TKKI カナヤマ オフィシャル ホームページ。     

   TKKI KANAYAMA’S OFFICIAL HOMEPAGE.

◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY 

   HANDBOOK

 

 

 カナヤマ 日本歴史辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 け 』

 No.4797。

 

 

#jpmenu     

メ ニュー (目次)。  

 ■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

 

 □ 日本史 辞典 (総合)

 

□      ● 事項順。

 

 げん  元禄赤穂事件 

             (げんろくあこうじけん)。《歴史事件》。

                          (= 赤穂事件)。 

             GENROKU AKO INCIDENT.

             (狭義:1701年3月の松の廊

          下・刃傷事件)。

             (広義:1701年〜1703年、

          1701年3月の松の廊下・刃傷

           から1702年12月の赤穂浪士・

          吉良邸討ち入りを経て、1703

          年2月の赤穂浪士・切腹までの

          事件)。

          □ 赤穂事件 画像アルバム  

            No.1

            (⇒ 日本歴史の驚異の出来事

          ー武士道)。

          ○ お家再興ならず、仇(かたき)

           をとる。

          ○ 徳川綱吉の失策により起こ

          る。

          ○ パワハラ事件。

          ○ 元禄赤穂事件をモデル(題

          材)にした創作(フィクション)の

          物語「忠臣蔵(ちゅうしんぐら)」は、

          有名。

             ■ 元禄赤穂事件 (げんろくあこうじけ

             ん、= 赤穂事件)は、 狭義では、1701

             年(元禄14年)3月に起こったの松の廊

             下・刃傷事件である。

             ■ 元禄赤穂事件 (げんろくあこうじけ

             ん、= 赤穂事件)は、 広義では、1701

             年(元禄14年)3月の赤穂藩主・浅野の

             江戸城松の廊下の刃傷に始まり、17

             02年(元禄15年)12月の赤穂浪士の

             吉良邸討ち入りを経て、 1703年(元

             禄16年)2月の赤穂浪士の切腹に終わ

             る。

             ■ 元禄赤穂事件 (= 赤穂事件、広義:

             1701年3月〜1703年2月) とは、

             赤穂浅野家の赤穂藩主・浅野内匠頭(長

             矩)が刃傷におよび切腹し、赤穂藩がとり

             つぶされ、赤 穂浅野家のお家再興もなら

             ず、赤穂浪士が主君・浅野内匠頭(長矩)

             の仇(かたき)をとった事件である。

             ■ 元禄赤穂事件(= 赤穂事件)は、

             作(フィクション)の「忠臣蔵(ちゅうしんぐ

             ら)」のモデルとなった事件である。

             ■ 元禄赤穂事件 (= 赤穂事件)は、 

             パワハラ事件であり、 浅野内匠頭(長

             矩)が老中の指示で接待費減額を遵守し

             たため接待費減額を望まない吉良と不

             和になり、 浅野は持病の痞 (つかえ、

             慢性的神経性胃炎)の痛みがあり当日

             天気が曇りで痛みが悪化し、 更に、

             中等の江戸幕府幕閣の前で勅使接待

             指導役の吉良上野介(義央)が勅使供

             応役の浅野内匠頭(長矩)を叱責・中傷

             したことが原因となり、浅野が遺恨(いこ

             ん)をもち、怒りを抑えきれず吉良に刃

             傷におよび、起こった事件である。

             ■ 元禄赤穂事件(= 赤穂事件)は、

             江戸幕府・第5代将軍の徳川綱吉の失

             策により起こる。

             ● 1701年(元禄14年)3月14日 に、 

             江戸城内の松之廊下(まつのろうか)で、 

             浅野内匠頭(長矩)が、遺恨(いこん)で、

             吉良上野介(義央)を斬りつける刃傷(に

             んじょう)事件が起こる。

                 江戸幕府・第5代将軍の徳川綱吉

             は、 勅使接待を台無しにされ、 綱吉の

             母の町家出身の桂昌院が高位を得るチ

             ャンスが延びてしまい、 神経質な徳川

             綱吉は、激怒して、喧嘩両成敗(けんか

             りょうせいばい)を無視し、詳しく調べもせ

             ず、 吉良上野介はお咎(とが)めなしと

             し(罪なしとし)、 一方的に、浅野内匠頭

             (長矩)に即日切腹を言い渡し、その後、

             綱吉は、赤穂浅野家の赤穂藩をとりつぶ

             し、赤穂浅野家の再興を認めなかった。

                この綱吉の失策が、1702年(元禄

             15年)12月の赤穂浪士の吉良邸討ち入

             りを招いてしまう。

             ■ 1701年(元禄14年)3月の赤穂藩

             のとりつぶし後、赤穂浅野家の赤穂藩の

             旧臣は、 大石 内蔵助(良雄)が率いる

             「お家再興派」 と、 堀部安兵衛(武庸)

             が率いる「仇討優先派」 に分かれる。

             しかし、その後、赤穂浅野家のお家再興

             の望みがなくなり、 1702年(元禄15

             年)7月28日の円山(まるやま)会議後、

             大石内蔵助(良雄)は、仇討に踏み切る。

             ◆ 赤穂浪士の吉良邸討ち入り前。

             ■ 1702年(元禄15年)11月に、大石

              内蔵助(良雄)らの赤穂浪士は、 江戸

             に集結する。

                大石 内蔵助(良雄)らの赤穂浪士は、

             江戸で、吉良邸討ち入りの計画をねる(作

             戦をたてる)。 

                赤穂浪士は、本所の吉良邸内外を

             探索し、吉本所の良邸の図面も手に入れ

             る。

                吉良上野介(義央)は、江戸で、2つ

             の屋敷に居て、江戸城近くの上杉家屋敷

             に居ることも多く、江戸城から離れた本所

             の屋敷にいつ居るかが重要であった。 

             赤穂浪士は、情報を収集し、1702年(元

             禄15年)の12月14日の昼間に江戸・本

             所の屋敷で吉良が茶会を開くことがわか

             り、大石は、12月14日から15日までを

             討ち入り決行日とした。 

                吉良上野介(義央)は、 1702年

             (元禄15年)の12月14日の昼間に、

             本所の吉良邸で茶会を開き、そのまま、

             吉良は本所の吉良邸に泊まり、吉良を

             守る上杉家の家臣は、12月14日の茶

             会終了後、夜に酒を振るまわれ、就寝す

             る。

             ◆ 赤穂浪士の吉良邸討ち入り。

                             ■ 赤穂浪士の吉良邸討ち入りは、 

             1702年(元禄15年)の12月14日から

             12月15日まで行われる。

                赤穂浪士・四十七士 (あこうろうし・

             しじゅうしちし)は、 1702年(元禄15

             年)の12月14日の午後6時過ぎに、47

             士全員が江戸・堀部安兵衛(武庸)(たけ

             つね)宅に集合し、別れの杯(さかずき)を

             酌み交わす(くみかわす)。 その後、赤

             穂浪士は、吉良邸近くの堀部宅、杉野

             宅、前原宅の3つの家に分散する。 

                 1702年(元禄15年)12月15日

             の午前3時頃に、赤穂浪士は、 火消し 

             装束 (山型模様の羽織ではなく、目立た

             ない黒色装束で、白い線を装束の腕回

             りに入れ、内に鉄の鎖帷子(くさびかた

             びら)を着用) の服装で、それぞれ、3つ

             の家から出発し、 12月15日の午前3

             時半頃に、江戸・本所(ほんじょ)の吉良

             邸に到着する。 赤穂浪士は、完全武装

             し、幕府の役人に見つかったら、「火消し」

             と言うことにした。

                そして、 本所の吉良邸に到着した

             赤穂浪士47人は、 表門部隊と裏門部隊

             に分かれて、100人以上の上杉家家臣が

             守る広い吉良邸に討ち入る。 赤穂浪士

             は、乱闘・捜索の末、12月15日の午前5

             時頃に、「台所裏の物置」に隠れていた吉

             良上野介(義央)を発見し、その首を討ちと

             り、合図の笛が吹かれ、大歓声をあげる。

             赤穂浪士の誰も吉良の顔を知らないため、

             捕えた吉良の額と背中の傷を見る。暗闇

             で発見時に白髪の老人の吉良の額に槍を

             刺したため額の傷がわからず、背中の傷

             から吉良と断定し、その後、捕えた上杉

             家家臣に吉良の首を見せ本人と確認し

             た。 不意をつかれた吉良側の家臣は死

             傷者38人、完全武装した赤穂浪士は、

             負傷者2人であった。 すぐ、赤穂浪士は、 

             江戸・本所(ほんじょ)から、浅野内匠頭

             (長矩)の墓のある江戸・泉岳寺(せんが

             くじ)に向う。

             ■ 一方、1702年(元禄15年)12月に、

             吉良上野介(義央)の実子(長男)・上杉

             綱憲(うえすぎつなのり)が藩主を務める

             上杉家は、 本所の吉良邸に、100人以

             上の上杉家家臣を居合わせ、吉良上野

             介(義央)を警備し守っていた。

                1702年(元禄15年)12月15日に、

             上杉家は、 赤穂浪士の本所・吉良邸討

             ち入り(午前3時半頃〜午前5時頃)の

             知らせを聞いて、上杉家の家臣を集めて、

             本所の吉良邸に向かわせる。 

                赤穂浪士討ち入りの知らせを聞いて

             駆けつけた上杉家の応援部隊は、 12

             月15日の午前6時頃に、本所の吉良邸

             に到着する。 しかし、既に赤穂浪士討ち

             入り終了後の、約1時間後であった。

             ■ 赤穂浪士は、 吉良邸の本所(ほん

             じょ)から墓所の泉岳寺まで、約12kmを

             約3時間で、行進し、 1702年(元禄15

             年)12月15日の午前8時頃に、浅野内匠

             頭(長矩)の墓のある江戸・泉岳寺に到着

             する。 赤穂浪士は、主君の浅野内匠頭

             (長矩)の墓前に、討ちとった吉良上野介

             (義央)の首を供(そな)え、涙を流し、大声

             で泣く。

 

〇 げん  元禄赤穂事件 関連出来事

        (年代順 ・詳細)

 

 

□ 日本史 辞典 の「 あ 」 基本見出し語サイト

  の先頭ページへ。        

 

■  『 現在は、過去の成果であり、

    未来は、現在の成果である。 

 

■ 上位のWEBサイト。 

 □ (KOH) カナヤマ オフィシャル   >

          ホームページ

 □ (Cse)  国際理解総合サイト     >

          われら地球市民。 

 □ (Ke)   百科事典。           >

 □ (Khh)  歴史学ハンドブック     >

 □ (Kjhh) 日本史ハンドブック。     >

 □ (Kjhh) 日本史辞典(総合版)。   >

 □ (Kjhh) 日本史辞典・日本語版。   >

 □ (Kjhh) この日本語ページ。 

 

 

ようこそ TKK カナヤマのホームページへ !             WELCOME TO TKK KANAYAMA’S HOMEPAGE !  

