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◆ カナヤマ織田信長ガイドブック。

     KANAYAMA’S GUIDEBOOK ON ODA 

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    (Kjhh)41515

  カナヤマ  

  織田信長

  関連 年代順

  出来事ブック。 』

 

 

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メ ニュー (目次)。  

 ■ 次の項目から選んで、クイックして下さい。

 

 □ 織田信長 関連年代順

    出来事ブック (総合)

 

 □ 織田信長 関連年代順

       出来事 (各年・詳細)

 

  □ 1521年〜1582年の出来事

 

 □ 織田信長 関連出来事

    (概要・総合)

 

  □ 織田信長 関連出来事

        (概要・テーマ別各事柄)

 

   □ 信長の父・織田信秀

      の本城・居城の変遷

 

   □ 織田信長 居住地、

      本城・居城の変遷

 

     □ 織田信長の居住地の変遷

     □ 織田信長の本城・居城の変遷

 

 

 □ 織田信長ガイドブック

 

   □ 織田信長の生涯の概要。

 

   □ 織田信長の一族。

 

 

 ■ 織田信長と同時代近くの関係資料。

 

   □ 織田信長 画像 NO.1

 

   □ 織田氏 画像アルバム No.1

 

   □ 織田氏 画像アルバム No. 2

 

   □ 安土城 画像アルバム  No.1

 

   □ 徳川家康ガイドブック 

   □ 徳川家康 関連年代順出来事

     ブック。   

 

    □ 豊臣秀吉ガイドブック  

   □ 豊臣秀吉 関連年代順出来事

     ブック

 

   □ 室町幕府ガイドブック

    □ 室町幕府 関連年代順出来事 

      ブック。 

 

 

  □ 織田信長 関連年代順

    出来事ブックの内容

 

 

 

 ■ 上位のWEBサイト。 

 □ (KOH) カナヤマ オフィシャル   >

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         われら地球市民。 

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 □ (Kjhh) 日本史ハンドブック。     > 

 □ (Kjhh)  織田信長ガイドブック。     > 

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          出来事ブック。  

 □ (Kjhh)  この日本語ページ。

 

 ■ カナヤマ 主要 公式ホームページ

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   KOH  CSE   UCF   KHAS (KASH)

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      QGN  KWDB  TTFW  TTWH  AWM

      KGJ   KJHH  KH H   KCB  KCTS

      I MB  KHIB  RH  KIOS  KE LKOH 

    GIMEH   ETCSS   GIMJH    JTCSS

 

   □ 主要サイトの略語・説明表

 

 

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◆ カナヤマ  織田信長

   ガイドブック。

 

 ■ 当ホームページの制作・著作権 TKKI カナヤマ。

 

 

#jphappenings

 

 

   Kjhh) 

   織田信長 関連

   年代順出来事

   ブック (総合)。

 

 

#jphappenings/eachyear

 

 

◆ 織田信長 関連

   年代順出来事

     (詳細・各年)。

 

 ■ 織田信長 関連年代順

    出来事 (詳細項目)。

 

  □ 1521年〜1551年の出来事

 

  □ 1551年〜1560年の出来事

 

  □ 1560年〜1573年の出来事

 

  □ 1573年〜1579年の出来事

 

  □ 1579年〜1582年の出来事

 

 

 

 

   □ 信長の父・織田信秀

      の本城・居城の変遷

 

   □ 織田信長 居住地、

      本城・居城の変遷

 

     □ 織田信長の居住地の変遷

     □ 織田信長の本城・居城の変遷

 

 

 □ 織田信長ガイドブック

 

   □ 織田信長の生涯の概要。

 

   □ 織田信長の一族。

 

 

 ■ 織田信長と同時代近くの関係資料。

 

   □ 織田信長 画像 NO.1

 

   □ 織田氏 画像アルバム No.1

 

   □ 織田氏 画像アルバム No. 2

 

   □ 安土城 画像アルバム  No.1

 

   □ 徳川家康ガイドブック 

   □ 徳川家康 関連年代順出来事

     ブック。   

 

    □ 豊臣秀吉ガイドブック  

   □ 豊臣秀吉 関連年代順出来事

     ブック

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ■ 備考。

 

  ■ 当書籍では、 歴史の出来事の5W1H

    (いつ、どこで、だれが、何を、なぜ、どの

    ように) や、 歴史の出来事の流れ(原因

    理由⇒事件勃発⇒経過⇒結果⇒原因理

    由)に沿って、歴史(過去)の出来事を分か

    り易く、説明している。

 

  ■ より理解を深めるために、 本史辞典の、 

  『 徳川家康 ( とくがわいえやす)、

    今川義元  (い まがわよしもと)、 

    明智光秀 (あけちみつひで)、 

    豊臣秀吉 (と よとみひでよし)、 

    上杉謙信 (うえすぎけんしん)、 

    北条氏康 (ほうじょううじやす)、  

    武田信玄 (たけだし んげん) 

    武田 勝頼 (たけだしんげん) 』

   の項目も参照してください。

 

  ■ 西暦・和暦の記載。

  ● この年代順出来事は、

    西暦を先に、その後ろの( )内に和暦を記載し

    ている。 

  ● この年代順出来事に記載されている日付(年

    月日)は、 一般の歴史書で使用されているの

    と同じように、1872年(明治5年)以前は旧暦

    (太陰太陽暦)を用い、 1873年(明治6年)

    以後は新暦(太陽暦、グレゴリオ暦)を用いて

    いる。 

 

 

  ◆ では、織田 信長 (おだ のぶなが)に関係す

     る出来事を、年代順に、見てみよう。

 

  ■ さあ、織田信長に関する様々な出来事を見て

    みよう。

 

  ● 歴史学の立場から、織田信長の生涯や実像

    (真実の姿)を見てみよう。

 

  ● 歴史学の立場から、年代を追って、織田 信

    長の実像 (歴史的有名な人物には、虚像と

    実像があるが)を見てみよう。

 

  ● 日付は、一般の歴史書と同様に全て旧暦

    ある。

 

  ● 現代も、過去の時代も、人間は、利害と感情

    (友愛)と理性等で行動し、富、名誉、権力等

    を手に入れるために努力する。 

       人類の歴史は、 平和と戦争の歴史で

    ある。 人は、美しき者、平和を好む者であり、

    人は、醜き者、争う者でもある。

 

 

□ 信長の父・織田信秀の本城・居城の変遷へ

□ 織田信長 居住地、本城・居城の変遷へ

 

□ 出来事ブックのメニュー(目次)の先頭ページへ

□ 出来事ブック(総合)ページへ

□ 出来事ブック(各年・詳細)ページへ

□ 出来事ブック(概要・総合)ページへ

□ 出来事ブック(概要・テーマ別各事柄)ページへ

□ 織田信長ガイドブッ クへ。  

□ 日本史辞典 ・日本語版の先頭ページへ。  

□ 日本史ハンドブック ・日本語版 の先頭ページへ

 

 

 

◆ 織田信長 関連

   年代順出来事

     (詳細・各年)。

 

  ■ 『 では、年代を追って、織田信長の行動

      を詳しく見てみよう。 』

 

 

#jphappenings-1521

 

 

 

 ■ 1521年 (永正18年 ・大永元年)。

 

  ● 永正年号から大永 年号に改元。

      大永年号: 1521年ー1528年。

  ■ 1521年永正18年 ・大永元年)に、

    大永(だいえい、たいえい)年号に改元。 

  ● 1521年永正18年 ・大永元年)8月23日、 

    和暦の「永正」(えいしょう、

    永正元年・1504年〜永正18年・1521年) が、

    和暦の「大永」(だいえい、たいえい、

    大永 元年・1521年 8月23日〜

    大永 8年・1528年・ 8月20日) に

    改元される。   

 

  ■ 室町時代後期の各年号。

    暗記法: 大享天弘永元天      

    (えいだいきょうてんこうえいげんてん)。

  ● 永正(えいしょう)年号:  1504年ー1521年。

  ● 大永(だいえい)年号:   1521年ー1528年。

  ● 享禄(きょうろく)年号:  1528年ー1532年。

  ● 天文(てんぶん)年号  1532年ー1555年。

  ● 弘治(こうじ)年号:    1555年ー1558年。

  ● 永禄(えいろく)年号:  1558年ー 1570年。

  ● 元亀(げんき)年号    1570年ー 1573年。

  ● 天正(てんしょう)年号: 1573年ー 1592年。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 

 ■ 1521年 (大永元年) 11月。

 

  ● 武田 信玄太郎が誕生する。  

  ■ 1521年(大永元年)11月に、 武田 信玄

    (たけだ しんげん、幼名:太郎(たろう))が、 

    甲斐国(かいのくに、現・山梨県)の守護大

    名、戦国大名、国主の武田信虎(たけだの

    ぶとら)の子として、誕生する。

 

 

 ■ 1527年 (大永7年)頃。

 

  ● 信長の祖父・織田信定が隠居

    する。 

  ■ 1527年(大永7年)頃に、織田信定 (お

    だのぶさだ、生没年:生年不詳〜1538年)

    は、 勝幡織田氏(織田弾正忠家)(しょばた

    おだし(おだだんじょうのちゅうけ))の家督と

    勝幡城(しょばたじょう)を、長男の織田信秀

    (おだのぶひで)に譲り、 自分は、木ノ下城

    (きのしたじょう、= 犬山城(いのやまじょう))

    に移り、隠居する。

 

  ● 信長の祖父・織田信定。 

  ■ 信長の祖父・織田信定 (おだのぶさだ、

    生没年:生年不詳〜1538年)は、 

    勝幡織田氏(織田弾正忠家)の当主であり、

    尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部)の

    尾張下4郡(尾張南部)の守護代(しょごだい)

    の清洲織田氏(織田大和守氏)(きよすおだし

    (おだやまとのかみけ))の分家の生まれで、 

    清州織田氏(織田大和守家)の重臣として仕

    え、清洲三奉行(きよすさんぶぎょう)の一人

    であった。 

 

  ● 織田信定は、 永正年間(えいしょうねんか

    ん、1504年ー1521年)頃に、勝幡城(しょ

    ばたじょう)を築城し、その拠点を大永年間

    (だいえいねんかん、1521年ー1528年)

    に「津島の館」(つしまのやかた)から勝幡城

    に移す。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 ■ 1527年 (大永7年)頃。

 

  ● 信長の父・織田信秀が勝幡

    織田氏の家督を相続する。

  ■ 信長の父・織田信秀 (おだのぶひで、生没

    年:1511年ー1552年)は、

    1527年(大永7年)頃、 勝幡織田氏(織田

    弾正忠家) (しょばたおだし(おだだんじょう

    のちゅうけ))の家督と勝幡城(しょばたじょう)

    を、織田信秀の父の織田信定(おだのぶさだ)

    から譲られる。

  

  ■ 1526年(大永6年)から1527年 (大永7

    年)までの間に、 信長の父・織田信秀(おだ

    のぶひで、生没年:1511年ー1552年)は、

    尾張国 (おわりのくに、現・愛知県西部の

    相当地域)で、 信長の祖父・織田信定(お 

    だのぶさだ、生年不詳ー1538年)から家督

    を譲られて、 勝幡織田氏(織田弾正忠家) 

    (しょばたおだし(おだだんじょうのちゅうけ))

    の当主となり、 織田信定が築城した勝幡城

    (しょばたじょう)を譲り受け、勝幡城・城主と

    なり、 尾張下四郡(尾張南部)の守護代(し

    ゅごだい)の清洲織田氏(織田大和守家) 

    (きよすおだし(おだやまとのかみけ))の重臣

    (三奉行(さんぶぎょう)の一人)となる。

 

  ● 信長の父・織田信秀。 

  ■ 信長の父、織田信秀 (おだ のぶひで、生

    没年:1511年ー1552年頃))は、 

    尾張国 (おわりのくに、現・愛知県西部の

    相当地域)の戦国武将、国人領主(こくじん

    りょうしゅ、小豪族)であり、

    清洲織田氏(織田大和守家) (きよすおだし

    (おだやまとのかみけ))の分家の当主であり、

    尾張国の尾張下四郡(尾張南部)の守護代

    (しゅごだい)の清洲織田氏(織田大和守家)

    の重臣で、三奉行の一人であった。 

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 ■ 1527年 (大永7年)頃から。

 

  ● 信長の父・織田信秀の他国侵略

     の戦い。

  ■ 信長の父の尾張の織田信秀は、 尾張 国

    (おわりのくに、現・愛知県西部の相当地域)

    内他所を侵略せず国内を統一せず、他国侵

    略を繰り返し、隣国に勢力を拡大する。

 

  ■ 信長の父・尾張の織田信秀は、 

    尾張の津島(つしま)、熱田(あつた)等の

    交易港を支配し、経済力を得て、勢力を振い、

    主に、3つの勢力と戦う。

  ● 織田信秀は、 

    (a) 尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部)

     内では、国内諸勢力と戦い、 

    (b) 尾張国の東方面の三河国(みかわのく

     に、現・愛知県東部)では、今川氏勢力と戦い、  

    (c) 尾張国の西北方面の美濃国(みののくに、

     現・岐阜県南部)では、斎藤氏勢力と戦う。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ● 信長の父・織田信秀の他国侵略

     の戦い。

  ■ 強力な勢力をもつ尾張 国(おわりのくに、現・

    愛知県西部)の、織田信秀 (生 没年:1511

    年ー1552年頃)は、 

    16世紀前半(1501年ー1550年)に、

     隣国への他国侵略を行い、 

    三河国 (みかわのくに、現・愛知県東部)で

    は、 駿河国・遠江国 (するがのくに・とお

    とうみのくに、現・静岡県中部・西部)を支配

    する今川氏の今川義元(いまがわよしもと)

    と戦い、

    美濃国 (みののくに、現・岐阜県南部)では、

    美濃国を支配する斎藤氏の斎藤道三 利政

    (さいとうどうさんとしまさ)と戦う。

    

  ■ 尾張国の、信長の父・織田信秀は、 

    領地獲得のため、他国侵略を行い、 

    東方では、三河国に侵入し、 

    西北方では、美濃国に侵 入し、

    勝幡織田氏(織田弾正忠家(しょばたおだし

    (おだだんじょうのちゅうけ))領地拡大を は

    かり、  

    三河国の一部や美濃国の一部の隣国の領地

    を獲得するが、 

    信秀の晩年には、今川氏や斎藤氏の勢力に

    敗戦して、隣国の領地を失う。

   

  ● 16世紀前半の三河国

  ■ 16世紀前半(1501年〜1550年)の三

    河国(みかわのくに、愛知県東部の相当地

    域)では、 尾張の戦国大名の織田氏の織 

    田信秀 と 駿河・遠江の戦国大名の今川

    氏の今川義元は、互いに、三河国に侵入し、

    領土を奪い合い、 織田信秀と今川義元は

    敵対関係にあった。

 

  ● 16世紀前半の三河国

  ■ 16世紀前半(1501年〜1550年)の三河

    国(みかわのくに、愛知県東部の相当地域)

    では、 

    尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部)の戦

    国大名の織田氏の織田信秀(おだのぶひで) 

    と、  

    駿河国・遠江国(するがのくに・とおとうみの

    くに、現・静岡県中部・西部)の戦国大名の

    今川氏の今川義元(いまがわよしもと)

    は、 

    互いに、三河国(みかわのくに、現・愛知県

    東部)に侵入し、領土を奪い合い、

    織田信秀と今川義元は敵対関係にあった。

 

  ● 16世紀前半の美濃

  ■ 16世紀前半(1501年〜1550年)の美

   濃国(みののくに、岐阜県南部の相当地域)

   では、 尾張の戦国大名の織田氏の織田信 

   秀が、 美濃国に侵入し、美濃の戦国大名

   の斎藤氏の斎藤道三(利政)と戦い、 斎藤

   道三(利政)と敵対関係にあった。

 

 

 

 ■ 1527年 (大永7年)頃。

 

  ● (C1) 信秀は、勝幡城を本城、

         居城とする。

  ● (C) 織田信秀の本城の変遷。

  ■ (C1)⇒(C4) 。 

     (C1)  勝幡城

                  (1527年頃ー1538年頃)、

     (C2)  那古野城

                  (1538年頃ー1544年頃)、

     (C3)   古渡城

                    (1544年頃ー1548年)、

     (C4)   末森城

                     (1548年ー1552年頃)。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ■ (C1) 信長の父の織田信秀 (おだの ぶ

    ひで、生没年:1511年ー1552年頃)は、

    1527年(大永7年)頃から

    1538年(天文7年)頃まで、

    尾張国の、勝幡城 (しょばたじょう)を、

    自分の(C本城(ほんじょう、= 本拠地

    の城)、居城とする

  

  ■ 勝幡城 (しょばたじょう)は、 尾張国(お

    わりのくに、現・愛知県西部)にある。

 

  ■ 永正年間(えいしょうねんかん、1504年ー

    1521年)頃に、信長の祖父・織田信定(お

    だのぶさだ)が、勝幡城を築城する。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 

 ■ 1528年 (大永8年・享禄元年)。

 

  ● 大永年号から享禄年号に改元。

      享禄年号1528年ー1532年。

  ■ 1528年(大永8年・享禄元年) に、

    享禄(きょうろく)年号に改元。 

  ● 1528年(大永8年・享禄元年)8月20日、 

    和暦の「大永」(だいえい、たいえい、

    大永元年・1521年〜大永8年・1528年)  が、 

    和暦の「享禄」(きょうろく、

    享禄 元年・1528年 8月20日

    享禄 5年 ・1532年 7月29日)  に 

    改元される。 

 

  ■ 室町時代後期の各年号。

    暗記法: 大享天弘永元天      

    (えいだいきょうてんこうえいげんてん)。

  ● 永正(えいしょう)年号:  1504年ー1521年。

  ● 大永(だいえい)年号:   1521年ー1528年。

  ● 享禄(きょうろく)年号:  1528年ー1532年。

  ● 天文(てんぶん)年号  1532年ー1555年。

  ● 弘治(こうじ)年号:    1555年ー1558年。

  ● 永禄(えいろく)年号:  1558年ー 1570年。

  ● 元亀(げんき)年号    1570年ー 1573年。

  ● 天正(てんしょう)年号: 1573年ー 1592年。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 

 ■ 1532年 (享禄5年・天文元年)。

 

  ● 享禄年号から 天文年号に改元。

      天文年号1532年ー1555年。

  ■ 1532年(享禄5年・天文元年)に、

    天文(てんぶん、てんもん)年号に改元。 

  ● 1532年(享禄5年・天文元年)7月29日に、 

    和暦の「享禄」(きょうろく、

    享禄元年・1528年〜享禄5年・1532年) が、 

    和暦の「天文」(てんぶん、てんもん、

    天文 元年・1532年・ 7月29日〜

    天文24年・1555年・10月23日) に

    改元される。 

 

  ■ 室町時代後期の各年号。

    暗記法: 大享天弘永元天      

    (えいだいきょうてんこうえいげんてん)。

  ● 永正(えいしょう)年号:  1504年ー1521年。

  ● 大永(だいえい)年号:   1521年ー1528年。

  ● 享禄(きょうろく)年号:  1528年ー1532年。

  ● 天文(てんぶん)年号  1532年ー1555年。

  ● 弘治(こうじ)年号:    1555年ー1558年。

  ● 永禄(えいろく)年号:  1558年ー 1570年。

  ● 元亀(げんき)年号    1570年ー 1573年。

  ● 天正(てんしょう)年号: 1573年ー 1592年。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 

 ■ 1534年 (天文3年) 5月。

 

  ● 織田信長が誕生する。

  ■ 1534年(天文3年)5月12日に、 

    織田 信長 (おだのぶなが、幼名(ようみょ

    う):吉法師(きっぽうし)、生没年:1534年

    ー1582年))が、誕生する。

 

