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◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY HANDBOOK

 

 カナヤマ 日本歴史 辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 あ 』

 No.1850。

 

 

メ ニュー (目次)  #jpmenu     

■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

□ 日本史 辞典 (総合)         

□      ● 事柄順。

〇 あつ  篤姫 (あつひめ) 。

           (= 天璋院 てんしょういん・篤姫)。

           (総合)。

          (1836〜1883年)。

〇 あつ  篤姫 詳細年表 (あつひめしょう 

             さいねんぴょう)。

             (⇒ 日本史年表) 。

〇 あつ  篤姫 

       (天璋院・篤姫 ガイド ブック

 

 

□ 日本史 辞典の「 あ 」基本見出し語サイト

  の先頭ページへ。        

 

■  『 現在は、過去の成果であり、

    未来は、現在の成果である。 

 

■ 上位のWEBサイト。 

□ (KOH) カナヤマ オフィシャル   >

         ホームページ   

□ (Cse)  国際理解総合サイト    >

         われら地球市民 

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◆ 日本史辞典

 

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#a

 

#atsuhimedetailedchronology

 

■ 篤姫 詳細年表  

     ( あつひめ しょうさいねんぴょう)

 

■ 璋院・篤姫  詳細年表。

 

□ 璋院・篤姫 年表  1830年〜1856年

□ 璋院・篤姫 年表  1856年〜1861年

□ 璋院・篤姫 年表  1861年〜1883年

 

■ 璋院・篤姫(てんしょういん・あつひめ)の詳細 な内

   容に関しては、『 璋院・篤姫 ガイドブック 』  を参

    照して下さい。

■ 江戸時代については、『 近世日本歴史詳細年表 』

 を、 明治時代については、  『 近代日本歴史詳細 年

  』 を参照して下さい。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典 31437。

■ より理解を深めるために、当年表と近い時期の日本

 史辞典の年表の、 『 篤姫 年表、 西郷隆盛 年表、 

 明治維新 年表、 幕末 年表 坂本龍馬 年表、 大奥

 年表 』 も参照して下さい。

■ 当年表は、璋院・篤姫(1835年〜1883年)が生き

 た時代の 詳細年表である。                    

■ 篤姫 (あつひめ、 於一(おかつ 、島津一(しまづか

 つ))島津篤子(しまづあつこ)、近衛敬子(このえすみ

 こ)、天璋院 (てんしょういん 、落飾後)) に関係する

 出来事を、 年代順に 、見てみよう。

● 200〜100年前頃の日本へタイムスリップして、篤姫

 の行動を見てみましょう。

● 歴史学の立場から、年代を追って、 篤姫の実像 (歴

 史的有名な人物には、虚像と実像がありますが) を見て

 みよう。

 当年表は、 西暦を先に、 その後ろの( )内に和暦

 を記載している。

■ 当年表の日付は、 1872年(明治5年)以前は旧暦

 太陰太陽暦)を、 1873年(明治6年)以後は新暦(

 陽暦) を記載している。

● 当年表の日付(年月日)は、一般的な歴史書籍で使

 用されているのと同じように、 1872年(明治5年)12

 月2日までは、 旧暦(太陰太陽暦)を用い、 1873年

 (明治6年)1月1日以後は、 新暦(現在の太陽暦、グ

 レゴリオ暦)を用いている。

 

□ 璋院・篤姫  詳細年表の先頭へ戻る

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璋院・篤姫 詳細年表。

● では、 璋院・篤姫 (てんしょういん・あつひめ)

 関係する出来事を、年代順に、見てみよう。

 

#atsuhimedetailedchronology-1830

 

