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 カナヤマ 日本歴史 辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 た 』

 No.0291。

 

メ ニュー (目次)  #jpmenu     

■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

□ 日本史 辞典 (総合)          

□       ≪ 平 清盛 

          ●  事柄順。

〇 たい  平 清盛

             (たいらの きよもり)。 《伊勢平氏》。

          (1118年ー1181年)。

          ○ 平氏政権の創始者。

          ○ 伊勢平氏の頭首。

          ○ 保元の乱、平治の乱の伊勢

          平氏軍の指導者で、勝者となっ

          た。

          ○ 貿易立国をめざした武将。

             ■ 平 清盛 (たいらの きよもり、1118

             年ー1181年)は、 平氏政権 (1167

             年頃ー1185年頃)の創始者である。

             ■ 平 清盛は、 伊勢平氏の党首であり、

             保元の乱、平治の乱の伊勢平氏軍の指

             導者で、勝者となった。

             ■ 平 清盛は、 貿易立国をめざした武

             将である。

                       ■ 平清盛 (たいらのきよもり)は、朝廷

             のある京(都)で、武士が貴族となり朝廷

             と同化することで、 朝廷から政治の実権

             を奪い、武家政権(平氏政権)をつくろうと

             した。

                一方、源 頼朝は、 朝廷に組み込ま

             れないように、京(都)から離れて鎌倉で、 

             朝廷から政治の実権を奪い、新しい武家

             政権(源氏政権)をつくろうとした。

 

〇 たい  平 清盛 簡略年表 

             (たいらのきよもりかんりゃくねんぴょう) 。  

          《人物年表》。

          (⇒ 日本史年表) 。

 

 

□ 日本史 辞典 の 「た」 基本見出し語の先頭 

  ページへ。  

 

■  『 現在は、過去の成果であり、

    未来は、現在の成果である。 

 

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#jpdictionary(general)

 

◆ 日本史辞典

 

● 見出し語はグリーンでマークされています

 

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□ 日本史 辞典 の 「た」 基本見出し語 

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#ta

 

#tairanokiyomori

 

■ 平 清盛 

   (たいらの きよもり)。

 

■ 平 清盛。 

■ 名称 : 平 清盛 (たいらの きよもり)。

■ 生没年 : 1118年ー1181年。 

■ 平氏政権(1167年頃ー1185年頃)

   の創始者。

■ 平安時代末期の武将、政治家。

■ 日本の歴史を変えた政治家、武将。

■ 貿易立国をめざした武将。

 伊勢平氏の頭首。

  保元の乱、平治の乱の伊勢平氏軍の

  指導者で、勝者となった。

■ 清盛の父 (実父または養父)は、平忠盛 

  (たいらのただもり)。

■ 清盛の生母は、不明だが、 祇園女御の妹

  (ぎおん(の)にょうごのいもうと) という説

  がある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 91638。

 

□ 平清盛 (総合)

□ 平清盛 簡略年表

□ 平安時代末期 年表

□ 平安時代末期の、政権(日本の

   政治 の実権)の変遷

□ 平安末期・ 鎌倉初期日本政治

  実権者変遷一覧表

□ 平清盛の一族・郎党 (全体)

□ 平清盛の兄弟、とその親族

□ 平清盛の妻子、とその親族

□ 平清盛の有力家臣

□ 伊勢平氏

□ 平 清盛が登場する、興味深い関

   連ドラマ、映画、ドキュメンタリー 

 

■ 平 清盛 (たいらの きよもり、1118年ー1181

     年)は、 平氏政権 (1167年頃ー1185年頃)

  の創始者である。

             

■ 平 清盛は、 伊勢平氏の党首であり、 保元の

  乱、平治の乱の伊勢平氏軍の指導者で、勝者と

  なった。

             

■ 平 清盛は、 貿易立国をめざした武将である。

             

■ 平清盛 (たいらのきよもり)は、朝廷のある京

  (都)で、武士が貴族となり朝廷と同化すること

  で、 朝廷から政治の実権を奪い、武家政権

  (平氏政権)をつくろうとした。

     一方、源 頼朝は、 朝廷に組み込まれな

  いように、京(都)から離れて鎌倉で、 朝廷か

  ら政治 の実権を奪い、新しい武家政権(源氏

  政権)をつくろうとした。

             

 

 

 

 

#tairanokiyomori-general

 

◆ 平 清盛 (総合)。

 

■ 平 清盛 (たいらの きよもり、 生没年 1118〜118

 1年) は、 平忠盛(たいらのただもり)の子 で、 平安

 時代期の武将、政治家 である。

   平 清盛は、 伊勢平氏の頭首となり、 貿易立国

 をめざした武将である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 平 清盛の別名は、 入道相国 (にゅうどうしょうこく)、

  平相国(へいしょうこく)、六波羅殿(ろくはらどの)、

  六波羅入道(ろくはらにゅうどう)であり、 平 清盛

  法号は、清蓮、のち、静海、浄海(じょうかい)(出家後

  の個人名)である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 平 清盛は、 保元の乱(ほうげんのらん)・平治の乱

