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KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY HANDBOOK.
カナヤマ 日本歴史 辞典
日本語版
見出し語 『 お 』。
No.0531。
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□ 日本史 辞典 (総合)。
□ お ● 事柄順。
〇 おお 大阪の陣。
(おおさかのじん)。 《戦い》。
(= 大阪の役 おおさかのえき)。
(1614年〜1615年)。
○ 前半の1614年の大阪冬の陣
と、 後半の1615年の大阪夏の陣。
■ 大阪の陣(大阪の役)は、 徳川氏と豊臣
氏との戦いである。
一方、天下分け目の戦いの関ヶ原の戦い
は、石田方と徳川方との戦いであった。
■ 大坂の陣 (おおさかのじん、1614年ー
1615年、大阪の役) とは、 前半の1614年
の大坂冬の陣 と、 後半の1615年の大坂
夏の陣 である。
● 大坂の陣 (=大坂冬の陣と大坂夏の陣)
とは、 徳川家康が将来の徳川家の江戸幕府
の政治(幕藩体制)の邪魔になる、豊臣氏の
勢力を一掃するために起こした戦い である。
■ 徳川家康は、徳川氏政権(江戸幕府)の
政治基盤をより強固にするため、 日本の政
治から豊臣氏勢力を排除するため、大坂の陣
という戦いを起こす。
徳川家康は、 豊臣氏勢力の指導者の
豊臣秀頼や淀殿が豊臣大阪城引き渡しに応
じず、豊臣氏政権復活にこだわったため、自
害に追い込み、殺害してしまった。
■ 大坂冬の陣 (1614年10月ー12月)。
● 大坂冬の陣 (おおさかふゆのじん)は、
1614年(慶長19年)10月から12月まで、
大坂地域で、 徳川方・約20万人兵力 と
豊臣方・約10万人兵力が戦った戦争である。
主に、豊臣大阪城の籠城戦(ろうじょうっせん、
城攻防戦) であった。
● 準備。
1614年(慶長19年)10月11日に、徳
川家康は、大坂地域に向かい、駿府城(すん
ぷじょう)を出発する。
● 戦い。
1614年(慶長19年)11月に、約20万人
の兵(軍勢)の徳川方は、 約10万人の兵
(軍勢)がいる豊臣大阪城を囲み、11月19
日に、開戦となる。
1614年(慶長19年)12月20日に、豊臣
方と徳川方の和議が成立し、終戦となる。
● 後始末。
豊臣方は、惣堀(そうぼり、城の一番外
側の堀)のみを埋めると認識していたが、和
議成立後、すぐ急いで、徳川方は、約1カ月
をかけて、豊臣大阪城の本丸の堀以外のす
べての堀(二の丸の堀、惣堀 等)を埋め、本
丸以外の殆どの構築物(二の丸、惣構(そう
がまえ、三の丸)、真田丸等)を壊した ので、
豊臣大阪城は、無防備となり、非武装化され、
裸城(はだかじろ)同然となる。
■ 大坂夏の陣 (1615年4月ー5月)。
THE OSAKA NATSUNOJIN BATTLE.
● 大坂夏の陣 (おおさかなつのじん)とは、
1615年(慶長20年)4月から5月まで、
大坂地域で、 徳川方・約15万人兵力 と
豊臣方・約5万人兵力が戦った戦争である。
主に、豊臣大阪城の南方での野戦(やせん、
野外戦)であった。
● 準備。
1615年(慶長20年)4月4日に、徳川家
康は、大坂地域に向かい、駿府城(すんぷじ
ょう)を出発する。
● 戦い。
1615年(慶長20年)4月 に、約15万人
の兵(軍勢)の徳川方は、 豊臣大阪城の南
方に陣取り、約5万人の兵(軍勢)の豊臣方に
対峙し、 4月26日に郡山城の戦いが起こり、
豊臣方と開戦する。
1615年(慶長20年)5月に、徳川方は 、
豊臣大阪城の南方で、豊臣方主力部隊に野
戦(野外戦)で勝ち、 その後、豊臣大阪城を
攻めて5月7日に落城(陥落)させ、 5月8日
に淀殿・秀頼母子が自害し、終戦となる。
● 後始末。
徳川方は 、生き残った豊臣方の残党や
牢人(ろうにん、浪人)を捕(とら)え、豊臣大
阪城のすべてを取り壊す。
後に、徳川方は、同地に、新しい徳川
大阪城を築城する。
(⇒ 二条城会見)。
(⇒ 方広寺鐘銘事件、
方広寺)。
○ おお 大坂の陣関連出来事
(おおさかのじんかんれんできごと(ねんだいじ
ゅん・しょうさい)。
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■ 『 現在は、過去の成果であり、
未来は、現在の成果である。 』
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◆ 日本史辞典
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■ 大阪の陣
(おおさかのじん)。
■ 大阪の陣。
■ 名称 : 大阪の陣 (おおさかのじん)。
● 別名 : 大阪の役 (おおさかのえき)。
■ 時期 : 1614年(慶長19年)10月ー1615年
(慶長20年)5月。
■ 大阪周辺で、豊臣方勢力(兵力) と 徳川方 勢力
(兵力) が争った戦い。
■ 1614年(慶長19年)10月ー12月の大阪冬の陣
(おおさかふゆのじん) と、 1615年(慶長20年)
4月ー5月の大阪夏の陣 (おおさかなつのじん)の
2つの戦いに分かれる。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 72333。
□ 大坂冬の陣。
□ 大坂夏の陣。
□ 大阪の陣の簡略年表。
◆ 大坂の陣。
■ 大阪の陣(大阪の役)は、 徳川氏と豊臣氏との戦い
である。
一方、天下分け目の戦いの関ヶ原の戦いは、石
