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  TOKUGAWA Ieyasu.  

 

 

    (Kjhh)41514

  カナヤマ  

  徳川家康

  関連 年代順

  出来事ブック。 』

 

 

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メ ニュー (目次)。

 ■ 次の項目から選んで、クイックして下さい。

 

 □ 徳川家康 関連出来事

    (総合)

 

 □ 徳川家康 関連年代順

    出来事(各年・詳細)

 

 □ 徳川家康 関連出来事

    (概要・総合)

 

  □ 徳川家康 関連出来事

     (概要・テーマ別各事柄)

 

  □ 徳川家康 居住地、

     本城・居城の変遷

 

    □ 徳川家康の居住地の変遷

    □ 徳川家康の本城・居城の変遷

    □ 徳川家康の政務居城の変遷

 

 

 □ 徳川家康ガイドブック 

 

   □ 徳川家康の人質生活。

   □ 松平信康事件 。

   □ 徳川家康の氏名。

   □ 徳川家康の一族。

 

 

 ■ 江戸幕府と同時代近くの関係史料。 

 

   □ 徳川氏 画像アルバム  No.1

 

   □ 江戸幕府ガイドブック 

    □ 江戸幕府 関連年代順出来事

           ブック。 

 

   □ 徳川家康 画像 No.1

 

   □ 「新説 (史実)関ヶ原の戦い

      (= 大垣・山中の戦い)」画像

      アルバム No.2

 

   □ 「従来説(伝説)関ヶ原の戦い」

      画像アルバム No.3 

 

    □ 豊臣秀吉ガイドブック  

   □ 豊臣秀吉 関連年代順出来事

     ブック

 

   □ 織田信長ガイドブック

   □ 織田信長 関連年代順出来事

      ブック

         

   □ 直江兼続ガイドブック

   □ 直江兼続 関連 年代順出来事

      ブック

 

   □ 室町幕府ガイドブック

    □ 室町幕府 関連年代順出来事 

      ブック。 

 

 

  □ 徳川家康 関連年代順

     出来事ブックの内容

 

 

 

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          年代順出来事ブック

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  □ 主要サイトの略語・説明表

 

 

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◆ カナヤマ  徳川家康

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#jphappenings

 

 

◆ (Kjhh) 

   徳川家康 関連

   年代順出来事

  ブック。

 

 

#jphappenings/eachyear

 

 

◆ 徳川家康 関連

   年代順出来事

     (詳細・各年)。

 

 ■ 徳川家康 関連年代順

    出来事。

 

  □ 1532〜1560年の出来事

 

  □ 1560〜1566年の出来事

 

  □ 1566〜1582年の出来事

 

  □ 1582〜1590年の出来事

 

  □ 1590〜1600年の出来事

 

  □ 1600〜1623年の出来事

 

 

 

 

 □ 徳川家康 居住地、

     本城・居城の変遷

 

   □ 徳川家康の居住地の変遷

   □ 徳川家康の本城・居城の変遷

   □ 徳川家康の政務居城の変遷

 

 

 □ 徳川家康ガイドブック 

 

   □ 徳川家康の人質生活。

   □ 松平信康事件 。

   □ 徳川家康の氏名。

   □ 徳川家康の一族。

 

 

 ■ 江戸幕府と同時代近くの関係史料。 

 

   □ 徳川氏 画像アルバム  No.1

 

   □ 江戸幕府ガイドブック 

    □ 江戸幕府 関連年代順出来事

           ブック。 

 

   □ 徳川家康 画像 No.1

 

   □ 「新説 (史実)関ヶ原の戦い

      (= 大垣・山中の戦い)」画像

      アルバム No.2

 

   □ 「従来説(伝説)関ヶ原の戦い」

      画像アルバム No.3 

 

    □ 豊臣秀吉ガイドブック  

   □ 豊臣秀吉 関連年代順出来事

     ブック

 

   □ 織田信長ガイドブック

   □ 織田信長 関連年代順出来事

      ブック

 

  □ 直江兼続ガイドブック

  □ 直江兼続 関連 年代順出来事

     ブック

         

 

 

 

 ■ 西暦・和暦の記載。

  ■ この年代順出来事は、

  ● 西暦を先に、その後ろの( )内に和暦を記載し

    ている。 

  ● この年代順出来事に記載されている日付(年

    月日)は、 一般の歴史書で使用されているの

    と同じように、1872年(明治5年)以前は旧暦

    (太陰太陽暦)を用い、 1873年(明治6年)

    以後は新暦(太陽暦)を用いている。 

 

 

 ■ 備考。

 

  ■ より理解を深めるために、 本史辞典

    『 織田信長 (おだのぶなが)、 

      今川義元  (いまがわよしもと)、 

      明智光秀 (あけち みつひで)、

      豊臣秀吉 (とよとみひでよ し)、

      上杉謙信 (うえす ぎけんしん)、 

      上杉景勝 (うえすぎかげかつ)、

       北条氏康 (ほうじょううじやす)、 

      北条 氏政 (ほうじょううじまさ)、  

      北条 氏直 (ほうじょううじなお)、  

             武田信玄 (たけだしんげん) 

             武田 勝頼 (たけだかつより) 』 

     の項目 も参照して下さい。

 

  ■ さあ、徳川 家康に関する色々な出来事を見

    てみよう。

 

  ● 歴史学の立場から、徳川 家康の生涯や実

    像(真実の姿)を見てみよう。

 

  ◆ では、徳川 家康(とくがわ いえやす)に関

    係する出来事を、年代順に、見てみよう。

 

  ● 約500〜400年前頃の日本へタイムスリッ

     プして、 徳川家康の活動を見てみよう。

 

  ● 歴史学の立場から、年代を追って、徳川家

     康の実像 (歴史的有名な人物には、実像

     と虚像があるが) を見てみよう。

 

  ● 日付は、一般の歴史書と同様に、全て旧暦

    である。

 

  ● 現代も、過去の時代も、人間は、利害と感情

    (友愛)等で行動し、富、名誉、権力等を手に

    入れるために、努力する。 

       人類の歴史は、 平和と戦争の歴史で

    ある。 人は、美しき者、平和を好む者であり、

    人は、醜き者、争う者でもある。

 

 

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◆ 徳川家康関連

   年代順出来事

     (詳細・各年)。

 

  ■ 『 では、年代を追って、徳川家康の行動 

      を、詳しく見てみよう。 』

 

 

#jphappenings-1532

 

 

 ■ 1532年 (享禄5年・天文元年)。

 

  ● 享禄年号から 天文年号に改元。

      天文年号1532年ー1555年。

  ■ 1532年(享禄5年・天文元年)に、

    天文(てんぶん、てんもん)年号に改元。 

  ● 1532年(享禄5年・天文元年)7月29日に、 

    和暦の「享禄」(きょうろく、

    享禄元年・1528年〜享禄5年・1532年) が、 

    和暦の「天文」(てんぶん、てんもん、

    天文 元年・1532年・ 7月29日〜

    天文24年・1555年・10月23日) に

    改元される。 

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

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 ■ 1534年 (天文3年)。

 

  ● 織田信長(吉法師)が誕生する。

  ■ 1534年(天文3年)5月12日に、 

    織田 信長 (おだのぶなが、幼名(ようみょ

    う):吉法師(きっぽうし)、生没年:1534年

    ー1582年))が、 

    尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部の相当

    地域)の、戦国武将、国人領主の織田信秀

    (おだ のぶひで、生没年:1511年ー1552

    年頃))の子として、誕生する。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1535年 (天文 4年)。

 

  ● 西三河を支配する、家康の祖父

    の松平清康が、死去する。

  ■ 森山崩れ。

  ● 1535年(天文4年)12月に、西三河(にし

    みかわ、現・愛知県東部の西半分)を支配

    する、松平広忠の父 で、徳川家康の祖父の

    松平清康(まつだいらきよやす)が陣中にて、

    家臣によって殺害され、死去する。

 

  ● 松平信定の岡崎城占領 と

    家康の父の松平広忠の逃亡。

  ■ 西三河の松平氏本家の後継者の松平 広忠

    (家康の父)は、大叔父(おおおじ)の松平信

    定(のぶさだ)によって、岡崎城を占領され、 

    城や領地の家督継承を阻止され、逃亡する 

    (1935年〜1937年)。

    

 

  ■ 松平清康の死去と松平広忠の逃亡、復帰。

  ● 松平 広忠の父で、徳川家康の祖父の

    松平清康は、 三河国(みか わのくに、愛

    知県東部の相当地域)の西三河で勢力を

    振った。

 

  ● しかし、1535年(天文4年)12月に、

    松平清康が死去する (出陣中に刺殺され

    る) (守山(もりやま)崩れ)。 その時、松

     平広忠は、数え年10歳であった。

 

  ● 松平 広忠の大叔父(おおおじ)の松平信定

    (まつだいらのぶさだ、生没年:生年不詳ー

    1538年)は、 松平清康の三河国 の、岡崎

    城(おかざきじょう)を占領奪取し、松平広忠

    は逃れる。 

       その後、松平 広忠は、1537年(天文6

    年)まで、各地で逃亡生活を送る。

 

  ● 1537年(天文6年) 6月に、 松平信定の

    岡崎城留守居役(るすいやく)の松平信孝

    (のぶたか、松平清康の弟を、温泉の湯

    治に行かせた隙(すき)に、広忠派の大久保

    忠俊ら家臣は、松平広忠を岡崎城に入城さ

    せる (「松平記」より)。

        または、1537年(天文6年)月に、 

    松平信定の岡崎城留守居役の松平信孝

    は、 松平 広忠派に転身し(広忠派の大久

    保忠俊ら家臣と信孝が談合し)、松平広忠

    を岡崎城に迎え入れる (「武徳大成記」

    より)。

 

  ■ 松平広忠(生没年:1526年ー1549年)

    は、 三河国・岡崎城に帰城後、1549年

    (天文18年) の死去まで、三河国・岡崎城

    主として、大勢力の今川氏の庇護を受け、

    今川方の属将として、三河国で、信長の父

    の織田信秀と戦う。

 

  ● 松平 広忠。

  ■ 松平 広忠 (まつだいら ひろただ、生没

    年:1526年ー1549年)は、 徳川家康の

    父であり、 西三河に領地をもつ、三河 国

    の岡崎城・城主であり、 松平清康 (まつ

    だいらきよやす)の子である。

 

  ● 16世紀前半の三河国

  ■ 16世紀前半(1501年〜1550年)の三河

    国(みかわのくに、愛知県東部の相当地域)

    では、 

    尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部)の戦

    国大名の織田氏の織田信秀(おだのぶひで) 

    と、  

    駿河国・遠江国(するがのくに・とおとうみの

    くに、現・静岡県中部・西部)の戦国大名の

    今川氏の今川義元(いまがわよしもと)

    は、 

    互いに、三河国(みかわのくに、現・愛知県

    東部)に侵入し、領土を奪い合い、

    織田信秀と今川義元は敵対関係にあった。

 

 

 ■ 1536年 (天文5年)。

 

  ● 信玄が元服する(成人となる)。

  ■ 1536年(天文5年)3月に、 武田信玄(太 

    郎)は、元服(成人)し、 室町幕府・12代将

    軍の足利義晴(あしかがよしはる)の一字の

    晴を賜り、武田 晴信(はるのぶ)と称す。

 

 

 ■ 1536年 (天文 5年)。

 

  ● 今川氏の当主・今川氏輝とその

    継承者が同時に急死する。

  ■ 今川氏親(いまがわうじちか)の子で、

    今川氏当主の今川氏輝(いまがわうじてる)

    とその弟の継承者の彦五郎が、1536年

    (天文5年)に、急死する。

 

  ● 花倉の乱が勃発。

  ■ 今川氏親の子で、今川氏当主の今川氏輝

    の弟で出家していた2人の、栴岳承芳

    (せんがくしょうほう、今川義元) と 玄広

    恵探(げんこうえたん)が、今川氏の家督を

    争い、 花倉の乱 (はなくらのらん、1536

    年(天文5年)5月〜6月)が勃発する。

 

  ● 今川義元が今川氏の当主

     となる。

  ■ 玄広恵探方は敗戦し、玄広恵探は、自害し、

    岳承芳(今川義元)方が花倉の乱で勝 利

    を得て、1536年(天文5年)に、今川義 元

    (いまがわよしもと、今川氏当主:1536年

    −1560年、生没年:1519年ー1560年)

    が、今川家当主となる。

 

 

 ■ 1537年 (天文 6年)。

 

  ● 豊臣秀吉(幼名不詳)の誕生。

  ■ 1537年(天文6年)2月6日に (『天正記』

    や家臣・伊藤秀盛の願文の記載から)、後に 

    家康の競争相手となる、豊臣秀吉  (とよとみ

    ひでよし、幼名不詳(日吉丸?)、生没年:

    1537年ー1598年) が、尾張国 (おわりの

    くに、現・愛知県西部の相当地域)の中村の

    農民・足軽の弥右衛門の子として、誕生する。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1541年 (天文10年)。

 

  ● 松平広忠(家康父)は、於大の

    方(家康母)と婚儀を結ぶ。

  ■ 水野忠政  (みずのただまさ)は、 水野氏

    と松平氏との友好関係を深めるため、 

    1541年(天文10年)に、政略結婚で、忠政

    の娘の、於大の方(おだいのかた)を松平 広

    忠(まつだいらひろただ)に嫁(とつ)がせる。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1542年 (天文11年)。

 

  ● 徳川家康( 松平竹千代)が誕生

    する。

  ■ 1542年(天文11年)12月26日に、 

    徳川 家康 (とくがわ いえやす、幼名:竹千

    代(たけちよ)、生没年:1542年ー1616

    年)は、 三河国(みかわのくに、現・愛知県

    東部の相当地域)の、岡崎城(おかざきじょ

    う)で誕生する。

       家康の父は、 戦国武将・国人領主(こ

    くじんりょうしゅ、小豪族)で、三河国の岡崎

    城・城主の松平広忠(まつだいらひろただ)

    であり、 家康の母は、於大の方(おだいの

    かた)である。

 

  ● 徳川家康(松平竹千代)の誕生。 

  ■ 1542年(天文11年)12月26日に、 

    徳川 家康(松平竹千代、生没年:1542年ー

    1616年)は、 

    三河国の戦国武将・国人領主(こくじんりょ、

    うしゅ、小豪族)で岡崎城・城主の松平広忠 

    (まつだいらひろただ)の子として、誕生する。

 

  ● 1542年(天文11年)12月26日に、 

    徳川家康(松平竹千代、生没年:1542年

    ー1616年)が、誕生する。

       徳川家康(竹千代)は、幼名は竹千代

    と呼ばれ、松平竹千代(まつだいらたけちよ、

    1542年ー1555年)と称す。

       徳川家康(竹千代)の父は、三河国の

    岡崎城・城主の松平広忠(まつだいらひろた

    だ)であり、 母は、水野信元の妹の、於大の

    方(おだいのかた)である。

      家康の父・松平広忠は、 西三河の国人

    領主であり、今川方として織田方と戦い、弱

    小な勢力であり、 西三河を統一支配した

    家康の祖父(広忠の父)の松平清康(きよや

    す)とは異なっていた。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1542年 (天文11年)。

 

  ● 徳川家康(松平竹千代)の誕生。 

  ■ 1542年(天文11年)12月26日に、  

    於大の方 (おだいのかた)は、 

    松平広忠の継子の、徳川家康(竹千代)を、

    松平広忠の居城・ 岡崎城で、出産する。 

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

  ■ 徳川家康。

  ● 徳川家康 (幼名:竹千代(たけちよ)、生

    没年:1542年〜1616年)は、 松平広忠 と

    水野氏出身の於大の方(おだいのかた、 伝

    通院)との間に生まれる。

 

  ● 徳川家康は、 松平氏宗家(本家)の安祥松

    平家の子孫であり、継承者であった。

  ● 松平氏宗家(本家)は、 室町時代前期に

    三河国松平郷(みかわのくに・まつだいらごう)

    を治めた初代当主の松平親氏(まつだいらち

    かうじ)を始祖とし、当初は、松平郷を治める

    松平家が継承していたが、その後、その時期

    の有力な分家が、松平氏宗家(本家)を継承す

    るようになる。

       室町時代後期(戦国時代)に、三河十八

    松平家(みかわじゅうはちまつだいらけ)の中

    で、かって安祥城(あんじょうじょう)を拠点とし

    た安祥松平家(あんじょうまつだいらけ)が、

    松平氏宗家(本家)となる。

    

 

  ● 徳川家康(竹千代)は、  1544年(天文

    13年)に、数え年3歳で、母の於大の方と生

    き別れ、 1547年(天文16年)に、数え年6

    歳で、織田氏の人質(1547年〜1549年)

    となり、 1549年(天文18年)3月に数え

    歳8歳で、父の松平広忠と死別し、  1549

    年(天文18年)11月に、数え年8歳で、今

    川氏の人質(1549年〜1560年)となり、

    人質生活が長く続き、 1560年(永禄3年)

    5月の桶狭間の戦い後、数え年19歳で、岡

    崎城に帰り(戻り)、その後、1561年(永禄

    4年)に独立する。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1542年 (天文11年)。

 

  ● (R1) 家康は、岡崎城を居住地

    とする。

  ● (R) 徳川家康の居住地の変遷。

  ■ (R1)⇒(R13)。 

     (R1)   岡崎城       (1542年ー1547年)、

     (R2)   熱田の館      (1547年ー1549年)、

     (R3)   駿府の館      (1549年ー1560年)、

     (R4)   岡崎城       (1560年ー1570年)、

     (R5)   浜松城       (1570年ー1586年)、 

     (R6)   駿府城       (1586年ー1590年)、

          (R7)   江戸城       (1590年ー1598年)、 

     (R8)   豊臣秀吉築・木幡山 伏見城

                 (1598年8月ー1599年9月)、

     (R9)   豊臣大阪城・西の丸

                 (1599年9月ー1600年6月)、 

     (R10)  江戸城       (1600年7月ー9月)、

     (R11)  豊臣大阪城・西の丸

                 (1600年9月ー1601年3月)、 

     (R12)  徳川家康築・木幡山伏見城

                    (1601年3月ー1607年)、 

     (R13)  駿府城       (1607年ー1616年)

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。 

                  

  ■ (R1) 徳川家康 

    (生没年:1542年ー1616年)は、

    1542年(天文11年)から

    1547年(天文16年)まで

    三河国の、岡崎城 (おかざきじょう)で

    居住する。

             

  ■ 岡崎城 (おかざきじょう)は、 三河国

    (みかわのくに、現・愛知県東部)にある。

 

  ■ 1542年(天文11年)12月26日に、 

    徳川家康(松平竹千代、生没年:1542年

    ー1616年)は、三河国の岡崎城で誕生

    する。

       家康の父は、三河国の岡崎城・城主

    の松平広忠(まつだいらひろただ)、家康

    の母は、於大の方(おだいのかた)である。

 

 

 ■ 1543年 (天文12年)。

 

  ● 謙信が元服する(成人となる)。

  ■ 1543年(天文12年)8月15日に、 

    上杉謙信(虎千代)は、元服(成人)して、 

    長尾 景虎 (ながおかげとら)と名乗る。

 

 

 ■ 1544年 (天文13年)。

 

  ● 家康(竹千代)は幼児で生母と

    離別。

  ■ 1544年(天文13年)に、 今川氏に臣従

    する(今川氏に庇護されている)松平広忠は、 

    織田氏臣従に転向した(織田氏と同盟をむ

    すんだ)水野氏の出身の於大の方(おだい

    のかた、家康生母)を離縁し、於大の方 は、

    実家の水野氏に戻る。 

 

  ● 松平氏の継子の徳川家康(竹千代)は、

    1544年(天文13年)に、数え年3歳で 、

    母・於大の方と生き別れとなる。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1544年(天文13年)頃。

 

  ● 織田信長(吉法師)が

    那古野城の城主となる。

  ■ 織田信長(吉法師) (生没年:1534年ー

    1582年)は、 1546年(天文15年)の

    元服(げんぷく、成人)前に、幼年で、

    1534年(天文3年)から1546年 (天文

    15年)までの間に、

    1544年(天文13年)頃に、

    尾張国 (おわりのくに、現・愛知県西部)

    の、那古野城(なごやじょう)を、織田信長

    (吉法師)の父・織田信秀(おだのぶひで)

    より譲られ、那古野城の城主となる。 

 

 

 ■ 1546年 (天文15年)。

 

  ● 信長が元服する(成人となる)。

  ■ 1546年(天文15年)に、 織田信長 (生没

    年:1534年ー1582年)は、 

     父・織田信秀の本城(居城)の、古渡城(ふる

     わたりじょう)にて、数え年13歳で、元服し、

     三郎信長(織田三郎、織田信長)と称す。

        三郎は通称で、信長は諱(いみな)であ

     る。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1547年 (天文16年)。

 

   ● 家康が織田氏の人質になる。

  ■ 家康の織田氏人質生活の開始。

  ● 1547年 (天文16年)に、徳川家康(松平

   竹千代、生没年:1542年ー1616年)は、 

   織田氏の織田信秀(信長の父)の人質(1547 

   年〜1549年、家康の数え年6歳〜8歳時) と

   なる。

 

  ● 徳川家康竹千代 )は、 三河国の有力国人

    領主・松平氏の後継者であるため、尾張国の

    織田氏の織田信秀(のぶひで、信長の父)は、

    は、三河国を支配するため、家康を人質とす

    る。

 

  ■ 1547年 (天文16年)に、 徳川家康竹千

    代 )の父の松平広忠は、 織田信秀と戦い、

    敗戦し、徳川家康 (竹千代、生没年:1542

    年ー1616年)を人質に差し出す。

 

  ● 1547年 (天文16年)に、徳川家康竹千

    代 )の父の松平広忠が、今川氏 の庇護をう

    けるため、徳川家康竹千代 )を今川氏に

    差し出したが、途中で、家臣の裏切りにあい、

    織田氏の人質になった説は、当時の一次史

    料にはなく、伝説である。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康 ガイドブック。

 

 

 ■ 1547年 (天文16年)。

 

  ● 家康の人質生活の開始。  

  ■ 徳川家康 (竹千代、松平 元信、松平元康

   生没年:1542年ー1616年)は、

   1547年 (天文16年)から1560年(永禄3

   年)まで、家康の数え年6歳から19歳時まで、

   織田氏や今川氏の人質生活を送る。

 

  ● 徳川家康 竹千代、松平 元信、松平元康)

   は、 三河国の西三河の有力国人領主・松平

   氏の後継者であるため、 尾張国の織田氏や

   駿河国の今川氏は、 三河国の支配のため、

   家康を人質とする。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

  ● 家康の人質生活。  

  ■ 徳川家康の人質生活。

   1547年 (天文16年)に、 徳川家康竹千

    代 )の父の松平広忠は、 織田信秀と戦い、

    敗戦し、三河国(みかわのくに、現・愛知県東

    部)の、岡崎城で暮らしていた、徳川家康 

    松平竹千代、生没年:1542 年ー1616年)

    を人質に差し出す。

 

  ● 徳川家康 (松平竹千 代生没年:1542年

    ー1616年)は、  

    1547年(天文16年)から1549年(天文18

    年)年まで、家康の数え年 6歳から8歳まで、

    織田信秀(のぶひで)の、織田氏 の人質 (15

    47年〜1549年、家康の数え年 6歳〜8歳時) 

    となり、 尾張(おわりのくに、現・愛知県西

    部)の、熱田(あつた)の館で暮らす。 

 

  ● 1549年(天文18年)11月に、 織田氏と

    今川氏は、人質交換を行なう。 

      徳川家康 (松平竹千 代生没年:1542

    年ー1616年)は、 今度は、織田氏の人質

    から、今川氏人質となる。

 

  ● 徳川家康 (松平竹千代、生没年:1542年

    ー1616年)は、 

    1549年(天文18年)から1560年(永禄3年)

    まで、家康の数え年 8歳から19歳まで、今川

    義元の、今川氏人質 (1549年〜1560

    、家康の数え 年8歳〜19歳時))となり、駿 

    河国(するがのくに、現・静岡県中部)の、駿府

    (すんぷ)の館で暮らす。 

       今川氏の人質の家康(竹千代)は、今川

    の今川義元  (いまがわよしもと、今川氏当

    主:1536年−1560年))の保護下に入リ、

    厚遇される。

 

  ● 1560年(永禄3年)5月の桶狭間の戦いで、

    今川義元が討ち死後、 徳川家康(松平元康)

    は、人質として過した駿河国の駿府へは戻ら

    ず、1560年(永禄3年)5月23日に、今川軍

    が退去(放棄)した三河国(みかわのくに、現・

    愛知県東部)の岡崎城に入る。 

        その後、1561年(永禄4年)に、家康

    (元康)は、今川氏から自立(独立)する。 

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1547年 (天文16年)。

 

  ● (R2) 家康は、熱田の館を居住地

    とする。

  ● (R) 徳川家康の居住地の変遷。

  ■ (R1)⇒(R13)。 

     (R1)   岡崎城       (1542年ー1547年)、

     (R2)   熱田の館      (1547年ー1549年)、

     (R3)   駿府の館      (1549年ー1560年)、

     (R4)   岡崎城       (1560年ー1570年)、

     (R5)   浜松城       (1570年ー1586年)、 

     (R6)   駿府城       (1586年ー1590年)、

          (R7)   江戸城       (1590年ー1598年)、 

     (R8)   豊臣秀吉築・木幡山 伏見城

                 (1598年8月ー1599年9月)、

     (R9)   豊臣大阪城・西の丸

                 (1599年9月ー1600年6月)、 

     (R10)  江戸城       (1600年7月ー9月)、

     (R11)  豊臣大阪城・西の丸

                 (1600年9月ー1601年3月)、 

     (R12)  徳川家康築・木幡山伏見城

                    (1601年3月ー1607年)、 

     (R13)  駿府城       (1607年ー1616年)

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。 

                  

  ■ (R 2) 徳川家康 

    (生没年:1542年ー1616年)は、

    1547年(天文16年)から

    1549年(天文18年)まで

    尾張国の、熱田の館 (あつたのやかた)で

    居住する。

             

  ■ 熱田の館 (あつたのやかた)は、 尾張国

    (おわりのくに、現・愛知県西部)にある。

 

  ■ 1547年 (天文16年)に、 徳川家康竹千

    代 )の父の松平広忠は、 織田信秀と戦い、

    敗戦し、徳川家康 (竹千 代、生没年:1542

    年ー1616年)を人質に差し出す。

 

 

 ■ 1547年 (天文16年)。

 

  ● 家康の生母・於大の方が再婚

    する。

  ■ 水野氏と久松氏との関係強化のため、

    1547年(天文16年)に、 徳川家康の生母・

    於大の方(おだいのかた)の兄・水野信元

    (みずののぶもと)は、 政略結婚で、於大の

    方を、尾張国知多郡の阿古 居城主・久松俊勝

    (ひさまつとしかつ)に嫁がせる。

       その後、於大の方は、久松俊勝との間に、

    三男三女を儲ける(得る)。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1548年 (天文17年)。

 

  ● 尾張国の織田信秀と美濃国の

    斎藤道三利政が、和議を結ぶ。

  ■ 1548年(天文17年)に、敵対していた2者

    の、尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部)

    の、織田信秀(おだのぶひで、信長の父) と、

    美濃国(みののくに、現・岐阜県南部)の、

    斎藤道三利政(さいとうどうさんとしまさ、帰

    蝶(きちょう、濃姫)の父)が和睦し、和議を

    結び、縁組の誓約も取り交わす。  

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1549年 (天文18年)。

 

  ● 家康の父・松平広忠が死去。

  ■ 1549年(天文18年)3月に、徳川家康(松

    平竹千代)の父の、今川方の、三河国・岡崎

    城主の松平広忠(まつだいらひろただ)が死

    去する。

 

  ● 1549年(天文18年)3月に、徳川家康(松

    平竹千代)が織田氏の人質(1547年〜

    1549年、家康の数え年 6歳〜8歳時)となっ

    ている間に、 家康(竹千代、生没年: 1542

    年ー1616年)は、数え年8歳で、父の松平

    広忠と死別する。

 

  ● 松平氏の根拠地の西三河は、

    今川氏が支配する。

  ■ 1549年(天文18年)に、今川氏の今川義元

    は、 松平広忠の岡崎城や松平氏の西三河の

    領地を奪取し、岡崎城には今川氏の派遣した

    城代を置き、支配する。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1549年 (天文18年)。

 

  ● 家康は、織田氏の人質から

    今川氏の人質に変わる。

  ■ 徳川家康の今川氏人質生活の開始。

  ● 1549年(天文18年) 11月に、徳川家康

    (松平竹千代、生没年:1542年ー1616 

    年)は、 織田氏と今川氏の人質交換で、

    織田氏の人質(1547年〜1549年、家康

    の数え年6歳〜8歳時から、今川氏 の

    質(1549年〜1560年、家康の数え 年8

    歳〜19歳時) となる。

 

  ■ 徳川家康の今川氏人質生活の開始。

  ● 1549年(天文18年)11月に、 織田氏と

    今川氏の人質交換という形で、 徳川家康

    (松平竹千代、生没年:1542年ー1616

    年)は、 

    織田氏(おだし)の人質(1547年〜1549

    、家康の数え年 6歳〜8歳時から、

    今度は、今川氏の今川義元(いまがわよしも

    と、今川氏当主:1536年−1560年))の

    (1549年〜1560年、家康の数え 年8歳

    〜19歳時))となる。  

        家康(竹千代)は、今川氏の保護下に

    入リ、厚遇される。

 

