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KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY HANDBOOK.
カナヤマ 日本歴史 辞典
日本語版
見出し語 『 お 』
No.1015。
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□ 日本史 辞典 (総合)。
□ お ● 事柄順。
〇 おご お江 (おごう) 、小督 (おごう)
(落飾後)崇源院 すうげんいん) 。
(1573〜1626年)。
○ 江戸幕府・第2代将軍・
徳川秀忠の正室夫人。
○ 3代将軍・徳川家光の生母。
○ 浅井三姉妹の一人。
○ 淀殿の妹。
〇 おご お江 (おごう、お江与、崇源院)
〇 おご お江 (おごう、お江与、崇源院)
(おごう かんりゃくねんぴょう)。
(⇒ 日本史年表) 。
〇 おご お江 (おごう、お江与、崇源院)
(おごう しょうさいねんぴょう)。
(⇒ 日本史年表) 。
○ 上記は、 上野樹里(うえのじゅり)の演じる、 お江
(おごう、小督(おごう)、お江与(おえよ)、崇源院(す
うげんいん))。
○ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国 』 (NHK2011年大河
ドラマ)のドラマPR壁紙。
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■ 『 現在は、過去の成果であり、
未来は、現在の成果である。 』
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◆ 日本史辞典
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■ お江、小督
(おごう) (おごう)。
■ お江(おごう)、小督(おごう)。
■ 生没年 : 1573年(元亀4年)〜1626年(寛永3年)。
■ 名称 : お江 (おごう)、 小督 (おごう)。
● 別名: 江 (ごう) 、 督 (ごう)、 お江与 (おえよ 、徳川秀
忠の夫人後)、 崇源院 (すうげんいん、落飾(出家)後) と称
す。
● 諱 (いみな) : 達子 (さとこ、 死後、従一位となり、その際、
朝廷から賜(たまわ)った名)。
● 正式名 : お江(おごう、於江)の方、 お江与(おえよ、於江
与)の方、 浅井 江(あざい ごう), 浅井 達子(あざい さとこ)。
(注意) 前近代日本の人名。
○ 前近代日本では、女性は10代が結婚適齢期。
○ 前近代日本では、改名自由。上層者は、複数自己名所持。
○ 前近代日本では、父系一族名中心。
○ 前近代日本では、女性は、通常、個人名のみで自他呼称。
○ 前近代日本では、夫婦別姓。
■ 江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠の正室・夫人。
■ 豊臣秀吉の側室・夫人の淀殿の、妹。
■ 近江(おうみ、滋賀県)の戦国大名・浅井長政 と 織田信長の
妹・お市(おいち) との間に生まれた、三女。
■ 浅井3姉妹 (浅井長政の3人の娘、 茶々 (ちゃちゃ、淀殿)、
初 (はつ、常高院)、 江 (ごう、小督(おごう)、お江与(おえよ)、
崇源院(すうげんいん)) 即ち、戦国のセレブ三姉妹 の一人。
□ 小谷城 画像アルバム No.1。
崇源院)。
□ 世継ぎをめぐる、女の戦い。
■ 江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の正室・夫人である、お江(おごう)
は、 5つの顔を持っている。
● 「織田信長の姪(めい)」、 「豊臣秀吉の養女」、 「徳川家康の
義理の娘」、 「3代将軍・徳川家光の母」、 「明正天皇の祖母」。
■ 2度の落城で父母を失った後、 豊臣秀吉の庇護(ひご)を受け
る。 最初の夫の佐治一成と離縁、再婚の夫の豊臣秀勝と死別し、
再々婚の夫の徳川秀忠との間に、徳川家光、千姫、和子など2男
5女をもうけた。
■ 小谷城(おだにじょう)落城時・父の浅井長政を失い、 北庄城
(きたのしょうじょう)落城時・母のお市を失う。
■ 3度の政略結婚をした女性。
■ 第一番目の夫の佐治 一成 (さじ かずなり)とは、離縁させら
れる (佐治一成の夫人の時期:1584年)。
12歳頃、婚儀を結ぶ。
■ 第ニ番目の夫の豊臣 秀勝 (とよとみ ひでかつ、羽柴秀勝(は
しばひでかつ))とは、死別する (朝鮮戦役の文禄の役中病死)
(豊臣(羽柴)秀勝の夫人の時期:1592年)。
20歳頃、婚儀を結ぶ。
■ 第三番目の夫の徳川秀忠(ひでただ)とは円満で、 江戸幕府
2代将軍・徳川秀忠の正室 ・夫人となり、 秀忠との間に2男5女
をもうける (徳川秀忠の夫人の時期:1595年〜1626年)。
23歳頃、婚儀を結ぶ。
■ 子 は、 2男6女をもうけた。 豊臣秀勝との間に、 完子(さだ
こ)をもうけ、 徳川秀忠との間に、千姫(せんひめ)、 珠姫(た
まひめ)、 勝姫(かつひめ)、 初姫(はつひめ)、 徳川家光(と
くがわいえみつ)、 徳川忠長(とくがわただなが)、 和子(かず
こ、まさこ) をもうけた。
■ お江(小督)(おごう)の娘である、千姫(せんひめ) は、 豊臣
秀頼 (豊臣秀吉の実子) の正室 ・夫人 となる。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ お江(小督)(おごう)の娘である、和子(かずこ、まさこ) は、後
水尾天皇(ごみずのおてんのう)の中宮(ちゅうぐう、夫人)となり、
後に、明正(めいしょう)天皇(在位1629〜43年、女帝)の生母と
なる。
■ お江(小督)(おごう)の男子である、徳川家光は、江戸幕府 3
代将軍 となる。
● お江(小督)(おごう) は、 江戸幕府・3代将軍・徳川家光の生
母となる。
■ お江(小督)(おごう)は、 徳川家康より任命された、徳川家光
の乳母(うば) のお福(おふく、春日局) と対立し 、 家光の弟の
徳川忠長 (駿府城主) を偏愛した。
○ 上記は、 上野樹里(うえのじゅり)の演じる、 お江
(おごう、小督(おごう)、お江与(おえよ)、崇源院(す
うげんいん))。
○ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国 』 (NHK2011年大河
ドラマ)のドラマPR壁紙。
■ お江(おごう、お江与、崇源院) は、近江(おうみ)の戦国大名・浅
井長政 と 織田信長の妹・お市 との間に生まれた、 女性 である。
■ お江(お江与、崇源院) は、 近江(おうみ、滋賀県)の戦国大名、
浅井長政の三女 で 、 織田信長の姪(めい) である。
■ お江(お江与、崇源院) は、 豊臣秀吉の側室(夫人)の淀殿の、
妹 である。
■ お江(お江与、崇源院) (おごう、生没年1573〜1626年) は、
浅井長政の三女で、 徳川秀忠の正室・夫人 であった。
■ お江(お江与、崇源院) は、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠の御
台所(みだいどころ、将軍正室) である。
■ お江(お江与、崇源院) は、 安土桃山時代、江戸時代初期の女
性で、 江戸幕府・第2代将軍・徳川秀忠(ひでただ)の 正室・夫人
で、 忠秀の男子、江戸幕府・第3代将軍・徳川家光の生母 である。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ お江(お江与、崇源院)は、5つの顔をもっている。
● 江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の正室・夫人である、 お江(おごう、
お江与、崇源院) は、 「織田信長の姪(めい)」 であり、 「豊臣秀
吉の養女」 であり、 「徳川家康の義理の娘」 であり、 「3代将軍・
徳川家光の母」 であり、 「明正天皇の祖母」 という5つの顔を持つ
女性 でもある。
■ 「織田信長の姪(めい)」
● お江(お江与、崇源院)の母のお市 は、 織田信長の妹であり、お
江(お江与、崇源院) は、 織田信長の姪(めい) である。
■ 「豊臣秀吉の養女」
● お江(お江与、崇源院) は、豊臣秀吉やねねにかわいがられ、豊
臣秀吉の養女になり、 豊臣秀吉の命(めい)で、 豊臣秀吉の娘とし
て、徳川秀忠に嫁いでいる。 お江(おごう、お江与、崇源院)は、「豊
臣秀吉の養女」 である。
■ 「徳川家康の義理の娘」
● お江(お江与、崇源院) は、 徳川家康の三男の徳川秀忠の正室
