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◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY HANDBOOK

 

 カナヤマ 日本歴史辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 あ 』

 No.1223。

 

#jpmenu     

メ ニュー (目次)。  

 ■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

 □ 日本史 辞典 (総合)       

 

□     ≪ 室町幕府・将軍 ≫

       ≪ 足利将軍家当主 ≫

              ≪ 室町時代の足利本家

        (宗家)・当主 ≫。

 

        ● 将軍就任順、事柄順。

 

 

 □ 見出し語 あし1

 □ 見出し語 あし2

 □ 見出し語 あし3

 □ 見出し語 あし4

 □ 見出し語 あし5

 □ 見出し語 あし6

 

 

〇 あし   足利 尊氏。

             (あしかたかうじ)。 《人名》。

             (室町幕府の創設者、

           初代将軍)。

          (⇒ 足利尊氏)。

          (将軍在任:

           1338年ー1358年)。

            生没年:

           1305年ー1358年)。

          □ 室町幕府関連出来事

                    ○ 足利尊氏は、

          室町幕府(= 足利幕府)の

          創立者である。

                    ○ 足利尊氏は、

          室町幕府(= 足利幕府)の

          初代将軍 である。

 

#ashi1

 

〇 あし  足利 義詮

             (あしかが よしあきら)。 《人名》。

             (室町幕府の第2代将軍)。

             (将軍在任:

           1358年ー1367年)。 

            生没年:

           1330年ー1367年)。

          □ 室町幕府関連出来事

                    ○ 足利義詮は、

          室町幕府(= 足利幕府)の

          第2代将軍 である。

          ○  足利義詮は、

          室町幕府の初代将軍・足利

          尊氏(たかうじ)の子である。

 

〇 あし  足利 義満

             (あしかが よしみつ) 。 《人名》。

             (室町幕府の第3代将軍)。

          (将軍在任:

            1368年ー1394年)。

          (生没年:

            1358年ー1408年)。

          □ 室町幕府関連出来事

          ○ 足利 義満は、

          室町幕府(= 足利幕府)の

          第3代将軍 である。

          ○ 足利 義満は、

          室町幕府の第2代将軍・ 足利

             (よしあきら)の子 である。

 

〇 あし  足利 義持

            (あしかが よしもち)。 《人名》。

            (室町幕府の第4代将軍)。

             (将軍在任:

            1394年ー1423年)。 

            生没年:

            1386年ー1428年)。

          □ 室町幕府関連出来事

                    ○ 足利 義持は、

          室町幕府(= 足利幕府)の

          第4代将軍 である。

          ○ 足利 義持は、

          室町幕府の第3代将軍・ 足利

          義満(よしみつ)の子 である。 

 

#ashi2

 

〇 あし  足利 義量

            (あしかが よしかず)。 《人名》。

             (室町幕府の第5代将軍)。

             (将軍在任:

            1423年ー1425年)。

            生没年:

            1407年ー1425年)。

          □ 室町幕府関連出来事

                    ○ 足利義量は、

          室町幕府(= 足利幕府)の

          第5代将軍 である。

          ○  足利義量は、

          室町幕府の第4代将軍・ 足利

          義持(よしもち)の子 である。

 

〇 あし  足利 義教

            (あしかが よしのり)。 《人名》。

            (室町幕府の第6代将軍)。

             (将軍在任:

            1429年ー1441年)。 

             (生没年:

            1394ー1441年)。

          □ 室町幕府関連出来事

                    ○ 足利義教は、

          室町幕府(= 足利幕府)の

          第6代将軍 である。

          ○  足利義教は、

          室町幕府の第3代将軍・ 足

          利義満(よしみつ)の子 である。

 

〇 あし  足利 義勝

            (あしかが よしかつ)。 《人名》。

            (室町幕府の第7代将軍)。

            (将軍在任:

           1442年ー1443年)。 

             (生没年:

           1434年ー1443年)。

          □ 室町幕府関連出来事

                    ○ 足利義勝は、

          室町幕府(= 足利幕府)の

          第7代将軍 である。

          ○  足利義勝は、

          室町幕府の第6代将軍・ 足

          利義教(よしのり)の子 である。

 

#ashi3

 

〇 あし  足利 義政

             (あしかが よしまさ)。 《人名》。

             (室町幕府の第8代将軍)。

          (将軍在任:

            1449 年ー1473年)。 

          (生没年:

            1436年ー1490年)。

          □ 室町幕府関連出来事

            ○ 足利 義政は、

          室町幕府(= 足利幕府)の

          第8代将軍 である。

          ○ 足利 義政は、

          室町幕府の第6代将軍・足

          利義教(よしのり)の子 である。

 

〇 あし  足利 義尚

            (あしかが よしひさ)。 《人名》。

            (室町幕府の第9代将軍)。

          (将軍在任:

            1473年ー1489年)。

             (生没年:

            1465ー1489年)。

          □ 室町幕府関連出来事

                    ○ 足利義尚は、

          室町幕府(= 足利幕府)の

          第9代将軍 である。

          ○  足利義尚は、

          室町幕府の第8代将軍・ 足

          利義政(よしまさ)の子 である。

 

〇 あし  足利 義稙

             (あしかが よしたね)。 《人名》。

             (室町幕府の第10代将軍)。

             (= 足利義材(よしき) 、足利

           義尹(よしただ))。

             (将軍在任: 

           第1次政権

            1490年ー1493年、

           第2次政権

               1508年ー1521年)。

             (生没年:

            1466年ー1523年)。

          □ 室町幕府関連出来事

             ○ 足利義稙(義材、義尹)は、

          室町幕府(= 足利幕府)の

          第10代将軍 である。

          ○ 足利義稙(義材、義尹)は、

          足利義視(よしみ、足利義政 の

          弟)の子である。 

          ○  足利義稙(義材、義尹)は、

          室町幕府の第6代将軍・ 足利

             義教(よしのり)の 孫である。

 

#ashi4

 

〇 あし  足利 義澄

            (あしかが よしずみ)。 《人名》。

             (室町幕府の第11代将軍)。

             (将軍在任:

            1494年ー1508年)。

            生没年:

            1480年ー1511年)。

          □ 室町幕府関連出来事

                    ○ 足利義澄は、

          室町幕府(= 足利幕府)の

          第11代将軍 である。

          ○ 足利義澄は、

          堀越公方(ほりごえくぼう)・ 足利

             政知 (まさとも、足利義政

          母兄)の子である。 

          ○  足利義澄は、

          室町幕府の第6代将軍・ 足

             利義教(よしの り)の孫である。

 

〇 あし  足利 義晴

            (あしかが よしはる)。 《人名》。

             (室町幕府の第12代将軍)。

             (将軍在任:

            1521年ー1546年)。

            生没年:

            1511 ー1550年)。

          □ 室町幕府関連出来事

                    ○ 足利義晴は、

          室町幕府(= 足利幕府)の

          12代将軍である。

          ○  足利義晴は、

          室町幕府の第11代将軍・ 足

          利義澄(よしずみ)の子 である。 

 

〇 あし  足利 義輝

             (あしかが よしてる)。  《人名》。

             (室町幕府の第13代将軍)。

          (将軍在任:

            1546年ー1565年)。

          (生没年:

            1536年ー1565年)。

          □ 室町幕府関連出来事

          ○ 足利義輝は、

          室町幕府(= 足利幕府)の

          第13代将軍 である。

          ○  足利義輝は、

          室町幕府の第12代将軍・ 足

          利義晴(よしはる)の子 である。

 

#ashi5

 

〇 あし  足利 義栄

            (あしかが よしひで)。 《人名》。

             (室町幕府の第14代将軍)。

             (将軍在任:

            1568年)。

            生没年:

            1538ー1568年)。

          □ 室町幕府関連出来事

                    ○ 足利義栄は、

          室町幕府(= 足利幕府)の

          第14代将軍 である。

          ○ 足利義栄は、

          室町幕府の第12代将軍・

          足利義晴(よしはる)の甥(おい)

             である。

             ○ 足利義栄は、

          室町幕府の第11代将軍・

             義澄よしずみの孫である。

 

〇 あし  足利 義昭

            (あしかが よしあき)。 《人名》。

             (室町幕府の第15代将軍)。

          (将軍在任:

           1568年ー1588年)。

          (生没年:

           1537年ー1597年)。

          □ 室町幕府関連出来事

          ○  足利義昭は、

          室町幕府(= 足利幕府)の

          最後の将軍である。

          ○ 足利義昭は、

          室町幕府(= 足利幕府)の

          15代将軍 である 。 

          ○ 足利義昭は、

          室町幕府の第13代将軍・ 足

          利義輝(よしてる)の弟 である。

          ○  足利義昭は、

          室町幕府の第12代将軍・ 足

          利義晴(よしはる)の子 である。

〇 あし   足利義昭関連出来事

               (年代順・詳細)

 

#ashi6

 

〇 あし  足利幕府(= 室町幕府)

        関連出来事。

             (あしかがしかんれんできごと)。

             《政権関連出来事》。

              (⇒ 室町幕府関連

         出来事)。

 

 

 

〇 あし  室町幕府・将軍 

〇 あし  足利尊氏

〇 あし  足利政権

〇 あし  足利氏 (家)

〇 あし  足利本家(宗家)

〇 あし  室町時代の足利本家

       (宗家)当主 

〇 あし  足利将軍家

〇 あし  足利将軍家当主 

〇 あし  足利本家(宗家)の

       当主以外の人々

〇 あし  足利分家の人々

 

 

 

 

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#a

 

#ashikagayoshiakira

 

■ 足利 義詮  

      (あしかが よしあきら)

 

■ 足利 義詮

■ 名称 : 足利 義詮 (あしかが よしあきら)。

■ 別名 : 

   幼名:千寿王⇒ 元服後、義詮(よしあきら )。

■ 生没年 : 1330年〜1367年。

■ 足利 義詮は、 室町幕府(= 足利幕府)の第

  2代将軍(将軍在任:1358 年〜1367年)で

  ある。

■ 足利 義詮は、 室町幕府(= 足利幕府)の初

  代将軍・足利尊氏(たかうじ)の子 である。

■ 足利 義詮は、 室町幕府(= 足利幕府)の第

  3代将軍・足利義満の父である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11417。

 

□ 室町幕府関連出来事

□ 足利氏 画像アルバム No.1

 

 

■ 足利 義詮。

■ 足利 義詮 (あしかが よしあきら幼名:千寿

  王、生没年:1330年〜1367年)は、 室町

  幕府(= 足利幕府)の、第2代将軍 (将軍在任:

  1358年〜1367年)である。

 

■ 足利 義詮。

■ 足利 義詮は、 室町幕府 ・初代将軍の、足利

   尊氏(あしかがた かうじ、将軍在任 :1338

   年〜1358年) の子である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 足利 義詮は、 室町幕府(= 足利幕府)の第3

  代将軍の足利義満の父である。

 

■ 足利 義詮の別名。 

     足利 義詮 (あしかが よしあきら)は、

  幼名は千寿王といい、元服後、足利 義詮( よし

  あきら )という。

 

■ 足利 義詮。

■ 足利 義詮は、 1333年に、新田義貞(にっ た

  よしさだ)と鎌倉を攻め、鎌倉北条氏を滅ぼす。

     足利 義詮は、室町幕府(= 足利幕府)開府

  より鎌倉におり、 1349年に足利尊氏の子の

  利基氏(あひかがもとうじ、1340〜67年)の鎌倉

  下向と交代に上京し、尊氏の死後将軍となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 室町幕府関連出来事。

   ■ 足利 尊氏の将軍退任  と 足利義詮の

   継承、将軍就任。

      1358年(正平13年/延文3年)に、

   室町幕府(= 足利幕府)の初代将軍の足 利

   尊氏が病死し、  尊氏の継子の足利 義詮が、

   後継者となり、 第2代将軍に就任する。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 足利 尊氏の将軍退任  と 足利義詮の

   継承、将軍就任。

   ● 足利 尊氏の病死  と 足利義詮の継承

        1358年(正平13年/延文3年)4月

   に、 室町幕府(= 足利幕府)の初代将軍の

   足利 尊氏 (あしかが たかうじ、高氏(たか

   うじ)、幼名:又太郎、将軍在任:1338年〜

   1358年、生没年:1305年〜1358年)

   が、病死し、 尊氏の子の足利 義詮 (あし

   かが よしあきら、幼名:千寿王、生没年:

   1330年〜1367年、将軍在任:1358年

   〜1367年) が、 足利将軍家を継ぐ。

   ● 足利 義詮の将軍就任。

      1358年(正平13年/延文3年)12月

   に、 室町幕府(= 足利幕府)の第2代将軍 

   の足利 義詮(あしか が よしあきら、幼名:

   千寿王(せんじゅおう)、生没年:1330年〜

   1367年)が、 北朝の朝廷より将軍宣下(し

   ょうぐんせんげ)を受け征夷大将軍に任命さ

   れ、 室町幕府(= 足利幕府)の第2代将軍

   (将軍在任:1358 年〜1367年)に就任す

   る。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 足利 義詮の将軍退任  と 足利義満

   継承、将軍就任。

     1367年(正平22年/貞治6年)に、室町

   幕府(= 足利幕府)の第2代将軍の足利義詮

   が病死し、 義詮の子の足利義満が、後継者

   となり、 1369年(正平24年/応安2年)に、

   足利義満が、第3代将軍に就任する。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 足利 義詮の将軍退任  と 足利義満

   継承、将軍就任。

   ● 足利 義詮の病死 と 足利義満継承

      1367年(正平22年/貞治6年)12月 

   に、 室町幕府(= 足利幕府)の第2代将軍の

   足利義詮 (あしかが よしあきら、幼名:千寿

     王(せんじゅおう)、将軍在任:1358 年〜13

     67年、生没年:1330年〜1367年) が、

   病死し、 義詮の子の足利義満 (あしかが

   よしみつ、幼名:春王、晩年、号:道有(どう

   う)、道義、生没年:1358年〜1408年) が、

   若年で、足利将軍家を継ぐ。

   ● 足利 義満の将軍就任。

     1369年(正平24年/応安2年)に、 

   利義満 (あしかが よしみつ、幼名:春王、晩

   年、号:道有(どうう)、道義、生没年:1358

   年〜1408年) は、 正式に、北朝朝廷 

   より将軍宣下(しょうぐんせんげ)を受け征夷

   大将軍に任命され、 室町幕府(= 足利幕府)

   の第3代将軍 (将軍在任:1369年〜1394

   年) に就任する。

 

 

♪♪ 足利 義詮 が登場する、興味深い、

         ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 足利 義詮 が登場する、興味深い、

   ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画 は、フィクションです。 

  歴史のドラマや映画は、史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が、 混じって、描かれてい

  ます。 また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 太平記 (たいへいき) 』 。 

   (NHKテレビ・1991年大河ドラマ)。

■ 鎌倉時代末期と室町時代初期の、社会状況

  や人物の活躍を描いたドラマ。

■ 足利尊氏の生涯 と 尊氏の鎌倉幕府倒幕、 

  建武政府との対立、 室町幕府の創立と基礎

  確立 を描いた テレビドラマ です。

■ 足利 尊氏の生涯、及び 尊氏が、鎌倉幕府

  打倒に尽力し、 後醍醐天皇と袂(たもと)を

  わかち、 北朝をたて、室町幕府(足利幕府)

  を樹立し、 幕府の基礎を確立する活躍を描

  いたテレビドラマ。

● 足利 尊氏 を演じた俳優名 : 真田 広之 

  (さなだ ひろゆき)。

 

  

  ○ 大河ドラマ「太平記」での足利尊氏。

    ○ 大河ドラマ「太平記」のPRフォト。

 

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#ashikagayoshimitsu

 

■ 足利 義満  

    (あしかが よしみつ)。

 

■ 足利 義満。 

■ 名称 : 足利 義満 (あしかが よしみつ)。

■ 別名 : 幼名:春王⇒ 

   元服後、足利 義満(よしみつ) ⇒

   晩年号:道有(どうう)、道義。

■ 生没年 : 1358〜1408年。 

■ 足利氏の武士、将軍 、文化人。

■ 15世紀初めに、京(都)の北山に金閣を建て

  る。

■ 南北朝を合一し、日明貿易を行う。 

■ 足利 義満は、 室町幕府(= 足利幕府)の第

  3代将軍 (将軍在任:1369年〜1394年)

  である。 

■ 足利 義満は、 室町幕府(= 足利幕府)の第

  2代将軍・足利義詮(よしあきら)の子である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11418。

 

