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◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY 

   HANDBOOK

 

 

 カナヤマ 日本歴史辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 そ 』。

 

 

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メ ニュー (目次)。

■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

□ 日本史 辞典 (総合)    

□     ● 五十音順 ( あいうえお順)。

 □ 見出し語 そか

 □ 見出し語 そさ

 □ 見出し語 そら

 

 

○ そい  初位

             (そい、しょい)。 《位階》。

          (⇒ 位階叙位)。

          the Lowest Court Rank 

          of the Imperial Court.

          ■ 近代日本の、職員令の位階

                    (20位階)。

             ○ 最下位の位階。

             <1869年頃〜1887年頃、使用>。

             ● 大初位 (だいそい)。

             ● 少初位 (しょうそい)。

          (⇒ 職員令の位階)。

          (⇒ 近・現代日本政府の位階)。

             (1) 初 (そい、しょい)は、 近代日本の、

             職員令の位階(20位階)で、 大初位 (だ

             そい) と 少初位 (しょうそい の2つ

             の位階として、  1869年頃から1887年頃

             まで使用された。 

          ■ 前近代日本の、朝廷 の律令

          官制の位階(30位階)。

              ○ 最下位の位階。

             <701年頃〜1869年頃、使用>

             ● 大初位上 (だいそいのじょう)

             ● 大初位下 (だいそいのげ)

             ● 少初位上 (しょうそいのじょう)

             ● 少初位下 (しょうそいのげ)

          (⇒ 朝廷の律令官制の位階)。

             (2) 初 (そい、しょい)は、 前近代日本

             の、朝廷の律令官制の位階(30位階)で 、

             大初位上 (だいそいのじょう)、 大初位下 

             (だいそいのげ)、 少初位上 (しょうそい

                            のじょう)、 少初位下 (しょうそいのげ)  

             の4つの位階として、 701年頃から1869

                            年頃まで使用された。 

 

○ そう  早雲。

            (そううん)。 《人名》。

          (戦国大名)。 

            (= 北条 早雲 ほうじょう そううん)。

            (= 伊勢 長氏いせ ながうじ、伊勢

                    宗瑞(いせ そうずい )、伊勢 新九郎

                    いせしんくろう)。

       (⇒ 北条 早雲)。 

 

○ そう  松下村塾。

            (しょうかそんじゅく)。 《 私塾》。

            (1842年〜1858年、1869年

          〜1876年)

       (⇒ 吉田 松陰)。

       (⇒ 長州藩)。

            ■ 松下村塾 (しょうかそんじゅく、18

            42年〜1858年、1869年〜1876年

             は、 幕末、明治前期に、長州藩 (ちゅ

            しゅうはん、概ね、現・山口県にあった藩)

            の地域にあった、私塾である。

            ■ 松下村塾 (しょうかそんじゅく)では、

            1857年〜1858の間、吉田松陰が

            講師を務め、多くの近代日本のリーダーの

            人材を育成した。

            ■ 吉田松陰が講師を務めた間の松下村

            塾の塾生には、 秀才の久坂玄瑞、 高杉

            晋作 (幕末の長州藩のリーダーの1人)、 

            伊藤博文、山県有朋  (明治期の首脳、内

            閣総理大臣) などがいた。 

 

〇 ぞう    曹司。

              (ぞうし)。 《宮城》。

        (⇒ 宮城(きゅうじょう))。

          ○ 都城・京>

           宮城(= 皇城、皇居)>

           内裏、大極殿、 朝堂院

           曹司。

           □ 日本古都ガイドブック

           □ 日本古都 関連年代順

                        出来事ブック。  

          □ 平安京 画像アルバム

             No.1 

            □ 平城京 画像アルバム 

             No.1

            (⇒ 天皇天皇家朝廷 

              (⇒ 古都(こと)首都

                           (みやこ))。

              (⇒ 都城(とじょう)(きょう))。

              (⇒ 都城宮城(きゅう

             じょう)内裏(だいり))。

              (⇒ 都城飛鳥京

             藤原京平城京

                  長岡京平安京)。

              (⇒ 都城内の

                      宮城(= 皇城、皇居)

             飛鳥京と 飛鳥諸宮

           藤原京と藤原宮

                平城京平城宮

           長岡京長岡宮

            平安京平安宮大内裏

           (だいだいり))。

            (⇒ 都城内の、

                       宮城(= 皇城、皇居)内の、

            内裏(だいり)

               大極殿(だいごくでん)

            朝堂院(ちょうどういん)、

            曹司(ぞうし))。

 

             ■ 曹司。

             ■ 曹司(ぞうし)とは、

             古代日本の時代において、 宮城 

             (きゅうじょう、= 皇城、皇居)内に

             あり、 朝堂院(ちょうどういん)

             外に設けられた庁舎・官衙(かんが、

             官庁)である。

               古代日本で、藤原宮から、官人

             が執務する場は、 当初は、宮城内

             の、朝堂院であったが、次第に、

             官人の実務は、宮城内の、曹司(ぞ

             うし)で行われるようになった。

               曹司(ぞうし)は、中央官庁の庁

            舎内の部屋、局なども意味する。

 

             ■ 朝堂院。

             ■ 朝堂院(ちょうどういん)とは、

             古代日本の時代において、藤原宮

             より、宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居) 内に設置された施設あり、

             宮城内で、天皇の臣下の官人が控

             える場(着座・列立する場)として利

             用された施設である。

 

             ■ 大極殿。

             ■ 大極殿(だいごくでん)は、 

             古代日 本の時代において、藤原宮

             より、宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居) 内に設置された施設であ

             り、 宮城内で、天皇の公的行事

             (国家的儀式)を行う場として利用

             された。 

               当初、大極殿は、朝堂院とは

             別に形成されていたが、平安宮か

             ら、南面の回廊が撤去され、大極

             殿は、朝堂院の正殿となる。

            

          ■ 宮城(= 皇城、皇居)。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

             ■ 宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居)は、  古代日本の時代に、

             藤原宮、平城宮、長岡宮、平安宮

             では、 

             天皇の住居(御殿)である

             内裏の内廷 

             と、 

             その周囲の朝廷(官庁)施設である

             大極殿、朝堂院、曹司等の外朝

             を合わせた皇城(皇居)である。

             ■ 宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居)は、  古代日本の時代に、

             藤原宮、平城宮、長岡宮、平安宮

             では、 

             天皇の住居(御殿(ごてん))であ

             る内裏(だいり)の内廷(ないてい) 

             と、 

             その周囲の朝廷(官庁)施設であ

             る大極殿(だいごくでん)、朝堂院

             (ちょうどういん)、曹司(ぞうし)等

             の、外朝(がいちょう)

             を合わせた皇城 (こうじょう・おう

             じょう、皇居)である。

             ■ 宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居)は、古代日本の時代に、

             藤原宮、平城宮、長岡宮、平安宮

             では、 

             内裏(だいり)、

             大極殿(だいごくでん)、

             朝堂院(ちょうどういん)、

             曹司(ぞうし)、

             などで占められていた。

             ● 宮城 (きゅうじょう、= 皇城、

             皇居)は、古代日本の時代では、

             藤原宮、平城宮、長岡宮、平安宮

             では、 

             内裏(だいり、=天皇の住居、天

             皇の御殿)、 

             大極殿 (だいごくでん、国家儀式

             等を行う建物)、 

             朝堂院 (ちょうどういん、国家政 

             務等を行う建物)、 

             曹司(ぞうし、官人が実務をとる

             中央官庁、官衛(かんが、諸官庁)) 

             などから構成されていた。

             ■ 内裏。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

             ■ 内裏 (だいり)とは、 

             前近代日本の、天皇の住居、居所、

             御殿(ごてん)をいう。

 

             ■ 日本の主要な宮城

             (= 皇城、皇居)。

                            (都城・京>宮城(= 皇城、皇居)>

                              内裏(= 天皇の住居))

             ■ 日本の主要宮城。

             ● 日本の主要な宮城(きゅうじょ

              う、= 皇城、皇居)には、

             (1) 飛鳥諸宮 (あすかしょきゅ

              う、= 飛鳥京の諸宮、飛鳥地域

              の諸宮城、

              奈良県明日香(あすか)村付近、

              6世紀頃ー694年)、 

             (2) 藤原宮(ふじわらきゅう、

              = 藤原京の宮城、

              奈良県橿原市(かしはらし)付近、

              694年ー710年)、 

             (3) 平城宮 (へいじょうきゅう、

              = 平城京の宮城、

              奈良県奈良市(ならし)付近、

              710年ー740年・745年ー

              784年)、 

             (4) 長岡宮 (ながおかきゅう、

              = 長岡京の宮城、

              京都府向日市(むこうし)付近、

              784年ー794年)、 

             (5) 平安宮 (へいあんきゅう、

              = 平安京の宮城)、

              京都府京都市付近、

              本来の平安宮は平安時代末期

              まで、京都府京都市上京区(か  

              みぎょうく)付近、

              794年ー1177年頃)、 

             などがある。

 