 

 

◆ カナヤマ日本歴史辞典 

   日本語版。

 

 ■ 当ホームページの制作・著作権 TKKI カナヤマ。

 

 ■ Copyright(C) TKKI Kanayama.

    All Rights Reserved.

 

 

#jpdictionary(general)

 

◆ 日本史辞典

 

● 見出し語はグリーンでマークされています

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の 「 あ 」 基本見出し語サイト

  の先頭ページへ

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。 

□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

#ke

 

#thegenrokuakoincident

 

■ 元禄赤穂事件。 

     (げんろくあこうじけん)。

 

■ 元禄赤穂事件。

■ 事件の名称 : 元禄赤穂事件 

            (げんろくあこうじけん)。 

● 別名 : 赤穂事件 (あこうじけん)、 赤穂浪

  士討ち入り事件 (あこうろうしうちいりじけん)、 

  吉良邸討ち入り事件 (きらていうちいりじけん)。 

■ 時期 : 1701(元禄14年)3月の浅野刃傷

  〜1703年(元禄16年)2月の旧臣切腹。

    江戸時代の、1701年3月の浅野内匠頭(長

  矩)の松之廊下の刃傷 ( まつのろうかのにんじ

  ょう) から、 1702年12月の浅野内匠頭(長

  矩)の旧臣の吉良邸討ち入り(きらていうちいり)、

  それから、 1703年2月の浅野内匠頭(長矩)

  の旧臣の切腹(せっぷく) まで。

■ 赤穂四十七士の仇討(あだう)ち。 

○ お家再興ならず、仇(かたき)をとる。

 徳川 綱吉の失策により起こる。

■ 元禄赤穂事件をモデル(題材)にした創作(フィ

  クション)の物語「忠臣蔵(ちゅうしんぐら)」は、

  有名。

■ 武士道の鏡 と言われている。

■ 「日本歴史の驚異の出来事ー武士道

  も参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51321。

 

□ 赤穂事件 画像アルバム   No.1

□ 元禄赤穂事件 (総合)

□ 元禄赤穂事件 関連出来事

   (年代順・詳細)

□ 元禄赤穂事件 が登場する、興味深

   い、ドキュメンタリー、 ドラマ、映画

 

 

#thegenrokuakoincident-general

 

◆ 元禄赤穂事件 (総合)。

 

   ■ 勅使(ちょくし、天皇の使者)の接待の件でもめ、

     1701年(元禄14年)3月14日に、勅使の接待

     補佐役の浅野 内匠頭(長矩) (あさの たくみ

     のかみ(ながのり)、1665年ー1701年) が、 

     江戸城・本丸御殿の「松の大廊下」で、 勅使・

     院使の接待指導役の高家・筆頭の吉良上野介

     (義央) (きらこうずけのすけ(よしなか・よしひ

     さ)、1641〜1702年) に斬(き)りかかり、

     刃傷に及ぶ。

        江戸幕府・第5代将軍の徳川綱吉は、浅野

     内匠頭(長矩)に、即日切腹を命じ、赤穂藩のと

     り潰しを命じた。

        1702年(元禄15年)12月14日〜15日に、

    赤穂浪士47人は、吉良邸に討ち入り、 吉良上野

    介(義央)を殺害し、その首を、泉岳寺(せんがくじ、

    東京都港区高輪)の浅野 内匠頭(長矩)の墓前に

    捧(ささ)げられた。 その一人・寺坂吉衛門(てらさ

    かきちえもん)は、討ち入り後、泉岳寺に行く途中

    で姿を消す。 大石の指示で、後世に事の次第を

    伝えるためと言われている。

         1703年(元禄16年)2月4日に、江戸幕府・

    第5代将軍の徳川綱吉は、赤穂浪士46人に切腹

    を命じ、 その後、赤穂浪士46人は、全員切腹し

    た。

        赤穂浪士の遺児たちは、15歳以上の遺児

    4人は、伊豆大島に遠島となり、 15歳未満の遺

    児は縁者にお預けとなり15歳になるのを待って

    遠島とし、女子はお構いなしとする処分(処罰)が

    幕府より下った。 そして、その処分は、将軍の

    徳川綱吉が亡くなった1709年(宝永6年)に、大

    赦(赦免)となった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 元禄赤穂事件・赤穂浪士の討ち入りの概要。

     1701年(元禄14年)3月に、 江戸城内で、

  赤穂藩(あこうはん、赤穂・浅野家)・藩主浅野

    内匠頭(長矩) (あさのたくみのかみ(ながのり)) 

  が、 高家(こうけ、江戸幕府の儀式 指導係)・筆

  頭の、吉良上野 介(義央) (きらこうずけのすけ

  (よしなか・よしひさ)) に斬(き)りつけ、 浅野

  匠頭(長矩) は、 即日切腹(せっぷく)し、 赤穂

  藩(赤穂・浅野家)は、即日 改易(かいえき、

  没収)と 決まり、赤穂藩(赤穂・浅野家)の元家

  老・大石内蔵助(良雄) (おおいしくらのすけ(よ

  たか・よしお))は、 お家再興(おいえさいこう、

  赤穂・浅野家再興) を願い出るが許されず、17

  02年(元禄15年)12月に、 大石内蔵助(良雄) 

  ら赤穂藩(赤穂・浅野家)の旧家臣47人 が、 吉

  良邸(きらてい)に討ち入り、 吉良上野介(義央)

  を殺害し、 1703年(元禄16年)2月に、 赤穂

  (赤穂・浅野家)の旧臣46人 (他の1人は、 討

  ち入り後、立ち去る) が、切腹する。

● TKKI カナヤマ著 日本歴史の驚異の出来事。

 

■ 元禄赤穂事件の一次的史料には、「梶川氏日記」

  (かじかわしにっき、梶川与惣兵衛日記)、 「多門

  筆記」 (たもんひっき)、 「堀部武庸筆記」 (ほり

  べたけつねひっき) 、 「江赤見聞記」 (こうせきけ

  んぶんき) 、 「預置候金銀請払帳」 (あずかりお

  きそうろうきんぎんうけはらいちょう) などである。

    本書も、これらの古文書(こもんじょ)やその他

  の一次的史料をもとにして、記載している。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1701年(元禄14年)3月に、江戸城中で、赤穂

  藩主の浅野内 匠頭(長矩) に斬りつけられ、軽傷

  を負わされた、吉良上野介(義央) (きらこうずけ

  のすけ(よしなか・よしひさ)) は、 1701年(元

  禄14年)12月に、事件の影響で、 吉良家の家

  督を実の孫で養子の吉良左兵衛(義周)(きらさひ

  ょうえ(よしまさ)、1686〜1706年) に譲り、隠

  居した。 その後、 翌年の1702年(元禄15年)

  12月に、  赤穂四十七士の吉良邸討ち入りで、

  殺害された。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 元禄赤穂事件の、赤穂浪士の討ち入り は、 日

  本の江戸時代中期の敵(かたき)討ちであり、 赤

  穂四十七士の仇討(あだうち)ちで、 武士道の鏡

  (かがみ) と言われている。

● TKKI カナヤマ著 日本歴史の驚異の出来事。

 

■ 元禄赤穂事件 (げんろくあこうじけん)は、 赤

  穂事件、赤穂浪士討ち入り(あこうろうしうちいり)

  事件とも言う。 

     元禄赤穂事件をモデル(題材)にした創作

  (フィクション)の物語 「忠臣蔵(ちゅうしんぐら)」

  は、有名である。

● TKKI カナヤマ著 日本歴史の驚異の出来事。

 

■ 元禄赤穂事件 (げんろくあこうじけん) の別名

  は、 赤穂事件 (あこうじけん)、 赤穂浪士討ち

  入り事件 (あこうろうしうちいりじけん)、 吉良

  邸討ち入り事件 (きらていうちいりじけん) など

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 元禄赤穂事件 (げんろくあこうじけん)の時期は、 

  1701(元禄14年)3月の浅野刃傷から、1703

  年(元禄16年)2月の旧臣切腹まで である。

    元禄赤穂事件の時期は、江戸時代の、1701

  年3月の江戸城・松之廊下(まつのろうか)での赤

  穂藩主・内 匠頭(長矩)(あさのたくみのかみ

  (ながのり))松之廊下の刃傷( まつのろうかの

  にんじょう) から、 1702年12月の浅野内匠頭

  (長矩)の旧臣の吉良邸討ち入り(きらていうちい

  り)、 それから、 1703年2月の浅野内匠頭(長

  矩)の旧臣の切腹(せっぷく)まで である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 元禄赤穂事件の赤穂浪士は、 お家再興ならず、

  仇(かたき)をとる。 

    元禄赤穂事件は、 江戸幕府第5代将軍の、

  徳川 綱吉(つなよし)の、事件に対する対応の

  不手際による失策によって、起こる。

■ 赤穂事件は、 日本の江戸時代中期の敵(かた

  き)討ち、仇討(あだう)ち であり、 赤穂四十七

  士の仇討(あだう)ちで、 日本三代仇討ちの1つ

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 徳川 綱吉の失策により、元禄赤穂事件が起こる。

     江戸幕府第5代将軍の、徳川 綱吉(とくがわ

  なよし)は、 身分が低かった、綱吉の生母の

  昌院(けいしょういん)に高位(従一位)の位階(い

  かい)を得させる前の大事な時期に、 1701年

  に、 勅使(ちょくし、朝廷の 年賀の返礼の使者)を

  江戸城に迎える。 

     そのときの勅使(朝廷の使者)の接待役 が、 

  赤穂藩主(あこうはんしゅ)の浅野内匠頭(長矩)

  (あさのたくみのかみ(ながのり)、1665〜170

  1年) であり、 その接待役を監督指導したのが、

  高家 (こうけ、江戸幕府の儀式指導係)・ 筆頭 

  の吉良上野介(義央) (きらこうずけのすけ(よし

  なか・よしひさ)) であった。

     ところが、 1701年(元禄14年)3月14日

  に、 江戸城内の松之廊下(まつのろうか)で、浅

  野内匠頭(長矩)が、 遺恨(いこん)で、吉良上野

  介(義央)を斬りつけ、 勅使接待を台無しにされ、 

  綱吉の母の桂昌院が高位を得るチャンスが延び

  てしまい、 神経質な徳川綱吉は、激怒して、喧

  嘩両成敗(けんかりょうせいばい)を無視し、 慎

  重な取調べもせず、 吉良上野介(義央)はお咎

  (とが)めなしとし(罪なしとし)、 一方的に、浅野

  内匠頭(長矩)に即日切腹を言い渡し、播州・赤

  穂藩(ばんしゅう・あこうはん、赤穂・浅野家)を即

  改易(かいえき、領地没収)と決定し、 失策を

  行ってしまった。 これが、後に、1702年(元禄

  15年)12月の赤穂浪士の吉良邸討ち入り(きら

  ていうちいり)を招いてしまう。

     徳川 綱吉 は、人間同士での殺し合い、武器

  をとり喧嘩・殺傷をする、殺伐(さつばつ)とした弱

  肉強食の戦国時代の風潮を終わらせたいと願って

  いたため、 将軍の命令に従わず敵討ち(かたきう

  ち)をした赤穂浪士を許せなかったが、 自分の失

  策から招いた事件でもあり、 主君に忠義をつくし

  た赤穂浪士を斬首 (ざんしゅ、罪人として首を切

  ること) にするわけにもいかず、 徳川 綱吉は、

  悩み、結局、1703年(元禄16年)2月に、赤穂浪

  士に、 当時名誉ある死である切腹(せっぷく)をさ

  せ、 事を収めた。

● TKKI カナヤマ著 日本歴史の驚異の出来事。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の 「 あ 」 基本見出し語サイト

