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  KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY HANDBOOK

 

 カナヤマ 日本歴史 辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 お 』

 No.1015。

 

 

メ ニュー (目次)  #jpmenu     

■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

□ 日本史 辞典 (総合)      

□       ● 事柄順。

〇 おご  お江 (おごう) 、小督 (おごう)

          (別名:(ごう)お江与(おえよ)、

                    (落飾後)崇源院 すうげんいん) 。

          (1573〜1626年)。

          ○ 江戸幕府・第2代将軍・

          徳川秀忠の正室夫人。

          ○ 3代将軍・徳川家光の生母。

          ○ 浅井三姉妹の一人。

          ○ 淀殿の妹。

 

 おご  お江 おごう、お江与、崇源院)

        関連出来事(年代順・詳細)

 

 おご  お江 おごう、お江与、崇源院)

        簡略年表

             (おごう かんりゃくねんぴょう)

                         (⇒ 日本史年表) 。

 

 おご  お江 おごう、お江与、崇源院)

        詳細年表

             (おごう しょうさいねんぴょう)

             (⇒ 日本史年表) 。

 

 

 

  

   ○ 上記は、 上野樹里(うえのじゅり)の演じる、 お江 

    (おごう、小督(おごう)、お江与(おえよ)、崇源院(す

    うげんいん))。

  ○ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国 』 (NHK2011年大河

    ドラマ)のドラマPR壁紙。

 

 

□ 日本史 辞典 の 基本見出し語 「お」

  の 先頭ページへ 。        

 

■  『 現在は、過去の成果であり、

    未来は、現在の成果である。 

 

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#jpdictionary(general)

 

◆ 日本史辞典

 

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□ 日本史 辞典 の見出し語 「お」 

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#o

 

#ogo

 

■ お江、小督 

        (おごう)  (おごう)。

 

■ お江(おごう)小督(おごう)

■ 生没年 : 1573年(元亀4年)〜1626年(寛永3年)。

■ 名称 : お江 (おごう)、 小督 (おごう)。  

● 別名:  (ごう) 、 督 (ごう)、 お江与 (おえよ 、徳川秀

 忠の夫人後)、 崇源院 (すうげんいん、落飾出家)後) と称

 す。

●  (いみな) : 達子 (さとこ、 死後、従一位となり、その際、

 朝廷から賜(たまわ)った名)。

● 正式名 : お江(おごう、於江)の方、 お江与(おえよ、於江

 与)の方、 浅井 江(あざい ごう), 浅井 達子(あざい さとこ)。

(注意) 前近代日本の人名

○ 前近代日本では、女性は10代が結婚適齢期。

○ 前近代日本では、改名自由。上層者は、複数自己名所持。

○ 前近代日本では、父系一族名中心。

○  前近代日本では、女性は、通常、個人名のみで自他呼称。

○ 前近代日本では、夫婦別姓

■ 安土桃山時代江戸時代初期の女性。

■ 江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠の正室・夫人。

○ 前近代日本では、 一夫多妻制

■ 豊臣秀吉の側室・夫人の淀殿の、妹。

■ 近江(おうみ、滋賀県)の戦国大名浅井長政 と 織田信長

 妹・お市(おいち) との間に生まれた、三女。

■ 浅井3姉妹 (浅井長政の3人の娘、 茶々  (ちゃちゃ、淀殿)、

  (はつ、常高院)、  (ごう、小督(おごう)、お江与(おえよ)、

 崇源院(すうげんいん))  即ち、戦国のセレブ三姉妹 の一人。

 

□ 小谷城 画像アルバム   No.1

□ お江(小督)おごう、お江与、崇源院) 連出来

  事 (年代順・詳細)

□ お江(小督)(おごう、お江与、崇源院) 簡略年表

□ お江(小督)(おごう、お江与、崇源院) 詳細年表

□ お江( お江与、崇源院)は、5つの顔をもっている

□ お江(お江与、崇源院)の氏名

□ お江(お江与、崇源院)の父母の死と落城

□ お江(お江与、崇源院)の子供達

□ 3度の政略結婚をした、お江(お江与、崇源院)

□ 将軍の生母であった、 お江(お江与、崇源院)

□ 豊臣秀頼の義母であった、 お江(お江与、崇源院)

□ 天皇の、義母、祖母であった、 お江(お江与、

  崇源院)

□ 世継ぎをめぐる、女の戦い

□ お江(お江与、崇源院)の墓 

 

□ お江(お江与、崇源院)が登場する、興味

  深い、ドラマ、映画、ドキュメンタリー

 

□ お江(小督)(おごう、 お江与、崇源院)の

  宝塔 (増上寺・徳川家霊廟内)

 

■ 江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の正室・夫人である、お江(おごう)

 は、 5つの顔を持っている。

● 「織田信長の姪(めい)」、 「豊臣秀吉の養女」、 「徳川家康の

 義理の娘」、 「3代将軍・徳川家光の母」、 「明正天皇の祖母」。

■ 2度の落城で父母を失った後、 豊臣秀吉の庇護(ひご)を受け

 る。 最初の夫の佐治一成と離縁、再婚の夫の豊臣秀勝と死別し、

 再々婚の夫の徳川秀忠との間に、徳川家光、千姫、和子など2男

 5女をもうけた。

■ 小谷城(おだにじょう)落城時・父の浅井長政を失い、 北庄城

 (きたのしょうじょう)落城時・母のお市を失う。

■ 3度の政略結婚をした女性。

■ 第一番目の夫の佐治 一成 (さじ かずなり)とは、離縁させら

 れる (佐治一成の夫人の時期:1584年)。 

 12歳頃、婚儀を結ぶ。

■ 第ニ番目の夫の豊臣 秀勝 (とよとみ ひでかつ、羽柴秀勝(は

 しばひでかつ))とは、死別する (朝鮮戦役の文禄の役中病死)

 (豊臣(羽柴)秀勝の夫人の時期:1592年)。 

 20歳頃、婚儀を結ぶ。

■ 第三番目の夫の徳川秀忠(ひでただ)とは円満で、  江戸幕府

 2代将軍・徳川秀忠の正室 ・夫人となり、  秀忠との間に2男5女

 をもうける (徳川秀忠の夫人の時期:1595年〜1626年)。

 23歳頃、婚儀を結ぶ。

■ 子 は、 2男6女をもうけた。 豊臣秀勝との間に、 完子(さだ

 こ)をもうけ、 徳川秀忠との間に、千姫(せんひめ)、 珠姫(た

 まひめ)、 勝姫(かつひめ)、 初姫(はつひめ)、 徳川家光(と

 くがわいえみつ)、 徳川忠長(とくがわただなが)、 和子(かず

 こ、まさこ) をもうけた。 

■ お江(小督)(おごう)の娘である、千姫(せんひめ) は、 豊臣

 秀頼 (豊臣秀吉の実子) の正室 ・夫人 となる。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ お江(小督)(おごう)の娘である、和子(かずこ、まさこ)  は、後

 水尾天皇(ごみずのおてんのう)の中宮(ちゅうぐう、夫人)となり、

 後に、明正(めいしょう)天皇(在位1629〜43年、女帝の生母と

 なる。

■ お江(小督)(おごう)の男子である、徳川家光は、江戸幕府 3

 代将軍 となる。

● お江(小督)(おごう) は、 江戸幕府・3代将軍・徳川家光の生

 母となる。

■ お江(小督)(おごう)は、  徳川家康より任命された、徳川家光

 の乳母(うば) のお福(おふく、春日局) と対立し 、 家光の弟の

 徳川忠長 (駿府城主) を偏愛した。

 

 

  

   ○ 上記は、 上野樹里(うえのじゅり)の演じる、 お江 

    (おごう、小督(おごう)、お江与(おえよ)、崇源院(す

        うげんいん))。

  ○ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国 』 (NHK2011年大河

        ドラマ)のドラマPR壁紙。

 

 

■ お江(おごう、お江与、崇源院) は、近江(おうみ)の戦国大名・浅

 井長政 と 織田信長の妹・お市 との間に生まれた、 女性 である。

 お江(お江与、崇源院)  は、 近江(おうみ、滋賀県)の戦国大名、

 浅井長政の三女 で 、 織田信長の姪(めい) である。 

■ お江(お江与、崇源院) は、 豊臣秀吉の側室(夫人)の淀殿の、

 妹 である。

 

■ お江(お江与、崇源院) (おごう、生没年1573〜1626年) は、 

 浅井長政の三女で、 徳川秀忠の正室・夫人  であった。  

■ お江(お江与、崇源院) は、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠の御

 台所(みだいどころ、将軍正室) である。

■ お江(お江与、崇源院) は、 安土桃山時代、江戸時代初期の女

 性で、 江戸幕府・第2代将軍・徳川秀忠(ひでただ)の 正室・夫人 

 で、 忠秀の男子、江戸幕府・第3代将軍・徳川家光の生母 である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

#ogo-herfivepositions

 

■ お江(お江与、崇源院)は、5つの顔をもっている。

● 江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の正室・夫人である、 お江(おごう、

 お江与、崇源院) は、 「織田信長の姪(めい)」 であり、  「豊臣秀

 吉の養女」 であり、 「徳川家康の義理の娘」 であり、 「3代将軍・

 徳川家光の母」 であり、 「明正天皇の祖母」 という5つの顔を持つ

 女性 でもある

 

