに)。

■ 1841〜43年、天保の改革を断行する。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

■ 水野 忠邦 (みずの ただくに、 生没年は179

  4〜1851年) は、 江戸時代後期の政治家で、 

  唐津藩主であり、 後、 浜松藩主となった。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 水野 忠邦 は、 徳川幕府12代将軍家慶(いえ

  よし)の治世の、江戸幕府の老中 (1834〜43、

  44年) で、 1841年から1843年まで、 天保

  の改革を断行する。

 

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#miyamotomusashi

 

■ 宮本武蔵  

     (みやもとむさし)。

 

■ 宮本 武蔵。 

■ 名称 : 宮本 武蔵 (みやもと むさし)。 

● 別名 : 二天、 二天道楽、 または、 

  新免武蔵守藤原玄信(「五輪書」では) と

  号した。

■ 生没年 : 

  1582年または1584年〜1645年。 

■ 江戸時代前期の剣豪、剣術の達人。 

■ 人間形成の書「五輪書」(ごりんのしょ)を

  著(あらわ)す。

■ 二刀流の剣術を工夫し、二刀を用いること

  で有名な「ニ天一流」兵法の祖 となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 92138。

 

 巌流島 (舟島)の決闘

 五輪書

 宮本武蔵 が登場する、興味深い、

   ドラマ、映画、ドキュメンタリー

 

 

■ 宮本 武蔵 (みやもと むさし、生没年:1582

  年または1584年〜1645年) は、 江戸前

  期の剣客、剣豪(剣術の達人) である。 

 

■ 巌流島の決闘。

 巌流島の決闘 (がんりゅうじまのけっとう)

  は、 宮本 武蔵は、佐々木小次郎と戦い、

  遅刻せずに、巌流島 (がんりゅうじま、舟島

  (ふなじま))に行き、 巌流島(舟島)の海岸

  砂場で、 佐々木小次郎と何度も剣を交え、木

  刀(ぼくとう)で小次郎の頭を叩(たた)き、倒し、

  薄氷の勝利を得た。

 

● 宮本 武蔵の勝因は、 (1) 足元が不安定な

  海岸の砂場であり、武蔵は、足場の悪い所で

  の姿勢を常に訓練し、小次郎は転ぶこともあ

  り動きずらかったためであり、 また、(2) 剣

  の軽さであり、 武蔵の長い木刀は軽く、約

  800gであり、小次郎の長い真剣は、重く、約

  2kgであり、武蔵は、剣を振り回しやすかった

  ためである。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 宮本 武蔵は、 二天、二天道楽、または、新

   免武蔵守藤原玄信 (しんめんむさしのかみ

   ふじわらのはるのぶ、「五輪書」では) と名

   乗った。

 

■ 宮本 武蔵は、 二刀流の剣術を工夫し、二刀

  を用いることで有名な「ニ天一流」兵法の祖と

  なる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 宮本 武蔵は、 安土桃山時代から江戸時代初

   期までの時代に、 各地を放浪し、多くの決闘

   を行い勝ち、 各地の大名の客分(きゃくぶん)

   となる。 

      宮本 武蔵は、 前半生で、 手段を選ば

   ず、決闘に「勝つ」ことに執念を燃やした武士

   である。 宮本 武蔵は、勝つために、決闘地へ

   行き、事前調査をしていたと推測される。

      晩年、九州の細川家で、客分(きゃくぶん)

   となり、そこが安住の地となる。

      宮本 武蔵 は、 京(都)の吉岡一門を破

   り、「天下一」の剣豪となり、 高位の身分(大

   名の家老、または、一国一城の小大名のクラ

   ス)を望んだが、 江戸時代初期であり、 戦国

   の世は既に終わり、 大名(藩)の剣術指南役

   (けんじゅつしなんやく、剣術師範)では高位の

   身分には就(つ)けず、 また、 大名(藩)の下

   級家臣として組織に組み込まれることも望まず、 

   各地の大名(藩)の客分(きゃくぶん) となったと

   推測される。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 宮本 武蔵は、 戦国時代に没落した播州(ばん

  しゅう、兵庫県)の田原家貞(たわらいえさだ)の、

  田原(たわら)家の武士の出身で、 美作(みまさ

  か、岡山県)の宮本にいた、剣術家の新免無二

  (しんめんむに)の養子となり、 新免無二のもと

  で、 剣術の修行に励(はげ)んだ。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 宮本 武蔵は、 足利将軍家の剣術指南役(師