  の先頭ページへ

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。 

□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

#thegenrokuakoincident-thehappenings

 

◆ 元禄赤穂事件 関連出来事

  (年代順・詳細)。

 

□ (1) 刃傷前の赤穂・浅野家

        (1701年3月まで)。

□ (2) 松之廊下の刃傷

        (1701年3月)。

□ (3) 刃傷後赤穂・浅野家の処遇

        (1701年3月〜4月)。

□ (4) 義盟締結 と 赤穂城開城

        (1701年3月〜4月)。

□ (5) 赤穂浪士の浪人生活とお家再

         興運動

        (1701年4月〜1702年7月)。

□ (6) 赤穂浪士の浪人生活と討ち入

       り準備

        (1702年7月〜1702年12月)。

□ (7) 吉良邸討ち入り。 

        (1702年12月)。

□ (8) 討ち入り後 の赤穂浪士の処遇

        (1702年12月〜1703年2月)。

□ (9) 赤穂浪士の切腹

        (1703年2月)。

□ (10) 赤穂浪士切腹後の赤穂・浅野

         家関係者の不遇と待遇改善

        (1703年2月〜1748年8月)。

□ (11) 討ち入りの約46年後、の赤

       穂・浅野家関係者の英雄視

        (1748年8月以後)。

 

#thegenrokuakoincident-thehappenings(1)

 

■ (1) 刃傷前の赤穂・浅野家。

        (1701年3月まで)。

■ 阿久里 (あぐり、落飾(出家)後の名・瑤泉院

  (ようぜんいん)、生没年:1669または1674

  〜1714年) は、 浅野内匠頭(長矩) (あさ

  のたくみのかみ(ながのり)、1665〜1701年)、

  正室夫人 である。

     阿久里(あぐり、瑤泉院)は、 実家は、三次

  浅野家(みよしあさのけ、三次藩、5万石、163

  2〜1720年)で、 1683年(天和3年)に、 浅

  野内匠頭(長矩)と婚儀を結び(結婚し)、 その

  後、子に恵まれず、 1695年(元禄8年)12月

  に、 浅野内匠頭(長矩)は、 実弟の浅野大学

  (長広) (あさのだいがく(ながひろ)、1670〜

  1734年) を、 赤穂藩(赤穂・浅野家)の養嗣

  子(ようしし)とした。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 江戸幕府第5代将軍の、徳川 綱吉 (とくがわ

  なよし 、将軍就任:1680〜1709年、生没 

  年:1646〜1709年) は、比較的朝廷への

  慣例を重視し、 毎年、朝廷へ年賀の使者を参

  内(さんだい)させると同時に、 朝廷からの返

  礼として、勅使・院使(ちくし・いんし)の江戸下

  向(げこう)が、毎年行われた。

     江戸に下向する勅使・院使の接待として、

  江戸幕府は、 饗応役(きょうおうやく)を設置し、

  中小大名にその役目を命じた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1701年(元禄14年)1月に、 江戸幕府

  軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)の、朝廷の東山

  天皇、霊元上皇への「年賀の挨拶」(ねんがのあ

  いさつ)として、高家 (こうけ、江戸幕府の儀式指

  導係)・筆頭の吉良上野介(義央) (きらこうずけ

  のすけ(よしなか・よしひさ)、1641〜1702年)  

  が、京(都)の朝廷に遣(つか)わされた。 その返

  礼に、東山天皇の勅使 (ちょくし、朝廷の天皇の

  使者) と、 霊元上皇の院使 (いんし、朝廷の上

  皇の使者) が、 江戸に下向(げこう)することと

  なった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 浅野内匠頭(長矩) は、 江戸幕府の、幕命(ば

  くめい、幕府の命令)により、 1701年(元禄14

  年)2月から3月まで、 江戸城で、朝廷の年賀使

  の接待役当番となる。

 

■ 1701年(元禄14年)2月4日に、 江戸幕府

  は、 勅使饗応役  (ちょくしきょうおうやく、朝廷

  の天皇の使者の接待役) として、 赤穂藩(あ

  こうはん、赤穂・浅野家)・藩主・浅野内匠頭(長

  矩) (あさのたくみのかみ(ながのり)、1665

  〜1701年) を任(にん)じ、 院使饗応役(い

  んしきょうおうやく、朝廷の上皇の使者の接待

  役) として、 伊予吉田藩(いよよしだはん、伊

  予(愛媛県)の宇和島藩の支藩)の、藩主・伊達

  宗治 (だてむねはる、律令官名:左京亮(さきょ

  うのすけ)、後に伊達村豊(むらとよ)、1682〜

  1737年)を任じ、指南役(しなんやく)に、 高

  家(こうけ、江戸幕府の儀式指導係)・筆頭の、

  吉良上野介(義央) (きらこうずけのすけ(よしな

  か・よしひさ)、1641〜1702年) を指名した。

     浅野内匠頭(長矩)は、 1683年(天和3

  年)に、一度、勅使饗応役に命ぜられており、吉

  良上野介(義央)の指南のもと、 勅使饗応役を

  務(つと)め上げていた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1701年(元禄14年)1月に京(都)の朝廷に

  遣(つか)わされていた、吉良上野介(義央)が、

  1701年(元禄14年)2月29日に、 京(都)よ

  り、江戸に戻ってきた。

 

#thegenrokuakoincident-thehappenings(2)

 

■ (2) 松之廊下の刃傷(にんじょう)

        (1701年3月)。

■ 勅使・院使一行  (ちょくし・いんしいっこう)は、 

  1701年(元禄14年)3月11日から15日まで

  江戸に滞在する予定で、 3月12日に、江戸城

  で、将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)に 「勅

  宣」 (ちょくせん、勅命の宣旨(せんじ)、みこと

  のり)、「院宣」(いんぜん) の伝奏(でんそう)

  を行い、 3月13日に、江戸城で猿楽能を観賞 

  し、 3月14日に、江戸城で、将軍・徳川綱吉

  り「奉答の儀」(ほうとうのぎ)を受け、 3 月15

  日に、芝・増上寺(しば・ぞうじょうじ)に参拝し、

  帰京(ききょう)する(京(都)に帰る)予定になっ

  ていた

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 京(都)より江戸に下向した勅使・院使一行 は、 

  1701年(元禄14年)3月11日に、 江戸に到

  着し、 伝奏屋敷(でんそうや しき)に滞在した。

     勅使・院使一行は、 1701年(元禄14年)

  3月12日に、 伝奏屋敷から、江戸城に登城し、 

  江戸城・本丸御殿 (えどじょう・ほんまるごてん、

  現在の皇居東御苑(こうきょひがしぎょえん)) 

  にある、白書院 (しろしょいん) にて、 将軍・

  徳川綱吉(つなよし) に「勅宣」 、「院宣」の伝奏

  を行った。

     勅使・院使一行は、 1701年(元禄14年)

  3月14日に、 江戸城・本丸御殿・白書院にて、

  「勅宣」、「院宣」に対して返事を奏上(そうじょう)

  するという「奉答の儀」(ほうとうのぎ)が執(と)り

  行われ予定であり、 勅使・院使一行は、江戸城

  に登城し、 将軍・徳川 綱吉から、「奉答の儀」を

  受ける予定であった。

     ところが、1701年(元禄14年)3月14日の

  巳の刻(みのこく、午前9時すぎ)に、 江戸城・本

  丸御殿で、 「奉答の儀」が行われる白書院へ と

  つながる松之廊下(まつのろうか)において、 赤

  穂藩主(赤穂・浅野家)の浅野内匠頭(長矩)が、 

  高家・筆頭の吉良上野介(義央)斬(き)りかか

  った。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 「松之廊下」の刃傷。

    1701年(元禄14年)3月14日に、 赤穂藩主

  の、浅野内匠頭(長矩) が、  遺恨で、江戸城

  本丸御殿の表(おもて)の「松之廊下」(まつのろう

  か)で、 高家筆頭 (こうけひっとう、江戸幕府

  儀式指導係筆頭) の、吉良上野介(義央) を斬

  (き)りつる。

     将軍・徳川 綱吉は、 浅野内匠頭(長矩)を、

  即日、切腹とし、 赤穂藩を即日、改易(かいえき、

  領地没収)と決定した。

 

■ 勅使(ちょくし、朝廷の天皇の使者)の江戸下向

  時の接待役の赤穂藩(あこうはん、赤穂・浅野家)

  藩主・浅野内匠頭(長矩) (あさのたくみのかみ

  (ながのり)) に、 吉良上野介(義央) (きらこ

  うずけのすけ(よしなか・よしひさ))が、典礼を指

  導した。 

     しかし、 短慮な性格で 吉良上野介(義央)

  と接待費減額の件でもめていた、赤穂藩主の浅

  野内匠頭(長矩)は、 1701年(元禄14年)3月

  14日に、 江戸城中で、幕府の高官で幕府の儀

  式典礼をつかさどる高家(こうけ)筆頭・吉良上野

  介(義央)に、殿中 (でんちゅう、江戸城中)で、斬

  (き)りかかった。  吉良は、軽傷で、助かった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 江戸城の本丸御殿(ほんまるごてん)の表(お

  もて)には、 障壁画に松を描いた「松之廊下」

  (まつのろうか) があった。 

    「松之廊下」は、 江戸城で一番長い廊下で、

  全長約55mもあり、 刃傷(にんじょう)事件が

  起こった場所である。 「松之廊下」は、 徳川

  綱吉(つなよし)の 治世に、 1701年(元禄

  14年)3月14日に、赤穂藩主(あこうはんしゅ)

