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◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY HANDBOOK

 

 

 カナヤマ 日本歴史辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 た 』

 No.0930。

 

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メ ニュー (目次)。

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 □ 日本史 辞典 (総合)       

 

□     ≪ 武田氏一族

 

        ● 事柄順。

        

 

 たけ   武田氏

           (たけだし)。 《武家の氏族》。  

           (= 武田家)。                   

           (12世紀頃−16世紀)。

             THE TAKEDA CLAN.

             □ 武田氏 画像アルバム 

             No.1

           ○ 武田氏武家としての

           武田氏。 

           ○ 武家の武田氏は、

            武家の氏族で、守護、

           大名である。

            ○ 武家の武田氏は、

                      代々、甲斐 国の守護を

           継承した一族、武家で

           ある。

                    □ 日本歴史で活躍した

          氏族:

          天皇家藤原氏

          伊勢平氏河内源氏

          鎌倉北条氏足利氏

          上杉氏武田氏

          井伊氏小田原北条氏

          真田氏織田氏

          豊臣氏徳川氏

              ■ 武家の武田氏 (たけだし・た

             けだうじ 、 = 武田家)は、 

             武家の氏族であり、12世紀頃から

             16世紀まで存在した武家、守護、

             大名である。

             ■ 武田氏 (たけだし、= 武田家)

             は、 代々、甲斐国 (かい のくに、

             現・山梨県の相当地域) の守護 

             (しゅご、現在の知事に 相当)を

             継承した一族、武家 ある。

 

 たけ   武田 勝頼 

              (たけだ かつより)。

           (= 諏訪 勝頼)。

           (1546〜1582年)。

 

 たけ   武田勝頼  詳細年表 

              (たけだかつより しょうさいねん

              ぴょう) 。

           (⇒ 日本史年表)。

 

 

 

  □ 日本史 辞典 の 「た」 基本見出し語

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 ■  『 現在は、過去の成果であり、

     未来は、現在の成果である。 

 

 

 

■ 上位のWEBサイト。 

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◆ 日本史辞典

 

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□ 日本史辞典の「た」基本見出し語

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#ta

 

#takedashi

 

  武田氏。  

        (たけだし)。 (= 武田家)

 

 武田氏

 

■ 名称: 武田氏 (たけだし)。 

 別名 : 武田家 (たけだけ)。

 

■ 甲斐源氏の武田氏。

 

■ 武田氏は、

  代々、甲斐国 (かい のくに、現・山梨県

  の相当地域)の守護 (しゅご、現在の知事

  に相当) を継承した一族、武家である。

 

■ 守護、戦国大名としての武田氏は、

  安土桃山時代の、1582年(天正10年)

  に滅亡する。

 

■ 江戸以後に再興する武田氏は、信玄の

  男子で、盲目のため出家していた海野信親

  (竜芳)の系譜である。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 41537。

 

 

   □ 武田氏 画像アルバム No.1

 

  □ 武田信玄ガイドブック

  □ 武田信玄 関連年代順出来事

     ブック

 

   □ 武田 信玄  詳細年表

 

   □ 武田 勝頼  詳細年表

 

 

 

 ■ 武田氏。

 

  ■ 武田氏 (武田家) (たけだし、(たけだけ))は、 

    甲斐源氏の流れをくみ、 代々、甲斐国 (かいの

    くに、現・山梨県の相当地域) の 守護 (じゅご、

    現在の知事に相当) を継承した一族、武家であ

    る。

  ● 甲斐の武田氏(家)の家系は、 清和源氏(せい

    わげんじ)の一家系・河内源氏(かわちげんじ)

    の傍系(ぼうけい)・甲斐源氏の嫡流にあたる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。 

 

  ● 武田信玄 (武田晴信)は、 甲斐武田氏(家)の

    第19代当主である。

 

  ■ 江戸以後に再興する武田氏(家)は、 信玄の

    男子で、 武田勝頼の兄で、 盲目のため出家

    していた海野信親(竜芳)の系譜である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ● 長篠・設楽ヶ原の戦いで、武田氏が敗北。

       1575年(天正3年)5月に、三河(みかわ、現・

    愛知県東部の相当地域)の・長篠・設楽ヶ原(なが

    しの・しだらがはら)で、 武田勝頼の率いる武田 

    軍は、織田信長の率いる織田・徳川連合軍に敗

    れる。

       しかし、その後、武田勝頼は、軍団を再編

    成し、強化し、強力な武田軍が出現した。 長篠・

    設楽ヶ原の戦いで、自分の言うことをきかない武

    田氏の信玄以来の老齢の多くの部将が討ち死

    にし、世代交代が進み、武田勝頼は、自分の言う

    ことをきく、自分の思いどおりの軍団を編成しやす

    くなり、武田軍は、再編成され、強力な武田軍と

    なった。

 

 

◆ 武田氏滅亡の原因。   

 

  ■ 守護、戦国大名としての武田氏(家)は、1582

    年(天正10年)に、滅亡した。

 

  ■ 守護、戦国大名の武田氏(家)の滅亡の原因

    は、 「周辺諸国の強大化」 と 「武田 勝頼(か

    つより)の政策の失敗」 にあった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 高天神城攻防戦。

 

   ■ 高天神城 (たかてんじんじょう)は、

    遠江国 (とおとうみのくに、現・静岡県西

    部の相当地域)にあった、山城(やまじろ)

    である。

 

 ■ 高天神城攻防戦。

 

    ■ 1581年(天正9年)に、武田勝頼の援

    軍がないまま、武田勝頼方の高天神城は、 

    徳川家康方の軍の攻撃をうけ、落城し、城

    兵は討ち死にした。 これが武田氏滅亡の

    原因の1つとなった。

        武田勝頼の援軍がなく武田勝頼方の

    高天神城が落城したことは、 武田領国内

    の多くの国人領主の信頼を失い、武田領国

    内の多くの国人領主の武田氏からの離反を

    招き、1582年(天正10年)に、織田軍・徳

    川軍・北条軍による武田氏への総攻撃が行

    われ、西方(織田軍)・南方(徳川軍)・東方

    (小田原北条軍)から三軍が武田氏領地へ

    攻め込んだ時に、武田氏領内の多くの国人

    領主が抵抗せず、降伏する原因となった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 織田信長の策略。

      武田勝頼の援軍がないまま、武田氏

    方の高天神城が落城し城兵が討ち死にす

    れば、武田氏領内の多くの国人領主が武

    田氏への信頼を失い、武田氏から離反し、

    織田信長が武田氏領内に攻め込んだ時に

    多くの国人領主が戦わず降参し抵抗しな

    いと織田信長は考えた。

       徳川家康の徳川氏方の軍は、初め、

   少数の城兵が籠る、武田氏方の高天神城を

   囲み、兵糧攻めで、降伏を待っていた。 

   しかし、徳川家康の同盟者の織田信長は、

   城兵の降伏を許さず討ち死にさせるように

   徳川家康に要請し、徳川家康の徳川氏方

   の軍は、その要請に従った。

      そして、武田氏方の高天神城は落城

   し城兵は討ち死して、それを知った武田氏

   領内の多くの国人領主が武田氏への信頼

   を失い、 織田信長の策略は、見事に当た

   った。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 ■ 武田氏滅亡の原因。   

 

   ■ 1582年(天正10年)に、 織田信長は、

   武田氏領へ侵攻し、それに伴なって、小田

   原北条氏や徳川氏も武田領内へ攻め込み、

   武田勝頼の武田氏領は、東方、西方、南方

   の三方から攻め込まれ、武田氏領国内の

   多くの国人領主が戦わず降参し抵抗せず、

   武田勝頼は、敗戦をつづけ、自害し、武家

   の武田氏は滅亡する。

 

