(TKOH) TKKI カナヤマ オフィシャル ホームページ。

   TKKI KANAYAMA’S OFFICIAL  HOMEPAGE.

■ (KJHH) カナヤマ 日本の歴史 ハンドブック。

     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY 

   HANDBOOK

● カナヤマ 鎌倉幕府 ガイドブック。

      KANAYAMA’S GUIDEBOOK ON THE 

   KAMAKURA SHOGUNATE GOVERNMENT.

 

 

 

    カナヤマ

    鎌倉幕府・政権

  年代順出来事

  ブック。      』 

 

 

#jpmenu 

メ ニュー (目次)。  

 ■ 次の項目から選んで、クイックして下さい。

 

 □ 鎌倉幕府・政権 年代順

    出来事ブック (総合)

 

 

 □ 鎌倉幕府・政権 年代順

       出来事 (詳細・各年)

 

  □ 1135年〜1336年の出来事

 

 

 □ 鎌倉幕府ガイドブック

 

  ■ 鎌倉幕府 (概要・ テーマ別

     各事柄)。

 

  □ 鎌倉幕府の組織(仕組み)。

  □ 鎌倉幕府の主要指導者

    (将軍、執権、得宗、内管領)。  

  □ 鎌倉幕府の執権。

  □ 鎌倉幕府の得宗。

  □ 鎌倉時代前期の鎌倉幕府。

  □ 鎌倉幕府の将軍(初代〜

     第9代)就任表。

  □ 鎌倉幕府の執権(初代〜

          第16代)就任表。

  □ 北条得宗家の得宗(初代〜

          第9代)就任表。

 

 

 □ 鎌倉幕府・政権 出来事

    (概要・総合)

 

  □ 鎌倉幕府の将軍(9代)、

     執権(16代)、得宗

         (9代)の就任表

 

 

 

 ■ 鎌倉幕府前期近くの関係史料。

 

  □ 平安時代後期の日本の 政権・

        政治実権者の変遷一覧表

 

  □ 鎌倉時代前期の日本の政権・

     政治実権者の変遷一覧表

 

  □ 源頼朝ガイドブック

  □ 源頼朝 関連年代順 

     出来事ブック。     

 

 

 ■ 鎌倉幕府後期近くの関係史料。

 

  □ 足利尊氏ガイドブック

  □ 足利尊氏 関連年代順

     出来事ブック。     

 

  □ 足利氏 画像アルバム No.1 

 

 

 

   

 

 

 

 ■ 上位のWEBサイト。 

 □ (KOH) カナヤマ オフィシャル   >

          ホームページ。   

 □ (Cse)  国際理解総合サイト     > 

         われら地球市民。 

 □ (Ke)   百科事典。           >

 □ (Khh)  歴史学ハンドブック      > 

 □ (Kjhh) 日本史ハンドブック。     > 

 □ (Kjhh)  鎌倉幕府ガイドブック      > 

 □ (Kjhh)  鎌倉幕府 ・政権 年代順   >

         出来事ブック。   

 □ (Kjhh)  この日本語ページ。

 

 ■ カナヤマ 主要 公式ホームページ

    略語一覧表。

   KOH  CSE   UCF   KHAS (KASH)

    CCF  KBIH   KPH    HCF  KANH

      QGN  KWDB  TTFW  TTWH  AWM

      KGJ   KJHH  KH H   KCB  KCTS

      I MB  KHIB  RH  KIOS  KE LKOH 

    GIMEH   ETCSS   GIMJH    JTCSS

 

   □ 主要サイトの略語・説明表

 

 

□ 出来事ブックのメニュー(目次)の先頭ページへ

□ 出来事ブック(総合)ページへ

□ 出来事ブック(各年・詳細)ページへへ

□ 出来事ブック(概要・総合)ページへ

□ 鎌倉幕府ガイドブック へ  

□ 日本史辞典 ・日本語版の先頭ページへ。  

□ 日本史ハンドブック ・日本語版 の先頭ページへ

 

 

      ようこそ TKK カナヤマ のホームページへ !      WELCOME TO TKK KANAYAMA’S HOMEPAGE !

 

 

◆ カナヤマ 鎌倉幕府・政権

   年代順 出来事ブック。

 

 ■ 当ホームページの制作・著作権 TKKI カナヤマ。

 

 

#jphappenings

 

 

   Kjhh) 

   鎌倉幕府・政権

   年代順出来事

   ブック (総合)。

 

 

#jphappenings/eachyear

 

 

◆ 鎌倉幕府・政権

   年代順出来事

     (詳細・各年)。

 

    42112。

 

 ■ 鎌倉幕府・政権 年代順

    出来事 (詳細項目)。

 

  □ 1135年〜1180年の出来事

 

  □ 1180年〜1185年の出来事

 

  □ 1185年〜1192年の出来事

 

  □ 1192年〜1202年の出来事

 

  □ 1202年〜1203年の出来事

 

  □ 1203年〜1226年の出来事

 

  □ 1226年〜1244年の出来事

 

  □ 1244年〜1252年の出来事

 

  □ 1252年〜1266年の出来事

 

  □ 1266年〜1289年の出来事

 

  □ 1289年〜1308年の出来事

 

  □ 1308年〜1333年の出来事

 

  □ 1333年〜1336年の出来事

 

 

   

 

 □ 鎌倉幕府の将軍(9代)、執権

   (16代)、得宗(9代)の就任表

 

 

  鎌倉幕府ガイドブック

 

 

 

 ■ 鎌倉幕府前期近くの関係史料。

 

  □ 平安時代後期の日本の 政権・

        政治実権者の変遷一覧表

 

  □ 鎌倉時代前期の日本の政権・

     政治実権者の変遷一覧表

 

  □ 源頼朝ガイドブック

  □ 源頼朝 関連年代順 

     出来事ブック。     

 

 

 ■ 鎌倉幕府後期近くの関係史料。

 

  □ 足利尊氏ガイドブック

  □ 足利尊氏 関連年代順

     出来事ブック。     

 

  □ 足利氏 画像アルバム No.1 

 

     

 

 ■ 記述参照史料。

 

   ■ 源頼朝関連の記述に関しては、

     当書は、 史実(歴史の事実)を記載している

     ため、 一次史料(同時期記録史料)で信頼

     できる公家、武家、僧侶の日記、手紙などの

     史料を中心に記載している。

 

   ● 当書は、 北条得宗家が鎌倉時代後期1300

     年頃編集・成立した『吾妻鏡』(あずまかがみ)

     では、 鎌倉北条氏に不都合な部分は、事実

     の改ざんや隠ぺいがあり、 『吾妻鏡』では、

     鎌倉北条氏に不都合な歴史記述部分は参考

     にしていない。

 

   ● 当書は、 フィクションの『保元物語』、『平治物

     語』、『平家物語』、『源平盛衰記』、『承久記』、

     『義経記』等の軍記物語、や フィクションの歴史

     物語などは、歴史記述では、原則として、参考に

     していない。

 

 

 

 ■ 備考。

 

  ■ 当書籍では、 歴史の出来事の5W1H

    (いつ、どこで、だれが、何を、なぜ、どの

    ように) や、 歴史の出来事の流れ(原因

    理由⇒事件勃発⇒経過⇒結果⇒原因理

    由)に沿って、歴史(過去)の出来事を分か

    り易く、説明している。

 

■ より理解を深めるために、 本史辞典の、 

  「朝廷」、「伊勢平氏」、「 河内源氏」、

  「鎌倉北条氏」、「足利氏」、幕府」、「将軍」、

  「源氏将軍」、「摂家将軍」、「宮将軍」、

  「御家人」、「執権」、「執権北条氏」、

  「北条得宗家」、得宗」、「内管領(うちか

    んれい)」、御内人」、「評定衆」、「引付衆」、

    寄合」、「守護」、「地頭」、「六波羅探題」、

  「荘園・公領制」、「蒙古襲来(=元寇)」、

    両統迭立(りょうとうてつりつ)」、

    源氏政権」、「北条(氏)政権」、 「武家政権」、

  「日本の政権・政府

  の項目も参照してください。

 

  ■ 西暦・和暦の記載。

  ● この年代順出来事は、

    西暦を先に、その後ろの( )内に和暦を記載し

    ている。 

  ● この年代順出来事に記載されている日付(年

    月日)は、 一般の歴史書で使用されているの

    と同じように、1872年(明治5年)以前は旧暦

    (太陰太陽暦)を用い、 1873年(明治6年)

    以後は新暦(太陽暦)を用いている。 

 

  ◆ では、鎌倉幕府に関係する出来事を、年代順に、

    見てみよう。

 

  ■ さあ、鎌倉幕府に関する様々な出来事を見て

    みよう。

 

  ● 歴史学の立場から、鎌倉幕府の実像を見てみ

    よう。

 

  ● 歴史学の立場から、年代を追って、鎌倉幕府

    の実像を見てみよう (歴史の物事には、虚像

    と実像があるが)。

 

  ● 日付は、一般の歴史書と同様に全て旧暦

    ある。

 

  ● 現代も、過去の時代も、人間は、利害と感情

    (友愛)等で行動し、富、名誉、権力等を手に

    入れるために努力する。 

       人類の歴史は、 平和と戦争の歴史で

    ある。 人は、美しき者、平和を好む者であり、

    人は、醜き者、争う者でもある。

 

 

□ 出来事ブックのメニュー(目次)の先頭ページへ

□ 出来事ブック(総合)ページへ

□ 出来事ブック(各年・詳細)ページへへ

□ 出来事ブック(概要・総合)ページへ

□ 鎌倉幕府ガイドブック へ  

□ 日本史辞典 ・日本語版の先頭ページへ。  

□ 日本史ハンドブック ・日本語版 の先頭ページへ

 

 

 

◆ 鎌倉幕府・政権

   年代順出来事

     (詳細・各年)。

 

    42113。

 

  ■ 『 では、年代を追って、鎌倉幕府の活動

      を詳しく見てみよう。 』

 

 

#jphappenings-1135

 

 

 ■ 1135年 (長承4保延元年)。 

 

  ● 長承年号から保延 年号に改元。

      保延年号:1135年ー1141年。

  ■ 1135年(長承4保延元年)に、

    保延(ほうえん)年号に改元。 

  ● 1135年長承4保延元年)4月27日に、 

    和暦の「長承」(ちょうしょう、

    長承元年・1132年〜長承4・ 1135年) が、

    和暦の「保延」(ほうえん、

    保延 元年・1135年・ 4月27日

    保延 7年・1141年・ 7月10日) に

    改元される。 

  ● TKKI カナヤマ著 鎌倉幕府ガイドブック。

 

 

 ■ 1138年 (保延4年)。

 

  ● 北条時政の誕生。

  ■ 1138年(保延4年)に、北条時政(ほうじょ

    うときまさ、 1138年〜1215年)が、 伊豆

    国(いずのくに)の本土(静岡県東部の相当

    地域)で生まれる。

 

  ■ 北条 時政は、 伊豆国の在地小豪族であ

    り、 伊豆国の土豪、または、桓武平氏平直方

    流の武士といわれている。

 

  ■ 北条 時政は、  鎌倉北条氏の祖であり、

    鎌倉時代の得宗家(とくそうけ、= 鎌倉北

    条氏本家)の祖である。

 

  ■ 北条 時政は、 北条政子(ほうじょまさこ)

    や北条義時(ほうじょうよしとき)の父である。

 

  ■ 北条時政は北条政子の父。

  ● 北条時政は、 源頼朝の正室夫人の北条政

    子の父であり、 源頼朝や娘の北条政子を補

    佐する。

 

  ■ 北条時政は鎌倉幕府の創立に貢献。

  ● 北条時政は、 子の北条政子、北条義時と

    共に、源頼朝を助け、鎌倉幕府の創立に貢

    献する。

 

  ■ 北条時政は鎌倉幕府の執権、得宗。

  ● 北条時政は、 鎌倉幕府の初代執権であ

    り、 初代得宗 (とくそう、得宗家(= 鎌倉

    北条氏本家)の当主) である。

       但し、北条時政の子の北条義時(ほう

    じょうよしとき)を初代得宗とする場合もある。

 

  ■ 北条時政は、 桓武平氏高望流の平直方

    の子孫の平氏であるといわれ、 鎌倉

    幕府の初代将軍・源頼朝の正室夫人・北条

    政子の父で あり、 鎌倉幕府の初代執権で

    あり、 鎌倉北条氏の祖であり、 鎌倉北条

    氏本家当主(= 得宗(とくそう)であり、

    北条政子(まさこ)、北条義時(よしとき)の

    父である。

 

  ■ 北条 時政 (生没年:1138年〜1215年)

    は、

    平治の乱(へいじのらん、1159年 12月)で、 

    源頼朝の父・源義朝(みなもとのよしとも)が

    敗(やぶ)れた後捕(とら)えられ、伊豆

    流された源 頼 (生没年:1147年 ー11

    99年)の 2番目の監視役(監視期間:1175

    年〜1180年)であった。 

 

  ● 1番目の源頼朝の監視役(監視期間:

    1160年〜1175年)は伊東祐親(いとうす

    けちか)であった。 しかし、1175年の伊東

    祐親事件で監視役が伊東 祐親から北条時

    政に交代する。

 

  ● 北条 時政は伊勢平氏に味方せず、

    1177年頃、時政の娘の北条政子(1157

    年〜1225年)が源頼朝と婚儀を結び(自

    由恋愛結婚)、後に、婚儀を認め、源頼朝

    の重要な後援者となる。

 

  ● 北条 時政は、1180年(治承4年)の

    源頼朝の挙兵の最初から、源頼朝を助け、

    鎌倉幕府の創設に尽力(じんりょく)する。

 

 

 ■ 1145年 (天養2年・久安元年)。

      

  ● 天養年号から 久安年号に改元。

     久安年号:1145年ー1151年。

  ■ 1145年(天養2年・久安元年)に、

    久安(きゅうあん)年号に改元。   

  ● 1145年天養2年・久安元年)7月22日に、 

    和暦の「天養」(てんよう、

    天養元年・1144年〜天養2年・1145年) が、

    和暦の「久安」(きゅうあん、

    久安 元年・1145年・ 7月22日

    久安 7年・1151年・  1月26日) に

    改元される。 

  ● TKKI カナヤマ著 鎌倉幕府ガイドブック。

 

 

 ■ 1147年 (久安3年)。

 

  ● 源頼朝の誕生。

  ■ 1147年(久安3年)4月8日に、 源頼朝 

    (みなもとのよりとも、1147年ー1199年)

    は、 尾張国熱田(おわりのく・あつた)で 

    源義朝(みなもとのよしとも)の三男として、

    生まれる。

 

  ● 1147年(久安3年)4月8日に、 源 頼朝(み

    なもとのよりとも)が、 河内源氏の義朝(み

    なもとのよしとも)の子(三男)として、誕生する。 

       頼朝の生母は、由良御前 (ゆらごぜん)で

    ある。

 

 

 ■ 1156年 (久寿3年・保元元年)。

 

  ● 久寿年号から 保元年号に改元。

     保元年号:1156年ー1159年。

  ■ 1156年(久寿3年・保元元年)に、

    保元(ほうげん)年号に改元。 

  ● 1156年久寿3年・保元元年)4月27日に、 

    和暦の「久寿」(きゅうじゅ、

    久寿元年・1154年〜久寿3年・1156年) が、 

    和暦の「保元」(ほうげん、

    保元 元年・1156年・ 4月27日〜

    保元 4年・1159年・ 4月20日) に

    改元される。 

  ● TKKI カナヤマ著 鎌倉幕府ガイドブック。

 

 

 ■ 1157年 (保元2年)。

 

  ● 北条政子の誕生。

  ■ 北条政子 (ほうじょうまさこ、生没年:11

    57年〜1225年)が、

    1157年(保元2年)に、 伊 豆国本土の

    在地小豪族の北条時政の娘(長女)とし

    て、生まれる。

 

  ■ 北条政子は、 1157年(保元2年)に、 

    豆国本土(いずのくに・ほんど、現・静岡

    県東部・伊豆半島)の在地小豪族の北条

    時政(ほ うじょうときまさ、1138年〜12

    15年)の娘(長女)として、生まれる。

         北条政子は、 1177年(治承元年)

    頃、自由恋愛で、流人(流刑者)時代の

    頼朝と婚儀を結び、源頼朝の正室夫人に

    迎えられ、 1185年または1192年の源

    頼朝の鎌倉幕府創立後、 鎌倉幕府・初代

    将軍の御台所(みだいどころ、将軍の正室

    夫人)となる。

     

  ■ 源頼朝と婚儀後、北条政子は、 

    源頼朝との間に、

     大姫    (おおひめ)、

     源 頼家 (みなもとの よりいえ)、

     三幡      (さんまん、乙姫)、

     源 実朝  (みなもとの さねとも)、

    の4人の子をもうける(得る)。

 

  ■ 北条政子 (ほうじょうまさこ、生没年:

     1157年〜1225年)は、

     鎌倉幕府・初代将軍の源頼朝の正室夫人

     (御台所(みだいどころ))である。 源頼朝

     死後、落飾(らくしょく)して、尼御台(あま

     みだい)と呼ばれる。

 

  ■ 1199年建久10年)の鎌倉幕府初代

    将軍・源頼朝死後、鎌倉幕府の政治実権は、 

         1219年(建保7年)の鎌倉幕府3代将軍・

    源実朝の死去までは、 

     (1) 尼御台(あまみだい)の北条政子 と、  

     (2) 源氏将軍 (げんじしょうぐん、

        2代将軍・源頼家、3代将軍・源実朝) 

     とに二分割される。

        更に、1219年(建保7年)の鎌倉幕府

     3代将軍・源実朝の死後は、 尼御台の北

     条政子が、将軍代行(尼将軍)となり、 12 

     25年(嘉禄元年)の北条政子が死去するま

     で、鎌倉幕府政治実権を、一人で握る。

 

 

 ■ 1159年 (保元4年)。  

 

  ● 源頼朝が上西門院の蔵人

    に任官する。

  ■ 1159年(保元4年)2月に、統子内親王 

    (むねこないしんのう、鳥羽上皇の次女、1126

    年−1189年)が、 上西門院と女院号宣下(に

   ょいんごうせんげ)され、 源 頼朝は、上西門院

   (統子内親王)の蔵人(くろうど)に任命される。

           

  ■ 1159年(保元4年)3月 に、源 頼朝 (みな

    もとのよりとも)の生母・由良御前(ゆらごぜん)

    が、死去する。

 

 

 ■ 1159年 (保元4年・平治元年)。

 

  ● 保元年号から平治 年号に改元。

     平治年号:1159年ー1160年。

  ■ 1159年(保元4年・平治元年)に、

    平治(へいじ)年号に改元。 

  ● 1159年(保元4年・平治元年)4月20日

    和暦の「保元」(ほうげん、 

    保元元年・1156年〜保元4年・1159年) が、

    和暦の「平治」(へいじ、

    平治 元年・1159年・  4月20日

    平治  2年・1160年・ 1月10日) に

    改元される。 

  ● TKKI カナヤマ著 鎌倉幕府ガイドブック。

 

 

 ■ 1159年 (平治元年)。

 

  ● 平治の乱勃発。

  ■ 1159年(平治元年)12月に、源 頼朝は、

    平治の乱(へいじのらん、1159年 12月9日

     〜27日)では、 父・源義朝と共に、藤原

    信頼(ふじわらののぶより)方で参戦する。 

       しかし、藤原信頼方は、平治の乱で敗戦

     する。

        源義朝(みなもとのよしとも)は、東国

     に逃れる途中、1160年(平治2年)1月4日

     頃に、尾張国野間(おわりのくに・のま、現・

     愛知県西部・美浜町野間)で殺害される。

 