□ 室町幕府関連出来事

□ 鹿苑寺金閣 画像アルバム 

   No.1

□ 足利氏 画像アルバム No.1

 

 

■ 足利 義満。

■ 足利 義満 (あしか が よしみつ生没年:13

  58年〜1408年)は、 室町幕府(= 足利幕府)

  の、第3代将軍 ( 将軍在任:1369年〜1394

  年)である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 足利 義満。

■ 足利 義満は、 室町幕府(= 足利幕府)の、第

  2代将軍の、足利 (あしかがた よしあき

  ら、将軍在任:1358年〜1367年) の子であ

  る。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 足利 義満。

■ 足利 義満の別名 : 

     足利 義満 (あしかが よしみつ)は、幼名

  は春王といい、 元服後、足利 義満(よしみつ)

  といい、 晩年号は、道有(どうう)、道義とい

  う。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 足利 義満。

■ 足利 義満は、 足利氏の武士、将軍 であり 、

  文化人である。

 

■ 足利 義満。

■ 足利 義満は、 15世紀初めに、京(都)の北

  山に金閣を建てる。

 

■ 足利 義満は、 南北朝を合一し、日明貿易を

  行う。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 室町幕府関連出来事。

   ■ 足利 義詮の将軍退任  と 足利義満

   継承、将軍就任。

     1367年(正平22年/貞治6年)に、室町

   幕府(= 足利幕府)の第2代将軍の足利義詮

   が病死し、 義詮の子の足利義満が、後継者

   となり、 1369年(正平24年/応安2年)に、

   足利義満が、第3代将軍に就任する。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 足利 義詮の将軍退任  と 足利義満

   継承、将軍就任。

   ● 足利 義詮の病死 と 足利義満継承

      1367年(正平22年/貞治6年)12月 

   に、 室町幕府(= 足利幕府)の第2代将軍の

   足利義詮 (あしかが よしあきら、幼名:千寿

     王(せんじゅおう)、将軍在任:1358 年〜13

     67年、生没年:1330年〜1367年) が、

   病死し、 義詮の子の足利義満 (あしかが

   よしみつ、幼名:春王、晩年、号:道有(どう

   う)、道義、生没年:1358年〜1408年) が、

   若年で、足利将軍家を継ぐ。

   ● 足利 義満の将軍就任。

     1369年(正平24年/応安2年)に、 

   利義満 (あしかが よしみつ、幼名:春王、晩

   年、号:道有(どうう)、道義、生没年:1358

   年〜1408年) は、 正式に、北朝朝廷 

   より将軍宣下(しょうぐんせんげ)を受け征夷

   大将軍に任命され、 室町幕府(= 足利幕府)

   の第3代将軍 (将軍在任:1369年〜1394

   年) に就任する。

 

   ■ 足利 義満の将軍退任 と 足利義持の

   継承、将軍就任。

     1394年(応永元年)に、 室町幕府(= 足

   利幕府)の第 3代将軍の足利義満は、 義満

   の子の足利 義持を後継者にし、義持に将軍

   職を譲り、 足利 義持、第4代将軍に就任

   する。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 足利 義満の将軍退任 と 足利義持の

   継承、将軍就任。

   ● 1394年(応永元年)12月に、 室町幕

   (= 足利幕府)の第3代将軍の足利義満  

   (あしかが よしみつ将軍在任:1369年〜

   1394年、生没年:1358年〜1408年)

   は、 義満子の足利 義持に足利将軍家

   を継がせ、 義持に将軍職を譲り、 足利

    (あ しかが よしもち生没年:1386年

   〜1428年は、 朝廷より将軍宣下(しょう

   ぐんせんげ)を受け征夷大将軍に任命され、 

   室町幕府(= 足利幕府)の第4代将軍 (将

   軍在任:1394年〜1423年) に就任する。

   但し、足利義満は、大御所(おおごしょ)とし

   て、幕府の将軍の政治の実権を、死去する

   まで持ち続ける。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 足利 義満。

■ 朝廷の合体 (南北朝の合一)。

     1392年に、室町幕府第3代将軍・足利

  義満(あしかがよしみつ)は、 南朝側と交渉

  して、大覚寺統の「南朝」 と 持明院統の「北

  朝」を合一させるのに、成功し、 大覚寺統と

  持明院統の対立は、 ここに解消した。

    足利義満は南朝側と交渉し、大覚寺統の

  南朝の後亀山(ごかめやま)天皇が1392年

  に、皇位を放棄して入京し、 朝廷の天皇は、

  持明院統の北朝の後小松(ごこまつ)天皇一

  人となった。

     1392年の南北朝合体後は、大覚寺統

  南朝は消滅し、南北朝という区別はなくな  

  り、後小松天皇の持明院統の北朝の天皇が、

  朝廷の皇位を代々を継ぐ。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

◆ 北山文化。 

■ 北山文化 (きたやまぶんか)は、 室町時代

  の、室町幕府3代将軍・足利 義満(よしみつ)の

  時期の、 禅宗文化の普及、 明の文化の普及

  (遣明船) 等の特徴を持つ文化である。

    北山文化の例として、 鹿苑寺金閣 (ろくお

  んじきんかく)があり、 鹿苑寺金閣の特徴は、

  寝殿造(しんでんづくり)、禅宗様(ぜんしゅうよ

  う)である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 足利 義満は、1397年頃、京(都)の北山(きた

  やま)に金閣を建てる。

□ 鹿苑寺金閣 画像アルバム No.1

 

 

♪♪ 足利 義満 が登場する、興味深い、

    ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 足利 義満 が登場する、興味深い、

  ドキュメンタリー。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 せめてキ

  モチいい部屋をつくろう〜金閣と銀

  閣 美を愛した将軍たち〜 』

   (日本のNHK2012年(H24)6月27日・

   本放送のテレビ・歴史ドキュメンタリー番組)。

 

■ その時歴史が動いた 『 中国と

  国交を回復せよ〜足利義満の日明

   外交〜』 

   (NHK 2007年(H19)2月本放送テレビ・

   ドキュメンタリー番組、第277回)。

 

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#ashikagayoshimochi

 

■ 足利 義持 

      (あ しかが よしもち)

 

■ 足利 義持

■ 名称 : 足利 義持  (あしかが よしもち)。

■ 生没年 : 1386年〜1428年。

■ 足利 義持は、 室町幕府(= 足利幕府)の第

  4代将軍 (将軍在任 :1394〜1423年) であ

  る。

■ 足利 義持は、 室町幕府(= 足利幕府)の第

  3代将軍・足利義満(よしみつ)の子 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11419。

 

□ 室町幕府関連出来事

□ 足利氏 画像アルバム No.1

 

 

■ 足利 義持。 

■ 足利 義持 (あしかが よしもち生没年:13

  86年〜1428年は、 室町幕府(= 足利幕府)

  4代将軍(将軍在任:1394年〜1423年)

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 足利 義持。

■ 足利 義持は、 室町幕府(= 足利幕府)の第3

  代将軍・足利義満(よしみつ)の子である。

 

 

◆ 室町幕府関連出来事。

   ■ 足利 義満の将軍退任 と 足利義持の

   継承、将軍就任。

     1394年(応永元年)に、 室町幕府(= 足

   利幕府)の第 3代将軍の足利義満は、 義満

   の子の足利 義持を後継者にし、義持に将軍

   職を譲り、 足利 義持、第4代将軍に就任

   する。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 足利 義満の将軍退任 と 足利義持の

   継承、将軍就任。

   ● 1394年(応永元年)12月に、 室町幕

   (= 足利幕府)の第3代将軍の足利義満  

   (あしかが よしみつ将軍在任:1369年〜

   1394年、生没年:1358年〜1408年)

   は、 義満子の足利 義持に足利将軍家

   を継がせ、 義持に将軍職を譲り、 足利

    (あ しかが よしもち生没年:1386年

   〜1428年は、 朝廷より将軍宣下(しょう

   ぐんせんげ)を受け征夷大将軍に任命され、 

   室町幕府(= 足利幕府)の第4代将軍 (将

   軍在任:1394年〜1423年) に就任する。

   但し、足利義満は、大御所(おおごしょ)とし

   て、幕府の将軍の政治の実権を、死去する

   まで持ち続ける。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 足利 義持の将軍退任 と 足利義量の

   継承、将軍就任。

     1423年(応永30年)に、 室町幕府(= 足

   利幕府)の第 4代将軍の足利 義持は、 義持

   の子の足利 義量を後継者にし、義量に将軍

   職を譲り、 足利 義量、第5代将軍に就任

   する。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 足利 義持の将軍退任 と 足利義量の

   継承、将軍就任。

     1423年(応永30年)3月に、 室町幕府

   (= 足利幕府)の、第4代将軍の足利 義持 

   (あしかが よしもち)、将軍在任:1394年〜

   1423年、生没年:1386年〜1428年) は、 

   義持の嫡子の足利 義量に足利将軍家を継が

   せ、義量に将軍職を譲り、 足利 義量 (あし

   かが よしかず、生没年:1407年〜1425年

   は、 朝廷より将軍宣下(しょうぐんせんげ)を

   受け征夷大将軍に任命され、 室町幕府(=

   足利幕府)の第 5代将軍(将軍在任:1423年

   〜1425年) に就任する。 但し、足利 義持

   は、大御所(おおごしょ)として、幕府の将軍

   の政治の実権を、義量が死去するまで持ち続

   ける。

 

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#ashikagayoshikazu

 

■ 足利 義量  

      (あしかが よし かず)

 

■ 足利 義量

■ 名称 : 足利 義量 (あしかが よしかず)。

■ 生没年 : 1407年〜1425年。

■ 足利 義量は、 室町幕府(= 足利幕府)の第

  5代将軍 (将軍在任 :1423年〜1425年) で

  ある。

■ 足利 義量は、 室町幕府(= 足利幕府)の、

  第4代将軍・足利義持(よしもち)の子 である。  

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11416。

 

□ 室町幕府関連出来事

□ 足利氏 画像アルバム No.1

 

 

■ 足利 義量。

■ 足利 義量 (あしかが よしかず、生没年:140

  7年〜1425年)は、 室町幕府(= 足利幕府)の、

  5代将軍 ( 将軍在任:1423年〜1425年)で

  ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 足利 義量。

■ 足利 義量は、 室町幕府の第4代将軍・足利義

  (よしもち)の子である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 室町幕府関連出来事。

   ■ 足利 義持の将軍退任 と 足利義量の

   継承、将軍就任。

     1423年(応永30年)に、 室町幕府(= 足

   利幕府)の第 4代将軍の足利 義持は、 義持

   の子の足利 義量を後継者にし、義量に将軍

   職を譲り、 足利 義量、第5代将軍に就任

   する。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 足利 義持の将軍退任 と 足利義量の

   継承、将軍就任。

     1423年(応永30年)3月に、 室町幕府

   (= 足利幕府)の、第4代将軍の足利 義持 

   (あしかが よしもち)、将軍在任:1394年〜

   1423年、生没年:1386年〜1428年) は、 

   義持の嫡子の足利 義量に足利将軍家を継が

   せ、義量に将軍職を譲り、 足利 義量 (あし

   かが よしかず、生没年:1407年〜1425年

   は、 朝廷より将軍宣下(しょうぐんせんげ)を

   受け征夷大将軍に任命され、 室町幕府(=

   足利幕府)の第 5代将軍(将軍在任:1423年

   〜1425年) に就任する。 但し、足利 義持

   は、大御所(おおごしょ)として、幕府の将軍

   の政治の実権を、義量が死去するまで持ち続

   ける。

 

   ■ 足利 義量の将軍退任 と 足利義教の

   継承、将軍就任。

     1425年(応永32年)に、 室町幕府(= 足

   利幕府)の第 5代将軍の足利 義量は、病死し、 

   1428年(応永35年)に、くじ引きで、第 4代

   将軍の足利義持の弟の足利 義教後継者と

   なり、1429年(正長2年)に、足利義教が、第

   6代将軍に就任する。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 足利 義量の将軍退任 と 足利義教の

   継承、将軍就任。

   ● 足利 義量の病死。

     1425年(応永32年)2月に、足利 義持

   の子の、室町幕府(= 足利幕府)の第5代将

   軍の足利 義量 (あしかが よしかず将軍

   在任:1423年〜1425年、生没年:1407

   〜1425年)が、病死する。

   ● 足利 義持の病死。

     1428年(応永35年)1月に、室町幕府

   (= 足利幕府)の、第4代将軍の足利 義持

   (あしかが よしもち、将軍在任:1394年〜

   1423年、生没年:1386年〜1428年)

   病死する。 

   ● 足利 義教の継承、将軍就任。

      1428年(応永35年)1月に、室町幕府

   の元将軍で政治の実権を握る、足利 義持は、 

   生前に後継者の指名を拒(こば)み、後継者

   を幕府重臣に任(まか)せると述べ、 困っ

   た幕府重臣が提案した、くじ引きで後継者を

    義持の弟4人の中から1人選び足利将軍家

   を継がせ次期将軍職に就けることを足利

   義持 は了承し、病死する。 そして、 義持

   去時に用意された(義持死去直前に神前で

   くじを引き、義持死後直後に開封する)くじ

   引きの当選者の足利 義教が、足利将軍家

   を継ぎ、次期将軍職に就くこととなる。

     1429年(正長2年)2月に、 室町幕府

   (= 足利幕府)の第4代将軍の足利義持

   弟の、足利 義教 (あしかが よしのり、義宣

   (よしのぶ)、法名:義円(ぎえん)、幼名:春

   寅)、生没年:1394〜1441年) は、 朝廷

   より将軍宣下(しょうぐんせんげ)を受け征夷

   大将軍に任命され、 室町幕府(= 足利幕府)

   の第6代将軍 (将軍在任:1429年〜1441

   年) に就任する。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#ashikagayoshinori

 

■ 足利 義教  

      (あしかが よしのり)

 

■ 足利 義教

■ 名称 : 足利 義教 (あしかが よしのり)。

■ 別名 : 幼名:春寅⇒ 法名:義円(ぎえん)

        ⇒ 還俗後初名、義宣(よしのぶ)

        ⇒ 義教(よしのり)。

■ 生没年 : 1394年〜1441年。

■ 足利 義教は、 室町幕府(= 足利幕府)の、

   室町幕府の第6代将軍 (将軍在任 :1429

   〜1441年)である。

■ 足利 義教は、 室町幕府(= 足利幕府)の、

  第3代将軍・足利義満(よしみつ)の子 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 71235。

  

□ 室町幕府関連出来事

□ 足利氏 画像アルバム No.1

 

 

■ 足利 義教。

■ 足利 義教 (あしかが よしのり、義宣(よしのぶ)、

  法名:義円(ぎえん)、幼名:春寅、生没年:1394

  年〜1441年) は、 室町幕府(= 足利幕府)の、

  第6代将軍( 将軍在任:1429年〜1441年)であ 

  る。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 足利 義教。

■ 足利 義教の 別名。

     足利 義教 (あしかが よしのり)は、幼名は

  春寅であり、 仏門に入り、法名:義円(ぎえん)と

  いい、 還俗後初名は足利 義宣(よしのぶ)とい

  い、次に、足利 義教(よしのり)と名乗る。

 

■ 足利 義教。

■ 足利 義教(よしのり)は、 室町幕府(= 足利幕

  府)の第3代将軍・足利義満(よしみつ)の子 であ

  る。

     室町幕府(= 足利幕府)の、第3代将軍・足

  利義満には、5人の男子がいて、その一人の男

  子の足利義持(よしも ち)が、室町幕府の第4代

  将軍となる。 残りの4人の男子は、出家して、

  仏門に入る。

     室町幕府・第4代将軍・足利義持(よしもち)

  は、足利 義教を含む4人の弟を、将軍には指名

  しなかった。

 

 

◆ 室町幕府関連出来事。

   ■ 足利 義量の将軍退任 と 足利義教の

   継承、将軍就任。

     1425年(応永32年)に、 室町幕府(= 足

   利幕府)の第 5代将軍の足利 義量は、病死し、 

   1428年(応永35年)に、くじ引きで、第 4代

   将軍の足利義持の弟の足利 義教後継者と

   なり、1429年(正長2年)に、足利義教が、第

   6代将軍に就任する。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 足利 義量の将軍退任 と 足利義教の

