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◆ カナヤマ織田信長ガイドブック。
KANAYAMA’S GUIDEBOOK ON ODA
Nobunaga.
『 (Kjhh)41515
カナヤマ
織田信長
関連 年代順
出来事ブック。 』
■ パソコン(PC)、 携帯用パソコン(PC)、
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メ ニュー (目次)。
■ 次の項目から選んで、クイックして下さい。
□ 織田信長の居住地の変遷。
□ 織田信長ガイドブック。
□ 織田信長の生涯の概要。
□ 織田信長の一族。
■ 織田信長と同時代近くの関係資料。
□ 織田信長 画像 NO.1。
□ 安土城 画像アルバム No.1。
□ 徳川家康ガイドブック。
ブック。
□ 豊臣秀吉ガイドブック。
ブック。
□ 室町幕府ガイドブック。
ブック。
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□ (KOH) カナヤマ オフィシャル >
□ (Cse) 国際理解総合サイト >
□ (Ke) 百科事典。 >
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◆ カナヤマ 織田信長
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織田信長 関連
年代順出来事
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出来事 (詳細項目)。
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□ 織田信長の生涯の概要。
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■ 織田信長と同時代近くの関係資料。
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□ 安土城 画像アルバム No.1。
□ 徳川家康ガイドブック。
ブック。
□ 豊臣秀吉ガイドブック。
ブック。
■ 備考。
■ 当書籍では、 歴史の出来事の5W1H
(いつ、どこで、だれが、何を、なぜ、どの
ように) や、 歴史の出来事の流れ(原因
理由⇒事件勃発⇒経過⇒結果⇒原因理
由)に沿って、歴史(過去)の出来事を分か
り易く、説明している。
■ より理解を深めるために、 日本史辞典の、
『 徳川家康 ( とくがわいえやす)、
今川義元 (い まがわよしもと)、
明智光秀 (あけちみつひで)、
豊臣秀吉 (と よとみひでよし)、
上杉謙信 (うえすぎけんしん)、
北条氏康 (ほうじょううじやす)、
武田信玄 (たけだし んげん)、
武田 勝頼 (たけだしんげん) 』
の項目も参照してください。
■ 西暦・和暦の記載。
● この年代順出来事は、
西暦を先に、その後ろの( )内に和暦を記載し
ている。
● この年代順出来事に記載されている日付(年
月日)は、 一般の歴史書で使用されているの
と同じように、1872年(明治5年)以前は旧暦
(太陰太陽暦)を用い、 1873年(明治6年)
以後は新暦(太陽暦、グレゴリオ暦)を用いて
いる。
◆ では、織田 信長 (おだ のぶなが)に関係す
る出来事を、年代順に、見てみよう。
■ さあ、織田信長に関する様々な出来事を見て
みよう。
● 歴史学の立場から、織田信長の生涯や実像
(真実の姿)を見てみよう。
● 歴史学の立場から、年代を追って、織田 信
長の実像 (歴史的有名な人物には、虚像と
実像があるが)を見てみよう。
● 日付は、一般の歴史書と同様に全て旧暦で
ある。
● 現代も、過去の時代も、人間は、利害と感情
(友愛)と理性等で行動し、富、名誉、権力等
を手に入れるために努力する。
人類の歴史は、 平和と戦争の歴史で
ある。 人は、美しき者、平和を好む者であり、
人は、醜き者、争う者でもある。
□ 織田信長ガイドブッ クへ。
◆ 織田信長 関連
年代順出来事
(詳細・各年)。
■ 『 では、年代を追って、織田信長の行動
を詳しく見てみよう。 』
■ 1521年 (永正18年 ・大永元年)。
● 永正年号から大永 年号に改元。
大永年号: 1521年ー1528年。
■ 1521年(永正18年 ・大永元年)に、
大永(だいえい、たいえい)年号に改元。
● 1521年(永正18年 ・大永元年)8月23日に、
和暦の「永正」(えいしょう、
永正元年・1504年〜永正18年・1521年) が、
和暦の「大永」(だいえい、たいえい、
大永 元年・1521年・ 8月23日〜
大永 8年・1528年・ 8月20日) に
改元される。
■ 室町時代後期の各年号。
暗記法: 永大享天弘永元天
(えいだいきょうてんこうえいげんてん)。
● 永正(えいしょう)年号: 1504年ー1521年。
● 大永(だいえい)年号: 1521年ー1528年。
● 享禄(きょうろく)年号: 1528年ー1532年。
● 天文(てんぶん)年号: 1532年ー1555年。
● 弘治(こうじ)年号: 1555年ー1558年。
● 永禄(えいろく)年号: 1558年ー 1570年。
● 元亀(げんき)年号: 1570年ー 1573年。
● 天正(てんしょう)年号: 1573年ー 1592年。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1521年 (大永元年) 11月。
● 武田 信玄(太郎)が誕生する。
■ 1521年(大永元年)11月に、 武田 信玄
(たけだ しんげん、幼名:太郎(たろう))が、
甲斐国(かいのくに、現・山梨県)の守護大
名、戦国大名、国主の武田信虎(たけだの
ぶとら)の子として、誕生する。
■ 1527年 (大永7年)頃。
● 信長の祖父・織田信定が隠居
する。
■ 1527年(大永7年)頃に、織田信定 (お
だのぶさだ、生没年:生年不詳〜1538年)
は、 勝幡織田氏(織田弾正忠家)(しょばた
おだし(おだだんじょうのちゅうけ))の家督と
勝幡城(しょばたじょう)を、長男の織田信秀
(おだのぶひで)に譲り、 自分は、木ノ下城
(きのしたじょう、= 犬山城(いのやまじょう))
に移り、隠居する。
● 信長の祖父・織田信定。
■ 信長の祖父・織田信定 (おだのぶさだ、
生没年:生年不詳〜1538年)は、
勝幡織田氏(織田弾正忠家)の当主であり、
尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部)の
尾張下4郡(尾張南部)の守護代(しょごだい)
の清洲織田氏(織田大和守氏)(きよすおだし
(おだやまとのかみけ))の分家の生まれで、
清州織田氏(織田大和守家)の重臣として仕
え、清洲三奉行(きよすさんぶぎょう)の一人
であった。
● 織田信定は、 永正年間(えいしょうねんか
ん、1504年ー1521年)頃に、勝幡城(しょ
ばたじょう)を築城し、その拠点を大永年間
(だいえいねんかん、1521年ー1528年)
に「津島の館」(つしまのやかた)から勝幡城
に移す。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1527年 (大永7年)頃。
● 信長の父・織田信秀が勝幡
織田氏の家督を相続する。
■ 信長の父・織田信秀 (おだのぶひで、生没
年:1511年ー1552年)は、
1527年(大永7年)頃、 勝幡織田氏(織田
弾正忠家) (しょばたおだし(おだだんじょう
のちゅうけ))の家督と勝幡城(しょばたじょう)
を、織田信秀の父の織田信定(おだのぶさだ)
から譲られる。
■ 1526年(大永6年)から1527年 (大永7
年)までの間に、 信長の父・織田信秀(おだ
のぶひで、生没年:1511年ー1552年)は、
尾張国 (おわりのくに、現・愛知県西部の
相当地域)で、 信長の祖父・織田信定(お
だのぶさだ、生年不詳ー1538年)から家督
を譲られて、 勝幡織田氏(織田弾正忠家)
(しょばたおだし(おだだんじょうのちゅうけ))
の当主となり、 織田信定が築城した勝幡城
(しょばたじょう)を譲り受け、勝幡城・城主と
なり、 尾張下四郡(尾張南部)の守護代(し
ゅごだい)の清洲織田氏(織田大和守家)
(きよすおだし(おだやまとのかみけ))の重臣
(三奉行(さんぶぎょう)の一人)となる。
● 信長の父・織田信秀。
■ 信長の父、織田信秀 (おだ のぶひで、生
没年:1511年ー1552年頃))は、
尾張国 (おわりのくに、現・愛知県西部の
相当地域)の戦国武将、国人領主(こくじん
りょうしゅ、小豪族)であり、
清洲織田氏(織田大和守家) (きよすおだし
(おだやまとのかみけ))の分家の当主であり、
尾張国の尾張下四郡(尾張南部)の守護代
(しゅごだい)の清洲織田氏(織田大和守家)
の重臣で、三奉行の一人であった。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1527年 (大永7年)頃から。
● 信長の父・織田信秀の他国侵略
の戦い。
■ 信長の父の尾張の織田信秀は、 尾張 国
(おわりのくに、現・愛知県西部の相当地域)
内他所を侵略せず国内を統一せず、他国侵
略を繰り返し、隣国に勢力を拡大する。
■ 信長の父・尾張の織田信秀は、
尾張の津島(つしま)、熱田(あつた)等の
交易港を支配し、経済力を得て、勢力を振い、
主に、3つの勢力と戦う。
● 織田信秀は、
(a) 尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部)
内では、国内諸勢力と戦い、
(b) 尾張国の東方面の三河国(みかわのく
に、現・愛知県東部)では、今川氏勢力と戦い、
(c) 尾張国の西北方面の美濃国(みののくに、
現・岐阜県南部)では、斎藤氏勢力と戦う。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
● 信長の父・織田信秀の他国侵略
の戦い。
■ 強力な勢力をもつ尾張 国(おわりのくに、現・
愛知県西部)の、織田信秀 (生 没年:1511
年ー1552年頃)は、
16世紀前半(1501年ー1550年)に、
隣国への他国侵略を行い、
三河国 (みかわのくに、現・愛知県東部)で
は、 駿河国・遠江国 (するがのくに・とお
とうみのくに、現・静岡県中部・西部)を支配
する今川氏の今川義元(いまがわよしもと)
と戦い、
美濃国 (みののくに、現・岐阜県南部)では、
美濃国を支配する斎藤氏の斎藤道三 利政
(さいとうどうさんとしまさ)と戦う。
■ 尾張国の、信長の父・織田信秀は、
領地獲得のため、他国侵略を行い、
東方では、三河国に侵入し、
西北方では、美濃国に侵 入し、
勝幡織田氏(織田弾正忠家)(しょばたおだし
(おだだんじょうのちゅうけ))の領地拡大を は
かり、
三河国の一部や美濃国の一部の隣国の領地
を獲得するが、
信秀の晩年には、今川氏や斎藤氏の勢力に
敗戦して、隣国の領地を失う。
● 16世紀前半の三河国。
■ 16世紀前半(1501年〜1550年)の三
河国(みかわのくに、愛知県東部の相当地
域)では、 尾張の戦国大名の織田氏の織
田信秀 と 駿河・遠江の戦国大名の今川
氏の今川義元は、互いに、三河国に侵入し、
領土を奪い合い、 織田信秀と今川義元は
敵対関係にあった。
● 16世紀前半の三河国。
■ 16世紀前半(1501年〜1550年)の三河
国(みかわのくに、愛知県東部の相当地域)
では、
尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部)の戦
国大名の織田氏の織田信秀(おだのぶひで)
と、
駿河国・遠江国(するがのくに・とおとうみの
くに、現・静岡県中部・西部)の戦国大名の
今川氏の今川義元(いまがわよしもと)
は、
互いに、三河国(みかわのくに、現・愛知県
東部)に侵入し、領土を奪い合い、
織田信秀と今川義元は敵対関係にあった。
● 16世紀前半の美濃国。
■ 16世紀前半(1501年〜1550年)の美
濃国(みののくに、岐阜県南部の相当地域)
では、 尾張の戦国大名の織田氏の織田信
秀が、 美濃国に侵入し、美濃の戦国大名
の斎藤氏の斎藤道三(利政)と戦い、 斎藤
道三(利政)と敵対関係にあった。
■ 1527年 (大永7年)頃。
● (C1) 信秀は、勝幡城を本城、
居城とする。
● (C) 織田信秀の本城の変遷。
■ (C1)⇒(C4) 。
(C1) 勝幡城
(1527年頃ー1538年頃)、
(C2) 那古野城
(1538年頃ー1544年頃)、
(C3) 古渡城
(1544年頃ー1548年)、
(C4) 末森城
(1548年ー1552年頃)。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ (C1) 信長の父の織田信秀 (おだの ぶ
ひで、生没年:1511年ー1552年頃)は、
1527年(大永7年)頃から
1538年(天文7年)頃まで、
尾張国の、勝幡城 (しょばたじょう)を、
自分の(C)本城(ほんじょう、= 本拠地
の城)、居城とする。
■ 勝幡城 (しょばたじょう)は、 尾張国(お
わりのくに、現・愛知県西部)にある。
■ 永正年間(えいしょうねんかん、1504年ー
1521年)頃に、信長の祖父・織田信定(お
だのぶさだ)が、勝幡城を築城する。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1528年 (大永8年・享禄元年)。
● 大永年号から享禄年号に改元。
享禄年号:1528年ー1532年。
■ 1528年(大永8年・享禄元年) に、
享禄(きょうろく)年号に改元。
● 1528年(大永8年・享禄元年)8月20日に、
和暦の「大永」(だいえい、たいえい、
大永元年・1521年〜大永8年・1528年) が、
和暦の「享禄」(きょうろく、
享禄 元年・1528年・ 8月20日〜
享禄 5年 ・1532年・ 7月29日) に
改元される。
■ 室町時代後期の各年号。
暗記法: 永大享天弘永元天
(えいだいきょうてんこうえいげんてん)。
● 永正(えいしょう)年号: 1504年ー1521年。
● 大永(だいえい)年号: 1521年ー1528年。
● 享禄(きょうろく)年号: 1528年ー1532年。
● 天文(てんぶん)年号: 1532年ー1555年。
● 弘治(こうじ)年号: 1555年ー1558年。
● 永禄(えいろく)年号: 1558年ー 1570年。
● 元亀(げんき)年号: 1570年ー 1573年。
● 天正(てんしょう)年号: 1573年ー 1592年。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1532年 (享禄5年・天文元年)。
● 享禄年号から 天文年号に改元。
天文年号:1532年ー1555年。
■ 1532年(享禄5年・天文元年)に、
天文(てんぶん、てんもん)年号に改元。
● 1532年(享禄5年・天文元年)7月29日に、
和暦の「享禄」(きょうろく、
享禄元年・1528年〜享禄5年・1532年) が、
和暦の「天文」(てんぶん、てんもん、
天文 元年・1532年・ 7月29日〜
天文24年・1555年・10月23日) に
改元される。
■ 室町時代後期の各年号。
暗記法: 永大享天弘永元天
(えいだいきょうてんこうえいげんてん)。
● 永正(えいしょう)年号: 1504年ー1521年。
● 大永(だいえい)年号: 1521年ー1528年。
● 享禄(きょうろく)年号: 1528年ー1532年。
● 天文(てんぶん)年号: 1532年ー1555年。
● 弘治(こうじ)年号: 1555年ー1558年。
● 永禄(えいろく)年号: 1558年ー 1570年。
● 元亀(げんき)年号: 1570年ー 1573年。
● 天正(てんしょう)年号: 1573年ー 1592年。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1534年 (天文3年) 5月。
● 織田信長が誕生する。
■ 1534年(天文3年)5月12日に、
織田 信長 (おだのぶなが、幼名(ようみょ
う):吉法師(きっぽうし)、生没年:1534年
ー1582年))が、誕生する。
● 1534年(天文3年)5月に、織田信長 (吉
法師)は、 尾張国(おわりのくに、現・愛知県
西部の相当地域)の、戦国武将、国人領主の
織田信秀 (おだ のぶひで、生没年:1511年
ー1552年頃))の子として、誕生する。
■ 信長(吉法師)は、 織田信秀(おだ のぶひ
で)の3男で、 異母兄が2人いたが、 信長
の生母の土田御前 (どたごぜん、つちだご
ぜん)が信長の父・信秀の正室夫人であった
ため、信長が嫡男となり、嫡男として育てら
れ、 信長(吉法師)は、幼年で、元服(成人)
前に、 那古野城(なごやじょう)を、父の信秀
より譲られ、那古野城の城主となる。
● 土田御前の呼称。
■ 信長の生母の土田御前の呼称。
● 土田御前 (どたごぜん、つちだごぜん)
は、 土田氏(どたし、つちだし)の、土田
政久(どたまさひさ、つちだまさひさ、生没
年不詳)の娘である。
● 土田氏(どたし、つちだし)の一族の出身
地は、
美濃国可児郡(みののくに・かにぐん)の
土田(どた、現・岐阜県可児市土田)、
または、
尾張国清洲(おわりのくに・きよす)の土田
(つちだ、現・愛知県清須市土田)、
のどちらかである。
そのため、土田氏(どたし、つちだし)
出身の土田御前には、2つの呼称がある。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
● 織田信長の誕生の場所。
■ 織田 信長(吉法師)は、
