TKKI カナヤマ オフィシャル ホームページ。

   TKKI KANAYAMA’S OFFICIAL HOMEPAGE.

◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY 

   HANDBOOK

◆ カナヤマ豊臣秀吉ガイドブック。

     KANAYAMA’S GUIDEBOOK ON 

  TOYOTOMI Hideyoshi.  

 

 

    (Kjhh)41516

  カナヤマ  

  豊臣秀吉

  関連 年代順

  出来事ブック。 』

 

 

  ■ パソコン(PC)、 携帯用パソコン(PC)、

    タブレット端末(PC)、 スマートフォン、

    ウエアラブル端末、 スマートテレビ用

    電子書籍。

 

 

#jpmenu 

メ ニュー (目次)。  

 ■ 次の項目から選んで、クイックして下さい。

 

 □ 豊臣秀吉 関連出来事

    (総合)

 

 □ 豊臣秀吉 関連年代順

    出来事(各年・詳細)

 

 □ 豊臣秀吉 関連出来事

    (概要・綜合)

 

  □ 豊臣秀吉 関連出来事

     (概要・各事柄)

 

   □ 豊臣秀吉 居住地、本

      城、政務居城の変遷

 

    □ 豊臣秀吉の居住地の変遷

    □ 豊臣秀吉の本城の変遷

    □ 豊臣秀吉の政務居城の変遷

 

 

 □ 豊臣秀吉ガイドブック   

 

   □ 豊臣秀吉の一族・一門

      (豊臣氏一族・一門)。

 

 

 ■ 江戸幕府と同時代近くの関係史料。 

 

  □ 豊臣 秀吉 画像 No.1

 

  □ 豊臣氏 画像アルバム  

     No.20

 

  □ 豊臣氏 画像アルバ ム

      No.30

 

   □ 豊臣氏 画像アルバム

      No.80

 

   □ 織田信長ガイドブック

   □ 織田信長 関連年代順出来事

      ブック

 

   □ 徳川家康ガイドブック 

   □ 徳川家康 関連年代順出来事

     ブック

 

   □ 室町幕府ガイドブック

    □ 室町幕府 関連年代順出来事 

      ブック。 

 

   □ 江戸幕府ガイドブック 

    □ 江戸幕府 関連年代順出来事

           ブック。 

         

 

 

 

  □ 豊臣秀吉 関連年代順

    出来事ブックの内容

 

 

 

 ■ 上位のWEBサイト。 

 □ (KOH) カナヤマ オフィシャル   >

          ホームページ。   

 □ (Cse)  国際理解総合サイト     > 

         われら地球市民。 

 □ (Ke)   百科事典。           >

 □ (Khh)  歴史学ハンドブック      > 

 □ (Kjhh) 日本史ハンドブック。     > 

 □ (Kjhh)  豊臣秀吉ガイドブック。    > 

 □ (Kjhh)  豊臣秀吉 関連          > 

          年代順出来事ブック

 □ (Kjhh)  この日本語ページ。

 

 ■ カナヤマ 主要 公式ホームページ

    略語一覧表。

   KOH   CSE   UCF  KHAS (KASH) 

   CCF   KBIH   KPH    HCF  KANH

     QGN  KWDB TTFW  TTWH  AWM 

   KGJ   KJHH   KH H  KCB   KCTS

    IMB   KHIB  RH  KIOS  KE LKOH  

     GIMEH  ETCSS GIMJH JTCSS EP

 

  □ 主要サイトの略語・説明表

 

 

□ 出来事ブックのメニュー(目次)の先頭ページへ

□ 出来事ブック(総合)ページへ

□ 出来事ブック(各年・詳細)ページへ

□ 出来事ブック(概要・総合)ページへ

□ 出来事ブック(概要・テーマ別各事柄)ページへ

□ 豊臣秀吉ガイドブック へ。 

□ 日本史辞典 ・日本語版の先頭ページへ。  

□ 日本史ハンドブック ・日本語版 の先頭ページへ

 

 

      ようこそ TKK カナヤマ のホームページへ !      WELCOME TO TKK KANAYAMA’S HOMEPAGE !

 

 

◆ カナヤマ  豊臣秀吉

   ガイドブック。

 

 ■ 当ホームページの制作・著作権 TKKI カナヤマ。

 

 

#jpcontentsofthisbook

 

 

◆ 豊臣秀吉 関連年代順

   出来事ブックの内容 :

 

 

  ■ 初学者・初心者向 インターネット用 

       豊臣秀吉ガイドブック。

 

   ■ パソコン(PC)、 携帯パソコン(PC)、 

   タブレット端末(PC)(iPad、他)、

   スマートフォン(iPhone、他)、

    ウエアラブル端末、 スマートテレビ用 

   インターネット向  電子書籍。

 

  ■ この本1冊で (このホームページ1つで)、 

   豊臣秀吉のこと(概略)が、一通り、わか る。

 

  ■ 豊臣秀吉は、 室町時代後期(戦国時代、14

     67年〜1573年)、安土桃山時代(1573年

    〜1603年) の 尾張国(おわりのくに、現在

    の愛知県西部の相当地域) の 農民であり、 

    織田信長の家臣となり、 武将、戦国大名

    なり、 後に、 豊臣政権を樹立し、日本全国を

    統一する。

 

  ■ 初学者・初心者向 豊臣 秀吉 ガイドブック。

 

  ■ 初学者・初心者向 豊臣 秀吉 (とよとみ ひで 

    よし)関連 電子書籍。

 

  ■ 豊臣 秀吉 ガイドブック (要覧)。

 

  ■ 豊臣 秀吉 の 入門ガイドブック。

 

  ■ 豊臣 秀吉 の 初学者・初心者向インターネット 

    用 オンライン書籍(ブック)。

 

  ■ 日本史書、日本史の電子書籍。

 

  ■ パソコン、携帯情報端末(PDA)用 電子書籍。

 

  ■ TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

□ 出来事ブックのメニュー(目次)の先頭ページへ

□ 出来事ブック(総合)ページへ

□ 出来事ブック(各年・詳細)ページへ

□ 出来事ブック(概要・総合)ページへ

□ 出来事ブック(概要・テーマ別各事柄)ページへ

□ 豊臣秀吉ガイドブック へ。 

□ 日本史辞典 ・日本語版の先頭ページへ。  

□ 日本史ハンドブック ・日本語版 の先頭ページへ

 

 

#jphappenings

 

 

   Kjhh) 

   豊臣秀吉 関連

   年代順出来事

   ブック。

 

 

#jphappenings/eachyear

 

 

◆ 豊臣秀吉 関連

   年代順出来事

     (詳細・各年)。 

 

 ■ 豊臣秀吉 関連年代順

    出来事。

 

 □ 1532〜1554年の出来事

 

 □ 1554〜1560年の出来事

 

 □ 1560〜1573年の出来事

 

 □ 1573〜1582年の出来事

 

 □ 1582〜1590年の出来事

 

 □ 1590〜1598年の出来事

 

         

 

 

 □ 豊臣秀吉 居住地、本

    城、政務居城の変遷

 

   □ 豊臣秀吉の居住地の変遷

   □ 豊臣秀吉の本城の変遷

   □ 豊臣秀吉の政務居城の変遷

 

 

 □ 豊臣秀吉ガイドブック   

 

   □ 豊臣秀吉の一族・一門

      (豊臣氏一族・一門)。

 

 

 ■ 江戸幕府と同時代近くの関係史料。 

 

  □ 豊臣氏 画像アルバム  

     No.20

 

  □ 豊臣氏 画像アルバ ム

      No.30

 

   □ 豊臣氏 画像アルバム

      No.80

 

  □ 豊臣 秀吉 画像 No.1

 

   □ 織田信長ガイドブック

   □ 織田信長 関連年代順出来事

      ブック

 

   □ 徳川家康ガイドブック 

   □ 徳川家康 関連年代順出来事

     ブック

 

   □ 江戸幕府ガイドブック 

    □ 江戸幕府 関連年代順出来事

          ブック。 

 

 

 

 

 ■ 西暦・和暦の記載。

  ■ この年代順出来事は、

  ● 西暦を先に、その後ろの( )内に和暦を記載し

    ている。 

  ● この年代順出来事に記載されている日付(年

    月日)は、 一般の歴史書で使用されているの

    と同じように、1872年(明治5年)以前は旧暦

    (太陰太陽暦)を用い、 1873年(明治6年)

    以後は新暦(太陽暦)を用いている。 

 

 

 ■ 備考。

 

  ■ より理解を深めるために、 本史辞典の 

    『 織田信長 (おだのぶなが)、

      今川義元 (いまがわよしも と)、

      明智光秀  (あけちみつひで)、 

      徳川家康 (とくがわ いえやす)、 

      上杉謙信 (うえすぎけんしん)、 

        北条氏康 (ほうじょううじやす)、   

            武田信玄 (たけだしんげん) 

            武田 勝頼 (たけだかつより) 』 

      の項目 も参照して下さい。

 

  ◆ では、 豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし)に関係

    する出来事を、年代順に、見てみよう。

 

  ■ さあ、 豊臣秀吉に関する色々な出来事を

    見てみよう。

 

  ● 500〜400年前頃の日本へタイムスリップ

     して、豊臣秀吉 の活動を見てみよう。

 

  ● 歴史学の立場から、 年代を追って、豊臣

    (秀吉の実像 歴史的有名な人物には、虚像

    と実像があるが)を見てみよう。

 

  ● 日付は、一般の歴史書と同様に、全て旧暦

    である。

 

  ● 歴史学の立場から、 豊臣秀吉 の生涯や

     真実の姿を見てみよう。

 

  ● 現代も、過去の時代も、人間は、利害と感情

    (友愛)等で行動し、富、名誉、権力等を手に

    入れるために、努力する。 

       人類の歴史は、 平和と戦争の歴史で

    ある。 人は、美しき者、平和を好む者であり、

    人は、醜き者、争う者でもある。

 

 

□ 出来事ブックのメニュー(目次)の先頭ページへ

□ 出来事ブック(総合)ページへ

□ 出来事ブック(各年・詳細)ページへ

□ 出来事ブック(概要・総合)ページへ

□ 出来事ブック(概要・テーマ別各事柄)ページへ

□ 豊臣秀吉ガイドブック へ。 

□ 日本史辞典 ・日本語版の先頭ページへ。  

□ 日本史ハンドブック ・日本語版 の先頭ページへ

 

 

 

◆ 豊臣秀吉 関連

   年代順出来事

     (詳細)。

 

  ■ 『 では、年代を追って、豊臣秀吉の行動を、 

      詳しく見てみよう。 』

 

 

#jphappenings-1532

 

 

 ■ 1532年 (享禄5年・天文元年)。

 

  ● 享禄年号から 天文年号に改元。

      天文年号1532年ー1555年。

  ■ 1532年(享禄5年・天文元年)に、

    天文(てんぶん、てんもん)年号に改元。 

  ● 1532年(享禄5年・天文元年)7月29日に、 

    和暦の「享禄」(きょうろく、

    享禄元年・1528年〜享禄5年・1532年) が、 

    和暦の「天文」(てんぶん、てんもん、

    天文 元年・1532年・ 7月29日〜

    天文24年・1555年・10月23日) に

    改元される。 

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1534年 (天文 3年)。

 

  ● 織田信長が誕生する。

  ■ 1534年(天文3年)に、 後に豊臣秀吉

    (木下藤吉郎、羽柴秀吉)の主君となる、

    織田信長 (おだのぶなが、幼名:吉法師

    (きっぽうし)、生没年:1534年ー1582 

    年)が、 尾張国(おわりのくに、現・愛知

    県西部の相当地域)の戦国武将・国人領

    主(こくじんりょうしゅ、小豪族)の織田信 

    秀(おだのぶひで)の子として、誕生する。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1536年 (天文5年)。

 

  ● 信玄が元服する(成人となる)。

  ■ 1536年(天文5年)3月に、 武田信玄(太 

    郎)は、元服(成人)し、 室町幕府・12代将

    軍の足利義晴(あしかがよしはる)の一字の

    晴を賜り、武田 晴信(はるのぶ)と称す。

 

 

 ■ 1537年 (天文 6年)。

 

  ● 豊臣秀吉が誕生する。

  ■ 1537年(天文6年)2月6日に (『天正記』

   や家臣・伊藤秀盛の願文の記載から)、 豊臣

   秀吉  (とよとみ ひでよし、幼名不詳(日吉丸

   ?)、生没年:1537年ー1598年)が、 

   尾張国 (おわりのくに、現・愛知県西部の相当

   地域)の中村(なかむら)で誕生する。 

      秀吉の父は、農民・足軽の弥右衛門で

   あり、秀吉の母は、農民のなかである。

 

  ■ 1537年(天文6年)2月6日に (『天正記』

   や家臣・伊藤秀盛の願文の記載から)、 豊臣

   秀吉  (とよとみ ひでよし、生没年:1537年

   ー1598年)が、 尾張国 (おわりのくに、現・

   愛知県西部の相当地域)の農民・足軽の弥右

   衛門(やえもん)の子として、誕生する。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

  ● 秀吉の誕生日では、創作の「絵本太平記」

    の1536年(天文5年)説もある。

 

  ● 秀吉の実父、弥右衛門は、 尾張国 (お

    わりのくに、現・愛知県西部の相当地域)の

    中村(現・名古屋市中村区)の農民・足軽

    であり、 秀吉の母は、「なか」で、同じく農

        民 であった。 

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1537年 (天文 6年)。 

 

  ● (R1) 秀吉は、中村の農家

          居住地とする。

  ● (R) 豊臣秀吉の居住地の変遷。  

  ■ (R1)⇒(R16)。

     (R1)   中村の農家

                   (1537年ー1551年頃)、

     (R2)   頭陀寺城付近の松下氏家臣長屋

                 (1551年頃ー1554年頃)、

     (R3)  那古野城付近 の織田氏家臣長屋

                   (1554年頃ー1555年)、

     (R4)   清洲城付近の織田氏家臣長屋

                    (1555年1563年)、

     (R5)   小牧山城付近の織田氏家臣屋敷

                    (1563年1567年)、

     (R6)   岐阜城付近の織田氏家臣屋敷

                     (1567年1573年)、

     (R7)   長浜城      (1573年ー1577年)、

     (R8)   姫路城      (1577年ー1582年)、 

     (R9)   山崎城      (1582年ー1583年)、

     (R10)  二条第(= 妙顕寺城)

                    (1583年ー1587年)、

     (R11)  聚楽第      (1587年ー1592年)、

     (R12)  名護屋城    (1592年ー1593年)、

     (R13)  豊臣大阪城  (1593年ー1594年)、

     (R14)  豊臣秀吉築指月伏見城

                     (1594年−1596年)、 

     (R15)  豊臣大阪城  (1596年ー1597年)、

     (R16)  豊臣秀吉築木幡山伏見城

                    (1597年ー1598年)

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

             

  ■ (R1) 豊臣秀吉  

     (生没年:1537年ー1598年)は、

    1537年(天文6年)から

    1551年(天文20年)まで

    尾張国の、中村(なかむら)の農家で

    居住する。

 

  ■ 中村(なかむら)の農家は、 尾張国(おわ

    りのくに、現・愛知県西部)にある。

 

  ■ 1537年(天文6年)2月6日に (『天正記』

   や家臣・伊藤秀盛の願文の記載から)、 豊臣

   秀吉  (とよとみ ひでよし、幼名不明、生没年:

   1537年ー1598年)が、 尾張国 (おわりの

   くに、現・愛知県西部の相当地域)の中村(な

   かむら)で誕生する。 秀吉の父は、 農民・

   足軽の弥右衛門であり、 秀吉の母は、農民

   のなかである。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1542年 (天文11年)。

 

  ● 徳川家康( 松平竹千代)が誕生

    する。

  ■ 1542年(天文11年)12月26日に、 

    徳川 家康 (とくがわ いえやす、幼名:竹千

    代(たけちよ)、生没年:1542年ー1616

    年)は、 三河国(みかわのくに、現・愛知県

    東部の相当地域)の、岡崎城(おかざきじょ

    う)で誕生する。

       家康の父は、 戦国武将・国人領主(こ

    くじんりょうしゅ、小豪族)で、三河国の岡崎

    城・城主の松平広忠(まつだいらひろただ)

    であり、 家康の母は、於大の方(おだいの

    かた)である。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1543年 (天文12年)。

 

  ● 謙信が元服する(成人となる)。

  ■ 1543年(天文12年)8月15日に、 

    上杉謙信(虎千代)は、元服(成人)して、 

    長尾 景虎 (ながおかげとら)と名乗る。

 

 

 ■ 1544年(天文13年)頃。

 

  ● 織田信長(吉法師)が

    那古野城の城主となる。

  ■ 織田信長(吉法師) (生没年:1534年ー

    1582年)は、 1546年(天文15年)の

    元服(げんぷく、成人)前に、幼年で、

    1534年(天文3年)から1546年 (天文

    15年)までの間に、

    1544年(天文13年)頃に、

    尾張国 (おわりのくに、現・愛知県西部)

    の、那古野城(なごやじょう)を、織田信長

    (吉法師)の父・織田信秀(おだのぶひで)

    より譲られ、那古野城の城主となる。 

 

 

 ■ 1546年 (天文15年)。

 

  ● 信長が元服する(成人となる)。

  ■ 1546年(天文15年)に、 織田信長 (生没

    年:1534年ー1582年)は、 

     父・織田信秀の本城(居城)の、古渡城(ふる

     わたりじょう)にて、数え年13歳で、元服し、

     三郎信長(織田三郎、織田信長)と称す。

        三郎は通称で、信長は諱(いみな)であ

     る。

 

 

 ■ 1547年 (天文16年)。

 

  ● 家康の人質生活の開始。  

  ■ 徳川家康 (竹千代、松平 元信、松平元康

   生没年:1542年ー1616年)は、

   1547年 (天文16年)から1560年(永禄3

   年)まで、家康の数え年6歳から19歳時まで、

   織田氏や今川氏の人質生活を送る。

 

   ● 家康が織田氏の人質になる。

  ■ 家康の織田氏人質生活の開始。

  ● 1547年 (天文16年)に、徳川家康(松平

   竹千代、生没年:1542年ー1616年)は、 

   織田氏の織田信秀(信長の父)の人質(1547 

   年〜1549年、家康の数え年6歳〜8歳時) と

   なる。

 

 

 ■ 1548年 (天文17年)。

 

  ● 尾張国の織田信秀と美濃国の

    斎藤道三利政が、和議を結ぶ。

  ■ 1548年(天文17年)に、敵対していた2者

    の、尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部)

    の、織田信秀(おだのぶひで、信長の父) と、

    美濃国(みののくに、現・岐阜県南部)の、

    斎藤道三利政(さいとうどうさんとしまさ、帰

    蝶(きちょう、濃姫)の父)が和睦し、和議を

    結び、縁組の誓約も取り交わす。  

 

 

 ■ 1549年 (天文18年)。

 

  ● 家康の父・松平広忠が死去。

  ■ 1549年(天文18年)3月に、徳川家康(松

    平竹千代)の父の、今川方の、三河国・岡崎

    城主の松平広忠(まつだいらひろただ)が死

    去する。

 

  ● 松平氏の根拠地の西三河は、

    今川氏が支配する。

  ■ 1549年(天文18年)に、今川氏の今川義元

    は、 松平広忠の岡崎城や松平氏の西三河の

    領地を奪取し、岡崎城には今川氏の派遣した

    城代を置き、支配する。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1549年 (天文18年)。

 

  ● 家康は、織田氏の人質から

    今川氏の人質に変わる。

  ■ 徳川家康の今川氏人質生活の開始。

  ● 1549年(天文18年) 11月に、徳川家康

    (松平竹千代、生没年:1542年ー1616 

    年)は、 織田氏と今川氏の人質交換で、

    織田氏の人質(1547年〜1549年、家康

    の数え年6歳〜8歳時から、今川氏 の

    質(1549年〜1560年、家康の数え 年8

    歳〜19歳時) となる。

 

 

 ■ 1551年 (天文20年)頃。

 

   ● 秀吉が松下之綱に仕える。

  ● 秀吉が松下氏家臣となる。

  ■ 1551年(天文20年)に、 豊臣秀吉

    (木下藤吉郎)が、 松下加兵衛之綱に仕

    (つか)える。

 

  ■ 豊臣秀吉 (木下藤吉郎、生没年:1537年

    ー1598年)は、 1551年(天文20年)

    から約3年間今川氏に仕える、遠江国の

    頭陀寺城(ずだじ じょう)・城主の松下加兵衛

    之綱 (まつしたかへいゆきつな、生没年:

    1537年ー1598年)の下男として仕(うか)

    える。

 

 

 ■ 1551年(天文20年)。 

 

  ● (R2) 秀吉は、頭陀寺城付近 の

     松下氏家臣長屋を居住地とする。

  ● (R) 豊臣秀吉の居住地の変遷。  

  ■ (R1)⇒(R16)。

     (R1)   中村の農家

                   (1537年ー1551年頃)、

     (R2)   頭陀寺城付近の松下氏家臣長屋

                 (1551年頃ー1554年頃)、

     (R3)  那古野城付近 の織田氏家臣長屋

                   (1554年頃ー1555年)、

     (R4)   清洲城付近の織田氏家臣長屋

                    (1555年1563年)、

     (R5)   小牧山城付近の織田氏家臣屋敷

                    (1563年1567年)、

     (R6)   岐阜城付近の織田氏家臣屋敷

                     (1567年1573年)、

     (R7)   長浜城      (1573年ー1577年)、

     (R8)  姫路城      (1577年ー1582年)、 

     (R9)   山崎城      (1582年ー1583年)、

     (R10)  二条第(= 妙顕寺城)

                    (1583年ー1587年)、

     (R11)  聚楽第      (1587年ー1592年)、

     (R12)  名護屋城    (1592年ー1593年)、

     (R13)  豊臣大阪城  (1593年ー1594年)、

     (R14)  豊臣秀吉築指月伏見城

                     (1594年−1596年)、 

     (R15)  豊臣大阪城  (1596年ー1597年)、

     (R16)  豊臣秀吉築木幡山伏見城

                    (1597年ー1598年)

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

             

  ■ (R 2) 豊臣秀吉  

    (生没年:1537年ー1598年)は、

    1551年(天文20年)から

    1554年(天文23年)頃まで

    遠江国の、頭陀寺城付近の松下氏家臣長屋

    居住する。

 

  ■ 頭陀寺城(ずだじじょう)付近 の松下氏家臣

    長屋は、 遠江国(とおとうみ、現・静岡県西

    部)にある。

    

  ■ 豊臣秀吉 (木下藤吉郎、生没年:1537年

    ー1598年)は、 1551年(天文20年)

    から約3年間今川氏に仕える、遠江国の

    頭陀寺城(ずだじ じょう)・城主の松下加兵衛

    之綱 (まつしたかへいゆきつな、生没年:

    1537年ー1598年)の下男として仕える。

 

 

 ■ 1552年 (天文21年)頃。

 

  ● 信長の父・織田信秀の死去。

  ■ 1552年(天文21年)に、勝幡織田氏(織田 

    弾正忠家)の、信長の父・織田信秀 (おだの

    ぶひで、生没年:1511年ー1552年頃)が、

    急死する。

 

  ● 織田信秀の没年には、1551年(天文20年)

    説、1549年(天文18年)説もある。

 

  ● 勝幡織田氏で、織田信長と織田

    信行(信勝)との間で家督争い

    が起こる。

  ■ 1552年(天文21年)頃に、 勝幡織田氏

    (しょばたおだし、織田弾正忠家(おだだんじ

    ょうのちゅうけ))の家督相続では、 嫡出

    (正室の子)の、織田信長と同母 弟の織田信

    行(信勝)(のぶゆき(のぶかつ))との間で、

    家督争いが起きる。 

 

  ● 1556年(弘治2年)年に、織田信長は、稲生

    (いのう)の戦いで勝ち、信長は、家督争いに

    勝ち、信長が、尾張国の信長の父・織田信秀

    (のぶひで)の家督を継ぐ。 

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1553年(天文22年)。

 

