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     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY HANDBOOK

 

 カナヤマ 日本歴史 辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 あ 』

 No.1225。

 

 

メ ニュー (目次)  #jpmenu     

■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

□ 日本史 辞典 (総合)    

□    ≪ 足利氏分家の人々 ≫

        ● 事柄順。

〇 あし  足利 基氏  

             (あしかが もとうじ)。 《人名》。

             (鎌倉公方、前期関東公方)。

             (関東公方)。

             (関東公方足利氏の始祖)。

             (足利氏の一族)。

             (鎌倉公方在職:

           1349年ー1367年)。

             (生没年:

           1340年ー1367年)。

          ○ 足利基氏は、

             室町幕府の、初代鎌倉公方

          (かまくらくぼう)である。

          ○ 足利基氏は、

          室町幕府の初代将軍・足利

          尊氏(たかうじ)の子 である。

          (⇒ 鎌倉公方

         関東公方)。

          (⇒ 室町幕府)。

          (⇒ 室町幕府関連出来事)。

          (⇒ 足利氏)。

              ■ 足利基氏 (あしかが もとうじ、鎌倉

             公方在職:1349年ー1367年、生没年:

             1340年ー1367年) は、  鎌倉公方 

             (かまくらくぼう、= 室町幕府(= 足利幕

             府)の鎌倉府長官、前期関東公方) で

             あり、  関東公方 (かんとうくぼう、=

             室町幕府の東国統治地方長官)) であ

             る。

             ■ 足利基氏は、 室町幕府(= 足利幕

             府)の、初代鎌倉公方 (在職:1349

             1367年)であり、 関東公方足利氏

             の 始祖であり、 室町幕府の初代将軍・

             足利尊氏(たかうじ)の子である。

 

〇 あし  足利 持氏

             (あしかが もちうじ)。  《人名》。

             (鎌倉公方、前期関東公方)。

             (関東公方)。

             (足利氏の一族)。

             (鎌倉公方在職:

           1409年ー1439年)。

             (生没年:

           1398年ー1439年)。

          ○ 足利持氏は、

          室町幕府の第4代鎌倉公方

             (かまくらくぼう)である。

          ○ 足利持氏は、

             第5代鎌倉公方・足利成氏(し

          げうじ)の父 である。

          ○ 足利持氏は、

          室町幕府の初代鎌倉公方・

          足利基氏(もとうじ)の曾孫(ひま

             ご)である

          (⇒ 鎌倉公方

         関東公方足利成氏)。

          (⇒ 室町幕府)。

          (⇒ 室町幕府関連出来事)。

          (⇒ 足利氏)。

              ■ 足利持氏 (あしかが もちうじ、鎌倉

             公方在職:1409年ー1439年、生没年:

             1398年ー1439年) は、 鎌倉公方 

             (かまくらくぼう、= 室町幕府の鎌倉府長

             官、前期関東公方)であり、 関東公方 

             (かんとうくぼう、= 室町幕府の東国統治

             地方長官)) である。

             ■ 足利持氏は、 室町幕府(= 足利幕

             府)の、第4 代鎌倉公方(在職:1409

             1439年)であり、 5代鎌倉公方・足

             利成氏(しげうじ)の父であり、 室町幕

             府の初代鎌倉公方足利基氏(もとうじ

             の曾孫(ひまご)である。

 

〇 あし  足利 成氏 

             (あしかが しげうじ)。 《人名》。

             (鎌倉公方、古河公方)。

             (足利氏の一族)。

             (鎌倉公方在職:

          1449年ー1455年)。

             (古河公方在職:

          1455年ー1497年)。

             (生没年:

          1434年ー1497年)。

          ASHIKAGA Shigeuji.

          ○ 足利成氏は、

             室町幕府の、第5代鎌倉

             公方(かまくらくぼう)である。

          ○ 足利成氏は、

             室町幕府の、初代古河

             (こがくぼう)である。

          ○ 足利成氏は、

          享徳の乱(きょうとくのらん

          1454年ー1482年)を起

          こす。

          ○ 足利成氏は、

             第4代鎌 公方・足利持

             (もちうじ)の子である。

          (⇒ 鎌倉公方)。

          (⇒ 古河公方)。

          (⇒ 足利 持氏)。 

          (⇒ 室町幕府)。

          (⇒ 室町幕府関連

          出来事)。

          (⇒ 足利氏)。 

              ■ 足利成氏 (あしかが しげうじ、

             鎌倉公方在職:1449年ー1455年、

             古河公方在職:1455年ー1497年、

             生没年: 1434年ー1497年) は、  

             室町幕府の、鎌倉公方、古河公方

             である。、 

              ■ 足利成氏は、 室町幕府の、第5

             代鎌倉公方(在職:1449年ー1455

             年)であり、 室町幕府の、初代古河

             公方(在職:1455年ー14 97年)で

             あり、 室町幕府の第4代鎌倉公 方・

             足利持氏(もちうじ)の子である。

              ■ 足利成氏(しげうじ)は、 享徳の

             乱(きょうとくのらん、1454年ー14

             82年)を起こす。

〇 あし  足利 政知 

             (あしかが まさとも)。 《人名》。

            (堀越公方)。

            (足利氏の一族)。

            (堀越公方在職:

           1457年ー1491年)。

            (生没年:

           1435年ー1491年)。

          ○ 足利政知は、

          室町幕府(= 足利幕府)の

          第8代将軍・足利義政(よし

          まさ)の 異母兄である

          ○ 足利政知は、

          初代堀越公方(ほりごえくぼう

             堀越公方在職:1457年ー1491

             年))である。

          ○ 足利政知は、

          室町幕府の第11代将軍・足

          利 義澄よしずみの父 である。

          ○ 足利政知は、

          室町幕府の第6代将軍・足利

          義教(よしのり)の子 である。

          (⇒ 堀越公方)。

          (⇒ 足利義政足利

         義澄よしずみ)。

           (⇒ 室町幕府)。

           (⇒ 室町幕府関連出来事)。

           (⇒ 足利氏)。

          (⇒ 関東公方

           関東公方足利氏

           鎌倉公方古河公方)。

          (⇒ 堀越公方)。

          (⇒ 関東管領

           関東管領上杉氏

           山内上杉 氏扇谷上杉 氏)。 

              ■ 足利政知 (あしかが まさとも

             堀越公方在職:1457年ー1491年、

             生没年:1435年ー1491年) は、 

             室町幕府の第8代将軍・足利義政

             (よしまさ)の異母兄であり、 堀越公

             方 (ほりごえくぼう、= 室町幕府の

             東国統治地方長官) であり、 室町

             幕府の、初代堀越公方 (ほりごえ

             くぼう、堀越公方在職:1457年ー

             1491年)であ る。

             ■ 足利政知は、 室町幕府(= 足利

             幕府)の第11代将軍・足利 義澄よし

             ずみ) の父であり、 室町幕府の第6

             代将軍・足利義教(よしのり) の子で

             ある。

              ■ 1547年(長禄元年)に、室町幕府

             (= 足利幕府)・第8代将軍の足利義政

             は、 対立する古河公方・足利成氏(し

             げうじ)への対抗策として、足利義政の

             異母兄の足利政知(ま さとも)を鎌倉公

             方とし、 翌年の1548年に足利政知を、

             京(きょう、京都)から鎌倉公方として

             送った。 しかし、足利政知は、鎌倉に

             入ることができず、 手前の伊豆堀越

             (いずほりごえ、静岡県伊豆の国市)に

             留まることになり、そこに堀越御所を建

             設し、堀越公方(ほりごえくぼう)と 呼ば

             れた。 

             ■ 関東方の諸将は、初代鎌倉公方・

             足利基氏(もとうじ)以来の血筋である

             古河公方・足利成氏(しげうじ)への忠

             誠心が厚く、 堀越公方・足利政知(ま

             さとも)は、関東の勢力の協力・支持を

             得ることができなかった。

 

 

〇 あし  室町幕府・将軍 

〇 あし  足利尊氏

〇 あし  足利政権

〇 あし  足利氏 (家)

〇 あし  足利本家(宗家)

〇 あし  室町時代の足利本家

       (宗家)当主 

〇 あし  足利将軍家

〇 あし  足利将軍家当主 

〇 あし  足利本家(宗家)の

       当主以外の人々

〇 あし  足利分家の人々

 

 

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#ashikagamasatomo

 

■ 足利 政知  

     (あしかが まさとも)

 

■ 足利 政知

■ 名称 : 足利 政知 (あしかが まさとも)。  

■ 生没年 : 1435〜1491年。

■ 初代堀越公方(ほりごえくぼう)。

 

□ 足利氏 画像アルバム No.1

 

 