■ 「織田信長の姪(めい)」

● お江(お江与、崇源院)の母のお市 は、 織田信長の妹であり、お 

 江(お江与、崇源院) は、 織田信長の姪(めい) である。 

■ 「豊臣秀吉の養女」 

● お江(お江与、崇源院) は、豊臣秀吉やねねにかわいがられ、豊 

 臣秀吉の養女になり、 豊臣秀吉の命(めい)で、  豊臣秀吉の娘とし

 て、徳川秀忠に嫁いでいる。 お江(おごう、お江与、崇源院)は、「豊

 臣秀吉の養女」 である。

■ 「徳川家康の義理の娘」

● お江(お江与、崇源院) は、 徳川家康の三男の徳川秀忠の正室

 ・夫人となり、 徳川家康 は、 お江(お江与、崇源院) の義父 とな

 り、 お江(お江与、崇源院) は、 「徳川家康の義理の娘」  である。

 「3代将軍・徳川家光の母」 

● お江(お江与、崇源院) は、 江戸幕府2代将軍の徳川秀忠との

 間に、 徳川家光をもうけ 、 家光が3代将軍となる。 お江(お江与、

 崇源院) は、 「将軍の母」 である。 

 「明正天皇の祖母」

● お江(お江与、崇源院)と徳川秀忠との娘の和子 (まさこ、かずこ)

 は、 後水尾(ごみずのお)天皇の中宮(ちゅうぐう、夫人)となり、 和

 子は、 後水尾天皇との間に、娘をもうけ、 次期天皇の明正(めいし

 ょう)天皇(在位1629〜43年、女帝 となる。 お江 (お江与、崇源

 院)は、 「天皇の祖母」  である。

 

 

#ogo-hernames

 

■ お江(お江与、崇源院)の氏名。

■ お江(おごう、お江与、崇源院) は、 生没年は、1573年(天正

 元年)〜1626年(寛永3年) で、 別名は、 江 (ごう)、 督 (ご

 う)、 お江与 (おえよ、徳川秀忠の夫人後)、 崇源院 (すうげん

 いん、落飾(出家)後) と称す。  

● お江(お江与、崇源院) の別名の、 達子 (さとこ) は、 朝廷

 より賜(たまわ)った名 (死後、朝廷より従一位を賜った際に、授か

 った名) で、 諱(いみな)であり、 公(おおやけ)の場面、公文書

 でのみ使用された。 

● お江(お江与、崇源院) の正式名は、 お江(おごう、於江)の方、

 お江与(おえよ、於江与)の方、 浅井 江 (あざい ごう)、 浅井

 子  (あざい さとこ) である。  

(注意) 前近代日本の人名

○ 前近代日本では、改名自由。上層者は、複数自己名所持。

○ 前近代日本では、父系一族名中心。

○  前近代日本では、女性は、通常、個人名のみで自他呼称。

○ 前近代日本では、結婚相手は、家長や親が決めること多し。

○ 前近代日本では、夫婦別姓

 

 

#ogo-herparents

 

■ お江(お江与、崇源院)の父母の死と落城。

■ お江(おごう、お江与、崇源院) は、 浅井3姉妹 (浅井長政の  

 3人の娘、茶々(ちゃちゃ、淀殿)、 初 (はつ、常高院)、 江 (ご

 う、お江与、崇源院))の 一人 である。

 

■ お江(お江与、崇源院) は、 2度の憂き目(うきめ)にあう。即

 ち、1度目は小谷城(おだにじょう)落城時父・浅井長 政(あざい

 ながまさ)を失い(乳児時)、 2度目 は、北庄城(きたのしょうじょ

 う)落城時母・お 市(おいち)を失う(少女時)。 その後、 お江(お

 江与、崇源院)  は、3回結婚する。 即ち、 1度目は夫の佐治一

 成とは 離縁となり、2度目は夫の豊臣秀勝とは死別し、 そして、

 3度目は夫の徳川秀忠の正室の夫人となり、 2男5女をもうける。 

 

■ お江(お江与、崇源院) は、小谷城(おだにじょう)落城時の父

 ・浅井長政 自  と 北庄城(きたのしょうじょう)落城時の母・お

 市自害 の憂き目(うきめ)にあう。

● 1573年(元亀4年)に、 父・浅井長政の小谷城 は、秀吉の指

 揮する織田軍に攻められて、 父・浅井長政は自害し、炎 の中で、

 母・お市は、 乳児のお江(小督)を含めた浅井3姉妹を連れて、

 小谷城から落ちのびる。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

● 1583年(天正11年)に、母・お市の2番目の夫の柴田勝家の

 北庄城 (きたのしょうじょう) は、 秀吉の指揮する羽柴軍(豊臣

 軍)に攻められて、 母・お市は自害し、 炎の中で、 少女のお江

 (お江与、崇源院)を含めた浅井3姉妹は、北庄城から落ちのびる。

 

 

#ogo-herchildren

 

■ お江(お江与、崇源院)の子供達。

■ お江(おごう、お江与、崇源院) は、2男6女をもうけた。 豊臣

 秀勝との間に、完子(さだこ)をもうけ、 徳川秀忠との間に、千姫

 (せんひめ)、 珠姫(たまひめ)、 勝姫(かつひめ)、 初姫(はつ

 ひめ)、 徳川家光(とくがわいえみつ)、 徳川忠長(とくがわただ 

 なが)、 和子(まさこ、かずこ) をもうけた。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

● お江(お江与、崇源院) は、 2男6女をもうけた。 豊臣秀勝と

 の間 に、完子 (さだこ、1592−1658年)をもうけ、 徳川秀忠

 との間に、千姫 (せんひめ、秀忠長女、1597−1666年)、 珠

 姫 (たまひめ、秀忠次女、1599−1622年)、 勝姫 (かつひめ、

 秀忠三女、1601−72年)、  初姫 (はつひめ、秀忠四女、16

 02−30年)、 徳川家光 (とくがわいえみつ、 秀忠次男、1604

 −51年)、 徳川忠長 (とくがわただなが、 秀忠三男、1606−

 33年)、 和子 (かずこ、まさこ、徳川和子、秀忠五女、1607−

 78年) をもうけた。

 

 

#ogo-threemarriages

 

■ 3度の政略結婚をした、お江(お江与、崇源院)。

■ お江(おごう、お江与、崇源院) は、 1番目の夫・佐治一成とは

 離縁し、 2番目の夫・豊臣秀勝とは死別し、 3番目の夫・徳川秀忠

 とは円満な後半生を送る。

● お江(お江与、崇源院) は、 1番目の夫・佐治一成 (さじかずな

 り)に1584年に嫁ぎ同年離縁し、 2番目の夫・豊臣秀勝(とよとみ

 ひでかつ)に1592年に嫁ぎ同年死別し、 3番目の夫・徳川秀忠(と

 よとみひでただ)に1595年に嫁ぎ、 円満な生活、後半生を送り、 

 1626年に生涯を終えた。

■ 現在の日本では、結婚の9割が、2人の本人の意思で結婚する恋

 愛結婚であるが、 安土桃山時代・江戸時代初期の当時の政略結婚

 では、男女本人の意思に関係なく、両家の家父長が、結婚を決めて、

 結婚し、結婚当日に結婚相手に初めて会うことも多かった。 お江(お

 江与、崇源院)も、 秀吉の命(めい)で、そのような政略結婚を、3度、

 行った。

 

■ お江(おごう、お江与、崇源院)の第一番目の夫 は、 佐治一成 

 (さじ かずなり)であり、 離縁となった。

● お江(お江与、崇源院)の第一番目の夫 は、 佐治一成(さじ か

 ずなり) である (佐治一成の夫人の時期:1584年)。 

● お江(お江与、崇源院) は、 1584年(天正12年)に、羽柴秀吉

 (豊臣秀吉)の命(めい、計らい、仲介)で、 母・お市の姉(お犬の方・

 織田信長の妹)の子の、佐治一成と婚儀を結ぶ(に嫁ぐ)。 12歳頃、

 婚儀を結ぶ。

● 佐治一成 は 1584年に、 秀吉と対立したため、お江(お江与、

 崇源院)お江(小督)は、 秀吉により 離縁させられた。

 

■ お江(お江与、崇源院)の第ニ番目の夫  は、 豊臣秀勝 (とよと

 みひでかつ、羽柴秀勝(はしばひでかつ)) であり、 朝鮮戦役中に

 病死し、死別となった。

● お江(お江与、崇源院)の第ニ番目の夫  は、 豊臣秀勝(とよと

 みひでかつ、羽柴秀勝(はしばひでかつ))である (豊臣秀勝の夫人

 の時期:1592年)。 

● お江(お江与、崇源院)は、 1592年(文禄元年)に、 豊臣秀吉

 の 命(めい、計らい、仲介 )で、 豊臣秀勝と婚儀を結ぶ(に嫁ぐ)。

 20歳頃、婚儀を結ぶ。

● 豊臣秀勝 は、1592年に、 朝鮮戦役の文禄の役(ぶんろくの

 えき、1592年〜1593年)で出陣中に病死し、 お江(お江与、崇

 源院)は、 夫と死別した。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

● 秀勝とお江(お江与、崇源院)との間には娘の完子(さだこ、1592

 〜1658年)がいたが、 秀勝死後、 完子は、姉の淀殿に養育され、 

 後に、公家の九条忠栄(幸家)に嫁いだ。

 

■ お江(お江与、崇源院)の第三番目の夫  は、 徳川 秀忠(ひでた

 だ)であり、 秀忠とは円満で、秀忠との間に2男5女をもうけ、 平穏な

 後半生を送り、 1626年に生涯を終えた。

● お江(お江与、崇源院)の第三番目の夫  は、 徳川秀忠 (とくが

 わひでただ、江戸幕府2代将軍) で ある (徳川秀忠の夫人の時期:

 1595〜1626年)。 

● お江(お江与、崇源院) は、1595年(文禄4年)に、 豊臣秀吉の

 命(めい、計らい、仲介)で、 徳川秀忠と婚儀を結ぶ(に嫁ぐ)。23歳

 頃、婚儀を結ぶ。

● 徳川秀忠 は、 徳川家康の三男で、 徳川宗家(本家)の家督を

 継ぎ、江戸幕府2代将軍となり、 お江(お江与、崇源院) は、 幕府

  2代将軍の徳川秀忠の正室・夫人 となった。

● お江(お江与、崇源院) は、  徳川 秀忠(ひでただ)とは円満で、

 子宝に恵まれ、 秀忠 との間に、2男5女をもうけた。 千姫(せんひ

 め)、 珠姫(たまひめ)、 勝姫(かつひめ)、 初姫(はつひめ)、徳

 川家光(とくがわいえみつ)、 徳川忠長(とくがわただなが)、 和子

 (かずこ、まさこ) である。

 