 (へいじのらん) で勝利を得て、源氏藤原氏圧倒し、 

 1167年、朝廷の官職で最高の太政大臣になる。 ま

 た、 清盛の娘、建礼門院徳子(平徳子)の子を、天皇

 の位に就け(安徳天皇)、 清盛は、天皇の外戚となり、

 権勢並ぶ者なく、平家一門の公卿は16人、平氏の所

 領(知行国)は20数カ国に及び、清盛は、 伊勢平氏

 全盛期を現出させた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 伊勢平氏は、 平 清盛の祖父・平正盛の頃より、莫

 大な利益をもたらす、日宋貿易に着目(ちゃくもくし)し、

 平 清盛の父・平忠盛や平 清盛は、 日宋貿易を行い、

 莫大な利益を得る。 平 清盛は、 伊勢平氏が日本を

 支配するには、 また、 日本の人々を豊かにする のに

 、 多大な利益をもたらす日宋貿易など貿易(輸出

 入)が重要であると考え、 貿易政策を推進、強化する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  伊勢平氏は、 平正盛(たいらのまさもり)、平忠

 (ただもり)、平清盛(きよもり)、平宗盛(むねもり)

 の4代にわたり、 日宋貿易などの海外貿易で、 輸

 入品を貴族や朝廷に献上したり、 中国銭などの金

 属貨幣を大量に輸入し流通させたり、また、輸入品

 を売却したりして、利益を得て、経済的に繁栄した。 

   伊勢平氏は、南宋(なんそう、1127〜1279年)

 などとの日宋貿易等海外貿易で、 中国銭などの金

 属貨幣を日本に大量に持ち込んむ。 中国銭などの

 金属貨幣は米や絹などの物品貨幣に比べて、人々

 に便利なものと認識されて使用され、 伊勢平氏は、

 中国銭などの金属貨幣を大量に輸入し流通させ、利

 益を得て、経済的に繁栄した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 平安時代末期の歴代天皇一覧。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 32141。

■ 天皇の皇位継承順 は、次の通りである。

@ 白河(しらかわ)天皇    (貞仁(さだひと)親王) ⇒

  (天皇在位、1072年〜1086年)

A 堀河(ほりかわ)天皇    (善仁(たるひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1086年〜1107年)

B 鳥羽(とば)天皇       (宗仁(むねひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1107年〜1123年)

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

C 崇徳(すとく)天皇      (顕仁(あきひと)親王)  ⇒

  (天皇在位、1123年〜1141年)

D 近衛(このえ)天皇     (体仁(なりひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1141年〜1155年)

E 後白河(ごしらかわ)天皇 (雅仁(まさひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1155年〜1158年)

F 二条(にじょう)天皇     (守仁(もりひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1158年〜1165年)

G 六条(ろくじょう)天皇    (順仁(のぶひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1165年〜1168年)

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

H 高倉(たかくら)天皇    (憲仁(のりひと)親王)  ⇒ 

  (天皇在位、1168年〜1180年)

I 安徳(あんとく)天皇      (言仁(ときひと)親王) ⇒ 

  (天皇在位、1180年〜1185年)

J 後鳥羽(ごとば)天皇    (尊成(たかひら)親王)

  (天皇在位、1183年〜1198年)

 

 

#tairanokiyomori-allhisrelativesandretainers

 

◆ 平清盛の一族・郎党(総合)。

 

  

 

 

◆ 平清盛の父母、祖父母。

■ 平清盛の父 (実父または養父)は、 平忠盛(たいら

  のただもり) である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。 

 

■ 清盛の生母は、不明だが、 平清盛には、2人の育て

 の母親である養母 がいた。 一人は、平忠盛の正室夫

 人の藤原宗子 と もう一人は、祇園女御である。

   祇園女御(ぎおん(の)にょうご)  は、 白河上皇の

 寵愛する側室夫人で、 平清盛は、祇園女御の猶子(ゆ

 うし、養子)であった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 平清盛の生母は、不明である。 

   平清盛の生母は、「祇園女御の妹」(ぎおん(の)にょう

 ごのいもうと) という説がある。 また、「祇園女御の妹」

 は、  白河上皇(しらかわじょうこう)の側室夫人であった 

 という説がある。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 平清盛の祖父は、 平 正盛 (たいらのまさもり) で

 ある。 白河上皇の信任厚く、検非違使(けびいし)や国

 守を歴任する。 1108年に、追捕使(ついぶし)として、

 源義親の乱を平定し、また、九州の賊徒(ぞくと)を討(う)

 って、 伊勢平氏の政界進出の道を開いた。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 平 清盛の出生。

 平 清盛の生母は、不明である。

   一説には、平 清盛の生母は、 「祇園女御の妹」(ぎ

 おん(の)にょうごのいもうと)であり、 「祇園女御の妹」

 は、白河上皇の側室夫人であったという説がある。

   この説を採れば、 平清盛の養父は、平忠盛で、平

 清盛の実父は、白河上皇となる。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 前近代日本の、一夫多妻制の上層階層での慣習。