  ■ 源 頼朝は、 父・源義朝と共に、1159年

    (平治元年)12月 の平治の乱に参戦し敗れ、

    1160年(永暦元年)2月に捕らえられ、

    同年3月に伊豆国(いずのくに)本土の伊豆

    半島(静岡県東部)に流刑となる(流される)。

 

 

 ■ 1160年 (平治2年、永暦元年)。

      

  ● 平治年号から 永暦年号に改元。

     永暦年号:1160年ー1161年。

  ■ 1160年(平治2年、永暦元年)に、

    永暦(えいりゃく)年号に改元。  

  ● 1160年(平治2年、永暦元年)1月10日、 

    和暦の「平治」(へいじ、

    平治元年 ・1159年平治2年・1160 年) が、 

    和暦の「永暦」(えいりゃ く、

    永暦 元年・1160年・  1月10日

    永暦  2年・1161年・ 9月 4日) に

    改元される。 

  ● TKKI カナヤマ著 鎌倉幕府ガイドブック。

 

 

 ■ 1160年 (平治2年、永暦元年)。

 

  ● 源 頼朝の伊豆配流。

  ■ 源 頼朝は、 父・源義朝と共に、1159年

    (平治元年)12月 の平治の乱に参戦し敗れ、

    1160年(永暦元年)2月に捕らえられ、

    同年3月に伊豆国(いずのくに)本土の伊豆

    半島(静岡県東部)に流刑となる(流される、

    配流(はいる)される)。

 

  ■ 源頼朝は、 伊豆半島で、1160年(永暦元

    )から1180年(治承4年)まで(頼朝が数え

    年14歳から34歳まで)、流人(るにん、流刑

    者)として、過ごす。

 

    源頼朝 (1147年〜1199年)は、 

     平治の乱(へいじのらん、1159年 12月9日

     〜27日)に参  戦し敗(やぶ)れ、 1160 年

    (永暦元年)2月に捕えられる。

 

  ● 1160年(永暦元年)2月に、源 頼朝は、

     落ちのびる途中で捕えられ、京(きょう、京

     都)の六波羅(ろくはら)へ送られる。

 

  ●  平清盛の継母の池禅尼(いけのぜんに)など

    の助命嘆願により、死罪を免(まぬが)れ、11

    60 年(永暦元年)3月に、伊豆国へ流される

    (流刑となる)。

 

  ● 1160年(永暦元年)3月に、源 頼朝は、

    伊豆国(いずのくに)本土の伊豆半島(静岡県

    東部)へ流される。

 

  ● 伊豆国(いずのくに)本土の伊豆半島での

     流人の源 頼朝の監視役は、

     1160年(永暦元年)から1175年(安元元

     年)までの約15年間は伊東祐親(いとうす

     けちか)であり、

     1175年(安元元年)から1180年(治承4

     年)までの約5年間は、北条時政である。

 

  ● 源 頼朝は、 約20年間の流人(流刑者)

    生活で、 伊豆国本土(現・静岡県東部・伊

    豆半島)のどこに居住していたか、居住地

    は不明であり、 伊東祐親の館(いとうすけ

    ちかのやかた)、北条時政の館(ほうじょう

    ときまさのやかた)、北条氏領の蛭ヶ小島

    (ひるがこじま)などの説がある。

 

 

 ■ 1163年 (長寛元年)。

 

  ● 北条義時の誕生。

  ■ 1163年(長寛元年)に、北条義時 (ほうじ

    ょうよしとき、生没年:1163年ー1224年)

    は、 伊豆 国の在地小豪族の北条時政の次

    男として生まれる。

 

  ■ 北条義時(ほうじょうよしとき)は、北条 時政

    の子であり、 北条政子(ほうじょまさこ) の弟

    である。

 

  ■ 北条義時は北条政子の弟。

  ● 北条義時は、 源頼朝の正室夫人の北条政

    子の弟であり、 源頼朝や姉・北条政子を補

    佐する。

 

  ■ 北条義時は鎌倉幕府の創立に貢献。

  ● 北条義時は、 父の北条時政、姉の北条政

    子と共に、 源頼朝を助け、鎌倉幕府の創立

    に貢献する。

 

  ■ 北条義時は、鎌倉幕府の執権、得宗。

  ● 北条義時は、 鎌倉幕府の第2代執権であ

    り、 得宗家(= 鎌倉北条氏本家)の第2代得 

    宗(とくそう、得宗家(= 鎌倉北条氏本家の当

    主) である。

       但し、北条時政の子の北条義時(ほう

    じょうよしとき)を初代得宗とする場合もある。

 

  ■ 北条義時は源氏将軍消滅後の鎌倉幕府

     の最高指導者。

  ● 北条義時は、 源氏将軍が途絶えた後、姉

    の北条政子と共に、鎌倉幕府の実質的な最

    高指導者となる。

 

 

 ■ 1175年 (承安5年、安元元年)。

 

  ● 承安年号から 安元年号に改元。

     安元年号:1175年ー1177年。

  ■ 1175年(承安5年、安元元年)に、

     安元(あんげん)年号に改元。   

  ● 1175年(承安5年、安元元年)7月28日、 

    和暦の「承安」(じょうあん、しょうあん

    承安元年 ・1171年〜 承安5年・1175年) が、 

    「安元」 (あんげん、

    安元 元年・1175年・  7月28日

    安元 3年・ 1177年・ 8月4日) に

    改元される。 

  ● TKKI カナヤマ著 鎌倉幕府ガイドブック。

 

 

 ■ 1175年 (承安5年、安元元年)。

 

  ● 伊東祐事件 勃発。

  ■ 1175年(安元元年)9月に、伊東祐事件

    が起こる。  

         伊東祐事件によって、源頼朝の監

    視役が、伊東祐から北条時政に交代する。

 

  ● 伊東祐 (いとうすけちか)は、

     平家方の武将で、 伊勢平氏の平清盛から

     流人(るにん、流刑者、流罪にあった人)の

     源頼朝の監視役を依頼され、 1160年(

     暦元年)から1175年(安元元年)までの

     約15年の間 (源頼朝(数え年)14歳から

     29歳までの間)、伊豆半島で、流人の源頼

     朝の監視役を担っていた。

 

  ● 伊東祐が、 大番役 (おおばんやく、約3

     年間の京都大番役)を終え、京(都)から戻る

     と、 伊東祐が留守の間に、流人の源頼朝

     と伊東祐親の娘の八重姫(やえひめ)が親密

     となり、2人の間に、男子の千鶴丸(せんつる

     まる)が誕生していた男子の千鶴丸を得た)

     のを知り、驚き、激怒し、1175年(安元元年)

     9月に、平家の怒りを恐れて、 千鶴丸を川に

     沈めて殺害し、また、流人の源頼朝を殺害し

     ようとする。

 

  ● 伊東祐の次男の伊東祐清(すけきよ)が

     流人の源頼朝に知らせ、伊東祐の動向を

     知った、流人の源頼朝は、逃げ出し、伊豆山

     神社に逃げ、その後、北条時政の館(やか

     た)に逃げ込む。 

 

  ● その結果、 北条時政(ほうじょうときまさ)が、

     監視役の伊東祐より流人の源頼朝を預かり、 

     伊東祐に代わって、1175年(安元元年)

     から1180年(治承4年)までの約5年間 

     (源頼朝(数え年)29歳から34歳までの間)、 

     流人の源頼朝の監視役を担うこととなる。

 

  ● 伊東祐の次男の伊東祐清(すけきよ)

     は、 流人の源頼朝の乳母(うば)である

     比企尼(ひきのあま)の三女を妻にしていて、

     流人の源頼朝と親交があり、 伊東祐清の

     烏帽子親(えぼしおや、成人後の後見人)

     北条時政を頼るように流人の源頼朝に薦

     (すす)める。

 

  ● 比企尼(ひきのあま)は、 源頼朝の乳母

     (うば)の一人で、流人となった源頼朝を20

     年間、支援し続けた。 比企尼は、夫 ・比企

     掃部允(頼朝挙兵前死去、没年不明)の死

     後、甥(おい)の比企能員(ひきよしかず)に、

     比企氏の家督を継がせる。

        北条時政は、 伊東祐の娘婿であり、

     伊東祐の娘を正室夫人とする。 

        北条時政は、 伊東祐の娘正室

          夫人との間に 子を得て、その子たちは、

     北条宗時、北条政子、北条義時などである

     といわれている。

         比企尼の三女(ひきのあまのさんじょ)は、

     伊東祐清(すけきよ)の死後または祐清と

     離縁後、平賀義信と再婚し、平賀朝雅(ひら

     がともまさ)を産み、また、源頼家の乳母(う

     ば)の一人となる。

        平賀朝雅は、北条時政の娘を正室夫人 

      とする。

 

  ■ その後、1175年以後、北条時政の 頼朝監

     視期間中に、流人の 源頼朝は、監視役の伊

     豆半島の小豪族の北条家に取り入り、規模

     は小さいが武力を得て、1180年(治承4年)

     の平家打倒挙兵の基盤を固める。

 

  ● 北条時政による流人の源頼朝の監視期間の

     1175年(安元元年)から1180年(治承4年)

     までの間に、 北条政子と流人の源頼朝は、

     親密な関係となり、1177年(治承元年)頃 、

     婚儀を結び (自由恋愛結婚をし)、 1178年

     (治承2年)頃、北条 政子と流人の源頼朝の

     間に、娘 の大姫(おおひめ)が誕生する(娘

     の大姫を得る)。

 

 

 ■ 1177年 (安元3年・治承元年)。

 

   ■ 治承(じしょう)・年号改元。

  ● 伊勢平氏方・治承年号:

           1177年ー1181年。

  ● 河内源氏方・治承年号:

           1177年ー1184年。

 

   ■ 源平競合二重年号。

  ■ 1181年から1185年まで、

    日本で、源平競合二重年号が使用される。

 

  ■ 伊勢平氏政権(安徳天皇擁立)方

        の暦年号。

  ● 安元年号から治承年号に改元。

     治承年号:1177年〜1181年

  ■ 1177年(安元3年・治承元年)に。

    治承(じしょう)年号に改元。  

  ● 1177年(安元3年・治承元年8月4日、 

         和暦の「安元」(あんげん、

         安元元年・1175年安元3年・ 1177年) が、

    和暦の「治承」(じしょう、

    治承 元年・1177年・ 8月 4日

    治承 5年・1181年・ 7月14日)  に

    改元される。 

 

  ■ 河内源氏・源頼朝政権(後鳥羽天

    皇擁立)方の暦年号。 

  ● 安元年号から治承年号に改元。

     治承年号:1177年〜1184年

  ■ 1177年(安元3年・治承元年)に。

    治承(じしょう)年号に改元。  

  ● 1177年(安元3年・治承元年・8月4日、 

    和暦の「安元」(あんげん、

    安元元年・1175年安元3年・ 1177年) が、

    和暦の「治承 」(じしょう、

    治承 元年・1177年・  8月 4日

    治承 8年・1184年・ 4月16日) に

    改元される。 

 

  ▼ 1181年〜1185年の源平競合

    二重年号。

  ■ 伊勢平氏政権(安徳天皇擁立)

    方の暦年号。

 

   ■ 安元(あんげん)元年・1175年

            〜安元3年・1177年、 

     ⇒ 治承(じしょう) 元年・1177年

            〜治承5年・1181年、 

   ⇒ 養和(ようわ)   元年・1181

            〜養和2年・1182年、 

   ⇒ 寿永(じゅえい)元年・1182年

           〜寿永4年・1185年、

   ⇒ 暦年号編成中止。

 

  ▼ 1181年〜1185年の源平競合

    二重年号。

  ■ 河内源氏・源頼朝政権(後鳥羽

    天皇擁立)方の暦年号。 

 

   ■ 安元(あんげん) 元年・1175年

             〜安元3年・1177年、 

   ⇒ 治承(じしょう)   元年・1177年

             〜治承8年・1184年、 

   ⇒ 元暦(げんりゃく) 元年・1184

             〜元暦2年・1185年、

   ⇒ 文治(ぶんじ)    元年・1185年

            〜文治6年・1190年。

 

 

 ■ 1177年(治承元年)頃。

 

  ● 源頼朝と北条政子との間に、

    大姫誕生。

  ■ 1175年以後、北条時政の頼朝監視期間中

     に、流人の 源頼朝は、監視役の伊豆半島の

     小豪族の北条家に取り入り、規模は小さいが

     武力を得て、1180年(治承4年)の平家打倒

     挙兵の基盤を固める。

  ● TKKI カナヤマ著  鎌倉幕府ガイドブック。 

 

  ● 北条時政による流人の源頼朝の監視期間の

     1175年から1180年までの間に、 北条政子

     と流人の源頼朝は、親密な関係となり、1177

     年(治承元年)頃婚儀を結び (自由恋愛結婚を

     し)、 1178年(治承2年)頃、北条 政子と流

     人の源頼朝の間に、娘 の大姫(おおひめ)が

     誕生する(娘の大姫を得る)。

          北条時政は、後に、北条政子と流人

     の頼朝の婚儀(自由恋愛結婚)を認める。

 

  ■ 1177年(治承元年)頃に、源 頼朝は、自由

    恋愛で、北条政子と婚儀を結び、北条政子

    正室夫人に迎える。

 

  ■ 1177年(治承元年)頃に、源 頼北条

    政子は、婚儀を結び (自由恋愛結婚)、 北条

    時政は、 後にそれを認め、 源頼朝の重要な

    後援者となる。

 

  ■ 1178年(治承2年)に、源 頼北条 政

    の間に、長女の大姫(おおひめ)が生まれる。

  ● TKKI カナヤマ著  鎌倉幕府ガイドブック。 

 

 

 ■ 1178年 (治承2年)。

    

  ● 平清盛の孫の言仁皇子誕生。

  ■ 1178年(治承2年)11月に、平清盛の娘の

    中宮・徳子が高倉天皇の第一皇子の言仁

    (ときひと)を出産する。

 

  ■ 言仁(ときひと)親王・言仁皇太子出現。

  ● 平清盛は、 徳子が産んだ皇子を皇太子に

     することを後白河法皇に迫り、1178年(治

     承2年)11月9日に、親王宣下(しんのうせ

     んげ)が下されて言仁(ときひと)と命名され、

     11月15日に立太子した。 

 

  ● 言仁皇太子周辺から後白河法皇の院の近臣

    は排除され、後白河法皇は伊勢平氏に対し

    不満と警戒を強める。

 

 

 

 ■ 1179年 (治承3年)

 

   治承三年の政変。

  ■ 1179年(治承3年)11月に、治承三年の 

    政変(じしょうさんねんのせいへん)が起こる。

 

  ● 治承三年の政変は、

     1179年(治承3年)11月に、平清盛(たい

     らのきよもり)が軍勢を率いて京(きょう、京

     都)を制圧し、後白河院政を停止した事件で

     ある。

 

  ■ 1179年(治承3年)11月14日に、平清盛

     は、数千騎の軍を率いて、福原から京(都)

     に上洛し、八条殿に入る。

        1179年(治承3年)11月20日に、平清

     盛の指示で、後白河法皇は、京(都)南方の

     鳥羽殿(とばどの)に移され、幽閉状態となり、

     後白河院政は停止される。

         平清盛は、後の措置を平宗盛に託し、

     福原に引き上げる。

 

  ■ 伊勢平氏によって、除目の開催、平清盛の

     意のままになっていた高倉天皇の公式命令

     である宣命・詔書の発給などの措置により、

     太政大臣(だじょうだいじん)、公卿(くぎょう)、

     殿上人(てんじょうびと)、受領(ずりょう)、

     検非違使(けびいし)など31名を解官され、 

     諸国の受領(ずりょう、国司)の大幅な交代が

     行われ、 また、次々に後白河法皇の院の

     近臣の逮捕・所領の没収が行われ、 後白河

     法皇の第三皇子の以仁王(もちひとおう)も

     所領没収の憂き目にあう。 このことが、以仁

     王の平氏打倒の挙兵の直接的な原因となる。

 

  ■ 伊勢平氏の知行国は、 治承三年の政変

     のクーデター前の17ヶ国から32ヶ国までに

     なり、日本本土66ヶ国の約半分となる。

 

 

   治承三年の政変。

  ■ 平清盛と後白河法皇との京(都)の中央

     での対立は、 平清盛が勝ち、解決された

     が、地方では、  平氏の新知行国の目代

     (もくだい、代官、遥任国司の代理人)と

     国内武士との対立が起こり、激化するこ

     ととなる。

 

  ■ 知行国の国司交代により、伊勢平氏の

    新知行国では、 地元の武士は、平氏方

    の目代(もくだい、= 遥任国司の代理人)

    や 平氏寄りの豪族(武士団)から圧迫を

    受けたりして、不満が増大し、日本各地で、

    反平氏の気運が高まる。

     

  ■ 治承三年の政変のクーデター後に新しく

     伊勢平氏の知行国となった国では、

     その後、国司と国内武士との対立が起こる。

         特に、この時期に国司が交代した

     上総国(かずさのくに、現・千葉県中部)や

     相模国(さがみのくに、現・神奈川県)では、

     有力武士の上総の上総広常(かずさひろつ

     ね)、相模の三浦義明(みうらよしあき)は、 

     新任の平氏の目代(もくだい、代官、遥任

     国司の代理人)から圧迫をうけ、源 頼 朝の

     平氏打倒の挙兵に積極的に加わる要因と

     なる。 

 

 

#jphappenings-1180

 

 

 ■ 1180年 (治承4年)

 

  ● 安徳天皇即位・高倉院政開始。

  ■ 1180年(治承4年)2月に、高倉天皇は、

     言仁親王(安徳天皇)に譲位し、伊勢平氏

     の傀儡(かいらい)の高倉院政が開始され

     る。

 

 

 ■ 1180年 (治承4年)。

 

  ● 源 頼朝の平氏打倒の挙兵。

  ● 治承・寿永の戦いが始まる。

  ■ 1180年(治承4年)8月に、源 頼朝が、

     平家打倒の挙兵を行う。 

 

  ■ 最初に、1180年(治承4年)8月17日 に、

     源 頼朝方の軍は、 伊豆国本土(現・静

     岡県東部・伊豆半島)の目代(もくだい)の山

     木兼隆(やまきかねたか)の屋 敷を襲撃し兼

     隆を討ち取り、その後、約3百人の源 頼朝方

     の軍は、父・源義朝の拠点であった鎌倉を目

     指して行軍し、相模国(現・神奈川県)南西部

     の石橋山(いしばしやま)で、約3千人の大庭

     景親(おおばかげちか)・伊東祐親(いとうす

     けちか)の軍と遭遇する。 

 

  ■ 源 頼朝方の軍は、8月23日、24日に、

     石橋山の戦いで敗北し、命からがら逃げまど

     い、8月28日に、源 頼朝は、真鶴岬より船で

     安房国を目指す。

 

  ■ そして、源 頼朝は、1180年(治承4年)

     8月 29日に、安房国 (現・千葉県南部・

     房総半島南部)に逃れ、9月13日に、安房

     国を出て北上し、下総国(現・千葉県北部)

