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 カナヤマ 日本歴史 辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 あ 』。

 No.1843。

 

メ ニュー (目次)  #jpmenu     

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□ 日本史 辞典 (総合)         

□        

〇 あづ  安土桃山時代・詳細

                年表

                          (あづちももやまじだい・しょうさい

                          ねんぴょう)。 

          (⇒ 近世日本 歴史年表

           日本語版) 。

          (⇒ 日本史 全体概略年表

           日本語版) 。

 

 

□ 日本史辞典の「あ」基本見出し語

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■  『 現在は、過去の成果であり、

    未来は、現在の成果である。 

 

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#jpdictionary(general)

 

◆ 日本史辞典

 

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#a

 

#theazu.-mo.periodchronology

 

■ 安土桃山時代

   詳細年表。 

     (あづちももやまじだい 

           しょうさいねんぴょう)。

 

安土桃山時代 詳細年表。

 

□ 安土桃山時代 1573年〜1581年

□ 安土桃山時代 1582年〜1589年

□ 安土桃山時代 1590年〜1597年

□ 安土桃山時代 1598年〜1603年

 

  ■ 安土桃山時代については、

   日本史辞典日本語版の『 安土桃山時代 』、

   『 近世日本ガイドブック 』、 近世日本

   歴史年表 日本語版 』 も参照して下さい。

  ■ より理解を深めるために、当年表と近い

   時期の日本史辞典の年表の、『 織田 信長

   年表。  豊臣 秀吉 年表。 徳川 家康 年表。  

   武田 勝頼(かつより) 年表。 上杉 謙信

   年表 上杉 景勝(かげかつ) 年表 直江

   兼続(なおえかねつぐ) 年表。  お江(おごう)

   年表 大奥 年表。 』 も 参照して下さい。

  

 

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◆ 安土桃山時代 詳細年表。

 

#theazu.-mo.periodchronology-1573

 

 ■ 1570年   ● 元亀(げんき)改元。    

  (元亀 元年)  ○ 1570年(永禄13年)4月23日

              に、 和暦の「永禄」(えいろく、

              永禄元年〜13年)が、

              「元亀」(げんき、

              元亀 元年・1570年・4月23日〜

              元亀 4年・1573年・7月28日 ) 

              に改元される。

            ● TKKI カナヤマ著 近世日本

               ガイドブック。

 

 ■ 1573年   ● 足利義昭の反信長攻勢。

  (元亀 4年)  ○ 1573年(元亀4年)2月に、足利

              義昭は、 武田氏、浅井氏、朝倉

              氏、石山本願寺と協力して、信長

              討伐を謀(はか)る。

            ● 武田軍帰国と信玄病死。

            ○ 1573年(元亀4年)4月に、武田

              信玄が、病状悪化し、武田軍は、

              徳川領の三河や遠江から、軍を返

              し、甲斐へ帰国する。 信玄は帰国

              途中、信濃の駒場で病死する。 

            ● 家康の長篠城奪回。

            ○ 1573年(元亀4年)5月に、徳川

              家康は、三河の長篠(ながしの)城

              を攻め、武田軍より奪回し、武田軍

              の再侵攻に備える。

                      ● 室町幕府滅亡

            ○ 1573年(元亀4年)7月に、織田

              信長は、信長を裏切った足利 義昭

              ( あしかがよしあき)を京 (都)より追

              放し、室町幕府を 事実上滅ぼす。

            ● 信長の天正年号奏上

            ○ 1573年(元亀4年)7月に、織田

              信長は、和暦年号(元号)を元亀から

              天正へと改めることを朝廷に奏上し、

              これを実現させる。

 

■ 1573年  ● 天正改元。    

 (天正 元年)    1573年(元亀4年)7月28日に、 

           和暦の「元亀」(げんき、元亀元年〜

           4年)が、「 天正」(てんしょう、

           天正 元年・1573年・ 7月28日〜

           天正20年・1592年・12月 8日 ) 

