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TOYOTOMI Hideyoshi.
『 (Kjhh)41516
カナヤマ
豊臣秀吉
関連 年代順
出来事ブック。 』
■ パソコン(PC)、 携帯用パソコン(PC)、
タブレット端末(PC)、 スマートフォン、
ウエアラブル端末、 スマートテレビ用
電子書籍。
メ ニュー (目次)。
■ 次の項目から選んで、クイックして下さい。
(総合)。
□ 豊臣秀吉の政務居城の変遷。
□ 豊臣秀吉ガイドブック。
□ 豊臣秀吉の一族・一門
■ 江戸幕府と同時代近くの関係史料。
□ 織田信長ガイドブック。
ブック。
□ 徳川家康ガイドブック。
ブック。
□ 室町幕府ガイドブック。
ブック。
□ 江戸幕府ガイドブック。
ブック。
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◆ カナヤマ 豊臣秀吉
ガイドブック。
■ 当ホームページの制作・著作権 TKKI カナヤマ。
◆ 豊臣秀吉 関連年代順
出来事ブックの内容 :
■ 初学者・初心者向 インターネット用
豊臣秀吉ガイドブック。
■ パソコン(PC)、 携帯パソコン(PC)、
タブレット端末(PC)(iPad、他)、
スマートフォン(iPhone、他)、
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インターネット向 電子書籍。
■ この本1冊で (このホームページ1つで)、
豊臣秀吉のこと(概略)が、一通り、わか る。
■ 豊臣秀吉は、 室町時代後期(戦国時代、14
67年〜1573年)、安土桃山時代(1573年
〜1603年) の 尾張国(おわりのくに、現在
の愛知県西部の相当地域) の 農民であり、
織田信長の家臣となり、 武将、戦国大名と
なり、 後に、 豊臣政権を樹立し、日本全国を
統一する。
■ 初学者・初心者向 豊臣 秀吉 ガイドブック。
■ 初学者・初心者向 豊臣 秀吉 (とよとみ ひで
よし)関連 電子書籍。
■ 豊臣 秀吉 ガイドブック (要覧)。
■ 豊臣 秀吉 の 入門ガイドブック。
■ 豊臣 秀吉 の 初学者・初心者向インターネット
用 オンライン書籍(ブック)。
■ 日本史書、日本史の電子書籍。
■ パソコン、携帯情報端末(PDA)用 電子書籍。
■ TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
□ 豊臣秀吉ガイドブック へ。
◆ (Kjhh)
豊臣秀吉 関連
年代順出来事
ブック。
◆ 豊臣秀吉 関連
年代順出来事
(詳細・各年)。
■ 豊臣秀吉 関連年代順
出来事。
□ 豊臣秀吉の政務居城の変遷。
□ 豊臣秀吉ガイドブック。
□ 豊臣秀吉の一族・一門
■ 江戸幕府と同時代近くの関係史料。
□ 織田信長ガイドブック。
ブック。
□ 徳川家康ガイドブック。
ブック。
□ 江戸幕府ガイドブック。
ブック。
■ 西暦・和暦の記載。
■ この年代順出来事は、
● 西暦を先に、その後ろの( )内に和暦を記載し
ている。
● この年代順出来事に記載されている日付(年
月日)は、 一般の歴史書で使用されているの
と同じように、1872年(明治5年)以前は旧暦
(太陰太陽暦)を用い、 1873年(明治6年)
以後は新暦(太陽暦)を用いている。
■ 備考。
■ より理解を深めるために、 日本史辞典の
『 織田信長 (おだのぶなが)、
今川義元 (いまがわよしも と)、
明智光秀 (あけちみつひで)、
徳川家康 (とくがわ いえやす)、
北条氏康 (ほうじょううじやす)、
武田信玄 (たけだしんげん)
武田 勝頼 (たけだかつより) 』
の項目 も参照して下さい。
◆ では、 豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし)に関係
する出来事を、年代順に、見てみよう。
■ さあ、 豊臣秀吉に関する色々な出来事を
見てみよう。
● 500〜400年前頃の日本へタイムスリップ
して、豊臣秀吉 の活動を見てみよう。
● 歴史学の立場から、 年代を追って、豊臣
(秀吉の実像 歴史的有名な人物には、虚像
と実像があるが)を見てみよう。
● 日付は、一般の歴史書と同様に、全て旧暦
である。
● 歴史学の立場から、 豊臣秀吉 の生涯や
真実の姿を見てみよう。
● 現代も、過去の時代も、人間は、利害と感情
(友愛)等で行動し、富、名誉、権力等を手に
入れるために、努力する。
人類の歴史は、 平和と戦争の歴史で
ある。 人は、美しき者、平和を好む者であり、
人は、醜き者、争う者でもある。
□ 豊臣秀吉ガイドブック へ。
◆ 豊臣秀吉 関連
年代順出来事
(詳細)。
■ 『 では、年代を追って、豊臣秀吉の行動を、
詳しく見てみよう。 』
■ 1532年 (享禄5年・天文元年)。
● 享禄年号から 天文年号に改元。
天文年号:1532年ー1555年。
■ 1532年(享禄5年・天文元年)に、
天文(てんぶん、てんもん)年号に改元。
● 1532年(享禄5年・天文元年)7月29日に、
和暦の「享禄」(きょうろく、
享禄元年・1528年〜享禄5年・1532年) が、
和暦の「天文」(てんぶん、てんもん、
天文 元年・1532年・ 7月29日〜
天文24年・1555年・10月23日) に
改元される。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1534年 (天文 3年)。
● 織田信長が誕生する。
■ 1534年(天文3年)に、 後に豊臣秀吉
(木下藤吉郎、羽柴秀吉)の主君となる、
織田信長 (おだのぶなが、幼名:吉法師
(きっぽうし)、生没年:1534年ー1582
年)が、 尾張国(おわりのくに、現・愛知
県西部の相当地域)の戦国武将・国人領
主(こくじんりょうしゅ、小豪族)の織田信
秀(おだのぶひで)の子として、誕生する。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1536年 (天文5年)。
● 信玄が元服する(成人となる)。
■ 1536年(天文5年)3月に、 武田信玄(太
郎)は、元服(成人)し、 室町幕府・12代将
軍の足利義晴(あしかがよしはる)の一字の
晴を賜り、武田 晴信(はるのぶ)と称す。
■ 1537年 (天文 6年)。
● 豊臣秀吉が誕生する。
■ 1537年(天文6年)2月6日に (『天正記』
や家臣・伊藤秀盛の願文の記載から)、 豊臣
秀吉 (とよとみ ひでよし、幼名不詳(日吉丸
?)、生没年:1537年ー1598年)が、
尾張国 (おわりのくに、現・愛知県西部の相当
地域)の中村(なかむら)で誕生する。
秀吉の父は、農民・足軽の弥右衛門で
あり、秀吉の母は、農民のなかである。
■ 1537年(天文6年)2月6日に (『天正記』
や家臣・伊藤秀盛の願文の記載から)、 豊臣
秀吉 (とよとみ ひでよし、生没年:1537年
ー1598年)が、 尾張国 (おわりのくに、現・
愛知県西部の相当地域)の農民・足軽の弥右
衛門(やえもん)の子として、誕生する。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
● 秀吉の誕生日では、創作の「絵本太平記」
の1536年(天文5年)説もある。
● 秀吉の実父、弥右衛門は、 尾張国 (お
わりのくに、現・愛知県西部の相当地域)の
中村(現・名古屋市中村区)の農民・足軽
であり、 秀吉の母は、「なか」で、同じく農
民 であった。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1537年 (天文 6年)。
● (R1) 秀吉は、中村の農家を
居住地とする。
● (R) 豊臣秀吉の居住地の変遷。
■ (R1)⇒(R16)。
(R1) 中村の農家
(1537年ー1551年頃)、
(R2) 頭陀寺城付近の松下氏家臣長屋
(1551年頃ー1554年頃)、
(R3) 那古野城付近 の織田氏家臣長屋
(1554年頃ー1555年)、
(R4) 清洲城付近の織田氏家臣長屋
(1555年ー1563年)、
(R5) 小牧山城付近の織田氏家臣屋敷
(1563年ー1567年)、
(R6) 岐阜城付近の織田氏家臣屋敷
(1567年ー1573年)、
(R7) 長浜城 (1573年ー1577年)、
(R8) 姫路城 (1577年ー1582年)、
(R9) 山崎城 (1582年ー1583年)、
(R10) 二条第(= 妙顕寺城)
(1583年ー1587年)、
(R11) 聚楽第 (1587年ー1592年)、
(R12) 名護屋城 (1592年ー1593年)、
(R13) 豊臣大阪城 (1593年ー1594年)、
(R14) 豊臣秀吉築指月伏見城
(1594年−1596年)、
(R15) 豊臣大阪城 (1596年ー1597年)、
(R16) 豊臣秀吉築木幡山伏見城
(1597年ー1598年)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ (R1) 豊臣秀吉
(生没年:1537年ー1598年)は、
1537年(天文6年)から
1551年(天文20年)頃まで
尾張国の、中村(なかむら)の農家で
居住する。
■ 中村(なかむら)の農家は、 尾張国(おわ
りのくに、現・愛知県西部)にある。
■ 1537年(天文6年)2月6日に (『天正記』
や家臣・伊藤秀盛の願文の記載から)、 豊臣
秀吉 (とよとみ ひでよし、幼名不明、生没年:
1537年ー1598年)が、 尾張国 (おわりの
くに、現・愛知県西部の相当地域)の中村(な
かむら)で誕生する。 秀吉の父は、 農民・
足軽の弥右衛門であり、 秀吉の母は、農民
のなかである。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1542年 (天文11年)。
● 徳川家康( 松平竹千代)が誕生
する。
■ 1542年(天文11年)12月26日に、
徳川 家康 (とくがわ いえやす、幼名:竹千
代(たけちよ)、生没年:1542年ー1616
年)は、 三河国(みかわのくに、現・愛知県
東部の相当地域)の、岡崎城(おかざきじょ
う)で誕生する。
家康の父は、 戦国武将・国人領主(こ
くじんりょうしゅ、小豪族)で、三河国の岡崎
城・城主の松平広忠(まつだいらひろただ)
であり、 家康の母は、於大の方(おだいの
かた)である。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1543年 (天文12年)。
● 謙信が元服する(成人となる)。
■ 1543年(天文12年)8月15日に、
上杉謙信(虎千代)は、元服(成人)して、
長尾 景虎 (ながおかげとら)と名乗る。
■ 1544年(天文13年)頃。
● 織田信長(吉法師)が
那古野城の城主となる。
■ 織田信長(吉法師) (生没年:1534年ー
1582年)は、 1546年(天文15年)の
元服(げんぷく、成人)前に、幼年で、
1534年(天文3年)から1546年 (天文
15年)までの間に、
1544年(天文13年)頃に、
尾張国 (おわりのくに、現・愛知県西部)
の、那古野城(なごやじょう)を、織田信長
(吉法師)の父・織田信秀(おだのぶひで)
より譲られ、那古野城の城主となる。
■ 1546年 (天文15年)。
● 信長が元服する(成人となる)。
■ 1546年(天文15年)に、 織田信長 (生没
年:1534年ー1582年)は、
父・織田信秀の本城(居城)の、古渡城(ふる
わたりじょう)にて、数え年13歳で、元服し、
三郎信長(織田三郎、織田信長)と称す。
三郎は通称で、信長は諱(いみな)であ
る。
■ 1547年 (天文16年)。
● 家康の人質生活の開始。
■ 徳川家康 (竹千代、松平 元信、松平元康
生没年:1542年ー1616年)は、
1547年 (天文16年)から1560年(永禄3
年)まで、家康の数え年6歳から19歳時まで、
織田氏や今川氏の人質生活を送る。
● 家康が織田氏の人質になる。
■ 家康の織田氏人質生活の開始。
● 1547年 (天文16年)に、徳川家康(松平
竹千代、生没年:1542年ー1616年)は、
織田氏の織田信秀(信長の父)の人質(1547
年〜1549年、家康の数え年6歳〜8歳時) と
なる。
■ 1548年 (天文17年)。
● 尾張国の織田信秀と美濃国の
斎藤道三利政が、和議を結ぶ。
■ 1548年(天文17年)に、敵対していた2者
の、尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部)
の、織田信秀(おだのぶひで、信長の父) と、
美濃国(みののくに、現・岐阜県南部)の、
斎藤道三利政(さいとうどうさんとしまさ、帰
蝶(きちょう、濃姫)の父)が、和睦し、和議を
結び、縁組の誓約も取り交わす。
■ 1549年 (天文18年)。
● 家康の父・松平広忠が死去。
■ 1549年(天文18年)3月に、徳川家康(松
平竹千代)の父の、今川方の、三河国・岡崎
城主の松平広忠(まつだいらひろただ)が死
去する。
● 松平氏の根拠地の西三河は、
今川氏が支配する。
■ 1549年(天文18年)に、今川氏の今川義元
は、 松平広忠の岡崎城や松平氏の西三河の
領地を奪取し、岡崎城には今川氏の派遣した
城代を置き、支配する。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1549年 (天文18年)。
● 家康は、織田氏の人質から
今川氏の人質に変わる。
■ 徳川家康の今川氏人質生活の開始。
● 1549年(天文18年) 11月に、徳川家康
(松平竹千代、生没年:1542年ー1616
年)は、 織田氏と今川氏の人質交換で、
織田氏の人質(1547年〜1549年、家康
の数え年6歳〜8歳時)から、今川氏 の人
質(1549年〜1560年、家康の数え 年8
歳〜19歳時) となる。
■ 1551年 (天文20年)頃。
● 秀吉が松下之綱に仕える。
● 秀吉が松下氏家臣となる。
■ 1551年(天文20年)頃に、 豊臣秀吉
(木下藤吉郎)が、 松下加兵衛之綱に仕
(つか)える。
■ 豊臣秀吉 (木下藤吉郎、生没年:1537年
ー1598年)は、 1551年(天文20年)頃
から約3年間、今川氏に仕える、遠江国の
頭陀寺城(ずだじ じょう)・城主の松下加兵衛
之綱 (まつしたかへいゆきつな、生没年:
1537年ー1598年)の下男として仕(うか)
える。
■ 1551年(天文20年)頃。
● (R2) 秀吉は、頭陀寺城付近 の
松下氏家臣長屋を居住地とする。
● (R) 豊臣秀吉の居住地の変遷。
■ (R1)⇒(R16)。
(R1) 中村の農家
(1537年ー1551年頃)、
(R2) 頭陀寺城付近の松下氏家臣長屋
(1551年頃ー1554年頃)、
(R3) 那古野城付近 の織田氏家臣長屋
(1554年頃ー1555年)、
(R4) 清洲城付近の織田氏家臣長屋
(1555年ー1563年)、
(R5) 小牧山城付近の織田氏家臣屋敷
(1563年ー1567年)、
(R6) 岐阜城付近の織田氏家臣屋敷
(1567年ー1573年)、
(R7) 長浜城 (1573年ー1577年)、
(R8) 姫路城 (1577年ー1582年)、
(R9) 山崎城 (1582年ー1583年)、
(R10) 二条第(= 妙顕寺城)
(1583年ー1587年)、
(R11) 聚楽第 (1587年ー1592年)、
(R12) 名護屋城 (1592年ー1593年)、
(R13) 豊臣大阪城 (1593年ー1594年)、
(R14) 豊臣秀吉築指月伏見城
(1594年−1596年)、
(R15) 豊臣大阪城 (1596年ー1597年)、
(R16) 豊臣秀吉築木幡山伏見城
(1597年ー1598年)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ (R 2) 豊臣秀吉
(生没年:1537年ー1598年)は、
1551年(天文20年)頃から
1554年(天文23年)頃まで
遠江国の、頭陀寺城付近の松下氏家臣長屋で
居住する。
■ 頭陀寺城(ずだじじょう)付近 の松下氏家臣
長屋は、 遠江国(とおとうみ、現・静岡県西
部)にある。
■ 豊臣秀吉 (木下藤吉郎、生没年:1537年
ー1598年)は、 1551年(天文20年)頃
から約3年間、今川氏に仕える、遠江国の
頭陀寺城(ずだじ じょう)・城主の松下加兵衛
之綱 (まつしたかへいゆきつな、生没年:
1537年ー1598年)の下男として仕える。
■ 1552年 (天文21年)頃。
● 信長の父・織田信秀の死去。
■ 1552年(天文21年)に、勝幡織田氏(織田
弾正忠家)の、信長の父・織田信秀 (おだの
ぶひで、生没年:1511年ー1552年頃)が、
急死する。
● 織田信秀の没年には、1551年(天文20年)
説、1549年(天文18年)説もある。
● 勝幡織田氏で、織田信長と織田
信行(信勝)との間で家督争い
が起こる。
■ 1552年(天文21年)頃に、 勝幡織田氏
(しょばたおだし、織田弾正忠家(おだだんじ
ょうのちゅうけ))の家督相続では、 嫡出子
(正室の子)の、織田信長と同母 弟の織田信
行(信勝)(のぶゆき(のぶかつ))との間で、
家督争いが起きる。
● 1556年(弘治2年)年に、織田信長は、稲生
(いのう)の戦いで勝ち、信長は、家督争いに
勝ち、信長が、尾張国の信長の父・織田信秀
(のぶひで)の家督を継ぐ。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1553年(天文22年)。
● 信長は斉藤道三と会見する。
■ 1553年(天文22年)4月に、 織田信長
は、 美濃国 (みののくに、現・岐阜県南
部の相当地域)の戦国大名の斎藤 道三利
政 (さいとう どうさんとしまさ、生年不詳
ー1556年)と会見する。
□ 豊臣秀吉ガイドブック へ。
□ 日本史辞典の先頭ページへ。
■ 1554年 (天文23年)。
● 甲相駿三国同盟が成立。
■ 1554年(天文23年)に、
武田信玄、北条氏康、今川義元の間で、互い
に婚姻関係を結び、 甲斐国本拠地の武田氏、
相模国本拠地の北条氏、駿河国本拠地の今
川氏の三者の甲相駿三国同盟 (こうそうしゅ
んさんごくどうめい、1554年ー1567年)が、
成立する。
■ 1554年 (天文23年)頃。
● 秀吉が信長に仕え始める。
● 秀吉が織田氏家臣となる。
■ 1554年(天文23年)頃に、豊臣秀吉(木下
藤吉郎)が、織田信長に仕える (家臣として
仕え始める)。
■ 1554年(天文23年)頃に、 豊臣秀吉
(木下藤吉郎)が、織田信長に仕(つか)
える。
● 秀吉(木下藤吉郎)は、最初、信長の小者
となり、 その後、その能力が信長の目に
留まり、平時や戦時に様々な成果をあげ、
織田軍の中で、様々な戦いで成果をあげ、
織田軍の、足軽(あしがる)、足軽組頭(あ
しがるくみがしら)、足軽大将(あしがるだ
いしょう)、侍大将(さむらいだいしょう)、
部将(ぶしょう) と出世していく。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1555年 (天文24年)。
● 家康が元服する(成人となる)。
● 家康は松平元信と称す。
■ 1555年 (天文24年)3月に、 徳川家康
(松 平竹千代)は、元服( げんぷく、成人)し
て、名を、竹千 代から次郎三郎元信(もとの
ぶ)に改め、松平元信(1555年ー1557年)
と称す。
■ 1555年 (天文24年)。
● 信長が尾張下四郡(尾張南部)
を支配。
■ 織田信長は、1554年(天文23年)に、尾張
下四郡の守護代(清洲織田氏(きよすおだし、
織田大和守家(おだやまとのかみけ))の、
織田彦五郎信友と戦い(安食(あじき)の戦い)、
勝ち、1555年(天文24年)には、織田彦五郎
信友は殺害され、信友に代わって、清洲城に入
る。
信長は、1555年(天文24年)に、清洲織
田氏(織田大和守家)の勢力範囲の、尾張国
(おわりのくに、現・愛知県西部の当相地域)の
南部(尾張下四郡)を支配する。
■ 1554年(天文23年)頃。
● (R3) 秀吉は、那古野城付近の
織田氏家臣長屋を居住地とする。
● (R) 豊臣秀吉の居住地の変遷。
■ (R1)⇒(R16)。
(R1) 中村の農家
(1537年ー1551年頃)、
(R2) 頭陀寺城付近の松下氏家臣長屋
(1551年頃ー1554年頃)、
(R3) 那古野城付近 の織田氏家臣長屋
(1554年頃ー1555年)、
(R4) 清洲城付近の織田氏家臣長屋
(1555年ー1563年)、
(R5) 小牧山城付近の織田氏家臣屋敷