■ 足利 政知 (あしかが まさとも、生没年:14

  35〜1491年) は、 足利義政の 弟であり、 

  初代堀越公方(ほりごえくぼう) である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 足利 政知は、 室町幕府の第11代将軍・

  足利 義澄よしずみ) の父であり、 室町

  幕府・第6代将軍・義教(よしのり)の子 で

  ある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 古河公方 と 堀越公方。

● 古河公方 (こがくぼう、1455〜1583年、5

  代、足利成氏、政氏、高基、晴氏、義氏) と、 

  堀越公方 (ほりごえくぼう、1457〜91年、2

  代、足利政知、茶々丸)。

     鎌倉公方 (かまくらくぼう、5代)は、 13

  49年から1455年まで続いた。 その後、鎌倉

  公方は、 古河公方(こがくぼう、1455〜158

  3年、5代) と、 堀越公方(ほりごえくぼう、14

  57〜91年、2代) に代わった。

     古河公方や堀越公方 は、 室町幕府の 、

  東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、

  山梨県)) の政務を統轄する役職 である。

     享徳の乱(きょうとくのらん)が起こり、古河

  公方や堀越公方が成立する。

     足利成氏は、享徳の乱(きょうとくのらん)

  を起こす。 鎌倉公方の足利成氏 (あしかが

  しげうじ、1434〜97年) は、 鎌倉公方を補

  佐する役職の執事(しつじ、関東管領)の上杉

  氏と対立し、 鎌倉を保ちえず、 1455年に、 

  逃れて、 下総国古河城(しもうさのくにこがじ

  ょう) に移り、古河公方(こがくぼう) と称す。 

  1454年に、鎌倉公方の足利成氏は、 関東管

  領の上杉憲忠(うえすぎのりただ)を謀殺(ぼう

  さつ)し、 享徳の乱(きょうとくのらん)を起こし、 

  1455年に、関東管領・上杉房顕(ふさあき)が、 

  鎌倉公方の足利成氏を、 下総・古河(しもうさ・

  こが)に逐う。 成氏は、鎌倉を放棄し、古河公

  方(こがくぼう)となる(と呼ばれる)。  以後、

  古河公方 (1455〜1583年) は、 足利成

  氏(しげうじ)の子孫により、 2代・政氏、3代・

  高基、4代・晴氏、5代・義氏と続いたが、 15

  83年に古河公方の5代・足利義氏の死によっ

  て滅んだ。

     一方、享徳の乱(きょうとくのらん)が起こり、

   1457年に、 足利義政(よしまさ)の命令で、 

   足利成氏(しげうじ)を討つべく幕府から関東に

   派遣された、足利政知(あしかがまさとも、14

   35〜91年、足利義政の弟) は、 鎌倉に

   入れず、 伊豆国(いずのくに)堀越に根拠地を

   置き、 堀越公方 (ほりごえくぼう、1457〜9

   1年、初代堀越公方) となる(と呼ばれる)。堀

   越公方は、1491年の足利政知(まさとも)死後、 

   政知の子の足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる、

   ?〜1491年) が、継いで2代堀越公方となる

   が、 1491年に、伊勢宗瑞(いせそうずい、北

   条早雲) に攻められ足利茶々丸は自殺し、

   越公方は、滅びる。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

■ 享徳の乱。

 第5代鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利成氏(あ

  ひかがしげうじ、1434〜97年) が、 室町幕

  に組した関東管領(かんとうかんれい)の上杉

  憲忠(うえすぎのりただ)を謀殺(ぼうさつ)し、

  利成氏は、 幕府軍の追討をうけ、 享徳の乱(き

  ゅとくのらん、1454〜77年) が始まる。

     足利成氏(しげうじ)は、 本拠地の鎌倉を放

  棄し、 本拠地を下総国古河 (しもうさ(しもふさ)

  のくにこが、茨城県南部の古河) に移し、 古河

  公方 (こがくぼう、1455〜1583年、5代、足利

  成氏、政氏、高基、 晴氏、義氏) となる。

    一方、足利成氏(しげうじ)を討つべく室町幕府

  から派遣された足利政知 (あしかがまさとも、14

  35〜91年、足利義政の弟) は、 鎌倉に入れ

  ず、 伊豆国堀越 (いずのくにほりごえ、静岡県

  東部の堀越) に本拠地を置き、 対峙(たいじ)し、

  堀越公方 (ほりごえくぼう、1457〜91年、2代) 

  となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

■ 堀越公方。

    堀越公方 (ほりごえくぼう、1457〜91年、2

  代) は、 古河公方 (こがくぼう)関東管領

  (かんとうかんれい)と並んで、 室町幕府の 、

  東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、

  山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) 

  の政務を統轄する 役職 である。

    堀越公方は、 足利政知 (あしかがまさとも、

  1435〜91年、足利義政の兄弟)により成立し、

  その子が、継いだ。 2代(足利政知、茶々丸)の

  堀越公方が就任した。

    堀越公方は、 伊豆国堀越 (いずのくにほり

  ごえ、静岡県東部の堀越)を本拠地とした。

    堀越公方は、 鎌倉公方(1349〜1455年、

  五代)に代わり成立した 、2つの公方(くぼう、古河

  公方、堀越公方)の1つ である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

◆ 室町時代中期・後期の東国 (関東・

  伊豆・山梨・東北) の出来事。

■ 東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、山

  梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) では、 

  永享の乱や享徳の乱以後、 「戦国の世」となる。

    永享の乱 (えいきょうのらん、1438−1439

  年)で、 室町幕府・第6代将軍足利 義教(よし

  のり)は、 義教と対立する、第4代鎌倉公方の足

  利持氏(もちうじ)と戦い、勝利を得た。

     しかし、永享の乱後、義教は、 鎌倉公方が

  統治する東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐

  (かい、山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(で

  わ)) を、完全に支配しようしたが、東国の武士

  の諸勢力の反対にあい、できなかった。 また、

  義教の子を、鎌倉公方に就任させようとしたが、

  東国の武士の諸勢力の反対にあい、就任させら

  れなかった。

      統治力のある強い鎌倉公方を失い、永享の

  乱以後の1439年から、 東国 (とうごく、関東8

  国、伊豆、甲斐(かい、山梨県)、東北2国(陸奥

  (むつ)・出羽(でわ)) では、 諸勢力が入り乱 

  れ、豊臣秀吉が日本本土を統一する1590年ま

  で、「戦国の世」となった。

 

■ 第4代鎌倉公方足利持氏  (あしかがもちうじ、

  1398〜1439年) は、 室町幕府・第6代将軍

  の足利義教 (よしのり、将軍 在任1429〜1441

   や 関東管領の上杉憲実(のりざね) と対

  立し、1438年に、永享の乱 (えいきょうのらん、

  1438〜39年)を起こし、 1439年に、幕府・上

  杉軍に敗(やぶ)れて、自殺する。 

    1440年(永享12年)に、結城合戦(ゆうきか

  っせん、1440年)が起こる。 下総国 (しもうさ

  のくに、千葉 県北部相当地域)の豪族・結城氏朝

  (ゆうきうじとも)が、鎌倉公方・足利持氏の2人

  の遺子を擁(よう)し、挙兵するが、派遣された室

  町幕府軍に敗れ、 結城氏朝は敗死し、2人の遺

  子は殺される。

     その後、1449年に、 足利持氏の子の、

  利成氏 (あしかがしげうじ、生没年:1434〜9

  7年) が、 迎えられて、第5代鎌倉公方(就任:

  1449年ー1455年) となる。 

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 第5代鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利成氏(あ し

  かがしげうじ、生没年:1434〜97年) が、 14

  54年(享徳3年)に、関東管領(かんとうかんれい)

  の上杉憲忠(うえすぎのりただ)を謀殺(ぼうさつ)し、

  利成氏は、 関東管領の上杉氏と戦い、享徳の

  ( きょうとくのらん、1454〜82年) が始まる。

  室町幕府は、上杉氏を支援した。

     足利成氏(しげうじ)は、 本拠地の鎌倉を放

  棄し、 本拠地を下総国古河 (しもうさ(しもふさ)

  のくに・こが、茨城県南西部の古河) に移し、 

  河公方 (こがくぼう、1455年ー1583年、5代、

  足利成氏、政氏、高基、 晴氏、義氏) となる。

    一方、足利成氏(しげうじ)を討つべく室町幕府

  から派遣された足利政知 (あしかがまさとも、14

  35年ー1491年、足利義政の弟) は、 鎌倉

  に入れず、 伊豆国堀越 (いずのくにほりごえ、

  静岡県東部・伊豆半島の堀越) に本拠地を置き、 

  対峙(たいじ)し、堀越公方 (ほりごえくぼう、 就

  任:1457年ー1491年、2代) となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 享徳の乱(きょうとくのらん、1454〜1482年)