  ● 信長は斉藤道三と会見する。 

  ■ 1553年(天文22年)4月に、 織田信長

    は、 美濃国 (みののくに、現・岐阜県南

    部の相当地域)の戦国大名の斎藤 道三利

     (さいとう どうさんとしまさ、生年不詳

    ー1556年)と会見する。 

 

 

□ 豊臣秀吉 関連出来事(総合)へ

□ 豊臣秀吉 関連年代順出来事(詳細・各年)へ。

□ 豊臣秀吉 関連出来事(概要)へ

□ メニュー(目次)の先頭へ戻る

□ 豊臣秀吉ガイドブック へ。  

□ 日本史辞典の先頭ページへ。  

□ 日本の歴史ハンドブックの先頭ページへ

 

 

#jphappenings-1554

 

 

 ■ 1554年 (天文23年)。

 

  ● 甲相駿三国同盟が成立。

  ■ 1554年(天文23年)に、

    武田信玄、北条氏康、今川義元の間で、互い

    に婚姻関係を結び、 甲斐国本拠地の武田氏、

    相模国本拠地の北条氏、駿河国本拠地の今

    川氏の三者の甲相駿三国同盟 (こうそうしゅ

    んさんごくどうめい、1554年ー1567年)が、

    成立する。

 

 

 ■ 1554年 (天文23年)頃。

 

  ● 秀吉が信長に仕え始める。  

  ● 秀吉が織田氏家臣となる。

  ■ 1554年(天文23年)頃に、豊臣秀吉(木下

    藤吉郎)が、織田信長に仕える (家臣として

    仕え始める)。

 

  ■ 1554年(天文23年)頃に、 豊臣秀吉

    (木下藤吉郎)が、織田信長に仕(つか)

    える。

 

  ● 秀吉(木下藤吉郎)は、最初、信長の小者

    となり、 その後、その能力が信長の目に

    留まり、平時や戦時に様々な成果をあげ、

    織田軍の中で、様々な戦いで成果をあげ、

    織田軍の、足軽(あしがる)、足軽組頭(あ

    しがるくみがしら)、足軽大将(あしがるだ

    いしょう)、侍大将(さむらいだいしょう)、

    部将(ぶしょう) と出世していく。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1555年 (天文24年)。

 

  ● 家康が元服する(成人となる)。

  ● 家康は松平元信と称す。

  ■ 1555年 (天文24年)3月に、 徳川家康

    (松 竹千代)は、元服( げんぷく、成人)し

    て、名を、竹千 代から次郎三郎元信(もとの

    ぶ)に改め、松平元信(1555年ー1557年)

    と称す。

 

 

 ■ 1555年 (天文24年)。

 

  ● 信長が尾張下四郡(尾張南部)

    を支配。

  ■ 織田信長は、1554年(天文23年)に、尾張

    下四郡の守護代(清洲織田氏(きよすおだし、

    織田大和守家(おだやまとのかみけ))の、

    織田彦五郎信友と戦い(安食(あじき)の戦い)、

    勝ち、1555年(天文24年)には、織田彦五郎

    信友は殺害され、信友に代わって、清洲城に入

    る。

       信長は、1555年(天文24年)に、清洲織

    田氏(織田大和守家)の勢力範囲の、尾張国

    (おわりのくに、現・愛知県西部の当相地域)の

    南部(尾張下四郡)を支配する。

 

 

 ■ 1554年(天文23年)頃。 

 

  ● (R3) 秀吉は、那古野付近の

    織田氏家臣長屋を居住地とする。

  ● (R) 豊臣秀吉の居住地の変遷。  

  ■ (R1)⇒(R16)。

     (R1)   中村の農家

                   (1537年ー1551年頃)、

     (R2)   頭陀寺城付近の松下氏家臣長屋

                 (1551年頃ー1554年頃)、

     (R3)  那古野城付近 の織田氏家臣長屋

                   (1554年頃ー1555年)、

     (R4)   清洲城付近の織田氏家臣長屋

                    (1555年1563年)、

     (R5)   小牧山城付近の織田氏家臣屋敷

                    (1563年1567年)、

     (R6)   岐阜城付近の織田氏家臣屋敷

                     (1567年1573年)、

     (R7)   長浜城      (1573年ー1577年)、

     (R8)  姫路城      (1577年ー1582年)、 

     (R9)   山崎城      (1582年ー1583年)、

     (R10)  二条第(= 妙顕寺城)

                    (1583年ー1587年)、

     (R11)  聚楽第      (1587年ー1592年)、

     (R12)  名護屋城    (1592年ー1593年)、

     (R13)  豊臣大阪城  (1593年ー1594年)、

     (R14)  豊臣秀吉築指月伏見城

                     (1594年−1596年)、 

     (R15)  豊臣大阪城  (1596年ー1597年)、

     (R16)  豊臣秀吉築木幡山伏見城

                    (1597年ー1598年)

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

             

  ■ (R 3) 豊臣秀吉  

    (生没年:1537年ー1598年)は、

    1554年(天文23年)頃から

    1555年(天文24年)まで

    尾張国の、那古野城(なごや じょう)付近の

    織田氏家臣長屋

    居住する。

 

  ■ 那古野城(なごやじょう)付近の織田氏家臣

    長屋は、 尾張国(おわりのくに、現・愛知県

    西部)にある。

 

  ■ 豊臣秀吉 (木下藤吉郎、生没年:1537年

    ー1598年)は、 1554年(天文23年)頃

    から織田氏に仕え、初め、織田氏の小者とし

    て仕え、その才能が織田信長の目に留まり、

    出世していく。

 

 

 ■ 1555年 (天文24年)。 

 

  ● (R4) 秀吉は、清洲城付近の

    織田氏家臣長屋を居住地とする。

 ■ (R) 豊臣秀吉の居住地の変遷。

  ■ (R1)⇒(R16)。

     (R1)   中村の農家

                   (1537年ー1551年頃)、

     (R2)   頭陀寺城付近の松下氏家臣長屋

                 (1551年頃ー1554年頃)、

     (R3)  那古野城付近 の織田氏家臣長屋

                   (1554年頃ー1555年)、

     (R4)   清洲城付近の織田氏家臣長屋

                    (1555年1563年)、

     (R5)   小牧山城付近の織田氏家臣屋敷

                    (1563年1567年)、

     (R6)   岐阜城付近の織田氏家臣屋敷

                     (1567年1573年)、

     (R7)   長浜城      (1573年ー1577年)、

     (R8)  姫路城      (1577年ー1582年)、 

     (R9)   山崎城      (1582年ー1583年)、

     (R10)  二条第(= 妙顕寺城)

                    (1583年ー1587年)、

     (R11)  聚楽第      (1587年ー1592年)、

     (R12)  名護屋城    (1592年ー1593年)、

     (R13)  豊臣大阪城  (1593年ー1594年)、

     (R14)  豊臣秀吉築指月伏見城

                     (1594年−1596年)、 

     (R15)  豊臣大阪城  (1596年ー1597年)、

     (R16)  豊臣秀吉築木幡山伏見城

                    (1597年ー1598年)

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

             

  ■ (R4) 豊臣秀吉  

    (生没年:1537年ー1598年)は、

    1555年(天文24年)から

    1563年(永禄6年)まで

    尾張国の、清洲城(きよすじょう)付近の

    織田氏家臣長屋

    居住する。

 

  ■ 清洲城(きよすじょう)付近の織田氏家臣

    長屋は、 尾張国(おわりのくに、現・愛知県

    西部)にある。

 

  ■ 1555年(天文24年)に、織田信長は、

    尾張下四郡(尾張国南部)の守護代で

    清洲城・城主の織田信友(おだのぶとも)

    を討ち取り、織田信友に代わって、清洲城

    へ入り、尾張国の下四郡(尾張国南部)を

    支配する。

       1555年(天文24年)に、織田信長の

    家臣の豊臣秀吉 (木下藤吉郎、生没年:

    1537年ー1598年)も、清洲城(きよすじ

    ょう)付近の織田氏家臣長屋に移り住む。

 

 

 ■ 1555年 (天文24年・弘治元年)。 

 

  ● 天文年号から弘治年号に改元。

      弘治年号1555年ー155 8年。

  ■ 1555年(天文24年・弘治元年)に、

    弘治(こうじ)年号に改元。    

  ● 1555年(天文24年・弘治元年)10月23日に

    和暦の「天文」(てんぶん、てんもん 、

    天文元年・1532年〜天文24年・1555年) が、

    和暦の「弘治」(こうじ、 

    弘治 元年・1555年・10月23日〜

    弘治 4年・1558年・ 2月28日) に

    改元される。 

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1556年 (弘治 2年)。

 

  ● 斎藤道三利政の死去。

  ■ 1556年(弘治2年)に、織田信長は、美濃

    国(みののくに、現・岐阜県南部)の、義父

    (信長夫人・帰蝶の父)の斎藤道三利政(さ

    いとうどうさんとしまさ)が、 子の斎藤義龍

    (さいよしたつ)との戦いに敗れて死去する。 

       信長は、道三利政に援軍を出したが、

    間に合わなかった。  

 ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1556年 (弘治 2年)。

 

  ● 稲生(いのう)の戦い。

  ● 信長が勝幡織田氏の家督を

    継ぐ。

  ■ 1556年(弘治2年)年に、 織田信長は、

    稲生(いのう)の戦いで 実弟の織田信行(信

    勝)と戦い、勝ち、信長が、尾張国の勝幡織

    田氏(しょばたおだし、織田弾正忠家(おだ

    だんじょうのちゅうけ))の、信長の父・織田

    信秀(おだのぶひで)の家督を継ぐ。 

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1558年 (弘治4年・永禄元年)。

 

  ● 弘治年号から永禄年号に改元。

     永禄年号1558年ー15 70年。

  ■ 1558年(弘治4年・永禄元年)に、

    永禄(えいろく) 年号に改元

  ● 1558年(弘治4年・永禄 元年)2月28日に

    和暦の「弘治」(こうじ、

    弘治元年・1555年〜弘治4年・1558年)

    が、 

    和暦の「永禄」(えいろく、

    永禄 元年・1558年・ 2月28日〜

    永禄13年・1570年・ 4月23日) に

    改元される。 

 

 

 ■ 1558年 (永禄 元年)。

 

  ● 信長は、勝幡織田氏の家督を争

    った実弟・信行(信勝)を殺害す

    る。

  ■ 織田信長と勝幡織田氏の家督を争った実弟

    の織田信行(信勝)(おだのぶゆき(のぶかつ)、

    生没年:生年不詳ー1558年)は、信長に、

    何度も反抗したため、織田信長によって、殺害

    される。

 

 

 ■ 1558年 (永禄 元年)。

 

  ● 浮野の戦い。

  ■ 浮野(うきの)の戦い。

  ● 1558年(永禄元年)に、織田信長は、

    田一門の宗家で、尾張国の上四郡を支配する

    守護代 (岩倉織田家、織田伊勢守家の当主) 

    で、岩倉(いわくら)城主の、織田 信賢 (おだ

    のぶかた)の軍を破る。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1559年 (永禄2年) 2月。

 

  ● 信玄が、徳栄軒信玄と称する。

  ■ 1559年(永禄2年)2月に、 武田信玄 

    (武田晴信)は、 出家して、「徳栄軒信玄」

    (法号、法名)と号す(称す)。

 

 

 ■ 1559年 (永禄2年)。

 

  ● 信長が尾張を統一する。

  ■ 1559年(永禄2年)に。 織田信長は、 

    尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部)

    一国を統一し、 尾張国の国主(こくしゅ)

    となる。

 

  ● 織田は尾張上四郡(尾張北部)

    を支配する。

  ■ 織田信長は、 1559年(永禄2年)に、尾張

    上四郡(尾張北部)の守護代(岩倉織田氏、

    織田伊勢守家(おだいせのかみけ))の、織田

    信賢 (おだのぶかた、生没年不詳)の居城・

    岩倉城を包囲し降伏させ、信賢を追放する。

       信長は、1559年(永禄2年)に、尾張国

    (おわりのくに、現・愛知県西部の当相地域)の

    北部(尾張上四郡)を支配する。

    

  ● 信長の尾張平定。

  ■ 1559年(永禄2年)に、織田信長は、

    尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部の相

    当地域)一国を統一し、尾張国の国主となる。

 

  ● 信長は、 尾張・上四郡の守護代の織田

    信賢の居城・岩倉城を落城させ、信賢を追

    放し、 また、新たに尾張守護となった斯波

    義銀(しばよしかね)が敵対したので追放

    する。 ここに、信長は、尾張の国内の支配

    権を確立する。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

□ 豊臣秀吉 関連出来事(総合)へ

□ 豊臣秀吉 関連年代順出来事(詳細・各年)へ。

□ 豊臣秀吉 関連出来事(概要)へ

□ メニュー(目次)の先頭へ戻る

□ 豊臣秀吉ガイドブック へ。  

□ 日本史辞典の先頭ページへ。  

□ 日本の歴史ハンドブックの先頭ページへ

 

 

#jphappenings-1560

 

 

 ■ 1560年 (永禄 3年)。

 

  ● 桶狭間の戦い。

  ● 桶狭間の戦いで、信長が今川

    義元が敗死し、今川軍敗戦。

  ■ 1560年(永禄3年)5月に、 桶狭間(お

    けはざま)の戦いで、織田信長の軍は、

    今川義元の軍を破る。 

 

  ■ 1560年(永禄3年)5月19日昼頃、 織田

    信長は、 総大将の今川義元を桶狭間山で

    討死させ、 今川義元 (いまがわよしもと、

    今川氏当主:1536年−1560年、生没年:

    1519年ー1560年)は、尾張国(おわりの

    くに、現・愛知県西部の相当地域)の桶狭間

    で敗死し、今川義元の軍は、総大将を失い、

    総崩れとなる。

 

  ■ 1560年(永禄3年)5月に、織田信長は、

    桶狭間の戦い (おけはざまのたたかい)で、 

    東海の駿河国、遠江国、三河国3国(現・静

    岡県中部・西部、愛知県東部)を支配する

    今川氏の今川義元(いまがわよしもと)を敗

    死させ、今川義元の大軍を敗(やぶ)り、権

    威をたかめる。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1560年 (永禄3年)。

 

  ● 信長が桶狭間の戦いで、

    今川義元を敗死させる。

  ■ 1560年(永禄3年)5月に、織田信長は、 

    桶狭間(おけはざま)の戦いで、 今川 義元

    (いまがわ よしもと)を破る。 今川義元は、 

    尾張の桶狭間で、敗死する。

 

  ● 家康が三河へ戻る。

  ■ 1560年(永禄3年)に、 義元の家臣して

    信長と戦っていた、徳川家康(松平元康(ま

    つだいらもとやす))は、 尾張より、松平軍

    の兵を撤退し、三河国(みかわのくに、現・

    愛知県東部)の岡崎城へ戻る。

       その後、1561年(永禄4年)4月に、

    家康は、今川氏から独立する。

 

  ● 家康の岡崎城入城。

  ■ 1560年(永禄3年)5月23日に、徳川家康

    (松平元康)は、人質として過した駿河国

    (するがのくに、現・静岡県中部)の駿府へ

    は戻らず、今川軍が退去(放棄)した三河国

    (みかわのくに、現・愛知県東部)の岡崎城に

    入る。 

        その後、家康(元康)は、今川氏から

    自立(独立)する。 

 

 

 ■ 1560年 (永禄 3年)。

 

  ● 今川氏真が今川氏の家督を

    継承する。

  ■ 今川氏真(いまがわうじざね)が、 戦死した

    今川義元(いまがわよしもと)に代わって、

    今川氏の家督を継承し、名実共に、今川氏

    の当主となる。

 

 

 ■ 1561年 (永禄4年)。

 

  ● 謙信の小田原北条氏を攻め、

    小田原城を囲む。

  ■ 北条氏攻め(小田原城攻め)。

  ● 1561年(永禄4年)に、 上杉謙信(長尾

    景虎)は、 関東管領(かんとうかんれい)

    の上杉憲政(うえすぎのりまさ)を擁して、 

    旧上杉氏家臣団の約10万人の大軍で、 

    北条氏康(ほうじょううじやす)を攻め、小田

    原城を包囲する。

 

  ● 謙信が、山内上杉氏家督を

    相続し、関東管領となる。

  ● 謙信が、上杉政虎と称する。

  ■ 1561年(永禄4年)閏3月16日に、 

    上杉謙信(長尾景虎(ながおかげとら))は、 

    鎌倉の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で、

    上杉憲政(うえすぎのりまさ)より、

    山内上杉氏(やまのうちうえすぎけ)の家督

    と関東管領職を相続(継承)し、

    関東管領(かんとうかんれい)に就任し、

    上杉憲政から一字の政を賜り、

    上杉政虎(うえすぎまさとら)と称す。 

 

 

 ■ 1561年 (永禄 4年)。

 

   ● 信長が家康との和睦を望む。

  ■ 1561年(永禄4年)に、 織田信長は、 

    尾張国の西北方の斎藤氏支配の美濃国

    攻略したいため、 尾張国の東方の今川氏

    支配の三河国との戦いを望まず、 今川方

    の三河国西部の徳川家康(松平元康)に

    水野信元 (みずののぶもと、家康の生母

    の兄)を介して、和睦をもちかける。

 

 ● 家康は織田方となり、今川氏

    から独立する。

  ■ 1561年(永禄4年)4月に、三河国の徳川

    家康(松平元康)は、 尾張国の織田信長と

    和睦し、織田方となり、今川氏の今川義元の

    後を継いだ今川氏真(いまがわ(うじざね)と

    断行し今川氏から独立する。

 

 

 ■ 1561年 (永禄 4年)。 

 

  ● 美濃の斎藤義龍の死去。

  ■ 1561年(永禄4年)5月に、 美濃国 (み

    ののくに、現・岐阜県南部の相当地域)の、

    国主の、斎藤義龍(高政) (さいとうよした

    つ(たかまさ)、生没年:生年不詳ー1561

    年)が、急死し、 嫡男の斎藤龍興(さいとう

    たつおき、生没年:1547年ー1573年)が、

    美濃国を引き継ぐ。

  ● 美濃国の斎藤氏の家臣団内部で、分裂が

    始まる。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1561年 (永禄4年)。

 

  ● 謙信と信玄が、第4回川中島の

    戦いで、戦い、引き分けとなる。

  ■ 第4回川中島の戦い。

  ● 1561年(永禄4年)8月に、 上杉謙信(上杉

    政虎)の率いる上杉軍 と 武田信玄(徳栄軒

    信玄)の率いる武田軍が、 信濃国(しなのの

    くに、現・長野県)の北部の川中島で、衝突し、

    第4回川中島の戦いが起こり、激戦となる。

       第4回川中島の戦いでは、勝敗がつがず、

    引き分けとなる。

 

  ● 謙信が、上杉輝虎と称する。

  ■ 1561年(永禄4年)12月に、上杉謙信(上杉

    政虎)は、 室町幕府・13代将軍の足利義輝

    から一字の輝を賜り、諱(いみな)を輝虎(てる

    とら)と改め、上杉輝虎(うえすぎてるとら)と

    称す。

 

 

 ■ 1561年 (永禄 4年)。 

 

 ● 秀吉がねね(おね)と婚儀を

    結ぶ。

  ■ ねね(おね)は、 

    1561年(永禄4年)に、秀吉と婚儀を結び、

    秀吉の正室人夫となり、その後、秀吉を助

    け、秀吉と共に人生を歩む。 

 

  ■ 1561年(永禄4年)8月に、 豊臣秀吉

   (木下秀吉)は、 浅野長勝の養女で杉原

   定利の娘のおね(ねね)と婚儀を結ぶ。 

 

  ● 杉原定利の夫人でおね(ねね)の実母・

   朝日は、秀吉とおね(ねね)との婚儀に反

   対したが、おね(ねね)は、反対を押し切っ

   て、秀吉に嫁(とつ)ぐ。 

 

  ● 秀吉とおね(ねね)との婚儀は、 当時、

   家長・親が決めた相手と婚儀を結ばない、

   野合(やごう、自由恋愛結婚)であった。

 

  ● 秀吉とおね(ねね)は、婚儀時、概ね、 

   秀吉は、数え年26歳、 おね(ねね)は、

   数え年14歳であった。 

      前近代日本では、女性の結婚適齢期

   は、10代である (平均寿命が短いため)。

 

  ● 婚儀の結婚式の媒酌人は、秀吉の親友

    の前田利家と利家の妻・まつであり、 藁

    (わらぶき)と薄縁をひいて、質素に行わ

    れた。

 

  ● 秀吉とおね(ねね)の2人は、生涯、尾張

    訛(なま)りの賑(にぎ)やかな夫婦喧嘩が

    多かったと言われている。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

  ● ねね(おね)は、浅野又右衛門

     長勝の養女である。

  ■ 浅野 又右衛門長勝は、

    織田信長の家臣・弓衆で、実子がなく、

    (O) 「おね(ねね)」

           (豊臣秀吉の夫人、

        長勝の夫人・七曲殿の姉妹の子)、

    (Y) 「やや(長生院)」

        (おね(ねね)の実妹、

        長勝の夫人・七曲殿の姉妹の子)、

    (N) 浅野弥兵衛長吉(長政)

        (「やや(長生院)」の婿養子・夫、

        長勝の実姉の子)、                  

    を養子とし、養父となる。

 

  ● おね(ねね)、やや。

   ■ 浅野又右衛門長勝の夫人は、

     七曲殿(ななまがりどの、ふく)であり、 

     七曲殿の姉妹には朝日 殿(あさひどの、

     こひ)がいる。

   ● 七曲殿の姉妹の朝日殿は、

     杉原定利 (すぎはらさだとし、婿養子)の

     夫人であり、二人の間には、次の3人の実

     子がいる。

     ( I ) 杉原(木下)孫兵衛家定  

       (すぎはら(きのした)まごへいいえさだ、

       おね(ねね)の実兄、小早川秀秋の父)

     (O) 「おね(ねね)」 (豊臣秀吉の夫人)。

     (Y) 「やや(長生院)」 

        (おね(ねね)の妹、浅野弥兵衛長吉

        (長政)の夫人)。

               

 

 ■ 1561年 (永禄 4年)頃。 

 

 ● 豊臣秀吉が秀吉の名乗る。   

  ■ 豊臣秀吉は、 

    1561年(永禄4年)頃に、秀吉と名乗る。

    

  ● 豊臣秀吉は、 1561年(永禄4年)11月

    に、木下藤吉郎秀吉と名乗る (「堀内文

    書より)。

 

 

 ■ 1561年 (永禄 4年)。

 

  ● 信長が家康との和睦を望む。

  ■ 1561年(永禄4年)に、 織田信長は、 

    尾張国の西北方の斎藤氏支配の美濃国

    攻略したいため、 尾張国の東方の今川氏

    支配の三河国との戦いを望まず、 今川方

    の三河国西部の徳川家康(松平元康)に

    水野信元 (みずののぶもと、家康の生母

    の兄)を介して、和睦をもちかける。

 

  ● 家康は織田方となり、今川氏

    から独立する。

  ■ 1561年(永禄4年)4月に、三河国西部の

    徳川家康(松平元康)は、 尾張国の織田

    信長と和睦し、織田方となり、今川氏の今川

    義元の後を継いだ今川氏真(いまがわ(うじ

    ざね)と断行し今川氏から独立する。

 

 

 ■ 1561年 (永禄 4年)。 

 

  ● 美濃の斎藤義龍の死去。

  ■ 1561年(永禄4年)5月に、 美濃国 (み

    ののくに、現・岐阜県南部の相当地域)の、

    国主の、斎藤義龍(高政) (さいとうよした

    つ(たかまさ)、生没年:生年不詳ー1561

    年)が、急死し、 嫡男の斎藤龍興(さいとう

    たつおき、生没年:1547年ー1573年)が、

    美濃国を引き継ぐ。

  ● 美濃国の斎藤氏の家臣団内部で、分裂が

    始まる。

 

 

 ■ 1562年 (永禄 5年)。

 

  ● 信長と家康は清州同盟を結ぶ。

  ■ 1562年(永禄5年)1月に、尾張国の織田

    信長は、正式に、尾張国の東方の三河国西

    部の徳川家康と清洲同盟(きよすどうめい、

    織徳同盟)を結ぶ。 

 

  ● 同盟締結後、 尾張国(現・愛知県西部)の

    織田信長は、 西方の、美濃国(現・岐阜県

    南部)や伊勢国(現・三重県北部・中央中部)

