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KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY HANDBOOK.
◆ カナヤマ織田 信長ガイドブック。
KANAYAMA’S ODA NOBUNAGA GUIDEBOOK.
(Kjhh)12136
カナヤマ
織田信長年表。
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□ 織田信長 簡略年表。
□ 織田信長 詳細年表。
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◆ 織田 信長 ガイドブック
の内容 :
■ 織田信長 (おだ のぶなが) ガイドブック
(要覧)。
■ 初学者・初心者用 オンライン 織田信長
ガイドブック。
■ 織田信長 の 入門 ガイドブック。
■ 日本史書、 日本史の電子書籍。
■ 織田信長関連 初学者・初心者向 イン
ターネット用 オンライン 書籍 (ブック)。
■ この本1冊で (このホームページ1つで)、
織田 信長のこと(概略)が、一通り、わか
る。
■ 織田信長は、 戦国時代(1467年〜15
73年、室町時代後期)、 安土桃山時代
(1573年〜1603年) の武将であり、
尾張国 (おわりのくに、現在の愛知県西
部)の戦国大名であり、国主であり、
中世日本の改革者であり、 近畿を中心
に日本の中央部を支配下に入れる。
■ パソコン、携帯情報端末(PDA)用 電子
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■ TKKI カナヤマ著 織田信長 ガイドブック。
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● TKKI カナヤマ著 日本史時系列ガイドブック。
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◆ (Kjhh) 織田 信長
ガイドブック。
( 織田 信長 要覧 )。
■ 織田 信長 簡略年表。
■ では、年代を追って、織田信長の行動を、簡単に、
見てみよう。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1534年 ● 織田信長 (おだ のぶなが、幼名・吉法師)
(天文 3年) が、 織田信秀(おだ のぶひで)の子として、
誕生する。
● 信長の父、織田信秀 (おだ のぶひで)は、
尾張国 (おわりのくに、現在の愛知県西部)
の古渡(ふるわたり)城主で、尾張の守護代
(尾張下4郡の守護代)・清洲織田家の、重
臣(三奉行の一人) であった。
● 幼少から青年期にかけて、 奇矯な行動が
多く、 周囲から、「尾張の大うつけ」 と称さ
れる。
● 信長 (吉法師) は、 信長の嫡男となり、
嫡男として育てられる。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1539年 ● 信長 (吉法師) は、 幼少で(6歳で)、
(天文 8年) 那古野城主 となる。
■ 1546年 ● 織田信長 は、 古渡(ふるわたり)城にて、
(天文15年) 元服し、 織田信長 (織田上総介、おだかず
さのすけ) と称す。
■ 1547年 ● 徳川家康 (竹千代) が、 信長の父の織
(天文16年) 田信秀の織田家の人質 (1547〜48年)と
なる。
■ 1548年 ● 信長の父・織田信秀が敵対していた、斉藤
(天文17年) 道三との和睦が成立し、信長は、 美濃(現
在の岐阜県)の戦国大名、斉藤道三の娘、帰
蝶(濃姫)と政略結婚する。
■ 1551年 ● 信長の父・信秀が急死する (1552年(天
(天文20年) 文21年)、1549年(天文18年)の死去説
もある)。
その後、信長が、織田信秀の家督を継ぐ。
● 家督相続後、信長は、 同母弟の織田信