  が起こり、 古河 公方や堀越公方が成立する。

     足利成氏は、享徳の乱(きょうとくのらん)

  を起こす。 鎌倉公方の足利成氏 (あしかが

  しげうじ、1434〜97年) は、 鎌倉公方を補

  佐する役職の執事(しつじ、関東管領)の上杉

  氏と対立し、 鎌倉を保ちえず、 1455年に、 

  逃れて、 下総国古河城(しもうさのくにこがじ

  ょう) に移り、古河公方(こがくぼう) と称す。 

  1454年に、鎌倉公方の足利成氏は、 関東管

  領の上杉憲忠(うえすぎのりただ)を謀殺(ぼう

  さつ)し、 享徳の乱(きょうとくのらん)を起こし、 

  1455年に、関東管領・上杉房顕(ふさあき)が、 

  鎌倉公方の足利成氏を、 下総・古河(しもうさ・

  こが)に逐う。 成氏は、鎌倉を放棄し、古河公

  方(こがくぼう)となる(と呼ばれる)。  以後、

  古河公方 (1455〜1583年) は、 足利成

  氏(しげうじ)の子孫により、 2代・政氏、3代・

  高基、4代・晴氏、5代・義氏と続いたが、 15

  83年に古河公方の5代・足利義氏の死によっ

  て滅んだ。

     一方、享徳の乱(きょうとくのらん)が起こり、

   1457年に、 足利義政(よしまさ)の命令で、 

   足利成氏(しげうじ)を討つべく幕府から関東に

   派遣された、足利政知  (あしかがまさとも、14

   35〜91年、足利義政の弟) は、 鎌倉に

   入れず、 伊豆国(いずのくに)堀越に根拠地を

   置き、 堀越公方 (ほりごえくぼう、1457〜9

   1年、初代堀越公方) となる(と呼ばれる)。堀

   越公方は、1491年の足利政知(まさとも)死後、 

   政知の子の足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる、

   ?〜1491年) が、継いで2代堀越公方となる

   が、 1491年に、伊勢宗瑞(いせそうずい、北

   条早雲) に攻められ足利茶々丸は自殺し、

   越公方は、滅びる。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

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#ashikagamotouji

 

■ 足利 基氏  

     (あしかが もとうじ)

 

■ 足利 基氏。

■ 名称 : 足利 基氏 (あしかがもとうじ)。 

■ 生没年 : 1340ー1367年。

■ 初代 鎌倉公方(かまくらくぼう)。

■ 足利 尊氏の子。

● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典 72335。

 

□ 足利氏 画像アルバム No.1

 

 

■ 足利 基氏 (あしかがもとうじ、生没年:1340

  〜67年) は、 足利 尊氏の子 で、初代鎌倉

  公方 (かまくらくぼう) である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 足利 基氏 は、 1349年に、 父の足利足利

  尊氏の命(命令)で、鎌倉に下(くだ)り、 鎌倉

  公方 となる。

 

 足利 尊氏は、 鎌倉幕府の基盤であった関東

  を特に重視し、 その子の足利基氏(あしかが

  もとうじ、1340〜67年)を、 鎌倉公方(かま

  くらくぼう、関東公方)とし、 鎌倉府(かまくらふ)

  を開かせ、 東国(とうごく)の支配をまかせた。

     鎌倉府の組織は、 室町幕府とほぼ同じで、

  権限も大きかったため、 やがて京(都)の室町

  幕府としばしば衝突するようになった。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 足利 尊氏は、 室町幕府の地方 行政機関で、

  東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、

  山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) 

  の政務を統轄する行政(政治)機関 の鎌倉府

  の長官である、鎌倉公方に、第4子の足利基氏 

  (あしかがもとうじ、1340〜67年)を任じ、 鎌

  倉府の長官の鎌倉公方を補佐する役職の執事

  (しつじ、後の関東管領) として、上杉氏を任じ、

  それぞれ、子孫に世襲させた。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 第5代鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利成氏(あ

  ひかがしげうじ、1434〜97年) が、 室町幕

  に組した関東管領(かんとうかんれい)の上杉

  憲忠(うえすぎのりただ)を謀殺(ぼうさつ)し、

  利成氏は、 幕府軍の追討をうけ、 享徳の乱(き

  ゅとくのらん、1454〜77年) が始まる。

     足利成氏(しげうじ)は、 本拠地の鎌倉を放

  棄し、 本拠地を下総国古河 (しもうさ(しもふさ)

  のくにこが、茨城県南部の古河) に移し、 古河

  公方 (こがくぼう、1455〜1583年、5代、足利

  成氏、政氏、高基、 晴氏、義氏) となる。

    一方、足利成氏(しげうじ)を討つべく室町幕府

  から派遣された足利政知 (あしかがまさとも、14

  35〜91年、足利義政の兄弟) は、 鎌倉に入れ

  ず、 伊豆国堀越 (いずのくにほりごえ、静岡県

  東部の堀越) に本拠地を置き、 対峙(たいじ)し、

  堀越公方 (ほりごえくぼう、1457〜91年、2代) 

  となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 鎌倉公方 (かまくらくぼう、5代) は、 1349

  年から1455年まで続いた。 その後、鎌倉公方

  は、 古河公方(こがくぼう、1455〜1583年、

  5代) と、 堀越公方(ほりごえくぼう、1457〜

  91年、2代) に代わった。

 

■ 鎌倉公方

● 鎌倉公方 (かまくらくぼう、1349〜1455年、

  5代、足利基氏、氏満、満兼、持氏、成氏)。 

     鎌倉公方 (かまくらくぼう、5代) は、13

  49年から1455年まで続いた。 その後、鎌倉

  公方は、 古河公方(こがくぼう、1455〜158

  3年、5代) と、 堀越公方(ほりごえくぼう、14

  57〜91年、2代) に代わった。

      鎌倉公方は、 室町幕府の地方 行政機関

  で、東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、

  山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ))の

  政務を統轄する行政(政治)機関である鎌倉府の

  長官 である。

    足利基氏(あしかがもとうじ)の子孫が、代々、

  鎌倉公方 (かまくらくぼう、1349〜1455年、

  五代) を継いだ。 

     足利基氏の子孫は、基氏の子の2代・氏満、

  3代・満兼と続き、4代目の鎌倉公方足利持氏

  (あしかがもちうじ、1398〜1439年) が、 室

  町幕府第6代将軍の足利義教 (よしのり、将軍

  在任1429〜1441年)  と対立し、 永享の乱

  (えいきょうのらん)を起こし、 1439年に、幕府

  軍に敗(やぶ)れて自殺する。 

     その後、足利持氏の子の、足利成氏(あし

  かがしげうじ、1434〜97年)が、 1449年に

  迎えられて、鎌倉公方となる。 

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 古河公方 と 堀越公方。

● 古河公方 (こがくぼう、1455〜1583年、5

  代、足利成氏、政氏、高基、晴氏、義氏) と、 

  堀越公方 (ほりごえくぼう、1457〜91年、2

  代、足利政知、茶々丸)。

     鎌倉公方 (かまくらくぼう、5代)は、 13

  49年から1455年まで続いた。 その後、鎌倉

  公方は、 古河公方(こがくぼう、1455〜158

  3年、5代) と、 堀越公方(ほりごえくぼう、14

  57〜91年、2代) に代わった。

     古河公方や堀越公方 は、 室町幕府の 、

  東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、

  山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) 

  の政務を統轄する 役職 である。

     享徳の乱(きょうとくのらん)が起こり、古河

  公方や堀越公方が成立する。

     足利成氏は、享徳の乱(きょうとくのらん)