  ● 1534年(天文3年)5月に、織田信長 (吉

    法師)は、 尾張国(おわりのくに、現・愛知県

    西部の相当地域)の、戦国武将、国人領主の

    織田信秀 (おだ のぶひで、生没年:1511年

    ー1552年頃))の子として、誕生する。

 

  ■ 信長(吉法師)は、 織田信秀(おだ のぶひ

    で)の3男で、 異母兄が2人いたが、 信長

    の生母の土田御前 (どたごぜん、つちだご

    ぜん)が信長の父・信秀の正室夫人であった 

    ため、信長が嫡男となり、嫡男として育てら

    れ、 信長(吉法師)は、幼年で、元服(成人)

    前に、 那古野城(なごやじょう)を、父の信秀

    より譲られ、那古野城の城主となる。

 

  ● 土田御前の呼称。

  ■ 信長の生母の土田御前の呼称。

  ● 土田御前 (どたごぜん、つちだごぜん)   

    は、 土田氏(どたし、つちだし)の、土田 

    政久(どたまさひさ、つちだまさひさ、生没

    年不詳)の娘である。 

  ● 土田氏(どたし、つちだし)の一族の出身

    地は、

    美濃国可児郡(みののくに・かにぐん)の

    土田(どた、現・岐阜県可児市土田)、 

    または、

    尾張国清洲(おわりのくに・きよす)の土田

    (つちだ、現・愛知県清須市土田)、

    のどちらかである。

        そのため、土田氏(どたし、つちだし)

    出身の土田御前には、2つの呼称がある。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ● 織田信長の誕生の場所。

  ■ 織田 信長(吉法師)は、 

    勝幡城(しょばたじょう)、または、那古野城

    (なごやじょう)で、誕生する。

 

  ● 信長の父・織田信秀の

    那古野城奪取時期。

  ■ 勝幡城・城主の信長の父・織田信秀が、

    那古野城を今川氏から奪った時期は、

    (A) 1532年(天文元年)頃奪取説 と、 

    (B) 1538年(天文7年)頃奪取説 と、

    の2つがある。

  ● 当 書籍では、(B)の説を採用している。

 

 ● 信長は、勝幡城で誕生する。

  ■ (B)の説だと、信長は、 勝幡城 しょばた

    じょう、信長の父・信秀の城使用は1527年

    頃から1538年頃まで) で誕生したこととな

    る。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 

 ■ 1534年 (天文3年)。

 

  ● (R1) 信長は、勝幡城を居住地

          とする。

  ● (R) 織田信長の居住地の変遷。

  ■ (R1)⇒(R6 )。

     (R1)   勝幡城    (1534年ー1538年頃)、

     (R2)   那古野城   (1538年頃ー1555年)、

     (R3)   清洲城       (1555年1563年)、

     (R4)   小牧山城     (1563年1567年)、

     (R5)   岐阜城       (1567年1579年)、

     (R6)   安土城       (1579年1582年)。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ■ (R1) 織田信長 

    (生没年:1534年ー1582年)は、

    1534年(天文3年)から

    1538年(天文7年)頃まで

    尾張国の、勝幡城 (しょばたじょう)で

    居住する。

 

  ■ 勝幡城 (しょばたじょうは、 尾張国(おわ

    りのくに、現・愛知県西部)にある。

 

  ● 信長の父・織田信秀の

    那古野城奪取時期。

  ■ 勝幡城・城主の信長の父・織田信秀が、

    那古野城を今川氏から奪った時期は、

    (A) 1532年(天文元年)頃奪取説 と、 

    (B) 1538年(天文7年)頃奪取説 と、

    の2つの説がある。

  ● 当書では、(B)の説を採用している。

 

  ■ 織田信長 (生没年:1534年ー1582年)は、

    1534年 (天文3年)に、信長の父・織田信秀

    の本城(居城)の 、尾張国(おわりのくに、現・

    愛知県西部)の、勝幡城(しょばたじょう)で

    生まれ、 織田信長は、1534年 (天文3年)

    から1538年(天文7年)頃まで、父母と共に

    勝幡城に居住する。

    

 

 

 ■ 1535年 (天文4年)。

 

  ● 西三河を支配する、家康の祖父

    の松平清康が、死去する。

  ■ 森山崩れ。

  ● 1535年(天文4年)12月に、西三河(にし

    みかわ、現・愛知県東部の西半分)を支配

    する、松平広忠の父 で、徳川家康の祖父の

    松平清康(まつだいらきよやす)が陣中にて、

    家臣によって殺害され、死去する。

 

  ● 松平信定の岡崎城占領 と

    家康の父の松平広忠の逃亡。

  ■ 西三河の松平氏本家の後継者の松平 広忠

    (家康の父)は、大叔父(おおおじ)の松平信

    定(のぶさだ)によって、岡崎城を占領され、 

    城や領地の家督継承を阻止され、逃亡する 

    (1935年〜1937年)。

    

 

 ■ 1536年 (天文5年) 3月。

 

  ● 信玄が元服する(成人となる)。

  ■ 1536年(天文5年)3月に、 武田信玄(太 

    郎)は、元服(成人)し、 室町幕府・12代将

    軍の足利義晴(あしかがよしはる)の一字の

    晴を賜り、武田 晴信(はるのぶ)と称す。

 

 

 ■ 1536年 (天文5年)。

 

  ● 今川氏の当主・今川氏輝とその

    継承者が同時に急死する。

  ■ 今川氏親(いまがわうじちか)の子で、

    今川氏当主の今川氏輝(いまがわうじてる)

    とその弟の継承者の彦五郎が、1536年

    (天文5年)に、急死する。

 

  ● 今川義元が今川氏の当主

     となる。

  ■ 玄広恵探方は敗戦し、玄広恵探は、自害し、

    岳承芳(今川義元)方が花倉の乱で勝 利

    を得て、1536年(天文5年)に、今川義 元

    (いまがわよしもと、今川氏当主:1536年

    −1560年、生没年:1519年ー1560年)

    が、今川家当主となる。

 

 

 ■ 1537年 (天文6年)。

 

  ● 豊臣秀吉の誕生。

  ■ 1537年(天文6年)2月6日に (『天正

   記』や家臣・伊藤秀盛の願文の記載から)、

   後に信長の重臣となる、豊臣秀吉  (とよとみ

   ひでよし、生没年:1537年ー1598年) が、 

   尾張国 (おわりのくに、現・愛知県西部の相

   当地域)の中村の農民・足軽の弥右衛門の子

   として、誕生する。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 

 ■ 1538年 (天文7年)頃。 

 

  ● (C2) 信秀は、那古野城を

         本城、居城とする。

  ● (C) 織田信秀の本城の変遷。

  ■ (C1)⇒(C4) 。 

     (C1)  勝幡城

                  (1527年頃ー1538年頃)、

     (C2)  那古野城

                  (1538年頃ー1544年頃)、

     (C3)   古渡城

                    (1544年頃ー1548年)、

     (C4)   末森城

                     (1548年ー1552年頃)。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ■ (C1) 信長の父の織田信秀 (おだの ぶ

    ひで、生没年:1511年ー1552年頃)は、

    1538年(天文7年)頃から

    1544年(天文13年)頃まで、

    尾張国の、那古野城  (なごやじょう)を、

    自分の(C本城(ほんじょう、= 本拠地

    の城)、居城とする

  

  ■ 那古野城  (なごやじょう)は、 尾張国(お

    わりのくに、現・愛知県西部)にある。

 

  ● 信長の父・織田信秀の

    那古野城奪取時期。

  ■ 勝幡城・城主の信長の父・織田信秀が、

    那古野城を今川氏から奪った時期は、

    (A) 1532年(天文元年)頃奪取説 と、 

    (B) 1538年(天文7年)頃奪取説 との

    2つの説がある。

  ● 当書では、(B)の説を採用している。

 

  ■ 那古野城 (なごやじょう)は

    大永年間(1521年ー1528年)に今川氏親

    が築城し、 1538年(天文7年)頃、信長の

    父・織田信秀が今川氏豊より奪い取り、ここ

    に居城を移して、愛知郡(現・名古屋市域周

    辺)に勢力を拡大する。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 

 ■ 1538年 (天文7年)頃。

 

  ● (R2) 信長は、那古野城を

          居住地とする。

  ● (R) 織田信長の居住地の変遷。

  ■ (R1)⇒(R6 )。

     (R1)   勝幡城    (1534年ー1538年頃)、

     (R2)   那古野城   (1538年頃ー1555年)、

     (R3)   清洲城       (1555年1563年)、

     (R4)   小牧山城     (1563年1567年)、

     (R5)   岐阜城       (1567年1579年)、

     (R6)   安土城       (1579年1582年)。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ■ (R2) 織田信長 

    (生没年:1534年ー1582年)は、

    1538年(天文7年)頃から

    1555年(弘治元年)まで

    尾張国の、那古野城 (なごやじょう)で

    居住する。

 

  ■ 那古野城 (なごやじょう)は、 尾張国(おわ

    りのくに、現・愛知県西部)にある。

 

  ■ 那古野城は、 現・名古屋城二の丸付近であ

    る。

 

  ● 信長の父・織田信秀の

    那古野城奪取時期。

  ■ 勝幡城・城主の信長の父・織田信秀が、

    那古野城を今川氏から奪った時期は、

    (A) 1532年(天文元年)頃奪取説 と、 

    (B) 1538年(天文7年)頃奪取説 との

    2つの説がある。

  ● 当書では、(B)の説を採用している。

 

  ■ 那古野城 (なごやじょう)は

    1538年(天文7年)頃、信長の父・織田信秀

    が、今川氏豊より奪い取り、ここに居城を移し

    て、愛知郡(現・名古屋市域周辺)に勢力を

    拡大する。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ■ 1538年 (天文7年)頃に、信長の父・織田

    信秀の本城(居城)が尾張国(おわりのくに、

    現・愛知県西部)の、勝幡城 (しょばたじょう

    から尾張国の那古野城 (なごやじょう)に変

    わり、織田信長 (生没年:1534年ー1582

    年)は、1538年 (天文7年)頃から1544年

    (天文13年)頃まで、父母と共に、那古野城

    に居住する。

 

  ■ 1544年(天文13年)頃に、

    織田信長 (生没年:1534年ー1582年)は、

    1546年(天文15年)の信長元服(成人)前に、

    幼年で、

    父・織田信秀より尾張国の那古野城(なごや

    じょう)を譲られ、1544年(天文13年)頃か

    1555年(弘治元年)まで、父母と離れて、

    城主として、那古野城で、居住する。

 

 

 

 ■ 1542年 (天文11年) 12月。

 

  ● 徳川家康(松平竹千代)が誕生

    する。

  ■ 1542年(天文11年)12月26日に、 

    徳川 家康 (とくがわ いえやす、幼名:竹千

    代(たけちよ)、生没年:1542年ー1616

    年)は、 三河国(みかわのくに、現・愛知県

    東部の相当地域)の、岡崎城(おかざきじょ

    う)で誕生する。

       家康の父は、 戦国武将・国人領主(こ

    くじんりょうしゅ、小豪族)で、三河国の岡崎

    城・城主の松平広忠(まつだいらひろただ)

    であり、 家康の母は、於大の方(おだいの

    かた)である。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 ■ 1544年 (天文13年)頃。 

 

  ● (C3) 信秀は、古渡城を本城、

         居城とする。

  ● (C) 織田信秀の本城の変遷。

  ■ (C1)⇒(C4) 。 

     (C1)  勝幡城

                  (1527年頃ー1538年頃)、

     (C2)  那古野城

                  (1538年頃ー1544年頃)、

     (C3)   古渡城

                    (1544年頃ー1548年)、

     (C4)   末森城

                     (1548年ー1552年頃)。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ■ (C1) 信長の父の織田信秀 (おだの ぶ

    ひで、生没年:1511年ー1552年頃)は、

    1544年(天文13年)頃から

    1548年(天文17年)まで、

    尾張国の、古渡城 (ふるわたりじょう)を、

    自分の(C本城(ほんじょう、= 本拠地

    の城)、居城とする

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。  

 

  ■ 古渡城 (ふるわたりじょう)は、 尾張国

    (おわりのくに、現・愛知県西部)にある。

 

  ■ 古渡城 (ふるわたりじょう)は

    1534年(天文3年)に信長の父・織田信秀

    によって築城される。

 

  ■ 信長の父の織田信秀は、 

    1546年(天文15年)の信長元服(成人)

    前に、幼年で、1544年(天文13年)頃に、

    那古野城 (なごやじ ょう)を織田信長に譲り、

    古渡城に居城を移して、2つ目の経済基盤

    である熱田を支配する。 

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 ■ 1543年 (天文12年)。

 

  ● 謙信が元服する(成人となる)。

  ■ 1543年(天文12年)8月15日に、 

    上杉謙信(虎千代)は、元服(成人)して、 

    長尾 景虎 (ながおかげとら)と名乗る。

 

 

 ■ 1544年 (天文13年)頃。

 

  ● 織田信長(吉法師)が

    那古野城の城主となる。

  ■ 織田信長(吉法師) (生没年:1534年ー

    1582年)は、 1546年(天文15年)の

    元服(げんぷく、成人)前に、幼年で、

    1534年(天文3年)から1546年 (天文

    15年)までの間に、

    1544年(天文13年)頃に、

    尾張国 (おわりのくに、現・愛知県西部)

    の、那古野城(なごやじょう)を、織田信長

    (吉法師)の父・織田信秀(おだのぶひで)

    より譲られ、那古野城の城主となる。 

 

 

 

 ■ 1544年 (天文13年)頃。

 

  ● (C1) 信長は、那古野城を

         本城とする。

  ● (C) 織田信長の本城の変遷。 

  ■ (C1)5) 。

     (C1)   那古野城   (1544年頃1555年)、

     (C2)   清州城       (1555年1563年)、

     (C3)   小牧山城     (1563年1567年)、

     (C4)   岐阜城       (1567年1579年)、

    5)   安土城       (1579年1582年)。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ■ (C1) 織田信長 

    (生没年:1534年ー1582年)は、

    1544年(天文13年)頃 から

    1555年(天文24年)まで

    尾張国の、那古野城 (なごやじょう)を、

    本城(ほんじょう、= 本拠地の城)とする

 

  ■ 那古野城 (なごやじょう)は、 尾張国(お

    わりのくに、現・愛知県西部)にある。

 

  ■ 那古野城は、 現・名古屋城二の丸付近

    である。

 

  ● 信長の父・織田信秀の

    那古野城奪取時期。

  ■ 勝幡城・城主の信長の父・織田信秀が、

    那古野城を今川氏から奪った時期は、

    (A) 1532年(天文元年)頃奪取説 と、 

    (B) 1538年(天文7年)頃奪取説 との

    2つの説がある。

  ● 当書では、(B)の説を採用している。

 

  ■ 那古野城 (なごやじょう)は

    1538年(天文7年)頃、信長の父・織田信秀

    が、今川氏豊より奪い取り、ここに居城を移し

    て、愛知郡(現・名古屋市域周辺)に勢力を

    拡大する。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ■ 1538年 (天文7年)頃に、信長の父・織田

    信秀の本城(居城)が

    尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部)の、

    勝幡城 (しょばたじょう) から尾張国

    那古野城 (なごやじょう)に変わり、

    織田信長 (生没年:1534年ー1582年)は、

    1538年 (天文7年)頃から1544年(天文

    13年)頃まで、父母と共に、那古野城に居

    住する。

 

  ■ 1544年(天文13年)頃に、 

    織田信長 (生没年:1534年ー1582年)

    は、 1546年(天文15年)の信長元服

    (成人)前に、幼年で、

    父・織田信秀より尾張国の那古野城(なご

    やじょう)を譲られ、1544年(天文13年)

    頃から1555年(弘治元年)まで、父母と

    離れて、城主として、那古野城で、居住する。

 

 

 

 ■ 1546年 (天文15年)。

 

  ● 信長が元服する(成人となる)。

  ■ 1546年(天文15年)に、 織田信長 (生没

    年:1534年ー1582年)は、 

     父・織田信秀の本城(居城)の、古渡城(ふる

     わたりじょう)にて、数え年13歳で、元服し、

     三郎信長(織田三郎、織田信長)と称す。

        三郎は通称で、信長は諱(いみな)であ

     る。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 

 ■ 1547年 (天文16年)。

 

  ● 家康の人質生活の開始。  

  ■ 徳川家康 (竹千代、松平 元信、松平元康

   生没年:1542年ー1616年)は、

   1547年 (天文16年)から1560年(永禄3

   年)まで、家康の数え年6歳から19歳時まで、

   織田氏や今川氏の人質生活を送る。

 

   ● 家康が織田氏の人質になる。

  ■ 家康の織田氏人質生活の開始。

  ● 1547年 (天文16年)に、徳川家康(松平

   竹千代、生没年:1542年ー1616年)は、 

   織田氏の織田信秀(信長の父)の人質(1547 

   年〜1549年、家康の数え年6歳〜8歳時) と

   なる。

 

  ● 徳川家康竹千代 )は、 三河国の有力国人

    領主・松平氏の後継者であるため、尾張国の

    織田氏の織田信秀(のぶひで、信長の父)は、

    は、三河国を支配するため、家康を人質とす

    る。

 

  ■ 1547年 (天文16年)に、 徳川家康竹千

    代 )の父の松平広忠は、 織田信秀と戦い、

    敗戦し、徳川家康 (竹千代、生没年:1542

    年ー1616年)を人質に差し出す。

 

  ● 1547年 (天文16年)に、徳川家康竹千

    代 )の父の松平広忠が、今川氏 の庇護をう

    けるため、徳川家康竹千代 )を今川氏に

    差し出したが、途中で、家臣の裏切りにあい、

    織田氏の人質になった説は、当時の一次史

    料にはなく、伝説である。

 

 

 

 ■ 1548年 (天文17年)。

 

  ● (C4) 信秀は、末森城を本城、

         居城とする。

  ● (C) 織田信秀の本城の変遷。

  ■ (C1)⇒(C4) 。 

     (C1)  勝幡城

                  (1527年頃ー1538年頃)、

     (C2)  那古野城

                  (1538年頃ー1544年頃)、

     (C3)   古渡城

                    (1544年頃ー1548年)、

     (C4)   末森城

                     (1548年ー1552年頃)。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ■ (C1) 信長の父の織田信秀 (おだの ぶ

    ひで、生没年:1511年ー1552年頃)は、

    1548年(天文17年)から

    1552年(天文21年)まで、

    尾張国の、末森城 (すえもりじょう)を、

    自分の(C本城(ほんじょう、= 本拠地

    の城)、居城とする

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。  

 

  ■ 末森城 (すえもりじょう)は、 尾張国

    (おわりのくに、現・愛知県西部)にある。

 

  ■ 末森城 (すえもりじょう)は

    1548年(天文17年)に、信長の父・織田

    信秀によって築城される。

       信長の父の織田信秀は、 

    1548年 (天文17年)に、 居城を古渡

    から末森城に移す。 織田信秀は、駿河国

    今川氏や三河国松平氏など東方の侵攻に

    備える。 

       織田信秀は、1548年 (天文17年)に、

    古渡城を廃城とする。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 

 ■ 1548年 (天文17年)。

 

  ● 尾張国の織田信秀と美濃国の

    斎藤道三利政が、和議を結ぶ。

  ■ 1548年(天文17年)に、敵対していた2者

    の、尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部)

    の、織田信秀(おだのぶひで、信長の父) と、

    美濃国(みののくに、現・岐阜県南部)の、

    斎藤道三利政(さいとうどうさんとしまさ、帰

    蝶(きちょう、濃姫)の父)が和睦し、和議を

    結び、縁組の誓約も取り交わす。  

 