勝(信行)と家督争いが起き、これに勝つ。
その際、 尾張の下四郡の守護代の、織田
信友 が、 信勝(信行)の家督相続を支持し、
信長に敵対したため、 織田信友を攻めて、殺
害し(萱津合戦)、信長は、清洲城へ入り、清
洲織田家の頭領となり、 尾張の下四郡を支
配する。
■ 1553年 ● 織田信長 は、 美濃(岐阜県)の戦国大名
(天文22年) の、斉藤道三と会見する。 (異説では、15
49年(天文18年))に、道三と会見する。
■ 1554年 ● 豊臣秀吉 が、 織田信長 に仕える(家臣
(天文23年) として仕え始める)。
■ 1556年 ● 斉藤道三が、子の斉藤義龍との戦いに敗れ
(弘治 2年) て死去する。 信長は、道三に援軍を出したが、
間に合わなかった。 道三の死去を好機と見た
信勝(信行)派は、同年8月に、挙兵し、敗北し、
信長に赦免される (稲生(いのう)の戦い)。
■ 1557年 ● 信長 は、 再び信長に対し謀反(むほん)
(弘治 3年) を企てた実弟の信勝(信行)を、清洲城にて、
殺害した。
■ 1558年 ● 信長 は、 尾張国の上四郡を支配する守
(永禄 元年) 護代で、岩倉(いわくら)城主の、織田 信賢
(おだ のぶかた)の軍を破る (浮野(うきの)
の戦い)。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 1559年 ● 織田信長は、 尾張一国を統一する。
(永禄 2年) 信長 は、 岩倉城を落城させ、尾張・上
四郡の守護代の織田信賢を追放し、 また、
新たに尾張守護となった斯波 義銀(しば よ
しかね)が 敵対したので追放した。 ここに、
信長は、尾張の国内の支配権を確立した。
■ 1560年 ● 1560年5月に、織田信長は、 桶狭間(お
(永禄 3年) けはざま)の戦いで、今川義元を破る。 今川
義元は、 尾張の桶狭間で、敗死する。
● 徳川家康 (松平元康) は、 松平軍の
兵を撤退し、三河へ戻り、 今川家から独
立する。
■ 1561年 ● 美濃の斎藤義龍が、急死し、嫡男の斎藤
(永禄 4年) 龍興が、美濃を継ぎ、 美濃の家臣団内部
で、 分裂が始まる。
■ 1562年 ● 1562年1月に、徳川家康(松平元康)は、
(永禄 5年) 織田信長と清洲同盟(織徳同盟)を結ぶ。
■ 1564年 ● 織田信長は、 斎藤氏を牽制するため、北
(永禄 7年) 近江(きたおうみ)の戦国大名の、浅井長
政と同盟を結び、その際、信長の妹のお市
を、浅井長政に輿入(こしい)れさせた。
■ 1565年 ● 織田信長 は、 伊勢へ侵攻を開始した。
(永禄 8年)
■ 1566年 ● 徳川家康(松平家康)は、三河国 (みか
(永禄 9年) わのくに、現在の愛知県東部)を統一した。
● 徳川家康(松平家康)は、 三河守(みか
わのかみ)となり、徳川(とくがわ)に改姓し
た。
■ 1567年 ● 1567年 (永禄10年) 10月に、織田信
(永禄10年) 長 は、 美濃国(み ののくに、現在の岐阜
県) の斉藤氏を滅ぼす。 ここに、 信長
は、33歳で、尾張、美濃の2カ国を領する
大名となる。 この頃から、天下布武の朱印
を用いるようになる。
■ 1568年 ● 1568年11月に、 織田信長は、足利義
(永禄11年) 昭(よしあき)を奉じて、上洛を果たし、 足
利義昭を将軍位に就(つ)ける。
その後、信長が、 足利義昭の行動をコ
ントロールしようとしたので、義昭との関係
が悪化する。 義昭が計って、武田氏、朝倉
氏、延暦寺、石山本願寺などからなる信長
包囲網が結成される。
■ 1570年 ● 元亀(げんき)改元。
(元亀 元年) 1570年4月23日に、 和暦の「永禄」
(えいろく、永禄元年〜13年) が、
「元亀」 (げんき、 元亀元年・1570
年・4月23日〜元亀4年・1573年・
7月28日) に改元される。
■ 1570年 ● 1570年4月に、 織田信長は、 軍を、越
(元亀 元年) 前に侵攻したが、信長の妹婿の北近江(き
たおうみ、滋賀県北部)の浅井長政に背後を