〇 そう  相州

             (そうしゅう)。 《旧地域名》。

          (= 相模 ( さがみ のくに)の別称)。

          (≒ 概ね、現・神奈川県の相当地

          域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

          日本・旧地域名の、

          旧国(令制 国)の別称)。

                    (⇒ 相模 )。    

                    (⇒ 神奈川県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

             ■ 相州 (そうしゅう)は、相模 国( さ 

             がみ のくに) の別称である。

                          ● 州(= 相模 国)は、 東海道(とう か

              いどう)・旧広域地方に属し、概ね、現・関

              東地方の、現在の 神奈川県に相当する

              地域である。

             ● 相州 (そうしゅう)は、  律令制定

             後・古代・中世・近世日本・旧地域名の、

             旧国名(令制国)正式名の、相模 国( さ 

             がみ のくに) の別称である。

 

○ そう  総

            (そうしゅう)。 《旧地域名》。

          (= 下総国(しもうさのくに)、 上総

              ( かずさ のくに)の別称)。

          (≒ 概ね、現・千葉県北部

          葉県中部の相当地域)。

          (律令制定後・古代・中世・近世

           日本・旧地域名の旧国(令制

           国)の別称)。

                    (⇒ 下総国上総国)。    

                    (⇒ 千葉県)。

                     (⇒ 旧国(= 令制国))。

                     (⇒ 前近代日本の地域名)。

                     (⇒ 旧地域名地域名)。

                     (⇒ 日本の地名)。

             ■ 総州 (そうしゅう)は、  下総国 (し

             もうさのくに、千葉県北部)と上総 国 (か

             ずさのくに、千葉県中部) のいずれか、

             または両国を合わせて呼ぶ、別称である。

                          ● 総州(= 下総国上総 国)は、 東海

             道(とうかいどう)・旧広域地方に属し、概

             ね、 現・関東地方の、現在の千葉県北部

             千葉県中部に相当する地域 である。

             ● 総州 (そうしゅう)は、  律令制定後・

             古代・中世・近世日本・旧地域名の、旧国

             (令制国)正式名の、下総国 (しもうさ

             のくに、千葉県北部)と上総 国 (かずさ

             のくに、千葉県中部) のいずれか、また

             は両国を合わせて呼ぶ、別称である。

 

○ ぞう   『 増上寺徳川将軍墓

         とその遺品・遺体 』。

              (ぞうじょうじとくがわしょうぐんぼと

              そのいひん・いたい)。 

              《 第一級史料》。

           (江戸時代の徳川将軍軍家

            を知る史料)。

         (⇒ 『 骨は語る 

         徳川将軍・大名家

         の人びと 』)。

         (⇒ 日本史・第一級

         史料)。

         (⇒ 徳川将軍家

         江戸幕府)。

            (⇒ 江戸時代)。

               ■ 『 増上寺徳川将軍墓とその遺

              品・遺体 』 (鈴木尚、矢島恭介、

              山辺知行編)(東京大学出版会・

              1967年出版)。

               ■ 『 増上寺徳川将軍墓とその遺

              品・遺体 』 は、鈴木尚、矢島恭介、

              山辺知行の共作で、1967年(昭和

              42年)に東京大学出版会から出版

              (刊行)される。

               ■ 『 増上寺徳川将軍墓とその遺

              品・遺体 』 は、江戸時代、徳川将

              軍家、江戸幕府を知る史料である。

              ■ 『 増上寺徳川将軍墓とその遺

              品・遺体 』 は、 1958年〜19

              60年の、東京の芝・増上寺の徳川

              将軍家墓所改装時の発掘調査をま

              とめた、鈴木尚、矢島恭介、山辺知

              行の共編の著作で、東京大学出版

              会から1967年に、出版された。

                 ■ 『 増上寺徳川将軍墓とその

              遺品・遺体 』 (ぞうじょうじとくがわ

              しょうぐんぼとそのいひん・いたい) 

              は、 1958年から1560年にわた

              る、東京・芝・増上寺(しば・ぞうじ

              ょうじ)の徳川将軍家墓所の改装に

              伴う発掘調査をまとめた報告論文集

              であり、 鈴木尚、矢島恭介、山辺

              知行の共編で、1967年に、東京

              大学出版会から刊行された。

                 ■ 『 増上寺徳川将軍墓とその遺

              品・遺体 』 (ぞうじょうじとくがわ

              しょうぐんぼとそのいひん・いたい) 

              は、 戦後、東京・芝・増上寺(しば・

              ぞうじょうじ)の徳川将軍家墓所の

              敷地が西武鉄道に売却された際

              に、 1958年から1560年かけて、

              東京・芝・増上寺の徳川将軍家墓

              所の改装時に行われた、徳川将軍

              家の人々の遺品や遺体の調査結

              果を、この調査に関わった、東京大

              学の鈴木尚教授 (すずきひさし、

              生没年:1912年ー2004年、医学

              博士、古人類学者)、矢島恭介氏、

              山辺知行氏の研究者たちがまとめ

              た報告論文集である。

              ■ 『 骨は語る 徳川将軍・大名

              家の人びと 』 は、 鈴木尚氏(す

              ずきひさし、生没年:1912年ー

              2004年、医学博士、東京大学教

              授、古人類学者) 自身が、 調査

              に関わった、芝・増上寺の徳川将

              軍家、他の大名家の、墓所の改装

              に伴う発掘調査をまとめ、一般向け

              に著作した書籍で、東京大学出版

              会から1985年に出版される。

 

○ そう   そうせい候。

             (そうせいこう)。 

             《幕末の藩主》。

          (幕末の多くの藩主(大名))。

        (⇒ 幕末)。

                ■ そうせい候とは、幕末、保身

             のため、藩内のその時々の有力

             勢力に同調する藩主である。

             ■ 幕末、 社会が激動したため、

             また、謀略・暗殺が頻発したため、

             多くの藩主は、保身のため、また、

             謀略・暗殺を避けるため、なるべ

             く中立を保ち、その時期の藩内の

             有力勢力に同調し、そうせいと同

             意した。

 

○ ぞう  贈答・恩賞貨幣。

                       (ぞうとう・おんしょうかへい)。

                   (= 恩賞・贈答貨幣)。

          《日本流通貨幣》。

       (⇒ 江戸時代の日本

          流通 貨幣)。

            (⇒ 日本流通貨幣)。

             ■ 贈答・恩賞貨幣(ぞうとう・おんしょうか

                      へい)とは、 贈答用、恩賞用 として使用さ

             れたお金 である。

             ● 「江戸時代の贈答・恩賞貨幣 」とは、

             戸時代に、日本で、贈答用、恩賞用として

                      使用された貨幣(お金)である。

             ● 「江戸時代の贈答・恩賞貨幣 」は、 江

             戸幕府鋳造・発行・全国通用・流通貨幣の、

             大判(金)(おおばん(きん)) などである。

 

○ ぞう  雑兵

            (ぞうひょう)。 《前近代の兵士》。

          (= 最下層の兵士)。

          ○ 足軽等。

 

○ そう  総力戦

            (そうりょくせん)。 《戦争》。

          ○ 「国力」により戦争の勝敗が

          決まる近代戦。

          ○ (実例) 第1次世界大戦、

          第2次世界大戦。

          太平洋戦争、日中戦争。

               (⇒ 第1次世界大戦

        第2次世界大戦)。

               (⇒ 太平洋戦争日中

        戦争)。

             ■ 総力戦とは、個々の戦いの勝利では

             なく、国力により戦争の勝敗が決まる近代 

             戦である。

 

○ そえ  副田 甚兵衛

             (そえだ じんべい)。 《人名》。

          ○ 豊臣秀吉の妹・あさひ(朝日

          姫)の第1番目の夫。

 

#soka

 

〇 そか  疎開。

             (そかい)。 《太平洋戦争》。

          (⇒ 太平洋戦争)。

                ■ 疎開(そかい)とは、 太平洋戦争中に、

             米軍機の爆撃などの敵の攻撃を避けるた

             め、攻撃が及ばない回避地(疎開地)に移

             動することである。

 

〇 そが  蘇我氏

             (そがし)。 《氏族名》。

           ○ 大和時代(古墳・飛鳥白鳳時

          代)の有力豪族。

          ○ 6、7世紀に繁栄した日本の

          豪族。

 

〇 そが  蘇我稲目。

             (そがのいなめ)。  《人名》。

             (生年不明? ー 570年)。

          (⇒ 蘇我氏)。

          ○ 蘇我氏を有力豪族にした蘇

          我氏本家の当主、朝廷の大臣

             (おおおみ)

 

〇 そが  蘇我入鹿。

             (そがのいるか)。 《人名》。

             (生年不明? ー645年)。

          (⇒ 蘇我氏乙巳の変)。

          ○ 有力豪族・蘇我氏本家の蘇

          我蝦夷の子。

          ○ 645年の乙巳の変(いっしのへ

          ん)で、中大兄皇子側に殺害され

          る。

 

〇 そが  蘇我馬子。

             (そがのうまこ)。  《人名》。

          (生年不明?ー626年)。

        (⇒ 蘇我氏)。

          ○ 有力豪族・蘇我氏・本家の当

          主、蘇我稲目の子、朝廷の大臣

          (おおおみ)

        

〇 そが  蘇我蝦夷

              《人名》。

          (生年不明?ー645年)。

        (⇒ 蘇我氏

                   乙巳の変)。

          ■ 蘇我蝦夷 (そがのえみし)は、

              有力豪族・蘇我氏の本家の当

              主であり、蘇我馬子の子で、朝廷

              の大臣(おおおみ) であった。

 

