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   KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY HANDBOOK.

 

 カナヤマ 日本歴史 辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 さ 』。

 No.2141

 

 

メ ニュー (目次)  #jpmenu     

■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

□ 日本史 辞典 (総合)

□      ≪ 真田氏関係 ≫

       ● 事柄順。

 さな  真田氏

            (さなだし)。   《武家の氏族》。

         (= 真田一族、真田家)。

              THE SANADA CLAN.

                   □ 真田氏 画像アルバム 

            No.1

         (⇒ 真田 幸村(信繁))。 

            ■ 真田氏 (さなだし、武家の真田氏:15

            48年頃ー1871年) は、 室町時代後期

            (戦国時代)、安土桃山時代、江戸時代、明

            治時代初期に存在した、武家の一族である。

            ● 室町時代後期(戦国時代)・安土桃山時

            代・江戸時代初期の、真田氏・当主変遷 : 

            (1) 真田幸隆(幸綱)⇒(2) 真田 信綱⇒ 

            (3) 真田 昌幸⇒ (4) 真田 信幸(信之)

            ⇒ (5) 真田 信政⇒ (6) 真田 幸道。

            ■ 真田氏は、 天才的戦略家であり、日の

            本一の兵 (ひのもといちのつわもの)と 言わ

            れた武将の、真田 幸村(信繁) や 真田戦

            法 を生み出した、武家の一族である。

             ● 真田戦法とは、 少数の兵で多数の敵兵

            に勝つために、「おびき寄せてたたく」という

            戦法である。 

            ■ 真田氏は、 信濃(= 信州)の、地方豪族

            である。 

               真田氏は、  室町時代後期(戦国時代)、

            安土桃山時代、江戸時代初期に、 信濃 国

            (= 信州)(しなののくに(しんしゅう)、現在の

            長野県)の東北部の小県郡(ちいさがたぐん)

            の上田の領主(国衆(くにしゅう)) であった。

 

 さな  真田氏 (真田一族)

             (さなだし (さなだいちぞく))。

 

 さな  真田氏の歴代当主

             (さなだしのれきだいとうしゅ)。

 

 さな  真田氏 関連出来事

              (年代順・詳細)

             (さなだし かんれんできごと (ねん

             だいじゅん・しょうさい))。

                 《氏族関連出来事》。

 

 さな  真田 幸村(信繁)

            (さなだ ゆきむら(のぶしげ))。 《人名》。

          (1567年1615年)。

             SANADA Yukimura 

          (Nobushige).

        (⇒ 真田氏)。  

          ○ 真田 幸村(信繁)は、

          日本一の兵 (ひのもといちのつ

          わもの)、戦国一の兵 (せんごく

          いちのつわもの) といわれた、

          武将である。         

          ○ 真田 幸村(信繁)は、

          天才的戦略家である。

          ○ 真田 幸村(信繁)は、

          安土桃山時代・江戸時代初

          期に活躍した武将である。

             ■ 真田 幸村(信繁) (さなだ ゆきむら(の

             ぶしげ)、1567年〜1615年) は、 安土

             桃山時代、江戸時代初期に活躍した、武将

             である。

             ● 真田 幸村(信繁)は、 大坂の陣(1614

             −15年)に豊臣方の武将として参戦し、幸村

             (信繁)は、1614年の大坂冬の陣では真田

             丸の砦を使い多くの兵を討ち取り徳川方に大

             打撃を与え、1615年の大坂夏の陣では大活

             躍し野戦で徳川家康本陣間際まで迫り、戦死

             する。

             ● 真田 幸村(信繁)は、 天才的戦略家であ

             り、 日本一の兵 (ひのもといちのつわもの)、

             戦国一の兵 (せんごくいちのつわもの)とい

             われた武将 である。

             ● 真田戦法とは、 少数の兵で多数の敵兵

             に勝つために、「おびき寄せてたたく」という

             戦法である。 

             ● 真田 幸村(信繁)は、 真田氏・当主では

             なかった。

             ● 真田 幸村(信繁) (さなだ ゆきむら(の

             ぶしげ)、1567〜1615年) は、 真田 昌

             幸(まさゆき)の次男であり、 安土桃山時代、

             江戸時代初期の武将であった。

             ● 真田 幸村(信繁)は、 大坂の陣(1614

             −15年)に豊臣方の武将として参戦し、16

             15年の大坂夏の陣で、戦死する。

             ● 真田 幸村(信繁)(さなだ ゆきむら(のぶ

             しげ)の一族の男性は、 

             (1) 祖父の 、真田 幸隆(幸綱)(ゆきたか

                (ゆきつな))、 

             (2) 伯父(おじ)の、真田 信綱(のぶつな)

               や真田昌輝(まさてる)、

             (3) 叔父(おじ)の、真田 信尹(のぶただ)、 

             (4) 父の真田 昌幸(まさゆき)、 

             (5) 兄の 、真田 信幸(信之)(のぶゆき)、 

             (6) 幸村(信繁)の長男の、真田幸昌(大

               助)(ゆきまさ(だ いすけ))、

             (7) 次男の真田 守信(もりのぶ)、 

             (8) 三男の三好幸信(左馬之介)(みよし

               ゆきのぶ(さまのすけ))

             などである。 

             ● 真田 幸村(信繁) (さなだ ゆきむら(の

             ぶしげ) の一族の女性は、 

             (1) 祖母の恭雲院  (きょううんいん)

               (NHK大河ドラマ「真田丸」で仮称「とり」

               で登場)、

             (2) 生母の山手殿  (やまのてどの) 

               (NHK大河 ドラマ「真田丸」で仮称「薫

               (かお る)」で登場)、

             (3) 兄・信幸(信之)の側室(元正 室)夫

               人の清音院 (せいおんいん ) 

               (NHK大河ドラマ 「真田丸」で仮称「こう」

               で登場)、

             (4) 兄・信幸(信之)の正室夫人の小松姫 

               (こまつひめ) 

               (NHK大河ドラマ「真田丸」で仮称「稲

               (いな)」で登場)、

             (5) 姉の村松殿 (むらまつどの ) 

               (NHK 大河ドラマ「真田丸」で仮称「松

               (まつ)」で登場)、

             (6) 幸村(信繁)の正室夫人の、竹林院 

               (ちくりんいん) 

               (NHK大河ドラマ「真田丸」で仮称「春

               (はる)」で登場)、 

             (7) 幸村(信繁)の側室夫人の、堀田興重

               の妹 (実名不詳、ほったおきしげのいも

               うと) 

                (NHK大河ドラマ「真田丸」で仮称「 梅

               (うめ)」で登場)、 

             (8) 幸村(信繁)の側室夫人の高梨内記の

               娘 (実名不詳、たかなしないきのむすめ) 

               (NHK大河ドラマ「真田丸」で仮称「 きり」

               で登場)、

             (9) 幸村(信繁)の側室夫人の隆清院 

                (りゅうせいいん) 

             (10) 幸村(信繁)の娘の、菊 (きく、長女)、  

               市 (いち、次女)、 梅 (うめ、三女)、 

               あくり (あぐり、四女)、 なほ (御田姫

               (おたひめ、顕性院)、五女)、 菖蒲 

               (しょうぶ、六女)、 かね (七女) など

               である。

 

 さな   真田 幸村(信繁)の参戦

             (さなだ ゆきむら(のぶしげ)のさんせん)。

 

 さな   真田 幸村(信繁)の一族

             (さなだ ゆきむら(のぶしげ)のいちぞく)。

 

 さな   真田幸村(信繁)簡略年表

             (さなだゆきむら(のぶしげ) かんりゃくねん

             ぴょう)。

                 《人物関連年表》。

 

 さな   真田 幸村(信繁) 関連

                出来事 (年代順・詳細)

             (さなだ ゆきむら(のぶしげ) かんれん

             できごと (ねんだいじゅん・しょうさい))。

                  《人物関連出来事》。

 

 さな  真田父子犬伏密談。

            (さなだふしいぬぶしみつだん)。 

          (= 犬伏密談、犬伏の別れ)。

          《会議》。

             (1600年7月)。

             THE CONFIDENTIAL TALK BY  

             SANADA’S FATHER AND SONS 

             IN INUBUSHI.

          ○ 真田父子犬伏密談とは、

          下野国犬伏で、真田昌幸・ 幸村

          (信繁)・信幸(信之)の真田父子

          3人が 行った密談である。

          (⇒ 真田氏

          真田 幸村(信繁))。

          (⇒ 天下分け目の戦い)。

             ■ 真田父子犬伏密談とは、 1600 年(慶

             長5年)7月に、下野国犬伏で、真田昌幸

             幸村(信繁)・信幸(信之)の真田父子3人が

             行った密談である。

             ■ 犬伏密談とは、関ヶ原の戦いの数カ月

             前の、1600年(慶長5年)7月に、下野国

             (しもつけのくに、現・栃木県)の犬伏(いぬ

             ぶし)で、 真田氏当主の真田昌幸(さなだ

             まさゆき) と、 昌幸の次男の真田幸村

             (信繁(のぶしげ))  と、 昌幸の長男の真

             田信幸(信之)(のぶゆき) の3人が行った

             密談 である。 

             ■ 犬伏密談は、 真田氏当主の真田昌幸

             と、 昌幸の次男の真田幸村(信繁 ) と、 

             昌幸の長男の真田信幸(信之)(のぶゆき) 

             の 3人や真田氏のその後の運命を変える

             会談であった。

             ■ 密談の結果、 天下分け目の戦い(16

              00年の関ヶ原の戦い、その他の戦い)で、 

             真田昌幸と次男・真田幸村(信繁)の父子

             は、石田(三成)方の西軍に味方し、 昌幸・

             長男の真田信幸(信之)は、徳 川(家康)方

             の東軍に味方することとなった。 

 

 さな  真田 信尹。

            (さなだ のぶただ)。  《人名》。

                    (1547年?−1632年)。

             SANADA Nobutada. 

          ○ 真田 信尹は、

           真田 幸村(信繁)の叔父

          (おじ)である。

         (⇒ 真田氏

        真田 幸村(信繁))。 

            ■ 真田 信尹 (さなだ のぶただ、1547年

            ?−1632年) は、 室町時代後期(戦国

            時代)、安土桃山時代、江戸時代初期に活

            躍した、武将である。

             真田 信尹 (さなだ のぶただ、1547年

            ?−1632年) は、 真田 幸村(信繁)の叔

            父(おじ)であり、 真田 幸村(信繁)の祖父・

            真田 幸隆(幸綱)(ゆきたか(ゆきつな))の 

            四男である。

             真田 信尹は、 大坂の陣で徳川方に味

            方し、後に、徳川氏の旗本となる。

 

 さな  真田丸。

             (さなだまる)。 《砦(とりで)》。

          (大坂冬の陣の砦)。

          (1614年11月〜12月)。

             SANADAMARU FORTRESS.

           ○ 真田丸は、

          大坂冬の陣の時の砦で

          ある。

          (⇒ 大坂の陣)。

          (⇒ 真田氏

        真田 幸村(信繁))。 

             ■ 真田丸 (さなだまる、1614年11月ー

             12月)  とは、 大坂冬の陣の時の砦(とり

             で)である。

             ■ 大坂冬の陣では、 徳川軍は、約20万

             人の兵で、豊臣大阪城を囲んで、東西南 北

             から攻撃したが、 真田幸村(信繁)は、 約

             5000人の兵で、城南から攻め寄せる兵 を

             真田丸に引き寄せて、約1万人以上の兵を

             討ち、徳川方主力部隊に大打撃を与えた。

             ■ 真田丸 (さなだまる)は、 大坂冬の陣

             の砦(とりで)であり、 1614年(慶長19年 )

             の11月から12月まで、 豊臣大坂城の 南方

             存在した出城(でじろ)であ る。 

             ● 真田丸は、 真田幸村(信繁) (さなだ

             ゆきむら(のぶしげ))が、大坂冬の陣で、豊

             臣方の籠城戦 (ろうじょうせん、城攻防戦)

             有利にするため、1614年10月より約1カ月

             の突貫工事で、豊臣大阪城の南方に造った、

             無敵の砦(とりで)であった。

             ● 1614年12月に豊臣方と徳川方の間で、

             和睦が成立し、大坂冬の陣は終わった。 和

             睦の条件は、 大阪城の堀の埋め立て と

             本丸以外の構築物の破壊 (二の丸、惣構

             (そうがまえ、三の丸)の破壊) であっため、 

             徳川方は、停戦後すぐ、約1カ月をかけて

             堀の埋め立てと本丸以外の構築物の破壊を

             行い、その時に、真田丸も消滅した。

             ● 2014年に真田丸の学術調査が行われ

             た。

                真田丸の正確な場所は、今までは特定

             できなかったが、 2014年の学術調査で、

             真田丸は、現在の大坂の餌差町(えさし まち)

             の大坂明星学園(おおさかめいせいがくえん)

             付近にあったことがわかった。

                また、2014年の学術調査で、真田丸

             は、東西220m・南北230mの大きさで、

             四角形の台形型であり、 寺町の市街地の

             中にあったことがわかった。

 

              ◆ 真田 幸村(信繁)の子。

 さな  真田 幸昌(大助)。

            (さなだ ゆきまさ(だいすけ))。 《人名》。

            (1600年頃ー1615年)。

             SANADA Yukimasa (Daisuke). 

           ○ 真田 幸昌(大助)は、

          真田 幸村(信繁)の長男で

          ある。

           ○ 真田 幸昌(大助)は、

          真田 幸村(信繁)と共に、

          大坂夏の陣で戦死する。

         (⇒ 真田氏

        真田 幸村(信繁))。 

            ■ 真田 幸昌(大助) (さなだ ゆきま

             さ(だいすけ)、1600年頃ー1615年) 

            は、 真田 幸村(信繁)(ゆきむら(のぶ

            しげ))の長男であり、 幸村(信繁)と竹

             林院(ちくりんいん)との間の子であり、

            真田 幸村(信繁)と共に、1615年の

            大坂夏の陣で戦死する。

 

 さな  真田 守信。

              (さなだ もりのぶ)。  《人名》。

             (幼名:大八(だいはち))。

             (1612年−1670年)。

             SANADA Morinobu. 

           ○ 真田 守信は、

          真田 幸村(信繁)の次男で

          ある。

           ○ 真田 守信は、

          仙台藩・真田幸村(信繁)家

            の祖である。

          (⇒ 真田氏

        真田 幸村(信繁))。 

                           ■ 真田 守信 (さなだ もりのぶ、幼名:大八

                           (だいはち)、1612−1670年) は、 真田

                            幸村(信繁)(ゆきむら(のぶしげ))の次男で

                            あり、 幸村(信繁)と竹林院(ちくりんいん)

              との間の子であり、 1615年の大坂夏の陣

                            後、片倉重長 (かたくらしげなが、片倉小十

                           郎(景綱)の子) に保護され、 その後、仙

                           台藩片倉氏家臣となる。

 

              ◆ 真田氏・歴代当主。

 さな   真田 幸隆(幸綱)。

             (さなだ ゆきたか(ゆきつな))。 《人名》。

             (15131574年)。

          SANADA Yukitaka 

          (Yukitsuna). 

          (真田氏・初代当主)。

          (真田氏当主:

           1548年頃−1567)。

          ○ 真田 幸隆(幸綱)は、

          真田 幸村(信繁)の祖父

          である。

         (⇒ 真田氏

        真田 幸村(信繁))。 

            ■ 真田 幸隆(幸綱) (さなだ ゆきたか(ゆ

             きつな)、1513年ー1574年) は、 室町

            時代後期(戦国時代)、に活躍した、武将で

            あり、 信濃(しなの、 現・長野県)・上田領の

            領主であった。

            ■ 室町時代後期(戦国時代)・安土桃山時

            代・江戸時代初期の、 真田氏・当主変遷 : 

            (1) 真田幸隆(幸綱)⇒(2) 真田 信綱⇒ 

            (3) 真田 昌幸⇒ (4) 真田 信幸(信之)

            ⇒ (5) 真田 信政⇒ (6) 真田 幸道。

            ■ 真田 幸隆(幸綱) (さなだ ゆきたか(ゆ

             きつな)、1513〜1574年) は、 海野(う

            んの)氏分家であり(諸説あり)、 真田氏の

            当主  (1548年頃−1567年) であり、 

            信濃(しなの、現・長野県)・上田領の領主 

            (1548年頃−1567年) であった。

            ● 真田 幸隆(幸綱) は、 真田 信綱や真

             田昌幸の父であり、 真田 幸村(信繁)の祖

            父であり、 室町時代後期(戦国時代)の武

            将であった。

 

 さな  真田 信綱。

            (さなだ のぶつな)。  《人名》。

                   (15371575年)。

         (真田氏・第2代当主)。

         (真田氏当主:

                    15671575年)。

             SANADA Nobutsuna. 

         ○ 真田 信綱は、

          真田 幸村(信繁)の伯父

             (おじ)である。

         (⇒ 真田氏

        真田 幸村(信繁))。 

            ■ 真田 信綱 (さなだ のぶつな、 1537

            年ー1575年) は、 室町時代後期(戦国

            時代)、安土桃山時代に活躍した、武将で

            あり、 信濃(しなの、 現・長野県)・上田領

            の領主であった。

            ■ 室町時代後期(戦国時代)・安土桃山時

            代・江戸時代初期の、 真田氏・当主変遷 : 

            (1) 真田幸隆(幸綱)⇒(2) 真田 信綱⇒ 

            (3) 真田 昌幸⇒ (4) 真田 信幸(信之)

            ⇒ (5) 真田 信政⇒ (6) 真田 幸道。

            ■ 真田 信綱 (さなだ のぶつな、 1537年

            ー1575年) は、 真田氏の当主  (1567

            年−15 75年) であり、 信濃・上田領の領

             主 (1567−1575年)  であった。

            ● 真田 信綱 (さなだ のぶつな)、1537〜

            1575年) は、 真田 幸村(信繁)の伯父(お

            じ)であり、 真田 幸隆(幸綱)の長男であり、

            室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代の

            武将であった。

            ● 真田 信綱は、 1575年の長篠の戦いで

            武田方の武将として参戦し、戦死する。

 

 さな  真田 昌幸。

             (さなだ まさゆき)。  《人名》。

            (15471611年)。

         (真田氏・第3代当主)。

         (真田氏当主:

           1575−1600年)。

          SANADA Masayuki. 

         ○ 真田 昌幸は、

          真田 幸村(信繁)の父である。

         (⇒ 真田氏

        真田 幸村(信繁))。 

            ■ 真田 昌幸 (さなだ まさゆき、1547年

            ー1611年) は、 安土桃山時代に活躍し 

            た、武将であり、 信濃 (現・長野県)・上田

            領や上野(こうずけ、現・群馬県))・沼田領

            の領主であった。 

            ■ 室町時代後期(戦国時代)・安土桃山時

            代・江戸時代初期の、 真田氏・当主変遷 : 

            (1) 真田幸隆(幸綱)⇒(2) 真田 信綱⇒ 

            (3) 真田 昌幸⇒ (4) 真田 信幸(信之)

            ⇒ (5) 真田 信政⇒ (6) 真田 幸道。

                          ■ 真田 昌幸 (さなだ まさゆき、1547年

                        ー1611年) は、 真田氏の当主 (1575

                        年−1600年) であり、 信濃 (現・長野県・

            相当地域)・上田領の領主 (1575−16

            00年) であり、 上野(こうずけ、現・群馬県・

            相当地域)・沼田領の領主 (1580年ー16

            00年) であった。

            ● 真田 昌幸 (さなだ まさゆき、1547〜

            1611年) は、 真田 幸隆(幸綱)の三男で

            あり、 真田 幸村(信繁)の父であり、 安土

            桃山時代の武将 であった。

 

 さな  真田 信幸(信之)。

             (さなだ のぶゆき)。  《人名》。

            (15661658年)。

         (真田氏・第4代当主)。

         (真田氏当主:

           1600−1656年)。

          SANADA Nobuyuki.

         ○ 真田 信幸(信之)は、

          真田 幸村(信繁)の兄で

          ある。

         (⇒ 真田氏

        真田 幸村(信繁))。 

            ■ 真田 信幸(信之) (さなだ のぶゆき、

            1566年ー1658年)  は、 安土桃山時代、

            江戸時代初期に活躍した、武将であり、

            濃・上田 (うえだ)藩・初代藩主(1600年−

            1622年)であり、 信濃・真田氏松代(まつ

            しろ)藩・初代藩主(1622年−1656年)で

            ある。

            ● 室町時代後期(戦国時代)・安土桃山時

            代・江戸時代初期の、 真田氏・当主変遷 : 

            (1) 真田幸隆(幸綱)⇒(2) 真田 信綱⇒ 

            (3) 真田 昌幸⇒ (4) 真田 信幸(信之)

            ⇒ (5) 真田 信政⇒ (6) 真田 幸道。

            ■ 真田 信幸(信之) (さなだ のぶゆき、15

            66年ー1658年) は、 真田氏の当主 (16

            00年−1656年) であり、 信濃・上田領の

            領主 (1600年−1622年) であり、 上野

            (こうずけ)・沼田領の領主(1600年−1656

            年)であり、 信濃・松代(まつしろ)領の領主

            (1622−1656年)であった。

            ● 真田 信幸(信之) (さなだ のぶゆき、

            1566〜1658年) は、 真田 昌幸(まさゆ

            き)の長男であり、 真田 幸村(信繁)の兄で

            あり、安土桃山時代、江戸時代初期の武将で

            あった。

 

 さな  真田 信政。

             (さなだ のぶまさ)。  《人名》。

            (1597年ー1658年)。

         (真田氏・第5代当主)。

         (真田氏当主:

           1656−1658年)。

          SANADA Nobumasa.

         ○ 真田 信政は、

          真田 幸村(信繁)の甥(おい)

             であり、 真田 幸村(信繁)

             の兄・真田信幸(信之)の

          次男である。

         (⇒ 真田氏

        真田 幸村(信繁))。 

            ■ 真田 信政 (さなだ のぶまさ、1597年

            ー1658年)は、 江戸時代初期に活躍し

            た、武将であり、 信濃・真田氏松代(まつし

            ろ)藩・第2代藩主 である

            ■ 室町時代後期(戦国時代)・安土桃山時

            代・江戸時代初期の、 真田氏・当主変遷 : 

            (1) 真田幸隆(幸綱)⇒(2) 真田 信綱⇒ 

            (3) 真田 昌幸⇒ (4) 真田 信幸(信之)

            ⇒ (5) 真田 信政⇒ (6) 真田 幸道。

            ■ 真田 信政 (さなだ のぶまさ、1597年

            ー1658年) は、 真田氏の当主 (1656 

            −1658年) であり、 信濃・松代(まつし

            ろ)領、上野・沼田(ぬまた)領の領主 (16

            56−1658年) であった。

            ● 真田 信政は、 信濃・真田氏松代(まつ

            しろ)藩・第2代藩主 (1656−165 8年)  

            であった。

            ● 真田 信政 (さなだ のぶまさ、1597年

            ー1658年) は、 真田 幸村(信繁)の兄・

            真田信幸(信之)(のぶゆき)の次男であり、 

            信幸(信之)と信幸(信之)正室夫人・小松姫

            との間の子である。

 

 さな  真田 幸道。

            (さなだ ゆきみち)。 《人名》。

            1657−1727年)。

         (真田氏・第6代当主)。

         (真田氏当主:

           1658−1727年)。

          SANADA Yukimichi. 

         ○ 真田 幸道は、

          真田 幸村(信繁)の大甥

             (おおおい)である。

         (⇒ 真田氏

        真田 幸村(信繁))。 

            ■ 真田 幸道 (さなだ ゆきみち、真田右衛

            門、1657−1727年) は、 信濃・真田

            氏松代(まつしろ)藩・第3代藩主 である

            ■ 室町時代後期(戦国時代)・安土桃山時

            代・江戸時代初期の、 真田氏・当主変遷 : 

            (1) 真田幸隆(幸綱)⇒(2) 真田 信綱⇒ 

            (3) 真田 昌幸⇒ (4) 真田 信幸(信之)

            ⇒ (5) 真田 信政⇒ (6) 真田 幸道。

            ■ 真田 幸道 (さなだ ゆきみち、真田右衛

            門、1657−1727年) は、 真田氏の当

            主 (1658−17 27年) であり、信濃・松

            代(まつしろ)領の領主(1658−1727年) 

            であった。

            ● 真田 幸道は、 信濃・真田氏松代(まつ

            しろ)藩・第3代藩主 (1658−1727年) 

            であった。

            ● 真田 幸道は、 信濃・真田氏松代藩第2

            代藩主・真田 信政(のぶまさ)の六男であり、 

            真田 幸村(信繁)の大甥(おい) (幸村(信

            繁)の兄・信幸(信之)の孫) であり、 信政

            と信政夫人・松寿院との間の子である。

            ● 1658年(明暦4年)6月に、幕命により、

            真田 幸道は、信濃・松代(まつしろ)領を相

            続し、松代藩主となり、 真田 信利(信直)

            は、上野・沼田(ぬまた)領を相続し、沼田藩

            主となった。

            ● 真田 信幸(信之)(のぶゆき)の長男(庶

            子、側室夫人の子) は、  側室夫人・清音

            院との間の子・真田 信吉(のぶよし、15

            95−1635年)であり、 真田 信吉(のぶよ

            し)の次男は、 真田 信利(信直)(さなだ の

            ぶとし(のぶなお)、生没年:1635−1688

            年) であった。

               1658年(明暦4年)6月に、真田 信利

            (信直)(のぶとし(のぶなお)、信吉の次男)

            は、 幕命で、松代藩から分離独立して、上

            野(こうずけ、現・群馬県)・沼田(ぬまた)領

            の領主 (1658−1681年) となり、 

            上野・真田氏沼田(ぬまた)藩・初代藩主

            (1658−16 81年) となる。 しかし、

            沼田藩は、1681年(天名(てんな)元年)11

            月に、改易(かいえき、領地没収) となる。  

 

              ◆ 真田氏の本城。

 さな  真田氏本城。

            (さなだしほんじょう)。 《城》。

           (= 松尾城(まつおじょう))。 

       (⇒ 真田 氏)。  

          ○ 真田氏本城とは、

              松尾城である。

          ○ 真田氏本城とは、

           上田城・本城へ移る前の

           真田氏の本城である。 

             ■ 真田氏本城 (さなだしほんじょう、=

             松尾城(まつおじょう))は、 信濃国・真田

             にある城であり、真田 幸村(信繁(のぶし

             げ))の祖父や父の真田幸隆(ゆきたか)

             や真田 昌幸( まさゆき)の城であった。

             ● 真田 昌幸(まさゆき)は、 徳川家康

             の援助で、前期上田城を築城し、本城を、

             真田氏本城(= 松尾城)から前期上田城へ

             移す。

 

 

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■ 真田氏 

       (さなだし)。

 

■ 真田氏

■ 名称 : 真田氏  (さなだし)。

■ 別名 : 真田家、 真田一族。

■ 室町時代後期(戦国時代)・安土桃山時代・

  江戸時代初期の、 真田氏・当主変遷 : 

  (1) 真田幸隆(幸綱)⇒(2) 真田 信綱⇒ 

    (3) 真田 昌幸⇒ (4) 真田 信幸(信之)⇒ 

  (5) 真田 信政⇒ (6) 真田 幸道。

 

□ 真田氏 画像アルバム No.1

□ 真田氏 (真田一族)

□ 真田氏の歴代当主

□ 真田氏・存続後継諸家

□ 真田氏が登場する、興味深い、ドキ

   ュメンタリー、ドラマ、映画

□ 真田氏関連 出来事 (年代順、詳細)

 

 

■ 真田氏。

■ 真田氏 (さなだし、武家の真田氏:1548年頃ー

  1871年) は、 室町時代後期(戦国時代)、安土

  桃山時代、江戸時代、明治時代初期に存在した、

  武家の一族である。

 

■ 真田氏は、 信濃(= 信州)の、地方豪族である。 

 

■ 真田氏は、 天才的戦略家であり、日の本一の兵

  (ひのもといちのつわもの)と言われた武将の、真田

  幸村(信繁) や 真田戦法 を生み出した、武家の

  一族である。

● 真田戦法とは、 少数の兵で多数の敵兵に勝つた

  めに、「おびき寄せてたたく」という戦法である。 

 

■ 真田兄弟の、真田幸村(信繁)(ゆきむら(のぶしげ))

  (弟)は、真田氏の武名を残し、真田信幸(信之)(の

  ぶゆき)(兄)は、真田氏の家名を残した。 

 

 真田氏は、 信濃国小県郡真田(しなののくに・ちい

  さがたぐん・さなだ)の国衆(くにしゅう) であった。

     国衆(くにしゅう)は、 戦国大名の従属的な家

  臣ではなく、戦国大名に領地を守ってもらう代わりに、

  戦力を提供する独立武士団であった。

     真田氏は、1548年頃から1582年(天正10

  年)まで、武田氏に臣従し、武田氏の家臣として、

  活躍した。

 