 拝領妻子の慣習 (はいりょうさいしのかんしゅう)。

   拝領妻子の慣習とは、 前近代日本では、封建制度

 下で、主従(君臣)関係を強めるため、従者(家臣)が

 人(主君)の妻子をもらい受ける慣習 があった。

   また、 拝領妻子の慣習 とは、 前近代日本で、

 封建制度下で、主従(君臣)関係を強めるため、主人

 (主君)が、従者(家臣)に、主人(主君)の妻子を下げ

 渡す慣習 である。

 

■ 前近代日本の、封建社会で、主人(主君)と従者(家

 臣)の関係は、生死を共にするもので、運命共同体で

 あった。 主従関係を強めるための方法の1つとして、

 主君が、主人(主君)の側室夫人の子や主君の側室 夫

 (主人(主君 )が手をつけた女性)を、従者(家臣)に

 与える(下げ渡す)慣習があった。 

 

■ 平 清盛の父の、平忠盛 は、 主君の白河上皇より、 

 白河上皇の側室夫人の祇園女御の妹が生んだ子を下

 げ渡されたか、または、 妊娠した白河上皇の側室夫

 人・祇園女御の妹を下げ渡されたという可能性がある。

 

● もし、平忠盛 が、妊娠した白河上皇の側室夫人を

 下げ渡された場合は、 白河上皇は、妊娠中の自分の

 側室夫人の 「祇園女御の妹」を、 白河上皇の家臣

 の平忠盛(たいらのただもり、平清盛の父)与え(下

 げ渡し)、 平忠盛祇園女御の妹が婚儀を結び、

 の後間もなく生まれた子供が、平清盛となる。

   主君からもらい受けた側室夫人が、(女性の)おな

 かも大きくなく妊娠初期という可能性もあり、 家臣が

 その夫人と婚儀を結び、その後間もなく生まれた子供

 は、主君の血をひく子供なのか、家臣の血をひく子供

 なのかわからなくなる場合もあった。 現代社会では

 DNA鑑定という方法もあるが、その当時は、 推定す

 るしかなかった。

 

 

◆ 平清盛のおじ・おば、とその親族。

    平清盛のおじ・おばと、その親族(夫人、夫、子供等)

 を含む。

 

■ 祇園女御(ぎおん(の)にょうご)  は、 平清盛の養母

 であった。 平清盛は、祇園女御の猶子(ゆうし、養子)で

 あった。

● 祇園女御 は、 平 清盛 や 藤原璋子(ふじわらのし

 ょうし・たまこ) の養母であった。 

    藤原璋子は、後に、待賢門院 (たいけんもんいん)

 とも呼ばれ、 鳥羽上皇(とばじょうこう)の正室夫人とな

 り、 崇徳(すとく)天皇と後白河(ごしらかわ)天皇の生

 母となる。

 

■ 祇園女御(ぎおん(の)にょうご)  は、 平清盛の伯母

 でもあった。

● 平 清盛の生母は、 祇園女御の妹(ぎおん(の)にょう

 ごのいもうと)という説があり、 この説と採れば、祇園女

 (ぎおん(の)にょうご)は、 平清盛の伯母(おば)でも

 あったことになる。

    平 清盛の生母は、 祇園女御の妹であり、1120年

 (保安元年)に、平 清盛が3歳のとき、祇園女御の妹が死

 去したので、 平 清盛は、祇園女御の猶子(ゆうし、養子)

 として養育されたとする説がある。

 

■ 平 忠正(たいらのただまさ) は、 清盛の叔父(おじ)

 である。

● 平 忠正(たいらのただまさ、生年不詳〜1156年) は、

 清盛の父・平忠盛の兄弟で、清盛の叔父(おじ)で、保元

 の乱(ほうげんのらん)で、崇徳(すとく)上皇方につき、敗

 れて殺される。

 

 

#tairanokiyomori-brothers

 

◆ 平清盛の兄弟。

  平清盛の兄弟と、その親族(夫人と子供等)を含む。

 

  

 

■ 平清盛の父・平 忠盛の夫人。

■ 平清盛の父・平 忠盛(たいらのただもり)の夫人には、

 平忠盛の正室夫人の、藤原宗子(ふじわらの むねこ、

 池禅尼(いけのぜんに))、 平忠盛の側室夫人の、清盛

 の生母(不明、祇園女御(ぎおん(の)にょうご)の妹?)、

 平忠盛の側室夫人の源信雅(みなもとののぶまさ)の娘、

 平忠盛の側室夫人・藤原家隆(ふじわらのいえたか)の娘、 

 平忠盛の側室夫人・藤原為忠の娘 などがいる。

 

■ 平 清盛は、長子で、父・平 忠盛(たいらのただもり)の

 長男である。 清盛の兄弟は、すべて弟で、異母兄弟で

 ある。

   清盛の父・平忠盛の子で、平清盛の異母弟 は、平 家

 盛、 平 経盛、平 教盛、平 頼盛、平 忠度 などである。

 

