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KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY HANDBOOK.
カナヤマ 日本歴史辞典
日本語版
見出し語 『 た 』
No.0930。
メ ニュー (目次)。
■ 次の項目を選び、クリックして下さい。
□ 日本史 辞典 (総合)。
□ た ≪ 武田氏一族 ≫
● 事柄順。
〇 たけ 武田氏。
(たけだし)。 《武家の氏族》。
(= 武田家)。
(12世紀頃−16世紀)。
THE TAKEDA CLAN.
No.1。
○ 武田氏武家としての
武田氏。
○ 武家の武田氏は、
武家の氏族で、守護、
大名である。
○ 武家の武田氏は、
代々、甲斐 国の守護を
継承した一族、武家で
ある。
□ 日本歴史で活躍した
氏族:
■ 武家の武田氏 (たけだし・た
けだうじ 、 = 武田家)は、
武家の氏族であり、12世紀頃から
16世紀まで存在した武家、守護、
大名である。
■ 武田氏 (たけだし、= 武田家)
は、 代々、甲斐国 (かい のくに、
現・山梨県の相当地域) の守護
(しゅご、現在の知事に 相当)を
継承した一族、武家 ある。
〇 たけ 武田 勝頼。
(たけだ かつより)。
(= 諏訪 勝頼)。
(1546〜1582年)。
〇 たけ 武田勝頼 詳細年表。
(たけだかつより しょうさいねん
ぴょう) 。
(⇒ 日本史年表)。
の 先頭ページへ 。
■ 『 現在は、過去の成果であり、
未来は、現在の成果である。 』
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日本語版。
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◆ 日本史辞典
● 見出し語は、グリーンでマークされています。
の先頭ページ 。
■ 武田氏。
(たけだし)。 (= 武田家)。
■ 武田氏。
■ 名称: 武田氏 (たけだし)。
● 別名 : 武田家 (たけだけ)。
■ 甲斐源氏の武田氏。
■ 武田氏は、
代々、甲斐国 (かい のくに、現・山梨県
の相当地域)の守護 (しゅご、現在の知事
に相当) を継承した一族、武家である。
■ 守護、戦国大名としての武田氏は、
安土桃山時代の、1582年(天正10年)
に滅亡する。
■ 江戸以後に再興する武田氏は、信玄の
男子で、盲目のため出家していた海野信親
(竜芳)の系譜である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 41537。
□ 武田信玄ガイドブック。
ブック。
□ 武田 信玄 詳細年表。
□ 武田 勝頼 詳細年表。
■ 武田氏。
■ 武田氏 (武田家) (たけだし、(たけだけ))は、
甲斐源氏の流れをくみ、 代々、甲斐国 (かいの
くに、現・山梨県の相当地域) の 守護 (じゅご、
現在の知事に相当) を継承した一族、武家であ
る。
● 甲斐の武田氏(家)の家系は、 清和源氏(せい
わげんじ)の一家系・河内源氏(かわちげんじ)
の傍系(ぼうけい)・甲斐源氏の嫡流にあたる。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
● 武田信玄 (武田晴信)は、 甲斐武田氏(家)の
第19代当主である。
■ 江戸以後に再興する武田氏(家)は、 信玄の
男子で、 武田勝頼の兄で、 盲目のため出家
していた海野信親(竜芳)の系譜である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
● 長篠・設楽ヶ原の戦いで、武田氏が敗北。
1575年(天正3年)5月に、三河(みかわ、現・
愛知県東部の相当地域)の・長篠・設楽ヶ原(なが
しの・しだらがはら)で、 武田勝頼の率いる武田
軍は、織田信長の率いる織田・徳川連合軍に敗
れる。
しかし、その後、武田勝頼は、軍団を再編
成し、強化し、強力な武田軍が出現した。 長篠・
設楽ヶ原の戦いで、自分の言うことをきかない武
田氏の信玄以来の老齢の多くの部将が討ち死
にし、世代交代が進み、武田勝頼は、自分の言う
ことをきく、自分の思いどおりの軍団を編成しやす
くなり、武田軍は、再編成され、強力な武田軍と
なった。
◆ 武田氏滅亡の原因。
■ 守護、戦国大名としての武田氏(家)は、1582
年(天正10年)に、滅亡した。
■ 守護、戦国大名の武田氏(家)の滅亡の原因
は、 「周辺諸国の強大化」 と 「武田 勝頼(か
つより)の政策の失敗」 にあった。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 高天神城攻防戦。
■ 高天神城 (たかてんじんじょう)は、
遠江国 (とおとうみのくに、現・静岡県西
部の相当地域)にあった、山城(やまじろ)
である。
■ 高天神城攻防戦。
■ 1581年(天正9年)に、武田勝頼の援
軍がないまま、武田勝頼方の高天神城は、
徳川家康方の軍の攻撃をうけ、落城し、城
兵は討ち死にした。 これが武田氏滅亡の
原因の1つとなった。
武田勝頼の援軍がなく武田勝頼方の
高天神城が落城したことは、 武田領国内
の多くの国人領主の信頼を失い、武田領国
内の多くの国人領主の武田氏からの離反を
招き、1582年(天正10年)に、織田軍・徳
川軍・北条軍による武田氏への総攻撃が行
われ、西方(織田軍)・南方(徳川軍)・東方
(小田原北条軍)から三軍が武田氏領地へ
攻め込んだ時に、武田氏領内の多くの国人
領主が抵抗せず、降伏する原因となった。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 織田信長の策略。
武田勝頼の援軍がないまま、武田氏
方の高天神城が落城し城兵が討ち死にす
れば、武田氏領内の多くの国人領主が武
田氏への信頼を失い、武田氏から離反し、
織田信長が武田氏領内に攻め込んだ時に
多くの国人領主が戦わず降参し抵抗しな
いと織田信長は考えた。
徳川家康の徳川氏方の軍は、初め、
少数の城兵が籠る、武田氏方の高天神城を
囲み、兵糧攻めで、降伏を待っていた。
しかし、徳川家康の同盟者の織田信長は、
城兵の降伏を許さず討ち死にさせるように
徳川家康に要請し、徳川家康の徳川氏方
の軍は、その要請に従った。
そして、武田氏方の高天神城は落城
し城兵は討ち死して、それを知った武田氏
領内の多くの国人領主が武田氏への信頼
を失い、 織田信長の策略は、見事に当た
った。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 武田氏滅亡の原因。
■ 1582年(天正10年)に、 織田信長は、
武田氏領へ侵攻し、それに伴なって、小田
