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カナヤマ 日本歴史 辞典
日本語版
見出し語 『 こ 』
No.0350。
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□ 日本史 辞典 (総合)。
□ こ ● 事柄順。
〇 こう 公地公民制 (こうちこうみんせい)。
(7〜10世紀)。
(⇒ 日本の土地人民統治制度)。
〇 こう 孝明天皇 (こうめいてんのう)。
(生没年:1831〜1866年)。
○ 天皇在位:
1846年〜1866年。
○ 和宮の腹違いの兄。
○ 睦仁(むつひと)天皇(= 明治
天皇)の父。
○ こう 公武合体派 (こうぶがったいは) 。
(幕末)。
〇 こう 公武合体派・佐幕派と尊
皇(王)攘夷派・急進派と
の対立
(こうぶがったいは・さばくはと そんのうじ
ょういは・きゅうしんは とのたいりつ)。
<1860〜1864年頃>。
(⇒ 幕末日本政治・政争
変遷一覧表)。
〇 こう 公武合体派・佐幕派と尊
皇(王)倒幕派との対立
(こうぶがったいは・さばくは と そんのう
とうばくは とのたいりつ)。
<1864〜1866年頃>。
(⇒ 幕末日本政治・政争
変遷一覧表)。
〇 こう 公武合体論 (こうぶがったいろん)。
(⇒ 公武合体派)。
● 五十音順 (アイウエオ順)。
■ 『 現在は、過去の成果であり、
未来は、現在の成果である。 』
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◆ 日本史辞典
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■ 公地公民制
(こうちこうみんせい)。
■ 公地公民制。
■ 制定時期 7世紀後半〜8世紀初めに制定。
■ 存続時期 7世紀後半〜10世紀頃。
■ 名前 : 公地公民制 (こうちこうみんせい)。
■ 古代日本の土地人民統治制度。
■ 公地公民制 とは、 土地・人民の私有を許さないとい
う律令制の原則。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ (T2) 公地公民制 (7〜10世紀) とは、 土地・人民の私有を許
さないという律令制の原則 である。 朝廷が、 土地人民を、 公有地
(公地)、公民にして、 支配する統治制度 である。
■ (T1) ⇒ (T2) 7世紀後半の大化の改新以後の改革で、 従来
の豪族の所有する私有地や私有民を廃止し、土地人民を公有とした
ため、(T1) 豪族土地人民支配制 (5〜7世紀) は、(T2) 公地公
民制に移行する(へ変わる)。
■ 律令制度 は、 従来の、豪族(ごうぞく、有力者)による土地人民の
私有と氏姓制度による官職の世襲を取り除いて、 公地公民制と官僚
制 とした中央集権国家制度 である。
■ 律令制度の公地公民制。
● 公地公民制 とは、 土地・人民の私有を許さないという律令制の
原則 である。
● 大化の改新以後、 皇室・豪族の私有地であった屯倉(みやけ)・
田荘(たどころ)を収公し、国有として班田収授制をしき、 部民を
国家の人民に切換えて、戸籍に登録し、口分田(くぶんでん)を給し、
租庸調等を負担する自由民としての公民とした、 公地公民制が、
7世紀後半〜8世紀初めに、 成立した。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
■ 律令制度の税負担では、 公民 (一般人民) は、 全て、戸籍、
計帳に登録され、 班田収授の法により、 口分田(くぶんでん)を支
給され、 租庸調などを負担した。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 「律令制度」の「公地公民制」 が、 衰えて、 「荘園制」の「荘園・
公領二重統治体制」 が、 始まる。
● 7世紀後半から始まった「律令制度」の、「公地公民制」 は、 大
土地私有の発生と農民の過重な負担に対する抵抗により、 平安時
代中期の10世紀頃に、急速に崩壊し、やがて、10世紀後半に、「荘
園制」が出現し、 「荘園・公領二重統治体制」 に移行した。
● 律令制度 に関しては、 日本史辞典の 『 律令制度 (りつり
ょうせいど) 』 の項目を 参照して下さい。
■ (T2) ⇒ (T3) 大土地私有の発生と農民の過重な負担に対する
抵抗により、 平安時代中期の10世紀頃に、急速に崩壊し、やがて、