(1563年ー1567年)、
(R6) 岐阜城付近の織田氏家臣屋敷
(1567年ー1573年)、
(R7) 長浜城 (1573年ー1577年)、
(R8) 姫路城 (1577年ー1582年)、
(R9) 山崎城 (1582年ー1583年)、
(R10) 二条第(= 妙顕寺城)
(1583年ー1587年)、
(R11) 聚楽第 (1587年ー1592年)、
(R12) 名護屋城 (1592年ー1593年)、
(R13) 豊臣大阪城 (1593年ー1594年)、
(R14) 豊臣秀吉築指月伏見城
(1594年−1596年)、
(R15) 豊臣大阪城 (1596年ー1597年)、
(R16) 豊臣秀吉築木幡山伏見城
(1597年ー1598年)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ (R 3) 豊臣秀吉
(生没年:1537年ー1598年)は、
1554年(天文23年)頃から
1555年(天文24年)まで
尾張国の、那古野城(なごや じょう)付近の
織田氏家臣長屋で
居住する。
■ 那古野城(なごやじょう)付近の織田氏家臣
長屋は、 尾張国(おわりのくに、現・愛知県
西部)にある。
■ 豊臣秀吉 (木下藤吉郎、生没年:1537年
ー1598年)は、 1554年(天文23年)頃
から織田氏に仕え、初め、織田氏の小者とし
て仕え、その才能が織田信長の目に留まり、
出世していく。
■ 1555年 (天文24年)。
● (R4) 秀吉は、清洲城付近の
織田氏家臣長屋を居住地とする。
■ (R) 豊臣秀吉の居住地の変遷。
■ (R1)⇒(R16)。
(R1) 中村の農家
(1537年ー1551年頃)、
(R2) 頭陀寺城付近の松下氏家臣長屋
(1551年頃ー1554年頃)、
(R3) 那古野城付近 の織田氏家臣長屋
(1554年頃ー1555年)、
(R4) 清洲城付近の織田氏家臣長屋
(1555年ー1563年)、
(R5) 小牧山城付近の織田氏家臣屋敷
(1563年ー1567年)、
(R6) 岐阜城付近の織田氏家臣屋敷
(1567年ー1573年)、
(R7) 長浜城 (1573年ー1577年)、
(R8) 姫路城 (1577年ー1582年)、
(R9) 山崎城 (1582年ー1583年)、
(R10) 二条第(= 妙顕寺城)
(1583年ー1587年)、
(R11) 聚楽第 (1587年ー1592年)、
(R12) 名護屋城 (1592年ー1593年)、
(R13) 豊臣大阪城 (1593年ー1594年)、
(R14) 豊臣秀吉築指月伏見城
(1594年−1596年)、
(R15) 豊臣大阪城 (1596年ー1597年)、
(R16) 豊臣秀吉築木幡山伏見城
(1597年ー1598年)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ (R4) 豊臣秀吉
(生没年:1537年ー1598年)は、
1555年(天文24年)から
1563年(永禄6年)まで
尾張国の、清洲城(きよすじょう)付近の
織田氏家臣長屋で
居住する。
■ 清洲城(きよすじょう)付近の織田氏家臣
長屋は、 尾張国(おわりのくに、現・愛知県
西部)にある。
■ 1555年(天文24年)に、織田信長は、
尾張下四郡(尾張国南部)の守護代で
清洲城・城主の織田信友(おだのぶとも)
を討ち取り、織田信友に代わって、清洲城
へ入り、尾張国の下四郡(尾張国南部)を
支配する。
1555年(天文24年)に、織田信長の
家臣の豊臣秀吉 (木下藤吉郎、生没年:
1537年ー1598年)も、清洲城(きよすじ
ょう)付近の織田氏家臣長屋に移り住む。
■ 1555年 (天文24年・弘治元年)。
● 天文年号から弘治年号に改元。
弘治年号:1555年ー155 8年。
■ 1555年(天文24年・弘治元年)に、
弘治(こうじ)年号に改元。
● 1555年(天文24年・弘治元年)10月23日に、
和暦の「天文」(てんぶん、てんもん 、
天文元年・1532年〜天文24年・1555年) が、
和暦の「弘治」(こうじ、
弘治 元年・1555年・10月23日〜
弘治 4年・1558年・ 2月28日) に
改元される。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1556年 (弘治 2年)。
● 斎藤道三利政の死去。
■ 1556年(弘治2年)に、織田信長は、美濃
国(みののくに、現・岐阜県南部)の、義父
(信長夫人・帰蝶の父)の斎藤道三利政(さ
いとうどうさんとしまさ)が、 子の斎藤義龍
(さいよしたつ)との戦いに敗れて死去する。
信長は、道三利政に援軍を出したが、
間に合わなかった。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1556年 (弘治 2年)。
● 稲生(いのう)の戦い。
● 信長が勝幡織田氏の家督を
継ぐ。
■ 1556年(弘治2年)年に、 織田信長は、
稲生(いのう)の戦いで 実弟の織田信行(信
勝)と戦い、勝ち、信長が、尾張国の勝幡織
田氏(しょばたおだし、織田弾正忠家(おだ
だんじょうのちゅうけ))の、信長の父・織田
信秀(おだのぶひで)の家督を継ぐ。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1558年 (弘治4年・永禄元年)。
● 弘治年号から永禄年号に改元。
永禄年号:1558年ー15 70年。
■ 1558年(弘治4年・永禄元年)に、
永禄(えいろく) 年号に改元。
● 1558年(弘治4年・永禄 元年)2月28日に、
和暦の「弘治」(こうじ、
弘治元年・1555年〜弘治4年・1558年)
が、
和暦の「永禄」(えいろく、
永禄 元年・1558年・ 2月28日〜
永禄13年・1570年・ 4月23日) に
改元される。
■ 1558年 (永禄 元年)。
● 信長は、勝幡織田氏の家督を争
った実弟・信行(信勝)を殺害す
る。
■ 織田信長と勝幡織田氏の家督を争った実弟
の織田信行(信勝)(おだのぶゆき(のぶかつ)、
生没年:生年不詳ー1558年)は、信長に、
何度も反抗したため、織田信長によって、殺害
される。
■ 1558年 (永禄 元年)。
● 浮野の戦い。
■ 浮野(うきの)の戦い。
● 1558年(永禄元年)に、織田信長は、織
田一門の宗家で、尾張国の上四郡を支配する
守護代 (岩倉織田家、織田伊勢守家の当主)
で、岩倉(いわくら)城主の、織田 信賢 (おだ
のぶかた)の軍を破る。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1559年 (永禄2年) 2月。
● 信玄が、徳栄軒信玄と称する。
■ 1559年(永禄2年)2月に、 武田信玄
(武田晴信)は、 出家して、「徳栄軒信玄」
(法号、法名)と号す(称す)。
■ 1559年 (永禄2年)。
● 信長が尾張を統一する。
■ 1559年(永禄2年)に。 織田信長は、
尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部)
一国を統一し、 尾張国の国主(こくしゅ)
となる。
● 織田は尾張上四郡(尾張北部)
を支配する。
■ 織田信長は、 1559年(永禄2年)に、尾張
上四郡(尾張北部)の守護代(岩倉織田氏、
織田伊勢守家(おだいせのかみけ))の、織田
信賢 (おだのぶかた、生没年不詳)の居城・
岩倉城を包囲し降伏させ、信賢を追放する。
信長は、1559年(永禄2年)に、尾張国
(おわりのくに、現・愛知県西部の当相地域)の
北部(尾張上四郡)を支配する。
● 信長の尾張平定。
■ 1559年(永禄2年)に、織田信長は、
尾張国(おわりのくに、現・愛知県西部の相
当地域)一国を統一し、尾張国の国主となる。
● 信長は、 尾張・上四郡の守護代の織田
信賢の居城・岩倉城を落城させ、信賢を追
放し、 また、新たに尾張守護となった斯波
義銀(しばよしかね)が敵対したので追放
する。 ここに、信長は、尾張の国内の支配
権を確立する。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
□ 豊臣秀吉ガイドブック へ。
□ 日本史辞典の先頭ページへ。
■ 1560年 (永禄 3年)。
● 桶狭間の戦い。
● 桶狭間の戦いで、信長が今川
義元が敗死し、今川軍敗戦。
■ 1560年(永禄3年)5月に、 桶狭間(お
けはざま)の戦いで、織田信長の軍は、
今川義元の軍を破る。
■ 1560年(永禄3年)5月19日昼頃、 織田
信長は、 総大将の今川義元を桶狭間山で
討死させ、 今川義元 (いまがわよしもと、
今川氏当主:1536年−1560年、生没年:
1519年ー1560年)は、尾張国(おわりの
くに、現・愛知県西部の相当地域)の桶狭間
で敗死し、今川義元の軍は、総大将を失い、
総崩れとなる。
■ 1560年(永禄3年)5月に、織田信長は、
桶狭間の戦い (おけはざまのたたかい)で、
東海の駿河国、遠江国、三河国3国(現・静
岡県中部・西部、愛知県東部)を支配する
今川氏の今川義元(いまがわよしもと)を敗
死させ、今川義元の大軍を敗(やぶ)り、権
威をたかめる。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1560年 (永禄3年)。
● 信長が桶狭間の戦いで、
今川義元を敗死させる。
■ 1560年(永禄3年)5月に、織田信長は、
桶狭間(おけはざま)の戦いで、 今川 義元
(いまがわ よしもと)を破る。 今川義元は、
尾張の桶狭間で、敗死する。
● 家康が三河へ戻る。
■ 1560年(永禄3年)に、 義元の家臣して
信長と戦っていた、徳川家康(松平元康(ま
つだいらもとやす))は、 尾張より、松平軍
の兵を撤退し、三河国(みかわのくに、現・
愛知県東部)の岡崎城へ戻る。
その後、1561年(永禄4年)4月に、
家康は、今川氏から独立する。
● 家康の岡崎城入城。
■ 1560年(永禄3年)5月23日に、徳川家康
(松平元康)は、人質として過した駿河国
(するがのくに、現・静岡県中部)の駿府へ
は戻らず、今川軍が退去(放棄)した三河国
(みかわのくに、現・愛知県東部)の岡崎城に
入る。
その後、家康(元康)は、今川氏から
自立(独立)する。
■ 1560年 (永禄 3年)。
● 今川氏真が今川氏の家督を
継承する。
■ 今川氏真(いまがわうじざね)が、 戦死した
今川義元(いまがわよしもと)に代わって、
今川氏の家督を継承し、名実共に、今川氏
の当主となる。
■ 1561年 (永禄4年)。
● 謙信の小田原北条氏を攻め、
小田原城を囲む。
■ 北条氏攻め(小田原城攻め)。
● 1561年(永禄4年)に、 上杉謙信(長尾
景虎)は、 関東管領(かんとうかんれい)
の上杉憲政(うえすぎのりまさ)を擁して、
旧上杉氏家臣団の約10万人の大軍で、
北条氏康(ほうじょううじやす)を攻め、小田
原城を包囲する。
● 謙信が、山内上杉氏家督を
相続し、関東管領となる。
● 謙信が、上杉政虎と称する。
■ 1561年(永禄4年)閏3月16日に、
上杉謙信(長尾景虎(ながおかげとら))は、
鎌倉の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で、
上杉憲政(うえすぎのりまさ)より、
山内上杉氏(やまのうちうえすぎけ)の家督
と関東管領職を相続(継承)し、
関東管領(かんとうかんれい)に就任し、
上杉憲政から一字の政を賜り、
上杉政虎(うえすぎまさとら)と称す。
■ 1561年 (永禄 4年)。
● 信長が家康との和睦を望む。
■ 1561年(永禄4年)に、 織田信長は、
尾張国の西北方の斎藤氏支配の美濃国を
攻略したいため、 尾張国の東方の今川氏
支配の三河国との戦いを望まず、 今川方
の三河国西部の徳川家康(松平元康)に、
水野信元 (みずののぶもと、家康の生母
の兄)を介して、和睦をもちかける。
● 家康は織田方となり、今川氏
から独立する。
■ 1561年(永禄4年)4月に、三河国の徳川
家康(松平元康)は、 尾張国の織田信長と
和睦し、織田方となり、今川氏の今川義元の
後を継いだ今川氏真(いまがわ(うじざね)と
断行し今川氏から独立する。
■ 1561年 (永禄 4年)。
● 美濃の斎藤義龍の死去。
■ 1561年(永禄4年)5月に、 美濃国 (み
ののくに、現・岐阜県南部の相当地域)の、
国主の、斎藤義龍(高政) (さいとうよした
つ(たかまさ)、生没年:生年不詳ー1561
年)が、急死し、 嫡男の斎藤龍興(さいとう
たつおき、生没年:1547年ー1573年)が、
美濃国を引き継ぐ。
● 美濃国の斎藤氏の家臣団内部で、分裂が
始まる。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1561年 (永禄4年)。
● 謙信と信玄が、第4回川中島の
戦いで、戦い、引き分けとなる。
■ 第4回川中島の戦い。
● 1561年(永禄4年)8月に、 上杉謙信(上杉
政虎)の率いる上杉軍 と 武田信玄(徳栄軒
信玄)の率いる武田軍が、 信濃国(しなのの
くに、現・長野県)の北部の川中島で、衝突し、
第4回川中島の戦いが起こり、激戦となる。
第4回川中島の戦いでは、勝敗がつがず、
引き分けとなる。
● 謙信が、上杉輝虎と称する。
■ 1561年(永禄4年)12月に、上杉謙信(上杉
政虎)は、 室町幕府・13代将軍の足利義輝
から一字の輝を賜り、諱(いみな)を輝虎(てる
とら)と改め、上杉輝虎(うえすぎてるとら)と
称す。
■ 1561年 (永禄 4年)。
● 秀吉がねね(おね)と婚儀を
結ぶ。
■ ねね(おね)は、
1561年(永禄4年)に、秀吉と婚儀を結び、
秀吉の正室人夫となり、その後、秀吉を助
け、秀吉と共に人生を歩む。
■ 1561年(永禄4年)8月に、 豊臣秀吉
(木下秀吉)は、 浅野長勝の養女で杉原
定利の娘のおね(ねね)と婚儀を結ぶ。
● 杉原定利の夫人でおね(ねね)の実母・
朝日は、秀吉とおね(ねね)との婚儀に反
対したが、おね(ねね)は、反対を押し切っ
て、秀吉に嫁(とつ)ぐ。
● 秀吉とおね(ねね)との婚儀は、 当時、
家長・親が決めた相手と婚儀を結ばない、
野合(やごう、自由恋愛結婚)であった。
● 秀吉とおね(ねね)は、婚儀時、概ね、
秀吉は、数え年26歳、 おね(ねね)は、
数え年14歳であった。
前近代日本では、女性の結婚適齢期
は、10代である (平均寿命が短いため)。
● 婚儀の結婚式の媒酌人は、秀吉の親友
の前田利家と利家の妻・まつであり、 藁
(わらぶき)と薄縁をひいて、質素に行わ
れた。
● 秀吉とおね(ねね)の2人は、生涯、尾張
訛(なま)りの賑(にぎ)やかな夫婦喧嘩が
多かったと言われている。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
● ねね(おね)は、浅野又右衛門
長勝の養女である。
■ 浅野 又右衛門長勝は、
織田信長の家臣・弓衆で、実子がなく、
(O) 「おね(ねね)」
(豊臣秀吉の夫人、
長勝の夫人・七曲殿の姉妹の子)、
(Y) 「やや(長生院)」
(おね(ねね)の実妹、
長勝の夫人・七曲殿の姉妹の子)、
(N) 浅野弥兵衛長吉(長政)
(「やや(長生院)」の婿養子・夫、
長勝の実姉の子)、
を養子とし、養父となる。
● おね(ねね)、やや。
■ 浅野又右衛門長勝の夫人は、
七曲殿(ななまがりどの、ふく)であり、
七曲殿の姉妹には朝日 殿(あさひどの、
こひ)がいる。
● 七曲殿の姉妹の朝日殿は、
杉原定利 (すぎはらさだとし、婿養子)の
夫人であり、二人の間には、次の3人の実
子がいる。
( I ) 杉原(木下)孫兵衛家定
(すぎはら(きのした)まごへいいえさだ、
おね(ねね)の実兄、小早川秀秋の父)。
(O) 「おね(ねね)」 (豊臣秀吉の夫人)。
(Y) 「やや(長生院)」
(おね(ねね)の妹、浅野弥兵衛長吉
(長政)の夫人)。
■ 1561年 (永禄 4年)頃。
● 豊臣秀吉が秀吉の名乗る。
■ 豊臣秀吉は、
1561年(永禄4年)頃に、秀吉と名乗る。
● 豊臣秀吉は、 1561年(永禄4年)11月
に、木下藤吉郎秀吉と名乗る (「堀内文
書より)。
■ 1561年 (永禄 4年)。
● 信長が家康との和睦を望む。
■ 1561年(永禄4年)に、 織田信長は、
尾張国の西北方の斎藤氏支配の美濃国を
攻略したいため、 尾張国の東方の今川氏
支配の三河国との戦いを望まず、 今川方
の三河国西部の徳川家康(松平元康)に、
水野信元 (みずののぶもと、家康の生母
の兄)を介して、和睦をもちかける。
● 家康は織田方となり、今川氏
から独立する。
■ 1561年(永禄4年)4月に、三河国西部の
徳川家康(松平元康)は、 尾張国の織田
信長と和睦し、織田方となり、今川氏の今川
義元の後を継いだ今川氏真(いまがわ(うじ
ざね)と断行し今川氏から独立する。
■ 1561年 (永禄 4年)。
● 美濃の斎藤義龍の死去。
■ 1561年(永禄4年)5月に、 美濃国 (み
ののくに、現・岐阜県南部の相当地域)の、
国主の、斎藤義龍(高政) (さいとうよした
つ(たかまさ)、生没年:生年不詳ー1561
年)が、急死し、 嫡男の斎藤龍興(さいとう
たつおき、生没年:1547年ー1573年)が、
美濃国を引き継ぐ。
● 美濃国の斎藤氏の家臣団内部で、分裂が
始まる。
■ 1562年 (永禄 5年)。
● 信長と家康は清州同盟を結ぶ。
■ 1562年(永禄5年)1月に、尾張国の織田
信長は、正式に、尾張国の東方の三河国西
部の徳川家康と清洲同盟(きよすどうめい、
織徳同盟)を結ぶ。
● 同盟締結後、 尾張国(現・愛知県西部)の
織田信長は、 西方の、美濃国(現・岐阜県
南部)や伊勢国(現・三重県北部・中央中部)
への侵略を目指し、
一方、三河国(現・愛知県東部)西部の徳川
家康は、 東方の三河国東部・北部、遠江国
(現・静岡県西部)、駿河国(現・静岡県中部)
への侵略を目指すこととなる。
信長と家康は、自国防衛や他国侵略で
軍勢が不足した時は、お互いに、援軍を出し
合うこととなる。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1563年 (永禄 6年)。
● (R5) 秀吉は、 小牧山城付近
の織田氏家臣屋を居住地とする。
● (R) 豊臣秀吉の居住地の変遷。
■ (R1)⇒(R16)。
(R1) 中村の農家
(1537年ー1551年頃)、
(R2) 頭陀寺城付近の松下氏家臣長屋
(1551年頃ー1554年頃)、
(R3) 那古野城付近 の織田氏家臣長屋
(1554年頃ー1555年)、
(R4) 清洲城付近の織田氏家臣長屋
(1555年ー1563年)、
(R5) 小牧山城付近の織田氏家臣屋敷
(1563年ー1567年)、
(R6) 岐阜城付近の織田氏家臣屋敷
(1567年ー1573年)、
(R7) 長浜城 (1573年ー1577年)、
(R8) 姫路城 (1577年ー1582年)、
(R9) 山崎城 (1582年ー1583年)、
(R10) 二条第(= 妙顕寺城)
(1583年ー1587年)、
(R11) 聚楽第 (1587年ー1592年)、
(R12) 名護屋城 (1592年ー1593年)、
(R13) 豊臣大阪城 (1593年ー1594年)、
(R14) 豊臣秀吉築指月伏見城
(1594年−1596年)、
(R15) 豊臣大阪城 (1596年ー1597年)、
(R16) 豊臣秀吉築木幡山伏見城
(1597年ー1598年)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ (R5) 豊臣秀吉
(生没年:1537年ー1598年)は、
1563年(永禄6年)から
1567年(永禄10年)まで
尾張国の、小牧山城(こまきやまじょう)付近
の織田氏家臣屋敷で
居住する。
■ 小牧山城(こまきやまじょう)付近の織田氏
家臣屋敷は、 尾張国(おわりのくに、
現・愛知県西部)にある。
■ 1563年(永禄6年)に、織田信長は、美濃
国攻略に有利な、尾張国の、小牧山城 (こま
きやまじょう)に、本拠地を移す。
1563年(永禄6年)に、織田信長の
家臣の豊臣秀吉 (木下藤吉郎秀吉、生没
年:1537年ー1598年)も、小牧山城(こま
きやまじょう)付近の織田氏家臣屋敷に移り
住む。
■ 1563年 (永禄 6年)。
● 三河一向一揆が起こる。
■ 1563年(永禄6年)に、三河一向一揆 (み
かわいっこういっき、1563年ー1564年)が
起こり、 徳川家康(松平家康)は、 西三河
で、一向宗(いっこうしゅ、本願寺)の三河一向
一揆の鎮圧を始める。
■ 1564年 (永禄 7年)。
● 家康が三河一向一揆を鎮圧