・夫人となり、 徳川家康 は、 お江(お江与、崇源院) の義父 とな
り、 お江(お江与、崇源院) は、 「徳川家康の義理の娘」 である。
■ 「3代将軍・徳川家光の母」
● お江(お江与、崇源院) は、 江戸幕府2代将軍の徳川秀忠との
間に、 徳川家光をもうけ 、 家光が3代将軍となる。 お江(お江与、
崇源院) は、 「将軍の母」 である。
■ 「明正天皇の祖母」
● お江(お江与、崇源院)と徳川秀忠との娘の和子 (まさこ、かずこ)
は、 後水尾(ごみずのお)天皇の中宮(ちゅうぐう、夫人)となり、 和
子は、 後水尾天皇との間に、娘をもうけ、 次期天皇の明正(めいし
ょう)天皇(在位1629〜43年、女帝) となる。 お江 (お江与、崇源
院)は、 「天皇の祖母」 である。
■ お江(お江与、崇源院)の氏名。
■ お江(おごう、お江与、崇源院) は、 生没年は、1573年(天正
元年)〜1626年(寛永3年) で、 別名は、 江 (ごう)、 督 (ご
う)、 お江与 (おえよ、徳川秀忠の夫人後)、 崇源院 (すうげん
いん、落飾(出家)後) と称す。
● お江(お江与、崇源院) の別名の、 達子 (さとこ) は、 朝廷
より賜(たまわ)った名 (死後、朝廷より従一位を賜った際に、授か
った名) で、 諱(いみな)であり、 公(おおやけ)の場面、公文書
でのみ使用された。
● お江(お江与、崇源院) の正式名は、 お江(おごう、於江)の方、
お江与(おえよ、於江与)の方、 浅井 江 (あざい ごう)、 浅井 達
子 (あざい さとこ) である。
(注意) 前近代日本の人名。
○ 前近代日本では、改名自由。上層者は、複数自己名所持。
○ 前近代日本では、父系一族名中心。
○ 前近代日本では、女性は、通常、個人名のみで自他呼称。
○ 前近代日本では、結婚相手は、家長や親が決めること多し。
○ 前近代日本では、夫婦別姓。
■ お江(お江与、崇源院)の父母の死と落城。
■ お江(おごう、お江与、崇源院) は、 浅井3姉妹 (浅井長政の
3人の娘、茶々(ちゃちゃ、淀殿)、 初 (はつ、常高院)、 江 (ご
う、お江与、崇源院))の 一人 である。
■ お江(お江与、崇源院) は、 2度の憂き目(うきめ)にあう。即
ち、1度目は小谷城(おだにじょう)落城時父・浅井長 政(あざい
ながまさ)を失い(乳児時)、 2度目 は、北庄城(きたのしょうじょ
う)落城時母・お 市(おいち)を失う(少女時)。 その後、 お江(お
江与、崇源院) は、3回結婚する。 即ち、 1度目は夫の佐治一
成とは 離縁となり、2度目は夫の豊臣秀勝とは死別し、 そして、
3度目は夫の徳川秀忠の正室の夫人となり、 2男5女をもうける。
■ お江(お江与、崇源院) は、小谷城(おだにじょう)落城時の父
・浅井長政 自害 と 北庄城(きたのしょうじょう)落城時の母・お
市自害 の憂き目(うきめ)にあう。
● 1573年(元亀4年)に、 父・浅井長政の小谷城 は、秀吉の指
揮する織田軍に攻められて、 父・浅井長政は自害し、炎 の中で、
母・お市は、 乳児のお江(小督)を含めた浅井3姉妹を連れて、
小谷城から落ちのびる。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
● 1583年(天正11年)に、母・お市の2番目の夫の柴田勝家の
北庄城 (きたのしょうじょう) は、 秀吉の指揮する羽柴軍(豊臣
軍)に攻められて、 母・お市は自害し、 炎の中で、 少女のお江
(お江与、崇源院)を含めた浅井3姉妹は、北庄城から落ちのびる。
■ お江(お江与、崇源院)の子供達。
■ お江(おごう、お江与、崇源院) は、2男6女をもうけた。 豊臣
秀勝との間に、完子(さだこ)をもうけ、 徳川秀忠との間に、千姫
(せんひめ)、 珠姫(たまひめ)、 勝姫(かつひめ)、 初姫(はつ
ひめ)、 徳川家光(とくがわいえみつ)、 徳川忠長(とくがわただ
なが)、 和子(まさこ、かずこ) をもうけた。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
● お江(お江与、崇源院) は、 2男6女をもうけた。 豊臣秀勝と
の間 に、完子 (さだこ、1592−1658年)をもうけ、 徳川秀忠
との間に、千姫 (せんひめ、秀忠長女、1597−1666年)、 珠
姫 (たまひめ、秀忠次女、1599−1622年)、 勝姫 (かつひめ、
秀忠三女、1601−72年)、 初姫 (はつひめ、秀忠四女、16
02−30年)、 徳川家光 (とくがわいえみつ、 秀忠次男、1604
−51年)、 徳川忠長 (とくがわただなが、 秀忠三男、1606−
33年)、 和子 (かずこ、まさこ、徳川和子、秀忠五女、1607−
78年) をもうけた。
■ 3度の政略結婚をした、お江(お江与、崇源院)。
■ お江(おごう、お江与、崇源院) は、 1番目の夫・佐治一成とは
離縁し、 2番目の夫・豊臣秀勝とは死別し、 3番目の夫・徳川秀忠
とは円満な後半生を送る。
● お江(お江与、崇源院) は、 1番目の夫・佐治一成 (さじかずな
り)に1584年に嫁ぎ同年離縁し、 2番目の夫・豊臣秀勝(とよとみ
ひでかつ)に1592年に嫁ぎ同年死別し、 3番目の夫・徳川秀忠(と
よとみひでただ)に1595年に嫁ぎ、 円満な生活、後半生を送り、
1626年に生涯を終えた。
■ 現在の日本では、結婚の9割が、2人の本人の意思で結婚する恋
愛結婚であるが、 安土桃山時代・江戸時代初期の当時の政略結婚
では、男女本人の意思に関係なく、両家の家父長が、結婚を決めて、
結婚し、結婚当日に結婚相手に初めて会うことも多かった。 お江(お
江与、崇源院)も、 秀吉の命(めい)で、そのような政略結婚を、3度、
行った。
■ お江(おごう、お江与、崇源院)の第一番目の夫 は、 佐治一成
(さじ かずなり)であり、 離縁となった。
● お江(お江与、崇源院)の第一番目の夫 は、 佐治一成(さじ か
ずなり) である (佐治一成の夫人の時期:1584年)。
● お江(お江与、崇源院) は、 1584年(天正12年)に、羽柴秀吉
(豊臣秀吉)の命(めい、計らい、仲介)で、 母・お市の姉(お犬の方・
織田信長の妹)の子の、佐治一成と婚儀を結ぶ(に嫁ぐ)。 12歳頃、
婚儀を結ぶ。
● 佐治一成 は 1584年に、 秀吉と対立したため、お江(お江与、
崇源院)お江(小督)は、 秀吉により 離縁させられた。
■ お江(お江与、崇源院)の第ニ番目の夫 は、 豊臣秀勝 (とよと
みひでかつ、羽柴秀勝(はしばひでかつ)) であり、 朝鮮戦役中に
病死し、死別となった。
● お江(お江与、崇源院)の第ニ番目の夫 は、 豊臣秀勝(とよと
みひでかつ、羽柴秀勝(はしばひでかつ))である (豊臣秀勝の夫人
の時期:1592年)。
● お江(お江与、崇源院)は、 1592年(文禄元年)に、 豊臣秀吉
の 命(めい、計らい、仲介 )で、 豊臣秀勝と婚儀を結ぶ(に嫁ぐ)。
20歳頃、婚儀を結ぶ。
● 豊臣秀勝 は、1592年に、 朝鮮戦役の文禄の役(ぶんろくの
えき、1592年〜1593年)で出陣中に病死し、 お江(お江与、崇
源院)は、 夫と死別した。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
● 秀勝とお江(お江与、崇源院)との間には娘の完子(さだこ、1592
〜1658年)がいたが、 秀勝死後、 完子は、姉の淀殿に養育され、
後に、公家の九条忠栄(幸家)に嫁いだ。
■ お江(お江与、崇源院)の第三番目の夫 は、 徳川 秀忠(ひでた
だ)であり、 秀忠とは円満で、秀忠との間に2男5女をもうけ、 平穏な
後半生を送り、 1626年に生涯を終えた。
● お江(お江与、崇源院)の第三番目の夫 は、 徳川秀忠 (とくが
わひでただ、江戸幕府2代将軍) で ある (徳川秀忠の夫人の時期:
1595〜1626年)。
● お江(お江与、崇源院) は、1595年(文禄4年)に、 豊臣秀吉の
命(めい、計らい、仲介)で、 徳川秀忠と婚儀を結ぶ(に嫁ぐ)。23歳
頃、婚儀を結ぶ。
● 徳川秀忠 は、 徳川家康の三男で、 徳川宗家(本家)の家督を
継ぎ、江戸幕府2代将軍となり、 お江(お江与、崇源院) は、 幕府
2代将軍の徳川秀忠の正室・夫人 となった。
● お江(お江与、崇源院) は、 徳川 秀忠(ひでただ)とは円満で、
子宝に恵まれ、 秀忠 との間に、2男5女をもうけた。 千姫(せんひ
め)、 珠姫(たまひめ)、 勝姫(かつひめ)、 初姫(はつひめ)、徳
川家光(とくがわいえみつ)、 徳川忠長(とくがわただなが)、 和子
(かずこ、まさこ) である。
