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KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY HANDBOOK.
カナヤマ 日本歴史 辞典
日本語版
見出し語 『 た 』
No.0291。
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■ 次の項目を選び、クリックして下さい。
□ 日本史 辞典 (総合)。
□ た ≪ 平 清盛 ≫
● 事柄順。
〇 たい 平 清盛。
(たいらの きよもり)。 《伊勢平氏》。
(1118年ー1181年)。
○ 平氏政権の創始者。
○ 伊勢平氏の頭首。
○ 保元の乱、平治の乱の伊勢
平氏軍の指導者で、勝者となっ
た。
○ 貿易立国をめざした武将。
■ 平 清盛 (たいらの きよもり、1118
年ー1181年)は、 平氏政権 (1167
年頃ー1185年頃)の創始者である。
■ 平 清盛は、 伊勢平氏の党首であり、
保元の乱、平治の乱の伊勢平氏軍の指
導者で、勝者となった。
■ 平 清盛は、 貿易立国をめざした武
将である。
■ 平清盛 (たいらのきよもり)は、朝廷
のある京(都)で、武士が貴族となり朝廷
と同化することで、 朝廷から政治の実権
を奪い、武家政権(平氏政権)をつくろうと
した。
一方、源 頼朝は、 朝廷に組み込ま
れないように、京(都)から離れて鎌倉で、
朝廷から政治の実権を奪い、新しい武家
政権(源氏政権)をつくろうとした。
〇 たい 平 清盛 簡略年表。
(たいらのきよもりかんりゃくねんぴょう) 。
《人物年表》。
(⇒ 日本史年表) 。
ページへ。
■ 『 現在は、過去の成果であり、
未来は、現在の成果である。 』
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◆ 日本史辞典
● 見出し語は、グリーンでマークされています。
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■ 平 清盛
(たいらの きよもり)。
■ 平 清盛。
■ 名称 : 平 清盛 (たいらの きよもり)。
■ 生没年 : 1118年ー1181年。
■ 平氏政権(1167年頃ー1185年頃)
の創始者。
■ 平安時代末期の武将、政治家。
■ 日本の歴史を変えた政治家、武将。
■ 貿易立国をめざした武将。
■ 伊勢平氏の頭首。
保元の乱、平治の乱の伊勢平氏軍の
指導者で、勝者となった。
■ 清盛の父 (実父または養父)は、平忠盛
(たいらのただもり)。
■ 清盛の生母は、不明だが、 祇園女御の妹
(ぎおん(の)にょうごのいもうと) という説
がある。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 91638。
□ 平清盛 (総合)。
□ 平清盛 簡略年表。
□ 平安時代末期 年表。
□ 平清盛の兄弟、とその親族。
□ 平清盛の妻子、とその親族。
□ 平清盛の有力家臣。
□ 伊勢平氏。
■ 平 清盛 (たいらの きよもり、1118年ー1181
年)は、 平氏政権 (1167年頃ー1185年頃)
の創始者である。
■ 平 清盛は、 伊勢平氏の党首であり、 保元の
乱、平治の乱の伊勢平氏軍の指導者で、勝者と
なった。
■ 平 清盛は、 貿易立国をめざした武将である。
■ 平清盛 (たいらのきよもり)は、朝廷のある京
(都)で、武士が貴族となり朝廷と同化すること
で、 朝廷から政治の実権を奪い、武家政権
(平氏政権)をつくろうとした。
一方、源 頼朝は、 朝廷に組み込まれな
いように、京(都)から離れて鎌倉で、 朝廷か
ら政治 の実権を奪い、新しい武家政権(源氏
政権)をつくろうとした。
◆ 平 清盛 (総合)。
■ 平 清盛 (たいらの きよもり、 生没年 1118〜118
時代期の武将、政治家 である。
平 清盛は、 伊勢平氏の頭首となり、 貿易立国
をめざした武将である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 平 清盛の別名は、 入道相国 (にゅうどうしょうこく)、
平相国(へいしょうこく)、六波羅殿(ろくはらどの)、
六波羅入道(ろくはらにゅうどう)であり、 平 清盛の
法号は、清蓮、のち、静海、浄海(じょうかい)(出家後