する。
■ 1564年(永禄7年)に、 徳川家康(松平
家康)は、 一向一揆(いっこういっき)の鎮
圧に成功する。
■ 1564年 (永禄 7年)。
● 信長は浅井長政と同盟を
結ぶ。
● お市が浅井長政に嫁ぐ。
■ 1564年(永禄7年)に、 織田信長は、
北近江(きたおうみ、現・滋賀県北部)の戦国
大名の浅井長政(あざいながまさ)と同盟を結
び、 信長の妹のお市(おいち)が、 浅井長
政に輿入(こしい)れする。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1565年 (永禄 8年)。
● 信長の伊勢侵攻開始。
■ 1565年(永禄8年)に、 織田信長は、
伊勢国(いせのくに、現・三重県北部・中央
中部の相当地域)への侵攻を開始する。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1566年 (永禄 9年)。
● 家康が三河国全体を平定。
■ 1566年(永禄9年)5月に、徳川家康(松
平家康)は、三河国 (みかわのくに、現・愛
知県東部の相当地域)を統一する。
● 1566年(永禄9年)12月に、 徳川家康
(松平家康)は、 朝廷より従五位下三河守
(じゅごいのげみかわのかみ)に叙任され、
姓を松平(まつだいら)から徳川(とくがわ)
に改姓する。
■ 1566年 (永禄 9年)。
● 信長の足利義昭擁立・第1次
上洛出兵の失敗。
■ 織田信長の足利義昭擁立・第1次上洛出兵。
● 1566年(永禄9年)8月に、 足利義昭家臣
で仲介役の細川 藤孝(幽斎) によって、
足利義昭擁立・織田信長第1次上洛出兵が
行われたが、美濃国の斎藤氏によって阻止さ
れ、上洛は失敗する。
■ 1567年 (永禄10年) 5月。
● 信長の娘の徳姫が家康の嫡男
の松平信康に嫁ぐ。
■ 1567年(永禄10年)5月に、
織田信長の娘の徳姫 (とくひめ、= 五徳
(ごとく)、生没年:1559年ー1636年)が、
政略結婚で徳川家康の嫡男・松平信康(ま
つだいらのぶやす)に嫁 (とつ)ぐ。
■ 1567年 (永禄10年) 10月。
● 信長が美濃の斎藤氏を滅ぼす。
● 信長が尾張、美濃の2か国の
戦国大名になる。
■ 1567年(永禄10年)10月に、信長は、
美濃国(みののくに、現・岐阜県南部)の
斉藤氏を滅ぼす。
● 信長の稲葉山城(岐阜城)奪取。
● 織田信長の美濃平定。
■ 1567年(永禄10年)10月に、織田信長
は、 美濃国 (みののくに、現・岐阜県南部
の相当地域)の斎藤氏を滅ぼす。
信長は、尾張国、美濃国の2カ国を領す
る戦国大名となる。
● 1567年(永禄10年)10月に、 信長は、
斎藤龍興(さいとうたつおき)の稲葉山城(い
なばやまじょう)を落とし、岐阜城(ぎふじょう)
と改名し、信長の本拠地を岐阜城に移す。
■ 1567年 (永禄10年)。
● 信長は美濃国を領有する。
● 信長の日本本土統一事業
開始。
■ 織田信長の日本本土統一事業。
● 1567年(永禄10年)10月に、信長は、
美濃国 (みののくに、現・岐阜県南部の相
当地域) の斎藤氏を滅ぼす。 ここに、信
長は、尾張、美濃の2カ国を領する戦国大
名となる。
この頃から、信長は、天下布武の朱印
を用いるようになり、 畿内付近地域の平定
を目指す。
後に、信長は、畿内付近地域の征服後
は、天下統一(日本本土統一)を目指すよう
になる。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1567年 (永禄10年)。
● (R6) 秀吉は、岐阜城付近の
織田氏家臣屋敷を居住地とする。
● (R) 豊臣秀吉の居住地の変遷。
■ (R1)⇒(R16)。
(R1) 中村の農家
(1537年ー1551年頃)、
(R2) 頭陀寺城付近の松下氏家臣長屋
(1551年頃ー1554年頃)、
(R3) 那古野城付近 の織田氏家臣長屋
(1554年頃ー1555年)、
(R4) 清洲城付近の織田氏家臣長屋
(1555年ー1563年)、
(R5) 小牧山城付近の織田氏家臣屋敷
(1563年ー1567年)、
(R6) 岐阜城付近の織田氏家臣屋敷
(1567年ー1573年)、
(R7) 長浜城 (1573年ー1577年)、
(R8) 姫路城 (1577年ー1582年)、
(R9) 山崎城 (1582年ー1583年)、
(R10) 二条第(= 妙顕寺城)
(1583年ー1587年)、
(R11) 聚楽第 (1587年ー1592年)、
(R12) 名護屋城 (1592年ー1593年)、
(R13) 豊臣大阪城 (1593年ー1594年)、
(R14) 豊臣秀吉築指月伏見城
(1594年−1596年)、
(R15) 豊臣大阪城 (1596年ー1597年)、
(R16) 豊臣秀吉築木幡山伏見城
(1597年ー1598年)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ (R6) 豊臣秀吉
(生没年:1537年ー1598年)は、
1567年(永禄10年)から
1573年(天正元年)まで
美濃国の、岐阜城(ぎふじょう)付近
の織田氏家臣屋敷で
居住する。
■ 岐阜城(ぎふじょう)付近の織田氏家臣屋敷
は、 美濃国(みののくに、現・岐阜県南部)
にある。
■ 1567年(永禄10年)10月に、織田信長は、
斎藤龍興の稲葉山城(いなばやまじょう)を
落とし、岐阜城(ぎふじょう)と改名し、信長
の本拠地を岐阜城に移す。
1567年(永禄10年)に、織田信長の
家臣の豊臣秀吉 (木下藤吉郎秀吉、生没
年:1537年ー1598年)も、岐阜城(ぎふじ
ょう)付近の織田氏家臣屋敷に移り住む。
■ 1568年 (永禄11年)。
● 信玄が今川領の駿河国へ
侵攻し、占領し領土とする。
■ 1568年(永禄11年)に、武田信玄が、駿
河を占領する。 今川氏真(うじざね)が、駿河
を離れ、遠江(とおとうみ)・掛川城へ逃れる。
● 家康が今川領の遠江国へ
侵攻する。
■ 1568年(永禄11年)に、 徳川家康は、
1568年(永禄11年)末から、今川領である
遠江国へ侵攻する。
■ 1568年 (永禄11年)。
● 信長の足利義昭擁立第2次
上洛出兵の成功。
● 足利義昭が将軍となる。
■ 足利義昭擁立織田信長第2次上洛出兵。
● 1568年(永禄11年)9月に、 織田信長は、
足利義昭(よしあき)を奉じて、上洛を開始し、
10月に上洛を果たし、1568年(永禄11年)
10月に、足利義昭を将軍職(将軍在位:
1568年〜1588年)に就(つ)ける。
この出兵に、徳川家康は、信長へ援軍
を派遣する。
● 足利義昭は将軍就任後、
信長と対立する。
■ 1568年(永禄11年)10月の足利義昭
の将軍職就任後、 織田信長は、足利義昭
の行動をコントロールしようとしたため、義
昭との関係が悪化する。
武田氏、朝倉氏、延暦寺、石山本願寺
などから成る織田信長包囲網が結成された
後、1573年(元亀4年)2月に は、足利義
昭は信長を裏切り、反信長勢力に加担する。
■ 1568年 (永禄11年)。
● 秀吉の近江での活躍。
■ 1568年(永禄11年)9月に、 織田軍団
の豊臣秀吉(木下藤吉郎秀吉)は、 近江の箕
作城攻略戦で、活躍する (観音寺城の戦い)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1569年 (永禄12年)。
● 家康が遠江国を占領する。
● 戦国大名の今川氏が滅亡。
■ 1569年(永禄12年)に、 徳川家康は、
遠江国の大半を攻め獲り、今川氏真のいる、
掛川(かけがわ)城も包囲し、氏真を降伏さ
せる。 戦国大名の今川氏が滅亡する。
■ 1569年 (永禄12年)。
● 家康と武田信玄は、敵対関係
となる。
■ 1569年(永禄12年)に、 徳川家康と武田
信玄は、 敵対関係となる。
● 1569年(永禄12年)に、 領土拡大に燃え
る武田信玄は、家康との協定を破り、信濃国
(しなののくに、現・長野県)から遠江国(とおと
うみのくに、静岡県西部)へ侵攻する。 これは、
徳川勢の抵抗や北条氏康からの牽制を受け失
敗し、これを契機に、徳川家康と武田信玄は、
敵対関係となる。
■ 1570年 (永禄13年・元亀元年)。
● 永禄年号から元亀年号に改元。
永禄年号:1570年ー 1573年。
■ 1570年(永禄13年・元亀元年)に、
元亀(げんき) 年号に改元。
● 1570年(永禄13年・元亀 元年)4月23日に、
和暦の「永禄」(えいろく、
永禄元年・1558年〜永禄13年・1570年)
が、
和暦の「元亀」(げんき、
元亀 元年・1570年・ 4月23日〜
元亀 4年・1573年・ 7月28日) に
改元される。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1570年 (永禄13年、元亀元年)。
● 信長の越前・朝倉氏討伐の失敗
と金ヶ崎の退き口。
■ 越前・朝倉氏討伐織田軍。
● 1570年(永禄13年、元亀元年)4〜5月
に、織田信長は、織田軍を率いて、 越前国に
侵攻したが、 信長の妹婿の北近江(きたおう
み、現・滋賀県北部の相当地域)の浅井長政
に背後をつかれ、 信長や信長軍本隊は、京
(きょう、京都)へ逃れる。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
● 金ヶ崎の退き口。
■ 金ヶ崎の退き口 (かねがさきののきぐち、
金ヶ崎の撤退)。
● 浅井氏と親密な朝倉氏を攻めないという信
長と浅井長政との盟約を反故(ほご)にして、
信長は、1570年(永禄13年、元亀元年)4
〜5月に、越前国(えちぜんのくに、現・福
井県東部の相当地域)の朝倉義景(あさくら
よしかげ)を討伐するため、越前国へ侵攻す
る。
● ところが、織田軍は、越前の金ヶ崎城を占
拠し、越前・金ヶ崎へ進軍した時に、浅井長
政の軍に背後をつかれ、信長や信長軍本隊
は、なんとか、京(きょう、京都)へ逃れる。
この越前・朝倉氏討伐織田軍に、池田
勝正、豊臣秀吉(木下藤吉郎秀吉)、明智
光秀、徳川家康も従軍する。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
● 金ヶ崎の退き口時、信長は馬
で先に逃走、織田軍本隊は、
後に続く。
■ 金ヶ崎の退き口 (かねがさきののきぐち、
金ヶ崎の撤退)。
● 1570年(永禄13年、元亀元年)4〜
5月に、織田軍は、浅井軍と朝倉軍の挟み
撃ちという危機の中で、 まず先に、織田
信長本人は、馬で、越前(えちぜん)の金
ヶ崎から越前、若狭(わかさ)、近江(おう
み)・琵琶湖西方の朽木谷(くつきだに)経
由で、京へ逃げ帰り、 一方、織田軍本隊
は、 越前(えちぜん)の金ヶ崎から越前、
若狭(わかさ)、近江(おうみ)経由で撤退
し、京(きょう、京都)へ逃れる。
● 金ヶ崎の退き口の殿(しんがり)
の軍で、織田氏家臣の池田
勝正、秀吉、光秀が活躍。
■ 信長の命(命令)で、 撤退する織田
軍本隊の「殿(しんがり)」の軍 (軍の撤
退時、軍の最後尾で、襲(おそ)ってくる
敵兵を命がけで防ぐ役目) を、 織田軍
の池田勝正、豊臣秀吉(木下藤吉郎秀
吉)、 明智光秀などの兵が務(つと)め、
敵の朝倉・浅井軍と応戦し、防戦しなが
ら、撤退する。 池田勝正、秀吉、光秀
は、かろうじて、生き残り、功績をあげる。
史実では、徳川家康は、殿(しんが
り)の軍には参加していない。 家康の軍
は、織田軍本隊と共に、行動する。
● 信長の命(命令)で、 撤退する織田
軍本隊の「殿(しんがり)」の軍 (軍の撤
退時、軍の最後尾で、襲(おそ)ってくる
敵兵を命がけで防ぐ役目) を、織田軍
の池田勝正、豊臣秀吉(木下藤吉郎秀
吉)、 明智光秀などの兵が務(つと)め、
敵の朝倉・浅井軍と応戦し、防戦しなが
ら、撤退する。 池田勝正、秀吉、光秀
は、かろうじて、生き残り、功績をあげる。
史実では、徳川家康は、殿(しんがり)
の軍には参加していない。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1570年 (永禄13年・元亀元年)。
● 永禄年号から元亀年号に改元。
元亀年号:1570年ー 1573年。
■ 1570年(永禄13年・元亀元年)に、
元亀(げんき) 年号に改元。
● 1570年(永禄13年・元亀 元年)4月23日に、
和暦の「永禄」(えいろく、
永禄元年・1558年〜永禄13年・1570年)
が、
和暦の「元亀」(げんき、
元亀 元年・1570年・ 4月23日〜
元亀 4年・1573年・ 7月28日) に
改元される。
■ 室町時代後期の各年号。
暗記法: 永大享天弘永元天
(えいだいきょうてんこうえいげんてん)。
● 永正(えいしょう)年号: 1504年ー1521年。
● 大永(だいえい)年号: 1521年ー1528年。
● 享禄(きょうろく)年号: 1528年ー1532年。
● 天文(てんぶん)年号: 1532年ー1555年。
● 弘治(こうじ)年号: 1555年ー1558年。
● 永禄(えいろく)年号: 1558年ー1570年。
● 元亀(げんき)年号: 1570年ー 1573年。
● 天正(てんしょう)年号: 1573年ー 1592年。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1570年 (元亀 元年)。
● 姉川の戦いでの信長の勝利。
■ 姉川の戦い。
● 1570年(元亀元年)6月に、織田信長の
率いる織田・徳川連合軍は、 近江国(おう
みのくに、現・滋賀県の相当地域)の、姉川
(あねがわ)で、浅井・朝倉連合軍を 敗(や
ぶ)り、勝利を得る。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1570年 (元亀 元年)。
● 石山合戦が始まる。
■ 1570年(元亀元年)9月に、本願寺(一向
宗)の、石山本願寺 (いしやまほんがんじ)
は、織田信長に対抗する。
● 本願寺と織田信長との間で、石山合戦
(いしやまがっせん、1570年−1580年)
が、始まる。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1570年 (元亀 元年)。
● 伊勢長島一向一揆が始まる。
■ 1570年(元亀元年)の9月頃に、伊勢長島
一向一揆(いせながしまいっこういっき、
1570年ー1574年)が始まる。
■ 1571年 (元亀 2年)。
● 信長の比叡山焼き討ち。
■ 1571年(元亀2年)9月に、 織田信長は、
浅井氏・朝倉氏に味方する比叡山・延暦寺
(ひえいざん・えんりゃくじ)を焼討ちにする。
■ 1572年 (元亀 3年)。
● 織田・徳川氏を攻撃する、武田
信玄の軍が上洛開始。
■ 武田信玄が上洛開始。
● 1572年(元亀3年)10月に、 武田信玄
(たけだしんげん)は、 上洛(じょうらく、京
都へ行く)の軍を起こす (上洛を開始する)。
● 1572年(元亀3年)10月に、 甲斐の武田
信玄は 上洛の軍を起こした。 総兵力・約3万
人の兵の武田軍が、 織田領の東美濃や徳川
領の遠江、三河に侵攻を開始する。
● 1572年(元亀3年)10月に、 甲斐の武田
信玄は 上洛の軍を起こした。 総兵力・約
3万人の兵の武田軍が、 織田領の東美濃
(ひがしみの、現・岐阜県南東部) や 徳川
領の遠江国、三河国(とおとうみのくに、みか
わのくに、現・静岡県西部、愛知県東部)へ
侵攻を開始する。
● 三方ヶ原の戦いで、家康が
武田信玄に大敗する。
■ 1572年(元亀3年)12月に、 遠江 国 (と
おとうみのくに、現・静岡県西部の相当地域)
の、三方ヶ原(みかたがはら)の戦いで、徳川・
織田連合軍は、 武田信玄の武田軍に大敗
する。
□ 豊臣秀吉ガイドブック へ。
□ 日本史辞典の先頭ページへ。
■ 1573年 (元亀 4年)。
● 足利義昭が信長討伐を謀る。
■ 1573年(元亀4年)2月に、 室町幕府の
第15代将軍の、足利義昭 (あしかがよし
あき)は、 織田信長を裏切り、武田氏、朝
倉氏、浅井氏、石山本願寺と協力して、
信長討伐を謀(はか)る。
● 武田信玄が上洛を中止し、
帰国途中で死す。
■ 1573年(元亀4年)4月に、武田信玄 は、
病状悪化し、武田軍は、徳川領の遠江国、
三河国(とおとうみのくに、みかわのくに、
西部、愛知県東部)から、軍を返し、甲斐国
(かいのくに、現・山梨県)へ帰国する。
武田信玄は、甲斐国(かいのくに、現・
山梨県の相当地域)へ帰国途中、4月12日
に、信濃・駒場で病死する。
● 家康が三河の長篠城を武田氏
より奪回する。
■ 1573年(元亀4年)5月に、徳川家康は、
三河国(みかわのくに、現・愛知県東部)の
長篠城(ながしのじょう)を攻め、武田軍より
長篠城を奪回し、武田軍の再侵攻に備える。
■ 1573年 (元亀 4年)。
● 室町幕府滅亡。
■ 1573年(元亀4年)7月に、織田信長は、
室町幕府(= 足利幕府)・第15代将軍の足利
義昭(よしあき)を、京(きょう、京都)より追放
し、 実質上、室町幕府 (= 足利幕府)を滅ぼ
す。
● 織田政権の成立。
■ 1573年(元亀4年)7月に、織田信長は、
室町幕府(= 足利幕府)・第15代将軍の足利
義昭を京(京都)より追放し、室町幕府を滅
ぼし、織田政権が樹立される。
● 信長は天下統一を目指す。
■ 1573年(元亀4年)7月の信長による将軍
の京都追放後、織田信長は、天下統一(日本
本土統一)を目指すようになる。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1573年 (元亀4年・天正元年)。
● 元亀年号から天正年号に改元。
天正年号:1573年ー 1592年。
■ 1573年(元亀4年・天正元年)に、
天正(てんしょう) 年号に改元。
● 1573年(元亀4年・天正 元年)7月28日に、
和暦の「元亀」(げんき、
元亀元年・1570年〜元亀4年・1573年)
が、
和暦の「天正」(てんしょう、
天正 元年・1573年・ 7月28日〜
天正20年・1592年・12月 8日) に
改元される。
■ 1573年7月に、織田信長は、元号を元亀
から天正へと改めることを朝廷に奏上し、こ
れを実現させる。
■ 安土桃山時代の各年号。
暗記法: 元天文慶
(げんてんぶんけい)。
● 元亀(げんき)年号: 1570年ー 1573年。
● 天正(てんしょう)年号: 1573年ー 1592年。
● 文禄(ぶんろく)年号: 1592年ー 1596年。
● 慶長(けいちょう)年号: 1596年ー 1615年。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1573年 (天正元年)。
● 信長が朝倉氏・浅井氏を 滅ぼす。
■ 1573年(天正元年)8〜9月に、 織田信長
は、朝倉氏・浅井氏を滅ぼす。
信長は、越前国と北近江を領土とする。
● お市と浅井三姉妹は、城から
落ち延び、信長が引き取る。
■ 1573年(天正元年)9月に、小谷城(おだ
にじょう)落城前、信長の妹のお市(おいち)
とお市の娘3人 (浅井三姉妹(あざいさんし
まい)、茶々、初、江(ちゃちゃ、はつ、ごう))
は、小谷城から落ち延びて、信長が引き取る。
■ 1573年 (天正元年)。
● 秀吉は、木下姓を羽柴姓に改
姓する。
■ 1573年(天正元年)に、 豊臣秀吉(木下
藤吉郎秀吉)は、 柴田勝家と丹羽長秀か ら
一字ずつをもらいうけ、 木下姓を羽柴姓に
改め、羽柴秀吉と称す。
● 1573年(天正元年)に、 織田氏の部将と
なった豊臣秀吉(木下藤吉郎秀吉)は、
織田氏の重臣の、柴田勝家(しばたかつい
え)、丹羽長秀(たんばながひで)を敵に回し
たくないという思惑から、 木下姓を羽柴姓
に改め、羽柴秀吉( 1573年〜1586年)と
称す。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1573年 (天正元年)。
● 織田氏家臣の秀吉が北近江の
長浜城の城代(城主)となる。
■ 1573年(天正元年)に、 織田氏家臣の、
豊臣秀吉(羽柴秀吉)は、 浅井氏滅亡後、
その旧領の北近江三郡の経営を織田信長
より任され、 その後、北近江(きたおうみ)
の今浜(いまはま)に、今浜を長浜(ながは
ま)に改名し、そこに、長浜城を築城し、
長浜城の城代(城主)となる。
■ 豊臣秀吉(羽柴秀吉)は、
近江国 (おうみのくに、現・滋賀県)の、長
浜城 (ながはまじょう)を、築城開始と同時
に居住し、1573年(天正元年)から、1577
年(天正5年)まで自分の本城(= 本拠地の
城)や政務居城 とする。
● これ以後、 近江国(おうみのくに、現・滋賀