  ● 徳川家康竹千代、松平 元信、松平元康)

   は、 三河国の有力国人領主・松平氏の後継

   者であるため、 駿河国の今川義元は、三河

   国を支配するため、家康を人質とし、厚遇する。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

  ■ 太原雪斎・家康教育係説。

  ● 今川氏の軍師・重臣であり、学識のある

    禅僧であった、太原雪斎 (たいげんせっ

    さい、1496年〜1555年) は、 徳川家

    康(= 竹千代、松平元信)の教育係 であっ

    たという説がある。 

 

  ● 太原雪斎・家康教育係説が正しいとするな

    らば、 徳川家康の今川 氏人質時代に、 

    家康が今川氏の人質となった1549年(天

    文18年、家康・数え年8歳)から雪斎が死

    去する1555年(天文24年・弘治元年、

    康・数え年14歳)までの間、 学識と高徳の

    ある太原雪斎は、 少年期の徳川家康を教

    育し、家康の人格を形成した人物と言える。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1549年 (天文18年)。

 

  ● (R3 家康は、駿府の館を居住地

    とする。

  ● (R) 徳川家康の居住地の変遷。

  ■ (R1)⇒(R13)。 

     (R1)   岡崎城       (1542年ー1547年)、

     (R2)   熱田の館      (1547年ー1549年)、

     (R3)   駿府の館      (1549年ー1560年)、

     (R4)   岡崎城       (1560年ー1570年)、

     (R5)   浜松城       (1570年ー1586年)、 

     (R6)   駿府城       (1586年ー1590年)、

          (R7)   江戸城       (1590年ー1598年)、 

     (R8)   豊臣秀吉築・木幡山 伏見城

                 (1598年8月ー1599年9月)、

     (R9)   豊臣大阪城・西の丸

                 (1599年9月ー1600年6月)、 

     (R10)  江戸城       (1600年7月ー9月)、

     (R11)  豊臣大阪城・西の丸

                 (1600年9月ー1601年3月)、 

     (R12)  徳川家康築・木幡山伏見城

                    (1601年3月ー1607年)、 

     (R13)  駿府城       (1607年ー1616年)

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。 

                  

  ■ (R3) 徳川家康 

    (生没年:1542年ー1616年)は、

    1549年(天文18年)から

    1560年(永禄3年)まで

    駿河国の、駿府の館 (すんぷのやかた)で

    居住する。

             

  ■ 駿府の館 (すんぷのやかた)は、 駿河国

    (するがのくに、現・静岡県中部)にある。

 

  ■ 1549年(天文18年)11月に、 織田氏と

    今川氏の人質交換という形で、 徳川家康

    (松平竹千代、生没年:1542年ー1616

    年)は、 織田氏(おだし)の人質(154 7年

    〜1549年)から、今度は、数え年8歳で、

    今川氏の今川氏(いまがわし)の人質

    (1549年〜1560年)となる

 

 

 ■ 1552年 (天文21年)頃。

 

  ● 信長の父・織田信秀の死去。

  ■ 1552年(天文21年)頃に、 勝幡織田氏

    (織田 弾正忠家)の、信長の父・織田信秀 

    (おだのぶひで、生没年:1511年ー1552

    年頃)が、急死する。

 

  ● 織田信秀の没年には、1551年(天文20年)

    説、1549年(天文18年)説もある。

 

  ● 勝幡織田氏で、織田信長と織田

    信行(信勝)との間で家督争い

    が起こる。

  ■ 1552年(天文21年)頃に、 勝幡織田氏

    (しょばたおだし、織田弾正忠家(おだだんじ

    ょうのちゅうけ))の家督相続では、 嫡出

    (正室の子)の、織田信長と同母 弟の織田信

    行(信勝)(のぶゆき(のぶかつ))との間で、

    家督争いが起きる。 

 

  ● 1556年(弘治2年)年に、織田信長は、稲生

    (いのう)の戦いで勝ち、信長は、家督争いに

    勝ち、信長が、尾張国の信長の父・織田信秀

    (のぶひで)の家督を継ぐ。 

 

 

 ■ 1553年(天文22年)。

 

  ● 信長は斉藤道三と会見する。 

  ■ 1553年(天文22年)4月に、 織田信長

    は、 美濃国 (みののくに、現・岐阜県南

    部の相当地域)の戦国大名の斎藤 道三利

     (さいとう どうさんとしまさ、生年不詳

    ー1556年)と会見する。 

 

 

 ■ 1554年 (天文23年)。

 

  ● 甲相駿三国同盟が成立。

  ■ 1554年(天文23年)に、

    武田信玄、北条氏康、今川義元の間で、互い

    に婚姻関係を結び、 甲斐国本拠地の武田氏、

    相模国本拠地の北条氏、駿河国本拠地の今

    川氏の三者の甲相駿三国同盟 (こうそうしゅ

    んさんごくどうめい、1554年ー1567年)が、

    成立する。

 

 

 ■ 1554年 (天文23年)頃。

 

  ● 秀吉が信長に仕え始める。

  ■ 1554年(天文23年)頃に、豊臣秀吉(木下

    藤吉郎)が、織田信長に仕える (家臣として

    仕え始める)。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1555年 (天文24年)。

 

  ● 家康が元服する(成人となる)。

  ● 家康は松平元信と称す。

  ■ 1555年 (天文24年)3月に、 徳川家康

    (松 竹千代)は、元服( げんぷく、成人)し

    て、名を、竹千 代から次郎三郎元信(もとの

    ぶ)に改め、松平元信(1555年ー1557年)

    と称す。

 

  ● 1555年 (天文24年)3月に、徳川家康(松

    竹千代)は、 元服(成人)して、人質先の

    今川義元 (いまがわよしもと、今川氏当主:

    1536年−1560年、生没年:1519年ー

    1560年)から偏諱(へんき)の「元」を賜(た

    まわ)って松平元信 (まつだいらもとのぶ、

    1555年ー1557年)と称す。 

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1555年 (天文24年)。

 

  ● 信長が尾張下四郡(尾張南部)

    を支配。

  ■ 織田信長は、1554年(天文23年)に、尾張

    下四郡の守護代(清洲織田氏(きよすおだし、

    織田大和守家(おだやまとのかみけ))の、

    織田彦五郎信友と戦い(安食(あじき)の戦い)、

    勝ち、1555年(天文24年)には、織田彦五郎

    信友は殺害され、信友に代わって、清洲城に入

    る。

       信長は、1555年(天文24年)に、清洲織

    田氏(織田大和守家)の勢力範囲の、尾張国

    (おわりのくに、現・愛知県西部の当相地域)の

    南部(尾張下四郡)を支配する。

 

 

 ■ 1555年 (天文24年・弘治元年)。 

 

  ● 天文年号から弘治年号に改元。

      弘治年号1555年ー155 8年。

  ■ 1555年(天文24年・弘治元年)に、

    弘治(こうじ)年号に改元。    

  ● 1555年(天文24年・弘治元年)10月23日に

    和暦の「天文」(てんぶん、てんもん 、

    天文元年・1532年〜天文24年・1555年) が、

    和暦の「弘治」(こうじ、 

    弘治 元年・1555年・10月23日〜

    弘治 4年・1558年・ 2月28日) に

    改元される。 

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1556年 (弘治 2年)。

 

  ● 斎藤道三利政の死去。

  ■ 1556年(弘治2年)に、織田信長は、美濃

    国(みののくに、現・岐阜県南部)の、義父

    (信長夫人・帰蝶の父)の斎藤道三利政(さ

    いとうどうさんとしまさ)が、 子の斎藤義龍

    (さいよしたつ)との戦いに敗れて死去する。 

       信長は、道三利政に援軍を出したが、

    間に合わなかった。  

 

 

 ■ 1556年 (弘治 2年)。

 

  ● 稲生(いのう)の戦い。

  ● 信長が勝幡織田氏の家督を

    継ぐ。

  ■ 1556年(弘治2年)年に、 織田信長は、

    稲生(いのう)の戦いで 実弟の織田信行(信

    勝)と戦い、勝ち、信長が、尾張国の勝幡織

    田氏(しょばたおだし、織田弾正忠家(おだ

    だんじょうのちゅうけ))の、信長の父・織田

    信秀(おだのぶひで)の家督を継ぐ。 

 

 

 ■ 1557年 (弘治 3年)。

 

  ● 家康が松平元信から松平元康

    に改名。

  ■ 1557年(弘治3年)に、 徳川家康(松平元

   信)は、名を、元信から元康に改め、松平元康

   (1557年ー1563年)と称す。

 

  ● 1557年(弘治3年)に、家康(松平元信)は、

    西三河を統一支配した、祖父の松平清康の

    偏諱の「康」をもらい、元信から元康と名を改

    め、松平元康 (まつだいらもとやす、1557

    年ー1563年)と称す。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1558年 (弘治4年・永禄元年)。

 

  ● 弘治年号から永禄年号に改元。

     永禄年号1558年ー15 70年。

  ■ 1558年(弘治4年・永禄元年)に、

    永禄(えいろく) 年号に改元

  ● 1558年(弘治4年・永禄 元年)2月28日に

    和暦の「弘治」(こうじ、

    弘治元年・1555年〜弘治4年・1558年)

    が、 

    和暦の「永禄」(えいろく、

    永禄 元年・1558年・ 2月28日〜

    永禄13年・1570年・ 4月23日) に

    改元される。 

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1559年 (永禄2年) 2月。

 

  ● 信玄が、徳栄軒信玄と称する。

  ■ 1559年(永禄2年)2月に、 武田信玄 

    (武田晴信)は、 出家して、「徳栄軒信玄」

    (法号、法名)と号す(称す)。

 

 

 ■ 1559年 (永禄2年)。

 

  ● 信長が尾張を統一する。

  ■ 1559年(永禄2年)に。 織田信長は、 

    尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部)

    一国を統一し、 尾張国の国主(こくしゅ)

    となる。

 

  ● 織田は尾張上四郡(尾張北部)

    を支配する。

  ■ 織田信長は、 1559年(永禄2年)に、尾張

    上四郡(尾張北部)の守護代(岩倉織田氏、

    織田伊勢守家(おだいせのかみけ))の、織田

    信賢 (おだのぶかた、生没年不詳)の居城・

    岩倉城を包囲し降伏させ、信賢を追放する。

       信長は、1559年(永禄2年)に、尾張国

    (おわりのくに、現・愛知県西部の当相地域)の

    北部(尾張上四郡)を支配する。

 

  ● 織田信長の尾張平定。

  ■ 1559年(永禄2年)に、織田信長は、

    尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部の相

    当地域)一国を統一し、尾張国の国主となる。

 

  ● 信長は、 尾張・上四郡の守護代の織田信

    賢(おだのぶかた)の居城・岩倉城を落城さ

    せ、信賢を追放し、 また、新たに尾張国守

    護となった斯波義銀(しばよしかね)が信長

    に敵対したので追放する。 ここに、信長は、

    尾張の国内の支配権を確立する。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

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#jphappenings-1560

 

 

 ■ 1560年 (永禄3年) 5月。

 

  ● 桶狭間の戦い。

  ● 桶狭間の戦いで、信長が今川

    義元を敗死させ、今川軍敗戦。

  ■ 1560年(永禄3年)5月に、 桶狭間(お

    けはざま)の戦いで、織田信長の軍は、

    今川義元の軍を破る。 

 

  ■ 1560年(永禄3年)5月19日昼頃、 織田

    信長は、 総大将の今川義元を桶狭間山で

    討死させ、 今川義元 (いまがわよしもと、

    今川氏当主:1536年−1560年、生没年:

    1519年ー1560年)は、尾張国(おわりの

    くに、現・愛知県西部の相当地域)の桶狭間

    で敗死し、今川義元の軍は、総大将を失い、

    総崩れとなる。

 

  ■ 1560年(永禄3年)5月に、織田信長は、

    桶狭間の戦い (おけはざまのたたかい)で、 

    東海の駿河国、遠江国、三河国3国(現・静

    岡県中部・西部、愛知県東部)を支配する

    今川氏の今川義元(いまがわよしもと)を敗

    死させ、今川義元の大軍を敗(やぶ)り、権

    威をたかめる。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1560年 (永禄3年) 5月。

 

  ● 信長が桶狭間の戦いで、

    今川義元を敗死させる。

  ■ 1560年(永禄3年)5月に、織田信長は、 

    桶狭間(おけはざま)の戦いで、 今川 義元

    (いまがわ よしもと)を破る。 今川義元は、 

    尾張の桶狭間で、敗死する。

 

  ● 家康が三河へ戻る。

  ■ 1560年(永禄3年)に、 義元の家臣して

    信長と戦っていた、徳川家康(松平元康(ま

    つだいらもとやす))は、 尾張国(おわりの

    くに、現・愛知県西部)より、松平軍の兵を

    撤退し、 西三河 (にしみかわ、現・愛知県

    東部の西南地域)の、岡崎城へ戻る。

        その後、1561年(永禄4年)4月に、

    家康(松平元康)は、今川氏から独立する。

 

  ● 家康の岡崎城入城。

  ■ 1560年(永禄3年)5月23日に、徳川家康

    (松平元康)は、人質として過した駿河国

    (するがのくに、現・静岡県中部)の駿府へ

    は戻らず、 三河国 (みかわのくに、現・愛

    知県東部)の、西三河 (にしみかわ、現・

    愛知県東部の西南地域)の、今川軍が退去

    (放棄)した、岡崎城に入る。 

        その後、1561年(永禄4年)4月に、

    家康(松平元康)は、今川氏から自立(独立)

    する。 

 

  ■ 1560年(永禄3年)5月19日に、今川軍の

    部将として尾張国の大高城(おおたかじょう)

    を守っていた徳川家康(松平元康)は、織田

    方の武将の水野信元から今川義元戦死の

    報を伝え聞き、5月19日夜半に大高城を退

    城する。

       西三河 (にしみみかわ、現・愛知県東

    部の西南地域)の、岡崎城(おかざきじょう)

    内には今川氏の残兵がいたため、家康(松

    平元康)は、5月20日に、岡崎城近くの、松

    平氏の菩提寺の大樹寺(だいじゅじ)に入る。 

        ほどなく今川軍が岡崎城を退去した

    (撤退した)ので、5月23日に、家康(松平元

    康)は、 今川軍が退去した岡崎城に入城す

    る。

 

 

 ■ 1560年 (永禄3年)。

 

  ● 今川氏真が今川氏の家督を

    継承する。

  ■ 今川氏真(いまがわうじざね)が、 戦死した

    今川義元(いまがわよしもと)に代わって、

    今川氏の家督を継承し、名実共に、今川氏

    の当主となる。  

 

  ● 以前に、今川義元は、既に、1558年(永禄

    元年)頃、名目上、今川氏真に家督を譲り隠

    居していが、今川氏の実権は保持していた。

 

  ● 1560年(永禄3年)5月に、桶狭間の戦い 

    (おけはざまのたたかい)で、 東海の駿河国、

    遠江国、三河国の3国(現・静岡県中部・西部、

    愛知県東部)を支配する今川氏の今川義元

    は、 織田信長の軍によって討たれ、今川義

    元の大軍は、総崩(そうくず)れとなり、尾張国

    を去る。

 

 

 ■ 1560年 (永禄 3年)。

 

  ● 家康は、岡崎城を本城 、政務

    居城とする。

  ■ 1560年(永禄3年)5月19日昼頃、 今川

    義元は、尾張国の桶狭間山で織田軍と戦

    い敗死し、今川義元の軍は、総大将を失い、

    総崩れとなり、

    徳川家康(松平元康)は、人質として過した

    駿河国の駿府へは戻らず、1560年(永禄

    3年)5月23日に、 西三河 (にしみかわ、

    現・愛知県東部の西南地域)の、かって父・

    松平広忠の城であり、今川軍が退去(放棄)

    した岡崎城に入る。

 

  ● その後、今川方として戦うが今川氏より援

    軍を得られず、1561年(永禄4年)に、織田

    方と和睦し織田方となり、今川氏から自立

    (独立)する。 

 

 

 ■ 1560年 (永禄 3年)。

 

  ● (R4 家康は、岡崎城を居住地

         とする。

  ● (R) 徳川家康の居住地の変遷。

  ■ (R1)⇒(R13)。 

     (R1)   岡崎城       (1542年ー1547年)、

     (R2)   熱田の館      (1547年ー1549年)、

     (R3)   駿府の館      (1549年ー1560年)、

     (R4)   岡崎城       (1560年ー1570年)、

     (R5)   浜松城       (1570年ー1586年)、 

     (R6)   駿府城       (1586年ー1590年)、

          (R7)   江戸城       (1590年ー1598年)、 

     (R8)   豊臣秀吉築・木幡山 伏見城

                 (1598年8月ー1599年9月)、

     (R9)   豊臣大阪城・西の丸

                 (1599年9月ー1600年6月)、 

     (R10)  江戸城       (1600年7月ー9月)、

     (R11)  豊臣大阪城・西の丸

                 (1600年9月ー1601年3月)、 

     (R12)  徳川家康築・木幡山伏見城

                    (1601年3月ー1607年)、 

     (R13)  駿府城       (1607年ー1616年)

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。 

                  

  ■ 4) 徳川家康 

    (生没年:1542年ー1616年)は、

    1560年(永禄3年)から

    1570年(元亀元年)まで

    三河国の、岡崎城 (おかざきじょう)で

    居住する。

             

  ■ 岡崎城 (おかざきじょう)は、 三河国

    (みかわのくに、現・愛知県東部)にある。

 

  ■ 1560年(永禄3年)5月19日昼頃、 今川

    義元は、尾張国(おわりのくに、現・愛知県

    西部の相当地域)の桶狭間山で織田軍と戦

    い敗死し、今川義元の軍は、総大将を失い、

    総崩れとなり、

    徳川家康(松平元康)は、人質として過した

    駿河国(するがのくに、現・静岡県中部)の

    駿府へは戻らず、1560年(永禄3年)5月

    23日に、かって父・松平広忠の城であり、

    今川軍が退去(放棄)した三河国(みかわ

    のくに、現・愛知県東部)の岡崎城に入る。

 

 

 ■ 1560年 (永禄 3年)。

 

  ● (C1) 家康は、岡崎城を本城

              とする。

  ● (C) 徳川家康の本城の変遷。 

  ■ (C1)⇒(C4)

          (C1)  岡崎城 (1560年ー1570年)、

     (C2)  浜松城 (1570年ー1586年)、

     (C3)  駿府城 (1586年ー1590年)、

          (C4) 江戸城 (1590年ー1616年)。

 

  ■ (C1) 徳川家康は、  

    (生没年:1542年ー1616年)は、

    1560年(永禄3年)から

    1570年(元亀元年)まで

    三河国の、岡崎城 (おかざきじょう)を、

    自分の(C)本城(ほんじょう、= 本拠地

    の城)とする

 

  ■ 岡崎城 (おかざきじょう)は、 三河国

    (みかわのくに、現・愛知県東部)にある。

    

 

 ■ 1560年 (永禄 3年)。

 

  ● (P1) 家康は、岡崎城

          政務居城とする。

  ● (P) 徳川家康の政務居城

       の変遷。 

  ■ (P1)⇒(P10)。

     (P1)   岡崎城       (1560年ー1570年)、

     (P2)   浜松城       (1570年ー1586年)、 

     (P3)   駿府城       (1586年ー1590年)、

     (P4)   江戸城       (1590年ー1598年)、 

     (P5)   豊臣秀吉築・木幡山伏見城

                 (1598年8月ー1599年9月)、 

     (P6)   豊臣大阪城・西の丸

                 (1599年9月ー1600年6月)、

     (P7)   江戸城        (1600年7月ー9月)、 

     (P8)   豊臣大阪城・西の丸

                 (1600年9月ー1601年3月)、 

     (P9)   徳川家康築・木幡山伏見城

                    (1601年3月ー1607年)、 

     (P10)  駿府城      (1607年ー1616年)

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。 

 

  ■ (P1) 徳川家康は、   

    (生没年:1542年ー1616年)は、

    1560年(永禄3年)から

    1570年(元亀元年)まで

    三河国の、岡崎城 (おかざきじょう)を、

    自分の(P)政務居城とする

 

  ■ 岡崎城 (おかざきじょう)は、 三河国

    (みかわのくに、現・愛知県東部)にある。

 

 

 ■ 1561年 (永禄4年)。

 

  ● 謙信の小田原北条氏を攻め、

    小田原城を囲む。

  ■ 北条氏攻め(小田原城攻め)。

  ● 1561年(永禄4年)に、 上杉謙信(長尾

    景虎)は、 関東管領(かんとうかんれい)

    の上杉憲政(うえすぎのりまさ)を擁して、 

    旧上杉氏家臣団の約10万人の大軍で、 

    北条氏康(ほうじょううじやす)を攻め、小田

    原城を包囲する。

 

  ● 謙信が、山内上杉氏家督を

    相続し、関東管領となる。

  ● 謙信が、上杉政虎と称する。

  ■ 1561年(永禄4年)閏3月16日に、 

    上杉謙信(長尾景虎(ながおかげとら))は、 

    鎌倉の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で、

    上杉憲政(うえすぎのりまさ)より、

    山内上杉氏(やまのうちうえすぎけ)の家督

    と関東管領職を相続(継承)し、

    関東管領(かんとうかんれい)に就任し、

    上杉憲政から一字の政を賜り、

    上杉政虎(うえすぎまさとら)と称す。 

 

 

 ■ 1561年 (永禄 4年)。

 

  ● 信長が家康との和睦を望む。

  ■ 1561年(永禄4年)に、 織田信長は、 

    尾張国の西北方の斎藤氏支配の美濃国

    攻略したいため、 尾張国の東方の今川氏

    支配の三河国との戦いを望まず、 今川方

    の三河国西部の徳川家康(松平元康)に

    水野信元 (みずののぶもと、家康の生母

    の兄)を介して、和睦をもちかける。

 

  ● 家康は今川氏から独立し、

    織田氏に味方する。

  ■ 1561年(永禄4年)4月に、三河国西部の

    徳川家康(松平元康)は、 尾張国の織田

    信長と和睦し、織田氏に味方し(織田方と

    なり)、今川氏の今川義元の後を継いだ

    今川氏真(いまがわうじざね)と断行し今川

    氏から独立する (今川氏の従属から離れ

    (今川氏の部将をやめ)、独立する。

 

  ■ 徳川家康(松平元康)は、 1560年(永禄

    3年)5月の桶狭間の戦いの今川軍敗戦直

    後からしばらく、三河国の今川方をまとめて

    織田方の侵攻と対峙しようとしていたが、

    今川氏から援軍を得られず、苦境に立たさ

    れる。

 

  ● 今川氏は、小田原北条氏(= 後北条氏)や

    武田氏と、甲駿相(甲斐国・駿河国・相模国)

    三国同盟を結んでいた。

       長尾景虎(上杉謙信)の大軍(9〜11

    万人の兵)の関東出兵により、 小田原北

    条氏(後北条氏)が長尾氏(上杉氏)に攻

    められ、小田原城の戦い(大槻(おおつき)

    合戦、1560年8月ー1561年6月) が起

    こり、数万の兵の小田原北条氏(後北条氏)

    が苦境に立たされる。

       今川氏の今川氏真は、三国同盟によ

    り、 東方の小田原北条氏(後北条氏)に

    援軍を派兵したため、織田方と対抗するた

    めの、西方の三河国に援軍を送る余裕は

    なかった。

 

  ■ 織田信長も織田・尾張領の西方の美濃

    国の斎藤氏と交戦している経緯から織田・

    尾張領の東方の家康との同盟を考えており、

    信長と同盟を結んでいる織田方の水野信元

    (みずのもぶもと、家康の母方の兄)に説得

    されて、 徳川家康(松平元康)は、今川氏

    から援軍が得られないまま織田氏に抵抗を

    続けるよりも織田氏と結んで三河国の松平

    氏の独立を図った方が領国維持の上で得策

    と判断し、秘密裏に信長と和睦し、 1561年

    (永禄4年)4月より、今川軍の拠点の牛久

    保城を攻略する牛久保城の戦いをはじめ、

    三河国の今川方の諸城を攻略する。

       1562年(永禄5年)1月に、和睦よりも

    より親密な同盟が結ばれ、 織田氏と松平

    氏(徳川氏)の間の軍事同盟の清州同盟が

    正式に締結される。

       同盟締結時、徳川家康(松平元康)が

    織田信長の居城の清洲城を訪問し、信長と

    家康との間で会見が持たれる (清洲同盟

    締結時に家康と信長が会見したかどうかに

    ついては諸説あり)。

 

  ■ 徳川家康の今川氏からの独立。

   ● 1560年(永禄3年)に、徳川家康(松平元

   康)は、松平軍の兵を撤退し、三河国(みかわ

   のくに、現・愛知県東部)の、西三河(にしみ

   かわ、現・愛知県東部の西南地域)の、岡崎城

   へ戻る。 その後、今川氏から独立する。

 

   ● 1560年(永禄3年)5月に、今川義元に

    臣従し今川軍に加勢していた、徳川家康(松

    平元康)は、 主君の今川義元を失い、戦場

    の尾張国 (おわりのくに、現・愛知県西部の

    相当地域)より松平軍を撤退し、人質として

    過した駿河国(するがのくに、現・静岡県中

    部の相当地域)の駿府へは戻らず、今川軍

    が放棄した西三河の岡崎城に入る。 その後、

    1561年(永禄4年)4月に、今川氏から自立

    (独立)する。 

      ここに、徳川家康(松平元康)は、名実共

   に、 今川義元(いまがわよしもと)の今川氏

   の人質としての身分から開放される。

       徳川家康(松平元康)は、 家康の祖

   父・松平清康(まつだいらきよやす)の代で成

   立した西三河(にしみかわ、現・愛知県東

   部の西南地域)の支配権の回復を志し、家康

   (松平元康)は、西三河の諸城の攻略を開始

   する。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1561年 (永禄4年)。

 

  ● 謙信と信玄が、第4回川中島の

    戦いで、戦い、引き分けとなる。

  ■ 第4回川中島の戦い。

  ● 1561年(永禄4年)8月に、 上杉謙信(上杉

    政虎)の率いる上杉軍 と 武田信玄(徳栄軒

    信玄)の率いる武田軍が、 信濃国(しなのの

    くに、現・長野県)の北部の川中島で、衝突し、

    第4回川中島の戦いが起こり、激戦となる。

       第4回川中島の戦いでは、勝敗がつがず、

    引き分けとなる。

 

  ● 謙信が、上杉輝虎と称する。

  ■ 1561年(永禄4年)12月に、上杉謙信(上杉

    政虎)は、 室町幕府・13代将軍の足利義輝

    から一字の輝を賜り、諱(いみな)を輝虎(てる

    とら)と改め、上杉輝虎(うえすぎてるとら)と

    称す。

 

 

 ■ 1562年 (永禄5年) 1月。

 

  ● 信長と家康は清州同盟を結ぶ。

  ■ 1562年(永禄5年)1月に、尾張国の織田

    信長は、正式に、尾張国の東方の三河国西

    部の徳川家康と清洲同盟(きよすどうめい、

    織徳同盟)を結ぶ。 

 

  ● 同盟締結後、 尾張国(現・愛知県西部)の

    織田信長は、 西方の、美濃国(みののくに、

    現・岐阜県南部) や 伊勢国(いせのくに、

    現・三重県北部・中央中部)への侵略を目指し、

    一方、三河国(現・愛知県東部)西部の徳川

    家康は、 東方の三河国東部・北部、遠江国

    (現・静岡県西部)、駿河国(現・静岡県中部)

    への侵略を目指すこととなる。

       信長と家康は、自国防衛や他国侵略で

    軍勢が不足した時は、お互いに、援軍を出し

    合うこととなる。

 

  ● 1560年(永禄3年)の桶狭間の戦い以後も、

    徳川家康(松平元康)は、 西三河で、今川方

    として織田方と戦っていたが、今川氏から援軍

    が得られず窮地に陥り、1561年(永禄4年)

    4月に、徳川家康(松平元康)は、 織田信長

    と和睦し、織田方となり、今川氏から独立する。

    和睦以後、今度は、織田方の家康(松平元康)

    は、 西三河(にしみかわ、現・愛知県東部の

    西南地域)で、今川方と戦う。

       1562年(永禄5年)1月には、家康(松平

    元康)は、 正式に、織田信長と清洲(きよす)

    同盟(織徳同盟)を結ぶ。 

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1562年 (永禄5年) 2月。

 

  ● 上之郷城合戦で、家康は

    落城させ、城主の鵜殿長照を

    敗死させ、鵜殿長照の2人の

    子を捕虜とする。

  ■ 1562年(永禄5年)2月4日に、徳川家康

    (松平元康)は、 上之郷城合戦で、西三河

    (にしみかわ、現・愛知県東部の西南地域)

    の、上之郷城(かみのごうじょう、上ノ郷城)

    を落城させ、今川方の城主の鵜殿長照(う

    どのながてる)を敗死させ、 鵜殿長照の

    2人の子の鵜殿氏長(うじなが)と鵜殿氏次

    (うじつぐ)を捕虜とする。

        鵜殿長照の父・鵜殿長持(うどうなが

    もち)は、 駿河・戦国大名の今川義元の妹

    を夫人にしていて、鵜殿長照と今川氏真は、

    従弟(いとこ)同士であった。

 