田方と徳川方との戦いであった。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 大阪の陣(大阪の役)は、 徳川家康が豊臣氏 を滅
ぼした戦い である。
■ 大阪の陣 (おおさかのじん) とは、別名は、 大阪
の役 (おおさかのえき)といい、 1614年(慶長19
年)10月から1615年(慶長20年)5月まで、 大阪
周辺で、 豊臣方と徳川方が争った戦い である。
豊臣方が戦いに敗(やぶ)れ、豊臣氏が滅亡し、
徳川方は、 戦いに勝ち、徳川氏政権が、確立した。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 大阪の陣 (大阪の役)は、 1614年(慶長19年)
の大阪冬の陣 (おおさかふゆのじん、1614年10
月ー12月) と 1615年(慶長20年)の大阪夏の
陣 (おおさかなつのじん、1615年4月ー5月) の
2つの戦いに分かれる。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 大坂の陣。
徳川家康は、 徳川氏政権(江戸幕府)の政治基盤
をより強固にするため、 日本の政治から豊臣氏勢力
を排除するため、大坂の陣という戦いを起こす。
徳川家康は、 豊臣氏勢力の指導者の豊臣秀頼
や淀殿が豊臣大阪城引き渡しに応じず、豊臣氏政権復
活にこだわったため、自害に追い込み、殺害してしまっ
た。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 大坂の陣。
かけ(言い掛かりをつけ)、挑発して、豊臣方と徳川方が
開戦した。 しかし、1614年(慶長19年)10月に大阪
冬の陣が始まったが、 豊臣大阪城の周囲の堀に阻(は
ば)まれて、戦いの決着がつかず。
徳川方は、 豊臣大阪城の惣堀 (そうぼり、城の一
番外側の堀)のみを埋め立るという条件で、一旦、豊臣
方と和睦する。
ところが、徳川方は、 豊臣大阪城の周囲の殆ど
の堀を埋め立て、豊臣大阪城の本丸以外の殆どの構
築物(建物や柵など)を壊し、その後、徳川家康は、 豊
臣氏の豊臣秀頼を再度挑発して開戦し、1615年(慶
長20年)に大阪夏の陣が始まる。
徳川方は、殆ど堀・構築物のない裸城の豊臣大阪
(自害)に追い込んで、豊臣氏を滅亡させた。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 大坂の陣での真田幸村の活躍。
■ 真田 幸村(信繁) は、 豊臣秀頼に招かれて、豊臣
大阪城に入り、 大阪の陣(1614年10月ー1615年
5月)では 豊臣軍の武将として、奮戦して、戦死する。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 真田 幸村(信繁) (さなだゆきむら)は、 1614年(慶
長19年)に、 豊臣秀頼に招かれて、豊臣大阪城に入り、
大阪の陣では、 大阪冬の陣と大阪夏の陣の2つの戦い
で、 真田幸村は、豊臣方の武将として、 大活躍した。
● 真田幸村(信繁)は、 1614年(慶長19年)の大阪冬
の陣では、豊臣大阪城の南側に、真田丸(さなだまる)
という出城を築き、 そこを根拠地にして、徳川方を攻撃
して徳川方に大打撃を与えた。
そして、1615年(慶長20年)の大阪夏の陣では、
戦場で、徳川家康を襲ったが討ちもらし (徳川家康の本
陣間際まで突撃したが家康を討ちもらし)、力尽きて、16
15年(慶長20年)5月に、真田幸村(信繁)は、戦死した。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
◆ 大坂の陣。
■ 1611年(慶長16年)3月に、京(都)・二条城で、徳
川家康が豊臣秀頼に対面する、二条城会見が行わ
れる。
■ 二条城会見が、大坂の陣の原因となる。
1611年(慶長16年)の二条城会見で、徳川家
康は、 立派になった豊臣秀頼と会って驚き、また、
二条城会見時の京(都)の民衆・公家・朝廷や豊臣
恩顧の大名の秀頼への人気を知り、豊臣秀頼の率
いる豊臣氏勢力が江戸幕府の徳川氏政権にとって
将来脅威になると気づき(考え)、豊臣秀頼を排除し
豊臣氏を滅亡させることを決意し、 二条城会見が
大坂の陣の戦いの原因となった。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 1614年(慶長19年)7月に、 方広寺鐘銘事件(ほ
うこうじしょうめいじけん)が起こる。
■ 方広寺鐘銘事件が、大坂の陣の口実となる。
1614年(慶長19年)に、徳川家康が、 豊臣氏
の菩提寺の方広寺の、豊臣秀頼がつくったの鐘に「国
家安康」という家康を呪(のろ)う呪い文ありという言
いがかりをつけ(方広寺鐘銘事件)、 それを許すた
めに 豊臣氏に 「秀頼江戸参勤、 国替え(豊臣大阪
城明け渡し)、淀殿(茶々)人質」、 のどれかの条件を
要求し、 豊臣氏を怒らせて、戦争(大阪冬の陣) を引
き起こさせる。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 豊臣氏と徳川氏との戦争。
1614年(慶長19年)10月に、大阪冬の陣(16
14年10月ー12月)が起こる。
● 大阪冬の陣の戦争の経過と結果。
豊臣方の軍と徳川方の軍が戦うが、 大阪城の
周囲の堀に阻(はば)まれて、 徳川方の軍が勝てず。
豊臣方も戦争の継続 を望まず。 そして、 豊臣大阪
城の惣堀 (そうぼり、城の一番外側の堀)を埋めると
いう条件で、 豊臣方と徳川方の間に、1614年(慶長
19年)12月に、和議が成立す る。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 徳川家康は、 豊臣大阪城の周囲の殆(ほとん)どの