原北条氏や徳川氏も武田領内へ攻め込み、
武田勝頼の武田氏領は、東方、西方、南方
の三方から攻め込まれ、武田氏領国内の
多くの国人領主が戦わず降参し抵抗せず、
武田勝頼は、敗戦をつづけ、自害し、武家
の武田氏は滅亡する。
■ 武田氏滅亡の原因は、主に2つある。
■ 武田氏滅亡の主因の1つは、武田勝頼
が強国の小田原北条氏との同盟を破棄し、
弱い国 (御館の乱(おたてのらん、1578
−1579年)の内乱で分裂状態) の上杉
景勝の上杉氏と同盟を結んだことである。
武田氏領国は、 西方(織田軍)・南方
(徳川軍)・東方(小田原北条軍)の三方から
敵に囲まれ、味方の北方の内乱後の弱い
上杉景勝の上杉氏からは少ない援軍しか
得られないことである。
● 御館の乱(おたてのらん、1578−15
79年)の内乱中に、上杉氏の同盟者の
小田原北条氏の要請で、武田勝頼は、
越後 (えちご、新潟県の相当地域)に、
援軍を出す。 ところが、 武田勝頼は、
小田原北条氏方の上杉虎景に味方せず、
上杉景勝方 と 上杉景虎方との仲介役に
回ってしまった。 それを知って北条氏は
激怒し、その後、武田氏との同盟を破棄
した。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 武田氏滅亡のもう1つの主因は、高天神
城(たかてんじんじょう)攻防戦で、武田勝頼
が武田氏方の高天神城に援軍を送らず、落
城させ、城兵は討ち死させたことである。
武田氏方の高天神城を落城させ城兵
を見殺しにしたことは、 武田領国内の多く
の国人領主の信頼を失わせた。
● 武田勝頼は、 織田信長と終戦の交渉を
している時、徳川家康による、遠江 (とおと
うみ、静岡県西部の相当地域)の高天神城
の攻防戦が起こり、 武田勝頼は、織田信長
を刺激し、信長との終戦交渉をやめたくない
ために、武田方の高天神城への援軍を出さ
なかった。 一方、織田信長は、本気で、武
田勝頼と終戦の交渉をするつもりはなかっ
た。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 武田氏滅亡の原因 1。
■ 武田信玄の武田氏の時期(当主1541〜73年)
には、 武田氏領の周辺には、 強大な勢力は少
なく、 多くの国は分裂して、 覇を争っていた。
しかし、武田勝頼の武田氏の時期(当主15
73〜82年)には、 武田氏領の周辺に、強大な
敵が出現する。 西方の織田信長の織田軍、 北
方の上杉謙信の上杉軍、 東方の北条氏康・氏政
の小田原北条軍 などである。
織田信長が、 近畿を中心に、多くの国を征
服して、強大化し、武田氏と敵対した。 武田勝
頼の武田家の軍 (1576年時点で約2〜3万人
の兵)は、 織田信長の強大な織田氏の軍 (15
76年時点で約10万人の兵) と敵対していた。
武田勝頼の武田氏は、その対策に苦慮した。
武田勝頼は、強大な織田氏と敵対する、武田氏
領の周辺の国々との同盟を模索した。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 武田氏滅亡の原因 2。
■ 強国の織田信長の織田家の軍と敵対していた、
武田勝頼の武田氏は、 甲相同盟を破棄し、
甲越同盟を結ぶ政策をとり、 強国の北条氏政
の北条氏の軍も敵にまわしてしまい、 強い織田・
北条両氏の軍に攻められたため、 防ぎきれず、
滅亡してしまった。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
● 武田勝頼の武田家が、1578年に、 武田氏領
(甲斐、信濃、駿河)の東方にある 強国の北条
氏政の北条氏との同盟を破棄し、 武田氏領
(甲斐、信濃、駿河)の北方にある 当時弱小
国となっていた上杉景勝の上杉氏と同盟を結ん
だ。
● というのも、 武田勝頼は、軍資金に困窮していた。
また、もし武田領の北方の越後が北条氏勢力圏
に入ると北条勢力は強大化し、武田氏領はその
北方と東方を北条氏勢力に囲まれることとなり、武
田勝頼は、驚異を感じ、 また、勝頼は 同盟者だ
った相模の北条氏に不信感をもち、同盟者として
の北条氏への信頼が揺らいでいた。
● よって、 武田勝頼は 越後の上杉景勝の上杉氏
から、 多額の軍資金と上野(こうずけ)の沼田領
の譲渡の申し入れを受け、それらを得ることと引き
換えに、 北方の越後の上杉氏と甲越同盟 (武田
氏と上杉氏との同盟)を結び、 甲相同盟 (武田氏
と北条氏との同盟) を破棄したのである。
● しかし、強国の北条氏政の北条氏の軍を敵に
まわしてしまったため、 武田勝頼の武田氏は、
武田氏領(甲斐、信濃、駿河)の西方にある 強国
の織田信長の織田氏の軍に対抗できず、 武田勝
頼の武田氏は、 1582年(天正10年)に、 武田
氏領(甲斐、信濃、駿河)の西側より織田軍に攻め
られ、 武田氏領の南側より徳川軍に攻められ、
武田氏領の東側より北条軍に攻められ、三方より
同時に攻められて、それらの攻撃を防ぎきれず、
武田氏は滅亡した。
■ 武田氏滅亡の原因 3。
■ 武田氏の武田勝頼は、 中央集権化を目指
した政策をすすめ、 軍団の再編成をしよう
としたり、 新府城を築城しようとして、
膨大な軍資金(築城や軍維持増強など)を、
支配下の国人衆に課すことにより、 軍団の
国人衆の造反を招く結果となった。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
● 武田氏の武田勝頼は、近い将来攻め込んで
くる織田・徳川連合軍に備えるため、 中央集
権化を目指し、 独立心の強い国人衆からな
る武田軍団の再編成をしようとしたり、 甲斐
の韮崎に新府城を築城して防備を固めようと
した。 そのため膨大な軍資金(築城や軍維
持増強など)を支配下の国人衆に課すことに
なり、国人衆の造反を招く結果となった。
● 1581年(天正9年)の徳川軍による高天神城
の落城は、 武田氏の威信を大きく下げ、 支
配下の国人衆は、大きく動揺した。 これを堺
に、織田・徳川家からの調略が活発になり、
日頃から不仲な一門衆や日和見(ひよりみ)な
国人衆の造反が、始まった。
♪♪ 武田氏が登場する、興味深 いド
キュメンタリー、ドラマ、映画。
★ 武田氏が登場する、興味深い、
ドキ ュメンタリー。
■ にっぽん!歴史鑑定
『 武田勝頼の生涯 』。
(TBSテレビ・2016年3月14日・本放送
BS・TBS歴史ドキュメンタリー番組)。
■ 武田信玄・武田勝頼の時期の、武田氏の
実情を述べる
■ 武田勝頼の詳細を述べる。
■ 歴史秘話ヒストリア
『 新春激突!織田・徳川・武田
三大決戦〜長篠 の合戦
男たちは何を見た!? 』。
(NHKテレビ・20 12年(平成24年)1月
4日・本放送ドキュメンタリー番組。
■ 織田信長、武田信玄、武田勝頼が登場する。