 

 ■ 1549年 (天文18年)。

 

  ● 斎藤道三利政の娘・帰蝶が

    信長に嫁ぐ。

  ■ 1549年(天文18年)2月に、前年の和睦

    時の縁組の誓約に基づき、織田氏と斎藤氏

    の和議の証(人質)として、斎藤 道三利政

    (さいとう どうさんとしまさ、生年不明

    1556年)の娘・帰蝶(きちょう、= 濃姫(の

    うひめ))が織田信長に嫁ぐ (「美濃の国

    諸旧記」より)。

 

  ■ 1549年(天文18年)2月に、織田信長は、 

    美濃国 (みののくに、現・岐阜県南部の相

    当地域)の戦国大名・斉藤道三利政の娘、

    帰蝶(きちょう、濃姫)と政略結婚で、正室

    夫人として迎え、婚儀を結ぶ。 

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 ■ 1549年 (天文18年)。

 

  ● 家康の父・松平広忠が死去。

  ■ 1549年(天文18年)3月に、徳家康 (松

    平竹千代)の父の、今川方の、三河国・岡崎

    城主の松平広忠(まつだいらひろただ)が死

    去する。

 

  ● 1549年(天文18年)3月に、徳川家康(松

    平竹千代)が織田氏の人質(1547年〜

    1549年、家康の数え年 6歳〜8歳時)となっ

    ている間に、 家康(竹千代、生没年: 1542

    年ー1616年)は、数え年8歳で、父の松平

    広忠と死別する。

 

  ● 松平氏の根拠地の西三河は、

    今川氏が支配する。

  ■ 1549年(天文18年)に、今川氏の今川義元

    は、 松平広忠の岡崎城や松平氏の西三河の

    領地を奪取し、岡崎城には今川氏の派遣した

    城代を置き、支配する。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 ■ 1549年 (天文18年)。

 

  ● 家康は、織田氏の人質から

    今川氏の人質に変わる。

  ■ 徳川家康の今川氏人質生活の開始。

  ● 1549年(天文18年) 11月に、徳川家康

    (松平竹千代、生没年:1542年ー1616 

    年)は、 織田氏と今川氏の人質交換で、

    織田氏の人質(1547年〜1549年、家康

    の数え年6歳〜8歳時から、今川氏 の

    質(1549年〜1560年、家康の数え 年8

    歳〜19歳時) となる。

 

  ■ 徳川家康の今川氏人質生活の開始。

  ● 1549年(天文18年)11月に、 織田氏と

    今川氏の人質交換という形で、 徳川家康

    (松平竹千代、生没年:1542年ー1616

    年)は、 

    織田氏(おだし)の人質(1547年〜1549

    、家康の数え年 6歳〜8歳時から、

    今度は、今川氏の今川義元(いまがわよしも

    と、今川氏当主:1536年−1560年))の

    (1549年〜1560年、家康の数え 年8歳

    〜19歳時))となる。  

        家康(竹千代)は、今川氏の保護下に入

    リ、厚遇される。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 

 

#jphappenings-1551

 

 

 ■ 1552年 (天文21年)頃。

 

  ● 信長の父・織田信秀の死去。

  ■ 1552年(天文21年)頃に、 勝幡織田氏

    (織田 弾正忠家)の、信長の父・織田信秀 

    (おだのぶひで、生没年:1511年ー1552

    年頃)が、急死する。

 

  ● 織田信秀の没年には、1551年(天文20年)

    説、1549年(天文18年)説もある。

 

  ● 勝幡織田氏で、織田信長と織田

    信行(信勝)との間で家督争い

    が起こる。

  ■ 1552年(天文21年)頃に、 勝幡織田氏

    (しょばたおだし、織田弾正忠家(おだだんじ

    ょうのちゅうけ))の家督相続では、 嫡出

    (正室の子)の、織田信長と同母 弟の織田信

    行(信勝)(のぶゆき(のぶかつ))との間で、

    家督争いが起きる。 

 

  ● 1556年(弘治2年)年に、織田信長は、稲生

    (いのう)の戦いで勝ち、信長は、家督争いに

    勝ち、信長が、尾張国の信長の父・織田信秀

    (のぶひで)の家督を継ぐ。 

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ● 信長の父が死去し、織田氏の家

     督争いが起き、信長が家督を

    継ぐ。

  ■ 1552年(天文21年)頃に、信長の父・織田

    信秀が急死し、その後、嫡出子の兄弟2人で

    家督継承を争い、 1556年(弘治2年)年に、

    織田信長が、尾張国の織田信秀の家督を継ぐ。

 

 

 ■ 1553年 (天文22年)。

 

  ● 信長の傳役の平手政秀

    自害する。 

  ■ 平手政秀(ひらてまさひで)は、織田家の

    重臣で、織田信秀や織田信長の2代に仕え

    た武将である。 平手政秀は、 織田信長の

    傳役(もりやく、守役、後見役で教育係)であ

    ったが、自害する。 

 

  ● 平手政秀の自害の理由は不明である。 

    諌死、または、信長と平手政秀の息子・

    五郎右衛門との確執(かくしつ)という説

   がある。

 

   平手政秀の死後、織田信長は、 政秀

    寺(せいしゅうじ)を建立(こんりゅう)し、

    菩提(ぼだい)を弔(とむら)った。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 ■ 1553年 (天文22年)。

 

  ● 信長は斉藤道三と会見する。 

  ■ 1553年(天文22年)4月に、 織田信長

    は、 美濃国 (みののくに、現・岐阜県南

    部の相当地域)の戦国大名の斎藤 道三利

     (さいとう どうさんとしまさ、生年不詳

    ー1556年)と会見する。 

 

  ● 1553年(天文22年)に、 信長は、美濃国

     と尾張国の国境の、正徳寺で、道三と会見

    する。 

        その際、道三利政は、うつけ者といわ

    れていた信長の器量を見抜く。

 

  ● 斎藤道三との会見では、 異説の1549年

    (天文18年)会見の説もある。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 ■ 1554年 (天文23年)。

 

  ● 甲相駿三国同盟が成立。

  ■ 1554年(天文23年)に、

    武田信玄、北条氏康、今川義元の間で、互い

    に婚姻関係を結び、 甲斐国本拠地の武田氏、

    相模国本拠地の北条氏、駿河国本拠地の今

    川氏の三者の甲相駿三国同盟 (こうそうしゅ

    んさんごくどうめい、1554年ー1567年)が、

    成立する。

 

 

 ■ 1554年 (天文23年)頃。

 

  ● 秀吉が信長に仕え始める。  

  ● 秀吉が織田氏家臣となる。

  ■ 1554年(天文23年)頃に、豊臣秀吉(木下

    藤吉郎)が、織田信長に仕える (家臣として

    仕え始める)。

 

  ● 秀吉(木下藤吉郎)は、その能力が信長の

    目に留まり、平時や戦時に様々な成果をあ

    げ、織田軍の中で、出世していく。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1555年 (天文24年)。

 

  ● 家康が元服する(成人となる)。

  ● 家康は松平元信と称す。

  ■ 1555年 (天文24年)3月に、 徳川家康

    (松 竹千代)は、元服( げんぷく、成人)し

    て、名を、竹千 代から次郎三郎元信(もとの

    ぶ)に改め、松平元信(1555年ー1557年)

    と称す。

 

 

 ■ 1555年 (天文24年)。

 

  ● 信長が尾張下四郡(尾張南部)

    を支配。

  ■ 織田信長は、1554年(天文23年)に、尾張

    下四郡の守護代(清洲織田氏(きよすおだし、

    織田大和守家(おだやまとのかみけ))の、

    織田彦五郎信友と戦い(安食(あじき)の戦い)、

    勝ち、1555年(天文24年)には、織田彦五郎

    信友は殺害され、信友に代わって、清洲城に入

    る。

       信長は、1555年(天文24年)に、清洲織

    田氏(織田大和守家)の勢力範囲の、尾張国

    (おわりのくに、現・愛知県西部の当相地域)の

    南部(尾張下四郡)を支配する。

    

  ■ 尾張下四郡の守護代(清洲織田氏(織田大和

    守家))の、織田彦五郎信友(おだひこごろうの

    ぶとも)が、 織田信行(信勝)(おだのぶゆき

    (のぶかつ))の家督相続を支持し、尾張国守

    護を殺害し、信長に敵対したため、 織田彦五

    郎信友を、1555年(天文24年)に殺害し、 

    信長は、清洲城へ入り、清洲織田氏(織田大和

    守家))の勢力範囲の、尾張下四郡(尾張南部)

    を支配する。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ■ 安食(あじき)の戦い。

  ● 尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部)の

    清洲城を本拠地にする尾張下四郡(尾張

    南部)の守護代の織田彦五郎信友は、 

    1554年(天文23年)7月に、尾張国守護

    の斯波義統(しばよしむね)を暗殺し、義統

    の子・斯波義銀(しばよしかね)は逃亡し、

    信長を頼り、 信長と織田信友との間で、

    安食(あじき)の戦いが起こり、信長が勝つ。 

 

  ■ 翌年の1555年(天文24年)に、信長方の

    織田信光(のぶみつ)の謀略によって清洲

    城は陥落し、織田彦五郎信友は殺害され、

    清洲織田氏(織田大和守家)は滅亡する。

      1555年(天文24年)4月20日に、織田

    彦五郎信友は、主殺しの咎(とが)めによって、

    信長の家臣の森可成(もりよしなり)に討ち取

    られる。

 

  ■ 尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部)

    の、尾張下四郡の守護代 (清洲織田氏、

    織田大和守家)の当主で、清洲城・城主

    清洲城を本拠地にする)で、勝幡織田氏

    (織田弾正忠家)の主家の当主である、

    織田彦五郎信友 (おだひこごろうのぶと

    も)は、 信長の実弟の織田信行(信勝)

    (おだのぶゆき(のぶかつ))の家督相続を

    支持し、 信長謀殺計画を企て 、信長に敵

    対したため、 尾張国守護の、斯波義統

    (しば よしむね)がその計画を信長に密告

    した。 これ を知って激怒した織田彦五郎 

    信友は、信長に味方した尾張国守護の斯

    波 義統 (しば よしむね)を殺害する。  

       このため、斯波義統の嫡男の斯波義

    銀(しば よしかね)が、信長を頼って落ち

    延びてくると (信長に助けを求めてきたた

    め)、 信長は、織田彦五郎信友を尾張の

    守護・斯波義統を殺害した謀反人であると

    して、1554年(天文23年)7月に、織田

    彦五郎信友と戦い、勝ち (安食(あじき)

    の戦い)、信長は、1555年(天文24年)

    4月20日には、織田信友を殺害した(自

   害させた)。 

        ここに、信長が、織田彦五郎信友に

    代わって、清洲城へ入り、清洲織田氏(織

    田大和守家、きよすおだし(おだやまと

    のかみけ))の勢力範囲の、尾張国の尾張

    下四郡(尾張国南部)を支配する。

       その後、尾張国の敵対勢力を次々に

    下して、1559年(永禄2年)に、織田信長

    は、尾張国 (おわりのくに、現・愛知県西部

    の相当地域)を統一する。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 

 ■ 1555年 (天文24年)。

 

  ● (R3) 信長は、清洲城を居住地

         とする。

  ● (R) 織田信長の居住地の変遷。

  ■ (R1)⇒(R6 )。

     (R1)   勝幡城    (1534年ー1538年頃)、

     (R2)   那古野城   (1538年頃ー1555年)、

     (R3)   清洲城       (1555年1563年)、

     (R4)   小牧山城     (1563年1567年)、

     (R5)   岐阜城       (1567年1579年)、

     (R6)   安土城       (1579年1582年)。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ■ (R3) 織田信長 

    (生没年:1534年ー1582年)は、

    1555年(天文24年)から

    1563年(永禄6年)まで

    尾張国の、清洲城 (きよすじょう)で

    居住する。

 

  ■ 清洲城 (きよすじょう)は、 尾張国(おわ

    りのくに、現・愛知県西部)にある。

      清洲城の別名は、清須城(きよすじょう)

    である。

 

  ■ 尾張下四郡(尾張国南部)の守護代の

    織田彦五郎信友(おだひこごろうのぶとも)は、 

    1555年(天文24年)4月20日に、尾張国

    守護の斯波義統(しばよしむね)暗殺の主殺

    しの咎(とが)めによって、 織田信長の家臣

    の森可成(もりよしなり)に討ち取られる。

        1555年(天文24年)に、信長は、

    織田彦五郎信友に代わって、清洲城へ入り、

    清洲織田氏(織田大和守家)の勢力範囲の、

    尾張国の尾張下四郡(尾張国南部)を支配

    する。

 

 

 

 ■ 1555年 (天文24年)。

 

  ● (C2) 信長は、清州城を本城

         とする。

  ● (C) 織田信長の本城の変遷。 

  ■ (C1)5) 。

     (C1)   那古野城   (1544年頃1555年)、

     (C2)   清州城       (1555年1563年)、

     (C3)   小牧山城     (1563年1567年)、

     (C4)   岐阜城       (1567年1579年)、

    5)   安土城       (1579年1582年)。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ■ (C2) 織田信長 

    (生没年:1534年ー1582年)は、

    1555年(天文24年)から

    1563年(永禄6年)まで

    尾張国の、清洲城 (きよすじょう)を、

    本城(ほんじょう、= 本拠地の城)とする

 

  ■ 清洲城 (きよすじょう)は、 尾張国(おわ

    りのくに、現・愛知県西部)にある。

      清洲城の別名は、清須城(きよすじょう)

    である。

 

 

 

 ■ 1555年 (天文24年・弘治元年)。 

 

  ● 天文年号から弘治年号に改元。

     弘治年号1555年ー 1558年。

  ■ 1555年(天文24年・弘治元年)に、

    弘治(こうじ)年号に改元。    

  ● 1555年(天文24年・弘治元年)10月23日に

    和暦の「天文」(てんぶん、てんもん 、

    天文元年・1532年〜天文24年・1555年) が、

    和暦の「弘治」(こうじ、 

    弘治 元年・1555年・10月23日〜

    弘治 4年・1558年・ 2月28日) に

    改元される。 

 

  ■ 室町時代後期の各年号。

    暗記法: 大享天弘永元天      

    (えいだいきょうてんこうえいげんてん)。

  ● 永正(えいしょう)年号:  1504年ー1521年。

  ● 大永(だいえい)年号:   1521年ー1528年。

  ● 享禄(きょうろく)年号:  1528年ー1532年。

  ● 天文(てんぶん)年号  1532年ー1555年。

  ● 弘治(こうじ)年号:    1555年ー1558年。

  ● 永禄(えいろく)年号:  1558年ー 1570年。

  ● 元亀(げんき)年号    1570年ー 1573年。

  ● 天正(てんしょう)年号: 1573年ー 1592年。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 

 ■ 1556年 (弘治2年)。

 

  ● 斎藤道三利政の死去。

  ■ 1556年(弘治2年)に、織田信長は、美濃

    国(みののくに、現・岐阜県南部)の、義父

    (信長夫人・帰蝶の父)の斎藤道三利政(さ

    いとうどうさんとしまさ)が、 子の斎藤義龍

    (さいよしたつ)との戦いに敗れて死去する。 

       信長は、道三利政に援軍を出したが、

    間に合わなかった。  

 

  ■ 長良川の戦い

  ● 1556年(弘治2年)4月20日に、美濃国 

    (みののくに、現・岐阜県南部の相当地域)

    長良川(ながらがわ)河畔で、 美濃国の

    戦国大名の斎藤 道三利政 (さいとう どう

    さんとしまさ、生年不明ー1556年)が、 

    道三利政の子の斎藤義龍(さいとうよした

    つ)との戦い、敗れて死去する。  

 

  ● 織田信長は、 斎藤 道三利政の 娘・帰蝶

    (きちょう)の夫であり、 道三利政の娘婿

    信長は、  道三利政に援軍を出したが、

    間に合わなかった。  

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 ■ 1556年 (弘治2年)。

 

  ● 稲生(いのう)の戦い。

  ● 信長が勝幡織田氏の家督を

    継ぐ。

  ■ 1556年(弘治2年)年に、 織田信長は、

    稲生(いのう)の戦いで 実弟の織田信行(信

    勝)と戦い、勝ち、信長が、尾張国の勝幡織

    田氏(しょばたおだし、織田弾正忠家(おだ

    だんじょうのちゅうけ))の、信長の父・織田

    信秀(おだのぶひで)の家督を継ぐ。 

 

  ● 勝幡織田氏 (しょばたおだし、織田弾正忠

    家(おだだんじょうのちゅうけ))の家督相続で

    は、 嫡出子(正室の子)の、織田信長と同母

    弟の織田信行(信勝)(おだのぶゆき(のぶか

    つ))との間で、家督争いが起き、 信長は、

    稲生(いのう)の戦い信行(信勝)に勝 ち、

    信長の父・織田信秀(おだのぶひで)の家督

    を継ぐ。 

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ■ 稲生(いのう)の戦い。

  ● 斎藤道三(利政)の死去を好機と見た織田

    信行(信勝)派は、 1556年(弘治2年)年

    8月に、挙兵し、織田信長と戦うが、敗北し、 

    信長は、同母弟・信行(信勝)、柴田勝家ら

    を赦免する (稲生(いのう)の戦い)。

 

  ● 稲生(いのう)の戦いとは、 

    1556年(弘治2年)8月24日に、尾張国の

    稲生(いのう、現・名古屋市西区)で起きた

    戦いであり、 尾張国の勝幡織田氏(織田

    弾正忠家、しょばたおだし(おだだじょうのち

    ゅうけ))の家中で、織田信長と織田信行

    (信勝)との家督争いから起きた合戦である。

    織田信長が勝利を得る。

 

  ■ 稲生(いのう)の戦いでの信長の勝利の

    結果、 信長が勝幡織田氏(織田弾正忠

    家)の家督を継ぐ。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 

 ■ 1558年 (弘治4年・永禄元年)。

 

  ● 弘治年号から永禄年号に改元。

     永禄年号1558年ー 1570年。

  ■ 1558年(弘治4年・永禄元年)に、

    永禄(えいろく) 年号に改元

  ● 1558年(弘治4年・永禄 元年)2月28日に

    和暦の「弘治」(こうじ、

    弘治元年・1555年〜弘治4年・1558年)

    が、 

    和暦の「永禄」(えいろく、

    永禄 元年・1558年・ 2月28日〜

    永禄13年・1570年・ 4月23日) に

    改元される。 

 

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 

 ■ 1558年 (永禄元年)。

 

  ● 信長は、勝幡織田氏の家督を争

    った実弟・信行(信勝)を殺害す

    る。

  ■ 織田信長と勝幡織田氏の家督を争った実弟

    の織田信行(信勝)(おだのぶゆき(のぶかつ)、

    生没年:生年不詳ー1558年)は、信長に、

    何度も反抗したため、織田信長によって、殺害

    される。

 

  ■ 1557年(弘治3年)に、 信長の実弟の織

    田信行(信勝)は、再び、織田信長 に対し、

    謀反(むほん)を企てる。 これを知った信長

    は、病気(仮病)と称して、1558年(永禄元

    年)11月に、信行(信勝)を清洲城へ誘い出し、

    実弟の信行(信勝)を殺害する。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 ■ 1557年 (弘治3年)。

 

  ● 浮野(うきの)の戦い。

  ■ 1558年(永禄元年)に、織田信長は、

    尾張国の尾張上四郡の守護代 (岩倉織田 

    氏(織田伊勢守家))の当主で、岩倉(いわく

    ら)城主の、織田 信賢 (おだのぶ かた)の

    軍を破る (浮野(うきの)の戦い)。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 ■ 1558年 (弘治4年・永禄元年)。