〇 そが   蘇我倉山田石川麻呂

              (そがのくらやまだのいしかわまろ)。

           《人名》。

           (生年不明?ー649年)。

           (⇒ 蘇我氏

           乙巳の変)。

           ○ 蘇我倉山田石川麻呂

           は、 有力豪族・蘇我氏の

           分家の当主である。

              ■ 蘇我倉山田石川麻呂 (そが

              のくらやまだのいしかわまろ)は、

              645年の乙巳の変 (いっし

              へん) では、 中大兄皇子と協力し、

              蘇我氏本家の蘇我蝦夷(えみし)・

              入鹿(いるか)父子の滅亡に協力

              する。

 

〇 そく    側室。

                          (そくしつ)。 《女性の身分》。

            (= 側室夫人)。

           (= 貴人の第二夫人)。   

           (= 上層階層の第二夫人)。 

             (⇒ 側室夫人)。

                           ■ 側室夫人(そくしつ)とは、 

                        側室夫人ともいい、 貴人の

              二夫人であり、 上層階層の

              二夫人である。 

 

〇 そく    側室夫人

                           (そくしつふじん)。

           《女性の身分》。

            (= 側室)。

            (= 貴人の第二夫人)。   

           (= 上層階層の第二夫人)。

           (⇒ 前近代日本の

              一夫多妻制)。

           (⇒ 正室夫人)。

            ○ 側室夫人とは、

           貴人(高貴な人物)の第二

           夫人であり、 上層階層の

           第二夫人である。

            ○ 側室夫人は、

           前近代日本の、一夫多妻

           制の、上層階層の第二夫

           人である。  

                ○ 前近代日本では、 医

           療未発達で、栄養学の知

           も識乏しく、子供も大人も

           が病死多く、 家を存続さ

           せるため、 上層階層の家

           長等は、複数の夫人をも

           ち、子を多くつくり、子孫を

                   残すことが多かった。

                           ■ 側室夫人(そくしつふじん)とは、 

                        側室ともいい、 貴人の第二夫人

              である。 

              ■ 側室夫人は、 前近代日本(古

              代〜江戸時代)の、一夫多妻制の、

              上層階層の第二夫人である。 

              ■ 前近代日本(古代〜江戸時代)

              の一夫多妻制の、上層階層の夫人

              には、 正室夫人 (せいしつふじ

              ん、貴人の第一夫人) と、 側室

              夫人 (そくしつふじん、貴人の第

              二夫人) がいた。

 

#sosa

 

〇 そば  側女、側妻。

             (そばめ)。 《女性の身分》。

             ■ 側女、側妻 (そばめ)とは、 

             第ニ夫人である。 

 

〇 そば  側用人

             (そばようにん)。

                     《江戸幕府の役職》。

               ( 徳川綱吉徳川家宣

            徳川家継徳川家重)。

               (⇒ 江戸幕府将軍老中)。

          ○ 側用人は、

          江戸幕府の役職名で、重職

          である。 将軍の側衆(そば

             しゅう)が発展したものである。

          ○ 側用人は、

          江戸幕府の将軍と老中らと

          を取り次ぐ役職である。  将

          軍の秘書官のような役職で

          ある。 臨時の役職である。

          ○ 側用人には、

          牧野成貞、柳沢吉保、間部

          詮房、大岡忠光、田沼意次

          (後、老中筆頭に転身)、な

          どがいる

             ■ 側用人 (そばようにん)とは、

             江戸幕府の将軍と老中(ろうちゅう)

             とを取り次 ぐ役職であり、 将軍と

             老中の仲介役であり、将軍の命令

             老 中らに伝える役職である。

             ■ 側用人は、江戸幕府の役職名

              で、  将軍の側(そば)にあって、 

              将軍の命令を老中に伝えたり、 

             老中の上申(じょうしん)その他を

             将軍に伝える役職である。 

               側用人は、大老と同様に、江戸

             幕府の臨時の役職である。

             ■ 側用人は、1人以上で、現代風

             に言えば将軍の秘書官のような役

             職であり、 将軍の側衆(そばしゅ

             う、江戸幕府の役職)が発展したも

             のである。

             ● 側用人は、 江戸幕府の老中に

             つぐ重職(要職)であり、 幼年将軍・

             家継時の側用人の間部詮房のよう

             に、事  実上幕政の実権を握る場合

             もあった。 

             ■ 江戸幕府は、徳川氏独裁政権で

             ある。 そして、江戸幕府は、将軍主

             導、老中主導、大老主導等の時期が

             あった。

             ■ 江戸幕府・4代将軍の徳川家綱

             は病弱で、江戸幕府の幕政は、老中

             ・大老主導となっていたが、 江戸幕

             第府の5代将軍となった徳川綱吉

             (将軍在任:1580年〜1709年)は、

             老中・大老の力を削ぎ将 軍主導の

             政治を行うため、1681年に、側用

             人(そばようにん)を初めて置いた。

             牧野成貞が最初の側用人である。

             ● 1684年の江戸城・本丸での大

             老・堀田正俊(ほったまさとし)暗殺

             を機に、 綱吉将軍時代は、将軍主

             導となり、側用人 も幕政で大きな力

             をもつ。

             以後、江戸幕府の一部の将軍は、

             様々な理由で、側用人を置くように

             なる。

             ■ 側用人には、 第5代将軍・綱

             吉(つなよし)の側用人の牧野成貞

             (まきのなりさだ、側用人在任:16

             81年〜1695年) や 柳沢吉保

             (やなぎさわよしやす、側用人在任:

             1688年〜1709年)、 第6代将

             軍・家宣(いえのぶ)や第7代将軍・

             家継(いえつぐ)の側用人・間部詮

             房(まなべあきふさ、側用人在任:

             1706年〜1716年)、 第9代将

             軍・家重(いえしげ)の側用人の

             大岡忠光(ただみつ、側用人在任:

             1756年〜1760年)、 第10代将

             軍・家治(いえはる)の側用人・田沼

             意次(たぬまおきつぐ、側用人在任:

             1767年〜?、後、老中筆頭に転じ

             る)などがいる。

 

#sora

 

○ そん  孫寧温。

             (そんねいおん)。 《人名》。

          (架空の人物、2011年

          NHKドラマ「テンペスト」

          の主人公)。

                 (⇒ 沖縄の歴史

          ■ 孫寧温(そんねいおん)は、

             19世紀の琉球王国の男装役人、

             王の側室夫人であり、仲間由紀

             恵が演じる。 

             ■ 孫寧温は、別名は真鶴(まづ

             る)で、 美貌と才能を併せ持った

             女性である。

 

○ そん  尊皇(王)攘夷派

             (そんのうじょ ういは)。

          《幕末の政治派閥》。

             (= 尊攘派(そんじょうは))。

          (⇒ 幕末)。

          ○ 多くの攘夷派。

                     ○ 幕末に、尊皇(王)思想を重

           んじ、攘夷運動を行った者(人)。

                   ○ 急進派と慎重派がいた。

 

〇 そん  尊皇(王)攘夷派 と 開国

        派 との対立。 

             (そんのうじょ ういは と かいこくはとのた

             いりつ)。 《幕末の政治派閥》。

          (1853年〜1860年頃)。

          (⇒ )。

 

〇 そん  尊皇(王)攘夷派・急進派

        と 公武合体派・佐幕派 と

        の対立。 

             (そんのうじょ ういは・きゅうしんは と こう

             ぶがったいは・さばくはとのたいりつ)。

             《幕末の政治派閥》。

          (1860年〜1864年頃)。

          (⇒ )。

 

○ そん  尊皇(王)攘夷論。

             (そんのうじょういろん)。

          《幕末の政治理論》。

          (⇒ 尊皇(王)攘夷派)。

          (⇒ 幕末)。

 

○ そん  尊皇(王)倒幕派

             (そんのうとうばくは)。

          《幕末の政治派閥》。

          (1864年頃〜1867年頃)。

             ○ 多くの倒幕派 。

          ○ 幕末に、尊皇(王)思想を重

          んじ、倒幕運動を行った者(人)。

          ○ (例)、薩摩藩士の西郷吉之

          助(西郷隆盛)、 長州藩士の桂

          小五郎(木戸孝允)、 土佐藩士

             の乾(いぬい、板垣)退助) 。

          (⇒ 幕末)。

 

〇 そん  尊皇(王)倒幕派と公武

       合体派・佐幕派との対立。

             (そんのうとうばくは と こうぶがった

             いは・さばくはとのたいりつ)。

             《幕末の政治派閥》。

          (1864年頃〜1866年頃)。

          (⇒ )。

 

〇 そん  尊皇(王)倒幕派 と 公議

        政体派・佐幕派 との対立。

             (そんのうとうばくは と こうぎせいたい

             は・さばくはとのたいりつ)。

             《幕末の政治派閥》。

          (1866年頃〜1867年頃)。

          (⇒ )。

 

〇 そん  尊皇(尊王)の志士

              (そんのうのしし)。  《幕末の活動家》。

            (⇒ 尊皇(王)派幕末

            の志士)。

          (⇒ 幕末)。

 

〇 そん  尊皇(王)派

             (そんのうのは)。 

             《幕末の政治派閥》。

          (= 勤王(勤皇)派(きんのうは))。

          ○ 幕末期に、尊王(そんのう)思想

          を持って政治運動を行った者(人)。

          (⇒ 幕末)。

 