の個人名)である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
1167年、朝廷の官職で最高の太政大臣になる。 ま
た、 清盛の娘、建礼門院徳子(平徳子)の子を、天皇
の位に就け(安徳天皇)、 清盛は、天皇の外戚となり、
領(知行国)は20数カ国に及び、清盛は、 伊勢平氏
の全盛期を現出させた。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 伊勢平氏は、 平 清盛の祖父・平正盛の頃より、莫
大な利益をもたらす、日宋貿易に着目(ちゃくもくし)し、
平 清盛の父・平忠盛や平 清盛は、 日宋貿易を行い、
莫大な利益を得る。 平 清盛は、 伊勢平氏が日本を
支配するには、 また、 日本の人々を豊かにする のに
は、 多大な利益をもたらす日宋貿易など貿易(輸出
入)が重要であると考え、 貿易政策を推進、強化する。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
の4代にわたり、 日宋貿易などの海外貿易で、 輸
入品を貴族や朝廷に献上したり、 中国銭などの金
属貨幣を大量に輸入し流通させたり、また、輸入品
を売却したりして、利益を得て、経済的に繁栄した。
伊勢平氏は、南宋(なんそう、1127〜1279年)
などとの日宋貿易等海外貿易で、 中国銭などの金
属貨幣を日本に大量に持ち込んむ。 中国銭などの
金属貨幣は米や絹などの物品貨幣に比べて、人々
に便利なものと認識されて使用され、 伊勢平氏は、
中国銭などの金属貨幣を大量に輸入し流通させ、利
益を得て、経済的に繁栄した。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
◆ 平安時代末期の歴代天皇一覧。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 32141。
■ 天皇の皇位継承順 は、次の通りである。
@ 白河(しらかわ)天皇 (貞仁(さだひと)親王) ⇒
(天皇在位、1072年〜1086年)
A 堀河(ほりかわ)天皇 (善仁(たるひと)親王) ⇒
(天皇在位、1086年〜1107年)
B 鳥羽(とば)天皇 (宗仁(むねひと)親王) ⇒
(天皇在位、1107年〜1123年)
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
C 崇徳(すとく)天皇 (顕仁(あきひと)親王) ⇒
(天皇在位、1123年〜1141年)
D 近衛(このえ)天皇 (体仁(なりひと)親王) ⇒
(天皇在位、1141年〜1155年)
E 後白河(ごしらかわ)天皇 (雅仁(まさひと)親王) ⇒
(天皇在位、1155年〜1158年)
F 二条(にじょう)天皇 (守仁(もりひと)親王) ⇒
(天皇在位、1158年〜1165年)
G 六条(ろくじょう)天皇 (順仁(のぶひと)親王) ⇒
(天皇在位、1165年〜1168年)
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
H 高倉(たかくら)天皇 (憲仁(のりひと)親王) ⇒
(天皇在位、1168年〜1180年)
I 安徳(あんとく)天皇 (言仁(ときひと)親王) ⇒
(天皇在位、1180年〜1185年)
J 後鳥羽(ごとば)天皇 (尊成(たかひら)親王)
(天皇在位、1183年〜1198年)。
#tairanokiyomori-allhisrelativesandretainers
◆ 平清盛の一族・郎党(総合)。
◆ 平清盛の父母、祖父母。
■ 平清盛の父 (実父または養父)は、 平忠盛(たいら
のただもり) である。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 清盛の生母は、不明だが、 平清盛には、2人の育て
の母親である養母 がいた。 一人は、平忠盛の正室夫
祇園女御(ぎおん(の)にょうご) は、 白河上皇の
寵愛する側室夫人で、 平清盛は、祇園女御の猶子(ゆ
うし、養子)であった。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 平清盛の生母は、不明である。
平清盛の生母は、「祇園女御の妹」(ぎおん(の)にょう
ごのいもうと) という説がある。 また、「祇園女御の妹」
は、 白河上皇(しらかわじょうこう)の側室夫人であった