■ その時歴史が動いた
『 完成・戦国最強軍団
〜武田信玄・
苦悩の生涯〜 』。
(NHKテレビ・2007年(H19)2月・本放送
テレビ・ドキュメンタリー番組、第276回)。
■ 武田氏が登場する。
■ その時歴史が動いた
『 謙信恐るべし 』。
(NHKテレビ・2007年(H19)4月本放
送・テレビ・ドキュメンタリー番組、
第283回)。
■ 武田氏が登場する。
★ 武田氏が登場する、興味深い、ドラ
マ、映画。
● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。
歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史の事実)
と 架空の出来事 が、混じって、描かれて
います。 また、現代風にアレンジしてあります。
■ 『 風林火山 (ふうりんかざん) 』 。
(NHKテレビ・2007年大河ドラマ)。
■ 武田 信玄 の甲斐(山梨県)の守護(国主)
就任から、 信玄の、信 濃(しなの、長野県)
への侵略、上杉謙信との戦いなどの活躍を
描いたテレビドラマ。
■ フィクションの物語「甲陽軍鑑」に記述された
場面を、ドラマの中で、多く、再現しています。
● 武田 信玄 を演じた俳優名 : 市川 亀治郎
(いちかわ かめじろう、二代目)。
■ 『 武田信玄 』。
(日本のTBSドラマ)。
■ 『 影武者 (かげむしゃ) 』 。
(日本の1980年東宝映画)
黒澤明監督作品。
■ 1573年の野田(のだ)城攻めから1575年
の長篠(ながしの)の戦いまでを描いた映画。
■ 武田信玄の影武者の活躍 や 武田信玄の
上洛途中の死去(1973年)、その死後の武田
氏重臣や武田勝頼の行動を描いた映画。
■ この映画では、信玄は、通説の病死ではなく、
三河国の野田城で鉄砲で狙撃され (新井白
石著・藩翰譜の記述を採用)、その負傷がもと
で死去した と描かれてい る。
■ 『 戦国自衛隊 』。
(日本の1979年東宝SF映画)。
■ 陸上自衛隊の伊庭三尉(千葉真一役)の
率いる一個小隊が戦国時代へタイムスリ
ップするという設定のSF歴史映画。
● 武田 勝頼 を演じた俳優名 : 真田 広之。
● 武田 信玄 を演じた俳優名 :田中 浩。
の 先頭ページへ 。
#takedakatsuyoridetailedchronology
■ 武田勝頼 詳細年表
(たけだかつより しょうさいねんぴょう)。
◆ 武田勝頼 詳細年表。
■ 武田信玄 (たけだ しんげん) の詳細に関しては、
『 武田信玄 ガイドブック (要覧) 』 を参照して下
さい。
■ 戦国時代については、『 中世日本歴史詳細 年表 』
を、安土桃山時代、江戸時代については、『 近世日本
歴史詳細年表 』を参照して下さい。
■ より理解を深めるために、 当年表と近い時期の日本
史辞典の年表の、 『 戦国時代 (室町時代後期) 年表、
表 』 も参照してください。
■ 当年表 は、 武田 勝頼 (1546年〜1582年) が
生きた時代の詳細年表 である。
■ 武田 勝頼 (たけだ かつより、生没年 1546年〜15
82年) の時代の日本へタイムスリップして、 武田勝頼
の足跡、活動を見てみよう。
■ 歴史学の立場から、年代を追って、 武田勝頼 の実
像 (歴史的有名な人物には、実像と虚像がありますが)
を見てみよう。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典 22219。
■ 日付(年月日)は、全て旧暦、人物の年齢は、数え年。
● 一般的な歴史書籍で使用されているのと同じように、
当年表の日付(年月日)は、1872年(明治5年)12月
2日までは、旧暦(太陰太陽暦)を用い 、人物の年齢も
数え年を用いている。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
◆ 武田 勝頼 詳細年表。
● では、武田勝頼 (たけだ かつより) に関係する出
来事を、年代順に、見てみ よう。
#takedakatsuyoridetailedchronology-1521
■ 1521年 ● 大永(だいえい、たいえい)改元。
(大永 元年) 1521年8月23日に、和暦の「永正」(えい
しょう) が、 「大永」 (だいえい・たいえい、
大永元年・1521年・8月23日〜 大永8年・
1528年8月20日) に改元される。
■ 1521年 ● 1521年11月、 武田 信玄 (たけだ し
(大永元年) んげん、太郎) が、誕生する。
信玄(太郎)の父の、武田信虎は、甲斐
源氏 の名門・武田氏の第18代当主であり、
信虎期には、甲斐統一が達成されていた。
■ 1528年 ● 享禄(きょうろく)改元。
(享禄 元年) 1528年8月20日に、 和暦の「大永」(だい
えい、たいえい) が、 「享禄」 (きょうろく、
享禄元年・1528年・8月20日〜 享禄5年・
1532年7月29日) に改元される。
■ 1530年 ● 越後の戦国大名となる、上杉 謙信 (うえ
(享禄 3年) すぎ けんしん、幼名:虎千代) が、 越後で、
越後守護代・ 長尾為景の子として、春日山城
で、 誕生する。
■ 1532年 ● 天文(てんぶん、てんもん)改元。
(天文 元年) 1532年7月29日に、和暦の「享禄」(きょう
ろく) が、 「天文」 (てんぶん、てんもん、天
文元年・1532年・7月29日〜 天文24年・
1555年・10月23日) に改元される。
■ 1534年 ● 織田 信長 (おだ のぶなが、幼名:吉法師)
(天文 3年) が、 尾張で、織田信秀の子として、誕生する。
■ 1536年 ● 武田信玄(太郎)は、 元服(成人)し、 武田
(天文 5年) 晴信(はるのぶ)と称す。
■ 1536年 ● 豊臣秀吉 (とよとみ ひでよし、幼名:日吉
(天文 5年) 丸?)が、 尾張で、 弥右衛門の子として、誕
生する。
■ 1542年 ● 徳川家康 (とくがわ いえやす、幼名:竹千
(天文11年) 代) が、 三河で、 松平広忠の子として、誕
生する。
● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。
■ 1543年 ● 上杉 謙信(虎千代) は、元服(成人)して、
(天文12年) 長尾 景虎(ながお かげとら) と名乗り、 栃
尾城に入る。
#takedakatsuyoridetailedchronology-1546
■ 1546年 ● 武田勝頼 (たけだ かつより) が、甲斐
(天文15年) の戦国大名の武田信玄の子として、 生まれ
る。
■ 1548年 ● 上杉 謙信 (長尾景虎)は、19歳で、長尾家
(天文17年) の家督を相続し、長尾氏の本拠地である春日
山城に入り、 越後守護代となる。
