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カナヤマ 日本歴史 辞典
日本語版
見出し語 『 た 』。
No.0933。
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□ 日本史 辞典 (総合)。
□ た
〇 たけ 武田 信玄 (たけだ しんげん)。
(総合)。
(1521〜1573年) 。
○ 甲斐の戦国大名。
〇 たけ 武田 信玄 詳細年表
(たけだしんげん しょうさいねんぴょう) 。
(⇒ 日本史年表) 。
〇 たけ 武田 信玄
■ 『 現在は、過去の成果であり、
未来は、現在の成果である。 』
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◆ 日本史辞典
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■ 武田 信玄
(たけだ しんげん)。
■ 武田 信玄 (総合)。
■ 生没年 : 1521〜1573年。
■ 名称 : 武田 信玄 (たけだ しんげん)。
● 幼名は、武田 太郎。 1536年(天文5年)の
元服(成人)後、 武田 晴信(はるのぶ)と称す。
その後、1559年(永禄2年)2月に、 出家して、
「徳栄軒信玄」 と号し(称し)、 武田信玄 と言
われる。
■ 戦国時代(室町時代後期)の、甲斐国(かいのく
に、現在の山梨県)の守護、戦国大名、国主。
■ 代々甲斐国の守護職を受け継ぐ甲斐・武田家
の当主。
■ 甲斐国の守護・国主、武田信虎(のぶとら)の子。
■ 武田 信玄の家督の継承者は、武田 勝頼(かつ
より) (諏訪勝頼(すわかつより))。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 武田 信玄 (たけだ しんげん)の詳細に関して
は、『 武田 信玄ガイドブック 』 を参照して下
さい。
□ 武田信玄 詳細年表。
画。
■ 武田 信玄 は、 戦国時代(室町時代後期)の、
甲斐国(かいのくに、現在の山梨県)の守護、戦
国大名、国主 で、 代々甲斐の守護職を受け継
ぐ甲斐・武田家の当主 である。
■ 武田 信玄 は、 甲斐国の守護・国主、武田信虎の男子である。
● 武田 信玄 は、 信玄の父の武田信虎(のぶとら)を、甲斐国(か
いのくに)より追放し、 甲斐国の国主となる。
信虎追放の説の1つとして、 信玄の父の武田信虎は、次男の武田
信繁(のぶしげ、幼名:次郎) を寵愛し、長男の武田 信玄 (武田晴
信、幼名太郎) を廃嫡しようとしたため と言われいる。
■ 武田 信玄 (たけだ しんげん) は、 生没年は 1521〜73年で、
幼名は 武田 太郎で、 1536年(天文5年)の元服(成人)後、武田
晴信(はるのぶ) と称す。 その後、 1559年(永禄2年)2月に、
出家して、徳栄軒信玄 と号し(称し)、 後世に、武田 信玄 と呼ば
れる。
■ 武田 信玄の家督の継承者は、武田勝頼 (諏訪勝頼)である。
■ 武田 信玄 (たけだ しんげん) は、 正室三条夫人と間の男子で武
田信玄の嫡子の武田義信(よしのぶ)を、 駿河攻略など信玄の政略
に強く反対したため、 廃嫡とし、自害させた。 反対した理由の一つが、
武田義信が、政略結婚した駿河の今川家の娘を愛していたからと言わ
れている。
● 信玄が急死したとき、 武田 信玄の武田家の家督を継承する者 が、
決まらず、 結局、信玄側室夫人の諏訪御料人(すわごりょうにん)との
間の男子の諏訪勝頼、即ち武田勝頼 が、 武田家の家督を継承(相続)
した。
■ 武田 信玄 は、 甲斐国(現在の山梨県)の甲府の躑躅ヶ崎館 (つ
つじがさきやかた) を本拠とし、 領国統治を行い、 富国強兵を図り、
長尾・上杉氏 や 北条氏 など周辺の強敵と戦った。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 武田信玄の掲げた軍旗の 風林火山。
「疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山」。
● 武田信玄の武田軍 は、 この軍旗を掲げて、
各地で、戦った。
● その読み方は、 「疾(はや)きこと風(かぜ)の
如(ごと)く、徐(しず)かなること林(はやし)の
如(ごと)く、 侵掠(しんりゃく)すること火(ひ)
の如(ごと)く、 動(うご)かざること山(やま)の
如(ごと)し」 である。
● 軍旗の風林火山 は、 孫子(そんし)に記され
た「其疾如風 其徐如林 侵掠如火 不動如山」
の語句を略したものである。
その読み方は、 「其(そ)の疾(はや)きこと
風(かぜ)の如(ごと)く、 其(そ)の徐(しず)か