  範)であった、京(都)の吉岡一門(よしおかいち

  もん)に決闘で勝った後、 1605年に、剣術家

  として、「天下一」を名乗る。

     宮本 武蔵は、 江戸幕府の重鎮(じゅうち

  ん)から一目おかれた存在となり、 へりくだら

  ず、各地の大名の客分(きゃくぶん)となる。

     宮本 武蔵は、 明石(あかし)の町割り(都

  市設計)を、 譜代大名の領主から任されてい

  る。

     宮本 武蔵は、 関ヶ原の戦い、大坂夏の

  陣、島原の乱で兵士として、参戦している。

     宮本 武蔵は、大阪の陣(1914〜15年)

  では、 江戸幕府側の大名の水野氏の護衛も

  務(つと)めている。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 武家の田原(たわら)家出身の、宮本 武蔵は、 

  家の再興を望み、 宮本伊織(みやもといおり)

  を養子とし、 伊織を、播州(ばんしゅう、兵庫

  県)の明石城に出仕させ、大名に仕官させた。

  後に、伊織は、 大名の筆頭家老となる。

 

 

#miyamotomusashi-thebookoffiverings

 

◆ 宮本 武蔵の「五輪書」。

■ 宮本 武蔵は、 人間形成の書「五輪書」(ごり

   んのしょ)を著(あらわ)す。

     宮本 武蔵は、 晩年に(1943〜45年に)、

   兵法書の、「五輪書」 (ごりんのしょ、英:The 

   Book of Five Rings) を著作する。 

     五輪書は、 地の巻(ちのまき)、水(すい)

   の巻、火(か)の巻、風(ふう)の巻、空(くう)の

   巻の5つの巻物(まきもの)から成る。 

     宮本 武蔵 、 鍛錬したのちに空(くう)の

   境地に到ったと記している。

     五輪書で、宮本 武蔵 は、人間形成では、

   「鍛錬(たんれん)」を重視した。 1980年代

   に、英訳した五輪書は、アメリカで、ビジネスマ

   ンによく読まれた。

      五輪書には、巌流島の決闘(舟島の決闘)

   の記述はない。

      宮本 武蔵 は、「五輪書」の完成後、第5

   巻の空の巻の完成後、間もなく、死去する。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

#miyamotomusashi-hisduels

 

◆ 宮本 武蔵の決闘。

 

■ 巌流島の決闘。

 巌流島の決闘 (がんりゅうじまのけっとう)

  では、 宮本 武蔵は、 佐々木小次郎と戦い、

  遅刻せずに、巌流島 (がんりゅうじま、舟島

  (ふなじま))に行き、 巌流島(舟島)の海岸

  砂場で、 佐々木小次郎と何度も剣を交え、木

  刀(ぼくとう)で小次郎の頭を叩(たた)き、倒し、

  薄氷の勝利を得た。

 

● 宮本 武蔵の勝因は、 (1) 足元が不安定な

  海岸の砂場であり、武蔵は、足場の悪い所で

  の姿勢を常に訓練し、小次郎は転ぶこともあ

  り動きずらかったためであり、 また、(2) 剣

  の軽さであり、 武蔵の長い木刀は軽く、約

  800gであり、小次郎の長い真剣は、重く、約

  2kgであり、武蔵は、剣を振り回しやすかった

  ためである。

 

 

■ 巌流島の決闘。

■ 宮本 武蔵は、 13歳から29歳まで、 60余

   の剣術の決闘(勝負)を行い、勝ち(五輪書よ

   り)、剣豪として名を高めた。

     29歳での巌流島(がんりゅうじま、舟島(ふ

   なじま))の決闘でも、 岩流 (がんりゅう、佐々

   木小次郎(ささきこじろ、後世の呼び名)、巌流、

   岩龍(がんりゅう)) と戦い勝った。 しかし、 

   巌流島の決闘(舟島の決闘)については、宮本

   武蔵本人が記述したものはない。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 巌流島(がんりゅうじま、舟島(ふなじま))の

   決闘は、 1612年頃に、宮本武蔵が29歳頃

   に、  瀬戸内海の関門海峡の舟島(ふなじま)