■ 1830年   ● 天保改元。    

               1830年12月10日に、和暦の「文政」

            (ぶんせい)が、 「天保」(てんぽう、天保元

            年・1830年・12月10日〜天保15年・ 18

            44年・12月2日) に改元される。

■ 1835年   ● 1835年12月、篤姫 (於一(おかつ 

 (天保 6年)   島津一(しまづかつ))) が、誕生 する。

              今和泉(いまいずみ)・島津家の娘とし 

            、於一(おかつ)という名の 女性が摩薩

            (鹿児島県)で誕生する。 その後、篤姫は、

            薩摩で、成長する。

■ 1844年   ● 弘化改元。    

 (弘化 元年)    1844年12月2日に、和暦の「天保」(て

            んぽう) が、 「 弘化」 (こうか、弘化元年・

            1844年・12月2日〜弘化5年・1848年・

            2月28日) に改元される。 

■ 1848年   ● 嘉永改元。    

 (嘉永 元年)     1848年2月28日に、和暦の「弘化」(こ

            うか)が、 「嘉永」(かえい、嘉永元年・18

            48年・2月28日〜嘉永7年・1854年・11

            月27日) に改元される。 

■ 1851年   ● 1851年2月、島津斉彬(なりあきら)が、

 (嘉永 4年)   11代薩摩藩主となる。

■ 1853年   ● 篤姫( あつひめ、於一(おかつ))が、薩

 (嘉永 6年)   摩藩主・島津家本家の養女となる。  

              篤姫は、島津篤子 (しまづ あつこ)、篤

            姫(あつひめ) と称す。篤姫(於一) は、島

             津斉彬(しまづなりあきら)の養女となる。 

■ 1853年    ● 徳川 家定 (いえさだ、将軍在任1853

 (嘉永 6年)    〜58年、家慶の四男)が、 江戸幕府・第

             13代将軍となる。 

            ● これ以後、 家定は体が弱かったため、 

             次期14代将軍継嗣(けいし)問題が起こり、

             日本各地で、  雄藩連合政治を望み次期

             14代将軍に一橋慶喜(ひとつばし よしの

             ぶ、水戸藩出身一橋家当主)を擁(よう)す

             る、一橋派 と、 徳川独裁政治を望み次期

             14代将軍に徳川 慶福(よしとみ、紀伊藩藩

             主)を擁する、紀州派(南紀派) とが、対立

             する (1853年〜1859年頃)。

■ 1853年   ● 1853年6月、アメリカのペリー艦隊が日

 (嘉永 6年)   本来航。 開国を要求。

■ 1853年   ● 江戸幕府の老中首座・阿部正弘が、挙国

 (嘉永 6年)   的な対策を立てようと、開国について、諸大

            名や色々な人物に、意見を求めたため、 こ

             れ以後、日本各地で、 外国勢力を武力で

            追い払うことを主張する、尊皇(王)攘夷派

            (じょういは) と、 開国し外国勢力と協力し

            て、先進の西洋文化を採り入れて国を発展 

            させることを主張する、開国派(かいこくは) 

            とが対立する (1853年〜1867年頃)。

■ 1853年   ● 1853年8月、江戸幕府の老中首座・阿

 (嘉永 6年)    部正弘(まさひろ)と島津斉彬の話し合い

             で、 篤姫の輿入(こしい)れが決まる(内定

                       する)。 

           ● 篤姫(島津篤子)、鹿児島の薩摩藩・鶴松

            城より移動し、 薩摩藩・江戸藩邸へ移る。 

                      ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 1853年   ● 前水戸藩主で、水戸藩の実権を握る、徳

 (嘉永 6年)   川斉昭 (なりあき)が、幕政参与(幕府の政

            治顧問、1853〜57年) となる。

■ 1854年   ● 1854年3月、日米和親条約締結。 

 (嘉永 7年)   日本開国。  

           ● 1854〜55年に、幕府・老中首座・阿部

            正弘は、 欧米列強の米英露蘭と和親条約

            を締結する。

■ 1854年   ● 1854年4月、西郷隆盛は、 島津藩主・

 (嘉永 7年)    島津斉彬(なりあきら)の庭方役となる。  

            ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 1854年   ● 西郷隆盛が、島津斉彬に抜擢されて江

 (嘉永 7年)   戸に赴(おもむ)き、篤姫(あつひめ、島津

                   篤子、近衛敬子) の、輿入れの支度係

            (1854〜1856年)、 篤姫(島津篤子、

            近衛敬子)との連絡係 (1854〜1859

            年) となる。  

■ 1854年   ● 安政改元。    

 (安政 元年)    1854年11月27日に、和暦の「嘉永」

            (かえい)が、 「安政」  (あせんい、安政

            元年・1854年・11月27日〜安政7年・

            1860年・3月18日) に改元される。 

 

□ 璋院・篤姫  詳細年表の先頭へ戻る

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#atsuhimedetailedchronology-1856

 

■ 1856年   ● 篤姫(島津篤子)、近衛家の養女となる。 

 (安政 3年)   近衛家当主・近衛 忠熙(このえ ただひろ)

