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◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。
KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY
HANDBOOK.
カナヤマ
日本歴史辞典
日本語版
見出し語 『 お 』
No.0530。
メ ニュー (目次)。
■ 次の項目を選び、クリックして下さい。
□ 日本史 辞典 (総合)。
□ お ● 事柄順。
〇 おお 大奥。
(おおおく)。 《後宮》。
(= 江戸城・大奥)。
(= 徳川氏宗家(本家)の
奥御殿)。
(= 徳川氏宗家(本家)、
江戸幕府の後宮)。
(1590年ー1868年)。
■ 江戸幕府・大奥の詳細
な内容に関しては、
□ 江戸幕府ガイドブック。
を参照してください。
○ 徳川氏宗家(本家)の
当主の後宮。
○ 江戸幕府の将軍の
後宮。
■ 大奥 (おおおく、1590年ー1868年)
とは、 江戸城・大奥であり、 徳川氏宗家
(本家)の奥御殿(おくごてん)であり、 江
戸幕府の将軍の後宮である。
■ 大奥は、 江戸幕府の将軍(= 徳川氏
宗家(本家)の当主)の家族の世話をする
組織(役所)であり、 将軍のお世継ぎを生
み育てる場所であった。
■ 大奥 (おおおく)とは、 徳川氏宗家
(本家)(江戸幕府)の江戸城の後宮(こう
きゅう)であり、 武家(武士)の 、江戸幕
府・将軍の妻子の住い(住居スペース) で
ある。
● 大奥は、 徳川氏宗家(本家)の当主、
江戸幕府の将軍の後宮である。
● 大奥は、 江戸城本丸(表(おもて)・中
奥(なかおく)・大奥)の一部であり、 約10
00人の女性が暮らす、男子禁制の女の園
(おんなのその)であった。
江戸幕府の将軍の寵愛を得る女の
争いが起こった所でもある。
● 1590年に、日本本土支配者(= 天下人
(てんかびと))の豊臣秀吉の命(命令)によ
り、 徳川家康の率いる徳川氏は、 中部地
方 (三河、遠江、駿河、甲斐、信濃) から、
関東地方 (旧後北条氏領地) に領地替え
となり、 江戸城の築城を開始する。 ここに、
江戸城の大奥の歴史が始まる。
1868年4月11日に、徳川慶喜(よし
のぶ)の率いる徳川氏宗家(本家)は、江戸
城を、明治政府(近代日本政府)に引き渡す。
ここに、江戸城の大奥の歴史が終わる。
■ 奥御殿 (おくごてん)とは、 大名など
の上級武士の後宮(こうきゅう)であり、 武
家(武士)の、大名などの上級武士の妻子
の住い(住居スペース)である。
■ 奥 (おく、奥向(おくむき)) とは、
前近代日本の妻子の住い(住居スペース)
である。
〇 おお 大奥ガイドブック
(おおおくがいどぶっく)。
《後宮ガイドブック》。
〇 おお 大奥 簡略年表。
(おおおく かんりゃくねんぴょう)。
《後宮簡略年表》。
○ 大奥 (徳川氏宗家
(本 家)の後宮、1590年ー
1868年)の簡略年表。
(⇒ 日本史年表) 。
■ 大奥 簡略年表 (おおおく か
んりゃくねんぴょう)は、
大奥 (徳川氏 宗家(本家)の後宮、
1590年ー1868年)の簡略年表
である。
〇 おお 大奥 詳細年表。
(おおおく しょうさいねん ぴょう)。
《後宮詳細年表》。
○ 大奥 (徳川氏宗家
(本家)の 後宮、1590年
ー1868年)の詳細年表。
(⇒ 日本史年表)。
■ 大奥 詳細年表 (おおおく し
ょうさいねんぴょう)は、
大奥 (徳川氏宗家(本家)の後宮、
1590年ー1868年)の詳細年表
である。
■ 『 現在は、過去の成果であり、
未来は、現在の成果である。 』
■ 上位のWEBサイト。
□ (KOH) カナヤマ オフィシャル >
□ (Cse) 国際理解総合サイト >
□ (Ke) 百科事典。 >
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□ (Kjhh) この日本語ページ 。
◆ カナヤマ日本歴史辞典
日本語版。
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◆ 日本史辞典
● 見出し語は、グリーンでマークされています。
□ 大奥(総合)ページへ。
■ 大奥。
(おおおく)。
■ 江戸幕府 大奥 (えどばくふ・おおおく)
の詳細な内容に関しては、
『 江戸幕府 大奥ガイドブック 』 を参照
して下さい。
■ 大奥 (総合)。
■ 名称 : 大奥 (おおおく)。
■ 大奥の存在期間 : 1590年 (秀吉の命(め
い)により関東移封で家康の江戸城移動)から、
1868年 (官軍の江戸城無血開城) まで。
■ 大奥は、
江戸幕府の官僚組織(役所)として、機能して
いた。
■ 大奥は、
愛と欲望が渦巻く女の園である。
■ 大奥は、
徳川宗家(本家)の当主、江戸幕府の将軍の
後宮である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 41438。
□ 大奥 詳細年表。
映画。
■ 大奥 (おおおく) とは、 徳川宗家(本家)の
当主である、江戸幕府の将軍、の後宮 である。
■ 大奥は、 将軍の正室夫人である御台所(みだ
いどころ)を頂点に、ピラミッド状に広がる組織
(役所)であった。
徳川宗家(本家)の将軍家では、 将軍の
正室夫人である御台所が、将軍の子を産み、
将軍(徳川家光)となった例は、 第2代将軍・
徳川秀忠の正室夫人(御台所)のお江(おごう)
のみである。
徳川宗家(本家)の将軍家では、 「御庭
御目見え」(おにわおめみえ)などで側室夫人
の女性が選ばれ、 ほとんど、御台所(将軍・
正室夫人)に代わって側室夫人が将軍の子を
産み、側室夫人の子の一人が将軍となった。
■ 大奥は、 将軍のお世継ぎを生み育てる場所
であり、 健康で立派なお世継ぎを産み育てる
場所である。
しかし、大奥は、不健康な場所であり、
大奥では、子供の死亡率は非常に高かった。
子供の高死亡率の原因は、 鉛中毒(鉛
汚染)とストレスなどである。
大奥の女性の遺骨などの調査などにより、
大奥では、大奥の女性は、当時、気品を保つ
ため、鉛白(えんぱく)の真っ白な白粉(おしろ
い)を顔、首、胸などにぬり、鉛中毒となってい
た。
女性の乾いた鉛白の白粉(おしろい)が
空気中に漂い、女性や子供の鼻や口から体内
に入り、鉛中毒(鉛汚染)を起こしていた。
また、江戸幕府では、乳母・春日局(かす
がのつぼね)のように、乳を与える乳母(うば)
に政治権力を持たせないため、 乳の出るの
女性 (多くは御家人(ごけにん、下級幕臣)の
女性等) が顔に白い布を張って授乳中将軍の
子が見えないように、将軍の子に乳を飲ませ
ていたため、子の顔を見ないで乳をあげる女
性はストレスがたまり、そのストレスが、子にも
移り、将軍の子の健康な生育を妨げた。
■ 大奥 (おおおく)は、 秀吉の命(めい、命令)
による関東移封での家康の江戸城移動の、15
90年から、 官軍の江戸城無血開城の、1868