   ■ 武田氏滅亡の原因は、主に2つある。

 

   ■ 武田氏滅亡の主因の1つは、武田勝頼

   が強国の小田原北条氏との同盟を破棄し、

   弱い国 (御館の乱(おたてのらん、1578

   −1579年)の内乱で分裂状態) の上杉

   景勝の上杉氏と同盟を結んだことである。  

      武田氏領国は、 西方(織田軍)・南方

   (徳川軍)・東方(小田原北条軍)の三方から

   敵に囲まれ、味方の北方の内乱後の弱い

   上杉景勝の上杉氏からは少ない援軍しか

   得られないことである。

    御館の乱(おたてのらん、1578−15

    79年)の内乱中に、上杉氏の同盟者の

    小田原北条氏の要請で、武田勝頼は、

    越後 (えちご、新潟県の相当地域)に、

    援軍を出す。 ところが、 武田勝頼は、

    小田原北条氏方の上杉虎景に味方せず、

    上杉景勝方 と 上杉景虎方との仲介役に

    回ってしまった。 それを知って北条氏は

    激怒し、その後、武田氏との同盟を破棄

    した。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

   ■ 武田氏滅亡のもう1つの主因は、高天神

   城(たかてんじんじょう)攻防戦で、武田勝頼

   が武田氏方の高天神城に援軍を送らず、落

   城させ、城兵は討ち死させたことである。

       武田氏方の高天神城を落城させ城兵

   を見殺しにしたことは、 武田領国内の多く

   の国人領主の信頼を失わせた。

 

    武田勝頼は、 織田信長と終戦の交渉を

   している時、徳川家康による、遠江 (とおと

   うみ、静岡県西部の相当地域)の高天神城

   の攻防戦が起こり、 武田勝頼は、織田信長

   を刺激し、信長との終戦交渉をやめたくない

   ために、武田方の高天神城への援軍を出さ

   なかった。 一方、織田信長は、本気で、

   田勝頼と終戦の交渉をするつもりはなかっ

   た。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 武田氏滅亡の原因 1。

 

  ■ 武田信玄の武田氏の時期(当主1541〜73年)

    には、 武田氏領の周辺には、 強大な勢力は少

    なく、 多くの国は分裂して、 覇を争っていた。 

       しかし、武田勝頼の武田氏の時期(当主15

    73〜82年)には、 武田氏領の周辺に、強大な

    敵が出現する。 西方の織田信長の織田軍、 北

    方の上杉謙信の上杉軍、 東方の北条氏康・氏政

    の小田原北条軍 などである。 

       織田信長が、 近畿を中心に、多くの国を征

    服して、強大化し、武田氏と敵対した。 武田勝

    頼の武田家の軍 (1576年時点で約2〜3万人

    の兵)は、 織田信長の強大な織田氏の軍 (15

    76年時点で約10万人の兵) と敵対していた。 

    武田勝頼の武田氏は、その対策に苦慮した。 

    武田勝頼は、強大な織田氏と敵対する、武田氏

    領の周辺の国々との同盟を模索した。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 武田氏滅亡の原因 2。

  ■ 強国の織田信長の織田家の軍と敵対していた、

    武田勝頼の武田氏は、 甲相同盟を破棄し、 

    甲越同盟を結ぶ政策をとり、 強国の北条氏政

    の北条氏の軍も敵にまわしてしまい、 強い織田・

    北条両氏の軍に攻められたため、 防ぎきれず、

    滅亡してしまった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ● 武田勝頼の武田家が、1578年に、 武田氏領 

    (甲斐、信濃、駿河)の東方にある 強国の北条

    氏政の北条氏との同盟を破棄し、 武田氏領

    (甲斐、信濃、駿河)の北方にある 当時弱小

    国となっていた上杉景勝の上杉氏と同盟を結ん

    だ。 

 

  ● というのも、 武田勝頼は、軍資金に困窮していた。 

    また、もし武田領の北方の越後が北条氏勢力圏

    に入ると北条勢力は強大化し、武田氏領はその

    北方と東方を北条氏勢力に囲まれることとなり、武

    田勝頼は、驚異を感じ、 また、勝頼は 同盟者だ

    った相模の北条氏に不信感をもち、同盟者として

    の北条氏への信頼が揺らいでいた。 

 

  ● よって、 武田勝頼は 越後の上杉景勝の上杉氏

    から、 多額の軍資金と上野(こうずけ)の沼田領

    の譲渡の申し入れを受け、それらを得ることと引き

    換えに、 北方の越後の上杉氏と甲越同盟 (武田

    氏と上杉氏との同盟)を結び、 甲相同盟 (武田氏

    と北条氏との同盟) を破棄したのである。

 

  ● しかし、強国の北条氏政の北条氏の軍を敵に

    まわしてしまったため、 武田勝頼の武田氏は、 

    武田氏領(甲斐、信濃、駿河)の西方にある 強国

    の織田信長の織田氏の軍に対抗できず、 武田勝

    頼の武田氏は、 1582年(天正10年)に、 武田

    氏領(甲斐、信濃、駿河)の西側より織田軍に攻め

    られ、 武田氏領の南側より徳川軍に攻められ、 

    武田氏領の東側より北条軍に攻められ、三方より

    同時に攻められて、それらの攻撃を防ぎきれず、 

    武田氏は滅亡した。

 

 

 ■ 武田氏滅亡の原因 3。

 

  ■ 武田氏の武田勝頼は、 中央集権化を目指

       した政策をすすめ、 軍団の再編成をしよう

        としたり、 新府城を築城しようとして、

    膨大な軍資金(築城や軍維持増強など)を、 

    支配下の国人衆に課すことにより、 軍団の

    国人衆の造反を招く結果となった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ● 武田氏の武田勝頼は、近い将来攻め込んで 

    くる織田・徳川連合軍に備えるため、 中央集

    権化を目指し、 独立心の強い国人衆からな

    る武田軍団の再編成をしようとしたり、 甲斐

    の韮崎に新府城を築城して防備を固めようと

    した。 そのため膨大な軍資金(築城や軍維

    持増強など)を支配下の国人衆に課すことに

    なり、国人衆の造反を招く結果となった。

 

  ● 1581年(天正9年)の徳川軍による高天神城

    の落城は、 武田氏の威信を大きく下げ、 支

    配下の国人衆は、大きく動揺した。 これを堺

    に、織田・徳川家からの調略が活発になり、 

    日頃から不仲な一門衆や日和見(ひよりみ)な

    国人衆の造反が、始まった。

 

 

 

♪♪ 武田氏が登場する、興味深 いド

         キュメンタリー、ドラマ、映画。 

 

 ★ 武田氏が登場する、興味深い、

      ドキ ュメンタリー。

 

 ■ にっぽん!歴史鑑定 

    『 武田勝頼の生涯 』。

    (TBSテレビ・2016年3月14日・本放送

    BS・TBS歴史ドキュメンタリー番組)。

 

  ■ 武田信玄・武田勝頼の時期の、武田氏の

    実情を述べる

  ■ 武田勝頼の詳細を述べる。

 

 

 ■ 歴史秘話ヒストリア 

   『 新春激突!織田・徳川・武田 

       三大決戦〜長篠 の合戦 

    男たちは何を見た!? 』。

   (NHKテレビ・20 12年(平成24年)1月

   4日・本放送ドキュメンタリー番組。

 

  ■ 織田信長、武田信玄、武田勝頼が登場する。

 

 

 ■ その時歴史が動いた 

    『 完成・戦国最強軍団 

     〜武田信玄・

     苦悩の生涯〜 』。 

    (NHKテレビ・2007年(H19)2月・本放送

     テレビ・ドキュメンタリー番組、第276回)。

 

  ■ 武田氏が登場する。

 

 