勝幡城(しょばたじょう)、または、那古野城
(なごやじょう)で、誕生する。
● 信長の父・織田信秀の
那古野城奪取時期。
■ 勝幡城・城主の信長の父・織田信秀が、
那古野城を今川氏から奪った時期は、
(A) 1532年(天文元年)頃奪取説 と、
(B) 1538年(天文7年)頃奪取説 と、
の2つがある。
● 当 書籍では、(B)の説を採用している。
● 信長は、勝幡城で誕生する。
■ (B)の説だと、信長は、 勝幡城 (しょばた
じょう、信長の父・信秀の城使用は1527年
頃から1538年頃まで) で誕生したこととな
る。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1534年 (天文3年)。
● (R1) 信長は、勝幡城を居住地
とする。
● (R) 織田信長の居住地の変遷。
■ (R1)⇒(R6 )。
(R1) 勝幡城 (1534年ー1538年頃)、
(R2) 那古野城 (1538年頃ー1555年)、
(R3) 清洲城 (1555年ー1563年)、
(R4) 小牧山城 (1563年ー1567年)、
(R5) 岐阜城 (1567年ー1579年)、
(R6) 安土城 (1579年ー1582年)。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ (R1) 織田信長
(生没年:1534年ー1582年)は、
1534年(天文3年)から
1538年(天文7年)頃まで
尾張国の、勝幡城 (しょばたじょう)で
居住する。
■ 勝幡城 (しょばたじょう)は、 尾張国(おわ
りのくに、現・愛知県西部)にある。
● 信長の父・織田信秀の
那古野城奪取時期。
■ 勝幡城・城主の信長の父・織田信秀が、
那古野城を今川氏から奪った時期は、
(A) 1532年(天文元年)頃奪取説 と、
(B) 1538年(天文7年)頃奪取説 と、
の2つの説がある。
● 当書では、(B)の説を採用している。
■ 織田信長 (生没年:1534年ー1582年)は、
1534年 (天文3年)に、信長の父・織田信秀
の本城(居城)の 、尾張国(おわりのくに、現・
愛知県西部)の、勝幡城(しょばたじょう)で
生まれ、 織田信長は、1534年 (天文3年)
から1538年(天文7年)頃まで、父母と共に
勝幡城に居住する。
■ 1535年 (天文4年)。
● 西三河を支配する、家康の祖父
の松平清康が、死去する。
■ 森山崩れ。
● 1535年(天文4年)12月に、西三河(にし
みかわ、現・愛知県東部の西半分)を支配
する、松平広忠の父 で、徳川家康の祖父の
松平清康(まつだいらきよやす)が陣中にて、
家臣によって殺害され、死去する。
● 松平信定の岡崎城占領 と
家康の父の松平広忠の逃亡。
■ 西三河の松平氏本家の後継者の松平 広忠
(家康の父)は、大叔父(おおおじ)の松平信
定(のぶさだ)によって、岡崎城を占領され、
城や領地の家督継承を阻止され、逃亡する
(1935年〜1937年)。
■ 1536年 (天文5年) 3月。
● 信玄が元服する(成人となる)。
■ 1536年(天文5年)3月に、 武田信玄(太
郎)は、元服(成人)し、 室町幕府・12代将
軍の足利義晴(あしかがよしはる)の一字の
晴を賜り、武田 晴信(はるのぶ)と称す。
■ 1536年 (天文5年)。
● 今川氏の当主・今川氏輝とその
継承者が同時に急死する。
■ 今川氏親(いまがわうじちか)の子で、
今川氏当主の今川氏輝(いまがわうじてる)
とその弟の継承者の彦五郎が、1536年
(天文5年)に、急死する。
● 今川義元が今川氏の当主
となる。
■ 玄広恵探方は敗戦し、玄広恵探は、自害し、
栴岳承芳(今川義元)方が花倉の乱で勝 利
を得て、1536年(天文5年)に、今川義 元
(いまがわよしもと、今川氏当主:1536年
−1560年、生没年:1519年ー1560年)
が、今川家当主となる。
■ 1537年 (天文6年)。
● 豊臣秀吉の誕生。
■ 1537年(天文6年)2月6日に (『天正
記』や家臣・伊藤秀盛の願文の記載から)、
後に信長の重臣となる、豊臣秀吉 (とよとみ
ひでよし、生没年:1537年ー1598年) が、
尾張国 (おわりのくに、現・愛知県西部の相
当地域)の中村の農民・足軽の弥右衛門の子
として、誕生する。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1538年 (天文7年)頃。
● (C2) 信秀は、那古野城を
本城、居城とする。
● (C) 織田信秀の本城の変遷。
■ (C1)⇒(C4) 。
(C1) 勝幡城
(1527年頃ー1538年頃)、
(C2) 那古野城
(1538年頃ー1544年頃)、
(C3) 古渡城
(1544年頃ー1548年)、
(C4) 末森城
(1548年ー1552年頃)。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ (C1) 信長の父の織田信秀 (おだの ぶ
ひで、生没年:1511年ー1552年頃)は、
1538年(天文7年)頃から
1544年(天文13年)頃まで、
尾張国の、那古野城 (なごやじょう)を、
自分の(C)本城(ほんじょう、= 本拠地
の城)、居城とする。
■ 那古野城 (なごやじょう)は、 尾張国(お
わりのくに、現・愛知県西部)にある。
● 信長の父・織田信秀の
那古野城奪取時期。
■ 勝幡城・城主の信長の父・織田信秀が、
那古野城を今川氏から奪った時期は、
(A) 1532年(天文元年)頃奪取説 と、
(B) 1538年(天文7年)頃奪取説 との
2つの説がある。
● 当書では、(B)の説を採用している。
■ 那古野城 (なごやじょう)は、
大永年間(1521年ー1528年)に今川氏親
が築城し、 1538年(天文7年)頃、信長の
父・織田信秀が今川氏豊より奪い取り、ここ
に居城を移して、愛知郡(現・名古屋市域周
辺)に勢力を拡大する。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1538年 (天文7年)頃。
● (R2) 信長は、那古野城を
居住地とする。
● (R) 織田信長の居住地の変遷。
■ (R1)⇒(R6 )。
(R1) 勝幡城 (1534年ー1538年頃)、
(R2) 那古野城 (1538年頃ー1555年)、
(R3) 清洲城 (1555年ー1563年)、
(R4) 小牧山城 (1563年ー1567年)、
(R5) 岐阜城 (1567年ー1579年)、
(R6) 安土城 (1579年ー1582年)。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ (R2) 織田信長
(生没年:1534年ー1582年)は、
1538年(天文7年)頃から
1555年(弘治元年)まで
尾張国の、那古野城 (なごやじょう)で
居住する。
■ 那古野城 (なごやじょう)は、 尾張国(おわ
りのくに、現・愛知県西部)にある。
■ 那古野城は、 現・名古屋城二の丸付近であ
る。
● 信長の父・織田信秀の
那古野城奪取時期。
■ 勝幡城・城主の信長の父・織田信秀が、
那古野城を今川氏から奪った時期は、
(A) 1532年(天文元年)頃奪取説 と、
(B) 1538年(天文7年)頃奪取説 との
2つの説がある。
● 当書では、(B)の説を採用している。
■ 那古野城 (なごやじょう)は、
1538年(天文7年)頃、信長の父・織田信秀
が、今川氏豊より奪い取り、ここに居城を移し
て、愛知郡(現・名古屋市域周辺)に勢力を
拡大する。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1538年 (天文7年)頃に、信長の父・織田
信秀の本城(居城)が尾張国(おわりのくに、
現・愛知県西部)の、勝幡城 (しょばたじょう)
から尾張国の那古野城 (なごやじょう)に変
わり、織田信長 (生没年:1534年ー1582
年)は、1538年 (天文7年)頃から1544年
(天文13年)頃まで、父母と共に、那古野城
に居住する。
■ 1544年(天文13年)頃に、
織田信長 (生没年:1534年ー1582年)は、
1546年(天文15年)の信長元服(成人)前に、
幼年で、
父・織田信秀より尾張国の那古野城(なごや
じょう)を譲られ、1544年(天文13年)頃か
ら1555年(弘治元年)まで、父母と離れて、
城主として、那古野城で、居住する。
■ 1542年 (天文11年) 12月。
● 徳川家康(松平竹千代)が誕生
する。
■ 1542年(天文11年)12月26日に、
徳川 家康 (とくがわ いえやす、幼名:竹千
代(たけちよ)、生没年:1542年ー1616
年)は、 三河国(みかわのくに、現・愛知県
東部の相当地域)の、岡崎城(おかざきじょ
う)で誕生する。
家康の父は、 戦国武将・国人領主(こ
くじんりょうしゅ、小豪族)で、三河国の岡崎
城・城主の松平広忠(まつだいらひろただ)
であり、 家康の母は、於大の方(おだいの
かた)である。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1544年 (天文13年)頃。
● (C3) 信秀は、古渡城を本城、
居城とする。
● (C) 織田信秀の本城の変遷。
■ (C1)⇒(C4) 。
(C1) 勝幡城
(1527年頃ー1538年頃)、
(C2) 那古野城
(1538年頃ー1544年頃)、
(C3) 古渡城
(1544年頃ー1548年)、
(C4) 末森城
(1548年ー1552年頃)。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ (C1) 信長の父の織田信秀 (おだの ぶ
ひで、生没年:1511年ー1552年頃)は、
1544年(天文13年)頃から
1548年(天文17年)まで、
尾張国の、古渡城 (ふるわたりじょう)を、
自分の(C)本城(ほんじょう、= 本拠地
の城)、居城とする。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 古渡城 (ふるわたりじょう)は、 尾張国
(おわりのくに、現・愛知県西部)にある。
■ 古渡城 (ふるわたりじょう)は、
1534年(天文3年)に信長の父・織田信秀
によって築城される。
■ 信長の父の織田信秀は、
1546年(天文15年)の信長元服(成人)
前に、幼年で、1544年(天文13年)頃に、
那古野城 (なごやじ ょう)を織田信長に譲り、
古渡城に居城を移して、2つ目の経済基盤
である熱田を支配する。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1543年 (天文12年)。
● 謙信が元服する(成人となる)。
■ 1543年(天文12年)8月15日に、
上杉謙信(虎千代)は、元服(成人)して、
長尾 景虎 (ながおかげとら)と名乗る。
■ 1544年 (天文13年)頃。
● 織田信長(吉法師)が
那古野城の城主となる。
■ 織田信長(吉法師) (生没年:1534年ー
1582年)は、 1546年(天文15年)の
元服(げんぷく、成人)前に、幼年で、
1534年(天文3年)から1546年 (天文
15年)までの間に、
1544年(天文13年)頃に、
尾張国 (おわりのくに、現・愛知県西部)
の、那古野城(なごやじょう)を、織田信長
(吉法師)の父・織田信秀(おだのぶひで)
より譲られ、那古野城の城主となる。
■ 1544年 (天文13年)頃。
● (C1) 信長は、那古野城を
本城とする。
● (C) 織田信長の本城の変遷。
■ (C1)⇒(C5) 。
(C1) 那古野城 (1544年頃ー1555年)、
(C2) 清州城 (1555年ー1563年)、
(C3) 小牧山城 (1563年ー1567年)、
(C4) 岐阜城 (1567年ー1579年)、
(C5) 安土城 (1579年ー1582年)。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ (C1) 織田信長
(生没年:1534年ー1582年)は、
1544年(天文13年)頃 から
1555年(天文24年)まで
尾張国の、那古野城 (なごやじょう)を、
本城(ほんじょう、= 本拠地の城)とする。
■ 那古野城 (なごやじょう)は、 尾張国(お
わりのくに、現・愛知県西部)にある。
■ 那古野城は、 現・名古屋城二の丸付近
である。
● 信長の父・織田信秀の
那古野城奪取時期。
■ 勝幡城・城主の信長の父・織田信秀が、
那古野城を今川氏から奪った時期は、
(A) 1532年(天文元年)頃奪取説 と、
(B) 1538年(天文7年)頃奪取説 との
2つの説がある。
● 当書では、(B)の説を採用している。
■ 那古野城 (なごやじょう)は、
1538年(天文7年)頃、信長の父・織田信秀
が、今川氏豊より奪い取り、ここに居城を移し
て、愛知郡(現・名古屋市域周辺)に勢力を
拡大する。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1538年 (天文7年)頃に、信長の父・織田
信秀の本城(居城)が、
尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部)の、
勝幡城 (しょばたじょう) から尾張国の
那古野城 (なごやじょう)に変わり、
織田信長 (生没年:1534年ー1582年)は、
1538年 (天文7年)頃から1544年(天文
13年)頃まで、父母と共に、那古野城に居
住する。
■ 1544年(天文13年)頃に、
織田信長 (生没年:1534年ー1582年)
は、 1546年(天文15年)の信長元服
(成人)前に、幼年で、
父・織田信秀より尾張国の那古野城(なご
やじょう)を譲られ、1544年(天文13年)
頃から1555年(弘治元年)まで、父母と
離れて、城主として、那古野城で、居住する。
■ 1546年 (天文15年)。
● 信長が元服する(成人となる)。
■ 1546年(天文15年)に、 織田信長 (生没
年:1534年ー1582年)は、
父・織田信秀の本城(居城)の、古渡城(ふる
わたりじょう)にて、数え年13歳で、元服し、
三郎信長(織田三郎、織田信長)と称す。
三郎は通称で、信長は諱(いみな)であ
る。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1547年 (天文16年)。
● 家康の人質生活の開始。
■ 徳川家康 (竹千代、松平 元信、松平元康
生没年:1542年ー1616年)は、
1547年 (天文16年)から1560年(永禄3
年)まで、家康の数え年6歳から19歳時まで、
織田氏や今川氏の人質生活を送る。
● 家康が織田氏の人質になる。
■ 家康の織田氏人質生活の開始。
● 1547年 (天文16年)に、徳川家康(松平
竹千代、生没年:1542年ー1616年)は、
織田氏の織田信秀(信長の父)の人質(1547
年〜1549年、家康の数え年6歳〜8歳時) と
なる。
● 徳川家康(竹千代 )は、 三河国の有力国人
領主・松平氏の後継者であるため、尾張国の
織田氏の織田信秀(のぶひで、信長の父)は、
は、三河国を支配するため、家康を人質とす
る。
■ 1547年 (天文16年)に、 徳川家康(竹千
代 )の父の松平広忠は、 織田信秀と戦い、
敗戦し、徳川家康 (竹千代、生没年:1542
年ー1616年)を人質に差し出す。
● 1547年 (天文16年)に、徳川家康(竹千
代 )の父の松平広忠が、今川氏 の庇護をう
けるため、徳川家康(竹千代 )を今川氏に
差し出したが、途中で、家臣の裏切りにあい、
織田氏の人質になった説は、当時の一次史
料にはなく、伝説である。
■ 1548年 (天文17年)。
● (C4) 信秀は、末森城を本城、
居城とする。
● (C) 織田信秀の本城の変遷。
■ (C1)⇒(C4) 。
(C1) 勝幡城
(1527年頃ー1538年頃)、
(C2) 那古野城
(1538年頃ー1544年頃)、
(C3) 古渡城
(1544年頃ー1548年)、
(C4) 末森城
(1548年ー1552年頃)。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ (C1) 信長の父の織田信秀 (おだの ぶ
ひで、生没年:1511年ー1552年頃)は、
1548年(天文17年)から
1552年(天文21年)まで、
尾張国の、末森城 (すえもりじょう)を、
自分の(C)本城(ほんじょう、= 本拠地
の城)、居城とする。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 末森城 (すえもりじょう)は、 尾張国
(おわりのくに、現・愛知県西部)にある。
■ 末森城 (すえもりじょう)は、
1548年(天文17年)に、信長の父・織田
信秀によって築城される。
信長の父の織田信秀は、
1548年 (天文17年)に、 居城を古渡城
から末森城に移す。 織田信秀は、駿河国
今川氏や三河国松平氏など東方の侵攻に
備える。
織田信秀は、1548年 (天文17年)に、
古渡城を廃城とする。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1548年 (天文17年)。
● 尾張国の織田信秀と美濃国の
斎藤道三利政が、和議を結ぶ。
■ 1548年(天文17年)に、敵対していた2者
の、尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部)
の、織田信秀(おだのぶひで、信長の父) と、
美濃国(みののくに、現・岐阜県南部)の、
斎藤道三利政(さいとうどうさんとしまさ、帰