年まで江戸城に存在し、 江戸幕府の官僚 組織
(役所)として、機能していた。
■ 実は、 江戸時代、 江戸幕府の将軍と共に、大
奥にいた、 将軍の母 (生母、乳母、義母) や
夫人 (正室、側室) と その側近の侍女 も、
大きな政治権力をもち、 日本の政治を動かして
いた。
● 大奥は、 江戸幕府の官僚組織(役所)として、
機能していた。
● 江戸時代、 男性の将軍、幕閣(幕府重臣)、藩主
と並んで、 実質的に、 大奥の女性の、将軍の母、
夫人、実務総支配役も、 日本の政治を動かし、日
本を支配していた。
■ 日本の歴史の中でも、女性の地位が極めて低か
った江戸時代にあって、 大奥にいた女性 (将軍
の母や夫人やその側近の御年寄(おとしより、上
級幹部) は、例外として、 極めて地位が高かっ
た と言える。
● 将軍と共に、大奥の女性の、将軍の母や妻も、
日本の政治を動かしていた。 例えば、2代将軍・
秀忠正室夫人・お江与、 3代将軍・家光乳母(う
ば)・春日局、 5代将軍・綱吉生母・桂昌院)など
である。 そして、 大奥の女性が、幕府の役人や
各藩主の人事権を左右することもあった。
幕府の幕閣(重臣)や各藩主は、 大奥の女
性の、将軍の母や夫人の一言で、 任命、解任さ
れることもあった。
■ お部屋様 (おへやさま)とは、 江戸幕府の将軍
の側室夫人で、 将軍の子を産んだ女性である。
■ 江戸幕府の徳川将軍家。
● 江戸幕府では、15代の徳川家将軍が、擁立(よう
りつ)され、 江戸幕府は、 1603年より、1867
年まで 265年間存続し、 日本を支配する。
● 江戸幕府の将軍は、江戸時代(1603〜1868)、
日本の政治の最高権力者 で あった。 将軍は、
徳川家の世襲制であった。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 徳川将軍家の15代(15人)の将軍名、就任期間
に関しては、当日本史辞典の『 徳川将軍家 』 を
参照して下さい。
■ 徳川将軍家の大奥。
■ 大奥とは、 本丸の大奥である。
将軍の一族は、大奥、二の丸、 西の丸
の3箇所に居住していた。
本丸の大奥には、 現将軍の夫人の
正室夫人・側室夫人や成人前の子が住み、
二の丸には、 将軍の生母や元将軍側室
夫人が住み、
西の丸には、 世子夫婦や大御所夫妻が、
住んでいた。
■ 徳川将軍家の、「江戸城本丸の大奥」とは、
1603年〜1867年の265年間、日本を支
配した、徳川将軍家15代の、 将軍の、妻、
子とその家臣(奥女中、女官)が住む、生活
空間 (場所)で あった。
● 江戸城の本丸の大奥は、 広さ約2万平方メートル
で、 約1000人の奥女中(女官)が住み込みで働い
ていた。 原則として、将軍以外男子禁制であった。
● 江戸城の本丸の大奥は、 将軍 と 御台所 (み
だいどころ、将軍の正室の夫人)の下(もと)に、
本丸の大奥の組織を束(たば)ねる上級幹部の、
御年寄(おとしより) がいて、 将軍や妻子の身
の回りの世話をする、中級幹部の、御中臈 (おち
ゅうろう)がいた。
■ 江戸幕府の大奥の詳細に関しては、「 江戸幕府
大奥 ガイドブック 」 を参照して下さい。
■ 儒教思想の本格的な導入と普及。
■ 江戸時代、日本を徳川家の下(もと)に統治する
ため、徳川家独裁政権を長期に維持するため、
江戸幕府は、 儒教思想(特に朱子学)を本格的
に導入し、 普及させた。 自由・平等主義に逆行
し、 江戸 幕府は、 儒教思想の基づく、 法令上、
道徳上、 不平等な身分制社会を形成した。
■ 「身分重視」身分階級制中心の社会。
■ 自由・平等主義の現代の日本と違い、 江戸時代
の日本社会は、 厳しい身分階級制の社会であっ
た。 儒教思想により、 能力より、階級(上下級武
士、士農工商 等)、 家柄、 家格、 生まれた順
番(例、長子相続)、 性別(男女) など、 生まれ
ながらの身分が、 重要であり、 身分(貴賤)で、
その人が評価されることが多かった。
● 実力主義と人間の身分が変動した戦国・安土桃山
時代 (例、農民の秀吉が武家関白政権をつくる)
と違い、 日本の歴史の中でも、 江戸時代は、
比較的争いの少ない平和な時代であったが、 江戸
時代の日本社会は、 身分が固定された、超・不平
等社会で あった。
● 但し、下級武士の身分はお金で買え、農工商民は、
下級武士になることはできた。
(例) 坂本龍馬は、土佐藩の下級武士(郷士)で、
龍馬の祖先(4代前)は、土佐の商人(豪商、質屋
の才谷屋)で、 武士の郷士株を買って、長男に与
え、 武家の郷士坂本家を起こした。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 日本史上、女性の地位が最も低
かった、江戸時代。
■ 三従の教え (さんじゅうのおしえ)とは、
女性の一生は、親に従い、夫に従い、子
に従って生きるという教えである。
● 三従の教えは、封建社会を守るため江戸幕府が
普及した儒教思想の1つであった。
● 男尊女卑の、女性の三従教えと良妻賢母は、
江戸時代の封建社会を支えた。
● 江戸時代の女性への道徳書には、女性教訓書
の「女大学」(おんなだいがく)などがある。
■ 安土桃山時代の日本では、比較的男女平等で
あった。 しかし、江戸時代には、男尊女卑、男女
不平等となり、女性の地位が日本史上で最も低
下した。
● 徳川家康は、 林羅山(はやしらざん)などの
朱子学の儒学者を用い、朱子学の儒教思想を、
政治統治に全面採用した。
● 徳川家の江戸幕府は、 幕藩体制の長期安
定政権をつくるため、 朱子学の儒教思想を全面
採用し、 江戸時代に、 儒教基盤の封建制のピ
ラミッド社会を形成した。
● 徳川家の江戸幕府は、 忠孝などの儒教思
想により、 大名(藩主)を徳川家の江戸幕府の
将軍に服従させ、 大名家臣(藩士)を大名(藩主)
に服従させ、 農工商民を大名家臣(藩士)の武士
に服従させ、 大名家臣(藩士)の武士や農商工民
の夫人を、大名家臣(藩士)の武士や農商工民の
夫に服従させ、 江戸時代に、儒教基盤の封建制
のピラミッド社会を形成し、 約260年に及ぶ、戦
いのない、平和な、秩序のある、不平等社会を実
現させた。
● 江戸時代の日本では、 三従の教えや良妻賢母
(男性は仕事・女性は家事育児) などの儒教思想
により、 女性の男性服従が確立した。 しかし、
明治時代に入り、改善が始まり、戦後、現代日本
で、再び、男女平等となる。
● TKKI カナヤマ著 江戸幕府・大奥ガイドブック。
■ 「お家第一」、家父長制中心の武家
社会。
■ 現代と違い、江戸時代の武家社会では、儒教思
想により、 「家」が「個人」より大事であり、 「個人」
は、 「家」のために、全てを犠牲にした。
● 江戸時代の武家社会では、 武家は、「家」意識
が非常に強く、「家」に対する忠誠心が重んじられ、
また、「家」を存続させるため、あらゆる努力をはら
った。
● 「家」と「家」との結婚。 武家の女性は、 家長
の命令に従った。 武家の女性は、 原則として、
男性を選べず、 家長の決めた相手と結婚した。