 ■ その時歴史が動いた 

    『 謙信恐るべし 』。 

     (NHKテレビ・2007年(H19)4月本放

     送・テレビ・ドキュメンタリー番組、

     第283回)。

 

  ■ 武田氏が登場する。

 

 

 ★ 武田氏が登場する、興味深い、ドラ

    マ、映画。 

 

  ● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

       歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史の事実) 

     と 架空の出来事 が、混じって、描かれて

     います。 また、現代風にアレンジしてあります。

 

 ■ 『 風林火山 (ふうりんかざん) 』 。 

     (NHKテレビ・2007年大河ドラマ)。

 

  ■ 武田 信玄 の甲斐(山梨県)の守護(国主)

    就任から、 信玄の、信 濃(しなの、長野県)

    への侵略、上杉謙信との戦いなどの活躍を

    描いたテレビドラマ。

 

  ■ フィクションの物語「甲陽軍鑑」に記述された

    場面を、ドラマの中で、多く、再現しています。

 

  ● 武田 信玄 を演じた俳優名 : 市川 亀治郎 

    (いちかわ かめじろう、二代目)。

 

 

 ■ 『 武田信玄 』。 

     (日本のTBSドラマ) 

 

 

 ■ 『 影武者 (かげむしゃ) 』 。 

     (日本の1980年東宝映画) 

      黒澤明監督作品。

 

   1573年の野田(のだ)城攻めから1575年

   の長篠(ながしの)の戦いまでを描いた映画。  

   武田信玄の影武者の活躍 や 武田信玄の

   上洛途中の死去(1973年)、その死後の武田

   氏重臣や武田勝頼の行動を描いた映画。

   この映画では、信玄は、通説の病死ではなく、

   三河国の野田城で鉄砲で狙撃され (新井白

   石著・藩翰譜の記述を採用)、その負傷がもと

   で死去した と描かれてい る。

 

 

 ■ 『 戦国自衛隊 』。 

     (日本の1979年東宝SF映画)。

 

   陸上自衛隊の伊庭三尉(千葉真一役)の

    率いる一個小隊が戦国時代へタイムスリ

    ップするという設定のSF歴史映画。

 

  ● 武田  勝頼 を演じた俳優名 : 真田 広之。

 

  ● 武田 信玄 を演じた俳優名 :田中 浩。

 

 

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□ 日本史 辞典 の 「た」 基本見出し語

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#takedakatsuyoridetailedchronology

 

■ 武田勝頼 詳細年表 

    (たけだかつより しょうさいねんぴょう)。 

 

◆ 武田勝頼 詳細年表。

 

□ 武田勝頼 年表 1521年〜 1545年

□ 武田勝頼 年表 1546年〜 1572年

□ 武田勝頼 年表 1573年〜 1579年

□ 武田勝頼 年表 1580年〜1582年

 

■ 武田信玄 (たけだ しんげん) の詳細に関しては、

 『 武田信玄 ガイドブック (要覧) 』  を参照して下

 さい。

■ 戦国時代については、『 中世日本歴史詳細 年表 』

 を、安土桃山時代、江戸時代については、『 近世日本

 歴史詳細年表 』を参照して下さい。

■ より理解を深めるために、 当年表と近い時期の日本

 史辞典の年表の、 『 戦国時代 (室町時代後期) 年表、 

 安土桃山時代  年表、 江戸時代初期 年表、 武田 信

 玄 年表、  上杉謙信 年表、 上杉 景勝(かげかつ) 年

 、 直江兼 続 年表、  織田信長 年表、 豊臣秀吉

 年表徳川家 康年表、  お江(おごう)年表、 大 奥 年

  』 も参照してください。 

■ 当年表 は、 武田 勝頼 (1546年〜1582年) が

 生きた時代の詳細年表 である。

■ 武田 勝頼 (たけだ かつより、生没年 1546年〜15

 82年) の時代の日本へタイムスリップして、 武田勝頼 

 の足跡、活動を見てみよう。

■ 歴史学の立場から、年代を追って、 武田勝頼 の実

 像 (歴史的有名な人物には、実像と虚像がありますが) 

 を見てみよう。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典 22219。

■ 日付(年月日)は、全て旧暦、人物の年齢は、数え年。

● 一般的な歴史書籍で使用されているのと同じように、

 当年表の日付(年月日)は、1872年(明治5年)12月

 2日までは、旧暦(太陰太陽暦)を用い 、人物の年齢も

 数え年を用いている。

 

□ 武田勝頼  詳細年表の先頭へ戻る

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◆ 武田 勝頼  詳細年表。

● では、武田勝頼 (たけだ かつより) に関係する出

 来事を、年代順に、見てみ よう。

 

#takedakatsuyoridetailedchronology-1521

 

■ 1521年  ● 大永(だいえい、たいえい)改元。  

(大永 元年)   1521年8月23日に、和暦の「永正」(えい

           しょう) が、 「大永」 (だいえい・たいえい、 

            大永元年・1521年・8月23日〜 大永8年・

           1528年8月20日) に改元される。 

■ 1521年   ●  1521年11月、 武田 信玄 (たけだ し

(大永元年)    んげん、太郎) 誕生する

                           信玄(太郎)の父の、武田信虎は、甲斐

            源氏 の名門・武田氏の第18代当主であり、

            信虎期には、甲斐統一が達成されていた。

■ 1528年  ● 享禄(きょうろく)改元。  

(享禄 元年)   1528年8月20日に、 和暦の「大永」(だい

           えい、たいえい) が、 「享禄」 (きょうろく、 

           享禄元年・1528年・8月20日〜 享禄5年・

           1532年7月29日) に改元される。 

■ 1530年  ●   越後の戦国大名となる、上杉 謙信 (うえ

(享禄 3年)   すぎ けんしん、幼名:虎千代) が、 越後で、

           越後守護代・ 長尾為景の子として、春日山城

           で、 誕生する。 

■ 1532年  ● 天文(てんぶん、てんもん)改元。   

(天文 元年)    1532年7月29日に、和暦の「享禄」(きょう

           ろく) が、 「天文」 (てんぶん、てんもん、天 

            文元年・1532年・7月29日〜 天文24年・

           1555年・10月23日) に改元される。

■ 1534年  ● 織田 信長 (おだ のぶなが、幼名:吉法師)

(天文 3年)   が、 尾張で、織田信秀の子として、誕生する。

■ 1536年  ● 武田信玄(太郎)は、 元服(成人)し、 武田

(天文 5年)   晴信(はるのぶ)と称す

■ 1536年  ● 豊臣秀吉  (とよとみ ひでよし、幼名:日吉

(天文 5年)       丸?)が、 尾張で、 弥右衛門の子として、誕

           生する。

■ 1542年  ● 徳川家康 (とくがわ いえやす、幼名:竹千

 (天文11年)    代) が、 三河で、 松平広忠の子として、誕

           生する。

            ● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

■ 1543年  ● 上杉 謙信(虎千代) は、元服(成人)して、

(天文12年)   長尾 景虎(ながお かげとら) と名乗り、 栃

           尾城に入る。

 

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#takedakatsuyoridetailedchronology-1546

 

■ 1546年  ●  武田勝頼 (たけだ かつより) 、甲斐

 (天文15年)  の戦国大名の武田信玄の子として、 生まれ

           

■ 1548年  ● 上杉 謙信 (長尾景虎)は、19歳で、長尾家

(天文17年)   の家督を相続し、長尾氏の本拠地である春日

           山城に入り、 越後守護代となる。

■ 1550年  ● 上田長尾家当主の長尾政景(まさかげ)が、

(天文19年)   上杉 謙信(長尾景虎)の長尾家の相続に不

           満を持って、反乱を起こす。

          ● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

■ 1551年  ● 上杉謙信(長尾景虎) は、長尾政景の反乱

(天文20年)   を鎮圧する。

          ● 上杉謙信(長尾景虎)の(実)姉の桃(仙桃院)