なること林(はやし)の如(ごと)く、 侵掠(しん
りゃく)すること火(ひ)の如(ごと)く、 動(うご)
かざること山(やま)の如(ごと)し」 である。
■ 武田信玄の名言。
「人は城、 人は石垣、 人は堀、
情けは味方、 仇は敵なり」
● その意味は、 「 どれだけ城(しろ)を堅固(け
んご)にしても、 人(ひと)の心が離れてしまっ
たら、世を治めることはできない。 情(なさ)け
は人をつなぎとめ国を栄(さか)えさせるが、仇
(あだ)を増(ふ)やせば国は滅びる」 である。
● この言葉の通り、 武田信玄 は、 甲斐(山梨
県)国内に、 新たな城を普請せず、 堀一重の
躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)という武田館
に住んでいた。
● 但し、武田館の背後には、詰めの城である、典
型的な戦国武将の山城である、要害山(積翠寺)
城 があった。
■ 武田軍に、「武田騎馬軍団」 は、存在しなかった。
● 武田軍 は、戦国時代では、強い軍隊ではあったが、 騎馬軍団
は、存在しなかった。
● 戦国時代では、、軍隊の構成 は、騎馬武者に率いられた歩兵部
隊であり、 騎馬武者(寄子)に率いられたその従者(郎党、武家奉公
人)と徴集された農兵による歩兵部隊であった。 論功行賞に関わる
ことでもあり、 これを分離することは難しかった。 戦国時代で、通
常、騎兵のみで大きな部隊を構成したという事実はない。 フィクショ
ンのドラマや映画等で見られるような、騎兵のみで部隊を構成した
騎馬軍団 は、存在しなかった。 もちろん、武田軍にも、騎兵のみ
で構成された、騎馬軍団 は、存在しなかった。
● また、サラブレッド(体高170cm位)のような長身で早い馬 が、日
本に入ってきたは、明治時代以後であり、 江戸時代以前の、戦国時
代の軍馬 は、木曽馬のようなポニー級の小型の馬で、 サラブレッド
等に比べ、背が低く(145cm位)、短足で、スピードが遅かった。
● フィクションのドラマや映画等で見られるような、 騎馬軍団 が、戦
場を、猛スピードで駆け抜けるような場面 などなかった。
■ 武田 信玄の武田軍 は、 北信濃で、上杉謙信の上杉軍と戦った
が、勝敗の決着はつかなかった。
● 武田 信玄の武田軍 は、 1552年(第1回川中島の戦い)から15
64年(第5回川中島の戦い)まで、5回にわたり、 北信濃(長野県北
部)で、 謙信の上杉軍と戦ったが、 勝敗の決着はつかなかった。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 信玄と謙信の戦いで、 第4回の川中島の戦いが、もっとも激しい
戦いであった。 乱戦となり、指導者の謙信も刀を抜いて戦ったが、上
杉謙信が武田信玄との一騎討ちをすることはなかった。
● 第4回の川中島の戦いの時、上杉謙信ではなく、上杉軍の謙信の
家臣の荒川伊豆守(あらかわいずのかみ)が、 武田信玄に斬りか
かったと 言われている (「上杉家御年譜」より)。
● フィクションの物語「甲陽軍鑑」 (こうようぐんかん、江戸初期に完
成、中心となった作者は武田家の家臣、高坂昌信(春日虎綱)) で
は、 謙信と信玄が、川中島で一騎討ちをしたことになっている。
■ 武田 信玄 は、 戦国時代(室町時代後期)の武将、 甲斐国の戦
国大名で、 信濃(しなの、長野県)を征服し、1972年に、上洛をめ
ざすが、1973年に、 西上作戦の途中で、 死去(病死)する。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
◆ 関連項目。
■ 武田信玄の一族の、 武田勝頼 に関しては、
当日本史辞典の 『 武田勝頼 (たけだかつより) 』
を参照して下さい。
■ 武田信玄の家臣の、 山本勘助 (信玄の伝令将校、
伝説的軍師)、に関しては、 当日本史辞典の 『 山本
勘助 (やまもと かんすけ) 』 を参照して下さい。
■ 武田信玄の敵対または友好武将、大名の、 上杉謙信
(越後のの戦国大名)、 今川義元、 北条氏康 (関東の
戦国大名)、 織田信長 (日本中央部を支配する戦国大
名) に関しては、 当日本史辞典の 『 上杉 謙信 (うえ
すぎ けんしん)、 今川義元(いまがわよしもと)、 北条
氏康 (ほうじょう うじやす)、 織田 信長 (おだ のぶな
が) 』 を参照して下さい。
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#takedashingen-appearingscenes
♪♪ 武田 信玄が登場する、面白く、興
味深いドキュメンタリー、ドラマ、映画。
★ 武田 信玄 が登場する、面白く、興
味深い、ドキュメンタリー。
■ 歴史秘話ヒストリア 『 新春激突!