  の、浅野内匠頭(長矩) (あさのたくみのかみ

  (ながのり)、1665〜1701年が、 高家筆

  頭 (こうけひっとう、江戸幕府の儀式指導係筆

  頭) の、吉良上野介(義央) (きらこうずけの

  すけ(よしなか・よしひさ)) を斬(き)りつけた場

  所で、 元禄赤穂事件 (げんろくあこうじけん、

  赤穂事件、1701〜1703年) が発生した場所

  である。 

     浅野内匠頭(長矩 )は、 たまたま、勅使(ち

  ょくし、朝廷の 天皇の使者)の接待係になり、 

  傷(にんじょう)の動機では、 浅野内匠頭(長矩 )

  は、 江戸幕府の老中から、従来(例年)の接待

  費を1200両から700両に減額するように言わ

  れそれに従うと、 高家(儀式指導係)の吉良

  野介(義央)から接待費を従来(例年)の接待費と

  同じとし接待費を減らさないように言われ、 板ば

  さみとなり、 吉良上野介(義央)と不和になった。 

     そして、1701年(元禄14年)3月14日に、

  薄暗い松之廊下(まつのろうか)で、 吉良上野介

  (義央)旗本の梶川頼照(かじかわよりてる)が

  儀式の段取りについて立ち話をしていた時、 短

  慮な性格で吉良上野介(義央)と接待費減額の件

  でもめていた浅野内匠頭(長矩 )は、 吉良上野

  (義央)に 小刀(短刀、約30cm)で4回斬(き)

  りつけ、 最初は、約1.5mの距離で、吉良の背

  後(後姿)に斬りかかり、 その後、振り向いた吉

  良に斬りつけ、 更に、しつこく追いかけ2回斬り

  つけて、 その後、 梶川与惣兵衛(頼照)、伊達

  宗治、その他近くにいた者に取り押さえられた と

  いう説がある (梶川氏日記より)。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 梶川与惣兵衛(頼照)は、元禄赤穂事件の刃傷

  (にんじょう)、その他の出来事を記した、梶川氏

  日記(かじかわしにっき、梶川与惣兵衛日記)を

  残し、 元禄赤穂事件を知る、一次的史料となっ

  ている。

 

■ 江戸幕第5代将軍の、徳川 綱吉(とくがわ

  つなよし) は、 1701年(元禄14年)3月14

  日の事件の起こった当日に、 柳沢吉保(やなぎ

  さわよしやす)を通じて、 その知らせを聞いて、 

  朝廷との儀式を台無しにされたとして激怒(げき

  ど)し、 当日、 浅野内匠頭(長矩)の即日切腹 

  と 赤穂・浅野家(赤穂藩)の改易(かいえき、領

  地没収)を命(めい)じた。

     浅野内匠頭(長矩)の切腹は、 殿中抜刀

  (でんちゅうばっとう、禁じられている江戸城中で

  刀を抜いた罪) 及び、 傷害・殺人未遂の罪に

  よるものであった。

     吉良上野 介(義央)のお咎(とが)め無しは、

   浅野内匠頭(長矩)の殿中抜刀に吉良が手向

   かいしなかったことが殊勝(しゅしょう)であると

   されたためであった。

     慎重な取調べをせず、大名が事件当日に即

  日切腹することは異例のことで、 将軍・徳川 綱

  が異例ともいえる決定を下したのは、 勅使(ち

  くし、朝廷の 天皇の使者)に対し、自らの天皇へ

  忠誠心をアピールし、綱吉の生母・桂昌院(け

  いしょういん)最大の念願である、従一位(じゅい

  ちい)叙任の位階(いかい)を取り消されないよう

  にするためだったと言われている。

      将軍・徳川綱吉は、 喧嘩両成敗(けんかり

  ょうせいばい)を無視し、 慎重な取調べをせず、 

  江戸幕府の 綱吉の命(命令)で、 吉良上野介

  (義央)はお咎(とが)めなしとし(罪なしとし)、

  野内匠頭(長矩) は即日切腹となり、 即日、赤

  穂藩(赤穂・浅野家)は、改易(かいえき、領地没

  収) と決定された。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 松之廊下の刃傷( まつのろうかのにんじょう)の

  事件後、 江戸幕府は、すぐさま、勅使饗応役を

  戸田忠真へと交代し、 「奉答の義」は、白書院

  から黒書院へと移された。

  

■ 赤穂藩主浅野内匠頭(長矩) (あさのたくみ

  のかみ(ながのり)) は、 芝・愛宕下 (しば・

  あたごした、現在の東京都港区新橋4丁目) の、

  陸奥の一関藩 (いちのせはん、岩手県一関市

  (いちのせし)) の藩主・田村 建顕 (たむらた

  つあき、律令官名:右京大夫(うきょうのだいぶ)、

  武官名:因幡守(いなばのかみ)、1656〜170

  8年) の屋敷にお預けとなる。

    浅野内匠頭(長矩)は、 江戸幕府の検使

  の正使・大目付・庄田安利 (しょうだやすとし、下

  総守(しもうさのかみ)) や 副使・目付・多門伝

  八郎(重共)ら が立会い、 田村邸(一関藩・藩

  邸)の、座敷でなく、白砂(庭先)にて、 1701年

  (元禄14年)3月14日の、六つ半  (午後7時40

  分頃)に、 切腹する。

     浅野内匠頭(長矩)の、辞世(じせい) は、

  「風さそう 花よりも猶 我はまた 春の名残を

  いかにとか(や)せん」 であった。

    江戸幕府・目付で、浅野内匠頭(長矩) の切腹

  時の副検視役を務(つと)めた、多門伝八郎(重

  共)は、元禄赤穂事件の、刃傷(にんじょう)、その

  他の出来事を記した「多門筆記」を残し、元禄赤穂

  事件を知る一次的史料となっている。

     その後、 浅野内匠頭(長矩)は、 赤穂・浅

  野家の菩提寺(ぼだいじ)の江戸・高輪(たかなわ)

  の泉岳寺(せんがくじ、東京都港区高輪)に葬られ

  た。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#thegenrokuakoincident-thehappenings(3)

 

■ (3) 刃傷後赤穂・浅野家の処遇

        (1701年3月〜4月)。

■ 江戸幕府は、 赤穂・浅野家(赤穂藩)の江戸

  の藩邸(はんてい)を接収した。 幕府は、 17

  01年(元禄14年)3月16日に、赤穂・浅野家

  の鉄砲洲の上屋敷(かみやしき、公邸、現在の

  中央区・聖路加病院の地)を接収し、続いて、同

  年3月18日に、 赤穂・浅野家の赤坂南部坂の

  下屋敷(しもやしき、別邸、現在の港区赤坂6丁

  目の地) を接収した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 江戸幕府は、 改易(かいえき、領地没収)と決

  まった赤穂藩(赤穂・浅野家)に接収役を派遣し、 

  赤穂城を、1701年(元禄14年)4月19日に

  収し、 赤穂藩(赤穂・浅野家)の所領をひとまず、

  天領(てんりょう、幕府直轄領)とした。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 浅野内匠頭(長矩)の実弟で旧赤穂藩(赤穂・

  浅野家)養嗣子である、浅野大学(長広)(あさ

  のだいがく(ながひろ))は、 1701年(元禄

  14年)3月の浅野内匠頭(長矩)の松之廊下の

  刃傷(にんじょう)の事件後、 閉門(へいもん)

  となる。 

 

■ 1701年(元禄14年)3月14日に、  夫の

  野内匠頭(長矩)が、江戸城中で吉良上野介

  (義央)に刃傷(にんじょう)に及び、 殿中抜刀

  の罪により、即日切腹した後、 浅野内匠頭 (長

  矩)(あさのたくみのかみ(ながのり))の正室夫

  人の、阿久里(あぐり、瑤泉院(ようぜんいん)、

  生没年:1669または1674〜1714年) は、 

  同年3月16日に、 赤坂・今井町にある、実家

  の三次浅野家(みよしあさのけ)の下屋敷(しも

  やしき)に引き取られた。 

     浅野 長澄は、 浅野 内匠頭(長矩)の正室

  夫人・阿久里( あぐり、瑤泉院(ようぜいいん))

  の、父 である。  浅野 長澄は、 赤穂藩改易後、

  阿久里(瑤泉院)を引き取る。

     浅野 長澄 (あさの ながずみ、藩主就任:

  1691〜1718年、生没年:1671〜1718年)

  は、 三次藩主 (三次(みよし)浅野家当主) で

  あり、 広島藩主(広島・浅野本家当主)の浅野

  綱長(つななが)の弟 である。

     その後、阿久里(あぐり、瑤泉院)は、落飾

  (らくしょく、出家)して、 瑤泉院(ようぜんいん)

  と名乗り、夫の菩提(ぼだい)を弔(とむら)った。

 

 

#thegenrokuakoincident-thehappenings(4)

 

■ (4) 義盟締結 と 赤穂城開城

        (1701年3月〜4月)。

■ 播州・赤穂の赤穂・浅野家(赤穂藩)家臣の対応。

    赤穂藩(あこうはん)藩主の浅野内匠頭 (長

  矩) (あさのたくみのかみ(ながのり))が、江戸

  城中で刃傷(にんじょう)に及び、即日切腹し、即

  日赤穂藩(赤穂・浅野家)が改易(かいえき、領

  地没収)と決まったとの報が播州(ばんしゅう、播

  磨、兵庫県南部)・赤穂の赤穂・浅野家(赤穂藩)

  家臣に伝わったのは、 1701年(元禄14年)3

  月20日のことであった。

     浅野内匠頭(長矩)の実弟で養嗣子(ようし

  し)の浅野大学(長広) (あさのだいがく(ながひ

  ろ)、1670〜1734年)からの書状が、播州(播

  磨)・赤穂の赤穂・浅野家(赤穂藩)の家老・大石

  内蔵助(良雄) (おおいしくらのすけ(よしたか・

  よしお) に届いた。

 

■ 赤穂・浅野家(赤穂藩)の筆頭家老(1500石)

  の、大石内蔵助(良雄)は、赤穂にいる200名ほ

  どの藩士全員に登城命令を出した。

     1701年(元禄14年)3月27日から3日間

  にわたり、今後の対応について、赤穂城の城内広

  間において大会議が開催された。 この会議では、

  篭城(ろうじょう)を主張する抗戦派(こうせんは) 

  と 開城しお家再興を嘆願する恭順派(きょうじゅ

  んは) に意見が分かれて対立した。

    大石内蔵助(良雄)は、 赤穂城で殉死切腹を

  主張し、殉死切腹に同意した 一部の赤穂藩藩士

  には、神文血判誓紙(しんもんけっぱんせいし)を

  提出させたあと、 殉死切腹を思いとどまらせ、 そ

  れら藩士と 吉良上野介(義央)の処断や赤穂・

  浅野家再興を江戸幕府に求める義盟を結んだ。

    その後、大石内蔵助(良雄)が、 藩士全員を

  開城に誘導し、 結局、赤穂・浅野家家中は、赤

  穂城開城で意見がまとまる。

    1701年(元禄14年)4月19日に、大石内蔵

  助(良雄)は、 江戸幕府の接収役に赤穂城を

  渡し、 赤穂城を無血開城した。

    赤穂城は、開城され、赤穂藩(赤穂・浅野家)