という説がある。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 平清盛の祖父は、 平 正盛 (たいらのまさもり) で
ある。 白河上皇の信任厚く、検非違使(けびいし)や国
守を歴任する。 1108年に、追捕使(ついぶし)として、
源義親の乱を平定し、また、九州の賊徒(ぞくと)を討(う)
って、 伊勢平氏の政界進出の道を開いた。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 平 清盛の出生。
平 清盛の生母は、不明である。
一説には、平 清盛の生母は、 「祇園女御の妹」(ぎ
おん(の)にょうごのいもうと)であり、 「祇園女御の妹」
は、白河上皇の側室夫人であったという説がある。
この説を採れば、 平清盛の養父は、平忠盛で、平
清盛の実父は、白河上皇となる。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 前近代日本の、一夫多妻制の上層階層での慣習。
■ 拝領妻子の慣習 (はいりょうさいしのかんしゅう)。
拝領妻子の慣習とは、 前近代日本では、封建制度
下で、主従(君臣)関係を強めるため、従者(家臣)が主
人(主君)の妻子をもらい受ける慣習 があった。
また、 拝領妻子の慣習 とは、 前近代日本で、
封建制度下で、主従(君臣)関係を強めるため、主人
(主君)が、従者(家臣)に、主人(主君)の妻子を下げ
渡す慣習 である。
■ 前近代日本の、封建社会で、主人(主君)と従者(家
臣)の関係は、生死を共にするもので、運命共同体で
あった。 主従関係を強めるための方法の1つとして、
人(主人(主君 )が手をつけた女性)を、従者(家臣)に
与える(下げ渡す)慣習があった。
■ 平 清盛の父の、平忠盛 は、 主君の白河上皇より、
白河上皇の側室夫人の祇園女御の妹が生んだ子を下
げ渡されたか、または、 妊娠した白河上皇の側室夫
人・祇園女御の妹を下げ渡されたという可能性がある。
● もし、平忠盛 が、妊娠した白河上皇の側室夫人を
下げ渡された場合は、 白河上皇は、妊娠中の自分の
側室夫人の 「祇園女御の妹」を、 白河上皇の家臣
の平忠盛(たいらのただもり、平清盛の父)に与え(下
げ渡し)、 平忠盛と祇園女御の妹が婚儀を結び、そ
の後間もなく生まれた子供が、平清盛となる。
主君からもらい受けた側室夫人が、(女性の)おな
かも大きくなく妊娠初期という可能性もあり、 家臣が
その夫人と婚儀を結び、その後間もなく生まれた子供
は、主君の血をひく子供なのか、家臣の血をひく子供
なのかわからなくなる場合もあった。 現代社会では
DNA鑑定という方法もあるが、その当時は、 推定す
るしかなかった。
◆ 平清盛のおじ・おば、とその親族。
平清盛のおじ・おばと、その親族(夫人、夫、子供等)
を含む。
■ 祇園女御(ぎおん(の)にょうご) は、 平清盛の養母
であった。 平清盛は、祇園女御の猶子(ゆうし、養子)で
あった。
● 祇園女御 は、 平 清盛 や 藤原璋子(ふじわらのし
ょうし・たまこ) の養母であった。
藤原璋子は、後に、待賢門院 (たいけんもんいん)
とも呼ばれ、 鳥羽上皇(とばじょうこう)の正室夫人とな
り、 崇徳(すとく)天皇と後白河(ごしらかわ)天皇の生
母となる。
■ 祇園女御(ぎおん(の)にょうご) は、 平清盛の伯母
でもあった。
● 平 清盛の生母は、 祇園女御の妹(ぎおん(の)にょう
ごのいもうと)という説があり、 この説と採れば、祇園女
御(ぎおん(の)にょうご)は、 平清盛の伯母(おば)でも
あったことになる。
平 清盛の生母は、 祇園女御の妹であり、1120年
(保安元年)に、平 清盛が3歳のとき、祇園女御の妹が死
去したので、 平 清盛は、祇園女御の猶子(ゆうし、養子)
として養育されたとする説がある。
■ 平 忠正(たいらのただまさ) は、 平清盛の叔父(おじ)
である。
● 平 忠正(たいらのただまさ、生年不詳〜1156年) は、
の乱(ほうげんのらん)で、崇徳(すとく)上皇方につき、敗
れて殺される。
◆ 平清盛の兄弟。
平清盛の兄弟と、その親族(夫人と子供等)を含む。
■ 平清盛の父・平 忠盛の夫人。
■ 平清盛の父・平 忠盛(たいらのただもり)の夫人には、
平忠盛の正室夫人の、藤原宗子(ふじわらの むねこ、
池禅尼(いけのぜんに))、 平忠盛の側室夫人の、清盛
の生母(不明、祇園女御(ぎおん(の)にょうご)の妹?)、
平忠盛の側室夫人の源信雅(みなもとののぶまさ)の娘、