            の養女となる。  篤姫  は、近衛 敬子(こ

            のえすこ) と 称す。

■ 1856年   ● 1856年11月、篤姫 (あつひめ、近衛

 (安政 3年)   敬子 (このえすみこ、一橋派)、江戸城・大

            奥に入る。 

■ 1856年   ● 1856年12月、薩摩藩出身の篤姫(

 (安政 3年)   衛敬子) が、 家定(いえさだ)と婚礼の式  

            を挙げ、 13代将軍・徳川家定(いえさだ)

            の正室夫人となる。 

■ 1857年   ● 1857年6月、老中・阿部正弘 (まさひ

 (安政 4年)   ろ、一橋派の中心人物、篤姫(島津篤子、近

            衛敬子) の輿入れを求め、バックアップした) 

            が急死する。

■ 1857年   ● 徳川斉昭(なりあき、一橋派) が、幕政

 (安政 4年)   参与を辞する。

■ 1858年   ● 1858年4月、家定が、井伊直弼(なお

 (安政 5年)   すけ、南紀派) を大老に任命する。 

■ 1858年   ● 1858年5月、次期14代将軍が、紀州

 (安政 5年)   藩主・徳川慶福 (よしとみ、後の家茂(い 

            えもち))に決定する。 

                       ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 1858年   ● 篤姫(近衛敬子)、 徳川慶福(家茂)の

 (安政 5年)   養母(義母) となる。

                篤姫が、家茂夫妻と形式的に、養子縁

            組をする。

■ 1858年   ● 1858年6月、日米修好通商条約締結。 

 (安政 5年)  ●  安政の5カ国条約締結。 1858年6月〜

            9月に、幕府・大老・井伊直弼(なおすけ)は、

                        勅許を得ず、欧米列強の米蘭露英仏と不平

            等な「安政の5カ国条約」(修好通商条約)を

            締結する。 

■ 1858年   ● 1858年7月、篤姫(近衛敬子)の夫の将

 (安政 5年)   軍・徳川家定が、急死する。 家定死後、篤

            姫(敬子)は、落飾して、天璋院(てんしょうい

            ん)と 称す。

■ 1858年   ● 1858年7月、島津斉彬(なりあきら、一

 (安政 5年)    橋派)が、急死する。

■ 1858年   ● 1858年9月、安政の大獄(1858〜59、

 (安政 5年)   一橋派、反井伊勢力の一掃)が始まる。

■ 1858年   ● 1858年12月、徳川家茂(いえもち、慶

 (安政 5年)   福) が、幕府14代将軍となる。 篤姫(

            璋院)は、将軍家茂の義母となる。

■ 1859年   ● 1859年1月、篤姫天璋院)の盟友、一

 (安政 6年)   橋派の同志の、西郷隆盛 が、南紀派の幕

            府大老・井伊直弼の目を逃れるため、死ん

            だこととし、奄美大島に潜居(潜伏生活)する

            (〜1862年1月)。 後に、西郷は、そこで

            島娘と結婚する。

■ 1859年   ● 篤姫(天璋院)の盟友、一橋派の一橋(徳

 (安政 6年)   川)慶喜が、南紀派の幕府大老・井伊直弼よ

            り、 隠居謹慎処分をうける(〜1860年)。

                      ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 1859年   ● 島津久光(忠教) が、 島津茂久(忠義)

 (安政 6年)   の実父として、12代藩主・島津茂久(忠義)

            の後見人となり、 薩摩藩の実権を握る。

            (1859年〜1871年の間)。

■ 1860年   ● 万延改元。    

 (万延 元年)    1860年3月18日に、和暦の「安政」(あ

            んせい)が、 「万延」(まんえん、万延元年・

            1860年・3月18日〜万延2年・1861年・

            2月19日) に改元される。 

■ 1860年   ● 1860年3月、桜田門外の変。 大老・井

 (万延 元年)   伊直弼が、暗殺される。   

            ● これ以後、 江戸幕府は公武合体政策

             をすすめ、 尊皇攘夷派・急進派 と 公

             武合体派・佐幕派 とが対立する (19

             60年〜186 4年頃)。

■ 1860年   ● 1860年11月、皇女 和宮(こうじょ か

 (万延 元年)   ずのみや)と将軍家茂との結婚が決定(公 

             武合体政策のため)。

 

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#atsuhimedetailedchronology-1861

 