  ■ 1562年(永禄5年)2月4日に、夜陰に

     乗じて、家康(松平元康)配下の忍者が

     上之郷城に忍び込んで火をつけ、城中が

     混乱したところで、家康(松平元康)が、

     城を落とす。

 

  ● 城主の鵜殿長照(うどのながてる)は討ち

    死にし、 長照の2人の子は、生け捕りに

    され、岡崎城に連れていかれる。

 

  ■  上之郷城や上之郷領は、鵜殿氏に代わっ

     て、知多半島からやってきた、久松俊勝(ひ

     さまつとしかつ、家康の母・於大の方の2番

     目の夫)が城主、領主となり、俊勝が15

     90年(天正18年)までこの地を治めてい

     たが、1590年(天正18年)の家康関東

     移封(かんとういほう)により、家康の三河

     の家臣たちも関東へ移住することとなった

     ため、廃城となる。

 

  ■ 上之郷城合戦で城に侵入した、家康 (松平

      元康)配下の忍者は、

     甲賀者の忍びの者80名ほどであった。

     甲賀者の忍びの者が、鵜殿長照を殺害し、

     鵜殿長照の2人の子を生け捕りにする

     (「烈祖成績」より)。

   ● (注意) ドラマなどでは、服部半蔵正成

     (はっとりはんぞうまさなり、2代目服部

     半蔵、武将)配下の伊賀忍者も上之郷 城

     合戦で城に侵入している場面があるが、

     脚色(フィクション)である。 史実では、

     伴太郎左衛門、その他の甲賀忍者のみ

     が城中に侵入している。

          服部半蔵正成(2代目服部半蔵)は、

     武将であり、忍者ではなく、1600年(慶長

     5年)の関ヶ原の戦い後、 徳川氏より徳

     川氏お抱え忍者の指揮をとるように命(め

     い)じられ忍者を配下とするようなったので、

     それまでの間は、忍者を直接指揮すること

     はなかった。 1580年(天正10年)の家

     康の伊賀越え時の救援伊賀忍者の指揮に

     もかかわっていない。

 

  ■ 上之郷城 (かみのごうじょう、上ノ郷城)

    は、 安土桃山時代や江戸時代の姫路城の

    ような天守閣、石垣、しっくい壁などを備えた

    近世城郭ではなく、 室町時代後期(戦国時

    代)の、主に土塁(どるい、土を盛って造られ

    た壁)、空堀(からぼり)、瓦(かわら)が使わ

    れていない建物などの構造の中世城郭であ

    った。

 

 

 ■ 1562年 (永禄5年)。

 

  ● 人質交換で、家康は

    妻子を取り戻す。

  ■ 1562年(永禄5年)に、徳川家康(松平元

    康)は、 人質交換で、家康は妻子を取り戻

    す。

 

  ● 1562年(永禄5年)に、徳川家康(松平元

    康)は、 上之郷城合戦時に生け捕りにした

    今川氏真の親族の鵜殿氏長・氏次2人との

    身柄の交換で、 駿府に抑留されていた家康

    (元康)の夫人(築山殿)と子供2人(長男の

    竹千代(松平信康)と長女・亀姫)を今川氏か

    ら取り戻す。

 

  ■ その後、鵜殿氏長・氏次兄弟は、今川氏真に

    仕えるが、今川氏滅亡後は、家康に仕え、

    徳川氏の家臣となる。

 

 

 ■ 1563年 (永禄 6年)。

 

  ● 家康が松平元康から松平家康

    に改名。

  ■ 1563年(永禄6年)に、 徳川家康(松平元

   康)は、名を、元康から家康に改め、松平家康

   (1563年−1566年)と称す。

 

  ● 1563年(永禄6年)に、 家康(松平元康)

   は、 今川義元からの偏諱の「元」を返上して、

   「家」をつけて、元康から家康と名を改め 、松

   平家康 (まつだいらいえやす、1563年−

   1566年)と称す。 「家」をつけた理由には、

   各種の説があり、その1つの説では、清和源

   氏の源義家の「家」からとったという説がある。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1563年 (永禄 6年)。

 

  ● 三河一向一揆が起こる。

  ■ 1563年(永禄6年)に、三河一向一揆 (み

    かわいっこういっき、1563年ー1564年)が

    起こり、 徳川家康(松平家康)は、 西三河 

    (にしみかわ、現・愛知県東部の西南地域)

    で、 一向宗(いっこうしゅ、本願寺)の三河一

    向一揆の鎮圧を始める。

       その後、翌年の1564年(永禄7年)に、 

    家康は、和議に持ち込み、一揆の解体に成

    功し、西三河の三河一向一揆を鎮圧する。 

 

  ● 一方、1563年(永禄6年)に、東三河の方は、

    禅宗の曹洞宗(そうとうしゅう)の勢力が強く、

    一向宗(いっこうしゅ、本願寺)は、少なかった。

 

  ■ 家康は、1560年(永禄3年)以来、約3年間、

    三河国の制圧を目指し、軍事行動を活発化さ

    せ、1563年(永禄6年)には、西三河は疲弊

    し、 家康の軍の兵糧は少なくなり、 対今川

    氏長期戦化で、家康方諸城の一部も反抗し家

    康の敵の今川方となる。 

 

  ● 家康方諸城の上野城の酒井忠尚、寺部城の

    小笠原広重、東条城の吉良義昭(きらよしあ

    きら)などは、家康に反抗し、今川方の援軍を

    待って、籠城し、家康に敵対する旧家康方の

    反抗勢力となる。 

       ところが、上野城の酒井忠尚、東条城の

    吉良義昭などの、家康に敵対する旧家康方

    の反抗勢力は、今川方の援軍を待っても、まっ

    たく来なかった。 今川氏の今川氏真は、三河

    国(みかわのくに、現・愛知県東部)の隣国の

    遠江国(とおとうみ、静岡県西部)の今川氏領

    国で、反乱がおこり、それを鎮圧するために、

    軍を出していたためである。

 

  ● 家康の父・松平広忠(まつだいらひろただ)

    が不入権(ふにゅうけん、守護使不入 の特

    権)を与え税の免除特権をもち、兵糧(年貢)

    の徴収ができない、豊かな、西三河の一向

    宗寺院(本願寺寺院)とその勢力下の町村

    (寺内町)に目をつけ、家康は、不入権を無

    視し税の免除特権を取り下げ、米などの兵

    糧を奪う。 

        不入権を侵され、兵糧を奪われた、一

     向宗(本願寺)は、怒り、家康に反抗し、15

    63年(永禄6年)後半に、一向宗(本願寺)の 

    勢力が強かった西三河 (にしみかわ、現・愛

    知県東部の西半地域)で、三河一向一揆(み

    かわいっこういっき)が起こる。 

    

  ● 三河一向一揆には、 一向宗(本願寺)の信

    徒の松平氏一門や松平氏譜代家臣の一部も

    一揆に加わっていたため、松平氏一門・家臣

    同志が戦うことも多くあり、家康は、四方八方

    敵だらけとなり、松平氏本家の徳川家康(松

    平家康)存亡の危機となり、 家康は、一揆の

    鎮圧に非常に苦労する。

 

  ■ 三河一向一揆では、 不入特権を主張する、

    中心勢力の三河三ヶ寺と本宗寺(ほんしゅう

    じ)の一向宗徒(本願寺教徒) と、 一向宗

    (本願寺教団)の利権の解体を目指す家康

    対立し、戦う。 

       更に、一向宗徒(本願寺教徒)とは連携

    していないが、一向宗徒(本願寺教徒)の反

    乱の同時期に、  家康と敵対する旧家康方の

    反抗勢力の上野城の酒井忠尚、寺部城の小

    笠原広重、東条城の吉良義昭(きらよしあき  

    ら)、今川方残党など と、 家康に味方する

    勢力の水野信元(みずののぶもと)、真宗高田

    派などが、それぞれ 加わり、1563年(永禄

    6年)に、西三河は、 騒乱状態となる。

 

  ● 一向一揆。

  ■ 一向一揆(いっこういっき)は、

    室町時代後期(戦国時代)や安土桃山時代

    に、近畿、北陸、東海地方を中心に、一向宗

    (いっこうしゅ、本願寺)門徒が起こした一揆

    (いっき、領主に対する組織的反抗)である。

    当時の社会を席巻する一大勢力となる。

 

  ■ 一向一揆(いっこういっき)は、

    主に、3種類があり、

    宗派(信仰)擁護の一向一揆、

    不入権保護(獲得・保持)の一向一揆、

    石山本願寺の動員(1570年〜1580年)

    の一向一揆、

    などがあった。

        1563年から1564年までの西三河の

    三河一向一揆は、不入権保持の一向一揆で

    あった。

   ● 不入権(ふんふうけん)とは、 領主の介入

     を拒否できる権利である。 年貢(ねんぐ)や

     諸役(しょえき)の免除、警察不介入などで

     ある。

 

  ● 一向宗(本願寺)。

  ■ 室町時代や安土桃山時代の、当時の浄土

    真宗には、 本願寺派、専修寺派、仏光寺派

    などがあった。

 

 ● 本願寺(一向宗)では、 室町時代後期に、

   蓮如上人(れんにょしょうにん)が現れ、

   従来の阿弥陀経一念仏の「南無阿弥陀仏」

   (なむあみだぶつ、六字名号(ろくじみょうご

   う)、教典の「仏説無量壽経」(ぶっせむりょう

   じゅきょう)より) を唱(とな)えると極楽往生

   (ごくらくおうじょう)ができる(死んだら来世は

   極楽浄土へ行ける)とは異なり、

   「一向専念無量壽仏」 (いっこうせんねんむ

   りょうじゅぶつ、教典の「仏説無量壽経」より) 

   を主張し、また、「南無阿弥陀仏」を唱(とな)

   えると現世で仏様(ほとけさま)が私たちを守

   ってくれると主張し、 蓮如上人蓮如上人

   の弟子たちが布教を行ない、 近畿、北陸、

   東海地方を中心に、多く の道場ができ、多く

   の信徒(門徒)を獲得する。

      江戸時代に入り、1603年(慶長8年)頃、

   本願寺(一向宗)は、分立し、

   准如を宗主とする本願寺教団の現在の浄土真

   宗本願寺派 (本山:西本願寺) と、 

   教如を宗主とする本願寺教団の現在の真宗大

   谷派(本山:東本願寺)、

   とに分裂する

 

 

 ■ 1564年 (永禄 7年)。

 

  ● 家康が三河一向一揆を鎮圧

     する。

  ■ 1564年(永禄7年)に、 徳川家康(松平

    家康)は、 西三河 (にしみかわ、現・

    愛知県東部の西南地域)の、三河一向一揆

    (みかわいっこういっき)の鎮圧に成功する。

 

  ● 一揆勢は統率力がなく、一揆勢家康に敵

    対する旧家康方の反抗勢力、今川方残党は

    共に連携せず、家康にとって幸いし、鎮圧に

    成功する。

       三河一向一揆では、 長篠の一向一揆、

    石山合戦とは異なり、 西三河で、一向宗

    (本願寺)の各寺が連携せず、散発的に一揆

    を起こし、家康は1つずつ鎮圧 していく。 

    また、一向宗(本願寺)は、 一向宗とは無 関

    係な、家康に敵対する旧家康方の反抗勢 力

    や今川方残党とも連携しなかった。 

 

  ● (注意)  ドラマなどでは、西三河の本願寺

    (一向宗)の寺が連合して家康(松平家康)と 

    戦ったり、西三河の本願寺(一向宗)の寺が

    家康方の反抗勢力や今川方残党と連携す

    る場面が出てくるが、フィクションであり、当時

    の一次史料の信頼できる記述とは異なる。

 

  ■ 1564年(永禄7年)1月15日の馬頭原 (ば

    とうはら)合戦で、家康が一向一揆軍に勝利

    して家康は有利となり、 その後、1564年

    (永禄7年)春に、西三河の一向宗寺院と和議

    (和睦)が整い、終わる。 

       家康は、和議後、西三河の一向宗(本願

    寺)の寺院を破却する。

    

  ● 三河一向一揆で、一向宗(本願寺)の 一揆

    衆と家康が決めた和議の内容は、

    一揆衆の罪を問わない、

    不入権(守護使不入の特権)を与える、

    一揆が起こる前の状態に戻す、

    の3条件であった。 

        しかし、一揆が武装解除し収束すると、

    家康は、和議を一方的に破棄し、一向宗(本

    願寺)の寺を取り壊し、西三河では、一向宗

    (本願寺)を禁教とした。

        後に、1583年(天正11年)に、家康

    は、西三河で、一向宗(本願寺)の信仰を認

    める。

 

  ● 1564年(永禄7年)に、 徳川家康(松平

    家康)は、 西三河で勃発した一向一揆を

    苦心の末に鎮圧に成功する。 

        家康は、三河一向一揆に加わってい

    た松平氏一門や松平氏の譜代家臣の多く

    を許す。 

        一揆方に加わり許された松平氏一門

    や松平氏の譜代家臣たちは、後に、家康の

    忠臣となり、 一揆方の本多正信(ほんだま

    さのぶ)のように、家康の側近や重臣となる

    者もでて、徳川氏の発展の基礎を築いてい

    く。

 

  ● 一方、家康は、 一向一揆 と同時期に参

    戦した、一向一揆とは無関係に家康に敵対

    した旧家康方の反抗勢力の指導者は、許さ

    ず、上野城の酒井忠尚、東条城の吉良義昭

    (きらよしあきら)などを追放する。  

       特に、三河守護家の吉良氏(きらし)の

    吉良義昭を追放したことは、 家康の三河国

    (みかわのくに、現・愛知県東部)の支配を助

    けることとなる。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 ● 家康が西三河を平定。

  ■ 1564年(永禄7年)春に、 徳川家康(松

    平家康)は、 今川方の諸城を落とし、西三河 

    (にしみかわ、現・愛知県東部の西南地域)を

    平定する。

 

 

 ■ 1564年 (永禄7年)。 

 

 ● 家康が東三河を平定。

  ■ 1564年(永禄7年)に、 徳川家康(松

    平家康)は、 東三河 (ひがしみかわ、

    現・愛知県東部の東南地域)の今川方の

    諸城を落とし、1564年(永禄7年)6月には、

    今川氏の東三河の拠点の吉田城を開城し、

    今川氏の勢力を東三河から駆逐する。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1564年 (永禄7年)。 

 

  ● 信長は浅井長政と同盟を

    結ぶ。 

  ● お市が浅井長政に嫁ぐ。

  ■ 1564年(永禄7年)に、 織田信長は、 

    北近江(きたおうみ、現・滋賀県北部)の戦国

    大名の浅井長政(あざいながまさ)と同盟を結

    び、 信長の妹のお市(おいち)が、 浅井長

    政に輿入(こしい)れする。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1565年 (永禄 8年)。

 

  ● 信長の伊勢侵攻開始。

  ■ 1565年(永禄8年)に、 織田信長は、

    伊勢国(いせのくに、現・三重県北部・中央

    中部の相当地域)への侵攻を開始する。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

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#jphappenings-1566

 

 

 ■ 1566年 (永禄 9年)。

 

  ● 家康が三河国全体を平定。

  ■ 1566年(永禄9年)5月に、徳川家康(松

    平家康)は、三河国 (みかわのくに、現・愛

    知県東部の相当地域)を統一する。

 

 ● 家康が東三河や奥三河を平定。

  ■ 三河国西部を支配する、徳川家康(松平家

    康)は、 1566年(永禄9年)までに、奥三河 

    (おくみかわ、三河国北部、現・愛知県東部

    の北方地域) や 東三河 (ひがしみかわ、

    現・愛知県東部の東南地域) で、今川方

    の諸城を落とし、東三河と奥三河を平定する。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1566年 (永禄9年) 12月。

 

  ● 家康が、三河守となり、徳川姓

    を名乗る。

  ■ 1566年(永禄9年)に、 徳川家康(松平

   家康)は、 三河守(みかわのかみ)となり、 

   徳川(とくがわ)に改姓した。  

 

  ■ 1566年(永禄9年)12月に、 徳川家康

    (松平家康)は、 朝廷より従五位下三河守

    (じゅごいのげみかわのかみ)に叙任され、

    姓を松平(まつだいら)から徳川(とくがわ)

    に改姓する。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

  ● 1566年(永禄9年)に、 徳川家康(松平

   家康)は、 朝廷より従五位下、三河守(みか

   わのかみ)の叙任を受け、 徳川(とくがわ)

   に改姓した。 この改姓に伴い、新田氏系統

   の源氏であることも公認された。

 

  ■ 1566年(永禄9年)に、 徳川家康(松平家

   康)は、氏を、松平から徳川に改め、徳川家康

   (1566年ー1616年)と称す。

 

  ● 1566年(永禄9年)に、 徳川家康(松平家

   康)は、 朝廷から三河守(みかわのかみ)に

   叙任され、松平氏の祖の世良田義季が得川氏

   を名乗っていたことから同時に氏を「徳川」姓

   に改称し、徳川家康 (とくがわいえやす、15

   66年ー1616年)と称す。

 

  ● 家康は、徳川家康家以外の者

    (三河十八松平家の者等)を

    家臣とする。

  ■ ここに、かって安祥城(あんじょうじょう)を拠

    点とした安祥松平家(あんじょうまつだいら

    け)の子孫の徳川家康は、三河国の国主と

    なり、 三河十八松平家(みかわじゅうはち

    まつだいらけ)の中の安祥松平家の徳川家

    康こそが、 松平氏宗家(本家)となり、主君

    となり、他の松平家一門は、家臣となること

    が固定化する。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

  ● 家康は、徳川を名乗れる者(個

    人)を、「徳川家康の嫡流の家」

    の「当主」のみとする。

   ■ 1566年(永禄9年)以後、徳川を名乗

     れるのは、「徳川家康の嫡流の家」の

     「当主」のみである。

 

   ● 例えば、松平信康は、まだ当主で

     はないので、徳川を名乗れない。

 

   ● 1566年(永禄9年)以後は、

     松平氏(= 三河松平氏)の中で、

     徳川家康の一族の一部のみの家即ち、

     徳川氏本家(徳川将軍家)と徳川氏御

     三家、徳川氏御三卿などの「家康の嫡

     流の家」が、徳川氏を称し、

     更に、その「家康の嫡流の家」の

     当主のみが徳川を名乗れた。

             

 

 ■ 1567年 (永禄10年) 5月。

 

  ● 信長の娘の徳姫が家康の嫡男

    の松平信康に嫁ぐ。

 

  ■ 1567年(永禄10年)5月に、

    織田信長の娘の徳姫 (とくひめ、= 五徳

    (ごとく)、生没年:1559年ー1636年)が、 

    政略結婚で徳川家康の嫡男・松平信康(ま

    つだいらのぶやす)に嫁 (とつ)ぐ。

 

  ■ 徳姫 (とくひめ、= 五徳(ごとく))は、

    織田信長の娘であり、 徳川家康の嫡男・

    松平信康(まつだいらのぶやす)の正室夫

    人である。

             

  ■ 織田信長の娘の徳姫(= 五徳)は、

    松平信康との間に、登久姫 (福子、後に

    小笠原秀政夫人)、熊姫 (国子、後に本

    多忠政夫人)の2人の娘を産む。

 

  ■ 織田信長の娘の徳姫(= 五徳)は、

    1579年(天正7年)の松平信康自害・築

    山殿殺害事件である松平信康事件の後、 

    1580年(天正8年)2月に、2人の娘を

    徳川氏に残して、徳川氏の岡崎城を去る。

       その後、徳姫(= 五徳)は、各地に居

    住し、 京(きょう、京都)で1636年(寛永

    13年)1月に死去する。

 

 

 ■ 1567年 (永禄10年) 10月。

 

  ● 信長が美濃の斎藤氏を滅ぼす。

  ● 信長が尾張、美濃の2か国の

    戦国大名になる。

  ■ 1567年(永禄10年)10月に、信長は、 

    美濃国(みののくに、現・岐阜県南部)の

    斉藤氏を滅ぼす。 

 

  ● 信長の稲葉山城(岐阜城)奪取。

  ● 織田信長の美濃平定。

  ■ 1567年(永禄10年)10月に、織田信長

    は、 美濃国 (みののくに、現・岐阜県南部

    の相当地域)の斎藤氏を滅ぼす。 

       信長は、尾張国、美濃国の2カ国を領す

    る戦国大名となる。 

 

  ● 1567年(永禄10年)10月に、 信長は、 

    斎藤龍興(さいとうたつおき)の稲葉山城(い

    なばやまじょう)を落とし、岐阜城(ぎふじょう)

    と改名し、信長の本拠地を岐阜城に移す。

 ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1567年 (永禄10年)。

 

  ● 信長は美濃国を領有する。

  ● 信長の日本本土統一事業

    開始。

  ■ 織田信長の日本本土統一事業。

  ● 1567年(永禄10年)10月に、信長は、 

   美濃国 (みののくに、現・岐阜県南部の相

   当地域) の斎藤氏を滅ぼす。 ここに、信

   長は、尾張、美濃の2カ国を領する戦国大

   名となる。 

      この頃から、信長は、天下布武の朱印

   を用いるようになり、 畿内付近地域の平定

   を目指す。

      後に、信長は、畿内付近地域の征服後

   は、天下統一(日本本土統一)を目指すよう

   になる。 

 

 

 ■ 1568年 (永禄11年)。

 

  ● 家康と信玄が今川領分割協定

    を結ぶ。

  ■ 1568年 (永禄11年)に、 徳川家康は、 

   今川領分割に際して、駿河国 (するがのく

   に、現・静岡県中部の相当地域)を武田領、 

   遠江国 (とおとうみのくに、現・静岡県西部

   の相当地域)を徳川領とする協定を、武田

   信玄と結ぶ。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

  ● 1568年(永禄11年)に、 徳川家康は、 

   武田氏の武田信玄と手を結ぶ。 家康は、

   今川領分割に際して、武田信玄と、大井川

   (おおいがわ)を堺に、東の駿河を武田領、

   西の遠江を徳川領とする協定を結ぶ。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 ● 信玄が今川領の駿河国へ

    侵攻し、占領し領土とする。

  ■ 1568年(永禄11年)12月に、武田信玄が、

    駿河国(するがのくに、現・静岡県中部)に侵

    攻し、12月に、駿河国と駿府(すんぷ)を占領

    する。 

  ● 今川氏真(いまがわうじざね)は、

    1568年(永禄11年)12月に、出陣するが

    駿河国の有力国人21人が信玄に通じたため、

    敗戦し、駿河国の駿府(すんぷ)を離れ、12月 

    に、遠江国(とおとうみのくに、現・静岡県西部)

    の、今川方の朝比奈泰朝(あさひなやすとも)

    の居城の、掛川城(かけがわじょう)へ逃れる。

 

  ● その後、1569年(永禄12年)から1571年

    (元亀2年)まで、駿河国の一部の今川方の

    国人領主らは、武田方と抗戦し、今川氏真を

    後援する北条氏も、援軍を出し、武田方と戦

    うが、武田氏の駿河国の占領を崩せず、15

    71年(元亀2年)頃には、大勢が決し、駿河

    国は、武田氏の領国となる。

 

 ● 家康が今川領の遠江国へ侵攻

    する。

  ■ 1568年(永禄11年)12月から、徳川家康

    は、今川領である遠江国へ侵攻する。

  ● 1568年(永禄11年)12月に、家康は、 

    遠江国(とおとうみのくに、現・静岡県西部)

    の大半を制圧する。 1568年(永禄11年)

    12月27日には、徳川軍は、掛川城(かけ

    がわじょう)を包囲する。

  ● しかし、それから、掛川城の城主の朝比奈

    泰朝とその家臣らの抵抗で半年近くも籠城

    戦(ろうじょうせん)が続く。

        家康は、1569年(永禄12年)5月

    に、掛川城を開城させ、遠江国を領有する。

 

 

 ■ 1568年 (永禄11年) 10月。

 

  ● 信長の足利義昭擁立第2次

    上洛出兵の成功。

  ● 足利義昭が将軍となる。

  ■ 足利義昭擁立織田信長第2次上洛出兵。

  ● 1568年(永禄11年)9月に、 織田信長は、 

    足利義昭(よしあき)を奉じて、上洛を開始し、

    10月に上洛を果たし、1568年(永禄11年)

    10月に、足利義昭を将軍職(将軍在位:

    1568年〜1588年)に就(つ)ける。

 

  ● 信長の足利義昭擁立第2次

     上洛出兵の成功。

  ■ 足利義昭擁立織田信長第2次上 洛出兵。

  ●  足利義昭家臣で仲介役の明智光秀と

    細川藤孝(幽斎)によって、1568年(永禄

    11年)9〜10月に、足利義昭擁立織田信

    長第2次上洛出兵が行われ、10月に上洛

    は成功する。

       この出兵に、徳川家康は、信長へ援軍

    を派遣する。

       1568年(永禄11年)10月に、織田 

    信長は、足利義昭(よしあき)を奉じて、上

    洛を果たし、10月に足利義昭を将軍職(将

    軍在位:1568年〜1588年)に就(つ)け

    る。

 

  ● 足利義昭は将軍就任後、

     信長と対立する。

  ■ 1568年(永禄11年)10月の足利義昭

    の将軍職就任後、 織田信長は、足利義昭

    の行動をコントロールしようとしたため、義

    昭との関係が悪化する。 

        武田氏、朝倉氏、延暦寺、石山本願寺

    などから成る織田信長包囲網が結成された

    後、1573年(元亀4年)2月に は、足利義

    昭は信長を裏切り、反信長勢力に加担する。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1569年 (永禄12年) 1月。 

 

  ● 家康と武田信玄は、敵対関係

    となる。

  ■ 1569年(永禄12年)1月に、 徳川家康と

   武田信玄は、 敵対関係となる。

 

  ● 1569年(永禄12年)1月に、領土拡大に燃

   える武田信玄は、家康との協定を破り、信濃国

   (しなののくに、現・長野県)から遠江国(とおと

   うみのくに、静岡県西部)へ侵攻する。 これは、

   徳川勢の抵抗や北条氏康からの牽制を受け失

   敗し、これを契機に、徳川家康と武田信玄は、

   敵対関係となる。

 

  ● 1569年(永禄12年)1月8日に、信濃国

    から武田家臣の秋山虎繁(信友)が遠江国

    へ侵攻し、家康と信玄の協定は、手切れと

    なる。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1569年 (永禄12年) 5月。 

 

  ● 家康が遠江国を占領する。

  ● 戦国大名の今川氏が滅亡。

  ■ 1569年(永禄12年)に、 徳川家康は、 

   遠江国の大半を攻め獲り、今川氏真のいる、

   掛川城(かけがわじょう)も包囲し、氏真を降

   伏させる。 戦国大名の今川氏が滅亡する。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

  ■ 徳川家康は、1568年(永禄11年)12月

    から、徳川軍を今川領である遠江国へ侵攻

    し、井伊谷城(いいのやじょう)、曳馬城(ひ

    くまじょう、引間城)などの諸城を攻略し、

    遠江国の大半を攻め獲る。 

      しかし、1568年(永禄11年)に、遠江

   国の掛川城(かけがわじょう、懸川城)が落

   城せず、同年に遠江国を占領できなかった。

 

  ● 1568年(永禄11年)に、今川方の井伊谷

    城は、 家康が井伊氏の所領を引き渡すと

    約束した井伊谷三人衆(いいのやさんにん

    しゅう)に攻略させ、徳川軍は兵を失うこと

    なく、落城させる。

 

  ● 1568年(永禄11年)12月に、今川方の

    曳馬城(ひきまじょう、引間城)は、 1565

    年(永禄8年)の今川氏真による城主・飯尾

    連竜(いのおつらたつ)謀殺後、弱体化して

    いたので、落城する。

       一説には、城主の夫人・お田鶴の方

    (おたづのかた)が城兵を指揮して徳川軍と

    戦い、侍女と共に戦死する。

       その後、家康は、曳馬城の跡地に城を

    建設し、曳馬城を南西方向に拡張し、地名

    の曳馬と城名の曳馬城 を浜松、浜松城と

    改名し、武田氏に備える拠点とする。

       武田領国の駿河国(するがのくに、現・

     静岡県中部)に接する、遠江国(とおとうみ

     のくに、静岡県西部)を領有する、家康は、

     1570年(元亀元年)に、武田信玄の侵攻

     に備えるため、徳川氏の本拠地を、三河

     国岡崎から遠江国浜松に移す。 岡崎城

     は、家康の嫡男の松平信康に譲られる。

    

  ● 1568年(永禄11年)12月に、徳川家康は、

    今川氏真のいる(駿府から逃れてきた)、掛

    川城(かけがわじょう)も包囲する。

        その後、籠城戦(ろうじょうせん)の末

    に、1569年 (永禄12年)5月に、今川氏真

    (いまがわうじざね)は、徳川家康と和睦し、

    遠江国の掛川城を開城する。

 

  ● 1569年 (永禄12年)5月に、 戦国大名

    としての駿河・今川氏は滅亡する(統治権

    の喪失)。 

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

  ● 1569年(永禄12年)に、徳川軍による

    掛川城包囲戦が長期化する中で、 相駿

    同盟の小田原北条氏の北条氏康は、 

    今川氏の今川氏真に大軍の救援軍を差し

    向け、北条軍は駿河の薩埵峠(さったとうげ)