    への侵略を目指し、

    一方、三河国(現・愛知県東部)西部の徳川

    家康は、 東方の三河国東部・北部、遠江国

    (現・静岡県西部)、駿河国(現・静岡県中部)

    への侵略を目指すこととなる。

       信長と家康は、自国防衛や他国侵略で

    軍勢が不足した時は、お互いに、援軍を出し

    合うこととなる。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1563年 (永禄 6年)。

 

  ● (R5) 秀吉は、 小牧山城付近

    の織田氏家臣屋を居住地とする。

  ● (R) 豊臣秀吉の居住地の変遷。

  ■ (R1)⇒(R16)。

     (R1)   中村の農家

                   (1537年ー1551年頃)、

     (R2)   頭陀寺城付近の松下氏家臣長屋

                 (1551年頃ー1554年頃)、

     (R3)  那古野城付近 の織田氏家臣長屋

                   (1554年頃ー1555年)、

     (R4)   清洲城付近の織田氏家臣長屋

                    (1555年1563年)、

     (R5)   小牧山城付近の織田氏家臣屋敷

                    (1563年1567年)、

     (R6)   岐阜城付近の織田氏家臣屋敷

                     (1567年1573年)、

     (R7)   長浜城      (1573年ー1577年)、

     (R8)  姫路城      (1577年ー1582年)、 

     (R9)   山崎城      (1582年ー1583年)、

     (R10)  二条第(= 妙顕寺城)

                    (1583年ー1587年)、

     (R11)  聚楽第      (1587年ー1592年)、

     (R12)  名護屋城    (1592年ー1593年)、

     (R13)  豊臣大阪城  (1593年ー1594年)、

     (R14)  豊臣秀吉築指月伏見城

                     (1594年−1596年)、 

     (R15)  豊臣大阪城  (1596年ー1597年)、

     (R16)  豊臣秀吉築木幡山伏見城

                    (1597年ー1598年)

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

  ■ (R5) 豊臣秀吉  

    (生没年:1537年ー1598年)は、

    1563年(永禄6年)から

    1567年(永禄10年)まで

    尾張国の、小牧山城(こまきやまじょう)付近

    の織田氏家臣屋敷

    居住する。

 

  ■ 小牧山城(こまきやまじょう)付近の織田氏

    家臣屋敷は、 尾張国(おわりのくに、

    現・愛知県西部)にある。

 

  ■ 1563年(永禄6年)に、織田信長は、美濃

    国攻略に有利な、尾張国の、小牧山城 (こま

    きやまじょう)に、本拠地を移す。

       1563年(永禄6年)に、織田信長の

    家臣の豊臣秀吉 (木下藤吉郎秀吉、生没

    年:1537年ー1598年)も、小牧山城(こま

    きやまじょう)付近の織田氏家臣屋敷に移り

    住む。

 

 

 ■ 1563年 (永禄 6年)。

 

  ● 三河一向一揆が起こる。

  ■ 1563年(永禄6年)に、三河一向一揆 (み

    かわいっこういっき、1563年ー1564年)が

    起こり、 徳川家康(松平家康)は、 西三河

    で、一向宗(いっこうしゅ、本願寺)の三河一向

    一揆の鎮圧を始める。

 

 

 ■ 1564年 (永禄 7年)。

 

  ● 家康が三河一向一揆を鎮圧

     する。

  ■ 1564年(永禄7年)に、 徳川家康(松平

    家康)は、 一向一揆(いっこういっき)の鎮

    圧に成功する。

 

 

 ■ 1564年 (永禄 7年)。 

 

  ● 信長は浅井長政と同盟を

    結ぶ。 

  ● お市が浅井長政に嫁ぐ。

  ■ 1564年(永禄7年)に、 織田信長は、 

    北近江(きたおうみ、現・滋賀県北部)の戦国

    大名の浅井長政(あざいながまさ)と同盟を結

    び、 信長の妹のお市(おいち)が、 浅井長

    政に輿入(こしい)れする。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1565年 (永禄 8年)。

 

  ● 信長の伊勢侵攻開始。 

  ■ 1565年(永禄8年)に、 織田信長は、

    伊勢国(いせのくに、現・三重県北部・中央

    中部の相当地域)への侵攻を開始する。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1566年 (永禄 9年)。

 

  ● 家康が三河国全体を平定。

  ■ 1566年(永禄9年)5月に、徳川家康(松

    平家康)は、三河国 (みかわのくに、現・愛

    知県東部の相当地域)を統一する。

 

  ● 1566年(永禄9年)12月に、 徳川家康

    (松平家康)は、 朝廷より従五位下三河守

    (じゅごいのげみかわのかみ)に叙任され、

    姓を松平(まつだいら)から徳川(とくがわ)

    に改姓する。

 

 

 ■ 1566年 (永禄 9年)。

 

  ● 信長の足利義昭擁立・第1次

    上洛出兵の失敗。 

  ■ 織田信長の足利義昭擁立・第1次上洛出兵。

  ● 1566年(永禄9年)8月に、 足利義昭家臣

    で仲介役の細川 藤孝(幽斎) によって、

    足利義昭擁立・織田信長第1次上洛出兵が

    行われたが、美濃国の斎藤氏によって阻止さ

    れ、上洛は失敗する。

 

 

 ■ 1567年 (永禄10年) 5月。

 

  ● 信長の娘の徳姫が家康の嫡男

    の松平信康に嫁ぐ。

 

  ■ 1567年(永禄10年)5月に、

    織田信長の娘の徳姫 (とくひめ、= 五徳

    (ごとく)、生没年:1559年ー1636年)が、 

    政略結婚で徳川家康の嫡男・松平信康(ま

    つだいらのぶやす)に嫁 (とつ)ぐ。

 

 

 ■ 1567年 (永禄10年) 10月。

 

  ● 信長が美濃の斎藤氏を滅ぼす。

  ● 信長が尾張、美濃の2か国の

    戦国大名になる。

  ■ 1567年(永禄10年)10月に、信長は、 

    美濃国(みののくに、現・岐阜県南部)の

    斉藤氏を滅ぼす。 

 

  ● 信長の稲葉山城(岐阜城)奪取。

  ● 織田信長の美濃平定。

  ■ 1567年(永禄10年)10月に、織田信長

    は、 美濃国 (みののくに、現・岐阜県南部

    の相当地域)の斎藤氏を滅ぼす。 

       信長は、尾張国、美濃国の2カ国を領す

    る戦国大名となる。 

 

  ● 1567年(永禄10年)10月に、 信長は、 

    斎藤龍興(さいとうたつおき)の稲葉山城(い

    なばやまじょう)を落とし、岐阜城(ぎふじょう)

    と改名し、信長の本拠地を岐阜城に移す。

 

 

 ■ 1567年 (永禄10年)。

 

  ● 信長は美濃国を領有する。

  ● 信長の日本本土統一事業

    開始。

  ■ 織田信長の日本本土統一事業。

  ● 1567年(永禄10年)10月に、信長は、 

   美濃国 (みののくに、現・岐阜県南部の相

   当地域) の斎藤氏を滅ぼす。 ここに、信

   長は、尾張、美濃の2カ国を領する戦国大

   名となる。 

      この頃から、信長は、天下布武の朱印

   を用いるようになり、 畿内付近地域の平定

   を目指す。

      後に、信長は、畿内付近地域の征服後

   は、天下統一(日本本土統一)を目指すよう

   になる。 

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1567年 (永禄10年)。

 

  ● (R6) 秀吉は、岐阜城付近の

   織田氏家臣屋敷を居住地とする。

  ● (R) 豊臣秀吉の居住地の変遷。

  ■ (R1)⇒(R16)。

     (R1)   中村の農家

                   (1537年ー1551年頃)、

     (R2)   頭陀寺城付近の松下氏家臣長屋

                 (1551年頃ー1554年頃)、

     (R3)  那古野城付近 の織田氏家臣長屋

                   (1554年頃ー1555年)、

     (R4)   清洲城付近の織田氏家臣長屋

                    (1555年1563年)、

     (R5)   小牧山城付近の織田氏家臣屋敷

                    (1563年1567年)、

     (R6)   岐阜城付近の織田氏家臣屋敷

                     (1567年1573年)、

     (R7)   長浜城      (1573年ー1577年)、

     (R8)  姫路城      (1577年ー1582年)、 

     (R9)   山崎城      (1582年ー1583年)、

     (R10)  二条第(= 妙顕寺城)

                    (1583年ー1587年)、

     (R11)  聚楽第      (1587年ー1592年)、

     (R12)  名護屋城    (1592年ー1593年)、

     (R13)  豊臣大阪城  (1593年ー1594年)、

     (R14)  豊臣秀吉築指月伏見城

                     (1594年−1596年)、 

     (R15)  豊臣大阪城  (1596年ー1597年)、

     (R16)  豊臣秀吉築木幡山伏見城

                    (1597年ー1598年)

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

             

  ■ (R6) 豊臣秀吉  

    (生没年:1537年ー1598年)は、

    1567年(永禄10年)から

    1573年(天正元年)まで

    美濃国の、岐阜城(ぎふじょう)付近

    の織田氏家臣屋敷

    居住する。

 

  ■ 岐阜城(ぎふじょう)付近の織田氏家臣屋敷

    は、 美濃国(みののくに、現・岐阜県南部)

    にある。

 

  ■ 1567年(永禄10年)10月に、織田信長は、 

    斎藤龍興の稲葉山城(いなばやまじょう)を

    落とし、岐阜城(ぎふじょう)と改名し、信長

    の本拠地を岐阜城に移す。

       1567年(永禄10年)に、織田信長の

    家臣の豊臣秀吉 (木下藤吉郎秀吉、生没

    年:1537年ー1598年)も、岐阜城(ぎふじ

    ょう)付近の織田氏家臣屋敷に移り住む。

 

 

 ■ 1568年 (永禄11年)。

 

 ● 信玄が今川領の駿河国へ

    侵攻し、占領し領土とする。

  ■ 1568年(永禄11年)に、武田信玄が、駿

   河を占領する。 今川氏真(うじざね)が、駿河

   を離れ、遠江(とおとうみ)・掛川城へ逃れる。

 

 ● 家康が今川領の遠江国へ

    侵攻する。

  ■ 1568年(永禄11年)に、 徳川家康は、

   1568年(永禄11年)末から、今川領である

   遠江国へ侵攻する。

 

 

 ■ 1568年 (永禄11年)。

 

  ● 信長の足利義昭擁立第2次

     上洛出兵の成功。

  ● 足利義昭が将軍となる。

  ■ 足利義昭擁立織田信長第2次上洛出兵。

  ● 1568年(永禄11年)9月に、 織田信長は、 

    足利義昭(よしあき)を奉じて、上洛を開始し、

    10月に上洛を果たし、1568年(永禄11年)

    10月に、足利義昭を将軍職(将軍在位:

    1568年〜1588年)に就(つ)ける。

       この出兵に、徳川家康は、信長へ援軍

    を派遣する。

 

  ● 足利義昭は将軍就任後、

     信長と対立する。

  ■ 1568年(永禄11年)10月の足利義昭

    の将軍職就任後、 織田信長は、足利義昭

    の行動をコントロールしようとしたため、義

    昭との関係が悪化する。 

        武田氏、朝倉氏、延暦寺、石山本願寺

    などから成る織田信長包囲網が結成された

    後、1573年(元亀4年)2月に は、足利義

    昭は信長を裏切り、反信長勢力に加担する。

 

 

 ■ 1568年 (永禄11年)。

 

  ● 秀吉の近江での活躍。

  ■ 1568年(永禄11年)9月に、 織田軍団

     の豊臣秀吉(木下藤吉郎秀吉)は、 近江の箕

     作城攻略戦で、活躍する (観音寺城の戦い)。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1569年 (永禄12年)。 

 

  ● 家康が遠江国を占領する。

  ● 戦国大名の今川氏が滅亡。

  ■ 1569年(永禄12年)に、 徳川家康は、 

   遠江国の大半を攻め獲り、今川氏真のいる、

   掛川(かけがわ)城も包囲し、氏真を降伏さ

   せる。 戦国大名の今川氏が滅亡する。

 

 

 ■ 1569年 (永禄12年)。 

 

  ● 家康と武田信玄は、敵対関係

    となる。

  ■ 1569年(永禄12年)に、 徳川家康と武田

   信玄は、 敵対関係となる。

 

  ● 1569年(永禄12年)に、 領土拡大に燃え

   る武田信玄は、家康との協定を破り、信濃国

   (しなののくに、現・長野県)から遠江国(とおと

   うみのくに、静岡県西部)へ侵攻する。 これは、

   徳川勢の抵抗や北条氏康からの牽制を受け失

   敗し、これを契機に、徳川家康と武田信玄は、

   敵対関係となる。

 

 

 ■ 1570年 (永禄13年・元亀元年)。

 

  ● 永禄年号から元亀年号に改元。

     永禄年号1570年ー 1573年。

  ■ 1570年(永禄13年・元亀元年)に、

    元亀(げんき) 年号に改元。  

  ● 1570年(永禄13年・元亀 元年)4月23日に、 

     和暦の「永禄」(えいろく、

    永禄元年・1558年〜永禄13年・1570年) 

    が、 

    和暦の「元亀」(げんき、

    元亀 元年・1570年・ 4月23日〜 

    元亀 4年・1573年・ 7月28日) に

    改元される。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 ■ 1570年 (永禄13年、元亀元年)。

 

  ● 信長の越前・朝倉氏討伐の失敗

    と金ヶ崎の退き口。

  ■ 越前・朝倉氏討伐織田軍。

  ● 1570年(永禄13年、元亀元年)4〜5月

    に、織田信長は、織田軍を率いて、 越前国に

    侵攻したが、 信長の妹婿の北近江(きたおう

    み、現・滋賀県北部の相当地域)の浅井長政

    に背後をつかれ、 信長や信長軍本隊は、京

    (きょう、京都)へ逃れる。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

  ● 金ヶ崎の退き口。

  ■ 金ヶ崎の退き口 (かねがさきののきぐち、

     金ヶ崎の撤退)。

  ● 浅井氏と親密な朝倉氏を攻めないという信

    長と浅井長政との盟約を反故(ほご)にして、

    信長は、1570年(永禄13年、元亀元年)4

    〜5月に、越前国(えちぜんのくに、現・福

    井県東部の相当地域)の朝倉義景(あさくら

    よしかげ)を討伐するため、越前国へ侵攻す

    る。 

  

  ● ところが、織田軍は、越前の金ヶ崎城を占

    拠し、越前・金ヶ崎へ進軍した時に、浅井長

    政の軍に背後をつかれ、信長や信長軍本隊

    は、なんとか、京(きょう、京都)へ逃れる。 

       この越前・朝倉氏討伐織田軍に、池田

    勝正、豊臣秀吉(木下藤吉郎秀吉)、明智

    光秀、徳川家康も従軍する。

   ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

  ● 金ヶ崎の退き口時、信長は馬

     で先に逃走、織田軍本隊は、

     後に続く。

   ■ 金ヶ崎の退き口 (かねがさきののきぐち、

    金ヶ崎の撤退)。

    ● 1570年(永禄13年、元亀元年)4〜

    5月に、織田軍は、浅井軍と朝倉軍の挟み

    撃ちという危機の中で、 まず先に、織田

    信長本人は、馬で、越前(えちぜん)の金

    ヶ崎から越前、若狭(わかさ)、近江(おう

    み)・琵琶湖西方の朽木谷(くつきだに)経

    由で、京へ逃げ帰り、 一方、織田軍本隊

    は、 越前(えちぜん)の金ヶ崎から越前、

    若狭(わかさ)、近江(おうみ)経由で撤退

    し、京(きょう、京都)へ逃れる。 

 

  ● 金ヶ崎の退き口の殿(しんがり)

     の軍で、織田氏家臣の池田

     勝正、秀吉、光秀が活躍。

    ■ 信長の命(命令)で、 撤退する織田

    軍本隊の「殿(しんがり)」の軍 (軍の撤

    退時、軍の最後尾で、襲(おそ)ってくる

    敵兵を命がけで防ぐ役目) を、 織田軍

    の池田勝正、豊臣秀吉(木下藤吉郎秀

    吉)、  明智光秀などの兵が務(つと)め、 

    敵の朝倉・浅井軍と応戦し、防戦しなが

    ら、撤退する。  池田勝正、秀吉、光秀

    は、かろうじて、生き残り、功績をあげる。

       史実では、徳川家康は、殿(しんが

    り)の軍には参加していない。 家康の軍

    は、織田軍本隊と共に、行動する。

 

    ● 信長の命(命令)で、 撤退する織田

    軍本隊の「殿(しんがり)」の軍 (軍の撤

    退時、軍の最後尾で、襲(おそ)ってくる

    敵兵を命がけで防ぐ役目) を、織田軍

    の池田勝正、豊臣秀吉(木下藤吉郎秀

    吉)、 明智光秀などの兵が務(つと)め、 

    敵の朝倉・浅井軍と応戦し、防戦しなが

    ら、撤退する。  池田勝正、秀吉、光秀

    は、かろうじて、生き残り、功績をあげる。

       史実では、徳川家康は、殿(しんがり)

    の軍には参加していない。

   ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。   

 

 

 

 ■ 1570年 (永禄13年・元亀元年)。

 

  ● 永禄年号から元亀年号に改元。

     元亀年号1570年ー 1573年。

  ■ 1570年(永禄13年・元亀元年)に、

    元亀(げんき) 年号に改元。  

  ● 1570年(永禄13年・元亀 元年)4月23日に、 

     和暦の「永禄」(えいろく、

    永禄元年・1558年〜永禄13年・1570年) 

    が、 

    和暦の「元亀」(げんき、

    元亀 元年・1570年・ 4月23日〜 

    元亀 4年・1573年・ 7月28日) に

    改元される。

 

  ■ 室町時代後期の各年号。

    暗記法: 大享天弘永元天      

    (えいだいきょうてんこうえいげんてん)。

  ● 永正(えいしょう)年号: 1504年ー1521年。

  ● 大永(だいえい)年号:   1521年ー1528年。

  ● 享禄(きょうろく)年号:  1528年ー1532年。

  ● 天文(てんぶん)年号  1532年ー1555年。

  ● 弘治(こうじ)年号:    1555年ー1558年。

  ● 永禄(えいろく)年号:  1558年ー1570年。

  ● 元亀(げんき)年号    1570年ー 1573年。

  ● 天正(てんしょう)年号: 1573年ー 1592年。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。 

 

 

 

 ■ 1570年 (元亀 元年)。

 

  ● 姉川の戦いでの信長の勝利。

  ■ 姉川の戦い。

  ● 1570年(元亀元年)6月に、織田信長の

    率いる織田・徳川連合軍は、 近江国(おう

    みのくに、現・滋賀県の相当地域)の、姉川

    (あねがわ)で、浅井・朝倉連合軍を 敗(や

    ぶ)り、勝利を得る

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。 

 

 

 ■ 1570年 (元亀 元年)。

 

  ● 石山合戦が始まる。

  ■ 1570年(元亀元年)9月に、本願寺(一向

    宗)の、石山本願寺 (いしやまほんがんじ) 

    は、織田信長に対抗する。 

 

   本願寺と織田信長とので、石山合戦

    (いしやまがっせん、1570年−1580年)

    が、始まる。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。 

 

 

 ■ 1570年 (元亀 元年)。

 

  ● 伊勢長島一向一揆が始まる。

  ■ 1570年(元亀元年)の9月頃に、伊勢長島

    一向一揆(いせながしまいっこういっき、

    1570年ー1574年)が始まる。 

 

 

 ■ 1571年 (元亀 2年)。

 

  ● 信長の比叡山焼き討ち。

  ■ 1571年(元亀2年)9月に、 織田信長は、

    浅井氏・朝倉氏に味方する比叡山・延暦寺

    (ひえいざん・えんりゃくじ)を焼討ちにする。

 

 

 ■ 1572年 (元亀 3年)。

 

  ● 織田・徳川氏を攻撃する、武田

    信玄の軍が上洛開始。

  ■ 武田信玄が上洛開始。

  ● 1572年(元亀3年)10月に、  武田信玄

    (たけだしんげん)は、 上洛(じょうらく、京

    都へ行く)の軍を起こす (上洛を開始する)。

 

  ● 1572年(元亀3年)10月に、 甲斐の武田

   信玄は 上洛の軍を起こした。 総兵力・約3万

   人の兵の武田軍が、 織田領の東美濃や徳川

   領の遠江、三河に侵攻を開始する。

 

  ● 1572年(元亀3年)10月に、 甲斐の武田

    信玄は 上洛の軍を起こした。 総兵力・約

    3万人の兵の武田軍が、 織田領の東美濃

    (ひがしみの、現・岐阜県南東部) や 徳川

    領の遠江国、三河国(とおとうみのくに、みか

    わのくに、現・静岡県西部、愛知県東部)へ

    侵攻を開始する。

 

  ● 三方ヶ原の戦いで、家康が

    武田信玄に大敗する。

  ■ 1572年(元亀3年)12月に、 遠江 国 (と

    おとうみのくに、現・静岡県西部の相当地域)

    の、三方ヶ原(みかたがはら)の戦いで、徳川・

    織田連合軍は、 武田信玄の武田軍に大敗

    する。

 

 

□ 豊臣秀吉 関連出来事(総合)へ

□ 豊臣秀吉 関連年代順出来事(詳細・各年)へ。

□ 豊臣秀吉 関連出来事(概要)へ

□ メニュー(目次)の先頭へ戻る

□ 豊臣秀吉ガイドブック へ。  

□ 日本史辞典の先頭ページへ。  

□ 日本の歴史ハンドブックの先頭ページへ

 

 

#jphappenings-1573

 

 

 ■ 1573年 (元亀 4年)。 

 

  ● 足利義昭が信長討伐を謀る。

  ■ 1573年(元亀4年)2月に、 室町幕府の

    第15代将軍の、足利義昭 (あしかがよし

    あき)は、 織田信長を裏切り、武田氏、朝

    倉氏、浅井氏、石山本願寺と協力して、

    信長討伐を謀(はか)る。

 

  ● 武田信玄が上洛を中止し、

    帰国途中で死す。

  ■ 1573年(元亀4年)4月に、武田信玄 は、

    病状悪化し、武田軍は、徳川領の遠江国、

    三河国(とおとうみのくに、みかわのくに、

    西部、愛知県東部)から、軍を返し、甲斐国

    (かいのくに、現・山梨県)へ帰国する。 

       武田信玄は、甲斐国(かいのくに、現・

    山梨県の相当地域)へ帰国途中、4月12日

    に、信濃・駒場で病死する。 

 

  ● 家康が三河の長篠城を武田氏

    より奪回する。

  ■ 1573年(元亀4年)5月に、徳川家康は、

    三河国(みかわのくに、現・愛知県東部)の

    長篠城(ながしのじょう)を攻め、武田軍より

    長篠城を奪回し、武田軍の再侵攻に備える。

 

 

 ■ 1573年 (元亀 4年)。 

 

  ● 室町幕府滅亡。

  ■ 1573年(元亀4年)7月に、織田信長は、

   室町幕府(= 足利幕府)・第15代将軍の足利

   義昭(よしあき)を、京(きょう、京都)より追放

   し、 実質上、室町幕府 (= 足利幕府)を滅ぼ

   す。

 

  ● 織田政権の成立。

  ■ 1573年(元亀4年)7月に、織田信長は、

    室町幕府(= 足利幕府)・第15代将軍の足利

     義昭を京(京都)より追放し、室町幕府を滅

    ぼし、織田政権が樹立される。

 

  ● 信長は天下統一を目指す。

  ■ 1573年(元亀4年)7月の信長による将軍

    の京都追放後、織田信長は、天下統一(日本

    本土統一)を目指すようになる。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 

 ■ 1573年 (元亀4年・天正元年)。

 

  ● 元亀年号から天正年号に改元。

     天正年号1573年ー 1592年。

  ■ 1573年(元亀4年・天正元年)に、

    天正(てんしょう) 年号に改元。 

  ● 1573年(元亀4年・天正 元年)7月28日に、 

    和暦の「元亀」(げんき、

    元亀元年・1570年〜元亀4年・1573年) 

