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 カナヤマ 日本歴史 辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 た 』。

 No.0933。

 

メ ニュー (目次)  #jpmenu     

■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

□ 日本史 辞典 (総合)          

□  

 たけ  武田 信玄 (たけだ しんげん)。

          (総合)。

           (1521〜1573年) 。

          ○ 甲斐の戦国大名。

 たけ  武田 信玄 詳細年表 

             (たけだしんげん しょうさいねんぴょう) 。

             (⇒ 日本史年表) 。

〇 たけ  武田 信玄 

       (武田信玄ガイド ブック)

 

 

□ 日本史 辞典 の 「た」 基本見出し語

  の 先頭ページへ。        

 

■  『 現在は、過去の成果であり、

    未来は、現在の成果である。 

 

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#jpdictionary(general)

 

◆ 日本史辞典

 

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#ta

 

#takedashingen

 

■ 武田 信玄  

    (たけだ しんげん)。

 

■ 武田 信玄 (総合)。 

■ 生没年 : 1521〜1573年。 

■ 名称 : 武田 信玄 (たけだ しんげん)。 

● 幼名は、武田 太郎。 1536年(天文5年)の

  元服(成人)後、 武田 晴信(はるのぶ)と称す。  

  その後、1559年(永禄2年)2月に、 出家して、

  「徳栄軒信玄」 と号し(称し)、 武田信玄 と言

  われる。

■ 戦国時代(室町時代後期)の、甲斐国(かいのく

  に、現在の山梨県)の守護、戦国大名、国主。

■ 代々甲斐国の守護職を受け継ぐ甲斐・武田家

  の当主。

■ 甲斐国の守護・国主、武田信虎(のぶとら)の子。

■ 武田 信玄の家督の継承者は、武田 勝頼(かつ

  より) (諏訪勝頼(すわかつより))。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 武田 信玄 (たけだ しんげん)の詳細に関して

  は、『 武田 信玄ガイドブック 』  を参照して下

  さい。

 

□ 武田信玄 詳細年表

□ 武田 信玄 画像 NO.1

□ 武田 信玄 が登場する、面白く、興

  味深い、ドキュメンタリー、ドラマ、映

  

 

 

■ 武田 信玄 は、 戦国時代(室町時代後期)の、

  甲斐国(かいのくに、現在の山梨県)の守護、戦

  国大名、国主 で、 代々甲斐の守護職を受け継

  ぐ甲斐・武田家の当主 である。

 

■ 武田 信玄 は、 甲斐国の守護・国主、武田信虎の男子である。

● 武田 信玄 は、 信玄の父の武田信虎(のぶとら)を、甲斐国(か

 いのくに)より追放し、 甲斐国の国主となる。 

  信虎追放の説の1つとして、 信玄の父の武田信虎は、次男の武田 

 信繁(のぶしげ、幼名:次郎) を寵愛し、長男の武田 信玄 (武田晴

 信、幼名太郎) を廃嫡しようとしたため と言われいる。

 

■ 武田 信玄 (たけだ しんげん) は、 生没年は 1521〜73年で、 

 幼名は 武田 太郎で、 1536年(天文5年)の元服(成人)後、武田

 晴信(はるのぶ) と称す。  その後、 1559年(永禄2年)2月に、 

 出家して、徳栄軒信玄 と号し(称し)、 後世に、武田 信玄  と呼ば

 れる。

 

■ 武田 信玄の家督の継承者は、武田勝頼 (諏訪勝頼)である。

■ 武田 信玄 (たけだ しんげん) は、 正室三条夫人と間の男子で武

  田信玄の嫡子の武田義信(よしのぶ)を、 駿河攻略など信玄の政略

 に強く反対したため、 廃嫡とし、自害させた。 反対した理由の一つが、

 武田義信が、政略結婚した駿河の今川家の娘を愛していたからと言わ

 れている。

● 信玄が急死したとき、 武田 信玄の武田家の家督を継承する者 が、

 決まらず、 結局、信玄側室夫人の諏訪御料人(すわごりょうにん)との

 間の男子の諏訪勝頼、即ち武田勝頼 が、 武田家の家督を継承(相続)