 

#ogo-motherofshoguntokugawaiemitsu

 

■ 将軍の生母であった、お江(お江与、崇源院)。

■ お江(おごう、お江与、崇源院)の男子である、徳川家光  (とくが

 わいえみつ) は、 江戸幕府3代将軍 となる。

● お江(お江与、崇源院) は、 江戸幕府・3代将軍・徳川家光の生

 母となる。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

#ogo-motherinlawoftoyotomihideyori

 

■ 豊臣秀頼の義母であった、 お江(お江与、崇源院)。

■ お江(お江与、崇源院)の娘である、千姫 (せんひめ)は、 豊臣

 秀頼の正室・夫人 となる。

 

 

#ogo-motherinlawofgomizunooemperor

 

■ 天皇の義母、祖母であった、 お江(お江与、崇源院)。

■ お江(おごう、お江与、崇源院)の娘である、和子 (かずこ、まさこ) 

 は、後水尾(ごみずのお)天皇の中宮(ちゅうぐう、夫人)となり、 後

 に、明正(めいしょう)天皇(在位1629〜43年、女帝の生母となる。

 

 

#ogo-squarrelingwithkasuganotsubone

 

■ 世継ぎをめぐる、女の戦い。

 お江(おごう、お江与、崇源院) は、  徳川家康より任命された、

 徳川家光の乳母(うば)のお福 (おふく、春日局) と対立した。

 お江(お江与、崇源院) は、 夫の将軍・徳川秀忠との間に2人の

 男子、 家光(いえみつ)と 忠長(ただなが)をもうけたが、 お福( おふ

 く、春日局、家光の乳母)の権力拡大を阻止するため、 お福になつ

 く「家光」より、 伯父(おじ)の織田信長に似ていて、自分になつく「忠

 長」(家光の弟、駿府城主)を、可愛(かわい)がり、重んじた。

 

 

#ogo-hergrave

 

■ お江(お江与、崇源院)の墓 

■ お江(おごう、お江与、崇源院)の墓所は、 東京(江戸)の徳川家

  菩提寺の1つの、 芝・増上寺 にある。

□ お江 (お江与、崇源院) の宝塔 (増上寺・徳川家霊廟内)

 

 

#ogo-appearingscenes

 

♪♪ お江(お江与、崇源院) が登場する、興

    味深い、ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

★ お江(おごう、小督、お江与、崇源院) が登

  場する、興味深い関連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

   歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) と 

   架空の出来事 が 混じって描かれています。 

   また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 真田丸 (さなだまる) 』 。  

   (NHKテレビ・2016年大河ドラマ)。

 日本の安土桃山時代や江戸時代初期の時代

  を描く。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』。 

    (NHKテレビ・2011年大河ドラマ) 

■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描く。

● お江(小督)(おごう)を演じる俳優名 : 

   上野 樹里 (うえの じゅり) 。

 

■ 『 寧々〜おんな太閤記 (ねね おんなたいこうき) 』 

 (日本の2009年製作テレビ東京・テレビドラマ)。 

● お江(小督)(おごう)を演じた女優名 : 高橋かおり。

 

■ 『 天下騒乱〜徳川三代の陰謀 (てんかそうらん〜と

 く がわさんだいのいんぼう) 』 (日本の2006年製作テレビ東京

 ・テレビドラマ)。 

● お江(小督)(おごう)を演じた俳優名 : かたせ 梨乃 (かたせ 

 りの)。

 

■ 『 大奥・第一章 (おおおく だいいっしょう) 』 (日本の

 2004・2005年製作フジテレビ・テレビドラマ)。

● お江(小督)(おごう)を演じた俳優名 : 高島礼子 。

● 初代将軍家康、2代将軍秀忠、3代将軍家光の時代 と その時

 代の大奥を描いたドラマ。  松下由樹、高島礼子、瀬戸朝香 など

 が出演。

 

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#ogohappenings

 

■ お江(おごう) 関連出来事 

      (おごうかんれんできごと)。

 

■ お江(おごう)関連出来事(年代順・詳細)。

 

□ お江(おごう)の生涯

□ お江( おごう)と徳川秀忠との間の、2男5女

 

 

#ogohappenings-herlifetime

 

◆ お江 (おごう)の生涯。

 

■ 1573(天正元年)に、 お江(おごう) は、 父の浅井長政の近江

 (おうみ、滋賀県)の小谷城(おだにじょう)で、生まれる。 

 

■ 近江(おうみ、現在の滋賀県)の戦国大名の、浅井長政 は、156

 4年、織田信長と同盟を結び、1567年(永禄10年)、同盟を強固に

 するため、 織田信長の妹のお市と政略結婚した。 しかし、後に、

 1570年(元亀(げんき)元年)、信長が、浅井氏と関係の深い朝倉義

 景を攻めたため、 浅井長政 は、信長と決裂し、1573年(天正元

 年)に、戦い、敗れて、自害し、浅井氏は、1573年に、滅亡した。

 

@ 1564年(永禄7年)の、浅井家と織田家の同盟は、「 同盟がある

 限り、織田は朝倉に進軍せず、どのような事態でも朝倉に進軍する時

 は必ず一報をいれる」という条件を付した同盟 であった。

 

A 1570年(元亀元年)に、信長は、長政と交わした「朝倉への不戦

 の誓い」を破り、徳川家康と共に、越前の朝倉方の城を攻め始めた。 

 浅井は、朝倉との同盟関係を重視し、 織田・徳川軍を背後から急襲

 した。 信長は、苦戦しながら、近江を脱出した(金ヶ崎の退き口)。

 

B 1573年(元亀4年)、信長は、北近江に攻め寄せ、 小谷城を囲

 んだ。 お市は、 長政と運命を共にする覚悟であったが、 長政に

 諌(いさ)められて、 お市は、浅井三姉妹を連れて、 小谷城を脱出

 し、 信長の元へ落ちのびた。

 

■ お市の夫・浅井長政が、お市の兄・織田信長に敵対する。

● 1573年(元亀4年)に、 浅井長政の小谷城(おだにじょう) が、

 織田信長(配下の豊臣秀吉)の軍勢に攻められ、 落城すると、3人

 の娘 (茶々(淀殿)・初・江の浅井三姉妹) は、母・お市と共に、城

 を落ちのびる。

● このとき、 父・浅井長政、祖父の浅井久政は、 自害し、長政の

 先妻の子で腹違いの兄の万福丸 (お市の子という説もある) は、

 捕らえられ、 信長の命で秀吉により処刑される。 

 

■ 1573年(元亀4年)の小谷城落城時、 父・浅井長政は 自害し、

 小谷城落城後、 お市と3人の娘 (茶々(淀殿)・初・江(ごう)の

 井三姉妹 は、以後、 織田家の庇護(ひご)をうける。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 1573年の小谷城落城後、 お市と3人の娘 (茶々(淀殿)・初・

 江の浅井三姉妹) は、  主に、伊勢で暮す。 お市と3人の娘 は、 

 1574年頃より1582年での足掛け約9年間、 織田信長の弟(お

 江の叔父)の織田信包(のぶかね) の保護を受け(に預けられて)、 

 伊勢にて、平穏に過ごした。 

● 織田信包(のぶかね) は、 織田信長の弟で、 織田信長の軍が

 伊勢の一向一揆(1570〜74年)を平定後、 1574年頃から1594

 年まで、伊勢の領主となり、 1574年頃から1580年まで、伊勢の

 上野城を居城とし、1580年から1594年まで、伊勢国の津城(つじょ

 う、安濃津城(あのつじょう))を居城とした。 1574年頃から1582

 年まで、 お市と3人の娘は、 織田信包とともに、伊勢の上野城や

 濃津城(津城)で暮し、生活した。

 

■ 1582年(天正10年)に、 本能寺の変で織田信長の死去後、お

 市が、 織田家重臣の柴田勝家と再婚すると、 3人の娘 (茶々

 (淀殿)・初・江(ごう)の浅井三姉妹)  は、 母・お市と共に、越前

 (えちぜん、福井県東部)の北庄城(きたのしょうじょう、福井市)へ

 移る。

 

■ 1583年(天正11年)4月に、 柴田勝家の北庄城が、 羽柴秀吉

 (豊臣秀吉)の軍勢に攻められ、 柴田勝家と お市が自害し、 落

 城時、お市の3人の娘 (茶々(淀殿)・初・江(ごう)の浅井三姉妹 )

 は、逃がされ、城を落ちのびる。 

 

 1583年(天正11年)の北庄城落城時、 母・お市は自害し、 北

 庄城落城後、お江( おごう) は、以後、 羽柴家(豊臣家)の庇護(ひ

 ご)を受ける。 

● 北庄城落城後、 お市の3人の娘 (茶々(淀殿)・初・江(ごう) の

 浅 井三姉妹) は、 織田長益(ながます、織田有楽斎、お江の叔父) 

 や 京極龍子(竜子、きょうごくたつこ、お江のいとこ) らの保護を受

 けた  (後見のもとにいた)。  

● 浅井三姉妹の叔父(おじ)の織田 長益(有楽斎) や 浅井三姉妹

 のいとこの京極龍子(竜子) は、 1583年の北庄城(きたのしょじょ

 う)落城後、 浅井三姉妹(茶々、初、江)を、保護し、 三姉妹各自が

 独立するまでの間、世話をしている。

 