蝶(きちょう、濃姫)の父)が、和睦し、和議を
結び、縁組の誓約も取り交わす。
■ 1549年 (天文18年)。
● 斎藤道三利政の娘・帰蝶が
信長に嫁ぐ。
■ 1549年(天文18年)2月に、前年の和睦
時の縁組の誓約に基づき、織田氏と斎藤氏
の和議の証(人質)として、斎藤 道三利政
(さいとう どうさんとしまさ、生年不明ー
1556年)の娘・帰蝶(きちょう、= 濃姫(の
うひめ))が織田信長に嫁ぐ (「美濃の国
諸旧記」より)。
■ 1549年(天文18年)2月に、織田信長は、
美濃国 (みののくに、現・岐阜県南部の相
当地域)の戦国大名・斉藤道三利政の娘、
帰蝶(きちょう、濃姫)と政略結婚で、正室
夫人として迎え、婚儀を結ぶ。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1549年 (天文18年)。
● 家康の父・松平広忠が死去。
■ 1549年(天文18年)3月に、徳川家康 (松
平竹千代)の父の、今川方の、三河国・岡崎
城主の松平広忠(まつだいらひろただ)が死
去する。
● 1549年(天文18年)3月に、徳川家康(松
平竹千代)が織田氏の人質(1547年〜
1549年、家康の数え年 6歳〜8歳時)となっ
ている間に、 家康(竹千代、生没年: 1542
年ー1616年)は、数え年8歳で、父の松平
広忠と死別する。
● 松平氏の根拠地の西三河は、
今川氏が支配する。
■ 1549年(天文18年)に、今川氏の今川義元
は、 松平広忠の岡崎城や松平氏の西三河の
領地を奪取し、岡崎城には今川氏の派遣した
城代を置き、支配する。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1549年 (天文18年)。
● 家康は、織田氏の人質から
今川氏の人質に変わる。
■ 徳川家康の今川氏人質生活の開始。
● 1549年(天文18年) 11月に、徳川家康
(松平竹千代、生没年:1542年ー1616
年)は、 織田氏と今川氏の人質交換で、
織田氏の人質(1547年〜1549年、家康
の数え年6歳〜8歳時)から、今川氏 の人
質(1549年〜1560年、家康の数え 年8
歳〜19歳時) となる。
■ 徳川家康の今川氏人質生活の開始。
● 1549年(天文18年)11月に、 織田氏と
今川氏の人質交換という形で、 徳川家康
(松平竹千代、生没年:1542年ー1616
年)は、
織田氏(おだし)の人質(1547年〜1549
年、家康の数え年 6歳〜8歳時)から、
今度は、今川氏の今川義元(いまがわよしも
と、今川氏当主:1536年−1560年))の人
質(1549年〜1560年、家康の数え 年8歳
〜19歳時))となる。
家康(竹千代)は、今川氏の保護下に入
リ、厚遇される。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1552年 (天文21年)頃。
● 信長の父・織田信秀の死去。
■ 1552年(天文21年)頃に、 勝幡織田氏
(織田 弾正忠家)の、信長の父・織田信秀
(おだのぶひで、生没年:1511年ー1552
年頃)が、急死する。
● 織田信秀の没年には、1551年(天文20年)
説、1549年(天文18年)説もある。
● 勝幡織田氏で、織田信長と織田
信行(信勝)との間で家督争い
が起こる。
■ 1552年(天文21年)頃に、 勝幡織田氏
(しょばたおだし、織田弾正忠家(おだだんじ
ょうのちゅうけ))の家督相続では、 嫡出子
(正室の子)の、織田信長と同母 弟の織田信
行(信勝)(のぶゆき(のぶかつ))との間で、
家督争いが起きる。
● 1556年(弘治2年)年に、織田信長は、稲生
(いのう)の戦いで勝ち、信長は、家督争いに
勝ち、信長が、尾張国の信長の父・織田信秀
(のぶひで)の家督を継ぐ。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
● 信長の父が死去し、織田氏の家
督争いが起き、信長が家督を
継ぐ。
■ 1552年(天文21年)頃に、信長の父・織田
信秀が急死し、その後、嫡出子の兄弟2人で
家督継承を争い、 1556年(弘治2年)年に、
織田信長が、尾張国の織田信秀の家督を継ぐ。
■ 1553年 (天文22年)。
● 信長の傳役の平手政秀が
自害する。
■ 平手政秀(ひらてまさひで)は、織田家の
重臣で、織田信秀や織田信長の2代に仕え
た武将である。 平手政秀は、 織田信長の
傳役(もりやく、守役、後見役で教育係)であ
ったが、自害する。
● 平手政秀の自害の理由は不明である。
諌死、または、信長と平手政秀の息子・
五郎右衛門との確執(かくしつ)という説
がある。
● 平手政秀の死後、織田信長は、 政秀
寺(せいしゅうじ)を建立(こんりゅう)し、
菩提(ぼだい)を弔(とむら)った。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1553年 (天文22年)。
● 信長は斉藤道三と会見する。
■ 1553年(天文22年)4月に、 織田信長
は、 美濃国 (みののくに、現・岐阜県南
部の相当地域)の戦国大名の斎藤 道三利
政 (さいとう どうさんとしまさ、生年不詳
ー1556年)と会見する。
● 1553年(天文22年)に、 信長は、美濃国
と尾張国の国境の、正徳寺で、道三と会見
する。
その際、道三利政は、うつけ者といわ
れていた信長の器量を見抜く。
● 斎藤道三との会見では、 異説の1549年
(天文18年)会見の説もある。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1554年 (天文23年)。
● 甲相駿三国同盟が成立。
■ 1554年(天文23年)に、
武田信玄、北条氏康、今川義元の間で、互い
に婚姻関係を結び、 甲斐国本拠地の武田氏、
相模国本拠地の北条氏、駿河国本拠地の今
川氏の三者の甲相駿三国同盟 (こうそうしゅ
んさんごくどうめい、1554年ー1567年)が、
成立する。
■ 1554年 (天文23年)頃。
● 秀吉が信長に仕え始める。
● 秀吉が織田氏家臣となる。
■ 1554年(天文23年)頃に、豊臣秀吉(木下
藤吉郎)が、織田信長に仕える (家臣として
仕え始める)。
● 秀吉(木下藤吉郎)は、その能力が信長の
目に留まり、平時や戦時に様々な成果をあ
げ、織田軍の中で、出世していく。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1555年 (天文24年)。
● 家康が元服する(成人となる)。
● 家康は松平元信と称す。
■ 1555年 (天文24年)3月に、 徳川家康
(松 平竹千代)は、元服( げんぷく、成人)し
て、名を、竹千 代から次郎三郎元信(もとの
ぶ)に改め、松平元信(1555年ー1557年)
と称す。
■ 1555年 (天文24年)。
● 信長が尾張下四郡(尾張南部)
を支配。
■ 織田信長は、1554年(天文23年)に、尾張
下四郡の守護代(清洲織田氏(きよすおだし、
織田大和守家(おだやまとのかみけ))の、
織田彦五郎信友と戦い(安食(あじき)の戦い)、
勝ち、1555年(天文24年)には、織田彦五郎
信友は殺害され、信友に代わって、清洲城に入
る。
信長は、1555年(天文24年)に、清洲織
田氏(織田大和守家)の勢力範囲の、尾張国
(おわりのくに、現・愛知県西部の当相地域)の
南部(尾張下四郡)を支配する。
■ 尾張下四郡の守護代(清洲織田氏(織田大和
守家))の、織田彦五郎信友(おだひこごろうの
ぶとも)が、 織田信行(信勝)(おだのぶゆき
(のぶかつ))の家督相続を支持し、尾張国守
護を殺害し、信長に敵対したため、 織田彦五
郎信友を、1555年(天文24年)に殺害し、
信長は、清洲城へ入り、清洲織田氏(織田大和
守家))の勢力範囲の、尾張下四郡(尾張南部)
を支配する。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 安食(あじき)の戦い。
● 尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部)の
清洲城を本拠地にする尾張下四郡(尾張
南部)の守護代の織田彦五郎信友は、
1554年(天文23年)7月に、尾張国守護
の斯波義統(しばよしむね)を暗殺し、義統
の子・斯波義銀(しばよしかね)は逃亡し、
信長を頼り、 信長と織田信友との間で、
安食(あじき)の戦いが起こり、信長が勝つ。
■ 翌年の1555年(天文24年)に、信長方の
織田信光(のぶみつ)の謀略によって清洲
城は陥落し、織田彦五郎信友は殺害され、
清洲織田氏(織田大和守家)は滅亡する。
1555年(天文24年)4月20日に、織田
彦五郎信友は、主殺しの咎(とが)めによって、
信長の家臣の森可成(もりよしなり)に討ち取
られる。
■ 尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部)
の、尾張下四郡の守護代 (清洲織田氏、
織田大和守家)の当主で、清洲城・城主
清洲城を本拠地にする)で、勝幡織田氏
(織田弾正忠家)の主家の当主である、
織田彦五郎信友 (おだひこごろうのぶと
も)は、 信長の実弟の織田信行(信勝)
(おだのぶゆき(のぶかつ))の家督相続を
支持し、 信長謀殺計画を企て 、信長に敵
対したため、 尾張国守護の、斯波義統
(しば よしむね)がその計画を信長に密告
した。 これ を知って激怒した織田彦五郎
信友は、信長に味方した尾張国守護の斯
波 義統 (しば よしむね)を殺害する。
このため、斯波義統の嫡男の斯波義
銀(しば よしかね)が、信長を頼って落ち
延びてくると (信長に助けを求めてきたた
め)、 信長は、織田彦五郎信友を尾張の
守護・斯波義統を殺害した謀反人であると
して、1554年(天文23年)7月に、織田
彦五郎信友と戦い、勝ち (安食(あじき)
の戦い)、信長は、1555年(天文24年)
4月20日には、織田信友を殺害した(自
害させた)。
ここに、信長が、織田彦五郎信友に
代わって、清洲城へ入り、清洲織田氏(織
田大和守家、きよすおだし(おだやまと
のかみけ))の勢力範囲の、尾張国の尾張
下四郡(尾張国南部)を支配する。
その後、尾張国の敵対勢力を次々に
下して、1559年(永禄2年)に、織田信長
は、尾張国 (おわりのくに、現・愛知県西部
の相当地域)を統一する。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1555年 (天文24年)。
● (R3) 信長は、清洲城を居住地
とする。
● (R) 織田信長の居住地の変遷。
■ (R1)⇒(R6 )。
(R1) 勝幡城 (1534年ー1538年頃)、
(R2) 那古野城 (1538年頃ー1555年)、
(R3) 清洲城 (1555年ー1563年)、
(R4) 小牧山城 (1563年ー1567年)、
(R5) 岐阜城 (1567年ー1579年)、
(R6) 安土城 (1579年ー1582年)。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ (R3) 織田信長
(生没年:1534年ー1582年)は、
1555年(天文24年)から
1563年(永禄6年)まで
尾張国の、清洲城 (きよすじょう)で
居住する。
■ 清洲城 (きよすじょう)は、 尾張国(おわ
りのくに、現・愛知県西部)にある。
清洲城の別名は、清須城(きよすじょう)
である。
■ 尾張下四郡(尾張国南部)の守護代の
織田彦五郎信友(おだひこごろうのぶとも)は、
1555年(天文24年)4月20日に、尾張国
守護の斯波義統(しばよしむね)暗殺の主殺
しの咎(とが)めによって、 織田信長の家臣
の森可成(もりよしなり)に討ち取られる。
1555年(天文24年)に、信長は、
織田彦五郎信友に代わって、清洲城へ入り、
清洲織田氏(織田大和守家)の勢力範囲の、
尾張国の尾張下四郡(尾張国南部)を支配
する。
■ 1555年 (天文24年)。
● (C2) 信長は、清州城を本城
とする。
● (C) 織田信長の本城の変遷。
■ (C1)⇒(C5) 。
(C1) 那古野城 (1544年頃ー1555年)、
(C2) 清州城 (1555年ー1563年)、
(C3) 小牧山城 (1563年ー1567年)、
(C4) 岐阜城 (1567年ー1579年)、
(C5) 安土城 (1579年ー1582年)。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ (C2) 織田信長
(生没年:1534年ー1582年)は、
1555年(天文24年)から
1563年(永禄6年)まで
尾張国の、清洲城 (きよすじょう)を、
本城(ほんじょう、= 本拠地の城)とする。
■ 清洲城 (きよすじょう)は、 尾張国(おわ
りのくに、現・愛知県西部)にある。
清洲城の別名は、清須城(きよすじょう)
である。
■ 1555年 (天文24年・弘治元年)。
● 天文年号から弘治年号に改元。
弘治年号:1555年ー 1558年。
■ 1555年(天文24年・弘治元年)に、
弘治(こうじ)年号に改元。
● 1555年(天文24年・弘治元年)10月23日に、
和暦の「天文」(てんぶん、てんもん 、
天文元年・1532年〜天文24年・1555年) が、
和暦の「弘治」(こうじ、
弘治 元年・1555年・10月23日〜
弘治 4年・1558年・ 2月28日) に
改元される。
■ 室町時代後期の各年号。
暗記法: 永大享天弘永元天
(えいだいきょうてんこうえいげんてん)。
● 永正(えいしょう)年号: 1504年ー1521年。
● 大永(だいえい)年号: 1521年ー1528年。
● 享禄(きょうろく)年号: 1528年ー1532年。
● 天文(てんぶん)年号: 1532年ー1555年。
● 弘治(こうじ)年号: 1555年ー1558年。
● 永禄(えいろく)年号: 1558年ー 1570年。
● 元亀(げんき)年号: 1570年ー 1573年。
● 天正(てんしょう)年号: 1573年ー 1592年。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1556年 (弘治2年)。
● 斎藤道三利政の死去。
■ 1556年(弘治2年)に、織田信長は、美濃
国(みののくに、現・岐阜県南部)の、義父
(信長夫人・帰蝶の父)の斎藤道三利政(さ
いとうどうさんとしまさ)が、 子の斎藤義龍
(さいよしたつ)との戦いに敗れて死去する。
信長は、道三利政に援軍を出したが、
間に合わなかった。
■ 長良川の戦い
● 1556年(弘治2年)4月20日に、美濃国
(みののくに、現・岐阜県南部の相当地域)
長良川(ながらがわ)河畔で、 美濃国の
戦国大名の斎藤 道三利政 (さいとう どう
さんとしまさ、生年不明ー1556年)が、
道三利政の子の斎藤義龍(さいとうよした
つ)との戦い、敗れて死去する。
● 織田信長は、 斎藤 道三利政の 娘・帰蝶
(きちょう)の夫であり、 道三利政の娘婿
の信長は、 道三利政に援軍を出したが、
間に合わなかった。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1556年 (弘治2年)。
● 稲生(いのう)の戦い。
● 信長が勝幡織田氏の家督を
継ぐ。
■ 1556年(弘治2年)年に、 織田信長は、
稲生(いのう)の戦いで 実弟の織田信行(信
勝)と戦い、勝ち、信長が、尾張国の勝幡織
田氏(しょばたおだし、織田弾正忠家(おだ
だんじょうのちゅうけ))の、信長の父・織田
信秀(おだのぶひで)の家督を継ぐ。
● 勝幡織田氏 (しょばたおだし、織田弾正忠
家(おだだんじょうのちゅうけ))の家督相続で
は、 嫡出子(正室の子)の、織田信長と同母
弟の織田信行(信勝)(おだのぶゆき(のぶか
つ))との間で、家督争いが起き、 信長は、
稲生(いのう)の戦いで信行(信勝)に勝 ち、
信長の父・織田信秀(おだのぶひで)の家督
を継ぐ。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 稲生(いのう)の戦い。
● 斎藤道三(利政)の死去を好機と見た織田
信行(信勝)派は、 1556年(弘治2年)年
8月に、挙兵し、織田信長と戦うが、敗北し、
信長は、同母弟・信行(信勝)、柴田勝家ら
を赦免する (稲生(いのう)の戦い)。
● 稲生(いのう)の戦いとは、
1556年(弘治2年)8月24日に、尾張国の
稲生(いのう、現・名古屋市西区)で起きた
戦いであり、 尾張国の勝幡織田氏(織田
弾正忠家、しょばたおだし(おだだじょうのち
ゅうけ))の家中で、織田信長と織田信行
(信勝)との家督争いから起きた合戦である。
織田信長が勝利を得る。
■ 稲生(いのう)の戦いでの信長の勝利の
結果、 信長が勝幡織田氏(織田弾正忠
家)の家督を継ぐ。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1558年 (弘治4年・永禄元年)。
● 弘治年号から永禄年号に改元。
永禄年号:1558年ー 1570年。
■ 1558年(弘治4年・永禄元年)に、
永禄(えいろく) 年号に改元。
● 1558年(弘治4年・永禄 元年)2月28日に、
和暦の「弘治」(こうじ、
弘治元年・1555年〜弘治4年・1558年)
が、
和暦の「永禄」(えいろく、
永禄 元年・1558年・ 2月28日〜
永禄13年・1570年・ 4月23日) に
改元される。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1558年 (永禄元年)。
● 信長は、勝幡織田氏の家督を争
った実弟・信行(信勝)を殺害す
る。
■ 織田信長と勝幡織田氏の家督を争った実弟