 した。

 

■ 武田 信玄 は、 甲斐国(現在の山梨県)の甲府の躑躅ヶ崎館 (つ

 つじがさきやかた) を本拠とし、 領国統治を行い、 富国強兵を図り、 

 長尾・上杉氏 や 北条氏 など周辺の強敵と戦った。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 武田信玄の掲げた軍旗の 風林火山

 「疾如 徐如 侵掠如 不動如」。

● 武田信玄の武田軍 は、 この軍旗を掲げて、

  各地で、戦った。

● その読み方は、 「疾(はや)きこと風(かぜ)の

  如(ごと)く、徐(しず)かなること林(はやし)の

  如(ごと)く、 侵掠(しんりゃく)すること火(ひ)

  の如(ごと)く、 動(うご)かざること山(やま)の

  如(ごと)し」 である。

● 軍旗の風林火山 は、 孫子(そんし)に記され

  た「其疾如風 其徐如林 侵掠如火 不動如山」 

  の語句を略したものである。 

    その読み方は、 「其(そ)の疾(はや)きこと

  風(かぜ)の如(ごと)く、 其(そ)の徐(しず)か

  なること林(はやし)の如(ごと)く、 侵掠(しん

  りゃく)すること火(ひ)の如(ごと)く、 動(うご)

  かざること山(やま)の如(ごと)し」 である。

 

■ 武田信玄の名言。

  「人は城、 人は石垣、 人は堀、 

  情けは味方、  仇は敵なり

● その意味は、 「 どれだけ城(しろ)を堅固(け

  んご)にしても、 人(ひと)の心が離れてしまっ

  たら、世を治めることはできない。 情(なさ)け

  は人をつなぎとめ国を栄(さか)えさせるが、仇

  (あだ)を増(ふ)やせば国は滅びる」 である。

● この言葉の通り、 武田信玄 は、 甲斐(山梨

  県)国内に、 新たな城を普請せず、 堀一重の

  躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)という武田館

  に住んでいた。

● 但し、武田館の背後には、詰めの城である、典

  型的な戦国武将の山城である、要害山(積翠寺)

  城 があった。

 

■ 武田軍に、「武田騎馬軍団」 は、存在しなかった。

● 武田軍 は、戦国時代では、強い軍隊ではあったが、 騎馬軍団 

 は、存在しなかった。

● 戦国時代では、、軍隊の構成 騎馬武者に率いられた歩兵部

 であり、 騎馬武者(寄子)に率いられたその従者(郎党、武家奉公

 人)と徴集された農兵による歩兵部隊であった。 論功行賞に関わる

 ことでもあり、 これを分離することは難しかった。 戦国時代で、通

 常、騎兵のみで大きな部隊を構成したという事実はない。 フィクショ

 ンのドラマや映画等で見られるような、騎兵のみで部隊を構成した

 騎馬軍団 は、存在しなかった。  もちろん、武田軍にも、騎兵のみ

 で構成された、騎馬軍団 は、存在しなかった。

● また、サラブレッド(体高170cm位)のような長身で早い馬  

 本に入ってきたは明治時代以後であり、 江戸時代以前の、戦国時

 代の軍馬 、木曽馬のようなポニー級の小型の馬で、 サラブレッド

 等に比べ、背が低く(145cm位)、短足で、スピードが遅かった。 

● フィクションのドラマや映画等で見られるような、 騎馬軍団 が、戦

 場を、猛スピードで駆け抜けるような場面 などなかった。

 

■ 武田 信玄の武田軍 は、 北信濃で、上杉謙信の上杉軍と戦った

 が、勝敗の決着はつかなかった。

 武田 信玄の武田軍 は、 1552年(第1回川中島の戦い)から15

 64年(第5回川中島の戦い)まで、5回にわたり、 北信濃(長野県北

 部)で、 謙信の上杉軍と戦ったが、 勝敗の決着はつかなかった。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 信玄と謙信の戦いで、 第4回の川中島の戦いが、もっとも激しい