  を起こす。 鎌倉公方の足利成氏 (あしかが

  しげうじ、1434〜97年) は、 鎌倉公方を補

  佐する役職の執事(しつじ、関東管領)の上杉

  氏と対立し、 鎌倉を保ちえず、 1455年に、 

  逃れて、 下総国古河城(しもうさのくにこがじ

  ょう) に移り、古河公方(こがくぼう) と称す。 

  1454年に、鎌倉公方の足利成氏は、 関東管

  領の上杉憲忠(うえすぎのりただ)を謀殺(ぼう

  さつ)し、 享徳の乱(きょうとくのらん)を起こし、 

  1455年に、関東管領・上杉房顕(ふさあき)が、 

  鎌倉公方の足利成氏を、 下総・古河(しもうさ・

  こが)に逐う。 成氏は、鎌倉を放棄し、古河公

  方(こがくぼう)となる(と呼ばれる)。  以後、

  古河公方 (1455〜1583年) は、 足利成

  氏(しげうじ)の子孫により、 2代・政氏、3代・

  高基、4代・晴氏、5代・義氏と続いたが、 15

  83年に古河公方の5代・足利義氏の死によっ

  て滅んだ。

     一方、享徳の乱(きょうとくのらん)が起こり、

   1457年に、 足利義政(よしまさ)の命令で、 

   足利成氏(しげうじ)を討つべく幕府から関東に

   派遣された、足利政知  (あしかがまさとも、14

   35〜91年、足利義政の兄弟) は、 鎌倉に

   入れず、 伊豆国(いずのくに)堀越に根拠地を

   置き、 堀越公方 (ほりごえくぼう、1457〜9

   1年、初代堀越公方) となる(と呼ばれる)。堀

   越公方は、1491年の足利政知(まさとも)死後、 

   政知の子の足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる、

   ?〜1491年) が、継いで2代堀越公方となる

   が、 1491年に、伊勢宗瑞(いせそうずい、北

   条早雲) に攻められ利茶々丸は自殺し、

   越公方は、滅びる。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

■ 鎌倉府。

    鎌倉府 (かまくらふ、関東府) は、室町幕府

  の地方行政機関 であり、 室町時代前期の、13

  49年から1455年まで存続した。

    鎌倉府 (かまくらふ、関東府) は、 室町幕

  の地方 行政機関であり、 東国 (とうごく、関東

  8国、伊豆、甲斐(かい、山梨県)、東北2国(陸奥

  (むつ)・出羽(でわ)) の政務を統轄する行政(

  治)機関(の政庁)であった。

     鎌倉府の長官は、鎌倉公方(かまくらくぼう)

  と言い、 5代(足利基氏、氏満、満兼、持氏、成

  氏)の鎌倉公方が就任した。 

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 鎌倉公方。

    鎌倉公方 (かまくらくぼう、1349〜1455

  年、5代) は、 室町幕府の地方 行政機関で、

  東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、山

  梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) の

  政務を統轄する行政(政治)機関である鎌倉府 

  の長官  である。

    鎌倉公方は、 足利 尊氏の子、足利基氏(あ

  しかがもとうじ)により成立し、その子孫が、世襲

  した。 5代(足利基氏、氏満、満兼、持氏、成氏)

  の鎌倉公方が就任した。 

    鎌倉公方は、 室町幕府の政庁の鎌倉府(か

    まくらふ)があった鎌倉を本拠地にした。

    鎌倉公方 (かまくらくぼう、1349〜1455

  年、5代) は、 1349年から1455年まで続い

  た。 その後、鎌倉公方は、 古河公方(こがくぼ

  う、1455〜1583年、5代) と、 堀越公方(ほ

  りごえくぼう、1457〜91年、2代) に代わった。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 古河公方

    古河公方 (こがくぼう、1455〜1583年

  5代) は、 堀越公方(ほりごえくぼう)や関東

  管領(かんとうかんれい)と並んで、室町幕府の 、

  東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、

  山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) 

  の政務を統轄する 役職 である。

    古河公方は、 5代鎌倉公方の足利成氏(あ

  しかがしげうじ、1434〜97年)により成立し、そ

  の子孫が、世襲した。 5代(足利成氏、政氏、

  基、晴氏、義氏)の古河公方が就任した。 

    古河公方は、 下総国古河(しもうさ(しもふさ)

  のくにこが、茨城県南部の古河)を本拠地とした。

    古河公方は、 鎌倉公方(1349〜1455年、

  5代)に代わり成立した 、2つの公方(くぼう、古河

  公方、堀越公方)の1つ である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 堀越公方。

    堀越公方 (ほりごえくぼう、1457〜91年、2

  代) は、 古河公方 (こがくぼう)関東管領

  (かんとうかんれい)と並んで、 室町幕府の 、

  東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、

  山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) 

  の政務を統轄する 役職 である。

    堀越公方は、 足利政知 (あしかがまさとも、

  1435〜91年、足利義政の兄弟)により成立し、

  その子が、継いだ。 2代(足利政知、茶々丸)の

  堀越公方が就任した。

    堀越公方は、 伊豆国堀越 (いずのくにほり

  ごえ、静岡県東部の堀越)を本拠地とした。

    堀越公方は、 鎌倉公方(1349〜1455年、

  五代)に代わり成立した 、2つの公方(くぼう、古河

  公方、堀越公方)の1つ である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 関東管領。

     関東管領 (かんとうかんれい)は、室町幕

  の東国 (とうごく、関東8国、伊豆、 甲斐(かい、

  山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) 

  の政務を統轄する役職 である。

     関東管領は、 上杉氏が世襲した。

     関東管領上杉氏は、 山内(やまのうち)上 

  杉氏と 扇谷(おうぎがやつ)上杉氏に分かれて

  争った。

     室町時代前期には、 関東管領は、 室町幕

  鎌倉府の長官である鎌倉公方(かまくらくぼ

  う)を補佐する役職の執事(しつじ)として、 室町

  幕府の東国 (とうごく、関東8国、伊豆、 甲斐

  (かい、山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽

  (でわ)) の政務を統轄する役職であった。 

     室町時代後期には、 享徳の乱(きょうとく

  のらん、1454〜77年)以後、 関東管領は、独

  立して、 古河公方(こがくぼう)や堀越公方(ほ

  りごえくぼう)と並んで、 室町幕府の、東国 (とう

  ごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、山梨県)、東

  北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) の政務を

  轄する役職  となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

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#ashikagamochiuji

 

■ 足利 持氏  

     (あしかが もちうじ)

 

■ 足利 持氏。

■ 名称 : 足利 持氏 (あしかが もちうじ)。 

■ 生没年 : 1398年−1439年。

■ 第4代鎌倉公方(かまくらくぼう) 。

■ 永享の乱 (えいきょうのらん、1438年ー1439

  年) を起こす。

■ 第3代鎌倉公方・足利 満兼の子。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 71238。

 

□ 足利氏 画像アルバム No.1

 

 

■ 足利 持氏 (あしかが もちうじ、生没年:1398年

  −1439年) は、 第3代鎌倉公方・足利 満兼の

  子で、 第4代鎌倉公方(かまくらくぼう)  である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 足利 持氏は、 永享の乱 (えいきょうのらん、

  1438年ー1439年) を起こす。

 

■ 足利 持氏は、 永享の乱 (えいきょうのらん、

  1438年ー1439年) を起こす。

     第4代鎌倉公方の足利 持氏 (あしかが もち

  うじ、生没年:1398年−1439年) は、 鎌倉公

  方を補佐する役職の執事(しつじ、関東管領)の上

  杉憲実(うえすぎのりざね)と対立し、1438年(永

  享10年)に、上杉憲実を討とうとし、 上杉憲実

  助ける、足利義教(よしのり)が派遣した室町幕府

  軍と戦い、敗(やぶ)れて、1439年に自害する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 鎌倉公方 (かまくらくぼう、5代) は、 1349

  年から1455年まで続いた。 その後、鎌倉公方

  は、 古河公方(こがくぼう、1455〜1583年、

  5代) と、 堀越公方(ほりごえくぼう、1457〜

  91年、2代) に代わった。

 

■ 享徳の乱( きょうとくのらん、1454〜82年)が起

  こり、古河公方堀越公方が成立する。

     古河公方は、 堀越公方や関東管領と並ん

  で、 室町幕府の 、東国 (とうごく、関東8国、伊

  豆、甲斐(かい、山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・

  出羽(でわ)) の政務を統轄する 役職 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 足利 尊氏は、 鎌倉幕府の基盤であった関東

  を特に重視し、 その子の足利基氏(あしかが

  もとうじ、1340〜67年)を、 鎌倉公方(かま

  くらくぼう、関東公方)とし、 鎌倉府(かまくらふ)

  を開かせ、 東国(とうごく、関東・東北地方)の

  支配をまかせた。

     鎌倉府の組織は、 室町幕府とほぼ同じで、

  権限も大きかったため、 やがて京(都)の室町

  幕府としばしば衝突するようになった。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 足利 尊氏は、 室町幕府の地方 行政機関で、

  東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、

  山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) 

  の政務を統轄する行政(政治)機関 の鎌倉府

  の長官である、鎌倉公方に、第4子の足利基氏 

  (あしかがもとうじ、1340〜67年)を任じ、 鎌

  倉府の長官の鎌倉公方を補佐する役職の執事

  (しつじ、後の関東管領)として、上杉氏を任じ、

  それぞれ、子孫に世襲させた。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

■ 享徳の乱。

 第5代鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利成氏(あ

  ひかがしげうじ、1434〜97年) が、 室町幕

  に組した関東管領(かんとうかんれい)の上杉

  憲忠(うえすぎのりただ)を謀殺(ぼうさつ)し、

  利成氏は、 幕府軍の追討をうけ、 享徳の乱(き

  ゅとくのらん、1454〜77年) が始まる。

     足利成氏(しげうじ)は、 本拠地の鎌倉を放

  棄し、 本拠地を下総国古河 (しもうさ(しもふさ)