 真田氏は、 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山

  時代、江戸時代初期に、 安土桃山時代、江戸時代

  初期に、 信濃国(= 信州)(しなののくに(=しんしゅ

  う)、現在の長野県) の東北部の小県郡(ちいさが

  たぐん)の上田領の領主 (1548年頃ー1622年) 

  であった。

     真田氏は、 江戸時代初期の、1622年(元和

  8年)に、転封(てんぽう) となり、上田領の隣の、

  信濃(信州)の松代(まつしろ)に移り、 真田氏は、

  江戸時代に、信濃・松代(しなの・まつしろ)藩主(領

  主)として、幕末まで、存続した。

 

■ 真田氏の旗印の六文銭

■ 真田家の旗印の六文銭(六連銭)は、六道

  銭で、当時亡くなった人を葬るときお棺に入

  れる六文の銭貨で、 三途の川(さんずのか

  わ)の渡し賃のことである。 六道銭を旗印に

  することは、不惜身命(ふしゃくしんみょう)を

  意味し、仏法のために身命をささげ惜しまな

  いことを意味する。

 

■ 真田氏の忍び(忍者)。

■ 真田家は、 情報収集、その他の目的で、忍び(忍

  者)を使っていた。

    真田家は、 山伏(やまぶし)や歩き巫女(あるき

  巫女)などを忍び(忍者)として使った。

    真田十勇士は、架空の人物である。

 

■ 真田氏の真田での菩提寺。

■ 真田氏の、真田での菩提寺 (ぼだいじ、英:family 

  temple)は、 長野県上田市真田町にある、長谷寺

  (ちょうこくじ) である。

     真田幸隆(幸綱)、幸隆(幸綱)夫人、真田 昌幸

  の墓がある。

 

 

■ 真田氏。

■ 真田氏は、 信濃(= 信州)の、地方豪族である。

     真田氏は、 信濃(= 信州)(しなの(しんしゅ

  う)、現・長野県)の上田の領主であった。

     真田氏は、 信濃(= 信州)の戦国小大名で

  あった。

     真田氏は、 1548年頃から1582年 (天正

  10年)まで、武田氏に臣従し、その後、上杉氏、

  北条氏、徳川氏、豊臣氏に 臣従した。 

     真田氏は、 武田氏の家臣として、武田氏が

  滅びる1582年まで、武田氏と命運を共にしてい

  たため、 真田氏4人が「武田二十六将」に名を連

  ねている。 武田信玄や武田勝頼の側近として重

  用された武将の、その真田氏4人とは、真田昌輝

  (さなだ まさてる)、真田幸隆(ゆきたか)、真田信

  綱(のぶつな)、真田昌幸(まさゆき) である。

     上田領主・真田昌幸(さなだまさゆき)の次男

  の、真田幸村(信 繁)(さなだゆきむら(のぶしげ))

  は、 長く、真田家が臣従した各地の大名のところ

  (上杉氏、豊臣氏)で、人質生活を送った。

 

■ 真田氏。

■ 武家の真田 氏(真田一族)は、 信濃国小県郡

  真田(しなののくに・ちいさがたぐん・さなだ)を本

  拠とした豪族であり、 信濃(信州)の小大名で あ

  り、 戦国時代 (室町時代後期)・安土桃山時代

  では大国の狭間で苦しんだ。 その後、江戸時代

  初期に、本拠地を信濃(信州)の松代(ま つしろ)

  に移し、江戸時代の幕末まで、存続し続けた。 

     真田 幸隆(幸綱) (さなだ ゆきたか(ゆき

  つな)、1513〜1574年) は、 真田幸村(信

  繁)(さなだゆきむら(のぶしげ))の祖父であり、 

  1546年頃より、武田家武田信玄(1541年

  に父の信虎を国外追放し甲斐の家督を継ぐ)

  に仕え、 1567年に隠居し、長男の真田信綱

  (のぶつな)に真田家を継がせる。 

     真田信綱(のぶつな)は、 真田幸隆の

  長男で、 幸村(信繁)の伯父(おじ)で、 武

  田氏の武田信玄に仕え、 1573年の信玄

  死後、武田氏の武田勝頼に仕えるが、 15

  75年の長篠の合戦で戦死する。 

     真田昌幸(まさゆき)は、 真田幸隆の

  三男で、 幸村(信繁)の父であり、 1575

  年の長篠の合戦後、真田家を継ぎ、武田氏

  の武田勝頼に仕えた。 

    真田昌幸は、 1582年の武田氏の武田

  勝頼滅亡後、 周辺の諸大名の傘下に入り、

  当主・真田昌幸子の真田幸村(信繁)は、

  上杉氏、豊臣氏の諸大名の人質となる。 

     真田昌幸は、 徳川家康との間で、第1 

  次上田合戦を行い、勝利を得る。 真田昌幸 

  は、最終的に豊臣秀吉に仕える (秀吉の傘

  下に入る)。 真田昌幸は、上田城主となり、

  昌幸・長男の真田信之(のぶゆき)を沼田

  主とした。

     天下分け目の戦い (1600年の関ヶ原

  の戦い、その他の戦い)では、真田 昌幸(まさ

  ゆき)は、 昌幸・次男の真田幸村(信繁)を従

  えて、石田方に味方して(西軍の石田三成(み

  つなり)に味方して)、 昌幸の長男・真田信幸

  (のぶゆき)は、徳川方に味方して(東軍の徳

  川家康に味方して)、戦った。

     1600年の天下分け目の戦い後、石田

  方に味方した真田 昌幸・幸村(信繁)親子は、 

  降伏し、上田領を没収され、 徳川方に味方

  した真田 信幸の嘆願で切腹を免れ、紀伊国

  (きいのくに、和歌山県)の九度山(くどやま)

  に配流(はいる、追放)され、浪人となる。 

  その後、1611年に九度山で、幸村(信繁)

  の父・真田 昌幸は死去する。 大阪の役

  (1614〜15年)では、 真田 幸村(信繁)

  は、豊臣秀頼に招かれて、大阪城に入り、 

  豊臣軍の武将として、奮戦して、戦死する。

    一方、天下分け目の戦いで、徳川方に味

  方した真田信之(真田幸村(信繁)の兄)は、 

  真田領・沼田領の小大名として存続し、 その

  後、1622年(元和8年)に、転封(てんぽう) 

  となり、信濃(信州)の松代(まつしろ)に移り、 

  真田家は、江戸時代に、信濃・松代(しなの・

  まつしろ)藩主として存続する。

    幕末には、 信濃・松代(まつしろ)藩主の

  真田幸貫(ゆきつら)が江戸幕府の海防掛老

  中(1841−44年)をつとめ佐久間象山を顧

  問とし、 信濃(信州)の真田氏の松代藩10

  万石から松代藩藩士で、蘭学者(らんがくし

  ゃ)の佐久間象山(さくましょうざん)が、出現

  した。

    

 

#thesanadaclan-thesucceedingfamilies

 

◆ 真田氏・存続後継諸家。

 

■ 真田 幸村(信繁)家。

   (= 真田 幸村(信繁)とその子孫)。

● 真田 幸村(信繁) (さなだ ゆきむら(のぶしげ)、

  1567−1615年) は、 真田 幸村(信繁)の父・

  真田 昌幸(まさゆき)の次男 である。

● 仙台真田家。

● 仙台藩の片倉氏家臣。

  武家の真田 幸村(信繁)(ゆきむら(のぶしげ))家

  は、 仙台藩の片倉氏家臣となり、 仙台真田家とし

  て、 江戸時代まで、 存続する。

● 真田 幸村(信繁)(ゆきむら(のぶしげ))は、 天下

  分け目の戦い (1600年の関ヶ原の戦い、その他

  の戦い) で、 父・昌幸(まさゆき)と共に、西軍の

  石田(三成)方に味方して敗北し降参して、蟄居(ち

  っきょ、配流(はいる))処分となり牢人(ろうにん、浪

  人)となり、 次に、 大坂の陣(1614−1615年)

  に豊臣方として参戦し、大坂夏の陣(1615年)で戦

  死する。

● 真田 守信 (さなだ もりのぶ、幼名:大八(だいは

  ち)、1612−1670年) は、 真田 幸村(信繁)の

  次男であり、 幸村(信繁)と竹林院(ちくりんいん)

  との間の子であり、 1615年の大坂夏の陣後、片

  倉重長 (かたくらしげなが、片倉小十郎(景綱)の

  子) に保護され、その後、仙台藩の片倉氏家臣と

  なる。

 

■ 真田 信幸(信之)家。

   (= 真田 幸村(信繁)の兄・真田 信幸(信之)とそ

      の子孫)。

● 真田 信幸(信之) (さなだ のぶゆき、1566−

  1658年) は、 真田 幸村(信繁)の兄であり、 

  真田幸村(信繁)の父・真田 昌幸(まさゆき)の長

  男 である。

● 真田氏松代藩主。

  武家の真田 信幸(信之)家は、 真田氏松代(ま

  つしろ)藩・藩主として、安土桃山時代、江戸時

  代を経て、明治時代初期の廃藩置県まで、存続

  する。

● 室町時代後期(戦国時代)・安土桃山時代・江戸

  時代初期の、 真田 信幸(信之)家・当主 変遷 : 

    (1) 真田 信幸(信之)⇒ (2) 真田 信政⇒ 

  (3) 真田 幸道。

● 真田 信幸(信之)(のぶゆき)は、 天下分け目の

  戦い (1600年の関ヶ原の戦い、その他の戦い) 

  で東軍の徳川(家康)方に味方して、上田(うえだ)

  藩・初代藩主になり、 転封(てんぽう、領地替え)

  後、真田氏松代(まつしろ)藩・初代藩主となる。

 

■ 真田 信尹家。

   (= 真田 幸村(信繁)の叔父(おじ)・真田 信尹

      とその子孫)。

● 真田 信尹 (さなだ のぶただ、1547年?−16

  32年) は、 真田 幸村(信繁)の叔父(おじ)であ

  り、 真田 幸村(信繁)の祖父・真田 幸隆(幸綱)

  (ゆきたか(ゆきつな))の四男 である。

● 徳川氏旗本。

  武家の真田 信尹(のぶただ)家は、 徳川氏旗本

  として、江戸時代まで、存続する。

● 真田 信尹は、 大坂の陣で徳川方に味方し、後に、

  徳川氏の旗本となる。

 

 

#thesanadaclan-theclanmembers

 

◆ 真田氏 (真田一族)。

■ 室町時代後期(戦国時代)・安土桃山時代・

  江戸時代初期の、 真田氏・当主変遷 : 

  (1) 真田幸隆(幸綱)⇒ (2) 真田 信綱⇒ 

    (3) 真田 昌幸⇒ (4) 真田 信幸(信之)⇒ 

  (5) 真田 信政⇒ (6) 真田 幸道。

● 真田氏は、 天才的戦略家であり、日本一の兵

  (ひのもといちのつわもの)と言われた武将の、

  真田 幸村(信繁) や 真田戦法 を生み出した、

  武家の一族である。

● 真田戦法とは、 少数の兵で多数の敵兵に勝つ

  ために、「おびき寄せてたたく」という戦法である。 

 

 

■ 真田 幸村(信繁)の一族の概略。

■ 真田 幸村(信繁)には、 分かっているだけで、

  4人の夫人、3人の息子、7人の娘 などがいた。

     幸村(信繁)の4人の夫人は、 堀田興重の

  妹 (側室夫人)、 高梨内記の娘 (側室夫人)、

  竹林院 (正室夫人)、 隆清院(側室夫人) など

  である。

     幸村(信繁)の3人の息子は、 真田幸昌

  (大助) (長男)、 真田 守信 (次男)、 三好

  幸信 (三男) などである。

     幸村(信繁)の7人の娘は、菊 (長女)、 市

  (次女)、 梅 (三女)、 あくり (あぐり、四女)、 

  なほ (御田姫(顕性院)、五女)、 菖蒲 (六女)、 

  かね (七女) などである。

 

■ 真田 幸村(信繁)(さなだ ゆきむら(のぶしげ)の

  一族の男性は、 祖父真田 幸隆(幸綱)(ゆき

  たか(ゆきつな))、 伯父(おじ)の真田 信綱(の

  ぶつな)・真田昌輝(まさてる)、 叔父(おじ)の真

  田 信尹(のぶただ)、 父の真田 昌幸(まさゆき)、 

  兄真田 信幸(信之)(のぶゆき)、 幸村(信繁)

  の長男の真田幸昌(大助)(ゆきまさ(だいすけ))、

  次男の真田 守信(もりのぶ)、 三男の三好幸信

  (左馬之介)(みよしゆきのぶ(さまのすけ)) など

  である。 

 

■ 真田 幸村(信繁) (さなだ ゆきむら(のぶしげ)

  の一族の女性は、 祖母の恭雲院 (きょううんい

  ん、大河ドラマ「真田丸」で仮称「とり」で登場)、 

  生母の山手殿 (やまのてどの、大河ドラマ「真田

  丸」で仮称「薫(かおる)」で登場)、 兄・信幸(信

  之)の側室(元正室)夫人の清音院 (せいおんい

  ん、大河ドラマ「真田丸」で仮称「こう」で登場)、 

  兄・信幸(信之)の正室夫人の小松姫 (こまつひ

  め、大河ドラマ「真田丸」で仮称「稲(いな)」で登

  場)、 姉の村松殿 (むらまつどの、大河ドラマ

  「真田丸」で仮称「松(まつ)」で登 場)、 幸村(信

  繁)の正室夫人の、竹林院 (ちくりんいん)(大

  河ドラマ「真田丸」で仮称「 春(はる)」で登場)、 

  幸村(信繁)の側室夫人の、堀田興重の妹 (実

  名不詳、ほったおきしげのいもうと)(大河ドラマ

  「真田丸」で仮称「 梅(うめ)」で登場)、 側室夫人

  の高梨内記の娘 (実名不詳、たかなし ないきの

  むすめ) (大河ドラマ「真田丸」で仮称「 きり」で登

  場)、側室夫人の隆清院 (りゅうせいいん) 幸

  村(信繁)の娘の、菊 (きく、長女)、 市 (いち、

  次女)、 梅 (うめ、三女)、 あくり (あぐり、四女)、 

  なほ (御田姫(おたひめ、顕性院)、五女)、 菖蒲 

  (しょうぶ、六女)、 かね (七女) などである。

 

■ 前近代日本の史料では、女性の実名が記載される

  ことは少なく、女性の実名が不明なことが多い。 

  (例) 書物(史料)では、「直江実綱(景 綱)室」 

  (直江実綱(景綱)の夫人)、 「高梨内記女」 

  (高梨内記の娘) と記されている。

     実名が判らないため、法名(ほうみょう)や実家

  の氏を代わりに使用する場合も多い (例、竹林院、

  三条夫人)。

     また、ドラマ、映画、小説などでは、名がないと

  不便なので、女性の仮称が 使われることが多い。

             

 

■ 真田 幸村(信繁)。

 ■ 真田 幸村(信繁) (さなだ ゆきむら(のぶしげ)、

  1567年〜1615年) は、 安土桃山時代、江戸

  時代初期に活躍した、武将である。

● 真田 幸村(信繁)は、 大坂の陣(1614−15年)

  に豊臣方の武将として参戦し、 幸村 (信繁)は、

  1614年の大坂冬の陣では真田丸の砦を使い多

  くの兵を討ち取り徳川方に大打撃を与え、1615

  年の大坂夏の陣では大活躍し野戦で徳川家康本

  陣間際まで迫り、戦死する。

● 真田 幸村(信繁) (さなだ ゆきむら(のぶしげ)、

  1567−1615年) は、 真田 幸村(信繁)の父・

  真田 昌幸(まさゆき)の次男 である。

● 真田 幸村(信繁)は、 天才的戦略家であ り、日

  の本一の兵 (ひのもといちのつわもの)と言われ

  た武将である。

● 真田戦法とは、 少数の兵で多数の敵兵に勝つ

  ために、「おびき寄せてたたく」という戦法である。 

● 真田 幸村(信繁)は、 父・昌幸に従い第1次上

  田合戦(1585年)に参戦し徳川方と戦い(諸説

  あり)、 小田原征伐(1590年)で豊臣方として

  参戦し、 天下分け目の戦い(1600年の関ヶ原

  の戦い、その他の戦い)で、東軍の徳川(家康)

  方に敵対し、西軍の石田(三成)方に味方して、

  第2次上田合戦(1600年)では父・昌幸に従い

  徳川(家康)方と戦い勝ったが、西軍の石田(三

  成)方が敗北したので降参し、父・昌幸と共に

  蟄居(ちっきょ、配流(はいる))処分となる。

     その後、大坂の陣(1614−1615年)では、

  豊臣方として参戦し、大坂夏の陣(1615年)で

  戦死する。

 

■ 竹林院。 《真田幸村(信繁)の正室夫人》。

● 竹林院 (ちくりんいん、生年不詳−1649年) は、 

  真田 幸村(信繁)の正室夫人であり、 豊臣家家臣・

  大谷吉継(おおたによしつぐ)の娘 である。

● 竹林院は、  真田丸 (さなだまる) 』 (NHKテ

  レビ・2016年大河ドラマ) では、「春(はる)」とい

  う名(仮称)で登場する。

 

■ 真田 幸村(信繁)と竹林院との間の子。

● 真田 幸村(信繁) と、 真田 幸村(信繁)正室夫

  人・竹林院(ちくりんいん)との間には、 長男の真

  田幸昌(大助)(ゆきまさ(だいすけ))、 次男の真

  田守信 (さなだ もりのぶ、仙台真田家初代当主)、 

  娘の、あくり (あぐり)、 菖蒲 (しょうぶ(しょうふ))、 

  かね などの子がいた。

 

■ 真田 幸昌(大助)。 《真田幸村(信繁)の長男》。

● 真田 幸昌(大助) (さなだ ゆきまさ(だいすけ)、

  1600年頃ー1615年) は、 真田 幸村(信繁)の

  長男(ゆきむら(のぶしげ))であり、幸村(信繁)と

  竹林院(ちくりんいん)との間の子であり、 1615

  年(慶長20年)の大坂夏の陣で戦死する。

 

■ 真田 守信。 《真田幸村(信繁)の次男》。

● 真田 守信 (さなだ もりのぶ、片倉守信、幼名:大

  八(だいはち)、1612−1670年) は、 真田 幸

  村(信繁)の、次男であり、 仙台真田家初代当主で

  あり、 幸村(信繁)と竹林院との間の子であり、 16

  15年の大坂夏の陣後、片倉重長 (かたくらしげな

  が、片倉小十郎(景綱)の子) に保護され、 その後、

  仙台藩の片倉氏家臣となる。

 

■ 堀田興重の妹 (実名不詳)。 

         《真田幸村(信繁)の側室夫人》。

● 堀田興重の妹 (実名不詳、ほったおきしげのいも

  うと、生年不詳ー1615年) は、 真田 幸村(信繁)

  の側室夫人であり、 堀田興重(ほったおきしげ)の

  妹 である。

● 堀田興重の妹は、  真田丸 (さなだまる) 』 

  (NHKテレビ・2016年大河ドラマ)では、「梅(うめ)」

  という名(仮称)で登場する。

 

■ 真田 幸村(信繁)と堀田興重の妹との間の子。

● 真田 幸村(信繁) と、 真田 幸村(信繁)側室夫

  人・堀田興重の妹との間には、 娘の、菊(きく)  な

  どの子がいた。

 

■ 高梨内記の娘 (実名不詳)。 

         《真田幸村(信繁)の側室夫人》。

● 高梨内記の娘 (実名不詳、たかなしないきのむす

  め、生没年不詳) は、 真田 幸村(信繁)の側室夫

  人であり、 高梨 内記(たかなし ないき)の娘 である。

● 高梨内記の娘は、  真田丸 (さなだまる) 』 (NH

  Kテレビ・2016年大河ドラマ) では、「きり」という名

  (仮称)で登場する。

 

■ 真田 幸村(信繁)と高梨内記の娘との間の子。

● 真田 幸村(信繁) と、 真田 幸村(信繁)側室夫人・

  高梨内記の娘との間には、 娘の、市(いち、早世)、

  梅 (うめ、片倉重長夫人) などの子がいた。

 

■ 隆清院。 《真田幸村(信繁)の側室夫人》。

● 隆清院 (りゅうせいいん、生没年不詳)は、 真田

  幸村(信繁)の側室夫人であり、 豊臣秀次(とよとみ

  ひでつぐ)の娘 である。

 

■ 真田 幸村(信繁)と隆清院との間の子。

● 真田 幸村(信繁) と、 真田 幸村(信繁)側室夫

  人・隆清院との間には、 なほ (御田姫(おたひめ、

  おでんひめ)、幸村(信繁)の娘)、 幸村(信繁)・

  三男の、三好 幸信(左馬之介) (みよしゆきのぶ

  (さまのすけ)) などの子がいた。

 

■ 三好 幸信。 《真田幸村(信繁)の三男》。

● 三好 幸信 (みよしゆきのぶ、三好 左馬之介(さま

  のすけ)、幼名:左二郎(さじろう)、1615−1667年) 

  は、 真田 幸村(信繁)の三男であり、 幸村(信繁)

  と側室夫人・隆清院(豊臣秀次の娘)との間の子であ

  り、 (1615年の大坂夏の陣で)父・幸村(信繁)の

  戦死後の2ヶ月後の1615年7月に、三男として、京

  (都)で生まれた。

      三好 幸信(左馬之介)は、 姉の、なほ (御田

  姫、顕性院、幸村(信繁)の娘)の夫・出羽亀田藩・第

  2代藩主・岩城宣隆 (いわきのぶたか)に引き取られ、

  出羽亀田藩士となる。

 

 

■ 真田 幸隆(幸綱) (真田 幸村(信繁)の祖父)

● 真田 幸隆(幸綱) (さなだ ゆきたか(ゆきつな)、

     1513年ー1574年) は、 室町時代後期(戦国時

     代)に活躍した、武将であり、 信濃(しなの、 現・長

  野県)・上田領の領主 であった。

● 真田 幸隆(幸綱) (さなだ ゆきたか(ゆきつな))、

  1513−1574年) は、 海野(うんの)氏分家で

  あり(諸説あり)、 真田 幸村(信繁)の祖父であり、 

  真田信綱(のぶつな)、 真田昌輝(まさてる)、 真

  田 昌幸(まさゆき)、 真田 信尹(のぶただ) の父 

  である。

■ 恭雲院。

● 恭雲院 (きょううんいん、生没年不明) は、真田  

  幸村(信繁)の祖母であり、 真田 幸村(信繁)の

  祖父・真田 幸隆(幸綱)(ゆきたか(ゆきつな))の正

  室夫人 である。

● 恭雲院は、  真田丸 (さなだまる) 』 (NHKテ

  レビ・2016年大河ドラマ) では、「とり」という名

  (仮称)で登場する。

● 恭雲院は、  風林火山 (ふうりんかざん) 』 

  (NHKテレビ・2007年大河ドラマ) では、「忍芽

  (しのめ)」という名(仮称)で登場する。

            

■ 真田 幸隆(幸綱)と恭雲院との間の子。

● 真田 幸村(信繁)の祖父・真田 幸隆(幸綱)(ゆき

  たか(ゆきつな)) と、 真田 幸隆(幸綱)・正室夫

  人・恭雲院(きょううんいん)との間には、 長男の

  真田信綱(のぶつな)、 次男の真田 昌輝(まさて

  る)、 三男の真田 昌幸(まさゆき)、 四男の真田

  信尹 (のぶただ) などの子がいた。

■ 真田信綱。

● 真田 信綱 (さなだ のぶつな、1537年ー1575

  年) は、 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時

  代に活躍した、武将であり、 信濃(しなの、 現・長

  野県)・上田領の領主 であった。

● 真田信綱 (さなだ のぶつな、1537−1575年) 

  は、 真田 幸村(信繁)の伯父であり、 真田幸村

  (信繁)の祖父・真田 幸隆(幸綱)(ゆきたか、ゆき

  つな)の長男であり、 長篠の戦いで戦死する。

■ 真田昌輝。

● 真田昌輝 (さなだ まさてる、1543−1575年) 

  は、 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代に

  活躍した、武将である。

● 真田昌輝 (さなだ まさてる、1543−1575年) 

  は、 真田 幸村(信繁)の伯父であり、 真田幸村

  (信繁)の祖父・真田 幸隆(幸綱)(ゆきたか(ゆき

  つな))の次男であり、 長篠の戦いで戦死する。

■ 真田 信尹。

● 真田 信尹 (さなだ のぶただ、1547年?−16

  32年) は、 室町時代後期(戦国時代)、安土桃

  山時代、江戸時代初期に活躍した、武将である。

● 真田 信尹 (さなだ のぶただ、1547年?−16

  32年) は、 真田 幸村(信繁)の叔父(おじ)であ

  り、 真田 幸村(信繁)の祖父・真田 幸隆(幸綱)

  (ゆきたか(ゆきつな))の四男 である。

 

 

■ 真田 昌幸 (真田 幸村(信繁)の父)

● 真田 昌幸 (さなだ まさゆき、1547年ー1611年) 

  は、 安土桃山時代に活躍した、武将であり、信濃

  (現・長野県相当地域)・上田領 や 上野(こうずけ、

     現・群馬県・相当地域))・沼田領の領主であった。 

● 真田 昌幸 (さなだ まさゆき、1547−1611年)

  は、 真田 幸村(信繁)の父であり、 真田 幸村

  (信繁)の祖父・真田 幸隆(幸綱)(ゆきたか(ゆき

  つな))の三男 である。

● 真田 信幸(信之)(のぶゆき)の長男 (庶子、側室

  夫人(元正室夫人)の子) は、 側室夫人・清音院

  と間の子・真田信吉(のぶよし、1595−1635年)

  であり、 真田 信吉(のぶよし)の次男は、 真田 信

  利(信直) (さなだ のぶとし(のぶなお)、生没年:

  1635−1688年) であった。

● 真田 昌幸は、 武田氏家臣として、武田信玄・武

  田勝頼の側近として仕え、 武田氏滅亡(1582

  年)後は、 第1次上田合戦(1585年)では徳川

  (家康)方と戦い勝ち、 天下分け目の戦い(16

  00年の関ヶ原の戦い、その他の戦い)で、東軍の

  徳川(家康)方に敵対し、西軍の石田(三成)方に

  味方して、第2次上田合戦(1600年)では徳川(家

  康)方と戦い勝ったが、西軍の石田三成方が敗北

  したので降参し、真田・沼田の領地を没収され、蟄

  居(ちっきょ、配流(はいる))処分となり、蟄居(配

  流)先で病没する。

■ 山手殿。

● 山手殿 (やまのてどの、山之手殿、1549年?−

  1613年)は、 真田 幸村(信繁)の生母であり、

  真田 幸村(信繁)の父・真田 昌幸(まさゆき)の正

  室夫人 である。

● 山手殿は、  真田丸 (さなだまる) 』 (NHKテ

  レビ・2016年大河ドラマ) では、「薫(かおる)」と

  いう名(仮称)で登場する。

             

■ 真田 昌幸と山手殿との間の子。

● 真田 幸村(信繁)の父・真田 昌幸(まさゆき) と、

  真田 昌幸夫人・山手殿(やまのてどの)との間に

  は、 長女の村松殿(むらまつどの)、 長男の真田

  信幸(信之)(のぶゆき)、 次男の真田 幸村(信繁) 

  などの子がいた。

■ 村松殿。

● 村松殿 (むらまつどの、1565−1630年) は、 

  真田 幸村(信繁)の姉であり、 真田 幸村(信繁)

  の父・真田 昌幸(まさゆき)の長女 である。

● 村松殿は、  真田丸 (さなだまる) 』 (NHKテレ

  ビ・2016年大河ドラマ) では、「松(まつ)」という名

  (仮称)で登場する。

 

■ 真田 信幸(信之) (真田 幸村(信繁)の兄)。 

■ 真田 信幸(信之) (さなだ のぶゆき、1566年ー

  1658年)は、 安土桃山時代、江戸時代初期に活

  躍した、武将であり、信濃・上田 (うえだ)藩・初代

  藩主(1600年−1622年)であり、 信濃・真田氏

  松代(まつしろ)藩・初代藩主(1622年−1656年)

  である。

● 真田 信幸(信之) (さなだ のぶゆき、1566−16

  58年) は、 真田 幸村(信繁)の兄であり、 真田

  幸村(信繁)の父・真田 昌幸(まさゆき)の長男 で

  ある。

● 真田 信幸(信之)(のぶゆき)の長男 (庶子、側室

  夫人(元正室夫人)の子) は、 側室夫人(元正室

  夫人)・清音院と間の子・真田信吉(のぶよし、1595

  −1635年) であり、 真田 信幸(信之)(のぶゆき)