■ 平 家盛 (たいらのいえもり、1120〜1149年) は、

 平忠盛の次男で、平忠盛の正室夫人・「藤原宗子(ふじわ

 らの むねこ、池禅尼(いけのぜんに))」との間に生まれた

 子 である。 1149年(保安元年)に病没している。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 平 経盛 (たいらのつねもり、1124〜1185年) は、

 平忠盛の三男で、平忠盛の側室夫人・「源信雅(みなもと

 ののぶまさ)の娘」との間にうまれた子である。 壇ノ浦の

 戦いで敗れ、入水して果 てる。

● 平 経盛の子の平敦盛(たいらのあつもり)は、「一ノ谷

 の戦い」で、源頼朝の御家人・熊谷直実(くまがいなおざ

 ね)と一騎打ちを行い、戦死する。

   平敦盛を討ちとった後、熊谷直実は、無常を感じて出

 家したとする話に基づいて作られた幸若舞(こうわかまい)

 の演目が、敦盛」(あつもり)で、  織田信長も それを好ん

 で演じた

 

 

■ 平 教盛 (たいらののりもり、1128〜1185年) は、

 平忠盛の四男で、平忠盛の側室夫人・「藤原家隆(ふじわ

 らのいえたか)の娘」との間にうまれた子である。 壇ノ浦

 の戦いで敗れ、入水して 果てる。

 

■ 平 頼盛 (たいらのよりもり、1133〜1186年) は、

 平忠盛の五男で、平忠盛の正室夫人・「藤原宗子(ふじ

 わらの むねこ、池禅尼(いけのぜんに、出家後の名))」

 との間に生まれた子である。 平 頼盛は、平家一門では

 あるが、後白河院近臣であり、親鎌倉派であった。 

 家一門とは最後まで行動を共にしなかた。

 

■ 平 忠度 (たいらのただのり、1144〜1184年) は、

 平忠盛の六男で、平忠盛の側室夫人・「藤原為忠の娘」

 との間にうまれた子である。 一の谷の戦いで、討死した。

 

 

#tairanokiyomori-wivesandchildren

 

◆ 平清盛の妻子、とその親族。

  平清盛の妻子の親族も含む。

 

    

 

■ 平清盛の夫人、とその親族。

■ 平 清盛の夫人は、 高階基章の娘、 平 時子

 厳島内侍 などである。

 

■ 平 清盛の正室夫人(先妻)は、 「高階基章(たかし

 なのもとあき)の娘」であり、 その死後の、平 清盛の

 正室夫人(後妻、継室)は、 「平 時子」(たいらの と

 きこ、1126年〜1185年)  である。

   平 時子の同母弟が、 公家(堂上平氏、桓武平氏

 高棟流)の、平 時忠(たいらの ときただ、1130年〜

 1189年) である。

   平 時子の異母妹が、 公家(堂上平氏桓武平氏

 高棟流)の、平 滋子(たいらのしげこ) である。 建春

 門院 (けんしゅんもんいん))とも呼ばれ、 後白河上

 (ごしらかわじょうこう)の夫人(寵妃)で、高倉天皇

 (たかくらてんのう)の生母 である。

 

■ 平清盛の側室夫人は、  「厳島内侍(いつくしまの

 ないじ、厳島神社の巫女(みこ))」 などである。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

● 「常盤御前(ときわごぜん、1138年〜没年不詳、

 源義経の生母)」は、 フィクションの平家物語などで

 は、平清盛の側室夫人となり、娘も生んでいるが、史

 実では、平清盛の側室夫人ではなく、清盛の間に娘も

 いなかった。

 

■ 平清盛の子、とその親族。

■ 清盛の子 は、 平 重盛、 平 基盛、 平 宗盛、 平

  知盛、 平 重衡、 平 徳子 などである。

 

■ 平 重盛(たいらのしげもり、1138〜1179年) は、

 平清盛の長男で、平清盛の正室夫人・「高階基章(たか

 きしなのもとあ)の娘」との間に生まれた子である。 

 松殿とも称された。 1179年(治承3年)に病没してい

 る。

● 平 重盛の子には、 長男・平惟盛(たいらの これも

 り、1158〜84年)、 次男・平資盛(すけもり、1158・

 61〜85年)、 三男・平清経(きよつね、1163〜83

 年)、 四男・平有盛(ありもり、1164〜85年)、 

 男・平師盛(もろもり、1171?〜84年)、 六男・平忠

 房(ただふさ、生年不詳〜1185年) などがいる。

● 平 重盛の、夫人は、 官女(生母不詳、長男・惟盛を

 生む)、 藤原親盛の娘(次男・資盛を生む)、 藤原経

 子(ふじわらのけいし・つねこ、生没年不詳、三男〜六

 男を生む) などである。

 