 戦いであった。 乱戦となり、指導者の謙信も刀を抜いて戦ったが、上

 杉謙信が武田信玄との一騎討ちをすることはなかった。 

● 第4回の川中島の戦いの時、上杉謙信ではなく、上杉軍の謙信の

 家臣の荒川伊豆守(あらかわいずのかみ)が、 武田信玄に斬りか

 かったと 言われている (「上杉家御年譜」より)。

● フィクションの物語「甲陽軍鑑」 (こうようぐんかん、江戸初期に完

 成、中心となった作者は武田家の家臣、高坂昌信(春日虎綱)) で

 は、 謙信と信玄が、川中島で一騎討ちをしたことになっている。

 

■ 武田 信玄 は、 戦国時代(室町時代後期)の武将、 甲斐国の戦

 国大名で、 信濃(しなの、長野県)を征服し、1972年に、上洛をめ

 ざすが、1973年に、 西上作戦の途中で、 死去(病死)する。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

◆ 関連項目。

■ 武田信玄の一族の、 武田勝頼 に関しては、 

 当日本史辞典の 『 武田勝頼 (たけだかつより) 』

 を参照して下さい。

 

■ 武田信玄の家臣の、 山本勘助 (信玄の伝令将校、 

 伝説的軍師)、に関しては、 当日本史辞典の 『 山本

 勘助 (やまもと かんすけ) 』 を参照して下さい。

 

■ 武田信玄の敵対または友好武将、大名の、 上杉謙信 

 (越後のの戦国大名)、 今川義元、 北条氏康 (関東の

 戦国大名)、 織田信長 (日本中央部を支配する戦国大

 名) に関しては、 当日本史辞典の 『 上杉 謙信 (うえ

 すぎ けんしん)、 今川義元(いまがわよしもと)、 北条

 氏康 (ほうじょう うじやす)、 織田 信長 (おだ のぶな

 が) 』 を参照して下さい。

□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。                

 

 

#takedashingen-appearingscenes

 

♪♪ 武田 信玄が登場する、面白く、興

  味深いドキュメンタリー、ドラマ、映画。 

  

 

 武田 信玄 が登場する、面白く、興

  味深い、ドキュメンタリー。

 

■ 歴史秘話ヒストリア 『 新春激突!

  織田・徳川・武田 三大決戦〜長篠

  の合戦 男たちは何を見た!? 』 

   (NHKの2012年(平成24年)1月4日本

   放送)。

● 織田信長、武田信玄、武田勝頼が登場する。

 

■ その時歴史が動いた 『 完成・戦

  国最強軍団 〜武田信玄・苦悩の

  生涯〜 』 (NHK2007年(H19)2月本

  放送テレビ・ドキュメンタリー番組、第276回)。

 

■ その時歴史が動いた 『 謙信恐る

  べし 』  (NHK2007年(H19)4月本放送

   テレビ・ドキュメンタリー番組、第283回)。

 

★ 武田 信玄 が登場する、面白く、興

  味深い、ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画 は、フィクションです。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実) 

  と 架空の出来事 が、混じって、描かれてい

  ます。 また、現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 風林火山 (ふうりんかざん) 』 

 (NHK2007年大河ドラマ)

● 武田 信玄 を演じた俳優名 : 市川 亀治郎 

  (いちかわ かめじろう、二代目)。

● 武田 信玄 の甲斐(山梨県)の守護(国主)

  就任から、 信玄の、信 濃(しなの、長野県)

  への侵略、上杉謙信との戦いなどの活躍を

  描いたテレビドラマ。

● フィクションの物語「甲陽軍鑑」に記述された

  場面を、ドラマの中で、多く、再現している。

 

■ 『 武田信玄 』 (日本のTBSドラマ) 

 