    が、 

    和暦の「天正」(てんしょう、

    天正 元年・1573年・ 7月28日〜

    天正20年・1592年・12月 8日) に

    改元される。 

 

  ■ 1573年7月に、織田信長は、元号を元亀

    から天正へと改めることを朝廷に奏上し、こ

    れを実現させる。

 

  ■ 安土桃山時代の各年号。

    暗記法: 元天文慶      

          (げんてんぶんけい)。

  ● 元亀(げんき)年号    1570年ー 1573年。

  ● 天正(てんしょう)年号: 1573年ー 1592年。

  ● 文禄(ぶんろく)年号  1592年ー 1596年。

  ● 慶長(けいちょう)年号 1596年ー 1615年。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1573年 (天正元年)。

 

  ● 信長が朝倉氏・浅井氏を 滅ぼす。

  ■ 1573年(天正元年)8〜9月に、 織田信長

   は、朝倉氏・浅井氏を滅ぼす。

       信長は、越前国と北近江を領土とする。

 

  ● お市と浅井三姉妹は、城から

    落ち延び、信長が引き取る。

  ■ 1573年(天正元年)9月に、小谷城(おだ

    にじょう)落城前、信長の妹のお市(おいち)

    とお市の娘3人 (浅井三姉妹(あざいさんし

    まい)、茶々、初、江(ちゃちゃ、はつ、ごう))

    は、小谷城から落ち延びて、信長が引き取る。

 

 

 ■ 1573年 (天正元年)。

 

   ● 秀吉は、木下姓を羽柴姓に改

    姓する。

  ■ 1573年(天正元年)に、 豊臣秀吉(木下

    藤吉郎秀吉)は、 田勝家と丹長秀か ら

    一字ずつをもらいうけ、 木下姓を羽柴姓に

    改め、羽柴秀吉と称す。

 

  ● 1573年(天正元年)に、 織田氏の部将と

    なった豊臣秀吉(木下藤吉郎秀吉)は、 

    織田氏の重臣の、柴田勝家(しばたかつい

    え)、丹羽長秀(たんばながひで)を敵に回し

    たくないという思惑から、 木下姓を羽柴姓

    に改め、羽柴秀吉( 1573年〜1586年)

    称す。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1573年 (天正元年)。

 

  ● 織田氏家臣の秀吉が北近江の

    長浜城の城代(城主)となる。

  ■ 1573年(天正元年)に、 織田氏家臣の、

    豊臣秀吉(羽柴秀吉)は、 浅井氏滅亡後、

    その旧領の北近江三郡の経営を織田信長

    より任され、 その後、北近江(きたおうみ)

    の今浜(いまはま)に、今浜を長浜(ながは

    ま)に改名し、そこに、長浜城を築城し、

    長浜城の城代(城主)となる。 

 

  ■ 豊臣秀吉(羽柴秀吉)は、

    近江国 (おうみのくに、現・滋賀県)の、長

    浜城 (ながはまじょう)を、築城開始と同時

    に居住し、1573年(天正元年)から、1577

    年(天正5年)まで自分の本城(= 本拠地の

    城)や政務居城 とする。

 

  ● これ以後、 近江国(おうみのくに、現・滋賀

    県の相当地域)で、農民・足軽出身で譜代

    の家臣がいない秀吉は、人材発掘に励み、

    旧浅井氏家臣や、石田三成などの有望な

    若者を積極的に登用する。 また、秀吉は、

    秀吉や秀吉の正室夫人・おね(ねね)の、

    血縁遠戚・地縁の子供達 (例 加藤清正、

    福島正則、小早川秀秋など)を引き取って、

    秀吉の正室夫人・ねね(おね)が、彼らを育

    て面倒をみて、「秀吉子飼いの武将」を育成

    する。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1573年 (天正元年)。

 

  ● (R7) 秀吉は、長浜城を居住地

         とする。

  ● (R) 豊臣秀吉の居住地の変遷。

  ■ (R1)⇒(R16)。

     (R1)   中村の農家

                   (1537年ー1551年頃)、

     (R2)   頭陀寺城付近の松下氏家臣長屋

                 (1551年頃ー1554年頃)、

     (R3)   那古野城付近 の織田氏家臣長屋

                   (1554年頃ー1555年)、

     (R4)   清洲城付近の織田氏家臣長屋

                    (1555年1563年)、

     (R5)   小牧山城付近の織田氏家臣屋敷

                    (1563年1567年)、

     (R6)   岐阜城付近の織田氏家臣屋敷

                     (1567年1573年)、

     (R7)   長浜城      (1573年ー1577年)、

     (R8)   姫路城      (1577年ー1582年)、 

     (R9)   山崎城      (1582年ー1583年)、

     (R10)  二条第(= 妙顕寺城)

                    (1583年ー1587年)、

     (R11)  聚楽第      (1587年ー1592年)、

     (R12)  名護屋城    (1592年ー1593年)、

     (R13)  豊臣大阪城  (1593年ー1594年)、

     (R14)  豊臣秀吉築指月伏見城

                     (1594年−1596年)、 

     (R15)  豊臣大阪城  (1596年ー1597年)、

     (R16)  豊臣秀吉築木幡山伏見城

                    (1597年ー1598年)

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

             

  ■ (R7) 豊臣秀吉  

    (生没年:1537年ー1598年)は、

    1573年(天正元年)から

    1577年(天正5年)まで

    近江国の、長浜城 (ながはまじょう)で

    居住する。

 

  ■ 長浜城 (ながはまじょう)は、 近江国

    (おうみのくに、現・滋賀県)にある。

 

  ■ 1573年(天正元年)に、 豊臣秀吉(木下

   藤吉郎秀吉)は、 浅井氏滅亡後、その旧領

   の北近江三郡の経営を織田信長より任され、

   北近江の長浜城の城代(城主)となる。 

 

 

 ■ 1573年 (天正 元年)。

 

  ● (C1) 秀吉は、岡崎城を本城

              とする。

  ● (C) 豊臣秀吉の本城の変遷。 

  ■ (C1)⇒(C4) 。

          (C1)   長浜城      (1573年ー1577年)、

     (C2)   姫路城      (1577年ー1582年)、

     (C3)   山崎城      (1582年ー1583年)、

     (C4)   豊臣大阪城  (1583年ー1598年)。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

                    

  ■ (C1)  豊臣秀吉  

    (生没年:1537年ー1598年)は、

    1573年(天正元年)から

    1577年(天正5年)まで

    近江国の、長浜城 (ながはまじょう)を、

    自分の(C)本城(ほんじょう、= 本拠地

    の城)とする

 

  ■ 長浜城 (ながはまじょう)は、 近江国

    (おうみのくに、現・滋賀県)にある。

 

             

 ■ 1573年 (天正 元年)。

 

  ● (P1) 秀吉は、長浜城

              政務居城とする。

  ● (P) 豊臣秀吉の政務居城

         の変遷。 

  ■ (P1)⇒(P10) 。

     (P1)   長浜城     (1573年ー1577年)、

     (P2)   姫路城     (1577年ー1582年)、 

     (P3)   山崎城     (1582年ー1583年)、

     (P4)   二条第(妙顕寺城)

                    (1583年ー1587年)、

     (P5)   聚楽第     (1587年ー1592年)、

     (P6)   名護屋城    (1592年ー1593年)、

     (P7)   豊臣大阪城   (1593年ー1594年)、 

     (P8)   豊臣秀吉築指月伏見城

                     (1594年−1596年)、 

     (P9)   豊臣大阪城  (1596年ー1597年)、 

     (P10)  豊臣秀吉築木幡山伏見城

                     (1597年ー1598年)

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

  ■ (P1)  豊臣秀吉  

    (生没年:1537年ー1598年)は、

    1573年(天正元年)から

    1577年(天正5年)まで

    近江国の、長浜城 (ながはまじょう)を、

    自分の(P)政務居城とする

 

  ■ 長浜城 (ながはまじょう)は、 近江国

    (おうみのくに、現・滋賀県)にある。

 

 

 ■ 1574年 (天正 2年)。

 

  ● 越前で、一向宗門徒が反乱

    を起こし、織田領の越前を

    制する。

  ■ 朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前

     国(えちぜんのくに、現・福井県東部)で、

    1574年(天正2年)1月に、 地侍や 本願

    寺門徒の反乱が起こり、 織田氏より奪い、

    本願寺門徒(一向宗門徒)が、越前を制

    する。

 

 

 ■ 1574年 (天正 2年)。

 

  ● 武田勝頼が遠江の高天神城

    を家康より奪う。

  ■ 1574年(天正2年)5月に、徳川家康は、 

    遠江国(とおとうみ、現・静岡県西部)の、

    高天神城(たかてんじんじょう)を、武田信

    玄の家督を継承した武田氏の武田勝頼

    (たけだかつより)によって、奪われる。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1574年 (天正 2年)。

 

  ● 信長は、伊勢長島の一向一揆

    を滅ぼす。

  ■ 1574年(天正2年)9月に、織田信長は、

    伊勢長島一向一揆(いせながしまいっこう

    いっき、1570年ー1574年)を滅ぼす。 

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1575年 (天正 3年)。

 

  ● 長篠・設楽が原の戦いで、

    信長は、武田勝頼を敗北

    させる。

  ■ 長篠・設楽が原(ながしの・しだらがはら)

     の戦い。

  ● 1575年(天正3年)5月に、 織田・徳川

   連合軍(信長・家康連合軍)は、 三河国(み

   かわのくに、現・愛知県東部の相当地域)の

   設楽が原(しだらがはら)で、 武田勝頼(か

   つより)の率いる武田軍を、主に鉄砲隊を使

   って敗北させ、勝利を得る。 

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1575年 (天正 3年)。

 ● 秀吉が筑前守となる。

  ■ 1575年(天正3年)7月3日に、豊臣秀吉

    (羽柴秀吉)は、 筑前守(ちくぜんのかみ)

    に任官する。

 

 

 ■ 1575年 (天正 3年)。

 

  ● 信長は、越前の一向一揆を

    鎮圧し、越前を再び織田領

    にする。

  ■ 1575年(天正3年)8月に、 信長は、越

   前国(えちぜんのくに、現・福井県東部の相

   当地域)に侵攻し、本願寺門徒(一向宗門

   徒)の軍を破り勝利を得て、1574年(天正

   2年)1月に本願寺門徒(一向宗門徒)が奪

   った、越前国を再び織田領国にし、越前国を

   柴田勝家に任せる(経営させる)。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1576年 (天正 4年)。

 

  ● 信長は、安土城の築城を

    開始する。

  ■ 1576年(天正4年)2月に、 織田信長は、 

    琵琶湖湖岸に、安土城の築城を開始する 

    (1579年完成)。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1576年 (天正 4年)。

 

  ● 第1次木津川口の戦いで、

    織田水軍は石山本願寺方

    の毛利水軍に敗北する。

  ■ 第1次木津川口(きづがわぐち)の戦い。

  ● 織田信長と石山本願寺との石山合戦の戦

    いで、 1576年(天正4年)7月に、信長の

    織田水軍は、 大阪湾木津川(きづがわ)

    河口で、石山本願寺方の毛利水軍と戦い、

    敗れる。

 

 

 ■ 1576年 (天正 4年)。

 

  ● 織田軍の秀吉は、織田北陸

    方面軍より無断帰還したが、

    信長に許される。

  ■ 1576年(天正4年)に、 織田軍の豊臣秀

    吉(羽柴秀吉)は、 柴田勝家の織田北陸

    方面軍より無断で帰還し、信長の怒りをか

    ったが、許される。

 

  ● 1576年(天正4年)に、 豊臣秀吉(羽柴

    秀吉)は、 越後の上杉謙信と対峙している

    北陸方面軍の柴田勝家への救援を信長に

    命じられ、現地へ行軍したが、 現地で、秀

    吉は作戦をめぐって柴田勝家と仲たがいし、

    無断で帰還し、信長の怒りをかったが、許さ

    れる。

  ● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。

 

 

 ■ 1577年 (天正 5年)。

 

  ● 手取川の戦いで、織田信長軍

    は、上杉謙信軍に敗北する。

  ■ 手取川(てどりがわ)の戦い

    ● 1577年 (天正5年)9月に、織田信長軍は、

    北陸で、上杉謙信の率いる上杉軍に敗れ 

    (手取川(てどりがわ)の戦い)、 撤兵する。

 

 

 ■ 1577年 (天正 5年)。

 

  ● 信貴山城の戦いで、信長軍は、

    大和の松永久秀を討ち取る。

  ■ 信貴山城(しんぎさんじょう)の戦い。

  ● 1577年(天正5年)10月に、信長は、

    上杉謙信(うえすぎけんしん)と呼応(こお

    う)して信長を裏切り挙兵した、大和国(や

    まとのくに、現・奈良県)の松永久秀(まつ

    ながひさひで)を滅ぼす。

 

  ● 1577年(天正5年)10月に、信長は、大

    軍を、大和国の信貴山城(しんぎさんじょう)

    に派遣し、 上杉謙信と呼応して信長を裏

    切り挙兵した、松永久秀を討ち取る。

 

  ● 信貴山城の戦いで織田軍の

    秀吉は功績をあげる。

  ■ 1577年(天正5年)10月に、 信貴山城

    の戦いで、 織田軍の豊臣秀吉(羽柴秀吉)

    は、 織田信忠(のぶただ)の指揮下で、

    松永久秀を滅ぼし、功績をあげる。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1577年 (天正 5年)。

 

   ● 信長は中国地方の攻略を開始

     する。

  ● 秀吉はに中国地方の攻略を命

     じられる。

  ■ 秀吉の中国地方攻略の開始。

  ● 織田信長は、 豊臣秀吉(羽柴秀吉)に、

    の山陽道・山陰道の中国地方の攻略を命令し、

    1577年(天正5年)10月23日に、豊臣秀吉

    (羽柴秀吉)は、中国地方に出陣する。

 

  ■ 1577年(天正5年)10月に、羽柴秀吉(豊

    臣秀吉)は、 以前より親交のあった播磨国

    の黒田官兵衛孝高(くろだかんべいよしたか)

    より、播磨国の、姫路城(ひめじじょう)を譲

    り受け、中国地方の攻略のため、中国地方

    攻略の拠点とし、秀吉の本城(= 本拠地の城)

    や政務居城とする。

 

  ● 羽柴秀吉(豊臣秀吉 )は、

    播磨国 (はりまのくに、現・兵庫県本土南部)

    の、姫路城 (ひめじじょう)を、1577年(天正

    5年)から1582年(天正10年)まで 自分の

    本城(= 本拠地の城)や政務居城とする。

 

  ■ 1577年(天正5年)10月から羽柴秀吉(豊

    臣秀吉)は、中国地方の攻略を開始する。

       秀吉は、まず、播磨国(はりまのくに、兵庫

    県本土南部)に攻め入り、更に、但馬国(たじま

    のくに、兵庫県本土北部)に攻め入り、1581年

    (天正9年)までに、播磨国と但馬国を平定する。

 

 

 ■ 1577年 (天正 5年)。

 

  ● (R8) 秀吉は、姫路城を居住地

         とする。

  ● (R) 豊臣秀吉の居住地の変遷。

  ■ (R1)⇒(R16)。

     (R1)   中村の農家

                   (1537年ー1551年頃)、

     (R2)   頭陀寺城付近の松下氏家臣長屋

                 (1551年頃ー1554年頃)、

     (R3)  那古野城付近 の織田氏家臣長屋

                   (1554年頃ー1555年)、

     (R4)   清洲城付近の織田氏家臣長屋

                    (1555年1563年)、

     (R5)   小牧山城付近の織田氏家臣屋敷

                    (1563年1567年)、

     (R6)   岐阜城付近の織田氏家臣屋敷

                     (1567年1573年)、

     (R7)   長浜城      (1573年ー1577年)、

     (R8)  姫路城      (1577年ー1582年)、 

     (R9)   山崎城      (1582年ー1583年)、

     (R10)  二条第(= 妙顕寺城)

                    (1583年ー1587年)、

     (R11)  聚楽第      (1587年ー1592年)、

     (R12)  名護屋城    (1592年ー1593年)、

     (R13)  豊臣大阪城  (1593年ー1594年)、

     (R14)  豊臣秀吉築指月伏見城

                     (1594年−1596年)、 

     (R15)  豊臣大阪城  (1596年ー1597年)、

     (R16)  豊臣秀吉築木幡山伏見城

                    (1597年ー1598年)

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

             

  ■ (R8) 豊臣秀吉  

    (生没年:1537年ー1598年)は、

    1577年(天正5年)から

    1582年(天正10年)まで

    播磨国の、姫路城 (ひめじじょう)で

    居住する。

             

  ■ 姫路城 (ひめじじょう)は、 播磨国

    (はりまのくに、現・兵庫県本土南部)

    にある。

 

  ■ 1577年(天正5年)10月に、羽柴秀吉(豊

    臣秀吉)は、 以前より親交のあった播磨国

    の黒田官兵衛孝高(くろだかんべいよしたか)

    より、播磨国の、姫路城(ひめじじょう)を譲

    り受け、中国地方の攻略のため、中国地方

    攻略の拠点とし、秀吉の本城(= 本拠地の城)、

    政務居城とする。

 

 

 ■ 1577年 (天正 5年)。

 

  ● (C2) 秀吉は、姫路城を本城

              とする。

  ● (C) 豊臣秀吉の本城の変遷。 

  ■ (C1)⇒(C4) 。

          (C1)   長浜城      (1573年ー1577年)、

     (C2)   姫路城      (1577年ー1582年)、

     (C3)   山崎城      (1582年ー1583年)、

     (C4)   豊臣大阪城  (1583年ー1598年)。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

                    

  ■ (C2) 豊臣秀吉  

    (生没年:1537年ー1598年)は、

    1577年(天正5年)から

    1582年(天正10年)まで

    播磨国の、姫路城 (ひめじじょう)を、

    自分の(C)本城(ほんじょう、= 本拠地

    の城)とする

 

  ■ 姫路城 (ひめじじょう)は、 播磨国

    (はりまのくに、現・兵庫県本土南部)

    にある。

 

             

 ■ 1577年 (天正 5年)。

 

  ● (P2) 秀吉は、姫路城

              政務居城とする。

  ● (P) 豊臣秀吉の政務居城

         の変遷。 

  ■ (P1)⇒(P10) 。

     (P1)   長浜城     (1573年ー1577年)、

     (P2)  姫路城     (1577年ー1582年)、 

     (P3)   山崎城     (1582年ー1583年)、

     (P4)   二条第(妙顕寺城)

                    (1583年ー1587年)、

     (P5)   聚楽第     (1587年ー1592年)、

     (P6)   名護屋城    (1592年ー1593年)、

     (P7)   豊臣大阪城   (1593年ー1594年)、 

     (P8)   豊臣秀吉築指月伏見城

                     (1594年−1596年)、 

     (P9)   豊臣大阪城  (1596年ー1597年)、 

     (P10)  豊臣秀吉築木幡山伏見城

                     (1597年ー1598年)

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

  ■ (P2)  豊臣秀吉  

    (生没年:1537年ー1598年)は、

    1577年(天正5年)から

    1582年(天正10年)まで

    播磨国の、姫路城 (ひめじじょう)を、

    自分の(P)政務居城とする

 

  ■ 姫路城 (ひめじじょう)は、 播磨国

    (はりまのくに、現・兵庫県本土南部)

    にある。

 

 

 ■ 1578年 (天正 6年)。

 

  ● 上杉謙信が急死する。

  ■ 1578年(天正6年)3月に、上杉謙信が

   急死し、越後で、後継ぎ争い(御館の乱、おた

   てのらん、1578年〜1579年)が始まる。 

 

  ● 信長は、加賀、能登の攻略を

    開始する。

  ■ 1578年(天正6年)9月に、 信長軍は、

    上杉領の加賀国、能登国(かがのくに、のとの

    くに、現・石川県南部・北部の相当地域)の攻

    略を開始する。

 

 

 ■ 1578年 (天正 6年)。

 

  ● 三木合戦が始まる。

  ● 播磨の別所長治が織田方

    から毛利方となる。

  ■ 三木合戦(みきがっせん、1578年3月〜

    1580年1月)が始まる。 

 

  ● 1578年(天正6年)3月に、 播磨国(は

     りまのくに、現・兵庫県南部本土の相当地

    域)の三木城主・別所長治(べっしょながは

    る)は、 信長から離反し、織田方から毛利

    方に変わり、織田軍と戦う。 

 

 

 ■ 1578年 (天正 6年)。

 

  ● 上杉謙信が急死する。

  ■ 1578年(天正6年)3月に、上杉謙信が

    急死し、越後で、上杉氏の後継ぎ争い

    (御館の乱、おたてのらん、1578年〜

    1579年)が始まる。 

 

   ● 信長軍は、上杉領の加賀、能登

     の攻略を開始。

  ■ 1578年(天正6年)9月に、 信長軍は、

   上杉領の加賀、能登(かが、のと、現・石川

   県南部・北部の相当地域)の攻略を開始する。

 

 

 ■ 1578年 (天正 6年)。

 

  ● 有岡城の戦いが始まる。

  ● 摂津の荒木村重が織田方

    から毛利方となる。

  ■ 1578年(天正6年)10月に、有岡城の

    戦い(ありおかじょうのたたかい、

    1578年10月〜1579年9月)が始まる。 

 

  ● 1578年(天正6年)10月に、 摂津国

    (せっつのくに、現・大阪府北西部の相当地

    域)の、有岡城主・荒木村重(あらきむらし

    げ)が、 信長から離反し、毛利氏、石山本

    願寺、足利義昭と手を結んで、信長に反抗

    する。 

 

 

 ■ 1578年 (天正 6年)。

 

  ● 第2次木津川口の戦いで、

    織田水軍は、石山本願寺方

    の毛利水軍を敗北させる。

  ■ 第2次木津川口(きづがわぐち)の戦い。

  ● 織田信長と石山本願寺との石山合戦の戦

    いで、 1578年(天正6年)11月に、信長

    の織田水軍は、大阪湾木津川(きづがわ)

    河口で、鉄甲船(てっこうせん)を用いて、

    石山本願寺方の毛利水軍を破り、勝利を

    得る。

 

 

 ■ 1579年 (天正 7年)。

 

  ● 信長は、安土城を完成させる。

  ■ 1579年(天正7年)に、 織田信長は、 

    近江国(おうみのくに、現・滋賀県)の 、安土

    (あづち)に、 五層七重の豪華絢爛(ごうか

    けんらん)な安土城(あづちじょう)を完成さ

    せる。

 

 

 ■ 1579年 (天正 7年)。

 

  ● 徳川氏の分裂危機を招いた、

    松平信康事件が起こる。

  ■ 松平信康自害・築山殿殺害事件。

  ● 1579年(天正7年)8月〜9月に、松平信康

    事件(ま つだいらもとやすじけん、= 松平信康

    自害・築山殿殺害事件)が起きる。

 

 

 ■ 1579年 (天正 7年)。

 

  ● 有岡城の戦いが終わる。

  ● 有岡城の戦いで、織田方が勝

    ち、毛利方の摂津の荒木村重

    を敗北させる。

  ■ 有岡城の戦い(ありおかじょうのたたかい、

   1578年10月〜1579年9月)が終わる。 

 

  ● 1579年(天正7年)9月に、 毛利方の、

   摂津国(せっつのくに、現・大阪府北西部の

   相当地域)の、有岡城主・荒木村重(あらき

   むらしげ)は、 織田軍と戦い、有岡城を出

   て援軍を毛利勢に求めたが得られず、有岡

   城は落城し、信長に敗れる。 

 

 

 ■ 1580年 (天正 8年)。

 

  ● 三木合戦が終わる。

  ● 三木合戦で、織田方が勝ち、

    毛利方の播磨の別所長治

    敗北させる。

  ■ 三木合戦(みきがっせん、1578年3月〜

    1580年1月)が終わる。 

 

  ● 1580年(天正8年)1月に、 毛利方の、 

    播磨国(はりまのくに、現・兵庫県本土南部

    の相当地域)の三木城主・別所長治(べっし 

    ょながはる)は、自刃(自害)し、三木城(み

    きじょう)を開場し、織田軍に降伏する。 

 

 

 ■ 1580年 (天正 8年)。

 