     で、9月17日に千葉常胤(ちばつねたね)が

     参陣し、9月19日に上総広常(かずさひろ

     つね)が参陣し、源 頼朝方の軍は、再軍備

     を行い、10月2日に、隅田川を渡り、武蔵国

     に入り、西方へ向かい、武蔵国、相模国(現・

     東京都本土・埼玉県、神奈川県)を通り、10

     月6日に、源 頼朝は、約2万5千人の兵と共

     に、相模国の鎌倉に入る。

 

  ■ 「以仁王の令旨」の発令。

   (1) 1180年(治承4年)4月に、以仁王と源頼政

     は、「以仁王の令旨」(もちひとおうのりょう

     じ)を、全国の源氏や大寺社へ発し、準備不

     足のまま、伊勢平氏打倒の挙兵を行う。

 

    ○ 1180年(治承4年)4月に、以仁王 (もち

     ひとおう、後白河法王の皇子(みこ)、親王宣

     下(しんのうせんげ)を受けていないので親王

     ではない) が、 源氏の源頼政(みなもとの

     よりまさ)と共に伊勢平氏打倒の挙兵を行い

     5月に失敗すると、 伊勢平氏は各地の源氏の

     謀反を疑い、源頼朝の身にも危機が迫り、挙

     兵せざるを得なくなり、 源頼朝は北条時政

     どの力をかりて、挙兵する。

     ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   (2) 1180年(治承4年)8月に、源 頼朝は、

       正室夫人の北条政子の父・北条時政(とき

       まさ)などの援助を得て、伊勢平氏打倒の

      兵を挙げる。

        源頼朝は、自身が危機の中にあることを

     悟り、挙兵を決意し、坂東(ばんどう、現・関東

     地方)の各豪族(武士団)に平氏打倒の挙兵

     を呼びかける。

 

  ■ 源 頼朝軍が伊勢平氏目代の

    山木兼隆の屋敷を襲撃し、

    兼隆を討ち取る。

 

  ■ 最初に、1180年(治承4年)8月17日に、 

      源 頼朝方の軍勢は、 伊豆国本土 (いず

      のくに・ほんど、現・静岡県東部・伊豆半島)

      の韮山(にらやま)にある平氏の目代 (も

      くだい、代官、遥任国司の代理人)の山木兼

      隆(やまきかねたか)の屋敷を北条氏等の

      少数の軍で襲撃し、兼隆を討ち取る。

         目代(もくだい)とは、遥任(ようにん)

      国司の代理人である。 

         遥任国司(ようにんこくし)とは、平安時

      代中期から鎌倉時代の時期に、国司は任国

      に赴任せず、目代(もくだい)とよばれる遥任

      国司の代理人を現地に派遣するなどして、

      目代が現地支配を行い、俸禄、租税などの

      収入を得た国司である。

 

  ■ 源頼朝が石橋山の戦いで敗北

     する。

   (3) 1180年(治承4年) 8月23日、24日に

     源頼朝方の軍・約300騎は、相模国(さが

     みのくに、現・神奈川県)南西部の石橋山

     (いしばしやま)の戦いで、平氏方の軍・約

     3000騎に敗北する。

 

   (4) 源 頼朝は、命からがら、逃走し、1180

     年(治承4年)8月28日に相模国(さがみの

     くに、現・神奈川県)南西部の真鶴岬(まな

     づるみさき)から、船で、安房国(あわのくに、

     現・千葉県南部・房総半島南部)に逃れ(脱

     出し)、 8月29日に安房国猟島に上陸する。

 

   ■ 源頼朝上総広常を味方に

     つける。

   (5)  源頼朝は、 1180年(治承4年)9月に、

     安房国・上総国・下総国(あわのくに・かずさ

     のくに・しもうさのくに、現・千葉県南部・中部・

     北部)の反平家方の武将に使者・書状を送り、

     1180年(治承4年)9月13日に、安房国

     (現・千葉県南部)から北上し、 房総の平家

     方の軍勢の攻撃を警戒しながら、 上総国

     (現・千葉県中部)を通り、 上総国 で、千葉

     常胤(ちばつねたね)や上総広常(かずさひ

     ろつね)と初めて会見する。

        その後、源 頼朝は、下総国(現・千葉県

     北部)に入り、下総国で再軍備を図る。 

        千葉常胤は、下総国の平家方勢力を

     掃討後、下総国(しもさうのくに、現・千葉県

     北部)の国府にいた源 頼朝に、 1180年(治

     約承4年)9月17日に、300騎の兵を率い

     て加勢し参陣し、また、上総広常は、上総国

     の平家方勢力を掃討後、隅田川辺にいた源

     頼朝に9月19日に、大軍の約2万騎の兵を

     率いて加勢し参陣する。 

         ここに、源 頼朝は、上総国で再挙兵を

     し、源 頼朝は、伊勢平氏に対抗する武力を

     得る。

 

   (6) 源頼朝は、 下総国から、上総広常の大軍

     率いて、 1180年(治承4年)10月2日に、

     墨田川(現・隅田川)を渡り、西方へ進軍し、 

     武蔵国(むさしのくに、現・東京都・埼玉県)に

     進軍し、更に、相模国(さがみのくに、現・神奈

     川県)に進軍し、 進軍中、南坂東(みなみば

     んどう、関東地方南部)各地の、多くの豪族

     (武士団)の加勢を受け、さらに大きな勢力と

     なる。

 

   ■ 源頼朝が鎌倉に入り、本拠地

     とする。

   (7) 1180年(治承4年)10月7日頃に、

     源頼朝は、 かって父・源義朝(みなもとの

     よしとも)や兄・源義平(みなもとのよしひら)

     が住んだ、相模国(さがみのくに、現・神奈

     川県)の鎌倉に入る。

       1180年(治承4年)10月より、源 頼朝

     は、 鎌倉を本拠地とし、鎌倉の大蔵御所

     (おおくらごしょ)を政治の拠点とする。

 

 

 ■ 1180年 (治承4年)。

 

  ● 富士川の戦い。

  ■ 1180年(治承4年)10月に、 富士川の戦

    いで、平氏軍は兵力差を知り撤退し、甲斐源

    氏軍と源 頼朝軍の連合軍は、平氏軍に対し

    「富士川の戦い」で勝利を得る。 

       以後、源 頼朝は、西上(せいじょう)せ ず、

    東国の坂東(ばんどう、関東地方)に戻り、そ

    の安定確保に専念する。

       以後、甲斐源氏の武田信義は、駿河国

    (するがのくに、現・静岡県中部)を勢力下に

    収め、 甲斐源氏の安田義定は、遠江国(とお

    とうみのくに、現・静岡県西部)を勢力下に収

    める。

 

  ■ 源 頼朝は、1180年(治承4年)10月 16日

     に、平氏軍と戦うため、鎌倉出発する。

 

  ■ 源 頼朝軍は、1180年(治承4年)10月 18

     日に、富士川の東方の黄瀬川(きせがわ)に

     陣を置く。

 

  ■ 甲斐源氏軍は、 1180年(治承4年)10月

     18日頃に、富士川の東側に陣を置く。

 

  ■ 富士川の戦い。

      1180年(治承4年)10月20日に、平氏軍は、

     富士川を挟んで、甲斐源氏軍と遭遇し、兵力差

     を知り、撤退する。

        平氏軍は、富士川の西側に布陣し、甲斐

     源氏軍は、富士川の東側に布陣し、平氏軍は、

     兵力差を知り、撤退する。

 

 

 ■ 1180年 (治承4年)。

 

  ● 頼朝と義経の初対面。     

  ■ 1180年(治承4年)10月21日に、源 頼朝が、

     黄瀬川の陣(静岡県清水町)で、 異母弟の源

     義経と会う (涙の対面を果たす)。

 

 

 ■ 1180年 (治承4年)。

 

  ● 鎌倉に侍所を置く。

  ■ 1180年(治承4年)11月に、源 頼朝は、

    職制として、鎌倉に、侍所(さむらいどころ)を

    設置する。

 

 

 ■ 1181年 (養和元年、治承5年)。

 

   ■ 養和(ようわ)・年号改元。

     伊勢平氏方・養和年号:

                       11 81年ー1182年。

 

   ■ 源平競合二重年号。

  ■ 1181年から1185年まで、

    日本で、源平競合二重年号が使用される。

 

  ■ 伊勢平氏政権(安徳天皇擁立)方

        の暦年号。

  ● 治承年号から養和年号に改元。

     養和年号:1181年〜1182年

  ■ 1181年(治承5年、養和元年)に、

    養和(ようわ)年号に改元。 

  ● 1181年( 治承5年、養和元年)7月14日、 

    和暦の「治承」(じしょう、

    治承元年・1177年治承5年・ 1181年) が、

    和暦の「養和」(よう わ

    養和 元年・1181年・ 7月14日

    養和 2年・1182年・ 5月27日) に

    改元される。     

 

  ▼ 1181年〜1185年の源平競合

    二重年号。

  ■ 伊勢平氏政権(安徳天皇擁立)

    方の暦年号。

 

   ■ 安元(あんげん)元年・1175年

            〜安元3年・1177年、 

     ⇒ 治承(じしょう) 元年・1177年

            〜治承5年・1181年、 

   ⇒ 養和(ようわ)   元年・1181

            〜養和2年・1182年、 

   ⇒ 寿永(じゅえい)元年・1182年

           〜寿永4年・1185年、

   ⇒ 暦年号編成中止。

 

  ▼ 1181年〜1185年の源平競合

    二重年号。

  ■ 河内源氏・源頼朝政権(後鳥羽

    天皇擁立)方の暦年号。 

 

   ■ 安元(あんげん) 元年・1175年

             〜安元3年・1177年、 

   ⇒ 治承(じしょう)   元年・1177年

             〜治承8年・1184年、 

   ⇒ 元暦(げんりゃく) 元年・1184

             〜元暦2年・1185年、

   ⇒ 文治(ぶんじ)    元年・1185年

            〜文治6年・1190年。

 

 

 ■ 1181年(養和元年、治承5年)。 

 

  ■ 平清盛死去。

   ■ 1181年(治承5年)2月に、 平清盛が、 

    死去する。

      平清盛は、 熱病で苦しみ、貿易立国の夢

    の実現を惜しみ、また、伊勢平氏の行く末

    安泰(あんたい)を願い、死去する。

 

 

 ■ 1182年(寿永元年、治承6年)。

 

    ■ 寿永(じゅえい)・年号改元。

      寿永年号:11 82年ー1185年。

 

    ■ 源平競合二重年号。

   ■ 1181年から1185年まで、日本で、源平競

    合二重年号が使用される。

 

   ■ 伊勢平氏政権(安徳天皇擁立)方の暦年号。

           寿永年号:1182年ー1185年)。

    1182年寿永元年)・寿永(じゅえい)改元。 

   ● 1182年・5月27日、 和暦の  「養和」 

    (ようわ、養和元年・1181年養和2年・

    1182年) が、 「寿永 (じゅ えい、寿永

    元年・1182年・5月27日寿永4年・

    1185年・3月24日) に改元される。 

   ● 寿永の後の年号は、伊勢平氏滅亡により

    暦年号編成は中止される。

 

   ◆ 1181年〜1185年の源平競合二重年号。

   ■ 伊勢平氏政権(安徳天皇擁立)方の暦年号。

   ● 安元(あんげん)元年〜3年 (1175年〜

    1177年) ⇒ 治承(じし ょう)元年〜5年 

    (1177 年〜1181年) ⇒ 養和(ようわ)

    元年〜2年 (1181〜1182年) ⇒ 

    寿永(じゅえい)元年〜4年(1182年〜

    1185年) ⇒  暦年号編成中止。

 

   ■ 河内源氏・源頼朝政権 (後鳥羽天皇擁立)方

    の暦年号。 

   ● 安元(あんげん)元年〜3年 (1175年〜

    1177年) ⇒ 治承(じしょ う)元年〜8年 

    1177年〜 1184年) ⇒ 元暦(げんりゃく)

    元年〜2年 (1184〜1185年) ⇒ 文治

    (ぶんじ)元年〜6年 (1185年〜1190年)。

 

 

 ■ 1182年(寿永元年治承 6年)。

 

   ■ 源 頼家(万寿)誕生。   

 

   ■ 源頼家 (みなもとのよりいえ、生没年:

    1182年〜1204年)は、

    源頼朝と北条政子との間の男子として、

    1182年(寿永 元年治承6年)8月12日

    に生まれる。  幼名は、万寿(まんじゅ)で

    ある。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 源頼家は、 鎌倉時代初期の武将であり、

     源氏の 将軍である。

 

   ■ 源頼家 (みなもとのよりいえ、 生没年:

     1182年〜1204年)は、

     清和源氏頼信流の河内源氏の、源 頼朝

     (みなもとのよりとも)男子であり、 

     鎌倉幕府の第2代将軍(1202年〜1203

     年)である。

             

   ■ 源頼家の生母は、 北条政子(ほうじょうまさ

     こ)である。 

             

   ■ 源頼家の父で鎌倉幕府の初代将軍の源頼

     が、1199年(建久10年)1月13日に死

     去する。

        源頼家は、 1199年(建久10年)1月

     26日に、数え年18歳で、源頼朝の家督を

     相続し、第2代鎌倉殿(鎌倉幕府の将軍家

     の家督を相続した者)となり、 1202年(建

     仁2年)7月22日に、数え年21歳で、征夷

     大将軍に宣下(せんげ)される。  

 

   ■ 源頼家の将軍在任は、

     1202年(建仁2年)7月から1203年(建

     仁3年)9月までである。

 

   ■ 十三人の合議制。

   ■ 十三人の合議制 

      (1199年〜2000年)。

   ● 源頼家は、 

    鎌倉幕府の初代将軍の源頼朝の死去後、

    1199年(建久10年)1月に、鎌倉幕府・

    将軍家の家督(かとく)を相続する。 

 

   ● しかし、約3カ月後に、1199年(建久

    10年)4月に、鎌倉幕府の政策決定での

    「十三人の合議制」(1199年〜2000年)

    が決められ、鎌倉殿(将軍)の源頼家の独

    裁権力は制限される。

 

   ● 十三人の合議制とは、 鎌倉幕府の

    訴訟などの政策決定では、鎌倉殿(将軍)

    の源頼家の独断を排し、有力御家人の宿

    老の合議(13人の数人でもよい)を経て

    源頼家が最終判断の親裁を下す方式で

    ある。 十三人の合議制は、1200年ま

    でに3人がいなくなり、1200年に取りや

    めとなる。

 

   ● 有力御家人の宿老の十三人とは、

     大江広元  (政所の別当(べっとう、長官))、 

     中原親能  (政所公事奉行人、京都守護)、

     二階堂行政 (政所執事)、

     三善康信  (問注所執事)、

     梶原景時  (侍所の別当、1199年失脚)、 

     足立遠元  (公文所寄人)、 

     安達盛長  (三河守護、1200年病死)、

     八田知家  (常陸守護)、

     比企能員  (信濃・上野守護、1203年

              謀殺)、

     北条時政  (伊豆、駿河、遠江守護、

              1205年追放・失脚)、

     北条義時  (寝所警護衆)、

     三浦義澄  (相模守護、1200年病死)、

     和田義盛  (侍所の別当、1213年滅亡)。

 

   ■ 比企能員の変

   ● 1203年(建仁3年)に、 源頼家 は、 

     病が重くなった時、鎌倉幕府・将軍家の

     家督を、源頼家の嫡男の一幡(いちまん)

     にすべて相続させようとした (『愚管抄 』

     より)

        しかし、1203年(建仁3年)9月に、

     北条時政は、一幡の外祖父の比企能員

     (ひきよしかず)が次期の鎌倉殿(将軍)の

     外祖父となり全盛し、北条氏が現在の鎌倉

     殿(将軍)の外祖父の地位を失い衰退する

     のを恐れて、比企能員を謀殺し、比企一族

     を殺害・流刑にし、比企与党の御家人の拘

     禁や所領没収などを行い、比企氏の勢力を

     除外する。

        1203年(建仁3年)9月に、源頼家 は、

     北条政子の命(めい)により、 源頼家は、

     出家し、将軍職を退位し、伊豆国本土(いず

     のくに・ほんど、現・静岡県東部・伊豆半島)

     の修善寺(しゅぜんじ)に追放され、幽閉さ

     れる。

 

   ■ 源頼家の暗殺

   ■ 2004年(元久元年)7月に、源頼家 は、

     鎌倉北条氏の手勢(手兵)によって数え年

     23歳で、暗殺される。

 

 

 ■ 1183年(寿永2年治承7年)。

 

   ■ 1183年(寿永2年治承7年)7月に、平氏

    は都落ちし、源(木曾)義仲が入京する(義仲

    軍の略奪多発)。

 

   ■ 源頼朝が寿永二年十月宣旨を

     受ける。

   ■ 1183年(寿永2年治承 7年10月に、後白

    河法皇(ごしらかわほうおう) が、 源(木曾)義

    仲討伐を源頼朝に要請する。 見返りに寿永

    二年十月宣旨(せんじ)を出し、源頼朝の東国

    支配権を容認する。

 

   ■ 1183年(寿永2年治承 7年)11月に、

    源義経が、源頼朝の代官として、西上を開始す

    る。

 

  ■ 上総広常の粛清。

   ■ 1183年(寿永2年、治承7年)12月20日に、 

    源頼朝と政治路線対立をしていた、上総広常

    (かずさひろつね)が、源頼朝の命令で、殺害

    される。

 

 

 ■ 1184年(寿永3年、治承8年)。

 

   ■ 源頼朝軍が源義仲(木曽義仲)

     討伐。

   ■ 1184年(寿永 3年、治承8年)1月に、

    源範頼が、源頼朝の代官として、西上を開始す

    る。

 

   ■ 1184年(寿永 3年、治承8年)1月に、源 頼朝

    が京(きょう、京都)方面へ派遣した弟の源範頼

    (のりより)と源義経(よしつね)が、  京都近郊で

    合流し、源範頼と源義経が指揮を執り、 源義仲

    (よしなか、木曾義仲)を討伐する。

           

   ■ 1184年(寿永3年、治承8年)1月に、後白河

    法皇(ごしらかわほうおう) が、平氏討伐を源頼

    朝に要請する。 見返りに平家没官領(もっかん

    りょう)支配権を、源頼朝に与える。

 

   ■ 1184年(寿永3年、治承8年)2月に、摂津(せ

    っつ)の一の谷(いちのたに)の合戦が源平間

    で起こる。 源範頼と源義経 が指揮を執り、源氏

    軍が勝利する。

 

   ■ 1184年(寿永3年、治承8年)2月の一の谷

     戦いの勝利後、 源頼朝の命(めい)により、

     源範頼は、鎌倉に帰り、 源義経は、京(都)に

     留まって治安維持や地方軍政を行う。

         しかし、伊勢平氏残党が畿内周辺におり、

     1184年(寿永3年、元暦元年) 7月から8月に

     かけて、伊勢平氏残党の反乱が起こり、源義経

     の率いる源氏軍が鎮圧する。 

         平氏残党の反乱に対する後白河法皇や

     貴族たちの動揺は大きく、伊勢平氏残党の反乱

     の最中の1184年(寿永3年、元暦元年) 8月6

     に、源義経 は、後白河法皇より、検非違使(け

     びいし)に任じられる。 

         近年の研究では、源義経が平氏追討(西

     国平氏追討軍)から外(はず)されたのは『吾妻

     鏡』が記すように無断任官による源頼朝の怒り

     のためではなく、京(都)の治安維持に源義経

     が必要であり、後白河法皇や貴族たちの強い

     反対があったためと考えられている。

         源頼朝は、畿内周辺の伊勢平氏残党の

     反乱を重視し、源義経を西国平氏追討軍に加え

     ず、 1185年(寿永4年、元暦2年)1月まで、

     京(都)治安維持に従事させる

     