■ 『 影武者 (かげむしゃ) 』 

  (日本の1980年東宝映画) 黒澤明監督作品。

● 1573年の野田(のだ)城攻めから1575年

  の長篠(ながしの)の戦いまでを描いた映画。  

● 武田信玄の影武者の活躍 や 武田信玄の上

  洛途中の死去(1973年)、その死後の武田家

  重臣や武田勝頼の行動を描いた映画。

● この映画では、信玄は、通説の病死ではなく、

  三河国の野田城で鉄砲で狙撃され (新井白石

  著・藩翰譜の記述を採用)、その負傷がもとで死

  去した 描かれてい る。

 

■ 『 戦国自衛隊 』 

  (日本の1979年東宝SF映画)。

● 武田 信玄 を演じた俳優名 :田中 浩 。

● 陸上自衛隊の伊庭三尉(千葉真一役)の率い

  る一個小隊が戦国時代へタイムスリップすると

  いう設定のSF映画。

 

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#takedashingendetailedchronology

 

■ 武田 信玄 詳細年表 。

   (たけだしんげん しょうさいねんぴょう)。 

 

◆ 武田 信玄  詳細年表。

 

□ 武田信玄 年表 1521年〜 1551年

□ 武田信玄 年表 1552年〜 1560年

□ 武田信玄 年表 1561年〜 1567年

□ 武田信玄 年表 1568年〜1573年

□ 武田信玄 画像 NO.1

 

■ 武田信玄 (たけだ しんげん) の詳細に関しては、

 『 武田信玄 ガイドブック (要覧) 』  を参照して下

 さい。

■ より理解を深めるために、 本史辞典の 『 上杉

 謙信 (うえすぎけんしん)、 北条氏康 (ほうじょううじ

 やす)、 織田信長 (おだのぶなが)、 今川義元 (い

 まがわよしもと) 』 の項目 も参照して下さい。

■ 戦国時代については、『 中世日本歴史詳細 年表 』

 を、安土桃山時代、江戸時代については、『 近世日本

 歴史詳細年表 』  を参照して下さい。

■ より理解を深めるために、 当年表と近い時期の日本

 史辞典の年表の、 『 戦国時代 (室町時代後期) 年表、 

 安土桃山時代、 江戸時代初期 年表、 武田 勝頼(か

 つより) 年表、 上杉 謙信 年表、 上杉 景勝(かげか

 つ)年表直江兼続 (なおえかねつぐ) 年表、 織田信

 長 年表、 豊臣秀吉 年表徳川家康 年表、  お江(お

 ごう) 年表、  大奥 年表 』 も参照して下さい。

■ 当年表 は、 武田信玄 (1521年〜1573年) が

 生きた時代の詳細年表 である。

■ 武田 信玄 (たけだ しんげん、 生没年 1521年〜

 1573年) の時代の日本へタイムスリップして、 武田

 信玄 の活動を見てみよう。

■ 歴史学の立場から、年代を追って、 武田信玄 の実

  像 (歴史的有名な人物には、実像と虚像があります

 が) を見てみよう。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典 22315。

■ 日付(年月日)は、全て旧暦、人物の年齢は、数え年。

● 一般的な歴史書籍で使用されているのと同じように、

 当年表の日付(年月日)は、1872年(明治5年)12月

 2日までは、旧暦(太陰太陽暦)を用い 、人物の年齢も

 数え年を用いている。

 

□ 武田 信玄  詳細年表の先頭へ戻る

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◆ 武田 信玄  詳細年表。

● では、武田信玄 (たけだ しんげん) に関係する出来

 事を、年代順に、見てみよう。

 

#takedashingendetailedchronology-1521

 

■ 1521年  ● 大永(だいえい、たいえい)改元。 

 (大永 元年)  1521年8月23日に、和暦の「永正」(えいし

                    ょう、永正元年〜18年) が、 「大永」 (だ

           いえい・たいえい、1521年・大永元年・8月

           23日〜 1528年・大永8年・8月20日) に

           改元される。 

■ 1521年  ●  1521年11月、 武田 信玄 (たけだ し

 (大永 元年)  んげん、太郎) 誕生する

                        甲斐の戦国大名となる、武田 信玄 (たけ

           だ しんげん、幼名:太郎) が、 甲斐(現在

           の山梨県)で、 甲斐国守護・武田信虎(のぶ

           とら)と信虎・正室の大井夫人(おおいふじん)