  ● 石山合戦の終り。

  ● 石山合戦で、信長は、勝ち、

    石山本願寺を打倒する

  ■ 石山合戦( いしやまがっせん、1570年−

    1580年)が終わる。

 

  ● 1580年(天正8年)8月に、 教如が大

   阪を退去し、織田信長は、石山本願寺(いし

   やまほんがんじ)を打倒する(屈服させる)。 

 

 

 ■ 1581年 (天正 9年)。

 

  ● 信長が、京(京都)で、馬揃え

         を行なう。

  ■ 京都御馬揃え (きょうとおうまぞろえ)。

  ● 1581年(天正9年)2月 28日に、織田信長  

    は、京(きょう、京都)の内裏(だいり 、天皇

    住居)東の馬場で、 馬揃え (うまぞろえ)

    を行う。 

       馬揃えは、現在の軍事パレードに相当

    する。

 

 

 ■ 1581年 (天正 9年)。

 

  ● 織田軍の秀吉が鳥取城を兵糧

     攻めで落とし、因幡国を攻略。

  ■ 鳥取城の兵糧攻め(鳥取城の渇え殺し)。

  ● 1581年(天正9年)4月から10月まで、 

    織田軍の豊臣秀吉(羽柴秀吉)は、 鳥取

    城を兵糧攻めにし鳥取城を落とし、これは、

    「鳥取城の渇え殺し(かつえごろし))」と呼

    ばれ、悲惨な城攻めとなり、 因幡国(い

    なばのくに、現・鳥取県東部)を攻略する。 

 

  ● 織田軍の秀吉が岩屋城を落と

     し淡路国を攻略。

  ■ 1581年(天正9年)に、織田軍の豊臣

    秀吉(羽柴秀吉)は、 岩屋城を落として淡

    路国(あわじのくに、現・兵庫県淡路島)

    攻略する。

 

 

 ■ 1581年 (天正 9年)。

 

  ● 信長は、第2次天正伊賀の乱

    で伊賀を攻略。

  ■ 第2次天正伊賀(てんしょういが)の乱。

  ● 1581年(天正9年)に、 織田信長は、

    約6万人の兵の軍勢で伊賀国(いがのくに、

    現・三重県中央西部)を攻略し、織田氏の

    領地(織田領国)とする。

 

 

□ 豊臣秀吉 関連出来事(総合)へ

□ 豊臣秀吉 関連年代順出来事(詳細・各年)へ。

□ 豊臣秀吉 関連出来事(概要)へ

□ メニュー(目次)の先頭へ戻る

□ 豊臣秀吉ガイドブック へ。  

□ 日本史辞典の先頭ページへ。  

□ 日本の歴史ハンドブックの先頭ページへ

 

 

#jphappenings-1582

 

 

 ■ 1582年 (天正10年)。

 

  ● 信長は、武田氏を滅ぼす。

  ● 信長は、信濃・甲斐を平定。

  ■ 織田信長の信濃・甲斐平定。

  ● 1582年(天正10年)2月に、織田信長は、

    武田氏の信濃 国・甲斐国(しなののくに、

    かいのくに、現・長野県、山梨県)へ 織田軍

    を侵攻させ、攻撃開始し、3月11日に、甲斐

    国の田野で、武田勝頼・信勝父子を討ち取り 

    (天目山の戦い)、 戦国大名の武田氏は

    滅亡する。 

        織田信長は、信濃・甲斐を平定し、

    日本の中央部を支配下におく。 

 

  ● 家康は、駿河を領有する。

  ■ 1582年(天正10年)2月に、織田軍に協力

    して、 徳川軍も、武田氏領の駿河に侵攻し

    て、駿河を占領する。 家康は、 同年に、

    この戦功により、 織田信長から駿河 国一国

    を与えられる。

 

 

 ■ 1582年 (天正10年)。

 

  ● 織田氏家臣の秀吉が備中に

    侵攻。

  ■ 織田氏家臣の秀吉の備中国侵攻。

  ■ 1582年(天正10年)に、織田軍の豊臣秀

    吉(羽柴秀吉)は、 織田軍の中国地方攻め

    で、備中国(びちゅうのくに、岡山県西部)に

    侵攻する。

 

  ● 織田軍の秀吉は備中の高松城

    を水攻めにする。

  ■ 備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)の

    戦い。

  ● 1582年(天正10年)に、豊臣秀吉(羽柴

    秀吉)は、 中国地方の備中国に侵攻し、 

    毛利方の清水宗治(しみずむねはる)が守

    る高松城(たかまつじょう)を、5月に、水攻

    めにする。 

 

  ● 織田軍の秀吉が信長に援軍を

    要請。

  ■ 秀吉は、 備中攻めの時、織田軍の、

    毛利輝元(もうりてるもと)、吉川元春(きっか

    わもとはる)、小早川隆景(かばやかわたか

    かげ)らを大将とする毛利軍と対峙し、信長

    に援軍を要請する。

      

  ● 信長は、明智光秀に備中の秀吉

    指揮織田軍への援軍を命じる。

  ■ 信長は、 明智光秀に、家康の接待役の任

    を解き、1582年(天正10年)5月に、備中

    国(びちゅうのくに、岡山県西部)にいる秀吉

    指揮織田軍への援軍を命じる(命令する)。

  ● 明智光秀は、6月の備中出兵準備をする。 

 

 

 ■ 1582年 (天正10年)。

 

  ● 信長が中国地方出陣前に、

    茶事で、京に一時滞在。

  ■ 1582年(天正10年)に、 1582年(天正10

    年)5月に、織田信長は、明智光秀に、備中国

    にいる秀吉軍への援軍を命じ、 一方、信長は、

    6月上旬後半の自身の中国地方行軍予定前に、

    6月上旬前半に京(きょう、京都)で茶事(ちゃ

    じ)で茶会(ちゃかい)を開くため、安土城から、

    名物茶器を携え、京へ上洛するため、信長は、

    5月29日に安土城を出て5月29日に京の

    本能寺に到着し、京に6月上旬前半まで滞在

    する予定であった。

 

 

  ● 本能寺の変で、信長死す。

  ■ 本能寺の変。

    1582年(天正10年)6月2日未明に、明智

    光秀が、 6月1日の本能寺での茶会の翌日

    に京(きょう、京都)の本能寺にいた織田信長

    を攻め、自害させる。 信長、数え年49歳で

    死す。

 

 

 ■ 1582年 (天正10年)。

 

  ● 信長は、少数の伴と共に、上洛

    し、本能寺に滞在する

  ■ 信長は、1582年(天正10年)5月下旬に、

    少数の伴と共に、小姓衆(こしょうしゅう)のみ

    を連れて、京(きょう、京都)へ上洛し、 京の本

    能寺に滞在する。

 

  ● 1582年(天正10年)5月下旬に、信長は、

    毛利遠征のため、即ち、信長は京(都)経由で

    6月に備中へ行き、毛利遠征で織田軍の総指

    揮をとるため、上洛する (京(きょう、京都)

    行く)。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1582年 (天正10年)。

 

  ● 本能寺の変が起こる。

  ■ 本能寺の変 (ほんのうじのへん)。

  ■ 1582年(天正10年)6月に、明智光秀は、 

    備中国 (びちゅうのくに、現・岡山県西部)

    へ向かわず、 織田信長・信忠父子(おだの

    ぶなが・のぶただふし)を殺害するため、 

    京( きょう、京都)へ進軍する。 

  ● 明智光秀は、 1582年(天正10年)6月

    2日未明に、信長の滞在する本能寺を急襲

    する。

 

  ● 信長 ・信忠父子が京で

    死去する。

  ■ 田信長は、 天下統一(日本本土統一)を

    めざしていが、 1582年(天正10年)6月

    2日未明に、 織田氏の重臣の一人の明智光

    秀(あけちみつひで)の謀反(むほん)により、 

    京( きょう、京都)の本能寺にて、自刃(じじん、

    自害)する (本能寺の変)。

 

  ● また、京 (きょう、京都)にいた信長の嫡男で

    織田氏の後継者の織田信忠( おだのぶただ)

    も、6月2日に、の二 条城にて、明智光秀に

    攻められて、自刃(じじん、自害)する

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

  ● 本能寺の変発生時の織田方の

    主な武将の居場所。

  ■ 本能寺の変発生時の1582年(天正10年)

    6月2日の織田方の主な武将の居場所。

 

  ● 織田氏部将の柴田勝家 (しばたかついえ)

    は、 

    北陸地方の、越中国 (えっちゅうのくに、現・

    富山県)の、魚津城(うおづじょう)で、上杉勢

    (上杉氏)の、上杉景勝(うえすぎかげかつ)

    の軍と交戦中であった (魚津城の戦い)。

    

  ● 織田氏部将の滝川一益 (たきがわかずま

    す)は、 

    関東地方の、上野国(こうずけのくに、現・群

    馬県)の、厩橋城(まやばしじょう、前橋城)で、

    北条勢(小田原北条氏)を牽制中であった。

 

  ● 織田氏部将の織田信孝、丹羽長秀 (おだの

    ぶたか、たんばながひで)は、

    近畿地方の、堺 (さかい、現・大阪府堺市)

    で、四国征伐織田軍を編成中であった。

 

  ● 織田氏部将の羽柴秀吉 (はしばひでよし)

    は、

    中国地方の、備中・高松 (びっちゅう・たかま

    つ、現・岡山県南中部・岡山市高松)で、毛利

    勢(毛利氏)と交戦中であった。

 

  ● 織田氏の同盟者の大名の徳川家康 (とくが

    わいえやす)は、

    京(きょう、京都)に向かう途中で、近畿地方

    の、堺と京(京都)との中間地点付近の、

    飯盛山(いいもりやま)を移動中であった。

       飯盛山 (いいもりやま、河内国飯盛山)は、

    近畿地方の、現在の大阪府の、四条畷市(し

    じょうなわてし)と大東市(だいとうし)にまた

    がる山であり、 堺 (さかい、現・大阪府堺

    市) と 京(きょう、京都) との中間地点付近

    にある。

 

 

 

 ■ 1582年 (天正10年)。

 

  ● 家康の伊賀越え。

  ■ 家康の伊賀越え (= 神君伊賀越え)。

  ● 本能寺の変発生時の1582年(天正10年)

    6月2日時点で、 徳川家康は、京(きょう、

    京都)に向かう途中で、本能寺の変を知る。

    その時、家康は、堺と京(京都)との中間付

    近の飯盛山(いいもりやま)を移動中 であっ

    た。

  

  ● 徳川家康は、1582年(天正10年)5月15

    日から17日まで、安土城で接待を受ける。 

       家康は、信長から京(京都)、大阪、堺、

    奈良の見物を勧められ、その後、5月21日

    に京に出立し(上洛し)、28日まで京(京都)

    に滞在し、家康は、29日には堺へ向かい、

    国際貿易港として栄える堺で数日間滞在し、

    家康は、6月1日には堺の豪商の茶会に招

    かれ、京(京都)や堺を遊覧(見物)し、6月

    2日早朝にを出て京(京都)に向かう。

 

   ■ 1582年(天正10年)6月に、本能寺の

    変後、少人数の伴しかいない徳川家康は、 

    6月2日に飯盛山から自分の領国へ向けて

    馬で出立し、明智光秀の軍を避けるため、

    山城国宇治田原、近江国甲賀小川経由で、

    桜峠から、難所の伊賀を越えて逃走し、

    伊勢国(いせのくに、現・三重県北部・中

         央中部)から船で伊勢湾を渡り、6月5日

    頃に、三河国(みかわのくに、愛知県東部)

    の大浜に到着し、三河国・岡崎城に帰還し、

    無事に、家康の領国(三河国・遠江国・駿河

    国)に戻る。

    

 

 ■ 1582年 (天正10年)。

 

  ● 秀吉が明智光秀を討つ。

  ■ 1582年(天正10年)6月に、本能寺の変で

    信長の死去を知った豊臣秀吉(羽柴秀吉)は、 

    山崎の戦いで勝ち、明智光秀を討つ。

  ● 1582年(天正10年)6月に、秀吉は、中国

    大返しを行ない、京(京都)に近い、山崎で、

    明智光秀と交戦し勝ち (山崎の戦い)、光秀

    は、敗走中、農民に殺される。

 

  ● 秀吉の中国大返し。

  ■ 秀吉の中国大返し。

  ● 備中の高松城を水攻めにしていた豊臣秀吉

    (羽柴秀吉)は、

    1582年(天正10年)6月3日に、本能寺の

    変で信長の死去を知ると、 急いで、高松城

    城主・清水宗治(しみずむねはる)の自刃(じ

    じん、自害)を条件にして毛利氏の毛利輝元

    (もうりてるもと)と講和し、 京( きょう、京都)

    に向け秀吉指揮織田軍を動かす。 

 

  ● 備中・高松 (びっちゅう・たかまつ、現・岡

    山県南中部・岡山市高松) にいた豊臣秀

    吉(羽柴秀吉)は、

    1582年(天正10年)6月3日に本能寺の

    変の報を入手し、 すぐに、秀吉は毛利軍

    と和議を結び、 6月4日に秀吉は清水宗治

    の自刃の検分を行い、 6月5日〜6日に秀

    吉は備中・高松より撤兵し、 6月7日に秀吉

    は姫路城 (ひめじじょう、現・兵庫県南中部・

    姫路市)に到着し、 6月11日に秀吉は尼崎

    (あまがさき、現・兵庫県南東部・尼崎市)に

    到着する。 6月11日に秀吉は、富田(とん

    だ、現・大阪府高槻市富田町)で軍議を開き、

    6月11日〜12日に羽柴秀吉軍は、山崎(や

    まざき、現・京都府大山崎町)に向かう。 

    1582年(天正10年)6月12日に、秀吉は、

    自軍と共に山崎に到着する。

  

  ● 山崎の戦いで、秀吉が明智

    光秀に勝つ。

  ■ 山崎(やまざき)の戦い。

  ● 1582年(天正10年)6月13日に、豊臣秀

    吉(羽柴秀吉)は、

    京(きょう、京都)に近い、山崎で、明智光秀

    と交戦し、勝利を得る。 約2万の兵の羽柴

    秀吉軍と約1万の兵の明智光秀軍の戦いで

    あった。

 

  ● 1582年(天正10年)6月12日頃から、羽柴

    秀吉軍と明智光秀軍の両軍は、

    山崎付近の円明寺川(現・小泉川)を挟(はさ)

    んで対陣する。 

      山崎付近で局地的な戦闘はあったものの、

    6月13日の午後4時頃に、本格的な戦闘の

    先端が開かれ、2時間ほど経過して、日没頃

    に、明智光秀軍が総崩れとなり、壊滅し、敗北

    する。

      光秀は、戦線後方の勝龍寺城に退却する。

 

  ● 明智光秀の死去。

  ■ 1582年(天正10年)6月13日に、山崎の

    戦いの敗戦後、戦線後方の勝龍寺城にいた

    明智光秀は、

    勝龍寺城の北門を夜陰にまぎれて密かに脱

    出し、近江国(おうみのくに、現・滋賀県)の

    居城・坂本城を目指して落ち延びる途中、

    光秀は、敗走中、6月14日の丑の刻(うしの

    こく、午前2時頃)に、小栗栖(おぐるす、京都

    市伏見区東部)で、農民に殺される。

 

 

 ■ 1582年 (天正10年)。

 

  ● 秀吉は、自分の本城(= 本拠地

    の城)や政務居城とする。

  ■ 羽柴秀吉(豊臣秀吉 )は、

    山城国 (やましろのくに、現・京都府南部)

    の、山崎城 (やまざきじょう)を、1582年

    から1583年まで、 自分の本城(= 本拠地

    の城)や政務居城とする。

 

  ● 羽柴秀吉(豊臣秀吉 )は、

    天下取りを目指し (日本本土支配をめ

    ざし)、 朝廷のある京(きょう、京都)に

    近い、山崎 (やまざき)に、1582年

    (天正10年)から山崎城の築城を開始し、

    1582年(天正10年)から1583年(天正

    11年)まで、自分の本城(= 本拠地の城)

    政務居城とする。

 

 

 ■ 1582年 (天正10年)。

 

  ● (R9) 秀吉は、山崎城を居住地

         とする。

  ● (R) 豊臣秀吉の居住地の変遷。

  ■ (R1)⇒(R16)。

     (R1)   中村の農家

                   (1537年ー1551年頃)、

     (R2)   頭陀寺城付近の松下氏家臣長屋

                 (1551年頃ー1554年頃)、

     (R3)  那古野城付近 の織田氏家臣長屋

                   (1554年頃ー1555年)、

     (R4)   清洲城付近の織田氏家臣長屋

                    (1555年1563年)、

     (R5)   小牧山城付近の織田氏家臣屋敷

                    (1563年1567年)、

     (R6)   岐阜城付近の織田氏家臣屋敷

                     (1567年1573年)、

     (R7)   長浜城      (1573年ー1577年)、

     (R8)  姫路城      (1577年ー1582年)、 

     (R9)   山崎城      (1582年ー1583年)、

     (R10)  二条第(= 妙顕寺城)

                    (1583年ー1587年)、

     (R11)  聚楽第      (1587年ー1592年)、

     (R12)  名護屋城    (1592年ー1593年)、

     (R13)  豊臣大阪城  (1593年ー1594年)、

     (R14)  豊臣秀吉築指月伏見城

                     (1594年−1596年)、 

     (R15)  豊臣大阪城  (1596年ー1597年)、

     (R16)  豊臣秀吉築木幡山伏見城

                    (1597年ー1598年)

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

             

  ■ (R9) 豊臣秀吉  

    (生没年:1537年ー1598年)は、

    1582年(天正10年)から

    1583年(天正11年)まで

    山城国の、山崎城 (やまざきじょう)で

    居住する。

             

  ■ 山崎城 (やまざきじょう)は、 山城国

    (やましろのくに、現・京都府南部))に

    ある。

 

  ■ 羽柴秀吉(豊臣秀吉 )は、

    天下取りを目指し (日本本土支配をめ

    ざし)、 朝廷のある京(きょう、京都)に

    近い、山崎 (やまざき)に、1582年

    (天正10年)から山崎城の築城を開始し、

    1582年(天正10年)から1583年(天正

    11年)まで、自分の本城(= 本拠地の城)

    政務居城とする。

 

 

 ■ 1582年 (天正10年)。

 

  ● (C3) 秀吉は、山崎城を本城

              とする。

  ● (C) 豊臣秀吉の本城の変遷。 

  ■ (C1)⇒(C4) 。

          (C1)   長浜城      (1573年ー1577年)、

     (C2)   姫路城      (1577年ー1582年)、

     (C3)   山崎城      (1582年ー1583年)、

     (C4)   豊臣大阪城  (1583年ー1598年)。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

                    

  ■ (C3) 豊臣秀吉  

    (生没年:1537年ー1598年)は、

    1582年(天正10年)から

    1583年(天正11年)まで

    山城国の、山崎城 (やまざきじょう)を、

    自分の(C)本城(ほんじょう、= 本拠地

    の城)とする

 

  ■ 山崎城 (やまざきじょう)は、 山城国

    (やましろのくに、現・京都府南部))に

    ある。

 

             

 ■ 1582年 (天正10年)。

 

  ● (P3) 秀吉は、山崎城

              政務居城とする。

  ● (P) 豊臣秀吉の政務居城

         の変遷。 

  ■ (P1)⇒(P10) 。

     (P1)   長浜城     (1573年ー1577年)、

     (P2)  姫路城     (1577年ー1582年)、 

     (P3)   山崎城     (1582年ー1583年)、

     (P4)   二条第(妙顕寺城)

                    (1583年ー1587年)、

     (P5)   聚楽第     (1587年ー1592年)、

     (P6)   名護屋城    (1592年ー1593年)、

     (P7)   豊臣大阪城   (1593年ー1594年)、 

     (P8)   豊臣秀吉築指月伏見城

                     (1594年−1596年)、 

     (P9)   豊臣大阪城  (1596年ー1597年)、 

     (P10)  豊臣秀吉築木幡山伏見城

                     (1597年ー1598年)

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

  ■ (P3)  豊臣秀吉  

    (生没年:1537年ー1598年)は、

    1582年(天正10年)から

    1583年(天正11年)まで

    山城国の、山崎城 (やまざきじょう)を、

    自分の(P)政務居城とする

 

  ■ 山崎城 (やまざきじょう)は、 山城国

    (やましろのくに、現・京都府南部))に

    ある。

 

 

 ■ 1582年 (天正10年)。

 

  ● 清洲会議が開かれる。

  ■ 清洲会議 (きよすかいぎ)。

  ● 1582年(天正10年)6月27日に、秀吉は、

    清洲城(きよすじょう)にて、他の織田氏の

    3重臣と相談し、信長の後継者と遺領の分割

    を決める。

  ● 当日出席した織田氏の4人の重臣の、羽柴

    秀吉(はしばひでよし)、柴田勝家(しばたか

    ついえ)、丹羽長秀(にわながひで)、池田

    恒興(いけだつねおき)には、会議前に、

    既に、織田氏の一族、同盟者などの利害関

    係者からの意向が伝えられていた。

 

  ■ 1582年(天正10年)6月27日に、羽柴秀

    吉(豊臣秀吉)は、 清洲城 (きよすじょう、

    現・愛知県清須市)にて、他の織田氏の重臣

    3人と共に、清洲会議 (きよすかいぎ)を開

    き、 清洲会議の四者会談で、 織田信長の

    後継者と遺領の分割、織田氏領地再配分を

    決める。

 

  ● 織田信長の後継者は、 織田信長の嫡孫

    (織田信忠の嫡男)の三法師 (さんぽうし、

    さんぼうし、織田秀信(ひでのぶ))と決まる。

 

  ● 清洲会議に参加した者は、 史実では、

    羽柴秀吉(豊臣秀吉)、柴田勝家、丹羽長秀

    (たんばながひで)、池田恒興(いけだつねお

    き)の4名の織田氏重臣のみである。

 

  ● 清洲会議の織田氏領地再配分。

  ■ 清洲会議で決まった織田氏領地再配分は、

    次の通りである。

 

  ● 織田氏経営委任地 (織田信長が生前織田

    氏部将に経営を委任していた領地)は、原則

    として、そのまま、その部将の領地となる。

  ● 三法師(織田秀信)は、近江国坂田郡と安土

    城を相続する。

  ● 信長次男の織田信雄は、尾張国(おわりの

    くに、現・愛知県西部)を相続する。

  ● 信長三男の織田信孝は、美濃国(みののく

    に、現・岐阜県南部)を相続する。    

  ● 信長四男の羽柴秀勝は、明智光秀の旧領

    の丹羽国(たんばのくに、現・京都府中部)を

    得る。        

  ● 柴田勝家は、越前国(えちぜんのくに、現・

    福井県東部)などの織田氏経営委任地を安

    堵(あんど)される。

  ● 丹羽長秀は、若狭国などの織田氏経営委任

    地を安堵され、近江国(おうみのくに、現・滋

    賀県)の2郡を増量(加増)される。

  ● 池田恒興は、織田氏経営委任地を安堵され、

    摂津国(せっつのくに、大阪府西北部)の3郡

    を増量(加増)される。

  ● 羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、中国地方の織田

    氏経営委任地以外に、河内国(かわちのくに、

    大阪府東部)、山城国(やましろのくに、京都

    府南部)を増領(加増)される。

       但し、勝家の希望で秀吉の北近江(きた

    おうみ、現・滋賀県北部)3郡と長浜城は、勝

    家養子の柴田勝豊(しばたかつとよ)に譲ら

    れる。

  ● 滝川一益は、伊勢国(いせのくに、現・三重

         県北部・中央中部)などの織田氏経営委任

    地を安堵(あんど)される。 

       但し、北条氏に奪取された、旧武田領国

    の織田領の上野国(こうずけのくに、現・群馬

    県)は、徳川氏に委(ゆだ)ねる。

  ● 旧武田領国の織田領は、 天正壬午の乱

    (てんしょうじんごのらん、1582年6月〜10

    月)で北条氏、上杉氏に侵略され奪取されて

    も、織田氏部将は奪還せず、徳川家康の進

    出を了承し(平定を容認し)、徳川氏に委(ゆ

    だ)ねる。

 