  のくにこが、茨城県南部の古河) に移し、 古河

  公方 (こがくぼう、1455〜1583年、5代、足利

  成氏、政氏、高基、 晴氏、義氏) となる。

    一方、足利成氏(しげうじ)を討つべく室町幕府

  から派遣された足利政知 (あしかがまさとも、14

  35〜91年、足利義政の兄弟) は、 鎌倉に入れ

  ず、 伊豆国堀越 (いずのくにほりごえ、静岡県

  東部の堀越) に本拠地を置き、 対峙(たいじ)し、

  堀越公方 (ほりごえくぼう、1457〜91年、2代) 

  となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

■ 鎌倉公方

● 鎌倉公方 (かまくらくぼう、1349〜1455年、

  5代、足利基氏、氏満、満兼、持氏、成氏)。 

     鎌倉公方 (かまくらくぼう、5代) は、13

  49年から1455年まで続いた。 その後、鎌倉

  公方は、 古河公方(こがくぼう、1455〜158

  3年、5代) と、 堀越公方(ほりごえくぼう、14

  57〜91年、2代) に代わった。

      鎌倉公方は、 室町幕府の地方 行政機関

  で、東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、

  山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) 

  の政務を統轄する行政(政治) 機関である鎌倉府

  の長官 である。

    足利基氏(あしかがもとうじ)の子孫が、代々、

  鎌倉公方 (かまくらくぼう、1349〜1455年、

  五代) を継いだ。 

     足利基氏の子孫は、基氏の子の2代・氏満、

  3代・満兼と続き、4代目の鎌倉公方足利持氏

  (あしかがもちうじ、1398〜1439年) が、 室

  町幕府第6代将軍の足利義教 (よしのり、将軍

  在任1429〜1441年)  と対立し、 永享の乱

  (えいきょうのらん)を起こし、 1439年に、幕府

  軍に敗(やぶ)れて自殺する。 

     その後、足利持氏の子の、足利成氏(あし

  かがしげうじ、1434〜97年)が、 1449年に

  迎えられて、鎌倉公方となる。 

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 古河公方 と 堀越公方。

● 古河公方 (こがくぼう、1455〜1583年、5

  代、足利成氏、政氏、高基、晴氏、義氏) と、 

  堀越公方 (ほりごえくぼう、1457〜91年、2

  代、足利政知、茶々丸)。

     鎌倉公方 (かまくらくぼう、5代)は、 13

  49年から1455年まで続いた。 その後、鎌倉

  公方は、 古河公方(こがくぼう、1455〜158

  3年、5代) と、 堀越公方(ほりごえくぼう、14

  57〜91年、2代) に代わった。

     古河公方や堀越公方 は、 室町幕府の 、

  東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、

  山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) 

  の政務を統轄する 役職 である。

     享徳の乱(きょうとくのらん)が起こり、古河

  公方や堀越公方が成立する。

     足利成氏は、享徳の乱(きょうとくのらん)

  を起こす。 鎌倉公方の足利成氏 (あしかが

  しげうじ、1434〜97年) は、 鎌倉公方を補

  佐する役職の執事(しつじ、関東管領)の上杉

  氏と対立し、 鎌倉を保ちえず、 1455年に、 

  逃れて、 下総国古河城(しもうさのくにこがじ

  ょう) に移り、古河公方(こがくぼう) と称す。 

  1454年に、鎌倉公方の足利成氏は、 関東管

  領の上杉憲忠(うえすぎのりただ)を謀殺(ぼう

  さつ)し、 享徳の乱(きょうとくのらん)を起こし、 

  1455年に、関東管領・上杉房顕(ふさあき)が、 

  鎌倉公方の足利成氏を、 下総・古河(しもうさ・

  こが)に逐う。 成氏は、鎌倉を放棄し、古河公

  方(こがくぼう)となる(と呼ばれる)。  以後、

  古河公方 (1455〜1583年) は、 足利成

  氏(しげうじ)の子孫により、 2代・政氏、3代・

  高基、4代・晴氏、5代・義氏と続いたが、 15

  83年に古河公方の5代・足利義氏の死によっ

  て滅んだ。

     一方、享徳の乱(きょうとくのらん)が起こり、

   1457年に、 足利義政(よしまさ)の命令で、 

   足利成氏(しげうじ)を討つべく幕府から関東に

   派遣された、足利政知(あしかがまさとも、14

   35〜91年、足利義政の兄弟) は、 鎌倉に

   入れず、 伊豆国(いずのくに)堀越に根拠地を

   置き、 堀越公方 (ほりごえくぼう、1457〜9

   1年、初代堀越公方) となる(と呼ばれる)。堀

   越公方は、1491年の足利政知(まさとも)死後、 

   政知の子の足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる、

   ?〜1491年) が、継いで2代堀越公方となる

   が、 1491年に、伊勢宗瑞(いせそうずい、北

   条早雲) に攻められ足利茶々丸は自殺し、

   越公方は、滅びる。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

■ 鎌倉府。

    鎌倉府 (かまくらふ、関東府) は、室町幕府

  の地方行政機関 であり、 室町時代前期の、13

  49年から1455年まで存続した。

    鎌倉府 (かまくらふ、関東府) は、 室町幕

  の地方行政機関であり、 東国 (とうごく、関東

  8国、伊豆、甲斐(かい、山梨県)、東北2国(陸奥

  (むつ)・出羽(でわ)) の政務を統轄する行政(

  治)機関(の政庁)であった。

     鎌倉府の長官は、鎌倉公方(かまくらくぼう)

  と言い、 5代(足利基氏、氏満、満兼、持氏、成

  氏)の鎌倉公方が就任した。 

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 鎌倉公方。

    鎌倉公方 (かまくらくぼう、1349〜1455

  年、5代) は、 室町幕府の地方 行政機関で、

  東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、

  山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) 

  の政務を統轄する行政(政治)機関である鎌倉 

   の長官である。

    鎌倉公方は、 足利 尊氏の子、足利基氏(あ

  しかがもとうじ)により成立し、その子孫が、世襲

  した。 5代(足利基氏、氏満、満兼、持氏、成氏)

  の鎌倉公方が就任した。 

    鎌倉公方は、 室町幕府の政庁の鎌倉府(か

    まくらふ)があった鎌倉を本拠地にした。

    鎌倉公方 (かまくらくぼう、1349〜1455

  年、5代) は、 1349年から1455年まで続い

  た。 その後、鎌倉公方は、 古河公方(こがくぼ

  う、1455〜1583年、5代) と、 堀越公方(ほ

  りごえくぼう、1457〜91年、2代) に代わった。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 古河公方

    古河公方 (こがくぼう、1455〜1583年

  5代) は、 堀越公方(ほりごえくぼう)や関東

  管領(かんとうかんれい)と並んで、室町幕府の 、

  東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、

  山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) 

  の政務を統轄する 役職 である。

    古河公方は、 5代鎌倉公方の足利成氏(あ

  しかがしげうじ、1434〜97年)により成立し、そ

  の子孫が、世襲した。 5代(足利成氏、政氏、

  基、晴氏、義氏)の古河公方が就任した。 

    古河公方は、 下総国古河(しもうさ(しもふさ)

  のくにこが、茨城県南部の古河)を本拠地とした。

    古河公方は、 鎌倉公方(1349〜1455年、

  5代)に代わり成立した 、2つの公方(くぼう、古河

  公方、堀越公方)の1つ である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 堀越公方。

    堀越公方 (ほりごえくぼう、1457〜91年、2

  代) は、 古河公方 (こがくぼう)関東管領

  (かんとうかんれい)と並んで、 室町幕府の 、

  東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、山

  梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) の

  政務を統轄する 役職 である。

    堀越公方は、 足利政知 (あしかがまさとも、

  1435〜91年、足利義政の兄弟)により成立し、

  その子が、継いだ。 2代(足利政知、茶々丸)の

  堀越公方が就任した。

    堀越公方は、 伊豆国堀越 (いずのくにほり

  ごえ、静岡県東部の堀越)を本拠地とした。

    堀越公方は、 鎌倉公方(1349〜1455年、

  五代)に代わり成立した 、2つの公方(くぼう、古河

  公方、堀越公方)の1つ である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 関東管領。

     関東管領 (かんとうかんれい)は、室町幕

  の東国 (とうごく、関東8国、伊豆、 甲斐(かい、

  山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) 

  の政務を統轄する役職 である。

     関東管領は、 上杉氏が世襲した。

     関東管領上杉氏は、 山内(やまのうち)上 

  杉氏と 扇谷(おうぎがやつ)上杉氏に分かれて

  争った。

     室町時代前期には、 関東管領は、 室町幕

  鎌倉府の長官である鎌倉公方(かまくらくぼ

  う)を補佐する役職の執事(しつじ)として、 室町

  幕府の東国 (とうごく、関東8国、伊豆、 甲斐(か

  い、山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) 