           との間の子として、 生まれる。 

                        信玄(太郎)の父の、武田信虎は、甲斐源

           氏 の名門・武田氏の第18代当主であり、信

           虎期には、甲斐統一が達成されていた。

■ 1528年  ● 享禄(きょうろく)改元。  

 (享禄 元年)  1528年8月20日に、 和暦の「大永」(だい

           えい、たいえい、大永元年〜8年) が、 「享

           禄」 (きょうろく、 1528年・享禄元年・8月

           20日〜 1532年・享禄5年7月29日)  に

           改元される。 

                     ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 1530年  ●   越後の戦国大名となる、上杉 謙信 (うえ

 (享禄 3年)  すぎ けんしん、幼名:虎千代) が、 越後で、

           越後守護代・ 長尾為景の子として、春日山城

           で、 誕生する。 

■ 1532年  ● 天文(てんぶん、てんもん)改元。  

 (天文 元年)  1532年7月29日に、和暦の「享禄」(きょう

           ろく、享禄元年〜5年) が、 「天文」 (てん

           ぶん、 1532年・天文元年・7月2 9日〜15

           55年・天文24年・10月23日)に 改元される。 

■ 1534年  ● 織田 信長 (おだ のぶなが、幼名:吉法師) 

 (天文 3年)  が、 尾張で、 織田信秀の子として、 誕生

           する。

■ 1536年   ● 武田信玄(太郎)は、 元服(成人)し、 

 (天文 5年)  田 晴信(はるのぶ)と称す

■ 1536年  ● 豊臣秀吉  (とよとみ ひでよし、幼名:日吉

 (天文 5年)     丸?)が、 尾張で、弥右衛門の子として、誕

            生する。

■ 1541年  ● 1541年6月に、武田家の武田信玄(武田

(天文10年)   晴信) 父、武田虎を 、甲斐から追放し

           自立する。 信玄(晴信)が、武田家の 当主と

           なる (武田家の実権をもつ)。

           ● 北条家の北条氏綱が死去し、北条氏康が、 

            家督を継いで、北条氏の第3代当主となり、 

            1541年に、北条家の実権(1541〜71年)

            を持つ。 一説には、1538年(天文7年)に

            氏綱が、隠居し、氏康に家督を譲り後見して

            いたとも言われている。

■ 1542年  ● 徳川家康 (とくがわ いえやす、幼名:竹千

 (天文11年)    代) が、 三河で、松平広忠の子として、 誕

           生する。

           ● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

■ 1543年  ● 上杉 謙信(虎千代) は、元服(成人)して、 

 (天文12年)  長尾 景虎(ながおかげとら) と名乗り、 栃

           尾城に入る。

■ 1546年  ●  武田勝頼 (たけだ かつより) 、甲斐

 (天文15年)   の戦国大名の武田信玄の子として、 生ま

            れる

■ 1548年  ● 上杉 謙信 (長尾景虎)は、 19歳で、長

 (天文17年)   尾家の家督を相続し、長尾氏の本拠地で

            ある春日山城に入り、 越後守護代となる。

■ 1550年  ● 上田長尾家当主の長尾政景(まさかげ)が、 

 (天文19年)   上杉 謙信(長尾景虎)の長尾家の相続に

            不満を持って、反乱を起こす。

           ● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

■ 1551年  ● 上杉謙信(長尾景虎) は、長尾政景の反

 (天文20年)   乱を鎮圧する。

          ● 上杉謙信(長尾景虎)の(実)姉の桃(仙桃

            院)が、 長尾政景に嫁ぐ (政略結婚)。

                    ● 上杉謙信(長尾景虎)は越後を統一し、名

           実共に、越後国主となる

■ 1551年  ● 織田信長の父・信秀が急死し、 織田信長 

 (天文20年)  が、織田信秀の家督を継ぐ。

 