           が、長尾政景に嫁ぐ (政略結婚)。

                    ● 上杉謙信(長尾景虎)は越後を統一し、 名

           実共に、越後国主となる

■ 1551年  ● 織田信長の父・信秀が急死し、織田信長が、

(天文20年)   織田信秀の家督を継ぐ。

■ 1552年  ● 第1次川中島の戦い。  5回の川中島の

(天文21年)   戦いの最初の戦い、即ち、武田信玄と上杉謙

           信と間の、信濃における5回の戦いののうちの

           最初の戦い。 その後、今回を含め信濃で両者

           が、5回戦ったが、結局、勝敗つかず。

■ 1554年  ● 豊臣秀吉(木下藤吉郎) が、織田信長に

(天文23年)   仕える (家臣として仕え始める)。

                  ● 武田信玄、北条氏康、今川義元の間で、互

           いに婚姻関係を結び、甲相駿三国同盟 (15

                      54〜68年)が成立する。

■ 1555年  ● 弘治(こうじ)改元。    

(弘治 元年)   1555年10月23日に、和暦の「天文」 (てん

           ぶん、てんもん) が、 「弘治」 (こうじ、 弘

           治元年・1555年・10月23日〜  弘治4年・

           1558年・2月28日) に改元される。 

■ 1555年   ● 上杉 景勝 (うえすぎ かげかつ、 幼名・長

(弘治元年)    尾 卯松(うのまつ)が、 誕生する。 上杉 景

            勝 は、上杉謙信の姉の男子で、謙信の甥(お

            い)であり、 後に、上杉謙信の養子となり、後

            に、直江 兼続が仕える主君・大名である。

■ 1558年  ● 永禄(えいろく)改元。   

(永禄 元年)    1558年2月28日に、和暦の「弘治」(こうじ) 

            が、 「 永禄」 (えいろく、 永禄元年・1558

            年・2月28日〜 永禄13年・ 1570年・4月

            23日) に改元される。 

■ 1559年  ● 1559年2月に、武田信玄 (武田晴信) 、 

(永禄 2年)   出家して、 徳栄軒信玄 と号し、 信玄と呼ばれ

           

■ 1559年   ● 織田信長 は、 尾張一国を統一し、 尾張

(永禄 2年)    国主となる。

■ 1560年   ● 直江 兼続  (なおえ かねつぐ、幼名・樋口 与

(永禄 3年)    六)  が、誕生する。

           ● 直江 兼続は、 越後の坂戸(さかど)城主(現

            在の新潟県南魚沼市六日町坂戸)・長尾政景

            (ながおまさかげ)の家臣、樋口 兼豊(ひぐち

            かねとよ、樋口 惣右衛門(そうえもん)) の長

                        男 として、生まれる。

           ● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

■ 1560年   ● 1560年5月に、織田信長は、 桶狭間(お

 (永禄 3年)    けはざま)の戦いで、今川義元を破る。 今川

             義元は、 尾張の桶狭間で、敗死する。

           ● 義元の部下として信長と戦っていた、徳川家  

             康(松平元康)は、尾張より、松平軍の兵を撤

             退し、三河へ戻り、今川家から独立する。

           ● 駿河の戦国大名、今川 義元が、上洛途中で、

             死去(敗死)する。 今川 氏真(うじざね)が、

             駿河・今川家(氏)の家督を継ぐ。

            ● 今川 義元が敗死し、今川家が衰退の兆しを

             見せ始めたので、武田信玄は、今川氏との同

             盟を破棄し(甲駿同盟を破棄し)、今川領の駿

             河に侵攻しようと計画する。

           ● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

■ 1561年   ● 1561年3月に、 北条氏攻め(小田原

 (永禄4年)    城攻め)。 上杉謙信(長尾景虎)は、 関

            東管領上杉憲政を擁して、 旧上杉家家臣

            団10万人の大軍で、 北条氏康の北条氏

            を攻め、 小田原城を包囲する。

           ● 1561年3月に、 上杉謙信(長尾景虎)

            は、鎌倉の鶴岡八幡宮で、上杉憲政より、

            山内上杉氏の家督を継承(相続)し、関東

            管領に就任し、上杉政虎と称す。 その後、

            1561年12月に、上杉輝虎と称す。

■ 1561年   ● 第4回川中島の戦い。  1561年8月に、

 (永禄4年)     武田信玄軍2万人と上杉謙信(上杉政虎)

             軍1万3000人が、信濃(現在の長野県)

             の川中島で、決戦を行うが、 勝敗がつか

             ず、互いに撤退する。

■ 1562年   ● 1562年1月に、徳川家康(松平元康)は、

 (永禄 5年)   織田信長と清洲同盟 (織徳同盟)を結ぶ。 

■ 1564年   ● 直江兼続 (樋口 与六) が、 小姓・近

 (永禄7年)    習として 上杉 景勝に仕える (家臣として

            仕え始める)。 通説だが、これを立証しえ

            る史料はない。

■ 1564年   ● 謙信(上杉輝虎)の姉婿で上杉景勝の父

 (永禄7年)    の、長尾政景が、 舟遊びの最中、溺死する。

           ● 謙信(上杉輝虎)が、 長尾政景の次男の、

            上杉景勝を養 子とする。

           ● 第5次川中島の戦い (最後の川中島の

            戦い)。

■ 1567年   ● 1567年10月に、信長 は、 美濃(現

 (永禄10年)   在の岐阜県)の斉藤氏を滅ぼす。 

■ 1568年   ● 1568年11月に、織田信長は、足利義

 (永禄11年)   昭(よしあき)を奉じて、上洛(じょうらく)を

            果たし、 義昭を将軍位に就(つ)ける。 

             この戦いに、家康は、信長へ援軍を派遣

            した。

■ 1568年   ● 武田信玄 が、駿河を占領する。 今川

 (永禄11年)   氏真(うじざね) が、駿河を離れ、遠江(と

            おとうみ)・掛川城へ逃れる。

              1568年12月、 武田信玄 が、駿河

            に侵攻を開始し、今川氏真軍 や 今川氏

            への北条氏康の援軍と戦う。 甲相駿三国 

                        同盟(1554〜68年)は、ここに、崩壊する。

■ 1569年   ● 上杉謙信(上杉輝虎)は、 武田信玄を

 (永禄12年)   牽制(けんせい)するた、 宿敵である

            北条氏康 の北条家と同盟を結ぶ (越相

            同盟、1569〜71年)。

           ● 戦国大名としての駿河今川家(氏)が滅

            亡する(統治権の喪失)。

              今川氏真(うじざね)が、 徳川家康と和

            睦し、遠江・掛川城を開城する。

■ 1570年   ● 1570年3月に、上杉謙信 (上杉輝虎) 

 (永禄13年)    、法号を、「不識庵謙信」と称し、 謙信 

            と 呼ばれる。 

■ 1570年   ● 元亀(げんき)改元。    

 (元亀 元年)    1570年4月23日に、 和暦の「永禄」

            (えいろく) が、 「 元亀」 (げんき、 元

            亀元年・1570年・4月23日〜元亀4年・

            1573年・7月28日) に改元される。 

■ 1570年   ● 1570年4月に、織田信長は、 軍を、越

 (元亀 元年)   前に侵攻したが、信長の妹婿の北近江の

            浅井長政に背後をつかれ、 京(都)へ逃

                        れた。   金ヶ崎の退き口 (かながさきのし

            りぞきぐち)。

■ 1570年   ● 1570年6月に、織田信長は、近江国の

 (元亀 元年)    姉川で、浅井・朝倉連合軍を破る (姉川の

            戦い)。 この戦いに、家康は、信長と共に

            参戦し、信長を助けた。

            ● 1570年9月に、本願寺は、信長に対

            抗する(石山合戦の始まり)。

■ 1570年   ● 上杉謙信(上杉輝虎) は、北条氏康の

 (元亀 元年)    男子(越相同盟での北条氏の人質)、北条

            三郎を養子とし、 景虎という名を与える 

            (上杉三郎景虎)。

■ 1571年   ● 相模国(さがみのくに、現在の神奈川県) 