10世紀後半に、「荘園制」が出現し、 (T2) 公地公民制 (7〜10世
紀) は、 (T3) 荘園・公領制 (=荘園・公領二重統治体制) (10
〜16世紀) に移行する(へ変わる)。
■ (T) 日本の土地人民統治制度。
(T1) 豪族土地人民支配制 (5〜7世紀) ⇒ (T2) 公地公民制
(7〜10世紀) ⇒ (T3) 荘園・公領制 (10〜16世紀) ⇒ (T4)
大名領国制 (16〜19世紀) ⇒ (T5) 近代制限議会内閣制 (19
〜20世紀) ⇒ (T6) 現代国民主権民主制(20〜21世紀の現在)。
● 上記項目の詳細に関しては、 当日本語辞典の各項目を参照して下
さい。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
■ 公武合体派
(こうぶがったいは)。
■ 公武合体派。
■ 名称 : 公武合体派 (こうぶがったいは)。
■ 時期 : 1860年〜1866年。
■ 公武合体論を唱(とな)えた人(者) または、 公武合体運動 (幕末に、
朝廷と幕府が協力して日本統治を行おうとする政治運動) をした人(者)。
■ 公武合体派の人物の例 : 幕府老中・安藤信正 (あんどうのぶまさ)、
孝明(こうめい)天皇 (在位1846〜66年、攘夷派、公武合体派)、 土佐
藩主の山内容堂(ようどう)、 越前藩主の松平 春嶽(しゅんがく)、 土佐藩
士の坂本龍馬 (さかもとりょうま)、 公家の、岩倉 具視 (いわくらともみ)、
薩摩藩国主(薩摩藩主・島津忠義の父)の島津久光 (しまづひさみつ)。
■ 公武合体論 とは、朝廷と幕府の融和策で、 朝廷と幕府との提携により
日本の政局を安定させようという主張。 1860年(万延元年)の桜田門外の
変後の幕府権威の補強のため唱(とな)えられた。
■ 1860年(万延元年)より、 幕府 は、公武合体の政策をとり、 公武合
体の証(あかし)として、 朝廷の和宮 (かずのみや、孝明天皇の腹違いの
妹) が、 江戸幕府14代将軍・徳川家茂 (いえもち)の正室(夫人) とな
った (1862年(文久2年)2月に)。
■ 公武合体派 (こうぶがったいは,1860年〜1866年) とは、 公武合
体論を唱(とな)えた人(者)(主張した人(者))、 または、 公武合体運動
(幕末に、朝廷と幕府が協力して日本統治を行おうとする政治運動) を行
った人(者) である。
■ 公武合体派の人物には、 幕府老中・安藤信正 (あんどうのぶまさ)、孝
明(こうめい)天皇 (在位1846〜66年)、 土佐藩主の山内容堂 (ようど
う)、 越前藩主の松平 春嶽(しゅんがく)、 土佐藩士の坂本龍馬 (さかも
とりょうま)、 公家の、岩倉 具視 (いわくらともみ)、 薩摩藩国主(薩摩藩
主・島津忠義の父)の島津久光 (しまづひさみつ) などがいる。
● 公家の、岩倉 具視 (いわくらともみ)、 薩摩藩国主(薩摩藩主・島津忠
義の父)の島津久光 (しまづひさみつ)は、後に、倒幕派へ転向する。
● 公武合体派の、土佐藩主の山内容堂(ようどう)、 越前藩主の松平 春嶽
(しゅんがく)、 土佐藩士の坂本龍馬 (さかもとりょうま) は、後に、 公議
政体派(1866〜68年)へ移行する。
● 孝明(こうめい)天皇 (在位1846〜66年) は、1866年に死去する。
■ 公武合体論 とは、朝廷と幕府の融和策で、 朝廷と幕府との提携により
日本の政局を安定させようという主張 である。 1860年(万延元年)の桜
田門外の変後の幕府権威の補強のため唱(とな)えられた。
■ 1860年(万延元年)より、 幕府老中・安藤信正(あんどうのぶまさ)によ
り、 幕府 は、公武合体の政策をとり、 公武合体の証(あかし)として、朝
廷の和宮 (かずのみや、孝明天皇の腹違いの妹) が、 江戸幕府14代
将軍・徳川家茂(いえもち)の正室(夫人) となった (1862年(文久2年)
2月に)。
■ 1862年(文久2年)2月に、 公武合体の証(あかし)として、朝廷の天皇
の妹の和宮(かずのみや) と 江戸幕府の将軍の徳川家茂(いえもち) が、
婚儀を結ぶ (政略結婚をする)。
■ 孝明 天皇
(こうめい てんのう)。
■ 孝明 天皇。
■ 生没年 : 1831年〜1866年。
■ 名称 : 孝明天皇 (こうめいてんのう)。
● 別名 : 統仁(おさひと)天皇。
● 天皇在位前の名は、 熙宮 統仁親王 (ひろの
みや おさひとしんのう)。
● 孝明(こうめい) は、 贈名 (おくりな、諡号(し