   継承、将軍就任。

   ● 足利 義量の病死。

     1425年(応永32年)2月に、足利 義持

   の子の、室町幕府(= 足利幕府)の第5代将

   軍の足利 義量 (あしかが よしかず将軍

   在任:1423年〜1425年、生没年:1407

   〜1425年)が、病死する。

   ● 足利 義持の病死。

     1428年(応永35年)1月に、室町幕府

   (= 足利幕府)の、第4代将軍の足利 義持

   (あしかが よしもち、将軍在任:1394年〜

   1423年、生没年:1386年〜1428年)

   病死する。 

   ● 足利 義教の継承、将軍就任。

      1428年(応永35年)1月に、室町幕府

   の元将軍で政治の実権を握る、足利 義持は、 

   生前に後継者の指名を拒(こば)み、後継者

   を幕府重臣に任(まか)せると述べ、 困っ

   た幕府重臣が提案した、くじ引きで後継者を

    義持の弟4人の中から1人選び足利将軍家

   を継がせ次期将軍職に就けることを足利

   義持 は了承し、病死する。 そして、 義持

   去時に用意された(義持死去直前に神前で

   くじを引き、義持死後直後に開封する)くじ

   引きの当選者の足利 義教が、足利将軍家

   を継ぎ、次期将軍職に就くこととなる。

     1429年(正長2年)2月に、 室町幕府

   (= 足利幕府)の第4代将軍の足利義持

   弟の、足利 義教 (あしかが よしのり、義宣

   (よしのぶ)、法名:義円(ぎえん)、幼名:春

   寅)、生没年:1394〜1441年) は、 朝廷

   より将軍宣下(しょうぐんせんげ)を受け征夷

   大将軍に任命され、 室町幕府(= 足利幕府)

   の第6代将軍 (将軍在任:1429年〜1441

   年) に就任する。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 足利 義教の将軍退任 と 足利義勝の

   継承、将軍就任。

     1441年(嘉吉元年)に、 室町幕府(= 足

   利幕府)の第 6代将軍の足利 義教は、殺害

   され、義教の子の足利 義勝後継者となり、

   1442年(嘉吉2年)に、足利 義勝が、第7代

   将軍に就任する。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 足利 義教の将軍退任 と 足利義勝の

   継承、将軍就任。

   ● 足利 義教の殺害 と 足利義勝の継承。

      1441年(嘉吉元年)6月に、 室町幕

   (= 足利幕府)の第6代将軍の足利 義教 

   (あしかが よしのり、義宣(よしのぶ)、法名:

   義円(ぎえん)、幼名:春寅)、将軍在任:14

   29年〜1441年生没年:1394 〜1441

   年)が、殺害され (嘉吉の変)、 義教の嫡

   子の足利 義勝 (あしかが よしかつ、幼名:

   千也茶丸(せんやちゃまる)、生没年:1434

   年〜1443年、将軍在任:1442年〜1443

   年)が、足利将軍家を継ぐ。

   ● 足利義勝の将軍 就任。

     1442年(嘉吉2年)11月に、 足利 義勝 

   (あしかが よしかつ、幼名:千也茶丸(せんや

   ちゃまる)、生没年:1434年〜1443年) は、 

   朝廷より将軍宣下(しょうぐんせんげ)を受け

   征夷大将軍に任命され、 室町幕府(= 足利

   幕府)の代将軍  (将軍在任:1442年〜

   1443年) に就任する。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 足利 義教。

■ 足利 義教( よしのり)は、くじ引きで、将軍に選ばれ

  た。

      中世日本では、 現代日本と違い、くじ引き

   (御(み)くじ)で選ばれたことは、神意、神の意志

   で選ばれることを意味した。 

      足利 義教の兄・室町幕府・第4代将軍・足利

   義持(よしもち)は、  自分の子の第5代将軍・足

   義量(よしかずが死去した後、 後継者の次期

   第6代将軍を指名せず、1428年に、死去する。 

      困った、室町幕府の重臣たちは、相談し、合

   議の結果、室町幕府・第4代将軍・足利義持(よし

   もち)の4人の弟の一人を、 神社のくじ引き(御

   (み)くじ)で選んで、次期第6代将軍に決めること

   とした。

      神社のくじ引き(御(み)くじ)の結果、足利

   教が選ばれ、出家していた義教は、還俗(げんぞ

   く)して、1429年に、室町幕府の第6代将軍とな

  った。

 

■ 足利 義教。

■ 将軍となった、足利 義教( よしのり)は、 独裁的

  な恐怖政治を行い、当時、「万人恐怖の悪将軍」

  (ばんにんきょうふのあくしょうぐん) と言われた。

 

■ 足利 義教。

■ 足利 持氏は、 永享の乱 (えいきょうのらん、

  1438年ー1439年) を起こす。

     第4代鎌倉公方の足利 持氏 (あしかが も

  ちうじ、生没年:1398年−1439年) は、 鎌倉

  公方を補佐する役職の執事(しつじ、関東管領

  の上杉憲実(うえすぎのりざね)と不和となり、14

  38年(永享10年)に、上杉憲実を討とうとし、 上

  杉憲実軍 や 上杉憲実を助ける、対立する足利

  義教(よしのり)が派遣した室町幕府軍と戦い、幕

  府・上杉軍に敗(やぶ)れて、1439年に自殺する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 足利 義教。

■ 独裁的な恐怖政治を行っていた、足利 義教(よし

  のり)は、 義教によって領地を奪われるという噂

  (うわさ)を聞き危機感をいだいた、赤松氏によって、

  暗殺される。

 

 

◆ 室町時代中期・後期の東国 (関東・

  伊豆・山梨・東北) の出来事。

■ 東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、山

  梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) では、 

  永享の乱や享徳の乱以後、 「戦国の世」となる。

    永享の乱 (えいきょうのらん、1438−1439

  年)で、 室町幕府・第6代将軍足利 義教(よし

  のり)は、 義教と対立する、第4代鎌倉公方の足

  利持氏(もちうじ)と戦い、勝利を得た。

     しかし、永享の乱後、義教は、 鎌倉公方が

  統治する東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐

  (かい、山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(で

  わ)) を、完全に支配しようしたが、東国の武士

  の諸勢力の反対にあい、できなかった。 また、

  義教の子を、鎌倉公方に就任させようとしたが、

  東国の武士の諸勢力の反対にあい、就任させら

  れなかった。

      統治力のある強い鎌倉公方を失い、永享の

  乱以後の1439年から、 東国 (とうごく、関東8

  国、伊豆、甲斐(かい、山梨県)、東北2国(陸奥

  (むつ)・出羽(でわ)) では、 諸勢力が入り乱 

  れ、豊臣秀吉が日本本土を統一する1590年ま

  で、「戦国の世」となった。

 

■ 第4代鎌倉公方足利持氏  (あしかがもちうじ、

  1398〜1439年) は、 室町幕府・第6代将軍

  の足利義教 (よしのり、将軍 在任1429〜1441

   や 関東管領の上杉憲実(のりざね) と対

  立し、1438年に、永享の乱 (えいきょうのらん、

  1438〜39年)を起こし、 1439年に、幕府・上

  杉軍に敗(やぶ)れて、自殺する。 

    1440年(永享12年)に、結城合戦(ゆうきか

  っせん、1440年)が起こる。 下総国 (しもうさ

  のくに、千葉 県北部相当地域)の豪族・結城氏朝

  (ゆうきうじとも)が、鎌倉公方・足利持氏の2人

  の遺子を擁(よう)し、挙兵するが、派遣された室

  町幕府軍に敗れ、 結城氏朝は敗死し、2人の遺

  子は殺される。

     その後、1449年に、 足利持氏の子の、

  利成氏 (あしかがしげうじ、生没年:1434〜9

  7年) が、 迎えられて、第5代鎌倉公方(就任:

  1449年ー1455年) となる。 

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 第5代鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利成氏(あ し

  かがしげうじ、生没年:1434〜97年) が、 14

  54年(享徳3年)に、関東管領(かんとうかんれい)

  の上杉憲忠(うえすぎのりただ)を謀殺(ぼうさつ)し、

  利成氏は、 関東管領の上杉氏と戦い、享徳の

  ( きょうとくのらん、1454〜82年) が始まる。

  室町幕府は、上杉氏を支援した。

     足利成氏(しげうじ)は、 本拠地の鎌倉を放

  棄し、 本拠地を下総国古河 (しもうさ(しもふさ)

  のくに・こが、茨城県南西部の古河) に移し、 

  河公方 (こがくぼう、1455年ー1583年、5代、

  足利成氏、政氏、高基、 晴氏、義氏) となる。

    一方、足利成氏(しげうじ)を討つべく室町幕府

  から派遣された足利政知 (あしかがまさとも、14

  35年ー1491年、足利義政の兄弟) は、 鎌倉

  に入れず、 伊豆国堀越 (いずのくにほりごえ、

  静岡県東部・伊豆半島の堀越) に本拠地を置き、 

  対峙(たいじ)し、堀越公方 (ほりごえくぼう、 就

  任:1457年ー1491年、2代) となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 享徳の乱(きょうとくのらん、1454〜1482年)

  が起こり、 古河 公方や堀越公方が成立する。

     足利成氏は、享徳の乱(きょうとくのらん)

  を起こす。 鎌倉公方の足利成氏 (あしかが

  しげうじ、1434〜97年) は、 鎌倉公方を補

  佐する役職の執事(しつじ、関東管領)の上杉

  氏と対立し、 鎌倉を保ちえず、 1455年に、 

  逃れて、 下総国古河城(しもうさのくにこがじ

  ょう) に移り、古河公方(こがくぼう) と称す。 

  1454年に、鎌倉公方の足利成氏は、 関東管

  領の上杉憲忠(うえすぎのりただ)を謀殺(ぼう

  さつ)し、 享徳の乱(きょうとくのらん)を起こし、 

  1455年に、関東管領・上杉房顕(ふさあき)が、 

  鎌倉公方の足利成氏を、 下総・古河(しもうさ・

  こが)に逐う。 成氏は、鎌倉を放棄し、古河公

  方(こがくぼう)となる(と呼ばれる)。  以後、

  古河公方 (1455〜1583年) は、 足利成

  氏(しげうじ)の子孫により、 2代・政氏、3代・

  高基、4代・晴氏、5代・義氏と続いたが、 15

  83年に古河公方の5代・足利義氏の死によっ

  て滅んだ。

     一方、享徳の乱(きょうとくのらん)が起こり、

   1457年に、 足利義政(よしまさ)の命令で、 

   足利成氏(しげうじ)を討つべく幕府から関東に

   派遣された、足利政知  (あしかがまさとも、14

   35〜91年、足利義政の兄弟) は、 鎌倉に

   入れず、 伊豆国(いずのくに)堀越に根拠地を

   置き、 堀越公方 (ほりごえくぼう、1457〜9

   1年、初代堀越公方) となる(と呼ばれる)。堀

   越公方は、1491年の足利政知(まさとも)死後、 

   政知の子の足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる、

   ?〜1491年) が、継いで2代堀越公方となる

   が、 1491年に、伊勢宗瑞(いせそうずい、北

   条早雲) に攻められ足利茶々丸は自殺し、

   越公方は、滅びる。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

#ashikagaoshinori-appearingscenes

 

♪♪ 足利 義教 が登場する、興味深い、

   ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 足利 義教 が登場する、興味深い、ド

   キュメンタリー。 

 

■ 英雄たちの選択 『 リアル暴れ

     ん坊の将軍 破滅への選択。 

   〜足利義教・‘‘最凶’’伝説〜 』。

   (NHKテレビ・2016年1月22月・本放送・

   歴史ドキュメンタリー番組)。

● 鎌倉府、鎌倉公方、関東管領、永享の乱 

  (えいきょうのらん、1438〜39年)につい

  て述べる。

● 室町時代中期の、室町幕府・第6代将軍

   足利義教(あしかがよしのり)の詳細を

  述べる。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の 「 あ 」 基本見出し語サイト

  の先頭ページへ 。        

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ。 

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#ashikagayoshikatsu

 

■ 足利 義勝  

      (あしかが よし かつ)

 

■ 足利 義勝

■ 名称 : 足利 義勝 (あしかが よしかつ)。

■ 別名 : 幼名:千也茶丸(せんやちゃまる)

        ⇒ 元服後、義勝(よしかつ)。

■ 生没年 : 1434年〜1443年。

■ 足利 義勝 は、 室町幕府(= 足利幕府)の第

  7代将軍(将軍在任:1442年〜1443年

  である。

■ 足利 義勝 は、 室町幕府(= 足利幕府)の第

  6代将軍・足利義教(よしのり)の子 である。  

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 42239。

 

□ 室町幕府関連出来事

□ 足利氏 画像アルバム No.1

 

 

■ 足利 義勝。

■ 足利 義勝 (あしか が よしかつ、幼名:千也茶

  丸(せんやちゃまる)、生没年:1434年〜144

  3年)は、 室町幕府(= 足利幕府)の7代

  (将軍在任:1442年〜1443年)である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 足利 義勝。

■ 足利 義勝の 別名。

    足利 義勝 (あしかが よしかつ)は、幼名は

  千也茶丸(せんやちゃまる)といい、元服後、

   義勝 (あしかが よしかつ)という。

 

■ 足利 義勝。

■ 足利 義勝は、 室町幕府(= 足利幕府)の第6

   代将軍・ 足利義教(よしのり)の子である。

 

 

◆ 室町幕府関連出来事。

   ■ 足利 義教の将軍退任 と 足利義勝の

   継承、将軍就任。

     1441年(嘉吉元年)に、 室町幕府(= 足

   利幕府)の第 6代将軍の足利 義教は、殺害

   され、義教の子の足利 義勝後継者となり、

   1442年(嘉吉2年)に、足利 義勝が、第7代

   将軍に就任する。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 足利 義教の将軍退任 と 足利義勝の

   継承、将軍就任。

   ● 足利 義教の殺害 と 足利義勝の継承。

      1441年(嘉吉元年)6月に、 室町幕

   (= 足利幕府)の第6代将軍の足利 義教 

   (あしかが よしのり、義宣(よしのぶ)、法名:

   義円(ぎえん)、幼名:春寅)、将軍在任:14

   29年〜1441年生没年:1394 〜1441

   年)が、殺害され (嘉吉の変)、 義教の嫡

   子の足利 義勝 (あしかが よしかつ、幼名:

   千也茶丸(せんやちゃまる)、生没年:1434

   年〜1443年、将軍在任:1442年〜1443

   年)が、足利将軍家を継ぐ。

   ● 足利義勝の将軍 就任。

     1442年(嘉吉2年)11月に、 足利 義勝 

   (あしかが よしかつ、幼名:千也茶丸(せんや

   ちゃまる)、生没年:1434年〜1443年) は、 

   朝廷より将軍宣下(しょうぐんせんげ)を受け

   征夷大将軍に任命され、 室町幕府(= 足利

   幕府)の代将軍  (将軍在任:1442年〜

   1443年) に就任する。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 足利 義勝の将軍退任 と 足利義政の

   継承、将軍就任。

     1443年(嘉吉3年)に、 室町幕府(= 足

   利幕府)の第 7代将軍の足利 義勝は、病死

   し、第6代将軍の足利義教の子の足利 義政

   が後継者となり、 1449年(文安6年)に、

   足 利 義政が、第8代将軍に就任する。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 足利 義勝の将軍退任 と 足利義政の

   継承、将軍就任。

   ● 足利義勝の 病死 と 足利義政の継承。

     1443年(嘉吉3年)7月に、 第6代将軍

   の足利義教の子の、室町幕府(= 足利幕府)

   の第7代将軍の足利 義勝 (あしかが よしか

   つ、幼名:千也茶丸(せん やちゃまる)、将軍

   在任:1442年〜1443年生没年:1434年

   〜1443年)が、病死し、早世して、 第6代将

   軍の足利義教の子の足利 義政 (あしかが

   よしまさ、義成(よししげ)、幼名:三寅、三春、

   生没年:1436年〜1490年、将軍在任:14

   49年〜1473年) が、 若年で、足利将軍

   を継ぐ。 そして、1449年(文安6年)まで

   将軍職は不在となる。

   ● 足利義 政の将軍就任。

     1449年(文安6年)4月に、 足利 義政 

   (あしか が よしまさ、義成(よししげ)、幼名:

   三寅、三春、生没年:1436年〜1490年)

   は、 朝廷より将軍宣下(しょうぐんせんげ)を

   受け征夷大将軍に任命され、 室町幕府(=

   足利幕府)の第8代将軍 (将軍在任:1449

   年〜1473年) に就任 する。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の 「 あ 」 基本見出し語サイト

  の先頭ページへ 。        

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#ashikagayoshimasa

 