つかれ、 命からがら、5月に京(都)へ逃
れた。
● 1570年6月に、織田信長は、近江国の
姉川で、浅井・朝倉連合軍を破る (姉川の
戦い)。 この戦いに、家康は、信長と共に
参戦し、信長を助けた。
● 石山合戦の始まり。
1570年9月に、 本願寺は、織田
信長に対抗する。 石山合戦(1570年
ー1580年)が、始まる。
■ 1571年 ● 織田信長 は、 浅井・朝倉氏に味方する、
(元亀 2年) 比叡山延暦寺の焼き討ちを行う。 比叡山
延暦寺が、 浅井・朝倉連合軍に協力した
ことに対する報復である。
■ 1572年 ● 1572年10月に、 武田軍が上洛を開
(元亀 3年) 始する (武田信玄は、上洛の軍を起こす)。
● 1572年12月に、 遠江(とおとうみ、静
岡県西部)の、三方が原の戦い で、 徳川
・織田連合軍は、 武田軍に大敗する。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 。
■ 1573年 ● 1573年2月に、 足利義昭 は、 武田
(元亀 4年) 氏、 浅井氏、 朝倉氏、 本願寺 と協力
して、 信長討伐を謀(はか)る。
● 1573年4月に、武田信玄が、病状悪化
し、武田軍は、織田領の美濃や徳川領の三
河や遠江から、軍を返し、甲斐へ帰国した
(信玄は帰国途中、信濃・駒場で病死)。
● 1573年5月に、徳川家康は、三河の長
篠(ながしの)城を攻め、武田軍より奪回し、
武田軍の再侵攻に備えた。
● 1573年7月に、織田信長は、信長を裏
切った、足利 義昭(よ しあき)を京都より追
放し、室町幕府を滅ぼす(室町幕府滅亡)。
● 1573年7月に、信長は、元号を元亀か
ら天正へ と改めることを朝廷に奏上し、こ
れを実現させた。
■ 1573年 ● 1573年に、織田信長は、 朝倉・浅井両
氏を滅ぼす。
● 信長 は、 1573年8月に、越前に行軍
し朝倉軍を破り、朝倉義景を自害させ、同年
9月に、北近江の小谷(おだに)城を落とし、
浅井久政・長政父子を自害させる。 落城前、
信長の妹のお市と娘3人は、落ち延びて信
長が引き取った。 信長 は、 越前と北近江
を領土とした。
● 豊臣秀吉(木下秀吉)は、 浅井氏滅亡後、
その旧領の北近江三郡の経営を織田信長
より任され、 北近江(きたおうみ)の長浜城
の城主となる。
■ 1574年 ● 朝倉氏を攻略して織田領となっていた越
(天正 2年) 前で、地侍や本願寺門徒の反乱が起こり、
本願寺門徒が、越前を制する。
● 1574年9月に、 信長 は、伊勢長島の
一向一揆 を滅ぼす。
■ 1575年 ● 1575年5月に、信長・家康連合軍 は、
(天正 3年) 三河・長篠(ながしの)で、 武田勝頼の率
いる軍に大勝する (長篠の戦い)。
● 1575年8月に、信長は、越前に侵攻し、
本願寺門徒の軍を破り、再び、越前を織田
領とし、 越前を柴田勝家に経営させる。
■ 1576年 ● 1576年2月に、 織田信長は、 琵琶湖
(天正 4年) 湖岸に、安土城の築城を開始する (15
79年完成)。
■ 1577年 ● 1577年 9月に、信長軍 は、 北陸で、
(天正 5年) 上杉謙信の率いる上杉軍に敗れ (手取
川の戦い)、 撤兵する。
● 1577年10月に、信長 は、 謙信と呼
応して信長を裏切り挙兵した、大和の松永
久秀を滅ぼす。
■ 1578年 ● 信長軍 は、 上杉領の能登、加賀の攻
(天正 6年) 略を開始する。
● 1578年11月に、織田水軍が、鉄甲船
を用いて、毛利水軍を破る。
■ 1579年 ● 織田信長 は、 五層七重の豪華絢爛(ご
(天正 7年) うかけんらん)な安土城を完成させる。
■ 1579年 ● 1579年に、徳川家康 は、 松平信康
(天正 7年) 事件(= 松平信康自害・築山殿殺害事件)
で、 家康の嫡男・松平信康(のぶやす)
を自害(自刃、切腹)させ、 家康の正室
夫人で松平信康の生母の築山殿(つきや
まどの)を殺害する。
■ 1580年 ● 石山合戦の終り。
(天正 8年) 1580年4月に、織田信長 は、石山