#ogo-motherofshoguntokugawaiemitsu
■ 将軍の生母であった、お江(お江与、崇源院)。
■ お江(おごう、お江与、崇源院)の男子である、徳川家光 (とくが
わいえみつ) は、 江戸幕府3代将軍 となる。
● お江(お江与、崇源院) は、 江戸幕府・3代将軍・徳川家光の生
母となる。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
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■ 豊臣秀頼の義母であった、 お江(お江与、崇源院)。
■ お江(お江与、崇源院)の娘である、千姫 (せんひめ)は、 豊臣
秀頼の正室・夫人 となる。
#ogo-motherinlawofgomizunooemperor
■ 天皇の義母、祖母であった、 お江(お江与、崇源院)。
■ お江(おごう、お江与、崇源院)の娘である、和子 (かずこ、まさこ)
は、後水尾(ごみずのお)天皇の中宮(ちゅうぐう、夫人)となり、 後
に、明正(めいしょう)天皇(在位1629〜43年、女帝)の生母となる。
#ogo-squarrelingwithkasuganotsubone
■ 世継ぎをめぐる、女の戦い。
● お江(おごう、お江与、崇源院) は、 徳川家康より任命された、
徳川家光の乳母(うば)のお福 (おふく、春日局) と対立した。
● お江(お江与、崇源院) は、 夫の将軍・徳川秀忠との間に2人の
男子、 家光(いえみつ)と 忠長(ただなが)をもうけたが、 お福( おふ
く、春日局、家光の乳母)の権力拡大を阻止するため、 お福になつ
く「家光」より、 伯父(おじ)の織田信長に似ていて、自分になつく「忠
長」(家光の弟、駿府城主)を、可愛(かわい)がり、重んじた。
■ お江(お江与、崇源院)の墓。
■ お江(おごう、お江与、崇源院)の墓所は、 東京(江戸)の徳川家
菩提寺の1つの、 芝・増上寺 にある。
□ お江 (お江与、崇源院) の宝塔 (増上寺・徳川家霊廟内)。
♪♪ お江(お江与、崇源院) が登場する、興
味深い、ドラマ、映画、ドキュメンタリー。
★ お江(おごう、小督、お江与、崇源院) が登
場する、興味深い関連ドラマ、映画。
● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。
歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) と
架空の出来事 が 混じって描かれています。
また、 現代風にアレンジしてあります。
■ 『 真田丸 (さなだまる) 』 。
(NHKテレビ・2016年大河ドラマ)。
■ 日本の安土桃山時代や江戸時代初期の時代
を描く。
■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』。
(NHKテレビ・2011年大河ドラマ)。
■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、
江戸時代初期を描く。
● お江(小督)(おごう)を演じる俳優名 :
上野 樹里 (うえの じゅり) 。
■ 『 寧々〜おんな太閤記 (ねね おんなたいこうき) 』
(日本の2009年製作テレビ東京・テレビドラマ)。
● お江(小督)(おごう)を演じた女優名 : 高橋かおり。
■ 『 天下騒乱〜徳川三代の陰謀 (てんかそうらん〜と
く がわさんだいのいんぼう) 』 (日本の2006年製作テレビ東京
・テレビドラマ)。
● お江(小督)(おごう)を演じた俳優名 : かたせ 梨乃 (かたせ
りの)。
■ 『 大奥・第一章 (おおおく だいいっしょう) 』 (日本の
2004・2005年製作フジテレビ・テレビドラマ)。
● お江(小督)(おごう)を演じた俳優名 : 高島礼子 。
● 初代将軍家康、2代将軍秀忠、3代将軍家光の時代 と その時
代の大奥を描いたドラマ。 松下由樹、高島礼子、瀬戸朝香 など
が出演。
の先頭ページへ 。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
■ お江(おごう) 関連出来事
(おごうかんれんできごと)。
■ お江(おごう)関連出来事(年代順・詳細)。
□ お江(おごう)の生涯。
◆ お江 (おごう)の生涯。
■ 1573(天正元年)に、 お江(おごう) は、 父の浅井長政の近江
(おうみ、滋賀県)の小谷城(おだにじょう)で、生まれる。
■ 近江(おうみ、現在の滋賀県)の戦国大名の、浅井長政 は、156
4年、織田信長と同盟を結び、1567年(永禄10年)、同盟を強固に
するため、 織田信長の妹のお市と政略結婚した。 しかし、後に、
1570年(元亀(げんき)元年)、信長が、浅井氏と関係の深い朝倉義
景を攻めたため、 浅井長政 は、信長と決裂し、1573年(天正元
年)に、戦い、敗れて、自害し、浅井氏は、1573年に、滅亡した。
@ 1564年(永禄7年)の、浅井家と織田家の同盟は、「 同盟がある
限り、織田は朝倉に進軍せず、どのような事態でも朝倉に進軍する時
は必ず一報をいれる」という条件を付した同盟 であった。
A 1570年(元亀元年)に、信長は、長政と交わした「朝倉への不戦
の誓い」を破り、徳川家康と共に、越前の朝倉方の城を攻め始めた。
浅井は、朝倉との同盟関係を重視し、 織田・徳川軍を背後から急襲
した。 信長は、苦戦しながら、近江を脱出した(金ヶ崎の退き口)。
B 1573年(元亀4年)、信長は、北近江に攻め寄せ、 小谷城を囲
んだ。 お市は、 長政と運命を共にする覚悟であったが、 長政に
諌(いさ)められて、 お市は、浅井三姉妹を連れて、 小谷城を脱出
し、 信長の元へ落ちのびた。
■ お市の夫・浅井長政が、お市の兄・織田信長に敵対する。
● 1573年(元亀4年)に、 浅井長政の小谷城(おだにじょう) が、
織田信長(配下の豊臣秀吉)の軍勢に攻められ、 落城すると、3人
の娘 (茶々(淀殿)・初・江の浅井三姉妹) は、母・お市と共に、城
を落ちのびる。
● このとき、 父・浅井長政、祖父の浅井久政は、 自害し、長政の
先妻の子で腹違いの兄の万福丸 (お市の子という説もある) は、
捕らえられ、 信長の命で秀吉により処刑される。
■ 1573年(元亀4年)の小谷城落城時、 父・浅井長政は 自害し、
小谷城落城後、 お市と3人の娘 (茶々(淀殿)・初・江(ごう)の浅
井三姉妹) は、以後、 織田家の庇護(ひご)をうける。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1573年の小谷城落城後、 お市と3人の娘 (茶々(淀殿)・初・
江の浅井三姉妹) は、 主に、伊勢で暮す。 お市と3人の娘 は、
1574年頃より1582年までの足掛け約9年間、 織田信長の弟(お
江の叔父)の織田信包(のぶかね) の保護を受け(に預けられて)、
伊勢にて、平穏に過ごした。
● 織田信包(のぶかね) は、 織田信長の弟で、 織田信長の軍が
伊勢の一向一揆(1570〜74年)を平定後、 1574年頃から1594
年まで、伊勢の領主となり、 1574年頃から1580年まで、伊勢の
上野城を居城とし、1580年から1594年まで、伊勢国の津城(つじょ
う、安濃津城(あのつじょう))を居城とした。 1574年頃から1582
年まで、 お市と3人の娘は、 織田信包とともに、伊勢の上野城や安
濃津城(津城)で暮し、生活した。
■ 1582年(天正10年)に、 本能寺の変で織田信長の死去後、お
市が、 織田家重臣の柴田勝家と再婚すると、 3人の娘 (茶々
(淀殿)・初・江(ごう)の浅井三姉妹) は、 母・お市と共に、越前
(えちぜん、福井県東部)の北庄城(きたのしょうじょう、福井市)へ
移る。
■ 1583年(天正11年)4月に、 柴田勝家の北庄城が、 羽柴秀吉
(豊臣秀吉)の軍勢に攻められ、 柴田勝家と お市が自害し、 落
城時、お市の3人の娘 (茶々(淀殿)・初・江(ごう)の浅井三姉妹 )
は、逃がされ、城を落ちのびる。
■ 1583年(天正11年)の北庄城落城時、 母・お市は自害し、 北
庄城落城後、お江( おごう) は、以後、 羽柴家(豊臣家)の庇護(ひ
ご)を受ける。
● 北庄城落城後、 お市の3人の娘 (茶々(淀殿)・初・江(ごう) の
浅 井三姉妹) は、 織田長益(ながます、織田有楽斎、お江の叔父)
や 京極龍子(竜子、きょうごくたつこ、お江のいとこ) らの保護を受
けた (後見のもとにいた)。
● 浅井三姉妹の叔父(おじ)の織田 長益(有楽斎) や 浅井三姉妹
のいとこの京極龍子(竜子) は、 1583年の北庄城(きたのしょじょ