■ 1550年 ● 上田長尾家当主の長尾政景(まさかげ)が、
(天文19年) 上杉 謙信(長尾景虎)の長尾家の相続に不
満を持って、反乱を起こす。
● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。
■ 1551年 ● 上杉謙信(長尾景虎) は、長尾政景の反乱
(天文20年) を鎮圧する。
● 上杉謙信(長尾景虎)の(実)姉の桃(仙桃院)
が、長尾政景に嫁ぐ (政略結婚)。
● 上杉謙信(長尾景虎)は、越後を統一し、 名
実共に、越後国主となる。
■ 1551年 ● 織田信長の父・信秀が急死し、織田信長が、
(天文20年) 織田信秀の家督を継ぐ。
■ 1552年 ● 第1次川中島の戦い。 5回の川中島の
(天文21年) 戦いの最初の戦い、即ち、武田信玄と上杉謙
信と間の、信濃における5回の戦いののうちの
最初の戦い。 その後、今回を含め信濃で両者
が、5回戦ったが、結局、勝敗つかず。
■ 1554年 ● 豊臣秀吉(木下藤吉郎) が、織田信長に
(天文23年) 仕える (家臣として仕え始める)。
● 武田信玄、北条氏康、今川義元の間で、互
いに婚姻関係を結び、甲相駿三国同盟 (15
54〜68年)が成立する。
■ 1555年 ● 弘治(こうじ)改元。
(弘治 元年) 1555年10月23日に、和暦の「天文」 (てん
ぶん、てんもん) が、 「弘治」 (こうじ、 弘
治元年・1555年・10月23日〜 弘治4年・
1558年・2月28日) に改元される。
■ 1555年 ● 上杉 景勝 (うえすぎ かげかつ、 幼名・長
(弘治元年) 尾 卯松(うのまつ)が、 誕生する。 上杉 景
勝 は、上杉謙信の姉の男子で、謙信の甥(お
い)であり、 後に、上杉謙信の養子となり、後
に、直江 兼続が仕える主君・大名である。
■ 1558年 ● 永禄(えいろく)改元。
(永禄 元年) 1558年2月28日に、和暦の「弘治」(こうじ)
が、 「 永禄」 (えいろく、 永禄元年・1558
年・2月28日〜 永禄13年・ 1570年・4月
23日) に改元される。
■ 1559年 ● 1559年2月に、武田信玄 (武田晴信) は、
(永禄 2年) 出家して、 徳栄軒信玄 と号し、 信玄と呼ばれ
る。
■ 1559年 ● 織田信長 は、 尾張一国を統一し、 尾張
(永禄 2年) 国主となる。
■ 1560年 ● 直江 兼続 (なおえ かねつぐ、幼名・樋口 与
(永禄 3年) 六) が、誕生する。
● 直江 兼続は、 越後の坂戸(さかど)城主(現
在の新潟県南魚沼市六日町坂戸)・長尾政景
(ながおまさかげ)の家臣、樋口 兼豊(ひぐち
かねとよ、樋口 惣右衛門(そうえもん)) の長
男 として、生まれる。
● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。
■ 1560年 ● 1560年5月に、織田信長は、 桶狭間(お
(永禄 3年) けはざま)の戦いで、今川義元を破る。 今川
義元は、 尾張の桶狭間で、敗死する。
● 義元の部下として信長と戦っていた、徳川家
康(松平元康)は、尾張より、松平軍の兵を撤
退し、三河へ戻り、今川家から独立する。
● 駿河の戦国大名、今川 義元が、上洛途中で、
死去(敗死)する。 今川 氏真(うじざね)が、
駿河・今川家(氏)の家督を継ぐ。
● 今川 義元が敗死し、今川家が衰退の兆しを
見せ始めたので、武田信玄は、今川氏との同
盟を破棄し(甲駿同盟を破棄し)、今川領の駿
河に侵攻しようと計画する。
● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。
■ 1561年 ● 1561年3月に、 北条氏攻め(小田原
(永禄4年) 城攻め)。 上杉謙信(長尾景虎)は、 関
東管領上杉憲政を擁して、 旧上杉家家臣
団10万人の大軍で、 北条氏康の北条氏
を攻め、 小田原城を包囲する。
● 1561年3月に、 上杉謙信(長尾景虎)
は、鎌倉の鶴岡八幡宮で、上杉憲政より、
山内上杉氏の家督を継承(相続)し、関東
管領に就任し、上杉政虎と称す。 その後、
1561年12月に、上杉輝虎と称す。
■ 1561年 ● 第4回川中島の戦い。 1561年8月に、
(永禄4年) 武田信玄軍2万人と上杉謙信(上杉政虎)
軍1万3000人が、信濃(現在の長野県)
の川中島で、決戦を行うが、 勝敗がつか
ず、互いに撤退する。
■ 1562年 ● 1562年1月に、徳川家康(松平元康)は、
(永禄 5年) 織田信長と清洲同盟 (織徳同盟)を結ぶ。
■ 1564年 ● 直江兼続 (樋口 与六) が、 小姓・近
(永禄7年) 習として 上杉 景勝に仕える (家臣として
仕え始める)。 通説だが、これを立証しえ
る史料はない。
■ 1564年 ● 謙信(上杉輝虎)の姉婿で上杉景勝の父
(永禄7年) の、長尾政景が、 舟遊びの最中、溺死する。
● 謙信(上杉輝虎)が、 長尾政景の次男の、
上杉景勝を養 子とする。
● 第5次川中島の戦い (最後の川中島の
戦い)。
■ 1567年 ● 1567年10月に、信長 は、 美濃(現
(永禄10年) 在の岐阜県)の斉藤氏を滅ぼす。
■ 1568年 ● 1568年11月に、織田信長は、足利義
(永禄11年) 昭(よしあき)を奉じて、上洛(じょうらく)を
果たし、 義昭を将軍位に就(つ)ける。
この戦いに、家康は、信長へ援軍を派遣
した。
■ 1568年 ● 武田信玄 が、駿河を占領する。 今川
(永禄11年) 氏真(うじざね) が、駿河を離れ、遠江(と
おとうみ)・掛川城へ逃れる。
1568年12月、 武田信玄 が、駿河
に侵攻を開始し、今川氏真軍 や 今川氏
への北条氏康の援軍と戦う。 甲相駿三国
同盟(1554〜68年)は、ここに、崩壊する。
■ 1569年 ● 上杉謙信(上杉輝虎)は、 武田信玄を
(永禄12年) 牽制(けんせい)するため、 宿敵である
北条氏康 の北条家と同盟を結ぶ (越相
同盟、1569〜71年)。
● 戦国大名としての駿河今川家(氏)が滅
亡する(統治権の喪失)。
今川氏真(うじざね)が、 徳川家康と和
睦し、遠江・掛川城を開城する。
■ 1570年 ● 1570年3月に、上杉謙信 (上杉輝虎)
(永禄13年) は、法号を、「不識庵謙信」と称し、 謙信
と 呼ばれる。
■ 1570年 ● 元亀(げんき)改元。
(元亀 元年) 1570年4月23日に、 和暦の「永禄」
(えいろく) が、 「 元亀」 (げんき、 元
亀元年・1570年・4月23日〜元亀4年・
1573年・7月28日) に改元される。
■ 1570年 ● 1570年4月に、織田信長は、 軍を、越
(元亀 元年) 前に侵攻したが、信長の妹婿の北近江の
浅井長政に背後をつかれ、 京(都)へ逃