    で布陣し、武田軍と優勢に戦うが、撃破には

    至らず戦況は膠着状態となる。

       一方、1569年 (永禄12年)1月に、

    信玄は、約定を破って、遠江国へ圧迫を強

    めたため (遠江国への侵攻を行なったため)、 

    家康は、今川氏真との和睦を模索し、盟約が

    成立し、1569年(永禄12年)5月17日に、

    今川氏真は、盟約や家臣の助命と引き換えに、

    掛川城を開放する。 

       家康は、 今川氏真と北条氏康の娘で

    氏真夫人の早川殿(はやかわどの)を、小田

    原北条氏の元へ届ける。

        この時の盟約は、今川氏真、徳川家康、

    北条氏康の間での盟約であり、 武田勢力を

    駿河から追い払った後は、今川氏真を再び、

    駿河国の国主とするというものであった。 

        しかし、結果的に、この盟約が履行され

    ることはなく、戦国大名の今川氏は、掛川城を

    開放をもって滅亡することとなる。

 

  ● 今川氏真と和睦後、家康は、小田原北条氏の

    北条氏康の協力を得て、遠江国から武田軍を

    退ける。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1569年 (永禄12年)。 

 

  ● 上杉謙信が北条氏康と同盟を

    結ぶ。

  ■ 1569年(永禄12年)に、 上杉謙信(上杉

   輝虎)は、 武田信玄を牽制(けんせい)するた

   め、宿敵である北条氏康と同盟を結ぶ (越相

   同盟)。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 

 ■ 1570年 (永禄13年・元亀元年)。

 

  ● 永禄年号から元亀年号に改元。

     永禄年号1570年ー 1573年。

  ■ 1570年(永禄13年・元亀元年)に、

    元亀(げんき) 年号に改元。  

  ● 1570年(永禄13年・元亀 元年)4月23日に、 

     和暦の「永禄」(えいろく、

    永禄元年・1558年〜永禄13年・1570年) 

    が、 

    和暦の「元亀」(げんき、

    元亀 元年・1570年・ 4月23日〜 

    元亀 4年・1573年・ 7月28日) に

    改元される。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 ■ 1570年 (永禄13年、元亀元年)。

 

  ● 信長の越前・朝倉氏討伐の失敗

    と金ヶ崎の退き口。

  ■ 越前・朝倉氏討伐織田軍。

  ● 1570年(永禄13年、元亀元年)4〜5月

    に、織田信長は、織田軍を率いて、 越前国に

    侵攻したが、 信長の妹婿の北近江(きたおう

    み、現・滋賀県北部の相当地域)の浅井長政

    に背後をつかれ、 信長や信長軍本隊は、京

    (きょう、京都)へ逃れる。

 

  ● 金ヶ崎の退き口。

  ■ 金ヶ崎の退き口 (かねがさきののきぐち、

     金ヶ崎の撤退)。

  ● 浅井氏と親密な朝倉氏を攻めないという信

    長と浅井長政との盟約を反故(ほご)にして、

    信長は、1570年(永禄13年、元亀元年)4

    〜5月に、越前国(えちぜんのくに、現・福

    井県東部の相当地域)の朝倉義景(あさくら

    よしかげ)を討伐するため、越前国へ侵攻す

    る。 

  

  ● ところが、織田軍は、越前の金ヶ崎城を占

    拠し、越前・金ヶ崎へ進軍した時に、浅井長

    政の軍に背後をつかれ、信長や信長軍本隊

    は、なんとか、京(きょう、京都)へ逃れる。 

       この越前・朝倉氏討伐織田軍に、池田

    勝正、豊臣秀吉(木下藤吉郎秀吉)、明智

    光秀、徳川家康も従軍する。

 

  ● 金ヶ崎の退き口時、信長は馬

     で先に逃走、織田軍本隊は、

     後に続く。

   ■ 金ヶ崎の退き口 (かねがさきののきぐち、

    金ヶ崎の撤退)。

    ● 1570年(永禄13年、元亀元年)4〜

    5月に、織田軍は、浅井軍と朝倉軍の挟み

    撃ちという危機の中で、 まず先に、織田

    信長本人は、馬で、越前(えちぜん)の金

    ヶ崎から越前、若狭(わかさ)、近江(おう

    み)・琵琶湖西方の朽木谷(くつきだに)経

    由で、京へ逃げ帰り、 一方、織田軍本隊

    は、 越前(えちぜん)の金ヶ崎から越前、

    若狭(わかさ)、近江(おうみ)経由で撤退

    し、京(きょう、京都)へ逃れる。 

 

  ● 金ヶ崎の退き口の殿(しんがり)

     の軍で、織田氏家臣の池田

     勝正、秀吉、光秀が活躍。

    ■ 信長の命(命令)で、 撤退する織田

    軍本隊の「殿(しんがり)」の軍 (軍の撤

    退時、軍の最後尾で、襲(おそ)ってくる

    敵兵を命がけで防ぐ役目) を、 織田軍

    の池田勝正、豊臣秀吉(木下藤吉郎秀

    吉)、  明智光秀などの兵が務(つと)め、 

    敵の朝倉・浅井軍と応戦し、防戦しなが

    ら、撤退する。  池田勝正、秀吉、光秀

    は、かろうじて、生き残り、功績をあげる。

       史実では、徳川家康は、殿(しんが

    り)の軍には参加していない。 家康の軍

    は、織田軍本隊と共に、行動する。

 

    ● 史実では、徳川家康は、殿(しんがり)

     の軍には参加していない。

       徳川家康が殿(しんがり)の軍に参加

    したという当時の一次史料はない。

       江戸幕府編纂の「寛永諸家系図伝」

    (1641年−1643年編纂)、徳川実記」

    (19世紀前半編纂)などの二次史料(にじ

    しりょう、出来事の50年後記載のような

    同時期記載でない史料)に、徳川家康が

    この殿(しんがり)軍に加わったという記載

    があるが、 家康礼賛(らいさん、ほめたた

    えること)のための後世の創作と考えられ

    る。

   ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 

 ■ 1570年 (永禄13年・元亀元年)。

 

  ● 永禄年号から元亀年号に改元。

     元亀年号1570年ー 1573年。

  ■ 1570年(永禄13年・元亀元年)に、

    元亀(げんき) 年号に改元。  

  ● 1570年(永禄13年・元亀 元年)4月23日に、 

     和暦の「永禄」(えいろく、

    永禄元年・1558年〜永禄13年・1570年) 

    が、 

    和暦の「元亀」(げんき、

    元亀 元年・1570年・ 4月23日〜 

    元亀 4年・1573年・ 7月28日) に

    改元される。

 

  ■ 室町時代後期の各年号。

    暗記法: 大享天弘永元天      

    (えいだいきょうてんこうえいげんてん)。

  ● 永正(えいしょう)年号: 1504年ー1521年。

  ● 大永(だいえい)年号:   1521年ー1528年。

  ● 享禄(きょうろく)年号:  1528年ー1532年。

  ● 天文(てんぶん)年号  1532年ー1555年。

  ● 弘治(こうじ)年号:    1555年ー1558年。

  ● 永禄(えいろく)年号:  1558年ー1570年。

  ● 元亀(げんき)年号    1570年ー 1573年。

  ● 天正(てんしょう)年号: 1573年ー 1592年。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 

 ■ 1570年 (元亀 元年)。 

 

  ● 家康は、浜松城を 本城、政務

    居城とする。

  ■ 1570年(元亀元年)に、 徳川家康は、

   本城(居城)を、三河国 (みかわ、現・愛知

   県東部の相当地域)の岡崎城から、遠江(と

   おとうみ、現・静岡県西部の相当地域)の曳

   馬の浜松城に移す。

 

  ● 1570年(元亀元年)に、徳川家康は、

    武田信玄の侵攻に備えるために、本拠地を

    三河国(みかわのくに、現・愛知県東部)

    の岡崎から遠江国(とおとうみのくに、静岡

    県西部)の曳馬に移す。

       1570年(元亀元年)に、徳川家康は、

    曳馬の曳馬城(引馬城、引間城、ひきまじ

    ょう)を浜松城に改名して、本城(本拠地の

    城)とする。

       家康は、岡崎の岡崎城を嫡男の松平

    信康に譲る。

 

 

 ■ 1570年 (元亀 元年)。 

 

  ● (R5 家康は、浜松城を居住地

         とする。

  ● (R) 徳川家康の居住地の変遷。

  ■ (R1)⇒(R13)。 

     (R1)   岡崎城       (1542年ー1547年)、

     (R2)   熱田の館      (1547年ー1549年)、

     (R3)   駿府の館      (1549年ー1560年)、

     (R4)   岡崎城       (1560年ー1570年)、

     (R5)   浜松城       (1570年ー1586年)、 

     (R6)   駿府城       (1586年ー1590年)、

          (R7)   江戸城       (1590年ー1598年)、 

     (R8)   豊臣秀吉築・木幡山 伏見城

                 (1598年8月ー1599年9月)、

     (R9)   豊臣大阪城・西の丸

                 (1599年9月ー1600年6月)、 

     (R10)  江戸城       (1600年7月ー9月)、

     (R11)  豊臣大阪城・西の丸

                 (1600年9月ー1601年3月)、 

     (R12)  徳川家康築・木幡山伏見城

                    (1601年3月ー1607年)、 

     (R13)  駿府城       (1607年ー1616年)

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。 

                  

  ■ (R5)  徳川家康 

    (生没年:1542年ー1616年)は、

    1570年(元亀元年)から

    1586年(天正14年)まで

    遠江国の、浜松城 (はままつじょう)で

    居住する。

             

  ■ 浜松城 (はままつじょう)は、 遠江国

    (とおとうみのくに、現・静岡県西部)にある。

 

  ■ 1570年(元亀元年)に、 徳川家康は、

   本城(居城)を、三河国 (みかわ、現・愛知

   県東部の相当地域)の岡崎城から、遠江(と

   おとうみ、現・静岡県西部の相当地域)の曳

   馬の浜松城に移す。

 

 

 ■ 1570年 (元亀元年)。 

 

  ● (C2) 家康は、浜松城を本城

         とする。

  ● (C) 徳川家康の本城の変遷。 

  ■ (C1)⇒(C4)

          (C1)  岡崎城 (1560年ー1570年)、

     (C2)  浜松城 (1570年ー1586年)、

     (C3)  駿府城 (1586年ー1590年)、

          (C4) 江戸城 (1590年ー1616年)。

 

  ■ (C2) 徳川家康は、  

    (生没年:1542年ー1616年)は、

    1570年(元亀元年)から

    1586年(天正14年)まで

    遠江国の、浜松城 (はままつじょう)を、

    自分の(C)本城(ほんじょう、= 本拠地

    の城)とする

 

  ■ 浜松城 (はままつじょう)は、 遠江国

    (とおとうみのくに、現・静岡県西部)にある。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1570年 (元亀元年)。 

 

  ● (P2) 家康は、浜松城

              政務居城とする。

  ● (P) 徳川家康の政務居城

        の変遷。 

  ■ (P1)⇒(P10)。

     (P1)   岡崎城       (1560年ー1570年)、

     (P2)   浜松城       (1570年ー1586年)、 

     (P3)   駿府城       (1586年ー1590年)、

     (P4)   江戸城       (1590年ー1598年)、 

     (P5)   豊臣秀吉築・木幡山伏見城

                 (1598年8月ー1599年9月)、 

     (P6)   豊臣大阪城・西の丸

                 (1599年9月ー1600年6月)、

     (P7)   江戸城        (1600年7月ー9月)、 

     (P8)   豊臣大阪城・西の丸

                 (1600年9月ー1601年3月)、 

     (P9)   徳川家康築・木幡山伏見城

                    (1601年3月ー1607年)、 

     (P10)  駿府城      (1607年ー1616年)

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。 

 

  ■ (P2) 徳川家康は、  

    (生没年:1542年ー1616年)は、

    1570年(元亀元年)から

    1586年(天正14年)まで

    遠江国の、浜松城 (はままつじょう)を、

    自分の(P)政務居城とする

 

  ■ 浜松城 (はままつじょう)は、 遠江国

    (とおとうみのくに、現・静岡県西部)にある。

 

 

 ■ 1570年 (元亀 元年)。

 

  ● 織田・徳川連合軍姉川の戦い

    で勝つ。

  ■ 1570年(元亀元年)6月に、 織田信長 の

   率いる織田・徳川連合軍は、 近江国(おうみ

   のくに、現・滋賀県の相当地域)の、姉川(あ

   ねがわ)で、浅井・朝倉連合軍を破り、勝利を

   得る (姉川 (あねがわ)の戦い)

      この戦いに、家康は、信長と共に参戦し、

   信長を助ける。

   ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1570年 (元亀 元年)。

 

  ● 石山合戦が始まる。

  ■ 1570年(元亀元年)9月に、本願寺(一向

    宗)の、石山本願寺 (いしやまほんがんじ) 

    は、織田信長に対抗する。 

 

   本願寺と織田信長との戦いの石山合戦

    (いしやまがっせん、1570年−1580年)

    (1570年ー1580年)が、始まる。

    石山合戦が始まる。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1570年 (元亀 元年)。

 

  ● 伊勢長島一向一揆が始まる。

  ■ 1570年(元亀元年)の9月頃に、伊勢長島

    一向一揆(いせながしまいっこういっき、

    1570年ー1574年)が始まる。 

 

 

 ■ 1571年 (元亀2年) 9月。

 

  ● 比叡山・延暦寺を 焼討ちに

    する。

  ■ 1571年(元亀2年)9月に、 織田信長は、

    浅井氏・朝倉氏に味方する比叡山・延暦寺

    焼討ちにする。

   ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1571年 (元亀2年)。

 

  ● 北条氏康が死去し、北条氏政

    が小田原北条氏を継承する。

  ■ 1571年(元亀2年)10に、  北条氏康

    (ほうじょううじやす)が、死去する。 

       小田原北条氏(= 後北条氏)は、氏康

    の子の北条氏政(ほうじょううじまさ)が継

    承する。

 

 

  ● 北条氏政は、家康・氏真・氏康

    の盟約を破棄し、武田氏と同盟

    を結ぶ。

  ■ 甲相同盟締結、越相同盟破棄

  ● 1571年(元亀2年)12月に、  北条氏政は、

    外交方針を転換し、 掛川城開城時の徳川

    家康・今川氏真・北条氏康の盟約を破棄し、

    信玄と甲相同盟を結び、 同時に、謙信との

    越相同盟を破棄する。

       北条氏政と上杉謙信との関東をめぐる

    戦いが始まる。

 

  ■ 氏政の甲相同盟締結・越相同盟破棄で

     信玄の西上作戦の環境が整う。

  ● 氏政の甲相同盟締結によって武田領の東方

    の北条氏の脅威がなくなり、 また、氏政の

    越相同盟破棄により北条氏政と上杉謙信の

    戦いが始まり武田領の北方の脅威もなくなり、 

    武田信玄は、 武田領の西方の徳川氏や織

    田氏の領国を侵略し、上洛できる西上作戦の

    環境が整う。 

 

  ■ 氏政の甲相同盟締結で、家康は北条氏と

     敵対する。

   氏政の甲相同盟締結によって、武田氏と敵

    対する徳川家康は、 武田氏徳川領侵攻時、

    以前のように、北条氏の援軍を得られなく

    なるばかりでなく、 小田原北条氏と敵対す

    ることとなる。

 

   氏政の甲相同盟締結で今川氏真は

     北条氏にいる意味を失う。

  ● 北条氏康の子の北条氏政が、 外交方針

    を転換し、掛川城開城時の徳川家康・今川

    氏真・北条氏康の盟約を破棄し、信玄と甲相

    同盟を結んだため、 信玄より駿河国を取り

    戻し戦国大名・今川氏の復興を目指す今川

    氏真(いまがわうじざね)は、北条氏にいる

    意味を失い、その後、徳川家康の元へ移る。

 

  ■ 氏政が信玄に援軍を送る。

  ● その後、1572年(元亀3年)の武田信

    玄の「徳川・織田領国侵攻の西上作戦」の

    際に、北条氏政は、 信玄に約2000人の

    北条軍の兵を援軍として武田軍に参加させ、

    北条軍は、 武田軍が織田徳川・連合軍に

    勝利を得た三方ヶ原の戦い(みかたがはら

    のたたかい)で、活躍する。  

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1572年 (元亀3年)。

 

  ● 織田・徳川氏を攻撃する、武田

    信玄の軍が上洛開始。

  ■ 武田信玄が上洛開始。

  ● 1572年(元亀3年)10月に、  武田信玄

    (たけだしんげん)は、 上洛(じょうらく、京

    都へ行く)の軍を起こす (上洛を開始する)。

 

  ● 1572年(元亀3年)10月に、 甲斐の武田

   信玄は 上洛の軍を起こした。 総兵力・約3万

   人の兵の武田軍が、 織田領の東美濃や徳川

   領の遠江、三河に侵攻を開始する。

 

  ● 1572年(元亀3年)10月に、 甲斐の武田

    信玄は 上洛の軍を起こした。 総兵力・約

    3万人の兵の武田軍が、 織田領の東美濃

    (ひがしみの、現・岐阜県南東部) や 徳川

    領の遠江国、三河国(とおとうみのくに、みか

    わのくに、現・静岡県西部、愛知県東部)へ

    侵攻を開始する。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

  ● 家康が三方ヶ原の戦いで

    武田信玄に敗れる。

  ■ 三方ヶ原の戦い

    (みかたがはらのたたかい)。

  ● 1572年(元亀3年)12月 22日に、 

    遠江 (とおとうみ、現・静岡県西部の相当地

    域)の三方ヶ原(みかたがはら)の戦いで、 

    徳川・織田連合軍は、 武田信玄の武田軍

    に大敗する。

 

  ● 武田軍は、浜松城を攻めず、

    堀江城方面へ向かう。

  ■ 武田信玄の軍は、 浜松城を攻めず、浜松

    城の前を通り過ぎて、浜名湖(はまなこ)の

    そばの徳川氏の重要補給拠点の堀江城(ほ

    りえじょう)方面に向かう。

 

  ■ 1572年(元亀3年)に、武田氏が三河・遠

    江の徳川領国の海と陸のほとんどの補給

    路を抑(おさ)え、残る浜名湖の補給路の

    堀江城が落城すると、徳川氏は、兵糧、軍

    事物資の補給ができず、孤立してしまうため、

    急ぎ、堀江城の救済のため(堀江城を武田

    氏に奪われないため)、家康と徳川・織田連

    合軍・1万1000人(徳川本隊・約8000人、

    織田援軍・約3000人)は、武田軍のあとを

    追う。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

  ● 武田軍が、夕方、大谷で、待ち

    伏せし、合戦で徳川軍は大敗

    し、家康は、夜、浜松城へ逃げ

    帰る。

  ■ しかし、堀江城へ行く途中で、武田軍は、

    大谷(おおたに)で、夕方、徳川・織田連

    合軍を待ち伏せし、徳川・織田連合軍軍は、   

    約2000人の兵を失い、 徳川家康も戦死

    しそうになるが、夜になり、地の利もあり、

    夜陰にまぎれて、命からがら浜松城に逃げ

    帰る。 

    

  ● 三方ヶ原の戦いの主戦場(決戦があった場

    所)は、  浜松城の近くではあるが、正確な

    場所はわかっておらず、 大谷(おおたに)

    の説が有力であり、 他にも、根洗の坂(ね

    あらいのさか、祝田(ほうだ)の坂)、小豆餅

    (あずきもち)、大柴原(おおしばはら)などの

    場所がある。       

 

  ● 徳川氏家臣の浜松城留守居役(るすいやく)

    の夏目広次(なつめひろつぐ 、夏目吉信(よし

    のぶ))は、敗戦を知り、浜松城を出て、家康

    を迎えに行って、 家康が 逃げ帰る途中で、

    家康と会い、家康の身代わ りとなり、武田軍

    に討ち取られ、戦死する。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

  ■ 織田援軍・約3000人の兵には、 主に、

    佐久間信盛(さくまのぶもり)、水野信元

    (みずののぶもと、家康の生母・於大の方の

    実兄)、平手汎秀(ひらてひろひで)の3人の

    有名な武将がいた。

 

  ● 織田援軍の平手汎秀は、戦って戦死する。 

    織田援軍の佐久間信盛は、戦ったが、すぐ

    撤退する。 水野信元は、戦わず、撤退する。

 

  ● 合戦時の水野信元の行動が

    信長の不信を招く。

  ● 三方ヶ原の戦いで水野信元が戦わず撤退

    したという行動が、 武田氏に内通している

    のでないかと織田信長に不信を抱かせ、後

    に、信長の命令で水野信元は武田氏方内

    通者として自害させられる事件を引き起こ

    す原因の1つとなる。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

  ● 武田軍が大谷の合戦の勝利後、

    浜松城近くの犀ヶ岳で夜営し、

    翌日、織田領国へ向かう。

  ■ 1572年(元亀3年)12月 22日に、

    大谷(おおたに)で待ち伏せし、大勝利を

    収めた武田軍は、 夜に、浜松城方面へ

    行軍し、浜松城のすぐ近くの犀ヶ岳(さい

    がたけ)に夜営し(布陣し)、浜松城を攻め

    るかどうか軍議を行う。 

  ● 犀ヶ岳夜営の武田軍は、軍議で、浜松城

    を落城させるには、1か月はかかると判断

    し、浜松城の総攻撃をせず、攻城戦をせず、

    急いで、織田氏の領地へ向かう。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

  ● 武田軍が犀ヶ岳で夜営中に、小人数の徳

    川軍が、犀ヶ岳夜営の武田軍に夜襲を行う

    (夜討ちをかける)という話は、一次史料に

    はなく、後世の江戸時代の脚色である。

 

  ● 三方ヶ原の戦い時に、武田軍が浜松城に近

    づいた時徳川軍が城門を開け篝火(かがり

    び)をたいたため武田軍は計略かと警戒して

    武田軍の浜松城への攻撃を回避させたという

    「空城の計」は、一次史料にはなく、後世の江

    戸時代の脚色である。   

 

  ● 三方ヶ原の戦い時に、敗戦の教訓として

    「しかみ像」を家康が書かせたという話も

    一次史料にはなく、後世の脚色である。 

    

 

 

 ■ 1573年 (元亀4年)。 

 

  ● 足利義昭が信長討伐を謀る。

  ■ 1573年(元亀4年)2月に、 室町幕府の

    第15代将軍の、足利義昭 (あしかがよし

    あき)は、 織田信長を裏切り、武田氏、朝

    倉氏、浅井氏、石山本願寺と協力して、

    信長討伐を謀(はか)る。

 

  ● 武田信玄が上洛を中止し、

    帰国途中で死す。

  ■ 1573年(元亀4年)4月に、武田信玄 は、

    病状悪化し、武田軍は、徳川領の遠江国、

    三河国(とおとうみのくに、みかわのくに、

    西部、愛知県東部)から、軍を返し、甲斐国

    (かいのくに、現・山梨県)へ帰国する。 

       武田信玄は、甲斐国(かいのくに、現・

    山梨県の相当地域)へ帰国途中、4月12日

    に、信濃・駒場で病死する。 

 

  ● 家康は、三河の長篠城

    武田氏より奪還する。

  ■ 1573年(元亀4年)5月に、徳川家康は、

   三河の長篠城(ながしのじょう)を攻め、武田

   軍より長篠城を奪回し、武田軍の再侵攻に

   備える。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1573年 (元亀 4年)。 

 

  ● 室町幕府が滅亡する。

  ■ 1573年(元亀4年)7月に、織田信長は、

   室町幕府(= 足利幕府)・第15代将軍の足利

   義昭(よしあき)を、京(きょう、京都)より追放

   し、 実質上、室町幕府 (= 足利幕府)を滅ぼ

   す。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ● 織田政権の成立。

  ■ 1573年(元亀4年)7月に、織田信長は、

    室町幕府(= 足利幕府)・第15代将軍の足利

     義昭を京(京都)より追放し、室町幕府を滅

    ぼし、織田政権が樹立される。

 

  ● 信長は天下統一を目指す。

  ■ 1573年(元亀4年)7月の信長による将軍

    の京都追放後、織田信長は、天下統一(日本

    本土統一)を目指すようになる。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 

 ■ 1573年 (元亀4年・天正元年)。

 

  ● 元亀年号から天正年号に改元。

     天正年号1573年ー 1592年。

  ■ 1573年(元亀4年・天正元年)に、

    天正(てんしょう) 年号に改元。 

  ● 1573年(元亀4年・天正 元年)7月28日に、 

    和暦の「元亀」(げんき、

    元亀元年・1570年〜元亀4年・1573年) 

    が、 

    和暦の「天正」(てんしょう、

    天正 元年・1573年・ 7月28日〜

    天正20年・1592年・12月 8日) に

    改元される。 

 

  ■ 1573年7月に、織田信長は、元号を元亀

    から天正へと改めることを朝廷に奏上し、こ

    れを実現させる。

 

  ■ 安土桃山時代の各年号。

    暗記法: 元天文慶      

          (げんてんぶんけい)。

  ● 元亀(げんき)年号    1570年ー 1573年。

  ● 天正(てんしょう)年号: 1573年ー 1592年。

  ● 文禄(ぶんろく)年号  1592年ー 1596年。

  ● 慶長(けいちょう)年号 1596年ー 1615年。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。  

 

 

 

 ■ 1573年 (天正 元年)。

 

  ● 信長が朝倉氏・浅井氏を 滅ぼす。

  ■ 1573年(天正元年)8〜9月に、 織田信長

   は、朝倉氏・浅井氏を滅ぼす。

       信長は、越前国と北近江を領土とする。

 

  ● お市と浅井三姉妹は、城から

    落ち延び、信長が引き取る。

  ■ 1573年(天正元年)9月に、小谷城(おだ

    にじょう)落城前、信長の妹のお市(おいち)

    とお市の娘3人 (浅井三姉妹(あざいさんし

    まい)、茶々、初、江(ちゃちゃ、はつ、ごう))

    は、小谷城から落ち延びて、信長が引き取る。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1573年 (天正 元年)。

 

  ● 織田氏家臣の秀吉が北近江の

    長浜城の城代(城主)となる。

  ■ 1573年(天正元年)に、 織田氏家臣の、

    豊臣秀吉(羽柴秀吉)は、 浅井氏滅亡後、

    その旧領の北近江三郡の経営を織田信長

    より任され、 その後、北近江(きたおうみ)

    の今浜(いまはま)に、今浜を長浜(ながは

    ま)に改名し、そこに、長浜城を築城し、

    長浜城の城代(城主)となる。 

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1574年 (天正 2年)。

 

  ● 越前で、一向宗門徒が反乱

    を起こし、織田領の越前を

    制する。

  ■ 朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前

     国(えちぜんのくに、現・福井県東部)で、

    1574年(天正2年)1月に、 地侍や 本願

    寺門徒の反乱が起こり、 織田氏より奪い、

    本願寺門徒(一向宗門徒)が、越前を制

    する。

 

 

 ■ 1574年 (天正2年) 6月。

 

  ● 武田勝頼が遠江の高天神城

    を家康より奪う。

  ■ 1574年(天正2年)6月に、徳川家康は、 

    遠江国(とおとうみ、現・静岡県西部)の、

    高天神城(たかてんじんじょう、掛川市)を、

    武田信玄の家督を継承した武田氏の武田

    勝頼(たけだかつより)によって、奪われる。

 

  ● 1574年(天正2年)5月に、武田信玄の

   後を継いだ武田勝頼が、2万5000人の兵

   の軍を率いて、遠江国(とおとうみ、現・静岡

   県西部の相当地域)に侵攻し、6月に、高天

   神城(たかてんじんじょう)を奪う。 

       家康は、単独で迎撃できず、信長に

   援軍を要請したが、援軍到着前に、高天神

   城は、武田勝頼によって奪われる。

 

  ● 1574年(天正2年)5月に、武田信玄の

   後を継いだ武田勝頼が、2万5000人の兵

   の軍を率いて、遠江国(とおとうみ、現・静岡

   県西部の相当地域)に侵攻し、6月に、高天

   神城(たかてんじんじょう)を奪う。 家康は、

   単独で迎撃できず、信長に援軍を要請した

   が、援軍到着前に高天神城を奪われる。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1574年 (天正2年) 9月。

 

  ● 武田勝頼が家康の浜松城を

    攻撃。

  ■ 1574年(天正2年)9月に、武田勝頼の

    軍は、遠江国(とおとうみ、現・静岡県西部)

    の家康の浜松城(はままつじょう)を攻撃し、

    城下に火を放つが、家康の浜松城を落とせ

    ず、引き揚げる。

 

 

 ■ 1574年 (天正2年)。

 

  ● 信長は、伊勢長島の一向一揆

    を滅ぼす。

  ■ 1574年(天正2年)9月に、織田信長は、

    伊勢長島一向一揆(いせながしまいっこう

    いっき、1570年ー1574年)を滅ぼす。 

 

 

 ■ 1575年 (天正3年) 4月頃。

 

  ● 大岡弥四郎事件が起こる。

  ■ 大岡弥四郎事件。

  ● 長篠・設楽が原の戦いの前に、 1575年

    (天正3年)4月頃に、 大岡弥四郎事件 

    (おおおかやしろうじけん、=大賀(おおが)

    弥四郎事件) が起こる。

 

  ● 大岡弥四郎事件の背景として、1572年(元

    亀3年)から1575年(天正3年)まで、三河国

    (みかわのくに、現・愛知県東部)の徳川領が

    武田信玄や武田勝頼の武田氏から強く圧迫

    され、三河の岡崎城の徳川家臣団(岡崎衆)

