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両親のサムとジョージア、兄のガス、姉のステラ、妹のマリオン。黄色のシャツを着ているのが僕。
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子供の頃、僕はひたすらテニスに集中していて、他の事は目に入らないほどだった。学校では「テニス・キッド」としか思われていなかった。だが僕は自分のしている事を本当に愛していた。
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僕が子供の頃、父は2つの仕事に従事していたため、父と顔を合わせる事はあまりなかった。だが僕がテニスに没頭するにつれて、ゲームは僕が父と過ごす機会になっていった。
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後に別れたが、僕の初期のテニス生活において、ピート・フィッシャーは大きな存在だった。
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1990年に僕のゲームは突如としてまとまり始め、そして――何が起きているのかよく分からないままに――USオープンでアンドレ・アガシを下し、最初のメジャータイトルを獲得していた。
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1993年に入り、僕は二度と試合でギブアップしないと自分に誓った。間もなく僕は2回目のメジャータイトルを獲得した――初のウィンブルドン・タイトルを!
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トラガルファー広場で、アンドレと僕はナイキの「ゲリラ・テニス」シリーズの1つを撮影した。この記念碑的キャンペーンは、僕たちのライバル関係を強固なものとし、同時に我々の関係の本質をうまく捉えていた。
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アンドレが1995年デビスカップ決勝・対ロシア戦に出場できなくなり、僕は遅いレッドクレーで3試合を戦う事になった――猟犬のように頑強なアンドレイ・チェルカソフに対する、この5セットマッチの死闘を含めて。勝利を決めるショットを打った直後に、僕はケイレンを起こして動けなくなり、コートに倒れ込んだ。
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ジュニア時代、マイケル・チャンは僕の友人であり、第1のライバルでもあった。また彼は「黄金の世代」の中で、最初にグランドスラム・タイトルを獲得した男となった。
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1995年のデビスカップが終わって少し後に、ボリス・ベッカーは僕を脇へ連れ出してこう言った。「モスクワのデビスカップでの戦いぶりは信じがたいほどだったよ。なぜ君が世界ナンバー1なのかを、間違いなく示していた」
我々のライバル関係がいかに激しいものかを考えると、これは途方もなく高潔な行為で、これまでに受けた最も嬉しい賛辞の1つだった。
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1996年、長年のコーチだったティム・ガリクソンが脳腫瘍で亡くなり、僕は打ちのめされた。ティムは僕のツアー前期における親友であり、兄のような存在でさえあった。彼はゲームを深く学び、高いレベルでプレーしただけでなく、純粋なファンとしてテニスを愛してもいた。
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1996年USオープンで、アレックス・コレチャと僕は5セットの死闘を戦い、この試合は誰しもの心に、僕を定義づけた時として刻み込まれた――僕が戦士である事を明らかにした時として。
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6年連続ナンバー1の確定を祝って。この記録の樹立は、今でも僕がいちばん誇りに感じている事だ。僕にとって偉大さとは、日々戦いの場に臨み、役目を果たす事にある。
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ジム・クーリエと僕は、プロ初期の頃に親しい友人となった。そして彼は僕に、ツアーで屈しないためには努力が必要だと示してくれた。我々のキャリアが花開き、メジャー・タイトルを目指して競うようになった頃には、友情はやや鎮まっていった――状況ゆえに、そして我々の性格は、親しいままでいるには競争心が強すぎたのだ。
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2000年のウィンブルドンで、僕は向こう脛の痛みと闘いながら、記録を破る13個目のグランドスラム・タイトルを手にした。僕はスタンドを登って父と抱き合った。この写真は世界中の新聞に紹介され、父は通りで皆に声を掛けられて驚く事になった。
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2000年、僕はブリジット・ウィルソンと結婚した。そして妻は、僕がプロ最後の年月を戦い抜く間、自分のキャリアを中断して一緒にツアーを回ると言ってくれた。
僕に残された時があとどれくらいなのか、2人ともハッキリとは分かっていなかった。
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2001年になると、僕は新世代の若手に負けるようになっていった。後にメジャーで優勝し、圧倒的な存在となっていった若者たちには、ロディック、サフィン、ヒューイット、そしてもちろんロジャー・フェデラーがいた。彼はその年、僕をウィンブルドンでノックアウトしたのだ。
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2002年は苦しいスタートとなったが、僕はウィンブルドンが調子を取り戻させてくれる事を望んでいた。だが、この2回戦に臨んだ時、僕はまったく自信が持てず、5セットで敗れた。
頼みの綱だったウィンブルドンは、僕の終焉を決定づけるものとなってしまった。
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最初と最後のメジャー決勝でアンドレ・アガシと対戦したのは、ふさわしい事だった。過去32年間のアメリカのグランドスラムで、我々は最も年齢の高いファイナリストの組み合わせだった――僕は31歳で、アンドレは32歳だった。タフな4セットを戦い、最終的に僕は希有な機会を手にした。自分の望むやり方で辞めるチャンスを。
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その年のUSオープンで僕が再起できたのは、コーチのポール・アナコーンが及ぼした影響に負うところが大きかった。だが、彼がコーチとして僕に果たしてくれた功績は、充分に認められてきたとは思わない。
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2002年USオープン優勝の後、僕には大会に向けて日々努力する欲求が消えており、テニスを辞める決断をした。USTAが僕のために引退セレモニーを催してくれた。多くのライバル達が列席してくれたのには胸を打たれ、光栄だった。この12カ月間の鬱積した感情が、すべて溢れ出してきた。
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2007年度「国際テニス名誉の殿堂」式典で、僕とブリジット、息子のクリスチャン・チャールズ(左)とライアン・ニコラオス(右)。この場に立った事はこの上ない名誉であり、忘れえぬ瞬間だった。
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2007年、僕はフェデラーとエキシビション・マッチ3戦を行った。彼は当時、僕が持つ14のグランドスラム・タイトルにあと2つと迫っていた。誰にとっても驚きだったが、僕はシリーズ3戦目で勝利を収めた。フェデラーとは素晴らしい時を共に過ごし、感想を述べ合ったりテニスについて語り合った。
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2007年のチャリティ・イベントで、ロッド・レーバーと。子供時代、僕はレーバーをお手本にゲームを組み立てようと努めていた。父が古いフィルムをダイニングの壁に映し出し、彼の試合映像を見たのを今でも覚えている。彼の偉功に近づいたのなら良いのだが。
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