  ● 清洲会議後、織田氏家臣団は、

    羽柴方と柴田方に分裂。

  ■ 1582年(天正10年)6月27日の清洲会議後、

    織田氏の家臣団は、 羽柴方 と 柴田方に分

    裂する。

       羽柴方には、 丹羽長秀、池田恒興、織

    田信雄(おだのぶかつ)などであり、 柴田方

    は、 織田信孝(おだのぶたか)、滝川一益(た

    きがわかずます)などである。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1582年 (天正10年)。

 

  ● 天正壬午の乱が起こる。

  ■ 天正壬午の乱 (てんしょうじんごのらん、

    1582年6月〜10月)。

  ● 本能寺の変で織田信長死後、 1582年

    (天正10年)6月から10月まで旧武田領

    国の織田領の、信濃国・甲斐国・上野国は、 

    北条氏、上杉氏、徳川氏に侵略され奪取さ

    れる。

 

  ● 1582年 (天正10年)に、本能寺の変で、

    織田信長死後、 織田領の信濃国(しなのの

    くに、現・長野県の相当地域)、甲斐国(かい

    のくに、現・山梨県の相当地域)、上野国(こ

    うずけのくに、現・群馬県の相当地域)へ、

    上杉景勝の軍、北条氏直の軍、徳川家康の

    軍が侵攻する。 

 

  ● その後、戦いの結果、徳川家康と北条氏

    直は和睦し、 信濃国、甲斐国は徳川氏領に、

    上野国は、北条氏領となる。

 

  ● 家康が五か国の大大名になる。

  ■ ここに、徳川家康は、 三河国(みかわのく

   に、現・愛知県東部の相当地域)、遠江国(と

   おとうみのくに、現・静岡県西部の相当地域)、

   駿河国(するがのくに、現・静岡県中部の相当

   地域)に加えて、甲斐国、信濃国を領有する

   大大名となる。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1582年 (天正10年)。

 

  ● 太閤検地開始。

  ● 1582年(天正10年)7月に、 豊臣秀

   吉(羽柴秀吉)は、 山城(やましろ)を検地 

   する。 秀吉の太閤検地(1582年〜1598

   年)が始まる。  

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1582年 (天正10年)。

 

  ● 秀吉が北近江、美濃を平定

    する。

  ■ 1582年(天正10年)12月に、豊臣秀吉

    (羽柴秀吉)は、 北近江へ侵攻し、清州会

    議で柴田方に譲った長浜城(ながはまじょ

    う)を降伏させ、 更に、美濃国へ侵攻し、

    平定する。

 

  ● 1582年(天正10年)12月に、秀吉は、

    北近江へ侵攻し、柴田方の柴田勝家の養子・

    柴田勝豊の守る長浜城を包囲し、降伏させ、

    それから柴田方の美濃国へ侵攻し、美濃を

    平定する。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1583年 (天正11年)。

 

  ● 秀吉が伊勢を平定する。

  ■ 1583年(天正11年)2月に、豊臣秀吉

   (羽柴秀吉)は、 柴田方の北伊勢へ侵攻

   し、3月に、伊勢亀山城を降伏させる。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1583年 (天正11年)。

 

  ● 秀吉は、越前の柴田氏を滅

    ぼす。

  ■ 1583年(天正11年)4月に、豊臣秀吉

    (羽柴秀吉)は、 賤ヶ岳(しずがたけ)で、

    柴田勝家の軍を破り勝利を得て (賤ヶ岳の

    戦い)、 そのまま秀吉は、追撃し、秀吉に

    追撃された勝家は、越前(えちぜん、現・

    福井県東部の相当地域)の北庄城(きたの

    しょうじょう、北ノ庄城)で、自害する。

 

  ● 賤ヶ岳の戦いで、秀吉が柴田勝

    家を破る。

  ■ 賤ヶ岳の戦い。

  ● 1583年(天正11年)4月に、豊臣秀吉(羽

    柴秀吉)は、 賤ヶ岳(しずがたけ)で、柴田

    方の柴田勝家の軍を破り勝利を得て (賤ヶ

    岳の戦い)、勝家を追撃する。

 

  ● 越前・北庄城が落城し、柴田勝家

    は、自害する。

  ■ 秀吉に追撃された勝家は、 越前国(えちぜ

    んのくに、現・福井県東部の相当地域)の北庄

    城(きたのしょうじょう、北ノ庄城)で、自害する。

      

  ● 1583年(天正11年)4月に、秀吉は、賤ヶ岳 

    で、柴田勝家の軍を破り (賤ヶ岳の戦い)、

    越前(現・福井県)に撤退した(敗走した)柴田

    勝家を追って、越前国へ侵攻し、4月24日に、

    越前の北庄城を落城させ、織田氏の柴田方を

    打ち負かす。 

 

  ● 越前・北庄城で、お市が自害し、

    浅井三姉妹は城から落ち延びる。

  ■ 柴田氏の北庄城落城時、柴田勝家は、織田

    信長の妹で勝家正室夫人のお市(おいち)と

    共に自害する。 

 

  ● 浅井三姉妹(あざいさんしまい、茶々、初、

    江)は、近江の小谷城の落ち延びと同様に、

    越前の北庄城から落ち延びる。

 

  ● 秀吉は、加賀・能登を平定し、

    経営を前田利家に委ねる。 

  ■ 越前国を平定後、更(さら)に、秀吉は、加賀

    国と能登国(かがのくにとのとのくに、現・石川

    県の相当地域)へ侵攻し2国を平定して、それ

    らの経営を前田利家に委ねる。 

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1583年(天正11年)。

 

  ● (R10) 秀吉は、二条第(= 妙顕

           寺城)を居住地とする。

  ● (R) 豊臣秀吉の居住地の変遷。

  ■ (R1)⇒(R16)。

     (R1)   中村の農家

                   (1537年ー1551年頃)、

     (R2)   頭陀寺城付近の松下氏家臣長屋

                 (1551年頃ー1554年頃)、

     (R3)  那古野城付近 の織田氏家臣長屋

                   (1554年頃ー1555年)、

     (R4)   清洲城付近の織田氏家臣長屋

                    (1555年1563年)、

     (R5)   小牧山城付近の織田氏家臣屋敷

                    (1563年1567年)、

     (R6)   岐阜城付近の織田氏家臣屋敷

                     (1567年1573年)、

     (R7)   長浜城      (1573年ー1577年)、

     (R8)  姫路城      (1577年ー1582年)、 

     (R9)   山崎城      (1582年ー1583年)、

     (R10)  二条第(= 妙顕寺城)

                    (1583年ー1587年)、

     (R11)  聚楽第      (1587年ー1592年)、

     (R12)  名護屋城    (1592年ー1593年)、

     (R13)  豊臣大阪城  (1593年ー1594年)、

     (R14)  豊臣秀吉築指月伏見城

                     (1594年−1596年)、 

     (R15)  豊臣大阪城  (1596年ー1597年)、

     (R16)  豊臣秀吉築木幡山伏見城

                    (1597年ー1598年)

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

             

  ■ (R10) 豊臣秀吉  

    (生没年:1537年ー1598年)は、

    1583年(天正11年)から

    1587年(天正15年)まで

    山城国の、京(きょう、京都)の二条第 

    (にじょうだい、妙顕寺城)で

    居住する。

             

  ■ 二条第 (にじょうだい、妙顕寺城)は、 

    山城国(やましろのくに、現・京都府南部)

    の、京(きょう、京都)の市街地にある。

 

  ■ 羽柴秀吉(豊臣秀吉 )は、 1583年(天正

    11年)に、朝廷工作のため、 山城国の、

    京(きょう、京都)の市街地に、二条第 

    (にじょうだい、妙顕寺城)を完成させ、

    そこを政務居城とする。

 

 

 ■ 1583年(天正11年)。

 

  ● 秀吉が大阪城の築城を開始

    する。

  ■ 1583年(天正11年)8月に、 豊臣秀吉

   (羽柴秀吉)は、大阪の石山本願寺の跡地に、

   豊臣大阪城の築城を開始する (1588年豊

   臣大阪城完成)。  

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

  ● 豊臣秀吉(羽柴秀吉は、

    摂津国 (せっつのくに、現・大阪府西北部)

    の、豊臣大阪城 (とおとみおおさかじょう)

    を、1583年(天正11年)から1598年(慶

    長3年)まで、 自分の本城(= 本拠地の城)

    とする。

 

 

 ■ 1583年(天正11年)。

 

  ● (C4) 秀吉は、豊臣大阪城

              本城とする。

  ● (C) 豊臣秀吉の本城の変遷。 

  ■ (C1)⇒(C4) 。

          (C1)   長浜城      (1573年ー1577年)、

     (C2)   姫路城      (1577年ー1582年)、

     (C3)   山崎城      (1582年ー1583年)、

     (C4)   豊臣大阪城  (1583年ー1598年)。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

                    

  ■ (C4) 豊臣秀吉  

    (生没年:1537年ー1598年)は、

    1583年(天正11年)から

    1598年(慶長3年)まで

    摂津国の、豊臣大阪城 (とよとみおおさか

    じょう)を、自分の(C)本城(ほんじょう、

    = 本拠地の城)とする

 

  ■ 豊臣大阪城 (とよとみおおさかじょう)は、    

    摂津国 (せっつのくに、現・大阪府西北部)に

    ある。

 

  ■ 1583年(天正11年)8月に、 豊臣秀吉

   (羽柴秀吉)は、大阪の石山本願寺の跡地に、

   豊臣大阪城の築城を開始する (1588年豊

   臣大阪城完成)。  

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

             

 ■ 1583年(天正11年)。

 

  ● (P4) 秀吉は、二条第(妙顕寺城)

              を政務居城とする。

  ● (P) 豊臣秀吉の政務居城

         の変遷。 

  ■ (P1)⇒(P10) 。

     (P1)   長浜城     (1573年ー1577年)、

     (P2)   姫路城     (1577年ー1582年)、 

     (P3)   山崎城     (1582年ー1583年)、

     (P4)   二条第(妙顕寺城)

                    (1583年ー1587年)、

     (P5)   聚楽第     (1587年ー1592年)、

     (P6)   名護屋城    (1592年ー1593年)、

     (P7)   豊臣大阪城   (1593年ー1594年)、 

     (P8)   豊臣秀吉築指月伏見城

                     (1594年−1596年)、 

     (P9)   豊臣大阪城  (1596年ー1597年)、 

     (P10)  豊臣秀吉築木幡山伏見城

                     (1597年ー1598年)

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

  ■ (P4)  豊臣秀吉  

    (生没年:1537年ー1598年)は、

    1583年(天正11年)から

    1587年(天正15年)まで

    山城国の、京(きょう、京都)の二条第 

    (にじょうだい、妙顕寺城)を、

    自分の(P)政務居城とする

 

  ■ 二条第 (にじょうだい、妙顕寺城)は、 

    山城国(やましろのくに、現・京都府南部)

    の、京(きょう、京都)の市街地にある。

 

  ■ 羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、  1583年(天正

    11年)に、朝廷工作のため、 山城国の、

    京(きょう、京都)の市街地に、二条第 

    (にじょうだい、妙顕寺城)を完成させ、

    そこを政務居城とする。

 

 

 ■ 1584年 (天正12年)。

 

  ● 小牧・長久手の戦いで、秀吉

    は、家康に敗け、和睦する。

  ■ 小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い

    (1584年3月ー11月)。

  ● 小牧・長久手の戦いは、1584年(天正12

    年)3月から11月まで、羽柴秀吉(豊臣秀吉) 

    と、 織田信雄(おだのぶかつ)や徳川家康

    の間で起こった戦いである。 秀吉は、11月

    に信雄と和睦し、12月に家康と和睦する。

    

  ● 小牧・長久手の戦いは、 秀吉と織田信雄

    の信長の後継者の争いから始まり、 近畿

    地方を領する羽柴秀吉(豊臣秀吉) と、中部 

    地方を領する織田信雄や徳川家康との間で

    起こった戦いである。

 

  ● 1584年(天正12年)3月に、織田信長の後

    継者を自負する信長次男の織田信雄(おだの

    ぶかつ、生没年:1558年ー1630年)が、秀

    吉と対立し、信雄が徳川家康に加勢を求め、

    家康が、織田信雄に加勢(加担)し、小牧・長

    久手の戦い戦いが起こる。

 

  ● 1584年(天正12年)3月〜11月に、小牧・

    長久手の戦いで、秀吉の軍は、 小牧、長久

    手付近で、織田信雄・徳川家康の連合軍と

    戦い、戦いの中、4月に長久手の戦いでは

    家康に敗北する。

 

  ■ 小牧・長久手の戦い講和。

  ● 1584年(天正12年)11月に、織田信雄

   が徳川家康に無断で秀吉と単独講和をした

   ため、 家康は、秀吉と戦う大義名分を失い、

   三河国へ撤退する。 その後、秀吉は家康に

   講和を申し入れ、家康は、次男の於義丸(幼

   名、松平秀康、結城秀康(ゆうきひでやす)、

   秀吉養子名:羽柴秀康)を人質として差出し、

   12月に、講和する。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。 

 

 

 ■ 1585年 (天正13年)。

 

  ● 秀吉は朝廷より内大臣に

    任官される。

  ■ 1585年(天正13年)3月に、豊臣秀吉

   (羽柴秀吉)は、 正ニ位・内大臣に叙位・

   任官される。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

  ● 秀吉は関白となる。

  ● 豊臣関白政権が確立する。

  ■ 1585年(天正13年)7月11日に、豊臣

    秀吉(羽柴秀吉)は、 関白(かんぱく)に

    宣下(せんげ)される(任じられる)。

 

  ● 1585年(天正13年)7月に、秀吉は、

    近衛前久(このえさきひさ)の猶子(ゆうし、

    名目的な養子)となり、 関白宣下(かんぱ

    くせんげ)を受け、関白となる。

        豊臣関白政権が確立する。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1585年 (天正13年)。

 

  ● 秀吉は紀州を平定。

  ■ 秀吉の紀州平定。

  ● 1585年(天正13年)3月に、豊臣秀吉(羽

    柴秀吉)は、 紀伊国(きいのくに、現・和歌

    山県)へ侵攻して、これを平定する。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

  ● 秀吉は四国を平定。

  ■ 秀吉の四国平定。

  ● 1585年(天正13年)8月に、豊臣秀吉

   (羽柴秀吉)は、 長宗我部元親を降伏させ、

   四国を平定する。

 

  ● 1585年(天正13年)6月に、秀吉は、 

   四国に約10万人の兵の大軍を送り込んで、

   同年8月に、四国を支配していた、長宗我部

   元親(ちょうそかべもとちか)を降伏させる。 

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

  ● 秀吉は北陸を平定。

  ■ 秀吉の北陸平定。

  ● 1585年(天正13年)8月に、豊臣秀吉

   (羽柴秀吉)は、 越中国(えっちゅうのくに、

   現・富山県の相当地域)の佐々成政(さっさ

   なりまさ)を降伏させ、北陸を平定する。

 

   ● 1585年(天正13年)8月に、 秀吉は、 

    越中国の佐々成政に対し征伐を開始し、

    ほとんど戦うことなく、 8月25日に、成政

    は剃髪(ていはつ)して、秀吉に降伏する 

    (北陸平定)。 織田信雄の仲介もあって、 

    秀吉は、成政を許し、 越中新川郡のみを

    安堵(あんど)する (領地として与える)。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1586年 (天正14年)。

 

  ● 秀吉は豊臣の姓を朝廷より

    賜る。

  ■ 1586年(天正14年)9月に、豊臣秀吉

   (羽柴秀吉)は、 正親町天皇 (おおぎまち

   てんのう)より、「豊臣」(とよとみ)の姓を賜

   (たまわ)る。

 

  ● 秀吉は太政大臣となる。

  ■ 1586年(天正14年)12月に、 秀吉は、

   太政大臣に就任する。 

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1586年 (天正14年)。

 

  ● 家康が秀吉に臣従する。

  ■ 1586年(天正14年)10月に、徳川家康は、

    豊臣秀吉に臣従する (秀吉は家康に臣従を

    誓わせる)。

 

  ● 秀吉は、家康に対しては、 融和策に転じ、

   1586年(天正14年)5月に、秀吉は、秀吉 

   の妹・朝日姫(あさひひめ)を徳川家康の正

   室夫人として嫁(とつ)がせ、 更(さら)に9

   月に、秀吉の母のなか(大政所(おおまんど

   ころ))を、人質として、家康の元へ送り、家康

   に臣従の上洛を促し、10月に、上洛した家

   康に秀吉への臣従を誓わせる。

  

  ● 結果的に、豊臣秀吉は、徳川家康を軍事

   的に服属させることには失敗して、秀吉と家

   康は、不完全な主従関係となる。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

  ■ 秀吉に臣従することとは、上洛して、秀吉

   への臣従を諸大名の前で表明することであ

   る。

  ● 秀吉からの臣従要求を拒み続ける徳川

   家康に、 秀吉は、1586年5月に、 秀吉

   の妹の朝日姫を家康の正室夫人として嫁

   がせ差し出し、家康は秀吉の妹の朝日姫と

   婚儀を結び、 朝日姫を家康の正室夫人と

   する。

      しかし、家康はなおも秀吉に臣従しょう

   としなかったので、更に、秀吉は、同年9月

   に、秀吉の生母のなか(大政所、おおまんど

   ころ)を、人質として、家康の元へ送り、 秀

   吉への臣従を促したので、 遂に、同年10

   月に、家康は、秀吉に臣従することを決意し、

   家康は上洛し、同年10月に、家康は、大阪

   城で秀吉に謁見し、諸大名の前で、秀吉に

   臣従する事を表明する。    

   ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1587年 (天正15年)。

 

  ● 秀吉が九州を平定。

  ■ 秀吉の九州平定。

  ● 1587年(天正15年)5月に、豊臣秀吉は、

    島津氏を降伏させ、九州を平定する。

 

  ● 秀吉自らが、 1587年(天正15年)3月に、

    20万人の兵の大軍を率いて、九州を本格的

    に侵攻し、 島津軍を圧倒し、 5月に、島津

    義久・義弘を降伏させる (九州平定)。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1587年 (天正15年)。

 

  ● 秀吉がバテレン追放令を出す。

  ■ 1587年(天正15年)6月に、豊臣秀吉は、  

   バテレン追放令をだす。

 

 ■ 1587年 (天正15年)。

 

   ● 秀吉は聚楽第を完成させ、

    政務居城とする。

  ■ 豊臣秀吉は、 朝廷工作や関白の職務の

    め、 山城国の、京(きょう、京都)の市街地

    に、1587年(天正15年)9月に、聚楽第 

    (じゅらくだい)を完成させ、1592年(天正

    20年)まで、そこを政務居城とする。

 

  ■ 1587年(天正15年)9月に、豊臣秀吉は、

   聚楽第(じゅらくだい)を完成させ、自分の

   政務居城とし、二条第(= 妙顕寺城)より移る。 

 

 

 ■ 1587年 (天正15年)。

 

  ● (R11) 秀吉は、聚楽第を居住地

          とする。

  ● (R) 豊臣秀吉の居住地の変遷。

  ■ (R1)⇒(R16)。

     (R1)   中村の農家

                   (1537年ー1551年頃)、

     (R2)   頭陀寺城付近の松下氏家臣長屋

                 (1551年頃ー1554年頃)、

     (R3)   那古野城付近 の織田氏家臣長屋

                   (1554年頃ー1555年)、

     (R4)   清洲城付近の織田氏家臣長屋

                    (1555年1563年)、

     (R5)   小牧山城付近の織田氏家臣屋敷

                    (1563年1567年)、

     (R6)   岐阜城付近の織田氏家臣屋敷

                     (1567年1573年)、

     (R7)   長浜城      (1573年ー1577年)、

     (R8)   姫路城      (1577年ー1582年)、 

     (R9)   山崎城      (1582年ー1583年)、

     (R10)  二条第(= 妙顕寺城)

                    (1583年ー1587年)、

     (R11)  聚楽第      (1587年ー1592年)、

     (R12)  名護屋城    (1592年ー1593年)、

     (R13)  豊臣大阪城  (1593年ー1594年)、

     (R14)  豊臣秀吉築指月伏見城

                     (1594年−1596年)、 

     (R15)  豊臣大阪城  (1596年ー1597年)、

     (R16)  豊臣秀吉築木幡山伏見城

                    (1597年ー1598年)

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

             

  ■ (R11) 豊臣秀吉  

    (生没年:1537年ー1598年)は、

    1587年(天正15年)から

    1592年 (天正20年)まで

    山城国の、京(きょう、京都)の聚楽第 

    (じゅらくだい)で

    居住する。

             

  ■ 聚楽第 (じゅらくだい)は、 

    山城国(やましろのくに、現・京都府南部)

    の、京(きょう、京都)の市街地にある。

 

  ■ 豊臣秀吉は、  1587年(天正15年)に、

    朝廷工作や関白の職務のため、 

    山城国の、京(きょう、京都)の市街地に、

    聚楽第 (じゅらくだい)を完成させ、そこを

    政務居城とする。

 

  ■ 1587年(天正15年)9月に、豊臣秀吉は、

   聚楽第(じゅらくだい)を完成させ、自分の

   政務居城とし、二条第(= 妙顕寺城)より移る。 

 

 

 ■ 1587年 (天正15年)。

 

  ● (P5) 秀吉は、聚楽第を政務

         居城とする。

  ● (P) 豊臣秀吉の政務居城

         の変遷。 

  ■ (P1)⇒(P10) 。

     (P1)   長浜城     (1573年ー1577年)、

     (P2)  姫路城     (1577年ー1582年)、 

     (P3)   山崎城     (1582年ー1583年)、

     (P4)   二条第(妙顕寺城)

                    (1583年ー1587年)、

     (P5)   聚楽第     (1587年ー1592年)、

     (P6)   名護屋城    (1592年ー1593年)、

     (P7)   豊臣大阪城   (1593年ー1594年)、 

     (P8)   豊臣秀吉築指月伏見城

                     (1594年−1596年)、 

     (P9)   豊臣大阪城  (1596年ー1597年)、 

     (P10)  豊臣秀吉築木幡山伏見城

                     (1597年ー1598年)

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

  ■ (P5)  豊臣秀吉  

    (生没年:1537年ー1598年)は、

    1587年(天正15年)から

    1592年 (天正20年)まで

    山城国の、京(きょう、京都)の聚楽第 

    (じゅらくだい)を、

    自分の(P)政務居城とする

 

  ■ 聚楽第 (じゅらくだい)は、 

    山城国(やましろのくに、現・京都府南部)

    の、京(きょう、京都)の市街地にある。

 

 

 ■ 1587年 (天正15年)。

 

  ● 秀吉が贈答・恩賞用貨幣の、

    天正通宝を鋳造。

  ■ 1587年(天正15年)9月に、豊臣秀吉は、

   贈答・恩賞用貨幣の、天正通宝(てんしょうつ

   うほう)を鋳造する。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1589年(天正17年)。

 

  ● 淀の方(淀殿、茶々)が、秀吉の

    男子の鶴松を産む。

  ■ 1589年(天正17年)5月27日に、豊臣秀

    吉の側室夫人の淀の方(よどのかた、淀殿、 

    茶々)は、秀吉の実子の男子の、鶴松 (つ

    るまつ、生没年:1589年ー1591年)を産

    む。  

 

  ● 1589年(天正17年)に、この懐妊・出産を

    喜んだ秀吉から、茶々 (ちゃちゃ、淀の方、

    淀殿)は、 淀城(よどじょう)を秀吉より与

    えられ、 以後、茶々は、「淀の方(よどのか

    た)、淀殿」 と呼ばれるようになる。

 

  ● 淀の方(淀殿、茶々)は、浅井三姉妹(あざ

    いさんしまい、茶々、初、江)の一人である。

 

  ● その後、 淀の方(淀殿、茶々)は鶴松を、

    秀吉の正室夫人のおね(ねね)に預け、ね 

    ね(おね)が鶴松を引き取り、育てる。

 