の織田信行(信勝)(おだのぶゆき(のぶかつ)、
生没年:生年不詳ー1558年)は、信長に、
何度も反抗したため、織田信長によって、殺害
される。
■ 1557年(弘治3年)に、 信長の実弟の織
田信行(信勝)は、再び、織田信長 に対し、
謀反(むほん)を企てる。 これを知った信長
は、病気(仮病)と称して、1558年(永禄元
年)11月に、信行(信勝)を清洲城へ誘い出し、
実弟の信行(信勝)を殺害する。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1557年 (弘治3年)。
● 浮野(うきの)の戦い。
■ 1558年(永禄元年)に、織田信長は、
尾張国の尾張上四郡の守護代 (岩倉織田
氏(織田伊勢守家))の当主で、岩倉(いわく
ら)城主の、織田 信賢 (おだのぶ かた)の
軍を破る (浮野(うきの)の戦い)。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1558年 (弘治4年・永禄元年)。
● 弘治年号から永禄年号に改元。
永禄年号:1558年ー15 70年。
■ 1558年(弘治4年・永禄元年)に、
永禄(えいろく) 年号に改元。
● 1558年(弘治4年・永禄 元年)2月28日に、
和暦の「弘治」(こうじ、
弘治元年・1555年〜弘治4年・1558年)
が、
和暦の「永禄」(えいろく、
永禄 元年・1558年・ 2月28日〜
永禄13年・1570年・ 4月23日) に
改元される。
■ 室町時代後期の各年号。
暗記法: 永大享天弘永元天
(えいだいきょうてんこうえいげんてん)。
● 永正(えいしょう)年号: 1504年ー1521年。
● 大永(だいえい)年号: 1521年ー1528年。
● 享禄(きょうろく)年号: 1528年ー1532年。
● 天文(てんぶん)年号: 1532年ー1555年。
● 弘治(こうじ)年号: 1555年ー1558年。
● 永禄(えいろく)年号: 1558年ー 1570年。
● 元亀(げんき)年号: 1570年ー 1573年。
● 天正(てんしょう)年号: 1573年ー 1592年。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1559年 (永禄2年) 2月。
● 信玄が、徳栄軒信玄と称する。
■ 1559年(永禄2年)2月に、 武田信玄
(武田晴信)は、 出家して、「徳栄軒信玄」
(法号、法名)と号す(称す)。
■ 1559年 (永禄2年)。
● 信長が尾張を統一する。
■ 1559年(永禄2年)に。 織田信長は、
尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部)
一国を統一し、 尾張国の国主(こくしゅ)
となる。
● 織田は尾張上四郡(尾張北部)
を支配する。
■ 織田信長は、 1559年(永禄2年)に、尾張
上四郡(尾張北部)の守護代(岩倉織田氏、
織田伊勢守家(おだいせのかみけ))の、織田
信賢 (おだのぶかた、生没年不詳)の居城・
岩倉城を包囲し降伏させ、信賢を追放する。
信長は、1559年(永禄2年)に、尾張国
(おわりのくに、現・愛知県西部の当相地域)の
北部(尾張上四郡)を支配する。
● 織田信長の尾張平定。
■ 1559年(永禄2年)に、織田信長は、
尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部の相
当地域)一国を統一し、尾張国の国主となる。
● 信長は、 尾張上四郡の守護代の織田信
賢の居城・岩倉城を包囲し降伏させ、信賢を
追放する。
また、信長が新たに尾張国守護として
擁立した斯波義銀 (しばよしかね)が、
信長の追討を画策したため、 信長は、斯波
義銀を追放する。
ここに、信長は、 尾張国 (おわりのく
に、現・愛知県西部の相当地域)の国内の支
配権を確立し、尾張国の国主となる。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
□ 織田信長ガイドブッ クへ。
□ 日本史辞典の先頭ページへ。
■ 1560年 (永禄3年) 5月。
● 桶狭間の戦い。
● 桶狭間の戦いで、信長が今川
義元が敗死し、今川軍敗戦。
■ 1560年(永禄3年)5月に、 桶狭間(お
けはざま)の戦いで、織田信長の軍は、
今川義元の軍を破る。
■ 1560年(永禄3年)5月19日昼頃、 織田
信長は、 総大将の今川義元を桶狭間山で
討死させ、 今川義元 (いまがわよしもと、
今川氏当主:1536年−1560年、生没年:
1519年ー1560年)は、尾張国(おわりの
くに、現・愛知県西部の相当地域)の桶狭間
で敗死し、今川義元の軍は、総大将を失い、
総崩れとなる。
■ 1560年(永禄3年)5月に、織田信長は、
桶狭間の戦い (おけはざまのたたかい)で、
東海の駿河国、遠江国、三河国3国(現・静
岡県中部・西部、愛知県東部)を支配する
今川氏の今川義元(いまがわよしもと)を敗
死させ、今川義元の大軍を敗(やぶ)り、権
威をたかめる。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1560年 (永禄3年)。
● 信長が桶狭間の戦いで、
今川義元を敗死させる。
■ 1560年(永禄3年)5月に、織田信長は、
桶狭間(おけはざま)の戦いで、 今川 義元
(いまがわ よしもと)を破る。 今川義元は、
尾張の桶狭間で、敗死する。
● 家康が三河へ戻る。
■ 1560年(永禄3年)に、 義元の家臣して
信長と戦っていた、徳川家康(松平元康(ま
つだいらもとやす))は、 尾張より、松平軍
の兵を撤退し、三河国(みかわのくに、現・
愛知県東部)の岡崎城へ戻る。
その後、1561年(永禄4年)4月に、
家康は、今川氏から独立する。
● 家康の岡崎城入城。
■ 1560年(永禄3年)5月23日に、徳川家康
(松平元康)は、人質として過した駿河国
(するがのくに、現・静岡県中部)の駿府へ
は戻らず、今川軍が退去(放棄)した三河国
(みかわのくに、現・愛知県東部)の岡崎城に
入る。
その後、家康(元康)は、今川氏から
自立(独立)する。
■ 1560年 (永禄3年)。
● 今川氏真が今川氏の家督を
継承する。
■ 今川氏真(いまがわうじざね)が、 戦死した
今川義元(いまがわよしもと)に代わって、
今川氏の家督を継承し、名実共に、今川氏
の当主となる。
● 今川義元は、桶狭間の戦い前に、名目上
隠居して、既に家督を今川氏真に譲っていた
が、今川氏の実権は所持していた。
● 1560年(永禄3年)5月に、桶狭間の戦い
(おけはざまのたたかい)で、 東海の駿河国、
遠江国、三河国3国(現・静岡県中部・西部、
愛知県東部)を支配する今川氏の今川義元
は、 織田信長の軍によって討たれ、今川義
元の大軍は、総崩れとなり、尾張国を去る。
■ 1561年 (永禄4年)。
● 謙信の小田原北条氏を攻め、
小田原城を囲む。
■ 北条氏攻め(小田原城攻め)。
● 1561年(永禄4年)に、 上杉謙信(長尾
景虎)は、 関東管領(かんとうかんれい)
の上杉憲政(うえすぎのりまさ)を擁して、
旧上杉氏家臣団の約10万人の大軍で、
北条氏康(ほうじょううじやす)を攻め、小田
原城を包囲する。
● 謙信が、山内上杉氏家督を
相続し、関東管領となる。
● 謙信が、上杉政虎と称する。
■ 1561年(永禄4年)閏3月16日に、
上杉謙信(長尾景虎(ながおかげとら))は、
鎌倉の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で、
上杉憲政(うえすぎのりまさ)より、
山内上杉氏(やまのうちうえすぎけ)の家督
と関東管領職を相続(継承)し、
関東管領(かんとうかんれい)に就任し、
上杉憲政から一字の政を賜り、
上杉政虎(うえすぎまさとら)と称す。
■ 1561年 (永禄4年)。
● 信長が家康との和睦を望む。
■ 1561年(永禄4年)に、 織田信長は、
尾張国の西北方の斎藤氏支配の美濃国を
攻略したいため、 尾張国の東方の今川氏
支配の三河国との戦いを望まず、 今川方
の三河国西部の徳川家康(松平元康)に、
水野信元 (みずののぶもと、家康の生母
の兄)を介して、和睦をもちかける。
● 家康は織田方となり、今川氏
から独立する。
■ 1561年(永禄4年)4月に、三河国西部の
徳川家康(松平元康)は、 尾張国の織田
信長と和睦し、織田方となり、今川氏の今川
義元の後を継いだ今川氏真(いまがわ(うじ
ざね)と断行し今川氏から独立する。
■ 1561年 (永禄4年)。
● 美濃の斎藤義龍の死去。
■ 1561年(永禄4年)5月に、 美濃国 (み
ののくに、現・岐阜県南部の相当地域)の、
国主の、斎藤義龍(高政) (さいとうよした
つ(たかまさ)、生没年:生年不詳ー1561
年)が、急死し、 嫡男の斎藤龍興(さいとう
たつおき、生没年:1547年ー1573年)が、
美濃国を引き継ぐ。
● 美濃国の斎藤氏の家臣団内部で、分裂が
始まる。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1561年 (永禄4年)。
● 謙信と信玄が、第4回川中島の
戦いで、戦い、引き分けとなる。
■ 第4回川中島の戦い。
● 1561年(永禄4年)8月に、 上杉謙信(上杉
政虎)の率いる上杉軍 と 武田信玄(徳栄軒
信玄)の率いる武田軍が、 信濃国(しなのの
くに、現・長野県)の北部の川中島で、衝突し、
第4回川中島の戦いが起こり、激戦となる。
第4回川中島の戦いでは、勝敗がつがず、
引き分けとなる。
■ 1561年 (永禄4年)。
● 謙信が、上杉輝虎と称する。
■ 1561年(永禄4年)12月に、上杉謙信(上杉
政虎)は、 室町幕府・13代将軍の足利義輝
から一字の輝を賜り、諱(いみな)を輝虎(てる
とら)と改め、上杉輝虎(うえすぎてるとら)と称
す。
■ 1562年 (永禄5年) 1月。
● 信長と家康は清州同盟を結ぶ。
■ 1562年(永禄5年)1月に、尾張国の織田
信長は、正式に、尾張国の東方の三河国西
部の徳川家康と清洲同盟(きよすどうめい、
織徳同盟)を結ぶ。
● 同盟締結後、 尾張国(現・愛知県西部)の
織田信長は、 西方の、美濃国(現・岐阜県
南部)や伊勢国(現・三重県北部・中央中部)
への侵略を目指し、
一方、三河国(現・愛知県東部)西部の徳川
家康は、 東方の三河国東部・北部、遠江国
(現・静岡県西部)、駿河国(現・静岡県中部)
への侵略を目指すこととなる。
信長と家康は、自国防衛や他国侵略で
軍勢が不足した時は、お互いに、援軍を出し
合うこととなる。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1563年 (永禄6年)。
● (R4) 信長は、小牧山城を
居住地とする。
● (R) 織田信長の居住地の変遷。
■ (R1)⇒(R6 )。
(R1) 勝幡城 (1534年ー1538年頃)、
(R2) 那古野城 (1538年頃ー1555年)、
(R3) 清洲城 (1555年ー1563年)、
(R4) 小牧山城 (1563年ー1567年)、
(R5) 岐阜城 (1567年ー1579年)、
(R6) 安土城 (1579年ー1582年)。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ (R4) 織田信長
(生没年:1534年ー1582年)は、
1563年(永禄6年)から
1567年(永禄10年)まで
尾張国の、小牧山城 (こまきやまじょう)で
居住する。
■ 小牧山城 (こまきやまじょう)は、 尾張国
(おわりのくに、現・愛知県西部)にある。
■ 織田信長は、1563年(永禄6年)に、
美濃国攻略に有利な、尾張国の、小牧山城
(こまきやまじょう)に、本拠地を移す。
■ 1563年 (永禄6年)。
● (C3) 信長は、小牧山城を
本城とする。
● (C) 織田信長の本城の変遷。
■ (C1)⇒(C5) 。
(C1) 那古野城 (1544年頃ー1555年)、
(C2) 清州城 (1555年ー1563年)、
(C3) 小牧山城 (1563年ー1567年)、
(C4) 岐阜城 (1567年ー1579年)、
(C5) 安土城 (1579年ー1582年)。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ (C3) 織田信長
(生没年:1534年ー1582年)は、
1563年(永禄6年)から
1567年(永禄10年)まで
尾張国の、小牧山城 (こまきやまじょう)を、
本城(ほんじょう、= 本拠地の城)とする。
■ 小牧山城 (こまきやまじょう)は、 尾張国
(おわりのくに、現・愛知県西部)にある。
■ 1563年 (永禄6年)。
● 三河一向一揆が西三河で
起こる。
■ 1563年(永禄6年)に、三河一向一揆 (み
かわいっこういっき、1563年ー1564年)が
西三河で起こり、 徳川家康(松平家康)は、
西三河で、一向宗(いっこうしゅ、本願寺)の
三河一向一揆の鎮圧を始める。
■ 1564年 (永禄7年)。
● 家康が三河一向一揆を鎮圧
する。
■ 1564年(永禄7年)に、 徳川家康(松平
家康)は、 一向一揆(いっこういっき)の鎮
圧に成功する。
■ 1564年 (永禄7年)。
● 信長は浅井長政と同盟を
結ぶ。
● お市が浅井長政に嫁ぐ。
■ 1564年(永禄7年)に、 織田信長は、
北近江(きたおうみ、現・滋賀県北部)の戦国
大名の浅井長政(あざいながまさ)と同盟を結
び、 信長の妹のお市(おいち)が、 浅井長
政に輿入(こしい)れする。
● 信長は、 斎藤氏を牽制(けんせい)するため、
北近江の戦国大名の浅井長政と同盟を結び、
その際、同盟の証(あかし、人質)として、信長
の妹のお市を、浅井長政に輿入れさせる(嫁が
せる)。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1565年 (永禄8年)。
● 信長の伊勢侵攻開始。
■ 1565年(永禄8年)に、 織田信長は、
伊勢国(いせのくに、現・三重県北部・中央
中部の相当地域)への侵攻を開始する。
■ 1566年 (永禄9年)。
● 家康が三河国全体を平定。
■ 1566年(永禄9年)5月に、徳川家康(松
平家康)は、三河国 (みかわのくに、現・愛
知県東部の相当地域)を統一する。
● 1566年(永禄9年)12月に、 徳川家康
(松平家康)は、 朝廷より従五位下三河守
(じゅごいのげみかわのかみ)に叙任され、
姓を松平(まつだいら)から徳川(とくがわ)
に改姓する。
■ 1566年 (永禄9年)。
● 信長の足利義昭擁立・第1次
上洛出兵の失敗。
■ 織田信長の足利義昭擁立・第1次上洛出兵。
● 1566年(永禄9年)8月に、 足利義昭家臣
で仲介役の細川 藤孝(幽斎) によって、
足利義昭擁立・織田信長第1次上洛出兵が
行われたが、美濃国の斎藤氏によって阻止さ
れ、上洛は失敗する。
■ 1567年 (永禄10年) 5月。
● 信長の娘の徳姫が家康の嫡男
の松平信康に嫁ぐ。
■ 1567年(永禄10年)5月に、
織田信長の娘の徳姫 (とくひめ、= 五徳
(ごとく)、生没年:1559年ー1636年)が、
政略結婚で徳川家康の嫡男・松平信康(ま
つだいらのぶやす)に嫁 (とつ)ぐ。
■ 織田信長の娘の徳姫(= 五徳)は、
松平信康との間に、登久姫 (福子、後に
小笠原秀政夫人)、熊姫 (国子、後に本
多忠政夫人)の2人の娘を産む。
■ 織田信長の娘の徳姫(= 五徳)は、
1579年(天正7年)の松平信康自害・築
山殿殺害事件である松平信康事件の後、
1580年(天正8年)2月に、2人の娘を
徳川氏に残して、徳川氏の岡崎城を去る。
その後、徳姫(= 五徳)は、各地に居
住し、 京(きょう、京都)で1636年(寛永
13年)1月に死去する。
■ 1567年 (永禄10年) 10月。
● 信長が美濃の斎藤氏を滅ぼす。
● 信長が尾張、美濃の2か国の
戦国大名になる。
■ 1567年(永禄10年)10月に、信長は、
美濃国(みののくに、現・岐阜県南部)の
斉藤氏を滅ぼす。
● 信長の稲葉山城(岐阜城)奪取。
● 織田信長の美濃平定。
■ 1567年(永禄10年)10月に、織田信長
は、 美濃国 (みののくに、現・岐阜県南部
の相当地域)の斎藤氏を滅ぼす。
信長は、尾張国、美濃国の2カ国を領す
る戦国大名となる。
● 1567年(永禄10年)10月に、 信長は、
斎藤龍興(さいとうたつおき)の稲葉山城(い
なばやまじょう)を落とし、岐阜城(ぎふじょう)
と改名し、信長の本拠地を岐阜城に移す。
■ 1567年 (永禄10年)。
● 信長は美濃国を領有する。
● 信長の畿内付近や日本本土
の統一事業開始。
■ 織田信長の日本本土統一事業。
● 1567年(永禄10年)10月に、信長は、
美濃国 (みののくに、現・岐阜県南部の相
当地域) の斎藤氏を滅ぼす。 ここに、信
長は、尾張、美濃の2カ国を領する戦国大
名となる。
この頃から、信長は、天下布武の朱印
を用いるようになり、 畿内付近地域の平定
を目指す。
後に、信長は、畿内付近地域の征服後
は、天下統一(日本本土統一)を目指すよう
になる。
● 織田信長の「天下布武」。
■ 1567年(永禄10年)10月に、信長は、
美濃国 (みののくに、現・岐阜県南部の相
当地域) の斎藤氏を滅ぼす。 ここに、信
長は、尾張、美濃の2カ国を領する戦国大
名となる。
この頃から、信長は、天下布武の朱印
を用いるようになり、 畿内付近地域の平定
を目指す。
■ 1567年(永禄10年)10月に、 信長は、
尾張、美濃の2カ国を領する戦国大名となり、
この頃から、「天下布武」の朱印を用いるよ
うになる。
■ 「天下布武」とは、 当初は、畿内付近地域