  旧藩士(旧臣)たちは、 浪人となり、日本各地へ

  散った。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 広島・浅野本家の、浅野 綱長は、 赤穂・浅野

  家との連座(れんざ、まきぞえ処罰)を恐れて、

  赤穂・浅野家・筆頭家老の大石内蔵助(良雄)に

  無血・領地引渡し・赤穂城開城を要求し、赤穂城

  開城後、 赤穂・浅野家旧臣の吉良邸討ち入りを

  妨害する。

     浅野 綱長 (あさの つななが、藩主就任:

  1673〜1708年、生没年:1658〜1708年)

  は、 赤穂・浅野家(赤穂藩)の本家である、広

  島・浅野本家の当主で、 広島藩主 である。 

 

 

#thegenrokuakoincident-thehappenings(5)

 

■ (5) 赤穂浪士の浪人生活 と お家

    再興運動

     (1701年4月〜1702年7月)。

■ 赤穂城を開城し領地を引き渡した、 1701年

  (元禄14年)4月から、1701年(元禄 14年)6

  月まで、 赤穂藩(赤穂・浅野家)・旧家老の、

  石内蔵助(良雄)は、 残務処理などのため、

  州・赤穂に留まる。

     1701年(元禄14年)4月の赤穂城開城後、

  1701年(元禄14年)5月に、 大石内蔵助(良

  雄)は、赤穂で、 残務処理などに当たっている

  間、 夫人・りく(香林院(こうりんいん))と4人の

  子を、 りく(香林院)の実家の豊岡に帰した。

     その後、大石は、京都の山科(やましな)に、

  住居を定めたので、 1701年(元禄14年)7月

  に、りく(香林院)と4人の子は山科に移り、 再

  び一緒に暮らした。

 

■ 大石内蔵助(良雄)をはじめとする、盟約を結ん

  だ赤穂浪士たちは、 1701年(元禄14年)4月

  の赤穂城開城から1702年(元禄15年)12月の

  吉良邸討ち入り(きらていうちいり)まで、 広島・

  浅野本家、 江戸幕府の各機関、 吉良家・上杉

  家により、 その行動を監視されていた。

     広島・浅野本家は、吉良邸討ち入りにより、

  幕府による、分家の赤穂・浅野家との連座(れん

  ざ、まきぞえ処罰)を恐れる。 江戸幕府の各機

  関は、 幕命(幕府の命令)に背くかどうか疑惑

  をいだく。 吉良家・上杉家は、赤穂浪士により

  吉良邸に討ち入られ、 吉良上野介(義央)の命

  (いのち)が奪われるのを恐れる。 

     特に、上杉家米沢藩は、赤穂浪士の吉良邸

  討ち入りを阻止しようとした。 というのも、吉良の

  長男は、上杉家米沢藩に養子に入り、上杉家・第

  4代米沢藩主・上杉綱憲 (うえすぎ つなのり)で

  あり、 吉良の夫人・上杉富子は、上杉家・第2代

  米沢藩主の娘であり、 吉良の跡継ぎは、上杉家・

  米沢藩主・上杉綱憲の子であるため。

      大石内蔵助(良雄)をはじめとする、盟約を結

  んだ赤穂浪士たちは、 間者(かんじゃ、スパイ)は

  隠密行動のため史料はほとんどないが、 吉良邸

  討ち入りを行うかどうかという件で、 広島・浅野本

  家、江戸幕府の各機関、吉良家・上杉家 の間者

  に、 その行動を監視されていた と推測される。 

 

■ 1701年(元禄14年)7月より、 大石内蔵助

  (良雄)は、 赤穂退去後、家族と共に、京(都)・

  山科(やましな)に居住する。 

     大石内蔵助(良雄)は、 1701年(元禄14

  年)4月の赤穂城開城から1702年(元禄15年)

  7月の赤穂・浅野家再興不能まで、 幕府の幕

  閣や僧・隆光などに嘆願を出すなどして、 お家

  再興(赤穂・浅野家再興)運動の政界工作を行

  った。

 

■ 大石内蔵助(良雄)は、 1701年(元禄14年)

  3月の浅野内匠頭(長矩)の刃傷 (にんじょう)

  より、 1702年(元禄15年)12月の吉良 邸討

  ち入りまでに、 江戸東下(あずまくだ)り(第1

  次、第2次)を、2回行っている。

 

 赤穂・浅野家旧臣の意見は、 赤穂勤め旧臣

  が多い「お家再興優先派」 と 江戸勤め旧臣

  が多い「仇討ち優先派」の2つに分かれ始 め

  た。 「仇討ち優先派」は、 江戸急進派とも

  呼ばれた。 この2派が、 1701年(元禄14

  年) 4月の赤穂城開城から1702年(元禄15

  年)7月の赤穂・浅野家再興不能 (浅野大学

  (長広)の広島・浅野本家(広島藩)永預かり)

  まで、 対立した。

     「お家再興優先派」は、 お家(赤穂・浅野

  家)再興を果(は)たせば、浅野内匠頭(長矩)

  の敵討(かたきう)ちの吉良邸討ち入りを行わず、

  お家再興が果たせない時のみ吉良邸討ち入り

  を行いたい(主張する)グループであり、 一方、

  「仇討ち優先派」は、 お家(赤穂浅野家)再興

  の有無とは関係なく、亡き主君・浅野内匠頭(長

  矩)の敵討 (かたきう)ちの吉良邸討ち入りを行

  いたい(主張する)グループである。  

    「お家再興優先派」の中心人物は、大石内蔵

  助(良雄)であり、 「仇討ち優先派」の中心人物

  は、 堀部安兵衛(武庸)  (ほりべやすべえ(た

  けつね)であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 浅野 綱長 (あさのつななが、藩主就任:167

  3〜1708年、生没年:1658〜1708年)は、

  広島藩主で、 赤穂・浅野家(赤穂藩)の本家

  ある、広島・浅野本家の当主 である。

     広島・浅野本家は、赤穂・浅野家との連座

  (れんざ、まきぞえ処罰)を恐れて、 赤穂・浅野

  家旧臣の吉良邸討ち入りを妨害する。 

    広島・浅野本家当主で広島藩主の浅野 綱長

  は、 広島浅野本家より家臣を派遣し、 吉良邸

  討ち入りを止めさせるべく、 赤穂城開城後、赤

  穂浅野家・旧家臣(遺臣)の同志を説得して盟約

  から抜けさせるなど、 一党の切り崩しを図った。

 

■ 1701年(元禄14年)8月に、 江戸幕府 は、

  吉良上野介(義央)に対し、 吉良の呉服橋の

  屋敷から、本所(ほんじょ)の松平信望の屋敷 

  (現在の東京都墨田区両国3丁目の地)へ屋敷

  替えを命じた。

     屋敷替えになった際、 吉良の正室夫人の、

  富子(とみこ、上杉富子、梅嶺院)は、 江戸の

  本所松坂町の吉良邸には移らず(同道(同行)

  せず)、 江戸の芝・白金の上杉家下屋敷(しも

  やしき、別邸)に住む。  同道(同行)しなかった

  理由は、不明である。

     上杉家出身の富子別居により、赤穂浪士

  は、上杉家を考えず、本所松坂町の吉良邸に

  討ち入りを行えるようになった。

     上杉富子(うえすぎ とみこ、梅嶺院(ばい

  れいいん)、1643〜1704年)は、 吉良上野

  介(義央)の正室夫人 である。

     上杉富子は、 上杉家当主・第2代米沢藩

  (山形県東南部)藩主・上杉定勝の娘 であり、

  上杉景勝の孫 である。

     上杉富子と吉良上野介(義央)との間の子

  には、 養子に入って、上杉家を相続し、第4代

  米沢藩主となった、 吉良長男の上杉綱憲(うえ

  すぎつなのり) がいる。

 

■ 知人・菅野六左衛門を助けた高田馬場(たか

  だのばば)の決闘で活躍し勇名をあげ、 その

  後、赤穂藩家臣となった、堀部安兵衛(武庸) 

  (ほりべやすべえ(たけつね)、1670〜1703

  年) は、 吉良 (きら)への仇討(あだう)ちを

  主張する、「仇討ち優先派」(江戸急進派)の中

  心人物であった。 

     堀部安兵衛(武庸)の夫人は、 堀部 ほり

  (ほりべ ほり)であり、 堀部弥兵衛(金丸)(ほ

  りべやへえ(かなまる)) の娘 である。

 

■ 大石内蔵助(良雄) は、お家再興を優先させる

  ことを主張し、時節到来を待つように、 「仇討ち

  優先派」(江戸急進派)の、堀部安兵衛(武庸)

  (たけつね)を説得し、暴走を抑えた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 瑤泉院(ようぜ んいん、阿久里) は、 赤穂・浅

  野家(赤穂藩)改易(かいえき、領地没収)後、

  1701(元禄14年)年10〜12月の第1次大石

  東(あずまくだ)下り時、 赤穂藩元家老・大石内

  蔵助(良雄) (おおいしくらのすけ(よしたか・よ

  しお)) に一度だけ、会っている。 

    吉良邸討ち入りからだいぶ前の1701年(元

  禄14年)11月に、 大石第1次東下り時、 大石

  内蔵助(良雄)は、 瑤泉院(ようぜんいん、阿 久

  )に拝謁(はいえつ)し、 赤穂・浅野家(赤穂

  藩)の再興や吉良邸討ち入りの運動資金として、 

  瑤泉院(阿久里)拠出の資金を受け取った。

     瑤泉院(阿久里)拠出の資金は、 婚儀(結

  婚)時の持参金、 または、 瑤泉院(阿久里)は

  三次藩(みよしはん、三次浅野家)領に知行10

  00石を持っていたが、実家の三次藩(三次浅野

  家)領からの収益金 と言われている。

 

■ 1701年(元禄14年)12月に、 吉良上野介

  (義央) (きらこうずけ のすけ(よしなか・よしひ

  さ))は、 事件の影響で、 吉良家の家督を、実

  の孫で養子の吉良左兵衛(義周) (きらさひょう

  え(よしまさ)、1686〜1706年) に譲り、 隠

    居した。

     1701年(元禄14年)3月に、江戸城中で、

  赤穂藩主の浅野内匠頭(長矩)に斬 (き)りつけ

  られ、軽傷を負わされた事件の影響である。

 

