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 カナヤマ 日本歴史 辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 こ 』

 No.0320。

 

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□ 日本史 辞典 (総合)

□      ● 事柄順。

○ こう  公議政体派 (こうぎせいたいは) 。

           (幕末)

○ こう  公議政体論 (こうぎせいたいろん) 。 

       (幕末)

○ こう  公議政体派・佐幕派と尊

       皇(王)倒幕派との対立

            (こうぎせいたいは・さばくは と そんの

            うとうばくは とのたいりつ)。

         <1866〜1867年頃>。

       (⇒ 幕末日本政治・政争

       変遷一覧表)。

 

 

□ 日本史 辞典 の 「こ」 基本見出し語

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 ● 五十音順 (アイウエオ順)。

 

■  『 現在は、過去の成果であり、

    未来は、現在の成果である。 

 

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#ko

 

#kogiseitaiha

 

■ 公議政体派 

     (こう ぎせいたいは)。

 

■ 公議政体派。

■ 名称 : 公議政体派 (こうぎせいたいは)。

■ 時期 : 1866年〜1868年。

■ 公議政体論 を主張した人(者)。 

■ 公議政体論 とは、 幕末に、天皇の下で徳川宗家当主(幕府将軍)を議

 長とする列藩会議による政体で日本統治しようとする主張 である。

   朝廷のもとに徳川主導の諸藩の連合政権を樹立するという構想である。

■ 幕府擁護派。

■ 倒幕派 (幕府打倒派 、武力倒幕派) と対立した。

■ 公議政体派の人物の例 : 公武合体派の、 土佐藩主の山内 容堂(よう

 どう)や越前藩主の松平 春嶽(しゅんがく)、 尊皇(王)倒幕派から転向した、

 土佐藩士の坂本龍馬 (さかもとりょうま)。 

 

 

■ 徳川慶喜(よしのぶ) は、 今の幕府では、従来通りの治世を維持できない

 ことを悟り、 また、 江戸幕府を消滅させても、徳川家の力なしに、新体制は、

 動かせないことを見越して、 公議政体論を掲げ、将軍としてではなく、 大君

 として、列候会議の中心に位置して、日本の政治の実権を握ろうし、 「幕府」

 という名を捨てて実を取ろうとして、 1867年10月に、「大政奉還」に踏み切

 った。

  しかし、 慶喜の構想した、朝廷下の徳川主導諸藩連合政権の樹立 は、1

 867年12月の「王政復古のクーデター」により、 実現されなかった。

 

■ 坂本龍馬 は、 「大政奉還」が幕府に採り入れられない場合は、武力倒幕

 を推し進める考えを持っていた。 龍馬は、まず、倒幕の薩長同盟を1866年

 (慶応2年)1月に成立させた。 その後、龍馬は、  江戸幕府に圧力(プレッ

 シャー)をかけて、公議政体論に基づく幕府の「大政奉還」を実現させようとし 

 て、「大政奉還」が、1867年(慶応3年)10月に、成功した。

   しかし、 薩摩藩と長州藩の倒幕派が、 公議政体論に反対であったため、

 「大政奉還」後、 公議政体派へ転向した土佐藩出身の坂本龍馬と薩摩藩・長

 州藩の倒幕派のとの間に、 路線対立が起こった。 その様な状況下で、 18

 67年(慶応3年)11月に、 公議政体派の坂本龍馬は、何者かに暗殺される。

   1867年(慶応3年)12月9日の「王政復古の大号令」(おうせいふっこのだ

 いごうれい)を発した当日の夜の、京都御所(きょうとごしょ)の小御所会議(こ

 ごしょかいぎ)でも、岩倉具視、大久保利通、西郷隆盛などの倒幕派 (幕府打

 倒派) と、 山内容堂(ようどう)や松平 春嶽(しんがく)などの公議政体派(幕 

 府擁護派) が、対立したが、結局、 倒幕派に押しきられて、 旧幕府抜きの

 新政府成立という「王政復古」 となった。

 

■ 公議政体派 (こうぎせいたいは、1866年〜1868年) は、 公議政体論

 を主張した人(者) で、 公議政体派の人物 には、 公武合体派の、土佐藩

 主の山内容堂(ようどう)  と 越前藩主の松平 春嶽(しゅんがく)、 尊皇(王)

 倒幕派から転向した、土佐藩士の坂本龍馬 (さかもとりょうま) などがいる。

 

■ 公議政体論 (こうぎせいたいろん) とは、 幕末に、天皇の下で徳川宗家

 当主(幕府将軍 )を議長とする列藩会議による政体で日本統治しようとする主

 張 で、 朝廷のもとに徳川主導の諸藩の連合政権を樹立するという構想であ

 る。 幕末の1866年〜1868年の時期に唱えらた、幕府擁護論 である。

   

■ 公議政体論 とは、 幕末の衆議に基づく政体樹立の主張で、 天皇の下

 (もと)で、 徳川宗家当主(幕府将軍)を議長とする列藩会議による政体によ

 り、 日本を統治しようとする主張 である。 1866年に倒幕の薩長同盟が

 成立し、公武合体論を唱(とな)える孝明(こうめい)天皇も死去し、 公武合体

 論が意味をなさなくなったため、 代わりに、 この主張が唱えられた。

 