本願寺を屈服させる。 石山合戦(15
70年ー1580年)が、終わる。
■ 1581年 ● 1581年2月に、 信長は、 京都の内裏
(天正 9年) (だいり)東の馬場で、京都御馬揃え (馬揃
えは、現在の軍事パレードに相当)を行う。
● 信長軍の秀吉は、 鳥取城を兵糧量攻め
に追い込み、 因幡を攻略した(鳥取城攻め)。
また、信長軍の秀吉は、 岩屋城を落とし
て淡路を攻略した。
● 第2次天正伊賀の乱。
信長は、 約6万の軍勢で伊賀を攻
略し、 織田氏の領地とする。
■ 1582年 ● 1582年2月に、織田信長は、 武田領
(天正10年) への攻撃開始し、同年3月11日に、 武田
勝頼を討ち取り(天目山の戦い)、 武田氏
は、滅亡する。
● 1582年2月に、織田軍に協力して、 徳
川軍も、武田領の駿河に侵攻して、駿河を
占領する。 家康は、 同年に、この戦功
により、 織田信長から駿河一国を与えら
れる。
■ 1582年 ● 1582年5月に、織田信長 は、明智光秀
(天正10年) に、備中国(びっちゅうのくに)にいる秀吉軍
への援軍を命じ、 信長は、同年6月に、京
(都)へ上洛した。
● 1582年6月に、 織田信長 は、本能寺
の変で、自刃 (自害)する。
明智光秀 は、1582年6月に、京都の
本能寺にいた織田信長を攻め、 自害させる
(本能寺の変)。 信長、享年49歳で死す。
信長 は、 天下統一(日本統一)をめざ
したが、 1582年6月に、 家臣の明智光
秀の謀反(むほん)により、 京(都)・本能寺
にて、 自害する (本能寺の変)。
● 1582年年6月に、信長死去を知った秀
吉は、 明智光秀を討つ (山崎の戦い)。
● 1582年6月27日に、秀吉は、 清洲城
にて、他の織田家の重臣と 信長の後継
者 と 遺領の分割を決める (清洲会議)。
□ 日本史辞典の先頭ページへ。
#odanobunagadetailedchronology
■ 織田信長 詳細年表
(おだのぶなが しょうさいねんぴょう)。
◆ 織田信長 詳細年表。
■ 織田 信長 (おだ のぶなが) の詳細な内容に関して
は、 『 織田 信長 ガイドブック (要覧) 』 を参照し
て下さい。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典 31426。
■ 戦国時代については、『 中世日本歴史詳細 年表 』
を、安土桃山時代、江戸時代については、『 近世日本
歴史詳細年表 』を参照して下さい。
■ より理解を深めるために、当年表と近い時期の日本
史辞典の年表の、『 戦国時代 (室町時代後期) 年表、
■ 当年表 は、 織田信長 (1534年〜1582年) が
生きた時代の詳細年表 である。
■ 織田 信長 (おだ のぶなが、生没年 1534年 〜
1582年) の時代の日本へタイムスリップして、 織田
信長 の足跡、活動を見てみましょう。
■ 歴史学の立場から、 年代を追って、 織田 信長 の
実像 (歴史的有名な人物には、虚像と実像があります
が) を見てみよう。
■ 日付(年月日)は、全て旧暦、人物の年齢は、数え年。
● 一般的な歴史書籍で使用されているのと同じように、
当年表の日付(年月日)は、1872年(明治5年)12月
2日までは、旧暦(太陰太陽暦)を用い 、人物の年齢も
数え年を用いている。
□ 織田信長 詳細年表の先頭へ戻る。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
◆ 織田信長 詳細年表。
● では、 織田 信長 (おだ のぶなが)に関係する出来
事を、年代順に、見てみよう。
#odanobunagadetailedchronology-1532
■ 1532年 ● 天文(てんぶん、てんもん)改元。
(天文 元年) 1532年7月29日に、和暦の「享 禄」(きょ
うろく) が、 「天文」 (てんぶん、てんもん、
天文元年・1532年・7月29日〜 天文24年
・1555年・10月23日) に改元される。