織田・徳川・武田 三大決戦〜長篠
の合戦 男たちは何を見た!? 』
(NHKの2012年(平成24年)1月4日本
放送)。
● 織田信長、武田信玄、武田勝頼が登場する。
■ その時歴史が動いた 『 完成・戦
国最強軍団 〜武田信玄・苦悩の
生涯〜 』 (NHK2007年(H19)2月本
放送テレビ・ドキュメンタリー番組、第276回)。
■ その時歴史が動いた 『 謙信恐る
べし 』 (NHK2007年(H19)4月本放送
テレビ・ドキュメンタリー番組、第283回)。
★ 武田 信玄 が登場する、面白く、興
味深い、ドラマ、映画。
● (注意) ドラマ、映画 は、フィクションです。
歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実)
と 架空の出来事 が、混じって、描かれてい
ます。 また、現代風にアレンジしてあります。
■ 『 風林火山 (ふうりんかざん) 』
(NHK2007年大河ドラマ)
● 武田 信玄 を演じた俳優名 : 市川 亀治郎
(いちかわ かめじろう、二代目)。
● 武田 信玄 の甲斐(山梨県)の守護(国主)
就任から、 信玄の、信 濃(しなの、長野県)
への侵略、上杉謙信との戦いなどの活躍を
描いたテレビドラマ。
● フィクションの物語「甲陽軍鑑」に記述された
場面を、ドラマの中で、多く、再現している。
■ 『 武田信玄 』 (日本のTBSドラマ)。
■ 『 影武者 (かげむしゃ) 』
(日本の1980年東宝映画) 黒澤明監督作品。
● 1573年の野田(のだ)城攻めから1575年
の長篠(ながしの)の戦いまでを描いた映画。
● 武田信玄の影武者の活躍 や 武田信玄の上
洛途中の死去(1973年)、その死後の武田家
重臣や武田勝頼の行動を描いた映画。
● この映画では、信玄は、通説の病死ではなく、
三河国の野田城で鉄砲で狙撃され (新井白石
著・藩翰譜の記述を採用)、その負傷がもとで死
去した と描かれてい る。
■ 『 戦国自衛隊 』
(日本の1979年東宝SF映画)。
● 武田 信玄 を演じた俳優名 :田中 浩 。
● 陸上自衛隊の伊庭三尉(千葉真一役)の率い
る一個小隊が戦国時代へタイムスリップすると
いう設定のSF映画。
の 先頭ページへ 。
□ 日本史辞典の先頭ページへ。
#takedashingendetailedchronology
■ 武田 信玄 詳細年表 。
(たけだしんげん しょうさいねんぴょう)。
◆ 武田 信玄 詳細年表。
■ 武田信玄 (たけだ しんげん) の詳細に関しては、
『 武田信玄 ガイドブック (要覧) 』 を参照して下
さい。
まがわよしもと) 』 の項目 も参照して下さい。
■ 戦国時代については、『 中世日本歴史詳細 年表 』
を、安土桃山時代、江戸時代については、『 近世日本
歴史詳細年表 』 を参照して下さい。
■ より理解を深めるために、 当年表と近い時期の日本
史辞典の年表の、 『 戦国時代 (室町時代後期) 年表、
■ 当年表 は、 武田信玄 (1521年〜1573年) が
生きた時代の詳細年表 である。
■ 武田 信玄 (たけだ しんげん、 生没年 1521年〜
1573年) の時代の日本へタイムスリップして、 武田
信玄 の活動を見てみよう。
■ 歴史学の立場から、年代を追って、 武田信玄 の実
像 (歴史的有名な人物には、実像と虚像があります
が) を見てみよう。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典 22315。
■ 日付(年月日)は、全て旧暦、人物の年齢は、数え年。
● 一般的な歴史書籍で使用されているのと同じように、
当年表の日付(年月日)は、1872年(明治5年)12月
2日までは、旧暦(太陰太陽暦)を用い 、人物の年齢も