   で、 宮本武蔵 と 岩流 (がんりゅう、佐々

   木小次郎(ささきこじろう、後世の呼び名)、巌

   流、岩龍(がんりゅう)) が戦った決闘である。

      舟島(ふなじま)は、 後世の歌舞伎・読

   本・小説などで巌流島(がんりゅうじま)とも呼

   ばれ、 現在の山口県下関市の舟島であり、 

   瀬戸内海の関門(かんもん)海峡に浮かぶ島 

   である。

      宮本武蔵は、 巌流島の決闘(舟島の決

   闘)以後、 決闘を行わず、 人生に転機となっ

   た最後の決闘であった。 巌流島の決闘(舟島

   の決闘)では、 宮本武蔵の人生を変える何か

   が起こった。

      巌流島の決闘(舟島の決闘)については、

   宮本武蔵本人が記述したものはない。

      巌流島の決闘(舟島の決闘)は、 宮本武

   蔵本人にとって、他者に誇るべきものではなか

   ったと推測される。 宮本武蔵本人にとって望ま

   ない決闘であり、不本意な内容であり、また、運

   よく勝ったと推測される。

 

■ 巌流島(舟島)の決闘は、 一次史料が少なく、

   一次史料として小倉碑文 (こくらひぶん、宮本

   武蔵の養子・宮本伊織(いおり)が記した) など

   しかなく、 決闘があった事実だけはわかっては

   いるが、 決闘の原因、内容などの詳細は、一

   次史料がなく、不明である。 

      後世の歌舞伎・読本や吉川英治著宮本武

   蔵などの創意、創作により、 巌流島の決闘(舟

   島の決闘)では、後世の人が勝手に想像した脚

   色が多い。  

 

■ 巌流島(がんりゅうじま、舟島)の決闘で、 宮本

   武蔵は、 佐々木小次郎(= 岩流、巌流) と

   の決闘を行い、勝利を得た。 

     対戦相手の 岩流 (がんりゅう、佐々木小

   次郎、巌流)の人物(年齢、主君、出身地など)

   については、 一次史料がなく、不明である。 

   佐々木小次郎(= 岩流、巌流)は、約18歳と推

   測される。 一説には、 佐々木小次郎(= 岩流、

   巌流)は、 富田の弟子で、70歳位の剣士で、 

   小倉藩(こくらはん)の剣術指南役(師範)であっ

   たと伝えられている。

 

■ 巌流島の決闘(舟島の決闘)の「確実な原因」 

   は、 一次史料がなく、不明であり、わかって

   いない。 次の推測による諸説がある。

● 宮本武蔵と佐々木小次郎の弟子同士のいざこ

   ざ説、 九州の細川忠興(たつおき)・忠利(た

   だとし)父子の面子(めんつ)説、 養父・新免

   無二(しんめんむに)の代理出馬説、 その他

   様々な推測による諸説がある。

  

 巌流島(がんりゅうじま、舟島)の決闘の「確実

  な内容」についは、 一次史料がなく、不明であ

  り、わかっていない。 

    決闘中の内容には、多くの推測による諸説が

  ある。 次の説は、諸説のいくつかである。

 

  (1) 一次史料ではないが、色々な史料から 推

  測した説の1つ。

     決闘の武器として、 佐々木小次郎の剣は、

  長く、 剣の柄(つか、手で握る所)を含んで3尺

  (120cm)もあり、振りやすく軽くするため刃が

  細身であり、 宮本 武蔵は、 その剣に対抗する

  ような真剣をすぐに用意できなかったため、また

  は、木刀は真剣よりも軽く振り回すのに有利とみ

  て、木刀で決闘に臨(のぞ)むことにし、小次郎

  には自分は木刀(ぼくとう)戦うと事前に通告

  した。

      宮本 武蔵は、 小次郎の長い真剣よりも

  「より長い木刀」(126.7cm)を(何日もかけて)

  削って、前もって用意した。

     宮本 武蔵は、 決闘の時間通りに舟島に

  やって来て(小倉碑文)、 乗ってきた船から降り、 

  持参した「より長い木刀」を後ろに隠し、 襲い

  掛かる直前まで小次郎には木刀の全体を見せ

  ず、 舟島の砂地で、 「より長い木刀」で佐々

  木小次郎に突然飛び掛り、 宮本 武蔵は、 

  よく、佐々木小次 郎の顔面に一撃をくわえて小

  次郎が倒れ、 宮本 武蔵が、決闘に勝利を得た 

  と言われている。 

 