  の次男は、 正室夫人・小松姫と間の子・真田 信政 

  (さなだ のぶまさ、1597年ー1658年) である。

● 真田 信幸(信之)(のぶゆき)は、 天下分け目の戦

  い (1600年の関ヶ原の戦い、その他の戦い) で

  徳川方に味方して、上田(うえだ)藩・初代藩主になり、 

  転封(てんぽう、領地替え)後、真田氏松代(まつしろ)

  藩・初代藩主となる。

● 真田 信幸(信之)は、 江戸時代の、信濃・ 上田 (う

  えだ)藩・初代藩主(1600年−1622年)であり、信

  濃・真田氏松代(まつしろ)藩・初代藩主(1622年−

  1656年)であった。

 

■ 清音院。

● 清音院(せいおんいん、生没年不明) は、 真田幸

  村(信繁)の義姉 (兄・真田信幸(信之)(のぶゆき)

  の側室夫人(元正室夫人))であり、 幸村(信繁)の

  従姉妹(いとこ) (伯父・真田信綱(のぶつな)娘) 

  である。

● 清音院は、  真田丸 (さなだまる) 』 (NHKテレ

  ビ・2016年大河ドラマ) では、「こう」という名(仮称)

  で登場する。

● 清音院(せいおんいん、生没年不詳) は、 真田 幸

  村(信繁)の兄・真田信幸(信之)(のぶゆき)の側室

  夫人(元正室夫人)であり、幸村(信繁)の伯父・真田 

  信綱(のぶつな)の娘である。

● 清音院は真田信幸(信之)(のぶゆき)の正室夫人

  であったが、 清音院の夫・信幸(信之)が、 政略

  結婚により、徳川氏重臣・本多忠勝の娘・小松姫を、

  正室夫人としてむかえたため、真田家のため、正室

  夫人から側室夫人となった。

● 清音院の子は、 真田信幸(信之)(のぶゆき)との

  間の子(信幸(信之)長男)の、真田信吉(のぶよし)

  であり、 清音院 の孫は、 真田 信利(信直)(のぶ

  とし(のぶなお))である。

 

■ 真田 信吉。

● 真田 信吉 (さなだ のぶよし、1595年ー1635年)

  は、 真田 幸村(信繁)の兄・真田信幸(信之)(の

  ぶゆき)の長男であり、 信幸(信之)と信幸(信之)

  側室夫人(元正室夫人)・清音院との間の子である。

■ 真田 信利(信直)。

● 真田 信利(信直) (さなだ のぶとし(のぶなお)、

  生没年:1635−1688年)  は、 真田信幸(信

  之)(のぶゆき)の長男・真田 信吉の子であり、

  上野(こうずけ、現・群馬県)・沼田(ぬまた)領の

  領主 (1658−1681年) であった。

● 真田 信利(信直)は、 上野・真田氏沼田(ぬまた)

  藩・初代藩主(1658−16 81年) であった。

● 1658年(明暦4年)6月に、幕命により、 真田 幸

  道は、信濃・松代(まつしろ)領を相続し、松代藩主

  となり、 真田 信利(信直)は、上野・沼田(ぬまた)

  領を相続し、沼田藩主となった。

● 真田 信幸(信之)(のぶゆき)の長男 (庶子、側室

  夫人(元正室夫人)の子) は、 側室夫人・清音院

  と間の子・真田信吉(のぶよし、1595−1635年)

  であり、 真田 信吉(のぶよし)の次男は、 真田 信

  利(信直) (さなだ のぶとし(のぶなお)、生没年:

  1635−1688年) であった。

     1658年(明暦4年)6月に、真田 信利(信直)

  (のぶとし(のぶなお)、信吉の次男)は、 幕命で、

  松代藩から分離独立して、 上野(こうずけ、現・群

  馬県)・沼田(ぬまた)領の領主 (1658−16 81

  年) となり、 上野・真田氏沼田(ぬまた)藩・初代

  藩主(1658−1681年) となる。 しかし、沼田

  藩は、1681年(天名(てんな)元年)11月に、改易

  (かいえき、領地没収) となる。  

 

■ 小松姫。

● 小松姫 (こまつひめ、1573−1620年) は、真

  田 幸村(信繁)の兄・真田信幸(信之)(のぶゆき)

  の正室夫人であり、 徳川家重臣・本多忠勝(ほん

  だただかつ)の娘 である。

● 小松姫は、  真田丸 (さなだまる) 』 (NHKテレ

  ビ・2016年大河ドラマ)では、 「稲(いな)」という

  名(仮称)で登場する。

 

■ 真田 信政。

● 真田 信政 (さなだ のぶまさ、1597年ー1658年) 

  は、 真田 幸村(信繁)の兄・真田信幸(信之)(のぶ

  ゆき)の次男であり、 信幸(信之)と信幸(信之)正室

  夫人・小松姫との間の子である。

■ 真田 幸道。

● 真田 幸道 (さなだ ゆきみち、真田右衛門、1657

     年−1727年) は、 信濃・真田氏松代(まつしろ)

     藩・第3代藩主 である

● 真田 幸道 (さなだ ゆきみち、真田右衛門、1657

  −1727年) は、 真田氏の当主 (1658

  1727年) であり、信濃・松代(まつしろ)領の領主

  (1658−1727年) であった。

● 真田 幸道は、 信濃・真田氏松代(まつしろ)藩・

  第3代藩主 (1658−1727年) であった。

● 1658年(明暦4年)6月に、幕命により、 真田 幸

  道は、信濃・松代(まつしろ)領を相続し、松代藩主

  となり、 真田 信利(信直)は、上野・沼田(ぬまた)

  領を相続し、沼田藩主となった。

● 真田 幸道は、 信濃・真田氏松代藩第2代藩主・

  田 信政(のぶまさ)の六男であり、 真田 幸村(信繁)

  の大甥(おい) (幸村(信繁)の兄・信幸(信之)の孫) 

  であり、 信政と信政夫人・松寿院との間の子である。

● 真田 幸道は、 生まれた翌年に父・真田 信政(の

  ぶまさ)が死去したため、わずか2歳で家督を継ぎ、

  幼少で、藩主となった。 譜代大名・陸奥・磐城平(い

  わきたいら)藩・7万石藩主・内藤忠興(ないとうだだ

  おき)が後見人となった。

 

 

#thesanadaclan-theclanheads

 

◆ 真田氏の歴代当主。

● 真田氏・当主変遷 : 

  (1) 真田幸隆(幸綱)⇒(2) 真田 信綱⇒ 

  (3) 真田 昌幸⇒ (4) 真田 信幸(信之)⇒

  (5) 真田 信政⇒ (6) 真田 幸道。

 

■ 真田 幸隆(幸綱)。

   (真田氏・初代当主)。

   (真田氏当主:1548年頃−1567)。

■ 真田 幸隆(幸綱) (さなだ ゆきたか(ゆきつな)、

  1513〜1574年) は、 海野氏(うんのし)分家

  であり(諸説あり)、 真田氏の当主  (1548年頃

  −1567年) であり、 信濃(しなの、現・長野県)・

  上田領の領主 (1548年頃−1567年)であった。

     真田 幸隆(幸綱)(ゆきたか(ゆきつな))は、 

  1548年頃に、上田領を獲得し、上田領の領主と

  なり、真田氏の当主となる。 

     真田 幸隆(幸綱)(ゆきたか(ゆきつな))は、

  1567年に隠居し、幸隆(幸綱)長男の真田信綱

  (のぶつな)に真田氏を継がせる (上田領の領

  主とし、真田氏の当主とする)。

● 真田 幸隆(幸綱)は、 真田 信綱(のぶつな)や

  真田 昌幸(まさゆき) の父であり、 真田 幸村

  (信繁)の祖父であり、 室町時代後期(戦国時代)

  の武将であった。

 

■ 真田 信綱。

   (真田氏・第2代当主)。

   (真田氏当主:15671575年)。

■ 真田 信綱 (さなだ のぶつな、 1537年ー1575

  年) は、 真田氏の当主  (1567年−15 75年) 

  であり、 信濃・上田領の領主 (1567−1575年)  

   であった。

     信綱(のぶつな)の父・真田 幸隆(幸綱)(ゆき

  たか(ゆきつな))は1567年に隠居し、 幸隆(幸綱)

  長男の真田信綱(のぶつな)が、1567年に、真田氏

  を継ぐ (上田領の領主となり、真田氏の当主となる)。

     真田幸隆(幸綱)(ゆきたか(ゆき つな))の長男

  で真田氏当主の真田 信綱 や 幸隆(幸綱)の次男

  の真田 昌輝(まさてる)が、 1575年の長篠の戦い

  で武田氏方として参戦し、戦死する。 そのため、

  隆(幸綱)の三男の 真田昌幸(まさゆき)が、1575

  年に、真田氏を継ぐ (上田領の領主となり、真田氏

  の当主となる)。

● 真田 信綱は、 真田 幸隆(幸綱)(ゆきたか(ゆき

  つな))の長男であり、 真田 幸村(信繁)の伯父

  (おじ) であり、 室町時代後期(戦国時代)、安土

  桃山時代の武将であった。

● 真田 信綱は、 1575年の長篠の戦いで武田氏方

  の武将として参戦し、戦死する。

 

■ 真田 昌幸。

   (真田氏・第3代当主)。

   (真田氏当主:1575−1600年)。

■ 真田 昌幸 (さなだ まさゆき、1547年ー1611年) 

  は、 真田氏の当主 (1575年−1600年) であり、 

  信濃 (現・長野県)・上田領の領主 (1575−160

  0年) であり、 上野(こうずけ、現・群馬県))・沼田

  領の領主 (1580年ー1600年) であった。

     真田幸隆(幸綱)(ゆきたか(ゆきつな))の長男

  で真田氏当主の真田 信綱 や 幸隆(幸綱)の次男

  の真田 昌輝(まさてる)が、 1575年の長篠の戦い

  で武田氏方で参戦し、戦死する。 そのため、真田

  幸隆(幸綱)の三男の真田昌幸(まさゆき)が、15

  75年に、信濃・上田領の領主となり、真田氏の当主

  となる。

     真田昌幸(まさゆき)は、 1600年の天下分け

  目の戦いの第2次上田合戦で、石田方として、徳川

  方と戦い勝ったが、関ヶ原の戦いで石田方が敗北し

  たため、その後徳川方に降参し、徳川方に上田領・

  沼田領を没収され、真田氏の当主でなくなる。 代

  わって、徳川方に味方した、真田昌幸の長男の真

  田信幸(信之)が、 徳川氏の命(命令)により、16

  00年に、上田領・沼田領の領主となり、真田氏の

  当主となる。

● 真田 昌幸は、 真田幸隆(幸綱)(ゆきたか(ゆき

  つな))の三男であり、 真田 幸村(信繁)の父であ 

  り、安土桃山時代の武将であった。

● 真田 昌幸は、 武田氏の人質となり、優秀であった

  ため武田信玄の側近となり、武田氏の軍略を学び、

  知将となる。

● 真田 昌幸は、 1580年に上野の沼田地域に侵攻

  し、真田氏沼田領とした。

● 真田 昌幸は、 天下分け目の戦い(1600年)では、

  上田・真田軍を率いて、次男・真田 幸村(信繁)を従

  えて、西軍の石田方に味方し、徳川方の長男・真田

  信幸(信之)(のぶゆき)と敵対して、 第2次上田合

  戦(1600年)では、東軍の徳川方の徳川秀忠軍や

  沼田・真田軍と戦う。 但し、実際には、上田・真田

  軍は沼田・真田軍との交戦を避け、ほとんど両者は

  戦わなかった。

 

■ 真田 幸村(信繁)。

   (真田氏当主ではなかった)。

■ 真田 幸村(信繁) (さなだ ゆきむら(のぶしげ)、

  (1567年ー1615年) は、 真田氏・当主ではな

  かった。

● 真田 幸村(信繁)は、 真田 昌幸(まさゆき)の次

  男であり、 安土桃山時代、江戸時代初期の武将

  であった。

● 真田 幸村(信繁)は、 天才的戦略家であり、日 の

  本一の兵 (ひのもといちのつわもの) と言われた

  武将である。

● 真田 幸村(信繁)は、 天下分け目の戦い(1600

  年)では、上田・真田軍を率いる父・真田昌幸(まさ

  ゆき)と共に、西軍の石田方に味方し、徳川方の兄・

  真田 信幸(信之)(のぶゆき)の率いる沼田・真田

  と敵対して、 第2次上田合戦(1600年)では、 

  東軍の徳川方の徳川秀忠軍や沼田・真田軍と戦う。  

  但し、実際には、上田・真田軍は沼田・真田軍との

  交戦を避け、ほとんど両者は戦わなかった。

● 真田 幸村(信繁)は、 大坂の陣  (= 大坂冬の陣

  (1614年)と大坂夏の陣(1615年)) に豊臣方の

  武将として参戦し、1615年の大坂夏の陣で、戦死

  する。

             

■ 真田 信幸(信之)。

   (真田氏・第4代当主)。

   (真田氏当主:1600−1656年)。

■ 真田 信幸(信之) (さなだ のぶゆき、1566年ー

  1658年) は、 真田氏の当主 (1600年−16

  56年) であり、 信濃・上田領の領主 (1600年

  −1622年) であり、 信濃・松代(まつしろ)領の

  領主(1622−1656年)であり、 上野(こうずけ)・

  沼田領の領主(1600年−1656年)であった。

     信幸(信之)(のぶゆき)の父・真田昌幸(まさ 

  ゆき)は、1600年の天下分け目の戦いの第2次

  上田合戦で、石田方として、徳川方と戦い勝った

  が、関ヶ原の戦いで石田方が敗北したため、その

  後、徳川方に降参し、徳川方に上田領・沼田領を

  没収され、真田氏の当主でなくなる。 代わって、

  徳川方に味方した、真田昌幸の長男の真田信幸

  (信之)が、1600年に、上田領・沼田領の領主と

  なり、真田氏の当主となる。

     真田信幸(信之)(のぶゆき)は、1622年に、

   幕命(ばくめい、幕府の命令)で、転封(てんぽう、

   領地替え)となり、 上田領の領主から、松代(ま

   つしろ)領の領主となる。

      真田信幸(信之)(のぶゆき)は、1656年に

   隠居(いんきょ)し、 代わって、1656年に、真田

   信幸(信之)の次男の真田 信政(さなだ のぶまさ)

   に真田氏を継がせる (松代領・沼田領の領主と

   し、真田氏の当主とする)。

● 真田 信幸(信之)は、 江戸時代の、信濃・上田 (う

  えだ)藩・初代藩主(1600年−1622年)であり、 

  信濃・真田氏松代(まつしろ)藩・初代藩主(1622年

  −1656年)であった。

● 真田 信幸(信之)は、 真田 昌幸(まさゆき)の長男

  であり、 真田 幸村(信繁)の兄であり、 安土桃山

  時代、江戸時代初期の武将 であった。

● 真田 信幸(信之)は、 天下分け目の戦い(1600

  年)では、沼田・真田軍を率いて、東軍の徳川方

  味方し、 父・真田昌幸(まさゆき)・弟・真田幸村(信

  繁)の率いる上田・真田と敵対して、 第2次上田

  合戦(1600年)では、徳川秀忠軍に従軍し、西軍の

  石田方の上田・真田軍と戦う。 但し、実際には、上

  ・真田軍は沼田・真田軍との交戦を避け、ほとんど

  両者は戦わなかった。

 

■ 真田 信政。

   (真田氏・第5代当主)。

   (真田氏当主:1656−1658年)。

■ 真田 信政 (さなだ のぶまさ、1597年ー1658

  年) は、 真田氏の当主 (1656−1658年) 

  であり、信濃・松代(まつしろ)領、上野・沼田(ぬま

  た)領の領主 (1656−1658 年) であった。

      信政の父・真田信幸(信之)(のぶゆき)は、

   1656年に隠居(いんきょ)し、 代わって、真田

    信幸(信之)の次男の真田 信政(さなだ のぶま

   さ)が、1656年に、真田氏を継ぐ (松代領・沼

   田領の領主となり、真田氏の当主となる)。

      真田 信政は、1658年に死去する。 代わ

   って、幕命(ばくめい、幕府の命令)で、真田 信

   政(のぶまさ)の六男の真田 幸道 (さなだ ゆき

   みち)が、1658年に、幼少で、真田氏を継ぐ

   松代(まつしろ)領の領主となり、真田氏の当主

   となる)。

● 真田 信政は、 信濃・真田氏松代(まつしろ)藩・

  第2代藩主 (1656−165 8年)  であった。

● 真田 信政は、 真田 信幸(信之)(のぶゆき)の次

  男(嫡子、正室夫人の子)であり、 真田 幸村(信

  繁)の 甥(おい) (幸村(信繁)の兄・信幸(信之)

  の子) であり、 信幸(信之)と信幸(信之)正室夫

  人・小松姫(こまつひめ)との間の子であり、 江戸

  時代初期の武将であった。

● 真田 信政は、 大坂の陣(1614−1615年)では、

  病気療養中の父・真田 信幸(信之)(のぶゆき)に

  代わって、徳川方として参戦する。

 

■ 真田 幸道。

   (真田氏・第6代当主)。

   (真田氏当主:1658−1727年)。

■ 真田 幸道 (さなだ ゆきみち、真田右衛門、1657

  −1727年) は、 真田氏の当主 (1658

  1727年) であり、信濃・松代(まつしろ)領の領主

  (1658−1727年) であった。

      幸道の父・真田 信政(のぶまさ)は、1658年

   に死去する。 代わって、幕命(ばくめい、幕府の

   命令)で、真田 信政(のぶまさ)の六男の真田 幸 

   道(ゆきみち)が、1658年に、幼少で、真田氏を

   継ぐ (松代(まつしろ)領の領主となり、真田氏の

   当主となる)。

● 真田 幸道は、 信濃・真田氏松代(まつしろ)藩・ 第

   3代藩主 (1658−1727年) であった。

● 真田 幸道は、 信濃・真田氏松代藩第2代藩主・

  田 信政(のぶまさ)の六男であり、 真田 幸村(信繁)

  の大甥(おい) (幸村(信繁)の兄・信幸(信之)の孫) 

  であり、 信政と信政夫人・松寿院との間の子である。

● 真田 幸道は、 生まれた翌年に父・真田 信政(の

  ぶまさ)が死去したため、わずか2歳で家督を継ぎ、

  幼少で、藩主となった。 譜代大名・陸奥・磐城平

  (いわきたいら)藩・7万石藩主・内藤忠興(ないとう

  だだおき)が後見人となった。

● 1658年(明暦4年)6月に、幕命により、 真田 幸

  道は、信濃・松代(まつしろ)領を相続し、松代藩主

  となり、 真田 信利(信直)は、上野・沼田(ぬまた)

  領を相続し、沼田藩主となった。

● 真田 信幸(信之)(のぶゆき)の長男 (庶子、側室

  夫人の子) は、 側室夫人・清音院殿との間の子・

  真田 信吉(のぶよし、1595−1635年)であり、 

  真田 信吉(のぶよし)の次男は、 真田 信利(信直)

  (さなだ のぶとし(のぶなお)、生没年:1635−16

  88年) であった。

     1658年(明暦4年)6月に、真田 信利(信直)

  (のぶとし(のぶなお)、信吉の次男)は、 幕命で、

  松代藩から分離独立して、 上野(こうずけ、現・群

  馬県)・沼田(ぬまた)領の領主 (1658−16 81

  年) となり、 上野・真田氏沼田(ぬまた)藩・初代

  藩主(1658−16 81年) となる。 しかし、沼田

  藩は、1681年(天名(てんな)元年)11月に、改易

  (かいえき、領地没収) となる。  

 

 

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♪♪ 真田氏(真田一族)が登場する、興

   味深い、ドキュメンタリー、ドラマ、映

   画。

 

★ 真田氏(真田一族)が登場する、興味

   深い関連ドキュメンタリー。 

 

■ にっぽん!歴史鑑定

    『 真田幸村の半生 』。  

■ 『 真田幸村の半生 (1) 』 

   (TBSKテレビ・2016年1月4日・

    本放送・歴史ドキュメンタリー番組)。

■ 『 真田幸村の半生 (2) 』 

   (TBSKテレビ・2016年1月11日・

       本放送・ 歴史 ドキュメンタリー番組)。

● 真田幸村(信繁)の活躍の詳細を述べる。

 

■ 歴史秘話ヒストリアスペシャル 

  『 徹底解明!これが‘‘真田丸’’ 』。  

   (NHKテレビ・2016年1月6日・本放送・

   歴史ドキュメンタリー番組)。

● 真田丸の詳細や大阪冬の陣を述べる。

 

■ 片岡愛之助の解明!歴史捜査  『

   『 家康を瀬戸際まで追いつめた男!

    真田信繁と父・昌幸 智謀の系譜

    を追え 』。  

   (日テレ・テレビ・2016年1月14日・本放送・

    歴史ドキュメンタリー番組)。

● 第1次上田合戦、第2次上田合戦を述べる。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 真田一族 

  戦国最強の絆〜真田昌幸・信之・

  幸村 父と子の物語〜 』。  

   (NHKテレビ・2016年1月3日・本放送・

   歴史ドキュメンタリー番組)。

● 真田氏の詳細を述べる。

 

■ 先人たちの底力 知恵泉 

  『 小さな組織で生き抜け!

   名将・真田一族、戦国の極意 』。  

    (NHKテレビ・2016年1月12日・本放送・

    歴史ドキュメンタリー番組)。

● 真田氏を述べる。

 

■ 英雄たちの選択 『 大阪の陣400

  年 真田幸村 決戦へのジレンマ 』。

   (NHKテレビ・2014年(平成26年)4月

   3日・本放送・ドキュメンタリー番組)。

● 大阪冬の陣と大阪夏の陣を述べる。

● 大阪の陣での真田幸村(信繁)の活躍も

  述べる。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 激突!真

   田幸村 vs.伊達政宗〜めぐりあい

  大阪夏の陣〜 』。  

   (NHKテレビ・2010年(平成22年)1月

   6日本放送、第28回・ドキュメンタリー番

   組)。

● 真田幸村(信繁)の活躍の詳細を述べる。

● 伊達政宗の活躍の詳細を述べる。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 古城に眠

  る秀吉の‘‘Beobo’’〜新発見

  「大坂図屏風」の不思議な旅路〜 』。 

   (NHKテレビ・2009年(平成21年)12月9日・

   本放送・歴史ドキュメンタリー番組、第26回)。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 真田幸村 

     ザ・ラスト戦国ヒーロー 〜伝説に

   秘められた誇り〜 』。 

      (NHKテレビ・2009年(平成21年)8月

   26日本放送、第14回・ドキュメンタリー

   番組)。

● 真田幸村(信繁)の活躍の詳細を述べる。

 

 

★ 真田氏(真田一族)が登場する、興

  味深い関連ドラマ、映画。 

  ● (注意) ドラマ、映画は、フィクションです。 

     歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実)

   と 架空の出来事が 混じって描かれてい

   ます。 また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 真田丸 (さなだまる) 』 。  

   (NHKテレビの2016年大河ドラマ)。

       (作・三谷幸喜)。

 ■ 安土桃山時代や江戸時代初期の時代

  状況やその時期に活躍した人々を描く。

 ■ 安土桃山時代や江戸時代初期の 真

  田氏を描く。

 ■ 1582年(武田氏滅亡)から1615年

  (大坂の夏の陣)までの、真田幸村(信

  繁) (さなだ ゆきむら(のぶしげ))、真

  田信幸(信之)、真田 昌幸などを描く。

 

 ● ドラマで「真田 信繁(幸村)」 (さなだの

  ぶしげ(ゆきむら))を演じた俳優名 : 

  堺 雅人 (さかい まさと)。

 ● ドラマで「真田 信幸(信之)」 (さなだの

  ぶゆき、真田信繁(幸村)の兄) を演じた

  俳優名 :大泉 洋 (おおいずみ よう)。

 ● ドラマで「真田 昌幸」 (さなだまさゆき、

  真田信繁(幸村)の父) を演じた俳優名 : 

  草刈 正雄 (くさかり まさお)。

 

 ● ドラマで「真田 信尹」 (さなだのぶただ、

  真田信繁(幸村)の叔父(おじ))を演じた俳

  優名 : 栗原 英雄 (くりはら ひでお)。

 ● ドラマで「松(まつ)」 (仮称、真田 信繁

  (幸村)の姉の、村松殿(むらまつどの)) 

  を演じた女優名 :

  木村 佳乃 (きむら よしの)。

 ● ドラマで「とり」 (仮称、真田 信繁(幸

  村)の祖母で、真田幸隆夫人・恭雲院(き

  ょううんいん)) を演じた女優名 : 

  草笛 光子 (くさぶえ みつこ)。

 ● ドラマで「薫(かおる)」 (仮称、真田昌

  幸(まさゆき)夫人・真田信繁(幸村)の母・

  山手殿(やまのてどの)を演じた女優名 : 

  高畑 淳子 (たかはた あつこ)。

 ● ドラマで「 梅(うめ)」 (仮称、真田信繁

  (幸村) 側室夫人の、堀田興重(作兵衛) 

  の妹(実名不詳、ほったおきしげ(さくべい)

  のいもうと) を演じた女優名 : 

  黒木 華 (くろき はる)。 

 ● ドラマで「きり」 (仮称、真田 信繁(幸村)・

  側室夫人の、高梨内記の娘(実名不詳、た

   かなしないきのむすめ、生没年不詳) を

  演じた女優名 : 

  長澤 まさみ (ながさわ まさみ)。

 ● ドラマで「春(はる)」 (仮称、真田 信繁

  (幸村)・正室夫人・竹林院 (ちくりんいん) 

  を演じた女優名 : 

  松岡 茉優 (まつおか まゆ)。

 ● ドラマで「たか」 (仮称、真田 信繁(幸

  村)・側室夫人・隆清院 (りゅうせいいん) 

  を演じた女優名 : 

  岸井 ゆきの (きしい ゆきの)。

 ● ドラマで「こう」 (仮称、真田 信幸(信之)

  (のぶゆき)・側室夫人(元正室夫人)の清

  音院(せいおんいん) を演じた女優名 : 

  長野 里美 (ながの さとみ)。

 ● ドラマで「 稲(いな)」 (仮称、真田 信幸

  (信之)(のぶゆき)・正室夫人の小松姫 

  (こまつひめ)) を演じ た女優名 : 

  吉田 羊 (よしだ よう)。

 

 ● ドラマで 豊臣秀吉」 (とよとみひでよ

  し、真田信繁(幸村)の主君を演じた俳優

  名: 小日向 文世 (こひなた ふみよ)。

 ● ドラマで平野 長泰」 (ひらのながやす、

  豊臣氏家臣) を演じ た俳優名: 

  近藤 芳正 (こんどう よしまさ)。

 ● ドラマで「吉野太夫」 ( よしのたゆう、実

  名不詳、安土桃山時代活躍の才色兼備

  の上級遊女の初代・吉野太夫) を演じた

  女優名 : 中島 亜梨沙 (なかじま ありさ)。

 ● ドラマで「 阿茶局」 ( あちゃのつぼね、

  徳川家康の側室夫人) を演じた女優名 : 

  斉藤 由貴 (さいとう ゆき)。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』。

      (NHKテレビ・2011年大河ドラマ) 

■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土

  桃山時代、江戸時代初期時代状況や

  その時期に活躍した人々を描いたドラマ。

 

● 真田 幸村(信繁(のぶしげ))を演じた俳優名 : 

   浜田 学。

● 真田幸村(信繁)の父・真田昌幸(まさゆき)

   を演じた俳優名 : 藤波 辰爾。

 

■ 『 天地人 (てんちじん) 』 。  

   (NHKテレビ・2009年大河ドラマ)。

■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土

  桃山時代、江戸時代初期を描いたドラマ。

 真田幸村(信繁)の、上杉家での人質生活

  (1582-1600年)などを描く

 

● 真田幸村(信繁)を演じた俳優名 : 

  城田 優。

 

■ 『 風林火山 (ふうりんかざん) 』 。  

   (NHKテレビ・2007年大河ドラマ)。

■ 日本の室町時代後期(戦国時代)を描いた

  ドラマ。

 真田幸村(信繁)の祖父・真田幸隆(さなだゆ

  きたか)が登場し、 活躍する。

 

● 真田幸村(信繁)の祖父・真田幸隆(ゆきた

   か)を演じた俳優名 : 佐々木 蔵之介。

● ドラマでは忍芽(しのめ) (真田幸隆夫人・

  恭雲院(きょううんいん))を演じた女優名: 

  清水 美砂。

● 真田幸隆の長男・真田信綱(のぶつな)を演

  じた俳優名 : 森脇 史登。

● 真田幸隆の三男・真田昌幸(まさゆき)(真田

  幸村(信繁)の父)、ドラマでは・真田源五郎

  (げんごろう)を演じた俳優名 : 小林 海人。

 