■ 1702年(元禄15年)4月に、 大石内蔵助(良

  雄)は、 盟約に加わることを望んだ大石長男の

  大石主税良金(おおいしちから(よしかね))を除

  いて、 正室夫人の「りく」(香林院) や りく(香

  林院)との間の子たちを、 りく(香林院)の実家

  の豊岡(とよおか、兵庫県北部) に戻した。

     盟約に加わった同志たちの間での密談が進

  む中、「妻子にもしゃべらない」とする盟約の原則

  を守るため、 また、 夫人・りく(香林院)と子らに

  連座が及ばぬようにとの配慮から、りくと形式的に

  離縁したことにするためである。

     石束(いしづか)りく (香林院(こうりんいん)、

  1669〜1736年)は、 但馬国(たじまのくに、

  兵庫県北部)・豊岡藩(とよおかはん)の筆頭家

  老(1200石)の石束毎公 (いしづかつねよし、

  1641〜1713年) の娘 である。

     1701年(元禄14年)7月より大石と暮らし

  た京都・山科で身ごもった、大石夫人の「りく」(香

  林院)は、 1702年(元禄15年)4月に形式的

  に大石と離縁し実家に帰り別れた後、 りく(香林

  院)の実家の豊岡(とよおか、兵庫県北部)の、

  束家(いしづかけ)で、 1702年7月に、大石 大

  三郎 (おおいし だいさぶろう、1702〜1770年

  を産んだ。

     大石 大三郎は、 大石内蔵助(良雄)と石

  束(いしづか)りく (香林院(こうりんいん))との

  間の子で、 大石内蔵助(良雄)の遺児 (大石

  三男)である。

 

■ 藩の改易(かいえき、領地没収)後、 赤穂・浅

  野家(赤穂藩)の元家老・大石内蔵助(良雄)

  (おおいしくらのすけ(よしお)) は、 吉良上野

  介(義央)への処分とお家再興を求めるが、

  戸幕府は 、聞き入れなかった。

     そして、 1702年(元禄15年)7月に、江

  戸幕府により、浅野大学(長広)は、領地を召

  (め)し上げられ、 広島・浅野宗家(本家)へ永

  預けとなり、 赤穂・浅野家のお家再興の見込

  みがないことが、 再確認された。この処分を受

  け、 大石内蔵助(良雄)は、 吉良上野介(義

  央)への仇討(あだう)ちを決意する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#thegenrokuakoincident-thehappenings(6)

 

■ (6) 赤穂浪士の浪人生活 と 討

    ち入り準備

     (1702年7月〜1702年12月)。

■ 浅野内匠頭(長矩)の実弟で旧赤穂藩(赤穂・

  浅野家)養嗣子である、浅野大学(長広)(あさ

  のだいがく(ながひろ))は、 1701年(元禄

  14年)3月の浅野内匠頭(長矩)の松之廊下の

  刃傷(にんじょう)の事件後、 閉門(へいもん)

  となる。 

    後に、1702年(元禄15年)7月18日に、江

  戸幕府は、浅野大学(長広)、領地を召(め)し

  上げ、 広島藩(広島・浅野宗家(本家))への永

  預かりを言い渡たした。 

     この処分で、 旧赤穂藩(赤穂・浅野家)

  活のお家再興の見込みが完全に絶たれる (絶

  望的となる)。 

     この処分を受け、 大石内蔵助(良雄)は、

  以後、 討ち入り一本と決め、堀部安兵衛(武

  庸)(たけつね)らの「仇討ち優先派」(江戸急進

  派)との対立は、ここに解消される。

 

■ この時点で、 創作(フィクション)の忠臣蔵で

  「神文返し」の場面が出てくるが、 史実(歴史

  上の事実)ではない。

 

■ 吉良への復讐と江戸幕府の失政を正すため、 

  大石内蔵助(良雄) は、吉良の殺害を決意する。 

  そして、 赤穂藩(赤穂・浅野家)の改易(領地没

  収)時、赤穂城開城前に血判した旧赤穂藩士の

  同志 や その他の旧赤穂藩士の同志の、盟約

  の同志と共に、 計画的な行動に出る。

 

■ 円山会議。

    円山会議 (まるやまかいぎ) は、 お家(赤

  穂・浅野家)再興の望みが絶(た)たれ、 吉良邸

  討ち入り(きらていうちいり)を決定した会議 で

  ある。

    1702年(元禄15年)7月28日に、大石内

  助(良雄)は、  「仇討ち優先派」(江戸急進派)の

  堀部安兵衛(武庸) (ほりべやすべえ(たけつね)

  を招いて、 盟約の同志が集まり、 京(都)の円

  山(まるやま、京都市東山区円山町)で、 同志と

  の会議を開き、 円山会議 (まるやまかいぎ)で、 

  江戸・本所(えど・ほんじょ)の吉良屋敷への討ち

  入りを決定した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 大石内蔵助(良雄)は、 第2次大石東下(あず

  まくだ)りとして、 1702年(元禄15年)11月

  5日に、江戸に入る。 

     大石は、 吉良邸討ち入りまで、 江戸の旅

  館で、 江戸潜伏生活を送る。 

    大石は、 東下りや江戸潜伏時に、名を偽り、

  「垣見五郎兵衛」(かきみごろべえ)と称していた

  という説がある。

  

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 盟約を結んだ赤穂浪士同志全員の江戸潜伏時、 

  1702年(元禄15年)11月から12月まで、

  大石ら赤穂・浅野家旧臣は、 吉良上野介(義

  央)が本所吉良屋敷にいる確実な在邸日を探り、

  討ち入り日を決定した。

     江戸で、 大石内蔵助(良雄)は、 赤穂・浅

  野家旧臣の同志に、 本所吉良屋敷を探らせ、

  吉良邸絵図面を入手し、 吉良上野介(義央)が

  本所吉良屋敷にいる確実な在邸日を探り、討ち

  入り日を決定した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 吉良邸討ち入り直前に、 「仇討ち優先派」(江

  戸急進派)の堀部安兵衛(武庸) (ほりべやす

  べえ(たけつね) は、 儒学者の細井広沢に、 

  自ら編集しておいた「堀部武庸筆記」(ほりべた

  けつねひっき)を託した。

     堀部安兵衛(武庸)は、 赤穂浪士関係の

  書類を自らまとめて編集して、 江戸・堀内道場

  同門の親友で儒学者の細井広沢に託した、元

  禄赤穂事件の出来事を記した「堀部武庸筆記」

  (ほりべたけつねひっき)を残し、 元禄赤穂事

  を知る、一次的史料となっている (岩波書店

  「近世武家思想」に収録)。

 

■ 吉良邸討ち入り直前に、大石内蔵助(良雄)は、

  瑤泉院(ようぜんいん、阿久里)から受領した活

  動資金の会計決算書「預置候金銀請払帳」を、

  瑤泉院(阿久里)の用人・落合 与左衛門(勝信)

  (おちあいよざえもん(かつのぶ)、生没年不明) 

  に提出している。 

     瑤泉院に対して大石内蔵助(良雄)が作成

  した会計決算書 「預置候金銀請払帳」 (あず

  かりおきそうろうきんぎんうけはらいちょう、箱根

  神社所蔵) は、 お家(赤穂・浅野家)再興、及

  び、吉良邸討ち入りのための活動資金として、

  大石が瑤泉院から受領した資金・約691両(現

  在の約1億3000万円相当) に対する、1702

  年(元禄15年)11月付の会計決算書(収支報

  告書) である。

     瑤泉院(阿久里は、  討ち入り直前には、

  大石内蔵助(良雄)とは会っていない。 忠臣蔵

  の南部坂の雪の別れは、 残念ながら、創作(フ

  ィクション)で、事実ではない。

     大石内蔵助(良雄)の会計決算書「預置候

  金銀請払帳」、 瑤泉院(阿久里)の用人・落合

  与左衛門(勝信)の日記「江赤見聞記」 は、

  在、 貴重な元禄赤穂事件の一次的史料となっ

  ている。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#thegenrokuakoincident-thehappenings(7)

 

■ (7) 吉良邸討ち入り。 

        (1702年12月)。

■ 吉良邸討ち入り(1702年12月14〜15日)。

    吉良邸討ち入り前までに、 盟約した同志で

  脱落者が出て、結局、47人となった。

     江戸時代の、1702年(元禄15年)12月

  14日の午後に、 赤穂浪士は、 江戸の両国橋

  西の米沢町にあった堀部弥兵衛(金丸)(ほりべ

  やへい(かなまる))の借家に集まる。 その後、

  3箇所の集合場所に分かれた。 

     その後、それぞれの集合場所から、本所吉

  良屋敷裏門近くの前原伊助(宗房)(まえばらい

  すけ(むねふさ))の借店に集まる。

     本所吉良屋敷は、 広く、敷地2550坪で、

  約170の部屋 があった。

     1702年(元禄15年)12月15日未明・午

  前4時頃に、赤穂浪士は、表門隊と裏門隊の二

  手に別れて、吉良邸を襲撃した。 

     江戸時代当時は、武家では現代と同様に

  午前0時が1日の始まりであるが、庶民では、日

  の出が1日の始まりとされた。 そのため、武家

  の時法では、赤穂浪士の吉良邸討ち入りの襲

  撃は、1702年(元禄15年)の、12月15日未

  明となり、 庶民の時法では、吉良邸討ち入りの

  襲撃は、12月14日深夜となる。

 

■ 江戸時代の、1702年(元禄15年)12月15

  日未明・午前4時頃に、 江戸(東京)で、 赤穂

  (あこう)藩元家老、 大石内蔵助(良雄) (お

  おいしくらのすけ(よしたか・よしお)、1659〜

  1703年)の率いる赤穂浪士47人は、 江戸の

  吉良邸へ討ち入り、 約2時間の激闘の末、 主

  君の仇(かたき)の、吉良上野介(義央) (きら

  こうずけのすけ(よしなか・よしひさ))、1641〜

  1702年) を討ち取り、 その本懐(ほんかい)

  を遂げた。

 

■ 実際の赤穂浪士の服装は、山形模様ではなく、

  火事装束(かじしょうぞく)に似せた黒装束(くろ

  しょうぞく)でまとめ、 頭に頭巾(ずきん)を着け

  兜(かぶと)をかぶり、 黒小袖(くろこそで)の下

  に、鎖帷子(くさりからびら)を着込んで、 完全

  武装した服装であった。 ばらばらに羽織(はお

  り)などを着用する者もいた。 合図の笛(ふえ)

  と鐘(かね)は、用意したが、実際に、太鼓は持

  っていなかった。

     山形模様の服装は、 創作(フィクション)

  の「仮名手本忠臣蔵」や先行作の物語で採用さ

  れ、広く認知されるようになったものである。

 

■ 吉良邸討ち入り時、 (吉良上野介(義央)の実

  子・上杉綱憲が養子に入って米沢藩主となった) 

