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   (Kjhh)12136

 カナヤマ

 織田信長年表

 

 

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◆ 織田 信長 ガイドブック

     の内容 :

 ■ 織田信長 (おだ のぶなが) ガイドブック

     (要覧)。

 ■ 初学者・初心者用 オンライン 織田信長 

    ガイドブック。

 ■ 織田信長 の 入門 ガイドブック。

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 ■ 織田信長関連 初学者・初心者向 イン

      ターネット用 オンライン 書籍 (ブック)。

 ■ この本1冊で (このホームページ1つで)、 

   織田 信長こと(概略)が、一通り、わか

   る。

 ■ 織田信長は、 戦国時代(1467年〜15

   73年、室町時代後期)、 安土桃山時代 

   (1573年〜1603年) の武将であり、 

    尾張国 (おわりのくに、現在の愛知県西

   部)の戦国大名であり、国主であり、 

   中世日本の改革者であり、 近畿を中心

   に日本の中央部を支配下に入れる。

 ■ パソコン、携帯情報端末(PDA)用 電子

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 ■ パソコン(PC)、 携帯用パソコン(PC)、 

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 ■ TKKI カナヤマ著 織田信長 ガイドブック。

 

 

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◆ (Kjhh) 織田 信長

   ガイドブック。

        ( 織田 信長 要覧 )。

 

#odanobunagabriefchronology

 

織田 信長 簡略年表

  ■ では、年代を追って、織田信長の行動を、簡単に、

    見てみよう。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

■ 1534年   ● 織田信長 (おだ のぶなが、幼名・吉法師)

 (天文 3年)   が、 織田信秀(おだ のぶひで)の子として、 

            誕生する。

           ● 信長の父、織田信秀 (おだ のぶひで)は、 

            尾張国 (おわりのくに、現在の愛知県西部)

            の古渡(ふるわたり)城主で、尾張の守護代

            (尾張下4郡の守護代)・清洲織田家の、重

            臣(三奉行の一人) であった。 

           ● 幼少から青年期にかけて、 奇矯な行動が

            多く、 周囲から、「尾張の大うつけ」 と称さ

            れる。

           ● 信長 (吉法師) は、 信長の嫡男となり、 

            嫡男として育てられる。 

                      ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

■ 1539年   ● 信長 (吉法師) は、 幼少で(6歳で)、

 (天文 8年)   那古野城主 となる。

 

■ 1546年   ● 織田信長 は、 古渡(ふるわたり)城にて、

 (天文15年)   元服し、 織田信長 (織田上総介、おだかず

            さのすけ) と称す。

 

■ 1547年   ● 徳川家康 (竹千代) が、 信長の父の織

 (天文16年)   田信秀の織田家の人質 (1547〜48年)と

            なる。

 

■ 1548年   ● 信長の父・織田信秀が敵対していた、斉藤

 (天文17年)   道三との和睦が成立し、信長は、 美濃(現

            在の岐阜県)の戦国大名、斉藤道三の娘、帰

            蝶(濃姫)と政略結婚する。 

 

■ 1551年   ● 信長の父・信秀が急死する (1552年(天

 (天文20年)   文21年)、1549年(天文18年)の死去説

            もある)。 

              その後、信長が、織田信秀の家督を継ぐ。

            ● 家督相続後、信長は、 同母弟の織田信

            勝(信行)と家督争いが起き、これに勝つ。

              その際、 尾張の下四郡の守護代の、織田

            信友 が、 信勝(信行)の家督相続を支持し、 

            信長に敵対したため、 織田信友を攻めて、殺

            害し(萱津合戦)、信長は、清洲城へ入り、清

            洲織田家の頭領となり、 尾張の下四郡を支

            配する。

 

■  1553年  ● 織田信長 は、 美濃(岐阜県)の戦国大名

 (天文22年)   の、斉藤道三と会見する。 (異説では、15

            49年(天文18年))に、道三と会見する。

 

■ 1554年   ● 豊臣秀吉 が、 織田信長 に仕える(家臣

 (天文23年)   として仕え始める)。

 

■ 1556年   ● 斉藤道三が、子の斉藤義龍との戦いに敗れ

 (弘治 2年)   て死去する。 信長は、道三に援軍を出したが、

            間に合わなかった。 道三の死去を好機と見た

            信勝(信行)派は、同年8月に、挙兵し、敗北し、

            信長に赦免される (稲生(いのう)の戦い)。

 

■ 1557年   ● 信長 は、 再び信長に対し謀反(むほん)