れた。 金ヶ崎の退き口 (かながさきのし
りぞきぐち)。
■ 1570年 ● 1570年6月に、織田信長は、近江国の
(元亀 元年) 姉川で、浅井・朝倉連合軍を破る (姉川の
戦い)。 この戦いに、家康は、信長と共に
参戦し、信長を助けた。
● 1570年9月に、本願寺は、信長に対
抗する(石山合戦の始まり)。
■ 1570年 ● 上杉謙信(上杉輝虎) は、北条氏康の
(元亀 元年) 男子(越相同盟での北条氏の人質)、北条
三郎を養子とし、 景虎という名を与える
(上杉三郎景虎)。
■ 1571年 ● 相模国(さがみのくに、現在の神奈川県)
(元亀 2年) の北条家の、 北条氏康(1515〜71年)
が、死去する。 氏康の子、北条氏政(15
38〜90年) が 北条家の実権(1571
〜90年)を握る。
■ 1571年 ● 1571年9月に、信長 は、 比叡山延
(元亀 2年) 暦寺を焼討ちする。
● 1571年10月に、北条氏康が死去する。
● 1571年12月に、 北条家の家督を継
承(相続)した、 北条氏政は、上杉謙信の
上杉家との同盟を破棄し(越相同盟 を破棄
し)、武田家の武田信玄と同盟を結ぶ(甲相
同盟 を結ぶ)。
■ 1572年 ● 1572年10月に、武田信玄は、上洛の
(元亀 3年) 軍を起こす (上洛を開始する)。
● 1572年12月に、遠江の三方が原(みか
たがはら)の戦いで、徳川・織田連合軍 は、
武田信玄の武田軍に大敗する。
#takedakatsuyoridetailedchronology-1573
■ 1573年 ● 1573年2月に、足利義昭は、武田氏、
(元亀 4年) 浅井氏、朝倉氏、本願寺と協力して、信長
討伐を謀(はか)る。
● 1573年4月に、 武田信玄が、上洛途
中で、死去(病死)する。
武田信玄が、病状悪化し、武田軍は、
徳川領の三河や遠江から、軍を返し、甲斐
へ帰国した (信玄は帰国途中、信濃・駒場
で病死)。
● 1573年7月に、室町幕府滅亡。 織田
信長が足利義昭を追放する。
織田信長は、信長に反旗をひるがえした、
足利 義昭(よしあき)を京都より追放し、 室
町幕府を滅ぼす (室町幕府滅亡)。
● 1573年7月に、 信長は、元号を元亀か
ら天正へ と改めることを朝廷に奏上(そうじ
ょう)し、これを実現させた。
● 1573年に、 武田信玄死後、 武田勝頼
(たけだ かつより)が、 武田家の家督を継
承(相続)する。
■ 1573年 ● 天正改元。
(天正 元年) 1573年7月28日に、 和暦の「元亀」(げ
んき) が、 「 天正」 (てんしょう、天正元年・
1573年・7月28日〜 天正20年・ 1592
年・12月8日) に改元される。
■ 1573年 ● 1573年に、織田信長 は、朝倉・浅井両
(天正 元年) 氏を滅ぼす。
● 豊臣秀吉(木下秀吉)は、 浅井氏滅亡後、
その旧領の北近江(きたおうみ)三郡の経営
を織田信長より任され、 北近江の長浜城の
城主となる。
■ 1575年 ● 上杉謙信が、 直江 兼続 (樋口兼続)
(天正 3年) を重用する。
■ 1575年 ● 1575年5月に、織田信長・徳川家康連
(天正 3年) 合軍 は、三河・長篠(ながしの)で、 武田
勝頼の率いる武田軍に大勝する (長篠の
戦い)。
● 1575年8月に、信長は、越前に侵攻し、
本願寺門徒の軍を破り、再び、織田領にし、
越前を柴田勝家に経営させる。
■ 1576年 ● 上杉謙信は、 織田信長との同盟を破棄
(天正 4年) し、本願寺 ・顕如と講和し、 武田勝頼の武
田家とも和睦して、謙信を盟主とする、反信
長包囲網を築き上げる。
■ 1577年 ● 手取川の戦い。 1577年 9月に、上杉
(天正 5年) 謙信 は、 柴田勝家の率いる織田軍を、
越前で、破る。
1577年 9月に、信長軍 は、北陸で、
上杉謙信の率いる上杉 軍に敗れ (手取川
の戦い)、 撤兵する。
■ 1578年 ● 上杉謙信 が、 死去する。
(天正6年) ● 上杉謙信の2人の養子の上杉景勝と上
杉三郎景虎の間に、上杉家の家督継承(相
続)をめぐって、 越後の内乱である、御館
の乱(おたてのらん、1578〜80年)が起
こる。
● 上杉景勝は、 武田勝頼の武田家と甲越
同盟を結び、武田家の菊姫を、上杉景勝の
正室にむかえる。
● 1578年に、北条氏の北条氏政 は、 同
盟者の武田勝頼の背信に激怒し、 第2次
甲相同盟を破棄する。
武田勝頼の武田家が、1578年に、武田
領(甲斐、信濃、駿河)の東側にある 強国の
北条氏政の北条家との同盟を破棄し、武田領
(甲斐、信濃、駿河)の北側にある 当時弱小
国となっていた越後の上杉景勝の上杉家と
同盟を結び、 強国の北条氏政の北条家の軍
を敵にまわしてしまう。 これが武田家滅亡
の原因の1つとなる。
● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。
■ 1578年 ● 信長軍は、上杉領の能登、加賀の攻略
(天正 6年) を開始する。
● 1578年11月に、織田水軍が、鉄甲船
を用いて、毛利水軍を破る。
■ 1579年 ● 織田信長 は、 五層七重の豪華絢爛
(天正 7年) (ごうかけんらん)な安土城を完成させる。
■ 1579年 ● 御館の乱で、 上杉景勝は、武田家の
(天正7年) 後ろ盾を得て、戦いを有利にすすめ、
上杉三郎景虎が、自刃する。
■ 1579年 ● 武田領(甲斐、信濃、駿河)の東側にあ
(天正7年) る、 北条家の北条氏政は、1579年に、
武田領(甲斐、信濃、駿河)の南側にある、
徳川家の徳川家康 と同盟を結ぶ。
#takedakatsuyoridetailedchronology-1580
■ 1580年 ● 武田領(甲斐、信濃、駿河)の東側にあ
(天正8年) る、 北条氏の北条氏政は、1580年に、
武田領(甲斐、信濃、駿河)の西側にある、
織田家の織田信長 と同盟を結ぶ。
これにより、 武田家の武田勝頼は、
武田領(甲斐、信濃、駿河)の東側と南側と
西側の三方より、 北条・徳川・織田軍の敵
対勢力に囲まれる。
■ 1580年 ● 直江兼続 (樋口兼続)の主君の、上杉景
(天正8年) 勝 が、御館の乱で、上杉三郎景虎に味方
した勢力に最終的に勝利を得る。 そして、
上杉景勝が、 上杉家の家督を継承(相続)し、
上杉謙信の後継者として、 上杉家の当主と
なる。
■ 1580年 ● 織田信長 は、 石山本願寺を屈服させる。
(天正 8年)
■ 1581年 ● 直江 兼続 が、直江家を相続する。
(天正9年) 直江兼続 (樋口兼続) は、 直江家の直江
信綱が死去しその妻、お船(おせん)と結婚し、
直江家を相続し、 直江姓を名乗る。
■ 1581年 ● 1581年2月に、織田信長 は、 京都の
(天正 9年) 内裏(だいり)東の馬場で、京都御馬揃え