県の相当地域)で、農民・足軽出身で譜代
の家臣がいない秀吉は、人材発掘に励み、
旧浅井氏家臣や、石田三成などの有望な
若者を積極的に登用する。 また、秀吉は、
秀吉や秀吉の正室夫人・おね(ねね)の、
血縁遠戚・地縁の子供達 (例 加藤清正、
福島正則、小早川秀秋など)を引き取って、
秀吉の正室夫人・ねね(おね)が、彼らを育
て面倒をみて、「秀吉子飼いの武将」を育成
する。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1573年 (天正元年)。
● (R7) 秀吉は、長浜城を居住地
とする。
● (R) 豊臣秀吉の居住地の変遷。
■ (R1)⇒(R16)。
(R1) 中村の農家
(1537年ー1551年頃)、
(R2) 頭陀寺城付近の松下氏家臣長屋
(1551年頃ー1554年頃)、
(R3) 那古野城付近 の織田氏家臣長屋
(1554年頃ー1555年)、
(R4) 清洲城付近の織田氏家臣長屋
(1555年ー1563年)、
(R5) 小牧山城付近の織田氏家臣屋敷
(1563年ー1567年)、
(R6) 岐阜城付近の織田氏家臣屋敷
(1567年ー1573年)、
(R7) 長浜城 (1573年ー1577年)、
(R8) 姫路城 (1577年ー1582年)、
(R9) 山崎城 (1582年ー1583年)、
(R10) 二条第(= 妙顕寺城)
(1583年ー1587年)、
(R11) 聚楽第 (1587年ー1592年)、
(R12) 名護屋城 (1592年ー1593年)、
(R13) 豊臣大阪城 (1593年ー1594年)、
(R14) 豊臣秀吉築指月伏見城
(1594年−1596年)、
(R15) 豊臣大阪城 (1596年ー1597年)、
(R16) 豊臣秀吉築木幡山伏見城
(1597年ー1598年)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ (R7) 豊臣秀吉
(生没年:1537年ー1598年)は、
1573年(天正元年)から
1577年(天正5年)まで
近江国の、長浜城 (ながはまじょう)で
居住する。
■ 長浜城 (ながはまじょう)は、 近江国
(おうみのくに、現・滋賀県)にある。
■ 1573年(天正元年)に、 豊臣秀吉(木下
藤吉郎秀吉)は、 浅井氏滅亡後、その旧領
の北近江三郡の経営を織田信長より任され、
北近江の長浜城の城代(城主)となる。
■ 1573年 (天正 元年)。
● (C1) 秀吉は、岡崎城を本城
とする。
● (C) 豊臣秀吉の本城の変遷。
■ (C1)⇒(C4) 。
(C1) 長浜城 (1573年ー1577年)、
(C2) 姫路城 (1577年ー1582年)、
(C3) 山崎城 (1582年ー1583年)、
(C4) 豊臣大阪城 (1583年ー1598年)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ (C1) 豊臣秀吉
(生没年:1537年ー1598年)は、
1573年(天正元年)から
1577年(天正5年)まで
近江国の、長浜城 (ながはまじょう)を、
自分の(C)本城(ほんじょう、= 本拠地
の城)とする。
■ 長浜城 (ながはまじょう)は、 近江国
(おうみのくに、現・滋賀県)にある。
■ 1573年 (天正 元年)。
● (P1) 秀吉は、長浜城を
政務居城とする。
● (P) 豊臣秀吉の政務居城
の変遷。
■ (P1)⇒(P10) 。
(P1) 長浜城 (1573年ー1577年)、
(P2) 姫路城 (1577年ー1582年)、
(P3) 山崎城 (1582年ー1583年)、
(P4) 二条第(妙顕寺城)
(1583年ー1587年)、
(P5) 聚楽第 (1587年ー1592年)、
(P6) 名護屋城 (1592年ー1593年)、
(P7) 豊臣大阪城 (1593年ー1594年)、
(P8) 豊臣秀吉築指月伏見城
(1594年−1596年)、
(P9) 豊臣大阪城 (1596年ー1597年)、
(P10) 豊臣秀吉築木幡山伏見城
(1597年ー1598年)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ (P1) 豊臣秀吉
(生没年:1537年ー1598年)は、
1573年(天正元年)から
1577年(天正5年)まで
近江国の、長浜城 (ながはまじょう)を、
自分の(P)政務居城とする。
■ 長浜城 (ながはまじょう)は、 近江国
(おうみのくに、現・滋賀県)にある。
■ 1574年 (天正 2年)。
● 越前で、一向宗門徒が反乱
を起こし、織田領の越前を
制する。
■ 朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前
国(えちぜんのくに、現・福井県東部)で、
1574年(天正2年)1月に、 地侍や 本願
寺門徒の反乱が起こり、 織田氏より奪い、
本願寺門徒(一向宗門徒)が、越前国を制
する。
■ 1574年 (天正 2年)。
● 武田勝頼が遠江の高天神城
を家康より奪う。
■ 1574年(天正2年)5月に、徳川家康は、
遠江国(とおとうみ、現・静岡県西部)の、
高天神城(たかてんじんじょう)を、武田信
玄の家督を継承した武田氏の武田勝頼
(たけだかつより)によって、奪われる。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1574年 (天正 2年)。
● 信長は、伊勢長島の一向一揆
を滅ぼす。
■ 1574年(天正2年)9月に、織田信長は、
伊勢長島一向一揆(いせながしまいっこう
いっき、1570年ー1574年)を滅ぼす。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1575年 (天正 3年)。
● 長篠・設楽が原の戦いで、
信長は、武田勝頼を敗北
させる。
■ 長篠・設楽が原(ながしの・しだらがはら)
の戦い。
● 1575年(天正3年)5月に、 織田・徳川
連合軍(信長・家康連合軍)は、 三河国(み
かわのくに、現・愛知県東部の相当地域)の
設楽が原(しだらがはら)で、 武田勝頼(か
つより)の率いる武田軍を、主に鉄砲隊を使
って敗北させ、勝利を得る。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1575年 (天正 3年)。
● 秀吉が筑前守となる。
■ 1575年(天正3年)7月3日に、豊臣秀吉
(羽柴秀吉)は、 筑前守(ちくぜんのかみ)
に任官する。
■ 1575年 (天正 3年)。
● 信長は、越前の一向一揆を
鎮圧し、越前を再び織田領
にする。
■ 1575年(天正3年)8月に、 信長は、越
前国(えちぜんのくに、現・福井県東部の相
当地域)に侵攻し、本願寺門徒(一向宗門
徒)の軍を破り勝利を得て、1574年(天正
2年)1月に本願寺門徒(一向宗門徒)が奪
った、越前国を再び織田領国にし、越前国を
柴田勝家に任せる(経営させる)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1576年 (天正 4年)。
● 信長は、安土城の築城を
開始する。
■ 1576年(天正4年)2月に、 織田信長は、
琵琶湖湖岸に、安土城の築城を開始する
(1579年完成)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1576年 (天正 4年)。
● 第1次木津川口の戦いで、
織田水軍は石山本願寺方
の毛利水軍に敗北する。
■ 第1次木津川口(きづがわぐち)の戦い。
● 織田信長と石山本願寺との石山合戦の戦
いで、 1576年(天正4年)7月に、信長の
織田水軍は、 大阪湾木津川(きづがわ)
河口で、石山本願寺方の毛利水軍と戦い、
敗れる。
■ 1576年 (天正 4年)。
● 織田軍の秀吉は、織田北陸
方面軍より無断帰還したが、
信長に許される。
■ 1576年(天正4年)に、 織田軍の豊臣秀
吉(羽柴秀吉)は、 柴田勝家の織田北陸
方面軍より無断で帰還し、信長の怒りをか
ったが、許される。
● 1576年(天正4年)に、 豊臣秀吉(羽柴
秀吉)は、 越後の上杉謙信と対峙している
北陸方面軍の柴田勝家への救援を信長に
命じられ、現地へ行軍したが、 現地で、秀
吉は作戦をめぐって柴田勝家と仲たがいし、
無断で帰還し、信長の怒りをかったが、許さ
れる。
● TKKI カナヤマ著 織田信長ガイドブック。
■ 1577年 (天正 5年)。
● 手取川の戦いで、織田信長軍
は、上杉謙信軍に敗北する。
■ 手取川(てどりがわ)の戦い
● 1577年 (天正5年)9月に、織田信長軍は、
北陸で、上杉謙信の率いる上杉軍に敗れ
(手取川(てどりがわ)の戦い)、 撤兵する。
■ 1577年 (天正 5年)。
● 信貴山城の戦いで、信長軍は、
大和の松永久秀を討ち取る。
■ 信貴山城(しんぎさんじょう)の戦い。
● 1577年(天正5年)10月に、信長は、
上杉謙信(うえすぎけんしん)と呼応(こお
う)して信長を裏切り挙兵した、大和国(や
まとのくに、現・奈良県)の松永久秀(まつ
ながひさひで)を滅ぼす。
● 1577年(天正5年)10月に、信長は、大
軍を、大和国の信貴山城(しんぎさんじょう)
に派遣し、 上杉謙信と呼応して信長を裏
切り挙兵した、松永久秀を討ち取る。
● 信貴山城の戦いで織田軍の
秀吉は功績をあげる。
■ 1577年(天正5年)10月に、 信貴山城
の戦いで、 織田軍の豊臣秀吉(羽柴秀吉)
は、 織田信忠(のぶただ)の指揮下で、
松永久秀を滅ぼし、功績をあげる。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1577年 (天正 5年)。
● 信長は中国地方の攻略を開始
する。
● 秀吉はに中国地方の攻略を命
じられる。
■ 秀吉の中国地方攻略の開始。
● 織田信長は、 豊臣秀吉(羽柴秀吉)に、
の山陽道・山陰道の中国地方の攻略を命令し、
1577年(天正5年)10月23日に、豊臣秀吉
(羽柴秀吉)は、中国地方に出陣する。
■ 1577年(天正5年)10月に、羽柴秀吉(豊
臣秀吉)は、 以前より親交のあった播磨国
の黒田官兵衛孝高(くろだかんべいよしたか)
より、播磨国の、姫路城(ひめじじょう)を譲
り受け、中国地方の攻略のため、中国地方
攻略の拠点とし、秀吉の本城(= 本拠地の城)
や政務居城とする。
● 羽柴秀吉(豊臣秀吉 )は、
播磨国 (はりまのくに、現・兵庫県本土南部)
の、姫路城 (ひめじじょう)を、1577年(天正
5年)から1582年(天正10年)まで、 自分の
本城(= 本拠地の城)や政務居城とする。
■ 1577年(天正5年)10月から、羽柴秀吉(豊
臣秀吉)は、中国地方の攻略を開始する。
秀吉は、まず、播磨国(はりまのくに、兵庫
県本土南部)に攻め入り、更に、但馬国(たじま
のくに、兵庫県本土北部)に攻め入り、1581年
(天正9年)までに、播磨国と但馬国を平定する。
■ 1577年 (天正 5年)。
● (R8) 秀吉は、姫路城を居住地
とする。
● (R) 豊臣秀吉の居住地の変遷。
■ (R1)⇒(R16)。
(R1) 中村の農家
(1537年ー1551年頃)、
(R2) 頭陀寺城付近の松下氏家臣長屋
(1551年頃ー1554年頃)、
(R3) 那古野城付近 の織田氏家臣長屋
(1554年頃ー1555年)、
(R4) 清洲城付近の織田氏家臣長屋
(1555年ー1563年)、
(R5) 小牧山城付近の織田氏家臣屋敷
(1563年ー1567年)、
(R6) 岐阜城付近の織田氏家臣屋敷
(1567年ー1573年)、
(R7) 長浜城 (1573年ー1577年)、
(R8) 姫路城 (1577年ー1582年)、
(R9) 山崎城 (1582年ー1583年)、
(R10) 二条第(= 妙顕寺城)
(1583年ー1587年)、
(R11) 聚楽第 (1587年ー1592年)、
(R12) 名護屋城 (1592年ー1593年)、
(R13) 豊臣大阪城 (1593年ー1594年)、
(R14) 豊臣秀吉築指月伏見城
(1594年−1596年)、
(R15) 豊臣大阪城 (1596年ー1597年)、
(R16) 豊臣秀吉築木幡山伏見城
(1597年ー1598年)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ (R8) 豊臣秀吉
(生没年:1537年ー1598年)は、
1577年(天正5年)から
1582年(天正10年)まで
播磨国の、姫路城 (ひめじじょう)で
居住する。
■ 姫路城 (ひめじじょう)は、 播磨国
(はりまのくに、現・兵庫県本土南部)
にある。
■ 1577年(天正5年)10月に、羽柴秀吉(豊
臣秀吉)は、 以前より親交のあった播磨国
の黒田官兵衛孝高(くろだかんべいよしたか)
より、播磨国の、姫路城(ひめじじょう)を譲
り受け、中国地方の攻略のため、中国地方
攻略の拠点とし、秀吉の本城(= 本拠地の城)、
政務居城とする。
■ 1577年 (天正 5年)。
● (C2) 秀吉は、姫路城をを本城
とする。
● (C) 豊臣秀吉の本城の変遷。
■ (C1)⇒(C4) 。
(C1) 長浜城 (1573年ー1577年)、
(C2) 姫路城 (1577年ー1582年)、
(C3) 山崎城 (1582年ー1583年)、
(C4) 豊臣大阪城 (1583年ー1598年)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ (C2) 豊臣秀吉
(生没年:1537年ー1598年)は、
1577年(天正5年)から
1582年(天正10年)まで
播磨国の、姫路城 (ひめじじょう)を、
自分の(C)本城(ほんじょう、= 本拠地
の城)とする。
■ 姫路城 (ひめじじょう)は、 播磨国
(はりまのくに、現・兵庫県本土南部)
にある。
■ 1577年 (天正 5年)。
● (P2) 秀吉は、姫路城を
政務居城とする。
● (P) 豊臣秀吉の政務居城
の変遷。
■ (P1)⇒(P10) 。
(P1) 長浜城 (1573年ー1577年)、
(P2) 姫路城 (1577年ー1582年)、
(P3) 山崎城 (1582年ー1583年)、
(P4) 二条第(妙顕寺城)
(1583年ー1587年)、
(P5) 聚楽第 (1587年ー1592年)、
(P6) 名護屋城 (1592年ー1593年)、
(P7) 豊臣大阪城 (1593年ー1594年)、
(P8) 豊臣秀吉築指月伏見城
(1594年−1596年)、
(P9) 豊臣大阪城 (1596年ー1597年)、
(P10) 豊臣秀吉築木幡山伏見城
(1597年ー1598年)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ (P2) 豊臣秀吉
(生没年:1537年ー1598年)は、
1577年(天正5年)から
1582年(天正10年)まで
播磨国の、姫路城 (ひめじじょう)を、
自分の(P)政務居城とする。
■ 姫路城 (ひめじじょう)は、 播磨国
(はりまのくに、現・兵庫県本土南部)
にある。
■ 1578年 (天正 6年)。
● 上杉謙信が急死する。
■ 1578年(天正6年)3月に、上杉謙信が
急死し、越後で、後継ぎ争い(御館の乱、おた
てのらん、1578年〜1579年)が始まる。
● 信長は、加賀、能登の攻略を
開始する。
■ 1578年(天正6年)9月に、 信長軍は、
上杉領の加賀国、能登国(かがのくに、のとの
くに、現・石川県南部・北部の相当地域)の攻
略を開始する。
■ 1578年 (天正 6年)。
● 三木合戦が始まる。
● 播磨の別所長治が織田方
から毛利方となる。
■ 三木合戦(みきがっせん、1578年3月〜
1580年1月)が始まる。
● 1578年(天正6年)3月に、 播磨国(は
りまのくに、現・兵庫県南部本土の相当地
域)の三木城主・別所長治(べっしょながは
る)は、 信長から離反し、織田方から毛利
方に変わり、織田軍と戦う。
■ 1578年 (天正 6年)。
● 上杉謙信が急死する。
■ 1578年(天正6年)3月に、上杉謙信が
急死し、越後で、上杉氏の後継ぎ争い
(御館の乱、おたてのらん、1578年〜
1579年)が始まる。
● 信長軍は、上杉領の加賀、能登
の攻略を開始。
■ 1578年(天正6年)9月に、 信長軍は、
上杉領の加賀、能登(かが、のと、現・石川
県南部・北部の相当地域)の攻略を開始する。
■ 1578年 (天正 6年)。
● 有岡城の戦いが始まる。
● 摂津の荒木村重が織田方
から毛利方となる。
■ 1578年(天正6年)10月に、有岡城の
戦い(ありおかじょうのたたかい、
1578年10月〜1579年9月)が始まる。
● 1578年(天正6年)10月に、 摂津国
(せっつのくに、現・大阪府北西部の相当地
域)の、有岡城主・荒木村重(あらきむらし
げ)が、 信長から離反し、毛利氏、石山本
願寺、足利義昭と手を結んで、信長に反抗
する。
■ 1578年 (天正 6年)。
● 第2次木津川口の戦いで、
織田水軍は、石山本願寺方
の毛利水軍を敗北させる。
■ 第2次木津川口(きづがわぐち)の戦い。
● 織田信長と石山本願寺との石山合戦の戦
いで、 1578年(天正6年)11月に、信長
の織田水軍は、大阪湾木津川(きづがわ)
河口で、鉄甲船(てっこうせん)を用いて、
石山本願寺方の毛利水軍を破り、勝利を
得る。
■ 1579年 (天正 7年)。
● 信長は、安土城を完成させる。
■ 1579年(天正7年)に、 織田信長は、
近江国(おうみのくに、現・滋賀県)の 、安土
(あづち)に、 五層七重の豪華絢爛(ごうか
けんらん)な安土城(あづちじょう)を完成さ
せる。
■ 1579年 (天正 7年)。
● 徳川氏の分裂危機を招いた、
松平信康事件が起こる。
■ 松平信康自害・築山殿殺害事件。
● 1579年(天正7年)8月〜9月に、松平信康
事件(ま つだいらもとやすじけん、= 松平信康
自害・築山殿殺害事件)が起きる。
■ 1579年 (天正 7年)。
● 有岡城の戦いが終わる。
● 有岡城の戦いで、織田方が勝
ち、毛利方の摂津の荒木村重
を敗北させる。
■ 有岡城の戦い(ありおかじょうのたたかい、
1578年10月〜1579年9月)が終わる。
● 1579年(天正7年)9月に、 毛利方の、
摂津国(せっつのくに、現・大阪府北西部の
相当地域)の、有岡城主・荒木村重(あらき
むらしげ)は、 織田軍と戦い、有岡城を出
て援軍を毛利勢に求めたが得られず、有岡
城は落城し、信長に敗れる。
■ 1580年 (天正 8年)。
● 三木合戦が終わる。
● 三木合戦で、織田方が勝ち、
毛利方の播磨の別所長治を
敗北させる。
■ 三木合戦(みきがっせん、1578年3月〜
1580年1月)が終わる。
● 1580年(天正8年)1月に、 毛利方の、
播磨国(はりまのくに、現・兵庫県本土南部
の相当地域)の三木城主・別所長治(べっし
ょながはる)は、自刃(自害)し、三木城(み
きじょう)を開場し、織田軍に降伏する。
■ 1580年 (天正 8年)。
● 石山合戦の終り。
● 石山合戦で、信長は、勝ち、
石山本願寺を打倒する。
■ 石山合戦( いしやまがっせん、1570年−
1580年)が終わる。
● 1580年(天正8年)8月に、 教如が大
阪を退去し、織田信長は、石山本願寺(いし
やまほんがんじ)を打倒する(屈服させる)。
■ 1581年 (天正 9年)。
● 信長が、京(京都)で、馬揃え
を行なう。
■ 京都御馬揃え (きょうとおうまぞろえ)。
● 1581年(天正9年)2月 28日に、織田信長
は、京(きょう、京都)の内裏(だいり 、天皇
住居)東の馬場で、 馬揃え (うまぞろえ)
を行う。
馬揃えは、現在の軍事パレードに相当
する。
■ 1581年 (天正 9年)。
● 織田軍の秀吉が鳥取城を兵糧
攻めで落とし、因幡国を攻略。
■ 鳥取城の兵糧攻め(鳥取城の渇え殺し)。
● 1581年(天正9年)4月から10月まで、
織田軍の豊臣秀吉(羽柴秀吉)は、 鳥取
城を兵糧攻めにし鳥取城を落とし、これは、
「鳥取城の渇え殺し(かつえごろし))」と呼
ばれ、悲惨な城攻めとなり、 因幡国(い
なばのくに、現・鳥取県東部)を攻略する。
● 織田軍の秀吉が岩屋城を落と
し淡路国を攻略。
■ 1581年(天正9年)に、織田軍の豊臣
秀吉(羽柴秀吉)は、 岩屋城を落として淡
路国(あわじのくに、現・兵庫県淡路島)を
攻略する。
■ 1581年 (天正 9年)。
● 信長は、第2次天正伊賀の乱
で伊賀を攻略。
■ 第2次天正伊賀(てんしょういが)の乱。
● 1581年(天正9年)に、 織田信長は、