 

 ■ 1184年(寿永3年、元暦元年)。

 

    ■ 元暦(げんりゃく)・年号改元。

     元暦年号:1184年ー1185年。

 

    ■ 源平競合二重年号。

   ■ 1181年から1185年まで、日本で、源平競

    合二重年号が使用される。

 

   ■ 河内源氏・源頼朝政権(後鳥羽天皇擁立)方

   の暦年号。 (元暦年号:11 84年〜1185年)。

    11 84年元暦元年)・元暦( げんりゃく)改元。 

   ● 1184年・4月16日、 和暦の 「治承」 

    (じしょう、治承元年・1177年治承8年・

    1184年) が、 「元暦」 (げんりゃく、元暦

    元年・1184年・4月16日元暦2年・1185

    年・8月14日) に改元される。 

 

   ◆ 1181年〜1185年の源平競合二重年号。

   ■ 伊勢平氏政権(安徳天皇擁立)方の暦年号。

   ● 安元(あんげん)元年〜3年 (1175年〜

    1177年) ⇒ 治承(じし ょう)元年〜5年 

    (1177 年〜1181年) ⇒ 養和(ようわ)

    元年〜2年 (1181〜1182年) ⇒ 

    寿永(じゅえい) 元年〜4年(1182年〜

    1185年) ⇒  暦年号編成中止。

 

   ■ 河内源氏・源頼朝政権 (後鳥羽天皇擁立)方

    の暦年号。 

   ● 安元(あんげん)元年〜3年 (1175年〜

    1177年) ⇒ 治承(じしょ う)元年〜8年 

    1177年〜 1184年) ⇒ 元暦(げんりゃく)

    元年〜2年 (1184〜1185年) ⇒ 文治

    (ぶんじ)元年〜6年 (1185年〜1190年)。

 

 

 

 ■ 1184年(寿永3年、元暦元年)。

 

   ■ 源氏軍の中国地方・九州地方征伐。

   ● 1184年(寿永3年、 元暦元年)8月に、源頼朝

     は、源 範頼に、約3万人の源氏軍で、九州進軍を

     命じる。

        九州進軍の目的は、伊勢平氏討伐ではなく、

     源頼朝と対立し平氏を援助する西国家人を鎮圧

     し、平氏を瀬戸内海地域に孤立させることである。

        源 範頼率いる九州遠征軍は、山陽道(現・

     中国地方)を進軍し制圧し、長門国(ながとのくに、

     山口県西部)まで進軍し、1185年(寿永4年、

     元暦2年)1月に、周防国(すおうのくに、山口県

     東部)から船で九州に渡り、 1185年(寿永4年、

     元暦2年)2月に、博多・大宰府まで進撃し、九州

     地方北部を制圧する。

         この源氏軍の中国地方・九州地方征伐に

     よって、伊勢平氏は、中国・九州地方からの援助

     を失い、孤立する。

 

   ■ 1184年(寿永3年、 元暦元年)10月に、源頼

    朝が、職制として、鎌倉に、公 文所(くもんじょ)、

    問注所(もんちゅうじょ)を設置する。

 

 

#jphappenings-1185

 

 

 ■ 1185年

        (寿永4年/元暦2年・文治元年)。

 

    ■ 文治(ぶんじ)・年号改元。

     文治年号:1185年ー1190年。

 

    ■ 源平競合二重年号。

   ■ 1181年から1185年まで、日本で、源平競

    合二重年号が使用される。

 

   ■ 河内源氏・源頼朝政権(後鳥羽天皇擁立)方

   の暦年号。 (文治年号:11 85年〜1190年)。

    11 85年文治元年)・文治( ぶんじ)改元。 

   ● 1185年・8月14日、 和暦の「元暦」 

    (げんりゃく、元暦元年・1184年元暦2

    年・1185年) が、 「文治 (ぶんじ、

    治元年・1185年・8月14日文治6年・

    1190年・4月11日) に改元される。 

 

   ◆ 1181年〜1185年の源平競合二重年号。

   ■ 伊勢平氏政権(安徳天皇擁立)方の暦年号。

   ● 安元(あんげん)元年〜3年 (1175年〜

    1177年) ⇒ 治承(じし ょう)元年〜5年 

    (1177 年〜1181年) ⇒ 養和(ようわ)

    元年〜2年 (1181〜1182年) ⇒ 

    寿永(じゅえい) 元年〜4年(1182年〜

    1185年) ⇒  暦年号編成中止。

 

   ■ 河内源氏・源頼朝政権 (後鳥羽天皇擁立)方

    の暦年号。 

   ● 安元(あんげん)元年〜3年 (1175年〜

    1177年) ⇒ 治承(じしょ う)元年〜8年 

    1177年〜 1184年) ⇒ 元暦(げんりゃく)

    元年〜2年 (1184〜1185年) ⇒ 文治

    (ぶんじ)元年〜6年 (1185年〜1190年)。

 

 

 ■ 1185年

    (寿永4年/元暦2年・文治元年)。

 

   ■ 1185年(寿永4年、元暦2年)1月に、四国

     方面の伊勢平氏を討伐せよという源頼朝の

     命(めい)を受けた源義経が京(都)を出発し、

     2月に、讃岐国(さぬきくに、現・四国の香川

     県)で、屋島(やしま)の合戦が源平間で起こ

     る。  

        源義経が率いる源氏軍が勝利を得る。

 

  ■ 伊勢平氏滅亡。

   ■ 源 範頼源 義経が指揮する源 頼朝の軍は、

    伊勢平氏の軍を、長門国彦島(ながとのくに・ひ

    こしま、現・山口県下関市南端)に追い詰め、 

    1185年(寿永4年、元暦2年)3月24日に 、

    伊勢平氏を壇ノ浦(だんのうら)の戦いで滅ぼす。

 

   ■ 1185年(寿永4年、元暦2年)3月に、壇ノ浦

    (だんのうら)の戦いが源平間で起こり、源氏軍が

    勝利を得て、伊勢平氏が滅亡する。

 

 

 ■ 1185年

        (寿永4年/元暦2年・文治元年)。 

 

   ■ 源義経と源頼朝が対立する。

   ■ 1185年(文治元年)10月、後白河法皇が、

    源義経に源頼朝追討の院宣(いんぜん)を

    発給する。 後に取り消す。

       1185年(文治元年)10月に、義経は、

    後白河法皇に源頼朝追討の院宣(いんぜん)

    を要請し、源頼朝追討の宣旨(せんじ)が下る。 

      しかし、 義経の元に兵が集まらず、

    経は、挙兵に失敗する。

      その後、結局、源義経は奥州・平泉(おうし

    ゅう・ひらいずみ)へ逃亡する。

 

   ■ 1185年(文治元年)11月に、義経は、京(き

    ょう、京都)を落ちる。 その後、解官される。 

            

   ■ 1185年(文治元年)11月に、 源頼朝が、

    後白河法皇に、源義経 追討の院宣(いんぜ

    ん)を要求し、認められる。

             

   ■ 1185年(文治元年)に源頼朝が、従二位

    叙任される。

 

   ■ 1185年(文治元年)に 源頼朝は、 職制

    として、京都守護と鎮西奉行(ちんぜいぶぎ

    ょう)をおく。

 

 

 ■ 1185年

        (寿永4年/元暦2年・文治元年)。

 

  ■ 守護・地頭の設置。

 

   ■ 文治の勅許。

   ● 1185年(文治元年)11月に、 源頼朝が、

    朝廷の後白河法皇に諸国に、守護・ 地頭

    (しゅご・じとう)の設置の許可を要求 し、認

    められる。 

 

   ● 頼朝は、1185年(文治元年)以後、職制

    として、地 方各地に、守護や地頭をおく。

 

   ■ 守護・地頭の設置、 頼朝の政権樹立。

   ● 1185年(文治元年)11月に、源 頼朝

    は、朝廷の許可を得て、諸国に守護(しゅご)、

    地頭(じとう)を置き(設置し)、 朝廷から政

    治の実権の一部を奪い、政権の基礎を築き、

    鎌倉幕府を事実上(実質上)成立させる。

 

   ● 守護・地頭の設置

       源 頼朝は、 1185年(文治元年)に、

    行方をくらました源義経を捕まえるという義

    経追討の名目で、 朝廷に、諸国に守護・

    地頭を設置することを認めさせる。

 

   ● 守護・地頭の設置

       守護・地頭の設置では、 武家の源 頼

    朝は、 自分の任命した武士を、日本本土

    の全国に配置できるようになる。

       守護の設置とは、  武家の源頼朝の

    任命した武士が日本本土の諸国(令制国)

    の各国で警察の役目を行うことができこと

    である。

       地頭の設置とは、 武家の源 頼朝の

    任命した武士が日本本土の諸国(令制国)

    の各国の各地で、土地の管理を行うことが

    できことである。  

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 1189年(文治5年)。

 

   ■ 奥州藤原氏滅亡。

 

   ■ 1189年(文治5年)(うるう)4月に、

    源頼朝は、 奥州藤原氏の藤原泰衡(ふじ

    わらのやすひら)に源義経追討を要求する。

 

   ■ 源義経が自害する。

   ■ 1189年(文治5年)(うるう)4月に、

    藤原泰衡は、衣川(ころもがわ)の戦いで、

    源義経を自害に追い込む。

 

   ■ 1189年(文治5年)7月に、源頼朝は、

    後白河法皇に奥州藤原氏追討の院宣を

    要求する。

 

   ■ 1189年(文治5年)9月に、源頼朝は、

    奥州を平定し、奥州藤原氏が滅亡する。

 

   ■ 1189年(文治5年)に、源頼朝は、職制として、

    奥州総奉行(おうしゅうそうぶぎょう)をおく。

 

 

 ■ 1190年 (文治6年・建久元年)。

 

    ■ 建久(けんきゅう)・年号改元。

       建久年号:11 90年ー1199年。

 

   ■ 1190年建久元年)・建久(けんきゅう)改元。 

   ● 1190年4月11日、 和暦の「 文治」 (ぶ

    んじ、文治元年・1185年文治6年・1190

    年) が、 「建久」 (けんきゅう、建久元年・

    1190年・4月11日建久10年・1199年・

    4月27日) に改元される。 

 

 

 ■ 1190年 (文治6年・建久元年)。  

 

   ■ 1190年(建久元年)11月に、 後白河法皇は、

    源頼朝を権大納言・右近衛大将に叙任する。 

       源頼朝は、同年12月に両官を辞する。

    朝廷の京(きょう、京都)の公事(くじ)への参加

    義務を有する権大納言・右近衛大将の両官を辞

    任しない限り、源頼朝が鎌倉へ戻るのが困難に

    なるためである。

 

 

 ■ 1191年 (建久2年) 1月。

 

   ■ 1191年(建久2年)1月に、源頼朝は、職制と

    して、鎌倉に、公文所に代わり、政所(まんどこ

    ろ、前右大将家政所)を開設する。

 

 

#jphappenings-1192

 

 

 ■ 1192年 (建久3年)。

 

   ■ 後白河法皇崩御(死去)。

   ■ 1192年(建久3年)3月に、後白河法皇が

     崩御(死去)する。

 

   ■ 1192年(建久3年)7月に、 鎌倉幕府(かま

     くらばくふ)が、名実ともに、成立する。

 

   ■ 源頼朝・初代将軍就任。

    1192年 (建久3年)7月に、 

      源頼朝 (みなもとのよりとも、将軍在任 :11

     92年〜1199年)は、 鎌倉幕府(1185年

     または1192年ー1333年)の初代将軍とな

     る。

 

   ● 1192年(建久3年)7月12日に、

     源頼朝は、後鳥羽天皇によって、征夷大将軍 

     (せいいたいしょうぐん)に任じられる (征夷

     大将軍の宣下を受ける)。

 

   ● 源頼朝が生前の後白河法皇に征夷大将軍(せ

    いいたいしょうぐん)への任官を要求するが、後

    白河法皇が拒(こば)んだという説は、近年、疑

    問視され、有力な説ではない (「山槐記」より)。

 

   ■ 朝廷より独立した武家政権(武家政治)

      の始まり。

   ● 1192年 (建久3年)7月に、 

      源頼朝(みなもとのよりとも、将軍在任 :11

     92年〜1199年)は、 征夷大将軍(せいい

     たいしょうぐん)に任じられ、鎌倉幕府(11

     85年または1192年ー1333年)を開き、 

     その後・約670年にわたる朝廷より独立した

     武家政権(武家政治)の創始者となる。

   ● TKKI カナヤマ著 鎌倉幕府ガイドブック。   

 

   ● 1192年(建久3年)7月に、

     源 頼朝は、 征夷 大将軍(せいいたいしょう

     ぐん)に任じられ、名実ともに、鎌倉幕府

     開き、 日本の政治の実権を握り、約67 0年

     にわたる、朝廷から独立した武家政権(武家

     政治)の創始者となる。 

       但し、前期の鎌倉幕府は、主に、東日本

     の政治の実権を握る。

         一方、平安時代末期の、伊勢平氏政権

    (政治)は、朝廷と融合した武家政権(武家政

    治)であった。

 

 

 ■ 1192年(建久3年)。

 

  ■ 源 実朝(千幡)誕生。 

 

   ■ 源 実朝 (みなもとの さねとも、生没年:

    1192年〜1219年)は、

    源頼朝と北条政子との間の男子として、

    1192年(建久3年)8月9日に生まれる。 

    幼名は、千幡(せんまん)である。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 源 実朝は、 鎌倉時代初期の武将であり、

     源氏の 将軍である。

 

   ■ 源 実朝 (みなもとの さねとも、生没年:

    1192年〜1219年)は、

     清和源氏頼信流の河内源氏の、源 頼朝

     (みなもとのよりとも)男子であり、 

     鎌倉幕府の第 3代将軍1203年 〜 12

     19年)である。

             

   ■ 源 実朝の生母は、 北条政子(ほうじょうま

     さこ)である。 

 

   ■ 頼家の将軍辞退

     と源実朝将軍就任。

   ■ 源 実朝の兄で鎌倉幕府の第2代将軍の源

     頼家は、1203年(建仁3年)9月7日に、

     の北条政子命(めい)により、出家し、第2代

     鎌倉殿を辞退し、第2代将軍職を退位する。 

        源 実朝は、 1203年(建仁3年)9

     15日に、数え年12歳で、頼家の家督を

     相続し、第3代鎌倉殿(鎌倉幕府の将軍家

     の家督を相続した者)となり、 1203年

     (建仁3年)9月15日に、数え年1 2歳で、

     征夷大将軍に宣下(せんげ)される。  

 

   ■ 源頼家の将軍在任は、

     1203年(建仁3年)9月から1219年

     (建保7年)1月までである。

 

  ■ 比企能員の変と執権北条氏の出現。

  ● 北条時政は、 1203年(建仁3年)9月に、

    比企能員の変(ひきよしかずのへん)の

    クーデターで、源実朝を将軍に擁立し、

    鎌倉幕府の第3代将軍に就けることに

    成功し、 鎌倉幕府の政治の実権を得て、

    将軍を補佐する職の執権職に就き、初代

    執権(しっけん)となる。

  

  ■  源実朝が暗殺される。

  ● 源実朝は、 1219年(建保7年)1月 27日

    に、 鎌倉・鶴ヶ岡 八幡宮(つるがおかはち

    まんぐう)で拝賀を終え退出の途中で、公暁

    (くぎょう、実朝の兄・源頼家の男子)に襲わ

    れて、 数え年28歳で、落命する。

  ● TKKI カナヤマ著 鎌倉幕府ガイドブック。

 

 

 ■ 1193年(建久4年)。

 

  ■ 曽我兄弟仇討ち事件と

     源頼朝殺害未遂事件。

   ■ 曽我事件が起こる。 

   ● 曽我事件(そがじけん)とは、 1193年

    (建久4年)5月に、富士山の山麓(裾野)で、

    源頼朝主催の富士の巻狩(まきが)り時、  

    曽我十郎祐成そがじゅうろうすけなり)と曽

    我五郎時到そがごろうときむね)の兄弟が、

    親の仇(かたき)の工藤経(くどうすけつ ね)

    を討ち取った事件である。 

       曽我兄弟は、 工藤経だけでなく、

    頼朝の宿所も襲い、頼朝を殺害しようとする

    が、頼朝はかろうじて逃げる。 頼朝の護衛

    の武士が殺される。 源頼朝は謀反をいだい

    た関係者を処分する (吾妻鏡より)。

 

  ■ 源範頼の粛清。

   ■ 1193年(建久4年)8月に、 曽我事件をき

    っかけに、源頼朝の異母弟の源範頼(みなもと

    ののりより)は、突然、失脚 する(追放され、殺

    害される)。

 

  ■ 1193年(建久4年)5月に、曽我事件が起こ

    ってすぐ、源頼朝が討たれたという誤報が鎌倉

    に届き、北条政子が嘆き悲しむ。 

        そこで、源範頼(みなもとののりより)は、

    北条政子に 「後にはそれがしが控えておりま

    す。安心してください」と述べる。

  ● このことを聞いた源頼朝は、源範頼に疑惑

    をいだき、追放し、源頼朝の命令で、殺害する。

  ● TKKI カナヤマ著 鎌倉幕府ガイドブック。 

 

 

 ■ 1199年(建久10年・正治元年)。

 

    ■ 正治(しょうじ)・年号改元。

       正治年号:1199年ー1 202年。

 

   ■ 1199年( 正治元年)・正治(しょうじ)改元。 

   ● 119 9年4月27日、 和暦の「 建久」 

    (けんきゅう、建久元年・11 90年建久10年・

    1199年) が、 「正治」 (しょうじ、正治元年・

    1199年・4月27日〜正治3年・1201年・

    2月13日) に改元される。 

 

 

 ■ 1199年(建久10年・正治元年)。 

 

   ■ 源頼朝の死去

 

   ■ 1199年(建久10年)1月13日に、鎌倉幕

     府の初代将軍の、源頼朝 (み なもとのよりと

     も、生没年:1147年〜1199年、将軍在任:

     1192年〜1199年)が、 死去する。 

       享年(きょうねん)数え年53歳であった。

 

   ● 1198年(建久9年)12月27日に、相模川

     で催された橋供養の帰路で体調を崩(くず)

     し(容体が悪くなり)(『鎌倉大日記』から)、

     その後容体が回復せず、1199年(建久10

     年)1月13日に、死去する (『猪隅関白記』、

     『百錬抄』から) 。 

 

         ■ 北条政子 (ほうじょうまさこ、生没年:

     1157年〜1225年)は、

     鎌倉幕府・初代将軍の源頼朝の正室夫人

     (御台所(みだいどころ))である。 源頼朝

     死後、落飾(らくしょく)して、尼御台(あま

     みだい)と呼ばれ、源頼朝の将軍権力を引

     き継ぐ。

 

   ■ 1185年(文治元年)から1199年建久10

     年)まで鎌倉幕府の 政治実権(主導権)を一

     人で握っていた独裁初代将軍の源頼朝の

     は、鎌倉幕府の政治実権(主導権)は、 

     1199年建久10年)から1219年(建保7

     年)の鎌倉幕府の 第3代将軍・源実朝が死去

     するまで、 (1) 尼御台の北条政子 と、  

     (2) 源氏将軍 (2代・源頼家、3代・源実

     朝) の2人に二分割される。

        そして、1219年(建保7年)から1225

     年(嘉禄元年)北条政子が死去するまで、

     尼御台の北条政子が、 将軍代行(尼将軍)