堀を埋め、豊臣大阪城の本丸以外の殆どの構築物
(建物・柵等)を壊す。
和議の取り決めの1つは、 豊臣大阪城の惣堀
(そうぼり、城の一番外側の堀)を埋めることであった
(「土佐山内家長帳」より)。
豊臣方は、惣堀(そうぼり、城の一番外側の堀)
のみを埋めると認識していたが、 和議成立後、す
ぐ急いで、徳川方は、約1カ月をかけて、 豊臣大阪
城の本丸の堀以外のすべての堀(二の丸の堀、惣堀
等)を埋め、本丸以外の殆どの構築物 (二の丸、惣
構(そうがまえ、三の丸)、真田丸等 の建物・柵) を壊
したので、 豊臣大阪城は、無防備となり、裸城(はだ
かじろ)同然となる。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 豊臣方が豊臣大阪城の堀を掘り起こし、元に戻そ
うとすると、家康は、それを口実に戦争を再開する。
1615年(慶長20年)に、 徳川家康は、 豊臣
方に、更に、大阪城内の浪人の総追放または国替
え(大阪城明け渡し)を要求し、受入れられないと、
豊臣方が豊臣大阪城の堀を掘り起こし元に戻そう
とすると、 戦争(大阪夏の陣)を1615年(慶長20
年)4月に、再開する。
家康は、豊臣方に、豊臣大阪城内外の浪人の
退去や、国替えによる大阪城退去または淀殿人質
を求めたが、豊臣家に聞きいれられず。
その家康の更なる要求を警戒した豊臣氏は、
柵を作り、堀を元に戻すため掘り起こし始める。
家康は、それを和議違反とし (和議の条件違反を
理由に)、 戦争(大阪夏の陣)を再開する。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
● 大阪夏の陣の戦争の経過と結果。
1615年(慶長20年)に、豊臣方は、奮戦するが、
豊臣軍の本拠地の豊臣大阪城は、 殆ど、堀もない、本
丸以外の建物や柵もない裸城のため、 徳川軍に容易
に侵入され、1615年(慶長20年)5月に、炎上し、消
滅する。
1615年(慶長20年)に、豊臣大阪城にいた、豊
臣秀頼(享年23歳)と秀頼の生母・淀殿(茶々)は、自
刃(自害)する。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 1615年(慶長20年)5月に、 大阪夏の陣(1615
年4月ー5月)で、 豊臣氏が滅亡する。 ここに、豊臣
方と徳川方との戦争の大坂の陣(1614年10月ー16
15年5月)は、終結した。
◆ 大坂の陣。
■ 大坂の陣 (おおさかのじん、1614年10月ー1615
年5月、大阪の役) とは、 前半の1614年(慶長19年)
10月ー12月の大坂冬の陣 と、 後半の1615年(慶
長20年)4月ー5月の大坂夏の陣 である。
● 大坂の陣 (=大坂冬の陣と大坂夏の陣)とは、 徳川
家康が将来の徳川 氏の江戸幕府の政治(幕藩体制)
の邪魔になる、豊臣氏の勢力を一掃するために起こし
た戦い である。
◆ 大坂冬の陣 (1614年10月ー12月)。
■ 大坂冬の陣 (おおさかふゆのじん)は、1614年(慶
長19年)10月から12月まで、 大坂地域で、 徳川
方・約20万人兵力 と 豊臣方・約10万人兵力 が
戦った戦争である。 主に、豊臣大阪城の籠城戦(ろ
うじょうっせん、城攻防戦) であった。
● 準備。
1614年(慶長19年)10月11日に、徳川家康は、
大坂地域に向かい、 駿府城を出発する。
● 戦い。
1614年(慶長19年)11月に、 約20万人の兵
(軍勢)の徳川方は、 約10万人の兵(軍勢)がいる
豊臣大阪城を囲み、 徳川方は、 1614年(慶長
19年)11月19日に、 木津川口の砦で戦いが始ま
り(木津川口の戦い)、 豊臣方と開戦する。
城を囲まれている豊臣方は、武器弾薬が少なく
なり(底をつき)、食料供給も絶たれていたので、また、
1614年12月16日に豊臣大 阪城本丸に徳川方の
脅しのための砲弾が届き撃ち込まれて(命中し)淀
殿の侍女が死去し淀殿が怯(おび)える。
一方、徳川方は、大坂城には防御性のある堀が
あり城内に侵入できず、また、真田丸の真田幸村(信
繁)など牢人(ろうにん)の奮戦・活躍などで徳川方に
想定外の多くの死傷者を出し、 双方とも、長期戦を
望まず、停戦の交渉に入る。
1614年(慶長19年)12月19日に、豊臣方と
徳川方の和議が成立し、終戦となる。
成立した和議の内容は、
@ 豊臣大阪城の牢人(ろうにん、浪人)の罪を問
わない、
A 豊臣秀頼の領土を安堵(あんど、保障)する、
B 豊臣大阪城の惣堀(そうぼり、城の一番外側
の堀)を埋める (「土佐山内家長帳」より)、
ことであった。
● 後始末。
豊臣方は、惣堀(そうぼり、城の一番外側の堀)
のみを埋めると認識していたが、 和議成立後、す
ぐ急いで、徳川方は、約1カ月をかけて、 豊臣大阪
城の本丸の堀以外のすべての堀(二の丸の堀、惣堀
等)を埋め、本丸以外の殆どの構築物(二の丸、惣構
(そうがまえ、三の丸)、真田丸等)を壊したので、豊臣
大阪城は、 裸城(はだかじろ)同然となる。
■ 真田幸村の、真田丸。
■ 大坂冬の陣では、 徳川軍は、約20万人の兵で、豊
臣大阪城を囲んで、東西南北から攻撃したが、 真田
幸村(信繁)は、約5000人の兵で、城南から攻め寄
せる兵・約26000人を真田丸に引き寄せて、約1万人
以上の兵を討ち、徳川方主力部隊に大打撃を与えた。
● 真田幸村(信繁)は、 徳川方主力部隊を、真田丸の
空堀に誘い込んで、鉄砲で銃撃し(その鉄砲の中には、
約300mの射程のある大型銃もあった)、 徳川方の
多くの兵を討ち死にさせた。
■ 真田丸 (さなだまる)は、 大坂冬の陣の砦(とりで)
であり、 1614年(慶長19年 )の11月から12月ま