約6万人の兵の軍勢で伊賀国(いがのくに、
現・三重県中央西部)を攻略し、織田氏の
領地(織田領国)とする。
□ 豊臣秀吉ガイドブック へ。
□ 日本史辞典の先頭ページへ。
■ 1582年 (天正10年)。
● 信長は、武田氏を滅ぼす。
● 信長は、信濃・甲斐を平定。
■ 織田信長の信濃・甲斐平定。
● 1582年(天正10年)2月に、織田信長は、
武田氏領の信濃 国・甲斐国(しなののくに、
かいのくに、現・長野県、山梨県)へ 織田軍
を侵攻させ、攻撃開始し、3月11日に、甲斐
国の田野で、武田勝頼・信勝父子を討ち取り
(天目山の戦い)、 戦国大名の武田氏は
滅亡する。
織田信長は、信濃・甲斐を平定し、
日本の中央部を支配下におく。
● 家康は、駿河を領有する。
■ 1582年(天正10年)2月に、織田軍に協力
して、 徳川軍も、武田氏領の駿河に侵攻し
て、駿河を占領する。 家康は、 同年に、
この戦功により、 織田信長から駿河 国一国
を与えられる。
■ 1582年 (天正10年)。
● 織田氏家臣の秀吉が備中に
侵攻。
■ 織田氏家臣の秀吉の備中国侵攻。
■ 1582年(天正10年)に、織田軍の豊臣秀
吉(羽柴秀吉)は、 織田軍の中国地方攻め
で、備中国(びちゅうのくに、岡山県西部)に
侵攻する。
● 織田軍の秀吉は備中の高松城
を水攻めにする。
■ 備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)の
戦い。
● 1582年(天正10年)に、豊臣秀吉(羽柴
秀吉)は、 中国地方の備中国に侵攻し、
毛利方の清水宗治(しみずむねはる)が守
る高松城(たかまつじょう)を、5月に、水攻
めにする。
● 織田軍の秀吉が信長に援軍を
要請。
■ 秀吉は、 備中攻めの時、織田軍の、
毛利輝元(もうりてるもと)、吉川元春(きっか
わもとはる)、小早川隆景(かばやかわたか
かげ)らを大将とする毛利軍と対峙し、信長
に援軍を要請する。
● 信長は、明智光秀に備中の秀吉
指揮織田軍への援軍を命じる。
■ 信長は、 明智光秀に、家康の接待役の任
を解き、1582年(天正10年)5月に、備中
国(びちゅうのくに、岡山県西部)にいる秀吉
指揮織田軍への援軍を命じる(命令する)。
● 明智光秀は、6月の備中出兵準備をする。
■ 1582年 (天正10年)。
● 信長が中国地方出陣前に、
茶事で、京に一時滞在。
■ 1582年(天正10年)に、 1582年(天正10
年)5月に、織田信長は、明智光秀に、備中国
にいる秀吉軍への援軍を命じ、 一方、信長は、
6月上旬後半の自身の中国地方行軍予定前に、
6月上旬前半に京(きょう、京都)で茶事(ちゃ
じ)で茶会(ちゃかい)を開くため、安土城から、
名物茶器を携え、京へ上洛するため、信長は、
5月29日に安土城を出て、5月29日に京の
本能寺に到着し、京に6月上旬前半まで滞在
する予定であった。
● 本能寺の変で、信長死す。
■ 本能寺の変。
1582年(天正10年)6月2日未明に、明智
光秀が、 6月1日の本能寺での茶会の翌日
に京(きょう、京都)の本能寺にいた織田信長
を攻め、自害させる。 信長、数え年49歳で
死す。
■ 1582年 (天正10年)。
● 信長は、少数の伴と共に、上洛
し、本能寺に滞在する。
■ 信長は、1582年(天正10年)5月下旬に、
少数の伴と共に、小姓衆(こしょうしゅう)のみ
を連れて、京(きょう、京都)へ上洛し、 京の本
能寺に滞在する。
● 1582年(天正10年)5月下旬に、信長は、
毛利遠征のため、即ち、信長は京(都)経由で
6月に備中へ行き、毛利遠征で織田軍の総指
揮をとるため、上洛する (京(きょう、京都)へ
行く)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1582年 (天正10年)。
● 本能寺の変が起こる。
■ 本能寺の変 (ほんのうじのへん)。
■ 1582年(天正10年)6月に、明智光秀は、
備中国 (びちゅうのくに、現・岡山県西部)
へ向かわず、 織田信長・信忠父子(おだの
ぶなが・のぶただふし)を殺害するため、
京( きょう、京都)へ進軍する。
● 明智光秀は、 1582年(天正10年)6月
2日未明に、信長の滞在する本能寺を急襲
する。
● 織田信長 ・信忠父子が京で
死去する。
■ 織田信長は、 天下統一(日本本土統一)を
めざしていたが、 1582年(天正10年)6月
2日未明に、 織田氏の重臣の一人の明智光
秀(あけちみつひで)の謀反(むほん)により、
京( きょう、京都)の本能寺にて、自刃(じじん、
自害)する (本能寺の変)。
● また、京 (きょう、京都)にいた信長の嫡男で
織田氏の後継者の織田信忠( おだのぶただ)
も、6月2日に、京の二 条城にて、明智光秀に
攻められて、自刃(じじん、自害)する。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
● 本能寺の変発生時の織田方の
主な武将の居場所。
■ 本能寺の変発生時の1582年(天正10年)
6月2日の織田方の主な武将の居場所。
● 織田氏部将の柴田勝家 (しばたかついえ)
は、
北陸地方の、越中国 (えっちゅうのくに、現・
富山県)の、魚津城(うおづじょう)で、上杉勢
(上杉氏)の、上杉景勝(うえすぎかげかつ)
の軍と交戦中であった (魚津城の戦い)。
● 織田氏部将の滝川一益 (たきがわかずま
す)は、
関東地方の、上野国(こうずけのくに、現・群
馬県)の、厩橋城(まやばしじょう、前橋城)で、
北条勢(小田原北条氏)を牽制中であった。
● 織田氏部将の織田信孝、丹羽長秀 (おだの
ぶたか、たんばながひで)は、
近畿地方の、堺 (さかい、現・大阪府堺市)
で、四国征伐織田軍を編成中であった。
● 織田氏部将の羽柴秀吉 (はしばひでよし)
は、
中国地方の、備中・高松 (びっちゅう・たかま
つ、現・岡山県南中部・岡山市高松)で、毛利
勢(毛利氏)と交戦中であった。
● 織田氏の同盟者の大名の徳川家康 (とくが
わいえやす)は、
京(きょう、京都)に向かう途中で、近畿地方
の、堺と京(京都)との中間地点付近の、
飯盛山(いいもりやま)を移動中であった。
飯盛山 (いいもりやま、河内国飯盛山)は、
近畿地方の、現在の大阪府の、四条畷市(し
じょうなわてし)と大東市(だいとうし)にまた
がる山であり、 堺 (さかい、現・大阪府堺
市) と 京(きょう、京都) との中間地点付近
にある。
■ 1582年 (天正10年)。
● 家康の伊賀越え。
■ 家康の伊賀越え (= 神君伊賀越え)。
● 本能寺の変発生時の1582年(天正10年)
6月2日時点で、 徳川家康は、京(きょう、
京都)に向かう途中で、本能寺の変を知る。
その時、家康は、堺と京(京都)との中間付
近の飯盛山(いいもりやま)を移動中 であっ
た。
● 徳川家康は、1582年(天正10年)5月15
日から17日まで、安土城で接待を受ける。
家康は、信長から京(京都)、大阪、堺、
奈良の見物を勧められ、その後、5月21日
に京に出立し(上洛し)、28日まで京(京都)
に滞在し、家康は、29日には堺へ向かい、
国際貿易港として栄える堺で数日間滞在し、
家康は、6月1日には堺の豪商の茶会に招
かれ、京(京都)や堺を遊覧(見物)し、6月
2日早朝に堺を出て京(京都)に向かう。
■ 1582年(天正10年)6月に、本能寺の
変後、少人数の伴しかいない徳川家康は、
6月2日に飯盛山から自分の領国へ向けて
馬で出立し、明智光秀の軍を避けるため、
山城国宇治田原、近江国甲賀小川経由で、
桜峠から、難所の伊賀を越えて逃走し、
伊勢国(いせのくに、現・三重県北部・中
央中部)から船で伊勢湾を渡り、6月5日
頃に、三河国(みかわのくに、愛知県東部)
の大浜に到着し、三河国・岡崎城に帰還し、
無事に、家康の領国(三河国・遠江国・駿河
国)に戻る。
■ 1582年 (天正10年)。
● 秀吉が明智光秀を討つ。
■ 1582年(天正10年)6月に、本能寺の変で
信長の死去を知った豊臣秀吉(羽柴秀吉)は、
山崎の戦いで勝ち、明智光秀を討つ。
● 1582年(天正10年)6月に、秀吉は、中国
大返しを行ない、京(京都)に近い、山崎で、
明智光秀と交戦し勝ち (山崎の戦い)、光秀
は、敗走中、農民に殺される。
● 秀吉の中国大返し。
■ 秀吉の中国大返し。
● 備中の高松城を水攻めにしていた豊臣秀吉
(羽柴秀吉)は、
1582年(天正10年)6月3日に、本能寺の
変で信長の死去を知ると、 急いで、高松城
城主・清水宗治(しみずむねはる)の自刃(じ
じん、自害)を条件にして毛利氏の毛利輝元
(もうりてるもと)と講和し、 京( きょう、京都)
に向け秀吉指揮織田軍を動かす。
● 備中・高松 (びっちゅう・たかまつ、現・岡
山県南中部・岡山市高松) にいた豊臣秀
吉(羽柴秀吉)は、
1582年(天正10年)6月3日に本能寺の
変の報を入手し、 すぐに、秀吉は毛利軍
と和議を結び、 6月4日に秀吉は清水宗治
の自刃の検分を行い、 6月5日〜6日に秀
吉は備中・高松より撤兵し、 6月7日に秀吉
は姫路城 (ひめじじょう、現・兵庫県南中部・
姫路市)に到着し、 6月11日に秀吉は尼崎
(あまがさき、現・兵庫県南東部・尼崎市)に
到着する。 6月11日に秀吉は、富田(とん
だ、現・大阪府高槻市富田町)で軍議を開き、
6月11日〜12日に羽柴秀吉軍は、山崎(や
まざき、現・京都府大山崎町)に向かう。
1582年(天正10年)6月12日に、秀吉は、
自軍と共に山崎に到着する。
● 山崎の戦いで、秀吉が明智
光秀に勝つ。
■ 山崎(やまざき)の戦い。
● 1582年(天正10年)6月13日に、豊臣秀
吉(羽柴秀吉)は、
京(きょう、京都)に近い、山崎で、明智光秀
と交戦し、勝利を得る。 約2万の兵の羽柴
秀吉軍と約1万の兵の明智光秀軍の戦いで
あった。
● 1582年(天正10年)6月12日頃から、羽柴
秀吉軍と明智光秀軍の両軍は、
山崎付近の円明寺川(現・小泉川)を挟(はさ)
んで対陣する。
山崎付近で局地的な戦闘はあったものの、
6月13日の午後4時頃に、本格的な戦闘の
先端が開かれ、2時間ほど経過して、日没頃
に、明智光秀軍が総崩れとなり、壊滅し、敗北
する。
光秀は、戦線後方の勝龍寺城に退却する。
● 明智光秀の死去。
■ 1582年(天正10年)6月13日に、山崎の
戦いの敗戦後、戦線後方の勝龍寺城にいた
明智光秀は、
勝龍寺城の北門を夜陰にまぎれて密かに脱
出し、近江国(おうみのくに、現・滋賀県)の
居城・坂本城を目指して落ち延びる途中、
光秀は、敗走中、6月14日の丑の刻(うしの
こく、午前2時頃)に、小栗栖(おぐるす、京都
市伏見区東部)で、農民に殺される。
■ 1582年 (天正10年)。
● 秀吉は、自分の本城(= 本拠地
の城)や政務居城とする。
■ 羽柴秀吉(豊臣秀吉 )は、
山城国 (やましろのくに、現・京都府南部)
の、山崎城 (やまざきじょう)を、1582年
から1583年まで、 自分の本城(= 本拠地
の城)や政務居城とする。
● 羽柴秀吉(豊臣秀吉 )は、
天下取りを目指し (日本本土支配をめ
ざし)、 朝廷のある京(きょう、京都)に
近い、山崎 (やまざき)に、1582年
(天正10年)から山崎城の築城を開始し、
1582年(天正10年)から1583年(天正
11年)まで、自分の本城(= 本拠地の城)
や政務居城とする。
■ 1582年 (天正10年)。
● (R9) 秀吉は、山崎城を居住地
とする。
● (R) 豊臣秀吉の居住地の変遷。
■ (R1)⇒(R16)。
(R1) 中村の農家
(1537年ー1551年頃)、
(R2) 頭陀寺城付近の松下氏家臣長屋
(1551年頃ー1554年頃)、
(R3) 那古野城付近 の織田氏家臣長屋
(1554年頃ー1555年)、
(R4) 清洲城付近の織田氏家臣長屋
(1555年ー1563年)、
(R5) 小牧山城付近の織田氏家臣屋敷
(1563年ー1567年)、
(R6) 岐阜城付近の織田氏家臣屋敷
(1567年ー1573年)、
(R7) 長浜城 (1573年ー1577年)、
(R8) 姫路城 (1577年ー1582年)、
(R9) 山崎城 (1582年ー1583年)、
(R10) 二条第(= 妙顕寺城)
(1583年ー1587年)、
(R11) 聚楽第 (1587年ー1592年)、
(R12) 名護屋城 (1592年ー1593年)、
(R13) 豊臣大阪城 (1593年ー1594年)、
(R14) 豊臣秀吉築指月伏見城
(1594年−1596年)、
(R15) 豊臣大阪城 (1596年ー1597年)、
(R16) 豊臣秀吉築木幡山伏見城
(1597年ー1598年)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ (R9) 豊臣秀吉
(生没年:1537年ー1598年)は、
1582年(天正10年)から
1583年(天正11年)まで
山城国の、山崎城 (やまざきじょう)で
居住する。
■ 山崎城 (やまざきじょう)は、 山城国
(やましろのくに、現・京都府南部))に
ある。
■ 羽柴秀吉(豊臣秀吉 )は、
天下取りを目指し (日本本土支配をめ
ざし)、 朝廷のある京(きょう、京都)に
近い、山崎 (やまざき)に、1582年
(天正10年)から山崎城の築城を開始し、
1582年(天正10年)から1583年(天正
11年)まで、自分の本城(= 本拠地の城)
や政務居城とする。
■ 1582年 (天正10年)。
● (C3) 秀吉は、山崎城を本城
とする。
● (C) 豊臣秀吉の本城の変遷。
■ (C1)⇒(C4) 。
(C1) 長浜城 (1573年ー1577年)、
(C2) 姫路城 (1577年ー1582年)、
(C3) 山崎城 (1582年ー1583年)、
(C4) 豊臣大阪城 (1583年ー1598年)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ (C3) 豊臣秀吉
(生没年:1537年ー1598年)は、
1582年(天正10年)から
1583年(天正11年)まで
山城国の、山崎城 (やまざきじょう)を、
自分の(C)本城(ほんじょう、= 本拠地
の城)とする。
■ 山崎城 (やまざきじょう)は、 山城国
(やましろのくに、現・京都府南部))に
ある。
■ 1582年 (天正10年)。
● (P3) 秀吉は、山崎城を
政務居城とする。
● (P) 豊臣秀吉の政務居城
の変遷。
■ (P1)⇒(P10) 。
(P1) 長浜城 (1573年ー1577年)、
(P2) 姫路城 (1577年ー1582年)、
(P3) 山崎城 (1582年ー1583年)、
(P4) 二条第(妙顕寺城)
(1583年ー1587年)、
(P5) 聚楽第 (1587年ー1592年)、
(P6) 名護屋城 (1592年ー1593年)、
(P7) 豊臣大阪城 (1593年ー1594年)、
(P8) 豊臣秀吉築指月伏見城
(1594年−1596年)、
(P9) 豊臣大阪城 (1596年ー1597年)、
(P10) 豊臣秀吉築木幡山伏見城
(1597年ー1598年)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ (P3) 豊臣秀吉
(生没年:1537年ー1598年)は、
1582年(天正10年)から
1583年(天正11年)まで
山城国の、山崎城 (やまざきじょう)を、
自分の(P)政務居城とする。
■ 山崎城 (やまざきじょう)は、 山城国
(やましろのくに、現・京都府南部))に
ある。
■ 1582年 (天正10年)。
● 清洲会議が開かれる。
■ 清洲会議 (きよすかいぎ)。
● 1582年(天正10年)6月27日に、秀吉は、
清洲城(きよすじょう)にて、他の織田氏の
3重臣と相談し、信長の後継者と遺領の分割
を決める。
● 当日出席した織田氏の4人の重臣の、羽柴
秀吉(はしばひでよし)、柴田勝家(しばたか
ついえ)、丹羽長秀(にわながひで)、池田
恒興(いけだつねおき)には、会議前に、
既に、織田氏の一族、同盟者などの利害関
係者からの意向が伝えられていた。
■ 1582年(天正10年)6月27日に、羽柴秀
吉(豊臣秀吉)は、 清洲城 (きよすじょう、
現・愛知県清須市)にて、他の織田氏の重臣
3人と共に、清洲会議 (きよすかいぎ)を開
き、 清洲会議の四者会談で、 織田信長の
後継者と遺領の分割、織田氏領地再配分を
決める。
● 織田信長の後継者は、 織田信長の嫡孫
(織田信忠の嫡男)の三法師 (さんぽうし、
さんぼうし、織田秀信(ひでのぶ))と決まる。
● 清洲会議に参加した者は、 史実では、
羽柴秀吉(豊臣秀吉)、柴田勝家、丹羽長秀
(たんばながひで)、池田恒興(いけだつねお
き)の4名の織田氏重臣のみである。
● 清洲会議の織田氏領地再配分。
■ 清洲会議で決まった織田氏領地再配分は、
次の通りである。
● 織田氏経営委任地 (織田信長が生前織田
氏部将に経営を委任していた領地)は、原則
として、そのまま、その部将の領地となる。
● 三法師(織田秀信)は、近江国坂田郡と安土
城を相続する。
● 信長次男の織田信雄は、尾張国(おわりの
くに、現・愛知県西部)を相続する。
● 信長三男の織田信孝は、美濃国(みののく
に、現・岐阜県南部)を相続する。
● 信長四男の羽柴秀勝は、明智光秀の旧領
の丹羽国(たんばのくに、現・京都府中部)を
得る。
● 柴田勝家は、越前国(えちぜんのくに、現・
福井県東部)などの織田氏経営委任地を安
堵(あんど)される。
● 丹羽長秀は、若狭国などの織田氏経営委任
地を安堵され、近江国(おうみのくに、現・滋
賀県)の2郡を増量(加増)される。
● 池田恒興は、織田氏経営委任地を安堵され、
摂津国(せっつのくに、大阪府西北部)の3郡
を増量(加増)される。
● 羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、中国地方の織田
氏経営委任地以外に、河内国(かわちのくに、
大阪府東部)、山城国(やましろのくに、京都
府南部)を増領(加増)される。
但し、勝家の希望で秀吉の北近江(きた
おうみ、現・滋賀県北部)3郡と長浜城は、勝
家養子の柴田勝豊(しばたかつとよ)に譲ら
れる。
● 滝川一益は、伊勢国(いせのくに、現・三重
県北部・中央中部)などの織田氏経営委任
地を安堵(あんど)される。
但し、北条氏に奪取された、旧武田領国
の織田領の上野国(こうずけのくに、現・群馬
県)は、徳川氏に委(ゆだ)ねる。
● 旧武田領国の織田領は、 天正壬午の乱
(てんしょうじんごのらん、1582年6月〜10
月)で北条氏、上杉氏に侵略され奪取されて
も、織田氏部将は奪還せず、徳川家康の進
出を了承し(平定を容認し)、徳川氏に委(ゆ
だ)ねる。
● 清洲会議後、織田氏家臣団は、
羽柴方と柴田方に分裂。
■ 1582年(天正10年)6月27日の清洲会議後、
織田氏の家臣団は、 羽柴方 と 柴田方に分
裂する。
羽柴方には、 丹羽長秀、池田恒興、織
田信雄(おだのぶかつ)などであり、 柴田方
は、 織田信孝(おだのぶたか)、滝川一益(た
きがわかずます)などである。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1582年 (天正10年)。
● 天正壬午の乱が起こる。
■ 天正壬午の乱 (てんしょうじんごのらん、
1582年6月〜10月)。
● 本能寺の変で織田信長死後、 1582年
(天正10年)6月から10月まで、旧武田領
国の織田領の、信濃国・甲斐国・上野国は、
北条氏、上杉氏、徳川氏に侵略され奪取さ
れる。
● 1582年 (天正10年)に、本能寺の変で、
織田信長死後、 織田領の信濃国(しなのの
くに、現・長野県の相当地域)、甲斐国(かい
のくに、現・山梨県の相当地域)、上野国(こ
うずけのくに、現・群馬県の相当地域)へ、
上杉景勝の軍、北条氏直の軍、徳川家康の
軍が侵攻する。
● その後、戦いの結果、徳川家康と北条氏
直は和睦し、 信濃国、甲斐国は徳川氏領に、
上野国は、北条氏領となる。
● 家康が五か国の大大名になる。
■ ここに、徳川家康は、 三河国(みかわのく
に、現・愛知県東部の相当地域)、遠江国(と
おとうみのくに、現・静岡県西部の相当地域)、
駿河国(するがのくに、現・静岡県中部の相当
地域)に加えて、甲斐国、信濃国を領有する
大大名となる。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1582年 (天正10年)。
● 太閤検地開始。
● 1582年(天正10年)7月に、 豊臣秀
吉(羽柴秀吉)は、 山城(やましろ)を検地
する。 秀吉の太閤検地(1582年〜1598