 

  ● 弘治年号から永禄年号に改元。

     永禄年号1558年ー15 70年。

  ■ 1558年(弘治4年・永禄元年)に、

    永禄(えいろく) 年号に改元

  ● 1558年(弘治4年・永禄 元年)2月28日に

    和暦の「弘治」(こうじ、

    弘治元年・1555年〜弘治4年・1558年)

    が、 

    和暦の「永禄」(えいろく、

    永禄 元年・1558年・ 2月28日〜

    永禄13年・1570年・ 4月23日) に

    改元される。 

 

  ■ 室町時代後期の各年号。

    暗記法: 大享天弘永元天      

    (えいだいきょうてんこうえいげんてん)。

  ● 永正(えいしょう)年号:  1504年ー1521年。

  ● 大永(だいえい)年号:   1521年ー1528年。

  ● 享禄(きょうろく)年号:  1528年ー1532年。

  ● 天文(てんぶん)年号  1532年ー1555年。

  ● 弘治(こうじ)年号:    1555年ー1558年。

  ● 永禄(えいろく)年号:  1558年ー 1570年。

  ● 元亀(げんき)年号    1570年ー 1573年。

  ● 天正(てんしょう)年号: 1573年ー 1592年。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 

 ■ 1559年 (永禄2年) 2月。

 

  ● 信玄が、徳栄軒信玄と称する。

  ■ 1559年(永禄2年)2月に、 武田信玄 

    (武田晴信)は、 出家して、「徳栄軒信玄」

    (法号、法名)と号す(称す)。

 

 

 ■ 1559年 (永禄2年)。

 

  ● 信長が尾張を統一する。

  ■ 1559年(永禄2年)に。 織田信長は、 

    尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部)

    一国を統一し、 尾張国の国主(こくしゅ)

    となる。

 

  ● 織田は尾張上四郡(尾張北部)

    を支配する。

  ■ 織田信長は、 1559年(永禄2年)に、尾張

    上四郡(尾張北部)の守護代(岩倉織田氏、

    織田伊勢守家(おだいせのかみけ))の、織田

    信賢 (おだのぶかた、生没年不詳)の居城・

    岩倉城を包囲し降伏させ、信賢を追放する。

       信長は、1559年(永禄2年)に、尾張国

    (おわりのくに、現・愛知県西部の当相地域)の

    北部(尾張上四郡)を支配する。

 

  ● 織田信長の尾張平定。

  ■ 1559年(永禄2年)に、織田信長は、

    尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部の相

    当地域)一国を統一し、尾張国の国主となる。

 

  ● 信長は、 尾張上四郡の守護代の織田信

    賢の居城・岩倉城を包囲し降伏させ、信賢を

    追放する。

       また、信長が新たに尾張国守護として

    擁立した斯波義銀 (しばよしかね)が、 

    信長の追討を画策したため、 信長は、斯波

    義銀を追放する。

       ここに、信長は、 尾張国 (おわりのく

    に、現・愛知県西部の相当地域)の国内の支

    配権を確立し、尾張国の国主となる。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

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#jphappenings-1560

 

 

 ■ 1560年 (永禄3年) 5月。

 

  ● 桶狭間の戦い。

  ● 桶狭間の戦いで、信長が今川

    義元が敗死し、今川軍敗戦。

  ■ 1560年(永禄3年)5月に、 桶狭間(お

    けはざま)の戦いで、織田信長の軍は、

    今川義元の軍を破る。 

 

  ■ 1560年(永禄3年)5月19日昼頃、 織田

    信長は、 総大将の今川義元を桶狭間山で

    討死させ、 今川義元 (いまがわよしもと、

    今川氏当主:1536年−1560年、生没年:

    1519年ー1560年)は、尾張国(おわりの

    くに、現・愛知県西部の相当地域)の桶狭間

    で敗死し、今川義元の軍は、総大将を失い、

    総崩れとなる。

 

  ■ 1560年(永禄3年)5月に、織田信長は、

    桶狭間の戦い (おけはざまのたたかい)で、 

    東海の駿河国、遠江国、三河国3国(現・静

    岡県中部・西部、愛知県東部)を支配する

    今川氏の今川義元(いまがわよしもと)を敗

    死させ、今川義元の大軍を敗(やぶ)り、権

    威をたかめる。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 ■ 1560年 (永禄3年)。

 

  ● 信長が桶狭間の戦いで、

    今川義元を敗死させる。

  ■ 1560年(永禄3年)5月に、織田信長は、 

    桶狭間(おけはざま)の戦いで、 今川 義元

    (いまがわ よしもと)を破る。 今川義元は、 

    尾張の桶狭間で、敗死する。

 

  ● 家康が三河へ戻る。

  ■ 1560年(永禄3年)に、 義元の家臣して

    信長と戦っていた、徳川家康(松平元康(ま

    つだいらもとやす))は、 尾張より、松平軍

    の兵を撤退し、三河国(みかわのくに、現・

    愛知県東部)の岡崎城へ戻る。

       その後、1561年(永禄4年)4月に、

    家康は、今川氏から独立する。

 

  ● 家康の岡崎城入城。

  ■ 1560年(永禄3年)5月23日に、徳川家康

    (松平元康)は、人質として過した駿河国

    (するがのくに、現・静岡県中部)の駿府へ

    は戻らず、今川軍が退去(放棄)した三河国

    (みかわのくに、現・愛知県東部)の岡崎城に

    入る。 

        その後、家康(元康)は、今川氏から

    自立(独立)する。 

 

 

 ■ 1560年 (永禄3年)。

 

  ● 今川氏真が今川氏の家督を

    継承する。

  ■ 今川氏真(いまがわうじざね)が、 戦死した

    今川義元(いまがわよしもと)に代わって、

    今川氏の家督を継承し、名実共に、今川氏

    の当主となる。

 

  ● 今川義元は、桶狭間の戦い前に、名目上

    隠居して、既に家督を今川氏真に譲っていた

    が、今川氏の実権は所持していた。

 

  ● 1560年(永禄3年)5月に、桶狭間の戦い 

    (おけはざまのたたかい)で、 東海の駿河国、

    遠江国、三河国3国(現・静岡県中部・西部、

    愛知県東部)を支配する今川氏の今川義元

    は、 織田信長の軍によって討たれ、今川義

    元の大軍は、総崩れとなり、尾張国を去る。

 

 

 ■ 1561年 (永禄4年)。

 

  ● 謙信の小田原北条氏を攻め、

    小田原城を囲む。

  ■ 北条氏攻め(小田原城攻め)。

  ● 1561年(永禄4年)に、 上杉謙信(長尾

    景虎)は、 関東管領(かんとうかんれい)

    の上杉憲政(うえすぎのりまさ)を擁して、 

    旧上杉氏家臣団の約10万人の大軍で、 

    北条氏康(ほうじょううじやす)を攻め、小田

    原城を包囲する。

 

  ● 謙信が、山内上杉氏家督を

    相続し、関東管領となる。

  ● 謙信が、上杉政虎と称する。

  ■ 1561年(永禄4年)閏3月16日に、 

    上杉謙信(長尾景虎(ながおかげとら))は、 

    鎌倉の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で、

    上杉憲政(うえすぎのりまさ)より、

    山内上杉氏(やまのうちうえすぎけ)の家督

    と関東管領職を相続(継承)し、

    関東管領(かんとうかんれい)に就任し、

    上杉憲政から一字の政を賜り、

    上杉政虎(うえすぎまさとら)と称す。 

 

 

 ■ 1561年 (永禄4年)。

 

  ● 信長が家康との和睦を望む。

  ■ 1561年(永禄4年)に、 織田信長は、 

    尾張国の西北方の斎藤氏支配の美濃国

    攻略したいため、 尾張国の東方の今川氏

    支配の三河国との戦いを望まず、 今川方

    の三河国西部の徳川家康(松平元康)に

    水野信元 (みずののぶもと、家康の生母

    の兄)を介して、和睦をもちかける。

 

  ● 家康は織田方となり、今川氏

    から独立する。

  ■ 1561年(永禄4年)4月に、三河国西部の

    徳川家康(松平元康)は、 尾張国の織田

    信長と和睦し、織田方となり、今川氏の今川

    義元の後を継いだ今川氏真(いまがわ(うじ

    ざね)と断行し今川氏から独立する。

 

 

 ■ 1561年 (永禄4年)。 

 

  ● 美濃の斎藤義龍の死去。

  ■ 1561年(永禄4年)5月に、 美濃国 (み

    ののくに、現・岐阜県南部の相当地域)の、

    国主の、斎藤義龍(高政) (さいとうよした

    つ(たかまさ)、生没年:生年不詳ー1561

    年)が、急死し、 嫡男の斎藤龍興(さいとう

    たつおき、生没年:1547年ー1573年)が、

    美濃国を引き継ぐ。

  ● 美濃国の斎藤氏の家臣団内部で、分裂が

    始まる。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 ■ 1561年 (永禄4年)。

 

  ● 謙信と信玄が、第4回川中島の

    戦いで、戦い、引き分けとなる。

  ■ 第4回川中島の戦い。

  ● 1561年(永禄4年)8月に、 上杉謙信(上杉

    政虎)の率いる上杉軍 と 武田信玄(徳栄軒

    信玄)の率いる武田軍が、 信濃国(しなのの

    くに、現・長野県)の北部の川中島で、衝突し、

    第4回川中島の戦いが起こり、激戦となる。

       第4回川中島の戦いでは、勝敗がつがず、

    引き分けとなる。

 

 

 ■ 1561年 (永禄4年)。

 

  ● 謙信が、上杉輝虎と称する。

  ■ 1561年(永禄4年)12月に、上杉謙信(上杉

    政虎)は、 室町幕府・13代将軍の足利義輝

    から一字の輝を賜り、諱(いみな)を輝虎(てる

    とら)と改め、上杉輝虎(うえすぎてるとら)と称

    す。

 

 

 ■ 1562年 (永禄5年) 1月。

 

  ● 信長と家康は清州同盟を結ぶ。

  ■ 1562年(永禄5年)1月に、尾張国の織田

    信長は、正式に、尾張国の東方の三河国西

    部の徳川家康と清洲同盟(きよすどうめい、

    織徳同盟)を結ぶ。 

 

  ● 同盟締結後、 尾張国(現・愛知県西部)の

    織田信長は、 西方の、美濃国(現・岐阜県

    南部)や伊勢国(現・三重県北部・中央中部)

    への侵略を目指し、

    一方、三河国(現・愛知県東部)西部の徳川

    家康は、 東方の三河国東部・北部、遠江国

    (現・静岡県西部)、駿河国(現・静岡県中部)

    への侵略を目指すこととなる。

       信長と家康は、自国防衛や他国侵略で

    軍勢が不足した時は、お互いに、援軍を出し

    合うこととなる。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 

 ■ 1563年 (永禄6年)。 

 

  ● (R4) 信長は、小牧山城

         居住地とする。

  ● (R) 織田信長の居住地の変遷。

  ■ (R1)⇒(R6 )。

     (R1)   勝幡城    (1534年ー1538年頃)、

     (R2)   那古野城   (1538年頃ー1555年)、

     (R3)   清洲城       (1555年1563年)、

     (R4)   小牧山城     (1563年1567年)、

     (R5)   岐阜城       (1567年1579年)、

     (R6)   安土城       (1579年1582年)。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ■ (R4) 織田信長 

    (生没年:1534年ー1582年)は、

    1563年(永禄6年)から

    1567年(永禄10年)まで

    尾張国の、小牧山城 (こまきやまじょう)で

    居住する。

 

  ■ 小牧山城 (こまきやまじょう)は、 尾張国

    (おわりのくに、現・愛知県西部)にある。

 

  ■ 織田信長は、1563年(永禄6年)に、

    美濃国攻略に有利な、尾張国の、小牧山城

    (こまきやまじょう)に、本拠地を移す。

 

 

 

 ■ 1563年 (永禄6年)。 

 

  ● (C3) 信長は、小牧山城

         本城とする。

  ● (C) 織田信長の本城の変遷。 

  ■ (C1)5) 。

     (C1)   那古野城   (1544年頃1555年)、

     (C2)   清州城       (1555年1563年)、

     (C3)   小牧山城     (1563年1567年)、

     (C4)   岐阜城       (1567年1579年)、

    5)   安土城       (1579年1582年)。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ■ (C3) 織田信長 

    (生没年:1534年ー1582年)は、

    1563年(永禄6年)から

    1567年(永禄10年)まで

    尾張国の、小牧山城 (こまきやまじょう)を、

    本城(ほんじょう、= 本拠地の城)とする

 

  ■ 小牧山城 (こまきやまじょう)は、 尾張国

    (おわりのくに、現・愛知県西部)にある。

 

 

 ■ 1563年 (永禄6年)。

 

  ● 三河一向一揆が西三河で

    起こる。

  ■ 1563年(永禄6年)に、三河一向一揆 (み

    かわいっこういっき、1563年ー1564年)が

    西三河で起こり、 徳川家康(松平家康)は、 

    西三河で、一向宗(いっこうしゅ、本願寺)の

    三河一向一揆の鎮圧を始める。

 

 

 ■ 1564年 (永禄7年)。

 

  ● 家康が三河一向一揆を鎮圧

     する。

  ■ 1564年(永禄7年)に、 徳川家康(松平

    家康)は、 一向一揆(いっこういっき)の鎮

    圧に成功する。

 

 

 ■ 1564年 (永禄7年)。 

 

  ● 信長は浅井長政と同盟を

    結ぶ。 

  ● お市が浅井長政に嫁ぐ。

  ■ 1564年(永禄7年)に、 織田信長は、 

    北近江(きたおうみ、現・滋賀県北部)の戦国

    大名の浅井長政(あざいながまさ)と同盟を結

    び、 信長の妹のお市(おいち)が、 浅井長

    政に輿入(こしい)れする。

 

  ● 信長は、 斎藤氏を牽制(けんせい)するため、 

    北近江の戦国大名の浅井長政と同盟を結び、

    その際、同盟の証(あかし、人質)として、信長

    の妹のお市を、浅井長政に輿入れさせる(嫁が

    せる)。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 ■ 1565年 (永禄8年)。

 

  ● 信長の伊勢侵攻開始。 

  ■ 1565年(永禄8年)に、 織田信長は、

    伊勢国(いせのくに、現・三重県北部・中央

    中部の相当地域)への侵攻を開始する。

 

 

 ■ 1566年 (永禄9年)。

 

  ● 家康が三河国全体を平定。

  ■ 1566年(永禄9年)5月に、徳川家康(松

    平家康)は、三河国 (みかわのくに、現・愛

    知県東部の相当地域)を統一する。

 

  ● 1566年(永禄9年)12月に、 徳川家康

    (松平家康)は、 朝廷より従五位下三河守

    (じゅごいのげみかわのかみ)に叙任され、

    姓を松平(まつだいら)から徳川(とくがわ)

    に改姓する。

 

 

 ■ 1566年 (永禄9年)。

 

  ● 信長の足利義昭擁立・第1次

    上洛出兵の失敗。 

  ■ 織田信長の足利義昭擁立・第1次上洛出兵。

  ● 1566年(永禄9年)8月に、 足利義昭家臣

   で仲介役の細川 藤孝(幽斎) によって、

   足利義昭擁立・織田信長第1次上洛出兵が

   行われたが、美濃国の斎藤氏によって阻止さ

   れ、上洛は失敗する。

 

 

 ■ 1567年 (永禄10年) 5月。

 

  ● 信長の娘の徳姫が家康の嫡男

    の松平信康に嫁ぐ。

 

  ■ 1567年(永禄10年)5月に、

    織田信長の娘の徳姫 (とくひめ、= 五徳

    (ごとく)、生没年:1559年ー1636年)が、 

    政略結婚で徳川家康の嫡男・松平信康(ま

    つだいらのぶやす)に嫁 (とつ)ぐ。

 

  ■ 織田信長の娘の徳姫(= 五徳)は、

    松平信康との間に、登久姫 (福子、後に

    小笠原秀政夫人)、熊姫 (国子、後に本

    多忠政夫人)の2人の娘を産む。

 

  ■ 織田信長の娘の徳姫(= 五徳)は、

    1579年(天正7年)の松平信康自害・築

    山殿殺害事件である松平信康事件の後、 

    1580年(天正8年)2月に、2人の娘を

    徳川氏に残して、徳川氏の岡崎城を去る。

       その後、徳姫(= 五徳)は、各地に居

    住し、 京(きょう、京都)で1636年(寛永

    13年)1月に死去する。

 

 

 ■ 1567年 (永禄10年) 10月。

 

  ● 信長が美濃の斎藤氏を滅ぼす。

  ● 信長が尾張、美濃の2か国の

    戦国大名になる。

  ■ 1567年(永禄10年)10月に、信長は、 

    美濃国(みののくに、現・岐阜県南部)の

    斉藤氏を滅ぼす。 

 

  ● 信長の稲葉山城(岐阜城)奪取。

  ● 織田信長の美濃平定。

  ■ 1567年(永禄10年)10月に、織田信長

    は、 美濃国 (みののくに、現・岐阜県南部

    の相当地域)の斎藤氏を滅ぼす。 

       信長は、尾張国、美濃国の2カ国を領す

    る戦国大名となる。 

 

  ● 1567年(永禄10年)10月に、 信長は、 

    斎藤龍興(さいとうたつおき)の稲葉山城(い

    なばやまじょう)を落とし、岐阜城(ぎふじょう)

    と改名し、信長の本拠地を岐阜城に移す。

 

 

 ■ 1567年 (永禄10年)。

 

  ● 信長は美濃国を領有する。

  ● 信長の畿内付近や日本本土

    の統一事業開始。

  ■ 織田信長の日本本土統一事業。

  ● 1567年(永禄10年)10月に、信長は、 

   美濃国 (みののくに、現・岐阜県南部の相

   当地域) の斎藤氏を滅ぼす。 ここに、信

   長は、尾張、美濃の2カ国を領する戦国大

   名となる。 

      この頃から、信長は、天下布武の朱印

   を用いるようになり、 畿内付近地域の平定

   を目指す。

      後に、信長は、畿内付近地域の征服後

   は、天下統一(日本本土統一)を目指すよう

   になる。 

 

  ● 織田信長の「天下布武」。

  ■ 1567年(永禄10年)10月に、信長は、 

   美濃国 (みののくに、現・岐阜県南部の相

   当地域) の斎藤氏を滅ぼす。 ここに、信

   長は、尾張、美濃の2カ国を領する戦国大

   名となる。 

      この頃から、信長は、天下布武の朱印

   を用いるようになり、 畿内付近地域の平定

   を目指す。

 

  ■ 1567年(永禄10年)10月に、 信長は、 

    尾張、美濃の2カ国を領する戦国大名となり、 

    この頃から、「天下布武」の朱印を用いるよ

    うになる。

 

  ■ 「天下布武」とは、 当初は、畿内付近地域

     の平定、静謐(せいひつ、統治)という意味

     であった。

        1573年(元亀4年)の信長による将軍・

     足利義昭の京(都)追放後は、「天下布武」

     は、武家が日本を支配するという意味となり、 

     天下人の信長による天下統一(日本本土統

     一)という意味となる。

 

   ■ 信長の「天下布武」は、前期の意味では、

     当初は、天下人の将軍による、畿内(きな

     い)付近地域(京都や京都の周辺地域)の

     平定、静謐(せいひつ、統治)を図ることと

     いう意味であった。 

 

   ● しかし、信長の「天下布武」は、後期の

     意味では、信長の畿内付近地域の征服後

     は、「武家が日本を支配する」、「天下人の

     信長が日本を支配する」という意味になる。

 