平忠盛の側室夫人・藤原家隆(ふじわらのいえたか)の娘、
平忠盛の側室夫人・藤原為忠の娘 などがいる。
■ 平 清盛は、長子で、父・平 忠盛(たいらのただもり)の
長男である。 清盛の兄弟は、すべて弟で、異母兄弟で
ある。
清盛の父・平忠盛の子で、平清盛の異母弟 は、平 家
盛、 平 経盛、平 教盛、平 頼盛、平 忠度 などである。
■ 平 家盛 (たいらのいえもり、1120〜1149年) は、
平忠盛の次男で、平忠盛の正室夫人・「藤原宗子(ふじわ
らの むねこ、池禅尼(いけのぜんに))」との間に生まれた
子 である。 1149年(保安元年)に病没している。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 平 経盛 (たいらのつねもり、1124〜1185年) は、
平忠盛の三男で、平忠盛の側室夫人・「源信雅(みなもと
ののぶまさ)の娘」との間にうまれた子である。 壇ノ浦の
戦いで敗れ、入水して果 てる。
● 平 経盛の子の平敦盛(たいらのあつもり)は、「一ノ谷
の戦い」で、源頼朝の御家人・熊谷直実(くまがいなおざ
ね)と一騎打ちを行い、戦死する。
平敦盛を討ちとった後、熊谷直実は、無常を感じて出
家したとする話に基づいて作られた幸若舞(こうわかまい)
で演じた。
■ 平 教盛 (たいらののりもり、1128〜1185年) は、
平忠盛の四男で、平忠盛の側室夫人・「藤原家隆(ふじわ
らのいえたか)の娘」との間にうまれた子である。 壇ノ浦
の戦いで敗れ、入水して 果てる。
■ 平 頼盛 (たいらのよりもり、1133〜1186年) は、
平忠盛の五男で、平忠盛の正室夫人・「藤原宗子(ふじ
わらの むねこ、池禅尼(いけのぜんに、出家後の名))」
との間に生まれた子である。 平 頼盛は、平家一門では
あるが、後白河院近臣であり、親鎌倉派であった。 平
家一門とは最後まで行動を共にしなかた。
■ 平 忠度 (たいらのただのり、1144〜1184年) は、
平忠盛の六男で、平忠盛の側室夫人・「藤原為忠の娘」
との間にうまれた子である。 一の谷の戦いで、討死した。
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◆ 平清盛の妻子、とその親族。
平清盛の妻子の親族も含む。
■ 平清盛の夫人、とその親族。
厳島内侍 などである。
■ 平 清盛の正室夫人(先妻)は、 「高階基章(たかし
なのもとあき)の娘」であり、 その死後の、平 清盛の
正室夫人(後妻、継室)は、 「平 時子」(たいらの と
きこ、1126年〜1185年) である。
平 時子の同母弟が、 公家(堂上平氏、桓武平氏
高棟流)の、平 時忠(たいらの ときただ、1130年〜
1189年) である。
高棟流)の、平 滋子(たいらのしげこ) である。 建春
門院 (けんしゅんもんいん))とも呼ばれ、 後白河上
皇(ごしらかわじょうこう)の夫人(寵妃)で、高倉天皇
(たかくらてんのう)の生母 である。
■ 平清盛の側室夫人は、 「厳島内侍(いつくしまの
ないじ、厳島神社の巫女(みこ))」 などである。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
● 「常盤御前(ときわごぜん、1138年〜没年不詳、
源義経の生母)」は、 フィクションの平家物語などで
は、平清盛の側室夫人となり、娘も生んでいるが、史
実では、平清盛の側室夫人ではなく、清盛の間に娘も
いなかった。
■ 平清盛の子、とその親族。
■ 清盛の子 は、 平 重盛、 平 基盛、 平 宗盛、 平
知盛、 平 重衡、 平 徳子 などである。
■ 平 重盛(たいらのしげもり、1138〜1179年) は、
平清盛の長男で、平清盛の正室夫人・「高階基章(たか
きしなのもとあ)の娘」との間に生まれた子である。 小
松殿とも称された。 1179年(治承3年)に病没してい
る。
● 平 重盛の子には、 長男・平惟盛(たいらの これも
り、1158〜84年)、 次男・平資盛(すけもり、1158・
61〜85年)、 三男・平清経(きよつね、1163〜83
年)、 四男・平有盛(ありもり、1164〜85年)、 五
男・平師盛(もろもり、1171?〜84年)、 六男・平忠
房(ただふさ、生年不詳〜1185年) などがいる。
● 平 重盛の、夫人は、 官女(生母不詳、長男・惟盛を
生む)、 藤原親盛の娘(次男・資盛を生む)、 藤原経
子(ふじわらのけいし・つねこ、生没年不詳、三男〜六