数え年を用いている。
□ 武田 信玄 詳細年表の先頭へ戻る。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
◆ 武田 信玄 詳細年表。
● では、武田信玄 (たけだ しんげん) に関係する出来
事を、年代順に、見てみよう。
#takedashingendetailedchronology-1521
■ 1521年 ● 大永(だいえい、たいえい)改元。
(大永 元年) 1521年8月23日に、和暦の「永正」(えいし
ょう、永正元年〜18年) が、 「大永」 (だ
いえい・たいえい、1521年・大永元年・8月
23日〜 1528年・大永8年・8月20日) に
改元される。
■ 1521年 ● 1521年11月、 武田 信玄 (たけだ し
(大永 元年) んげん、太郎) が、誕生する。
甲斐の戦国大名となる、武田 信玄 (たけ
だ しんげん、幼名:太郎) が、 甲斐(現在
の山梨県)で、 甲斐国守護・武田信虎(のぶ
とら)と信虎・正室の大井夫人(おおいふじん)
との間の子として、 生まれる。
信玄(太郎)の父の、武田信虎は、甲斐源
氏 の名門・武田氏の第18代当主であり、信
虎期には、甲斐統一が達成されていた。
■ 1528年 ● 享禄(きょうろく)改元。
(享禄 元年) 1528年8月20日に、 和暦の「大永」(だい
えい、たいえい、大永元年〜8年) が、 「享
禄」 (きょうろく、 1528年・享禄元年・8月
20日〜 1532年・享禄5年7月29日) に
改元される。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 1530年 ● 越後の戦国大名となる、上杉 謙信 (うえ
(享禄 3年) すぎ けんしん、幼名:虎千代) が、 越後で、
越後守護代・ 長尾為景の子として、春日山城
で、 誕生する。
■ 1532年 ● 天文(てんぶん、てんもん)改元。
(天文 元年) 1532年7月29日に、和暦の「享禄」(きょう
ろく、享禄元年〜5年) が、 「天文」 (てん
ぶん、 1532年・天文元年・7月2 9日〜15
55年・天文24年・10月23日)に 改元される。
■ 1534年 ● 織田 信長 (おだ のぶなが、幼名:吉法師)
(天文 3年) が、 尾張で、 織田信秀の子として、 誕生
する。
■ 1536年 ● 武田信玄(太郎)は、 元服(成人)し、 武
(天文 5年) 田 晴信(はるのぶ)と称す。
■ 1536年 ● 豊臣秀吉 (とよとみ ひでよし、幼名:日吉
(天文 5年) 丸?)が、 尾張で、弥右衛門の子として、誕
生する。
■ 1541年 ● 1541年6月に、武田家の武田信玄(武田
(天文10年) 晴信) が、父、武田信虎を 、甲斐から追放し、
自立する。 信玄(晴信)が、武田家の 当主と
なる (武田家の実権をもつ)。
● 北条家の北条氏綱が死去し、北条氏康が、
家督を継いで、北条氏の第3代当主となり、
1541年に、北条家の実権(1541〜71年)
を持つ。 一説には、1538年(天文7年)に
氏綱が、隠居し、氏康に家督を譲り後見して
いたとも言われている。
■ 1542年 ● 徳川家康 (とくがわ いえやす、幼名:竹千
(天文11年) 代) が、 三河で、松平広忠の子として、 誕
生する。
● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。
■ 1543年 ● 上杉 謙信(虎千代) は、元服(成人)して、
(天文12年) 長尾 景虎(ながおかげとら) と名乗り、 栃
尾城に入る。
■ 1546年 ● 武田勝頼 (たけだ かつより) が、甲斐
(天文15年) の戦国大名の武田信玄の子として、 生ま
れる。
