A Champion's Mind
Lessons from a Life in Tennis

発行 2008年
著者 ピート・サンプラス / Peter Bodo
版元 Crown Publishing Group
ISBNコード 978-0-307-38329-7
価格 24ドル95セント
装丁・その他 ハードカバー、306ページ、カラー写真8ページ


ピート自身が書いた自叙伝。子供時代から引退までのテニス人生を率直に、なおかつ深い自己分析を加えて語っています。これまでの知られざるエピソード、ピートの考え・精神を知る事のできる、ファンなら必読の読み応えある内容。一般向きのため、読破には少々努力を要します。


序文

第1章 1971〜1986年
 
テニス・キッド (1)(2)(3)(4)(5)(6)

第2章 1986〜1990年
 
ニューヨークのおとぎ話 (1)(2)(3)(4)

第3章 1990〜1991年
 
「重荷」事件 (1)(2)(3)(4)(5)

第4章 1992年
 
献身に対する自問自答 (1)(2)(3)(4)(5)

第5章 1993〜1994年
 
炎の下に秘めた品位 (1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)

第6章 1994〜1995年
 
栄光の門 (1)
(2)(3)(4)(5)(6)(7)

第7章 1996年
 
戦士の時 (1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)

第8章 1997〜1998年
 
ウィンブルドンは永遠に (1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)

第9章 1999〜2001年
 
ロイを捕らえる (1)(2)(3)(4)

第10章 2001〜2002年
 
もう1つのタイトル

 エピローグ


補遺
 
僕のライバルについて

謝辞


両親のサムとジョージア、兄のガス、姉のステラ、妹のマリオン。黄色のシャツを着ているのが僕。
子供の頃、僕はひたすらテニスに集中していて、他の事は目に入らないほどだった。学校では「テニス・キッド」としか思われていなかった。だが僕は自分のしている事を本当に愛していた。
僕が子供の頃、父は2つの仕事に従事していたため、父と顔を合わせる事はあまりなかった。だが僕がテニスに没頭するにつれて、ゲームは僕が父と過ごす機会になっていった。
後に別れたが、僕の初期のテニス生活において、ピート・フィッシャーは大きな存在だった。
1990年に僕のゲームは突如としてまとまり始め、そして――何が起きているのかよく分からないままに――USオープンでアンドレ・アガシを下し、最初のメジャータイトルを獲得していた。
1993年に入り、僕は二度と試合でギブアップしないと自分に誓った。間もなく僕は2回目のメジャータイトルを獲得した――初のウィンブルドン・タイトルを!
トラガルファー広場で、アンドレと僕はナイキの「ゲリラ・テニス」シリーズの1つを撮影した。この記念碑的キャンペーンは、僕たちのライバル関係を強固なものとし、同時に我々の関係の本質をうまく捉えていた。