  の政務を統轄する役職であった。 

     室町時代後期には、 享徳の乱(きょうとく

  のらん、1454〜77年)以後、 関東管領は、独

  立して、 古河公方(こがくぼう)や堀越公方(ほ

  りごえくぼう)と並んで、 室町幕府の東国 (と

  うごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、山梨県)、

  東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) の政務を

  統轄する役職  となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

◆ 室町時代中期・後期の東国 (関東・

  伊豆・山梨・東北) の出来事。

■ 東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、山

  梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) では、 

  永享の乱や享徳の乱以後、 「戦国の世」となる。

    永享の乱 (えいきょうのらん、1438−1439

  年)で、 室町幕府・第6代将軍足利 義教(よし

  のり)は、 義教と対立する、第4代鎌倉公方の足

  利持氏(もちうじ)と戦い、勝利を得た。

     しかし、永享の乱後、義教は、 鎌倉公方が

  統治する東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐

  (かい、山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(で

  わ)) を、完全に支配しようしたが、東国の武士

  の諸勢力の反対にあい、できなかった。 また、

  義教の子を、鎌倉公方に就任させようとしたが、

  東国の武士の諸勢力の反対にあい、就任させら

  れなかった。

      統治力のある強い鎌倉公方を失い、永享の

  乱以後の1439年から、 東国 (とうごく、関東8

  国、伊豆、甲斐(かい、山梨県)、東北2国(陸奥

  (むつ)・出羽(でわ)) では、 諸勢力が入り乱 

  れ、豊臣秀吉が日本本土を統一する1590年ま

  で、「戦国の世」となった。

 

■ 第4代鎌倉公方足利持氏  (あしかがもちうじ、

  1398〜1439年) は、 室町幕府・第6代将軍

  の足利義教 (よしのり、将軍 在任1429〜1441

   や 関東管領の上杉憲実(のりざね) と対

  立し、1438年に、永享の乱 (えいきょうのらん、

  1438〜39年)を起こし、 1439年に、幕府・上

  杉軍に敗(やぶ)れて、自殺する。 

    1440年(永享12年)に、結城合戦(ゆうきか

  っせん、1440年)が起こる。 下総国 (しもうさ

  のくに、千葉 県北部相当地域)の豪族・結城氏朝

  (ゆうきうじとも)が、鎌倉公方・足利持氏の2人

  の遺子を擁(よう)し、挙兵するが、派遣された室

  町幕府軍に敗れ、 結城氏朝は敗死し、2人の遺

  子は殺される。

     その後、1449年に、 足利持氏の子の、

  利成氏 (あしかがしげうじ、生没年:1434〜9

  7年) が、 迎えられて、第5代鎌倉公方(就任:

  1449年ー1455年) となる。 

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 第5代鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利成氏(あ し

  かがしげうじ、生没年:1434〜97年) が、 14

  54年(享徳3年)に、関東管領(かんとうかんれい)

  の上杉憲忠(うえすぎのりただ)を謀殺(ぼうさつ)し、

  利成氏は、 関東管領の上杉氏と戦い、享徳の

  ( きょうとくのらん、1454〜82年) が始まる。

  室町幕府は、上杉氏を支援した。

     足利成氏(しげうじ)は、 本拠地の鎌倉を放

  棄し、 本拠地を下総国古河 (しもうさ(しもふさ)

  のくに・こが、茨城県南西部の古河) に移し、 

  河公方 (こがくぼう、1455年ー1583年、5代、

  足利成氏、政氏、高基、 晴氏、義氏) となる。

    一方、足利成氏(しげうじ)を討つべく室町幕府

  から派遣された足利政知 (あしかがまさとも、14

  35年ー1491年、足利義政の兄弟) は、 鎌倉

  に入れず、 伊豆国堀越 (いずのくにほりごえ、

  静岡県東部・伊豆半島の堀越) に本拠地を置き、 

  対峙(たいじ)し、堀越公方 (ほりごえくぼう、 就

  任:1457年ー1491年、2代) となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 享徳の乱(きょうとくのらん、1454〜1482年)

  が起こり、 古河 公方や堀越公方が成立する。

     足利成氏は、享徳の乱(きょうとくのらん)

  を起こす。 鎌倉公方の足利成氏 (あしかが

  しげうじ、1434〜97年) は、 鎌倉公方を補

  佐する役職の執事(しつじ、関東管領)の上杉

  氏と対立し、 鎌倉を保ちえず、 1455年に、 

  逃れて、 下総国古河城(しもうさのくにこがじ

  ょう) に移り、古河公方(こがくぼう) と称す。 

  1454年に、鎌倉公方の足利成氏は、 関東管

  領の上杉憲忠(うえすぎのりただ)を謀殺(ぼう

  さつ)し、 享徳の乱(きょうとくのらん)を起こし、 

  1455年に、関東管領・上杉房顕(ふさあき)が、 

  鎌倉公方の足利成氏を、 下総・古河(しもうさ・

  こが)に逐う。 成氏は、鎌倉を放棄し、古河公

  方(こがくぼう)となる(と呼ばれる)。  以後、

  古河公方 (1455〜1583年) は、 足利成

  氏(しげうじ)の子孫により、 2代・政氏、3代・

  高基、4代・晴氏、5代・義氏と続いたが、 15

  83年に古河公方の5代・足利義氏の死によっ

  て滅んだ。

     一方、享徳の乱(きょうとくのらん)が起こり、

   1457年に、 足利義政(よしまさ)の命令で、 

   足利成氏(しげうじ)を討つべく幕府から関東に

   派遣された、足利政知  (あしかがまさとも、14

   35〜91年、足利義政の兄弟) は、 鎌倉に

   入れず、 伊豆国(いずのくに)堀越に根拠地を

   置き、 堀越公方 (ほりごえくぼう、1457〜9

   1年、初代堀越公方) となる(と呼ばれる)。堀

   越公方は、1491年の足利政知(まさとも)死後、 

   政知の子の足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる、

   ?〜1491年) が、継いで2代堀越公方となる

   が、 1491年に、伊勢宗瑞(いせそうずい、北

   条早雲) に攻められ足利茶々丸は自殺し、

   越公方は、滅びる。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

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#ashikagashigeuji

 

■ 足利 成氏  

     (あしかが しげうじ)

 

■ 足利 成氏。

■ 名称 : 足利 成氏 (あしかがしげうじ)。 

■ 生没年 : 1434年ー1497年。

■ 第5代鎌倉公方(かまくらくぼう)、 初代古河

  公方(こがくぼう)。

■ 享徳の乱( きょうとくのらん、1454〜82年)

  を起こす。

■ 第4代鎌倉公方・足利 持氏(もちうじ)の子。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典 42241。

 

□ 足利氏 画像アルバム No.1

 

 

■ 足利 成氏 (あしかがしげうじ、生没年:1434

  ー1497年) は、 第4代鎌倉公方・足利 持氏

  (もちうじ)の子で、 第5代鎌倉公方(かまくらくぼ

  う)であり、 初代古河公方(こがくぼう) である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 足利 成氏は、 享徳の乱 (きょうとくのらん、14

  54〜82年) を起こす。

 

■ 足利成氏は、 享徳の乱(きょうとくのらん)を 起こ

  す。 鎌倉公方の足利成氏 (あしかが しげうじ、

  1434〜97年) は、 鎌倉公方を補佐する役職

  の執事(しつじ、関東管領)の上杉 氏と対立し、 鎌

  倉を保ちえず、 1455年に、逃れて、 下総国古河

  城(しもうさのくに・こがじょう) に移り、古河公方(こ

  がくぼう) と称す。 

     1454年に、鎌倉公方の足利成氏は、 関東管

  領の上杉憲忠(うえすぎのりただ)を謀殺(ぼうさつ)

  し、 享徳の乱(きょうとくのらん)を起こし、 1455

  年に、関東管領の上杉房顕(ふさあき)が、 鎌倉公

  方の足利成氏を、 下総・古河(しもうさ・こが)に逐う。 

  成氏は、鎌倉を放棄し、 古河公方(こがくぼう)とな

  る(と呼ばれる)。  

     以後、 古河公方 (1455〜1583年)は、 足

  利成氏(しげうじ)の子孫により、 第2代・政氏、  第 

  3代・高基、 第4代・晴氏、 第5代・義氏と続いたが、

  1583年に古河公方の第5代・足利義氏の死によって

  滅んだ。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 鎌倉公方 (かまくらくぼう、5代) は、 1349

  年から1455年まで続いた。 その後、鎌倉公方

  は、 古河公方(こがくぼう、1455〜1583年、

  5代) と、 堀越公方(ほりごえくぼう、1457〜

  91年、2代) に代わった。

 