           に改元される。 

■ 1573年  ● 朝倉氏と浅井氏の滅亡。

 (天正 元年)  1573年(天正元年)8月に、織田

            信長は、朝倉氏と浅井 氏の両氏を

                       滅ぼす。

            ● 秀吉の初城主の長浜城・城主。

              1573年(天正元年)に、豊臣

           秀吉( 木下秀吉、羽柴秀吉)は、 

           浅井氏滅亡後、その旧領の北近江

           三郡の経営を織田信長より任され、

           北近江(きたおうみ、現・滋賀県北

           部)の長浜城(ながはまじょう)の城

           主となる。

■ 1574年  ● 武田勝頼の高天神城奪取。

 (天正 2年)   1574年(天正2年)5月に、徳川

            家康は、高天神城を、武田勝頼に

            奪われる。

■ 1575年  ● 長篠・設楽が原の戦い。

 (天正 3年)     1575年(天正3年)5月に、

            長篠・設楽が原(ながしの・しだらが

                       はら)の戦いで、 織田信長・徳川家

            康連合軍は、鉄砲を多量に使用し、

            三河・設楽が原で、武田勝頼率い

                    る武田軍に大勝する。 

          ● 織田軍の越前再平定。

              1575年(天正3年)8月に、

           信長は、越前に侵攻し、本願寺門徒

           の軍を破り、再び、越前国を織田領

           にし、越前を柴田勝家に経営させる。

■ 1576年  ● 安土城の築城開始。

 (天正 4年)    1576年(天正4年)2月に、織田

           信長は、琵琶湖(びわこ)の東側湖岸

           に、安土城の築城を開始する (15

           79年完成)。

■ 1577年  ● 手取川の戦い。

 (天正 5年)    1577年(天正5年)に、織田信長

           の軍は、北陸で、上杉謙信の率い

           上杉軍に敗れ、撤兵する。 

          ● 松永久秀の城の落城と死去。

             1577年(天正5年)10月に、豊臣

           秀吉は、織田信 忠の指揮下で、松永久

           秀を滅ぼし、功績をあげる。

           ● 石田三成の秀吉への仕官。

              石田 三成(石田佐吉)が、1577 

            年(天正5年)に、数え年18歳で、 

            豊臣秀吉(羽柴秀吉)に仕官する。

           ● TKKI カナヤマ著 近世日本ガイド

            ブック。

■ 1578年  ● 織田軍の能登、加賀の攻略開始。

 (天正 6年)     1578年(天正6年)に、織田

            信長の軍は、 上杉領の能登、加賀

            の攻略を開始する。

           ● 第二次木津川口の戦い。

              1578年(天正6年)11月に、 

            織田水軍が、鉄甲船を用いて、毛利

            水軍を破る。

■ 1579年  ● 信長の安土城の完成

 (天正 7年)     1579年(天正7年) に、織田信長 

            は、五層七重の豪華絢爛 (ごうかけん

            らん)な安土城を完成させる。

■ 1579年  ● 松平信康事件が起こる。

 (天正 7年)     1579年(天正7年) に、徳川家康

            は、武田氏に味方する2人を死なせる。

            家康は、武田氏に味方する、正室夫

            人の築山殿(つきやまどの)を家臣に

            殺害させ、嫡男・松平信康(まつだい

            らのぶやす)を自害させる。

               松平信康事件には、2つの説が

            ある。 現在は、対立説が有力であ

            る。

               1つの説は、対立説であり、三

            河(みかわ、現・愛知県東部)の岡崎 

            城の築山殿、松平信康 と、 遠江

            (とおとうみ、現・静岡県西部)の浜

            松城の家康の間で、 築山殿・信康

            は武田氏に味方し、家康は織田氏

            に味方するという路線対立が起き、

            敵対したため、家康は、二人を死な

            せたという説である。

               もう1つの説は、武田氏内通

            惑説であり、信長が、築山殿、松平

            信康の2人の武田氏内通を疑い、

            家康に2人を死なせるように指示し

            たという説 (信長が2人に武田氏

            内通の不審を抱き、家康は、不審を

            抱かれた2人を死なせた)という説

            である。

■ 1580年  ● 信長が石山本願寺を屈服

 (天正 8年)      1580年(天正8年)3月に、 

            織田信長は、石山本願寺を屈服さ

            せる。

■ 1581年  ● 京都御馬揃え

 (天正 9年)    1581年(天正9年) 2月に、朝廷

           の要請により、織田信長は、京(都)

           の内裏(だいり)東の馬場で、 京都

           御馬揃え (馬揃えは、現在の軍事

           パレードに相当)を行う。

 