武家の女性は、 個人の相手の男性とでななく、
「○○家」の男性 と結婚した。
● 現代日本は、個人と個人の自由恋愛結婚であ
るが、 その「家」と「家」との結婚の形態が、
今でも、形式的に残っている。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 「一夫多妻制」
一夫多妻制の武家社会。
■ 家を存続させる為の 武家の「一夫多妻制」。
江戸時代は、 医療未発達で栄養学の知識も
乏しく、病気等での子供や成人の死亡率が高
かったため、 将軍 は、 世襲の、徳川将軍家
(徳川宗家)という家を存続させ、家の「お血筋」
を絶(た)やさぬため、 多くの夫人(妻)を持ち、
多くの子をつくり、 男子の跡継ぎを確保しよう
とした。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 大奥の使命。
■ 江戸城本丸の、大奥の使命とは、 徳川将軍
家(徳川宗家)の世襲制の将軍の「お血筋」を
絶(た)やさぬことであった。 将軍のお世継ぎ
を誕生させ、 元服(成人)まで、養育すること
であった。
■ 将軍のプライベート空間の大奥。
■ 江戸城本丸の、大奥とは、 将軍のプライベート
空間であり、将軍の正室夫人の御台所(みだい
どころ)から雑用係まで、 約1000人もの女性が、
大奥で、勤務していた。
● 江戸時代中期に残された「女中分限帳」(大奥
女性の名簿)の分析などから、 江戸城本丸の
大奥の実際の人数は、 1000人位とされている。
■ 大奥の詳細に関しては、
『 江戸幕府 大奥 ガイドブック 』 を
参照して下さい。
■ 江戸幕府の大奥は、 幕府財政の4分の1
以上を支出し、約1000人の奥女中(女官)がいる、
巨大で、特殊な組織であり、 お世継ぎを誕生
させ、養育する、江戸幕府の政府機関であった。
江戸幕府の本丸の大奥の奥女中(侍女)は、
将軍の跡継ぎの出産や養育に専念した。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
● 江戸時代、時期により金額は異なるが、だい
たい、 幕府財政年間一般支出80万両(約64
0億円)の4分の1の20万両(約160億円) が、
大奥に支出され、 そのうち半分の10万両(約
80億円)が大奥の女性の服飾代 (服代・装身
具代等) であった。
● 現代の女性も、 ドレス代、装身具代にお金を
かけるが、 女性の本質は、今も昔も変わって
いない。 大奥の女性も、 トレンディーなドレス・
靴・ブランドバック・アクセサリー等 オシャレに
夢中になる現代女性とあまり変わらなかった。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 江戸幕府の大奥とは、 将軍のお世継ぎ誕生・
養育システムを担う、江戸幕府の機構(官僚組
織)の1つであり、 大奥は、江戸時代 に、事
実上、日本の政治 (行政・司法・立法) や
将軍継嗣に、 深く関与した。
■ 世襲制の将軍継承者を誕生させ、養育する場
所の、大奥。
● 江戸城本丸の、大奥は、 世襲制の将軍の後
継者を生み、元服(成人)まで育てる場所であ
った。
● 江戸城本丸の、大奥で、 将軍が、誕生し、
長く養育されることにより、 大奥の女性が、
次期将軍を決定したり、 現将軍を操ったり、
幕閣(幕府重臣)人事を左右する場合もあっ
た。
■ 将軍世襲制の江戸幕府では、 将軍は、「御血
筋(おちすじ) 」 が第一で、 次期将軍を生み、
育てる大奥の女性が、 次期将軍の決定権を左
右することも多く、 キングメーカーとして、 江戸
時代の日本の政治に絶大な影響を与えた。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 「禁断の園」、「謎の女性集団」、
「燃え上がる嫉妬の炎」の大奥。
■ 江戸城本丸の、大奥は、 江戸城の本丸 (現、
皇居東御苑、1万坪、33000平方メートル) の
一部にあり、 江戸時代初めは、単に、徳川家
当主・幕府将軍の夫人(正室・側室 )やその子
供が暮す場所であったが、 お福(おふく、春日
局 (かすがのつぼね、徳川家光の乳母 (うば))
が 大奥の総支配になって、 1618年(元和4
年)に大奥法度(おおおくはっと)を定めて以後、
通常、将軍以外男子禁制で、 大奥内は、 奥
女中(将軍臣下の女性)のみで構成され、 奥女
中(女官)は、約1000人 を要する、女性だけの
「女の園」であった。
● 一般的に、大奥の内情は、江戸時代、 秘密と
された。 但し、「徳川実記」、その他の書物
には、 大奥の一部に関する記録がある。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 江戸時代当時、 江戸幕府に関する、多くの本
が、編集されたが、 公式記録の本は、その組
織を擁護し、その組織に都合よく書かれた箇所
も多く、また、 噂話(うわさばなし)を単にその
まま記載した本も、 多く出廻った。
● 江戸幕府の公式記録である 「徳川実記」 や
「続徳川実記」(未完成)は、 江戸幕府が対面
を保つため、 史実と異なり都合よく書かれた
箇所もあり、 現在は、 他の、多くの江戸時代
の書物、資料、発掘調査等と照合して、 内容
が判断されている。
■ 大奥の内情・実態が詳しくわかるようになった
のは、 明治期以降で、1868年(慶応4年)4月、
江戸城無血開城で、大奥より暇(ひま)を出された
奥女中の女性が、陳述し、その記録が残り、明ら
かになった。
江戸時代は、 江戸幕府の大奥の約定で、
大奥の奥女中には、「守秘義務」があり、 江戸幕
府が日本を支配する江戸時代の間は、 大奥の
奥女中(女官)は、退任後も、 大奥のことは、公
式には話せなかった。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
□ 大奥(総合)ページへ。
#theookuinnerpalace-appearingscenes
♪♪ 江戸幕府の大奥が登場する、興味
深い、ドキュメンタリー、ドラマ、
映画。
★ 江戸幕府の大奥が登場する、興味
深い、 ドキュメンタリー。
▼ 江戸時代・全時代の大奥。
■ 偉人たちの健康診断・歴史に
学ぶ健康法
『 大奥 不健康物語 』。
(NHKテレビ・2018年4月25日・
本放送・ドキュメンタリー番組)。
■ 大奥・全時代の詳細を述べる。
■ 徳川家斉について述べる。
■ 歴史秘話ヒストリア
『 大奥の秘密〜‘‘出世の花道’’
を生きた女たち〜 』。
(NHKテレビ・2010年(H22)6月9日・
本放送・ドキュメンタリー番組)。
■ 大奥・全時代の詳細を述べる。
▼ 江戸時代前期の大奥。
■ 歴史秘話ヒスとリア
『 大奥 シンデレラ・ストーリー
〜将軍の母・桂昌院
元祖「玉の輿」物語〜 』。
(NHKテレビ・2012年(H24)2月8日・
本放送・ドキュメンタリー番組)。
▼ 江戸時代中期の大奥。
■ 片岡愛之助の解明!歴史捜査
『 江戸城 禁断の女の園!