■ 享徳の乱( きょうとくのらん、1454〜82年)が起

  こり、古河公方堀越公方が成立する。

     古河公方は、 堀越公方や関東管領と並ん

  で、 室町幕府の 、東国 (とうごく、関東8国、伊

  豆、甲斐(かい、山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・

  出羽(でわ)) の政務を統轄する 役職 である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 足利 尊氏は、 鎌倉幕府の基盤であった関東

  を特に重視し、 その子の足利基氏(あしかが

  もとうじ、1340〜67年)を、 鎌倉公方(かま

  くらくぼう、関東公方)とし、 鎌倉府(かまくらふ)

  を開かせ、 東国(とうごく、関東・東北地方)の

  支配をまかせた。

     鎌倉府の組織は、 室町幕府とほぼ同じで、

  権限も大きかったため、 やがて京(都)の室町

  幕府としばしば衝突するようになった。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 足利 尊氏は、 室町幕府の地方 行政機関で、

  東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、

  山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) 

  の政務を統轄する行政(政治)機関 の鎌倉府

  の長官である、鎌倉公方に、第4子の足利基氏 

  (あしかがもとうじ、1340〜67年)を任じ、 鎌

  倉府の長官の鎌倉公方を補佐する役職の執事

  (しつじ、後の関東管領)として、上杉氏を任じ、

  それぞれ、子孫に世襲させた。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

■ 享徳の乱。

 第5代鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利成氏(あ

  ひかがしげうじ、1434〜97年) が、 室町幕

  に組した関東管領(かんとうかんれい)の上杉

  憲忠(うえすぎのりただ)を謀殺(ぼうさつ)し、

  利成氏は、 幕府軍の追討をうけ、 享徳の乱

  ( きょうとくのらん、1454〜82年) が始まる。

     足利成氏(しげうじ)は、 本拠地の鎌倉を放

  棄し、 本拠地を下総国古河 (しもうさ(しもふさ)

  のくに・こが、茨城県南部の古河) に移し、 古河

  公方 (こがくぼう、1455〜1583年、5代、足利

  成氏、政氏、高基、 晴氏、義氏) となる。

    一方、足利成氏(しげうじ)を討つべく室町幕府

  から派遣された足利政知 (あしかがまさとも、14

  35〜91年、足利義政の兄弟) は、 鎌倉に入れ

  ず、 伊豆国堀越 (いずのくにほりごえ、静岡県

  東部の堀越) に本拠地を置き、 対峙(たいじ)し、

  堀越公方 (ほりごえくぼう、1457〜91年、2代) 

  となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

■ 鎌倉公方

● 鎌倉公方 (かまくらくぼう、1349〜1455年、

  5代、足利基氏、氏満、満兼、持氏、成氏)。 

     鎌倉公方 (かまくらくぼう、5代) は、13

  49年から1455年まで続いた。 その後、鎌倉

  公方は、 古河公方(こがくぼう、1455〜158

  3年、5代) と、 堀越公方(ほりごえくぼう、14

  57〜91年、2代) に代わった。

      鎌倉公方は、 室町幕府の地方 行政機関

  で、東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、

  山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) 

  の政務を統轄する行政(政治) 機関である鎌倉府

  の長官 である。

    足利基氏(あしかがもとうじ)の子孫が、代々、

  鎌倉公方 (かまくらくぼう、1349〜1455年、

  五代) を継いだ。 

     足利基氏の子孫は、基氏の子の2代・氏満、

  3代・満兼と続き、4代目の鎌倉公方足利持氏

  (あしかがもちうじ、1398〜1439年) が、 室

  町幕府第6代将軍の足利義教 (よしのり、将軍

  在任1429〜1441年)  と対立し、 永享の乱

  (えいきょうのらん)を起こし、 1439年に、幕府

  軍に敗(やぶ)れて自殺する。 

     その後、足利持氏の子の、足利成氏(あし

  かがしげうじ、1434〜97年)が、 1449年に

  迎えられて、鎌倉公方となる。 

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 古河公方 と 堀越公方。

● 古河公方 (こがくぼう、1455〜1583年、5

  代、足利成氏、政氏、高基、晴氏、義氏) と、 

  堀越公方 (ほりごえくぼう、1457〜91年、2

  代、足利政知、茶々丸)。

     鎌倉公方 (かまくらくぼう、5代)は、 13

  49年から1455年まで続いた。 その後、鎌倉

  公方は、 古河公方(こがくぼう、1455〜158

  3年、5代) と、 堀越公方(ほりごえくぼう、14

  57〜91年、2代) に代わった。

     古河公方や堀越公方 は、 室町幕府の 、

  東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、

  山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) 

  の政務を統轄する 役職 である。

     享徳の乱(きょうとくのらん)が起こり、古河

  公方や堀越公方が成立する。

     足利成氏は、享徳の乱(きょうとくのらん)

  を起こす。 鎌倉公方の足利成氏 (あしかが

  しげうじ、1434〜97年) は、 鎌倉公方を補

  佐する役職の執事(しつじ、関東管領)の上杉

  氏と対立し、 鎌倉を保ちえず、 1455年に、 

  逃れて、 下総国古河城(しもうさのくにこがじ

  ょう) に移り、古河公方(こがくぼう) と称す。 

  1454年に、鎌倉公方の足利成氏は、 関東管

  領の上杉憲忠(うえすぎのりただ)を謀殺(ぼう

  さつ)し、 享徳の乱(きょうとくのらん)を起こし、 

  1455年に、関東管領・上杉房顕(ふさあき)が、 

  鎌倉公方の足利成氏を、 下総・古河(しもうさ・

  こが)に逐う。 成氏は、鎌倉を放棄し、古河公

  方(こがくぼう)となる(と呼ばれる)。  以後、

  古河公方 (1455〜1583年) は、 足利成

  氏(しげうじ)の子孫により、 2代・政氏、3代・

  高基、4代・晴氏、5代・義氏と続いたが、 15

  83年に古河公方の5代・足利義氏の死によっ

  て滅んだ。

     一方、享徳の乱(きょうとくのらん)が起こり、

   1457年に、 足利義政(よしまさ)の命令で、 

   足利成氏(しげうじ)を討つべく幕府から関東に

   派遣された、足利政知(あしかがまさとも、14

   35〜91年、足利義政の兄弟) は、 鎌倉に

   入れず、 伊豆国(いずのくに)堀越に根拠地を

   置き、 堀越公方 (ほりごえくぼう、1457〜9

   1年、初代堀越公方) となる(と呼ばれる)。堀

   越公方は、1491年の足利政知(まさとも)死後、 

   政知の子の足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる、

   ?〜1491年) が、継いで2代堀越公方となる

   が、 1491年に、伊勢宗瑞(いせそうずい、北

   条早雲) に攻められ足利茶々丸は自殺し、

   越公方は、滅びる。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

■ 鎌倉府。

    鎌倉府 (かまくらふ、関東府) は、室町幕府

  の地方行政機関 であり、 室町時代前期の、13

  49年から1455年まで存続した。

    鎌倉府 (かまくらふ、関東府) は、 室町幕

  の地方行政機関であり、 東国 (とうごく、関東

  8国、伊豆、甲斐(かい、山梨県)、東北2国(陸奥

  (むつ)・出羽(でわ)) の政務を統轄する行政(

  治)機関(の政庁)であった。

     鎌倉府の長官は、鎌倉公方(かまくらくぼう)

  と言い、 5代(足利基氏、氏満、満兼、持氏、成

  氏)の鎌倉公方が就任した。 

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 鎌倉公方。

    鎌倉公方 (かまくらくぼう、1349〜1455

  年、5代) は、 室町幕府の地方 行政機関で、

  東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、

  山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) 

  の政務を統轄する行政(政治)機関である鎌倉 

   の長官である。

    鎌倉公方は、 足利 尊氏の子、足利基氏(あ

  しかがもとうじ)により成立し、その子孫が、世襲

  した。 5代(足利基氏、氏満、満兼、持氏、成氏)

  の鎌倉公方が就任した。 

    鎌倉公方は、 室町幕府の政庁の鎌倉府(か

    まくらふ)があった鎌倉を本拠地にした。

    鎌倉公方 (かまくらくぼう、1349〜1455

  年、5代) は、 1349年から1455年まで続い

  た。 その後、鎌倉公方は、 古河公方(こがくぼ

  う、1455〜1583年、5代) と、 堀越公方(ほ

  りごえくぼう、1457〜91年、2代) に代わった。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 古河公方