■ 足利 義政  

    (あしかが よしまさ)。

 

  

    ○ ドラマ「花の乱」での、日野富子(左)と足利義政(右)。

 

 

■ 足利 義政。 

■ 名称 : 足利 義政 (あしかが よしまさ)。

■ 別名 : 幼名:三寅、三春⇒ 元服後初名、

        義成(よししげ)⇒ 義政(よしまさ)。

■ 生没年 : 1436年〜1490年。 

■ 足利 義政は、 室町幕府の第8代将軍(将軍  

  在任: 1449年〜1473年)である。 

■ 足利 義政は、 6代将軍・足利義教(よしのり)

  の子である。

■ 足利 義政は、 足利氏の武士、将軍 、文化人

  である。

■ 足利 義政は、京(都)の東山に銀閣(観音殿)、

  東求堂などを建てる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11418。

 

□ 室町幕府関連出来事

□ 足利氏 画像アルバム  No.1

□ 足利 義政 が登場する、興味深い、

   ド キュメンタリー、ドラマ、映画

 

 

■ 足利 義政。

■ 足利 (あしか が よしまさ、義成(よしし

  げ)、幼名:三寅、三春、生没年:1436年〜

  1490年)は、 室町幕府(= 足利幕府)の

  8代将軍(将軍在任:1449年〜1473年)で

  ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 足利 義政。

■ 足利 義政は、 室町幕府(= 足利幕府)の第

  6代将軍・足利義教(よしのり)の子である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 足利 義政。

■ 足利 義政の別名。

     足利 義政 (あしかが よしまさ)は、 

  名は初め三寅、後に三春といい、 元服後初

  名は足利 義成(よししげ)といい、次に、足利

  義政(よしまさ)と名乗る。

 

■ 足利 義政。

■ 足利 義政は、 足利氏の武士、将軍 、文化

  人 である。

     足利 義政は、 京(都)の東山に銀閣(観

  音殿)、東求堂などを建てる。

 

■ 足利 義政。

■ 足利 義政は、 努力はしたが政治が思う通り

  にならず、嫌気がさし、 政治から遠ざかり、文

  化活動に熱中する。 代わりに、義政夫人の

  野富子(ひのとみこ)が、 室町幕府を政治面、

  経済面で支(ささ)える。 

      義政夫人の日野富子は、足利義政の文

  化活動を経済面から支える。

 

 

◆ 室町幕府関連出来事。

   ■ 足利 義勝の将軍退任 と 足利義政の

   継承、将軍就任。

     1443年(嘉吉3年)に、 室町幕府(= 足

   利幕府)の第 7代将軍の足利 義勝は、病死

   し、第6代将軍の足利義教の子の足利 義政

   が後継者となり、 1449年(文安6年)に、

   足 利 義政が、第8代将軍に就任する。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 足利 義勝の将軍退任 と 足利義政の

   継承、将軍就任。

   ● 足利義勝の 病死 と 足利義政の継承。

     1443年(嘉吉3年)7月に、 第6代将軍

   の足利義教の子の、室町幕府(= 足利幕府)

   の第7代将軍の足利 義勝 (あしかが よしか

   つ、幼名:千也茶丸(せん やちゃまる)、将軍

   在任:1442年〜1443年生没年:1434年

   〜1443年)が、病死し、早世して、 第6代将

   軍の足利義教の子の足利 義政 (あしかが

   よしまさ、義成(よししげ)、幼名:三寅、三春、

   生没年:1436年〜1490年、将軍在任:14

   49年〜1473年) が、 若年で、足利将軍

   を継ぐ。 そして、1449年(文安6年)まで

   将軍職は不在となる。

   ● 足利義 政の将軍就任。

     1449年(文安6年)4月に、 足利 義政 

   (あしか が よしまさ、義成(よししげ)、幼名:

   三寅、三春、生没年:1436年〜1490年)

   は、 朝廷より将軍宣下(しょうぐんせんげ)を

   受け征夷大将軍に任命され、 室町幕府(=

   足利幕府)の第8代将軍 (将軍在任:1449

   年〜1473年) に就任 する。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

  ■ 足利 義政の将軍退任と足利義尚の将軍

  就任。

      1473年(文明5年)12月に、 室町幕

   府(= 足利幕府)の第8代将軍の足利 義政 

   (あしかが よしまさ、義成(よししげ)、幼名:

   三寅、三春、将軍在任:1449年〜1473

   年生没年:1436年〜14 90年) が、子の

   足利義尚(義熙)に将軍職を譲り、 足利

   尚 (あしかが よしひさ、晩年、義熙 (よしひ

   ろ)、生没年:1465年〜1489年)が、室町

   幕府(= 足利幕府)の第9代将軍 (在任:14

   73年〜1489年に就任する。

 

 

■ 足利 義政。

■ 応仁の乱(= 応仁・文明の乱)。

 1454年に、 畠山義就(はたけやまよしな

  り) と 畠山政長(はたけやままさなが)が家

  督争いを始める。

 正室夫人の日野富子(ひのとみこ)との間に

  子ができないので、 1464年に、室町幕府

  第8代将軍の足利 義政は、 弟の義視(よ

  しみ)を還俗(げんぞく)させ、後嗣(こうし)指

  名する (次の将軍の後継者とした)。

     しかし、翌年の1465年に、義政と日野

  富子との間に、義尚(よしひさ)が、誕生した。

     そして、義視 と 日野富子・義尚 が将

  軍の後継者問題で対立する。

 1467年1月に、 畠山義就 と 畠山政長

  の対立が激化し、 京(都)で、上御霊社(か

  みごりょうしゃ)の戦いが起こる。 ここに、応

  仁の乱(おうにんのらん、1467〜77年)が

  始まる。

    1467年5月に、京(都)で、 畠山義就

  に、有力守護大名の山名持豊(やまなもち

  とよ、宗全(そうぜん))が味方し西軍となり、 

  畠山政長に、管領(かんれい)の細川勝元

  (ほそかわかつもと)が味方して東軍となる。 

     更に、対立していた義視と日野富子・

  義尚が東軍と西軍に分かれて味方し、 他

  の対立する多くの守護大名も東西両軍に

  分かれて戦争に加わり、 これ以後、幕府

  内の勢力争いの戦争が続く。

 足利 義政は、 応仁の乱(1467〜77年)

  を終わらせず、1473年に、将軍職を、子の

  義尚(よしひさ)に譲り、退いてしまう。

 1477年に、 戦いに疲弊し、東軍と西軍の

  すべての守護大名の兵が、京(都)より領国

  に引きあげる。

 

■ 足利 義政。

◆ 東山文化。

 室町文化の東山文化の代表的な建物に、京

  (都)の東山山荘(ひがしやまさんそう、慈照

  寺(じしょうじ))の、銀閣(観音殿)と東求堂が

  ある。

 

 室町幕府8代将軍の、足利 義政は、京(都)

  の東山(ひがしやま)に、 東山山荘 (ひがし

  やまさんそう、東山殿(ひがしやまどの)) を

  建てた。 

    足利義政は、 東山山荘(東山殿)に居住

  したことから、 足利 義政は、東山殿(ひがし

  やまどの)とも呼ばれる。

    東山山荘(東山殿)は、足利 義政の死後、

  法名(ほうみょう)をとって、 東山 慈照寺(じ

  しょうじ) となった。 

 

■ 慈照寺・東求堂。

    足利 義政は、 京(都)の東山山荘に、山

  荘の持仏堂である、「東求堂」(とうぐどう)を

  建てる。 東求堂の東北隅の四畳半は、「同

  仁斎」(どうじんさい)と称され、 和風家屋に

  通じる書院造(しょいんづくり)の代表例であ

  る。

 

■ 慈照寺・銀閣。

  ● 銀閣(ぎんかく)とは、慈照寺(じしょうじ)

   の銀閣である。

     銀閣は、 京(都)の東山山荘の銀閣で

   あり、 東山山荘の観音殿(かんのんでん)

   である。 足利 義政死去後、 東山山荘は、

   慈照寺と改められ、 銀閣(英:the Silver 

   Pavillion)は、慈照寺の銀閣 となった。

  ● 足利 義政は、1489年に、京(都)の東山

  山荘に、観音殿(かんのんでん)、即ち、銀閣

  (ぎんかく)を建てる。

    銀閣 は、 足利義政が建てた東山山荘

  にある、観音殿の俗称 である。 

    近年(2007〜2010年)の銀閣修復時に、

  時期は未定だが銀閣二層(2階)の外壁(そと

  かべ)が白かったことが判明した。

    観音殿は、 銀閣二層(2階)の白亜の外

  壁(そとかべ)から、 「銀閣」と呼ばれたと推

  測される。 

 

■ 東山山荘(慈照寺)には、東山山荘創建時に

  9つ建物があったが、 室町幕府13代将軍足

  利義輝の時期に、 戦乱 (1558年の三好軍

  の中尾城の攻撃)や土石流災害で、 東山山

  荘(慈照寺)は、 荒れ果て、 観音殿(銀閣)

  と東求堂を除いた、7つの建物は、失われた。

 

 

#ashikagayoshimasa-appearingscenes

 

♪♪ 足利 義政が登場する、興味深い、

    ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 足利 義政が登場する、興味深い、

   ドキュメンタリー。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 せめて 

  キモチいい部屋をつくろう〜金閣

  と銀閣 美を愛した将軍たち〜 』  

    (NHKテレビの2012年(平成24年)

   6月27日・本放送テレビ・ドキュメン

   タリー番組)。

 

■ 『 銀閣 よみがえる

    その500年の謎 』。 

   (NHKテレビの2010年 5月30日・本

     放送テレビ・ドキュメンタリー番組)。

 

■ BS歴史館 『 シリーズ日本の転

  換点@ 京都炎上! 応仁の乱

  そのとき‘‘日本人’’が生まれた〜』。

   (NHKテレビの2013年10月10日・

   本放送テレビ・ドキュメンタリー番組)。

● 応仁の乱の原因、切っ掛け、内容、結果

  や応仁の乱の影響を述べる。

 

■ その時歴史が動いた 『 応仁の

  乱、天下を滅ぼす 〜終わりなき

  ‘‘ 戦いの連鎖 ’’〜 』 

  (NHKテレビの2008年(H20)7月・

  本放送テレビ・ドキュメンタリー番組、 

   第332回)。

 

 

★ 足利 義政が登場する(を描いた)、

   興味深いドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

   歴史のドラマや映画は、史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事が、 混じって、描かれてい

   ます。 また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 花の乱 (はなのらん) 』。 

   (NHKテレビの1994年大河ドラマ)。

■ 室町時代の中期の、社会状況や人物の活躍

  を描いたドラマ。

■ 室町時代の中期を描いたドラマで、 室町時

  代の中期に活躍した人々や 将軍の夫人、

  日野富子(ひのとみこ)、 富子の夫の室町幕

  府将軍の足利義政(よしまさ)、応仁の乱 な

  どを描いたドラマ。

 

  

  ○ 大河ドラマ「花の乱」での、足利義政(右)

   と日野富子(左)。

    ○ 大河ドラマ「花の乱」のPRフォト。

 

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#ashikagayoshihisa

 

■ 足利 義尚  

      (あしかが よしひさ)

 

■ 足利 義尚

■ 名称 : 足利 義尚 (あしかが よしひさ)。

■ 別名 : 

   義尚(よしひさ)⇒晩年、義熙(よしひろ)。

■ 生没年 : 1465年〜1489年。

■ 足利 義尚 は、 室町幕府(= 足利幕府)の

  第9代将軍 (将軍在任:1473年〜1489年

  である。

■ 足利 義尚 は、 室町幕府(= 足利幕府)の

  第8代将軍・足利義政(よしまさ)の子である。

 足利 義尚 は、 足利義政と日野富子との間

  の子である

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11416。

 

□ 室町幕府関連出来事

□ 足利氏 画像アルバム No.1

 

 

■ 足利 義尚。

■ 足利 義尚 (あしかが よしひさ晩年、義熙

  (よしひろ)、生没年:1465〜1489年) は、 

  室町幕府(= 足利幕府)の第9代将軍将軍

  在任:1473年〜1489年)である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 足利 義尚。

■ 足利 義尚は、 室町幕府(= 足利幕府)の第

  代将軍・足利義政(よしまさ)の子である。

 

■ 足利 義尚は、 足利義政と日野富子との間の

  子である。

 

■ 足利 義尚。

■ 足利 義尚の 別名。 

     足利 義尚 (あしかが よしひさは、 足利

  義尚(よしひさ)といい、晩年に、足利 義熙(よし

  ひろ)と名乗る。

 

 

◆ 室町幕府関連出来事。

 

 ◆ 足利義尚の将軍の就任と退任。

  ■ 足利 義政の将軍退任と足利義尚の将軍

  就任。

      1473年(文明5年)12月に、 室町幕

   府(= 足利幕府)の第8代将軍の足利 義政 

   (あしかが よしまさ、義成(よししげ)、幼名:

   三寅、三春、将軍在任:1449年〜1473年

   生没年:1436年〜1490年) が、子の足利

   義尚(義熙)に将軍職を譲り、 足利 義尚 

   (あしかが よしひさ、晩年、義熙(よしひろ)、

   生没年:1465年〜1489年)が、 室町幕府

   (= 足利幕府)の第9代将軍(在任:1473年

   〜1489年に就任する。

 

  ■ 足利 義尚の将軍退任と足利義稙・第10代・

  第1次政権将軍就任。

  ● 足利 義尚の病死。

     1489年(長徳3年)3月に、室町幕府(= 足

   利幕府)の第9代将軍の足利 義尚 (あしかが

     よしひさ、将軍在任:1473 年〜1489年、生

   没年:1465年〜1489年)が病死する。

  ● 足利 義尚の後継者。

     1490年(延徳2年)7月に、足利 義稙 (あ

      しかがよしたね、義尹(よ しただ)、義材(よし

   き)生没年:1466年〜1523年) が、 足利

   義政・日野富子夫妻の支持で、 室町幕府の第

   10代将軍 将軍在任、第1次政権:1490年

   〜1493年、第2次政権:1508年〜1521年) 

   に就任する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 ◆ 将軍・足利義尚 の生涯の概要。

   (誕生、将軍就任、対立・和睦・協力した

    人々、将軍退任、将軍退任後、死去など)。

   足利義尚 の誕生。

  ● 1465年(寛正6年)11月に、足利 義尚 

   (あしかが よしひさ、晩年、義熙(よしひろ)、

   生没年:1465年〜1489年)が、足利 義

   政と日野富子との間に生まれる。

 

   足利義尚 の将軍就任。

  ● 1473年(文明5年)12月に、 室町幕 府

   (= 足利幕府)の第8代将軍の足利 義政(あ

   しかが よしまさ、義成(よししげ)、幼名:三

   寅、三春、将軍在任:1449年〜1473年

   生没年:1436年〜1490年) より将軍職

   を譲られ、 足利 義尚 (あしかが よしひさ、

   晩年、義熙(よしひろ)、生没年:1465年〜

   1489年)が、将軍宣下を受け、室町幕府

   (= 足利幕府)の第9代将軍(在任:1473

   年〜1489年に就任する。  

 

   ■ 将軍・足利義尚と対立、和睦、協力した

   人々。

   ● 足利 義政 は、1473年(文明5年)に、

    足利 義尚に将軍職を譲り、将軍退位後、

    大御所として、1486年(文明18年)まで、

    幕府の政治の実権をもつ。

 

   ■ 将軍・足利義尚の活動。

    ● 1486年(文明18年) から、将軍・足利

     義尚は、畿内付近支配の将軍権力の確

     立に努める。

 

   ■ 足利義尚 の死去、将軍退任。

    ● 1489年(長享3年)3月に、将軍・足利

   義尚は、 近江国の近江鈎(おうみまがり、

   現・滋賀県栗東市)の陣中で、病死する。

 

 

■ 足利 義尚。

◆ 室町幕府関連出来事。

■ 足利 義尚の生母の、日野富子は、 足利義政

  が定めた次期(9代)将軍継承予定者の足利義

  視(よしみ、義政の弟) と対立した。 次期(9

  代)将軍継承問題が、応仁の乱の原因の1つと

  なった。

     結局、日野富子の要請を受けて、1473年

  に、足利義政は、 足利義視ではなく、足利 義尚

  に将軍職を譲った。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 室町幕府8代将軍の足利義政の早すぎる将軍