■ 1861年   ● 文久改元。    

 (文久 元年)    1861年2月19日に、和暦の「万延」(ま

            んえん) が、 「文久」  (ぶんきゅう、文久

            元年・1861年・2月19日〜文久4年・18

            64年・2月20日) に改元される。 

■ 1861年   ● 1861年10月、和宮が江戸に下る 

 (文久 元年)   (公武合体の政策のため)。

■ 1862年   ● 1862年2月、江戸幕府将軍・徳川家茂 

 (文久 2年)   と 孝明天皇の妹・皇女・和宮の婚儀が為

            (な)される (公武合体の政策のため)。

              1862年2月に和宮が江戸城に到着。 

            将軍・家茂と皇女・和宮の婚儀挙行。 婚儀

            後、 篤姫天璋院)は、家茂正室・和宮と 対

            立する。 その後、2人は、徐々に和解して

            いく。

■ 1862年   ● 小松 帯刀(たてわき)が、 薩摩藩の家

 (文久 2年)   老となる。

■ 1862年   ● 薩摩藩の実権を握る、島津久光は、幕政

 (文久 2年)   改革をめざして、 兵を率いて、京(都)へ上

            京し、朝廷の承認を得て、勅使に随行して、

            江戸に下向し、幕府と交渉し、幕政改革を承

            諾させる。

■ 1862年   ● 幕府は、文久の改革(幕政改革)を実施。 

 (文久 2年)   幕府は、一橋慶喜を幕府の将軍後見職に、

            松平春嶽を幕府の政治総裁職に就任させる。

                       ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 1862年   ● 生麦事件起こる。 島津久光の江戸から

 (文久 2年)   京(都)への帰途、生麦村で、 薩摩藩士が、 

            島津久光の大名行列を横切った、イギリス

            人を斬る。 

■ 1863年   ● 1863年3月、14代将軍・徳川家茂上 

 (文久 3年)   洛(将軍上洛230年ぶり)。     

               家茂は、京(都)に、4ヶ月程、滞在し、

             江戸へ戻る。

■ 1863年   ● 1863年7月、薩英戦争。 戦後、薩摩

 (文久 3年)   藩は、イギリスと親密となる。

■ 1864年   ● 元治改元。    

 (元治 元年)   1864年2月20日に、和暦の「文久」(ぶ

            んきゅう)が、 「元治」  (げんじ、元治元

            年・1864年・2月20日〜元治2年・186

            5年・4月7日) に改元される。 

■ 1864年   ● 1864年8月、幕府、第1次長州征討 

 (元治  元年)   (1864年8月〜12月) 開始。

■ 1864年   ● 1864年11月、長州藩は、幕府に屈服

 (元治 元年)   し、幕府に対し恭順(きょうじゅん)の態度を

            とった。 1864年12月に、幕府軍は、 引

            き揚げる。

■ 1864年   ● 1864年12月、長州藩で、高杉晋作(た

 (元治 元年)   かすぎしんさく)が、奇兵隊を率いて、幕府

            に恭順した保守派を退(しりぞ)け、長州藩

            の藩論を、討幕へ転換させた。

           ● これ以後、日本各地で、 尊皇(王)討幕

            派 と 公武合体派・佐幕派 とが対立する

            (1864〜1866年頃)。

■ 1865年   ● 慶応改元。  

 (慶応 元年)    1865年4月7日に、和暦の「元治」(げ

            んじ)が、「慶応」  (けいおう、慶応元年・

            1865年・4月7日〜慶応4年・1868年・

            9月8日) に改元される。 

■ 1866年   ● 1866年1月、薩長同盟成立。 薩長の 

 (慶応 2年)   反幕府政治・軍事同盟の密約。 

           ● これ以後、日本各地で、 尊皇(王)討幕

            派 と 公議政体派・佐幕派 とが対立する

            (1866〜1867年頃)。

■ 1866年   ● 1866年5月、幕府は、欧米列強と改税

 (慶応 2年)   約書(かいぜいやくしょ)に調印。

■ 1866年   ● 1866年6月、幕府は、長州に対し、第

 (慶応 2年)   2次長州征討(1866年6〜7月)を開始。

            ● 第2次長州征討で、龍馬は、長州藩海軍

            を支援する。

■ 1866年   ● 1866年7月、幕府将軍・徳川家茂死去

 (慶応 2年)       (病死)。 第2次長州征討、中止となる。 

                    ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 1866年   ● 1866年12月、徳川慶喜(よしのぶ)、