  ● 安土桃山時代では、武家の仕来り(しきた

    り)として、側室夫人の子を、正室夫人が育

    てる慣習があった。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

□ 豊臣秀吉 関連出来事(総合)へ

□ 豊臣秀吉 関連年代順出来事(詳細・各年)へ。

□ 豊臣秀吉 関連出来事(概要)へ

□ メニュー(目次)の先頭へ戻る

□ 豊臣秀吉ガイドブック へ。  

□ 日本史辞典の先頭ページへ。  

□ 日本の歴史ハンドブックの先頭ページへ

 

 

#jphappenings-1590

 

 

 ■ 1590年 (天正18年)。

 

  ● 秀吉が関東を平定。

  ■ 秀吉の関東平定。

  ● 1590年(天正18年)7月に、豊臣秀吉は、

    小田原北条氏を降伏させ、関東を平定する。

 

  ● 小田原合戦。

  ■ 小田原合戦 (おだわらがっせん、1590年

     2月ー7月)。

  ● 1590年(天正18年)2月から、秀吉の軍勢

    は、 関東に遠征し、小田原北条氏の支城の

    諸城を落城させ、その後、小田原北条氏(=

    後北条氏)の本拠地の小田原城を包囲する。

       約3ヶ月の篭城戦(ろうじょうせん)の後、

    1590年(天正18年)7月5日に、小田原北

    条氏(= 後北条氏)の北条氏直が、降伏する。 

 

  ● 小田原城は、上杉謙信も落とせなった堅城

    だが、撤兵する可能性のない包囲軍の前で

    は無力であった。 

 

  ● 責任をとって、北条氏政・氏照は自害(自

    刃)し、小田原北条氏の当主の北条氏直は、

    紀伊国(きいのくに、現・和歌山県)の高野山

    へ追放される。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

  ● 秀吉が東北地方を平定。

  ■ 秀吉の奥羽制圧(奥羽仕置)。

  ● 1590年(天正18年)7月に、豊臣秀吉は、

   奥羽(おうう、現・東北地方)も制圧した。

 

  ● 秀吉は、小田原城開場後、1590年(天正

   18年)7月26日に、下野(しもつけ、現・栃木

   県)の宇都宮城に入り、奥羽の領主に対し、

   仕置(しおき)を行った (宇都宮仕置)。

      秀吉は、 小田原合戦に参陣しなかった

   奥羽の領主を改易する(取り潰す)。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1590年 (天正18年)。

 

  ● 秀吉が天下を統一する

    (日本本土を統一する)。

  ■ 1590年(天正18年)7月に、豊臣秀吉は、

   天下を統一する (日本本土の全国を統一す

   る)。

 

  ● 豊臣秀吉は、 日本本土の全国を平定し、

    天下を統一し、戦国の世を終わらせる。

       秀吉の平定は、非殲滅(せんめつ)主

    義を貫き、寛容ともいえる態度で、多くの戦

    国大名を助命し、これにより、短期間で天下

    統一を成し遂げる。 

       しかし、豊臣氏蔵入地(領地)225万石、

    徳川氏250万石のように、豊臣氏に忠義心

    の薄い、武力に優れ、石高の高い、多くの大

    名を残存させ、豊臣政権の政権長期化には

    不利であった。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1590年 (天正18年)。

 

  ●  家康が関東に移封となる。

  ■ 1590年(天正18年)8月に、徳川家康が、 

    関東に移り、江戸城に入る。

 

  ● 豊臣秀吉は、 徳川家康に中部地方より

    関東地方への国替えを命じ(命令し)、家康

    は、 1590年(天正18年)8月に、関東に

    移り、江戸城に入る。

 

  ● 家康は、小田原北条氏の旧領の関東地域

    を領有し、その後、その地を開発して、

    約250万石を得る。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

□ 豊臣秀吉関連出来事の先頭へ戻る

□ メニュー (目次) の先頭へ戻る

□ 豊臣秀吉 ガイドブック (要覧 )へ。  

□ 日本史辞典の先頭ページへ。  

□ 日本の歴史ハンドブック の先頭ページへ

 

 

 ■ 1591年 (天正19年)。

 

  ● 秀吉の男子の鶴松が病死する。

  ■ 1591年(天正19年)8月5日に、豊臣秀吉

    実子の男子の鶴松 (つるまつ、生没年:

    1589年ー1591年)が、病死する。

 

  ● 鶴松 (つるまつ、生没年:1589年ー15

    91年)は、 豊臣秀吉と秀吉の側室

    夫人の、淀の方(よどのかた、淀殿、茶々)

    との間の実子の男子である。

 

  ● 1591年(天正19年)8月に、秀吉の正室

    夫人のおね(ねね)の元で育てられていた、

    鶴松 (淀の方(淀殿)の男子)が、病死する。

  ● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。

 

 

 ■ 1591年 (天正19年)。

 

  ● 秀吉は関白を甥の豊臣秀次

    に譲り、太閤となる。

  ■ 1591年(天正19年)12月28日に、

    豊臣秀吉は、関白の職を、甥(おい)の豊臣

    秀次(とよとみひでつぐ)に譲る。 

 

  ● 秀吉は太閤と呼ばれ、豊臣政権

    の政治実権をもつ。

  ● 秀吉は、太閤(たいこう、前関白の尊称)と

    呼ばれる。 秀吉は、豊臣政権の政治実権

    は所持する。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1592年 (天正20年)。

 

   ● 文禄の役が始まる。

  ■ 1592年(天正20年)3月に、秀吉により、

   朝鮮出兵が開始される (文禄の役、1592

   年〜1593年)。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

  ● 秀吉が名護屋城で、海外遠征軍

    の指揮をとる。

  ■ 豊臣秀吉は、1592年 (天正20年)3月に、

    肥前国(ひぜんのくに)、現・佐賀県・長崎県

    本土)の、名護屋城(なごやじょう)に入り、

    1592年(天正20年)から1593年(文禄

    2年)まで、海外遠征(朝鮮出兵、文禄の役)

    の海外遠征軍の指揮をとる。

 

 

 ■ 1592年 (天正20年)。

 

  ● 秀吉は指月伏見城の築城を

    開始する。

  ■ 豊臣秀吉は、

    山城国 (やましろのくに、現・京都府南部)

    で、豊臣秀吉築指月伏見城 (しげつふし

    みじょう)の築城を、1592年 (天正20年)

    から開始し、豊臣秀吉築指月伏見城を

    1593年から1596年まで、 自分の政務

    居城とする。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1592年 (天正20年)。

 

  ● (R12) 秀吉は、名護屋城

          居住地とする。

  ● (R) 豊臣秀吉の居住地の変遷。

  ■ (R1)⇒(R16)。

     (R1)   中村の農家

                   (1537年ー1551年頃)、

     (R2)   頭陀寺城付近の松下氏家臣長屋

                 (1551年頃ー1554年頃)、

     (R3)  那古野城付近 の織田氏家臣長屋

                   (1554年頃ー1555年)、

     (R4)   清洲城付近の織田氏家臣長屋

                    (1555年1563年)、

     (R5)   小牧山城付近の織田氏家臣屋敷

                    (1563年1567年)、

     (R6)   岐阜城付近の織田氏家臣屋敷

                     (1567年1573年)、

     (R7)   長浜城      (1573年ー1577年)、

     (R8)  姫路城      (1577年ー1582年)、 

     (R9)   山崎城      (1582年ー1583年)、

     (R10)  二条第(= 妙顕寺城)

                    (1583年ー1587年)、

     (R11)  聚楽第      (1587年ー1592年)、

     (R12)  名護屋城    (1592年ー1593年)、

     (R13)  豊臣大阪城  (1593年ー1594年)、

     (R14)  豊臣秀吉築指月伏見城

                     (1594年−1596年)、 

     (R15)  豊臣大阪城  (1596年ー1597年)、

     (R16)  豊臣秀吉築木幡山伏見城

                    (1597年ー1598年)

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

             

  ■ (R12) 豊臣秀吉  

    (生没年:1537年ー1598年)は、

    1592年(天正20年)から

    1593年(文禄2年)まで

    肥前国の、名護屋城 (なごやじょう)で

    居住する。

             

  ■ 名護屋城 (なごやじょう)は、 

    肥前国(ひぜんのくに)、現・佐賀県・長崎県

    本土)にある。

 

  ■ 豊臣秀吉は、  

    1591年(天正19年)12月28日に、関白職

    を甥(おい、姉の子)の豊臣秀次(とよとみひ

    でつぐ)に譲り、秀吉自身は、太閤(たいこう、

    前関白)となり、 その後、引継ぎを行ない、

    関白の職務を豊臣秀次に任せ (諸事は秀

    吉が定めた「御法度」や「御置目」に従う)、

    1592年 (天正20年)3月に完成した名護

    屋城へ行くため、1592年 (天正20年)

    3月に、関白の政庁の聚楽第を去り、肥前

    国の名護屋城に入り、1592年(天正20年)

    から1593年(文禄2年)まで、海外遠征(朝

    鮮出兵、文禄の役)を指揮する。

    

 

 

 ■ 1592年 (天正20年)。

 

  ● (P6) 秀吉は、名護屋城を政務

         居城とする。

  ● (P) 豊臣秀吉の政務居城

         の変遷。 

  ■ (P1)⇒(P10) 。

     (P1)   長浜城     (1573年ー1577年)、

     (P2)  姫路城     (1577年ー1582年)、 

     (P3)   山崎城     (1582年ー1583年)、

     (P4)   二条第(妙顕寺城)

                    (1583年ー1587年)、

     (P5)   聚楽第     (1587年ー1592年)、

     (P6)   名護屋城    (1592年ー1593年)、

     (P7)   豊臣大阪城   (1593年ー1594年)、 

     (P8)   豊臣秀吉築指月伏見城

                     (1594年−1596年)、 

     (P9)   豊臣大阪城  (1596年ー1597年)、 

     (P10)  豊臣秀吉築木幡山伏見城

                     (1597年ー1598年)

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

  ■ (P6)  豊臣秀吉  

    (生没年:1537年ー1598年)は、

    1592年(天正20年)から

    1593年(文禄2年)まで

    肥前国の、名護屋城 (なごやじょう)を、

    自分の(P)政務居城とする

 

  ■ 名護屋城 (なごやじょう)は、 

    肥前国(ひぜんのくに)、現・佐賀県・長崎県

    本土)にある。

 

 

 

 ■ 1592年 (天正20年・文禄元年)。

 

  ● 天正年号から文禄年号に改元。

     文禄年号1592年ー 1596年。

  ■ 1592年(天正20年・文禄元年)に、

    文禄( ぶんろく)年号に改元。 

  ● 1592年(天正20年・文禄元年)12月8日に、 

    和暦の「天正」 (てんしょう、

    天正 元年・1573年〜天正20年・1592年) 

    が、 

    和暦の「 文禄」 (ぶんろく、

    文禄元年・1592年・12月 8日〜

    文禄5年・ 1596年・10月27日) に

    改元される。 

 

  ■ 安土桃山時代の各年号。

    暗記法: 元天文慶      

          (げんてんぶんけい)。

  ● 元亀(げんき)年号    1570年ー 1573年。

  ● 天正(てんしょう)年号: 1573年ー 1592年。

  ● 文禄(ぶんろく)年号  1592年ー 1596年。

  ● 慶長(けいちょう)年号 1596年ー 1615年。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1593年(文禄 2年)。

 

  ● 秀吉夫人の淀の方(淀殿)が、

    豊臣秀頼を産む。

  ■ 1593年(文禄2年)8月3日に、秀吉の側室

    夫人の、淀の方(よどのかた、淀殿、茶々)は、 

    秀吉の男子の、豊臣秀頼 (とよとみひでより、

    幼名:拾丸(ひろいまる)、拾(ひろい))を産む。 

 

  ● 淀殿(茶々)は、秀吉の許しを得て、自分の 

    手元で、育てる。

      今回は、淀の方(淀殿、茶々)は、秀頼(拾

    丸)を秀吉の正室夫人のねね(おね)に預けず。

 

  ● 豊臣秀頼(幼名:拾丸、拾)は、 秀吉築木幡

    山伏見城で、育つ。

 

  ● 淀の方(淀殿、茶々)は、浅井三姉妹(あざ

    いさんしまい、茶々、初、江)の一人である。

       茶々(ちゃちゃ)は、豊臣秀吉側室夫人

    となり、豊臣秀頼(とよとみひでより、拾丸)

    の生母となる。

       初(はつ)は、京極高次(きょうごくたか

    つぐ)の正室夫人となる。

       江(ごう)は、徳川秀忠(ひでただ)の正

    室夫人となり、徳川家光(いえみつ)の生母

    となる。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1593年(文禄 2年)。 

 

  ● (R15) 秀吉は、豊臣大阪城

          居住地とする。

 ■ (R) 豊臣秀吉の居住地の変遷。

  ■ (R1)⇒(R16)。

     (R1)   中村の農家

                   (1537年ー1551年頃)、

     (R2)   頭陀寺城付近の松下氏家臣長屋

                 (1551年頃ー1554年頃)、

     (R3)  那古野城付近 の織田氏家臣長屋

                   (1554年頃ー1555年)、

     (R4)   清洲城付近の織田氏家臣長屋

                    (1555年1563年)、

     (R5)   小牧山城付近の織田氏家臣屋敷

                    (1563年1567年)、

     (R6)   岐阜城付近の織田氏家臣屋敷

                     (1567年1573年)、

     (R7)   長浜城      (1573年ー1577年)、

     (R8)  姫路城      (1577年ー1582年)、 

     (R9)   山崎城      (1582年ー1583年)、

     (R10)  二条第(= 妙顕寺城)

                    (1583年ー1587年)、

     (R11)  聚楽第      (1587年ー1592年)、

     (R12)  名護屋城    (1592年ー1593年)、

     (R13)  豊臣大阪城  (1593年ー1594年)、

     (R14)  豊臣秀吉築指月伏見城

                     (1594年−1596年)、 

     (R15)  豊臣大阪城  (1596年ー1597年)、

     (R16)  豊臣秀吉築木幡山伏見城

                    (1597年ー1598年)

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

             

  ■ (R15) 豊臣秀吉  

    (生没年:1537年ー1598年)は、

    1593年(文禄2年)から

    1594年(文禄3年)まで

    摂津国の、豊臣大阪城 (とよとみおおさか

    じょう)で

    居住する。

             

  ■ 豊臣大阪城 (とよとみおおさかじょう)は、 

    摂津国(せっつのくに、現・大阪府西北部)

    にある。

 

  ■ 豊臣秀吉は、  

    文禄の役で、1593年(文禄2年)まで、名護

    屋城を政務居城とし、

    1593年(文禄2年)から1594年(文禄3年)

    まで、豊臣大阪城を政務居城とし、

    1594年(文禄3年)から、1596年(文禄5年)

    閏7月の慶長伏見地震まで、

    (F1) 豊臣秀吉築指月伏見城 (しげつふし

    みじょう、1592年着工、1594年− 1596年

    使用・存続)を政務居城とする。

    

 

 ■ 1593年(文禄 2年)。 

 

  ● (P7) 秀吉は、豊臣大阪城

          政務居城とする。

  ● (P) 豊臣秀吉の政務居城

         の変遷。 

  ■ (P1)⇒(P10) 。

     (P1)   長浜城     (1573年ー1577年)、

     (P2)  姫路城     (1577年ー1582年)、 

     (P3)   山崎城     (1582年ー1583年)、

     (P4)   二条第(妙顕寺城)

                    (1583年ー1587年)、

     (P5)   聚楽第     (1587年ー1592年)、

     (P6)   名護屋城    (1592年ー1593年)、

     (P7)   豊臣大阪城   (1593年ー1594年)、 

     (P8)   豊臣秀吉築指月伏見城

                     (1594年−1596年)、 

     (P9)   豊臣大阪城  (1596年ー1597年)、 

     (P10)  豊臣秀吉築木幡山伏見城

                     (1597年ー1598年)

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

  ■ (P7)  豊臣秀吉  

    (生没年:1537年ー1598年)は、

    1593年(文禄2年)から

    1594年(文禄3年)まで

    摂津国の、豊臣大阪城 (とよとみおおさか

    じょう)を、

    自分の(P)政務居城とする

 

  ■ 豊臣大阪城 (とよとみおおさかじょう)は、 

    摂津国(せっつのくに、現・大阪府西北部)

    にある。

 

 

 ■ 1594年(文禄 3年)。 

 

  ● (R14) 秀吉は、豊臣秀吉築指月

           伏見城を居住地とする。

  ● (R) 豊臣秀吉の居住地の変遷。

  ■ (R1)⇒(R16)。

     (R1)   中村の農家

                   (1537年ー1551年頃)、

     (R2)   頭陀寺城付近の松下氏家臣長屋

                 (1551年頃ー1554年頃)、

     (R3)  那古野城付近 の織田氏家臣長屋

                   (1554年頃ー1555年)、

     (R4)   清洲城付近の織田氏家臣長屋

                    (1555年1563年)、

     (R5)   小牧山城付近の織田氏家臣屋敷

                    (1563年1567年)、

     (R6)   岐阜城付近の織田氏家臣屋敷

                     (1567年1573年)、

     (R7)   長浜城      (1573年ー1577年)、

     (R8)  姫路城      (1577年ー1582年)、 

     (R9)   山崎城      (1582年ー1583年)、

     (R10)  二条第(= 妙顕寺城)

                    (1583年ー1587年)、

     (R11)  聚楽第      (1587年ー1592年)、

     (R12)  名護屋城    (1592年ー1593年)、

     (R13)  豊臣大阪城  (1593年ー1594年)、

     (R14)  豊臣秀吉築指月伏見城

                     (1594年−1596年)、 

     (R15)  豊臣大阪城  (1596年ー1597年)、

     (R16)  豊臣秀吉築木幡山伏見城

                    (1597年ー1598年)

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

             

  ■ (R13) 豊臣秀吉  

    (生没年:1537年ー1598年)は、

    1594年(文禄3年)から

    1596年(文禄 5年)まで

    山城国の、豊臣秀吉築指月伏見城

    (しげつふしみじょう)で

    居住する。

             

  ■ 豊臣秀吉築指月伏見城(しげつふしみ

          じょう)は、 山城国(やましろのくに、

    現・京都府南部)にある。

    

 

  ■ 豊臣秀吉は、  

    豊臣秀吉築指月伏見城 (しげつふしみじ

    ょう、1592年着工、1594年− 1596年

    使用・存続)を政務居城とする。

    

 

 ■ 1594年(文禄 3年)。 

 

  ● (P8) 秀吉は、豊臣秀吉築指月

         伏見城を政務居城とする。

  ● (P) 豊臣秀吉の政務居城

         の変遷。 

  ■ (P1)⇒(P10) 。

     (P1)   長浜城     (1573年ー1577年)、

     (P2)  姫路城     (1577年ー1582年)、 

     (P3)   山崎城     (1582年ー1583年)、

     (P4)   二条第(妙顕寺城)

                    (1583年ー1587年)、

     (P5)   聚楽第     (1587年ー1592年)、

     (P6)   名護屋城    (1592年ー1593年)、

     (P7)   豊臣大阪城   (1593年ー1594年)、 

     (P8)   豊臣秀吉築指月伏見城

                     (1594年−1596年)、 

     (P9)   豊臣大阪城  (1596年ー1597年)、 

     (P10)  豊臣秀吉築木幡山伏見城

                     (1597年ー1598年)

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

  ■ (P8)  豊臣秀吉  

    (生没年:1537年ー1598年)は、

    1594年(文禄3年)から

    1596年(文禄 5年)まで

    山城国の、豊臣秀吉築指月伏見城

    (しげつふしみじょう)を、

    自分の(P)政務居城とする

 

  ■ 豊臣秀吉築指月伏見城(しげつふしみ

          じょう)は、 山城国(やましろのくに、

    現・京都府南部)にある。

 

 

 ■ 1595年 (文禄 4年)。

 

  ● 関白・豊臣秀次が自害する。

  ■ 1595年(文禄4年)7月15日に、 豊臣秀

    吉は、 甥の関白秀次(生没年:1568年ー

    1595年)を自害させる。

 

  ● 秀吉は、 1593年(文禄2年)に生まれた、

    秀吉の実子の拾(ひろい、後の豊臣秀頼)に

    将来、豊臣氏を継がせたいと切望し、現在、

    豊臣氏の後継者となっている、甥(おい)の

    関白・豊臣秀次は、秀吉にとって目ざわりと

    なり、秀吉は、秀次の排除を行う。

 

 

 ■ 1596年 (文禄 5年)。 

 

  ● (R15) 秀吉は、豊臣大阪城

          を居住地とする。

  ● (R) 豊臣秀吉の居住地の変遷。

  ■ (R1)⇒(R16)。

     (R1)   中村の農家

                   (1537年ー1551年頃)、

     (R2)   頭陀寺城付近の松下氏家臣長屋

                 (1551年頃ー1554年頃)、

     (R3)  那古野城付近 の織田氏家臣長屋

                   (1554年頃ー1555年)、

     (R4)   清洲城付近の織田氏家臣長屋

                    (1555年1563年)、

     (R5)   小牧山城付近の織田氏家臣屋敷

                    (1563年1567年)、

     (R6)   岐阜城付近の織田氏家臣屋敷

                     (1567年1573年)、

     (R7)   長浜城      (1573年ー1577年)、

     (R8)  姫路城      (1577年ー1582年)、 

     (R9)   山崎城      (1582年ー1583年)、

     (R10)  二条第(= 妙顕寺城)

                    (1583年ー1587年)、

     (R11)  聚楽第      (1587年ー1592年)、

     (R12)  名護屋城    (1592年ー1593年)、

     (R13)  豊臣大阪城  (1593年ー1594年)、

     (R14)  豊臣秀吉築指月伏見城

                     (1594年−1596年)、 

     (R15)  豊臣大阪城  (1596年ー1597年)、

     (R16)  豊臣秀吉築木幡山伏見城

                    (1597年ー1598年)

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

             

  ■ (R15) 豊臣秀吉  

    (生没年:1537年ー1598年)は、

    1596年(文禄 5年)から

    1597年(慶長2年)まで

    摂津国の、豊臣大阪城 (とよとみおおさか

    じょう)で

    居住する。

             

  ■ 豊臣大阪城 (とよとみおおさかじょう)は、 

    摂津国(せっつのくに、現・大阪府西北部)

    にある。

 

  ■ 豊臣秀吉は、  

    1596年(文禄5年)閏7月の慶長伏見地震

    によって、 (F1) 豊臣秀吉築指月伏見城 

    (しげつふしみじょう、1592年着工、1594

    年− 1596年使用・存続)が倒壊する。 

       次に、伏見・木幡山(こはたやま、現・

    桃山丘陵)に、1596年(文禄5年)閏7月に、

    (F2) 豊臣秀吉築城 ・前期・木幡山伏見城

    1596年着工、1597年年−1600年使用・

    存続)の建築を開始し、1597年(慶長2年)

    5月から使用する。

       その間、豊臣大阪城 (とよとみおおさ

    かじょう)を政務居城とする。

    

 

 ■ 1596年 (文禄 5年)。 

 

  ● (P9) 秀吉は、豊臣大阪城

         政務居城とする。

  ● (P) 豊臣秀吉の政務居城

         の変遷。 

  ■ (P1)⇒(P10) 。

     (P1)   長浜城     (1573年ー1577年)、

     (P2)  姫路城     (1577年ー1582年)、 

     (P3)   山崎城     (1582年ー1583年)、

     (P4)   二条第(妙顕寺城)

                    (1583年ー1587年)、

     (P5)   聚楽第     (1587年ー1592年)、

     (P6)   名護屋城    (1592年ー1593年)、

     (P7)   豊臣大阪城   (1593年ー1594年)、 

     (P8)   豊臣秀吉築指月伏見城

                     (1594年−1596年)、 

     (P9)   豊臣大阪城  (1596年ー1597年)、 

     (P10)  豊臣秀吉築木幡山伏見城

                     (1597年ー1598年)

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

  ■ (P9)  豊臣秀吉  

    (生没年:1537年ー1598年)は、

    1596年(文禄5年)から

    1597年(慶長2年)まで

    摂津国の、豊臣大阪城 (とよとみおおさか

    じょう)を、自分の(P)政務居城とする

 

  ■ 豊臣大阪城 (とよとみおおさかじょう)は、 

    摂津国(せっつのくに、現・大阪府西北部)

    にある。

 

 

 ■ 1596年 (文禄 5年)。

 