  上杉家米沢藩の動き。

● 米沢転居前の吉良の茶会。

    上杉家当主・第4代米沢藩主の、上杉綱憲 

  (うえすぎつなのり、1663〜1704年) は、実

  父の吉良上野介(義央)を、 江戸は赤穂の浪

  人が多くいて危険なので、米沢 (よねざわ、山

  形県東南部) に転居するように勧めていた。

     赤穂浪士の吉良邸襲撃の前日の1702年

  (元禄15年)12月14日の茶会は、 吉良の江

  戸での別れの茶会であったと言われている。

     米沢藩(よねざわはん、山形県東南部)は、

  上杉氏を当主とする、当時15万石の大名 で

  あった。

 

● 上杉家の救援の遅滞と幕命による救援中止。

     吉良邸討ち入り時、 赤穂浪士は、 上杉家

  からの 援軍 と 引き揚げ時の追撃 を警戒し

  ていた。

     実際に、上杉家では、上杉家米沢藩邸に赤

  穂浪士の吉良邸討ち入りの報が入ると、 米沢

  藩邸は、 赤穂浪士に対抗できるだけの人数を

  集めていた。 

     そうしているうちに、吉良上野介(義央)

  ち取られ赤穂浪士が吉良邸を引き揚げたという

  報告が上杉家米沢藩邸に入った。 

     やがて、江戸幕府の幕閣から、上杉家米沢

  藩に、 赤穂浪士の処分は幕府が行うので手出

  しをしないように命じられる。 上杉家・米沢藩は、

  幕命(ばくめい、幕府の命令)に従う他なかった。 

     赤穂浪士の吉良邸討ち入りを知った上杉家・

  米沢藩主・上杉 綱憲 (うえすぎ つなのり、生没

  年:1663〜1704年)がいきり立ち、実父の

  上野介(義央)援軍に出馬しようとするとこ

  ろを、上杉家縁戚の高家・畠山義寧が、とめた。  

     上杉家・米沢藩主・上杉綱憲 の行動制止は、

  江戸幕府・老中から出兵差し止め命令を上杉綱

  憲に伝えるべく上杉家米沢藩邸に赴(おもむ)い

  た、上杉家縁戚の高家・畠山義寧であった。

      フィクション(創作)の忠臣蔵での上杉綱憲

  の行動制止は、 家老の千坂高房(既に1700

  年に死去)、または、色部安長(父喪中で藩邸に

  出仕していない) となっていることが多い。

     

■ 吉良邸討ち入り時、 大石内蔵助(良雄) は、

  赤穂浪士を、表門隊(おもてもんたい、23人)

  と裏門隊(うらもんたい、24人)の二手に分け

  て、 大石内蔵助(良雄)は、吉良邸の表門で

  指揮をとり、 大石内蔵助(良雄)の子、大石主

  税(良金)(おおいしちから(よしかね)、1688

  〜1703年)は、 吉良邸の裏門で指揮をとっ

  た。

    大石主税(良金)は、 大石内蔵助(良雄)と

  大石・正室夫人の石束(いしづか)りく(香林院

  (こうりんいん)、1669〜1736年)との間の子

  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 吉良邸討ち入り時、 吉良邸にいた吉良家臣

  の人数は不明であるが、 赤穂浪士は、完全

  武装し、 高田馬場で斬り合った堀部安兵衛

  (武庸)以外、人を斬(き)った実戦経験がない

  ため、 攻撃して来ない吉良家臣はかまわず

  吉良上野介(義央)のみを狙い、 3人1組の

  グループとなり、 吉良邸内で攻撃してくる1人

  の吉良家臣の前後を3人のグループで取り囲

  み戦い、攻撃してくる吉良家臣を斬り倒してい

  ったという説がある。

     結果的に、討ち入った赤穂浪士は、負傷

  者は出たが、1人も死なず 、吉良上野介(義央)

  を殺害し、首級をとることができた。

 

■ 吉良邸討ち入り時、 高田馬場の決闘で活躍

  し赤穂藩家臣となった、堀部安兵衛(武庸)(ほ

  りべやすべえ(たけつね)、1670〜1703年)

  は、赤穂浪士の四十七士の中で一番の剣客で、 

  大太刀を持って、奮戦したと言われている。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 吉良邸討ち入り時、 吉良上野介(義央)の隠

  居後吉良家当主となった、吉良左兵衛(義周)

  (きらさひょうえ(よしまさ)、1686〜1706年)

  は、自ら武器をとり、応戦したが、面と背中を斬

  (き)られ、気絶し、捨て置かれ、斬首(ざんしゅ)

  されることはなかった。

 

■ 吉良上野 介(義央)を殺害後、 赤穂浪士一行

  は、 江戸市中を行進し、 主君の旧赤穂藩主・

  浅野内匠頭(長矩)の墓がある江戸の高輪・泉

  岳寺へ行き、  主君の墓前に、 吉良上野介(義

  央)の首級を供え、仇討ちを報告した。

    大石内蔵助(良雄)は、 赤穂浪士2名を江戸

  幕府の大目付・仙石久尚の邸宅に送り、口上書

  を提出し、幕府の裁定に委ねた。 そして、赤穂

  浪士一行は、  派遣された幕府の役人の誘導で、

  大目付・仙石久尚の屋敷に移動した。 その後、

  討ち入り赤穂浪士は、幕府により、4つの大名家

  の屋敷に分けて預けられた。

     吉良邸に討ち入りした赤穂浪士47人の1人

  の赤穂藩元足軽の寺坂吉右衛門(信行) (てら

  さかきちえもん(のぶゆき)) が、 吉良邸討ち入

  り後、 赤穂浪士が幕府の指定した屋敷にお預け

  になる前に、 何らかの理由で突然姿を消した。 

  寺坂吉右衛門(信行) は、 赤穂藩元家老の大石

  内蔵助(良雄)から何らかの密命を受けて 離れたと

  いう説がある。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#thegenrokuakoincident-thehappenings(8)

 

■ (8) 討ち入り後の赤穂浪士の処遇。

        (1702年12月〜1703年2月)。

■ 討ち入りは、 忠義か、 犯罪か。 忠義なら切

  腹、 犯罪なら打ち首となる。 当時、 切腹は武

  士としての名誉ある死で あった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 討ち入り後、 江戸幕府内で は、 赤穂(あこう)

  浪士への処分をめぐり、すぐに結論が出なかった。 

  仇討ちを義挙(ぎきょ)とする世論の中で、江戸幕

  府の幕閣は、助命か死罪かで揺れた。 天下の

  法を曲げることはできないとした、荻生徂徠(おぎ

  ゅうそらい)などの意見を容れ、 江戸幕府第5代

  将軍徳川綱吉 (とくがわつなよし) が、切腹

  という最終判断を下した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#thegenrokuakoincident-thehappenings(9)

 

■ (9) 赤穂浪士の切腹

        (1703年2月)。

■ 1703年(元禄16年)2月4日に、幕命(ばくめ

  い、江戸幕府の命令)により、 討ち入りした赤穂

  浪士46人は、 切腹した。

    一方、1703年(元禄16年)2月に、 江戸

  幕府は、 吉良上野 介(義央)の孫で吉良上野介

  (義央)引退後の吉良家の当主の、吉良左兵衛

  (義周)(きらさひょうえ(よしまさ)、1686〜170

  6年) の改易(かいえき、領地没収)と信州配流

  (はいる)の処分を決めた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1703年(元禄16年)2月に、 江戸幕府の命

  (命令)で、 討ち入りをした赤穂浪士47人のう

  ち46人が、切腹した。 討ち入りした赤穂浪士は、

  江戸の高輪・泉岳寺に葬られた。

       1702年(元禄15年)12月の吉良邸討ち入り

  後、 赤穂浪士が幕府の指定した屋敷にお預け

  になる前に、 吉良邸に討ち入りした赤穂浪士 47

  人の1人の赤穂藩元足軽の寺坂吉右衛門(信行)

  (てらさかきちえもん(のぶゆき))が、 何らかの

  理由で突然姿を消したため、 後に、1703年(元

  禄16年)2月に切腹したのは、 赤穂浪士46人

  である。

     寺坂吉右衛門(信行) は、 赤穂藩元家老

  の大石内蔵助(良雄)から何らかの密命を受けて

  離れたという説がある。 

     寺坂吉右衛門(信行)は、討ち入り時38歳で、

  赤穂事件後に幾つかの家に仕(つか)えた後、享

  年83歳で、江戸で没す。 

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#thegenrokuakoincident-thehappenings(10)

 

■ (10) 赤穂浪士切腹後の赤穂・浅

       野家関係者の不遇と待遇改善。

      (1703年2月〜1748年8月)。

■ 浅野内匠頭(長矩)(あさのたくみのかみ(なが

  のり))の正室夫人の、瑤泉院(ようぜんいん 、

  久里) は、  討ち入り後、吉良を討ち取り 幕命

  (ばくめい、幕府の命令)で切腹した、赤穂浪士の

  残された家族の世話をし、 赤穂浪士の遺児の赦

  免(しゃめん)に尽力(じんりょく)する。

      そして、瑤泉院(阿久里は、 江戸の高輪・

  泉岳寺(たかなわ・せんがくじ) の、浅野内匠頭

  (長矩)と赤穂浪士の墓を守り、 1714年(正徳

  4年)に、実家の三次浅野家(みよしあさのけ)の

  下屋敷(しもやしき、別邸)で死去し、 死去後、

  高輪・泉岳寺に葬られ、 夫の浅野内匠頭(長矩)

  の墓の横にある墓で永眠する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 赤穂・浅野家の養嗣子の浅野大学(長広)。

    浅野内匠頭(長矩)の実弟で旧赤穂藩(赤穂・

  浅野家)の養嗣子である、浅野大学(長広)(あさ

  のだいがく(ながひろ)、1670〜1734年) は、

  1702年(元禄15年)7月に、 江戸幕府により、 

  浅野大学(長広)は、領地 ・3000石を召(め)し

  上げられ、 広島・浅野宗家(本家)へ永預けと

  なる。

    その後、 浅野大学(長広)は、 1709年(宝

  永6年)8月に、江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉

  の死去に伴う大赦で許され、 1710年(宝永7

  年)9月に、 新将軍・徳川家宣に拝謁し、 安房

  国(あわのくに、千葉県南部)に500石の所領を

  賜(たまわ)り、旗本に復した。 これとは別に浅

  野宗家(本家)からも300石が浅野大学(長広)

  に継続的に支給された。 ここに、 赤穂・浅野

  家は、旗本ながら、お家再興を果たした。 

     1734年(享保19年)6月に、 浅野大学

  (長広)は、 65歳で死去し、 兄の浅野内匠頭

  (長矩)や赤穂浪士と同じ江戸の高輪・泉岳寺

  (たかなわ・せんがくじ)に葬られた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 広島・浅野本家広島藩)は、 吉良邸討ち入り