■ 『 茶々 天涯の貴妃 

     (ちゃちゃてんがいのおんな) 』。 

    (日本の2007年制作・東映映画)。 

■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土

  桃山時代、江戸時代初期を描いたドラマ。

 大坂夏の陣で、真田幸村が戦うシーンが、

  登場します。

 大坂の陣の迫力のあるシーンが、沢山(た

  くさん)登場する。

 豊臣大阪城の炎上のシーンが出てくる。

 

● 真田幸村(信繁)を演じた俳優名 : 

   黄川田将也。

 

■ 『 真田太平記 (さんだたいへいき) 』 。 

   (NHKテレビ・1985ー1986年NHK

   連続テレビドラマ、全45話)。 

■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土

  桃山時代、江戸時代初期を描いたドラマ。

 真田氏(真田一族)を描く。

 

● 真田幸村(信繁)を演じた俳優名: 

   草刈 正雄。

● 真田幸村(信繁)の父・真 田昌幸(まさゆき)

  を演じた俳優名 : 丹波哲郎。

● 真田昌幸夫人・真田幸村(信繁)の母・

  山手殿(やまのてどの)を演じた女優名: 

  小川明子。

● 真田幸村(信繁)の兄・真田信幸(信之)

  (のぶゆき)を演じた俳優名 : 渡瀬 恒彦

● 真田幸村(信繁)夫人・竹林院(ちくりん

  いん)大谷吉継の娘・ドラマでは於利世を

  演じた女優名: 中村 久美。

● 真田信幸(信之)正室夫人・本多忠勝の娘・

  小松殿(こまつどの)を演じた女優名: 

  紺野 美沙子。

● 豊臣秀吉を演じた俳優名: 小日向 文世。

 

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#thesanadaclan-thehappenings

 

  真田氏  

    関連出来事 

       (さなだし かんれんできごと)。

 

#thesanadaclanhappeningsbyperiod

 

真田氏 関連出来事

  (年代順、詳細)。

 

◆ 真田氏 関連出来事

     (年代順、詳細)。

 

■ 1532年 (享禄5年、天文元年)。

■ 1532年 (天文 元年)  天文(てんぶん、てんもん)

  改元。 

  1532年7月29日に、 和暦の「享禄」(きょうろく、

    享禄元年〜5年) が、 「天文」 (てんぶん、てんも

    ん、天文元年・1532年・7月29日〜天文24年・15

  55年・10月23日) に改元される。 

 

■ 1546年 (天文15年)。

■ 1546年(天文15年)頃より1582年(天正10年)

  まで、真田氏は、武田 氏(家)に仕(つか)え、武田

  氏(家)の家臣となる。

● 真田氏の当主の、真田幸隆 (さなだゆきたか、

  1513〜1574年)は、 真田幸村 (信繁)(さなだ

  ゆきむら(のぶしげ))の祖父で、 1546年頃より、

  武田家武田信玄 (信玄は1541年に父の信虎

  を国外追放し甲斐の家督を継ぎ、甲斐の国主とな

  る) に仕える。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1548年 (天文17年)。

■ 1548年 (天文17年)頃に、真田 幸隆(幸綱)が、 

  真田氏の当主  (1548年頃−1567年)となり、

  信濃・上田領の領主(1548年頃−1567年)とな

  る。

● 真田 幸隆(幸綱) (さなだ ゆきたか(ゆきつな)、

  1513〜1574年) は、 真田 信綱(のぶつな)や

  真田 昌幸(まさゆき) の父であり、 真田 幸村

  (信繁)の祖父であり、 室町時代後期(戦国時代)

  の武将であった。

● 真田 幸隆(幸綱) (さなだ ゆきたか(ゆきつな)、

  1513〜1574年) は、 海野(うんの)氏分家

  であり(諸説あり)、 真田氏の当主  (1548年頃

  −1567年) であり、 信濃(しなの、現・長野県)・

  上田領の領主 (1548年頃−1567年)であった。

     真田 幸隆(幸綱)(ゆきたか(ゆきつな))は、 

  1548年頃に、上田領を獲得し、上田領の領主と

  なり、真田氏の当主となる。 

     真田 幸隆(幸綱)(ゆきたか(ゆきつな))は、

  1567年に隠居し、幸隆(幸綱)長男の真田信綱

  (のぶつな)に真田氏を継がせる (上田領の領

  主とし、真田氏の当主とする)。

 

■ 1555年 (天文24年、弘治元年)。

■ 1555年 (弘治 元年) 弘治(こうじ)改元。    

    1555年10月23日に、和暦の「天文」 (てんぶ

  ん、てんもん 、天文元年〜24年) が、「弘治」 (こう

  じ、 弘治元年・1555年・10月23日〜  弘治4年・

  1558年・2月28日) に改元される。 

 

■ 1558年 (弘治4年、永禄元年)。

■ 1558年 (永禄 元年)  永禄(えいろく)改元。 

     1558年・永禄 元年・2月28日に、 和暦の「弘

  治」 (こうじ、弘治元年〜4年(1555年〜1558年)) 

  が、 室町時代後期の和暦年号の、永禄」 (えいろ

  く、1558年・永禄 元年・2月28日〜1570年・永禄

  13年・4月23日) に改元される。 

 

■ 1567年 (永禄10年)。

■ 1567年 (永禄10年)に、 真田幸村(信繁) (さな

  だゆきむら(のぶしげ)、生没年:1567〜1615年)

  は、 信濃国 (しなののく に、信州、現在の長野県相

  当地域)の、真田氏の真田昌幸(さなだ まさゆき)の

  次男として、生まれる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1567年 (永禄10年)。

■ 1567年 (永禄10年)に、真田 信綱 (さなだ の

  ぶつな、1537年ー1575年) が、 真田氏の当主  

  (1567年−1575年)となり、 信濃・上田領の領主

  (1567−1575年) と なる。

● 真田 信綱は、 真田 幸隆(幸綱)(ゆきたか(ゆき

  つな))の長男であり、 真田 幸村(信繁)の伯父

  (おじ) であり、 室町時代後期(戦国時代)、安土

  桃山時代の武将であった。

● 真田 信綱 (さなだ のぶつな、 1537年ー1575

  年) は、 真田氏の当主  (1567年−15 75年) 

  であり、 信濃・上田領の領主 (1567−1575年)  

   であった。

     信綱(のぶつな)の父・真田 幸隆(幸綱)(ゆき

  たか(ゆきつな))は1567年に隠居し、 幸隆(幸綱)

  長男の真田信綱(のぶつな)が、1567年に、真田氏

  を継ぐ (上田領の領主となり、真田氏の当主となる)。

     真田幸隆(幸綱)(ゆきたか(ゆき つな))の長男

  で真田氏当主の真田 信綱 や 幸隆(幸綱)の次男

  の真田 昌輝(まさてる)が、 1575年の長篠の戦い

  で武田氏方として参戦し、戦死する。 そのため、

  隆(幸綱)の三男の 真田昌幸(まさゆき)が、1575

  年に、真田氏を継ぐ (上田領の領主となり、真田氏

  の当主となる)。

● 真田 信綱は、 1575年の長篠の戦いで武田氏方

  の武将として参戦し、戦死する。

● 真田 信綱 (さなだ のぶつな)、 1537〜1575年) 

  は、 真田 幸隆(幸綱)の長男であり、 真田 幸村

  (信繁)の伯父(おじ)であり、  室町時代後期(戦

  国時代)、安土桃山時代の武将であった。

● 真田 信綱は、 信濃・上田領の領主(1567−15

  75年)であり、 1575年の長篠の戦いで武田氏方

  の武将として参戦し、戦死する。

■ 真田幸隆 (さなだゆきたか、1513〜1574年)

  は、 真田幸村 (信繁)(さなだゆきむら(のぶしげ))

  の祖父で、 1546年頃より、武田家武田信玄 

  (信玄は1541年に父の信虎を国外追放し甲斐の

  家督を継ぐ) に仕え、 1567年に隠居し、 長男

  の真田信綱(のぶつな)に真田家を継がせる。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1570年 (永禄13年、元亀 元年)。

■ 1570年 (元亀 元年) 元亀(げんき)改元。  

     1570年4月23日に、 和暦の「永禄」 (えいろ

  く、永禄元年〜13年) が、 「 元亀」 (げんき、元亀

  元年・1570年・4月23日〜 元亀4年・ 573年・ 7月

  28日) に改元される。 

 

■ 1573年 (元亀4年、天正 元年)。

■ 1573年 (天正 元年) 天正(てんしょう)改元。 

     1573年7月28日に、 和暦の「元亀」 (げんき、

  元亀元年〜4年) が、 「 天正」 (てんしょう、天正元

  年・1573年・7月28日〜天正20年・1592年・12 月

    8日) に改元される。 

 

■ 1575年 (天正3年)。

■ 1575年 (天正3年)に、 真田 昌幸 (さなだ まさ

  ゆき、1547年ー1611年) が、 真田氏の当主 

  (1575年−1600年) となり、 信濃 (現・長野県)・

  上田領の領主 (1575−1600年) となる。

● 真田 昌幸は、 真田幸隆(幸綱)(ゆきたか(ゆき つ

  な))の三男であり、 真田 幸村(信繁)の父であり、 

  安土桃山時代の武将であった。

● 真田 昌幸 (さなだ まさゆき、1547年ー1611年) 

  は、 真田氏の当主 (1575年−1600年) であり、 

  信濃 (現・長野県)・上田領の領主 (1575−160

  0年) であり、 上野(こうずけ、現・群馬県))・沼田

  領の領主 (1580年ー1600年) であった。

     真田幸隆(幸綱)(ゆきたか(ゆきつな))の長男

  で真田氏当主の真田 信綱 や 幸隆(幸綱)の次男

  の真田 昌輝(まさてる)が、 1575年の長篠の戦い

  で武田氏方で参戦し、戦死する。 そのため、真田

  幸隆(幸綱)の三男の真田昌幸(まさゆき)が、15

  75年に、信濃・上田領の領主となり、真田氏の当主

  となる。

     真田昌幸(まさゆき)は、 1600年の天下分け

  目の戦いの第2次上田合戦で、石田方として、徳川

  方と戦い勝ったが、関ヶ原の戦いで石田方が敗北し

  たため、その後徳川方に降参し、徳川方に上田領・

  沼田領を没収され、真田氏の当主でなくなる。 代

  わって、徳川方に味方した、真田昌幸の長男の真

  田信幸(信之)が、 徳川氏の命(命令)により、16

  00年に、上田領・沼田領の領主となり、真田氏の

  当主となる。

● 真田 昌幸は、 武田氏の人質となり、優秀であった

  ため武田信玄の側近となり、武田氏の軍略を学び、

  知将となる。

● 真田 昌幸は、 1580年に上野の沼田地域に侵攻

  し、真田氏の沼田領とした。

● 真田 昌幸は、 天下分け目の戦い(1600年)では、

  上田・真田軍を率いて、次男・真田 幸村(信繁)を従

  えて、西軍の石田方に味方し、徳川方の長男・真田

  信幸(信之)(のぶゆき)と敵対して、 第2次上田合

  戦(1600年)では、東軍の徳川方の徳川秀忠軍や

  沼田・真田軍と戦う。 但し、実際には、上田・真田

  軍は沼田・真田軍との交戦を避け、ほとんど両者は

  戦わなかった。

● 真田 昌幸は、 武田氏の人質となり、優秀であった

  ため武田信玄の側近となり、武田氏の軍略を学び、

  知将となる。

■ 真田信綱(のぶつな)は、 真田幸隆の長男で、

  村(信繁)の伯父(おじ)で、 武 田氏の武田信玄に

  仕え、1573年の信玄死後、武田氏の武田勝頼

  仕えるが、 1575年(天正3年)の長篠の合戦で戦

  死する。 

     幸村(信繁)の父の、真田昌幸(まさゆき)は、

  田幸隆の三男で、 1575(天正3年)年の長篠の合

  戦後、真田家を継ぎ、 武田氏の武田勝頼に仕えた。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1580年 (天正8年)。

■ 1580年 (天正8年)に、 信濃国・上田城主の 真田

  昌幸(幸村(信繁)の父)は、 上野・沼田城を得て、

  上野国(こうずけのくに、現在の群馬県相当地域)北

  部の沼田一円(利根郡)も領有し、領土を広げた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1582年 (天正10年)。

■ 1582年 (天正10年)までは、信濃国・上田城主の真

  田氏は、 武田氏と命運を共にし、 信濃国・吾妻郡の

  上田一帯と上野国・利根郡の沼田一帯を領有し、 信

  濃国(長野県)と上野国(群馬県)の通路である上州街

  道を抑えていた。

     しかし、1582年 (天正10年)に、武田氏が滅亡

  し、真田氏にとって、不安定な政治情勢となった。

     1582年 (天正10年)以後、武田氏滅亡後、16

  00年まで、武田氏に臣従していた、真田氏は、上杉氏、

  北条氏、徳川氏、豊臣氏に 臣従した。 

     この間、真田昌幸は、 徳川家康との間で、第1次

  上田合戦(1585年)を行い、勝利を得る。 真田昌幸は、

  最終的に豊臣秀吉に仕える (秀吉の傘下に入る)。 

     真田氏の真田昌幸は、 1582年の武田氏の武田

  勝頼滅亡後、 周辺の諸大名の傘下に入り、 当主

  真田昌幸子の真田幸村(信繁)は、 諸大名の上杉氏

  氏、次に豊臣氏の人質となる。 

     上田領と沼田領を領有する、真田昌幸は、本城の

   上田城主となり、 昌幸・長男の真田信之(のぶゆき)

   を、支城の沼田城主とした。

      1600年(慶長5年)の天下 分け目の戦いでは、 

  幸村(信繁)の真田 昌幸(まさゆき)と昌幸次男・真田

  幸村(信繁)は、石田三成方の西軍に味方し、昌幸長

  男・真田 信幸(信之、のぶゆき)は、徳川家康方の東軍

  に味方した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1584年 (天正1 2年)

 ● 1584年(天正12年)に、上田城 (前期上田城、15

  84−1600年) が築城され、真田昌幸は、上田城を

  本城とする。

● 上田城は、真田昌幸が徳川家康に依頼し、1584年

  (天正12年)に、北条氏に対抗するため、徳川氏が造

  った、街道沿いの平城である。

     完成後、真田昌幸は、北方の真田氏の旧山城か

  ら、徳川氏が造った街道沿いの平城の上田城に移る。

 

■ 1585年 (天正13年)

■ 第1次上田合戦。

    第1次上田合戦とは、 1585年(天正13年)に、 

  信濃国(しなののくに、現・長野県相当地域)の上田

  地域で、 真田氏(方)と徳川氏(方)との間で戦わ

  れた、戦いである。

    真田昌幸は、 上野(こうずけ、現・群馬県)沼田

  領と信濃(しなの、現・長野県)・真田領を領有してい

  たが、 徳川家康が、沼田領を手放すように要求し、

  真田昌幸は、断った。 そのため、徳川家康は、徳

  川軍・約7000人の兵を、真田氏に差し向けてきた。

  このとき、約2000人の真田軍は、上田城攻防戦で、

  おびき寄せ作戦で、徳川軍を破(やぶ)り、敗退させ

  た。

 

■ 1590年 (天正18年)

■ 小田原征伐。

    1590年(天正18年)に、 豊臣秀吉の小田原

  征伐で、真田幸村(信繁)は、 豊臣方として、参戦

  した。

 

■ 1592年 (天正20年、文禄元年)。

■ 1592年 (文禄 元年) 文禄改元。 

     1592年12月8日に、 和暦の「天正」 (てんし

  ょう 、天正元年〜20年) が、 「 文禄」 (ぶんろく、

  文禄元年・1592年・12月8日〜 文禄5年・ 1596

  年・10月27日) に改元される。 

 

■ 1596年 (文禄5年、慶長元年)。

■ 1596年 (慶長 元年) 慶長(けいちょう)改元。 

     1596年10月27日に、 和暦の「文禄」 (ぶん

  ろく 、文禄元年〜5年) が、「 慶長」 ( けいちょう、 

  慶長元年・1596年・10月27日〜 慶長20年・16

  15年・7月13日) に改元される。 

 

■ 1600年 (慶長5年)。

■ 真田親子犬伏密談。

 犬伏密談とは、  関ヶ原の戦いの数ヵ月前の、1600

  年(慶長5年)7月に、 下野国(しもつけのくに、現・栃

  木県)の犬伏(いぬぶし)で、 真田氏当主の真田昌幸

  (さなだまさゆき) と、 昌幸の次男の真田幸村 (信繁

  (のぶしげ))  と、 昌幸の長男の真田信幸(信之)

  (のぶゆき)の3人が行った密談 である。 

● 犬伏密談は、 真田氏当主の真田昌幸と、 昌幸の

  次男の真田幸村(信繁) と、 昌幸の長男 の真田信

  幸(信之) の 3人や真田氏のその後の運命を変え

  る会談であった。

● 1600年(慶長5年) 7月に、関ヶ原の戦いの数ヵ

   月前に、下野国(しもつけのくに、現・栃木県)の犬伏

   (いぬぶし)で、 真田氏当主の真田昌幸(さなだまさ

   ゆき)と、 昌幸の次男の真田幸村(信繁(のぶしげ)) 

   と、 昌幸の長男の真田信幸(信之)(のぶゆき) の

   3人が、 天下分け目の戦いの前に、密談を行った。

      真田幸村(信繁)は、かって豊臣秀吉の側近で

   あり豊臣氏との関係が深く、 真田信幸(信之)は徳

   川氏との関係が深かった。

      真田幸村(信繁)の夫人は、 豊臣氏 家臣の大

   谷吉継(おおたによしつぐ)の娘・竹林院であり、 

   田信幸(信之)の夫人は、 徳川家重臣の本多忠勝

   (ほんだたたかつ)の娘・小松姫であった。

      室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、江

   戸時代初期の当時、小領主は、どちらに転んでも、

   家を残せるように、親族の一部が、大勢力同士の

   戦いで、敵・味方に別れて、戦い、勝者の方が家名

   を残していくということがよくあった。

● 犬伏密談の結果、 天下分け目の戦い (1600年

   の関ヶ原の戦い、その他の戦い)で、 真田昌幸と次

   男・真田幸村(信繁)の父子は、石田(三成)方の西

   軍に味方し、 昌幸・長男の真田信幸(信之)は、徳

   川(家康)方の東軍に味方することとなった。 

      真田昌幸は、 石田方の西軍には、長男の真

   田信幸(信之)が徳川方の東軍に味方していること

   は言わなかった。

 

■ 1600年 (慶長5年)7月。

■ 天下分け目の戦いでの、第2次上田合戦。

    第2次上田合戦とは、 1600年 (慶長5年)に、 

  信濃国(しなののくに、現・長野県相当地域)の上田

  地域で、 真田氏(方)と徳川氏(方)との間で戦わ

  れた、戦いである。

     真田昌幸と次男・真田幸村(信繁)の父子は、 

  石田(三成)方の西軍に味方し、 昌幸・長男の真田

  信幸(信之)は、 徳川(家康)方の東軍に味方し、

  天下分け目の戦い (1600年(慶長5年)関ヶ原

  の戦い、その他の戦い)  の1つの、第2次上田合戦

  を行った。

     真田 幸村(信繁)は、 1600年(慶長5年)

  天下分け目の戦いでの、第2次上田合戦では、 知

  将の父・真田 昌幸(まさゆき)に従い、 石田方に味

  方した(西軍の石田三 成(みつなり)に応じた)。 

     1600年(慶長5年) 9月2日に、徳川秀忠軍は、

  上田近くの、信濃(信州)・小諸に到着した。 

     昌幸・長男の真田信幸(信之)も、徳川秀忠軍に

  従軍していた。  徳川秀忠は、 徳川方の真田信幸

  (信之)の隊に、 上田城近くにある、石田方の真田

  幸村(信繁)の守る支城の砥石城(といしじょう)を攻

  めさせた。 真田幸村(信繁)は、 (事前に父・真田

  昌幸に指示されていた通り) 兄の信幸(信之)と戦

  わず、支城を捨て、退却した。 そのため、信幸(信

  之)は、支城の砥石城を占領し手柄をたて、そこに居

  座り、その後、 真田昌幸・真田幸村(信繁)・父子

  軍と戦わずに済んだ。

     信濃(信州 )・上田 (しなの(しんしゅう)・うえだ、

  現在の長野県上田市相当地域) で、 真田昌幸と次

  男・真田幸村(信繁)の父子は、 約5000人で守備

  する上田城を、約38000人の徳川秀忠軍に攻めさ

  せ、徳川軍を翻弄(ほんろう)し、 徳川 秀忠(ひでた

  だ)軍の西上を遅らせた。 そのため、徳川秀忠軍は、

  関ヶ原の戦いには間に合わなかった。

     石田方に味方した真田昌幸・真田幸村(信繁)

  の父子は、 1600年9月15日の関ヶ原の戦 い後 

  (石田方が関が原の戦いで敗北後)、 家康方の東

  軍に降伏し、真田氏当主の真田昌幸は、所領の上田

  領・沼田領を没収され、 徳川方に味方した昌幸長

  男の真田 信幸が 上田領・沼田領を所領として得た。 

      徳川方に味方した兄・真田 信幸(のぶゆき)の

  嘆願で、 真田昌幸・幸村(信繁)の親子は、共に切

  腹を免れ、 紀伊国(きいのくに、現在の和歌山県相

  当地域)の、高野山麓の、九度山(くどやま)に配流

  (はいる、追放)され蟄居(ちっきょ)となり、 牢人(ろ

  うにん、浪人)となる。 

     真田昌幸・幸村(信繁)の親子の蟄居(ちっきょ)

  免除も許されず、1611年に、真田幸村(信繁)の父・

  真田昌幸は、蟄居先の九度山で死去する。

     高野山麓の、九度山で、真田幸村(信繁)は、

  1614年まで、約14年間の幽閉生活を送る。

● 1600年 (慶長5年)に、真田 信幸(信之)が、信幸

  (信之)の父・真田昌幸に代わって、信濃・ 上田領の

  領主(1600−1622年) となる。

 

■ 1600年 (慶長5年)。

■ 1600年(慶長5年)に、  真田 信幸(信之) (さな

  だ のぶゆき、1566年ー1658年) は、 真田氏の

  当主 (1600年−1656年) となり、 信濃・ 上田

  領の領主(1600−1622年) となる。

● 真田 信幸(信之)は、 真田 昌幸(まさゆき)の長男

  であり、 真田 幸村(信繁)の兄であり、 安土桃山

  時代、江戸時代初期の武将 であった。

● 真田 信幸(信之)は、 江戸時代の、信濃・上田 (う

  えだ)藩・初代藩主(1600年−1622年)であり、 

  信濃・真田氏松代(まつしろ)藩・初代藩主(1622年

  −1656年)であった。

● 真田 信幸(信之) (さなだ のぶゆき、1566年ー

  1658年) は、 真田氏の当主 (1600年−16

  56年) であり、 信濃・上田領の領主 (1600年

  −1622年) であり、 信濃・松代(まつしろ)領の

  領主(1622−1656年)であり、 上野(こうずけ)・

  沼田領の領主(1600年−1656年)であった。

     信幸(信之)(のぶゆき)の父・真田昌幸(まさ 

  ゆき)は、1600年の天下分け目の戦いの第2次

  上田合戦で、石田方として、徳川方と戦い勝った

  が、関ヶ原の戦いで石田方が敗北したため、その

  後徳川方に降参し、徳川方に上田領・沼田領を没

  収され、真田氏の当主でなくなる。 代わって、徳

  川方に味方した、真田昌幸の長男の真田信幸(信

  之)が、1600年に、上田領・沼田領の領主となり、

  真田氏の当主となる。

     真田信幸(信之)(のぶゆき)は、1622年に、

   幕命(ばくめい、幕府の命令)で、転封(てんぽう、

   領地替え)となり、 上田領の領主から、松代(ま

   つしろ)領の領主となる。

      真田信幸(信之)(のぶゆき)は、1656年に

   隠居(いんきょ)し、 代わって、1656年に、真田

   信幸(信之)の次男の真田 信政(さなだ のぶまさ)

   に真田氏を継がせる (松代領・沼田領の領主と

   し、真田氏の当主とする)。

● 真田 信幸(信之)は、 天下分け目の戦い(1600

  年)では、沼田・真田軍を率いて、東軍の徳川方

  味方し、 父・真田昌幸(まさゆき)・弟・真田幸村(信

  繁)の率いる上田・真田軍と敵対して、 第2次上田

  合戦(1600年)では、徳川秀忠軍に従軍し、西軍の

  石田方の上田・真田軍と戦う。 但し、実際には、上

  ・真田軍は沼田・真田軍との交戦を避け、ほとんど

  両者は戦わなかった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1611年 (慶長16年)。

■ 1611年(慶長16年 )に、 真田 幸村(信繁)の父・

  知将の真田 昌幸が、 配流(はいる、追放)先の、紀

  伊国の、九度山で、死去する。 

 

■ 1614年 (慶長19年)。

■ 真田 幸村(信繁) は、 豊臣秀頼に招かれ て豊臣・

  大阪城に入り 、 大阪の陣(1614〜15 年) では 

  豊臣軍の武将として、奮戦して、戦死する。

     真田 幸村(信繁)は、 1614年(慶長19年)に、

  豊臣秀頼に招かれて、豊臣・大阪城に入り (豊臣秀頼

  の挙兵に応じ豊臣・大阪城に入城し)、 大阪の陣では、

  大阪冬の陣と大阪夏の陣の2つの戦いで、 真田幸村

  (信繁)は、 豊臣方の武将として、大活躍した。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1614年 (慶長19年)10月。

  豊臣秀頼からの誘いと大阪城入城。

■ 真田幸村(信繁) は、 豊臣秀頼に招かれ て大

  阪城に入る。

■ 真田幸村(信繁)は、 1614年(慶長19年)まで、

  このまま、高野山山麓の九度山(くどやま、現在の

  和歌山県高野町)で蟄居(ちっきょ)し、朽ち果てる

  と思いながら、生活していた。

     ところが、1614年(慶長19年)10月に、豊臣

  秀頼より、「大阪へ来られたし」という書状が真田幸

  村(信繁)のもとに届いた。

    豊臣秀頼の条件は、 仕度金(したくきん)として

  黄金200枚・銀30貫目、 家来5000人 であった。

    更に、豊臣方が勝利を得た場合は、恩賞として、

  治領地(知行地)50万石を与える

  というものであった。

■ 真田幸村(信繁)は、 武将としての活躍の場を得ら

  れるため、また、豊臣家の恩義に報いるため、喜ん

  で承諾し、与えられた仕度金を使って、赤一色の武

  具を、数千人分用意し、かっての家臣に呼びかけ兵

  を集め、1614年 (慶長19年)10月に、蟄居地(ちっ

  きょち)の九度山(くどやま)を抜け出し、大阪城に入

  城した。

 

■ 1614年 (慶長19年)。

■ 大阪冬の陣。

● 1614年(慶長19年)1 1月から12月までの大阪冬

  の陣では、 真田幸村(信繁)は、 豊臣・大阪城の

  南方に、 真田丸(さなだまる)という出城(でじろ)を

  築き、 寄せ集めの牢人(ろうにん、浪人)約5000人

  を使って、そこを根拠地にして、 攻撃してきた徳川方

  に大打撃を与えた。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 真田丸。

■ 大坂冬の陣では、 徳川軍は、約20万人の兵で、豊

  臣大阪城を囲んで、東西南北から攻撃したが、 真田

  幸村(信繁)は、約5000人の兵で、城南から攻め寄

  せる兵を真田丸に引き寄せて、約1万人以上の兵を討

  ち、徳川方主力部隊に大打撃を与えた。

 

● 真田幸村(信繁)は、 徳川方主力部隊を、真田丸の

  空堀に誘い込んで、鉄砲で銃撃し(その鉄砲の中には、

  約300mの射程のある大型銃もあった)、 徳川方の

  多くの兵を討ち死にさせた。

 

■ 真田丸 (さなだまる)は、 大坂冬の陣の砦(とりで)

  であり、 1614年(慶長19年 )の11月から12月ま

  で、豊臣大坂城の南方に存在した出城(でじろ)であ

  った。 

 