  引退願望 と 将軍後継者問題。

     足利 義政は、 将軍就任後、室町幕府の

  権力をより強力にしようと努力したが、うまくい

  かず、政治に嫌気(いやけ)がさし、 将軍職を

  他の者に譲り、なるべく早く引退(隠居)し、 文

  化活動に専念したいと望む。

     足利義政は、 足利義政の正室夫人の

  野富子(ひの とみこ)との間に子ができないの

  で、 1464年に、 29歳の室町幕府第8代将

  軍の足利 義政は、 引退(隠居)を望みその

  準備のために、 出家した弟・義尋(ぎじん)を

  還俗(げんぞく)させ、 足利義視(あしかが

  しみ)と改名させ、後嗣(こうし)に指名する(次

  の将軍の後継者とした)。 

     しかし、翌年の1465年に、足利義政と日

  野富子との間に、足利義尚(あしかがよしひさ) 

  が、誕生した。 日野富子は、足利義尚を次期

  将軍にと切望する。

    これ以後、 足利義政の弟・足利義視 と、 

  足利義尚の生母の日野富子 が、将軍の後継

  者問題で、 対立する。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

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#ashikagayoshitane

 

■ 足利 義稙  

    (あしかが よしたね)。

 

■ 足利 義稙。 

■ 名称 : 足利 義稙 (あしかが よしたね)。

■ 別名 : 義材(よしき)⇒義尹(よしただ)

        義稙(よしたね)。

■ 生没年 : 1466年〜1523年。 

 足利義稙 は、 室町幕府の 第10代将軍

  (将軍在任: 第1次政権:1490年〜14

  93年、第2次政権:1508年〜1521年)

  である。

■ 足利義稙 は、足利氏足利義視よしみ、

  足利義政の弟)の子 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 12334。

 

□ 室町幕府関連出来事

□ 足利氏 画像アルバム No.1

□ 足利 義稙 が登場する、 興味深い

     関連ドラマ、映画、ドキュメンタリー 

 

■ 足利義稙。 

■ 足利義稙 (あしかが よしたね、= 義尹(よし

  ただ)、義材(よしき)、生没年:1466年〜15

  23年)は、 室町幕府(= 足利幕府)の第10代

  将軍 将軍在任、 第1次政権:1490年〜14

  93年、第2次政権:1508年〜1521年)であ

  る。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 足利義稙。 

■ 足利 義稙は、 足利氏足利義視(よしみ、足

  利義政の弟)の子で あり、 室町幕府の第6代

  将軍・足利義教(よしのり)の孫である。

 

■ 足利義稙。 

■ 足利 義稙は、 室町時代後期の将軍である。

 

■ 足利義稙。 

■ 足利 義稙の別名。

     足利 義稙 (あしかが よしたね)は、初め

  は、足利 義材  (あしかが よしき)といい、14

  98年から、足利 義尹 (あしかが よしただ)と

  いい、1513年から、足利 義稙 (あしかが よ

  したね)という。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 室町幕府関連出来事。

 

 ◆ 足利義稙 (義材、義尹)の将軍の就任と退任。

  ■ 足利 義尚の将軍退任と足利義稙・第10代・

    第1次政権将軍就任。

  ● 足利 義尚の病死。

     1489年(長徳3年)3月に、室町幕府(= 足

   利幕府)の第9代将軍の足利 義尚 (あしかが

     よしひさ、将軍在任:1473 年〜1489年、生

   没年:1465年〜1489年)が病死する。

  ● 足利 義尚の後継者。

     1490年(延徳2年)7月に、足利 義稙 (あ

      しかがよしたね、義尹(よ しただ)、義材(よし

   き)生没年:1466年〜1523年) が、 足利

   義政・日野富子夫妻の支持で、 室町幕府の第

   10代将軍 将軍在任、 第1次政権:1490年

   〜1493年、第2次政権:1508年〜1521年) 

   に就任する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 足利義稙・第10代・第1次政権の将軍退任

      と足利 義澄の将軍就任。

   ● 1493年(明応2年)4月に、室町幕府(=

   足利幕府)の第10代将軍・第1次政権の足

   義稙 (よしたね 、= 義尹(よしただ)、義材

   (よしき)生没年:1466年〜1523年、将軍

   在任、 第1次政権:1490年 〜1493年、

   第2次政権:1508年〜1521年)  が、細川

   政元らによって追放され る。

   ● 1494年(明応3年)12月に、足利 義澄 

   (よしずみ、= 義高(よしたか)、義遐(よしとお)

   法名:清晃(せいこう)、生没年:1480年〜

   1511年) は、 室町幕府の第11代将軍( 将

   軍在任:149 4年〜1508年)となる。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 ■ 足利 義澄 の将軍退任と足利義稙第10代・

    第2次政権の将軍就任。

  ● 1508年(永正5年)4月に、室町幕府の前

  将軍の足利義稙(義尹、義材)を 擁立して大内

  義興は上洛の軍を起こし、その後、11代将軍

  の足利義澄 (よしずみ、= 義高(よしたか)、義

  遐(よしとお)、法名:清晃(せいこう、将軍在

  任:1493年〜15 08年、生没年:1480年〜

  1511年)  は、 京(きょう、京都)から逃れ、

  将軍職を廃され、 7月に、室町幕府(= 足利幕

  府)の第10代将軍の足利義稙 (よしたね、=

  義尹(よしただ)、義材(よしき)、生没年:1466

  年〜1523年)  が、 再び将軍 (将軍就任、

  第10代・第2次政権:1508年〜1521年) と

  なる。

 

  ■ 足利義稙第10代・第2次政権将軍退任

    と足利義晴の将軍就任。

   ● 1521年 (永正18年、大永(だいえい)

   元年(8/23改元))3月に、室町幕府の第

   10代将軍・第2次政権の足利義稙 (よした

   ね、義尹(よしただ)、義材(よしき)生没年:

   1466年〜1523年、将軍在任、 第1次政権:

   1490年〜1493年、第2次政権:1508年

   〜1521年)  は、 管領・細川高国と対立し、

   細川高国は、足利義晴(幼名:亀王丸)を代わ

   りの将軍として招くことにし、 1521年(大永

   元年)12月に、足利義晴 (よしはる、幼名:

   亀王丸、生没年:1511年〜1550年)は、 

   室町幕府(= 足利幕府)の第12代将軍 (将

   軍在任:1521年〜1546年)  に就任する。

 

 ◆ 将軍・足利義稙 (義材、義尹)の生涯の概要。

    (誕生、将軍就任、対立・和睦・協力した

    人々、将軍退任、将軍退任後、死去など)。

   ■ 足利義稙 (義材、義尹)の誕生。

   ● 1466年(文正元年)7月に、 足利 義稙

    (よしたね 、= 義材 (よしき)、義尹(よした

   だ)生没年:1466年〜1523年、将軍在任、

   第10代・第1次政権:1490年 〜1493年、

   第10代・第2次政権:1508年〜1521年

   は、 足利義視(よしみ)の子として、生まれ

   る。

 

   ■ 足利義稙 (義材、義尹)の第10代・第

     1次政権の将軍就任。

   ● 1489年(長享3年)3月に、第9代将軍の

   足利 義尚(よしひさ)が死去し、足利義稙(義

   尹、義材)は、足利義政・日野富子夫妻の支

   持で、1490年(延徳2年)7月に、足利 義稙 

   (あしかがよしたね、義尹(よ しただ)、義材

   (よしき)生没年:1466年〜1523年)  は、 

   室町幕府の第10代将軍 将軍在任、第10

   代・第1次政権:1490年〜1493年)は、  京

   (きょう、京都)で、将軍宣下を受け、に就任

   する。

 

   ■ 将軍・足利義稙 (義材、義尹)の第10代・

     第1次政権と対立、和睦、協力した人々。 

   ● 第10代将軍・第1次政権の足利義稙(義

   尹、義材)は、 畠山政長(はたけやままさな

   が)と協力する。 

   ● 第10代将軍・第1次政権の足利義稙(義

   尹、義材)は、日野富子や細川政元と対立す

   る。

 

   ■ 足利義稙 (義材、義尹)の第10代・第

     1次政権の将軍退任。

   ● 第10代将軍・第1次政権の足利義稙(義

   尹、義材)は、1493年(明応2年)4月の明応

   の政変で、追放され、将軍職を廃され、 14

   94年(明応3年)12月に、細川 政元、日野

   富子、伊勢貞宗らによって擁立された、足利

   義澄(よしずみ、= 義高(よしたか)、義遐(よ

   しとお)、法名:清晃(せいこう)、生没年:14

   80年ー1511年)は、 京(きょう、京都)で、

   将軍宣下を受け、 室町幕府(= 足利幕府)

   の第11代将軍 (将軍在任:1494年〜15

   08年)に就任する

 

   ■ 足利義稙 (義材、義尹)の第10代・第

     1次政権の将軍退任後。

   ● 将軍職(第10代・第1次政権)を廃された、

   足利義稙(義尹、義材)は、約15年間、支持

   者を求めて各地を放浪する。

 

   ■ 足利義稙 (義材、義尹)の第10代・第

     2次政権の将軍就任。

   ● 1507年(永正4年)に細川政元が暗殺

   され、細川氏が分裂状態に陥る。

      1508年(永正5年)4月、室町幕府

   の前将軍の足利義稙(義尹、義材)を 擁立

   して大内義興は上洛の軍を起こし、そして、

   第11代将軍の足利義澄 (よしずみ、= 義

   高(よしたか)、義遐(よしとお)、法名:清晃

   (せいこう) 、将軍在任:1494年〜1508年、

   生没年:1480年ー1511年)  は、 京(き

   ょう、京都)から近江国へ逃れ、 その後、同

   年に将軍職を廃され、 7月に、足利義稙 

   (よしたね、= 義尹(よしただ)、義材(よしき)、

   生没年:1466年〜1523年)が、 再び、将

   軍宣下を受け、 室町幕府(= 足利幕府)  

   将軍 (将軍在任、第10代・第2次政権:15 

   08年〜1521年)に就任する。

 

   ■ 将軍・足利義稙 (義材、義尹)の第10代・

     第2次政権と対立、和睦、協力した人々。 

   ● 将軍(第10代・第2次政権)の足利義稙

   (義尹、義材)は、大内義興、細川高国と協

   力したり、対立したりする。

      1518年(永正15年)8月に、大内義

   が管領代を辞して、(きょ う、京都)を

   去り、帰国する。

 

   ■ 足利義稙 (義材、義尹)の第10代・第

     2次政権の将軍退任。

   ● 1521年(永正18年・大永元年)に、

   川高国と対立した将軍(第10代・第2次政

   権)の足利義稙(よした ね、義尹、義材)は、 

   京(きょう、京都)を出奔(しゅっぽん)し、将

   軍職(第10代・第2次政権)を廃され、 15

   21年(大永元年)12月に、播磨守護・赤松

   氏や細川高国によって擁立された、足利義

   晴 (よしはる、幼名:亀王丸、生没年:15

   11年〜1550年)  は、 京(きょう、京都)

   で、将軍宣下を受け、 室町幕府(= 足利幕

   府)の第12代将軍 (将軍在任:1521年〜

   1546年) に就任する

 

   ■ 足利義稙 (義材、義尹)の第10代・第

     2次政権の将軍退任後。

   ● 将軍職(第10代・第2次政権)を廃され

   た、足利義稙(義尹、義材)は、京(きょう、

   京都)から離れた畿内付近で、勢力を得て、

   将軍職復帰をめざし、細川高国対立し

   うが将軍職復帰を果たせなかった。

 

   ■ 足利義稙 (義材、義尹)の死去。

      足利義稙(義尹、義材)は、1523年

   (大永3年)4月に、阿波国で、享年58歳(数

   え年)で、死去する。

 

 

■ 足利義稙。 

◆ 室町幕府関連出来事。

■ 足利 義稙は、 足利義視(あしかがよしみ、

  利義政の弟) の子で、 日野富子(ひのとみこ)

  に擁立されて1490年に将軍となったが、やが

  て、1493年に細川政元(ほそかわまさもと)に

  将軍職を追われた。 後に、大内義興(おおうち

  よしおき)の助力を得て、 足利義澄(よしずみ、

  室町幕府11代将軍(就任1494〜1508年))

  を追って、 1508年に、将軍職に復職した。

     将軍復職後、足利 義稙は、 管領(かんれ

  い)の細川高国(ほそかわたかくに)と抗争が続

  き、 1521年に、京(都)より出奔(しゅっぽん)

  し、 1523年に、阿波国(あわのくに、徳島県)

  で没した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 大内 義興は、 細川高国と組んで、足利 義稙

  を擁して、京(都)に上 (のぼ)り、 1508年に、

  足利 義稙(義尹(よしただ))を将軍職に復職さ

  せる。 

    その後、 約10年間(1508〜1518年)、

  京(都)に留まり、管領代として、 足利 義稙の

  室町幕府を支えた。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 大内 義興 (おおうち よしおき)は、 中国地方

  西部、九州北東部に領地をもつ有力大名 で、

  約10年間在京し(1508〜1518年)、 将軍・

  足利義稙(よしたね、義尹(よしただ))を支え、 

  足利義稙の第2次政権時(1508〜21年)の室

  町幕府の管領代(かんれいだい) である。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 細川高国 (ほそかわたかくに) は、 細川政元

  の養子で、 10代将軍・足利義稙(よしたね)の

  第2次政権時(1508〜21年)や12代将軍足利

  義晴(よしはる)の政権時の室町幕府の管領(か

  んれい) である。

 

 

#ashikagayoshitane-appearingscenes

 

♪♪ 足利 義稙が登場する、興味深

    い関連ドラマ、映画、ドキュメン

    タリー。 

 

★ 足利 義稙が登場する、興味深い、

   関連ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が混じって描かれています。 

  また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 塚原卜伝 (つかはらぼくでん) 』 。 

   (NHKテレビ・2011年時代劇

   スペシャルドラマ)。  

■ 室町時代後期(戦国時代)を描いたドラマ

   で、当時活躍した人物、当時の時代状況

   を描く

■ 室町幕府の10代将軍・足利義稙 (よし

  たね、足利義尹(よしただ))、 管領代の

  大内義興、管領の細川高国が登場する。

■ 塚原卜伝の生涯を描いたドラマである。

■ 塚原卜伝が、武者修行の旅に出て、日本

   各地の剣術家と試合をし、己の剣術に磨

     きをかけるストーリーが展開する。

 

● 塚原卜伝を演じた俳優名 : 堺 雅人。

 

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□ 日本史 辞典 の 「 あ 」 基本見出し語

  サイトの先頭ページへ 。        

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#ashikagayoshizumi

 

■ 足利 義澄  

      (あしかが よし ずみ)

 

■ 足利 義澄

■ 名称 : 足利 義澄 (あしかが よしずみ)。

■ 別名 : 法名:清晃(せいこう)⇒還俗後初名、

  義遐(よしとお)⇒義高(よしたか)⇒義澄

  (よしずみ)。

■ 生没年 : 1480年〜1511年。

■ 足利 義澄 は、 室町幕府の第11代将軍

  (将軍在任: 1494年〜1508年)。

■ 足利 義澄は、 堀越公方(ほりごえくぼう)・

  足利政知 (まさとも、足利義政の兄弟)の子

  である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11335。

 

□ 室町幕府関連出来事

□ 足利氏 画像アルバム No.1

 

 

■ 足利義澄。

■ 足利義澄 (あしかが よしずみ、= 義高(よした

  か)、義遐(よしとお)、法名:清晃(せいこう)、

  生没年:1480年ー1511年)は、 室町幕府

  (= 足利幕府)の第11代将軍(将軍在任:1494

  年〜1508年)である。

 

■ 足利義澄。

■ 足利 義澄の 別名。

      足利 義澄 (あしかが よしずみ)は、法名

  (ほうみょう、戒名)を清晃(せいこう)といい、還俗

  して、足利 義遐(よしとお)といい、その後、足利

  義高(よしたか)といい、次に、足利 義澄 (よしず

  み)という。

 

■ 足利義澄。

■ 足利 義澄は、 堀越公方(ほりごえくぼう)・足利

  政知 (まさとも、足利義政の兄弟)の子であり、 

  室町幕府(= 足利幕府)の第6代将軍・足利義教  

  (よしのり)の孫である。

 

 

◆ 室町幕府関連出来事。

 

 ◆ 足利 義澄の将軍の就任と退任。

  ■ 足利義稙・ 第10代・第1次政権の将軍退任

  と足利 義澄の将軍就任。

  ● 1493年(明応2年)4月に、室町幕府の

   10代将軍・第1次政権の足利義稙 (よした

   ね、= 義尹(よしただ)、義材(よしき)生没年:

   1466年〜1523年、将軍在任、第1次政権:

   1490年〜1493年、第2次政権:1508年

   〜1521年)  が、 細川政元らによって追放

   される。

  ● 1494年(明応3年)12月に、 足利義澄

  (よしずみ、= 義高(よしたか)、義遐(よしとお)

  法名:清晃(せいこう)、生没年:1480年ー15

  11年)は、 室町幕府(= 足利幕府)の第11代

  将軍 ( 将軍在任:1494年〜1508年)となる。

 

  ■ 足利 義澄 の将軍退任と足利義稙第10代・

  第2次政権の将軍就任。

  ● 1508年(永正5年)4月に、室町幕府の前

  将軍の足利義稙(義尹、義材を 擁立して大内

  義興は上洛の軍を起こし、その後、11代将軍

  の足利義澄 (よしずみ、= 義高(よしたか)、義

  遐(よしとお)、法名:清晃(せいこう) 、将軍在

  任 、:1494年〜1508年、生没年:1480年ー

  1511年)  は、 京(きょう、京都)から逃れ、

  その後、同年に将軍職を廃され、 7月に、室町

  幕府(= 足利幕府)の第10代将軍の足利 義稙 

  (よしたね、= 義尹(よしただ)、義材(よしき)、

  生没年:1466年〜1523年)  が、 再び将軍 

  (第10代将軍・第2次政権:1508年〜1521年) 

  となる。

 

 ◆ 将軍・足利義澄 の生涯の概要。

   (誕生、将軍就任、対立・和睦・協力した

    人々、将軍退任、将軍退任後、死去など)。

   ■ 足利義澄 の誕生。

   ● 1480年(文明12年)12月に、足利義澄

   (よしずみ、= 義高(よしたか)、義遐(よしと

   お)、法名:清晃(せいこう)、生没年:1480年

   ー1511年) は、 堀越公方(ほりごえくぼう)・

   足利 政知 (あしかがまさとも、足利 義教の子、

   生没年:1435−1491年) の子として、生ま

   れる。

 

   ■ 足利義澄 の将軍就任。

   ● 足利義澄 は、1493年(明応2年)4月の

   明応の政変で、足利義稙(よしたね、 義尹、

   義材)を追放した細川政元、日野富子、伊勢

   貞宗らによって擁立され、 1494年(明応3

   年)12月に、 足利義澄(よしずみ、= 義高

   (よしたか)、義遐(よしとお)、法名:清晃

   (せいこう)、生没年:1480年ー1511年)は、 

   京(きょう、京都)で、将軍宣下を受け、 室町

   幕府(= 足利幕府)の第11代将軍 (将軍在

   任:1494年〜1508年) に就任する

 

   ■ 将軍・足利義澄と対立、和睦、協力した

     人々。

   ● 将軍・足利 義澄は、 細川政元(ほそかわ

   まさもと)と協力したり、対立したりする。 

      細川政元は、1507年(永正4年)に暗殺

   される。

 

   ■ 足利義澄 の将軍退任。

   ● 1508年(永正5年)4月、室町幕府の前

   将軍の足利義稙(義尹、義材)を擁立して大内

   義興は上洛の軍を起こし、そして、11代将軍

   の足利義澄 (よしずみ、= 義高(よしたか)、

   義遐(よしとお)、法名:清晃(せいこう) 、将軍

   在任:1494年〜1508年、生没年:1480年

   ー1511年)  は、 京(きょう、京都)から近江

   国へ逃れ、 その後、同年に将軍職を廃され、 

   7月に、室町幕府(= 足利幕府)の第10代将

   軍の足利義稙 (よしたね、= 義尹(よしただ)、

   義材(よしき)、生没年:1466年〜1523年

   が、 再び将軍(第10代将軍・第2次政権:

   1508年〜1521年)  に就任する

 

   ■ 足利義澄 の将軍退任後。

   ● 将軍職を廃された後、足利 義澄は、近江

   国より、再び勢力を盛り返し将軍職復帰をめ

   ざし、細川高国や大内義興と対立し戦うが将

   軍職復帰を果たせなかった。

 

   ■ 足利義澄 の死去。

       足利 義澄は、1511年(永正8年)8月

   に病死する。

 

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#ashikagayoshiharu

 

■ 足利 義晴  

      (あしかが よし はる)

 

■ 足利 義晴

■ 名称 : 足利 義晴 (あしかが よしはる)。

■ 別名 : 

   幼名:亀王丸⇒元服後、義晴(よしはる)。

■ 生没年 : 1511年〜1550年。

■ 足利 義晴は、 室町幕府の第12代将軍

  (将軍在任:1521〜1546年)である。

■ 足利 義晴は、 室町幕府第11代将軍・

  足利義澄(よしずみ)の子である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 12337。

 

□ 室町幕府関連出来事

□ 足利氏 画像アルバム No.1

 

 

■ 足利義晴。 

■ 足利義晴 (あしかが よしはる、幼名:亀王丸、

  生没年:1511年〜1550年)は、 室町幕府

  (= 足利幕府)の第12代将軍将軍 (将軍在

  任:1521年〜1546年)である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 足利義晴。

■ 足利 義晴は、室町幕府(= 足利幕府)の第11

  代将軍・足利義澄(よしずみ)の子である。

 

■ 足利義晴。

■ 足利 義晴の 別名。 

     足利 義晴 (あしかが よしはる)は、幼名

  は亀王丸といい、元服後、足利 義晴(よしはる

  という。

 

 

◆ 室町幕府関連出来事。

 

 ◆ 足利義晴の将軍の就任と退任。

   ■ 足利義稙第10代・第2次政権将軍

     退任と足利義晴の将軍就任。

   ● 1521年 (永正18年、大永(だいえい)

   元年(8/23改元))3月に、室町幕府の第

   10代将軍・第2次政権の足利義稙 (よした

   ね、義尹(よしただ)、義材(よしき)、生没年:

   1466年〜1523年、将軍在任:第10代 ・

   第2次政権、1508年〜1521年は、管 領・

   細川高国と対立し、細川高国は、足利義晴

   (幼名:亀王丸)を代わりの将軍として招くこ

   とにし、 1521年(大永元年)12月に、足利

   義晴 (よしはる、幼名:亀王丸、生没年:15

   11年〜1550年)  は、 室町幕府(= 足利

   幕府)の第12代将軍 (将軍在任:1521年

   〜1546年)  に就任する

 

  ■ 足利義晴の将軍退任と足利義輝の将軍就

   任。

   ● 1546年(天文15年)12月に、室町幕府の

   第12代将軍の足利義晴 (よしはる、幼名:亀

    王丸、将軍在任:1521年〜1546年、生没年:

   1511年〜1550年) は、 子の足利義輝(義

   藤、幼名:菊幡丸)に将軍職を譲り、 1546年

   (天文15年)12月に、足利 義輝 (よしてる、

   義藤(よしふじ)、幼名:菊幡丸(きくどうまる)、

   生没年:1536年ー1565年) は、 室町幕府

   (= 足利幕府)の第13代将軍 (将軍在任:15

   46年〜1565年)に就任する

 

 ◆ 将軍・足利義晴 の生涯の概要。

    (誕生、将軍就任、対立・和睦・協力した

    人々、将軍退任、死去など)。

   ■ 足利義晴 の誕生。

     1511年(永正8年)3月に、足利 義晴

   (よしはる、幼名:亀王丸、生没年:1511年

   〜1550年)  は、近江国の蒲生(がもう)で、

   足利義澄の長男として、生まれる。

 

   ■ 足利義晴 の将軍就任。

      1521年(永正18年・大永元年)に、

   細川高国と対立した足利義稙(よした ね、

   義尹、義材)が京(きょう、京都)を出奔し、

   播磨守護・赤松氏や細川高国によって擁

   立されて、 1521年(大永元年)12月に、

   足利 義晴 (よしはる、幼名:亀王丸、

   没年:1511年〜1550年)  は、京(きょう、

   京都)で、将軍宣下を受け、 室町幕府(=

   足利幕府)の第12代将軍 (将軍在任:

   1521年〜1546年) に就任する

 

   ■ 将軍・足利義晴 と対立、和睦、協力した

     人々。

   ● 将軍・足利 義晴は、 細川高国(ほそ

   かわたかくに、道永(どうえい))と協力する。 

       細川高国は、1531年(享禄4年)

   6月に敗死する。

   ● 将軍・足利 義晴は、 細川晴元(ほそ

   かわはるもと、細川六郎)と対立したり、和

   睦したりする。 

   ● 将軍・足利 義晴は、 義晴の弟・足利

   義維(よしつな)と対立する。

   ● 1546年(天文15年)11月に、将軍・

   足利 義晴は、細川晴元と対立し戦いに敗

   れ、近江国の坂本に避難する。

 

   ■ 足利義晴 の将軍退任。

      1546年(天文15年)12月に、室町

   幕府の第12代将軍の足利義晴 (よしは

   る、幼名:亀 王丸、将軍在任:1521年

   〜1546年、生没年: 1511年〜1550年) 

   は、 近江国の坂本で、子の足利義輝(義

   藤、幼名:菊幡丸)に将軍職を譲る。 以後、

   足利義晴は、大御所として、幼少将軍の

   義輝の後見人となる。

 

   ■ 足利義晴 の死去。

      足利義晴は、 1550年(天文19年)

   5月に、近江国の穴太で、病死する。

 

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#ashikagayoshiteru

 

■ 足利 義輝  

    (あしかが よしてる)。

 

■ 足利 義輝。 

■ 名称 : 足利 義輝 (あしかが よしてる)。

■ 別名 : 

  幼名:菊幡丸(きくどうまる)⇒元服後

  初名、義藤(よしふじ)⇒義輝(よしてる)

■ 生没年 : 1536年〜1565年。 

 足利 義輝は、 室町幕府の 第13代将軍

  (将軍在任 :1546年〜1565年)である。 

 足利 義輝は、12代将軍・足利義晴(よしは

  る)の子 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 12339。

 

□ 室町幕府関連出来事

□ 足利氏 画像アルバム No.1

 

 

■ 足利 義輝。

■ 足利 義輝 (あしかが よしてる、義藤(よしふじ)、

  幼名:菊幡丸(きくどうまる)、生没年:1536年

  ー1565年) は、 室町幕府(= 足利幕府)の第

    13代将軍 将 軍在任:1546年〜1565年)で

  ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 足利 義輝。

■ 足利 義輝の別名。

     足利 義輝 (あしかが よしてる)は、幼名

  は菊幡丸(きくどうまる)といい、元服後、初め、

  1546年(天文15年)に、足利 義藤(よしふじ)

  といい、次に、1554年(天文23年)に、足利

  義輝(よしてる)という。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 足利 義輝。

■ 足利 義輝は、 足利氏の武士、将軍 であり、

  室町時代後期 (戦国時代)の、室町幕府(= 足

  利幕府)将軍である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 足利 義輝。

■ 足利 義輝は、室町幕府(= 足利幕府)の第

  12代将軍・足利義晴(よしはる、将軍在任:

  1521年〜1546年)の子である。

     足利 義輝は、 松永久秀 (まつなが ひ

  さひで) に殺される。

     室町幕府(= 足利幕府)の第14代

  ・足利義栄(よしひで、将軍在任:1568年

  2〜9月または10月)は、足利義輝の従兄弟

  (いとこ)である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 室町幕府関連出来事。

 

 ◆ 足利義輝の将軍の就任と退任。

   ■ 足利義晴の将軍退任と足利義輝の将軍

     就任。

   ● 1546年(天文15年)12月に、室町幕府

   第12代将軍の足利義晴 (よしはる、幼名:

    亀王丸、将軍在任:1521年〜1546年、

   没年:1511年〜1550年) は、 子の足利

   義輝(義藤、幼名:菊幡丸)に将軍職を譲り、 

   1546年(天文15年)12月に、足利 義輝 

   (よしてる、義藤(よしふじ)、幼名:菊幡丸(

   くどうまる)、生没年:1536年ー1565年)は、 

   室町幕府(= 足利幕府)の第13代将軍 (

   軍在任:1546年〜1565年) に就任する

 

  ■ 足利義輝将軍退任と足利義栄の将軍

    就任。

  ● 1565年(永禄8年)5月に、松永久秀(ま

  つながひさひで)や三好三人衆(みよしさんに

  んしゅう)によって、室町幕府の第13代将軍の

  足利 義輝 (あしかが よしてる、義藤(よしふ

  じ)、幼名:幡菊丸(きくどうまる) 、将軍在任:

  1546年〜1565年、生没年:1536年ー15

  65年)  が、 殺害される (永禄の政変)、 

  その後、1568年(永禄11年)まで、将軍不在

  となる。 

  ● 1568年(永禄11年)2月に、 三好三人

  衆によって擁立されて、足利義栄 (あしかが

  よしひで、 = 義親(よしちか)または義勝(よし

  かつ)、生没年:1538年または1540年〜

  1568年) は、 室町幕府(= 足利幕府)の

  第14代将軍 (在任:1568年2月〜9月また

  は10月 に就任する。

 

 ◆ 将軍・足利義輝の生涯の概要。

    (誕生、将軍就任、対立・和睦・協力した

    人々、将軍退任、死去など)。

  ■ 足利義輝 の誕生。

  ● 1536年(天文5年)3月に、足利 義輝

   (よしてる、義藤(よしふじ)、幼名:菊幡

   丸(きくどうまる)、生没年:1536年ー15

   65年)は、 京(きょう、京都)で、足利 義

  晴の嫡男として、生まれる。

 

  ■ 足利義輝 の将軍就任。

  ● 1546年(天文15年)12月に、父・足

   利義晴より将軍職を譲られて、 足利 義

    輝 (よしてる、義藤(よしふじ)、幼名:

   菊幡丸(きくどうまる)、生没年:1536年

   ー1565年)は、 近江・坂本で、朝廷の勅

   使より、将軍宣下を受け、室町幕府(= 足

   利幕府)の第13代将軍 (将軍在任:15

   46年〜1565年)に就任する

 

  ■ 将軍・足利義輝 と対立、和睦、協力した

    人々。

  ● 将軍・足利 義輝は、 細川晴元(ほそ

   かわはるもと、細川六郎)と対立したり、

   和睦したりする。 

      細川晴元は、1563年(永禄6年)3月

       に、摂津で、死去する。

  ● 将軍・足利 義輝は、 三好長慶(みよし

   ながよし)と対立したり、和睦したりする。 

      三好長慶は、1564年(永禄7年)7月

      に、病死する。

  ● 将軍・足利 義輝は、 三好長慶の死後、

   三好義継(三好長慶の養嗣子)、三好三人

   衆 や 松永久秀 と対立する。 

  ● 将軍・足利 義輝は、 叔父・足利義維(義

   輝の父・足利 義晴の弟) や 足利義維の

   嫡男・足利義栄(よしひで)と対立する。

 

  ■ 足利義輝 の死去、将軍就任。

   ● 1565年(永禄8年)5月に、将軍・足利

   義輝は、 三好義継、三好三人衆、松永久

   通(松永久秀の長男)によって、京(きょう、

   京都)の二条御所で殺害される。

 

◆ 室町幕府関連出来事。

■ 足利 義輝の室町幕府将軍就任。

 

■ 足利 義輝は、父・足利義晴(よしはる)の避難

  先の近江(おうみ、滋賀県)の坂本で、1546年

  (天文15年)に、元服と同時に、11歳で、父・

  晴から将軍職を譲られる。 名を足利義藤と名

  乗る。 その後、1554年(天文23年)に、足利

  義輝(よしてる)に名を改める。

 

■ 足利 義輝は、1558年(永禄元年)に、細川氏

  の家臣で畿内に勢力をもつ戦国大名、三好長慶 

  (みよし ちょうけい・ながよし1522〜64年) と

     の間に和議が成立し、京(都)に戻り(入洛が実

  現し)、室町幕府の政治を再開する。

     三好長慶は、足利 義輝より幕府の相伴衆

  (しょうばんしゅう、管領に次ぐ身分)に任じられ、

  管領の役職を代行して、幕政の実権を握る。

     足利 義輝は、幕府権力と将軍権威(威信)