    古河公方 (こがくぼう、1455〜1583年

  5代) は、 堀越公方(ほりごえくぼう)や関東

  管領(かんとうかんれい)と並んで、室町幕府の 、

  東国(とうごく)の関東8国、伊豆、甲斐(かい、

  山梨県)を統治する役職である。

    古河公方は、 5代鎌倉公方の足利成氏(あ

  しかがしげうじ、1434〜97年)により成立し、そ

  の子孫が、世襲した。 5代(足利成氏、政氏、

  基、晴氏、義氏)の古河公方が就任した。 

    古河公方は、 下総国古河(しもうさ(しもふさ)

  のくにこが、茨城県南部の古河)を本拠地とした。

    古河公方は、 鎌倉公方(1349〜1455年、

  5代)に代わり成立した 、2つの公方(くぼう、古河

  公方、堀越公方)の1つ である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 堀越公方。

  ■ 堀越公方 (ほりごえくぼう、1457〜1491年、

    2代)は、 古河公方 (こがくぼう)関東管領

    (かんとうかんれい)と並んで、 室町幕府の 、

    東国(とうごく)の関東8国、伊豆、甲斐(かい、

    山梨県))を統治する役職である。

  ● 堀越公方(ほりごえくぼう、1457年ー149

    3年頃、2代)は、東国の10国全体を統治できず、

    事実上、 伊豆1国のみの短期統治(1482年ー

    1493年頃)で終わったため、 関東公方(かん

    とうくぼう)とは言わない。

  ■ 堀越公方は、 足利政知 (あしかがまさとも、

  1435〜91年、足利義政の兄弟)により成立し、

  その子が、継いだ。 2代(足利政知、茶々丸)の

  堀越公方が就任した。

  ■ 堀越公方は、 伊豆国堀越 (いずのくにほり

  ごえ、静岡県東部の堀越)を本拠地とした。

    堀越公方は、 鎌倉公方(1349〜1455年、

  五代)に代わり成立した 、2つの公方(くぼう、古河

  公方、堀越公方)の1つ である。

 

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 関東管領。

     関東管領 (かんとうかんれい)は、室町幕

  の東国 (とうごく、関東8国、伊豆、 甲斐(かい、

  山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) 

  の政務を統轄する役職 である。

     関東管領は、 上杉氏が世襲した。

     関東管領上杉氏は、 山内(やまのうち)上 

  杉氏と 扇谷(おうぎがやつ)上杉氏に分かれて

  争った。

     室町時代前期には、 関東管領は、 室町幕

  鎌倉府の長官である鎌倉公方(かまくらくぼ

  う)を補佐する役職の執事(しつじ)として、 室町

  幕府の東国 (とうごく、関東8国、伊豆、 甲斐(か

  い、山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) 

  の政務を統轄する役職であった。 

     室町時代後期には、 享徳の乱(きょうとく

  のらん、1454〜77年)以後、 関東管領は、独

  立して、 古河公方(こがくぼう)や堀越公方(ほ

  りごえくぼう)と並んで、 室町幕府の東国 (と

  うごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、山梨県)、

  東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) の政務を

  統轄する役職  となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

◆ 室町時代中期・後期の東国 (関東・

  伊豆・山梨・東北) の出来事。

■ 東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐(かい、山

  梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(でわ)) では、 

  永享の乱や享徳の乱以後、 「戦国の世」となる。

    永享の乱 (えいきょうのらん、1438−1439

  年)で、 室町幕府・第6代将軍足利 義教(よし

  のり)は、 義教と対立する、第4代鎌倉公方の足

  利持氏(もちうじ)と戦い、勝利を得た。

     しかし、永享の乱後、義教は、 鎌倉公方が

  統治する東国 (とうごく、関東8国、伊豆、甲斐

  (かい、山梨県)、東北2国(陸奥(むつ)・出羽(で

  わ)) を、完全に支配しようしたが、東国の武士

  の諸勢力の反対にあい、できなかった。 また、

  義教の子を、鎌倉公方に就任させようとしたが、

  東国の武士の諸勢力の反対にあい、就任させら

  れなかった。

      統治力のある強い鎌倉公方を失い、永享の

  乱以後の1439年から、 東国 (とうごく、関東8

  国、伊豆、甲斐(かい、山梨県)、東北2国(陸奥

  (むつ)・出羽(でわ)) では、 諸勢力が入り乱 

  れ、豊臣秀吉が日本本土を統一する1590年ま

  で、「戦国の世」となった。

 

■ 第4代鎌倉公方足利持氏  (あしかがもちうじ、

  1398〜1439年) は、 室町幕府・第6代将軍

  の足利義教 (よしのり、将軍 在任1429〜1441

   や 関東管領の上杉憲実(のりざね) と対

  立し、1438年に、永享の乱 (えいきょうのらん、

  1438〜39年)を起こし、 1439年に、幕府・上

  杉軍に敗(やぶ)れて、自殺する。 

    1440年(永享12年)に、結城合戦(ゆうきか

  っせん、1440年)が起こる。 下総国 (しもうさ

  のくに、千葉 県北部相当地域)の豪族・結城氏朝

  (ゆうきうじとも)が、鎌倉公方・足利持氏の2人

  の遺子を擁(よう)し、挙兵するが、派遣された室

  町幕府軍に敗れ、 結城氏朝は敗死し、2人の遺

  子は殺される。

     その後、1449年に、 足利持氏の子の、

  利成氏 (あしかがしげうじ、生没年:1434〜9

  7年) が、 迎えられて、第5代鎌倉公方(就任:

  1449年ー1455年) となる。 

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 第5代鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利成氏(あ し

  かがしげうじ、生没年:1434〜97年) が、 14

  54年(享徳3年)に、関東管領(かんとうかんれい)

  の上杉憲忠(うえすぎのりただ)を謀殺(ぼうさつ)し、

  利成氏は、 関東管領の上杉氏と戦い、享徳の

  ( きょうとくのらん、1454〜82年) が始まる。

  室町幕府は、上杉氏を支援した。

     足利成氏(しげうじ)は、 本拠地の鎌倉を放

  棄し、 本拠地を下総国古河 (しもうさ(しもふさ)

  のくに・こが、茨城県南西部の古河) に移し、 

  河公方 (こがくぼう、1455年ー1583年、5代、

  足利成氏、政氏、高基、 晴氏、義氏) となる。

    一方、足利成氏(しげうじ)を討つべく室町幕府

  から派遣された足利政知 (あしかがまさとも、14

  35年ー1491年、足利義政の兄弟) は、 鎌倉

  に入れず、 伊豆国堀越 (いずのくにほりごえ、

  静岡県東部・伊豆半島の堀越) に本拠地を置き、 

  対峙(たいじ)し、堀越公方 (ほりごえくぼう、 就

  任:1457年ー1491年、2代) となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 享徳の乱(きょうとくのらん、1454〜1482年)

  が起こり、 古河 公方や堀越公方が成立する。

     足利成氏は、享徳の乱(きょうとくのらん)

  を起こす。 鎌倉公方の足利成氏 (あしかが

  しげうじ、1434〜97年) は、 鎌倉公方を補

  佐する役職の執事(しつじ、関東管領)の上杉

  氏と対立し、 鎌倉を保ちえず、 1455年に、 

  逃れて、 下総国古河城(しもうさのくにこがじ

  ょう) に移り、古河公方(こがくぼう) と称す。 

  1454年に、鎌倉公方の足利成氏は、 関東管

  領の上杉憲忠(うえすぎのりただ)を謀殺(ぼう

  さつ)し、 享徳の乱(きょうとくのらん)を起こし、 

  1455年に、関東管領・上杉房顕(ふさあき)が、 

  鎌倉公方の足利成氏を、 下総・古河(しもうさ・

  こが)に逐う。 成氏は、鎌倉を放棄し、古河公

  方(こがくぼう)となる(と呼ばれる)。  以後、

  古河公方 (1455〜1583年) は、 足利成

  氏(しげうじ)の子孫により、 2代・政氏、3代・

  高基、4代・晴氏、5代・義氏と続いたが、 15

  83年に古河公方の5代・足利義氏の死によっ

  て滅んだ。

     一方、享徳の乱(きょうとくのらん)が起こり、

   1457年に、 足利義政(よしまさ)の命令で、 

   足利成氏(しげうじ)を討つべく幕府から関東に

   派遣された、足利政知  (あしかがまさとも、14

   35〜91年、足利義政の兄弟) は、 鎌倉に

   入れず、 伊豆国(いずのくに)堀越に根拠地を

   置き、 堀越公方 (ほりごえくぼう、1457〜9

   1年、初代堀越公方) となる(と呼ばれる)。堀

   越公方は、1491年の足利政知(まさとも)死後、 

   政知の子の足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる、

   ?〜1491年) が、継いで2代堀越公方となる

   が、 1491年に、伊勢宗瑞(いせそうずい、北

   条早雲) に攻められ足利茶々丸は自殺し、

   越公方は、滅びる。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

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以  上。