大奥重大事件の真相を
追え! 』。
(日テレ・テレビ・2016年1月31日・
本放送・ドキュメンタリー番組)。
■ 大奥(全時代)の詳細を述べる。
■ 絵島生島事件の詳細を述べる。
■ その時歴史が動いた
『 大奥 悲しみの果てに
〜徳川家宣正室 天英
院 熙子の生涯〜 』。
(NHKテレビ・2006年(H18)4月・
本放送・ドキュメンタリー番組)。
■ 江戸中期の大奥を述べる。
■ 絵島生島事件を述べる。
▼ 江戸時代後期の大奥。
■ 謎解き!江戸のススメ
『 11代将軍 徳川家斉 』。
(TBSテレビ・2014年(平成26年)
8月4日・本放送・ドキュメンタリー)。
■ 江戸後期の大奥を述べる。
■ 徳川家斉の生涯を詳細に述べる。
■ その時歴史が動いた
『 大奥 華(はな)にも意地あり
〜江戸城無血開城・天章院
篤姫〜 』。
(日本のNHK2007年(H19)4月・
本放送のドキュメンタリー番組)。
■ 幕末の大奥を述べる。
■ 天章院 篤姫の詳細を述べる。
★ 江戸幕府の大奥が登場する、興味
深い、ドラマ、映画。
● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。
歴史のドラマ、映画は、史実 (歴史の事
実) と 架空の出来事が、 混じって、 描
かれています。 また、現代風にアレンジし
てあります。
■ 次の大奥のドラマや映画は、 単に、セレブ
女性の愛憎劇や女性の玉の輿(たまのこし)
の物語だけではなく、 江戸時代の状況や政
治権力闘争も描いており、 江戸時代の日本
を理解するのに、役に立 つ。 また、当時の
人たちが 人生をどう切り開いていったかを
知ることもできる。
● 江戸時代の政治権力闘争とは、 江戸時代
に日本を支配していた、江戸幕府の政治権
力の実権を、誰が握るかという主導権争いで
ある。
▼ 江戸時代前期の大奥。
■ 『 大奥・第一章
(おおおく・だいいっしょう) 』 。
(フジテレビの2004・2005年制作テレビ
ドラマ)。
■ 江戸時代・初期の大奥を描く。
■ 江戸幕府の初代将軍・徳川家康(いえやす)、
第2代将軍・徳川秀忠(ひでただ)、第3代
将軍・徳川家光(いえみつ)の時代 と その
時代の大奥を描いたドラマ。
● 春日局 (かすがのつぼね、お福(おふく))
を演じた女優名: 松下由樹。
● 松下由樹、 高島礼子、 瀬戸朝香 など
が出演。
■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』。
(NHKテレビ・2011年大河ドラマ)。
■ 江戸時代初期の大奥を描く。
● 江(ごう)を演じる女優名 : 上野 樹里
(うえのじゅり)。
■ 『 天下騒乱〜徳川三代の
陰謀 (てんかそうらん〜とく
がわさんだいのいんぼう) 』。
(テレビ東京の2006年制作テレビ
ドラマ)。
■ 江戸時代・初期の大奥を描く。
■ 江戸幕府の初代将軍家康、2代将軍秀忠、
3代将軍家光 時代 と その時代の江戸
幕府の大奥が登場するドラマ。
■ 『 女帝 春日局
( じょてい かすがのつぼね) 』 。
(日本の1990年東映制作映画)。
■ 江戸時代・初期の大奥を描いている。
▼ 江戸時代中期の大奥。
■ 『 大奥・華の乱
(おおおく はなのらん) 』 。
(フジテレビ・2005年制作テレビドラマ)。
■ 江戸時代中期の大奥を描く。
■ 江戸幕府の第4代将軍・徳川家綱(いえ
つな)、第5代将軍・徳川綱吉(つなよし)
時代 と、 その時代の大奥を描いた
ドラマ。
● 内山理名、藤原紀香、小池栄子、
高岡早紀などが出演。
■ 『 大奥・もうひとつの物語 』。
(フジテレビの2006年制作テレビ
ドラマ)。
■ 江戸時代中期の大奥を描く。
■ 江戸幕府の第6代将軍・徳川家宣(いえ
のぶ)時代 と その時代の大奥を描い
たドラマ。
● 深田恭子、高島礼子、井川遥、浅野ゆう子
などが出演。
■ 『 大奥 (おおおく) 』 。
(日本の2006年制作東映・映画)。
■ 江戸時代中期の大奥を描く。
■ 江戸幕府の第7代将軍家継(いえつぐ)
時代 とその時代の大奥を描いた映画。
● 仲間由紀恵、高島礼子、井川遥、浅野
ゆう子などが出演。
▼ 江戸時代後期の大奥。
■ 『 第一部 〜最凶の女〜 』。
(フジテレビの2016年1月22日・
本放送テレビドラマ)。
■ 江戸時代後期の大奥を描く。
■ 江戸幕府の第11代将軍・徳川家斉(いえ
なり)時代 と その時代の大奥を描いた
ドラマ。
■ 『 篤姫 (あつひめ) 』。
(NHKテレビの2008年大河ドラマ)。
■ 江戸時代・幕末の大奥を描く。
■ 江戸幕府の第12代将軍家慶、第13代将軍
家定、第14代将軍家茂、第15代将軍慶喜
の時代 と、 その時代の大奥 及び 明治
時代初期 と その 時期の天璋院・篤姫(て
んしょういん・あつひめ)の行動を描いた、ドラ
マ。
● 宮崎あおい主演。
○ PRフォト。
(ドラマ「篤姫」の書籍販促PR用フォト)。
■ 『 大奥・幕末の女たち 』。
(フジテレビの2003年・2004年制作
テレビドラマ)。
■ 江戸時代・幕末の大奥を描く。
■ 江戸幕府の第12代将軍家慶(いえのぶ)、
13代将軍家定(いえさだ)、14代将軍家
茂(いえもち)、15代将軍慶喜(よしのぶ)
の時代 及び 明治初期を描いた、ドラマ。
● 菅野美穂、安達祐実、浅野ゆう子、
池脇千鶴など が出演。
□ 大奥(総合)ページへ。
◆ 江戸幕府・大奥
簡略年表。
(えどばくふ おおおく かんりゃく
ねんぴょう)。
■ 江戸幕府・大奥 簡略年表。
■ 1590年 ● 豊臣秀吉の命(めい)による徳川家の関東
領地換えにより、 江戸城が、 徳川家の本城
となり、 徳川家康の妻子が、江戸城に移り、
江戸城の奥御殿(おくごてん)即ち、大奥 が誕
生する。
初めは、大奥は、将軍の 夫人(正室、側室)
や元服(成人)前の子 が単に居住する場所で
あった。
徳川家康が駿府城へ移動する1607年
(慶長12年)まで、家康の側室夫人が、交代
で、大奥の実務の実権を持つ。 徳川家康は、
二人目の正室夫人の秀吉の妹のあさひ即ち
「駿河御前」が1590年に死去以後、正室夫
人をもたず。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1599年頃 ● 秀忠正室夫人・お江(おごう、お江与)が、