■ 1534年 ● 織田信長 (おだ のぶなが、幼名・吉法師
(天文 3年) (きっぽうし)) が、 織田信秀(おだ のぶひ
で)の子として、 誕生する。
信長の母は、土田御前 (つちだごぜん、
どたごぜん) である。
● 信長の父、織田信秀 (おだ のぶひで) は、
尾張国 (おわりのくに、現在の愛知県西部)の
古渡(ふるわたり)城主で、尾張の守護代(尾張
下4郡の守護代)・清洲織田家の、重臣(三奉
行の一人) であった。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
● 幼少から青年期にかけて、 奇矯な行動が
多く、 周囲から、「尾張の大うつけ」 と称さ
れる。
● 信長 (吉法師) は、 信長の嫡男となり、
嫡男として育てられる。
■ 1536年 ● 後に信長の重臣となる、豊臣秀吉 (とよと
(天文 5年) み ひでよし、幼名:日吉丸?)が、 尾張国
(おわりのくに、現在の愛知県西部)の農民の
弥右衛門の子として、 誕生する。 秀吉の誕
生日は1537年(天文6年)説も有力である。
■ 1539年 ● 織田信長 (吉法師) は、 幼少で(6歳で)、
(天文 8年) 那古野城主 となる。
■ 1542年 ● 後に信長の盟友(事実上家臣)となる、 徳
(天文11年) 川家康 (とくがわ いえやす、幼名:竹千代)
が、 三河国(みかわのくに、現在の愛知県東
部)の、戦国武将で岡崎城主の、 松平広忠
(まつだいら ひろただ)の子として、誕生する。
■ 1546年 ● 信長 は、 古渡(ふるわたり)城にて、 元
(天文15年) 服し、 織田信長 (織田上総介、おだかずさ
のすけ) と称す。
■ 1547年 ● 徳川家康 (竹千代) が、 信長の父の織
(天文16年) 田信秀の織田家の人質 (1547〜48年)と
なる。
■ 1548年 ● 信長の父・織田信秀が敵対していた、斉藤
(天文17年) 道三との和睦が成立し、信長 は、 美濃(現
在の岐阜県)の戦国大名、斎藤道三(どうさん)
の娘、帰蝶(濃姫)と政略結婚する。
■ 1549年 ● 織田信長 は、 美濃(岐阜県)の戦国大名、
(天文18年) 斎藤道三と会見する。 異説では、1553年
(天文22年)に、道三と会見する。
■ 1551年 ● 信長の父・信秀が急死し、 信長 が、織田
(天文20年) 信秀の家督を継ぐ。
● 家督相続時に、信長は、 同母弟の織田
信勝(信行)と家督争いが起き、これに勝つ 。
その際、 尾張の下四郡の守護代の、織田信
友 が、 信勝(信行)の家督相続を支持し、
信長に敵対したため、 織田信友を攻めて、
殺害し(萱津合戦)、信長は、清洲城へ入り、
清洲織田家の頭領となり、 尾張の下四郡を
支配する。
■ 1554年 ● 豊臣秀吉 が、 織田信長 に仕える(家臣
(天文23年) として仕え始める)。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1555年 ● 弘治(こうじ)改元。
(弘治 元年) 1555年10月23日に、和暦の「天文」(て
んぶん、てんもん) が、 「弘治」 (こうじ、弘
治元年・1555年・10月23日〜 弘治4年・
1558年・2月28日) に 改元される。
■ 1556年 ● 斎藤道三が、子の斎藤義龍との戦いに敗
(弘治 2年) れて死去する。 信長は、道三に援軍を出し
たが、間に合わなかった。
道三の死去を好機と見た信勝(信行)派は、
同年8月に、挙 兵したが、敗北し、信長に赦
免される (稲生(いのう)の戦い)。
● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。
■ 1557年 ● 織田信長 は、 再び信長に対し謀反(むほ
(弘治 3年) ん)を企てた実弟の信勝(信行)を、清洲城に
て、殺害した。
■ 1558年 ● 永禄(えいろく)改元。
(永禄 元年) 1558年2月28日に、和暦の「弘治」(こうじ)
が、 「 永禄」 (えいろく、 永禄元年・1558
年・2月28日〜 永禄13年・ 1570年・4月