■ 1548年 ● 上杉 謙信 (長尾景虎)は、 19歳で、長
(天文17年) 尾家の家督を相続し、長尾氏の本拠地で
ある春日山城に入り、 越後守護代となる。
■ 1550年 ● 上田長尾家当主の長尾政景(まさかげ)が、
(天文19年) 上杉 謙信(長尾景虎)の長尾家の相続に
不満を持って、反乱を起こす。
● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。
■ 1551年 ● 上杉謙信(長尾景虎) は、長尾政景の反
(天文20年) 乱を鎮圧する。
● 上杉謙信(長尾景虎)の(実)姉の桃(仙桃
院)が、 長尾政景に嫁ぐ (政略結婚)。
● 上杉謙信(長尾景虎)は、越後を統一し、名
実共に、越後国主となる。
■ 1551年 ● 織田信長の父・信秀が急死し、 織田信長
(天文20年) が、織田信秀の家督を継ぐ。
#takedashingendetailedchronology-1552
■ 1552年 ● 第1次川中島の戦い。 5回の川中島
(天文21年) の戦いの最初の戦い、 即ち、武田信玄と
上杉謙信と間の、信濃における5回の戦い
のうちの最初の戦い。 その後、今回を含
め信濃で両者が、5回戦ったが、結局、勝
敗つかず。
■ 1554年 ● 豊臣秀吉(木下藤吉郎) が、織田信長に
(天文23年) 仕える (家臣として仕え始める)。
● 武田信玄、北条氏康、今川義元の間で、
互いに婚姻関係を結び、甲相駿三国同盟
が成立する。
■ 1555年 ● 弘治(こうじ)改元。
(弘治 元年) 1555年10月23日に、和暦の「天文」(てん
ぶん、てんもん、天文元年〜24年) が、「弘
治」 (こうじ、1555年・弘治元年・10月23
日〜 1558年・弘治4年・2月28日) に
改元される。
■ 1555年 ● 上杉 景勝 (うえすぎ かげかつ、 幼名・
(弘治 元年) 長尾 卯松(うのまつ)、が、 誕生する。 上
杉 景勝 は、上杉謙信の姉の男子で、謙信
の甥(おい)であり、 後に、上杉謙信の養子
となり、 後に、直江 兼続が仕える主君・大
名である。
■ 1556年 ● 上杉 謙信(長尾景虎)が、出家すると宣言
(弘治 2年) して、高野山へ向かう。 越後国主の地位を
放棄する。
■ 1557年 ● 第3次川中島の戦い。
(弘治 3年)
■ 1558年 ● 永禄(えいろく)改元。
(永禄 元年) 1558年2月28日に、和暦の「弘治」(こうじ、
弘治元年〜4年) が、 「 永禄」 (えいろく、
1558年・永禄元年・2月28日〜1570年・
永禄13年・ 4月23日) に改元される。
■ 1559年 ● 1559年2月に、武田信玄 (武田晴信)は、
(永禄 2年) 出家して、 徳栄 軒信玄 と号し、 武田信
玄 となる。
■ 1559年 ● 織田信長 は、 尾張一国を統一し、 尾張
(永禄 2年) 国主となる。
■ 1560年 ● 直江 兼続 (なおえ かねつぐ、幼名・樋口
(永禄 3年) 与六) が、誕生する。
● 直江 兼続は、 越後の坂戸(さかど)城主
(現在の新潟県南魚沼市六日町坂戸)・長尾
政景(ながおまさかげ)の家臣、樋口 兼豊(ひ
ぐち かねとよ、樋口 惣右衛門(そうえもん))
の長男として、生まれる。
● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。
■ 1560年 ● 1560年5月に、織田信長は、 桶狭間(お
(永禄 3年) けはざま)の戦いで、今川義元を破る。 今川
義元は、 尾張の桶狭間で、敗死する。
● 義元の部下として信長と戦っていた、徳川
家康(松平元康)は、尾張より、松平軍の兵を
撤退し、三河へ戻り、今川家から独立する。
● 駿河の戦国大名、今川 義元が、上洛途中
で、死去(敗死)する。 今川 氏真(うじざね)