  (2) 後世の歌舞伎・読本や吉川英治著宮本武

  から 創作された説の1つ。

     宮本 武蔵は、 決闘の時間に遅れて舟島に

  やって来て、 待っていた佐々木小次郎の心を乱

  し怒らせ、 更に、決闘中に、宮本 武蔵は、勝つ

  ために、眩(まぶ)しい太陽を背にして、 または、 

  真剣の刃に太陽をあて光らせ反射光を小次郎の

  顔に当てて、 小次郎が太陽の光で目がくらんだ

  一瞬の隙(すき)を狙って、 宮本 武蔵が、  飛び

  上がり、 小次郎の頭に、木刀(ぼくとう)でまたは

  真剣で一撃を加えて小次郎が倒れ、  宮本 武蔵

  が、決闘 で勝利を得た と言われている。 

 

 

■ 決闘後に起こった出来事では、 諸説がある。

   沼田家記(ぬまたかき)は、一次史料ではな

   いが、参考に記しておく。

● 沼田家記では、 武蔵が去った後、 佐々木小

   次郎は、蘇生(そせい)し、負傷し、なんとか立

   ち上がったが、 隠れていた宮本武蔵の弟子た

   ちに囲まれ、殺害された と記されている。

      また、沼田家記では、決闘後、佐々木小

   次郎の弟子たちが、宮本武蔵を襲おうとした

   ので、宮本武蔵は、沼田家に逃げ込み、 沼田

   家の鉄砲隊に守られて、 豊後(ぶんご)の剣

   術指南役(師範)だった養父・新免無二の元へ

   行った と記されている。

   

 

#miyamotomusashi-appearingscenes

 

♪♪ 宮本武蔵 が登場する、興味深

  い、ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

★ 宮本武蔵 が登場する、興味深い、

  ドキュメンタリー。

 

■ 偉人たちの健康診断

  『 宮本武蔵 』。

  (NHKテレビ・2018年放送・

  ドキュメンタリー番組)。

■ 宮本武蔵を詳しく述べる。

 

■ BS歴史館 『 シリーズ・ヒー

  ロー伝説A 宮本武蔵 巌流島 

  ミステリー 』。 

  (NHKテレビ・2013年11月19日・

  放送・ドキュメンタリー番組)。

■ 宮本武蔵を詳しく述べる。

 

 

★ 宮本武蔵 が登場する、興味深い、

  ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が 混じって描かれていま

  す。 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 宮本武蔵 』。 

    (テレビ朝日・2014年3月15・

    16日・テレビドラマ)。

■ 宮本武蔵を描く。

 

● 宮本武蔵を演じた俳優 : 木村拓哉。

 

■ 『 魔界転生 』。 

   (日本の2006年映画)。

■ 宮本武蔵を描く。

 

● 宮本武蔵を演じた俳優 : 長塚 京三。

 

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#miyoshishinzo

 

■ 三吉慎蔵 

       (みよししんぞう)

 

■ 三吉 慎蔵。

■ 名称 : 三吉 慎蔵 (みよし しんぞう)。

■ 幕末、長府(長州)藩士。

■ 坂本龍馬の友人。

■ 寺田屋幕吏襲撃時、坂本龍馬と共に防戦する。

■ 龍馬暗殺後、龍馬夫人のお龍(おりょう) の世話

  をし、土佐へ送り届ける。

 

 

■ 三吉 慎蔵 (みよし しんぞう) は 、幕末、 長

  府(長州)藩士で、坂本龍馬の友人であった。 長

  府藩は、長州藩の支藩である。

 

■ 1866年(慶応2年)1月の寺田屋事件

● 三吉慎蔵 は、  寺田屋 に幕吏が襲撃時、 寺

  田屋に坂本龍馬と共にいて、 幕吏と防戦する。

    密約の薩長同盟が成立後、 坂本龍馬は、寺

  田屋で、三吉 慎蔵と祝杯をあげていた。 そこを

  幕府の伏見奉行所の捕手が急襲した。 竜馬は、

  ピストルで、三吉慎蔵 は、槍(やり)で、応戦した。 

  龍馬は、 左手を負傷し、  2人は、 なんとか寺

  田屋を脱出し、 薩摩藩邸に逃げ込んで、難を逃

  れた。

 寺田屋事件の詳細 は、 「三吉慎蔵日記抄録」

  に書かれている。

 

■ 三吉慎蔵 は、 龍馬暗殺後、 龍馬夫人のお

  龍(おりょう)の面倒をみていたが、 1968年(慶

  応4年)3月に、 お龍を、坂本龍馬の縁者のい

  る、土佐(とさ、高知県)の坂本家に送り届ける。

 

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『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』

 

 

以  上