 (元亀 2年)    の北条家の、 北条氏康(1515〜71年) 

             が、死去する。 氏康の子、北条氏政(15

             38〜90年) が 北条家の実権(1571

                    〜90年)を握る。

■ 1571年   ● 1571年9月に、信長 は、  比叡山延

 (元亀 2年)   暦寺を焼討ちする。 

            ● 1571年10月に、北条氏康が死去する。 

           ● 1571年12月に、 北条家の家督を継

            承(相続)した、 北条氏政、上杉謙信の

            上杉家との同盟を破棄し(越相同盟 を破棄

            )、武田家の武田信玄同盟を結ぶ(甲相

            同盟 を結ぶ)。

■ 1572年   ● 1572年10月に、武田信玄は、上洛の

 (元亀 3年)   軍を起こす (上洛を開始する)。

           ● 1572年12月に、遠江の三方が原(みか

            たがはら)の戦いで、徳川・織田連合軍 は、 

            武田信玄の武田軍に大敗する。

 

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#takedakatsuyoridetailedchronology-1573

 

■ 1573年   ● 1573年2月に、足利義昭は、武田氏、

 (元亀 4年)   浅井氏、朝倉氏、本願寺と協力して、信長

            討伐を謀(はか)る。

           ● 1573年月に、 武田信玄が上洛途

            中で死去(病死)する

              武田信玄が、病状悪化し、武田軍は、

            徳川領の三河や遠江から、軍を返し、甲斐

            へ帰国した (信玄は帰国途中、信濃・駒場

            で病死)。 

                      ● 1573年7月に、室町幕府滅亡。 織田

            信長が足利義昭を追放する。

              織田信長は、信長に反旗をひるがえした

            足利 義昭(よしあき)を京都より追放し、 室

            町幕府を滅ぼす (室町幕府滅亡)。

           ● 1573年7月に、 信長は、元号を元亀か

            ら天正へ と改めることを朝廷に奏上(そうじ

            ょう)し、これを実現させた。

           ● 1573年に、 武田信玄死後 武田勝頼 

            (たけだ かつより)が、 武田家の家督を継

            承(相続)する

■ 1573年   ● 天正改元。    

 (天正 元年)    1573年7月28日に、 和暦の「元亀」(げ

            んき) が、 「 天正」 (てんしょう、天正元年・

            1573年・7月28日〜 天正20年・ 1592

            年・12月8日) に改元される。 

■ 1573年   ● 1573年に、織田信長 は、朝倉・浅井両

 (天正 元年)   氏を滅ぼす。

           ● 豊臣秀吉(木下秀吉)は、 浅井氏滅亡後、

            その旧領の北近江(きたおうみ)三郡の経営

            を織田信長より任され、 北近江の長浜城の

            城主となる。

■ 1575年   ● 上杉謙信が、 直江 兼続 (樋口兼続)

 (天正 3年)   を重用する。

■ 1575年   ● 1575年5月に、織田信長・徳川家康連

 (天正 3年)   合軍 、三河・長篠(ながしの)で、 武田

            勝頼の率いる武田軍に大勝する (長篠の

            戦い)。 

           ● 1575年8月に、信長は、越前に侵攻し、

            本願寺門徒の軍を破り、再び、織田領にし、

            越前を柴田勝家に経営させる。

■ 1576年   ● 上杉謙信は、 織田信長との同盟を破棄

 (天正 4年)   、本願寺 ・顕如と講和し、 武田勝頼の武

            田家とも和睦して、謙信を盟主とする、反信

            包囲網を築き上げる

■ 1577年   ● 手取川の戦い。  1577年 9月に、上杉

 (天正 5年)   謙信 は、 柴田勝家の率いる織田軍を、

            越前で、破る。

              1577年 9月に、信長軍 は、北陸で、

            上杉謙信の率いる上杉 軍に敗れ (手取川

            の戦い)、 撤兵する。

■ 1578年   ● 上杉謙信 が、  死去する。

 (天正6年)   ● 上杉謙信の2人の養子の上杉景勝と上

            杉三郎景虎の間に、上杉家の家督継承(相

            続)をめぐって、 越後の内乱である、御館 

            の乱(おたてのらん、1578〜80年)が起

            こる。 

           ● 上杉景勝は、 武田勝頼の武田家と甲越

            同盟を結び、武田家の菊姫を、上杉景勝の

            正室にむかえる。

           ● 1578年に、北条氏の北条氏政 は、 同

            盟者の武田勝頼の背信に激怒し、 第2次

            甲相同盟を破棄する。

              武田勝頼の武田家が、1578年に、武田

            領(甲斐、信濃、駿河)の東側にある 強国の

            北条氏政の北条家との同盟を破棄し、武田領

            (甲斐、信濃、駿河)の北側にある 当時弱小

            国となっていた越後の上杉景勝の上杉家と

            同盟を結び、 強国の北条氏政の北条家の軍

            を敵にまわしてしまう。  これが武田家滅亡

            の原因の1つとなる。

           ● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

■ 1578年   ● 信長軍は、上杉領の能登、加賀の攻略

 (天正 6年)   を開始する。 

            ● 1578年11月に、織田水軍が、鉄甲船

            を用いて、毛利水軍を破る。

■ 1579年   ● 織田信長 は、 五層七重の豪華絢爛

 (天正 7年)   (ごうかけんらん)な安土城を完成させる。

■ 1579年   ● 御館の乱で、 上杉景勝は、武田家の

 (天正7年)    後ろ盾を得て、戦いを有利にすすめ、 

            上杉三郎景虎が、自刃する。

■ 1579年   ● 武田領(甲斐、信濃、駿河)の東側にあ 

 (天正7年)    る、 北条家の北条氏政は、1579年に、 

            武田領(甲斐、信濃、駿河)の南側にある、

            徳川家の徳川家康 と同盟を結ぶ。

 

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#takedakatsuyoridetailedchronology-1580

 

■ 1580年   ● 武田領(甲斐、信濃、駿河)の東側にあ 

 (天正8年)    る、 北条氏の北条氏政は、1580年に、 

            武田領(甲斐、信濃、駿河)の西側にある、

            織田家の織田信長 と同盟を結ぶ。

              これにより、 武田家の武田勝頼は、 

            武田領(甲斐、信濃、駿河)の東側と南側と

            西側の三方より、 北条・徳川・織田軍の敵

            対勢力に囲まれる。

■ 1580年   ● 直江兼続 (樋口兼続)の主君の、上杉景

 (天正8年)    勝 が、御館の乱で、上杉三郎景虎に味方

            した勢力に最終的に勝利を得る。 そして、

            上杉景勝が、 上杉家の家督を継承(相続)し、 

            上杉謙信の後継者として、 上杉家の当主と

            なる。 

■ 1580年   ● 織田信長 は、 石山本願寺を屈服させる。

 (天正 8年) 

■ 1581年   ● 直江 兼続  が、直江家を相続する。

 (天正9年)     直江兼続 (樋口兼続) は、 直江家の直江

             信綱が死去しその妻、お船(おせん)と結婚し、 

             直江家を相続し、 直江姓を名乗る。

■ 1581年   ● 1581年2月に、織田信長 は、 京都の

 (天正 9年)    内裏(だいり)東の馬場で、京都御馬揃え 

             (馬揃えは、現在の軍事パレードに相当)