が、駿河・今川家(氏)の家督を継ぐ。
● 今川 義元が敗死し、今川家が衰退の兆しを
見せ始めたので、武田信玄は、今川氏との同
盟を破棄し(甲駿同盟を破棄し)、今川領の駿
河に侵攻しようと計画する。
● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。
#takedashingendetailedchronology-1561
■ 1561年 ● 1561年3月に、 北条氏攻め(小田原城
(永禄 4年) 攻め)。 上杉謙信(長尾景虎) は、 関東
管領上杉憲政を擁して、 旧上杉家家臣団
10万人の大軍で、 北条氏康の北条氏を攻
め、 小田原城を包囲する。
● 1561年3月に、 上杉謙信(長尾景虎)は、
鎌倉の鶴岡八幡宮で、上杉憲政より、山内上
杉氏の家督を継承(相続)し、 関東管領に就
任し、上杉政虎と称す。 その後、1561年12
月に、上杉輝虎と称す。
■ 1561年 ● 1561年8〜9月に、第4回川中島の戦い。
(永禄 4年) 1561年8〜9月に、武田信玄軍2万人と上杉
謙信(上杉政虎)軍1万3000人が、信濃(現在
の長野県)の川中島で、決戦を行うが、 勝敗
がつかず、互いに撤退する。
■ 1562年 ● 1562年1月に、徳川家康(松平元康) は、
(永禄 5年) 織田信長と清洲同盟 (織徳同盟)を結ぶ。
■ 1564年 ● 直江兼続 (樋口 与六) が、 小姓・近習と
(永禄 7年) して 上杉 景勝に仕える (家臣として仕え始
める)。 通説だが、これを立証しえる史料はな
い。
■ 1564年 ● 謙信(上杉輝虎)の姉婿で上杉景勝の父の、
(永禄 7年) 長尾政景が、 舟遊びの最中、溺死する。
● 謙信(上杉輝虎)が、長尾政景の次男の、上
杉景勝を養子とする。
● 第5次川中島の戦い (最後の川中島の戦
い)。
■ 1565年 ● 室町幕府の13代将軍の足利 義輝 (よして
(永禄 8年) る、(将軍在位1546〜65年))が、 松永
久秀(まつながひさひで)に殺される。
● 義輝の弟の足利 義昭 (あしかが よしあ
き)は、 僧であったが、 還俗(げんぞく)し、
室町幕府の再興(さいこう)をめざす。
■ 1567年 ● 1567年10月に、信長 は、 美濃(現在
(永禄10年) の岐阜県)の斉藤氏を滅ぼす。
● 1567年10月に、武田信玄 は、 嫡男
の武田義信を廃嫡し、自害させる (病死
説もあり)。
#takedashingendetailedchronology-1568
■ 1568年 ● 1568年11月に、織田信長は、足利義
(永禄11年) 昭(よしあき)を奉じて、上洛を果たし、 義
昭を将軍位に就(つ)ける (将軍在位15
68〜73年)。 この戦いに、 家康は、信
長へ援軍を派遣した。
■ 1568年 ● 1568年12月、武田信玄 が、駿河 に
(永禄11年) 侵攻を開始する。 今川氏真(うじざね)
が、駿河を離れ、 遠江(とおとうみ)・掛
川城へ逃れる。
1568年12月、 武田信玄 が、駿河
に侵攻を開始し、今川氏真軍 や 今川
氏への北条氏康の援軍 と戦う。 甲相駿
三国同盟(1554〜68年)は、ここに、崩
壊する。
■ 1569年 ● 上杉家の上杉謙信(上杉輝虎)は、 武
(永禄12年) 田家の武田信玄を牽制(けんせい)する
ため、 宿敵である北条家の北条氏康 と
同盟を結ぶ (越相同盟、1569〜71年)。
● 戦国大名としての駿河・今川家(氏)が滅
亡する(統治権の喪失)。 駿河・今川家の
今川氏真(うじざね)が、 徳川家康と和睦
し、遠江・掛川城を開城する。
■ 1570年 ● 1570年3月に、上杉謙信 (上杉輝虎)
(永禄13年) は、法号を、「不識庵謙信」と称し、 上杉
謙信 となる。