● 織田長益 (おだ ながます、織田有楽斎(うらくさい)、1547〜1

 622年) は、 織田信長の弟で、 織田氏の血筋で、 1582年の本

 能寺の変後、 織田信雄(のぶかつ)に仕(つか)え、 1590年の信

 雄改易後は、 豊臣秀吉の御伽衆  (おとぎしゅう、政治・軍事相談

 役) であり、 茶々(淀殿)・初・江(ごう)の浅井三姉妹を保護、後見

 した。 

● 京極龍子 (竜子、きょうごく たつこ、生年不詳〜1634年) は、

 龍子の母が 浅野久政(浅野長政の父)の娘の京極マリアで、 浅野

 氏の血筋で、 豊臣秀吉側室夫人・松の丸殿であり、 茶々(淀殿)・

 初・江(ごう)の浅井三姉妹を保護、後見した。

 

 1584年(天正12年)に、豊臣秀吉の命(めい)で、 お江( おごう)

 は、佐治一成 (さじ かずなり) に 嫁(とつ)ぐ。 しかし、同年に離

 縁となる。

 

 1592年(文禄元年)に、豊臣秀吉の命で、お江( おごう) は、豊臣

 秀勝(とよとみひでかつ、羽柴秀勝(はしばひでかつ)) に嫁(とつ)ぐ。

   しかし、豊臣秀勝は、1592年に、 朝鮮戦役の文禄の役(ぶんろ

 くのえき、1592年〜1593年)で出陣中に病死し、江( おごう) は、 

 夫の秀勝と死別する。

 

● 豊臣秀勝とお江との間には娘の完子(さだこ)がいた 。 秀勝死後、

 妊娠していた、お江 ( おごう) は、 姉の淀殿のもとで、完子(さだこ)

 を生んだ。 

   完子(さだこ)は、 母・お江(おごう)の徳川秀忠再婚に伴い、  

 ・お江( おごう)の姉の淀殿に養育され、 後に、完子(さだこ)は、公

 家の九条忠栄(くじょうただひで、後の幸家 (ゆきいえ)) に嫁(とつ)

 いだ。

 

 1595年(文禄4年)に、豊臣秀吉の命で、 お江( おごう) は、 秀

 吉の養女として、 徳川秀忠(とくがわ ひでただ) に 嫁(とつ)ぐ。 

  婚儀(結婚 )後、 江(ごう) は、 徳川秀忠との間に、  2男5女をも

 うける。

● お江(おごう)は、江戸幕府3代将軍・徳川家光の実母であるが、 江

 戸幕府(徳川宗家)の初代(家康)から15代(慶喜)までの御台所 (み

 だいどころ、将軍の正室・夫人)の中で、 将軍の実母となったのは、お

 江(おごう) のみである。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 1615年(慶長20年)の大阪の夏の陣で豊臣家が滅亡し、姉の淀

 殿(茶々)を失った後は、 お江( おごう) は、 姉のお初(おはつ、常

 高院)と よく会っていた。

 

■ 江( おごう) は、 1626年(寛永3年)に、 江戸城で、死去する。

   この時、 夫の徳川秀忠や子の徳川家光、忠長 は、上洛中であ

 った (京(都)滞在中であった)。

 

■ 江( おごう)の墓所は、 徳川家菩提寺の1つの、芝・増上寺(東

 京都港区) にある。

□ 江 (お江与、崇源院) の宝塔 (増上寺・徳川家霊廟内)

● 江( おごう) は、死後、子の徳川家光によって、増上寺に埋葬さ

 れた。  徳川氏一族は通常土葬されたが、江(ごう) は、 例外的に、

 火葬され、埋葬された。

● かって、増上寺には、家光が建立(こんりゅう)したお江(おごう) の

 崇源院(すうげんいん)霊廟を含む、豪壮華麗な徳川将軍家霊廟が

 あったが、戦災でそのほとんどを焼失した。 その後の改葬で、徳川家

 の墓所 は、 本堂裏手の一画(いっかく)にまとめられた。  増上寺

 は、年に1度、一般の人に、徳川家霊廟を参観させている。

 

 

#ogohappenings-herchildrenoftokugawahidetada

 

◆ お江( おごう)と徳川秀忠との間の、

   2男5女。

 

■ 江( おごう) は、  徳川 秀忠(ひでただ)とは円満で、 子宝に恵ま

 れ、 秀忠 との間に、 2男5女をもうけた。

  その2男5女は、 生まれた順に、千姫(せんひめ)、 珠姫(たまひめ)、 

 勝姫(かつひめ)、 初姫(はつひめ)、 徳川家光(とくがわいえみつ)、 

 徳川忠長(とくがわただなが)、 和子(まさこ、かずこ) である。 

 

● 近世日本(安土桃山時代、江戸時代)では、 当時、 政略結婚では、

 幼少時に、女性が、結婚相手の元へ嫁(とつ)ぐことは 、 珍しいことで

 はなかった。

 

◆ 生まれた順番で並べた、お江の子供たちの人生を

 見てみみよう。

 

■ 1597年(慶長2年)に誕生した、江( おごう)の女子である、

 千姫 (せんひめ、秀忠長女、1597−1666年) は、 1603年(慶長

 8年)に、 豊臣秀頼の元へ嫁ぐ。 1615年に秀頼と死別する。 豊臣

 家滅亡後は、1616年(元和(げんな)2年)に、播磨・姫路新田藩主・本

 多 忠刻 (ほんだ ただとき)の元へ嫁ぐ。

 

■ 1599年(慶長4年)に誕生した、江( おごう)の女子である、

 珠姫 (たまひめ、秀忠次女、1599−1622年) は、 1601年(慶長

 6年)に、加賀藩・2代藩主前田利常の元へ嫁ぐ。 その後、加賀藩3代

 藩主・前田光高の母となる。

   幼名は、子々姫(ねねひめ) である。

 

■ 1601年(慶長6年)に誕生した、江( おごう)の女子である、

 勝姫 (かつひめ、秀忠三女、1601−72年) は、 1611年(慶長16

 年)に、福井藩主・松平忠直の元へ嫁ぐ。

 

■ 1602年(慶長7年)に誕生した、江( おごう)の女子である、

 初姫 (はつひめ、秀忠四女、1602−30年) は、 伯母の初(はつ、常

 高院)の養女となる。 その後、1611年(慶長16年)に、京極忠高(きょ

 うごくだだたか)の元へ嫁ぐ。

 

■ 1604年(慶長9年)に誕生した、江( おごう)の男子である、

 徳川家光 (とくがわいえみつ、秀忠次男、1604−51年) は、 1623

 年に、江戸幕府3代将軍 (在任1623〜1651年) となる。

● 幼名は、 竹千代(たけちよ) である。 

● 江の夫の徳川秀忠 は、別の夫人と間に、 秀忠長男の長丸(ちょう

 まる)を得たが、早世した。

● 徳川家康の命(めい)で、お福(おふく、後の春日局)が、竹千代(徳川

 家光)の乳母(うば、めのと、1604年〜)となる。

 

■ 1606年(慶長11年)に誕生した、江( おごう)の男子である、

 徳川忠長 (とくがわただなが、秀忠三男、1606−33年) は、 1624

 年に、駿府城主となり、 駿河、遠江、甲斐合せて55万石の大名となる。 

   その後、1631年(寛永8年)に、甲府への蟄居(ちっきょ)を命じら

 れ、改易(かいえき)となり、 1632年には、高崎へ配流される。 16

 33年(寛永10年)に、幕府の命(めい)で、自刃(自害)させられる。

● 幼名は、 国松(くにまつ) である。

 

■ 1607年(慶長12年)に誕生した、江( おごう)の女子である、

 和子(かずこ、まさこ、秀忠五女、1607−78年) は、 1620年(元和

 (げんな)6年)に、 後水尾(ごみずのお)天皇の元へ嫁ぐ (入内(じゅ

 だい)する)。 女御(にょうご)とし入内し、後に中宮(ちゅうぐう)となる。 

 1627年より東福門院(とうふくもんいん)と呼ばれた。 

● 後に、明正(めいしょう)天皇(在位1629〜43年、女帝の 生母と

 なる。

● 最初の名は、松姫(まつひめ)または和姫(かずひめ) である。

 

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#ogobriefchronology

 

■ お江 簡略年表 

    (おごう かんりゃくねんぴょう)。

 

◆ お江 簡略年表。

 

■ 1573年 ● お江 (おごう、1573〜1626年) は、

          (おうみ、滋賀県)の、父・浅井長政(あざい

          ながまさ)の小谷城(おだにじょう)で、生まれ 

          る。 生母は、織田信長の妹のお市(おいち)

          である。

                        後に、同年の1573年に、 小谷城落城時

          に、父・浅井長政は、自害する。

■ 1583年 ● 4月に、柴田勝家の北庄城(きたのしょうじ

          ょう)が、 羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍勢に攻め

          られ、柴田勝家とお市が自害し、落城時、お市

          の3人の娘(茶々(淀殿)・初・江(ごう)の浅井

          三姉妹)は、逃がされ、城を落ちのびる。

 1584年 ● 豊臣秀吉の命(めい)で、お江(おごう) は、

          佐治一成(さじ かずなり)に 嫁(とつ)ぐ。 し

          かし、同年に離縁となる。

 1592年  ● 豊臣秀吉の命で、お江(おごう) は、豊臣

           秀勝(とよとみひでかつ、羽柴秀勝(はしばひ

           でかつ))に嫁(とつ)ぐ。 しかし、豊臣秀勝 は、

           1592年に、朝鮮戦役の文禄の役(ぶんろくの

           えき、1592年〜1593年)で出陣中に病死し、

          は、夫の秀勝と死別する。

 159 3年 ● 夫の豊臣秀勝死後、妊娠していた、お江( お

           ごう) は、姉の淀殿のもとで、秀勝の娘、完子

          (さだこ)を生んだ。 

             後に、完子は、 母・お江(おごう)の徳川秀

            忠再婚に伴い、・お江 の姉の淀殿に養育され、

            その後、完子は、公家の九条忠栄(くじょうただ

           ひで、後の幸家(ゆきいえ))に嫁(とつ)いだ。

 1595年 ● 豊臣秀吉の命で、 お江( おごう) は、 秀吉

          の養女として、徳川秀忠(とくがわ ひでただ)