 (慶応 2年)   幕府15代将軍となる。 和宮と共に、篤姫

            (天璋院)は、慶喜の大奥改革に反対する。

■ 1866年   ● 1866年12月、倒幕を好まず、公武合

 (慶応 2年)   体論の立場をとる、孝明天皇が急死する。 

■ 1867年   ● 1867年1月、睦仁(むつひと)天皇 (明

 (慶応 3年)   治天皇) が、即位(事実上即位)。 

■ 1867年   ● 1867年10月、幕府は、大政奉還。

 (慶応 3年)

■ 1867年   ● 1867年12月、王政復古のクーデター 

 (慶応 3年)   と 新政府の樹立。                

            ● 1867年12月9日、  王政復古の大号

            令と小御所会議 により、幕府排除の王政

            復古と 近代日本政府 (明治新政府、天皇

            親政政府) 樹立 となる。

■ 1868年   ● 1868年1月、鳥羽伏見の戦い。

 (慶応 4年)   戊辰(ぼしん)戦争(1868〜69年)が始

            まる。

■ 1868年   ● 1868年4月、江戸城無血開城。 討幕軍、

 (慶応 4年)   江戸城入場。 篤姫(天璋院)は、東京の一

            橋邸へ移る。

                       ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 1868年   ● 明治改元。   1868年9月8日に、和暦

 (明治 元年)   の「慶応」(けいおう)が、「明治」 (めいじ、

             明治元年・1868年・9月8日〜明治45年・

             1912年・7月30日) に改元される。 

■ 1883年   ● 篤姫天璋院)、東京の一橋邸で死去。 

 (明治16年)    享年48歳。

 

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#ladyatsuhime

 

■ 篤姫  

     (あつひめ)

 

■ 璋院・篤姫(てんしょういん・あつひめ)の詳

  細に関しては、 『 璋院・篤姫 ガイドブック 』  

  を参照して下さい。

 

■ 璋院・篤姫  (総合)

■ 生没年 1835(天保6年)〜1883年(明治

  16年)。

■ 名称 : 璋院・篤姫 (てんしょういん・あつ

  ひめ)。

● 於一(おかつ、1835年〜) ⇒ 島津 篤子

  (あつこ)、篤姫(あつひめ)、(1853年〜) 

  ⇒ 近衛 敬子(このえ すみこ、1856年〜) 

  ⇒ 天璋院 (てんしょういん、1858年〜) と

  言われる (名前を変える)。

  (注意) 前近代の日本では、夫婦別姓。

■ 江戸幕府13代将軍徳川家定(いえさだ)の

  正室夫人 (御台所(みだいどころ))。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

□ 天璋院 (島津篤子、篤姫) 画像

   NO.1

□ 関連項目

□ 璋院・篤姫 が登場する、面白く、

   興味深い、ドキュメンタりー、ドラマ、 

     映画

 

 

■ 璋院・篤姫 (てんしょういん・あつひめ)

◆ 二人の篤姫(あつひめ)。

■ 島津家出身で、江戸幕府11代将軍徳川家斉

  (いえなり)の正室夫人の、

  広大院(こうだいいん、1773〜1844)の別名

■ 島津家出身で、江戸幕府13代将軍徳川家定

  (いえさだ)の正室夫人の、

  璋院(てんしょういん、1835〜1883)の別名

● TKKI カナヤマ著 璋院・篤姫ガイドブック

 

■ 歴史学の立場から、 天璋院・篤姫 (於一

  子、敬子、天璋院) の実像 (歴史的有名な人物

  には虚像と実像がありますが) を見てみよう。

 

■ 璋院・篤姫 (てんしょういん・あつひめ) は、

  幕末の大奥の実力者であり、 大奥の最後の実

  力者 (大奥在留期間1856〜68年) でした。

● 江戸幕府将軍徳川家定(13代)・家茂(14代)・

  慶喜 (15代)の治世 (1853〜67) の大奥の

  実力者 でした。

● TKKI カナヤマ著 璋院・篤姫ガイドブック

 

■  璋院・篤姫 は、 嫁ぎ先の徳川宗家の た

  めに尽(つく)し、 私的な政治顧問として、 江

  戸幕府の将軍 (13代将軍・家定、14代 将軍

  家茂、15代将軍慶喜)  補佐・助言し、 

  政を支えた女性 で ある。

 