年)が始まる。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1582年 (天正10年)。
● 秀吉が北近江、美濃を平定
する。
■ 1582年(天正10年)12月に、豊臣秀吉
(羽柴秀吉)は、 北近江へ侵攻し、清州会
議で柴田方に譲った長浜城(ながはまじょ
う)を降伏させ、 更に、美濃国へ侵攻し、
平定する。
● 1582年(天正10年)12月に、秀吉は、
北近江へ侵攻し、柴田方の柴田勝家の養子・
柴田勝豊の守る長浜城を包囲し、降伏させ、
それから柴田方の美濃国へ侵攻し、美濃を
平定する。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1583年 (天正11年)。
● 秀吉が伊勢を平定する。
■ 1583年(天正11年)2月に、豊臣秀吉
(羽柴秀吉)は、 柴田方の北伊勢へ侵攻
し、3月に、伊勢亀山城を降伏させる。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1583年 (天正11年)。
● 秀吉は、越前の柴田氏を滅
ぼす。
■ 1583年(天正11年)4月に、豊臣秀吉
(羽柴秀吉)は、 賤ヶ岳(しずがたけ)で、
柴田勝家の軍を破り勝利を得て (賤ヶ岳の
戦い)、 そのまま秀吉は、追撃し、秀吉に
追撃された勝家は、越前(えちぜん、現・
福井県東部の相当地域)の北庄城(きたの
しょうじょう、北ノ庄城)で、自害する。
● 賤ヶ岳の戦いで、秀吉が柴田勝
家を破る。
■ 賤ヶ岳の戦い。
● 1583年(天正11年)4月に、豊臣秀吉(羽
柴秀吉)は、 賤ヶ岳(しずがたけ)で、柴田
方の柴田勝家の軍を破り勝利を得て (賤ヶ
岳の戦い)、勝家を追撃する。
● 越前・北庄城が落城し、柴田勝家
は、自害する。
■ 秀吉に追撃された勝家は、 越前国(えちぜ
んのくに、現・福井県東部の相当地域)の北庄
城(きたのしょうじょう、北ノ庄城)で、自害する。
● 1583年(天正11年)4月に、秀吉は、賤ヶ岳
で、柴田勝家の軍を破り (賤ヶ岳の戦い)、
越前(現・福井県)に撤退した(敗走した)柴田
勝家を追って、越前国へ侵攻し、4月24日に、
越前の北庄城を落城させ、織田氏の柴田方を
打ち負かす。
● 越前・北庄城で、お市が自害し、
浅井三姉妹は城から落ち延びる。
■ 柴田氏の北庄城落城時、柴田勝家は、織田
信長の妹で勝家正室夫人のお市(おいち)と
共に自害する。
● 浅井三姉妹(あざいさんしまい、茶々、初、
江)は、近江の小谷城の落ち延びと同様に、
越前の北庄城から落ち延びる。
● 秀吉は、加賀・能登を平定し、
経営を前田利家に委ねる。
■ 越前国を平定後、更(さら)に、秀吉は、加賀
国と能登国(かがのくにとのとのくに、現・石川
県の相当地域)へ侵攻し2国を平定して、それ
らの経営を前田利家に委ねる。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1583年(天正11年)。
● (R10) 秀吉は、二条第(= 妙顕
寺城)を居住地とする。
● (R) 豊臣秀吉の居住地の変遷。
■ (R1)⇒(R16)。
(R1) 中村の農家
(1537年ー1551年頃)、
(R2) 頭陀寺城付近の松下氏家臣長屋
(1551年頃ー1554年頃)、
(R3) 那古野城付近 の織田氏家臣長屋
(1554年頃ー1555年)、
(R4) 清洲城付近の織田氏家臣長屋
(1555年ー1563年)、
(R5) 小牧山城付近の織田氏家臣屋敷
(1563年ー1567年)、
(R6) 岐阜城付近の織田氏家臣屋敷
(1567年ー1573年)、
(R7) 長浜城 (1573年ー1577年)、
(R8) 姫路城 (1577年ー1582年)、
(R9) 山崎城 (1582年ー1583年)、
(R10) 二条第(= 妙顕寺城)
(1583年ー1587年)、
(R11) 聚楽第 (1587年ー1592年)、
(R12) 名護屋城 (1592年ー1593年)、
(R13) 豊臣大阪城 (1593年ー1594年)、
(R14) 豊臣秀吉築指月伏見城
(1594年−1596年)、
(R15) 豊臣大阪城 (1596年ー1597年)、
(R16) 豊臣秀吉築木幡山伏見城
(1597年ー1598年)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ (R10) 豊臣秀吉
(生没年:1537年ー1598年)は、
1583年(天正11年)から
1587年(天正15年)まで
山城国の、京(きょう、京都)の二条第
(にじょうだい、妙顕寺城)で
居住する。
■ 二条第 (にじょうだい、妙顕寺城)は、
山城国(やましろのくに、現・京都府南部)
の、京(きょう、京都)の市街地にある。
■ 羽柴秀吉(豊臣秀吉 )は、 1583年(天正
11年)に、朝廷工作のため、 山城国の、
京(きょう、京都)の市街地に、二条第
(にじょうだい、妙顕寺城)を完成させ、
そこを政務居城とする。
■ 1583年(天正11年)。
● 秀吉が大阪城の築城を開始
する。
■ 1583年(天正11年)8月に、 豊臣秀吉
(羽柴秀吉)は、大阪の石山本願寺の跡地に、
豊臣大阪城の築城を開始する (1588年豊
臣大阪城完成)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
● 豊臣秀吉(羽柴秀吉)は、
摂津国 (せっつのくに、現・大阪府西北部)
の、豊臣大阪城 (とおとみおおさかじょう)
を、1583年(天正11年)から1598年(慶
長3年)まで、 自分の本城(= 本拠地の城)
とする。
■ 1583年(天正11年)。
● (C4) 秀吉は、豊臣大阪城を
本城とする。
● (C) 豊臣秀吉の本城の変遷。
■ (C1)⇒(C4) 。
(C1) 長浜城 (1573年ー1577年)、
(C2) 姫路城 (1577年ー1582年)、
(C3) 山崎城 (1582年ー1583年)、
(C4) 豊臣大阪城 (1583年ー1598年)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ (C4) 豊臣秀吉
(生没年:1537年ー1598年)は、
1583年(天正11年)から
1598年(慶長3年)まで
摂津国の、豊臣大阪城 (とよとみおおさか
じょう)を、自分の(C)本城(ほんじょう、
= 本拠地の城)とする。
■ 豊臣大阪城 (とよとみおおさかじょう)は、
摂津国 (せっつのくに、現・大阪府西北部)に
ある。
■ 1583年(天正11年)8月に、 豊臣秀吉
(羽柴秀吉)は、大阪の石山本願寺の跡地に、
豊臣大阪城の築城を開始する (1588年豊
臣大阪城完成)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1583年(天正11年)。
● (P4) 秀吉は、二条第(妙顕寺城)
を政務居城とする。
● (P) 豊臣秀吉の政務居城
の変遷。
■ (P1)⇒(P10) 。
(P1) 長浜城 (1573年ー1577年)、
(P2) 姫路城 (1577年ー1582年)、
(P3) 山崎城 (1582年ー1583年)、
(P4) 二条第(妙顕寺城)
(1583年ー1587年)、
(P5) 聚楽第 (1587年ー1592年)、
(P6) 名護屋城 (1592年ー1593年)、
(P7) 豊臣大阪城 (1593年ー1594年)、
(P8) 豊臣秀吉築指月伏見城
(1594年−1596年)、
(P9) 豊臣大阪城 (1596年ー1597年)、
(P10) 豊臣秀吉築木幡山伏見城
(1597年ー1598年)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ (P4) 豊臣秀吉
(生没年:1537年ー1598年)は、
1583年(天正11年)から
1587年(天正15年)まで
山城国の、京(きょう、京都)の二条第
(にじょうだい、妙顕寺城)を、
自分の(P)政務居城とする。
■ 二条第 (にじょうだい、妙顕寺城)は、
山城国(やましろのくに、現・京都府南部)
の、京(きょう、京都)の市街地にある。
■ 羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、 1583年(天正
11年)に、朝廷工作のため、 山城国の、
京(きょう、京都)の市街地に、二条第
(にじょうだい、妙顕寺城)を完成させ、
そこを政務居城とする。
■ 1584年 (天正12年)。
● 小牧・長久手の戦いで、秀吉
は、家康に敗け、和睦する。
■ 小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い
(1584年3月ー11月)。
● 小牧・長久手の戦いは、1584年(天正12
年)3月から11月まで、羽柴秀吉(豊臣秀吉)
と、 織田信雄(おだのぶかつ)や徳川家康と
の間で起こった戦いである。 秀吉は、11月
に信雄と和睦し、12月に家康と和睦する。
● 小牧・長久手の戦いは、 秀吉と織田信雄
の信長の後継者の争いから始まり、 近畿
地方を領する羽柴秀吉(豊臣秀吉) と、中部
地方を領する織田信雄や徳川家康との間で
起こった戦いである。
● 1584年(天正12年)3月に、織田信長の後
継者を自負する信長次男の織田信雄(おだの
ぶかつ、生没年:1558年ー1630年)が、秀
吉と対立し、信雄が徳川家康に加勢を求め、
家康が、織田信雄に加勢(加担)し、小牧・長
久手の戦い戦いが起こる。
● 1584年(天正12年)3月〜11月に、小牧・
長久手の戦いで、秀吉の軍は、 小牧、長久
手付近で、織田信雄・徳川家康の連合軍と
戦い、戦いの中、4月に長久手の戦いでは
家康に敗北する。
■ 小牧・長久手の戦い講和。
● 1584年(天正12年)11月に、織田信雄
が徳川家康に無断で秀吉と単独講和をした
ため、 家康は、秀吉と戦う大義名分を失い、
三河国へ撤退する。 その後、秀吉は家康に
講和を申し入れ、家康は、次男の於義丸(幼
名、松平秀康、結城秀康(ゆうきひでやす)、
秀吉養子名:羽柴秀康)を人質として差出し、
12月に、講和する。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1585年 (天正13年)。
● 秀吉は朝廷より内大臣に
任官される。
■ 1585年(天正13年)3月に、豊臣秀吉
(羽柴秀吉)は、 正ニ位・内大臣に叙位・
任官される。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
● 秀吉は関白となる。
● 豊臣関白政権が確立する。
■ 1585年(天正13年)7月11日に、豊臣
秀吉(羽柴秀吉)は、 関白(かんぱく)に
宣下(せんげ)される(任じられる)。
● 1585年(天正13年)7月に、秀吉は、
近衛前久(このえさきひさ)の猶子(ゆうし、
名目的な養子)となり、 関白宣下(かんぱ
くせんげ)を受け、関白となる。
豊臣関白政権が確立する。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1585年 (天正13年)。
● 秀吉は紀州を平定。
■ 秀吉の紀州平定。
● 1585年(天正13年)3月に、豊臣秀吉(羽
柴秀吉)は、 紀伊国(きいのくに、現・和歌
山県)へ侵攻して、これを平定する。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
● 秀吉は四国を平定。
■ 秀吉の四国平定。
● 1585年(天正13年)8月に、豊臣秀吉
(羽柴秀吉)は、 長宗我部元親を降伏させ、
四国を平定する。
● 1585年(天正13年)6月に、秀吉は、
四国に約10万人の兵の大軍を送り込んで、
同年8月に、四国を支配していた、長宗我部
元親(ちょうそかべもとちか)を降伏させる。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
● 秀吉は北陸を平定。
■ 秀吉の北陸平定。
● 1585年(天正13年)8月に、豊臣秀吉
(羽柴秀吉)は、 越中国(えっちゅうのくに、
現・富山県の相当地域)の佐々成政(さっさ
なりまさ)を降伏させ、北陸を平定する。
● 1585年(天正13年)8月に、 秀吉は、
越中国の佐々成政に対し征伐を開始し、
ほとんど戦うことなく、 8月25日に、成政
は剃髪(ていはつ)して、秀吉に降伏する
(北陸平定)。 織田信雄の仲介もあって、
秀吉は、成政を許し、 越中新川郡のみを
安堵(あんど)する (領地として与える)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1586年 (天正14年)。
● 秀吉は豊臣の姓を朝廷より
賜る。
■ 1586年(天正14年)9月に、豊臣秀吉
(羽柴秀吉)は、 正親町天皇 (おおぎまち
てんのう)より、「豊臣」(とよとみ)の姓を賜
(たまわ)る。
● 秀吉は太政大臣となる。
■ 1586年(天正14年)12月に、 秀吉は、
太政大臣に就任する。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1586年 (天正14年)。
● 家康が秀吉に臣従する。
■ 1586年(天正14年)10月に、徳川家康は、
豊臣秀吉に臣従する (秀吉は家康に臣従を
誓わせる)。
● 秀吉は、家康に対しては、 融和策に転じ、
1586年(天正14年)5月に、秀吉は、秀吉
の妹・朝日姫(あさひひめ)を徳川家康の正
室夫人として嫁(とつ)がせ、 更(さら)に9
月に、秀吉の母のなか(大政所(おおまんど
ころ))を、人質として、家康の元へ送り、家康
に臣従の上洛を促し、10月に、上洛した家
康に秀吉への臣従を誓わせる。
● 結果的に、豊臣秀吉は、徳川家康を軍事
的に服属させることには失敗して、秀吉と家
康は、不完全な主従関係となる。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 秀吉に臣従することとは、上洛して、秀吉
への臣従を諸大名の前で表明することであ
る。
● 秀吉からの臣従要求を拒み続ける徳川
家康に、 秀吉は、1586年5月に、 秀吉
の妹の朝日姫を家康の正室夫人として嫁
がせ差し出し、家康は秀吉の妹の朝日姫と
婚儀を結び、 朝日姫を家康の正室夫人と
する。
しかし、家康はなおも秀吉に臣従しょう
としなかったので、更に、秀吉は、同年9月
に、秀吉の生母のなか(大政所、おおまんど
ころ)を、人質として、家康の元へ送り、 秀
吉への臣従を促したので、 遂に、同年10
月に、家康は、秀吉に臣従することを決意し、
家康は上洛し、同年10月に、家康は、大阪
城で秀吉に謁見し、諸大名の前で、秀吉に
臣従する事を表明する。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1587年 (天正15年)。
● 秀吉が九州を平定。
■ 秀吉の九州平定。
● 1587年(天正15年)5月に、豊臣秀吉は、
島津氏を降伏させ、九州を平定する。
● 秀吉自らが、 1587年(天正15年)3月に、
20万人の兵の大軍を率いて、九州を本格的
に侵攻し、 島津軍を圧倒し、 5月に、島津
義久・義弘を降伏させる (九州平定)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1587年 (天正15年)。
● 秀吉がバテレン追放令を出す。
■ 1587年(天正15年)6月に、豊臣秀吉は、
バテレン追放令をだす。
■ 1587年 (天正15年)。
● 秀吉は聚楽第を完成させ、
政務居城とする。
■ 豊臣秀吉は、 朝廷工作や関白の職務のた
め、 山城国の、京(きょう、京都)の市街地
に、1587年(天正15年)9月に、聚楽第
(じゅらくだい)を完成させ、1592年(天正
20年)まで、そこを政務居城とする。
■ 1587年(天正15年)9月に、豊臣秀吉は、
聚楽第(じゅらくだい)を完成させ、自分の
政務居城とし、二条第(= 妙顕寺城)より移る。
■ 1587年 (天正15年)。
● (R11) 秀吉は、聚楽第を居住地
とする。
● (R) 豊臣秀吉の居住地の変遷。
■ (R1)⇒(R16)。
(R1) 中村の農家
(1537年ー1551年頃)、
(R2) 頭陀寺城付近の松下氏家臣長屋
(1551年頃ー1554年頃)、
(R3) 那古野城付近 の織田氏家臣長屋
(1554年頃ー1555年)、
(R4) 清洲城付近の織田氏家臣長屋
(1555年ー1563年)、
(R5) 小牧山城付近の織田氏家臣屋敷
(1563年ー1567年)、
(R6) 岐阜城付近の織田氏家臣屋敷
(1567年ー1573年)、
(R7) 長浜城 (1573年ー1577年)、
(R8) 姫路城 (1577年ー1582年)、
(R9) 山崎城 (1582年ー1583年)、
(R10) 二条第(= 妙顕寺城)
(1583年ー1587年)、
(R11) 聚楽第 (1587年ー1592年)、
(R12) 名護屋城 (1592年ー1593年)、
(R13) 豊臣大阪城 (1593年ー1594年)、
(R14) 豊臣秀吉築指月伏見城
(1594年−1596年)、
(R15) 豊臣大阪城 (1596年ー1597年)、
(R16) 豊臣秀吉築木幡山伏見城
(1597年ー1598年)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ (R11) 豊臣秀吉
(生没年:1537年ー1598年)は、
1587年(天正15年)から
1592年 (天正20年)まで
山城国の、京(きょう、京都)の聚楽第
(じゅらくだい)で
居住する。
■ 聚楽第 (じゅらくだい)は、
山城国(やましろのくに、現・京都府南部)
の、京(きょう、京都)の市街地にある。
■ 豊臣秀吉は、 1587年(天正15年)に、
朝廷工作や関白の職務のため、
山城国の、京(きょう、京都)の市街地に、
聚楽第 (じゅらくだい)を完成させ、そこを
政務居城とする。
■ 1587年(天正15年)9月に、豊臣秀吉は、
聚楽第(じゅらくだい)を完成させ、自分の
政務居城とし、二条第(= 妙顕寺城)より移る。
■ 1587年 (天正15年)。
● (P5) 秀吉は、聚楽第を政務
居城とする。
● (P) 豊臣秀吉の政務居城
の変遷。
■ (P1)⇒(P10) 。
(P1) 長浜城 (1573年ー1577年)、
(P2) 姫路城 (1577年ー1582年)、
(P3) 山崎城 (1582年ー1583年)、
(P4) 二条第(妙顕寺城)
(1583年ー1587年)、
(P5) 聚楽第 (1587年ー1592年)、
(P6) 名護屋城 (1592年ー1593年)、
(P7) 豊臣大阪城 (1593年ー1594年)、
(P8) 豊臣秀吉築指月伏見城
(1594年−1596年)、
(P9) 豊臣大阪城 (1596年ー1597年)、
(P10) 豊臣秀吉築木幡山伏見城
(1597年ー1598年)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ (P5) 豊臣秀吉
(生没年:1537年ー1598年)は、
1587年(天正15年)から
1592年 (天正20年)まで
山城国の、京(きょう、京都)の聚楽第
(じゅらくだい)を、
自分の(P)政務居城とする。
■ 聚楽第 (じゅらくだい)は、
山城国(やましろのくに、現・京都府南部)
の、京(きょう、京都)の市街地にある。
■ 1587年 (天正15年)。
● 秀吉が贈答・恩賞用貨幣の、
天正通宝を鋳造。
■ 1587年(天正15年)9月に、豊臣秀吉は、
贈答・恩賞用貨幣の、天正通宝(てんしょうつ
うほう)を鋳造する。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1589年(天正17年)。
● 淀の方(淀殿、茶々)が、秀吉の
男子の鶴松を産む。
■ 1589年(天正17年)5月27日に、豊臣秀
吉の側室夫人の淀の方(よどのかた、淀殿、
茶々)は、秀吉の実子の男子の、鶴松 (つ
るまつ、生没年:1589年ー1591年)を産
む。
● 1589年(天正17年)に、この懐妊・出産を
喜んだ秀吉から、茶々 (ちゃちゃ、淀の方、
淀殿)は、 淀城(よどじょう)を秀吉より与
えられ、 以後、茶々は、「淀の方(よどのか
た)、淀殿」 と呼ばれるようになる。
● 淀の方(淀殿、茶々)は、浅井三姉妹(あざ
いさんしまい、茶々、初、江)の一人である。
● その後、 淀の方(淀殿、茶々)は鶴松を、
秀吉の正室夫人のおね(ねね)に預け、ね
ね(おね)が鶴松を引き取り、育てる。
● 安土桃山時代では、武家の仕来り(しきた