 (弘治 3年)   を企てた実弟の信勝(信行)を、清洲城にて、

            殺害した。

 

■ 1558年    ● 信長 は、 尾張国の上四郡を支配する守

 (永禄 元年)  護代で、岩倉(いわくら)城主の、織田 信賢

            (おだ のぶかた)の軍を破る (浮野(うきの)

            の戦い)。

           ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1559年   ● 織田信長は、 尾張一国を統一する。

 (永禄 2年)     信長 は、 岩倉城を落城させ、尾張・上

            四郡の守護代の織田信賢を追放し、 また、

            新たに尾張守護となった斯波 義銀(しば よ 

            しかね)が 敵対したので追放した。 ここに、

            信長は、尾張の国内の支配権を確立した。

 

■ 1560年   ● 1560年5月に、織田信長は、 桶狭間(お

 (永禄 3年)   けはざま)の戦いで、今川義元を破る。 今川

            義元は、 尾張の桶狭間で、敗死する。

           ● 徳川家康 (松平元康) は、 松平軍の

             兵を撤退し、三河へ戻り、 今川家から独

             立する。

 

■ 1561年   ● 美濃の斎藤義龍が、急死し、嫡男の斎藤

 (永禄 4年)   龍興が、美濃を継ぎ、 美濃の家臣団内部

            で、 分裂が始まる。

 

■ 1562年   ● 1562年1月に、徳川家康(松平元康)は、

 (永禄 5年)   織田信長と清洲同盟(織徳同盟)を結ぶ。 

 

■ 1564年   ● 織田信長は、 斎藤氏を牽制するため、北

 (永禄 7年)   近江(きたおうみ)の戦国大名の、浅井長

            政と同盟を結び、その際、信長の妹のお市

            を、浅井長政に輿入(こしい)れさせた。

 

■ 1565年   ● 織田信長 は、 伊勢へ侵攻を開始した。

 (永禄 8年)

 

■ 1566年   ● 徳川家康(松平家康)は、三河国 (みか

 (永禄 9年)   わのくに、現在の愛知県東部)を統一した。

           ● 徳川家康(松平家康)は、 三河守(みか

            わのかみ)となり、徳川(とくがわ)に改姓し

            た。  

 

■ 1567年   ● 1567年 (永禄10年) 10月に、織田信

 (永禄10年)   長 は、 美濃国(み ののくに、現在の岐阜

            県) の斉藤氏を滅ぼす。 ここに、 信長

            は、33歳で、尾張、美濃の2カ国を領する

            大名となる。 この頃から、天下布武の朱印

            を用いるようになる。

 

■ 1568年   ● 1568年11月に、 織田信長は、足利義

 (永禄11年)   昭(よしあき)を奉じて、上洛を果たし、 足

            利義昭を将軍位に就(つ)ける。  

              その後、信長が、 足利義昭の行動をコ

            ントロールしようとしたので、義昭との関係

            が悪化する。 義昭が計って、武田氏、朝倉

            氏、延暦寺、石山本願寺などからなる信長

            包囲網が結成される。

 

■ 1570年   ● 元亀(げんき)改元。    

 (元亀 元年)   1570年4月23日に、 和暦の「永禄」  

            (えいろく、永禄元年〜13年) が、 

             「元亀」 (げんき、 元亀元年・1570

             年・4月23日〜元亀4年・1573年・

            7月28日) に改元される。

 

■ 1570年   ● 1570年4月に、 織田信長は、 軍を、越

 (元亀 元年)   前に侵攻したが、信長の妹婿の北近江(き

            たおうみ、滋賀県北部)の浅井長政に背後を

            つかれ、 命からがら、5月に京(都)へ逃

            れた。

           ● 1570年6月に、織田信長は、近江国の

            姉川で、浅井・朝倉連合軍を破る (姉川の

                     戦い)。 この戦いに、家康は、信長と共に

            参戦し、信長を助けた。

            ● 石山合戦の始まり。

              1570年9月に、 本願寺は、織田

            信長に対抗する。 石山合戦(1570年

            ー1580年)が、始まる。

 

■ 1571年   ● 織田信長 は、 浅井・朝倉氏に味方する、

 (元亀 2年)   比叡山延暦寺の焼き討ちを行う。 比叡山

            延暦寺が、 浅井・朝倉連合軍に協力した

                 ことに対する報復である。

 