             を行う。

■ 1581年   ● 1581年の徳川軍による高天神城の落城 

 (天正 9年)   は、 武田家の威信を大きく下げ、 武田家

            の支配下の国人衆は、大きく動揺した。 これ

            を堺に、織田・徳川家からの調略が活発にな

            り、 勝頼と日頃から不仲な一門衆 や 日和

            見(ひよりみ)な国人衆の武田家からの造反

            が、始まる。

■ 1582年   ● 1582年2月に、織田信長 は、 武田

 (天正10年)    への攻撃開始し、3月11日に、武田勝頼を

            討ち取り(天目山の戦い)、 武田氏は滅亡

            する。 

            ● 武田勝頼の武田家は、 1582年に、 

             武田領(甲斐、信濃、駿河)の西側より織田

             軍に攻められ、 武田領の南側より徳川軍に

             攻められ、 武田領の東側より北条軍に攻

             められ、 三方より同時に攻められて、それ

             らの攻撃を防ぎきれず、 滅亡した。

            ● 1582年2月に、織田軍に協力して、 徳

             川軍も、武田領の駿河 に侵攻して、駿河を

             占領する。 徳川家康は、 同年に、この戦

             功により、織田信長から駿河一国を与えら

             れる。

■ 1582年   ● 1582年5月に、織田信長 は、明智光秀

(天正10年)    に、備中国(びっちゅうのくに、岡山 県南西部

            にいる秀吉軍への援軍を命じ、 信長は、

            同年6月に、京都へ上洛した。

            ● 1582年6月に、豊臣秀吉の主君・信長

                     は、本能寺の変で自刃。

              明智光秀 が、1582年6月に、京都の本

            能寺にいた織田信長を攻め、 自害させる

            (本能寺の変)。  信長、享年49歳で死す。

              同年6月に、秀吉は、 明智光秀を討つ 

            (山崎の戦い)。

            ● 1582年6月27日に、秀吉は、に、清洲

             城にて、他の織田家の重臣と 信長の後継

             者と織田信長の遺領の分割を決める (清

             洲会議)。

           ● 1582年12月に、秀吉は、 北近江へ侵

            攻し、敵対する敵方の長浜城を降伏させ、敵

            対する敵方の美濃へ侵攻、平定する。

                  ● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

■ 1582年   ● 越後の大名、上杉景勝は、  織田軍に

 (天正10年)   攻められ、 越後の上杉家は 滅亡の危機。

            ● 織田信長が、本能寺の変で、自刃。 越

            後を攻めていた織田軍が、 頭領の信長を

            失い、撤退し、上杉家滅亡の危機を脱する。

            ● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

■ 1582年   ● 1582年6月の織田信長死後、 織田

 (天正10年)   領の信濃、甲斐、上野(こうずけ)へ上杉景

            勝の軍、 北条氏政・氏直の軍、 徳川家康

            の軍 が侵攻した。 

              その後、戦いの結果、徳川家康と北条

            氏政・氏直は和睦し、 信濃(しなの、長野

            県)、甲斐(かい、山梨県)徳川領に、 

            上野(こうずけ、群馬県)は、北条領となった

              ここに、 徳川家康 は、三河 (みかわ、

            愛知県東部)、遠江(とおとうみ、 静岡県西

            部)、駿河 (するが、静岡県中部)、甲斐、

            信濃の中部5カ国を領有する大大名(1582

            〜90年)になる。

 

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#takedakatsuyori

 

 

◆ 武田 勝頼。

     (たけだ かつより)

 

■ 武田 勝頼。 

 

■ 名称 : 武田 勝頼 (たけだ かつより)。 

   別名 : 諏訪 勝頼 (すわ かつより)。

 

■ 生没年 : 1546年〜1582年。 

 

■ 戦国時代(室町時代後期)、安土桃山時代の、

     甲斐 国(かい のくに、現在の山梨県 相当地

  域) 及び 信濃 国(しなの のくに、現在の長

  野県相当地域)の、国主、戦国大名。

 

■ 甲斐国の守護、国主、戦国大名の武田信玄

  の子。

● 武田信玄(たけだしんげん)と信玄の側室夫

  人の諏訪御料人(すわごりょうにん)との間の

  男子。

 

■ 代々甲斐の守護職を受け継ぐ甲斐・武田家

  の当主。 

  最後の甲斐・武田家の当主。

● 1582年(天正10年)に3月に、天目山の戦

  いで敗死。 甲斐・武田氏は滅亡。                    

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 02215。

 

■ 武田 勝頼 (たけだ かつより、生没年:1546

  〜82年)は、 別名は諏訪勝頼で、 甲斐国の

  守護、国主、戦国大名の武田信玄の子である。 

  武田 勝頼 は、 武田信玄(たけだしんげん)と

  信玄の側室夫人の諏訪御料人(すわごりょうに

  ん)との間の男子 である。

 

■ 武田 勝頼は、 戦国時代(室町時代後期)、

  安土桃山時代の、甲斐国(かいのくに、現在

 の山梨県)及び信濃国(現在の長野県)の、国

 主で、戦国大名であった。

 

■ 武田 勝頼は、 代々甲斐の守護職を受け

  継ぐ甲斐・武田家の当主で、 最後の甲斐・

  武田家の当主 となった。

 

● 武武田 勝頼は、1582年(天正10年)に3月

  に、 天目山の戦いで敗 死し、 甲斐・武田氏

  は、ここに滅亡した。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 41535。

 

 

◆ 武田氏滅亡の原因。   

 

■ 守護、戦国大名としての武田氏は、1582

  年(天正10年)に、滅亡した。

 

■ 守護、戦国大名の武田氏の滅亡の原因

  は、 「周辺諸国の強大化」 と 「武田 勝頼

  (かつより)の政策の失敗」 にあった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 高天神城攻防戦。

 

   ■ 高天神城 (たかてんじんじょう)は、

    遠江国 (とおとうみのくに、現・静岡県西

    部の相当地域)にあった、山城(やまじろ)

    である。

 

  ■ 高天神城攻防戦。

 

   ■ 1581年(天正9年)に、武田勝頼の援

    軍がないまま、武田勝頼方の高天神城は、 

    徳川家康方の軍の攻撃をうけ、落城し、城

    兵は討ち死にした。 これが武田氏滅亡の

    原因の1つとなった。

 

   ■ 武田勝頼の援軍がなく武田勝頼方の

    高天神城が落城したことは、 武田領国内

    の多くの国人領主の信頼を失い、武田領国

    内の多くの国人領主の武田氏からの離反を

    招き、1582年(天正10年)に、織田軍・徳

    川軍・北条軍による武田氏への総攻撃が行

    われ、西方(織田軍)・南方(徳川軍)・東方

    (小田原北条軍)から三軍が武田氏領地へ

    攻め込んだ時に、武田氏領内の多くの国人

    領主が抵抗せず、降伏する原因となった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 織田信長の策略。

 

  ■ 武田勝頼の援軍がないまま、武田氏

    方の高天神城が落城し城兵が討ち死にす

    れば、武田氏領内の多くの国人領主が武

    田氏への信頼を失い、武田氏から離反し、

    織田信長が武田氏領内に攻め込んだ時に

    多くの国人領主が戦わず降参し抵抗しな

    いと織田信長は考えた。

 

  ■ 徳川家康の徳川氏方の軍は、初め、少

   数の城兵が籠る、武田氏方の高天神城を

   囲み、兵糧攻めで、降伏を待っていた。 

   しかし、徳川家康の同盟者の織田信長は、

   城兵の降伏を許さず討ち死にさせるように

   徳川家康に要請し、徳川家康の徳川氏方

   の軍は、その要請に従った。

      そして、武田氏方の高天神城は落城

   し城兵は討ち死して、それを知った武田氏

   領内の多くの国人領主が武田氏への信頼

   を失い、 織田信長の策略は、見事に当た

   った。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 武田氏滅亡。   

 