 平 基盛(たいらのもともり、1139〜1162年) は、

 平清盛の次男で、平清盛の正室夫人・「高階基章(たか

 しなのもとあき)の娘」との間に生まれた子である。 11

 62年(応保2年)に病死している。

 

■ 平 宗盛(たいらのむねもり、1147〜1185年)は、

 平清盛の三男で、平清盛の正室(継室)夫人・「平時子

 (たいらのときこ)」との間に生まれた子である。 壇ノ浦

 の戦いで敗れ、入水して、 引き上げられ捕虜となり、

 の後、1185年(元暦2年)に近江国(おうみのくに、滋

 賀県)で斬首される。

■ 平 知盛(たいらのとももり、1152〜1185年) は、 

 平清盛の四男で、平清盛の正室(継室)夫人・「平時子

 (たいらのときこ)」との間に生まれた子である。 壇ノ浦

 の戦いで敗れ、入水して果 てた。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 平 重衡(たいらのしげひら、1157〜1185年)は、

 平清盛の五男で、平清盛の正室(継室)夫人・「平時子

 (たいらのときこ)」との間に生まれた子である。 

    父・平清盛の命(めい)で、興福寺の寺院勢力と戦

 い、南都焼討(なんとやきうち)を行う。 このとき、東大

 寺大仏も焼け落ちる。 

   一の谷の戦いで、馬を射られ捕らえられる。 その後、

 1185年(元暦2年)に、 南都焼き討ちを憎む南都衆徒

 に引き渡され、木津川畔(京都府)で斬首される。

 

■ 平 徳子(たいらのとくこ、1155〜1213年)は、 平

 清盛の娘で、平清盛の正室(継室)夫人・「平時子(たい

 らのときこ)」との間に生まれた子である。  高倉(たか

 くら)天皇の正室・夫人(中宮(ちゅうぐう))で、 安徳(あ

 んとく)天皇の生母である。 院号は建礼門院である。 

   徳子は、1185年(元暦2年)の壇ノ浦の戦いでは生

 き残り、京都に護送され、罪を問われることなく、開放さ

 れる。 同年に出家して、直如覚と名乗る。 その後、大

 原寂光院(おおはらじゃっこういん)に入り、 そこで、安

 徳天皇と平家一門の菩提(ぼだい)を弔(とむら)った。

 

■ 平盛子 (たいらのもりこ・せいし、生没年1156〜

 1179年)は、 平清盛の四女で、生母は不詳(平時子

 ?)である。 摂関家の摂政・関白近衛基実 (このえも

 とざね、1143〜66年、関白藤原忠通の子)の正室夫

 人(北政所)となる。 

   1166年の近衛基実の死後、近衛基実の子・(7歳の

 幼少の)近衛基通の養母となって、 11歳で実質的な摂

 関家の家長となる。 近衛基実の子・近衛基通 (このえ

 もとみち、1160〜1233年) は、生母は藤原忠隆の娘

 で、 1170年に平清盛六女の平完子 (たいらのさだこ・

 かんし、生没年不詳、別名寛子(かんし)) を正室夫人と

 し、 平家寄りで、後白河法皇とも親しく、1179年に関白

 となる。

   近衛基通は、平家の都落ちのときは、平家一門と同行

 せず(平完子は平家と同行した)、 後白河法皇の側近と

 なる。

 

#tairanokiyomori-retainers

 

 平清盛の家臣(郎党)。

■ 平家貞 (たいらのいえさだ)。

   平忠盛・平清盛に仕えた有力家臣、側近には、平家

 貞(たいらのいえさだ、生没年1082〜1167年) がい

 て、西国の海賊討伐、保元の乱(1156年)、平治の乱

 (1159年)、九州の薩摩・肥前の反乱鎮圧などで活躍

 し、功績を挙げる。

 

■ 平盛国 (たいらのもりくに)。

   平清盛に仕えた有力家臣、側近には、平盛国(たい

 らのもりくに、生没年1113〜1186年)がいて、保元の

 乱(1156年)、平治の乱(1159年)で、嫡男の平盛俊 

 (たいらのもりとし、生年不詳〜1184年、後の1184年

 2月の一ノ谷の戦いで戦死) と共に戦い活躍し、功績

 を挙げた。 1185年3月の壇ノ浦の戦いで捕虜となり、

 鎌倉に送られ、助命されるが、1186年7月に自害する。

 

■ 伊藤忠清 (いとうただきよ)。

   平清盛に仕えた有力家臣には、伊藤忠清 (いとうた

 だきよ、別名・藤原忠清(ふじわらのただきよ)、生年不詳

 〜1185年)がいて、保元の乱(1156年)で活躍する。

 1183年7月の平氏の都落ちには同行せず、畿内、その

 後、伊勢に留まり、1184年7月に伊賀・伊勢で源氏と戦

 い反乱が鎮圧された後逃亡潜伏して、1185年5月に伊

 勢で捕らえられ、京(都)で処刑される。

 

 

#tairanokiyomori-iseheishiclan

 