男を生む) などである。
■ 平 基盛(たいらのもともり、1139〜1162年) は、
平清盛の次男で、平清盛の正室夫人・「高階基章(たか
しなのもとあき)の娘」との間に生まれた子である。 11
62年(応保2年)に病死している。
■ 平 宗盛(たいらのむねもり、1147〜1185年)は、
平清盛の三男で、平清盛の正室(継室)夫人・「平時子
(たいらのときこ)」との間に生まれた子である。 壇ノ浦
の戦いで敗れ、入水して、 引き上げられ捕虜となり、そ
の後、1185年(元暦2年)に近江国(おうみのくに、滋
賀県)で斬首される。
■ 平 知盛(たいらのとももり、1152〜1185年) は、
平清盛の四男で、平清盛の正室(継室)夫人・「平時子
(たいらのときこ)」との間に生まれた子である。 壇ノ浦
の戦いで敗れ、入水して果 てた。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 平 重衡(たいらのしげひら、1157〜1185年)は、
平清盛の五男で、平清盛の正室(継室)夫人・「平時子
(たいらのときこ)」との間に生まれた子である。
父・平清盛の命(めい)で、興福寺の寺院勢力と戦
い、南都焼討(なんとやきうち)を行う。 このとき、東大
寺大仏も焼け落ちる。
一の谷の戦いで、馬を射られ捕らえられる。 その後、
1185年(元暦2年)に、 南都焼き討ちを憎む南都衆徒
に引き渡され、木津川畔(京都府)で斬首される。
■ 平 徳子(たいらのとくこ、1155〜1213年)は、 平
清盛の娘で、平清盛の正室(継室)夫人・「平時子(たい
らのときこ)」との間に生まれた子である。 高倉(たか
くら)天皇の正室・夫人(中宮(ちゅうぐう))で、 安徳(あ
んとく)天皇の生母である。 院号は建礼門院である。
徳子は、1185年(元暦2年)の壇ノ浦の戦いでは生
き残り、京都に護送され、罪を問われることなく、開放さ
れる。 同年に出家して、直如覚と名乗る。 その後、大
原寂光院(おおはらじゃっこういん)に入り、 そこで、安
徳天皇と平家一門の菩提(ぼだい)を弔(とむら)った。
■ 平盛子 (たいらのもりこ・せいし、生没年1156〜
1179年)は、 平清盛の四女で、生母は不詳(平時子
?)である。 摂関家の摂政・関白近衛基実 (このえも
とざね、1143〜66年、関白藤原忠通の子)の正室夫
人(北政所)となる。
1166年の近衛基実の死後、近衛基実の子・(7歳の
幼少の)近衛基通の養母となって、 11歳で実質的な摂
関家の家長となる。 近衛基実の子・近衛基通 (このえ
もとみち、1160〜1233年) は、生母は藤原忠隆の娘
で、 1170年に平清盛六女の平完子 (たいらのさだこ・
かんし、生没年不詳、別名寛子(かんし)) を正室夫人と
し、 平家寄りで、後白河法皇とも親しく、1179年に関白
となる。
近衛基通は、平家の都落ちのときは、平家一門と同行
せず(平完子は平家と同行した)、 後白河法皇の側近と
なる。
◆ 平清盛の家臣(郎党)。
■ 平家貞 (たいらのいえさだ)。
平忠盛・平清盛に仕えた有力家臣、側近には、平家
貞(たいらのいえさだ、生没年1082〜1167年) がい
て、西国の海賊討伐、保元の乱(1156年)、平治の乱
(1159年)、九州の薩摩・肥前の反乱鎮圧などで活躍
し、功績を挙げる。
■ 平盛国 (たいらのもりくに)。
平清盛に仕えた有力家臣、側近には、平盛国(たい
らのもりくに、生没年1113〜1186年)がいて、保元の
乱(1156年)、平治の乱(1159年)で、嫡男の平盛俊
(たいらのもりとし、生年不詳〜1184年、後の1184年
2月の一ノ谷の戦いで戦死) と共に戦い活躍し、功績
を挙げた。 1185年3月の壇ノ浦の戦いで捕虜となり、
鎌倉に送られ、助命されるが、1186年7月に自害する。
■ 伊藤忠清 (いとうただきよ)。
平清盛に仕えた有力家臣には、伊藤忠清 (いとうた
だきよ、別名・藤原忠清(ふじわらのただきよ)、生年不詳
〜1185年)がいて、保元の乱(1156年)で活躍する。
1183年7月の平氏の都落ちには同行せず、畿内、その
後、伊勢に留まり、1184年7月に伊賀・伊勢で源氏と戦
い反乱が鎮圧された後逃亡潜伏して、1185年5月に伊
勢で捕らえられ、京(都)で処刑される。
#tairanokiyomori-iseheishiclan
◆ 伊勢平氏。
■ 伊勢平氏 (いせへいし) は、 伊勢を本拠地とする