■ 璋院・篤姫 は、  徳川宗家(本家)を存続さ

  せたいという強い思いから、結果的に、 徳川宗

  家(旧江戸幕府)軍 と 明治新政府軍 との本

  格的な内戦(全面戦争) を回避するのに貢献

  した

● TKKI カナヤマ著 璋院・篤姫ガイドブック

 

■ 璋院・篤姫 は、  徳川宗家(本家)の存続を

  願い、その結果、 勝海舟や和宮と協力し、結果

  的に、 旧江戸幕府(徳川宗家)の持つ実権(権

  限、領地、城等)の明治新政府への平和的移譲

  に貢献し、 徳川宗家(旧江戸幕府)軍 と 明治

  新政府軍 との本格的な内戦(全面戦争) を回

  避するのに貢献した女性 である。

    勝海舟は、 薩摩藩出身の璋院・篤姫

  天皇家出身の和宮の協力を得て、 江戸総攻撃

  避と徳川宗家(本家)の存続に動く。

     薩摩藩出身の璋院・篤姫は、義父・島津

  斉彬(しまづなりあきら)の部下で一橋派同志・

  輿入れ時世話役の、東征軍参謀の西郷隆盛

  手紙を書き、 徳川宗家(本家)存続を強く願い

  出る。 また、天璋院・篤姫の意を受けた、皇室

  出身の和宮が、京(都)の朝廷に手紙を出し、徳

  川宗家(本家)の存続を強く願い出る。 

      江戸総攻撃については、 明治新政府・東

  征軍の江戸到着時に、勝海舟の策により、勝海

  舟が、 東征軍の江戸総攻撃を躊躇(ちゅうちょ)