 

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#theazu.-mo.periodchronology-1582

 

■ 1582年  ● 武家の武田氏滅亡。

 (天正10年)    1582年(天正10年)2月に、織田

            信長は、 武田領への攻撃開始し、

            3月11日に、 武田勝頼を討ち取り

            (天目山の戦い)、武家の武田氏

            滅亡する。 

          ● 徳川軍が織田軍と共に武田領攻撃。

              1582年(天正10年)2月に、

            田軍に協力して、 家康の徳川軍も、

            武田領の駿河(するが、静岡県中部)

            に侵攻して、駿河(するが、現・静岡

            県中部)を占領する。 徳川家康は、

            同年に、この戦功により、 織田信 長

            から駿河一国を与えられる。

           ● TKKI カナヤマ著 近世日本ガイド

            ブック。

■ 1582年  ● 信長の京都上洛。

 (天正10年)     1582年(天正10年)5月に、

            田信長は、明智光に、備中国にい

            る羽柴秀吉(豊臣秀吉)の 織田軍へ

            の援軍を命(めい)じ、 信長は、5月

            29日に、京(都)へ上洛する。

          ● 本能寺の変と織田信長自害。

              織田信長は、本能寺の変で 自害

            (自刃)する。 (数え年)享年49歳

            であった。

              1582年(天正10年)6月2日未

            明に、明智光秀が、京(都)の本能寺

            にいた織田信長を攻め、信長を自害

            させる。

              信長の遺体は、発見されなかった。

            焼死体が多すぎて、どれが信長の遺

            体かわからなかったため。

          ● 山崎の戦い。 

              1582年 (天正10年)6月13日に、

            秀吉の軍は、 山崎 (やまざき、現在

            の京都府大山崎町と大阪府島本町に

            またがる地域)で、 明智光秀の軍に

            勝ち、明智光秀は、当日深夜、敗走中、

            小栗栖(現・京都市伏見区小栗栖)で、

            自害する。

          ● 清洲会議。

              1582年(天正10年)6月27日に、

            秀吉は、に、清洲城にて、他の織田家

            の重臣・3人と信長の後継者と遺領の

            分割を決める。

■ 1582年  ● 秀吉の長浜城や美濃の平定。

 (天正10年)     1582年(天正10年)12月に、

            秀吉は、 北近江へ侵攻し長浜城を

            降伏させ、 美濃へ侵攻、平定する。

           ● TKKI カナヤマ著 近世日本ガイド

            ブック。

■ 1582年  ● 天正壬午の乱。

 (天正10年)      天正壬午の乱 (てんしょうじん

            ごのらん、1582 年(天正10年)6月

            ー10月) とは、 本能寺の変後の、

            1582年(天正10年)の信濃・甲斐・

            上野の旧織田領の争奪戦である。

               織田信長死後、1582 年(天正

            10年)6月に、 織田領の信濃(しな

            の、現・長野県)、甲斐(かい、現・山

            梨県)、上野(こうずけ、現・群馬県)

            へ上杉景勝の 上杉軍、条氏政

            北条軍、徳川家康の 徳川軍が、侵

            攻した。 

              その後、戦いの結果、北信濃(き

            たしなの、現・長野県北部)は、上杉

            領になり、 また、徳川家康と北条氏

            政は和睦し、北信濃を除く信濃と甲

            斐は徳川領に、上野は北条領となる。

              ここに、徳川家康は、 三河(みか

            わ、現・愛知県東部)、 遠江(とおと

            うみ、現・静岡県西部)、 駿河(する

            が、現・静岡県中部)、 甲斐(かい、

            現・山梨県)、 信濃(しなの、現・長

            野県) の日本の中部5カ国を領有

            する大大名 (1582年〜1590年)

            になる。

■ 1583年  ● 北条氏政の隠居。

 (天正11年)     1583年(天正11年)に、相模国

            (さがみのくに、現・神奈川県)の北条

            氏政 (うじまさ、1538 年〜1590年)