(慶長 4年) 京(都)の伏見城から、江戸城の大奥に入る
(移動する)。
■ 1603年 ● 徳川 家康 (いえやす、将軍在任1603〜
05) が、 江戸幕府・初代将軍となる。 江
戸幕府が、樹立される。
■ 1604年 ● お江(おごう)が、竹千代(徳川家光)を出
(慶長 9年) 産する。
● 徳川 家康の命(めい)で、竹千代の乳母と
して、お福(おふく)が大奥に入る。
■ 1605年 ● 徳川 秀忠 (ひでただ、将軍在任1605〜
23、家康の三男)が、 江戸幕府・第2代将軍
となる。
● 大姥局の侍女、お静(おしず)が、秀忠に見
初められ、男子(保科正之、会津松平家初代
当主、会津藩祖)を生む。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1607年 ● 徳川家康が、大御所として江戸幕府の実権
(慶長12年) を持ったまま、江戸城より駿府城(すんぷじょう)
へ移る。 家康の側室夫人達も、家康の駿府城
に移る。
● 秀忠正室・お江与(おえよ)が、 大奥の最高
権力者となる。 大奥の実務の実権は、秀忠乳
母・大姥局(おおばのつぼね、1525〜1613
年))が握る。
■ 1613年頃 ● 秀忠乳母・大姥局が大奥を去り、民部卿局
(慶長18年) (みんぶきょうのつぼね)とお福(おふく)が大
奥の実務の実権を握る。
■ 1618年 ● 徳川秀忠が、正室夫人のお江(おごう)と家
光乳母のお福(おふく、春日局) の助言を得て、
大奥法度(おおおくはっと) を定める。
大奥は、正式に、将軍の世継(よつぎ)を生
み、育てる場所となる。
● これ以後、 正室夫人のお江(おごう)と家
光乳母のお福(おふく、春日局) の二人が、協
力して大奥の(中身の)システムを確立する。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1623年 ● 徳川 家光 (いえみつ、将軍在任1623〜
51、秀忠のニ男) (秀忠の長男、 家光の腹
違いの兄は早世) が、 江戸幕府・第3代将軍
となる。 家光将軍時代、家光乳母・お福(春
日局)が大奥の実務の実権を握る。
お福(春日局)が、 お楽(おらく、後の家綱
生母)、 お玉(おたま、後の綱吉生母)、 お夏
(おなつ、後の家宣祖母) の3人の丈夫な町娘
を大奥に入れ、 町娘は家光に見初(みそ)めら
れ、それぞれ家光の男子を産む。
お福(春日局)の死後(1643年)は、 以前
家光に見初められ尼僧院主で還俗(げんぞく)
した、お万(おまん、永光院)が、 大奥の実務
の実権(1643〜51年)を握る。
■ 1651年 ● 徳川 家綱 (いえつな、将軍在任1651〜
80、家光の長男)が、 江戸幕府・第4代将軍
となる。 家綱将軍時代、家綱乳母・矢島局(や
じまのつぼね) が、御年寄(実務幹部)となり、
大奥の実務の実権を握る。
■ 1680年 ● 徳川 綱吉 (つなよし、将軍在任1680〜
1709、家光の四男) が、 江戸幕府・第5代
将軍となる。 綱吉将軍時代、お玉(おたま、桂
昌院(けいしょういん)が、 大奥の最高権力者
となる。
■ 1709年 ● 徳川 家宣 (いえのぶ、将軍在任1709〜
12、家光の孫) が、江戸幕府・第6代将軍と
なる。 家宣将軍時代、家宣正室夫人・熙子(ひ
ろこ、天英院)が、大奥の最高権力者となる。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1713年 ● 徳川 家継 (いえつぐ、将軍在任1713〜
16、家宣の四男)が、4歳で、江戸幕府・第7代
将軍となる。 家継将軍時代、1713〜14年、
家継生母・月光院(お喜世)が、大奥の最高権
力者となる。 1713〜14年、 月光院付御年
寄・絵島が、大奥の実務の実権を握る。
■ 1714年 ● 絵島生島(えじまいくしま)事件が起こり、大
奥の風紀が粛清される。
1714年の絵島生島事件後、月光院(お喜
世)は、面目を失い、1714〜16年、再び、家
宣正室夫人・熙子(天英院)が、大奥の権力者
となる。
■ 1716年 ● 熙子(天英院)が、 1716年、 次期8代将
軍に徳川吉宗を指名する。
徳川 吉宗 (よしむね、将軍在任1716〜
45、家康の曾孫、紀州藩主) が、1716年、
江戸幕府・第8代将軍となる。
その後、吉宗将軍時代、 財政再建の名目
で、大奥の人員が、大幅に縮小される。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1745年 ● 徳川 家重 (いえしげ、将軍在任1745〜60、
吉宗の長男) が、 江戸幕府・第9代将軍となる。
家重将軍時代、 家重は、大奥に入浸(いりびた)
りとなる。
■ 1760年 ● 徳川 家治 (いえはる、将軍在任1760〜86、
家重の長男)が、 江戸幕府・第10代将軍となる。
■ 1787年 ● 徳川 家斉 (いえなり、将軍在任1787〜183
7、吉宗の曾孫、一橋徳川家当主・徳川治済の長
男) が、 江戸幕府・第11代将軍となる。 家斉
将軍時代、 家斉は、側室40人、子供55人を持
つ。 その後半期、お美代(おみよ)が、大奥の実
務権力者となる。
■ 1837年 ● 徳川 家慶 (いえよし、将軍在任1837〜53、
家斉のニ男) が、 江戸 幕府 第12代将軍と
なる。 家慶将軍時代、御年寄の姉小路(あねこ
うじ)が大奥の実務の実権を握る。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1853年 ● 徳川 家定 (いえさだ、将軍在任1853〜58、
家慶の四男)が、 江戸幕府・第13代将軍となる。
家定将軍時代、家定生母・本寿院(ほんじゅい
ん)と家定乳母・歌橋(うたはし)が、大奥の権力
者となる。 将軍付御年寄・滝山が、大奥の実務
の実権を握る。
■ 1858年 ● 徳川 家茂 (いえもち、 将軍在任1858〜6
6、 家斉の孫、紀州藩主) が、江戸幕府第14
代将軍となる。 家茂将軍時代、天璋院(篤姫)が、
大奥の最高権力者となる。 将軍付御年寄・滝山
が、大奥の実務の実権を保つ。
■ 1866年 ● 徳川 慶喜 (よしのぶ、将軍在任1866〜67、
家康の子孫、9代水戸藩主・徳川斉昭の七男、一
橋徳川家当主) が、江戸幕府第15代将軍とな