で、豊臣大坂城の南方に存在した出城(でじろ)であ
った。
● 真田丸は、 真田幸村(信繁) (さなだゆきむら(の
ぶしげ))が、 大坂冬の陣で、 豊臣方の籠城戦(ろ
じょうせん)を有利 にするため、 1614年10月より
寺院の材料などを利用し て、約1カ月の突貫工事で、
豊臣大阪城の南方に造った、無敵の砦(とりで)であ
った。
豊臣大阪城は、 東西南北で、 南側の空堀が防
御に弱く弱点があり、 南側の空堀に徳川方の兵を集
中させないため (南側の空堀から徳川方の目をそら
るさせため)、 真田幸村(信繁)は、 徳川方主力部
隊を、豊臣大阪城の南側に突き出た出城の真田丸に
引き寄せて(つけて)戦うことを決意した。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
● 1614年12月に豊臣方と徳川方の間で、和睦が成立
し、大坂冬の陣は終わった。
大坂冬の陣の和睦の条件の1つは、 豊臣大阪
城の惣堀(そうぼり、城の一番外側の堀)を埋めること
であった(「土佐山内家長帳」より)。
豊臣方は、惣堀(そうぼり、城の一番外側の堀)
のみを埋めると認識していたが、停戦後すぐ、和議成
立後すぐ急いで、徳川方は、約1カ月をかけて、豊臣
大阪城の本丸の堀以外のすべての堀(二の丸の堀、
惣堀等)を埋め、本丸以外の殆どの構築物(二の丸、
惣構(そうがまえ、三の丸)、真田丸等)を壊したので、
豊臣大阪城は、無防備となり、非武装化され、裸城
(はだかじろ)同然となる。
徳川方の堀埋め立てや構築物破壊時に、真田
丸は消滅した。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 2014年に真田丸の学術調査が行われた。
真田丸の正確な場所は、今までは特定できなかった
が、2014年の学術調査で、 真田丸は、 現在の大坂
の餌差町(えさしまち)の大坂明星学園(おおさかめい
せいがくえん)付近にあったことがわかった。
また、2014年の学術調査で、真田丸は、東西
220m・南北230mの大きさで、四角形の台形型であ
り、寺町の市街地の中にあったことがわかった。
学術調査では、専門家が、大坂城の南方の各地を、
地中探査機械を利用し、レーダーや電磁波などで繰り
返し地中の遺構(いこう)を探査し、真田丸の位置を特
定した。
◆ 大坂夏の陣 (1615年4月ー5月)。
■ 大坂夏の陣 (おおさかなつのじん)とは、 1615年
(慶長20年)4月から5月まで、 大坂地域で、 徳川
方・約15万人兵力 と 豊臣方・約5万人兵力が戦っ
た戦争である。 主に、豊臣大阪城の南方での野戦
(やせん、野外戦)であった。
● 準備。
1615年(慶長20年)4月4日に、徳川家康は、
大坂地域に向かい、駿府城を出発する。
● 戦い。
1615年(慶長20年)4月に、約15万人の兵(軍
勢)の徳川方は、 豊臣大阪城の南方に陣取り、約5
万人の兵(軍勢)の豊臣方に対峙し、 4月26日に郡
山城の戦いが起こり、豊臣方と開戦する。
1615年(慶長20年)5月に、徳川方は 、 豊臣
大阪城の南方で、豊臣方主力部隊に野戦(野外戦)
で勝ち、 その後、豊臣大阪城を攻めて5月7日に落
城(陥落)させ、 5月8日に豊臣秀頼と秀頼の生母・淀
殿が自害し、終戦となる。
● 後始末。
徳川方は、 生き残った豊臣方の残党や牢人
(ろうにん、浪人)を捕(とら)え、豊臣大阪城のすべ
てを取り壊す。
後に、徳川方は、 同地に、新しい徳川大阪城
を築城する。
■ 真田幸村の、家康本陣突撃。
■ 1615年(慶長20年)の大坂夏の陣では、 真田幸
村(信繁)は、 豊臣大阪城の南方にある、茶臼山(ち
ゃうすやま)を改造し、茶臼山に本陣を置いた。
■ 真田幸村(信繁)は、「茶臼山おびき寄せ作戦」をた
て、 真田幸村(信繁)本陣の茶臼山に、敵の徳川
軍主力部隊や徳川家康本陣守備隊をおびき寄せ、
戦い、そのすきに、別動隊が、徳川家康本陣を急襲
し、敵の大将の徳川家康を討ち取る計画であった。
しかし、茶臼山の手前の地で、豊臣軍の別の部
隊が、徳川軍主力部隊を攻撃し始め、 徳川家康本
陣守備隊は、動かず、徳川家康本陣周辺を囲んだま
まであった。
真田幸村(信繁)は、 「茶臼山おびき寄せ作戦」
ができず、止むを得ず、茶臼山本陣を捨て、徳川家
康本陣への突撃を決意し、 真田幸村(信繁)部隊は、
全員、徳川家康本陣守備隊が守る、徳川家康本陣に
突撃していった。
真田幸村(信繁)部隊は、徳川家康本陣守備隊
の守りを破り、徳川家康本陣間際まで突撃したが、徳
川家康を討ち取ることができず、突撃で多数の兵士を
失い、徳川家康本陣から押し戻されて、真田幸村(信
繁)は、乱戦中、徳川方の越前松平軍の武士と戦い、
1615年(慶長20年)5月7日頃に、野戦で、討ち死
にした。
その後、豊臣大阪城も徳川方の攻撃を受け、豊
臣秀頼が自害し、豊臣大阪城も落城した。
■ 江戸時代中期より真田幸村(信繁)は、
武士の鑑(かがみ)となる。
■ 大坂の陣で戦犯であった、真田幸村(信繁)は、 平
和になった江戸時代中期より、 豊臣氏のために討ち
死にし、主君に忠節を尽くた武士として武士の鑑(か
がみ)とされ、人気がでるようになった。
■ 真田幸村(信繁)は、大坂の陣以後、大坂の陣で勇猛
な知将として武士の間で、尊敬を集めていたので、真
田幸村(信繁)の子は、 各藩で匿(かくま)われ、 幸
せな生活を送った。
真田幸村(信繁)の子の真田大八(さなだだいは
ち)とその子孫は、仙台藩に匿(かくま)われ、名を変え
て、江戸時代、仙台藩士として存続した。
#oosakanojinwar-briefchronology
◆ 大阪の陣の簡略年表。
■ 1611年 ■ 1611年(慶長16年)3月に、京(都)・二条