23日) に改元される。
■ 1558年 ● 信長 は、 尾張国の上四郡を支配する守護
(永禄 元年) 代で、岩倉(いわくら)城主の、織田 信賢(お
だ のぶかた)の軍を破る (浮野(うきの)の戦
い)。
● 1558年9月に、豊臣秀吉(木下藤吉郎)が、
信長に仕える。
■ 1559年 ● 織田信長 は、 尾張一国を統一する。
(永禄 2年) 信長 は、 岩倉城を落城させ、尾張・上四郡
の守護代の織田信賢を追放し、 また、 新たに
尾張守護となった斯波 義銀(しばよしかね)が
敵対したので追放した。 ここに、 信長は、尾
張の国内の支配権を確立した。
□ 織田信長 詳細年表の先頭へ戻る。
#odanobunagadetailedchronology-1560
■ 1560年 ● 1560年5月に、織田信長は、 桶狭間
(永禄 3年) (おけはざま)の戦いで、今川義元を破る。
今川義元は、 尾張の桶狭間で、敗死
する。
● 徳川家康 (松平元康) は、 松平軍の
兵を撤退し、三河へ戻り、 今川家から独立
する。
■ 1561年 ● 美濃の斎藤義龍が、 急死し、嫡男の斎
(永禄 4年) 藤龍興が、美濃を継ぎ、 美濃の家臣団内
部で、 分裂が始まる。
■ 1562年 ● 1562年1月に、徳川家康(松平元康)は、
(永禄 5年) 織田信長と清洲同盟(織徳同盟)を結ぶ。
■ 1564年 ● 織田信長 は、 斎藤氏を牽制するため、
(永禄 7年) 北近江(きたおうみ)の戦国大名の、浅井長
政と同盟を結ぶ。
■ 1565年 ● 信長 は、 伊勢へ侵攻を開始した。
(永禄 8年)
■ 1565年 ● 1565年5月に、室町幕府の13代将軍
(永禄 8年) の足利 義輝 (よしてる、(将軍在位1546
〜65年))が、 三好三人衆や松永久秀
(まつながひさひで)により、二条城で、殺
害される(永禄の変)。
● 義輝の弟の足利 義昭 (あしかが よしあ
き)は、 僧であったが、還俗( げんぞく)し、
室町幕府の再興(さいこう)をめざす。
■ 1566年 ● 1566年(永禄9年)8月に、足利 義昭家
(永禄 9年) 臣で仲介役の細川藤孝(幽斎)によって、
足利義昭随行織田信長第1次上洛出兵
阻止され、上洛は失敗する。
■ 1566年 ● 徳川家康(松平家康)は、三河国 (みか
(永禄 9年) わのくに、現在の愛知県東部)を統一した。
● 徳川家康(松平家康)は、 三河守(みか
わのかみ)となり、徳川(とくがわ)に改姓し
た。
■ 1567年 ● 織田信長 は、 北近江(きたおうみ)の戦
(永禄10年) 国大名の、浅井長政と1564年に結んだ同
盟をより強固なものにするため、 信長の
妹のお市を、浅井長政に輿入(こしい)れさ
せた。
● 1567年4〜10月に、三好三人衆と松永
久秀と間の、東大寺大仏殿の戦いで、東大
寺焼失。
■ 1567年 ● 1567年 (永禄10年) 10月に、織田信
(永禄10年) 長 は、 美濃国(み ののくに、現在の岐阜
県南部) の斉藤氏を滅ぼす。 ここに、信
長は、33歳で、尾張、美濃の2カ国を領す
る大名となる。 この頃から、 天下布武の
朱印を用いるようになる。
■ 1568年 ● 1568年(永禄11年)11月に、足利義昭
(永禄11年) 家臣で仲介役の明智光秀と細川藤孝(幽
斎) によって、足利義昭随行織田信長第2
次上洛出兵が行われ、上洛は成功する。
1568年(永禄11年)11月に、 織田
信長は、足利 義昭(よしあき)を奉じて、上洛
を果たし、足利義昭を将軍位に就(つ)ける
(将軍在位:1568年〜1588年)。
その後、信長は、足利義昭の行動をコ
ントロールしようとしたため、義昭との関係
が悪化する。 武田氏、朝倉氏、延暦寺、石
山本願寺などから成るぢ織田信長包囲網が
結成され た時、義昭は信長を裏切り、反信
長勢力に加担する。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1570年 ● 元亀(げんき)改元。
(元亀 元年) 1570年4月23日に、 和暦の「永禄」