◆ 伊勢平氏。

■ 伊勢平氏 (いせへいし) は、 伊勢を本拠地とする

 桓武平氏の一族で、 平惟衡(たいらのこれひら)から

 始まり、平清盛(きよもり)・平宗盛(むねもり)までの桓

 武平氏一族である。

 

■ 桓武(かんむ)天皇の皇子(みこ)の葛原親王(かず

 らはらしんのう)の孫の高望(たかもち)王(平高望)の

  子孫(系統) が、 桓武平氏と称した。

■ 桓武平氏は、 葛原 親王の孫の高望王(平高望)に

 始まる。

 

■ 高望王の子の、平国香(たいらのくにか、平将門の

 伯父(おじ))や高望王の孫の、平将門(たいらのまさ

 かど)・平貞盛 (たいらのさだもり、平国香の子、平清

 盛の祖先)が、関東で、 勢力をふるった。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 後に、平貞盛の子・平維衡(たいらのこれひら)が、  

 関東(坂東(ばんどう))から伊勢に移り、 伊勢国(い

 せのくに)を根拠地にして、 伊勢平氏を称し、 その

 伊勢平氏の子孫が、 平清盛(たいらのきよもり) で

 ある。

● 伊勢平氏は、 院政 政治の武力として活躍し、 次

 第に中央政界に進出した。 そして、 伊勢平氏の平

 清盛が、平氏政権 を樹立した。 

    しかし、伊勢平氏は、 1185年に、壇の浦(だ

 んのうら)の戦いで、滅亡した。

 

 

#tairanokiyomori-politicalpowerofthelateheianperiod

 

■ 平安末期・鎌倉初期日本

  政治実権者変遷一覧表。

● 平安時代末期、鎌倉時代初期の、日本の政治

  の実権者の変遷一覧表。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典 32142。

 

◆ 平安末期・鎌倉初期の

  政権の推移。

■ (1) 白河上皇・院政政治(政権)期

   (1086〜1129年)。

■ (2) 鳥羽上皇・院政政治(政権)期

   (1129〜1156年)。

■ (3) 後白河天皇・親政政治(政権)期

   (1156〜1158年)。

■ (4) 後白河上皇・二条天皇・二頭政治(政権)期 

   (1158〜1161年)。

■ (5) 二条天皇・親政政治(政権)期

   (1161〜1165年)。

■ (6) 伊勢平氏・武家政治(政権)期

   (1165〜1180年)。

■ (7) 伊勢平氏・河内源氏・武家二頭政治(政権)期 

   (1180〜1185年)。

■ (8) 河内源氏・武家政治(政権)期

   (1185〜1219年)。

 

◆ 平安末期・鎌倉初期の

  政権の推移。

 

■ (1) 白河上皇・院政政治(政

   権)期

   (1086〜1129年)。

 1086年に、白河上皇が、日本の政治の

  実権を握り、院政政治を始める。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

● 白河天皇は、 皇位を堀河天皇に譲り、

  上皇となる。 白河上皇(天皇)は、自らの

  天皇親政政治 (天皇が日本の政治の実

  権を握(にぎ)り直接日本を支配する政治)

  を、より強固にするため、 院政政治 (院

  政により、日本の政治の実権を握(にぎ)り、

  日本を支配する政治) を行う。

 

■ (2) 鳥羽上皇・院政政治(政

   権)期

   (1129〜1156年)。

 1129年に、鳥羽上皇が、日本の政治の実

  権を握り、院政政治を始める。

● 白河上皇 (法皇)が死去し、鳥羽上皇が、

  引き続き、院政政治を行う。

 

■ (3) 後白河天皇・親政政治

   (政権)期

   (1156〜1158年)。

 1156年に、後白河天皇が、日本の政治の

  実権を握り、天皇親政政治を始める。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

● 1156年に鳥羽上皇が死去し、保元の乱

  (ほうげんのらん)が起こり、後白河天皇は、

  保元の乱に勝利して反対勢力を退け、天皇

  親政政治を始める。

 

■ (4) 後白河上皇・二条天皇・

  二頭政治(政権)期 

  (1158〜1161年)。

● 1158年に、後白河上皇二条天皇が、日

  本の政治の実権を握り、二頭政治を始める。

 1158年に、後白河天皇は、皇位を二条

  天皇に譲り、上皇となる。

    二条天皇は、即位後、天皇親政を望み、

  後白河上皇と対立し、後白河上皇と二条

  天皇は、互いに政治権限の一部を保持す

  る。

 

■ (5) 二条天皇・親政政治(政

    権)期

    (1161〜1165年)。

 1161年に、二条天皇が、日本の政治の

  実権を握り、天皇親政政治を始める。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

● 1161年9月に、二条天皇は、後白河上

  の政治介入を停止し、実権を掌握(し ょ

  うあく)する。

 

■ (6) 伊勢平氏・武家政治(政

   権)期

    (1165〜1180年) 。

● 1165年に、伊勢平氏が、日本の政治の

  実権を握り、武家政治を始める。

● 1165年に、二条天皇が死去する。

   二条天皇を軍事面(武力面)で支えていた

  伊勢平氏平清盛が、独立して、日本の政

  治の実権を握り、武家政治を始める。

 