● 真田丸は、 真田幸村(信繁) (さなだゆきむら(の

  ぶしげ))が、 大坂冬の陣で、 豊臣方の籠城戦(ろじ

  ょうせん)を有利 にするため、 1614年10月より寺院

  の材料などを利用し て、約1カ月の突貫工事で、豊臣

  大阪城の南方に造った、無敵の砦(とりで)であった。

     豊臣大阪城は、 東西南北で、西側の 水堀や南

  側の空堀が防御に弱く弱点があり、 西側の水堀や

  南側の空堀に徳川方の兵を集中させないため (西

  側の水堀や南側の空堀から徳川方の目をそらさせる

  ため)、 真田幸村(信繁)は、 徳川方主力部隊を、

  豊臣大阪城の南側に突き出た出城の真田丸に引き

  寄せて(つけて)戦うことを決意した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

● 1614年12月に豊臣方と徳川方の間で、和睦が成立

  し、大坂冬の陣は終わった。 

     大坂冬の陣の和睦の条件は、 豊臣大阪城の、

  堀の埋め立て や 本丸以外の構築物 (二の丸と惣

  構(そうがまえ、三の丸)の構築物) の破壊 であった

  ため、 徳川方は、停戦後すぐ、約1カ月をかけて堀の

  埋め立てや本丸以外の構築物の破壊を行い、 徳川

  方の堀埋め立てや構築物破壊時に、真田丸 は消滅し

  た (真田丸の建物は幸村(信繁)自身が壊し、真田丸

  の堀は徳川方が埋めた)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 2014年に真田丸の学術調査が行われた。

    真田丸の正確な場所は、今までは特定できなかった

  が、2014年の学術調査で、 真田丸は、 現在の大坂

  の餌差町(えさしまち)の大坂明星学園(おおさかめい

  せいがくえん)の付近にあったことがわかった。

     また、2014年の学術調査で、真田丸は、東西

  220m・南北230mの大きさで、四角形の台形型であ 

  り、寺町の市街地の中にあったことがわかった。

    学術調査では、専門家が、大坂城の南方の各地を、

  地中探査機械を利用し、レーダーや電磁波などで繰り

  返し地中の遺構(いこう)を探査し、真田丸の位置を特

  定した。

 

■ 大坂冬の陣 (1614年11月ー12月)。

● 大坂冬の陣 (おおさかふゆのじん)は、1614年(慶

  長19年)11月から12月まで、 大坂地域で、徳川方と

  豊臣方が戦った戦争である。 主に、豊臣大阪城の籠

  城戦(ろうじょうっせん、城攻防戦) であった。

● 準備。 

     1614年(慶長19年)10月11日に、徳川家康は、

  大坂地域に向かい、 駿府城を出発する。

● 戦い。

     1614年(慶長19年)11月に、 約20万人の兵

  (軍勢)の徳川方は、 約10万人の兵(軍勢)がいる

  豊臣大阪城を囲み、 徳川方は、 1614年(慶長

  19年)11月19日に、 木津川口の砦で戦いが始ま

  り(木津川口の戦い)、 豊臣方と開戦する。

          城を囲まれている豊臣方は、 武器弾薬が少なく

  なり(底をつき)、また、1614年12月16日に豊臣大

  阪城本丸に徳川方の脅しのための砲弾が届き撃ち

  込まれて(命中し)淀殿の侍女が死去し淀殿が怯(お

  び)える。 一方、徳川方は、大坂城には防御性のあ

  る堀があり城内に侵入できず、また、真田丸の真田

  幸村(信繁)など牢人(ろうにん)の奮戦・活躍などで

  徳川方に想定外の多くの死傷者を出し、 双方とも、

  長期戦を望まず、停戦の交渉に入る。

     1614年(慶長19年)12月20日に、豊臣方と

  徳川方の和議が成立し (12月19日に講和条件が

  合意され20日に誓書が交換され)、 終戦となる。

     成立した和議の内容は、

   @ 豊臣大阪城の牢人(ろうにん、浪人)の罪を問わ

     ない、

   A 豊臣秀頼の領土を安堵(あんど、保障)する、

   B 豊臣大阪城の堀を埋め、本丸以外の構築物を壊

     す (徳川方と豊臣方で)、

   であった。

● 後始末。

      和議成立後、すぐ急いで、徳川方は、約1カ月

   をかけて、豊臣大阪城の堀を埋め、本丸以外の構

   築物を破壊し、豊臣大阪城は、裸城(はだかじろ)同

   然となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1615年 (慶長20年)。

■ 大阪夏の陣。

● 1615年(慶長20年)4月から5月までの大阪夏の

  陣では、 野戦の戦場で、 徳川家康を襲ったが討

  ちもらし (徳川家康の本陣間際まで突撃したが家

  康を討ちもらし)、 力尽きて、 真田 幸村(信繁)は、

  戦死した (1615年(慶長20年)5月に) 。 

    その後、徳川方に攻められた大阪城では、豊臣

  秀頼、淀殿が、自害する。

    大阪の夏の陣では、真田 幸村(信繁)の率いた

  軍は、鎧(よろい)を赤で統一し、真田の赤備えと言

  われた。

 

■ 真田幸村の、家康本陣突撃

■ 1615年(慶長20年)の大坂夏の陣では、 真田幸

  村(信繁)は、 豊臣大阪城の南方にある、茶臼山

  (ちゃうすやま)を改造し、茶臼山に本陣を置いた。

■ 真田幸村(信繁)は、「茶臼山おびき寄せ作戦」をた

  て、 真田幸村(信繁)本陣の茶臼山に、敵の徳川

  軍主力部隊や徳川家康本陣守備隊をおびき寄せ、

  戦い、そのすきに、別動隊が、徳川家康本陣を急襲

  し、敵の大将の徳川家康を討ち取る計画であった。

     しかし、茶臼山の手前の地で、豊臣軍の別の部

  隊が、徳川軍主力部隊を攻撃し始め、 徳川家康本

  陣守備隊は、動かず、徳川家康本陣周辺を囲んだま

  まであった。

     真田幸村(信繁)は、 「茶臼山おびき寄せ作戦」

  ができず、止むを得ず、茶臼山本陣を捨て、徳川家

  康本陣への突撃を決意し、 真田幸村(信繁)部隊は、

  全員、徳川家康本陣守備隊が守る、徳川家康本陣に

  突撃していった。

     真田幸村(信繁)部隊は、徳川家康本陣守備隊

  の守りを破り、徳川家康本陣間際まで突撃したが、徳

  川家康を討ち取ることができず、突撃で多数の兵士を

  失い、徳川家康本陣から押し戻されて、真田幸村(信

  繁)は、乱戦中、徳川方の越前松平軍の武士と戦い、

  1615年(慶長20年)5月7日頃に、野戦で、討ち死

  にした。

     その後、豊臣大阪城も徳川方の攻撃を受け、豊

  臣大阪城も落城し、豊臣秀頼は自害した。

 

■ 大坂夏の陣 (1615年4月ー5月)。

● 大坂夏の陣 (おおさかなつのじん)とは、1615年

  (慶長20年)4月から5月まで、大坂地域で、 徳川方

  と豊臣方が戦った戦争である。 主に、豊臣大阪城の

  南方での野戦(やせん、野外戦)であった。

● 準備。 

     1615年(慶長20年)4月4日に、徳川家康は、

  大坂地域 に向かい、駿府城を出発する。

● 戦い。

     1615年(慶長20年)4月に、約15万人の兵(軍

  勢)の徳川方は、 豊臣大阪城の南方に陣取り、約5

  万人の兵(軍勢)の豊臣方に対峙し、 4月26日に郡

  山城の戦いが起こり、豊臣方と開戦する。

     1615年(慶長20年)5月に、徳川方は 、 豊臣

  大阪城の南方で、豊臣方主力部隊に野戦(野外戦)

  で勝ち、 その後、豊臣大阪城を攻めて5月7日に落

  城(陥落)させ、 5月8日に淀殿・秀頼母子が自害し、

  終戦となる。

● 後始末。

      徳川方は、 生き残った豊臣方の残党や牢人

   (ろうにん、浪人)を捕(とら)え、豊臣大阪城のすべ

   を取り壊す。 

      後に、徳川方は、 同地に、新しい徳川大阪城

   を築城する。  

 

■ 1615年 (慶長20年、元和元年)。

■ 1615年 (元和 元年) に、 元和改元。 

    1615年7月13日に、 和暦の「慶長」 (けいちょ

  う 、慶長元年〜20年) が、 「 元和」 (げんな、元

  和元年・1615年・7月13日〜 元和10年・ 1624

  年・2月30日) に改元される。 

 

■ 1622年 (元和8年)

■ 1622年 (元和8年)に、 真田氏当主 (1600年−

  1656年) の、真田 信幸(信之)が、 信濃・ 上田領

  (1600−1622年) から信濃・松代(まつしろ)領

  (1622−1656年)に、 転封(てんぽう、領地替え) 

  となる。

● 1600年 (慶長5年)に、真田 信幸(信之)が、信濃・

  上田領の領主(1600−1622年) となる。

● 真田 信幸(信之)は、 江戸時代の、信濃・上田藩

  初代藩主(1600−1622年)、 信濃・松代藩初代

  藩主(1622−1656年)であった。

●  真田 信幸(信之) (さなだ のぶゆき、1566〜

  1658年) は、 真田 昌幸(まさゆき)の長男であり、

  真田 幸村(信繁)の兄であり、 安土桃山時代、江

  戸時代初期の武将 であった。

● 真田 信幸(信之)は、 信濃・上田領の領主(1600

  −1622年)であり、 上野(こうずけ)・沼田領の領

  主(1600−1656年)であり、 信濃・松代(まつし

  ろ)領の領主(1622−1656年)であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1656年 (明暦2年)。

■ 1656年 (明暦2年)に、 真田 信政 (さなだ の

  ぶまさ、1597年ー1658年) は、 真田氏の当  

  主(1656−1658年)  となり、 信濃・松代

  (まつしろ)領の領主 (1656−1658 年) と

  なる。

● 真田 信政は、 信濃・真田氏松代(まつしろ)藩・

  第2代藩主 (1656−165 8年)  であった。

● 真田 信政 (さなだ のぶまさ、1597年ー1658

  年) は、 真田氏の当主 (1656−1658年) 

  であり、信濃・松代(まつしろ)領、上野・沼田(ぬま

  た)領の領主 (1656−1658 年) であった。

      信政の父・真田信幸(信之)(のぶゆき)は、

   1656年に隠居(いんきょ)し、 代わって、真田

    信幸(信之)の次男の真田 信政(さなだ のぶま

   さ)が、1656年に、真田氏を継ぐ (松代領・沼

   田領の領主となり、真田氏の当主となる)。

      真田 信政は、1658年に死去する。 代わ

   って、幕命(ばくめい、幕府の命令)で、真田 信

   政(のぶまさ)の六男の真田 幸道 (さなだ ゆき

   みち)が、1658年に、幼少で、真田氏を継ぐ

   松代(まつしろ)領の領主となり、真田氏の当主

   となる)。

● 真田 信政は、 真田 信幸(信之)(のぶゆき)の次

  男(嫡子、正室夫人の子)であり、 真田 幸村(信

  繁)の 甥(おい) (幸村(信繁)の兄・信幸(信之)

  の子) であり、 信幸(信之)と信幸(信之)正室夫

  人・小松姫(こまつひめ)との間の子であり、 江戸

  時代初期の武将であった。

● 真田 信政は、 大坂の陣(1614−1615年)では、

  病気療養中の父・真田 信幸(信之)(のぶゆき)に

  代わって、徳川方として参戦する。

 

■ 1658年 (明暦4年)。

● 松代・沼田領の分離独立。

     1658年(明暦4年)6月に、幕命により、 

  代・沼田領主の、真田 信幸(信之)の孫・真田 幸道

  (ゆきみち) が、信濃・松代(まつしろ)領を相続し、

  松代藩主となり、 真田 信幸(信之)の孫・真田 信

  利(信直)は、上野・沼田(ぬまた)領を相続し、沼

  田藩主となった。

● 真田 信幸(信之)(のぶゆき)の長男 (庶子、側室

  夫人の子) は、 側室夫人・清音院との間の子・

  真田 信吉(のぶよし、1595−1635年)であり、 

  真田 信吉(のぶよし)の次男は、 真田 信利(信直)

  (さなだ のぶとし(のぶなお)、生没年:1635−16

  88年) であった。

     1658年(明暦4年)6月に、真田 信利(信直)

  (のぶとし(のぶなお)、信吉の次男)は、 幕命で、

  松代藩から分離独立して、 上野(こうずけ、現・群

  馬県)・沼田(ぬまた)領の領主 (1658−16

  81年) となり、 上野・真田氏沼田(ぬまた)藩・初

  代藩主(1658−16 81年) となる。 しかし、

  沼田藩は、1681年(天名(てんな)元年)11月に、

  改易(かいえき、領地没収) となる。  

 

■ 1658年 (明暦4年)。

■ 1658年 (明暦4年)に、 真田 幸道 (さなだ ゆき

  みち、真田右衛門、1657−1727年) は、 真

  田氏の当主 (1658−1727年)  となり、 信濃・

  松代(まつしろ)領の領主 (1658−1727年) 

  となる。

● 真田 幸道は、 信濃・真田氏松代(まつしろ)藩・ 第

  3代藩主 (1658−1727年) であった。

● 真田 幸道 (さなだ ゆきみち、真田右衛門、1657

  −1727年) は、 真田氏の当主 (1658

  1727年) であり、 信濃・松代(まつしろ)領の領

  主 (1658−1727年) であった。

      幸道の父・真田 信政(のぶまさ)は、1658年

   に死去する。 代わって、幕命(ばくめい、幕府の

   命令)で、真田 信政(のぶまさ)の六男の真田 幸 

   道(ゆきみち)が、1658年に、幼少で、真田氏を

   継ぐ (松代(まつしろ)領の領主となり、真田氏の

   当主となる)。

● 真田 幸道は、 信濃・真田氏松代藩第2代藩主・

  田 信政(のぶまさ)の六男であり、 真田 幸村(信繁)

  の大甥(おい) (幸村(信繁)の兄・信幸(信之)の孫) 

  であり、 信政と信政夫人・松寿院との間の子である。

● 真田 幸道は、 生まれた翌年に父・真田 信政(の

  ぶまさ)が死去したため、わずか2歳で家督を継ぎ、

  幼少で、藩主となった。 譜代大名・陸奥・磐城平

  (いわきたいら)藩・7万石藩主・内藤忠興(ないとう

  だだおき)が後見人となった。

● 1658年(明暦4年)6月に、幕命により、 真田 幸

  道は、信濃・松代(まつしろ)領を相続し、松代藩主

  となり、 真田 信利(信直)は、上野・沼田(ぬまた)

  領を相続し、沼田藩主となった。

● 真田 信幸(信之)(のぶゆき)の長男 (庶子、側室

  夫人の子) は、 側室夫人・清音院との間の子・

  真田 信吉(のぶよし、1595−1635年)であり、 

  真田 信吉(のぶよし)の次男は、 真田 信利(信直)

  (さなだ のぶとし(のぶなお)、生没年:1635−16

  88年) であった。

     1658年(明暦4年)6月に、真田 信利(信直)

  (のぶとし(のぶなお)、信吉の次男)は、 幕命で、

  松代藩から分離独立して、 上野(こうずけ、現・群

  馬県)・沼田(ぬまた)領の領主 (1658−16 81

  年) となり、 上野・真田氏沼田(ぬまた)藩・初代

  藩主(1658−16 81年) となる。 しかし、沼田

  藩は、1681年(天名(てんな)元年)11月に、改易

  (かいえき、領地没収) となる。  

 

■ 1789年 (寛政10年)。

■ 真田本家の真田氏男系の血筋が絶え、 1789年

  (寛政10年)に、 養嗣子の真田 幸専 (さなだ ゆ

  きたか、生没年:1770−1828年)が、 真田氏・

  松代(まつしろ)藩・第7代藩主 (藩主在任:1798

  −1823年) となる。

     信濃・松代(まつしろ)藩 ・第6代藩主 (藩主在

  任:1752−1798年)の、真田 幸弘 (さなだ ゆき

  ひろ、生没年:1740−1815年)は、 5男6女をも

  うけたが、女子2人を除いて死去し(夭折し)、真田

  本家の真田氏男系の血筋が絶える。

     そこで、真田 幸弘は、1785年 (天明5年)に、

  彦根藩主・井伊直幸の男子の、幸専(ゆきたか)を

  養子に迎えた。

     遂に、真田 幸弘は、1798年 (寛政10年)に、

  嗣子の真田幸専(ゆきたか)に、真田家の家督を

  譲った。

     その後、真田氏松代藩・第7代藩主真田幸専

  (ゆきたか)も、 後継者となる男子にめぐまれず、 

  松平定信(まつだいらさだのぶ)の子の幸貫(ゆきつ

  ら)を嗣子とした。

 

■ 1841年 (天保12年)。

■ 1841年 (天保12年)に、真田氏・松代(まつしろ)

  藩・第8代藩主(藩主在任:1823−1852年)の、

  真田幸貫 (さなだ ゆきつら、生没年:1792−18

  52年)が、 江戸幕府の海防掛老中 (就任:1841

  −1844年) となる。

● 真田幸貫 (さなだゆきつら、生没年:1791ー18

  52年) は、 松平定信(まつだいらさだのぶ)の子

  であり、 真田氏に養子に入り、真田氏を継ぐ。

● 幕末には、 信濃・松代(まつしろ)藩主の 真田幸

  貫(ゆきつら)が江戸幕府の海防掛老中(就任:18

  41−1844年)をつとめ佐久間象山(さくましょうざ

  ん)を顧問とし、 信濃(信州)の真田氏の松代藩10

  万石から松代藩藩士で、蘭学者(らんがくしゃ)の

  久間象山(さくましょうざん)が、出現した。

 

■ 1871年 (明治4年)。

■ 1871年 (明治4年)に、廃藩置県により、真田氏・

  松代(まつしろ)藩の武家の真田氏は、消滅する。

     最後の藩主の、信濃・松代(まつしろ)・第10代

  藩主(就任:1866−1871年)は、 真田 幸民(さな

  だ ゆきもと、生没年:1850−1903年) であった。

     真田幸民(ゆきもと)は、 伊予宇和島藩主の伊

  達宗城(だてむねなり)の子であり、 真田氏松代藩

  に養子に入る。

     真田幸民(ゆきもと)は、 明治時代に、1884

  年に子爵となり、1891年に伯爵となる。 

     真田幸民の墓所は、 東京都港区の青山墓地

  と長野市松代の長国寺にある。

 

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#sanadayukimura

 

■ 真田 幸村(信繁) 

      (さなだ ゆきむら(のぶしげ))。

 

■ 真田幸村(信繁)。

■ 生没年 : 1567年〜1615年。

● 1615年の大阪の夏の陣で戦死。

■ 名称 : 真田 幸村 (さなだ ゆきむら)。 

   別名 : 真田 信繁 (さなだ のぶしげ)。

■ 安土桃山時代、江戸時代初期に活躍した武将。

■ 日本一の兵(ひのもといちのつわもの)と言われた武

  将。

■ 信濃国(しなののくに、信州、長野県)の上田城主・

  真田 昌幸(さなだ まさゆき)の次男。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 天下分け目の戦い (1600年の関が原の戦い、そ

  の他の戦い)では、 石田方(西軍)に味方し、大阪

  の陣(1614〜15年)では、 豊臣方に味方し、活躍

  する。

 

□ 真田幸村(信繁) 簡略年表

□ 真田 幸村(信繁)の参戦

□ 真田 幸村(信繁)の一族

□ 真田 幸村(信繁) 後継存続家

□ 真田 幸村(信繁)が登場する、興味深い、

   関連ドキュメンタリー、ドラマ、映画

□ 真田 幸村(信繁) 関連出来事 (年代順、

     詳細)

 

 

■ 真田幸村(信繁)。

■ 真田幸村(信繁) (さなだゆきむら(のぶしげ)、生

  没年:1567〜1615年) は、 安土桃山時代、江

  戸時代初期の武将 である。 

     真田幸村(信繁) (ゆきむら(のぶしげ) は、

  1567年(永禄10年)に生まれ、 豊臣秀吉に仕(つ

  か)え、1590年(天正18年)の小田原征伐で戦い、

  1600年(慶長5年)の天下分け目の戦い(関ヶ原の

  戦い、その他の戦い)に敗(やぶ)れ、父・真田昌幸

  (まさゆき)と共に九度山 (くどやま、和歌山県高野

  町) に追放され、 1614年(慶長19年)に豊臣秀

  頼(とよとみひでより)に呼ばれ、大坂の陣(1614−

  1615年)に参戦し、大坂冬の陣で大坂城外に真田

  丸(さなだまる)という陣地を築いて奮戦し、 1615

  年(慶長20年)に、大坂冬の陣で戦死する。

 

■ 真田兄弟の、真田幸村(信繁)(ゆきむら(のぶしげ))

  (弟)は、真田氏の武名を残し、真田信幸(信之)(の

  ぶゆき)(兄)は、真田氏の家名を残した。 

 

 

 

■ 真田幸村(信繁)。

■ 真田幸村(信繁) (ゆきむら(のぶしげ)は、 戦国

  武将であった。

     戦国武将 (せんごくぶしょう)とは、 室町時

  代後期(戦国時代)、安土桃山時代、江戸時代初期

  に活躍した武将である。

 

■ 1567年 (永禄10年)に、 真田幸村(信繁) (さな

  だゆきむら(のぶしげ)、生没年:1567〜1615年)

  は、 信濃国 (しなののく に、信州、現在の長野県

  相当地域)の、真田氏の真田昌幸(さなだ まさゆき)

  の次男として、生まれる。   数え年49歳で、死去し

  た。

     真田 幸村(信繁)は、通説では、1567年(永禄

  10年)に生まれたとされているが、 1571年(元亀

  2年)に生まれたという説もある。 その場合、数え年

  45歳で、死去したことになる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 真田 幸村 (さなだ ゆきむら、 生没年:1567

  〜1615年) は、 別名は真田 信繁(さなだの

  ぶしげ)で、 安土桃山時代、江戸時代初期に活

  躍した武将で、 信濃国(しなののくに、信州、長

  野県)の上田城主・真田 昌幸(ま

  さゆき)の 次男である。 

 

■ 真田 幸村の「幸村」(ゆきむら)は、 江戸時代

   の小説での呼び名である。    

          真田 幸村の (いみな、本名)は、 信 繁

  (のぶしげ)と言う。 通称は、源次郎といい、幼

  名(ようみょう)は、弁丸(べんまる)と称した。

     幸村という名は、 後世の人がつけた名で

  あり、 後世の1672年頃に書かれた軍記物 語

  「難波戦記」に記され、その本が売れ、人気が出

  て、幸村(ゆきむら)という名が一般的となった。

 

 

■ 真田家の旗印の六文銭

■ 真田家の旗印の六文銭(六連銭)は、六道銭で、当

  時亡くなった人を葬るときお棺に入れる六文の銭貨

  で、 三途の川(さんずのかわ)の渡し賃のことである。 

  六道銭を旗印にすることは、不惜身命(ふしゃくしん

  みょう)を意味し、仏法のために身命をささげ惜しまな

  いことを意味する。

 

■ 真田氏。

■ 真田氏は、 信濃(= 信州)の、地方豪族である。

     真田氏は、 信濃(= 信州)(しなの(しんしゅ

  う)、現・長野県)の上田の領主であった。

     真田氏は、 信濃(= 信州)の戦国小大名で

  あった。

     真田氏は、 1546年頃から1582年 (天

  正10年)まで、武田氏に臣従し、その後、上杉氏、

  北条氏、徳川氏、豊臣氏に 臣従した。 

     真田氏は、 武田氏の家臣として、武田氏が

  滅びる1582年まで、武田氏と命運を共にしてい

  たため、 真田氏4人が「武田二十六将」に名を連

  ねている。

     上田領主・真田昌幸(さなだまさゆき)の次男

  の、真田幸村(信 繁)(さなだゆきむら(のぶしげ))

  は、 長く、真田家が臣従した各地の大名のところ

  で、人質生活を送った。

 

 

#sanadayukimura-thebriefchronology

 

■ 真田幸村(信繁) 簡略年表。

   THE BRIEF CHRONOLOGY OF SANADA 

   Yukimura (Nobushige).

 

■ 1582年   ● 武田氏滅亡や本能寺の変。

 (天正10年)     1582年(天正10年) の、3月に武田氏滅

           亡、次に、同年6月に本能寺の変が起こる。 

           武田氏家臣の真田氏が、主家の武田氏を失う。

■ 1583年   ● 前期上田城に真田氏の移動。

 (天正11年)      1583年(天正11年)に、真田氏が、本拠

            地を、山城の上田本城から、街道沿いの平城

            の前期上田城(1583−1600年)に移る。 

           真田幸村(信繁)も当主の父・真田昌幸と共に

           移る。

■ 1585年   ● 第1次上田合戦。 

 (天正13年)       1585年(天正13年)に、第1次上田合

            戦に、幸村(信繁)が参戦したかどうかは不明

           である。

■ 1590年   ● 秀吉の小田原征伐に参陣。

 (天正18年)      1590年(天正1 8年)に、幸村(信繁)

           が小田原征伐に参戦する。

■ 1600年   ● 関ヶ原の戦いと第2次上田合戦。 

 (慶長 5年)      1600年( 慶長5年)に、幸村(信繁)は、

            第2次上田合戦に参戦し勝利したが、徳川方

           (東軍)に降参し、前期上田城は破壊される。

■ 1600−1614年   

 (慶長 5年ー慶長19年)  

           ● 九度山で蟄居(ちっきょ)。

              1600年から1614年( 慶長5年ー慶長

           19年)まで、高野山麓の九度山(くどやま)で、

           幸村(信繁)は、蟄居(ちっきょ)する(幽閉さ

           れる)。

■ 1614年   ● 大坂冬の陣。

 (慶長19年)      1614年(慶長19年)に、大坂冬の陣で、

           幸村(信繁)は、 豊臣大阪城の南方に出城・

           真田丸(でじろ・さなだまる)を築き、そこに敵

           をおびき寄せて戦う。

■ 1615年   ● 大坂夏の陣。

 (慶長20年)      1615年(慶長20年)に、大坂夏の陣で、

           幸村(信繁)は、浪人約5000人を率いて、徳

            川家康本陣間際まで突入し、押し返されて、

           戦死する。

 

 

#sanadayukimura-participationsinwars

 

 真田 幸村(信繁)の参戦。

 

■ 史料に記されている、真田幸村(信繁)の参戦

  記録は、 1590年(天正18年)の小田原征伐、 

  1600年(慶長5年)の第2次上田合戦、 1614

  〜1615年 の大坂の陣 などである。

     この他に、真田幸村(信繁)は、 上杉氏の

  人質をとかれ、1585年(天正13年)第1次上

  田合戦にも、初陣(ういじん)として、参戦した可

  能性もある。

 

■ 真田 幸村(信繁)は、 天下分け目の戦い

  (1600年の関が原の戦い、その他の戦い)

  では、 知将の父・真田 昌幸(まさゆき)に従

  い、 石田方(西軍)に味方し、信濃(信州)・

  上田城で徳川秀忠軍と戦い (第2次上田合

  戦を行い)、 勝利を得る。 

    真田 幸村(信繁) は、 大阪の陣(16

  14〜15年) では、 豊臣方に味方し、大阪

  城で徳川家康軍と戦い、活躍する。 1615

  年の大阪の夏の陣で、戦死する。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

■ 真田 幸村(信繁)は、 天下分け目の戦い

  (1600年の関が原の戦い、その他の戦い)で

  は、石田方(西軍)に味方し、 大阪の陣(16 

  14〜15年)では、 豊臣方に味方し、活躍す

  る。

 

■ 真田 幸村(信繁)は、 1600年の天下分

  け目の戦いでは、 知将の父・真田 昌幸(ま

  さゆき)に従い、 石田方に味方して(西軍の

  石田三成(みつなり)に応じ)、 信州・上田

  (現在の長野県上田市)で、 徳川秀忠(ひで

  ただ)軍の西上を阻止し、遅らせる。

     石田方に味方した真田 幸村(信繁)は、 

  天下分け目の戦い (1600年の関ヶ原の戦

  い、その他の戦い)後 (石田方が関が原の戦

  いで敗北後)、 父・真田 昌幸(まさゆき)と共

  に、家康方に降伏し、所領の上田領を没収さ

  れ、 徳川方に味方した兄・真田 信幸(のぶゆ

  き)の嘆願で親子共切腹を免れ、 紀伊国(き

  いのくに、和歌山県)の九度山(くどやま)に配

  流(はいる、追放)され、浪人となる。 

     その後、1611年に九度山で、幸村(信

  繁)の父・知将の真田 昌幸は死去する。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 真田 幸村(信繁) は、 豊臣秀頼に招かれ て大

  阪城に入り 、 大阪の陣(1614〜15 年) では 

  豊臣軍の武将として、奮戦して、戦死する。

     真田 幸村(信繁)は、 1614年(慶長19年)に、

  豊臣秀頼に招かれて、大阪城に入り (豊臣秀頼の

  挙兵に応じ大阪城に入城し)、 大阪の陣では、大阪

  冬の陣と大阪夏の陣の2つの戦いで、 真田幸村(信

  繁)は、 豊臣方の武将として、大活躍した。 

● 大阪の陣で、真田 幸村(信繁)の率いた軍は、鎧(よ

  ろい)を赤で統一し、真田の赤備えと言われた。

● 真田幸村(信繁)は、 1614年の大阪冬の陣では、 

  真田丸(さなだまる)という出城(でじろ)を築き、そこ

  を根拠地にして、 攻撃してきた徳川方に大打撃を与

  えた。 そして、1615年の大阪夏の陣では、 野戦の 

  戦場で、徳川家康を襲ったが討ちもらし (徳川家康

  の本陣間際まで突撃したが家康を討ちもらし)、力尽

  きて、 真田幸村は、戦死した(1615年に) 。

 