     となり、鎌倉幕府の 政治実権(主導権)を、

     一人で握る。

        そして、1225年(嘉禄元年)の将軍代

     行(尼将軍)の北条政子の死去から 1333

     年(元弘3年)の鎌倉幕府滅亡まで、 得宗

     (とくそう、= 鎌倉北条氏本家当主)が、鎌倉

     幕府の 政治実権(主導権)を一人で握る。

 

   ● 1199年 (建久10年)に、鎌倉幕府の将軍・

     源 頼朝の正室夫人の御台所(みだいどころ、

     将軍の正室夫人)の北条政子は、 落飾して

     尼になり、尼御台(あまみだい)と呼ばれる。

 

  ■ 源 頼家の鎌倉殿就任。

   ● 1199年 (建久10年)1月に、源頼家が、

     源頼朝の家督を相続し、鎌倉殿 (かまくら

     どの、鎌倉幕府の将軍家の家督を相続した

     者) となる。

 

 

 ■ 1199年(建久10年・正治元年)。 

 

   ■ 十三人の合議制成立。 

 

   ■ 十三人の合議制 

      (1199年〜2000年)。

   ● 源頼家は、 

    鎌倉幕府の初代将軍の源頼朝の死去後、

    1199年(建久10年)1月に、鎌倉幕府・

    将軍家の家督(かとく)を相続する。 

 

   ● しかし、約3カ月後に、1199年(建久

    10年)4月に、鎌倉幕府の政策決定で 頼家

    に助言する「十三人の合議制」(1199年

    〜2000年)が決められ、鎌倉殿(将軍)の

    源頼家の独裁権力は制限され る。

 

   ● 十三人の合議制とは、 鎌倉幕府の

    訴訟などの政策決定では、鎌倉殿(将軍)

    の源頼家の独断を排し、有力御家人の宿

    老の合議(13人の数人でもよい)の助言

    を経て、源頼家が最終判断の親裁を下す

    方式である。

 

   ● 有力御家人の宿老の十三人とは、

     大江広元  (政所別当)、 

     中原親能  (政所公事奉行人、京都守護)、

     二階堂行政 (政所執事)、

     三善康信  (問注所執事)、

     梶原景時  (侍所別当、1199年失脚)、 

     足立遠元  (公文所寄人)、 

     安達盛長  (三河守護、1200年病死)、

     八田知家  (常陸守護)、

     比企能員  (信濃・上野守護、1203年

              謀殺)、

     北条時政  (伊豆、駿河、遠江守護、

              1205年追放・失脚)、

     北条義時  (寝所警護衆)、

     三浦義澄  (相模守護、1200年病死)、

     和田義盛  (侍所別当、1213年滅亡)。

 

 

 ■ 1201年(正治3年・建仁元年)。

 

    ■ 建仁(けんにん)・年号改元。

       建仁年号:1201年ー1 204年。

 

   ■ 1201年( 建仁元年)・建仁(けんにん)改元。 

   ● 1 201年2月13日、 和暦の「正治」 

    (しょうじ、正治元年・11 99年〜 正治3年・

    1201年) が、 「建仁」 (けんにん、建仁元年・

    1201年・2月13日〜建仁4年・1204年・

    2月20日) に改元される。 

 

 

#jphappenings-1202

 

 

 ■ 1202年(建仁2年)。

 

  ■ 源頼家の第2代将軍就任。

 

   ■ 源頼家第2代将軍就任。

   ● 1202年 (建仁2年)7月に、 源頼家 (み

     なもとのよりいえ、将軍在任:1202年〜120

     3年)は、鎌倉幕府(1192年ー1333年)の

     第2代将軍となる。

  ● TKKI カナヤマ著 鎌倉幕府ガイドブック。 

 

   ■ 源頼朝の死後、1202年 (建仁2年)7月

      鎌倉幕府第2代将軍に、源頼家 (みなも

      とのよりいえ、将軍在任:1202年〜120

      3年)が就任し、 比企能員(ひきよしかず)

      、 娘の若狭局(わかさのつぼね)を源頼

      家の側室夫人とし嫡男・一幡を産ませ、ま

      た、源頼家の乳母父(乳母の夫)として、

      将軍家外戚(将軍の外祖父)として権勢を

      強める。

         将軍家外戚(将軍の外祖父)の地位は、

      北条 時政から、源頼家の舅(しゅうと)で乳

      母父(乳母の夫)の比企能員(ひきよしかず)

      に移り、 この比企氏の台頭に危機感を持っ

      たのが、北条政子の父・北条時政と源頼家

      の生母・北条政子であり、 北条 時政の源実

       朝一派と比企能員の源頼家一派との政権争

      奪対立が激しくなる。 

  ● TKKI カナヤマ著 鎌倉幕府ガイドブック。

 

 

#jphappenings-1203

 

 

 ■ 1203年(建仁3年)。

 

   ■ 阿野全成が殺害される。

   ■ 千幡(せんまん、源実朝)を擁立する北条 時

     政の源実朝一派 と、 源頼家を擁立する比企

     能員の源頼家一派 との政権争奪対立がある

     中、 源実朝一派の阿野全成(あのぜんじょう)

     源頼家によって殺害される。 

         1203年(建仁3年)5月に、源頼家は、

     源頼家一派と対立する阿野全成を謀反人(む

     ほんにん)として捕縛し、常陸国(ひたちのくに、

     現・茨木県)に配流し、阿野全成は、同年6月

     に源頼家の命(めい)で、殺害される。

 

   ■ 比企能員の変(1203年)

   ● 1203年(建仁3年)に、 源頼家 は、病が重 

     くなった時、鎌倉幕府・将軍家の家督を、源

     家の嫡男の一幡(いちまん)にすべて相続させ

     ようとした (『愚管抄 』より)

        しかし、1203年(建仁3年)9月に、

     北条時政は、一幡の外祖父の比企能員

     (ひきよしかず)が次期の鎌倉殿(将軍)の

     外祖父となり全盛し、北条氏が現在の鎌倉

     殿(将軍)の外祖父の地位を失い衰退する

     のを恐れて、比企能員を謀殺し、比企一族

     を殺害・流刑にし、比企与党の御家人の拘

     禁や所領没収などを行い、比企氏の勢力を

     除外する。

        1203年(建仁3年)9月に、源頼家 は、

     北条政子の命(めい)により、 源頼家は、

     出家し、将軍職を退位し、伊豆国本土(いず

     のくに・ほんど、現・静岡県東部・伊豆半島)

     の修善寺(しゅぜんじ)に追放され、幽閉さ

     れる。

 

  ■ 2004年(元久元年)7月に、源頼家 は、

     鎌倉北条氏の手勢(手兵)によって数え年

     23歳で、暗殺される。

  ● TKKI カナヤマ著 鎌倉幕府ガイドブック。

 

   ■ 比企能員の変(1203年)

 

   ● 源頼家は、 1203年(建仁3年)に、病が

     重くなり、あとは頼家の嫡男の一幡(いちま

     ん)に譲ろうとする (『愚管抄 』より)

 

   ● これを知った北条時政が、 一幡の外祖父

     の比企能員(ひきよしかず)が次期の鎌倉殿

     (将軍)の外祖父となり全盛し、北条氏が現

     在の鎌倉殿(将軍)の外祖父の地位を失い

     衰退するのを恐れて、 1203年(建仁3年)

     月2日に、比企能員を謀殺し、北条義時が

     軍勢を率いて、鎌倉の一幡の邸宅の小御所

     にいる比企一族を襲い殺害する。

        比企能員の娘で一幡の生母の若狭局

     (わかさのつぼね)は、一幡を抱いて、逃げ

     延びる (『愚管抄』より)

 

  ■ 源頼家の将軍退任。

   ● 1203年(建仁3年)9月7日に、北条政子

     の命(めい)により、源頼家は、出家し、将軍

     職を退位する。 

 

  ■ 源実朝の第3代鎌倉殿

     将軍就任。

   ■ 1203年(建仁3年)9月15日に、

     千幡(源実朝)に征夷大将軍が宣下される。

 

    1203年(建仁3年)929日に、

     源頼家は、鎌倉を追放され、伊豆国修善寺

     に退く。

 

    1203年(建仁3年)11に、逃げ延びた

     一幡も、北条義時の手勢によって捕えられ、

     殺害される (『愚管抄』より)

 

  ■ 源頼家が暗殺される。

   ■ 源頼家は、  

     1203年(建仁3年)9月に将軍退位後、同月

     に伊豆国修善寺で幽閉され、 2004年(元久

     元年)7月に、鎌倉北条氏の手勢(手兵)に

     よって数え年23歳で、殺害される (『愚管抄』

     より。 

        源頼家は、伊豆国修善寺で入浴中、暗殺

     される(『愚管抄』より)。

 

 

 ■ 1203年(建仁3年)。

 

  ■ 源実朝の第3代鎌倉殿

         将軍就任。

   ■ 源実朝第3代将軍就任。

   ● 1203年(建仁3年)9月に、 源実朝 (み

    なもとのさねとも、将軍在任:1203年〜12

    19年)は、 鎌倉幕府(1192年ー1333

    年)の第3代将軍となる。

 

   ■ 1203年(建仁3年)9月、北条政子と 

      北条 時政は、 源実朝 (み なもとのさねと

      )を擁立して、鎌倉幕府第3代将軍(将軍

      在任:1203年〜1219年)に就任させる。

 

  ■ 北条時政の鎌倉幕府の

     初代執権就任

   ■ 北条 時政・鎌倉幕府の初代執権就任

   ● 1199年(建久10年)の源頼朝の死後、

      1203年(建仁3年)に、北条 時政 (ほう

        じょう ときまさ)は、 源実朝を擁立し鎌倉

      幕府の第3代将軍に就任させて、鎌倉幕

      の 実権を握(にぎ)り、 鎌倉幕府の初

      代執権  (将軍補佐職、執権在職:1203

      年ー1205年)に就任する。

 

 

 ■ 1203年(建仁3年)。

 

  ■ 執権北条氏の出現。

     北条得宗家の出現。

         北条時政の鎌倉幕府の初代

     執権就任

   ■ 1203年(建仁3年)に、 執権北条氏

    (しっけんほうじょうし、1203年ー1333年) 

    が、出現する。

 

   ■ 北条 時政・鎌倉幕府の初代執権就任

   ● 1199年(建久10年)の源頼朝の死後、

    1203年(建仁3年)に、北条 時政 (ほう

      じょう ときまさ)は、 源実朝を擁立し鎌倉

    幕府の第3代将軍に就任させて、鎌倉幕

    の 実権を握(にぎ)り、 鎌倉幕府の初

    執権  (将軍補佐職、執権在職:1203

    年ー1205年)に就任する。

 

   ■ 北条 時政は、  北条得宗家当主であり、

    鎌倉北条氏本家当主である。

 

   ■ 北条 時政は、  鎌倉北条氏の祖であり、

    鎌倉時代の鎌倉北条氏本家の祖であり、

    広義では、得宗である。

 

   ■ 鎌倉幕府の執権(しっけん)職は、1203年

    (建仁3年)の北条時政の初代執権就任から

    1333年(元弘3年)の北条(赤橋)守時の

    第16代執権まで、鎌倉幕府滅亡まで、鎌倉 

    北条氏が代々世襲する。

 

   ■ 北条 時政(1138年〜1215年)は、平治

    の乱(へいじのらん、1159年〜1160年)

    で敗(やぶ)れ た後伊豆に流された源 頼

    (1147年ー1199年)の監視役であった

    (監視期間:1175年〜1180年)が、 

    伊勢平氏を裏切り、源頼朝の重要な後援者

    となる。

       北条 時政は、1180年(治承4年)の

    源頼朝の挙兵の最初から、源頼朝を助け、

    鎌倉幕府の創設に尽力(じんりょく)する。

 

  ■ 北条時政の失脚と

     北条義時の第2代執権就任。

   ■ 北条時政失脚と北条義時執権就任。

       1205年(元久2年)に、北条 時政は、 

    後妻の牧の方(まきのかた)と共謀(きょう

    ぼう)して、平賀朝雅を将軍に擁立(ようり

    つ)しようとして露見(ろけん)し、 隠退出

    家(いんたいしゅっけ)する。 

       代わって、1205年(元久2年)に、

    北条時政の 子 ・北条義時(ほうじょうよし

    とき)が、 鎌倉幕府の第2代執権となる。

 

 

 ■ 1204年(建仁4年・元久元年)。

 

    ■ 元久(げんきゅう)・年号改元。

       元久年号:1204年ー1 206年。

 

   ■ 1204年( 元久元年)・元久(げんきゅう)改元。 

   ● 1 201年2月13日、 和暦の「建仁」 

    (けんにん、建仁元年・1201年〜 建仁4年・

    1204年) が、 「元久」 (げんきゅう、元久元年・

    1204年・2月20日元久3・1206年・

    4月27日) に改元される。 

 

 

 ■ 1204年(元久元年)。

 

  ■ 源頼家が暗殺される。

   ■ 2004年(元久元年)7月に、源頼家は、

      数え年23歳で、伊豆国修善寺で入浴

      中、暗殺される(『愚管抄』より)。

 

 

 ■ 1205年(元久2年)。

 

  ■ 北条時政の失脚と

     北条義時の鎌倉幕府の

     第2代執権就任。

 

   ■ 北条時政失脚と北条義時氏執権就任。

   ● 1205年(元久2年)に、北条 時政は、 

    後妻の牧の方(まきのかた)と共謀(きょう

    ぼう)して、平賀朝雅を将軍に擁立(ようり

    つ)しようとして露見(ろけん)し、 隠退出

    家(いんたいしゅっけ)する。 

       代わって、1205年(元久2年)に、

    北条時政の 子 ・北条義時(ほうじょうよし

    とき)が、 鎌倉幕府の第2代執権となる。

 

   ■ 北条義時鎌倉幕府の第2代執権就任

   ● 1205年(元久2年)に、北条 義時(ほうじ

    ょう よしとき)は、 鎌倉幕府の第2代執権

    執 権在職:1205年ー1224年)に就任する。

 

   ■ 北条義時は、 北条得宗家(とくそうけ、

    鎌倉北条氏本家)出身であり、 得宗(とく

    そう、北条得宗家当主、鎌倉北条氏本家当主)

    であり、 北条時政の子であり、 法名を徳

    徳宗(とくそう)と称す。 

 

 

 ■ 1219年(建保7年 ・承久元年)。

 

    ■ 承久(じょうきゅう)・年号改元。

     承久年号:1219年ー1222年。

 

   ■ 1219年承久元年)・承久(じょうきゅう)

     改元。 

   ● 1 219年4月12日、 和暦の「建保」 

    (けんぽう、建保元年1213年〜建保7年・

    1219年) が、 「承久」 (じょうきゅう、

    承久元年・1219年・4月12日承久4年・

    1222年・4月13日) に改元される。 

 

 

 ■ 1219年(建保7年 ・承久元年)。

 

  ■ 第3代鎌倉殿・将軍の源実朝        

     が殺害される。

 

   ■ 1219年(建保7年)1月に、鎌倉幕府の第

    3代将軍の源実朝が暗殺される。

 

   ● 源実朝は、1219年(建保7年)1月27日に、

     数え年28歳で、鎌倉・鶴ヶ岡八幡宮で拝賀

     を終え退出の途中で、「親の敵(かたき)は

     かく討つぞ」と叫ぶ公暁(くぎょう、源頼家の

     男子)に襲われて、落命する。

 

         ■ 北条政子 (ほうじょうまさこ、生没年:

     1157年〜1225年)は、

     鎌倉幕府・初代将軍の源頼朝の正室夫人

     (御台所(みだいどころ))である。 源頼朝

     死後、落飾(らくしょく)して、尼御台(あま

     みだい)と呼ばれ、源頼朝の将軍権力を引

     き継ぐ。

 

   ■ 1219年(建保7年)に源実朝が暗殺された

     後、 尼御台(あまみだい)の北条政子は、

     将軍代行 (尼将軍(あましょうぐん)となる。

 

  ■ 藤原頼経(三寅)を第4代鎌倉殿

     とする。

   ■ 北条政子は、 1219年(建保7年)に 源頼

     朝の遠戚の男子である、三寅 (みとら、藤原

     頼経の幼名)を擁立して、数え年2歳で鎌倉に

     迎え入れる(将軍に内定する)。

         後に、三寅 (藤原頼経(ふじわらのよ

     りつね)、1218年ー1256年)は、鎌倉北条

     氏によって、鎌倉幕府の第4代将軍の傀儡将

     軍(政治実権のない将軍)となる。

         三寅(藤原頼経)は、源頼朝の生母の

     良御前(ゆらごぜん)の同母姉妹・坊門姫(ぼう

     もんひめ)の曾孫(ひまご)である。

 

 

 ■ 1220年(承久2年)

 

   ■ 源頼朝直系子孫の男子(源氏

     将軍)の血筋が絶える。

 

    ■ 源頼朝の直系子孫は、

      1220年(承久2年)に、 源頼朝の 男子

      の貞暁 と、 源頼朝の 孫娘の竹御所 の

      2人のみとなる。

 

    ● 禅暁 (ぜんぎょう、生没年:生年不詳〜

      1220年、源頼家の四男、母は「昌寛法

      橋(しょうかんほっきょう)の娘」)は、

      源頼朝の孫の男子である。 

          禅暁は、1204年の父・源頼家暗殺

      後、出家して仁和寺に入り、 母・「昌寛法

      橋の娘」は三浦胤義(みうらたねよし)と再

      婚する。 

          禅暁は、 1219年(建保7年)の公

      暁の源実朝暗殺で公暁と通じていたという

      口実で(嫌疑をかけられ)、 1220年(承

      久2年)4月に、北条義時の郎党によって、

      京(都)の東山付近で討たれる。 数え年

      17〜19歳位と推測される。

 

    ● 禅暁の死によって、源頼家の4人の男子

      はすべて死去する。

         また、禅暁の死によって、源頼朝の

      系子孫は、 源頼朝と大進局(だいしんの

      つぼね)との間の男子の貞暁 (じょうぎ

      ょう、生没年:1186年−1231年) と、

      源頼朝と北条政子との間の子・源頼家 の

      娘の竹御所 (たけのごしょ、生没年:12

      02年〜1234年)の源頼朝の孫娘の2人

      のみとなる。

 

   ● 承久の乱では、 禅暁の母の夫の三浦胤

      義は京方の中心武士の一人として戦う。

 

 

 ■ 1221年(承久3年)

 

   ■ 承久の乱勃発。

 

   ■ 1221年(承久3年)に、承久の乱(じょうき

     ゅうのらん、1221年)が起こる。

 

         ■ 北条政子 (ほうじょうまさこ、生没年:

     1157年〜1225年)は、

     鎌倉幕府・初代将軍の源頼朝の正室夫人

     (御台所(みだいどころ))である。 源頼朝

     死後、落飾(らくしょく)して、尼御台(あま

     みだい)と呼ばれ、源頼朝の将軍権力を引

     き継ぐ。

 

   ■ 1221年(承久3年)5〜6月に、後鳥羽上

    皇が中心となって京方の討幕軍を起こし

    一方、将軍代行(尼将軍)の北条政子と執権

    の北条義時が、幕府軍を主導し、京方の後鳥

    羽上皇側の討幕軍を敗北させる。

 