桓武平氏の一族で、 平惟衡(たいらのこれひら)から
始まり、平清盛(きよもり)・平宗盛(むねもり)までの桓
武平氏一族である。
■ 桓武(かんむ)天皇の皇子(みこ)の葛原親王(かず
らはらしんのう)の孫の高望(たかもち)王(平高望)の
子孫(系統) が、 桓武平氏と称した。
■ 桓武平氏は、 葛原 親王の孫の高望王(平高望)に
始まる。
■ 高望王の子の、平国香(たいらのくにか、平将門の
伯父(おじ))や高望王の孫の、平将門(たいらのまさ
かど)・平貞盛 (たいらのさだもり、平国香の子、平清
盛の祖先)が、関東で、 勢力をふるった。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 後に、平貞盛の子・平維衡(たいらのこれひら)が、
関東(坂東(ばんどう))から伊勢に移り、 伊勢国(い
せのくに)を根拠地にして、 伊勢平氏を称し、 その
伊勢平氏の子孫が、 平清盛(たいらのきよもり) で
ある。
第に中央政界に進出した。 そして、 伊勢平氏の平
清盛が、平氏政権 を樹立した。
しかし、伊勢平氏は、 1185年に、壇の浦(だ
んのうら)の戦いで、滅亡した。
#tairanokiyomori-politicalpowerofthelateheianperiod
■ 平安末期・鎌倉初期日本
政治実権者変遷一覧表。
● 平安時代末期、鎌倉時代初期の、日本の政治
の実権者の変遷一覧表。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典 32142。
◆ 平安末期・鎌倉初期の
政権の推移。
■ (1) 白河上皇・院政政治(政権)期
(1086〜1129年)。
■ (2) 鳥羽上皇・院政政治(政権)期
(1129〜1156年)。
■ (3) 後白河天皇・親政政治(政権)期
(1156〜1158年)。
■ (4) 後白河上皇・二条天皇・二頭政治(政権)期
(1158〜1161年)。
■ (5) 二条天皇・親政政治(政権)期
(1161〜1165年)。
■ (6) 伊勢平氏・武家政治(政権)期
(1165〜1180年)。
■ (7) 伊勢平氏・河内源氏・武家二頭政治(政権)期
(1180〜1185年)。
■ (8) 河内源氏・武家政治(政権)期
(1185〜1219年)。
◆ 平安末期・鎌倉初期の
政権の推移。
■ (1) 白河上皇・院政政治(政
権)期
(1086〜1129年)。
● 1086年に、白河上皇が、日本の政治の
実権を握り、院政政治を始める。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
● 白河天皇は、 皇位を堀河天皇に譲り、
上皇となる。 白河上皇(天皇)は、自らの
天皇親政政治 (天皇が日本の政治の実
権を握(にぎ)り直接日本を支配する政治)
を、より強固にするため、 院政政治 (院
政により、日本の政治の実権を握(にぎ)り、
日本を支配する政治) を行う。
■ (2) 鳥羽上皇・院政政治(政
権)期
(1129〜1156年)。
● 1129年に、鳥羽上皇が、日本の政治の実
権を握り、院政政治を始める。
● 白河上皇 (法皇)が死去し、鳥羽上皇が、
引き続き、院政政治を行う。
■ (3) 後白河天皇・親政政治
(政権)期
(1156〜1158年)。
● 1156年に、後白河天皇が、日本の政治の
実権を握り、天皇親政政治を始める。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
(ほうげんのらん)が起こり、後白河天皇は、
保元の乱に勝利して反対勢力を退け、天皇
親政政治を始める。
■ (4) 後白河上皇・二条天皇・
二頭政治(政権)期
(1158〜1161年)。
本の政治の実権を握り、二頭政治を始める。
● 1158年に、後白河天皇は、皇位を二条
天皇に譲り、上皇となる。
二条天皇は、即位後、天皇親政を望み、
後白河上皇と対立し、後白河上皇と二条
天皇は、互いに政治権限の一部を保持す
る。
■ (5) 二条天皇・親政政治(政
権)期
(1161〜1165年)。
● 1161年に、二条天皇が、日本の政治の
実権を握り、天皇親政政治を始める。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
● 1161年9月に、二条天皇は、後白河上
皇の政治介入を停止し、実権を掌握(し ょ
うあく)する。
■ (6) 伊勢平氏・武家政治(政
権)期
(1165〜1180年) 。