う)落城後、 浅井三姉妹(茶々、初、江)を、保護し、 三姉妹各自が
独立するまでの間、世話をしている。
● 織田長益 (おだ ながます、織田有楽斎(うらくさい)、1547〜1
622年) は、 織田信長の弟で、 織田氏の血筋で、 1582年の本
能寺の変後、 織田信雄(のぶかつ)に仕(つか)え、 1590年の信
雄改易後は、 豊臣秀吉の御伽衆 (おとぎしゅう、政治・軍事相談
役) であり、 茶々(淀殿)・初・江(ごう)の浅井三姉妹を保護、後見
した。
● 京極龍子 (竜子、きょうごく たつこ、生年不詳〜1634年) は、
龍子の母が 浅野久政(浅野長政の父)の娘の京極マリアで、 浅野
氏の血筋で、 豊臣秀吉側室夫人・松の丸殿であり、 茶々(淀殿)・
初・江(ごう)の浅井三姉妹を保護、後見した。
■ 1584年(天正12年)に、豊臣秀吉の命(めい)で、 お江( おごう)
は、佐治一成 (さじ かずなり) に 嫁(とつ)ぐ。 しかし、同年に離
縁となる。
■ 1592年(文禄元年)に、豊臣秀吉の命で、お江( おごう) は、豊臣
秀勝(とよとみひでかつ、羽柴秀勝(はしばひでかつ)) に嫁(とつ)ぐ。
しかし、豊臣秀勝は、1592年に、 朝鮮戦役の文禄の役(ぶんろ
くのえき、1592年〜1593年)で出陣中に病死し、お江( おごう) は、
夫の秀勝と死別する。
● 豊臣秀勝とお江との間には娘の完子(さだこ)がいた 。 秀勝死後、
妊娠していた、お江 ( おごう) は、 姉の淀殿のもとで、完子(さだこ)
を生んだ。
完子(さだこ)は、 母・お江(おごう)の徳川秀忠再婚に伴い、 母
・お江( おごう)の姉の淀殿に養育され、 後に、完子(さだこ)は、公
家の九条忠栄(くじょうただひで、後の幸家 (ゆきいえ)) に嫁(とつ)
いだ。
■ 1595年(文禄4年)に、豊臣秀吉の命で、 お江( おごう) は、 秀
吉の養女として、 徳川秀忠(とくがわ ひでただ) に 嫁(とつ)ぐ。
婚儀(結婚 )後、 江(ごう) は、 徳川秀忠との間に、 2男5女をも
うける。
● お江(おごう)は、江戸幕府3代将軍・徳川家光の実母であるが、 江
戸幕府(徳川宗家)の初代(家康)から15代(慶喜)までの御台所 (み
だいどころ、将軍の正室・夫人)の中で、 将軍の実母となったのは、お
江(おごう) のみである。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1615年(慶長20年)の大阪の夏の陣で豊臣家が滅亡し、姉の淀
殿(茶々)を失った後は、 お江( おごう) は、 姉のお初(おはつ、常
高院)と よく会っていた。
■ お江( おごう) は、 1626年(寛永3年)に、 江戸城で、死去する。
この時、 夫の徳川秀忠や子の徳川家光、忠長 は、上洛中であ
った (京(都)滞在中であった)。
■ お江( おごう)の墓所は、 徳川家菩提寺の1つの、芝・増上寺(東
京都港区) にある。
□ 江 (お江与、崇源院) の宝塔 (増上寺・徳川家霊廟内)。
● お江( おごう) は、死後、子の徳川家光によって、増上寺に埋葬さ
れた。 徳川氏一族は通常土葬されたが、江(ごう) は、 例外的に、
火葬され、埋葬された。
● かって、増上寺には、家光が建立(こんりゅう)したお江(おごう) の
崇源院(すうげんいん)霊廟を含む、豪壮華麗な徳川将軍家霊廟が
あったが、戦災でそのほとんどを焼失した。 その後の改葬で、徳川家
の墓所 は、 本堂裏手の一画(いっかく)にまとめられた。 増上寺
は、年に1度、一般の人に、徳川家霊廟を参観させている。
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◆ お江( おごう)と徳川秀忠との間の、
2男5女。
■ お江( おごう) は、 徳川 秀忠(ひでただ)とは円満で、 子宝に恵ま
れ、 秀忠 との間に、 2男5女をもうけた。
その2男5女は、 生まれた順に、千姫(せんひめ)、 珠姫(たまひめ)、
勝姫(かつひめ)、 初姫(はつひめ)、 徳川家光(とくがわいえみつ)、
徳川忠長(とくがわただなが)、 和子(まさこ、かずこ) である。
● 近世日本(安土桃山時代、江戸時代)では、 当時、 政略結婚では、
幼少時に、女性が、結婚相手の元へ嫁(とつ)ぐことは 、 珍しいことで
はなかった。
◆ 生まれた順番で並べた、お江の子供たちの人生を
見てみみよう。
■ 1597年(慶長2年)に誕生した、お江( おごう)の女子である、
千姫 (せんひめ、秀忠長女、1597−1666年) は、 1603年(慶長
8年)に、 豊臣秀頼の元へ嫁ぐ。 1615年に秀頼と死別する。 豊臣
家滅亡後は、1616年(元和(げんな)2年)に、播磨・姫路新田藩主・本
多 忠刻 (ほんだ ただとき)の元へ嫁ぐ。
■ 1599年(慶長4年)に誕生した、お江( おごう)の女子である、
珠姫 (たまひめ、秀忠次女、1599−1622年) は、 1601年(慶長
6年)に、加賀藩・2代藩主前田利常の元へ嫁ぐ。 その後、加賀藩3代
藩主・前田光高の母となる。
幼名は、子々姫(ねねひめ) である。
■ 1601年(慶長6年)に誕生した、お江( おごう)の女子である、
勝姫 (かつひめ、秀忠三女、1601−72年) は、 1611年(慶長16
年)に、福井藩主・松平忠直の元へ嫁ぐ。
■ 1602年(慶長7年)に誕生した、お江( おごう)の女子である、
初姫 (はつひめ、秀忠四女、1602−30年) は、 伯母の初(はつ、常
高院)の養女となる。 その後、1611年(慶長16年)に、京極忠高(きょ
うごくだだたか)の元へ嫁ぐ。
■ 1604年(慶長9年)に誕生した、お江( おごう)の男子である、
徳川家光 (とくがわいえみつ、秀忠次男、1604−51年) は、 1623
年に、江戸幕府3代将軍 (在任1623〜1651年) となる。
● 幼名は、 竹千代(たけちよ) である。
● お江の夫の徳川秀忠 は、別の夫人と間に、 秀忠長男の長丸(ちょう
まる)を得たが、早世した。
● 徳川家康の命(めい)で、お福(おふく、後の春日局)が、竹千代(徳川
家光)の乳母(うば、めのと、1604年〜)となる。
■ 1606年(慶長11年)に誕生した、お江( おごう)の男子である、
徳川忠長 (とくがわただなが、秀忠三男、1606−33年) は、 1624
年に、駿府城主となり、 駿河、遠江、甲斐合せて55万石の大名となる。
その後、1631年(寛永8年)に、甲府への蟄居(ちっきょ)を命じら
れ、改易(かいえき)となり、 1632年には、高崎へ配流される。 16
33年(寛永10年)に、幕府の命(めい)で、自刃(自害)させられる。
● 幼名は、 国松(くにまつ) である。
■ 1607年(慶長12年)に誕生した、お江( おごう)の女子である、
和子(かずこ、まさこ、秀忠五女、1607−78年) は、 1620年(元和
(げんな)6年)に、 後水尾(ごみずのお)天皇の元へ嫁ぐ (入内(じゅ
だい)する)。 女御(にょうご)とし入内し、後に中宮(ちゅうぐう)となる。
1627年より東福門院(とうふくもんいん)と呼ばれた。
● 後に、明正(めいしょう)天皇(在位1629〜43年、女帝)の 生母と
なる。
● 最初の名は、松姫(まつひめ)または和姫(かずひめ) である。
の先頭ページへ 。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
■ お江 簡略年表
(おごう かんりゃくねんぴょう)。
◆ お江 簡略年表。
■ 1573年 ● お江 (おごう、1573〜1626年) は、 近
江(おうみ、滋賀県)の、父・浅井長政(あざい
ながまさ)の小谷城(おだにじょう)で、生まれ
る。 生母は、織田信長の妹のお市(おいち)
である。
後に、同年の1573年に、 小谷城落城時
に、父・浅井長政は、自害する。
■ 1583年 ● 4月に、柴田勝家の北庄城(きたのしょうじ
ょう)が、 羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍勢に攻め
られ、柴田勝家とお市が自害し、落城時、お市
の3人の娘(茶々(淀殿)・初・江(ごう)の浅井
三姉妹)は、逃がされ、城を落ちのびる。
■ 1584年 ● 豊臣秀吉の命(めい)で、お江(おごう) は、
佐治一成(さじ かずなり)に 嫁(とつ)ぐ。 し
かし、同年に離縁となる。
■ 1592年 ● 豊臣秀吉の命で、お江(おごう) は、豊臣
秀勝(とよとみひでかつ、羽柴秀勝(はしばひ
でかつ))に嫁(とつ)ぐ。 しかし、豊臣秀勝 は、
1592年に、朝鮮戦役の文禄の役(ぶんろくの
えき、1592年〜1593年)で出陣中に病死し、