の平定、静謐(せいひつ、統治)という意味
であった。
1573年(元亀4年)の信長による将軍・
足利義昭の京(都)追放後は、「天下布武」
は、武家が日本を支配するという意味となり、
天下人の信長による天下統一(日本本土統
一)という意味となる。
■ 信長の「天下布武」は、前期の意味では、
当初は、天下人の将軍による、畿内(きな
い)付近地域(京都や京都の周辺地域)の
平定、静謐(せいひつ、統治)を図ることと
いう意味であった。
● しかし、信長の「天下布武」は、後期の
意味では、信長の畿内付近地域の征服後
は、「武家が日本を支配する」、「天下人の
信長が日本を支配する」という意味になる。
● 武家が日本を支配するという意味の
「天下布武」とは、 当時、武家、公家、寺社
の勢力が、日本各地で乱立して日本を支配
していたが、それを武家のみで一元的に、
日本を支配するという意味である。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1567年 (永禄10年)。
● (R5) 信長は、岐阜城を居住地
とする。
● (R) 織田信長の居住地の変遷。
■ (R1)⇒(R6 )。
(R1) 勝幡城 (1534年ー1538年頃)、
(R2) 那古野城 (1538年頃ー1555年)、
(R3) 清洲城 (1555年ー1563年)、
(R4) 小牧山城 (1563年ー1567年)、
(R5) 岐阜城 (1567年ー1579年)、
(R6) 安土城 (1579年ー1582年)。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ (R5) 織田信長
(生没年:1534年ー1582年)は、
1567年(永禄10年)から
1579年(天正7年)まで
美濃国の、岐阜城 (ぎふじょう)で
居住する。
■ 岐阜城 (ぎふじょう)は、 美濃国 (みの
のくに、現・岐阜県南部)にある。
■ 織田信長は、
1567年(永禄10年)10月に、 美濃国
(みののくに、現・岐阜県南部)の、斎藤龍
興(さいとうたつおき)の稲葉山城(いなば
やまじょう)を落とし、岐阜城(ぎふじょう)と
改名し、信長の本拠地を岐阜城に移す。
■ 1567年 (永禄10年)。
● (C4) 信長は、岐阜城を本城
とする。
● (C) 織田信長の本城の変遷。
■ (C1)⇒(C5) 。
(C1) 那古野城 (1544年頃ー1555年)、
(C2) 清州城 (1555年ー1563年)、
(C3) 小牧山城 (1563年ー1567年)、
(C4) 岐阜城 (1567年ー1579年)、
(C5) 安土城 (1579年ー1582年)。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ (C4) 織田信長
(生没年:1534年ー1582年)は、
1567年(永禄10年)から
1579年(天正7年)まで
美濃国の、岐阜城 (ぎふじょう)を、
本城(ほんじょう、= 本拠地の城)とする。
■ 岐阜城 (ぎふじょう)は、 美濃国 (みの
のくに、現・岐阜県南部)にある。
■ 1568年 (永禄11年)。
● 信玄が今川領の駿河国へ
侵攻し、占領し領土とする。
■ 1568年(永禄11年)に、武田信玄が、駿
河を占領する。 今川氏真(うじざね)が、駿河
を離れ、遠江(とおとうみ)・掛川城へ逃れる。
● 家康が今川領の遠江国へ
侵攻する。
■ 1568年(永禄11年)に、 徳川家康は、
1568年(永禄11年)末から、今川領である
遠江国へ侵攻する。
■ 1568年 (永禄11年)。
● 信長の足利義昭擁立第2次
上洛出兵の成功。
● 足利義昭が将軍となる。
■ 足利義昭擁立織田信長第2次上洛出兵。
● 1568年(永禄11年)9月に、 織田信長は、
足利義昭(よしあき)を奉じて、上洛を開始し、
10月に上洛を果たし、1568年(永禄11年)
10月に、足利義昭を将軍職(将軍在位:
1568年〜1588年)に就(つ)ける。
この出兵に、徳川家康は、信長へ援軍
を派遣する。
● 信長の足利義昭擁立第2次
上洛出兵の成功。
■ 足利義昭擁立織田信長第2次上 洛出兵。
● 足利義昭家臣で仲介役の明智光秀と
細川藤孝(幽斎)によって、1568年(永禄
11年)9〜10月に、足利義昭擁立織田信
長第2次上洛出兵が行われ、10月に上洛
は成功する。
この出兵に、徳川家康は、信長へ援軍
を派遣する。
1568年(永禄11年)10月に、織田
信長は、足利義昭(よしあき)を奉じて、上
洛を果たし、10月に足利義昭を将軍職(将
軍在位:1568年〜1588年)に就(つ)け
る。
● その後、信長は、義昭との関係が悪化する。
また、武田氏、朝倉氏、延暦寺、石山本
願寺などからなる信長包囲網が結成される。
● 足利義昭は将軍就任後、
信長と対立する。
■ 1568年(永禄11年)10月の足利義昭
の将軍職就任後、 織田信長は、足利義昭
の行動をコントロールしようとしたため、義
昭との関係が悪化する。
武田氏、朝倉氏、延暦寺、石山本願寺
などから成る織田信長包囲網が結成された
後、1573年(元亀4年)2月に は、足利義
昭は信長を裏切り、反信長勢力に加担する。
■ 1569年 (永禄12年)。
● 家康が遠江国を占領する。
● 戦国大名の今川氏が滅亡。
■ 1569年(永禄12年)に、 徳川家康は、
遠江国の大半を攻め獲り、今川氏真のいる、
掛川(かけがわ)城も包囲し、氏真を降伏さ
せる。 戦国大名の今川氏が滅亡する。
■ 1569年 (永禄12年)。
● 家康と武田信玄は、敵対関係
となる。
■ 1569年(永禄12年)に、 徳川家康と武田
信玄は、 敵対関係となる。
● 1569年(永禄12年)に、 領土拡大に燃え
る武田信玄は、家康との協定を破り、信濃国
(しなののくに、現・長野県)から遠江国(とおと
うみのくに、静岡県西部)へ侵攻する。 これは、
徳川勢の抵抗や北条氏康からの牽制を受け失
敗し、これを契機に、徳川家康と武田信玄は、
敵対関係となる。
■ 1570年 (永禄13年、元亀元年)。
● 信長は、金ヶ崎の戦いで、
敗戦する。
■ 金ヶ崎(かねがさき)の戦い
越前・朝倉氏討伐織田軍の戦い。
● 1570年(永禄13年、元亀元年)4〜5月
に、織田信長は、織田軍を率いて、 越前国に
侵攻したが、 信長の妹婿の北近江(きたおう
み、現・滋賀県北部の相当地域)の浅井長政
に背後をつかれ、 信長や信長軍本隊は、京
(きょう、京都)へ逃れる。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 金ヶ崎(かねがさき)の戦い(1570年4月
〜5月)とは、 次のような合戦であった。
1570年(永禄13年、元亀元年)4〜
5月に、 約3万人の織田・徳川連合軍は、
越前国(えちぜんのくに、現・福井県東部の
相当地域)の朝倉義景(あさくらよしかげ)
を討伐するため、 越前国へ侵攻したが、
浅井長政の裏切りで、挟み撃ちにあい、
約2万人の朝倉・浅井連合軍に追われて、
引き上げる(撤退する)。
● 浅井氏と親密な朝倉氏を信長が攻めたた
め、信長との同盟を結んでいた浅井氏の浅
井長政が、同盟をを反故(ほご)にして、 信
長に敵対してしまったため、信長が敗戦とな
る。
● 金ヶ崎の退き口。
● 信長の越前・朝倉氏討伐の失敗
と金ヶ崎の退き口。
■ 金ヶ崎の退き口 (かねがさきののきぐち、
金ヶ崎戦いの後半の撤退戦)。
● 金ヶ崎の退き口 (かねがさきののきぐち)
とは、 金ヶ崎戦い(1570年4月〜5月の
織田氏と朝倉氏の合戦)の後半の撤退戦
である。
● 1570年(永禄13年)4月20日に、織田
信長は、 朝倉氏討伐のため、約3万人の
織田・徳川連合軍を率いて,京(きょう、京
都)を出陣する.。
● 1570年(永禄13年、元亀元年)4月23日
に、和暦の年号が永禄から元亀に改元される。
● 1570年(元亀元年)4月25日に、信長は、
越前の朝倉義景領に侵攻し、4月26日には、
金ヶ崎城(かねがさきじょう)を下す。
その時、北近江の浅井長政が裏切った
という情報が入る。
先に、4月26日に、織田信長は、馬で、
逃走し、4月30日に、京(きょう、京都)に到
着する。
● 1570年(元亀元年)に、織田軍は、4月26
日に、越前の金ヶ崎城を占拠し、越前・金ヶ
崎へ進軍した時に、浅井長政が裏切り、
浅井軍に背後をつかれ、信長(4月30日に)
や信長軍本隊(5月上旬に)は、 なんとか、
京(きょう、京都)へ逃れる。
この越前・朝倉氏討伐織田軍に、池田
勝正、豊臣秀吉(木下藤吉郎秀吉)、明智
光秀、徳川家康も従軍する。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
● 金ヶ崎の退き口時、信長は馬
で先に逃走、織田軍本隊は、
後に続く。
■ 金ヶ崎の退き口 (かねがさきののきぐち、
金ヶ崎戦いの後半の撤退戦)。
● 1570年(永禄13年、元亀元年)4〜
5月に、織田軍は、浅井軍と朝倉軍の挟み
撃ちという危機の中で、 まず先に、織田
信長本人は、馬で、越前(えちぜん)の金
ヶ崎から越前、若狭(わかさ)、近江(おう
み)・琵琶湖西方の朽木谷(くつきだに)経
由で、4月30日に京へ逃げ帰る。
一方、約2万人の朝倉・浅井連合軍
に攻撃されながら、約3万人の織田軍本隊
は、 越前(えちぜん)の金ヶ崎から越前、
若狭(わかさ)、近江(おうみ)経由で撤退し、
5月上旬に京(きょう、京都)へたどり着く。
● 金ヶ崎の退き口の殿(しんがり)
の軍で、織田氏家臣の光秀、
秀吉が活躍。
■ 「殿(しんがり)」の軍とは、本隊の軍の
撤退時、軍の最後尾で、襲(おそ)ってくる
敵兵を命(いのち)がけで防ぐ役目である.
■ 信長の命(命令)で、 池田勝正(いけだ
かつまさ)が指揮をとる、撤退する織田軍
本隊の「殿(しんがり)」の軍を、織田軍の
明智光秀、豊臣秀吉(木下藤吉郎秀 吉)
などの兵が務(つと)め、 敵の朝倉・浅井
軍と応戦し、防戦しながら、撤退する。
光秀、秀吉は、かろうじて、生き残り、功績
をあげる。
史実では、徳川家康は、殿(しんが
り)の軍には参加していない。 家康の軍
は、 池田勝正の率いる織田軍本隊と共に、
行動する。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1570年 (永禄13年・元亀元年)。
● 永禄年号から元亀年号に改元。
元亀年号:1570年ー 1573年。
■ 1570年(永禄13年・元亀元年)に、
元亀(げんき) 年号に改元。
● 1570年(永禄13年・元亀 元年)4月23日に、
和暦の「永禄」(えいろく、
永禄元年・1558年〜永禄13年・1570年)
が、
和暦の「元亀」(げんき、
元亀 元年・1570年・ 4月23日〜
元亀 4年・1573年・ 7月28日) に
改元される。
■ 室町時代後期の各年号。
暗記法: 永大享天弘永元天
(えいだいきょうてんこうえいげんてん)。
● 永正(えいしょう)年号: 1504年ー1521年。
● 大永(だいえい)年号: 1521年ー1528年。
● 享禄(きょうろく)年号: 1528年ー1532年。
● 天文(てんぶん)年号: 1532年ー1555年。
● 弘治(こうじ)年号: 1555年ー1558年。
● 永禄(えいろく)年号: 1558年ー1570年。
● 元亀(げんき)年号: 1570年ー 1573年。
● 天正(てんしょう)年号: 1573年ー 1592年。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1570年 (元亀元年)。
● 姉川の戦いでの信長の勝利。
■ 姉川の戦い。
● 1570年(元亀元年)6月に、織田信長の
率いる織田・徳川連合軍は、 近江国(おう
みのくに、現・滋賀県の相当地域)の、姉川
(あねがわ)で、浅井・朝倉連合軍を 敗(や
ぶ)り、勝利を得る。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1570年 (元亀 元年)。
● 石山合戦が始まる。
■ 1570年(元亀元年)9月に、本願寺(一向
宗)の、石山本願寺 (いしやまほんがんじ)
は、織田信長に対抗する。
● 信長と石山本願寺との間で、石山合戦
(いしやまがっせん、1570年−1580年)が
始まる。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1570年 (元亀 元年)。
● 伊勢長島一向一揆が始まる。
■ 1570年(元亀元年)の9月頃に、伊勢長島
一向一揆(いせながしまいっこういっき、
1570年ー1574年)が始まる。
● 石山合戦に伴って、1570年(元亀元年)
9月頃に、一向宗(本願寺)の一揆衆は、伊
藤氏が城主を務める、伊勢国の長島城を攻
め落とし、城を奪う。
■ 1571年 (元亀 2年)。
● 信長の比叡山焼き討ち。
■ 1571年(元亀2年)9月に、 織田信長は、
浅井氏・朝倉氏に味方する比叡山・延暦寺
(ひえいざん・えんりゃくじ)を焼討ちにする。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1571年 (元亀2年)。
● 北条氏康が死去し、北条氏政
が小田原北条氏を継承する。
■ 1571年(元亀2年)10月に、 北条氏康
(ほうじょううじやす)が、死去する。
小田原北条氏(= 後北条氏)は、氏康
の子の北条氏政(ほうじょううじまさ)が継
承する。
● 北条氏政は、家康・氏真・氏康
の盟約を破棄し、武田氏と同盟
を結ぶ。
■ 甲相同盟締結、越相同盟破棄。
● 1571年(元亀2年)12月に、 北条氏政は、
外交方針を転換し、 掛川城開城時の徳川
家康・今川氏真・北条氏康の盟約を破棄し、
信玄と甲相同盟を結び、 同時に、謙信との
越相同盟を破棄する。
北条氏政と上杉謙信との関東をめぐる
戦いが始まる。
■ 氏政の甲相同盟締結・越相同盟破棄で
信玄の西上作戦の環境が整う。
● 氏政の甲相同盟締結によって武田領の東方
の北条氏の脅威がなくなり、 また、氏政の
越相同盟破棄により北条氏政と上杉謙信の
戦いが始まり武田領の北方の脅威もなくなり、
武田信玄は、 武田領の西方の徳川氏や織
田氏の領国を侵略し、上洛できる西上作戦の
環境が整う。
■ 氏政の甲相同盟締結で、家康は北条氏と
敵対する。
● 氏政の甲相同盟締結によって、武田氏と敵
対する徳川家康は、 武田氏徳川領侵攻時、
以前のように、北条氏の援軍を得られなく
なるばかりでなく、 小田原北条氏と敵対す
ることとなる。
■ 氏政が信玄に援軍を送る。
● その後、1572年(元亀3年)の武田信
玄の「徳川・織田領国侵攻の西上作戦」の
際に、北条氏政は、 信玄に約2000人の
北条軍の兵を援軍として武田軍に参加させ、
北条軍は、 武田軍が織田徳川・連合軍に
勝利を得た三方ヶ原の戦い(みかたがはら
のたたかい)で、活躍する。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1572年 (元亀 3年)。
● 織田・徳川氏を攻撃する、武田
信玄の軍が上洛開始。
■ 武田信玄が上洛開始。
● 1572年(元亀3年)10月に、 武田信玄
(たけだしんげん)は、 上洛(じょうらく、京
都へ行く)の軍を起こす (上洛を開始する)。
● 1572年(元亀3年)10月に、 甲斐の武田
信玄は 上洛の軍を起こした。 総兵力・約3万
人の兵の武田軍が、 織田領の東美濃や徳川
領の遠江、三河に侵攻を開始する。
● 1572年(元亀3年)10月に、 甲斐の武田
信玄は 上洛の軍を起こした。 総兵力・約
3万人の兵の武田軍が、 織田領の東美濃
(ひがしみの、現・岐阜県南東部) や 徳川
領の遠江国、三河国(とおとうみのくに、みか
わのくに、現・静岡県西部、愛知県東部)へ
侵攻を開始する。
● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。
● 三方ヶ原の戦いで、家康が
武田信玄に大敗する。
■ 1572年(元亀3年)12月に、 遠江 国 (と
おとうみのくに、現・静岡県西部の相当地域)
の、三方ヶ原(みかたがはら)の戦いで、徳川・
織田連合軍は、 武田信玄の武田軍に大敗
する。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
□ 織田信長ガイドブッ クへ。
□ 日本史辞典の先頭ページへ。
■ 1573年 (元亀 4年)。
● 足利義昭が信長討伐を謀る。
■ 1573年(元亀4年)2月に、 室町幕府の
第15代将軍の、足利義昭 (あしかがよし
あき)は、 織田信長を裏切り、武田氏、朝
倉氏、浅井氏、石山本願寺と協力して、
信長討伐を謀(はか)る。
● 武田信玄が上洛を中止し、
帰国途中で死す。
■ 1573年(元亀4年)4月に、武田信玄 は、
病状悪化し、武田軍は、徳川領の遠江国、
三河国(とおとうみのくに、みかわのくに、
西部、愛知県東部)から、軍を返し、甲斐国
(かいのくに、現・山梨県)へ帰国する。
武田信玄は、甲斐国(かいのくに、現・
山梨県の相当地域)へ帰国途中、4月12日
に、信濃・駒場で病死する。
● 家康が三河の長篠城を武田氏
より奪回する。
■ 1573年(元亀4年)5月に、徳川家康は、
三河国(みかわのくに、現・愛知県東部)の
長篠城(ながしのじょう)を攻め、武田軍より
長篠城を奪回し、武田軍の再侵攻に備える。
■ 1573年 (元亀 4年)。
● 室町幕府滅亡。
■ 1573年(元亀4年)7月に、織田信長は、
室町幕府(= 足利幕府)・第15代将軍の足利
義昭(よしあき)を、京(きょう、京都)より追放
し、 実質上、室町幕府 (= 足利幕府)を滅ぼ
す。
● 足利 義昭 (あひかがよしあき)は、
1573年(元亀4年)2月に 信長を裏切り、
1573年(元亀4年)2〜7月 に、二条御所