  の復活をめざし、諸国の戦国大名との交流に努

  める。 戦国大名同士の抗争の調停を行ったり、 

  懐柔策として遍諱として自分の名「輝」の一字や

  将軍家の通字「義」を戦国大名へ与えたりした。 

  次第に、諸大名から、将軍として認められる。 

     織田信長や上杉謙信も上洛して、足利 義

  輝に拝謁(はいえつ)している。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 永禄の政変。

  ● 1564年(永禄7年)に、幕政の実権を握っ

  ていた三好長慶が病死し、室町幕府・13代

  足利 義輝(あしかが よしてる)は、これを

  好機として、幕府権力の復活をめざし、将軍親

  政を行おうとするが、 三好長慶の死後の幕政

  の実権を握ることを目論(もくろ)む、三好三人

  (みよしさんにんしゅう)や松永久秀(まつな

  がひさひで)とが足利義栄(あし かが よしひで)

  を擁立し、足利義輝を排除しようとして、 15

  65年(永禄8年)5月に、三好義継(よしつぐ、

  三好長慶の甥)、三好三人衆、松永久通(ひさ

  みち、松永久秀の子)の軍が、足利義輝の二

  条御所を取り囲み、政治的要求を行い(突き

  付け)、足利義輝側は、その要求を拒否し、三

  好・松永側と足利義輝側の両軍の衝突に発展

  し、戦いになり、結果的に三好・松永側は、義

  輝の二条御所を襲撃し、 足利 義輝は、奮戦

  (ふんせん)したが、殺害される。

  ■ しかし、13代将軍・足利義輝惨殺後、15

  65年(永禄8年)から、 三好三人衆と松永久

  の権力抗争が開始される。 やっと、1568

  年(永禄11年)2月に、三好三人衆の推挙に

  より、 足利義栄(足利義輝の従兄弟)が、 室

  町幕府の第14代将軍となる。 しかし、三好三

  人衆と松永久秀の抗争は止らず、 1568年9

  月には、 織田信長が、 足利義昭(あしかが

  よしあき、足利義輝の弟)を擁立(ようりつ)して

  上洛してきた。 三好三人衆は、織田信長に畿

  内で抗戦したが敗れ、 松永久秀も織田信長に

  臣従し、足利義栄は、阿波国(あわのくに)に逃

  れ急死し、 障害がなくなり、1568年(永禄11

  年)10月に、足利義昭が、室町幕府の第15代

  将軍となる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

♪♪ 足利 義輝が登場する、興味

    い関連ドラマ、映画、ドキュメン

    タリー。 

 

★ 足利 義輝が登場する、興味深い、

   関連ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事が混じって描かれています。 

  また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 麒麟(きりん)がくる 』。 

   (NHKテレビ・2020年大河ドラマ)。 

   (池端俊策 作・脚本)。

 室町幕府・第13代将軍・足利義輝を

  描く。

 日本の戦国時代(室町時代後期)、安

   土桃山時代を描く。

 

● 室町幕府・第13代将軍・足利義輝(あ

  しかがよしてる)を演じる俳優名 : 

  向井 理。

 

● 室町幕府・第15代将軍・足利義昭(あ

  しかがよしあき、足利義輝の弟)を演じ

  る俳優名 : 滝藤 賢一 。

● 室町幕府幕臣、後、織田信長家臣の

  細川藤孝(幽斎)(ほそかわふじたか

  (ゆうさい))を演じる俳優名 : 

  眞島 秀和。

● 室町幕府幕臣の三淵藤英(みつぶち

  ふじひで、細川藤孝(幽斎)の異母兄)

  を演じる俳優名 : 谷原 章介。

  

● 室町幕府管領(かんれい)の細川晴元

  (ほそかわはるもと)を演じる俳優名 : 

  国広 富之。

● 細川晴元家臣の三好長慶(みよしなが

  よし)を演じる俳優名 : 山路 和弘。

● 三好長慶家臣の松永久秀(まつながひ

  さひで)を演じる俳優名: 吉田 鋼太郎。

 

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#ashikagayoshihide

 

■ 足利 義栄  

      (あしかが よしひで)

 

■ 足利 義栄

■ 名称 : 足利 義栄 (あしかが よしひで)。

■ 別名 : 

   義親(よしちか)または義勝(よしかつ)

   ⇒義栄(よしひで)。

■ 生没年 : 

  1538年または1540年〜1568年。

■ 足利 義栄は、室町幕府の第14代将軍

  (将軍在任:1568年2月〜9月または10月

  である。

■ 足利 義栄は、12代将軍・足利義晴(よしはる)

  の甥(おい)である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 12335。

 

□ 室町幕府関連出来事

□ 足利氏 画像アルバム No.1

 

 

■ 足利 義栄。

■ 足利 義栄 (あしかが よしひで、= 義親(よしち

     か)または義勝(よしかつ)、生没年:1538年ま

     たは1540年〜1568年) は、 室町幕府(=

  足利幕府)の第14代将軍在任:1568年2月

  〜9月または10月 である。

 

■ 足利 義栄。

■ 足利 義栄の 別名。

     足利 義栄(あしかが よしひで)は、初めは、

  足利 義親(よしちか)または足利 義勝(よしかつ)

  といい、後に、足利 義栄(よしひで)という。

 

■ 足利 義栄。

■ 足利 義栄は、 室町幕府の、第11代将軍・足

  利義澄(よしずみ)の孫(まご)で、 第12代将

  軍・足利義晴(よしはる)の甥(おい)で、 第13

  代将軍・足 利義輝(よしてる)の従兄弟(いとこ) 

  である。

 

■ 足利 義栄。

■ 足利 義栄の父は、 足利義維(よしつな)で、 

  室町幕府・第11将軍の足利義澄(よしずみ)の

  次男であった。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 足利 義栄。

■ 足利 義栄 の将軍就任は、1568年2月から

  9月〜10月までである。

 

■ 足利 義栄。

■ 足利 義栄 の将軍就任は、 1568年(永禄11

  年)2月に、三好三人衆の推挙により朝廷から第

  14代将軍として将軍宣下(しょうぐんせんげ)が

  なされ、 将軍に就任した。 

     足利 義栄は、将軍に就任しても、入京する

  ことはなかった。 

     足利 義栄は、1568年9月に、急死(病死)

  する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 室町幕府関連出来事。

 

 ◆ 足利義栄 の将軍の就任と退任。

  ■ 足利義輝将軍退任と足利義栄の将軍

  就任。

  ● 1565年(永禄8年)5月に、松永久秀(ま

  つながひさひで)や三好三人衆(みよしさんに

  んしゅう)によって、室町幕府の第13代将軍の

  足利 義輝 (あしかが よしてる、義藤(よしふ

  じ)、幼名:幡菊丸(きくどうまる) 、将軍在任:

  1546年〜1565年、生没年:1536年ー15

  65年)  が、 殺害される (永禄の政変)。 

  その後、1568年(永禄11年)まで、将軍不在

  となる。 

  ● 1568年(永禄11年)2月に、 三好三人

  衆によって擁立されて、足利義栄 (あしかが

  よしひで、 = 義親(よしちか)または義勝(よし

  かつ)、生没年:1538年または1540年〜

  1568年) は、 室町幕府(= 足利幕府)の

  第14代将軍 (将軍在任:1568年2月〜9月

  または10月 に就任する。

 

  ■ 足利義栄将軍退任と足利義昭の将軍

  就任。

     1568年(永禄11年)9〜10月に、室町

  幕府の第14代将軍の足利義栄 (あしかが

  よしひで、 = 義親(よしちか)または義勝(よし

  かつ)、将軍在任:1568年2月〜9月または

  10月、生没年:1538年または1540年〜

  1568年)  は、病死し、 一方、足利義昭 

  (あしかが よしあき、 = 義秋(よしあき)、法

  名:覚慶(かくけい)、生没年:1537年〜15

  97年) は、  織田信長に擁立されて上洛し、

  1568年(永禄11年)10月に、室町幕府(=

  足利幕府)の第15代将軍 (将軍在任:15

  68年ー1588年) に就任する。

 

 ◆ 将軍・足利義輝の生涯の概要。

    (誕生、将軍就任、対立・和睦・協力した

    人々、将軍退任、死去など)。

  ■ 足利義栄の誕生。

  ● 1538年(天文7年)に、足利義栄 (あ

  しかがよしひで、 = 義親(よしちか)または

  義勝(よしかつ)、生没年:1538年または

  1540年〜1568年) は、 足利 義維(よ

  しつな、義賢、義冬)の長男として、阿波国

  で、生まれる。

 

  ■ 足利義栄の将軍就任。

  ● 三好三人衆によって擁立されて、 15

  68年(永禄11年)2月に、 足利義栄 (あ

  しかが よしひで、 = 義親(よしちか)または

  義勝(よしかつ)、生没年:1538年または

  1540年〜1568年) は、 将軍宣下を受 

  け、室町幕府(= 足利幕府)の第14代将軍

  将軍在任:1568年2月〜9月または10

  月 に就任する。

 

  ■ 将軍・足利義栄と対立、和睦、協力した

    人々。

  ● 将軍・足利義栄は、 三好三人衆(みよ

   しさんにんしゅう)と協力する。

   ● 三好三人衆や松永久秀の主君の三好

     長慶は、1564年(永禄7年)7月に、病死

  する。

     三好長慶の死後、 三好義継(三好長

   慶の養嗣子)、三好三人衆、と 松永久秀

   が対立する。 

   ● 将軍・足利義栄は、足利 義輝(よして

   る)の弟の足利義昭(よしあき)や織田信

   長と対立する。

 

  ■ 足利義栄 の死去、将軍退任

   ● 将軍・足利義栄は、1568年(永禄11

   年)9〜10月に、病死する。

   

 

◆ 室町幕府関連出来事。

  ■ 1564年(永禄7年)に、幕政の実権を握っ

  ていた三好長慶が病死し、室町幕府・13代

  足利 義輝(あしかが よしてる)は、これを

  好機として、幕府権力の復活をめざし、将軍親

  政を行おうとするが、 三好長慶の死後の幕政

  の実権を握ることを目論(もくろ)む、三好三

  (みよしさんにんしゅう)や松永久秀(まつな

  がひさひで)とが足利義栄(あし かが よしひで)

  を擁立し、足利義輝を排除しようとして、 15

  65年(永禄8年)5月に、三好義継(よしつぐ、

  三好長慶の甥)、三好三人衆、松永久通(ひさ

  みち、松永久秀の子)の軍が、足利義輝の二

  条御所を取り囲み、政治的要求を行い(突き

  付け)、足利義輝側は、その要求を拒否し、三

  好・松永側と足利義輝側の両軍の衝突に発展

  し、戦いになり、結果的に三好・松永側は、義

  輝の二条御所を襲撃し、 足利 義輝は、奮戦

  (ふんせん)したが、殺害される。

  ■ しかし、13代将軍・足利義輝惨殺後、15

  65年(永禄8年)から、 三好三人衆と松永久

  の権力抗争が開始される。 やっと、1568

  年(永禄11年)2月に、三好三人衆の推挙に

  より、 足利義栄(足利義輝の従兄弟)が、 室

  町幕府の第14代将軍となる。 しかし、三好三

  人衆と松永久秀の抗争は止らず、 1568年9

  月には、 織田信長が、 足利義昭(あしかが

  よしあき、足利義輝の弟)を擁立(ようりつ)して

  上洛してきた。 三好三人衆は、織田信長に畿

  内で抗戦したが敗れ、 松永久秀も織田信長に

  臣従し、足利義栄は、阿波国(あわのくに)に逃

  れ急死し、 障害がなくなり、1568年(永禄11

  年)10月に、足利義昭が、室町幕府の第15代

  将軍となる。

 ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

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#ashikagayoshiaki

 

■ 足利 義昭 

      (あ しかが よしあき)

 

■ 足利 義昭。

■ 名称 : 足利 義昭 (あしかが よしあき)。

■ 別名 : 

   法名:覚慶(かくけい)⇒ 還俗後初名、

   義秋(よしあき)⇒ 義昭(よしあき)。

■ 生没年 : 1537年〜1597年。

■ 足利義昭は、 室町幕府の第15代将軍

  (将軍在任: 1568〜1588年)である。

■ 足利義昭は、12代将軍・足利義晴(よしは

  のる)子である。

■ 足利義昭は、 室町幕府の最後の将軍であ

  る。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51418。

 

□ 室町幕府関連出来事

□ 足利氏 画像アルバム No.1

□ 足利義昭関連出来事

   詳細・年代順

 足利 義昭が登場する、興味深い

   ドラマ、 映画、ドキュメンタリー

 

■ 足利義昭。

■ 足利義昭 (あしかが よしあき、 = 義秋(よしあ

  き)、法名:覚慶(かくけい)、生没年:1537年〜

  1597年)は、 室町幕府(= 足利幕府)の15

  将軍 (将軍在任:1568年ー1588年)である

 

■ 足利義昭。

■ 足利 義昭は、 室町幕府(= 足利幕府)の最後

  の将軍である。

 

■ 足利義昭。

■ 足利義昭は、 1568年(永禄11年)に、織田

   信長に 擁立されて(奉(ほう)じられて)、入京

   し、室町幕府(= 足利幕府)の第15代将軍と

   なる。

 

■ 足利義昭。

 足利義昭は、 将軍就任後、信長と不和となり、

   1573年(元亀4年)に、信長によって、京(都)

   を追われて、室町幕府(= 足利幕府)は、事実上、

  滅亡する。

 

■ 足利義昭。

■ 足利 義昭は、 室町幕府(= 足利幕府)の第12

  代将軍の、足利義晴 (よしはる、将軍在任 :15

  21年〜1546年) の子である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 足利義昭。

■ 足利 義昭の別名。

  ■ 足利 義昭 (あしかが よしあき)は、法名は

  覚慶(かくけい)といい、 還俗(げんぞく)後に、

  初め、足利 義秋(よしあき)といい、 次に、足利

  義昭(よしあき)という。

 

  ● 足利 義昭は、 幼名は千歳丸で、幼少より

  仏門に入り僧侶となり法名は覚慶(かくけい、一

  乗院覚慶)といい、 1566年(永禄9年)に還俗

  (げんぞく)して初め、足利義秋(よしあき)といい、 

  1568年(永禄11年)に足利 義昭といい、15

  88年(天正16年)に出家(受戒)して昌山道休と

  号す。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 室町幕府関連出来事。

  ■ 足利義栄将軍退任と足利義昭の将軍

  就任。

     1568年(永禄11年)9〜10月に、室町

  幕府の第14代将軍の足利義栄 (あしかが

  よしひで、 = 義親(よしちか)または義勝(よし

  かつ)、将軍在任:1568年2月〜9月または

  10月、生没年:1538年または1540年〜

  1568年)  は、病死し、 一方、足利義昭 

  (あしかが よしあき、 = 義秋(よしあき)、法

  名:覚慶(かくけい)、生没年:1537年〜15

  97年) は、  織田信長に擁立されて上洛し、

  1568年(永禄11年)10月に、室町幕府(=

  足利幕府)の第15代将軍 (将軍在任:15

  68年ー1588年) に就任する。

  

  ■ 室町幕府の滅亡と足利義昭の将軍退任。  

  ● 1573年(元亀4年) 7月に、足利 義昭

  (あしかが よしあき、 = 義秋(よしあき)、法

  名:覚慶(かくけい)将軍在任:1568年ー

  1588年、生没年:1537年ー1597年) は、 

  織田信長によって、京(きょう、京都)を追わ

  れて、室町幕府(= 足利幕府、1338年−15

  73年)は、事実上、滅亡する。 

  ● 豊臣政権確立後、1588年(天正16年)

  1月に、足利 義昭 (義秋法名:覚慶、生没

  年:1537年ー1597年)は、 将軍職( 将軍

  在任:1568年ー1588年)辞し、 室町幕

  府(= 足利幕府)は、名実ともに、幕を閉じる

  (終わる)。 足利 義昭は、 室町幕府(= 足

  利幕府)の最後の将軍となる。

 

 

◆ 室町幕府関連出来事。

  ■ 永禄の政変。

  ● 1564年(永禄7年)に、幕政の実権を握っ

  ていた三好長慶が病死し、室町幕府・13代

  足利 義輝(あしかが よしてる)は、これを

  好機として、幕府権力の復活をめざし、将軍親

  政を行おうとするが、 三好長慶の死後の幕政

  の実権を握ることを目論(もくろ)む、三好三人

  (みよしさんにんしゅう)や松永久秀(まつな

  がひさひで)とが足利義栄(あし かが よしひで)