■ 1572年   ● 1572年10月に、 武田軍が上洛を開

 (元亀 3年)   始する (武田信玄は、上洛の軍を起こす)。

            ● 1572年12月に、 遠江(とおとうみ、静

            岡県西部)の、三方が原の戦い で、 徳川

            ・織田連合軍は、 武田軍に大敗する。

            ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 。

 

■ 1573年   ● 1573年2月に、 足利義昭 は、 武田

 (元亀 4年)   氏、 浅井氏、 朝倉氏、 本願寺 と協力

            して、 信長討伐を謀(はか)る。

            ● 1573年4月に、武田信玄が、病状悪化

            し、武田軍は、織田領の美濃や徳川領の三

            河や遠江から、軍を返し、甲斐へ帰国した

            (信玄は帰国途中、信濃・駒場で病死)。 

            ● 1573年5月に、徳川家康は、三河の長

            篠(ながしの)城を攻め、武田軍より奪回し、

            武田軍の再侵攻に備えた。

                     ● 1573年7月に、織田信長は、信長を裏

            切った、足利 義昭(よ しあき)を京都より追

            放し、室町幕府を滅ぼす(室町幕府滅亡)。

           ● 1573年7月に、信長は、元号を元亀か

            ら天正へ と改めることを朝廷に奏上し、こ

            れを実現させた。

 

■ 1573年    ● 1573年に、織田信長は、 朝倉・浅井両

            氏を滅ぼす。

           ● 信長 は、 1573年8月に、越前に行軍

            し朝倉軍を破り、朝倉義景を自害させ、同年

            9月に、北近江の小谷(おだに)城を落とし、

            浅井久政・長政父子を自害させる。 落城前、

            信長の妹のお市と娘3人は、落ち延びて信

            長が引き取った。 信長 は、 越前と北近江

            を領土とした。

           ● 豊臣秀吉(木下秀吉)は、 浅井氏滅亡後、

             その旧領の北近江三郡の経営を織田信長

             より任され、 北近江(きたおうみ)の長浜城

             の城主となる。

 

■ 1574年   ● 朝倉氏を攻略して織田領となっていた越

 (天正 2年)   前で、地侍や本願寺門徒の反乱が起こり、 

            本願寺門徒が、越前を制する。

            ● 1574年9月に、 信長 は、伊勢長島の

            一向一揆 を滅ぼす。

 

■ 1575年   ● 1575年5月に、信長・家康連合軍 は、

 (天正 3年)   三河・長篠(ながしの)で、 武田勝頼の率

            いる軍に大勝する (長篠の戦い)。 

           ● 1575年8月に、信長は、越前に侵攻し、

            本願寺門徒の軍を破り、再び、越前を織田

            領とし、 越前を柴田勝家に経営させる。

 

■ 1576年   ● 1576年2月に、 織田信長は、 琵琶湖

 (天正 4年)   湖岸に、安土城の築城を開始する (15

            79年完成)。

 

■ 1577年   ● 1577年 9月に、信長軍 は、 北陸で、 

 (天正 5年)   上杉謙信の率いる上杉軍に敗れ (手取

            川の戦い)、 撤兵する。

           ● 1577年10月に、信長 は、 謙信と呼

            応して信長を裏切り挙兵した、大和の松永

            久秀を滅ぼす。

 

■ 1578年   ● 信長軍 は、 上杉領の能登、加賀の攻

  (天正 6年)  略を開始する。

           ● 1578年11月に、織田水軍が、鉄甲船

            を用いて、毛利水軍を破る。

 

■ 1579年   ● 織田信長 は、 五層七重の豪華絢爛(ご

 (天正 7年)   うかけんらん)な安土城を完成させる。

 

■ 1579年  ● 1579年に、徳川家康 は、 松平信康

 (天正 7年)  事件(= 松平信康自害・築山殿殺害事件)

           で、 家康の嫡男・松平信康(のぶやす)

           を自害(自刃、切腹)させ、 家康の正室

           夫人で松平信康の生母の築山殿(つきや

           まどの)を殺害する。 

 

■ 1580年   ● 石山合戦の終り。

 (天正 8年)     1580年4月に、織田信長 は、石山

            本願寺を屈服させる。 石山合戦(15

            70年ー1580年)が、終わる。

 

■ 1581年   ● 1581年2月に、 信長は、 京都の内裏

 (天正 9年)   (だいり)東の馬場で、京都御馬揃え (馬揃

            えは、現在の軍事パレードに相当)を行う。

            ● 信長軍の秀吉は、 鳥取城を兵糧量攻め

            に追い込み、 因幡を攻略した(鳥取城攻め)。

            また、信長軍の秀吉は、 岩屋城を落とし

            て淡路を攻略した。

           ● 第2次天正伊賀の乱。

               信長は、  約6万の軍勢で伊賀を攻

             略し、 織田氏の領地とする。 

 