   ● 1221年(承久3年)5月15日に、「北条義

    時追討の宣旨」(せんじ、朝廷の命令)が全

    国に発布され、諸国の武士に鎌倉幕府の

    幕のため後鳥羽上皇の元に馳せ参じるよう

    に命令が出され、討幕軍が結成される。

       一方、鎌倉幕府の御家人たちは朝敵と

    なることに動揺したが、尼将軍の北条政子

    が源頼朝以来の恩顧を訴える声明を出し御

    家人たちを団結させる。 幕府首脳による軍

    議で、鎌倉幕府は、京(きょう、京都)への出

    撃を決定し、御家人に動員令を出し、幕府

    軍は、1221年(承久3年)5月21日に、鎌

    倉を発し、途中で、主に東国武士たちが続

    々と鎌倉幕府の動員令に応じて、大軍勢と

    なって都に攻め上(のぼ)り、幕府軍は、12

    21年(承久3年)6月15日に、京(きょう、京

    都)を制圧する。

  ● TKKI カナヤマ著 鎌倉幕府ガイドブック。

 

   ■ 鎌倉幕府の幕府首脳は、 承久の乱の京

    方の後鳥羽上皇に味方した皇族、貴族、武

    士を、厳しく処分する。

      鎌倉幕府の幕府首脳は、 承久の乱の、

    多くの京方の皇族を配流し荘園・所領を没収

    し、 多くの京方の貴族を処刑・流罪・解官し

    荘園・所領を没収し、 多くの京方の武士を斬

    罪し所領を没収する。 

      幕府は、 承久の乱の京方の皇族・貴族・

    武士より、所領・約30,000箇所を没収し、 

    幕府に味方した武士たちを新たに地頭に任命

    し、その多くの所領を、恩賞として与える。

       幕府は、承久の乱後、朝廷を親幕府派の

    皇族、貴族を中心に再編成し、 朝廷や西国

    (さいごく、西日本)の監視機関として六波羅

    探題(ろくはらたんだい)を新たに京(きょう、京

    都)に設置する。

 

   ■ 承久の乱後、鎌倉幕府の鎌倉北条氏の北条

    政子や執権・得宗の北条義時は、 幕府内での

    最高権力者としての地位を確立し、 鎌倉北条

    氏の主導する鎌倉幕府は、 朝廷に対し、支配

    的地位を得る。

 

   ■ 鎌倉幕府の実質的全国支配が

     始まる。

   ■ 承久の乱後、鎌倉幕府の支配は、 西国(さ

    いごく、西日本)に及び、鎌倉北条氏の主導す

    る鎌倉幕府は、全国的な政権となる。

 

   ■ 六波羅探題 の設置。

   ■ 六波羅探題は、 承久の乱(じょうきゅうの

    らん、1221年)後、 京( きょう、京都)に設置

    された。

     それ以後、六波羅探題は、 鎌倉幕府の西

    国(さいごく、西日本)支配の重要な拠点となる。

 

   ■ 鎌倉幕府の、六波羅探題 (ろくはらたんだ

    い、存立期間 :1221年〜1333年)は、 鎌倉

    時代に、 朝廷の監視、京(都)内外の警備、西

    国(せいごく)の統轄のために、京(京都)に置か

    れた、鎌倉幕府の、地方行政機関である。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 1222年(承久4年・貞応元年)。

 

    ■ 貞応(じょうおう)・年号改元。

      貞応年号:1222年ー1224年。

 

   ■ 1222年( 貞応元年)・貞応(じょうおう)

     改元。 

   ● 12 22年4月13日、 和暦の「承久」 

    (じょうきゅう、承久元年・ 1219年承久4年・

    1222年) が、 「貞応」 (じょうおう、

    貞応元年・1222年・4月13日貞応3年・

    1224年11月20日) に改元される。 

 

 

 ■ 1224年(貞応3年 ・元仁元年)。

 

    ■ 元仁(げんにん)・年号改元。

      元仁年号:1224年ー1225年。

 

   ■ 1224年( 元仁元年)・元仁(げんにん)

     改元。 

   ● 12 24年11月20日、 和暦の「貞応」 

    (じょうおう、貞応元年・ 1222年貞応3年・

    1224年) が、 「元仁」 (げんにん、

    元仁元年・1224年・11月20日〜 元仁2年・

    1225年4月20日) に改元される。 

 

 

 ■ 1224年(貞応3年 ・元仁元年)。

 

   ■ 北条義時の死去。

     北条泰時鎌倉幕府の第3代

     執権就任。  

 

   ■ 鎌倉幕府の第2代執権北条 義時 (ほう

     じょうよしとき、生没年:1163年〜1224

     年)が、 122 4年(貞応3年)6月13日に、

     死去する。

 

   ■ 1224年(貞応3年)6月に、北条義時が急死し、

     尼御台で将軍代行(尼将軍)の北条政子は、

     幕府事務官僚トップの大江広元(= 中原広元)

        と協議し、 北条泰時 (ほうじょうやすとき、

     北条政子の異母弟・北条義時の子) と、

     北条時房 (ほうじょうときふさ、北条政子の

     異母弟)を御所に呼んで、両名を執権 (しっけ

     ん、鎌倉殿(将軍)後見役) に任命する。

 

   ■ 北条泰時の鎌倉幕府の第3代執権就任。

   ● 1224年(貞応3年)に、 北条 泰時 (ほう

     じょう やすとき)は、 鎌倉幕府の第3代執  

     (執権在職:1224年ー1242年)に就任

    する。

 

   ■ 北条泰時は、 北条義時の子である。

     北条泰時は、 北条得宗家(とくそうけ、鎌倉

     北条氏本家)出身であり、 得宗(とくそう、

     北条得宗家当主、鎌倉北条氏本家当主)

     である。 

    

   ■ 北条得宗家の内管領の出現。

   ■ 1224年(貞応3年)閏7月に、鎌倉幕府

     の第3代執権の北条泰時は、 鎌倉北条氏

     本家(= 得宗家、北条氏嫡流家)の家政を

     司(つかさど)る「家令」(かれい、内管領

     (ないかんれい)の前身)を置き、 尾藤景綱

     (びとうかげつな)を任命する。

 

 

 ■ 1225年(元仁2年・嘉禄元年)。

 

    ■ 嘉禄(かろく)・年号改元。

      嘉禄年号:1225年ー1227年。

 

   ■ 1225年( 嘉禄元年)・嘉禄(かろく)

     改元。 

   ● 12 25年4月20日、 和暦の「元仁」 

    (げんにん、元仁元年・ 1224年元仁2年・

    1225年) が、 「嘉禄」 (かろく、

    嘉禄元年・1225年・4月20日〜 嘉禄3年・

    1227年12月10日) に改元される。 

 

 

 ■ 1225年(元仁2年・嘉禄元年)。 

 

   ■ 北条政子の死去。  

 

   ■ 尼御台(あまみだい)で将軍代行(尼将軍)の

     北条政子 (ほうじょうまさこ、生没年:1157年

     〜1225年)が、 1225年(嘉禄元年)7月

     11日に、死去する。

 

   ● 1225年(嘉禄 元年)6月に、有力幕臣の大江

     広元(= 中原広元)が没し、7月に、北条政子

     世を去る。

 

         ■ 北条政子 (ほうじょうまさこ、生没年:

     1157年〜1225年)は、

     鎌倉幕府・初代将軍の源頼朝の正室夫人

     (御台所(みだいどころ))である。 源頼朝

     死後、落飾(らくしょく)して、尼御台(あま

     みだい)と呼ばれ、源頼朝の将軍権力を引

     き継ぐ。

 

   ■ 1225年(嘉禄 元年)7月に、尼御台(あまみ

     だい)で将軍代行(尼将軍)の北条政子に代わ

     って、 北条 泰時 (ほう じょう やすとき)が、 

     鎌倉幕府の第3代執権 (執権在職:1224年

     ー1242年)が、

     鎌倉幕府の政治実権をもつ。

 

   ■ 1199年建久10年)の鎌倉幕府初代

     将軍・源頼朝死後、鎌倉幕府の政治実権は、 

         1219年(建保7年)の鎌倉幕府3代将軍・

     源実朝の死去までは、 

     (1) 尼御台の北条政子 と、  

     (2) 源氏将軍 (2代将軍・源頼家、3代将

         軍・源実朝) 

     とに二分割される。

        更に、1219年(建保7年)の鎌倉幕府

     3代将軍・源実朝の死後は、 尼御台の北

     条政子が、将軍代行(尼将軍)となり、 12 

     25年(嘉禄元年)の北条政子が死去するま

     で、鎌倉幕府政治実権を、一人で握る。

 

 

   ■ 北条政子は、 1157年(保元2年)に、 

    豆国本土(いずのくに・ほんど、現・静岡

    県東部・伊豆半島)の在地小豪族の北条

    時政(ほ うじょうときまさ、1138年〜12

    15年)の娘(長女)として、生まれる。

         北条政子は、 1177年(治承元年)

    頃、自由恋愛で、流人(流刑者)時代の

    頼朝と婚儀を結び、源頼朝の正室夫人に

    迎えられ、 1185年まはた1192年の源

    頼朝の鎌倉幕府創立後、 鎌倉幕府・初代

    将軍の御台所(みだいどころ、将軍の正室

    夫人)となる。

     

   ■ 源頼朝と婚儀後、北条政子は、 

     源頼朝との間に、

     大姫    (おおひめ)、

     源 頼家 (みなもとの よりいえ)、

     三幡      (さんまん、乙姫)、

     源 実朝  (みなもとの さねとも)、

     の4人の子をもうける(得る)。

 

 

 ■ 1225年(元仁2年・嘉禄元年)。 

 

   ■ 執権・北条 泰時の武家政治

     開始。

 

   ■ 1225年(嘉禄 元年)7月に、 武家の鎌倉

     北条氏で鎌倉幕府の第3代執権北条 泰時

     が、 日本の政治の実権を握り、武家政治を

     始める。 

 

   ■ 尼御台(あまみだい)で将軍代行(尼将軍)の

     北条政子 (ほうじょうまさこ、生没年:1157年

     〜1225年)が、 1225年(嘉禄 元年)7月

     11日に、死去する。

 

   ■ 1225年(嘉禄 元年)7月に死去した、尼御台

     (あまみだい)で将軍代行(尼将軍)の北条政子

     に代わって、 北条 泰時 (ほう じょう やすとき

     生没年:1183年〜1242年、第3代執権(執

     権在職:1224年ー1242年) が、鎌倉幕府

     政治実権をもつ。

 

   ■ 執権・北条泰時が連署と評定衆

      を設置する。

 

   ■ 北条 泰時は、 源頼朝から北条政子にいたる

     専制政治に代わり、 集団指導制、合議政治

     を打ち出す。

 

   ● 北条 泰時は、 幕政の主導者(一位の執権)

    となり、 次位の執権(後に連署と呼ばれる)の

    北条時房とは妥協と協力体制を樹立し、両執権

    体制が確立する。

 

   ● 北条 泰時は、 三浦義村らの有力御家人代表 

    と 中原師員(なかはらのもろかず)らの幕府事務

    官僚からなる合計11人の評定衆(ひょうじょうしゅ

    う)を選んで政所に出仕させ、これに、一位・次位

    の執権(後の執権と連署)を加えた13人の評定

    会議を新設して、幕府の最高機関とし、政策や人

    事の決定、訴訟の採決、法令の立法などを行った。

 

   ■ 北条 泰時は、 鎌倉幕府第3代将軍・源実朝

    (みなもとのさねとも)暗殺後に新たに鎌倉殿と

    して京(都)から迎えられていた、数え年8歳の

    三寅(みとら)を1225年(嘉禄元年)12月に元

    服させ、藤原頼経(ふじわらのよりつね)と名乗

    らせ、1226年(嘉禄2年)1月に、征夷大将軍の

    宣下を受けさせ、鎌倉幕府の傀儡将軍の第4代

    将軍とする。 

       また、北条 泰時は、 1230年(寛喜2年)

    12月に、藤原頼経に、源頼朝の孫娘(源頼家

    の娘)の竹御所(たけのごしょ)を妻に迎えさせ

    る。

 

   ■ 北条 泰時は、 1225年(嘉禄元年)12月に、

     源頼朝以来の幕府の大倉御所(大蔵御所)

     (1180年ー1219年、鶴岡八幡宮の東)

     に代わって、宇都宮辻子御所(鶴岡八幡宮

     の南)を新造する。 

         1225年(嘉禄元年)12月に、

     鎌倉殿の藤原頼経がここに移転し、評定衆

     を加えた最初の評定会議がここで開かれ、

     以後はすべての賞罰は、執権・北条泰時自身

     で決定する旨を宣言する。

         この出来事は、将軍独裁時代をやめ、

     合議的な執権政治を発足させる象徴的な出

     来事である。

 

   ■ 執権・北条泰時が御成敗式目を

     成立させる。

 

   ■ 北条 泰時は、 日本における最初の武家法典

     である「御成敗式目」(ごせいばいしきもく)をつ

     くる。

        「御成敗式目」は、 もっぱら日本社会の

     慣習や倫理観に則(のつと)って独自に創設さ

     れた固有法である。 

 

 

#jphappenings-1226

 

 

 ■ 1226年(嘉禄2年)。

 

  ■ 藤原頼経の第4代将軍

    (傀儡将軍)就任。

 

   ■ 藤原頼経・鎌倉幕府の第4代将軍就任。

   ● 1226年(嘉禄2年)1月に、 鎌倉幕府の

     第4代将軍に、 第4代鎌倉殿の藤原頼経 

     (ふじわらのよりつね、=九条頼経、将軍在

     任:1226〜12 44年)が、就任する。

 

   ● 第4代将軍から第9代将軍までの鎌倉

    幕府の将軍は、鎌倉北条氏の傀儡将軍で

    あった。

 

   ■ 藤原頼経(ふじわらの よりつね、九条頼経、

    生没年:1218年〜1256年)は、

    幼名を三寅(みとら)といい、

    鎌倉幕府の第4代将軍(将軍在位:1226年〜

    1244年)である。 

 

   ■ 藤原頼経(幼名は三寅(みとら))は、 

     源頼朝の遠戚の男子であり、 1219年(建保

     7年)に源実朝が暗殺された後、 将軍代行

     (尼御台(あまみだい)、尼将軍(あましょうぐん)

     の北条政子が擁立して、1219年(建保7年)に

     数え年2歳で鎌倉に迎えられ(将軍に内定し)、 

     後に、鎌倉北条氏によって、傀儡将軍(政治実

     権のない将軍)となる。

         藤原頼経(三寅)は、源頼朝の生母の

     良御前(ゆらごぜん)の同母姉妹・坊門姫(ぼう

     もんひめ)の曾孫(ひまご)である。

 

   ● 藤原頼経(三寅)は、1225年(嘉禄元年)12月

     に元服後、1226年(嘉禄2年)1月に征夷大将

     軍の宣下を受け、鎌倉幕府の第4代将軍将軍と

     なる。 

             

   ● 数え年13歳の藤原頼経は、

     1230年(寛喜2年)に源頼家の娘で源頼朝の

     孫娘の数え年29歳の竹御所(たけのごしょ)を

     正室夫人とする。 しかし、竹御所は、1234年

     (天福2年)に夫婦間に子がないまま死去する 

     (難産の末男児を死産し本人も死去する)。 

         ここに、源頼朝の直系子孫はいなくなり、

     断絶する。

 

 

 ■ 1234年(天福2年・文暦元年)。

 

    ■ 文暦(ぶんりゃく)・年号改元。

      文暦年号:1234年ー1235年。

 

   ■ 1234年( 文暦元年)・文暦(ぶんりゃく)

     改元。 

   ● 12 34年11月5日、 和暦の「天福」 

    (てんぷく、天福元年・ 1233年〜天福2年・

    1234年) が、 「文暦」 (ぶんりゃく、

    文暦元年・1234年・11月5日〜 文暦2年・

    1235年9月19日) に改元される。 

 

 

 ■ 1234年(天福2年・文暦元年)。

 

   ■ 源氏将軍血筋断絶。

   ● 源頼朝直系子孫の男女(源氏

     将軍)の血筋は断絶する。

 

   ■ 源氏将軍の血筋は断絶する。

   ● 1234年(天福2年)7月に、源 頼朝の子や孫

     は、病死や政争による殺害などで死に絶え、

     源頼朝の直系子孫 は、断絶する。

 

   ■ 源頼朝の直系子孫が断絶する。

   ● 源頼家の娘で源頼朝の孫娘の竹御所(たけ

     のごしょ)は、 源頼朝の遠戚の男子の、鎌倉

     幕府の第4代将軍・藤原頼経(ふじわらのよ

     りつね)の正室夫人であったが、1234年(天

     福2年)に夫婦間に子がないまま死去する

     (難産の末男児を死産し本人も死去する)。

          ここに、源頼朝の最後の直系子孫の

     竹御所が子を残さず死去し、 源頼朝の直 系

     子孫はいなくなり、 源氏将軍の血筋は断絶

     する。

 

   ■ 竹御所 (たけのごしょ、生没年:1202年

     1234年)は、 源頼家の娘であり、 源頼朝の

     孫娘である。

             

   ■ 竹御所は、 源頼家と、若狭局(わかさのつぼ

      ね)との間の娘である。

             

   ■ 竹御所は、 1204年(元久元年)の父・源頼

     家暗殺事件後、 祖母・北条政子の庇護のもと

     にあり、 幕府の政争に巻き込まれることを免

     (まぬが)れる。

 

   ■ 竹御所は、 北条政子の死後に、その実質的

     な後継者となる。 

        幕府関係者の中で源頼朝の血筋を引く唯

     一の生き残りである竹御所は、 幕府の権威の

     象徴として、御家人(ごけにん、将軍家の直臣)

     の尊敬を集め、彼らをまとめる役目を果たす。

             

    ■ 竹御所は、 鎌倉幕府の第4代将軍将軍の

      藤原頼経(ふじわらの よりつね)の正 室夫人

      であったが、1234年(天福2年)7月27日に、

      夫婦間に子がないまま死去する (難産の末

      男児を死産し本人も死去する)。 

          ここに、源頼朝の最後の直系子孫の

      竹御所が子を残さず死去し、 源頼朝の直 系

      子孫はいなくなり、 源氏将軍の血筋は断絶

      する。

 

 

   ■ 源 頼朝の子 ・孫。

   ■ 源 頼朝には、6人の子 と5人の孫がいる

 

    源 頼朝の子には、  次の6人がいる。

   (1) 千鶴丸 (男子、せんつるまる、

             生年不詳ー1175年、

             流人(流刑者)の源頼朝の子の

             ため、1175年に、数え年3歳

             頃、平家方の伊東祐親(いとう

             すけちか)によって溺死殺害さ

             れる)

   (2) 大姫   (女子、おおひめ、

             1178年頃ー1197年、

             1197年に、数え年20歳

             病死する

   (3) 源頼家 (男子、みなもとのよりいえ、

             1182年ー1204年、

             北条氏によって1204年7月に、

             数え年23歳で、暗殺される)

   (4) 貞暁   (男子、じょうぎょう、鎌倉法印、

             1186年−1231年、

             1231年に、数え年46歳で、

             病死する)

   (5) 三幡     (女子、さんまん、

             1186年ー1199年、

             1199年に、数え年14歳で、

             病死する

      (6)  源実朝  (男子、みなもとのさねとも、

             1192年ー1219年、

             1219年に、数え年28歳で、

             甥の公暁(くぎょう、源頼家の

             男子)によって暗殺される)。

  ● TKKI カナヤマ著 鎌倉幕府ガイドブック。 

 