           嫁(とつ)ぐ。 

            婚儀(結婚)後、お江は、 徳川秀忠と の間に、

           2男5女をもうける。  後の江戸幕府3代将軍・

           徳川家光もその一人である。

■ 1604年 ● 江(おごう) は 徳川秀忠の男子の徳川家

           光(とくがわいえみつ、秀忠次男、1604−51

           年)を 産む。 幼名は、竹千代(たけちよ)である。 

            徳川家光は、1623年に、江戸幕府3代将軍 

           (在任1623〜1651年)となる。

          ● 徳川家康の命(めい)で、お福(おふく、後の

           春日局)が、竹千代(徳川家光)の乳母(うば、

           めのと、1604年〜) となる。

■ 1607年 ● 江(おごう) は、和子(まさこ、徳川和子、秀

           忠五女、1607〜78年)を産む。 最初の名は、

           松姫(まつひめ)または和姫(かずひめ)である。

             後に、和子は、1620年(元和(げんな)6年)

           に、後水尾(ごみずのお)天皇の元へ嫁ぐ(入内

           (じゅだい)する)。

■ 1620年 ● 江(おごう) の女子、和子(まさこ)は、天皇

           の正室・夫人となる。 後に、和子は、天皇の生

           母となる。

             和子は、 1620年(元和(げんな)6年)に、 

           後水尾(ごみずのお)天皇の元へ嫁ぐ(入内(じ

           ゅだい)する)。 女御(にょうご)とし入内し、後

           に中宮(ちゅうぐう)となる。1627年より東福門

           院(とうふくもんいん)と呼ばれる。 後に、和子

           は、明正(めいしょう)天皇(在位1629〜43年、

           女帝の生母と なる。

■ 1623年 ● 江(おごう) の男子、徳川家光は、江戸幕府

           3代将軍 (在任1623〜1651年)となる。

■ 1626年 ● 江(おごう)は、江戸城で、死去する。 この 

           時、夫の徳川秀忠や子の徳川家光、忠長は、上

           洛中であった(京(都)滞在中であった)。

 

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#ogodetailedchronology

 

■ お江  詳細年表  

     (おごう  しょうさいねんぴょう)。

 

◆ お江(おごう)  詳細年表。

 

□ お江 年表 1532年〜1572年

□ お江 年表 1573年〜1582年

□ お江 年表 1583年〜1594年

□ お江 年表 1595年〜1603年

□ お江 年表 1604年〜1626年

 

■ 戦国時代については、『 中世日本歴史詳細 年表 』

 を、安土桃山時代、江戸時代については、『 近世日本

 歴史詳細年表 』を参照して下さい。

■ より理解を深めるために、 当年表と近い時期の日本

 史辞典の年表の、 『 戦国時代 (室町時代後期) 年表、 

 安土桃山時代 年表、 江戸時代初期 年表、 織田 信

 長年表、 豊臣秀吉 年表、  徳川家康 年表、 大奥

 年表、 武田信玄年表、  武田 勝頼(かつより)年表、 

 上杉謙信 年、 上杉景勝(かげかつ) 年表 

 兼続 年表 』 も参照して下さい。 

■ 当年表 は、 お江 (1573年〜1626年) が生き

 た時代の詳細年表 である。

■ お江 (おごう,生没年 1573年〜1626年) の時

 代の日本へタイムスリップして、 お江(おごう)の足跡、

 活動をたどってみよう。

■ 歴史学の立場から、 年代を追って、 お江(おごう)

 の実像 (歴史的有名な人物には、虚像と実像がありま

 すが) を見てみよう。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典 22219。

■ 日付(年月日)は、全て旧暦、人物の年齢は、数え年。

● 一般的な歴史書籍で使用されているのと同じように、

 当年表の日付(年月日)は、1872年(明治5年)12月

 2日までは、旧暦(太陰太陽暦)を用い 、人物の年齢も

 数え年を用いている。

 

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◆ お江(おごう)  詳細年表。

● では、 お江(おごう)に関係する出来事を、年代順に、

 見てみよう。

 

#ogodetailedchronology-1532

 

■ 1532年   ● 天文(てんぶん、てんもん)改元。   

 (天文 元年)    1532年7月29日に、和暦の「享禄」(き

            ょうろく) が、 「天文」 (てんぶん、てんも

            ん、 天文元年・1532年・7月29日〜 天

            文24年・ 1555年・10月23日) に改元

            される。 

■ 1534年   ● お江(おごう)の伯父となる、 織田 信長

  (天文 3年)  (おだ のぶなが、幼名:吉法師)が、 尾張

            国(おわりのくに、現在の愛知県西部)の戦

            国武将、織田信秀(おだのぶひで)の子とし

            て、 誕生する。

■ 1536年   ● お江(おごう)を庇護し、養父となる、 豊

 (天文 5年)   臣秀吉  (とよとみ ひでよし、幼名:日吉丸

            ?)が、 尾張国(おわりのくに、現在の愛

            知県西部)の農民の弥右衛門(やえもん)

            の子として、 誕生する。  秀吉の誕生年は、

            1537年(天文6年)説も有力である。

■ 1539年   ● 織田信長 (吉法師) は、幼少で(6歳

 (天文 8年)   で)、那古野城主 となる。

■ 1541年   ● 北条家の北条氏綱が死去し、 北条氏

 (天文10年)   康が、 家督を継いで、北条氏の第3代当

            主となり、 1541年に、北条家の実権

            (1541〜71年)を持つ。 一説には、15

            38年(天文7年)に氏綱が、隠居し、氏康

            に家督を譲り後見していたとも言われてい

            る。

■ 1542年   ● お江(おごう)の夫の義父となる、徳川家

 (天文11年)   康 (とくがわ いえやす、幼名:竹千代) が、 

            三河国(みかわのくに、現在の愛知県東部)

            の、戦国武将で岡崎城主の、松平広忠 (ま

            つだいら ひろただ)の子として、 誕生する。

            ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 1546年   ● 家康の盟友となる、 織田信長 は、 尾

 (天文15年)   張の、古渡(ふるわたり)城にて、元服し、 

            織田信長 (織田上総介、おだかずさのす

            け)と称す。

■ 1547年   ● 徳川家康 (竹千代) が、 織田信秀の

 (天文16年)   織田家の人質 (1547〜48年) となる。

■ 1548年   ● 信長の父・織田信秀が敵対していた、斉

 (天文17年)   藤道三との和睦が成立し、信長は、 美濃

            (現在の岐阜県)の戦国大名、斉藤道三の

            娘、帰蝶(濃姫)と政略結婚する。 

■ 1549年   ● 1549年11月に、徳川家康 (竹千代) 

 (天文18年)   が、 今川義元(いまがわよしもと)の今川

            家の人質 (1549〜60年) となる。

■ 1551年   ● 織田信長の父・信秀が急死し、 織田信

 (天文20年)   長 が、織田家の織田信秀の家督を継ぐ

            (継承する)。

■ 1554年   ● 家康の競争相手となる、 豊臣秀吉 が、

  (天文23年)     織田信長に仕える。

              ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 1555年   ● 弘治(こうじ)改元。    

 (弘治 元年)     1555年10月23日に、和暦の「天文」 

            (てんぶん、てんもん) が、 「弘治」 (こ

            うじ、 弘治元年・1555年・10月23日〜 

            弘治4年・ 1558年・2月28日) に改元

            される。 

■ 1558年   ● 永禄(えいろく)改元。    

 (永禄 元年)      1558年2月28日に、和暦の「弘治」

            (こうじ) が、 「 永禄」 (えいろく、 永禄

            元年・1558年・2月28日〜 永禄13年・

            1570年・4月23日) に改元される。 

■ 1559年   ● 織田信長 は、 尾張一国を統一する。

 (永禄 2年) 

■ 1559年   ● 相模国 (さがみのくに、現在の神奈川 

 (永禄 2年)   県) の北条家の北条氏康(1515〜71

            年)が、1559年に、隠居し(実権は1571

            年まで保持し)、 氏康の子、北条氏政

            (1538〜90年) が 北条家の家督を継

            承し、 後北条家の第4代当主となる。

■ 1560年   ● 1560年5月に、織田信長は、 桶狭間

 (永禄 3年)   (おけはざま)の戦いで、今川義元を破る。 

            今川義元は、 尾張の桶狭間で、敗死する。

           ● 徳川家康 (松平元康) は、 松平軍の

            兵を撤退し、三河へ戻り、今川家から独立

            する。

■ 1561年   ● 豊臣秀吉 (木下藤吉郎) が、 浅野長

 (永禄 4年)   勝の養女・ねね と結婚する。

■ 1562年   ● 1562年1月に、徳川家康(松平元康) 