(馬揃えは、現在の軍事パレードに相当)
を行う。
■ 1581年 ● 1581年の徳川軍による高天神城の落城
(天正 9年) は、 武田家の威信を大きく下げ、 武田家
の支配下の国人衆は、大きく動揺した。 これ
を堺に、織田・徳川家からの調略が活発にな
り、 勝頼と日頃から不仲な一門衆 や 日和
見(ひよりみ)な国人衆の武田家からの造反
が、始まる。
■ 1582年 ● 1582年2月に、織田信長 は、 武田領
(天正10年) への攻撃開始し、3月11日に、武田勝頼を
討ち取り(天目山の戦い)、 武田氏は滅亡
する。
● 武田勝頼の武田家は、 1582年に、
武田領(甲斐、信濃、駿河)の西側より織田
軍に攻められ、 武田領の南側より徳川軍に
攻められ、 武田領の東側より北条軍に攻
められ、 三方より同時に攻められて、それ
らの攻撃を防ぎきれず、 滅亡した。
● 1582年2月に、織田軍に協力して、 徳
川軍も、武田領の駿河 に侵攻して、駿河を
占領する。 徳川家康は、 同年に、この戦
功により、織田信長から駿河一国を与えら
れる。
■ 1582年 ● 1582年5月に、織田信長 は、明智光秀
(天正10年) に、備中国(びっちゅうのくに、岡山 県南西部
にいる秀吉軍への援軍を命じ、 信長は、
同年6月に、京都へ上洛した。
● 1582年6月に、豊臣秀吉の主君・信長
は、本能寺の変で自刃。
明智光秀 が、1582年6月に、京都の本
能寺にいた織田信長を攻め、 自害させる
(本能寺の変)。 信長、享年49歳で死す。
同年6月に、秀吉は、 明智光秀を討つ
(山崎の戦い)。
● 1582年6月27日に、秀吉は、に、清洲
城にて、他の織田家の重臣と 信長の後継
者と織田信長の遺領の分割を決める (清
洲会議)。
● 1582年12月に、秀吉は、 北近江へ侵
攻し、敵対する敵方の長浜城を降伏させ、敵
対する敵方の美濃へ侵攻、平定する。
● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。
■ 1582年 ● 越後の大名、上杉景勝は、 織田軍に
(天正10年) 攻められ、 越後の上杉家は 滅亡の危機。
● 織田信長が、本能寺の変で、自刃。 越
後を攻めていた織田軍が、 頭領の信長を
失い、撤退し、上杉家滅亡の危機を脱する。
● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。
■ 1582年 ● 1582年6月の織田信長死後、 織田
(天正10年) 領の信濃、甲斐、上野(こうずけ)へ上杉景
勝の軍、 北条氏政・氏直の軍、 徳川家康
の軍 が侵攻した。
その後、戦いの結果、徳川家康と北条
氏政・氏直は和睦し、 信濃(しなの、長野
県)、甲斐(かい、山梨県)は、徳川領に、
上野(こうずけ、群馬県)は、北条領となった。
ここに、 徳川家康 は、三河 (みかわ、
愛知県東部)、遠江(とおとうみ、 静岡県西
部)、駿河 (するが、静岡県中部)、甲斐、
信濃の中部5カ国を領有する大大名(1582
〜90年)になる。
の 先頭ページへ 。
◆ 武田 勝頼。
(たけだ かつより)。
■ 武田 勝頼。
■ 名称 : 武田 勝頼 (たけだ かつより)。
別名 : 諏訪 勝頼 (すわ かつより)。
■ 生没年 : 1546年〜1582年。
■ 戦国時代(室町時代後期)、安土桃山時代の、
甲斐 国(かい のくに、現在の山梨県 相当地
域) 及び 信濃 国(しなの のくに、現在の長
野県相当地域)の、国主、戦国大名。
■ 甲斐国の守護、国主、戦国大名の武田信玄
の子。
● 武田信玄(たけだしんげん)と信玄の側室夫
人の諏訪御料人(すわごりょうにん)との間の
男子。
■ 代々甲斐の守護職を受け継ぐ甲斐・武田家
の当主。
最後の甲斐・武田家の当主。
● 1582年(天正10年)に3月に、天目山の戦
いで敗死。 甲斐・武田氏は滅亡。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 02215。
■ 武田 勝頼 (たけだ かつより、生没年:1546
〜82年)は、 別名は諏訪勝頼で、 甲斐国の
守護、国主、戦国大名の武田信玄の子である。
武田 勝頼 は、 武田信玄(たけだしんげん)と
信玄の側室夫人の諏訪御料人(すわごりょうに
ん)との間の男子 である。
■ 武田 勝頼は、 戦国時代(室町時代後期)、
安土桃山時代の、甲斐国(かいのくに、現在
の山梨県)及び信濃国(現在の長野県)の、国
主で、戦国大名であった。
■ 武田 勝頼は、 代々甲斐の守護職を受け
継ぐ甲斐・武田家の当主で、 最後の甲斐・
武田家の当主 となった。
● 武武田 勝頼は、1582年(天正10年)に3月
に、 天目山の戦いで敗 死し、 甲斐・武田氏
は、ここに滅亡した。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 41535。
◆ 武田氏滅亡の原因。
■ 守護、戦国大名としての武田氏は、1582
年(天正10年)に、滅亡した。
■ 守護、戦国大名の武田氏の滅亡の原因
は、 「周辺諸国の強大化」 と 「武田 勝頼
(かつより)の政策の失敗」 にあった。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 高天神城攻防戦。
■ 高天神城 (たかてんじんじょう)は、
遠江国 (とおとうみのくに、現・静岡県西
部の相当地域)にあった、山城(やまじろ)
である。
■ 高天神城攻防戦。
■ 1581年(天正9年)に、武田勝頼の援
軍がないまま、武田勝頼方の高天神城は、
徳川家康方の軍の攻撃をうけ、落城し、城
兵は討ち死にした。 これが武田氏滅亡の
原因の1つとなった。
■ 武田勝頼の援軍がなく武田勝頼方の
高天神城が落城したことは、 武田領国内
の多くの国人領主の信頼を失い、武田領国
内の多くの国人領主の武田氏からの離反を
招き、1582年(天正10年)に、織田軍・徳
川軍・北条軍による武田氏への総攻撃が行
われ、西方(織田軍)・南方(徳川軍)・東方
(小田原北条軍)から三軍が武田氏領地へ
攻め込んだ時に、武田氏領内の多くの国人
領主が抵抗せず、降伏する原因となった。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 織田信長の策略。
■ 武田勝頼の援軍がないまま、武田氏
方の高天神城が落城し城兵が討ち死にす
れば、武田氏領内の多くの国人領主が武
田氏への信頼を失い、武田氏から離反し、
織田信長が武田氏領内に攻め込んだ時に
多くの国人領主が戦わず降参し抵抗しな
いと織田信長は考えた。
■ 徳川家康の徳川氏方の軍は、初め、少
数の城兵が籠る、武田氏方の高天神城を
囲み、兵糧攻めで、降伏を待っていた。
しかし、徳川家康の同盟者の織田信長は、