〇 きん  尊皇(王)派(=勤皇(王)

            派) と 佐幕派 との対立。

             (そんのうは と さばくはとのたいりつ)。

             《幕末の政治派閥》。

          (1853年頃〜1867年頃)。

          (⇒ )。

 

 

 

   ● 五十音順 (あいうえお順)。

 

 

   ■  『 現在は、過去の成果であり、

       未来は、現在の成果である。 

         (良き現在は、過去の人々の良き努力

          や活動の積み重ねの成果であり、 

          明るい良き未来は、現在の人々の、

          良き努力や活動の積み重ねによって

          形成される。)

 

 

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#jpdictionary(general)

 

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#so

 

#sobayonin

 

■ 側用人  

     (そばようにん)

 

■ 側用人。

■ 名称 : 側用人 (そばようにん)。

■ 側用人は、

  江戸幕府の役職名、重職 である。

■ 側用人は、

  江戸幕府の将軍老中を取り次ぐ役職

  である。

■ 側用人は、

  1人以上で、将軍の秘書官のような役

  職である。

■ 側用人には、

  柳沢吉保、間部詮房、田沼意次などが

  いる

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11719。

 

 

■ 側用人。

  ■ 側用人 (そばようにん)とは、 江戸幕府

  の将軍老中(ろうちゅう)を取り次ぐ役職 で

  ある。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

  ■ 側用人は、 江戸幕府の役職名で、将軍の

   側(そば)にあって、将軍の命令を老中に伝え

   たり、 老中の上申(じょうしん)その他を将軍

   に伝える役職である。

              

  ■ 側用人は、1人以上で、現代風に言えば将軍

    の秘書官のような役職であり、 江戸幕府の

    中につぐ重職(要職)であり、 事実上幕政の

    実権を握る場合もある。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 側用人。

  ■ 江戸幕府の第5代将軍・徳川綱吉は、老中の

    力を削ぎ将 軍主導の政治を行うため、側用人

    を初めて置いた。 

       以後、江戸幕府の一部の将軍は、様々な

    理由で、側用人を置くようになる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 側用人には、 第5代将軍・徳川綱吉(つなよ

    し)の側用人・柳沢吉保(やなぎさわよしやす)、 

    第6代将軍・徳川家宣(いえのぶ)や第7代将

    軍・徳川家継(いえつぐ)の側用人・間部詮房

    (まなべあきふさ)、 第9代将軍・徳川家重(い

    えしげ)の側用人の大岡忠光(おおおかただみ

    つ)、第10代将軍・徳川家治(いえはる)の側

    用人・田沼意次(たぬまおきつぐ)などがいる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 側用人。

  ■ 江戸幕府重職(要職)には、 上位順に、 

  大老(たいろう)、 老中首座(ろうちゅうしゅざ)、 

  老中(ろうちゅう)、 若年寄(わかどしより) 

  などがいた。

    その他の江戸幕府の重職には、 将軍

  近侍(きんじゅう)する側用人(そばようにん) 

  などがいた。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 1684年(貞享元年)8月に、 大老の堀

   田正俊 (ほったまさとし、1634年〜16

   84年)が江戸城中で暗殺されてから、 

   老中の御用部屋が将軍の居間ら遠ざけ

   られ、 将 軍・徳川綱吉(将軍在任:1680

   年〜1709年)幕政で、側用人の権勢が

   強くなる。

 

  ■ 徳川綱吉は、 将軍絶対・独裁政権を打ち

   立てる。

      徳川綱吉 (将軍在任:1680年〜17

  09年)は、 1680年(延宝8年)に江戸幕府

  の第5代将軍就任 する。 その後、自分の側

  近を通じて、自分の意見を日本の政治に反映

  させるシステムをつくる。 

     前の江戸幕府第4代将軍の徳川家綱(い

  えつな)の時代では、 日本の政治の実権は

  江戸幕府の老中(ろうじゅう)が握っていた。

     徳川綱吉は、 将軍と老中との間に、側

  用人(そばようにん)という将軍の秘書官を置

  き、自分の意向は側用人に伝え、老中の意見

  を側用人に伝えさせ、老中を遠ざけ、老中の

  力を削(そ)ぐシステムをつくる。

     側用人を置くことにより、徳川綱吉は、 

  軍主導の政治を行えるようになる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#thesoirank

 

■ 初位  

     (そい)

 

■ 初位。

■ 名称 : 初位 (そい、しょい)。

■ 英語名: The Lowest Ikai Rank 

  of the Imperial Court。

■ 位階のグループ。

■ 使用期間(叙位期間) : 

● 古代日本の飛鳥白鳳時代から近代日本の

  明治時代前期まで。 

● (西暦紀元後)701年頃から1887年頃ま

  で。

■ 朝廷(律令官制)、職員令、の位階 (701

  年頃〜1887年頃、叙位に使用)。

● 大初位 (だいそい、だいしょい)  と 少初

  位 (しょうそい、しょうしょい) の2つの位階

■ 前近代日本の朝廷(律令官制)の位階。

● 大初位

  ○ 大初位上 (だいそいのじょう)

  ○ 大初位下 (だいそいのげ)

● 少初位

  ○ 少初位上 (しょうそいのじょう)

  ○ 少初位下 (しょうそいのげ)

 

 位階

 叙位

 

 

■ 初位。

■ 初位 (そい、しょい) とは、 大初位(だい

  そい、だいしょい) と 少初位 (しょうそい、

  しょうしょい) の2つの位階である。

    更に、前近代日本の朝廷(律令官制)の

  位階では、初位には、 大・(だい・しょう

  初位の2つの位階に上下を付けて、次のよ

  うな4つの位階があった。

  ● 大初位

  ○ 大初位上 (だいそいのじょう)

  ○ 大初位下 (だいそいのげ)

  ● 少初位

  ○ 少初位上 (しょうそいのじょう)

  ○ 少初位下 (しょうそいのげ)

 

■ 初位 (そい)は、 古代日本の飛鳥白鳳時

  代から明治時代前期までの期間の叙位

  使用された位階 で、 (西暦紀元後)701

  年頃から1887年頃までの期間の叙位に、

  使用された。

 

 

■ 初位。

■ 律令官制の位階。 

   <701年頃〜1869年頃>

 ● 朝廷の位階の「一位〜八位、初位」の

   9グループの 9番目のグループの位階。

 ● 朝廷の30位階(いかい)の、

   27番目の大初位上 (だいそいのじょう)、

   28番目の大初位下 (だいそいのげ)、

   29番目の少初位上 (しょうそいのじょう)、

   30番目の少初位下 (しょうそいのげ)、

   の4つの位階である。

■ 職員令(1869年制定)の位階。

   <1869年頃〜1887年頃>

 ● 近代日本政府の位階の「一位〜九位、

   初位」の10グループの 10番目のグループ

   の位階。

 ● 近代日本政府の20位階の、

   19番目の大初位(だいそい)、 

   20番目の少初位(しょうそい、しょうしょい) 、

   の2つの位階である。

 

 

■ 初位。

■ 律令官制の位階。 

  <701年頃〜1869年頃>

 ● 初位は、 朝廷の位階の「一位〜八位、初

   位」の9グループのうちの、上から 9番目の

   グループの位階である。

 ● 初位は、 正一位(しょういちい)から少初

   位下(しょうそいのげ)までの朝廷の30位

   階(いかい)の、

   27番目の大初位上 (だいそいのじょう)、

   28番目の大初位下 (だいそいのげ)、

   29番目の少初位上 (しょうそいのじょう)、

   30番目の少初位下 (しょうそいの げ)、

   の4つの位階である。

 

■ 職員令(1869年制定)の位階。

  <1869年頃〜1887年頃>

 ● 初位は、 近代日本政府の位階の「一位〜

   九位、初位」の10グループのうちの上から

   10番目のグループの位階である。

 ● 初位は、 正一位(しょういちい)から少初

   位(しょうそい、しょうしょい)までの近代日

   本政府の20位階の、

   19番目の大初位(だいそい、だいしょい)、 

   20番目の少初位(しょうそい、しょうしょい)、

   の2つの位階である。

 

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#thesogaclan

 

■ 蘇我氏  

     (そがし)。

 

■ 蘇我氏。

■ 名称 : 蘇我氏 (そがし)。

● 英名 : The Soga Clan。

■ 飛鳥白鳳時代の有力豪族。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61418。

 

 

■ 蘇我氏 (そがし) は、飛鳥白鳳時代の有力豪

     族 である。

     蘇我氏の英名は、 The Soga Clan で

  ある。

 

■ 蘇我氏 は、 蘇我稲目(そがのいなめ)、 蘇我

  馬子(そがのうまこ)、 蘇我蝦夷(そがのえみし)、 

  蘇我入鹿(そがのいるか)という、古代日本の大

  和(やまと)朝廷の政治家を出し、繁栄した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 蘇我稲目。

     蘇我稲目(そがのいなめ、生没年:生年不

  詳〜570年)の時期に、 蘇我氏の興隆の基礎

  を築いた。  蘇我稲目は、欽明(きんめい)天皇

  の大臣(おおおみ)となり、 蘇我稲目の娘

  明(きんめい)天皇の妃とし、勢力を得た。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 蘇我馬子。

    蘇我馬子 (そがのうまこ、生没年:生年不詳

  〜626年)は、 有力豪族・蘇我氏本家の当主

  であり、 蘇我稲目(そがのいなめ)の子で、大

  和朝廷の大臣(おおおみ) である。

    蘇我馬子は、 587年に、大連(おおむら じ)