る。 慶喜将軍時代、天璋院(篤姫)と和宮が、大
奥の権力者となる。
慶喜の正室・側室(妻達)は、大奥には居住
せず。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1867年 ● 幕府の大政奉還により、江戸幕府が、終焉(し
ゅうえん)する。
■ 1868年 ● 大奥法度は廃止となり、 江戸城の大奥が、江
戸城無血開城により、消滅する。
□ 大奥(総合)ページへ。
#innerpalacedetailedchronology
◆ 江戸幕府・大奥
詳細年表 。
(えどばくふ おおおく しょうさい
ねんぴょう)。
■ 江戸幕府・大奥 詳細年表。
■ 当年表は、大奥(1590年〜1868年)が存在した
時代の詳細年表 である。
■ 歴史学の立場から、年代を追って、江戸幕府・大奥
の実像 (歴史的 有名な出来事には、虚像と実像があ
りますが) を見てみよう。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典 31432。
■ 江戸幕府 大奥 (えどばくふ・おおおく) の詳細 な
内容に関しては、 『 江戸幕府 大奥 ガイドブック(要
覧) 』 を参照して下さい。
を、 明治時代については、 『 近代日本歴史詳細
年表 』 を参照して下さい。
■ より理解を深めるために、当年表と近い時期の日本
も参照して下さい。
■ 当年表は、 西暦を先に、 その後ろの( )内に和暦
を記載している。
■ 当年表の日付は、 1872年(明治5年)以前は旧暦
陽暦) を記載している。
● 当年表の日付(年月日)は、一般的な歴史書籍で使
用されているのと同じように、 1872年(明治5年)12
月2日までは、 旧暦(太陰太陽暦)を用い、 1873年
(明治6年)1月1日以後は、 新暦(現在の太陽暦、グ
レゴリオ暦)を用いている。
○ 幕末の大奥の実力者、篤姫 (あつひめ、
天璋院(てんしょういん)) (上、NHK大河
ドラマ「篤姫」での天璋院・篤姫フォト) 。
□ 大奥 詳細年表の先頭へ戻る。
□ 大奥(総合)ページへ。
◆ 江戸幕府・大奥
詳細年表。
● では、 江戸幕府・大奥 (えどばくふ おおおく)
に関係する出来事を、年代順に、 見てみよう。
#innerpalacedetailedchronology-1573
■ 1573年 ● 天正改元。
(天正 元年) 1573年7月28日に、 和暦の「元亀」
(げんき) が、 「 天正」 (てんしょう、天正
元年・1573年・7月28日〜 天正20年・
1592年・12月8日) に改元される。
■ 1590年 ● 豊臣秀吉の命(めい)による徳川家の関
(天正18年) 東領地換えにより、江戸城が、 徳川家の
本城となり、 徳川家康の妻子が、 江戸城
に移り、 江戸城の大奥が誕生する。 初め
は、大奥 は、徳川家当主・将軍の、夫人
(正室、側室)や元服(成人)前の子 が単
に居住する場所 であった。
徳川家康の側室夫人達や徳川秀忠の乳
母の大姥局(おおばのつぼね)が、江戸城
の大奥に入る。
徳川家康が駿府城へ移動する1607年
(慶長12年)まで、 家康の側室夫人(2人の
正室夫人は既に死去)が、交代で、大奥の
実務の実権を持つ。
■ 1599年頃 ● 秀忠正室・お江与(おえよ)が、 京(都)
(慶長 4年) の伏見城から、江戸城の大奥に入る(移動
する)。
■ 1603年 ● 徳川 家康 (いえやす、将軍在任1603
(慶長 8年) 〜05)が、江戸幕府・初代将軍となる。
江戸幕府が、樹立される。
■ 1604年 ● お江(おごう)が、竹千代(徳川家光)を出
(慶長 9年) 産する。 家康の命(めい)で、竹千代の
乳母(うば)として、お福(おふく)が大奥に
入る。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1605年 ● 徳川 秀忠 (ひでただ、将軍在任1605
(慶長10年) 〜23、家康の三男)が、 江戸幕府・第2
代将軍となる。
● 大姥局の侍女、お静が、 秀忠に見初
(みそ)められ、 男子(保科正之(ほしな
まさゆき)、後の会津松平家初代当主、
会津藩祖)を生む。
■ 1607年 ● 徳川家康が、大御所として江戸幕府の
(慶長12年) 実権を持ったまま、 江戸城より駿府城(す
んぷじょう)へ移る。 家康の側室夫人達も、
家康の駿府城に移る。
● 秀忠正室夫人・お江与(おえよ)が、大奥
の最高権力者となる。 大奥の実務の実権
は、秀忠乳母・大姥局(おおばのつぼね、
1525〜1613年))が握る。
■ 1613年頃 ● 秀忠乳母・大姥局が大奥を去り、民部卿
(慶長18年) 局(みんぶきょうのつぼね)とお福が大奥の
実務の実権を握る。
■ 1618年 ● 徳川秀忠が、正室夫人のお江(おごう)と家
(元和 4年) 光乳母のお福(おふく、春日局) の助言を得て、
大奥法度(おおおくはっと) を定める。
大奥は、正式に、将軍の世継(よつぎ)を生
み、育てる場所となる。
● これ以後、 正室夫人のお江(おごう)と家
光乳母のお福(おふく、春日局) の二人が、協
力して大奥の(中身の)システムを確立する。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1623年 ● 徳川 家光 (いえみつ、将軍在任1623〜
(元和 9年) 51、秀忠のニ男) (秀忠の長男、家光の腹
違いの兄、は早世) が、 江戸幕府・第3代
将軍となる。 家光将軍時代、 家光乳母・お
福(春日局)が、大奥の実務の実権を握る。
お福(春日局)が、 町でスカウトした、お
楽(おらく、後の徳川家綱生母)、お玉(おた
ま、後の徳川綱吉生母)、 お夏(おなつ、のち
の徳川家宣祖母) の3人の丈夫(じょうぶ)な
町娘を大奥に入れ、 3人の町娘は家光に見
初(みそ)められ、それぞれ、家光の男子を産
む。
● お福(春日局)の死後(1643年)は、以前
家光に見初められ尼僧院主で還俗した、お万
(永光院)が、 大奥の実務の実権(1643〜
51年)を握る。
■ 1651年 ● 徳川 家綱 (いえつな、将軍在任1651〜
(慶安 4年) 80、家光の長男)が、 江戸幕府・第4代将
軍となる。 家綱将軍時代、家綱乳母(うば)・
矢島局(やじまのつぼね) が、御年寄(上級