■ 1582年   ● 1582年2月に、織田信長は、 武田

 (天正10年)   への攻撃開始し、同年3月11日に、 武田

            勝頼を討ち取り(天目山の戦い)、 武田氏

            は、滅亡する。 

           ● 1582年2月に、織田軍に協力して、 徳

            川軍も、武田領の駿河に侵攻して、駿河を

            占領する。 家康は、 同年に、この戦功

            により、 織田信長から駿河一国を与えら

            れる。

 

■ 1582年   ● 1582年5月に、織田信長 は、明智光秀

 (天正10年)   に、備中国(びっちゅうのくに)にいる秀吉軍

             への援軍を命じ、 信長は、同年6月に、京

            (都)へ上洛した。 

 

           ● 1582年6月に、  織田信長 は、本能寺

            の変で、自刃 (自害)する。

              明智光秀 は、1582年6月に、京都の

            本能寺にいた織田信長を攻め、 自害させる 

            (本能寺の変)。 信長、享年49歳で死す。

              信長 は、 天下統一(日本統一)をめざ

            したが、 1582年6月に、 家臣の明智光

            秀の謀反(むほん)により、 京(都)・本能寺

            にて、 自害する (本能寺の変)。

            ● 1582年年6月に、信長死去を知った秀

             吉は、 明智光秀を討つ (山崎の戦い)。

            ● 1582年6月27日に、秀吉は、 清洲城

             にて、他の織田家の重臣と 信長の後継

             者 と 遺領の分割を決める (清洲会議)。

 

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■ 織田信長 詳細年表 

      (おだのぶなが  しょうさいねんぴょう)。

 

◆ 織田信長 詳細年表。

 

□ 織田信長年表 1532年〜 1559年

□ 織田信長年表 1560年〜 1572年

□ 織田信長年表 1573年〜 1578年

□ 織田信長年表 1579年〜1582年

□ 織田信長 画像 NO.1

 

■ 織田 信長 (おだ のぶなが) の詳細な内容に関して

 は、 『 織田 信長 ガイドブック (要覧) 』  を参照し

 て下さい。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典 31426。

■ 戦国時代については、『 中世日本歴史詳細 年表 』

 を、安土桃山時代、江戸時代については、『 近世日本

 歴史詳細年表 』を参照して下さい。

■ より理解を深めるために、当年表と近い時期の日本

 史辞典の年表の、『 戦国時代 (室町時代後期) 年表、 

 安土桃山時代 年表、 江戸時代初期 年表、 豊臣 秀

 吉 年表、 徳川家康 年表、 武田信玄 年表、 武田

 勝頼(かつより)年表、 上杉謙信 年表、  上杉 景勝

 (かげかつ) 年表 直江兼続 年表、  お江(おごう)

 年表、 大奥 年表 』 も参照して下さい。 

■ 当年表 は、 織田信長 (1534年〜1582年) が 

 生きた時代の詳細年表 である。

■ 織田 信長 (おだ のぶなが、生没年 1534年 〜

 1582) の時代の日本へタイムスリップして、 織田 

 信長 の足跡、活動を見てみましょう。

■ 歴史学の立場から、 年代を追って、 織田 信長 の

 実像 (歴史的有名な人物には、虚像と実像があります

 が) を見てみよう。

■ 日付(年月日)は、全て旧暦、人物の年齢は、数え年。

● 一般的な歴史書籍で使用されているのと同じように、

 当年表の日付(年月日)は、1872年(明治5年)12月

 2日までは、旧暦(太陰太陽暦)を用い 、人物の年齢も

 数え年を用いている。

 

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 織田信長 詳細年表。

● では、 織田 信長 (おだ のぶなが)に関係する出来

 事を、年代順に、見てみよう。

 

#odanobunagadetailedchronology-1532

 