  の物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼし、 59

  2年に、崇峻(すしゅん)天皇を暗殺し、 倭国

  (わこく、日本)政治権力を握(にぎ)った。 

     蘇我馬子は、 592年に、 蘇我氏と血 縁

  のある(蘇我馬子の妹が生んだ)推古(すいこ)

  天皇(女帝)を擁立した。 593年に、推古(す

  いこ)天皇(女帝)は、  蘇我氏と血縁のある

  戸王(うまや とおう、聖徳太子)を、 推古天皇の

  摂政(せっしょう)とした。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 蘇我蝦夷。

    蘇我蝦夷 (そがのえみし、生没年:生年不

  詳〜645年) は、 有力豪族・蘇我氏本家の当

  主で、 蘇我馬子の子で、 大和朝廷の大臣(お

  おおみ)である。 

    蘇我蝦夷は、 645年の乙巳の変(いっしの

  へん)で、 中大兄皇子(なかのおおえのみこ)

  方(側)に攻められ、自殺する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

  

 蘇我入鹿。

    蘇我入鹿 (そがのいるか、生没年:生年不

  詳〜645年) は、 有力豪族・蘇我氏本家の

  蘇我蝦夷の子で、 645年の乙巳の変(いっし

  のへん)で、 宮中で、中大兄皇子(なかのおお

  えのみこ)方(側)に殺害される。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 蘇我倉山田石川麻呂。

    蘇我倉山田石川麻呂 (そがのくらやま

  だのいしかわまろ、生没年?〜649年) は、

  有力豪族・蘇我氏分家の当主で、 645年

  の乙巳の変(いっしのへん)で、 中大兄皇

  子(なかのおおえのみこ)方(側)に協力する。 

  乙巳の変後、 649年に、蘇我倉山田石川

  麻呂は、 讒言(ざんげん)により中大兄皇子

  らに攻められて自殺する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 蘇我氏の隆盛と衰退。

 

■ 蘇我氏 は、 蘇我稲目(そがのいなめ、生年

  不詳〜570年)の時期に、 蘇我氏の興隆の

  基礎を築いた。  蘇我稲目は、欽明(きんめ

  い)天皇の大臣(おおおみ)となり、 蘇我稲目

  の娘欽明(きんめい)天皇 の妃とし、勢力を

  得た。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 蘇我稲目(そがのいなめ)の子で大臣(おお

  おみ)の蘇我馬子 (そがのうまこ、生没年?

  〜626年)は、 587年に、大連(おおむら

  じ)の物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼし、 

  592年に、崇峻(すしゅん)天皇を暗殺し、倭

  国(わこく、日本)政治権力を握(にぎ)った。 

     蘇我馬子は、 592年に、 蘇我氏と血

  縁のある(蘇我馬子の妹が生んだ)推古(す

  いこ)天皇(女帝)を擁立した。 593年に、

  推古(すいこ)天皇(女帝)は、蘇我氏と血縁

  のある厩戸王(うまや とおう、聖徳太子)を、

  推古天皇の摂政(せっしょう)とした。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 蘇我馬子の子で大臣(おおおみ)の蘇我蝦夷

  (そがのえみし、生没年不詳〜645年) は、

  権力の集中をはかるため、厩戸王(うまや とお

  う、聖徳太子)の子・山背大兄王 (やましろの

  おおえのおう、生年不詳ー643年 を滅ぼし

  た。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 大化の改新 (たいかのかいしん、大化改新)

  は、 飛鳥白鳳時代 (あすかはくほうじだい、

  592〜710年)  の政治改革で、 645年(大

  化元年)から654年までの孝徳天皇(在位645

  〜654年)時代の諸改革である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ 大化の改新 とは、 有力豪族を排除し、王族

  中心の中央集権政治をめざした改革で、 豪族

  による土地人民の私有と氏姓制度による官 職

  の世襲を取り除いて、 中央集権国家を作り上

  げようとした。

■ 大化の改新では、 中大兄皇子 (なかのお

  おえのみこ、626−671年、後の天智天皇)、 

  中臣鎌足 (なかとみのかまたり、614−669

  年、後の藤原鎌足) が、 乙巳の変(いっしの

  へん)で、 朝廷の実権を握る、有力豪族の蘇我

  の蘇我蝦夷(そがの えみし)、蘇我入鹿(そが

  のいるか)父子を滅ぼし、 孝徳(こうとく)天皇

  を擁立し、 中大兄皇子が朝廷の実権を握り、政

  治改革に着手した。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 645年の乙巳の変(いっしのへん)。  

    中大兄皇子(天智天皇)、中臣鎌足(藤原

  鎌足)のクーデター。

● 中大兄皇子(天智天皇)、中臣鎌足(藤原

  鎌足)が、 朝廷の実権を握(にぎ)っていた

  蘇我氏の蘇我蝦夷・蘇我入鹿(そがのえみ

  し・いるか)父子を殺害し、 代わって、中大

  兄皇子(なかのおおえのみこ、後の天智天

  皇)、 中臣鎌足(なかとみのかまたり、後の

  藤原鎌足) が、 朝廷の実権を握った。

● 大王位(皇位)継承問題。

     蘇我氏の蘇我蝦夷、蘇我入鹿父子は、

  次期の大王(天皇)に、中大兄皇子以外の

  蘇我氏系の皇子・古人大兄王(ふるひとの

  おおえのおう)を、擁立しようと考えていた。 

     蘇我氏の意にならず、蘇我氏系でもな

  い、大王位(天皇)継承候補の、中大兄皇子

  は、 朝廷の実権を握っていた蘇我氏の蘇

  我蝦夷・蘇我入鹿父子にとって邪魔であり、 

  蘇我蝦夷・蘇我入鹿父子により暗殺される

  可能性があった。 

    次期の大王位(皇位)の継承もできず、ま

  た、いつ殺されるかわからない、中大兄皇子

  は、 蘇我氏の分家で軍事力をもつ、蘇我倉

  山田石川麻呂 (そがのくらやまだのいしかわ

  まろ、生年不詳ー649年) の娘を嫁にもらい、 

  中臣鎌足(後の藤原鎌足)や軽皇子(かるのみ

  こ、後の孝徳天皇) を味方につけ、 先手を

  打って、蘇我蝦夷・入鹿父子を殺害した。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 645年(大化元年)に、 中大兄皇子(なか

  のおおえのみこ、軍事力なし、後の天智天

  皇) が、 蘇我倉山田石川麻呂 (蘇我氏の

  分家で軍事力をもち、中大兄皇子の夫人の

  父、生年不詳〜649年)、 中臣鎌足 (なか

  とりのかまたり、神官職で軍事力なし、後の藤

  原鎌足) らの協力を得て、 宮中で、皇極(こ

  うぎょく)天皇(女帝)の御前で、 蘇我 入鹿(そ

  がのいるか、豪族の一人、大軍事力をもつ、生

  年不詳〜645年) を殺害し、  その後すぐ、

  蘇我入鹿の父の蘇我蝦夷 (そがのえみし、

  生年不詳〜645年)の館(やかた)を急襲し、 

  蘇我蝦夷を自殺させた。 その結果、 中大兄

  皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足(後の藤原鎌

  足)が、 朝廷の実権を握った。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 蘇我氏の勢力喪失。

■ 中大兄皇子 (なかのおおえのおうじ、後の

  智 (てんじ)天皇)、  中臣鎌足(なかとみのか

  またり、後の藤原鎌足)、  蘇我氏分家の蘇我

  倉山田石川麻呂 (そがのくらやまだのいしか

  わまろ)らが、 645年に起こした乙巳の変(い

  っしのへん)で、 蘇我氏本家の蘇我蝦夷・蘇我

  入鹿父子を滅ぼし、 乙巳の変後、 649年に、

  蘇我氏分家の蘇我倉山田石川麻呂が、 讒言

  (ざんげん)により中大兄皇子らに攻められて

  山田寺(やまだでら)で自殺し、 蘇我氏は、

  力を失った。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 蘇我氏 が登場する、 面白く、興味

  深い、 ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

★ 蘇我氏 が登場する、面白く、興味深い、

  ドラ マ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

    歴史のドラマ、映画 は、史実(歴史上の事実) 

    と 架空の出来事が 混じって描かれています。 

   また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 大化改新 (たいかのかいしん) 』 

   (日本の2005年・NHK古代史ドラマスペ

   シャル)。

● 蘇我蝦夷(毛人)(そがのえみし)を演じた

  俳優 :  原田芳雄。

● 蘇我入鹿(そがのいるか)を演じた俳優 : 

  渡部 篤郎。

● 蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだの

  いしかわまろ)を演じた俳優 :  伊武雅刀。

 

● 中大兄皇子 (なかのおおえのみこ、皇極

  天皇の息子、後の天智(てんじ)天皇)を

  じた俳優 : 小栗旬。

● 中臣鎌足(なかとみのかまたり)を演じた

  俳優 : 岡田 准一 (おかだ じゅんいち)。

● 皇極天皇 (こうぎょくてんのう、宝皇女(た

  からのひめみこ)を演じた女優 : 高島礼子。

● 軽皇子(かるのみこ、皇極天皇の弟)を演

  じた俳優 : 吹越 満。

● 山背大兄王 (やましろのおおえのおう)を

  演じた俳優 : 山口 祐一郎。

 