  させていた。  

    というのも、 明治新政府・東征軍が江戸(東

  京)へ向かう途中の時期に、 当時世界有数の

  約100万人都市の江戸(東京)をアジア貿易の

  よい市場・拠点にしようと考えていたイギリスに、 

  旧幕府代表の勝海舟が、 明治新政府・東征軍

  の江戸攻撃があれば「江戸を焼きつくす」と言っ

  たため、 驚いたイギリスが、戦争荒廃で貿易の

  大市場・拠点の江戸を喪失し貿易利益を失うこ

  とを嫌い、 江戸総攻撃に強く反対の立場をとっ 

  たため、 当時イギリスの全面援助を受けていた

  薩長中心の明治新政府・東征軍参謀の西郷隆

  盛は、 江戸到着時に、 江戸総攻撃を躊躇(ち

  ゅうちょ)していた。

     戊辰(ぼしん)戦争で、 1868年2月に、新

  政府軍は、 京(都)を出発し、 江戸に向かう。 

  勝海舟は、 東進する東征軍参謀の西郷隆盛と

  手紙を交わし、和解(江戸総攻撃中止)の条件を

  聞き出す。 手紙での西郷隆盛からの和解(江戸

  総攻撃中止)の条件は、 旧幕府が完全降伏す

  る厳しい条件であった。 

     勝海舟は、 イギリス公使・パークスに手紙

  を書き、 旧幕府が恭順(きょうじゅん)し降伏す

  る旨を伝え、賛同を得る。 薩長を援助するイギ

  リスは、 当時世界有数の約100万人都市の

  戸をアジア貿易のよい市場・拠点にしようと考え

  ていたが、 戦争荒廃で貿易の大市場・拠点

  江戸を喪失し貿易利益を失うことを嫌い、 イギ

  リス公使パークスが江戸総攻撃に強く反対し、 

  薩長中心の明治新政府・東征軍参謀の、西郷

  隆盛は、 この機会に、旧幕府勢力をすべて一

  掃しようと考えていたが、 当惑し、江戸総攻撃

  を躊躇(ちゅうちょ)する。 

    一方、勝海舟は、交渉決裂と江戸総攻撃に

  備え、江戸を敵に渡さないため、江戸焼払いと

  江戸住民の脱出の手はずを整えた。

    1868年3月11日に新政府軍の大軍が神

  奈川を通過し、江戸に迫る。 1868年3月15

  日予定の江戸総攻撃前の、3月13日と14日

  に、 芝の薩摩藩藩邸で、西郷・勝会談がもた

  れ、 西郷隆盛は、 江戸城開城を含む、勝の

  出す緩(ゆる)やかな条件を受け入れ、 江戸

  総攻撃を中止した。

    1868年(慶応4年)4月11日に、 江戸城

  無血開城が行われた。 ここに、新政府軍勢力

  と旧幕府軍勢力の全面戦争は、回避された。

  徳川 宗家(本家)は、明治新政府(近代日本政

  )から、減封存続が認められ、1868年に、

  徳川宗家(本家)の当主は、徳川慶喜(よしの

  ぶ)から徳川家達(いえさと)になり、 徳川宗

  家(本家)は、 駿河70万石の一大名(1868

  〜71年、駿府城城主)となった。

    新政府軍は、 その後、戊辰戦争で、抵抗す

  る残存の弱い旧幕府勢力との部分戦争を戦え

  ばよくなり、 一方的な勝利を得ることができた。

● TKKI カナヤマ著 璋院・篤姫ガイドブック

 

 

■ 璋院・篤姫の名称。

■ 璋院・篤姫  (てんしょういん・あつひめ) は、 

  @ 今和泉(いまいずみ)島津家の生家時期の

   最初の名前は、 於一(おかつ) (1836年〜)、 

  島津一(しまづかつ)と言われ、 

  A 後に、  島津家本家養女となり、 篤姫(あつ

  ひめ) (1853年〜)、 島津(源)篤子(しまづ あ

  つこ) (1853年〜) と言われ、 

  B その後、近衛家女となり、 近衛 (藤原)敬子

  (このえすみこ) (1856年〜) と言われ、 

  C 夫・将軍徳川家定の死去に伴い落飾(らくしょ

  く)して、 天璋院(てんしょういん) (1858年〜) 

  と 言われた。

● TKKI カナヤマ著 璋院・篤姫ガイドブック

 

■ 璋院・篤姫の正式名 は、  島津一 (しまづか

  つ、1836年〜、実父の島津忠剛(ただたけ)の娘

  として)、  島津(源)篤子 (しまづ あつこ、1853

  年〜、養父の島津斉彬(なりあきら)の養女として)、  

  近衛(藤原)敬子 (このえすみこ、1856年〜、養

  父の近衛 忠熙(ただひろ)の養女として) である。

● TKKI カナヤマ著 璋院・篤姫ガイドブック

 

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■ 篤姫の一族。

■ 篤姫の父 は、 島津忠剛 (ただたけ)で、島津

  御一門4家の1つ、今和泉(いまいずみ)・島津家

  の11代当主 である。 

■ 篤姫の母 は、 お幸(おゆき) である。 

■ 篤姫の兄 は、 島津 忠敬 (ただゆき)で、 後

  に、今和泉・島津家の当主 となる。

■ 篤姫の養父 は、 島津 斉彬 (なりあきら) で、 

  島津家28代当主で、11代薩摩藩藩主 (篤姫と

  養子縁組当時) である。

■ もう一人の篤姫の養父 は、 近衛 忠熙(ただひ

  ろ) で、 朝廷の5摂家筆頭・近衛家の当主で、 

  右大臣 (篤姫と養子縁組当時) である。

● TKKI カナヤマ著 璋院・篤姫ガイドブック

 

● 璋院・篤姫 が、篤姫を名乗ったのは、11代

  将軍徳川家斉の正室夫人の、 広大院(こうだい

  いん)の別名 (徳川家嫁入り前の島津家本家の

  姫であった時期の名) にあやかったものである。

 

■ 篤姫は、 薩摩(さつま)(鹿児島県)の島津家出

  身。 幕末、明治初期(江戸時代末期、明治時代

  初期に)、 日本政治の変革期に活躍し、 薩摩

  藩出身者、その他多くの人々と協力して、 日本

  の 明治維新の改革 や 近代国家成立 に貢献

  した女性 である。 

● TKKI カナヤマ著 璋院・篤姫ガイドブック

 

● 篤姫との交流者は、 島津斉彬(しまづなりあき

  ら、薩摩藩主)、小松帯刀(こまつたてわき、薩摩

  藩家老)、 西郷隆盛 (さいごうたかもり、 薩摩

  藩藩士、後、明治新政府要人)、 大久保利通 

  (おおくぼとしみち、 薩摩藩藩士、後、明治新政

  府要人)、 島津久光(しまづひさみつ、斉彬の弟)、

  その他多数の薩摩藩出身者、 また、 徳川斉昭 

  (とくがわなりあき、水戸藩主)、 阿部正弘 (あ

  べまさひろ、老中首座)、 徳川家定 (とくがわい

  えさだ、13代将軍、夫)、 徳川慶喜 (とくがわ

  よしのぶ、15代将軍)、 近衛忠熙 (このえただ

  ひろ、朝廷摂関家・近衛家当主) と近衛家要人、 

  皇女和宮(こうじょかずのみや、孝明天皇の妹)、 

  勝海舟 (かつかいしゅう、幕臣(徳川家家臣)、後、

  明治新政府海軍卿)、 その他多数の人々 である。

● TKKI カナヤマ著 璋院・篤姫ガイドブック

 