   ● 武家が日本を支配するという意味の

     「天下布武」とは、 当時、武家、公家、寺社

     の勢力が、日本各地で乱立して日本を支配

     していたが、それを武家のみで一元的に、

     日本を支配するという意味である。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 ■ 1567年 (永禄10年)。

 

  ● (R5) 信長は、岐阜城を居住地

         とする。

  ● (R) 織田信長の居住地の変遷。

  ■ (R1)⇒(R6 )。

     (R1)   勝幡城    (1534年ー1538年頃)、

     (R2)   那古野城   (1538年頃ー1555年)、

     (R3)   清洲城       (1555年1563年)、

     (R4)   小牧山城     (1563年1567年)、

     (R5)   岐阜城       (1567年1579年)、

     (R6)   安土城       (1579年1582年)。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ■ (R5) 織田信長 

    (生没年:1534年ー1582年)は、

    1567年(永禄10年)から

    1579年(天正7年)まで

    美濃国の、岐阜城 (ぎふじょう)で

    居住する。

 

  ■ 岐阜城 (ぎふじょう)は、 美濃国 (みの

    のくに、現・岐阜県南部)にある。

 

  ■ 織田信長は、

    1567年(永禄10年)10月に、 美濃国

    (みののくに、現・岐阜県南部)の、斎藤龍

    興(さいとうたつおき)の稲葉山城(いなば

    やまじょう)を落とし、岐阜城(ぎふじょう)と

    改名し、信長の本拠地を岐阜城に移す。

 

 

 

 ■ 1567年 (永禄10年)。

 

  ● (C4) 信長は、岐阜城を本城

         とする。

  ● (C) 織田信長の本城の変遷。 

  ■ (C1)5) 。

     (C1)   那古野城   (1544年頃1555年)、

     (C2)   清州城       (1555年1563年)、

     (C3)   小牧山城     (1563年1567年)、

     (C4)   岐阜城       (1567年1579年)、

    5)   安土城       (1579年1582年)。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ■ (C4) 織田信長 

    (生没年:1534年ー1582年)は、

    1567年(永禄10年)から

    1579年(天正7年)まで

    美濃国の、岐阜城 (ぎふじょう)を、

    本城(ほんじょう、= 本拠地の城)とする

 

  ■ 岐阜城 (ぎふじょう)は、 美濃国 (みの

    のくに、現・岐阜県南部)にある。

 

 

 

 ■ 1568年 (永禄11年)。

 

 ● 信玄が今川領の駿河国へ

    侵攻し、占領し領土とする。

  ■ 1568年(永禄11年)に、武田信玄が、駿

   河を占領する。 今川氏真(うじざね)が、駿河

   を離れ、遠江(とおとうみ)・掛川城へ逃れる。

 

 ● 家康が今川領の遠江国へ

    侵攻する。

  ■ 1568年(永禄11年)に、 徳川家康は、

   1568年(永禄11年)末から、今川領である

   遠江国へ侵攻する。

 

 

 ■ 1568年 (永禄11年)。

 

  ● 信長の足利義昭擁立第2次

    上洛出兵の成功。

  ● 足利義昭が将軍となる。

  ■ 足利義昭擁立織田信長第2次上洛出兵。

  ● 1568年(永禄11年)9月に、 織田信長は、 

    足利義昭(よしあき)を奉じて、上洛を開始し、

    10月に上洛を果たし、1568年(永禄11年)

    10月に、足利義昭を将軍職(将軍在位:

    1568年〜1588年)に就(つ)ける。

       この出兵に、徳川家康は、信長へ援軍

    を派遣する。

 

  ● 信長の足利義昭擁立第2次

    上洛出兵の成功。

  ■ 足利義昭擁立織田信長第2次上 洛出兵。

  ●  足利義昭家臣で仲介役の明智光秀と

    細川藤孝(幽斎)によって、1568年(永禄

    11年)9〜10月に、足利義昭擁立織田信

    長第2次上洛出兵が行われ、10月に上洛

    は成功する。

       この出兵に、徳川家康は、信長へ援軍

    を派遣する。

       1568年(永禄11年)10月に、織田 

    信長は、足利義昭(よしあき)を奉じて、上

    洛を果たし、10月に足利義昭を将軍職(将

    軍在位:1568年〜1588年)に就(つ)け

    る。

  ● その後、信長は、義昭との関係が悪化する。

       また、武田氏、朝倉氏、延暦寺、石山本

    願寺などからなる信長包囲網が結成される。

 

  ● 足利義昭は将軍就任後、

    信長と対立する。

  ■ 1568年(永禄11年)10月の足利義昭

    の将軍職就任後、 織田信長は、足利義昭

    の行動をコントロールしようとしたため、義

    昭との関係が悪化する。 

        武田氏、朝倉氏、延暦寺、石山本願寺

    などから成る織田信長包囲網が結成された

    後、1573年(元亀4年)2月に は、足利義

    昭は信長を裏切り、反信長勢力に加担する。

 

 

 ■ 1569年 (永禄12年)。 

 

  ● 家康が遠江国を占領する。

  ● 戦国大名の今川氏が滅亡。

  ■ 1569年(永禄12年)に、 徳川家康は、 

   遠江国の大半を攻め獲り、今川氏真のいる、

   掛川(かけがわ)城も包囲し、氏真を降伏さ

   せる。 戦国大名の今川氏が滅亡する。

 

 

 ■ 1569年 (永禄12年)。 

 

  ● 家康と武田信玄は、敵対関係

    となる。

  ■ 1569年(永禄12年)に、 徳川家康と武田

    信玄は、 敵対関係となる。

 

  ● 1569年(永禄12年)に、 領土拡大に燃え

    る武田信玄は、家康との協定を破り、信濃国

    (しなののくに、現・長野県)から遠江国(とおと

    うみのくに、静岡県西部)へ侵攻する。 これは、

    徳川勢の抵抗や北条氏康からの牽制を受け失

    敗し、これを契機に、徳川家康と武田信玄は、

    敵対関係となる。

 

 

 ■ 1570年 (永禄13年、元亀元年)。

 

  ● 信長は、金ヶ崎の戦いで、

    敗戦する。

  ■ 金ヶ崎(かねがさき)の戦い

    越前・朝倉氏討伐織田軍の戦い。

  ● 1570年(永禄13年、元亀元年)4〜5月

    に、織田信長は、織田軍を率いて、 越前国に

    侵攻したが、 信長の妹婿の北近江(きたおう

    み、現・滋賀県北部の相当地域)の浅井長政

    に背後をつかれ、 信長や信長軍本隊は、京

    (きょう、京都)へ逃れる。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ■ 金ヶ崎(かねがさき)の戦い(1570年4月

    〜5月)とは、 次のような合戦であった。

      1570年(永禄13年、元亀元年)4〜

    5月に、 約3万人の織田・徳川連合軍は、

    越前国(えちぜんのくに、現・福井県東部の

    相当地域)の朝倉義景(あさくらよしかげ)

    を討伐するため、 越前国へ侵攻したが、

    浅井長政の裏切りで、挟み撃ちにあい、

    約2万人の朝倉・浅井連合軍に追われて、

    引き上げる(撤退する)。 

 

   ● 浅井氏と親密な朝倉氏を信長が攻めたた

    め、信長との同盟を結んでいた浅井氏の

    井長政が、同盟をを反故(ほご)にして、 信

    長に敵対してしまったため、信長が敗戦とな

    る。

 

  ● 金ヶ崎の退き口。

  ● 信長の越前・朝倉氏討伐の失敗

    と金ヶ崎の退き口。

  ■ 金ヶ崎の退き口 (かねがさきののきぐち、

    金ヶ崎戦いの後半の撤退戦)。

 

  ● 金ヶ崎の退き口 (かねがさきののきぐち)

    とは、 金ヶ崎戦い(1570年4月〜5月の

    織田氏と朝倉氏の合戦)の後半の撤退戦

    である。

 

  ● 1570年(永禄13年)4月20日に、織田

    信長は、 朝倉氏討伐のため、約3万人の

    織田・徳川連合軍を率いて,京(きょう、京

    都)を出陣する.。

 

  ● 1570年(永禄13年、元亀元年)4月23日

    に、和暦の年号が永禄から元亀に改元される。

 

  ● 1570年(元亀元年)4月25日に、信長は、

    越前の朝倉義景領に侵攻し、4月26日には、

    金ヶ崎城(かねがさきじょう)を下す。

       その時、北近江の浅井長政が裏切った

    という情報が入る。

       先に、4月26日に、織田信長は、馬で、

    逃走し、4月30日に、京(きょう、京都)に到

    着する。

 

  ● 1570年(元亀元年)に、織田軍は、4月26

    日に、越前の金ヶ崎城を占拠し、越前・金ヶ

    崎へ進軍した時に、浅井長政が裏切り、

    浅井軍に背後をつかれ、信長(4月30日に)

    や信長軍本隊(5月上旬に)は、 なんとか、

    京(きょう、京都)へ逃れる。 

       この越前・朝倉氏討伐織田軍に、池田

    勝正、豊臣秀吉(木下藤吉郎秀吉)、明智

    光秀、徳川家康も従軍する。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

  ● 金ヶ崎の退き口時、信長は馬

    で先に逃走、織田軍本隊は、

     後に続く。

  ■ 金ヶ崎の退き口 (かねがさきののきぐち、

    金ヶ崎戦いの後半の撤退戦)。

  ● 1570年(永禄13年、元亀元年)4〜

    5月に、織田軍は、浅井軍と朝倉軍の挟み

    撃ちという危機の中で、 まず先に、織田

    信長本人は、馬で、越前(えちぜん)の金

    ヶ崎から越前、若狭(わかさ)、近江(おう

    み)・琵琶湖西方の朽木谷(くつきだに)経

    由で、4月30日に京へ逃げ帰る。

        一方、約2万人の朝倉・浅井連合軍

    に攻撃されながら、約3万人の織田軍本隊

    は、 越前(えちぜん)の金ヶ崎から越前、

    若狭(わかさ)、近江(おうみ)経由で撤退し、

    5月上旬に京(きょう、京都)へたどり着く。 

 

  ● 金ヶ崎の退き口の殿(しんがり)

    の軍で、織田氏家臣の光秀、

    秀吉が活躍。

  ■ 「殿(しんがり)」の軍とは、本隊の軍の

    撤退時、軍の最後尾で、襲(おそ)ってくる

    敵兵を命(いのち)がけで防ぐ役目である.

 

   ■ 信長の命(命令)で、 池田勝正(いけだ

    かつまさ)が指揮をとる、撤退する織田軍

    本隊の「殿(しんがり)」の軍を、織田軍の

    明智光秀、豊臣秀吉(木下藤吉郎秀 吉)

    などの兵が務(つと)め、  敵の朝倉・浅井

    軍と応戦し、防戦しながら、撤退する。  

    光秀、秀吉は、かろうじて、生き残り、功績

    をあげる。

       史実では、徳川家康は、殿(しんが

    り)の軍には参加していない。 家康の軍

    は、  池田勝正の率いる織田軍本隊と共に、

    行動する。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 

 ■ 1570年 (永禄13年・元亀元年)。

 

  ● 永禄年号から元亀年号に改元。

     元亀年号1570年ー 1573年。

  ■ 1570年(永禄13年・元亀元年)に、

    元亀(げんき) 年号に改元。  

  ● 1570年(永禄13年・元亀 元年)4月23日に、 

     和暦の「永禄」(えいろく、

    永禄元年・1558年〜永禄13年・1570年) 

    が、 

    和暦の「元亀」(げんき、

    元亀 元年・1570年・ 4月23日〜 

    元亀 4年・1573年・ 7月28日) に

    改元される。

 

  ■ 室町時代後期の各年号。

    暗記法: 大享天弘永元天      

    (えいだいきょうてんこうえいげんてん)。

  ● 永正(えいしょう)年号: 1504年ー1521年。

  ● 大永(だいえい)年号:   1521年ー1528年。

  ● 享禄(きょうろく)年号:  1528年ー1532年。

  ● 天文(てんぶん)年号  1532年ー1555年。

  ● 弘治(こうじ)年号:    1555年ー1558年。

  ● 永禄(えいろく)年号:  1558年ー1570年。

  ● 元亀(げんき)年号    1570年ー 1573年。

  ● 天正(てんしょう)年号: 1573年ー 1592年。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 

 ■ 1570年 (元亀元年)。

 

  ● 姉川の戦いでの信長の勝利。

  ■ 姉川の戦い。

  ● 1570年(元亀元年)6月に、織田信長の

    率いる織田・徳川連合軍は、 近江国(おう

    みのくに、現・滋賀県の相当地域)の、姉川

    (あねがわ)で、浅井・朝倉連合軍を 敗(や

    ぶ)り、勝利を得る。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 ■ 1570年 (元亀 元年)。

 

  ● 石山合戦が始まる。

  ■ 1570年(元亀元年)9月に、本願寺(一向

    宗)の、石山本願寺 (いしやまほんがんじ) 

    は、織田信長に対抗する。 

  ● 信長と石山本願寺との間で、石山合戦

    (いしやまがっせん、1570年−1580年)が

    始まる。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 ■ 1570年 (元亀 元年)。

 

  ● 伊勢長島一向一揆が始まる。

  ■ 1570年(元亀元年)の9月頃に、伊勢長島

    一向一揆(いせながしまいっこういっき、

    1570年ー1574年)が始まる。 

 

  ● 石山合戦に伴って、1570年(元亀元年)

    9月頃に、一向宗(本願寺)の一揆衆は、伊

    藤氏が城主を務める、伊勢国の長島城を攻

    め落とし、城を奪う。

 

 

 ■ 1571年 (元亀 2年)。

 

  ● 信長の比叡山焼き討ち。

  ■ 1571年(元亀2年)9月に、 織田信長は、

    浅井氏・朝倉氏に味方する比叡山・延暦寺

    (ひえいざん・えんりゃくじ)を焼討ちにする。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 ■ 1571年 (元亀2年)。

 

  ● 北条氏康が死去し、北条氏政

    が小田原北条氏を継承する。

  ■ 1571年(元亀2年)10に、  北条氏康

    (ほうじょううじやす)が、死去する。 

       小田原北条氏(= 後北条氏)は、氏康

    の子の北条氏政(ほうじょううじまさ)が継

    承する。

 

 

  ● 北条氏政は、家康・氏真・氏康

    の盟約を破棄し、武田氏と同盟

    を結ぶ。

  ■ 甲相同盟締結、越相同盟破棄

  ● 1571年(元亀2年)12月に、  北条氏政は、

    外交方針を転換し、 掛川城開城時の徳川

    家康・今川氏真・北条氏康の盟約を破棄し、

    信玄と甲相同盟を結び、 同時に、謙信との

    越相同盟を破棄する。

       北条氏政と上杉謙信との関東をめぐる

    戦いが始まる。

 

  ■ 氏政の甲相同盟締結・越相同盟破棄で

     信玄の西上作戦の環境が整う。

  ● 氏政の甲相同盟締結によって武田領の東方

    の北条氏の脅威がなくなり、 また、氏政の

    越相同盟破棄により北条氏政と上杉謙信の

    戦いが始まり武田領の北方の脅威もなくなり、 

    武田信玄は、 武田領の西方の徳川氏や織

    田氏の領国を侵略し、上洛できる西上作戦の

    環境が整う。 

 

  ■ 氏政の甲相同盟締結で、家康は北条氏と

     敵対する。

   氏政の甲相同盟締結によって、武田氏と敵

    対する徳川家康は、 武田氏徳川領侵攻時、

    以前のように、北条氏の援軍を得られなく

    なるばかりでなく、 小田原北条氏と敵対す

    ることとなる。

 

  ■ 氏政が信玄に援軍を送る。

  ● その後、1572年(元亀3年)の武田信

    玄の「徳川・織田領国侵攻の西上作戦」の

    際に、北条氏政は、 信玄に約2000人の

    北条軍の兵を援軍として武田軍に参加させ、

    北条軍は、 武田軍が織田徳川・連合軍に

    勝利を得た三方ヶ原の戦い(みかたがはら

    のたたかい)で、活躍する。  

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 ■ 1572年 (元亀 3年)。

 

  ● 織田・徳川氏を攻撃する、武田

    信玄の軍が上洛開始。

  ■ 武田信玄が上洛開始。

  ● 1572年(元亀3年)10月に、  武田信玄

    (たけだしんげん)は、 上洛(じょうらく、京

    都へ行く)の軍を起こす (上洛を開始する)。

 

  ● 1572年(元亀3年)10月に、 甲斐の武田

   信玄は 上洛の軍を起こした。 総兵力・約3万

   人の兵の武田軍が、 織田領の東美濃や徳川

   領の遠江、三河に侵攻を開始する。

 

  ● 1572年(元亀3年)10月に、 甲斐の武田

    信玄は 上洛の軍を起こした。 総兵力・約

    3万人の兵の武田軍が、 織田領の東美濃

    (ひがしみの、現・岐阜県南東部) や 徳川

    領の遠江国、三河国(とおとうみのくに、みか

    わのくに、現・静岡県西部、愛知県東部)へ

    侵攻を開始する。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

  ● 三方ヶ原の戦いで、家康が

    武田信玄に大敗する。

  ■ 1572年(元亀3年)12月に、 遠江 国 (と

    おとうみのくに、現・静岡県西部の相当地域)

    の、三方ヶ原(みかたがはら)の戦いで、徳川・

    織田連合軍は、 武田信玄の武田軍に大敗

    する。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

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#jphappenings-1573

 

 

 ■ 1573年 (元亀 4年)。 

 

  ● 足利義昭が信長討伐を謀る。

  ■ 1573年(元亀4年)2月に、 室町幕府の

    第15代将軍の、足利義昭 (あしかがよし

    あき)は、 織田信長を裏切り、武田氏、朝

    倉氏、浅井氏、石山本願寺と協力して、

    信長討伐を謀(はか)る。

 

  ● 武田信玄が上洛を中止し、

    帰国途中で死す。

  ■ 1573年(元亀4年)4月に、武田信玄 は、

    病状悪化し、武田軍は、徳川領の遠江国、

    三河国(とおとうみのくに、みかわのくに、

    西部、愛知県東部)から、軍を返し、甲斐国

    (かいのくに、現・山梨県)へ帰国する。 

       武田信玄は、甲斐国(かいのくに、現・

    山梨県の相当地域)へ帰国途中、4月12日

    に、信濃・駒場で病死する。 

 

  ● 家康が三河の長篠城を武田氏

    より奪回する。

  ■ 1573年(元亀4年)5月に、徳川家康は、

    三河国(みかわのくに、現・愛知県東部)の

    長篠城(ながしのじょう)を攻め、武田軍より

    長篠城を奪回し、武田軍の再侵攻に備える。

 

 

 ■ 1573年 (元亀 4年)。 

 

  ● 室町幕府滅亡。

  ■ 1573年(元亀4年)7月に、織田信長は、

   室町幕府(= 足利幕府)・第15代将軍の足利

   義昭(よしあき)を、京(きょう、京都)より追放

   し、 実質上、室町幕府 (= 足利幕府)を滅ぼ

   す。

 

  ● 足利 義昭 (あひかがよしあき)は、

    1573年(元亀4年)2月に 信長を裏切り、 

    1573年(元亀4年)2〜7月 に、二条御所

    (にじょうごしょ)や 槇島城(まきしまじょう)

    に立て籠(こ)もって2回も信長に反抗した

    ため織田信長は、足利 義昭を、京(きょ

    う、京都)より追放する。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ● 織田政権の成立。

  ■ 1573年(元亀4年)7月に、織田信長は、

    室町幕府(= 足利幕府)・第15代将軍の足利

     義昭を京(京都)より追放し、室町幕府を滅

    ぼし、織田政権が樹立される。

 