(慶長16年) 城で、徳川家康が豊臣秀頼に対面する、二
条城会見が行われる。
● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。
■ 1614年 ■ 1614年(慶長19年)7月に、方広寺鐘銘
(慶長19年) (ほうこうじしょうめい)事件が起こる。
徳川家康は、豊臣秀頼のつくった方広寺
の梵鐘(ぼんしょう)に「国家安康」、「君臣豊
楽」という家康を呪(のろ)う呪い文ありという
言いがかりをつける、方広寺鐘銘事件 を起こ
す。
● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。
川氏との戦争の、大阪の陣(1614年10月 ー
1615年5月)が起こる。
■ 1614年(慶長19年)10月に、大阪冬の陣
(1614年10月ー12月、大阪の陣の前半戦)
が起こる。
徳川家康は、豊臣秀頼のつくった方広寺
の梵鐘(ぼんしょう)に家康を呪(のろ)う呪い文
ありという言いがかりをつけ(方広寺鐘銘事件)、
それを許すために豊臣氏に、「秀頼江戸参勤、
国替え(大阪城明け渡し)、 淀殿(茶々)人質」、
のどれかの条件を要求し、 豊臣氏を怒らせ、
戦争(大阪冬の陣)を引き起こさせる。
● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。
■ 1614年(慶長19年)10月ー12月に、豊
(信繁)など豊臣方の浪人の奮戦 と 大阪城
の周囲の外堀に阻(はば)まれて、 徳川方の軍
が勝てず。 食糧・弾薬の欠乏 と大砲の損害で、
豊臣方も戦争の継続を望まず。
■ 1614年(慶長19年)12月に、豊臣大阪
城の惣堀(そうぼり、一番外側の堀)を埋める
という条件で、豊臣方と徳川方の間に、大阪冬
の陣の終戦の和議が成立する。
■ 1614年(慶長19年)12月〜1615年
(慶長20年)1月に、徳川家康の徳川方は、大
阪城の周囲の殆どの堀を埋め、大阪城の本
丸以外の殆どの建物・柵等の構築物を壊す。
豊臣大阪城は、裸城(はだかじろ)同然となる。
● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。
■ 1615年 ■ 1615年(慶長20年)1月ー4月に、徳川
(慶長20年) 方は、豊臣方の大阪城の浪人が大 阪城を退
城しないことに豊臣方に不信感を抱(いだ)く。
徳川家康は、 豊臣方に、更に、大阪城
内の浪人の退去、または、国替えによる大阪
城退去を求めたが、豊臣方に聞きいれられず。
豊臣方が豊臣大阪城の堀を掘り起こし元に戻
そうとすると、1615年(慶長20年)4月に、そ
れを口実に戦争を再開する。
● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。
■ 1615年(慶長20年)4月に、豊臣氏と徳川
氏との戦争の、大阪夏の陣 (1615年4 月ー
5月、大阪の陣の後半戦) が起こる。
豊臣方が豊臣大阪城の堀を掘り起こし、
元に戻そうとすると、家康は、1615年(慶長
20年)4月に、それを口実に戦争を再開する。
■ 1615年(慶長20年)4月ー5月に、豊臣
方は、豊臣大阪城の外周部で奮戦するが、徳
川方が豊臣大阪城本丸に迫り、 豊臣軍の本
拠地の豊臣大阪城は、殆ど堀のない本丸以
外の建物や柵もない裸城(はだかじろ)のた
め、徳川軍に容易に侵入され、1615年(慶
長20年)5月に、炎上し、消滅する。
■ 1615年(慶長20年)5月に、豊臣大阪城
は、徳川軍に侵入され、炎上し、豊臣大阪城
にいた、豊臣秀頼(享年23歳)、秀頼の生母
の淀殿(茶々) は、自刃(じじん、自害)する。
1615年(慶長20年)5月に、大阪夏の
陣で、豊臣氏は滅亡する。 ここに、豊臣 氏と
徳川氏との戦争の、大阪の夏の陣(1615年
4月ー5月、大阪の陣の後半戦)は、終わる。
■ 1615年(慶長20年)5月に、豊臣 氏と
徳川氏との戦争の、大阪の陣(1614年10月
ー1615年5月)は、終結した。
#oosakanojinwar-appearingscenes
♪♪ 大阪の陣 が登場する、興味深い関
連ドキュメンタリー、ドラマ、映画。
★ 大阪の陣が 登場する、興味深い関連
ドキュメンタリー。
■ 尾上松也の古地図で謎解き!
『 大坂の陣前夜 豊臣秀頼
「豪胆な徳川手切れ」 』。
(BS11テレビ・2016年12月7日・
本放送・歴史ドキュメンタリー番組)。
■ 大坂の陣の原因と大坂の陣の内容を詳細
に述べる。
■ 2011年以後の豊臣秀頼の詳細を述べる。
■ にっぽん!歴史鑑定
『 真田幸村の半生 』。
■ 『 真田幸村の半生 (1) 』
(TBSKテレビ・2016年1月4日・
本放送・歴史ドキュメンタリー番組)。
■ 『 真田幸村の半生 (2) 』
(TBSKテレビ・2016年1月11日・
本放送・ 歴史 ドキュメンタリー番組)。
● 真田幸村(信繁)の活躍の詳細を述べる。
■ 歴史秘話ヒストリアスペシャル
『 徹底解明!これが‘‘真田丸’’ 』。
(NHKテレビ・2016年1月6日・本放送・
歴史ドキュメンタリー番組)。
● 真田丸の詳細や大阪冬の陣を述べる。
■ 片岡愛之助の解明!歴史捜査 『
『 家康を瀬戸際まで追いつめた男!
真田信繁と父・昌幸 智謀の系譜
を追え 』。
(日テレ・テレビ・2016年1月14日・本放送・
歴史ドキュメンタリー番組)。
● 第1次上田合戦、第2次上田合戦を述べる。
■ 歴史秘話ヒストリア 『 真田一族
戦国最強の絆〜真田昌幸・信之・
幸村 父と子の物語〜 』。
(NHKテレビ・2016年1月3日・本放送・
歴史ドキュメンタリー番組)。
● 真田氏の詳細を述べる。
■ 先人たちの底力 知恵泉
『 小さな組織で生き抜け!