お江は、夫の秀勝と死別する。
■ 159 3年 ● 夫の豊臣秀勝死後、妊娠していた、お江( お
ごう) は、姉の淀殿のもとで、秀勝の娘、完子
(さだこ)を生んだ。
後に、完子は、 母・お江(おごう)の徳川秀
忠再婚に伴い、母・お江 の姉の淀殿に養育され、
その後、完子は、公家の九条忠栄(くじょうただ
ひで、後の幸家(ゆきいえ))に嫁(とつ)いだ。
■ 1595年 ● 豊臣秀吉の命で、 お江( おごう) は、 秀吉
の養女として、徳川秀忠(とくがわ ひでただ)に
嫁(とつ)ぐ。
婚儀(結婚)後、お江は、 徳川秀忠と の間に、
2男5女をもうける。 後の江戸幕府3代将軍・
徳川家光もその一人である。
■ 1604年 ● お江(おごう) は 徳川秀忠の男子の徳川家
光(とくがわいえみつ、秀忠次男、1604−51
年)を 産む。 幼名は、竹千代(たけちよ)である。
徳川家光は、1623年に、江戸幕府3代将軍
(在任1623〜1651年)となる。
● 徳川家康の命(めい)で、お福(おふく、後の
春日局)が、竹千代(徳川家光)の乳母(うば、
めのと、1604年〜) となる。
■ 1607年 ● お江(おごう) は、和子(まさこ、徳川和子、秀
忠五女、1607〜78年)を産む。 最初の名は、
松姫(まつひめ)または和姫(かずひめ)である。
後に、和子は、1620年(元和(げんな)6年)
に、後水尾(ごみずのお)天皇の元へ嫁ぐ(入内
(じゅだい)する)。
■ 1620年 ● お江(おごう) の女子、和子(まさこ)は、天皇
の正室・夫人となる。 後に、和子は、天皇の生
母となる。
和子は、 1620年(元和(げんな)6年)に、
後水尾(ごみずのお)天皇の元へ嫁ぐ(入内(じ
ゅだい)する)。 女御(にょうご)とし入内し、後
に中宮(ちゅうぐう)となる。1627年より東福門
院(とうふくもんいん)と呼ばれる。 後に、和子
は、明正(めいしょう)天皇(在位1629〜43年、
女帝)の生母と なる。
■ 1623年 ● お江(おごう) の男子、徳川家光は、江戸幕府
3代将軍 (在任1623〜1651年)となる。
■ 1626年 ● お江(おごう)は、江戸城で、死去する。 この
時、夫の徳川秀忠や子の徳川家光、忠長は、上
洛中であった(京(都)滞在中であった)。
の先頭ページへ 。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
■ お江 詳細年表
(おごう しょうさいねんぴょう)。
◆ お江(おごう) 詳細年表。
■ 戦国時代については、『 中世日本歴史詳細 年表 』
を、安土桃山時代、江戸時代については、『 近世日本
歴史詳細年表 』を参照して下さい。
■ より理解を深めるために、 当年表と近い時期の日本
史辞典の年表の、 『 戦国時代 (室町時代後期) 年表、
兼続 年表 』 も参照して下さい。
■ 当年表 は、 お江 (1573年〜1626年) が生き
た時代の詳細年表 である。
■ お江 (おごう,生没年 1573年〜1626年) の時
代の日本へタイムスリップして、 お江(おごう)の足跡、
活動をたどってみよう。
■ 歴史学の立場から、 年代を追って、 お江(おごう)
の実像 (歴史的有名な人物には、虚像と実像がありま
すが) を見てみよう。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典 22219。
■ 日付(年月日)は、全て旧暦、人物の年齢は、数え年。
● 一般的な歴史書籍で使用されているのと同じように、
当年表の日付(年月日)は、1872年(明治5年)12月
2日までは、旧暦(太陰太陽暦)を用い 、人物の年齢も
数え年を用いている。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
◆ お江(おごう) 詳細年表。
● では、 お江(おごう)に関係する出来事を、年代順に、
見てみよう。
■ 1532年 ● 天文(てんぶん、てんもん)改元。
(天文 元年) 1532年7月29日に、和暦の「享禄」(き
ょうろく) が、 「天文」 (てんぶん、てんも
ん、 天文元年・1532年・7月29日〜 天
文24年・ 1555年・10月23日) に改元
される。
■ 1534年 ● お江(おごう)の伯父となる、 織田 信長
(天文 3年) (おだ のぶなが、幼名:吉法師)が、 尾張
国(おわりのくに、現在の愛知県西部)の戦
国武将、織田信秀(おだのぶひで)の子とし
て、 誕生する。
■ 1536年 ● お江(おごう)を庇護し、養父となる、 豊
(天文 5年) 臣秀吉 (とよとみ ひでよし、幼名:日吉丸
?)が、 尾張国(おわりのくに、現在の愛
知県西部)の農民の弥右衛門(やえもん)
の子として、 誕生する。 秀吉の誕生年は、
1537年(天文6年)説も有力である。
■ 1539年 ● 織田信長 (吉法師) は、幼少で(6歳
(天文 8年) で)、那古野城主 となる。
■ 1541年 ● 北条家の北条氏綱が死去し、 北条氏
(天文10年) 康が、 家督を継いで、北条氏の第3代当
主となり、 1541年に、北条家の実権
(1541〜71年)を持つ。 一説には、15
38年(天文7年)に氏綱が、隠居し、氏康
に家督を譲り後見していたとも言われてい
る。
■ 1542年 ● お江(おごう)の夫の義父となる、徳川家
(天文11年) 康 (とくがわ いえやす、幼名:竹千代) が、
三河国(みかわのくに、現在の愛知県東部)
の、戦国武将で岡崎城主の、松平広忠 (ま
つだいら ひろただ)の子として、 誕生する。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1546年 ● 家康の盟友となる、 織田信長 は、 尾
(天文15年) 張の、古渡(ふるわたり)城にて、元服し、
織田信長 (織田上総介、おだかずさのす
け)と称す。
■ 1547年 ● 徳川家康 (竹千代) が、 織田信秀の
(天文16年) 織田家の人質 (1547〜48年) となる。
■ 1548年 ● 信長の父・織田信秀が敵対していた、斉
(天文17年) 藤道三との和睦が成立し、信長は、 美濃
(現在の岐阜県)の戦国大名、斉藤道三の
娘、帰蝶(濃姫)と政略結婚する。
■ 1549年 ● 1549年11月に、徳川家康 (竹千代)
(天文18年) が、 今川義元(いまがわよしもと)の今川
家の人質 (1549〜60年) となる。
■ 1551年 ● 織田信長の父・信秀が急死し、 織田信
(天文20年) 長 が、織田家の織田信秀の家督を継ぐ
(継承する)。
■ 1554年 ● 家康の競争相手となる、 豊臣秀吉 が、
(天文23年) 織田信長に仕える。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1555年 ● 弘治(こうじ)改元。
(弘治 元年) 1555年10月23日に、和暦の「天文」
(てんぶん、てんもん) が、 「弘治」 (こ
うじ、 弘治元年・1555年・10月23日〜
弘治4年・ 1558年・2月28日) に改元
される。
■ 1558年 ● 永禄(えいろく)改元。
(永禄 元年) 1558年2月28日に、和暦の「弘治」
(こうじ) が、 「 永禄」 (えいろく、 永禄
元年・1558年・2月28日〜 永禄13年・
1570年・4月23日) に改元される。
■ 1559年 ● 織田信長 は、 尾張一国を統一する。
(永禄 2年)
■ 1559年 ● 相模国 (さがみのくに、現在の神奈川
(永禄 2年) 県) の北条家の北条氏康(1515〜71
年)が、1559年に、隠居し(実権は1571
年まで保持し)、 氏康の子、北条氏政
(1538〜90年) が 北条家の家督を継
承し、 後北条家の第4代当主となる。
■ 1560年 ● 1560年5月に、織田信長は、 桶狭間
(永禄 3年) (おけはざま)の戦いで、今川義元を破る。
今川義元は、 尾張の桶狭間で、敗死する。
● 徳川家康 (松平元康) は、 松平軍の
兵を撤退し、三河へ戻り、今川家から独立
する。
■ 1561年 ● 豊臣秀吉 (木下藤吉郎) が、 浅野長
(永禄 4年) 勝の養女・ねね と結婚する。
■ 1562年 ● 1562年1月に、徳川家康(松平元康)
(永禄 5年) は、織田信長と清洲同盟(織徳同盟)を結
ぶ。
■ 1563年 ● 徳川家康(松平元康) は、名を、元康
(永禄 6年) から家康に改める。
■ 1564年 ● 徳川家康(松平家康) は、 西三河を
(永禄 7年) 平定し、 一向一揆(いっこういっき) の
鎮圧にも成功する。
■ 1566年 ● 徳川家康(松平家康)は、三河国 (み