  ● 家康は「江戸の内府」と呼ばれる。

  ■ 1596年(文禄5年)から1603年(慶長8年)

    まで「内府」(ないふ)」と呼ばれた徳川家康。

  ● 徳川家康は、 別名で、

    1596年(文禄5年)から1603年(慶長8年)

    まで、「江戸の内府」(えどのないふ)とも呼ば

    れる。 

 

  ● 徳川家康は、1596年(文禄5年)5月8日

    から、1603年(慶長8年)2月12日まで、

    内大臣(ないだいじん、 唐名は内府(ない

    ふ、だいふ))の官職に叙任されていたため。  

 

 

 ■ 1596年 (文禄5年・慶長元年)。

 

  ● 文禄年号から慶長年号に改元。

     慶長年号1596年ー 1615年。

  ■ 1596年(文禄5年・慶長元年)に、

    慶長(けいちょう)年号に改元。 

  ● 1596年(文禄5年・慶長元年)10月27日に、 

    和暦の「文禄」(ぶんろく 、

    文禄元年・1592年〜文禄5年・ 1596年) 

    が、

    和暦の「慶長」(けいちょう、 

    慶長 元年・1596年・10月27日〜 

    慶長20年・1615年・ 7月13日) に

    改元される。 

 

  ■ 安土桃山時代の各年号。

    暗記法: 元天文慶      

          (げんてんぶんけい)。

  ● 元亀(げんき)年号    1570年ー 1573年。

  ● 天正(てんしょう)年号: 1573年ー 1592年。

  ● 文禄(ぶんろく)年号  1592年ー 1596年。

  ● 慶長(けいちょう)年号 1596年ー 1615年。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1597年 (慶長2年)。 

 

  ● 慶長の役が起こる。

  ■ 1597年(慶長2年)1月に、秀吉により、

     再度、朝鮮出兵が開始される (慶長の役:

    1597年〜1598年)。

 

 

 ■ 1597年 (慶長 2年)。 

 

  ● (R16) 秀吉は、豊臣秀吉築

     木幡山伏見城を居住地とする。

  ● (R) 豊臣秀吉の居住地の変遷。

  ■ (R1)⇒(R16)。

     (R1)   中村の農家

                   (1537年ー1551年頃)、

     (R2)   頭陀寺城付近の松下氏家臣長屋

                 (1551年頃ー1554年頃)、

     (R3)  那古野城付近 の織田氏家臣長屋

                   (1554年頃ー1555年)、

     (R4)   清洲城付近の織田氏家臣長屋

                    (1555年1563年)、

     (R5)   小牧山城付近の織田氏家臣屋敷

                    (1563年1567年)、

     (R6)   岐阜城付近の織田氏家臣屋敷

                     (1567年1573年)、

     (R7)   長浜城      (1573年ー1577年)、

     (R8)  姫路城      (1577年ー1582年)、 

     (R9)   山崎城      (1582年ー1583年)、

     (R10)  二条第(= 妙顕寺城)

                    (1583年ー1587年)、

     (R11)  聚楽第      (1587年ー1592年)、

     (R12)  名護屋城    (1592年ー1593年)、

     (R13)  豊臣大阪城  (1593年ー1594年)、

     (R14)  豊臣秀吉築指月伏見城

                     (1594年−1596年)、 

     (R15)  豊臣大阪城  (1596年ー1597年)、

     (R16)  豊臣秀吉築木幡山伏見城

                    (1597年ー1598年)

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

             

  ■ (R16) 豊臣秀吉  

    (生没年:1537年ー1598年)は、

    1597年(慶長2年)から

    1598年(慶長3年)まで

    山城国の、豊臣秀吉築木幡山伏見城

    (こはたやまふしみじょう)で

    居住する。

             

  ■ 豊臣秀吉築木幡山伏見城 (こはたや

    まふしみじょう)は、 

    山城国(やましろのくに、現・京都府南部)

    にある。

 

  ■ 豊臣秀吉は、  

    (F2) 豊臣秀吉築城 ・前期・木幡山伏見城

    1596年着工、1597年−1600年使用・

    存続)を政務居城とする。

    

  ■ 1598年(慶長3年)8月に、豊臣秀吉が、 

    豊臣秀吉築木幡山伏見城 (こはたやま

    ふしみじょう)で、死去する。

 

 

 ■ 1597年 (慶長 2年)。 

 

  ● (P10) 秀吉は、豊臣秀吉築

          木幡山伏見城を政務

          居城とする。

  ● (P) 豊臣秀吉の政務居城

          の変遷。 

  ■ (P1)⇒(P10) 。

     (P1)   長浜城     (1573年ー1577年)、

     (P2)  姫路城     (1577年ー1582年)、 

     (P3)   山崎城     (1582年ー1583年)、

     (P4)   二条第(妙顕寺城)

                    (1583年ー1587年)、

     (P5)   聚楽第     (1587年ー1592年)、

     (P6)   名護屋城    (1592年ー1593年)、

     (P7)   豊臣大阪城   (1593年ー1594年)、 

     (P8)   豊臣秀吉築指月伏見城

                     (1594年−1596年)、 

     (P9)   豊臣大阪城  (1596年ー1597年)、 

     (P10)  豊臣秀吉築木幡山伏見城

                     (1597年ー1598年)

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

  ■ (P10)  豊臣秀吉  

    (生没年:1537年ー1598年)は、

    1597年(慶長2年)から

    1598年(慶長3年)まで

    山城国の、豊臣秀吉築木幡山伏見城

    (こはたやまふしみじょう)を、

    自分の(P)政務居城とする

 

  ■ 豊臣秀吉築木幡山伏見城 (こはたや

    まふしみじょう)は、 山城国(やましろの

    くに、現・京都府南部)にある。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

 ■ 1598年 (慶長3年)。 

 

  ● 家康の勢力を抑えるため、

    秀吉は上杉景勝領地を徳川領

    の北西に移す。

  ■ 1598年(慶長3年)に、 越後の大名の、

   上杉景勝は、 豊臣秀吉によって、 会津

   120万石に 加増移封される。

 

 

 ■ 1598年 (慶長 3年)。

 

  ● 秀吉が、五大老・五奉行

    の制度を定める。 

  ■ 1598年(慶長3年)7月に、秀吉が、

    五大老・五奉行の制度を定める (秀吉の

    後継者である豊臣秀頼の体制を磐石にす

    るため)。

  ● 徳川家康は、五大老の一人となる。

  ● 上杉景勝は、五大老の一人となる。

 

  ● 豊臣氏の五大老は、

    徳川家康、前田利家(まえだとしいえ)、

    毛利輝元(もうりてるもと)、宇喜多秀家(うき

    たひでいえ)、上杉景勝(うえすぎかげかつ) 

    である。

 

 

 ■ 1598年 (慶長3年)。

 

  ● 豊臣秀吉が死去する。

  ■ 1598年(慶長3年)8月18日に、豊臣秀吉

    (生没年:1537年ー1598年)が、

    豊臣秀吉築木幡山伏見城 (こはたやま

    ふしみじょう)で、死去する。

 

  ● 幼い豊臣秀頼が豊臣氏当主

    となる。

  ■ 豊臣秀吉死後、秀吉の遺言により、数え年

    6歳の豊臣秀頼 (とよとみひでより、生没年:

    1593年ー1615年)が、 豊臣氏本家(宗

    家)の当主となる。 秀頼の生母の淀の方

    (よどのかた、淀殿)が、豊臣秀頼の後見人

    となる。

 

 

  ● おね(ねね)は、落飾し、高台院

    湖月尼と称す。 

  ■ 1598年(慶長3年)に、秀吉が没する(死

   去する)と、 秀吉の正室夫人おね(ねね)は、

   落飾し、 高台院湖月尼と称した。 

 

 

 ■ 1598年 (慶長 3年)。

 

  ● 朝鮮撤兵を行なう。

  ■ 1598年8月に、豊臣秀吉死去後、徳川

    家康、前田利家が、朝鮮撤兵を命じる。 

    同年12月にほぼ撤兵を完了する。

 

  ● 豊臣秀頼と淀の方が豊臣

    大阪城の本丸に入る。

  ■ 1598年(慶長3年)に、秀吉が没する(死

    去する)と、 秀吉の遺言により、 淀殿(茶

    々)と豊臣秀頼は、 伏見城より、豊臣大阪

    城の本丸に移る。

 

 

□ 豊臣秀吉の居住地、本城、政務居城の変遷へ

□ 豊臣秀吉の居住地の変遷へ

□ 豊臣秀吉の本城の変遷へ

□ 豊臣秀吉の政務居城の変遷へ

 

□ 出来事ブックのメニュー(目次)の先頭ページへ

□ 出来事ブック(総合)ページへ

□ 出来事ブック(各年・詳細)ページへ

□ 出来事ブック(概要・総合)ページへ

□ 出来事ブック(概要・テーマ別各事柄)ページへ

□ 豊臣秀吉ガイドブック へ。 

□ 日本史辞典 ・日本語版の先頭ページへ。  

□ 日本史ハンドブック ・日本語版 の先頭ページへ

 

 

#jphappenings/summary

 

 

◆ 豊臣秀吉 関連

   出来事 (概要)。

 

 □ 豊臣秀吉 関連出来事

    (概要・テーマ別各事柄)

 

 

 ■ 日本の歴史ハンドブック。

  ■ 当書籍では、 歴史の出来事の5W1H

    (いつ、どこで、だれが、何を、なぜ、どの

    ように) や、 歴史の出来事の流れ(原因

    理由⇒事件勃発⇒経過⇒結果⇒原因理

    由)に沿って、歴史(過去)の出来事を分か

    り易く、説明している。

 

 

 ■ 豊臣 秀吉。

  ■ 豊臣 秀吉 (とよとみ ひでよし、生没年:

    1537年〜1598年)は、 豊臣政権の創

    立者であり、 豊富政権の初代関白である。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

  ■ 豊臣 秀吉 (とよとみ ひでよし、生没年:

    1537年〜1598年)は、 尾張国(おわり

    のくに、現・愛知県西部)の中村(なかむら、

    現・愛知県名古屋市中村区)の農民・足軽

    の子であり、 戦国大名の織田信 長の家臣

    となり、 信長死後、信長に代わり、日本

    本土を統一する。 更に、朝鮮半島を侵略

    する。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

  ■ 豊臣 秀吉は、 策略家であり、人の心を

    動かす達人であった。

 

 

 ■ 豊臣 秀吉の氏名。

  ■ 豊臣 秀吉 (とよとみ ひでよし、生没年:

    1537年〜1598年)は、 

    成人(元服)後、初め、

    木下藤吉郎(きのしたとうきちろう、成人後

    〜1561年頃)と称し、その後、

    木下藤吉郎秀吉 (きのしたとうきちろうひで

    よし、1561年頃〜1573年)と称し、その後、

    羽柴秀吉 (はしばひでよし、1573年〜

    1586年)と称し、その後、

    豊臣秀吉(とよとみひでよし、1586年〜

    1598年)と称する。

       豊臣 秀吉の、個人名の、

    (いみな)は、 秀吉 (ひでよし)であり、

    通称は、藤吉郎 (とうきちろう)である

           豊臣 秀吉の、

    木下姓は、いつ名乗ったかは不明である。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

  ■ 豊臣 秀吉の 官職名。

  ● 豊臣 秀吉の官職名は、 

    筑前守 (ちくぜんのかみ、1575年〜

          1585年)、 

    関白 (かんぱく、1585年〜1591年)、 

    太閤 (たいこう、前関白、1591年〜

        1598年)、 

    などである。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

#jphappenings/summary-a

 

 

◆ 豊臣秀吉 関連

   出来事 (概要・

   テーマ別各事柄)。

 

 

   □ 豊臣秀吉 居住地、本

      城、政務居城の変遷

 

    □ 豊臣秀吉の居住地の変遷

    □ 豊臣秀吉の本城の変遷

    □ 豊臣秀吉の政務居城の変遷

 

 

#jphappenings/summary-per2110

 

 

#jphappenings/summary-f

 

 

◆ 豊臣秀吉の居住

     地、本城、政務

   居城の変遷。

 

 

  □ 豊臣秀吉の居住地

         の変遷

 

  □ 豊臣秀吉の本城

         の変遷

 

  □ 豊臣秀吉の政務居城

     変遷

 

 

#jphappenings/summary-f1

 

 

◆ 豊臣秀吉の居住

   地の変遷。

 

 ■ (R) 豊臣秀吉の居住地の変遷。

  ■ (R1)⇒(R16)。

     (R1)   中村の農家

                   (1537年ー1551年頃)、

     (R2)   頭陀寺城付近の松下氏家臣長屋

                 (1551年頃ー1554年頃)、

     (R3)  那古野城付近 の織田氏家臣長屋

                   (1554年頃ー1555年)、

     (R4)   清洲城付近の織田氏家臣長屋

                    (1555年1563年)、

     (R5)   小牧山城付近の織田氏家臣屋敷

                    (1563年1567年)、

     (R6)   岐阜城付近の織田氏家臣屋敷

                     (1567年1573年)、

     (R7)   長浜城      (1573年ー1577年)、

     (R8)  姫路城      (1577年ー1582年)、 

     (R9)   山崎城      (1582年ー1583年)、

     (R10)  二条第(= 妙顕寺城)

                    (1583年ー1587年)、

     (R11)  聚楽第      (1587年ー1592年)、

     (R12)  名護屋城    (1592年ー1593年)、

     (R13)  豊臣大阪城  (1593年ー1594年)、

     (R14)  豊臣秀吉築指月伏見城

                     (1594年−1596年)、 

     (R15)  豊臣大阪城  (1596年ー1597年)、

     (R16)  豊臣秀吉築木幡山伏見城

                    (1597年ー1598年)

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

             

  ■ 豊臣秀吉 (生没年:1537年 ー1598年)は、

    自分の(R)居住地を、次のような  順序で、

    移動する

 

  ● (R1) 中村(なかむら)の 農家 (尾張国(おわ

         りのくに、現・愛知県西部)に、

         1537年(天文6年)から

         1551年(天文20年)まで

         居住する。

 

  ● (R2)  頭陀寺城(ずだじじょう)付近の松下氏

          家臣長屋 (遠江国(とおとうみ、現・静

          岡県西部)に、

          1551年(天文20年)から

          1554年(天文23年)頃まで

          居住する。

 

  ● (R3) 那古野城(なごや じょう)付近の織田氏

         家臣長屋  (尾張国)に、

         1554年(天文23年)頃から

         1555年(天文24年)まで

          居住する。

 

  ● (R4)  清洲城(きよすじょう)付近の織田氏家臣

          長屋  (尾張国)に、

          1555年(天文24年)から

          1563年(永禄6年)まで

          居住する。

 

  ● (R5)  小牧山城(こまきやまじょう)付近の織田

           家臣屋敷 (尾張国)に、

          1563年(永禄6年)から

          1567年(永禄10年)まで

           居住する。

 

  ● (R6) 岐阜城(ぎふじょう)付近の織田氏家臣

               屋敷 (美濃国(みののくに、現・岐阜県

         南部))に、  

         1567年(永禄10年)から

         1573年(天正元年)まで          

         居住する。

            

  ● (R7) 長浜城 (ながはま じょう、近江国(おう

          みのくに、現・滋賀県))に、

         1573年(天正元年)から

         1577年(天正5年)まで

         居住する。

 

  ● (R8) 姫路城 (ひめじじょう、播磨国(はりまの

         くに、現・兵庫県本土南部))に、

         1577年(天正5年)から

         1582年(天正10年)まで

         居住する。

 

  ● (R9) 山崎城 (やまざきじょう、山城国(やまし

         ろのくに、現・京都府南部))に、

         1582年(天正10年)から

                   1583年(天正11年)まで

         居住する。

 

  ● (R10) 二条第 (にじょうだ い、妙顕寺城)、京

          (京都)、山城国(やましろのくに、現・

           京都府南部))に、

          1583年(天正11年)から

          1587年(天正15年)まで

          居住する。

 

  ● (R11) 聚楽第 (じゅらく だい)、京(京都)、

          山城国))に、

          1587年(天正15年)から

          1592年 (天正20年)まで

          居住する。

 

  ● (R12) 名護屋城 (なごや じょう、肥前国(ひ

          ぜんのくに)、現・佐賀県・長崎県本

          土))に、

          1592年(天正20年)から

          1593年(文禄2年)まで

          居住する。

 

  ● (R13) 豊臣大阪城 (とよ とみおおさかじょう、

          摂津国(せっつのくに、現・大阪府西北

          部))に、

          1593年(文禄2年)から

          1594年(文禄3年)まで

          居住する。

 

  ● (R14) 豊臣秀吉築指月 伏見城(しげつふし

          みじょう、山城国(やましろのくに、現・

          京都府南部))に、 

          1594年(文禄3年)から

          1596年(文禄5年)まで

          居住する。

 

  ● (R15) 豊臣大阪城 (とよ とみおおさかじょう、

          摂津国(せっつのくに、現・大阪府西北

          部))に、

          1596年(文禄5年)から

          1597年(慶長2年)まで

          居住する。

 

  ● (R16)  豊臣秀吉築木幡山伏見城(こはたやま

           ふしみじょう、山城国)に、

           1597年(慶長2年)から

           1598年(慶長3年)まで

           居住する。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

□ 豊臣秀吉の居住地、本城、政務居城の変遷へ

□ 豊臣秀吉の居住地の変遷へ

□ 豊臣秀吉の本城の変遷へ

□ 豊臣秀吉の政務居城の変遷へ

 

□ 出来事ブックのメニュー(目次)の先頭ページへ

□ 出来事ブック(総合)ページへ

□ 出来事ブック(各年・詳細)ページへ

□ 出来事ブック(概要・総合)ページへ

□ 出来事ブック(概要・テーマ別各事柄)ページへ

□ 豊臣秀吉ガイドブック へ。 

□ 日本史辞典 ・日本語版の先頭ページへ。  

□ 日本史ハンドブック ・日本語版 の先頭ページへ

 

 

#jphappenings/summary-f2

 

 

◆ 豊臣秀吉の本城

   の変遷。

 

 ■ (C) 豊臣秀吉の本城の変遷。

  ■ (C1)⇒(C4) 。

          (C1)   長浜城      (1573年ー1577年)、

     (C2)   姫路城      (1577年ー1582年)、

     (C3)   山崎城      (1582年ー1583年)、

     (C4)   豊臣大阪城  (1583年ー1598年)。

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

                    

  ■ 豊臣秀吉 (生没年:1537年 ー1598年)は、

    自分の(C)本城(ほんじょう、= 本拠地の城)を、

    次のような順序で、移動する

 

  ● (C1) 長浜城 (ながはま じょう、近江国 (おう

         みのくに、現・滋賀県)を、

         1573年(天正元年)から

                    1577年(天正5年)まで

         本城とする

 

  ● (C2) 姫路城 (ひめじじょう、 播磨国 (はりま

         のくに、現・兵庫県本土南部)を、

         1577年(天正5年)から

                    1582年(天正10年)まで

         本城とする

 

  ● (C3) 山崎城 (やまざき じょう、山城国(やま

         しろのくに、現・京都府南部)を、

         1582年(天正10年)から

                    1583年(天正11年)まで

         本城とする

 

  ● (C4) 豊臣大阪城 (と よとみおおさかじょう、

         摂津国 (せっつのくに、現・大阪府西北

         部)を、

         1583年(天正11年)から

                   1598年(慶長3年)まで

         本城とする

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

□ 豊臣秀吉の居住地、本城、政務居城の変遷へ

□ 豊臣秀吉の居住地の変遷へ

□ 豊臣秀吉の本城の変遷へ

□ 豊臣秀吉の政務居城の変遷へ

 

□ 出来事ブックのメニュー(目次)の先頭ページへ

□ 出来事ブック(総合)ページへ

□ 出来事ブック(各年・詳細)ページへ

□ 出来事ブック(概要・総合)ページへ

□ 出来事ブック(概要・テーマ別各事柄)ページへ

□ 豊臣秀吉ガイドブック へ。 

□ 日本史辞典 ・日本語版の先頭ページへ。  

□ 日本史ハンドブック ・日本語版 の先頭ページへ

 

 

 

#jphappenings/summary-f3

 

 

◆ 豊臣秀吉の政務

   居城の変遷。

 

 ■ (P) 豊臣秀吉の政務居城

        の変遷。 

  ■ (P1)⇒(P10) 。

     (P1)   長浜城     (1573年ー1577年)、

     (P2)   姫路城     (1577年ー1582年)、 

     (P3)   山崎城     (1582年ー1583年)、

     (P4)   二条第(妙顕寺城)

                    (1583年ー1587年)、

     (P5)   聚楽第     (1587年ー1592年)、

     (P6)   名護屋城    (1592年ー1593年)、

     (P7)   豊臣大阪城   (1593年ー1594年)、 

     (P8)   豊臣秀吉築指月伏見城

                     (1594年−1596年)、 

     (P9)   豊臣大阪城  (1596年ー1597年)、 

     (P10)  豊臣秀吉築木幡山伏見城

                     (1597年ー1598年)

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

  ■ 豊臣秀吉 (生没年:1537年 ー1598年)は、

    自分の(政務居城を、 次のような順序で、

    移動する

             

  ● 1) 長浜城 (ながはま じょう、近江国(おう

          みのくに、現・滋賀県))に、

         1573年(天正元年)から

         1577年(天正5年)まで

         政務居城とする

 

  ● 2) 姫路城 (ひめじじょう、播磨国(はりま

         のくに、現・兵庫県本土南部))に、

         1577年(天正5年)から

         1582年(天正10年)まで

         政務居城とする

 

  ● 3) 山崎城 (やまざき じょう、山城国(やま

         しろのくに、現・京都府南部))を、

         1582年(天正10年)から

         1583年(天正11年)まで

         政務居城とする

 

  ● P4) 二条第 (にじょう だい、妙顕寺城、京

         (京都)、山城国(やましろのくに、現・

         京都府南部))を、

         1583年(天正11年)から

         1587年(天正15年)まで

         政務居城とする

 

  ● 5) 聚楽第 (じゅらく だい、京(京都)、

         山城国(やましろのくに、現・京都府

         南部))を、

         1587年(天正15年)から

         1592年 (天正20年)まで

         政務居城とする

 

  ● P6) 名護屋城 (なごや じょう、肥前国(ひ

         ぜんのくに、現・佐賀県・長崎県

         本土))を、

         1592年(天正20年)から

         1593年(文禄2年)まで

         政務居城とする

 

  ● P 7) 豊臣大阪城 (とよとみおおさかじょ

           う、摂津国(せっつのくに、現・大阪

          府西北部))を、

          1593年(文禄2年)から

          1594年(文禄3年)まで

          政務居城とする

 

  ● P 8) 豊臣秀吉築指月伏見城 (しげつふ

          しみじょう、山城国(やましろのくに、

          現・京都府南部))を、

          1594年(文禄3年)から

          1596年(文禄5年)まで

          政務居城とする

 

  ● P 9) 豊臣大阪城 (とよとみおおさかじょ

          う、摂津国(せっつのくに、現・大阪

          府西北部))を、

          1596年(文禄5年)から

          1597年(慶長2年)まで

          政務居城とする

 

  ● P 10) 豊臣秀吉築木幡山伏見城 (こは

           たやまふしみじょう、山城国(やま

           しろのくに、現・京都府南部))を、

           1597年(慶長2年)から

           1598年(慶長3年)まで

           政務居城とする

  ● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。

 

 

□ 豊臣秀吉の居住地、本城、政務居城の変遷へ

□ 豊臣秀吉の居住地の変遷へ

□ 豊臣秀吉の本城の変遷へ

□ 豊臣秀吉の政務居城の変遷へ

 

□ 出来事ブックのメニュー(目次)の先頭ページへ

□ 出来事ブック(総合)ページへ

□ 出来事ブック(各年・詳細)ページへ

□ 出来事ブック(概要・総合)ページへ

□ 出来事ブック(概要・テーマ別各事柄)ページへ

□ 豊臣秀吉ガイドブック へ。 

□ 日本史辞典 ・日本語版の先頭ページへ。  

□ 日本史ハンドブック ・日本語版 の先頭ページへ

 

 

 

 『 あなたのハートには 

   何が残りましたか? 』。

 

 

 

以  上