名将・真田一族、戦国の極意 』。
(NHKテレビ・2016年1月12日・本放送・
歴史ドキュメンタリー番組)。
● 真田氏を述べる。
■ 英雄たちの選択 『 大阪の陣400
年 真田幸村 決戦へのジレンマ 』。
(NHKテレビ・2014年(平成26年)8月7日・
本放送・歴史ドキュメンタリー番組)。
● 大阪冬の陣と大阪夏の陣を述べる。
● 大阪の陣での真田幸村(信繁)の活躍も
述べる。
■ 歴史秘話ヒストリア 『 激突!真
田幸村 vs.伊達政宗〜めぐりあい
大阪夏の陣〜 』。
(NHKテレビ・2010年(平成22年)1月6日・
本放送・歴史ドキュメンタリー番組、第28回)。
■ 歴史秘話ヒストリア 『 古城に眠
る秀吉の‘‘Beobo’’〜新発見
「大坂図屏風」の不思議な旅路〜 』。
(NHKテレビ・2009年(平成21年)12月9日・
本放送・歴史ドキュメンタリー番組、第26回)。
■ 歴史秘話ヒストリア 『 真田幸村
ザ・ラスト戦国ヒーロー 〜伝説に
秘められた誇り〜 』。
(NHKテレビ・2009年(平成21年)8月
26日本放送、第14回・ドキュメンタリー
番組)。
● 真田幸村(信繁)の活躍の詳細を述べる。
★ 大阪の陣 が登場する、興味深い関連
ドラマ、映画。
● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。
歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実)
と 架空の出来事が混じって描かれています。
また、 現代風にアレンジしてあります。
■ 『 真田丸 (さなだまる) 』 。
(NHKテレビ・2016年大河ドラマ)。
■ 安土桃山時代や江戸時代初期の時代状
況やその時期に活躍した人々を描く。
■ 1582年(武田氏滅亡)から1615年(大坂の
夏の陣)までの、真田氏 や 真田幸村(信繁)
(さなだ ゆきむら(のぶしげ)) を描く。
● ドラマで「真田 信繁(幸村)」 (さなだのぶし
げ(ゆきむら)) を演じた俳優名 :
堺 雅人 (さかい まさと)。
● ドラマで「真田 昌幸」 (さなだまさゆき、真田
信繁(幸村)の父) を演じた俳優名 :
草刈 正雄 (くさかり まさお)。
● ドラマで「真田 信幸(信之)」 (さなだのぶゆ
き、真田信繁(幸村)の兄) を演じた俳優名 :
大泉 洋 (おおいずみ よう)。
● ドラマで「真田 信尹」 (さなだのぶただ、真田
信繁(幸村)の叔父(おじ)) を演じた俳優名 :
栗原 英雄 (くりはら ひでお)。
● ドラマで「松(まつ)」 (仮称、真田 信繁(幸
村)の姉の、村松殿(むらまつどの)) を演じ
た女優名 :
木村 佳乃 (きむら よしの)。
● ドラマで「とり」 (仮称、真田 信繁(幸村)
の祖母で、真田幸隆夫人・恭雲院(きょううん
いん)) を演じた女優名 :
草笛 光子 (くさぶえ みつこ)。
● ドラマで「薫(かおる)」 (仮称、真田昌幸(ま
さゆき)夫人・真田信繁(幸村)の母・山手殿
(やまのてどの)) を演じた女優名 :
高畑 淳子 (たかはた あつこ)。
● ドラマで「 梅(うめ)」 (仮称、真田信繁(幸村)
側室夫人の、堀田興重(作兵衛)の妹 (実名不
詳、ほったおきしげ(さくべい)のいもうと) を演
じた女優名 :
黒木 華 (くろき はる)。
● ドラマで「きり」 (仮称、真田 信繁(幸村)・側
室夫人の、高梨内記の娘(実名不詳、たかな
しないきのむすめ、生没年不詳) を演じた女
優名 :
長澤 まさみ (ながさわ まさみ)。
● ドラマで「春(はる)」 (仮称、真田 信繁(幸村)
・正室夫人・竹林院 (ちくりんいん)) を演 じた
女優名 :
松岡 茉優 (まつおか まゆ)。
● ドラマで「たか」 (仮称、真田 信繁(幸村)・側
室夫人・隆清院 (りゅうせいいん)) を演じた
女優名 :
岸井 ゆきの (きしい ゆきの)。
● ドラマで「こう」 (仮称、真田 信幸(信之)(の
ぶゆき)・側室夫人(元正室夫人)の清音院
(せいおんいん)) を演じた女優名 :
長野 里美 (ながの さとみ)。
● ドラマで「 稲(いな)」 (仮称、真田 信幸(信
之)(のぶゆき)・正室夫人の小松姫 (こまつ
ひめ)) を演じ た女優名 :
吉田 羊 (よしだ よう)。
● ドラマで「 豊臣秀吉」 (とよとみひでよし、
真田信繁(幸村)の主君) を演じ た俳優名:
小日向 文世 (こひなた ふみよ)。
● ドラマで「平野 長泰」 (ひらのながやす、
豊臣氏家臣) を演じ た俳優名:
近藤 芳正 (こんどう よしまさ)。
● ドラマで「 吉野太夫」 ( よしのたゆう、実名
不詳、安土桃山時代活躍の才色兼備の上
級遊女の初代・吉野太夫) を演じた女優名 :
中島 亜梨沙 (なかじま ありさ)。
● ドラマで「 阿茶局」 ( あちゃのつぼね、徳川
家康の側室夫人) を演じた女優名 :
斉藤 由貴 (さいとう ゆき)。
■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』。
(NHKテレビ・2011年大河ドラマ)。
■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土
桃山時代、江戸時代初期の時代状況や
その時期に活躍した人々を描いたドラマ。
● 真田 幸村(信繁(のぶしげ))を演じた俳優名 :
浜田 学。
● 真田幸村(信繁)の父・真田昌幸(まさゆき)
を演じた俳優名 : 藤波 辰爾。
■ 『 天地人 (てんちじん) 』 。
(NHKテレビ・2009年大河ドラマ)。
■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土
桃山時代、江戸時代初期を描いたドラマ。
■ 真田幸村(信繁)の、上杉家での人質生活
(1582-1600年)などを描く。
● 真田幸村(信繁)を演じた俳優名 : 城田 優。
■ 『 風林火山 (ふうりんかざん) 』 。
(NHKテレビ・2007年大河ドラマ)。
■ 日本の室町時代後期(戦国時代)を描いた
ドラマ。
■ 真田幸村(信繁)の祖父・真田幸隆(さなだゆ
きたか)が登場し、 活躍する。
● 真田幸村(信繁)の祖父・真田幸隆(ゆきた
か)を演じた俳優名 : 佐々木 蔵之介。
● ドラマでは忍芽(しのめ) (真田幸隆夫人・
恭雲院(きょううんいん))を演じた女優名:
清水 美砂。
● 真田幸隆の長男・真田信綱(のぶつな)を演
じた俳優名 : 森脇 史登。
● 真田幸隆の三男・真田昌幸(まさゆき)(真田
幸村(信繁)の父)、ドラマでは・真田源五郎