■ 1532年  ● 天文(てんぶん、てんもん)改元。   

(天文 元年)   1532年7月29日に、和暦の「享 禄」(きょ

           うろく) が、 「天文」 (てんぶん、てんもん、 

            天文元年・1532年・7月29日〜 天文24年

           ・1555年・10月23日) に改元される。

■ 1534年  ● 織田信長 (おだ のぶなが、幼名・吉法師

(天文 3年)   (きっぽうし)) が、 織田信秀(おだ のぶひ

           で)の子として、 誕生する。

              信長の母は、土田御前 (つちだごぜん、

           どたごぜん) である。

          ● 信長の父、織田信秀 (おだ のぶひで) は、 

           尾張国 (おわりのくに、現在の愛知県西部)の

           古渡(ふるわたり)城主で、尾張の守護代(尾張

           下4郡の守護代)・清洲織田家の、重臣(三奉

           行の一人) であった。 

          ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

          ● 幼少から青年期にかけて、 奇矯な行動が

            多く、 周囲から、「尾張の大うつけ」 と称さ

            れる。

          ● 信長 (吉法師) は、 信長の嫡男となり、 

           嫡男として育てられる。                                            

■ 1536年  ● 後に信長の重臣となる、豊臣秀吉  (とよと

(天文 5年)   み ひでよし、幼名:日吉丸?)が、 尾張国

           (おわりのくに、現在の愛知県西部)の農民の

           弥右衛門の子として、 誕生する。  秀吉の誕

           生日は1537年(天文6年)説も有力である。

■ 1539年  ● 織田信長 (吉法師) は、 幼少で(6歳で)、

(天文 8年)   那古野城主 となる。

■ 1542年  ● 後に信長の盟友(事実上家臣)となる、 徳

(天文11年)   川家康 (とくがわ いえやす、幼名:竹千代)

           が、 三河国(みかわのくに、現在の愛知県東

           部)の、戦国武将で岡崎城主の、 松平広忠 

           (まつだいら ひろただ)の子として、誕生する。

■ 1546年  ● 信長 は、 古渡(ふるわたり)城にて、 元

(天文15年)   服し、 織田信長 (織田上総介、おだかずさ

           のすけ) と称す。

■ 1547年   ● 徳川家康 (竹千代) が、 信長の父の織

(天文16年)   田信秀の織田家の人質 (1547〜48年)と

           なる。

■ 1548年   ● 信長の父・織田信秀が敵対していた、斉藤

(天文17年)   道三との和睦が成立し、信長 は、 美濃(現

           在の岐阜県)の戦国大名、斎藤道三(どうさん)

           の娘、帰蝶(濃姫)と政略結婚する。 

■ 1549年   ● 織田信長 は、 美濃(岐阜県)の戦国大名、

(天文18年)    斎藤道三と会見する。 異説では、1553年

            (天文22年)に、道三と会見する。

■ 1551年   ● 信長の父・信秀が急死し、 信長 が、織田

(天文20年)   信秀の家督を継ぐ。 

            ● 家督相続時に、信長は、 同母弟の織田

            信勝(信行)と家督争いが起き、これに勝つ 。 

            その際、 尾張の下四郡の守護代の、織田信

            友 が、 信勝(信行)の家督相続を支持し、

            信長に敵対したため、 織田信友を攻めて、

            殺害し(萱津合戦)、信長は、清洲城へ入り、 

            清洲織田家の頭領となり、 尾張の下四郡を

            支配する。

■ 1554年  ● 豊臣秀吉 が、 織田信長 に仕える(家臣

(天文23年)    として仕え始める)。 

            ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 1555年    ● 弘治(こうじ)改元。    

(弘治 元年)    1555年10月23日に、和暦の「天文」(て

                       んぶん、てんもん) が、 「弘治」 (こうじ、弘

                       治元年・1555年・10月23日〜 弘治4年・

            1558年・2月28日) に 改元される。 

■ 1556年   ● 斎藤道三が、子の斎藤義龍との戦いに敗

(弘治 2年)    れて死去する。 信長は、道三に援軍を出し

                       たが、間に合わなかった。

              道三の死去を好機と見た信勝(信行)派は、

            同年8月に、挙 兵したが、敗北し、信長に赦

            免される (稲生(いのう)の戦い)。

            ● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

■ 1557年   ● 織田信長 は、 再び信長に対し謀反(むほ

(弘治 3年)    ん)を企てた実弟の信勝(信行)を、清洲城に

                        て、殺害した。

■ 1558年   ● 永禄(えいろく)改元。    

(永禄 元年)    1558年2月28日に、和暦の「弘治」(こうじ) 