  を擁立し、足利義輝を排除しようとして、 15

  65年(永禄8年)5月に、三好義継(よしつぐ、

  三好長慶の甥)、三好三人衆、松永久通(ひさ

  みち、松永久秀の子)の軍が、足利義輝の二

  条御所を取り囲み、政治的要求を行い(突き

  付け)、足利義輝側は、その要求を拒否し、三

  好・松永側と足利義輝側の両軍の衝突に発展

  し、戦いになり、結果的に三好・松永側は、義

  輝の二条御所を襲撃し、 足利 義輝は、奮戦

  (ふんせん)したが、殺害される。

     しかし、13代将軍・足利義輝惨殺後、15

  65年(永禄8年)から、 松永久秀と三好三人

  衆の権力抗争が開始される。 やっと、1568

  年(永禄11年)2月に、三好三人衆の推挙に

  より、 足利義栄(足利義輝の従兄弟)が、 室

  町幕府の第14代将軍となる。 しかし、三好三

  人衆と松永久秀の抗争が止らず、 1568年9

  月には、 織田信長が、 足利義昭(あしかが

  よしあき、足利義輝の弟)を擁立(ようりつ)して

  上洛してきた。 三好三人衆は、織田信長に畿

  内で抗戦したが敗れ、 松永久秀も織田信長に

  臣従し、足利義栄は、阿波国(あわのくに)に逃

  れ急死し、 障害がなくなり、1568年(永禄11

  年)10月に、足利義昭が、室町幕府の第15代

  将軍となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 足利 義昭 (あしかが よしあき)は、 初め、僧

  であったが、 1565年に、室町幕府・13代将軍

  の兄の足利 義輝 (よしてる、将軍在任、1546

  〜65年)が 松永久秀(まつながひさひで)  と 

  三好三人衆(みよしさんにんしゅう)に殺害される

  と、 足利 義昭は、還俗(げんぞく)する。

    足利 義昭 は、 室町幕府の再興(さいこう)

  に努力し、 1568年に、織田信長に奉(ほう)じ

  られて(擁立されて)、 入京し、 室町幕府の第

  15代将軍となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 足利家の足利義昭は、 朝倉義景に上洛を期

  待していたが、朝倉義景は動かなかった。そこ

  で、足利義昭は、 明智光秀を通して織田信長

  に対し、京都に攻め上(のぼ)って自分を、征

  夷大将軍(室町幕府の将軍)につけるように要

  請した。

     足利家の足利義昭の要請を受けて、明智

  光秀は、織田信長と会見し、義昭の要請を伝え

  る。

    織田信長は、 足利家の足利義昭の要請

  受け入れ 京都に攻め上(のぼ)って、足利義

  昭を、征夷大将軍室町幕府将軍)に就(つ)

  けた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 足利 義昭は、 将軍就任後、 織田信長の

  隆盛とともに不和となり、1573年に、織田信

  長により、京(都)を追われて、 室町幕府は、

  事実上、幕を閉じた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 足利 義昭は、後に、豊臣秀吉の保護をうけ た。

  

 

#ashikagayoshiaki-happeningsbyperiod

 

◆ 足利義昭 関連出来事

  (年代順・詳細)。

 

■ 1537年(天文6年)。

  ■ 1537年(天文6年)11月に、 足利義昭

  は、第12代将軍・足利義晴の次男として生ま

  れる。

    兄の嗣子の足利義輝がいたため、幼くして、

  仏門(興福寺の一乗院)に入り、法名を覚慶と

  名乗った。 このまま覚慶は、僧として、一生を

  終えるはずであった。

 

■ 1565年(永禄8年)。

  ■ 永禄の政変。

  ● 1564年(永禄7年)に、幕政の実権を握っ

  ていた三好長慶が病死し、室町幕府・13代

  足利 義輝(あしかが よしてる)は、これを

  好機として、幕府権力の復活をめざし、将軍親

  政を行おうとするが、 三好長慶の死後の幕政

  の実権を握ることを目論(もくろ)む、三好三人

  (みよしさんにんしゅう)や松永久秀(まつな

  がひさひで)とが足利義栄(あし かが よしひで)

  を擁立し、足利義輝を排除しようとして、 15

  65年(永禄8年)5月に、三好義継(よしつぐ、

  三好長慶の甥)、三好三人衆、松永久通(ひさ

  みち、松永久秀の子)の軍が、足利義輝の二

  条御所を取り囲み、政治的要求を行い(突き

  付け)、足利義輝側は、その要求を拒否し、三

  好・松永側と足利義輝側の両軍の衝突に発展

  し、戦いになり、結果的に三好・松永側は、義

  輝の二条御所を襲撃し、 足利 義輝は、奮戦

  (ふんせん)したが、殺害される。

 

  ■ 1565年(永禄8年)に、 永禄の変で、兄

  の室町幕府・第13代将軍・足利義輝(よして

  る)が、三好三人衆永久秀らによって惨殺

  (ぜんさつ)される。

     このとき、足利義輝の弟の、覚慶(足利義

  昭)も、松永久秀らによって捕縛され、興福寺に

  幽閉された。 

     覚慶(足利義昭)は将来興福寺別当の職を

  約束されていたので、 興福寺は、大和(やまと、

  奈良県)の守護大名でもあり、覚慶(足利義昭)

  を殺すことで興福寺を敵に回すことを恐れて、

  松永久秀らは、覚慶(足利義昭)を殺さず、幽閉

  にとどめた。

     しかし、覚慶(足利義昭)は、 足利義輝の側

  近の細川藤孝らに助けられて、興福寺を脱出す

  る。 覚慶(足利義昭)とその一行は、 奈良の興

  福寺より伊賀国へ脱出し、さらに、近江・甲賀の

  和田城に移り、ひとまず、身をおいた。 

    そして、覚慶(足利義昭)一行は、 南近江を

  支配する六角氏の許可を得た上で、 南近江の

  矢島村に、矢島御所をつくり、在所とした。

 

■ 1566年(永禄9年)。

  ■ 1566年(永禄9年)2月に、覚慶(足利義

  昭)は、正統な血筋による将軍家を再興するた

  め、 矢島御所にて、還俗(げんぞく)して、足

  利義秋と名乗る。

 

  ■ 矢島御所が安全でなくなったため、 1566

    年(永禄9年)8月に、 足利義秋(足利義昭)

    の妹婿の若狭国の武田義統を頼り、足利義

    秋(足利義昭)一行は、 若狭国(わかさのく

    に、福井県西部)へ移った。  

       若狭国の若狭武田氏は、国内が安定し

    ておらず、上洛への助力を要請できる状況

    ではなかった。

  

  ■ 1566年(永禄9年)9月には、若狭国より、

    越前国(えちぜんのくに、福井県北部)の朝倉

    義景もとへ移り、 上洛への助力を要請した。

       しかし、越前の朝倉義景は、積極的な上

    洛の意志を表さなかったため、滞在は長期間

    となった。

 

   ■」 越前の朝倉滞在中に、1568年(永禄11

    年)4月に、足利義秋の秋の字は不吉である

    とし、足利義昭と改名した。

 

  ■ 足利義昭一行は、 朝倉家の家臣であった、

    明智光秀の仲介により、 織田信長を頼って、

    尾張国(おわりのくに、愛知県西部)へ移った。

 

■ 1568年(永禄11年)。

  ■ 1568年(永禄11年)9月に、足利義昭は、

    尾張より、織田信長の軍に警護されて、上洛

    を開始し、途中の反乱も退けて進軍して、無

    事、京(きょう、京都)に到着し、 9月に松永

    久秀は信長に臣従し、9月に三好三人衆は

    信長に抵抗し畿内から駆逐され、 9 月に足

    利義栄も急死した。

       1568年(永禄11年)10月に、足利義

    昭は、朝廷から将軍宣下(しょうぐんせんげ)

    を受けて、室町幕府・第15代将軍に就任し

    た。 

       足利義昭は、将軍就任後、室町幕府の

    将軍の政治的・経済的基盤を固めた。

 

■ 1569年(永禄12年)。

  ■ 1569年(永禄12年)1月に、織田信長の兵

  が領国の美濃・尾張に帰還した。

    すると、三好三人衆が、巻き返しをはかり、仮

  御所を襲ったが、足利義昭は、奉公衆及び畿内

  の浅井長政、池田正勝、和田惟政らの武将の奮

  戦により、これを撃退した。 

     このような理由から、「烏丸中御門第」(旧二

  条御所)の再興と増強を急いだ。 足利義昭は、

  兄・義輝も本拠を置いた「烏丸中御門第」(旧二

  条御所)を、二重の水堀で囲い、高い石垣を構築

  し平城のように防御機能を充実させ城郭風に整

  備して、室町幕府の御所とした。 

     そして、足利義昭は、「烏丸中御門第」に、奉

  公衆や旧守護家などの高い家柄の者を参勤させ、

  ここに、義昭の念願の室町幕府は、再興された。

 

 ■ 室町幕府再興を念願とする足利義昭 と、 武

  力によって天下統一を狙っている織田信長の思

  惑は違っていたため、 両者の関係は、徐々に

  悪化していく。

 

■ 1569年(永禄12年)。

  ■ 1569年(永禄12年)1月に、 織田信長は、

  将軍権力を制約するため、 「殿中御掟」という

  9箇条の掟書を、足利義昭に承認させた。

 

■ 1570年(永禄13年)。

  ■ 1570年(永禄13年)1月には、殿中御掟に

  5箇条が追加され、足利義昭は、これも承認した。

  しかし、足利義昭が殿中御掟を遵守しようとはし

  なかった。

 

■ 1571年(元亀2年)頃。

  ■ 1571年(元亀2年)頃から、織田信長の専

  横に不満を持った、足利義昭は、織田信長に敵

  対する勢力に、御内書(ごないしょ)を下し始める。

 

■ 1572年(元亀3年)。

  ■ 1572年(元亀3年)10月に、織田信長は、

  足利義昭に対し、「17条の意見状」を送付した。

  この意見書は、足利義昭の様々な点を批判し、

  織田信長と足利義昭の対立は、激しいものと

  なった。

 

  ■ 武田信玄が上洛を開始し、1572年(元亀

  3年)12月に、信長同盟者の徳川家康の軍が

  三方ヶ原の戦いで武田信玄の軍に敗れる。 

 

■ 1573年(元亀4年)。

  ■ 1573年(元亀4年)1月に、足利義昭は、

  織田信長に敵対して挙兵する。 

    織田信長が軍を率い上洛し、和睦を要請し

  たが、足利義昭は、洛中の居城の「烏丸中御

  門第」にたてこもり、抗戦した。 

 

  ■ 1573年(元亀4年)4月に、武田信玄の軍

  が、本国への撤退を始める。

     織田信長は、朝廷に工作し、1573年4月に

  足利義昭と講和が成立した。

     しかし、足利義昭は、1573年(元亀4年)

  7月に、講和を破棄し、 山城(やましろ、京都

  府南部)の要害の槇島城(まきしまじょう)に移

  り、織田信長に敵対して挙兵した (槇島城の

  戦い)。

    1573年(元亀4年)7月に、大軍の織田信

  長の軍が槇島城を包囲し攻撃し、 ほとんどの

  施設を破壊すると、 足利義昭は、息子の義尋

  を人質として差出し降伏した。

     1573年(元亀4年)7月に、織田信長は、

  足利義昭を京(都)から追放し、 足利将軍家

  の山城、丹波、近江、若狭及びその他の御料

  所を自領とした。

      但し、足利義昭は、京(都)から追放された

  が、 征夷大将軍の職は、1588年(天正16年)

  まで保ち続けた (「公卿補任」)。

 

  ■ 1573年(元亀4年)7月に、足利義昭は、

  織田信長により、京(都)から追放され、 その

  後、足利義昭は、枇杷庄(京都府城陽市)に退

  き、河内・若江城に移り、 1573年11月には、 

  和泉の堺(さかい)に移った。

         1573年(元亀4年)の信長により京都追放

  後も、足利義昭(あしかがよしあき)は、室町幕

  府・第15代将軍職(1568年ー1588年)を保

  ち、1588年(天正16年)に、将軍職を辞する。

 

■ 1574年(天正2年)。

  ■ 1574年(天正2年)には、 足利義昭は、

    紀伊国(きいのくの、和歌山県)の興国寺に

    移り、それから、泊城に移った。

 

■ 1576年(天正4年)。

  ■ 1576年(天正4年)には、 足利義昭は、

    毛利輝元の勢力下の、備後国 (びんごの

    くに、現・広島県東部の相当地域)の鞆(と

    も)に移った。

 

■ 1588年(天正16年)。

  ■ 1588年(天正16年)に、 足利義昭は、

    京(きょう、京都)に帰還し、遂に、将軍職

    を辞し(辞職し)、出家して昌山と号した。

 

  ■ 将軍職辞任後、豊臣政権時、足利義昭は、

    臣秀吉から山城・槇島(やましろ・まきし

    ま)1万石の領地を認められた。 また、

    臣秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)に加えられ

    た。

 

■ 1597年(慶長2年)。

  ■ 1597年(慶長2年)に、足利義昭は、大阪

    で死去する。 享年61歳であった。

 

 

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♪♪ 足利 義昭が登場する、興味深い

         ドラマ、映画、ドキュメンタリー。

 

 ★ 足利 義昭が登場する、興味深いド

    ラマ、映画。

 

  ● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

    歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

    と 架空の出来事が混じって描かれています。 

    また、現代風にアレンジしてあります。

 

 ■ 『 麒麟(きりん)がくる 』。 

     (NHKテレビ・2020年大河ドラマ)。 

     (池端俊策 作・脚本)。

 

  ■ 日本の戦国時代(室町時代後期)、安土

    桃山時代を描く。

 

  ■ 室町幕府・第15代将軍・足利義昭を描

   く。

 

  ● 室町幕府・第15代将軍・足利義昭(あ

   しかがよしあき、足利義輝の弟)を演じ

   る俳優名 : 滝藤 賢一 。

  ● 織田 信長を演じる俳優名: 

   染谷 将太 (そめたにしょうた)。

  ● 明智 光秀 (斎藤 道三(利政)の家臣、

   朝倉義景の家臣、足利義昭の家臣、

   織田信長の家臣) を演じる俳優名 :  

   長谷川 博己 (はせがわひろき)。

  ● 室町幕府幕臣、後、織田信長家臣の

   細川藤孝(幽斎)(ほそかわふじたか

   (ゆうさい))を演じる俳優名 : 

   眞島 秀和。

 

  ● 室町幕府・第13代将軍・足利義輝(あ

   しかがよしてる)を演じる俳優名 : 

   向井 理。

  ● 室町幕府幕臣の三淵藤英(みつぶち

   ふじひで、細川藤孝(幽斎)の異母兄)

   を演じる俳優名 : 谷原 章介。

  

  ● 室町幕府管領(かんれい)の細川晴元

   (ほそかわはるもと)を演じる俳優名 : 

   国広 富之。

  ● 細川晴元家臣の三好長慶(みよしなが

   よし)を演じる俳優名 : 山路 和弘。

  ● 三好長慶家臣の松永久秀(まつながひ

   さひで)を演じる俳優名: 吉田 鋼太郎。

 

 

 ■ 『 功名が辻 (こうみょうがつじ) 』 。  

     (日本のNHK2006年大河ドラマ)。

     (原作:司馬 遼太郎(しば りょうたろう、

      福田定一)の『 功名が辻 』)、

       脚本:大石 静(おおいし しずか))。

 

  ■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

   江戸時代初期の時代状況やその時期に活

   躍した人々を描いたドラマである。

 

  ■ 千代と夫の山内一豊の後半生を描いたドラ

   マである。

 

  ● 足利 義昭を演じた俳優名 : 

      三谷 幸喜 (みなに こうき)。

 

 

 ■ 『 軍師 官兵衛 』。 

     (NHKテレビ・2014年大河ドラマ)。 

 

  ■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

   江戸時代初期を描いたドラマ。

 

  ■ 足利 義昭が登場する。

 

  ● 足利 義昭 (あしかが よしあき、

   室町幕府・第15代将軍) 

   を演じた俳優名 : 

   吹越 満 (ふきこし みつる)。

 

  ● 明智 光秀 (あけち みつひで) 

   を演じた俳優名 : 

   春風亭 小朝 (しゅんぷうてい こあさ)。

  ● 織田 信長 (おだ のぶなが) 

   を演じた俳優名 : 

   江口 洋介 (えぐち ようすけ)。

 

 

 ■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』 。 

     (日本の2011年NHK大河ドラマ) 

     (第1回「湖国の姫」)。

 

  ■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

   江戸時代初期を描いたドラマ。

 

  ■ 足利 義昭が登場する。

 

 

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 『 あなたのハートには 何が残り

    ましたか? 』

 

 

以  上。