 

■ 真田親子犬伏密談1600年(慶長5年) 7月)。

 真田父子犬伏密談とは、 1600 年(慶長5年)7月に、 

  下野国犬伏で、真田昌幸・幸村(信繁)・信幸(信之)の

  真田父子3人が行った密談である。

 犬伏密談とは、 関ヶ原の戦いの数ヵ月前の、1600

  年(慶長5年)7月に、 下野国(しもつけのくに、現・栃

  木県)の犬伏(いぬぶし)で、 真田氏当主の真田昌幸

  (さなだまさゆき) と、 昌幸の次男の真田幸村 (信

  繁(のぶしげ))  と、 昌幸の長男の真田信幸(信之)

  (のぶゆき)の3人が行った密談 である。 

● 犬伏密談は、 真田氏当主の真田昌幸と、 昌幸の

  次男の真田幸村(信繁) と、 昌幸の長男 の真田信

  幸(信之) の 3人や真田氏のその後の運命を変え

  る会談であった。

● 1600年(慶長5年) 7月に、関ヶ原の戦いの数ヵ月前

   に、下野国(しもつけのくに、現・栃木県)の犬伏(い

   ぬぶし)で、 真田氏当主の真田昌幸(さなだまさゆ

   き)と、 昌幸の次男の真田幸村(信繁(のぶしげ)) 

   と、 昌幸の長男の真田信幸(信之)(のぶゆき) の

   3人が、 天下分け目の戦いの前に、密談を行った。

      真田幸村(信繁)は、かって豊臣秀吉の側近で

   あり豊臣氏との関係が深く、 真田信幸(信之)は徳

   川氏との関係が深かった。

      真田幸村(信繁)の夫人は、 豊臣氏 家臣の大

   谷吉継(おおたによしつぐ)の娘・竹林院であり、 

   田信幸(信之)の夫人は、 徳川家重臣の本多忠勝

   (ほんだたたかつ)の娘・小松姫であった。

      室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、江

   戸時代初期の当時、小領主は、どちらに転んでも、

   家を残せるように、親族の一部が、大勢力同士の

   戦いで、敵・味方に別れて、戦い、勝者の方が家名

   を残していくということがよくあった。

● 犬伏密談の結果、 天下分け目の戦い (1600年

   の関ヶ原の戦い、その他の戦い)で、 真田昌幸と次

   男・真田幸村(信繁)の父子は、石田(三成)方の西

   軍に味方し、 昌幸・長男の真田信幸(信之)は、徳

   川(家康)方の東軍に味方することとなった。 

      真田昌幸は、 石田方の西軍には、長男の真

   田信幸(信之)が徳川方の東軍に味方していること

   は言わなかった。

 

■ 第2次上田合戦 1600年(慶長5年 9月))。

■ 天下分け目の戦いでの、第2次上田合戦。

     真田昌幸と次男・真田幸村(信繁)の父子は、 

  石田(三成)方の西軍に味方し、 昌幸・長男の真田

  信幸(信之)は、 徳川(家康)方の東軍に味方し、

  天下分け目の戦い (1600年(慶長5年)関ヶ原

  の戦い、その他の戦い)の1つの、第2次上田合戦

  を行った。

     真田 幸村(信繁)は、 1600年(慶長5年)

  天下分け目の戦いでの、第2次上田合戦では、 知

  将の父・真田 昌幸(まさゆき)に従い、 石田方に味

  方した(西軍の石田三 成(みつなり)に応じた)。 

     1600年(慶長5年) 9月2日に、徳川秀忠軍は、

  上田近くの、信濃(信州)・小諸に到着した。 

     昌幸・長男の真田信幸(信之)も、徳川秀忠軍に

  従軍していた。  徳川秀忠は、 徳川方の真田信幸

  (信之)の隊に、 上田城近くにある、石田方の真田

  幸村(信繁)の守る支城の砥石城(といしじょう)を攻

  めさせた。 真田幸村(信繁)は、 (事前に父・真田

  昌幸に指示されていた通り) 兄の信幸(信之)と戦

  わず、支城を捨て、退却した。 そのため、信幸(信

  之)は、支城の砥石城を占領し手柄をたて、そこに居

  座り、その後、 真田昌幸・真田幸村(信繁)・父子

  軍と戦わずに済んだ。

     信濃(信州 )・上田 (しなの(しんしゅう)・うえだ、

  現在の長野県上田市相当地域) で、 真田昌幸と次

  男・真田幸村(信繁)の父子は、 約5000人で守備

  する上田城を、約38000人の徳川秀忠軍に攻めさ

  せ、徳川軍を翻弄(ほんろう)し、 徳川 秀忠(ひでた

  だ)軍の西上を遅らせた。 そのため、徳川秀忠軍は、

  関ヶ原の戦いには間に合わなかった。

     石田方に味方した真田昌幸・真田幸村(信繁)

  の父子は、 1600年9月15日の関ヶ原の戦 い後 

  (石田方が関が原の戦いで敗北後)、 家康方の東

  軍に降伏し、真田氏当主の真田昌幸は、所領の上田

  領・沼田領を没収され、 徳川方に味方した昌幸長

  男の真田 信幸が 上田領・沼田領を所領として得た。 

      徳川方に味方した兄・真田 信幸(のぶゆき)の

  嘆願で、 真田昌幸・幸村(信繁)の親子は、共に切

  腹を免れ、 紀伊国(きいのくに、現在の和歌山県相

  当地域)の、高野山麓の、九度山(くどやま)に配流

  (はいる、追放)され蟄居(ちっきょ)となり、 牢人(ろ

  うにん、浪人)となる。 

     真田昌幸・幸村(信繁)の親子の蟄居(ちっきょ)

  免除も許されず、1611年に、真田幸村(信繁)の父・

  真田昌幸は、蟄居先の九度山で死去する。

     高野山麓の、九度山で、真田幸村(信繁)は、

  1614年まで、約14年間の幽閉生活を送る。

● 1600年 (慶長5年)に、真田 信幸(信之)が、信幸

  (信之)の父・真田昌幸に代わって、信濃・ 上田領の

  領主(1600−1622年) となる。

 

 

■ 豊臣秀頼からの誘いと大阪城入城

   (1614年 (慶長19年))。

■ 真田幸村(信繁) は、 豊臣秀頼に招かれ て大

  阪城に入る。

■ 真田幸村(信繁)は、 1614年(慶長19年)まで、

  このまま、高野山山麓の九度山(くどやま、現在の

  和歌山県高野町)で蟄居(ちっきょ)し、朽ち果てる

  と思いながら、生活していた。

     ところが、1614年(慶長19年)10月に、豊臣

  秀頼より、「大阪へ来られたし」という書状が真田幸

  村(信繁)のもとに届いた。

    豊臣秀頼の条件は、 仕度金(したくきん)として

  黄金200枚(竹流金)・銀30貫目、 家来5000人

  であった。

    更に、豊臣方が勝利を得た場合は、恩賞として、

  治領地(知行地)50万石を与える

  というものであった。

■ 真田幸村(信繁)は、 武将としての活躍の場を得ら

  れるため、また、豊臣家の恩義に報いるため、喜ん

  で承諾し、与えられた仕度金を使って、赤一色の武

  具を、数千人分用意し、かっての家臣に呼びかけ兵

  を集め、1614年 (慶長19年)10月に、蟄居地(ちっ

  きょち)の九度山(くどやま)を抜け出し、大阪城に入

  城した。

 

 

■ 大阪冬の陣 (1614年 (慶長19年)。

■ 真田 幸村(信繁) は、 豊臣秀頼に招かれ て大

  阪城に入り 、 大阪の陣(1614〜15 年) では 

  豊臣軍の武将として、奮戦して、戦死する。

     真田 幸村(信繁)は、 1614年(慶長19年)に、

  豊臣秀頼に招かれて、大阪城に入り (豊臣秀頼の

  挙兵に応じ大阪城に入城し)、 大阪の陣では、大阪

  冬の陣と大阪夏の陣の2つの戦いで、 真田幸村(信

  繁)は、 豊臣方の武将として、大活躍した。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ 1614年(慶長19年)1 1月から12月までの大阪冬

  の陣では、 真田幸村(信繁)は、 豊臣・大阪城の

  南方に、 真田丸(さなだまる)という出城(でじろ)を

  築き、そこを根拠地にして、 攻撃してきた徳川方に

  大打撃を与えた。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 真田丸。

■ 真田丸 (さなだまる、1614年11月ー12月)は、大

  坂冬の陣の砦(とりで)である。

● 大坂冬の陣では、 徳川軍は、約20万人の兵で、豊

  臣氏大阪城を囲んで、東西南北から攻撃したが、 真

  田幸村(信繁)は、約5000人の兵で、城南から攻め寄

  せる兵を真田丸に引き寄せて、約1万人以上の兵を討

  ち、徳川主力部隊に大打撃を与えた。

● 真田幸村(信繁)は、徳川主力部隊を、真田丸の空

  堀に誘い込んで、鉄砲で銃撃し、特に約300mの射

  程のある大型銃で銃撃し、多くの兵を討ち死にさせた。

■ 真田丸 (さなだまる)は、 大坂冬の陣の砦(とりで)

  であり、 1614年(慶長19年 )の11月から12月ま

  で、豊臣氏・大坂城の南方に存在した出城(でじろ)で

  あった。 

● 真田丸は、 真田幸村(信繁) (さなだゆきむら(の

  ぶしげ))が、大坂冬の陣で、豊臣方の籠城戦を有利

  にするため、1614年10月より約1カ月の突貫工事で、

  豊臣氏・大阪城の南方に造った、無敵の砦(とりで)

  であった。

     豊臣氏・大阪城は、 東西南北で、西側の堀が

  一番防御に弱く弱点であり、 西側の堀に徳川方の

  兵を集中させないため(西側の堀から目をそらさせ

  るため)、徳川主力部隊を、南側にある真田丸に引

  き寄せて(つけて)、戦う決意をした。

● 1614年12月に豊臣方と徳川方の間で、和睦が成立

  し、和睦が成立し、大坂冬の陣は終わった。 和睦の条

  件は、大阪城の二の丸、惣構(そうがまえ、三の丸)の

  破却と堀の埋め立てであっため、 徳川方は、停戦後す

  ぐ、約1カ月をかけて堀の埋め立てを行い、埋め立て時

  に、真田丸を破壊した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

● 2014年に真田丸の学術調査が行われた。

    真田丸の正確な場所は、今までは特定できなかっ

  たが、2014年の学術調査で、真田丸は、現在の大坂

  の餌差町(えさしちょう)の大坂明星学園(おおさかみょ

  うじょうがくえん)付近にあったことがわかった。

     また、2014年の学術調査で、真田丸は、東西

  220m・南北230mの大きさで、四角形の台形型であ

  り、 寺町の市街地の中にあったことがわかった。

    学術調査では、専門家が、大坂城の南方の各地を、

  地中探査機械を利用し、レーダーや電磁波などで繰り

  返し地中の遺構(いこう)を探査し、真田丸の位置を特

  定した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 大坂冬の陣 (1614年11月ー12月)。

● 大坂冬の陣 (おおさかふゆのじん)は、1614年(慶

  長19年)11月から12月まで、 大坂地域で、徳川方と

  豊臣方が戦った戦争である。 主に、豊臣大阪城の籠

  城戦(ろうじょうっせん、城攻防戦) であった。

● 準備。 

     1614年(慶長19年)10月11日に、徳川家康は、

  大坂地域に向かい、 駿府城を出発する。

● 戦い。

     1614年(慶長19年)11月18日に、徳川方は、

  約10万人の兵(軍勢)がいる豊臣大阪城を、約20万

  の兵(軍勢)で囲み、開戦となる。

          城を囲まれている豊臣方は、 武器弾薬が少なく

  なり(底をつき)、また、1614年12月16日に豊臣大

  阪城本丸に徳川方の脅しのための砲弾が届き撃ち

  込まれて(命中し)淀殿の侍女が死去し淀殿が怯(お

  び)える。 一方、徳川方は、大坂城には防御性のあ

  る堀があり城内に侵入できず、また、真田丸の真田

  幸村(信繁)など牢人(ろうにん)の奮戦・活躍などで

  徳川方に想定外の多くの死傷者を出し、 双方とも、

  長期戦を望まず、停戦の交渉に入る。

     1614年(慶長19年)12月19日に、豊臣方と

   徳川方の和議が成立し、終戦となる。

     成立した和議の内容は、

   @ 豊臣大阪城の牢人(ろうにん、浪人)の罪を問わ

     ない。

   A 豊臣秀頼の領土を安堵(あんど、保障)する。

   B 豊臣大阪城の堀を埋める (徳川方と豊臣方で)。

     であった。

● 後始末。

     和議成立後、すぐ急いで、徳川方は、豊臣大阪

   城の堀を、約1カ月をかけて埋め、豊臣大阪城は、

   裸城(はだかじろ)同然となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 大阪夏の陣 (1615年 (慶長20年))

 ● 1615年(慶長20年)4月から5月までの大阪夏の

  陣では、 野戦の戦場で、 徳川家康を襲ったが討

  ちもらし (徳川家康の本陣間際まで突撃したが家

  康を討ちもらし)、 力尽きて、 真田 幸村(信繁)は、

  戦死した (1615年(慶長20年)5月に) 。

    その後、徳川方に攻められた大阪城では、豊臣

  秀頼、淀殿が、自害する。

    大阪の夏の陣では、真田 幸村(信繁)の率いた

  軍は、鎧(よろい)を赤で統一し、真田の赤備えと言

  われた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 真田幸村の、家康本陣突撃

■ 1615年(慶長20年)の大坂夏の陣では、 真田幸

  村(信繁)は、 豊臣大阪城の南方にある、茶臼山

  (ちゃうすやま)を改造し、茶臼山に本陣を置いた。

     茶臼山は、前回の1614年(慶長19年)の大

  坂冬の陣では、徳川家康 が本陣を置いた場所で

  ある。

■ 真田幸村(信繁)は、「茶臼山おびき寄せ作戦」をた

  て、 真田幸村(信繁)本陣の茶臼山に、敵の徳川

  軍主力部隊や徳川家康本陣守備隊をおびき寄せ、

  戦い、そのすきに、別動隊が、徳川家康本陣を急襲

  し、敵の大将の徳川家康を討ち取る計画であった。

     しかし、茶臼山の手前の地で、豊臣軍の別の部

  隊が、徳川軍主力部隊を攻撃し始め、 徳川家康本

  陣守備隊は、動かず、徳川家康本陣周辺を囲んだま

  まであった。

     真田幸村(信繁)は、 「茶臼山おびき寄せ作戦」

  ができず、止むを得ず、茶臼山本陣を捨て、徳川家

  康本陣への突撃を決意し、 真田幸村(信繁)部隊は、

  全員、徳川家康本陣守備隊が守る、徳川家康本陣に

  突撃していった。

     真田幸村(信繁)部隊は、徳川家康本陣守備隊

  の守りを破り、徳川家康本陣間際まで突撃したが、徳

  川家康を討ち取ることができず、突撃で多数の兵士を

  失い、徳川家康本陣から押し戻されて、真田幸村(信

  繁)は、乱戦中、徳川方の越前松平軍の武士と戦い、

  1615年(慶長20年)5月7日頃に、野戦で、討ち死

  にした。

     その後、豊臣大阪城も徳川方の攻撃を受け、豊

  臣秀頼が自害し、豊臣大阪城も落城した。

 

■ 大坂夏の陣 (1615年5月ー6月)。

● 大坂夏の陣 (おおさかなつのじん)とは、1615年

  (慶長20年)5月から6月まで、大坂地域で、 徳川方

  と豊臣方が戦った戦争である。 主に、豊臣大阪城の

  南方での野戦(やせん、野外戦)であった。

● 準備。 

     1615年(慶長20年)4月4日に、徳川家康は、大

  坂地域 に向かい、駿府城を出発する。

● 戦い。

     1615年(慶長20年)5月に、約15万人の兵(軍

  勢)の徳川方は、 豊臣大阪城の南方に陣取り、 約5

  万人の兵(軍勢)の豊臣方に対峙し、 豊臣方主力部隊

  と野外で戦い、 開戦となる。

     1615年(慶長20年)6月に、徳川方は豊臣大阪

  城の南方の野戦(野外戦)で豊臣方主力部隊に勝ち、

  その後、豊臣大阪城を攻めて落城させ、終戦となる。

● 後始末。

      徳川方は、 生き残った豊臣方の残党や牢人

   (ろうにん、浪人)を捕(とら)え、豊臣大阪城のすべて

   を取り壊し、埋める。 

      後に、徳川氏は、 徳川氏の権威を示すため、

   同じ場所に、諸大名に命(めい)じ、新しい徳川大阪

   城を築城をする。  

 

 

#sanadayukimura-thesucceedingfamilies

 

◆ 真田 幸村(信繁)存続後継家。

■ 真田 幸村(信繁)家。

   (= 真田 幸村(信繁)とその子孫)。

● 真田 幸村(信繁) (さなだ ゆきむら(のぶしげ)、

  1567−1615年) は、 真田 幸村(信繁)の父・

  真田 昌幸(まさゆき)の次男 である。

● 仙台真田家。

● 仙台藩の片倉氏家臣。

  武家の真田 幸村(信繁)(ゆきむら(のぶしげ))家

  は、 仙台藩の片倉氏家臣となり、 仙台真田家とし

  て、 江戸時代まで、 存続する。

● 真田 幸村(信繁)(ゆきむら(のぶしげ))は、 天下

  分け目の戦い (1600年の関ヶ原の戦い、その他

  の戦い) で、 父・昌幸(まさゆき)と共に、西軍の

  石田(三成)方に味方して敗北し降参して、蟄居(ち

  っきょ、配流(はいる))処分となり牢人(ろうにん、浪

  人)となり、 次に、 大坂の陣(1614−1615年)

  に豊臣方として参戦し、大坂夏の陣(1615年)で戦

  死する。

● 真田 守信 (さなだ もりのぶ、幼名:大八(だいは

  ち)、1612−1670年) は、 真田 幸村(信繁)の

  次男であり、 幸村(信繁)と竹林院(ちくりんいん)

  との間の子であり、 1615年の大坂夏の陣後、片

  倉重長 (かたくらしげなが、片倉小十郎(景綱)の

  子) に保護され、その後、仙台藩の片倉氏家臣と

  なる。

 

 

#sanadayukimura-thesanadaclan

 

◆ 真田 幸村(信繁)の一族。

 

■ 真田 幸村(信繁)の一族の概略。

■ 真田 幸村(信繁)には、 分かっているだけで、

  4人の夫人、3人の息子、7人の娘 などがいた。

     幸村(信繁)の4人の夫人は、 堀田興重の

  妹 (側室夫人)、 高梨内記の娘 (側室夫人)、

  竹林院 (正室夫人)、 隆清院(側室夫人) など

  である。

     幸村(信繁)の3人の息子は、 真田幸昌

  (大助) (長男)、 真田 守信 (次男)、 三好

  幸信 (三男) などである。

     幸村(信繁)の7人の娘は、 菊 (長女)、 

  市 (次女)、 梅 (三女)、 あくり (あぐり、

  四女)、 なほ (御田姫(顕性院)、五女)、 

  菖蒲 (六女)、 かね (七女) などである。

 

■ 真田 幸村(信繁)(さなだ ゆきむら(のぶしげ)の

  一族の男性は、 祖父真田 幸隆(幸綱)(ゆき

  たか(ゆきつな))、 伯父(おじ)の真田 信綱(の

  ぶつな)・真田昌輝(まさてる)、 叔父(おじ)の真

  田 信尹(のぶただ)、 父の真田 昌幸(まさゆき)、 

  兄真田 信幸(信之)(のぶゆき)、 幸村(信繁)

  の長男の真田幸昌(大助)(ゆきまさ(だいすけ))、

  次男の真田 守信(もりのぶ)、 三男の三好幸信

  (左馬之介)(みよしゆきのぶ(さまのすけ)) など

  である。 

 

■ 真田 幸村(信繁) (さなだ ゆきむら(のぶしげ)

  の一族の女性は、 祖母の恭雲院 (きょううんい

  ん、大河ドラマ「真田丸」で仮称「とり」で登場)、 

  生母の山手殿 (やまのてどの、大河ドラマ「真田

  丸」で仮称「薫(かおる)」で登場)、 兄・信幸(信

  之)の側室(元正室)夫人の清音院 (せいおんい

  ん、大河ドラマ「真田丸」で仮称「こう」で登場)、 

  兄・信幸(信之)の正室夫人の小松姫 (こまつひ

  め、大河ドラマ「真田丸」で仮称「稲(いな)」で登

  場)、 姉の村松殿 (むらまつどの、大河ドラマ

  「真田丸」で仮称「松(まつ)」で登 場)、 幸村(信

  繁)の正室夫人の、竹林院 (ちくりんいん)(大

  河ドラマ「真田丸」で仮称「 春(はる)」で登場)、 

  幸村(信繁)の側室夫人の、堀田興重の妹 (実

  名不詳、ほったおきしげのいもうと、大河ドラマ

  「真田丸」で仮称「 梅(うめ)」で登場)、 側室夫人

  の高梨内記の娘 (実名不詳、たかなし ないきの

  むすめ) (大河ドラマ「真田丸」で仮称「 きり」で登

  場)、側室夫人の隆清院 (りゅうせいいん) 幸

  村(信繁)の娘の、菊 (きく、長女)、 市 (いち、

  次女)、 梅 (うめ、三女)、 あくり (あぐり、四女)、 

  なほ (御田姫(おたひめ、顕性院)、五女)、 菖蒲 

  (しょうぶ、六女)、 かね (七女) などである。

 

 

■ 真田 幸村(信繁)。

 ■ 真田 幸村(信繁) (さなだ ゆきむら(のぶしげ)、

  1567年〜1615年) は、 安土桃山時代、江戸

  時代初期に活躍した、武将である。

● 真田 幸村(信繁)は、 大坂の陣(1614−15年)

  に豊臣方の武将として参戦し、 幸村 (信繁)は、

  1614年の大坂冬の陣では真田丸の砦を使い多

  くの兵を討ち取り徳川方に大打撃を与え、1615

  年の大坂夏の陣では大活躍し野戦で徳川家康本

  陣間際まで迫り、戦死する。

● 真田 幸村(信繁) (さなだ ゆきむら(のぶしげ)、

  1567−1615年) は、 真田 幸村(信繁)の父・

  真田 昌幸(まさゆき)の次男 である。

● 真田 幸村(信繁)は、 天才的戦略家であ り、日

  の本一の兵 (ひのもといちのつわもの)と言われ

  た武将である。

● 真田戦法とは、 少数の兵で多数の敵兵に勝つ

  ために、「おびき寄せてたたく」という戦法である。 

● 真田 幸村(信繁)は、 父・昌幸に従い第1次上

  田合戦(1585年)に参戦し徳川方と戦い(諸説

  あり)、 小田原征伐(1590年)で豊臣方として

  参戦し、 天下分け目の戦い(1600年の関ヶ原

  の戦い、その他の戦い)で、東軍の徳川(家康)

  方に敵対し、西軍の石田(三成)方に味方して、

  第2次上田合戦(1600年)では父・昌幸に従い

  徳川(家康)方と戦い勝ったが、西軍の石田(三

  成)方が敗北したので降参し、父・昌幸と共に

  蟄居(ちっきょ、配流(はいる))処分となる。

     その後、大坂の陣(1614−1615年)では、

  豊臣方として参戦し、大坂夏の陣(1615年)で

  戦死する。

 

■ 竹林院。 《真田幸村(信繁)の正室夫人》。

● 竹林院 (ちくりんいん、生年不詳−1649年) は、 

  真田 幸村(信繁)の正室夫人であり、 豊臣家家臣・

  大谷吉継(おおたによしつぐ)の娘 である。

● 竹林院は、 真田丸(2016年NHK大河ドラ

  マ)では、「春(はる)」という名(仮称)で登場する。

 

■ 真田 幸村(信繁)と竹林院との間の子。

● 真田 幸村(信繁) と、 真田 幸村(信繁)正室夫

  人・竹林院(ちくりんいん)との間には、 長男の真

  田幸昌(大助)(ゆきまさ(だいすけ))、 次男の真

  田守信 (さなだ もりのぶ、仙台真田家初代当主)、 

  娘の、あくり (あぐり)、 菖蒲 (しょうぶ(しょうふ))、

  かね などの子がいた。

 

■ 真田 幸昌(大助)。 《真田幸村(信繁)の長男》。

● 真田 幸昌(大助) (さなだ ゆきまさ(だいすけ)、

  1600年頃ー1615年) は、 真田 幸村(信繁)の

  長男(ゆきむら(のぶしげ))であり、幸村(信繁)と

  竹林院(ちくりんいん)との間の子であり、 1615

  年(慶長20年)の大坂夏の陣で戦死する。

 

■ 真田 守信。 《真田幸村(信繁)の次男》。

● 真田 守信 (さなだ もりのぶ、片倉守信、幼名:大

  八(だいはち)、1612−1670年) は、 真田 幸

  村(信繁)の、次男であり、 仙台真田家初代当主で

  あり、 幸村(信繁)と竹林院との間の子であり、 16

  15年の大坂夏の陣後、片倉重長 (かたくらしげな

  が、片倉小十郎(景綱)の子) に保護され、 その後、

  仙台藩の片倉氏家臣となる。

 

■ 堀田興重の妹(実名不詳)。 

         《真田幸村(信繁)の側室夫人》。

● 堀田興重の妹 (実名不詳、ほったおきしげのいも

  うと、生年不詳ー1615年) は、 真田 幸村(信繁)

  の側室夫人であり、 堀田興重(ほったおきしげ)の

  妹 である。

● 堀田興重の妹は、 真田丸(2016年NHK大河ドラ

  マ)では、「梅(うめ)」という名(仮称)で登場する。

 

■ 真田 幸村(信繁)と堀田興重の妹との間の子。

● 真田 幸村(信繁) と、 真田 幸村(信繁)側室夫

  人・堀田興重の妹との間には、 娘の、菊(きく) な

  どの子がいた。

 

■ 高梨内記の娘 (実名不詳)。 

         《真田幸村(信繁)の側室夫人》。

● 高梨内記の娘 (実名不詳、たかなし ないきのむす

  め、生没年不詳) は、 真田 幸村(信繁)の側室夫

  人であり、 高梨 内記(たかなし ないき)の娘 である。

● 高梨内記の娘は、 真田丸(2016年NHK大河ドラ

  マ)では、「きり」という名(仮称)で登場する。

 

■ 真田 幸村(信繁)と高梨内記の娘との間の子。

● 真田 幸村(信繁) と、 真田 幸村(信繁)側室夫人・

  高梨内記の娘との間には、 娘の、市(いち、早世)、

  梅 (うめ、片倉重長夫人) などの子がいた。

 

■ 隆清院。 《真田幸村(信繁)の側室夫人》。

● 隆清院 (りゅうせいいん、生没年不詳)は、 真田

  幸村(信繁)の側室夫人であり、 豊臣秀次(とよとみ

  ひでつぐ)の娘 である。

● 隆清院は、 真田丸(2016年NHK大河ドラマ)では、

  「たか」という名(仮称)で登場する。

 

■ 真田 幸村(信繁)と隆清院との間の子。

● 真田 幸村(信繁) と、 真田 幸村(信繁)側室夫

  人・隆清院との間には、 なほ (御田姫(おたひめ、

  おでんひめ)、幸村(信繁)の娘)、 幸村(信繁)・

  三男の、三好 幸信(左馬之介) (みよしゆきのぶ

  (さまのすけ)) などの子がいた。

 

■ 三好 幸信。 《真田幸村(信繁)の三男》。

● 三好 幸信 (みよしゆきのぶ、三好 左馬之介(さま

  のすけ)、幼名:左二郎(さじろう)、1615−1667年) 

  は、 真田 幸村(信繁)の三男であり、 幸村(信繁)

  と側室夫人・隆清院(豊臣秀次の娘)との間の子であ

  り、 (1615年の大坂夏の陣で)父・幸村(信繁)の

  戦死後の2ヶ月後の1615年7月に、三男として、京

  (都)で生まれた。

      三好 幸信(左馬之介)は、 姉の、なほ (御田

  姫、顕性院、幸村(信繁)の娘)の夫・出羽亀田藩・第

  2代藩主・岩城宣隆 (いわきのぶたか)に引き取られ、

  出羽亀田藩士となる。

 

 

■ 真田 昌幸 (真田 幸村(信繁)の父)