    は、動揺し、徳川氏が、織田氏の同盟国をや

    め(今まで通り織田氏の味方ではなく)、武田

    氏の味方についたほうが得策と考える一部の

    家臣も現れる。 

 

  ■ 徳川氏家臣の岡崎町奉行の大岡弥四郎が

    武田氏の武田勝頼と内通し、武田軍を、徳

    川氏の三河国の拠点の岡崎城に引き入れ

    ようとする謀反を企(くわだ)てた事件である。

       大岡弥四郎の謀反は、事前に発覚し

    大岡弥四郎は、家康の命(命令)で、

    1575年(天正3年)4月頃に、処刑される 

    (鋸き(のこぎりびき)の刑に処せられる)。

    

 

  ■ 築山殿(瀬名)が大岡と共に武田氏と内通

    (?)。

  ● 江戸時代の岡崎地方の元禄年間成立の

    二次史料の「三河東泉記」(= 岡崎東泉記)

    によれば、 

    武田氏の武田勝頼は、織田信長の尾張国

    (おわりのくに、現・愛知県西部)と徳川家

    康の遠江国(とおとうみ、現・静岡県西部)

    の間にある松平信康の三河国(みかわのく

    に、現・愛知県東部)を武田氏の味方につ

    けられれば、織田氏と徳川氏を分断できる

    と考え、

    三河国の岡崎城主の松平信康は何も知らず

    無関係ではあるが、 

    松平信康の生母の築山殿(瀬名)が、武田勝

    頼が遣(つか)わした歩き巫女(あるきみこ)と

    通じ、武田氏での松平信康の厚遇を約され、

    武田氏に味方し、大岡弥四郎と結託し武田氏

    と内通していたとされるが、家康によって謀反

    を咎(とが)められることはなかったとされる。

 

 

 ■ 1575年 (天正3年) 5月。

 

  ● 長篠・設楽が原の戦いで、

    信長は、武田勝頼を敗北

    させる。

  ■ 長篠・設楽が原(ながしの・しだらがはら)

     の戦い。

  ● 1575年(天正3年)5月に、 織田・徳川

   連合軍(信長・家康連合軍)は、 三河国(み

   かわのくに、現・愛知県東部の相当地域)の

   設楽が原(しだらがはら)で、 武田勝頼(か

   つより)の率いる武田軍を、主に鉄砲隊を使

   って破り、勝利を得る。 

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1575年 (天正 3年)。

 

  ● 信長は、越前の一向一揆を

    鎮圧し、越前を再び織田領

    にする。

  ■ 1575年(天正3年)8月に、 信長は、越

   前国(えちぜんのくに、現・福井県東部の相

   当地域)に侵攻し、本願寺門徒(一向宗門

   徒)の軍を破り勝利を得て、1574年(天正

   2年)1月に本願寺門徒(一向宗門徒)が奪

   った、越前国を再び織田領にし、越前国を

   柴田勝家に任せる(経営させる)。

 

 

 ■ 1576年 (天正 4年)。

 

  ● 信長が、安土城の築城を

    開始する。

  ■ 1576年(天正4年)2月に、 織田信長は、 

   琵琶湖湖岸に、安土城の築城を開始する 

   (1579年完成)。

 

 

 ■ 1576年 (天正 4年)。

 

  ● 第1次木津川口の戦いで、

    織田水軍は石山本願寺方

    の毛利水軍に敗北する。

  ■ 第1次木津川口(きづがわぐち)の戦い。

  ● 織田信長と石山本願寺との石山合戦の戦

    いで、 1576年(天正4年)7月に、信長の

    織田水軍は、 大阪湾木津川(きづがわ)

    河口で、石山本願寺方の毛利水軍と戦い、

    敗れる。

 

 

 ■ 1577年 (天正 5年)。

 

  ● 手取川の戦いで、織田信長軍

    は、上杉謙信軍に敗北する。

  ■ 1577年 (天正5年)9月に、織田信長軍は、

   北陸で、上杉謙信の率いる上杉軍に敗れ 

   (手取川の戦い)、撤兵する。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1577年 (天正 5年)。

 

  ● 信貴山城の戦いで、信長軍は、

    大和の松永久秀を討ち取る。

  ■ 信貴山城(しんぎさんじょう)の戦い。

  ● 1577年(天正5年)10月に、信長は、

    上杉謙信(うえすぎけんしん)と呼応(こお

    う)して信長を裏切り挙兵した、大和国(や

    まとのくに、現・奈良県)の松永久秀(まつ

    ながひさひで)を滅ぼす。

 

 

 ■ 1577年 (天正 5年)。

 

   ● 信長は中国地方の攻略を開始

     する。

  ● 秀吉はに中国地方の攻略を命

     じられる。

  ■ 秀吉の中国地方攻略の開始。

  ● 織田信長は、 豊臣秀吉(羽柴秀吉)に、

    の山陽道・山陰道の中国地方の攻略を命令し、

    1577年(天正5年)10月23日に、豊臣秀吉

    (羽柴秀吉)は、中国地方に出陣する。

 

 

 ■ 1578年 (天正 6年)。

 

  ● 上杉謙信が急死する。

  ■ 1578年(天正6年)3月に、上杉謙信が

   急死し、越後で、後継ぎ争い(御館の乱、おた

   てのらん、1578年〜1579年)が始まる。 

 

  ● 信長は、加賀、能登の攻略を

    開始。

  ■ 1578年(天正6年)9月に、 信長軍は、

   上杉領の加賀、能登(かが、のと、現・石川

   県南部・北部の相当地域)の攻略を開始する。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1578年 (天正 6年)。

 

  ● 第2次木津川口の戦いで、

    織田水軍は、石山本願寺方

    の毛利水軍を敗北させる。

  ■ 第2次木津川口(きづがわぐち)の戦い。

  ● 織田信長と石山本願寺との石山合戦の戦

    いで、 1578年(天正6年)11月に、信長

    の織田水軍は、大阪湾木津川(きづがわ)

    河口で、鉄甲船(てっこうせん)を用いて、

    石山本願寺方の毛利水軍を破り、勝利を

    得る。

 

 

 ■ 1579年 (天正 7年)。

 

  ● 信長は、安土城を完成させる。

  ■ 1579年(天正7年)に、 織田信長は、 

    近江国(おうみのくに、現・滋賀県)の 、安土

    (あづち)に、 五層七重の豪華絢爛(ごうか

    けんらん)な安土城(あづちじょう)を完成さ

    せる。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1579年 (天正7年)。

 

  ● 松平信康事件が起こる。

  ■ 松平信康自害・築山殿死去事件。

  ● 1579年(天正7年)8月〜9月に、松平信康

    事件(まつだいらもとやすじけん、= 松平信康

    自害・築山殿死去事件)が起きる。

 

  ■ 松平信康の氏名。

  ● 1566年(永禄9年)以後、徳川を名乗れる

    のは、「徳川家康の嫡流の家」の「当主」のみ

    である。

       従って、松平信康は、まだ当主ではない

    ので、徳川を名乗れない。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。

 

 

  ● 「信康・家康対立説」 と 

     「信長の信康殺害指示説」。

  ● 「信康・家康対立説」が有力。

  ■ 1579年 (天正7年)に起こった、徳川氏内

    での、松平信康事件(= 松平信康自害・築山

    殿死去事件)には、 諸説あるが、主に、

    2つの説がある。

       「松平信康・徳川家康対立説」 と、 

    「織田信長の松平信康殺害指示説」 であり、 

    「松平信康・徳川家康対立説」が、現在、

    有力である。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

  ● 松平信康事件の

    松平信康・徳川家康対立説。

  ■ 松平信康・徳川家康対立説とは、 

    松平信康 と 徳川家康 が 三河や遠江

    の徳川領国の支配をめぐり対立し、家康は、

    逆心(= 謀反)の理由で、信康を追放・謹慎

    させ、信康は、抗議して自刃(じじん、自害)

    する。

 

  ● 徳川氏の分裂危機を招いた、

    松平信康事件が起こる。

  ● 松平信康事件の

    松平信康・徳川家康対立説。

  ■ 松平信康事件。

  ● 1579年(天正7年) 8月4日に、

    徳川家康は、松平信康(まつだいらもとや

    す)を岡崎城から追放する (岡崎城から

    大浜城へ移す)。

       後に、家康は、信康を、大浜城から堀

    江城へ、堀江城から二俣城へ移す。

 

  ● 1579年(天正7年)8月29日に、

    家康の正室夫人で松平信康の生母の築山

    殿(つきやまどの) は、

    移動中に、佐鳴湖(さなるこ、浜松市西区・

    中区)の湖畔で、死去する (松平信康の処

    遇(廃嫡等)に抗議して自害する)。

 

  ● 1579年(天正7年)9月15日に、

    二俣城(ふたまたじょう、現・浜松市天竜区)

    で、家康の長男・松平信康は、

    自刃(じじん、自害)する (自分の処遇(廃嫡

    等)に抗議して自害する)。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

  ● 松平信康事件の

    松平信康・徳川家康対立説。

  ■ 松平信康事件(= 松平信康自害・築山殿死

    去事件)での、松平信康・徳川家康対立説。

 

  ■ 松平信康・徳川家康対立説とは、 

    松平信康 と 徳川家康 が 三河や遠江

    の徳川領国の支配をめぐり対立し、家康は、

    逆心(= 謀反)の理由で、信康を追放・謹慎

    させ、信康は、抗議して自刃(じじん、自害)

    する。

 

  ■ 松平信康・徳川家康対立説は、 

    事件同時期著作の一次史料の「家忠日記」

    (いえただにっき、徳川氏家臣(国衆)の松

    平家忠の日記)、 事件同時期著作の一次

    史料の、太田牛一(おおたぎゅういち)の

    「安土日記」(古期・信長公記)、 江戸期寛

    永年間頃に成立した史書「当代記」(とうだ

    いき、當代記)、などによる。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。

 

 

   ● 家康は、徳川氏分裂危機を回

         避するため、信康を追放・謹慎

    させる。

  ● 松平信康事件の

    松平信康・徳川家康対立説。

  ■ 松平信康・徳川家康対立説。

  ● 徳川家康長男の松平信康(まつだいらも

    とやす)は、 家康の後継者とは決まって

    いなかったが、 

    家康の忠告を聞かず、三河や遠江の徳川

    領国を、自分の領地のように考え、自分勝

    手に振る舞い、何年もの間、家康の許可

    なく、徳川氏家臣(国衆)たちに命令を出す  

    (「家忠日記」より)。 

       そのため、家康の徳川領国の支配体

    制が混乱し、家康は、徳川氏家臣(国衆)た

    を統制できなくなる。

       1579年(天正7年)4月の時点で、

    徳川家康には、3人の男子がいた。

        身を慎むように何度言っても従わない、

    わがままな家康長男の松平信康に手を焼い

    た家康は、1579年(天正7年)8月に、信康

    の岡崎城主の地位を奪い、岡崎城から追放し、

    謹慎させる。

        また、この処遇(信康の廃嫡等処置

    (処分))に猛反対する信康の生母で家康の

    正室夫人の築山殿は、1579年(天正7年)

    8月に、信康の処遇(廃嫡等)に抗議して 

    自害し、その後、9月に信康は、自分の処遇

    (廃嫡等)に抗議して自刃(自害)する。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。

 

 

  ● 「信長の信康殺害指示説」。

  ■ 織田信長の娘で松平信康の夫人の五徳が、

    信長に松平信康、築山殿を非難する手紙を

    送り、信長は、驚き、徳川氏家臣の酒井忠次

    (さかいただつぐ)に手紙の内容を問うたが、

    忠次は弁明せず、信長は、松平信康に自害

    を命じ、 徳川家康は、 武田氏内通疑惑の

    正室夫人・築山殿を死去させ、長男・信康を

    自害(自刃)させたとする説である (「三河

    物語」より)。

        徳川氏忠臣が大久保が著作した「三河

    物語」の家康の記述は、家康が妻子の信康・

    築山殿を死去させたことを擁護するため、

    家康礼賛の脚色であると考える見方が多い。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。

 

 

 ■ 1580年 (天正 8年)。

 

  ● 石山合戦の終り。

  ● 石山合戦で、信長は、勝ち、

    石山本願寺を打倒する

  ■ 石山合戦( いしやまがっせん、1570年−

    1580年)が終わる。

 

  ● 1580年(天正8年)8月に、 教如が大阪

    を退去し、織田信長は、本願寺 (一向宗)の、

    石山本願寺(いしやまほんがんじ)を打倒す

    る(屈服させる)。 

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1581年 (天正 9年)。

 

  ● 信長が、京(京都)で、馬揃え

         を行なう。

  ■ 京都御馬揃え (きょうとおうまぞろえ)。

  ● 1581年(天正9年)2月 28日に、織田信長  

    は、京(きょう、京都)の内裏(だいり 、天皇

    住居)東の馬場で、 馬揃え (うまぞろえ)

    を行う。 

       馬揃えは、現在の軍事パレードに相当

    する。

 

 

 ■ 1581年 (天正 9年)。

 

  ● 信長は、第2次天正伊賀の乱

    で伊賀を攻略。

  ■ 第2次天正伊賀(てんしょういが)の乱。

  ● 1581年(天正9年)に、 織田信長は、

    約6万人の兵の軍勢で伊賀国(いがのくに、

    現・三重県中央西部)を攻略し、織田氏の

    領地(織田領国)とする。

 

 

 ■ 1582年 (天正10年)。

 

  ● 信長は、武田氏を滅ぼす。

  ● 信長は、信濃・甲斐を平定。

  ■ 織田信長の信濃・甲斐平定。

  ● 1582年(天正10年)2月に、織田信長は、

    武田氏の信濃・甲斐へ 織田軍を侵攻

    させ、攻撃開始し、3月11日に、甲斐国田野

    で、武田勝頼・信勝父子を討ち取り (天目山

    の戦い)、 戦国大名の武田氏は滅亡する。 

        織田信長は、信濃・甲斐を平定し、

    日本の中央部を支配下におく。 

   

  ● 家康は、駿河を領有する。

  ■ 1582年(天正10年)2月に、織田軍に協力

    して、 徳川軍も、武田氏領の駿河に侵攻し

    て、駿河を占領する。 家康は、 同年に、

    この戦功により、 織田信長から駿河 国一国

    を与えられる。

 

 

 ■ 1582年 (天正10年)。

 

  ● 織田氏家臣の秀吉が備中に

    侵攻。

  ■ 織田氏家臣の秀吉の備中国侵攻。

  ■ 1582年(天正10年)に、織田軍の豊臣秀

    吉(羽柴秀吉)は、 織田軍の中国地方攻め

    で、備中国(びちゅうのくに、現・岡山県西部)

    に侵攻する。

 

 

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#jphappenings-1582

 

 

 ■ 1582年 (天正10年)。

  ■ 織田信長の信濃・甲斐平定。

      1582年(天正10年)2月に、 織田信長

   は、 武田氏の信濃・甲斐へ 織田軍を侵攻

   させ、攻撃開始し、3月11日に、甲斐国田野

   で、武田勝頼・信勝父子を討ち取り (天目山

   の戦い)、 戦国大名の武田氏は滅亡する。 

      織田信長は、日本の中央部を支配下に

   おく。 

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

  ■ 1582年(天正10年)2月に、織田軍に協力

   して、 徳川軍も、武田氏領の駿河に侵攻して、

   駿河を占領する。 家康は、 同年に、この戦功

   により、 織田信長から駿河一国を与えられる。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1582年 (天正10年)。

 

  ● 信長が中国地方出陣前に、

    茶事で、京に一時滞在。

  ■ 1582年(天正10年)に、 1582年(天正10

    年)5月に、織田信長は、明智光秀に、備中国

    にいる秀吉軍への援軍を命じ、 一方、信長は、

    6月上旬後半の自身の中国地方行軍予定前に、

    6月上旬前半に京(きょう、京都)で茶事(ちゃ

    じ)で茶会(ちゃかい)を開くため、安土城から、

    名物茶器を携え、京へ上洛するため、信長は、

    5月29日に安土城を出て5月29日に京の

    本能寺に到着し、京に6月上旬前半まで滞在

    する予定であった。

 

 

  ● 本能寺の変で、信長死す。

  ■ 本能寺の変。

    1582年(天正10年)6月2日未明に、明智

    光秀が、 6月1日の本能寺での茶会の翌日

    に京(きょう、京都)の本能寺にいた織田信長

    を攻め、自害させる。 信長、数え年49歳で

    死す。

 

 

 ■ 1582年 (天正10年)。

 

  ● 本能寺の変が起こる。

  ■ 本能寺の変 (ほんのうじのへん)。

  ■ 1582年(天正10年)6月に、明智光秀は、 

    備中国 (びちゅうのくに、現・岡山県西部)

    へ向かわず、 織田信長・信忠父子(おだの

    ぶなが・のぶただふし)を殺害するため、 

    京( きょう、京都)へ進軍する。 

  ● 明智光秀は、 1582年(天正10年)6月

    2日未明に、信長の滞在する本能寺を急襲

    する。

 

  ● 信長 ・信忠父子が京で

    死去する。

  ■ 田信長は、 天下統一(日本本土統一)を

    めざしていが、 1582年(天正10年)6月

    2日未明に、 織田氏の重臣の一人の明智光

    秀(あけちみつひで)の謀反(むほん)により、 

    京( きょう、京都)の本能寺にて、自刃(じじん、

    自害)する (本能寺の変)。

 

  ● また、京 (きょう、京都)にいた信長の嫡男で

    織田氏の後継者の織田信忠( おだのぶただ)

    も、6月2日に、の二 条城にて、明智光秀に

    攻められて、自刃(じじん、自害)する

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

  ● 本能寺の変発生時の織田方の

    主な武将の居場所。

  ■ 本能寺の変発生時の1582年(天正10年)

    6月2日の織田方の主な武将の居場所。

 

  ● 織田氏部将の柴田勝家 (しばたかついえ)

    は、 

    北陸地方の、越中国 (えっちゅうのくに、現・

    富山県)の、魚津城(うおづじょう)で、上杉勢

    (上杉氏)の、上杉景勝(うえすぎかげかつ)

    の軍と交戦中であった (魚津城の戦い)。

    

  ● 織田氏部将の滝川一益 (たきがわかずま

    す)は、 

    関東地方の、上野国(こうずけのくに、現・群

    馬県)の、厩橋城(まやばしじょう、前橋城)で、

    北条勢(小田原北条氏)を牽制中であった。

 

  ● 織田氏部将の織田信孝、丹羽長秀 (おだの

    ぶたか、たんばながひで)は、

    近畿地方の、堺 (さかい、現・大阪府堺市)

    で、四国征伐織田軍を編成中であった。

 

  ● 織田氏部将の羽柴秀吉 (はしばひでよし)

    は、

    中国地方の、備中・高松 (びっちゅう・たかま

    つ、現・岡山県南中部・岡山市高松)で、毛利

    勢(毛利氏)と交戦中であった。

 

  ● 織田氏の同盟者の大名の徳川家康 (とくが

    わいえやす)は、

    京(きょう、京都)に向かう途中で、近畿地方

    の、堺と京(京都)との中間地点付近の、

    飯盛山(いいもりやま)を移動中であった。

       飯盛山 (いいもりやま、河内国飯盛山)は、

    近畿地方の、現在の大阪府の、四条畷市(し

    じょうなわてし)と大東市(だいとうし)にまた

    がる山であり、 堺 (さかい、現・大阪府堺

    市) と 京(きょう、京都) との中間地点付近

    にある。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1582年 (天正10年)。

 

  ● 秀吉が明智光秀を討つ。

  ■ 1582年(天正10年)6月に、本能寺の変で

    信長の死去を知った豊臣秀吉(羽柴秀吉)は、 

    山崎の戦いで勝ち、明智光秀を討つ。

  ● 1582年(天正10年)6月に、秀吉は、中国

    大返しを行ない、京(京都)に近い、山崎で、

    明智光秀と交戦し勝ち (山崎の戦い)、光秀

    は、敗走中、農民に殺される。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1582年 (天正10年)。

 

  ● 清洲会議が開かれる。

  ■ 清洲会議 (きよすかいぎ)。

  ● 1582年(天正10年)6月27日に、秀吉は、

    清洲城(きよすじょう)にて、他の織田氏の

    3重臣と相談し、信長の後継者と遺領の分割

    を決める。

  ● 当日出席した織田氏の4人の重臣の、羽柴

    秀吉(はしばひでよし)、柴田勝家(しばたか

    ついえ)、丹羽長秀(にわながひで)、池田

    恒興(いけだつねおき)には、会議前に、

    既に、織田氏の一族、同盟者などの利害関

    係者からの意向が伝えられていた。

 

  ■ 1582年(天正10年)6月27日に、羽柴秀

    吉(豊臣秀吉)は、 清洲城 (きよすじょう、

    現・愛知県清須市)にて、他の織田氏の重臣

    3人と共に、清洲会議 (きよすかいぎ)を開

    き、 清洲会議の四者会談で、 織田信長の

    後継者と遺領の分割、織田氏領地再配分を

    決める。

 

  ● 織田信長の後継者は、 織田信長の嫡孫

    (織田信忠の嫡男)の三法師 (さんぽうし、

    さんぼうし、織田秀信(ひでのぶ))と決まる。

 

  ● 清洲会議に参加した者は、 史実では、

    羽柴秀吉(豊臣秀吉)、柴田勝家、丹羽長秀

    (たんばながひで)、池田恒興(いけだつねお

    き)の4名の織田氏重臣のみである。

 

  ● 清洲会議の織田氏領地再配分。

  ■ 清洲会議で決まった織田氏領地再配分は、

    次の通りである。

 

  ● 織田氏経営委任地 (織田信長が生前織田

    氏部将に経営を委任していた領地)は、原則

    として、そのまま、その部将の領地となる。

  ● 三法師(織田秀信)は、近江国坂田郡と安土

    城を相続する。

  ● 信長次男の織田信雄は、尾張国(おわりの

    くに、現・愛知県西部)を相続する。

  ● 信長三男の織田信孝は、美濃国(みののく

    に、現・岐阜県南部)を相続する。    

  ● 信長四男の羽柴秀勝は、明智光秀の旧領

    の丹羽国(たんばのくに、現・京都府中部)を

    得る。        

  ● 柴田勝家は、越前国(えちぜんのくに、現・

    福井県東部)などの織田氏経営委任地を安

    堵(あんど)される。

  ● 丹羽長秀は、若狭国などの織田氏経営委任

    地を安堵され、近江国(おうみのくに、現・滋

    賀県)の2郡を増量(加増)される。

  ● 池田恒興は、織田氏経営委任地を安堵され、

    摂津国(せっつのくに、大阪府西北部)の3郡

    を増量(加増)される。

  ● 羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、中国地方の織田

    氏経営委任地以外に、河内国(かわちのくに、

    大阪府東部)、山城国(やましろのくに、京都

    府南部)を増領(加増)される。

       但し、勝家の希望で秀吉の北近江(きた

    おうみ、現・滋賀県北部)3郡と長浜城は、勝

    家養子の柴田勝豊(しばたかつとよ)に譲ら

    れる。

  ● 滝川一益は、伊勢国(いせのくに、現・三重

         県北部・中央中部)などの織田氏経営委任

    地を安堵(あんど)される。 

       但し、北条氏に奪取された、旧武田領国

    の織田領の上野国(こうずけのくに、現・群馬

    県)は、徳川氏に委(ゆだ)ねる。

  ● 旧武田領国の織田領は、 天正壬午の乱

    (てんしょうじんごのらん、1582年6月〜10

    月)で北条氏、上杉氏に侵略され奪取されて

    も、織田氏部将は奪還せず、徳川家康の進

    出を了承し(平定を容認し)、徳川氏に委(ゆ

    だ)ねる。

 

  ● 清洲会議後、織田氏家臣団は、

    羽柴方と柴田方に分裂。

  ■ 1582年(天正10年)6月27日の清洲会議後、

    織田氏の家臣団は、 羽柴方 と 柴田方に分

    裂する。

       羽柴方には、 丹羽長秀、池田恒興、織

    田信雄(おだのぶかつ)などであり、 柴田方

    は、 織田信孝(おだのぶたか)、滝川一益(た

    きがわかずます)などである。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1582年 (天正10年)。

 

  ● 天正壬午の乱が起こる。

  ■ 天正壬午の乱 (てんしょうじんごのらん、

    1582年6月〜10月)。

  ● 本能寺の変で織田信長死後、 1582年

    (天正10年)6月から10月まで旧武田領

    国の織田領の、信濃国・甲斐国・上野国は、 

    北条氏、上杉氏、徳川氏に侵略され奪取さ

    れる。

 

  ● 1582年 (天正10年)に、本能寺の変で、

    織田信長死後、 織田領の信濃国(しなのの

    くに、現・長野県の相当地域)、甲斐国(かい

    のくに、現・山梨県の相当地域)、上野国(こ

    うずけのくに、現・群馬県の相当地域)へ、

    上杉景勝の軍、北条氏直の軍、徳川家康の

    軍が侵攻する。 

 

  ● その後、戦いの結果、徳川家康と北条氏

   直は和睦し、 信濃国、甲斐国は徳川氏領に、

   上野国は、北条氏領となる。

 

  ● 家康が五か国の大大名になる。

  ■ ここに、徳川家康は、 三河国(みかわのく

   に、現・愛知県東部の相当地域)、遠江国(と

   おとうみのくに、現・静岡県西部の相当地域)、

   駿河国(するがのくに、現・静岡県中部の相当

   地域)に加えて、甲斐国、信濃国を領有する

   大大名となる。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1582年 (天正10年)。

 

  ● 秀吉が北近江、美濃を平定

    する。

  ■ 1582年(天正10年)12月に、豊臣秀吉

    (羽柴秀吉)は、 北近江へ侵攻し、清州会

    議で柴田方に譲った長浜城(ながはまじょ

    う)を降伏させ、 更に、美濃国へ侵攻し、

    平定する。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1583年 (天正11年)。

 

  ● 秀吉が伊勢を平定する。

  ■ 1583年(天正11年)2月に、豊臣秀吉

   (羽柴秀吉)は、 柴田方の北伊勢へ侵攻

   し、3月に、伊勢亀山城を降伏させる。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1583年 (天正11年)。

 

  ● 秀吉は、越前の柴田氏を滅

    ぼす。

  ■ 1583年(天正11年)4月に、豊臣秀吉

   (羽柴秀吉)は、 賤ヶ岳(しずがたけ)で、

   柴田勝家の軍を破り勝利を得て (賤ヶ岳の

   戦い)、 秀吉は、勝家を追撃し 越前(えち

   ぜん、現・福井県東部の相当地域)の北庄

   城(きたのしょうじょう、北ノ庄城)で、自害

   する。

 

  ● 越前・北庄城で、お市が自害し、

    浅井三姉妹は城から落ち延びる。

  ■ 柴田氏の北庄城落城時、柴田勝家は、織田

    信長の妹で勝家正室夫人のお市(おいち)と

    共に自害する。 

 

  ● 浅井三姉妹(あざいさんしまい、茶々、初、

    江)は、近江の小谷城の落ち延びと同様に、

    越前の北庄城から落ち延びる。

 

  ● 秀吉は、加賀・能登を平定し、

    経営を前田利家に委ねる。 

  ■ 越前国を平定後、更(さら)に、秀吉は、加賀

    国と能登国(かがのくにとのとのくに、現・石川

    県の相当地域)へ侵攻し2国を平定して、それ

    らの経営を前田利家に委ねる。 

 

 

 ■ 1583年(天正11年)。

 

  ● 秀吉が大阪城の築城を開始

    する。

  ■ 1583年(天正11年)8月に、 豊臣秀吉

   (羽柴秀吉)は、大阪の石山本願寺の跡地に、

   豊臣大阪城の築城を開始する (1588年豊

   臣大阪城完成)。  

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1584年 (天正12年)。

 

  ● 小牧・長久手の戦いで、秀吉

    は、家康に敗け、和睦する。

  ■ 小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い

    (1584年3月ー11月)。

  ● 小牧・長久手の戦いは、1584年(天正12

    年)3月から11月まで、羽柴秀吉(豊臣秀吉) 

    と、 織田信雄や徳川家康との間で起こった

    戦いである。

 

  ● 小牧・長久手の戦いは、 秀吉と織田信雄

    の信長の後継者の争いから始まり、 近畿

    地方を領する羽柴秀吉(豊臣秀吉) と、中部 

    地方を領する織田信雄や徳川家康との間で

    起こった戦いである。

 

  ● 1584年(天正12年)3月に、織田信長の後

    継者を自負する信長次男の織田信雄(おだの

    ぶかつ、生没年:1558年ー1630年)が、秀

    吉と対立し、信雄が徳川家康に加勢を求め、

    家康が、織田信雄に加勢(加担)し、小牧・長

    久手の戦い戦いが起こる。

 

  ● 1584年(天正12年)3月〜11月に、小牧・

    長久手の戦いで、秀吉の軍は、 小牧、長久

    手付近で、織田信雄・徳川家康の連合軍と

    戦い、戦いの中、4月に長久手の戦いでは

    家康に敗北する。

 