(げんごろう)を演じた俳優名 : 小林 海人。
■ 『 茶々 天涯の貴妃 (ちゃちゃ
てんがいのおんな) 』。
(日本の2007年制作・東映映画)。
■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土
桃山時代、江戸時代初期を描いたドラマ。
■ 大坂夏の陣で、真田幸村が戦うシーンが、
登場します。
■ 大坂の陣の迫力のあるシーンが、沢山
(たくさん)登場する。
■ 豊臣大阪城の炎上のシーンが出てくる。
● 淀殿(茶々)を演じた女優 : 和央 ようか
(わお ようか)。
● 真田幸村(信繁)を演じた俳優名 :
黄川田将也。
■ 『 真田太平記 (さんだたいへいき) 』 。
(NHKテレビ・1985ー1986年NHK
連続テレビドラマ、全45話)。
■ 日本の室町時代後期(戦国時代)、安土
桃山時代、江戸時代初期を描いたドラマ。
■ 真田氏(真田一族)を描く。
● 真田幸村(信繁)を演じた俳優名:
草刈 正雄。
● 真田幸村(信繁)の父・真 田昌幸(まさゆき)
を演じた俳優名 : 丹波哲郎。
● 真田昌幸夫人・真田幸村(信繁)の母・
山手殿(やまのてどの)を演じた女優名:
小川明子。
● 真田幸村(信繁)の兄・真田信幸(信之)
(のぶゆき)を演じた俳優名 : 渡瀬 恒彦。
● 真田幸村(信繁)夫人・竹林院(ちくりん
いん)大谷吉継の娘・ドラマでは於利世を
演じた女優名: 中村 久美。
● 真田信幸(信之)正室夫人・本多忠勝の娘・
小松殿(こまつどの)を演じた女優名:
紺野 美沙子。
● 豊臣秀吉を演じた俳優名: 小日向 文世。
の 先頭ページへ 。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
◆ 大坂の陣関連出来事
(年代順・詳細)。
■ 1611年(慶長16年)3月。
〇 二条城会見。
○ 大坂の陣の原因となる。
■ 二条城会見 (にじょうじょうかいけん)とは、 16
11年(慶長16年)3月に、京(都)・二条城で、徳川
家康が豊臣秀頼に対面したことである。
● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。
■ 二条城会見が、大坂の陣の原因となる。
1611年(慶長16年)の二条城会見で、徳川家
康は、 立派になった豊臣秀頼と会って驚き、また、
二条城会見時の京(都)の民衆・公家・朝廷や豊臣
恩顧の大名の秀頼への人気を知り、豊臣秀頼の率
いる豊臣氏勢力が江戸幕府の徳川氏政権にとって
将来脅威になると気づき(考え)、豊臣秀頼を排除し
豊臣氏を滅亡させることを決意し、 二条城会見が
大坂の陣の戦いの原因となった。
● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。
■ 1614年(慶長19年)7月。
○ 方広寺鐘銘事件。
○ 大坂の陣の口実となる。
■ 1614年(慶長19年)7月に、 方広寺鐘銘事件(ほ
うこうじしょうめいじけん)が起こる。
■ 1614年(慶長19年)7月に、徳川家康は、豊臣秀頼
のつくった方広寺の梵鐘(ぼんしょう)に「国家安康」、
「君臣豊楽」という家康を呪(のろ)う呪い文ありという
言いがかりをつける、方広寺鐘銘事件を起こす。
■ 方広寺鐘銘事件が、大坂の陣の口実となる。
1614年(慶長19年)7月に、徳川家康は、 崇
伝(すうでん)らと画策して、豊臣 氏の菩提寺の方広寺
(ほうこうじ)の 豊臣秀頼のつくった梵鐘(ぼんしょう)
に「国家安康」、「君臣豊楽」という家康を呪(のろ)う
呪い文ありという言いがかりをつけ(方広寺鐘銘事件)、
それを許すために豊臣氏に、「秀頼江戸参勤、 国替
え(大阪城明け渡し)、 淀殿(茶々)人質」、のどれか
の条件を要求し、 豊臣氏を怒らせ、戦争(大阪冬の
陣、1614年10ー12月、大阪の陣の前半戦)を引き
起こさせる。
● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。
■ 1614年(慶長19年)10月。
○ 大阪の陣が起こる。
○ 大阪冬の陣が起こる。
■ 1614年(慶長19年)10月に、大阪の陣が起こる。
との戦争である大阪の陣 (1614年10月ー1615年
5月)が、起こる。
● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。
■ 1614年(慶長19年)10月に、大阪冬の陣が起こる。
1614年(慶長19年)10月に、豊臣氏と徳川氏
との戦争である大阪冬の陣 (1614年10ー12月、
大阪の陣の前半戦) が起こる。
● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。
■ 徳川家康は、 1614年(慶長19年)7月に、方広寺
(ほうこうじ)の 豊臣秀頼のつくった梵鐘(ぼんしょう)
に家康を呪(のろ)う呪い文ありという言いがかりをつ
け(方広寺鐘銘事件)、 「秀頼江戸参勤、 国替え(大
阪城明け渡し)、 淀殿(茶々)人質」 のどれかの条件
を要求し、 豊臣氏を怒らせ、戦争(大阪冬の陣、16
14年10ー12月、大阪の陣の前半戦)を引き起こさせ
る。
■ 1614年(慶長19年)10月ー12月。
○ 大阪冬の陣の戦争の経過。
■ 豊臣方の軍と徳川方の軍が戦うが、真田幸村(信
繁)など豊臣方の浪人の奮戦 と 大阪城の周囲の外
堀に阻(はば)まれて、徳川方の軍が勝てず。 豊臣
方も食糧・弾薬の欠乏と大砲の損害で、戦争の継続
を望まず。
● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。
■ 1614年(慶長19年)12月。
○ 大阪冬の陣の停戦が合意される。
○ 大阪冬の陣が終わる。
■ 1614年(慶長19年)12月に、大阪冬の陣が終わる。
1614年(慶長19年)12月に、豊臣氏と徳川氏と
の戦争である大阪冬の陣 (1614年10月ー12月、大
坂の陣の前半戦)が、終わる。
● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。
■ 大阪冬の陣の戦争の結果。
豊臣大阪城の惣堀(そうぼり、一番外側の堀)を埋
めるという条件で、 豊臣方と徳川方の間に、16 14年
(慶長19年)12月に、大阪冬の陣の終戦の和議が成立
する。
交渉は、1614年(慶長19年)12月18日より、徳
川方の使者の本多正純(ほんだまさずみ、徳川家康の側
近家臣)、阿茶局(あちゃのつぼね、徳川家康の側室夫
人) と 豊臣方の使者の常高院 (じょうこういん、お初
われ、12月19日に講和条件が合意され、20 日に誓書