(えいろく) が、 「 元亀」 (げんき、 元
亀元年・1570年・4月23日〜 元亀4年・
1573年・7月28日) に改元される。
■ 1570年 ● 1570年4月に、 織田信長は、 軍を、
(元亀 元年) 越前に侵攻したが、信長の妹婿の北近江
(きたおうみ、滋賀県北部)の浅井長政に背
後をつかれ、命からがら、京(都)へ逃れた。
● 1570年(元亀元年)に、 信長は、浅井
長政と交わした「朝倉への不戦の誓い」を破
り、徳川家康と共に、越前の朝倉方の城を
攻め始めた。 浅井は、朝倉との同盟関
係を重視し、 織田・徳川軍を背後から急
襲した。 信長は、苦戦しながら、近江を脱
出した (金ヶ崎の退き口)。
■ 1570年 ● 1570年6月に、織田信長は、近江国の姉
(元亀 元年) 川で、浅井・朝倉連合軍を破る (姉川の戦
い)。 この戦いに、徳川家康は、信長と共
に参戦し、信長を助けた。
● 1570年8月に、 本願寺は、信長に対抗
する (石山(いしやま)戦争(合戦)(1970
〜80年)の始まり)。 野田城・福島城の戦い。
■ 1571年 ● 1571年9月に、 信長 は、 浅井・朝倉
(元亀 2年) 氏に味方する、比叡山延 暦寺の焼き討ちを
行う。 比叡山延暦寺が、 浅井・朝倉連合
軍に協力したことに対する報復である。
■ 1572年 ● 1572年10月に、 武田軍が上洛を開始
(元亀 3年) する (武田信玄は、上洛の軍を起こす)。
● 1572年12月に、 遠江(とおとうみ、静
岡県西部)の、三方が原の戦い で、 徳川
・織田連合軍は、 武田軍に大敗する。
□ 織田信長 詳細年表の先頭へ戻る。
#odanobunagadetailedchronology-1573
■ 1573年 ● 1573年2月に、足利義昭は、武田氏、
(元亀 4年) 浅井氏、朝倉氏、本願寺と協力して、織
田信長討伐を謀(はか)る。
● 1573年4月に、武田信玄が、病状悪化
し、武田軍は、織田領の美濃や徳川領の
三河や遠江から、軍を返し、甲斐へ帰国し
た(信玄は帰国途中、信濃・駒場で病死)。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
● 1573年5月に、徳川家康は、三河の長
篠(ながしの)城を攻め、武田軍より奪回し、
武田軍の再侵攻に備えた。
● 1573年7月に、織田信長は、信長を裏切
った、足利 義昭(よ しあき)を京都より追放
し、 室町幕府を滅ぼす(室町幕府滅亡)。
● 1573年7月に、信長は、元号を元亀から
天正へ と改めること朝廷に奏上し、これを
実現させた。
■ 1573年 ● 天正改元。
(天正 元年) 1573年7月28日に、 和暦の「元亀」
(げんき) が、 「 天正」 (てんしょう、天正
元年・1573年・7月28日〜 天正20年・
1592年・12月8日) に改元される。
■ 1573年 ● 1573年に、信長 は、 朝倉・浅井両氏
(天正 元年) を滅ぼす。
● 織田信長は、1573年8月に、越前に行
軍し朝倉軍を破り、 朝倉義景を自害させ、
同年9月に、北近江の小谷 城(おだにじょ
う)を落とし、浅井久政・長政父子を自害さ
せる。 落城前、信長の妹のお市と娘3人
は、落ち延びて信長が引き取った。 信長
は、 越前と北近江を領土とした。
● 1573年(天正元年)、織田信長は、北近
江に攻め寄せ、 小谷城を囲んだ。 お市は、
浅井長政と運命を共にする覚悟であったが、
浅井長政に諌(いさ)められて、 お市は、
浅井三姉妹を連れて、小谷城を脱出し、 織
田信長の元へ落ちのびた。
その後、 浅井三姉妹 は、 叔父の織田
信包(のぶかね)の庇護の下(もと)におかれ、
尾張で暮す。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
● 豊臣秀吉(羽柴秀吉)は、 浅井氏滅亡後、
その旧領の北近江三郡の経営を織田信長
より任され、 北近江(きたおうみ)の長浜
城の城主となる。