 (永禄 5年)   は、織田信長と清洲同盟(織徳同盟)を結

            ぶ。 

■ 1563年   ● 徳川家康(松平元康) は、名を、元康

 (永禄 6年)   から家康に改める。

■ 1564年   ● 徳川家康(松平家康) は、 西三河を

 (永禄 7年)   平定し、 一向一揆(いっこういっき) の

            鎮圧にも成功する。

■ 1566年   ● 徳川家康(松平家康)は、三河国 (み

 (永禄 9年)   かわのくに、現在の愛知県東部)を統一し

            た。

           ● 徳川家康(松平家康)は、 三河守(み

            かわのかみ)となり、 徳川(とくがわ)に

            改姓した。  松平より、徳川へ改姓した。

■ 1567年   ● 信長 は、 北近江(きたおうみ)の戦国

 (永禄10年)   大名の、浅井長政と1564年に結んだ同

            盟をより強固なものにするため、 信長の

            妹のお市を、浅井長政に輿入(こしい)れ

            させた。

■ 1567年   ● 1567年 (永禄10年) 10月に、家康

 (永禄10年)   の同盟者の、織田信長 は、 美濃国(み

            ののくに、現在の岐阜県南部) の斉藤氏

            を滅ぼす。 

              ここに、 信長は、33歳で、尾張、美濃

            の2カ国を領する大名となる。 

              この頃から、 信長は、天下布武の朱印

            を用いるようになる。

■ 1568年   ● 徳川家康 は、 今川領分割に際して、 

  (永禄11年)     駿河を武田領、遠江を徳川領とする協定を、 

            武田信玄と結んだ。

           ● 徳川家康 は、1568年末から、今川領

            である遠江国へ侵攻する。

■ 1568年   ● 1568年11月に、 織田信長は、足利

 (永禄11年)   義昭(よしあき)を奉じて、 上洛を果たし、 

            足利義昭を将軍位に就(つ)ける。  この

            戦いに、 家康は、信長へ援軍を派遣した。

              その後、信長が、 足利義昭の行動をコ

            ントロールしようとしたので、義昭との関係

            が悪化する。 義昭が計って、武田氏、朝倉

            氏、延暦寺、石山本願寺などからなる信長

            包囲網が結成される。

           ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 1569年   ● 徳川家康は、 遠江国の大半を攻め獲り、 

 (永禄12年)   今川氏真のいる、掛川(かけがわ)城も包囲

            し、氏真を降伏させる。

           ● 徳川家康 と 武田信玄 は、 敵対関係

            となる。

■ 1570年   ● 元亀(げんき)改元。    

 (元亀 元年)   1570年4月23日に、 和暦の「永禄」(えい

            ろく) が、 「 元亀」 (げんき、 元亀元年・

            1570年・4月23日〜 元亀4年・ 1573年・

            7月28日) に改元される。 

■ 1570年   ● 1570年4月に、 織田信長は、 軍を、越

 (元亀 元年)   前に侵攻したが、信長の妹婿の北近江(きた

            おうみ、滋賀県北部)の浅井長政に背後をつ

            かれ、 命からがら、 京(都)へ逃れた。

■ 1570年   ● 1570年6月に、織田信長は、近江国の姉

 (元亀 元年)   川で、浅井・朝倉連合軍を破る (姉川の戦い)。 

            この戦いに、家康は、信長と共に参戦し、信長

            を助けた。

           ● 1570年9月に、本願寺は、信長に対抗す

            る(石山合戦の始まり)。

■ 1570年   ● 徳川家康は、本城を、三河の岡崎から、遠

 (元亀 元年)   江の曳馬に移し、浜松城を築いた。

■ 1571年   ● 相模国(さがみのくに、現在の神奈川県)

 (元亀 2年)    の北条家の、 北条氏康(1515〜71年) 

            が、死去する。 氏康の子、北条氏政(153

            8〜90年) が 北条家の実権(1571〜

            90年)を握る。

■ 1572年   ● 1572年10月に、 武田軍が上洛を開 、

 (元亀 3年)   始する (武田信玄は上洛の軍を起こす)。

           ● 1572年12月に、 遠江(とおとうみ、

            静岡県西部)の、三方ヶ原の戦いで、 徳川

            ・織田連合軍は、 武田軍に大敗する。

 

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#ogodetailedchronology-1573

 

■ 1573年   ● 1573年 (天正 元年)に、 お江(お

 (元亀 4年)    ごう) 、 近江国小谷(おうみのくに

            おだに、現在の滋賀県湖北町)、 浅井

            長政とお市 との間に、長政三女として、

            生まれる

■ 1573年   ● 1573年2月に、足利義昭は、武田氏、

 (元亀 4年)   浅井氏、朝倉氏、本願寺と協力して、信

            長討伐を謀(はか)る。

            ● 1573年4月に、武田信玄が、病状悪化

            し、武田軍は、徳川領の三河や遠江から、

            軍を返し、甲斐へ帰国した (信玄は帰国

            途中、信濃・駒場で病死)。 

           ● 1573年5月に、徳川家康は、三河の長

            篠(ながしの)城を攻め、武田軍より奪回し、

            武田軍の再侵攻に備えた。

                      ● 1573年7月に、織田信長は、信長を裏

            切った、足利 義昭(よしあき)を京都より追

            放し、室町幕府を滅ぼす (室町幕府滅亡)。

           ● 1573年7月に、秀吉の主君の、信長は、

            元号を元亀から天正へと改めることを朝廷

            に奏上(そうじょう)し、これを実現させた。

■ 1573年   ● 天正改元。    

 (天正 元年)   1573年7月28日に、 和暦の「元亀」(げ

            んき) が、 「 天正」 (てんしょう、天正元

            年・1573年・7月28日〜 天正20年・15

            92年・12月8日) に改元される。 

■ 1573年   ● 1573年8月に、 信長 は、朝倉・浅井

 (天正 元年)   両氏 を滅ぼす。 

             ● 信長 は、 1573年8月に、越前に行

            軍し朝倉軍を破り、朝倉義景を自害させ、

            同年9月に、北近江の小谷(おだに)城を落

            とし、 浅井久政・長政父子を自害させる。 

            落城前、信長の妹のお市と娘3人は、落ち

            延びて信長が引き取った。 信長 は、 越

            前と北近江を領土とした。

           ● 1973年(天正元年)9月に、お江(おごう)

            の父・浅井長政の居城の小谷城(おだにじょ

            う)が織田軍に攻め落とされ、父・浅井長政

            は自刃(じじん、自害)、 お江の母のお市

            、 浅井3姉妹 (お茶々、お初、お江) 

            共に城を逃れて、織田信長に保護される

           ● 1573年(天正元年)、信長は、北近江

            に攻め寄せ、 小谷城を囲んだ。 お市は、

            浅井長政と運命を共にする覚悟であったが、 

            長政に諌(いさ)められて、 お市は、浅井

            三姉妹を連れて、 小谷城を脱出し、 信長

            の元へ落ちのびた。

              その後、 浅井三姉妹 は、 叔父の織田

            信包のの庇護の下(もと)におかれ、 尾張で

            暮す。

           ● 信長軍の、豊臣秀吉(木下秀吉)は、 浅

            井氏滅亡後、その旧領の北近江三郡の経営

            を織田信長より任され、 北近江(きたおうみ)

            の長浜城の城主となる。

■ 1573年   ● 信長軍の、豊臣秀吉(木下秀吉)は、丹

 (天正 元年)   羽長秀と柴田勝家から一字ずつをもらいう

            け、 木下姓を羽柴姓に改め、 羽柴秀吉と

            称する。

           ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 1574年   ● 1574年5月に、徳川家康は、高天神城を、

 (天正 2年)   武田勝頼に奪われる。

■ 1575年   ● 1575年5月に、信長・家康連合軍 は、

 (天正 3年)    三河・長篠(ながしの)で、 武田勝頼の率

             いる軍に大勝する (長篠の戦い)。 

           ● 1575年8月に、信長は、越前に侵攻し、

             本願寺門徒の軍を破り、 再び、織田領に、

             越前を柴田勝家に経営させる。

■ 1576年   ● 1576年2月に、信長は、 琵琶湖湖岸

  (天正 4年)  に、安土城の築城を開始する (1579年

            完成)。

■ 1577年   ● 信長軍 は、北陸で、 上杉謙信の率いる

 (天正 5年)   上杉軍に敗れ (手取川の戦い)、撤兵する。

           ● 1577年10月に、秀吉は、織田信忠の指

            揮下で、松永久秀を滅ぼし、功績をあげる。

            ● 家康のライバルとなる、 石田 三成 (石

            田佐吉) が、 1577年、18歳で、 豊臣秀

            吉(羽柴秀吉) に仕官する。

■ 1578年   ● 信長軍 は、 上杉領の能登、加賀の攻

 (天正 6年)   略を開始する。 

            ● 1578年11月に、 織田水軍が、鉄甲船

            を用いて、毛利水軍を破る。

■ 1579年   ● 織田信長 は、 五層七重の豪華絢爛

 (天正 7年)   (ごうかけんらん)な安土城を完成させる。

■ 1579年   ● 織田信長は、 徳川家康に、 家康の嫡

 (天正 7年)   男・松平信康 と 家康 の正室(妻)で信

            康の生母の築山殿の自害(切腹)を命じる。

■ 1580年   ● 織田信長は、石山本願寺を屈服させる。

 (天正 8年)   

■ 1581年   ● 1581年2月に、織田信長 は、 京都の

 (天正 9年)   内裏(だいり)東の馬場で、 京都御馬揃え 

            (馬揃えは、現在の軍事パレードに相当)を

            行う。

           ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 1582年   ● 1582年2月に、織田信長 は、 武田

 (天正10年)   への攻撃開始し、3月11日に、 武田勝頼

            を討ち取り(天目山の戦い)、 武田氏は滅

            亡する。 

           ● 1582年2月に、織田軍に協力して、 徳

            川軍も、武田領の駿河に侵攻して、駿河を

            占領する。 家康は、 同年に、この戦功によ

            り、 織田信長から駿河一国を与えられる。

■ 1582年   ● 1582年5月に、織田信長 は、明智光秀

 (天正10年)   に、備中国にいる秀吉軍への援軍を命じ、

            信長は、6月に、京都へ上洛した。

           ● 1582年6月に、秀吉の主君・信長は、本

            能寺の変で自刃。

              明智光秀 が、1582年6月に、京都の

            本能寺にいた織田信長を攻め、 自害させる

            (本能寺の変)。 信長、享年、49歳で死す。

              同年6月に、秀吉は、 明智光秀を討つ 

            (山崎の戦い)。

            ● 1582年6月27日に、秀吉は、に、清洲

             城にて、他の織田家の重臣と信長の後継者

             と遺領の分割を決める (清洲会議)。

            ● 1582年(天正10年)に、お江(おごう)の

            母・お市が柴田勝家と再婚し、浅井3姉妹 

            (お茶々、お初、お江) 、越前国北庄城

            (えちぜんのくに・きたのしょうじょう)へ移る

            ● 1582年(天正10年)に、本能寺の変で

            織田信長の死去後、母・お市が、 織田家重

            臣の柴田勝家と再婚すると、 茶々(淀殿)