■ (7) 伊勢平氏・河内源氏・武

   家二頭政治(政権)期 

   (1180〜1185年)。

 1180年に、伊勢平氏河内源氏が、日本

  の政治の実権を握り、武家二頭政治武家

  政治を始める。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

● 1180年の10月に、  富士川の戦いで、

  平氏軍は兵力差を知り撤退し、源 頼朝が、

  平氏軍に対し富士川の戦いで勝利を得る。 

    以後、源 頼朝は、西上(せいじょう)せず、

  東国の安定確保に専念する。

 

■ (8) 河内源氏・武家政治(政

   権)期

   (1185〜1219年)。

● 1185年に、河内源氏が、武家政治を始

  める。 河内源氏3代(源頼朝源頼家

  源実朝)まで続く。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

● 1185年の3月に、壇ノ浦(だんのうら)の

  戦いが源平間で起こり、源義経が活躍し、

  源氏軍が勝利し、伊勢平氏が滅亡する。

 

 

#tairanokiyomori-appearingscenes

 

♪♪ 平 清盛 が登場する、面白く、興味深

 い関連ドラマ、映画、ドキュメンタリー。 

 

★ 平 清盛 が登場する、面白く、興味深い

 関連ドキュメンタリー。 

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 異色の革命児 

 平安を動かす〜日本を変えたヒーロー 

 平清盛〜 』 (NHKの20 12年(平成24年)1

 月11日本放送)。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 私たち、草食系

 武士です。〜新・平家家族物語〜 』 (NH

 Kの2009年(平成21年)12月16日本放送、第27

 回)。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 源義経 in the

 Dark 〜伝説のヒーローは闇から生まれ

 た〜 』 (20 10年9月1日本放送・NHKテレビ・ドキ

 ュメンタリー番組・第49回)。

 

★ 平 清盛 が登場する、面白く、興味深い、

 関連ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 歴史

 のドラマ、映画 は、史実(歴史上の事実) と 架空の

 出来事 が 混じって描かれています。 また、 現代風

  にアレンジしてあります。

 

■ 『 平清盛 (たいらのきよもり) 』 

 (NHK2012年大河ドラマ、50話)。

● 平安時代末期を描いたドラマで、 平清盛の生涯や

 当時活躍した人物や当時の時代状況を描く

● 平 清盛  を演じる俳優名 : 松山 ケンイチ。

● 清盛の継母の、藤原宗子(ふじわらのむねこ、池禅

 尼(いけのぜんに))を演じる女優名 : 和久井映見。

 

   

   ○ ドラマ「平清盛」関連のビデオ・書籍販促

    のPRフォト。

 

■ 『 義経 (よしつね) 』 

 (NHK2005年大河ドラマ)。

● 平 清盛  を演じた俳優名 : 渡 哲也 (わたり 

  てつや)。

 

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#tairanokiyomoribriefchronology

 

■ 平 清盛 簡略年表 

    (たいらのきよもり かんりゃくねんぴょう)。

 

■ より理解を深めるために、 当年表と近い時期の日本

 史辞典の年表の、 『 源 頼朝年表、 源 義経年表、 

 平安時代末期年表 』 も参照して下さい。

 

        

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◆ 平 清盛 簡略年表。

 

■ 1118年  ● 1118年、平清盛が、 伊勢平氏平忠

            (たいらのただもり)の長男として、生ま

            れる。 

              平清盛の生母は、不明である。 平清盛

            の生母は、祇園女御(ぎおんにょうご)の妹

                という説がある。

■ 1146年  ● 1146年、平清盛は、安芸守(あきのか

                     み)に任官する。 厳島(いつくしま)神社に

           信仰をもつ。

           ● 1146年に、平清盛が、朝廷より、正四

            位下・安芸守((しょうしいのげ・あきのか

           み))に叙任される。

■ 1147年  ● 1147年6月、祇園乱闘事件が起こる。

            平清盛は、延暦寺の末社の祇園社(ぎお

           んしゃ)で、その神人と小競り合いとなり、

           平清盛の郎党(ろうとう、家臣)の放った矢

           が、祇園社の宝殿に当たるという事件が

           発生する。 

             当時は、古代日本から近世日本まで、

           江戸時代まで神仏混合であった。

             延暦寺は、平清盛と伊勢平氏当主の

           忠盛の流罪を要求するが、 鳥羽上皇は、

           平忠盛・清盛を保護し、平清盛に罰金刑の

           みを科(か)す。

■ 1149年  ● 1149年、伊勢平氏の嫡子候補の一人、

            平家盛(たいらのいえもり)が急死する。 

            伊勢平氏で、平清盛が嫡子の地位をほぼ

            固める。

■ 1153年  ● 1153年、平忠盛が死去する。 平忠盛

            死後、平清盛が伊勢平氏一門の棟梁(とう

           りょう)となる。

■ 1155年  ● 1155年、平清盛は、大量に銅銭を輸入

           する。 

■ 1156年  ● 1156年、平清盛は、 保元の乱(ほうげ

            んのらん)後白河(ごしらかわ)天皇方で

           参戦する。 後白河天皇方が勝利を得る。

■ 1156年  ● 1156年、平清盛は、 播磨守(はりまの

            かみ)に任官する。 瀬戸内海経由の日宋

            貿易の航路の確保のため。

■ 1158年  ● 1158年、平清盛は、 大宰大弐(だざい

            のだいに)に任官する。 瀬戸内海経由の

           日宋貿易の航路の確保のため。

■ 1159年  ● 1159年12月、平治の乱(へいじのらん)