  ● 信長は天下統一を目指す。

  ■ 1573年(元亀4年)7月の信長による将軍

    の京都追放後、織田信長は、天下統一(日本

    本土統一)を目指すようになる。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 ■ 1573年 (元亀4年)。

 

  ● 信長が年号を改暦させる。

  ■ 1573年(元亀4年)7月に、  織田信長は、

    元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に

    奏上し、これを実現させる。

 

 

 ■ 1573年 (元亀4年・天正元年)。

 

  ● 元亀年号から天正年号に改元。

     天正年号1573年ー 1592年。

  ■ 1573年(元亀4年・天正元年)に、

    天正(てんしょう) 年号に改元。 

  ● 1573年(元亀4年・天正 元年)7月28日に、 

    和暦の「元亀」(げんき、

    元亀元年・1570年〜元亀4年・1573年) 

    が、 

    和暦の「天正」(てんしょう、

    天正 元年・1573年・ 7月28日〜

    天正20年・1592年・12月 8日) に

    改元される。 

 

  ■ 1573年(元亀4年)7月に、織田信長は、

    元号を元亀から天正へと改めることを朝廷

    に奏上し、これを実現させる。

 

  ■ 安土桃山時代の各年号。

    暗記法: 元天文慶      

          (げんてんぶんけい)。

  ● 元亀(げんき)年号    1570年ー 1573年。

  ● 天正(てんしょう)年号: 1573年ー 1592年。

  ● 文禄(ぶんろく)年号  1592年ー 1596年。

  ● 慶長(けいちょう)年号 1596年ー 1615年。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 

 ■ 1573年 (天正 元年)。

 

  ● 信長が朝倉氏・浅井氏を 滅ぼす。

  ■ 1573年(天正元年)8〜9月に、 織田信長

   は、朝倉氏・浅井氏を滅ぼす。

       信長は、越前国と北近江を領土とする。

 

  ■ 織田信長は、 1573年(天正元年)8月に、

    越前 国(えちぜんのくに、現・福井県東部)

    へ行軍し、朝倉軍を 敗(やぶ)り、朝倉義景

    よ(あさくらしかげ)を自害させ、 8〜9月に、

    北近江(きたおうみ、現・滋賀県北部)の小谷

    城(おだにじょう)を落とし、浅井久政・長政

    父子(あさいひさまさ・ながまさふし)を自害

    させる。 

 

  ● お市と浅井三姉妹は、城から

    落ち延び、信長が引き取る。

  ■ 1573年(天正元年)9月に、小谷城(おだ

    にじょう)落城前、信長の妹のお市(おいち)

    とお市の娘3人 (浅井三姉妹(あざいさんし

    まい)、茶々、初、江(ちゃちゃ、はつ、ごう))

    は、小谷城から落ち延びて、信長が引き取る。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 ■ 1573年 (天正 元年)。

 

  ● 織田氏家臣の秀吉が北近江の

    長浜城の城代(城主)となる。

  ■ 1573年(天正元年)に、 織田氏家臣の、

    豊臣秀吉(羽柴秀吉)は、 浅井氏滅亡後、

    その旧領の北近江三郡の経営を織田信長

    より任され、 その後、北近江(きたおうみ)

    の今浜(いまはま)に、今浜を長浜(ながは

    ま)に改名し、そこに、長浜城を築城し、

    長浜城の城代(城主)となる。 

 

 

 ■ 1574年 (天正 2年)。

 

  ● 越前で、一向宗門徒が反乱

    を起こし、織田領の越前を

    制する。

  ■ 朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前

     国(えちぜんのくに、現・福井県東部)で、

    1574年(天正2年)1月に、 地侍や 本願

    寺門徒の反乱が起こり、 織田氏より奪い、

    本願寺門徒(一向宗門徒)が、越前を制

    する。

 

 

 ■ 1574年 (天正 2年)。

 

  ● 武田勝頼が遠江の高天神城

    を家康より奪う。

  ■ 1574年(天正2年)5月に、徳川家康は、 

    遠江国(とおとうみ、現・静岡県西部)の、

    高天神城(たかてんじんじょう)を、武田信

    玄の家督を継承した武田氏の武田勝頼

    (たけだかつより)によって、奪われる。

 

  ● 1574年(天正2年)5月に、武田信玄の

   後を継いだ武田勝頼が、2万5000人の兵

   の軍を率いて、遠江国(とおとうみ、現・静岡

   県西部の相当地域)に侵攻し、高天神城(た

   かてんじんじょう)を奪う。 

       家康は、単独で迎撃できず、信長に

   援軍を要請したが、援軍到着前に、高天神

   城は、武田勝頼によって奪われる。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 ■ 1574年 (天正 2年)。

 

  ● 信長は、伊勢長島の一向一揆

    を滅ぼす。

  ■ 1574年(天正2年)9月に、織田信長は、

    伊勢長島一向一揆(いせながしまいっこう

    いっき、1570年ー1574年)を滅ぼす。 

 

  ● 伊勢 国(いせ のくに、現三重県北部・

    中央中部)の長島を中心にした地域で、

    石山合戦に伴い、1571年(元亀2年)5月

    から1574年(天正2年)9月まで、本願寺

    門徒(一向宗門徒)が、織田氏に対して

    一揆(いっき、領主に対する反抗)を起こし

    たが、1574年(天正2年)9月に、織田軍

    に鎮圧される。 

        一揆軍、織田軍の双方に、多数の

    犠牲者が出る。

        伊勢 国は織田領になり、信長は、

    の経営を 滝川一益(たきがわかずます)に

    任せる。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 ■ 1575年 (天正 3年)。

 

  ● 長篠・設楽が原の戦いで、

    信長は、武田勝頼を敗北

    させる。

  ■ 長篠・設楽が原(ながしの・しだらがはら)

     の戦い。

  ● 1575年(天正3年)5月に、 織田・徳川

   連合軍(信長・家康連合軍)は、 三河国(み

   かわのくに、現・愛知県東部の相当地域)の

   設楽が原(しだらがはら)で、 武田勝頼(か

   つより)の率いる武田軍を、主に鉄砲隊を使

   って敗北させ、勝利を得る。 

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 ■ 1575年 (天正 3年)。

 

  ● 信長は、越前の一向一揆を

    鎮圧し、越前を再び織田領

    にする。

  ■ 1575年(天正3年)8月に、 信長は、越

   前国(えちぜんのくに、現・福井県東部の相

   当地域)に侵攻し、本願寺門徒(一向宗門

   徒)の軍を破り勝利を得て、1574年(天正

   2年)1月に本願寺門徒(一向宗門徒)が奪

   った、越前国を再び織田領にし、越前国を

   田柴勝家に任せる(経営させる)。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 ■ 1576年 (天正 4年)。

 

  ● 信長は、安土城の築城を

    開始する。

  ■ 1576年(天正4年)2月に、 織田信長は、 

    琵琶湖湖岸に、自分の本城(= 本拠地の城)

    として、安土城の築城を開始する (1579

    年安土城完成)。

 

  ● 織田信長は、

    近江国(おうみのくに、現・滋賀県)の、

    安土城 (あづちじょう)を、

    1576年(天正4年)から1582年(天正10年)

    まで、 自分の本城(= 本拠地の城)とする。

 

  ■ 織田信長は、

    1579年(天正7年)に、近江国(おうみ

    のくに、現・滋賀県)の安土(あづち)に、

    自分の本城(= 本拠地の城) として、五層

    七重の豪華絢爛(ごうかけんらん)な天守

    閣をもつ安土城(あづちじょう)を完成させ

    る。

 

 

 ■ 1576年 (天正 4年)。

 

  ● 第1次木津川口の戦いで、

    織田水軍は石山本願寺方

    の毛利水軍に敗北する。

  ■ 第1次木津川口(きづがわぐち)の戦い。

  ● 織田信長と石山本願寺との石山合戦の戦

    いで、 1576年(天正4年)7月に、信長の

    織田水軍は、 大阪湾木津川(きづがわ)

    河口で、石山本願寺方の毛利水軍と戦い、

    敗れる。

 

  ● 織田軍は、 摂津国(せっつのくに、現・大

    阪府西北部)の、石山本願寺を水陸から

    包囲し、物資が入れぬように封鎖する。

       ところが、石山本願寺の要請を受けて、

    1576年(天正4年)7月に、毛利水軍が

    阪湾木津川河口に現れ、織田水軍を破り

    (敗北させ) (第1次木津川口の戦い)、 

    毛利水軍は、石山本願寺に兵糧・弾薬を運

    び込む。

 

 

 ■ 1576年 (天正 4年)。

 

  ● 織田軍の秀吉は、織田北陸

    方面軍より無断帰還したが、

    信長に許される。

  ■ 1576年(天正4年)に、 織田軍の豊臣秀

    吉(羽柴秀吉)は、 柴田勝家の織田北陸

    方面軍より無断で帰還し、信長の怒りをか

    ったが、許される。

 

  ● 1576年(天正4年)に、 豊臣秀吉(羽柴

    秀吉)は、 越後の上杉謙信と対峙している

    北陸方面軍の柴田勝家への救援を信長に

    命じられ、現地へ行軍したが、 現地で、秀

    吉は作戦をめぐって柴田勝家と仲たがいし、

    無断で帰還し、信長の怒りをかったが、許さ

    れる。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 ■ 1577年 (天正 5年)。

 

  ● 手取川の戦いで、織田信長軍

    は、上杉謙信軍に敗北する。

  ■ 手取川(てどりがわ)の戦い

    ● 1577年 (天正5年)9月に、織田信長軍は、

    北陸で、上杉謙信の率いる上杉軍に敗れ 

    (手取川(てどりがわ)の戦い)、 撤兵する。

 

  ● 1577年 (天正5年)9月に、 信長は、

    柴田勝家が率いる約3万人の兵の前軍と

    信長自らが率いる本隊・約1万8000人の

    兵の後軍で、北陸・加賀 国(かが のくに

    現・石川県南部)へ出陣したが、前軍が上杉

    謙信の率いる上杉軍に敗れ(手取川の戦い)、

    また、信長率いる後軍は、大和(やもとのく

    に、現・奈良県)の、松永久秀の謀反(むほ

    ん)を知り、撤兵する。

 

 

 ■ 1577年 (天正 5年)。

 

  ● 信貴山城の戦いで、信長軍は、

    松永久秀を討ち取る。

  ■ 信貴山城(しんぎさんじょう)の戦い。

  ● 1577年(天正5年)10月に、信長は、

    上杉謙信(うえすぎけんしん)と呼応(こお

    う)して信長を裏切り挙兵した、大和国(や

    まとのくに、現・奈良県)の松永久秀(まつ

    ながひさひで)を滅ぼす。

 

  ● 1577年(天正5年)10月に、信長は、大

    軍を、大和国の信貴山城(しんぎさんじょう)

    に派遣し、 上杉謙信と呼応して信長を裏

    切り挙兵した、松永久秀を討ち取る。

 

  ● 信貴山城の戦いで、織田軍の

    秀吉は功績をあげる。

  ■ 1577年(天正5年)10月に、 信貴山城

    の戦いで、 織田軍の豊臣秀吉(羽柴秀吉)

    は、 織田信忠(のぶただ)の指揮下で、

    松永久秀を滅ぼし、功績をあげる。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 ■ 1577年 (天正 5年)。

 

   ● 信長は中国地方の攻略を開始

     する。

  ● 秀吉はに中国地方の攻略を命

     じられる。

  ■ 秀吉の中国地方攻略の開始。

  ● 織田信長は、 豊臣秀吉(羽柴秀吉)に、

    の山陽道・山陰道の中国地方の攻略を命令し、

    1577年(天正5年)10月23日に、豊臣秀吉

    (羽柴秀吉)は、中国地方に出陣する。

 

  ■ 1577年(天正5年)10月に、羽柴秀吉(豊

    臣秀吉)は、 以前より親交のあった播磨国

    の黒田官兵衛孝高(くろだかんべいよしたか)

    より、播磨国の、姫路城(ひめじじょう)を譲

    り受け、中国地方の攻略のため、中国地方

    攻略の拠点とし、秀吉の本城(= 本拠地の城)

    や政務居城とする。

 

  ■ 1577年(天正5年)10月から羽柴秀吉(豊

    臣秀吉)は、中国地方の攻略を開始する。

       秀吉は、まず、播磨国(はりまのくに、兵庫

    県本土南部)に攻め入り、更に、但馬国(たじま

    のくに、兵庫県本土北部)に攻め入り、1581年

    (天正9年)までに、播磨国と但馬国を平定する。

 

 

 ■ 1578年 (天正 6年)。

 

  ● 上杉謙信が急死する。

  ■ 1578年(天正6年)3月に、上杉謙信が

   急死し、越後で、後継ぎ争い(御館の乱、おた

   てのらん、1578年〜1579年)が始まる。 

 

  ● 信長は、加賀、能登の攻略を

    開始する。

  ■ 1578年(天正6年)9月に、 信長軍は、

    上杉領の加賀国、能登国(かがのくに、のとの

    くに、現・石川県南部・北部の相当地域)の攻

    略を開始する。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 ■ 1578年 (天正 6年)。

 

  ● 三木合戦が始まる。

  ● 播磨の別所長治が織田方

    から毛利方となる。

  ■ 三木合戦(みきがっせん、1578年3月〜

    1580年1月)が始まる。 

 

  ● 1578年(天正6年)3月に、 播磨国(は

     りまのくに、現・兵庫県南部本土の相当地

    域)の三木城主・別所長治(べっしょながは

    る)は、 信長から離反し、織田方から毛利

    方に変わり、織田軍と戦う。 

 

 

 ■ 1578年 (天正 6年)。

 

  ● 有岡城の戦いが始まる。

  ● 摂津の荒木村重が織田方

    から毛利方となる。

  ■ 1578年(天正6年)10月に、有岡城の

    戦い(ありおかじょうのたたかい、

    1578年10月〜1579年9月)が始まる。 

 

  ● 1578年(天正6年)10月に、 摂津国

   (せっつのくに、現・大阪府北西部の相当地

   域)の、有岡城主・荒木村重(あらきむらしげ)

   が、 信長から離反し、毛利氏、石山本願寺、

   足利義昭と手を結んで、信長に反抗する。 

   

 

 ■ 1578年 (天正 6年)。

 

  ● 第2次木津川口の戦いで、

    織田水軍は、石山本願寺方

    の毛利水軍を敗北させる。

  ■ 第2次木津川口(きづがわぐち)の戦い。

  ● 織田信長と石山本願寺との石山合戦の戦

    いで、 1578年(天正6年)11月に、信長

    の織田水軍は、大阪湾木津川(きづがわ)

    河口で、鉄甲船(てっこうせん)を用いて、

    石山本願寺方の毛利水軍を破り、勝利を

    得る。

 

  ● 1576年(天正4年)7月の第1次木津川口

    の戦いで 織田水軍は、毛利水軍にと戦い、

    敗れたため、その後、信長は、織田水軍を

    立て直す。

   

  ● 1578年(天正6年)年11月に、 毛利水軍

    が、 信長考案の鉄甲船の織田水軍に大敗

    をきし、 毛利 水軍は、船で、石山本願寺に兵

    糧・弾薬を運べず (第2次木津川口の戦い)。

       その後、石山本願寺は、毛利氏より船で

     物資援助を受けられなくなる。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

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#jphappenings-1579

 

 

 ■ 1579年 (天正 7年)。

 

  ● 信長は、安土城を完成させる。

  ■ 織田信長は、

    1579年(天正7年)に、近江国(おうみ

    のくに、現・滋賀県)の安土(あづち)に、

    自分の本城(= 本拠地の城) として、五層

    七重の豪華絢爛(ごうかけんらん)な天守

    閣をもつ安土城(あづちじょう)を完成させ

    る。

 

 

 ■ 1579年(天正 7年)

 

  ● (R6) 信長は、安土城を居住地

    とする。

  ● (R) 織田信長の居住地の変遷。

  ■ (R1)⇒(R6 )。

     (R1)   勝幡城    (1534年ー1538年頃)、

     (R2)   那古野城   (1538年頃ー1555年)、

     (R3)   清洲城       (1555年1563年)、

     (R4)   小牧山城     (1563年1567年)、

     (R5)   岐阜城       (1567年1579年)、

     (R6)   安土城       (1579年1582年)。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ■ (R6) 織田信長 

    (生没年:1534年ー1582年)は、

    1579年(天正7年)から

    1582年(天正10年)まで

    近江国の、安土城 (あづちじょう)

    居住する。

 

  ■ 安土城 (あづちじょう)は、 近江国(おう

    みのくに、現・滋賀県)の安土にある。

 

  ■ 織田信長は、

    1579年(天正7年)に、近江国(おうみ

    のくに、現・滋賀県)の安土に、五層七重

    の豪華絢爛(ごうかけんらん)な安土城

    (あづちじょう)を完成させ、信長の本拠

    地を安土城に移す。

 

  ■ 織田信長は、

    1582年(天正10年)5月に、近江国

    安土城を出発し、京(きょう、京都)の

    本能寺に入り、宿泊し、6月2日未明に、

    本能寺で、信長家臣の明智光秀の軍に

    囲まれて、殺害される(自害する)。

 

 

 ■ 1579年(天正 7年)

 

  ● (C5) 信長は、安土城を本城

         とする。

  ● (C) 織田信長の本城の変遷。 

  ■ (C1)5) 。

     (C1)   那古野城   (1544年頃1555年)、

     (C2)   清州城       (1555年1563年)、

     (C3)   小牧山城     (1563年1567年)、

     (C4)   岐阜城       (1567年1579年)、

    5)   安土城       (1579年1582年)。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ■ (C5) 織田信長 

    (生没年:1534年ー1582年)は、

    1579年(天正7年)から

    1582年(天正10年)まで

    近江国の、安土城 (あづちじょう)を、

    本城(ほんじょう、= 本拠地の城)とする

 

  ■ 安土城 (あづちじょう)は、 近江国(おう

    みのくに、現・滋賀県)の安土にある。

 

 

 ■ 1579年 (天正 7年)。

 

  ● 徳川氏の分裂危機を招いた、

    松平信康事件が起こる。

  ■ 松平信康自害・築山殿殺害事件。

  ● 1579年(天正7年)8月〜9月に、松平信康

    事件(ま つだいらもとやすじけん、= 松平信康

    自害・築山殿殺害事件)が起きる。

 

  ■ 家康・信康対立説。

   1579年(天正7年)に、三河国松平信康、

    家臣団 と、 遠江国の徳川家康、家臣団との

    間で、織田方と武田方のどちらに味方するか

    という路線対立が起こり、徳川氏が分裂し、 

    家康は、 8月29日に、小藪村で、家康の

    正室夫人で松平信康の生母の築山殿(つ き

    やまどの)を殺害し、 9月15日に、二俣城で、

    家康の嫡男・松平信康(まつだいらもとやす)

    を自刃(じじん、自害)させ、家康は、徳川氏

    の分裂危機を回避する。 

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 ■ 1579年 (天正 7年)。

 

  ● 有岡城の戦いが終わる。

  ● 有岡城の戦いで、織田方が勝

    ち、毛利方の摂津の荒木村重

    を敗北させる。

  ■ 有岡城の戦い(ありおかじょうのたたかい、

   1578年10月〜1579年9月)が終わる。 

 

  ● 1579年(天正7年)9月に、 毛利方の、

   摂津国(せっつのくに、現・大阪府北西部の

   相当地域)の、有岡城主・荒木村重(あらき

   むらしげ)は、 織田軍と戦い、有岡城を出

   て援軍を毛利勢に求めたが得られず、有岡

   城は落城し、信長に敗れる。 

 