            が、 隠居し(政治の実権は1590年

             まで保持し)、氏政の子の北条氏直(う 

            じなお)が、小田原北条氏の家督を継

            承し、小田原北条氏の第5代当主と

            なる。

           ● TKKI カナヤマ著 近世日本ガイド

            ブック。

■ 1583年  ● 賤ヶ岳の戦いと勝家の北庄城落城。

 (天正11年)    1583年(天正11年)4月に、豊臣

            秀吉は、  近江の賤ヶ岳(しずがたけ)

            で、柴田勝家の兵を破り、 追撃され

            た、勝家は、越前(えちぜん、現・福井

            県東部)の北庄城 (きたのしょうじょ

            う)で、自害する。

          ● 秀吉の加賀・能登平定。

              1583年(天正11年)に、 秀吉は、 

            さらに、 加賀国と能登国(かがのく

            にとのとのくに、現在の石川県)へ侵

            攻し2国を平定して、それらを前田利

            に与える。 

          ● 豊臣大阪城の築城開始。

              1583年(天正11年)8月に、秀

            吉は、石山本願寺の跡地に、豊臣大

            阪城の築城を開始する (1588年

            豊臣大阪城完成)。

■ 1584年  ● 小牧・長久手の戦い。

 (天正12年)     1584年(天正12年)4月に、

            徳川家康は、  羽柴秀吉(豊臣秀吉)

            の兵を長久手で破り、 同年12月に

            秀吉と和睦する。

          ● 秀吉の豊臣大阪城への移動。

              1584年(天正12年)8月に、豊

            臣秀吉(羽柴秀吉)は、 豊臣大阪

            城に移る (1588年豊臣大阪城完

            成)。            

■ 1585年  ● 秀吉の内大臣叙位・任官。

 (天正13年)     1585年(天正13年)3月に、

            豊臣秀吉(羽柴秀吉)は、 正ニ位・

            内大臣に叙位・任官される。

          ● 秀吉の紀州征伐。

              1585年(天正13年)3月に、

            秀吉は、紀伊へ侵攻して、平定す

            る。

          ● 秀吉の関白就任。

              1585年(天正13年)7月に、

            秀吉は、関白(かんぱく) となる。

          ● 秀吉の四国征伐。

              1585年(天正13年)8月に、

            秀吉は、長宗我部 元親 (ちょうそ

            かべもとちか)を降伏させ、 四

            を平定する。

          ● 秀吉の北陸平定。

              1585年(天正13年)8月に、 

            秀吉は、 越中国(えっちゅうのく

            に、現・富山県)の佐々成政(さっさ

            なりなさ)を降伏させ、北陸を平定

            する。

■ 1586年  ● 家康の豊臣氏への臣従。

 (天正14年)     1586年(天正14年)5月に、

            秀吉は、秀吉の妹の朝日姫を家

            康の正室夫人として嫁がせる。

              更に、1586年(天正14年)

            9月に、秀吉の母・大政所を家康

            の元に人質として送り、臣下とし

            ての家康の上洛を促し、家康もこ

            れに従い上洛し、秀吉は、遂に、

            徳川家康を臣従させる。

           ● 秀吉が豊臣姓を賜る。

              1586年(天正14年)9月に、

            豊臣の姓を賜(た まわ)る。

           ● 秀吉の太政大臣就任。

              1586年(天正14年)12月に、

            秀吉は、 太政大臣(だいじょうだい

            じん)に就任する。 豊臣政権が確

            立する。

■ 1587年  ● 秀吉の九州平定。

 (天正15年)     1587年(天正15年)5月に、

            豊臣秀吉は、島津義久 を降伏させ、

            九州を平定する。 

           ● バテレン追放令を出す。

              1587年(天正15年)6月に、

            秀吉は、 バテレン追放令をだす。

           ● 聚楽第完成。

              1587年(天正15年)9月に、

            秀吉は、 聚楽第(じゅらくだい)を

            完成させ、大阪城より移る。また、

            天正通宝を鋳造する。

■ 1589年  ● 秀吉の男子・鶴松の誕生。

  (天正17年)    1589年(天正17年)に、茶々

            (淀殿)は、 豊臣秀吉の男子 の、

            鶴松(つるまつ)を生む。

           ● TKKI カナヤマ著 近世日本

            ガイドブック。

 

 

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#theazu.-mo.periodchronology-1590

 

■ 1590年  ● 秀吉の関東平定。

 (天正18年)    1590年(天正18年)7月に、

           豊臣 秀吉は、北条氏を降伏させ、関

           東を平定する。  

             北条氏政が、自刃(じじん、自害)