           (1159年12月9日〜26日) が起こる。

             最初、 藤原通憲(信西)・三条公教方 と 

           藤原信頼・二条天皇方 が敵対して、戦う。 

             途中で、藤原通憲(ふじわらのみちのり、

           信西(しんぜい))が死去し、 三条公教・二

           条天皇方 と 藤原信頼方が敵対して、戦う。

           三条公教(さんじょう きんのり)・二条天皇方

           が勝利を得て、 藤原信頼方が敗北する。

           ● 1159年12月、平清盛は、 平治の乱(へ

           いじのらん)で、 三条公教・二条天皇方で参

           戦する。  三条公教・二条天皇方勝利を得

           る。

           ● 1159年12月、源 頼朝、源義経の父・

           義朝は、平治の乱(へいじのらん)では、子・

           源 頼朝と共に、 藤原信頼(ふじわらののぶ

           より)方で参戦する。  しかし、藤原信頼方は、

           敗戦する。

           ● 1159年12月、源 頼朝は、平治の乱(へ

           いじのらん)では父・源義朝と共に、藤原信頼

           (ふじわらののぶより)方で参戦する(数え年  

           13歳で)。 しかし、藤原信頼方は、敗戦する。

■ 1160年  ● 1160年、平清盛は、 参議(さんぎ)に任 

           官する(武士で初め公卿(くぎょう)に列す)。

■ 1164年  ● 1164年、平清盛は、 蓮華王院(れんげ

           おういん)を建立(こんりゅう)する。 蓮華王

           院の願主(がんしゅ)は、後白河上皇である。

             ● 1164年、平清盛は、 厳島神社に「平家

           納経」(へいけのうきょう)を奉納する。

■ 1167年  ● 1167年、平清盛は、 従一位太政大臣

           (だいじょうだいじん)に任官する。 後に、

           辞職する。

■ 1168年  ● 1168年、平清盛は、出家(しゅっけ)し

           て、摂津(せっつ)の福原(現神戸)へ移る。 

■ 1171年  ● 1171年、平清盛は、娘の平徳子(たい

           らのとくこ)を高倉(たかくら)天皇に入内

           (じゅだい)させる。

■ 1177年  ● 1177年、反平家派の、鹿ヶ谷(ししがだ

           に)の陰謀が発覚し、平清盛は、後白河法

           の近臣を処罰する(死罪、配流(はいる)

           する)。

■ 1179年  ● 1179年平清盛は、後白河法皇を幽閉

           し、院政停止する。

■ 1180年  ● 1180年2月、平清盛の娘・平徳子( たい

           らのとくこ、後の建礼門院)の産んだ皇子(み

           こ)が、安徳(あんとく)天皇(幼帝)として、即

           位する。

           ● 1180年5月、以仁王は安徳天皇即位で

           皇位につく(天皇になる)見込みがなくなり、

           以仁王(もちひとおう)は、源頼政(みなもとの

           よりまさ)を従えて挙兵し、両者とも敗死する。

           ● 1180年6月、平清盛は、摂津福原に遷都

            (せんと)する。 後に還都(かんと)する(同

            年11月に京(都)に帰る)。

           ● 1180年8月、源 頼朝が、挙兵する。 石

            橋山(いしばしやま)の戦いで敗北する。 そ

            の後、房総半島に逃れ、再軍備を図る。

           ● 1180年10月、源 頼朝が、鎌倉入りする。 

            鎌倉の大蔵御所を政治の拠点とする。

           ● 1180年10月、  富士川の戦いで、平氏

            軍は兵力差を知り撤退し、 源 頼朝が、

            氏軍に対し富士川の戦いで勝利を得る。 

             以後、源 頼朝は、西上(せいじょう)せず、

            東国の安定確保に専念する。

           ● 1180年12月、平重衡(たいらのしげひ

            ら)が、平清盛の命(めい)で、南都(なん

            と) の寺社勢力を討伐する。  その戦いの

            中、不本意にも、東 大寺大仏殿や興福寺

            が炎上する (南都焼き討ち)。

■ 1181年  ● 1181年2月、平清盛が、 死去する。

            平清盛は、 熱病で苦しみ、貿易立国の夢

            の実現を惜しみ、また、伊勢平氏の行く末

            の安泰を願い、死去する。

 

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『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』

 

 

以  上