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#ladyatsuhime-relateditems

 

◆ 関連項目。

■ 島津斉彬、 小松帯刀、 西郷隆盛、 大久保利

  通、 島津久光、 徳川斉昭、 阿部正弘、 徳川

  家定、 徳川慶喜、 近衛忠熙、 和宮、 勝海舟 

  に関しては、 日本史辞典の各項目 を参照して

  下さい。

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■ 島津 斉彬、 近衛 忠熙 に関しては、 日本史辞

  典の 『 島津 斉彬 (しまづ なりあきら)、 近衛

  忠熙(このえ ただひろ) 』 の各項目を 参照して

  下さい。

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。                

 

■ より理解を深める為に、 日本史辞典の『 篤姫

  簡略年表 (あつひめ かんりゃくねんぴょう) 』、

  『 幕末 簡略年表 (ばくまつ かんりゃくねんぴょ

  う) 』 を参照して下さい。

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■ 徳川将軍家の 「大奥」の詳細に関しては、

  「 江戸幕府 大奥 ガイドブック 」 を参照して

  下さい。

 

■ 徳川将軍家の15代(15人)の将軍名、就任期

  間に関しては、日本史辞典の 『 徳川将軍家 

  (とくがわしょうぐんけ) 』 を参照して下さい。

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#ladyatsuhime-appearingscenes

 

◆ 天璋院・篤姫(てんしょういん・あつひめ)が登場す

    る、興味深い、ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

 天章院 篤姫、和宮が登場する、興味深い、

  ドキュメンタリー。

 

■ その時歴史が動いた 『 大奥 華

   (はな)にも意地あり 〜江戸城無血

  開城・天章院 篤姫〜 』 

   (NHKテレビ・2007年(H19)4月・本放送

   テレビ・ドキュメンタリー番組、第286回)。

 

♪♪ 天章院 篤姫、和宮が登場する、興味深い、 

  ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画 は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事 が 混じって描かれています。 

  また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 西郷(せご)どん 』。 

   (NHKテレビ・2018年(H30年)大河ドラマ)。

■ 日本の明治維新、幕末、明治時代初期の時代

  状況やその時代に活躍した人々を描く。

 

■ 『 篤姫 (あつひめ) 』 。 

   (NHKテレビ・2008年大河ドラマ、宮崎あお

   い主演)。

■ 日本の明治維新、幕末、明治時代初期の時代

  状況やその時代に活躍した人々を描く。

■ 篤姫の、生涯 や 篤姫が、将軍の妻となり、

  夫の将軍の死後、幕末の徳川幕府(徳川宗家)

  を支える、 活躍を描いたテレビドラマ。

■ 日本の江戸時代の12代将軍家慶、13代将

  軍家定、14代将軍家茂、15代将軍慶喜 時代 

  及び明治時代初期、 宮崎あおい主演。

■ 幕末、明治維新(1841〜77年)に活躍した、

  13代将軍徳川家定(いえさだ)の正室 (妻) 

  の、天璋院・篤姫 (てんしょういん・あつひめ) 

  の生涯を描いた テレビドラマ で ある。

 

● 天璋院・篤姫を演じた女優名 : 宮崎あおい。

 

  

  〇 ドラマ「篤姫」に登場する、幕末の大奥の実

     力者、篤姫、 

  〇 テレビ局のドラマ「篤姫」の出版本販売用P

     Rフォト。

 

■ 『 大奥・幕末の女たち 』。

   (フジテレビ・2003年・2004年制作

   テレビドラマ)。 

● 天璋院・篤姫を演じた女優名 : 菅野美穂。  

● 12代将軍家慶、13代将軍家定、14代将軍家

  茂、15代将軍慶喜時代及び 明治初期、 菅野

  美穂、安達祐実、浅野ゆう子、池脇千鶴 などが

  出演。 

 

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『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』

 

 

以  上