 

   ■ 源 頼朝の孫には、

   ● 源頼家の子の 5人がいる。

   (1) 一幡   (男子、いちまん、

             1198年ー1203年、

             比企能員(ひきよしかず)の娘・

             若狭局との間の男子、1203年

             9月の比企能員の変後、源頼家

             の嫡男で比企一族の男子のため、

             1203年11月に、数え年6歳で、

             北条氏に殺害される)。

   (2) 公暁   (男子、くぎょう、

             1200年ー1219年、

             1219年に、数え年20歳で、

             源実朝を暗殺し、その後、追手

             に殺害される)。 

   (3) 栄実   (男子、えいじつ、

             1201年ー1214年、

             反幕府計画が露見し、幕府方の

             襲撃を受け、1214年に、数え年

             14歳で、自害)。 

   (4) 禅暁   (男子、ぜんぎょう、

             生年不詳 ー1220年、

             1219年の公暁の源実朝暗殺

             に通じていたという口実で、

             1220年に、数え年17〜19歳

             頃、 北条氏によって殺害される)。

   (5) 竹御所 (女子、たけのごしょ、

             1202年ー1234年、

             1234年に、数え年33歳で、

             出産死する)。

  ● TKKI カナヤマ著 鎌倉幕府ガイドブック。

 

 

 ■ 1242(仁治3年)

 

     ■ 北条経時の鎌倉幕府の

          第4代執権就任

 

   ■ 北条経時の鎌倉幕府の第4代執権就任

   ● 1242(仁治3年)に、北条 経時 (ほうじ

    ょう つねとき)は、 鎌倉幕府の、第4代執権 

    執権在職: 1242年ー1246年)に就任する。

 

   ■ 北条経時は、 北条得宗家(鎌倉北条氏本

    家)出身であり、 得宗(とくそう、 北条得宗家

    当主、鎌倉北条氏本家当主)であり、北条泰時

    の子・時氏(ときうじ)の子である。

 

 

#jphappenings-1244

 

 

 ■ 1244年(寛元2年)。

 

     ■ 藤原頼嗣の鎌倉幕府の

          第5代将軍(傀儡将軍)就任。

 

   ■ 藤原頼嗣・鎌倉幕府の第5代将軍就任。

     1244年(寛元2年)4月に、 鎌倉幕府の第5

     代将軍に、  藤原頼嗣 (ふじわらのよりつぐ、

     =九条頼嗣、将軍在任:1244〜1252年)

     が、就任する。 

 

   ● 第4代将軍から第9代将軍までの鎌倉

    幕府の将軍は、鎌倉北条氏の傀儡将軍で

    あった。

  ● TKKI カナヤマ著 鎌倉幕府ガイドブック。

 

 

 ■ 1246年(寛元4年)。

 

  ■ 北条 時頼の 鎌倉幕府の

     第5代執権就任

 

   ■ 北条 時頼・ 鎌倉幕府の第5代執権就任

   ● 1246年(寛元4年)に、北条 時頼 (ほう

    じょう ときより)は、 鎌倉幕府の、第5代執

    権 (執権在職: 1246年ー1256年)に就

    任する。

 

   ■ 北条 時頼は、 得宗家(鎌倉北条氏本家)

    出身であり、 得宗 (とくそう、得 宗家当主、

    鎌倉北条氏本家当主)であり、 北条泰時の

    子・時氏(ときうじ)の子である。 

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

#jphappenings-1252

 

 

 ■ 1252(建長4年)

 

  ■ 宗尊親王・鎌倉幕府の

     第6代将軍(傀儡将軍)就任。

 

   ■ 宗尊親王・鎌倉幕府の第6代将軍就任。

    1252(建長4年)4月に、 鎌倉幕府の

    6代将軍に、 宗尊親王 (むねたかしんのう、

    後嵯峨天皇の皇子、将軍在任:1252

    1266年) が、就任する。 

 

   ● 第4代将軍から第9代将軍までの鎌倉

    幕府の将軍は、鎌倉北条氏の傀儡将軍で

    あった。

 

 

 ■ 1256(康元元年)

 

     ■ 北条氏分家の北条長時 の

     鎌倉幕府の第6代執権就任

     北条氏得宗が政治実権掌握。

 

   ■ 北条 長時・鎌倉幕府の第6代執権就任

   ● 1256(康元元年)に、 北条 長時 (ほう

      じょう ながとき)は、 鎌倉幕府の、第6代執

    権 (執権在 職:1256年ー1264年)に就任

    する。

 

   ■ 北条 長時は、 鎌倉北条氏分家出身であり、

    鎌倉北条氏・重時流(極楽寺流)分家出身で

    あり、北条義時の子・重時(しげとき)の子で

    ある。

 

   ■  鎌倉北条氏の分家の執権は、北条得宗家

    (鎌倉北条氏本家)の当主である得宗の代理

    であった。  鎌倉幕府では、北条氏得宗が

    政治の実権を握っていた。

 

 

 ■ 1264(文永元年)

 

    ■ 北条氏分家の北条 政村の

     鎌倉幕府の第6代執権就任

     北条氏得宗が政治実権掌握。

 

   ■ 北条 政村・鎌倉幕府の第7代執権就任

   ● 1264(文永元年)8月に、 北条 政村 

    (ほうじょう まさむら)は、 鎌倉幕府の、

    7代執権 (執権在職: 1264年ー1268年)

    に就任する。

 

   ■  北条 政村は、 鎌倉北条氏分家出身であ

    り、 鎌倉北条氏・政村流分家出身であり、 

    北条義時の子である。

 

   ■  鎌倉北条氏の分家の執権は、北条得宗家

    (鎌倉北条氏本家)の当主である得宗の代理

    であった。  鎌倉幕府では、北条氏得宗が

    政治の実権を握っていた。

 

 

#jphappenings-1266

 

 

 ■ 1266年(文永3年)。

 

  ■ 惟康親王の鎌倉幕府の

     第7代将軍(傀儡将軍)就任。

 

   ■ 惟康親王・鎌倉幕府の第7代将軍就任。

   ● 1266年(文永3年)7月に、 鎌倉幕府の

    第7代将軍に、 惟康親王 (これやすしんの

    う、宗尊親王の子、将軍在任:1266

    1289年) が、就任する。 

 

   ● 第4代将軍から第9代将軍までの鎌倉

    幕府の将軍は、鎌倉北条氏の傀儡将軍で

    あった。

 

 

 ■ 1268(文永5年)

 

  ■ 北条時宗の鎌倉幕府の

     第8代執権 就任

 

   ■ 北条 時宗・鎌倉幕府の第8代執権 就任

   ● 1268(文永5年)3月に、北条 時宗(ほ

    うじょう ときむね)は、 第8代執権 (執権

    在職:1268年ー1284年)に就任する。

 

   ■ 北条 時宗は、  北条得宗家(鎌倉北条氏

    本家)出身であり、 得宗 (とくそう、 北条得

    宗家当主、鎌倉北条氏本家当主)であり、 

    北条時頼の子である。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 1274 (文永11年)。

 

  ■ 蒙古襲来(元寇)の文永の役。

 

   ■ 文永の役。

   ● 北条 時宗は、 蒙古襲来(元寇)に備え、

     九州で軍備を増強し、1274 (文永11年)

     に、モンゴル軍 (元(げん)指導の高麗兵遠

     征軍)を撃退する。

 

   ● 1274 (文永11年)に、文永の役

     モンゴル軍 (元(げん)指導の高麗兵遠征軍)

     は、 激しく防戦する鎌倉軍を打ち破り、九州

     内陸まで侵攻し、鎌倉軍に勝っていた。 

        しかし、食料や武器等の補充を考え、

     モンゴル軍は、 風向きが変わらず海路で帰

     れるうちに、 自主的に撤退する。

     

 

 ■ 1281年 (弘安4年)。

 

  ■ 蒙古襲来(元寇)の弘安の役。

 

   ■ 弘安の役。

   ● 北条 時宗は、 蒙古襲来(元寇)に備え、

     九州で軍備を増強し、1281年(弘安 4年)

     に、モンゴル軍 (元(げん)指導の高麗・旧

     南宋兵遠征軍)を撃退する。

 

   ● 1281年(弘安 4年)に、 弘安の役のモン

     ゴル軍 (元(げん)指導の高麗・旧南宋兵

     遠征軍)は、 

     旧南宋兵の船団の日本到着が遅れ、台風

     シーズンとなり、 高麗兵と旧南宋兵は、共

     同で、大軍勢で戦うが、鎌倉軍の激しく防戦

     と防塁などに阻まれて、陸になかなか上陸

     できず、手をこまねいているうちに、大型台

     風が九州に到来し、海上の船団が大被害を

     受け、やむを得ず、撤退する。

 

 

 ■ 1284年(弘安7年)。

 

  ■ 北条貞時の鎌倉幕府の

     第9代執権就任

 

   ■ 北条 貞時・ 鎌倉幕府の第9代執権就任

   ● 1284年(弘安7年)4月に、 北条 貞時 

    (ほうじょう さだとき)は、 鎌倉幕府の、

    第9代執権 (執権在 職:1284年ー13

    01年)に就任する。

 

   ■ 北条 貞時は、 北条得宗家(鎌倉北条氏

    本家)出身であり、 得宗 (とくそう、 北条得

    宗家当主、鎌倉北条氏本家当主)であり、 

    北条時宗の子である。

 

 

#jphappenings-1289

 

 

 ■ 1289年(正応2年)。

 

  ■ 久明親王の鎌倉幕府の

     第8代将軍(傀儡将軍)就任。

 

   ■ 久明親王・鎌倉幕府の第8代将軍就任。

   ● 1289年(正応2年)10月に、 鎌倉幕府

    の第8代将軍に、  久明親王(ひさあきしん

    のう、ひさあきらしんのう、後深草天皇の皇

    子、将軍在任:1289〜1308年)が、就

    任する。

   ● 第4代将軍から第9代将軍までの鎌倉

    幕府の将軍は、鎌倉北条氏の傀儡将軍で

    あった。

 

 

 ■ 1301(正安3年)

 

   ■ 北条氏分家の北条師時 の

     鎌倉幕府の第10代執権就任。

     北条氏得宗が政治実権掌握。

 

   ■ 北条 師時・鎌倉幕府の第10代執権就任。

   ● 1301(正安3年)に、北条 師時 (ほう

    じょう もろとき)は、 鎌倉幕府の、第10代執

    権 (執権在 職:1301年ー1311年)に就任

    する。

 

   ■ 北条 師時は、 鎌倉北条氏分家出身であ

    り、 鎌倉北条氏・宗政流分家出身であり、

    北条時頼の子・宗政(むねまさ)の子である。  

 

   ■  鎌倉北条氏の分家の執権は、北条得宗家

    (鎌倉北条氏本家)の当主である得宗の代理

    であった。  鎌倉幕府では、北条氏得宗が

    政治の実権を握っていた。

 

 

#jphappenings-1308

 

 

 ■ 1308年(徳治3年)。

 

  ■ 守邦親王の鎌倉幕府の

     第9代将軍(傀儡将軍)就任。

 

   ■ 守邦親王・鎌倉幕府の第9代将軍就任。

   ● 1308年(徳治3年)8月に、 鎌倉幕府の

     第9代将軍に、守邦親王 (もりくにしんの

     う、久明親王の子、将軍在任:1308

     1333年) が、就任する。

 

   ● 第4代将軍から第9代将軍までの鎌倉

    幕府の将軍は、鎌倉北条氏の傀儡将軍で

    あった。

  ● TKKI カナヤマ著 鎌倉幕府ガイドブック。 

 

 

 ■ 1311年(応長元年)。

 

  ■ 北条氏分家の北条(大仏)宗宣

     の鎌倉幕府の第11代執権就任。

     北条氏得宗の政治実権掌握。

 

   ■ 北条 宗宣鎌倉幕府の第11代執権就任。

   ● 1311年(応長元年)に、北条 宗宣 (ほう

     じょう むねのぶ、= 大仏(おさらぎ)宗宣)は、 

     鎌倉幕府の第 11代執権 (執権在職:

     1311年ー1312年)に就任する。

 

   ■ 北条 宗宣は、 鎌倉北条氏分家出身であり、

     鎌倉北条氏・時房流(大仏(おさらぎ)流)

     分家出身であり、 北条時政の子・時房(とき

     ふさ)の子・大仏朝直(おさらぎともなお)の孫

     である。 

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■  鎌倉北条氏の分家の執権は、北条得宗家

    (鎌倉北条氏本家)の当主である得宗の代理

    であった。  鎌倉幕府では、北条氏得宗が

    政治の実権を握っていた。

 

 

 ■ 1312年(応長2年)。

 

  ■ 北条氏分家の北条熙時の

     鎌倉幕府の第12代執権就任

     北条氏得宗の政治実権掌握。

 

   ■ 北条 熙時鎌倉幕府の第12代執権就任

   ● 1312年(応長2年)に、北条 熙時 (ほうじ

    ょう ひろとき)は、 鎌倉幕府の、第12代執権 

    (執権在 職:1312年ー1315年)に就任する。

 

   ■  北条 熙時は、 鎌倉北条氏分家出身であり、

    鎌倉北条氏・政村流分家出身であり、北条義時

    の子・政村(まさむら)の曾孫(ひまご)である。

 

   ■  鎌倉北条氏の分家の執権は、北条得宗家

    (鎌倉北条氏本家)の当主である得宗の代理

    であった。  鎌倉幕府では、北条氏得宗が

    政治の実権を握っていた。

 

 

 ■ 1315年(正和4年)。

 

  ■ 北条氏分家の北条基時の

     鎌倉幕府の第13代執権就任

     北条氏得宗の政治実権掌握。

 

   ■ 北条 基時鎌倉幕府の第13代執権就任

   ● 1315年(正和4年)に、北条 基時 (ほう

    じょう もととき)は、 鎌倉幕府の、第13代執  

    権(執権在職: 1315年ー1316年)に就任

        する。

 

   ■ 北条 基時は、 鎌倉北条氏分家出身であり、

     鎌倉北条氏・重時流(極楽寺流)分家出身で

     あり、 北条義時の子・重時(しげとき)の子・

     業時(なりとき)の孫である。

 

   ■  鎌倉北条氏の分家の執権は、北条得宗家

    (鎌倉北条氏本家)の当主である得宗の代理

    であった。  鎌倉幕府では、北条氏得宗が

    政治の実権を握っていた。

 

 

 ■ 1316年(正和5年)。

 

  ■ 北条 高時鎌倉幕府の

          第14代執権就任

 

   ■ 北条 高時鎌倉幕府の第14代執権就任

   ● 1316年(正和5年)に、北条 高時 (ほう

     じょう たかとき)は、 第14代執権 (執権

     在職:1316年ー1326年)に就任する。

 

   ■ 北条 高時は、 北条得宗家(鎌倉北条氏

     本家)出身であり、 得宗(とくそう、 北条

     得宗家当主、鎌倉北条氏本家当主)であり、 

     北条貞時の子である。

 

 

 ■ 1318年(文保2年)

 

   ■ 後醍醐天皇の即位。

   ■ 北条執権の鎌倉幕府の介入による、1317

    年(文保元年)の「文保の和談」(ぶんぽうのわ

    だん)により、 1318年(文保2年)に、大覚寺

    統(だいかくじとう)の後醍醐天皇 ( ごだいご

    てんのう、天皇在位:1318年〜1332年、13

    33年〜1336年、南朝天皇在位:1336年〜

    1339年) が、 天皇に即位する。

 

 

 ■ 1324年(正中元年)

 

  ■ 正中の変が起こる。

 

   ■ 正中の変(しょうちゅうのへん)。

     1324年(正中元年)に、後醍醐天皇は、

     倒幕計画を実行するが、失敗する。

 

   ■ 後醍醐天皇は、 自分の皇子の皇位継承

    を望み、天皇親政政治をめざし、 鎌倉幕府

    の倒幕を計画し、 1324年(正中元年)の

    正中の変(しょうちゅうのへん) と 1331年

    (元弘元年)の元弘の変(げんこうのへん) 

    の2つの倒幕計画を起こすが、いずれも失敗

    する。  鎌倉幕府により、1332年(元弘2年)

    に、隠岐(おき)に流される(配流(はいる)さ

    れる)。

      一方、邦良(くによし)親王は急死したの

    で、1332年(元弘2年)に持明院統の量仁

    (かずひと)親王が、光厳(こうごん)天皇(在

    位:1332年〜1333年)として即位する。

 

 

 ■ 1326年(正中3年)。

 

   ■ 北条氏分家の北条(金沢)貞顕

     鎌倉幕府の第15代執権就任。

      北条氏得宗の政治実権掌握。

 

   ■ 1326年 (正中3年)に、北条 貞顕 (ほ

    うじょう さだあき、= 金沢 (かなざわ)貞顕

    は、 鎌倉幕府の、第15代執権 (執権在職:

    1326年)に就任する。  

 

   ■ 北条 貞顕(= 金沢貞顕)は、 鎌倉北条氏

    分家出身であり、 鎌倉北条氏・実泰(さねや

    す)流(金沢流)分家出身であり、 北条義時の

    子・実泰(さねやす)の子・金沢実時(かなざわ

    さねとき)の孫である。 

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■  鎌倉北条氏の分家の執権は、北条得宗家

    (鎌倉北条氏本家)の当主である得宗の代理

    であった。  鎌倉幕府では、北条氏得宗が

    政治の実権を握っていた。

 

 

 ■ 1326年(嘉暦元年)。

 

  ■ 北条氏分家の北条(赤橋)守時

     鎌倉幕府の第16代執権就任。

      北条氏得宗の政治実権掌握。

 

   ■ 北条守時(= 赤橋守時)・鎌倉幕府の

     第16代執権就任。

   ● 1326年 (嘉暦元年)に、北条 守時 (ほ

     うじょう もりとき、= 赤橋(あかはし)守時)は、 

     鎌倉幕府の、第16代執権 (執権在職:13

     26年ー1333年)に就任する。

 

   ■ 北条守時(= 赤橋守時)は、 鎌倉北条氏

    分家出身であり、 鎌倉北条氏・重時流

    (赤橋流)分家出身であり、 北条義時の子・

    重時(しげとき)の子・長時(ながとき)の曾孫

    (ひまご)であり、 足利尊氏(たかうじ)の

    正室夫人・北条(赤橋)登子の兄である。

 

   ■  鎌倉北条氏の分家の執権は、北条得宗家

    (鎌倉北条氏本家)の当主である得宗の代理

    であった。  鎌倉幕府では、北条氏得宗が

    政治の実権を握っていた。

  ● TKKI カナヤマ著 鎌倉幕府ガイドブック。

 

 

 ■ 1331年(元弘元年)。

 

  ■ 元弘の変が起こる。

 

   ■ 元弘の変(げんこうのへん)。

   ● 1331年(元弘元年)に、後醍醐天皇は、

    倒幕計画を実行し、捕縛される。

 

   ■ 元弘の変。

   ● 後醍醐天皇は、 自分の皇子の皇位継承

    を望み、また、天皇親政政治をめざし、 鎌倉

    幕府の倒幕を計画し、 1324年 (正中元年)

    の正中の変(しょうちゅうのへん) と 1331

    年(元弘元年)の元弘の変(げんこうのへん) 