■ 1574年 ● 朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前
(天正 2年) で、地侍や本願寺門徒の反乱が起こり、 本
願寺門徒が、越前を制する。
● 1574年9月に、 信長 は、伊勢長島の
一向一揆 を滅ぼす。
■ 1575年 ● 1575年5月に、信長・家康連合軍 は、
(天正 3年) 三河の長篠(ながしの)で、 武田勝頼の
率いる軍に大勝する (長篠の戦い)。
● 1575年8月に、信長は、越前に侵攻し、
本願寺門徒の軍を破り、 再び、 織田
領にし、 越前を柴田勝家に経営させる。
■ 1576年 ● 1576年2月に、 織田信長は、 琵琶
(天正 4年) 湖湖岸に、安土城の築城を開始する(15
79年完成)。
■ 1577年 ● 1577年 9月に、信長軍 は、北陸で、
(天正 5年) 上杉謙信の率いる上杉軍に敗れ (手取
川の戦い)、 撤兵する。
● 1577年10月に、信長 は、上杉謙信
と呼応して信長を裏切り挙兵した、大和
の松永久秀を滅ぼす。
■ 1578年 ● 織田信長の軍 は、 上杉領の能登、加
(天正 6年) 賀の攻略を開始する。
● 1578年11月に、織田水軍が、鉄甲船
を用いて、毛利水軍を破る。
□ 織田信長 詳細年表の先頭へ戻る。
#odanobunagadetailedchronology-1579
■ 1579年 ● 織田信長 は、 五層七重の豪華絢爛
(天正 7年) (ごうかけんらん)な安土城を完成させる。
■ 1579年 ● 信長 は、 徳川家康の嫡男・松平信康
(天正 7年) (のぶやす) と、家康の正室夫人で信康
の生母の築山殿に、不審を抱く。 家康は、
不審を抱かれた2人を、自害させる。
■ 1580年 ● 1580年4月に、 信長 は、 石山本願
(天正 8年) 寺を屈服させる。
■ 1581年 ● 1581年2月に、 織田信長は、 京都の
(天正 9年) 内裏(だいり)東の馬場で、 京都御馬揃え
(馬揃(うまぞろ)えは、現在の軍事パレー
ドに相当)を行う。
● 信長軍の秀吉 は、 鳥取城を兵糧量攻
めに追い込み、 因幡を攻略した(鳥取城
攻め)。 また、信長軍の秀吉 は、 岩屋
城を落として淡路を攻略した。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
● 信長 は、 6万の軍勢で伊賀を攻略し、
織田家の領地とする (第2次天正伊賀の
乱)。
■ 1582年 ● 1582年2月に、織田信長 は、 武田領
(天正10年) への攻撃開始し、同年3月11日に、 武田
勝頼を討ち取り(天目山の戦い)、 武田氏
は滅亡する。
● 1582年2月に、織田軍に協力して、 徳
川軍も、武田領の駿河に侵攻して、駿河を
占領する。 徳川家康は、 同年に、この戦
功により、 織田信長から駿河一国を与え
られる。
■ 1582年 ● 1582年5月に、織田信長 は、明智光秀
(天正10年) に、備中国(びっちゅうのくに、現在の岡山
県南西部)にいる秀吉軍への援軍を命じ、
信長は、同年6月に、京都へ上洛した。
の変で、自刃 (自害)する。
明智光秀 が、軍勢を率いて、1582年
6月に、京都の本能寺にいた織田信長を攻
め、自害させる (本能寺の変)。信長、49
歳で死す。
信長 は、 天下統一(日本統一)をめざ
したが、 1582年6月に、 家臣の明智光
秀の謀反(むほん)により、 京(都)・本能寺
にて、 自害する (本能寺の変)。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
● 1582年年6月に、織田信長死去を知った
豊臣秀吉(羽柴秀吉)は、 軍勢を率いて、
明智光秀を討つ (山崎の戦い)。
● 1582年6月27日に、豊臣秀吉(羽柴秀
吉)は、 清洲城にて、他の織田家の重臣
と、織田信長の後継者や遺領の分割を決
める (清洲会議)。
□ 日本史辞典の先頭ページへ。
『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』。
以 上。