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#thesonnofaction

 

■ 尊皇(王)派  

     (そんのうは)。

 

■ 尊皇(王)派。

■ 名称 :尊皇派 (そんのうは)、尊王派 (そんのうは)。

 別名 : 勤皇派 (きんのうは)、勤王派 (きんのうは)。

■ 幕末期に、 尊皇(王)(そんのう)思想を持って、政治

 運動を行った者(人)。

■ 幕末に、京都朝廷のために働いた者(人)。

■ 尊皇(王)運動 (幕末に、朝廷を助け、天皇中心の政

 治をめざす政治運動、天皇親政復活の政治運動)を行っ

 た者(人)。

■ 佐幕派 と対立した。

■ 幕末、尊皇(王)派の一部は、倒幕派へ動いて行った。

■ 尊皇(王)攘夷派の人物の例 : 土佐藩藩士の、

 武市半平太 (たけちはん ぺいた)。

■ 尊皇(王)倒幕派の人物の例 : 薩摩藩士の、西郷 

 隆盛(さいごうたかもり)、 長州藩士の桂小五郎(かつ

 らこごろう、木戸孝允)、  土佐藩士の板垣退助(いた

 がきたいすけ)。

 

 

■ 尊皇(王)派 (そんのうは) は、尊皇派 (そんの

 うは) または 尊王派 (そんのうは)で、 別名は、

 勤皇派 (きんのうは) または 勤王派 (きんのう

 は) とも言われる。

■ 尊皇(王)派 は、幕末期に、尊皇(王)(そんのう)

 思想を持って、政治運動を行った者(人) である。

■ 尊皇(王)派 には、 幕末に、京都朝廷のために

 働いた者(人) もいた。

■ 尊皇(王)派 は、 尊皇(王)運動 (幕末に、朝

 廷を助け、天皇中心の政治をめざす政治運動で、 

 天皇親政復活の政治運動)を行った者(人) である。

■ 尊皇(王)派 は、 佐幕派 と対立した。

■ 幕末、尊皇(王)派の一部は、倒幕派へ動いてい

 った。

■ 尊皇(王)攘夷派の人物には、 土佐藩藩士の、

 武市半平太 (たけちはんぺいた) などがいた。

■ 尊皇(王)倒幕派の人物には、 薩摩藩士の、西

 郷隆盛 ( さいごうたかもり) 長州藩士の桂小五

 郎(かつらこごろう、木戸孝允)、  土佐藩士の板

 垣退助(いたがきたいすけ) などがいた。

 

■ 幕末(江戸時代末期)に、 佐幕派 と 倒幕派 

 が、 日本国内で、 激しく対立した。 倒幕派の多

 くの人々は、 思想を掲(かか)げて、倒

 幕運動 を行い、 尊皇(王)倒幕派とも呼ばれた。 

 

 

♪♪ 尊皇(王)派 が登場する、面白く、興

 味深い、ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

★ 尊皇(王)派 が登場する、面白く、興味

 深い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

 歴史のドラマ、映画  は、史実(歴史上の事実) と 

 架空の出来事 が 混じって描かれています。 

 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 

   (日本の2010年NHK大河ドラマ)。

 

■ 『 篤姫 (あつひめ) 』 

   (日本の2008年NHK大河ドラマ)。

 

■ 『 坂本竜馬 』 

   (日本の1989年TBS・ドラマ)。

 

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#zohyo

 

 雑兵 

  (ぞうひょう)。

 

■ 雑兵。

■ 名称 : 雑兵 (ぞうひょう)。

 最下層の兵士。

 大名の下級家臣。 足軽等。

■ 雑兵出身の武士の例としては、 豊臣秀吉がい

  る。

 

 

■ 雑兵 (ぞうひょう) は、 指揮官でない、身分の

  低い兵士で、 軍団で、  最下層の兵士 である。

     雑兵 は、 大名の下級家臣で、 足軽等 で

  ある。 

     雑兵出身の武士の例としては、 豊臣秀吉が、

  いる。

 

■ 雑兵 は、 主に、 農民出身の兵士 で、戦場で

  大活躍した。

 

■ 戦国大名の家臣団は、 上層の家臣は、 国人

  (こくじん、国人領主) 層 で、 中間層の家臣 

  は、地侍 (じざむらい) 層で、 下層の家臣 は、 

  兵士となった一般農民層 (雑兵(ぞうひょう)、足

  軽等) である。

 

 

♪♪ 雑兵 が登場する、興味深い、ドラマ、

 映画、ドキュメンタリー。

 

★ 雑兵 が登場する、興味深い、ドキュメ

 ンタリー。

 

■ タイムスクープハンター 『 落武者

   脱出行 』   

   (NHKのタイムスクープハンター・ファースト

   シーズン(セクション)・2009年(H21)4月

   本放送・テレビ・歴史ドキュメンタリー番組)。

● 室町時代後期(戦国時代)の、敗残兵の落ち武

  者の雑兵と、  落ち武者の雑兵を襲う農民を描い

  ている。

 

■ タイムスクープハンター 『 緊急待

  避!戦国シェルター(戦国時代) 』 

   (NHKのタイムスクープハンター・シーズン3 ・

   全10本の4回目・2011年本放送・テレビ・

   歴史ドキュメンタリー番組)

● 日本の戦国時代に、雑兵が村を襲い、乱 取り

  (敵地略奪)をする現場を描いてる。

 

■ タイムスクープハンター 『 禁制(き

   んぜい)を入手せよ!戦国冒険行

  (戦国時代) 』 

   (NHKのタイムスクープハンター・シーズン3・

   全10本の10回目・2011年7月14日本放

   送・テレビ・歴史ドキュメンタリー番組)。

● 日本の安土桃山時代の、雑兵が、村を襲い、

  乱取り(敵地略奪)をする現場や人身売買の実

  情を描く。

 

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#sokushitsufujin

 

■ 側室夫人 

          (そくしつふじん) 。

   

■ 側室夫人。

■ 時期 : 古代 〜 明治時代。

■ 名称 : 側室夫人 (そくしつふじん)。 

● 別名 : 側室 (そくしつ)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ 上層階層の、一夫多妻制の、第二夫人。

● 前近代日本では、上層階級は、一夫多妻制で

  あった。

 一夫多妻制の詳細は、 前近代日本の一夫多

  妻制を参照して下さい。

 

 

◆ 前近代日本の、一夫多妻制。

■ 一夫多妻制の側室夫人 (第二夫人) は、1人 

  以上で、 一夫多妻制の正室夫人 (第一夫人) 

  は、 原則、1人で、 ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 前近代日本では、上層階級は、一夫多妻制で

  あった。

        前近代日本は、 封建制 (主従関係)・家父

  長制・身分制社会であり、 「家」中心の婚儀

  (結婚)であり、 「家」 と「家」との婚儀(結婚)

  が中心であり、 上層階級の男性は、 出世、

  家名を高めること、家名(名家)を存続させる

  ことを主眼に、 女性と婚儀を結んだ(結婚し

  た)。 愛情は、2次的問題であった。 

     前近代日本の上層階級の婚儀(結婚)は、

  現代日本の愛情中心の個人間の結婚とはか

  なり異なる。

     前近代日本の上層階級の、正室夫人は、

  身分、家格、男性の出世などを考慮し、 夫の

  家長や親が決め、 夫の意向とは関係なく、 

  夫と婚儀を結んだ(結婚した)女性である。夫に 

  とって、愛情とは関係なく、押し付けられた夫

  人であり、「家」のお飾りという存在であった場

  合が多い。 

     前近代日本の上層階級の、側室夫人は、

  夫の家長や親が決め婚儀を結んだ(結婚した)

  側室夫人 と、 夫の本人が選んで婚儀を結ん

  だ(結婚した)側室夫人がいた。 

     側室夫人の中には、 夫の本人が愛情中

  心で選んで婚儀を結んだ(結婚した)側室夫人

  もいた。 その側室夫人が現代の「妻」に近い

  存在であった。

 

■ 前近代日本では、上層階級は、一夫多妻制で

  あった。 

    医療未発達、医学や栄養学の知識少なく、

  不衛生な、前近代日本では、 女性が子供を生

  んでも生んでも、 次から次へと死んでいった

  幼児死亡率が非常に高かった

 

■ 前近代日本の上層階層の男性 は、自分の血

  統の後継ぎを確保するために、 複数の夫人を

  持つことが多かった。 前近代日本では、 医療

  未発達等で、元服(げんぷく、成人)前に、 多数

  の子供が病死するため、 複数の夫人をもって、 

  沢山の子を産ませ、 家(名家)を存続させ、一

  族を形成した。

 

 

◆ 前近代日本の、側室夫人と正室夫人。

■ 一夫多妻制 の側室夫人 (第二夫人、側室)は、

  1人以上である。  

     一方、前近代日本の一夫多妻制の正室夫 

  人(第一夫人) は、 原則として、1人である。 

  天皇家は、 例外で、複数の正室夫人がいた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 側室夫人 (そくしつふじん) とは、 側室(そく

  しつ)とも呼ばれ、 古代から明治時代までの

  近代日本の一夫多妻制の時期の、 上層階層の、

  一夫多妻制の第二夫人 である。

 詳細は、 前近代日本の一夫多妻制を参照し て

  下さい。  

 