                       が、 「 永禄」 (えいろく、 永禄元年・1558

            年・2月28日〜 永禄13年・ 1570年・4月

                        23日) に改元される。 

■ 1558年   ● 信長 は、 尾張国の上四郡を支配する守護

(永禄 元年)    代で、岩倉(いわくら)城主の、織田 信賢(お

                         だ のぶかた)の軍を破る (浮野(うきの)の戦

             い)。

           ● 1558年9月に、豊臣秀吉(木下藤吉郎)が、

                        信長に仕える。

■ 1559年   ● 織田信長 は、 尾張一国を統一する。

(永禄 2年)     信長 は、 岩倉城を落城させ、尾張・上四郡

                       の守護代の織田信賢を追放し、 また、 新たに

            尾張守護となった斯波 義銀(しばよしかね)が  

            敵対したので追放した。 ここに、 信長は、尾

            張の国内の支配権を確立した。

 

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#odanobunagadetailedchronology-1560

 

■ 1560年   ● 1560年5月に、織田信長は、 桶狭間

 (永禄 3年)   (おけはざま)の戦いで、今川義元を破る。 

              今川義元は、 尾張の桶狭間で、敗死

            する。

           ● 徳川家康 (松平元康) は、 松平軍の

            兵を撤退し、三河へ戻り、 今川家から独立

            する。

■ 1561年   ● 美濃の斎藤義龍が、 急死し、嫡男の斎

 (永禄 4年)   藤龍興が、美濃を継ぎ、 美濃の家臣団内

            部で、 分裂が始まる。

■ 1562年   ● 1562年1月に、徳川家康(松平元康)は、

 (永禄 5年)   織田信長と清洲同盟(織徳同盟)を結ぶ。 

■ 1564年   ● 織田信長 は、 斎藤氏を牽制するため、 

 (永禄 7年)   北近江(きたおうみ)の戦国大名の、浅井長

            政と同盟を結ぶ。

■ 1565年   ● 信長 は、 伊勢へ侵攻を開始した。

 (永禄 8年)