幹部)となり、大奥の実務の実権を握る。
■ 1680年 ● 徳川 綱吉 (つなよし、将軍在任1680
(延宝 8年) 〜1709、家光の四男) が、 江戸幕府・
第5代将軍となる。 綱吉将軍時代、将軍生
母の桂昌院(けいしょういん、お玉(おたま))
が、 大奥の最高権力者 となる。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1709年 ● 徳川 家宣 (いえのぶ、将軍在任1709
(宝永 6年) 〜12、家光の孫) が、江戸幕府・第6代
将軍となる。 家宣将軍時代、家宣正室夫人・
熙子(天英院)が、大奥の最高権力者となる。
■ 1713年 ● 徳川 家継 (いえつぐ、将軍在任1713〜
(正徳 3年) 16、家宣の四男)が、 4歳位で、江戸幕府
・第7代将軍となる。 家継将軍時代、1713
〜14年、家継生母・月光院(お喜世)が、大
奥の最高権力者となる。 1713〜14年の
間、 月光院(お喜世)付御年寄(おとしより、
大奥上級幹部)の絵島(えじま)が、大奥の実
務の実権を握る。
□ 大奥 詳細年表の先頭へ戻る。
#innerpalacedetailedchronology-1714
■ 1714年 ● 絵島生島(えじまいくしま)事件が起こり、
(正徳 4年) 大奥の風紀が粛清される。
1714年の絵島生島事件後、月光院(お
喜世)は、面目を失い、1714〜16年の間、
再び、家宣正室夫人・熙子(天英院)が、大
奥の最高権力者となる。
■ 1716年 ● 家宣正室夫人・熙子(天英院)が、 1716
(正徳 6年) 年、 次期将軍に徳川吉宗を指名する。
● 徳川 吉宗 (よしむね、将軍在任1716〜
45、家康の曾孫、紀州藩主) が、1716年、
江戸幕府・第8代将軍となる。
その後、吉宗将軍時代、 財政再建等が
目的で、大奥の人員が、大幅に縮小される
(吉宗の大奥のリストラの断行)。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1745年 ● 徳川 家重 (いえしげ、将軍在任1745
(延享 2年) 〜60、吉宗の長男)が、 江戸幕府・第9代
将軍となる。 家重将軍時代、 家重は、大
奥に入浸(いりびた)りとなる。
■ 1760年 ● 徳川 家治 (いえはる、将軍在任1760
(宝暦10年) 〜86、家重の長男)が、江戸幕府・第10
代将軍となる。
■ 1787年 ● 徳川 家斉 (いえなり、将軍在任1787
(天明 7年) 〜1837、 吉宗の曾孫、一橋徳川家当主
・徳川治済の長男)が、江戸幕府・第11代
将軍となる。 家斉将軍時代、 家斉正室
夫人の篤姫(あつひめ、広大院(こうだいい
ん)、薩摩藩出身)とその側近の花町(はな
まち、後に大奥火事で焼死)が、大奥の権
力者となる。 家斉は、側室夫人約40人、
子供約55人を持つ。 家斉将軍時代の
後半期は、側室夫人の1人のお美代(お
みよ) が、大奥の実権を握る。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1830年 ● 天保改元。
(天保 元年) 1830年12月10日に、 和暦の「文
政」(ぶんせい) が、 「 天保」 (てんぽ
う、天保元年・1830年・12月10日〜天
保15年・ 1844年・12月2日) に改元
される。
■ 1837年 ● 徳川 家慶 (いえよし、将軍在任1837
(天保 8年) 〜53、家斉のニ男)が、江戸幕府 第12
代将軍となる。 家慶将軍時代、 御年寄
(おとしより、上級幹部)の姉小路(あねこ
うじ) が大奥の実務の実権を握る。
■ 1848年 ● 嘉永改元。
(嘉永 元年) 1848年2月28日に、和暦の「弘化」
(こうか)が、 「嘉永」(かえい、嘉永元年・
1848年・2月28日〜嘉永7年・1854
年・11月27日) に改元される。
■ 1851年 ● 1851年2月、島津斉彬(なりあきら)が、
(嘉永 4年) 11代薩摩藩主となる。
□ 大奥 詳細年表の先頭へ戻る。
#innerpalacedetailedchronology-1853
■ 1853年 ● 徳川 家定 (いえさだ、将軍在任1853
(嘉永 6年) 〜58年、家慶の四男)が、 江戸幕府・第
13代将軍となる。
● これ以後、 家定は体が弱かったため、
次期14代将軍継嗣(けいし)問題が起こ
り、 雄藩連合政治を望み次期14代将軍
に一橋慶喜 (ひとつばし よしのぶ、水戸
藩出身一橋家当主)を擁(よう)する、一橋
派 と、 徳川独裁政治を望み次期14代
将軍に徳川 慶福(よしとみ、紀伊藩藩主)
を擁する、紀州派(南紀派) とが、対立す
る (1853年〜1859年頃)。
● 家定将軍時代に、 家定の生母・本寿院
(ほんじゅいん)と家定乳母・歌橋(うたはし)
が、大奥の権力者となる。 また、将軍付御
年寄・滝山(たきやま)(御年寄り在任、18
53〜1867年)が、 大奥の実務の実権
を握る。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1853年 ● 1853年6月、アメリカのペリー艦隊が日
(嘉永 6年) 本来航。 開国を要求。
■ 1853年 ● 江戸幕府の老中首座・阿部正弘が、 挙
(嘉永 6年) 国的な対策を立てようと、 開国について、
諸大名や色々な人物に、意見を求めたた
め、 これ以後、日本各地で、 外国勢力を
武力で追い払うことを主張する、尊皇(王)
攘夷派(そんのうじょういは) と、 開国し
外国勢力と協力して、先進の西洋文化を
採り入れて国を発展させることを主張する、
開国派(かいこくは) とが対立する (18
53年〜1867年頃)。
■ 1853年 ● 篤姫 (あつひめ、於一(おかつ、島津
(嘉永 6年) 一)が、 島津家本家の養女となる。 篤
姫は、島津篤子 (しまづあつこ)、篤姫(あ
つひめ) と称す。
■ 1853年 ● 1853年 8月、江戸幕府の老中首座・
(嘉永 6年) 阿部正弘(まさひろ)と島津斉彬(なりあき
ら)との話し合 いで、 篤姫(あつひめ)の
輿入(こしい)れが決まる(内定する)。
■ 1854年 ● 1854年3月、日米和親条約締結。
(嘉永 7年) 日本開国。
● 1854〜55年に、幕府・老中首座・阿部