 

 ■ 1580年 (天正 8年)。

 

  ● 三木合戦が終わる。

  ● 三木合戦で、織田方が勝ち、

    毛利方の播磨の別所長治

    敗北させる。

  ■ 三木合戦(みきがっせん、1578年3月〜

    1580年1月)が終わる。 

 

  ● 1580年(天正8年)1月に、 毛利方の、 

    播磨国(はりまのくに、現・兵庫県本土南部

    の相当地域)の三木城主・別所長治(べっし 

    ょながはる)は、自刃(自害)し、三木城(み

    きじょう)を開場し、織田軍に降伏する。 

 

 

 ■ 1580年 (天正 8年)。

 

  ● 石山合戦の終り。

  ● 石山合戦で、信長は、勝ち、

    石山本願寺を打倒する

  ■ 石山合戦( いしやまがっせん、1570年−

    1580年)が終わる。

 

  ● 1580年(天正8年)8月に、 教如が大

   阪を退去し、織田信長は、石山本願寺(いし

   やまほんがんじ)を打倒する(屈服させる)。 

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 ■ 1581年 (天正 9年)。

 

  ● 信長が、京(京都)で、馬揃え

         を行なう。

  ■ 京都御馬揃え (きょうとおうまぞろえ)。

  ● 1581年(天正9年)2月 28日に、織田信長  

    は、京(きょう、京都)の内裏(だいり 、天皇

    住居)東の馬場で、 馬揃え (うまぞろえ)

    を行う。 

       馬揃えは、現在の軍事パレードに相当

    する。

 

  ● 京都御馬揃え  (きょうとおうまぞろえ)とは、

    1581年(天正9年)2月 28日に、織田信長

    が京(きょう、京都)で行った、大規模な観兵

    式(かんぺいしき、軍事パレード) である。

 

  ● 京都御馬揃え を行った理由としては、

    (1) 天皇側から織田信長に査閲(さえつ)を

       希望し馬揃えを行ったという説 と、

    (2) 織田信長が朝廷を威圧するため馬揃え

       を行ったという説、

    がある。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 ■ 1581年 (天正 9年)。

 

  ● 織田軍の秀吉が鳥取城を兵糧

     攻めで落とし、因幡国を攻略。

  ■ 鳥取城の兵糧攻め(鳥取城の渇え殺し)。

  ● 1581年(天正9年)4月から10月まで、 

    織田軍の豊臣秀吉(羽柴秀吉)は、 鳥取

    城を兵糧攻めにし鳥取城を落とし、これは、

    「鳥取城の渇え殺し(かつえごろし))」と呼

    ばれ、悲惨な城攻めとなり、 因幡国(い

    なばのくに、現・鳥取県東部)を攻略する。 

 

  ● 織田軍の秀吉が岩屋城を落と

     し淡路国を攻略。

  ■ 1581年(天正9年)に、織田軍の豊臣

    秀吉(羽柴秀吉)は、 岩屋城を落として淡

    路国(あわじのくに、現・兵庫県淡路島)

    攻略する。

 

 

 ■ 1581年 (天正 9年)。

 

  ● 信長は、第2次天正伊賀の乱

    で伊賀を攻略。

  ■ 第2次天正伊賀(てんしょういが)の乱。

  ● 1581年(天正9年)に、 織田信長は、

    約6万人の兵の軍勢で伊賀国(いがのくに、

    現・三重県中央西部)を攻略し、織田氏の

    領地(織田領国)とする。

    

 

 ■ 1582年 (天正10年)。

 

  ● 信長は、武田氏を滅ぼす。

  ● 信長は、信濃・甲斐を平定。

  ■ 織田信長の信濃・甲斐平定。

  ● 1582年(天正10年)2月に、織田信長は、

    武田氏の信濃・甲斐へ 織田軍を侵攻

    させ、攻撃開始し、3月11日に、甲斐国田野

    で、武田勝頼・信勝父子を討ち取り (天目山

    の戦い)、 戦国大名の武田氏は滅亡する。 

        織田信長は、信濃・甲斐を平定し、

    日本の中央部を支配下におく。 

   

  ● 家康は、駿河を領有する。

  ■ 1582年(天正10年)2月に、織田軍に協力

    して、 徳川軍も、武田氏領の駿河に侵攻し

    て、駿河を占領する。 家康は、 同年に、

    この戦功により、 織田信長から駿河 国一国

    を与えられる。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 ■ 1582年 (天正10年)。

 

  ● 織田氏家臣の秀吉が備中に

    侵攻。

  ■ 織田氏家臣の秀吉の備中国侵攻。

  ■ 1582年(天正10年)に、織田軍の豊臣秀

    吉(羽柴秀吉)は、 織田軍の中国地方攻め

    で、備中国(びちゅうのくに、現・岡山県西部)

    に侵攻する。

 

  ● 織田軍の秀吉は備中の高松城

    を水攻めにする。

  ■ 備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)の

    戦い。

  ● 1582年(天正10年)に、豊臣秀吉(羽柴

    秀吉)は、 中国地方の備中国に侵攻し、 

    毛利方の清水宗治(しみずむねはる)が守

    る高松城(たかまつじょう)を、5月に、水攻

    めにする。 

 

  ● 織田軍の秀吉が信長に援軍を

    要請。

  ■ 秀吉は、 備中攻めの時、織田軍の、

    毛利輝元(もうりてるもと)、吉川元春(きっか

    わもとはる)、小早川隆景(かばやかわたか

    かげ)らを大将とする毛利軍と対峙し、信長

    に援軍を要請する。

 

  ● 信長は、明智光秀に備中の秀吉

    軍への援軍を命じる。

  ■ 信長は、 明智光秀に、1582年(天正10

    年)5月中旬に、家康の接待役の任を解き、

    備中国にいる秀吉指揮織田軍への援軍を

    命じる(命令する)。

       明智光秀は、なるべく早く援軍を準備し、

    1582年(天正10年)6月上旬前半の備中

    出兵を行なう予定であった。

 

 

 ■ 1582年 (天正10年)。

 

  ● 信長が中国地方出陣前に、

    茶事で、京に一時滞在。

  ■ 1582年(天正10年)に、 1582年(天正10

    年)5月に、織田信長は、明智光秀に、備中国

    にいる秀吉軍への援軍を命じ、 一方、信長は、

    6月上旬後半の自身の中国地方行軍予定前に、

    6月上旬前半に京(きょう、京都)で茶事(ちゃ

    じ)で茶会(ちゃかい)を開くため、安土城から、

    名物茶器を携え、京へ上洛するため、信長は、

    5月29日に安土城を出て5月29日に京の

    本能寺に到着し、京に6月上旬前半まで滞在

    する予定であった。

 

 

  ● 本能寺の変で、信長死す。

  ■ 本能寺の変。

    1582年(天正10年)6月2日未明に、明智

    光秀が、 6月1日の本能寺での茶会の翌日

    に京(きょう、京都)の本能寺にいた織田信長

    を攻め、自害させる。 信長、数え年49歳で

    死す。

 

 

 ■ 1582年 (天正10年)。

 

  ● 信長は、少数の伴と共に、上洛

    し、本能寺に滞在する

  ■ 織田信長は、1582年(天正10年)5月29

    日に、少数の伴と共に、小姓衆(こしょうしゅ

    う)のみを連れて、京(きょう、京都)へ上洛し、

    京の本能寺に滞在する。

 

  ■ 織田信長は、 毛利攻めの中国地方出陣

    に、きょう、京都)で、茶会を開き、名物び

    らきの茶事を行ないたかったので、京に向か

    う。

       1582年(天正10年)6月上旬前半は、

    京京都)で、茶会を開き、名物びらきの茶事

    を行ない、その後、1582年(天正10年)6月

    上旬後半に、毛利攻めの中国地方出陣を行

    なう予定であったと考えられる。    

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 ■ 1582年 (天正10年)。

 

  ● 本能寺の変が起こる。

  ■ 本能寺の変 (ほんのうじのへん)。

  ■ 1582年(天正10年)6月に、明智光秀は、 

    備中国 (びちゅうのくに、現・岡山県西部)

    へ向かわず、 織田信長・信忠父子(おだの

    ぶなが・のぶただふし)を殺害するため、 

    京( きょう、京都)へ進軍する。 

       明智光秀は、1582年(天正10年)6月

    2日未明に、信長の滞在する本能寺を急襲

    する。

  

  ■ 1582年(天正10年)6月2日に、織田信

    長は、本能寺の変で、 自刃(じじん、自害)

    する。

      明智光秀 が、1582年6月2日未明に、

    京(きょう、京都)の本能寺にいた織田信長

    を攻め、信長を自害させる (本能寺の変)。 

    信長 は、(数え年)享年49歳で死す。 

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ● 信長 ・信忠父子が京で

    死去する。

  ■ 田信長は、 天下統一(日本本土統一)を

    めざしていが、 1582年(天正10年)6月

    2日未明に、 織田氏の重臣の一人の明智光

    秀(あけちみつひで)の謀反(むほん)により、 

    京( きょう、京都)の本能寺にて、自刃(じじん、

    自害)する (本能寺の変)。

 

  ● また、京 (きょう、京都)にいた信長の嫡男で

    織田氏の後継者田信忠( おだのぶただ)

    も、6月2日に、の二 条城にて、明智光秀に

    攻められて、自刃(じじん、自害)する

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ● 本能寺の変前の信長

    の行動。

  ■ 近江国(おうみのくに、現・滋賀県)の、安土

    城で、織田信長は、 家臣に、毛利攻めの中

    国地方出陣の準備をし、待機するように命  

    じ(命令し)、 京都滞在は5日間で、6月4日

    には淡路国(あわじのくに、現・兵庫県淡路

    島)の織田信孝(のぶたか)の閲兵に向かう

    と家臣に伝えて、安土城を出て、京(きょう、

    京都)に向かう。

       信長は、6月 上旬後半に、毛利攻めの

    中国地方出陣を予定していたと考えられる。

 

  ■ 5.29信長・安土城出⇒

     5.29信長・京の本能寺着 ・滞在

     6.1信長・本能寺茶会開催・ 酒宴・囲碁観覧。

  ● 田信長は、1582年(天正10年)5月29

    日に、小姓衆(こしょうしゅう)のみを連れて、

    多くの茶道具の名器を携えて、安土城を出

    て、上洛し(じょうらく、京都へ行き)、5月29

    日に、京(京都)の定宿の本能寺へ入る。

       1582年(天正10年)6月1日に、信長

    は、公卿(くぎょう)、僧侶ら40人を招き、

    本能寺で近衛前久(このえさきひさ)主賓の

    茶会を開き、名物びらきの茶事を行なう。 

    信長は、茶会が終わると、酒宴となり、京の

    妙覚寺から来訪した嫡子の織田信忠(のぶ

    ただ)と酒を飲み交わす。 信長は、深夜 に

    信忠が帰った後も本因坊と鹿塩の 囲碁の対

    局を見て、その後就寝する。

 

  ■ 田信長は、1582年(天正10年)5月29

    日から京都滞在は5日間であり、京都滞在の

    目的は、安土城から多くの茶道具の名器を

    携えて、京に向かっていることから、道具開き

    の茶会を開いて披露するのが目的であったと

    考えられる。

 

  ● 本能寺の変前の明智光秀

    の行動。

  ■ 5.17光秀・安土城出⇒

     5.17光秀・近江・坂本城着・滞在⇒

     5.26光秀・丹波・亀山城着⇒

     5.27光秀・愛宕山着(愛宕権現参拝 、

      宿泊)⇒

     5.28光秀・愛宕山(連歌の会)⇒

     5.28光秀・丹波・亀山城着・滞在。

  ● 亀山城明智光秀は、家康の饗応役(きょう

    おうやく)を交代後、安土城を出て、光秀は、

    1582年(天正10年)5月17日に、近江国

    (おうみのくに、現・滋賀県)の坂本城に戻り、

    更に5月26日には、領地の丹波国(たんば

    のくに、現・京都府中部)の亀山城へ向かう。 

       5月27日には、光秀は、亀山の北の

    愛宕山(あたごやま)に登って愛宕権現 (あ

    とごこんげん)に参拝し、その日は参籠(さん

    ろう、宿泊)する。 5月28日に、 光秀は、

    愛宕山で連歌の会を催し、28日中に亀山

    に帰城する。

 

  ■ 6.1明智軍・丹波・亀山城出

     6.1明智軍・柴野付近(軍議)

  ● 1582年(天正10年)6月1日に、明智 光秀

    は、 約1万3000人の兵を率いて、丹波・

    亀山城を出陣する。 その後、光秀は、酉の

    刻(とりのこく、午後6時頃)、亀山の東の柴野

    付近で、軍議を開き、重臣たちを集めて、ここ

    で初めて謀反のことを告げる。

 

  ■ 6.1明智軍・柴野付近(軍議)⇒

     6.1明智軍・老ノ坂峠⇒

          6.1明智軍・沓掛着(夜中、休息)。

  ● 西国への道は、当時、南の三草山を越える

    のが普通であったが、1582年(天正10年)

       6月1日に、光秀は、老ノ坂峠を越えると、

    沓掛で夜中に休息をとる。 沓掛は、京(京

    都)への道と西国への道の分岐点であった。

 

  ■ 6.1明智軍・沓掛(夜中、休息)出

     6.2明智軍・掛川着(戦闘準備)⇒

     6.2明智軍・京都市中。

  ● その後、光秀は、沓掛から掛川へ向かい、

    1582年(天正10年)6月2日未明に、掛川

    に到着する。 掛川で、光秀は、兵に戦闘準

    備を命じる。 掛川を越えたあたりで夜が明

    ける。 

           6月2日未明に、光秀は、重臣の先鋒

    の斎藤利三を京都市中に入らせ、兵を連れ

    て目的地の本能寺へ急ぐよう下知する。 

        襲撃は重臣とその部下に実行させ、総

    指揮官の光秀は本能寺の現場へ行ったかど

    うかは不明である。

 

  ■ 6.2明智軍・京都市中

     6.2明智軍・本能寺完全包囲⇒

      6.2明智軍・本能寺襲撃⇒

     6.2本能寺炎上・信長自害。

  ● 1582年(天正10年)6月2日曙(あけぼの)

    (午前4時頃)、明智勢は、本能寺を完全に

    包囲し終える。 

      信長や小姓衆(こしょうしゅう)は、最初、

    この喧噪(けんそう)は、下々の者の喧嘩(け

    んか)だと思っていたが、明智勢が声をあげて

    御殿に鉄砲を撃ち込んできた (「信長公記」

    より)。 信長は、蘭丸に物見に行かせたとこ

    ろ、蘭丸が明智の軍勢と見受けられますと報

    告し、信長が「是非に及ばす」(やむをえぬ)と

    一言いったという (「信長公記」より)。

       既に御殿には火がかけられていて、信長

    は、殿中の奥深くに篭(こも)り、内側から納戸

    を閉めて自害する (「信長公記」より)。

       明智光秀軍の本能寺への討ち入りが終

    わったのが辰の刻(午前8時前)とする (「信

    長公記」より)。

 

  ● 政権が終わる。

  ■ 信長は、 天下統一(日本本土統一)をめざ

    した。 

       織田信長は、新社会秩序の構築をめざ

    した。 明智光秀は、旧社会秩序の回復をめ

    ざした。

    

  ● 本能寺の変発生時の織田方の

    主な武将の居場所。

  ■ 本能寺の変発生時の1582年6月2日の織

    田方の主な武将の居場所。

 

  ● 織田氏部将の柴田勝家 (しばたかついえ)

    は、 

    北陸地方の、越中国 (えっちゅうのくに、現・

    富山県)の、魚津城(うおづじょう)で、上杉勢

    (上杉氏)の、上杉景勝(うえすぎかげかつ)

    の軍と交戦中であった (魚津城の戦い)。

    

  ● 織田氏部将の滝川一益 (たきがわかずま

    す)は、 

    関東地方の、上野国(こうずけのくに、現・群

    馬県)の、厩橋城(まやばしじょう、前橋城)で、

    北条勢(小田原北条氏)を牽制中であった。

 

  ● 織田氏部将の織田信孝、丹羽長秀 (おだの

    ぶたか、たんばながひで)は、

    近畿地方の、堺 (さかい、現・大阪府堺市)

    で、四国征伐織田軍を編成中であった。

 

  ● 織田氏部将の羽柴秀吉 (はしばひでよし)

    は、

    中国地方の、備中・高松 (びっちゅう・たかま

    つ、現・岡山県南中部・岡山市高松)で、毛利

    勢(毛利氏)と交戦中であった。

 

  ● 織田氏の同盟者の大名の徳川家康 (とくが

    わいえやす)は、

    京(きょう、京都)に向かう途中で、近畿地方

    の、堺と京(京都)との中間地点付近の、

    飯盛山(いいもりやま)を移動中であった。

       飯盛山 (いいもりやま、河内国飯盛山)は、

    近畿地方の、現在の大阪府の、四条畷市(し

    じょうなわてし)と大東市(だいとうし)にまた

    がる山であり、 堺 (さかい、現・大阪府堺

    市) と 京(きょう、京都) との中間地点付近

    にある。

 

 

 ■ 1582年 (天正10年)。

 

  ● 家康の伊賀越え。

  ■ 家康の伊賀越え (= 神君伊賀越え)。

  ● 本能寺の変発生時の1582年(天正10年)

    6月2日時点で、 徳川家康は、京(きょう、

    京都)に向かう途中で、堺と京(京都)との

    中間付近の飯盛山(いいもりやま)を移動中

    であった。

 

  ● 1582年(天正10年)5月に、徳川家康は、

    織田信長により、京(きょう、京都)に招かれ、

    京で織田信長・信忠父子の接待を受け、そ

    の後、堺(さかい)へ行き、1582年(天正

    10年) 6月2日時点では、京(京都)に戻る

    途中で、飯盛山(いいもりやま)を移動中

    あった。 

 

  ● 飯盛山 (いいもりやま、河内飯盛山)は、

    近畿地方の、現在の大阪府の、四条畷市

    (しじょうなわてし)と大東市(だいとうし)に

    またがる山であり、 堺 (さかい、現・大阪

    府堺市) と京(きょう、京都) との中間地

    点にある。

 

   ■ 1582年(天正10年)6月に、本能寺の

    変後、少人数の伴しかいない徳川家康は、 

    6月2日に飯盛山から自分の領国へ向けて

    馬で出立し、明智光秀の軍を避けるため、

    山城国宇治田原、近江国甲賀小川経由で、

    桜峠から、難所の伊賀を越えて逃走し、

    伊勢国(いせのくに、現・三重県北部・中

         央中部)から船で伊勢湾を渡り、6月5日

    頃に、三河国(みかわのくに、愛知県東部)

    の大浜に到着し、三河国・岡崎城に帰還し、

    無事に、家康の領国(三河国・遠江国・駿河

    国)に戻る。

 

 

 ■ 1582年 (天正10年)。

 

  ● 秀吉が明智光秀を討つ。

  ■ 1582年(天正10年)6月に、本能寺の変で

    信長の死去を知った豊臣秀吉(羽柴秀吉)は、 

    山崎の戦いで勝ち、明智光秀を討つ。

  ● 1582年(天正10年)6月に、秀吉は、京(京

    都)に近い、山崎で、明智光秀と交戦し勝ち 

    (山崎の戦い)、光秀は、敗走中、農民に殺さ

    れる。

 

  ● 秀吉の中国大返し。

  ■ 秀吉の中国大返し。

  ● 備中の高松城を水攻めにしていた豊臣秀吉

    (羽柴秀吉)は、

    1582年(天正10年)6月3日に、本能寺の

    変で信長の死去を知ると、 急いで、高松城

    城主・清水宗治(しみずむねはる)の自刃(じ

    じん、自害)を条件にして毛利氏の毛利輝元

    (もうりてるもと)と講和し、 京( きょう、京都)