  ■ 小牧・長久手の戦い講和。

  ● 1584年(天正12年)11月に、織田信雄

   が徳川家康に無断で秀吉と単独講和をした

   ため、 家康は、秀吉と戦う大義名分を失い、

   三河国へ撤退する。 その後、秀吉は家康に

   講和を申し入れ、家康は、次男の於義丸(幼

   名、松平秀康、結城秀康(ゆうきひでやす)、

   秀吉養子名:羽柴秀康)を人質として差出し、

   12月に、講和する。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。 

 

 

 ■ 1585年 (天正13年)。

 

  ● 秀吉は朝廷より内大臣に

    任官される。

  ■ 1585年(天正13年)3月に、豊臣秀吉

   (羽柴秀吉)は、 正ニ位・内大臣に叙位・

   任官される。

 

  ● 秀吉は関白となる。

  ● 豊臣関白政権が確立する。

  ■ 1585年(天正13年)7月11日に、豊臣

    秀吉(羽柴秀吉)は、 関白(かんぱく)に

    宣下(せんげ)される(任じられる)。

 

 

 ■ 1585年 (天正13年)。

 

  ● 秀吉は紀州を平定。

  ■ 秀吉の紀州平定。

  ● 1585年(天正13年)3月に、豊臣秀吉(羽

    柴秀吉)は、 紀伊国(きいのくに、現・和歌

    山県)へ侵攻して、これを平定する。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

  ● 秀吉は四国を平定。

  ■ 秀吉の四国平定。

  ● 1585年(天正13年)8月に、豊臣秀吉

   (羽柴秀吉)は、 長宗我部元親を降伏させ、

   四国を平定する。

   ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

  ● 秀吉は北陸を平定。

  ■ 秀吉の北陸平定。

  ● 1585年(天正13年)8月に、豊臣秀吉

   (羽柴秀吉)は、 越中国(えっちゅうのくに、

   現・富山県の相当地域)の佐々成政(さっさ

   なりまさ)を降伏させ、北陸を平定する。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1586年 (天正14年)。

 

  ● 秀吉は豊臣の姓を朝廷より

    賜る。

  ■ 1586年(天正14年)9月に、豊臣秀吉

   (羽柴秀吉)は、 正親町天皇 (おおぎまち

   てんのう)より、「豊臣」(とよとみ)の姓を賜

   (たまわ)る。

 

  ● 秀吉は太政大臣となる。

  ■ 1586年(天正14年)12月に、 秀吉は、

   太政大臣に就任する。 

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1586年 (天正14年)。

 

  ● 家康が秀吉に臣従する。

  ■ 1586年(天正14年)10月に、徳川家康は、

    豊臣秀吉に臣従する (秀吉は家康に臣従を

    誓わせる)。

 

  ● 秀吉は、家康に対しては、 融和策に転じ、

   1586年(天正14年)5月に、秀吉は、秀吉 

   の妹・朝日姫(あさひひめ)を徳川家康の正

   室夫人として嫁(とつ)がせ、 更(さら)に9

   月に、秀吉の母のなか(大政所(おおまんど

   ころ))を、人質として、家康の元へ送り、家康

   に臣従の上洛を促し、10月に、上洛した家

   康に秀吉への臣従を誓わせる。

  

  ● 結果的に、豊臣秀吉は、徳川家康を軍事

   的に服属させることには失敗して、秀吉と家

   康は、不完全な主従関係となる。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

  ■ 秀吉に臣従することとは、上洛して、秀吉

   への臣従を諸大名の前で表明することであ

   る。

  ● 秀吉からの臣従要求を拒み続ける徳川

   家康に、 秀吉は、1586年5月に、 秀吉

   の妹の朝日姫を家康の正室夫人として嫁

   がせ差し出し、家康は秀吉の妹の朝日姫と

   婚儀を結び、 朝日姫を家康の正室夫人と

   する。

      しかし、家康はなおも秀吉に臣従しょう

   としなかったので、更に、秀吉は、同年9月

   に、秀吉の生母のなか(大政所、おおまんど

   ころ)を、人質として、家康の元へ送り、 秀

   吉への臣従を促したので、 遂に、同年10

   月に、家康は、秀吉に臣従することを決意し、

   家康は上洛し、同年10月に、家康は、大阪

   城で秀吉に謁見し、諸大名の前で、秀吉に

   臣従する事を表明する。    

   ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1586年 (天正14年)。 

 

  ● (R6 家康は、駿府城を居住地

         とする。

  ● (R) 徳川家康の居住地の変遷。

  ■ (R1)⇒(R13)。 

     (R1)   岡崎城       (1542年ー1547年)、

     (R2)   熱田の館      (1547年ー1549年)、

     (R3)   駿府の館      (1549年ー1560年)、

     (R4)   岡崎城       (1560年ー1570年)、

     (R5)   浜松城       (1570年ー1586年)、 

     (R6)   駿府城       (1586年ー1590年)、

          (R7)   江戸城       (1590年ー1598年)、 

     (R8)   豊臣秀吉築・木幡山 伏見城

                 (1598年8月ー1599年9月)、

     (R9)   豊臣大阪城・西の丸

                 (1599年9月ー1600年6月)、 

     (R10)  江戸城       (1600年7月ー9月)、

     (R11)  豊臣大阪城・西の丸

                 (1600年9月ー1601年3月)、 

     (R12)  徳川家康築・木幡山伏見城

                    (1601年3月ー1607年)、 

     (R13)  駿府城       (1607年ー1616年)

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。 

                  

  ■ (R6) 徳川家康 

    (生没年:1542年ー1616年)は、

    1586年(天正14年)から

         1590年(天正18年)まで

    駿河国の、駿府城(すんぷじょう)で

    居住する。

             

  ■ 駿府城(すんぷじょう)は、 駿河国 

    (するがのくに、現・静岡県中部)にある。

 

  ■  徳川家康は、

    1582年天正10年に、駿河国を領国に

    した後、 1585年(天正13年)から、居城

    としての駿府城 (すんぷじょう)の築城を

    はじめ、1589年(天正17年)に完成させる。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1586年 (天正14年)。 

 

  ● (C3) 家康は、駿府城を本城

              とする。

  ● (C) 徳川家康の本城の変遷。 

  ■ (C1)⇒(C4)

          (C1)  岡崎城 (1560年ー1570年)、

     (C2)  浜松城 (1570年ー1586年)、

     (C3)  駿府城 (1586年ー1590年)、

          (C4)  江戸城 (1590年ー1616年)。

 

  ■ (C3) 徳川家康は、  

    (生没年:1542年ー1616年)は、

    1586年(天正14年)から

         1590年(天正18年)まで

    駿河国の、駿府城(すんぷじょう)を、

    自分の(C)本城(ほんじょう、= 本拠地

    の城)とする

 

  ■ 駿府城(すんぷじょう)は、 駿河国 

    (するがのくに、現・静岡県中部)にある。

 

  ■  徳川家康は、

    1582年天正10年に、駿河国を領国に

    した後、 1585年(天正13年)から、居城

    としての駿府城 (すんぷじょう)の築城を

    はじめ、1589年(天正17年)に完成させる。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1586年 (天正14年)。

 

  ● (P3) 家康は、駿府城を 政務

              居城とする。

  ● (P) 徳川家康の政務居城の

         変遷。 

  ■ (P1)⇒(P10)。

     (P1)   岡崎城       (1560年ー1570年)、

     (P2)   浜松城       (1570年ー1586年)、 

     (P3)   駿府城       (1586年ー1590年)、

     (P4)   江戸城       (1590年ー1598年)、 

     (P5)   豊臣秀吉築・木幡山伏見城

                 (1598年8月ー1599年9月)、 

     (P6)   豊臣大阪城・西の丸

                 (1599年9月ー1600年6月)、

     (P7)   江戸城        (1600年7月ー9月)、 

     (P8)   豊臣大阪城・西の丸

                 (1600年9月ー1601年3月)、 

     (P9)   徳川家康築・木幡山伏見城

                    (1601年3月ー1607年)、 

     (P10)  駿府城      (1607年ー1616年)

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。 

 

  ■ (P3) 徳川家康は、  

    (生没年:1542年ー1616年)は、

    1586年(天正14年)から

         1590年(天正18年)まで

    駿河国の、駿府城(すんぷじょう)を、

    自分の(P)政務居城とする

 

  ■ 駿府城(すんぷじょう)は、 駿河国 

    (するがのくに、現・静岡県中部)にある。

 

 

 ■ 1587年 (天正15年)。

 

  ● 秀吉が九州を平定。

  ■ 秀吉の九州平定。

  ● 1587年(天正15年)5月に、豊臣秀吉は、

    島津氏を降伏させ、九州を平定する。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1587年 (天正15年)。

 

  ● 秀吉がバテレン追放令を出す。

  ■ 1587年(天正15年)6月に、豊臣秀吉は、  

   バテレン追放令をだす。

 

 

 ■ 1587年 (天正15年)。

 

   ● 秀吉は聚楽第を完成させ、

    政務居城とする。

  ■ 豊臣秀吉は、 朝廷工作や関白の職務の

    め、 山城国の、京(きょう、京都)の市街地

    に、1587年(天正15年)9月に、聚楽第 

    (じゅらくだい)を完成させ、1592年(天正

    20年)まで、そこを政務居城とする。

 

  ■ 1587年(天正15年)9月に、豊臣秀吉は、

   聚楽第(じゅらくだい)を完成させ、自分の

   政務居城とし、二条第(= 妙顕寺城)より移る。 

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1589年(天正17年)。

 

  ● 淀の方(淀殿、茶々)が、秀吉の

    男子の鶴松を産む。

  ■ 1589年(天正17年)5月27日に、豊臣秀

    吉の側室夫人の淀の方(よどのかた、淀殿、 

    茶々)は、秀吉の実子の男子の、鶴松 (つ

    るまつ、生没年:1589年ー1591年)を産

    む。  

 

  ● 淀の方(淀殿、茶々)は、浅井三姉妹(あざ

    いさんしまい、茶々、初、江)の一人である。

 

 

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#jphappenings-1590

 

 

 ■ 1590年 (天正18年)。

 

  ● 秀吉が関東を平定。

  ■ 秀吉の関東平定。

  ● 1590年(天正18年)7月に、豊臣秀吉は、

    小田原北条氏を降伏させ、関東を平定する。

 

  ● 小田原合戦。

  ■ 小田原合戦 (おだわらがっせん、1590年

     2月ー7月)。

  ● 1590年(天正18年)2月から、秀吉の軍勢

    は、 関東に遠征し、小田原北条氏の支城の

    諸城を落城させ、その後、小田原北条氏(=

    後北条氏)の本拠地の小田原城を包囲する。

       約3ヶ月の篭城戦(ろうじょうせん)の後、

    1590年(天正18年)7月5日に、小田原北

    条氏(= 後北条氏)の北条氏直が、降伏する。 

 

  ● 小田原城は、上杉謙信も落とせなった堅城

    だが、撤兵する可能性のない包囲軍の前で

    は無力であった。 

 

  ● 責任をとって、北条氏政・氏照は自害(自

    刃)し、小田原北条氏の当主の北条氏直は、

    紀伊国(きいのくに、現・和歌山県)の高野山

    へ追放される。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

  ● 秀吉が東北地方を平定。

  ■ 秀吉の奥羽制圧(奥羽仕置)。

  ● 1590年(天正18年)7月に、豊臣秀吉は、

   奥羽(おうう、現・東北地方)も制圧した。

 

  ● 秀吉は、小田原城開場後、1590年(天正

   18年)7月26日に、下野(しもつけ、現・栃木

   県)の宇都宮城に入り、奥羽の領主に対し、

   仕置(しおき)を行った (宇都宮仕置)。

      秀吉は、 小田原合戦に参陣しなかった

   奥羽の領主を改易する(取り潰す)。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1590年 (天正18年)。

 

  ● 秀吉が天下を統一する

    (日本本土を統一する)。

  ■ 1590年(天正18年)7月に、豊臣秀吉は、

   天下を統一する (日本本土の全国を統一す

   る)。

 

  ● 豊臣秀吉は、 日本本土の全国を平定し、

    天下を統一し、戦国の世を終わらせる。

       秀吉の平定は、非殲滅(せんめつ)主

    義を貫き、寛容ともいえる態度で、多くの戦

    国大名を助命し、これにより、短期間で天下

    統一を成し遂げる。 

       しかし、豊臣氏蔵入地(領地)225万石、

    徳川氏250万石のように、豊臣氏に忠義心

    の薄い、武力に優れ、石高の高い、多くの大

    名を残存させ、豊臣政権の政権長期化には

    不利であった。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1590年 (天正18年)。

 

  ●  家康が関東に移封となる。

  ■ 1590年(天正18年)8月に、徳川家康が、 

    関東に移り、江戸城に入る。

 

  ● 1590年(天正18年)8月に、豊臣秀吉は、 

    徳川家康に中部地方より関東地方への国

    替えを命じ(命令し)、家康は、 関東に移り、

    江戸城に入る。

 

  ● 家康は、旧小田原北条氏の関東地域を領

    有し、その後、その地を開発して、約250万

    石を得る。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1590年 (天正18年)。 

 

  ● (R7 家康は、江戸城を居住地

              とする。

  ● (R) 徳川家康の居住地の変遷。

  ■ (R1)⇒(R13)。 

     (R1)   岡崎城       (1542年ー1547年)、

     (R2)   熱田の館      (1547年ー1549年)、

     (R3)   駿府の館      (1549年ー1560年)、

     (R4)   岡崎城       (1560年ー1570年)、

     (R5)   浜松城       (1570年ー1586年)、 

     (R6)   駿府城       (1586年ー1590年)、

          (R7)   江戸城       (1590年ー1598年)、 

     (R8)   豊臣秀吉築・木幡山 伏見城

                 (1598年8月ー1599年9月)、

     (R9)   豊臣大阪城・西の丸

                 (1599年9月ー1600年6月)、 

     (R10)  江戸城       (1600年7月ー9月)、

     (R11)  豊臣大阪城・西の丸

                 (1600年9月ー1601年3月)、 

     (R12)  徳川家康築・木幡山伏見城

                    (1601年3月ー1607年)、 

     (R13)  駿府城       (1607年ー1616年)

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。 

                  

  ■ (R7)  徳川家康 

    (生没年:1542年ー1616年)は、

    1590年(天正18年)から

         1598年(慶長3年)まで

    武蔵国の、江戸城 (えどじょう)で

    居住する。

             

  ■ 江戸城 (えどじょう)は、 武蔵国 (むさ

    しのくに、現・東京都・神奈川県)にある。

 

  ■ 1590年(天正18年)8月に、豊臣秀吉は、 

    徳川家康に中部地方から関東地方への国

    替えを命じ(命令し)、家康は、 関東に移り、

    江戸城に入る。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1590年 (天正18年)。 

 

  ● (C4) 家康は、江戸城を本城

              とする。

  ● (C) 徳川家康の本城の変遷。 

  ■ (C1)⇒(C4)

          (C1)  岡崎城 (1560年ー1570年)、

     (C2)  浜松城 (1570年ー1586年)、

     (C3)  駿府城 (1586年ー1590年)、

          (C4)  江戸城 (1590年ー1616年)。

 

  ■ (C4) 徳川家康は、  

    (生没年:1542年ー1616年)は、

    1590年(天正18年)から

         1616年(元和2年)まで

    武蔵国の、江戸城 (えどじょう)を、

    自分の(C)本城(ほんじょう、= 本拠地

    の城)とする

 

  ■ 江戸城 (えどじょう)は、 武蔵国 (むさ

    しのくに、現・東京都・神奈川県)にある。

 

  ■ 1590年(天正18年)8月に、豊臣秀吉は、 

    徳川家康に中部地方から関東地方への国

    替えを命じ(命令し)、家康は、 関東に移り、

    江戸城に入る。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1590年 (天正18年)。

 

  ● (P4) 家康は、江戸城

          政務居城とする。

  ● (P) 徳川家康の政務居城

        の変遷。 

  ■ (P1)⇒(P10)。

     (P1)   岡崎城       (1560年ー1570年)、

     (P2)   浜松城       (1570年ー1586年)、 

     (P3)   駿府城       (1586年ー1590年)、

     (P4)   江戸城       (1590年ー1598年)、 

     (P5)   豊臣秀吉築・木幡山伏見城

                 (1598年8月ー1599年9月)、 

     (P6)   豊臣大阪城・西の丸

                 (1599年9月ー1600年6月)、

     (P7)   江戸城        (1600年7月ー9月)、 

     (P8)   豊臣大阪城・西の丸

                 (1600年9月ー1601年3月)、 

     (P9)   徳川家康築・木幡山伏見城

                    (1601年3月ー1607年)、 

     (P10)  駿府城      (1607年ー1616年)

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。 

 

  ■ (P4) 徳川家康は、  

    (生没年:1542年ー1616年)は、

    1590年(天正18年)から

         1598年(慶長3年)まで

    武蔵国の、江戸城 (えどじょう)を、

    自分の(P)政務居城とする

 

  ■ 江戸城 (えどじょう)は、 武蔵国 (むさ

    しのくに、現・東京都・神奈川県)にある。

 

 

 ■ 1591年 (天正19年)。

 

  ● 秀吉の男子の鶴松が病死する。

  ■ 1591年(天正19年)8月5日に、豊臣秀吉

    実子の男子の鶴松 (つるまつ、生没年:

    1589年ー1591年)が、病死する。

 

 

 ■ 1591年 (天正19年)。

 

  ● 秀吉は関白を甥の豊臣秀次

    に譲り、太閤となる。

  ■ 1591年(天正19年)12月28日に、

    豊臣秀吉は、関白の職を、甥(おい)の豊臣

    秀次(とよとみひでつぐ)に譲る。 

 

  ● 秀吉は、太閤(たいこう、前関白の尊称)と

    呼ばれる。 秀吉は、豊臣政権の政治実権

    は所持する。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1592年 (天正20年)。

  ■ 1592年(天正元年)3月に、秀吉により、

   朝鮮出兵が開始される (文禄の役、1592

   年〜1593年)。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1592年 (文禄 元年)。

 

  ● 天正から文禄に改元。

  ■ 1592年(文禄元年)・

    文禄(ぶんろく)改元。 

  ● 1592年(文禄元年)12月8日に、

    和暦の「天正」 (てんしょう 、天正元年〜

    20年) が、 

    「文禄」 (ぶんろく、 

    文禄 元年・1592年・12月 8日〜 

    文禄 5年・1596年・10月27日) に

    改元される。 

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1593年(文禄 2年)。

 

  ● 秀吉夫人の淀の方(淀殿)が、

    豊臣秀頼を産む。

  ■ 1593年(文禄2年)8月3日に、秀吉の側室

    夫人の、淀の方(よどのかた、淀殿、茶々)は、 

    秀吉の男子の、豊臣秀頼 (とよとみひでより、

    幼名:拾丸(ひろいまる)、拾(ひろい))を産む。 

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

  ● 淀の方(淀殿、茶々)は、浅井三姉妹(あざ

    いさんしまい、茶々、初、江)の一人である。

       茶々(ちゃちゃ)は、豊臣秀吉側室夫人

    となり、豊臣秀頼(とよとみひでより、拾丸)

    の生母となる。

       初(はつ)は、京極高次(きょうごくたか

    つぐ)の正室夫人となる。

       江(ごう)は、徳川秀忠(ひでただ)の正

    室夫人となり、徳川家光(いえみつ)の生母

    となる。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1595年 (文禄 4年)。

 

  ● 関白・豊臣秀次が自害する。

  ■ 1595年(文禄4年)7月15日に、 豊臣秀

    吉は、 甥の関白秀次(生没年:1568年ー

    1595年)を自害させる。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1596年 (文禄 5年)。

 

  ● 家康は「江戸の内府」と呼ばれる。

  ■ 1596年(文禄5年)から1603年(慶長8年)

    まで「内府」(ないふ)」と呼ばれた徳川家康。

  ● 徳川家康は、 別名で、

    1596年(文禄5年)から1603年(慶長8年)

    まで、「江戸の内府」(えどのないふ)とも呼ば

    れる。 

       

  ● 徳川家康は、1596年(文禄5年)5月8日

    から、1603年(慶長8年)2月12日まで、

    内大臣(ないだいじん、 唐名は内府(ない

    ふ、だいふ))の官職に叙任されていたため。  

 

 

 ■ 1596年 (慶長 元年)。

 

  ● 文禄から慶長に改元。

  ■ 1596年(慶長元年)・

    慶長(けいちょう)改元。 

  ● 1596年(慶長元年)10月27日に、 

    和暦の「文禄」 (ぶんろく 、文禄元年〜5年) 

    が、

    「慶長」 (けいちょう、 

    慶長 元年・1596年・10月27日〜 

    慶長20年・1615年・ 7月13日) に

    改元される。 

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1597年 (慶長 2年)。 

 

  ● 慶長の役が起こる。

  ■ 1597年(慶長2年)1月に、秀吉により、

     再度、朝鮮出兵が開始される (慶長の役:

    1597年〜1598年)。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1597年 (慶長 2年)。 

 

  ● 秀吉は、秀吉築木幡山伏見城

    を政務居城とする。

  ■ 豊臣秀吉は、  1597年(慶長2年)5月から

    (F2) 豊臣秀吉築・木幡山伏見城  1596

    年着工、1597年−1600年使用・存続)を

    政務居城として、使用する。

 

 

 ■ 1598年 (慶長3年)。 

 

  ● 家康の勢力を抑えるため、

    秀吉は上杉景勝領地を徳川領

    の北西に移す。

  ■ 1598年(慶長3年)に、 越後の大名の、

   上杉景勝は、 豊臣秀吉によって、 会津

   120万石に 加増移封される。

 

 

 ■ 1598年 (慶長 3年)。

 

  ● 秀吉が、五大老・五奉行

    の制度を定める。 

  ■ 1598年(慶長3年)7月に、秀吉が、

    五大老・五奉行の制度を定める (秀吉の

    後継者である豊臣秀頼の体制を磐石にす

    るため)。

  ● 徳川家康は、五大老の一人となる。

  ● 上杉景勝は、五大老の一人となる。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

  ● 豊臣氏の五大老は、

    徳川家康、前田利家(まえだとしいえ)、

    毛利輝元(もうりてるもと)、宇喜多秀家(うき

    たひでいえ)、上杉景勝(うえすぎかげかつ) 

    である。

 

 

 ■ 1598年 (慶長 3年)。

 

  ● 豊臣秀吉が死去する。

  ■ 1598年(慶長3年)8月18日に、豊臣秀吉

    (生没年:1537年ー1598年)が、 

    死去する。

 

  ● 幼い豊臣秀頼が豊臣氏当主

    となる。

  ■ 豊臣秀吉死後、秀吉の遺言により、数え年

    6歳の豊臣秀頼 (とよとみひでより、生没年:

    1593年ー1615年)が、 豊臣氏本家(宗

    家)の当主となる。 秀頼の生母の淀の方

    (よどのかた、淀殿)が、豊臣秀頼の後見人

    となる。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

  ● おね(ねね)は、落飾し、高台院

    湖月尼と称す。 

  ■ 1598年(慶長3年)に、秀吉が没する(死

   去する)と、 秀吉の正室夫人おね(ねね)は、

   落飾し、 高台院湖月尼と称した。 

 

 

 ■ 1598年 (慶長 3年)。

 

  ● (R8) 家康は、豊臣秀吉築・

         木幡山伏見城を居住地

         とする。

  ● (R) 徳川家康の居住地の変遷。

  ■ (R1)⇒(R13)。 

     (R1)   岡崎城       (1542年ー1547年)、

     (R2)   熱田の館      (1547年ー1549年)、

     (R3)   駿府の館      (1549年ー1560年)、

     (R4)   岡崎城       (1560年ー1570年)、

     (R5)   浜松城       (1570年ー1586年)、 

     (R6)   駿府城       (1586年ー1590年)、

          (R7)   江戸城       (1590年ー1598年)、 

     (R8)   豊臣秀吉築・木幡山 伏見城

                 (1598年8月ー1599年9月)、

     (R9)   豊臣大阪城・西の丸

                 (1599年9月ー1600年6月)、 

     (R10)  江戸城       (1600年7月ー9月)、

     (R11)  豊臣大阪城・西の丸

                 (1600年9月ー1601年3月)、 

     (R12)  徳川家康築・木幡山伏見城

                    (1601年3月ー1607年)、 

     (R13)  駿府城       (1607年ー1616年)

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。 

                  

  ■ (R8)  徳川家康 

    (生没年:1542年ー1616年)は、

    1598年(慶長3年)8月から

         1599年(慶長4年)9月まで、

    山城国の、豊臣秀吉築・木幡山伏見城 で

    居住する。

             

  ■ 豊臣秀吉築・木幡山伏見城 (こはたやま

    ふしみじょう)は、 山城国(やましろのくに、

    現・京都府南部)にある。

 

  ■ 徳川家康は、

    豊臣秀吉の遺命により、豊臣氏大老として、

    豊臣秀吉築・木幡山伏見城で、豊臣氏の

    政務を行なう。

 

 

 ■ 1598年 (慶長 3年)。

 

  ● (P5) 家康は、豊臣秀吉築・

              木幡山伏見城を政務

              居城とする。

  ● (P) 徳川家康の政務居城

        の変遷。 

  ■ (P1)⇒(P10)。

     (P1)   岡崎城       (1560年ー1570年)、

     (P2)   浜松城       (1570年ー1586年)、 

     (P3)   駿府城       (1586年ー1590年)、

     (P4)   江戸城       (1590年ー1598年)、 

     (P5)   豊臣秀吉築・木幡山伏見城

                 (1598年8月ー1599年9月)、 

     (P6)   豊臣大阪城・西の丸

                 (1599年9月ー1600年6月)、

     (P7)   江戸城        (1600年7月ー9月)、 

     (P8)   豊臣大阪城・西の丸

                 (1600年9月ー1601年3月)、 

     (P9)   徳川家康築・木幡山伏見城

                    (1601年3月ー1607年)、 

     (P10)  駿府城      (1607年ー1616年)

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。 

 

  ■ (P5) 徳川家康は、  

    (生没年:1542年ー1616年)は、

    1598年(慶長3年)8月から

         1599年(慶長4年)9月まで、

    山城国の、豊臣秀吉築・木幡山伏見城

    (こはたやまふしみじょう)を、自分の

    (P)政務居城とする

 

  ■ 豊臣秀吉築・木幡山伏見城 (こはたやま

    ふしみじょう)は、 山城国(やましろのくに、

    現・京都府南部)にある。

 

  ■ 徳川家康は、

    豊臣秀吉の遺命により、豊臣氏大老として、

    豊臣秀吉築・木幡山伏見城で、豊臣氏の

    政務を行なう。

 

 

 ■ 1598年 (慶長 3年)。

 

  ● 朝鮮撤兵を行なう。

  ■ 1598年8月に、豊臣秀吉死去後、徳川

    家康、前田利家が、朝鮮撤兵を命じる。 

    同年12月にほぼ撤兵を完了する。

 

  ● 豊臣秀頼と淀の方が豊臣

    大阪城の本丸に入る。

  ■ 1598年(慶長3年)に、秀吉が没する(死

    去する)と、 秀吉の遺言により、 淀殿(茶

    々)と豊臣秀頼は、 伏見城より、豊臣大阪

    城の本丸に移る。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1598年 (慶長 3年)。

 

  ● 豊臣秀吉死後、豊臣氏家臣の

    文治派と武断派の対立が始ま

    る。

  ■ 秀吉死後、 淀の方(よどのかた、淀殿、茶

    々)淀殿(茶々)が信頼する奉行衆や文治派

    の豊臣氏家臣 と、 おね(ねね)が信頼する

    徳川家康や武断派の豊臣氏家臣は、豊臣氏

    内で、対立する。

 

  ● 秀吉死後、淀の方が豊臣氏当主

    の豊臣秀頼の後見人となる。

  ■ 豊臣秀吉死後、秀吉の遺言により、数え年

    6歳の豊臣秀頼 (生没年:1593年ー

    1615年)が、 豊臣氏本家(宗家)の当主

    となる。 

       淀の方(よどのかた、淀殿、茶々)は、

    幼い豊臣秀頼の後見人となる。 

 

  ● 淀の方(淀殿、茶々)は、 淀殿(茶々)の乳

    母(うば)の、大蔵卿局 (大野治長の母)、

    饗庭局を重用する。 また、淀殿(茶々、近江

    国出身)は、 石田三成をはじめとする、自分

    の出身地の近江国出身の武将を側近とする。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1599年 (慶長 4年)。

 

  ● 豊臣氏大老の前田利家が、

    病死する。

  ■ 1599年(慶長4年)3月に、豊臣政権の2人

    の実力者の一人で豊臣氏大老の前田利家が、

    病死する。

       もう一人の実力者で豊臣氏大老の徳川

    家康が、豊臣氏で、大きな勢力となる。

 

  ● 1599年(慶長4年)3月に、豊臣政権の

   5大老の一人の、前田利家が、病死する。 

      豊臣政権下で、家康と互角に渡り合える

   だけの勢力を持った人物がいなくなる。 

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1599年 (慶長 4年)。

 

  ● 石田三成が奉行職を解任され、

    蟄居となる。

  ■ 1599年(慶長4年)3月に、前田利家病死、

    後に、武断派大名による石田三成襲撃事件

    が起こり、 石田三成は奉行職を解任され、

    佐和山城で蟄居(ちっきょ)させられる。

 