(にじょうごしょ)や 槇島城(まきしまじょう)
に立て籠(こ)もって2回も信長に反抗した
ため、織田信長は、足利 義昭を、京(きょ
う、京都)より追放する。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
● 織田政権の成立。
■ 1573年(元亀4年)7月に、織田信長は、
室町幕府(= 足利幕府)・第15代将軍の足利
義昭を京(京都)より追放し、室町幕府を滅
ぼし、織田政権が樹立される。
● 信長は天下統一を目指す。
■ 1573年(元亀4年)7月の信長による将軍
の京都追放後、織田信長は、天下統一(日本
本土統一)を目指すようになる。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1573年 (元亀4年)。
● 信長が年号を改暦させる。
■ 1573年(元亀4年)7月に、 織田信長は、
元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に
奏上し、これを実現させる。
■ 1573年 (元亀4年・天正元年)。
● 元亀年号から天正年号に改元。
天正年号:1573年ー 1592年。
■ 1573年(元亀4年・天正元年)に、
天正(てんしょう) 年号に改元。
● 1573年(元亀4年・天正 元年)7月28日に、
和暦の「元亀」(げんき、
元亀元年・1570年〜元亀4年・1573年)
が、
和暦の「天正」(てんしょう、
天正 元年・1573年・ 7月28日〜
天正20年・1592年・12月 8日) に
改元される。
■ 1573年(元亀4年)7月に、織田信長は、
元号を元亀から天正へと改めることを朝廷
に奏上し、これを実現させる。
■ 安土桃山時代の各年号。
暗記法: 元天文慶
(げんてんぶんけい)。
● 元亀(げんき)年号: 1570年ー 1573年。
● 天正(てんしょう)年号: 1573年ー 1592年。
● 文禄(ぶんろく)年号: 1592年ー 1596年。
● 慶長(けいちょう)年号: 1596年ー 1615年。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1573年 (天正 元年)。
● 信長が朝倉氏・浅井氏を 滅ぼす。
■ 1573年(天正元年)8〜9月に、 織田信長
は、朝倉氏・浅井氏を滅ぼす。
信長は、越前国と北近江を領土とする。
■ 織田信長は、 1573年(天正元年)8月に、
越前 国(えちぜんのくに、現・福井県東部)
へ行軍し、朝倉軍を 敗(やぶ)り、朝倉義景
よ(あさくらしかげ)を自害させ、 8〜9月に、
北近江(きたおうみ、現・滋賀県北部)の小谷
城(おだにじょう)を落とし、浅井久政・長政
父子(あさいひさまさ・ながまさふし)を自害
させる。
● お市と浅井三姉妹は、城から
落ち延び、信長が引き取る。
■ 1573年(天正元年)9月に、小谷城(おだ
にじょう)落城前、信長の妹のお市(おいち)
とお市の娘3人 (浅井三姉妹(あざいさんし
まい)、茶々、初、江(ちゃちゃ、はつ、ごう))
は、小谷城から落ち延びて、信長が引き取る。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1573年 (天正 元年)。
● 織田氏家臣の秀吉が北近江の
長浜城の城代(城主)となる。
■ 1573年(天正元年)に、 織田氏家臣の、
豊臣秀吉(羽柴秀吉)は、 浅井氏滅亡後、
その旧領の北近江三郡の経営を織田信長
より任され、 その後、北近江(きたおうみ)
の今浜(いまはま)に、今浜を長浜(ながは
ま)に改名し、そこに、長浜城を築城し、
長浜城の城代(城主)となる。
■ 1574年 (天正 2年)。
● 越前で、一向宗門徒が反乱
を起こし、織田領の越前を
制する。
■ 朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前
国(えちぜんのくに、現・福井県東部)で、
1574年(天正2年)1月に、 地侍や 本願
寺門徒の反乱が起こり、 織田氏より奪い、
本願寺門徒(一向宗門徒)が、越前国を制
する。
■ 1574年 (天正 2年)。
● 武田勝頼が遠江の高天神城
を家康より奪う。
■ 1574年(天正2年)5月に、徳川家康は、
遠江国(とおとうみ、現・静岡県西部)の、
高天神城(たかてんじんじょう)を、武田信
玄の家督を継承した武田氏の武田勝頼
(たけだかつより)によって、奪われる。
● 1574年(天正2年)5月に、武田信玄の
後を継いだ武田勝頼が、2万5000人の兵
の軍を率いて、遠江国(とおとうみ、現・静岡
県西部の相当地域)に侵攻し、高天神城(た
かてんじんじょう)を奪う。
家康は、単独で迎撃できず、信長に
援軍を要請したが、援軍到着前に、高天神
城は、武田勝頼によって奪われる。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1574年 (天正 2年)。
● 信長は、伊勢長島の一向一揆
を滅ぼす。
■ 1574年(天正2年)9月に、織田信長は、
伊勢長島一向一揆(いせながしまいっこう
いっき、1570年ー1574年)を滅ぼす。
● 伊勢 国(いせ のくに、現三重県北部・
中央中部)の長島を中心にした地域で、
石山合戦に伴い、1571年(元亀2年)5月
から1574年(天正2年)9月まで、本願寺
門徒(一向宗門徒)が、織田氏に対して
一揆(いっき、領主に対する反抗)を起こし
たが、1574年(天正2年)9月に、織田軍
に鎮圧される。
一揆軍、織田軍の双方に、多数の
犠牲者が出る。
伊勢 国は織田領になり、信長は、伊
勢の経営を 滝川一益(たきがわかずます)に
任せる。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1575年 (天正 3年)。
● 長篠・設楽が原の戦いで、
信長は、武田勝頼を敗北
させる。
■ 長篠・設楽が原(ながしの・しだらがはら)
の戦い。
● 1575年(天正3年)5月に、 織田・徳川
連合軍(信長・家康連合軍)は、 三河国(み
かわのくに、現・愛知県東部の相当地域)の
設楽が原(しだらがはら)で、 武田勝頼(か
つより)の率いる武田軍を、主に鉄砲隊を使
って敗北させ、勝利を得る。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1575年 (天正 3年)。
● 信長は、越前の一向一揆を
鎮圧し、越前を再び織田領
にする。
■ 1575年(天正3年)8月に、 信長は、越
前国(えちぜんのくに、現・福井県東部の相
当地域)に侵攻し、本願寺門徒(一向宗門
徒)の軍を破り勝利を得て、1574年(天正
2年)1月に本願寺門徒(一向宗門徒)が奪
った、越前国を再び織田領にし、越前国を
田柴勝家に任せる(経営させる)。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1576年 (天正 4年)。
● 信長は、安土城の築城を
開始する。
■ 1576年(天正4年)2月に、 織田信長は、
琵琶湖湖岸に、自分の本城(= 本拠地の城)
として、安土城の築城を開始する (1579
年安土城完成)。
● 織田信長は、
近江国(おうみのくに、現・滋賀県)の、
安土城 (あづちじょう)を、
1576年(天正4年)から1582年(天正10年)
まで、 自分の本城(= 本拠地の城)とする。
■ 織田信長は、
1579年(天正7年)に、近江国(おうみ
のくに、現・滋賀県)の安土(あづち)に、
自分の本城(= 本拠地の城) として、五層
七重の豪華絢爛(ごうかけんらん)な天守
閣をもつ安土城(あづちじょう)を完成させ
る。
■ 1576年 (天正 4年)。
● 第1次木津川口の戦いで、
織田水軍は石山本願寺方
の毛利水軍に敗北する。
■ 第1次木津川口(きづがわぐち)の戦い。
● 織田信長と石山本願寺との石山合戦の戦
いで、 1576年(天正4年)7月に、信長の
織田水軍は、 大阪湾木津川(きづがわ)
河口で、石山本願寺方の毛利水軍と戦い、
敗れる。
● 織田軍は、 摂津国(せっつのくに、現・大
阪府西北部)の、石山本願寺を水陸から
包囲し、物資が入れぬように封鎖する。
ところが、石山本願寺の要請を受けて、
1576年(天正4年)7月に、毛利水軍が大
阪湾木津川河口に現れ、織田水軍を破り
(敗北させ) (第1次木津川口の戦い)、
毛利水軍は、石山本願寺に兵糧・弾薬を運
び込む。
■ 1576年 (天正 4年)。
● 織田軍の秀吉は、織田北陸
方面軍より無断帰還したが、
信長に許される。
■ 1576年(天正4年)に、 織田軍の豊臣秀
吉(羽柴秀吉)は、 柴田勝家の織田北陸
方面軍より無断で帰還し、信長の怒りをか
ったが、許される。
● 1576年(天正4年)に、 豊臣秀吉(羽柴
秀吉)は、 越後の上杉謙信と対峙している
北陸方面軍の柴田勝家への救援を信長に
命じられ、現地へ行軍したが、 現地で、秀
吉は作戦をめぐって柴田勝家と仲たがいし、
無断で帰還し、信長の怒りをかったが、許さ
れる。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1577年 (天正 5年)。
● 手取川の戦いで、織田信長軍
は、上杉謙信軍に敗北する。
■ 手取川(てどりがわ)の戦い
● 1577年 (天正5年)9月に、織田信長軍は、
北陸で、上杉謙信の率いる上杉軍に敗れ
(手取川(てどりがわ)の戦い)、 撤兵する。
● 1577年 (天正5年)9月に、 信長は、
柴田勝家が率いる約3万人の兵の前軍と
信長自らが率いる本隊・約1万8000人の
兵の後軍で、北陸・加賀 国(かが のくに、
現・石川県南部)へ出陣したが、前軍が上杉
謙信の率いる上杉軍に敗れ(手取川の戦い)、
また、信長率いる後軍は、大和(やもとのく
に、現・奈良県)の、松永久秀の謀反(むほ
ん)を知り、撤兵する。
■ 1577年 (天正 5年)。
● 信貴山城の戦いで、信長軍は、
松永久秀を討ち取る。
■ 信貴山城(しんぎさんじょう)の戦い。
● 1577年(天正5年)10月に、信長は、
上杉謙信(うえすぎけんしん)と呼応(こお
う)して信長を裏切り挙兵した、大和国(や
まとのくに、現・奈良県)の松永久秀(まつ
ながひさひで)を滅ぼす。
● 1577年(天正5年)10月に、信長は、大
軍を、大和国の信貴山城(しんぎさんじょう)
に派遣し、 上杉謙信と呼応して信長を裏
切り挙兵した、松永久秀を討ち取る。
● 信貴山城の戦いで、織田軍の
秀吉は功績をあげる。
■ 1577年(天正5年)10月に、 信貴山城
の戦いで、 織田軍の豊臣秀吉(羽柴秀吉)
は、 織田信忠(のぶただ)の指揮下で、
松永久秀を滅ぼし、功績をあげる。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1577年 (天正 5年)。
● 信長は中国地方の攻略を開始
する。
● 秀吉はに中国地方の攻略を命
じられる。
■ 秀吉の中国地方攻略の開始。
● 織田信長は、 豊臣秀吉(羽柴秀吉)に、
の山陽道・山陰道の中国地方の攻略を命令し、
1577年(天正5年)10月23日に、豊臣秀吉
(羽柴秀吉)は、中国地方に出陣する。
■ 1577年(天正5年)10月に、羽柴秀吉(豊
臣秀吉)は、 以前より親交のあった播磨国
の黒田官兵衛孝高(くろだかんべいよしたか)
より、播磨国の、姫路城(ひめじじょう)を譲
り受け、中国地方の攻略のため、中国地方
攻略の拠点とし、秀吉の本城(= 本拠地の城)
や政務居城とする。
■ 1577年(天正5年)10月から、羽柴秀吉(豊
臣秀吉)は、中国地方の攻略を開始する。
秀吉は、まず、播磨国(はりまのくに、兵庫
県本土南部)に攻め入り、更に、但馬国(たじま
のくに、兵庫県本土北部)に攻め入り、1581年
(天正9年)までに、播磨国と但馬国を平定する。
■ 1578年 (天正 6年)。
● 上杉謙信が急死する。
■ 1578年(天正6年)3月に、上杉謙信が
急死し、越後で、後継ぎ争い(御館の乱、おた
てのらん、1578年〜1579年)が始まる。
● 信長は、加賀、能登の攻略を
開始する。
■ 1578年(天正6年)9月に、 信長軍は、
上杉領の加賀国、能登国(かがのくに、のとの
くに、現・石川県南部・北部の相当地域)の攻
略を開始する。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1578年 (天正 6年)。
● 三木合戦が始まる。
● 播磨の別所長治が織田方
から毛利方となる。
■ 三木合戦(みきがっせん、1578年3月〜
1580年1月)が始まる。
● 1578年(天正6年)3月に、 播磨国(は
りまのくに、現・兵庫県南部本土の相当地
域)の三木城主・別所長治(べっしょながは
る)は、 信長から離反し、織田方から毛利
方に変わり、織田軍と戦う。
■ 1578年 (天正 6年)。
● 有岡城の戦いが始まる。
● 摂津の荒木村重が織田方
から毛利方となる。
■ 1578年(天正6年)10月に、有岡城の
戦い(ありおかじょうのたたかい、
1578年10月〜1579年9月)が始まる。
● 1578年(天正6年)10月に、 摂津国
(せっつのくに、現・大阪府北西部の相当地
域)の、有岡城主・荒木村重(あらきむらしげ)
が、 信長から離反し、毛利氏、石山本願寺、
足利義昭と手を結んで、信長に反抗する。
■ 1578年 (天正 6年)。
● 第2次木津川口の戦いで、
織田水軍は、石山本願寺方
の毛利水軍を敗北させる。
■ 第2次木津川口(きづがわぐち)の戦い。
● 織田信長と石山本願寺との石山合戦の戦
いで、 1578年(天正6年)11月に、信長
の織田水軍は、大阪湾木津川(きづがわ)
河口で、鉄甲船(てっこうせん)を用いて、
石山本願寺方の毛利水軍を破り、勝利を
得る。
● 1576年(天正4年)7月の第1次木津川口
の戦いで 織田水軍は、毛利水軍にと戦い、
敗れたため、その後、信長は、織田水軍を
立て直す。
● 1578年(天正6年)年11月に、 毛利水軍
が、 信長考案の鉄甲船の織田水軍に大敗
をきし、 毛利 水軍は、船で、石山本願寺に兵
糧・弾薬を運べず (第2次木津川口の戦い)。
その後、石山本願寺は、毛利氏より船で
物資援助を受けられなくなる。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
□ 織田信長ガイドブッ クへ。
□ 日本史辞典の先頭ページへ。
■ 1579年 (天正 7年)。
● 信長は、安土城を完成させる。
■ 織田信長は、
1579年(天正7年)に、近江国(おうみ
のくに、現・滋賀県)の安土(あづち)に、
自分の本城(= 本拠地の城) として、五層
七重の豪華絢爛(ごうかけんらん)な天守
閣をもつ安土城(あづちじょう)を完成させ
る。
■ 1579年(天正 7年)。
● (R6) 信長は、安土城を居住地
とする。
● (R) 織田信長の居住地の変遷。
■ (R1)⇒(R6 )。
(R1) 勝幡城 (1534年ー1538年頃)、
(R2) 那古野城 (1538年頃ー1555年)、
(R3) 清洲城 (1555年ー1563年)、
(R4) 小牧山城 (1563年ー1567年)、
(R5) 岐阜城 (1567年ー1579年)、
(R6) 安土城 (1579年ー1582年)。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ (R6) 織田信長
(生没年:1534年ー1582年)は、
1579年(天正7年)から
1582年(天正10年)まで
近江国の、安土城 (あづちじょう)で
居住する。
■ 安土城 (あづちじょう)は、 近江国(おう
みのくに、現・滋賀県)の安土にある。
■ 織田信長は、
1579年(天正7年)に、近江国(おうみ
のくに、現・滋賀県)の安土に、五層七重
の豪華絢爛(ごうかけんらん)な安土城
(あづちじょう)を完成させ、信長の本拠
地を安土城に移す。
■ 織田信長は、
1582年(天正10年)5月に、近江国の
安土城を出発し、京(きょう、京都)の
本能寺に入り、宿泊し、6月2日未明に、
本能寺で、信長家臣の明智光秀の軍に
囲まれて、殺害される(自害する)。
■ 1579年(天正 7年)。
● (C5) 信長は、安土城を本城
とする。
● (C) 織田信長の本城の変遷。
■ (C1)⇒(C5) 。
(C1) 那古野城 (1544年頃ー1555年)、
(C2) 清州城 (1555年ー1563年)、
(C3) 小牧山城 (1563年ー1567年)、
(C4) 岐阜城 (1567年ー1579年)、
(C5) 安土城 (1579年ー1582年)。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ (C5) 織田信長
(生没年:1534年ー1582年)は、
1579年(天正7年)から
1582年(天正10年)まで
近江国の、安土城 (あづちじょう)を、
本城(ほんじょう、= 本拠地の城)とする。
■ 安土城 (あづちじょう)は、 近江国(おう
みのくに、現・滋賀県)の安土にある。
■ 1579年 (天正 7年)。
● 徳川氏の分裂危機を招いた、
松平信康事件が起こる。
■ 松平信康自害・築山殿殺害事件。
● 1579年(天正7年)8月〜9月に、松平信康
事件(ま つだいらもとやすじけん、= 松平信康
自害・築山殿殺害事件)が起きる。
■ 家康・信康対立説。
● 1579年(天正7年)に、三河国の松平信康、
家臣団 と、 遠江国の徳川家康、家臣団との
間で、織田方と武田方のどちらに味方するか
という路線対立が起こり、徳川氏が分裂し、
家康は、 8月29日に、小藪村で、家康の
正室夫人で松平信康の生母の築山殿(つ き