アンドレが1995年デビスカップ決勝・対ロシア戦に出場できなくなり、僕は遅いレッドクレーで3試合を戦う事になった――猟犬のように頑強なアンドレイ・チェルカソフに対する、この5セットマッチの死闘を含めて。勝利を決めるショットを打った直後に、僕はケイレンを起こして動けなくなり、コートに倒れ込んだ。
ジュニア時代、マイケル・チャンは僕の友人であり、第1のライバルでもあった。また彼は「黄金の世代」の中で、最初にグランドスラム・タイトルを獲得した男となった。
1995年のデビスカップが終わって少し後に、ボリス・ベッカーは僕を脇へ連れ出してこう言った。「モスクワのデビスカップでの戦いぶりは信じがたいほどだったよ。なぜ君が世界ナンバー1なのかを、間違いなく示していた」
我々のライバル関係がいかに激しいものかを考えると、これは途方もなく高潔な行為で、これまでに受けた最も嬉しい賛辞の1つだった。
1996年、長年のコーチだったティム・ガリクソンが脳腫瘍で亡くなり、僕は打ちのめされた。ティムは僕のツアー前期における親友であり、兄のような存在でさえあった。彼はゲームを深く学び、高いレベルでプレーしただけでなく、純粋なファンとしてテニスを愛してもいた。
1996年USオープンで、アレックス・コレチャと僕は5セットの死闘を戦い、この試合は誰しもの心に、僕を定義づけた時として刻み込まれた――僕が戦士である事を明らかにした時として。
6年連続ナンバー1の確定を祝って。この記録の樹立は、今でも僕がいちばん誇りに感じている事だ。僕にとって偉大さとは、日々戦いの場に臨み、役目を果たす事にある。
ジム・クーリエと僕は、プロ初期の頃に親しい友人となった。そして彼は僕に、ツアーで屈しないためには努力が必要だと示してくれた。我々のキャリアが花開き、メジャー・タイトルを目指して競うようになった頃には、友情はやや鎮まっていった――状況ゆえに、そして我々の性格は、親しいままでいるには競争心が強すぎたのだ。
2000年のウィンブルドンで、僕は向こう脛の痛みと闘いながら、記録を破る13個目のグランドスラム・タイトルを手にした。僕はスタンドを登って父と抱き合った。この写真は世界中の新聞に紹介され、父は通りで皆に声を掛けられて驚く事になった。
2000年、僕はブリジット・ウィルソンと結婚した。そして妻は、僕がプロ最後の年月を戦い抜く間、自分のキャリアを中断して一緒にツアーを回ると言ってくれた。
僕に残された時があとどれくらいなのか、2人ともハッキリとは分かっていなかった。
2001年になると、僕は新世代の若手に負けるようになっていった。後にメジャーで優勝し、圧倒的な存在となっていった若者たちには、ロディック、サフィン、ヒューイット、そしてもちろんロジャー・フェデラーがいた。彼はその年、僕をウィンブルドンでノックアウトしたのだ。
2002年は苦しいスタートとなったが、僕はウィンブルドンが調子を取り戻させてくれる事を望んでいた。だが、この2回戦に臨んだ時、僕はまったく自信が持てず、5セットで敗れた。
頼みの綱だったウィンブルドンは、僕の終焉を決定づけるものとなってしまった。
最初と最後のメジャー決勝でアンドレ・アガシと対戦したのは、ふさわしい事だった。過去32年間のアメリカのグランドスラムで、我々は最も年齢の高いファイナリストの組み合わせだった――僕は31歳で、アンドレは32歳だった。タフな4セットを戦い、最終的に僕は希有な機会を手にした。自分の望むやり方で辞めるチャンスを。
その年のUSオープンで僕が再起できたのは、コーチのポール・アナコーンが及ぼした影響に負うところが大きかった。だが、彼がコーチとして僕に果たしてくれた功績は、充分に認められてきたとは思わない。

2002年USオープン優勝の後、僕には大会に向けて日々努力する欲求が消えており、テニスを辞める決断をした。USTAが僕のために引退セレモニーを催してくれた。多くのライバル達が列席してくれたのには胸を打たれ、光栄だった。この12カ月間の鬱積した感情が、すべて溢れ出してきた。
2007年度「国際テニス名誉の殿堂」式典で、僕とブリジット、息子のクリスチャン・チャールズ(左)とライアン・ニコラオス(右)。この場に立った事はこの上ない名誉であり、忘れえぬ瞬間だった。

2007年、僕はフェデラーとエキシビション・マッチ3戦を行った。彼は当時、僕が持つ14のグランドスラム・タイトルにあと2つと迫っていた。誰にとっても驚きだったが、僕はシリーズ3戦目で勝利を収めた。フェデラーとは素晴らしい時を共に過ごし、感想を述べ合ったりテニスについて語り合った。
2007年のチャリティ・イベントで、ロッド・レーバーと。子供時代、僕はレーバーをお手本にゲームを組み立てようと努めていた。父が古いフィルムをダイニングの壁に映し出し、彼の試合映像を見たのを今でも覚えている。彼の偉功に近づいたのなら良いのだが。


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