(永禄 9年) かわのくに、現在の愛知県東部)を統一し
た。
● 徳川家康(松平家康)は、 三河守(み
かわのかみ)となり、 徳川(とくがわ)に
改姓した。 松平より、徳川へ改姓した。
■ 1567年 ● 信長 は、 北近江(きたおうみ)の戦国
(永禄10年) 大名の、浅井長政と1564年に結んだ同
盟をより強固なものにするため、 信長の
妹のお市を、浅井長政に輿入(こしい)れ
させた。
■ 1567年 ● 1567年 (永禄10年) 10月に、家康
(永禄10年) の同盟者の、織田信長 は、 美濃国(み
ののくに、現在の岐阜県南部) の斉藤氏
を滅ぼす。
ここに、 信長は、33歳で、尾張、美濃
の2カ国を領する大名となる。
この頃から、 信長は、天下布武の朱印
を用いるようになる。
■ 1568年 ● 徳川家康 は、 今川領分割に際して、
(永禄11年) 駿河を武田領、遠江を徳川領とする協定を、
武田信玄と結んだ。
● 徳川家康 は、1568年末から、今川領
である遠江国へ侵攻する。
■ 1568年 ● 1568年11月に、 織田信長は、足利
(永禄11年) 義昭(よしあき)を奉じて、 上洛を果たし、
足利義昭を将軍位に就(つ)ける。 この
戦いに、 家康は、信長へ援軍を派遣した。
その後、信長が、 足利義昭の行動をコ
ントロールしようとしたので、義昭との関係
が悪化する。 義昭が計って、武田氏、朝倉
氏、延暦寺、石山本願寺などからなる信長
包囲網が結成される。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1569年 ● 徳川家康は、 遠江国の大半を攻め獲り、
(永禄12年) 今川氏真のいる、掛川(かけがわ)城も包囲
し、氏真を降伏させる。
● 徳川家康 と 武田信玄 は、 敵対関係
となる。
■ 1570年 ● 元亀(げんき)改元。
(元亀 元年) 1570年4月23日に、 和暦の「永禄」(えい
ろく) が、 「 元亀」 (げんき、 元亀元年・
1570年・4月23日〜 元亀4年・ 1573年・
7月28日) に改元される。
■ 1570年 ● 1570年4月に、 織田信長は、 軍を、越
(元亀 元年) 前に侵攻したが、信長の妹婿の北近江(きた
おうみ、滋賀県北部)の浅井長政に背後をつ
かれ、 命からがら、 京(都)へ逃れた。
■ 1570年 ● 1570年6月に、織田信長は、近江国の姉
(元亀 元年) 川で、浅井・朝倉連合軍を破る (姉川の戦い)。
この戦いに、家康は、信長と共に参戦し、信長
を助けた。
● 1570年9月に、本願寺は、信長に対抗す
る(石山合戦の始まり)。
■ 1570年 ● 徳川家康は、本城を、三河の岡崎から、遠
(元亀 元年) 江の曳馬に移し、浜松城を築いた。
■ 1571年 ● 相模国(さがみのくに、現在の神奈川県)
(元亀 2年) の北条家の、 北条氏康(1515〜71年)
が、死去する。 氏康の子、北条氏政(153
8〜90年) が 北条家の実権(1571〜
90年)を握る。
■ 1572年 ● 1572年10月に、 武田軍が上洛を開 、
(元亀 3年) 始する (武田信玄は上洛の軍を起こす)。
● 1572年12月に、 遠江(とおとうみ、
静岡県西部)の、三方ヶ原の戦いで、 徳川
・織田連合軍は、 武田軍に大敗する。
■ 1573年 ● 1573年 (天正 元年)に、 お江(お
(元亀 4年) ごう) が、 近江国小谷(おうみのくに
おだに、現在の滋賀県湖北町)で、 浅井
長政とお市 との間に、長政三女として、
生まれる。
■ 1573年 ● 1573年2月に、足利義昭は、武田氏、
(元亀 4年) 浅井氏、朝倉氏、本願寺と協力して、信
長討伐を謀(はか)る。
● 1573年4月に、武田信玄が、病状悪化
し、武田軍は、徳川領の三河や遠江から、
軍を返し、甲斐へ帰国した (信玄は帰国
途中、信濃・駒場で病死)。
● 1573年5月に、徳川家康は、三河の長
篠(ながしの)城を攻め、武田軍より奪回し、
武田軍の再侵攻に備えた。
● 1573年7月に、織田信長は、信長を裏
切った、足利 義昭(よしあき)を京都より追
放し、室町幕府を滅ぼす (室町幕府滅亡)。
● 1573年7月に、秀吉の主君の、信長は、
元号を元亀から天正へと改めることを朝廷
に奏上(そうじょう)し、これを実現させた。
■ 1573年 ● 天正改元。
(天正 元年) 1573年7月28日に、 和暦の「元亀」(げ
んき) が、 「 天正」 (てんしょう、天正元
年・1573年・7月28日〜 天正20年・15
92年・12月8日) に改元される。
■ 1573年 ● 1573年8月に、 信長 は、朝倉・浅井
(天正 元年) 両氏 を滅ぼす。
● 信長 は、 1573年8月に、越前に行
軍し朝倉軍を破り、朝倉義景を自害させ、
同年9月に、北近江の小谷(おだに)城を落
とし、 浅井久政・長政父子を自害させる。
落城前、信長の妹のお市と娘3人は、落ち
延びて信長が引き取った。 信長 は、 越
前と北近江を領土とした。
● 1973年(天正元年)9月に、お江(おごう)
の父・浅井長政の居城の小谷城(おだにじょ
う)が織田軍に攻め落とされ、父・浅井長政
は自刃(じじん、自害)し、 お江の母のお市
は、 浅井3姉妹 (お茶々、お初、お江) と
共に、城を逃れて、織田信長に保護される。
● 1573年(天正元年)、信長は、北近江
に攻め寄せ、 小谷城を囲んだ。 お市は、
浅井長政と運命を共にする覚悟であったが、
長政に諌(いさ)められて、 お市は、浅井
三姉妹を連れて、 小谷城を脱出し、 信長
の元へ落ちのびた。
その後、 浅井三姉妹 は、 叔父の織田
信包のの庇護の下(もと)におかれ、 尾張で
暮す。
● 信長軍の、豊臣秀吉(木下秀吉)は、 浅
井氏滅亡後、その旧領の北近江三郡の経営
を織田信長より任され、 北近江(きたおうみ)
の長浜城の城主となる。
■ 1573年 ● 信長軍の、豊臣秀吉(木下秀吉)は、丹
(天正 元年) 羽長秀と柴田勝家から一字ずつをもらいう
け、 木下姓を羽柴姓に改め、 羽柴秀吉と
称する。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1574年 ● 1574年5月に、徳川家康は、高天神城を、
(天正 2年) 武田勝頼に奪われる。
■ 1575年 ● 1575年5月に、信長・家康連合軍 は、
(天正 3年) 三河・長篠(ながしの)で、 武田勝頼の率
いる軍に大勝する (長篠の戦い)。
● 1575年8月に、信長は、越前に侵攻し、
本願寺門徒の軍を破り、 再び、織田領に、
越前を柴田勝家に経営させる。
■ 1576年 ● 1576年2月に、信長は、 琵琶湖湖岸
(天正 4年) に、安土城の築城を開始する (1579年
完成)。
■ 1577年 ● 信長軍 は、北陸で、 上杉謙信の率いる
(天正 5年) 上杉軍に敗れ (手取川の戦い)、撤兵する。
● 1577年10月に、秀吉は、織田信忠の指
揮下で、松永久秀を滅ぼし、功績をあげる。
● 家康のライバルとなる、 石田 三成 (石
田佐吉) が、 1577年、18歳で、 豊臣秀
吉(羽柴秀吉) に仕官する。
■ 1578年 ● 信長軍 は、 上杉領の能登、加賀の攻
(天正 6年) 略を開始する。
● 1578年11月に、 織田水軍が、鉄甲船
を用いて、毛利水軍を破る。
■ 1579年 ● 織田信長 は、 五層七重の豪華絢爛
(天正 7年) (ごうかけんらん)な安土城を完成させる。
■ 1579年 ● 織田信長は、 徳川家康に、 家康の嫡
(天正 7年) 男・松平信康 と 家康 の正室(妻)で信
康の生母の築山殿の自害(切腹)を命じる。
■ 1580年 ● 織田信長は、石山本願寺を屈服させる。
(天正 8年)
■ 1581年 ● 1581年2月に、織田信長 は、 京都の
(天正 9年) 内裏(だいり)東の馬場で、 京都御馬揃え
(馬揃えは、現在の軍事パレードに相当)を
行う。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1582年 ● 1582年2月に、織田信長 は、 武田領
(天正10年) への攻撃開始し、3月11日に、 武田勝頼
を討ち取り(天目山の戦い)、 武田氏は滅
亡する。
● 1582年2月に、織田軍に協力して、 徳
川軍も、武田領の駿河に侵攻して、駿河を
占領する。 家康は、 同年に、この戦功によ
り、 織田信長から駿河一国を与えられる。
■ 1582年 ● 1582年5月に、織田信長 は、明智光秀
(天正10年) に、備中国にいる秀吉軍への援軍を命じ、
信長は、6月に、京都へ上洛した。
● 1582年6月に、秀吉の主君・信長は、本