● 1165年に、伊勢平氏が、日本の政治の
実権を握り、武家政治を始める。
● 1165年に、二条天皇が死去する。
二条天皇を軍事面(武力面)で支えていた
伊勢平氏の平清盛が、独立して、日本の政
治の実権を握り、武家政治を始める。
■ (7) 伊勢平氏・河内源氏・武
家二頭政治(政権)期
(1180〜1185年)。
の政治の実権を握り、武家二頭政治(武家
政治)を始める。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
● 1180年の10月に、 富士川の戦いで、
平氏軍は兵力差を知り撤退し、源 頼朝が、
平氏軍に対し富士川の戦いで勝利を得る。
以後、源 頼朝は、西上(せいじょう)せず、
東国の安定確保に専念する。
■ (8) 河内源氏・武家政治(政
権)期
(1185〜1219年)。
● 1185年に、河内源氏が、武家政治を始
源実朝)まで続く。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
● 1185年の3月に、壇ノ浦(だんのうら)の
戦いが源平間で起こり、源義経が活躍し、
源氏軍が勝利し、伊勢平氏が滅亡する。
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♪♪ 平 清盛 が登場する、面白く、興味深
い関連ドラマ、映画、ドキュメンタリー。
★ 平 清盛 が登場する、面白く、興味深い
関連ドキュメンタリー。
■ 歴史秘話ヒストリア 『 異色の革命児
平安を動かす〜日本を変えたヒーロー
平清盛〜 』 (NHKの20 12年(平成24年)1
月11日本放送)。
■ 歴史秘話ヒストリア 『 私たち、草食系
武士です。〜新・平家家族物語〜 』 (NH
Kの2009年(平成21年)12月16日本放送、第27
回)。
■ 歴史秘話ヒストリア 『 源義経 in the
Dark 〜伝説のヒーローは闇から生まれ
た〜 』 (20 10年9月1日本放送・NHKテレビ・ドキ
ュメンタリー番組・第49回)。
★ 平 清盛 が登場する、面白く、興味深い、
関連ドラマ、映画。
● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 歴史
のドラマ、映画 は、史実(歴史上の事実) と 架空の
出来事 が 混じって描かれています。 また、 現代風
にアレンジしてあります。
■ 『 平清盛 (たいらのきよもり) 』
(NHK2012年大河ドラマ、50話)。
● 平安時代末期を描いたドラマで、 平清盛の生涯や
当時活躍した人物や当時の時代状況を描く。
● 平 清盛 を演じる俳優名 : 松山 ケンイチ。
● 清盛の継母の、藤原宗子(ふじわらのむねこ、池禅
尼(いけのぜんに))を演じる女優名 : 和久井映見。
○ ドラマ「平清盛」関連のビデオ・書籍販促
のPRフォト。
■ 『 義経 (よしつね) 』
(NHK2005年大河ドラマ)。
● 平 清盛 を演じた俳優名 : 渡 哲也 (わたり
てつや)。
□ 日本史 辞典 の 「た」 基本見出し語 の 先頭ページへ 。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
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■ 平 清盛 簡略年表
(たいらのきよもり かんりゃくねんぴょう)。
■ より理解を深めるために、 当年表と近い時期の日本
平安時代末期年表 』 も参照して下さい。
○ ドラマ「平清盛」関連のビデオ・書籍販
促のPRフォト。
◆ 平 清盛 簡略年表。
盛(たいらのただもり)の長男として、生ま
れる。
平清盛の生母は、不明である。 平清盛
の生母は、祇園女御(ぎおんにょうご)の妹
という説がある。
■ 1146年 ● 1146年、平清盛は、安芸守(あきのか
み)に任官する。 厳島(いつくしま)神社に
信仰をもつ。
● 1146年に、平清盛が、朝廷より、正四
位下・安芸守((しょうしいのげ・あきのか
み))に叙任される。
■ 1147年 ● 1147年6月、祇園乱闘事件が起こる。
平清盛は、延暦寺の末社の祇園社(ぎお
んしゃ)で、その神人と小競り合いとなり、
平清盛の郎党(ろうとう、家臣)の放った矢
が、祇園社の宝殿に当たるという事件が
発生する。
当時は、古代日本から近世日本まで、
江戸時代まで神仏混合であった。
延暦寺は、平清盛と伊勢平氏当主の平