           する。

          ● 秀吉の奥州制圧。

              1590年(天正18年)7月に、 

           秀吉は、奥州も制圧する。

          ● 秀吉の日本本土全国統一。

              1590年(天正18年)7月に、

           豊臣 秀吉が、 天下を統一する

          ● 家康領地の関東移動。

              1590年8月に、秀吉の命 (命

           令)により徳川家康が、 中部より、

           関東に移り、江戸城に入る。 

             家康が中部5か国を秀吉に譲り

           家 康が、約250万石の関東を領有

           する。

■ 1591年  ● 秀吉の男子・鶴松の死去。

 (天正19年)    1591年(天正19年)に、豊臣

           秀吉の正室夫人のおね( ねね)の元

           で育てられていた、鶴松(淀殿( 茶

           々)の男子)が、死去する。

          ● 秀吉の関白職の秀次への譲位。

              1591年(天正19年)12月に、

           秀吉は、政治の実権は保持したま

           ま、関白の職を、甥(おい)の豊臣

           秀次(ひでつぐ)に譲る。 秀吉は、

           太閤(たいこう、前関白の尊称)と

           呼ばれるようになる。

■ 1592年  ● 文禄の役。

 (天正20年)    1592年(天正20年)4月に、豊

           臣秀吉によって、朝鮮出兵が開始さ

           れる (文禄の役(ぶんろくのえき)、

           1592年〜1593年、文禄・慶長の

           の前半戦)。

■ 1592年  ● 文禄改元。   

 (文禄 元年)    1592年(天正20年)12月8日

           に、和暦の「天正」(てんしょう、天正

           元年〜20年)が、「文禄」(ぶんろく、 

           文禄 元年・1592年・12月 8日〜

            文禄 5年・1596年・10月27日 )

           に改元される。 

■ 1593年  ● 秀吉の男子・秀頼の誕生。

 (文禄 2年)    1593年(文禄2年)に、豊臣秀

           吉の側室夫人の、淀殿(よどどの、

                  茶々)は、秀吉の男子、拾(ひろい、

           後の豊臣秀頼)を生む。

■ 1595年  ● 関白の豊臣秀次自害。

 (文禄 4年)     1595年(文禄4年)7月に、

            豊臣秀吉は、関白の豊臣秀次

            自害させる。

■ 1596年  ● 慶長改元。   

 (慶長 元年)     1596年(文禄4年)10月27日

           に、和暦の「文禄」(ぶんろく、文禄元

           年〜5年)が、「慶長」(けいちょう、

           慶長 元年・1596年・10月27日〜

           慶長20年・1615年・ 7月13 日 )

           に改元される。 

■ 1597年  ● 慶長の役。

 (慶長 2年)    1597年(慶長2年)1月に、秀吉

           によって、再度、朝鮮出兵が開始され

           る (慶長の役、1597年〜1598年、

           文禄・慶長の役の後半戦)。

           ● TKKI カナヤマ著 近世日本ガイド

            ブック。

 

 

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#theazu.-mo.periodchronology-1598

 