● 真田 昌幸 (さなだ まさゆき、1547年ー1611年) 

  は、 安土桃山時代に活躍した、武将であり、信濃

  現・長野県)・上田領や上野(こうずけ、現・群馬県))・

     沼田領の領主であった。 

● 真田 昌幸 (さなだ まさゆき、1547−1611年)

  は、 真田 幸村(信繁)の父であり、 真田 幸村

  (信繁)の祖父・真田 幸隆(幸綱)(ゆきたか(ゆき

  つな))の三男 である。

● 真田 信幸(信之)(のぶゆき)の長男 (庶子、側室

  夫人(元正室夫人)の子) は、 側室夫人・清音院

  と間の子・真田信吉(のぶよし、1595−1635年)

  であり、 真田 信吉(のぶよし)の次男は、 真田 信

  利(信直) (さなだ のぶとし(のぶなお)、生没年:

  1635−1688年) であった。

 

■ 山手殿。

● 山手殿 (やまのてどの、山之手殿、1549年?−

  1613年)は、 真田 幸村(信繁)の生母であり、

  真田 幸村(信繁)の父・真田 昌幸(まさゆき)の正

  室夫人 である。

● 山手殿は、 真田丸(2016年NHK大河ドラマ)で

  は、「薫(かおる)」という名(仮称)で登場する。

 

■ 真田 昌幸と山手殿との間の子。

● 真田 幸村(信繁)の父・真田 昌幸(まさゆき) と、

  真田 昌幸夫人・山手殿(やまのてどの)との間に

  は、 長女の村松殿(むらまつどの)、 長男の真田

  信幸(信之)(のぶゆき)、 次男の真田 幸村(信繁) 

  などの子がいた。

■ 村松殿。

● 村松殿 (むらまつどの、1565−1630年) は、 

  真田 幸村(信繁)の姉であり、 真田 幸村(信繁)

  の父・真田 昌幸(まさゆき)の長女 である。

● 村松殿は、 真田丸(2016年NHK大河ドラマ)で

  は、「松(まつ)」という名(仮称)で登場する。

 

■ 真田 信幸(信之) (真田 幸村(信繁)の兄)。 

■ 真田 信幸(信之) (さなだ のぶゆき、1566年ー

  1658年)は、 安土桃山時代、江戸時代初期に活

  躍した、武将であり、信濃・上田 (うえだ)藩・初代

  藩主(1600年−1622年)であり、 信濃・真田氏

  松代(まつしろ)藩・初代藩主(1622年−1656年)

  である。

● 真田 信幸(信之) (さなだ のぶゆき、1566−16

  58年) は、 真田 幸村(信繁)の兄であり、 真田

  幸村(信繁)の父・真田 昌幸(まさゆき)の長男 で

  ある。

● 真田 信幸(信之)(のぶゆき)の長男 (庶子、側室

  夫人(元正室夫人)の子) は、 側室夫人(元正室

  夫人)・清音院と間の子・真田信吉(のぶよし、1595

  −1635年) であり、 真田 信幸(信之)(のぶゆき)

  の次男は、 正室夫人・小松姫と間の子・真田 信政 

  (さなだ のぶまさ、1597年ー1658年) である。

● 真田 信幸(信之)(のぶゆき)は、 天下分け目の戦

  い (1600年の関ヶ原の戦い、その他の戦い) で

  徳川方に味方して、上田(うえだ)藩・初代藩主になり、 

  転封(てんぽう、領地替え)後、真田氏松代(まつしろ)

  藩・初代藩主となる。

● 真田 信幸(信之)は、 江戸時代の、信濃・ 上田 (う

  えだ)藩・初代藩主(1600年−1622年)であり、信

  濃・真田氏松代(まつしろ)藩・初代藩主(1622年−

  1656年)であった。

 

■ 清音院。

● 清音院(せいおんいん、生没年不明) は、 真田幸

  村(信繁)の義姉 (兄・真田信幸(信之)(のぶゆき)

  の側室夫人(元正室夫人))であり、 幸村(信繁)の

  従姉妹(いとこ) (伯父・真田信綱(のぶつな)娘) 

  である。

● 清音院は、 真田丸(2016年NHK大河ドラマ)で

  は、「こう」という名(仮称)で登場する。

● 清音院(せいおんいん、生没年不明) は、 真田 幸

  村(信繁)の兄・真田信幸(信之)(のぶゆき)の側室

  夫人(元正室夫人)であり、幸村(信繁)の伯父・真田 

  信綱(のぶつな)の娘である。

● 清音院は真田信幸(信之)(のぶゆき)の正室夫人

  であったが、 清音院の夫・信幸(信之)が、 政略

  結婚により、徳川氏重臣・本多忠勝の娘・小松姫を、

  正室夫人としてむかえたため、真田家のため、正室

  夫人から側室夫人となった。

● 清音院の子は、 真田信幸(信之)(のぶゆき)との

  間の子(信幸(信之)長男)の、真田信吉(のぶよし)

  であり、 清音院 の孫は、 真田 信利(信直)(のぶ

  とし(のぶなお))である。

 

■ 真田 信吉。

● 真田 信吉 (さなだ のぶよし、1595年ー1635年)

  は、 真田 幸村(信繁)の兄・真田信幸(信之)(の

  ぶゆき)の長男であり、 信幸(信之)と信幸(信之)

  側室夫人(元正室夫人)・清音院との間の子である。

■ 真田 信利(信直)。

■ 真田 信利(信直) (さなだ のぶとし(のぶなお)、

  生没年:1635−1688年)  は、 真田信幸(信

  之)(のぶゆき)の長男・真田 信吉の子であり、

  上野(こうずけ、現・群馬県)・沼田(ぬまた)領の

  領主 (1658−1681年) であった。

● 真田 信利(信直)は、 上野・真田氏沼田(ぬまた)

  藩・初代藩主(1658−16 81年) であった。

● 1658年(明暦4年)6月に、幕命により、 真田 幸

  道は、信濃・松代(まつしろ)領を相続し、松代藩主

  となり、 真田 信利(信直)は、上野・沼田(ぬまた)

  領を相続し、沼田藩主となった。

● 真田 信幸(信之)(のぶゆき)の長男 (庶子、側室

  夫人(元正室夫人)の子) は、 側室夫人・清音院

  と間の子・真田信吉(のぶよし、1595−1635年)

  であり、 真田 信吉(のぶよし)の次男は、 真田 信

  利(信直) (さなだ のぶとし(のぶなお)、生没年:

  1635−1688年) であった。

     1658年(明暦4年)6月に、真田 信利(信直)

  (のぶとし(のぶなお)、信吉の次男)は、 幕命で、

  松代藩から分離独立して、 上野(こうずけ、現・群

  馬県)・沼田(ぬまた)領の領主 (1658−16 81

  年) となり、 上野・真田氏沼田(ぬまた)藩・初代

  藩主(1658−1681年) となる。 しかし、沼田

  藩は、1681年(天名(てんな)元年)11月に、改易

  (かいえき、領地没収) となる。  

 

■ 小松姫。

● 小松姫 (こまつひめ、1573−1620年) は、真

  田 幸村(信繁)の兄・真田信幸(信之)(のぶゆき)

  の正室夫人であり、 徳川家重臣・本多忠勝(ほん

  だただかつ)の娘 である。

● 小松姫は、 真田丸(2016年NHK大河ドラマ)で

  は、 「稲(いな)」という名(仮称)で登場する。

             

■ 真田 信政。

● 真田 信政 (さなだ のぶまさ、1597年ー1658年) 

  は、 真田 幸村(信繁)の兄・真田信幸(信之)(のぶ

  ゆき)の次男であり、 信幸(信之)と信幸(信之)正室

  夫人・小松姫との間の子である。

■ 真田 幸道。

● 真田 幸道 (さなだ ゆきみち、真田右衛門、1657

     年−1727年) は、 信濃・真田氏松代(まつしろ)

     藩・第3代藩主 である

● 真田 幸道 (さなだ ゆきみち、真田右衛門、1657

  −1727年) は、 真田氏の当主 (1658

  1727年) であり、信濃・松代(まつしろ)領の領主

  (1658−1727年) であった。

● 真田 幸道は、 信濃・真田氏松代(まつしろ)藩・

  第3代藩主 (1658−1727年) であった。

● 1658年(明暦4年)6月に、幕命により、 真田 幸

  道は、信濃・松代(まつしろ)領を相続し、松代藩主

  となり、 真田 信利(信直)は、上野・沼田(ぬまた)

  領を相続し、沼田藩主となった。

● 真田 幸道は、 信濃・真田氏松代藩第2代藩主・

  田 信政(のぶまさ)の六男であり、 真田 幸村(信繁)

  の大甥(おい) (幸村(信繁)の兄・信幸(信之)の孫) 

  であり、 信政と信政夫人・松寿院との間の子である。

● 真田 幸道は、 生まれた翌年に父・真田 信政(の

  ぶまさ)が死去したため、わずか2歳で家督を継ぎ、

  幼少で、藩主となった。 譜代大名・陸奥・磐城平(い

  わきたいら)藩・7万石藩主・内藤忠興(ないとうだだお

  き)が後見人となった。

 

■ 真田 幸隆(幸綱) (真田 幸村(信繁)の祖父)

● 真田 幸隆(幸綱) (さなだ ゆきたか(ゆきつな)、

     1513年ー1574年) は、 室町時代後期(戦国時

     代)に活躍した、武将であり、 信濃(しなの、 現・長

  野県)・上田領の領主 であった。

● 真田 幸隆(幸綱) (さなだ ゆきたか(ゆきつな))、

  1513−1574年) は、 海野(うんの)氏分家で

  あり(諸説あり)、 真田 幸村(信繁)の祖父であり、 

  真田信綱(のぶつな)、 真田昌輝(まさてる)、 真

  田 昌幸(まさゆき)、 真田 信尹(のぶただ) の父 

  である。

■ 恭雲院。

● 恭雲院 (きょううんいん、生没年不明) は、真田  

  幸村(信繁)の祖母であり、 真田 幸村(信繁)の

  祖父・真田 幸隆(幸綱)(ゆきたか(ゆきつな))の正

  室夫人 である。

● 恭雲院は、 真田丸(2016年NHK大河ドラマ)で

  は、「とり」という名(仮称)で登場する。

● 恭雲院は、 風林火山(2007年NHK大河ドラマ)

  では、「忍芽(しのめ)」という名(仮称)で登場する。

 

■ 真田 幸隆(幸綱)と恭雲院との間の子。

● 真田 幸村(信繁)の祖父・真田 幸隆(幸綱)(ゆき

  たか(ゆきつな)) と、 真田 幸隆(幸綱)・正室夫

  人・恭雲院(きょううんいん)との間には、 長男の

  真田信綱(のぶつな)、 次男の真田 昌輝(まさて

  る)、 三男の真田 昌幸(まさゆき)、 四男の真田

  信尹 (のぶただ) などの子がいた。

■ 真田信綱。

● 真田 信綱 (さなだ のぶつな、1537年ー1575

  年) は、 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時

  代に活躍した、武将であり、 信濃(しなの、 現・長

  野県)・上田領の領主 であった。

● 真田信綱 (さなだ のぶつな、1537−1575年) 

  は、 真田 幸村(信繁)の伯父であり、 真田幸村

  (信繁)の祖父・真田 幸隆(幸綱)(ゆきたか、ゆき

  つな)の長男であり、 長篠の戦いで戦死する。

■ 真田昌輝。

● 真田昌輝 (さなだ まさてる、1543−1575年) 

  は、 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代に

  活躍した、武将である。

● 真田昌輝 (さなだ まさてる、1543−1575年) 

  は、 真田 幸村(信繁)の伯父であり、 真田幸村

  (信繁)の祖父・真田 幸隆(幸綱)(ゆきたか(ゆき

  つな))の次男であり、 長篠の戦いで戦死する。

■ 真田 信尹。

● 真田 信尹 (さなだ のぶただ、1547年?−16

  32年) は、 室町時代後期(戦国時代)、安土桃

  山時代、江戸時代初期に活躍した、武将である。

● 真田 信尹 (さなだ のぶただ、1547年?−16

  32年) は、 真田 幸村(信繁)の叔父(おじ)であ

  り、 真田 幸村(信繁)の祖父・真田 幸隆(幸綱)

  (ゆきたか(ゆきつな))の四男 である。

 

 

■ 前近代日本の女性の氏名。

     前近代日本の史料では、女性の実名が記載さ

  れることは少なく、女性の実名が不明なことが多い。 

  (例) 書物(史料)では、「直江実綱(景綱)室」 

  (直江実綱(景綱)の夫人)、 「高梨内記女」 

  (高梨内記の娘) と記されている。

     実名が判らないため、法名(ほうみょう)や実家

  の氏を代わりに使用する場合も多い (例、竹林院、

  三条夫人)。

     また、ドラマ、映画、小説などでは、名がないと

  不便なので、女性の仮称が 使われることが多い。

 

 

#sanadayukimura-appearingscenes

 

♪♪ 真田幸村(信繁)が登場する、興味深い、

       ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 真田幸村(信繁)が登場する、興味深い関

     連ドキュメンタリー。 

 

■ にっぽん!歴史鑑定

    『 真田幸村の半生 』。  

■ 『 真田幸村の半生 (1) 』 

   (TBSKテレビ・2016年1月4日・本放送・

    歴史ドキュメンタリー番組)。

■ 『 真田幸村の半生 (2) 』 

   (TBSKテレビ・2016年1月11日・本放送・

       歴史 ドキュメンタリー番組)。

● 真田幸村(信繁)の活躍の詳細を述べる。

 

■ 歴史秘話ヒストリアスペシャル 

  『 徹底解明!これが‘‘真田丸’’ 』。  

   (NHKテレビ・2016年1月6日・本放送・

   歴史ドキュメンタリー番組)。

● 真田丸の詳細や大阪冬の陣を述べる。

 

■ 片岡愛之助の解明!歴史捜査  『

   『 家康を瀬戸際まで追いつめた男!

    真田信繁と父・昌幸 智謀の系譜

    を追え 』。  

   (日テレ・テレビ・2016年1月14日・本放送・

    歴史ドキュメンタリー番組)。

● 第1次上田合戦、第2次上田合戦を述べる。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 真田一族 

  戦国最強の絆〜真田昌幸・信之・

  幸村 父と子の物語〜 』。  

   (NHKテレビ・2016年1月3日・本放送・

   歴史ドキュメンタリー番組)。

● 真田氏の詳細を述べる。

 

■ 先人たちの底力 知恵泉 

  『 小さな組織で生き抜け!

   名将・真田一族、戦国の極意 』。  

    (NHKテレビ・2016年1月12日・本放送・

    歴史ドキュメンタリー番組)。

● 真田氏を述べる。

 

■ 英雄たちの選択 『 大阪の陣400年

   真田幸村 決戦へのジレンマ 』。  

   (NHKテレビ・2014年(平成26年)4月

   3日・本放送・ドキュメンタリー番組)。

● 大阪冬の陣と大阪夏の陣を述べる。

● 大阪の陣での真田幸村(信繁)の活躍

  述べる。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 激突!真

   田幸村 vs.伊達政宗〜めぐりあい

  大阪夏の陣〜 』。  

   (NHKテレビ・2010年(平成22年)1月

   6日本放送、第28回・ドキュメンタリー番

   組)。

● 真田幸村(信繁)の活躍の詳細を述べる。

● 伊達政宗の活躍の詳細を述べる。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 真田幸村 

     ザ・ラスト戦国ヒーロー 〜伝説に

   秘められた誇り〜 』。 

      (NHKテレビ・2009年(平成21年)8月

   26日本放送、第14回・ドキュメンタリー

   番組)。

● 真田幸村(信繁)の活躍の詳細を述べる。

 

 

★ 真田幸村(信繁)が登場する、興味深い

   関連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

     歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実)

  と 架空の出来事が 混じって描かれています。

  また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 真田丸 (さなだまる) 』 。  

   (NHKテレビ・2016年大河ドラマ)。

 日本の安土桃山時代や江戸時代初期の時代

  を描く。

 1582年(武田氏滅亡)から1615年(大坂の

  夏の陣)までの、真田氏 や 真田信繁(幸村)

  (さなだ のぶしげ(ゆきむら)) を描く。

● ドラマで「真田 信繁(幸村)」 (さなだのぶし

  げ(ゆきむら)) を演じた俳優名 : 

  堺 雅人 (さかい まさと)。

 

● ドラマで「真田 昌幸」 (さなだまさゆき、真田

  信繁(幸村)の父) を演じた俳優名 : 

  草刈 正雄 (くさかり まさお)。

● ドラマで「真田 信幸(信之)」 (さなだのぶゆ

  き、真田信繁(幸村)の兄) を演じた俳優名 :

  大泉 洋 (おおいずみ よう)。

● ドラマで「真田 信尹」 (さなだのぶただ、真田

  信繁(幸村)の叔父(おじ)) を演じた俳優名 : 

  栗原 英雄 (くりはら ひでお)。

 

● ドラマで「松(まつ)」 (仮称、真田 信繁(幸

  村)の姉の、村松殿(むらまつどの)) を演じ

  た女優名 :

  木村 佳乃 (きむら よしの)。

● ドラマで「とり」 (仮称、真田 信繁(幸村)

  の祖母で、真田幸隆夫人・恭雲院(きょううん

  いん)) を演じた女優名 : 

  草笛 光子 (くさぶえ みつこ)。

● ドラマで「薫(かおる)」 (仮称、真田昌幸(ま

  さゆき)夫人・真田信繁(幸村)の母・山手殿

  (やまのてどの)) を演じた女優名 : 

  高畑 淳子 (たかはた あつこ)。

● ドラマで「 梅(うめ)」 (仮称、真田信繁(幸村)

  側室夫人の、堀田興重(作兵衛)の妹 (実名不

  詳、ほったおきしげ(さくべい)のいもうと) を演

  じた女優名 : 

  黒木 華 (くろき はる)。 

● ドラマで「きり」 (仮称、真田 信繁(幸村)・側

  室夫人の、高梨内記の娘(実名不詳、たかな

   しないきのむすめ、生没年不詳) を演じた女

  優名 : 

  長澤 まさみ (ながさわ まさみ)。

● ドラマで「春(はる)」 (仮称、真田 信繁(幸村)

  ・正室夫人・竹林院 (ちくりんいん) を演 じた

  女優名 : 

  松岡 茉優 (まつおか まゆ)。

● ドラマで「たか」 (仮称、真田 信繁(幸村)・側

  室夫人・隆清院 (りゅうせいいん) を演じた

  女優名 : 

  岸井 ゆきの (きしい ゆきの)。

● ドラマで「こう」 (仮称、真田 信幸(信之)(の

  ぶゆき)・側室夫人(元正室夫人)の清音院 

  (せいおんいん) を演じた女優名 : 

  長野 里美 (がなの さとみ)。

● ドラマで「 稲(いな)」 (仮称、真田 信幸(信

  之)(のぶゆき)・正室夫人の小松姫 (こまつ

  ひめ)) を演じ た女優名 : 

  吉田 羊 (よしだ よう)。

 

● ドラマで 豊臣秀吉」 (とよとみひでよし、

  真田信繁(幸村)の主君) を演じ た俳優名: 

  小日向 文世 (こひなた ふみよ)。

● ドラマで平野 長泰」 (ひらのながやす、

  豊臣氏家臣) を演じ た俳優名: 

  近藤 芳正 (こんどう よしまさ)。

● ドラマで「 吉野太夫」 ( よしのたゆう、実名

  不詳、安土桃山時代活躍の才色兼備の上

  級遊女の初代・吉野太夫) を演じた女優名 : 

  中島 亜梨沙 (なかじま ありさ)。

● ドラマで「 阿茶局」 ( あちゃのつぼね、徳川

  家康の側室夫人) を演じた女優名 : 

  斉藤 由貴 (さいとう ゆき)。

 

■ 『 軍師 官兵衛 』。 

   (NHKテレビ・2014年大河ドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

 真田氏、真田幸村(信繁)を描く。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』。

      (NHKテレビ・2011年 NHK大河ドラマ) 

■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土

  桃山時代、江戸時代初期を描いたドラマ。

 真田氏、真田幸村(信繁)を描く。

● 真田 幸村(信繁(のぶしげ))を演じた俳優名 : 

   浜田 学。

● 真田幸村(信繁)の父・真田昌幸(まさゆき)

   を演じた俳優名 : 藤波 辰爾。

 

■ 『 天地人 (てんちじん) 』 。  

   (NHKテレビ・2009年大河ドラマ)。

■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土

  桃山時代、江戸時代初期を描いたドラマ。

 真田氏、真田幸村(信繁)を描く。

 真田幸村(信繁)の、上杉家での人質生活

  (1582-1600年)などを描く

● 真田幸村(信繁)を演じた俳優名 : 城田 優。

 

■ 『 風林火山 (ふうりんかざん) 』 。  

   (NHKテレビ・2007年大河ドラマ)。

■ 日本の室町時代後期(戦国時代)を描いた

  ドラマ。

 真田幸村(信繁)の祖父・真田幸隆(さなだゆ

  きたか)が登場し、 活躍する。

● 真田幸村(信繁)の祖父・真田幸隆(ゆきた

   か)を演じた俳優名 : 佐々木 蔵之介。

● ドラマでは忍芽(しのめ) (真田幸隆夫人・

  恭雲院(きょううんいん))を演じた女優名: 

  清水 美砂。

● 真田幸隆の長男・真田信綱(のぶつな)を演

  じた俳優名 : 森脇 史登。

● 真田幸隆の三男・真田昌幸(まさゆき)(真田

  幸村(信繁)の父)、ドラマでは・真田源五郎

  (げんごろう)を演じた俳優名 : 小林 海人。

 

■ 『 茶々 天涯の貴妃 (ちゃちゃ

     てんがいのおんな) 』。 

    (日本の2007年制作・東映映画)。 

■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土

  桃山時代、江戸時代初期を描いたドラマ。

 大坂夏の陣で、真田幸村が戦うシーンが、登

  場します。

 豊臣大阪城の炎上のシーンが出てくる。

● 真田幸村(信繁)を演じた俳優名 : 

   黄川田将也。

 

■ 『 真田太平記 (さんだたいへいき) 』 。 

   (NHKテレビ・1985ー1986年NHK

   連続テレビドラマ、全45話)。 

■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土

  桃山時代、江戸時代初期を描いたドラマ。

 真田氏(真田一族)を描く。

● 真田幸村(信繁)を演じた俳優名: 

   草刈 正雄。

● 真田幸村(信繁)の父・真 田昌幸(まさゆき)

  を演じた俳優名 : 丹波哲郎。

● 真田昌幸夫人・真田幸村(信繁)の母・

  山手殿(やまのてどの)を演じた女優名: 

  小川明子。

● 真田幸村(信繁)の兄・真田信幸(信之)

  (のぶゆき)を演じた俳優名 : 渡瀬 恒彦

● 真田幸村(信繁)夫人・竹林院(ちくりん

  いん)大谷吉継の娘・ドラマでは於利世を

  演じた女優名: 中村 久美。

● 真田信幸(信之)正室夫人・本多忠勝の娘・

  小松殿(こまつどの)を演じた女優名: 

  紺野 美沙子。

 

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#sanadayukimura(nobushige)-thehappenings

 

  真田 幸村(信繁)  

    関連出来事 

         (さなだゆきむら(のぶしげ)かん

         れんできごと)。

 

#sanadayukimura(nobushige)happeningsbyperiod

 

真田幸村(信繁) 関連

  出来事(年代順、詳細)。

 

#sanadayukimura(nobushige)happeningsbyperiod-1532

 

■ 1532年 (享禄5年、天文元年)。

■ 1532年 (天文 元年)  天文(てんぶん、てんもん)

  改元。 

    1532年7月29日に、 和暦の「享禄」(きょうろく、

    享禄元年〜5年) が、 「天文」 (てんぶん、てんも

    ん、天文元年・1532年・7月29日〜天文24年・15

  55年・10月23日) に改元される。 

 

■ 1546年 (天文15年)。

■ 1546年(天文15年)頃より1582年(天正10年)

  まで、真田氏は、武田 氏(家)に仕(つか)え、武田

  氏(家)の家臣となる。

● 真田氏の当主の、真田幸隆 (さなだゆきたか、

  1513〜1574年)は、 真田幸村 (信繁)(さなだ

  ゆきむら(のぶしげ))の祖父で、 1546年頃より、

  武田家武田信玄 (信玄は1541年に父の信虎

  を国外追放し甲斐の家督を継ぎ、甲斐の国主とな

  る) に仕える。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1548年 (天文17年)。

■ 1548年 (天文17年)頃に、真田 幸隆(幸綱)が、 

  真田氏の当主  (1548年頃−1567年)となり、

  信濃・上田領の領主(1548年頃−1567年)とな

  る。

● 真田 幸隆(幸綱) (さなだ ゆきたか(ゆきつな)、

  1513〜1574年) は、 真田 信綱(のぶつな)や

  真田 昌幸(まさゆき) の父であり、 真田 幸村

  (信繁)の祖父であり、 室町時代後期(戦国時代)

  の武将であった。

● 真田 幸隆(幸綱) (さなだ ゆきたか(ゆきつな)、

  1513〜1574年) は、 海野(うんの)氏分家

  であり(諸説あり)、 真田氏の当主  (1548年頃

  −1567年) であり、 信濃(しなの、現・長野県)・

  上田領の領主 (1548年頃−1567年)であった。

     真田 幸隆(幸綱)(ゆきたか(ゆきつな))は、 

  1548年頃に、上田領を獲得し、上田領の領主と

  なり、真田氏の当主となる。 

     真田 幸隆(幸綱)(ゆきたか(ゆきつな))は、

  1567年に隠居し、幸隆(幸綱)長男の真田信綱

  (のぶつな)に真田氏を継がせる (上田領の領

  主とし、真田氏の当主とする)。

 

■ 1555年 (天文24年、弘治元年)。

■ 1555年 (弘治 元年) 弘治(こうじ)改元。    

   1555年10月23日に、和暦の「天文」 (てんぶん、

  てんもん 、天文元年〜24年) が、  「弘治」 (こう

  じ、 弘治元年・1555年・10月23日〜  弘治4年・

  1558年・2月28日) に改元される。 

 

■ 1558年 (弘治4年、永禄元年)。

■ 1558年 (永禄 元年)  永禄(えいろく)改元。 

     1558年・永禄 元年・2月28日に、 和暦の「弘

  治」 (こうじ、弘治元年〜4年(1555年〜1558年)) 

  が、 室町時代後期の和暦年号の、永禄」 (えいろ

  く、1558年・永禄 元年・2月28日〜1570年・永禄

  13年・4月23日) に改元される。 

 

■ 1567年 (永禄10年)。

■ 1567年 (永禄10年)に、 真田幸村(信繁) (さな

  だゆきむら(のぶしげ)、生没年:1567〜1615年)

  は、 信濃国 (しなののく に、信州、現在の長野県相

  当地域)の、真田氏の真田昌幸(さなだ まさゆき)の

  次男として、生まれる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1567年 (永禄10年)。

■ 1567年 (永禄10年)に、真田 信綱 (さなだ の

  ぶつな、1537年ー1575年) が、 真田氏の当主  

  (1567年−1575年)となり、 信濃・上田領の領主

  (1567−1575年) と なる。

● 真田 信綱は、 真田 幸隆(幸綱)(ゆきたか(ゆき

  つな))の長男であり、 真田 幸村(信繁)の伯父

  (おじ) であり、 室町時代後期(戦国時代)、安土

  桃山時代の武将であった。

● 真田 信綱 (さなだ のぶつな、 1537年ー1575

  年) は、 真田氏の当主  (1567年−15 75年) 

  であり、 信濃・上田領の領主 (1567−1575年)  

   であった。

     信綱(のぶつな)の父・真田 幸隆(幸綱)(ゆき

  たか(ゆきつな))は1567年に隠居し、 幸隆(幸綱)

  長男の真田信綱(のぶつな)が、1567年に、真田氏

  を継ぐ (上田領の領主となり、真田氏の当主となる)。

     真田幸隆(幸綱)(ゆきたか(ゆき つな))の長男

  で真田氏当主の真田 信綱 や 幸隆(幸綱)の次男

  の真田 昌輝(まさてる)が、 1575年の長篠の戦い

  で武田氏方として参戦し、戦死する。 そのため、

  隆(幸綱)の三男の 真田昌幸(まさゆき)が、1575

  年に、真田氏を継ぐ (上田領の領主となり、真田氏

  の当主となる)。

● 真田 信綱は、 1575年の長篠の戦いで武田氏方

  の武将として参戦し、戦死する。

● 真田 信綱 (さなだ のぶつな)、 1537〜1575年) 