能寺の変で自刃。
明智光秀 が、1582年6月に、京都の
本能寺にいた織田信長を攻め、 自害させる
(本能寺の変)。 信長、享年、49歳で死す。
同年6月に、秀吉は、 明智光秀を討つ
(山崎の戦い)。
● 1582年6月27日に、秀吉は、に、清洲
城にて、他の織田家の重臣と信長の後継者
と遺領の分割を決める (清洲会議)。
● 1582年(天正10年)に、お江(おごう)の
母・お市が柴田勝家と再婚し、浅井3姉妹
(お茶々、お初、お江) は、越前国北庄城
(えちぜんのくに・きたのしょうじょう)へ移る。
● 1582年(天正10年)に、本能寺の変で
織田信長の死去後、母・お市が、 織田家重
臣の柴田勝家と再婚すると、 茶々(淀殿)
ら3人の娘(浅井三姉妹)は、 母・お市と共
に、 北の庄城(福井市) へ移る。
● 1582年12月に、秀吉は、 北近江へ侵
攻し、長浜城を降伏させ、 美濃へ侵攻、平定
する。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1582年 ● 織田信長死後、 織田領の信濃(しなの、
(天正10年) 長野県)、甲斐(かい、山梨県)、上野(こう
ずけ、群馬県)へ 上杉景勝の軍、 北条氏
政の軍、徳川家康の軍 が侵攻した。
その後、戦いの結果、 北信濃(きたしな
の、長野県北部)は、上杉領になり、また、徳
川家康と北条氏政は和睦し、 信濃(北信濃
を除く)、甲斐は、徳川領に、 上野は、北条
領 となった。
ここに、 徳川家康は、 三河(みかわ、愛
知県東部)、 遠江(とおとうみ、静岡県西部)、
駿河(するが、静岡県中部)、 甲斐、 信濃
の 日本の中部5カ国を領有する大大名(15
82〜90年) になる。
■ 1583年 ● 相模国 (さがみのくに、現在の神奈川
(天正11年) 県) の 北条氏政 (1538〜90年) が、
1583年に、隠居し(実権は1590年まで
保持し)、 氏政の子、北条氏直 が北条家
の家督を継承し、 後北条家の第5代当主
となる。
■ 1583年 ● 1583年2月に、秀吉は、北伊勢へ侵攻
(天正11年) し、3月に、伊勢亀山城を降伏させる。
● 1583年4月に、豊臣秀吉は、 賤ヶ岳
(しずがたけ)で、柴田勝家の兵を破り(賤
ヶ岳の戦い)、 追撃された、勝家は、越前
(えちぜん、福井県)の北庄城 (きたのしょう
じょう)で、自害する。
1583年4月に、柴田勝家の北庄城が、
豊臣秀吉の軍勢に攻められ、 柴田勝家と
母・お市が自害し、 落城時、 茶々(淀殿)
ら3人の娘(浅野三姉妹)は、逃がされ、城
を落ちのびる。
その後、 浅野三姉妹 は、織田長益、
京極龍子らの庇護の下(もと)におかれた。
● 1583年(天正11年)に、お江(おごう)の
義父の柴田勝家の居城・北庄城(きたのしょ
うじょう)が羽柴軍(豊臣軍)に攻め落とされ、
お江の生母のお市は自害し、 浅井3姉妹
(お茶々、お初、お江)は、城を逃れて、 羽
柴秀吉(豊臣秀吉)にに保護される。
● 秀吉は、 さらに、 加賀国と能登国(かが
のくにとのとのくに、現在の石川県)へ侵攻し
2国を平定して、それらを前田利家に与えた。
● 1583年8月に、秀吉は、石山本願寺の跡
地に、大阪城の築城を開始する (1588年
大阪城完成)。
■ 1584年 ● 1584年(天正12年)に、お江(おごう) は、
(天正12年) 秀吉の命(めい)で佐治一成(さじかずなり)に
嫁ぐ。 秀吉と夫の佐治一成が不和となり、同
年に、お江(おごう)は、秀吉により、1番目の夫
の佐治一成と離縁させら れる。
■ 1584年 ● 1584年4月に、徳川家康 は、 秀吉の
(天正12年) 兵を長久手で破り (小牧・長久手(こまき・な
がくて)の戦い)、 同年12月に秀吉と和睦す
る。
● 1584年8月に、 秀吉は、 大阪城に移る。
■ 1585年 ● 1585年3月に、豊臣秀吉は、正ニ位・内
(天正13年) 大臣に叙位・任官される。
● 1585年3月に、秀吉は、紀伊へ侵攻し
て、平定する(紀州征伐)。
● 1585年7月に、秀吉は、関白となる。
● 1585年8月に、秀吉は、 長宗我部元親
を降伏させ、四国を平定する (四国征伐)。
● 1585年8月に、秀吉は、越中国(えっ
ちゅうのくに、富山県)の佐々成政を降伏させ、
北陸を平定する (北陸平定)。
■ 1586年 ● 豊臣秀吉は、 徳川家康に臣従をさせる。
(天正14年) ● 1586年12月に、秀吉は、太政大臣に
就任し、 豊臣の姓を賜(たまわ)り、 豊臣
政権が確立する。
■ 1587年 ● 1587年5月に、豊臣秀吉は、島津義久を
(天正15年) 降伏させ、九州を平定する。
● 1587年6月に、秀吉は、 バテレン追放
令をだす。
● 1587年9月に、秀吉は、 聚楽第(じゅら
くだい)を完成させ、大阪城より移る。 また、
天正通宝を鋳造する。
■ 1588年 ● 茶々(淀殿) は、 豊臣秀吉の側室となる。
(天正16年) 大阪城へ入る。
■ 1589年 ● 1589年に、茶々(淀殿) は、秀吉の男
(天正17年) 子、鶴松を生む。
● この懐妊・出産を喜んだ秀吉から、淀城
を賜(たまわ)り、 以後、 茶々は、「淀の方」
(よどのかた) と呼ばれるようになる。
● その後、 淀殿(茶々)は鶴松を、秀吉の
正室のねねに預け、ねねが鶴松を引き取り、
育てる。 当時、上層階層では、側室夫人
が産んだ子を、正室夫人が育てる慣習があ
ったので。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1590年 ● 1590年7月に、豊臣秀吉は、北条氏を
(天正18年) 降伏させ、関東を平定する (関東平定)。
北条氏政が、 自刃する。
● 1590年7月に、秀吉は、奥州も制圧した
(奥州制圧)。
● 1590年7月に、秀吉 が、 天下を統一
した (日本全国を統一した)。
● 1590年8月に、 秀吉の命(命令)により、
徳川家康が、 関東に移り、江戸城に入る
( 家康が中部5カ国を秀吉に譲り、家康が、
約250万石の関東を領有する)。
■ 1591年 ● 豊臣秀吉の正室のねねの元で育てられ
(天正19年) ていた、 鶴松 (淀殿(茶々)の男子) が、
死亡する。
● 1591年12月に、秀吉は、関白の職を、
甥(おい)の秀次(ひでつぐ)に譲る。 秀吉
は、 太閤(たいこう、前関白の尊称)と呼ば
れるようになる。
■ 1592年 ● 1592年(天正20年)4月に、豊臣秀吉
(天正20年) により、 朝鮮出兵が開始される (文禄の
役(ぶんろくのえき)、1592〜93年)。
■ 1592年 ● 1592年( 天正20年)に、お江(おごう)
(天正20年) は、 秀吉の命(めい)により、 豊臣秀勝
(とよとみひでかつ)に嫁ぐ。 同年に、夫
の豊臣秀勝は文禄の役で朝鮮出兵中に、
病死し、お江は、2番目の夫の豊臣秀勝と
死別する。 その後、 お江は、同年に、完
子(さだこ)を産む。
■ 1592年 ● 文禄改元。
(文禄 元年) 1592年12月8日に、 和暦の「天正」
(てんしょう)が、 「 文禄」 (ぶんろく、文禄
元年・1592年・12月8日〜 文禄5年・15
96年・10月27日) に改元される。
■ 1593年 ● 1593年に、 淀殿(茶々)は、 豊臣秀吉
(文禄2年) の男子、 拾(ひろい、秀頼)を生む。
当時、上層階層では、側室夫人が産んだ
子を、正室夫人が育てる慣習があったが、今
回は、秀吉の許しを得て、自分の手元で、育
てる。 今回は、 淀殿(茶々)は、 拾(秀頼)
を秀吉の正室夫人のねねに預けず。その後、
拾(豊臣秀頼) は、 伏見城で、育つ。
■ 1595年 ● 1595年7月に、 豊臣秀吉は、 関白秀
(文禄 4年) 次を自害させる。
■ 1595年 ● 1595年(文禄4年)9月に、お江(おごう)
(文禄 4年) は、 秀吉の命(めい)により、家康三男の徳
川 秀忠(ひでただ)に嫁ぐ。 嫁ぐ前に、2番
目の夫・豊臣秀勝との間の子の完子(さだこ)
を、 姉の淀殿(お茶々)に預け、引き取らせ
る。
その後、 お江 (おごう) は、夫の徳川秀
忠とは円満で、3番目の 夫の徳川秀忠との間
に、2男5女をもうける。
■ 1596年 ● 慶長改元。
(慶長 元年) 1596年10月27日に、 和暦の「文禄」(ぶ
んろく)が、 「 慶長」 ( けいちょう、 慶長元
年・1596年・10月27日〜慶長20年・ 16
15年・7月13日) に改元される。
■ 1597年 ● 1597年1月に、豊臣秀吉により、再度、朝
(慶長 2年) 鮮出兵が開始される(慶長の役 1597〜98