  ■ 武断派大名による石田三成襲撃事件。

  ● 前田利家死去後、 文治派の大名の石田

    三成は、 武断派の大名の福島正則、加藤

    清正らに、襲撃され、 この事件により、豊

    臣氏大老の家康の命(命令)により、三成は、 

    奉行職を解任され、三成の居城・佐和山城

    で蟄居(ちっきょ)させられ、豊臣政権の中枢

    から去る。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

  ● ねね(おね)が豊臣大阪城・ 西

    の丸を退去し、家康に引き渡す。

 

  ■ 1599年(慶長4年)9月に、おね(ねね)は、

    自分の住む豊臣大阪城の西の丸を引き払い、

    徳川家康に引き渡し、京(京都)に移り、 

    代わりに、徳川家康が、西の丸に入り、

    豊臣氏大老として、豊臣大阪城の西の丸で、

    豊臣氏の政務を行なう。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

  ● 1599年(慶長4年)9月に、 おね(ねね)は、

   自分の住む豊臣大阪城の西の丸を引き払い、

   徳川家康に引き渡し、 孝蔵主などわずかな

   女中達を引き連れて、京(きょう、京都)の三

   本木屋敷(京都新城)に移り住む。 

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

  ■ 徳川家康は、 豊臣大阪城の西の丸に入り、

    豊臣氏大老として、豊臣大阪城の西の丸で、

    豊臣氏の政務を行なう。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 

 ■ 1599年 (慶長 4年)。

 

  ● (R9) 家康は、豊臣大阪城・

         西の丸を居住地とする。

  ● (R) 徳川家康の居住地の変遷。

  ■ (R1)⇒(R13)。 

     (R1)   岡崎城       (1542年ー1547年)、

     (R2)   熱田の館      (1547年ー1549年)、

     (R3)   駿府の館      (1549年ー1560年)、

     (R4)   岡崎城       (1560年ー1570年)、

     (R5)   浜松城       (1570年ー1586年)、 

     (R6)   駿府城       (1586年ー1590年)、

          (R7)   江戸城       (1590年ー1598年)、 

     (R8)   豊臣秀吉築・木幡山 伏見城

                 (1598年8月ー1599年9月)、

     (R9)   豊臣大阪城・西の丸

                 (1599年9月ー1600年6月)、 

     (R10)  江戸城       (1600年7月ー9月)、

     (R11)  豊臣大阪城・西の丸

                 (1600年9月ー1601年3月)、 

     (R12)  徳川家康築・木幡山伏見城

                    (1601年3月ー1607年)、 

     (R13)  駿府城       (1607年ー1616年)

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。 

 

  ■ (R9)  徳川家康 

    (生没年:1542年ー1616年)は、

    1599年(慶長4年)9月から

    1600年(慶長5年)6月まで

    摂津国の、豊臣大阪城・西の丸 (とよと

    みおおさかじょう・にしのまる)で

    居住する。

             

  ■ 豊臣大阪城・西の丸 (とよとみおおさか

    じょう・にしのまる)は、 摂津国(せっつの

    くに、現・大阪府西北部)にある。

 

  ■ 1599年(慶長4年)9月に、おね(ねね)は、

    自分の住む豊臣大阪城の西の丸を引き払い、

    徳川家康に引き渡し、京(京都)に移り、 

    代わりに、徳川家康が、西の丸に入り、

    豊臣氏大老として、豊臣大阪城の西の丸で、

    豊臣氏の政務を行なう。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1599年 (慶長 4年)。

 

  ● (P6) 家康は、豊臣大阪城・

         西の丸を政務居城と

         する。

  ● (P) 徳川家康の政務居城

        の変遷。 

  ■ (P1)⇒(P10)。

     (P1)   岡崎城       (1560年ー1570年)、

     (P2)   浜松城       (1570年ー1586年)、 

     (P3)   駿府城       (1586年ー1590年)、

     (P4)   江戸城       (1590年ー1598年)、 

     (P5)   豊臣秀吉築・木幡山伏見城

                 (1598年8月ー1599年9月)、 

     (P6)   豊臣大阪城・西の丸

                 (1599年9月ー1600年6月)、

     (P7)   江戸城        (1600年7月ー9月)、 

     (P8)   豊臣大阪城・西の丸

                 (1600年9月ー1601年3月)、 

     (P9)   徳川家康築・木幡山伏見城

                    (1601年3月ー1607年)、 

     (P10)  駿府城      (1607年ー1616年)

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。 

 

  ■ (P6) 徳川家康は、  

    (生没年:1542年ー1616年)は、

    1599年(慶長4年)9月から

    1600年(慶長5年)6月まで

    摂津国の、豊臣大阪城・西の丸 (とよと

    みおおさかじょう・にしのまる)を、自分の

    (P)政務居城とする

 

  ■ 豊臣大阪城・西の丸 (とよとみおおさか

    じょう・にしのまる)は、 摂津国(せっつの

    くに、現・大阪府西北部)にある。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 

 ■ 1599年 (慶長 4年)。

 

  ● 家康による反徳川派の粛清。

  ■ 1599年(慶長4年)9月7日の徳川家康暗

    殺未遂事件(徳川家康暗殺疑惑事件)に加

    担したとみなされた人々が豊臣氏大老の家

    康によって処罰される。

 

  ● 大老の前田利長、五奉行の一人・浅野長政、

    豊臣秀頼の側近の大野治長と土方雄久が、

    家康暗殺未遂事件に加担したとみなされ、豊

    臣氏大老の家康によって処罰される。

 

  ● 徳川家康は、大老の前田利長には、加賀征

    伐で脅し、生母・芳春院(まつ)を江戸人質に

    差し出させ、  五奉行の一人・浅野長政は奉

    行職解職、隠居、蟄居とし、 豊臣秀頼の側

    近の大野治長と土方雄久は配流(はいる)と

    なる。

 

  ● 1599年(慶長4年)9月7日に、徳川家康

    は、 重陽の節句(ちょうようのせっく)を祝

    うため、伏見城から豊臣大阪城の豊臣秀頼、

    淀の方のもとを訪れた。 その時、五奉行の

    一人・増田長盛(ましたながもり)が、家康暗

    殺計画があると家康に密告する。

 

  ● 豊臣氏大老の前田氏が家康

    の支配下に入る。

  ■ 1599年(慶長4年)10月に、加賀の前田

    氏が、徳川氏の徳川家康の支配下に入る。

 

  ● 1599年(慶長4年)9月に、徳川家康は、

    前田利長の家康暗殺計画ありとし、 加賀

    征伐(前田征伐)を行おうとするが、10月に、

    前田利長は母を人質として差し出したので、

    家康は、加賀征伐(前田征伐)を取りやめる。

       これにより、前田氏は、徳川氏の徳川

    家康の支配下に組み込まれる。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

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#jphappenings-1600

 

 

 ■ 1600年 (慶長 5年)。 

 

  ● 慶長5年の天下分け目の戦い

    が起こる。

  ■ 1600年(慶長5年)に、慶長5年の天下分

    け目の戦いが起こる。

 

  ● 慶長5年の天下分け目の戦いは、豊臣家

    臣団の間での戦いである。

      豊臣家臣団が西軍と東軍に分かれて、

    全国各地で戦う。 その1つが、関が原の

    戦い(大垣・山中の戦い)である。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1600年 (慶長 5年)。 

 

  ● 家康は、上杉景勝討伐軍を率い

    て、大阪城を出て、会津へ向う。

  ■ 1600年(慶長5年)4月に、 徳川家康が、 

    会津(あいづ)の、上杉景勝(うえすぎかげか

    つ)からの直江状 (なおえじょう、景勝の重

    臣の直江兼続の家康弾劾状)を受け取り激

    怒し、 家康は、上杉景勝が豊臣氏(豊臣政

    権)に謀反(むほん)ありとして、 同年5月に、

    上杉景勝討伐を宣言する。

 

  ■ 1600年(慶長5年)6月に、徳川家康は、

    親徳川派(徳川家康支持)の大名で組織した、

    上杉景勝討伐軍(会津征伐軍)を率いて、

    会津へ向かい、大阪を出発する。

 

  ● 途中、家康は、 伏見城(ふしみじょう、豊臣

    秀吉築・木幡山伏見城)に寄り、 1600年

    (慶長5年)6月18日には、上杉景勝討伐軍

    (会津征伐軍)を率いて、伏見を出発し、

    1600年(慶長5年)7月1日に、江戸城に到

    着する。

 

 

 ■ 1600年 (慶長 5年)。 

 

  ● 家康は、江戸城で、動向を探る。

  ■ 1600年(慶長5年)6月に、徳川家康は、

    親家康派(家康支持)の大名で組織した、

    上杉景勝討伐軍(会津征伐軍)を率いて、

    大阪を出発し、会津へ向かい、1600年

    (慶長5年)7月1日に、江戸城に到着する。

 

  ● 徳川家康は、江戸城に留まり、反徳川方

    や親徳川方の情勢の分析を行い、徳川方

    に多くの指示を出し、徳川方の味方を増や

    すために、多数の文を各所に送る。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

  ■ 小山評定。

  ● 1600年(慶長5年)7月25日に、上杉景勝討

    伐軍(会津征伐軍)に従軍した諸大名と家康と

    の軍議の「小山評定」(おやまひょうじょう)が 

    下野国(しもつけのくに、現・群馬県)の小山(お

    やま)で開かれたとされるが、当時の一次史料

    がないため、「小山評定」は、ここでは、記述し

    ない。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1600年 (慶長 5年)。 

 

  ● 奉行衆や毛利輝元が、豊臣

    大阪城で、挙兵する。

  ■ 1600年(慶長5年)7月に、石田三成ら奉行

    衆や毛利輝元が、挙兵し、全国の大名へ呼び

    かけ、 反徳川家康の軍を集める。 

 

 

 ■ 1600年 (慶長 5年)。 

 

  ● 家康は、援軍を引き連れて、

    徳川方がいる美濃へ向かう。

  ■ 1600年(慶長5年)9月1日に、徳川家康

    は、 徳川方が戦っている美濃国に向かっ

    て、徳川軍の援軍を引きつれ、江戸城を出

    立する。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 

 ■ 1600年 (慶長 5年)。

 

  ● (R10) 家康は、江戸城を居住地

          とする。

  ● (R) 徳川家康の居住地の変遷。

  ■ (R1)⇒(R13)。 

     (R1)   岡崎城       (1542年ー1547年)、

     (R2)   熱田の館      (1547年ー1549年)、

     (R3)   駿府の館      (1549年ー1560年)、

     (R4)   岡崎城       (1560年ー1570年)、

     (R5)   浜松城       (1570年ー1586年)、 

     (R6)   駿府城       (1586年ー1590年)、

          (R7)   江戸城       (1590年ー1598年)、 

     (R8)   豊臣秀吉築・木幡山 伏見城

                 (1598年8月ー1599年9月)、

     (R9)   豊臣大阪城・西の丸

                 (1599年9月ー1600年6月)、 

     (R10)  江戸城       (1600年7月ー9月)、

     (R11)  豊臣大阪城・西の丸

                 (1600年9月ー1601年3月)、 

     (R12)  徳川家康築・木幡山伏見城

                    (1601年3月ー1607年)、 

     (R13)  駿府城       (1607年ー1616年)

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。 

 

  ■ (R10)  徳川家康 

    (生没年:1542年ー1616年)は、

    1600年(慶長5年)7月から

    1600年(慶長5年)9月まで、

    武蔵国の、江戸城 (えどじょう)で

    居住する。

             

  ■ 江戸城 (えどじょう)は、 武蔵国 (むさ

    しのくに、現・東京都・神奈川県)にある。

 

  ■ 1600年(慶長5年)6月に、徳川家康は、

    親家康派(家康支持)の大名で組織した、

    上杉景勝討伐軍(会津征伐軍)を率いて、

    大阪を出発し、会津へ向かい、1600年

    (慶長5年)7月1日に、江戸城に到着する。

 

  ● 徳川家康は、江戸城に留まり、反徳川方

    や親徳川方の情勢の分析を行い、徳川方

    に多くの指示を出し、徳川方の味方を増や

    すために、多数の文を各所に送る。

 

  ■ 1600年(慶長5年)9月1日に、徳川家康

    は、 徳川方が戦っている美濃国に向かっ

    て、徳川軍の援軍を引きつれ、江戸城を出

    立する。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1600年 (慶長 5年)。

 

  ● (P7) 家康は、江戸城

         政務居城とする。

  ● (P) 徳川家康の政務居城

        の変遷。 

  ■ (P1)⇒(P10)。

     (P1)   岡崎城       (1560年ー1570年)、

     (P2)   浜松城       (1570年ー1586年)、 

     (P3)   駿府城       (1586年ー1590年)、

     (P4)   江戸城       (1590年ー1598年)、 

     (P5)   豊臣秀吉築・木幡山伏見城

                 (1598年8月ー1599年9月)、 

     (P6)   豊臣大阪城・西の丸

                 (1599年9月ー1600年6月)、

     (P7)   江戸城        (1600年7月ー9月)、 

     (P8)   豊臣大阪城・西の丸

                 (1600年9月ー1601年3月)、 

     (P9)   徳川家康築・木幡山伏見城

                    (1601年3月ー1607年)、 

     (P10)  駿府城      (1607年ー1616年)

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。 

 

  ■ (P7) 徳川家康は、  

    (生没年:1542年ー1616年)は、

    1600年(慶長5年)7月から

    1600年(慶長5年)9月まで、

    武蔵国の、江戸城 (えどじょう)を、自分

    の(P)政務居城とする

 

  ■ 江戸城 (えどじょう)は、 武蔵国 (むさ

    しのくに、現・東京都・神奈川県)にある。

 

 

 

 ■ 1600年 (慶長 5年)。 

 

  ● 関が原の戦い。

  ■ 「慶長5年の天下分け目の戦い」

    の中心的な戦いの「関ヶ原の戦い」は、

    1600年(慶長5年)8月から9月にかけて、

    美濃国(みののくに、現・岐阜県南部)の

    関ヶ原付近で、 

    奉行衆・毛利方の西軍主力本隊 と、 

    徳川方の東軍主力本隊 とが、

    戦った合戦であり、

    西軍が敗北し、東軍が勝利を得る。

 

  ● 関が原の戦いの決戦。

  ■ 関が原の戦いの決戦。

  ● 関が原の戦い(大垣・山中の戦い)の、

    1600年(慶長5年)9月15日の決戦(山中

    の戦い)では、

    徳川家康の率いる親徳川の徳川方の大名

    の東軍本隊 と、 

    石田三成らの率いる反徳川の奉行衆・毛利

    方の大名の西軍本隊とが、

    美濃国(みののくに、現・岐阜県南部)の

    山中(やまなか)村付近で決戦を行ない、

    半日で終わり、

    西軍が敗北し、東軍が勝利を得る。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1600年 (慶長 5年)。 

 

  ● 家康による「慶長5年の天下分

    け目の戦い」の戦後処理。

  ■ 1600年(慶長5年)の、「慶長5年の天下分

    け目の戦い」後、 徳川家康が、 勝った徳川

    方の東軍に与(くみ)した大名の加増等を行い、 

    負けた奉行衆・毛利方の西軍に与(くみ)した

    大名の改易、減封等の処分を行う。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

  ■ 徳川家康は、

    1600年(慶長5年)9月 15日の山中の決

    戦で勝利を得て、関が原の戦い(大垣・山

    中の戦い)の勝利後、

    1600年(慶長5年)9月 27日に、大阪城に

    入城し(出向き)、 家康の主君の豊臣秀頼と

    その後見人の淀の方(茶々、秀頼の生母)に、 

    徳川方の東軍の戦争の勝利を報告する。

       その後、1600年(慶長5年)9月から

    1601年(慶長6年)3月まで、徳川家康は、

    豊臣氏大老として、豊臣大阪城の西の丸で、

    豊臣氏の政務を行なう。

 

  ■ 慶長5年の天下分け目の戦い (関が原の

    戦い、その他日本各所の戦い)の戦後処理

    で、 豊臣家大老の徳川家康は、 豊臣氏

    の主君・豊臣秀頼の許しを得ず、 全国の大

    名の所領を、勝手に、処理する(加増、減封、

    移封、改易を行なう)。

 

  ● 豊臣家大老の徳川家康は、 豊臣氏本家

    (宗家)の所領も、処理(減封)し、 豊臣氏

    本家(宗家)は、65万石の一大名へ転落す

    る。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1600年 (慶長 5年)。 

 

  ● (R11 家康は、豊臣大阪城・

          西の丸を居住地とする。

  ● (R) 徳川家康の居住地の変遷。

  ■ (R1)⇒(R13)。 

     (R1)   岡崎城       (1542年ー1547年)、

     (R2)   熱田の館      (1547年ー1549年)、

     (R3)   駿府の館      (1549年ー1560年)、

     (R4)   岡崎城       (1560年ー1570年)、

     (R5)   浜松城       (1570年ー1586年)、 

     (R6)   駿府城       (1586年ー1590年)、

          (R7)   江戸城       (1590年ー1598年)、 

     (R8)   豊臣秀吉築・木幡山 伏見城

                 (1598年8月ー1599年9月)、

     (R9)   豊臣大阪城・西の丸

                 (1599年9月ー1600年6月)、 

     (R10)  江戸城       (1600年7月ー9月)、

     (R11)  豊臣大阪城・西の丸

                 (1600年9月ー1601年3月)、 

     (R12)  徳川家康築・木幡山伏見城

                    (1601年3月ー1607年)、 

     (R13)  駿府城       (1607年ー1616年)

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。 

 

  ■ (R11)  徳川家康 

    (生没年:1542年ー1616年)は、

    1600年(慶長5年)9月から

    1601年(慶長6年)3月まで、

    摂津国の、豊臣大阪城・西の丸 (とよ

    とみおおさかじょう・にしのまる)で

    居住する。

 

  ■ 豊臣大阪城・西の丸 (とよとみおおさか

    じょう・にしのまる)は、 摂津国(せっつの

    くに、現・大阪府西北部)にある。

 

  ■ 徳川家康は、

    1600年(慶長5年)9月 15日の山中の決

    戦で勝利を得て、関が原の戦い(大垣・山

    中の戦い)の勝利後、

    1600年(慶長5年)9月 27日に、大阪城に

    入城し(出向き)、 家康の主君の豊臣秀頼と

    その後見人の淀の方(茶々、秀頼の生母)に、

    徳川方の東軍の戦争の勝利を報告する。

       その後、1600年(慶長5年)9月から

    1601年(慶長6年)3月まで、徳川家康は、

    豊臣氏大老として、豊臣大阪城の西の丸で、

    豊臣氏の政務を行なう。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1600年 (慶長 5年)。 

 

  ● (P8) 家康は、豊臣大阪城・

         西の丸を政務居城と

         する。

  ● (P) 徳川家康の政務居城

        の変遷。 

  ■ (P1)⇒(P10)。

     (P1)   岡崎城       (1560年ー1570年)、

     (P2)   浜松城       (1570年ー1586年)、 

     (P3)   駿府城       (1586年ー1590年)、

     (P4)   江戸城       (1590年ー1598年)、 

     (P5)   豊臣秀吉築・木幡山伏見城

                 (1598年8月ー1599年9月)、 

     (P6)   豊臣大阪城・西の丸

                 (1599年9月ー1600年6月)、

     (P7)   江戸城        (1600年7月ー9月)、 

     (P8)   豊臣大阪城・西の丸

                 (1600年9月ー1601年3月)、 

     (P9)   徳川家康築・木幡山伏見城

                    (1601年3月ー1607年)、 

     (P10)  駿府城      (1607年ー1616年)

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。 

 

  ■ (P8) 徳川家康は、  

    (生没年:1542年ー1616年)は、

    1600年(慶長5年)9月から

    1601年(慶長6年)3月まで、

    摂津国の、豊臣大阪城・西の丸 (とよと

    みおおさかじょう・にしのまる)を、自分の

    (P)政務居城とする

 

  ■ 豊臣大阪城・西の丸 (とよとみおおさか

    じょう・にしのまる)は、 摂津国(せっつの

    くに、現・大阪府西北部)にある。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1601年 (慶長 6年)。 

 

  ● (R12)  家康は、徳川家康築・

          木幡山伏見城を居住

          地とする。

  ● (R) 徳川家康の居住地の変遷。

  ■ (R1)⇒(R13)。 

     (R1)   岡崎城       (1542年ー1547年)、

     (R2)   熱田の館      (1547年ー1549年)、

     (R3)   駿府の館      (1549年ー1560年)、

     (R4)   岡崎城       (1560年ー1570年)、

     (R5)   浜松城       (1570年ー1586年)、 

     (R6)   駿府城       (1586年ー1590年)、

          (R7)   江戸城       (1590年ー1598年)、 

     (R8)   豊臣秀吉築・木幡山 伏見城

                 (1598年8月ー1599年9月)、

     (R9)   豊臣大阪城・西の丸

                 (1599年9月ー1600年6月)、 

     (R10)  江戸城       (1600年7月ー9月)、

     (R11)  豊臣大阪城・西の丸

                 (1600年9月ー1601年3月)、 

     (R12)  徳川家康築・木幡山伏見城

                    (1601年3月ー1607年)、 

     (R13)  駿府城       (1607年ー1616年)

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。 

 

  ■ (R12)  徳川家康 

    (生没年:1542年ー1616年)は、

    1601年(慶長6年)3月から

         1607年(慶長12年)まで、

    山城国の、徳川家康築・木幡山伏見城

    (こはたやまふしみじょう)で

    居住する。

 

  ■ 徳川家康築・木幡山伏見城 (こはたやま

    ふしみじょう)は、 山城国(やましろのくに、

    現・京都府南部)にある。

 

  ■ 徳川家康築・木幡山伏見城で徳川家康は

    豊臣氏大老 として、豊臣氏の政務を行なう。

  ● 徳川家康は、  

    1601年(慶長6年)3月に、豊臣大阪城・

    西の丸を去り、 1600年(慶長5年)に破

    壊された豊臣秀吉築・木幡山伏見城の跡

    地に新たに再建された徳川家康築・木幡山

    伏見城で、 1601年(慶長6年)3月から

    1603年(慶長8年)2月まで、豊臣氏大老

    として、豊臣氏の政務を行なう。

 

  ■ 徳川家康築・木幡山伏見城で徳川家康は

    江戸幕府の政務を行う。

     ● 徳川家康は、 1603年(慶長8年)2月に、

    徳川家康築・木幡山伏見城で、朝廷より、

    征夷大将軍の宣下を受けた後は、徳川家

    康築・木幡山伏見城で、1607年(慶長12

    年)まで、新しく創立した江戸幕府の政務を

    行なう。

  ● 大御所政治

      徳川家康は、 1605年(慶長10年)の

    隠居後から、徳川家康築・木幡山伏見城 

    (こはたやまふしみじょう)で、1607年(慶

    長12年)まで、江戸幕府の政務を行なう。

    

 

 ■ 1601年 (慶長 6年)。 

 

  ● (P9) 家康は、徳川家康築・

         木幡山伏見城を政務

              居城とする。

  ● (P) 徳川家康の政務居城

        の変遷。 

  ■ (P1)⇒(P10)。

     (P1)   岡崎城       (1560年ー1570年)、

     (P2)   浜松城       (1570年ー1586年)、 

     (P3)   駿府城       (1586年ー1590年)、

     (P4)   江戸城       (1590年ー1598年)、 

     (P5)   豊臣秀吉築・木幡山伏見城

                 (1598年8月ー1599年9月)、 

     (P6)   豊臣大阪城・西の丸

                 (1599年9月ー1600年6月)、

     (P7)   江戸城        (1600年7月ー9月)、 

     (P8)   豊臣大阪城・西の丸

                 (1600年9月ー1601年3月)、 

     (P9)   徳川家康築・木幡山伏見城

                    (1601年3月ー1607年)、 

     (P10)  駿府城      (1607年ー1616年)

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。 

 

  ■ (P9) 徳川家康は、  

    (生没年:1542年ー1616年)は、

    1601年(慶長6年)3月から

         1607年(慶長12年)まで、

    山城国の、徳川家康築・木幡山伏見城

    (こはたやまふしみじょう)を、自分の

    (P)政務居城とする

 

  ■ 徳川家康築・木幡山伏見城 (こはたやま

    ふしみじょう)は、 山城国(やましろのくに、

    現・京都府南部)にある。

 

 

 

 ▼ 徳川家康の豊臣氏への裏切り。

 

 ■ 1603年 (慶長 8年)。

 

  ● 家康は、江戸幕府を開く。

  ● 家康は、江戸幕府の初代将軍

    となる。

  ● 江戸幕府が始まる。

  ■ 1603年(慶長8年)に、 徳川家康が、

   征夷大将軍となり、江戸幕府(= 徳川幕府)を

   開く。 家康が江戸幕府の初代将軍となる。

 

  ■ 1603年(慶長8年)に、 豊臣氏の家臣

   で大老の、徳川家康が、 主君の豊臣氏の

   許可を得ず、勝手に、征夷大将軍となり、 

   徳川氏が、江戸幕府(= 徳川幕府)を開く。 

 

  ■ 1603年(慶長8年)2月12日に、徳川

   家康は、 朝廷より、征夷大将軍の宣下、

   源氏長者の宣下を受け、右大臣に叙任さ

   れる。

      徳川家康は、 1603年(慶長8年)

   10月16日に、右大臣を辞任し、1605年

   (慶長10年)4月16日に、征夷大将軍を

   辞職する。

 

  ■ 豊臣秀頼の後見人であるはずの徳川

   家康の将軍就任という出来事に、 淀の

   方(茶々)は、豊臣氏への裏切りと驚く。 

      しかし、 慶長の天下分け目の戦い

   (関が原の戦い、他)で負けて家康に許さ

   れて(領地)減封となった奉行衆・毛利方

   の西軍の豊臣氏家臣 や 慶長の天下分

   け目の戦い(関が原の戦い、他)で勝って

   家康より領地を加増された徳川方の東軍

   の豊臣氏家臣は、 この出来事に驚くが、 

   豊臣氏に代わり、 徳川氏を主君とするこ

   とに、已(や)むを得えず、同意する。

      その結果、徳川氏が、 豊臣氏に代

   わって、日本を支配、統治することとなる。 

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1605年 (慶長10年)。

 

  ● 家康は将軍職を徳川秀忠に

    譲る。

  ● 将軍職の徳川氏世襲。

  ■ 1605年(慶長10年)に、 徳川家康が、

    江戸幕府の将軍職を、家康の男子の徳川

    秀忠に譲る。 

       これによって、徳川氏が将軍職を代々

    世襲することを天下に示す。

 

  ● 家康は、 将軍職を自分の子に譲ること

    により、 天下人(てんかびと、日本の支

    配者)は、 持ち回りではなく (その時の

    政治の実力者が代わる代わるなるもの

    ではなく)、 徳川氏(徳川将軍家)の当主

    (将軍)が、 今後、長期間、ずっと引き継

     ぐ(世襲する)ことを、 天下(日本の民衆) 

    に示す。

 

  ● 徳川家康の大御所政治開始。

  ● 家康は、伏見城で、大御所

    政治を行なう。

  ■ 徳川家康は、 1605年(慶長10年)に、

   隠居(いんきょ)するが、引き続き、大御所

   (おおごしょ)として、1616年(元和2年)に

   死去するまで、江戸幕府の政治の実権をも

   つ (1605年ー1616年)。

 

  ● 徳川家康は、 1605年(慶長10年)の隠

    居後から、徳川家康築・木幡山伏見城 (こ

    はたやまふしみじょう)で、その後は、駿府城

    (すんぷじょう)で、徳川家康は、新しく創立

    した江戸幕府の政務を行ない、大御所政治

    を行う。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1607年 (慶長12年)。 

 

  ● 家康は、駿府城で、大御所

    政治を行なう。

  ■ 駿府城で徳川家康は大御所政治を行う。

  ● 1607年(慶長12年)に、徳川家康は、

   政務の居城を、伏見城より駿府城に移し、  

   引き続き、大御所として、駿府城で、1616

   年(元和2年)に死去するまで、江戸幕府の

   政治の実権をもち、政治にに関与する。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1607年 (慶長12年)。

 

  ● (R13)  家康は、駿府城

                      居住地とする。

  ● (R) 徳川家康の居住地の変遷。

  ■ (R1)⇒(R13)。 

     (R1)   岡崎城       (1542年ー1547年)、

     (R2)   熱田の館      (1547年ー1549年)、

     (R3)   駿府の館      (1549年ー1560年)、

     (R4)   岡崎城       (1560年ー1570年)、

     (R5)   浜松城       (1570年ー1586年)、 

     (R6)   駿府城       (1586年ー1590年)、

          (R7)   江戸城       (1590年ー1598年)、 

     (R8)   豊臣秀吉築・木幡山 伏見城

                 (1598年8月ー1599年9月)、

     (R9)   豊臣大阪城・西の丸

                 (1599年9月ー1600年6月)、 

     (R10)  江戸城       (1600年7月ー9月)、

     (R11)  豊臣大阪城・西の丸

                 (1600年9月ー1601年3月)、 

     (R12)  徳川家康築・木幡山伏見城

                    (1601年3月ー1607年)、 

     (R13)  駿府城       (1607年ー1616年)

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。 

 

  ■ (R13)  徳川家康 

    (生没年:1542年ー1616年)は、

    1607年(慶長12年)から

         1616年(元和2年)まで、

    駿河国の、駿府城(すんぷじょう)で

    居住する。

 

  ■ 駿府城(すんぷじょう)は、 駿河国 (する

    がのくに、現・静岡県中部)にある。

 