り)として、側室夫人の子を、正室夫人が育
てる慣習があった。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
□ 豊臣秀吉ガイドブック へ。
□ 日本史辞典の先頭ページへ。
■ 1590年 (天正18年)。
● 秀吉が関東を平定。
■ 秀吉の関東平定。
● 1590年(天正18年)7月に、豊臣秀吉は、
小田原北条氏を降伏させ、関東を平定する。
● 小田原合戦。
■ 小田原合戦 (おだわらがっせん、1590年
2月ー7月)。
● 1590年(天正18年)2月から、秀吉の軍勢
は、 関東に遠征し、小田原北条氏の支城の
諸城を落城させ、その後、小田原北条氏(=
後北条氏)の本拠地の小田原城を包囲する。
約3ヶ月の篭城戦(ろうじょうせん)の後、
1590年(天正18年)7月5日に、小田原北
条氏(= 後北条氏)の北条氏直が、降伏する。
● 小田原城は、上杉謙信も落とせなった堅城
だが、撤兵する可能性のない包囲軍の前で
は無力であった。
● 責任をとって、北条氏政・氏照は自害(自
刃)し、小田原北条氏の当主の北条氏直は、
紀伊国(きいのくに、現・和歌山県)の高野山
へ追放される。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
● 秀吉が東北地方を平定。
■ 秀吉の奥羽制圧(奥羽仕置)。
● 1590年(天正18年)7月に、豊臣秀吉は、
奥羽(おうう、現・東北地方)も制圧した。
● 秀吉は、小田原城開場後、1590年(天正
18年)7月26日に、下野(しもつけ、現・栃木
県)の宇都宮城に入り、奥羽の領主に対し、
仕置(しおき)を行った (宇都宮仕置)。
秀吉は、 小田原合戦に参陣しなかった
奥羽の領主を改易する(取り潰す)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1590年 (天正18年)。
● 秀吉が天下を統一する
(日本本土を統一する)。
■ 1590年(天正18年)7月に、豊臣秀吉は、
天下を統一する (日本本土の全国を統一す
る)。
● 豊臣秀吉は、 日本本土の全国を平定し、
天下を統一し、戦国の世を終わらせる。
秀吉の平定は、非殲滅(せんめつ)主
義を貫き、寛容ともいえる態度で、多くの戦
国大名を助命し、これにより、短期間で天下
統一を成し遂げる。
しかし、豊臣氏蔵入地(領地)225万石、
徳川氏250万石のように、豊臣氏に忠義心
の薄い、武力に優れ、石高の高い、多くの大
名を残存させ、豊臣政権の政権長期化には
不利であった。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1590年 (天正18年)。
● 家康が関東に移封となる。
■ 1590年(天正18年)8月に、徳川家康が、
関東に移り、江戸城に入る。
● 豊臣秀吉は、 徳川家康に中部地方より
関東地方への国替えを命じ(命令し)、家康
は、 1590年(天正18年)8月に、関東に
移り、江戸城に入る。
● 家康は、小田原北条氏の旧領の関東地域
を領有し、その後、その地を開発して、
約250万石を得る。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
□ 日本史辞典の先頭ページへ。
■ 1591年 (天正19年)。
● 秀吉の男子の鶴松が病死する。
■ 1591年(天正19年)8月5日に、豊臣秀吉
の実子の男子の鶴松 (つるまつ、生没年:
1589年ー1591年)が、病死する。
● 鶴松 (つるまつ、生没年:1589年ー15
91年)は、 豊臣秀吉と秀吉の側室
夫人の、淀の方(よどのかた、淀殿、茶々)
との間の実子の男子である。
● 1591年(天正19年)8月に、秀吉の正室
夫人のおね(ねね)の元で育てられていた、
鶴松 (淀の方(淀殿)の男子)が、病死する。
● TKKI カナヤマ著 徳川家康ガイドブック。
■ 1591年 (天正19年)。
● 秀吉は関白を甥の豊臣秀次
に譲り、太閤となる。
■ 1591年(天正19年)12月28日に、
豊臣秀吉は、関白の職を、甥(おい)の豊臣
秀次(とよとみひでつぐ)に譲る。
● 秀吉は太閤と呼ばれ、豊臣政権
の政治実権をもつ。
● 秀吉は、太閤(たいこう、前関白の尊称)と
呼ばれる。 秀吉は、豊臣政権の政治実権
は所持する。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1592年 (天正20年)。
● 文禄の役が始まる。
■ 1592年(天正20年)3月に、秀吉により、
朝鮮出兵が開始される (文禄の役、1592
年〜1593年)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
● 秀吉が名護屋城で、海外遠征軍
の指揮をとる。
■ 豊臣秀吉は、1592年 (天正20年)3月に、
肥前国(ひぜんのくに)、現・佐賀県・長崎県
本土)の、名護屋城(なごやじょう)に入り、
1592年(天正20年)から1593年(文禄
2年)まで、海外遠征(朝鮮出兵、文禄の役)
の海外遠征軍の指揮をとる。
■ 1592年 (天正20年)。
● 秀吉は指月伏見城の築城を
開始する。
■ 豊臣秀吉は、
山城国 (やましろのくに、現・京都府南部)
で、豊臣秀吉築指月伏見城 (しげつふし
みじょう)の築城を、1592年 (天正20年)
から開始し、豊臣秀吉築指月伏見城を
1593年から1596年まで、 自分の政務
居城とする。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1592年 (天正20年)。
● (R12) 秀吉は、名護屋城を
居住地とする。
● (R) 豊臣秀吉の居住地の変遷。
■ (R1)⇒(R16)。
(R1) 中村の農家
(1537年ー1551年頃)、
(R2) 頭陀寺城付近の松下氏家臣長屋
(1551年頃ー1554年頃)、
(R3) 那古野城付近 の織田氏家臣長屋
(1554年頃ー1555年)、
(R4) 清洲城付近の織田氏家臣長屋
(1555年ー1563年)、
(R5) 小牧山城付近の織田氏家臣屋敷
(1563年ー1567年)、
(R6) 岐阜城付近の織田氏家臣屋敷
(1567年ー1573年)、
(R7) 長浜城 (1573年ー1577年)、
(R8) 姫路城 (1577年ー1582年)、
(R9) 山崎城 (1582年ー1583年)、
(R10) 二条第(= 妙顕寺城)
(1583年ー1587年)、
(R11) 聚楽第 (1587年ー1592年)、
(R12) 名護屋城 (1592年ー1593年)、
(R13) 豊臣大阪城 (1593年ー1594年)、
(R14) 豊臣秀吉築指月伏見城
(1594年−1596年)、
(R15) 豊臣大阪城 (1596年ー1597年)、
(R16) 豊臣秀吉築木幡山伏見城
(1597年ー1598年)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ (R12) 豊臣秀吉
(生没年:1537年ー1598年)は、
1592年(天正20年)から
1593年(文禄2年)まで
肥前国の、名護屋城 (なごやじょう)で
居住する。
■ 名護屋城 (なごやじょう)は、
肥前国(ひぜんのくに)、現・佐賀県・長崎県
本土)にある。
■ 豊臣秀吉は、
1591年(天正19年)12月28日に、関白職
を甥(おい、姉の子)の豊臣秀次(とよとみひ
でつぐ)に譲り、秀吉自身は、太閤(たいこう、
前関白)となり、 その後、引継ぎを行ない、
関白の職務を豊臣秀次に任せ (諸事は秀
吉が定めた「御法度」や「御置目」に従う)、
1592年 (天正20年)3月に完成した名護
屋城へ行くため、1592年 (天正20年)
3月に、関白の政庁の聚楽第を去り、肥前
国の名護屋城に入り、1592年(天正20年)
から1593年(文禄2年)まで、海外遠征(朝
鮮出兵、文禄の役)を指揮する。
■ 1592年 (天正20年)。
● (P6) 秀吉は、名護屋城を政務
居城とする。
● (P) 豊臣秀吉の政務居城
の変遷。
■ (P1)⇒(P10) 。
(P1) 長浜城 (1573年ー1577年)、
(P2) 姫路城 (1577年ー1582年)、
(P3) 山崎城 (1582年ー1583年)、
(P4) 二条第(妙顕寺城)
(1583年ー1587年)、
(P5) 聚楽第 (1587年ー1592年)、
(P6) 名護屋城 (1592年ー1593年)、
(P7) 豊臣大阪城 (1593年ー1594年)、
(P8) 豊臣秀吉築指月伏見城
(1594年−1596年)、
(P9) 豊臣大阪城 (1596年ー1597年)、
(P10) 豊臣秀吉築木幡山伏見城
(1597年ー1598年)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ (P6) 豊臣秀吉
(生没年:1537年ー1598年)は、
1592年(天正20年)から
1593年(文禄2年)まで
肥前国の、名護屋城 (なごやじょう)を、
自分の(P)政務居城とする。
■ 名護屋城 (なごやじょう)は、
肥前国(ひぜんのくに)、現・佐賀県・長崎県
本土)にある。
■ 1592年 (天正20年・文禄元年)。
● 天正年号から文禄年号に改元。
文禄年号:1592年ー 1596年。
■ 1592年(天正20年・文禄元年)に、
文禄( ぶんろく)年号に改元。
● 1592年(天正20年・文禄元年)12月8日に、
和暦の「天正」 (てんしょう、
天正 元年・1573年〜天正20年・1592年)
が、
和暦の「 文禄」 (ぶんろく、
文禄元年・1592年・12月 8日〜
文禄5年・ 1596年・10月27日) に
改元される。
■ 安土桃山時代の各年号。
暗記法: 元天文慶
(げんてんぶんけい)。
● 元亀(げんき)年号: 1570年ー 1573年。
● 天正(てんしょう)年号: 1573年ー 1592年。
● 文禄(ぶんろく)年号: 1592年ー 1596年。
● 慶長(けいちょう)年号: 1596年ー 1615年。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1593年(文禄 2年)。
● 秀吉夫人の淀の方(淀殿)が、
豊臣秀頼を産む。
■ 1593年(文禄2年)8月3日に、秀吉の側室
夫人の、淀の方(よどのかた、淀殿、茶々)は、
秀吉の男子の、豊臣秀頼 (とよとみひでより、
幼名:拾丸(ひろいまる)、拾(ひろい))を産む。
● 淀殿(茶々)は、秀吉の許しを得て、自分の
手元で、育てる。
今回は、淀の方(淀殿、茶々)は、秀頼(拾
丸)を秀吉の正室夫人のねね(おね)に預けず。
● 豊臣秀頼(幼名:拾丸、拾)は、 秀吉築木幡
山伏見城で、育つ。
● 淀の方(淀殿、茶々)は、浅井三姉妹(あざ
いさんしまい、茶々、初、江)の一人である。
茶々(ちゃちゃ)は、豊臣秀吉側室夫人
となり、豊臣秀頼(とよとみひでより、拾丸)
の生母となる。
初(はつ)は、京極高次(きょうごくたか
つぐ)の正室夫人となる。
江(ごう)は、徳川秀忠(ひでただ)の正
室夫人となり、徳川家光(いえみつ)の生母
となる。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1593年(文禄 2年)。
● (R15) 秀吉は、豊臣大阪城を
居住地とする。
■ (R) 豊臣秀吉の居住地の変遷。
■ (R1)⇒(R16)。
(R1) 中村の農家
(1537年ー1551年頃)、
(R2) 頭陀寺城付近の松下氏家臣長屋
(1551年頃ー1554年頃)、
(R3) 那古野城付近 の織田氏家臣長屋
(1554年頃ー1555年)、
(R4) 清洲城付近の織田氏家臣長屋
(1555年ー1563年)、
(R5) 小牧山城付近の織田氏家臣屋敷
(1563年ー1567年)、
(R6) 岐阜城付近の織田氏家臣屋敷
(1567年ー1573年)、
(R7) 長浜城 (1573年ー1577年)、
(R8) 姫路城 (1577年ー1582年)、
(R9) 山崎城 (1582年ー1583年)、
(R10) 二条第(= 妙顕寺城)
(1583年ー1587年)、
(R11) 聚楽第 (1587年ー1592年)、
(R12) 名護屋城 (1592年ー1593年)、
(R13) 豊臣大阪城 (1593年ー1594年)、
(R14) 豊臣秀吉築指月伏見城
(1594年−1596年)、
(R15) 豊臣大阪城 (1596年ー1597年)、
(R16) 豊臣秀吉築木幡山伏見城
(1597年ー1598年)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ (R15) 豊臣秀吉
(生没年:1537年ー1598年)は、
1593年(文禄2年)から
1594年(文禄3年)まで
摂津国の、豊臣大阪城 (とよとみおおさか
じょう)で
居住する。
■ 豊臣大阪城 (とよとみおおさかじょう)は、
摂津国(せっつのくに、現・大阪府西北部)
にある。
■ 豊臣秀吉は、
文禄の役で、1593年(文禄2年)まで、名護
屋城を政務居城とし、
1593年(文禄2年)から1594年(文禄3年)
まで、豊臣大阪城を政務居城とし、
1594年(文禄3年)から、1596年(文禄5年)
閏7月の慶長伏見地震まで、
(F1) 豊臣秀吉築指月伏見城 (しげつふし
みじょう、1592年着工、1594年− 1596年
使用・存続)を政務居城とする。
■ 1593年(文禄 2年)。
● (P7) 秀吉は、豊臣大阪城を
政務居城とする。
● (P) 豊臣秀吉の政務居城
の変遷。
■ (P1)⇒(P10) 。
(P1) 長浜城 (1573年ー1577年)、
(P2) 姫路城 (1577年ー1582年)、
(P3) 山崎城 (1582年ー1583年)、
(P4) 二条第(妙顕寺城)
(1583年ー1587年)、
(P5) 聚楽第 (1587年ー1592年)、
(P6) 名護屋城 (1592年ー1593年)、
(P7) 豊臣大阪城 (1593年ー1594年)、
(P8) 豊臣秀吉築指月伏見城
(1594年−1596年)、
(P9) 豊臣大阪城 (1596年ー1597年)、
(P10) 豊臣秀吉築木幡山伏見城
(1597年ー1598年)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ (P7) 豊臣秀吉
(生没年:1537年ー1598年)は、
1593年(文禄2年)から
1594年(文禄3年)まで
摂津国の、豊臣大阪城 (とよとみおおさか
じょう)を、
自分の(P)政務居城とする。
■ 豊臣大阪城 (とよとみおおさかじょう)は、
摂津国(せっつのくに、現・大阪府西北部)
にある。
■ 1594年(文禄 3年)。
● (R14) 秀吉は、豊臣秀吉築指月
伏見城を居住地とする。
● (R) 豊臣秀吉の居住地の変遷。
■ (R1)⇒(R16)。
(R1) 中村の農家
(1537年ー1551年頃)、
(R2) 頭陀寺城付近の松下氏家臣長屋
(1551年頃ー1554年頃)、
(R3) 那古野城付近 の織田氏家臣長屋
(1554年頃ー1555年)、
(R4) 清洲城付近の織田氏家臣長屋
(1555年ー1563年)、
(R5) 小牧山城付近の織田氏家臣屋敷
(1563年ー1567年)、
(R6) 岐阜城付近の織田氏家臣屋敷
(1567年ー1573年)、
(R7) 長浜城 (1573年ー1577年)、
(R8) 姫路城 (1577年ー1582年)、
(R9) 山崎城 (1582年ー1583年)、
(R10) 二条第(= 妙顕寺城)
(1583年ー1587年)、
(R11) 聚楽第 (1587年ー1592年)、
(R12) 名護屋城 (1592年ー1593年)、
(R13) 豊臣大阪城 (1593年ー1594年)、
(R14) 豊臣秀吉築指月伏見城
(1594年−1596年)、
(R15) 豊臣大阪城 (1596年ー1597年)、
(R16) 豊臣秀吉築木幡山伏見城
(1597年ー1598年)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ (R13) 豊臣秀吉
(生没年:1537年ー1598年)は、
1594年(文禄3年)から
1596年(文禄 5年)まで
山城国の、豊臣秀吉築指月伏見城
(しげつふしみじょう)で
居住する。
■ 豊臣秀吉築指月伏見城(しげつふしみ
じょう)は、 山城国(やましろのくに、
現・京都府南部)にある。
■ 豊臣秀吉は、
豊臣秀吉築指月伏見城 (しげつふしみじ
ょう、1592年着工、1594年− 1596年
使用・存続)を政務居城とする。
■ 1594年(文禄 3年)。
● (P8) 秀吉は、豊臣秀吉築指月
伏見城を政務居城とする。
● (P) 豊臣秀吉の政務居城
の変遷。
■ (P1)⇒(P10) 。
(P1) 長浜城 (1573年ー1577年)、
(P2) 姫路城 (1577年ー1582年)、
(P3) 山崎城 (1582年ー1583年)、
(P4) 二条第(妙顕寺城)
(1583年ー1587年)、
(P5) 聚楽第 (1587年ー1592年)、
(P6) 名護屋城 (1592年ー1593年)、
(P7) 豊臣大阪城 (1593年ー1594年)、
(P8) 豊臣秀吉築指月伏見城
(1594年−1596年)、
(P9) 豊臣大阪城 (1596年ー1597年)、
(P10) 豊臣秀吉築木幡山伏見城
(1597年ー1598年)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ (P8) 豊臣秀吉
(生没年:1537年ー1598年)は、
1594年(文禄3年)から
1596年(文禄 5年)まで
山城国の、豊臣秀吉築指月伏見城
(しげつふしみじょう)を、
自分の(P)政務居城とする。
■ 豊臣秀吉築指月伏見城(しげつふしみ
じょう)は、 山城国(やましろのくに、
現・京都府南部)にある。
■ 1595年 (文禄 4年)。
● 関白・豊臣秀次が自害する。
■ 1595年(文禄4年)7月15日に、 豊臣秀
吉は、 甥の関白秀次(生没年:1568年ー
1595年)を自害させる。
● 秀吉は、 1593年(文禄2年)に生まれた、
秀吉の実子の拾(ひろい、後の豊臣秀頼)に
将来、豊臣氏を継がせたいと切望し、現在、
豊臣氏の後継者となっている、甥(おい)の
関白・豊臣秀次は、秀吉にとって目ざわりと
なり、秀吉は、秀次の排除を行う。
■ 1596年 (文禄 5年)。
● (R15) 秀吉は、豊臣大阪城
を居住地とする。
● (R) 豊臣秀吉の居住地の変遷。
■ (R1)⇒(R16)。
(R1) 中村の農家
(1537年ー1551年頃)、
(R2) 頭陀寺城付近の松下氏家臣長屋
(1551年頃ー1554年頃)、
(R3) 那古野城付近 の織田氏家臣長屋
(1554年頃ー1555年)、
(R4) 清洲城付近の織田氏家臣長屋
(1555年ー1563年)、
(R5) 小牧山城付近の織田氏家臣屋敷
(1563年ー1567年)、
(R6) 岐阜城付近の織田氏家臣屋敷
(1567年ー1573年)、
(R7) 長浜城 (1573年ー1577年)、
(R8) 姫路城 (1577年ー1582年)、
(R9) 山崎城 (1582年ー1583年)、
(R10) 二条第(= 妙顕寺城)
(1583年ー1587年)、
(R11) 聚楽第 (1587年ー1592年)、
(R12) 名護屋城 (1592年ー1593年)、
(R13) 豊臣大阪城 (1593年ー1594年)、
(R14) 豊臣秀吉築指月伏見城
(1594年−1596年)、
(R15) 豊臣大阪城 (1596年ー1597年)、
(R16) 豊臣秀吉築木幡山伏見城
(1597年ー1598年)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ (R15) 豊臣秀吉
(生没年:1537年ー1598年)は、
1596年(文禄 5年)から
1597年(慶長2年)まで
摂津国の、豊臣大阪城 (とよとみおおさか
じょう)で
居住する。
■ 豊臣大阪城 (とよとみおおさかじょう)は、
摂津国(せっつのくに、現・大阪府西北部)
にある。
■ 豊臣秀吉は、
1596年(文禄5年)閏7月の慶長伏見地震
によって、 (F1) 豊臣秀吉築指月伏見城
(しげつふしみじょう、1592年着工、1594
年− 1596年使用・存続)が倒壊する。
次に、伏見・木幡山(こはたやま、現・
桃山丘陵)に、1596年(文禄5年)閏7月に、
(F2) 豊臣秀吉築城 ・前期・木幡山伏見城
(1596年着工、1597年年−1600年使用・
存続)の建築を開始し、1597年(慶長2年)
5月から使用する。
その間、豊臣大阪城 (とよとみおおさ