    に向け秀吉指揮織田軍を動かす。 

 

  ● 備中・高松 (びっちゅう・たかまつ、現・岡

    山県南中部・岡山市高松) にいた豊臣秀

    吉(羽柴秀吉)は、

    1582年(天正10年)6月3日に本能寺の

    変の報を入手し、 すぐに、秀吉は毛利軍

    と和議を結び、 6月4日に秀吉は清水宗治

    の自刃の検分を行い、 6月5日〜6日に秀

    吉は備中・高松より撤兵し、 6月7日に秀吉

    は姫路城 (ひめじじょう、現・兵庫県南中部・

    姫路市)に到着し、 6月11日に秀吉は尼崎

    (あまがさき、現・兵庫県南東部・尼崎市)に

    到着する。 6月11日に秀吉は、富田(とん

    だ、現・大阪府高槻市富田町)で軍議を開き、

    6月11日〜12日に羽柴秀吉軍は、山崎(や

    まざき、現・京都府大山崎町)に向かう。 

    1582年(天正10年)6月12日に、秀吉は、

    自軍と共に山崎に到着する。

  

  ● 山崎の戦いで、秀吉が明智

    光秀に勝つ。

  ■ 山崎(やまざき)の戦い。

  ● 1582年(天正10年)6月13日に、豊臣秀

    吉(羽柴秀吉)は、

    京(きょう、京都)に近い、山崎で、明智光秀

    と交戦し、勝利を得る。 約2万の兵の羽柴

    秀吉軍と約1万の兵の明智光秀軍の戦いで

    あった。

 

  ● 1582年(天正10年)6月12日頃から、羽柴

    秀吉軍と明智光秀軍の両軍は、

    山崎付近の円明寺川(現・小泉川)を挟(はさ)

    んで対陣する。 

      山崎付近で局地的な戦闘はあったものの、

    6月13日の午後4時頃に、本格的な戦闘の

    先端が開かれ、2時間ほど経過して、日没頃

    に、明智光秀軍が総崩れとなり、壊滅し、敗北

    する。

      光秀は、戦線後方の勝龍寺城に退却する。

 

  ● 明智光秀の死去。

  ■ 1582年(天正10年)6月13日に、山崎の

    戦いの敗戦後、戦線後方の勝龍寺城にいた

    明智光秀は、

    勝龍寺城の北門を夜陰にまぎれて密かに脱

    出し、近江国(おうみのくに、現・滋賀県)の

    居城・坂本城を目指して落ち延びる途中、

    光秀は、敗走中、6月14日の丑の刻(うしの

    こく、午前2時頃)に、小栗栖(おぐるす、京都

    市伏見区東部)で、農民に殺される。

 

 

 ■ 1582年 (天正10年)。

 

  ● 清洲会議が開かれる。

  ■ 清洲会議 (きよすかいぎ)。

  ● 1582年(天正10年)6月27日に、秀吉は、

    清洲城(きよすじょう)にて、他の織田氏の

    3重臣と相談し、信長の後継者と遺領の分割

    を決める。

  ● 当日出席した織田氏の4人の重臣の、羽柴

    秀吉(はしばひでよし)、柴田勝家(しばたか

    ついえ)、丹羽長秀(にわながひで)、池田

    恒興(いけだつねおき)には、会議前に、

    既に、織田氏の一族、同盟者などの利害関

    係者からの意向が伝えられていた。

 

  ■ 1582年(天正10年)6月27日に、羽柴秀

    吉(豊臣秀吉)は、 清洲城 (きよすじょう、

    現・愛知県清須市)にて、他の織田氏の重臣

    3人と共に、清洲会議 (きよすかいぎ)を開

    き、 清洲会議の四者会談で、 織田信長の

    後継者と遺領の分割、織田氏領地再配分を

    決める。

 

  ● 織田信長の後継者は、 織田信長の嫡孫

    (織田信忠の嫡男)の三法師 (さんぽうし、

    さんぼうし、織田秀信(ひでのぶ))と決まる。

 

  ● 清洲会議に参加した者は、 史実では、

    羽柴秀吉(豊臣秀吉)、柴田勝家、丹羽長秀

    (たんばながひで)、池田恒興(いけだつねお

    き)の4名の織田氏重臣のみである。

 

  ● 清洲会議の織田氏領地再配分。

  ■ 清洲会議で決まった織田氏領地再配分は、

    次の通りである。

 

  ● 織田氏経営委任地 (織田信長が生前織田

    氏部将に経営を委任していた領地)は、原則

    として、そのまま、その部将の領地となる。

  ● 三法師(織田秀信)は、近江国坂田郡と安土

    城を相続する。

  ● 信長次男の織田信雄は、尾張国(おわりの

    くに、現・愛知県西部)を相続する。

  ● 信長三男の織田信孝は、美濃国(みののく

    に、現・岐阜県南部)を相続する。    

  ● 信長四男の羽柴秀勝は、明智光秀の旧領

    の丹羽国(たんばのくに、現・京都府中部)を

    得る。        

  ● 柴田勝家は、越前国(えちぜんのくに、現・

    福井県東部)などの織田氏経営委任地を安

    堵(あんど)される。

  ● 丹羽長秀は、若狭国などの織田氏経営委任

    地を安堵され、近江国(おうみのくに、現・滋

    賀県)の2郡を増量(加増)される。

  ● 池田恒興は、織田氏経営委任地を安堵され、

    摂津国(せっつのくに、大阪府西北部)の3郡

    を増量(加増)される。

  ● 羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、中国地方の織田

    氏経営委任地以外に、河内国(かわちのくに、

    大阪府東部)、山城国(やましろのくに、京都

    府南部)を増領(加増)される。

       但し、勝家の希望で秀吉の北近江(きた

    おうみ、現・滋賀県北部)3郡と長浜城は、勝

    家養子の柴田勝豊(しばたかつとよ)に譲ら

    れる。

  ● 滝川一益は、伊勢国(いせのくに、現・三重

         県北部・中央中部)などの織田氏経営委任

    地を安堵(あんど)される。 

       但し、北条氏に奪取された、旧武田領国

    の織田領の上野国(こうずけのくに、現・群馬

    県)は、徳川氏に委(ゆだ)ねる。

  ● 旧武田領国の織田領は、 天正壬午の乱

    (てんしょうじんごのらん、1582年6月〜10

    月)で北条氏、上杉氏に侵略され奪取されて

    も、織田氏部将は奪還せず、徳川家康の進

    出を了承し(平定を容認し)、徳川氏に委(ゆ

    だ)ねる。

 

  ● 清洲会議後、織田氏家臣団は、

    羽柴方と柴田方に分裂。

  ■ 1582年(天正10年)6月27日の清洲会議後、

    織田氏の家臣団は、 羽柴方 と 柴田方に分

    裂する。

       羽柴方には、 丹羽長秀、池田恒興、織

    田信雄(おだのぶかつ)などであり、 柴田方

    は、 織田信孝(おだのぶたか)、滝川一益(た

    きがわかずます)などである。

 

 

□ 信長の父・織田信秀の本城・居城の変遷へ

□ 織田信長 居住地、本城・居城の変遷へ

 

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#jpcontentsofthisbook

 

◆ 織田信長 関連年代順

   出来事ブックの内容 :

 

  ■ 初学者・初心者向 織田信長ガイドブック。

 

  ■ 初学者・初心者向 織田 信長 (おだ のぶ 

    なが)関連 電子書籍。

 

  ■ パソコン、携帯パソコン(PC)、スマート

    テレビ、タブレット端末(PC)、スマートフォン、

    ウェアラブル端末 用 電子書籍。

 

  ■ この本1冊で (このホームページ1つで)、 

    織田信長のこと(概略)が、一通り、わかる。

 

  ■ 織田信長は、 

    室町時代後期(戦国時代)(1467年〜1573

     年)、安土桃山時代 (1573年〜1603年)

    に活躍した武将であり、  

    尾張国 (おわりのくに、現・愛知県西部の

    相当地域)の戦国大名、国主であり、 近世

    日本の改革者であり、 近畿地方を中心に

    日本の中央部を支配下に入れる。

 

  ■ 織田 信長の 入門ガイドブック。

 

  ■ 織田 信長初心者・初学者向 インター

    ネット用 オンライン書籍(ブック)。

 

  ■ 日本史書、日本史の電子書籍。

 

  ■ パソコン、携帯情報端末(PDA)用 電子書籍。

 

  ■ TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

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#jphappenings/summary

 

 

◆ 織田信長 関連

   出来事

   (概要・総合)。

 

 □ 織田信長 関連出来事

       (概要・テーマ別各事柄)

 

 

  ■ 当書籍では、 歴史の出来事の5W1H

    (いつ、どこで、だれが、何を、なぜ、どの

    ように) や、 歴史の出来事の流れ(原因

    理由⇒事件勃発⇒経過⇒結果⇒原因理

    由)に沿って、歴史(過去)の出来事を分か

    り易く、説明している。

  

  ■ 1534年(天文3年)に、 織田 信長 

  (おだのぶなが、幼名・吉法師(きっぽうし))

  は、 織田 信秀 (おだ のぶひで)の子と

  して、誕生する。 

     1534年(天文3年)から1546年 (天文

  15年)までの間に、織田信長 (吉法師)は、 

  幼年で(元服(げんぷく、成人)前に)、 那古

  野城(なごやじょう)を、父・織田信秀より譲ら

  れ、那古野城・城主となる。

     1546年(天文15年)に、信長(吉法師)

  は、元服(げんぷく、成人)し、三郎信長(織田

  三郎、織田信長)と称す。 

     1548年 (天文17年)に、 信長の父の

  織田信秀 と 美濃の戦国大名の斉藤道三

  との和睦が成立し、1549年(天文18年)に、

  信長は、斉藤道三の娘、帰蝶(きちょう、濃姫

  (のうひめ))と政略結婚する。 

     1553年(天文22年)に(異説では15

  49年(天文18年)に)、信長は、斉藤道三と

  会見する。 

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ■ 1551年(天文20年)に、父・織田信秀が

   急死する (1552年(天文21年)、1549年

   (天文18年)の死去説もある)。

    その後、織田信長は、 信秀の家督を 継ぐ。

  家督相続後、 弟の織田信勝(信行)と家督争

  いに勝ち、また信長に敵対した尾張・下四郡の

  守護代の織田信友を攻めて、殺害し、清洲城

  へ入り、清洲織田家の頭領となり、 尾張・下

  四郡(尾張国南部)を支配する。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ■ 1556年(弘治2年)に、斉藤道三(利政)が子

  の斉藤義龍と戦い、織田信長は、 道三(利政)

  に援軍を出したが、間に合わず、道三は戦いに

  敗れて死去する。 これを好機と見た弟の織田

  信勝(信行)は、同年8月に、信長に対し挙兵し

   たが、敗北して、信長に赦免される。 

     しかし、1557年(弘治3年)に、 再び信

  長に対し謀 反(むほん)を企てた実弟の織田

  信勝 (信行)を、信長は、 清洲城にて、殺害

  する。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ■ 1558年(永禄元年)に、織田信長は、 尾張

  国・上四郡(尾張国北部)を支配する守護代で

  岩倉(いわくら)城主の、織田 信賢(のぶかた)

  の軍を破る。 

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ■ 1559年(永禄2年)に、信長は、 岩倉城を落

    城させ織田信賢を追放し、 新たに尾張守護と

    なった斯波義銀 (しばよしかね)も追放し、尾

    張の国内の支配権を確立し、 尾張国(おわり

    のくに、愛知県西部)一国を統一する。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ■ 1560年(永禄3年)に、織田信長は、 桶狭

    間の戦いで、今川義元を破る。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ■ 1567年(永禄10年)に、 織田信長は、 美

  濃国 (みののくに、現・岐阜県南部の相当地

  域)の斉藤氏を滅ぼす。 その後、1568年

  (永禄11年)に、 足利義昭(よしあき)を擁立

  して、上洛し(京都へ上り)、義昭を、室町幕府

  (= 足利幕府)の15代将軍に就ける。 

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ■ 1570年(元亀元年)に、姉川の戦いで、浅井・

    朝倉氏の連合軍を破り、 1571年(元亀 2年)

    に、浅井・朝倉氏に味方する比叡山を焼討ちし、 

    1573年(元亀4年)に、朝倉氏・浅井氏を滅ぼ

    し、 1573年(元亀4年)に、信長を裏切った足

    利義昭を追放し、 室町幕府(= 足利幕府)を滅

    ぼす。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ■ 1575年(天正3年)に、 織田信長は、長篠・

    設楽が原(ながしの・しだがらはら)の戦いで、 

    武田勝頼の率いる武田軍を鉄砲隊を使って破

    る。 また、1579年(天正7年)に、安土城を

    築き、 1580年(天正8年)に、石山本願寺を

    屈服させ、 1582年(天正10年)に、武田

    勝頼の率いる武田氏を滅ぼし、日本の中央部

    を支配下におく。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ■ 織田信長は、 

    天下統一(日本本土統一)をめざしたが、

    1582年(天正10年)6月に、 織田家 の重臣

    の一人の明智光秀(みつひで)の謀反(むほ

    ん)により、 京(きょう、京都)の本能寺で、

    自害する(本能寺の変)。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

□ 信長の父・織田信秀の本城・居城の変遷へ

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#jphappenings/summary-a

 

 

◆ 織田信長 関連

   出来事 (概要・

   テーマ別各事柄)。

 

 

   □ 信長の父・織田信秀

      の本城・居城の変遷

 

   □ 織田信長 居住地、

      本城・居城の変遷

 

     □ 織田信長の居住地の変遷

     □ 織田信長の本城・居城の

        変遷

 

 

#jphappenings/summary-per2110

#jphappenings/summary-per5100

 

 

#jphappenings/summary-e

 

 

◆ 信長の父・織田信

     秀の本城・居城の

     変遷。

 

 

 ■ (C) 織田信秀の本城の変遷。

  ■ (C1)⇒(C4) 。 

     (C1)  勝幡城

                  (1527年頃ー1538年頃)、

     (C2)  那古野城

                  (1538年頃ー1544年頃)、

     (C3)   古渡城

                    (1544年頃ー1548年)、

     (C4)   末森城

                     (1548年ー1552年頃)。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

   信長の父の織田信秀 (おだのぶひで、

     生没年:1511年ー1552年頃)は、

     自分の(C)本城(ほんじょう、= 本拠地の

     城)を、次のような順序で、移動する

             

  ●  (1) 勝幡城 (しょばたじょう、尾張国

         (おわりのくに、愛知県西部)を、

         1527年(大永7年)頃から

         1538年(天文7年)頃まで、

         本城、居城とする。

         (永正年間に信長の祖父・織田信定

         が勝幡城を築城)。

             

  ●  (C2) 那古野城  (なごやじょう、尾張国 )を

         1538年(天文7年)頃から 

         1544年(天文13年)頃まで

         本城、居城とする。

         (大永年間(1521年ー1528年)に

         今川氏親が那古野城を築城、信長の 

         父・織田信秀が1538年頃今川氏豊

         より那古野城を奪い取る)。

             

  ●  (C3) 古渡城 (ふるわたりじょう、 尾張国)を

        1544年(天文13年)頃から

        1548年(天文17年)まで

        本城、居城とする。

        (信長の父・織田信秀が1534年

        (天文3年)に古渡城を築城)。

 

  ●  (C4) 末森城 (すえもりじょう、尾張国 )を

        1548年(天文17年)から

        1552年(天文21年)まで

        本城、居城とする。

        (信長の父・織田信秀が1548年

        (天文17年)に末森城を築城)。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

□ 信長の父・織田信秀の本城・居城の変遷へ

□ 織田信長 居住地、本城・居城の変遷へ

 

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#jphappenings/summary-f

 

 

◆ 織田信長の居住地、

     本城・居城の変遷。

 

   □ 織田信長の居住地の

           変遷

 

   □ 織田信長の本城・居城

      の変遷

 

 

□ 信長の父・織田信秀の本城・居城の変遷へ

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#jphappenings/summary-f1

 

 

◆ 織田信長の居住

   地の変遷。

 

 ■ (R) 織田信長の居住地の変遷。

  ■ (R1)⇒(R6 )。

     (R1)   勝幡城    (1534年ー1538年頃)、

     (R2)   那古野城   (1538年頃ー1555年)、

     (R3)   清洲城       (1555年1563年)、

     (R4)   小牧山城     (1563年1567年)、

     (R5)   岐阜城       (1567年1579年)、

     (R6)   安土城       (1579年1582年)。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ■ 織田信長 (生没年:1534年 ー1582年)は、

    自分の(R)居住地を、次のような 順序で、

    移動する

 

  ● (R1) 勝幡城 (しょばた じょう、尾張国(お

         わりのくに、現・愛知県西部)に、

         1534年(天文3年)から

         1538年(天文7年)頃まで

         居住する。

 

  ● (R2) 那古野城 (なごや じょう、尾張国)に、

         1538年(天文7年)頃まで

                    1555年(天文24年)まで

         居住する。

 

  ● (R3) 清州城 (きよすじょう、 清須城(きよす

         じょう)、尾張国)に、

         1555年(天文24年)から

         1563年(永禄6年)まで

         居住する。

 

  ● (R4) 小牧山城 (こまき やまじょう、尾張国)に、

         1563年(永禄6年)から

         1567年(永禄10年)まで

         居住する。

 

  ● (R5) 岐阜城 (ぎふじょう、 美濃 国(みののく

         に、現・岐阜県南部)に、

         1567年(永禄10年)から

         1579年(天正7年)まで

         居住する。

 

  ● (R6) 安土城 (あづちじょう、 近江国(おうみの

         くに、現・滋賀県)、

         1579年(天正7年)から

         1582年(天正10年)まで

         居住する。

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#jphappenings/summary-f2

 

 

◆ 織田信長の本城・

     居城の変遷。

 

 ■ (C) 織田信長の本城 、居城の変遷。

  ■ (C1)5) 。

     (C1)   那古野城   (1544年頃1555年)、

     (C2)   清州城       (1555年1563年)、

     (C3)   小牧山城     (1563年1567年)、

     (C4)   岐阜城       (1567年1579年)、

    5)   安土城       (1579年1582年)。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

  ■ 織田信長 (生没年:1534年 ー1582年)は、

    自分の(C)本城(ほんじょう、= 本拠地の城)、

    居城を、次のような順序で、移動する

             

  ● (C1) 那古野城 (なごや じょう、尾張国(おわ

         りのくに、現・愛知県西部)、現・名古屋

         城二の丸付近)を、

         1544年(天文13年)頃 から

                    1555年(天文24年)まで

         本城、居城とする

 

  ● 2) 清州城 (きよすじょ う、別名:清須城

         (きよすじょう)、尾張国(おわりのくに、

         現・愛知県西部)を、

         1555年(天文24年)から

         1563年(永禄6年)まで

         本城、居城とする

 

  ● 3) 小牧山城 (こまきやま じょう、尾張国)を、

         1563年(永禄6年)から

         1567年(永禄10年)まで

         本城、居城とする

 

  ● 4) 岐阜城 (ぎふじょう、 美濃国(みののくに、

         現・岐阜県南部)を、

         1567年(永禄10年)から

         1579年(天正7年)まで

         本城、居城とする

 

  ● 5) 安土城 (あづちじょう、 近江国(おうみの

         くに、現・滋賀県)を、

         1579年(天正7年)から

         1582年(天正10年)まで

         本城、居城とする

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 『 あなたのハートには 

    何が残りましたか? 』。

 

 

 

以  上