  ■ 1582年(天正10年)に、 織田信長は、

   武田氏領へ侵攻し、それに伴なって、小田

   原北条氏や徳川氏も武田領内へ攻め込み、

   武田勝頼の武田氏領は、東方、西方、南方

   の三方から攻め込まれ、武田氏領国内の

   多くの国人領主が戦わず降参し抵抗せず、

   武田勝頼は、敗戦をつづけ、自害し、武家

   の武田氏は滅亡する。

 

 

 ■ 武田氏滅亡の原因。   

 

   ■ 武田氏滅亡の原因は、主に2つある。

 

  ● 武田勝頼は、武田領国の東方

     の北条氏との同盟を破棄。

   ■ 武田氏滅亡の主因の1つは、武田勝頼

   が強国の小田原北条氏との同盟を破棄し、

   弱い国 (御館の乱(おたてのらん、1578

   −1579年)の内乱で分裂状態) の上杉

   景勝の上杉氏と同盟を結んだことである。  

      武田氏領国は、 西方(織田軍)・南方

   (徳川軍)・東方(小田原北条軍)の三方から

   敵に囲まれ、味方の北方の内乱後の弱い

   上杉景勝の上杉氏からは少ない援軍しか

   得られないことである。

 

    御館の乱(おたてのらん、1578−15

    79年)の内乱中に、上杉氏の同盟者の

    小田原北条氏の要請で、武田勝頼は、

    越後 (えちご、新潟県の相当地域)に、

    援軍を出す。 ところが、 武田勝頼は、

    小田原北条氏方の上杉虎景に味方せず、

    上杉景勝方 と 上杉景虎方との仲介役に

    回ってしまった。 それを知って北条氏は

    激怒し、その後、武田氏との同盟を破棄

    した。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ● 武田勝頼は、武田方の高天神

    城に援軍を送らず、落城・討ち

    死にさせる。

  ■ 武田氏滅亡のもう1つの主因は、高天神

   城(たかてんじんじょう)攻防戦で、武田勝頼

   が武田氏方の高天神城に援軍を送らず、落

   城させ、城兵は討ち死させたことである。

       武田氏方の高天神城を落城させ城兵

   を見殺しにしたことは、 武田領国内の多く

   の国人領主の信頼を失わせた。

 

    武田勝頼は、 織田信長と終戦の交渉を

   している時、徳川家康による、遠江 (とおと

   うみ、静岡県西部の相当地域)の高天神城

   の攻防戦が起こり、 武田勝頼は、織田信長

   を刺激し、信長との終戦交渉をやめたくない

   ために、武田方の高天神城への援軍を出さ

   なかった。 一方、織田信長は、本気で、

   田勝頼と終戦の交渉をするつもりはなかっ

   た。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 武田氏滅亡の原因。   

 

 ■ 武田氏滅亡の原因 1。

 

  ■ 武田信玄の武田氏の時期(当主1541〜73年)

    には、 武田氏領の周辺には、 強大な勢力は少

    なく、 多くの国は分裂して、 覇を争っていた。 

       しかし、武田勝頼の武田氏の時期(当主15

    73〜82年)には、 武田氏領の周辺に、強大な

    敵が出現する。 西方の織田信長の織田軍、 北

    方の上杉謙信の上杉軍、 東方の北条氏康・氏政

    の小田原北条軍 などである。 

       織田信長が、 近畿を中心に、多くの国を征

    服して、強大化し、武田氏と敵対した。 武田勝

    頼の武田家の軍 (1576年時点で約2〜3万人

    の兵)は、 織田信長の強大な織田氏の軍 (15

    76年時点で約10万人の兵) と敵対していた。 

    武田勝頼の武田氏は、その対策に苦慮した。 

    武田勝頼は、強大な織田氏と敵対する、武田氏

    領の周辺の国々との同盟を模索した。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

 ■ 武田氏滅亡の原因 2。

 

  ■ 強国の織田信長の織田家の軍と敵対していた、

    武田勝頼の武田氏は、 甲相同盟を破棄し、 

    甲越同盟を結ぶ政策をとり、 強国の北条氏政

    の北条氏の軍も敵にまわしてしまい、 強い織田・

    北条両氏の軍に攻められたため、 防ぎきれず、

    滅亡してしまった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ● 武田勝頼の武田氏が、1578年に、 武田氏領 

    (甲斐、信濃、駿河)の東方にある 強国の北条

    氏政の北条氏との同盟を破棄し、 武田氏領

    (甲斐、信濃、駿河)の北方にある 当時弱小

    国となっていた上杉景勝の上杉氏と同盟を結ん

    だ。 

 

  ● というのも、 武田勝頼は、軍資金に困窮していた。 

    また、もし武田領の北方の越後が北条氏勢力圏

    に入ると北条勢力は強大化し、武田氏領はその

    北方と東方を北条氏勢力に囲まれることとなり、武

    田勝頼は、驚異を感じ、 また、勝頼は 同盟者だ

    った相模の北条氏に不信感をもち、同盟者として

    の北条氏への信頼が揺らいでいた。 

 

  ● よって、 武田勝頼は 越後の上杉景勝の上杉氏

    から、 多額の軍資金と上野(こうずけ)の沼田領

    の譲渡の申し入れを受け、それらを得ることと引き

    換えに、 北方の越後の上杉氏と甲越同盟 (武田

    氏と上杉氏との同盟)を結び、 甲相同盟 (武田氏

    と北条氏との同盟) を破棄したのである。

 

  ● しかし、強国の北条氏政の北条氏の軍を敵に

    まわしてしまったため、 武田勝頼の武田氏は、 

    武田氏領(甲斐、信濃、駿河)の西方にある 強国

    の織田信長の織田氏の軍に対抗できず、 武田勝

    頼の武田氏は、 1582年(天正10年)に、 武田

    氏領(甲斐、信濃、駿河)の西側より織田軍に攻め

    られ、 武田氏領の南側より徳川軍に攻められ、 

    武田氏領の東側より北条軍に攻められ、三方より

    同時に攻められて、それらの攻撃を防ぎきれず、 

    武田氏は滅亡した。

 

 

 ■ 武田氏滅亡の原因 3。

 

  ■ 武田氏の武田勝頼は、 中央集権化を目指

       した政策をすすめ、 軍団の再編成をしよう

        としたり、 新府城を築城しようとして、

    膨大な軍資金(築城や軍維持増強など)を、 

    支配下の国人衆に課すことにより、 軍団の

    国人衆の造反を招く結果となった。

  ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

  ● 武田氏の武田勝頼は、近い将来攻め込んで

   くる織田・徳川連合軍に備えるため、 中央集

   権化を目指し、 独立心の強い国人衆からな

   る武田軍団の再編成をしようとしたり、 甲斐

   の韮崎に新府城を築城して防備を固めようと

   した。 そのため膨大な軍資金(築城や軍維

   持増強など)を支配下の国人衆に課すことに

   なり、国人衆の造反を招く結果となった。

 

  ● 1581年(天正9年)の徳川軍による高天神城

    の落城は、 武田氏の威信を大きく下げ、 支

    配下の国人衆は、大きく動揺した。 これを堺

    に、織田・徳川家からの調略が活発になり、 

    日頃から不仲な一門衆や日和見(ひよりみ)な

    国人衆の造反が、始まった。

 

 

 ■ 武田家滅亡の原因 1。

 

  ■ 武田勝頼の武田氏が、1578年に、 武田氏領 

  (甲斐、信濃、駿河)の東方にある 強国の北条

  氏政の北条氏との同盟を破棄し、 武田氏領

  (甲斐、信濃、駿河)の北方にある 当時弱小

  国となっていた上杉景勝の上杉氏と同盟を結ん

  だ。 

 