やまどの)を殺害し、 9月15日に、二俣城で、
家康の嫡男・松平信康(まつだいらもとやす)
を自刃(じじん、自害)させ、家康は、徳川氏
の分裂危機を回避する。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1579年 (天正 7年)。
● 有岡城の戦いが終わる。
● 有岡城の戦いで、織田方が勝
ち、毛利方の摂津の荒木村重
を敗北させる。
■ 有岡城の戦い(ありおかじょうのたたかい、
1578年10月〜1579年9月)が終わる。
● 1579年(天正7年)9月に、 毛利方の、
摂津国(せっつのくに、現・大阪府北西部の
相当地域)の、有岡城主・荒木村重(あらき
むらしげ)は、 織田軍と戦い、有岡城を出
て援軍を毛利勢に求めたが得られず、有岡
城は落城し、信長に敗れる。
■ 1580年 (天正 8年)。
● 三木合戦が終わる。
● 三木合戦で、織田方が勝ち、
毛利方の播磨の別所長治を
敗北させる。
■ 三木合戦(みきがっせん、1578年3月〜
1580年1月)が終わる。
● 1580年(天正8年)1月に、 毛利方の、
播磨国(はりまのくに、現・兵庫県本土南部
の相当地域)の三木城主・別所長治(べっし
ょながはる)は、自刃(自害)し、三木城(み
きじょう)を開場し、織田軍に降伏する。
■ 1580年 (天正 8年)。
● 石山合戦の終り。
● 石山合戦で、信長は、勝ち、
石山本願寺を打倒する。
■ 石山合戦( いしやまがっせん、1570年−
1580年)が終わる。
● 1580年(天正8年)8月に、 教如が大
阪を退去し、織田信長は、石山本願寺(いし
やまほんがんじ)を打倒する(屈服させる)。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1581年 (天正 9年)。
● 信長が、京(京都)で、馬揃え
を行なう。
■ 京都御馬揃え (きょうとおうまぞろえ)。
● 1581年(天正9年)2月 28日に、織田信長
は、京(きょう、京都)の内裏(だいり 、天皇
住居)東の馬場で、 馬揃え (うまぞろえ)
を行う。
馬揃えは、現在の軍事パレードに相当
する。
● 京都御馬揃え (きょうとおうまぞろえ)とは、
1581年(天正9年)2月 28日に、織田信長
が京(きょう、京都)で行った、大規模な観兵
式(かんぺいしき、軍事パレード) である。
● 京都御馬揃え を行った理由としては、
(1) 天皇側から織田信長に査閲(さえつ)を
希望し馬揃えを行ったという説 と、
(2) 織田信長が朝廷を威圧するため馬揃え
を行ったという説、
がある。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1581年 (天正 9年)。
● 織田軍の秀吉が鳥取城を兵糧
攻めで落とし、因幡国を攻略。
■ 鳥取城の兵糧攻め(鳥取城の渇え殺し)。
● 1581年(天正9年)4月から10月まで、
織田軍の豊臣秀吉(羽柴秀吉)は、 鳥取
城を兵糧攻めにし鳥取城を落とし、これは、
「鳥取城の渇え殺し(かつえごろし))」と呼
ばれ、悲惨な城攻めとなり、 因幡国(い
なばのくに、現・鳥取県東部)を攻略する。
● 織田軍の秀吉が岩屋城を落と
し淡路国を攻略。
■ 1581年(天正9年)に、織田軍の豊臣
秀吉(羽柴秀吉)は、 岩屋城を落として淡
路国(あわじのくに、現・兵庫県淡路島)を
攻略する。
■ 1581年 (天正 9年)。
● 信長は、第2次天正伊賀の乱
で伊賀を攻略。
■ 第2次天正伊賀(てんしょういが)の乱。
● 1581年(天正9年)に、 織田信長は、
約6万人の兵の軍勢で伊賀国(いがのくに、
現・三重県中央西部)を攻略し、織田氏の
領地(織田領国)とする。
■ 1582年 (天正10年)。
● 信長は、武田氏を滅ぼす。
● 信長は、信濃・甲斐を平定。
■ 織田信長の信濃・甲斐平定。
● 1582年(天正10年)2月に、織田信長は、
武田氏領の信濃・甲斐へ 織田軍を侵攻
させ、攻撃開始し、3月11日に、甲斐国田野
で、武田勝頼・信勝父子を討ち取り (天目山
の戦い)、 戦国大名の武田氏は滅亡する。
織田信長は、信濃・甲斐を平定し、
日本の中央部を支配下におく。
● 家康は、駿河を領有する。
■ 1582年(天正10年)2月に、織田軍に協力
して、 徳川軍も、武田氏領の駿河に侵攻し
て、駿河を占領する。 家康は、 同年に、
この戦功により、 織田信長から駿河 国一国
を与えられる。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1582年 (天正10年)。
● 織田氏家臣の秀吉が備中に
侵攻。
■ 織田氏家臣の秀吉の備中国侵攻。
■ 1582年(天正10年)に、織田軍の豊臣秀
吉(羽柴秀吉)は、 織田軍の中国地方攻め
で、備中国(びちゅうのくに、現・岡山県西部)
に侵攻する。
● 織田軍の秀吉は備中の高松城
を水攻めにする。
■ 備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)の
戦い。
● 1582年(天正10年)に、豊臣秀吉(羽柴
秀吉)は、 中国地方の備中国に侵攻し、
毛利方の清水宗治(しみずむねはる)が守
る高松城(たかまつじょう)を、5月に、水攻
めにする。
● 織田軍の秀吉が信長に援軍を
要請。
■ 秀吉は、 備中攻めの時、織田軍の、
毛利輝元(もうりてるもと)、吉川元春(きっか
わもとはる)、小早川隆景(かばやかわたか
かげ)らを大将とする毛利軍と対峙し、信長
に援軍を要請する。
● 信長は、明智光秀に備中の秀吉
軍への援軍を命じる。
■ 信長は、 明智光秀に、1582年(天正10
年)5月中旬に、家康の接待役の任を解き、
備中国にいる秀吉指揮織田軍への援軍を
命じる(命令する)。
明智光秀は、なるべく早く援軍を準備し、
1582年(天正10年)6月上旬前半の備中
出兵を行なう予定であった。
■ 1582年 (天正10年)。
● 信長が中国地方出陣前に、
茶事で、京に一時滞在。
■ 1582年(天正10年)に、 1582年(天正10
年)5月に、織田信長は、明智光秀に、備中国
にいる秀吉軍への援軍を命じ、 一方、信長は、
6月上旬後半の自身の中国地方行軍予定前に、
6月上旬前半に京(きょう、京都)で茶事(ちゃ
じ)で茶会(ちゃかい)を開くため、安土城から、
名物茶器を携え、京へ上洛するため、信長は、
5月29日に安土城を出て、5月29日に京の
本能寺に到着し、京に6月上旬前半まで滞在
する予定であった。
● 本能寺の変で、信長死す。
■ 本能寺の変。
1582年(天正10年)6月2日未明に、明智
光秀が、 6月1日の本能寺での茶会の翌日
に京(きょう、京都)の本能寺にいた織田信長
を攻め、自害させる。 信長、数え年49歳で
死す。
■ 1582年 (天正10年)。
● 信長は、少数の伴と共に、上洛
し、本能寺に滞在する。
■ 織田信長は、1582年(天正10年)5月29
日に、少数の伴と共に、小姓衆(こしょうしゅ
う)のみを連れて、京(きょう、京都)へ上洛し、
京の本能寺に滞在する。
■ 織田信長は、 毛利攻めの中国地方出陣前
に、京(きょう、京都)で、茶会を開き、名物び
らきの茶事を行ないたかったので、京に向か
う。
1582年(天正10年)6月上旬前半は、
京(京都)で、茶会を開き、名物びらきの茶事
を行ない、その後、1582年(天正10年)6月
上旬後半に、毛利攻めの中国地方出陣を行
なう予定であったと考えられる。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1582年 (天正10年)。
● 本能寺の変が起こる。
■ 本能寺の変 (ほんのうじのへん)。
■ 1582年(天正10年)6月に、明智光秀は、
備中国 (びちゅうのくに、現・岡山県西部)
へ向かわず、 織田信長・信忠父子(おだの
ぶなが・のぶただふし)を殺害するため、
京( きょう、京都)へ進軍する。
明智光秀は、1582年(天正10年)6月
2日未明に、信長の滞在する本能寺を急襲
する。
■ 1582年(天正10年)6月2日に、織田信
長は、本能寺の変で、 自刃(じじん、自害)
する。
明智光秀 が、1582年6月2日未明に、
京(きょう、京都)の本能寺にいた織田信長
を攻め、信長を自害させる (本能寺の変)。
信長 は、(数え年)享年49歳で死す。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
● 織田信長 ・信忠父子が京で
死去する。
■ 織田信長は、 天下統一(日本本土統一)を
めざしていたが、 1582年(天正10年)6月
2日未明に、 織田氏の重臣の一人の明智光
秀(あけちみつひで)の謀反(むほん)により、
京( きょう、京都)の本能寺にて、自刃(じじん、
自害)する (本能寺の変)。
● また、京 (きょう、京都)にいた信長の嫡男で
織田氏の後継者の織田信忠( おだのぶただ)
も、6月2日に、京の二 条城にて、明智光秀に
攻められて、自刃(じじん、自害)する。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
● 本能寺の変前の織田信長
の行動。
■ 近江国(おうみのくに、現・滋賀県)の、安土
城で、織田信長は、 家臣に、毛利攻めの中
国地方出陣の準備をし、待機するように命
じ(命令し)、 京都滞在は5日間で、6月4日
には淡路国(あわじのくに、現・兵庫県淡路
島)の織田信孝(のぶたか)の閲兵に向かう
と家臣に伝えて、安土城を出て、京(きょう、
京都)に向かう。
信長は、6月 上旬後半に、毛利攻めの
中国地方出陣を予定していたと考えられる。
■ 5.29信長・安土城出⇒
5.29信長・京の本能寺着 ・滞在⇒
6.1信長・本能寺茶会開催・ 酒宴・囲碁観覧。
● 織田信長は、1582年(天正10年)5月29
日に、小姓衆(こしょうしゅう)のみを連れて、
多くの茶道具の名器を携えて、安土城を出
て、上洛し(じょうらく、京都へ行き)、5月29
日に、京(京都)の定宿の本能寺へ入る。
1582年(天正10年)6月1日に、信長
は、公卿(くぎょう)、僧侶ら40人を招き、
本能寺で近衛前久(このえさきひさ)主賓の
茶会を開き、名物びらきの茶事を行なう。
信長は、茶会が終わると、酒宴となり、京の
妙覚寺から来訪した嫡子の織田信忠(のぶ
ただ)と酒を飲み交わす。 信長は、深夜 に
信忠が帰った後も本因坊と鹿塩の 囲碁の対
局を見て、その後就寝する。
■ 織田信長は、1582年(天正10年)5月29
日から京都滞在は5日間であり、京都滞在の
目的は、安土城から多くの茶道具の名器を
携えて、京に向かっていることから、道具開き
の茶会を開いて披露するのが目的であったと
考えられる。
● 本能寺の変前の明智光秀
の行動。
■ 5.17光秀・安土城出⇒
5.17光秀・近江・坂本城着・滞在⇒
5.26光秀・丹波・亀山城着⇒
5.27光秀・愛宕山着(愛宕権現参拝 、
宿泊)⇒
5.28光秀・愛宕山(連歌の会)⇒
5.28光秀・丹波・亀山城着・滞在。
● 亀山城明智光秀は、家康の饗応役(きょう
おうやく)を交代後、安土城を出て、光秀は、
1582年(天正10年)5月17日に、近江国
(おうみのくに、現・滋賀県)の坂本城に戻り、
更に5月26日には、領地の丹波国(たんば
のくに、現・京都府中部)の亀山城へ向かう。
5月27日には、光秀は、亀山の北の
愛宕山(あたごやま)に登って愛宕権現 (あ
とごこんげん)に参拝し、その日は参籠(さん
ろう、宿泊)する。 5月28日に、 光秀は、
愛宕山で連歌の会を催し、28日中に亀山
に帰城する。
■ 6.1明智軍・丹波・亀山城出⇒
6.1明智軍・柴野付近(軍議)。
● 1582年(天正10年)6月1日に、明智 光秀
は、 約1万3000人の兵を率いて、丹波・
亀山城を出陣する。 その後、光秀は、酉の
刻(とりのこく、午後6時頃)、亀山の東の柴野
付近で、軍議を開き、重臣たちを集めて、ここ
で初めて謀反のことを告げる。
■ 6.1明智軍・柴野付近(軍議)⇒
6.1明智軍・老ノ坂峠⇒
6.1明智軍・沓掛着(夜中、休息)。
● 西国への道は、当時、南の三草山を越える
のが普通であったが、1582年(天正10年)
6月1日に、光秀は、老ノ坂峠を越えると、
沓掛で夜中に休息をとる。 沓掛は、京(京
都)への道と西国への道の分岐点であった。
■ 6.1明智軍・沓掛(夜中、休息)出⇒
6.2明智軍・掛川着(戦闘準備)⇒
6.2明智軍・京都市中。
● その後、光秀は、沓掛から掛川へ向かい、
1582年(天正10年)6月2日未明に、掛川
に到着する。 掛川で、光秀は、兵に戦闘準
備を命じる。 掛川を越えたあたりで夜が明
ける。
6月2日未明に、光秀は、重臣の先鋒
の斎藤利三を京都市中に入らせ、兵を連れ
て目的地の本能寺へ急ぐよう下知する。
襲撃は重臣とその部下に実行させ、総
指揮官の光秀は本能寺の現場へ行ったかど
うかは不明である。
■ 6.2明智軍・京都市中⇒
6.2明智軍・本能寺完全包囲⇒
6.2明智軍・本能寺襲撃⇒
6.2本能寺炎上・信長自害。
● 1582年(天正10年)6月2日曙(あけぼの)
(午前4時頃)、明智勢は、本能寺を完全に
包囲し終える。
信長や小姓衆(こしょうしゅう)は、最初、
この喧噪(けんそう)は、下々の者の喧嘩(け
んか)だと思っていたが、明智勢が声をあげて
御殿に鉄砲を撃ち込んできた (「信長公記」
より)。 信長は、蘭丸に物見に行かせたとこ
ろ、蘭丸が明智の軍勢と見受けられますと報
告し、信長が「是非に及ばす」(やむをえぬ)と
一言いったという (「信長公記」より)。
既に御殿には火がかけられていて、信長
は、殿中の奥深くに篭(こも)り、内側から納戸
を閉めて自害する (「信長公記」より)。
明智光秀軍の本能寺への討ち入りが終
わったのが辰の刻(午前8時前)とする (「信
長公記」より)。
● 織田政権が終わる。
■ 信長は、 天下統一(日本本土統一)をめざ
した。
織田信長は、新社会秩序の構築をめざ
した。 明智光秀は、旧社会秩序の回復をめ
ざした。
● 本能寺の変発生時の織田方の
主な武将の居場所。
■ 本能寺の変発生時の1582年6月2日の織
田方の主な武将の居場所。
● 織田氏部将の柴田勝家 (しばたかついえ)
は、
北陸地方の、越中国 (えっちゅうのくに、現・
富山県)の、魚津城(うおづじょう)で、上杉勢
(上杉氏)の、上杉景勝(うえすぎかげかつ)
の軍と交戦中であった (魚津城の戦い)。
● 織田氏部将の滝川一益 (たきがわかずま
す)は、
関東地方の、上野国(こうずけのくに、現・群
馬県)の、厩橋城(まやばしじょう、前橋城)で、
北条勢(小田原北条氏)を牽制中であった。
● 織田氏部将の織田信孝、丹羽長秀 (おだの
ぶたか、たんばながひで)は、
近畿地方の、堺 (さかい、現・大阪府堺市)
で、四国征伐織田軍を編成中であった。
● 織田氏部将の羽柴秀吉 (はしばひでよし)
は、
中国地方の、備中・高松 (びっちゅう・たかま
つ、現・岡山県南中部・岡山市高松)で、毛利
勢(毛利氏)と交戦中であった。
● 織田氏の同盟者の大名の徳川家康 (とくが
わいえやす)は、
京(きょう、京都)に向かう途中で、近畿地方
の、堺と京(京都)との中間地点付近の、
飯盛山(いいもりやま)を移動中であった。
飯盛山 (いいもりやま、河内国飯盛山)は、
近畿地方の、現在の大阪府の、四条畷市(し
じょうなわてし)と大東市(だいとうし)にまた
がる山であり、 堺 (さかい、現・大阪府堺
市) と 京(きょう、京都) との中間地点付近
にある。
■ 1582年 (天正10年)。
● 家康の伊賀越え。
■ 家康の伊賀越え (= 神君伊賀越え)。
● 本能寺の変発生時の1582年(天正10年)
6月2日時点で、 徳川家康は、京(きょう、
京都)に向かう途中で、堺と京(京都)との
中間付近の飯盛山(いいもりやま)を移動中
であった。
● 1582年(天正10年)5月に、徳川家康は、
織田信長により、京(きょう、京都)に招かれ、
京で織田信長・信忠父子の接待を受け、そ
の後、堺(さかい)へ行き、1582年(天正
10年) 6月2日時点では、京(京都)に戻る
途中で、飯盛山(いいもりやま)を移動中で
あった。
● 飯盛山 (いいもりやま、河内飯盛山)は、
近畿地方の、現在の大阪府の、四条畷市
(しじょうなわてし)と大東市(だいとうし)に
またがる山であり、 堺 (さかい、現・大阪
府堺市) と京(きょう、京都) との中間地
点にある。
■ 1582年(天正10年)6月に、本能寺の
変後、少人数の伴しかいない徳川家康は、
6月2日に飯盛山から自分の領国へ向けて
馬で出立し、明智光秀の軍を避けるため、
山城国宇治田原、近江国甲賀小川経由で、
桜峠から、難所の伊賀を越えて逃走し、
伊勢国(いせのくに、現・三重県北部・中
央中部)から船で伊勢湾を渡り、6月5日
頃に、三河国(みかわのくに、愛知県東部)
の大浜に到着し、三河国・岡崎城に帰還し、
無事に、家康の領国(三河国・遠江国・駿河
国)に戻る。
■ 1582年 (天正10年)。
● 秀吉が明智光秀を討つ。
■ 1582年(天正10年)6月に、本能寺の変で
信長の死去を知った豊臣秀吉(羽柴秀吉)は、
山崎の戦いで勝ち、明智光秀を討つ。
● 1582年(天正10年)6月に、秀吉は、京(京
都)に近い、山崎で、明智光秀と交戦し勝ち
(山崎の戦い)、光秀は、敗走中、農民に殺さ
れる。
● 秀吉の中国大返し。
■ 秀吉の中国大返し。
● 備中の高松城を水攻めにしていた豊臣秀吉
(羽柴秀吉)は、
1582年(天正10年)6月3日に、本能寺の
変で信長の死去を知ると、 急いで、高松城
城主・清水宗治(しみずむねはる)の自刃(じ
じん、自害)を条件にして毛利氏の毛利輝元
(もうりてるもと)と講和し、 京( きょう、京都)
に向け秀吉指揮織田軍を動かす。