            ら3人の娘(浅井三姉妹)は、 母・お市と共

            に、 北の庄城(福井市) へ移る。

           ● 1582年12月に、秀吉は、 北近江へ侵

            攻し、長浜城を降伏させ、 美濃へ侵攻、平定

            する。

                  ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 1582年   ● 織田信長死後、 織田領の信濃(しなの、

 (天正10年)   長野県)、甲斐(かい、山梨県)、上野(こう

            ずけ、群馬県)へ 上杉景勝の軍、 北条氏

            政の軍、徳川家康の軍 が侵攻した。 

              その後、戦いの結果、 北信濃(きたしな

            の、長野県北部)は、上杉領になり、また、徳

            川家康と北条氏政は和睦し、 信濃(北信濃

            を除く)、甲斐は、徳川領に、 上野は、北条

            領 となった。  

              ここに、 徳川家康は、 三河(みかわ、愛

            知県東部)、 遠江(とおとうみ、静岡県西部)、 

            駿河(するが、静岡県中部)、 甲斐、 信濃

            の 日本の中部5カ国を領有する大大名(15

            82〜90年) になる。

 

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#ogodetailedchronology-1583

 

■ 1583年   ● 相模国 (さがみのくに、現在の神奈川

 (天正11年)   県) の 北条氏政 (1538〜90年) が、 

            1583年に、隠居し(実権は1590年まで

            保持し)、 氏政の子、北条氏直 が北条家

            の家督を継承し、 後北条家の第5代当主

                        となる。

■ 1583年   ● 1583年2月に、秀吉は、北伊勢へ侵攻

 (天正11年)   し、3月に、伊勢亀山城を降伏させる。

           ● 1583年4月に、豊臣秀吉は、 賤ヶ岳

            (しずがたけ)で、柴田勝家の兵を破り(賤

            ヶ岳の戦い)、 追撃された、勝家は、越前

            (えちぜん、福井県)の北庄城 (きたのしょう

            じょう)で、自害する。

              1583年4月に、柴田勝家の北庄城が、

            豊臣秀吉の軍勢に攻められ、  柴田勝家と

            母・お市が自害し、 落城時、 茶々(淀殿)

            ら3人の娘(浅野三姉妹)は、逃がされ、城

            を落ちのびる。 

              その後、 浅野三姉妹 は、織田長益、

            京極龍子らの庇護の下(もと)におかれた。 

           ● 1583年(天正11年)に、お江(おごう)の

            義父の柴田勝家の居城・北庄城(きたのしょ

            うじょう)羽柴軍(豊臣軍)に攻め落とされ

            お江の生母のお市は自害し、 浅井3姉妹 

            (お茶々、お初、お江城を逃れて、 羽

            柴秀吉(豊臣秀吉)にに保護される

           ● 秀吉は、 さらに、 加賀国と能登国(かが

            のくにとのとのくに、現在の石川県)へ侵攻し

            2国を平定して、それらを前田利家に与えた。 

           ● 1583年8月に、秀吉は、石山本願寺の跡

            地に、大阪城の築城を開始する (1588年

            大阪城完成)。

■ 1584年   ● 1584年(天正12年)に、お江(おごう) 

 (天正12年)   秀吉の命(めい)で佐治一成(さじかずなり)

            嫁ぐ。 秀吉と夫の佐治一成が不和となり、同

            年に、お江(おごう)、秀吉により、1番目の夫

            の佐治一成と離縁させら れる。

■ 1584年    ● 1584年4月に、徳川家康 は、 秀吉の

 (天正12年)   兵を長久手で破り (小牧・長久手(こまき・な

            がくて)の戦い)、 同年12月に秀吉と和睦す

            る。

            ● 1584年8月に、 秀吉は、 大阪城に移る。

■ 1585年   ● 1585年3月に、豊臣秀吉は、正ニ位・内

 (天正13年)   大臣に叙位・任官される。

            ● 1585年3月に、秀吉は、紀伊へ侵攻し

                   て、平定する(紀州征伐)。

            ● 1585年7月に、秀吉は、関白となる。

            ● 1585年8月に、秀吉は、 長宗我部元親

             を降伏させ、四国を平定する (四国征伐)。

            ● 1585年8月に、秀吉は、越中国(えっ

                      ちゅうのくに、富山県)の佐々成政を降伏させ、

             北陸を平定する (北陸平定)。

■ 1586年   ● 豊臣秀吉は、 徳川家康に臣従をさせる。

 (天正14年)  ● 1586年12月に、秀吉は、太政大臣に

             就任し、 豊臣の姓を賜(たまわ)り、 豊臣

             政権が確立する。

■ 1587年   ● 1587年5月に、豊臣秀吉は、島津義久を

 (天正15年)   降伏させ、九州を平定する。 

            ● 1587年6月に、秀吉は、 バテレン追放

            令をだす。

           ● 1587年9月に、秀吉は、 聚楽第(じゅら

            くだい)を完成させ、大阪城より移る。 また、

            天正通宝を鋳造する。

■ 1588年   ● 茶々(淀殿) は、 豊臣秀吉の側室となる。 

 (天正16年)   大阪城へ入る。

■ 1589年   ● 1589年に、茶々(淀殿) は、秀吉の男

 (天正17年)   子、鶴松を生む。  

             ● この懐妊・出産を喜んだ秀吉から、淀城

            を賜(たまわ)り、 以後、 茶々は、「淀の方」

            (よどのかた) と呼ばれるようになる。

            ● その後、 淀殿(茶々)は鶴松を、秀吉の

            正室のねねに預け、ねねが鶴松を引き取り、

            育てる。  当時、上層階層では、側室夫人

            が産んだ子を、正室夫人が育てる慣習があ

            ったので。

            ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 1590年   ● 1590年7月に、豊臣秀吉は、北条氏を

 (天正18年)   降伏させ、関東を平定する (関東平定)。  

            北条氏政が、 自刃する。

           ● 1590年7月に、秀吉は、奥州も制圧した

            (奥州制圧)。

           ● 1590年7月に、秀吉 が、 天下を統一

            した (日本全国を統一した)。

           ● 1590年8月に、 秀吉の命(命令)により、 

            徳川家康が、 関東に移り、江戸城に入る 

            ( 家康が中部5カ国を秀吉に譲り、家康が、

            約250万石の関東を領有する)。

■ 1591年   ● 豊臣秀吉の正室のねねの元で育てられ

 (天正19年)   ていた、 鶴松 (淀殿(茶々)の男子) が、 

            死亡する。

           ● 1591年12月に、秀吉は、関白の職を、

            甥(おい)の秀次(ひでつぐ)に譲る。 秀吉

            は、 太閤(たいこう、前関白の尊称)と呼ば

            れるようになる。

■ 1592年   ● 1592年(天正20年)4月に、豊臣秀吉

 (天正20年)   により、 朝鮮出兵が開始される (文禄の

            役(ぶんろくのえき)、1592〜93年)。

■ 1592年   ● 1592年( 天正20年)に、お江(おごう)

 (天正20年)   は、 秀吉の命(めい)により、  豊臣秀勝

            (とよとみひでかつ)に嫁ぐ。  同年に、

            の豊臣秀勝は文禄の役で朝鮮出兵中に、

            病死しお江は2番目の夫の豊臣秀勝と

            死別する。  その後、 お江は、同年に、

            (さだこ)を産む

■ 1592年   ● 文禄改元。   

 (文禄 元年)     1592年12月8日に、 和暦の「天正」

            (てんしょう)が、 「 文禄」 (ぶんろく、文禄

            元年・1592年・12月8日〜 文禄5年・15

            96年・10月27日) に改元される。 

■ 1593年   ● 1593年に、 淀殿(茶々)は、 豊臣秀吉

 (文禄2年)    の男子、 拾(ひろい、秀頼)を生む。 

              当時、上層階層では、側室夫人が産んだ

            子を、正室夫人が育てる慣習があったが、今

            回は、秀吉の許しを得て、自分の手元で、育

            てる。 今回は、 淀殿(茶々)は、 拾(秀頼)

            を秀吉の正室夫人のねねに預けず。その後、

            拾(豊臣秀頼) は、 伏見城で、育つ。

 

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#ogodetailedchronology-1595

 

■ 1595年   ● 1595年7月に、 豊臣秀吉は、 関白秀

 (文禄 4年)   次を自害させる。

■ 1595年   ● 1595年(文禄4年)9月に、お江(おごう)

 (文禄 4年)   は、 秀吉の命(めい)により、家康三男の

            川 秀忠(ひでただ)に嫁ぐ。 嫁ぐ前に、2番

            目の夫・豊臣秀勝との間の子の完子(さだこ)

            を、 姉の淀殿(お茶々)に預け、引き取らせ

            る。

              その後、 お江 (おごう) 、夫の徳川秀

            忠とは円満で、3番目の 夫の徳川秀忠との間

            2男5女をもうける

■ 1596年   ● 慶長改元。  

 (慶長 元年)    1596年10月27日に、 和暦の「文禄」(ぶ

            んろく)が、 「 慶長」 ( けいちょう、 慶長元

            年・1596年・10月27日〜慶長20年・ 16

            15年・7月13日) に改元される。 

■ 1597年   ● 1597年1月に、豊臣秀吉により、再度、朝

 (慶長 2年)   鮮出兵が開始される(慶長の役 1597〜98

            年)。

                      ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 1598年   ● 1598年7月に、豊臣秀吉が、 五大老・