城兵の降伏を許さず討ち死にさせるように
徳川家康に要請し、徳川家康の徳川氏方
の軍は、その要請に従った。
そして、武田氏方の高天神城は落城
し城兵は討ち死して、それを知った武田氏
領内の多くの国人領主が武田氏への信頼
を失い、 織田信長の策略は、見事に当た
った。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 武田氏滅亡。
■ 1582年(天正10年)に、 織田信長は、
武田氏領へ侵攻し、それに伴なって、小田
原北条氏や徳川氏も武田領内へ攻め込み、
武田勝頼の武田氏領は、東方、西方、南方
の三方から攻め込まれ、武田氏領国内の
多くの国人領主が戦わず降参し抵抗せず、
武田勝頼は、敗戦をつづけ、自害し、武家
の武田氏は滅亡する。
■ 武田氏滅亡の原因。
■ 武田氏滅亡の原因は、主に2つある。
● 武田勝頼は、武田領国の東方
の北条氏との同盟を破棄。
■ 武田氏滅亡の主因の1つは、武田勝頼
が強国の小田原北条氏との同盟を破棄し、
弱い国 (御館の乱(おたてのらん、1578
−1579年)の内乱で分裂状態) の上杉
景勝の上杉氏と同盟を結んだことである。
武田氏領国は、 西方(織田軍)・南方
(徳川軍)・東方(小田原北条軍)の三方から
敵に囲まれ、味方の北方の内乱後の弱い
上杉景勝の上杉氏からは少ない援軍しか
得られないことである。
● 御館の乱(おたてのらん、1578−15
79年)の内乱中に、上杉氏の同盟者の
小田原北条氏の要請で、武田勝頼は、
越後 (えちご、新潟県の相当地域)に、
援軍を出す。 ところが、 武田勝頼は、
小田原北条氏方の上杉虎景に味方せず、
上杉景勝方 と 上杉景虎方との仲介役に
回ってしまった。 それを知って北条氏は
激怒し、その後、武田氏との同盟を破棄
した。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
● 武田勝頼は、武田方の高天神
城に援軍を送らず、落城・討ち
死にさせる。
■ 武田氏滅亡のもう1つの主因は、高天神
城(たかてんじんじょう)攻防戦で、武田勝頼
が武田氏方の高天神城に援軍を送らず、落
城させ、城兵は討ち死させたことである。
武田氏方の高天神城を落城させ城兵
を見殺しにしたことは、 武田領国内の多く
の国人領主の信頼を失わせた。
● 武田勝頼は、 織田信長と終戦の交渉を
している時、徳川家康による、遠江 (とおと
うみ、静岡県西部の相当地域)の高天神城
の攻防戦が起こり、 武田勝頼は、織田信長
を刺激し、信長との終戦交渉をやめたくない
ために、武田方の高天神城への援軍を出さ
なかった。 一方、織田信長は、本気で、武
田勝頼と終戦の交渉をするつもりはなかっ
た。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
◆ 武田氏滅亡の原因。
■ 武田氏滅亡の原因 1。
■ 武田信玄の武田氏の時期(当主1541〜73年)
には、 武田氏領の周辺には、 強大な勢力は少
なく、 多くの国は分裂して、 覇を争っていた。
しかし、武田勝頼の武田氏の時期(当主15
73〜82年)には、 武田氏領の周辺に、強大な
敵が出現する。 西方の織田信長の織田軍、 北
方の上杉謙信の上杉軍、 東方の北条氏康・氏政
の小田原北条軍 などである。
織田信長が、 近畿を中心に、多くの国を征
服して、強大化し、武田氏と敵対した。 武田勝
頼の武田家の軍 (1576年時点で約2〜3万人
の兵)は、 織田信長の強大な織田氏の軍 (15
76年時点で約10万人の兵) と敵対していた。
武田勝頼の武田氏は、その対策に苦慮した。
武田勝頼は、強大な織田氏と敵対する、武田氏
領の周辺の国々との同盟を模索した。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 武田氏滅亡の原因 2。
■ 強国の織田信長の織田家の軍と敵対していた、
武田勝頼の武田氏は、 甲相同盟を破棄し、
甲越同盟を結ぶ政策をとり、 強国の北条氏政
の北条氏の軍も敵にまわしてしまい、 強い織田・
北条両氏の軍に攻められたため、 防ぎきれず、
滅亡してしまった。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
● 武田勝頼の武田氏が、1578年に、 武田氏領
(甲斐、信濃、駿河)の東方にある 強国の北条
氏政の北条氏との同盟を破棄し、 武田氏領
(甲斐、信濃、駿河)の北方にある 当時弱小
国となっていた上杉景勝の上杉氏と同盟を結ん
だ。
● というのも、 武田勝頼は、軍資金に困窮していた。
また、もし武田領の北方の越後が北条氏勢力圏
に入ると北条勢力は強大化し、武田氏領はその
北方と東方を北条氏勢力に囲まれることとなり、武
田勝頼は、驚異を感じ、 また、勝頼は 同盟者だ
った相模の北条氏に不信感をもち、同盟者として
の北条氏への信頼が揺らいでいた。
● よって、 武田勝頼は 越後の上杉景勝の上杉氏
から、 多額の軍資金と上野(こうずけ)の沼田領
の譲渡の申し入れを受け、それらを得ることと引き
換えに、 北方の越後の上杉氏と甲越同盟 (武田
氏と上杉氏との同盟)を結び、 甲相同盟 (武田氏
と北条氏との同盟) を破棄したのである。
● しかし、強国の北条氏政の北条氏の軍を敵に
まわしてしまったため、 武田勝頼の武田氏は、
武田氏領(甲斐、信濃、駿河)の西方にある 強国
の織田信長の織田氏の軍に対抗できず、 武田勝
頼の武田氏は、 1582年(天正10年)に、 武田
氏領(甲斐、信濃、駿河)の西側より織田軍に攻め
られ、 武田氏領の南側より徳川軍に攻められ、
武田氏領の東側より北条軍に攻められ、三方より
同時に攻められて、それらの攻撃を防ぎきれず、
武田氏は滅亡した。
■ 武田氏滅亡の原因 3。
■ 武田氏の武田勝頼は、 中央集権化を目指
した政策をすすめ、 軍団の再編成をしよう
としたり、 新府城を築城しようとして、
膨大な軍資金(築城や軍維持増強など)を、
支配下の国人衆に課すことにより、 軍団の
国人衆の造反を招く結果となった。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
● 武田氏の武田勝頼は、近い将来攻め込んで
くる織田・徳川連合軍に備えるため、 中央集
権化を目指し、 独立心の強い国人衆からな
る武田軍団の再編成をしようとしたり、 甲斐
の韮崎に新府城を築城して防備を固めようと
した。 そのため膨大な軍資金(築城や軍維
持増強など)を支配下の国人衆に課すことに
なり、国人衆の造反を招く結果となった。
● 1581年(天正9年)の徳川軍による高天神城
の落城は、 武田氏の威信を大きく下げ、 支
配下の国人衆は、大きく動揺した。 これを堺
に、織田・徳川家からの調略が活発になり、