かじょう)を政務居城とする。
■ 1596年 (文禄 5年)。
● (P9) 秀吉は、豊臣大阪城を
政務居城とする。
● (P) 豊臣秀吉の政務居城
の変遷。
■ (P1)⇒(P10) 。
(P1) 長浜城 (1573年ー1577年)、
(P2) 姫路城 (1577年ー1582年)、
(P3) 山崎城 (1582年ー1583年)、
(P4) 二条第(妙顕寺城)
(1583年ー1587年)、
(P5) 聚楽第 (1587年ー1592年)、
(P6) 名護屋城 (1592年ー1593年)、
(P7) 豊臣大阪城 (1593年ー1594年)、
(P8) 豊臣秀吉築指月伏見城
(1594年−1596年)、
(P9) 豊臣大阪城 (1596年ー1597年)、
(P10) 豊臣秀吉築木幡山伏見城
(1597年ー1598年)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ (P9) 豊臣秀吉
(生没年:1537年ー1598年)は、
1596年(文禄5年)から
1597年(慶長2年)まで
摂津国の、豊臣大阪城 (とよとみおおさか
じょう)を、自分の(P)政務居城とする。
■ 豊臣大阪城 (とよとみおおさかじょう)は、
摂津国(せっつのくに、現・大阪府西北部)
にある。
■ 1596年 (文禄 5年)。
● 家康は「江戸の内府」と呼ばれる。
■ 1596年(文禄5年)から1603年(慶長8年)
まで「内府」(ないふ)」と呼ばれた徳川家康。
● 徳川家康は、 別名で、
1596年(文禄5年)から1603年(慶長8年)
まで、「江戸の内府」(えどのないふ)とも呼ば
れる。
● 徳川家康は、1596年(文禄5年)5月8日
から、1603年(慶長8年)2月12日まで、
内大臣(ないだいじん、 唐名は内府(ない
ふ、だいふ))の官職に叙任されていたため。
■ 1596年 (文禄5年・慶長元年)。
● 文禄年号から慶長年号に改元。
慶長年号:1596年ー 1615年。
■ 1596年(文禄5年・慶長元年)に、
慶長(けいちょう)年号に改元。
● 1596年(文禄5年・慶長元年)10月27日に、
和暦の「文禄」(ぶんろく 、
文禄元年・1592年〜文禄5年・ 1596年)
が、
和暦の「慶長」(けいちょう、
慶長 元年・1596年・10月27日〜
慶長20年・1615年・ 7月13日) に
改元される。
■ 安土桃山時代の各年号。
暗記法: 元天文慶
(げんてんぶんけい)。
● 元亀(げんき)年号: 1570年ー 1573年。
● 天正(てんしょう)年号: 1573年ー 1592年。
● 文禄(ぶんろく)年号: 1592年ー 1596年。
● 慶長(けいちょう)年号: 1596年ー 1615年。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1597年 (慶長2年)。
● 慶長の役が起こる。
■ 1597年(慶長2年)1月に、秀吉により、
再度、朝鮮出兵が開始される (慶長の役:
1597年〜1598年)。
■ 1597年 (慶長 2年)。
● (R16) 秀吉は、豊臣秀吉築
木幡山伏見城を居住地とする。
● (R) 豊臣秀吉の居住地の変遷。
■ (R1)⇒(R16)。
(R1) 中村の農家
(1537年ー1551年頃)、
(R2) 頭陀寺城付近の松下氏家臣長屋
(1551年頃ー1554年頃)、
(R3) 那古野城付近 の織田氏家臣長屋
(1554年頃ー1555年)、
(R4) 清洲城付近の織田氏家臣長屋
(1555年ー1563年)、
(R5) 小牧山城付近の織田氏家臣屋敷
(1563年ー1567年)、
(R6) 岐阜城付近の織田氏家臣屋敷
(1567年ー1573年)、
(R7) 長浜城 (1573年ー1577年)、
(R8) 姫路城 (1577年ー1582年)、
(R9) 山崎城 (1582年ー1583年)、
(R10) 二条第(= 妙顕寺城)
(1583年ー1587年)、
(R11) 聚楽第 (1587年ー1592年)、
(R12) 名護屋城 (1592年ー1593年)、
(R13) 豊臣大阪城 (1593年ー1594年)、
(R14) 豊臣秀吉築指月伏見城
(1594年−1596年)、
(R15) 豊臣大阪城 (1596年ー1597年)、
(R16) 豊臣秀吉築木幡山伏見城
(1597年ー1598年)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ (R16) 豊臣秀吉
(生没年:1537年ー1598年)は、
1597年(慶長2年)から
1598年(慶長3年)まで
山城国の、豊臣秀吉築木幡山伏見城
(こはたやまふしみじょう)で
居住する。
■ 豊臣秀吉築木幡山伏見城 (こはたや
まふしみじょう)は、
山城国(やましろのくに、現・京都府南部)
にある。
■ 豊臣秀吉は、
(F2) 豊臣秀吉築城 ・前期・木幡山伏見城
(1596年着工、1597年−1600年使用・
存続)を政務居城とする。
■ 1598年(慶長3年)8月に、豊臣秀吉が、
豊臣秀吉築木幡山伏見城 (こはたやま
ふしみじょう)で、死去する。
■ 1597年 (慶長 2年)。
● (P10) 秀吉は、豊臣秀吉築
木幡山伏見城を政務
居城とする。
● (P) 豊臣秀吉の政務居城
の変遷。
■ (P1)⇒(P10) 。
(P1) 長浜城 (1573年ー1577年)、
(P2) 姫路城 (1577年ー1582年)、
(P3) 山崎城 (1582年ー1583年)、
(P4) 二条第(妙顕寺城)
(1583年ー1587年)、
(P5) 聚楽第 (1587年ー1592年)、
(P6) 名護屋城 (1592年ー1593年)、
(P7) 豊臣大阪城 (1593年ー1594年)、
(P8) 豊臣秀吉築指月伏見城
(1594年−1596年)、
(P9) 豊臣大阪城 (1596年ー1597年)、
(P10) 豊臣秀吉築木幡山伏見城
(1597年ー1598年)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ (P10) 豊臣秀吉
(生没年:1537年ー1598年)は、
1597年(慶長2年)から
1598年(慶長3年)まで
山城国の、豊臣秀吉築木幡山伏見城
(こはたやまふしみじょう)を、
自分の(P)政務居城とする。
■ 豊臣秀吉築木幡山伏見城 (こはたや
まふしみじょう)は、 山城国(やましろの
くに、現・京都府南部)にある。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 1598年 (慶長3年)。
● 家康の勢力を抑えるため、
秀吉は上杉景勝領地を徳川領
の北西に移す。
■ 1598年(慶長3年)に、 越後の大名の、
上杉景勝は、 豊臣秀吉によって、 会津
120万石に 加増移封される。
■ 1598年 (慶長 3年)。
● 秀吉が、五大老・五奉行
の制度を定める。
■ 1598年(慶長3年)7月に、秀吉が、
五大老・五奉行の制度を定める (秀吉の
後継者である豊臣秀頼の体制を磐石にす
るため)。
● 徳川家康は、五大老の一人となる。
● 上杉景勝は、五大老の一人となる。
● 豊臣氏の五大老は、
徳川家康、前田利家(まえだとしいえ)、
毛利輝元(もうりてるもと)、宇喜多秀家(うき
たひでいえ)、上杉景勝(うえすぎかげかつ)
である。
■ 1598年 (慶長3年)。
● 豊臣秀吉が死去する。
■ 1598年(慶長3年)8月18日に、豊臣秀吉
(生没年:1537年ー1598年)が、
豊臣秀吉築木幡山伏見城 (こはたやま
ふしみじょう)で、死去する。
● 幼い豊臣秀頼が豊臣氏当主
となる。
■ 豊臣秀吉死後、秀吉の遺言により、数え年
6歳の豊臣秀頼 (とよとみひでより、生没年:
1593年ー1615年)が、 豊臣氏本家(宗
家)の当主となる。 秀頼の生母の淀の方
(よどのかた、淀殿)が、豊臣秀頼の後見人
となる。
● おね(ねね)は、落飾し、高台院
湖月尼と称す。
■ 1598年(慶長3年)に、秀吉が没する(死
去する)と、 秀吉の正室夫人おね(ねね)は、
落飾し、 高台院湖月尼と称した。
■ 1598年 (慶長 3年)。
● 朝鮮撤兵を行なう。
■ 1598年8月に、豊臣秀吉死去後、徳川
家康、前田利家が、朝鮮撤兵を命じる。
同年12月にほぼ撤兵を完了する。
● 豊臣秀頼と淀の方が豊臣
大阪城の本丸に入る。
■ 1598年(慶長3年)に、秀吉が没する(死
去する)と、 秀吉の遺言により、 淀殿(茶
々)と豊臣秀頼は、 伏見城より、豊臣大阪
城の本丸に移る。
□ 豊臣秀吉の居住地の変遷へ。
□ 豊臣秀吉ガイドブック へ。
◆ 豊臣秀吉 関連
出来事 (概要)。
■ 日本の歴史ハンドブック。
■ 当書籍では、 歴史の出来事の5W1H
(いつ、どこで、だれが、何を、なぜ、どの
ように) や、 歴史の出来事の流れ(原因
理由⇒事件勃発⇒経過⇒結果⇒原因理
由)に沿って、歴史(過去)の出来事を分か
り易く、説明している。
■ 豊臣 秀吉。
■ 豊臣 秀吉 (とよとみ ひでよし、生没年:
1537年〜1598年)は、 豊臣政権の創
立者であり、 豊富政権の初代関白である。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 豊臣 秀吉 (とよとみ ひでよし、生没年:
1537年〜1598年)は、 尾張国(おわり
のくに、現・愛知県西部)の中村(なかむら、
現・愛知県名古屋市中村区)の農民・足軽
の子であり、 戦国大名の織田信 長の家臣
となり、 信長死後、信長に代わり、日本
本土を統一する。 更に、朝鮮半島を侵略
する。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 豊臣 秀吉は、 策略家であり、人の心を
動かす達人であった。
■ 豊臣 秀吉の氏名。
■ 豊臣 秀吉 (とよとみ ひでよし、生没年:
1537年〜1598年)は、
成人(元服)後、初め、
木下藤吉郎(きのしたとうきちろう、成人後
〜1561年頃)と称し、その後、
木下藤吉郎秀吉 (きのしたとうきちろうひで
よし、1561年頃〜1573年)と称し、その後、
羽柴秀吉 (はしばひでよし、1573年〜
1586年)と称し、その後、
豊臣秀吉(とよとみひでよし、1586年〜
1598年)と称する。
豊臣 秀吉の、個人名の、
諱(いみな)は、 秀吉 (ひでよし)であり、
通称は、藤吉郎 (とうきちろう)である。
豊臣 秀吉の、
木下姓は、いつ名乗ったかは不明である。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 豊臣 秀吉の 官職名。
● 豊臣 秀吉の官職名は、
筑前守 (ちくぜんのかみ、1575年〜
1585年)、
関白 (かんぱく、1585年〜1591年)、
太閤 (たいこう、前関白、1591年〜
1598年)、
などである。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
◆ 豊臣秀吉 関連
出来事 (概要・
テーマ別各事柄)。
□ 豊臣秀吉の政務居城の変遷。
◆ 豊臣秀吉の居住
地、本城、政務
居城の変遷。
の変遷。
の変遷。
◆ 豊臣秀吉の居住
地の変遷。
■ (R) 豊臣秀吉の居住地の変遷。
■ (R1)⇒(R16)。
(R1) 中村の農家
(1537年ー1551年頃)、
(R2) 頭陀寺城付近の松下氏家臣長屋
(1551年頃ー1554年頃)、
(R3) 那古野城付近 の織田氏家臣長屋
(1554年頃ー1555年)、
(R4) 清洲城付近の織田氏家臣長屋
(1555年ー1563年)、
(R5) 小牧山城付近の織田氏家臣屋敷
(1563年ー1567年)、
(R6) 岐阜城付近の織田氏家臣屋敷
(1567年ー1573年)、
(R7) 長浜城 (1573年ー1577年)、
(R8) 姫路城 (1577年ー1582年)、
(R9) 山崎城 (1582年ー1583年)、
(R10) 二条第(= 妙顕寺城)
(1583年ー1587年)、
(R11) 聚楽第 (1587年ー1592年)、
(R12) 名護屋城 (1592年ー1593年)、
(R13) 豊臣大阪城 (1593年ー1594年)、
(R14) 豊臣秀吉築指月伏見城
(1594年−1596年)、
(R15) 豊臣大阪城 (1596年ー1597年)、
(R16) 豊臣秀吉築木幡山伏見城
(1597年ー1598年)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 豊臣秀吉 (生没年:1537年 ー1598年)は、
自分の(R)居住地を、次のような 順序で、
移動する。
● (R1) 中村(なかむら)の 農家 (尾張国(おわ
りのくに、現・愛知県西部)に、
1537年(天文6年)から
1551年(天文20年)頃まで
居住する。
● (R2) 頭陀寺城(ずだじじょう)付近の松下氏
家臣長屋 (遠江国(とおとうみ、現・静
岡県西部)に、
1551年(天文20年)頃から
1554年(天文23年)頃まで
居住する。
● (R3) 那古野城(なごや じょう)付近の織田氏
家臣長屋 (尾張国)に、
1554年(天文23年)頃から
1555年(天文24年)まで
居住する。
● (R4) 清洲城(きよすじょう)付近の織田氏家臣
長屋 (尾張国)に、
1555年(天文24年)から
1563年(永禄6年)まで
居住する。
● (R5) 小牧山城(こまきやまじょう)付近の織田
氏家臣屋敷 (尾張国)に、
1563年(永禄6年)から
1567年(永禄10年)まで
居住する。
● (R6) 岐阜城(ぎふじょう)付近の織田氏家臣
屋敷 (美濃国(みののくに、現・岐阜県
南部))に、
1567年(永禄10年)から
1573年(天正元年)まで
居住する。
● (R7) 長浜城 (ながはま じょう、近江国(おう
みのくに、現・滋賀県))に、
1573年(天正元年)から
1577年(天正5年)まで
居住する。
● (R8) 姫路城 (ひめじじょう、播磨国(はりまの
くに、現・兵庫県本土南部))に、
1577年(天正5年)から
1582年(天正10年)まで
居住する。
● (R9) 山崎城 (やまざきじょう、山城国(やまし
ろのくに、現・京都府南部))に、
1582年(天正10年)から
1583年(天正11年)まで
居住する。
● (R10) 二条第 (にじょうだ い、妙顕寺城)、京
(京都)、山城国(やましろのくに、現・
京都府南部))に、
1583年(天正11年)から
1587年(天正15年)まで
居住する。
● (R11) 聚楽第 (じゅらく だい)、京(京都)、
山城国))に、
1587年(天正15年)から
1592年 (天正20年)まで
居住する。
● (R12) 名護屋城 (なごや じょう、肥前国(ひ
ぜんのくに)、現・佐賀県・長崎県本
土))に、
1592年(天正20年)から
1593年(文禄2年)まで
居住する。
● (R13) 豊臣大阪城 (とよ とみおおさかじょう、
摂津国(せっつのくに、現・大阪府西北
部))に、
1593年(文禄2年)から
1594年(文禄3年)まで
居住する。
● (R14) 豊臣秀吉築指月 伏見城(しげつふし
みじょう、山城国(やましろのくに、現・
京都府南部))に、
1594年(文禄3年)から
1596年(文禄5年)まで
居住する。
● (R15) 豊臣大阪城 (とよ とみおおさかじょう、
摂津国(せっつのくに、現・大阪府西北
部))に、
1596年(文禄5年)から
1597年(慶長2年)まで
居住する。
● (R16) 豊臣秀吉築木幡山伏見城(こはたやま
ふしみじょう、山城国)に、
1597年(慶長2年)から
1598年(慶長3年)まで
居住する。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
□ 豊臣秀吉の居住地の変遷へ。
□ 豊臣秀吉ガイドブック へ。
◆ 豊臣秀吉の本城
の変遷。
■ (C) 豊臣秀吉の本城の変遷。
■ (C1)⇒(C4) 。
(C1) 長浜城 (1573年ー1577年)、
(C2) 姫路城 (1577年ー1582年)、
(C3) 山崎城 (1582年ー1583年)、
(C4) 豊臣大阪城 (1583年ー1598年)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 豊臣秀吉 (生没年:1537年 ー1598年)は、
自分の(C)本城(ほんじょう、= 本拠地の城)を、
次のような順序で、移動する。
● (C1) 長浜城 (ながはま じょう、近江国 (おう
みのくに、現・滋賀県)を、
1573年(天正元年)から
1577年(天正5年)まで
本城とする。
● (C2) 姫路城 (ひめじじょう、 播磨国 (はりま
のくに、現・兵庫県本土南部)を、
1577年(天正5年)から
1582年(天正10年)まで
本城とする。
● (C3) 山崎城 (やまざき じょう、山城国(やま
しろのくに、現・京都府南部)を、
1582年(天正10年)から
1583年(天正11年)まで
本城とする。
● (C4) 豊臣大阪城 (と よとみおおさかじょう、
摂津国 (せっつのくに、現・大阪府西北
部)を、
1583年(天正11年)から
1598年(慶長3年)まで
本城とする。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
□ 豊臣秀吉の居住地の変遷へ。
□ 豊臣秀吉ガイドブック へ。
◆ 豊臣秀吉の政務
居城の変遷。
■ (P) 豊臣秀吉の政務居城
の変遷。
■ (P1)⇒(P10) 。
(P1) 長浜城 (1573年ー1577年)、
(P2) 姫路城 (1577年ー1582年)、
(P3) 山崎城 (1582年ー1583年)、
(P4) 二条第(妙顕寺城)
(1583年ー1587年)、
(P5) 聚楽第 (1587年ー1592年)、
(P6) 名護屋城 (1592年ー1593年)、
(P7) 豊臣大阪城 (1593年ー1594年)、
(P8) 豊臣秀吉築指月伏見城
(1594年−1596年)、
(P9) 豊臣大阪城 (1596年ー1597年)、
(P10) 豊臣秀吉築木幡山伏見城
(1597年ー1598年)。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
■ 豊臣秀吉 (生没年:1537年 ー1598年)は、
自分の(P)政務居城を、 次のような順序で、
移動する。
● (P1) 長浜城 (ながはま じょう、近江国(おう
みのくに、現・滋賀県))に、
1573年(天正元年)から
1577年(天正5年)まで
政務居城とする。
● (P2) 姫路城 (ひめじじょう、播磨国(はりま
のくに、現・兵庫県本土南部))に、
1577年(天正5年)から
1582年(天正10年)まで
政務居城とする。
● (P3) 山崎城 (やまざき じょう、山城国(やま
しろのくに、現・京都府南部))を、
1582年(天正10年)から
1583年(天正11年)まで
政務居城とする。
● (P4) 二条第 (にじょう だい、妙顕寺城、京
(京都)、山城国(やましろのくに、現・
京都府南部))を、
1583年(天正11年)から
1587年(天正15年)まで
政務居城とする。
● (P5) 聚楽第 (じゅらく だい、京(京都)、
山城国(やましろのくに、現・京都府
南部))を、
1587年(天正15年)から
1592年 (天正20年)まで
政務居城とする。
● (P6) 名護屋城 (なごや じょう、肥前国(ひ
ぜんのくに、現・佐賀県・長崎県
本土))を、
1592年(天正20年)から
1593年(文禄2年)まで
政務居城とする。
● (P 7) 豊臣大阪城 (とよとみおおさかじょ
う、摂津国(せっつのくに、現・大阪
府西北部))を、
1593年(文禄2年)から
1594年(文禄3年)まで
政務居城とする。
● (P 8) 豊臣秀吉築指月伏見城 (しげつふ
しみじょう、山城国(やましろのくに、
現・京都府南部))を、
1594年(文禄3年)から
1596年(文禄5年)まで
政務居城とする。
● (P 9) 豊臣大阪城 (とよとみおおさかじょ
う、摂津国(せっつのくに、現・大阪
府西北部))を、
1596年(文禄5年)から
1597年(慶長2年)まで
政務居城とする。
● (P 10) 豊臣秀吉築木幡山伏見城 (こは
たやまふしみじょう、山城国(やま
しろのくに、現・京都府南部))を、
1597年(慶長2年)から
1598年(慶長3年)まで
政務居城とする。
● TKKI カナヤマ著 豊臣秀吉ガイドブック。
□ 豊臣秀吉の居住地の変遷へ。
□ 豊臣秀吉ガイドブック へ。
『 あなたのハートには
何が残りましたか? 』。
以 上。