 (慶長 3年)   五奉行の制度を定める(秀吉の後継者で

            ある豊臣秀頼の体制を磐石にするため)。 

            家康が五大老の一人となる。

            ● 1598年8月に、秀吉が、 死去する 

            (享年63歳)。  豊臣家の秀吉の跡継ぎの

            豊臣秀頼 は、まだ、6歳だった。

            ● 1598年に、秀吉死去後、 徳川家康、

            前田利家 が、朝鮮撤兵を命じる (同年

            12月にほぼ撤兵完了する)。

           ● 1598年に、秀吉が死去すると、 秀吉

            の遺言により、 淀殿(茶々)と豊臣秀頼は、

            伏見城より、 大阪城の本丸に移る。

           ● 1598年に、豊臣秀頼 が、 豊臣宗家

            の当主となり、 淀殿(茶々)は、 幼い豊臣

            秀頼の後見人となる。 淀殿(茶々)は、 淀

            殿(茶々)の乳母(うばの、大蔵卿局 (大野

            治長の母)、 饗庭局を重用(ちょうよう)する。

           ● 1598年より、淀殿(茶々)が推(お)す三

            成派の豊臣家臣団 とねねが推す家康派の

            豊臣家臣団 とが、豊臣家内での対立が始

            まる。

■ 1599年   ● 1599年に、 淀殿 (茶々、近江出身) が

 (慶長 4年)   信頼する、石田三成をはじめとする近江派

            (おうみは、近江出身の武将)の豊臣家臣が、

            豊臣家で、大きな勢力となる。

           ● 1599年に、秀吉の正室のねね は、淀

            殿(茶々)が信頼する、石田三成をはじめと

            する近江派の豊臣家臣に対抗して、 徳川

             家康に、石田三成をはじめとする近江派の

            豊臣家臣の勢力を減少させるように依頼し、

            豊臣家の将来を託す。

              1599年に、 ねね は、 豊臣家の家臣

            で大老の徳川家康を擁して、 石田三成派の

            豊臣家臣を牽制(けんせい)ため、 自分の

            住む大阪城の西の丸を引き払い、 家康に

            引き渡し、 孝蔵主などわずかな女中達を引

            き連れて、 京都・三本木の屋敷に移り住む。 

■ 1599年   ● 1599年3月に、豊臣政権の実力者の、

 (慶長 4年)   前田利家が、病死する。

            ● 1599年3月に、石田三成は 奉行職を

            解任され、 佐和山城で蟄居(ちっきょ)させ

            られる。

           ● 1599年10月に、加賀の前田家が、家

            康の支配下に入る。

■ 1600年   ● 1600年に、 関が原の戦い。  豊臣家

 (慶長 5年)   臣団の間の戦い。

            ● 豊臣家臣団の間に、 徳川家康派と石田

            三成派の内紛が起こり、戦争となり、徳川

            家康派の豊臣家臣団 が、 戦いに勝つ。

           ● 勝利後、 家康が、大阪城に出向き、 家

            康の主君の豊臣秀頼とその後見人の淀殿

            (茶々、秀頼の生母)に、 徳川家康派の豊

            臣家臣団の戦争の勝利を報告する。

           ● 戦後処理で、 豊臣家大老の徳川家康は、 

            豊臣家の主君の許しを得ず、 全国の大名

            の所領を、勝手に、処理(移動分配)する。

              家康 は、 豊臣家宗家の所領も、処理

            (分配)し、 豊臣家宗家は、 65万石の一 

            大名へ転落する。

■ 1600年   ● 1600年4月に、 家康が、 会津の、上杉

  (慶長 5年)  景勝からの直江状(なおえじょう)を受け取り

            激怒し、 家康は、 景勝が豊臣家豊臣政権

            に謀反(むほん)ありとして、 同年5月に、上

            杉景勝討伐を宣言する。

            ● 1600年6月に、家康は、 親家康派の大

            名で組織した、上杉景勝討伐軍を率いて、会

            津へ向かい、大阪を出発する。

            ● 1600年7月に、石田三成が、 挙兵し、

            全国の大名へ呼びかけ、反家康の軍を集

            める。

            ● 1600年9月15日に、 関が原の戦い

            が起こり、 徳川家康の率いる大名の東軍

            が勝つ。 

               石田三成の率いる反家康派の大名の

             西軍 と 徳川家康の率いる親家康派の

             大名の東軍が、 関が原で衝突し、戦いは

             1日で終わり、西軍が敗北し、東軍が勝つ。  

            ● 関が原の戦い後、 徳川家康が、 東軍

             に与(くみ)した大名の加増や 西軍に与

             (くみ)した大名の改易、減封の処分を行う。

            ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 1603年   ● 徳川家康が、征夷大将軍となり、江戸幕府

 (慶長 8年)    を開く。 家康が江戸幕府の初代将軍となる。

           ● 1603年に、 豊臣家の家臣で大老の、徳

            川家康が、 主君の豊臣家の許可を得ず、勝

            手に、 征夷大将軍となり、 徳川家が 江戸

            幕府を開く。 

            ● この出来事に、 淀殿(茶々)が、 豊臣家

            への裏切りと、驚く。 

                       ● 結果、 徳川家が、 豊臣家に代わって、 日

             本を支配する。 

 

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#ogodetailedchronology-1604

 

■ 1604年   ● 1604年(慶長 9年)8月に、 お江(お

 (慶長 9年)   ごう)は、 江戸城で、竹千代(たけちよ、

            の徳川家光) を出産する

■ 1605年   ● 徳川家康が、江戸幕府の将軍職を、家

  (慶長10年)   康の男子、徳川秀忠に譲る(将軍職の徳

             川家世襲)。 家康は、引き続き、大御所

             として、政治に関与する。

■ 1606年   ● 1606年 (慶長11年)に、お江(おごう) 

 (慶長11年)   、江戸城で、国松 (くにまつ、後の徳川

            忠長を出産する

■ 1607年   ● 1607年 (慶長12年)10月に、 お江 

 (慶長12年)   (おごう)は、 江戸城で、和子(まさこ、か

            ずこ、 後の、後水尾天皇の中宮の東福門

            院、明正(めいしょう)天皇の生母) を出

            産する

■ 1607年   ● 徳川家康は、駿府に隠居(いんきょ)する。 

 (慶長12年)   家康は、引き続き、大御所として、 政治に

            関与する。

■ 1611年   ● 京都・二条城で、 家康 が、 成長し立

 (慶長16年)   派になった、豊臣秀頼に会う。

            ● 1611年に、 会見時、 家康は、 立派に

            なりカリスマ性をもつ豊臣秀頼に驚き、内心

            で、 全国の豊臣恩顧の大名が立派になった

            豊臣秀頼に将来参陣し徳川家の支配がひる

            がえることを恐れ、豊臣秀頼を排除する決心 

            をする。

           ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 1614年   ● 1614年7月に、 方広寺(ほうこうじ)鐘 

 (慶長19年)   銘事件 が 起こる。

            ● 1614年10月に、大阪の陣の、大阪冬

            の陣が起こる。 豊臣家と徳川家との戦争。

           ● 1614年に、徳川家康が、 豊臣家の寺

            の方広寺の鐘に「国家安康」という呪い文あ

            りという言いがかりをつけ(方広寺鐘銘事件)、 

            それを許すために 豊臣家に 「秀頼江戸参

            勤、 国替え(大阪城明け渡し)、淀殿(茶々) 

            人質」、 のどれかの条件を要求し、 豊臣家

            を怒らせ、戦争を引き起こさせる。

           ● 経過と結果。 豊臣方の軍と徳川方の軍

            が戦うが、 大阪城の周囲の堀に阻(はば)

            まれて、徳川方の軍が勝てず。 豊臣方も戦

            争の継続を望まず。 そして、  大阪城の本

            丸以外の建物・柵を壊し、周囲の堀を埋める

            という条件で、 豊臣方と徳川方の間に、 和

            議が成立する。

           ● 徳川家康は、 大阪城の本丸以外の建物・

            柵を壊し、周囲の堀を埋める。 

■ 1615年   ● 徳川家康は、 豊臣方に、更に、 大阪城

 (元和 元年)   内の浪人の総追放または国替え(大阪城明

            け渡し)を要求し、 受入れられないと、戦争

            を再開する (大阪の陣の、大阪夏の陣)。

               家康は、豊臣方に、大阪城内外の浪人

            の退去や、国替えによる大阪城退去または淀

            殿人質を求めたが、豊臣家に聞きいえられず。 

            家康の更なる要求に警戒した豊臣家が、 柵

            を作り、堀を元に戻すため掘り起こし始める。 

            家康は、それを和議違反とし (和議の条件

             違反を理由に)、 戦争を再開する。                     

            ● 経過と結果。 1615年に、豊臣方は、奮戦

            するが、 豊臣軍の本拠地の大阪城は、本丸

            以外の建物や柵もなく、堀のない裸城のため、 

            徳川軍に容易に侵入され、炎上し、消滅する。

              1615年に、 大阪城にいた、淀殿(茶々)

            とその子・豊臣秀頼(享 年、23歳) は、自刃

            (自害)する。

            ● 1615年4月に、 大阪夏の陣で、豊臣氏が

            滅亡する。 ここに、豊臣方と徳川方との戦争

            は、終結した。

■ 1616年   ● 1616年4月に、 徳川家康が、死去する 

 (元和 2年)   (75歳)。

■ 1619年   ● 直江 兼続(直江 重光)が、死去する。

 (元和 5年)  ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 1623年   ● 上杉 景勝が、死去する。

 (元和 9年)

■ 1626年   ● 1626年(寛永3年)9月に、お江(おごう)

 (寛永 3年)    、江戸城で、死去する。  

               この時、お江の夫の徳川秀忠、息子の

             徳川家光、徳川忠長は、朝廷の用事で、上

             洛中(じょうらくちゅう、京(都)滞在中) で

             あった。

 

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『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』

 

 

以  上