■ 1598年  ● 五大老・五奉行制の成立。

 (慶長 3年)     1598(慶長3年)年7月に、

           豊臣 秀吉が、豊臣 氏(豊臣政権)の

                  五大 老五奉行の制度を定める。 

           秀吉の後継者である豊臣秀頼の体

           制を磐石(ばんじゃく)にするため。

             徳川家康は、五大老の一人と な

           る。

          ● 豊臣秀吉死去。

             1598年(慶長3年)8月に、豊臣 

           秀吉が、死去 する (享年63歳)。

             豊臣 氏(豊臣政権)の秀吉の跡継 

           ぎの豊臣秀頼は、まだ、数え年6歳で

           あった。

          ● 秀吉死去後の朝鮮撤兵。

             1598年(慶長3年)に、秀吉死去

           後、 徳川家康、前田利家豊臣 氏

           (豊臣政権)の2大老が、 朝鮮撤兵

           を命じる (同年12月にほぼ撤兵が

           完了する)。

          ● 秀頼と淀殿の豊臣大阪城入城。

              1598年(慶長3年)に、豊臣

           秀吉が死去すると、秀吉の遺言によ

           り、 豊臣秀頼と淀殿(茶々)は、伏

           見城より、豊臣大阪城の本丸に移る。

          ● 秀頼と淀殿の豊臣政権開始。

              1598年(慶長3年)に、豊臣

           秀頼が、豊臣家宗家 (本家)の当主 

           となり、淀殿(茶々)は、幼い豊臣秀

           頼の後見人となる。

              淀殿(茶々)は、淀殿(茶々)の

           乳母(うば)の大蔵卿局(おお くらき

           ょうのつぼね、大野治長の母)や饗

           庭局を重用する。

           ● TKKI カナヤマ著 近世日本

            ガイドブック。

■ 1599年  ● 淀殿の三成派の勢力台頭。

 (慶長 4年)    1599年(慶長4年)に、淀殿

           (茶々、近江出身)が信頼する、近

           江派(おうみは、近江出身の武将)

           の石田三成を中心とする三成派の

           豊臣氏家臣が、豊臣氏(豊臣政権)