  後、 赤穂浪士が英雄化されると、 広島・浅野

  本家は、態度を一転させ、 広島・浅野本家の、

  浅野綱長(つななが)の子・浅野吉長 (あさのよ

  しなが、藩主就任:1708〜52年、生没年:16

  81〜1752年) は、 浅野家の宣伝のためも

  あって、 1713年(正徳3年)に、 大石内蔵助

  (良雄)の遺児(三男)・大石大三郎(おおいしだ

  いさぶろう、1702〜70年)を、 1500石で、召

  抱(めしかか)える。

 

 

#thegenrokuakoincident-thehappenings(11)

 

■ (11) 討ち入りの約46年後、の赤

    穂・浅野家関係者の英雄視

     (1748年8月以後)。

■ 約46年後、1748年(寛延元年)8月から、「仮

  名手本忠臣蔵」(かなでほんちゅうしんぐら) と

  いう人形浄瑠璃(じょうるり)及び歌舞伎が演じら

  れ、 大人気となり、 再び、この元禄赤穂事件が、

  脚光を浴びた。 

    それがきっかけとなり、 その後、元禄赤穂事 

  件は、 現在まで 「忠臣蔵」として引き続き、知ら

  れていくようになった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 討ち入りした赤穂浪士 の子孫は、 一時期、不

  遇であったが、 「仮名手本忠臣蔵」が大人気とな

  った後、 赤穂浪士は、義士として、称(たた)えら

  れ、 その後、赤穂四十七士の子孫は、 江戸時

  代に、 各藩から争って、招聘(しょうへい)された 

  と言われている。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史 辞典 の 「 あ 」 基本見出し語サイト

  の先頭ページへ

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。 

□ 日本の歴史ハンドブック 日本語版へ

 

 

#thegenrokuakoincident-appearingscenes

 

♪♪ 元禄赤穂事件が登場する、興味

      深い、ドキュメンタリー、ドラマ、

    映画。 

 

 ★ 元禄赤穂事件が登場す る、興味

    深い関連ドキュメンタリー。 

 

 ■ にっぽん!歴史鑑定 

    『 忠臣蔵 討ち入り 24時 』。 

      (TBSテレビ・2018年12月3日・

     本放送・ドキュメンタリー番組)。

 

  ■ 元禄赤穂事件の赤穂浪士・吉良邸討

    ち入り (1702年(元禄15年)12月

    14日〜15日) 詳細に述べる。

 

  ■ 元禄赤穂事件 (= 赤穂事件、広義:

    1701年〜1703年、1701年3月の

    松の廊下・刃傷から1702年12月の

    討ち入りを経て、1703年2月の赤穂

    浪士・切腹までの事件) を述べる。

 

 

 ■ ザ・プレミアム 

    『 よみがえる江戸城 』。 

      (NHKテレビ・2014年1月4日・

     本放送・ドキュメンタリー番組)。

 

  ■ 元禄赤穂事件(= 赤穂事件、1701年〜17

    03年)の、江戸城の松之廊下の浅野内匠頭

    (長矩)の刃傷(にんじょう)について述べる。

           浅野が、老中の指示で接待費減額を遵

    守したため、吉良と不和になり、刃傷に及ん 

    だ事件を述べる。

 

  ■ 江戸城の詳細について述べる。

 

  ■ 江戸城の本丸御殿を、江戸時代に製作され

    た建築図面、下絵等に基づいて、 CG(コン

    ピュータ・グラフィックス)で、再現した。

 

  ■ 江戸幕府の将軍の一日の生活を述べる。

 

 

 ★ 元禄赤穂事件が登場 する、興味

    深い、ドラマ、映画。

 

  ● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

    歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

    実) と 架空の出来事が 混じって描かれ

    ています。 また、現代風にアレンジしてあり

    ます。

 

 ■ 『 家電侍スペシャル 

      ストップ!忠臣蔵 

          (かでんざむらいスペシャル 

              ストップ!ちゅうしんぐら) 』。

     (BS松竹東急の2023年制作テレビ

      ドラマ、SF時代劇コメディ)。

     (脚本:本山久美子、大谷洋介)。

 

  ■ 江戸時代の人物、風習、建物、社会状況

    などを描く。

 

  ■ 江戸時代の元禄赤穂事件を描く。

 

  ● 「兼梨四十郎」(かねなししじゅうろう)を演じ

    た俳優名 : 滝藤 賢一 (たきとう  けん

    いち)。

    〇 「兼梨四十郎」は、 

    江戸時代に生き、元藩士の武士で貧乏浪人

    となり、 江戸の長屋で妻子と暮らす。

    〇 「兼梨四十郎」は、 

    家の近くのいつも祈りに通う光雷神社で精魂

    込めて祈ったところ、なんと、神社にタブレット

    端末のAI家電アドバイザーの「カージー」が

    現れ、 「兼梨四十郎」が「カージー」に依頼す

    ると、現代日本から現代家電が江戸時代の

    光雷神社に届くようになり、 「兼梨四十郎」は、

    驚き、 江戸の自分の長屋の家に現代家電を

    持ち帰り、江戸時代の不便な生活を現代家電

    で便利な生活に改善する。

    〇 しかし、タブレット端末のAI家電アドバイ

    ザーの「カージー」が現代日本に帰り、江戸

    時代の長屋の兼梨家から現代家電が消える。

    〇 ある日、「兼梨四十郎」は、 江戸にやって

    き来た旧知の友人の赤穂藩の大石良雄と出

    会う。

    〇 ある日、「兼梨四十郎」の夫人の静江が

    風邪で寒気を訴えて寝込み「兼梨四十郎」が

    光雷神社に参拝すると、再び、タブレット端末

    のAI家電アドバイザーの「カージー」が現代

    日本から江戸時代の光雷神社に現れ、「兼梨

    四十郎」は、「カージー」に現代家電のカーボ

    ンヒーターを依頼し、受け取って自分の長屋

    に持ち帰り使用して、事なきを得る。

    〇 「兼梨四十郎」は、

    現代日本から来た「カージー」から、元禄赤穂

    事件の詳細を聞き、驚き、 友人の赤穂藩の

    大石良雄を救うべく、また、赤穂藩の藩主・

    浅野の刃傷を経て家老・大石が討ち入り、自

    害するという赤穂事件を起こさせず、「兼梨四

    十郎」は、未来を変えようと、奔走、奮闘する。

 

  ● 「カージー」を演じた女優名 : MEGUMI

    (声)。

    〇 「カージー」は、 

    現代日本から江戸時代の日本にやって来て、

    現代日本のタブレット端末に内蔵されたの

    AI家電アドバイザーであり、

    兼梨四十郎の相談相手となり現代家電を提

    案して、 兼梨四十郎の依頼に応じて、様々

    な現代家電を江戸時代に届ける(配達する)。

 

  ● 「静江」(しずえ)を演じた女優名 : 

    前田 亜季。

    〇 「静江」は、 

    江戸時代に生き、 江戸時代の武士の娘で

    あり、 兼梨四十郎の夫人であり、 兼梨四

    十郎の藩士時代に婚儀を結び、 その後、

    藩をやめ貧乏浪人となった兼梨四十郎と共

    に、江戸の長屋で暮らす。

    

  ● 「太郎」(たろう)を演じた俳優名 : 

    加賀谷 光輝。

    〇 「太郎」は、 

    江戸時代に生き、 江戸時代の兼梨四十郎

    と静江との間の男子である。

 

  ● 「平賀」(ひらが)を演じた俳優名 : 

    水石 亜飛夢 (みずいし あとむ)。

    〇 「平賀」は、 

    江戸時代に生き、 江戸時代の兼梨四十郎と

    静江が住む長屋の隣人であり、 兼梨四十郎

    の男子の太郎に読み書きを教え、 また、機

    械や商品宣伝が得意である。

 

 

 ■ 『 忠臣蔵 瑤泉院の陰謀 

      (ちゅうしんぐら ようぜいんの

      いんぼう) 』。 

     (テレビ東京・2007年制作・テレビ

     ドラマ)。

 

  ■ 江戸時代前期の人々、風習、建築物、

    社会状況等を描く。

 

  ■ 元禄赤穂事件 (= 赤穂事件、広義:

    1701年〜1703年、1701年3月の

    松の廊下・刃傷から1702年12月の

    討ち入りを経て、1703年2月の赤穂

    浪士・切腹までの事件) を描く。

 

  ● 浅野内匠頭を演じた俳優 : 高嶋政伸。

  ● 吉良上野介を演じた俳優 : 江守 徹。

  ● 大石内蔵助を演じた俳優 : 北大路欣也。

  ● 瑤泉院(阿久利)を演じた女優 : 

     稲森いずみ。

  ● お喜世(左京の局)を演じた女優 : 

     吹石一恵。

  ● 堀部安兵衛を演じた俳優 : 山田純大。

 

  ● 稲森いずみ(瑤泉院(阿久利)役)、 高嶋政

    伸(浅野内匠頭役)、 伊澤健(浅野大学長広

    役)、 北大路欣也(大石内蔵助役)、 松坂慶

    子(大石りく役)、 篠山輝信(大石主税役)、 

    山田純大(堀部安兵衛役)、 樋田慶子(桂昌

    院役)、 津川雅彦(徳川綱吉役)、 高橋英樹

    (柳沢吉保役)、  萬田久子(吉保側室夫人・

    正親町町子役)、 栗塚旭(学者・林大学役)、 

    五木ひろし(学者・荻生徂徠役)、 磯部勉(徳

    川家宣役)、 野村真美(家宣正室 夫人・熙

    子役)、 吹石一恵(お喜世(左京の局)役)、 

    佐藤正浩(間部詮房役)、 江守徹(吉良上野

    介役)、 倉田てつを(清水一学役) などが出

    演。

 

 

 ■ 『 忠臣蔵 その義 その愛 

     (ちゅうしんぐら そのぎ そのあい) 』 。  

     (テレビ東京・2012年1月2日・

     本放送・テレビドラマ)。

 

  ■ 江戸時代前期の人々、風習、建築物、

    社会状況等を描く。

 

  ■ 元禄赤穂事件 (= 赤穂事件、広義:

    1701年〜1703年、1701年3月の

    松の廊下・刃傷から1702年12月の

    討ち入りを経て、1703年2月の赤穂

    浪士・切腹までの事件) を描く。

 

  ● 浅野内匠頭を演じた俳優 : 市川染五郎。

  ● 吉良上野介を演じた俳優 : 柄本 明。

  ● 大石内蔵助を演じた俳優 : 舘 ひろし。

  ● 瑤泉院(あぐり)を演じた女優 : 田中美里。

  ● 堀部安兵衛を演じた俳優 : 内野 聖陽。

 

 

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る。 

□ 日本史辞典の「 あ 」基本見出し語サイト

  の先頭ページへ

□ 日本史辞典 ・日本語版の先頭ページへ

□ 日本史ハンドブック ・ 日本語版へ

 

 

 

 『 あなたのハートには 

    何が残りましたか? 』。

 

 

以  上。