年)。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1598年 ● 1598年7月に、豊臣秀吉が、 五大老・
(慶長 3年) 五奉行の制度を定める(秀吉の後継者で
ある豊臣秀頼の体制を磐石にするため)。
家康が五大老の一人となる。
● 1598年8月に、秀吉が、 死去する
(享年63歳)。 豊臣家の秀吉の跡継ぎの
豊臣秀頼 は、まだ、6歳だった。
● 1598年に、秀吉死去後、 徳川家康、
前田利家 が、朝鮮撤兵を命じる (同年
12月にほぼ撤兵完了する)。
● 1598年に、秀吉が死去すると、 秀吉
の遺言により、 淀殿(茶々)と豊臣秀頼は、
伏見城より、 大阪城の本丸に移る。
● 1598年に、豊臣秀頼 が、 豊臣宗家
の当主となり、 淀殿(茶々)は、 幼い豊臣
秀頼の後見人となる。 淀殿(茶々)は、 淀
殿(茶々)の乳母(うばの、大蔵卿局 (大野
治長の母)、 饗庭局を重用(ちょうよう)する。
● 1598年より、淀殿(茶々)が推(お)す三
成派の豊臣家臣団 とねねが推す家康派の
豊臣家臣団 とが、豊臣家内での対立が始
まる。
■ 1599年 ● 1599年に、 淀殿 (茶々、近江出身) が
(慶長 4年) 信頼する、石田三成をはじめとする近江派
(おうみは、近江出身の武将)の豊臣家臣が、
豊臣家で、大きな勢力となる。
● 1599年に、秀吉の正室のねね は、淀
殿(茶々)が信頼する、石田三成をはじめと
する近江派の豊臣家臣に対抗して、 徳川
家康に、石田三成をはじめとする近江派の
豊臣家臣の勢力を減少させるように依頼し、
豊臣家の将来を託す。
1599年に、 ねね は、 豊臣家の家臣
で大老の徳川家康を擁して、 石田三成派の
豊臣家臣を牽制(けんせい)ため、 自分の
住む大阪城の西の丸を引き払い、 家康に
引き渡し、 孝蔵主などわずかな女中達を引
き連れて、 京都・三本木の屋敷に移り住む。
■ 1599年 ● 1599年3月に、豊臣政権の実力者の、
(慶長 4年) 前田利家が、病死する。
● 1599年3月に、石田三成は 奉行職を
解任され、 佐和山城で蟄居(ちっきょ)させ
られる。
● 1599年10月に、加賀の前田家が、家
康の支配下に入る。
■ 1600年 ● 1600年に、 関が原の戦い。 豊臣家
(慶長 5年) 臣団の間の戦い。
● 豊臣家臣団の間に、 徳川家康派と石田
三成派の内紛が起こり、戦争となり、徳川
家康派の豊臣家臣団 が、 戦いに勝つ。
● 勝利後、 家康が、大阪城に出向き、 家
康の主君の豊臣秀頼とその後見人の淀殿
(茶々、秀頼の生母)に、 徳川家康派の豊
臣家臣団の戦争の勝利を報告する。
● 戦後処理で、 豊臣家大老の徳川家康は、
豊臣家の主君の許しを得ず、 全国の大名
の所領を、勝手に、処理(移動分配)する。
家康 は、 豊臣家宗家の所領も、処理
(分配)し、 豊臣家宗家は、 65万石の一
大名へ転落する。
■ 1600年 ● 1600年4月に、 家康が、 会津の、上杉
(慶長 5年) 景勝からの直江状(なおえじょう)を受け取り
に謀反(むほん)ありとして、 同年5月に、上
杉景勝討伐を宣言する。
● 1600年6月に、家康は、 親家康派の大
名で組織した、上杉景勝討伐軍を率いて、会
津へ向かい、大阪を出発する。
● 1600年7月に、石田三成が、 挙兵し、
全国の大名へ呼びかけ、反家康の軍を集
める。
● 1600年9月15日に、 関が原の戦い
が起こり、 徳川家康の率いる大名の東軍
が勝つ。
石田三成の率いる反家康派の大名の
西軍 と 徳川家康の率いる親家康派の
大名の東軍が、 関が原で衝突し、戦いは
1日で終わり、西軍が敗北し、東軍が勝つ。
● 関が原の戦い後、 徳川家康が、 東軍
に与(くみ)した大名の加増や 西軍に与
(くみ)した大名の改易、減封の処分を行う。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1603年 ● 徳川家康が、征夷大将軍となり、江戸幕府
(慶長 8年) を開く。 家康が江戸幕府の初代将軍となる。
● 1603年に、 豊臣家の家臣で大老の、徳
川家康が、 主君の豊臣家の許可を得ず、勝
手に、 征夷大将軍となり、 徳川家が 江戸
幕府を開く。
● この出来事に、 淀殿(茶々)が、 豊臣家
への裏切りと、驚く。
● 結果、 徳川家が、 豊臣家に代わって、 日
本を支配する。
■ 1604年 ● 1604年(慶長 9年)8月に、 お江(お
(慶長 9年) ごう)は、 江戸城で、竹千代(たけちよ、後
の徳川家光) を出産する。
■ 1605年 ● 徳川家康が、江戸幕府の将軍職を、家
(慶長10年) 康の男子、徳川秀忠に譲る(将軍職の徳
川家世襲)。 家康は、引き続き、大御所
として、政治に関与する。
■ 1606年 ● 1606年 (慶長11年)に、お江(おごう)
(慶長11年) は、江戸城で、国松 (くにまつ、後の徳川
忠長)を出産する。
■ 1607年 ● 1607年 (慶長12年)10月に、 お江
(慶長12年) (おごう)は、 江戸城で、和子(まさこ、か
ずこ、 後の、後水尾天皇の中宮の東福門
院、明正(めいしょう)天皇の生母) を出
産する。
■ 1607年 ● 徳川家康は、駿府に隠居(いんきょ)する。
(慶長12年) 家康は、引き続き、大御所として、 政治に
関与する。
■ 1611年 ● 京都・二条城で、 家康 が、 成長し立
(慶長16年) 派になった、豊臣秀頼に会う。
● 1611年に、 会見時、 家康は、 立派に
なりカリスマ性をもつ豊臣秀頼に驚き、内心
で、 全国の豊臣恩顧の大名が立派になった
豊臣秀頼に将来参陣し徳川家の支配がひる
がえることを恐れ、豊臣秀頼を排除する決心
をする。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1614年 ● 1614年7月に、 方広寺(ほうこうじ)鐘
(慶長19年) 銘事件 が 起こる。
● 1614年10月に、大阪の陣の、大阪冬
の陣が起こる。 豊臣家と徳川家との戦争。
● 1614年に、徳川家康が、 豊臣家の寺
の方広寺の鐘に「国家安康」という呪い文あ
りという言いがかりをつけ(方広寺鐘銘事件)、
それを許すために 豊臣家に 「秀頼江戸参
勤、 国替え(大阪城明け渡し)、淀殿(茶々)
人質」、 のどれかの条件を要求し、 豊臣家
を怒らせ、戦争を引き起こさせる。
● 経過と結果。 豊臣方の軍と徳川方の軍
が戦うが、 大阪城の周囲の堀に阻(はば)
まれて、徳川方の軍が勝てず。 豊臣方も戦
争の継続を望まず。 そして、 大阪城の本
丸以外の建物・柵を壊し、周囲の堀を埋める
という条件で、 豊臣方と徳川方の間に、 和
議が成立する。
● 徳川家康は、 大阪城の本丸以外の建物・
柵を壊し、周囲の堀を埋める。
■ 1615年 ● 徳川家康は、 豊臣方に、更に、 大阪城
(元和 元年) 内の浪人の総追放または国替え(大阪城明
け渡し)を要求し、 受入れられないと、戦争
を再開する (大阪の陣の、大阪夏の陣)。
家康は、豊臣方に、大阪城内外の浪人
の退去や、国替えによる大阪城退去または淀
殿人質を求めたが、豊臣家に聞きいえられず。
家康の更なる要求に警戒した豊臣家が、 柵
を作り、堀を元に戻すため掘り起こし始める。
家康は、それを和議違反とし (和議の条件
違反を理由に)、 戦争を再開する。
● 経過と結果。 1615年に、豊臣方は、奮戦
するが、 豊臣軍の本拠地の大阪城は、本丸
以外の建物や柵もなく、堀のない裸城のため、
徳川軍に容易に侵入され、炎上し、消滅する。
1615年に、 大阪城にいた、淀殿(茶々)
とその子・豊臣秀頼(享 年、23歳) は、自刃
(自害)する。
● 1615年4月に、 大阪夏の陣で、豊臣氏が
滅亡する。 ここに、豊臣方と徳川方との戦争
は、終結した。
■ 1616年 ● 1616年4月に、 徳川家康が、死去する
(元和 2年) (75歳)。
■ 1619年 ● 直江 兼続(直江 重光)が、死去する。
(元和 5年) ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1623年 ● 上杉 景勝が、死去する。
(元和 9年)
■ 1626年 ● 1626年(寛永3年)9月に、お江(おごう)
(寛永 3年) は、江戸城で、死去する。
この時、お江の夫の徳川秀忠、息子の
徳川家光、徳川忠長は、朝廷の用事で、上
洛中(じょうらくちゅう、京(都)滞在中) で
あった。
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『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』
以 上