● 備中・高松 (びっちゅう・たかまつ、現・岡
山県南中部・岡山市高松) にいた豊臣秀
吉(羽柴秀吉)は、
1582年(天正10年)6月3日に本能寺の
変の報を入手し、 すぐに、秀吉は毛利軍
と和議を結び、 6月4日に秀吉は清水宗治
の自刃の検分を行い、 6月5日〜6日に秀
吉は備中・高松より撤兵し、 6月7日に秀吉
は姫路城 (ひめじじょう、現・兵庫県南中部・
姫路市)に到着し、 6月11日に秀吉は尼崎
(あまがさき、現・兵庫県南東部・尼崎市)に
到着する。 6月11日に秀吉は、富田(とん
だ、現・大阪府高槻市富田町)で軍議を開き、
6月11日〜12日に羽柴秀吉軍は、山崎(や
まざき、現・京都府大山崎町)に向かう。
1582年(天正10年)6月12日に、秀吉は、
自軍と共に山崎に到着する。
● 山崎の戦いで、秀吉が明智
光秀に勝つ。
■ 山崎(やまざき)の戦い。
● 1582年(天正10年)6月13日に、豊臣秀
吉(羽柴秀吉)は、
京(きょう、京都)に近い、山崎で、明智光秀
と交戦し、勝利を得る。 約2万の兵の羽柴
秀吉軍と約1万の兵の明智光秀軍の戦いで
あった。
● 1582年(天正10年)6月12日頃から、羽柴
秀吉軍と明智光秀軍の両軍は、
山崎付近の円明寺川(現・小泉川)を挟(はさ)
んで対陣する。
山崎付近で局地的な戦闘はあったものの、
6月13日の午後4時頃に、本格的な戦闘の
先端が開かれ、2時間ほど経過して、日没頃
に、明智光秀軍が総崩れとなり、壊滅し、敗北
する。
光秀は、戦線後方の勝龍寺城に退却する。
● 明智光秀の死去。
■ 1582年(天正10年)6月13日に、山崎の
戦いの敗戦後、戦線後方の勝龍寺城にいた
明智光秀は、
勝龍寺城の北門を夜陰にまぎれて密かに脱
出し、近江国(おうみのくに、現・滋賀県)の
居城・坂本城を目指して落ち延びる途中、
光秀は、敗走中、6月14日の丑の刻(うしの
こく、午前2時頃)に、小栗栖(おぐるす、京都
市伏見区東部)で、農民に殺される。
■ 1582年 (天正10年)。
● 清洲会議が開かれる。
■ 清洲会議 (きよすかいぎ)。
● 1582年(天正10年)6月27日に、秀吉は、
清洲城(きよすじょう)にて、他の織田氏の
3重臣と相談し、信長の後継者と遺領の分割
を決める。
● 当日出席した織田氏の4人の重臣の、羽柴
秀吉(はしばひでよし)、柴田勝家(しばたか
ついえ)、丹羽長秀(にわながひで)、池田
恒興(いけだつねおき)には、会議前に、
既に、織田氏の一族、同盟者などの利害関
係者からの意向が伝えられていた。
■ 1582年(天正10年)6月27日に、羽柴秀
吉(豊臣秀吉)は、 清洲城 (きよすじょう、
現・愛知県清須市)にて、他の織田氏の重臣
3人と共に、清洲会議 (きよすかいぎ)を開
き、 清洲会議の四者会談で、 織田信長の
後継者と遺領の分割、織田氏領地再配分を
決める。
● 織田信長の後継者は、 織田信長の嫡孫
(織田信忠の嫡男)の三法師 (さんぽうし、
さんぼうし、織田秀信(ひでのぶ))と決まる。
● 清洲会議に参加した者は、 史実では、
羽柴秀吉(豊臣秀吉)、柴田勝家、丹羽長秀
(たんばながひで)、池田恒興(いけだつねお
き)の4名の織田氏重臣のみである。
● 清洲会議の織田氏領地再配分。
■ 清洲会議で決まった織田氏領地再配分は、
次の通りである。
● 織田氏経営委任地 (織田信長が生前織田
氏部将に経営を委任していた領地)は、原則
として、そのまま、その部将の領地となる。
● 三法師(織田秀信)は、近江国坂田郡と安土
城を相続する。
● 信長次男の織田信雄は、尾張国(おわりの
くに、現・愛知県西部)を相続する。
● 信長三男の織田信孝は、美濃国(みののく
に、現・岐阜県南部)を相続する。
● 信長四男の羽柴秀勝は、明智光秀の旧領
の丹羽国(たんばのくに、現・京都府中部)を
得る。
● 柴田勝家は、越前国(えちぜんのくに、現・
福井県東部)などの織田氏経営委任地を安
堵(あんど)される。
● 丹羽長秀は、若狭国などの織田氏経営委任
地を安堵され、近江国(おうみのくに、現・滋
賀県)の2郡を増量(加増)される。
● 池田恒興は、織田氏経営委任地を安堵され、
摂津国(せっつのくに、大阪府西北部)の3郡
を増量(加増)される。
● 羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、中国地方の織田
氏経営委任地以外に、河内国(かわちのくに、
大阪府東部)、山城国(やましろのくに、京都
府南部)を増領(加増)される。
但し、勝家の希望で秀吉の北近江(きた
おうみ、現・滋賀県北部)3郡と長浜城は、勝
家養子の柴田勝豊(しばたかつとよ)に譲ら
れる。
● 滝川一益は、伊勢国(いせのくに、現・三重
県北部・中央中部)などの織田氏経営委任
地を安堵(あんど)される。
但し、北条氏に奪取された、旧武田領国
の織田領の上野国(こうずけのくに、現・群馬
県)は、徳川氏に委(ゆだ)ねる。
● 旧武田領国の織田領は、 天正壬午の乱
(てんしょうじんごのらん、1582年6月〜10
月)で北条氏、上杉氏に侵略され奪取されて
も、織田氏部将は奪還せず、徳川家康の進
出を了承し(平定を容認し)、徳川氏に委(ゆ
だ)ねる。
● 清洲会議後、織田氏家臣団は、
羽柴方と柴田方に分裂。
■ 1582年(天正10年)6月27日の清洲会議後、
織田氏の家臣団は、 羽柴方 と 柴田方に分
裂する。
羽柴方には、 丹羽長秀、池田恒興、織
田信雄(おだのぶかつ)などであり、 柴田方
は、 織田信孝(おだのぶたか)、滝川一益(た
きがわかずます)などである。
□ 織田信長ガイドブッ クへ。
◆ 織田信長 関連年代順
出来事ブックの内容 :
■ 初学者・初心者向 織田信長ガイドブック。
■ 初学者・初心者向 織田 信長 (おだ のぶ
なが)関連 電子書籍。
■ パソコン、携帯パソコン(PC)、スマート
テレビ、タブレット端末(PC)、スマートフォン、
ウェアラブル端末 用 電子書籍。
■ この本1冊で (このホームページ1つで)、
織田信長のこと(概略)が、一通り、わかる。
■ 織田信長は、
室町時代後期(戦国時代)(1467年〜1573
年)、安土桃山時代 (1573年〜1603年)
に活躍した武将であり、
尾張国 (おわりのくに、現・愛知県西部の
相当地域)の戦国大名、国主であり、 近世
日本の改革者であり、 近畿地方を中心に
日本の中央部を支配下に入れる。
■ 織田 信長の 入門ガイドブック。
■ 織田 信長の初心者・初学者向 インター
ネット用 オンライン書籍(ブック)。
■ 日本史書、日本史の電子書籍。
■ パソコン、携帯情報端末(PDA)用 電子書籍。
■ TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
□ 織田信長ガイドブッ クへ。
◆ 織田信長 関連
出来事
(概要・総合)。
■ 当書籍では、 歴史の出来事の5W1H
(いつ、どこで、だれが、何を、なぜ、どの
ように) や、 歴史の出来事の流れ(原因
理由⇒事件勃発⇒経過⇒結果⇒原因理
由)に沿って、歴史(過去)の出来事を分か
り易く、説明している。
■ 1534年(天文3年)に、 織田 信長
(おだのぶなが、幼名・吉法師(きっぽうし))
は、 織田 信秀 (おだ のぶひで)の子と
して、誕生する。
1534年(天文3年)から1546年 (天文
15年)までの間に、織田信長 (吉法師)は、
幼年で(元服(げんぷく、成人)前に)、 那古
野城(なごやじょう)を、父・織田信秀より譲ら
れ、那古野城・城主となる。
1546年(天文15年)に、信長(吉法師)
は、元服(げんぷく、成人)し、三郎信長(織田
三郎、織田信長)と称す。
1548年 (天文17年)に、 信長の父の
織田信秀 と 美濃の戦国大名の斉藤道三
との和睦が成立し、1549年(天文18年)に、
信長は、斉藤道三の娘、帰蝶(きちょう、濃姫
(のうひめ))と政略結婚する。
1553年(天文22年)に(異説では15
49年(天文18年)に)、信長は、斉藤道三と
会見する。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1551年(天文20年)に、父・織田信秀が
急死する (1552年(天文21年)、1549年
(天文18年)の死去説もある)。
その後、織田信長は、 信秀の家督を 継ぐ。
家督相続後、 弟の織田信勝(信行)と家督争
いに勝ち、また信長に敵対した尾張・下四郡の
守護代の織田信友を攻めて、殺害し、清洲城
へ入り、清洲織田家の頭領となり、 尾張・下
四郡(尾張国南部)を支配する。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1556年(弘治2年)に、斉藤道三(利政)が子
の斉藤義龍と戦い、織田信長は、 道三(利政)
に援軍を出したが、間に合わず、道三は戦いに
敗れて死去する。 これを好機と見た弟の織田
信勝(信行)は、同年8月に、信長に対し挙兵し
たが、敗北して、信長に赦免される。
しかし、1557年(弘治3年)に、 再び信
長に対し謀 反(むほん)を企てた実弟の織田
信勝 (信行)を、信長は、 清洲城にて、殺害
する。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1558年(永禄元年)に、織田信長は、 尾張
国・上四郡(尾張国北部)を支配する守護代で
岩倉(いわくら)城主の、織田 信賢(のぶかた)
の軍を破る。
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■ 1559年(永禄2年)に、信長は、 岩倉城を落
城させ織田信賢を追放し、 新たに尾張守護と
なった斯波義銀 (しばよしかね)も追放し、尾
張の国内の支配権を確立し、 尾張国(おわり
のくに、愛知県西部)一国を統一する。
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■ 1560年(永禄3年)に、織田信長は、 桶狭
間の戦いで、今川義元を破る。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1567年(永禄10年)に、 織田信長は、 美
濃国 (みののくに、現・岐阜県南部の相当地
域)の斉藤氏を滅ぼす。 その後、1568年
(永禄11年)に、 足利義昭(よしあき)を擁立
して、上洛し(京都へ上り)、義昭を、室町幕府
(= 足利幕府)の15代将軍に就ける。
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■ 1570年(元亀元年)に、姉川の戦いで、浅井・
朝倉氏の連合軍を破り、 1571年(元亀 2年)
に、浅井・朝倉氏に味方する比叡山を焼討ちし、
1573年(元亀4年)に、朝倉氏・浅井氏を滅ぼ
し、 1573年(元亀4年)に、信長を裏切った足
利義昭を追放し、 室町幕府(= 足利幕府)を滅
ぼす。
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■ 1575年(天正3年)に、 織田信長は、長篠・
設楽が原(ながしの・しだがらはら)の戦いで、
武田勝頼の率いる武田軍を鉄砲隊を使って破
る。 また、1579年(天正7年)に、安土城を
築き、 1580年(天正8年)に、石山本願寺を
屈服させ、 1582年(天正10年)に、武田
勝頼の率いる武田氏を滅ぼし、日本の中央部
を支配下におく。
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■ 織田信長は、
天下統一(日本本土統一)をめざしたが、
1582年(天正10年)6月に、 織田家 の重臣
の一人の明智光秀(みつひで)の謀反(むほ
ん)により、 京(きょう、京都)の本能寺で、
自害する(本能寺の変)。
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□ 織田信長ガイドブッ クへ。
◆ 織田信長 関連
出来事 (概要・
テーマ別各事柄)。
□ 織田信長の居住地の変遷。
変遷。
◆ 信長の父・織田信
秀の本城・居城の
変遷。
■ (C) 織田信秀の本城の変遷。
■ (C1)⇒(C4) 。
(C1) 勝幡城
(1527年頃ー1538年頃)、
(C2) 那古野城
(1538年頃ー1544年頃)、
(C3) 古渡城
(1544年頃ー1548年)、
(C4) 末森城
(1548年ー1552年頃)。
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■ 信長の父の織田信秀 (おだのぶひで、
生没年:1511年ー1552年頃)は、
自分の(C)本城(ほんじょう、= 本拠地の
城)を、次のような順序で、移動する。
● (C1) 勝幡城 (しょばたじょう、尾張国
(おわりのくに、愛知県西部)を、
1527年(大永7年)頃から
1538年(天文7年)頃まで、
本城、居城とする。
(永正年間に信長の祖父・織田信定
が勝幡城を築城)。
● (C2) 那古野城 (なごやじょう、尾張国 )を、
1538年(天文7年)頃から
1544年(天文13年)頃まで
本城、居城とする。
(大永年間(1521年ー1528年)に
今川氏親が那古野城を築城、信長の
父・織田信秀が1538年頃今川氏豊
より那古野城を奪い取る)。
● (C3) 古渡城 (ふるわたりじょう、 尾張国)を、
1544年(天文13年)頃から
1548年(天文17年)まで
本城、居城とする。
(信長の父・織田信秀が1534年
(天文3年)に古渡城を築城)。
● (C4) 末森城 (すえもりじょう、尾張国 )を、
1548年(天文17年)から
1552年(天文21年)まで
本城、居城とする。
(信長の父・織田信秀が1548年
(天文17年)に末森城を築城)。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
□ 織田信長ガイドブッ クへ。
◆ 織田信長の居住地、
本城・居城の変遷。
変遷。
の変遷。
□ 織田信長ガイドブッ クへ。
◆ 織田信長の居住
地の変遷。
■ (R) 織田信長の居住地の変遷。
■ (R1)⇒(R6 )。
(R1) 勝幡城 (1534年ー1538年頃)、
(R2) 那古野城 (1538年頃ー1555年)、
(R3) 清洲城 (1555年ー1563年)、
(R4) 小牧山城 (1563年ー1567年)、
(R5) 岐阜城 (1567年ー1579年)、
(R6) 安土城 (1579年ー1582年)。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 織田信長 (生没年:1534年 ー1582年)は、
自分の(R)居住地を、次のような 順序で、
移動する。
● (R1) 勝幡城 (しょばた じょう、尾張国(お
わりのくに、現・愛知県西部)に、
1534年(天文3年)から
1538年(天文7年)頃まで
居住する。
● (R2) 那古野城 (なごや じょう、尾張国)に、
1538年(天文7年)頃まで
1555年(天文24年)まで
居住する。
● (R3) 清州城 (きよすじょう、 清須城(きよす
じょう)、尾張国)に、
1555年(天文24年)から
1563年(永禄6年)まで
居住する。
● (R4) 小牧山城 (こまき やまじょう、尾張国)に、
1563年(永禄6年)から
1567年(永禄10年)まで
居住する。
● (R5) 岐阜城 (ぎふじょう、 美濃 国(みののく
に、現・岐阜県南部)に、
1567年(永禄10年)から
1579年(天正7年)まで
居住する。
● (R6) 安土城 (あづちじょう、 近江国(おうみの
くに、現・滋賀県)、
1579年(天正7年)から
1582年(天正10年)まで
居住する。
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◆ 織田信長の本城・
居城の変遷。
■ (C) 織田信長の本城 、居城の変遷。
■ (C1)⇒(C5) 。
(C1) 那古野城 (1544年頃ー1555年)、
(C2) 清州城 (1555年ー1563年)、
(C3) 小牧山城 (1563年ー1567年)、
(C4) 岐阜城 (1567年ー1579年)、
(C5) 安土城 (1579年ー1582年)。
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■ 織田信長 (生没年:1534年 ー1582年)は、
自分の(C)本城(ほんじょう、= 本拠地の城)、
居城を、次のような順序で、移動する。
● (C1) 那古野城 (なごや じょう、尾張国(おわ
りのくに、現・愛知県西部)、現・名古屋
城二の丸付近)を、
1544年(天文13年)頃 から
1555年(天文24年)まで
本城、居城とする。
● (C2) 清州城 (きよすじょ う、別名:清須城
(きよすじょう)、尾張国(おわりのくに、
現・愛知県西部)を、
1555年(天文24年)から
1563年(永禄6年)まで
本城、居城とする。
● (C3) 小牧山城 (こまきやま じょう、尾張国)を、
1563年(永禄6年)から
1567年(永禄10年)まで
本城、居城とする。
● (C4) 岐阜城 (ぎふじょう、 美濃国(みののくに、
現・岐阜県南部)を、
1567年(永禄10年)から
1579年(天正7年)まで
本城、居城とする。
● (C5) 安土城 (あづちじょう、 近江国(おうみの
くに、現・滋賀県)を、
1579年(天正7年)から
1582年(天正10年)まで
本城、居城とする。
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『 あなたのハートには
何が残りましたか? 』。
以 上。