日頃から不仲な一門衆や日和見(ひよりみ)な
国人衆の造反が、始まった。
■ 武田家滅亡の原因 1。
■ 武田勝頼の武田氏が、1578年に、 武田氏領
(甲斐、信濃、駿河)の東方にある 強国の北条
氏政の北条氏との同盟を破棄し、 武田氏領
(甲斐、信濃、駿河)の北方にある 当時弱小
国となっていた上杉景勝の上杉氏と同盟を結ん
だ。
● 武田勝頼の武田家が、1578年に、 武田領
(甲斐、信濃、駿河)の東側にある 強国の北条
氏政の北条家との同盟を破棄し、 武田氏領
(甲斐、信濃、駿河)の北側にある 当時弱小
国となっていた上杉景勝の上杉氏と同盟を結
び、 強国の北条氏政の北条家の軍を敵に
まわしてしまったため、 武田勝頼の武田氏は、
武田氏領(甲斐、信濃、駿河)の西側にある
強国の織田信長の織田家の軍に対抗できず、
武田勝頼の武田氏は、 1582年に、 武田氏
領(甲斐、信濃、駿河)の西側より織田軍に
攻められ、 武田氏領の南側より徳川軍に攻
められ、 武田氏領の東側より北条軍に攻め
られ、 三方より同時に攻められて、 それらの
攻撃を防ぎきれず、 滅亡した。
● 武田氏の武田 勝頼は、 優秀な武将であり戦国
大名であり、 武田軍は、 約2〜3万人の精鋭
部隊ではあったが、 大勢力の織田信長の
軍 (1576年時点で約10万人の信長軍)
に対抗するするため、 武田信玄のように、
織田信長の信長軍を包囲し大同団結した
ような軍事同盟を築けなかった。
● 武将・武田 勝頼の、大きな失政(ミス)。
1578年、武田 勝頼は、北条氏方の上杉景
虎を裏切り、上杉景勝と和睦した。
1578年に、武田氏の武田 勝頼は、上杉謙信
の急死後の越後の内乱 (御館の乱、おたての
らん、謙信の2人の養子の上杉景勝と上杉景虎
の争い) で、 同盟者の北条氏政の要請をうけ、
越後(新潟県)へ上杉景虎(北条氏政の実弟)方
を援助するため、進軍した。 しかし、武田 勝頼
年は、1578に、 黄金や上野(こうずけ)沼田領
と引換えに、上杉景勝方に味方した。
● 武田氏の武田 勝頼は、北の隣国の弱小化
した上杉景勝の越後・上杉氏と甲越同盟を結び、
甲相同盟を破棄し、東の隣国・関東の強大な
小田原北条氏の北条氏政を敵に回してしまった。
1578年(天正6年)に、北条氏の北条氏政は、
同盟者の武田勝頼の背信に激怒し 第2次甲相
同盟を破棄し、 1579年(天正7年)には徳川家
康と同盟し、 1580年(天正8年)には、 織田
信長と同盟した。
● 武田氏は、三方に敵を迎える。
その結果、1580年には、 武田氏 (甲斐・
信濃・駿河を支配していた) の、 西の隣国に
敵の織田氏 (美濃)、 南の隣国に敵の徳川
氏 (三河・遠江)、 東の隣国に敵の小田原
北条氏(関東) という西・南・東の三方面に敵
対勢力を持ってしまった。
■ 武田家滅亡の原因 2
● 武田家の武田勝頼は、 中央集権化を目
指し、軍団の再編成をしようとしたり、
新府城を築城しようとして、 膨大な軍資
金 を、支配下の国人衆に課すことにより、
軍団の国人衆の造反を招く結果となった。
● 武田家の武田勝頼は、 近い将来攻め込
んでくる織田・徳川連合軍に備えるため、
中央集権化を目指した政策をすすめ、
独立心の強い国人衆からなる武田軍団の
再編成をしようとしたり、 甲斐(かい、現・
山梨県)の韮崎(にらさき)に新府城を築城
して防備を固めようとした。 そのため膨
大な軍資金(軍維持増強や築城などの)
を支配下の国人衆に課すことになり、
武田軍団の国人衆の造反を招く結果と
なった。
■ 1581年(天正9年)の徳川軍による高天
神城の落城は、 武田家の威信を大きく下げ、
支配下の国人衆は、大きく動揺した。 これ
を堺に、織田・徳川家からの調略が活発になり、
日頃から不仲な一門衆や日和見(ひよりみ)
な国人衆の造反が、始まった。
■ 1582年2月に、織田軍が武田討伐を開始
した時、それに協力して、西・南・東の三方面
から、 織田軍、徳川軍、北条軍の大軍が武
田領の信濃・甲斐・駿河へ一斉になだれ込み、
侵略して、 武田家は、 押し潰(つぶ)され、
勝てず、滅亡してしまったのである。
♪♪ 武田 勝頼が登場する、興味深い
ドラマ、映画、ドキュメンタリー。
★ 武田 勝頼が登場する、興味深い、
ドキュメンタリー。
■ にっぽん!歴史鑑定
『 武田勝頼の生涯 』。
(TBSテレビ・2016年3月14日・本放送
BS・TBS歴史ドキュメンタリー番組)。
■ 武田勝頼の詳細を述べる。
■ 武田信玄・武田勝頼の時期の、武田氏の
実情を述べる
■ 歴史秘話ヒストリア
『 新春激突!織田・徳川・武田
三大決戦〜長篠 の合戦
男たちは何を見た!? 』。
(NHKテレビ・20 12年(平成24年)1月
4日・本放送ドキュメンタリー番組。
■ 織田信長、武田信玄、武田勝頼が登場する。
★ 武田 勝頼が登場する、興味深い、
ドラマ、映画。
● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。
歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史の事実)
と 架空の出来事 が、混じって、描かれて
います。 また、現代風にアレンジしてあります。
■ 『 風林火山 (ふうりんかざん) 』 。
(NHKテレビ・2007年大河ドラマ)。
■ 武田 信玄 の甲斐(山梨県)の守護(国主)
就任から、 信玄の、信 濃(しなの、長野県)
への侵略、上杉謙信との戦いなどの活躍を
描いたテレビドラマ。
■ フィクションの物語「甲陽軍鑑」に記述された
場面を、ドラマの中で、多く、再現しています。
● 武田 信玄 を演じた俳優名 : 市川 亀治郎
(いちかわ かめじろう、二代目)。
■ 『 影武者 (かげむしゃ) 』 。
(日本の1980年東宝映画)
黒澤明監督作品。
■ 1573年の野田(のだ)城攻めから1575年
の長篠(ながしの)の戦いまでを描いた映画。
■ 武田信玄の影武者の活躍 や 武田信玄の
上洛途中の死去(1973年)、その死後の武田
氏重臣や武田勝頼の行動を描いた映画。
■ この映画では、信玄は、通説の病死ではなく、
三河国の野田城で鉄砲で狙撃され (新井白
石著・藩翰譜の記述を採用)、その負傷がもと
で死去した と描かれてい る。
■ 『 戦国自衛隊 』。
(日本の1979年東宝SF映画)。
■ 陸上自衛隊の伊庭三尉(千葉真一役)の
率いる一個小隊が戦国時代へタイムスリ
ップするという設定のSF歴史映画。
● 武田 勝頼 を演じた俳優名 : 真田 広之。
● 武田 信玄 を演じた俳優名 :田中 浩。
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『 あなたのハートには
何が残りましたか? 』
以 上。