  は、 真田 幸隆(幸綱)の長男であり、 真田 幸村

  (信繁)の伯父(おじ)であり、  室町時代後期(戦

  国時代)、安土桃山時代の武将であった。

● 真田 信綱は、 信濃・上田領の領主(1567−15

  75年)であり、 1575年の長篠の戦いで武田氏方

  の武将として参戦し、戦死する。

■ 真田幸隆 (さなだゆきたか、1513〜1574年)

  は、 真田幸村 (信繁)(さなだゆきむら(のぶしげ))

  の祖父で、 1546年頃より、武田家武田信玄 

  (信玄は1541年に父の信虎を国外追放し甲斐の

  家督を継ぐ) に仕え、 1567年に隠居し、 長男

  の真田信綱(のぶつな)に真田家を継がせる。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1570年 (永禄13年、元亀 元年)。

■ 1570年 (元亀 元年) 元亀(げんき)改元。  

  1570年4月23日に、 和暦の「永禄」 (えいろく、

  永禄元年〜13年) が、 「 元亀」 (げんき、元亀

  元年・1570年・4月23日〜 元亀4年・ 573年・

  7月28日) に改元される。 

 

■ 1573年 (元亀4年、天正 元年)。

■ 1573年 (天正 元年) 天正(てんしょう)改元。 

  1573年7月28日に、 和暦の「元亀」 (げんき、元

  亀元年〜4年) が、 「 天正」 (てんしょう、天正元

  年・1573年・7月28日〜天正20年・1592年・12

    月8日) に改元される。 

 

■ 1575年 (天正3年)。

■ 1575年 (天正3年)に、 真田 昌幸 (さなだ まさ

  ゆき、1547年ー1611年) が、 真田氏の当主 

  (1575年−1600年) となり、 信濃 (現・長野県)・

  上田領の領主 (1575−1600年) となる。

● 真田 昌幸は、 真田幸隆(幸綱)(ゆきたか(ゆき つ

  な))の三男であり、 真田 幸村(信繁)の父であり、 

  安土桃山時代の武将であった。

● 真田 昌幸 (さなだ まさゆき、1547年ー1611年) 

  は、 真田氏の当主 (1575年−1600年) であり、 

  信濃 (現・長野県)・上田領の領主 (1575−160

  0年) であり、 上野(こうずけ、現・群馬県))・沼田

  領の領主 (1580年ー1600年) であった。

     真田幸隆(幸綱)(ゆきたか(ゆきつな))の長男

  で真田氏当主の真田 信綱 や 幸隆(幸綱)の次男

  の真田 昌輝(まさてる)が、 1575年の長篠の戦い

  で武田氏方で参戦し、戦死する。 そのため、真田

  幸隆(幸綱)の三男の真田昌幸(まさゆき)が、15

  75年に、信濃・上田領の領主となり、真田氏の当主

  となる。

     真田昌幸(まさゆき)は、 1600年の天下分け

  目の戦いの第2次上田合戦で、石田方として、徳川

  方と戦い勝ったが、関ヶ原の戦いで石田方が敗北し

  たため、その後徳川方に降参し、徳川方に上田領・

  沼田領を没収され、真田氏の当主でなくなる。 代

  わって、徳川方に味方した、真田昌幸の長男の真

  田信幸(信之)が、 徳川氏の命(命令)により、16

  00年に、上田領・沼田領の領主となり、真田氏の

  当主となる。

● 真田 昌幸は、 武田氏の人質となり、優秀であった

  ため武田信玄の側近となり、武田氏の軍略を学び、

  知将となる。

● 真田 昌幸は、 1580年に上野の沼田地域に侵攻

  し、真田氏の沼田領とした。

● 真田 昌幸は、 天下分け目の戦い(1600年)では、

  上田・真田軍を率いて、次男・真田 幸村(信繁)を従

  えて、西軍の石田方に味方し、徳川方の長男・真田

  信幸(信之)(のぶゆき)と敵対して、 第2次上田合

  戦(1600年)では、東軍の徳川方の徳川秀忠軍や

  沼田・真田軍と戦う。 但し、実際には、上田・真田

  軍は沼田・真田軍との交戦を避け、ほとんど両者は

  戦わなかった。

● 真田 昌幸は、 武田氏の人質となり、優秀であった

  ため武田信玄の側近となり、武田氏の軍略を学び、

  知将となる。

■ 真田信綱(のぶつな)は、 真田幸隆の長男で、  幸

  村(信繁)の伯父(おじ)で、 武 田氏の武田信玄に

  仕え、1573年の信玄死後、武田氏の武田勝頼

  仕えるが、 1575年(天正3年)の長篠の合戦で戦

  死する。 

     幸村(信繁)の父の、真田昌幸(まさゆき)は、

  田幸隆の三男で、 1575(天正3年)年の長篠の合

  戦後、真田家を継ぎ、 武田氏の武田勝頼に仕えた。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1580年 (天正8年)。

■ 1580年 (天正8年)に、 信濃国・上田城主の 真田

  昌幸(幸村(信繁)の父)は、 上野・沼田城を得て、

  上野国(こうずけのくに、現在の群馬県相当地域)北

  部の沼田一円(利根郡)も領有し、領土を広げた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1582年 (天正10年)。

■ 1582年 (天正10年)までは、信濃国・上田城主の真

  田氏は、 武田氏と命運を共にし、 信濃国・吾妻郡の

  上田一帯と上野国・利根郡の沼田一帯を領有し、 信

  濃国(長野県)と上野国(群馬県)の通路である上州街

  道を抑えていた。

     しかし、1582年 (天正10年)に、武田氏が滅亡

  し、真田氏にとって、不安定な政治情勢となった。

     武田氏に臣従していた、真田氏は、武田氏滅亡

  後、上杉氏、北条氏、徳川氏、豊臣氏に 臣従した。 

     この間、真田昌幸は、 徳川家康との間で、第1次

  上田合戦を行い、勝利を得る。 真田昌幸は、最終的

  に豊臣秀吉に仕える (秀吉の傘下に入る)。 

    真田氏の真田昌幸は、 1582年の武田氏の武田

  勝頼滅亡後、 周辺の諸大名の傘下に入り、 当主

  真田昌幸子の真田幸村(信繁)は、  諸大名の上杉

  氏、次に豊臣氏の人質となる。 

     上田領と沼田領を領有する、真田昌幸は、本城の

   上田城主となり、 昌幸・長男の真田信之(のぶゆき)

   を、支城の沼田城主とした。

      1600年(慶長5年)の天下 分け目の戦いでは、 

   幸村(信繁)の真田 昌幸(まさゆき)と昌幸次男・真田

  幸村(信繁)は、石田三成方の西軍に味方し、昌幸長

  男・真田 信幸(信之、のぶゆき)は、徳川家康方の東軍

  に味方した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1584年 (天正12年)

 ● 1584年(天正12年)に、上田城 (前期上田城、15

  84−1600年) が築城され、真田昌幸は、上田城を

  本城とする。

● 上田城は、真田昌幸が徳川家康に依頼し、1584年

  (天正12年)に、北条氏に対抗するため、徳川氏が造

  った、街道沿いの平城である。

     完成後、真田昌幸は、北方の真田氏の旧山城か

  ら、徳川氏が造った街道沿いの平城の上田城に移る。

 

■ 1585年 (天正13年)

■ 第1次上田合戦。

    1585年(天正13年)に、 真田方と徳川方で第1

  次上田合戦が起こった。

    真田昌幸は、 上野(こうずけ、現・群馬県)沼田

  領と信濃(しなの、現・長野県)・真田領を領有してい

  たが、 徳川家康が、沼田領を手放すように要求し、

  真田昌幸は、断った。 そのため、徳川家康は、徳

  川軍・約7000人の兵を、真田氏に差し向けてきた。

  このとき、約2000人の真田軍は、上田城攻防戦で、

  おびき寄せ作戦で、徳川軍を破り、敗退させた。

 

■ 1590年 (天正18年)

■ 小田原征伐。

    1590年(天正18年)に、 豊臣秀吉の小田原

  征伐で、真田幸村(信繁)は、 豊臣方として、参戦

  した。

 

■ 1592年 (天正20年、文禄元年)。

■ 1592年 (文禄 元年) 文禄(ぶんろく)改元。 

   1592年12月8日に、 和暦の「天正」 (てんしょ

  う 、天正元年〜20年) が、 「 文禄」 (ぶんろく、

  文禄元年・1592年・12月8日〜 文禄5年・ 1596

  年・10月27日) に改元される。 

 

■ 1596年 (文禄5年、慶長元年)。

■ 1596年 (慶長 元年) 慶長(けいちょう)改元。 

     1596年10月27日に、 和暦の「文禄」 (ぶん

  ろく 、文禄元年〜5年) が、「 慶長」 ( けいちょう、 

  慶長元年・1596年・10月27日〜 慶長20年・16

  15年・7月13日) に改元される。 

 

■ 1600年 (慶長5年)7月。

■ 真田父子犬伏密談。

 犬伏密談とは、  関ヶ原の戦いの数ヵ月前の、1600

  年(慶長5年)7月に、 下野国(しもつけのくに、現・栃

  木県)の犬伏(いぬぶし)で、 真田氏当主の真田昌幸

  (さなだまさゆき) と、 昌幸の次男の真田幸村 (信繁

  (のぶしげ))  と、 昌幸の長男の真田信幸(信之)

  (のぶゆき)の3人が行った密談 である。 

● 犬伏密談は、 真田氏当主の真田昌幸と、 昌幸の

  次男の真田幸村(信繁) と、 昌幸の長男 の真田信

  幸(信之) の 3人や真田氏のその後の運命を変え

  る会談であった。

● 1600年(慶長5年) 7月に、関ヶ原の戦いの数ヵ月前

   に、下野国(しもつけのくに、現・栃木県)の犬伏(い

   ぬぶし)で、 真田氏当主の真田昌幸(さなだまさゆ

   き)と、 昌幸の次男の真田幸村(信繁(のぶしげ)) 

   と、 昌幸の長男の真田信幸(信之)(のぶゆき) の

   3人が、 天下分け目の戦いの前に、密談を行った。

      真田幸村(信繁)は、かって豊臣秀吉の側近で

   あり豊臣氏との関係が深く、 真田信幸(信之)は徳

   川氏との関係が深かった。

      真田幸村(信繁)の夫人は、 豊臣氏 家臣の大

   谷吉継(おおたによしつぐ)の娘・竹林院であり、 

   田信幸(信之)の夫人は、 徳川家重臣の本多忠勝

   (ほんだたたかつ)の娘・小松姫であった。

      室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、江

   戸時代初期の当時、小領主は、どちらに転んでも、

   家を残せるように、親族の一部が、大勢力同士の

   戦いで、敵・味方に別れて、戦い、勝者の方が家名

   を残していくということがよくあった。

● 犬伏密談の結果、 天下分け目の戦い (1600年

   の関ヶ原の戦い、その他の戦い)で、 真田昌幸と次

   男・真田幸村(信繁)の父子は、石田(三成)方の西

   軍に味方し、 昌幸・長男の真田信幸(信之)は、徳

   川(家康)方の東軍に味方することとなった。 

      真田昌幸は、 石田方の西軍には、長男の真

   田信幸(信之)が徳川方の東軍に味方していること

   は言わなかった。

 

■ 1600年 (慶長5年)9月。

■ 天下分け目の戦いでの、第2次上田合戦。

     真田昌幸と次男・真田幸村(信繁)の父子は、 

  石田(三成)方の西軍に味方し、 昌幸・長男の真田

  信幸(信之)は、 徳川(家康)方の東軍に味方し、

  天下分け目の戦い (1600年(慶長5年)関ヶ原

  の戦い、その他の戦い)の1つの、第2次上田合戦

  を行った。

     真田 幸村(信繁)は、 1600年(慶長5年)

  天下分け目の戦いでの、第2次上田合戦では、 知

  将の父・真田 昌幸(まさゆき)に従い、 石田方に味

  方した(西軍の石田三 成(みつなり)に応じた)。 

     1600年(慶長5年) 9月2日に、徳川秀忠軍は、

  上田近くの、信濃(信州)・小諸に到着した。 

     昌幸・長男の真田信幸(信之)も、徳川秀忠軍に

  従軍していた。  徳川秀忠は、 徳川方の真田信幸

  (信之)の隊に、 上田城近くにある、石田方の真田

  幸村(信繁)の守る支城の砥石城(といしじょう)を攻

  めさせた。 真田幸村(信繁)は、 (事前に父・真田

  昌幸に指示されていた通り) 兄の信幸(信之)と戦

  わず、支城を捨て、退却した。 そのため、信幸(信

  之)は、支城の砥石城を占領し手柄をたて、そこに居

  座り、その後、 真田昌幸・真田幸村(信繁)・父子

  軍と戦わずに済んだ。

     信濃(信州 )・上田 (しなの(しんしゅう)・うえだ、

  現在の長野県上田市相当地域) で、 真田昌幸と次

  男・真田幸村(信繁)の父子は、 約5000人で守備

  する上田城を、約38000人の徳川秀忠軍に攻めさ

  せ、徳川軍を翻弄(ほんろう)し、 徳川 秀忠(ひでた

  だ)軍の西上を遅らせた。 そのため、徳川秀忠軍は、

  関ヶ原の戦いには間に合わなかった。

     石田方に味方した真田昌幸・真田幸村(信繁)

  の父子は、 1600年9月15日の関ヶ原の戦 い後 

  (石田方が関が原の戦いで敗北後)、 家康方の東

  軍に降伏し、真田氏当主の真田昌幸は、所領の上田

  領・沼田領を没収され、 徳川方に味方した昌幸長

  男の真田 信幸が 上田領・沼田領を所領として得た。 

      徳川方に味方した兄・真田 信幸(のぶゆき)の

  嘆願で、 真田昌幸・幸村(信繁)の親子は、共に切

  腹を免れ、 紀伊国(きいのくに、現在の和歌山県相

  当地域)の、高野山麓の、九度山(くどやま)に配流

  (はいる、追放)され蟄居(ちっきょ)となり、 牢人(ろ

  うにん、浪人)となる。 

     真田昌幸・幸村(信繁)の親子の蟄居(ちっきょ)

  免除も許されず、1611年に、真田幸村(信繁)の父・

  真田昌幸は、蟄居先の九度山で死去する。

     高野山麓の、九度山で、真田幸村(信繁)は、

  1614年まで、約14年間の幽閉生活を送る。

● 1600年 (慶長5年)に、真田 信幸(信之)が、信幸

  (信之)の父・真田昌幸に代わって、信濃・ 上田領の

  領主(1600−1622年) となる。

■ 1600年 (慶長5年)。

 

■ 1600年 (慶長5年)。

■ 1600年(慶長5年)に、  真田 信幸(信之) (さな

  だ のぶゆき、1566年ー1658年) は、 真田氏の

  当主 (1600年−1656年) となり、 信濃・ 上田

  領の領主(1600−1622年) となる。

● 真田 信幸(信之)は、 真田 昌幸(まさゆき)の長男

  であり、 真田 幸村(信繁)の兄であり、 安土桃山

  時代、江戸時代初期の武将 であった。

● 真田 信幸(信之)は、 江戸時代の、信濃・上田 (う

  えだ)藩・初代藩主(1600年−1622年)であり、 

  信濃・真田氏松代(まつしろ)藩・初代藩主(1622年

  −1656年)であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

● 真田 信幸(信之) (さなだ のぶゆき、1566年ー

  1658年) は、 真田氏の当主 (1600年−16

  56年) であり、 信濃・上田領の領主 (1600年

  −1622年) であり、 信濃・松代(まつしろ)領の

  領主(1622−1656年)であり、 上野(こうずけ)・

  沼田領の領主(1600年−1656年)であった。

     信幸(信之)(のぶゆき)の父・真田昌幸(まさ 

  ゆき)は、1600年の天下分け目の戦いの第2次

  上田合戦で、石田方として、徳川方と戦い勝った

  が、関ヶ原の戦いで石田方が敗北したため、その

  後徳川方に降参し、徳川方に上田領・沼田領を没

  収され、真田氏の当主でなくなる。 代わって、徳

  川方に味方した、真田昌幸の長男の真田信幸(信

  之)が、1600年に、上田領・沼田領の領主となり、

  真田氏の当主となる。

     真田信幸(信之)(のぶゆき)は、1622年に、

   幕命(ばくめい、幕府の命令)で、転封(てんぽう、

   領地替え)となり、 上田領の領主から、松代(ま

   つしろ)領の領主となる。

      真田信幸(信之)(のぶゆき)は、1656年に

   隠居(いんきょ)し、 代わって、1656年に、真田

   信幸(信之)の次男の真田 信政(さなだ のぶまさ)

   に真田氏を継がせる (松代領・沼田領の領主と

   し、真田氏の当主とする)。

● 真田 信幸(信之)は、 天下分け目の戦い(1600

  年)では、沼田・真田軍を率いて、東軍の徳川方

  味方し、 父・真田昌幸(まさゆき)・弟・真田幸村(信

  繁)の率いる上田・真田軍と敵対して、 第2次上田

  合戦(1600年)では、徳川秀忠軍に従軍し、西軍の

  石田方の上田・真田軍と戦う。 但し、実際には、上

  ・真田軍は沼田・真田軍との交戦を避け、ほとんど

  両者は戦わなかった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1611年 (慶長16年)。

■ 1611年(慶長16年 )に、 真田 幸村(信繁)の父・

  知将の真田 昌幸が、 配流(はいる、追放)先の、紀

  伊国の、九度山で、死去する。 

 

■ 1614年 (慶長19年)。

■ 真田 幸村(信繁) は、 豊臣秀頼に招かれ て大

  阪城に入り 、 大阪の陣(1614〜15 年) では 

  豊臣軍の武将として、奮戦して、戦死する。

     真田 幸村(信繁)は、 1614年(慶長19年)に、

  豊臣秀頼に招かれて、大阪城に入り (豊臣秀頼の

  挙兵に応じ大阪城に入城し)、 大阪の陣では、大阪

  冬の陣と大阪夏の陣の2つの戦いで、 真田幸村(信

  繁)は、 豊臣方の武将として、大活躍した。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1614年 (慶長19年)10月。

  豊臣秀頼からの誘いと大阪城入城。

■ 真田幸村(信繁) は、 豊臣秀頼に招かれ て大

  阪城に入る。

■ 真田幸村(信繁)は、 1614年(慶長19年)まで、

  このまま、高野山山麓の九度山(くどやま、現在の

  和歌山県高野町)で蟄居(ちっきょ)し、朽ち果てる

  と思いながら、生活していた。

     ところが、1614年(慶長19年)10月に、豊臣

  秀頼より、「大阪へ来られたし」という書状が真田幸

  村(信繁)のもとに届いた。

    豊臣秀頼の条件は、 仕度金(したくきん)として

  黄金200枚・銀30貫目、 家来5000人 であった。

    更に、豊臣方が勝利を得た場合は、恩賞として、

  治領地(知行地)50万石を与える

  というものであった。

■ 真田幸村(信繁)は、 武将としての活躍の場を得ら

  れるため、また、豊臣家の恩義に報いるため、喜ん

  で承諾し、与えられた仕度金を使って、赤一色の武

  具を、数千人分用意し、かっての家臣に呼びかけ兵

  を集め、1614年 (慶長19年)10月に、蟄居地(ちっ

  きょち)の九度山(くどやま)を抜け出し、大阪城に入

  城した。

 

■ 1614年 (慶長19年)。

■ 大阪冬の陣。

● 1614年(慶長19年)1 1月から12月までの大阪冬

  の陣では、 真田幸村(信繁)は、 豊臣・大阪城の

  南方に、 真田丸(さなだまる)という出城(でじろ)を

  築き、そこを根拠地にして、 攻撃してきた徳川方に

  大打撃を与えた。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 真田丸。

■ 大坂冬の陣では、 徳川軍は、約20万人の兵で、豊

  臣大阪城を囲んで、東西南北から攻撃したが、 真田

  幸村(信繁)は、約5000人の兵で、城南から攻め寄

  せる兵を真田丸に引き寄せて、約1万人以上の兵を討

  ち、徳川方主力部隊に大打撃を与えた。

 

● 真田幸村(信繁)は、 徳川方主力部隊を、真田丸の

  空堀に誘い込んで、鉄砲で銃撃し(その鉄砲の中には、

  約300mの射程のある大型銃もあった)、 徳川方の

  多くの兵を討ち死にさせた。

 

■ 真田丸 (さなだまる)は、 大坂冬の陣の砦(とりで)

  であり、 1614年(慶長19年 )の11月から12月ま

  で、豊臣大坂城の南方に存在した出城(でじろ)であ

  った。 

 

● 真田丸は、 真田幸村(信繁) (さなだゆきむら(の

  ぶしげ))が、 大坂冬の陣で、 豊臣方の籠城戦(ろじ

  ょうせん)を有利 にするため、 1614年10月より寺院

  の材料などを利用し て、約1カ月の突貫工事で、豊臣

  大阪城の南方に造った、無敵の砦(とりで)であった。

     豊臣大阪城は、 東西南北で、西側の 水堀や南

  側の空堀が防御に弱く弱点があり、 西側の水堀や

  南側の空堀に徳川方の兵を集中させないため (西

  側の水堀や南側の空堀から徳川方の目をそらさせる

  ため)、 真田幸村(信繁)は、 徳川方主力部隊を、

  豊臣大阪城の南側に突き出た出城の真田丸に引き

  寄せて(つけて)戦うことを決意した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

● 1614年12月に豊臣方と徳川方の間で、和睦が成立

  し、大坂冬の陣は終わった。 

     大坂冬の陣の和睦の条件は、 豊臣大阪城の、

  堀の埋め立て や 本丸以外の構築物 (二の丸と惣

  構(そうがまえ、三の丸)の構築物) の破壊 であった

  ため、 徳川方は、停戦後すぐ、約1カ月をかけて堀の

  埋め立てや本丸以外の構築物の破壊を行い、 徳川

  方の堀埋め立てや構築物破壊時に、真田丸 は消滅し

  た (真田丸の建物は幸村(信繁)自身が壊し、真田丸

  の堀は徳川方が埋めた)。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 2014年に真田丸の学術調査が行われた。

    真田丸の正確な場所は、今までは特定できなかった

  が、2014年の学術調査で、 真田丸は、 現在の大坂

  の餌差町(えさしまち)の大坂明星学園(おおさかめい

  せいがくえん)付近にあったことがわかった。

     また、2014年の学術調査で、真田丸は、東西

  220m・南北230mの大きさで、四角形の台形型であ

  り、 寺町の市街地の中にあったことがわかった。

    学術調査では、専門家が、大坂城の南方の各地を、

  地中探査機械を利用し、レーダーや電磁波などで繰り

  返し地中の遺構(いこう)を探査し、真田丸の位置を特

  定した。

 

■ 大坂冬の陣 (1614年11月ー12月)。

● 大坂冬の陣 (おおさかふゆのじん)は、1614年(慶

  長19年)11月から12月まで、 大坂地域で、徳川方と

  豊臣方が戦った戦争である。 主に、豊臣大阪城の籠

  城戦(ろうじょうっせん、城攻防戦) であった。

 

● 準備。 

     1614年(慶長19年)10月11日に、徳川家康は、

  大坂地域に向かい、 駿府城を出発する。

 

● 戦い。

     1614年(慶長19年)11月に、 約20万人の兵

  (軍勢)の徳川方は、 約10万人の兵(軍勢)がいる

  豊臣大阪城を囲み、 徳川方は、 1614年(慶長

  19年)11月19日に、 木津川口の砦で戦いが始ま

  り(木津川口の戦い)、 豊臣方と開戦する。

          城を囲まれている豊臣方は、 武器弾薬が少なく

  なり(底をつき)、また、1614年12月16日に豊臣大

  阪城本丸に徳川方の脅しのための砲弾が届き撃ち

  込まれて(命中し)淀殿の侍女が死去し淀殿が怯(お

  び)える。 一方、徳川方は、大坂城には防御性のあ

  る堀があり城内に侵入できず、また、真田丸の真田

  幸村(信繁)など牢人(ろうにん)の奮戦・活躍などで

  徳川方に想定外の多くの死傷者を出し、 双方とも、

  長期戦を望まず、停戦の交渉に入る。

     1614年(慶長19年)12月20日に、豊臣方と

  徳川方の和議が成立し (12月19日に講和条件が

  合意され20日に誓書が交換され)、 終戦となる。

     成立した和議の内容は、

   @ 豊臣大阪城の牢人(ろうにん、浪人)の罪を問

     わない、

   A 豊臣秀頼の領土を安堵(あんど、保障)する、

   B 豊臣大阪城の堀を埋め、本丸以外の構築物を

     壊す (徳川方と豊臣方で)、

   であった。

 

● 後始末。

      和議成立後、すぐ急いで、徳川方は、約1カ月

   をかけて、豊臣大阪城の堀を埋め、本丸以外の構

   築物を破壊し、豊臣大阪城は、裸城(はだかじろ)

   同然となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1615年 (慶長20年)。

■ 大阪夏の陣。

 ● 1615年(慶長20年)4月から5月までの大阪夏の

  陣では、 野戦の戦場で、 徳川家康を襲ったが討

  ちもらし (徳川家康の本陣間際まで突撃したが家

  康を討ちもらし)、 力尽きて、 真田 幸村(信繁)は、

  戦死した (1615年(慶長20年)5月に) 。

    その後、徳川方に攻められた大阪城では、豊臣

  秀頼、淀殿が、自害する。

    大阪の夏の陣では、真田 幸村(信繁)の率いた

  軍は、鎧(よろい)を赤で統一し、真田の赤備えと言

  われた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

■ 真田幸村の、家康本陣突撃

■ 1615年(慶長20年)の大坂夏の陣では、 真田幸

  村(信繁)は、 豊臣大阪城の南方にある、茶臼山

  (ちゃうすやま)を改造し、茶臼山に本陣を置いた。

■ 真田幸村(信繁)は、「茶臼山おびき寄せ作戦」をた

  て、 真田幸村(信繁)本陣の茶臼山に、敵の徳川

  軍主力部隊や徳川家康本陣守備隊をおびき寄せ、

  戦い、そのすきに、別動隊が、徳川家康本陣を急襲

  し、敵の大将の徳川家康を討ち取る計画であった。

     しかし、茶臼山の手前の地で、豊臣軍の別の部

  隊が、徳川軍主力部隊を攻撃し始め、 徳川家康本

  陣守備隊は、動かず、徳川家康本陣周辺を囲んだま

  まであった。

     真田幸村(信繁)は、 「茶臼山おびき寄せ作戦」

  ができず、止むを得ず、茶臼山本陣を捨て、徳川家

  康本陣への突撃を決意し、 真田幸村(信繁)部隊は、

  全員、徳川家康本陣守備隊が守る、徳川家康本陣に

  突撃していった。

     真田幸村(信繁)部隊は、徳川家康本陣守備隊

  の守りを破り、徳川家康本陣間際まで突撃したが、徳

  川家康を討ち取ることができず、突撃で多数の兵士を

  失い、徳川家康本陣から押し戻されて、真田幸村(信

  繁)は、乱戦中、徳川方の越前松平軍の武士と戦い、

  1615年(慶長20年)5月7日頃に、野戦で、討ち死

  にした。

     その後、豊臣大阪城も徳川方の攻撃を受け、豊

  臣大阪城も落城し、豊臣秀頼は自害した。

 

■ 大坂夏の陣 (1615年4月ー5月)。

● 大坂夏の陣 (おおさかなつのじん)とは、1615年

  (慶長20年)4月から5月まで、大坂地域で、 徳川方

  と豊臣方が戦った戦争である。 主に、豊臣大阪城の

  南方での野戦(やせん、野外戦)であった。

● 準備。 

     1615年(慶長20年)4月4日に、徳川家康は、

  大坂地域 に向かい、駿府城を出発する。

● 戦い。

     1615年(慶長20年)4月に、約15万人の兵(軍

  勢)の徳川方は、 豊臣大阪城の南方に陣取り、約5

  万人の兵(軍勢)の豊臣方に対峙し、 4月26日に郡

  山城の戦いが起こり、豊臣方と開戦する。

     1615年(慶長20年)5月に、徳川方は 、 豊臣

  大阪城の南方で、豊臣方主力部隊に野戦(野外戦)

  で勝ち、 その後、豊臣大阪城を攻めて5月7日に落

  城(陥落)させ、 5月8日に淀殿・秀頼母子が自害し、

  終戦となる。

● 後始末。

      徳川方は、 生き残った豊臣方の残党や牢人

   (ろうにん、浪人)を捕(とら)え、豊臣大阪城のすべ

   を取り壊す。 

      後に、徳川方は、同地に、新しい徳川大阪城

   を築城する。  

 

■ 1615年 (慶長20年、元和元年)。

■ 1615年 (元和 元年) に、 元和改元。 

    1615年7月13日に、 和暦の「慶長」 (けいちょ

  う 、慶長元年〜20年) が、 「 元和」 (げんな、元

  和元年・1615年・7月13日〜 元和10年・ 1624

  年・2月30日) に改元される。 

 

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