□ 武田 信玄  詳細年表の先頭へ戻る

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#takedashingendetailedchronology-1552

 

■ 1552年  ● 第1次川中島の戦い。  5回の川中島

 (天文21年)  の戦いの最初の戦い、 即ち、武田信玄と

           上杉謙信と間の、信濃における5回の戦い

           のうちの最初の戦い。 その後、今回を含

           め信濃で両者が、5回戦ったが、結局、勝

           敗つかず。

■ 1554年  ● 豊臣秀吉(木下藤吉郎) が、織田信長に

 (天文23年)   仕える (家臣として仕え始める)。

                  ● 武田信玄、北条氏康、今川義元の間で

            互いに婚姻関係を結び、甲相駿三国同盟

            が成立する。

■ 1555年  ● 弘治(こうじ)改元。    

 (弘治 元年)  1555年10月23日に、和暦の「天文」(てん

           ぶん、てんもん、天文元年〜24年) が、「弘

           治」 (こうじ、1555年・弘治元年・10月23

           日〜  1558年・弘治4年・2月28日) に

           改元される。 

■ 1555年   ● 上杉 景勝 (うえすぎ かげかつ、 幼名・

 (弘治 元年)  長尾 卯松(うのまつ)、が、 誕生する。 上

           杉 景勝 は、上杉謙信の姉の男子で、謙信

           の甥(おい)であり、 後に、上杉謙信の養子

           となり、 後に、直江 兼続が仕える主君・大

           名である。

■ 1556年  ● 上杉 謙信(長尾景虎)が、出家すると宣言

 (弘治 2年)   して、高野山へ向かう。 越後国主の地位を

            放棄する。

■ 1557年   ● 第3次川中島の戦い。

 (弘治 3年)

■ 1558年  ● 永禄(えいろく)改元。    

 (永禄 元年)  1558年2月28日に、和暦の「弘治」(こうじ、

            弘治元年〜4年) が、 「 永禄」 (えいろく、 

            1558年・永禄元年・2月28日〜1570年・

                       永禄13年・ 4月23日) に改元される。 

■ 1559年   ● 1559年2月に、武田信玄 (武田晴信)は、 

 (永禄 2年)   出家して、 徳栄 軒信玄 と号し、 武田信

                        玄 となる

■ 1559年  ● 織田信長 は、 尾張一国を統一し、 尾張

 (永禄 2年)      国主となる。

■ 1560年  ● 直江 兼続  (なおえ かねつぐ、幼名・樋口

 (永禄 3年)    与六)  が、誕生する。

          ● 直江 兼続は、 越後の坂戸(さかど)城主 

           (現在の新潟県南魚沼市六日町坂戸)・長尾

           政景(ながおまさかげ)の家臣、樋口 兼豊(ひ

           ぐち かねとよ、樋口 惣右衛門(そうえもん))

                      の長男として、生まれる。

          ● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

■ 1560年   ● 1560年5月に、織田信長は、 桶狭間(お

 (永禄 3年)  けはざま)の戦いで、今川義元を破る。 今川

           義元は、 尾張の桶狭間で、敗死する。

          ● 義元の部下として信長と戦っていた、徳川

           家康(松平元康)は、尾張より、松平軍の兵を  

           撤退し、三河へ戻り、今川家から独立する。

          ● 駿河の戦国大名、今川 義元が、上洛途中

           で、死去(敗死)する。 今川 氏真(うじざね)

           が、駿河・今川家(氏)の家督を継ぐ。

          ● 今川 義元が敗死し、今川家が衰退の兆しを

           見せ始めたので、武田信玄は、今川氏との同

           盟を破棄し(甲駿同盟を破棄し)、今川領の駿

           河に侵攻しようと計画する。

          ● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

 

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#takedashingendetailedchronology-1561

 