■ 1570年 ● 元亀(げんき)改元。
(元亀 元年) 1570年4月23日に、 和暦の「永禄」(え
いろく 、永禄元年〜13年) が、 「元亀」
(げんき、 1570年・元亀元年・4月23日〜
1573年・元亀4年・7月28日) に改元さ
れる。
■ 1570年 ● 1570年4月に、織田信長は、 軍を、越
(元亀 元年) 前に侵攻したが、信長の妹婿の北近江の
浅井長政に背後をつかれ、 京(都)へ逃
れた。 金ヶ崎の退き口(かながさきのし
りぞきぐち)。
■ 1570年 ● 1570年6月に、織田信長は、近江国の
(元亀 元年) 姉川で、浅井・朝倉連合軍を破る (姉川の
戦い)。 この戦いに、家康は、信長と共に
参戦し、信長を助けた。
● 1570年7月に、武田信玄は、駿河にい
た北条の守備隊を撃破し駿河(現在の静
岡県中部)を完全に平定した。
● 1570年9月に、本願寺は、信長に対抗
する(石山合戦の始まり)。
■ 1570年 ● 上杉謙信(上杉輝虎) は、北条氏康の男
(元亀 元年) 子(越相同盟での北条氏の人質)、北条三
郎を養子とし、 景虎という名を与える (上
杉三郎景虎)。
■ 1571年 ● 相模国(さがみのくに、現在の神奈川県)
(元亀 2年) の北条家の、 北条氏康 (1515〜71年)
が、死去する。 氏康の子、北条氏政(15
38〜90年) が 北条家の実権(1571〜
90年)を握る。
■ 1571年 ● 1571年9月に、信長 は、 比叡山延暦
(元亀 2年) 寺を焼討ちする。
● 1571年10月に、 北条氏康が死去する。
● 1571年12月に、 北条家の家督を継承
(相続)した、北条氏政は、 上杉謙信の上杉
家との同盟を破棄し(越相同盟 を破棄し)、
武田家の武田信玄と同盟を結ぶ(甲相同盟
を結ぶ)。
■ 1572年 ● 1572年10月に、武田信玄は、上洛の軍
(元亀 3年) を起こす (上洛を開始する、 西上作戦を
開始する)。
● 1572年12月に、遠江の三方が原(みか
たがはら)の戦いで、徳川・織田連合軍 は、
武田信玄の武田軍に大敗する。
■ 1573年 ● 1573年2月に、足利義昭は、武田氏、浅
(元亀 4年) 井氏、朝倉氏、本願寺と協力して、信長討
伐を謀(はか)る。
● 1573年4月に、 武田信玄が、上洛途中で、
死去(病死)する。 武田信玄が、病状悪化し、
武田軍は、徳川領の三河や遠江から、軍を返
し、甲斐へ帰国した (信玄は帰国途中、信濃
・駒場で病死)。
● 1573年7月に、室町幕府滅亡。 織田信長
が足利義昭を追放する。
織田信長は、信長に反旗をひるがえした、
足利 義昭(よしあき)を京都より追放し、室町
幕府を滅ぼす (室町幕府滅亡)。
● 1573年7月に、 信長は、元号を元亀か
ら天正へ と改めることを朝廷に奏上し、これ
を実現させた。
● 1573年に、 武田信玄死後、 武田勝頼
(たけだ かつより)が、武田家の家督を継
承(相続)する。
■ 1573年 ● 天正改元。
(天正 元年) 1573年7月28日に、 和暦の「元亀」(げ
んき、元亀元年〜4年) が、 「 天正」 (て
んしょう、1573年・天正元年・7月28日〜
1592年・天正20年・12月8日) に改元
される。
■ 1573年 ● 1573年に、織田信長 は、朝倉・浅井両
(天正 元年) 氏を滅ぼす。
● 豊臣秀吉(木下秀吉)は、 浅井氏滅亡後、
その旧領の北近江三郡の経営を織田信長
より任され、 北近江(きたおうみ)の長浜城
の城主となる。
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□ 日本史辞典の先頭ページへ。
『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』
以 上