が交換された。
豊臣方と徳川方の間の和議の取り決めで(和議の
条件の1つとして)、 豊臣大阪城 の惣堀(そうぼり、一番
外側の堀)を埋め ることが決まった (「土佐山内家長帳」
より)。
● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。
■ 1614年(慶長19年)12月ー1615年
(慶長20年)1月。
○ 豊臣大阪城の殆どの堀と構築物を
破壊する。
■ 1614年(慶長19年)12月から1615年(慶長20年)
1月まで、 徳川方は、 豊臣大阪城の本丸の堀以外の
すべての堀を埋め、 豊臣大阪城の本丸以外の殆どの
構築物(建物・柵等)を壊す。
● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。
■ 徳川家康の豊臣方は、 惣堀(そうぼり、城の一番外側
の堀)のみを埋めると認識していたが、 1614年(慶長
19年)12月の和議成立後、すぐ急いで、徳川方は、約1
カ月をかけて、豊臣大阪城の本丸の堀以外のすべての
堀(二の丸の堀、惣堀 等)を埋め、 本丸以外の殆どの
構築物 (二の丸、惣構(そうがまえ、三の丸)、真田丸
の建物・柵等) を壊し、 1615年(慶長20年) 1月に完
了し、 豊臣大阪城は、非武装化され、裸城(はだかじろ)
同然となる。
● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。
■ 1615年(慶長20年)1月ー4月。
○ 家康が豊臣方に追加要求を出す。
■ 徳川方は、豊臣方の大阪城の浪人が豊臣大阪城を
退城しないことに豊臣方に不信感を抱(いだ)く。
大阪冬の陣の終戦の和議では、徳川方は、大阪
城の浪人に対し助命という意味で不問にしたのに、豊
臣方は、豊臣大阪城の浪人をこのまま 召抱(めしか
か)えてもよいと解釈したためである。
● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。
■ 徳川家康は、 豊臣方に、更に、浪人 の解雇または
豊臣家の移封、即ち、豊臣大阪城内の浪人の総追放
または国替え(大阪城明け渡し)を要求したが、受け
入れられなかった。
● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。
■ 豊臣方が、豊臣大阪城の堀を掘り起こし元に戻そうと
する。
■ 1615年(慶長20年)4月に、大阪夏の陣 (1615年
4〜5月、大阪の陣の後半戦) が起こる。
徳川家康は、豊臣方に、大阪城内の浪人の退去、
または、国替えによる大阪城退去を求めたが、豊臣家
に聞きいれられず。
その家康の更なる要求を警戒した豊臣家が、 柵
を作り、堀を元に戻すため掘り起こし始める。 家康は、
それを和議違反とし(和議の条件違反を理由に)、戦争
(大阪夏の陣)を1615(慶長20年)年4月に、再開する。
● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。
■ 1615年(慶長20年)4月。
○ 大阪夏の陣が起こる。
■ 1615年(慶長20年)4月に、大阪夏の陣が起こる。
1615年(慶長20年)4月に、豊臣氏と徳川氏と
の戦争である大阪夏の陣 (1615年4月ー5月、大阪
の陣の後半戦) が起こる。
● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。
■ 1615年(慶長20年)4月に、豊臣方が豊臣大阪城の
堀を掘り起こし、元に戻そうとすると、 家康は、それを
口実に戦争を再開する。
● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。
■ 徳川家康は、 豊臣方に、更に、浪人 の解雇または豊
臣家の移封、即ち、大阪城内の浪人の総追放または
国替え(大阪城明け渡し)を要求したが、受入れられず、
豊臣方が豊臣大阪城の堀を掘り起こし元に戻そうとす
ると、1615年(慶長20年)4月に、家康は、諸大名に鳥
羽・伏見に集結するように命じ、戦争を再開する。
● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。
■ 1615年(慶長20年)4月ー5月。
■ 大阪夏の陣の戦争の経過。
1615年(慶長20年)に、豊臣方は、大阪城の外
周部で奮戦するが、徳川方が大阪城本丸に迫り、豊臣
軍の本拠地の大阪城は、本丸以外の建物や柵もなく
堀のない裸城(はだかじろ)の ため、 徳川軍に容易
に侵入され、1615年(慶長20年)5月に、炎上し、消
滅する。
● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。
■ 1615年(慶長20年)5月。
○ 大阪の陣が終わる。
○ 大阪夏の陣が終わる。
■ 1615年(慶長20年)5月に、大阪の陣が終わる。
の戦争である大阪の陣 (1614年10月ー1615年
5月)が、終わる。
● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。
■ 1615年(慶長20年)5月に、大阪夏の陣が終わる。
1615年(慶長20年)5月に、豊臣氏と徳川氏と
の戦争である大阪夏の陣 (1615年4月ー5月、大
坂の陣の後半戦)が、終わる。
● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。
■ 大阪夏の陣の戦争の結果。
1615年(慶長20年)に、豊臣方は、大阪城の外
周部で奮戦するが、徳川方が大阪城本丸に迫り、豊臣
軍の本拠地の大阪城は、殆ど堀のない本丸以外の建
物や柵もない裸城(はだかじろ)のため、 徳川軍に容
易に侵入され、1615年(慶長20年)5月に、炎上し、
消滅する。
1615年(慶長20年)5月に、 大阪城にいた、
刃(じじん、自害)する。
● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。
■ 1615年(慶長20年)5月に、大阪夏の陣(1615年4
月ー5月、大坂の陣の後半戦)で、豊臣氏が滅亡する。
ここに、豊臣方と徳川方との戦争の大阪の陣
(1614年10月ー1615年5月)は、 終結した。
● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。
の 先頭ページへ 。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』
以 上