■ 1565年   ● 1565年5月に、室町幕府の13代将軍

 (永禄 8年)   の足利 義輝 (よしてる、(将軍在位1546

            〜65年))が、 三好三人衆や松永久秀

             (まつながひさひで)により、二条城で、殺

            害される(永禄の変)。

           ● 義輝の足利 義昭 (あしかが よしあ

            き)は、 僧であった、還俗( げんぞく)し、 

            室町幕府の再興(さいこう)をめざす。

■ 1566年   ● 1566年(永禄9年)8月に、足利 義昭

 (永禄 9年)    臣で仲介役の細川藤孝(幽斎によって、

            足利義昭随行織田信長第1次上洛出兵

            が行われたが、美濃国斎藤氏によって

            阻止され、上洛は失敗する。

■ 1566年   ● 徳川家康(松平家康)は、三河国 (みか

 (永禄 9年)   わのくに、現在の愛知県東部)を統一した。

           ● 徳川家康(松平家康)は、 三河守(みか

            わのかみ)となり、徳川(とくがわ)に改姓し

            た。  

■ 1567年   ● 織田信長 は、 北近江(きたおうみ)の戦

 (永禄10年)   国大名の、浅井長政と1564年に結んだ同

            盟をより強固なものにするため、 信長の

            妹のお市を、浅井長政に輿入(こしい)れさ

            せた。

           ● 1567年4〜10月に、三好三人衆と松永

            久秀と間の、東大寺大仏殿の戦いで、東大

            寺焼失。

■ 1567年   ● 1567年 (永禄10年) 10月に、織田信

 (永禄10年)   長 は、 美濃国(み ののくに、現在の岐阜

            県南部) の斉藤氏を滅ぼす。 ここに、信

            長は、33歳で、尾張、美濃の2カ国を領す

            る大名となる。 この頃から、 天下布武の

            朱印を用いるようになる。

■ 1568年   ● 1568年(永禄11年)11月に、足利義昭

 (永禄11年)   家臣で仲介役の明智光秀と細川藤孝(幽

            斎) によって、足利義昭随行織田信長第2

            次上洛出兵が行われ、上洛は成功する。

               1568年(永禄11年)11月に、 織田

            信長は、足利 義昭(よしあき)を奉じて、上洛

            を果たし、足利義昭を将軍位に就(つ)ける 

            (将軍在位:1568年〜1588年)。  

               その後、信長は、足利義昭の行動をコ

            ントロールしようとしたため、義昭との関係

            が悪化する。 武田氏、朝倉氏、延暦寺、石

            山本願寺などから成るぢ織田信長包囲網が

            結成され た時、義昭は信長を裏切り、反信

            長勢力に加担する。

            ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 1570年   ● 元亀(げんき)改元。    

 (元亀 元年)    1570年4月23日に、 和暦の「永禄」

            (えいろく) が、 「 元亀」 (げんき、 元

            亀元年・1570年・4月23日〜 元亀4年・

             1573年・7月28日) に改元される。 

■ 1570年    ● 1570年4月に、 織田信長は、 軍を、

 (元亀 元年)   越前に侵攻したが、信長の妹婿の北近江

            (きたおうみ、滋賀県北部)の浅井長政に背

            後をつかれ、命からがら、京(都)へ逃れた。

           ● 1570年(元亀元年)に、 信長は、浅井

            長政と交わした「朝倉への不戦の誓い」を破

            り、徳川家康と共に、越前の朝倉方の城を

            攻め始めた。  浅井は、朝倉との同盟関

            係を重視し、 織田・徳川軍を背後から急

            襲した。 信長は、苦戦しながら、近江を脱

            出した (金ヶ崎の退き口)。

■ 1570年   ● 1570年6月に、織田信長は、近江国の姉

 (元亀 元年)  川で、浅井・朝倉連合軍を破る (姉川の戦

            い)。 この戦いに、徳川家康は、信長と共

            に参戦し、信長を助けた。

           ● 1570年8月に、 本願寺は、信長に対抗

           する (石山(いしやま)戦争(合戦)(1970

           〜80年)の始まり)。 野田城・福島城の戦い。

■ 1571年   ● 1571年9月に、 信長 は、 浅井・朝倉

 (元亀 2年)   氏に味方する、比叡山延 暦寺の焼き討ちを

            行う。 比叡山延暦寺が、 浅井・朝倉連合

            軍に協力したことに対する報復である。

■ 1572年   ● 1572年10月に、 武田軍が上洛を開始

 (元亀 3年)   する (武田信玄は、上洛の軍を起こす)。

            ● 1572年12月に、 遠江(とおとうみ、静

            岡県西部)の、三方が原の戦い で、 徳川

                   ・織田連合軍は、 武田軍に大敗する。

 

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#odanobunagadetailedchronology-1573

 