    の2つの倒幕計画を実行する。 正中の変は

    失敗するが、元弘の変は、討幕に結びつく。

      1331年(元弘元年)に、後醍醐天皇は、

    元弘の変で捕縛され、鎌倉幕府により、13

    32年(元弘2年)に、 隠岐(おき)に流される

    (配流(はいる)される)。

      一方、皇位継承者の大覚寺統(だいかく

    じとう)の邦良(くによし)親王は急死したので、 

    鎌倉幕府は、1332年(元弘2年)に持明院

    統(じみょういんとう)の量仁(かずひと)親王

    を、光厳(こうごん)天皇(在位1332年〜13

    33年)として即位させる。

  ● TKKI カナヤマ著 鎌倉幕府ガイドブック。

 

 

#jphappenings-1333

 

 

 ■ 1333年(元弘3年)。

 

  ■ 鎌倉幕府の滅亡。

   ■ 1333年(元弘3年)に、 鎌倉幕府が、

    滅亡する。

 

   ■ 最後の得宗・北条高時指導の鎌倉幕府。

   ■ 「太平記」では、得宗の北条高時は、政

     治を顧みず、闘犬(とうけん)や田楽(で

     んがく)などの遊びにふける暴君であり、 

     その側近も無能で腐敗し、相次ぐ暴動を

     強権的な支配で抑え込んだため、 鎌倉

     幕府は、急速に権威・権力を失墜し、滅

     んだと大幅な脚色がされている。

             

   ■ しかし、史実では (「増鏡」、 「保暦間

     記」、金沢文庫等の史料では)、 得宗

     (とくそう、鎌倉北条氏本家当主)の北条

     高時は、病弱であり、中々政治の場に出

     られず、高時を補佐する官僚集団は、北

     条高時の補佐に力点を置き、改革より安

     定・協調性を重視する政策を打ち出し、

     社会の多くの人々を失望させ、 鎌倉幕

     府は、緩(ゆる)やかに権威、権力を衰退

     させていき、最後に滅んだと言える。

 

   ■ 鎌倉幕府の滅亡。

   ● 1333年(元弘3年)に、後醍醐天皇は、

     隠岐(おき)を脱出し、 足利尊氏(あしか

     がたかうじ)、新田義貞(にったよしさだ)

     などの反幕府勢 力と手を組み、 執権

     北条氏主導の鎌倉幕府を倒す。 

  ● TKKI カナヤマ著 鎌倉幕府ガイドブック。

 

   ■ 鎌倉幕府の滅亡。

   ● 1333年(元弘3年)に、 足利尊氏が

     京(きょう、京都)を攻め、鎌倉幕府の西国

     拠点の六波羅探題(ろくはらたんだい)を5

     月に攻め滅ぼし、 一方、新田義貞(にっ

     たよしさだ)は、 鎌倉を攻め、鎌倉幕府の

     執権北条氏(しっけんほうじょうし)を5月に

     滅ぼして、5月に同時期に、鎌倉幕府第9

     代将軍の守邦親王(もりくにしんのう)は将

     軍職を退いて出家する。 ここに、鎌倉幕府

     は、消滅する。

        鎌倉幕府の滅亡後、1333年(元弘3

     年)に、後醍醐天皇が、天皇に再即位し、

     建武政権(1333年ー1336年)を樹立す

     る。

   ● TKKI カナヤマ著 鎌倉幕府ガイドブック。   

 

   ■ 鎌倉幕府の滅亡。

   ● 鎌倉時代末期に、後醍醐天皇は鎌倉幕

     府の皇位継承介入で反感を抱き、  鎌倉北

     条氏主導の幕府が支配を強め御家人層の

     武士が反発し、 流通を掌握する新興武士

     が抑圧され反発し、  鎌倉幕府の取り締ま

     りに非御家人、悪党(あくとう、鎌倉幕府・荘

     園領主への反抗勢力)が反感を抱き、 御

     家人層(ごけにんそう、鎌倉将軍家臣の集

     団)の武士は御内人(みうちびと、北条氏得

     宗家臣)と対立し、 それらの反幕府勢力が、

     結集して、鎌倉幕府の倒幕を行う。

 

   ■ 鎌倉幕府の滅亡後。

      鎌倉幕府の滅亡後、1333年(元弘3

    年)に、後醍醐天皇が、天皇に再即位し、

    建武政権(けんむせいけん、1333年ー13

    36年)を樹立する。

  ● TKKI カナヤマ著 鎌倉幕府ガイドブック。 

 

 

 

□ 出来事ブックのメニュー(目次)の先頭ページへ

□ 出来事ブック(総合)ページへ

□ 出来事ブック(各年・詳細)ページへへ

□ 出来事ブック(概要・総合)ページへ

□ 鎌倉幕府ガイドブック へ  

□ 日本史辞典 ・日本語版の先頭ページへ。  

□ 日本史ハンドブック ・日本語版 の先頭ページへ

 

 

 

#jpcontentsofthisbook

 

◆ 当書籍の内容。

 

    42115。

 

 ■ 初学者・初心者向 インターネット用 

      鎌倉幕府ガイドブック。

 

 ■ パソコン、 携帯用パソコン(PC)、 タブレ

    ット端末(PC)、 スマートフォン、 ウエア

    ラブル端末、 スマートテレビ用 電子書籍。

 

 ■ この本1冊で (このホームページ1つで)、 

   鎌倉幕府のこと(概略)が、一通り、 わかる。

 

 ■ 源 頼朝(みなもと の よりとも)は、 

   1185年(文治元年)11月に、朝廷の許可

   を受け、諸国に守護(しゅご)、地頭(じとう)

   を置き(設置し)、 鎌倉に、鎌倉幕府(かま

   くらばくふ)を事実上(実質上)成立させる。

       鎌倉幕府は、1185年(文治元年)から

   1333年(正慶2年、元弘3年)まで、事実上

   (実質上)存続する。

 

 ■ 鎌倉幕府は、武家政権で、 前期は、河内

   源氏独裁政権であり、中・後期は、鎌倉北条

   氏独裁政権であり、 鎌倉時代 (1185年

   〜1333年)に、 1185年(文治元年)から

   1333年(正慶2年、元弘3年)まで、日本

   本土を支配する。

 

 ■ TKKI カナヤマ著 鎌倉幕府ガイドブック。

 

 

□ 出来事ブックのメニュー(目次)の先頭ページへ

□ 出来事ブック(総合)ページへ

□ 出来事ブック(詳細・各年)ページへへ

□ 出来事ブック(概要・総合)ページへ

□ 鎌倉幕府ガイドブック へ  

□ 日本史辞典 ・日本語版の先頭ページへ。  

□ 日本史ハンドブック ・日本語版 の先頭ページへ

 

 

 

#jphappenings/summary

 

 

◆ 鎌倉幕府・政権

   出来事 (概要)。

 

 

 

#jphappenings/summary-a

 

 

◆ 室町幕府・政権

   出来事 (概要・

   テーマ別各事柄)。

 

    42116。

 

  □ 鎌倉幕府・将軍

     (初代〜第9代)就任表

 

 

#jphappenings/summary-org2110

 

#jphappenings/summary-s

 

 

◆ 鎌倉幕府の将軍(9代)、

     執権(16代)、得宗(9代)

     の就任表。

 

  ■ 鎌倉幕府は、

    河内源氏、摂家、宮家の9代の将軍、 北条氏の

    16代の執権、北条氏得宗家の9代の得宗が、 、

    就任し1185年(文治元年)年または1192年

    建久3年)から1333年(元弘3年)まで、

    存続する。

  ● TKKI カナヤマ著 鎌倉幕府ガイドブック。

 

 

   

 

 

 

 ■ 鎌倉幕府・政権の将軍

    (初代〜第9代)の就任表。

 

  ■ 鎌倉幕府の将軍(初代〜第9代)。

 

  ■ 鎌倉幕府の鎌倉将軍9代 一覧表

 

  ■ 鎌倉幕府の鎌倉将軍9代は、

    順に、 次の通りである。 

 

   ● 初代 将軍源 頼朝

     (みなもとの よりとも、

      将軍在任:1192年〜1199年、

      源氏将軍で、河内源氏の源義朝

     (みなもとのよしとも)の子)。

 

   ● 第2代将軍・源 頼家 

     (みなもとの よりいえ、

     将軍在任:1202年〜1203年、

     源氏将軍で、初代将軍源頼朝

     の子)。

 

   ● 第3代将軍・源 実朝 

     (みなもとの さねとも、

     将軍在任:1203年〜1219年、

     源氏将軍で、初代将軍源頼朝

     の子)。

 

   ● 第4代将軍・藤原 頼経 

      (ふじわらの よりつね、=九条 頼経、

      将軍在任:1226年〜1244年、 

      摂家将軍)。

 

   ● 第5代将軍・藤原 頼嗣 

      (ふじわらの よりつぐ、=九条 頼嗣、

      将軍在任:1244年〜1252年、

      摂家将軍で、4代将軍・藤原 頼経

      の子)。

 

   ● 第6代将軍・宗尊親王 

      (むねたかしんのう、

      将軍在任:1252年〜1266年、

      宮将軍で、後嵯峨天皇の皇子)。

 

   ● 第7代将軍・惟康親王 

      (これやすしんのう、

      将軍在任:1266年〜1289年、

      宮将軍で、6代将軍・宗尊親王の子)。

 

   ● 第8代将軍・久明親王 

      (ひさあきしんのう、

      将軍在任:1289年〜1308年、

      宮将軍で、後深草天皇の皇子)。

 

   ● 第9代将軍・守邦親王 

      (もりくにしんのう、

      将軍在任:1308年〜1333年、

      宮将軍で、8代将軍・久明親王の子)。

   ● TKKI カナヤマ著 鎌倉幕府ガイドブック。 

 

 

 

 ■ 鎌倉幕府の執権(初代〜

    第16代)の就任表。

 

  ■ 鎌倉幕府の執権(初代〜第16代)。

 

  ■ 鎌倉幕府の執権16代 一覧表

 

 ■ 鎌倉幕府の鎌倉北条氏の執権16代は、

   順に、次の通りである。 

 

 ■ 初代執権   北条 時政 (ほうじょう ときまさ)。

            執権在職:1203年ー1205年)。

            ○ 鎌倉北条氏本家出身。

            ○ 鎌倉北条氏の祖。    

 

 ■ 第2代執権   北条 義時 (ほうじょう よしとき)。  

            執権在職:1205年ー1224年)。

            ○ 得宗家(とくそうけ、鎌倉北条氏

             本家)出身。

            ○ 初代得宗(とくそう、得宗家当主)。

            ○ 北条時政の子。 

            ○ 法名:徳宗(とくそう)。 

 

 ■ 第3代執権   北条 泰時 (ほうじょう やすとき)。 

            執権在職:1224年ー1242年)。

            ○ 得宗家(鎌倉北条氏本家)出身。

            ○ 第2代得宗(得宗家当主)。

            ○ 北条義時の子。

 

 ■ 第4代執権   北条 経時 (ほうじょう つねとき)。 

            執権在職:1242年ー1246年)。

            ○ 得宗家(鎌倉北条氏本家)出身。

            ○ 第3代得宗(得宗家当主)。

            ○ 北条泰時の子・時氏(ときうじ)

             の子。

 

 ■ 第5代執権   北条 時頼 (ほうじょう ときより)。  

            執権在職:1246年ー1256年)。

            ○ 得宗家(鎌倉北条氏本家)出身。

            ○ 第4代得宗(得宗家当主)。

            ○ 北条泰時の子・時氏(ときうじ)

             の子。

            ● TKKI カナヤマ著 鎌倉幕府

               ガイドブック。  

 

 ■ 第6代執権   北条 長時 (ほうじょう ながとき)。 

            執権在職:1256年ー1264年)。

            ○ 鎌倉北条氏分家出身。

            ○ 鎌倉北条氏・重時流(極楽寺流)

             分家出身。

            ○ 北条義時の子・重時(しげとき)

             の子。

 

 ■ 第7代執権   北条 政村 (ほうじょう まさむら)。

            執権在職:1264年ー1268年)。

            ○ 鎌倉北条氏分家出身。

            ○ 鎌倉北条氏・政村流分家出身。

            ○ 北条義時の子。

 

 ■ 第8代執権   北条 時宗 (ほうじょう ときむね)。  

            執権在職:1268年ー1284年)。

            ○ 得宗家(鎌倉北条氏本家)出身。

            ○ 第5代得宗(得宗家当主)。

            ○ 北条時頼の子。

            ● TKKI カナヤマ著 鎌倉幕府

               ガイドブック。  

 

 ■ 第9代執権   北条 貞時 (ほうじょう さだとき)。   

            執権在職:1284年ー1301年)。

            ○ 得宗家(鎌倉北条氏本家)出身。

            ○ 第6代得宗(得宗家当主)。

            ○ 北条時宗の子。

 

 ■ 第10代執権  北条 師時 (ほうじょう もろとき)。 

            執権在職:1301年ー1311年)。

            ○ 鎌倉北条氏分家出身。

            ○ 鎌倉北条氏・宗政流分家出身。

            ○ 北条時頼の子・宗政(むねまさ)

             の子。  

 

 ■ 第11代執権  北条 宗宣 (ほうじょう むねのぶ)

            (= 大仏(おさらぎ)宗宣)。

            執権在職:1311年ー1312年)。

            ○ 鎌倉北条氏分家出身。

            ○ 鎌倉北条氏・時房流(大仏(おさ

             らぎ)流)分家出身。

            ○ 北条時政の子・時房(ときふさ)

             の子・大仏朝直(おさらぎともなお)

             の孫。 

            ● TKKI カナヤマ著 鎌倉幕府

              ガイドブック。  

 

 ■ 第12代執権  北条 熙時 (ほうじょう ひろとき)。 

            執権在職:1312年ー1315年)。

            ○ 鎌倉北条氏分家出身。

            ○ 鎌倉北条氏・政村流分家出身。

            ○ 北条義時の子・政村(まさむら)

             の曾孫(ひまご)。

 

 ■ 第13代執権  北条 基時 (ほうじょう もととき)。

            執権在職:1315年ー1316年)。

            ○ 鎌倉北条氏分家出身。

            ○ 鎌倉北条氏・重時流(極楽寺流)

             分家出身。

            ○ 北条義時の子・重時(しげとき)

             の子・業時(なりとき)の孫。

 

 ■ 第14代執権  北条 高時 (ほうじょう たかとき)。 

            執権在職:1316年ー1326年)。

            ○ 得宗家(鎌倉北条氏本家)出身。

            ○ 第7代得宗(得宗家当主)。

            ○ 北条貞時の子。

 

 ■ 第15代執権  北条 貞顕 (ほうじょう さだあき)   

                         (= 金沢 (かなざわ)貞顕)。

            執権在職:1326年)。

            ○ 鎌倉北条氏分家出身。

            ○ 鎌倉北条氏・実泰(さねやす)流

             (金沢流)分家出身。

            ○ 北条義時の子・実泰(さねやす)

             の子・金沢実時(かなざわさねとき)

             の孫。 

            ● TKKI カナヤマ著 鎌倉幕府

              ガイドブック。  

 

 ■ 第16代執権  北条 守時 (ほうじょう もりとき)。  

                        (= 赤橋 (あかはし)守時)。

            執権在職:1326年ー1333年)。

            ○ 鎌倉北条氏分家出身。

            ○ 鎌倉北条氏・重時流(赤橋流)

             分家出身。

            ○ 北条義時の子・重時(しげとき)の

             子・長時(ながとき)の曾孫(ひまご)。

                        ○ 足利尊氏(たかうじ)の 正室夫人・

             北条(赤橋)登子の兄。

            ● TKKI カナヤマ著 鎌倉幕府

              ガイドブック。  

 

 

 ■ 鎌倉幕府の得宗(初代〜

      代)の就任表。

 

  ■ 鎌倉幕府の北条氏得宗家の得宗

    (初代〜第9代)。

 

  ■ 鎌倉幕府の得宗9代一覧表

 

 ■ 鎌倉幕府で強権をもつ鎌倉北条 氏の得宗

    (とくそう 、= 鎌倉北条氏本家当主、広義)は、

   順に、次の通りである。 

 

 ■ (1) 得宗    北条 時政 (ほうじょう よきまさ)。  

            ○ 生没年: 1138年ー1215年。

            ○ 執権在職:1203年ー1205年。

            ○ 得宗家(とくそうけ、鎌倉北条氏

             本家)当主。

            ○ 伊豆平氏出身。 

 

 ■ (2) 得宗    北条 義時 (ほうじょう よしとき)。  

            ○ 生没年:1163年ー1224年。

            ○ 執権在職:1205年ー1224年。

            ○ 得宗家(とくそうけ、鎌倉北条氏

             本家)当主。

            ○ 北条時政の子。 

            ○ 法名:徳宗(とくそう)。 

 

 ■ (3) 得宗   北条 泰時 (ほうじょう やすとき)。 

            ○ 生没年:1183年ー1242年。

            ○ 執権在職:1224年ー1242年。

            ○ 得宗家(とくそうけ、鎌倉北条氏

             本家)当主。

            ○ 北条義時の子。

 

 ■ (4) 得宗   北条 時氏 (ほうじょう ときうじ)。 

            ○ 生没年: 1203年ー1230年。  

            ○ 執権 には就任せず。

            ○ 得宗家(とくそうけ、鎌倉北条氏

             本家)当主。

            ○ 北条泰時の子。

 

 ■ (5) 得宗   北条 経時 (ほうじょう つねとき)。 

            ○ 生没年:1224年ー1246年。  

            ○ 執権在職:1242年ー1246年。

            ○ 得宗家(とくそうけ、鎌倉北条氏

             本家)当主。

            ○ 北条泰時の子・時氏(ときうじ)

             の子。

 

 ■ (6) 得宗   北条 時頼 (ほうじょう ときより)。  

            ○ 生没年:1227年ー1263年。

            ○ 執権在職:1246年ー1256年。

            ○ 得宗家(とくそうけ、鎌倉北条氏

             本家)当主。

            ○ 北条泰時の子・時氏(ときうじ)

             の子。

            ● TKKI カナヤマ著 鎌倉幕府

               ガイドブック。  

 

 ■ (7) 得宗   北条 時宗 (ほうじょう ときむね)。  

            ○ 生没年:1251年ー1284年。

            ○ 執権在職:1268年ー1284年。

            ○ 得宗家(とくそうけ、鎌倉北条氏

             本家)当主。

            ○ 北条時頼の子。

            ● TKKI カナヤマ著 鎌倉幕府

               ガイドブック。  

 

 ■ (8) 得宗   北条 貞時 (ほうじょう さだとき)。

            ○ 生没年:。  

            ○ 執権在職:1284年ー1301年。

            ○ 得宗家(とくそうけ、鎌倉北条氏

             本家)当主。

            ○ 北条時宗の子。

 

 ■ (9) 得宗   北条 高時 (ほうじょう たかとき)。 

            ○ 生没年:1303年ー1333年。  

            ○ 執権在職:1316年ー1326年。

            ○ 得宗家(とくそうけ、鎌倉北条氏

             本家)当主。

            ○ 北条貞時の子。

            ● TKKI カナヤマ著 鎌倉幕府

              ガイドブック。  

 

 

□ 出来事ブックのメニュー(目次)の先頭ページへ

□ 出来事ブック(総合)ページへ

□ 出来事ブック(各年・詳細)ページへへ

□ 出来事ブック(概要・総合)ページへ

□ 鎌倉幕府ガイドブック へ  

□ 日本史辞典 ・日本語版の先頭ページへ。  

□ 日本史ハンドブック ・日本語版 の先頭ページへ

 

 

 

 『 あなたのハートには 

    何が残りましたか? 』。

 

 

 

以  上