■ 正室夫人 (せいしつふじん) とは、正室(せい

  しつ)とも呼ばれ、 古代から明治時代までの

  近代日本の一夫多妻制の時期の、 上層階層の、

  一夫多妻制の第一夫人 である。

 詳細は、 前近代日本の一夫多妻制を参照し て

  下さい。  

 

 

◆ 前近代日本の、正室夫人。

■ 前近代日本では、上層階級は、一夫多妻制で

  あった。

● 前近代日本の上層階級では、 正室夫人は、

  原則、1人である。 

     しかし、天皇家では、例外的に、慣習で複

  数の正室夫人(皇后、中宮、女御)がいた。 

● 正室夫人 (せいしつふじん、正室) とは、前

  近代日本の、上層階層の、第一夫人であり、

  古代から明治時代までの時期の、一夫多妻制

  の第一夫人 である。 

● 先妻の正室夫人が亡くなり、 後妻が正室夫

  人となった場合、 後妻の正室夫人を、継室

  (けいしつ)と呼ぶ。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 前近代日本の、将軍の夫人。

     鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府の将軍の

   夫人。

■ 江戸幕府将軍多くは、 側室夫人の子で

  ある。

    江戸幕府は、 江戸幕府の権威を高めるた

  め、 将軍の多くの正室夫人(御台所)を皇族・

  公家出身の女性にはしたが、 公家・皇族出身

  の将軍・正室夫人(御台所)が、子供を産むこと

  を望まず、 大奥で、避妊薬を飲ませ、 子供を

  産ませないようにした。 公家・皇族の血をひく

  子が将軍になると、 公家や皇族が、 武家の

  江戸幕府の政治に口をはさむため。

 

■ 幕府将軍の正室夫人 は、 御台(みだい)、

  御台様(みだいさま) や 御台所 (みだいど

  ろ) と呼ばれた。

● 例えば、 北条政子(ほうじょうまさこ)は、 鎌

  倉幕府の初代将軍・源頼朝(みなもとのよりと

  も)の御台であり、 室町幕府の第8代将軍・足

  利義政 (あしかがよしまさ)の御台は、 日野

  富子(ひのとみこ)であり、  お江(おごう) は、江

  戸幕府・第2代将軍・徳川秀忠 (ひでただ)の御

  台所 であった。 篤姫(あつひめ)は、江戸幕

  府・第13代将軍・徳川家定(いえさだ)の御台所 

  であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 前近代日本の、天皇の夫人。

■ 前近代日本の天皇の多くは、 側室夫人の子

  である。

     天皇家が、断絶せず(血筋を絶やさず)、

  存続できたのは、 側室夫人がいたおかげで

  ある。

     医療未発達、医学や栄養学の知識少なく、

  不衛生な、前近代日本では、 女性が子供を生

  んでも生んでも、 次から次へと死んでいった。

  幼児死亡率が非常に高かった。

     天皇の正室夫人は、 身分が高く、運動不

  足で、ひ弱で、難産が多く、子を産めない体で

  ある場合もあり、 丈夫な子を産まないことが

  多かった。 また、子を産んでも数が少なく、ひ

  弱で、 幼児死亡率が非常に高かった前 近代

  日本では、ほとんどが亡(な)くなった。

     朝廷では、 身分の高くない、複数の宮廷

  女性を、天皇の側室夫人とし、丈夫な子を、沢

  山産ませた。 それらの側室夫人を 典侍(てん

  じ)などの高級女官 とした。 

 

◆ 前近代日本の、天皇の夫人。

■ 前近代日本の天皇の正室夫人は、 複数であり、 

  皇后(こうごう)、  中宮(ちゅうぐう)、 女御(にょ

  うご) などである。 一方、天皇家の 側室夫人

  は、複数で、 典侍(てんじ) などである。

 

■ 前近代日本の、天皇家の側室夫人。

 典侍。

   天皇家の側室夫人には、 典侍  (てんじ 、高

  級女官) と呼ばれる側室夫人がいた。  

    例として、 和宮の生母は、典侍の橋本経子

  観行院(かんぎょういん)) である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 前近代日本の、天皇の正室夫人。

 天皇家では、慣習で複数の正室夫人(皇后、中

  宮、女御)がいた。 

     后妃(皇后、中宮、女御)の地位を退いた女

  院(にょいん)も、事実上の正室夫人である。

● 皇后、中宮、女御。

     天皇正室夫人は、 複数いて、 身分の

  違いにより、上位順に、 皇后(こうごう)、  中

  宮(ちゅうぐう)、 女御(にょうご) などと呼ば

  れた。

    例えば、 光明子 (こうみょうし)は、聖武天

  (しょうむてんのう)の皇后 であった。 徳川

  和子 (とくがわ まさこ・かずこ) は、後水尾天 

   (ごみずのおてんのう) の中宮であった。

● 入内(じゅだい)とは、 天皇の正室夫人となる

  べき人が、正式に内裏(だいり、天皇御所(天皇

  が住む御所)) に入ること である。

    入内(じゅだい)は、 天皇の正室夫人 (皇

  后、中宮、女御のいずれか) となることである。 

● 10世紀の後半から、 天皇は、 複数の后(き

  さき、正室夫人)を持つようになった。 

     10世紀の後半に、権力闘争で、一条天皇 

  が、 藤原道隆の娘の定子  (ていし、清少納言

  仕える) と、 藤原道長の娘の彰子 (しょうし、

  紫式部が仕える) の2人の后(きさき、正室夫

  人) をもつ事例ができたため。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

◆ 前近代日本の、女院。

■ 女院(にょいん)とは、 天皇家の女性への尊称

  の1つであり、 朝廷より院(上皇、元天皇)に準ず

  る待遇を受けた女性 である。

    女院は、 天皇家の、后妃(皇后、中宮、女御)、

  天皇生母、内親王(ないしんのう、天皇の娘)、准母

  (じゅんぼ、天皇の義母)等の中で、女院の尊称を

  贈られた女性(女院を宣下(せんげ)された女性)で

  ある。 

     前近代日本では、 皇后の地位をあけるため、

  皇后の女性が、女院にされることがよくあった。

 

■ 女院称号(女院号)の形式は、 ○○院、または○

 ○門院 と呼ばれた。

   門院(もんいん)は、 女院称号の1つである。 

● (例) 八条院、待賢門院、美福門院、建礼門院。

● 例えば、 八条院 (はちじょういん、鳥羽上皇の娘、

 ワ子内親王、1137〜1211年)、 待賢門院 (たい

 けんもんいん、藤原璋子(ふじわらのたまこ・しょうし)、

 崇徳上皇(天皇)後白河上皇(天皇)の生母、1101

 〜45年)、 美福門院(びふくもんいん、藤原得子(ふ

 じわらのなりこ・とくし)、近衛天皇、八条院の生母、

 1117〜60年)、 建礼門院(けんれいもんいん、

 徳子(たいらのとくこ)、安徳天皇の生母、平清盛の娘) 

 などである。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#soedajinbei

 

■ 副田 甚兵衛 

     (そえだ じんべい)  

 

■ 副田 甚兵衛。

■ 名称 : 副田 甚兵衛 (そえだ じんべい)。

● 副田 甚兵衛吉成  (そえだじんべいよしなり)。

● 別名 : 与左衛門、 佐治日向守 (さじひゅうがのかみ)。

 豊臣秀吉の妹・あさひ(旭、朝日姫)の第1番目の夫。

 秀吉の家康懐柔のため、秀吉により、1586年に、強制的に 夫人

 のあさひ(朝日姫)と離縁させられ、 その後、 あさひ(朝日姫) は、

 徳川家康に嫁いだ。 

■ あさひ(旭、朝日姫との間に、子はなかった。

 

 

■ 副田 甚兵衛 (そえだ じんべい) は、 副田甚兵衛吉成  (そえ

 だじんべいよしなり) と称し、 別名は、与左衛門、 佐治日向守 

 (さじひゅうがのかみ) である。

 

■ 副田 甚兵衛 (そえだ じんべい) は、  あさひ(旭、朝日姫)の、

 1番目の夫である。

 

■ 副田 甚兵衛 (そえだ じんべい) は、尾張国(おわりのくに、愛

 知県西部)の農夫で、 秀吉により、武士にとりたてられたと言われ

 ている。

 

■ 副田 甚兵衛 は、 秀吉の家康懐柔のため、 秀吉により、158

 6年に、強制的に夫人のあさひ(朝日姫)と離縁させられ、 その後、

 あさひ(朝日姫) は、 徳川家康に嫁いだ。 

● あさひ(旭、朝日姫) は、 1586年に、秀吉の家康懐柔のため、

 強制的に夫の甚兵衛と離縁させられ、 徳川家康に嫁がされた。 

 

■ 副田 甚兵衛 は、 あさひ(旭、朝日姫)との間に、子はなかった。

 

 

★ 副田 甚兵衛 が登場する、面白く、興味深い、ドラ

 マ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 ドラマ、映画 は、史

 実(歴史上の事実) と 架空の出来事 が 混じって描かれています。 

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』 (日本の2011年 NHK

 大河ドラマ) 

 

■ 『 天地人 (てんちじん) 』  (日本のNHK2009年大河ドラマ)。

 