■ 1561年  ● 1561年3月に、 北条氏攻め(小田原城

 (永禄 4年)   攻め)。 上杉謙信(長尾景虎) は、 関東

            管領上杉憲政を擁して、 旧上杉家家臣団

            10万人の大軍で、 北条氏康の北条氏を攻

            め、 小田原城を包囲する。

          ● 1561年3月に、 上杉謙信(長尾景虎)は、

            鎌倉の鶴岡八幡宮で、上杉憲政より、山内上

            杉氏の家督を継承(相続)し、  関東管領に就

            任し、上杉政虎と称す。 その後、1561年12

            月に、上杉輝虎と称す。

 

■ 1561年  ● 1561年8〜9月第4回川中島の戦い。  

 (永禄 4年)  1561年8〜9月に、武田信玄軍2万人と上杉

           謙信(上杉政虎)軍1万3000人が、信濃(現在

           の長野県)の川中島で、決戦を行うが、 勝敗

           がつかず、互いに撤退する。

■ 1562年  ● 1562年1月に、徳川家康(松平元康) は、

 (永禄 5年)  織田信長と清洲同盟 (織徳同盟)を結ぶ。 

■ 1564年  ● 直江兼続 (樋口 与六) が、 小姓・近習と

 (永禄 7年)  して 上杉 景勝に仕える (家臣として仕え始

           める)。 通説だが、これを立証しえる史料はな

           い。

■ 1564年  ● 謙信(上杉輝虎)の姉婿で上杉景勝の父の、

 (永禄 7年)  長尾政景が、  舟遊びの最中、溺死する。

           ● 謙信(上杉輝虎)が、長尾政景の次男の、上

           杉景勝を養子とする。

           ● 第5次川中島の戦い (最後の川中島の戦

           い)。

■ 1565年  ● 室町幕府の13代将軍の足利 義輝 (よして

 (永禄 8年)   る、(将軍在位1546〜65年))が、 松永

                       久秀(まつながひさひで)に殺される。

          ● 義輝の足利 義昭 (あしかが よしあ

            き)は、 僧であった、 還俗(げんぞく)し、

            室町幕府の再興(さいこう)をめざす。

■ 1567年  ● 1567年10月に、信長 は、 美濃(現在

  (永禄10年)  の岐阜県)の斉藤氏を滅ぼす。 

          ● 1567年10月に、武田信玄 、 嫡男

            の武田義信を廃嫡し、害させる (病死

            説もあり)。

 

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#takedashingendetailedchronology-1568

 

■ 1568年  ● 1568年11月に、織田信長は、足利義

 (永禄11年)  昭(よしあき)を奉じて、上洛を果たし、 義

           昭を将軍位に就(つ)ける (将軍在位15

           68〜73年)。 この戦いに、 家康は、信

           長へ援軍を派遣した。

 

■ 1568年  ● 1568年12月、武田信玄 が、駿河 に

 (永禄11年)   侵攻を開始する。 今川氏真(うじざね)

            が、駿河を離れ、 遠江(とおとうみ)・掛

            川城へ逃れる。

              1568年12月、 武田信玄 が、駿河

            に侵攻を開始し、今川氏真軍 や 今川

            氏への北条氏康の援軍 と戦う。 甲相駿 

                        三国同盟(1554〜68年)、ここに、

            壊する

■ 1569年  ● 上杉家の上杉謙信(上杉輝虎)は、 

 (永禄12年)   田家の武田信玄を牽制(けんせい)する

            ため、 宿敵である北条家の北条氏康 と

            同盟を結ぶ (越相同盟、1569〜71年)。

          ● 戦国大名としての駿河・今川家(氏)が滅

            亡する(統治権の喪失)。 駿河・今川家の

            今川氏真(うじざね)が、 徳川家康と和睦

            し、遠江・掛川城を開城する。

■ 1570年  ● 1570年3月に、上杉謙信 (上杉輝虎) 