  ● 武田勝頼の武田家が、1578年に、 武田領 

  (甲斐、信濃、駿河)の東側にある 強国の北条

  氏政の北条家との同盟を破棄し、 武田氏領

  (甲斐、信濃、駿河)の北側にある 当時弱小

  国となっていた上杉景勝の上杉氏と同盟を結

  び、 強国の北条氏政の北条家の軍を敵に

  まわしてしまったため、 武田勝頼の武田氏は、

  武田氏領(甲斐、信濃、駿河)の西側にある 

  強国の織田信長の織田家の軍に対抗できず、 

  武田勝頼の武田氏は、 1582年に、 武田氏

  領(甲斐、信濃、駿河)の西側より織田軍に

  攻められ、 武田氏領の南側より徳川軍に攻

  められ、 武田氏領の東側より北条軍に攻め

  られ、 三方より同時に攻められて、 それらの

  攻撃を防ぎきれず、 滅亡した。

 

  ● 武田氏の武田 勝頼は、 優秀な武将であり戦国

  大名であり、 武田軍は、 約2〜3万人の精鋭

  部隊ではあったが、 大勢力の織田信長の

  軍 (1576年時点で約10万人の信長軍) 

  に対抗するするため、 武田信玄のように、

   織田信長の信長軍を包囲し大同団結した

  ような軍事同盟を築けなかった。 

 

  ● 武将・武田 勝頼の、大きな失政(ミス)。

    1578年、武田 勝頼は、北条氏方の上杉景

  虎を裏切り、上杉景勝と和睦した。

    1578年に、武田氏の武田 勝頼は、上杉謙信

  の急死後の越後の内乱 (御館の乱、おたての

  らん、謙信の2人の養子の上杉景勝と上杉景虎

  の争い) で、 同盟者の北条氏政の要請をうけ、 

  越後(新潟県)へ上杉景虎(北条氏政の実弟)方

  を援助するため、進軍した。 しかし、武田 勝頼

  年は、1578に、 黄金や上野(こうずけ)沼田領 

  と引換えに、上杉景勝方に味方した。

 

  ● 武田氏の武田 勝頼は、北の隣国の弱小化

    した上杉景勝の越後・上杉氏と甲越同盟を結び、

    甲相同盟を破棄し、東の隣国・関東の強大な

  小田原北条氏の北条氏政を敵に回してしまった。 

     1578年(天正6年)に、北条氏の北条氏政は、 

  同盟者の武田勝頼の背信に激怒し 第2次甲相

  同盟を破棄し、 1579年(天正7年)には徳川家

  康と同盟し、 1580年(天正8年)には、 織田

  信長と同盟した。

 

  ● 武田氏は、三方に敵を迎える。

    その結果、1580年には、 武田氏 (甲斐・

  信濃・駿河を支配していた) の、 西の隣国に

  敵の織田氏 (美濃)、 南の隣国に敵の徳川

  氏 (三河・遠江)、 東の隣国に敵の小田原

  北条氏(関東) という西・南・東の三方面に敵

  対勢力を持ってしまった。

 

 

 ■ 武田家滅亡の原因 2

 

  ● 武田家の武田勝頼は、 中央集権化を目

    指し、軍団の再編成をしようとしたり、

    新府城を築城しようとして、 膨大な軍資

    金 を、支配下の国人衆に課すことにより、 

    軍団の国人衆の造反を招く結果となった。

 

  ● 武田家の武田勝頼は、 近い将来攻め込

    んでくる織田・徳川連合軍に備えるため、 

    中央集権化を目指した政策をすすめ、 

    独立心の強い国人衆からなる武田軍団の

    再編成をしようとしたり、 甲斐(かい、現・

    山梨県)の韮崎(にらさき)に新府城を築城

    して防備を固めようとした。 そのため膨

    大な軍資金(軍維持増強や築城などの)

    を支配下の国人衆に課すことになり、 

    武田軍団の国人衆の造反を招く結果と

    なった。

 

 

  ■ 1581年(天正9年)の徳川軍による高天

    神城の落城は、 武田家の威信を大きく下げ、 

    支配下の国人衆は、大きく動揺した。 これ

    を堺に、織田・徳川家からの調略が活発になり、 

    日頃から不仲な一門衆や日和見(ひよりみ)

    な国人衆の造反が、始まった。

 

  ■ 1582年2月に、織田軍が武田討伐を開始

    した時、それに協力して、西・南・東の三方面

    から、 織田軍、徳川軍、北条軍の大軍が武

    田領の信濃・甲斐・駿河へ一斉になだれ込み、

    侵略して、 武田家は、 押し潰(つぶ)され、 

    勝てず、滅亡してしまったのである。

 

 

 

♪♪ 武田 勝頼が登場する、興味深い

    ドラ、映画、ドキュメンタリー。 

 

 ★ 武田 勝頼が登場する、興味深い、

    ドキュメンタリー。 

 ■ にっぽん!歴史鑑定 

    『 武田勝頼の生涯 』。

    (TBSテレビ・2016年3月14日・本放送

    BS・TBS歴史ドキュメンタリー番組)。

 

  ■ 武田勝頼の詳細を述べる。

  ■ 武田信玄・武田勝頼の時期の、武田氏の

    実情を述べる

 

 

 ■ 歴史秘話ヒストリア 

   『 新春激突!織田・徳川・武田 

       三大決戦〜長篠 の合戦 

    男たちは何を見た!? 』。

   (NHKテレビ・20 12年(平成24年)1月

   4日・本放送ドキュメンタリー番組。

 

  ■ 織田信長、武田信玄、武田勝頼が登場する。

 

 

 

 ★ 武田 勝頼が登場する、興味深い、

   ドラマ、映画。 

 

  ● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

       歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史の事実) 

     と 架空の出来事 が、混じって、描かれて

     います。 また、現代風にアレンジしてあります。

 

 

 ■ 『 風林火山 (ふうりんかざん) 』 。 

     (NHKテレビ・2007年大河ドラマ)。

 

  ■ 武田 信玄 の甲斐(山梨県)の守護(国主)

    就任から、 信玄の、信 濃(しなの、長野県)

    への侵略、上杉謙信との戦いなどの活躍を

    描いたテレビドラマ。

 

  ■ フィクションの物語「甲陽軍鑑」に記述された

    場面を、ドラマの中で、多く、再現しています。

 

  ● 武田 信玄 を演じた俳優名 : 市川 亀治郎 

    (いちかわ かめじろう、二代目)。

 

 

 ■ 『 影武者 (かげむしゃ) 』 。 

     (日本の1980年東宝映画) 

      黒澤明監督作品。

 

   1573年の野田(のだ)城攻めから1575年

   の長篠(ながしの)の戦いまでを描いた映画。  

   武田信玄の影武者の活躍 や 武田信玄の

   上洛途中の死去(1973年)、その死後の武田

   氏重臣や武田勝頼の行動を描いた映画。

   この映画では、信玄は、通説の病死ではなく、

   三河国の野田城で鉄砲で狙撃され (新井白

   石著・藩翰譜の記述を採用)、その負傷がもと

   で死去した と描かれてい る。

 

 

 ■ 『 戦国自衛隊 』。 

     (日本の1979年東宝SF映画)。

 

   陸上自衛隊の伊庭三尉(千葉真一役)の

    率いる一個小隊が戦国時代へタイムスリ

    ップするという設定のSF歴史映画。

 

  ● 武田  勝頼 を演じた俳優名 : 真田 広之。

 

  ● 武田 信玄 を演じた俳優名 :田中 浩。

 

 

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 『 あなたのハートには 

   何が残りましたか? 』

 

 

以  上。