■ 1573年    ● 1573年2月に、足利義昭は、武田氏、

 (元亀 4年)    浅井氏、朝倉氏、本願寺と協力して、

             田信長討伐を謀(はか)る。

           ● 1573年4月に、武田信玄が、病状悪化

             し、武田軍は、織田領の美濃や徳川領の

             三河や遠江から、軍を返し、甲斐へ帰国し

             た(信玄は帰国途中、信濃・駒場で病死)。 

           ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

                      ● 1573年5月に、徳川家康は、三河の長

             篠(ながしの)城を攻め、武田軍より奪回し、

             武田軍の再侵攻に備えた。

                    ● 1573年7月に、織田信長は、信長を裏切

             った、足利 義昭(よ しあき)を京都より追放

             し、 室町幕府を滅ぼす(室町幕府滅亡)。

           ● 1573年7月に、信長は、元号を元亀から

             天正へ と改めること朝廷に奏上し、これを 

             実現させた。

■ 1573年    ● 天正改元。    

 (天正 元年)     1573年7月28日に、 和暦の「元亀」

            (げんき) が、 「 天正」 (てんしょう、天正

            元年・1573年・7月28日〜 天正20年・

            1592年・12月8日) に改元される。 

■ 1573年    ● 1573年に、信長 は、 朝倉・浅井両氏

 (天正 元年)   を滅ぼす。

           ● 織田信長は、1573年8月に、越前に行

             軍し朝倉軍を破り、 朝倉義景を自害させ、

             同年9月に、北近江の小谷 城(おだにじょ

             う)を落とし、浅井久政・長政父子を自害さ

             せる。 落城前、信長の妹のお市と娘3人

             は、落ち延びて信長が引き取った。 信長 

             は、 越前と北近江を領土とした。

           ● 1573年(天正元年)、織田信長は、北近

             江に攻め寄せ、 小谷城を囲んだ。 お市は、

             浅井長政と運命を共にする覚悟であったが、 

             浅井長政に諌(いさ)められて、 お市は、

             浅井三姉妹を連れて、小谷城を脱出し、 織

             田信長の元へ落ちのびた。

               その後、 浅井三姉妹 は、 叔父の織田

             信包(のぶかね)の庇護の下(もと)におかれ、

             尾張で暮す。

           ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

                      ● 豊臣秀吉(羽柴秀吉)は、 浅井氏滅亡後、

             その旧領の北近江三郡の経営を織田信長

             より任され、 北近江(きたおうみ)の長浜

             城の城主となる。

■ 1574年   ● 朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前

 (天正 2年)   で、地侍や本願寺門徒の反乱が起こり、 本

            願寺門徒が、越前を制する。

           ● 1574年9月に、 信長 は、伊勢長島の

            一向一揆 を滅ぼす。

■ 1575年   ● 1575年5月に、信長・家康連合軍 は、 

 (天正 3年)   三河の長篠(ながしの)で、 武田勝頼の

            率いる軍に大勝する (長篠の戦い)。 

           ● 1575年8月に、信長は、越前に侵攻し、

            本願寺門徒の軍を破り、 再び、 織田

            領にし、 越前を柴田勝家に経営させる。

■ 1576年   ● 1576年2月に、 織田信長は、 琵琶

 (天正 4年)   湖湖岸に、安土城の築城を開始する(15

            79年完成)。

■ 1577年   ● 1577年 9月に、信長軍 は、北陸で、 

 (天正 5年)   上杉謙信の率いる上杉軍に敗れ (手取

            川の戦い)、 撤兵する。

           ● 1577年10月に、信長 は、上杉謙信

            と呼応して信長を裏切り挙兵した、大和

            の松永久秀を滅ぼす。

■ 1578年   ● 織田信長の軍 は、 上杉領の能登、加

 (天正 6年)   賀の攻略を開始する。

           ● 1578年11月に、織田水軍が、鉄甲船

            を用いて、毛利水軍を破る。

                     

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#odanobunagadetailedchronology-1579

 

■ 1579年   ● 織田信長 は、 五層七重の豪華絢爛

 (天正 7年)   (ごうかけんらん)な安土城を完成させる。

■ 1579年   ● 信長 は、 徳川家康の嫡男・松平信康

 (天正 7年)   (のぶやす) と、家康の正室夫人で信康

            の生母の築山殿に、不審を抱く。 家康は、

            不審を抱かれた2人を、自害させる。

■ 1580年   ● 1580年4月に、 信長 は、 石山本願

 (天正 8年)   寺を屈服させる。  

■ 1581年   ● 1581年2月に、 織田信長は、 京都の

 (天正 9年)   内裏(だいり)東の馬場で、 京都御馬揃え 

            (馬揃(うまぞろ)えは、現在の軍事パレー

            ドに相当)を行う。

           ● 信長軍の秀吉 は、 鳥取城を兵糧量攻

            めに追い込み、  因幡を攻略した(鳥取城

            攻め)。 また、信長軍の秀吉 は、 岩屋

            城を落として淡路を攻略した。

           ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

                     ● 信長 は、 6万の軍勢で伊賀を攻略し、 

            織田家の領地とする (第2次天正伊賀の

            乱)。

■ 1582年   ● 1582年2月に、織田信長 は、 武田

 (天正10年)   への攻撃開始し、同年3月11日に、 武田

            勝頼を討ち取り(天目山の戦い)、 武田氏

            は滅亡する。 

           ● 1582年2月に、織田軍に協力して、 徳

            川軍も、武田領の駿河に侵攻して、駿河を

            占領する。 徳川家康は、 同年に、この戦

            功により、 織田信長から駿河一国を与え

            られる。

■ 1582年   ● 1582年5月に、織田信長 は、明智光秀

 (天正10年)   に、備中国(びっちゅうのくに、現在の岡山

            県南西部)にいる秀吉軍への援軍を命じ、 

            信長は、同年6月に、京都へ上洛した。

           ● 1582年6月に、  織田信長 本能寺

            の変、自刃 (自害)する。

              明智光秀 が、軍勢を率いて、1582年

            6月に、京都の本能寺にいた織田信長を攻

            め、自害させる (本能寺の変)。信長、49

            歳で死す。

              信長 は、 天下統一(日本統一)をめざ

            したが、 1582年6月に、 家臣の明智光

            秀の謀反(むほん)により、 京(都)・本能寺

            にて、 自害する (本能寺の変)。

          ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

            ● 1582年年6月に、織田信長死去を知った

            豊臣秀吉(羽柴秀吉)は、 軍勢を率いて、

            明智光秀を討つ (山崎の戦い)。

          ● 1582年6月27日に、豊臣秀吉(羽柴秀

            吉)は、 清洲城にて、他の織田家の重臣

            と、織田信長の後継者や遺領の分割を決

            める (清洲会議)。

                              

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『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』。

 

 

以  上。