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#kogiseitairon

 

■ 公議政体論 

     (こう ぎせいたいは)。

 

■ 公議政体論。

■ 時期 : 1866年〜1868年。

■ 名称 : 公議政体論 (こうぎせいたいろん)。

■ 公議政体論 とは、 幕末に、天皇の下で徳川宗家当主(幕府将軍)を議

 長とする列藩会議による政体で日本統治しようとする主張 である。

   朝廷のもとに徳川主導の諸藩の連合政権を樹立するという構想である。

■ 幕府擁護論。

 

 

■ 公議政体論 は、 大君政治の理論で、 天皇の下で、徳川宗家当主(幕

 府将軍)が 大君として、列候会議の中心に位置して、 日本の政治の実権

 を握ろうという主張 である。

 

■ 公議政体論 とは、 幕末に、天皇の下で徳川宗家当主(幕府将軍)を議

 長とする列藩会議による政体で日本統治しようとする主張である。 幕末の

 衆議に基づく政体樹立の主張で、 天皇の下(もと)で、 徳川宗家当主(幕

 府将軍)を議長とする列藩会議による政体により、 日本を統治しようとする

 主張 である。 

● 1866年(慶応2年)に倒幕の薩長同盟が成立し、公武合体論を支持した

 孝明天皇も死去したため、 公武合体論が意味をなさなくなったため、 代わ

 りに、この主張が唱(とな)えられた。

 

■ 徳川慶喜(よしのぶ) は、 今の幕府では、従来通りの治世を維持できない

 ことを悟り、 また、 江戸幕府を消滅させても、徳川家の力なしに、新体制は、

 動かせないことを見越して、 公議政体論を掲げ、将軍としてではなく、 大君

 として、列候会議の中心に位置して、日本の政治の実権を握ろうし、 「幕府」

 という名を捨てて実を取ろうとして、 1867年10月に、「大政奉還」に踏み切

 った。

  しかし、 慶喜の構想した、朝廷下の徳川主導諸藩連合政権の樹立 は、1

 867年12月の「王政復古のクーデター」により、 実現されなかった。

 

■ 坂本龍馬 は、 「大政奉還」が幕府に採り入れられない場合は、武力倒幕

 を推し進める考えを持っていた。 龍馬は、まず、倒幕の薩長同盟を1866年

 (慶応2年)1月に成立させた。 その後、龍馬は、  江戸幕府に圧力(プレッ

 シャー)をかけて、公議政体論に基づく幕府の「大政奉還」を実現させようとし 

 て、「大政奉還」が、1867年(慶応3年)10月に、成功した。

   しかし、 薩摩藩と長州藩の倒幕派が、 公議政体論に反対であったため、

 「大政奉還」後、 公議政体派へ転向した土佐藩出身の坂本龍馬と薩摩藩・長

 州藩の倒幕派のとの間に、 路線対立が起こった。 その様な状況下で、 18

 67年(慶応3年)11月に、 公議政体派の坂本龍馬は、何者かに暗殺される。

   1867年(慶応3年)12月9日の「王政復古の大号令」(おうせいふっこのだ

 いごうれい)を発した当日の夜の、京都御所(きょうとごしょ)の小御所会議(こご

 しょかいぎ)でも、 岩倉具視、大久保利通、西郷隆盛などの倒幕派 (幕府打

 倒派) と、 山内容堂(ようどう)や松平 春嶽(しんがく)などの公議政体派(幕 

 府擁護派) が、対立したが、結局、 倒幕派に押しきられて、 旧幕府抜きの

 新政府成立という「王政復古」 となった。

 

■ 公議政体派 (こうぎせいたいは、1866年〜1868年) は、 公議政体論

 を主張した人(者) で、 公議政体派の人物  には、 公武合体派の、土佐藩

 主の山内容堂(ようどう)、 越前藩主の松平 春嶽(しゅんがく)、 尊王倒幕派

 から転向した、土佐藩士の坂本龍馬 (さかもとりょうま) などがいる。

 

 

■ 公議政体論 (こうぎせいたいろん) とは、 幕末に、天皇の下で徳川宗家

 当主(幕府将軍)を議長とする列藩会議による政体で日本統治しようとする主

 張 で、 朝廷のもとに徳川主導の諸藩の連合政権を樹立するという構想であ

 る。 幕末の1866年〜1868年の時期に唱えらた、幕府擁護論 である。

   

■ 公議政体論 とは、 幕末の衆議に基づく政体樹立の主張で、 天皇の下

 (もと)で、 徳川宗家当主(幕府将軍)を議長とする列藩会議による政体によ

 り、 日本を統治しようとする主張 である。 1866年に倒幕の薩長同盟が

 成立し、公武合体論を唱(とな)える孝明(こうめい)天皇も死去し、 公武合体

 論が意味をなさなくなったため、 代わりに、 この主張が唱えられた。

 

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『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』

 

 

以  上