 (永禄13年)   、法号を、「不識庵謙信」と称し、 上杉

            謙信 となる。 

■ 1570年  ● 元亀(げんき)改元。    

 (元亀 元年)  1570年4月23日に、 和暦の「永禄」(え

           いろく 、永禄元年〜13年) が、 「元亀」 

           (げんき、 1570年・元亀元年・4月23日〜

           1573年・元亀4年・7月28日) に改元さ

           れる。 

■ 1570年  ● 1570年4月に、織田信長は、 軍を、越

 (元亀 元年)   前に侵攻したが、信長の妹婿の北近江の

            浅井長政に背後をつかれ、 京(都)へ逃

            れた。 金ヶ崎の退き口(かながさきのし

                       りぞきぐち)。

■ 1570年  ● 1570年6月に、織田信長は、近江国の

 (元亀 元年)   姉川で、浅井・朝倉連合軍を破る (姉川の

           戦い)。 この戦いに、家康は、信長と共に

           参戦し、信長を助けた。

           ● 1570年7月に、武田信玄は、駿河にい

            た北条の守備隊を撃破し駿河(現在の静

            岡県中部)完全に平定した

           ● 1570年9月に、本願寺は、信長に対抗

            する(石山合戦の始まり)。

■ 1570年  ● 上杉謙信(上杉輝虎) は、北条氏康の男

 (元亀 元年)   子(越相同盟での北条氏の人質)、北条三

            郎を養子とし、 景虎という名を与える (上

            杉三郎景虎)。

■ 1571年  ● 相模国(さがみのくに、現在の神奈川県)

 (元亀 2年)   の北条家の、 北条氏康 (1515〜71年) 

                       が、死去する。  氏康の子、北条氏政(15

            38〜90年) が 北条家の実権(1571〜

                        90年)を握る。

■ 1571年  ● 1571年9月に、信長 は、  比叡山延暦

 (元亀 2年) 寺を焼討ちする。

           ● 1571年10月に、 北条氏康が死去する。 

           ● 1571年12月に、 北条家の家督を継承

            (相続)した、北条氏政は、 上杉謙信の上杉

            家との同盟を破棄し(越相同盟 を破棄し)、

            武田家の武田信玄と同盟を結ぶ(甲相同盟

            を結ぶ)。

■ 1572年  ● 1572年10月に、武田信玄は、上洛の軍

 (元亀 3年)   を起こす (上洛を開始する、 西上作戦を

            開始する)。

          ● 1572年12月に、遠江の三方が原(みか

            たがはら)の戦いで、徳川・織田連合軍 は、 

            武田信玄の武田軍に大敗する。

■ 1573年  ● 1573年2月に、足利義昭は、武田氏、浅

 (元亀 4年)   井氏、朝倉氏、本願寺と協力して、信長討

            伐を謀(はか)る。

          ● 1573年月に、 武田信玄が上洛途中で

            死去(病死)する。  武田信玄が、病状悪化し、

            武田軍は、徳川領の三河や遠江から、軍を返

            し、甲斐へ帰国した (信玄は帰国途中、信濃

            ・駒場で病死)。 

                    ● 1573年7月に、室町幕府滅亡。 織田信長

            が足利義昭を追放する。

              織田信長は、信長に反旗をひるがえした

            足利 義昭(よしあき)を京都より追放し、室町

            幕府を滅ぼす (室町幕府滅亡)。

           ● 1573年7月に、 信長は、元号を元亀か

            ら天正へ と改めることを朝廷に奏上し、これ

            を実現させた。

           ● 1573年に、 武田信玄死後 武田勝頼 

             (たけだ かつより)が、武田家の家督を継

             承(相続)する

■ 1573年  ● 天正改元。    

 (天正 元年)   1573年7月28日に、 和暦の「元亀」(げ

            んき、元亀元年〜4年) が、 「 天正」 (て

            んしょう、1573年・天正元年・7月28日〜 

            1592年・天正20年・12月8日) に改元

            される。 

■ 1573年  ● 1573年に、織田信長 は、朝倉・浅井両

 (天正 元年)   氏を滅ぼす。

          ● 豊臣秀吉(木下秀吉)は、 浅井氏滅亡後、

            その旧領の北近江三郡の経営を織田信長

            より任され、 北近江(きたおうみ)の長浜城

            の城主となる。

 

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