           で、大きな勢力となる。

          ● おね(ねね)の家康支持。

             1599年(慶長4年)に、 豊臣

           秀吉の正室夫人のおね(ねね)は、 

           淀殿(茶々)が信頼する三成派の

           豊臣氏家臣に対抗し牽制(けんせ

           い)するため、また、三成派の勢力

           を減少させるため、徳川家康を信

           頼し、家康に豊臣氏(豊臣政権)の

           将来を託す。

          ● 1599年(慶長4年)より、淀殿

           (茶々)が推(お)す三成派の豊臣 

           家臣団 と、 ねね(おね)が推 す

           家康派の豊臣家臣団 とが、豊臣

           (豊臣政権)内 での対立が始ま

           る。

           ● TKKI カナヤマ著 近世日本

            ガイドブック。

■ 1599年  ● 前田利家の病死。

 (慶長 4年)     1599年(慶長4年)3月に、

            豊臣氏(豊臣政権)の大老で

            実力者の、前田利家が、病死す

            る。 

            ● 三成の奉行職解任と蟄居。

               1599年(慶長4年)3月に、

            石田三成は、奉行職を解任され、 

            佐和山城 (さわやまじょう)で蟄

            居(ちっきょ、謹慎)させられる。

           ● おね(ねね)の豊臣大阪城退去。

              1599年(慶長4年)9月に、

           おね(ねね)は、 豊臣氏家臣で大

           老の徳川家康を支持し、 自分の

           住む大阪城の西の丸を引き払い、

           家康に引き渡し (関ヶ原の戦い前

           豊臣大阪城西の丸での家康政

           務期間:1599年9月ー1600年

           6月))、 孝蔵主(こうぞうす)など

           わずかな奥女中達を引き連れて、 

           京(都)(三本木の屋敷)に移り住

           む。 

           ● 前田氏の家康支配。

              1599年(慶長4年)10月に、

                       加賀の前田氏が、徳川家康の支

            配下に入る。

           ● TKKI カナヤマ著 近世日本

            ガイドブック。

■ 1600年  ● 「慶長5年の天下分け目の戦い」。

 (慶長 5年)    1600年(慶長5年)に、 豊臣 氏

           家臣団の間の戦いである、「慶長5年

           の天下分け目の戦い」 (1600年の、

           関が原の戦い、その他の日本各所の

           合戦) が起こる。

               豊臣氏家臣団の間で、徳川家康

           の率いる親家康派 と、 反家康派の

           毛利輝元大谷吉継奉行衆石田

           三成らの間で、内紛が起こり、 親家

           康派の東軍と反家康派の西軍との

           間で戦争が起こり、 親家康派の東 

           軍の豊臣氏家臣団が、戦いに勝つ。

           ● 家康の上杉景勝討伐。

             1600年(慶長5年)4月に、徳川

           家康が、会津(あいづ)の、上杉景勝

           (うえすぎかげかつ)からの直江状(な

           おえじょう)を受け取り激怒し、 家康

           は、上杉景勝が豊臣氏(豊臣政権) に

           謀反(むほん)ありとして、 同年5月

           に、上杉景勝討伐を宣言する。

           ● 親家康派の上杉討伐軍出発。

             1600年(慶長5年)6月に、徳川

           家康は、 親家康派の大名で組織し

           た、上杉景勝討伐軍を率いて、大阪

           を出発し、会津方面へ向かう。

           ● 「慶長5年の天下分け目の戦い」。

             1600年(慶長5年)7月に、反家

           康派の毛利輝元大谷吉継奉行衆

           石田三成らが、挙兵し、全国の大名

           へ呼びかけ、 反家康の軍を集める。 

              そして、「慶長5年の天下分け目

           の戦い」 (1600年の、関ヶ原の戦い

           その他の日本各所の合戦) が、全国

           的に、起こる。

           ● 関ヶ原の戦いの決戦。

             1600年(慶長5年)9月15日に、

           関ヶ原の戦いの決戦が起こり、 徳川

           家康、福島正則らの率いる親家康派

           の大名の東軍が勝つ。 

             反家康派の大谷吉継、石田三成ら

           の率いる反家康派の大名の西軍の主 

           力軍 と、 徳川家康、福島正則らの

           率いる親家康派の大名の東軍の主

           力軍が、美濃国(みののくに、現・岐

           阜県南部)の関ヶ原付近で衝突し、

           戦いは1日で終わり、反家康派の西

           軍が敗北し、親家康派の東軍が勝つ。

           ● TKKI カナヤマ著 近世日本

            ガイドブック。

■ 1600年  ● 豊臣大阪城での家康の戦勝報告

 (慶長 5年)  と在留。

              1600年(慶長5年)に、関が原

           の戦いの勝利後、徳川家康は、豊臣

           大阪城に出向き、家康の主君の豊臣

           秀頼とその後見人の淀殿(よどどの、

           茶々、秀頼の生母)に、親家康派の

           東軍の豊臣氏家臣団の戦争の勝利

           を報告する。 そのまま、豊臣大阪城

           で、豊臣氏大老として、豊臣氏(豊臣

           政権)の政務をとる 関ヶ原の戦い

           後の豊臣大阪城西の丸での家康政

           務期間:1600年10月ー1601年

           3月)。

           ● 家康の関が原の戦いの戦後処理。

              「慶長5年の天下分け目の戦い」

           (1600年の、関が原の戦い、その他

           の日本各所の合戦) の戦後処理で、 

           豊臣氏大老の徳川家康は、豊臣氏の 

                      主君の豊臣秀頼の承認を得ず、全国

           の大名の所領を、勝手に、処理(移動

           分配)する。 家康は、豊臣家宗家(本

                      家)の所領も、処理(分配)し、豊臣氏 

           宗家(本家)は、65万石の一大名へ

           転落する。

          ● 家康の領地処分。

             1600年(慶長5年)の関が原の

           戦い後、 徳川家康は、「慶長5年の

           天下分け目の戦い」 (1600年の、

           関が原の戦い、その他の日本各所

           の合戦)で、 親家康派の東軍に与 

           (くみ)した大名の加増(かぞう) や 

           反家康派の西軍に与(くみ)した大

           名の、改易(かいえき 、取り潰(つ 

           ぶ)し))、減封(げんぽう、領地の縮

           小)の処分を行う。

           ● TKKI カナヤマ著 近世日本

            ガイドブック。

■ 1603年  ● 家康の江戸幕府樹立。

 (慶長 8年)    1603年(慶長8年)に、徳川家

           が、征夷大将軍となり、江戸幕府

           開く。 家康が江戸幕府の初代将軍と

           なる。

           ● 豊臣氏重臣の家康の裏切り。

             1603年(慶長8年)に、豊臣氏

           家臣で大老の、徳川家康が、主君の

           豊臣氏の承諾を得ず、勝手に、征夷

           大将軍となり、徳川氏が江戸幕府を

           開く。 

               この出来事に、豊臣秀頼とその

           後見人の淀殿(茶々)が、 徳川家康

           の豊臣氏への裏切りと考え、驚く。 

                    ● 江戸幕府の日本本土支配。

              その結果、1603年(慶長8年)

           以後、徳川 氏が、豊臣 氏に代わって、

           日本の政治を支配する。 

           ● TKKI カナヤマ著 近世日本ガイド

            ブック。

 

 

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『 あなたのハートには 何が

   残りましたか? 』

 

 

以  上。