平忠盛・清盛を保護し、平清盛に罰金刑の
みを科(か)す。
■ 1149年 ● 1149年、伊勢平氏の嫡子候補の一人、
平家盛(たいらのいえもり)が急死する。
伊勢平氏で、平清盛が嫡子の地位をほぼ
固める。
■ 1153年 ● 1153年、平忠盛が死去する。 平忠盛
死後、平清盛が伊勢平氏一門の棟梁(とう
りょう)となる。
■ 1155年 ● 1155年、平清盛は、大量に銅銭を輸入
する。
■ 1156年 ● 1156年、平清盛は、 保元の乱(ほうげ
んのらん)に後白河(ごしらかわ)天皇方で
参戦する。 後白河天皇方が勝利を得る。
■ 1156年 ● 1156年、平清盛は、 播磨守(はりまの
かみ)に任官する。 瀬戸内海経由の日宋
貿易の航路の確保のため。
■ 1158年 ● 1158年、平清盛は、 大宰大弐(だざい
のだいに)に任官する。 瀬戸内海経由の
日宋貿易の航路の確保のため。
■ 1159年 ● 1159年12月、平治の乱(へいじのらん)
(1159年12月9日〜26日) が起こる。
最初、 藤原通憲(信西)・三条公教方 と
藤原信頼・二条天皇方 が敵対して、戦う。
途中で、藤原通憲(ふじわらのみちのり、
信西(しんぜい))が死去し、 三条公教・二
条天皇方 と 藤原信頼方が敵対して、戦う。
三条公教(さんじょう きんのり)・二条天皇方
が勝利を得て、 藤原信頼方が敗北する。
いじのらん)で、 三条公教・二条天皇方で参
戦する。 三条公教・二条天皇方が勝利を得
る。
● 1159年12月、源 頼朝、源義経の父・源
より)方で参戦する。 しかし、藤原信頼方は、
敗戦する。
● 1159年12月、源 頼朝は、平治の乱(へ
いじのらん)では父・源義朝と共に、藤原信頼
(ふじわらののぶより)方で参戦する(数え年
13歳で)。 しかし、藤原信頼方は、敗戦する。
■ 1160年 ● 1160年、平清盛は、 参議(さんぎ)に任
官する(武士で初めて公卿(くぎょう)に列す)。
■ 1164年 ● 1164年、平清盛は、 蓮華王院(れんげ
おういん)を建立(こんりゅう)する。 蓮華王
院の願主(がんしゅ)は、後白河上皇である。
● 1164年、平清盛は、 厳島神社に「平家
納経」(へいけのうきょう)を奉納する。
■ 1167年 ● 1167年、平清盛は、 従一位太政大臣
(だいじょうだいじん)に任官する。 後に、
辞職する。
■ 1168年 ● 1168年、平清盛は、出家(しゅっけ)し
て、摂津(せっつ)の福原(現神戸)へ移る。
■ 1171年 ● 1171年、平清盛は、娘の平徳子(たい
らのとくこ)を高倉(たかくら)天皇に入内
(じゅだい)させる。
■ 1177年 ● 1177年、反平家派の、鹿ヶ谷(ししがだ
に)の陰謀が発覚し、平清盛は、後白河法
皇の近臣を処罰する(死罪、配流(はいる)
する)。
■ 1179年 ● 1179年、平清盛は、後白河法皇を幽閉
し、院政を停止する。
■ 1180年 ● 1180年2月、平清盛の娘・平徳子( たい
らのとくこ、後の建礼門院)の産んだ皇子(み
こ)が、安徳(あんとく)天皇(幼帝)として、即
位する。
● 1180年5月、以仁王は安徳天皇即位で
皇位につく(天皇になる)見込みがなくなり、
よりまさ)を従えて挙兵し、両者とも敗死する。
● 1180年6月、平清盛は、摂津福原に遷都
(せんと)する。 後に還都(かんと)する(同
年11月に京(都)に帰る)。
● 1180年8月、源 頼朝が、挙兵する。 石
橋山(いしばしやま)の戦いで敗北する。 そ
の後、房総半島に逃れ、再軍備を図る。
● 1180年10月、源 頼朝が、鎌倉入りする。
鎌倉の大蔵御所を政治の拠点とする。
● 1180年10月、 富士川の戦いで、平氏
軍は兵力差を知り撤退し、 源 頼朝が、平
氏軍に対し富士川の戦いで勝利を得る。
以後、源 頼朝は、西上(せいじょう)せず、
東国の安定確保に専念する。
● 1180年12月、平重衡(たいらのしげひ
ら)が、平清盛の命(めい)で、南都(なん
と) の寺社勢力を討伐する。 その戦いの
が炎上する (南都焼き討ち)。
■ 1181年 ● 1181年閏2月、平清盛が、 死去する。
平清盛は、 熱病で苦しみ、貿易立国の夢
の実現を惜しみ、また、伊勢平氏の行く末
の安泰を願い、死去する。
□ 日本史 辞典 の 「た」 基本見出し語 の 先頭ページへ 。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』
以 上