  ■ 徳川家康築・木幡山伏見城 (こはたやま

    ふしみじょう)は、 山城国(やましろのくに、

    現・京都府南部)にある。

 

  ■ 1607年(慶長12年)に、新しく建設した

    駿府城(すんぷじょう)が完成したので、

    徳川家康は、徳川家康築・ 木幡山伏見城

    を去り、 駿府城を政務居城とする。 

        徳川家康は、駿府城で、新しく創 立

    した江戸幕府の政務を引き続き、行なう

    (大御所政治)。

 

  ■ 駿府城で徳川家康は大御所政治を行う。

  ● 1607年(慶長12年)に、徳川家康は、

   政務の居城を、伏見城より駿府城に移し、  

   引き続き、大御所として、駿府城で、1616

   年(元和2年)に死去するまで、江戸幕府の

   政治の実権をもち、政治に関与する。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

  ■ 1616年(元和2年)4月17日に、 徳川家

   康が、駿府城で、死去する (享年75歳)。

 

 

 ■ 1607年 (慶長12年)。

 

  ● (P10) 家康は、駿府城

          政務居城とする。

  ● (P) 徳川家康の政務居城

         の変遷。 

  ■ (P1)⇒(P10)。

     (P1)   岡崎城       (1560年ー1570年)、

     (P2)   浜松城       (1570年ー1586年)、 

     (P3)   駿府城       (1586年ー1590年)、

     (P4)   江戸城       (1590年ー1598年)、 

     (P5)   豊臣秀吉築・木幡山伏見城

                 (1598年8月ー1599年9月)、 

     (P6)   豊臣大阪城・西の丸

                 (1599年9月ー1600年6月)、

     (P7)   江戸城        (1600年7月ー9月)、 

     (P8)   豊臣大阪城・西の丸

                 (1600年9月ー1601年3月)、 

     (P9)   徳川家康築・木幡山伏見城

                    (1601年3月ー1607年)、 

     (P10)  駿府城      (1607年ー1616年)

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。 

 

  ■ (P10) 徳川家康は、  

    (生没年:1542年ー1616年)は、

    1607年(慶長12年)から

         1616年(元和2年)まで、

    駿河国の、駿府城(すんぷじょう)を、

    自分の(P)政務居城とする

 

  ■ 駿府城(すんぷじょう)は、 駿河国 (する

    がのくに、現・静岡県中部)にある。

 

 

 ▼ 徳川家康が豊臣氏を滅亡させる

    戦略をねる。

 

 ■ 1611年(慶長16年)。

 

  ● 家康が豊臣秀頼と会う。 

  ■ 1611年(慶長16年)に、京(きょう、京都)

   の二条城で、 徳川家康が、 成長し立派に

   なった、豊臣秀頼に会う。 

 

  ■ 1611年(慶長16年)に、豊臣秀頼に会った

    徳川家康は、 豊臣氏隆盛を恐れ、豊富秀頼

    排除の意向を固める。

 

  ● 家康は、 豊臣恩顧の大名が 将来、立派に

    なった豊臣氏当主の豊臣秀頼に集まり、 

    天下(日本の支配権)を徳川家より奪うので

    はないかと恐れ、今後、機会があれば言いが

    かりをつけて、豊臣秀頼を排除しようと考える。

 

  ● 豊臣秀頼と徳川家康の会見時、 家康は、 

   立派になりカリスマ性をもつ豊臣秀頼に会っ

   て驚き、 家康は、内心で、 全国の豊臣恩

   顧の大名が立派になった豊臣秀頼に将来参

   陣し、徳川氏の支配がひるがえることを恐れ、

   豊臣秀頼を排除する決意を固める。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ▼ 豊臣氏と徳川氏との戦争。

 

 ■ 1614年 (慶長19年)。

 

  ● 方広寺鐘銘事件が起こる。

  ■ 1614年(慶長19年)7月に、方広寺鐘銘

   事件(ほうこうじしょうめいじけん)が起こる。  

 

  ● 家康は、豊臣氏を滅ぼすための戦いの大義

    名分を得るため、方広寺鐘銘事件を起こす。

 

  ● 徳川家康が、 豊臣氏の寺の方広寺(ほう

   こうじ)の鐘(かね)には、 家康に対するいく

   つかの呪い文がある と、豊臣氏へ言いがか

   りをつける。 

     その1つとしては、 鐘(かね)の文に、 

   「 国家安康 」 の文字があり、 その、国  

   安  は、家康を裂き、家康を呪う文で ある

   とした。 

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1614年 (慶長19年)。

 

  ● 大阪冬の陣が起こる。

  ■ 豊臣氏と徳川氏との戦争である大阪の陣。

     1614年(慶長19年)10月に、に、大阪冬

   の陣がおこる。 

 

  ■ 徳川家康は、 

   豊臣家の寺の方広寺の鐘に「国家安康」という

   呪い文ありという言いがかりをつけ

   (方広寺鐘銘事件)、 

   それを許すために、豊臣氏に

   「秀頼江戸参勤、

   国替え(大阪城明け渡し)、 

   淀殿(茶々)人質」、 

   のどれかの条件を要求し、豊臣氏を怒らせ、

   戦争を引き起こさせる。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

  ■ 大阪冬の陣の戦争の経過と結果。 

  ● 大阪冬の陣の経過。 

      豊臣家の軍と徳川家の軍が戦うが、豊臣

    大阪城の周囲の外堀(そとぼり)に阻(はば)

    まれて、 徳川軍が勝てず。 

       豊臣方の軍と徳川方の軍が戦うが、 

    真田幸村(信繁)など豊臣方の浪人の奮戦

    と大阪城の周囲の外堀に阻(はば)まれて、 

    徳川方の軍が勝てず。 豊臣方の食糧・弾

    薬の欠乏や淀の方の大砲の恐怖で、豊臣方

    も戦争の継続を望まず。 

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

  ■ 大阪冬の陣の結果。 

       大阪城の本丸以外の建物・柵を壊し、

   大阪城の周囲の堀を 埋めるという条件で、 

   豊臣方と徳川方の間に、1614年12月に、

   大阪冬の陣の終戦の和議が成立する。

 

  ● 大阪冬の陣の停戦交渉は、1614年12

   月18日より、徳川方の使者の本多正純(ほ

   んだまさずみ、家康の側近)、阿茶局(あち

   ゃのつぼね) と、 豊臣方の使者の常高院

   (じょうこういん、淀殿の妹、お江の姉)との

   間で行われ、12月19日に講和条件が合意

   され、20日に誓書が交換された

      豊臣方と徳川方の間の和議の取り決め

   で、大阪城の本丸以外の建物・柵を壊し、

   大阪城の周囲の堀を埋めることが決まった。

 

  ● 1614年12月〜1615年1月に、徳川家

   康は、 豊臣大阪城の本丸以外の建物・柵を

   壊し、大阪城の周囲の堀を埋める。

      そして、豊臣大阪城の三の丸の建物・柵

   と外堀は、徳川方が壊し埋め、 大阪城の

   の丸の建物・柵と内堀は、豊臣方が壊し埋め

   るという破却・埋め立ての作業配分(受け持

   ち)も決まった。 

       ところが、 徳川方は、大阪城の三の丸

   の建物・柵と外堀を壊し埋めたあと、 さらに、

   豊臣方 の大阪城の二の丸の建物・柵と内堀

   の破壊・埋め立て工事が進んでいないのを見

   て、徳川方は、豊臣方に代わって、大阪城の

   二の丸の建物・柵と内堀も、壊し埋める (16

   15年1月に完了した)。                  

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1615年 (慶長20年)。

 

  ● 大阪夏の陣が起こる。

  ● 豊臣氏が滅亡する。

  ■ 1615年(慶長20年)4月に、 大阪夏の陣

   が起こり、5月に、豊臣氏が滅亡する。

 

  ■ 1615年(慶長20年)に、 徳川方は、豊臣

   方の大阪城の浪人が大阪城を退城しないこと

   に豊臣方に不信感を抱(いだ)く。

      大阪冬の陣の終戦の和議では、徳川方は

   大阪城の浪人に対し助命という意味で不問にし

   たので、 豊臣方は、豊臣大阪城の浪人をこの

   まま 召抱(めしかか)えてもよいと解釈したため

   である。

 

  ● 徳川家康は、 豊臣方に、更に、浪人の解雇

   または豊臣家の移封、即ち、大阪城内の浪人の

   総追放または国替え( 豊臣大阪城明け渡し)を

   要求した。

      それが受入れられないと、 1615年(慶長

   20年)4月に、家康は、諸大名に鳥羽・伏見に

   集結するように命じ、戦争を再開する。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

  ■ 徳川家康は、 豊臣方に、無理な要求をし、

   受入れられないと、 戦争を再開する。

 

  ● 徳川家康は、 大阪城内浪人の総追放また

   は国替え(豊臣大阪城の明け渡し)を要求し、 

   豊臣氏が、和議の条件の(豊臣大阪城の)埋

   めた堀を元に戻そうとし始めると (慌(あわ)

   てた豊臣氏が、堀を元に戻すため、掘り起こし

   始めると)、和議条件違反を理由に、戦争を再

   開する。

 

  ● 家康は、豊臣方に、大阪城内の浪人の退去、

   または、国替えによる 豊臣大阪城退去を求め

   たが、豊臣氏に聞きいれられず。 

      その家康の更なる要求を警戒した豊臣氏

   が、柵を作り、堀を元に戻すため掘り起 こし始

   める。 家康は、それを和議違反とし(和議の条

   件違反を理由に)、戦争(大阪夏の陣)を1615

   年(慶長20年)4月に、再開する。  

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

  ■ 豊臣氏と徳川氏との戦争である大阪の陣。

      1615年(慶長20年)4月に、大阪夏の 

    陣(1615年4〜5月) が起こる。 

 

  ■ 大阪夏の陣の戦争の経過と結果。 

  ● 経過と結果。 

      豊臣軍は奮戦するが、 豊臣軍の本拠

   地の豊臣大阪城は 外堀も内堀もない、堀

   のない裸城のため、徳川軍に侵入され、炎

   上し、消滅する。

      1615年(慶長20年)に、豊臣方は、豊 

   臣大阪城の外周部で奮戦するが、徳川方が

   豊臣大阪城本丸に迫り、 豊臣軍の本拠地の

   豊臣大阪城は 本丸以外の建物や柵もなく堀

   のない裸城(はだかじろ)のため、 徳川軍に

   容易に侵入され、1615年(慶長20年)5月

   に、炎上し、消滅する。

 

  ● 1615年(慶長20年)5月に、豊臣大阪城

   にいた、淀殿(茶々) と 淀殿の子の豊臣秀

   頼(享年23歳)は、自害する。

 

  ● 1615年(慶長20年)5月に、大阪夏の陣

   で、豊臣氏が滅亡する。 

      ここに、豊臣方と徳川方との戦争は、終

   結する。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1615年 (慶長20年・元和元年)。 

 

  ● 慶長年号から元和年号に改元。

     元和年号1615年ー 1624年。

  ■ 1615年(慶長20年・元和 元年)に、

    元和(げんな)年号に改元。 

  ● 1615年慶長20年・元和 元年)7月13日に、 

    和暦の「慶長」(けいちょう、

    慶長元年・1596年〜慶長20年・1615年)

    が、  

    和暦の「元和」(げんな、 

    元和 元年・1615年・ 7月13日〜 

    元和10年・1624年・ 2月30日) に

    改元される。 

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1616年 (元和2年)。

 

  ● 徳川家康が死去する。

  ■ 1616年(元和2年)4月17日に、 徳川家

    康が、死去する。 (数え年)享年75歳で

    あった。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

□ 徳川家康の居住地、本城、政務居城の変遷へ

□ 徳川家康の居住地の変遷へ

□ 徳川家康の本城の変遷へ

□ 徳川家康の政務居城の変遷へ

 

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#jpcontentsofthisbook

 

◆ 徳川家康 関連年代順

   出来事ブックの内容 :

 

  ■ 初学者・初心者向 徳川 家康 ガイドブック。

 

  ■ 初学者・初心者向 徳川 家康 (とくがわ いえ 

    やす)関連 電子書籍。

 

  ■ パソコン、携帯パソコン(PC)、タブレット端末

    (PC)、スマートフォン、ウェアラブル端末、

    スマートテレビ用 電子書籍。

 

  ■ この本1冊で(このホームページ1つで)、徳川

    家康のこと(概略)が、一通り、わか る。

 

  ■ 徳川家康は、 室町時代後期(戦国時代、14

    67年〜1573年)、安土桃山時代(1573〜

    1603年)、江戸時代(1603〜1868年)初期 

    の武将であり、 三河国(みかわのくに、現在の

    愛知県東部の相当地域)の戦国大名、国主であ

    り、 後に、関が原の戦い(大垣・山中の戦い)で

    勝利を得て、 江戸幕府(= 徳川幕府)を創立し、

    日本全国を統治する。

 

  ■ 徳川 家康 ガイドブック (要覧)。

 

  ■ 徳川 家康 の 入門ガイドブック。

 

  ■ 徳川 家康 の 初学者・初心者向 インターネット

    用 オンライン書籍(ブック)。

 

  ■ 日本史書、日本史の電子書籍。

 

  ■ パソコン、携帯情報端末(PDA)用 電子書籍。

 

  ■ TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

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#jphappenings/summary

 

 

◆ 徳川家康 関連

   出来事 (概要・総合)。

 

 □ 徳川家康 関連出来事

    (概要・テーマ別各事柄)

 

 

  ■ 当書籍では、 歴史の出来事の5W1H

    (いつ、どこで、だれが、何を、なぜ、どの

    ように) や、 歴史の出来事の流れ(原因

    理由⇒事件勃発⇒経過⇒結果⇒原因理

    由)に沿って、歴史(過去)の出来事を分か

    り易く、説明している。

 

 

 ■ 徳川家康。

  ■ 徳川 家康 (とくがわ いえやす、生没年:

    1542年(天文11年)ー1616年(元和2

    年))は、 江戸幕府 (= 徳川幕府、16

    03年ー1867年)の創立者(創始者)であ

    り、 江戸幕府の、初代将軍 (将軍在任:

    1603年〜1605年)である。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。 

 

 

 ■ 徳川家康。

 

  ■ 徳川 家康・江戸幕府の初代将軍就任。

  ● 1603年(慶長8年)に、徳川 家康 (とくが

    わ いえやす、安国院、東照大権現、生没年:

    1542年〜1616年) は、 江戸幕府(= 徳  

    川幕府)の初代将軍 (将軍在任:1603年

    〜1605年)に就任する  

 

  ■ 徳川家康は、 将軍退任後、 江戸幕府(徳川

    宗家(本家))の大御所(おおごしょ、1605年

    ー1616年)となり、江戸幕府の基盤を強化す

    る。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。 

 

 

 ■ 徳川家康。

 

   ■ 徳川家康 (幼名:竹千代(たけちよ)、

    生没年:1542年〜1616年)は、

    1542年(天文12年)12月26日に、

    三河国(みかわのくに、現・愛知県東部)の

    岡崎城主・松平広忠(まつだいらひろただ)

    と、 水野氏出身の於大の方 (おだいのか

    た)との間に生まれる。

   ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。 

 

   ● 徳川家康 (幼名:竹千代、1542年ー

    1616年)は、 

    1542年(天文12年)12月に三河国の

    岡崎城主・松平広忠の子として、生まれ、

    1544年(天文13年)に、数え年3歳で、

    母の於大の方と生 き別れ、

    1547年(天文16年)8月に、数え年6歳で、

    織田氏の人質となり、 

    1549年(天文18年)3月に、数え年8歳で、

    父の松平広忠と死別し、

    1549年(天文18年)11月に、数え年8歳で、

    今川氏の人質となり(保護下に入り)、 

    1555年(天文24年)3月に、数え年14歳で

    今川義元の下で元服し(成人し)、

    1560年(永禄3年)5月に、数え年19歳で、

    桶狭間の戦いでの今川義元敗死で、今川氏

    の人質から解放され(今川氏に保護され厚

    遇されていたが)、独立し、

    1566年(永禄9年)に、数え年25歳で、三河

    松平氏念願の三河国を統一し三河守に叙任

    され、徳川氏を名乗り、

    1603年(慶長8年)2月に、数え年62歳で、

    征夷大将軍に叙任され、江戸に、幕府を開き、

    1616年(元和2年)4月に、数え年75歳で、

    駿河国(すんぷのくに、現・静岡県中部)の

    駿府城(すんぷじょう)で、病死する。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。 

 

 

 ■ 徳川姓。

 

    ■ 1566年(永禄9年)に、家康は、朝廷から三河

     守(みかわのかみ)に叙任され、  松平氏の祖

     とされる世良田氏(せらだし)の世良田義季が

     得川を名乗っていたことから、同時に家康個人

     のみの氏を松平から「徳川」に改称し、 徳川三

     河守家康 (とくがわみかわのかみいえやす)と

     なる。

 

   ■ 1566年(永禄9年)に、朝廷から三河守(み

     かわのかみ)に叙任される。

         同時に、家康個人の氏を松平から「徳

     川」に改称し、徳川三河守家康 (とく

     がわみかわのかみいえやす)となる。

        鎌倉時代に、上野国新田郡世良田郷(現・

     群馬県太田市世良田町)の、鎌倉幕府の御家

     人の新田源氏の新田義季(にったよしすえ)は、

     世良田義季、得川義季と称し、世良田氏(せら

     だし、せらたし)祖となり、その子の世良田頼氏

     (せらだよりうじ)が三河守に任官する。

        その後、室町時代に、世良田頼氏の子孫

     の世良田親氏(せらだちかうじ)は、 南朝方の

     武士で、北朝方の追補を逃れて、三河国に流

     れ着き、松平郷の松平信重の娘婿となり、松平

     氏の名跡を継ぎ、松平親氏と名乗る。

        家康の祖父・松平清康は新田源氏の世良

     田氏(せらだし)の後裔と称していた。 

        朝廷の公卿の近衛前久(このえさきひさ)

     は世良田義季が得川を名乗った文献を見つけ、

     家康は、家康個人のみの氏を徳川と改姓する。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。 

 

 

 ■ 徳川家康。

 

  ■ 徳川家康には、16人の子がいた。

 

  ■ 徳川家康は、 徳川氏本家(宗家)当主

    (当主:1566年ー1605年)である。 

             

  ■ 徳川家康は、 安土桃山時代に、豊臣氏の

    家臣(1586年ー1603年)で、豊臣政権の

    大老筆頭(1598年−1603年)となる。

 

  ■ 徳川家康は、 室町時代後期(戦国時代)、

    安土桃山時代に、織田信長の同盟者(15

    62年ー1582年)であった。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。 

 

 ■ 徳川家康。

 

  ■ 徳川家康は、 三河国の国人(こくじん)

    出身の戦国大名である。

 

  ■ 徳川家康は、 三河国 (みかわのくに、現・

    愛知県東部の相当地域)の武将、国人領主、

    戦国大名、国主(こくしゅ)であった。

 

  ■ 徳川家康は、 三河国(みかわのくに、愛知

    県東部の相当地域岡崎城・城主松平広

    (まつだいらひろただ)の子である。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。 

 

 

□ 徳川家康の居住地、本城、政務居城の変遷へ

□ 徳川家康の居住地の変遷へ

□ 徳川家康の本城の変遷へ

□ 徳川家康の政務居城の変遷へ

 

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#jphappenings/summary-a

 

 

◆ 徳川家康 関連

   出来事 (概要・

   テーマ別各事柄)。

 

  □ 徳川家康 居住地、

     本城・居城の変遷

 

    □ 徳川家康の居住地の変遷

    □ 徳川家康の本城・居城の変遷

    □ 徳川家康の政務居城の変遷

 

 

 

#jphappenings/summary-per2110

 

 

#jphappenings/summary-f

 

◆ 徳川家康の居住地、

     本城、政務居城の

   変遷。

 

  □ 徳川家康の居住地

     の変遷

 

  □ 徳川家康の本城

         の変遷

 

  □ 徳川家康の政務居城

         の変遷

 

 

 

□ 徳川家康の居住地、本城、政務居城の変遷へ

□ 徳川家康の居住地の変遷へ

□ 徳川家康の本城の変遷へ

□ 徳川家康の政務居城の変遷へ

 

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#jphappenings/summary-f1

 

 

◆ 徳川家康の居住地

   の変遷。

 

 ■ (R) 徳川 家康の居住地の変遷。

  ■ (R1)⇒(R13)。 

     (R1)   岡崎城       (1542年ー1547年)、

     (R2)   熱田の館      (1547年ー1549年)、

     (R3)   駿府の館      (1549年ー1560年)、

     (R4)   岡崎城       (1560年ー1570年)、

     (R5)   浜松城       (1570年ー1586年)、 

     (R6)   駿府城       (1586年ー1590年)、

          (R7)   江戸城       (1590年ー1598年)、 

     (R8)   豊臣秀吉築・木幡山 伏見城

                 (1598年8月ー1599年9月)、

     (R9)   豊臣大阪城・西の丸

                 (1599年9月ー1600年6月)、 

     (R10)  江戸城       (1600年7月ー9月)、

     (R11)  豊臣大阪城・西の丸

                 (1600年9月ー1601年3月)、 

     (R12)  徳川家康築・木幡山伏見城

                    (1601年3月ー1607年)、 

     (R13)  駿府城       (1607年ー1616年)

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。 

 

  ■ 徳川家康 (生没年:1542年ー1616年)は、

    自分の(R)居住地を、次のような 順序で、移

         動する

             

  ● (R1) 岡崎城 (おかざきじょう、三河国 

          (みかわのくに、現・愛知県東部))に、

          1542年(天文11年)から

          1547年(天文16年)まで

          居住する。

                  

  ● (R2) 熱田の館 (あつたのやかた 、尾張国

         (おわりのくに、現・愛知県西部))に、

         1547年(天文16年)から

         1549年(天文18年)まで

         居住する。

 

  ● (R3) 駿府の館 (すんぷのやかた、駿河国

         (するがのくに、現・静岡県中部))に、

         1549年(天文18年)から

         1560年(永禄3年)まで

         居住する。

             

  ● 4) 岡崎城  (おかざきじょう、三河国

          (みかわのくに、現・愛知県東部))に、

         1560年(永禄3年)から

         1570年(元亀元年)まで

         居住する。

             

  ● R5) 浜松城 (はままつじょう、遠江国

         (とおとうみのくに、現・静岡県西部))に、

         1570年(元亀元年)から

                    1586年(天正14年)まで

         居住する。 

 

  ● R6) 駿府城 (すんぷじょう、駿河国 (する

         がのくに、現・静岡県中部))に、

         1586年(天正14年)から

                    1590年(天正18年)まで

         居住する。

 

  ● R7) 江戸城 (えどじょう、武蔵国 (むさしの

         くに、現・東京都・神奈川県))に、

         1590年(天正18年)から

                    1598年(慶応3年)まで

         居住する。    

 

  ● R8) 豊臣秀吉築・木幡山 伏見城 (こは

         たやまふしみじょう、山城国(やま

         しろのくに、現・京都府南部))に、

         1598年(慶長3年)8月から

              1599年(慶長4年)9月まで、

         居住する (豊臣氏大老として)。

 

  ● R9) 豊臣大阪城・西の丸  (とよとみおおさ

         かじょう・にしのまる、摂津国(せっつの

         くに、現・大阪府西北部))に、

         1599年(慶長4年)9月から

         1600年(慶長5年)6月まで

         居住する (豊臣氏大老として)。

 

     ● R10) 江戸城 (えどじょう、武蔵国 (むさ

           しのくに、現・東京都・神奈川県))に、

          1600年(慶長5年)7月から

          1600年(慶長5年)9月まで、

          居住する。    

 

  ● R11) 豊臣大阪城・西の丸  (摂津国)に、

          1600年(慶長5年)9月から

          1601年(慶長6年)3月まで、

          居住する (豊臣氏大老として)。

 

  ● R12) 徳川家康築・木幡山  (こはたやまふ

          しみじょう、山城国(やましろのくに、

          現・京都府南部))に、

          1601年(慶長6年)3月から

                1607年(慶長12年)まで、

          居住する。

 

  ● R13) 駿府城 (すんぷじょう、駿河国 

          (するがのくに、現・静岡県中部))に、

          1607年(慶長12年)から

                1616年(元和2年)まで、

          居住する。

 

 

□ 徳川家康の居住地、本城、政務居城の変遷へ

□ 徳川家康の居住地の変遷へ

□ 徳川家康の本城の変遷へ

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#jphappenings/summary-f2

 

 

◆ 徳川家康の本城

   の変遷。

 

 ■ (C) 徳川家康の本城の変遷。

  ■ (C1)⇒(C4) 。

          (C1)   岡崎城       (1560年ー1570年)、

     (C2)   浜松城       (1570年ー1586年)、

     (C3)   駿府城      (1586年ー1590年)、

          (C4)   江戸城       (1590年ー1616年)。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。 

 

  ■ 徳川家康 (生没年:1542年ー1616年)は、

    自分の(C)本城(ほんじょう、= 本拠地の城)を、

    次のような順序で、移動する

             

  ● (C1) 岡崎城 (おかざき じょう、三河国

         (みかわのくに、現・愛知県東部))を、

         1560年(永禄3年)から

                 1570年(元亀元年)まで

         本城とする

 

  ● (C2) 浜松城 (はままつ じょう、遠江国

         (とおとうみのくに、現・静岡県西部))を、

         1570年(元亀元年)から

                    1586年(天正14年)まで

         本城とする

 

  ● (C3) 駿府城 (すんぷ じょう、駿河国 (する

         がのくに、現・静岡県中部))を、

         1586年(天正14年)から

                    1590年(天正18年)まで

         本城とする

 

  ● (C4) 江戸城 (えどじょう、 武蔵国 (むさしの

         くに、現・東京都・神奈川県))を、

         1590年(天正18年)から

                    1616年(元和2年)まで

         本城とする

 

 

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#jphappenings/summary-f3

 

 

◆ 徳川家康の政務

   居城の変遷。

 

 ■ ) 徳川 家康の政務居城の変遷。

  ■ (P1)⇒(P10)。

     (P1)   岡崎城       (1560年ー1570年)、

     (P2)   浜松城       (1570年ー1586年)、 

     (P3)   駿府城       (1586年ー1590年)、

     (P4)   江戸城       (1590年ー1598年)、 

     (P5)   豊臣秀吉築・木幡山伏見城

                 (1598年8月ー1599年9月)、 

     (P6)   豊臣大阪城・西の丸

                 (1599年9月ー1600年6月)、

     (P7)   江戸城        (1600年7月ー9月)、 

     (P8)   豊臣大阪城・西の丸

                 (1600年9月ー1601年3月)、 

     (P9)   徳川家康築・木幡山伏見城

                    (1601年3月ー1607年)、 

     (P10)  駿府城      (1607年ー1616年)

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ハンドブック。 

 

  ■ 徳川家康 (生没年:1542年ー1616年)は、

    自分の(政務居城を、次のような 順序で、

    移動する

             

  ● 1) 岡崎城 (おかざきじょう、三河国

         (みかわのくに、現・愛知県東部)を、

         1560年(永禄3年)から

                 1570年(元亀元年)まで

         政務居城とする

 

  ● 2) 浜松城 (はままつじょう、遠江国

         (とおとうみのくに、現・静岡県西部))を、

         1570年(元亀元年)から

                    1586年(天正14年)まで

         政務居城とする

 

  ● 3) 駿府城 (すんぷじょう、駿河国 (する

         がのくに、現・静岡県中部))を、

         1586年(天正14年)から

                    1590年(天正18年)まで

         政務居城とする

 

  ● 4) 江戸城 (えどじょう、武蔵国 (むさし

         のくに、現・東京都・神奈川県))を、

         1590年(天正18年)から

                    1598年(慶応3年)まで

         政務居城とする

 

  ● 5) 豊臣秀吉築・木幡山伏見城 (こはた

         やまふしみじょう、山城国(やましろの

         くに、現・京都府南部))を、

         1598年(慶長3年)8月から

              1599年(慶長4年)9月まで、

         政務居城とする (豊臣氏大老として)。     

 

  ● 6) 豊臣大阪城・西の丸 (とよとみおおさ

         かじょう・にしのまる、摂津国(せっつの

         くに、現・大阪府西北部))を、

         1599年(慶長4年)9月から

         1600年(慶長5年)6月まで

         政務居城とする (豊臣氏大老として)。

 

     ● 7) 江戸城 (えどじょう、武蔵国 (むさ

          しのくに、現・東京都・神奈川県))を、

          1600年(慶長5年)7月から

          1600年(慶長5年)9月まで、

          政務居城とする。 

 

  ● 8) 豊臣大阪城・西の丸 (摂津国)を、

         1600年(慶長5年)9月から

         1601年(慶長6年)3月まで、

         政務居城とする (豊臣氏大老として)。

 

  ● 9) 徳川家康築・木幡山 (こはたやまふ

         しみじょう、山城国(やましろのくに、

         現・京都府南部))を、

         1601年(慶長6年)3月から

               1607年(慶長12年)まで、

         政務居城とする

 

  ● 10) 駿府城 (すんぷじょう、駿河国 

          (するがのくに、現・静岡県中部))を、

          1607年(慶長12年)から

                1616年(元和2年)まで、

          政務居城とする。    

 

 

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 『 あなたのハートには 

   何が残りましたか? 』

 

 

 

以  上。