ごう))。 贈名 (おくりな、諡) とは、 人の死後
に贈る称号。
● 諱(いみな、個人名の実名)は、 統仁(おさひと)。
● 御称号(ごしょうごう、幼少時の皇族の名称) は、
熙宮 (ひろのみや)。
■ 孝明 天皇 の在位 : 1846年〜1866年。
■ 公武合体派の天皇。
■ 幕末の天皇で、 夷狄(いてき、外国)嫌いの天皇、
攘夷派の天皇。
● 攘夷 (じょうい) とは、 外国を武力で追い払う
ことである。
■ 和宮(かずのみや)の腹違いの、兄。
■ 父 は、 仁孝(にんこう)天皇 (生没年1800−
1846年)。
■ 子 は、 睦仁(むつひと)天皇 (明治天皇) 。
■ 母(生母) は、 正親町雅子(新待賢門院)、仁孝
(にんこう)天皇の側室で、 典侍(てんじ、天皇の
後宮の高級女官)。
■ 妻(側室) は、中山慶子 (なかやまよしこ、1835
−1907年)で、 典侍(てんじ、天皇の後宮の高級
女官) で、 睦仁(むつひと)天皇(明治天皇)の生
母。
● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。
■ 孝明天皇 は、 公武合体派の天皇 で、 江戸幕
府を擁護し武力倒幕には反対の立場をとり、 尊王
倒幕派 とは対立した。
■ 孝明天皇 は、 幕末の天皇で、 夷狄(いてき、外
国)嫌いの天皇で、攘夷派の天皇 であった。
攘夷 (じょうい) とは、 外国を武力で追い払う
ことである。
■ 幕末の天皇。
● 孝明(こうめい)天皇 は、 公武合体派 と 尊皇攘夷派の勢力には
さまれて苦慮し、 幕府に攘夷(じょうい、外国を追い払うこと)を催促し
ながらも、 常に江戸幕府を支持し、 尊王攘夷の急進派の抑制に努め
たが、 1866年に、急死する。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 孝明天皇 の在位 は、 1846から1866年まで である。
■ 孝明天皇 (こうめいてんのう、生没年 1831〜1866年) は、別
名は、統仁(おさひと)天皇 で、 天皇在位前の名は、 熙宮統仁親王
(ひろのみやおさひとしんのう) である。
● 孝明天皇の、 諱(いみな、個人名の、実名)は、 統仁(おさひと)で
あり、 御称号(ごしょうごう、幼少時の皇族の名称) は、 熙宮 (ひろ
のみや) である。
● 統仁(おさひと)天皇の、贈名 (おくりな、諡号(しごう)) は、 孝明
(こうめい) である。 贈名 (おくりな、諡) とは、 人の死後に贈る称
号 である。
■ 孝明天皇 は、 和宮(かずのみや)の腹違いの、兄 である。
■ 孝明天皇の 父 は、 仁孝(にんこう)天皇(生没年1800−1846
年) である。
● 孝明天皇は、仁孝(にんこう)の第四皇子 である。
■ 孝明天皇の 子 は、 睦仁(むつひと)天皇(= 明治天皇) である。
■ 孝明天皇の 母(生母) は、 正親町雅子(新待賢門院)で、仁孝(に
んこう)天皇の側室で、 典侍(てんじ、天皇の後宮の高級女官) であっ
た。
■ 孝明天皇の 妻(側室) は、 中山慶子 (なかやまよしこ、1835−
1907年)で、 孝明天皇の典侍(てんじ、天皇の後宮の高級女官) で、
睦仁(むつひと)天皇(明治天皇)の生母 である。
■ 孝明天皇までの歴代天皇 は、 元号以外の、諡号 (しごう、諡(し、
おくりな、贈名、死後の贈り名) をもつ、天皇 である。 睦仁(むつひ
と)天皇(明治天皇)以後は、 元号を、 諡号 (しごう、諡(し、おくりな、
贈名、死後の贈り名) としている。
睦仁(むつひと)天皇(明治天皇)以後の天皇の追号 も、 諡号(し
ごう、贈名)の一種とする場合もあるが、 厳密には異なる。
● 諡号(しごう、諡(し、おくりな)、贈名) は、主に、貴人が死後に贈ら
れる称号 で、 生前の事績への評価に基づく名 のことである。
♪♪ 孝明(こうめい)天皇 が登場する、興味深い、ドラ
マ、映画、ドキュメンタリー。
★ 孝明(こうめい)天皇 が登場する、興味深い、ドラマ、
映画。
● (注意) ドラマ、映画 は、フィクションであり、 史実(歴史上の事実)
と 架空の出来事 が、 混じって、描かれています。 また、現代風に
アレンジしてあります。
■ 『 篤姫 (あつひめ) 』 (NHK2008年大河ドラマ)。
● 孝明天皇を演じた俳優名 : 東儀秀樹。
『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』
以 上