■ 『 寧々〜おんな太閤記 (ねね おんなたいこうき) 』 

 (日本の2009年制作・テレビ東京・テレビドラマ)。 

● 副田 甚兵衛を演じた俳優名 : 蟹江 一平。

 

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#thesonnojoihagroup

 

■ 尊皇(王)攘夷派 

     (そんのうじょういは)  

 

■ 尊皇(王)攘夷派。

■ 時期 : 江戸時代後期。

■ 名称 : 尊皇(王)攘夷派 (そんのうじょういは)。

  略して、尊攘派 (そんじょうは) とも言う。

■ 幕末に、尊皇(王)思想(そんのうしそう、皇室崇

  拝の思想)を重んじ、攘夷運動(じょういうんどう、

  外国勢力を武力で排除する運動) を行った者

  (人)。

■ 開国派、  公武合体派、  佐幕派 と対立した。

■ 急進派の尊皇(王)攘夷派 と 慎重派の尊皇

  (王)攘夷派 とに分かれていた。

■ 尊皇(王)攘夷運動 (幕末の反幕府的・排外的

  政治運動) を行った者(人)。

■ 多くの攘夷派 (じょういは) (攘夷派の多数派) 

  は、 尊皇(王)攘夷派であった。

■ 急進派の尊皇(王)攘夷派の人物の例 : 土佐

  藩藩士の、武市半平太(たけちはんぺいた)、 長

  州藩士の久坂玄瑞 (くさかげんずい)、 薩摩

  士の有馬新七(ありましんしち)、 公家の三条実

   (さんじょうさねとみ) など。

■ 慎重派の尊皇(王)攘夷派の人物の例 : 土佐

  藩士の坂本龍馬 (さかもとりょうま)、 長州藩士

  の桂小五郎 (かつらこごろう、木戸孝允) など。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61324。

 

□ 尊皇(王)攘夷派 が登場する、興味

  深い、ドキュメンタリー、ドラマ、映画

 

 

■ 尊皇(王)攘夷派の一部は、 安政の大獄(18

  58〜59年)の始まる1858年頃より、 幕府に

  反感を強め、 江戸幕府では日本の政治改革

  はできないと考えるようになり、 徐々に、倒幕

  派にもなり、 尊皇(王)攘夷・倒幕が増えて

  いく。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 幕末、1854年以後、既に日本が開国してい

  る状況で、 急進派の尊皇(王 )攘夷派の者は、 

  異人(いじん、外国人)をすべて日本より追い

  出しり、皆殺しにするなどの過激な主張を実行

  しようとしたり、  反対派を暗殺したりしたため、 

  慎重派の尊皇(王)攘夷派の者 との間に 路

  線対立が起こった。

● 急進派の尊皇(王)攘夷派の者は、 在日公使

  館の焼き打ちや在日外国人の殺傷事件を起こ

  したり、 尊皇(王)攘夷派の反対派の、開国派

  公武合体派佐幕派の暗殺 などを行った。

 

 

■ 攘夷運動 (じょういうんどう、外国勢力を武力

  で排除する運動) をする者(人) を、 攘夷派 

  (じょういは) という。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 尊皇(王)攘夷派 (そんのうじょういは) は、 

  略して、 尊攘派 (そんじょうは) とも言い、 

  幕末に、尊皇(王)思想 (そんのうしそう、皇室

  崇拝の思想) を重んじ、 攘夷運動 (じょうい

  うんどう、外国勢力を武力で排除する運動、 外

  国人を武力で日本から追い出す運動) を行っ

  た者(人) である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 尊皇(王)攘夷派は、 開国派、  公武合体派、  

  佐幕派 と対立した。

 

■ 尊皇(王)攘夷派は、 慎重派 と 急進派 に

  分かれていた。

 

■ 尊皇(王)攘夷派 は、 尊皇(王)攘夷運動 

  (幕末の反幕府的・排外的政治運動)を行った

  者(人) である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 急進派の尊皇(王)攘夷派の人物には、 土佐

  藩藩士の、武市半平太 (たけちはんぺいた)、 

  長州藩士の久坂玄瑞 (くさかげんずい)、 薩摩

  藩士の有馬新七(ありましんしち)、 公家の三条

  実美 (さんじょうさねとみ) などがいた。

■ 慎重派の尊皇(王)攘夷派の人物には、 土佐

  藩士の坂本龍馬 (さかもとりょうま)、 長州藩士

  の桂小五郎 (かつらこごろう、木戸孝允) など

  がいた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 幕末(江戸時代末期)に、 江戸幕府が1854年

  に、和親条約を欧米列強と結び、鎖国をやめ開国

  に踏(ふ)み切ると、 開国派 (かいこくは) と攘

  夷派 (じょういは) が、 日本国内で、 激しく対

  立した。 攘夷派(じょういは)の多くの人々は、 江

  戸幕府批判の傾向を強くし、尊皇(王)思想を掲(か

  か)げて、攘夷運動 を行い、 尊皇(王)攘夷派 と

  も呼ばれた。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#thesonnojoihagroup-appearingscenes

 

♪♪ 尊皇(王)攘夷派 が登場する興味

  深い、ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 尊皇(王)攘夷派が登場する興味深

  い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画 は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事 が 混じって描かれてい

  ます。 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 

     (日本の2010年NHK大河ドラマ)。

■ 急進派の尊皇(王)攘夷派の、土佐藩藩士の、

  武市半平太 (たけちはんぺいた)、 長州藩

  士の久坂玄瑞 (くさかげんずい)、 公家の

  三条実美(さんじょうさねとみ) などが登場す

  る。

■ 慎重派の尊皇(王)攘夷派の人物の、 土佐

  藩士の坂本龍馬 (さかもとりょうま)、 長州

  藩士の桂小五郎 (かつらこごろう、木戸孝允) 

  などが登場する。

 

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#thesonnotobakuhagroup

 

■ 尊皇(王 )倒幕派 

     (そんのう とうばくは)。

   

■ 尊皇(王)倒幕派。

■ 名称 : 尊皇(王)倒幕派 (そんのうとうばくは)、 

  倒幕派 (とうばくは)。

■ 幕末に、尊皇(王)思想(そんのうしそう、皇室崇

  拝の思想)を重んじ、 倒幕運動(とうばくうんどう、

  武力で江戸幕府を倒す運動) を行った者(人)。

■ 佐幕派公武合体派 と激しく対立した。

■ 尊皇(王)倒幕運動 (幕末の、天皇親政復活・

  幕府武力打倒の政治運動)を行った者(人)。

■ 幕末、多くの倒幕派 (とうばくは)  (討幕派の多

  数派) は、 尊皇(王)倒幕派 であった。

■ 尊皇(王)倒幕派の人物の例 : 薩摩藩士の、西

  郷隆盛 ( さいごうたかもり)、 長州藩士の桂小五

  郎(かつらこごろう、木戸孝允)、  土佐藩士の板垣

  退助 (いたがきたいすけ、乾(いぬい)退助)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 61322。

 

□ 尊皇(王)倒幕派 が登場する、興味深

     い、ドラマ、映画、ドキュメンタリー

 

 

■ 尊皇(王)倒幕派 (そんのうとうばくは) は、 幕

  末に、尊皇(王)思想 (そんのうしそう、皇室崇拝

  の思想) を重んじ、 倒幕運動 (とうばくうんどう、

  武力で江戸幕府を倒す運動) を行った者(人) で

  ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 尊皇(王)倒幕派 は、 尊皇(王)倒幕運動 (幕末

  の、天皇親政復活・幕府武力打倒の政治運動) を

  行った者(人) である。 尊皇(王)倒幕派の人物に

  は、 薩摩藩士の、西郷隆盛 ( さいごうたかもり)、 

  長州藩士の桂小五郎(かつらこごろう、木戸孝允)、

  土佐藩士の板垣退助 (いたがきたいすけ) などが

  いる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 幕末、大多数の倒幕派 (とうばくは) は、 尊皇

  (王 )倒幕派であった。

■ 倒幕運動 (幕末の幕府武力打倒の政治運動)を

  行った者(人)を、倒幕派 (とうばくは) と いう。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 幕末(江戸時代末期)に、 佐幕派 と 倒幕派 が、 

  日本国内で、 激しく対立した。 倒幕派の多くの人

  々は、 尊皇(王)思想を掲(かか)げて、 倒幕運動 

  を行い、 尊皇(王)倒幕派とも呼ばれた。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 寺田屋事件 (1862年4月、京都)。

● 尊皇(王)倒幕派 と 公武合体派が対立し、幕末、

  1862年(文久2年)4月に、京都伏見の船宿(ふな

  やど)・寺田屋(てらだや)で、尊皇倒幕派の志士が

  殺傷される、寺田屋事件が、起こる。 公武合体派

  の(薩摩藩主の父の)島津久光が鎮撫(ちんぶ)の

  ため派遣した薩摩藩士らが、 寺田屋で会合に集ま

  り挙兵倒幕を企(くわだ)ていた尊皇(王)倒幕派の

  薩摩藩士らと乱闘になり、 彼らを殺傷した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#thesonnotobakuhagroup-appearingscenes

 

♪♪ 尊皇(王)倒幕派 が登場する興味

  深い、ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

★ 尊皇(王)倒幕派 が登場する興味深

  い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事 が 混じって描かれていま

  す。 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 

   (日本の2010年NHK大河ドラマ)。

 

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『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』

 

 

以  上