正弘は、 欧米列強の米英露蘭と和親条
約を締結する。
■ 1854年 ● 安政改元。
(安政 元年) 1854年11月27日に、和暦の「嘉永」(か
えい)が、 「安政」 (あせんい、安政元年・
1854年・11月27日〜安政7年・1860年
・3月18日) に改元される。
■ 1856年 ● 1856年11月、篤姫 (あつひめ、近衛
(安政 3年) 敬子 (このえすみこ、一橋派)、江戸城・大
奥に入る。
■ 1856年 ● 1856年12月、薩摩藩出身の篤姫(近衛
(安政 3年) 敬子) が、 家定(いえさだ)と婚礼 の式を挙
げ、13代将軍・徳川家定(いえさだ)の正室
夫人 となる。
■ 1858年 ● 1858年6月、日米修好通商条約締結。
(安政 5年) ● 安政の5カ国条約締結。 1858年6月〜
9月に、幕府・大老・ 井伊直弼(なおすけ)
は、 勅許を得ず、欧米列強の米蘭露英
仏と不平等な「安政の5カ国条約」(修好
通商条約)を締結する。
■ 1858年 ● 1858年12月、徳川家茂(いえもち、慶
(安政 5年) 福) が、幕府14代将軍 となる。
● 徳川 家茂 (いえもち、 将軍在任1858
〜66、 家斉の孫、 紀州藩主) が、 江戸
幕府 第14代将軍となる。 家茂将軍時代、
天璋院(てんしょういん、篤姫)と家茂生母が、
大奥の権力者となる。 将軍付御年寄・滝山
が、 大奥の実務の実権を保つ。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1860年 ● 万延改元。
(万延 元年) 1860年3月18日に、和暦の「安政」(あ
んせい)が、 「万延」(まんえん、万延元年・
1860年・3月18日〜万延2年・1861年・
2月19日) に改元される。
■ 1860年 ● 1860年 3月、桜田門外の変。 大老・
(万延 元年) 井伊直弼が、暗殺される。
● これ以後、 江戸幕府は公武合体政策を
すすめ、 尊皇攘夷派・急進派 と 公武合
体派・佐幕派 とが対立する (1960年〜
1864年頃)。
■ 1861年 ● 文久改元。
(文久 元年) 1861年2月19日に、和暦の「万延」(ま
んえん)が、 「文久」 (ぶんきゅう、文久元
年・1861年・2月19日〜文久4年・1864
年・2月20日) に改元される。
■ 1862年 ● 1862年 2月、江戸幕府将軍・徳川家茂
(文久 2年) と 孝明天皇の妹・皇女・和宮の婚儀が為
(な)される (公武合体の政策のため)。
■ 1864年 ● 元治改元。
(元治 元年) 1864年2月20日に、和暦の「文久」(ぶ
んきゅう)が、 「元治」 (げんじ、元治元年
・1864年・2月20日〜元治2年・1865年・
4月7日) に改元される。
■ 1864年 ● 1864年7月、禁門(きんもん)の変
(元治 元年) (蛤御門(はまぐりごもん)の変)。
■ 1864年 ● 1864年8月、幕府、第1次長州征討
(元治 元年) (1864年8月〜12月) 開始。
■ 1864年 ● 1864年11月、 長州藩は、幕府に屈服
(元治 元年) し、幕府に対し恭順(きょうじゅん)の 態度を
とった。 1864年12月に、幕府軍は、 引
き揚げる。
■ 1864年 ● 1864年12月15日に、長州藩で、高杉
(元治 元年) 晋作(たかすぎしんさく)が、奇兵隊を率い
て挙兵する (功山寺(こうざんじ)挙兵)。
その後、高杉晋作は、幕府に恭順した長
州藩の保守派(俗論派)を退(しりぞ)け、
長州藩の藩論を、討幕へ転換させた。
● これ以後、日本各地で、 尊皇(王)討幕派
と 公武合体派・佐幕派 とが対立する (18
64年〜1866年頃) 。
■ 1865年 ● 慶応改元。
(慶応 元年) 1865年4月7日に、和暦の「元治」(げんじ)
が、「慶応」 (けいおう、慶応元年・1865
年・4月7日〜慶応4年・1868年・9月8日)
に改元される。
■ 1866年 ● 1866年1月、薩長同盟成立。 薩長の
(慶応 2年) 反幕府政治・軍事同盟の密約。
● これ以後、日本各地で、 尊皇(王)討幕
派 と 公議政体派・佐幕派 とが対立する
(1866〜1867年頃)。
■ 1866年 ● 1866年6月、幕府は、長州に対し、第2
(慶応 2年) 次長州征討(1866年6〜7月)を開始する。
● 第2次長州征討で、龍馬は、長州藩海軍
を支援する。
■ 1866年 ● 1866年7月、幕府将軍・徳川家茂死去
(慶応 2年) (病死)。 第2次長州征討、中止となる。
事実上、失敗し、江戸幕府は、権威を低下
させる。
● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。
■ 1866年 ● 1866年12月、徳川慶喜(よしのぶ)、
(慶応 2年) 幕府15代将軍となる。 和宮と共に、篤姫
(天璋院)は、慶喜の大奥改革に反対する。
● 徳川 慶喜 (よしのぶ、将軍在任1866
〜67、家康の子孫、9代水戸藩主・徳川斉
昭の七男、一橋徳川家当主) が、江戸幕
府第15代将軍となる。 慶喜の妻子は、大
奥に入らず。
慶喜将軍時代は、天璋院(篤姫)と和宮
(かずのみや)が、大奥の権力者となる。
■ 1867年 ● 1867年10月、江戸幕府、大政奉還(政
(慶応 3年) 権を朝廷へ返上)。
● 幕府の大政奉還により、江戸幕府が、終
焉(しゅうえん)する。
■ 1868年 ● 1868年4月、江戸幕府(徳川宗家)の
(慶応 4年) 本拠地の江戸城、無血開城。 討幕軍、江
戸入場。
● 大奥法度は廃止となり、 江戸城の大奥
が、江戸城無血開城により、消滅する。
● 大奥の女性は、急いで、大奥を退去した。
天璋院(篤姫)は、多くの大奥女中の再就職
先の世話をした。
■ 1868年 ● 明治改元。
(明治 元年) 1868年9月8日に、和暦の「慶応」(けい
おう) が、「明治」 (めいじ、明治元年・18
68年・9月8日〜明治45年・1912年・7月
30日) に改元される。
■ 江戸幕府の大奥の詳細の内容に関しては、「 江戸幕府
大奥 ガイドブック (要覧) 」 を参照して下さい。
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『 あなたのハートには
何が残りましたか? 』
以 上。